<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[20097] ブルボン家に咲く薔薇~フランス王国戦記~
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/07/08 23:45
2012年に全世界を襲ったユーロの暴落はただでさえ悪化の一途をたどっていたフランスの経済にとどめをさすには十分すぎた。

2010年のギリシャの通貨危機を見るまでもなくユーロに対する信用不安は誰もが知るところではあったが、ドイツをはじめとする先進各国は一致協力して

財政再建を至上命題とし、ここ数年は国債の発行割合もかろうじて減少傾向を見せつつあったのである。

しかしただ一国、この財政再建に追随できぬ国家があった。

パーマネント5の一角でもある斜陽の大国―――――フランスである。





定年後にまで働きたくはない。

休暇と年金を削るな。

緊縮財政には断固反対。

雇用を守れ。

給料値下げ反対。

度重なるスト。

そして暴動。

移民に対するテロまでが横行した。





年金改革法と改正社会福祉法が弱者の切り捨てであると断じられ、廃案に追い込まれた時点でフランスの未来は決まっていたのかもしれなかった。

2012年8月、フランス大統領クファールは断腸の思いでフランス国債のデフォルトを発表した。













―――――どうしてこんなことになってしまったのか。



フランスのデフォルトはすなわちユーロの崩壊でもある。

未曾有の通貨危機―――いや、世界恐慌が始まるはずであった。フランスを震源地として。

未来永劫に語り継がれるであろう汚名を負わねばならぬほど我が祖国は愚かな存在であったろうか。

クファールは自問した。

答えは―――否(ノン)。



フランスの文化水準の高さはユーロ各国の間でも一、二を争うほどのものだ。

これは文化芸術ばかりでなく理化学系の特許等にまで及ぶ。

潜在的な国力は決してドイツやイングランドに劣るものではない。

フランスが核保有国であり、常任理事国でもあるのは故ないことではないのである。



しかし、もしそこでこの国の宿唖をあげるとするならば―――――――







それは―――――自由









それはフランス史上で最も多くの命を奪った言葉であった。

運命の皮肉とでも言おうか、クファールはプロヴァンス伯(ルイ18世)の傍流の末裔に当たる。

あの革命で国民は自由と平等を手に入れた代わりに、国家は国民に対する神通力を失ってしまったようにクファールには思われた。

国民主権の最たる形態である共和制だが、いささか国民の不満を政治に反映しやすすぎる面があるのである。

しかし国益というグローバルな観点に立てば、国民から血も涙もなく税を搾り取らなければならないことも決してないわけではない。

目に見える所得や福祉だけが国家の利益の全てではないからだ。

国防や外交などはその最たるものであろう。



個人の権利と国家の利益が対立する場合、それは国家の利益を優先すべきなことは言うまでもない。

グローバリゼーションの進んだ現代の世界経済においては変化に対応する速度が何より重要であるからだ。

特定個人の権利に捕らわれることは、その速度に致命的な障害を生むことになるのである。

しかし国民が国家と戦って自ら打ち立てたフランス共和制という面目がそれを許そうとはしなかった。

国民は恣意的な国家の暴虐に対して戦うことを誇りとして魂に刻みこんでいた。

フランス国民のエートスと言い換えてもよい。

国家が国民に不利益を強いたとき、国民は国家に対して立ち上がる。

それがどんなに長期的な視野にたった政治的に正当な政策であったにせよ、だ。





経済が主権国家同士の競争関係にある以上、フランスだけが自由と繁栄を謳歌するというわけにはいかない。

勤勉で安い労働力を擁する国家と、怠惰で高い労働力しか用意できない国家が競争すれば勤勉で安い国家に軍配があがるのが資本主義の経済の原則というものである。

一国の内需ではもはや国民の生活が維持できない以上、フランス国民は世界経済に適応した環境の変化を受け入れるべきであった。



そうならなかった一番の原因は大統領を筆頭とする政治家の腐敗である。

汚職と利益誘導が政界にはびこり、国民は政府が主張する競争力を高めるための不利益の容認を認めることができなかった。

政府が無策であるから―――政府が一部の財界を優遇しているから―――だからこそ国家経済が回復しないのだ、と国民は信じた。

年々国債のGNP比率が上昇するなかで、ユーロ各国の白い視線を浴びながらフランスが抜本的な経済政策を打ち出せなかったのは当然の帰結であった。



汚職で起訴された前大統領の後を継ぎ国家経済の再建に着手したクファールであったがもはや全ては遅すぎた。

失業率が10パーセントを超えようとする驚異的な失業率の中で、労働条件の規制緩和や失業保険の切り下げが廃案に追い込まれた時点で完全に万策は尽きたと言っていい。

フランスは自らの足を食って命をつなぐタコも同然の状態にあった。

もちろん足の数は有限であり、それが尽きたときには破滅する以外の選択肢は残されていなかったのである。





「…………閣下、………暴徒に一部の軍が合流した模様です。一旦シェルターへ避難されたほうが………」





秘書官のフラッカーが血の気のない顔色をさらに蒼くしてクファールをのぞきこんでいた。

民衆はこの失政の象徴をクファールにおいており、暗愚な為政者を除くことがフランス再生の唯一の手段であると信じているのだ。

彼らのその自尊心こそがフランスをこの地獄へと追いやった元凶なのだとも知らず。



IMFの通貨援助では乗り切れないほど膨れ上がった負債を帳消しにする手段があるとすれば、それは革命を起こす以外にはない。

そんな短絡的な主張が一部軍部の間でまことしやかに流されていることをクファールは知っていた。

しかし今は国際的信用を失った国家が先進国を名乗れるほど現代は甘い時代ではない。

軍事革命により借金を踏み倒そうなどという計画は、所詮痴人の妄想以外の何者でもないのである。

問題なのは理性ではなく感情によって大衆がその主張に迎合した場合であった。





「フランスは恥をさらした。だからといってこれ以上恥をかいてよいということにはなるまいな」





出来ることならば政権を投げ出して文句ばかり主張する人間に譲り渡したい。

お前たちにいったいどんな政権運営が出来るというのか。

政治は魔法のように無から有を生み出す技術では断じてないのだ。

自分たちの願望をかなえることがどれほど非現実的か思い知ればよい。



だがクファールはそれが出来ないことを知り尽くしていた。

欧州議会議長を務めたこともあるクファールだからこそ、まだフランスはぎりぎりのところで踏みとどまっていられるが、これが軍事革命など起こされた日にはNATOの介入を招くことは明白である。

再びフランスが他国の兵に占領される悪夢がよみがえるのだ。

最悪の事態を避け得なかった無力な大統領として、最低限それだけは避けなければならなかった。



「国防大臣を呼んでくれ。暴動を鎮圧するぞ」



「…………その必要はない」



警護官の一人がクファールに向けて銃を放ったのはそのときだった。





焼け火鉢を突き刺したような熱い痛みが全身を駆け抜ける。

仕立てのよいスーツを赤い染みがたちまちのうちに侵食していくのが自分でもよくわかった。

銃弾は胸部を貫通し、無残な破口を広げていた。



「貴様の!貴様のせいでオレの妹は…………!!」



まるで呪文のように繰言を呟く男の恨み言から察するに、どうやら妹を不況による倒産で自殺に追いやられたらしい。

薄れゆく意識の中でクファールは神を呪った。







―――愚かなり、ああ愚かなるかなフランス。汝はなぜかくも愚かに成り下がったのか―――――!







衷心から愛する我がフランスがこんな愚かな国であってよいはずがない。

一人ひとりは善良で知性あるフランス国民がその理性をなぜ十全に発揮することができないのか………。

クファールの疑問に答える声が聞こえた。

1789年7月14日―――――その日フランスの運命が分かたれたのだ。

声なき声のつぶやきをかすかに耳にしたまま、フランス大統領ルイ・ニコラ・クファールの生命活動は永遠に停止した。








[20097] 第二話   我が名はオーギュスト  
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/07/06 21:54


「オーギュスト殿下!お気を確かにっ!オーギュスト殿下!」



…………いったい誰だ………?



ひどく取り乱した女の悲鳴を聞きながら私は不審の念を禁じえなかった。

致命傷とばかり思っていたがどうやら生き延びることができたらしい………しかし状況は致命的だ。

凶弾に倒れ病臥に伏した宰相になどについてくる酔狂な人間はいないだろう。

あるいは冷静さを保てるだけの有能な側近は皆愛想をつかして出て行ってしまったのかもしれなかった。



「ああ………神よ!どうかフランスの次代をお助けください!!」



残念だが神がフランスを救うことはない。

フランスを救うことが出来るのはただ人民の覚悟と優良な政治あるのみなのだ。



「ジョセフ殿下ばかりか王太子殿下まで亡くなったばかりだというのに………いったい王家は………フランスはどうなってしまうのでしょう………」



聞き捨てならない話が聞こえたような気がする。

私の記憶が正しければ女の言に該当する事案はひとつしかない。

すなわち、ルイ15世治世下のフランスで1765年王太子ルイ・フェルディナンドが36歳の若さで死去したのがそれにあたる。

長子であり父を相続するはずであったはずのルイ・ジョセフは1761年病いによってすでに死去していた。

するとオーギュストとはあのルイ・オーギュスト………すなわち後のルイ16世ということになろうか………。



私はもしかして気が狂ってしまったのだろうか?

それとも18世紀末を舞台にした芝居でも目の前で行われているとでも言うのだろうか………?



埒もない想像に苦笑を浮かべつつ私は瞳を開いた。

すでに最悪の事態など通り越している。

むしろ気が狂ってしまったほうがよほど幸せであるのかもしれなかった。



「お気がつかれましたか殿下!おお神よ!感謝いたします!」



慎ましやかな美貌の侍女が視界に飛び込んでくると同時に、脳内をもうひとつの記憶が狂奔する。

処理能力を超えた記憶の奔流に私はこみかみを押えて思わず呻いた。



「ああ、ご無理をなさってはいけません殿下。そのままお休みになられてくださいませ」



膨大な時間

もうひとつの人生

孤独な少年の底知れぬ嘆き

二つの記憶が交じり合う……それは魂がウィルスによって徐々に侵食されていく様にも似ていた。

ことここにいたっては流石に認めぬわけにはいかなかった。

私ルイ・ニコラ・クファールはいまや同時にルイ・オーギュストでもあるのだ、と。













オーギュストは両親に疎まれていた。

それは長男であるルイ・ジョセフが偏愛されていたためでもあり、またオーギュストが内向的で口下手な少年であったためとも言う。

いずれにしろ父フェルディナンドはオーギュストを愛してはおらず、出来うることならばジョセフが死んだ今、至尊の位を三男のルイ・スタニスラフへ譲りたいと考えるようになっていた。

しかし王国の慣習上、長子相続は絶対である。

心優しい温厚な少年であったオーギュストではあるが、宮廷内で自らの死を望む動きがあることは正しく自覚していた。

それが理解できてしまうほどに、両親の予想を超えてルイ・オーギュストは聡明な少年であったのである。

幼いことから忠実に仕えてくれた家臣が自らの代わりに毒に倒れた時、オーギュストは決意した。

すなわち、父や弟と骨肉の争いに明け暮れるくらいならばいっそ自ら人生の幕を引こうと。

ひそかに手に入れた毒杯を呷ってオーギュストはその悪しき人生から解き放たれたかに見えた。





しかし侍女による発見が早かったためかオーギュストは一命を取り留めていた。

だからといって命の危険が去ったわけではない。

依然としてオーギュストの意識は戻らずにいたし、この機会にオーギュストを亡き者にしようと蠢動する人間は両手に余るほどいたのである。

ところがことの全ての元凶でもある王太子ルイ・フェルディナンドが急な病に倒れたのはまさにそのときであった。

高熱が続き治療の甲斐なくルイ・フェルディナンドは死去。

天然痘のせいであったとも、ちょっとしたケガがもとの破傷風であったとも言う。

いずれにしろ次代の王位継承権は本人の意思に反してルイ・オーギュストの手に委ねられたのである。











…………神は私に何を為せというのか………。







無神論者の私ではあるが、こんな超常現象を前にしてはさすがに何らかの作為を疑わざるをえない。

しかも私があのルイ16世だと…………?

そう考えた瞬間死の間際、痛切に捉われたひとつの思いが再び甦る。



―――――愚かなり、愚かなるかなフランス――汝はなぜかくも愚かに成り下がったのか――――!







ああ、もしかしたら





革命で失われた神と王権への信頼が生き残ることができたならばフランスは変わるのだろうか。

一度は死んだこの身にもし使命があるとしたら、国民の国家への帰属心の支柱として王家を後世に残すことではないのか?

立憲君主として王家が存続した場合、政府の自浄機能と国民との利害調整に大きな役割を果たせる可能性は高い。









知らず口元に皮肉気な笑みが浮かぶ。

まるで冗談のような難題であることに気づいたからだ。

あのロベスピエールやフーシェ、フランス史上最大の英雄とも言えるナポレオンを相手に王家を防衛する?

それはあの日のフランスをデフォルトから救済することより難しいことのように思われた。

だがそんな不安よりも胸の奥から湧き上がる愉悦を抑えることができない。







ああ――――痛快だ。





所詮一度死んだ身である。

どうせならばよりよい未来を掴んでみせる。

そうすることがあの絶望に対する何よりの復讐であるかに思われた。

もう無力感に苛まれて妥協に妥協を重ねるようなことだけは繰り返すつもりはない。





自由の名の下にどれほどの血が流れされたことか。

今さら私の介入が何滴か血の量を増やしたところで大差はあるまい。









今こそ私は歓喜に身を震わせていた。

もう一度フランスを生まれ変わらせて見せる。

そして世界に冠たる世界帝国フランスを21世紀へと繋ぐのだ。

たとえこれが死ぬ間際に見せる一睡の夢なのだとしても構うことはない。

私がどう生きようと結局死は平等に訪れるものなのだから。





―――――もう少し早くこの心境に達していたならばあのとき私はフランスを救えたのだろうか…………。







忘れえぬ悔恨が胸を灼く。

だからこそ諾々と運命に流されるままギロチンの露へと消えるつもりはない。

たとえ幾千幾万の民をギロチンへかけようとも、この世にフランスの栄華を築く覚悟はとうに固まっていた。







―――――――血と薔薇は咲き乱れるくらいが最も美しいのだ。








[20097] 第三話   王太子の変容
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/07/09 07:55


新たに王太子(ドーファン)に選出されたオーギュストの評判は決して芳しいものとは言えなかった。

それもそのはず、彼は前王太子フェルディナンドに疎まれていたことは衆目の一致する事実であったし、彼自身人見知りで口数少なく祖父ルイ15世のような

美丈夫どころか丸顔の肥満気味な外見とあっては無理からぬところなのかもしれなかった。

そんな宮廷でひとつの噂が密かに持ち上がりつつある。



―――――王太子は人が変わられたようだ。



かつての人見知り癖が綺麗に払拭され、常に笑顔を絶やさずしかも雄弁に物を語るという。

吃音りがちであった口調も非常に流暢で洗練されたものとなり、その聡明さには家庭教師たちも舌を巻くほどだとも噂されていた。

これまで全く存在感のなかったルイ・オーギュストではあるが、いまや彼が王位継承者の筆頭にある以上、その変容は貴族たちの注目を集めずにはおかなかったのである。











―――――最悪だ。



フランスを取り巻く環境は私の予想を遥かに超えて最悪であった。

なんといっても7年戦争とフレンチインディアン戦争の敗北と失費が痛すぎる。

莫大な資金と人員を消費しながら、なんら得るものなく北米とインドをイングランドに譲り渡した損失はどれだけ嘆いても嘆き足りるものではない。

名宰相アンドレ=エルキュール・ド・フルーリーが立て直しつつあった国家財政はこれによって壊滅的なまでの打撃を蒙ってしまっていた。

しかもルイ15世を始めとする要人がその危機を理解していないところがさらに恐ろしかった。

お気に入りだったジャポネのマンガの表現を借りるならば



―――――絶望した!脳天気すぎるフランス要人に絶望した!



というところだろうか。



それにしてもセネガルの失陥は痛いな………あれはいい兵になったはずなのだが………。



1763年のパリ条約ではルイジアナやカナダといった北米の要地ばかりでなく西インド諸島のグラナダや西アフリカのセネガルなども失われていた。

フランス史上最もみじめな条約と言われるゆえんである。

ナポレオンの勝利によってフランスに取り戻されることになるセネガルの歩兵はその勇猛さでフランス軍に大いに貢献したことを私は知っていた。

私はフランス史上に名を残せるような軍事の天才ではないし、体力も人並み以下でしかない――――だが今の時点では誰も知ることの出来ぬ知識を持っている。

この知識だけが絶望的な戦いを導く唯一の道標であった。

それがなくては所詮私などは二流の政治家にすぎないのだから…………。









………しかしこのまま史実どおりに進むとすればルイ15世が天然痘で崩御するまであと9年はかかる………長いな…………





そんな長い期間政治を主導することができないのは大問題であった。

すでにフランスの国家財政は限界ギリギリであり、改善する見込みは全くないと言っていい。

ルイ15世が死の間際に「朕のあとには大洪水がくるであろう」と言ったと伝えられているが、あるいは放蕩の愚王でももはやフランス経済の破綻は避けられないものと知っていたのかもしれなかった。

現に改革派の貴族のなかには第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)の特権排除なしに財政再建はないと考えるものも少なからずいたのである。

しかし断固として課税には反対の立場をとる貴族たちの数はそれを遥かに上回っていた。





私の見るところフランス革命はおよそ参加した誰にとっても予想外の結果に終わったものだと思う。

当初貴族の大半は国王が免税特権を奪おうとしていることから、王権の失墜をはかり自らの権益を防衛しようと図っていた。

しかしアンシャン・レジームの大黒柱たる王権が失われてなお貴族という階級が存続できるはずもない。

彼らは明らかにその短絡で独善的な思考によって自らの首を絞めたのである。

また、新たに力をつけつつあったブルジョアジーにとってはイングランドで始まった産業革命から国内産業を防衛し、さらに国際競争力を高めるためには税制の改革と法の整備が絶対に必要であった。

いくら儲けを出しても税でその大半が持っていかれては、資本主義の循環でもっとも大切な設備投資を行う余裕が失われてしまう。

また王や貴族の気まぐれで流通が阻害されたり、諸外国との交易に支障が出来るのも問題だった。

彼らは彼らの商売の円滑のために、融通を利かせることのできる政府を心から切望していた。

そして国民の大半を占める労働者と農民の望みは単純である。

彼らはただただ税が下がり、飢える心配のない生活だけを望んでいた。

折悪しくアイスランドではラキ火山が、極東の日本でも浅間山が噴火し北半球は急速に寒冷化して彼らは飢え死にの危機に瀕していた。

逆にいうならば食料さえ確保してくれるならば、見栄も外聞もなく手のひらを返す無定見さがあり、これを制御することは結局誰にも出来なかったのである。

そしてここに、フランス革命の担い手となった第四の勢力が存在する。

知識階級(インテリゲンチュア)であった。

主に弁護士を中心とした彼らは、当時最新のルソーの社会契約説等に見られる人民主権思想に傾きつつあった。

彼らの大部分は能力を持ちながら身分の壁によって要職につくことをあきらめた人間たちであり、自らが現在の政府以上に優れた存在であることをまるで疑ってはいなかった。

選良であるところの自分たちによってのみ、彼らは国民を理想の社会へ導くことが出来ると信じた。



ところがいざ蓋を開けてみると貴族もブルジョアジーもインテリゲンチュアも、無学で移ろいやすい大衆を制御することが出来ずに逆に大衆に振り回されることで次々と没落していったのである。

かろうじてインテりゲンチュアが大衆をわずかながら制御下においたものの、それは大衆の望みに対して盛大に空手形をうつことを前提としたものであった。

もちろんそんな欺瞞が長続きするはずもない。

大衆を躍らせているつもりが大衆のために自らが踊るはめになるか、大衆を躍らせることができると思い込み大衆によって墓穴を掘るものが続出した。

最終的に暴走する大衆を押しとどめるのには、自らの才能に絶対の自信を持ち、暴力と運と才能によってフランスのみならず全ヨーロッパに覇を唱えたナポレオンの登場を待たなくてはならなかったのである。

私に言わせればフランス革命とは大衆を煽動するつもりが逆に大衆の暴走に巻き込まれ、大衆に迎合する形で建前を飾らなくてはならなくなった――――ひどく偶発的な結果のひとつにすぎない。



自由・平等・博愛――――実に美しく崇高な言葉である。

しかし残念なことにこれが国家間の競争になると、自由・平等・博愛の精神は容易く抑圧・不平等・利己の前に敗北する。

共産主義と同様、国家社会が主流の現代においては早すぎた理想と言わねばならないだろう。

後代の共産主義者のレオン・トロツキーが世界永久革命理論を唱えたのも、一国主義の限界を正しく捉えていたためなのかもしれなかった。



問題なのはその愚かな理想主義者たちに現実を認識させる術がない―――ということだ。

シエイエスやロベスピエールのような理想主義者はおろか、エベールやマラーたち市井の者ですら人民に幻想を抱きすぎていた。

彼らは革命を起こして初めて大衆というものがいかに愚かしく救い難い存在であるかを知ったのだ。

もちろんそのときは―――――手遅れであったのだが。





「政治家は決して大衆の判断を信用してはならない――――同時に大衆の力を甘くみてはならない。大衆は出来る限り分断し、大衆としての意思を持たせぬことが望ましいのだ」





だが現状でもっとも恐れなくてはならないのはその理想主義者たちの狂熱である。

おそらく革命への流れはロベスピエールやサン=ジュストを暗殺したくらいでは変わるまい。

アンシャン・レジームは明らかに時代錯誤であり、国民が新たな社会秩序を求めることは世界史的な必然であったのだから。

結局は第二第三のロベスピエールが生まれる結果になるだけだ。







――――――だが新たな社会秩序を定めるのは誓ってこの私だ。









そのためには力を蓄える必要がある。

まずは王太子の名でサロンを開き有用な知識人を囲い込むことだ。

少なくともラボアジェのように優れた化学者を断頭台に送り込むようなことだけはあってはならない。

そしてもうひとつは私ルイ・オーギュストは王太子であると同時にベリー公でもあるということだ。

すなわちベリー公領を統治する権利を所有しているのである。

まずはこのベリー公領をフランスでもっとも栄える地にしなくてはならなかった。

それくらいのことが出来ずしてどうしてフランスの国家財政を立て直すなどという大それたことができるだろう。

すでに私の指示により領内で最初のジャガイモ(正確にはpomme de torre大地のリンゴの意)の量産が始まっているはずであった。

当初民衆にも不人気でパルマンティエが一計を案じなくてはならなかったと伝えられるジャガイモだが寒冷地に強く単位収穫量も多いため、来る寒冷化の対策としては欠かせない。

普及についても王太子が好んで食べるとなれば宣伝効果は馬鹿にならぬものになるだろう。

そして最後のひとつだが…………。





「殿下、ショワズール公がお見えになられました」



「丁重にお通ししてくれ、カルノー」



年の近い侍従として召しだされた少年の名はラザール・カルノー。

後の「勝利の組織者」である。

ブルゴーニュの富裕な弁護士の息子であった彼だが、父との折り合いが悪かったせいか、王太子からの直々の召しだしに喜んで応じてくれた。

まだ一月の付き合いにしかならないが、非常に知性的で、合理主義者ではあるがその本質は温和な人格者であるように思われる。

将来の腹心に育て上げるには素質は十分なものと言えた。







フランス王国陸軍卿兼外務卿でもあるショワズール公エティエンヌ…………事実上のフランス王国宰相は不審の念を禁じえない。

これまで全く宮廷交友に興味を持たなかったルイ・オーギュストが遅ればせながら交際を求めてくるのは構わなかった。

だが言ってしまえば王太子とは王の予備であり、王の存命中は何ら実権のないお飾りにすぎない。

こうしてぶしつけに呼びつけられるほど自らの地位は軽いものではないはずだ。

そう考えるといささか腹も立つのだが、それ以上に違和感を感じてしかたがない、というのが本音であった。



…………まあ次代の国王陛下に恩を売っておくのも悪くはないか…………。



新たな国王が邪魔な先代の重臣を失脚させるのはよくあることである。

甚だしいところでは処刑されてしまうこともあり、常に重臣というものは将来の身の振り方に細心の注意を払っておかなくてはならない。

そうした意味では将来のためにオーギュストと友誼を交わしておくことはショワルーズにとっても決して悪い話ではないのであった。

それにショワルーズは現在その王太子のことでまさにある国と交渉を重ねている真っ最中でもあった。





…………この機会に殿下の意を探っておくとするか…………。





後に外交革命とも言われた不倶戴天の敵であったオーストリアとの同盟を維持するため、ショワルーズは王太子とオーストリア皇女との婚姻を進めようとしていたのである。






[20097] 第四話   王太子の花嫁
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/07/10 00:42

「これは外務卿殿、わざわざのお運び痛み入ります」

「いやいや殿下のお望みとあらばいつなりと」

丁重に礼を交わすその優雅な所作は決してわずか11歳の少年のものとも思われない。
ショワルーズは王太子に対する認識を改めなければならないことを痛切に感じていた。
これは根拠があるわけではないが、目の前の少年は高度に政治的な腹の探りあいの修羅場を幾度もくぐり抜けている。
長年外交の一線に立って培われたショワルーズの勘がそう告げていた。

「外務卿殿をお招きしたのはほかでもございません。卿が来月訪問されるオーストリアのことでございます」

「……………ほう」

ショワルーズはさらに警戒感を強めた。
それはまさにショワルーズがこれから太子に尋ねようとしていたことだからである。
こちらの動きを見切られている以上迂闊な口は聞けない。

「我が父がオーストリアからの姫の輿入れに反対であったことは聞き及んでおります………しかし今はそのオーストリアとの同盟こそが肝要な時、外務卿におかれては何卒シャルロット(カロリーナ)殿下とのご縁をまとめていただきたい」

実のところオーストリアとの縁談は以前から水面下では進められていた。
そこで障害となっていたのが前王太子ルイ・フェルディナンドである。
彼は今は同盟国とはいえ、二百年来の敵国の血がフランス王家に入ることに我慢がならなかったのだ。
最大の障害が取り除かれた今、もはやオーストリア皇女を迎え入れることにためらう理由は何もなかった。
………そう、マリア・カロリーナ(フランス語読みでマリー・シャルロット)皇女を迎えることに。


――――1765年当時、ルイ・オーギュストの結婚相手として候補にあげられていたのはマリア・カロリーナ皇女であったのである。



「お志はお見事なれど婚姻を決められるのは陛下の判断にございますぞ」

ショワルーズとしては太子の意思は貴重でありがたいものだ。
王家の人間として政略結婚を強いられるのは運命のようなものだが、その政略を理解している人間としていない人間とでは対応に雲泥の差が出ることは当然のことであった。
この太子ならばオーストリアに対して失礼な態度は慎み、皇女を末永く大切に扱うだろう。
政略結婚は実は結婚後のアフターサービスこそが重要なものなのである。
だからこそ太子の思惑が読み取れない。
自分にとって都合のいいばかりの話を聞いて気味が悪くなるのは外交官として当然の反応だった。

「………外務卿殿、ハプスブルグの血に興味を持つのは我がフランスばかりではありません………聡明をもって知られるシャルロット殿下をこそフランスにお招きしたいという私の考えは間違いですか?」

太子の言うことは事実であった。
子宝に恵まれた女帝マリア・テレジアだが今や未婚の娘はわずかに三人。
しかもうち一人はナポリ王との婚約が決まっている。
残るはマリア・カロリーナ姫とマリア・アントーニア姫の二人のみ。
姉のカロリーナ姫は聡明さと怜悧な美貌で知られ、妹のアントーニア姫は愛らしく活発な姫として知られていた。
とはいえそれは宮廷外交官であるショワルーズだからこそ知ることが出来る類のもので、なぜ太子がそんな詳しい情報を知ることが出来たのかということについてはショワルーズも首をひねらざるをえない。

「まことに天晴れなお考え、このショワルーズ公エティエンヌ感服いたしました。さればこの老骨に鞭打って必ずや吉報をお届けいたしましょうぞ」

「………公のお力添えに感謝いたします。それとどうかこの手紙をシャルロット殿下にお届け願えますでしょうか?」

内心でどう思ったにせよ、ショワルーズは動揺することなく王太子の手紙を押し頂くようにして受け取った。

「必ずや殿下にお届けいたしましょう………」

なんという準備のよさであろうか。
ショワルーズは素直に太子の手腕に感服していた。
婚約者候補同士が手紙のやりとりをしているということが公に知れれば、もはや交渉を反故にすることは難しい。
諸外国の王がハプスブルグ家の血を望むにせよ、その相手は自然とマリア・アントーニア姫のほうにならざるをえまい。
個人的な趣向で言わせてもらえれるならば、末娘のアントーニア姫のほうがその美貌ではカロリーナ姫を上回るように思われるのだが。

「それにしても殿下がかくもオーストリアの姫君をお知りになっておられるとは………いったい誰からお聞きになられましたか?」

ショワルーズにとってはそれだけが謎だった。
生まれてこの方一度も外遊に出たことのないルイ・オーギュストが婚約者候補について知ろうとすれば伝聞以外の方法はない。
しかし宮廷で知ることのできる噂と太子の知る情報には雲泥の差があるように思われるのだ。

「外務卿殿は自分がオーストリアについて誰に聞いているか教えることができましょうか?」


…………できるはずがなかった。
この時代にまだニュースソース秘匿の概念はないが、外交官にとって情報が生命線であることは太古の昔から変わることがない。
たとえば金で雇った平民であるにせよ、あるいは口の軽いお調子者の貴族であるにせよ、異国における貴重な情報源をもらす外交官のいようはずがなかったのである。
それはつまり教えるつもりがないという太子なりの暗喩なのに違いなかった。

「今日は非常に有意義な時を過ごすことが出来ました。殿下におかれては何卒末永くおつきあいくださいますよう…………」

現在実質的にフランス政府の中心にいるショワルーズ公ではあるが、ここで王太子に恩を売ることの重要さを認識するのには十分すぎた。
ここまで優秀な人間が即位した暁には、古い重臣たちはお払い箱になるのは過去の例からいって間違いなかった。
引き続き政権の一端を担うにせよ、引退して老後の安全を確保するにせよ太子とのパイプを握っておくにこしたことはない。

「…………それにしても…………太子が愚鈍などと誰が言ったものかな」

ルイ・オーギュストといえば前王太子フェルディナンド家のあましものとして有名だった。
人見知りで口数は少なく、口を開けばどもりがとれぬうえ気の利いた言い回しのひとつもできないと言われていたはずなのだが。
あの風格は歴戦の外交官のそれではなかったか。

「不思議なこともあるものよ」







「うまくいくかなカルノー?」

「陛下もポンパドゥール夫人を失って気落ちしておられるところでございます。この機会に王太子妃を迎えることが出来ればお心も晴れましょう」

碌に教育も受けていないにもかかわらずカルノーの読みは鋭い。
私も婚約を決めるならば父フェルディナンドの死の動揺が収まらぬ今のうちだと考えていた。
気分家であるルイ15世は同時に自尊心の非常に高い男でもあったからだ。
心の動揺がおさまれば、オーストリア側から請われる形での結婚という形式にこだわるだろう。
それでは時期を失するのは歴史が証明していた。


すなわち1767年マリア・ヨーゼファが急死した結果、ルイ・オーギュストの婚約者候補と目されていたマリア・カロリーナは急遽マリア・ヨーゼファのかわりにナポリ王へと嫁ぐこととなるからである。
ほとんど決まりかけていたフランスとオーストリアの縁談はこれで振り出しに戻り、マリア・アントーニアとの婚約がようやくまとまるのは実に1769年のこととなった。
その時点でおいてもマリア・アントーニアのフランス語習得が間に合わなかったというから、オーストリア側も予想外のことであったのは明らかだろう。



後にマリー・アントワネットとして数々の悪名を流すマリア・アントーニアだが、私も言われるほど彼女が悪女であったとは思わない。
しかし少なくとも不実で愚かな女性であったことも確かであった。
フェルセン伯爵との浮気は言い逃れのしようのないところであったし、私情でテュルゴーやネッケルを罷免し、さらにはヴァレンヌ事件においては致命的な世間知らずぶりを発揮している。
それでも処刑に臨んだときの高貴な態度は賞賛されるべきもので、生まれる時代がもう少し早ければ誇り高い貴婦人として歴史に名を残したのかもしれなかった。
いずれにしろこの瀕死のフランスの王太子妃に相応しい女性ではない。
対するマリア・カロリーナは女傑として知られる女丈夫である。
暗愚な夫に代わり政権を掌握するや、政治ばかりでなく士官学校を創設するなど軍事にも造詣が深かった。
彼女がフランス王妃になっていればフランス革命はまた別な形になっていただろうと言われるほどであり、アントーニアとの器の差は明らかだ。
だからこそ1767年を迎える前に彼女との婚約を最低でも既成事実化しなくてはならなかった。

「まあ、浪費を抑えてもらう程度では財政が救われるには足りないんだが」

それでも経費を削減してくれるのには意味がある。
国民に対して王家もまた努力しているというポーズになるからだ。
また賢明なカロリーナであれば、後年首飾り事件に巻き込まれるような脇の甘さはあるまい。


だが最悪マリア・アントーニアを娶るようになることも考えておかなくてはならなかった。
なぜならオーストリアの皇女を娶るということはただ同盟の強化という理由ばかりではない。
7年戦争でフランスがオーストリアに対して援助した巨額の戦費の保証という意味もあるのである。
つまりオーストリアから王太子妃を迎えないという選択肢はありえないのだ。



しかし歴史的事実からすれば結果としてフランスが援助した巨額の借款がオーストリアから返還されることはなかった。
それはバイエルン継承戦争によってオーストリア経済が疲弊し借款を返す余裕がなくなったことに加え、フランス革命によって国王夫妻が処刑されたことでオーストリアは革命政府を正当なフランスの代表者とはみなさなかったからだ。
簡単に言えばオーストリアは嬉々としてフランスの借金を踏み倒した。

「ヨーゼフ二世には釘をさしておかんとな………いや、マリア・テレジアのほうがいいか?婚約が正式に決まったら持参金の話のしなくちゃならんし…………」

「ずいぶんと夢のない結婚に聞こえますが…………」

「覚えておきたまえカルノー。恋ならばともかく結婚などというものに夢の入り込む余地などないのだよ」


特に王族にとっては結婚が政略以外のものであってはならない。
しかし夫婦愛と政略はしばしば両立することが可能であった。
ルイ・オーギュストの若い肉体に精神も引きずられたものであろうか、43歳で死んだはずの私であっても年若い花嫁を迎えることは政略以上の何かに思われた。
出来うるならばともに愛し合い、ともに助け合ってフランスの次代を担いたいものだ。
一人で背負うにはこの試練はあまりに大きすぎるのだから。




[20097] 第五話   王太子の行幸
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/07/11 23:37

ベリー公領を視察に訪れるための許可を得るのに一月以上の時間が必要となるのは計算外だった。
王太子が治安の悪い地方を直接巡幸することなど絶えてなかったことらしいので保安上から考えても無理からぬ反応であったらしいのだが。
確かにこの時代の旅行は不便であり決して快適なものではない。
パリでの贅沢に慣れた宮廷貴族たちが外遊に出たがらぬのはむしろ当然のことなのである。
だからこそ王太子の突然の外遊は宮廷内にさまざまな憶測を呼ぶこととなった。
しかしそんなことが気にならないほどに私にとっては王宮を離れることで、精神衛生上このうえない開放感を感じずにはいられなかった。

―――――私が王になったら誓ってパリの衛生は借金してでも向上させてやるからな――――!!

財政の危機より優先すべきものがある。
現代人感覚の抜けぬ私にとって現在のパリの汚物の多さは精神的に絶対に容認できないものであったのだった。





知識としてはわかっていた。
ベルサイユ宮殿にはトイレがないわけではないが、需要に対して圧倒的に少ない数でしかなかった。
そのため貴族や使用人はしばしば廊下や花壇で用をたし、汚物はそのまま投げ捨てられるに任せていたと言う。
婦人がトイレに席をはずすことを花を摘みにいくという表現があるが、それはベルサイユ宮殿の貴婦人が花壇で用をたしていたことに由来するのである。
ベルサイユ宮殿の観光名所で有名な庭園の噴水広場などは格好の糞尿捨て場と化していた。
実のところフランスの公衆衛生が整備されるのは現代になってからのことなのだ。

しかし親日家としてジャポネの清潔感を愛する私としてはこのようなフランスの惨状は断じて受け入れられなかった。
同時期のジャポネの首都エドでは公衆トイレ、下水道、さらには糞尿のリサイクルシステムすら確立されていたのである。
河川交通を利用した汚穢船による糞尿の輸送システムすら完備されていたのだから驚きだ。
エドは当時の人口密集地として世界で最も清潔な都市であった。
それに比べて我らがパリのなんと不潔なことか。
美しかったはずのセーヌ川は14世紀以降の人口増加とともに排出されるゴミ・糞尿・牛や豚の臓物や血にいたるまでが全て投棄されていたために、何層ものヘドロが堆積する汚泥の川と化していた。
パリに地方からやってきた踊り子はセーヌ川の水を飲んで必ず下痢に襲われたとも言う。
これらの不衛生さはペストやコレラの温床となり、数え切れぬ市民たちの命を奪ってきたにもかかわらず、改善されたのはごくつい最近のことである。
実際のところセーヌ川の美化はシラク大統領がまだパリ市長であったころに始まる。
当時のパリ市民は市長の美化宣言を一笑にふし、清掃作業中にいったい何台の自動車や何人の死体があがるかについて賭けすら行われたと言う。
まだ青年であった当時、私自身セーヌ川でトライアスロンを行う日がこようとは夢にも思わずにいたものである。
フランスきっての知日家として知られたシラク氏は見事に公約を果たしてのけたのだ。
あの日の感動を私は一日たるとも忘れたことがない。
今思えば政治家を志したのもあのシラク氏あればこそであった。

「まずは公衆トイレの設置………あとは公衆衛生の啓蒙か…………」

ペストはともかく天然痘とコレラについてはこの先も流行が確実であるだけに早急な対策が必要であった。
当時の幼児の死亡率の高さも、不衛生と決して無関係とは言えないのだ。
それに生活環境の改善は国民の人気とりにも馬鹿にならぬ効果があるのは、現代でも各国が社会福祉政策を推し進めていることでも明らかだった。


背後から「水に気をつけろ!」という叫び声があがる。
パリの市民の間で糞尿を窓から投げ捨てるときの合言葉のようなものだ。
王宮ばかりかパリ市全体が汚物に塗れて生活している、という実感に私は暗澹となりながらパリを後にしたのであった。





ベリー公領はフランスの中部に位置する豊かな農産地である。
フランスがイギリスに産業革命で先を越されたのは肥沃な大地に恵まれすぎていたことが大きい。
単位面積あたりの収穫量が土地の痩せたイギリスより格段に大きいため工業化を推進する動機に欠けるのである。
とはいえ農民たちの生活が楽かというと決してそうではないのも問題だった。
生産力の余剰は生産者ではなく、貴族と聖職者たちが吸い上げる仕組みが強固に出来上がっていた。
いくら働いてもろくな稼ぎにならない、となれば生産者の向上心が高まるはずもなかった。
彼らは学業によって弁護士となるかあるいは兵士となり、貧しい農民生活から解放されること強く望むようになっていたのである。

こうした貧しさからの脱却を動機として成りあがった知識階級が現行の身分制度に不満を持つのはごく自然の成り行きだった。
フランス革命のメンバーで弁護士出身者が多いのは、そうする以外に豊かになる方法がなかったからだ。
しかし法という論理で理想を追う彼らは理想と現実が相反するとき、しばしば理想を優先することで現実から乖離した対応を見せてしまった。
それこそが革命が共和政治を持続できなかった最も大きな問題であった。

「………といって連中を取り込まずに改革が成立するかというとそういうわけにもいかんしな………」

頭の痛い問題だが、法による統治体制と工業化による国力の増進には知識階級の力が欠かせないものであることも確かなのである。
彼らを全て排除することは結果としてラボアジェのような化学者をギロチンにかけた革命政府となんら変わることがない。
私の最終目的は象徴的権威として王政を維持した立憲君主体制の確立なのであって、現行の専制政治の継続にはない以上彼らの力を失うわけにはいかなかったのだ。

「…………フリードリヒ大王ですらなしえなかったことだからな………」

これぞという妙案は出ない。
重いため息とともに私は頭をふるほかなかった。






カルノーにとって初めて仕える主人は不可解というほかはない。
今も目の前で頭を抱えながらプロイセンの君主の名を呟いているが、まるで年来の友人のように事跡を評価し、才能を称えているのが見て取れる。
だが少なくとも王太子がフリードリヒ王と面識がないことは確かであった。
であるとするならばいったいどこで王太子はフリードリヒ王の手腕を知ることが出来たのだろうか。
また先ほども公衆衛生がどうとか呟いていたが、そもそも公衆衛生とはなんのことか?
仕える身としてはこれほど仕えにくい人物もおるまい。
主の思考は遥か先を見通しており、こちらが主から知識を与えられるばかりでいまだ主の思考を先読みできたためしがないのだ。
名門とはいえ平民の自分をわざわざ王宮に召しだすこと自体が不可解である。
しかもその平民を自分が家庭教師に教えられる席に同席させるというのだから呆れる。
もっとも知的好奇心の強い自分にとってはいくら感謝してもしきれないことであるのもまた事実であった。
先日来訪されたアントワーヌ・ラヴォアジェ殿の化学実験には心躍らされたものである。
その日についても確か王太子は
「ベルトレーとも協力してすみやかにアンモニアの合成を目指してくれ」
…………と言っていた。
果たしてアンモニアとはいかなるものなのだろうか。
化学組成式なるものを太子が話されていたときにラヴォアジェ殿が目を剥いていたのが印象的であったが。
………それにしてもわずか11歳の少年が若き天才化学者と対等に化学談義をできるということがありうるのだろうか。

主の不可解さはそればかりではない。
先日などはパリ医科大学の秀才ニコラ・ルブラン殿を招いて木材を使わずにソーダを組成する方法について研究するよう指示をしていた。
ソーダが木材の灰を利用して作られていることぐらい私でも知っている。
もしもそれがいらないとなればどれほどの影響が出るものか、若輩の自分には見当もつかない。
知れば知るほど途方もない主であった。

だが、だからこそ毎日が楽しい。
自分の全く知らない世界の扉を開くことにはいつも変わらぬ悦びがある
この先どれほどの新たな発見があるかと思うと胸の高鳴りを抑えることが出来ない。
ブルゴーニュの敬虔なクリスチャンである父のもとにいては適わなかったであろう夢である。
父の意向で神学校に入れられ、その後は父の後をついで弁護士になるか士官となって軍で身を立てるかという平凡な人生を送っていたであろうことを考えれば、
王太子にはいくら感謝しても感謝しきれないところであった。

―――――いつかきっと主と同じ場所に立ってみせる。

今の自分には見えないどれほどのものを主が見ているのか、それが知りたい。
それを知りえたときにこそ、自分は太子の側近として存分にこの恩を返せるのに違いなかった。
幸いにして主は自分が主と同じだけの知識を持つことを望んでいるように思われる。
もっともっと主に近づきたい。
果たしてベリーではどんな新しいものを目にすることができるものか。
カルノーは笑み崩れながら期待に胸を膨らませていた。






後に「勝利の組織者」として名を残すラザール・カルノーは組織者であるゆえに合理主義者であった。
だからこそ理想主義者のサン=ジュストなどとは相容れなかったし、王党派という同じフランスの勢力を使うことに何のためらいもなかった。
フランスからの亡命を余儀なくされてからも彼の好奇心は留まることを知らず、哲学、数学、軍事学において傑作を呼ばれるに相応しい著作を発表し続ける。
彼こそは時代を遅れて現れた万能の人なのかもしれなかった。
そして彼が革命政府内において、常に穏健派として知られたことを私は知っている。

……………あまりに頭がよすぎるから冷徹な合理主義者に思われがちだが、その根本には慈愛がある。

才能の豊かさゆえに早めに王宮に招聘したカルノーであったが、私の予想を超えて彼は尊敬に値する男であった。
それは同時に、おそらくはこれから相手をすることになる歴史上の人物たちが私の想定する以上の力を備えているということでもあるのかもしれない。
ニコニコと頬を緩ませているご機嫌なカルノーを見ていると、そんな困難な戦いもそう捨てたものではないという気がして知らずいつしか私も笑みを浮かべていた。




PS.

実はこの作品を書くにあたりほかに二つほど候補があがっていた。
ひとつは悪名高いリチャード三世、もうひとつは日中戦争時の近衛文麿である。
リチャード三世は善玉か悪玉かイメージが固まらず、近衛文麿にいたっては本作主人公同様、日本国首相が逆行憑依する予定であったのだが、
鳩○由紀夫が「トラストミー!!」と叫んで列強にフルボッコにされる絵面しか浮かばないので即刻ボツにした。
後悔はしていない。




[20097] 第六話   王太子の誤算
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/07/13 23:32
ハプスブルグ家ならではの豪奢な金髪を揺らしながらカロリーナは頬を紅潮させて紙面に視線を走らせていた。
普段から無表情にも思われがちなほど感情の起伏のない彼女が珍しく興奮を露わにしているのをショワルーズは驚きとともに見つめている。
いったい王太子はどんな魔法を使ったものか――――。

カロリーナにとって彼の国の太子からの手紙は実に率直なものだった。
もちろんカロリーナの美しさを讃える芸術的な修辞が施されたお題目も添えられてはいたが、カロリーナにとって本当に大事なのはそんな言葉ではなかった。

―――――貴女と新たなフランスの礎を築きたい。私には貴女が必要なのです!

カロリーナにとって太子に投げかけられたその言葉の意味は重い。
母の政治的才能をおそらくは娘たちのなかで最も色濃い形で受け継いだ彼女にとって王太子ルイ・オーギュストの提案は非常に魅力的なものに感じられた。
もちろん短い文面からは彼の太子の意思が明確に伝わるものではないが、女であるという理由だけで後宮に押し込めるような意思のないことだけがわかればカロリーナとしては
十分すぎるように思われた。
籠の中の鳥に甘んじるほどカロリーナの器量は安くはないはずであったからだ。

「ショワルーズ公………どうかオーギュスト殿下によろしくとお伝えください」

そういってショワルーズに返書を手渡すカロリーナはひそかに固く決意していた。
………彼女にとって理想の夫婦とは両親たるフランツ1世とオーストリア公マリア・テレジアにほかならない。

先年他界した父は母テレジアの操り人形であったというまことしやかな噂が流れているが、それはまったく事実と異なることをカロリーナは知っていた。



父フランツ1世と母マリア・テレジアは当時の王室の人間としては非常に稀有なことに恋愛結婚を果たした。
もともとフランツ1世はロレーヌ(ドイツ名ロートリンゲン)という吹けば飛びそうな小国の出身にすぎないため、その結婚に至るには数多くの困難が存在した。
中でも大きなものがフランツの故郷ロレーヌのフランス王国への割譲である。
厳密には元ポーランド国王スタニスワフへの譲渡であり、代わりにトスカーナ大公国が与えられることになっていたが、当時のトスカーナは戦争で破壊されつくしており決して旨みのある土地とはいえなかった。
故郷か結婚か、内心でどんな葛藤があったにせよフランツは決然としてテレジアとの愛を選択したのである。

だが残念なことにフランツは外交家としても軍人としても三流以下の技量しか持つことはかなわなかった。
そのためテレジアにいいように操られるフランツは、同じ国内の貴族たちにまで侮りを受け、その誇りはいたく傷つけられていたはずであった。
しかしそれでもフランツのテレジアへの愛情は小揺るぎもせず、テレジアもまた夫への信頼を失うことはなかったのである。

カロリーナは慈愛に満ちた父の優しい笑顔を今でもありありと思い出すことができる。
外交と軍事にはまるで才のなかったフランツだが、財政家としては逆に超一流の才能に恵まれていた。
荒廃しきったトスカーナ大公国を建て直し、軍事費の圧迫を受け逼迫したオーストリアが国債を発行する際にはその保証人になれるほどの莫大な財産を築き上げたその手腕はテレジアでさえ遠く及ばない。
二人は確かな愛情で結ばれながら、かつお互いになくてはならない政治的パートナーであったのである。

―――――願わくば自分もそんな夫と愛し合いたい。

ハプスブルグ家の娘として産まれた以上、政略のために他国へ嫁ぐ覚悟はとうにできている。
その理想の夫の片鱗がルイ・オーギュストに窺えたからには、この機会を逃すつもりはカロリーナにはなかった。
男に守られるか弱い女であるより、夫を守るたくましき妻でありたい。
カロリーナがテレジアから受け継いだのは、むしろその政治的才能よりも女としては過剰なまでのその母性であるのかもしれなかった。

「お姉さま………なんだかとってもうれしそう………」

アントーニアが不思議そうな顔で姉を覗き込む。
面倒見はよいものの、今ひとつ子供らしい感情の発露が足りない姉が珍しく頬を染めて薄く笑う姿は好奇心旺盛なアントーニアの注意を引くには十分すぎた。
もしもここで、姉の心を捕らえたものがフランスの王太子であると知れたならば、独占欲の強いアントーニアがどのような反応を示すのかカロリーナは誰よりもよく知っていた。

「アントーニアはわからなくていいのよ……………ええ、そう何も」

愛すべき可愛い妹である。
まるで神に愛されたかのような整いつくされた造形は、数多いテレジアの娘たちの中にも並ぶものがない。
カロリーナも水準以上に十分美しかったが、それでもこの妹には一歩及ばぬものであることをカロリーナも認めないわけにはいかなかった。
だからこそ、愛すべき妹は女としてはもっとも身近で手強いライバルにほかならない。
これに手加減する必要をカロリーナは認めなかった。

「アントーニア、お姉さまを怒らせるようなこと、した?」

愛されることにあまりに慣れすぎたアントーニアは、そんな姉の敵意を正確に感じ取ることはできなかった。
それでも姉が愛情以外のなんらかの感情を自分に向けていることだけは感じられた。

「………そうね…………あと4年もすればアントーニアもわかるようになるかしら」

男女の機微をアントーニアが理解するまでにあと4年はかかるだろう。
その前に早く既成事実を作り上げてしまわなければ。
獲物を狙う女豹のようなその獰猛なカロリーナの本性をルイ・オーギュストが知るのには、まだしばらくの時が必要であった。








「………なんだか肌寒くないか?カルノー」

「いえ、むしろ暑いくらいかと思いますが…………」

ゾクゾクと背筋に寒気を感じた私は所在無げにあたりを見回した。
空の青さが目に痛くなりそうな晴れ空である。
すごしやすい暖かな風からは先ほどの得体の知れない寒気の欠片も感じ取ることはできなかった。

「お待ちしておりました」

鼻が高く、知的な風貌の青年がうやうやしく頭を垂れる。
丁重で嫌味のないその洗練された物腰は彼の受けてきた教育水準の高さを如実に物語っていた。
彼の名をアンヌ・ロベール=ジャック・テュルゴー。
5年ほど前からリモージュ州知事として数々の進歩的な施策で脚光を浴び始めている男であった。
私はその彼をベリー公領の全権代官として招聘していたのである。




アンヌ・ロベール=ジャック・テュルゴー
彼は18世紀フランス最大の経済学者と言っても過言ではない。
1766年に発表された彼の「富の形成と分配に関する考察」は後に「国富論」を表すアダム=スミスに絶大な影響を与えたことで知られている。
資本主義経済を解き明かす需要と供給、富の剰余と投資と成長のメカニズムをテュルゴーはその著作の中ですでに明快に解き明かしているのである。
彼が届かなかったのは後世に名を残すだけの経済学者としての名声と、理論では完全には解明できない「神の見えざる手」を指摘することができなかったことぐらいなものなのだ。
また彼は19世紀半ばに成立する限界革命理論の礎を築いた人間としても知られる。
彼を重農主義者という括りに入れるのは厳密な意味では正しくない。




流通上の市場価格と自然価格を初めて理論づけたほどの秀才である彼だが、残念なことに運だけが足りなかった。
フランスの国家財政再建の切り札として登場した彼は、その優秀な施策にもかかわらず1770年代に重なった飢饉によって挫折を余儀なくされてしまう。
また自説の正しさを確信していたゆえか、庶民感情に厳しかった彼はフランス国民からは蛇蝎のごとく忌み嫌われた。
1776年に彼が発表した6つの勅令――――すなわち取引価格の自由化、賦役の廃止、ギルドの解体、土地税率の均一化などは後の経済学者からも絶賛を浴びるものであった。
だが折悪しく飢饉によって不足した小麦をブルジョワジーが買い占めたことで小麦価格は急騰、長期的に見ればその価格はどの時点かで暴落して帳尻があったことは確実なのだが、日々の糧に困った庶民は
価格の高騰をテュルゴーの価格自由化のためであると信じた。
ギルドに代表されるブルジョワジー、大地主でもある貴族、パンを求める市民の全てを敵に回していたテュルゴーはマリー・アントワネットの寵臣に対する目こぼしを拒否したことで最終的に王の後ろ盾も失った。
多大な努力を報われることなく財務総監を解任されたテュルゴーは、ただ王室の無事を祈り何一つ文句を言わず職を辞したと言う。
経済学者であり、合理主義者である彼は、同時に頑固なまでの王室の擁護者でもあった。
もし彼にネッケルなみの人気があれば間違いなくフランス史は変わったと言われる。
リモージュ州の民には悪いが彼は私の計画上、なくてはならない人材なのだった。

「新農法は進んでいるか?」

「区割りにまだいささかの時間が必要かと」

すでにイングランドで推し進められている農業革命は、要するに休耕地をなくし家畜の継続的な使用を可能にした土地の有効活用にほかならない。
だがそのためには集約された労働力と、何より広い耕地面積が必須であった。
土地の区画整理と労働者の集約なくして農業革命はない。
そして農業革命による人口の増加と余剰労働人口なくして産業革命もない。
いずれにしろ効果が目に見えるようになるまでにはまだしばらくの時間が必要であった。

「…………それにしても殿下の奨励されたジャガイモは寒さに強く保存にも向き手間もいらないのでかなりの収穫が期待できそうです。これで人民も飢えの苦しみから救われることでしょう」

ジャガイモなくしてドイツの人口増加はなかった。
サツマイモほどではないが救荒作物としてのジャガイモの力は恐ろしく巨大なものだ。
冷害による小麦の不足はどうすることもできないが、ジャガイモの量産が間に合えば少なくとも飢え死にの心配だけは取り除くことが出来る。
将来的にテュルゴーの経済政策を推し進めるうえで障害は出来るかぎり取り除いておくべきだった。



――――だがわたしはまだ知らなかった。
生活の苦しさが思想の過激化を招くように、生活のゆとりもまた思想の純化を招くのだということを。





[20097] 第七話   王太子の婚約
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/08/01 23:23

「………隣国プロイセンはいくら警戒しても警戒しすぎるということはありません。かのフリードリヒ王は紛れもなく軍事的天才です。しかし外交ではテレジア様には
敵わぬ様子。おそらくはそのあたりが突破口になるのではないでしょうか…………」

およそ男女のラブレターとは思えぬ内容である。
だがどんな美辞麗句よりもオーギュストとのこうした政治的な会話のやりとりが何よりもカロリーナの胸を震わせるのである。
頬を桃色に染め上げ手紙を大事そうに胸に押し頂く様はまさに乙女そのものだ。
理由が乙女らしいかどうかはともかくとして。

カロリーナの見るところオーギュストはこのところ欧州を席捲しつつある啓蒙君主を目指しているように思われる。
しかしその手段としてリアリズムに徹しようとしているところがカロリーナには好ましかった。
宮廷に出入りする家庭教師の中にも啓蒙主義に傾倒するものがいるが、彼らの言う人民の権利というものは非常に危険に思われるからだ。
人間の理性が重んじられ、反比例するように盲目的であった信仰が失われていくのは時代の流れとしてやむをえない。
とはいえ宗教の衰退はすなわち王権神授説の衰退でもあるのである。
理性が人間のもっとも尊重すべき主体となる場合、王家の血には国家を主導すべき権威が存在しないことになってしまう。
そうした人民主権理論は各国の王室にとって決して無視しえぬものであった。

カロリーナの見るところ、国家というものは人民を守るために存在するものではあるが、決して人民の利益の代弁者というわけではない。
これは矛盾するように聞こえるかもしれないが、世界が主権国家によって構成されている以上やむをえないことなのであった。
そして国家なくして伝統も文化の存続もありえない。
人民が今国家の擁護者となるのには、経験も知識も覚悟も足りないものとカロリーナは考えていた。
人民は守るべき存在ではあるが、頼りとするにはいまだいささかもの足りない者たちなのだ。
その点でオーギュストとカロリーナの意思は一致していた。

「………本当に姉様はオーギュスト殿下がお好きね」

妹のアントーニアがすねたような目をカロリーナに向ける。
同じ部屋で暮らしているアントーニアとしては姉をまだ見ぬ男に取られてしまったように感じられて面白くないのだろう。
猛烈な勢いでカロリーナがフランス語やフランスの習俗を勉強し始めたことでこの優しい姉を遊ぶ時間が減ったこともアントーニアの不機嫌に拍車をかけていた。
カロリーナとしてはアントーニアがオーギュストによい印象を抱かないことに関しては不利益にはならないので放置しているのだが。

「………アントーニアもいずれは嫁ぐのですから心構えを怠ってはなりませんよ。もうしばらくはそのままでいても構わないですけれど」

優しく姉に髪を撫でられてアントーニアは猫のように目を細めた。
姉の胸に抱かれて頭を撫でられるのはことのほかアントーニアのお気に入りであった。
幸いなことにそんなとき姉がどんな邪笑を浮かべていたか、アントーニアは生涯知ることはなかったのである。



その年の1767年カロリーナの姉マリア・ヨーゼファが病死した。
ナポリ王の婚約者でもあったヨーゼファの病死は当然のことながら王室間の約定に従い早急に代役を立てなければならないことは明らかであった。
しかしカロリーナとオーギュストとの手紙のやり取りを承知していた女帝マリア・テレジアは二人の仲を裂くような真似をするつもりは毛頭ない。
一時は帝国の衰亡を招きながらもフランツとの恋愛結婚を達成した彼女がそんなことを承知するはずがなかったのだ。
ナポリ王フェルディナンドとマリア・アントーニアとの婚約が発表されたのはそれからすぐのことであった。

―――――計算どおり!

カロリーナが新世界の神のような微笑を浮かべたかどうかは誰も知らない。





そのころオーギュストはどうしていたかというと…………。


「………麻酔とかないのか?ありえん………」

「どうか我慢下さいませ殿下。そう長い時間はかかりませぬゆえ………」


包茎手術の真っ最中であったという。



欧州には割礼の習慣がなかったために包茎の人口比率は他国に比べて高いのだが、オーギュストのような真性の包茎の場合は皮が剥けようとするたびに
激痛が走るため性行為の障害となる事例が少なくなかった。
またそれだけではなく男根が剥けていないことで女性に対する過度のコンプレックスを感じることも忘れることはできない。
そうした精神的ストレスと身体的な障害がかつてルイ16世をして性的不能状態へと追いやっていたのかもしれなかった。
同じ過ちを繰り返すことはできない以上、ここで思い切って手術すべきだと思ったのだが………。

「痛いっ!痛いっ!痛すぎるぅぅ!!」

手術など麻酔中に気がついたら終わっているものという感覚が抜けていなかった私にとって股間に感じる激痛は拷問以外の何物でもなかった。
よく考えたらジャポネで華岡青洲が「通仙散」による全身麻酔手術を行うのが1804年、ウィリアム・クラークがジエチルエーテルの麻酔手術に成功するのはなんと
1842年の話である。
この時代に麻酔効果を得ようとすれば阿片をはじめとする麻薬以外にはない。

(し、しかしフランス男子たるもの。不能などというレッテルを貼られて生きている価値があろうか!)

男の尊厳と欲求を満たすためならば地獄の拷問すら耐え切ってみせる!
正直オーギュストの肉体年齢に引きずられたのか私も往時のみなぎる性欲をもてあましかけていた。
嫁も作戦どおりほぼカロリーナで決まりという現状では、なおさらこのまま捨て置けない問題であったのだ。

それに即位してからでは遅すぎるという問題もある。
フランス国王がユダヤ人の真似をするというのは決して外聞のよい話ではないからだ。
下手に教皇庁あたりに騒がれると国内求心力の失墜にも繋がりかねない。
どうせ痛い思いをするのなら問題の少ない今のうちにという判断は間違ってはいないだろう。

少なくとも、とりあえずこの世界のルイ16世は新妻に6年もの空閨を抱かせるようなことはせずに済みそうであった…………。






1768年も春を迎えると王太子オーギュストのベリー公領は様々な噂の中心地と化しつつあった。
1766年に代官に就任したテュルゴーは苦心のすえ領内の区画整理を断行し、さらに余剰作物としてジャガイモの栽培を奨励していた。
また四輪農法を推進するため家畜の取得のために公金で低利の資金貸付も行っている。
そうした各種の政策が徐々に実を結びはじめ、ベリー公領の領民からは王太子とテュルゴーに対する感謝の声が溢れ始めていたのである。

なかでも好評であったのが公領内の通行料の全廃と、道路整備、排水施設と汚物処理制度の新設であった。
同じフランス国内であっても各貴族領の通行に関しては通行料が徴収されるのが一般的であったのだが、自由貿易主義者でもあるテュルゴーは頑としてそれを認めようとはしなかった。
現在のベリー公領には流通を促すべき立派な商品があるのだから当然の措置である。
先年遂にラボアジェがアンモニアの合成に成功したため、環境汚染のひどいルブラン法ではなくソルベー法によってアルカリが製造できる目途が立ったのだ。
史実ではアンモニアを合成するのはラボアジェと親交のあったイギリスの化学者ジョゼフ・プリストーリーであったが、さすが窒素が元素であることを発見したラボアジェだけあってわずかなヒントを
与えただけでアンモニアの合成に成功してくれた。
といっても実験の検証まで丸一年以上はかかったし、ハーバー・ボッシュ法が使えないのでまだまだ量産には問題を残しているのだがそれはやむを得まい。
それに本来1804年にニコラ・アベールが発表するはずであった加熱殺菌と密封の瓶詰めを先行して開発したためベリー公領は時ならぬ輸出ラッシュに沸いているのである。
おかげで重税下の庶民でもわずかながら余剰を蓄えることが可能になりつつある。
その大半は領内に設置された無料教育機関に子供を通わせ、将来の官僚を目指させるというのが流行であるらしかった。
農業生産力の拡充も順調である。
汚物を有機肥料にするために領内の各所には公共トイレが設置され、職のない人間たちがその回収と処理にあたっていた。
雇用問題が改善され安価に肥料が手に入るのだから庶民にとってこんなありがたいことはない。
もっとも領内にオーギュストがいたならこう言ったであろう。

―――――庶民が汚物を道路に捨てなくなったのが一番の実績だ、と。

彼らも汚物に塗れて暮らしたかったわけではない。
汚物のない生活に慣れるにしたがって、不可逆的に彼らはもはや過去の汚い生活には戻れなくなろうとしていたのである。
さらにロマを報酬を与えて街の清掃人としたことでベリー公領は劇的に公衆衛生が改善されつつあった。
コレラをはじめとする伝染病が今後ベリー領内で減少することは、おそらくこれからの十年が証明してくれるのに違いなかった。
これには副次的にロマを行政機構に取り込むことによる治安の改善までが含まれる。
庶民の支持が集まるのはむしろ当然であった。



テュルゴーと綿密な打ち合わせを繰り返しつつ、これらの画期的な政策を推進してきたオーギュストがどうしているかというと……………。




「せめて私の私室から廊下までだけでも毎日………出来れば午前午後の2回は掃除してくれ。それと汚物を花壇や噴水に捨てるのは止めろ。庭を区画して穴を掘って埋めるんだ」

所詮は自らが主ではないヴェルサイユ宮殿の哀しさ。
領内が着々と清潔さを取り戻していくなかで、オーギュストは今もなお汚物と格闘することを余儀なくされていたのである。
全く笑えないことこのうえない話であった。

「香水とは香りを楽しむものであって悪臭を紛らわすためのものではないんだ………どうしてそれがわからんっ!!……来年はひとつデュ・バリー夫人あたりを動かしてみるか」

来年になればデュ・バリー子爵から夫人がルイ15世に紹介されるはずである。
宮廷の寵姫として美を求める夫人であればあるいは宮廷の改善に興味を示してくれるかもしれなかった。
宮廷の婦人方が美化運動に賛同してくれればヴェルサイユ生活改善計画も、もう少し進展してくれるのであろうが…………。

おそらくは来年の1769年にはオーストリアからカロリーナが輿入れしてくることは確実であった。
それまでにはせめて最低限の改善を果たしておきたい。
妻として人生を共にする女性とは、清潔な居住空間で暮らしたいというのが私の偽らざる本心だった。
そして妻が清潔さを求める思想を共有してくれるなら、こんなうれしいことはない。

「………って、掃除したそばから廊下で用をたすな!ええいっ!痰を吐くなあっ!!」

ベリー公領の繁栄とは裏腹に、ヴェルサイユ生活改善計画はまだまだ難航が予想されるようであった…………。




[20097] 第八話   王太子の結婚
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:cec6bd83
Date: 2010/08/26 22:08

1769年7月18日―――パリの街は王太子の結婚に沸きに沸いていた。
婚約から2年、ついにオーストリアハプスブルグ家の王女マリー・シャルロット(マリア・カロリーナ)がフランスへ輿入れの運びとなったのである。

マリー・アントワネットの挙式より1年近く早い式の進行には様々な紆余曲折があった。
現在フランス宮廷を支配するデュ・バリー夫人に対抗するためその核としてシャルロットを迎えようとする勢力が存在し、逆にハプスブルグ家の血筋を王家に迎えることにいまだ反対の
立場をとるものも存在した。
それもこれもこの数年で宮廷における王太子ルイ・オーギュストの政治的影響力が増大したことが大きい。
ベリー公領の繁栄ぶりはつとに宮廷内でも有名で、政治には無関心なルイ15世に代わって国政を握っている外務卿兼陸軍卿であるショワズール卿に助言を求められる機会も増えて
いた。それにショワズール卿とはシャルロットとの縁を取り持ってもらった関係もあり個人的にも親交を深めてもいた。
その結果宮廷派閥はデュ・バリー夫人派とショワズール・王太子派に大分されている有様だ。
しかし結婚が早まった一番の理由は、ともにパートナーとしてもお互いを求め合う二人の一致した意志があればこそというべきかもしれなかった。
満面の笑顔で民衆に手を振る夫妻に喝采の雨が注ぐ。
そのなかでもっとも嬉々として涙ながらに手を振っていたのがカルノーであったことにはあえて触れまい。





「愚かな………栄えあるフランスの栄誉も地に落ちたものだ………」

深いため息とともにワインをあおる男の口元は皮肉気に歪められていた。
彼の見るところ旧世界の代表であるオーストリアとフランスが結ぶことには百害あって一利なしだと考えていた。
オーストリア継承戦争と七年戦争においてフランスが蒙った損害を考えれば諸手をあげて歓迎できるほうがおかしい。
むしろフランスはプロイセンやイギリスと結び、オーストリアやイタリアを敵とすべきなのだ。
イギリスとの植民地競争に敗れ海上覇権を失った今、ヨーロッパで支配の旨みがある地域を考えればそれは当然の帰結であるはずだった。
啓蒙思想に一定の理解を示し、新たなフランスの旗手となることを任ずるこの男の名を、ルイ・フィリップ・ジョセフ・ド・オルレアンといった。

ルイ・フィリップの歴史的評価は残念ながら低いものと言わざるをえない。
王族でありながらルイ16世の死刑に賛成票を投じ、本人のあずかり知らぬところでディムーリエの王位擁立に巻き込まれ無為にその命を散らせたと思われているからだ。
しかし息子フィリップが立憲君主としてベル・エポックとよばれるフランスの黄金時代の基礎を築いたことや、彼が国外逃亡をよしとせず従容として刑を受けいれたことから考えても
無定見な底の浅い策士であったという評価は決して正当なものとは言えないだろう。
彼は彼自身の正義を信じてフランス革命を戦ってきたのだし、もしも彼がフランス王位にあったならばもっとスムーズにフランスは立憲君主体制に移行できたかもしれないのだ。
フランスでもっとも富める貴族であった公は、その豊かさゆえにまぎれもなく理想主義者であった。
貴族らしい鷹揚さで人民の平等と自由を叫んだ彼は、選良たる自分が人民を導くことができるはずだと固く信じていた。
だが現実はあっという間に公の理想を追い越して手の届かぬ先へと飛び去っていった。
人民の熱狂にせかされるように公が行動すれば行動するほど、それは哀しい道化に成り下がるほかなかったのだ。
そして現実の動きを加速させたのは、公を上回る狂信的な理想主義者だったということは運命の皮肉というほかはない。



「あの王太子に好き放題にされては我々進歩派貴族で政権を運営することは不可能になりかねませんぞ!」

いまだオルレアン公の地位を受け継いではいないフィリップではあるが、彼の周りには啓蒙思想に感化された貴族の子弟たちが一種のサロンを形成しつつある。
もっとも彼らの頭では狂気に支配された過酷というのもおこがましい革命の嵐など想像することもできない。
しかしフリードリヒ1世に代表される啓蒙君主やイギリスのような立憲君主が欧州世界の中で台頭しつつあることは彼らの共通した認識であった。
彼らは彼らなりに王国の未来を案じて密議に参集していたのである。

「かの王太子が即位すればまたぞろオーストリアにあごでこき使われることにもなりかねませんぞ?」

現在のフランス政府の窮乏が、フレンチインディアン戦争と七年戦争の戦費にあることは多少政治を知るものなら誰にでもわかる。
ただでさえ破産寸前の国庫はもはや新たな大規模な出兵には耐えられないだろう。
しかしプロイセンとの間で国境に火種を抱えるオーストリアと関係を深めるということはそうしたリスクを抱え込むということと同義でもあった。

…………とはいえ彼らの大部分はそうした政府の危機のために自らの財産を差し出そうなどとは露ほどにも考えていない。
彼らには選良としてのプライドがあり、まずは腐りきった政府を倒すことに何のためらいもなかった。
たとえその資金の一部がイギリスから提供されたものだとしても…………。




オーギュストとシャルロットは疲労困憊してベッドに身を委ねていた。
日中に過剰な演出に彩られた式典に加え、結婚の宣誓、さらには夫婦の寝室で大司教による聖別を観客に見守られるという羞恥にも耐えた。
ようやく二人きりになった後にも神聖にして大切な儀式が二人には控えていた。
すなわち初夜の契りである。

理知的で女性らしい包容力に満ちたシャルロットはオーギュストが息を呑むほどに美しかった。
マリー・アントワネットはその無邪気な愛らしさを愛されたようだが、オーギュストにとってはシャルロットの端正な美しさのほうがずっと価値があるように思われたのだ。
シャルロットもまた夫であるオーギュストに一瞬で心奪われたと言っていい。
オーギュストの顔立ちはお世辞にも美男と呼ばれるものではない。
しかし品性の高潔さ、人としての冷酷さと優しさが同居したような不思議な眼差し、そして自分を見つめる恋の熱に浮かされた瞳………。
オーギュストの熱がシャルロットにも伝染したかのように、シャルロットもまた激しい恋に落ちようとしていた。
もちろん手紙で想いを交し合ったこの数年の積もる思いが実ったものとも言えなくはない。
だが二人を良く知るものがいれば口をそろえてこう言っただろう。
結局は似たもの同士の夫婦だ、と。


そしてろうそくの灯りが落とされ、二人は誰はばかることなく愛の営みを交わしたのだった。
祖父ルイ15世は初夜でマリー・レクザンスカを七度も求める絶倫ぶりを発揮したと言われているが、オーギュストはそれを上回ったと後世の史書は語ったという。

「…………ま、まだ続けるのですか?」
「私はまだ君への愛を語りきっていないのだよ!」
「殿下が私を愛してくださっていることは十分にわかりましたから………ひぃ!」
「まだまだ足りない……私の愛がこの程度で終わるはずがないのだよ!」






天蓋付の巨大なベッドに裸で抱き合ったまま横たわる二人の男女がある。
ようやく激しい営みを終息させた二人は荒い息を整えつつ、いつものように政治談議に花を咲かせるのであった。

「正直フランス政府の金蔵は破綻寸前です。シャルロットの持参金も一時しのぎにしかならないでしょう」

オーギュストはありのままにシャルロットにうちあけた。
実際のところシャルロットとの結婚に使われた費用だけで持参金の大半が消えてしまう。
特に突貫工事で完成させた王立歌劇場の建築費用は莫大なもので、ただでさえ悪化の一途をたどっていた王室財政は破綻の一歩手前というところであった。
出来れば持参金としてオーストリアに貸し付けている借金をもう少し返還して欲しかったというのが正直なところなのだが、オーストリアとしてもいまだ敗戦の痛手から完全に立ち直ったというわけではなかった。
それでも1億ルーブルに及ぶ持参金は破格なもので、ルイ15世が自制さえしてくれれば国庫も大分楽になったはずなのである。
交渉をまとめたショワズール公もこれではため息がつきまい。

「ご領地のほうはいかがですか?」
「順調ではありますがはっきりとした成果が出るのはまだ先のことです」

ベリー公領の経営は順調だが、資金はそれほど貯蓄されてはいない。
代官のテュルゴーは資本主義経済の在り方に一定の理解を示している先進的経済学者であり、経済の発展には資本の投資が不可欠であることをよく承知していた。
現在のベリー公領ではソーダ工場と缶詰め工場とさらに大規模農園経営で集めた資金を、教育と道路や橋といったインフラの整備に投入していたのである。
そうして拡大する工場群の管理を任されたのがピエール・サミュエル・デュポン・ド・ヌムールである。
重農主義者としてテュルゴーと親交のあった彼は後年アメリカに亡命し、デュポン財閥の祖となったことでも知られている。
当時のフランスは農民の自由を拘束する賦役が存在し、ギルドの力が強すぎるために自由な価格でも取引が出来ず、国内関税のために流通に深刻な障害が発生していた。
そのため農民は低すぎる賃金に生産性を高めようとする意欲を完全に失っていた。
しかし農民の質的向上なくして労働力と兵力の確保はできない。
庶民のために整備などされるはずもなかったインフラの公共工事によって雇用と金の流通が生まれ、フランス各地から労働力が集まりつつある現状はテュルゴーとデュポンの
政策の正しさをなにより明瞭に告げていたのであった。

ラボアジェやルブランをはじめとする研究開発チームにも新たな顔ぶれが増えている。
ジャン・ル・ロン・ダランベール………デニス・ディドロとともに百科全書を執筆したことで知られる数学者である。
動力学概論の著者でもある彼は将来的なフランスの産業革命のためになくてはならない人材だった。

さらに国内対策も進みつつあった。
ショワズール公との良好な関係を背景に、王太子によしみを通じてくる貴族は相当数にのぼっていた。
なかでもオーギュストが期待をよせているのはリアンクール公ラ・ロシュフーコーである。
彼は先年イギリスを訪問し、その経営を目の当たりにして重農主義者に転じ自領内で大農園を設立していた。
比較的年の近い公は今後農業革命の推進や重農主義による農民の地位的解放を実現するうえで貴重なパートナーになることが予想された。
すでにリアンクール領とベリー領では国内関税の撤廃が実現している。
二人の経済的成功にあやからんとした同調者が続出する可能性すらあったのである。

「―――弟が持つ資金は豊富です。不利益な提案でないかぎり便宜を図ってくれるでしょう」

トスカーナ大公であるシャルロットの弟、レオポルド2世は父譲りの財政家としての手腕を正しく受け継いでいた。
父フランツ1世が残した遺産は莫大なものであったがさらにそれを増やすことにまで成功している。
その彼が、儲け口がフランスにあると知るならば有力な交易相手になる可能性は高かった。

もっともそれを既得権益に対する脅威と見る貴族たちも少なくない。
彼らは現在のところ宮廷でもっとも力をもった一人の女――――デュ・バリー夫人を旗頭に王太子の改革をつぶそうと画策していた。




[20097] 第九話   花嫁出陣
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:1bad2aba
Date: 2010/11/20 21:37
デュ・バリー伯爵夫人は平民の私生児から国王の愛妾にまで駆け上った立志伝中の人物である。

しかしその性向は同じ平民の出身である前妾のポンパドゥール侯爵夫人ほどに知性溢れるものではなかったようだ。

これは彼女がポンパドゥール侯爵夫人のように国際政治に対するビジョンがあったわけでもなく、マリーアントワネットと正面から対立してしまったことを見てもあきらかであろう。

もしもこれがポンパドゥール侯爵夫人であれば決して王太子妃と対立することはなかったはずである。

ルイ15世はすでに老境にさしかかっており、次代の国王夫妻を敵にまわすのは決して得策とは言えないからだ。

そうした計算が出来ず自らのプライドを優先させたデュ・バリー伯爵夫人がフランス史において低い評価しか得ることができないのは当然と言わねばならない。



シルバーブロンドのたおやかな髪。

そして男の欲情を滾らせずにはおかない妖艶な色気…………。

夫人を知るものは口々にその美しさとほがらかでたくみな話術を褒め称えたという。

また後年、革命の嵐のなかで夫人が断頭台に立ったそのとき、彼女は断頭台を正視することのできなかった初めての処刑者となる。

あられもなく泣き叫び知己でもあった処刑人のサムソンに慈悲を乞うその姿は市民の同情を掻き立てた。

画家であったルブラン夫人は後年こう述懐した。

革命初期、犠牲者たちがあれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろうと。

つまるところデュ・バリー夫人は今フランス宮廷でもっとも高貴な偉大なる凡人であった。





そして今宮廷はデュ・バリー夫人と王太子妃マリー・シャルロットの二人の対面を固唾を呑んで見守っていた。

現在デュ・バリー夫人に対するルイ15世の寵愛が比類ないのは誰の目にも明らかであった。

しかし前妾ポンパドゥール夫人ですら平民出身者がフランス宮廷に入ることを嫌悪する勢力がいたのである。

美しいが見栄っ張りで享楽的なごく平凡な女でしかないデュ・バリー夫人を快く思わない貴族は想像以上に多く存在した。

ましてポンパドゥール侯爵夫人の負の遺産ともいうべき7年戦争における対プロイセン戦争の敗北は、ブルボン王朝にとって無視することのできない莫大な負債となって残されている。

公妾が王国にとっていかに危険な存在であるか、特に宰相であるショワズール公などは警戒心も露わに敵視しているというのが現状であった。

もちろん高貴なルイ15世の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女たちも、どうにか娼婦あがりの成り上がり者を排除できないかと虎視眈々と狙っていた。

そうした者たちの象徴としてマリーに期待が集まるのは理の当然と言うべきものであった。



「さて、どうしたものかしら?」



甘えるようにオーギュストの肩にブロンドの髪をフワリと委ねてマリーは微笑んだ。

その声の明るさとは裏腹に、オーギュストをからかうような試すような勝気な彼女らしい稚気を感じてオーギュストは苦笑を禁じえない。

さすがは実質ナポリ王国を夫に代わって牛耳ったハプスブルグ家が誇る女傑だけのことはある。

彼女の夫として手綱を握るにはなかなかに気苦労が多いことになりそうであった。



「…………もちろんここで彼らの煽動にのって夫人と対立するのは下策です」



オーギュストは事も無げに断言した。

リスクが高い割には得るものが少なすぎる。

史実におけるマリー・アントワネットの敗北を見るまでもなく、王国を主宰する国王ルイ15世の支持がデュ・バリー夫人にある以上これと正面から争うのは愚か者のすることだ。

能力は平凡であっても夫人の国王に対する影響力は決して平凡なものではありえない。

現在の政治的盟友でもある宰相ショワズール公は夫人との対立がもとで1770年長きに渡った宰相位を剥奪されている。

マリーを旗頭にしたがっている連中のほとんどは、娼婦に大きな顔をさせたくないという利己的な思いで反感を募らせているのにすぎないのであり、しかも責任の全てをマリーに

押し付ける気だけは満々であった。

所詮はオーストリア女が国王の不興を買おうと自分の知ったことではないらしい。

いわばマリーとデュ・バリー夫人の対立を煽ろうとするのはマリーに火中の栗を拾わせようとする行為にほかならなかったのである。



合格とでも言いたげにマリーはクスリと花が咲くように笑うとオーギュストの頬にキスを送った。

近づいてきたマリーの大きく開いた胸元に昨晩の情事の跡も生々しいキスマークの痕跡を確認してオーギュストは思わず赤面した。

いささか若さに任せてハッスルしすぎたという自覚はあったのである。

そんなオーギュストの存外に初心なところも、ひとたび褥に入れば野獣のように激しいところもマリーはことのほかお気に入りであった。

あるいはそれは惚れた女の埒もないところであったのかもしれないが。



「そうなると王女たちには嫌われそうですね…………」



仮にも義叔母になる娘たちである。

出来うることなら仲良く付き合いたいところではある。

しかしハプスブルグ家の政治的血統を正しく受け継いだマリーにとってそれはそれほど重大な問題にはなりえないものだった。

母テレジアは家族にこそ優しかったが、こと政治問題となると夫を役立たず扱いにするほどに苛烈な部分を持ち合わせていたことをマリーは知っている。

オーギュストが夫として愛するに足る存在であったのは僥倖であった。

昨晩の夫婦の営みはマリーに愛する人と結ばれる女の至福を十分以上に味合わせてくれた。

それでも、国家の命運は常にそうした夫婦の愛情に上位するというのも偉大なる母テレジアが教えてくれたうそ偽らざる真実なのも確かだった。



――――――このまま聡明なオーギュスト様でいてくれればいい………でも夫が判断を誤るとき、それを正すのは妻の役目………。



どこまでも彼女はハプスブルグの生んだ政治的怪物マリア・テレジアの娘であった。

いざとなれば夫と対立することも辞さないマリーの苛烈な精神力と業の深さを、オーギュストはまだ知らない。











晩餐会の華として貴族たちに囲まれながらもデュ・バリー夫人はいささか緊張感を隠せずにいた。

このところの王太子の宮廷内における影響力の増大は恐るべきものがある。

つい数年前まで人見知りで貴族に声をかけることすらままならかった少年が、今やベリー公領を空前の活況に導き進歩派貴族と宰相ショワルーズ公の領袖として

王国に君臨しているなど現実に目にしなければ笑い飛ばしたくなるような話であった。

ルイ15世が政治に無関心な現状では王国の政策決定に少年が果たす役割は、おそらく本人の考える以上に大きい。

国王の愛妾になる前は数々の貴族と浮名を流してきだけに夫人はそうした噂の収集には特に熱心であった。

今からルイ16世としてオーギュストが即位する日を待ち望む貴族たちも決して少なくないのだ。

その少年が政敵であるショワルーズ公と組んで自分にどう相対するのか。

王太子妃であるマリーの対応次第ではデュ・バリー夫人は自らの地位を保全するために全力をあげて戦わなければならないことになるだろう。



彼女がそうした危機感を強く抱くのには理由がある。

まずベリー公領やリアンクール公領の活況のわりをくった中流貴族たちが抵抗の御輿に夫人に接近したこと。

そして宰相ショワズール公の政敵である陸軍卿ラ・ヴォーギュイヨンが宰相に対抗するために夫人の支援を必要としたこと。

いわば代理戦争の渦中に投げ出された格好の夫人は彼らに王太子への中傷を散々に吹き込まれていたのである。

むしろ警戒しないほうがどうかしていた。



「………お疲れのようですわね。伯爵夫人。エルミタージュがよろしいかしら?それともシャトー・スミスでも?」



一人の貴婦人………いや、どこかの貴族の子弟であろうか。

夫人の前にはグラスを差し出しているうら若い少女が微笑を浮かべていた。

ややきつめの顔立ちながら笑うとたれ目がちになる瞳がなんとも言えず愛らしい。

このまま成長すればあるいは自分のライバルになることも可能かもしれない。そんな埒もないことを考えながら夫人は少女のグラスを受け取った。

おそらくはそれほど地位の高い貴族ではないのだろう。

頭にあしらわれたのは宝石でも細工でもなく一輪の百合の花のみであり、衣装もどちらかといえば身体のラインが露わになるようなピッタリとしたもので

とうてい宮廷内で流行の流れにのっているものとも思われなかった。



「ありがとう…………ずいぶん珍しい衣装をおめしなのね」



若干の皮肉を混ぜたつもりであったが少女はそれをごく素直に賞賛と受けとめたらしかった。

頬を染めて大きく開いた胸のまえで手を握ると、少女は幸せそうに微笑んで見せた。



「今日、この晩餐会のために夫にもらったのです………この衣装を着て夫人に会うのを想像しただけで胸が躍るようでしたわ!」



貴族であれば10代も後半ともなれば夫がいるのは当然だ。

それにしてもこんな愛らしい少女を妻にした男が果たして自分の派閥の貴族にいただろうか?

社交術と情報力を生命線として国王の寵愛を一身に集めるデュ・バリー夫人ともあろうものが少女の素性を思いつくことができないのが不審であった。



「この国に参る前から夫人のことは聞き及んでおりました。是非お目にかかりたいとこの日を心待ちにしておりましたのよ」



―――――この国に―――異国から訪れたことを意味するその言葉にテーブルの空気が凍る。



「………マ、マリー殿下!?」

「ええええっ!?」



穏やかな物腰を崩したことのない貴婦人の鑑であるはずの夫人が不覚にも言葉を詰まらせた。

夫人との会話に割って入られて少女をうとましそうに眺めていた青年貴族たちも驚きのあまり短い悲鳴をあげて声もでない。

まさか敵対するものとばかり思い込んでいた王太子妃が親愛の情もあらわに単身夫人を訪ねてくるなどといったい誰に想像できるだろう。

マリーは可愛らしく小首をかしげて照れたようにいたずらっぽく微笑して結いあげた綺麗な金髪を指にもてあそんでいた。



「もしかして…………お気づきになられませんでした?」



夫人は正しく直感した。

この少女は見た目の愛らしさとは真逆の存在であることを。

おそらくは幼くさえ見えるこの仕草さえ全てが計算づくなのに違いあるまい。

長年宮廷人と交わってきた夫人の本能的な嗅覚が、彼女に絶対に逆らってはならないことを告げていた。









もはやそのあとはマリーの独壇場である。

デュ・バリー夫人に褒められた衣装を自慢しその仲のよさを見せつけ、さらにはオーギュストが普及を急いでいるジャガイモ料理を振る舞い舌の肥えたパリ宮廷人をうならせた。

そしてトスカーナ大公国の弟であるレオポルド二世から贈られた巨大なルビーを惜しげもなく夫人にプレゼントするという一幕もあり、両者の協調と和解を深く宮廷に印象づける結果となったのである。

これには王族一派、とりわけプライドの高いアデライード王女などは憤激のあまり途中で退席してしまうほどの不興を買うことになった。

夫人を快く思っていない宮廷人も眉を顰めるむきもあったのだが、肩すかしをくらったのは彼らだけではない。

マリーと夫人の対立を奇貨として王太子勢力の封じ込めを図った貴族たちにとってもこの二人の協調は大打撃であった。

陸軍卿ラ・ヴォーギュイヨンはあ然としたまま立ち上がることが出来ず、ルイ・フィリップもまた嘆息して天を仰いだ。

よくも悪くもデュ・バリー夫人は虚飾を好む平凡な女にすぎない。

王太子妃と親交を結びさらには貴重な宝石までもらったとなれば今後正面からマリーに敵対することは難しいだろう。







「夫人とは10年先でもこうして親しくさせていただきたいものですわ」



10年先と言う言葉にアクセントを置いたマリーの真意を夫人は誤らなかった。

すなわちオーギュストが即位しても権勢を保ちたいのならラ・ヴォーギュイヨンたちに惑わされて敵対するなと言っているのだ。

愚かなことにこのときになって初めて、デュ・バリー夫人はルイ15世が崩御したあとの自分の立場というものに想像が及んだのであった。

今のままでは当然のように追放される。いや、無実の罪に陥れられることすらあるかもしれない。



「私たち、いい友人になれますわね?」



あくまでも純真そうなマリーの満面の笑みに、獰猛な獅子の咆哮を幻視した夫人は引き攣った笑みを浮かべてただコクコクと頷くことしか出来なかった。

いかに夫人が権勢を誇り我が世の春を謳歌しようとも、二人の上下関係は今このときに決定したと言ってよかった。









「…………………なんと頼もしきかな、我が妻」



苦笑とともにオーギュストはこちらに気づいてヒラヒラと手を振るマリーにウインクして感謝の意を伝えた。






[20097] 第十話   雌伏
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:6a775579
Date: 2010/11/20 21:54
王太子の改革は貴族たちの間で無視できぬ影響力を伸ばしつつあった。
相変わらずルイ15世とデュ・バリー夫人をはじめとする宮廷貴族は豪奢なパーティーと舞踏会にうつつをぬかしていたが、それでもわかる人間にはわかっていた。
現在の深刻な王国経済を支えているのが王太子とその仲間たちなのだということを。

それでも王国財政が火の車なのは変わりがなかった。
収入の八割以上を国債の償還にあてていればいかに多少収入が増えたとしてもそれは焼け石に水でしかない。
変わりがあるとすれば………それはベリー公領を中心とした新たな経済商圏によってフランス経済にこれまでにない格差が生じようとしていることであった。
インフラが整備され、通行税や直接税が軽減された地域に新たな産業が勃興すれば資本がそこに集中するのは当然の帰結である。
ゆえに王太子と歩調を合わせて門戸を開放した貴族やブルジョワジーの中には財産を数倍以上に増やしたものが数多く存在した。
しかし既得権益を守ろうと王太子に組みするのをよしとしなかった貴族のなかには収入が激減したものもいたのである。
常に改革は万人に利益を提供することは不可能なのだ。
望むと望まざるとにかかわらず、オーギュストは味方と同時に多くの敵を抱える身となっていた。



――――――1772年夏

「全く王太子様には頭があがらんなあ…………」
「本当にあの方がいらっしゃらなかったらと思うとぞっとするよ」
「ありがたや、ありがたや………」

街を歩けばそんな声が聞こえてくる。
1770年に引き続き飢饉に見舞われたフランスは、ジャガイモの量産と飢饉前に輸入していた小麦の放出によって例年と変わらぬ食料事情を維持することに成功していた。
小氷期の影響とも言われるこの飢饉はさらにルイ16世が即位した1774年にも発生し、翌年の小麦粉紛争を引き起こす原因ともなる。
日本の浅間山、アイスランドのラキ山の噴火と連動した1783年の飢饉はさらに深刻であり、これがフランス革命の直接的な遠因となったとさえ言われているのである。
特に日本の天明の大飢饉ではおよそ二十万人近い餓死者が発生し、激減した人口による農村の荒廃は結局幕末を迎えるまで回復することはなかった。
その恐るべき餓死者の数は、当時の人口を考えれば現代では百万人以上の比率となるだろう。
いつの時代も食の危機は民衆にとってもっとも深刻な問題なのであった。
ベリー公領を中心として普及しつつある輪作は開始から年も浅くいまだ目立った成果を見せていない。
残念ながら輪作が目に見えた効果を表すのは10年は先のこととなるだろう。
しかしジャガイモをはじめとする救荒作物の普及と缶詰等の保存食品の普及はフランス国民の食料事情に画期的な改善をもたらしていた。
彼らのなかでオーギュストへの期待と信頼が高まるのはむしろ当然のことであった。

しかし問題も数多く存在する。
とりわけ問題なのは王太子の改革が彼の手の及ぶ範囲内だけのものであり、結果的にフランスの中央集権の要であるパリの改革が全くと言っていいほど進んでいないことだ。
フランス王国はヨーロッパの王国のなかでももっとも中央集権化が進んだ国家であり、ゆえにこそアンシャンレジームが存続できたともいえる。
パリを手中にしたものがフランスを制するという原則はヨーロッパの各国のなかでもフランス以外には当てはまらぬものだ。
王太子の改革はその中央集権体制を微妙に揺るがせ始めていた。

当然のことながらパリの市民、特にブルジョワジーは王太子の政策がパリに及ぶことを切望していた。
平民の納める税には各種あるが、国に対する納税、領主に対する納税、教会に対する納税、橋や道の使用料と労役、酒やタバコの間接税が主なところである。
その領主に対する税率と橋や道の使用料が、王太子の影響下にある地域だけが軽いとなれば彼らがそれを望むのは当然だった。
実際のところその恩恵にあずかることが出来るのは全フランスの人口の一割にも満たぬものでしかなかった。
オーギュストも賛同者を求めてはいるが、平民への税を下げることが結果的に税収を増やすことに繋がるということを理解できる貴族は少ないのだ。
そのために発生する貴族間の経済格差もまた無視できぬものになろうとしていた………。




「やれやれ、なかなか思うようにはいかないものだな」

………あちらを立てればこちらが立たないとはこのことか。
しかし食料事情の改善はオーギュストにとって最優先で改善しなければならない課題であった。
革命期にあれほど食料事情が悪化していなければ民衆の暴走はあそこまでひどいものにはならなかったはずだからだ。
極端なことを言ってしまえば大衆というものは今日のパンに不自由することがなければそうそう理性を無くす存在ではないのである。
国内改革を革命という荒療治なしに軟着陸させたいと考えているオーギュストにとって大衆の不満をひとまず解消させておくことは絶対に必要だった。

「弟がよろしくと言ってきたわ。缶詰は存外トスカーナでも好評なようよ」

シャルロットの言葉にオーギュストは頷く。
飢饉は何もフランス王国だけに限ったことではない。
このとき、地球全体が寒冷化していたことが同時代の様々な文献に散見することができる。
当然各国でも食料は慢性的な不足状態であった。
だからこそオーギュストは余剰のあった昨年度中に保存食を増産させておいたのだ。
資金の豊富なトスカーナ大公国はいまやオーギュストにとってなくてはならない大切な顧客となっていた。

「それにしても………………」

シャルロットはこの数年で人妻としての艶やかさを加えますます色気を増した端整な横顔を俯かせて深いため息を漏らした。
シャルロットの手には一通の手紙と豪奢な刺繍の施された手の込んだ手袋が握られていた。
二年前にナポリに嫁いだ愛すべき妹マリア・アントーニアからの贈り物であった。


オーギュストを射止めることができなければ自分が嫁ぐことになったかもしれない男である。
当然シャルロットはナポリ国王フェルナンド4世という男を綿密に調査していた。
結論からいってフェルナンド4世はルイ15世に非常によく似た男であった。
頑健な体格に恵まれ容姿も良く、善良なおひとよしであり、そして困ったことに政治に全く関心がなかった。
狩りとスポーツを愛し、王のサインが必要な決済ですら自らのサインのスタンプを作らせて部下に任せてしまったという。
もしも自分が嫁いでいたらとうてい我慢できず自ら国政を掌握していたことだろう。

そうした遊戯を愛する奔放なフェルナンド4世はアントーニアにとってむしろ理想の夫であったようだ。
手紙からは今日は何をして遊んだか、何を贈られたか、料理の出来はどうであったか、などということが事細かに記されている。
確かに有閑マダムのような貴族の妻であればそれでもいいかもしれない。
しかし一国の王と王妃がともに国政を省みないという事態は国家のありかたとして著しく不健全であると言わざるをえなかった。

「…………私の夫は手袋フェチで質のよい長手袋を身につけて陛下の前に差し出すと何でも言うことを聞いてくれるのよ、お姉さまもお試しになってみたらって………アントーニア貴女って娘は………いったい何をやっているの?」

頭を抱えるようにしてシャルロットはこめかみを揉んだ。
どちらかと言えば潔癖症に近いシャルロットにとって妹とその夫が変態に類するという事実は衝撃以上の何かであったようだった。
このままではナポリはかつてそうであったように列強に食指を伸ばされないとも限らない。
歴史的に観るならばフランスはナポリ王国の支配権をめぐって幾度も熾烈な闘争を繰り広げてきた事実があるのである。
シャルロットとしても理性を重んずるならば同様の判断を下すであろう。
だからこそ、ナポリには有能な同盟国であって欲しかった。

「フェルナンド殿も残念なことを考えるものだな、こんな美しい肌を無粋にも隠そうとは…………」

オーギュストは悠然とシャルロットの手を引いてその柔らかな手のひらにキスをした。
あまりに政治的に物事を考えすぎるのはシャルロットの悪い癖だ。
もちろんそうした判断をオーギュストは大いに頼りにしているが、それ以上にオーギュストは妻としてシャルロットを誰よりも深く愛していた。

夫の気遣いを悟ったシャルロットは遠慮がちにオーギュストの顔を埋めてその大きな背中に手を回した。
結婚から三年が経過した今でも―――――いや、むしろ今のほうがずっと夫を愛おしいと思っている自分がいた。


「それではほかにも隠している肌も堪能なさいませ」






オーギュストの国内改革は決して順調なものではない。
その一番の要因はなんといっても政治的盟友であったショワズール公の失脚である。
デュ・バリー夫人との対立を一時は回避したかに思われたショワズール卿だが、夫人を嫌悪する妻と妹のグラモン公爵夫人を止めることができなかった。
二人の流した怪文書の責任を取る形でショワズール公はフランス宮廷の檜舞台から姿を消した。
代わって登場したのがデュ・バリー夫人の腰ぎんちゃくでもあるデギュヨン公であり、軍の主導権を握ったのもデギュイヨン公の兄であるリシュリュー元帥であった。
七年戦争で惨めな敗退を喫し、その拙劣な指揮ぶりから一時政治活動を禁止された男が軍権を握っているとあってはオーギュストが理想とする軍制改革も進むはずもない。

だが三頭政治の一角である大法官でもあるルネ・ニコラ・シャルル・オギュスタン・ド・モプーの知遇を得たことはオーギュストにとって幸いだった。
1771年に彼が推し進めた司法改革によって、高等法院はその権力を分割され著しく衰退させられていた。
史実ではルイ16世が分割廃止された高等法院を復活させてしまい、それによって貴族への課税の登録を拒まれるという恩を仇で返すような苦渋を味わわされているが、
もちろんオーギュストに高等法院の復権を認めるつもりなど毛頭ない。
すでに関係が悪化しているアデライード王女からモールパ伯爵が推薦されることもないだろうが、それでも即位の基盤固めに乗じて法服貴族が手を回してくることは十分に予想できる
ことであった。
領土からの収入を持たない彼らは法律を盾にあるときは貴族の権益を守り、またあるときは民衆に阿る機会主義者の巣窟であるとオーギュストは考えていた。
法律は秩序を守るためには絶対に必要だが、その運用は恣意的になされるのであればそれは害毒にしかならない。
リアンクール公や領地に隠居したショワズール公、その他の進歩派貴族を糾合しながらも、オーギュストは守旧派の重い壁を突き崩せずにいた。


幸いにしてフランス経済は好調であり、そのためにオーギュストの改革は国王の黙認を取り付けているがその成果はまだまだ中途半端なものであった。
ジリジリと焦燥に駆られるなかで時間だけがゆっくりと過ぎていく。

そして1774年5月――――――運命のときはやってきた。




[20097] 第十一話  死に行く者と生まれ来る者
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:48dd6e0d
Date: 2010/12/14 23:27
フランス王宮は蜂の巣をつついたような喧騒に包まれている。
国王であるルイ15世が天然痘のために病臥に伏したことが判明してからはその治療と王太子の即位に向けた動きが本格化していた。
天然痘の致死率は40パーセント前後であるから国王が回復する見込みもないわけではない。
しかし懸命の治療にもかかわらず国王の容態が悪化しているという情報を、宮廷内に隠しきることは不可能であった。
ついにルイ・オーギュストの治世が始まる。
ある者は狂喜し、ある者は怖れ、またある者は黙して口をつぐんだ。
いずれにしろこれまで国王の放蕩の陰で王国に少なからぬ影響を及ぼしつつあった王太子が即位することで、フランスが劇的に変化することは疑いないことに思われたのである。
彼らは国王の回復を天秤にかけるように急速に王太子へと接近を図るようになった。
しかし王太子としてもそうした宮廷工作にかまけてはいられない深刻な事情が存在した。
すなわち、マリー・シャルロット・ド・フランスの出産が迫っていたのである。




「………今少し頑張ってくれよ、父上」

史実通りに進むならばルイ15世の崩御は5月10日である。
しかしこれまで少なからず歴史を改変してしまった以上その保障はない。
ここで死なずに生き延びられると非常に困った事態になるが、あまりに早く死んでしまわれるのも問題であった。
なぜならフランス国王の王妃は出産の公開を義務づけられていたからである。

こうした習慣を持つ王家を他の国に探すことは難しい。
フランス王家はその中央集権の過程において、貴族ではなく民衆に依拠した事実があるだけにその名残ではないかと思われる。
しかしそれは他国の王家から嫁いできた人間にはいささか精神的な負担が大きすぎるものだ。
せめて初産だけでもシャローットをそうした負担から解放してあげたいというのがオーギュストの偽らざる本音であった。
愛する妻の秘所を医師ならともかく広く庶民にまで公開しなければならないというのがそもそもオーギュストの倫理的にいって認めがたいものである。
もし国王に即位して権力を握ったならばこの慣習自体を無くしてしまおうとオーギュストは本気で思っていた。
しかし現実にはフランス王家は国民とともにあるという一種のプレゼンテーションでもあるこの一大イベントは広く国民の関心事となっていたし、あのマリー・アントワネットの
出産時には入りきれないほどの大群衆がベルサイユ宮殿へ押しかけ、その列がベルサイユ宮殿の広大な庭をはみ出したというほどである。
フランス国民にとって王家は明らかに貴族とは違う、近くて遠い存在なのだ。
だからこそ多くの歴史家は、ルイ16世夫妻がヴァレンヌ逃亡で国民を見捨てなければギロチンにかけられることはなかったと主張する――――――。

「度し難いな、それでも妻をさらしものにすることは耐えられん」

「――――お気づかいはありがたいですが私はフランスのためならば構いませんのよ?」

羞恥心と出産の激痛で失神してしまったアントワネットと真逆の性質の妻シャルロットは夫の心配ほどに深刻にはとらえていないらしかった。
もちろんハプスブルグ家にこんな恥ずかしい慣習はないし、彼女も人並みの女性としての恥じらいを確かに持ち合わせているのだが、いかんせん政治的に有用であるならば
それを行えというのがハプスブルグ家の血であるらしい。
いや、他の娘に受け継がれた形跡がないところを見るとやはりシャルロット本人の気質というべきか。
妻がすんなりと公開羞恥刑を受け入れていることにげんなりしつつオーギュストは大きく膨らんだ柔らかなお腹を優しく撫でた。
毅然としたシャルロットの王族としての矜持に対してまだまだ自分は現代人の見栄を捨て切れていないことがわずかながら恥かしかった。
だからといって妻の身体を見世物にすることへの抵抗が消えるわけではなかったが。

「私のつまらぬ見栄だ――――お前の素肌をほかの男に見せたくない」

クスリと花が咲くようにシャルロットは微笑む。
この夫ときたら、まるで預言者のように未来を言い当て、政治経済土木数学とさまざまな分野に傑出した才能を持ちながらもどこかで世の中とズレた感性を持ち合わせている。
結婚してなお蜜月の恋人のように自分を独占しようとしてくれることが、なんとも微笑ましくもうれしかった。
そんな子供のような稚気の陰で、夫が即位後のためにどれだけ暗闘を繰り広げているかをシャルロットは知っていた。
彼女の愛する夫は妻に甘いだけの家庭的な男ではありえなかった。




オーギュストが国王に即位すれば、これまで自領にしか適用しなかった新税法を国内に適用しようとする可能性が高い。
それは守旧派の貴族の利権と真っ向から対立するものである。
この動きに対し、デギュイヨン公をはじめとして守旧派貴族が大同団結して活動を活発化しつつあった。
彼らは貴族同士の団結によって国王の支配が自らの領地に浸透することを拒むことで一致していた。
逆にオーギュストを支持するのはリアンクール公やショワズール公をはじめとする進歩派と呼ばれる貴族たちで、彼らは少なくとも市場経済のイロハ程度は心得ていた。
すなわち資本の循環がより大きな資本を生むという事実を正しく理解していた。
対外関税は別として、国内に横行する特権貴族による国内関税はフランスの国力をいたずらに低下させるものだというのは彼ら共通の認識であった。

そればかりではない。
オーギュストは破綻寸前の国家財政を立て直すために第一身分(僧侶)と第二身分(貴族)への課税を目論んでいるというのが貴族たちの間でもっぱらの噂である。
これはもともとオーギュストの政敵が故意に流したものだが、事実としては全く正しい。
オーギュストは即位と同時に大規模な財政改革を実施するつもりであった。

フランスの国家財政の大部分は第三身分の税収によって成り立っているが、貴族はなんら国家財政に寄与することなく、むしろさらに第三身分から税を取り立てることで
悠々とした生活を送っていた。
貴族の特権として有名なところで直接税と間接税の免税特権がある。
国土の40パーセントを占める土地を保有する貴族が不動産税、人頭税、二十分の一税、酒税、ワイン税などを免除されさらに第三身分に対し領主権に基づく課税を課す
ことが出来たのだからたまらない。
さらには労役を課し、地方司法権まで牛耳っていたのだから国家財政にとっては不健全であることこのうえなかった。
大半の貴族にとってその特権は国王から与えられたものではなく、先祖代々にわたって受け継がれてきた自分たち固有の特権であると思われていた。
だからこそ彼らは特権を奪われることを決して許容できなかったし、そのためには王権を弱めることこそがもっとも有効で古くから行われてきた常套手段であったのである。
彼らにとって王家とは所詮その程度のものにすぎなかった。


もともとブルボン王家に対する貴族の忠誠というものはそれほど高いものではない。
ゆえにこそ太陽王とも呼ばれるルイ14世ですら即位の当初はフロンドの乱の屈辱を舐めなければならなかった。
カトリックとプロテスタントの宗教戦争の過程で断絶したヴァロア朝の後を継いだブルボン王朝初代のアンリ4世は、なんといっても敵対していたプロテスタント側の首魁であり、
一時はフランスの敵でもあった。
後にカトリックに改宗して新教と旧教の融和に努めたが、アンリ4世もまたアンリ3世同様狂信的な旧教徒に暗殺されてしまう。
この宗教対立はフランス王国内になお深く潜在しており王国内に色濃い陰を落としていた。

さらにブルボン王朝始祖アンリ4世がナヴァール国王であったこともあり、フランス国王は代々ナヴァール国王をも兼任した。
だがこのナヴァール王国は歴史的にイベリア半島情勢に深く関与しており、フランス国民にとってはどうしてもよそ者の感が拭えなかった。
だからこそブルボン家は代々国民の人気を切実に必要としてきたとも言える。
実に初代アンリ4世もまた良王アンリと呼ばれ国民の生活向上に努力してきた王であった。
ルイ14世による独裁的な親政も翻ってみれば忠誠心に薄い貴族に対する対抗手段のひとつであったのだ。


「…………まずは力が必要だな」

史実のルイ16世は軍事力の掌握というものに無頓着でありすぎた。
現代でも政権というものはその軍組織が忠誠を誓っているかぎりなかなか崩壊するものではない。
それはミャンマーやタイ・北朝鮮の状況を見れば明らかだ。
民衆と職業軍人との間にはそれほどの純粋な暴力としての差が存在する。
フランス革命においても軍が王室を強力に擁護していたならば民衆の勝ち目はなかった。
軍の末端兵士が生活に困窮し、所属する国家から離反したからこそ庶民の無統制な暴動が政権を倒すことができたのである。
よく訓練され装備の充実した一個中隊の歩兵は、無統制な一万の民衆に勝る。
そこにはいかなる理想も名誉も超えることのできない、強固な鉄と鉛の壁が存在するのだった。

オーギュストの目指すものは決して軍事覇権国家ではないが、政治家として彼は軍事力の安全保障なき国家が国民の負託に耐えうるものとは認められなかった。
非常に残念なことではあるが、オーギュストの愛するジャポネはこの点に関する限り三流国家の汚名を免れない。
しかもオーギュストはこの後国内政治ばかりかイングランドやアメリカ、プロイセンといった一癖も二癖もある国家群と渡り合っていかなければならないのだ。
軍事力の充実と掌握は急務である。

そのためにはやはり貴族の改革が絶対に必要であった。
軍の要職は貴族によって占められており、いざ戦争となった場合指揮官のほとんどは貴族なのである。
最悪の場合フランス国軍の大半が国王に離反するという事態すらありえた。
事実フランス革命期において国王が自由に動かせた兵力のもっとも大きなものは傭兵にほかならなかったのだから。



「………妃殿下とご歓談中のところを恐れ入ります」

丸顔で温厚そうな痩身の男が恭しくオーギュストに敬礼を捧げた。
人好きのする温厚な瞳の中に秘められた眼光は決して男が凡庸な軍人でないことを告げていた。
フランソワ・クリストフ・ケレルマン近衛軍中佐。
オーギュストが王室の藩屏として期待する近衛の立て直しに招へいした人物であった。

後のヴァルミー公爵として名を馳せるケレルマンは息子である二代目エティエンヌ・ケレルマンの影に隠れて知名度は低いが、騎兵指揮官としての才能が突出していたが
プライドが高く嫉妬深かった息子とは違い、組織者としての総合的な指揮能力を持つ数少ない将帥の一人である。
あるいは戦場での現場指揮官としての能力はセリュリエやディムーリエのほうが高いかもしれない。
しかし戦略目標を冷静に分析して組織を構築する能力においてセリュリエやディムーリエはケレルマンに及ばないだろう。
それが近衛の組織者としてケレルマンを採用した理由でもあった。
さらにカルノーもまた王立工兵士官学校を首席で卒業し、近衛士官として今ではケレルマンの副官を勤めていた。
強力な組織者二人を頂いて現在近衛では実験的な連隊を立ち上げているのである。
まずこの連隊に所属する兵士はすべて農民からの徴募によって集められていた。
いつの世でも都市部の人間よりも農村の人間は兵士として優秀とされている。21世紀のフランスでも軍の募兵は農村部を中心に置かれているほどだ。
天候という人知の及ばないものを相手にしている農民は、自然忍耐強く肉体的にも鍛えられていくからである。
それ以上に、革命という内戦を戦うことになれば、都市部の市民出身者はむしろ足手まといになる可能性が高かった。
同じパリ市民である顔見知りを平気で殺せる兵士は少ないのだ。
逆にフランスでもっとも過酷な税を搾り取られ三十代で女性を老婆にすると言われた農民には都市民に対する抜き差し難い嫉妬の感情がある。
絶対服従を誓わせる軍隊の過酷な訓練と十分な給与が彼らに保障されたとき、この連隊は新しい近衛の中核として国王のもっとも忠実な盾となるはずだった。

「進展はどうだ?」

ケレルマンは落ち着いた声でたのもしく頷いた。
場合によっては即位からまもない次期に軍事力が必要となる可能性がある。
そのさいに前線に立つのが自分たちの連隊であることをケレルマンは十二分に承知していた。

「順調です。兵隊というものがどんなものか身体に叩き込みました。殿下のおかげで給金と装備にも不自由はありません。奴らは王国の敵ならばためらいなく引き金を引くでしょう」

兵隊は指揮官の命令を自分で考えてはならない。
兵に要求されるのは指揮官の命令を反射的に実行する実行力が何よりも優先される。
考えるのは参謀に任せておけばいい。
指揮官が白を黒といえば黒、馬を鹿といえば鹿、それが兵の本質でなければならなかった。

「それにしても殿下にお付けいただいた従兵には驚かされますな」
「使えそうか?」
「私見ながら言わせていただけば…………あれは天才です。戦場で彼に会って勝てる気が全くしませんからな」

たった12歳でそこまでケレルマンに言わせるとは驚きだ。
ケレルマンに付けた従兵はアレクサンドル侯爵の私生児である。
浅黒い肌に年齢より4歳は大きく見える見事な体躯が印象的な少年だった。
オーギュストの即位を見越してすりよってきた侯爵から手土産がわりに借り受けたのだが、望外の買い物になったのかもしれない。
少年の名をデュマ。
ダルタニヤン物語の作者として有名な大デュマの父親にあたるトマ=アレクサンドル・デュマその人であった。




「…………口を挟んでよろしいかしら?あなた…………」

相変わらず口ものに穏やかな微笑みを浮べた妻の言葉にオーギュストは優しい笑みを返しながら振り向いた。

「君の言葉ならなんなりと」

「医師と産婆を呼んできてくださらない?どうやら生まれそうですわ」

ガタン
ドサッ

思わず腰砕けになって床に尻をついたオーギュストは脂汗を顔にはりつけてはいつくばったまま廊下へと飛び出した。

「医師を………医師を呼べ!産婆もだ!急げ………!早くしないかああああああ!!」


まさかそこまで過敏に反応するとは思わなかったシャルロットとケレルマンの間で気まずい沈黙が下りる。
だがこらえきれないように先にクスクスと笑いだしたのはシャルロットのほうであった。


「……………可愛いひとでしょう?」

いじわるそうに微笑むシャルロットにケレルマンは臣下として完璧な礼とともに上品に片目を閉じてみせた。

「殿下は主君としてこのうえない物をお持ちですが、父としても夫としても、えがたいものをお持ちでございます」


シャルロットは満足そうに微笑むとケレルマンに退出を命じた。
さすがの彼女でも陣痛の痛みを微笑でごまかすのはそろそろ限界であった。
ギリギリと産道が開いていく激痛に白い肌に汗を浮き立たせながら、シャルロットは慌てふためく夫に呆れたような声をかけた。


「医師たちが恐縮してしまいますから、しばらく外でお待ちになされませ」




「……………………はい」



[20097] 第十二話  黒い夫婦
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:90bada3b
Date: 2011/01/03 00:21
オーギュストの娘が誕生した一週間後、ルイ15世は崩御した。
史実通りの1774年5月10日となった国王の崩御はフランス宮廷に深刻な衝撃を与えずにはおかなかった。
すでに愛妾として権力を行使してきたデュ・バリー夫人は国王が秘蹟を受けるためにパリから追放を余儀なくされていた。
そして長年国王の庇護のもとで好き放題をやってきた王女たちも甥であるオーギュストが容認してくれなければいつ政略結婚をおしつけられるかしれたものではない。
しかもオーギュストがフランスの国家財政の立て直しに並々ならぬ熱意を注いでいることは宮廷貴族ならば誰でも知っている事実であった。
即位と同時に貴族に対する課税が始まるのではないか?
そんな危機意識とともに貴族は水面下で反国王の連帯を強めつつあった。

伝染病であったこともあり、ルイ15世の葬儀は国王のものとも思えぬほど簡素なものとなった。
いまだ嫡男の誕生していないオーギュストとマリーは当然のことながら葬儀に参列するわけにはいかなかった。

そう、先だって生まれたオーギュストの初子は女の子であり、名をテレーズという。
母親譲りの美しい金髪で将来の美貌は約束されたようなものだと思うのは親の欲目というものだろうか。
母子そろってつかの間のまどろみに落ちている寝顔を愛おしそうに見つめながらオーギュストは呟いた。


「さて、狼煙をあげよう…………」

戴冠式の日取りはまだ決定していなかったが、今こそルイ16世として国王となったオーギュストは薄く嗤ってワインを呷った。
残された時間はあまりにも少ない。
オーギュストの戦いはこれからが正念場なのであった。





「今こそ高等法院を復活させるべきでございます。陛下」

即位の当初から貴族たちがもっとも力を入れてきたのは高等法院復活の嘆願であった。
ルイ15世によって6つに分割され勅法登記権を失った高等法院はもはや司法機関ではなくただの調停機関にまで落ちぶれていた。

「国法によって王権が擁護されてこそ王国は千年の繁栄を得るでしょう」

なるほど確かに法治の確立は国家にとって大切なものだ。
前近代の国家にあっては司法の持つ影響力は立法や行政にも勝るかもしれない。
だがそれも司法が恣意的な権限の濫用を図らなければの話である。

史実においてルイ16世はこの高等法院に泣かされ続けた。
パリにおける革命の勃発の引き金を引いたのは実にこの高等法院であったと言ってもいい。
法服貴族によって占められた高等法院はその自らの既得権を守るため全身分に対する公平な課税に真っ向から反対した。
そして国王が高等法院の権限剥奪を図るや、三部会によって賛成を得なければ国民への増税は承認できないと主張したのである。
このことによって第三身分が勢いづき、最終的に高等法院は革命の勃発とともに永遠にその役割を終える。

なぜこれほど高等法院が問題になるのかといえば、それは高等法院がひどくいびつで不完全な形ではあるが司法の独立を達成していた。
すなわち勅法登記権を所有していたことによる。
モンテスキューによって提唱される司法と立法、行政を分割した三権分立は専制政治の暴走を防ぐためのアンチテーゼとして誕生した。
それが市民革命による国民主権前に限定的ながら司法の独立を成し遂げていたという事実は特筆に価する。
もっともそれは売官制度による法服貴族の誕生とその前提となる国家財政の疲弊がもたらした偶然にすぎぬものでしかなかったのだが。
いずれにしても国王の発する勅令が高等法院によって登記されなければ勅令を施行することができないという事実はルイ16世の財政改革を頓挫に追い込むには十分すぎるものであった。

「先王陛下がどうして高等法院を廃止したかわかっているか?」

「…………彼らは彼らなりに真に王国の将来を思っての行動でございました。それを先王陛下にご理解いただけなかったのは非常に残念なことです」

実際に実行に移すことはかなわなかったが、あのルイ15世でも財政が窮乏していることは承知していた。
貴族に対する課税を画策したその結果がモプーによる高等法院の分割である。
国王が課税しようとするうえでもっとも激烈に反対したのは実は大貴族ではなく彼ら法服貴族であったのだ。
それは彼らの多くがもともとは平民であり、金で貴族の地位を取得したブルジョワジーであることと深い関わりがある。
売官による貴族の地位はとうの昔に飽和状態に達しており、新興のブルジョワジーは免税の貴族の地位を得ようとしてもその空きがない。
これは貴族化した旧ブルジョワジーと新興のブルジョワジーとの間に抜き差しがたい対立を引き起こしてもいた。

「国王に反対したことをぬけぬけと正当化する輩に司法を渡すことができると思うか?そこは嘘でも国王には決して逆らいませんと言うべきところではないかな?モールパ伯」

「そ、それは…………」

ここで迂闊に言質をとられて貴族への課税を認めさせられてはかなわない。
国王が貴族への課税を試みようとしているのはすでに周知の事実でもあるのだから。
高等法院の復活はその対抗手段のひとつでしかないのだ。

「要は貴族たちへの課税を逃れたい、そういうことなのだろう?モールパ伯」

そういうとオーギュストは意地悪そうに口の端を釣り上げた。
まるで悪魔と取引でもするようだ、と歴戦の宮廷貴族であるはずのモールパ伯が思わず震えたほどの迫力であった。
自分から口にすることはできないが、結局のところはそのためだけにモールパは仲間たちを代表して国王との交渉に臨んでいるのだ。

「…………私としても忠実な貴族に課税するのは決して本意ではないのだ。しかしこれ以上平民に課税することは不可能だし国家財政を破綻させるわけにもいかない」

平民などどうなろうと知ったことではない、とはモールパは言わない。
新国王は平民を決して軽視していないと察する程度の洞察力は彼も持ち合わせていたのであった。

「私は主は清貧をもって尊しとなしていたと記憶しているのだが、モールパ伯はいかがお考えかな?」

オーギュストが暗に示した言葉の意味をモールパは驚きとともに受け止めた。
乾いた喉から老人のようなしわがれた声を発するまでにしばしの時間が必要であった。

「へ、陛下………まさか………………」

16世紀の宗教改革の嵐とともに教会の権威は確実に減少している。
しかしヴァロア朝を断絶させ、ブルボン王朝の初代もまた宗教テロに倒れたこともあり、聖バーソロミューの虐殺以後は特に王室は宗教への介入を避けてきた。
オーギュストの言葉はそうした政府の姿勢の全面的な転換を示唆していた。

「教会が資産を溜め込むのは主の意思に反する。彼らが我がフランスのために財産を供出してくれるのなら貴族に対する課税の必要もないと思うのだが?」

第一身分である教会はフランスの国土の10%を所有し、十分の一税などの課税特権をも所有していた。
その資産は莫大なものであり、しかもその一部はローマ教皇庁へと流出さえしていたのである。
もちろん教会の上部を占める大司教や司教は貴族の人間が選出されていたが、それでも全体の貴族数に比べればわずかなもので費用対効果という意味では貴族に対する課税よりも
効果が大きいともいえる。
オーギュストとしては第一身分である僧侶と第二身分である貴族と完全に敵対するには力が足りないと考えていた。
彼らが一致団結して反抗してきた場合容易く国政は停滞する。
ならば分断していまえばよい。
教会とつながりのある貴族は反対するだろうが、つながりのない貴族は自分たちへの課税を免れるためならば簡単に教会を売るだろう。
分断され力が弱まれば次は貴族の番なのだがそれに気づくほど貴族の大半は賢くないのが実情であった。
もし彼らがもう少し先の見える人間であったならばそもそも革命は起きなかったに違いない。

「君たちの協力しだいによっては高等法院の復活も考えてもいい……………では下がりたまえ」


モールパは悄然として国王の私室を後にした。
甘くみていた。
自分は新国王をあまりにも甘く見すぎていた。
アデライード王女から聞いていた王太子の評価とは違いすぎる国王の力量にモールパは正しく頭を抱えていた。
この問題は自分が抱えるには大きすぎる。
しかし同時に、彼は仲間の貴族の一部が自分の利益が保障されるのなら国王に進んで協力するであろうことを確信していた。

…………フィリップ殿は団結なしに国王と戦うことは不可能だと言っていたが……………。

新国王に対する不安からオルレアン公の息子であるシャルトル公フィリップに衆望が集まっていた。
彼は持ち前のカリスマと弁舌と資金力によって貴族の若手の間で無視できぬ勢力を築きつつあり、モールパ伯もまた彼に協力を求められた一人でもあったのだ。
だが残念なことに現実はフィリップの希望を裏切ることになりそうであった。






「ああっ!お待ちしておりましたわ夫人!」

そう言ってシャルロットはベッドから身を起こしてうれしそうに微笑んだ。
王女を出産していまだベッドから出られぬ身ではあるが嫣然と微笑む彼女は正しくフランス王妃であった。

「………どうぞお身体を楽になさってくださいませ。こうして拝謁を賜っただけでも恐悦の極みでございます」

「そんな他人行儀なことをおっしゃらないで」

そういって可愛らしく首をかたむける愛らしい王妃の仕草に何故か背筋を走るものがある。

―――――やはり自分の勘に狂いはなかった。

凡人ではあるが人の心の機微をうまく読み取ることで宮廷を泳ぎ渡ってきた夫人は改めて王妃の恐るべき本質を理解した。
彼女の名はデュ・バリー。
ルイ15世の危篤に伴ってパリを追放された人物であった。

追放されたとはいえ彼女が生きていくのに不自由のない資産は十分であった。
ルイ15世から下賜された宝石だけでも平民ならば一生飽食したとしても無くなることはありえない。
しかも貴族としての高額な年金も保障されている以上彼女が生活を心配する必要な何もないはずだった。

だが国王の愛妾として宮廷の暮らしに慣れた彼女にとってパリを離れた田舎暮らしは拷問にも等しいものであった。
美しく着飾っても誰も見てくれるものもなく、見目良い男性と洒落の聞いた会話を楽しむこともできない。
貴族相手の高級娼婦として身を立ててきた彼女に田舎の暮らしはあまりに退屈すぎたのである。

そんな彼女に使者があったのがつい先日のことである。
リアンクール公からという使者の言葉に当初夫人は首をかしげた。
決して政治的に対立した相手ではないが、かといって親しかったというわけでもない。
―――そんな疑問はすぐに氷解した。
リアンクール公はただの隠れ蓑であり、夫人を招いたのはシャルロット王妃その人であったのだ。

「このような落ちぶれた身のお声をかけてくだすった妃殿下には感謝の言葉もございません」

パリの社交界に復帰させてくれるというシャルロットの言葉に夫人は歓喜したといっていい。
女の盛りをすぎるには夫人はまだ若すぎた。
対立ではなく協調を選んだ自分の選択は間違っていなかった。
そう彼女が自らの先見を誇っていたのもシャルロットが口を開くまでであった。

「勘違いをなさらないでください。夫人はリアンクール公のとりなしによって社交界の復帰を許されたのです。私は反対したのですが夫がリアンクール公への義理からやむなく復帰を許した―――――そういうことでよろしいですわね?」

貴族間の情報を頼りに宮廷を泳いできた一代の女傑でもあるデュ・バリー夫人はシャルロットの言葉を聞いて妖艶に笑った。
それが悪いことだとも恐ろしいことだとも彼女は思わなかった。
彼女が利用価値のある人間でいるかぎり、彼女がもっとも彼女らしくいることのできる宮廷での生活は保障されているのだから。

「それではせいぜい妃殿下の悪口を集めておきますわ」

宮廷内に少なからぬ知人を持つ夫人は非常に有能な諜報官になるはずであった。
あとは彼女が欲しいものを見誤らず与えておけばよい。
凡人であるがゆえに彼女は自分に与えられた役割を演じるということに関してはひどく律儀なところがある。
敵対しなければ、という条件がつくがそんなデュ・バリーがシャルロツトは嫌いではなかった。

「たまには褒め言葉もお聞かせくださいな」




[20097] 第十三話  黒い夫婦その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:4a992d35
Date: 2011/01/22 23:58
第一身分への課税―――――。
その措置を果断にも実行したのはオーギュストによって伯爵位を与えられた財務総監テュルゴーである。
史実においては貴族の抵抗によってその施策の半分も遂行できなかった彼だが、国王夫妻が全面的に支援している現状では怖れるものはなにもない。
もっとも理想主義者である彼は貴族を含む特権階級全てへの課税を目論んでいたが、さすがのオーギュストもそこまで急進的な改革を容認するわけにはいかなかった。

「……………このさい第三身分の支持をもとに貴族へも課税するわけにはいきませんか?」
「民衆に過度の期待をするのは危険だよテュルゴー。いざとなれば彼らは貴族よりよほど鋭い牙を剥くのだから」

テュルゴーにかぎったことではないが、啓蒙思想に傾倒した知識人というものは民衆というものを神聖視する傾向がある。
社会を構成するうえで被生産民である貴族や聖職者はいわば寄生虫のような存在であって、実質的に社会を支える民衆こそが尊いと考えがちなのである。
確かに義務教育が充実し身分制度が固定化していない社会であれば彼らの考え方は正しいのかもしれない。
それですらオーギュストは疑っているのだが、実際史実のフランス革命においても一般大衆はその無節操ぶりと識見のなさをさらけ出していた。
彼らにとって重要なものはパンであり、そしてガス抜きとしての不幸………すなわち特権階級の没落と断罪であった。
結局のところ気の遠くなるような犠牲のもとに手にした民主制も、生活が苦しくなれば口あたりのいい独裁者にあっさりと売り渡してしまうのが庶民の嘘偽らざる姿であった。

オーギュストの見るところ彼らには煽動する政治家の言葉を判断するだけの知識と判断力が決定的に不足しているのである。
生まれたばかりの赤ん坊に正確な判断を期待するのは愚かもののすることだ。
民衆の政治への参加と教育の普及はセットのようなもので、どちらかが先行することはありえない。
しかし残念なことに理想家がしばしば現実よりも理論を優先することをオーギュストはよく承知していた。
そもそもここで国民の支持を当てにして貴族にまで課税すれば即座に全面対決を強いられる。
せっかく分断して各個撃破しようとした努力が水の泡になるのは論外だった。

「だいたい聖職者への課税ですらまだ抵抗が激しい。高位の聖職者はほとんどの場合大貴族だから当然なのだがな」

高等法院が勅法登記権を取り戻していないために王命による第一身分への課税は即日発効され第三身分である民衆はこれを喝采をもって迎えていた。
しかしこれは第二身分への課税を控えたことで改革の不徹底であると見る勢力もブルジョワジーの中には少なからず存在し、また貴族たちも聖職者を輩出している名門貴族などは
こぞってこれに反対している。
表立って反乱を起こすというわけではないが、賄賂や脅迫によって財産の査定を妨害したり、病気と偽って徴税官との面会を拒むなどのサボタージュは日常茶飯事となっていた。
現在までに課税することができた金額の合計は本来予定していた課税額の十分の一にも遥かに及ばない。
結局のところ行政機構の枢要部を貴族階級が独占しているために、王命が発効してもその運用の段階で致命的な齟齬が生じてしまうのだ。
せっかくの改革も末端で骨抜きにされたのでは意味がないに等しかった。

オーギュストにとって警戒すべきなのは無秩序な民衆権力の肥大と第一身分と第二身分の結束である。
史実においてルイ16世は結果的にとはいえその場当たり的で無責任な政策によってこれら全ての階級を敵に回してしまった。
目下の敵は聖職者と貴族であるが民衆は味方とするには足りない。
今は彼らの分断と国王の権力の拡大を速やかに成し遂げなければならなかった。

「今年も小麦の凶作は避けられません。国民を飢えから救うためにも、私は全力をあげて陛下のご下知に従います」

聖職者の抵抗に眉をしかめて僧服の男が深々と頭を下げる。
理想に燃えた瞳は大きく見開き、広い額が知性を感じさせる上品な容貌と相まって聖職者らしい徳の高さを醸し出していた。
高位聖職者の代表格のような地位にいながら彼は貧困層の救済と、国民の生活の向上に深い関心を寄せていることをオーギュストは知っていた。

――――――男の名をエティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌという。
モン・サン=ミシェル大修道院長であり、史実ではカロンヌの跡を継いで財政改革のために高等法院と対立した男であった。
第一身分出身でありながら特権階級への課税を志したが高等法院とそれを利用する貴族勢力との争いに敗れ1788年に財務総監を辞職。
その後大衆に温情的であったにもかかわらず反革命容疑で収監され1793年獄中で服毒自殺した。
テュルゴーの友人でもある彼を招いたのはもちろん第一身分への工作を依頼したからである。
モン・サン=ミシェル大修道院長が課税に積極的に協力したという事実を公表した場合その影響力は無視できぬものになるはずであった。

分割せよ。しかる後に統治せよ。
イギリス人はその植民地の統治法をそう表現したという。
ひとまず第一身分と第二身分との間にくさびは打ち込んだ。
そして今度は第一身分のなかで協力的な高位聖職者を政権内部に取り込むことで第一身分を分割する。
シエイエスのような平民聖職者の登用と合わせてオーギュストは第一身分の改革についても主導権を握るつもりでいた。
場合によってはある程度の甘い汁を吸わせてやることにもためらいはない。
後は―――――――――――。


「そろそろ悪童たちが着くころかな」




パリから東北東に約130kmにランスという街がある。
そこはフランス王家にとって特殊な意味を持つ場所であった。
なぜならフランス国王の戴冠式は多くの場合このランスにあるノートルダム大聖堂で行われるからだ。
もちろんその格式も権限も高く、彼らにはフランス王家も自分たちには粗略な扱いはできまいという自負があった。
もっともそも自負はみじめにも踏みにじられる運命にあるのだが。

「…………これはいったい何の真似か?」

応対を任された司教は怒りと困惑の色を隠さなかった。
まさか国王戴冠の伝統あるノートルダム大聖堂に軍人ごときの乱入を許す日がこようとは夢にも思わぬことであった。

「陛下より課税の御状があったことは承知しておりましょうな」

男の顔が渋面に歪められるのをケレルマンは愉快そうに見つめた。
昨日までの常識が明日からも続いていくことを無邪気に信じていられる幸福な時間は終わったということを認識できないのであればそれはそれで構いはしない。
もっとも味わうべき苦痛は間違いなく増大するかもしれなかったが。

「先日徴税官の一人が買収で逮捕されましてな。新たな徴税官とともに査察を行っているところなのですよ」

大司教の候補として出世争いのトップを走ってきた男はようやくことの成り行きを悟った。
同時にこの問題の矢面に立つことの危険さも。

寝耳に水の教会への課税は彼らの必死の妨害にもかかわらず成立し施行された。
これは前王ルイ15世が高等法院を廃止してしまったことも大きいが、教会側勢力が一枚岩になれなかったことも大きな要因であった。
ブリエンヌを初めとして教会が莫大な財産を所有することに批判的な近代的な高位聖職者に、平民出身で出世が絶望的な平聖職者が諸手をあげて賛同したため
足元を切り崩された教会は課税に反対すればするほど世間の批判にさらされるという悪循環に陥っていた。
そこで次善の策として徴税官ら行政組織の末端を買収することで被害を最低限に食い止めようと図ったのだが、どうやらこちらの動きは国王に筒抜けであったらしい。

「申し訳ないが大修道院長様は病に伏せっておられるゆえ後日改めてお越しいただきたい」

とにかく今は時間を稼ぐことであった。
どのような策を用いるにしろこのまま証拠をあげられるよりはずっと良い。
男は実のところ軍人が同行してきたとはいえこの歴史あるノートルダム大聖堂に強制執行するとは考えていなかった。
そんなことをされては秩序が保てない。
平民どもに栄えある大聖堂を穢されるようなことがあっては信者たちが黙っていないはずであった。

「…………残念だな。私たちに命令できるのは国王陛下であって猊下ではないのでな」

ケレルマンは本当に残念だ、とでも言うように首を振った。
同時に2個中隊の銃兵が縦隊を組んで聖堂内へと歩み出す。
想像の埒外の出来ごとに男は惑乱してケレルマンにとりすがった。

「貴公は自分が何をしているのかわかっているのか?ここは教皇庁にも一目置かれるノートルダム大聖堂なのだぞ!」

これほどの暴挙は憎むべき新教徒と争った時代ですら記憶にない。
彼にとって教会とは君主の上に君臨するべきものである。
だからこそ彼は宮廷ではなく教会に自らの人生を捧げた。
神の法は世俗の法に上位するのは当然であり、それによってもたらされる利益は彼をさらに高い位階へと押し上げてくれるはずであった。
しかし百年前ならばいざ知らず、資本主義経済が黎明を迎え産業革命が進行しているなかで神の名のもとに清貧を押しつけ愚民政策を維持することは不可能である。
カトリックの信者ですら都市部の人間は本来プロテスタントのものである職務遂行の精神や合理主義をごく当然に受け入れていた。
宗教が政策すら左右した時代はとうに過去のものであったのである。

「放しなよ。別に金がなくたって主は怒りゃしないさ」

ケレルマンに掴みかかった手を一人の少年が万力のような腕力でねじあげる。
たまらず男はケレルマンからその手を放した。
浅黒い肌をした少年が白い歯をむき出しにいたずらっぽく笑っているのを見た男は自分が有色人種に暴力を振るわれたという事実に半狂乱となって激昂した。

「汚らわしい黒犬め!貴様ごときが主の御心がわかろうか!」
「詩篇50章第16節だったかな?神のものは神に、カエサルのものはカエサルに…………フランス王国のものはフランス王国にってことさ」
「はっはっ!うまいことを言うじゃないか、デュマ!」

ケレルマンに褒められてデュマはうれしそうに目を細めた。
すでにケレルマンの従兵につけられてから半年近い時間が経過している。
軍隊はデュマにとって天職というほかはないところであった。
彼が黒人の血を引こうとも、ケレルマンは決して馬鹿にしないし、馬鹿にした兵がいたとしても力さえ見せれば容易に受け入れてくれる。
兵にとっては有能な上官だけが自分たちの命を守ってくれるのであり、そこに異国の血が混じっていることなどはそれほど大きな問題ではないのである。
ようやくにして自分本来の居場所を見つけたデュマ少年は砂に浸みこむ水のように知識を吸収し、ケレルマンにとっても欠くことの出来ぬ存在となりつつあった。
仮にも貴族の子息であったので、それなりの初等教育を受けていることも大きかった。

「君のように肥え太った主の姿を私は見たことがない。そのことの意味をそろそろ考える時が来たのではないかな?」

伝令が笑み崩れて走り寄ってくるのが見える。
どうやら秘密金庫の在りかでも発見したらしかった。





ノートルダム大聖堂が近衛兵によって強制的に調査されたという事実はフランス全土を震撼させた。
さらには大聖堂に秘匿されていた財産の莫大さが衆目の目にさらされたことで教会はひどく微妙な立場に立たされつつあった。
この暴挙に対して責任者の罷免を求める動きも存在したが、秘匿財産の巨額さが公表されたことで彼らは迂闊に動けば横領の片棒担ぎにみなされることを自覚していた。
僧侶が自らの富貴を求めることは建前としては決して褒められるべきではなかったからである。
カトリックの影響力の低下に悩むローマ教皇ピウス6世からは厳重な抗議がオーギュストのもとに届けられた。
一息に破門を言い渡せないところが法王庁の苦境を表していた。
古い体質のカトリック教会は各国の啓蒙君主の間でその評価が下がるばかりであり、カトリック側の君主としてフランス国王が占める地位は決して低いものではなかったのだ。
万が一フランス国王がイギリスのようにプロテスタントの国教会を立ち上げては目も当てられない。
それでなくともプロイセンやイギリス・スウェーデンと欧州の大国の中ではプロテスタントのほうが優勢なのである。
教会のそれにくらべフランス貴族の受けた反応は鈍かった。
しかしショワズール公をはじめ有能な貴族の一部は今回の事件が示した事実を正しく認識していた。
特筆すべきなのはついに国王が貴族の支配が及ばぬ固有の兵力を手に入れたという事実だ。
史実においてルイ16世がついに国軍を投入できなかったのには理由がある。
結局のところ軍の頭脳にあたる上級指揮官は貴族によって占められており、逆に下士官のほとんどは平民であった。
指揮官も兵も各々の理由によって戦いたがらないのでは実質的に国王の命令によって国民議会を討伐することなどありえなかった。
国王にとって唯一計算出来る兵力は結局のところ傭兵たちでしかなかったのである。
しかし今オーギュストは近衛という直卒で指揮官も兵も国王に忠誠を誓った兵力を手に入れた。
言ってみれば国王が頭脳で貴族は手足であったために、国王の決定はしばしば実現段階で骨抜きにされてきたのだが、ようやくオーギュストは自分の自由になる手足を手に入れたともいえる。
軍隊ばかりでなく行政機関にもベリー公領での教育機関を卒業した平民が浸透しつつあることを一部の貴族たちは恐怖とともに自覚したのである。

混迷を亀裂は王国中に広がりつつあった。
体制のいかなる変化も容認できない旧勢力、
経済改革には協力するが身分制度は維持したいという勢力、
この機会に一気に立憲君主体制を実現しようとする勢力。
だがまだ足りない。
オーギュストが力を蓄えるまで、彼らにはさらなる不審と猜疑による分裂をしていてもらわねばならなかった。





「…………やはりショワズール公の復権は取り止めてもらわなくてはならないわね」

シャルロットは山のように積まれた嘆願書を前にため息を漏らした。
手紙の一通には国王の改革の性急さを戒めるよう口添えいただきたいというショワズールからの手紙も混じっていた。
進歩派と目される貴族でも改革が経済に留まらず身分制度への改革にまで及ぶのではないか、ということに危機感を抱くものも少なからず存在する。
それは全くの事実なのだが――――現段階で彼らを敵に回すのは得策ではなかった。
王国経済の復興にはまず彼らの協力が不可欠であったし、経済とプライドを秤にかければ最終的には経済に傾くのが歴史的な事実でもあったからだ。

「わかりやすい敵が必要だわ。そうすれば一握りを血祭りにあげることで最大の効果をあげることができる」

進歩派貴族の不安を根本的に取り除くことが不可能である以上別の手段で彼らを繋ぎ止めなくてはならない。
その手段としてもっとも有効なものは恐怖であることをシャルロットは王室に生きる人間として当然のように受け止めていた。

「――――――そう思わない?カルノー?」

一児の母となったシャルロットは深紅の衣装を好んで着用するようになった。
まるで薔薇のようだ、とカルノーは思う。
血を連想させるような毒々しさ、触れるものを傷つけずにはおかない鋭い棘に比類ない美しさが同居している。

妖艶に微笑むシャルロットのマリンブルーの瞳から視線を逸らすことができない。
カルノーは忠誠を誓う騎士のように片膝をついて頭を下げた。
人並みはずれた知性の持ち主である彼を毒することができるのは、同じく人並みはずれた知性の持ち主だけだった。
主であるオーギュストには彼女以上の知性はあっても――――毒がない。


「まこと妃殿下のおっしゃる通りかと存じます」




[20097] 第十四話  黒い夫婦その3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:4a992d35
Date: 2011/02/07 18:45
「全くもってけしからん。これでは伝統あるフランス王国はこの地上から消滅してしまうぞ!」

憤激も露わに怒鳴り散らしている男にフィリップは軽く頷くことで賛意を示した。
しかし内心では辟易していると言っていい。
男の名はラ・ヴォーギュイヨン、ルイ15世のもとで陸軍卿を務めていた男である。
もとはオーギュストの家庭教師でもあった彼は元教え子のあまりの変貌に怒りを募らせていた。

「これだからオーストリア女を王家に入れるのは反対だったのだ!」

表向き国王を正面から非難することのできない貴族はその変貌の理由をシャルロットに求めるのが通常化している。
この理由を額面どおりに信じている貴族は少なかったが、ラ・ヴォーギュイヨンは婚姻に反対していた経緯から素直にそれを信じているらしかった。

「ことここにいたってはやむを得ない。陛下には退位していただきプロヴァンス伯あたりに王位を継いでいただくのが妥当と思うが………」
「………問題は陛下に気づかれずに兵を集めることができるかですね」
「私はこれでも陸軍卿を務めていたのだぞ?私が一声かければたちまち数個師団は集められる!」
「お忘れですか?今の陛下には近衛という武器があるのですぞ」

以前ならば国王は裸だ、と言ってもよかった。
貴族が協力しなければ兵ひとつまともに動かせないのが国王という偽らざる存在であった。
太陽王と呼ばれたルイ14世ですら貴族をまともに動員できないために戦費のほとんどを自弁するはめになり王国経済悪化の原因を作ったほどだ。
しかし今のルイ・オーギュストには異なる論理によって動く部下がいる。

労役の廃止や関税の撤廃により今やブルジョワジーの圧倒的な支持を得るテュルゴー。
そして新興の財閥を築きあげたデュポンを初めとする経済人からの支持。
さらには平民と下級貴族によって編成され陸軍の指揮命令系統から独立した王室近衛兵連隊。
このところ無視することができなくなりつつある貿易相手国としてのオーストリア帝国とトスカーナ大公国。
第一身分への課税による歳入の増加はこの夏の冷害で凶作となった小麦の輸入にあてられてしまったが、国王の影響下にあるブルジョワジーからの献金額もなかなかに馬鹿に
できるものではない。
テュルゴーとベリー公領から異動してきた経済官僚の辣腕はわずかながら王国経済を確かに回復傾向へと導いていた。
これほど国民から広範な支持を得ている国王はもしかするとシャルルマーニュでさえも及ばぬかもしれなかった。

進歩派をもって自認するフィリップにはそれがなんとも歯がゆい。
本来そうした改革を言い出すのは自分でなければならなかった。
そして貴族側からの権利放棄という気高い自己犠牲によって新たな貴族階級の権威を構築するのだ。
一人民としての優れた選良たる貴族とブルジョワジーによる自由主義的共和政体。
それこそがフィリップの目指す理想の政治体制にほかならない。
彼とはまったく主義主張の異なるラ・ボーギュイヨンのもとに彼が訪れている理由はそれだけオーギュストの施策が脅威であることにほかならなかった。

「平民づれの兵士どもに何が出来る!」

得々として自分の陸軍に対する影響力を誇示するラ・ボーギュイヨンの赤ら顔にフィリップは失望を禁じ得ない。
オーギュストを追い落とすために水を向けてはみたものの、あまり期待しないほうがよさそうであった。

「では閣下が首尾よく陛下を退位されたならば我が父ともどもプロヴァンス伯を支持することはお約束する」
「おおっ!感謝するぞシャルトル公殿!」

具体的に何をすると言ったわけでもないのにラ・ボーギュイヨンは満面の笑みとともにフィリップの手をおし頂いた。
あるいは家庭教師時代のオーギュストを知るがゆえにシャルロットを過大評価し、オーギュストを過小評価しているのかもしれなかった。
フィリップとしてはその楽天ぶりに忸怩たるものがあるが、速やかに兵力を動員できてオーギュストに逆らう気概のある貴族というとほかに選択肢がないのも事実であった。

愛想笑いを浮かべてラ・ノーギュイヨン邸を辞去するとフィリップは深い嘆息とともに天を仰ぐ。

「せめてショワズール卿がこちらについておれば……………」






「どうやらラ・ボーギュイヨン公は実力行使する道を選ばれたようですわ」

本当に男の人ってしょうがないわね、とまるで世間話でもするようにデュ・バリー夫人は告げた。
実際彼女にとってはそれは世間話と変わるところはないのかもしれない。
王国の身分秩序と経済体制をめぐる思想の違いなど彼女の理解の範疇を大きく超えているのは明らかだからである。

「わかりやすい殿方はこれだから好きですわ。夫にしようとは思いませんけど」

そう言ってシャルロットも嫣然と笑う。
もともとラ・ボーギュイヨンはデュ・バリー夫人の腰ぎんちゃくである。
権勢を失ったとはいえかつて夫人によってショワズールとの権力闘争に勝利した借りは厳然として存在する。
社交界に復帰した夫人はたちまちラ・ボーギュイヨンのサロンに招かれることとなった。

オーギュストはそこでデュ・バリー夫人に情報を収集することを求めたが、シャルロットはそれに飽き足らずさらに一歩踏み込む必要を認めていた。
情報を得るのは確かに大事なことかもしれないが、ハプスブルグの誇る女傑としては情報は操ってこそ一級の政治家である。
そうした情報操作の重要さをオーギュストが認識していなかったわけではない。
むしろ現代人であったオーギュストは情報によるイメージ戦略には一家言あったのだが、それはあくまでも現代の感覚によるものであった。
生き馬の目を抜く政争を勝ち抜いてきたハプスブルグ家の人間からすればやはり甘いと言わざるを得ないのが本音だった。

「陛下の近衛兵は銃の音に驚いて腰を抜かしたというと手を叩いて喜んでいらしたけれど、まさか本気にしたのでしょうか」
「彼がそう思いたいのであれば本気にするでしょうね」

ラ・ボーギュイヨンはルイ・オーギュストの即位とともに陸軍卿の地位を追われた。
権勢欲の旺盛な彼としてはなんとかして復権したい。
そこにオーギュストの治世に不満をもった貴族を引き合わせ、さらに国王が反対派貴族に報復を考えていることを伝える。
そうして危機感を煽ったところで王室近衛が張り子の虎にすぎないことを伝えるのだ。
用心深いものであれば信用しないであろうが自尊心が強く、特に宮廷を遠ざかり情報に飢えているものは罠と知らずに食いつく可能性が高かった。
これはデュ・バリー夫人を筆頭にシャルロットは仕掛けてきた数々の政治工作の一つが実っただけにすぎないのだ。
それをおくびにも出さず悪戯が成功した童女のようにクスクスと微笑むシャルロットは正しく怪物であった。
表情にこそ出さないが夫人はそれを肝に銘じて知っていた。

(この人だけは絶対に敵に回すものではないわ…………)

ポンパドゥール夫人もデュ・バリー夫人も権勢を欲しいままにはしたがそれはあくまでも国王の寵愛に全面的に依拠したものであった。
だがシャルロットのそれは彼女たちとは本質的に違う。
まず王妃という確固たる地位。
そしてハプスブルグ家という欧州全土に鳴り響くブランドとそして血族による支援。
加えて本人の傑出した政治能力と人脈から行使される実務能力。
すでに官僚組織にも王妃の権限は及び、国王の反対がない限り王妃の命令は勅令に準じて処理されることになっている。
あの女丈夫として名高いカトリーヌ・ド・メディシスでもここまでの実権を握れたかどうか。
あるいはこのままシャルロットの権力が増大していけばいつかは国王のそれを凌駕するのではないか。
そんな空想さえ可能に思われるほどだ。

「さすがにルイ・フィリップ殿は用心深いわね…………」

ラ・ボーギュイヨンとは別に進歩派貴族にもアプローチしているシャルロットであったが、シャルトル公フィリップは沈黙したまま動こうとはしなかった。
慎重ととるべきか臆病ととるべきかは微妙なところである。
しかしいずれオルレアン公の地位を引き継ぐ彼が貴族階級の代表格となることは避けられない。
出来れば早期に排除しておきたい人物ではあったが、その機会は将来に譲ることになりそうであった。

「まあ陸軍の腕力馬鹿を釣れただけでよしとするべきかしら」






オーギュストの即位からすでに半年が過ぎようとしている。
薄氷を踏むような綱渡りの毎日であった。
世界的に冷害で凶作となった小麦の輸入は比較的冷害の被害が少なかったイタリア沿岸部のトスカーナ大公国の支援抜きには語れない。
救荒作物としてのジャガイモはフランス全土に普及を奨励しているが、都市部、特にパリではやはりなんといってもパン食がメインになることは避けられない。
必要最低限の小麦がなければ都市民の間に不満が高まることは明白であった。
そのためオーギュストは第一身分から得た税金のほとんどを小麦の輸入にあてることを余儀なくされ王国財政の改善は先伸ばしにされることとなった。
しかし工業的には労役と関税に撤廃によってフランス経済は明らかに好景気を迎えつつあった。
イギリス流の産業革命を達成するには輪作や集団農法により余剰労働人口の創出が不可欠であるためまだまだ先のことになりそうだが、それでもルブランやデュポンによる
新興産業は活況の最中にある。
おかげでかろうじて近衛の拡充と再編が可能となった。

ケレルマンを連隊長とする近衛連隊の整備が間に合ったのはまさに僥倖である。
この武力なくして税制改革が成し遂げられたかは微妙だ。
いや、むしろ史実同様貴族たちの反対に潰されていた可能性が高い。
実質的に貴族が軍部の運営権を握っている以上、オーギュストが直接掌握できる武力の整備は急務であった。
現在ケレルマン指揮下の連隊を増設し、師団編成にする計画が進められているがしばらくの間オーギュストを守る兵力は一個連隊を超えることはできなそうなのが実情であった。

「思ったよりラ・ボーギュイヨン卿も人望がありませんな。下手をすると反乱軍は二個師団にも達しないかもしれません」

苦笑とともにケレルマンは地図を広げた。
机いっぱいに広げられた精緻な地図にはラ・ボーギュイヨン派の陸軍駐屯地が赤い丸で囲まれていた。
いずれもラ・ボーギュイヨンの下で甘い汁を吸ってきた無能な指揮官ばかりだ。
数以外に恐れる要素は何もない。

「いずれも通常編成の歩兵部隊ばかりです。若干の貴族将校による騎馬部隊も加わるかもしれませんが市街戦で騎馬はそれほど恐るべき相手ではありません」

「…………迂闊に近衛と敵対するのは愚か者のすることだということを教えてやれ」

オーギュストとしてはここで貴族に恐怖を植え付けることができれば改革の段階をさらに推し進めることができる。
今は反国王派のほうが優勢だが、元陸軍卿が反乱に失敗すればたちまち国王派に鞍替えする貴族が続出するだろう。
何もオーギュストは貴族制度を廃止しようとまでは考えていないのだ。
来るべき国民議会には平民の暴走を抑止するためにも、経済と法律に明るい貴族による貴族院を設けるつもりでいた。
能力と意思さえあれば貴族はその尊厳と地位を未来に繋げることが可能であった。
そうして国王の役に立つかはたまた邪魔者になるか、貴族たちは今その素質を問われているとも言える。

「砲を用いることになりますがよろしいか?」

市街戦で大砲を用いるということは市民にも被害が及ぶということだ。
しかし兵数に劣る側が火力を惜しんで勝てると思うほどオーギュストは夢想家ではなかった。
為政者としては無辜の民の犠牲を許容するなど恥辱の極みだがオーギュストは決然としてケレルマンに命じた。


「………王室が所有する全ての砲を動員しても構わぬ。完膚なきまでに反乱軍を殲滅せよ」

「御意」

「ただし市民への損害は最小限に留める努力を怠るな」

ケレルマンは色気にあふれた見事な敬礼をオーギュストに捧げて執務室を去った。
実に聡明で慈悲深い王だ。我が忠誠を捧げるに相応しい。




しかしこの武力衝突を政治的に最大に利用しようとしているシャルロットはむしろ市民に多数の犠牲者が出ることを望んでいた。
責任のすべてはラ・ボーギュイヨンとその一党にかぶらせてしまえばよいのである。
彼らの暴挙による被害が大きければ大きいほど問われる責任は巨大になり、相対的に王権の力は増すはずであった。
一部有力貴族の暴動は市民と貴族の連帯を阻む血塗られた惨劇とならなければないのだ。
ゆるぎない王権があってこそ、初めて市民の安全は保障されるのだということを思い出させる必要がある。
ブルボン家はフランス史上でももっとも国民の支持を得た王朝であった。
かつて貴族が第三身分の保護者であったためしはないのだから。



そうシャルロットにカルノーが囁かれていることをオーギュストは知らない。




[20097] 第十五話  黒い夫婦その4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:4a992d35
Date: 2011/02/19 22:34
ラ・ヴォーギュヨン公の指示を受けたフランス兵が動き出したのは年も明けた1775年2月に入ってからのことであった。

未明に行軍を開始したフランス軍歩兵部隊はパリへ向けて三方向から侵入を試みる。

その総数は途中で離脱する歩兵が多く最大でも一個師団半に達しなかった。



「正気かな連隊長…………」

「陛下が出てきたらすっ飛んで逃げるぜ、オレは」

「オレもだ」



冷害による凶作にもかかわらずなんとかパリが飢えずにすんでいるのは国王のおかげだということを兵たちは知っている。

滞りがちであった兵士の給金も、オーギュストが即位してからは………厳密にいうならばオーギュストが育成した軍務官僚が軍財政を切り盛りするようになってからは

支払いが滞るようなことはなかった。

史実においてフランス軍兵士の士気の低さはこの賃金の未払いによるところが大きい。

中間搾取によって全額が手に入ることは少なかったが、それでも自弁に装備を整えなければならない兵士にとって定期的な給金が保障されているということは大きいのだった。

だからこそそうした内政改革を成し遂げた国王に対する平民兵士たちの信頼は高いのである。



しかしながら中間管理職である貴族にとって現国王は必ずしも名君ではない。

いまだ貴族に対する課税はないが、すでに労役や関税が排除されており、国王の肝入りで行政機関の一翼を担う平民官僚によって賄賂横領もやりにくくなった。

フランス貴族にとって国王はあくまでも神輿であり、これまでの王家ももとをただせば同じ貴族の一員であった事実を考えれば絶対王政的な忠誠心を養うことは難しい。

すなわち王権が強大になることは貴族の不利益なのであった。

土地が肥え、既得権の多いうえに侵略の危機感の少ないフランス貴族独特のこの政治感覚はブルボン王家にとって長く大きな政治的課題とされてきた。

かの太陽王ルイ14世ですら貴族の不服従には生涯にわたって苦しめられている。

世に絶対王政と歴史は語るが、この時代の専制君主はそれほどに政治的なフリーハンドを得てはいない。

イングランドのエリザベス1世は対外危機と国内の結束を維持するために生涯独身を貫かねばならず、スペインハプスブルグ家のフェリペ2世は地域派閥を抑え込むために

他国への侵略を続けなければならなかった。

スペインという国家は事実上カスティリヤ王国とアラゴン王国、ナバーラ王国の連合王国であり、アラゴン系である王家に対するカスティリヤ派貴族の抵抗は大きかったのだ。

所詮絶対王政などと言っても各国の国王は国内政治をまとめるのに四苦八苦していたのである。

ましてブルボン王朝はヴァロワ朝に対して新教徒として反逆したという過去がある。

ブルボン朝において国王の暗殺やフロンドの乱のような反乱が多いのはその始まりに遠因があるのであった。



「オーストリア女を追い出してフランスを古き良き体制に戻さなくては…………」



貴族たちの間でシャルロットは格好の怨嗟の的になりつつあった。

オーギュストが進歩派貴族とともに経済優先の政策を推し進めていることは彼らにもわかっている。

しかしそこで経済の余剰が貴族ではなく平民に恩恵が向いているのが不満なのだ。

直接国王を非難することが躊躇われるなかでシャルロットの聡明さと国王に対する影響力はちょうど良い矛先なのであった。









「やる気があるのか、連中」

ケレルマンは望遠鏡を覗きながら苦笑した。

よほどこちらを舐めているのか、はたまた練度が低いのかあるいはその両方か。

彼らにとってパリの掌握は時間との勝負のはずだ。

まさか歩兵が土足でベルサイユ宮殿に踏み込めるはずがないし、それでなくともパリは広く防御力も高い。

国王に味方する諸侯も多いことを考えれば市街戦で時間をとられるのは論外なのである。

にもかかわらず足並みも揃わずやる気も感じられない鈍い行軍はそのまま兵の士気を表しているとも言えた。



すでに彼らの侵攻ルートには一か所あたり50門以上の大砲が準備され、その多くにはブドウ弾が装填されていた。

百年戦争におけるリッシュモンの集中運用以来砲兵はフランス軍の花形である。

しかしパリに進軍中の歩兵部隊に随伴する砲兵はいない。

彼らは攻城戦のような長期戦を戦うつもりが最初からないからだ。

士気の低い歩兵が砲兵の支援なしに砲兵援護下の敵と戦えばどうなるか、残念なことにラ・ヴォーギュイヨンの腰ぎんちゃくでそれを理解できるものはいなかった。

指揮官である貴族たちはラ・ヴォーギュイヨンから聞いた近衛は発砲すればすぐ逃げ出すような柔弱な部隊であるという言葉をただ幼子のように信じていた。



本来払暁を期して突入するはずであった反乱軍がパリへ突入したのはすでに太陽もあがった朝7時過ぎのことであった。

このときなってもなお反乱軍指揮官は楽観を崩さずにいた。

少なくともこの時まで国王に対する傭兵や援軍が到着したという情報はない。

戦力とも呼べない近衛二個大隊(一個大隊はまだ訓練中)だけで一個師団半に及ぶ大軍は止められまい。

そう信じていた彼らが意気揚々と見通しの良い大通りへと達したとき破局は訪れた。



ズラリと並んだ大砲から立て続けにブドウ弾が発射される。

人間の拳ほどもある鉄塊はその運動エネルギーで反乱軍歩兵を血にまみれた肉塊へと変えていった。

奇襲するつもりでいた彼らはようやく自分たちこそが奇襲の餌食になろうとしていることを理解したが、近距離で無防備に浴びる大砲50門の斉射は彼らに立ち直る隙を与えては

くれなかった。



「目をやられた………助けてくれ!」

「冗談じゃねえ!話が違う!」

「ばかな………ばかな………!!」



辻のあちこちで阿鼻叫喚の地獄絵図が生まれようとしていた。

兵の多寡は問題にならないことをケレルマンが確信していたのは兵の士気の低さと指揮官の能力不足を知っていたからだ。

今反乱軍にデュマのような有能な指揮官がいて数にものを言わせて突撃してきたならばまだ勝敗はわからなかった。

これが7年戦争を戦った古強者であればもっとケレルマンも警戒したであろう。

プロイセンの勝利で幕を閉じたあの戦争では火力と機動を重視する近代戦の萌芽がすでに芽生えていた。

しかしそうした貴重な戦訓を生かせる指揮官は反乱軍にはいない。



「進むか退くかはっきりしないか…………愚か者め」



砲兵の近距離火力支援というものは倍の敵を楽に蹴散らすほどに効果的だが、敵の数は四倍以上に達しているのである。

いかに鍛え上げられたとはいえ歩兵同士の肉弾戦となれば、いまだ勝敗は五分と五分といったところなのにうろたえて指示を出せずにいるとは兵が哀れだ。

しかしここで手加減をする愚は許されない。



「続けて撃て」



だが貴族指揮官が自らの命を賭して突撃することなどありえなかったし、それに歩兵が追随するとも思えなかった。

混乱する反乱軍のどてっ腹に再びブドウ弾が撃ちこまれ、数百におよぶ肉塊が量産され勝利を確信したそのとき、ケレルマンにとっても完全に予想外の事件は起きた。









一部貴族が国王を退位させ、権力を握り第三身分へ増税しようと画策している。

そんな噂がパリに流れ始めたのはつい先日のことであった。

オーギュストが即位して以来国民の生活は緩やかではあるが向上していた。

こんなところで時計の針を逆にまわされてはたまらない。

とりわけ国内関税の廃止や労役の撤廃により流通の円滑化の恩恵にあずかっているブルジョワジーにとっては決して容認できない話であった。



「苦境に陥っている国王を助けよう!国王こそ人民の擁護者だ!」



誰かがそう叫び賛同の環が広がるまでにそう長い時間はかからなかった。

過激化する民衆のなかにはどこから流れてきたのか旧式の銃が供給されはじめ、長年虐げられてきた貴族への復讐を誓うものまで出始めた。

彼らは明らかに貴族に対する武装闘争を決意しかけていた。



「おそらく奴らが事を起こすのは2月の半ばになるだろう。そのときまでに覚悟を決めておけ」



袋一杯に入った金貨を放り投げ、下卑た笑いとともに金貨を拾い集める男たちを冷たい目で見つめながらカルノーは口元を歪めた。









ブルジョワジーの台頭とともに貴族に対する不平不満はくすぶっていた。

彼らの敵意を国王に向かわせないために、暴力のはけ口は正しく用意されていなくてはならない。

シャルロットがそう言いきったときの嫣然とした天使のような微笑みをカルノーは思い出す。

愚かな貴族の身勝手な要求を暴露し、国民の敵意を引き受けてもらうと同時に、危険な煽動家にはこの際反乱軍との戦闘で死んでもらう。

貴族と人民側のテロリスト予備軍をまとめて一掃してしまおうというシャルロットの計略は一挙両得とも言うべきものであった。

もちろんこうした謀略はもろ刃の刃でもある。

失敗すれば人民が武装闘争に対する自信を深めて革命を誘因する原因にもなりかねない。

また不正規兵の乱入によってケレルマン率いる王室近衛がその力を十全に発揮できない可能性は高かった。



「しかし成功すればもはや貴族たちも陛下を掣肘することはできまい………」



フロンドの乱を鎮めたルイ14世のように、オーギュストは国政に大ナタを振るうことが出来るはずである。

いかに行政の中枢を握る貴族といえども人口の99パーセントを占める人民を正面から敵に回すのは避けたいはずであった。

確かに百年前であればその計略は当たっていただろう。

しかしハプスブルグの生んだ政治的怪物といえども加速する時代の流れを完全に見極めることは出来なかった。





同じ事物を見た場合、政治家としてはシャルロットのほうが正しいかもしれない。

しかしオーギュストに見えてシャルロットには見えないものがあるのだ。



――――――それは未来であった。







「くそっ!砲兵、射撃やめ!歩兵着剣っ!進め!」



思わぬ市民の乱入により混沌とした戦場で、市民ごと射撃することをケレルマンは認めることはできなかった。

ならば銃剣突撃により直接反乱軍を押し返すよりほかにない。

しかし射撃戦に徹していれば圧勝できたはずが、肉弾戦になれば損害が増えることは避けられない。

ケレルマンは内心忸怩たるものを覚えつつ、それでも市民を守るために前進を命じないわけにはいかなかった。

王室近衛は市民を守るために隊伍を整え筒先を並べて錯綜する乱戦の巷へと突撃を開始した。





反乱軍が逃亡するか降伏し市民の歓声がパリに轟くまでさらに半日近い時間が必要であった。

勝利に抱き合う市民のなかに、指揮をとった市民煽動家の姿はなかったという。

煽動家の間で広まりつつあった一人の少年の名も、彼らの生命とともに永久に失われたのだった。









「よくやった、ケレルマン。すまんがそのままラ・ヴォーギュイヨン領の接収の指揮を取れ」



「御意」



オーギュストは嘆息しながらどっかりと椅子に腰を下ろした。

彼にとってここでの市民の介入は予定外であった。

市民が貴族を駆逐したという事実は時を追うに従って市民の間で確固たる対決の意思を産むだろう。

そして市民が国王を守ったという事実もまた貴族と市民の対立に拍車をかけさせるに違いない。

オーギュストとしては貴族との最終的対立はさらに数年、できれば10年以上は先延ばしにするつもりでいた。

ここで国王と市民対貴族という図式が表面化すればオーギュストの進める改革は10年は遅れるかもしれなかった。

貴族が抱える資産と領土、利権はフランス王国のなかでまだまだ巨大な割合を占めているのだから。





オーギュストの不安は的中する。

経済改革には同意していても身分制度改革には消極的であったショワズール公が反国王派に転じ、少なくない進歩派貴族が同調した。

さらに市民のなかに国王がいれば貴族はもういらないのではないか、と主張する急進派が現れる。

役に立ったかどうかはともかく国王を支援したのは市民であり、国王に謀反したのが貴族なのは事実であるからだ。

もっともオーギュストに現状の市民に権力を持たせる気は毛頭ない。

国内だけを考えるならばいっそこのまま貴族と対決するという選択肢もあったかもしれなかった。

だが………………。





ラ・ヴォーギュイヨンの反乱からわずか二カ月後の1775年4月19日、アメリカで独立戦争が開始されることをこのときオーギュストだけが知っていた。






[20097] 第十六話  大陸からの風その1
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:4a992d35
Date: 2011/03/13 22:43
アメリカ合衆国の独立が世界史に与えた影響はあまりにも大きい。
いまだ君主系国家が地上の大半を占めていた時代に母国を飛び出した移民たちが自分の生活を守るために自分たちの国を立ち上げる。
それは当時のヨーロッパを席捲しつつあった啓蒙思想のひとつの到着点であったからだ。
産業革命に代表される科学の発達とそれに伴う教育の普及は人民により大きな政治的能力を与えるべきであると主張するには十分すぎた。
しかし同時に、千年以上の長い年月を旧体制によって支配されてきた人民には自分たちが新たに支配者になるということを現実的に考えることは難しかった。
それが誰の目にも明確な形として現れたのがアメリカ合衆国の独立なのであった。

「やってくれたな………………」

オーギュストのため息は深く重い。
このところ大同団結した貴族との争いが顕在化し、オーギュストの行政改革はその進展の速度を著しく落さざるをえなかった。
なかでもショワズール公がその豊かな人脈を駆使して築いた対王室包囲網は見事ですらあった。

ならば国民の支持を背景に貴族との全面的な闘争に打って出ればよいかというとそんなことはないのである。
アメリカ合衆国の独立戦争はフランス王国の外交上決して無視できぬものであるし、その後にはバイエイルンの継承戦争が控えている。
経済的な結びつきを強めつつあるオーストリアとの関係には史実以上の注意が必要であることも問題だった。
とても国内で消耗必至の全面戦争を戦っている場合ではない。

「困ったことになりましたわね…………」

シャルロットも気持ち肩を落としたかのように呟く。
彼女としてはこの勢いにのって有力貴族をいくつか見せしめに潰せば国民の大多数の支持を得た王家に逆らうことはできないだろうと考えていた。
激発するような馬鹿は火種が大きくならないうちに各個に摘み取ってしまえばよい。
それだけの力を今のブルボン王家は所有している。
ところが貴族は自らの危機に強固な団結を取り戻し、遠く海外では人民がジョージ三世に対して独立を主張するという世界史的な問題が勃発するとはさすがの聡明な
シャルロットにも予想することは不可能であった。

それでもここは貴族と対決するべきではないかとシャルロットは思う。
所詮貴族の連帯など己の利益を守るために団結しているだけであって、自分がその生贄になることなど思いもよらない。
主要な大貴族が血祭りにあげられたならばたちまちすり寄ってくる程度の風見鶏なのは明らかだった。
ショワズールあたりを王宮まで呼び寄せて暗殺してしまってもよい。
それでもなお武力闘争に及ぶだけの気概が貴族たちにあるとも思えなかった。
大義名分などというものは勝利者によっていともたやすくねつ造されるものなのである。



同じ理想を持ちながらオーギュストとシャルロットの見ている世界は違う。
二人はそのことに気づきつつある。
オーギュストとシャルロットはフランスの将来のためには王権の強化と民衆の育成が必要であることでは一致していた。
しかし前世人民の代表であったオーギュストは王権のために無用な犠牲が出ることを好まなかったし、犠牲が必要であるとしてもそれが最小に留まることを無意識に要求していた。
目的のために犠牲が出ることは許容しても、自らが圧政者として人民を無法に蹂躙することは許容できなかった。
しかしシャルロットの考えは違う。
人民が大切にされるのは国家にとって必要であるからであって、人民によって国家が危機に瀕することがあってはならない。
最終的に国家のためになるならば一部の人民が虐殺されることなどは十分に許容範囲であるはずだった。
いや、真にフランス王国のためならば犯罪ですら許容されるはずだ。
にもかかわらずオーギュストは決して夢想家ではないが、暴力の許容に対する基準値が王家の人間のものとは思えぬほどに高い。
それがシャルロットにとっては歯がゆくもあり、同時に愛しくもあった。
まるで傷つけてはならぬ極彩色の宝石に自分だけが気づいているような感覚だ。
柔らかな金髪を掻きあげシャルロットはオーギュストの大きな肩に頬を預け全身の力を抜いて目を閉じた。


――――――この人を守ることこそ我が運命。私はこの命賭けて戦い続け愛し続ける。たとえ貴方が私を愛さなくなったとしても―――――。





アメリカの独立をめぐる国際情勢は複雑である。
もっとも大きな原動力は啓蒙思想の流行と、突出するイギリスの国力をどこかで歯止めをかけねばならないという国際政治力学であろう。
産業革命と蒸気機関の実用化を成し遂げたイギリスはこの時代間違いなく世界最強の国家であった。
イギリスの不利益はフランスの利益である。
アメリカがイギリスと争ってくれるだけでイギリスは少なからぬ戦費と犠牲を払うことになるだろう。
当初フランスは出来る限りながく両国が争い続けてくれることを願っていた。

それを傍観することができなくなったのはベンジャミン・フランクリンの来仏によるロビー活動が非常に効果的であったことがあげられる。
当時政治家として、物理学者として、気象学者としてフランクリンの名は抜群な知名度を誇っていた。
凧をあげて雷が電気であることを発見したことでも知られ有名な著述家でもあった彼は持ち前の雄弁によってアメリカ合衆国政府の正統性を説いた。
その主張をまともに受け取ることは君主制国家にとって非常に危険であることは歴史が証明している。
すなわち、人民は基本的人権を生まれながらに所有しており、その権利に対する侵害には革命を起こす権利を有するとしたのだ。
ジョン=ロックの思想を色濃く受け継いだ人民主権理論は閉塞した封建主義へのアンチテーゼとして欧州の富裕層に瞬く間に支持者を獲得しつつあった。
後年義勇兵としてアメリカに赴くラ・ファイエット侯爵などは感涙にむせびながら人民の剣たることを誓ったという。

唾棄すべき堕落であるとオーギュストは思う。
ベンジャミン・フランクリンは印刷業で財をなした富豪であり、フレンチ・インディアン戦争ではイギリス軍の兵站に尽力したことでも知られていた。
アメリカ合衆国総司令官に選出されるワシントンもまたフレンチ・インディアン戦争においてフランス軍を撃破した功績を評価されてこその司令官就任であった。
フランスに害をなした仇敵がどの面をさげて援助を求めてくるものか。
所詮は国内貴族にとって海外植民地での戦争は対岸の火事でしかなかったのである。

しかしアメリカ支持で世論が盛り上がった理由はそれだけではない。
国際政治におけるライバルであることも大きな理由だが、もうひとつフランス人がほとんど遺伝子レベルでイギリス人が大嫌いであるということがあげられる。
これは比喩や冗談ではない。
前世の記憶を所有するオーギュストでさえもイギリス人は気位ばかり高くて食事の豊かささえ理解することのできない田舎っぺであると確信している。
現代人ですらこれほどの抜き差しならない偏見をイギリス人に対して抱いているのだ。
当時のフランス人にとってイギリス人は成りあがってかつての主人に牙をむく恩知らずな下僕以外の何物でもなかった。

ノルマンディー公ギヨーム二世によって征服されたイギリスはフランス文化に強く影響されていた。
国王や宮廷人は英語ではなくフランス語を話し、外交的においてもフランスの風下に立っていたことは否めない。
その傾向はアンジュー伯がプランタジネット朝を開いてからさらに増大しこそすれ決して低くなることはなかった。

ようやくイギリスが独自性とともに覇権国家としてフランスに伍する国力を手に入れるのはチューダー朝も後半に入ってからのことである。
絶対王政を確立し大航海時代の勝者となったイギリスはここにおいて初めてフランスの影響下から独立したと言ってもいいだろう。
かつての主人に追いつき追い越そうとしているイギリスをフランスは嫉妬と軽蔑をもって冷やかに見つめていた。
少なくとも彼らにとってサンドイッチとオートミールで腹を満たすような国民を先進的文明国とみなすことはできなかった
イギリスの食文化が貧しいのは彼らの土地の大半が農耕に向かぬ痩せた土地であるためなのだが、フランス人にとってはそのあたりがいかにも垢ぬけない田舎者に見えて
仕方ないのである。
フランスの政治的寓話としてこんな話がある。
あるフランスの政治家がイギリスからトラファルガー海戦の記念式典へ招待を受けた。彼は間髪いれずにこう答えてその式典への参加を断ったという。
「当方はノルマンコンクエストの記念式典の準備中でそれどころではない」
良いか悪いか、正しいか正しくないかではない。
もちろん必要ならば悪魔とでも手を握るのが政治家でなくてはならぬ。
それでもイギリス人が大嫌いだ。
――――――無意識下にまで刷り込まれた典型的フランス人のそれが嘘偽らざる本音であった。

イギリスを敵として捉えただけで支持を集めることは容易い。
ましてこの時代のフランスには7年戦争やフレンチインディアン戦争においてイギリスに屈辱を味わわされた貴族が多数存命であった。
その筆頭に事実上の宰相として当時辣腕をふるっていたショワズールがいた。
王国の財政事情を知悉する彼はオーギュストに対する政治的闘争の手段としてこのアメリカ独立戦争を利用するつもりでいた。
すなわち、参戦によって国費を消費させ最終的に王権を失墜させる――――。

アメリカを支援すればアメリカがイギリスを見放しフランスを最大貿易相手国として受け入れてくれるなどという甘い考えはショワズールにはない。
しかしそうした甘い願望をもって貴族が多いことも事実である。
パリ条約によってフランスはあまりに多くの海外利権を失いすぎた。
ここでイギリスをやりこめることが出来たならば失われた植民地を取り戻せるのではないか。
いや、賠償金をせしめることすらできるかもしれない。
当然独立を支援したアメリカはフランスを同盟国として優遇してくれるだろう。
そうした願望が史実において全くの画餅に終わったのだが、この時点でそれを理解できる貴族はあまりに少なかった。
アメリカが独立したとしても大西洋の制海権がイギリスにあることは変わらないということを考えればそれが夢想にすぎないと気づくことは可能であるはずなのだが。



国王と抵抗貴族との行政改革とアメリカ支援をめぐる綱引きは双方に予想だにしない副次効果を生み出しつつあった。
アメリカの独立支援を声高に主張するショワズールに釣られるように、義勇兵として参戦を表明する進歩派貴族が続々と現れたのである。
革命への情熱に浮かれるように大陸へと渡っていく青年貴族たちに煽ったはずのショワズールのほうが困惑した。
国王を追いつめるはずの味方が私財を投じて海の物とも山の物ともつかぬ独立戦争などへ首を突っ込んでしまったのだ。
先頭をきって煽ってしまった以上彼らを不当におとしめることも出来ずショワズールは彼らを称賛することによって国王の決断を急がせることしかできなかった。


「藪をつついて蛇を出すとは…………ショワズールも老いたか」

オーギュストは深い恐怖とともに予想以上に進んでいた侵食に歯噛みする思いであった。
啓蒙思想と言う名の毒はオーギュストの推し進めた改革によって史実よりも早く進歩派貴族の間に浸透していたのだ。
このままでは史実より早く人民に参政権を求める運動が活発化することが予想された。
かつて共産主義が世界を席巻したとき、その支持者の大半は富裕層の知識人であったという事実をオーギュストはよく承知していた。
知識あるものこそ新たな知識の毒に染まりやすい。
ジャポネのセキグンにも大学卒業者が数多く含まれていたはずだ。
道半ばにしてフランスの前途に漂う暗雲はますますその厚さを増しているようにオーギュストには思えた。




[20097] 第十七話  大陸からの風その2
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:714e7116
Date: 2011/04/07 21:55


アメリカの独立は果たして世界史的な必然であっただろうか。

少なくとも植民地が政治的独立を目指して本国と対立していくのは必然であると言わざるをえない。

しかし1775年というタイミングでアメリカ合衆国が世界に産声をあげることが出来たのには実は奇跡的ないくつもの幸運を必要としていた。







「本当に私でいいのかね?」



ジョージ・ワシントンは辟易したように肩をすくめてみせた。

フレンチインディアン戦争を戦いぬいた彼はアメリカの義勇兵がイギリス正規軍と戦えば一蹴されるだけであるということを骨身にしみて知っていた。

彼は有能な戦術指揮官であったが、現状手持ちとして与えられた兵力では時間稼ぎしかできないことを認識してもらう必要がある。

それなしに司令官への就任など承諾できるものではない。

彼は一介の農場経営者であり、過去にいささか勇名をならしただけの男にすぎないのだから。



「もちろん君しかいないよ――――大丈夫、私とてイギリス正規軍と野戦で勝利してくれなんて無茶を言う気はないさ」



「それは無茶というより茶番というべきだね」



ジョン・アダムスが莞爾と笑って紅茶を差し出す。

ボストン茶会事件に見られるように後年のアメリカは紅茶文化から決別していくが、彼らのようなイギリス移民はなかなか紅茶の習慣から逃れることは難しかったのだ。

困ったものだ――――とワシントンは思う。

マーサと結婚し百人以上の奴隷を所有する大農場経営者となったワシントンとしては出来ればもう前線に立ちたくはないのが本音であった。

幸いにして死んでくれているが、ジェームズ・ウルフ将軍が存命であればワシントンは迷わず従軍を拒否したであろう。

それほどにあのイギリス人指揮官は常軌を逸した運と強さを持っていた。



「今の軍権を握っているのはあのジャーメインだ。出鼻をくじくことぐらいは容易いだろう」



なかなかに手ごわいと国際世論に認識されなければ対外的な援助を得ることすら難しいことをアダムスは承知していた。

誰だって沈むとわかっている船に乗り込む趣味はないのだ。

戦略的なパートナー足りうる資格こそが今アメリカ合衆国に求められていた。

そして植民地を見下したジョージ・ジャーメインが軍事指揮権を握っている今こそが、アメリカがもっとも勝利する可能性の高い千載一遇の好機だったのである。



…………まったく若さってやつは…………。



人知れずワシントンは嗤う。

そんな高尚なものに本当の価値はない。

彼はあくまでも独立をイギリスとの交渉の一材料と考えていた。

アメリカに生活するものが最大の利益を得るためにはむしろイギリス連邦に留まるほうがのぞましいのだ。

所詮独立などという美名で腹は膨れないのである。

大陸会議の中でパトリック・ヘンリは「我に自由を与えよ。しからずんば死を」と叫んだ。

だがワシントンにとって自由とはあくまでも生きるための自衛手段であって、自由のために己の命を捧げるというのは本末転倒でしかなかった。

このところ何かと邪魔なインディアンと、うるさく金を巻き上げようとする本国の貴族どもを排除できれば安心して農場の経営に打ちこめる。

もう少し若ければむしろインディアンどもと戦って彼らの土地を奪いとりたいくらいだったのである。

ワシントンの憂鬱を正確に見抜いたアダムスは赤ら顔を歪めてクツクツと嗤った。



「―――――そう、私はまさに君のその現実的な打算にこそ期待しているのだよ」













ショワズールは対応に苦慮していた。

アメリカで起こった独立戦争は国王を追い詰める絶好の奇貨であったはずだった。

事実分断されかかった貴族たちはショワズールのもとで結束し、国王による貴族の権益剥奪に抵抗し続けている。

高等法院という切り札こそ失ったがまだまだ末端の法務官僚は貴族たちの牙城であり、行政組織が抵抗し続けるかぎり国王の改革もまた絵に描いた餅に過ぎなかった。

しかしそうした消極的な抵抗は国王の死命を制するには全く足りないということもショワズールは重々承知していた。



明らかに第一身分と第二身分を分断し各個撃破することを狙った国王の改革はこのところ停滞を余儀なくされているが、それは一時的な雌伏にすぎない。

王室直轄領では新たな産業が勃興し、街道が整備され、税が軽くなり、賄賂などの不正が厳しく取り締まられていた。

そうした改革の成果があがるのは往々にして時間がかかるものなのだが、将来に対する期待が現実を追い越して王室領は空前の活況にある。

おかげで王室領の恩恵に預かろうとする貴族たちを繋ぎとめるのは刻一刻と困難になろうとしていた。

そして国王の肝いりで設立された王立官僚学院の卒業生である平民が、下部官僚として行政組織に浸透しつつある。

長きに渡る王国の行政に対する影響力が失われたとき、貴族階級の敗北が決定する以上ショワズールも座したまま敗北を許容するわけにはいかなかった。



だが軍事的な手段に頼るのはいかにもまずい。

近年さらに拡充された王室近衛連隊は実力主義の精鋭であり、その強さは自らの生命はおろか家名すら失ってしまったラ・ヴォーギュイヨンが身をもって示している。

一家の家名すら奪った果断な国王の処置は貴族たちの猛烈な反発とともに、たとえ歴史ある家系でも反逆すれば断絶させるという国王の強い意思に恐怖する結果も生んだ。

迂闊に反逆すれば一族郎党が路頭に迷う。

よほど勝率の高い賭けでもないかぎり進んで乗ろうとする貴族がいるはずがなかった。

だからこそこのアメリカ独立を利用して王国財政を圧迫することで、財政破綻ないし増税に追い込むことが現在の窮地を乗り切る妙策であると考えたのだが………。



「どうしても行くのかね?ラ・ファイエット侯」



「助けを求める人民を救うためには、もはや一刻の猶予も許されませぬ」



精悍な顔つきの男である。

若干十八歳だが軍人としての教育を受け、その資質には高い評価が与えられていた。

何より虚栄心に富み、ショワズールにとって操りやすいことも大きかった。

当初はショワズールとともにアメリカ独立への介入を国王に請願するだけであったが、レキシントンコンコードが高らかに喧伝されるとほとんどのめりこむように啓蒙思想に傾倒していった。

洒落がわからず能弁の才もないが、他人の人気を得ることに飢えきったラ・ファイエットは旧来のアンシャンレジームでは与えられなかったものを啓蒙思想の中に見出したのである。

ショワズールはラ・ファイエットのためにある程度の見返りを用意しようとはしていたが、彼が欲している名声はおそらくは旧体制を守ろうとしているショワズールのもとでは得られないであろう

ことをあるいは本能的に察したのかもしれなかった。

それほどにラ・ファイエイットという青年には動物的と言ってもいい嗅覚が備わっていた。



端的に言うならば、啓蒙思想とは人間の理性というものは普遍的なものであり、その価値は神性を上回る。

すなわち理性を持つ全ての人間は平等なのであって、そうした理性を中心として社会体制は変革されなければならないという考え方であった。

ジョン=ロックの社会契約説もその延長線上にあるものと考えてよい。

その主張が最終的には人民を主権者とする社会構造の革命を求め、王権神授説の否定と宗教的権威の否定に至るのは歴史が証明していた。



ラ・フアィエットの本能は自分を馬鹿にしていたアンシャンレジームの崩壊を正しく予測していた。

宮廷の艶やかな衣装も、知性に溢れた会話も、流れるようなダンスも、ラ・ファイエイットには何もない。

このままショワズールに従っていても結局は田舎貴族として後ろ指を指される自分が、ラ・ファイエットには容易に想像することができた。



―――――――そんな宮廷など意に介さぬ大きな男にオレはなる。



若さゆえの幼稚な英雄願望である。

しかしそれを止める有効な言葉をショワズールは持ち合わせていなかった。

もともと彼らにアメリカの窮状を訴えたのは自分なのだから。



それにしても…………とショワズールは苦悩する。

ラ・ファイエットやラメット兄弟のように新大陸の新たな思潮に共鳴する貴族のなんと多いことか。

しかもそうでない貴族に比べ彼らが戦や法律や行政等なんらかの才に恵まれていることがショワズールの懊悩を深くしていた。

頼みにしたい仲間が新大陸に去っていく。

残された仲間は不平を口にはするが政治闘争より宮廷での晩餐会を気にするような輩ばかり………。

それでは自分が守ろうとしているものは………アンシャンレジームとは………貴族とはいったいなんなのだ…………。

ここ数年めっきり老けたショワズールの額に深い縦皺が刻まれていく。

それでも貴族に生まれた以上貴族として生きていくのが義務であることを老人は疑っていなかった。









―――1775年11月末

シャルロットは第二子のお産のためにベッドに横たわっていた。

今度生まれるのは男の子のような予感がある。

フランスの王妃として何よりも優先されるべき使命であるだけにシャルロットは不本意ながら体調管理のためにこのところ政務から遠ざかっていた。



正直なところオーギュストはホッとしている。

シャルロットはデュ・バリー夫人らの人脈を利用し、青年貴族を煽り彼らのアメリカ行きを押し進めていた。

しかも大陸へ動向する傭兵に自らの配下を忍び込ませて情報収集と暗殺の準備にあたらせるというあざとさだ。

現にショワズールを悩ませているあたりシャルロットの謀略は成功していると言ってもよいだろう。



しかしオーギュストは今青年貴族たちに啓蒙思想の熱狂を煽るのは危険すぎると判断していた。

問題はそれがフランス革命の常軌を逸した狂騒を知識としてオーギュストが知っていることに依拠しているということだ。

さらに困ったことにオーギュストでも妻の手が現在どこまで伸びているのか正確に把握していない。

要するに止める術がないのである。

実際のところカルノーをはじめとしてオーギュストの側近には数多くの王妃の親派が存在した。

シャルロットはオーギュストの正式な閣僚ではないが、その影響力はもはや宰相のそれに匹敵していた。

こうしてシャルロットが出産に病臥してくれたのは僥倖といってもよい。



「身体を労わってくれ。君をさらしものにはさせないから」



オーギュストは反国王派貴族の抵抗を承知のうえで王妃の出産公開を停止した。

もちろん代わりに国庫を開いて全土でワインを振る舞い、祭りを開催することで国民の評判は上々である。

たとえ政治的には愚策であったとしても、一児の父として夫としてシャルロットを衆目の目にさらすのはオーギュストの良心が許さなかった。



「きっと男の子だわ…………それも貴方に似ている…………私にはわかるの」

「困ったな………できれば顔立ちは君に似ていることを祈っているよ、私の可愛いマリー」



時代の節目を前にしてお互いの政治的立場がどこかですれ違っていることを二人は自覚していた。

それでもなお、仮にいつか敵に回ることがあるとしても、二人にとってお互いは自分の命よりも大事な愛する人であった。



「愛しているよマリー」

「愛しているわ貴方」



どちらからともなく二人は熱い口づけを交わす。

死が二人を分かつまで、二人の愛が決して裂かれることはない。

しかし愛によって政治が動かぬことも、誰より二人自身が一番よく承知していた。






[20097] 第十八話  大陸からの風その3
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:1eb136a1
Date: 2011/04/18 21:29
ラ・ファイエット侯爵
マリー=ジョゼフ・ポール・イブ・ロシェ・ジルベール・デュ・モティエは若干18歳の青年だった。
しかし「両世界の英雄」と呼ばれた彼の事跡を決して軽々しく見ることはできない。
彼なかりせばアメリカの独立は失敗していたか、あるいは遥かに条件面で劣悪な講和を強いられていた可能性が高いのだ。
ラファイエットと親交のあったアメリカ第三代大統領トマス=ジェファーソンは後年ラファイエットを「彼の弱点は人気と評判に対して飢えきっていることだ」と評したという。
だが同時に「彼ほど勇敢で信頼できるものを私は知らない」とも絶賛している。
自らの名声のために命を張るだけの度胸をラファイエットは持ち合わせていたし、理想のために殉じる覚悟が出来るほどに理想主義者でもあった。
彼の率いる軍の兵士はこぞってラファイエットに指揮されることを栄誉にしたと言われている。
アメリカの民兵が自国の将軍ではなく、余所者であるラファイエットの指揮に進んで服したことを考えても、彼が人物的な魅力に富んだことは疑いあるまい。
宮廷の婦女子には好かれなくとも前線の兵士にとっては、彼は尊敬と信頼を与えるのに十分な人物だった。

「この海の彼方に私を必要としている人民がいる」

ラファイエット侯ことジルベールは朴訥な男である。
服装は装飾を省いた軍服で宮廷貴族の好むような香水もかつらも彼には不要な邪魔者でしかない。
ラファイエット家は裕福でそれなりに政治力のある大家であり、当然ジルベール自身にもそれなりの交際能力というものが求められたが上辺だけの空々しい貴族の交際が
彼にはどうにも我慢がならなかった。
7年戦争で戦死した父にかわってわずか2歳で跡を継ぎ一家を盛り立てなければならない重責と、決して心を許すことの出来ない虚飾だけの生活にジルベールは疲れきっていたと言っていい。
いつまでたっても慣れぬ宮廷の雀のような生活はジルベールをして彼をもっとも根源的な部分に立ち返らせようとしていた。

男ならば雄雄しく戦って死にたい。
勇猛で部下思いで知られた父の名を辱めるわけにはいかなかった。
ラファイエットが尊敬する父の遺志を引き継ぎ王国軍人を志したのは当然の帰結であった。
いかに軍といえどフランスの宿?たる貴族主義の弊害なしとはいかなかったが、それ以上に実力を必要とする組織でもあったのはラファイエットにとって救いでもあった。

―――――これだ、これなのだ!

ラファイエット家ではなくジルベール個人としての評価。
自分だけが実感することのできる戦士としての力量、指揮官としての実力。
それこそがラファイエットがもっとも求めてやまぬ自分個人だけに与えられた名声だった。
若くしてラファイエット家を継いだジルベールは貴族ラファイエットに対するものではなくただ一人の青年ジルベールに対する評価にこそ飢えていた。
家柄ではなく個人、神ではなく理性、そんな啓蒙思想に彼が傾倒していくのは理の当然であったと言えるだろう。

「待っていろ、オレが、このラファイエット侯ジルベールが君たちを自由の新天地に導いてみせる」

世界史上類を見ない人民による人民のための人造国家。
まるで夢を見る少年のようにジルベールは頬を紅潮させまだ見ぬ栄光を幻視していた。
そして彼の発する巨大な熱気はいつしかラメー兄弟をはじめとした啓蒙派貴族たちに伝播していく。
いつの世も理想に向かって走る知性ある青年こそが時代を動かす原動力になるのは変わらない真実なのだから。


―――――――問題は彼らの若さゆえに、始めることは為しえても終わらせることが困難なことなのだが。






「すまんがこのとおりの痛風でね。悪いが寝たまま失礼させてもらうよ」

老人が身を横たえたベッドは素朴な造りながら名匠が手を施したと思われる細工が随所に見受けれらる高価なものであった。
巨大なベッドに埋もれるようにして老人はわずかに視線をあげることで客人に答えた。
飄々と微笑しながら見つめる瞳は穏やかでとうてい彼がついこの間まで国家の一線にたって内外の敵を戦ってきた闘士とは思われないほどだ。
しかし知性に溢れる透徹した瞳はどんな小さな嘘も見逃さないであろうことを客として訪れた男は十分に知っていた。
外交官であり、スパイでもある男にとって目の前の老人は幾度も煮え湯を呑まされてきた宿敵でもあった。

「お身大切に。いまだイギリスにとって伯はなくてはならぬ重鎮でございます」
「ふん………国王にうとまれた隠居にすぎぬよ」

自嘲とともに老人は深いため息をつく。
彼の能力と識見が決して隠居のそれでないことは彼自身が一番よく知っているのだ。

「そんなことを言っても誰も信じますまいよ。チャタム伯ウィリアム・ピット殿」
「前置きはいい。新しい主人が頭でも撫でてくれたか?シャルル・デオンよ」

今年47歳になるとは思えぬ若々しい美貌でデオンは老人の鬼気迫る重圧をものともせず不敵に笑った。
ふくよかで卵型の顔立ちがまるで貴婦人のような艶やかさである。
それもそのはずシュバリエ・デオンは常に女性であることを疑われているという稀有な外交官であった。
後世にデオンの騎士という戯曲にも描かれることになる彼は前半生を男性として、後半生を女性として生きたという世界史においても稀な人物である。
もともと女性と見紛うばかりの美貌に恵まれていた彼が性別を疑われるもとになったのは、その美貌を利用してロシア皇帝の女官に化けて潜入したという武勇伝に基づいている。
もっともこれは本人が主張しているだけなので真実かどうかは定かではない。
時に雄弁であり、時に娼婦のように官能的な彼は優秀な外交官であったが、同時にフェンシングの達人で決闘を申し込まれて敗北したことはついに生涯なかったという。
1774年ルイ16世に対し自分は女性であると主張し、ドレス代を支給されるかわりに女性として生活することを命じられた彼は以後の生涯を女性として生き続けた。
それは革命によって王室が滅んだ後も続き、年金を失ってフェンシングの見世物をするまでに落ちぶれたものの、美しいドレスを身にまとって試合をする老婦人を誰も
負かすことはできなかった。
世界史上初めて明らかになった性同一性障害の例としてあげられることも多く、性同一性障害という言葉の認知度の低かった時代にはエオニズムという独特の用語が彼のために
生み出された。
しかし彼の死後解剖された彼の体は紛れもなく男性のものであり、ただし体毛が薄く、胸もいささか膨らんでいたという解剖所見が現在も残されている。
結局生涯ともにしたのはいずれも女性であり、性質の悪い性癖の持ち主であっただけという意見もないわけではない。



シャルル・デオンがどのような性癖、あるいは身体的疾患を抱えていようとも現在の彼はルイ16世のために働く一外交官であった。
昨年フランスへの復帰を願った自分に対してルイ16世陛下は手厚い歓迎をもって迎えてくれた。
ほとんど嫌がらせのような仕打ちを受けたルイ15世と本当に血が繋がっているのかと疑ってしまうような厚遇であった。
すでに彼にはシュバリエという騎士号ではなく男爵位が約束されており、対イギリス情報網の指揮官としての手腕が今まさに彼に期待されていた。
一流のスパイとしてロシアやスペインを相手どって活躍したころの血潮の熱さが老いた彼にもようやく戻ろうとしていた。

「ジョージ三世陛下におかれてはいささか植民地を甘く見すぎではございませんか?」
「陛下が、ではない。無能な内閣の責任じゃ」

吐き捨てるようにピットは呟く。
憤懣やるかたなく顔が紅潮しているところを見るとよほど鬱憤がたまっているらしい。
もともと熱い政治家ではあるがポーカーフェイスを重んじるイギリス貴族としてはごくめずらしい光景であることは明らかだった。
チャタム伯ウィリアム・ピット。
大ピットとも呼ばれ7年戦争やフレンチインディアン戦争という国難を勝利に導いた稀有な政治家である。
能力主義により抜擢人事を行い、彼が見出した人物はジェームズ・ウルフやロバート・クライフ・ジョージ・アンソンなどイギリスにとってなくてはならぬ有能さを発揮した。
しかし勝利を目前にした7年戦争の末期さらなるスペインとの戦争を主張して国王ジョージ三世と対立し下野を余儀なくされた。
彼が首相を解任されたとき、当時フランスの宰相であったショワズールは「彼の解任は戦闘における2回の勝利に勝る」と独語したという。
現在は一議員として政界のご意見番のような地位にいるがその影響力はまだまだ衰えてはいなかった。

彼は部下であったジェームズ・ウルフからアメリカ植民地人の独立性と有能さを報告されていたし、年生産量を上げ続ける彼らが本国の都合のいいように税を納めるはず
のないことを熟知していた。
彼らは奴隷ではなく有能な経営者なのであり、経営のために政治力を駆使するのはむしろ当然のことなのであった。
確かに新大陸では巨万の富が生み出され続けている。
だからここから搾り取ってしまえばよいというのはあまりに浅はかな了見を言わざるをえない。
インディアンを死ぬまでこき使って金山を採掘させていた昔とは違うのだ。
一定の品質を保ったプランテーションや本国には及ばないが確実に産業革命へと発展しつつある北部の工業製品は決して無能なアウトローに為しうるものではない。
なめてかかっては大怪我をするのは火をみるよりも明らかであった。
にもかかわらず首相フレデリック・ノースも軍部のジョージ・ジャーメインも全く危機感に乏しいことがピットには歯がゆくてならない。

「海ならともかく陸において決定的な勝利を得ることは難しいでしょう。しかも植民地から入るべき税収がいっさい途絶え果たしてどれだけ戦費に耐えられることか……」
「嫌味でも言いにきたのか?」

デオンに言われるまでもなくそんなことはわかっている。
わかっているからこそこうして病床にありながらもピットは議会対策に余念がないのだ。


「いえ………ただこれだけを覚えておいて頂きたかったのです。我が主ルイ16世陛下はアメリカとの仲介の労を取る用意がある、と」

フランスの青年貴族たちが大挙して新大陸に押し寄せている情報をピットは知っている。
いずれフランスの参戦は避けられないものと覚悟していただけにデオンの言葉はまさにピットの意表をついた。

「今はまだ無理でしょう。しかし戦況が相応しいものになったとき、陛下の差し伸べる手をとっていただきたい。新大陸は………我がフランスにとっても劇薬なのです」

なるほど、とピットは首肯した。
イギリスですら現在の立憲君主体制を築きあげるのには多くの血を必要とした。
しかもその改革はいまだ途上にあり、現にジョージ三世が議会運営に口を出す現状では政治における国王の影響はあまりに大きい。
こんなときに本国に対して叛旗を翻した植民地が、王国の手を離れて彼らにとっての理想郷を打ち立てるというのは確かに劇薬にすぎる。
国王が主権者として専制政治を続けるフランスにおいてはさらにその影響は大きかろう。

「…………和平を仲介したとしてかの地に渡ったフランスの貴族たちをどうする?」

彼らが王命によって赴いたわけでないことはピットも熟知している。
当初は国家予算が逼迫するなかでの窮余の一策かと思ったが、本気で熱にうかされた青年貴族の暴走のようだ。
彼らが中途半端な和平を了として帰国する可能性は低いと言わざるを得ない。

「もちろん王命に従わぬ不届き者は追放されても文句はありますまい」

いささかの逡巡もなく言い放ってデオンはシニカルな笑みを口元に浮かべた。
彼らは国王ではなく理想に忠誠を誓っている。
王国の藩屏である義務よりも己の理想を貫くことに重きをおいている。
そんな輩にはまとめて消えてもらうことが望ましい。なまじ能力があるだけに彼らは王国にとって危険な存在だった。

潜在的に危険とはいえ平然と自国の貴族を切り捨てるデオンの言葉にピットはオーギュストが相当以前からこの事態を予想していたことを悟った。
即位してまもな若僧だが、なかなかどうして政治と言うものを知っている。

――――――政治の本質とは最大多数のためにいかに効率的に味方を殺すかという非常に高度な技術である。

切り捨てるべきものを切り捨てずしてより多くのものを掴むことはかなわない。
革命の嵐を一足先に体験したイギリス人は身に染みてそれを知っている。

「考慮に値する提案であることは確かだ。ふむ、……………貴殿の主が10年早く生まれなかったことに感謝しておこうか」

おそらくは最大級のピットの賛辞にデオンは華麗に腰を折り長く伸びたプラチナブロンドを揺らして一礼した。

「必ずや我が主に伝えましょう。反逆のラッパは老いてなおいまだ健在なり、と」




[20097] 第十九話  大陸からの風その4
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:4a992d35
Date: 2011/05/07 21:46
「そうか、あの老人はひとまず了承したか」



オーギュストは嘆息した。

大ピットことチャタム伯ウィリアム・ピットはもともと大陸植民地との融和論者であった。

しかし史実においてはピットのような融和論者は少数派であり、ノース首相をはじめとする強硬派によって大陸出兵は可決されイギリスはアメリカ独立戦争の泥沼に引きずりこまれていく。

鎧袖一触であると思われていた植民地軍の思わぬ抵抗によりイギリス軍は勝利の出口を見いだせぬまま一進一退の攻防がしばらく続いた。

アメリカ軍の善戦に勝機を見た各国はフランスを筆頭として続々とアメリカ側にたって参戦。

ついにはチェサビークにおけるフランス王国海軍の勝利と、ヨークタウンにおけるアメリカ合衆国軍の勝利を契機としてアメリカの独立が確定するのである。

そうした意味でフランスがアメリカの独立に果たした影響は極めて大きい。

だがアメリカの指導者たちがそれを感謝しているかというとそれほどでもないのが実情であった。

現に期待していた対アメリカ貿易においてフランスはみじめな惨敗を喫し、敗北したはずのイギリスが対アメリカ貿易の主導権を握るようになるのである。



―――――――つまるところアメリカ側にたって参戦して得られるものは少ない。



だからといって傍観するのは愚策である。

傍観することによって両者に感謝されるのならばよいが、たいていの場合傍観者は双方に恨まれる。

イギリスとアメリカを同時に敵に回すのはフランスにとって悪夢でしかない。

それでなくともフランスには稀代の名君フリードリヒ二世の率いるプロイセンという仮想敵国がいるのだ。

ではイギリスに肩入れすればよいかというとそれがそうでもない。

イギリスは歴史的な敵国であり、イギリスに尻尾を振ることは貴族も国民も簡単には許さないだろう。

ここで国民に対する王家の求心力が低下することは避けたいのが本音である。

結局双方に恩を売るかたちで和平を仲介するというのがもっとも現実的な政治的選択なのであった。



だがそのためにはアメリカに長期間独力でねばってもらうことが必要だ。

あっさりとイギリス陸軍にしてやられるようでは話にならない。

少なくともイギリスがこれ以上戦いが続くのはいやだ、と感じる程度の損害を与えてくれなくては。

しかしそのためにフランス王国が表立って援助することも、いずれ仲介を買って出るためにはできない相談である。

そのために生贄に選ばれたのが啓蒙派貴族であった。



神より理性を。

旧来の権威を否定し、人間に与えられた理性と知性によって人間を評価するべきという啓蒙思想は一見すると正しいことを言っているように思える。

しかし現代社会においてもいわれなき差別がなくならないように、人間は基本的に愚かな生き物である。

今ここで王室という権威を失い、権威という後ろ盾ない為政者がしかも集団で合議による統治を行うのは無謀以外の何物でもない。

政治は空転し、空転する政治は庶民を圧迫し、そして容易く為政者は恐怖による統治というもっとも簡易な統治方法へと手を伸ばしてしまう。

フランス革命を主導した英雄たちはその狂熱によって王家を打倒し革命を遂行したが、革命フランスをどう運営しようかという運営プランまでは持ち合わせていなかった。

人民の代表が国王を殺した。

しかし国民の暮らしは国王が統治していたころより遥かに悪くなった。

そんな事例はこの地球上で枚挙にいとまがない。

理想と善意では政治と経済を動かすことはできないからだ。

この悪しき世界では悪こそが根底原理であり、悪を許容できずして国家を担うことはできない。

しかし悪に飲まれたものは世界に流されることはできても世界を動かすこともできないのもまた事実。

悪を体内に受け入れてなお決して揺るがぬ信念と自身がないかぎり世界は決して未来への扉を開こうとはしない。



オーギュストは己の器の限界を感じていた。

結局のところ自分はフランスを破局から救えなかった三流政治家。

未来知識によってアドバンテージは得ているものの人間としての本質は決して変わることはない。



「彼らの大陸進出を後押ししましょう。陛下もそれを承知しておられる、そうデュ・バリー夫人たちに囁かせるだけでそれも容易いかと」

「しかしそれではフランスが大陸に肩入れしていると見られるぞ。それにあまり貴族たちに大陸の風を感じてほしくない」



アメリカ独立という夢は麻薬だ。

人民の人民による人民のための政治というジョン・ウィクリフの言葉は繰り返し政治家によって引用される稀有な名言となった。

その政治体制を体現するアメリカ合衆国の独立が現在の啓蒙思想家たちをどれだけ熱狂させるか見当もつかない。

だからオーギュストは仲介という形でアメリカの独立を出来るだけ引き延ばそうとしたのだ。

しかし妻の言葉はオーギュストの予想のさらに上をいった。



「このさい不穏分子には出来る限り国内から出ていってもらいましょう。ついでに資産もすり減らしてくれるとさらに結構ですね。どうせ使い捨てるのですから構わないでしょう?」



シャルロットはラ・ファイエットを初めとする啓蒙派貴族をこの期に乗じて一掃するつもりでいた。

彼らは理性を重んじるといいながら、その実理想のために理性を侵食されている。

いつの世でも理想主義者こそが最も残虐な差別主義者になり果てるのだ。

そんな人間はフランス王国には必要ない。



「彼らを処分すれば彼らほどに急進的ではない協力的な進歩派貴族まで敵にまわすぞ?それにいくらなんでもあまりに恣意的な処罰はできん」

「…………海を渡ってまで理想を貫こうとした彼らが和平の仲介に応じると思いますか?」



身重の身体をゆすって楽しそうにシャルロットは口元に手のひらを寄せてクスクスと笑った。

知性的な形のよい唇から鈴が鳴るような可愛らしい声が漏れる。

妻はこう言っているのだ。

彼らは理想のために進んで王命にそむき処分の大義名分を与えるであろう、と。



オーギュストは両世界の英雄と呼ばれたラ・ファイエットに親近感を感じていたし、彼の動物的な嗅覚と朴訥な人柄に好感を抱いていた。

無意識のうちに歴史知識がオーギュストにその人物に対する予断を与えていたものらしい。

馬鹿げたことだがこちらが向こうの事跡を知っていたからといって向こうはこちらを何も知らないのだ。

勝手に親近感など抱くほうがどうかしていた。

ところでラ・ファイエットは現代フランス共和国海軍の最新鋭ステルスフリゲートのネームシップでもある。

現在もなお彼の朴訥で理想に殉じた生き様はフランス国民に好意をもって受け入れられている証左と言えよう。

その彼を処断する―――――。



「新大陸で彼らが得た経験を持ち帰らせるのは危険です。追放のうえ所領没収が妥当かと」



私はなんと凡人なのだ。

この二度目の生を与えられた時、我が名のもとに新たな人血が流されることを覚悟したではないか。

たかが歴史上の偉人を処断するというだけで躊躇してどうする?



「よかろう、しかしまずは彼らの影響が進歩派貴族のどこまで及んでいるか見極めてからだ」

「………………そうですわね、貴方。デュ・バリー夫人たちにも言い含めておきましょう」





正しい。

妻は全く正しい。

あるいは妻に政治の一切をゆだねてしまったほうがフランス王国は隆盛を極めるかもしれぬ。

だが彼女の欲しいままにさせていては自分は、フランスは、失ってはならぬ大切なものを失ってしまうような、そんな予感がある。

それにしてもなんたることだ。

私は愛する妻に政治家として嫉妬している――――――!!











「ルイ16世の腹のうちはわからぬか、なんとも食えぬ男よ」



細面の容貌のなかで爛々と輝く大きな瞳だけが異彩を放っている。

彼こそがプロイセン王国国王フリードリヒ2世その人にほかならなかった。

7年戦争で奇跡的な勝利を拾った彼は、いまだプロイセンの国力がフランス・オーストリア両大国に及ばないことをよく承知していた。

後世に名君として名を残すフリードリヒ2世だが、もしもロシアのエリザベータ女帝が頓死しなければ後世の評価は逆転していた可能性が高い。

当時の世界大国であるフランス・ロシア・オーストリアを敵に回して戦争を挑むのはむしろ無謀と評されるべきであり、遠距離にある同盟国イギリスの支援だけでプロイセンを防衛するのは通常に考えて困難なのは明らかだった。

しかし小国の連合国家であるプロイセンが将来的に統一ドイツとしてヨーロッパの強国の一角を占める地位を得ることができたのは一重にフリードリヒ二世の決断によるものである。

だが必ずしもフリードリヒは国家の将来をみこして賭けに打って出たわけではない。



「何も手にせぬまま無為に死んでたまるか!」



プロイセンという小国が生き延びるためには確かに周囲の小国を呑み込み自らが大国にのしあがる必要があった。

しかしフリードリヒをして冒険に踏み切らせたのは父に対する反感と今は亡き親友に対する誓いによるものだ。

かつてフリードリヒにはハンス・ヘルマン・フォン・カッテという親友がいた。

1730年8月、フリードリヒはイギリスへの亡命を試みている。

知性と芸術を重んじるフリードリヒは実利主義者である父からうとまれ、直接的な暴力を含めた虐待を受けていた。

たび重なる虐待に耐えきれずイギリス王家との縁談を機会に亡命しようとしたフリードリヒに協力したのがこの当時少尉であったカッテであった。

あの日の柔弱な自分を思い起こすたびにフリードリヒは情けなさに震える。

カッテは亡命に反対していた。

次代の王は自分以外にはありえず、今は自重して機会を待つべきであると幾度にもわたって説得してくれていた。

にもかかわらず亡命を強行したあげく、カッテはフリードリヒの目の前で処刑された。



「許してくれ。愚かな私を許してくれカッテ!!」

「私は貴方のためなら喜んで死にます。貴方は私にとって命を賭けるに相応しいかけがえのない主君なのですから」

「誓う……誓うぞカッテ!オレはお前の言葉が正しかったことを証明してみせる!」



逆境から逃げた自分の愚かさがかけがえのない親友を死なせたことでフリードリヒは変わった。

兵隊王とあだ名される父とは違った自分だけの手段でフリードリヒの名を世界中に轟かせなくてはならない。

そんな彼の懊悩が彼をして勝算の薄い博打に走らせたのかもしれなかった。

平和が訪れたあとの彼が臆病とも言えるほど慎重な外交政策を実施し、オーストリア以外の各国に融和政策を取り続けたこともその予測を裏付けているともいえる。









「早く死んでくれんかな?あのクソばばあめ。よくよく我が国に祟ってくれる………しかも娘までとはな」



いまだオーストリアとの間で潜在的な闘争を続けているプロイセンにとってフランスの動向は常に重要な関心事であった。

しかも現国王ルイ16世は国内の政治改革を遂行しつつあり、王太子時代からの成果を含めてフランスは農工業ともに順調な発展を続けているかに見える。

その国力が自国に向けられるとすればそれは悪夢だ。

フランス王国内で国王に対する影響力の強いハプスブルグの怪物マリー・シャルロットあるかぎりその可能性は高かった。



そもそも7年戦争ですらフランスがルイ14世当時の全盛期であったならばプロイセンの敗北は免れなかったであろう。

もちろんフリードリヒは錯綜する国際情勢を理解していたし、徹頭徹尾利用もした。

結果からみればプロイセンが勝利したように見えるが、現実にはただ三大国が戦争の継続を断念したにすぎない。

しかしフリードリヒは勝利を盛んに喧伝することで東欧の小国にすぎなかったプロイセンの国際的地位をオーストリアと並ぶまでに引き上げることに成功したのである。

とはいえ7年戦争がもたらした損害は大きくフリードリヒはまず国力の回復に専念しなくてはならなかった。

国力の余力と言う意味ではなおプロイセンよりオーストリアのほうが大きな余力を残していた。



「このままフランスが新大陸で泥沼にはまってくれれば僥倖だが…………ふん、あまり期待しすぎぬほうが無難か」



オーストリアではマリア・テレジアとの共同統治というかたちでヨーゼフ二世が積極的な改革を推進している。

意欲ばかりが先行していてなかなかに成果が出せずにいるようだが、彼がプロイセンへの報復を企てていることは想像に難くない。

そのもっとも有力な同盟国となりうるのがフランスであった。

正直フリードリヒは内戦作戦で機動戦を戦うかぎりオーストリア単独を相手に敗北するとは思っていない。

フリードリヒが鍛え上げた軍組織は今もなおヨーロッパ有数の精強さを保っていたからである。

しかし同盟国フランスの財政が破たん寸前から回復し、長期の出兵に耐えうるとなれば状況はまるで逆転するだろう。

現在のプロイセンに長期戦を戦う財政的余裕はないのだから――――。



「それで?ルイは今度はいったい何を始めたというのだ?」



フリードリヒは不機嫌そうに報告の続きをうながした。

対フランス諜報の責任者であるレンテンベルグ男爵は冷や汗を額ににじませながらフリードリヒの問いに答える。



「ひとつはシャルル・デオン男爵を中核とする情報省の設立、そしてもうひとつなのですが………近衛連隊の連隊長がケレルマンからジャン=マチュー・フィルベール・セリュリエに替わりました。どうやら新たな組織を任されるようで」

「国王直属の連隊長を替えてまでいったい何をやらせるつもりだ?」



先年のラ・ボーギュヨン公の反乱鎮圧などに力を発揮した近衛連隊は国王にとってなくてはならぬ切り札だ。

王室に直属した近衛という固有の武力あればこそルイ・オーギュストはこれほど強力に改革を推進できたのである。

その国王の信頼も厚いケレルマンが実行部隊の長をはずされるということはよほどの重大事があると見ざるを得ない。







「それがなぜか建物にこもって研究するだけの閑職らしく……………よくはわかりませぬが参謀本部と名付けられたとか」






[20097] 第二十話  大陸からの風その5
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:987a5602
Date: 2011/05/29 18:05


「おいおい、オレには武器の湧き出る魔法の壺はないんだぜ?」



ワシントンは呆れたように肩をすくめて盟友ジョン・アダムスをにらみつけた。

大陸会議においてアメリカ植民地軍の総司令官に任命されたワシントンの最初の大仕事は膠着するボストン包囲戦の打開であった。

ところが現場に赴いてみれば民兵の練度は低く規律の保持もままならないばかりか武器弾薬も不足していた。

にもかかわらず独立の熱に浮かされて民兵の士気だけは軒昂なのがまた厄介である。

こうした狂熱は短期戦では大きな力となるが、長期戦においてはむしろ足かせとなることが多い。

やはり総司令官就任を受け入れたのは間違いだったかとワシントンが後悔するのも無理からぬところであった。



「いちおう我が国でも武器の国産化は開始している。しかしもっとも手っ取り早いのは輸入するか敵から奪うか、ということになるだろうな………」



ジョン・アダムスは植民地軍の欠点を正しく洞察している。

ほとんどの民兵は独立によって宗主国イギリスからの重税から解放され、生活が豊かになるという動機から戦争に参加している。

そのため自分の土地を守るためには勇敢だが、遠征して正規戦を戦うには消極的であった。

しかも組織戦闘の知識はなく、損害を許容することのできる限界も低い。

装備の多くは民兵が自弁で持ち寄った小銃で、その小銃ですら弾薬の量は数日分を超えることはなかった。

これで勝利しろというほうがどうかしている。



だがワシントンやアダムスのようには考えない人間もいる。

彼らは民兵が独立の理想を正しく理解し、その理想に殉じる勇気があると本気で信じていた。

現に数字のうえでは植民地軍の参加者はイギリス王国軍を大きく凌駕しており、心配していた国内における対イギリス恭順派(ロイヤリスト)は非常に少数にとどまっていた。

理想主義者である彼らは士気と人数によってアメリカ独立を達成できることを疑っていなかったのである。



「小才子が、………これだからオレはインテリが嫌いなんだ」

「まあ、そういう側面があることは否定しないがね」



ワシントンは決して無学ではない、むしろ当代でも一級の知識を有していたが、その興味は測量を初めとする実学に向けられていた。

なんといっても理想で飯は食えないのだ。

アダムスもまたインテリでありハーバード大学を優秀な成績で卒業した男ではあるが、彼は理想と現実の整合性というものを熟知していた。

だからこそインテリでありながらワシントンの信頼を勝ち得たともいえる。

虚栄心旺盛でプライドが高く喧嘩っぱやい男であるが、そうした人間味が逆にワシントンの気を引いたのかもしれなかった。



「いずれにしろこのままでは戦えないぞ?それともこれはオレを更迭するための罠か?」

「勘弁してくれ。頭でっかちに戦争させたらどうなるかわからない君ではないだろう?」

「ふん、オレはいつうちに帰っても構わないんだがな」



冗談ではなく真実ワシトントンはそう考えていた。

何せ彼は大陸軍の総司令官としてボストンへ向かうまでの一定期間、ボストンで発生した戦術的敗北―――バンカーヒルの戦いについて情報を教えてもらえなかったのだ。

ゲイジ将軍率いるイギリス軍はボストン包囲を突破こそできなかったものの、チャールズタウン半島を占領し自軍に数倍する損害を大陸軍に強要した。

大陸軍の損失は多いところで四割を超え再びイギリス軍が逆撃に出てきた場合、突破を阻止することは困難であると思われた。

もっともこれはイギリス軍も手ひどい損害を受けていたために杞憂にすぎなかったのだが。



やはり正規軍は手ごわい。

正々堂々と戦っていれば最終的な大陸軍の敗北は明らかだ。

しかしワシントンの推奨するゲリラ戦による消耗戦略は上層部で決して正しい評価を得ているとは言いがたかった。

その最先鋒がアダムスの又従兄弟であるサミュエル・アダムスであるというのは運命の皮肉というほかはない。

地方分権支持者である彼はアメリカ合衆国における強い中央政府の現出を警戒していた。

そのため強固な統一軍を組織しようとするワシントンとは何かと衝突することが多かったのである。

軍隊とは上意下達組織であり、水平的な連合組織ではありえない、またあってはならない。

政治家であり理想主義者であるサミュエル・アダムスにはそのあたりのことが理解できないらしかった。

この傾向は第三代大統領に就任するトマス・ジェファーソン周辺の大陸会議多数派においても顕著であり、ワシントンとしては十分に辣腕を奮うことすらできない状態にあったのである。



「まあそう腐るな……それに朗報がないわけじゃない。表だって参戦してくれたわけじゃないがフランスから貴族たちが傭兵と物資を積んで来てくれるらしいぞ」

「フランスのお貴族さま………ね。あちらさんが正規軍を派遣してくれればオレも肩の荷が下りるんだがな」



傭兵の戦闘力はやはり正規軍に及ばない。

練度の低い新兵であればむしろ傭兵のほうが心強いのは確かだが、熟練した正規軍は集団戦闘においては無類の力を発揮する。

これが有能な将軍に率いられるとそれはもう悪夢だ。

フレンチインディアン戦争において当初有利に戦局を進めていたフランス軍を恐怖のどん底にたたき落としたジェームズ・ウルフ将軍をワシントンはいまだ鮮明に覚えていた。

残念ながら現在のアメリカに彼に類するような勇気と識見と勘を兼ね備えた人材は見当たらない。



「そう馬鹿にしたものでもないらしいぞ?一応軍の士官教育は受けているし、若いが勇猛という噂だ」

「おいおい、若いっていくつだよ?」

「………確か18歳だったかな?」

「冗談じゃねえ!まだ毛も生え揃わねえ餓鬼じゃねえか!」





この戦争を子供の遊び場にされては死んでいった兵士たちに顔向けができない。

ワシントンは実利主義者ではあったが、同時に情誼には厚い男でもあった。

英雄を夢見る幼い貴族が権力を振りかざして新大陸で冒険を楽しむなど想像しただけで鳥肌が立つ。



「……………心配はいらん………煮て食おうと焼いて食おうと好きにしろとのお言葉だ」

「……………今何と言った?」

「彼らは捨てられたのだよ、都合のいい生贄として。もっとも彼らは祖国に捨てられたことに気づいてはいないだろうが………」

「ふん、全く結構なことだ………反吐が出る」



おそらくは潜在的な敵対勢力を新大陸ですりつぶそうとしているのだろう。

イギリスとのたび重なる敗戦で疲弊したフランス王国が財政再建のために貴族たちと対立していることぐらいはワシントンも承知していた。

オーギュストの立場を考えれば十分に理解できる施策だ。

だが純真であろう若僧を騙して死地に送り込むのはワシントンの美意識に著しく反する行為であった。



「気に入らねえな」







そんな会話が行われていることも知らずラ・ファイエットは見えてきた海岸線を見て期待に胸を膨らませていた。



「あれが………あれが新大陸………!このオレの戦場か!」



ラ・ファイエットの白い頬が興奮で赤らんでいく。

このきらめく瞳と素直な喜びの表情を見たならばワシントンの懊悩はなお深くなったことだろう。

子供の遊びと言われても仕方のない貴族ならではの虚栄心が透けてみえるようである。

しかし決してそれだけでないものをラ・ファイエットは確かに所有している。

少なくとも勇気と戦意において彼が大陸軍の兵士に勝るとも劣らぬことだけは確かであった。













パリは王太子ルイ・ジョセフ誕生の報に湧いている。

連日市内では振る舞いのワインが配られ、市民は開明君主であるオーギュストの血脈が継続したことに快哉を叫んでいた。

1776年初頭、豊作であった小麦を惜しみなく放出したこの祝典に国民は熱狂したと言ってよい。



「国王陛下万歳!」

「王太子殿下万歳!」

「王妃殿下万歳!」



窓の下に喝采を叫ぶ市民を見下ろしながらジリジリした焦りに身を焦がすものもいる。



「このままオーストリア女の血が王家を継いでしまうというのか………」



瀟洒なサロンに集まった顔ぶれは見るものが見れば驚愕すべきものであった。

王弟であるプロヴァンス伯にアルトワ伯に国土の5%を所有するフランス最大の富豪オルレアン公の長子であるシャルトル公ルイ・フィリップ………いずれも王位継承権の上位に名を連ねる者たちである。

彼らは王太子誕生の祝辞を述べるためという建前でパリに集まり互いに接触を図ろうとしていた。



「今となってはラ・ヴォーギュヨンの暴発が惜しまれるな。あのときもっと手を広げて貴族の支持があれば国王を打倒することは可能だった」

「それでは今は無理だと………?」



二十歳になったばかりのプロヴァンス伯にフィリップは残念そうに首を振ることで答えた。

小心だが理性的でもあるこの王弟をフィリップは買っている。

操るには都合のよい程度の器量といってもいい。



「たかが一連隊程度の近衛を恐れていては何もできますまい?フィリップ殿だけでも優に二万程度の兵は集められるはず!」



対するアルトワ伯はいささか直情にすぎる。

先年ラ・ヴォーギュイヨンは四万弱の兵を催したのだ。

それが手もなく半個連隊程度の近衛に粉砕された。いや、パリ市民という数十倍の敵によって蹂躙されてしまった。

もし尋常な戦いでパリを落そうとするならば、それこそ十万の兵力があっても決して油断することはできない。



「よろしいかアルトワ伯。現在国王を守る盾は近衛のみにあらず、このパリ全体が国王を守る強力無比な盾なのです。あの市民たちをみなさい。彼らこそがラ・ヴォーギュイヨン公の野望をくじいたのですぞ」

「豚どもめ……!兄上が甘やかすからつけ上がるのだ!」



吐き捨てるように言ってアルトワ伯は眼下の市民の群れを見つめた。

数えるのも億劫になりそうな人の群れがモザイクのように複雑な色彩をパリの街路に描いていた。



「正面から戦おうとすれば敗れるのはこちら…………ならば搦め手を使うほかありますまい」



フィリップは口の端を歪めて嗤った。

思わずプロヴァンス伯とアルトワ伯が背筋に冷たい汗をかくほどの冷たい嗤いであった。

自分より誰よりこのフィリップこそが国王を倒したがっていることを二人は身にしみて体験したのである。



オーギュスト………お前が憎い。

父にも母にも必要とされず取るに足らない存在であったお前が今や国王として国民の称賛を浴びているとは―――。

それは本来お前の物ではなかったはずなのだ!



アンシャンレジームは命数を使い果たそうとしている。

しかし次代の政権を担うべき市民はあまりにもぜい弱な存在だった。

だからこそ知識と経験と資産を兼ね備えた自分こそがフランス王位を継ぎ新たな権威の再構築をすることができると信じた。



第一身分と第二身分への課税と第三身分の権利拡張

産業の育成と国力の増進

王権の強化とそれに伴う強権の行使

第三身分の行政参画とそれに伴う教育の拡充



どれもフィリップが理想とし、いずれ施行しようとしていた政策であった。

市民こそ真の主権者であるという啓蒙思想が現実に運用されるにはまだ早すぎることをフィリップもまた正しく洞察していた。

王権を強化し、市民に力を付けさせゆっくりと社会構造を市民中心に造り変える。

そのための象徴的権威として王位は残し、この国を立憲君主国家に生まれ変わらせるのだ。

もちろんその中心にいるのはこのルイ・フィリップでなければならなかった。



本来自分が実行するはずであった施策

本来自分が浴びるはずであった称賛

本来自分が称えられるはずの歴史的評価



すべてはルイ・オーギュストの名のもとに収奪されフィリップの名はありふれた王族の一人として歴史に埋もれ省みられることはあるまい。





もしもフィリップが真実理想のために行動し、同じ理想を共有するオーギュストと手を取り合ったならばフランスの改革は十年早まったかもしれない。

二人の思い描く将来の国家像はそれほどに酷似したものであった。

だがフィリップはその功績をオーギュストに譲ることに我慢がならなかった。

オーギュストを陥れるためならば理想のほうを踏みにじっても構わない、それが人間フィリップの偽らざる限界というものであった。



「まずは風聞を流しましょう………王太子が王妃の不貞による不義の子であるという噂を…………そして来るべき日に備え同志の結束を固めるのです。国王の政策は必ずどこかで貴族か市民か、それともその双方か

大きな衝突を招かざるをえません。いえ、それ以前にも不安から疑心暗鬼に囚われるものが続出するでしょう………その機会を逃さず…………」



フィリップは顔をあげてプロヴァンス伯とアルトワ伯を見つめた。

今更逃げることは許さない、フィリップの目が無言でそう言っているように二人は感じた。

事実ここまで胸中を明かした以上フィリップは二人を逃すつもりはない、行き先が地獄の果てであろうと付き合わせるだけだ。





「国王ルイ・オーギュストを暗殺しこの国を救うのです」






[20097] 第二十一話 大陸からの風その6
Name: 高見 梁川◆e0f25296 ID:2220e12f
Date: 2011/06/12 10:42
「誰もわかっちゃいない!国王が尊い擁護者でなどあるものか………」



狂気を孕んだ瞳で独語する一人の男がいる。

牢獄というには豪奢すぎる十分に整った部屋ではあるが、男を中心とするその空間だけがまるで闇がわだかまったかのように暗い。

いまだ彼の名は世界に知られてはいないが、後世に人間の精神性のひとつの極を象徴する名に昇華する男である。

男の名をドナスィアン・アルフォンス・フワンソワ・ド・サドという。

サディズムの語源となった男であった。



「馬鹿め!馬鹿め!大馬鹿者め!」



彼の信じるところ人間とは悪を根源的に所有した生き物である。

啓蒙思想は人間の理性を尊く美しい存在であると説くが、あくまでも人間の本質は悪であり、人間の理性とは悪に傾倒することこそが正しい状態であると言える。

見てもみるがいい。

果たして聖職者のどれだけが色欲の罪を犯さずに生きているだろうか。

告解にくる夫人を犯し、あるいは修道女を手籠めにする高位聖職者など掃いて捨てるほどいるではないか。

貴族が世界にいったい何の貢献をして敬われるというのか。寄生虫のように貧乏人から金を無心する以外に能などあるまい。

見よ!この世界の現実を直視せよ!

悪徳こそが人間の、世界の本質、悪徳を極めることこそ本当の人間の悦び!

偽善者の仮面を捨てよ!今は隠している黒い欲情を解放することが、本当の自然人の解放なのだから!



「国王が慈悲深い羊飼いだからといってありがたがるなど愚の骨頂だ!幸せな羊の人生になんの価値がある!」



確かにサドの主張は一面の本質を突いている。

だからこそ彼の主張は抑圧された精神の叫びとして数多くの賛同者と研究者を惹きつけずにはおかなかった。

ロベスピエールを初めとする革命期の思想家たちは、身分ではなく人間の理性による美徳こそが人間としての貴賤を決めると信じていた。

そして理性こそは神に変わって世界を秩序づける至高の存在であることを疑わなかった。

専制政治に対する身分制度の打破として互いに人間の理性というものを捉えていながらも、サドと革命家たちの理性に対する回答は百八十度違う。

にもかかわらずサドの著作が革命を後押しする一翼となったのは皮肉なことと言わざるをえない。



「わからせてやる………人間がなぜほかの生き物とは違う特別な存在かということを…………!」



深夜だというのにサドの走らせるペンのスピードはますます速くなっていくようであった。

しかしサドは知らない。

彼の著作が王室の命令によりその発表が闇に葬られているということを。

そしてサドの暴虐にもかかわらず無私の愛情を注ぎ続けていると信じた良妻ルネがそれに協力しているということを。











参謀本部はナポレオンの登場以降、近代国家が国民皆兵へと突き進むなかで、肥大化した戦争を出来る限りスムーズに遂行するためプロイセンで発明された組織である。

平時から仮想敵との戦術を立案し、補給の体制と兵の動員、行軍と輸送の計画、街道の整備から国外からの輸入計画にいたるまで、およそ戦争に関係する全てを想定することが

彼ら参謀に与えられた膨大なデスクワークとなる。

その出現は戦争というものが一人の天才が指揮するだけでは制御が及ばなくなってきた証であり、ただ一度の会戦が戦争の勝敗を決することにはならない国家総力戦の萌芽をも意味していた。

こうした平時の努力こそが戦時の優劣を左右するのは大モルトケの戦争芸術とも言える普仏戦争を見れば明らかであろう。



「弾はいくらでも手配しますから射撃訓練は可及的速やかに実施してください。日々の訓練だけが兵の士気と練度を維持するのです」

「承知しておる。では新兵の装備の手配は頼むぞ」



さすがに今のフランスに国民皆兵の余力はない。

しかし堅実な経済の好調と王室直轄領の繁栄はフランス軍の近代化と組織変更を促すには十分であった。

そしていよいよと言うべきであろうか。

参謀本部の登場とともに新編の師団長として国王の息のかかった人間が登用され始めていた。

新編された師団長の名をジャン・バディスト・ド・ロシャンボーと言う。

アメリカ独立戦争に派遣されヨークタウンの戦いで決定的な役割を演じることになる彼は軍人の家系であるロシャンボー家に生まれた根っからの貴族であった。

その彼がオーギュストに忠誠を誓うわけはやはり職業軍人であることと無縁ではないだろう。

宮廷貴族のように放蕩の生活を送るものたちとは、第一線で軍務に就く軍人貴族は一線を画している。

彼らにとって職責を全うすることと国王への忠誠を果たすことは貴族としてのプライド以上に尊重すべき事柄なのだ。

もっともロシャンボーほどに優秀な職業軍人は数えるほどしかいないのも確かではあったのだが。



そして彼の副官としてシャルル・ディムーリエが准将として就任している。

フランス革命前期においてルイ・フィリップを推戴しようとして政権転覆を謀り失敗したディムーリエだが、ナポレオン出現前の王国将軍としては最優秀の部類に入る。

彼が失敗した理由は彼の作戦の失敗というよりは、不運なことにフランス史上でも屈指の戦術家であるルイ・ニコラ・ダヴーが革命政府を支持してディムーリエの前に立ちふさがったからだ。

もともと王党派としてブルボン王朝に忠誠を誓っていた彼だが、機会主義者らしく国民議会のダントンに近づくなどしており必ずしも王家にとって忠義の家臣というわけではない。

しかし少なくとも彼が現時点で即戦力となる戦術家であることだけは疑いなかった。



近衛連隊ばかりでなくついに陸軍の掌握に動きだした国王に貴族たちの動揺は激しい。

軍における士官の90%以上が貴族出身であるという事実は厳然として残されてはいるが、軍という暴力組織を国王に握られてしまった場合、平民たちと戦うための盾が自分たちには存在しないことに今更のように彼らは気づいたのである。



さらに貴族たちの恐怖を煽っているのが勝利の組織者たるラザール・カルノーだ。

すでにしてオーギュストの腹心の立場を手に入れたカルノーは貧弱であったフランス陸軍の装備に手を入れ食料事情を含めた改革を強力に推し進めていた。

ヨレヨレの軍服に自前で手に入れた穴だらけの靴、そしてパン一切れにすら不自由していた貧乏人の吹き溜まり………平時の陸軍とはそうした存在であったはずである。

ところが今は王室直轄領となっているベリー公領やパリから離れた田舎の農民を多く徴募した新兵は眩い軍服を光らせ軍靴の音も高らかにパリ市街を行進し、さらに豊富な弾薬で郊外の射撃場で連日訓練を繰り返していた。

万が一戦争が勃発すれば貴族の抱える私兵など鎧袖一触になぎ倒されることは明白であった。

新たに編成された師団の連日の猛訓練はその存在だけで貴族を十分恐れさせるだけの示威行動になっていたのである。







「新編のフランス陸軍の行動指針はモーリス・ド・サックス大元帥を参考とする」



参謀本部初代総長に就任したケレルマンは若い日に憧れたフランス大元帥サックスの著書を徹底的に師団の運営に生かすつもりであった。

派手な帽子は実戦には不向きである。

兵の訓練は実質的な戦闘能力を保つためには必須である。

兵のもっとも養うべき根本は脚力にこそある。

軍がもっとも重視すべき能力は機動力である。

ドラムで機動を統制するのは有効である。

長期戦で戦線が膠着すると火力戦は有効ではない。

など彼の記した著作には今後訪れる近代戦でも通用する数々の有用な提言が散見される。

ザクセン選帝侯の庶子という外国人でありながら彼がフランス軍の最高司令官に登りつめたのは伊達ではなかった。

ケレルマンは実戦の荒波で鍛え上げられてきたかつての上司の雄姿を今も鮮明に覚えていた。



それにしても、とケレルマンは思う。

この参謀本部という組織を考え出した国王には頭が下がる。

今は目に見えないがもし戦争になれば参謀本部という組織は戦争の概念を覆しかねない価値を孕んでいた。

これまでも軍部に兵站や作戦を扱う部署はあったのだが、しかし動員から戦場にいたるまでのグランドデザインを描く部署は存在しなかった。

地図を作製し、軍道を整備し、何人動員し、どこで集結させ、どこで戦うのか。

もしも敗北した場合どこまで撤退し兵を再編するのか。また援軍はどこから派遣するのか。

仮想敵国の動員能力は?機動能力は?継戦能力は?指揮官の性格は?兵の質は?

それらを統合的に分析し平時から作戦を練る。

もちろん仮想敵国は一国だけではなく、侵攻能力をもったあらゆる敵を想定して対処策をあらかじめ準備するのである。

まして近代戦では食料だけではなく銃と砲の運搬と弾薬の補充が必須であり、一個人の才能に頼るには戦争は巨大になりすぎようとしていた。

そうした意味でナポレオンという巨人は近代戦の初期に花開いた大輪の徒花であったのかもしれない。

いずれにしろフランス陸軍は総力戦による戦争のグランドデザインという明確な目標にむかって第一歩を踏み出した。

まだまだ運用上の問題は多いが、国王の影響力が増大すれば将来的にそれが解決されるのは明らかだった。

それにしてもルイ・フィリップを初めとする有力諸侯たちが現在参謀本部で立案されつつある国内統一戦の作戦案を見れば目をむいて卒倒するに違いない。

新編の師団は何よりも国内鎮圧戦を念頭において訓練されているのだから。



―――――あとは参謀をスタッフとして各師団に送り込み戦術上の縦のラインを作り上げれば完璧だ。



戦争とは血を流す政治であり、政治とは血を流さない戦争である。

後年クラウゼヴィッツは戦争論の中でそう記述するが、現実には第一線の将軍でそれを理解しているものは乏しい。

だからこそ中央からの統制によって現地の指揮官を暴走させないための手段が絶対に必要であった。

たったひとつの戦術的勝利が結果的に国家の敗北を招いた例は少なくない。

戦争とは終わる形を想定してから始めるべきものなのだ。

ケレルマンは手元の作戦書に目を落として薄く嗤った。

そこには「アメリカ独立戦争の長期化によるイギリス経済の衰退とフランス国内の再統一の可能性について」と記されていた。











いささか肥満気味の侍女が湯気と共に甘い香りを漂わせた紅茶を手にうやうやしく腰を折る。

その流れるような動作はあくまでも優雅で折り目正しく、誰の目にも侍女がよく躾けられたベテランであることを予想させた。



「本当に貴方は女装がお似合いなのですね、デオン男爵」



まるで愉快な曲芸師の芸でも見たようにシャルロットは目を細めた。

いかにもやり手そうな侍女の正体がいまやフランス情報省の長であるシャルル・デオンであることをシャルロットは知っていたのである。

というよりシャルロットがデオンをいまだベッドから出ることのできぬ自分のもとへ呼びつけたのだ。

決して余人にはわからぬように――――――。



「まあ、せっかく似合うのを利用しないのもどうかと思いましてね」



人によっては侮辱ととれなくもない女装が似合うという言葉にもデオンは悪びれない。

今までもこうして女装を任務に使うことは数え切れぬほどあったし、これからも利用させてもらうことになるだろう。



「貴方を使うわけにもいかないから女装の似合う男を数人選んで宮廷の警護に回しなさい。それから王宮に入る食料と料理人は必ず情報省の手を通して」

「―――――よろしいので?」



侍女に男をもぐりこませるなどとは前代未聞である。

また王宮出入りの食料を暴いたり料理人の身元を洗うのは既得権者である宮廷貴族の反感を買うのは疑いない。

もっともそれが有効な手段であることもデオンは認めていた。

自分が敵の立場であればやはりそこから標的をしとめようとするであろうからだ。



「陛下は強くなりすぎました。もはや敵は正面から陛下に歯向かうことを止めるでしょう。そして王太子が生まれた今、改革を止めるためにはただオーギュスト様のお命ひとつあれば足りるのです」



陸軍に浸透した国王の影響力を考えれば武装蜂起という手段を貴族たちが選択する可能性は限りなく低いものになろうとしていた。

ならば考えうるのは暗殺である。

宮廷に長い年月をかけて巣食った貴族の人脈と影響力は侮れない。

オーギュストは優秀な政治家であり組織者でもあるが、身体はごく平均的な成人男性を逸脱してはいなかった。

シャルロットに流れるハプスブルグ家の血が、ベルサイユ宮殿を蝕む暗い気配を敏感に察していた。



「王妃からの命令といえばそなたが蒙る実害もさほどではないでしょう。しかし暗殺という手段は何も毒や間諜だけが為しうるものではありません。引き続き情報の収集には全力をあげるよう」

「御意」



デオンとしてもルイ15世の不興を買った自分を男爵にまでさせてくれたオーギュストには恩を感じている。

現在の社会的地位を守るためにもまずオーギュストの命を守ることが先決であった。

それにしても………。



「御子を産まれ決して体調も優れぬというのに妃殿下におかれてはさぞご心痛のこととお察しいたします」



王太子の誕生は喜びだけを王家に齎したのではなかった。

赤子の王位継承者ほど操りやすい存在はいない。

ルイ・ジョセフの誕生によってオーギュストの地位はむしろ危険性を増したとも言える。

しかし反乱ではなく暗殺によってオーギュストの排除を図ろうとすることを見抜いたシャルロットの慧眼はやはり尋常のものではない。



「こういう裏方の謀は女のほうが察しのよいものなのよ………もしかしたら貴方が女性であるという噂もまんざら的外れではないのかしら?」



嫣然と微笑むシャルロットにデオンは悪びれもせず真っ向から微笑みを返した。

本当に男であるのか疑いたくなる慈愛と母性に満ちた妖艶な色気すら孕んだ微笑であった。



「それは殿下のご想像にお任せいたします」






[20097] 第二十二話 大陸からの風その7
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ff1cb4d3
Date: 2011/07/03 13:18
1776年4月―――――。

オーギュストの書斎を訪れた一人の紳士の顔色を見た瞬間に、それが凶報であることを洞察するには十分であった。

有能で闊達な情報大臣のデオンが顔色を変えるなど並大抵ではありえないことだからである。



「何があった――――?」

「……………してやられました。大法官モプー様がさきほど私邸にて暗殺されまして」



これまでオーギュストの行ってきた改革は、こうして情報大臣にシャルル・デオン男爵を据えるなどを含めて数限りないが、それもこれもオーギュストが史実と異なりパリ高等法院の復活を決して認めようとはしなかった

からこそ達成できた部分は大きい。

ルイ15世はその享楽さや定見のなさ、センスのなさによって王国に深刻なダメージを残したがたったひとつだけ重要な貢献をしてくれた。

それが高等法院の解体なのである。

フランス革命はあまりにも多様な利害がからみすぎているため真実を一点に集中させることが難しいが、革命の端緒のもっとも大きな責任は間違いなくこの高等法院にある。



高等法院というと裁判所のような漠然としたイメージを抱いている人も多いが、その実体は王権をおびやかす貴族による貴族のための特権擁護機関といってそれほど間違ってはいない。

あの太陽王と称されたルイ14世の治世から、明らかに衰退し始めた絶対王政を象徴するかのようなパンフレットが今もフランス国立図書館に残されている。

いわく、「国王は高等法院を通してのみ国民と契約を交わすことができる。王権と比肩する歴史を持つ高等法院は国家とともに誕生し、王権のすべてを代表するものである」

これはあからさまに王権と高等法院の序列を逆転させるものであり、ルイ15世が他の諸問題には目をつぶりながらも厳然として高等法院の解体に動いたのはむしろ当然のことと言わねばならない。

こんなことを言わせておいたら神から与えられた神聖な王権は空疎なたんなる飾りと化してしまうだろう。



しかし不思議なことに高等法院に対する民衆の支持はそれほど低くない。

高等法院を構成するのはほとんど全てが法服貴族であり民衆を代表するとはとても言えないが、それでも彼らは啓蒙思想を旗印としており言ってみれば流行にのっているという感があった。

彼らが旗印としていた啓蒙思想が国王の改革などよりよほど恐ろしい被害を彼らにもたらすのはもう少し先の話となるが。

史実におけるルイ16世は間違いなく国民のための改革を志していながらこれを高等法院に阻まれ、閉塞する経済状況に対する不満を巧妙に革命へとすり替えられてしまった。

イメージ戦略に失敗したといえばわかりやすいだろうか。



史実を知るオーギュストが高等法院の復活を阻止したことは当然である。

もしそうでなければ第一身分への課税すら実効させることは不可能であっただろう。

しかしかつて国王にも比類する強大な権限を掌握していた過去を忘れられない法服貴族たちは折に触れて復権を画策しており、その彼らにとって変わらず大法官としてオーギュスト支持を貫くモプーの

存在は目の上のタンコブどころではなかった。

なんといってもモプーはルイ15世に登用され高等法院を壊滅させた張本人なのだ。

本来新王の登場とともに表舞台を退場してしかるべきであるにもかかわらずのうのうと大法官の地位に居座り、法服貴族の復権を妨げ続けているのは国王の支持あればこそなのだが表だって国王批判が

遠慮されるなか、モプーへの敵意は法服貴族たちの間で抜き差しがたいところまで高まってしまっていた。



「モプーがいなくなったところで高等法院が復活することなどありえんのだが」

「それを理解できぬ愚か者が多うございまして」

「誰が殺った?」

「……法服貴族の若僧ですが………おそらく彼一人の決断ではありますまい」



このところ不平貴族たちの間で謀議が加速していることにデオンは気づいている。

しかし無数に存在する貴族たちの不満や陰謀から黒幕を特定し断罪することのできる証拠をあげることは至難の業であった。

おそらくはアルトワ伯やさらにそれ以上の大物、どこかでルイ・フィリップが糸を引いているのは間違いないだろうと想像してはいたが。



「モプーに追贈してその死に報いるぞ。次の大法官は宮内大臣をあてる」

「マルゼルブ様ならば間違いはないか、と」

「今度は殺されるなよ?」

「御意」



宮内大臣であるラモワミョン・ド・マルゼルブは法律家でありテュルゴーとも親交のある百科全書派の知識人である。

史実ではマリー・アントワネットの不興を買い、また進まぬ改革に嫌気がさし王宮と去るがルイ16世の裁判においては死を賭して国王の弁護にあたった気骨の士でもある。

死を賭したのは決して比喩ではなく、事実マルゼルブは家族もろとも断頭台の露と消えている。

ほとんど敵しかいない大法官の地位を引き継ぐにはこのうえない人材だ。



「―――――私も命の心配をしなくてはならなくなったか」



絶対王政という言葉の響きほどに王権とは強固なものではなく、ブルボン家はむしろ以前の王朝以上に暗殺の脅威にさらされてきたと言っていい。

宗教対立の渦中にあった初代アンリ4世がまず暗殺されているし、ルイ14世もまた暗殺の一歩手前で九死に一生をえた。

新教側としてフランス国王と争ったという過去を持つブルボン王家と貴族たちの関係はその成立の過程からいってもそれほど良好なものではなかったのである。

テロを肯定するつもりはないが今オーギュスト暗殺されれば改革はすべてご破算となってしまうことは避けられない。

そうした意味で暗殺という手段は卑怯ではあるが有効な政治的手段のひとつではあった。



「まったく……これが堂々と軍でも率いてくれれば何万いようと物の数ではないのだが」

「王宮の人間も現在情報省のほうで内偵を進めています………少なくとも宮廷内で暗殺だけは起こさせません」

「頼りにしているぞデオンよ」











「このままでは神の恩寵は廃れフランスから正義が失われてしまうでしょう」



国王に不満を抱いているのは何も法服貴族ばかりではない。

王国のなかに国外国家を形成している感のあるカトリック勢力もまたオーギュストには恨み骨髄と言ったところである。

その理由は第一身分である彼らにオーギュストが課税し、欲しいままに資金を融通することができなくなったことが最も大きいがそればかりではなかった。

もっと長期的な意味において、オーギュストの政策は教会の存在を根幹から揺るがしかねないのであった。

カトリック教会が地上における神の代行者として君臨し続けられたことは彼らが平民を愚かなままにしていた愚民政策によるところが大きいのである。

それがオーギュストは王国の各地に王立の学校を設立し平民の知識の向上を促すとともに平民による社会進出を推し進めている。

その流れはフランスの農村部にも及び始め教会はミサに訪れる信徒の確保に難儀するようになりつつあった。

さらに追い打ちをかけるようにオーギュストはナントの勅令を復活させた。

ナントの勅令とはブルボン王朝の初代国王であるアンリ4世が近代ヨーロッパでは初めて信仰の自由と権利を国王の名のもとに認めたもので、これによりプロテスタントはカトリックと同様の保護を

国家から受けられることになった。

1685年ルイ14世によって廃止され大量のプロテスタントの国外流出を招いたため、これがフランスの弱体化を招きフランス革命の遠因となったとさえ言われている。

時あたかも中世から続いてきた古き良き時代が失われ近代の新たな思潮が世界を席巻する過渡期である。

彼らが抱いた危機感たるや並大抵のものではなかった。

イギリスがイギリス国教会としてカトリックから独立し、スウェーデンのグスタフ・アドルフの例に居られるようにヨーロッパの覇権国家における新教の影響は絶大である。

いや、近代国家として成長していくためにはカトリックの旧態然とした権力機構は邪魔にしかならない。

科学の発展に迷信は邪魔であり、急速な科学や医学の発展は確実に教会の威信を下降させつつあった。

ラボアジェやディドロを初めとしたオーギュストのブレーンには科学者が多いことも彼らの懸念を加速させていた。

すなわち、ルイ・オーギュストはカトリック教会にとっての信仰の敵なのだ――――。



「擁護者殿も貴方がたと志しを同じくしておられます。事が成った暁には以前にもまして教会への敬意を表すことでしょう」



赤いチョッキが印象的な紳士は人好きのする上品な笑みを浮かべた。

本来であればカトリックがもっとも忌避すべき山師でありながら各国の宮廷で辣腕をふるってきた彼の交渉術と話術はまだいささかも衰えない。

魔術師に魅入られた生贄のように無防備な微笑を浮かべて司祭は華麗ともいえる手つきで男に向かって十字を切る。



「父と子と聖霊の御名において――――Amen。それでは擁護者殿によろしくお伝えを、サンジェルマン伯爵」

「今の私はサンジェルマン伯爵ではありません………これよりはラモーダンとお呼びください」

「これは失礼を。それではラモーダン伯爵に神の恩寵がありますように」



赤いチョッキの男―――サンジェルマンは擁護者……ルイ・フィリップが教会の権威など歯牙にもかけていないことを知っている。

もはや時代の流れにカトリックは合わなくなろうとしているのだ。

その流れは国王でもルイ・フィリップでも変えることなどできはしない。

しかしそんな骨董品に等しい彼らでも国王ルイ・オーギュストを殺し歴史を変えるだけの力がある。

サンジェルマンは新国王に即位したばかりのオーギュストに謁見したときの背筋も凍るような畏怖を忘れてはいなかった。

全てを見透かしているような透徹な瞳………。

サンジェルマンは不老不死の魔人などと偽っているが本当は錬金術師として知識が豊富であるだけのただの男である。

だからこそ知性において世界中の誰にもひけはとらないという自負があった。

各国の言葉を流暢に話し、哲学、経済学、科学、文学、音楽、数学どれでも一級の知識を有し、ラボアジェのような専門の天才はともかく総合の知識量で自分以上の男になど会ったこともない。

その自信が根こそぎ覆るような感覚をオーギュストに感じたサンジェルマンは逃げるようにヴェルサイユ宮殿をとび出していた。

あの男はこの世界にいてはいけない――――あれはこの世界のものとは何か違う存在だ。

いったんはロシアに逃亡したサンジェルマンがルイ・フィリップの門を叩いたのにはそうした事情が存在した。



「死ね………実を結ばぬ藁にように死ねオーギュスト。お前は歴史に名を残してはならないのだから」









「巡幸を取り止めるわけにはいきませんか?」

「宮内省が通達したことだし私は貴族と今全面的に衝突するつもりはないしな」



有力貴族はこぞって王太子の誕生祝いにかこつけて国王を招きその忠誠を示そうと晩さん会の開催に忙しかった。

ことが王太子誕生の祝いであるためにある程度以上の貴族の屋敷には挨拶に出向かなくてはならない。

それをキャンセルしようものなら今は国王派として改革に賛同している貴族でも間違いなく反国王派にまわるだろう。

いつか対決しなくてはならないと思ってはいるがオーギュストはわざわざ敵を増やす必要はないと考えていた。

それがシャルロットには歯がゆい。



「フランスの命運はただ陛下一人の命にかかっているのです。避けうる危険は避けなくてはなりません」



反国王派貴族が慌ただしいことにシャルロットが気づいていることをオーギュストは確信した。

いったいどこから情報を収集しているものか。

産後の肥立ちが悪く、起き上がれるようになったのはつい先ごろであったというのに相変わらずの妻の政治力には苦笑を禁じ得ない。



「調査には確実を期すように手配しよう………そんな怖い顔をしないでくれ愛しい人」



二児の母になったが嫁いできたばかりのころから全く変わることのないスタイルを保ち続ける妻の肩を抱いてオーギュストは唇を寄せる。

私は甘いだろうか?

確かに自分は国民の評判や人間としての道徳規範を気にしすぎるかもしれない。

それでも守るべきルールを守れない人生にいったい何の価値があるだろうか。

フランスの凋落の未来を救う。

そのためならばどんな卑怯な手段を取っても構わない………とはオーギュストは思わなかった。

人生とはどれだけ自分の意思を貫けたかで価値が決まる、と教えてくれたのは初めて政治を志したころの代議員だったろうか。

ならば妥協などしない。

自分の定めた最低限のルールを守りきり、同時にフランスの運命も救って見せる。

私が転生したことに意味があるとすれば、それは私という人格だけがこの世界に為すべき使命があるからということなのだろうから。



「………仕方ありませんね………私もそんな貴方を好きになってしまったのだから………」



吊り目がちな意思の強そうな眉から力が抜けて垂れ下がると途端に愛嬌のある柔らかな表情になる。

おそらくシャルロットのこの可愛らしい表情を知っているのはハプスブルグの家族を除けばフランスにオーギュストあるのみであろう。

暖かいシャルロットの華奢な腰を抱きよせてオーギュストはシャルロットの小振りの赤い唇を吸った。



「んっ………」



情熱的に求められたことで官能の火がついたのか、シャルロットのオーギュストの背中にまわしていた手にギュッと力がこもった。

どうやら久方ぶりの夫婦の夜はだいぶ遅いものになりそうであった。






[20097] 第二十三話  陰謀その1
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ff1cb4d3
Date: 2011/09/11 23:49

内戦によるクーデターが忌避された結果として貴族たちは高等法院の復活へと軸を移しつつあった。
その中心となるのはシャルトル公ルイ・フィリップであり、彼とその取り巻きは国王の持つ権力はあまりにも巨大にすぎ、その濫用を担保するための機関として高等法院は必要不可欠なものだ。
すなわちルイ15世の治世において失われた高等法院における法案の登録権の失効はそれ自体が無効であると主張したのである。
これは言ってみれば暴論であり、そんな主張が認められてしまえばいくらでも恣意的な主張がまかり通ってしまう。
しかし最終手段として高等法院が今までの国王が実行してきたすべての法案を無効にするというウルトラCは貴族たちに将来に対する光明を見させるには十分なものだった。

モンテスキューの唱えた三権分立論はこの時代それほど珍しいものではなくなっている。
なんといってもモンテスキューはボルドーの生まれであり、パリを活動の拠点としていて支持者も多かった。
絶対王政に対するアンチテーゼとして生まれたモンテスキューの思想それ自体は決して間違ってはいないのだが、それを利用とするのが貴族や現実から解離した原理主義者であるという点が問題であった。
彼らは法を口にはしても、その行動を律しているのは感情であり、野心である。
表だって法に対する国王の権威の優越性を主張することは彼らに正当性を与えることになりかねないだけにオーギュストは対応に苦慮していた。
史実でもそうであったが、貴族たちは自分の首を絞めているということに気づかずにいたずらに啓蒙思想を煽る。
その結果王権が打倒されれば次の生贄は貴族に向けられるというのは論理的な帰結であるはずなのだが、欲に曇った彼らの目にはそれが見えないらしい。
もちろんなかにはその危険を承知したうえで新たな権威を構築できると信じているものもいる。
しかし史実としてのフランス革命を知っているオーギュストに言わせればそれは痴人の妄想となんら変わるところはないのであるが。

「まったく………利口な馬鹿ほど性質の悪い奴もいないな…………」

現在のフランスの現状はカオスである。
第三身分の権利拡張を主張する啓蒙派や貴族の既得権を守る守旧派、アメリカ独立戦争への参戦を主張する派兵派、王権を制限するために議会の開催を模索する議会派など、己の派閥の最大限の利益を引き出すために
離合集散と談合が地下水系で互いに気づかぬほどに複雑なモザイクを描きだしつつあった。
静かで深い武力を伴わぬ戦いはますます熾烈になろうとしていた。





「本国は我々を見殺しにするつもりか!」

ラファイエットは激昂しつつ大きな羽飾りのついた帽子を地面にたたきつけた。
英雄となることを志して降り立った新天地の現実は、ラファイエットの描く希望を大きく裏切るものであったと言ってよい。
アメリカの大地を踏んだフランス貴族はラファイエットを初めとして数十人に及ぶが、その実態は私財を投入した傭兵の寄せ集めである。
とうていイギリス正規軍との正面決戦に使える兵力ではありえない。
論理の帰結としてラファイエットたちは、イギリス正規軍との交戦を回避し補給線と叩くという地味で名誉とは程遠いところにある戦いを強いられなければならなかった。

「せっかくボストンを陥落させ士気も盛り上がってきたというのに………」

1776年3月、籠城と続けるイギリス軍を見下ろすドーチェスター高地に大砲を運び込まれたのを知ったイギリス軍指揮官トマス・ゲイジ中将はこれ以上の抗戦を断念した。
ボストンを明け渡したイギリス軍はハリファックスへ船で移動。これによりワシントンはニューヨーク市を守るために大陸軍を派遣せざるをえなくなる。

しかしそんなことより懸念すべき問題は大陸会議の迷走である。
長い間に及んだボストン包囲戦で沈滞する士気を回復し、イギリスの政治的フリーハンドを奪うという名目でカナダ侵攻作戦が実施されていた。
カナダという他国へ侵攻したこの作戦は初期にモントリオールを陥落させて以降はさしたる戦果をあげることもできずいたずらに少ない兵力を浪費させる結果に終わった。
何よりもアメリカに同情的であったイギリス世論がアメリカのやりすぎによって一斉に戦争容認へ転じたことはワシントンをして一時は大陸軍司令官の辞任を決意させるほどの出来ごとだった。
最終的にイギリスの首都を陥落させるような真似が出来ない以上、この独立戦争は最初から条件闘争なのだ。
そしてその交渉には世論が有形無形の影響を与えることになる。

「今は負けないことのほうが大事なんだ。オレたちが負けずに戦力を保全しているだけで奴らは衰える」
「しかし司令官殿……!それでは独立はいつの日になるかわかりませんぞ!?」
「…………それでも負けるよりはマシなんだ。帰る場所のある侯爵にはわからんかもしれんがな」

正直司令官就任を引き受けたのは失敗だったとワシントンは考えていた。
もともと本国からの不当な課税に抗議する形で始まったはずの戦争は、いつしか人類が専制君主から人民の自由を奪い返す啓蒙思想の象徴として内外から注目を集めている。
目の前の善良な英雄願望の侯爵もその一人である。
しかしワシントンに言わせれば自由では飯は食えないのだ。
人民が求めるのはまずパンであり、将来に対する希望であり、法律上の公平性であるとワシントンは信じていた。
それがどう解釈すれば自由のために命を投げ出すという話になるのだろうか。
まあ、理想に殉ずるのは人それぞれの自由だが、それに付き合わされる国民はたまったものではない。

「―――――司令官殿は私を愚弄するおつもりか?」
「いや?むしろ侯爵様には感謝してるぜ?遠い他国の勝算の薄い戦いに本気で手を貸そうとしてくれてるのは実際侯爵様たちぐらいなもんさ。ただ戦うための理由が違うってだけで」
「戦うための理由?この戦いは自由を求めるための聖戦ではなかったのですか?」

なんのてらいもなく自由を求めるために命を張ってのける。
愛すべき坊やだ。少なくとも議会の壇上でしか雄弁に語れないエリートどもよりはずっと好感が持てる男だ。

「自由は生きるための方便にすぎない。大事なのは生きるための努力が報われるってことさ。もしも自由が人民を苦しめるなら―――――――自由はオレの敵となる」

このままフランス政府の全面的な介入が見込めないのであれば戦争を勝利で終わらせることは限りなく困難になる。
残念なことにアメリカ大陸軍には海軍力というものが皆無に等しい。
もしもアメリカがイギリス軍に対して決定的な勝利を収める可能性があるとすれば、それは強力なイギリス王立海軍を一時的にでも無力化するための方策が欠かせなかった。
そうした意味で、史実においてのフランス海軍の近代化とチェサピーク湾海戦におけるフランス海軍の勝利は独立を半ば決定づけたと言っても過言ではない。
しかしラファイエットら啓蒙貴族に対するルイ・オーギュストの対応を見ればそれがほぼ不可能であることも偽らざる現実であった。
ワシントンに出来ることは小さな局地的勝利を積み重ねて交渉の糸口を探ることだけだ。
そのとき、現実的な妥協をどこにおくのか。
妥協のできない理想主義者は排除しなければならない、――――――たとえ武力に訴えてでも。

「それでも人民は――――自由を欲しているのではないのですか?」

フランスのみならず旧世界である欧州の思想家たちにとってアメリカ独立戦争は人民による専制君主に対する革命であり、啓蒙思想の終末点であると目されていた。
人の理性は神にも王にも束縛されるものではなく、あまねく全ての人民に与えられた天賦生来の権利である。
今こそ歴史は長い低迷の中から転換期を迎えたのだ。
そう信じて自由のために戦うべく海を越えて手を貸した相手に、まさか自由を否定されるとはラファイエットの予想の埒外にあった。

「文字も読めない人民に自由の何がわかる?本当の人民が求めてるのは生活の保障と向上さ。それを具体的に象徴するために、指導者たちによって自由って言葉が使われるのさ」

シニカルに嗤うワシントンの表情は寂しげだった。
ラファイエットは理想を打ち砕くワシントンの言葉に激昂してもよかったが、言葉とは裏腹の哀しそうな表情に彼が理想と現実のはざまで懊悩していることを理解した。
しかしラファエットは思想家ではなく行動家であり、理想と現実が乖離するならば現実のほうを理想に近づけなければならないと信じる天性の楽天家でもあった。

「ならば我々が与えてやろうではありませんか。人民に自由の素晴らしさというものを」

「………………あんたは大物だよ、侯爵様」

呆れたように肩をすくめるワシントンはそれでも不屈の青年を眩しいものでも見るように心地よさ気に見上げていた。
それは親子ほどに歳の離れた二人の両雄に身分を超えた友情が芽生えた瞬間でもあった。




大陸の波乱をよそにフランス国内は不気味な沈黙が続いていた。
しかしそれが嵐の前の静けさであるということを知る人は十分によく承知していた。
このまま座してオーギュストの改革を見守った場合、近い将来貴族たちが王権に反抗する力は永遠に近く失われてしまうだろう。
とりわけフランス陸軍が国王の影響下におかれたことは貴族の危機感を煽るには十分すぎた。
最新の装備で武装された正規軍一個師団は、寄せ集まりの貴族連合軍三個師団に勝るというのは、多少なりと軍事をかじった人間には当たり前の方程式であるからだ。

「しかしそれも全ては只一人、国王の存在によって支えられているもろいもの…………」

赤いチョッキの男が薄く嗤う。
稀代の山師である男だけが持つ有無を言わさぬオーラに髭だけは立派な貧相な小男は目に見えて委縮したように顔をひきつらせた。

「こ、公爵殿は確かに我らの要求を叶えてくださるのでしょうな!?」
「もちろんですとも。公はあなたの見識を高く評価しておられます。来るべき世ではあなたの一族ともども栄達は思いのままでしょう」

卑屈に笑い、輝かしい未来に思いをはせる小男をサンジェルマンは心の底から侮蔑した。
―――――馬鹿が。貴様のような底の浅い男に政権の中枢が勤まるものか!

男の名をルイ・ルネ・エドアール・ド・ロアン・ゲメネーという。
誰あろう悪名高い首飾り事件を引き起こした関係者の一人である。
首飾り事件―――――マリー・アントワネットに対するフランス国民の心象を決定的に悪化させた疑獄事件として名高いこの事件は反対派貴族による印象操作とも相まって国王の構造改革に完全に止めを刺した。
ことのおこりはデュ・バリー夫人にプレゼントするためルイ15世が発注した160万リーブルという巨額の首飾りが、ルイ15世の死去に伴い宙に浮いてしまったため発注を受けた宝石商ベーマーは莫大な制作費用の回収に頭を悩ませていた。
宿敵デュ・バリー夫人へのプレゼントだったこともあり、マリー・アントワネットもこの首飾りには興味を示さず破産の危機に瀕したベーマーは王妃の友人を自称するラ・モット伯爵夫人に購入の斡旋を依頼する。
しかし実際には王妃と話したこともないラ・モット伯爵夫人は安請け合いしてしまったもののなんら実効ある仲介を取れずにいた。
そこに現れるのがロアン枢機卿である。
ちょうどネッケルが失脚しカロンヌに財政総監が変わったばかりのころで、後釜の財政総監、ゆくゆくは王国宰相の地位を望んでいたロアンはこの機会を王妃に接触する好機と捉えのである。
欲に目がくらんだせいなのだろうか。
彼はラ・モット伯爵夫人が用意した替え玉をまんまと王妃本人と信じ込むという考えられない失態を犯す。
そして王妃の信任を得たと歓喜しながら首飾りを代理購入し、首飾りを夫人へと引き渡すのである。
いつまでたっても入金のないベーマーが再三にわたって王妃に代金を請求したことでこの詐欺事件が発覚したとき、すでに首飾りは分解されてイギリスで換金された後であったという。
ところがこのことに関してアントワネットは何ら落ち度はないにもかかわらず、国民はむしろ詐欺師であるラ・モット伯爵夫人やロアン枢機卿を称賛した。
すでに時代の潮流はブルボン王家を見捨てていたである。
いずれにしろそんな底が浅いが出世欲だけは人一倍というロアンは、ラ・モット伯爵夫人でなくとも利用しやすい人物にほかならなかった。

王国宮廷司祭長でもあったロアンはゲメネ公爵の係累であり、実際に王国宰相を望めるほどに一族の力は王国に強く根を張っていた。
その力は宮廷ばかりか教会や高等法院の法服貴族にも及んでおり、一族を結集したときの影響力は最盛期のショワズールには及ばないが、老いた現在のショワズールには十分匹敵できるほどだ。
――――――だからこそ、公爵が王太子誕生の歓迎晩さん会を開催した場合、これを無視することは国王たるオーギュストにもひどく難しいことであった。

「吉報をお待ちしておりますぞ。宰相殿」

次代の宰相を約束するサンジェルマンの言葉に嬉しそうにロアンは頷いてみせた。
はげあがって脂の浮いた額を笑みでしわくちゃに歪ませて、残忍そうにロアンは蒼い瞳を光らせる。

「万事この私にお任せあれ」




[20097] 第二十四話  陰謀その2
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ff1cb4d3
Date: 2011/09/12 00:09
フランス革命は不幸な偶然があまりに重なりすぎていて後世の創作ではないかと思わず疑いたくなるような数々の事件が存在する。

1785年に発生した首飾り事件もそのひとつである。

王妃マリーアントワネットは歴史の潮流も見えず自分の置かれた立場も理解できない愚かな女ではあったが、それは王族としては許容できる水準のものでしかなかったし、

巷間に伝えられるほど国王に対する政治的影響力など微塵ももっていなかった。

にもかかわらず彼女が国民の目の敵になったのはルイ・フィリップたちの宣伝工作やハンス=フェルゼンに代表される彼女自身の脇の甘さもあるであろうが、やはりブルボン王家が

抱えていた負債がたまたま彼女をひとつの象徴として噴出しただけと見るのが妥当であろう。

いかなオーギュストといえども歴史の潮流と、積み上げられた代々の負債までは完全に解決することは至難の業であった。





「軍の掌握は進んでいる?カルノー」



シャルロットは人妻だけが持つ妖艶な微笑みを浮かべながらコクリと葡萄水を飲んで喉を鳴らした。

その仕草が艶やかな色気と同時にシャルロットの少女のような可愛らしさを演出していて思わずカルノーは息を呑む。

いったいこの人はどこまで美しくなるのだろうか。

初めて会ったときには確かに極上のビスクドールのような美しい少女だった。

しかしオーギュストの妻となり、王妃になって、立場の階段をあがっていくごとにシャルロットの美しさ、あるいは身体中から発散される生気とでも表現するべきだろうか。

そうした思わず平伏したくなるような圧力が増していくばかりだとカルノーは思う。

そして目を見張るばかりの圧倒的な美しさも。



「実戦部隊については問題ありません。貴族士官についてもロシャンボー伯が取り込みを進めておりますので」



フランス革命において王国軍はほとんど何らの役にも立たなかった。

むしろ進んで革命に協力するものが、特に下士官の実力ある下級貴族や平民の間から続出したのである。

後に不敗のダヴーと称される不世出の戦術家、アウエルシュタット公ルイ・ニコラ・ダヴーなどもその一人だ。

硬直した身分制度のなかで能力を持ちながら出世することもできない下士官たち、そしてまともに給与すら支給されない末端兵の間では王室に対する怨嗟の声が満ちていた。

これで戦力として当てにする方がどうかしている。



「それでは信頼のおける兵を一個大隊………いえ、一個中隊いつでも動けるように待機させておきなさい」



シャルロットの要請にカルノーは愕然とした。

何の理由もなしに即応兵力が必要となるわけがない。

それはすなわち武力が必要な事態が間近に迫っているということを意味していた。



「承りました。それでいつどこで必要になるか伺っても?」



天を仰いで嘆息しつつシャルロットは答える。

それがわかっているならば待機などという生ぬるい真似をしなくて済むものを。

気だるげに額にかかった金髪をかき上げる仕草が何とも言えず堂に入っていて美しかった。



「出来れば無駄に終わってほしいものですが………近々不平貴族の間で動きがあるでしょう。デオンとも渡りをつけておきなさい」











シャルロットが危惧しているようにフランス王国を取り巻く環境は悪化の一途をたどっていた。

アメリカ大陸から飛び込んできたボストン陥落の報は啓蒙派知識人を狂喜させ、これが新たな時代の先駆となることを予感させていた。

当然ラ・ファイエットをはじめとする啓蒙貴族からはアメリカ独立戦争参戦の要請の圧力が増すことになる。

自由と独立を合言葉にパリでは啓蒙貴族とブルジョワ系の知識人が手を組んでサロン活動を活発化させていた。



しかし現時点において全面的な参戦という選択肢はありえない。

なぜならオーギュストは史実とは違いフランス海軍の再建に予算を割いていないからである。

内乱に対する抑止力としてオーギュストは陸軍の再編と掌握を最優先にしなくてはならなかったからだ。

意外に知られていないことだが、史実におけるルイ16世は失われたフランスの対外影響力と植民地政策、貿易の拡大には海軍力の拡充による海洋覇権の確立が絶対に必要であると信じていた。

少ない国費をやりくりしてフランス海軍は急速に整備され1778年には実に52隻もの主力戦艦を所有するにいたっている。

アメリカの独立戦争のひとつの終末点となったチェサピーク湾の海戦はこのフランス海軍の充実抜きに語ることはできないであろう。

史実におけるルイ16世の判断はイギリスと覇権を争う国家首長としては決して間違っていないし、むしろ卓見であるとさえ言える。

ただ問題は国内の複雑にからみあった問題の解決を甘くみたということだ。

オーギュストは史実と同じ轍を踏むつもりはなかった。

国内の諸問題を解決せずしてイギリスと全面で争うなど自殺行為以外の何物でもない。

だからといって放置するわけにもいかないことも確かではあったが。



時を同じくして貴族たちの間ではこのアメリカ独立戦争を奇貨として失われた植民地を奪い返そう。

アメリカに恩を売り、新たな輸出販路を獲得しようとするブルジョワ貴族と、この機会に人民の政治参加を成し遂げようという啓蒙派貴族が急速に力をつけるとともに

そうした新たな思想集団を既得権益への侵略者とみなしてこれを排除しようとする守旧派貴族の対立が激化していた。

都合の悪いことに、その両派閥ともが、最終的には国王が自分たちの味方であることを疑っていなかった。

しかしオーギュストの理想はそのいずれでもない。

オーギュストは身分制度の固定と不公平な税制は改革しなければならないが、貴族は貴族として制度的には後世に残していくべきだと考えていた。

ジャポネでは明治維新に際して廃仏毀釈という文化破壊が大々的に行われたと言うが、しばしば歴史の節目において古いことが罪悪であるとされる場合がある。

しかし失われてみてそれがいかに重要なものであったか、ということに気づくことがほとんどだ。

いったん失った伝統というものは一朝一夕に取り戻せるものではない。

たった十年の断絶を取り戻すのに百年の月日を必要とする。それが伝統の力と言うものなのである。

最終的にはイギリスに近い立憲君主政体と古き良きジャポネのような民族的統一性………若き日に憧れた銃士隊の合言葉、一は全のために、全は一のためにを実現する。

それがオーギュストの見果てぬ夢だ。



「しかしいい加減まともに現実を見てほしいものだが……………」



夢のような未来を求めているのは自分の方だということは百も承知だが、それでもまだ貴族たちよりは現実を見据えている自覚がある。

今さら第三身分への課税をあげろとか、官僚組織に入り込んだ平民を排除しろなどということは時代に逆行する愚かな行為であるし、歴史と伝統さらには文化の担い手でもある

貴族を全面的に排除し人民による政治体制を築き上げるというのもまた同様に非現実的な話であった。

それをまがりなりにも達成するためにはナポレオンの奇跡的な幸運と天才的な軍事的才能に依存せざるをえず、それが最終的にどんな終焉を迎えたかを考えればフランス革命は無駄な

遠回りをした寄り道と表現できなくもないのである。



オーギュストの目の前に巨大な大理石の門が現れる。

今日のパーティーの主催者であるシャルル・ド・ロアン公の軍人らしい重厚な邸宅であった。









「ルイ・フィリップ殿のお約束は間違いないのであろうな?」

「神に誓って」



同族であるロアン枢機卿が重々しく頷くのを見てもシャルルの胸は一向に晴れなかった。

そもそも軍人であるロアン家は国王に対する忠誠によって大臣職を歴任してきた名門である。

いくら不満があるとはいえ国王を暗殺しようとするのに動揺がないはずがなかった。



「現国王亡き後はフィリップ公を摂政に。そしてロアン家による陸軍大臣の世襲を保証するとのお言葉でございます」

「う、うむ……………」



だからといってこのまま引き返すことが出来ないのも事実である。

国王による陸軍の掌握はもはや抜き差しならぬところまで進んでおり、このままでは自分の陸軍に対する影響力は永久に失われ、息子に大臣職を譲り渡すことも叶わなくなってしまうであろう。

あるいは平民が考えるだけでも吐き気がするが大臣に就任するということさえあるかもしれぬ。

成りあがりのテュルゴーにさえ伯爵位を与えたことから考えてもそれは十分ありうる事態と言わなければならなかった。

冗談ではない。

あのカールマルテル以来、王朝は変われど王室を支えてきた貴族という種族は平民とは異なる存在なのだ。

無定見でパンさえあれば満足する平民に国家の大事がわかろうはずがないではないか。

シャルルに言わせればこんなことは自明の理なのだが、残念なことに世の推移は彼の予想を完全に裏切ろうとしていた。



―――――陛下よ。我が主よ。私が貴方を裏切るのではない。貴方が私を、貴族を裏切ったのだ――――!



覚悟を決めた様子のシャルルを小ずるいロアン枢機卿の瞳が覗いていた。

フィリップが摂政に就任した暁にはフランス王国宰相の地位をいただけのはこの私だ――――。

たかが一使者にすぎぬサンジェルマンの言葉を信じ切ってやまない野心の塊のような男は、ただ極彩色の未来に思いを馳せてその言葉が偽りである可能性を無意識のうちに排除していた。

史実では替え玉の女を本物の王妃であると信じた粗忽者であったロアンだが、その本質はあまり変わっていないというべきなのか。

国王暗殺が成功したならばシャルルとロアンは真っ先に口封じに暗殺犯として処分してしまうつもりでフィリップが準備していることなど彼の脳裏にはわずかたりとも思い浮かびさえしないのであった。





「国王陛下のお付き!」



老執事が恭しく主人であるシャルルに一礼して報告する。

それと同時にシャルルとロアンは互いに目配せをして決断の時が来たことを確認した。

すでにして賽は投げられたのだ。



シャルルは屋敷に配置した兵士たに高々と右手をあげて手はず通りに配置につかせた。

どうやら国王の護衛はわずか数名、近侍の者を含めても十名程度にすぎない。

完全武装の一個中隊を相手に生き残ることは不可能なはずであった。



――――――大丈夫、逃げ道は全て封鎖している。



屋敷を取り巻く門は国王の到着と同時に封鎖され十人以上の屈強の兵士が守備する手はずになっている。

もはや国王は袋のネズミ。万にひとつも逃げられはしない。

逃げられるはずがないのだ――――。











門をくぐった瞬間にオーギュストは屋敷を取り巻く異常な空気に気づいた。

幼いころから慣れ親しんだ悪意が圧力となって覆いかぶさってくるような、そんな感覚であった。

まさか軍事の名門ともあろうものがここまであからさまに刃を突きつけてくるとは予想外というほかはなかった。

青ざめた顔でオーギュストの前に進み出るシャルルにオーギュストは困ったように眉を顰めて首を振った。



「これはどういうことかな?ロアン公?」



「私はもう貴方にはついていけない!い、いや、これはフランスを守るための義挙なのだ!」



恐れる気配もなく堂々と暗殺者を詰問する国王にひるんだシャルルは悲鳴をあげるように叫んだ。

心のどこかで早まったのではないか、という思いがある。

やはりオーギュストは主義主張をたがえたといえどもまぎれもなく王であった。

そんなシャルルの葛藤にも構わずホールに整列していた兵士たちが国王を包囲しようと動き出す。

屋敷の各門を封鎖し、国王を完全に捕捉する兵士の動きはさすがに軍事の名門ロアン家の兵というべき鋭さであった。



「…………ここまで手はずを整えているとはまだまだ余の諜報も甘い、というところかな?」



貴族たちの間で実力行使が検討されているという情報は掴んでいた。

それを陰で煽動しているのがフィリップであるということも。

しかしロアン公が手兵を動員して国王の殺害を図ることまでは予測できなかった。

少なくとも昨日までロアン家では国王を歓迎するための準備が本番さながらに進められていたはずなのだ。



それにしても国王のこの余裕はどうだ?

シャルルは困惑を隠せずにいた。

殺気をみなぎらせた屈強の兵士に取り囲まれながらも国王の威厳はいささかも損なわれない。

むしろこちらが気押されて思わず平伏したくなりそうはほどだ。

そんなシャルルの動揺にロアンはいらだったようにシャルルの袖口を掴んで催促した。



「この後に及んで何を迷っておられます?さあ!早くご命令を!」

「そうか、お前の入れ智恵か。枢機卿………身に過ぎた野心はほどほどにしないと身を滅ぼすぞ?」

「滅ぶのは貴様だ!平民に媚びを売る犬め!」



ロアンという男の野心を甘く見積もっていたことをオーギュストは認めないわけにはいかなかった。

人は分不相応であるほどに時に考えられない愚かな行動に出る生き物なのだ。



「馬鹿は馬鹿なりに頭が回るが、逆に信じられないほど愚かな決断もするということだ。これは検討が必要だな」

「………猛省して今後に生かす所存でございます」



まったく予想外の方向から告げられた言葉にシャルルが驚愕するまもなく轟然と銃声が轟いた。

短銃から発せられた弾丸は過たずシャルルの帽子を貫き、宙を舞った帽子が死灰と化したホールにパサリと落ちる。



「次に動いたら今度は心臓に当てさせてもらうよ?」



上品に笑う愛嬌に満ちた中年のメイドが、両手に短銃を構えてシャルルの心臓を狙っていた。






[20097] 第二十五話  陰謀その3
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ffdc0844
Date: 2011/12/02 00:40
侍女に抑えられる形で国王が警護の者とともに屋敷内へと逃れる。
できれば屋敷の外に出たかったがさすがにここで国王の逃走を許すほどロアン公の配下は無能ではなかった。
君主に対するテロという形で反旗を翻した以上、国王を逃すということは身の破滅と同義であるからだ。

「往生際が悪いですぞ!?潔く観念なさりませ!」
「ふむ………では冥土の道連れは公爵ではなく枢機卿にいたしましょうか………」
「ひいいいいっ!」

ロアン公に向けられていた銃口が枢機卿にピタリと狙いを定めるとロアンはだらしなく悲鳴をあげて慌てて公爵の背後へと隠れるように逃げ出した。
そのあまりの醜態ぶりにロアン公をはじめとする刺客たちから侮蔑の視線が突き刺さる。
神に仕える代理人としてはあるべからざる生臭ぶりであった。
ここにきて公爵は自分が手を組むべき相手を誤ったのではないかという深刻な懸念を抱かざるをえなかった。

「しかし振られた賽はもとには戻らない…………そこの侍女よ。今そこをどければ命ばかりは助けてやるぞ?どうせ時間を稼いだところで我が屋敷からは逃れられぬ」

銃口を心臓から微動だにしないこの侍女さえなんとか出来れば国王を殺すことは容易い。
たとえ死んでも国王を道連れにする覚悟はあるが、公爵も人である。やはり命は惜しいし、暗殺後の栄達もあきらめるには惜しすぎた。
侍女もそれがわかっているのか、引き金に指をかけたままむやみに公爵を殺そうとはしなかった。

「はやまった真似をしましたね、公爵。あるいは毒殺ということもありうるかと内偵してはいましたが、さすがにこれほど思い切った暴挙に打ってでるとはさすがに予想できませんでしたよ」
「私も武門に生まれた貴族だ。最低限の矜持というものがある!」
「………あなたの背中に隠れた方はどうやら意見が違うようですけれどね………」

いかにも口惜しいという表情で枢機卿が舌うちをした。
実際この神の代理人は当初公爵に毒殺を薦めていたのである。
そのほうが計画が失敗した場合に言い逃れる可能性があるからだが、公爵は確実性を重視した。
国王に反逆すると言うのるかそるかの大博打を打つのに不確実な投機に賭けるのは愚か者のすることであった。

枢機卿は侍女が泰然として焦る様子を見せないことに不審を覚えていた。
国王は屋敷内に護衛とともに退避したが、出口の全ては厳重に封鎖されており袋のネズミであることは疑いない。
まさかこのまま公爵の命を人質に事が収まると考えているわけではないだろう。
屋敷内にも人はおり、国王があぶり出されるのは時間の問題であるからだ。
まさか――――――

「………いかんっ!早く国王を捕えよ!近衛が駆けつけるやも知れん!」

侍女の内偵と言う保険をかけていた国王のことだ。
さらに近衛がある時間で偵察に現れるくらいのことは準備している可能性があった。

「おっと、そのまま動かないでいただこう。屋敷に兵を送るのもご遠慮いただこうかな」

引き金の指を軽く動かしてみせる侍女の余裕の笑みが枢機卿から冷静な判断力を失わせた。
楽天的な夢想家にありがちなことに、枢機卿はこのとき初めて国王を殺しさえすれば立身出世は思いのままという希望から、もし失敗すれば自分の身がどうなるかという現実を実感したのであった。

「殺せ!一刻も早く国王を殺せ!」

枢機卿は正しく惑乱していた。
もう少しで天上の高みに足が届こうとしていると思ったら、実は奈落の底へと続く落とし穴であるなどということを認めるわけにはいかなかった。
宰相という野望のために賭けられたチップが自分の命であったということを自覚した枢機卿は力任せに公爵を地面に引きずり倒すとそう絶叫したのである。
勝手に主君である公爵を危険にさらしたことで部下たちは激昂したが、ことここにいたっては下手に撃たれる前に侍女を取り押さえる以外にない。
兵士たちは弾かれるように侍女に向かって駆けだした。

「…………愚か者のすることというのは本当に油断が出来ませんね………」

侍女は公爵の影に隠れている枢機卿の横腹を正確に撃ち抜いた。
大きな発砲音とともに枢機卿の僧服から血しぶきがあがり、公爵ではなく自分が撃たれたことに裏切られたような表情をした枢機卿は腹を抑えてのたうちまわった。

「た、助けてくれ!腹を撃たれた!医者を………死にたくない!死にたくない!」

自分はこんなところで死ぬような男ではない。
未来のフランス宰相としてかつてのリシュリューやマゼラン枢機卿のような栄華をこの世に築くのだ。

痛い!
痛い!
痛い!
こんなはずは!
こんなはずではなかった!
どうして自分がこんな目に遭わなくてはならない!
無能で教会の権威を認めぬ国王に天罰を下す聖なる役目を背負ったはずの自分が!

「早く助けてくれ!何をしている!私は枢機卿なのだ!この身は神の代理人であるのだぞ!」

どくどくと出血し続ける腹部を抑えて必死に呼びかける枢機卿に向けられたのはただ侮蔑と怒りの視線だけであった。
枢機卿の考えなしの行動によって彼らは危うく主を失いかけたのだ。
むしろその程度ですんでいるのは今が危急の時であるからであるにすぎない。
どこまでの自分本位な考え方しかできない枢機卿の危うさと幼さをようやく公爵もその部下たちも理解した。
その口車に乗ることがどんなに危険なことであるのかも。

「―――――だが私ももはやこの謀反の歩みを止めるわけにはいかぬ」

公爵は断固とした口ぶりで言いきった。
ずさんな計画であるかもしれない。
愚かな枢機卿の妄想の産物でさえあるのかもしれない。
しかし国王の政策が貴族を窮乏に追い込み、平民の権力を増進させていることもまた確かなことであった。
いつか平民に支配をとって変わられるかもしれない、という恐怖を公爵もまた他の貴族同様に共有していたのである。
その事実があればまだ戦える。
公爵の目配せとともに配下の兵士がスルスルと侍女を取り押さえに向かった。


「それは残念ですがもう少し時間を稼がせていただきますよ」


フリルのふんだんにあしらわれたスカートから一振りの剣を引きぬくと侍女は無警戒に近づいた兵士をたちまちのうちに五人六人と斬り伏せる。
利き腕や足を傷つけられた兵士たちが戦闘力を失ってうめき声とともに転がされた。
そのあまりの腕の冴えに兵士たちの歩みが止まる。
銀光のような剣閃に無駄のない芸術のような体さばき。
迂闊なことにこのときなって初めて公爵は侍女の正体に思い至った。

「その剣の腕…………貴様か!シャルル・デオン………この半陰陽体(アンドロギュノス)め!」

デオンは一対一の剣闘において生涯無敗を誇ったフランス史上でも屈指の天才剣士である。
あまり知られてはいないが、史実において貧窮してからの彼はドレスを身に纏い、自分を倒すことが出来れば賭け金倍返しという身体を張った賭けで日銭を稼ぎついに一度も敗北することはなかったという。
それは彼の体力が衰えた晩年に入ってからの話しだというから驚きである。

いくら天才剣士であると言っても360度全方位を囲まれては勝算は立たない。
デオンは巧みに身体を入れ替え、壁を味方にジリジリと邸内に後退しつつさらに十人もの兵士を突き伏せた。
あまりの圧倒的な技量の差に犠牲を恐れた兵士たちは剣ではなく銃によってこの恐るべき剣士を倒すことを決断した。
国王の暗殺という重大事を成す以上銃声をあげるというリスクは避けたかったが、これ以上デオンを好きにさせておくのはそれ以上に危険であると判断したのだ。

「おっと、それではこの辺で退散と参りましょうか」

火薬の匂いをかぎ取ったデオンは目隠しでもするようにドレスを脱ぎ捨て、銃士に向かって放り投げる。
反射的に黒いメイド用のドレスを銃弾が撃ち抜き丸い風穴をあけるが、脱兎のように邸内に駆けだしたデオンを捉えることはできなかった。
歯ぎしりしながら公爵が吠える。

「急げ!あの道化者も国王も一人として逃がすな!」





国王が立てこもった部屋を見つけ出すのにそれほど長い時間はかからなかった。
公爵の屋敷だけあって邸内は広大というほかないがそれでも捜索にあたる人間の数は百人ではきかない。
速い段階で国王たちに追い出されたコックや給仕たちの証言によって明らかになったところによれば、国王たちはまっすぐに厨房に押し入り、中にいたコックたちを追い出しテーブルや食器棚で簡易なバリケードを築いているらしかった。

「いったい何の真似だ……………?」

公爵が首をひねるのも無理はない。
厨房は一階に位置しているため、外部と連絡を取るのにはひどく不都合な場所にあったからである。
当初の予想によれば最上階の公爵の私室から見晴らしの良いテラスに出て助けを呼ぶものとばかり考えられていたのだが。

そうしているうちに焦げ臭い匂いが立ちこめ始めた。
パチパチと火のはぜる音ともに、その匂いは明らかに中央の内部からこちらに漂ってきていた。
まさか逃げられぬと見て自決する気か?
いけない―――――政治的に考えて国王の死体が残らないというのは問題が大きい。
慌てて公爵は部下に厨房の扉の破壊を指示した。

鉄斧を抱えた屈強の兵士がバリバリと大きな破壊音を立てて頑丈な樫の扉を壊していく。
破壊された扉の隙間から白い煙が漏れ、厨房内がすでにかなり煙で充満してしまっていることを告げていた。
理性ではなく本能によって公爵は言い知れない焦燥感を感じていた。
目撃者の証言によれば国王は屋敷内に入るとほかのどこにも目もくれずこの厨房に駆けこんだらしい。
突然の暗殺の危機にもかかわらず、うらやましくも妬ましいほど泰然とした国王の姿が、いまだ公爵の脳裏にはありありと焼き付いていた。
あれは決して諦めにより自殺する人間のする表情ではないはずであった。
ならばいったい――――いったい何が厨房などにあるというのだ?

「この厨房の責任者を呼べ!大至急だ!」



年老いたシェフが公爵の前に引き立てられてきた。
すっかり恐縮した彼は、焦りに血走った公爵の目に怖れおののいたようにでっぷりと超えた身体を縮こまらせて震えた。

「わわ、私めにいったい何用でございましょうか………?」

いくらなんでも国王の侵入を防げなかった罪に問われるのはないだろう。
彼は料理の腕を買われて雇われて公爵に仕えるシェフなのであって剣をもって使える兵士ではない。
武装した国王を撃退する手段が皆無であったことは公爵でも理解しているはずであった。

「国王はなぜここに立てこもったと思う?」

「は…………?」

じれったそうに唇を噛んで公爵はいらだったように吐き捨てる。

「こんな袋小路の助けも呼べぬ厨房に何故国王は立てこもったのだ?私ではわからぬこともこの部屋を預かるお前なら想像がつくのではないか?いったいなぜだ?国王はこの中でどうしているのだ?」

わかりませんでは済まさぬ、と言いたげに公爵に睨みつけられた哀れなシェフは生まれてこのかた経験のないほど脳髄をフル回転させた。
公爵の意に染まぬ答えの場合、彼は八つ当たり同然にこの場で公爵に切り捨てられる可能性があった。
少なくとも最低でもこの騒乱の後、彼の職場が失われることは確かであった。

(どうして国王が現れたかって?そんなのこちらのほうが聞きたい…………!)

これといって特別なところのない平凡な厨房である。
さすがに公爵の家柄に相応しい広さと便利さは備わっているが取り立てて珍しいものはない。
厨房とほかの部屋の何が違う?
料理するのに使うから水は大量にある。
食材もあるし、食うには困らないかもしれないが斧で既に扉を打ち壊され、立てかけられたテーブルや食器棚が露出した有様を見ればそれが何ら意味のないことであるのは明らかだ。


――――――いや、待て


シェフの限界まで張り詰められた心の琴線に何かがひっかかった。
大量に消費される水、そして残飯、不要になった食材、賄いや肥料に消費される部分があるとはいえそれ以外の部分はいったいどこにいっている――――――?

シェフが何か重大な事実に気づいたのは彼の顔から血の気が失せ蒼白になっていくのが何より雄弁に物語っていた。
せき立てられるように公爵はシェフの肩を掴んでシェフの言葉を促した。

「何故だ?国王はいったい何のために厨房へやってきた?」


もし自分の想像どおりであるとすればもう遅いかもしれない。
遅かったとすればそれは雇い主である公爵の破滅を意味するのだ。
この数分で二十ほども年をとってしまったようにしわがれた声でかろうじてシェフは決定的な言葉を紡ぎ出した。



「この厨房で使われた大量の水とごみはパリの地下水路………悪名高きカリエールへと投棄されております」

そう、パリという巨大な人口が抱える汚物を一手に引き受ける地下に存在するというもうひとつのパリ――――――。
ナポレオン三世が大改修を施す以前であっても十分すぎるほどに巨大で複雑怪奇な構造と空間を有した迷宮が、厨房の底には広がっていたのである。




[20097] 第二十六話  陰謀その4
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ffdc0844
Date: 2012/01/03 17:05
古くは古代ローマ帝国の支配下にあるころから、パリの地下は世界有数の採石場であった。

アメリカのホワイトハウスにおいて、あの白い家を輝かせる石膏がフランス産であるのは独立戦争においてフランスがアメリカの独立に貢献したことと無縁ではないのだが

それでもパリの地下から産出される石灰岩と石膏が当時のフランスにとって大きな輸出商品であったことは疑いのない事実でもある。

千年以上の月日を過ぎて全長数百キロという膨大な距離まで伸びた採石のための通路はパリの市民にとって都合のいいゴミ捨て場でもあり、時として貧民の死体捨て場でもあった。

有名なビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンが下水道から逃走してパリ警視庁の追手を振り切ったように、この時代からすでに地下迷宮は犯罪者や反政府組織にとっても貴重な逃走経路

として機能していたのである。

そればかりかこのカリエールは第二次大戦中においてフランスのレジスタンスの貴重な隠れ家としても利用されていた。

ガストン・ルルーの傑作、オペラ座の怪人が迷宮の主として司法の及ばぬ世界に君臨したという設定も、小説のなかのこととはいえ決して故ないというわけではないのだ。

正式な調査をされたわけではないため漠然としたイメージだが、パリ市民は自らの足元にもう一つの巨大な地下世界が広がっている、そしてそこには謎の怪物が生息していても不思議ではない、と感じていたふしがある。





偉大な作家であるユゴーは著書のなかでこう述べている。



「パリは地下にもう一つのパリ、下水道のパリを持っている。そこには街路がある、四辻があり、広場があり、大通りがあり、泥水の往来があり、ないのは人の姿だけである(佐藤朔訳)」



汚水と排泄物に満たされたこの地下迷宮を行政が重い腰を上げて整備に着手するには百数十年後のナポレオン三世の登場を待たなくてはならなかった。

普仏戦争において捕虜となり第一次世界大戦の遠因をつくったことで評判の悪いナポレオン三世であるが、パリ万国博覧会を開催し、パリの大改造を断行して汚物にまみれて生活していた

パリをどうにか人並みの生活が出来るレベルにまで回復させたのは紛れもなくナポレオン三世の功績である。

しかしカリエールを含めた彼のパリ改造も決して万全なものではなく、放置された部分も数多く存在した。

汚さの象徴でしかなかったセーヌ川が、人が泳げるほどの美しさを取り戻すのはなんと1990年代に入ってのちのフランス大統領となるパリ市長ジャン・シラクが大規模なセーヌの清掃を断行してからのことである。



ロアン公爵は慄然として震えた。

この時代の貴族にとってもカリエールは清掃どころか調査すら行われていない、人跡未踏の秘境に匹敵する場所のひとつであったのである。

まさか国王ともあろうものが汚物と糞尿にまみれてカリエールから脱出するなど思いもよらなかった―――――。



「い………いかん!早く国王を追え!いくらなんでもカリエールを完全に把握することなどは不可能だ!数にモノを言わせて必ずしとめろ!」



そもそも今日ここで我らが事を起こすことを気づいていなかった連中にそれほどの余裕はないはずだ。

敵中に包囲されたときの非常脱出口としてカリエールを選択した程度のことに違いない。

そうでなければわざわざ逃げなくともカリエールを通って逆に近衛兵が公爵邸に攻撃を仕掛けてもおかしくないはずであった。

であればまだ万事休したわけではない。



「急げ!討ち取ったものには恩賞は思いのままだぞ!」









(――――――やれやれ、いくらか時間を稼げただけでもよしとすべきかね)



初老のやや肥満気味な一人の兵士が、誰にも気づかれぬようにため息を吐いて国王を追撃するためにカリーエルへ通じる暗い穴へと身を投じた。

たいまつ以外に明かりのささない薄暗い地下はたちまち男の温和な顔立ちを闇の中に隠してしまう。

暗殺するべき国王に逃亡されるという非常事態に、あまり見覚えのない兵士が一人ばかり紛れ込んでいることに不審を抱く余裕は公爵にも配下の兵士たちにもなかったのである。

くすんだ灰色のシルバーブロンドであったはずの鬘は取りはらわれ、短く刈りあげられたプラチナブロンドの艶のある髪に愛嬌のあるふっくらした丸顔は意外にも軍服によく似合っていた。



(……………陛下………あとは陛下の運を信じますよ!)



そう考えつつも後方から情報をかく乱する気満々な好々爺は先ほどまでエプロンドレスに身を包んでいたはずの情報相デオンその人にほかならなかった。









まっすぐ立つこともできない狭い構内をオーギュストとその護衛は注意深く進んでいた。

公爵が看破したとおり、今回の逃走劇は誤算と偶然の産物であって必ずしも万全の用意を整えていたわけではない。

むしろデオンの抱える情報員が把握しているカリエールの通路は全体からすればほんのごく一部で、その一部の領域にたまたま公爵の屋敷が位置していたにすぎないのだ。

声が反響する構内で荒々しい男たちの叫び声がこだました。



「……………気づいたか…………」



さすがにあの程度の目くらましではごまかしきれなかったらしいが、もっとも最初からそれほどアテにしていたわけではない。

追われる身となった国王一行は黙々と前進を続けた。



「それしてもこの匂いはたまらんな……………」



ゴミ捨て場特有のすえたような匂いとは別に、空気のよどんだ地下のどんよりとした空気と人間のものか動物のものかさだかではない死臭までがブレンドされて吐き気を催す強烈な臭気が

オーギュストの嗅覚を刺激した。

それにしてもよくここまで巨大な地下構造物が長い間放置されてきたものだ。

石灰岩を切り出すために無計画に掘り進められたのが残念だが、もしも最初からこれが計画的に整備されていればいったいどれほどのインフラ効率があがったことだろう。



「陛下………もうしばらくご辛抱ください」

「気にするな。命が助かるならこの程度は我慢のうちにも入らぬよ」



さすがに自国の国王を汚物まみれにするのは百戦錬磨の情報員でも気がとがめたらしい。

しかし平民出身の多い近衛や情報相の人間は理想と現実が対立した場合、迷わず現実を取るだけのドライさを持ち合わせている。

ロアン公爵邸から脱出するのにこれ以外の選択肢は存在しなかったのだ。



先頭をいく情報員がたいまつを持ち、注意深く壁を見つめた。

彼の視線の先に黄色い印がつけられていることにオーギュストは気づいた。



「その印に意味が?」

「御意。黄色い印は左、青い印は右、赤い印は直進を、黒い印は上にあがれることを意味しています」



なるほど、たいまつが頼りの闇の世界では目印なしに正解の道をたどることは困難に違いない。

素直に方向を指示するような言葉や意匠でないのはさすがである。

人海戦術で押してくるため完全に振り切るのは難しいだろうが、それでも追手の数が少ないにこしたことはないのだ。

しかし、政治家としてはともかく軍人と比較して大きく体力に劣るオーギュストを伴って、かつ目印を確認しながらの逃避行は徐々にロアンの部下たちとの差を埋められつつあった。





「逃がすな!決して逃がすんじゃないぞ!捕えたものには恩賞は思いのままだ!」



自慢の金髪を兵卒とともに汚物に汚させながらロアンは狂したように絶叫した。

本来であれば自ら不潔きわまる構内に下りて直接指揮をとるような彼ではなかったが、事の重大さが彼に地上で無為に報告を待つという行動を許さなかった。

ここで国王に逃亡された瞬間、ロアン家の歴史も地位も財産も全てが水の泡と化して決して消えることのない反逆者の汚名が残るのみなのである。

今更ながらではあるがロアンは不出来な枢機卿の誘いに乗ったことを後悔していた。

考えてみれば何もロアン家単独で事に及ぶ必要はなかった。

確かに千載一遇の機会であったかもしれないが、不満を持つ貴族は王国下に十分すぎるほど存在する。

今後の政権運営の主体になるであろうルイ・フィリップの力を借りることも、あるいは位階に低い貴族を走狐として実行犯にしたてあげることも可能であったはずだ。

そうしなかったのは国王暗殺の手柄を独占したいという枢機卿の欲望の熱にロアン公爵もあてられたというほかはない。

いずれにしろ生き延びるために国王の命を奪うことは必須の条件となった。

ロアンは誇りも矜持もかなぐりすて、ただ生き延びるために国王の命を狙う鬼になろうとしていた。







「陛下………我々は少々時間を稼いで参ります」



オーギュスト付きの侍従武官ロベールは間違いなく接近しつつある怒号と喧騒に慌てることなくそう呟いた。

追う者たちは自らが追われるというリスクを考えないから、より早い追撃が可能となる。

ならば彼らにも追われる恐怖を思い出させればよい。

もちろん急場しのぎの反撃が通用すると思うほどロベールは楽観していなかったが、それでも時間稼ぎは十分に果たせると判断していた。

自分の命の危険を度外視すればの話だが。



「――――――ローベル、お前の忠義は忘れん。叶うならばヴェルサイユで再び相まみえよう」

「かたじけなきお言葉。……では」



この時のためにロベールたちは銃を温存していた。

下半身を排泄物に浸し、全身を汚物で汚しながらも銃だけは使用できるよう身を挺して守り続けてきたのだ。



「………付き合わせてすまんな」

「いえいえ、一は全のために、全は一のために、ですよ」



後の世に大デュマによってその名を世界に轟かせる銃士隊の有名な合言葉を口にして近衛の兵士たちは声もなく笑った。

そこにはプロフェッショナルだけが持つ透徹とした決意と誇りがあふれ出ていた。



「一斉射撃後二手に分かれて射撃戦を継続する。命ある限り戦え」

「了解!」











背後で甲高い反響音とともに銃撃戦が始まったのをオーギュストは心臓に氷柱を押しあてられるような思いで聞いた。

政治的にやむを得なかったという思いはあるが、妻が危惧したとおりの事態に陥り、貴重な部下を失おうとしていることに忸怩たる思いは禁じ得ない。

ロアン公爵とロアン枢機卿の結びつきを見抜けなかった、というより人間がどれほど欲望の前に理性を失うか、その事実をすっかり忘れていた自分が許せなかった。



――――――欲望に囚われた人間は都合のいいものしか目に入らない。都合のいい言葉しか聞こえない。



人件費の高騰が、社会保障費の増大が国際競争力を奪い、結局は国民生活を悪化させるという現実に目をつぶり、ひたすら賃上げと生活の保障を訴えてデモとストライキを繰り返す者たち。

国家には彼らの無尽蔵の要求を叶えるような魔法の壺などありはしない。

フランスの政府は国民の納める予算という限られたパイを分配する権能しかないのに、パイ以上のものを要求されても不可能なものは不可能なのだ。

しかしわかりやすく論理だてて説得しても彼らは政府の不実をなじり無能を糾弾する。

その結果がもたらしたフランスの破たんをオーギュストは誰よりも良く知っているはずではなかったか。





――――――人は賢愚のゆえではなく、欲望への執着によってこそ信じがたい愚かな決断を下す。





オーギュストはその初心を忘れていた自分を深い悔悟とともに恥じた。

しかし現代フランスの大統領であったオーギュストには根回しや駆け引きにおいて人間の知性に依存する部分が犯しがたく存在する。

政治家にとって実力行使するのは最後の手段であり、相手をして自分からこちらの望むように誘導するのが政治家のもっとも望むべき理想の姿なのである。

人命は地球よりも貴いなどと綺麗事を言うつもりはないが、失われる人命は最小限にしなければならないというのも民主政治における政治家の本能に近い衝動であった。

あるいは妻シャルロットのほうがこの国難を乗り切るには向いているのではないか、と疑うことがある。

事実そうであるのかもしれない、がそこにオーギュストの目指す新たなフランスの国家秩序はないのも確かなことであった。



「お急ぎください陛下。もう少しで合流地点です」



「いたぞっ!国王はあそこだっっ!」



ロアンの執念というべきか。

屋敷内にいた兵士の全てを投入し、分かれ道にぶつかるたびに兵をわけてきたため、その数はわずか五名にまで減っていたが、彼は最後の最後で国王に手が届く機会を手にしたのである。



「陛下!早く!」



狭い構内で放たれた弾丸を防ぐ術はない。

武官の一人が両手を広げてオーギュストを守るように構内に立ち塞がった。

文字通り彼は肉の壁としてその巨体を利用して命尽きるまで国王を守護することを選択したのだった。



「……………すまぬ」



オーギュストにもほかに選択肢はなかった。

誰も犠牲にせずに誰もが幸福になれる、そんな夢のような手段があるのなら、この悪しき世界からとうの昔に争いなどはなくなっているはずであった。



背後の銃声を聞きながらオーギュストは必死に足を進めた。

激しく息を切らして走るオーギュストの前に黒々と丸く塗られた印が現れ、細長い通路から垂直に地上に向かって延びた坑道が見える。



「こちらから地上へ!早く!」



ドシンという鈍い音が聞こえ、絶命した武官がゆっくりと仰向けに倒れた。

邪魔であった肉の壁が取り払われオーギュストに向かって銃弾が浴びせかけられる。

しかしほんのわずかながらオーギュストが坑道を登り始めるのが早かった。

避けようがないかに思われた銃撃だが、垂直に伸びた縦抗に入られてしまってはいくら狭い構内であろうとも効果はない。



「くっ…………」



右足の太ももと脛が銃弾が擦過したためにかすり傷だがジワリと熱い痛みを訴えていた。

あとほんのコンマ一秒遅くとも致命的な被弾は避けられなかったであろう。

もし神がいるのだとしたら、神はここでオーギュストが命を落とすことを望まなかったのかもしれない。



「ええいっ!くそっ!追え!何としても逃がすな!」



あと少し!

国王の命を奪うまでわずか一度の銃撃でよい。

武人としての訓練をしていない国王にもはや逃げる力は残されていないはず。

たとえこのまま地上に逃げられたとしても王宮に逃げ込まれる前に打ち倒すのはそれほど難しいことではない。



「いいか?王を確認次第撃て!まわりの者には目もくれるな!ただ国王だけを殺せればよい!」



先にあがっていった部下たちから返るべき返事のないことにロアンは違和感を覚えた。

時間を考えればそれほど屋敷から離れた場所であるとは考えにくいのだが、もしかしたら大物貴族の邸宅である可能性もある。

だが今はそんな体裁に構っている場合ではない。

最悪の場合、国王さえ殺せればここでロアンが死んでも家は存続できるのだ。



「何をしている!どんな事情があろうと構うなと言っただろう!?」



そう言いかけてロアンは絶句した。

整然と筒先をならべた近衛軍一個中隊が完全武装でこちらへ銃口を向け、すでに捕縛された部下が大地に転がされていたからである。





「…………ほんのわずかだが卿の執念も及ばなかったようだな」



本当にわずかな差であった。

オーギュストが生き延びたのは僥倖以外の何物でもない。

デオンの隠密捜査、近衛との連携、献身的な部下、そのどれひとつが欠けていてもオーギュストは死んでいた。

奇跡的な偶然の偏りは歴史がロアンよりもオーギュストを選択した証でもあろう。



「………せいぜい勝った気でいるがいい」



ロアンは唇を噛みしめてオーギュストを睨みつけた。

もう届かない。

国王を暗殺する機会は永遠に近く失われてしまった。

だがそれはロアン個人のものであって、ロアン以外の策謀家は今もその爪を研ぎ続けている。

そしてロアンは確信していた。国王を狙う策謀家は間違いなく国王より容赦がなく鋭い牙を剥くことが出来ることを。

この国王はどこか心の芯となる部分が決定的に甘すぎる。

いずれ長生きできぬことは間違いなかった。



「今日生き延びたことがただの幸運であることを忘れるな。幸運はいつまでも続かぬがゆえに幸運と言うのだ」







スービーズ公シャルル・ド・ロアン

数ある国王暗殺未遂犯のなかで彼の名は長く歴史に刻印されることとなる。

それは彼が公爵という高い地位に居ることや陸軍に対する影響力、または国王の幼い日教育係りを勤めたマルサン夫人の兄にあたるからというわけではない。

カリエールという劣悪な衛生環境のなかで国王に軽傷ながら傷を負わせたことにあるのである。

後に歴史を変えた銃弾とも呼ばれるこの事件の翌日、国王ルイ16世は感染症を発症し高熱を出して意識不明に陥ったのだ。






[20097] 第二十七話  解き放たれた獣その1
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:ffdc0844
Date: 2012/02/16 22:49
残念ながらこの時代はまだ感染症に対する処方が確立していない。
史上初めての感染症対策としての抗生物質の登場は実に1929年アレクサンダー・フレミングがペニシリンを発見するのを待たなくてはならなかった。
18世紀において破傷風とはじめとする感染症は栄養状態の悪い庶民には即、死を意味したし、身分の高い王族や貴族といえどもその生還率は決して高いものとは言えない。
現在の状況で自分がそうした感染症に罹患することの意味をオーギュストは十分に理解していたし、だからこそ銃創は念入りに消毒を施したはずだった。
だが無情にもロアン公爵の魔の手から逃れて2日目の夜、急な高熱を発して国王ルイ16世は病の床に伏した。
真冬に氷水につかるような悪寒とゆだるような高熱は、それがただの風邪などではなく、悪性の感染症であることを明瞭に告げていた。

「くっ………王妃を………それとカルノーとケレルマンを呼んでくれ」

苦しい息のもとでオーギュストはかろうじて側近の者にそう告げた。
こんなところで志半ばに朽ちる気など毛頭ない。
感染症の死亡率は決して低いものではないが、適切な栄養と休養をとることができるならば回復する確率も高かった。
発熱と下痢による脱水症状を乗り越えればおそらく7割以上の確率で生き延びることが可能だろう。
だがどう考えても貴重な時間を浪費することは避けられそうになかった。
せっかく反乱の芽を摘んだかに思われたところなのに、国王が重病に倒れたことが知られれば、それにつけこもうとする有象無象がここぞとばかりに涌いて出るに違いない。
ならばその時間を稼ぎだすために必要なのは王妃の類稀な政治センスと強固な軍の支持である。
オーギュストの思考は政治家として完全に正しい。
しかし正しい考えが必ずしも最善ではなく、現実が想定した考えどおりにはいかないものだということを、このときオーギュストに考える余裕はなかった。




「困ったことになりましたな…………」

ケレルマンは若干禿げあがった額の汗を拭いながらそう言った。
残念ながら新設された参謀本部は稼働したばかりでいまだ実績もなければこれといったテストケースさえない。
ケレルマン自身はその有用さを確信しているがその実力は未知数であり、国王派による陸軍の掌握もようやく7割に手が届こうかというあたりで推移している。
それ以上に困った問題としてテュルゴーをはじめとする官僚に人材はいるが、ルイ・フィリップやアルトワ伯のような貴族の重鎮と張りあえるだけの政治家が王妃以外に存在しないのが痛かった。
せっかくまとまりかけた軍が政治の勢力争いの草刈り場とされるのはケレルマンにとっても悪夢以外の何物でもなかった。

「…………大陸に渡った啓蒙派貴族の影響で国王に近かったリアンクール公をはじめとする開明派貴族の間でも国王に対する不満が高まっています。それにルイ・フィリップとショワズール公が接近しているという噂も………」

カルノーはデオン率いる諜報部から必ずしも旧体制派の貴族ばかりが敵ではないことを聞かされていた。
ラ・ファイエットをはじめとする啓蒙派貴族を大陸に送りこんでおきながらオーギュストはアメリカ独立戦争への参戦を断固として拒絶している。
これは当初イギリスとの利権争いから積極的にアメリカを支援すると考えていた貴族としてみれば裏切りに等しい成り行きであった。
支援するつもりがないのなら最初からラ・ファイエットたちを送りこまなければよい。
まさか潜在的な不穏分子を国外に放逐したとは考えない知識人たちはこの国王の対応にいらだちを隠せずにいたのである。
なんといっても人民がその自由意思によって新たな人造国家を造り上げると言う初の試みは欧州の、とりわけパリの知識人を熱狂させていた。
アメリカ帰りの船がツーロンに入港するたびに人々はラ・ファイエットやラメット兄弟の活躍に胸を躍らせ新たな歴史の一ページが開かれようとしている瞬間に立ち会おうとしていることに運命的なものを感じずにはいられないのだった。

だが現実的な彼我の戦力差を考えるに、いかに大陸軍が孤軍奮闘しようともフランス王国の参戦なしにイギリスに勝利することは難しい。
いまこそ時代の先駆けとしてフランスこそが人民の歴史に新たな足跡を残すべきであるという理想主義的な貴族は、むしろ旧体制派ではなく国王に近い開明派貴族に多いのが問題であった。
フランス王国から旧体制の影響を排除し、新たに主流を占めつつあった国王派の内側から内部崩壊の危機は忍び寄りつつあった。
もっとも思想的には知識人である彼らも軍事においては素人同然であり、大陸でイギリスと争うためにはまず海軍力の整備が絶対条件であることさえわかっていない有様ではあったが。

このエリートたちの軍事的無能は史実においても初期の革命政府の対外政策を破綻させ、フランスを亡国の一歩手前まで追い込んでいる。
勝利の組織者ラザール・カルノーとケレルマンやデュゴミエをはじめとする革命初期の有能な将軍なしには革命はイギリスやオーストリアによって無惨に蹂躙されたであろうことは明らかであった。


それにしても国王への権力集中と啓蒙派貴族の発言力の増大でこのところすっかり影の薄くなっていたショワズール公がルイ・フィリップに接近するのは問題である。
政策的には水と油の両者だが、国王の権力を弱体化させる一点において共闘することは不可能ではない。
そうなると長年のショワズールの人脈と影響力は脅威だ。
確かに近年国王は王国の行政に対する影響力を増大させてはいるものの、一種の治外法権を得ている貴族の領地はなんといっても国土の4割に達しており、長年の免税によって溜めこまれた絶大な経済力があった。
対する王国政府は税収を向上させ歳入を増やしてはいるがまだまだ莫大な負債を減らすには至っていないのが実情であった。


フウ、とシャルロットがもの憂げにため息をもらすとともに、何かたとえようもない気配が王妃から噴き出すのをカルノーは背筋を氷が這うような悪寒とともに見つめた。
およそ人ではない何かのような、妖気の漂うシャルロットの凄絶な美しさに謹厳実直な武人であるケレルマンでさえもが圧倒される。
カルノーもケレルマンも本質的に有能ではあるが優秀な君主に仕えることでその力を発揮するタイプの人間である。
しかしシャルロットは違う。
誰よりも色濃く支配者としての遺伝子を受け継いだ女傑は降ってわいたような事態に歓喜すらしていた。
同時に、愛する夫を追い込んだ愚かな貴族たちに対して激甚な怒りを抱いてもいる。
いまや彼女を掣肘するべきオーギュストは意識を失い生死の境を戦っている最中であった。

「―――――――これは天命だわ」

決然として見開かれた燃えるような青い瞳の輝きにカルノーは震えた。
はたして自分は恐怖しているのか。
それとも歓喜しているのか、はたまた憎悪しているのか。
わからないながらに心から溢れでそうな激情の奔流がカルノーの全身を濡らしていった。
この鋼のような強い意志。
ハプスブルグの血がはぐくんできた政治的ハイブリッドだけが持つ遺伝子レベルまで刷り込まれた鋼鉄の意志。
それこそがシャルロットをシャルロットたらしめている。
ただ一人、国王だけがその手綱をさばくことが出来たのだ。
しかし今や彼女はこのフランスの天下に解き放たれた一個の野獣であった。
その暴力の解放に協力できることをカルノーはまるで神に与えられた啓示のように感じていた。

フランスが変わる。
オーギュストの登場以来、フランスは良い方向へ変わり続けてきたが、まるで舞台の場面が変わったかのように劇的にフランスは変わる。
シャルロットという一人の女傑の手によって。

「ケレルマン。王国再生のための作戦計画はすでに出来ているわね?」
「はっ………赤の場合、黄の場合、青の場合ともすでに骨子は固まっております!」
「では青の場合を発動します。ただちに実働部隊の編成を始めなさい………敵に気取らせる時間を与えてはいけません」
「よろしいので……?」
「すでにして陛下は私に闘病中の国政に関する権限を委託されました。――――私は陛下の回復まで王国摂政への就任を宣言いたします」


正しく暴論であった。
確かにカトリーヌ・ド・メディシスのように王国摂政に就任した女傑は過去にもいたが彼女たちは長い年月をかけて王国に確固たる政治基盤を形成していた。
しかしシャルロットはオーギュストのかけがえのない政治的パートナーであり、優秀な参謀ではあるが誰の目にも見える実績をもっていない。
国王の側近は彼女の優秀さを十分に承知しているがルイ・フィリップをはじめとする反体制派貴族は彼女を小生意気なオーストリア女くらいにしか認識していないであろう。
だからこそ彼らが油断しているうちに惨劇の大ナタを振るうことをシャルロットは決断していたのだが。

「国務会議はすでに過半が国王派で占められています。私が摂政に就任することに法律的な問題はありません。ケレルマン、カルノー…………」

そう言って沈黙したシャルロットは紅玉のように滑らかな光沢を放つ唇を白い指先でなぞって艶然と微笑を投げかけた。
戦場で生死の狭間を駆け抜けたケレルマンさえもが心臓を氷の手で握りしめられたような錯覚さえ感じさせる微笑であった。
逆らってはいけない。
二人の原初的な生存本能が高らかに警鐘を鳴らしていた。

「今後いっそうの忠誠を期待していますよ?」
「「御意」」

まるで虎に睨まれたインパラのように二人は粛然と硬直して膝を折ったのだった。



フランス国内再統一に関する作戦計画書。
赤の場合は旧体制派の重鎮ショワズール公を仮想敵においている。
黄の場合はランス大聖堂をはじめとするカトリック勢力と貴族が結びついた場合の対応を。
そして青の場合とは――――――。

反国王派最大の首魁、ルイ・フィリップをはじめとしてアルトワ伯、プロヴァンス伯という王族を仮想敵としたブルボン王家にとってもろ刃の刃になりかねぬ骨肉の争いを意味していた。
おそらくオーギュストには決断できなかったに違いない。
政治の結果として死を容認しなければならないことを知りつつも、夫オーギュストの本質はどこか甘く理想主義的である。
どこか自分とは違う世界を見ているような違和感が時として感じられるが、それ自体は為政者として得難い才能であるともシャルロットは考えていた。
ならば自分が夫には足りぬ部分を補ってやればよい、夫に変わって泥をかぶってしまえばよい。
ルイ・フィリップもプロヴァンス伯も自分達で信じるほど大した存在ではない、ただの小才子にすぎぬ。
彼らにはフランス王国を千年ののちまで繁栄をもたらすための構想もなければ、現在の国民を守り抜くだけの矜持すらない。
そんな有象無象たちに愛する夫のフランス百年の大計が邪魔されてよいはずがなかった。

――――――あの人は死なない、死ぬはずがない―――――。

オーギュストが双肩に担う運命はこんなところで道を閉ざされるほど小さなものではない。
そんな規格外の運命に魅せられていた。
ハプスブルグの血だけでは到達することのできない地平を見据えたオーギュストに惹かれ付き従ってきた。
しかし今こうしてオーギュストの手を離れて見ればやはり自分はまぎれもなくハプスブルグの産んだ怪物マリア・テレジアの娘であった。

「…………愛しているわ貴方。でもごめんなさい、私はもう貴方の期待しているようには振舞えないかもしれないわ」

泥をかぶると決断したからには起きてしまった結果には責任をとる。
それが自分とオーギュストの未来を分かつことになる可能性をシャルロットは黙って万感の涙のなかに封じこめた。
ただの一人の女として、座して王権の転落を待つという選択肢はシャルロットのなかにはない。
女である前に政治家というのがシャルロットの生まれ持った本質であり、幼いころから母に薫陶を受けてきたハプスブルグの娘の生きる道でもあった。


「デオンを呼びなさい。ロアン公が国王暗殺未遂の黒幕はルイ・フィリップであることを自白したことをフランス中に布告するのよ」

このときのために牙を研いできた。
有能な将帥に鍛え上げられ、国王に対する忠誠を叩きこまれた軍という暴力装置は、こうした虚偽を正論として容易に成立させてしまう。
だからこそ愚か者は一見単純な暴力というものに頼るのだ。
シャルロットは暴力が犯した歪みがどうした反動をもたらすかということについて十分に熟知していたし、政治家として軍に頼るのは最後の手段であるという理性も持ち合わせていた。
だが、今こそは躊躇せずにその力を使う。
そしてオーギュストに敵対する全ての愚か者に鉄槌をくだして見せる。
自分たちが刃向かった相手がどれほど恐ろしく無慈悲で容赦のない存在か、骨身にしみるまで理解させずにはおかない。
報復の快感にシャルロットは口の端を吊りあげる。



「――――――懺悔なさい、ルイ・フィリップ。私のあの人を傷つけた罪は万死に値するわ」




[20097] 第二十八話  解き放たれた獣その2
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:faa44c02
Date: 2012/04/03 23:18
「たたた、大変だ!」
「陛下が!我らの国王陛下がお倒れあそばした!」
「犯人はルイ・フィリップとその一党だ!」

パリの街頭に悲鳴と怒号がこだました。
国王がルイ・フィリップの策謀により暗殺されかけたことが公に布告されたことで、国王の政策による好景気と減税の恩恵に浴していたパリ市民はルイ・フィリップに対する怨嗟の声をあげたのである。
たちまちのうちにルイ・フィリップの公邸は怒り狂う市民によって包囲され、彼に組していると目されたアルトワ伯やプロヴァンス伯も屋敷から一歩も外に出られぬ惨状には思わず天を仰ぐしかなかった。
あるいは暴徒化した市民に自分たちが血祭りにあげられるかもしれぬ。
まったく予想外の展開についていけずアルトワ伯もプロヴァンス伯も戦々恐々として必死に屋敷の守りを固めていた。
もちろん主犯として追及を受けるべきフィリップは持ち前の情報網を頼りに屋敷を脱出し、故郷のオルレアンへの逃避行の真っ最中であった。

「………あのオーストリア女を甘く見過ぎたか………!」

まさしく痛恨の見誤りであった。
オーギュストの政治的手腕が突出するあまり目立たなかったがシャルロットが王のブレーンの一人であることはわかっていたはずなのに。
にもかかわらず彼女を軽視してしまったのはフィリップの無意識の女性軽視か、あるいは他国人に対する差別であったかもしれない。
まさか栄えあるフランス王宮を摂政として担う主権者が、仇敵たるハプスブルグの血を引く他国人となるとは、これはなんという政治的堕落であることか。
そう考えただけで屈辱に身悶えしたい衝動にフィリップは駆られる。
計画はほぼ予定通りの成果をあげた。
オーギュストを失った政権はその巨大な柱を失って倒れ、フィリップ自身かあるいは御しやすいプロヴァンス伯をかついで新たな政府の首班にフィリップがつくのは時間の問題に思われたはずだった。
かりに作戦が失敗したとしてもオーギュストは確実な証拠をつかまないかぎり決して自分を断罪できないという確信がフィリップにはあった。
あの男は法を利用することも法の抜け道をくぐることも十分に知悉しているが、法を犯すことにはなぜか心理的な抵抗を感じてしまう部分が心の奥底に根付いている。
それあるかぎり自分は決して逮捕されない。
すべてはいつ切り離しても構わない手足が勝手に行うことであるからだ。
しかしそうしたある種の遵法意識がシャルロットにはない。
法はあくまでも政治を補完するための方便のひとつにすぎず、必要であるならば法を蹂躙することになんのためらいもないのである。
だからこそ正式な裁判にかけるでもなく一方的に布告を出し、フィリップを政治的に抹殺しようと図ったのであろう。
今のところフィリップにこれを正面から打開するだけの力はなかった。

――――――だがこのシャルロットの暴発はフィリップにとって逆転への奇貨でもある。

たとえシャルロットが都合よくロアン公の証言をねつ造しようとも、この謀略じみた政変を法服貴族たちが快く思うはずがなかった。
むしろ高等法院の復活を願う法服貴族たちをシャルロットは強行手段によって完全に敵に回したに等しい。
そして法服貴族のなかには法のもとに人権の平等をうたう理想主義的な啓蒙派貴族たちが少なくないのである。
つまり国王派は自らのよって立つ権力基盤に対しても喧嘩を売ったも同然なのだ。
フィリップにはフランスの三分の一の富を占めるとまで言われたオルレアンという策源地があり、王族として培ってきた幅広い人脈がある。
王妃の不実を糾弾し、国王派を分断して勢力を逆転させることは決して不可能なことではなかった。

「この借りは忘れん………所詮は女の浅智恵だということを思い知らせてやる………!」

このところ国王の力は強くなりすぎた。
そのことを危惧する貴族は多く、高等法院の復活もそれによって国王の絶対的な権力を掣肘しようというということろが大きい。
フィリップが高等法院を復活させ、法のもとに公正な裁判を行うならば出廷する用意があることを宣言すれば喝采をあげる貴族は多いはずだった。
そうなれば高等法院に対する影響力は当然フィリップのほうが大きくなり、ねつ造された証拠などまともに採用されないことは明らかだ。
確かにシャルロットの果断さは脅威ではあったが、こうして難を逃れて見ればやはり感情に任せたずさんさが浮き彫りであるようにフィリップには思われた。
それにこのまま逃亡中に国王が死去する可能性も決して低くはない。
シャルロットが摂政として権力を振るえるのも全てはオーギュストという国王の力あってこそであり、たとえ息子のルイ・ジョセフが即位したとしても、彼女には後ろ盾となるべき確固とした権力基盤がない以上
フィリップたち貴族が王宮内で主導権を取り戻すのは当然の成り行きであった。
そうなったときにどうやって復讐してやろうか。
フィリップは暗い復讐の快感に身を浸すことでかろうじて敗北の逃避行の屈辱に耐えていた。



フィリップが逃げ込もうとしているオルレアンはパリの南方百数十キロに位置しており、中部フランスの要、肥沃な土地と交通の要衝に恵まれた一大都市である。
古くはあのジャンヌ・ダルクが解放した都市でもあり、基本的にはランスで戴冠を行うフランス国王が稀にオルレアン大聖堂で戴冠を行うこともあるという宗教上の要地でもある。
またオルレアン大学を要する学問上の名門でもあり、とりわけ法学の分野において権威強く、ルターとともに宗教改革の指導者として名高いジャン・カルヴァンはこのオルレアン大学で宗教改革の著作を執筆した
とも言われていた。
フィリップの領地であるシャルトルを含めた一門の領地の総面積はフランス貴族の中でも間違いなく最大であり、オルレアン公はいつの世においてもフランス貴族内で別格の扱いを受けてきた。
ヴァロワ朝以来王太子に次ぐ家格の門地として王国に重きをなしてきた屈指の門閥は今、戦慄に震えていた。
一人息子であるルイ・フィリップが国王暗殺教唆の疑いで生命の危機にさらされているのである。

「おのれ、あのオーストリアの雌豚めがっ!!」

15世紀後半に豪胆公シャルルがブルゴーニュを王室に奪われて以来オルレアンはほとんど唯一といっていいフランス国内国家とも言うべき独立領域を形成していた。
その豊かな財源は貴族特権により王室すら上回り、一門の勢力を糾合すれば百年戦争のようにフランスを分裂させることすら可能であるという噂もあながち的外れなものとは言えない。
ゆえにこそ歴代の国王もオルレアン公には格別の配慮を払わなければならなかったのだ。
そうした先祖代々の誇りが、今一人のオーストリア女によって見るも無惨に蹂躙されようとしていた。

「息子を決してあの女の手に渡すな!金に糸目はつけんから兵をかき集めさせろ!」

憤懣に顔を真っ赤に染め上げてオルレアン公は怨嗟の咆哮をあげた。
ラ・ヴォーギュイヨンは失敗したが、彼とオルレアン公との間には傍目にも歴然とした格式と資金と人脈の差が存在する。
まして国王が病に伏せっている今、どこまで国内勢力が王妃の味方をするかは未知数といってよい。
オルレアン公は国政を糺すため自分が決起すれば国内貴族の大半は自分に組するであろうことを疑っていなかった。
それほどにいまだフランス貴族の間で、ハプスブルグ家に対する敵対心とコンプレックスは大きいのだ。

「売女め、自分が誰を敵に回したか思い知るがいい」

平和による繁栄を享受してきたオルレアン公領にはそれほど多くの私兵は存在していないが、それでも年来の騎士をはじめとして一声かければ参集する潜在的な兵力は莫大である。
さらに豊富な資金を投入すれば数万以上の傭兵を養うことすらさほど難しい話ではなかった。
オルレアン家の一門と友好的な貴族の総兵力は優にいまだ貧弱な王国の陸軍戦力を大きく上回るだろう。
だが合計すれば国王を上回るという計算は必ずしも正確ではない。
―――――その現実をオルレアン公は遠くない未来に思い知らされることになる。




「連隊主力はそのままオルレアンを衝け。砲兵は軍の馬匹が総力をあげて支援する。弾薬と糧食の補給は青の場合の計画どおりに」

薄暗い参謀本部ではケレルマンを中心とした数人の参謀がテーブルに広げられた図上を睨みながら刻一刻と変化する作戦の進捗状況を確認していた。
史上初めて実施されるであろう参謀本部による作戦指導にさすがのケレルマンも緊張の色を隠せない。
頭では理解しているが、参謀本部の実効性はいまだ確認されたことがないからだ。

「この作戦の骨子は動員奇襲にある。オルレアン公が兵力を結集する以前に一気にオルレアン公国を陥とす――――そのためには砲兵の進出が遅れることがあってはならない」
「問題ありません。既に二ヶ月分の弾薬を補給する体制も砲兵の機動についても訓練は十分です。この日のために砲兵の長距離進出用の軍馬を整備してきたのですから」

これまでの歴史のなかで戦争のグランドデザインを描く将軍もいたし、作戦計画や補給計画に辣腕をふるった軍師もいた。
しかし様々な仮想敵との戦争計画を専門に平時から準備する部署は存在しなかった。
彼らは装備の調達や開発からその運用による作戦計画の立案、さらには敗北した場合の予備兵力による逆撃まであらゆる角度から戦争を検討する。
膨大な数にのぼった物資と兵士数、増える一方の煩雑な手続きは戦争の遂行を一人の才能に頼ることを不可能にしようとしていた。
フランスの史上に輝くナポレオンという巨星はそうした近代戦のはざまに咲いた美しすぎる徒花のようなものであった。

ナポレオンは徹頭徹尾戦略機動による局所的な兵力の集中を利用したが、無線や電話の存在しないこの時代ナポレオンの構想を実現させるためには有能な将帥と超人的な洞察力を必要とした。
晩年のナポレオンが機動による兵力の集中にタイムラグを生じて失敗してしまうのは、手足となるべき将軍の忠誠を失いつつあったこともあるが、何より超人的な勘とも言える洞察力が発揮できなかったことが大きい。
天才だけが持つ一瞬の煌めきに頼らなければならないほどに、近代戦というものは一人が制御するには大きくなりすぎた。
ケレルマンが立ち上げた参謀本部はプロイセンの参謀本部をモデルにしつつ軍部の独走を防ぐために情報部と警察力を別組織に頼る形でさらに国王の監督を受けている。
しかし作戦参謀を中心に情報参謀、通信参謀、後方参謀、行政参謀、輸送参謀、広報参謀、会計参謀、法務参謀、憲兵参謀が各部署で役割を分担された組織モデルはそのままだ。
オルレアンの占領と再統治まで予定された細密な戦争計画はこれまでの誰にも予想できない形で破滅の顎を剥きだそうとしていた。





「いったいこれは何の冗談だ?」

夜の闇をものともせず整然と一糸乱れぬ隊列を組んで歩兵が連隊規模で南下していくのをフィリップは呆然と見つめていた。
パリから逃亡し一夜の宿を求めていたフィリップを追い越す形で、フランス王国陸軍の兵士たちがオルレアン公領を目指して進軍していく。
このまま彼らがオルレアン公領に到着すればほとんど何の抵抗もできないままに故郷が蹂躙されるのは明らかだった。
オーギュストの兵制改革を正しく評価していたはずのフィリップにしてこれほどの早い兵力の展開は完全に予想を超えていた。
兵の集結、再編、補給、移動に最低でも一週間はかかると予想していたのである。

ガラガラガラガラ

砲身と車軸に分解された大砲が馬車に積まれて歩兵の後ろから運ばれていく。
どうやら彼らはオルレアン到着とともに攻城戦すら想定しているらしかった。
フィリップは自分の想像が全く的を外していたことを卒然として悟った。

「―――――お前か―――――お前の仕業かオーギュスト!」

これほどの軍事行動がシャルロットの決断ひとつで実行されるはずがなかった。
よほど入念に、長い時間をかけて準備されていなければこれほどの素早い対応は説明がつかない。
最初からオーギュストはオルレアン公領を軍事的に占領するべく準備を万端整えていたに違いなかった。
それがたまたまオーギュストの昏倒を受けてシャルロットが計画を引き継いだのだろう。

決して愚かではないフィリップは今後フランスがどうなっていくのかを理解した。
旧態然とした貴族たちが国王の新しい軍隊に対抗できる可能性はほぼ完全に失われるだろう。
もしも対抗できる貴族がいるとすれば、それは現在大陸で独立戦争の実戦を戦っているラ・ファイエットをはじめとする啓蒙派貴族に違いない。
アンシャン・レジームの軍隊ではあの機械仕掛けのように統制された国王の新たな軍隊には対抗できまい。


「今は負けを認めてやる―――――しかし私の生あるかぎり私はお前の破滅を諦めんぞ」

あの豊かな故郷は国王のものにされてしまうだろう。
名誉を重んじる父は生きて国王――――とりわけオーストリア人である王妃に屈服することを容認できまい。
古い人間ではあったがフィリップの野心の良き理解者であり優しい父でもあったオルレアン公の哀しい未来を予想しつつフィリップは自らの愛惜を一筋の涙とともに振り払った。
今はオルレアン公の相続人としてできる限り多くの資産を海外に持ち出して亡命しなくてはならなかった。
再起を図るだけの莫大な資産が、この後に及んでもフィリップにはまだ残されていた。

兵士の行進に合わせてリズミカルな太鼓の音がシンと静まり返った夜の闇のなかでこだましていた。
アウステルリッツの戦いにおいてルイ・ニコラ・ダブーは55時間で実に130kmの距離を踏破しているが、オルレアンへ向かう王国軍もおそらくはそれに近い進軍速度を維持しているに違いない。
いったいどうすればこの化け物のような軍隊を倒しうる?


―――――――アメリカに渡ろう。

フィリップがそう決断するまでそれほど長い時間はかからなかった。




[20097] 第二十九話  解き放たれた獣その3
Name: 高見 梁川◆f12053f8 ID:27379d7b
Date: 2012/04/26 22:40
「いったい………いったい何が起こったというのだ??」



オルレアン公は街道を陸続と続く歩兵の波を見て絶句した。

ざっと見ただけでもその規模は連隊レベルを大きく上回っていた。

――――いくらなんでも早すぎる。

確かに国軍は常備兵力を所有しているが、それは必ずしも即応体制にあることを意味しない。

通常遠征が計画される場合には編成から集結と補給の準備が整うまで下手をすれば1ケ月近い時間を必要としたはずであった。



「まさか………オーストリア女は魔術でも使うのか……?」



そんな迷信じみた恐怖にかられてオルレアン公は身を震わせた。

自分には理解のできない出来事を経験した人間は往々にしてその理解のできなかった事象に恐怖を抱く。

まさにオルレアン公もほとんど幽霊を目撃したような恐怖を感じると同時に、現実に武装した兵が自らの命を奪いにくるのだという事実に惑乱した。



「伝令を出せ!早く諸侯にこの事実を知らせるのだ!」



どんなに贔屓目に見ても配下の騎士たちが領地の部下の動員を完了するまでにあと2,3日の時間が必要である。

それがさらに移動して城まで到着するまでには下手をすれば5日は見ておかなければならないかもしれない。

十中八九までこの城はそれまでもたないに違いなかった。

ならば軍事的にではなく諸侯の政治的な仲介を要請することこそがオルレアン公が生き残る唯一に可能性であるのかもしれなかった。



もっとも生き残るということに限ればこのまま王国軍に降伏するのがもっとも確実であることも確かである。

息子ルイ・フィリップの国王暗殺計画と自分は無関係であり、フィリップの逮捕に協力する用意があると申し出ればいくらマリー王妃でも筆頭貴族であるオルレアン公を処断することは不可能だろう。

しかしオーストリア女に膝を屈して生き残るという選択肢はオルレアン公の中にはない。

愚かな国王が骨抜きにされた今、オーストリア女にフランスの誇り高きアンシャンレジームの美を見せつけられるのは自分だけだ。

それがフランスの三分の一の領土と富を所有すると言われた比類なき名門、オルレアン家に生まれたものの矜持であった。





「開門されよ!暗殺の首謀者ルイ・フィリップとその係累を取り調べよとの陛下の命である!決して無実の罪には問わぬゆえ身に覚えなくば進んで協力されたい!」





軍使が城門に馬を進めて大音声に呼ばわるとオルレアン公は首を振って呵々と大笑した。

矮小なる平民風情が国王の威を借りて貴族を捕えんとするか、もっとも国王に等しき無二の名門オルレアン家の当主を。

そんなことが許されてよいはずがあろうか?否!断じて否!



「国王の威を借りる狐とその郎党どもよ。たとえこの身が朽ちようとも貴様らに我らが誇りを傷つけさせはせぬ!」







アンシャンレジームという言葉はフランス革命以前の旧体制や旧制度を表すためにアレクシス・ド・トクヴィルが歴史用語として使用を始めたとされている。

したがってこの時点でアンシャンレジームという表現が貴族の間で使用されていたわけではない、が彼らは共通して自分が平民とは違う何者かであるという強い矜持を持ち合わせていた。

その中には貴族としての矜持を命を省みない蛮勇によって見せつけるというプライドも内抱されている。

イギリスのノーブレス・オブリージュよりも閉鎖的で独善的であるとはいえ、平民とは違う何かをなさねばならぬというイギリス貴族より遥かに濃い衝動をフランス貴族は体現していた。

だからこそフランスはイギリス以上にここまで封建制度が長く存続したのかもしれない。

この瞬間古き良き時代の騎士のように、オルレアン公はアンシャンレジームのために殉教することを何のためらいもなく決意したのである。



「…………死ぬ気ですかね?」

「良くも悪くも公爵は古い貴族の慣習に染まりきっている。降伏を選ぶことなどありえない―――――まあ、王妃殿下の予想通りってわけだ」



攻城を任されたセリュリエは深いため息とともに自らの所属する貴族という階級が失われてゆく未来を思わずにはいられなかった。

国王は貴族制度を廃止するつもりはないと聞いたことがあるが、貴族社会の象徴であるオルレアン家が討伐されてはたして同じ形で貴族が生き延びていけるだろうか。

おそらくは名ばかりの貴族と言う名の骸だけが哀れな姿をさらすことになるのでは―――――――。



(いや、この貴族の誇りが決して失われてなるものか!)



気高い勇気の発露を見せたオルレアン公を美しいままに葬り、後世にフランス貴族の在り方を伝えなければならない。

部下達の誰にも理解されまい理由を胸にしまい、セリュリエは決然と攻撃の命令をくだした。



「――――――攻撃開始」









勇将の下に弱卒なしという言葉がある。

数こそ少なかったがオルレアン公の配下の者たちは勇敢に戦った。

しかし個人の勇者も訓練された集団の歩兵には決して勝てないのが近代戦である。

時として王国軍の肝を冷やす活躍を見せることはあったが、たちまち各所で被害が激増していく。

このまま被害が拡大すれば近いうちに防御を維持できなくなることは明らかであった。



「見事だサリエルよ!お主の忠勤しかと見届けた!」



長年つき従ってきた古兵が蜂の巣のように被弾して全身を真っ赤に染めて倒れるのを目を細めてオルレアン公は賞賛した。

もともと勝てるなどという幻想は抱いていない。

ここまで貴族への迫害があからさまになった今、精一杯誇り高く死んでいくことこそが残されていく貴族たちへの何よりのメッセージとなるだろう。

いまだ捕まっていないところを見ればあの抜け目のない息子のことだ。

きっとうまいこと逃げ延びるに違いない。



「思ったより早かったな――――――」

「公爵様、よろしいので?」

「いまさら逃げよなどとは言うなよ?」



オルレアン公は幼いころからの右腕であった執事に微笑んで見せた。

常に主のことを最優先にするこの優秀な部下であれば、この絶望的な状況下であっても何らかの手段を講じてくれることに疑いはない。

しかしそれを受け入れてしまっては自分はオルレアン公であってオルレアン公ではなくなる。



「――――――アレクサンドル、お前は生きよ。そしてもし息子が生きておれば次代のオルレアン公として補佐してやってくれ」

「公爵様――――!」



平民も貴族も平等な人間であるという者がいる。

だがそれは決して真実ではない。

世の中には選ばれたものだけが決断すべき判断があり、それを民に委ねようとするのは愚かもののすることだ。

ゆえにこそ、選ばれた貴族にこうして忠誠を誓う順良な平民たちがいる。

相対化して社会構造を俯瞰してみるならば、オルレアン公の見識も一面の真実をついていると言えるかもしれなかった。

ただ世界の流れがそうした考えをぬぐい去ろうと動いていることもまた事実であった。



今まで不変であると信じていたものが失われようとしている。

ならばいつか蘇るための道しるべを残しておくことが自らに与えられた使命であろう。

フランス貴族に比類なきオルレアン家の最後が見苦しいものであってよいはずがないのだ。



「………急げ。この城はもう長くは持たん」



そう言ってオルレアン公は莞爾と笑って優しく下僕たちに手を振った。

その悠然たる風格に彼らは滂沱と涙を流し主人殿別れを惜しむのだった。

農奴や知識人は別の意見があろうが、少なくとも彼らにとってはオルレアン公は得難い尊敬すべき主人であったのである。



「公爵様!敵が内郭に侵入します!」

「…………さらばだ!お前達の忠勤は忘れぬ」

「公爵様!」

「ご主人さま!」



百年戦争末期、アルチュール・ド・リッシュモン伯が砲兵の大量集中使用による新戦術を構築して以来城塞の防御力は防御火力の充実なしには張り子の虎同然となってしまっていた。

残念なことに砲兵火力において十倍近い差をつけられている以上この結果は必然だった。

これが歩兵だけならばあるいは味方の来着まで粘ることも可能であったかもしれないが、だからこそ国軍も万難を排して砲をかき集めたのだろう。

いったいどんな魔法を使ったのかはわからないが、その手腕だけは褒めてやってもよい。



オルレアン公は非戦闘員が脱出するのを見届けると最後の戦いを挑むための残兵を集結させた。

その数わずかに三十あまり。

その気になれば数万の大兵を擁することも難しくないオルレアン家の最後を飾るにはいささか寂しい気もするがここまで残ってくれた勇敢無比な兵(つわもの)に不満などない。

あとは貴族の名に恥じぬよう――――勇者のごとく倒れるのみ。



「礼を言うぞ。この老人に死に花を咲かせてくれて」



一斉射撃の轟音とともになだれ込んでくる国軍歩兵に向かって、雄たけびをあげてオルレアン公と最後の兵士たちは突撃した。

それが何の効果もないことを十分に知っていながら剣を振りかざし、敵に向かって一途に走るその姿は確かに古き良き騎士の時代の風を感じさせた。

名誉のためには非合理的であっても勝てぬ相手でもためらわずに立ち向かう。

誰に命じられるわけでもなくただ自らの魂が命ずるままに戦うのだ。

戦う理由は決して他人から与えられるものではない。

――――――その思想は決して近代国家に受け入れられるものではなかったのだが。





「オルレアン公爵家の意地と名誉を見よ!」





硝煙の煙る焦げ臭い火薬の匂いのなかで、オルレアン公の大音声がこだました。

そのしわがれていながら重く腹に響く蛮声は、その後長く兵たちの耳の奥に残り夜の眠りを悩ませたという。











オルレアン公死す。

フランス王国の貴族中でもっとも強大でもっとも栄誉ある象徴の死は全土の貴族を震撼させた。

シャルトル公領や派兵の準備中であったオルレアン派の貴族たちも相次いで国軍の討伐を受け、ほとんど抵抗らしい抵抗もできぬままに屈服を余儀なくされその財産は王室に没収されたのである。

なかでもオルレアン公領に残された財産は莫大というほかはなく、これだけで王室の借金が激減することになるのは確実だった。



残された貴族たちは激怒し、かつ恐怖した。

オーストリア人である王妃がオルレアン公討伐の命を下したことに。

そして王位継承権の上位に位置するオルレアン公を助命することなく躊躇なく殺してみせたことに。

だが何より魔法のような兵の動員と迅速な機動の速度と――――久しく経験していない内戦がごく近い現実になってしまったという事実に。

ショワズールをはじめとする旧体制派貴族は戦うべきか、恭順するべきか懊悩していた。

少なくとも各個が衝動的に戦うことだけは避けなくてはならなかった。

機動で国軍が大幅に上回る以上、集中で勝らなくては勝ち目などあるはずがなかったからである。

王国陸軍も決して魔法を使っていたわけではなく、参謀本部が輸送と補給を計画していた実働戦力は最大でも二個師団に満たないものでしかなかった。

その気になればフランス王国の貴族が結集した場合の兵力は優にその三倍以上を揃えることができるだろう。

しかし結局彼らは勝算の立たない戦いを挑むことを躊躇のすえ断念せざるをえなかった。



ひとつは血気盛んな有力貴族がすでに新大陸の独立戦争にいってしまっているということ。

――――――――そしてもうひとつ、国境で強大な圧力をかけてくるある大国の存在があったからである。













「貴方は自分が何をしているかわかっているの―――――?」



テレジアの声は悲鳴に近かった。

年老いてなお若々しく瑞々しい美声がわずかにひび割れているように聞こえるのは彼女の動揺の深さゆえであろうか。

母が血相をかえて激怒している様子を興味深そうに眺めた男は満足気に微笑んだ。



「何をそんなに取り乱されているのです?母上―――――私は可愛い妹を擁護するために少々手を差し伸べてやっただけですのに」

「それがあの娘を―――――カロリーナを危うくするかわからないとでも言うの?」



国境沿いに展開したオーストリア軍およそ二万名は、摂政マリー・シャルロットを害する動きがあった場合にはただちに国境を突破しフランス王国に侵攻するよう厳命されていた。

確かに一時的にはシャルロットに敵対しようという動きは阻害されるだろう。

しかし長期的にはシャルロットが結局はオーストリア人であり、最終的にフランスはオーストリアの下風に立たされるのではないかという無用な疑念を抱かれる結果に終わるのことを長年政治の一線に立ってきたテレジアは

正しく洞察していた。



「わかっていないのは貴女のほうだ、母上。あれは貴女の娘なのですぞ?その程度のことを覚悟していないとでも?」

「そこまでわかっていながら貴方はっっ!!」



ハプスブルグの産んだ政治的怪物であるマリア・テレジアである。

どのように娘が決断し、どのような覚悟を娘がしたか十分に承知していた。

だからといってそれが容認できるかどうかは別な話である。

彼女は政治家である前に母として娘に幸せな人生を生きてくれることを望んでいるのだから。



ヨーゼフ二世は嗤った。

いまさら何を言う。

あの可愛い妹にハプスブルグ家の流儀を仕込んだのは貴女ではないか、母上。

そして私を皇帝の座に据えたのも。



早すぎた啓蒙君主としてとかくフリードリヒ二世と比較され酷評されることも多いヨーゼ二世だが、その志は決して間違ってはいなかった。

むしろ後世に与えた影響という点ではフリードリヒ二世をすらしのぐかもしれない。

偉大すぎる母との二重権力というしがらみがなければあるいは後の世に語り継がれるなような成功――――または失敗を成し遂げたかもしれない可能性がヨーゼフにはあった。

オーストリアとハプスブルグの繁栄を第一にする母と違い、国家と社会の未来に対する構想を描くだけの力が―――――。





(この千載一遇の機会を失ってなるものか―――――)



現在の政治状況がもっともうまくいった場合、フランスの政府は妹であるアンナ・カロリーナが主催することになる。

そうなれば妹の身体に流れる血がものを言う。

フランス国内にこれといった基盤を持たない彼女は自らの政治基盤を守るためにこれまで以上に母国の力を必要とするだろう。

そのために彼女は孤立し、さらに母国への依存を強める。これは必然の成り行きなのだ。



もしルイ・オーギュストが回復した場合であってもこれは大きな貸しになる。

カロリーナの結婚以来なかなか思うように操れなかったフランスとの関係を改善するための今はまたとない機会なのだ。

そのためならば妹の将来がどうなろうと知ったことではなかった。







「今さらすべてが遅いのです母上。それに―――――薔薇が咲こうとするのを手折る権利がいったい誰にありましょう?」





そう、自分は確かに妹を利用しようとしている。

しかしそれを望み、政治闘争に勝利しようと戦っているのは誰よりもまず、ハプスブルグの産んだ大輪の薔薇自身なのだ――――――――。







感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.21523499488831