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[18834] 匣中におけるエメト(Fate After Story  オリジナルキャラ有り) 【完】
Name: tory◆1f6c1871 ID:8e7f98a1
Date: 2010/11/29 15:58
<前書き>
Fateのアフターストーリーです。
但し、<第六次聖杯戦争>といった類の話ではありません。
クロスでもありません。
オリジナルキャラは物語の構成上多々出ますし、設定も独自のものがあるかと思いますがご容赦願います。
しかしながら、Fateにおける一つのルート後を想定した話として書かせて頂きました。
中編を予定しております。
楽しんで読んで頂ければ幸いです。



 この橋から見える景色が好きだ。
 ここから、感じる風が好きだ。
 だから、こんなにも寒いというのに、つい立ち止まって海面に散らばった宝石の輝きのような光の乱舞を何となく眺めていた。
 空は、蒼と橙が淡く重なって、その色を映した点々とした雲が、複雑な模様のように浮かんでいる。
 潮を含んだ風は、冷たく打ちつけてくるけど不思議と嫌じゃなかった。
 それは、何時だって郷愁を誘う香りに思えるから。
 でも、まあ………浸ってないで早く帰らないと。
 寒いし。
 お腹も減ってるし。
 へとへとだし。
 学校から私の家まで、残る道程は今の私からしたら気が遠くなるような距離だ。
 砂でも詰まってるんじゃないかと思う重い足を何とか言う事聞かせて、歩みを再開させた。
 今日も散々に、黒豹にいびられたせいだった。
 あれは、どう考えても楽しんでるようにしか見えないし虐待行為として訴えられても仕方ないと個人的には思うのだけど。
 何しろ、遅れた秒数毎に走り込みの本数が増えていくのだ。
 当然、そうなれば悪循環になるのは見えているわけで、何時まで経っても消えないノルマに心が折られる。
 で、体はもうやけくそに動く、壊れた機械みたくなる。
 倒れる者多数。
 それなのに、あの顧問のことを本気で悪く言う人は我が陸上部には皆無だし、私を含めて辞めた者が居ないというのが不思議なところだ。
 どんな人望なんだそれって、本気で考えたこともある。
 結局、人にとって良くも悪くも反復されるものに慣らされてしまうというのが一番効果的なのかもというのがその時に出した結論だった。
 それで何で私が、こんな最悪な状態の中で歩いているかというと……簡単に言ってしまえば自分がやってしまった大ポカのせいだ。
 昨日、母親にクリーニングに出すからと言われて、いつも着ているコートを渡した時にポケットの中身を出したまでは良かった。
 だが、それを机に置きっ放しにしてあった事に気がついたのは登校時に遅刻ぎりぎりのバスに乗る寸前だった。
 その際は何とか小銭をかき集めて、さらにたまたま近くに居た以前にお金を貸していた友人から強行に徴収することで事なきを得た。
 しかし、これで私の貯蔵は本当に尽きてしまった。

「なに? 歩いて帰るだと? ふむ……その強情さは見ようによっては賞賛に値するが、少しくらいは周囲に借りを作らないと狭量だととられかねないと思うがね、天谷」

 同じ部活の、我が親友にして永遠の仇敵はそんな事を帰り際に言った。
 あいつは気がついていたのだろう。
 私が、財布を含めた一切合切を忘れて今日一日飲み物すら買えない底辺に居たことを。
 だって、眼鏡の奥の涼しげな目が誂うように笑っていた。
 その女子だと思えない、尊大で時代掛かった口調はいつもの事なので気にしなかった。
 何でも母親譲りなのだそうな。
 それでもちょっとは腹が立って、大きなお世話だと言ってやったら今度は本当に笑いやがった。
 まあ……言っていることは正しいことなのだろうし、心が狭いのも事実なのだろうが。
 私が、借りを作らない信条を持っていることも知っているだろうし。

「それだったら……こう、さり気無く助けてくれりゃあいいのにさ。全く、あいつも根っこの部分では意地が悪いよ」

 嘆息混じりに、自分でも身勝手だなと思う愚痴を呟いたのはかなり疲れてるせいなのだろう。
 だから、本当なら素通りすれば良かったと後になって思ったこの出会いも、きっと疲れてたせいに違いない。
 基本的に、この歩道橋は人通りが滅多に無い。
 結構長大な橋であるので、渡るなら一段高所にある隣接する車道をバスなど利用して渡るのが普通だ。
 あと風が強いので、この寒い時期にはあまり評判がよろしくないのだ。
 その為、前方に佇む長身の人影に必要以上に内心びくっとなった。
 だって、不審すぎる。
 こんな何もない所に寒風吹きすさぶ夕暮れの中で、海の方を見て微動だにせず立っているのだから。
 ………自分だってそれと似たようなことをやっていたのだが、それはさておいて。
 黒い皮のジャケットを着て、褪せた色のジーンズにごついブーツというその組み合わせは似合ってただけに怖かった。
 何と言うか、背がとても高いのもそうなのだが、肩幅が広く筋骨隆々というその体格はとてもじゃないが日本人には見えなかったのだ。
 確かに外国の人がこの辺は多いからそれは良いのだが、問題はここが人気の無い場所って事で、そこでこんな大男が前に立っていたら、そりゃ怖いと思う。
 ほら、私だって一応は女の子なわけだし。
 幸い、何やら放心したように海の方を眺めているので、ここはなるべく不自然な感じにならないように通りすぎるのが得策……だっていうのに、

「あの、何見てるんですか?」

 何て、気がついたら声をかけてしまったのは不覚では言い訳がつかないと思う。

「え?」

 あ、驚いてる。
 こちらに向いた顔は、予想に反して体格や服装に似合わない穏やかで無防備な感じだった。
 ちょっと、国籍不明な雰囲気だが日本語は通じるみたいだ。

「あ、すいません、邪魔しちゃって。いや、こ、ここって寒いですし、別段何も無いですし、その海の方ずっと眺めてたから気になって。な、なんか、ごめんなさい。変なヤツでしたね、私」

「ああ。いや、そんな事はない。ただ、ここの景色が綺麗だったからちょっと感慨に耽ってしまっただけでね。さぞかし、君にも怪しく見えただろうに気遣って声までかけてもらえるとは思わなかった」

「あ、怪しいなんて、そんな……」

「いやいや。周りからも忠告は受けてるし気配りもしてるつもりだったが、少し怖がらせてしまったようだ。すまない」

 苦笑しながらも恐縮したように、詫びられてしまった。
 流暢な日本語で、黒髪黒目、顔立ちも本当に良く良く見てみると日本人みたいなのだが、それでも何だかやっぱりそうでもないような。
 それは、地肌が日に焼けているなどと生半可には言えないほど浅黒く、仕草が日本人離れしているせいか?
 どうでもいいが、少し気障で女たらしの印象も受けたりして。

「あ、謝らないでください。怪しくて怖がってたなら、声なんてかけませんよ」

 本当は、そのものずばり思っていたのだが、見抜かれたのも気まずくて心にも無い否定をした。
 自分でも、声を掛けたのは何故だろうって不思議には思う。
 何となく、寂しそうだったから?

「ふむ……それは少し問題だな。このような、人気が無い寂しい場所で私のような男に無防備に声をかけるなどというのは無用心にも程がある。特に、君くらいの年齢でそれではとても危険だ。君は穂群原の生徒かね?」

「あ、はい。そうです」

「新都の方に家があるのだろうが、何故バスを使わなかったのかね? 気まぐれの散歩にしても、このような時間に君のような女の子がするのはあまり感心しないな。見たところ、だいぶ疲労もしているようだし……どういう教育をしているのだ、近頃は。全く」

「えーっと。それには、ちょっと事情が……」

 何故、自分は呆れたように説教などされてるのだろう?
 それについての、事情も説明などしたくもないし、このような形になるとは、と見ず知らずの男に声を掛けた事に激しく後悔した。
 その……別の方向で。

「まあ、事情については詮索すまい。しかし、そうだな……」

「?」

 その人は、思案した顔をすると欄干に立てかけられてあった物に視線を向けた。
 実は、私も気になってはいた。
 だいぶ型が古くて、原型がほとんど残ってない程にカスタマイズされてるように見えるがあれはビアンキだ。
 大切に使っているのだろうなというのが、何となくよく分かる。
 こう見えて、私は自転車なんかに興味がある女の子だったりする。

「よし。乗りたまえ」

「え!?」

「ステップは取り付けたばかりだが、耐用については問題ないはずだ。送っていこう」

「あ、えっと………す、すみません。それは幾ら何でも悪いというか……見ず知らずの人にそういうのは、どうかと思うのですが……」

 何を言っているのだろう、この人は?
 今、少し話したばかりの人間である私に、いきなりそれは無いのではないだろうか?
 さっきは、何か正論めいた事を説教されたけど、この人も何か問題があるように思う。
 確かに、先に声掛けたのは私だけど、ナンパされているような気分にもなってきた。

「あの……やっぱり悪いからいいです。それに、その、借りとか作るのは苦手というか……」

「借り? なるほど……ならば、先程君に無用な警戒をさせて心因的に負担を掛けたことに対する詫びが一つ。私が、これから新都に向かう用があるためにそのついでに過ぎないことが一つ。あと、この自転車には近々乗せる予定の子が居てね。ステップの耐用試験に付き合ってもらえると有り難い。勿論、そのリスクは君が負うこととなる。さらに、私は穂群原のOBだ。あそこには、縁がある者もまだいるし、君のような女の子を放っておいては私自身の寝覚めが悪いというのが一つ。というわけで、君はこれを借りと思う必要は全く無い。納得いったかね?」

「あ………う……?」

「ふむ。しかし確かに、今会ったばかりの怪しい男の申し出に警戒するのは当然だな。では、家まででなく駅まで送るに変えよう。あの辺は、人も多いし滅多なことも無いかと思うが」

「あ、いや。そんな事、思ってないですってば! あー、その……じゃあ、お願いします!」

 立板に水の如き勢いで言われて、しばし思考停止してしまい気がついたら自分も勢いで返事していた。
 なんというか───この人、よくまあ口が回るな。
 声も錆を含んだ良い声だし、そういう喋る商売の人だろうか?
 呆然としていると、既にその人は自転車に跨って準備万端といった感じになっていた。

「乗り方は分かるかね? そのステップに足を乗せて……申し訳ないが立ったままの姿勢になる」

「はい、大丈夫です」

「では、背中にでも肩にでも手を掛けたまえ。なるべく、安全運転にはするが落ちぬようにな」

 ステップに乗って──カバン持つのがちょっと大変だな、これ──さて、どこに掴まろうかってとこで手が止まった。
 わー、凄く広い背中だと見惚れてしまったからだった。
 逞しいし、頼り甲斐があるし、背中で語ってるぜという雰囲気なのだ。
 思わず抱きつきたくなってしまったのを何とか堪えて、肩に掴まる。
 少し、恥ずかしい。

「では行くか。と、その前に契約だというのに一つ大事なことを確認し忘れていたな」

「はい?」

「君の名前を聞いておこう。契約における最も重要な交換だ」

 契約って……何だか、大袈裟なことを言う人だな。
 これが契約って言うなら、街でよく見かける女の子に声かけている男連中は契約を迫ってるってことだろうか?

「天谷です。天谷理沙っていいます」

「天谷理沙くんか……では、理沙くんと。私は三社という。数字の三に、社は…神社の社だな。名は堺市の堺に人と書いて堺人だ。さて、ここに契約は成立した」

 それがまるで厳かで重大な事のように一度頷くと、三社さんはペダルを踏み込んだ。
 呆気に取られていた私は突然の加速に、つんのめりそうになる。
 ……危なかった。
 腕が首に巻き付いて絞め殺しちゃうところでした。
 横風を物ともせず、凄い勢いで景色が後ろに流れて行く。
 私は、最初こそ少し怖くて身体を固くしていたが、その加速感と受ける風が段々と気持ち良く感じ始めていた。
 でも、ここ一応歩道ですから、こんなスピードで自転車走らせるのはどうかと思いますよ?
 あと、安全運転はどうしたのでしょうか?
 そんな突っ込みを入れたいところだったけど、風鳴りがうるさかったし、あっという間にあれ程遠かった新都の街並みがぐんぐん近づいてきたので黙ることにした。
 ───これが、私がこれまでに知り得る中ではぶっちぎり一番、並び立つ者無しな変人の三社堺人さんとの初めての出会いであった。
 まさか、この時はこの人と生涯に渡って縁があるなんて事になるとは思いも寄らなかった。


 結局、家の近くまで送ってもらってしまった。
 私の家は、十年ほど前に出来た新興住宅街にある。
 ここは、建売住宅として全て販売され最初から完成された区画として始まったので清潔感がある街並みなのだが、似たような家が一杯あるので迷い易いと評判だった。
 かく言う私も、時々迷うから外から見たらその評価は当然だろうと思う。
 日はすっかり沈み、家々から漏れる明かりが陰影を浮き彫りにしている。
 影絵のようなこの光景の中に、私の家もある。
 街灯が照らす真下辺りで私は立ち止まり、隣で自転車を曳いている三社さんに向き直った。

「この辺りで大丈夫です。本当にありがとうございました」

「礼は不要だ。言ったように、君はこれを借りに感じる必要はない。等価交換はこの世の一つの原則であり、私は私で得るものがあったのだからな」

「とうか……こうかん?」

「簡単に言えば、『情けは人の為ならず』をもっと卑近で即物的にしたようなものだ」

「はあ……」

 分かるようで、分からないような。
 何だか、喋り方が時代掛かってる為に一々言ってることが難解に聞こえる。
 関係ないけど、親友の氷室と三社さんが喋ったら驚くほど噛み合うような気がした。

「それにしても……この辺りはあまり近寄らなかったが、大した変わり様だな」

「? そうですか? 最初からこんな感じだと思いますけど?」

「ああ、そうか……知らないかもしれんが、この辺りは昔は広い公園があった場所でね。遠目から見かけたときは、本当に驚いたよ」

「あ、聞いたことあります。よく知りませんが、ずっと手付かずで放置されてたみたいですね。広い土地なのに」

 かなり昔に大火事があって、その後しばらく更地のまま放置されたとか何とか……。
 大火事にの前にも、この辺りは住宅地でそれで人が大勢亡くなったそうだ。
 何故か当時の記録はあまり残ってないらしいが、怨念が強くて手が付けられなかったなんていう眉唾ものの噂もあった。
 じゃあそれは、今は解消されたということか。
 特に、変な噂も聞かないし。

「まあ、無駄に土地を遊ばせるよりは、ここも街の一部として人の営みがあったほうが余程健全だろうな。昔を知る人間としては、しみじみとしてしまうがね」

「あは。何か、随分年寄り臭いこと言いますね三社さんって。そんな歳でもなさそうなのに」

  同じような事を、お父さんも言っていた。
 人って、自分より年下にだとすぐこういう事言いたがるよなぁ、と常々不思議に思っていた。
 
「ふむ。世辞として言ってくれているのだろうが……恐らく理沙くんと比べればかなり離れている筈だ」

「え? 失礼ですけど、お幾つなんですか?」

「そろそろ不惑が見えてきてるな」

「ふわく?」

 聞いたことが無い。
 イメージしたのは、曖昧なお菓子。
 三社さんは、少し困ったように頭を掻いていた。

「この言い回しは知らぬか……『四十にして惑わず』という隣国の思想家の言葉だ」

「ああ。四十ですか……って、ええぇえ!?」

 う……そ? 嘘!? せ、せいぜい二十代前半のお兄さんと思った……だって、幾ら何でもお父さんと同じくらいのおじさんには見えないし。
 恐るべし、現代のアンチエイジング……遂に、ここまでの技術に到達していようとは。
 ───あれ? でも、この三社さんが極端に童顔なだけか?
 うちのお父さん、普通におじさんだし。
 あ、何だかこの人、とても不本意そうな顔してますよ?
 ちょっと、拗ねてる子供みたいで可愛いかも。

「…………む。他の国々では、色々と化物呼ばわりされて、東洋人だから若く見えるのは当然と納得していたのだが……同国人から驚かれると流石にショックだな」

「あ、あ……でも、若く見えるって良いことじゃないですか! ほら! 三社さんの場合、別に子供っぽく見えるとかじゃなくて、ちょっと素敵なお兄さんくらいにしか見えませんよ? 大丈夫ですよ、だから! 自転車乗せてもらってた時も、何かこう……こんな私たちを見て! みたいに思ってて少し気分良かったというか、なんというか。いや、えーっと……あはは」 

 さっき会ったばかりの人に、私は何を必死になって言っているのだろう。
 だって、本当に落ち込んでいるようにも見えたし、そんな表情されたら誰でも何か言いたくなりますって。
 あー、恥ずかしいなあ、もう。
 ここは、笑って誤魔化すの一択だ。
 笑え、笑うしかないぞ私。

「なるほど………君は本当に良い娘みたいだな。まあ、折角のフォローは素直に受け取っておくこととしよう。ありがとう」

「あ…………えーっと、ほらトウカコウカン? それですよ、ええ。そりゃもう、凄いトウカコウカン。あはは、それじゃ!」

 やばいです、グダグダです。
 多分、今の自分、鏡で見られません。
 その笑顔は、反則だってば三社さん。
 確かに化物だと、異国の彼を知る人々に全面的に賛同したい。
 何しろ、今の笑顔は同級生の男の子くらいにしか見えなかった……。
 気まずくて、自分の身体の事も忘れて駆け出した。
 だけど、すぐに目の前に広がった光景に足が止まった。

「─────────────は!?」

 赤い、赤い、赤い。
 
 みんな、燃えてる。
 
 空が、赤く染まって、嫌な匂いがそこら中に充満している。
 
 意味がわからない。
 
 意味がわからない。
 
 意味がわからない。
 
 何で? どうして? ここどこ?
 
 私の家は?
 
 足が震える。
 
 逃げなきゃって思ってるのに、動いてくれない。
 
 気が狂ったように叫べばいいのか、泣けばいいのかも選べない。
 
 女の人の悲鳴が聞こえる。
 
 子供が泣く声が聞こえる。
 
 助けなきゃって、思った。
 
 何だか良く分からないけど、自分がどうなったかも良く分からないけど助けなきゃ。
 
 でも、誰を? どこで? どんな風に?
 
 何も思いつかない。
 
 何で、私は何もできないんだろう?
 
 どうして、身体が動かないんだろう?
 
 何も、だんだん感じなくなってるのは何でだろう?
 
 この、目の前の黒いのは───

「おい! どうした!」

 あれ? 三社さんがこっち見てる……
 凄く怖い顔だ。
 だけど、何故かとても安心した。
 
「…………あ。えっと、肩痛いです」

 両肩を掴まれながら、顔を覗き込まれていた。
 本人は力を入れて無いつもりかもしれないけど、結構痛い。
 あと、そんなに顔が近いと、ちょっと恥ずかしいです。

「……ああ、すまない。いきなり、硬直して前に倒れそうになっていたのでね。咄嗟とは言え、失礼した。立てるかね?」

 掴む力だけ緩めて、丁寧に身体を起こしてくれた。
 少し何でか足が震えてたけど、大丈夫。
 立ってられる。

「大丈夫です、すいません。ちょっと立ち眩みですかね……疲れているみたいです、私」

 あははと無理に笑って、頬を掻いた。
 いや、そんな真剣な顔で心配そうに見られたら困ってしまうのです。

「そうか……やはり、家の前まで送っていこう」

「あ、いや! ほんと、いいです。ほら、あそこ。見えてますから、私の家。ね?」

 我が家を指す。
 門灯が、オレンジに光ってるのがそうだ。
 それは、いつになく自分をほっとさせた。 

「………君は、持病とかあるのかね?」

「え? 無いです。風邪も滅多にひかないですよ? こんなの初めてで、自分でもちょっとびっくりです」

「今日どこかで頭を強く打った覚えは?」

「それも、無いです。大丈夫ですよ。ほんと」

 あ、いや、心配してくれてるのは嬉しいんですけど、そこまで真剣な顔されると不安になるんですが……。
 それに、今のを説明しろってのが無茶な話で。
 何だったんだろ、今の。
 最近見たホラー映画とかより十倍は怖かったって印象があったけど、もう記憶がぼやけてきた。
 私の特技の一つに、本当に嫌なことは都合良くすぐ忘れられるっていうのがある。
 これは中々に、自分でも得している才能だと思う。

「念の為、明日必ず病院に行きたまえ。どんな事でもそうだが、自分で自分の事を分かっていないというのが一番致命的だぞ」

「や、やだなぁ……脅かさないでくださいよ。そういうの趣味悪いですよ?」

 病院なんて、もう何年も行ってない。
 無病息災、健康第一。
 下手な病気など、気合があれば寄り付かない。
 ウチの家族は、今時珍しい根性論の人達で構成されているのでした。
 両親共にそうだし、私も含めてみんな頑丈だからなぁ……。

「脅しではない。私もそういう経験があるから言っているのだ。とにかく、一度行って何もなければそれでいい。それとも怖いのかね?」

「………む。挑発しようってつもりですね? そういうの慣れてますからその手には乗りません!」

 そう、その手の論法には散々乗せられてるような気もするけど本当に慣れている。
 我が仇敵の存在がある故。

「ほう? これを挑発に感じると? そうだな……確かに人間苦手なものが一つや二つはある。それを克服するかどうかは本人次第なわけだが、あえて逃げ続けるというのも選択の一つだしな。逃げ続けて無事なら勝ちだし、それが元で手痛い目に会ったら負けというわけだ。まあ、大抵負けることが多いのだから世の中儘ならないがね。これが心労の元になっていることは多々あるようだ。そんな事で長い間、精神的負担を抱えるならば元の要因こそ断ってしまえば良いというのにな。しかしそれでも逃避するというのは……人間は理屈通りに動けぬという証左だ。誰でも経験があることだろうから、責めるのも確かに酷と言えるかもしれんな。いや、本当に申し訳なかった」

「……………あの、それって私が病院怖いって前提で話してますよね? 要するに………『そんな事も怖いのかね。ま、仕方ない。所詮君はその程度なんだな、ふはは』とかいう意味ですよね?」

「受け取り方は、人それぞれだと思うがね」

 うわー……何という、こう癇に障る嫌味っぽい顔で笑うかな。
 少し背が高いからって、そう見下すような感じされると腹が立つんですけど。
 そういう、腰に手を当てた姿勢とか頭の角度とか一人で研究してたりします? ねぇ?
 こんな雰囲気出せる人だとは、さっきまで思いも寄らなかった。
 ちょっと殴りたいかも。

「分かりましたよ! 行けばいいんでしょ、もう!」

「そうかね? 無理はしなくてもいいと思うが」

「行きますって! じゃあ、本当にありがとうございました!!」

 『た』の部分を強く強調して、勢い良く頭を下げ今度こそ歩幅も大きく帰路に着く。
 自分の家の前まで辿り着いて、ちょっと気になり振り返ったら街灯の下で三社さんがこちらを見てた。
 あ、心配してずっと見ててくれたんだなというのが何となくすぐに分かった。



「────え? 三社さんって結婚してたんですか!?」

 あ、危ない、危ない。
 盛大にむせて、紅茶ハザードな大惨事を起こすとこでした。
 ここのは、とんでもなく高いからそんな勿体無いことは出来無い。
 それはそれは素晴らしくも上品なティーセットが運ばれてきたときは、割ったりとかしたらえらい目にあうなぁ……と軽く遠い目したくらいに。
 
「…………そんなに驚くところかね? そこ」

 随分と、余裕持って香りを楽しむような顔で紅茶を飲んでいらっしゃる。
 だけど、何となく分かった。
 ちょっと照れてるな、この人。
 
「え? ───あ、いやいや……ゼンゼン、ヘンジャナイデスヨ?」

「………いいから、言いたいことがあるなら言いたまえ。怒らないから」

 そういう『にっこり』みたいな微笑浮かべて、怒らないとか言う人の事は全面的に信用出来ないのです。
 経験上からの概算では、大体三倍から五倍の報復が待っているのを知っているから。
 
「いや、何て言うか若々しく見えるじゃないですか、三社さんって。だから、年齢を感じさせないくらいやりたい事やって自由に生きてきたのかなー、とか。別に、そういう人多いですから悪いことじゃないと思うんですけど」

 結構な大人の男の人に、私みたいな小娘がこんな事言うの失礼とは思うけど、結局は正直な感想を。
 一応、聞き流してもらえるように、愛想笑い全開で。
 さてどんな反応が来るかって、ちょっとビクビクしてたけど。
 だけど、意外なことに

「…………ふむ、なるほど。よく見ているのだな、理沙くんは」

 何だか、溜息混じりの苦笑をしながら三社さんは納得したような顔で頷いていた。
 少しだけ、その姿が迷子で途方に暮れている子供のように見えて切なくなったのは不思議だった。
 昨日に引き続いて、このどこがどうとは言えない奇妙な人である三社さんと、こうして差し向かいで紅茶なんぞ飲んでるのは良く分からない経緯がある。
 偶然……じゃあ無いよな、あれは。
 
 
 とりあえず今日の私は、これまで一切休まなかった部活を休んで病院に行く決意をしていた。
 顧問の黒豹にその旨を伝えると、妙な目付きで私を見回して

「男か?」

 と聞いてきたが、全否定しておいた。
 何で、仮にも顧問がそんな事を楽しそうに言うかな。
 もし本当にそうだったとしても、休ませてくれたのだろうか?

「見たところ、至って元気そうだが……どういう風の吹き回しだね? 確か記憶しているところでは『ちょっとした事で、すぐ病院に行く奴なんか軟弱者でしかない』とか言ってた気がするのだがな、天谷は」

「んー……事情があってね。約束しちゃったのよ」

 既に、トレーニングウェアに着替えている氷室が不審げな顔で尋ねてきたのに、私は面度臭そうに手を振って答えた。

「病院に行く……約束? 何だ、それは? 産婦人科でも行くのか?」

「行くか、馬鹿!! 相変わらず飛躍しすぎだっての! ちょっとこっちに来なさい!!」

 この表面的には浮世離れしてそうで、思いのほか実は詮索好きな友人の誤解を解く為に、私は彼女の髪を引っ張って引き寄せる。
 痛そうな顔で、睨むようにこっちを見たけど構うものか。
 ワケの分からないこと言ったアンタが悪い。

「昨日なんだけど、帰りに変な人に会ってさ。それで───」

 一応、簡単だが要点を外さないように事情を説明する。
 こいつにはちゃんと分からせておかないと、後々になって酷い目に遭うのは経験済みだ。
 知らないことに対して意味不明な妄想を始めるという奇癖があるのだ、我が親友は。
 が、話してやれば察しはいい。

「なるほど……そんな助けてもらったとは云え、昨日会ったばかりの人間との事でも一々意地を張るのは実に天谷らしい。だがその御仁も、なかなかに出来た人物だな。早速に天谷の人間性を見抜いて御するとは……ただ者ではなさそうだ」

「ただ者では……うん、ないだろうなあ。私、あんたみたいな喋り方する人ってあんたの家族以外では初めて見たよ。まあ、また会うことも無さそうなんだけどね」

「知と理性を重んじる性格か……もしくは何か必要に迫られて己を守る為に装っているかどちらかであろうな」

 氷室は、何か感じ入るところがあったのかしみじみという風に腕を組んだ。
 そういう仕草って、昨日の三社さんと重なるな、やっぱり。
 少し違うけど。

「なによ、それ? もしかして、あんたがそうなの?」

「さあて、どうかな? そうとも言えるし、そうでないとも言える」

 独特の片唇を歪めるような笑いを浮かべる。
 そんな意味深な風に見せかけられたってそれ自体が罠でしょうに、あんたの場合
 喜び勇んで馬鹿にしようものなら、容赦無く追い詰めてくるのがこいつの常套手段だ。
 その犠牲者筆頭が私だ。
 腹立つ事に。

「はいはい………ま、そういう訳なんで部活頑張って」

「ああ、今日も虐待に甘んじるとしよう。しかし、天谷は確かにこの際徹底的に診てもらった方がいいかもしれんな。この所、少し無理し過ぎだ。スポーツ選手にとって自己の管理も重要だと言うのには異論無かろう?」

「まあね。別に病院とか全否定してるわけじゃないし、ちゃんと身体には気を使ってるから。それに、うちのマネージャー優秀じゃない。滅多なことは無いと思うけど」

「違いない。我が陸上部は、代々マネージャーには恵まれているのだそうだ。あの顧問によるとな」

 氷室の視線の先に、ポニーテール揺らしながら小柄な娘がパタパタと忙しそうに走り回っている。
 彼女がふーがちゃん、時と場合に拠っては風河さん、さらにまかり間違うと風河様へと進化する陸上部の守り神兼アイドルだ。
 その優秀さは、折り紙付き。
 部員の為に陰日向無く働くだけでなく、スポーツマッサージの名手でもあり、いつもニコニコとどんな時でも笑顔を絶やさない存在だけで癒しとなる清涼剤。
 これだけでも有り難い存在なのに、彼女にはほとんど超能力かとも思える眼力がある。
 本人たちさえ意識してない、ちょっとした身体の不調や違和感を言い当ててしまうのだ、恐ろしいことに。
 それで、何人かの期待の選手が潰れずに済んだから、彼女には部全体として足を向けて寝れないのだ。
 のほほんとした口調のおっとりした感じの娘だが、怒らすと一番怖い。
 彼女を怒らすことで、部員全員が顧問の黒豹含めて半泣きとなるなんてとんでもない出来事があり、陸上部ヒエラルキーにおいて満場一致で頂点と認められた経歴を持つ。
 あの娘は全く自覚がないみたいだけど。

 私は、何人かの親しい部員に挨拶して学校を出た。
 だいたい反応は、予想通り驚かれた顔だったし、あからさまに心配気な顔されたりもした。
 これだから、病院とか行くの嫌だったんだよなあ……。
 今日は、財布を忘れるなどという大ポカはしてなかったのでバス停に向かう。
 と、そこに周囲から浮きまくっているいつ通報されてもおかしくなさそうな、不審者一人。
 いや、昨日とそれ程変わらない格好だから慣れればどうって事ないでしょうが、サングラス掛けただけで怪しさが段違いですね。

「………何やってるんですか? 三社さん」

「何って、バスを待っているだけだが」

「ああ……そりゃそうですねー」

 バス停ではバスを待つ以外、そりゃ無いわけである。
 でも、そんな当たり前のことを忘れさせる程の違和感って凄いですね。

「ところで、理沙くんは今日はこれから病院に行くのかね?」

「ええ、まあ。特に連絡とかしてないんですけど、結構前に行った病院でも行こうかと」

「それは頂けないな。昨今の病院で事前連絡も無しに行くというのは、かなりの時間浪費になる。ふむ……やはり手を打っておいて正解か。新都の中央病院で良かったかね?」

「はあ? ええ……そこに行くつもりでしたが」

 そろそろ、同じくバスを待っている下校途中の帰宅部連中の遠巻きに見る視線が気になってきた。
 やあ、まあ、こんな堅気じゃなさそうで国籍も曖昧っぽい大男と同じ学校の生徒が話してたら奇妙な空気になるわけで。
 明日、変な噂になってなきゃいいなあ……。

「よし、ならば丁度良い。理沙くんの予約をちゃんと入れておいたから、次に来るバスに乗れば間に合うはずだ」

 え? 今なんと?
 予約を入れておいた……?

「えーっと……三社さん? 何で?」

「ああ、気にすることはない。昨日私が焚き付けた様なものだからな、その責任を果たそうとした次第だ。幸い、あそこには少しコネもあって顔が利く。余計なことだとは思ったが、念の為だ。勿論、断ってもいいが別の病院でも必ず行きたまえ」

「あー、いや……なんと答えていいのやら。どうせそこに行くつもりでしたから、ありがたいはありがたいんですけど」

 何だろう、この人。
 私専任の秘書か何かだろうか?
 流石に、呆気に取られた。

「そういえば、君は借りを作るのが嫌いなのだったな。では、病院の後に少し付き合ってくれれば良い。私も、新都に行く予定があってね。一人でお茶というのも味気ないと思ってたところだ」

「はあ……」

 話しているうちに、独特の甲高いモーター音と共にバスがやってきた。
 それを聞きながら、私はおずおずと頷いていた。
 頭の中に言いようの無い不審が押し寄せているのだが、こんな昨日たまたま会った小娘に付きまとって何かこの人に得することがあるのだろうか?
 それともそういう趣味の人……?
 見た目実は結構格好良いから悪い気分じゃないけど、あまり自分を過大評価しても危険だぞ。
 それとも、こう、犯罪の片棒を担がせようとしているとか。
 何か氷室のことをとやかく言えない妄想をバスに乗っている間に加速させていたが、他愛もない話を隣の三社さんとしてるうちに段々とそういう意識も薄れてきた。
 波長はどうも合うみたいだこの人。
 そう、思えたのは少し嬉しかった。


 病院では結構時間がかかったが、異常なし、健康間違いなしのお墨付きを貰って待ち合わせのアンティークな雰囲気の喫茶店で三社さんと合流した。
 もう紅茶を頼んで飲んでいた三社さんに結果を報告すると、少し嬉しそうに微笑んだのを見れたから得した気分だった。
 早速座って、メニュー開いたら四桁の数字しか並んで無かったのには固まったけど。
 とりあえずお薦めを頼んで、その間に色々お互いのことを話したりした。
 三社さんは、昔は冬木に住んでいたが、やりたい事があって若い時にすぐに海外に出て勉強を始めたそうだ。
 やりたい事というのが、何だったのかは

『まあ、愚者の夢みたいなものだな』

 とか何とか皮肉な口調で仰られるから軽く流した。
 あまり聞いて欲しくもなさそうだったし。
 何でも、ずっと海外に居て故郷であるここに帰ってきたのは一年前ぐらいなのだそうだ。
 その後に、冗談半分で私に気があるからここまでしてくれたのでしょうか? みたいなこと聞いたら不意を打たれた様な顔してから苦笑してすげ無く否定された。
 そこまであっさり否定しなくても……少しくらいは慌ててくださいよ、傷つくなぁ。
 で、結婚してるという事実を聞き出せたわけだ。
 微妙な空気になったけど。

「あー、その奥さんってどんな人なんですか? やっぱり綺麗な人なんでしょうね、きっと」

「ああ。それは間違いない。私は今まで、彼女程に優雅で鮮やかな美しい女性を見たことは無いね」

 臆面も無く言い切りました、この人。
 やっぱり海外生活が長いから、そういうところ日本人とは感覚が違うのだろうか。
 こっちが赤面するですよ、そんな顔されたら。
 日本人は謙譲の美徳と言うものがですね……。
 でも奥さんは、幸せだろうなあ。

「どんな風に知りあったんですか? あ、あと、結婚するときのプロポーズの話とか聞いて良いですかね?」

「知りあったのは、まあ、同じ学校の同級生だったというだけなんだがね。それで付き合い始めて……一緒に海外に出て勉強を始めたのだ。もっとも、彼女は優秀で私などはただの付き添いに過ぎなかったから御零れに預かってたという方が適切か。だが、その内に私にはどうしても捨てられない目標があったので彼女と別れることにしたのだ」

「ほ、ほほう」

 なかなかにドラマを感じさせるじゃありませんか。
 ご多分に漏れず、私とてこの手の話は同世代の女の子と同じように大好物だったします。
 男は目的のために女を捨て、やがて運命の元に巡り合い二人は再会する。
 うーん、ベタだけど外せない黄金のパターンだなあ。

「それで長い間音信も途絶えて……後で聞いたら探し回られてたようだが。見つかってからが凄かった。あの一ヶ月は生きた心地がしなかったと言っても過言ではない」

「………生きた心地がしなかった?」

「うむ。何重にも複雑に入り組んだ罠の数々、爆撃にも等しい弾幕の中で生死を分かつ決断をしたこと数え切れず、彼女は師匠でもあったので手の内を読まれることがほとんどだったのだな。私の方も、彼女が手の内を読んでくることを前提で細心の行動を心掛けていた。彼女には最近は少し治ってきたが、どうしても出てしまう悪癖があってね。それで助かったこともあった。が、やはり地力が違うというのが覆し難くあってな。向こうは協力者も多かった。その内にこちらの貯蔵も尽きかけて剣折れ膝も落ち……」

「あ、あの……プロポーズの話なんですよね?」

 いつからこんな、バイオレンス・スペクタクルになったのだろうか?
 語る三社さんも、何だか遥か彼方見ちゃってるし。
 なるほど、その殺伐さは三社さんの見た目にお似合いです。
 愛にも色んな形があるのだ……よ?

「そうだな。まあ、最終的には捕まって虜囚となった上でお互いの気持を確かめ合ったわけだ。今から考えれば、意地など張らずに最初からこうしておけば良かったと思えるほど拍子抜けするものだったんだがね」

「へ、へー……何か凄いですけど、後悔してるんですか?」

「うん? 意地を張った事をかね? それとも彼女と一緒になったことを? どちらだったとしてもそれは無い。色々と周囲に迷惑もかけてきたのだが、必要だった事だと思っている」

 やけに清々と、こちらが羨ましくなるくらい自信ありげに三社さんは混じりけなしの笑顔で言った。
 それは、問答無用で、ああこの人は今幸せなんだなと分かる表情だった。


 店を出ると、なかなかに趣深い情景となっていた。
 夕日と夜の丁度狭間に居る中で、街灯や建物の光がそこかしこで輝き始めたばかりというか。
 人々は帰路を急ぐのか、それともどこかに立ち寄りそこで時を費やすのか迷っている独特の空気。
 自分は、なんだか今日は大変充実したような気分だった。
 隣に歩く三社さんは、歩き方でさえ流れるような格好良さ。
 こういう大人の男の人って、貴重だろうなぁ最近じゃ。
 このまま別れて、またいつ会えるか分からないなんてのは考えただけで喪失感がある。
 ここはやはり、ちゃんとお友達になってもらおう。
 かなり変人だけど、自分の人生に間違いなく潤いは与えてくれる人物と見込んだ。

「あ、今日は駅の前まででいいです。ありがとうございます。とても、楽しかったです」

「そうかね? よく面白味が無いと言われてきたから不安だったが……それは良かった。まあ、何にしろ今後も身体には気をつけたまえ。確か高跳びの選手だったようだが、言うまでもなくスポーツ選手にとって体調管理も重要だからな」

「ああ。同じ事を友人にも言われました。えっと、それでですね。こう、こういうのも縁なんでこのまま、はい、さよならというのも味気ないと思いまして………」

 私は、手首のPADを三社さんに差し出した。
 こういうこと自分からはあまりしたことが無いから、結構な勇気が必要だった。

「うん? 何かね?」

「あの……PDのフォローをですね」 
 
「PD? ああ、なるほど。しかし私の携帯でそれが出来るのかね?」

 ……………ケータイ? 
 あ、そうかこの人すっかり忘れてたけど、お父さんと同じくらいのおじさんだったよ!
 うわ!? 何だろう、あの大きいゴテゴテした黒いの。
 かなり年代物だぞ、あれ……
 大体、PADの事をケータイ何て言うのお父さん以外で久しぶりに聞いたよ。
 で、出来るのかなぁ……?

「あ、えーっと、解除してもらって、少し見せてもらってもいいですか?」

「ああ。構わない。どうぞ」

 結構抵抗あることだろうに、あっさり渡してくれた。
 むむむ…これは……出来ないっぽい。

「だめ……みたいですね。あの、何年前からこれを? PADとかは持ってないんですか?」

「ああ……何というか、これは主に妻との連絡で使うのだが、彼女がこの手の物が信じられないくらい苦手でね。携帯辺りを最近ようやく使いこなせるようになってきたと自慢してきたくらいだ。PADといったか……それなど渡したら所持してから十分程度で粉々にされるのが目に見える。進歩した技術というのはもはや魔法にしか見えないというが……まさに最近は本当にそう思える。それに、それと似たようなものを使ったことあるが、DEYEだったか? 視覚に直接映像が映るなど私にも抵抗があるな」

 苦笑しながら、処置なしだと言うように肩を竦めた。
 凄い奥さんだなぁ……何か色々と。
 三社さんが言うようなことを、お父さんからも聞いた。
 お母さんは平気っぽいけど。
 DEYEの調整なんて慣れればすぐに出来るのに。
 私の勇気は空振りに終わったようだ。

「私からすれば、そんな小さな映像でよくもまあ、色々出来るなあって思うんですけどね……残念だなあ」

「何故かね? 電話番号じゃだめなのかね」

「…………あ! そ、そうですね」

 そうだった。
 直接話した方が良いじゃないですか。
 せっかく、三社さんは声も良いし、その方がお得だ。
 盲点だった。

「あ、えっと……じゃあ、良いですかね?」

「構わんよ。確かに、三社堺人として縁があったというのは有り難いことだからな。任せるとしよう」

 重々しく、何か条約でも締結するかのように頷く三社さん。
 まあ、それはいいとして……っと。
 私は、あまり使ったことがない機能だから苦戦したが何とか電話番号の交換に成功した。

「これで良し! ありがとうございました。その、たまーに、お話ししてもらってもいいですかね?」

「ふむ? 電話でかね? 困ったことがあったら何時でも掛けてきたまえ。状況次第では、すぐに駆けつけることとしよう」

 三社さんは、何故かそれがとても喜ばしいことのように微笑んだ。
 あの……流石にそういう言い方をされると照れます
 大体、綺麗な奥さんがいるんですから、こんな小娘にかまけすぎるのもですね───
 照れ隠しに、何となく上の方を見てたら、不審なものが視界に入った。
 この新都で一番高い建物である、センタービル。
 その一番上なんて私の視力が幾ら良くたって見えっこないっていうのに───

───塔の上には、赤い魔法使いが居て街を見下ろしていた。

───何を探しているのだろう? その目は敵を見つけ出すみたいな物騒なもののように感じ

───やがて……彼女はしばらくこちらを睨んだ後、ふと影と消えた。

───その姿は、私が見た誰よりも洗練された美しさを持ち優雅さに溢れ、気高いものだった。

「─────────え?」

 浮遊したような感覚。
 自分が何処に居たのか、一瞬分からなくなる。
 でも、何だろう、嫌な感じはあまりしない。

「………どうしたのかね?」

 三社さんが、不思議そうに自分を見ている。
 どうやら私は、呆としたような顔でもしていたらしい。
 恥ずかしくなって、慌てて意識を取り戻し弁明した。

「その……ちょっと変なものが見えて。ビルの上に、赤いコート着たすっごい美人の女の子が居た……ような。でも普通あんな高い所見えたりしないのにな……夢?」

「……………なに!?」

 三社さんは声を鋭くし、サングラスを素早く取ってビルを見上げた。
 いや……流石に見えないと思いますよ?
 じゃあ、何で私が見えたのかって訊かれれば、さあ? って言うしか無いけど。

「…………何も、居ないようだが」

「そりゃ、見えませんよ。あのビルの屋上ですよ?」

「ふむ……君にはそれが見えたと?」

「う、うーん? 見えたというか何というか……」

 私は当たり前のように返答に困った。
 でも、病院でも異常なしって言われたし、別に何か身体の不調だからとかじゃあ無いと思うけど。
 もしかして、超能力にでも目覚めたのだろうか?
 ………昔、そういうの試したことがあります。
 誰でもやると思うのだけど、聞いてみると意外と私の周囲ではやってないという意見多数。
 授業中に、ペンを睨みつけて動かそうとしたり、誰かの考えを読もうとしてずっと集中して唸っていたこととか……。
 分かったのは、私には皆目その方面の素質が無いということだけだった。
 いいじゃないか、試すだけ試したって!

「気になるかね?」

「まあ、それなりには───」

「じゃあ、行ってみることとしようか、あそこに」

「……へ? あそこ行けるんですか?」

「ああ。少し階段を登るかもしれんが。どうするかね?」

 何だか、私の良く分からない白昼夢じみたものにとても積極的だ。
 何がそんなに三社さんの琴線に触れたのだろうか? 
 随分、鋭い目になっていて表情が怖かった。
 でも………三社さんともっと長く居れそうだし、二人であんな高いところから夜景とか見るというのはなかなか良いと思うのだ。

「行きます」

 私は、不埒な考えを悟られないように、なるべく真剣な声を装って答えた。


 私は、自分の考えが非常に甘いものだと知った。
 とんでもなく、寒かったのだここは。
 これだけ高いところなんだから、そりゃあ風も強かろうってものである。
 あまり行ったことも無かったが、学校の屋上なんてものじゃない。
 これじゃあ、風が煩くて話すのもままならない。

「やはり……何も無いようだな」

 三社さんは、屋上に着くなり私を守るように寄り添って周囲を油断なく見回した。
 おかげで、風は大分遮られてるのだろうが、それでも限界があるし結構辛い。

「あの……やっぱり、何かの間違いだと思いますから。とにかく帰りましょう、もう」

「まあ……そうか。誰も居ない様だし違和感も感じないな」

 心持ち声を大きくした私の言葉に、少し不可解そうに三社さんは首を傾げた。
 何やら、納得いっていない御様子。
 私は、三社さんが風などまるで感じていないように悠々と歩きまわる中で、少し震えながら付いて行くしか無かった。
 いやはや、やっぱり奥さんいる男の人に不穏な考えなど持つものでは無い。
 きっちり報いを受けましたよ、ははは。

「ねー、流石にこれ以上はキツイですー」

「ああ、申し訳ない。そうだな……じゃあ、最後に理沙くんは何かここでも見えたりするかね?」

 ………そんな、ちょっと霊感ある人に尋ねるようにされても困るのです。 
 自慢じゃあありませんが、生まれてこの方そっち方面の経験などございません。
 冬木って、結構そういうスポットがあるらしいけど、まるっきり縁がない。
 でもまあ……一応私の言葉でここまで来てくれたのだし、義理を果たす意味でもぐるりと一回り見て───

───屋上の端に赤い女の子が、悠然と立っている。

───その娘は、この世の全てに挑むような輝きを持つ蒼い瞳でこちらを冷たく睨んでいた。

───やがて、こちらに興味を無くしたのだろう。

───振り返ることなど思いも寄らない潔さで、背を向けて輝き始めた夜景にダイブ。

───私は、思わず『待って!』と叫んでいた。

───だって、こんな所から落ちたらどう考えたって助からない。

───だけど、それはすぐに思い違いだったと気が付く。

───あのような瞳を持つものが、自殺などする筈が無いのだ。

───その娘の傍らに、守護者のように現れた紅の衣装を纏った騎士。

───その人は、どういうわけか三社さんにそっくりで、だけど全然違って……ああ、髪が白いのか。

───でも、それだけじゃ絶対ないような……


「理沙くん!!」

 三社さんが、切羽詰ったような声で叫んでいた。
 あ、大丈夫ですよ、心配しなくても。
 きっと、あの女の子は最後まで負けずに戦い抜くと思います。
 あれは、そういう娘です、間違いなく。
 何を言っているのかね、君は? とか苦笑されるんだろうな、多分。
 そんな、脈絡の無い思考の後に私の世界は色で無い色に塗り潰された。



[18834] 匣中におけるエメト 2
Name: tory◆1f6c1871 ID:8e7f98a1
Date: 2010/05/21 23:58



───私は、記測する。

───私は、象を変する。

───私は、を演する。

───私は、記積する。

───私は、象を■■する。


───かつて極東の冬木という地で行われし、■■■■と呼ばれた大術儀在り。

───■■とは、狭義の遺物ならず■■機の機能を指すという。

───則ち、『■■の釜』を型とするレプリカ。体としての存在。

───■■は七人で行われ、参者は“■■ター”と呼称される。

───“■■ター”の選定基準は不明ながら、記録より■■■である事は必須と類推。

───“■■ター”には、それぞれ“ーヴァ■■”という■■■が与えられる。それらは、■■本体をそのまま■■させたものとの驚異的な情報有り。

───■■の実施回数は五回。五回目において終結。

───最終勝者は■■。しかしながら、■■により獲得されたであろう■■がどのような処置をされたかは不明。

───その後、■■は解体。解体者不明。

───ルメイ門派の重鎮とされるが、厳重なるプロテクトにより情報僅少。

───現在までで判明済みの、過去において参せし■■家門。

───■■ン、■■■■リ(その後■■と家名変更)………■■■の三家と呼ばれる創始家系。

───ーデルェル………三次のみ。詳細不明。

───ーチボト………四次のみ。ルメイ門派。詳細不明。

───他、大小様々な■■■やイレギュラーが参戦したようではあるが、情報は散逸もしくは■■

───■■■■が三次より■■役となっていたとされるも、■■はその件において現在完全なる黙秘。

───到達する■■は情報の不足により未だ不明。当然の必要な措置として厳重なる■■が成されたと推測する。

───そもそも、其れは『■■』そのものであったと伝聞される事もあり、もし“ーヴァ■■”と呼ばれるものが■■■■であるとするならば、その可能性は充分高い信憑性を持つものと………

……………………………………………………………………………………………………………

……………………………………………………………………

………………………………………………………

……………………………………………

…………………………………

………………………

「……………………あれ?」

 ………………………えっと?
 何だ、今の?
 滝のように、良く分からないものが大量に目の前を通り過ぎた感じ。
 何か数字とか変な式とか、意味不明の単語とか。
 ああ、なるほど…………さっぱり、分かりません。

「……気がついたかね」

 おや? 三社さん。
 相変わらず、お若いですね。
 ああ、だけど目尻とかよく見ると少しシワとかあったんだ。
 髪とかも、ほんのちょっと白髪とか見えたりして……って、何でそんな事分かるかって顔がかなり近かったからで。
 ………ま、まさかこの今の私の状態は、レジェンドとしてまことしやかに伝わったりするお姫様だっこ───!?

「わひゃ、ひゃう!? み、みみみみみみみ───!!?」

「っと……ああ、済まなかった。大丈夫、そんなに暴れなくても今すぐに降ろそう」

 三社さんは、こちらの意図をすぐに察して苦笑しながら柔らかく降ろしてくれた。
 ……良かった、心臓が止まるかと思った。
 しかし、何という胸板の厚さと鉄のような腕の筋肉。
 あ、いやいや、そうじゃなくて………。
 顔と耳が熱いのが良く分かる。

「立てるかね?」

「あ、はい。すす、すみません。と、とんだ粗々を……」

 何言ってるのだ、私は。
 足元がふわふわするのは、何も気を失ってたからとかだけじゃあ無さそうだ。
 いや、なかなかの夢心地。
 いつの間にやら、私達はビルを出てその前に居た。

「申し訳ないことをした。予測してしかるべきだったというのに、無理をさせたようだ。理沙くんには、詫びても詫びきれん」

「あ、いや、だ、大丈夫ですって。ほら、今何ともないし。この通り! ね?」

 私は、身体を捻ったり腕をぐるぐる回したりして、自分でも良く分からないアピール。
 だから、そんな俯いて落ち込んだ顔しなくても大丈夫ですよー?
 その方が、私には気が咎めてきついですし。
 だって、まさか下心持って屋上に行ったとか言えませんからねえ。

「ふむ………そのようではあるが。では、少し訊かせてもらっていいかね?」

「はい! もう、何でもどうぞ!」

「君は……何かを見たのは間違いないな?」

 三社さんは、こちらが視線を合せにくい程に鋭い目をしていた。
 それはまるで、鷹のよう。
 声の響きも、冷たく低音。
 こういう様に、全く違和感がないのがこの人の怖いところだ。
 私は、知らず喉を鳴らす。

「ええ………多分」

「憶えているかね?」

 ぎこちなく頷く。
 ……憶えているに決まっている。
 あんなの、なかなかに忘れられそうに無い。
 だって───今目の前に居る三社さんに、さっき見たのはそっくりだったから。
 しかも、あの鮮烈な女の子はそのそっくりさんの赤い人とぴったり決まっていた。
 あそこから見えた夜景に二人が舞う姿は、陶然となるくらい綺麗だった。
 ちょっと悔しいけど、あそこまで行くと妬む気すら起こらない。

「ただ、なんと説明したらいいのか……こんなの今日が初めての経験ですから……えーっと……」

「ふむ。まだ、時間はあるかね? 少し色々と訊きたいことが出来た。良ければ、食事でもご馳走したいところだが。お詫びも兼ねて」

「あー、流石にちょっと厳しいですかねえ。親が心配するとは思います。今日、病院行くとしか言ってないし」

「それは、至極もっともだ。よし、じゃあ、一番近い部活が無い日というのはいつかね? 出来れば休日だと、なお良いが」

「あ、それって……………え、えっとですね──」

 ………こ、これは、もしかして潤い無かった私の人生における転機!?
 デ、デートとかのチャンスですか?
 さっきまでちょっと気圧されていたのが、吹き飛びました!
 いや、そりゃあ相手は奥さんいるって分かってますよ?
 だけど何というかこう、もうここまで行くと殆どファンみたいなもので……いいんです、楽しくお話しとか出来ればそれだけで。
 何だろう、私ってこんなミーハーだったか?
 大体、昨日会ったばかりの人にそこまで入れ込むって変じゃあないかな。
 ───うん、三社さんが悪い。
 この人、妙な磁力持ってる。

「明後日の日曜日とかだったら……」

「そうか。じゃあ、その日に少し時間を貰って良いだろうか? 食事もその時に」

「はい! 了解です!」

 私が勢い込んで返事するのに、三社さんは少し驚いた顔をした。
 何でそんな、ちょっと早まったかみたいな身構え方ですか? 失礼な。

「あ、ああ。じゃあ、そうだな……明日の夜にでも連絡しよう。これくらいの時間だったら部活も終わっているかね?」

「大丈夫です! 待ってます!」

 テンション上がってきました!
 こういうのは、なんて言うんだっけ……犀の王様が……えーっと、豚に小判……じゃ私が悲しすぎる……ああ、いやいや、怪我の何とかだ、うん。
 ま、そんなのはどうでもいいのです。
 結局、この日はしゃいだ勢いのままに三社さんに家の近くまで送ってもらってしまった。
 多分、さっきの屋上の件で心配してくれている気持ちがまだ続いてるだろうから先回りしてお願いしたのだ。
 少しずるいかなとは思ったが、まあこれくらいは良いじゃないですか、ねえ?



「それで、その女の子がですね……飛び降りたんです! あんな高いところから、ダイブですよ? びっくりしますよね、そりゃあ」

 やってきました、日曜当日!
 それなりに、気合入れてきましたよー。
 基本休日は、部活の疲れがたたって家でゴロゴロしてるわけだけど、私とて手持ちのカードが無いわけじゃあない。
 このパーカーの上に着ている、レザーのベストがポイントです。
 そしてなんと言っても、大枚はたいて買った某大人気デザイナーさんブランドのエンジニアブーツ!
 氷室と一緒に揃えた、我が武装最強の数々でございます。
 ………まあ、何かあるってわけじゃあないだろうけど、こっちの気持ちの問題なのです。
 ここは新都にある、それなりにおしゃれで、それでいて余計な気遣いが要らない多国籍料理のレストラン。
 私は、食後に出てきたオレンジソースがかかったレアチーズケーキをつつきながら、昨日見たことを一応盛りあげようと身振り混じえて伝えた。
 いや、これが本題で、しかもそんなに楽しくない話だとは分かってるけど………せっかく喋るからにはって事で。

「ほう……それは正気じゃないな。全く、付き合う方も苦労するだろうに」

 何故か三社さんは、かなり意地が悪そうに笑っていた。
 しかし、少しいつもより暖かみがあるというか……むむ、あれは見たことない表情だ。
 あの女の子の話で、それを引き出せたのはちょっと悔しい気がする。
 って、何を考えているのか私は。
 
「ですよねー。あ、もしかしてもう一人誰か居たの知ってたんですか?」

「いいや、全然。ただ、聞いた限りでは自殺とか無縁そうな娘だったのだろう? ならば、誰か助けを見込んでそういう行為をしたのかと思ってね」

「さすが、鋭いですね。でも、その助けというのがですね……これは予測つかないでしょう?」

「ふむ?」

 飲んでいる、コーヒーのカップを見つめながら首を少し傾げる三社さん。
 色々考えているのが分かる表情だったが、しばらくして軽くため息を吐いた。
 こんな私の他愛も無いことに、真剣に考えこむのもこの人らしい。

「降参しよう。どんな酔狂な奴だったのだね、そいつは?」

「あははは、それが三社さんにそっくりの人なのでした。あ、でも何か赤い衣装みたいの着てて、髪は真っ白だったんで違うって言えば全然違ったのですが」

 もっと言えば、出している雰囲気も大分違ったように感じた。
 こう、三社さんだって結構殺伐とした感じが時々するけど、それよりもっとピリピリして余裕ないように見えた。 
 こんな違いが分かるようになるって、どんだけ私は三社さんフリークなのでしょう。 
 自分でも呆れんばかりである。

「そうか。まあ、あくまで外見がという事なのだろうが……酔狂などと言ってはとんだ自滅行為だったわけだ。上手く罠にかかったな」

「あー、でも、三社さんもその点はあんまり変わらないんじゃないんですか? 何となく」

 初めて会った日から、まだ四日しか経ってないわけだがそれで、ここまで酔狂さが伝わる人も珍しいと思う。
 本当、そのお節介焼きなクセにさり気無く人の負担にならないように持って行こうとする様は面白い。
 今となっては、丸分かりですが。
 私も、自分の意地っ張りをここまで軟化させてくれる人が現れるとは思わなかった。
 三社さんは、何故か凄く驚いたように固まって目を見開いている。

「と言うと………つまり、君が見た赤いヤツは私と同類に見えたと?」

「あ、いや……自分でも良く分かりませんが、同類って程じゃあ……ある意味大分違ってるとも思います。でも根っ子は同じというか。あ、見た目は本当に双子みたいに似てたんですけどね」

「……………………………………」

 三社さんは、重く沈黙して複雑な表情でコーヒーを見詰めたままになってしまった。
 あれ? やばい───私はどういうスイッチ押しちゃったのでしょう?
 内心で、凄い焦った。
 そんな眉間にシワ寄せられると、どう声かけていいか分かりかねますが。
 が、やがて諦めたように息を吐き出しながら

「………………………君は本当に鋭いな。慧眼恐れ入った」

 なんでか、腕組みしながら心底感心するように言われてしまった。
 さっぱり意味がわからない。
 身に覚えがないけど、そう言われると何となく悪い気はしませんが。
 でも、それにしたって私が見た幻のようなものの話を元にというのがおかしすぎる。

「あの………そろそろ、三社さんがなんでこんな事訊きたがるのか教えてくれないでしょうか?」

「うむ……それを話す前に幾つか確認したい───理沙くんは、この前そんな体験初めてだと言ったが、本当にそうなのかね? 例えば、よくよく思い出して幼い頃に何か突然前後のつながりが分からない映像が見えたりとかは?」

「ありません……あまり小さい頃のことは、思い出せませんけど。さすがに、そういう経験が無いことぐらいは──」

「ふむ。では、ご両親が特に何か不思議な体験を良くするということは? もしくはごく近い血縁でもいい」

「無いですねー。別に嫌いじゃないんですが、オカルト話は縁が無さすぎます」

 お父さんもお母さんも、結構そういう類の本とかも読んでたり見てたりするが、自分たちが蚊帳の外だからこそ楽しんでるという感じ。
 まあ、蚊帳の外じゃあない人のほうが珍しいから無理ないと思うけど。
 親戚でもそういう人知らないし……というより親戚とかのことあまり知らない。
 最近じゃあ珍しくないけど、私は一人っ子だし従兄弟とかも片手で数えられるくらいしか居ない上に付き合い自体希薄だ。

「じゃあ、そうだな……自分の家系が実は非常に古くから連綿と続いてるとか───」

「いや、そこまでは知りませんが。そういうのって、関係あるんですか?」

「場合によっては。これから話すことは、本当に信じ難いかも知れないが真剣に聞いて欲しい。何故なら、君自身のこれからの生き方にも関わる問題だからだ。それと安全にも」

 大袈裟なことを言う……とは、笑う事が出来なかった。
 言っている三社さんの顔が仮面のように冷たい無表情となったからだ。
 但し、目はこちらを配慮しているのか真摯そのものだ。
 きっと、本当はもっと大事であることを私に気遣ってできるだけ端的で飾らず口にしようとしている。
 そう直感して、私は自然と背筋を伸ばした。

「理沙くんは、『過去視』というものを聞いたことがあるかね?」

「───カコシ?」

「うむ。私も実は専門というわけではないのだが、『過去を視る』と書いて『過去視』。要するに、超能力の一種というわけだな。君は、その類の力を身につけている可能性がある」

 超能力? 私が?
 発作的に笑いがこみ上げてくる。
 幾ら何でも、それは無い。
 そりゃ、ちょっと昔は欲しかった時期もあったけど、今となっては完全に間を外してる。
 そんな、妙な顔をしたであろう私も見てか、三社さんも困ったように肩を竦めた。

「……そうだな。私も、おかしいとは思う。統計が取れる程に多くいるわけでは無いだろうが、彼らの多くはもう少し早く……自己の観念を発達させる前から能力を発現させる場合が多いという。何しろ、そもそも感覚が異端で、別の世界にチャンネルが合っているわけだからな。早めに自らが居る『ルール』を外部と統合して摺り合わせないと、最悪は身の破滅だ」

「えーっと……そのよく分から無いのですけど、ちょっと話が飛びすぎてはいないでしょうか? 根拠が分からないのですが」

「まあ、そう訊くのが当然だ。理沙くんの話を聞いて推測したに過ぎない事ではあるが……ただ、私もその論拠は当然ある。要するに君は、当事者でしか知り得ない過去の情報を持ってしまっているというのが問題なのだ。しかも、それをどうも映像として捉えている……いや追体験しているようなものか。この場合、恐らく君は私を起点として過去を『視ている』のではないかと考えたのだ」

「はあ……三社さんの過去?」

 え? そうなると………どうなるんだ?
 つまり、私は三社さんの過去を覗き見た事になるわけで───
 うわ!? 何か、凄い申し訳ないことをした気分だ……
 誰だって、自分しか知らない昔のことなんて見て欲しくはないだろう。
 それなのに、ずかずかと土足で入り込むような真似を──

「ああああ、あの。す、すすいません! 本当に悪気はなかったのです! ごめんなさい!!」

「うん? 何故謝るのかね?」

「い、いやだって……そんな無断で三社さんの過去見てしまうなんて……」

「ああ。いや、そんなことは気にしなくていい。それより、問題は理沙くんのことだ。君は、運が良かったとも悪かったと言える。よりにもよって、私の過去となるとな」

 三社さんは、目を細めて僅かに同情したような視線を送ってきた。
 それは、少しだけ私に冷や汗を流させた。
 よくよく考えてみると、あれが三社さんの過去って言うなら、現実にあったことだったという意味だ。
 つまり、あんな高いビルの屋上から女の子が飛び降りたことも、あの赤い人が幽霊のように突然現れて彼女を守ったことも……。

「それって……その、どういう意味なんでしょう?」

「うむ。正直のところ言おうか言うまいか、大分迷ったのではあるが……君が、その力で危険な目に遭わない為には前提として説明するしか無いと判断した」

 真っ直ぐに、私を見詰める目は鋼のような意志を感じた。
 全然違うけれど、幻の中で見た女の子の瞳に方向性だけは何故か似ていた。

「………実は私は───────魔法使いなんだ。もっとも、かなりの末端の取るに足らぬ者ではあるのだがね」

「───はあ?」

 えーっと…………。
 ────せっかくかなり溜めた挙句に言われましたが、どう返せばいいのか困ります。
 魔法使いって、あの杖とか振って光とか出しちゃうあれか?
 昔見た相当古い映画で、眼鏡掛けた少年がほうき乗って謎スポーツとかしちゃうあれ?
 それとも、剣持った人達の後ろから火とか氷とか雷とか撃っちゃって、さらにドラゴンとか出しちゃうような?
 …………………すみません三社さん、全部似合わなすぎてイメージが立てられないんですが。
 まだ宇宙人とかと戦う組織の人とか、訳の分からない特殊部隊に所属して銃とか撃ちまくりですとか、実はベルトとか付けると変身しますとか言われた方が納得出来るような……。

「まあ何のことかいまいち分からないだろうし、君にとっては逆にその方が良い。だが、そうだな………何というか今の社会と全然別のルールで行動している集団というのが居て、それらは自分たちの世界を隠しているということだけ、とりあえず理解してくれればいい。表の常識からすると、我々は異常以外何者でも無いからな。色々込み入った事情もあるのだが、普通はなるべく関わらない。とは言っても人間には違いないから、完全に社会から遊離するのも難しく摩擦が起きる事もあるというわけだ」

「はあ………すると、私はもしかして知らなくて良いことを知ってしまったということでしょうか?」

 いわゆる、あれだ。
 この秘密を知られたからには、生かしては帰さぬ! とかいうやつか?
 でも、あんな断片的なもので何がどうってわけでもあるまいに。
 錯覚だったとか言われれば、はいそうですかとあっさり頷くぞ、私なら。
 
「そうなる。ここで重要なのは、君がそれを知ってしまえるという事を『こちら側』の人間に知られてしまうと危険だということだ。理沙くんが、もし本当に『過去視』であるならば実は『こちら側』の人間にとってもそれは異端なのだ。超能力の類というのはね、『常識』に我々が不意を突けるのと同じように我々に対し不意を突けるという少々厄介な代物なんでな」

「えーっと、私の見たのが、まあ、その過去だったとして……過去を見たってだけですよね? それが何になるんですか?」

「そう、大概は君にとっての影響は少ないだろう。だが………私がそうであるように、時々に『こちら側』の人間が街に紛れて闊歩していることはある。確率的には僅かだがゼロではない。もし、そういう者の過去を視て『常識』からかけ離れた異常を知ってしまい、さらに運が悪く君が知ったことを相手に知られたとする。この場合……」

「……この場合?」

 私は、三社さんが口を濁すように言葉を切ったのに嫌な予感を覚えていた。
 あまりに淡々とした口調が、怪談じみて不気味に聞こえたからだ。
 多分、今の自分は少し血の気が引いているような気がする。

「脅すわけではないのだが……間違いなく消されるか保存されるかどちらかだ」

「消されるっていうのは、まだ分かるんですが……ほ、保存って……?」

 そちらの方が、身の毛もよだつ感触を私に与えた。
 様々な、不気味な妄想に今日食べたシーフードドリアが胸にせり上がってくる感じ。
 三社さんは、コーヒーをゆっくりと飲み干して私の疑問には答えず言葉を続けた。

「『こちら側』の人間にとってはそう不自然なことではないのだ。己の秘すべき情報を隠匿する事と、自らが異常であると知られないように隠蔽する事。この二つは基本的なことだ。何しろ自分の身が危うくなるからな。……ああ、断っておくが私はそのような事をするつもりは勿論無い。末端もいいところの人間だし落ちこぼれなんでね。ただ、好奇心猫をも殺すという言葉が言葉通りに機能する事も、君の持っている能力にはあり得るだろうと考え忠告した次第だ」

「は、はい……今後は気をつけます」

 ………本当に、私は運が良かったらしい。
 何か良く分からない目覚めちゃったぜ私のパワーみたいなのは、地味だけど確かに相手によっては危険みたいだ。
 それを分からせてくれたのが、三社さんだったというのは幸運以外の何ものでも無いだろう。
 盛大にかつがれてるとかいう可能性は………いや、この人はそういう事はしないだろうなあ。
 そっちの方が、気楽ではあるが。

「君は特に、勘が鋭すぎる時があるようだ。悪いことではないのだが、それをあまり簡単に口にすると状況次第では非常に危ない。先程は、とぼけたような真似をして悪かったが君が話てくれた女の子も赤いヤツも、過去の私の記憶に合致したものだ。赤いヤツに対する君の考察は、こちらが脱帽するほど的確だった。私には言っても構わないのだがね。今後相手は慎重に選びたまえ」

「えっと……自覚は無いんですが何とかします。でも……それじゃあ、三社さんには訊いて良いってことなんで思いきって訊きたいのですが」

「うむ? ああ………何となく分かったが、君が見たというあの二人が私にとってどのような人物かとかかね?」

 私は、恐る恐る頷く。
 正直、気は咎めるのだがそれでも訊いてみたかった。
 こういう所が、危惧されるのだろうか?
 女の子の方は、先程鋭いと言われた私の勘からすると多分……

「ふむ。気づいてはいるみたいだが、恐らく女の子の方は若かりし日の私の妻だな。赤いヤツの方は、そうだな………」

 三社さんは、考えこむように腕組みする。
 やがて、なにやら皮肉げに自嘲する笑みを浮かべながら言った。

「腹違いの双子の兄弟……と言ったところか」

 矛盾する言葉。
 でも、何だかとても腑に落ちてそれ以上は訊かなくても良いような気がした。
 軽く咳払いをして、三社さんは片手を挙げる。
 ウェイターさんが、素早くも気取った歩き方でオーダーを取りに来た。
 私はロイヤルミルクティを、三社さんは再びコーヒーを頼む。
 やがて、ウェイターさんがにこやかな笑みを残して完全に去ったのを待ってから、三社さんは再び口を開く。

「───とにかく、理沙くんのそれは一時的なものか、それともこれから恒常的に付き合っていかなければならないか分からないが………上手くやっていくしか無い。勿論、能力自体は否定することは無い。君がどういうきっかけでそれを得たのかは分からないが、何か理由があるからこそ身に付いたのだと思うべきだ。ひょっとしたら、己に何か益をもたらすことや誰かの幸せの為になることもあるかも知れないからな。ただし、先程言ったように細心の注意はして決して他人にはひけらかさないように。何か困ったことがあったら、いつでも私に相談してきてもいい」

「は、はあ……助かります」

 とは言われても……。
 全く実感がわかないのは、仕方ないことだと思う。
 憶えてないけど夢の中で、無責任な神様とかに会って何か授かったとかだろうか?
 それとも、私ってば凄い人の転生とか!?
 ………いや、それにしちゃあ微妙すぎる。
 役に立ちどころが、今のところ思いつきませんが。
 きっかけとかも、さっぱり心当たりがない。
 交通事故に遭いかけたとか、死ぬ程の大怪我にあって生死をさ迷ったとかそういう定番も無い。
 毎日をのほほんと過ごしてまいりましたよ、ほんと。
 強いていうなら………そう、三社さんに会ったことが一番の大事件ってぐらい?
 何か、魔法使いらしいし。
 ああ、そうか。
 これのおかげで、ずっとこの人と縁が続くというのはいいかも。
 二人だけの共有する秘密を持つというのは、良い感じ。
 おお! ナイス私!

「あ、じゃ、じゃあですね……例えば私が、こう……変な人に誘拐とかされちゃったりしたら、三社さんは助けに来てくれたりなんかします?」

「勿論。今は、少し遠方にいるが妻にも話を通しておこう。彼女は、此処の『こちら側』の総まとめ役みたいなものだからな。この冬木に居る限りは、間違いなく君の身は保証されるはずだ」
 
 お、おう、そうでした。
 あの幻の過去の中で見たのが三社さんの奥さんだとすると、その人も魔法使いさんとやらの同類ということになるわけで……。
 もう一度、あの女の子を思い返してみる。
 ……………………………ダメだ、どこをどうとってもガチで歯が立ちそうにありません。
 三社さんが、前に奥さんをベタ褒めしたのも分かろうってものだ。
 というか…………少し謙遜したぐらいか?
 私など、比較の対象にするのが馬鹿馬鹿しく思えた。
 きっと、私が同世代で三社さんに会って、あの人と取り合いのバトルとかしても秒単位でKOだ。
 それに、あの瞳を見たら絶対に敵に回したらいけないというのが否が応でも理解出来ます。
 もし、そんな人に私が三社さんにすこーしだけ妙な気があるなどと、ちょっとでも知れようものなら…………。
 ─────ヤバイ、ヤバイ、ヤバ過ぎですそれ!
 背中の辺りがゾクッて!? 
 変な汗も出てきましたよ!?

「あ、あー………奥様に言うとかは、ど、どうなんでしょうか!? その───総まとめ役みたいなものってからには、お目こぼしとかしちゃたらダメな立場なんじゃあ……?」

「ふむ、懸念はもっともだ。しかし、私から話しを通せば大丈夫かと思う。何より、君自身がそういう力を持っているという事で、ある意味では『こちら側』に片足を突っ込んでいるようなものということもある。保護名目は立つだろう。『こちら側』の者達はな、基本的に身内には甘いのだよ。それに───」

 ここで、三社さんは言葉を切ってから以前見た笑顔を浮かべた。
 とても暖かで嬉しげな、あの少年のような表情。

「彼女は、根本的に甘い人間でね」

 それがとても誇らしいことであるかのように、この人は言う。
 本当に…………貴方のそれはレッドカードです。
 絶対に、何人も女の子泣かしてきたでしょう?
 多分ダースとかの単位で。
 私は、少しだけ奥さんに同情してため息を吐いた。

 
 高台の教会へと続く坂道。
 私達二人は、動く歩道に乗って暖かな午後の日差しを浴びていた。
 元々冬木は冬でも温暖で過ごしやすいのだが、今日は特に春の陽気のように気持ちがいい。
 教会に行く目的というものは無い。
 ただの何となくの散歩。
 あそこには、大きな広場があるからのんびりするにはいいかなと思っただけだ。
 別に信者とかじゃなくたって、神様ってのは大きな心をお持ちになっているはずなんだから、それくらいは許してくれるでしょう。

「………しかし、これには最初驚いたものだ。よく、地元住民が反対しなかったなと」

「あー、まあ結構昔から住んでる人達ばかりみたいですからねえ、ここって。私が小学生くらいの時に出来たみたいなんですけど……お年寄りにも今ではご好評みたいですよ?」

 冬木は、坂道が多いせいかちょくちょくこういう動く歩道が見かけられる。
 とは言っても、都会みたいに場所によっては道が全部とかじゃないけど。
 景観を損なうとかの理由で、今でも計画だけあって設置が反対されている場所も結構あるとか。

「まあ、そうだな。ご老人には有り難い話かもしれん。私のような若造が、昔とは違うと嘆いたところで仕方がない」

「でも三社さんは、一年前に帰ってきたばかりだし驚くのもしょうがないと思いますよ」

「ああ。とんだ浦島というわけだ。海外でも、それなりに大きな都市に住んでいた事もあったから、これだって別に珍しくはないのだが……自分の故郷となるとな」 

 やれやれと、肩を竦める三社さん。
 先程まで店で話していた、何だか現実離れしたような話とは打って変わって他愛もない会話。
 それが、何だかとても楽しかった。
 
 
 最初は、あまり乗り気じゃなかったのだ、この人は。
 何でも、自分の冬木での過去は良い事も一杯あったけど、実はかなり異常な体験をしているから、長く一緒に居てもしそれをこの前のように垣間見たら、私には精神的にきついのじゃないかとか云々。

「だけど、きっとこれからだって三社さんにまた会うことだってあるだろうし、それを先延ばしにしたっていつかは見ちゃうんじゃないですか?」

「それは正論だ。まあ、そうだな。訓練の一種だと思えばいいかもしれん。そういうものは制御するのも難しいと聞くし、どうしても突発的に発現すると心因的に負担がかかるだるうから慣れていくしかないか。いいかね、理沙くん……どのような異常を見てしまっても、それは過ぎ去った出来事であり君には何の影響も与えない。それをしっかりと肝に銘じておくことだ。それさえちゃんと分かっていれば、君はきっと大丈夫だ」

 過ぎ去った日々。
 取り戻せない、もう起こってしまった出来事。
 確かに、それを見たからといって私には何も出来はしないだろう。
 でも……

「本当に、そうなんですかね?」

「────と言うと?」

「あ、いや……だって、私が今生きてるのだって昔多くの出来事があって、それが色々と絡みあった挙句のことでしょう? 身近な簡単な例であればお父さんとお母さんが出会って恋して結婚して私を産んでくれたわけだし。だから、過去の積み重ねが今をつくってて今もどんどん過去に流れているわけですから影響が無いってことは無いんじゃないかと。少なくとも知ることが無価値では無いんじゃないかなぁ……とか」

「無論だ。過去を軽んじるのは愚者の行いだ。我々は、今を生きるこの瞬間も過去の呪縛の元にあるのだからな。つまり、この世の事象は過去から派生した成れの果てであり過去を知れば自ずと常に過去へと移り変わる現在、その先の未来を知る端緒となるわけだ。もっともそれを正確に行うには、凄まじい演算能力と分析能力が必要なのだが。君の持つ『過去視』は『未来視』へと発展する可能性があると聞いたことがあるが……正にそれ故だろうな。上手く使えさえすれば、それは万能の一つだろう。ふむ、君はやはり時々的確すぎる事を言う」

「え? そそ、そんな事は……ちょっと自分でも言ってることが支離滅裂で意味が良くわかってなかったんですけど……」

 それに、三社さんの言ってることも半分くらいしか分かってない。
 えー、つまり……昔を知っておくと先のことも分かっちゃうし色々と凄いよとかいう意味でOK?

「私の言い方が悪かったようだ。要するにだ………どのような事を知っても、自分と遠い所にあるものにはあまり振り回されるなということかな。本来の常人では知り得ない情報というものを自分が知った時、人は情報そのものに飲み込まれることがある。それを気にしすぎて、己の器以上の事をしようとすると碌な目に遭わない。実はこれは、半分以上自戒の意味もあるのだが」

「はあ……」

 自らを嘲笑うかのような顔をする三社さんは、何だかそれを言うのに少し抵抗があったようだ。
 それは分かっているのだがそれでも……みたいな。
 なんでそんな事に気付けたのか、自分でもちょっと不思議だった。
 それで……ああ、そうか───そういう所は自分と同類なんだなと私は何故か直感した。

 そんなやり取りの後、私は少しだけ心が痛んでそれを振り払うように、三社さんを振り回すことに決めた。
 年齢が離れてるから、どうせ趣味が合わないだろうとは思ったので開き直って自分の好みで行く先を決める。
 軽くウィンドウショッピングをして、PADツールショップで三社さんに色々見繕ったり(結局自分の買ってくれなかったけど)、最近ようやく冬木にも出来たMCADステーションで二人でダイブしたり(似たような事はやったことあるらしく、この人は殆ど人間業に見えない事やってた)、老舗の何故か伝統的に男子禁制らしいファンシーショップでぬいぐるみ物色したり(辟易した顔で苦しそうに笑みが固まっていたのが面白かった)………
 まあ、何というか───三社さんの態度を全体的に題すると、『保護者の微笑み』というやつでしたが。
 ……それでも良いんです。
 で、結局無難に散歩に落ち着いたわけだった。


「ふむ………そろそろ着くな」

 三社さんは、日差しがきついのか前に見たゴツいサングラスを掛けた。
 いや、それはそれで構わないのですが、何というか怪しさが倍加するという感じで……バイオレンスさが増すのは教会という場に相応しくないんじゃないかなぁ。
 動く歩道を降りて、少し歩いたところで見えてきた教会はよく手入れされているだろう花壇が立ち並ぶ広大な敷地の中に建つ。
 この時期だと、咲いた花はあまり無かったが。
 
「流石に、ちょっと寒いですね。風が強いですし、人気もないみたいです」

「まあ、神の家は沈黙を尊ぶと言ったところか……雰囲気が雰囲気だから、あまりのんびりするには向いていないのじゃないかね?」

「そうですか? 結構穴場だと思うんだけどなあ……」

 ほら、あの辺の草むらとか寝っ転がるには丁度良さそう。
 多少風が冷たいけどこの程度だったら……それに、お日様もまだ何とか暖かそうな光出してるし。
 そう思いながら、ふと空を見上げると何故か一面灰色の濁りを帯びた雲に覆われていた。
 今にも、最初の一滴を零れ落としそうな天候。
 独特の湿気を含んだ香り。
 あれ? 一体、いつの間に───

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………………………………………………………

───赤い人と、青い人が対峙している。

───どちらも、顔が笑っているがそんな事とは無関係に相手を殺す人達なんだって一目で分かった。

───だって赤い人は、両手に鉈を大きくしたような物騒な刃物をそれぞれ持っているし、青い人は、血のように真っ赤な槍みたいなの持っている。

───何より、空気が固形化して臓腑を圧迫するように重い。

───足が竦む。

───何で、あの人達は人間の形をしているのに人間に全く見えないんだろう。

───ああ………なるほど、そうか。あれが────

───やがて、青い人が私の目には瞬間移動でもしたんじゃないかってスピードで赤い人に肉迫した。

───鉄と鉄を打ち鳴らすような甲高い高音が、耳を劈くように響く。

───何をやってるのか、全く見えない。

───ただただ、音、音、音、音……

───連続して鳴るそれは、まるで一つの音楽のように私には聞こえた。

───時々瞬く輝きが、何かの演出のようだ。

───斬り合っているのだと辛うじて分かったのは、槍と刃の交じり合いが幻の如く僅かに映ったからか。

───私がこれまで見てきた、作りものゆえに派手で出鱈目な作品の数々は本物からはこんなにも遠かったのかとショックを受けた。

───一体何時になったら終わるのか見当も付けられない気が狂ったチャンバラは、一際大きな音が鳴った後に、二人が軽く互いに後退したことで静寂を伴って嘘のようにピタリと止まる。

───張り詰めて、小指一本で弾けそうな緊張。

───そのような場で赤い人と青い人は、構えはそのままに何か喋っているみたい。

───だけど、音声データが破損したようにそれは聞こえない。

───赤い人は、本当に三社さんにそっくりなのだが、私には認められないし認めたくない。

───侮蔑をそのまま形にしたような、冷酷で見下しきった嘲笑。

───その姿でその様な笑い方をするなと、それを見た瞬間、私は怒りで頭がカッと熱くなった。 

───そんな、私の心の内が伝わったのか青い人は─────いや………全く違う。

───凍りつくような寒気で一瞬にして死んだのかと思った。

───無音なのに、耳鳴りが馬鹿みたいに響いて鼓膜を突き破らんばかりだ。

───青い人は、人間でないのなら当然とでもいうかのように獣を思わせる信じられない凶相を浮かべていた。

───あれが怒りの表情だとは理解できるが、果たして仮にも人間の顔をしているものがあのような表情を露出させることが出来るものなのか?

───私の怒りなどあの青い人のそれに比べれば、きっと山に対しての石ころにも等しい。

───正視していて気を失わないのは、これが過ぎ去った幻だからと自覚しているからか。

───それでも、こちらの息が止められるような凶々しい気配が場を支配した。

───突如───青い人の姿が、地に擦りつかんばかりの低い姿勢となり霞んで消え失せる。

───遥か遠く………赤い人から100メートルは離れた場所から軽やかに着地した音。

───姿勢はそのままに────私には、それがよく見慣れた短距離のスプリンターのスタート直前に見えた。

───次の瞬間、青い人は、文字通りに───弾けた。

───発射されたミサイルであるかのように、空気を切り裂く疾走。

───いや、疾走というか私には青い線にしか見えない。

───標的は勿論、あの三社さんそっくりの赤い人。

───その線が、いきなり途絶えた。

───上空を見上げたのは、ぎちりという空全体が悲鳴を上げたかのような軋みを聞いたからだった。

───信じ難い高さに、その発生源が居ると気が付けたのは灰色の空に対してあまりにその群青が異質な点だったから。

───さらなる爆音に耳を塞ぐ。

───残光として目に残る赤い軌跡は、まさかあの槍を投げた為などという馬鹿馬鹿しい結果故なのだろうか。

───どう見ても、SF映画やアニメでしかお目にかかったことが無いレーザー砲とかビーム砲とかを連想させた。

───では、この耳を塞いでも聞こえる車のモーターが限界近くまで駆動しているに似た音を発しながらその出鱈目なものを防いでいるあれは、差し詰めバリアと言ったところか。

───光の明滅が強すぎて良く見えないが、何だか南国の赤い花みたいだった。

───赤い人は、苦痛に耐えつつも挑む目を失わず片手を上げてバリアを展開し続けている。

───その表情だけは、何故か三社さんに重なった。

───そして……硝子が割られていくような音が連続して鳴り、やがて全部が真っ白になる強い輝きが───

……………………………………………

…………………………………

………………………

 気が付くと……三社さんが、私の両肩に手を置いて顔を覗き込んでいた。
 その顔は、心配気ではあったが何やら不審そうな雰囲気があった。
 私は、映画に集中しすぎて現実感が希薄になったような感覚を何とか振り払い視点を合わせる。

「……………見えちゃいました」

「……………ああ。分かっている。君は───」

「あ、はい。えっと、ですね、見たのは…………」

 私は、今見たものを記憶が薄れないうちに何とか整理して、順番に話した。
 またまた出てきた三社さんそっくりの赤い人と、しなやかな豹を思わせる精悍な青い人。
 出鱈目で気違いじみた、二刀流と槍によるチャンバラ。
 ビーム砲とバリアの応酬なんかは、本当に現実感なさすぎて私には呆れんばかりだった。
 あそこまで迫力ある特殊な演出が映画で出来るなら、その部門だけは世界的な賞を総嘗めだろう。
 もっとも、あれでどんなストーリーになるのか教えてもらいたいくらいの飛び過ぎた映像だったが。
 でもあれは………実際過去に起こった現実なのだという。

「──と、こんな感じなんですが。確かに、刺激が相当強いですね、三社さんの過去って」

 あはははと、乾いた笑い。
 一体、この人は現在に至るまでどんな波乱万丈な環境に居たんだろうか。
 きっと、私のような凡人には想像を絶するに違いない。
 あれじゃあ、誰かに話したところで『それ何? ゲームの話? それともアニメ?』とか言われること請け合いだ。
 見た私が、そう思うぐらいだから。
 それとも………魔法使いさんたちはこれが普通なのだろうか?
 で、何でか説明を聞き終えた三社さんは腕を組みつつ不可解な表情だった。

「あの………どうしたんですか?」

「う……む。理沙くんには先に謝罪しなければならんかも知れないが……君が『過去視』というのはとんだ見当違いかもしれん」

「は? えーっと………??」

 どういう意味だろう?
 え? じゃあ、今見たのはただの白昼夢?
 私って、どこまで妄想が暴走してるの? 
 電波? 不思議ちゃん? 病んでる?

「『過去視』とは……大体の場合、対象の記憶に精神的に感応して追体験するといったものだ。言ってみれば、それは対象の記憶に対してという特殊性はあるが『読心術』にも近い。ここで問題なのは、あくまで対象あってのことで、当然のことながら対象の記憶に無いものは読み取れない。勿論のこと無意識下で『銘記』し『保存』していながら『再生』『再認』出来無い物でさえ『過去視』は読み取るであろうから、本人が記憶していないと思い込んでいることさえ『視る』事は可能だろう。だが……」

 三社さんは、悩ましげに顎を摘み考えこむような顔。
 言っていることは、何となくしか理解できないが主旨は掴めた。
 つまり───

「今、理沙くんが『視た』ものの見当はつく。明らかに、それが私の過去に関わる出来事だからだ。しかし、それは私の記憶に無いものと断言出来る。どう考えても、それを認識する機会が私には無かったからだ。それに───」

 言葉を濁し、三社さんは信じ難さを抑制するような表情をした。
 私は、何が何だか分からずに混乱して見つめ返すしか無かった。

「君が今『視た』ものが、私にも見えた。いや……というよりは、映像のみであるが実際にこの場で『再現』されていた。情けない話であるが……どう考えれば良いのか、今の私には理解できないというのが正直なところだ」

 溜息は、私が初めて見る困惑を表したものだった。
 そんな事言われても……三社さんに分からないと言われたら、私にはますます分からないに決まってるじゃないですか。
 そろそろオレンジ色に変色してきた光の中、神の家の前で私達二人はぎこちない妙な沈黙を保っていた。
 

 橙色が引き伸ばされ、海面に光の道を作っていた。
 まるで、それを歩いて行ったらあの夕日まで辿り着けそうだ。
 波の音は、この時期冷たさを否が応にでも髣髴させる響きだったけど私は嫌いじゃない。
 強いていうなら、風が強すぎて髪が口に含まれそうになるくらい顔を叩くのが難か。
 
 三社さんと一緒に、朱色に染まる港に居た。
 今日の締めとしては此処が良いんじゃないかと思った私の我儘で、付き合ってもらったのだった。
 私は、海が好きだ。
 いや、海が好きというよりも───

「すまなかった、大した力になれなくて。しかし、理沙くんのそれについては必ずどんなものであるか調べると約束しよう。少々、時間を貰えないだろうか?」

「え? あー、大丈夫ですよ、そんな事で無理しなくても。あんなもの見た後じゃ、きっとこれから大概の凄いもの見ても驚かずに済みそうですし……それに三社さんが味方なんだって分かってれば、それだけで安心です。私の方こそ、ここまで無理して付き合って貰ってすみませんでした。お休みの日がこんなに楽しかったの初めてかも」

 本当に、いつも家で自堕落に過ごしてた自分が嘘みたいだと笑ってしまいそうになる。
 三社さんは、時折の突風に黒いレザージャケットを大きく翻させつつも本人は全く意に介していないように、普段と変わらぬ泰然とした姿勢だった。
 私が広がる景色から身体を振り返させながら言うと、困ったように苦笑を浮かべながら微かに首を傾げた。

「そうかね? 君ぐらいの娘が、私のような年配の男とずっと居ても退屈であろうなとは思ったが……楽しんでもらえたなら、何より」

「そうですねー。実はお父さんと同じくらいなんですよねー、三社さんって」

「……………なに? そうだったのか!?」

「あ、ちょっと驚いてますね。いや、まあ、お父さんとお母さんが早くに結婚して私を産んでくれたっていうのもあるんですけどね」

 やっぱり、年が離れていると分かっていても、父親と同じくらいとか言われると少しはショックなのだろうか?
 僅かに、狼狽したような顔をしたのが失礼ながら可愛かった。
 そうなのです、私の両親は何でも大学に在学中に熱い感情のままに結婚して子供を作ったという、なかなか無茶なカップルだったのだ。
 で、私が生まれたわけなのだが……んー、まあこれは氷室くらいにしか話してないけど、大したことじゃ無いって言えば大したことないし、三社さんなら話してもいいか。

「実は……私の生まれた時に、ちょっと特殊な事情がありまして。他人が聞いても面白い話じゃあ無いんですが、聞いてくれます?」

「……ふむ? 私などで良ければ聞こう」

「えっとですね、まあお父さんとお母さんは、今でもこっちが恥ずかしくなるくらい仲が良い二人なんですが、子供を授かった時に神様がどういうつもりだったのかわからないですが、かなり変わった授け方をしたんです。本当は……私には一緒に生まれてくるお兄ちゃんか弟かが居たらしいのですが」

「双子ということかね?」

「はい。それも、一卵性だったらしいです」

「なるほど。それは……確かに……」

 三社さんは、少々の驚きを表すように眉を軽く片方上げた。
 異性での一卵性双生児は、ほとんど例がない特殊な状況だということを当然ながら知っているのだろう。
 当時の担当のお医者さんも、かなり驚いていたとか何とか。

「ただ、まあ……何というか、今は私しかこの世に居ませんから、生まれる前にその私の兄妹は死んでしまったという事ですが。この事って、最初知らなかったんですがある時、お祖父ちゃんに聞かされたんです。『お前は、生まれる前から大きな借りがあるんだから、しっかり生きなきゃ駄目だぞ』って。意味が分からなくて、なんで? って聞いたら双子のことを教えてもらえたんですが、それだけじゃ無くて……その私の双子の兄妹って実はお腹の中に居る時から心臓が無かったらしいんです」

「………それも、かなり特殊なケースだな。専門じゃないので詳しくは知らないが」

「ええ。で、お祖父ちゃんが言うんです。『お前の心臓は、きっとお前をこの世に出すために、その子が譲ったものだ。だから、大事にしなさい』って……これ聞いたときに、本当にショックで。だって、そんなのとんでもない『借り』じゃないですか? 命を譲ってもらったなんて返しようがありませんよ。ちょっと目の前が真っ暗になりました、その時」

 私は言いながら、そろそろ没しかける夕日を後ろにして、港にある小さな灯台に軽く背を預ける。
 あの時の気持ちに、ケリは着いている。
 それでも───私が嫌なことは忘れやすい都合いい性格だとしても、これだけは今でもカサブタのようにこびり付いている。
 三社さんは、私の言葉ですぐに察したらしいが、わざとなのか淡々とした無表情で口を開いた。
 
「なるほど……では、理沙くんの『借りを作りたくない』というのは───」

「はい。まあ、性格が大半なんでしょうけど、ちょっとトラウマになっちゃって。お祖父ちゃんも、悪気があったわけじゃ無いのは知ってますし嫌いじゃないんですけどね。今でも、甘すぎるくらい優しいし、お小遣いいっぱいくれるし」

 本当に、ああいうのを祖父バカとか言うんだろうか?
 ちょっと気まぐれにお祖父ちゃんの家に尋ねると、そりゃもう出てくる出てくる豪華な料理の数々。
 しかも、全部手作りでそこらの店に出しても遜色ないどころか、大概の料理店を上回っていると私は思っている。
 お店出したら? って半分以上本気で提案したら、お前のために作ってやれるだけで満足とか恥ずかしくなること言うんだよなあ。
 美味しいっていうと、凄い嬉しそうにするから本当にそうなんだろうなとは分かるんだけど。
 気分変えて勉強するために部屋借りた時なんか、何度も何度も部屋に来てお茶やらお菓子やら持ってきたし。
 
「……ただ、お祖父ちゃんて冬木でちょっとした会社興した人で、お母さんの親なんですけど、お父さんと結婚したとき大分揉めたらしいんですよね。一人娘だったから。お父さんは、お祖父ちゃんの会社とは全く縁がない職種だし。で、私と一緒に生まれてくるはずだった子に大分期待掛けてたらしくてですね……」

 感情の起伏が激しいお祖父ちゃんは、お母さんに訊いたところによると双子の件で号泣したと言う。
 だから、本当にしょうがないなって思う。
 この気持ちは、未だに良く分からないけれど……肩を竦めるしか無いっていうか。
 実際に、私は三社さんに肩を竦め笑いながら言った。

「それで……私、冬木を出れ無くなっちゃいました」

「……何故かね?」

「んー……何というか、お祖父ちゃんも何も言わないし、両親も何も言わないんですが、私が自分でお祖父ちゃんの会社継ぐか、お婿さんでも貰ってその人に会社継がせるかすれば一番丸く収まるかなぁ……なんて。だって、みんな大好きですし」

 両親とお祖父ちゃんが仲良くしててくれれば、私も嬉しいし。
 ちょっと今でも、お父さんとお祖父ちゃんはぎこちない感じ。
 タイプが違いすぎるから仕方ないけど。
 お父さんは、職業が研究系だからか繊細で物静か。
 お祖父ちゃんは、建設会社の社長なんてやってるからか豪快な激情家。
 お母さんがいなければ、交差すること無い二人だろう。
 お母さんも大物で、お父さんがお祖父ちゃんに半殺しにされたことを嬉しそうに語るのはどうかと思う。
 で、私と……何か微妙なバランスなんだよなあっていつも考える。

「でも……君は本当は冬木を出たいと」

「さすが、鋭いですねー……って、私の言い方じゃ丸分かりですね。そうなんですよねー。私、冬木も勿論好きなんですけど、何かどっか海の向こうに故郷があるような気がして。そんな場所をちゃんと見つけ出して、住んでみたいなーとか夢見がちな乙女なんです、これが」

 真摯な目をして言う三社さんに、私は少し照れながらふざけた調子で答えた。
 本当に、自分でも我ながらロマンチスト過ぎて恥ずかしくってしょうがないけど、気持ちは嘘偽り無いものだった。
 何時から、こんな感情が芽生えたのか知らないけど……海の向こうに何かあるような気がして仕方ないというか誰か呼んでるというか。
 実は、運命の最愛の人とかが待っていてくれているという、口が裂けても言えない妄想もしたことがある。
 この人なら、茶化したりしないでちゃんと聞いてくれるだろうなと思って言ってみた次第だが、案の定納得したように真面目すぎる顔で頷いていた。
 それどころか───

「なるほどな。では、冬木を出ることになったら、私も協力しよう。これでも、海外暮らしが長かったんでね……理沙くんが何処に行きたいかは分からないが、欧州辺りだったら大分コネも多いし色々と手助けが出来そうだ」

「わわ! 本当ですか!? じゃ、じゃあ例えば、フィンランドとか何となーく憧れちゃったりしてるんですが?」

 まるで、私が冬木を出るのが当然の如く言ってくれた三社さんの言葉に思わず食いついていた。
 欧州! いいじゃないですか欧州。
 歴史の重みを感じさせるイギリスやフランスやイタリアなんかも勿論良いんだけど、私は北欧の森と湖の国と言われるフィンランドが最近気に入っている。
 大聖堂がある首都ヘルシンキ、世界遺産の島スオメンリンナ、それになんといってもナーンタリは、あの……谷に住んでる妖精ワールドがあるらしいですよ?
 そういや三社さんって、あの谷で釣りとかしてハーモニカとか吹いちゃったりする内向的な渋い人にちょっと似てるかも。

「………よりによって、ピンポイントでそこかね。───ああ、いや失礼した。そこだったら、まず間違いない。まあ、その話しは今度として、そろそろ送っていこう」

 三社さんは、何故か僅かに困惑した顔を覗かせながらも力強く頷いて請け合い、灯台に背を預ける私に優しく手を差し伸べてくれた。
 ちょっと顔が赤くなるのを自覚しながら、それに指を絡ませる。
 引き上げてもらった私は、大分強くなってきた潮風に身を任せながらペースを落とし歩いてくれる三社さんの隣に並ぶ。
 叶う訳ない無い夢だけど───それに本気で付き合ってくれたこの人に、私は心の中でこれまでの人生で最大限のお礼を言った。

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……………………………………………………………………

………………………………………………………

───演■■面に、三社堺人と自称する人物を■■

───測における■■領域に合致すると確認。

───『■■■■』における■■点として振舞ったと推測。

───■■■■点として変したを破棄──訂正、補足要因として再演

───該当する者は、かつて『紅の■■■』もしくは『赤■■■』と呼称されし■■使い■■■郎と推定される。

───年前に■■とされる情報をとして扱い、■■に庇護されていると情報を■■

───象の■■まで、残時間を■■■と設定。

───引き続き、外■■■■■化し■■対象とする。

……………………………………………

…………………………………

………………………



[18834] 匣中におけるエメト 3
Name: tory◆1f6c1871 ID:8e7f98a1
Date: 2010/12/01 23:56



『───それは、あり得ないことではなくてよ』

 聞こえる声は、喋る彼女にとっては異国の言葉である筈なのに相も変わらず流暢で、気品に満ち玲瓏。
 久しぶりに耳朶を打つその声質に、遠き日の情景が自然と脳裏に沸き上がる。

『超能力などという、摂理を無視したものに整合性を求めるのは馬鹿馬鹿しくもありますし、私も専門というわけではありませんが……何しろそれを持つ者達は、それぞれが独自の『ルール』に則った独立した種みたいなものなのですからね。似た傾向のように見えて、原理が全く異なるなどということも珍しくありませんわね』

 嘆息混じりに言うそれは、理不尽さに対する呆れが含まれている。
 それは、そうだろう。
 正統に真理を探求する彼女にとっては、そのような手合いは真面目に相手をするのものでは決して無いと考えているに違いない。
 そう、自分も僅かではあるもののそういう者達に対したことがあるが、彼らはそれぞれに統一性というものが感じられない不条理さがあった。
 己も異端なので、人の事は言えぬ。
 しかし、彼らは異端であることが常態なのだ。

『ただ、聞き及んだ限りでは『過去視』と呼ばれるものは大体において、シ……貴方が言うように、精神感応により対象の記憶を覗き見るということみたいですわね。その発展形が、覗き見た過去よりの情報で無意識の高度な演算により実現性の高い予測を行う『未来視』だとか。けれど、これとは出す結果が似たものに見えても仕組みが違うものは幾つか知っていましてよ。………ええ、勿論のこと高次の存在や霊媒等の交信の結果で情報を取得するものは除きます』

 講義をするようなその言い方は、口調こそ異なるものの本当に自分の最愛の人物によく似ている。
 もっとも、その事を指摘すると二人ともに不愉快そうな顔をするのが目に浮かんだ。
 この二人は、普段は終始一貫していがみ合うような間柄なのに真の最終局面では余人が及び付かない息の合わせ方を出来るのが長年謎だった。
 後々になって判明した背景を漸く知った時には、大いに腑に落ちたものだが。

『まずは、私達に近い方面から挙げますわ。この世界の記録が、始まりから終りまで記されているもの。根源の渦に付加された機能の一種と言われ、世には『アカシック・レコード』と知られる概念。これを、何らかの手段で読み取れるというのならば過去であろうが現在であろうが未来であろうが『記録』として知る事も可能ですわね。もっとも……これはあくまで例として挙げているだけで現実的ではありませんけれど。私が、これを可能とする手段で知っていますのは『統一言語』の使い手である事が条件となります。近代において、それに該当するのは知る限り一人だけですが、もし超能力者と言われる異能の輩が別の方法で不条理にも同じ事が出来るというのならば、それはもはや人間という体を保っていない何かの『現象』でしょう。『神の目』でも持っているということに成り兼ねませんからね』

 確かに、観測者が存在しない『記録』などというものを読み取れるのならば、それは限定的ながら全知にも近いものだ。
 個人の手に余る力とも言えよう。
 例としては極端に過ぎるのは、あくまでも本当に例ということだからか。

『次に挙げるのは極めて特殊な現象ですが、空間に『記録』として死した特異な人間の情報が焼き付いてしまう場合。所謂、巷では幽霊と言われるものの一部が該当するものです。勿論、これについては貴方も知っていますわよね? ───ええ。霊体の残滓が死後も強力な残留思念で現世に縛られる比較的我々に馴染み深い幽霊とは違う形のものですわ。これを読み取る事が出来る者が、その人間と『記録』の一部を共有する者達、つまりは肉親や友人……死した人間が殺されたのならば殺した人間も含まれますかしらね? 観測者としてどれだけ執着して自身の中のその人物の『記録』を薄れさせないかが条件のようですから』

 人は、死んでも突然に消失するわけでは無い。
 観測者がその人物の『記録』を持ち合わせる限り、別の側面から存在し得る。
 勿論、『記録』の劣化は激しい。
 現にその人物が居ないのだから、更新されようもない『記録』となるわけで、日々の中で煙のように引き伸ばされていくのだ。
 この『記録』が、場所自体を観測者とする事がある。

『理解していない者には記憶錯誤による幻覚と取られる事が多いこれは、実際には『記録』の閲覧を許可されているのが同じ『記録』を持つ彼らだけということなのでしょう。もっとも、本当に幻像のようなものなので現象として幻覚と区別する意味があまり無いのかも知れませんが。観測者が『記録』を薄れさせれば、やはり同じく薄れゆく『記録』なのですから。───これも、広義には『過去を視る』ということに当たるのでしょう』

 残留する情報。
 強すぎる光が消えた後に、視覚に残光として浮かぶに似たもの。
 しかし、これは───
 
『……そうですわね、魔眼憑きが霊体に視力合わせるのと訳が違いますわ。それでしたら、我々でも手順さえ踏めば方法は幾らでもありますが、これは先に挙げたものと同じく『記録』に抵触する行為ですから、観測者として『記録』を共有していないものが見るとなると……それこそ、あるかどうかも分からない『根源に繋がる目』などという、やはり馬鹿げたものが必要になるかしらね』

 これも、もはや“それが、本当に存在するのか?”という前提の議論を起しかねない例だ。
 勿論のこと、彼女は一つ一つを可能性の大小に関わらず述べているに過ぎないつもりなのだろうが。
 実際に、絶対にあり得ないとは言い切れない。
 未だお目にかかったことはないが、それ程の信じ難い魔眼持ちとて長きに渡る人類史上を見渡せば存在し得るかもしれない。
 それは、自分が生きる時代も含んでのことだ。
 ただ、あの娘がそうだとは……例え限りなくゼロに近い僅少な確率の突然変異だったとしても考え難くもあった。
 そのようなものを発現させるには、まとまな人間性、まともな環境では難しいのでは無かろうかと思えるからだ。
 当然、表面上ではなく裏面に歪な形が無自覚で隠れている場合もある。
 自らが、そうであるように。
 だが、果たして……と、迷走しかかる思考を途絶させるようにさらなる言葉が続けられた。  

『最後に、これが一番妥当性が高いものとして考えられますが……説明するには順序として『未来視』の別の形から話すのが筋ですわね。先程は、感応することで覗き見た『過去』の情報により『未来』を予測するのが『未来視』とお話し致しましたが、何もわざわざ『過去』などを見ずとも『現在』を起点に膨大な情報処理を行い、『未来』を予測するという『未来視』も存在するそうです。この場合、情報処理が『記憶』に依りませんから、関連さえあれば対象が観測者では無くとも『未来』を予測するというのは可能なのでしょう。もう一つ、『未来視』には予測とは別に測定という一段と高度な異能も存在すると言いますが、これは説明には不要ですから省略致しますわ。さて───』

 言いたいことは理解出来た。
 確かに、それならば先の二つの事例よりは納得できる回答と成り得るだろう。
 もう一つの話していない事柄さえ無ければ。

『もう、お分かりでしょうけど……『記憶』に依らない『未来視』があるのならば、『記憶』に依らない『過去視』も同じ方式で存在するというのが自然に導き出される答えではなくて? 誰でも日常的に行っている事の延長とも言えますわね。例えば、私の部屋で本がいつもと違った位置にあり、机の上のペンと紙が乱雑に散らかり、宝石箱の中身が見るも無残な荒らされようで、絨毯には椅子を引いた跡が残ったままになっているのを確認したと致します。この場合、私は子供達が私の部屋に無断で入って、無断で本を読み、無断で何か書きものをした挙句、私の宝石を無断で物色して、喜び勇んで出て行ったと『過去』を推定し、恐らく真実もそう違わないだろうと映像すら想像することができましてよ。娯楽であるミステリィというものは数えるほどしか読んだことがありませんが、あれに出てくる名探偵と呼ばれる架空の人物達と同じ方法論ではないかしら?』

 現在からの情報による『予測』と『推定』。
 普段から人間が行っていることではあるが、これが高速で飛躍しすぎると周囲には予言じみて聞こえる。
 常人には一見因果関係が無い膨大な情報を無意識に収集し正確無比な処理を行って繋ぎ合わせ、極めて精度が高い答えを導き出すのがそのタイプの『未来視』や『過去視』ということだろう。
 但し、これらの処理は無意識化で行わなければ簡単に自我など崩壊しそうなので、恐らく自身で制御など出来まい。
 それが、こういう者達の『チャンネル』の肝というわけだ。
 あの娘の時折見せる勘の良さも、これに附随するものだとすれば腑に落ちやすい。
 だが、やはり一つだけは説明が付かない。
 
『この類のものですと、私などは穴倉の方達を連想致しますわ。彼らなら、これくらいの事は出来そうではなくて? そもそもあそこは、初代院長が見た、何らかの『未来予測』の為に探求していると聞いたこともありますからね。知れ渡る成果から考えれば、かなり物騒な『予測』のようですけれど。そういえば……今代の院長は、自身の家系に伝わる秘術で場所の記憶を読み取る事も出来るとか。どのようなものかは分かりませんが、これも『過去視』の形態の一つかも知れませんわね。もっとも、超能力からは離れていますが』

 確かに、あそこの連中には類似した事が可能である事を知っている。
 幾度か関わりもあったが、彼らの性向も能力も演算機そのものだった。
 その在り方を聞いた時には、さもあらんと理解は出来た。
 しかし、とりあえずそれは今回の件とは関係が薄いだろうと考えたので、改めて自身がどうしても不可解であったことを彼女に問いかけてみる。

『どういう意味ですの? 『過去』を『再現』? ……それは、どちらかと言うと超能力などではなくこちらの方面に近い現象ではなくて? 『歪曲』『逆行』が根本にある以上再現力というものは重要な要素ですからね。随分と突拍子も無いことを───お待ちなさい。その『再現』されている『過去』とはどういうものなのです? ─────いいから、お話しなさい。今更、例え話などと言って通用すると思っていて?』

 有無を言わせない、追求の口調。
 条件反射的に、心の中で肩を竦めて両手を挙げる。
 なるべく、誤解を招かぬよう客観的に説明し、最後に自身の受けた印象を付け加える。
 その間、彼女が息を詰めて沈黙していたのが分かった。

『───────やはり………そう……でしたの。全く………貴方はどうして昔から、そういう方向へ流されていくのでしょうね。八割方は自身の人格のせいなのでしょうが、残り二割は何かの呪いかとも思えますわよ』

 長い溜息。
 呆れられるのには慣れていたが、それが何故なのかは分からなかった。
 しかし、彼女が何かに思い当たったのは察知出来た。

『あくまで一つの可能性であり私の予感に過ぎませんが、もしそれが当たっているのならば………私達にとっての最悪が、そちらに紛れ込んでいるということになりますわね。正直、話すのも悍ましくはありますが───』
 
 語られる言葉は、あからさまな侮蔑と忌々しさに満ちていた。
 無理も無い。
 内容から考えて、それは彼女たちにとっては最大限の冒涜にも等しい所業と言える。
 ────本当に、最悪だった。
 ………奥歯が、自然と強い力で噛みしめられるのを自覚する。
 だが、これは彼女が問題としている観点では無く、もう一つの特性を知った故にだ。
 強く握られた拳の痛覚が、麻痺しかかる。
 自分は………あまりにも、遅すぎた。
 予感に過ぎないというが、彼女の予感が外れることは滅多に無い。
 己の経験で培われた予想も、最悪が渦巻いている。
 だが───確認はせねばならないだろう。
 万が一ということも………ある。

『───とにもかくにも、すぐに彼女にお知らせなさい。それを処理するのが─────なんですって? それは………戻すわけにも参りませんわね。こうなれば、私が───って確か、そちらは随分と閉鎖的で、私のような者が入るには談合で二日は掛かるのでしたね。今抱えている案件も、どう急いでも三日はかかる……準備に二日で移動で一日……ああ、もう! 八日なんてあと一日で、吊るされたまま真理を獲得出来る日数ではないですの!! よろしくて? 今の貴方は───!?』

 彼女の、滅多に出さないであろう(その割には、もう一人の人物と一緒に居た時には自分はよく聞いたような気もするが)ヒステリックな声に重なり何やら爆発音が聞こえた。
 子供達の狼狽するような、悲鳴とともに。

『───今日という今日は、本当に許さなくてよ!! あれほど、生半可な知識の元に石を持ち出すなと言いつけられながら、まだ分からないというのですか、貴方達は!! そこにお直りなさい!! ───お待ちなさい!! 私から逃げられると、本気で思っているのですか!?』

 銃弾が発射されたような様な射撃音が、連続して耳に届く。
 だが、あれは間違っても銃弾ではない。
 経験者は語る、なのである。

『とにかく! 貴方は、御自分の今の立場をよくよくお考えになることですわ! 私も片付き次第、すぐ伺いますから余計な真似は───』

 それは、嫌というほど理解している。
 何しろ、自らの名前が全てを物語っているのだ。
 彼女にその旨を伝え、電話を切った。
  

…………………………………

………………………

「…………おや?」
 
 いつの間にか、良く分からない場所に来ていた。
 部活終了後の景色が暖色に染まる時間帯。
 予想より軽め且つ早めに練習が終わった事で、私は何となく心に余裕が出来て突発的に気が向くままに散歩なんぞしようと思ったのだった。
 時々こういう思い立ったがみたいな事を私がするのに、氷室なんかは慣れたもので呆れたように手をひらひらと振ってさっさと帰ってしまったのだが。
 ちょっとぐらいは、付き合ってくれてもいいのに。
 まあ普通に考えれば、軽めだったとは言っても練習で身体が疲れてるには違いないから、さっさと帰って休むのが賢いのだろうけど。
 ああ、そういえば昔──

『天谷……君の散歩は、あまりにも行き当たりばったりの思いつきが多すぎて、正直私には向いていない。ここは、お互いの為に散歩を取りやめて何処か喫茶店でも入った方が良いかと思うが、どうか?』

 とか、氷室に言われたっけ。
 何だか凄い疲れた顔されて、宣戦布告するみたいな口調で。
 いつだったか、休みの日に二人で遊んだ時だ。
 それで“いや、散歩の醍醐味はその行き当たりばったりさにあるんじゃないかなあ”みたいな事を言ったら、彼女の眼鏡の奥の目の温度が氷点下まで一直線に下降した。
 ───うん、あそこで折れて言うとおりにした私ってば心が広い。
 い、いや、その、怖かったとかじゃなくて、ほら、こんな事で友情が壊れるのもどうかと思ったというだけで……。
 …………すいません、かなり怖かったです。
 まあ、それはともかく、何となくでいつもの様に心が赴くままに辿り着いたのがここというわけだが

「何か凄いな、この家………何というか、お侍さんのお屋敷?」

 深山町の方は、時代に取り残されたような古い家がちらほらと見かけられるのだが、ここはなかなか群を抜いている。
 まるで、時代劇とかの背景が切り取られてそのままここに置かれたみたい。
 大きな木の門に、長々と続く瓦が乗った土壁。
 中の家屋までは見えないが、門からちょんまげ着物で刀刺した人が出てきても違和感なさそう。
 えーっと、表札は……無いのか。

「あれー? 理沙ちゃん?」

 後ろから掛けられた声に、別段疚しいことがある訳じゃないのに私は飛び上がらんばかりに驚く。
 だけど、それが聞き慣れた癒し効果抜群のほんわかした声だった事に気づき胸を撫で下ろした。
 振り向くと、予想通りのポニーテールの髪を揺らしたお日様みたいな笑顔があった。

「なんだ、ふーがちゃんか。びっくりした」

「えー? なんでー? っていうか、何してるの? こんなとこで?」

「あー、散歩してたんだけど、適当に歩いてたらいつの間にかここに居たというか。もしかして、ここってふーがちゃんのお家?」

「ううん。違うんだけど。別宅ってとこかなー」

 別宅……でございますか。
 そうですか、こんな大きそうなお屋敷が。
 そういえば、この娘のお家って冬木ではかなりの大物だとか何とか。
 母親の方は、穂群原で絶対に逆らってはいけないあの人だし、色々とんでもないなあ、ほんと。
 あ、この娘が手に持っている袋は──と、ついちょっと匂いにつられてしまったのがまずかった。
 私の視線に気が付いて、ふーがちゃんは嬉しそうに、じゃんとばかりにその袋を突き出した。

「これ、さっき商店街でたい焼き買ったの。おまけもしてもらっちゃったから、良かったら食べていかない?」

「え? あー、いや、いいよ。何だか悪いし。それに、ふーがちゃんのお家ってもうすぐ夕御飯とかじゃないの?」

「ううん、まだだよー。お母さん、しばらく仕事で帰ってこないだろうし。それに、お友達が来てるのにお茶ぐらい出さなかったら、私が怒られるの。助けると思って、ね?」

 むむ、そんな無邪気な笑顔で首傾げられても……って、ええ、これには陸上部員の性として逆らえませんなあ。
 この娘、無自覚に押しが強いし。

「う、うん……じゃ、少しだけご馳走になろうかなあ」

「やった! それじゃあ、入って入って!」

 何が楽しいのかはしゃいで腕を取る彼女に引っ張られるように、私は、このお屋敷の門を潜っていた。
 勿論この時は、あんな事になるなんてさっぱり思っていなかったのだ。


「へー? そんじゃ、ここって、その叔父さんの?」

「うーん。叔父さんって言っても、血の繋がりは無いみたいなんだけどねー。私も、会ったことないし」

 のんびりとした調子で言うふーがちゃんは、お茶を啜りながらとても幸せそうな顔をしていた。
 何というか、日向ぼっこしてる子猫みたい。
 そんな彼女を見てると、こちらも陽だまりの中にいるような錯覚を覚える。
 たい焼きも美味しいし、お茶も淹れ方が上手いのか温度、味ともに抜群。
 うむ、今日も見事に『ふーがちゃんエフェクト』発動してますね。

「え? 会った事ないって?」

「うん。若い時に、海外に出ちゃってそのまま行方不明になったんだって。本当は死んじゃったらしいんだけど、お母さんは信じてないんだ。だから、時々この家に来てるの」

「あ………何か、ごめん」

「ううん、いいの。お母さんも、特に辛そうじゃないし。私も写真でしか見たこと無いけど、叔父さんのこと訊くとお母さん喜んだりするから。でも、訊かなくてもこのお家に居るとその叔父さんって、何だか暖かい人だったんだろうなって分かるんだ。ここって、ほら……そんな感じでしょ?」

 確かに何というか、居心地が良いというか人を落ち着かせるというか。
 敷地に踏み入ってまず見えたのは、予想に反して文化財めいた古めかしい建物ではなく、築年数こそ結構経っていそうだが、ちゃんと今でも人が住んでいるのが分かる家屋だった。
 とても大きく、奇妙な平屋の家。
 奇妙なというのは、基本的に和風っぽいんだけど何か無計画な増築がされて色々面白がって後から付け加えられたような建物に見えたからだ。
 にもかかわらず……何故か全体的に調和が成されて不思議に安心できる空間というのが最初の私の印象だった。
 それは、家に上がらせてもらって、今二人でまったりしている居間に通されてからますます強まる。
 畳敷きの純和風な広い部屋で、温もりを感じさせる大きな木のテーブルが真ん中に置いてあるここは、絶対に団欒の雰囲気が似合う場所だと自然と思えた。
 きっと、ここで大人数で食事とかしたら楽しいんだろうなーと想像する。
 そして、その想像に何故か三社さんがエプロンまでつけて料理とか用意している図が出てきて、盛大に吹き出してしまいそうになった。
 ───それは、あまりに似合わな過ぎる。

「ん? なあに? 何か、面白いこと有ったの?」

「あ、いや、ごめんね。最近会った変わった人がいてね、その人がここに居る所を想像したんだけど、全然合ってなかったからさ」

「あ! そういえば、理沙ちゃんって彼氏出来たんだっけ?」

「へ!? いや、全然出来てないんですけど……」

「あれ? 蒔寺先生が、そんな事言ってたよー? あと、琴ちゃんも」

 ほ、ほほう……。
 黒豹は、日頃から意味不明の戯言を吐くから良いとして……氷室、キサマもか。
 道理で、今日学校で周りが私を見る目が変な空気だと思ったよ。
 とりあえず……今目の前の、興味津々に瞳を向けるこの子猫のような娘をどうしてくれる?

「いや、それ根も葉もない噂だから。デマだから。紛らわしい広告だから」

「えー? 何か、凄い歳が離れた人だって聞いたんだけど、良い人なんでしょ? 私、応援するよ?」

「応援されても……第一、向こうは結婚してて奥さんもいるし」

「!! 不倫なの!?」

 あ………ふーがちゃんが、ギアを切り替えた。
 そんな、身を乗り出されて視界一杯まで顔を近づけなくても。
 おかげで、唇にたい焼きの皮の欠片がちょっと残ってるの発見できたよ?
 それにしても……何故に、女の子はこういう話が皆好きなのか。
 まあ、私も他人事なら、そりゃ色々訊きそうだけど。
 私は、たい焼きの皮をさりげなく取ってやり、暴れ馬を手なずける気分で彼女の両肩に手を乗せてゆっくりと押し戻す。

「あのね……どういう噂が伝わってるのか知らないけど、多分殆どが本当に誤解だからね? そもそも、どんな話になってるか教えてくれない?」

「んー。蒔寺先生がねー……『我が部のエースである天谷に、遂に男が出来たようだ。しかも、大分年上らしい。ロマンスグレーらしい。子供に、トランペットとか買い与える紳士らしい。青春の全てを陸上に賭けられないとは随分軟弱だが、部外での恋愛を禁止するほど、あたしもヤボじゃねーからな。ここは一つ、教師として天谷が男にかまけて練習が疎かにならんように監視……じゃない、監督しようじゃないか! みんなも、天谷が怪しい感じで空とか見上げて、溜息とか吐いちゃったりしてるかどうか見張っているように!!』って、言ってたよ」

 ……素晴らしい再現力と記憶力です、風河さん。
 特に、そのニヤニヤ笑いながら言ってるところとか最高に似てました。
 これは………なかなかに厄介な事態になったようだ。
 ───大体、黒豹って教師とか言ってるけど、教員じゃないじゃん。
 いつの間にやらやって来て、顧問に収まってた暇人だろうに。
 実家は、冬木じゃ一番の老舗の呉服屋でそこの一人娘なんでしょ、あんた?
 何か、良く出来た旦那さんに家の事はほとんど任せてるって聞いたことはあるけど。

「どうもね、蒔寺先生が琴ちゃんに色々聞いたらしいよ? 琴ちゃんは『私は、聞いた内容を全く脚色せずに、そのまま伝えただけだからな』って、言ってた」

 ああ……きっとそうなんだろうよ、氷室。
 だけど、伝えた相手が相手なんだから、どういう不思議時空を通った曲解を受けるかぐらいは想像付いただろうに。
 む……そういえば、あいつ黒豹と小さい頃から付き合いがあって色々弱みを握られてるとかだったか?
 特に、私も口止めしていない。
 となると……そりゃあ、自分の身を守るためには言うよな。
 しまったなあ。
 その辺り、もう少し気を配るべきだったか。

「それでね、私達も琴ちゃんに直接訊いてみたら『恋愛沙汰なのかは、分からんが……あの意地っ張りを何とか出来る人物と知り合ったのは事実らしい。さらに私自身が、天谷がその御仁の事を喋っている時に柄にも無く浮ついて見えたのは確かだ。まあ、あとは想像の範囲を出ないのではないかな?』って。琴ちゃんって、理沙ちゃんと仲良しだし人を見る目があるから、私も間違いないかなーって思ったよ?」

 湯のみ持ちながら微笑んでそう言うふーがちゃんのその姿は、傍から見れば天使か何かに見えるでしょうが……今の私には小動物の獲物を前にした飢えた虎とかにしか見えません。
 そこんとこ、どうなの? っていう言外のプレッシャーが凄いです。
 別に隠しても仕方ないし、寧ろ正直に話さないと今後が思いやられるからなあ。
 氷室が言う、浮ついて見えた自分っていうのは想像がつかないけど、なるべく冷静に話せば大丈夫だろう。

「あー……うん。その、少し変わってるけど、とっても良い人と知り合いになったのは本当だよ。だけど、別に……」

「あ、ちょっと待ってて。お茶淹れ直してくるからね」

 ふーがちゃんは、手早く私のお客さん用の湯呑みと自分の何故か虎柄が付いた小さい湯呑みをお盆に載せて、パタパタと早足で台所に向かった。
 去り際の流し目が、逃げないでね? って感じで少し怖かった。
 ああ、つまりお茶淹れ直してくるってことは、腰を落ち着けて話を聞くよって意思表示か。
 やれやれ……要するに、ふーがちゃんが仕切りに私をお茶に誘ってたのは、この話が訊きたかったってのもあった訳だ。
 私は、何だか罠に掛かった気がして女の子らしくない仕草で頭をポリポリと掻いた。
 ま、ここでちゃんと誤解を解いておけば、逆にありがたいかもしれないし。
 頭を整理して、どうやって話そうかと───

───空気が、淀みを帯びて重い。

───先程まで確かに朱の輝きがちらついていた筈の室内は、今や曇天の雨が降る直前の薄暗さに支配されていた。

───目の前に、魔法使いがいた。

───比喩ではなく、私にはそうとしか思えなかった。

───黒いローブを纏い、頭まですっぽりとフードで隠しているその姿。 

───僅かに覗く、白蛇のような口元にこの世のものとも思えない美しい唇が三日月形に吊り上がっているのが見えた。

───いや、間違っていた。

───これは、魔法使いではなく魔女だ。

───口元しか素肌は見えないものの、あれほどの寒気がする程の邪悪さを表しながら、繊細な美麗さがさらに増す唇など、私にはこれが凄絶なまでに女性である存在としか思えない。

───魔女は執拗なまでに素肌を見せたくないのか、恐らくそれだけで完成された彫刻作品になるだろうことを容易に想像させる繊手すら、漆黒の手袋で隠している。

───その手に……何かを抱きかかえていた。

───一方の手は、腰元に。

───一方の手は、首筋に。

───何かでは無く、誰かだった。

───安らかに眠るように、気を失って目を閉じている女性。

───あれは……見覚えがあるなんてものじゃない。

───何故なら───


「お母さん!?」

 悲鳴のような叫びの語尾は、盛大に床に落とされたものが割れた派手な音に重なる。
 それが、合図になった。
 私の日常というページに、狂った落描きの如く挿し挟まれる余分なページ。
 それは、間違ったものなのだから当然というように唐突に掻き消える。
 浮遊から着地する感覚。
 これで、三度目……いや四度目? 五度目?
 とにかく、少しは慣れてきた。
 あれは『過去』の映像だったのだろう。
 今、私の視界に映るのは夕日に染まる居心地の良い和風の居間。
 魔女なんか、勿論何処にも居やしない。
 今まで、さして意識していなかったが、普段通りの現実に自分が在ることは奇跡的なことなんだと思う。
 あれが過去の出来事だったにしろ、実際に起こったものだとするならば……こんな平和そうな場所でさえかつてあのような異常な事が起こったことがあるという事だ。
 私は軽く深呼吸してなるべく何も考えないようにし、落ち着いた声を意識しながら、顔面蒼白にして目を見開き呆然としている彼女に声を掛ける。

「どうしたの、ふーがちゃん!? 大丈夫?」

 静止画が突然動画になったように彼女は目の焦点を私に合わせ、続いて自分が起こした惨事に今気がついたように驚く顔をした。

「待って! 来ちゃダメ!!」

 立ち上がって慌てて駆け寄ろうとした私は、ふーがちゃんの普段からはあまり想像がつかない、腹の奥底から出すような声での鋭い制止で足を止められた。
 彼女は、指を軽く動かしてPADを操作している。
 床には湯気を上げ広がるお茶と、見事に散らばったかつて湯呑みだったものの破片。

「割れた破片が飛び散って、危ないから。少しだけ待っててね」

「あ、ロボ呼んだんでしょ? でも、多分大きな破片とかは無理だと思うから拾わなきゃいけないし手伝うよ。大丈夫、ちゃんと気をつけて歩くから」

「ダメだってば! 理沙ちゃんは──」

「大丈夫、大丈夫。っと、よっと……ほらね」

 床の破片が無い空白地帯を的確に見極めて軽やかにステップし、ふーがちゃんの隣に難なく辿り着く。
 安心させるように笑顔で彼女を見ると、何故かとってもご機嫌斜めな事を表す上目遣いで睨まれてしまった。

「あのね、理沙ちゃんは陸上部期待のエースで、私はマネージャーなんだよ!? そういうの、ちゃんと分かってる?」

「期待のエースっていうのは、どうかと思うけど……要するに怪我とかしちゃったらたまんないってことでしょ? でも、ほら大丈夫だったから、ね?」

「もう! 分かってるなら、何でそういう軽はずみなことするの!? 理沙ちゃんに足でも怪我されたら、私もう部の皆に顔向けできないよ!? 今の、心臓止まっちゃうかと思ったよ!!」

 うわ! やばい、やばい、やばい!!
 ふーがちゃんが、風河様にクラスチェンジしてしまう!
 この半分涙目は、かなり危険信号。
 こうなると、平謝りしか無い。

「うん、本当にごめんね。ちょっと、調子に乗りすぎたみたい。今後、こういう軽率な行動は絶対にしませんから、許して! ね?」

「本当に、本当だよ? 理沙ちゃん、そうじゃなくても時々自分を大切にしない時があるんだから、気をつけてね?」

「う、うん。あんま自覚はないけど、気を付ける……それより、大きいやつだけ集めちゃおう」

 手を拝み合わせて、ふーがちゃんに頭を思いっきり下げた後、私は誤魔化すようにその場にしゃがみこんで目に見える破片を拾い集めていく。
 彼女から、まだ言い足りないというような不満げな視線を浴びせられているのが分かったが、しばらく私は気付かない振りをして無言でせっせと作業に集中する。
 やがて諦めたのか、同じようにしゃがみこんで私と違う方向の破片を拾い始める気配がして、漸く内心で息をついた。

「……お母さんとお揃いの湯呑み……割れちゃった……」

 ぽつりと呟かれた、この上なく寂しげな言葉。
 それを聞いて、私の胸は酷く痛む。
 ふーがちゃんは、私が視たものを見たばっかりに、あそこまで取り乱してこのような惨事を起こしてしまったのだ。
 どうやら私の『過去視』とやらは、その場に居れば他の人にもそれを見せてしまうらしい。
 あの魔女に抱きかかえられていた人は、間違いなく彼女のお母さんである我が校の名物教師……藤村先生だった。
 あまり見た目に変わりが無かったのは、それ程前の出来事では無いのか、それともあの先生が歳をとってもあまり変わらないせいなのか。
 実際、藤村先生の年齢は詳しく知らなかったが、確実にウチのお母さんより年上の筈なのに、全くそうは見えない程に今もって若々しいのだが。
 あの人も、三社さん並に化物じみている。
 さらに言えば、そのバイタリティも動きの機敏さも、今の学校中の運動部の精鋭すら集めても誰もあの先生に歯が立たないのではないだろうか?
 冬木無双とか、伝説の虎とか冗談みたいな噂も語り継がれているらしい。
 
 そして、そんなお母さんをふーがちゃんが大好きなのは周知の事実だった。
 学校ではお互いに公私混同を避けているのかそっけない態度だが、藤村先生の話をする時の彼女の嬉しそうな顔は誰にでも分かるものだ。
 多分、親子の情もあるのだろうが、何というか敬愛しているという領域に近いものだと私は思う。
 あの小さな虎柄の湯呑みは、つまり彼女にとっては───
 私が、余計なものを視なければ良かったのだ。
 心の中に喩えようも無い重く苦い何かが蓄積していくのが分かって、唇を噛みしめる。
 とんでもない、大きな借りを作ってしまった……。
 しかもそれをどう説明すれば分からず、また、あまり人に言ってはいけないという忠告もあったので卑怯にも黙っているしか無い。
 同じようなことがまた無いとも限らないし、何とかこれを自分でコントロール出来無いものかと機械的に作業をしながら、私は真剣に思い悩んだ。

「……理沙ちゃんってさ」

「ん? な、なに?」

 もしかして、頭の中で考えていたことをを気付かないで口に出していたのだろうかと思い、突然掛けられた声に慌てる。
 振り向くと、何故かとても困ったようなふーがちゃんの表情があった。

「凄く昔に同じような事を訊いたような気がするんだけど……理沙ちゃんて、理沙ちゃんなんだよね?」

「………は?」

 質問の意味が分からず、何か婉曲に責められてるのかとネガティブな考えばかりが浮かぶ。
 凄く昔って、ふーがちゃんと初めて会ったのは陸上部に入ってからだから、一年生の春頃って事か?
 何だろう……その時に同じようなことを訊かれたっけ?
 あまりにショックな言葉だったから、私が忘れてる?
 いや、でも何がショックなんだ?

「ご、ごめん。何か、変なこと訊いちゃって。意味分からないよね。私も、よく分からないのに……本当にごめんね」

「あ、う、うん。大丈夫だよ。気にしないで。ね?」
 
 ふーがちゃんが泣きそうな顔で謝るのにびっくりして、私は訳が分からずも慰めていた。
 もしかしたら、彼女は気が動転しているのかもしれないとも思ったし、それは無理も無いと考えたからだ。
 何だか妙な空気になったこの場所に、タイミング良くも障子が開けられる音の後に何かが駆けてくる。
 この家は、随分広いから到着まで時間がかかったらしい……の、だが

「───え? 何これ? 虎縞の………猫?」

「うん。お母さんは、虎だって言い張ってるけど。本当は、普通の丸いヤツの方がこの家みたいに広いと良いんだけど気に入ってるらしいんだよね」

 ちょっと照れるように、ふーがちゃんは言う。
 何故か毛並みまで再現されている猫型だか虎型だか分からないお掃除ロボは、腹這いになると頼もしいことにみるみると散らばった破片を吸い上げていく。
 しかし、その目を細めて気持ちよさそうな表情をするのは、全く意味が無い機能だよなあ。
 凄く、かわいいけどさ。
 何か、甘えるみたいに鳴いてるし。
 そういえば藤村先生って虎が好きなんだっけ? あれ? 嫌いって話も聞いたことあるような……。
 ……ああ、でも藤村先生がこのお掃除ロボを気に入っている理由だけは分かった。
 だって、この表情は、ふーがちゃんに少し似てるって気が付けたから。

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………………………………………………………

───■■領域に対する、■■面として場における象の痕跡を確認。

───■■点として特定した、■■■郎の『■■■■』における■■と断定。

───微弱ながら■■の存在も認識出来る事により、それは補強される。

───象の■■までの残時間を、■■■としたものを破棄し、■■■と再設定。

───この場における象は、さらに複数存在することが推測される為、多重の■■に変した際の■■■を基準とする。

───これにより、演■■■はさらに早まるものと推定。

───外■■■■■化への■■は、継続して最小のものとする。

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 通された部屋は、モデルルームのように清潔感があり整然としていた。
 無駄が余り無く、最低限の家具や調度しかこの場にはない。
 但し、その全てが恐らくかなり高価な品々だ。
 例えば、今座っているダークブラウンのチェスターフィールドソファは、自分が見積もった限りでは、大抵の人間がこれにそんなに掛けるのだったら明らかに別の目的で金を使うだろうぐらいに馬鹿馬鹿しくなる金額だ。
 テーブルは無垢のマホガニー製で、ヴィクトリア様式。
 オーク材のサイドボードも、同じ年代のものだ。
 そのサイドボードの上に飾られている帆船の模型は、ネルソン提督が旗艦にしたH.M.S.ヴァンガードだろうか?
 大きさもさることながら、精巧さから考えても製作者はかなりの腕前なのだろう事が素人の自分にも判別出来る。
 壁に掛けられた複製画は、ネルソンの繋がりでターナーの『トラファルガーの戦い』であることがすぐに分かった。
 どうも、この室内をデザインした人間は偏重した英国様式が好みらしい。
 そうなると、自分もそれに合わせた方が良いだろうか。

「お待たせして、すまない」

 勢い良く扉を開け入ってきた老年の男性は、大股の歩みで側まで来ると、よく響くバリトンの声域で詫びながら軽く会釈する。
 その動作は矍鑠としたもので、背筋も全く曲がっていない。
 寧ろ、未だに若者のような生を謳歌せんが為の性急さが見受けられた。
 簡単に互いに自己紹介をして握手を交わし、挨拶するために立ち上がっていた自分に再び座るように勧めてから、彼自身も正面のソファに座った。

「しかし、あのペンダントを見たのは、ほぼ十年ぶりになるかな。あのお嬢さんは、元気かね? ─────おお、なんと、そうだったのか! ということは、君は─────ほほう、それは是非、機会があれば会ってみたいものだね」

 愉快そうな顔をしながら、老人は綺麗に後ろに撫で付けられた白髪に手をやる。
 表情が豊かで仕草が大きいのは、まがりなりにもかつて頂点に居た証か。
 顔の作りは鋭角な部位で構成され猛禽を思わせるにも拘らず、不思議な魅力がある。
 話に聞いていたとおり、確かに一筋縄ではいかなそうだが好人物ではあるようだ。
 少なくとも、これまでの経験で自分が様々な場所で交渉してきた人物達と比べれば大分マシだ。

「知ってはいると思うが、彼女は命の恩人だからな。その借りは、本当に計り知れない。お陰さまで、隠居した身となった今という時間を、私は存分に楽しむ事ができているというわけだ。だから、君は遠慮せずに何でも言ってくれていい。役に立てることなら、何でも役に立とう。勿論、余計なことは訊いたりしない。こう見えても、興味が無いことにはとことん興味が無い質でな」

 悪戯っぽい光を湛えた目で、彼は足を組みながら人懐こそうに笑う。
 当然その話を知ればこそ、突然の無礼を承知で尋ねてきたのである。
 かつて彼女は、この老人が現役だった頃、ある怪異な事件においてその命を救ったことがあるということらしい。
 詳細な内容はあまり聞いていないが、彼女にしてみれば“ついでだった”との事だ。
 その際に、どう考えても彼女自身の正体がバレたようなのだが、彼は勘が良いのか全くの知らぬ存ぜぬを貫き通したのだとか。
 それでその人間性を信頼し、彼女は何の処置も今に至るまで彼に施していないという。
 立場から考えれば、彼女の甘さは相変わらずと言うべきだ。
 しかし、それこそが彼女の強みの一つでもあることを自分は承知しているし、寧ろ誇りにしている。

「とは言え……私が、あの病院の院長を退いて久しいからな。大して力になれるかは怪しいが─────ふむ? ああ……あの子の事か。勿論、憶えているとも。異性一卵性双生児の子だろう? 当時、相当話題になったからな。確か担当は………そういえば、彼は事故で亡くなっていたのだったな。十年前位だったか。優秀な人物だったが、惜しいことをしたものだよ」

 一転して、沈痛そうな顔で彼は指を組み溜息を吐いた。
 その事実に関しては、既に調査済みだったので知っていた。
 というよりも、調査していく内にそれに関わった近しい医療関係者は、ある者は事故死しており、ある者は行方の情報が途絶していたりということに行き当たり、この当時の病院の院長に思い至ったのだ。
 偶然にも繋がりがあった人物が居たことに、少々出来すぎではないかと驚いたものだった。
 何かに後押しされているのではないか? と、考えないでも無い。

「私も長年医者をやってはきたが、あの子ほど希少なケースが重なったのは見たことが無い。だから、当時の担当だった彼が、あの子を長年に渡り検査し続けたのは当然だと思っている。────ああ、誤解のないように言っておくが、決して実験的な意味合いではないぞ。当然、後の医療にもそのデータは貢献するのだろうが───そうでは無く、あの子がいざ病状に陥るなどした時に、そうしないと緊急な対処が出来ないからだ。それに、無理強いもしなかった筈だ。しかし、充分な理解を得られなかったのか……確か、あの子の御祖父君が『孫に何時まで、実験動物の真似事をさせるつもりだ!』とか怒鳴り込んできたがね」

 当時を思い出したのか、遠い目をして元院長は苦笑する。
 冬木の建設計画に幾度も関わり貢献があったと言われる、新興の建設会社の社長がその祖父だ。
 調べたところによると、確かにワンマンで感情の起伏が激しい人物だという。
 なるほど、ありそうな話ではあるなと納得する。
 だが───一つ疑問にも思い当たった。
 どうも、前提が抜けているような気がする。

「そうだな。あの子は、健常者であるのは間違いなかったからな。理解が得られないままでは────なに? なんだ、君は知らなかったのかね? その子の事を調べていれば資料として自然と出てくるとは思ったが………ふむ、そうか。ずいぶん時間も経っているからな。いいかね? 確かに君の言うとおり異性一卵性双生児であり、片方が無心体の胎児であったとしても、生まれたあの子はちゃんとXXの染色体を持った健常者だったのだから、それだけなら検査し続ける必要性はあまり無いかもしれない。だが、それだけでは無かったのだよ。何故なら、あの子は───」

 語られた内容に、内心で驚愕する。
 それは………間違いなく希少すぎる例だ。
 そうか、だから───
 頭の中で、ある結論が組み上がっていくが、つまりこれは片方の運命に決しかけるという意味でもあった。
 荒涼とした風景が、自然と心に湧き上がる。
 幾度もそれを越えてきた自分が、今更に屈することはないだろう。
 しかしだからと言って、慣れるかというとそれは断じて違った。

「ふむ。その目は、あの時のお嬢さんと同じだな。……ということは、あまり長居はしてくれそうにないか。実は、もし君が良かったらチェスでも指そうかと思ったのだがね。君がルールを知らなくても───おお、知っていたか! 最近では近くに指し手がいなくて寂しい思いをしていたが────ああ、必ずだ。いつでも連絡してきてくれたまえ。だが、その前にお茶ぐらいは飲んでいきなさい。その程度の余裕がなくては、何事も上手くいかないからな」

 老人はサイドテーブルに腕を伸ばし、提督帽のレリーフがあしらわれている真鍮の卓上ベルを振った。
 澄んだ音が響きわたると同時に、扉を静かに開きティーセット一式を携えた執事然とした壮年の人物が入室する。
 驚いたことに、その人物が黙々と洗練された所作で給仕する様は、本場英国でも希少となった『本物』としか見えなかった。

「ああ、分かるのかね? うむ……彼は英国のツテを頼って雇った、実際に貴族に仕えていた人物でな。私の長年の夢だったのだよ、執事を使うというのは」

 少々照れ臭そうに言う老人を見て、自然と笑みが零れる。
 道楽が行き過ぎるともとれたが、無邪気に嬉しそうな顔をする彼がどうにも憎めないと思えたからだった。
 久しぶりに本格的なアフタヌーンティを楽しみながら、己が先程言われた余裕というものを、幾分かは取り戻せたのが実感出来た。
 だが───手繰り寄せる結末を考えると、決して心の底の暗澹たるものは払拭出来そうに無かった。



「おかわりは、どうかしら?」

 優しげに微笑む女性は、慣れた様子で手を差し出して私の空になったお茶碗を受け取った。
 あ、いや、すいませんもういいですって言葉が咄嗟に出てこなかったのは、私が呆けてしまったからだ。
 本当に、これだけの美人って居るもんなんだなぁと感慨にふける。
 おまけに、このテーブルに広がる抜群な味を誇る料理の数々は、ほとんどはこの人が作ったものなのだと言う。
 メインの生鮭のソテーはきのこのクリームソースがかかっていたのだが、レモンの風味が少し効いていてさっぱりした美味しさ。
 それでいて、しっかりした味わいがあったのはクリームソース自体が絶品だからなのだろう。
 鮭の塩加減も絶妙だった。
 真ん中の大皿のホタテをベーコンで巻いたものも、バターと醤油の加減が素晴らしく、クセになる味。
 トマトとアボガドがオリーブオイルと共に混ぜ合わされ、バジルの香りが付けられたサラダなんか簡単そうに見えるが、どういうわけなのか、すいません私サラダ舐めてましたと平伏したくなる気分にさせられた。
 その他に、スープや季節のものを使った一品料理、大皿に盛られた数々は、どれもこれも参りましたと言わざるえないものばかりだった。
 私は、お祖父ちゃんの料理を結構食べていただけに舌が肥えている方だと思ったが、料理って奥深かったんだなぁとここまで新鮮な驚きを受けることとなろうとは。
 目の前では、藤村先生とふーがちゃんが並んで気持ちいい食べっぷりを見せてくれている。
 並んだ料理の数々が、宴会でもするんですか? って位の量で、ここに居る女四人で本当に食べきれるのかと思ったが、全く問題なさそうです。
 というか、食べることに専念しないと、私の分が無くなるなこれは。

「はい。遠慮しないで、いっぱい食べてね」

 嬉しそうな笑顔で差し出された茶碗には………えーっと、何だろう、この漫画とかに出てきそうな山盛りは。
 先程とは別の意味で呆然となりながら受け取り、横目で既に展開されている親子による白熱するおかず争奪戦を盗み見る。
 ええ、ふーがちゃんが陸上部一の大食い王であることは勿論知っていましたとも。
 それが母親譲りであることも含めて。
 何でこの二人、あれだけ食べてて体型が全く変わらないのか。
 食べた物は、全部推進剤代わりとして見えない力となって放出とかですか?

「あー!? ちょっと、ちょっと、ちょっと! それ私が、後のお楽しみにしようと思ってキープした鶏チリでしょう!? ちゃんとこっちに寄せておいたのに、なんで強奪するのよ!」

「……フ。いつも言っているように、我が子なればこそ。風河は、特に最近意地汚くなってるんだから、母親としても教師としてもそれを看過することは出来ないわ。だから涙を飲んで時には鉄槌を……って、あー!? ホタテが! ホタテが! リキヤ様が!?」

「フフ……我、ほーふくこうげきに成功せり。そんな長台詞言っている間に、背後から一撃よ! 一応言っておくけど、意地汚くなるのは桜さんの料理にだけだもん。お母さんみたいに、見境なくじゃないからね!」

「グヌヌヌヌ……さっきまで、私の胸で泣いていたとは思えねーほどの暴言。我が娘ながら、許すまじ! ならば、封印を解いた我が本気を見るか、この私のコピーっ娘めー!!」

「そんなの見かけだけだもん! 私は、身体の中に虎なんか飼ってないからねー」

「わーん、虎とか言うなー!!!」

 わー、凄い、ふーがちゃんがあんなに壊れてる……じゃ、無くて。
 このまま放っておくと、目の前の数々の逸品料理のほとんどが、あの暴風と化した親子のお腹の中に消えていくことは一目瞭然だった。
 つまり私は、ほとんど食べれないってことで………あの、昔見た古い映画のオハマビーチのシーンみたいになっている、あそこへ切り込めと?
 そんな、無茶な……とはいえ、この山盛りご飯におかず無しってのはキツイよなぁ。
 ──────えーい! やってやる!!
 私とて、お祖父ちゃんが際限なく出してくる料理の数々を屠ってきた実績がある。
 普段は、体面もあるからセーブしているが、今日はここまでおいしい料理をこれでもかと用意されているのだ。
 ならば、今こそ我が拘束を解き放ち真の力を見せつける時ではないか?
 えーっと、こういうセリフ言う場合って勝ちパターンなんだっけ? 負けパターンなんだっけ?
 ま、いいか。
 とにかく、突撃あるのみ!
 こうして、勢い込んで頭の中のお空にお祖父ちゃんのいい笑顔を浮かべながら参戦したわけなのだが…………。
 何というか、所詮人間は猛獣には勝てませんよ? って残酷な事実を突きつけられたわけで。
 まあ、惨敗したんだけど、それなりに健闘した方なんじゃないのかな?
 こう、人類としては。
 ただ、まさかアナタが、そこの猛獣二匹を上回る化け物だとは思いませんでしたよ───桜さん。


 この年齢不詳のとんでもない美人さんがやって来たのは、日も没しかけ方々の家々から今日の夕飯を判別させる匂いが漂い始めるだろう時間帯だった。
 そんな時間まで、なぜ私がぐずぐずとこの家に居たかというと、ちょっとした罪滅ぼしのつもりだったのである。
 あんな事の後、何とか片付けも終えてお茶も淹れ直し、とりあえず気を取り直して二人はあれやこれやと無意味ながら楽しいお話しを再開させた。
 直前まで話していた、私の色恋沙汰だと大いに勘違いされている事についてはどちらも再び話題に出さなかった。
 多分二人とも、あのふーがちゃんにとって最悪に近い悪夢が出現した前後の時間をすっぱり切り落としたかったからじゃないかと思う。
 私は、彼女の態度がそれまでと違って微妙に不安が混じっているのに気がついていた。
 だから、夕飯一緒に食べようとか、何なら泊まっていけばいいなどと私に言ってきたのだろう。
 いつもなら、きっぱりとその類の話は断るのだが、ふーがちゃんが独りになるのを怖がっているのは間違いなく自分のせいだと分かっていたので、それに対して、らしくもない曖昧な答えを返す事しか出来なかった。
 少なくとも、せめて母親である藤村先生が帰ってくるまでは一緒にいた方が良いと、罪悪感一杯の心で私は考えたのだ。
 だから

「ただいまー」

 と、玄関の扉が開けられた音がした時、内心かなり安堵したものだった。
 だが、長い廊下を歩く音の後に障子戸を開けて入って来た人は期待通りの藤村先生ではなかった。

「あ、やっぱり風河ちゃんのお友達が来てたのね。見慣れない大きさの靴があったから、そうじゃないかとは思ったけど」

 僅かに首を傾げて嫋やかに微笑む仕草は、所帯染みて買い物袋を下げているなんて事を忘れさせるほどにあまりにも美麗すぎた。
 艶やかな長髪に、全体の線が顔から身体に至るまで柔らかな線で構成された、包みこむような雰囲気を醸し出す女性。
 男共が勝手に昔から思い描いていただろう、何もかも許してくれそうな母性といつまでも損なわれない可憐さが均衡良く内包された美人など、架空の存在ではなかったのか。
 実物が目の前に居るとなると、私のような凡百の女は本当にぐうの音も出ない。
 ここまで来ると、何か嫉妬とか競争心とかいうものは全部吹き飛んで呆然とするしか無いというか。

「あ、おかえりなさい、桜さん。紹介するね。ウチの陸上部の期待のエースの天谷理沙ちゃん。高跳びの選手なんだけど、本当に凄いんだよ。フォームがとっても綺麗なの」

「え? あ、えっと……そか。天谷です。藤村さんには、いつもお世話になっています。今日は、お邪魔しています」

 大慌てで立ち上がって、自分でもおかしくなるほど緊張した動きで頭を下げる。
 声が裏返らなかったのが、不思議なくらいだ。
 何だろう……これってドラマとかで見かける、彼女の家にお邪魔している時に彼女の家族が急に帰って来て、慌てて挨拶する彼氏の図って感じじゃないだろうか。
 まあ、私、間違いなく女なんだけどね……。 

「はじめまして。間桐桜と申します。私は、そうね………風河ちゃんの叔母さんってところかな。よろしくね、天谷さん」

 私の慌てようが面白かったのか、くすくす笑いながらも間桐桜さんと名乗った女性は丁寧に一礼した。
 いや、もう何て言うか……私が男でなかったのが勿体無いなぁというくらい、仕草とか声質とか勿論見かけも一々可愛らしい。
 私よりは歳は上なんだろうが、一見して幾つなのかはちょっと分からない。
 でも、その年齢不詳具合が何とも逆に神秘的でもあり……ってあれ? つい最近会ったどっかの誰かさんもこんな感じか?
 ま、まさか……この人も、お父さんやお母さんに近い歳の人なんて事は……。
 いやいや、そんな馬鹿な。
 そんな事が重なったら、それこそ冬木は妖怪とかが棲みつく人外魔境ということになってしまう。
 そんな、自然の摂理に反してそうなのは三社さんとか藤村先生だけで充分なのです。
 
「ねー、桜さん。理沙ちゃんも、今日の夕飯一緒に食べていっていいでしょー?」

「ええ。それは別に構わないけど………天谷さんのお家は何処なの?」

 考え込んでいたので急に尋ねられたような気がして、私はまた慌ててしまった。
 もう、グダグダです。
 桜さんみたいな女性は、これまで私の周囲にまるで見かけなかったタイプだけに、妙に緊張してしまう。
 だけど、それだけにさっきから磁石で吸い寄せられたみたいに目が離せないというか……。

「あ、え、はい。新都の───あの……中央なんですけど。新興住宅街の」

「ああ、あの辺。そうね……じゃあ、帰りは私が車で送って行くわね。お家の方には、ちゃんと言ってあるの?」

 え? この人って車運転するんだ。
 何か、似合わないようで似合ってそうで──やっぱり似合わないような。
 あ、いやいや、そうじゃなくて……流石に、そこまでされたら申し訳なさ過ぎる。
 ご飯食べさせて貰って、車で送ってもらうなど私は一体どこのご令嬢だというのか。

「いや、全く。あの……まだバスもあるし、そろそろお暇しようかと思うのです───」

「えー、一緒にご飯食べようよー。桜さんの作ってくれる料理って、すっごーく美味しいんだよ! 食べる機会逃したら……理沙ちゃん、一生後悔するよ?」

 我が事のように自慢気に言いながら、ふーがちゃんは挑戦的な流し目を私に送る。
 むむ……それは何だか興味があるのだが、しかし───。

「風河ちゃん、あまり御無理言っては駄目よ。それに、私なんかの料理で満足出来るとは限らないんだし……」

「えー!? 桜さんの料理で満足出来ないなんて、どんな美食倶楽部の人よー? 理沙ちゃんって、厨房まで怒り狂って説教しに行く感じなの?」

 ふーがちゃんの喩えは、とっても古い上にかなりマニアックだと思う。
 まあ、私は分かるんだけどさ。
 それに何か、微妙に論点ズレてるんですけど。
 しばらくして……数度のふーがちゃんの押しと桜さんの柔らかな微笑みのコンビネーションに負け、いつの間にか私は頷いてしまっていた。
 ふーがちゃんはともかく、桜さんって私みたいなタイプの人間のいなし方に何故か慣れているような気もした。
 その後───

「たっだいまー!」

 と、元気すぎる声で帰宅した藤村先生にふーがちゃんが一直線で走って行き、抱きついて泣き始めたなんて一幕もあった。

「え? え? な、なになに!? 何があったの? ど、どうしたのよ、風河!?」

 必要以上にうろたえて、問いかけるように一緒に出迎えに行った私へ藤村先生は視線を送ってきたが、分からないという風に首を振るしか無かった。
 詳しいことを言うわけにもいかなかったし。

「どうしたのよ、甘えてー? 何処にも行ったりしないから大丈夫よー」

 藤村先生は、事情が分からずとも優しい母親の顔になって、ふーがちゃんの髪をなだめるように撫でていた。
 それは普段は見ることが出来なかったが、私が心で思い描いていた通りのこの親子の関係だった。

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───■■■の三家の内の一つ、間桐(■■リの変名)のである間桐桜を■■

───間桐については、■■家系として■■したとの情報があり、■■として重視していなかったがこれを訂正。

───■■点である、■■■郎を中心として変したに対する補足として■■領域に■■

───■■■面における、象の■■■に対し作用すると推定する。

───象の■■までの残時間に■■を付与。

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 閉店一時間前の店内には、自分の他に客は居なかった。
 何度も訪れている、この十年一日が如きに頑なまでに古色蒼然とした趣を守り続ける喫茶店を指定したのは自分だった。
 恐らく、この時間であれば人気が殆どないのを見越してのことだ。
 待ち合わせの時間よりは、五分経過している。
 しかし、相手の多忙さから考えれば仕方ないことでもあり、寧ろ急の無理な呼び出しによくぞ応じてくれたと感謝しているくらいだった。
 注文は二人分既にしてあり、来たと同時に出してもらえるよう手配してある。
 落ち着いて待つ以外何もすることが無いので、とりあえず目を瞑りゆったりと流れる曲に身を委ねる。
 これは確か「ロンドンデリーの歌」だったか。
 世界で最も親しまれる、アイルランド民謡の一つだ。
 面白いことに、メロディが美しかった故か百以上もの異なる歌詞が存在するらしい。
 なかなかに、暗示的ではないかと皮肉に考える。
 今自分が追っていることと、丁度逆の事だ。
 カウベル風のドアチャイムの音に目を開くと、せわしない足取りで待ち人が入って来たことを確認する。
 グレーのスーツにネクタイはしておらず、短めの髪をきっちりと分け縁無しの眼鏡を掛けた、一見学者肌風の男性……なのだが

「お待たせして、申しわけありませんでした」

 すぐにこちらに気がつき、走り寄って頭を下げてきたのは声の高さも繊細な顔立ちも女性としか思えなかった。
 いや、間違いなく女性なのである。
 以前に失礼ながら格好の事情を訊いたところ、別に倒錯的な趣味の持ち主というわけではなく、男社会で生きていく為の自己防衛の一種ということらしい。
 昨今では、あまり問題になっていないような気もするが、恐らくは本人の気持ちの問題もあるのだろう。
 少々異なるが、これと似たような理由で男装のような格好をする女性をもう一人知っていた為、初対面の時でもそれ程驚かなかったのだが。
 手短に久濶を叙してから、座るように勧める。
 視線を送るまでも無く、ウェイターが奥に引っ込んでいたのは自分達しか居ないことを考えれば当然だった。

「それで今日は、どのような───ええ、あの子ですよね。はい、私が診ましたが……は? どういう事ですか?」

 質問が質問だったからか、彼女の顔が険しくなる。
 元より顔全体の作りが、流線型の機械を思わせるように鋭い為に、なかなかに対峙した人物をたじろがさせずにはいられない迫力がある。

「それは、少々貴方の口から出た言葉とは信じ難いのですが。数日前のような事は、貴方から受けた恩の事を考えれば……私としましても、多少の融通を利かせますが────そうですね仰るように、非常識と言えるでしょう。何か理由有っての事とは思いますが」

 少々戸惑った顔で、彼女はテーブルに置かれた組み合わせた手を神経質そうに何度も組み直す。
 彼女の言う恩とやらは、実に些細な事である。
 ただ単に、彼女にとって一番大切なものを自分がたまたま探し当てたに過ぎない。
 時間を掛ければ、誰でも解決し得た事だっただろう。
 しかしながら、律儀であるからか未だに恩として彼女は感じているらしい。
 機会があれば、そのような無駄な精神的な負担は解消しようと、この前は頼んだ次第だった。
 勿論、今回尋ねた件はその範疇を超えることは分かっていた。
 だが、事情が事情だけに無理を承知で尋ねざるえなかったのだ。
 
 互いに沈黙したのを見計らったようなタイミングで、ウェイターが注文の品を運んでくる。 
 ルビーを溶かし込んだような、香り豊かな紅茶がウェイター手づからカップに注がれる。
 二人ともに同じもので、アイリッシュティーのブレンドだ。
 確かアイルランドでは茶は血よりも濃いという言葉があったはずだが、さて、どこで聞いたのだったか。
 なかなかに気に入っていたのと、彼女が飲食に関しては極端に無頓着なので勝手ながら決めさせてもらったのだ。
 一応は、お薦めの飲み方として何も入れない方が良いと言い残しウェイターは去った。
 彼女が素直にそれに従い一口飲むと、軽く驚いたように目を丸くした。
 自分も芳醇な香りを楽しみながら、いつもの様に何も入れないでカップに口を付ける。
 しばらく耳障りの良い軽快でありながら何処か郷愁を誘う曲を聞いた後、再び抑揚の少ない声が発せられた。

「ご存知かとは思いますが、医療関係の個人情報などというものには極めて厳格な守秘義務も生じますし、職業倫理上もそれを漏らすことは許されることではありません。勿論、私としましても貴方のご要望には応えたい所ではあるのですが、こればかりは……。ただ、あの子があの時に、少々筋肉に疲労が溜まっていたことを除けば健康そのものであったことは保証致します。どうか、これで───は? それはどういう──?」

 彼女は、極めて不審げな顔でこちらを見る。
 それは、当然だろう。
 事情を知らなければ、意図が分からない質問であることは理解している。
 ただ、自分にとっては最悪この一点のみ確認出来れば事足りる事でもある。
 あまり、時間も取らせる訳にもいかなかったので単刀直入に言ってみたわけだが……。

「正直に申し上げて、私としては貴方の訊いていることが非常に不可解に過ぎるのですが───ええ、左でしたよ。勿論、例外はありますが、あの子は違います」

 答えを聞きながら、視線を逸らすように俯きテーブルに置かれるカップ内の赤い水面を覗く。
 僅かに映る自分の顔が、どのような表情をしているかはそれほど目を凝らさずとも分かった。
 それは、冷たい双眸の鉄の如きものだろうことが容易に想像がついたからだった。



[18834] 匣中におけるエメト 4
Name: tory◆1f6c1871 ID:8e7f98a1
Date: 2010/06/21 23:56
匣中におけるエメト




 つい調子に乗ってしまったというか、周りが周りだったから全力を尽くさざる得なかっというか。
 とにかくお腹が苦しくなるほど、自重することも出来ず食べ過ぎてしまうなど一体何年振りの事なのだろうか?
 しかも、他人の家でなど自己嫌悪で頭を抱込みたくなる。
 でも、最初の印象通りにここでの食事は何だかとても楽しかった。
 まあ、大半が一緒に食べた人達のおかげだったのだろうけど。

「はい、お茶のおかわり。どうぞ」

「あ、す……すいません。ありがとうございます」

 目の前に置かれた湯呑みに、度を超えて満腹感が警戒信号を鳴らしているのを何とか奮い立たせて桜さんに頭を下げた。
 本当は、今すぐ大の字になって寝転がりたい。
 今、丁寧な手つきでお茶を差出してくれたこの人も、私の二倍とまでは言わないが相当食べてる筈なんだけどなぁ。
 優しい微笑を全く崩さない別段最初と変わらない様子だし、動きにも全く苦しそうな所はない。
 物理法則とか、軽々と無視していそうな気がする。 
 見ると、これまたそっくりな表情で満足そうにお茶を啜っている虎親子の方も同様。
 ………こっちは、半分以上予測済みだったけどね。

「理沙ちゃん、あんまり食べてなかったけど、もしかして遠慮してたの?」

「そうなの? ダメよー、天谷さん。変な遠慮なんか、その歳で覚えちゃったら。一宿一飯の義理は、後で鉄砲玉になるなり何なりで返してもらえばそれで済む話なんだからね。こう、バッサバッサと」

 遠慮って……私、頑張ったよね? お祖父ちゃん……。
 あと藤村先生───その、何かドスとか振り回しちゃったりするような動きは、勿論冗談って事で良いんですよね?
 こっちは、軽く目眩とか起こしながらも目の前にある物だけは何とか完食したというのに。
 ……ええ、そりゃもう人外の戦いに人間が割り込むものじゃないって痛感しながら。
 で、やっと片付けたと思った時に出てきた、色とりどりのケーキの数々を見た時は、ボスを倒したら真の隠れボスが出てきたみたいな気分になりましたよ。
 幾らデザートが別腹だからって、実際に胃が四つに分かれてる牛じゃああるまいし限度ってモノが有る。
 だけど、私としても出された物は全て平らげないと礼に反するというお祖父ちゃんの厳しい教育の元にあったのだ。
 何より、掛け値なしで美味しいものを残すなどという人にあるまじき事は自分としても出来ない。
 結果、私は天国と地獄を両方味わうという貴重な体験をしたわけなのだが───

「あまり、お口に合わなかったのかしら?」

「へ? ───い、いや、そんな事有り得ませんよ。今まで食べた中でも、三本の指には確実に入りますね。ただ、それ故にちょっと食べ過ぎてしまって後半戦バテたというか……」

「あら? お世辞で言ってくれてるんでしょうけど、嬉しいわ。ありがとう、天谷さん」

 にっこりと微笑む仕草は、本当に可愛らしい。
 女から見たって、なかなかに眼福というものだ。
 こういうお姉さんに成れたらなあって思うけど、ちょっと私じゃ素質も方向性も違いすぎる。
 この桜さんの柔らかで上品なおしとやかさは、きっと生来からのものなのだろう。
 美人で今時珍しいくらいの優しい雰囲気を持った、料理の腕も抜群の女の人か。
 きっと、カッコいい彼氏とか居るんだろうなあ。
 というか、こういう人が身近に存在して、それを放っておく男なんてものが居たりしたら怒りすら湧いてこようってものだ。
 だって、こんな人が独り身とかだったりしたら、同じ女として及びもつかなそうな私みたいなのにとっては立つ瀬がなさすぎるってものじゃないか。

「でも、意外と小食なのね。高跳びの選手って言うから、きっと一杯食べるんだろうなって思って張り切って作ったんだけど」

「いやいやいや。私、今まで小食なんて言われた事一回もないですよ? あの……本当に失礼ながら皆さんが一般の基準を大幅に上回ってるんじゃないかなあ、なんて……」 

 いや、ほんとご馳走して貰ってこういう事言うのも何だけど、他人事ながらここに居る方々の食費が気になります。
 こうやってそろってここで一緒に食事するのは、週に二回程とか聞いたがそれでも毎回これではエンゲル係数的にいかがなものかなんて余計な心配までしたりして。
 私の言葉に、藤村先生は俯いて考えこむような顔をする。

「うーん……そう言われてみればそうなのかも。あの子も、実は桜ちゃんとか私より食べる時は食べたし、ここで食事してた人以上に食べる人って他じゃ見ないような……」

「ああ、そういえば先輩もよく食べましたね。あれだけ先輩の作る料理が美味しかったのって、きっと美味しいものが好きなのもあるのかもしれません」

「あの子の場合は、人が美味しそうに食べるのを見るのが好きだってのが第一なんだろうけどねー」

 えーっと…………ここはフードファイターが集う場所だったのだろうか?
 藤村先生と桜さんの会話を聞く限りでは、この二人以上に食べる人が居るという想像を絶する事にしかならないのですが。
 もしかして、怒ると髪が金色になる戦闘民族とかですかね、その人?

「あ、それって叔父さんの話?」

 と、興味津々な顔を藤村先生に向けるふーがちゃん。
 ああ、なるほど。
 例の海外で行方不明になって、どうやら亡くなったらしいという───

「そうよー。この子食べる割には、あんまり大きくならないなあ、なんて当時は思ってたんだけどね。だって、冬木に居た時は私と身長殆ど変わらなかったんだもの。身体つき結構逞しかったけど。それで、留学先から何年か振りに一度だけ帰って来たことがあったんだけど、本当にびっくりしたわよ。とんでもなく大きくなってて。向こうの水がよっぽど合ったのかしら」

「そんなことありましたね、確か。藤村先生ってば、その時『士郎が外国で魔改造されて外人さんになっちゃったよー!?』とか泣き叫んでたような……」

「だって叫びたくもなるわよ、そりゃあ! 久しぶりに会ったら、二十センチ近く大きくなってたのよ? 顔つきも何だか、本当に向こうの人みたいになってたし。よくよく考えてみると、あの子って髪も生まれつき赤かったから、ひょっとしたら本当に日本人以外の血でも混じってたんじゃないかなってあの時は思ったわよ。まあ、中身は変わってなかったけどねー」

 確かにふーがちゃんの言っていた通り、その人の事を話す藤村先生は亡くなったことなど信じていないんだろうなというのがよく分かる悲壮感の無い楽しげな様子だ。
 それは、桜さんも同様なのだろう。
 ただ───これは勘だけど、この桜さんがその人の事を喋るときに穏やかな表情の中に見え隠れするものはひょっとして……。
 私は、少しだけ好奇心が湧く。
 恐らくこの二人にとって大切な人物であろうことが何となく分かったから、軽々しく興味を持つなど不謹慎だなと思わないでも無い。
 だけど、この場ではそう考える事自体失礼なのではないかという気もした。

「あの……」

「あ、ごめんね。天谷さんが知らない人の話なんかして」

 桜さんが、申し訳なさそうな顔をするのに私は軽く首を振る。

「あ、いえ。少しだけ、ふーがちゃんから聞いてましたし、それはいいんですが……もし良かったら、その人の事教えて頂けたらなぁなんて──」

「え? なになに? 士郎のこと訊きたい?」

 藤村先生が、満面の笑みで食いつかんばかりに身を乗り出してきた。
 いや、その反応は予想してましたが、一瞬だけ食べられるかと思ってビクっとなっちゃいました。
 流石、本家本元の虎。
 ふーがちゃんとそっくりの行動ですが、迫力というものが違います。

「は、はい。出来ればで良いんですが………」

「よろしい。では先生が、士郎のあーんな事やこーんな嬉し恥ずかしい事までとっくりと話してご覧に入れましょう。何てたって、あの子とはこれくらい小さい時からの付き合いだったからねー、私」

 えっへんと言わんばかりに、腰に手を当てて胸を張る藤村先生。
 隣のふーがちゃんは、わーいと拍手。
 本当に、仲が良い親子だよなあと感心する。
 学校じゃあこういう光景は見られないから、これだけでちょっと貴重かも。
 それは良いとして、それより先生が手で指し示した大きさはせいぜい食玩人形くらいなんですが。
 まあ、いつもの適当過ぎるノリで言ってるんでしょうけど。
 あれ? なんで、そこで顔赤らめて俯くんですか? 桜さん?

「あれは、私がまだ穂群原の生徒だった頃だったかなあ……」

 それから本当にたっぷりと一時間ばかり、一人の人物について藤村先生は面白おかしく語ってくれた。
 ある日、父と子という取り合わせの二人連れの親子がこの家に引越してきたことから話は始まる。
 藤村家はこの家自体に何か縁があったようで、そこから先生と親子の付き合いが出来たとのことだ。
 が、しばらくしてその親子の父親のほうは病気で亡くなってしまい、子供だけがこの広い家に取り残される。
 一人ぼっちになってしまったその少年───士郎さんの後見人を引き受けたのが先生のお祖父さんということらしい。
 以後、監督役として藤村先生は頻繁にこの家を出入するようになったようだ。
 血の繋がりはないが確かに弟分であったという不思議に思っていた関係性は、それでようやく納得出来た。
 士郎さんの写真も見せてもらった。
 天然であろう赤毛にやや童顔の、昔の穂群原の制服を着た少年。
 緊張してたのか、やや照れ臭そうにムッとした表情になっているのが少し可愛い。
 それこそ良珍と織り混ぜられた士郎さんの様々なエピソードは、なかなかに興味深く退屈せぬものだった。
 同時に、藤村先生のハチャメチャ加減はずっと昔からこのままだという事も分かったけど。
 とにかく、どうもかなり変わった人だったようだ。
 それも一目で分かる奇妙さでは無く、付き合えば付き合うほどその奇妙さが浮き彫りになるような、本当の意味での変人という印象を私は受けた。
 特に───

「はあ? 『正義の味方』……ですか? それを目標にしていたと?」 

「そうよー。どんな時でも、困ってる人を見ると放っておけないの。例えば、横断歩道渡れなくて難儀しているお年寄りとか見つけたらどんなに急いでても助けてあげるし、自分より歳が上で身体が一回りも二回りも違うようないじめっ子とかにでも平気で立ち向かっちゃったりするのよ。それは、ずーっと変わらなかったのよねえ。穂群原に居た時は、そのせいで便利使いされて学校中の備品を修理したり修繕とかやってたっけ。穂群原のブラウニーとか偽校務員とか呼ばれてたみたい」

 ブラウニーって……童話に出てくる家の手伝いをいつの間にかやってくれる便利な妖精さんだったかな。
 なるほど、『正義の味方』志したって、そうそう都合良く絶対悪の敵役なんてものは居ないわけだから、そういう人は勢い無差別なボランティアに走るしか無いってことなのか。
 さて、私の近くにそんな人が居たらどう思ったであろうか? と、少し考える。
 その人がやっている事は、間違いなく人の為になる事には違いない。
 よくこの手の行為を偽善だ何だと罵る人がいるが、例えそれが自己満足に過ぎないとしても罵って何もしない人間よりは数百倍ましな行為だろう。
 だが目的の分からない献身などというものは、周囲からすればどう見たって奇妙で不気味なものに映る。
 私は……もしかしたらだが、その人を嫌ってたか遠巻きにして馬鹿にしてたかもしれない。
 何故なら『借り』を作ることに、極端な負担を感じる性格だからだ。
 それに正しい行為を見せつけられるというのは、殆どの人間は心中で密かにそう在りたいと願っても弱さ故にそれが出来ないのだから、癇に障って極端に嫌う人も居るのではないか?
 自分はそうじゃないとは思いたいところだが……あまり自信も無い。
 私は、少し自己嫌悪に陥る。
 そして何故か、三社さんの顔が頭に浮かんだ。
 そうそう、あの人も大概お節介だがああいうちょっとした余裕を持って接してくれたら、お節介される方も多少は負担が減るよな。
 ただ……何となくだが、本質的にはこの士郎さんという人と三社さんは変わらない人種じゃあ無いかな、なんて思う。

「だけどねー……とっても良い子だったんだけど、誰にでも優しかったからかなー。可愛い女の子に無差別にモテたりするのよねえ。桜ちゃんだって、士郎のこと好きだったし。そのクセ、本人はニブちんさんだから女の子の好意になかなか気がつかないという、ある意味健全な青少年から見ると殺してえとか叫ばずにいられないキャラクターだったというか……」

「はい。今でも好きですよ。まあ、でも、先輩が最終的に選んだのって───」

「あ、そうそう! あの時は、本当に驚いたわよー。紹介された彼女ってのが、学園のアイドルだったあの遠坂さんだったんだもんねえ。急に接近し始めたなあ、と思ったらあっという間だったんだもの。何という手の早さかって呆れちゃったわよ。まあ、お互いに本当に好きだったみたいだから許したけどね」

 藤村先生は、今でも少々納得しかねるという風にやれやれと腰に手を当てた。
 だけど学園のアイドル───って何だろう?
 何となく意味合いは分かるけど、聞かない言葉だ。
 それより、その士郎さんって、この桜さんを振ったって事か。 
 何かきっかけがあって、通い妻みたいに甲斐甲斐しく桜さんは学生当時この家に通っていたという話は聞いた。
 料理もその時に士郎さんから習ったらしい。
 そんな健気な人を選ばないで、そのアイドルさんを選ぶだなんて……それは何だか、女の私でもちょっと殺意が湧きますが。

「叔父さんのその話だけは、いつ聞いても納得いかないよねえ。何で桜さんを選ばなかったのよー。それに遠坂さんって、あの坂の一番上の幽霊屋敷に住んでる桜さんのお姉さんでしょう? 私、あの人何だか苦手。ちょっと怖いし」
 
 ふーがちゃんもやっぱり私と同じ気持なのか、頬を膨らませて拗ねるように言う。
 いいぞ! もっと言って……って、あれ? お姉さん? 桜さんの?

「風河は、遠坂さんにほとんど会った事ないじゃない。色々あるんだから、簡単にそういう風に人の事思っちゃ駄目よ……とは言え、遠坂さんも士郎が何処か行っちゃってから、何か素っ気なくなったのは本当よねえ。誘ってもこの家には殆ど来ないし」

「すいません。一応、私の方からも言ってはいるんですが……ただ、今はその、例の病気の件で───」

「ああ、そっか。大変ね、あの子も」

 藤村先生は、しょうがないかと言うように溜息をつく。
 事情は良く分からないが、その桜さんのお姉さんという人は病気なのだろうか?
 全くの他人である私が突っ込んで訊くのは、ちょっと出来無い雰囲気になった。

「ああ、ごめんね、天谷さん。話し変えよっか。そうそう……士郎に関わった可愛い女の子といえば、あの子はちょっと群を抜いてたわね。桜ちゃん、憶えてる? ほんの少しだけしか居なかったけど、切嗣さん尋ねてこの家に来た、お人形さんみたいな金髪の女の子の事。みんなで一緒に寝て、その時もやっぱり士郎のこと話したりしたじゃない」

「え? あ、ええっと……そんな事ありましたっけ?」

 取り繕うように言う藤村先生に、桜さんは困ったような微笑を浮かべて首を傾げる。
 何かあまり話し変わってないような気もするけど……アイドルの次は金髪ですか。
 ははは、凄いですね、士郎さんっていう人。
 あれですね? 多様化するユーザーのニーズにお応えするために、バラエティ豊かに取り揃えてみましたってやつですか?
 まあ、昨今じゃあ恋愛物で十人や二十人の選択肢が存在するのなんて結構ありふれてるから、それに比べればマシなのかもしれないけど。
 ただ、それを仮想じゃなくて現実で実践してる人が居るとはなあと、少し遠い目してみたりして。

「えー? 本当に憶えて無い? あんな、同じ人間じゃ無いみたいな綺麗な子は忘れようたってなかなか忘れられない気がするんだけど。んー……私、ちょっと立ち合ったりしたからかなあ? とんでもない剣の達人ってことでも忘れられなかったのかも。全く歯が立たなかった相手なんて、あの娘だけだったからねえ。ほら、えっーと、名前も変わってて、確かセイ───」

…………………………………

………………………

───限定象における演終了。

───■■へと移行。

───変■■における誤差を修正。

───『■■■■』における主要■■である“ーヴァ■■”のみに焦点を合わせる。

───■■理論『■■■』の駆動を開始。

…………………………………

………………………

 唐突に───金属が打ち鳴らされる重く不吉な音が、ここまで響いてきた。
 これは………聞いたことがある。
 確か、教会で───

「なに? 今の音?」
 
 ふーがちゃんは少し不安げに、聞こえた窓の方向へ視線を向けた。
 藤村先生と桜さんも、厳しい顔つきでそちらを見る。

「土蔵の方ね……ちょっと私見てくるから、みんな待ってなさい」

「先生、私も行きます。幾ら先生が強いって言っても、女の人なんですから一人じゃ危ないです。それに、何だか嫌な予感がします」

 決然と、部屋の隅に立てかけられていた竹刀を掴んで出て行こうとする藤村先生を、桜さんが切迫した緊張感ある声で止めた。
 確かに藤村先生は伝説として語り継がれる程に剣道の腕前が凄いらしいが、桜さんの言うことはもっともだ。
 女の人であるには違いないし、何があるか分からないのに一人で行かせるのはどうかと思う。
 しかし、だからと言って桜さんが一緒に行っても……と、その顔を見てとんだ見当違いだった事を理解した。
 鋭すぎる眼光に引き締まった表情は、あの優しげな笑顔を絶やさなかった先程からは想像出来ないくらいだった。
 不意に、この眼をどこかで見たことがあるような既視感を覚えるが具体的には思い浮かばない。
 全く根拠が無いが……この人は、こういう事に慣れていると直感する。

「大丈夫よ、私一人でも何とかなるから。それに、もし荒事になったら桜ちゃんが危ないじゃない。もし、桜ちゃんが怪我でもしたら士郎に顔向けできないんだから」

「そんな事言ったら、私だって藤村先生に何かあった場合は先輩に顔向けできません。先生は知らないかもしれませんけど、私これでも護身術の心得ぐらいはあるんですよ?」

「待って! 私も一緒に行く!!」

 押し問答になりかける二人に、ふーがちゃんが悲痛な声で割り込む。
 私も含めて、呆気に取られて皆が彼女を見詰めた。
 不安に耐えるように、拳を握り締め身を縮める様は必死さが滲み出ている。
 私は、彼女が藤村先生に向ける視線で、何故そこまで感情を昂らせているのか理解した。

「風河は、天谷さんとここに居なさい。アンタだって私が剣の手ほどきしたんだから、いざという時にお友達くらい守れるでしょう?」

「だって……!!」

「いや、先生。みんなで見に行きましょう。バラバラになったら、逆に危ないんじゃないんですか? 私達は後ろからついていきますから。何かあったら、すぐに警察呼ぶ準備はしておきます。あと、PADで画像くらいはすぐに撮れますから」

 言い縋るふーがちゃんを、毅然とした態度で跳ね除けようとした藤村先生に私は言う。
 今度は、こちらに皆の視線が集まった。
 自分でも驚くくらい、冷静な言葉が出るのをどこか他人事のように感じる。
 結局……藤村先生は渋々というように憮然とした顔で頷いて、皆で不審な音の方に行くことになった。

 
 わざわざ玄関まで行き、皆靴まで履いて改めて外から回り込むことになったのは万が一の用心の為だった。
 もし何かあったらとにかく逃げて手近な家に駆け込んで助けを乞う事、と藤村先生は教師らしく一同に言い渡した。
 竹刀を肩に担ぎ、恐れる風もなく先導する様は本当に頼もしい。
 意外と暗かったのでどこから持ち出したのか、ふーがちゃんが大きくそれだけに光源が強い懐中電灯で先を照らす。
 私達は、小走りに絶え間なく響く金属音の方に進んだ。
 ………まもなく判明したその音の正体は、今やこの家の広大な庭に移動して出鱈目に展開されていた。
 これならば、外に出るまでも無く場所から考えてあの居間から窓を覗けば確認出来ていただろう。
 しかし、そんな些細な問題はもはやどうでも良く───

「なん……なの………あれ?」

 藤村先生が、搾り出すような掠れた声を出して皆の気持ちを代弁してくれた。
 あとの三人は、眼前で繰り広げられる光景にただ絶句するしか無かった。
 そう、こんな───

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……………………………………………………………………

………………………………………………………

───青と蒼が乱舞している。

───目まぐるしく双方より繰り出されるものは、空気を切り裂く轟音を伴って火花を散らす。

───弾ける音は、重い響きを以て双方が受けそこねた場合の惨状を容易に想像させた。

───片方の群青の人物は見覚えがあった。

───精悍な獣を髣髴させる、人の形をした何か。

───血のような真紅の槍を、以前と同じように全く目で追えない鬼神の如き速度で操っていた。

───そして、もう片方は───まず、その美しさに一瞬思考が停止した。

───純粋な黄金が、そのまま緻密で繊細な装飾品として頭を飾っている様な髪。

───白き面は、これまでの人生で培った私の美的基準を大幅に修正する程、想像を絶した秀麗さだった。

───この神憑った美少女は、蒼色の衣服の上に無骨過ぎる西洋の甲冑のようなものを身に付けている。

───全く似合わない取り合わせのはずなのに、これこそが最上なる衣装なのだと誰にでも理解出来るほど、少女の美しさをそれらはさらに際立たせていた。

───その証拠に、鉄の塊にしか見えない重量感ある甲冑にまるで負担を感じていないようだ。

───流麗で、時折幻の如く霞むほどの動作を以て舞うように少女は身体を捌いている。

───その手で振るわれるものは、到底人の目で追いきれるものではないのでやはり見えず───いや、違う。

───衝突の火花で瞬き映るのは、紅き槍のみ。

───そもそも、少女が持つ何か武器らしきものは透明で全く見えないということに気がついた。

───常識を遥かに逸脱した人外の闘いは、それでも私のような者でさえ、外から見ればそうと分かるほどに一方が明らかに押していた。

───見えざるものを武器とする少女が、紅き槍を持った群青の人物を防戦しか出来ぬ程に追い込んでいるのだ。

───少女の一撃一撃に、群青の人物は後退を余儀無くしている。

───寧ろ、実際に見えないなんて反則じみたものを高速で振るわれながら、見事に防ぎきっている事こそ凄まじいと言うべきか。

───だが、それだけだ。

───このまま行けば勝負の趨勢は自ずと明らかであり………

───少女は止めとばかりに大地を揺らすほどの踏み込みで大きな一撃を放つ。

───至近で爆撃が起きたのかと思うほどの炸裂音。

───遅きに過ぎる反応で私は咄嗟に耳を塞ぎ、結果残響が耳の奥で木霊する。

───しかし、目を逸らさなかったのは我ながら上出来だ。

───そこから先は、コマ送りのように見えた。

───本当の爆発のように、少女の一撃は地面を大きく抉り土塊と煙を辺りにまき散らしていた。

───だが、予想に反してその爆心地跡のような中に群青の人物の残骸はない。

───彼は、あの秒に満たなかったろう一瞬を物理法則を無視したような跳躍で後退し避けていたのだ。

───さらに、それだけでは終わらず………理不尽な跳躍は連続で行われ前方へ。

───つまり、動画の再生を逆転させたかのように起点となった位置へ巻き戻る。

───そこに今や居るのは、盛大な空振りに終わった何かを振り下ろした姿勢で佇むばかりの少女。

───血の彩りを帯びた槍は実際に穂先を血で塗らさんと、避けられるはずが無い速度で少女に迫っていた。

───私の意識は、暴走するかのようにそれを見届けようとしている。

───月光の輝きのような黄金の髪を持つ美の粋を結集したとしか思えない乙女は、無残にも貫かれ血溜まりの中に沈む───

───が、想像しただけで嘔吐しそうになる結末は覆される。

───少女は、まるで予知でもしていたかのように瞬間で身体を反転させた。

───同時に、見えざる武器も竜巻を起こすがごとく横薙ぎに振るわれたのが分かった。

───完璧なタイミングで合せられた、カウンターの一撃。

───群青の人物は、目を見開きながらも少女の意図に気付き、尋常を遥かに超越した反応で刺突せんが為の槍を身を防ぐ形にすべく咄嗟に立てる。

───秒に満たない攻防。

───瞬きの交錯。

───一際大きく鳴り響いた鋼と鋼が打ち合された音と同時に、一方が盛大に弾き飛ばされていた。

───が、弾き飛ばされた方である群青の人物は無様に倒れ込むなどということはなく、獣のようなバランス感覚で靭やかに着地。

───距離を空けて、二人は対峙する。

───戦いがすぐに再開されなかったのは、今の一撃にお互い負担があったのか。

───息苦しくなるような必殺の念はそのままに、構えを───

……………………………………………

…………………………………

………………………

「───沙ちゃん! 理沙ちゃんってば!!」

 視界が激震を起こしたかのように揺れた後、意識が覚醒する。
 頬だけが痺れを伴った痛覚がある。
 見ると、目の前でさんが正視出来ないほどの鋭い視線で私を睨んでいた。
 そのすぐ横を、泣きそうな顔の■■■ちゃんが必死に叫んでいる。
 自分の身体が、もどかしくも慣れ親しんだ操作系で作動させられない感覚。
 時系列が、寸断されてバラバラにされる。
 それはさながら、予期なく強制遮断されたシステム。
 
「天谷さん。私のことが誰か分かる? ここが何処か言える?」

 詰問するかの如き、強い口調。
 勿論、そんな事は───そんな事は……?

…………………………………

………………………

 あれ? 桜さんが、凄い怖い顔になってる。
 ふーがちゃんも、半泣きになってるって……え? なに? どういう事?

「あ……あの?」

 自分の声が遅れて耳に入ってくるような、不思議な感覚がした。
 試しに喉の奥で、あーあーと発声練習。
 うん、今度は大丈夫。
 目が乾いていたのか、痛かったので瞬き数回。

「良かったあ! 理沙ちゃん、凍っちゃったみたいに急に固まるんだもん。びっくりしたよー、本当」

「凍っちゃったって……うぶ!?」

 涙声で、ふーがちゃんが勢い良く抱きついてくる。
 それを受け止めて倒れこみそうになるのを、日頃の鍛錬の賜物である足腰で何とか踏みとどまった。
 あ、いや、心配してくれたのは嬉しいんだけど……ごめん、微妙に首に入ってるから!!
 し、しかも、この子、力強……って……ちょっ!?

「ごめんなさい、天谷さん。咄嗟だったから少し強めに叩いちゃったけど、平気? 痕には残らないと思うけど……」

 桜さんが、申し訳なさそうな表情でそっと私の顔に手を伸ばす。
 あ、このジンジンとしている頬の痛みは、桜さんが……。
 柔らかく冷たい手の感触が、気持ちいいいですし、大したことじゃないですから気にしないでください。
 ───とか、返したかったところだけど、苦しくてそれどころじゃ無いんですが!?
 とりあえず、この天然の活きのいい猛獣なんとかして頂けませんでしょうか!?
 
「風河、そろそろ離れなさい。天谷さん、死んじゃうわよ? それ以上キメてると」 

「え? わわっ!? ご、ごめんね、理沙ちゃん」

 のんびりした声で助けの言葉をかけてくれたのは、懐中電灯を持って庭の方から戻ってきた藤村先生だった。
 私のギブを必死に伝えていたタップに今気が付きましたというように、慌てた様子でふーがちゃんは離れてくれた。
 途端、喉の奥から笛の音みたいなものが漏れる。
 いやはや……もう少しで写真でしか見たことが無いお祖母ちゃんを垣間見るところでしたよ。
 
「あんまり無茶しないでくださいよ、先生……本当に生きた心地がしなかったんですから」

 藤村先生に言う桜さんの声音は、非難の調子が含まれている。
 表情も咎めるような、厳しいものだ。
 ただ、心底の安堵がそれらに滲んでいるのが分かった。

「ごめんね、心配かけちゃって。でもほら、あの人達が急に幽霊みたいに消えちゃってから飛び出したし。あんな怪獣大決戦の中に飛び込むのは、流石の私でも無理だからねー……だけど、何だったのかしら、あれ? 片方は多分セイバーちゃんだったと思うんだけど……」

「え、ええ、そうですね。私も思い出しました。本当に幽霊みたいなものかもしれませんね。セイバーさんが、今生きてるかどうかもわかりませんし……」

「んー、そうなのかなあ? 幽霊って割には、随分はっきりしてたけど。それにね……」

 藤村先生は首を傾げながら懐中電灯の光を、先程の滅茶苦茶な戦いが行われていたのが嘘のように静寂さを取り戻した庭へ伸ばす。
 指し示した一点を見て、私は息を飲んだ。
 
「ほら、見事なまでに、あそこ大穴できちゃってるでしょ? さっき見た中で、セイバーちゃんが……透明だったけど、あれ剣なのかなあ? とにかく、何か一撃を打ち込んで地面爆発させてたじゃない? 幽霊みたいに幻っぽいものだったら、あんな風にはならないと思うんだけど。近くでちゃんと見てきたら、本当に隕石でも落ちたみたいに土が抉れちゃってたのよねえ」

 私の頭から、血の気が滝のように引いていくのを自覚した。
 先程の現象は、何度か体験した私の『過去視』とやらとしか思えない。
 だけど、今まではそれこそ、ただの夢のようなものだったはずだ。
 夢は覚めれば、消えてしまう。
 現実には何も影響は及ぼさないからこそ、人は安心して夢を見ていられるのだ。
 だが、これはなんだ?
 つまり、私が『視た』ものは現実に影響を及ぼす?
 じゃあ、まかり間違ってさっきのやつに誰か巻き込まれていたら……。
 ───冗談じゃ無い! そんな、馬鹿な!
 過ぎ去った出来事になんか、なんの力も無いはずだ。
 でなければ───これはまさしく悪夢そのものだ。
 さらに……私は、気がつかない方が良かったことに気が付いてしまった。
 ───『音』だ。
 私達が居間で聞いた、激しく響いた金属音。
 今では、それがあの二人の戦いにおいての剣戟の音だったと分かる。
 つまり、あそこで既に現象は始まっていたわけで、当然私はその時『視て』なんかいない。
 これが意味するところは、すなわち………私が『視て』なんかいなくとも過去は無差別に立ち現れ、しかもそれは実際に被害を与え得るという───

「しっかし、また派手にやってくれたわよねー。だけどセイバーちゃんって、あそこまで強かったんだ。そりゃ、私じゃあ、まるで敵わないはずだわ……。さあて、あれどうしようかなあ。記念に残しておいても良いような気もするけど」

「先生、それはちょっと無茶です。庭師の人でも呼んで、元に戻してもらいましょう。私が手配しておきます」

「あ、じゃあ、ウチの若い衆で何とかしましょう。こういうの得意なの何人か居るし」

 藤村先生と桜さんのやり取りが、どこか遠い異国の言葉でなされているように感じる。
 意味も分かるし聞き取れるのだが、頭に全く入ってこないような───

「? 理沙ちゃん!?」

 ふーがちゃんは、本当に泣き虫だと思う。
 また、そんな顔で叫ばなくても……って、あれ? 目がちかちかして良く見えない。
 視界が、どんどん狭まっていく。
 音が、自分が水の中でも居るように遠くから聞こえる。
 身体が徐々に無くなっていくような喪失感は一瞬だった。
 あ、これは貧血で倒れるのと同じ感覚だと呑気に考えたのは、いまいち自分に対する執着が薄くなっているせいか。
 意識が完全に途絶える寸前に浮かんだのは、三社さんの少年のような笑顔だった。
 それは、写真で見せてもらった赤毛の少年と何故か重なった。


 あれは、煙る様な雨の日の出来事だったと憶えている。
 あの日は、何故か初夏だったのにも拘らず山中にでも居るかのように冷気が足元から上がってきて肌寒かった。
 だけど私は、その冷たさなんてあまり気にならず、ただひたすらに視界が悪いことを苛立っていた。
 多分、何かを捜すには最悪の日だったのではないかと今は思う。
 それでも意地になって捜していたのは、この時から既にどうしようもない私の性格が形成されていたせいもある。
 しかし何より、胸の奥が極度に締め付けられて痛むのを感じ、焦燥で最悪の考えしか思い浮かぶ事がなかったというのが大きかった。
 
 その子を貰ってきたのは、お父さんだった。
 最初に抱き上げたとき、ふわふわの毛に包まれた小さな小さな命が自分の手の中で身を委ねて気持ちよさそうに眠っているのに、私は涙が出るくらい感動したのだ。
 にゃあと鳴きながら、甘えるように指を舐めたり甘噛みしてくるのにも何とも言えない気持ちになった。
 自分がまだ親に守られている子供だというのに、私は命に代えてもこの子を守るなどと漠然と考えてさえいた。
 つまり、私はその子の母親気取りだったのである。
 両親に躾を任された時も、胸を張って誇らしげに請け負ったものだ。
 いつも一緒に居て、日に二回のブラッシングも欠かさず、お風呂の入れ方も懸命に聞いて覚え、トイレの場所も教え込み、寝る時も一緒で……。
 あの時程、学校に行くなどという自分の時間が自由にならない立場を恨んだ事はない。
 放課後になったら脇目もふらず帰るなんて感じだったので友達が少し減ったが、そんなのはまるで気にならなかった。
 
 でも、どうしても躾けられない事に私は大いに悩んでもいた。
 その子は、ところ構わず爪とぎをはじめてしまうのだ。
 おかげで、私の何着かのお気に入りの服はボロボロ、家の至る所の壁紙はズタズタ、和室の畳なんて見るも無残な有様になっていた。
 それで両親がその子を貰ってきたことを少し後悔するような言葉を零すようになり、私は自分が責められているような気がしてとても悲しい思いをした。
 しかしだからと言って………あの時に、自身を抑えきれなかった事の言い訳にはならないだろう。
 その日、家に帰って自分の部屋で見たものは、残骸となり紙屑となったモノの中で転げまわるその子の姿。
 それは、この冬木に引越してきた時に別れた仲の良い友人達が描いてくれた合作絵だった。
 それを描いてくれた中には、幼かった私の初恋の相手もいて……。
 
 瞬間、私はその子を全力で叩き飛ばしていた。
 多分、物心ついてからその時が一番に泣いただろうと思うし、頭が真っ白になる程に血が上るなどという経験も初めてだった。
 傍から見れば、ゴミにしか見えないものを掻き集めながら大声で慟哭してる私の様はきっと滑稽だっただろう。
 大きな泣き声に気がついたのか、いつの間にか母親が来て私を抱きしめてくれていた。
 ひとしきり、泣きに泣いた後……気が付くとその子は居なくなっていた。
 そこで初めて、自分のしてしまった事にとても後悔する。
 あの子は、きっと悪気なんか無かっただろうに、私はなんて真似をしてしまったのだろう。
 きっと、凄く怖がらせてしまったに違いない。
 早く、あの子に謝らないと。
 そう思いながら、必死に家中を探してもその子を見つけることは出来なかった。
 母親の制止も聞かず、私は家を飛び出して新都の街を死の物狂いで捜し回った。

 当時から私は足腰が強く健脚を自負していたにしろ、今思うとその歳の子供にしては気違い沙汰な距離を歩きまわった。
 会う人会う人に、白い子猫見ませんでしたか? と物怖じもせず尋ね回ったのは、子供ながらの怖いもの知らずさがあったからだろう。
 でも、ある人は無視し、ある人は煩わしそうに手を振り、ある人は私を警察に連れて行こうとして……何度も何度も失望して追い詰められた為か、遂には冬木大橋を徒歩で渡って深山町の方まで行くなどという暴挙すら私はやってのけた。
 少し考えれば子猫が短時間でそんな所まで行けないなんて分かろうはずなのに……その時の私は全くもって正気では無かったのだろう。
 傘も挿さずに出てきてしまったから、私の身体が雨の中で濡れに濡れ冷え切ってもいたのも思考能力の低下に拍車をかけたに違いない。
 当然、深山町でも疲労の際で同じ失望を味わうことになる。
 だが、そう………良くは思い出せないが、たまたま出会った母と子の二人連れの優しい親子だけが唯一、私と一緒になって必死にあの子を捜してくれたのを憶えている。

「なんなの、もう。そんなに濡れちゃってー」

 最初は、声を掛けた私の姿を見て驚いたように母親の方は目を丸くしていた。
 その後、しきりに家に来るようにと誘ってくれたのを頑なに断りつつ踵を返そうとしたところを呼び止められた。
 少しだけ待つように言って、すぐさま凄い勢いで何処かに駆け出す。
 戻ってきた時にその手には、バスタオルと傘と温かく甘いミルクティが入った水筒があった。
 私はそれすらも断ろうとしたが、強引にバスタオルで頭をがしがしと拭かれて温かいミルクティを差し出されてしまった。
 それで気持ちがすぐにでもへたり込みそうなほど緩んだのを心の中で必死に鼓舞しつつ、事情を訊かれたので説明したところ

「んー、子猫ねえ……見てないなー。───よし! じゃあ一緒に探そっか!」

「私も手伝うよー!」

 と、親子は元気な声であっさりと言ってくれたのだ。
 それまで会った人達とのあまりの反応の違いに驚き呆気にとられつつも、私はお願いしますと深く頭を下げていた。
 誰かに借りを作るのが嫌いというのは当時から私の中にあったのだが、何故か分からないがこの人達になら頼ってもいいかと自然と考えてしまっていたのだ。
 それ程に精神的に追い詰められていたとも言えたが、それ以上に彼女たちの心意気に感動したのかもしれない。
 とにかく本当に体の芯から疲れきっていたが、それでも少しだけ勇気が出てこの親切すぎる親子と再びあの子を捜し始めたのである。
 しかし………それも結局実らなかったわけだが。
 雨が降っていたので元々薄暗くはあったが、日が暮れてさらに暗さが増すと何かを捜し出すなんてことは絶望的にすら思える視界になった。
 私はそれまで懸命に一緒に捜してくれた親子に対する申し訳なさと、あの子を見つけられなかった不甲斐なさで心に重くのしかかった暗い感情に耐えきれなくなり、母親の方へ借りた傘を返しながら早口でお礼を言って逃げるように駆け出していた。
 
 泣き顔にはなるまいと堪えながら、後ろからの叫び声も無視してとにかく走る。
 ───ふと気づくと、どこをどう走ったものか私は冬木大橋付近の川沿いの公園まで辿り着いていた。
 呼吸を整え、激しくなり過ぎている鼓動を抑えようと右胸に手を当てつつ、周囲を見渡す。
 小雨の中で煌めく公園の街灯の輝きは、とても幻想的で綺麗だった。
 だが、それだけに一層自分の惨めさを浮き立たせる。
 引き摺るように足を動かしながら、私はとぼとぼと橋への階段を上った。
 朦朧とする意識に浮かんだのは、もうとにかく家に帰りたいというのとあの子を見つけるまでは家には帰れないという相反する二つの事。
 混沌極まる思考に、私はどうしたらいいのか分からず途方にくれていたのだ。
 それでも身体は、命令通りに動く機械のように新都に向かって歩いていたのだが。
 どれくらいの時間がかかったのか……丁度橋の半ば辺りに差し掛かったところで、前方に人影があるのに気がついた。
 雨粒が少しの風に舞うほどに細かく、まるで霧のようだったので、それは滲むように霞んで幻影のように見えた。
 特に深く考えもせず、足に任せるまま徐々に近づいていくとそれが女の子であることが分かった。
 不意に聞き覚えがある、鈴の音が耳に入った。
 ぼんやりとその娘に目を向ける。
 白い何かを優しく抱きかかえている。

「ミャア」

 と、甘えるような鳴き声でそれが何であるかを理解し、私の意識は完全に覚醒した。
 ああ、やっと見つけたのだ! 本当に、本当に良かった!
 先程まで深海の中で押し潰されていたような感情は、一気に雲一つ無い青空広がる草原に居るような清々しいものへと変わる。
 私が喜びのあまり疲れも忘れて駆け寄ろうとした時、女の子は俯かせていた顔を漸く上げた。
 そしてそれを見て……私は驚愕のあまり目を見開き金縛りのように身体が固まってしまう。
 全身が瘧のように震え出したのは、決して寒さのためではない。
 
 ───なんで? 
 
 ───どうして? 
 
 ───なにが? 
 
 ───どういうこと? 
 
 混乱、理不尽さ、嫌悪、怒り、恐怖……それらは、渾然一体となって私の頭に渦巻く。
 何故、今まで私は気がつかなかったというのか。
 その服だって、その体格だって、その髪型だって、その顔だって、見覚えがある。
 ───あるに決まってる。
 見覚えがあるなんてものじゃない。
 だって、それは全部が全部わた───
 女の子は、私には絶対形作れない表情で憐れむように微笑みなが■■■■■…………

…………………………………

………………………

 私は、その子を見つけた喜びに思わず頬ずりしていた。
 身体がぐしょぐしょに濡れていたから、あの気持ちいい毛並みの感触は味わえなかったけど、そんな事は全く構わなかった。
 抗議するみたいに、爪を立てて暴れるのを優しく撫でながら落ち着かせる。
 自分も冷え切っていたけど、この子も随分と雨の中にいたせいか冷たくなっている。
 私は胸の中で宝物のようにその子を抱きしめて、もう何も怖いものなど無いという気分で家路を急いだ。
 後ろの方で、何かが水に落ちたような大きな音が聞こえたけれど………それは大して気になりはしなかった。

 ───その子は、それから僅か数ヶ月でこの世を去った。
 何の病気だったのか、何が原因だったのかは、もう今更どうでも良かった。
 今では、その子の名前も思い出せない。
 ただ、私は以後動物を飼うということは一切しなくなったし、両親がそれを望んでも徹底的に反対した。
 もう、あんな悲しい思いはしたくなかったのだ。
 時折白い小さな影が視界の片隅に入ると思わず目で追ってしまうということ以外は、それからの私に特に変化はなかった。


 眼下に広がる、様々な色彩を帯びた輝き。
 言うまでもなく、あの一つ一つが人々の営みの証であり自身が守るべき対象である。
 それは当然の事であるが、果たして自分はその内の幾つを取りこぼしてしまうのだろう。
 そう己に問いかけるのは、愚問であることは承知している。
 端から負の要素を考えて行動することは、致命的なことだ。
 それでもふとした時に、これまでの自らの歩んだ道を省みればそれらは容赦無く苛んでくる。
 それが、どのような責め苦よりも苦痛であったが故にかつては挑んだのだ。
 そう……とても我慢ならなかったから。
 しかし結局、自分はある一面で非常に脆弱だったのだと思い知らされてしまった。
 その事を本当に理解するまで随分な時間がかかった。
 馬鹿は死ななきゃ治らないとは、彼女の言葉だ。
 まさしく、至言だと思う。
 ならば死んだ身としては、役割を果たすのみである。

 此処が冬木で未だに一番の高所であるのは、時の流れに取り残されたような自身には幾分安堵させる事だった。
 外観もそれ程変りなく、幾度か改装はされているのだろうがかつての雰囲気を損なっていない。
 激しく吹きすさび、身体を浚うように打ちつける風にも郷愁すら感じる。
 だが、今視線を向ける先はそれとは反対に大きくその有様を変えた場所だ。
 かつては、巨大ではあったが敷地を全く有効に使っていない寂れた公園。
 現在は、家屋が建ち並ぶ住宅街。
 考えてみれば、公園となる前の本来あるべき姿に戻ったのだとも言える。
 もう既にどのようなものであったかは記憶から失われてしまったが、己の道を決した運命の日以前の光景に……。
 特に意識はしていなかったものの、敢えてあそこに近寄らなかったのは潜在的な自己防衛故だったのだろうか。
 そこまで弱くはないと思っていたが、案外そういう事だったのかもしれないと心の中で自嘲する。

 あの住宅街が計画され、実際に建造されるまで相当な時間がかかったという。
 多くの業者が複数の利権で競い合い、様々な裏面工作が横行したらしい。
 自殺者も出たというから、泥沼の状態に違いなく関係性も複雑極まるものであったようだ。
 彼女は、この冬木における真の意味での裏の管轄者であるから当然この話にも関わらざる得なかった。
 彼女に言わせれば、そのような結果になってしまったのは当然だった。
 あまりにも厄介な場所であったから少しずつ慎重に管理し調律していたと言うのに、人の苦労も知らないで欲に任せて強引な事を勝手にやってしまえば、そうなるに決まってる……と前にそのことを話してくれた時は、非常に不機嫌な表情だった。
 だが、そうは言っても勝手にしろと放っておく訳にも行かず、かなり性急且つ強引な手段で何とか場をこちらの側面では問題無きよう整えたとの事だ。
 それを成功させてしまうのが彼女の彼女たる所以であり、その才能には驚き呆れんばかりだが───当時は若かったせいもあるのだろう。
 詰めが甘かったと言うべきか。
 いや………改めてよくよく確認すると、決して当時の彼女の油断ではないと分かった。
 あれは、全体を見渡して初めて精巧な装置だと辛うじて分かるほど隠蔽性が高い。
 住宅街の建物一つ一つを見ても、それとは分からないだろう。
 今の自分のように、極めて巨視的に全てを一つだと認識して構造を把握しなければ。
 一部の部品を見てもそれが何であるか分からない、精密機械のようなものだ。
 しかも、あの場の力が元から強いのも隠蔽性を助長している。
 自分も彼女も、そのつもりで確認しなければ現在でも見逃しただろう。
 現に、これまでそれは彼女に気づかれていなかったのだから。
 さらに言えば、あそこに住んでいるのは間違いなく一般の人々なのだろうが、彼らには特に影響もないのだろう事も予測出来る。
 あれだけ大掛かりで、高度な隠蔽を誇る装置でありながらやっていることは恐らく拍子抜けするほど単純で基本的なことだ。
 彼女なら、随分みみっちくてセコイことやるのねと一蹴する程に。
 決して、許しはしないだろうが。
 
 しかし、別の見方もできる。
 施した者は、非常に慎重かつ忍耐強く狡猾だという事だ。
 それに、あの装置の役割はきっとあれだけで充分なのだ。
 何故なら、実際に駆動する装置は施した者自身の中にあるだろうから。
 今から、あの巨大な装置を解析し機能を停止させることは出来無い。
 それは、時間も労力も莫大にかかりすぎるし、多分もう手遅れだ。
 ならば、やはり───
 軽く溜息をつき、視線を逸らす。
 その俯きかける視界の隅にふと、異常を感知した。
 そちらに目を凝らし映るものを認めた時、心が大いに揺れ動き───そして、同時に覚悟を決めなおした。


 爆音響かせる車中に、私は居た。
 ウィンドウ越しに流れる光の線は、まるで彗星のよう。
 遥か前方に見えていたはずの新都の夜景は、本来のスケールを分からせるために向こうの方からグングン近づいてくるような錯覚。
 ───とか言ってる場合じゃなくて。
 その前に、睨んでる目玉みたいなランプを真っ赤に輝かせてるトラックの後ろ部分が凄い勢いで迫ってるんですがー!?

「桜さん!? ま、前、前ー!! ト、トラック! トラックがー!? ブブブ、ブレーキ! ブレーキ!!」

「あら?」

 と、私の慌てふためいた叫びに終始呑気で落ち着いた調子な桜さんなのだが、そのハンドル捌きもシフトを操作する手の動きも凄まじかった。
 一連の流れる動作は、一流のマジシャンのそれを思わせる。
 駆動系が回転する音が、一瞬さらに甲高いものへと変わった。
 路面に接地するタイヤが僅かに悲鳴を上げるのを聞きながら、身体が遠心力で大きく振られる。
 続いて間髪入れずに、シートへ押し付けられるのを感じつつ横目にあっという間にトラックの横を通過したのを確認して大きく息をつく。
 ええ、もう、さっきから全身に力が入りっぱなしなんですよ、私。 
 桜さんがクスクスと愉快そうに笑っているのを見て、ゾッとする。
 何ですかね、これ? 罰ゲーム?
 もうこれで、さよなら人生と覚悟したのは何度目だったろうか。
 ハンドルを握ると性格が変わるとかいうのは聞いたことあったけど、この人の場合表面上はさして変わっていないように見えるから始末に悪い。
 この分では、今走っている冬木大橋を渡りきり向かっている目的地に辿り着くまでの時間は本当に恐ろしく短くて済みそうだ。
 そう……私は桜さんに自分の家まで車で送ってもらっている途中なのだが、その前に少し立ち寄る場所があるのだ。
 私達が何処に向かっているのかというと─── 


「あ、気がついた! 理沙ちゃん、大丈夫? 頭とか痛くない?」

 まず耳に入ったのは、そんな安堵と不安がいり混じった声だった。 
 徐々に意識が混濁から鮮明としたものに移り変わり、目に入る光が淡いものから明瞭な輝きになる。
 古いながらも風格ある木目の天井は、私が全く知らないものだ。
 何か胸の奥が疼くような、切ない夢を見ていたような気がする。
 だが今はそれも、手で掬いとった水が零れ落ちるように曖昧なものとなり思い出せない。
 多分、子供の頃の記憶……だったと思うのだけど。
 ああ、今自分は布団で寝ているのだなと分かる。
 全身が血液が行き渡ってないのかだるさが残っていた為に、億劫になって首すら動かさないで視線だけを横に向けた。
 そこに、自分が今まで会った人達の中では恐らく最も女性的な身体つきと端正な顔を持つ美女が居る。
 随分と悩ましげな表情で眉根を寄せているな、とぼんやり考えて……一気に覚醒し、布団を撥ね除けて発条仕掛けのように起き上がった。

「わ!? 理沙ちゃん、それって忍術?」

「あ、駄目よ、天谷さん。そんなに急に起きたりしては」

 仰け反って驚くふーがちゃんとは反対に、桜さんは慌てて私に近寄り支えるように背中を抱いてくれた。
 む……この背中に当たる感触は相当なものですね。
 今更悔しいとかは思いませんが、少しだけでもいいから分けて欲しいものです。
 その………持たざる者としては。

「あの……私ってどれくらい気を失ってたんでしょう?」

「ええっと、そうね……せいぜい二十分くらいじゃないかしら?」

「んー、それくらいかなー。急に身体の力が抜けたみたいに倒れそうになってたから、最初は慌てたんだけどね。寸前で何とか支えられたから、多分どこも打ってないはずだよ。貧血で倒れる子と同じ感じだったから、大丈夫だと思うけど……理沙ちゃん、貧血なんてしたことないよねえ? 一応、明日とか病院行った方がいいんじゃないかな。あ、最近行ったばっかりなんだっけ?」

「うん。検査して、異常無しってお墨付きもらった。でも、そっか……ふーがちゃんに助けてもらったんだ。ごめんね、迷惑かけて。本当にありがとう」

「えへへ、どういたしまして。あ、でも部屋まで抱いて運んでくれたのはお母さんだし、布団すぐ用意してくれたのは桜さんなんだよ」

 照れながら小動物のように首を竦めて言うふーがちゃんの顔が、とても眩しく見える。
 しかし、まあ………借りを作るのが嫌いが聞いて呆れる。
 何という大迷惑の掛けっぷりか。
 元よりふーがちゃんには頭が上がらなかったが、これでは藤村先生にも桜さんにもまるで頭が上がらないではないか。
 あ、いや、最初からこの三人には頭が上がらないことは分かっていたし、誰かに頭が上がらないという事は別にいい。
 だが……この人達に『借り』はどうやって返せばいいというのか。
 何となく、三社さんと同じように彼女達はそういうのをあまり気にしなくて良い相手なのかもしれないとも思うが、そんな甘えがそうそう許されるはずも無いと改めて自分を戒める。
 それに、自分の不甲斐なさにも情けなくなってくる。
 大体、私は身体の頑丈さが取り柄で気を失うなんてことは最近まで経験したことすら無かった……とは言い切れなかったかもしれないけど。
 ……でも、少なくとも穂群原に入ってからはそんな事無かったはずなのに。
 原因は分かっている。
 例の『過去視』だ。
 私は、先程のあの蒼き絶世の美少女と群青の獣のように精悍な青年の超絶の戦いを思い出してしまう。
 続けて、藤村先生が示したあの戦いによる大穴も脳裏に浮かぶ。
 室内は温かいのに、背筋に氷柱を捩じ込まれたような怖気が走り知らず自分の両肩を抱いてしまった。

「理沙ちゃん、もしかして寒気がするの? それなら、もう少し布団の中で身体温めた方が良いと思うよ?」

「そうよ、天谷さん。無理しないで、あと少しだけ横になってなさい。藤村先生が、今あなたのお家に連絡入れて遅くなるって事とちゃんと送り届けるって事も言っているはずだから心配しなくても良いのよ?」

 なるほど、藤村先生がこの寝室らしい部屋にいないのはそういう理由だったのか。
 たかが貧血で倒れたと思われている私にそんな大勢で付き添っている必要もないのだろうが、藤村先生が教師としての責任感が強いのは学内でよく知られていた。
 だから、この場にふーがちゃんと桜さんしかいないことに少々違和感を覚えたがそういう事なら頷ける。
 というか、私はどれだけ手間をかけさせれば気が済むというのか。
 実際の所、自業自得に近いというのに。

「あ、いや、全然大丈夫ですから。ただ、その……さっきの思い出したら怖くなって……」

 取られる意味合いは多分違うだろうが、ほぼ本当に思っていた通りのことを取り繕うように言う。
 すると、予想したようにふーがちゃんが大きく頷いて食いついてきた。

「うんうん、怖かったよねー。まともじゃないもん、あんなの。今夜また出たりしないと良いなあ……ね、桜さんはああいうの平気なの?」

「え? うーん? あまり考えたこと無いけれど……幽霊なら生きてる人達に手出し出来無い筈だから、心さえ強く持ってれば大丈夫なんじゃないかな?」

 桜さんは 急に話を振られたからか若干困惑したような微笑をふーがちゃんに向けていた。
 私もこういう話には疎いが、言うように幽霊ならばそうなのだろうと素人考えで納得出来る。
 幽霊ならば……だ。
 原因は知っているが、どう対処すべきなのか分からない私はやはり沈黙を守るしか無いのか───

「でも、お母さんが発見したあの大穴は? あれって、実際に手出し出来るってことにならない?」

「あれは……先生が昔遊びで埋めた花火とかがたまたま爆発したとか」

「えー? 幾らお母さんならやりかねないって言っても、それはちょっと無理があるんじゃないかなあ?」

 あ、やりかねないんだ。
 だが……デフォルトでハチャメチャ加減を誇るにしろ藤村先生の仕業に仕立て上げるのはふーがちゃんが言う様に理屈として無茶が過ぎる。
 あの光景を見れば、誰だってあれはあの金髪の美少女が為した事だと言うに違いない。
 どうも、桜さんはあまり興味が無いのか……らしくも無く適当なことを言っている気がする。
 その当の犯人に仕立て上げられそうになっていた本人が、静かに障子戸を開けて入ってくる。

「あ、気がついてたんだ。ちゃんとお母様に連絡しておいたわよ。随分ご心配してらっしゃったから、身体が大丈夫なら早く帰ってあげた方がいいかも。何か最近病院に自主的に検査に行ったみたいじゃない、天谷さん」

「はあ、人に勧められて成り行き上行ったってだけなんですけどね……実際ただの検査だし、健康そのものだってお医者さんから言われてますから。母にもちゃんと報告した筈なんですが」

「親にとっちゃ、子供のちょっとした変化が一喜一憂する材料になるのよ。ま、元気なら何よりだわ」 

 満足げによしよしと頷く藤村先生。
 その言葉は、自身が母親であるから確証に満ちたものなのだろう。
 確かにそういえば以前最初に………以前?
 何だ───以前って?

「じゃあ、先生。私、天谷さん送っていきますね」

「ごめんね、桜ちゃん。悪いけどお願いするわ。じゃ、天谷さん、ちょーっとだけキツイかもしれないけど慣れれば意外と平気だから頑張ってねー」

 私を立ち上がらせるのを手伝いながら言う桜さんに、藤村先生は答える。
 だけど、キツイとか頑張ってとか何の事なんでしょうかね?
 私に軽く手を振るその表情が、とびっきりの悪戯を思いついた子供のようなものであることは結構気になるんですが。

「チェッ、私も桜さんの車に一緒に乗りたかったなー。でも、あの車って二人乗りなんだよねー」

「懲りないわねー、風河は。あんた、この前思いっきり白目剥いたばかりじゃないの。それに、夜のドライブなんてちょっと甘い雰囲気がするもの気軽にやるのは、教師としても母親としても許すわけにはいきません。風河がそういう二人はロマン溢れる逃避行だぜっぽい事やるのは、まだ早すぎだから」

 毅然とした表情で窘める藤村先生に、ふーがちゃんは頬を膨らませつつ不満げに口を尖らせていた。
 そのやり取りを見て、桜さんは温かく見守るような目でくすくす笑っている。
 きっと、これが何ものにも代え難い彼女たちの穏やかな日常なのだろうなと漠然と考えて何とも言えぬ感情が湧いた。
 自分とて、そういう中で日々をのうのうと暮らしてきたというのに何を偉そうにと内心ですぐにツッコミが入ったが。
 ま、それはともかくとして………白目ってなんでしょう?
 さっきの藤村先生の言葉と考え合わせると、ひたすらに不吉な予感しかしません………。

 
 わざわざ、玄関先まで見送ってくれた藤村親子に私は深々と頭を下げた。

「今日は、本当にご迷惑をお掛け致しました。あと、ご馳走様でした。この借りは、いずれ必ず返しますので」

「どういたしまして。だけど、天谷さんって随分律儀な子だったのね。なに? もしかして本当に渡世の家の子? だったら、学校で何かあった時に私の鉄砲玉とかしてくれればいいから」 

「もう、お母さんってば……そんなわけないでしょ。理沙ちゃん、気にしなくていいからね。また、きっと来てね!」 

 今は、その二人のお日様のような笑顔で手を振る姿が胸に痛く、もう一度深く頭を下げてから逃げるように踵を返す。
 私は、言葉以上の心情を込めて言ったのだ。
 実際に、ふーがちゃんの心に傷を負わせたのも庭に大きな穴を作ったのも全部自分が原因なのだから。
 二人は事実を知ったら、はたして同じ顔で笑ってくれるのだろうか?
 そう考えると、暗澹たる気分になる。
 ───やはりもう一度、三社さんに会って相談するしか無いと思う。
 この前は、自分でも真剣味が少し足りなかった様な気がするから、今度は本気であった事を話してみよう。
 私にこの件で頼れるのはあの人しかいないし、どう考えても己の手には負えない。
 じゃあ、早速にでも明日連絡をとって………と、そんな場合ではないのに、どうしても会える目的が出来た事自体嬉しい気持ちになってしまう。
 そんな考えをする不埒な自分を振り払おうと首を振った時、腹に届くような連続する重低音が轟く。
 屋敷の門を出て、その音の発生源を見た時に私は呆気に取られた。
 地を這うように低い高さの、黒く輝く車体。
 今時の車は、人が近づくと警告するような高い電子音を発するが、こんな威嚇するような咆哮は決して上げない。
 さらに言えば、後ろからあんな煙のようなものを吹出したりもしない。
 躊躇していると、右側のドアが開いた。
 しかも、上に。

「ちょっと乗りにくくて悪いんだけど、頭ぶつけたりしないようにね」

「は、はあ……」

 左側の運転席に座って、ハンドルを握りながら優しく微笑んでいたのは紛うことなき桜さんだ。
 その取り合わせにあまりにちぐはぐしたものを感じしばらく呆然としたものの、待たせるの申しわけなかったので慌てて車内に滑り込む。
 何か、アミューズメントパークのアトラクションを体験している感じ。
 ずっと軽い振動が絶え間なく身体に響いてくるのは、なかなか新鮮な感覚だ。

「す、凄い車ですね、これ」

「うん。私、今の車って怖くて。ほら、エンジンの音もしないし振動もしないで急にすっと動いたりするでしょう? この子は、そういうの無いから」

 むるしえらごって言うんだけどねこの子、と愛しげに語る桜さんはまるで我が子のことを自慢するかのようだ。
 何でもコウモリって意味のイタリア語らしいが、それが車種の名前なのか桜さんが付けた愛称なのか生憎詳しくないので分からない。
 これはあれだ……確かガソリンを使って走る自動車ってやつだ。
 今じゃ殆ど見かけなくなったが、私の幼い頃にはちょくちょく走ってたような気がする。
 確か今は規制が激しくて、何とかライセンスっていうのを持ってないと駄目で、しかも維持費も馬鹿みたいに高いっていう……。
 お母さんが乗りたがってたけど、お父さんに白い目で見られてたっけ。
 車庫入れも満足に自分で出来無いのに、何を言ってるんだこの人はとか。
 つまりお金持ちで、車の運転が凄く上手くないと乗れないものらしい。
 桜さんの場合、前者はそういう風な雰囲気もあるから分かるけど、後者はどうなんだろう?
 まさか、無免許……とかじゃ無いよな。

「さて、天谷さん」

「は、はい!」

 桜さんの幾分鋭い口調に、心の呟きを思わず漏らしていたのかと焦って背筋を伸ばす。
 だが、次に続けられた言葉はこちらの予想を超えたものだった。

「あなた……三社さんって人と会ってるでしょう?」

「あ、え? は、はい……」

「やっぱり……じゃあ、あなたが例の『過去視』持ちの女の子なのね?」

 意外な人から、意外な言葉が出たのに私は一瞬思考停止してしまう。
 え? それってつまり………。
 ───『時々に『こちら側』の人間が街に紛れて闊歩していることはある』
 ───『……間違いなく消されるか保存されるかどちらかだ』
 突然脳裏に言葉が再生され、心臓が鷲掴みにでもされた様に身を竦ませた。
 見詰める視線も優しげな表情も先程と同じであるはずなのに、今は全く別のものに思えた。
 私は、狭い車内で逃げ場が無いという事実も手伝い恐慌しそうになる。
 だが、桜さんはそんな私の浅はかな誤解を解くように軽く首を振った。

「大丈夫よ。心配しなくても、あの人があなたの味方である限り、私もあなたの味方だから。『管理者』というのは聞いた?」

「『管理者』………ですか?」

「そう、要するに土地ごとの『こちら側』の元締めって感じかしら」

 緊張で身体が固くなったままだったが、身を引くという失礼すぎる行為は踏み止まることができた。
 私は、必死に記憶を探る。
 何となく、三社さんに聞いた話の中に思い当たるフシがあった。
 そう、確か───

「あ、も、もしかして、三社さんの奥さんがそうだっていう……」

「そうね………私は、その『管理者』の補佐って所よ。『管理者』が不在の場合は代行もするわ」

 淡々とした調子で説明してくれた桜さんに、きっと私は馬鹿みたいにぼうっとした顔を向けていたと思う。
 急すぎる話に頭が付いていけなくなりそうだったが、何とか整理して考えてみる。
 つまり、三社さんと同じく桜さんは魔法使いさんという事なのだろう。
 それも、『管理者』やらいう三社さんの奥さんが務めているものと近い位置にいる人らしい。
 魔法使いという人々がどれくらい冬木に居るか知らないが、こんな短い間にそうそう簡単に何人も出会えてしまうものだろうか?
 確か三社さんは、確率的にはゼロに近い僅かとか言ってなかったっけ?
 だとしたら……なんという恐ろしい偶然か。
 しかもよりによって、ふーがちゃんと親しい人で、今時珍しい家庭的なおっとりしていそうな美人で、私に美味しい料理を振舞ってくれたこの桜さんが……。
 ……不意打ちにもほどがある。
 自分の事も含めて、平凡だった今までと比べると目眩がする程に奇妙な方向に凄い勢いで引っ張られているような気がする。

「あの人から、あなたの事を少しだけ聞いていたわ。いずれ紹介するから、もしもの時はあなたの力になってやってくれって。ただね……どうも、ちょっと最近あの人の様子がおかしいの。尋ねても、碌に答えてくれないし、それにあの眼は───私はね、天谷さん。あの人に、もうあまり『こちら側』に関わって欲しくないの。何故か分かる?」

「い、いえ………」

 その強い光を宿した目は、直視するのが憚れるほど鋭かった。
 私は、自分が責められているような気分になり俯いてしまう。
 いや……責められてるようなでは無く、実際に責められているのではないだろうか。
 間違いなく厄介な事を、先程まで三社さんに相談する気満々だったのだから。

「あの人はね……『こちら側』に関わった事で今まで、本当に辛い目ばかりに遭ってきた人なの。まるで人の不幸を肩代わりするみたいに、自分を痛めつけて。そういう人なんだって事は知ってるんだけど……出来るなら、私はもうそんな目に遭って欲しくない。それに、今のあの人の立場は凄く微妙なものだし……」

 心情を吐露するように言う桜さんの目には、こちらの胸が締め付けられるほどに悲しく寂しげなものが揺れていた。
 彼女にとって、三社さんがとても大切な人であることがよく分かり……それ故に私は言葉を無くす。
 どのような関係にあるのかは分からないが、私なんかが軽々しく口出し出来るものでは無いとだけは分かったから。

「でも、そんな私の気持ちも知らず……いえ、知っているのでしょうけど、それでも肝心な事となるといつも私を遠ざけようとする。まるで、守るみたいに───私も、昔とは違うっていうのにね。まあ、私はあの人達と違って本格的には学ばなかったから、いつまでも半人前なのかもしれないけれど。でも私は、あの人達が居ない間も代行としてこの冬木を守ってきたつもりよ」

 静かな口調なのだが、その中には決意と自負が含まれていた。
 その滲み出る雰囲気に、少なからず圧倒される。
 この人は、穏やかでともすれば儚げに見えるような女性だなどと思っていたが、とんでもない。
 そういえば時折垣間見たような気が何度かしていたが、少なくとも私なんかまるで及びがつかない程に強い女の人だという事を理解した。
 私が何を言うべきか迷うように顔を向けると、桜さんは最初に会った時と同じように、それでいて印象は遥かに力強く感じる包みこむような柔らかい微笑を見せる。

「ごめんなさい、色々つまらないこと言っちゃって。要するに、何が言いたいかというと………あなたのそれを、私に任せてくれないかしらって事ね。それは本来、今の状況だと私の役目なのだから。とりあえず、これまで天谷さんが『視た』事を話して欲しいのだけれど」

「は、はい……よろしくお願いします」

 私は、逆らう気力も無く……いや、この人に頼れる僥倖を感謝しつつ、おずおずと頷いて頭を下げていた。
 己の力でどうにもなりそうに無い事に追い詰められそうになっていた時に、本当に都合が良すぎるタイミングで救いの手は差し伸べられたのだ。
 桜さんには桜さんの事情があるのだろうが、だとしても私を助けようとしてくれているのは間違いなかった。
 それに───あんな事を言われてまた三社さんに会って相談する事など出来そうも無い私としては、もうこの桜さんしか頼れる人はいない。
 それは、少し残念だけど………。
 私はしばらく記憶を辿りつつ、せめて頼るからには分かりやすいように理路整然としようと苦心しながら、これまであった事を順番に話していく。
 桜さんは、合間合間に確認するように質問をしてきたが、基本的には黙って話を聞いていた。
 先程の、今日の事まで含めて話を終えた時には、桜さんの表情に優しげな所など一片足りとも無かった。

「………じゃあ、その教会での時に初めて『再現』されて、他の人にもそれが見えるようになったのね?」

「だと思います。見たのは、三社さんなんですが……そこで確か『過去視』じゃないかもしれないって、途方に暮れてました」

「そうね。映像だけとはいえ『再現』されてしまえば、それはもはや『過去視』などとは言えないわ。ましてや、今日のやつは映像どころではなかった。そのままでは無いでしょうけど、明らかに実在すらしていたわ。何かしらの力の働きもあったし……確か、あれはいつかと同じ感じだったような気がするのだけど……何だったかしら?」

 桜さんは、ハンドルを握りしめて前方を睨み眉根を寄せていた。
 何かに引っ掛かっているが、それが何かは思い出せずに必死に自身の記憶を探っているようだ。
 だがやがて、諦めたのか溜息をついてこちらに顔を向ける。

「ともかく、移動しましょう。流石に、これ以上停った状態だと幾ら藤村先生達とはいえ不審に思われるわ。今日の所は、軽く確認しに行くとして……天谷さん、申し訳ないけど少しだけ時間もらえるかしら? なるべく急ぐから」

「え、ええ……もう遅くなって多少怒られても、これを解決する方が重要だと思いますから。自分の事ですし。でも、どちらへ?」

「とりあえず、最初に『再現』されたという教会に行ってみましょう。あそこは、場所自体に強力な力があるから何か関係あるかもしれないの。あなたのそれについて、今言えることは二つだけだと思うわ。一つは、『再現』されている『過去』が間違い無く一つの主題に沿っている事。もう一つは、その『再現』する力の起点は天谷さん自身だという事。後は、走りながら話すわね」

 言いながら、桜さんは前方を見てハンドルを握り直した。
 獣の吠え猛るような音が数度、この車から放たれる。
 タイヤが路面に悲鳴を上げさせているのを聞いて額に嫌な汗が滲み……予感した通りの恐怖を全身で味わうことになった。
 目が回るほどに流れる、周囲の景色の速度感に悲鳴をあげることも出来ない。
 ここが閑静な住宅街であるという事が分かっていますか? と突っ込みを入れる余裕もない。
 ああ、シートベルトって重要なんだなという事が本当によく分かる体験など望んでいなかった。
 アトラクションみたいだという印象はある意味正しかったんだなあと、ちょっとした悟りを開いた気分の私を乗せて、むるしえらごくんは信じ難い速度で坂道を駆け下りていった。



「え? 戦争………ですか?」

「そう。随分前に、この冬木であった『こちら側』の戦争。私が逃げだしてしまった戦い。そうする事で、私は後で大きな報いを受けることになってしまったのだけれど……その話はともかくとして、天谷さんが『再現』しているものは、聞く限りだと明らかにその戦争を焦点に合わせているとしか思えないわ」

 今までより大分抑えた運転をしながら言う桜さんの言葉は、私には現実感が乏しくて想像することが難しかった。
 戦争───と聞いて連想されることなど、あまりにも平和に慣れ親しんだこの国に住んでいる私では、きっと幼稚なものしか無い。
 昔この国は大きな戦争をしたらしいが、それを実際に体験して今も生きている人はどれくらい居るのだろうか?
 それを行った意義や事情は、本当に他人事としてしか分からないから是非は私などでは到底言えない。
 フィクションでは色々とリアルに再現されており、時にそれを見て胸に何とも言えない感情が湧き様々と思うところもあるが、普段は意識の彼方にある。
 分かっているのは、それが人が大勢死ぬであろう行為であることくらい。
 そんなものが、この冬木で行われたということは───

「その……もしかして、その時って人がたくさん死んだのでしょうか? この冬木で?」

「そうね……実際に今も世界のどこかで行われている戦い程ってことは無いでしょうけど。それでも、何人かが亡くなったわ。無関係に巻き込まれた人達もその中には居る。身体や心に傷を負って、それが今でも残っている人達も………本当に、関係無い周りにはいい迷惑だった戦いね。ただね、勝利することにより得られるとされていた賞品が凄すぎたの。勿論、それで人を傷つけたり殺したりする言い訳にはならないのだけれど……戦いを行っていたのは誰にも言い訳を必要としない人々だったのよ。一人の例外を除いてね。いえ……本当のところは二人だったのかしら」

 桜さんは、感情を押し殺したような声で平板に語る。
 言い訳を必要としない……ということは、人を傷つけたり殺したりするのに何も心が動かされない人達ということだろうか?
 巷で時々起こる、大概の人々には理解に苦しむ異常犯罪の数々。
 そういう類のものを起こす者達にも、理解はされないにしろ何かしらの心の動きはある筈だ。
 だが、今聞いた言葉には極めて無味乾燥な感じを受けた。
 つまり、目的のために路傍の邪魔な石を脇に避ける感覚で躊躇なくそれを行う人達。
 何となく白衣を着た人間が、冷静な目で実験動物を弄り回した挙句殺す様を脳裏に浮かべる。
 私は、自分の過剰すぎるだろう想像に全身に寒気を覚えた。
 でも、一人……いや、二人の例外とはどんな人達だったのだろう?
 そこだけ桜さんの口調が温かみのあるものだったので、何故か幾分救われたよう気がした。

「脅すつもりじゃないけど、重要なことだから聞いてね。あなたが『再現』している過去が戦争って呼ばれていたのは、決して大袈裟じゃないの。『こちら側』の人間は、一般の社会に対して極端に自分達のことを隠そうとする不文律があるから、まだ被害は小規模で済んだだけで………庭での事を思い出してみて。あれを、天谷さんはどう思ったかしら?」

「はあ───少なくとも人間には出来そうも無い事をしていたような……」 

「そう、本当に彼らは人間では無かった───人間の形をした兵器だったのよ。あれが、その戦争で使われていたわけね。そして彼らは、実際に一人一人が冬木を壊滅させ得る程の力が有った。そういえば、教会でビーム砲とバリアの応酬を見たと話してくれたわよね? 面白い表現だなって思うけど、知っている者にはあまり笑えない。多分、それは的確にほぼその通りのものだということが分かるから………映像だけならまだいいわ。でも、そんなものが実在をもって無差別に『再現』されたら、どうなると思う?」

 それは───
 あの時教会で『視た』、群青の人物が空中から放った禍々しい赤光の軌跡を意識に浮上させる。
 例えば、あれが何かの目標に命中したとして、どれくらいの破壊を生み出したのであろうか?
 あの光景では赤い人のバリアらしきものとの攻防に終始し最後まで見ることが出来なかったが、もしそういうことも無く純粋にその威力を発揮したとしたら?
 大気を切り裂いて雷鳴の如き響きを上げていたあれは、もしかしたらあの教会の広い敷地ですら消し去っていたかもしれない。
 実際にそうであるかもしくはそれ以上か………まるで見当はつかないが、そう容易に思わせるほどのものではあった。
 では、人が雑多に溢れる新都のど真ん中に急にあのようなものが放たれたら?
 ……………想像してしまった破壊の映像に、嘔吐感を伴った目眩がした。
 事のあまりの深刻さに、気持ちが押し潰されそうになる。
 つまり『再現』することをまるで制御出来ていない自分は、それを起こしうる可能性が充分あるわけで………
 これでは、どこで爆発するか分からない爆弾のスイッチを体内に埋め込まれたのと変わらない。
 しかもスイッチは、不随意の神経で入るのだ。
 三社さんは能力を否定することはないと言ってくれたが、これでは否定するしか無いではないか。
 あまりの理不尽すぎる自分の状況に、気力が根こそぎ奪われる感覚。
 だが───

「大丈夫、あなたは私がきっと何とかするわ。私も昔ね───自分が望みもしない状況に訳も分からず放り出されて、無理矢理苦しいだけの力を与えられたことがあるの。あまりにも当たり前のようにそういう環境に慣らされたからかしらね………当時は心も摩耗しきって、ただ助けてくれる人を縮こまって待つばかりの毎日だったわ。それを、殴りつけてでも今の場所に引き戻してくれた人達が居た。勿論あなたと私は全く違うし、今苦しんでいる事も私には分かってあげられない。それでも───分かってあげられなくても、私はあなたを何とかする。負けないでとか言うつもりも無いわ。助けるとも言わない。でも、その事だけは忘れないでね」

 私が衝撃を受けすぎて放心してしまったのに気が付いたのだろう。
 桜さんは、そんな言葉をかけてくれた。
 それは決して労る響きも無く、叱咤するという程に激しさは無く、優しさも感じられない。
 だが少なくともこのままにはしないと力強く請け負ってくれた事に、不思議なくらい私の気持ちは落ち着いているのが分かった。
 たおやかな顔立ちの彼女の表情は、あまりに凛々しく思わず見惚れてしまうほど内からの力強さに満ちている。
 一体この人が、どれ程の事を今まで潜り抜けてきたか分からない。
 しかし、それは私などでは決して耐え切れ無いものだろうことぐらいは造作もなく想像がついた。


 郊外の閑静な場所だけに、車の唸るみたいな乾いた爆音が余計に宙に響いているような気がする。
 先に見える、点在する街灯で照らされたこの坂に人通りはない。
 頂上の教会で行き止まりなのだからそれも当然で、この辺りに住む人々かそれこそ教会の関係者しか本来行き交う必要が無い坂なのだ。
 ましてやこの闇を濃くした時間帯では、以前の私達のように気まぐれに散歩する人間なんてのも見かけない。
 そう、ここを三社さんと二人で何でも無い会話をしながら歩いたっけ。
 何だか大して前の事でもないのに、随分と昔の出来事のような遠さを感じる。
 本音を言えば、あの人ともう一度会ってまた何でもない時間を過ごしてみたい。
 でも、今の私では……。
 どうすれば、前のような私に戻れるかは分からないけれど……とにかく、何とかしてくれると言ってくれた桜さんの言葉を信じてみよう。
 桜さんは、引き戻されたと言ったんだから、きっと自分も戻れるはずだと考えることにする。
 その為には、私自身も心が折れては駄目なのだろう。
 何とか気持ちを切り替えて、よし! と気合を入れ直すように前方に視線を送ろうとした時に突然車がガクンと振動して止まった。
 何事かと慌てて桜さんの方を向くと、少しバツの悪そうな表情をしている。

「あ、ごめんなさい……この子、元々坂道苦手なのよね。あんまり遅く走るとすぐ拗ねるし……結構手がかかったりするのよ」

「え? あ、そうなんですか? でも、冬木って結構坂道多いですし、あんまり速度出せそうな道も多くないですよね?」

 おまけに、車高は随分低いが車幅は結構あるこの車は狭い道向きでも無いと思う。
 にもかかわらず、桜さんは曲乗りみたいな運転でとんでもない速度を出しながら街中を突っ走ってきたわけであるが。
 ………私の寿命を大幅に縮めながら。
 要するに、むるしえらごくんは今から坂道に臨もうとする所で拗ねて止まってしまった状態らしい。
 そういえば、時々咳き込むように車体が揺れていたような気がする。

「そうなのよねえ。本当に困ったものね」

 とか、可愛らしい仕草で悩ましげに頬に手を当ててますが、多分車を変えるという選択肢はこの人の頭には無いんだろうなあ。
 まあ、何というか───手間がかかる子ほど可愛いとか言いますし。
 桜さんは、サイドブレーキを引き再びこの駄々っ子を始動させるべくハンドル横のキーに手を伸ばす。
 先程とは打って変わって静かになったことで、月の光が車内に入ってくることを初めて意識した。

…………………………………

………………………

───限定象へ到達。

───条件付きでの演終了。

───■■領域に仮定値を代入。

───誤差補正、変■■固定。

───外■■■への負荷は既定値のまま■■

───■■理論『■■■』駆動。

…………………………………

………………………

 不意に、桜さんの身体が大きく揺れた。
 機敏な動作でこちらに向けた顔は、私の身体が勝手に反応して仰け反る程厳しいものだった。
 額に伸びる手に、刃を突きつけられたかのような恐怖を感じ悲鳴をあげることも出来ない。

「しばらく、じっとしていて。大丈夫、怪我したりはしないから」

 囁くように言う桜さんは、鋭い輝きを宿した視線で睨むように私を見ていた。
 繊細な指が針を連想させ、自分の眉間に突き立っている。
 と、彼女の形の良い唇から何かの旋律のような声が漏れる。
 英語……いや、ドイツ語だろうか?
 いずれにせよ、遥か遠くからの波間のさざめきのように小さな音だったので聞き取れない。
 それよりも、途端に意識を襲ってきた影のように黒いものにより、眠りに落ちる寸前のように瞼が落ちかかり───

…………………………………

………………………

「そんな!? 何故、止まらないの?」

 大きな驚きの声に、私の意識から影が払拭され覚醒する。
 時間が一瞬分からなくなる。
 身体を動かす命令が、コンマ一秒遅れて為されるようなもどかしさ。
 桜さんは、初めて見せる驚愕の表情で私にまじまじと目を向けている。

「前と同じように無意識領域まで介入したというのに………耐性化? いえ、もっと違う何か───それにこれは………!? もう完成している! 外──!! 天谷さん! 降りて!!」

「え? あ、は、はい!!」

 自分の喋りすら早口に聞こえる浮遊するような感覚の中であったが、叱咤のごとき張り詰めた声に煽られて身体を強引に動かしドアを開ける。
 ぎこちなく自動で上がっていくそれに苛立ち、無理矢理押し上げて転がるように外へ。
 刺すような冷たい外気に瞬間身を震わせたが、駆け寄ってくれた桜さんにあまり無様な姿は見せられぬと、力が入っていない膝を叩いてしっかり立つ。
 桜さんは、私を庇うように背を向けていた。

「さ、桜さん……一体?」

「私の側を離れないでね。私自身過去の戦いの内容をあまり知らないから、目の前のこれがどんな展開になるかは分からないの。でも、これからの為にもしっかりと見届けないといけないでしょうね………大丈夫。あなたは、私が守るから」

 緊迫感に満ちながらも、人を安心させような安定した声音で言う桜さんの視線の先を私も追う。
 そこに居たのは、私と同じくらいの年齢の一組の少年少女……と、黄色いレインコート?
 少女の方は、前と服装が違ったが見たことがある。
 鮮烈すぎて大抵の人は似合わないだろう真っ赤なコートを見事なまでに着こなしている彼女は、間違い無く三社さんの奥さんの若かりし頃の姿だ。
 そして少年の方はどこかで……と、その特徴的な赤毛を見て明確に思い出す。
 ふーがちゃんの叔父さんだという、あの居心地の良い古びた屋敷の本当の主。
 藤村先生の弟分であり、桜さんの先輩だという人。
 士郎さんという名前の奇妙な性格の持ち主。
 ということは……あの士郎さんは、三社さんの奥さんと知り合いであり私が『再現』させているという過去の戦いの関係者だったという事か。
 ───あれ? 待てよ? 
 あの奥さんは、三社さんと同級生であり今見ている士郎さんも同じくらいの歳にしか見えない。
 で、桜さんはその士郎さんの一学年下とか言ってたから……。
 今更ながらに気が付いた、場にそぐわない事で戦慄する。
 ……………つまり、桜さんもお父さんやお母さんに近い年齢の人ということじゃないか!
 一体、冬木はいつから妖怪変化な人達が住む魔境になってしまったのだろう。
 そりゃあ、あれだけ話を聞いてて気がつかない方がおかしいと思うが、実際にこんな可憐な美貌を誇る本人が目の前に居ると、とても想像が出来なかったというか───
 ───と、今はそのような事で頭を混乱させている場合ではない。
 見届けている光景の中で、あの二人が明らかに畏怖しきった表情をして坂の上の方に視線を向けていたからだ。
 釣られるように私もそちらに目を遣ると、そこに………悪夢がそのまま具現したかのような存在があった。
 
 最初は───巨大な岩の塊が突如出現したのかと思った。
 だが、夜空に鎮座する月の光を煌々と浴びて浮かび上がったのものは、どう見ても人の形をしている。
 しかしながら、人を象っているのが悪巫山戯の産物としか思えないほど、その巨大さも迫力も異様だった。
 大体、あの手に持っている馬鹿げた物はなんだろう?
 辛うじて剣の形をしているんだなということは分かるが、あそこまで大きく無骨過ぎる凶悪な代物で一体何を斬って捨てるつもりなのか。
 これまで『視た』人間ではなく兵器だという異常な者達は、少なくとも一見した限りでは衣装こそ奇妙だったがそれ程人間から逸脱しているとは思えなかった。
 だけど、あれはまるで別だ。
 一目で、見る者に化け物だという認識を強要する存在だと断言出来る。

「あれが……バーサーカー………」

 桜さんの、らしくも無い呆気に取られた呟きが耳に入る。
 その単語の意味を私は知っている。
 バーサーカー……確か、狂戦士とかいう意味合いの筈だ。
 つまり───あの今は微動だにしないのにも関わらず、周囲に圧倒的な迫力と恐怖を撒き散らしているモノは、狂ったように暴れるというのか。
 想像しようとして………臓腑に鉛でも仕込まれた様な感覚が襲い、心臓が滅茶苦茶な鼓動を刻む。
 一人一人が冬木を壊滅させるほどの力ということが決して大袈裟で無い事を、これ程理解させられる存在がいようとは思わなかった。
 あんなものに、拳銃とかが役に立つとは到底思えない。
 ミサイルだって怪しい。
 映画に出てくる怪獣のように、あれは自衛隊が総出でかからねばならないモノではないか? と考えずにいられない。
 そして、その怪物の前に酷く不釣合な人影があった。
 少女───それも妖精を連想させるような、儚げな外国人の美少女だった。
 月光に浮かび上がったこの巨人が悪夢なら、こちらは本当に夢幻の類だ。
 美術品の人形のような蠱惑的で麗しい顔立ちも、帽子から溢れる白絹のような髪も、自ら輝くルビーの様な赤い瞳も、現実から遊離して美麗すぎる。
 微笑む表情は天使を思わせ無邪気だったが、何故か不思議とこちらを落ち着かなくさせた。
 全く逆のこの二つの存在は、組み合わせがあまりに歪すぎてあの周囲だけ作り物の世界だという気さえしてくる。

 そう言えば───いつも過去を視ている時は、夢の中の出来事を見ているように自分が目だけの存在となって強制的に『視せられている』感覚があったのだけれど………。
 今回に限って、私は私自身として初めて過去の光景を見ているような気がする。
 ただ、何というか……神経に薄い皮一枚覆われたような奇妙な感じが付きまとっているが。
 この違和感は、微妙に私を苛立たせる。
 良く分からないが、まるで自分が自分じゃないみたいな………。
 ───と、少女がコート越しにスカートの両端を持ち上げ気品溢れる動作でお辞儀をしていた。
 口が動いているので、何か喋っているようなのだが相変わらずデータが破損したように聞こえない。
 少女は嬉しそうに微笑みながら、続く一連の動きで両手を後ろに組み何事か囁いたのが分かった。
 そして次の瞬間、巨人が爆発したかのような、それだけで周囲を破壊する跳躍を───

…………………………………

………………………

───■■領域に予期せぬ破損。

───深刻な、象への■■■■の介入。

───修正による補正───不

───変■■■■───可。

───領域の■■───不

───

───不

───

───不

───

───負

───

───孵

───…………………………………

…………………………………

………………………

「消えた? いえ………消えて───ない? 何故?」

 桜さんの呟きは、不審さに満ちていた。
 確かに、一方は消えていた。
 つまり、少年と少女と黄色いレインコートの三人の方は。
 だが………坂の上の巨人と少女は変わらずにそこに居た。
 いや、変わらずにでは無い。
 その姿を、陽炎の如く揺らめかせている。
 まるで、ここに逗まるか逗まるまいか決めかねているように不安定な映像。
 が、やがてそれも鮮明となり固着する。
 しかし、先程とは明らかに様子が違った。
 少女の方が、こちらを見詰めている。
 違う………見詰めているなんて生易しい表現では無かった。
 その儚げな美貌にそぐわない、だがそれだけにこちらを威圧させる憎悪を剥き出しにした表情で睨んでいた。
 殺意……というものがどういうものかは良く分からないが、あれこそが明確なる殺意というものではないだろうか?

「こちらを認識している? そんな!? 過去の現象をなぞっているだけでは無いと言うの?」

 そう───焦燥に駆られるのも分かる。
 だって、これでは幻影に確固たる意志があって逆襲されるようなものではないか。
 少女は憎しみの光を宿したまま、緩慢に腕を上げるとこちらを指差す。
 その伸びる先は、どう考えても───

「…………私? ───痛っ!?」

「天谷さん!?」

 指差されていると認識した瞬間、頭に急激な激痛が走る。
 思わず崩れ落ちそうになる身体を、桜さんが咄嗟に後ろ手で抱きしめることで支えてくれた。
 背中に密着することで桜さんの良い香りがして、包み込まれているような気分となる。

「いい? 絶対離れちゃ駄目よ? 大丈夫だからね?」

「あ、大丈夫です! それより、これじゃあ桜さんが動きにくくなりますって!」

 私は些か心地良かった感触を振り払うように、自慢の足で後ろに跳躍し迷惑をかけないように身体を離す。
 結構全力で跳んだつもりだったがほとんど距離が離れなかったのは、桜さんの私を抱く腕が恐ろしく強かったからだ。
 あの細腕で、あんな力が強いなんて……と、私は少々瞠目する。

「私は平気だから! それより、そこ動かないで! …………来る!!」

 桜さんは叫びに似た鋭い言葉の後、先程の旋律の如き言語を発する。
 大地が叩き割られるような轟音が響いたのは、ほぼ同時。
 黒塊の巨人が坂上から跳躍し、隕石を思わせる落下でこちらに迫っていた。
 私は、無意味にも恐怖のあまり本能的に頭を抱えそうになる。
 あんなもの、少し掠っただけでも己の身体など粉々なるというのに。
 だが…………目の前では私の絶望的な予想など遥かに超えた展開が巻き起こっていた。
 地面に落ちる、月光により色濃く映る影───そこから、幾多もの黒き帯のようなものが大気を裂く音と共に射出されたのだ。
 それらは、意志を持った触手であるかの如く空中であっという間に巨人を捕まえ、縛り上げ、何重にも絡みつく。
 その様に───巨大で奇怪な捕食生物を連想した。
 相当の重量があるだろう巨体が、四肢に食い込む凶々しいその黒き帯に仰向けに軽々と持ち上げられていたからだ。
 巨人は縛鎖に囚われた獣を思わせる、咆哮を上げんばかりの正視し難い凶暴な表情となっている。
 何故かデータが欠落した様に声だけが無音の状態で、本当に良かったと思う。
 もしこの巨人が実際に咆哮を上げていたら、私は正気を保っていられる自信がなかった………。
 まさしく───瞬く間の捕縛劇だった。
 私は、ただただ言葉も無く呆然とするしかない。
 あの信じ難い化け物のような存在が、赤子の手を撚るかのように捕らえられ宙吊りにされているのだ。
 しかも、それを成したのは───

「───御生憎様ね。私の『影』はあなた達のような存在にこそ、天敵のように作用する。ましてや───本物ならいざ知らず……今の様な本物から遥かに遠いであろう存在に成り下がっているモノに、私が遅れを取るとでも思いますか?」

 クスクスと笑いながら、嬲るように言うその姿に私の肌が一気に粟立つ。
 これが………あの桜さん?
 滲み出る不吉な彩りさえ帯びた容赦の無い雰囲気からは、私が短い間ながらに知った彼女の柔和で優しげな所など微塵も感じられない。
 そのあまりの変貌に、恐れを抱き身体が震えだしそうになる。
 しかし───よくよく考えてみれば、今行っている行為自体は私を守ってくれたが故のものだ。
 それに、恐怖や嫌悪を覚えるなど身勝手さにも程がある。
 つまり、三社さんや桜さんが『こちら側』と表現する魔法使いの世界とは、これ程の苛烈な側面が無いと到底生きてはいけない場なのだろう………と、思うことにした。
 平静さを維持するのに、多大な努力を払わなければならなかったが。

「さて………少し哀れな気もしますが、あなた達は食べてしまうことにしましょう。『再現』された過去という異常の中で、あなた達はさらなる異常のようですから。吸収することにより、この謎を解明する糸口が見つけ出せるかもしれないですし」 

 相手を恐懼させずにはいられない口調で言う桜さんの言葉には、どうしても忌まわしい想像をしてしまうものが幾つか含まれており、知らず半歩ほど後ずさっていた。
 当の言われた相手であろう少女の方も、虚ろな目で怒りに顔を歪ませた表情はそのままに、追い詰められたかのごとく身体を引いている。
 桜さんの周囲から、ゆらゆらと蠢くものが湧き立つ。
 影そのものが平面から理不尽にも剥離した様に見えたそれは、今巨人を捕えているものと同種のものだということが分かった。
 鎌首をもたげた蛇に似た動きでしばらく揺れていた影達は、唐突に獲物を見つけたとでも言うように妖精の如き少女に襲いかかる。
 私が見ていられず、目を閉じようとしていたその時───耳を劈き意識に浸透して漂白する吠え声が響き渡った。

「───無駄です。悪いですけど、その手の単純な力比べで負ける気はしませんよ? 何しろ、それだけはこの身に有り余っているのですから」

 挑発的に言う桜さんだったが、その声の中には少なからず驚きの調子があった。
 予測通り───いや、それ以上の圧倒的な意識を遠のかせんばかりの咆哮。
 身体を暴力的に直接響かせるそれを、何故それまで無音だったはずの巨人が上げたのか分からない。
 強いていうならば、今まさに迫っていた少女の危機に狂戦士という名前そのままに猛り狂ったとしか考えられなかった。
 全身を縛鎖で囚われた巨人は、無謀にも吠えながら力任せにそれらを引きちぎろうとしている。
 その身を覆う、岩塊を思わせる筋肉が破裂せんばかりに隆起していた。
 だが、そのような事でこの無数の凶悪な黒き帯は…………!? 

「…………くっ!? なんて───出鱈目!!」

 焦燥に満ちた声の桜さんが言うように、それは出鱈目としか見えない。
 巨人の片腕が、引き絞られるように上がる───影の触手が無残にも千切れる。
 もう片方の、大岩をそのまま削り出したかに見える斧とも剣ともつかないものを持つ腕も同様に……強引などという表現では生温い方法で自由を得る。
 そして───暴風が吹き荒れた。
 凄まじすぎて、無数の線の集合となった荒れ狂いようは竜巻がそのまま具現しているかのようだ。
 一瞬で、夥しく有ったはずの黒い帯が掻き消される。

「───っ!? 天谷さん! 逃げて!!」

 膝が笑い出す寸前で立っているのがやっとだった私を、叫びながら桜さんが突き飛ばす。
 バランスを崩しながら足だけが勝手に後ろへ逆回しの動画のように進み、十数歩という所で盛大に尻餅をついた。
 混乱極まりすぎて麻痺しかかっている私には、見上げている映像が酷く緩慢なもののように思えた。
 竜巻の如き凶悪さを維持したまま、巨人が桜さんに跳躍して迫っている。
 あれでは、次の瞬間にあの人は原型も留めないほど粉々になってしまうだろう。
 そして、その数瞬後には自分も同じ運命を辿るのだと、どこか他人事のように考える。
 ───ああ、何が何だかさっぱり分からないけど、死ぬってこんなに簡単な事なんだな。
 でも───同じ死ぬならこんな所ではなく………そう、あの海の彼方を見ながら死にたかったなあ。
 出来れば、あの人に見送られて───
 と………そんな虚ろで方向性の定まらない逃避をする私の思考は、本当に唐突に起こった急変する光景で無理矢理にも現実に引き戻される。
 雷鳴に似た轟音を上げながら、どこからか突然飛来した光の軌跡が巨人の厚すぎる胸板を貫通していたのだ。
 結果、宙に在った巨体が頑強な壁に激突し弾かれたように後ろに吹き飛ぶ。
 瞬間、何もかもが静止したような感覚を覚えた。
 仰向けに地に落ちる寸前───断末魔の咆哮を上げると思われた巨人は、それまでとは打って変わった静かな唸り声のみ残し溶け崩れて消失する。
 それは、どこか……潔ささえ感じる最期だった。
 
 坂の上の少女は………もはやこちらを見ていなかった。
 その表情も憎しみなどに歪めておらず、恐らく本来のものであろう気高い静謐さを湛えた聖女の如き顔となっている。
 彼女が見ている視線の先には、異様なものが突き立っていた。
 剣……のようなのだが、その刃の部分がドリルを思わせ螺旋状になっているのだ。
 道の真中に、亀裂を生じさせ刺さっているそれは恐らくあの巨人を貫いたものだろうと見当がついた。
 やがて、均衡を崩したようにその不思議な剣は僅かに揺れて倒れる。
 金属質の高い音を鳴り響かせ、不可解なことにそれは幻の如く消えた。
 次に少女は、遥か遠くへ眩しいものを見るように目を遣っていた。
 多分その方角は、新都の中心街だろう……と私がぼんやり考えている中、彼女も納得したように一つ頷き邪気の無い笑顔を見せながら消え失せた。
 
 あまりに凄まじい出来事の連続に、私はしばし放心して閑静な場所へと戻ったここに視線をさ迷わせた。
 一陣の寒風が吹き抜け、遅まきながら今夜は身に染みるほど冷え込むということを教えてくれる。
 夜空に目を移すと、雲一つ無い為に見事な星々の輝きがあった。
 正直、泣き出していいのか笑い出せばいいのか分からない。
 ただ、今は───日常からかけ離れすぎた先程の出来事に、まるで実感が湧かなかった。
 だが視界に映るものを認めた時、こんな腰を抜かしたような姿勢でいつまでも呆けている場合ではないと気がつき、心に喝を入れて立ち上がる。
 桜さんが、身体に力が入らないという体で道の真中にへたり込んでいたからだ。

「桜さん! 大丈夫ですか?」

 駆け寄る私に顔を向け、気丈にも大丈夫だという風に微笑んでいたが、どう見てもその微笑は弱々しかった。
 肩を貸して何とか立ち上がらせて、停めてある車の方へ一緒に歩く。

「この所……平穏が続きすぎたから……身体が鈍ってたのかしら……こんな事でヘタばるなんて……こんなんじゃ、姉さんに怒られちゃう……」

「何言ってるんですか。桜さんは、私の命の恩人ですよ? 正直、凄すぎです。誰にも文句なんて言わせませんよ!」

 荒い息をつきながら自分を責めるように言う桜さんに、私は語気を強くして励ます。
 実際に、この人は凄かったのだ。
 あんな化け物そのものみたいな巨人に対し、まるで怯まず途中までは圧倒していたのだから。
 それに、本当にこの人がいなければ私の命は無かったんだと思う。
 最初から最後まで、私は彼女に守られっぱなしだった。
 この借りは、終生に渡っても返しきれるかは分からない。
 だが、この人への借りは、負担どころか返すことがとても喜ばしいものになるに違いない。
 ここまで私が心酔して尊敬出来る強い女の人がこの冬木にいようとは、この間までついぞ思わなかった。

「ありがとう。でも、もっと凄い人もいるから………天谷さんにも、機会があったら紹介するわね。いえ……必ず紹介するわ。それにしても………」 

 桜さんは、先程の少女と同じく新都の中心街の方へ遠い視線を送っていた。
 その表情は、悲しげでもあり、何かを咎めるようでもあり、嬉しげでもあるという複雑極まりないものだった。
 私もそちらに顔を向けるが、目に映るのは赤い光を明滅させ所々虫食いのように窓を輝かせる高層ビル群のみだ。

「駄目ですよ、あまり無茶したら………あなたはもう、一人では無いのですから……」

 切なげな呟きは、一体誰に充てられたものなのか分からない。
 だが、桜さんにこのような響きで言葉を発せさせる誰かに対して、私は幾分嫉妬を覚えていた。

…………………………………

………………………

───■■領域の破損───修復。
 
───変■■の洗浄───完了。

───象演───再起動。

───領域測───再開。

───■■■■による影響は極微小。

───残時間については現行のままとする。

…………………………………

………………………






[18834] 匣中におけるエメト 5
Name: tory◆1f6c1871 ID:8e7f98a1
Date: 2010/07/05 19:53


 ───私は、昔あの娘に会っている………はずだ。
 ───ただ、何故か今でもそれを確信を持って言うことは出来無い。

 幼い頃、私は随分泣き虫だと言われた。
 実際に、よく泣いていたと思う。
 とにかくお母さんにベッタリだった私は、それが出来ないと不安で仕方がなかったのだ。
 結果、母親にアヒルの子よろしく付いて回っていた子供だったというわけだ。
 さらに、何でもかんでもお母さんの真似をしたがり、それで叱られてはまた泣くのだから周囲には大分手を焼かせたようだ。
 本当に……あんな無茶苦茶ばかりして、時に豪快に暴れまわり、さらに鷹揚と言うには行き過ぎているほど呑気で大雑把で、人並外れて運動神経抜群のクセしてコケるときは盛大にコケて、早とちりの挙句泣き叫ぶというあの人のどこを私は気に入ったと言うのだろう?
 答えは、今も昔も勿論決まっていた。
 全部だ。
 とにかく、お母さんのやる事為すこと大好きなのだ私は。
 マザコンと呼びたければ呼べばいいじゃない! そうよ、マザコンよ! と胸を張れるほどに。
 が、そのままでは、到底一般社会を普通にイキテイケヌ………と、お母さんは遅まきながら私が物心ついて大分経ってから気が付いたらしい。
 ああ見えて、実は意外と妙なところで心配性なあの人は、その事で密かに結構悩んだりした………と、これは正反対に物静かで穏やかなお父さんが後で教えてくれたことだ。
 それで、急に剣道をやらされる事となる。
 つまり、お母さんとしては甘ったれた私を精神的にも肉体的にも鍛え直したかったわけだ。
 最初は一対一で直接教えてもらえることにわくわくした私だったが………それは、本当に容赦の無く厳しいものだった。
 『冬木の虎』と現在も穂群原で伝説となっている剣士であるお母さんは、剣を取ればその腕前は年を重ねて衰えるどころかますます冴え渡るという人だったのだ。
 学校では何故か弓道部の顧問だから、みんなあまり見る機会が無いだろうけど、私は身を持ってそれを体験したのである。
 何度も何度も、激しく打ち据えられ情け無用とばかりに叩きのめされる事で。
 当然、そうなれば私は泣き叫ぶ訳であったが、いつも笑った顔をしていたお母さんはこの時ばかりは鬼のようで、逃げ出したいくらい怖かった。

「あんたね………私のようになりたいんなら、その程度で泣くんじゃないわよ! 私がその歳の時には、今位の打ち込みだったら十回に一回は止められたわよ? ほら、立って! 構えて! シャンとしなさい!!」

「ぞ、ぞんなごど……うぐ……い゛っだっで……ひっぐ……み゛えないんだも゛ん!!」

 強い叱咤で何とか泣くのをやめようとするのだが、どうしても涙が出てきてしまう私はとても理不尽な事を言われている気がしていたと思う。
 一撃一撃が、一応防具を着せてもらっていたにもかかわらず一瞬頭が真っ白になる衝撃が走る程で、さっぱり見えないのだ。
 当時の私にしてみれば、まるで落ちてくる雷を受け止めよと言われているかのようだった。

「いい? 風河。さっきから言ってるように、ただ剣の動きだけ見てちゃ駄目。私の足の捌き、腰の据わり、剣を握った拳の動き、目線……それらを剣先と一緒に全体で見るの。相手の全身を感じ取るように。そうすれば、自然と何処に打ち込んでくるのか分かるようになるから」

「ぞんなの……ひっく……無理だよう……」

「出来る! あんた、私の娘でしょう? 出来ないのは、無理だって思い込んでるだけよ。絶対出来るようになるんだから。出来なければ、最後に素振り百追加だから」

「ぶえ゛え゛え゛ぇえ゛え゛え゛ぇえん」

 と、まあ、涙で面の奥の顔をぐちゃぐちゃにしながらも、お母さんの見たこともない真摯で迫力ある表情に決して逃げられないと悟って、言われたとおりにやってみるしか無かった。
 全身を見る。
 ああ、そうか───全部繋がってるんだから、どこかがちょっとでも変化すれば他も変化するってことか。
 まあ、そうやって分かった気になったものの………そんな簡単に、上手く行くわけないのであって。
 私は、面白い様に打たれまくり、やっぱり泣きながら最後に素振りするはめになった。
 しかも素振りで使うのは、木刀や竹刀ではなく赤みがかった樫の重くて長い棒で

「どこぞの大治郎さんみたいに、二千篇振れとかは言わないから。それに、本物とは違って大分短くしてあるし軽くもしてあるからね。とりあえず、百回。休み休みでもいいから頑張りなさい」
 
 と、何でもないことのように言われたものの、子供だった私には一回振るだけでも全力を尽くさなければならない代物だった。
 何とか百回終わった頃には、気絶するように倒れこみ……それが幾日も幾日も続いたのだった。
 後で聞いて驚く。
 お母さんは、今こそやってはいないが学生時代現役で活躍していた時まで、私が使っていた振棒なんか比べものにならない程全然重くて長い、あまつさえ鉄の輪っかが嵌めこんであるモノを使って毎日素振りしていたらしい。
 見せてもらったそれを、私は持とうとしただけでよろけてしまった。

「こ、こんなので? 何回ぐらい毎日素振りしてたの?」

「とりあえず二千回かなー? だって、それが出来ないと秋山道場で教えを請えないからね!」
 
 それを軽く振って風を切らせ事も無げに言うこの人に、初めて伝説となった片鱗を見たような気がした。
 さらに詳しく聞いてみて、その秋山道場とやらが有名な時代小説に出てくる架空のものであるのを知り、ああ、お母さんらしいなあとも思ったけど。
 そっか、これじゃあ私にこんな無茶なこと言うのも当たり前かな、とそれで子供心に妙に納得したりもした。
 まあ、それはともかく………どれくらい経った時であろうか。
 慣れというものは恐ろしいもので、私は全然泣かなくなっていたし結構平気で荒行に等しいこの剣の稽古をこなすようになってきた。
 結論として言えば、お母さんの私に対するやり方は正しかったのである。
 私は前ほどお母さんにベタベタはしなくなったし、尊敬する念も生まれていたのだから。
 だけど、相変わらず疾風のように飛んでくる剣は殆ど止められなかった。
 そんなある時

「んー……あんた、どうもちゃんと見えてるのに、身体が反応しきれてないようね。うーん、この辺りって所かなあ。ね、風河どうする? あんたが、嫌ならもうやめるけど。随分ちゃんとなったし、性格的にも向いてはいないようだしね」

「そんな!? ここまでやっておいて、なんでよ? それに───」

 唐突に今までが嘘のようにあっさり言われた言葉に、私は突き放されたような気がして見捨てられないように必死に言い縋った。
 激しい稽古で息も絶え絶えだったけど、お母さんは全く息切れしていない。
 何となく、薄々は感づいていた。
 私は、どうも剣道とかは向いてないんじゃないかって事くらいは。
 素質もそうかもしれないけど、お母さんが言うように性格的に少し気弱なところがあるのが原因だろう。
 でも、それじゃあ───
 
「それに、私みたいに成れないって言うんでしょう? そんなの当たり前じゃない。風河は風河なんだから。そういう当たり前のことが、あんたには抜けてたようだったからね。それでも意地張るって言うなら付き合うけど、あんたの才能は多分別にあるわよ」

「………才能って?」

「うん、なんて言うかなあ───この前さ、私が寝る前にちゃんと柔軟しとかないと明日絶対寝違えるよって言ってくれたじゃない? あれ見事に当たってて、本当に寝違えたのよねえ……他にも、あんたウチの若い衆にもお腹の辺りが何かおかしいとか言ったんだって? それから、そいつ気になって病院行ったら胃炎が悪化して胃潰瘍に成りかけてたんだって。本人は、昔の刺し傷が疼いてたと思ってたらしいから笑っちゃうわよね。でも、そいつ大分感謝してたわよ。お嬢はもしかして、超能力者ってやつですかい? って言ってたっけ」

 そんな事も………あったような気がする。
 そうだ、確かお母さんに相手の全体を見るように言われてから、そのつもりで色んな人を練習するように見てたっけ。
 ちょっとした変化も、逃さぬように集中して。
 そうしたら、いつからか何故か確信を持って見ている人の違和感が分かるようになっていた。
 ああ、あの人は少し捻挫の癖があるなとか、肩に疲れが溜まり過ぎてるなとか、もう少し無理するとこの人何か脚の辺りが危なそうだなとか。
 一応、そういう人達には気になって仕方なかったから注意したりしたけど、あまりまともに取り合ってもらったことがなかった。
 私は、お母さんに言われたとおりにしようとしただけで、当然お母さんもそういう事分かるんだろうなって思ってたんだけ……ど?
 訊いてみたら、お母さんは私にはそんな事は出来ないと苦笑して首を振った。

「私もてっきり、自分の娘だから剣の才能があるんだろうなって思ってたけど……何か、別の良く分からない才能が開花しちゃったみたいねー。でも、そっちの才能の方がよっぽど人の為になりそうじゃない? お医者さんとか、スポーツトレーナーの道とか進んだら色んな人を助けられそう」

「でも……でも……!!」

 何故か無性に悔しかったけど、何も言葉が出てこなかった。
 そんな私に、稽古中には決して見せなかった陽だまりを感じさせる笑顔でお母さんは近寄って来ると、私の面を取ってくれた。

「うん。虎は千尋の谷から我が子を突き落とすとか言うけど、とにかくやった甲斐はあったわね。我が娘ながら、今までよく頑張った! 偉いぞ!」

「お母さん……それ……獅子だよう……」

「いいのよ。同じ猫科なんだから問題なし!」

 頭を撫でてから、抱きしめてくれた事に嬉しくて私はやっぱり泣いてしまった。
 私はお母さんのようには成れないんだなって事がとっても寂しくて、でも認められたことは凄く誇らしくて。
 当たり前のことなんだけど、お母さんと私は違うんだなという事に漸く気がつけた日。
 それで、ますますお母さんのことが好きになった。
 この日以来、私は剣道をすっぱりやめた。

 それから間もない頃の事だ。
 私は、お母さんと二人で珍しく新都まで買い物に来ていた。
 確か、父の日か何かでお父さんにプレゼントする服を買う為に駅前の百貨店を訪れていたのだ。
 そこで、あの雨の日に会った女の子に再会する。
 ちょっとかっこいい男の子のような顔立ちに、切れ長の綺麗な目が特徴的だったのですぐに分かった。
 必死でずぶ濡れになりながら、子猫を探していた娘。
 私達親子も、一緒になってそれを手伝った。
 でも、結局子猫は見つからなくて、女の子は泣きそうな顔で逃げるように何処かに行ってしまった。
 私は、その日何だかとても悲しくなってしまったのを憶えている。
 お母さんも、珍しくあの時浮かない顔をしていた。
 もっと何とか出来たのではないだろうか……と、ずっと心に引っかかっていたのだ。
 その娘が、今私と同じように母親と共に居て楽しそうに笑っているのを見てほっとする。
 だから思わず、手を振って声をかけ走り寄っていた。
 だけど彼女は、不思議そうな顔で首を傾げる。

「あの?」

「こんにちは。あの日は、ごめんね。役に立てなくて。猫ちゃん見つかった?」

「猫…………………??」

「え? あ、あれ? 私のこと忘れちゃった?」

 本当に、訳がわからないといった表情なので私は慌ててしまった。
 一緒にいるこの娘の母親の方も、戸惑った顔をしている。

「あの………理沙のお友達かしら?」

「あ、えっと……その……ちょっと前に、猫を一緒に……深山町の方で……」

「ああ………もしかして、この娘が猫を探しに行った日に知り会ったのかしら? 実は、その猫死んでしまって………この娘それで凄いショック受けちゃって、色々忘れちゃってるの。だからもしかしたら、あなたのことも憶えてないかもしれない。本当にごめんなさいね」

「え!? そ、そうなんですか………」

 私もそれを聞いて、頭を殴られたようなショックを受けた。
 この娘は───あんなに必死だったではないか。
 それこそ私には、彼女が思い詰め過ぎてどんな無茶をやりだすか分からないように見え、あの時ハラハラしていた。
 だから、お母さんと一緒に必ず見つけ出すんだって強く決意していたのだ。
 それに、この娘がその子猫を説明してくれたときに聞いた、そのあまりの愛らしい様子の描写の数々は、私に是非見てみたい抱いてみたいという気持ちを起こさせるに充分なものだった。
 それが………こんな結末になっていたなんて。
 こんなの、あんまり過ぎる。
 私の視界が、少し涙でぼやけた。

「………優しい娘さんね。大丈夫、ほんのちょっと記憶が混乱しているだけみたいだから。うっすらと悲しいことがあったのは憶えているみたいなんだけど……また動物飼おうとしたら凄く嫌がったし。だから気を悪くするかもしれないけど、そのことは少しだけそっとしておいてくれる? ごめんね」

「お母さん、さっきから何の話してるの?」

 申し訳なさそうな顔で丁寧に頭を下げてくれたこのお母さんに、私は半泣きになりながら何度も馬鹿みたいに大きく頷いていた。
 この彼女……あの時は訊けなかったが理沙という名前らしい娘は、まるで分からないという顔で不満そうに口を尖らせむっとした表情で母親の方を向いている。
 そうか───あまりにも悲しすぎる事なら、忘れてしまったほうが良い………のだろうか?
 本当にそうだと言えるのか、私にはいまいち納得できなかった。
 だって、辛い思い出の中にも決して忘れてはいけない出来事も含まれているのでは? と、その時何となく考えてしまっていたからだ。
 それとも、どうしようもなく辛すぎる事に対して人はそうせずにはいられないということか。
 当時の私には難しすぎて───いや、今考えても───答えは出せそうになかった。
 でも、確実に言えるのは…………この娘を責めることは出来ないということ。

「何処かで会ったことがあるのに、理沙が忘れてるって話よ。だから、この娘さんが悲しんでるってこと」

「え? ………そうなんだ。ごめんなさい、正直思い出せないんだけど………」

「あ、ううん。ごめんね、急に声掛けたりして。じゃあ、改めて自己紹介するね。私は───」

 母親に言われて心底申し訳なさそうな顔で律儀に頭を下げた彼女に、私は正面から向き直る。
 そして、顔を上げたこの娘の全身を改めて見詰めた時に身体中に電流が走ったような衝撃を受けた。
 そんな───何で………何で………
 こんな事って───あり得るの?
 この娘で間違いないはずなのに………それなのに───
 これじゃあ、まるで───

「あの……あの………!」

「え?」

「理沙ちゃんって………本当にあの時の理沙ちゃんなんだよね!?」

「は? あの時って言われても………」

 切羽詰った声で言い募る私に、とても困惑した顔を彼女はした。
 そうだ、この娘は私と会った時のことを憶えてないんだった。
 何を言われてるのか分からないのは、無理もない。
 私自身だって、何を言ってるのか上手く説明できない。
 でも、目の前に居るこの娘は実際にはもう───

「え? なんで!?」

 彼女が動揺した声を上げる。
 私が………目から流れ出る熱いものを、止めることが出来なかったからだ。
 何故こんなに胸が張り裂ける様な気持ちになっているのか、分からない。
 でも、お母さんから剣を習うことで大分マシになったはずの泣き虫だった自分をどうしても抑えることが出来なかった。
 恥も外聞もなく泣き叫んだ私に、それまで遠くで見ていたお母さんが慌てて駆け寄ってきた。

「どうしたのよ、もう! 何か言われたの?」

「あ、あの………ごめんなさい。そんなつもりは無かったんですけど……」

 堪らず胸に飛びつく私を受け止めたお母さんに、彼女は何故かは分からないが自分のせいだという事を感じたらしい罪悪感が多分に含まれた声で平謝りしていた。

「こっちこそ、ごめんね。何だか、困らせる真似しちゃって……この娘元々泣き虫だから気にしないでね。お母様の方も……ウチの娘が大変失礼な態度を取ってしまい申し訳ありませんでした」

「いえいえ……とても感受性が強い優しい子みたいですね。ウチの娘もガサツな所がありますから……知らずにその子を傷つけるような事をしてしまったのかもしれませんので」

 私を抱えたまま深々と頭を下げるお母さんに、あちらのお母さんも取り繕うように言う。
 一言二言、母親同士で社交辞令的な会話を交わすと互いに別れた。
 その間私は、お母さんに顔を押し付けたまま嗚咽していた。

「で? 結局なんで泣いてるの? ひっくり返ったとか違うって言ってたけど……どういう意味?」

 しばらく優しく髪を撫でながら、宥めるように言うお母さんに私はまともに答える言葉が思いつかなかった。
 あの鏡越しに見ているような強烈な違和感はどう説明しても納得して貰えそうに無い。
 あの娘が何故あんな風になってしまったのか………それを考えれば考えるほど、私には不条理で不吉な事しか想像できない。
 思い出すだけで恐怖と悲しみに捕らわれ、その日私はなかなか泣き止むことが出来なかった。

 『理沙ちゃん』と会ったのは………そう、一年半くらい前。
 穂群原に入学したての頃だ。
 運が良くも、私はすぐに念願のマネージャーになることが出来た。
 丁度、陸上部の前任のマネージャーが卒業したばかりで欠員し取り急ぎ募集中だったのだ。
 普通は後任の人間がマネージャーの在学中から居るものだが、顧問の先生が気難しく破天荒だった為に御眼鏡にかなう人がそれまで居なかったらしい。
 私はそれを知り、即断で陸上部にマネージャーとして応募した。
 緊張の面持ちで面談に望んだ私を、顧問の蒔寺先生は上から下まで眺めた後に

「うん、合格! 見た目の癒し効果も、ちょっと天然っぽいところもバッチリ! これからよろしくな!」

 と、気持ちのいい笑顔で親指を突き出してくれた。
 実に、拍子抜けするほど簡単に採用されたのである。

「は、はい! よろしくお願いします!」

 私は採用基準が良く分からず少し戸惑いながらも、嬉しくて勢い込んで礼をしていた。
 あと蒔寺先生が、その仕草や雰囲気がちょっとお母さんに似ていたので何となくこの人とは波長が合うかも……とも思った。
 しばらく経ってから、私が藤村大河の娘であると知って先生は大分慌ててたけど。
 "サーイエッサー……イギリス最高”とか“やめて……パンジャンドラムやめて”とかブツブツ虚ろな表情で呟いて頭を抱えながらガクガク震えていたのは、一体なんだったのだろう?
 まあ、それはともかく………晴れて新しいマネージャーとして新入部員と一緒に挨拶することになったのだが、その新入部員の中に理沙ちゃんも居たのだ。

「一年A組、天谷理沙です。中学では高跳びをやっていました。よろしくお願いします」

 と挨拶する彼女に、少しだけ周囲からどよめきが起きる。
 後で聞いた話で、実は理沙ちゃんが中学生の大きな大会での記録保持者でそれなりに有名だったらしいということが分かった。
 見た目も手足が長くて佇まいも毅然とし、どこか人を寄せ付けない独特の雰囲気。
 中性的な顔に切れ長の目が特徴の───

“あ! あの娘だ!”

 そう認識した瞬間、私はありありと過去の百貨店での出会いを連想して少し身構えていたと思う。
 あれから結構な時間が経っていたが、記憶にはまだあの時のそれが生々しく残っていて、ちょっとしたトラウマになっていたからだ。
 流石にこの歳で泣き叫んだりはしないだろうが、それでも怖い事には変わりない。
 だけど、何とか心を強く持ってなるべく平静でいようと覚悟を決めていた。
 ところが………

“あれ?”

 以前に感じた違和感が、彼女を見ても全く無かった事に肩透かしを食らった。
 何というか……鏡文字を鏡に映して正常に読めるような文字にしたような。
 つまり、それは普通の何の変哲もない文字であって取り立てて騒ぐことじゃ無いというように。
 軽い目眩を感じた気もしたが、これは必要以上に内心で緊張していたせいだろう。
 実際に、私は息を詰めていたのだ。
 では───前のあれは何だったのか?
 いや、そもそもこの天谷理沙ちゃんとあの時の理沙ちゃんは───?
 それは間違いないと思うのだけど……でも………。
 思考がゴチャゴチャとなり混乱してきた私を取り残し、新入部員たちの自己紹介は滞り無く進行していく。
 やがて───私は名前を呼ばれた事で、外界を遮断して自らの内側に没入していた出口の無い考えを中断した。 
 新しいマネージャーとして自己紹介する番になったのだ。
 慌てて立ち上がって、先生の側に行く。

「で、だ。皆が懸念していたマネージャーの件だが、厳正なる審査を繰り返した結果、かなりの上玉をゲットすることに成功したので存分に褒め讃えるように。あと、いじめたりしたら私のクレイジーなダイアモンドでドラララなので覚悟すること。じゃあ藤村」

「あ、は、はい。一年C組の藤村風河です。マッサージとか少し出来ます。い、至らないところが一杯あるとは思いますが、一生懸命頑張りますので皆さん宜しくお願いします」

 先生に肩を叩かれた後、まだ頭の中が上手く整理できていなかった私は少々口がもつれてしまったけれど、何とか一息で言い切ることが出来た。
 先輩達が気を使ってくれたのか、それとも本当にマネージャーを待望していたのか分からないが、歓声を持って応えてくれたのが嬉しく緊張が少し解けていた。
 そう、私は他人のことばかり気にしている場合ではなかったのだ。
 この日から、皆のサポートをするためにきっと走りまわらなければいけないし、陸上競技について一通りのことしか知識のない私は色々勉強せねばならないことも多いだろうから。
 きっと最初は、迷惑をかけ続けてしまうに違いない。
 その時の私の心は、ドタバタするだろう前途への不安と期待で大部分が占められていたのだ。
 だが一部ではどうしても、天谷理沙という娘へのモヤモヤした気持ちが存在していた。

 しかし、結局のところ───そんな理沙ちゃんへの訳の分からぬ気持ちは、部活を通して日々を一緒に過ごしていく中で次第に薄れていくのだが。
 実際に、昔感じたような強烈な違和感が今の彼女から全く感じられないのもあるが、私自身が彼女を気に入ってきたというのが大きい。
 ちゃんと話すようになって分かったが、理沙ちゃんは私の好きなタイプの人間だったのだ。
 どこか偏屈でいて、芯を一本しっかり持っているというか。
 それでいて、危うげでもあり放っておけないというか。
 時々、信じられないくらい頑固で意地っ張り。
 だけど、基本的には冷たそうな外見とは違い他人を寄せ付けないということも無く普通に年頃の女の子のように話すし、周囲への気遣いも人一倍して親切だ。
 おまけに礼儀がしっかりしていたので先輩からの受けが良く、後輩の(特に女の子からの)人気も高い。 
 だから次期主将にと推す人も多いのだが、ある時、理沙ちゃんの親友の琴ちゃんにその事を話したら

「天谷は、人の上に立つべき人間じゃない。此奴はな、他人の親切が素直に受けられないという重大な欠点がある。というより、負担に感じてしまう少し度量の狭い人間なのだ。それは、場合によっては他人を上手く使って引っ張っていかなければならない主将という立場においては致命的だ。だから、間違っても主将になんか祭り上げない方が良い。部も天谷本人も崩壊するだろうからな」

 と、手厳しかった。
 本人を目の前にして言っているところも、また容赦がない。
 だが、散々な言われようの当の本人である理沙ちゃんは大きく何度も頷き

「うん、流石良く分かってらっしゃる。そんな状況になったらと想像するだけで目眩がするなあ、私」

 と、肩を竦めて苦笑していた。
 それは図星を突かれて誤魔化すようにおどけるという態度ではなく、欠点を認め納得した上で自嘲するしか無いという感じだった。
 なかなか自分の短所を認めるのは出来ることじゃないので凄いなあとは思ったが、自身への諦観が過ぎるのでは? という気もする。
 案の定、琴ちゃんは苛立ったような顔をしていた。

「天谷……自覚があるのは結構なことだが、それを治そうとしないのは君の悪い癖だ。日々を野放図に安穏と過ごしてないで、少しはそれを何とかする努力をすべきだと思わんか?」

「あ、いや、ほら……なんていうか、六つ子のなんとかってヤツだからさ」

「まさかとは思うが……三つ子の魂百までのことを言っているのか? どちらにしろ、その手のは言い訳でしか流用されないのが定番でな」

 琴ちゃんの挑発するような微笑に、流石に理沙ちゃんもむっとした表情をした。
 この二人のやり取りは、遠慮がないために他の人から見ると険悪なようにも見える。
 が、こういうのが本当に仲が良いことだということを私は知っている。

「………じゃあ、アンタはその激しすぎる妄想癖を今から何とか出来るって言うわけ?」

「これは、母親譲りだ。私自身が欠点だとは思ってないのだから、該当するものではあるまい? 大体、妄想ではなく芸術家に必須の自由で豊かな想像力だと何度も言っているだろうが」
 
 …………そうなのかなあ?
 私も、琴ちゃんのその自由で豊かな想像力ってやつを知ってるけど………うん、確かにちょっと行き過ぎてる時あるよね。
 人を見る目は抜群に鋭いから、一を聞いて十を知るって事が殆どだけど時々一を聞いて十を勘違いするって感じ。
 理沙ちゃんは、呆れ果てた顔で自分の髪を男の子のようにグシャグシャと掻いていた。

「アンタねえ………それが欠点じゃなかったら、何が欠点だって言うのよ! 一体それで、私がどれだけ迷惑を被ったか分かってる?」

「迷惑? それは、あの後輩の娘が天谷の着替えの時に───」

「わわわ!? それを、今ここで言うな! バカー!!」

 顔を真赤にしながら口を塞ぐ理沙ちゃんに、琴ちゃんは目だけで笑っていた。
 大抵、この二人で会話をするのを見ると理沙ちゃんが琴ちゃんにやり込められている光景に出会すことが多い。
 理沙ちゃんも琴ちゃんも外見はクールに見えるけど、理沙ちゃんは見かけだけで琴ちゃんは本当にそうだから、どっちに軍配が上がるか明らかってもので。
 さらに言えば、琴ちゃん口が達者だからねえ。
 それはそうと、何か面白そうな話だなー。

「ね、ね? それってどんな話なの?」

「うむ。実は───」

「ああああ、え、えーっと、風河様? い、今の話は、聞かなかった事にしてくれると大変助かるのデスガー?」

 琴ちゃんにスリーパーホールドを決めながら、こちらのご機嫌を取るように理沙ちゃんが言う。
 随分とアタフタしてて、こういう所が外見と全然違って可愛いと思う。
 だって………そんな表情されると、いじめたくなっちゃうよねえ?

「えー? どうしようかなー? ところで、後輩の娘ってあの理沙ちゃんに堂々と抱きついてキスしようとしたっていう……」

「だー!!? わ、分かった! ブツは何だったらお許し頂けるのデスカー!?」

「あ、じゃあ、ラ・フルールⅡの新作出たばっかりなんだけど、一日限定50個でなかなか買えないから、食べたいなーなんて」

「サーイエッサー!! 二個でも三個でも四個でも買い付けますとも! 何なら、札束で店主の顔面叩いてきましょうか!?」

 と、まあこんな感じで結構隙が多いところも彼女の魅力だと思うのだ。
 こういうのが、理沙ちゃんとの大体の日常風景。
 あ、でも、いつもこんないじめてるわけじゃないよ?
 ……………………………多分。

 もう一つ理沙ちゃんについて言うと、これは気に入っているなんて簡単なものでは無く───憧憬に近い感情と言うべきか。
 その光景を見た時、私の息は一瞬止まった。
 静止画のように私の目に焼き付いたのは、重力に反して宙を舞う人の抗う姿。
 元々人間は飛ぶような身体の作りをしていないのだから、自分だけの力で空を行こうとしてもすぐに引き戻されてしまうのが逆らえぬ道理だ。
 競技する運動大体に当てはまる事かもしれないが、大旨それは人として不自然な行為ではある。
 だけどその不自然さが、こんなにも美しいものだったなんて───。
 彼女が練習で跳躍する時、それまで掛け声を上げて走り込みなどをしていた他の競技の部員すら一瞬沈黙する。
 歩数を確かめるような緩慢な走り。
 それは、途中で瞬間的に加速し流れるように地面が蹴られる。
 空を見上げながら、彼女は飛ぶ。
 ほんの僅かな時間だが、人間が全ての呪縛から解き放たれ本当の自由を得ている姿をそこに見た。
 だが───バーを超えたにしろ永遠に宙に在り続けるわけにもいかず………その身体はすぐに軽やかに墜落する。
 これらの一瞬一瞬が、切り取って絵にしてしまいたいほど綺麗なのだ。
 しかも、何というか彼女のそれを行っている時の雰囲気が鬼気迫るというか悲壮感漂っているというか………。
 練習というには度を超えてどうしても超えることが出来ない高さのバーに向かい挑戦し続け、先生に止められているという光景を何度か見てたりもする。
 確かにファンのような後輩の女の子たちが騒いでるようにそれらが相まっての美しさなのだが……私は少し不安にもなった。
 一体、彼女は何に挑んでいるつもりなのか?
 跳躍している際の解放された姿との落差に、そう問いかけずにはいられない。
 実際に、ちょっと無茶が過ぎる時があったのでマネージャーとして窘める意味も込めて訊いてみた。

「ねえ理沙ちゃん………頑張るのは良いんだけど、どうしても無理な時はあるんだからね? ちゃんと身体が出来てから、また挑戦すれば良いと思うよ。その鍛える身体が、鍛える前に壊れちゃったら取り返しが付かない時間の浪費だし。どうして、そこまで無茶して跳び続けようとするの?」

「あ、いや……ほら、ふーがちゃんが居るから平気かなー、とか。いつもみんなにしてるみたいに、身体が壊れる前にストップかけてくれるんじゃないかと……」

「そういうアテにされ方は困るよ! 何度も言ってるように、私のは超能力じゃあないし、ただ何となく分かるってだけなんだからね! 個人個人が、ちゃんと自分の事に気を配ってもらわないと!」

 そう、もうこの時には私のちょっとした才能は部の皆に知れ渡っていた。
 確かに、何人かはこれで助けることが出来たかもしれないが、私自身絶対的なものとは思っていない。
 お医者さんの見立てを、勘でやっているようなものなので大袈裟に扱われるのは困ってしまう。
 悔しいけど、まだまだ勉強不足で所詮素人の域を出ていないし間違うこともあるかもしれないと皆には散々言ってきたのだ。
 それに……理沙ちゃんに限っては本当に困ってしまうのだ。
 誰にも言っていないが、彼女だけは私の見立ては全く通じず何故かぼやけたような認識しか出来ないのだから───

「あ、ご、ごめんね。そうだよね……何言ってるんだろ。うん、らしくないこと言った」

「謝らなくても、自分で気をつけてくれれば良いだけだからね? 余計なことかもしれないけど、みんな期待してるんだから、もっと身体を大切にしたほうが良いと思うよ。ねえ………これって私の思い込みなのかもしれないけど、理沙ちゃんもしかして、跳んでる時に何か全然別のこと想像してない?」

「え? あ、うん…………」

 私の言葉に、虚を突かれたように一瞬表情が固まってから理沙ちゃんは俯いた。
 そして、先程まで挑んでいた高跳びの道具一式が置いてある方を、遥か遠くを眺めるように見詰める。

「なんかさ………あれが跳べたら、私が───私に成れるような気がして」

「え?」

「………とか言ってみたりしてね! うん、ちょっとカッコつけすぎた!」

 理沙ちゃんは、誤魔化すようにあははと笑いながら地べたに直接座った状態から立ちがあると、お尻の砂を払って片付けのために行ってしまった。
 私は、その後姿を呆然と見つつ彼女の言葉を噛み締めていた。
 もしかして、理沙ちゃんって───
 私は、その跳んでる姿を思い浮かべつつ言われた事を重ねあわせる。
 自分の心に、痛みと共に切なすぎる何かが去来した。
 ああ、そうか───彼女は本当に真に迫って自身のことを擬えて挑んでいたのか。
 感じたそれがどういう事かはまるで理屈として筋道が通っていないけど………私の目は熱くなっていた。
 同時に、己の中の彼女に対する薄れつつはあったが確固としてあった疑念にも完全に決着をつけた。

 ───私は、今でも確信を持って言うことは出来無い。
 ───だけど、世の中には答えを出さないままの方が良いことも………きっと存在するのだ。


 地に映る影が明瞭なのは、今立つ頭上にある街灯の光量がやや過剰だからだ。
 この住宅地に点在する街灯の数は、実は他所の地区と比較すると少ないのだが一つ一つの光源が大きい。
 故に、場所場所での明と暗の落差が激しく独特の影絵世界を作り出す。
 恐らくはこれも装置を構成するための一要素だと、目を細めつつ見上げ確信する。
 既に脳裏で完全に描けるほどに、ここ一帯の構造は頭に入っている。
 故にそれが分かったのだ。
 光自体が齎す効果は、恐らく何も無い。
 謂わばこれは、ただの装置に命令を送るための信号だ。
 内容は、初見で予測した通り───『集めよ』
 たったそれだけ。
 しかも、あまりにも囁かに進行している。
 例えるなら、岩より水が数滴滲み出るのを大杯に貯める行為に等しい。
 気が遠くなるような迂遠さだ。
 このような事をせずとも、もっと別の手段があるのでは? と思わなくもない。
 だが───そもそも主眼が違うのだろう。
 要は、隠蔽性と効率が悪かろうが確実性こそを取った為の在り方に違いない。
 それに恐らく、自分が挑む対象が対象だけに時間が相当に掛かるであろうことを予測した上での事なのだ。
 言うまでもなく、場に満ちる力のほうが人間が自ら生成する力よりも絶対量は多い。
 貯蔵することが出来るのならば、僅かずつ掠め取るにしろ最終的な量は膨大なものとなろう。
 
 習い性となった一定の速度を保った歩みをしつつ、かつて半人前だった頃に経験したほぼ初めてとなる戦いに想いを馳せる。
 銀光を背に始まりを告げる、壮麗なる運命の蒼き少女。
 鮮やか且つ華麗に意志の輝きを見せ、己の道を指し示し誘った赤き魔女。
 そして……鋼と鋼を互いに咬み合わせ激烈なる火花の果てに自らの姿を克明に映した紅の外套。
 その後の行く末を決定づけた───遠き日々。
 あの戦いにおいての主役だった『彼ら』を現界させるための力は、そもそもこのように時をかけ集積させたものだったという。
 勿論、今のこれはその精巧さと規模において比較対象にすらなるまい。
 しかしながら、行っていることはその部分だけ抜き出せば結局は同じだ。
 その力で為すことは、意義において真逆の方向性であるにしろ───だ。
 だが、ここで一つの問題点が生じる。
 力というものは、大きくなれば露見せずにはいられない。
 幾らこの場の力が強くとも、流石に十年という歳月で集められたものは誤魔化し切れないだろう。
 それでは、ここまでの施した者が細心の配慮をしたであろう隠蔽が台無しになる。
 では、どのような方式でそれを維持したまま貯蔵しているのか? と疑問に思い、向かっている場所を目的地としたのだ。
 ひょっとすれば、それを解明することで事態を止められるかもしれないという淡い期待に望みをかけて───

 歩みを止め、色濃い闇の中から画一的なパースで構成された鉄筋の家屋を複雑な思いで遠望する。
 事前の調べで、この家が住宅街で唯一住民の急遽の転居により空き家となっている一軒ということは分かっていた。
 外観としては、数種類の大きさの箱を繋ぎあわせて形作られた頑強な要塞じみたものに見える。
 実際に、耐震や防炎に優れ完璧なセキュリティと快適な生活を提供するというのが建売販売された当初の謳い文句だったようだ。
 市も、ここでの過去の悲劇を考慮し建築にあたり防災の基準を相当厳しく申し渡したらしい。
 結果として、住宅街一帯の家屋は大きさや配置が多少異なるとは言え、どれもこれも似たようなデザインとなった……とされている。
 しかしそれはあくまで表向きの理由であり───類似した建築物ばかりとした本当の理由は装置の部品として上手く機能させる為なのだろう。
 住宅街という体裁をとりつつ大掛かりな装置を組み上げるとなると、単純なものの組み合わせという形でないと難しいということか。
 故に───その仕組みの詳細は、装置の全体像が頭に入っている今であれば、部品たる家屋の構造を一軒でも正確に把握する事で逆に辿れるかも知れぬと考えたのだ。 
 さて、その為には空き家とは言えこの家に犯罪者じみた不法侵入をせねばならないのだが………。
 そういった行為自体に、今更躊躇がある訳ではない。
 ただ、この住宅地全ての家は当初からそれを宣伝文句としているようにセキュリティが強固なのだ。
 確か調べた資料によると、管理会社が一括して一つの警備会社と契約していて要所にはセンサー類とカメラ類が万全に設置されているとの事だった。
 住民が居ない状態と言っても、自分のような誰とも知れぬ輩が勝手に侵入して荒らすのは販売している管理会社からすれば困るわけで、最低限のセキュリティは生きていると見るべきだ。
 一通り家を眺め、それらが予想通り有ることを察知する。
 これは少々骨が折れそうだと内心で溜息をついた。
 
 結局───多少乱暴な手段をとることにした。
 二階の角にある、ベランダに隣接した部屋の窓。
 そこが一番センサーの数が少ないと見て取り、遠方から壁内部にあるそれらに向けて矢を放つ。
 同時に二矢。
 最後まで確認せずとも、壁に突き立った二本が吸い込まれるように命中しセンサーを破壊したであろうことは見えていた。
 すぐさま、カメラの視界を避けつつ疾走し壁を一度蹴って軽く跳躍。
 ベランダに音を立てずに降り立つ。
 続けて手中に剣を出現させ、窓ガラスを切断。
 甲高い音を鳴らし自らが通れる程の大きさに切れたそれを、内側に軽く押す。
 滑り落ちるその落下地点に、厚く大きめのクッションを用意。
 間髪入れずそこから室内に飛び込んだ後に、切断した窓ガラスを手に取り即座に修復。
 ───ここまでで十秒
 一息つき………憮然として頭を振った。
 随分と錆び付いたものだと苦く考える。
 これでは、場所が場所ならば自分は死んでいる。
 攻性のものは無いだろうと踏んでいたとは言え、仮にも相手の手中に踏み込むのだからこんな事では命が幾つあっても足りない。
 平穏に慣らされてしまったとは思いたくないが、意識の切り替えが上手くいっていないのは事実のようだ。
 
 己の本来の役目を認識し直し、改めて室内を見渡す。
 閑散として判別しにくいが、間取り的に寝室だろうと見当をつけた。
 感覚を研ぎ澄まし、何も見落とさぬよう周囲を視認する。
 特に不審なものは見当たらなかった為部屋を出て、二階全ての部屋を集中を途切れさせないまま同じように確認していく。
 主寝室が一部屋、寝室が最初の部屋も含めて二部屋、トイレが一つ、大きめの納戸が一つ、そして中央部に近い場所に階段があるホール。
 二階にある部屋はこれで全て。
 何も引っかかるものは無かったので、そのまま緩やかな傾斜の螺旋になった階段で一階へ。
 一階は広大なリビングダイニングが大半を占めていた。
 それに繋がってキッチン、隣室に畳敷きの和室、洗面所、バスルーム、トイレ、押入れが幾つか。
 全てを余すこと無く視認した後リビングダイニングに戻り、顎に手を当て考え込む。
 小さな庭に面して大きい窓が連なっていた為、月光が照明のように室内に入っていた。
 
 前の住人の生活感が希薄なのは、管理会社が徹底的なクリーニングを実行した故か。
 しかし………それにしても何も無さ過ぎる。
 違和感の正体は、あまりに力の濃度が薄すぎるということにあった。
 それが他所なら大して気になりはしなかったろう。
 が、ここは場所が場所なのだ。
 自然すぎることが、逆に不自然となる。
 即座に、脳裏に建物全体の構造を描き上げる。
 恣意的な造りであるのは装置の部品としての機能を持たせるから当然として、それ以外に特に………いや、違う。
 壁が多重構造になっているのは防音や高気密、高断熱の面で珍しくないが、それにしてもその壁と壁の間の空間があまりに空きすぎていると気づいた。
 意を決し、出現させた手の中の刃で僅かに漏らした呼気と同時に壁に向かって数度斬りつける。
 易々とバターのように壁は切り取られ、丁度大人一人がくぐり抜けられるだろう四角い穴が空いた。
 途端、思ったとおり匂い立つほどの濃密なモノが噴出する。
 意識に干渉するほどの凝縮された力の奔流───しかし、これくらいであれば己にとっては眉を顰める程度のものだ。
 軽く自己を制御し、続けて切り取った壁自体の構成も改めて精度を上げ探る。
 通常の素材に重なり、幾多の概念が慎重に隠されて施されているのが分かる。
 これは『工房』と同じく、“内部のモノを外へ漏らさず保持し続けること”という基本的な機能だ。
 さらに、外部のモノを少しづつ吸入し濾過する役目もある。
 道理で……建物内部の力が薄く感じたわけだと納得した。
 
 つまり、あまりにも古典的で単純過ぎる隠匿方法だったということだ。
 例えるなら、箱の内部を上げ底にして中に何も入っていないように見せかけているようなものか。
 要は、この住宅街に建ち並ぶ家屋は装置を構成する部品であると同時に器でもあったということになる。
 一軒一軒の許容量は、建築物を丸々使っているにしては効率が悪すぎる為に非常に少ないだろう。
 だが、それら全ての合計量となれば………。
 さて、これでどれくらいの維持ができる?
 丸一日……いや二日は堅いか。
 その時間に果たして、約半月に及んだあの戦いを凝縮できるだろうか?
 ───恐らく、可能だろう。
 枝葉の部分を取り除き、『彼ら』の戦いと最終局面のみに的を絞れば良いだけの話だ。
 切り取られた場面同士は連結しないだろうが、話通りの人物ならそのようなこと気にはすまい。
 それに、あの五回に及んだあれの五回目だけが標的になるとは限らない。
 一応はそこで決着はついたのだし、直近ではあるから五回目が一番可能性が高いとは思うが……。
 遠方にてこの事態をほぼ言い当てた、自分とは比較にならぬ聡明さを持つ彼女の言葉を記憶から蘇らせる。



『───そもそもこの人物の最も嫌悪すべき点は、『再現』させた事象について表層のみしか把握しようとせず、そこにある『理』をまるで解す気が無いところですわ。結果として、それは無残にも劣化し形骸となって『再現』される事となります。これが、私達にとってどれ程の侮辱の極みか貴方にもお分かりでしょう? ───純粋なる祈りを汚されたということなのですから。各地で幾つもの剽窃が為され、惨状を起こした……と耳にしています。目的については、未だ誰も知る者は居ないでしょうね。私個人としても、知りたくはありませんわ』

 声には、抑えがたい蔑みと寒気がするほどの怒りが含まれていた。
 それも当然だろう。
 彼女達のような古くからの一族は、脈々と時を絆げ屍山血河を築いて真なる果てへと到達する事を悲願としている。
 それに対し、そのような事は歯牙にも掛けぬと言わんばかりに安易に劣化した模倣をするのであれば殺意も涌こうというものである。
 特に、それらは秘奥中の秘奥であり内容を知るだけで処分される対象となりかねない。
 しかも、『再現』される標的となるのは事前に聞いていた話だと『失敗』したものだけなのだという。
 秘していたものを暴き、失敗を曝け出し、粗悪な複製を行う………。
 なるほど………これは、正統に『こちら側』に立つ者達にとって間違いなく殺しても殺し足りない『最悪』だ。
 
 さらに、自分のような者の観点から見ても平静ではいられない事項がある。
 そのような『再現』する対象というのは、多くの場合決して人道には即していないのだ。
 かつて己が参戦したものがそうであったように。
 もし、そういったものが無秩序に『再現』されたとして一体どれ程の被害を齎すというのか。
 例えば、そう───自らの運命の分岐点となっている、一つ前の戦いの悲劇的な終局が『再現』されたとしたら………。
 
 こういう人物にこそ、本流の組織たる『協会』が全力を上げて動くべきでは無いのか?
 『協会』のルールは表の社会のルールとは確かに掛け離れているが、この人物の場合は彼らのルールに照らし合わせても見逃すべき人物ではないと思われる。
 それとも、内部が複雑怪奇な派閥で占められているあそこは、これすらも良しとして無視するというのか。
 その事を指摘すると、彼女の憂いを帯びた声が返ってきた。

『───ええ、勿論の事、執行者も既に第一級の対象としていますよ。隠匿など意に介していないようですからね。元々あの穴倉に所属していた人物のようですが、籍を抹消しあそこの方々も今では存在すら認めていないのだとか。協会の方でも正式に要請し、情報を提示するよう交渉したようですが我々以上に秘匿を旨とする方々ですからね。『存在しないものは渡せない』というような事を嘯いていつものように至極非協力的だったそうです。ですが、あちらも消去対象としてるのは間違いないでしょう』

 穴倉呼ばわりされる、あの組織。
 『協会』とて穴倉具合では負けていないと思うものの、異質な集団として敬遠しているのは良く分かる。
 外部との交流が全くないわけでは無いらしいが、そもそも根本の考え方が他と全く異なる上に秘密主義という点では彼女の言うように『協会』すら上回る徹底さがあるからだ。
 故に、その対応は納得出来るものだったが───そうか、あそこの出という訳か。
 あの組織に所属している者とは幾人か関わり、会話を交わしたこともある。
 ………正直に言えば、最初は同じ血の通った人間とは思えなかった。
 思考経路が極めて非人間的かつ簡潔に過ぎて、本当に機械と話している気分になったものだ。
 
 人体とは『肉体・精神・魂の三位含めて計算、実践、成長するに優れた個体』………その独特の考え方は部分的に分からぬでもないが、だからと言って賛同する気にもなれない。
 そんな、外部から見れば異系世界以外何ものでも無い所からさえ存在を認められぬということが、その人物の異常性を雄弁に物語っていると言えるかもしれない。
 しかし、さらに瞠目すべきは“あの”執行者に狙われていながら未だ逃げ延びているという事実だ。
 加えて、恐らく消去すると決めたら極めて冷たい理論の元、寸分の隙も容赦も無いだろう行動をするその集団からすら脱しているというのか。

『それでも逃げ遂せているのは……忌々しいことながら、この人物が間違いなく天才だということもあります。彼らは我々のように無数の回路を持ち合わせていませんが、代わりとして人間を遥かに超えた演算能力である『高速思考』と別途の事項を同時に並列して処理をする『分割思考』というものを持っている事はご存知ですわよね? 彼女は、その『高速思考』が現院長に迫るとまで言われ『分割思考』の方も五つまで行えるという、かつては将来を非常に有望視された人物だったようですわね』

 現院長は非常に優れた家門の出の女性であり、その才は長きに渡るそこの歴史の中でも有数の人物であると耳にしている。
 知はこの世のあらゆる事象を見通し、語る言葉には真理しか存在せぬとか。
 あくまで伝え聞いた事なのでどの程度の実像なのかは分からぬが、あの集団の頂点ということで間違いなく怪物じみた人物なのだろうとは容易に想像できる。
 それに迫るとすれば、月並みながら確かに天才という表現しか無いだろう。
 『高速思考』『分割思考』というものも当然知っている。
 というより………その恐ろしさを実感したことがあると言ったほうが正確か。
 
 『高速思考』と聞き、かつては正に巷に溢れる演算機を想像したものだ。
 しかし、そう簡単なものではなかったのだ。
 単純な計算という面で、実際の演算機の方が人間の処理能力より遥かに上であるというのは当たり前の事実である。
 道具としての機械は大概そうだが、それらは限定的な方向で人間の能力を上回るべく作り出されるものだからだ。
 が………人間の思考とは演算機など及びもつかない機能を持ち合わせている。
 すなわち、分析、総合、比較、抽象、それらに基づく概念の構築。
 経験則からもしくは直感から導きだされる判断。
 飛躍する発想、想像、推論。
 普段から通常の人間が行っている事───しかし、演算機で行うには現在でも世界最高レベルのものですら難しい。
 そして、これらが『高速』で行われると一体どういったことになるのか?
 彼らに言わせると『演算の結果』という事らしいのだが───外部から見るとそれこそ限定的ながら『未来視』や『過去視』に近いものに思える。
 しかも超能力の一種である『未来視』や『過去視』などと違い不安定なものではなく、彼らの場合完璧に自己で制御しているのだから始末に悪い。
 さらに『分割思考』とは文字通りの意味合いであり………単体でありながら複数の同一性能の人間を相手取っている気にさせられたものだ。
 以前一度敵に回した時の厄介さは、本当に筆舌に尽くし難かった。
 とは言え………しかし、これとて───

『───ええ、そうですわね。確かに、これだけでは当然長期に渡って捕捉されてない理由にはなりません。執行者と穴倉の方々の追跡から逃れるなど、生半可なことでは無理ですからね。一つには、その『再現』するという事なのですが───結局のところ、これはどういう理によって成り立っているかはお分かり? ………『再現』するというからには過去の情報を取得することが必須ですが、先程も言った『過去視』に該当する力があればこれについては事足ります。この人物の場合ですと、確信は出来ませんが恐らくその高度な演算能力を生かしての『予測』と『推定』ではないかと思われますが。さて、そうして得た情報をどのように自らの外部に広げるのか………これは、もしかしたら貴方が一番実感できるのではないかしら?』

 最上級の気品の中に相手を恐懼させる迫力を乗せる口調は、彼女特有のものだ。
 僅かに心臓が早鐘を打ったのは、伝えていなかった事に対しての追求の意がそれに含まれているように感じたからだった。
 ………全く、彼女は鋭敏だと考える。
 教会での時に、極々微かに察知したもの───それが何であるか………身に覚えがあり過ぎた為、あまりに非常識だとして即座に否定した。
 己の中にある、ほぼ自身そのものと言って良い理論。
 到達点の一つであるが故に、場合によっては最大の敵意を抱かれかねない基盤。
 才無き自らを最も助け、数え切れぬほどの災厄を齎したそれ………。
 内面の少しの動揺を包み隠し、冷静な声を意識して彼女に答えた。

『───そう………貴方がその身に刻んでいるもの。彼女は、素質故なのか研鑽の果てなのかは分かりませんが、その殆どを理解しているとの事です。ですが、私にとって殺意を覚えずにいられないのは、それを理解しているにも拘らず……いえ、理解しているが故にわざと『歪めて』その身に刻んでいるらしいという事ですわ』

 『歪めて』………とは?
 己を映すものでもあるそれは、時が移ろえば自身の内面が変質してゆくのを止められぬように、形が変わることはある。
 例えば、若き日の自分と現在の自分では具現した時の風景は全然違うものだ。
 が、勿論本質は変わらない。
 変わり様がないのだ。
 そもそも、硬直した現象に近い在り方こそが、それを持ちうる絶対条件だと理解していた。
 歪められるようなものならば、前提として成り立たないのではないか。

『私にも、無論詳細まで分かりかねるのですが……元々それは、自らの内部にある設計図をめくり返すというものなのでしょう? 彼女の場合、その設計図自体を剽窃した情報により無節操にも書き換えているとでも言うべきかしら。それが出来る才には、確かに私も脱帽致しますが………それは、逆にいうと己の中に確固としたものが無いのに自ら創り上げようとせず、他者のものを盗み取って魂を構成しているようなものではなくて? やはり……一番忌まわしい手合いということですわね』

 それは───彼女は、実感が無いからか簡単に言っているが本当にそのような事が可能なのだろうか?
 それでは、駆動する者が真の意味で現象一歩手前の存在ということになる。
 今までの話を考察すると、確かにそこまで破綻が極まった人物なのかも知れないが……。
 言うとおりだとしたら、その人物の自我は『有るのに無い』もしくは『無いのに有る』という非常に曖昧で希薄な状態ということになりかねない。
 他人の事は言えないかも知れないが……一体、そこまで自らを追い込んで何を追い求めているというのか。

『───それはともかく……理論を手中に収めているのは間違いないようですからね。その力を最大限に利用し、追跡を躱していると聞き及んでいます。そしてもう一つ……彼女には、簡単に捕捉できない最大の特性があります。実際に、彼女と交戦まで持っていけた人物は二人しか居ないらしいのですが……それは、その特性故にという事のようです。ちなみに、二人の内の一人は貴方もご存知の元執行者のあの方です。何でも、あと一歩という所まで追い詰めながら取り逃がしてしまったと大層悔やんでらっしゃいましたわね。今まで話した大概の内容は、彼女から聞いたものでしてよ』

 彼女が……取り逃がした?
 それは、相当に聞き捨てならない話だ。
 元執行者という経歴以上に、そういう事にかけてはスペシャリスト中のスペシャリストである“あの”人物が?
 未だ以て、正面から挑んだら死を覚悟するしか無い人物として真っ先に浮かぶのが彼女だ。
 だが、ひょっとしたら───
  
『───ええ、そうです。流石、良く分かってらっしゃいますわね。同じ様な事を彼女自身も言っていました。曰く『あの頃の自分が未熟だったことを差し引いても、相性が悪すぎた』………それでも、そこまで持っていけるのが彼女の凄まじさなのかもしれませんが。要は、婉曲な手段を殊とし潜伏することにかけて異質すぎる能力の持ち主という事ですわ。元々この人物の血族は『ワルプルギスの夜』で知れ渡る、あのブロッケン山中に隠れ住んでいたそうなのですが………』

 それを最後まで聞き終えた時の、眼前が白熱化したかのような焦燥感と荒野に独り取り残されたような絶望感は、今もありありと蘇らせることが出来る。
 また…………まただ。
 恐らく、自分は取り零してしまった。
 何度も何度も何度も何度も────本当に何度も、この感覚は味わった。
 そんなに────己の望みは不遜なことなのか?
 そんなに────それは遥か彼方にあるものなのか?
 それがどうしても納得できなくて、それをどうしても何とかしたくて…………叩き伏されようが、地を這うことになろうが、多くの他者から蔑まれようが、心を抉るような裏切りを受けようが、死の顎が自らを切り裂こうとしようが、屈することだけは決してしなかった。
 今は…………分かっている。
 いや、最初から分かってはいたのだ。
 ただ、自分にはそれしか無かったと思い決めていただけ。
 故に────形振り構わず捨ててきたものに、壮大なる報復を受けたのだ。
 つまり、これもその報復の一つというわけか。

 始まりは、此処が変化した十年前。
 その時に、自分はどこで何をしていたのか?
 ああ、そうだ───自分は丁度その頃、死んだのだ。
 とすれば、それを手掛けたこの地の管理者たる彼女も、自らの責務が疎かになっていた可能性があったわけで……。
 もしかしたら、自分では遅すぎて届かなかった手も彼女なら届いていたかもしれない。
 所詮は仮定の話であるし、無意味であることは理解している。
 要は、運命の理不尽さに対する見苦しい恨み言に過ぎない。
 それでも、考えずにいられなかったというだけの話。
 決まったわけではないと抗うために調査を重ねれば重ねるほど、天秤は望まない方に傾いていったのを苦く思い返す。
 糸口は、最後にあの娘が話した内容。
 あれが無ければ、大幅に箱の中の真実に届くのは遅れたかもしれない。
 ───今にして、思う
 あれこそが、彼女の心底からの願いが無意識に表面化した言葉だったのではないかと。
 何より、あの人物の運命は特殊すぎるあの娘を選んだことで決定づけられたのだから───

 ふと、気配を感じ思考を遮断して油断なく振り返る。
 この何も無いことでより一層広いことが分かるリビングダイニングから、玄関まで通じる廊下に出るための扉。
 開け放たれたそこに、見逃しそうな程の小さな影が佇んでいた。
 月の光がそこに届いていなかった為、瞬時に目に力を集中し闇を見通せるものとする。
 白い毛玉を思わせる子猫が、何か袋のようなものを咥えている事が分かった。
 もう堪え切れぬとばかりに、口からそれを離す。
 雨が大地を打つような音が鳴り、無数の何かが散らばった。
 子猫は、自分が起こしたその音に驚いたように身を翻し姿を消した。
 転がる、転がる、転がる、転がる、転がる────
 直径一センチ程の無数の球が、無秩序に部屋全体に広がる。
 始めは警戒していたが、その球自体にも何も感じず、球が転がった事で何かが構成され干渉が起きるような前触れも無かったのですぐに駆け出す。
 そんな事より、あの子猫を追わねばならない。
 あれは間違いなく創りだされたものであり、誰かの使いとなっている存在だ。
 今この時、この場所でそれを送り出したのは言うまでもなく───
 何故か、足を取られ転倒しかかる。
 丁度、揺れるように転がっていた球が足の裏に噛んだのだ。
 壁際にいた事で、咄嗟に手を伸ばし身体を支えようとして───反射的に手を引っ込めた。
 壁に埋め込まれる形で設置されているセキュリティの操作パネル。
 低電圧で動く筈のそれが、触れたことで業火で直接炙られた鉄板の如き熱を持っていることが分かった。
 しかも、今の衝撃で内部に変化が生じたのか放電のようなものまでし始めて………と、脳裏に閃光のように記憶が駆け抜けた。
 自分は───一体何を相手にしているつもりだったのだ? 
 意識の間隙を突くかのような、偶然に近い事態。
 喜劇のような、外部から見れば馬鹿馬鹿しくなるような連鎖。
 迂遠に過ぎるが、先を計測していないと絶対に出来無い緻密な仕掛け。
 球自体に何かある? あるわけがない! 
 彼らの真骨頂は、そのようなものに頼らなくても事態を操作できてしまうところに有るということを、どうして即座に思い出さなかったのだ間抜けめ!!
 ───察知から一秒半。
 間近で小型の爆弾が起爆したような爆発音が鳴り響き、その爆発力により『偶然にも』操作パネルの部品は自身の致命的な部位に榴弾のように飛来する。
 避けようがない速度とタイミング。
 背後で、爆発の衝撃により窓ガラスが全壊したであろう派手で耳障りな音がした。

 こうして…………………………ここに逃れられない運命は決した。



[18834] 匣中におけるエメト 6
Name: tory◆1f6c1871 ID:582d51b1
Date: 2010/10/15 07:52
匣中におけるエメト

 Ⅵ

 その日の朝は、久しぶりにとても気持ちの良い目覚めだった。
 私は比較的朝が弱く、朦朧として自分が何処に居るか分からなくなる事が多いのだけれど、珍しく覚醒してすぐに思考が明瞭。
 こういう些細な調子の良さというのは、一日が始まる丁度その時に感じると絶大な効果を発揮する。
 上機嫌で、勢い良く上半身を起こし布団を跳ね除けた。
 伸びを一回。
 部屋の暖房は朝方に効かせるようにタイマーをかけてあったのだが、それでも少し肌寒い。
 あまり早くから暖房を効かせてしまうと、部屋が暑くなりすぎるし電気代も嵩むだろうし、だからって遅くすると全然朝の寒気に対抗出来無い暖かさにしかならないし……。
 この辺の匙加減というものが、どうも私は苦手だ。
 だからって、自動調整にすると何か負けた気がする。
 ………ま、いいや。
 少し空気が冷たい位の方が、気合が入るってもので。
 ベッドから降りて、陽の光を入れるべくカーテンを引く。
 この際だから窓も開けて、気分が良い内に外の空気を吸っておこう。
 この季節特有の、遠慮がちな日差しに山の中にいるかのような清涼な空気。
 それを胸いっぱいに吸い込むことで、身体の中から洗われるような気がする。
 雀の鳴き声がまばらに聞こえてくるのも、清々しい音楽の前奏のよう………って、何だか外が騒がしいな……?
 無視してもいいけど、その喧騒に何故か不穏なものを感じた。
 少しだけ確認してみようなんて気が起きたのは、今朝の私がいつもより僅かに行動的だったからだ。
 流石にパジャマのまま外に出るのは寒すぎるし年頃の娘としてもどうかと思ったので、手近にあったジャンパーを羽織りベランダへ。
 全身を包む冷気に、瞬間身体が縮こまった。
 向かいの家のおじさんが、同じようにベランダに出て外の様子を伺っていたので目が合ってしまう。
 少し恥ずかしかったけど軽く頭を下げて挨拶をし、そのおじさんと同じ方向を見た。
 私の家からだと、道を挟んで向かい側の右に三軒先。
 そこに人だかりが出来ていた。
 人々のさざめきが聞こえるが、内容までは分からない。
 それに、あれは───パトカー?
 よくよく見ると、制服を着たお巡りさんらしき人が忙しそうに動いていた。
 ……………こんな平和な場所で何か事件でもあったのか。
 私が知る限り、この辺り一帯ではパトカーどころか救急車だって殆どお目にかかったことはない。
 いつまでも見てたって何も分からないし、ちょっと怖くもなったので部屋に戻る。
 幾分気持ちが下降したけど、まあ仕方ない。
 そうそうのんびりしてもいられないのだ。
 学生にとっての朝の時間は、とても貴重だ
 さっさと着替えて、学校に行く準備をせねば。


「───それでね、早朝に散歩してた、ほら………ロンちゃんところのお爺ちゃん。あの人が通りがかりで、最初に見つけたんですって」

「ふーん。あ、そう。で、君は何でそんな事知ってるわけ?」

「それは勿論、さっき外に出て色々聞いてきたからに決まってるじゃない」

「こんな寒い朝から元気だね、相変わらず。僕は、どうもあと一時間は寝足りない感じだよ。まあ、今更だけどね………野次馬も大概にしておいたほうが良いと思うよ」

「あら? これは、私達にとって無関係ってわけじゃないわよ? だって、ウチも含めてこの辺全部で使ってるセキュリティの事故みたいなんですもの。よりによって爆発したって事らしいから、警備会社と管理会社の人達は今頃きっと死にそうな顔してると思うわ。それに幾ら防音が優れてるって言ったって、爆発が起こったのに隣の家の人も気が付かなかったっていうのは随分よねえ。こういうのって問題にならないのかしら?」

「遮音性に関する基準は、遮音過多という方向での法規制は無いと思ったけれどね。専門じゃないから、詳しくは分からないな」

 私は朝食のシリアルをポリポリと音を立てて食べながら、両親の話を黙って聞いている。
 お父さんとお母さんの会話は、大体いつもこんなだ。
 どうにも語調が強くてせかせか喋るお母さんに、冷めた風なお父さんが淡々と突っ込みを入れるといったところか。
 お母さんは、三社さんや桜さんや藤村先生と違って外見は年相応何だけど、やたら溌剌として違った意味で歳を感じさせない。
 お父さんは外見しっかりとおじさんで落ち着きある雰囲気。
 いや、落ち着きあるなんてものじゃなく、何というか表情があまり変わらないんだよなあ………。
 時々とぼけた冗談も言うのだけれど、笑えない上に本人も笑わないんじゃ娘としてもどういう反応したらいいのか困る場合がある。
 で、何故か、この頭ボサボサで今も銀縁眼鏡を斜めにずらして掛けてるような冴えないお父さんにお母さんはベタ惚れ。
 学生時代に、波乱万丈の大恋愛の挙句結婚したというのだから、お母さんの惚れ方も半端じゃない。
 お母さん視点では、お父さんは白馬の王子か何かに見えたらしい。
 二人の前で、それ絶対にヴィジョンのモードが環境に合ってなかったんだと思うよと言ったら、お父さんには上手いことを言うと感心され、お母さんには叩かれそうになったから逃げた。
 仲が良いのは間違いないし両親共に好きだけど、全然性格が一致しない二人だよなといつも思う。
 
 ま、それはともかく………好奇心旺盛なお母さんが野次馬という名の情報収集をしてきたところによると、事故の現場は引越しが終わったばかりの空き家だったようだ。
 だから誰か怪我をしたとかそういうことは無かったみたいで、まずそれを聞いて私は他人事ながら安心する。
 第一発見者のロンちゃんところのお爺ちゃんというのは、お母さんが親しみを込めて飼っている犬の名前に因んで言っている呼び名で、具体的に言うとウチの裏手の並びの角地に住む御老人の上野さんだ。
 その上野のお爺さんは日も昇らない内からの散歩が日課で、今朝も歳の割にはやたら元気なロンちゃん(ラブラドール・レトリバー オス 十才)を伴って随分な長距離を散歩してきたという。
 散歩は行きと帰りでは通る道が違うらしく、その帰りのコースで結構な時間をかけて住宅街へ戻ってきた時にそれが起こった。
 ……って、大袈裟に言うものでもないだろうけど、要はロンちゃんがやたら興奮して吠えまくったとの事だ。
 勿論、お爺さんは早朝で皆の迷惑になると慌てて叱りつける。
 ただ、このロンちゃん小さい時に良く訓練された賢い子で、普段無駄吠えの類は一切しない。
 それで不審に思い、吠えてる方向をよく見てみた。
 それが件の───最近、本社に栄転になって喜び勇んで引越してしまった寺田さんの住んでいた家だったというわけだ。
 最初は、火事だと思ったらしい。
 遠目からでも、煙が棚引いてるのが分かったからだ。
 だけど、それにしては煙の量も少ないし色も違うような気がしたそうな。
 かなり冷静な観察力だなと思うが、それもそのはず上野のお爺さんは元々自衛官を長年勤め上げた人で、海外の災害救助とかも経験したことがあるんだとか。
 当然肝も据わっていて、ちゃんと自分で状況を確認してから何を呼ぶか、それとも何も呼ばなくていいのか決めようとその時に考えたみたいだ。
 近くまで来ると、どうもその家の庭の方から煙が出ているのが分かった。
 でも、そちらは結構な高さがある塀に囲まれていたから、詳しくはどうなっているのか見えない。
 そこで……少し迷いはしたものの、どう考えても不穏な気配がしていたので、結局その家の敷地へ仕方なく踏み入った。
 自分の家と同様にセキュリティがあるのは理解していたけれど、疚しいところは無いし、警備会社の人間が駆けつけてきたらそれはそれで助かるし、何より人命に関わっているならば一刻も早く助けなければならないと判断した……と、昔とった杵柄か極めて端的に順序良くお爺さんは自分の行動を説明してくれたのだそうだ。

「で、お爺ちゃんが庭に回りこんだらリビングの窓ガラスが全部割れてて………ほら、あれと同じやつ」

 お母さんが指差したのは壁と一体化している、我が家のセキュリティの操作パネル。
 セキュリテイはこの住宅街の全ての家に元々付属していて、留守中、就寝時はおろか、在宅時にも様々なトラブルから守ってくれるという優れもの……らしい。
 あまり、意識したことは無いけど。
 何か色々機能があるらしいが、私なんかは外出時に家に誰もいなくなる時か、お母さんに寝る前に頼まれた時くらいしかあれには触らない。
 
「それが、爆発でもしたみたいに滅茶苦茶になってて煙吹いてたんだって。したみたいにというか、実際爆発したとしか見えなかったらしいけど。外にまで破片が転がってたらしいし。その時はお爺ちゃんも流石に慌てて、警察に連絡したそうよ。これは事故とかじゃなくて、事件のような気がしたって言ってたかしら。ああいうのが爆発するなんて、殆どあり得ないからっていうのが理由らしいわ」

「ああ、なるほど。上野さんは、随分と頭の回転が速い人だね。それとも、今までの経験があるのかな……。確かにあの機器が爆発するなんて、ほぼあり得ない。まあ、絶対とは言い切れないけど、それは多分天文学的な確率だと思う。あれはバッテリとかがあるような代物じゃなくて、セキュリティシステム全体に供給している独立した電源で動いている末端装置だ。とても低い電圧で動いていて、そもそも爆発するようなものが内部に存在しない作りになってるはずだよ。何しろ、建物の中に有るものだからね。となると、人為的なものだと考えたほうが論理的かもしれない」

 コーヒーに口を付けながら、目をしょぼつかせて淡々と言うお父さん。
 この人は、時々無駄に幅広い知識を持っている時がある。
 本来は粒子と波動がなんたらいう、娘の私にも未だに良く分からないものを大学で研究しているらしいのだが。
 今のだって、多分自分の専門からは掛け離れていると思うんだけど。

「そうそう。蒼い顔して駆けつけてきた警備会社の人もそんな説明してたわ。可哀想に、この辺に住んでる人達に囲まれて脂汗かいてたわよ。そりゃあ、自分達が今使ってるものが事故起こしたなんてことになったら、みんな平静じゃいられないのも分かるけれど」

「実際にその人を囲んで、質問攻めにした一人であろう君がどうしてそんなに他人事みたいに言うの? ………まあ、警備会社としては是が非でも人為的なものにしたいだろうね。そっちの方が、責任問題としてはまだマシだから」

「でしょうねえ………。でも、誰かがやったにしたって結構マズイ状況だと思うのよね」

「そうだね。寺田さん家族が引っ越して、確かそんな日が経ってないと記憶してるけど……その間も全部じゃないにしろセキュリティは生きていただろうからね。そこへ誰か侵入して細工したって言うのなら、それを許したセキュリティが甘かったって話になる。無論、完璧な安全を保証するものでないとは言っても、それを売り物にしてる会社としてはかなりイメージを損なうことになるだろう。それでも───自社の機器の欠陥が原因というよりは良いけどね」

 不謹慎にも何故か目を輝かせて言うお母さんに、お父さんは肩を竦める。
 昔からお母さんが厄介事を持ち込んでは、お父さんにそれを嬉々として無理矢理押し付け解決させてたって話はやっぱり本当なんだろうか?
 まあ、その事はとりあえず置いておいて………しかしそれって、どっちにしろかなり物騒なことじゃないかなあと考える。
 もし、欠陥というのが殆ど有り得なくて誰かが爆発するような仕掛けを施したっていうなら、そういう犯罪行為をする人がこの付近に来た事自体が大いに問題だと思う。
 それを行った人間の目的が分からない以上、どの家だって標的になる可能性があるのだから。
 少なくとも、そのような事が出来る者が居るというだけで不安になるのは当然だろう。
 では、確率が低かろうが本当に予測もつかないような欠陥による事故だったらどうか?
 ───だとしたら、この住宅街に住んでる人達の家には全部その操作パネルがある筈なので、常に爆発するんじゃないかという心配を抱えなければならない。
 だっていうのに、お父さんとお母さんの話し振りは呑気だなと若干呆れる。
 いや───実際に自分達が何か被害を現状受けたわけではないんだし、実感なんか簡単に湧かないのは当然か。
 私の方が少し過敏になり過ぎてるのかも。
 だって、厄介過ぎる状況に現に自分はいるわけで……って、ああ駄目だ。
 気持ちが落ち込むから、今朝ぐらいは考えないようにしようとしてたのに。
 俯きかけた顔を意識して上げ、普段と変わらぬ二人の様子をぼんやりと観察する。
 お父さんから空になったマグカップを受け取り、お母さんが上機嫌の笑顔でそれにコーヒーを注いでいた。
 お母さんの淹れるコーヒーは、結構適当にやってるように見えるのにどういう訳か美味しい。
 お父さんが結婚した理由の一つに『コーヒーを淹れるのが上手かったから』と真顔で挙げるくらいに。
 …………本気なのか、照れ隠しの冗談だったのか良く分からなかったけど。

「あ、そうだ。ちょっと面白い事も聞いたわよ。お爺ちゃんがそのリビングの中を少し外から覗いて確認した時にね……当然、床とか壁とか穴だらけで酷い有様だったみたいなんだけど、パネルから極々近くで何故か何も被害受けてないように綺麗な箇所があったんですって。どうなればああいう事になるのかって、凄く不思議がってたわ」

「ふーん………だけど、別に現象としては不思議ではないよ。ただ単に、その場所への爆発の影響を防いだ遮蔽物が有ったというだけでしょ?」
  
「だから、そんなものが見当たらなかったから奇妙だって事じゃないの。空き家で物なんか何も無かったのよ?」

「そんな前提条件は聞いてないよ。じゃあそこに無かったというなら、その遮蔽物は何かの原因で移動したと考えるのが妥当だ。それが一人でに動く物体では無いというならば、誰かが移動させたというのが可能性としては高い」

 腕組みして神妙に考え込んでいるように見えるお父さんに、お母さんはちょっと苛立った顔をした。
 うん、お母さんの気持ちは分かる。
 ああいう態度のお父さんは、考えているふりをして実は全くその気が無いというのが本当のところだからだ。
 だから、言うことが微妙にすっとぼけたものになっている。
 っと───いけない、いけない。
 ついつい話しに聞き入ってしまったが、ふと目に入った時計を見たらもう時間が差し迫っている。
 結構余裕をもって今朝は起きることが出来たから、悠然としすぎてしまった。
 自分のカップに入ったコーヒーを一息に飲み干す。

「ごちそうさまでした。そろそろ出るね」

「あら? もうそんな時間? あなたも、そんなにのんびりしてていいの? 今日は会議じゃなかったかしら?」

 私の言葉に、正気に立ち返ったように妻としての顔を取り戻し、お母さんはお父さんに心配げな顔を向ける。
 お父さんは、立ち上る香りを堪能するように目を薄くしてカップを口元で傾けつつ緩慢に頷いた。

「うん。昨夜、会議が延期になったって連絡があったから。僕の方は、あと一時間余裕があるよ。昨日で資料の方は纏めたから、憂いは何も無い」

「あ、そうだったの? じゃあ、この件について一緒に考えましょうよ。何だかとっても奇妙だと思わない?」

「君ね…………そういうのは、もう卒業したんじゃなかったの?」

 弾んだ声のお母さんへお父さんが盛大な溜息混じりで諌めるのを背に聞きながら、私は食器とカップを流しに置く。
 時々ああいうやり取りを聞くけど、お父さんがドラマや小説の名探偵さんのような華麗な推理を披露するのなんてさっぱり見たこと無い。
 お母さんが、何か大きな勘違いをしてるんじゃなかろうかと思う。

「あのね………何度も言ってるけど、一々関係無い事に首を突っ込まない方が良いよ。自分で制御出来そうも無い真実というものは、確定させてしまうと本当に危険だったり後戻りできなくなったりするものが多いから。それに………君は憶えているかな? 学生時代に、少々性格に問題があったけど僕より余程優秀な後輩に会わせたことがあったよね。ほら、ここが出身だっていう───」

「ああ……………あの、髪が海草みたいになってた彼でしょう? 私、あの人の事が本当に大嫌いだったわ」

 お母さんは、お祖父ちゃん譲りなのか結構人の好き嫌いが激しい。
 今も、鼻を鳴らして吐き捨てんばかりの言い方だった。
 ただ………人を見る目は、少なくとも私にはあるように思える。
 何故なら、お母さんの好悪の判断は後々になって判明するその人物の人柄と大体一致するからだ。
 例えばお母さんが好きだと言った相手は、表面上どんなに無愛想で怖く見えても実際には気性が穏やかで筋が通った好人物であったりとか。
 逆に嫌いだと言った場合は、優しげで誠意があるように見えた人が裏面でとんでもなく歪んだ性格の持ち主だったりした事もあった。
 つまり、そんなお母さんに『大嫌い』とまで言われてしまうような人は、私から見てもあまり近寄りたくない性格をしている可能性が高い。
 ところで………髪が海草みたいっていうのはどんな比喩表現なんだろう?
 離れて見えるお父さんの顔は、恐らく家族しか判別できないだろう唇の端を僅かに吊り上げる独特の表情を形作っていた。

「うーん………彼は彼で、解り難いけど付き合っていくと結構味がある人間なんだけどね。露悪趣味と攻撃的な自己顕示の傾向が目立つだけで、本当の所はそんなに悪い人物じゃない。あの態度はね、繊細さの裏返しなんだよ。まあ、とにかく………昔その彼と一緒に、偶然にも一つの特殊な状況を解明する羽目になったことがあってね。それで、僕はさっぱりその件で役に立たなかったんだけど、彼の方が簡単に事態を収拾してしまったのさ」

「え? あの人が?」

「うん。あんまり人に喋らないようにって忠告受けてたから、今まで話さなかったけど………その時に僕が真実の端緒も掴めやしなかった事に対して、彼はつまらなそうに、こんなものは『違うルール』の状況なんだから気が付けなかったのも仕方が無いみたいな事を言ったんだ」

 私は、リビングから出て行こうとする足を止めて振り向いてしまう。
 『違うルール』………その言葉に、現状で思い当たるふしがありすぎて身体がぎくりと強張ってしまったからだ。
 お母さんは、大いに納得してないことを示すように上目遣いでお父さんを見ていた。

「あれは、一応彼なりに僕への気を使った言葉だったのかな? まあ、普段の傲岸不遜さからの落差にちょっと驚いた。その『違うルール』ってやつに、何か含むところがあった様な感じでもあったけど───」

「へー………確かに、信じられないくらい殊勝な物言いね。でも、何か釈然としないわ。特に、あんなのがあなたを差し置いて何かを解決したってところが」

 目を半眼にして平板な口調であんなのが呼ばわりしているところに、お母さんの嫌悪っぷりがよく表れている。
 流石にここまで嫌うのは珍しい。
 一体、その『あんなの』とお母さんの間にはどんな因縁があったのだろうか?
 どうも、殆ど敵というカテゴリーにその人は入っているらしい。
 そこまでとなると、逆に興味を持ってしまう。
 お母さんが一番怒る時って何だったかな?
 ───ああ、そうか………お父さんを馬鹿にされた時に一番怒るな、そういえば。

「彼は、君が好きな『名探偵』というやつに一番近い人物だと思うよ。何しろ、真相の殆どを事の始まりでほぼ見抜いてしまう位だし。思考は非常に鋭敏だ。ただ、知っての通り普段の態度があんな感じだからね。周囲から、まともに取合ってもらえない場合が多いんだ。あと、彼本人が強迫観念じみた自己顕示欲で大幅に目が曇る時もあるかな」

「やっぱり、好きになれないなあ………で、何が言いたいの?」

「そう、つまり何が言いたいのかというと───要するに、この世界にはほんの僅かだけど『違うルール』というのが隠れていて、それは僕らには全く対処しようが無いという事。そういうものに巻き込まれると、一般の人間にはほぼお手上げなんだ」

 お父さんは、珍しくはっきりとした苦笑いの顔で本当にお手上げだという様に肩を竦めていた。
 だけど、気がついた。
 私が今まで見たことが無いくらい、目だけが真剣で笑っていないということに。
 そこに普段の茫洋とした雰囲気から考えられないほど、知的で強い意志の輝きがあるのが分かった。

「僕が以前に垣間見たものは、正直今思い返しても信じ難く正確に把握しているとは言えないかもしれない。けど、あれは確かに現実にあった出来事だったというのは断言できる。大袈裟じゃなくてね………恐らくそれに本格的に巻き込まれていたら、僕は死んだくらいでは済まなかったと思う」

 お父さんの声は、何を喋るにしても抑揚が少ない。
 元から感情を極端に動かさない人だから意図的なのかは分からないけれど、その響きは聞く相手を落ち着かせるという効果がある。
 だから私も、その内容が明らかに合致しているという驚きを抑えることが出来た。
 即ち───
 
 即ち───間違いなく彼は、境界を越える経験をしているということだ。
 このような身近に綻びがあったとは、少々盲点だった。
 それを認知し得る人物が至近に居るというだけで、危険率は大幅に上昇するというのに。
 彼が、自らをあまり語らない人格という事に起因する失態だろう。
 些事として初手からの強硬な手段は避けてきたが、さて…………

…………………………………

………………………

 私は…………………………何を考えているの?
 何………なの? ───これ?
 唐突にやってきた混線したように意識がバラバラになる感覚に、思わず悲鳴を上げそうになる。
 だけど、当たり前のようにそんな事は出来無い。
 目の前で両親が会話している様が水中から見ているかの如く、とても………とても遠く感じる。

「───これは論理から導き出されたものじゃなくて、甚だ勘に近い曖昧なものになるんだけどね。君の話してくれた件は、何故かそれと同じ類の感じを受ける。関わらない方が絶対に良いと、頭の中で警告がしきりに鳴っているんだ。ただの気のせいであればそれに越したことはないんだけど………どうも、冬木というのはそういう場所らしいから」

「…………分かったわ。久しぶりにあなたのそんな目を見れたのに免じて、これについては綺麗さっぱり忘れることにするわよ。冗談で言ってるようじゃないみたいだし。但し……」

「但し?」

「その時の事は、洗いざらい喋りなさい。幾ら話さない方が良いって忠告受けてたにしろ、私にまで黙ってたっていうのはどういう事よ!」

 お母さんが激昂して鼻先に突きつけた指を、お父さんが寄り目にして見ている。
 普段眠たげに半分落ちかかっている瞼がしっかり開いているのは、かなり慌てている証拠だ。
 日々の中で良く見る光景。
 他愛もないやり取り。
 それがどうして遥か彼方にあり、まるで手が届かないように感じるのか。
 ふと───掌中に何かが現れたのを感じる。
 微細過ぎて、確かにあることを意識していないと存在すら分からなくなってしまうそれは『糸』だ。
 恐らくその『糸』は、眼前に持ってきてすら見ることが適わないだろう。
 これが一体どういうものなのか、私は良く知っている。
 何故なら、あの日───

「あ、えっと………そうか、うん。でも大した事じゃあ……」

「“死んだくらいじゃ済まなかった”のどこが大した事じゃ無いわけ!?」

「う、うん、そうだね。帰ったら夜にでも……って、あれ? 理沙? まだ出ていなかったのかい?」

 慌てて視線を逸らすように顔を横に向けた“お父さん”と、観葉植物の影に隠れるように居た私の目が合う。
 今ならば、■■■■し、それを■■することは容易に可能だ。
 もはや時は満ちようとしている。
 故に、最適な法でなくこの状況においても拙速を選択すべきである。
 その機を逃すのは、全体の構成から導き出される解としては好ましいものではない。
 つまり───

───やめて…………

 その程度の負荷であれば無視───

───お願い、やめて………

 その権限は付与されていない。よって───

───やめて……やめて……やめて!

 越権行為による過剰なる領域の増大は、■■の進行をより速めるものであり自らの───

───………お願いだから、やめてってば!!

…………………………………

………………………

 凄絶な火花が──────散る。
 それは己の中でしか起こっていない出来事であるのは承知していたが、実際に視界を漂白するほどの鮮烈な輝き。
 光の粒子が、踊るように飛び交う。
 奔流する、様々な意味を持つ記号の羅列。
 何かの“スイッチ”を入れてしまった。
 意識がひび割れそうな激痛が頭に走る。
 ───しかし駄目だ、今の状況で自己を失う訳にはいかないのだ。
 理由は全く分からないが、それだけは崩落する崖の間際に居るような危機感で認識出来る。
 この事で、様々なものが手の中から流れ落ちる砂のように零れてしまったのを理解した。
 それでも私は───

「どうしたのよ、理沙?! 顔が真っ青よ!?」

 お母さんが、叫ぶように言ってとても心配そうな顔でこちらに駆け寄ってくるのが明滅する光景の中見えた。
 いつもいつも、そういうのが本当に大袈裟だなあと感じる。
 そんな、今にも世界が終わるような表情しなくていいのに。
 一体私は、この人にどれくらいこんな思いをさせてしまったのだろう。
 それが何だか申し訳なくて───
 それが何だか悲しくて───
 差し伸べられる手を拒むようになってしまったのは、何時からだっただろう?

「あ、ごめん、大丈夫。ちょっと目眩がしただけ」

 私は、嵐の中の小船に乗っているかのような揺れる感覚を無理矢理抑えこみ手を上げてお母さんを押しとどめ平然を装う。
 問題ない、私は平気……と、心中で早口に繰り返しているうち先程の事が嘘の様に己の周囲へ普段の色が立ち返る。
 でも……………………………………
 ──────今、何があった? 
 ──────何故、私はこんな事になっているの?
 記憶が、コーヒーの中に溶け崩れる角砂糖の如く薄く広まってしまう。
 逸脱したモノは、確固たる己を定める為には不要なものだ。
 だから、洗浄するように───それらは破却される。
 ……って、私は何を訳の分からない事を考えているのか。
 現状を改めて確認する。
 時刻はいつの間にか遅刻寸前のギリギリ。
 全く………何をやっているんだか、本当に───

「ねえ、今日は休んだら? 最近少しおかしいわよ、あなた。また無茶な練習して疲れが溜まってるんじゃないの? 大体、何でこんな所にぼうっと突っ立てたのよ?」

「あ、えっと………」

 目の前に立つお母さんが心配そうな顔をして腰に手を当て溜息を吐きつつ言うのに、困った時の癖で無意識に頭を掻く。
 ───何でだろう?
 確かに、自分でも良く分からない。
 今日は寝ぼける余地も無くあんなにすっきり目が覚めたというのに、何かがすっぱり抜け落ちていた。
 若年性の痴呆症なんて冗談じゃないと思い、理由らしきものを脳裏で探ってみる。

…………………………………

………………………
 
 ……………………あ、そうか。私は───

「あの、ほら、今朝はマリを見てないから………何処行ったのか探してたのよ」

「は? ………………何ですって?」

 私の言葉に、お母さんの顔色が変わり表情が信じられないものを見たように険しくなる。
 こちらの様子を伺っていたお父さんも、驚愕を表すように目を見開いて顔を硬直させていた。
 場が不穏な空気で張り詰め、重い沈黙が粘性を帯びた鉛のようにのしかかる。
 二人とも、私を見詰める雰囲気が何時になく緊張を含んで怖い。
 それは、この穏やかな陽の輝きが差し掛かる此処には似つかわしくない。
 一体………何だというのか?

「…………理沙、あなた───」

「と、とにかく行くね! 本当にもうやばい!!」

 私は殊更に焦った声を出して、鞄を引っ掴み玄関へ駆け勢い良く家を飛び出した。
 ───振り払うように。
 ───保つように。
 ───逃げるように。
 後ろからのお母さんが自分を慌て止めた声も、以前と同じく無視して。
 
 (……………以前? どの以前?)
 
 外気に自身が晒された瞬間、ぬくぬくと暖かかった家の中との温度差に少し体を震わせる。
 しかも走っている為に、朝の冷たい風が肌を鞭打つようだ。
 だが、この居心地が悪い気持ちを払拭するには都合が良い。
 時間が遅すぎたせいか、周囲に穂群原の見知った学生服の姿は疎らにしか見かけられず、居たとしても例外無く私と同じように走っている。
 毎朝定期的に行われる、この住宅街からバス停へのちょっとした競技会じみたものは大体メンバーが同じみたいだ。
 私は部活の朝練もあるからそれ程参加率は高く無いと思うけど、朝が弱いので時々この有様となる。
 白い息を吐き遅刻する焦燥感に苛まれつつも、お母さんもお父さんもさっきはどうしてしまったのかと考えてしまう。
 私は、そんなに変なことを言っただろうか?
 確かに、取り繕ったような感じだったが私の行動としては然程おかしなものでは無いだろう。
 長年に渡り、あれ程までに自分が可愛がっている我が家の子猫の姿が今朝は見当たらなかった。
 だから、少々心配になり探していたとしても何の不思議も無いはず……………だ?
 ───うん? 何か言葉に矛盾がある?
 …………まあ、いいや、とにかく今は急がないと。
 私は卵のような丸みを帯びたいつもの大きな車体が陽光を反射させながらバス停に近づいてくるのを見ながら、歩調を緩める。
 どうにか間に合ったと、安堵の息を大きく吐き人の列に並んだ。
 さあ、今日もいつもの一日が始まるのだと私は学生としての自分に意識を切り替えた。


 午前中の授業を終えて、お昼休み。
 解放された生徒達の喧騒が、さざ波のように教室内に響いている。
 最後の時間は比較的好きな方の科目である英語だったのだが、私は今に到るまでどうにも頭がぼんやりして集中できなかった。
 ───周囲で起こっていることが全て書き割りの絵空事のように思えるこの感覚は、一体何なのだろうか?
 見渡しても、特に普段と変わったところは無い。
 教室内に残っている生徒は半分といったところか。
 男女比は均等くらい。
 それぞれが、めいめいに机をくっつけたりして寄り集まり昼食を摂っている。
 この学校の食堂のメニューは結構美味しいしバラエティ豊かだから、そっちに行った者も多かろう。
 何でも、相当昔はどんなメニューも肉の味しかしない大雑把な味付けだったとか聞いたことがあるが、いつの時代だかの実行力ある生徒会が学校に直訴して改善したらしい。
 
 私の目の前には、いつものように色彩豊かな中身のお弁当を神妙に口へ運ぶ氷室の姿があった。
 こいつは喜怒哀楽を大袈裟に出すタイプではないし話し方が話し方の為に気難しく見えるが、時々暴走するにしろ感性自体はとても生真面目で素直だ。
 家族をとても大切にしているようで、特に母親の事を随分と尊敬している。
 その為、母親が忙しい中で毎朝作ってくれるお弁当を感謝の意味も込めて良く味わって食べるのだという。
 だから食事をする様が、宗教の儀礼じみて真摯すぎるように見える。

「……おい。そんなに、私が弁当食べるのを見てて楽しいか? どうにも、朝から様子が変だな。目の焦点も微妙に合ってないようだが、何かあったのかね?」

 不意に箸を止め、氷室はこちらを伺うように視線を送りそんな事を言ってきた。
 私は、寝入り端に突然起こされたような心持ちではっとする。
 どうやら、随分と惚けた顔で彼女を見続けていたらしい。
 手に持ったおにぎりを齧りもしないで。
 確かにこれでは、不審に思われても仕方がないなと内心苦笑した。

「あ、いや、特に何も無いんだけど………ちょっと寝足りなかったのかな。ま、気にしないで」

「また、気にしないで……か。本当に、いつもいつもそれだな。今更腹を立てるのも馬鹿馬鹿しいが、そんなに信用ないか? 私は」

「え? 何で急に? そんなわけ無いじゃん」

「私は、腹を括っているからまだいいがな…………以前にも忠告したが、もう一度忠告しておこう。少しでもその性格を何とかしないと、今後の人間関係において重大な支障をきたすと思うぞ、天谷は」

 氷室のこちらに向ける目は睨むかの如くきつく、口調は突き放すように素っ気無く厳しい。
 これは、結構本気で腹を立てているという事が私には分かった。
 その理由は何となく理解できるのだけれど、恐らくは彼女の勘違いだろう。
 別に、何か悩みがあるわけでは無く本当に調子が出ないというか、今日は集中力に著しく欠けているだけなのだが。
 いや………悩みが無い訳ではないが、それは目下私には全くどうにも出来ず特定の人達にしか解決できそうもない非常識なものだ。
 気軽に話せるものではないし、余人に伝えぬよう忠告も受けている。
 私自身も、なるべく誰も巻き込みたくない。
 それが親しい人物であればあるほどに。
 あまり深く考えないようにしてはいるが………正直、それこそが一番怖いのだ。

「あのね………心配してくれるのは有り難いけどさ、ただ単に頭がすっきりしてないだけだから。体調は、そんなに悪く無いんだけど」

「ふむ………では、以前話していた例の御仁とは関係無いと? その後どうなったのか知らないが、まだお付き合いがあるのかね?」

 氷室の眼鏡の反射光が、一際強く輝いたように錯覚した。
 ああ、そうか、こいつはそういう方面での思い違いをしていたわけね。
 とはいえ───
 言葉に、あの殺伐とした雰囲気を持ちながら少年のような微笑ができるお節介焼きな人物の姿を私は即座に脳裏に浮かべる。
 今まで、桜さんに言われた事もあったので意図的にあまり意識しないようにはしていた。
 しかし、何故か未だに私の心に鮮烈に残っているこの人の事を考えると、僅かに胸が疼くのは事実だ。
 そういう意味では、氷室の指摘してきた事は一面で鋭いと言わざる得ない。
 つまり、もしかしたら今日著しく思考が散漫なのはそのストレスこそが遠因なのではないかという気がする程度には。
 あの人にもう一度会ってみたいのは確かだからだ。
 けれど、今の自分には遥か遠い人物に思えてしまっている。
 知らず私の口から大きな溜息が漏れていた。

「……………いや、前に休みの日に会ったのを最後に連絡も取ってないよ。ちょっと会えない事情が出来ちゃってね」

「何だと? やはり不倫というのは、まずかったか………しかし、それならそれで相手も天谷の心を弄ぶような真似をせねば良いのに───許せんな」

「なんでそうなる? って言うか、戻ってこーい」

 全く………どこまで想像の翼を羽ばたかせていたというのだ。
 黒豹に洗いざらい喋ったことと、あらぬ噂を生んだ事に対する苦情を訴え、きっちり釘を刺しておいたというのに拘らず、まだそんな妄想を抱いていたのか。
 大体、不倫というのはどういう尾鰭の付き方だ。
 三社さんにちゃんと奥さんが居るって話は……えーっと、誰だったかに言った憶えはあるが………とにかく、氷室には伝えてないと思うのだ……が?
 箸を一回転器用にくるりと回し、どこぞの妖術すら行う軍師が策謀を尽くすときのような不敵な冷笑を氷室は浮かべている。
 このまま行くとこいつは、この手の事に余計な程に切れる智略と広い人脈の限りを使い三社さんを探し当てて、訳の分からない陥穽に落とそうと画策しかねない。
 そりゃあ、三社さんもただ者じゃあないだろうけど、理由も分からない意味不明の方向から攻められたら流石に面食らうだろう。
 うん………本当に無意味な謀略など駆使されても困るので、面倒ながらいつものように誤解をちゃんと解いておくことにしよう。

「だからさ、散々言ったけどそういうのじゃないから。何というか、こう………ちょっとした憧れの対象みたいな。あんたが考えるような展開には、まあ成りそうにない相手というか」

「ふむ? それにしては、天谷は珍しくその人物に結構執着しているし気を許していたように感じたのだがね。君はそもそも、誰に対しても一線引く。それは、私にすら例外無くそうだった。肝心なところには決して踏み入れさせない。正直、初めてその御仁の話を聞いた時には多少の嫉妬すら覚えたものだ。まあな………男女間の事ではあるが、何でも恋愛感情に結びつけるというのは些か安易過ぎるのは認めよう。しかし、ならば何故そこまで意識している?」

 …………相変わらず、こいつは退路を断つが如き鋭い追及を容赦無く言ってくる。
 氷室が私をどの様に観察して、どうしてそんな考えを持つに至ったのかはあまりピンと来ない。
 だが───そう、確かにその辺りの自分の心が曖昧であるということに改めて気が付かされた。
 彼女が言うように、三社さんに対してだけらしく無く事有るごとに考えが及び意識しているのは少々自身でも不思議だ。
 どうして、自分の心中であの人が特別な位置にいるかを考えてみる。
 
 ───自分の強情な性格を余裕を持って受け止めてくれた大人の男の人だったから?
 それは少しくらいあるかもしれないが………主要な部分ではないように思うのだ。
 大人の男性が持つ包容力と余裕というものは、個人の趣味もあるけれど私ぐらいの年頃の女の子には非常に魅力的に映る。
 今まで自覚がなかったものの自分は結構年上好みだったのからか、それに触れて事実よろめいた所もあった。
 けれど、それで私の三社さんへの思いを説明出来ているかというと首を傾げざる得ない。
 元来私は、そういう性的な魅力というものにそれ程まで過剰な反応をしない質だった筈だ。
 いや何も自分がクールでそれらに全く興味が無いというのではなく……我が事ながら嫌になるが、どうにも上辺だけで根本の気持ちは常に本気になれず身構えてしまう性格というか。
 それがどういう訳か、あの人相手には自分でも信じられないくらい素直になれた。
 あそこまで短時間で、氷室が言うどこか一線を引く性格の私を軟化させたのは三社さんが初めてであったと言ってもいい。
 今思い返すと、恥ずかしながら少しはしゃいでたような気もするし。
 そこがとても不思議だ。
 それらはきっと、三社さんと同じくらい大人で魅力的な男の人でも私から引き出せなかったと断言できる。
  
 ───では、あの奇妙なお節介焼きな酔狂さが私の琴線に触れた?
 実際今までに会ったこと無いタイプではある。
 表面上の沈着さに誤魔化されがちだが、三社さんの奇人振りは恐らく相当なものだと思う。
 偶然の、まさしく通りすがりで縁が出来た小娘に口ではなんだかんだ言いながらほぼ見返り無しに心を砕いてくれた。
 勿論、私に特異な力が有った故に立場的にそれを放っては置けなかったということもあるのだろう。
 しかし……これは根拠など無いが、あの人は自分に関わる者全てにその背景に関係無く同じ態度で接しているのではないかという確信に近い印象があった。
 どこをどうとははっきりとは言えないが、その性格は突き抜けている。
 つまりは、それに対する好奇故に惹かれて───いや、違う。
 良く良く考えれば、実はその部分だけ抜き出すと三社さんは私が最も苦手とする人物なのではないかという気がする。
 好ましくはあるが………出来れば遠くから見ていたいというような風に思ってしまう人柄ではないかと。
 
 ───ならば、それこそ色々まわりから勘繰られているように自分でも説明が付かない恋愛感情の類なのか?
 うん、無いことは無いかもしれないと思うくらいにはあの人がかっこいいと感じるけど。
 背格好も顔も雰囲気も声も好みだ。
 あの少年のような微笑みは特にツボだが………三社さんが既婚者であることとは関係無く自身を顧みてもどうにもファン心理の域を出ない。
 何か私とあの人では、現実感が希薄過ぎる。
 少々悔しいが、それこそあの鮮烈で華麗な類稀なる美少女であった奥さんこそがぴったりだとしか今となっては考えられない。
 そもそも………そういう執着というのを私はあまりしないはずだ。
 
 ───じゃあ、現在も私に精神的な負荷を否が応でもかけている日常から逸脱した『過去視』(既にそう呼べないものらしいが)について一番最初に自覚させてくれ助けようとしてくれた特殊な人ということで?
 それは………いや、その件について私は三社さんを頼る事を放棄してしまっている。
 何より、桜さんという絶大な信頼を置ける味方を得ることが出来たのだから、さらにこの上で他の誰かをあてにするなど情け無いにも程があるというものである。
 …………あの人に期待するのは、そういう事じゃない。
 ただ、あの一緒に居た時間がとても楽しく穏やかで安心できたという………それだけだ。
 
 ああ、そうか───つまり、そこを考えればよかったのかと急に腑に落ちる。
 唐突に、初めての橋の上での邂逅が浮かぶ。
 橙の色彩の中で、潮騒の向こうの遥か彼方を眺めていたその表情を。
 あの人が、何をそこに幻視していたのかそれは分からない。
 だけど、その方向性を私は良く知っているのだ。
 それは………『天谷理沙』としては心を引っ張られるわけだ。
 どうして、あの時に声を掛けずにいられなかったのか? 
 無意識の疑問に対して、今更ながら納得出来る答えを得たような気がする。
 だからこそ、そうだ自分の望みは───

「なーに、難しい顔して考えてるの? 理沙ちゃん」

 突然、目の前にポニーテールを揺らした幼くも可愛らしい顔が現れることで没頭していた考えを中断された。
 春の陽だまりを象徴するかのような、無防備に暖かく笑った表情が私を覗き込んでいる。
 …………………えーっと─────あれ?
 
「おや? マネージャー殿か。まあ、こやつも漸く人並みに浮世の事を我が身で擬えることが出来るようになったところでな。大方、今まで錆び付いていた回路をフル稼働させて煙でも吹いているのだろう。放っておいて害はあるまい」

 無情にも一刀両断するような声音で氷室は言う。
 全く、こいつは人の事を何だと思っているのかその辺り改めて問い詰めてやりたい。
 ───ああ、いや、やっぱりやめておこう。
 多分、一方的にダメージを受けるのは自分の方だ。
 そんなことよりも───

「えー? なんの話? もしかして………」

「うむ。世に病の種は数多あれ、果てまで尽きまじは恋の病などと言われていたりいなかったり」

「そんな言葉あったっけ?」

「さて、今考えた思いつきだが……即興にしては真理を突いていると言えないかね?」

 二人して、仲が良さそうに調子よく話しているところに水を差しては悪い。
 そう考えて、私は不思議そうに彼女達を眺めているしかなかった。
 要するにだ…………私は、親しげに自分の事を呼んでくれたポニーテールの娘のことが誰かまるで分からなかったのだ。
 氷室とは旧知の様なのだが、私は………?
 この娘をマネージャーと呼んでいたか、氷室は。
 我が陸上部のって事なのだろう…………か。
 ──────それはおかしい。
 そんな事は、あまりにおかしすぎる。
 そんな………そうだとしたら───私のほうこそ…………が?
 
 ………私は、この娘を知らない。
 
 ………私は、この娘を知らない。
 
 ………私は、この娘を知らない。
 
 爪先から這い上がり、瞬く間に全身を灰にするような焦燥感。
 耐え切れず、死に物狂いで次々と扉を開けるかの如く記憶を辿り愕然とする。 
 
 ───繋がらない。
 
 ───方々で欠けている。
 
 ───空白が出鱈目に広がっている。
 
 ───矛盾があまりにも多い。
 
 何…………故?
 なん……で………こんな事に…………?
 恐怖のあまりに叫びだすのが自然であろうに、私の身体は切り取られた時間の中の静止物であるかのように硬直したままだ───
 
 だけど、これは予測できたことだ───
 
 あのような事をしては当然の報いと言えた───
 
 そう───
 
 『天谷理沙』は、そういう選択をしたのだ───

 何故か?─── 

 勿論、我慢がならなかったからだ───

 突如に浮かび上がったのは、迷いの無い諦観と朧な決意。
 それと共に、嵐のように波立った心へ静けさの波紋が広がったのが分かった。
 ───どうやら私は、意味不明な白紙となった時間の中で自身が納得せざるえない何かをしでかしたらしい。
 これが、その結果というわけだ。
 正直に言えば、それに対して絶望的なまでの孤独を感じたのだけれど………きっと間違ったことでは無かったのだろうという事だけは確信できた。

 だから──────いいや。

 目の前の楽しげに話している二人の女の子は、少し前の自分にとって当たり前に周囲に居た存在なのだろう。
 しかしあそこは、今の私に対して何と眩しく遠い隔たりのある場であろうか。
 まるで、深すぎる闇の中で一点だけ輝く星を目指して飛ぶ宇宙飛行士にでもなった気分。
 結局、午後の授業が始まるのを知らせる予鈴が鳴るまで、私は馬鹿みたいにぼうっとした顔をして彼女たちの好き勝手言っている様子を見詰めていた。
 どうにも無様になってしまった自分を悟られたくはなかったし………それに、それを心に焼き付けるのがかけがえの無い大切な事のように何故か思えたから。
 二人が私を、深い考え事をしていると思ったのかそっとしておいてくれたのが有難かった。
 誰かの気まぐれかそれとも空気を入れ替えるためか、窓を開けられた事でこの季節特有の匂いを伴った風が流れて頬を撫でる。
 背景に流れる同級生達のざわめきは、浜辺での波打ち際の音に似ているなどと夢想する。
 その穏やかな日常を否が応にでも想起する空気と音は、今の私にとって残酷な仕打ちだと思わずにはいられなかった。



『もう! やっとそちらから連絡してきたと思ったら、随分なご挨拶ですね! いい加減にして頂かないと……こちらも色々と考えますよ?』

 一言を発した後に返ってきたのは、不機嫌極まる言葉だった。
 何故そこまで彼女が気分を害しているのかよく分からなかったが、とりあえず詫びる。
 怒らせると実は一番怖いという事は勿論知っていたが、昔とは違い今は感情をストレートに表現してくる。
 それは自分にとって素直に喜ばしい筈だが、その迫力がどうも彼女の一番近い血縁にかなり近づいてきているのではないかと懸念した。
 そうなると、とても困る。
 なんというか、その……………己の立場的に。
 ただでさえ、今は様々な面で助けを受けているというのに。

『まあ………今に始まったことじゃないですからね。そこは大目に見るとしても、今後は────ええ、やっぱりあの娘の件ですね? その事でも少し言いたいことがあります』

 言い募ろうとするのを遮るように本題を直截に述べると、彼女の声音が硬質の響きへと変化した。
 本来ならばあまり関わらせたくはなかったが、既に彼女は偶然なのか故意なのか接触を持ってしまっている。
 そうなると、役目上どうしても今回の事態を収束させるべく動こうとするだろう。
 それを避けたかったのだ。
 帰結するところを考えれば、これは自分が決着をつける事こそ相応しい。
 つまりはその事を納得させるために、こうして連絡を取ったわけであるが───

『本当に…………貴方は現在の御自分の立場というものを理解されているんですか?』
 
 重く沈むものが滲む詰問に、思わず沈黙する。
 それには今の自分は非常に弱い。
 切り捨ててきたものと向き合うという行為は、罅だらけの心を剥き出しにするという事だ。
 そしてだからこそ、逃げられない。

『あの時に、助けて頂いたのは確かに大変感謝していますけれど───もう貴方はあの様な事をしてはいけないのにさせてしまった………ましてや諸刃である『あれ』を使わせてしまったという事が、どれだけ私の心を重くしているかほんの僅かでも考えて頂いていますか?』

 その訴えかけるような吐露は、想像していた以上に痛かった。
 そういう、こちらに狙いを定めるが如き率直な心情こそが、今の自分の弱点だ。
 以前の彼女は、ここまではっきりと気持ちを伝えることは殆ど無かった。
 その強さは、様々なものを潜り抜けて時を重ね手に入れたものだということを知っている。
 さて………この手強さにどう返答すべきか逡巡していると、思い直したようにもしくは何かを諦めたように大きく息をつくのが聞こえた。
 
『───いえ、ごめんなさい。それを今更言うのは、卑怯で我侭なことにしかなりませんね。あの場ではあれしか方法が無かったでしょうし、ああなったのは自分の未熟のせいなのですから。ですが………』

 数秒の間は、彼女が言い淀んだ故だ。
 それで続けられる言葉の内容が予想できた。

『これだけは、残酷な事実ながらもう一度ちゃんと自覚してください──────貴方の戦いは、既に終わっています。これ以上自らを傷つけて戦う必要も無く、またそれは許されていません。自身の名前がそれを指し示しているのは、良くお分かりなのでしょう?』

 ある種の痛ましさを含んだ口調で告げられた彼女の言い分は、想像したとおりにこちらが二の句を継げないほどに正当なものだった。
 ───そう、己の戦いは終わっている。
 到達すべき『現象』へと届く前に、停止させられてしまったのである。
 名付けた者は、これは呪いの上にさらなる呪いを重ねて打ち消すようなものなのだと寂しげに………だがこの上なく誇らしげに微笑んで言った。
 そこにどれだけの思いが込められていたのか、解ってしまったからこそ止まらざる得なかった。
 自分などの為に数々の大きな犠牲を払った上で凝縮した、その思いが。
 かつて朝焼けの輝きの中で、紅の外套を翻す者と少女が一体どのような会話をしたのか未だ以て知らない。
 あえて尋ねはしなかったが────今ならば、その内容がどの様なものであったか想像できる気がする。

『更に言うならば、今の貴方が決して独りきりではないという事を少しでも弁えてくださいね。どうしても御理解いただけないというのでしたら、『代行』としての権限を行使してでも強制的に帰還してもらいます。あの娘の件はこちらで引き継ぎますので、ご心配無く』

 毅然とした声に、ある種の威厳すら電話越しでも感じ取れる。
 『代行』という肩書きながら、長年に渡りこの地を実質的に守っていたのは彼女である。
 本来その役目を担うはずである『管理者』が、どうしても留守になりがちだった為だ。
 それもまた…………己のせいだったのだが。
 冬木という地はその内包した力の大きさ故に恩恵が多いものの、反作用的に災厄も多い。
 ならば、それを管理するのが生半可では無く苦難の連続であろう事は容易に想像がつく。
 つまり、その苦難を乗り越えてきたであろう現在の彼女が自負を持つに相応しい見識と力を備えているのは間違いない。
 しかしながら───
 沈黙していると、本日何度目かの彼女の大きな溜息が耳に届いた。

『────信頼していただけないのは、やはり悲しいですね。余程あの娘の事が御心配なのは良く分かりますが、既に私も手は打ってありますから。私の家門が、どの様な秘儀を伝えてきたかは憶えていらっしゃいますか?』

 それは………正直に言えば、あまり知りたくもなかったので記憶に乏しい。
 彼女がある覚悟の元に、その姓を変えなかった理由は理解している。
 省みて思い返すと随分と身勝手ではあったが、当時それに対してさえ憤慨と共に自分は反対していた。
 しかし彼女の信念が揺ぎ無いものだと分かり、折れざる得なかったのだ。
 その時の狭量さに、今となっては頭を抱えたくなる。
 だが、あの一族の業まで引き継ぐべきではないという考えだけは変わっていない。
 まさかとは思うが………。
 僅かに強く問い質すと、何故か彼女は少しだけ嬉しそうに苦笑した。

『────いえ、大丈夫ですよ。表向きは廃したとはいえ、家名を継いだ以上はその道を究めるのが当然というだけです。それに、昔のような体得の仕方はしていないので安心してください。とにかく、大別すると『吸収』『戒め』『強制』というのが伝わるものなのですが……』 

 なるほど………後に知ったことではあったが、かの戦いで『彼ら』すら律する仕組みを創り上げたのは彼女が継いだ家名であった事を思い出す。
 その在り方が何もかも悍ましく自分にとって許し難いものであったにしろ、あの途方も無い奇跡の根幹の一部を為したのがあの一族であったのは認めざる得ない所だ。
 『吸収』『戒め』『強制』───それら負の要素の集大成としか思えない系統が得手というのは、この廃絶しかかっている血脈が極めて陰惨で血塗られた道を歩んできた証であろう。
 しかし………そう、これ位の陰惨さは世界では有り触れているという事を後に苦く何度も認識してきたのが今の自分だった。
 そして、毒とは用途を誤らず適量でさえあれば効果的な薬になるということも───
 ならば………
 
『───ええ。あの娘自身に悪意は無いにしろ、かつての私のように周囲にとってその力が危険である事は変わりがないですから。致命的なのは、制御がまるで出来ていないということです。とは言え、『こちら側』に立つ者では無いのですから、表立って拘束するのも難しい。とすれば、一時的に力自体を抑制するしか無いでしょう?』

 なかなかの妙手と言える。
 少なくとも、己には決して成し得ない最良に近い解決法だろう。
 これならば、自分は安心して彼女に全てを委ね余計なことをせずとも良い。
 ……………と、何も知らなかったならば思ったことであろう。

『もちろん、あくまで緊急の措置なので根本的な解決には成り得ません。何より、あまりに強い抑制はあの娘に負担をかける。だけど、これで時は稼げる筈です。超能力者というのは初めてですが、あの娘の力の本質がかなり特異なものの私達と同じであることも幸いでしたしね』

 それこそが───この件に関して最大の誤認であった。
 説明が付かないことに対して、知識不足のままそうと決めつけて安易で狭窄な認識をしようとしたこと。
 己が真っ先に気がついて良い現象だったというのに、察知したモノを固定観念から否定してしまったこと。
 この二つだけで、自分が目も眩む程の愚か者だという事が良く分かる。
 本当に………聡明なる彼の人物に連絡を取っていなければどうなっていたことか。
 問題は、それが偶然か必然かということであるが。

『───? どういう意味ですか? とにかく………この間に、あの娘への方策は何としても探ります。寧ろ、これは私の領分と言って良いと思いますし。姉さんが戻ってくるまでにそれが出来るかは、ちょっと微妙ですけど………』

 語尾の言葉の揺れは、彼女の複雑な心持ちを表しているのだろう。
 依存はなるべくしたくないのだろうが、それでもあの万能たる赤き魔女が戻ればどれだけ心強いか彼女こそが一番良く分かっている筈だ。
 さて………このままであれば、赤き魔女が帰還するどころかほぼ同じく万能たる青き魔女が先に到来するだろう事も予測できる。
 本気になったあの人物であれば、もしかしたら自ら計算した日数を大幅に縮めるやもしれない。
 それを彼女に伝えるべきか………いや、やはりやめておこう。
 どちらに転んでも、恐らく間に合わないのだから無意味だ。
 そう───もう殆ど時間が無いという悲観的なこの予感は多分外れない。
 我ながら嫌にもなるが、こういう事は外した試しがないのだ。
 果たしてどれ程の猶予があるのか────それを把握する為に幾つかの事柄を彼女に尋ねる。

『────あの娘に施した抑制の性質ですか? それを伝える事で御納得頂けるということでしたら………施したのは『戒め』です。対象は認識、集約、構成の三つでそれらへの阻害として働きます。彼女の力は、私達と変わらずその段階を経て発現しているようですから、ある意味では基本通りということですね』

 確かにその三つを抑制するならば、ほぼ何も出来ない。
 驚くべきは、彼女がそこまで出来るという事実だ。
 『戒め』とは『強制』が条件を破った場合の罰則という形で効果を発揮させるのに対して、そもそもの行為自体を禁ずるものである。
 強力ではあるが、それだけに具体的かつ限定された簡易な行為にしか施せない。
 ましてや認識、集約、構成などという抽象的で根本に関わるものを『戒める』など、通常であれば到底無理な話だ。
 出来るとすれば、秘奥の類に属する高度なものを駆使したとしか考えられないのだが………。
 にもかかわらず、彼女自身はそれ程大した事と考えていないようである。
 ある一面では自分より優れていると彼女の姉も言ってはいたが………その才に改めて畏怖を感じずにいられなかった。

『特に、認識への『戒め』は念入りに行ないました。この部分は恐らく彼女の力の根幹を為しているでしょうし、無意識の領域に介入して阻害しようとした時に何故か一度無効化されているので────ええ、あれは何か奇妙ではありました。手応えがなかったというか、まるでその部分だけ隔離されていたというか……上手く説明できないのですが』

 言葉を遮って問い掛けたことに対し、答えは少々の戸惑いを含んでいた。
 さもあらんとは思うが、彼女のその曖昧な印象はほぼ核心を突いている。
 これで、己が把握するものがますます補強された。
 今更ではあるが………それは自身の心に重ねて影を落とすものだった。

『不可解なのは、彼女自身からは力の保持が殆ど感じられないのに、あれだけのことを為しているという事実です。しかも本人が特に消耗する様子も無い。これはまるで、無から有を生み出しているか、どこか別世界に貯蔵庫でもあるかという異常さですが………そもそも、こちらの法則では計れないのが超能力なのでしょうしね』

 そう───自分も危うくその思考停止に陥るところだった。
 というより、そう伝えて彼女に先入観を植え付けてしまったのは他ならぬ自分だ。
 しかし───それでも、彼女には全てが終わった後に真実を伝えようと決めていた。
 これが極めて利己的で驕慢に満ちたものだとは承知している。
 だが、自らの現在の行動原理としてそうせずにはいられないのだ。
 その為に、一番確認しなければならない所は───

『───あの娘自身が……? それは───ほぼ不可能と言っていいでしょう。『戒め』の類は、対象の同意が無いと著しく効果が減じますが………私が施したものは同意を得た後に、認識への『戒め』の作用として対象に『戒め』を受けたという行為そのものを忘却させます。つまり自覚が出来なくなるんです。だから───え? 第三者が? 施術中にということですか?』

 言葉に虚を突かれて、彼女の雰囲気が不審なものへと変わる。
 一応はあくまで仮定の話としてという体で言ったが、流石に少々唐突だったか。
 しかし、表面上は平静を保つ事に成功している自信があった。
 全く………今までの環境が環境だった為か、こういう事ばかり上手くなっていったのは自分でも嫌になる。
 このような場合は余計な補足を入れないで率直に尋ねた方が良いと、経験上知っている。
 案の定、呆れたような大きな溜息の後に彼女はこちらに答えた。

『───幾ら何でも、それは見逃さないと思いますけど………まあ、例えばですがその場に観察者が居たとすれば───そうですね、その人物に手段があるなら解除することは可能かもしれません。もっとも、相当苦労するとは思います。施術を見て構成自体を把握しても………かなり優秀な人で三日は掛かるんじゃないでしょうか? 姉さんだったら数時間ぐらいで解除しちゃいそうですけど』

 具体的な例で、彼女の姉を出してくれたのは実感があるだけにイメージが立てやすかった。
 あの天才で数時間掛かるというのであれば、それは相当なものだ。
 元々正道なものが苦手ということもあるが、自分であれば別の手段を考える類のものかもしれない。
 では、あの人物の才能と特殊な状況ならば………?
 少なくとも時間を短縮する手段があるのは間違いない。
 何より、認識へのそれは恐らく機能していないだろうという事もある。

『───あの、ですから彼女の今の状態は自覚そのものを………無自覚に誘導? それは、どういう───? ………本当に心配が過ぎますね。信用が無いのは分かりますけど、あの夜の施術は別れ際に私の車内で行ないましたし、あの車自体に簡易とは言え結界が施されてますから───それで、第三者がどうのこうの言うのは無理がありますよ?』

 彼女の語気の強さは、こちらに対しての不可解さと苛立ち故のものだろう。
 ここが引き際だ。
 軽んじないからこそ───これ以上は幾つかの推論から悟られてしまう危険があると判断した。
 彼女に手を引いてもらうという当初の目的とは異なったが、望外に現在の対象の状況を知り得たのでこれで充分だ。
 流石『代行』と言うべきか、本人の意図とは多少違っても役目を果たしていた。
 これも偶然────いや、彼女は当たり前のように真っ当なことを行ったというだけだ。
 それに比べて自分は、事態を把握する位置に居ながらそれを覆そうと足掻くあまり遠回りし過ぎてしまった。
 だから、もう後は為すべきことを有無を言わさず速やかに為して事態を収束させるしかない。
 …………………例え結末がどの様なものであろうとも。
 最後に────既に意味が無いかも知れないが、一応それはどんな形のものだったかを尋ねる。

『───触媒ですか? 私の髪を使っています。それを、あの娘の髪に紛れさせて植え付けてありますが……………何か隠されていますね? 流石に私でも、いい加減本気で怒りますよ? とにかく、一度戻られて────あ、ちょっと! 先輩!?』 

 今は彼女が意図して使っていない、懐かしい自分への呼び方を耳にしつつ電話を切った。


 
 午後の最初の授業─────

…………………………………

 黒板では、西欧の地図映像が大写しにされており先生がペンで矢印やらの書き込みを入れている─────

………………………

 何処の方言なのか良く分からない独特な喋り方で、時々教科書には載っていない当時の習慣風俗のこぼれ話なんかを語ってくれるこの先生の授業はとても好きだ─────

…………………………………
 
 だけど、今の自分は意識が途切れがちでどうにも集中が出来そうにない─────

………………………

 眠りに落ちる寸前の、半夢遊状態と覚醒を先程から繰り返している─────

…………………………………
 
 おかげで、何だか時の経過がバラバラになっているように感じる─────

………………………
 
 まるで、誰かが頭のスイッチのオンオフを好き勝手に弄ってるみたい─────

…………………………………
 
 いっその事、本格的に壊れてしまえば良いのだろうが何故かそれも出来そうに無い─────

………………………
 
 随分ポンコツになっちゃったなあと悲しむべきなんだろうが、まあ仕方ないよね、と納得する気分の方が強い─────

…………………………………
 
 こういうのって、つまり脳天気って言えるのだろうか─────

………………………
 
 それとも、破れかぶれになっているのかな─────

…………………………………
 
 もう、それがどうしてかなんて良く分からないけど─────

………………………
 
 ただ、まあ言えるのは─────

…………………………………

 後悔はしていないって事と─────

………………………
 
 本当は、凄く寂し─────

…………………………………

………………………

───全■■式への■■を終了。

───演に基づき、■■を構成。

───領域■■により、計への侵食は認められず。

───構築された変■■を駆動。

───外■■■へ制限された■■資源を一部解放………

…………………………………

………………………


「痛っ!?」

 思わず悲鳴を漏らしてしまい、教室中の皆の視線が自分に集まる。
 それに恥ずかしさを感じるよりも、私は急激な頭痛を伴って靄がかかったような意識が突然にクリアになっていた事に驚いていた。
 このまま水中で溺れ死んでしまうと思っていたのに、急に引き上げられ助けだされた様な混乱する感覚。
 本来なら喜ぶべきことなんだろうけど、何故かそれに絶望を覚えた。
 だって────そんな事は(、、、、、あり得ない(、、、、、

 ふと、何かが指に絡まっている事に気がつく。
 これ…………髪? でも───私のじゃない…………。

「どしたー、天谷ぁ? 寝ぼけたかー? 外で一回走ってくるかー?」

「え? あああ、はい!? すいませんでした! つ、続けてください!」

 先生が相変わらずの奇妙な抑揚でにやにや笑いながら言うのに、私は大いに慌てて必要以上の大声で答えていた。
 周囲から笑いのさざめきが広がる。
 前の席の方に居る氷室が、しっかりしろとばかりに振り返ってこちらを睨みつけていた。
 私が俯いてしばらく縮こまっていると、間もなく何事もなかったように授業が再開された。
 その事に安堵するよりも、私の意識はこの普段だったらあまり気にも止めなかったようなことに奪われていた。
 その絡みつく髪を解いて、まじまじと見詰める。
 明らかに、私のものでがないのが分かる長さだ。
 それが三本ある。
 これ………誰のだろう?
 流石に、特定するのは難しい。
 問題なのは、 この髪を見ているだけで何故かどんどん心が乱れてくるということだ。
 いや、心だけの問題ではなくて心臓はさっきから耳に煩いばかりに鳴っているし、背中に冷たい汗が流れているような気もする。
 何かを止めることが出来なくて、とんでもなくマズイことをしでかしてしまったという焦りばかりが膨らんでくる。
 なんで? なんで? なんで? なんで?
 一体どうしたら───

…………………………………

………………………

───限定象における演終了。

───■■へと移行。

───これまでの仮定通り■■■郎を■■点と定める。

…………………………………

………………………

 ま、まさか………学校に!!? ちょっと待ってよ!! よりによって、此処ですらそんな事があったなんて────
 時間が理不尽に引き伸ばされるような感覚に襲われる。
 それは、外部と内部が極限までにズレているからだと何故か分かった。
 駆け巡るものには、全て意味がある。
 例えば数字だったり、見たこともない記号だったりというの言うのであればまだいい。
 色彩や光の強弱。
 乱舞する波形や鋭利な直線。
 回転する螺旋や一瞬ごとに形を変える粘性の何か。
 それらはあるいは、混ざり合い分裂し立体となり平面となる。
 これら一つ一つが、やがて同次元で統合され何かを導き出すなど到底理解できよう筈がない。
 自分が把握できる一瞬の何万分の一の狭間でこのような事が起こっているのか。
 それを少しでも認識出来るのは、境界が随分と脆くなっているせいだと分かった。
 要は、私が…………。
 風景が、突如水面に落とされた絵の具のようにぐにゃりと渦を巻いて歪む。
 そう、何とか結果を先取りしなければ大変な事に───

……………………………………………………………………………………………………………

……………………………………………………………………

………………………………………………………

───それは、毒を孕んだ色。
 
───それは、人に狂気を齎す色。

───それは、逃れられない絶望の色。

───それは、奪い尽くす為に徐々に蝕む色。

───つまりは────撒き散らされた血のように不吉な赤。

───その死の彩りが広がる教室内は、悪夢をそのまま出現させたかのようになっていた。

───昔の穂群原の制服を着た生徒が、無造作に倒れて転がっている。

───ある人は、叫ぶことすら出来ず痙攣している。

───ある人は、口から泡を吹いて白目を剥いている。

───そして、ある人は────炎で炙られた蝋のように皮膚が溶けてズレている。

───まともな人であれば、これらを見て間違いなく激しく嘔吐する。
 
───当たり前だ。

───このような場所に居て、無事で居られようはずはないのだから。

───纏わり付く重さすら感じるであろうどろどろした空気が、人間にとって猛毒であるのは当然としても……

───これは出鱈目なことに、空間そのものが明確な意志を持って捕食している光景なのだ。

───さながら、教室全体が巨大な生物の胃袋になってしまったかのよう。

───違う………教室だけじゃない。

───廊下も、窓の外も同じく鮮血に染まっている。

───まさか………学校全体が?

───一言で言えば、阿鼻叫喚の地獄絵図。

───よりにもよって、今まで見た中で一番最悪なものが此処で起こっていたなんて───

───もうこれ以上視続けると私の心が折れ………………………………いや。

───折れて良いわけがないじゃないか。

───何を甘えた事を───今、『天谷理沙』に出来ることはたった一つしか無い。

───それは………。

……………………………………………

…………………………………

………………………

───変■■における誤差を修正。

 これが、無謀極まりないことは百も承知だ。
 言うまでもなく、ここでこんな事したって相手は無傷。
 自分は…………だけど、それでも───

───そんな事が………。

───■■理論『■■■』の駆動を───

 混沌とした輝きの嵐の中で、私は砂で作られた人形のように脆い。
 でも、そんな事は気にしない。
 軽く吹き払われる程、己が脆弱な存在だろうが一歩前へ───
 踏みしめるごとに、様々な所が崩れ落ちようが一歩前へ───
 それしか、出来ないのならそうするだけだ───
 大丈夫、ここで『天谷理沙』が折れさえしなければこの手は届く───

───………許されて良いわけないでしょ!!

……………………………………………

…………………………………

………………………


「こ、今度は、どしたー? 天谷ぁ?」

 先生が、黒縁の眼鏡の奥の目を限界まで見開いて、戸惑い気味にこちらに声を掛けていた。
 見ると、教室中の皆が奇妙なものに向ける視線で私を集中砲火している。
 いつの間にか、自分は立ち上がっている。
 もしかして、無意識に叫び声でも上げたのだろうか。
 ただ、そんな事どうでも良い程私は消耗している。
 吐く息が、限界まで走り抜いた後のように荒く熱い。
 全身は、豪雨にでも見舞われたように不快な汗まみれだ。
 四肢には、鉛の枷が何重にも掛けられたような倦怠感。
 心臓が気が狂ったように早鐘を打ち、胃が痙攣でのたうち回っているのを自覚する。
 何より頭が、内側から滅茶苦茶にハンマーで叩かれているみたいに痛み続けている。
 本当に吐きそうなのに、そんな気力すら起きない。
 でも………こんなに苦しくても、私は満足だ。
 ほら、だって、みんないつも通り。
 血塗れのあんな理不尽な悪夢に巻き込まれる程、ここにいるのは悪い人達じゃ無いと思う。
 あ、いや、過去にあんな目に遭った人達も運が無かっただけって事だろうけど………二度は無いよ、流石に。
 特に、そこの眼鏡の───ああ、もう!! 名前出てこないなんて酷いな私───あんたが無事で本当に良かった。
 だから───

「あ、天谷!?」

 そんな、仲が良いからって授業中に大声で呼ばれると恥ずかしいなと呑気に考える。
 そして、視界が滑り落ちるように斜めになって点滅し始めた。
 つまり、私は意識を失って倒れていく最中なんだと他人事のように自覚できたのは先程の残滓のせいなんだろう。
 誰かの驚いた声、落ち着かない囁き、騒然とする気配。
 きっと今、教室内はちょっとしたパニックなのだと思うと少々申し訳無かった。
 だって、私という存在は───

───そう……つまりは、一つの信号に過ぎない。
 
───精巧な、仮初めの、見せ掛けの………舞踏会での趣向の一つ。 
 
───これは始めから定まっていたことではあるけれど。
 
───広がる亀裂は、さながら蜘蛛の巣。
 
───大事なものを蝕んで、
 
───失くしてはいけないものを失くしてしまい、
 
───貴女は、何をしようとしているのか。
 
───嘲笑うものは居ないだろう。
 
───賞賛するものも居ないだろう。
 
───そもそも誰も居ないだろう。

───それでも………それでも貴女は最後の欠片を手に入れようとするのか。

───それは、匣中にあるからこそ価値があるものだというのに。

───とても………とても、とても、とても不可解。

───許容内ではあるが、深刻な誤作動でもある。

───もしかしたら、貴女は“彼”のように『最後の奇跡』にでも………

 割り込まれたそれに対して、私の答えは決まっていた。
 “うるさい、お前の知ったことか”
 意識と無意識の狭間にそう強く言い放ち、私という信号は闇に引き込まれ途絶した。


 



[18834] 匣中におけるエメト 7
Name: tory◆1f6c1871 ID:582d51b1
Date: 2010/10/26 09:20



 茜色の光が、洗練された石造りの建物を淡いピンクに染め上げていた。
 空には薄い雲が途切れ途切れに広がり、沈みゆく陽を隠しては絶好の瞬間で輝きを漏らすという演出を行っている。
 黄昏に齎される美しさには、時の積み重ねを体現するこの古き街並みが良く似合う。
 最初に分かったのは、空気の匂いが微妙に違うこと。
 深く息を吸い込むと、何だか心まで洗われるようだ。
 風の流れは、髪を柔らかく撫で優しい感触。
 洗練された造形の金属の看板が所々に掛かり、表面に流麗な文字が絵のように描かれたそれらは僅かに揺れている。
 何処かで耳に心地良い鐘の音色が鳴り響くのを聞きながら、私は上機嫌で石畳を踊るように歩いていた。
 道行く人達は、帰路を急いでいるのか皆がそれぞれ脇目も振らず早足だ。
 これから彼らは家族の元へ辿り着き、温かい家庭料理に舌鼓を打つのだろう。
 雑踏から漏れる音は、私には殆ど分からない鳥の囀りのような言葉。
 まるで映画の背景の一部に自分がなったようで、とても嬉しい。
 何よりも、此処には誰も私の事を知る人が居ないという事が心を安らかにする。
 当たり前だ。
 だって、私の故郷から此処まではとてもとても遠いのだから。
 こんなにも、私は孤独で。
 こんなにも、私は自由だ。
 ああ───此処だったら、きっと私だって………

「ふーん。随分と何というか………厚みのない場所だなあ。まあ、当たり前といえば当たり前か」

 ──────無視出来ない呆れたような声が聞こえた。
 私は自分でも不思議なほど動揺して、追い詰められた齧歯類の如く辺りを見回す。
 しかし………今のは何という、不愉快で癇に障る言い方だろう。
 かなり生意気そうな子供の声だったのだと思うけど………

「おーい、こっち、こっち」

 呼びかけに視線を向けると、建物の前の石造りの階段に足を組んで座り、ぞんざいな感じで手を振っている子を見つけた。
 回路を行き交う電流の如き人の流れを横切り、吸い寄せられるように小走りで近づく。
 デニムのショートパンツを穿いて素足を剥き出しにし、Tシャツの上に無造作にパーカーを着たその姿から最初は男の子なのだろうと見当をつけた。
 だけど、近づいて善く善く見ると分からなくなってしまう。
 顔立ちは繊細なのだが、ちょっと凛々しい感じもして………特に切れ長の目が小生意気そうで印象的だった。
 線の細い男の子といえばそうだし、中性的な女の子といえばそれで通るような……?
 問題なのは、この子を見てると訳も無く落ち着かなくなるということだ。
 どうも苦手というか、居心地が悪いというか───
 
「こんにちは」

 こんにちは。
 私は、その子を少し見上げる形で顔を向け挨拶を返す。
 年上に挨拶するのに座ったまま立とうとしないのも、どこか品定めするような目で私をじろじろ見るのも少々腹立たしかったが……まあ、許してやることにする。
 それよりも………

「とりあえず、名前を訊かせて貰える?」

 む………こちらが何か言おうとするのにかぶせてくるとは、なかなか良い度胸だ。
 だけど愛想笑いの一つくらいはした方が可愛げがあると思うんだ、お姉さんは。
 それに言い方も不躾過ぎて、喧嘩売ってるように聞こえるなあ。
 私は、天谷理沙。
 あなたは?

「私は───うん、訊かない方が良いと思う」

 なんでよ?
 そもそも、人に名前を訊くときは自分から先に名乗るのが礼儀ってもんよ?
 それを折れてこっちから名乗ったのに、そういう返しは無いよ。

「それは、そうなんだけど………ほら、多分ややこしい事になるからね」

 ?? 何言ってるの?
 大人びた感じでやれやれと肩を竦めるのは、子供のくせに堂に入ってるけど。
 ただ、その反抗的に見える口の結び方はやめた方が良いんじゃない?
 色々と誤解されるし。
 ま、いいや………で? 何の用なの?

「うーん? 用って言うか………一度話してみたかっただけなんだけど。そうね、とりあえず此処ってどこなの?」

 僅かに首を傾げて、真っ向から視線を合わせてくる。
 仕草と喋り方から、漸くこの子が女の子だと分かった。
 私は、自明の事を訊かれて困惑してしまう。
 ………自分が居る場所くらい分からないの?
 もしかして、迷子?

「まあ、似たようなもの……なのかな? アンタほどじゃあ無いと思うけど。本来『私』は、極々僅かの殆ど認識出来無い差異から生まれた歪みの残滓にしか過ぎない。だけどやっぱり、時の流れってのは無視できないから、それが大きくなるって場合もあるよね。まあ、これは立ち位置の違いってのも大きいか」

 ………あのさ、言ってる事が殆ど意味不明なんだけど。
 もしかして、その年齢でちょっと中二病的なモノを患ってたりする?
 それと、年上にさらっとアンタ呼ばわりするのは感心しないよ。
 第一、答になってないじゃない。

「年上って………正確に言えば私の方が上じゃないかな? それに、分からないって事は無いと思うんだけど───ま、いいや。とにかく教えて。此処はどこ?」

 私は、執拗に分かりきったことを尋ねてくる彼女に苛々する。
 そんなのは決まっているじゃない。
 此処は、海を隔てて辿り着いた異国。
 故郷から遠くに離れた場所。
 彼方にこそ見えた、決して届かなかった望み。
 ほら、私達の周りを見てみてよ。
 この空だって、空気だって、建物だって、行き交う人々だって、全然違うでしょう?
 要するに、これが所謂───

「ああ、やっぱりね………そんな事だと思った。これ、きっとアンタだけのものよね。私なら、こういう事を考えたりはしない。だって、必要ないだろうから」

 素っ気ない口調で断言するように頷く彼女に、私は絶句した。
 必要ないって………そんな………あなたにそんな事を言われたら……
 周囲の景色が、水彩画のように曖昧にぼやける。
 どうしてここまで、私の心は凍りつくのか。
 何故、置いてけぼりにされたような深い悲しみに苛まれるのだろう?
 何かが………絶望的なまでに間違っているの?
 全ての積み重ねが、根底から音を立てて崩れるのを聞く。
 只々居た堪れなくなり、私はこのまま掻き消えてしまいたくなった。

「あ、ああ、いやいや、違うよ? べ、別に否定してるとかじゃなくて、その……仕方ないじゃない。私でも、そうなったら多分同じようになると思うし。でも、ほら………違うっていうのは、寧ろ良い事じゃないかな? ああ、もう───泣かないでよ! ほら、こっち来なさい!」

 ………泣いて……いる? 私が?
 頬に手を当てて、冷たく濡れているのを確かめた。
 そうか──────私はまだ泣けたんだ。
 何か理由があったはずなのに思い出せないけど…………てっきり、涙はもう涸れたものだと考えていた。
 久しぶりに流す涙は、逆に気持ちが良い。
 それにしても、私を必死に宥めようとしている彼女の慌てようが面白かった。
 少し擽ったい気持ちになり、言われた通りに素直に階段を上って隣に腰掛ける。

「ほ、ほら、ハンカチ。こういう事を他人にされて嫌なのは解るけど、我慢して。あ、でも、鼻とかはかまないでね」

 そっぽを向いて、照れ臭そうに私に差し出してくれたものを受け取る。
 手触りが良さそうな、黒地の綺麗なハンカチ。
 ああ、これは………デフォルメされた白い子猫が描かれていて、とても可愛い。
 ───何だかとっても懐かしいな。
 私は、なるべく丁寧に流れ出た涙を拭う。
 もちろん、鼻なんかかむわけがない。
 そういうのは、とても失礼な危惧だと思う。
 それと、あなたからこういう好意を受けるのは嫌じゃない。
 だって───

「ああ……そりゃあそうか。もしかして、段々と分かってきた?」

 うん、と頷いてハンカチを畳んで返し、膝の上で頬杖をつきながら景色を眺める。
 清涼感溢れ、それでいて都合良くも時の積み重ねをを感じさせる絵葉書の写真のような街並み。
 幻想をさらに現実から遊離させる夕闇。
 サンプリング音源の重なりに似た、機械的な喧騒。
 私達に見向きもしない、通り過ぎる影絵の如き無個性な人々の流れ。
 視線だけで横を覗き見ると、彼女も同じ姿勢になってそれらに目を向けている。

「アンタがこれを望んでいた本当の理由は、こんな場所だったら『天谷理沙』が『天谷理沙』であることを誰も気に止めないって事ね?」

 うん、そう、とその淡々とした口調の率直な指摘に従順に答えた。
 目を逸らしてみても、相手が相手だからあまり意味は無いだろうし。
 彼女に私を非難する意図がなさそうだという事も大きい。
 
「こういう所なら、ひょっとして………って思ってた?」

 うん、思ってた。
 だから───此処はこんなにも歪なんだ。
 本当に、笑っちゃうよね。
 確かに、あなたが最初に言ったように落書きみたいな厚みのない世界。
 呆れるのも良く分かる。

「あ、いや、えーっとね………私は、アンタに少し申し訳ないって思ってる」

 意外な言葉に虚を突かれ、思わず身体ごと振り向かせる。
 彼女は、僅かにバツが悪そうな顔で頭を掻いていた。

「だってさ……ほら、アンタがそうなのって、結局は私が難儀な性格だったからって事じゃない?」

 見詰める瞳が本当にこちらを気遣う気持ちが揺れているのを認め、私は呆気に取られた。
 ………全く、そういうのが難儀だというのだ。
 こんなに滑稽だと、本当に馬鹿馬鹿しい。
 私があなたにとって何であるか、それを理解しているはずなのに………。
 だが………そう───その心の動きを一番解ってしまうのは自分だ。
 うん、そうね………確かに、そっちから見るなら私もそう考えるだろう。
 つまり、立ち位置の違いというのはここまで別々にするという事なのか。
「心の奥底では何となく気がついていながら、目を逸らしきることが出来なかった(、、、、、、、、、、、、、、、、。そうした方が、アンタにとってはきっと楽だったっていうのにね。こういう事言うのも何だけど………ちょっとしんどいかなって」

 言われたことに対し笑うしか無いと思ったから、そういう表情を作っているつもりだが………実際のところは彼女にどう見えているだろうか?
 顔の筋肉が強張って、少し痛い気がする。
 ───だけど、仕方無いじゃない。
 私は、そこから始まっているって事なんだし。
 それにあなたが私にそういう風に言うのは、甘えが過ぎるってものじゃない?
 
「うーん、そうなのかも知れないけど………実感が湧きにくいからさ。何だろう? それこそ、妹でも見ている気分になったというか。ま、所詮は私も『そのもの』では無いしねぇ………だけど、例えば『借り』を作るのが嫌だというのにしたって、確かにそれは『天谷理沙』にとって重要な要素だけど、アンタにとってそれだけじゃ無いだろうし。その苦しみは、きっとアンタだけのもののはず。それを考えると───」

 そんな子供の姿で、妹とか言われてもなあ………何となく気持ちは分かるけどさ。
 大体、それは余計な心配というものだ。
 これでも、結構適当に日々をのほほんと暮らしてきたから。
 それなりに楽しかったし、幸せだったと思うのだ。
 だから、あなたはそんな顔をしなくていいよ。
 それより、本来ならあなたに与えられるはずだったものを私は奪ってしまった。
 それには、何か言うべきことがあるんじゃない?

「ああ………でも、それをアンタに言うのは筋が違うから。勿論、言いたいことは山ほどあるけどさ。それに、アンタは然るべき時に為すべきことをちゃんと為してくれたし………ま、感謝したいくらいかな」

 柔らかく変化した彼女の誇らしげな微笑は、朱色の世界の中で一際輝いて見えた。
 それに眩しさを感じつつ、そうか、やっぱり間違ってなかったんだなと心底安堵し顔が綻ぶのを自覚する。
 例え誰にどう言われようとも、きっと今の言葉で報われたのだろう。
 だったら、私もそうそう捨てたものじゃなかったな。

「あ、そうだ。話は変わるけどさ、あの人の事は結局どう思ってるの?」

 唐突に、猫の如き興味深々な顔で質問され戸惑う。
 確かに、その思いは私特有のものなのだろうけど。
 でも、あなただったら分かるんじゃないの?
 こう………立ち位置を変えて、あの時の光景を思い出せばさ。
 それとも、分からない?

「いや、出来ればアンタの口から聞きたかったんだけど………ま、いいか。はっきりとは言い難いのも分かるし。容赦無く酷い言い方をすれば、『同病相哀れむ』って事なのかな?」

 ………………本当に容赦がなくて酷いなあ。
 概ね間違って無いのがまた癪に障る。
 あの人は、きっと想像を絶する道をこれまで歩んできただろうし単純に比較なんか出来ないけどさ。
 でも多分───
 
「うん、方向性は同じだと何故か分かった。つまり───それが得られないものと知っていても………ってやつ? あっちの方がより性質が悪い気もするけど」

 そう…………私は、まだ良いけれど。
 あの人は、これから先どうなっちゃうのか結構気になるかなあ。
 私の場合、これまで具体的な何かをしたって訳でも無い。
 というより、碌に何か出来る余地が無かったのだが。
 だけどあの人は………

「それは、興味本位に近い余計なお世話ってものだと思うな。元より、そういう面でアンタがあの人に出来ることは微塵も無さそうだし。大体、私達程度が理解できるのはせいぜい方向性ぐらいで、その内容を慮るのは身の程知らずってもんでしょうよ。そもそも、あの人の場合それなりにどうにかなった結果が今の状態なんじゃないの?」

 流石に、遠慮がないというか痛いところを抉ってくるというか……。
 言っている顔が顔だからか、私には尚更きつく感じる。
 まあ………その部分は、私よりあなたの方が客観的なだけにちゃんと理解してそうだけど。
 で、どうにかなった結果が云々ってのは何のことよ?
 私の自分でも分かる機嫌が悪い声でのそんな問い掛けに、彼女は見た目の年齢にそぐわない苦笑の表情を湛え肩を竦めた。

「そんな、いじけた顔されてもね……まあ、確信があって言ってる訳じゃあないから話半分で聞いてくれれば良いよ。要は価値観が著しく硬直したアンタらみたいな人達が、内的要因か外的要因かは知らないけど大人しく留まってるという事自体が生半可じゃないだろうなって話」

 それは………確かにそうだろう。
 前提条件が崩れてしまうが、もし私に今のような不自由さが無かったとしたら───
 きっと今頃、とっくに冬木を離れているに違いない。
 お父さんとお母さんとお祖父ちゃんの事………それらは、酷い話だがどうにもならない自らに対する言い訳となっているに過ぎないのだ。
 本当のところ私が私であろうとするならば、そんな事で止まれはしない。
 仕方がないという諦めの感情も、蓋をされた叶うことがない願いへの精神安定剤みたいなものである。
 だからこそ、私は自壊することなく平衡を保っていられた。
 果たしてこれが自浄作用だったのか、与えられたものだったのかは微妙だが。
 では、あの人は?
 何を以て、自らの平衡を保っているというのか?
「さあ? それこそ分かる訳ないと思うけど。ただ、あの人は───幸せそうに見えた(、、、、、、、、。そういう事じゃない?」
 
 ああ───そうか、そういう事か。
 言われた言葉に、脳裏で即座に少年のような暖かい笑顔が像を結ぶ。
 自然と導き出されたものは、私を大いに納得させる共に少なからず衝撃を与えた。
 我ながら呆れるが……あの表情に対して抱く自身の感情の何と生温かったことか。
 勿論、あの時点でそれを見抜ける訳も無いのだけど───
 
 あの人の彼方に向けていた眼差し。
 その先にあったものが果たしてどの様な形をしているものなのか、私ごときに分かろう筈も無い。
 しかしながら、それが余人から見れば馬鹿馬鹿しくなるほど壮大で手に届かないものだろうという事だけは確信できる。
 そしてあの人は、それを求めることを自らでは決して止めることが出来ないのだということも………。
 私には、実感できるのだ。
 存在意義に関わる根源的な歪みというものは、自身では抑えようがないことが。
 そういう不自由で一方に傾きに傾いた不均衡な価値観の秤は、等価の重みを差し出さなければ平衡に戻ることがない。
 その等価とは一体なんなのか? 
 それに対する答えの具現こそが───あの笑顔ということなのだろう。
 
 多分、それは目眩がするほど非常に危ういバランス。
 それを成し遂げ、恐らく現在も維持し続けているのは間違いなく───
 なるほど………かつて過去の幻像の中で一目見て看破したように、正しくあの少女は最後まで負けずに戦い抜く人物だったという事か。

「ホント………そりゃあ、色々あったんだろうけどさ。その人も、大概まともじゃあないよね。物好きにも程がある。ま、尊敬はできるけど───っと?」

 揶揄を含んだ顔で言い募ろうとした彼女が、不思議そうに辺りを見回す。
 いつの間にかモノクロームの色彩で占められてしまった街に、郷愁を誘う低い鐘の音が大きく響き渡っていた。
 それは、終焉の旋律。
 崩壊の始まりとなる調べ。
 重なり合う奇跡が完了したことを告げる合図。
 つまりは───ここでおしまいという、エンドマーク。

「そっか………仕方ないね。とにかく、話せて良かった。きっと、もうこんな機会は無いだろうから少し寂しいけど、アンタの時間も貴重だろうしね」

 口ではそんな事言いながらも表情に全く未練を出すこと無く、彼女は勢い良く立ち上がる。
 そういう所が、何だかとてもらしいと感じる。
 私も合わせて立ち上がり、階段を一段降りる。
 同じ高さで立つと、身長差でどうしても彼女を見下ろす形になってしまうからだった。
 向き合った時に視線の高さは合っていたほうが良いなと考えて、そうしたのだ。

「それなりに楽しかったから、お礼は言っておくよ。たださ………その、少し気になったんだけど───」

 どういたしまして………と答えようとしていた私に、彼女は改まって神妙な顔を向けてくる。
 なんだろう……何か重大な事を、言い残してたとか?
 もう今更どんな指摘を受けても動揺しないし、時間も少ないから遠慮無く言って。

「いや、重大な事って言えばそうなんだろうけど。何かさ………予想以上だったなって。正直、ここまで違ってくるとは思ってなかった」

 あー……………。
 それは、まあ、仕方ないんじゃないかな。
 あなたも、違うことは寧ろ良いことだって言ってたじゃない。
 こういうの、えーっと誰かに聞いた言葉があったな。
 何だかより育ちとか何とか………。
 あ、そうそう、ぴったりの表現があった。
 腹違いの双子の姉妹ってのはどう?

「なるほどね。剽窃だけど、確かに……うん、的確かな。それじゃあ、元気で……って言うのは無いか。んー、えーっと、その………」

 彼女が頭を掻きながら、初めて年相応に困った顔をしているのがおかしかった。
 私は吹き出すのを堪えながら、左手を差し出す。
 彼女が左利きだったからだ。
 私は本来左利きではないが、そのように生活してきたのでそうすることに慣れている。
 一瞬、私を見詰め複雑な表情をした彼女だったが、納得するように頷くとその手をしっかり握り返した。

「じゃあね、理沙!」
 
 潔く短い別れの挨拶を残し、彼女は早足で階段を駆け下りて街に消えていく。
 決して振り返ることはなかったが、歩きながら後ろに軽く手を振ってくれた。
 私もさよならとそれに返し、彼女が完全に街に溶け込み見失うまで手を振る。
 やがて───浸透する鐘の音は止み、街は群青に染まり切って全てのものがそこに滲み出した。
 まるで、雨の中で曖昧になってしまう輝きであるかのように風景は淡く引き伸ばされる。
 それは、洗練が過ぎた建物も、記号としての人々も、この私自身でさえも飲み込んで波及した。
 平面と変わり果てていく世界は、もはやキャンバスに固着された絵にも等しい。
 そしてその絵は乱暴に塗り潰され、視界いっぱいに広がる深みのない青のみとなる。
 そう───
 これは、泡沫の夢。
 幻想の中に立ち上がった、残骸に似たもの。
 スイッチが切れれば、後には何も残らないノイズ。
 しかし、例えそれらだとしても、この手に残った感触だけはある奇跡の欠片だったのだ。
 願わくば………その欠片に一滴でも意義が与えられんことを───



「失礼します」

 軽いノックの後に、中に小声で断りを入れる。
 すぐに柔らかい応えが返って来るのを耳にし、私はなるべく音を立てぬように扉を引いた。
 保健室などというと、適当な仮病で惰眠を貪っている馬鹿者どもの巣窟になっているという認識がある。
 何しろこの学校の養護教諭は男女問わず人気がある癒し系の女性であり、それに甘える輩が後を絶たないからだ。
 しかし、今は実際に体調を崩しベッドで眠っている者が居ることを承知していたので細心の注意を払った。
 まあ、その眠っている人物も馬鹿者であることには変わりがないわけであるが。
 室内に入ると、デスクで書類整理の作業していたらしい件の養護教諭が椅子ごと振り返った。

「あ、氷室さん」

「先程は、大変失礼致しました。天谷の様子はどうですか?」

「ああ………ちょっと熱があったみたいだけどそれもさっき下がったし、落ち着いてるから大丈夫なんじゃないかな? 今は気持よさそうに寝てるよ」

 安心させるように僅かに首を傾げて微笑む様は、確かにこちらの心を落ち着かせてくれる。
 実は幼い頃よりこの人の事を知っているが、その時よりこの穏やかな雰囲気は変わっていない。
 いや、現在の方がより深みを増したというべきか。
 勿論、人格面だけでなく職能への信頼も彼女に対し持っていたので、そういった意味でも告げられた言葉に安堵する。
 さて、何故私がこの人物と旧知なのかと問われれば───
 何のことはない、ただ単に母親が彼女と昔からの友人であるというだけのことである。
 今は姓が変わってしまったが、母は彼女の事を現在でも親しみを込め名前で由紀香と呼んでいる。

「天谷さんも、琴ちゃんと同じ部なんだっけ?」

「はい、そうです」

 身振りで手近な椅子に座るように勧められたので会釈して、それに従う。
 彼女は一区切りとばかりに軽く伸びをし、立ち上がってお茶の準備を始めた。
 ………お相伴に与るのはやぶさかではないが、そういう事を気軽に生徒相手にするから一部の自堕落な者達に勘違いされるのではないだろうか?
 まあ、いい───実際のところ、この先生が最後の部分でナチュラルに非常に厳しいのを知って、痛い目を見るのはそういう者達の自業自得というものだろう。

「陸上部か。何だか懐かしいな………だから、この娘と仲良しさんなんだね?」

「はあ………まあ、同じ部活だからってワケでも無いですが。仲は良い方だと思います」

 改まって仲良しなどと言われると、何だか気恥ずかしくなってくる。
 恐らく少々赤面してるだろうそんな私に、彼女は嬉しげな表情で頷きながら目を細めていた。
 こういう所こそ、彼女が人を癒すと言われ慕われる所以だろう。
 他人の心に素直に触れ同調しながらも、決して立ち入り過ぎることもなく優しく見守るというその性向。
 しかも、これでいざという時の芯も抜群に強いのだから信頼される。
 何でも話に聞いたところによると、かつて誰もが匙を投げかけた登校拒否の生徒を何度も説得し、学校に再び通うように立ち直らせたこともあるのだとか。
 単なる養護教諭が何故そこまで………と、周囲の風当たりも強かったらしいが最後までやり通したのだという。
 私は、軽く咳払いをして差し出されたお茶に口を付ける。
 熱くもなく温くもない適温で、さりげない気遣いが感じられる甘露だった。

「そういえば、先生は母と同じく陸上部だったのでしたね」

「うん、そう。前に話したと思うけど、私はマネージャーだったの。蒔ちゃんがいて、鐘ちゃんがいて………あの頃は、色々大変だったけど楽しかったなぁ」

 過去に思いを馳せるその顔は、心底過ぎ去った日々に幸せを感じていたのが分かるものだった。
 ちなみに蒔ちゃんと言っていたのは、現在の我が陸上部顧問である自称穂群の黒豹こと蒔寺女史であり、鐘ちゃんというのは私の母のことだ。
 彼女と合わせてこの三人は、かつてこの学校で同級であり陸上部に同じく所属していたのである。
 そして、現在に至るまで仲睦まじい友人同士として彼女達の縁は続いている。
 さしずめ立ち位置的には、同様に陸上部である私と天谷と風河といったところなのだが………さて、はたして私達が当時の彼女達に及ぶかというとまるで心許ない。
 せめて同じように、いつか思い返した時に楽しかったと自信を持って言える日々を積み重ねていきたいものである。

「それにしても、本当に驚いたよ。私、女の子が女の子をお姫様抱っこしてるのなんて初めて見たなあ。ちょっと素敵だったかも」

 悪意は無いのだろうが目を輝かせて言われた事に、私はお茶を危うく吹き出しかけた。
 そのような無作法は決して許されないので、何とか堪えたが。

「あ、いや……その、少々気が動転して火事場の何とやらが出ただけでして………その事については、あまり触れない方向でお願いします」

 全くの不覚であったし、出来る事なら目撃者全員の記憶を強制消去したいぐらいなので本当に触れないで欲しい。
 あの時────授業中、突然に意味不明の叫びを上げてから倒れる直前………天谷は間違い無くこちらを見て、満足気に微かな微笑を浮かべていた。
 それに対し何故か嫌な胸騒ぎが急激に湧き起こり、私は自分でも不思議なほど動揺したのだ。
 しかし、即座に駆け寄った私以外は倒れた天谷に騒ぐばかりで遠巻きにして見ているだけ。
 呆れたことに、教師ですらオロオロして何もしようとしなかった。
 その為、堪忍袋の緒が切れた私が頭へ必要以上に血を上らせ、一人で天谷を抱きかかえてこの保健室に運びこむという暴挙に出たというわけだ。
 身体能力にはそれなりに自信があるものの、私も一応は女であり………流石にあれは、無意識に何か潜在的なものを発揮したのだとしか思えない。
 まあ、天谷が平均よりは多少軽めであったのも幸いしたのだろう。

「恥ずかしがることないと思うけどな。少なくとも私は、琴ちゃんがそういう子であってくれて嬉しいよ?」

「お褒めの言葉として受け取っておきますし、やったことが間違っていたとは考えていませんが………もう少しやりようがあったのではないかと、反省するばかりです」
 
「やりようって?」

「そうですね……例えば私一人でやらないで、不抜けてる連中に喝でも入れて協力させるべきだった。そうすれば、効率も良かったでしょうし。それに、少しは───」

 ………少しは、あの馬鹿者に人に助けられるという事がどういう事なのか、分からせてあげられたかもしれない。
 人は生きていく上でどうしたって大勢の助けを借りねば生きてはいけないし、それを避けようと思ったところで不可能なのだ。
 それを実例を持って分からせ、また説教の一つでもしてやる良い機会だったというのに。
 私は、少々の頭痛を伴って難儀な友人の事に考えを巡らしていた。
 
 彼女の『借りを作らない』などというのは、それはそれで一面においては見上げた心意気だ。
 だが実際問題として、人間が社会的生物である以上自分以外に負担をかけないでいることなど有り得ない。
 なのに、一々必要以上にその事へ負い目を感じているのが本当に破綻していると思う。
 その不可解で偏狭な信条の原因となっているものを、私は本人から訊いたので知っている。
 その時
 
『命の借りなんて負債があるのに、これ以上色々積み重なったら自分が潰れちゃう。無理なんだって分かってるけどさ、私が私である為には、どうしても……ね?』

 などと話を締めくくり、彼女は愚かにも空虚な笑いを浮かべて肩を竦めたのだ。
 なるほどと、私はそのような事情がトラウマとなっているのを理解したものの、屁理屈にしか聞こえなかったし腹も立った。
 確かに、その双子の兄か弟の事は不幸だったがそんなものは運不運の問題だ。
 その件で祖父君は、ただ彼女が自身を大事に考えるよう願いを込めて言ったのだろう。
 それをそんな風に考えたのでは、あまりに周囲を蔑ろにし過ぎているし自分勝手というものだ。
 はっきり、そう言ってやったら 
 
『うん。相変わらず、きついなあ………でもさ、こればっかりはどうしようもないんだよね。返す言葉もないけど……時々、思うんだ。私って此処に居て良いのかなって』

 と、こちらが絶句するような答えを返してきた。
 それを他の者が言ったなら、自分達の年頃特有の繊細さと幼い自己主張から出たものとして、私も辛辣な一言で斬って捨てていただろう。
 しかし………それはあまりに衒いが無さすぎた。
 本心の吐露が思わず出てしまったものなのだと、直感的に悟ってしまったのだ。
 
 彼女は、明らかに自身の存在に関して他人事のような感覚で疑問を持っている───
 
 …………私は、この瞬間腹を括ったと言ってもいい。
 多くの者が誤解しているように、この友人は単純に意地を張っているのでは無いと理解したからだ。
 ───只々、ひたすらに負い目があるが故に。
 ───本質としては、まるで罪人のような精神性。
 私だって、あえて心の内に土足で踏み込む趣味はない。
 しかし、それにしたって、こいつは常々表面的である事が多すぎると思っていたが……そうか、そこまで薄暗いものが内面に渦巻いて枷になっていたのかと苦々しく納得した。
 なんという───無様さか。
 自らを負荷だと考えているなど、生きていく上で致命的だ。
 一体どうなったら、そのようになってしまうというのか。
 しかしならば、せめて私だけでも………そう決意したのは、言いようのない苛立ち故だった。
 
 とは言え今に至るまで、彼女に苦言を呈す友人であり続けることしか不本意ながら出来ていないのだが。
 私も大概そういった面では不器用であるというのを、これ程恨めしく思ったことはない。
 ただ最近になって、彼女が何やら偶然で知り合った一人の男性に執心しているのには、救われた気分だったのだ。
 どうあれ、少々壊れたその心に漸く人並みのものが芽吹いたかと考えたのである。
 恋愛感情では無いと本人は頑なに否定するが、私としては出来ればそうであって欲しい。
 それで、彼女の中の何かが払拭されればいいと僅かに期待を抱いていたからだ。
 それにしても………その人物は一体どれほどの───

「───それでね、琴ちゃん……って聞こえてる?」

「………あ、はい。なんでしょうか?」
 
 いつの間にか、周囲を遮断するほど思考に耽っていたらしいと気がついて、慌てて呼ばれた声に顔を向ける。
 面白がるような輝きを瞳に揺らした微笑みが、そこにあった。

「そうやって、何か考え込んでいる時の顔がお母さんそっくりだね。なんか、ちょっとつまらなさそうな所とか」

「まあ……良く言われます。実際に今は、つまらないことを考えていて少々聞き逃してしまいました。申し訳ありません……それで?」

 同じことを我が部の顧問にも言われたが、表現の仕方が異なるのはなかなか面白いところだ。
 確か────『げ。そういう顔、本当に母ちゃんにそっくりなのな……今度は何を陥れようとしてるんだよ?』とか言ってたか。
 …………かなり失敬だとは思ったものの、母に似ていると言われるのは何れにしろ誇らしいことだ。
 それはともかく、と耳を傾ける。

「うん、あのね天谷さんの事なんだけど、氷室さんが一番の友達だろうから訊くね。彼女、最近何か環境が変わって辛いみたいなこと言ってなかった?」

「と、言いますと……それは人間関係も含めて良いのでしょうか?」

「そう。そういうのも入れて」

 旧知の由紀香さんではなく真摯でひたむきな養護教諭としての顔で尋ねられ、私は姿勢を正し真剣に記憶を探る。
 それ程造作もなく、一つの言葉が浮かんだ。
 曰く『会えない事情ができて、会っていない』と。
 それは、諦めきった口調ではあったが珍しく大いに落胆を含んだものではなかったか。
 まるで、恋焦がれていたのに引き裂かれてしまった乙女のようでもあったと、その表情を見て私が思えた程に。
 あれで恋愛云々ではないとは笑止だと、本心を言えばそう考えてあの時問い詰めたのだ。
 おかげで天谷はその後ずっと、碌にこちらに反応もせず難解な表題を与えられた哲学者の如き有様になっていたが。
 
「心当たりはありますが、まさかそれが原因で?」

「勿論、ちゃんとした事はお医者様にしっかり診てもらって判断してもらうべきでしょうけど。ただ、授業中に突然叫び声を上げてから気を失ったんでしょう? それで、氷室さんがここに運び込んだとき、天谷さんはつい最近に中央病院で検査してもらった筈だって言ってたよね? だから、ちょっと事情を説明して病院に問い合わせてみたの」

 私が大いに混乱して運び込んだ際、先生が極めて冷静な声で幾つかの質問をしてきたのを思い出す。
 それに対し、とにかく天谷について把握していることは全部伝えようと早口で色々言った覚えがある。
 今考えると、何か余計なことまで喋ったような気もするが。
 天谷の陸上での記録や、誕生日や、スリーサイズなど伝えて私は何をするつもりだったのか。
 焦燥極まっていたとは言え、己の馬鹿さかげんに頭を抱えたくなる。
 しかし自分で言うのも何だが、あのような譫言じみたものの羅列の中からよく的確に必要な情報のみを彼女は抜き出したものだ。

「なるほど……担当した医者は何と?」

「うん、特に異常はなかったって。丁度というか、何故かその時に脳のスキャンとかも念入りにやったみたいだけど、問題は無し。となるとね……聞いた症状から少し思い当たるものがあって」
 
「……と言いますと?」

 私の問い掛けに、彼女は言い淀んで困った表情をした。
 何かに迷うように僅かに沈黙するが、こちらが無理に訊く気もないことを伝えようとする前にやがて言葉が続けられた。

「……ちょっと軽々しくは言えないかな。ちゃんとした診断結果は、一度病院に行って確かめてもらうとして……私の予測通りだとすると、それは睡眠不足とか環境の変化による過度のストレスとかで突発的に発症する事があるものなの。人にもよるんだけどね。実はそれ程珍しい病気ってほどでもないにしろ……問題は、インパクトが強すぎる発症の仕方をするから、周囲の人が誤解をして発病者の心を無意識に傷つけることにあると私は思う。だからね、特に仲が良いだろう氷室さんにちょっとお願いがあるんだけど……」

 持って回った言い方をしている理由。
 それは、少し考えればすぐに思い当たった。
 つまり、そういう類か。
 かつては無知と迷信によって、酷い差別や迫害の対象になったと聞く。
 確か多くは神経や脳の障害だが、心因性のものもあるとか。
 しかし、天谷はそこまで心を追い詰められていたのか?
 いや────あの馬鹿ならそのような事も有り得るのかもしれない。
 何しろ、物事の基準が大幅にズレて負荷を背負いすぎているのが彼女だからだ。
 要は、本当に回路が焼き付いたということか………。
 先生が私に何を頼もうとしているのかは、察することが出来た。
 生徒の心の在り方を重視するのは非常にこの人らしい。

「分かりました。つまり、友人として天谷をそういう謂れなき誤解からフォローして欲しいということですね?」
 
「うん。親御さんには、ちゃんと誤解の無いように説明しなきゃならないし、何より本人にもある程度自覚してもらわなきゃならないだろうけど……琴ちゃんがそう言ってくれて、とりあえずは安心かな」

 満面の笑みで頷く様は、多くの生徒達が言うように容易に慈愛に溢れた天使を想像させるものであった。
 それを見て心底癒されると語る者の何と多いことか。
 まあ少々自慢になるが、私は有り難いことに幼き頃よりその恩恵に触れてきたわけである。
 何でも、癇癪起こして手が付けられぬほど泣き出した幼い私を彼女は五秒ほどで泣き止ますことが出来たらしい。
 蒔寺女史の場合だと、ボリュームを一段上げて五分泣き声が延長したそうな。
 但し、これは笑い声にも当てはまったのだという。
 勿論、私はさっぱり覚えていない。

「あ、でも、本当にそうかはまだ決まったわけじゃないから……私の全くの思い違いかもしれないし、そうであった方が良いのだけれど。それに、今回だけの一時的なものということもあると思う。だから、彼女と接するときは今の時点では琴ちゃんも普段通りがいいかな」

「そうですね。ただ、実際に同じクラスの者達はあの時の様子を皆見てるわけですから……」

 あの魂の奥底から出したような叫びは、教室を一瞬にして凍りつかせた。
 恐らく他の教室にも聞こえたであろうし、その後の流れもあまり良くは無かった。
 幽鬼のように佇んでいた天谷が室内を睥睨するさまは、私でさえも少々神憑り的なものに見えた。
 そして、そのまま糸が切れた人形であるかのように彼女は力無く崩れ落ちた。
 特にオカルトに強い関心を抱かないものでも、そういうものを想起せずにはいられない迫力があったのだ。
 何しろ、私が恐慌したぐらいだ。
 口さがない……とまでは言わないが、何人かの噂好きの軽率な者達が既に天谷のことでくだらないことを言っているのを耳にしている。
 当然、睨みつけて黙らせたが。
 
 そうなると、可能性が高いだろう事を知られるのはまずい。
 ますます、そういう者達を助長するからだ。
 だからと言って、何も説明無しでは噂は迷走し最悪の事態となる。
 先生が私に期待したのは、正にその事であろう。
 要は、妙な誤解を生まない具体的な説明をするスポークスマンとして私が振舞えばいいのだ。
 
「そうね。うーん……じゃあ、今回の件は発熱で意識が朦朧となった結果だったと説明してあげて。少し弱いかも知れないけど、私も先生達に言い含めておくから………って、あ、目を覚ましたかな?」

 言葉に目を向けると、仕切られた白いカーテンの向こうで確かに人の動く気配がした。
 微かに呻き声のようなものも聞こえる。

「もしかしたら、記憶の混乱と意識の混濁があったせいで起きた時に普段とは人が違ったように見えるかもしれないから。そうであっても、落ち着いて根気良く普段どおりに、ね?」

 囁きでの忠告に、私は頷くだけで返事をした。
 先生は立ち上がり、慣れた様子でカーテンの隙間を覗き込んで中を確認した後それを引く。
 小気味よくレールを流れる音が耳に響いた。
 白地のカーテンに映っていた橙色の光が、内部に伸びる。

「おはよう、天谷さん。少しは気分が楽になったかな?」

 柔和な声で優しげに言われた当人は、ベッドの上で上半身を起こし眩しそうに目を細めていた。
 私も席を立ってそちらに近づき、先生の背中越しから天谷を見詰める。
 夕陽の輝きが丁度そこを焦点にしていたので顔色は良く分からなかったが、一見して特に不調そうでもなかったのに安堵した。
 状況が飲み込めないからか、視線を素早く動かして周囲を確認しているのは無理もないことだろう。
 やがて天谷はこちらをはっきりと認め、おずおずといった感じで口を開いた。

「あの………ここは?」

「保健室よ。天谷さん、教室で気を失って倒れたの。それを氷室さんがここまで運びこんでくれたのよ」

「全く………正直、今回は心臓に悪かった。この借りは、そうだな………イタリアンのフルコースといったところで手を打とうじゃないか」

 私は、いつもと同じようにせいぜい意地悪い表情を形作って言ってやることにした。
 しかし余裕を持った表面を保ちながらも、天谷からどのような答えが返ってくるのかその実不安だった。
 人が違ったように見えるかもということは、記憶の欠落もありそうである。
 最悪の場合、おまえは誰なのか? と問われることも覚悟していた。 
 だが、はたして………数瞬の間の後、天谷は漸く言われたことへの理解が追いついたようにこちらへ恐る恐る目を向けてくる。

「……えーっと、氷室さん? それってもしかして『銀の脚』で………っていう………?」

「当然だな。私がイタリアンと言ったら、あそこしか無い」

「ちょ!? あ、あそこ、値段洒落にならないって!」

 ────まったくもって。
 郊外にあるイタリアンレストラン『銀の脚』は、小さい店ながらも一級の味を昔から誇る高級店だ。
 無論、料理の値段も味に釣り合うもので私も母に連れられなければまず入ることはない。
 一度だけ天谷と二人で清水の舞台から飛び降りる心持ちで入ったが、案の定というか見事に財布の中身がお互い空になった。
 が、至福の時間を過ごせたのは間違いない。

「なに、桁は五桁で収まるようには配慮しよう。掻き集めれば、それくらい容易かろう?」

「相変わらず、サラリと血も涙もない事言われますなあ、このサド眼鏡は………アンタだけだからね。他を呼ぶのは無し」

「当たり前だ。独占できるものをわざわざ分かち合ってどうする?」

「アンタ………それって限界まで奢らせる気満々じゃない?」

 うーと拗ねるようにこちらを睨む天谷を見返しながら、私は内心で大きく一息ついていた。
 なんだ………結構気構えていたというのに、いつもと変わらないではないか、こいつは。
 しかし、ではあれは何だったのだろうか?
 無論、あの一時のことで今は寝たことによって回復したのだと考えることも出来る。
 それに、普段どおりである天谷の方が良いに決まっている。
 だが───

「琴ちゃん、それはちょっと酷いと思うけどなー。フルコースだと、私も二、三回しか食べたこと無いよ………それより、天谷さん。今、頭が痛いとか吐き気がするとか無い?」

「あ、はい、特には。色々とご迷惑お掛けしたみたいで申し訳ありません」

 困ったように頬を掻き私達に割って入るように声をかけてきた先生に、天谷は丁寧に頭を下げる。
 ふむ───?
 何故、今私は何かが違うと思ったのか?
 
「じゃあ、ちょっと熱だけ計らせてね………っと、うん、平熱は? ───ああ、じゃあ大丈夫みたいね。今夜、少し御両親の方に連絡差し上げたいのだけど、お父様やお母様は………あ、じゃあ、その時間に───」

 テキパキと検温したり脈拍を計ったりしながら質問する先生に、歯切れよく天谷は答えている。
 その様子をそれとなく観察しながら、私はどうして違和感が先程から拭えないのか考えを巡らしていた。
 本当に、大したことがない些細なことの筈だ。
 そうに決まっている。
 そうでなかったら、そんな事は───

「あ、氷室、もう部活行かなきゃいけないんじゃないの? 私も後で───」

「馬鹿なことを。今日のところは、大人しくすぐ帰れ。私の方から顧問には言っておく。ほら、鞄」

 こちらへ振り向いて言った天谷に、私は即座に教室から持ってきた鞄を押し付けるように渡す。
 多分、こいつは自分がこういう状況になっても言うだろう事が予測できたので先回りしたのだ。
 熱心とかそういう問題ではなく、何か部活の事を果たさなければならない服役中の義務とでも考えているフシが天谷にはある。
 楽しそうとは言えず、しかし誰よりも練習する様は悲壮ですらあった。
 何故そこまでするのか私には未だ意味が分からないが、これも友人として厄介だと思っている事の一つだ。

「あ、ごめん、ありがと。でもさ……」

「熱出して倒れた人間を、さらに虐待する程の嗜虐性などあの黒豹にあるものか。あれは、追い詰めながら止めまでは刺せないお人好しだぞ?」

「あー……いや、そうかも知れないけど」

「大体だな───!?」

 いつものように頭を無造作に掻き、納得していない表情をする天谷。
 それに対し、言い募ろうとした言葉を私は詰まらせてしまった。
 その一連の彼女の仕草を見て気が付いてしまった故に。
 一体、どうして…………と焦燥に近い疑問が頭に渦巻く。
 漸く分かった違和感の正体。
 それは本当に些細なことだったのだ。
 しかし、だからこそ異質過ぎる。
 顔の表情、仕草、身体の動かし方が天谷と微妙に違う──────??
 
 全く違うのであれば、まだ許容できたのだ。
 だがそれは一拍ズレているだけだったり、角度がおかしかったり、少々歪んでいる程度のもの。
 つまり───あまりに近似値すぎた。
 まるで、何か得体のしれないものが『天谷理沙』を被って必死に演じているかのような………。
 ───いや、馬鹿な! 何を私は妄想じみた事を………。
 これは、何か、その………そう、何かの後遺症に違いない。
 でも………『別人に見える』ならともかく『別人が本人を装っているように見える』など有りうるのか??
 一旦その違和感が何であるか理解すると、吐き気さえ催す恐怖が心を満たす。
 地面が、安定を失って揺れる感覚。
 
 『良く知った者』が『良く知った者に限りなく近い別のモノ』へ成り代わっている───?
 
「え? あれ? どうしたの、氷室?」

 不思議そうにこちらを見詰める顔は、間違いなく天谷である。
 だが、私は悲鳴を上げそうになる。
 
 ───違う。
 
 ───おかしい。
 
 ───こんなはずは無い。
 
 目の前で私を覗き込んでいる“これ”が、今にも見たこともない表情を形作りそうで───

「お、おまえ……………」

「あの、天谷さん。一応、生徒の健康の管理を任されてる私としても、あなたが無茶をするのは見過ごせないの。今日のところは、おとなしく帰宅してくれると助かるんだけど……」

 決定的な事を口走りそうになって、僅かに後ずさっていた私の背中はさりげなく受け止められた。
 少々咎めるような目で私を見た後、柔らかく窘めるように先生は“あれ”に言う。

「あ…………そうか、そうですよね。分かりました、今日はこのまま帰らせてもらいます」

 言われた事にバツが悪そうに頷いて、彼女は素早くベッドから降りる。
 大方、自分が無茶をすることで先生に皺寄せが行く事を必要以上に重く受け止めたのだろう………と、先程までなら私も容易に想像がついた。
 しかし、“あれ”が考えることなどもはや思いつきもしない。
 声を出す度に、表情を作る度に、動く度に────違うということばかりが目について私の頭を痺れさせる。
 自分の方こそが、おかしいのだろうか?
 そう、その可能性だってある。
 そうであれば、どれだけ良いことか───

「それじゃあ、氷室。悪いけどお願いね」

「あ……………ああ───」

 詰めていた息を漏らすように、私は何とか答える。
 身体が震えていないのが、我ながら不思議だった。
 
「それでは先生、失礼させて頂きます」

「はい、気をつけて。なるべく寄り道とかしないで帰って、今日はゆっくり家で身体を休めてね」

 丁寧に一礼する彼女に、先生は穏やかな微笑みを向けていた。
 だけど、由紀香さん…………“あれ”は、その、違うんです────
 そうだ───じゃあ、天谷は何処に行ったというんだ?
 あの意地っ張りで、後ろ向きで、狭量で、愚かな………私の大切な友人は?
 
「お、おい! ちょっと待て!!」

 突如襲った喪失感が恐怖を上回った故に、私は必要以上の大声で扉に手をかけて出ていこうとするのを止める。
 振り返って驚いたような顔をしているのは、間違いなく天谷のものだ。
 だけど、頼むからやめてくれ。
 その姿で、そんな…………お願いだから、返して───
 言うべき言葉が、幾つも駆け巡り一つも形にならない。
 
「な、なに!? どうしたの、氷室?」

 ああ、そうだろう───天谷ならそういう仕草でそんな事を言うのだろう。
 丁度、その姿が夕陽のオレンジの輝きの中で溶けこむようになっているのが、ますます私を焦らせる。
 どこか遠くへ───そう天谷は以前に言っていた。
 私の心へ置いてけぼりにされたような、深い悲しみが湧き上がる。

「その……………わ、私は………もう一度………天谷に会えるのだろう………か?」

「は?」

 搾り出すように掠れた声でも何とか言えたのは、私が最大限の勇気を奮い立たせた結果だ。
 当然、意味が分からないと言わんばかりの呆気に取られた声が返ってくる。
 しかし………見逃せば良かったと後悔するものを認識してしまった。
 橙の光が陰った僅かな瞬間─────言葉によって天谷の口端が微かに吊り上がった。
 背筋に、冷たさを伴う戦慄が走る。
 全身の皮膚が粟立つのを自覚する。
 天谷には決して出来ないであろう表情。
 全てを突き放すような、哀れむような、嘲るような…………冷笑。

「明日休むかって事? そりゃ、出てくるに決まってるよ。当たり前でしょ?」

「あ───、」

「それじゃ、また明日ね、氷室!」
 
 扉を潜り抜けて出て行く背中を、私は呆然と立ち尽くして見送る。
 目の前でぴしゃりと閉じられたものが、今の状況を象徴している様に感じた。
 一体、何が出来たのだろう?
 どうすれば良かったのだろう?
 この無力感と、溢れる喪失感をどう処理すればいい?
 自分を無情にも無視し、世界は罅割れ崩れていく。
 最後の言葉は、あまりにも虚しく自分の胸に蟠る。
 後ろで、先生が緊張を解いたように大きく息をつくのが聞こえた。

「…………ね、琴ちゃん、ちゃんと言ったよね? もしかしたら、人が違って見えるかもしれないって。だから昔は、『憑かれてる』なんて表現されたの。でも、絶対そんなんじゃないからね? 私は、普段の天谷さんを良く知らないから分からないけど………ショックを受けるのは仕方ないと思う。でもね、彼女のことを考えたら、周りがしっかりしないと────って、わ!? 琴ちゃん?」

 ───違います、違うんです………由紀香さん。
 ───私は、自分を成り立たせている世界が穏やかに明日も続くものだと思っていた。
 ───今あるものは、特に大切なモノは、未来までちゃんと持っていけるものだと信じて疑わなかった。
 ───それは失われることだってあるだろうけど、こんなにも理不尽で唐突に……………。
 言葉にしたいものは、何もかもその口から出てこない。
 どう説明していいのか、今の感情が乱れ飛ぶ自分には全く分らない。
 取り残された絶望に打ちのめされ─────私は、糸が切れたマリオネットであるかのように力無く膝を折って床に座り込んでいた。



 一人で住むには、この館は空虚なほどに広すぎる。
 そう考えてしまうのは、自分が所詮生粋では無いからだろうと何気なく天井を見詰め溜息をついた。
 滞留する空気は、かつての陰鬱さを残してはいないといえ重く暗い。
 空間に満ちるものは、血の匂いがどうしたって消しきれず清廉さから程遠い。
 時を重ねて嵩を増した怨嗟は、拭いきれずに建物全体に影を落とす。
 無論、不満があるわけでは無い。
 とうに、ここに根を張りここで朽ちていく事を自身の中で定めている。
 以前のような虚ろな諦観で受け入れているということでも無く、己の存在意義を確認した上で決めたのだ。
 
 一族がこの地に壮大過ぎる志を持って訪れた際に、ここは建てられたのだという。
 一帯見渡して最も豪壮な洋館なのは、誇りと気宇に相応しくという事だったのだろうか?
 案外、この地の支配者に対する稚気じみた威嚇だったのかもしれない。
 確かに丘の頂上付近に建つ屋敷に対して、ここは下に位置する中腹に建っている。
 つまり………場所は譲歩してやるがそちらの風下に立つつもりは毛頭無い───とか。
 ありそうな話である。
 だが、そんな意気盛んだった一族はこの地において無残にも血統がほぼ絶え、目的としたものは形を為さず、尽く衰退の一途を辿った。
 残ったものは墓標のように形骸化したこの館と、私のような者のみというわけだ。
 最後には届きもしないのに無様な悪足掻きをして、歪みは正視しがたい程に大きくなり、何もかもボタンは掛け違えられたように上手くいかなくなった。
 同情には値しない。
 望んだものがどうあれ、その過程があまりに道を外れ過ぎていたからだ。
 そのような業の深さは、破滅するか駆け抜けるかしか終着が残されていないわけで、結果が破滅だったというだけの事である。
 
 しかし────それでは、あまりに無様極まる。
 同情には値しない………だが、そこまでの志を確かに持っていた血筋に全てが無価値であると断ずるのは傲慢ではないのか?
 せめて誰か一人ぐらいは、欠片でも意義を見出して良いのではないか?
 そう考え、姉と姉によく似た女性に語ったところ、それは間違いなく私達と同じ方向性だと認めてくれた。
 家名を継いだのは、そういう経緯だったのだ。
 言うなれば、墓守とさして変わらぬと考えている。
 
 だが、それに一人だけ反対した人物が居た。
 元々頑なであったが、よりによって私がということでその憤りは凄まじいものだったのだ。
 有り難いことに(あるいは大いに残念なことに)その人は、自分の事を本当の妹のように思ってくれていた。
 その為に、私がこの家でどのような仕打ちを受けてきたのかを仔細に知り衝撃を受けたのである。
 一族の悍しさに嫌悪すること激しく、また私の心情を慮って、一度離れた姉の家名に戻るように強く勧めてきた。
 もし、それがどうしても嫌であるならば自分の本当の妹として………とまで言ってくれた。
 別の形でその人と姓を同じくすることは望むところだったのだが、そのような形でとなると私としては論外であり少々慌ててしまった。
 結局………女三人で根気良く説得し、最後には私の意志が固く覆りそうにない事を認め渋々納得してくれたのだが。

 それからの日々は、本当に多忙を極め斜面を転がり落ちるように流れる。
 一度決意をしたのであるから、躊躇は許されなかったのだ。
 正統な方法からかけ離れた学び方をしていた私は、素人に毛が生えた程度のものだった。
 よって、改めて姉ともう一人の女性を師として仰ぎ、更にはこの家に残されたものを独自に研鑽し学んでいかなければならなかった。
 素地があったとは言え、年齢として学ぶには遅きに過ぎた為か、乗り越えなければならなかった苦難や厳しさはかつて受けてきた苦しみを軽く上回っていたと言っても過言ではない。
 第一、師とした二人は決して容赦や手心など望めない厳しい人達だった。
 それでも…………私の心はかつて無いほどに満たされていった。
 自らが望んだことでは無かったが…………私は一度怪物と化し、奥底に眠る暗い欲望に流されて多くの人々を或いは傷つけ或いは殺めた。
 そう、この手は夥しい血に塗れてしまったのである。
 償いきれる事など、この先に決して有りはしない。
 だが、そんな私にでも学んだことを生かし誰かを救うことができる。
 家名を継いだことに意義を求めるならば、今やこの一事しか無いのではないか?
 そして何より、私が最も愛する二人の帰る場所を守っているという自覚。
 それらは日々を充足し、安定を齎すのに私には必要十分な認識だった。 
 この特殊な地を守るのは決して生易しく無いことだったが、その認識があればこそ何とか様々な事を乗り越えることが出来たのだ。

 もっとも───二人は一緒に帰って来なかったのであるが。
 当時の失意は、今思い出しても本当に余り有る。
 私はその経緯を聞いて、嘆き、憤り、心をとても乱した。
 感情の赴くままに、帰って来た姉を一方的に酷い言葉で詰ったりしたのを憶えている。
 それに対し、普段なら一の言葉に十の言葉で返してくる筈の彼女は俯いたまま唇を噛み締めていた。
 私が姉のあのような表情を見たのは、その時だけである。
 それは、悔しさと悲しさと自身の無力さに対する怒りを複雑に交錯させているものだった。
 今考えれば………私は非常に愚かだったのだ。
 かつてあれだけ一緒に居て、あの人の本質を見抜ききる事が出来ていなかったのだから。
 幾ら万能極まった才色を誇る姉であったにしろ、相手が悪すぎたのだ。
 だが、彼女もこれで終わらせる事など到底出来ない真の意味で不屈の精神の持ち主だった。
 
『───必ず取り返してくる』

 一言、決然と言い放ち、姉はあの人を追う為に再びこの地を離れた。
 私は無理にでも同行しようとしたが、叱責され、宥められ、諭され、待つことを余儀なくされた。
 帰る場所を守り続ける者が居ないのでは困る───
 一番頷かざる得なかった言葉が、私の在り方と照らし合わせるとそれだった。
 しかし、その後の彼女の行動がどのようなものだったのかを人伝に聞くことにより、その真意を知る。
 私を同行させなかったのは、実は姉の甘さ故だったのだと。
 それは、赤き魔女の名を多くの者達に畏怖と共に知らしめるものだったという。
 天才というものが形振り構わず一つのことに専心し決死で成し遂げようとする時、一体どの様なことになるのかの証明だったと言ってもいい。
 結果、彼女は莫大な資産を得て、莫大な負債を負い、無数の人脈から強大な勢力を作り、同等の大きな敵を作った。
 多くの傷を与え、多くの傷を負い、様々な人々を救い、様々な人々の願いを握り潰した。
 それらの過程で行ったことは、耳を疑いたくなるほどに超人的で、容赦が無く、苛烈極まるものだった。
 一部、どう考えても彼女の人間性から考えて有り得ない事までしている噂まである。
 それは勿論のこと誇張された誤解だったが、誤解されるような真似は少なくとも実際に行なったようだ。
 何故そこまでしなければならなかったのか後に訊くと

『私は、あいつがどういうものに辿り着いてしまうか知っていたのよ。少しずるいんだけど、その過程で何が起こり得るのかも垣間見てしまった。きっと、そのままという事でも無いでしょうけど、似たような形が待っているという不安が捨てきれなかった。だから、どうしても……無理を通してでも『常に万全以上』を尽くさざる得なかった。たった一人の運命を変える───でも、運命を変えるってそういう事よ。まあ、あいつの場合ちょっと特殊過ぎたわけだけど………』

 と、当時の辛苦を思い出した為か姉は渋面を作り眉を顰めて溜息をついた。
 さらに詳細を聞き、私としても納得せざる得なかった。
 多分、私も同じような顔になってしまったと思う。
 本当に………幾ら何でも、その至るべき地点は一歩間違うと取り返しが付かない。
 しかも、本人がそれを───

『結局ね………行き着くところは意地と意地のぶつかり合いだったのよ。私は私を通して、あいつはあいつを通して………で、私が勝ってその結果をものにした。それだけよね』

 皮肉げに軽く言うのが姉らしいが、私としては途方もなさすぎて想像するだけで目眩がする。
 
 それから───様々な準備と事後処理と精算に時が費やされ、ようやく一年ほど前に不安定な形ではあるものの何とかあの人はこの地に帰って来た。
 話には聞いていたし、画像等で知ってはいたが、目の前にあるその姿は大きく変わり果てていた。
 外見もそうだが、佇む物腰や何より纏う空気が違った。
 どのような瞠目すべき活動をし続けて、人々に何と語られてきたか………それを考えれば当然の帰結と言える。
 再会できたら必ず言おうと決めていた言葉の数々は全て破却され、肝心な時にまるで口にすることが出来なかった。
 話に聞くだけと実際に見せられるとでは大きく違い、私の胸が現実の痛みを錯覚するほどに締め付けられた故に。
 だが………

『────ただいま、桜』

 照れ臭そうに微笑みを浮かべながら言われた一言で、私の感情は爆発した。
 あの人が本当に帰って来た。
 帰って来てくれたのだ。
 私にとって、世を照らす陽光に等しい笑顔。
 それは、大好きだった少年がかろうじて失われずに残ってくれた事の証明。
 姉は、言葉通りに取り返してきてくれた………。
 過ぎ去った日々が輝きと共に去来する。
 それらは決して戻すことが出来ないけれど、今この時まで変わらぬものがあった。
 そう思ったときに、視界は滲み、込み上げる熱いものを抑えられず───私は気づくと、この人をおもいっきりひっぱたいていた。
 乾いた音が派手に鳴る。
 一瞬何が起こったか分からないというように、目を見開いた顔をしていた。
 が、やがてこの人は自身が受けたことに頷き

『………今のは本当に痛かった。強くなったな。それと───すまなかった』
 
 と、悔いるように目を伏せた。
 その後の事はよく憶えていない。
 堪え切れず飛び込んだその胸の中で、私は罵倒の限りを尽くしながら泣きわめいていたらしい。
 ただ、最後には何度もおかえりなさいと連呼していたそうだ。
 後日聞いたところによると───姉は、今の私だったら殴るのは確実で下手をしたら半殺しにされるかもしれないから覚悟しなさい、と言い含めていたのだという。
 勿論、あの人はそんな事をまるで信じていなかったらしいが。
 しかし、流石に血の絆というべきか一部は悔しいながらもしっかり読まれていたというわけだ。

 その後は平穏な、私としては大団円ともいうべき日々が続いていく………とは、いかなかった。
 たった一年であるが骨身に沁みたというか………私は姉の長年に渡る艱難辛苦の一部を、この期間で思い知る事になる。
 以前は、ただ翻弄され流されるままにいたから実感できなかったが、あの人の本質はいざ自分がこういう立場となると非常に厄介だと理解したのだ。
 遠方の師である彼女が『あれは、一種の呪いですわね』と言ったのも分かろうというものだった。
 自覚的にでも無自覚にでも、様々な問題の渦中にいつの間にか居る……それがあの人だ。
 ましてや、ここは冬木だ。
 そのような種に困ることは、事の大小はあれ残念ながらあまりない。
 姉などは、既に死んでも治らない病気の類であるとして慣れたように適切に対処をしている。
 これでも、以前よりは大分マシなのだという。
 そもそも、彼女はいざとなれば全てを敵に回す覚悟がある。
 それを、名に込めた意味で隠そうともせず周囲に知らしめているのだ。
 その達観の境地は正しく姉らしい。
 
 でも、私は気が気ではない。
 立ち向かい、戦うことなどもうやめて欲しい。
 いや、その微妙な立ち位置から考えれば、やめるべきなのだ。
 更に言うなら、自分が立つ別の立場というものをもっと考えて欲しい。
 しかも、あの人がその身に刻んで戦う為の刃とするものは、自身をどうしたって蝕むものである。
 貴方はもう十分に傷ついた。
 痛みを請け負い、人々の肩代わりを行った。
 それを終わらせ、ようやく引き返すことが出来たというのに。
 これ以上は、貴方の周りが悲しむだけだと何故分らないのか。
 それらを何度も繰り返し言っても………どうしても止まらない。
 本音を言えば、怖いのだ。
 いつかまた、私を置き去りにして遥かなる彼方へ向かってしまうのではないかと。
 それは妄想じみた不安ではない。
 あの人があの人である限り、どのような事でそちらに傾くか分らないのはこれまでの経緯で認めざる得ない事だからだ。
 それを引き止めているのは、実に危ういものである。
 いつもながら──────本当に姉は強い人だと思う。

 今回の件は、そういう意味で非常に嫌な予感がしている。
 当初はそれほど問題と考えていなかった。
 ───『過去を視る』…………どうやら、そのような私達から見ても異端と言える類の力を持った少女が居るようだ。
 ───それは、そうと気がつかずに本人を危険な目に合わせる可能性が高い。
 ───だから、出来れば力になってあげたいので是非私にも協力して欲しい。
 そう説明され、そのような奇特な人物と縁ができてしまうあの人自身にまず呆れた。
 しかし、私に相談してきたところは少なからず嬉しく思い、その事については大きく頷いて了承した。
 だが、当然その後の経過の報告を私に告げてくるのだろうと待ち続けても、一向にあの人からそのような気配がなかった。
 それ所か、こちらから水を向けても口上手く話を逸らされ避けられてしまう。
 私とて自身が抱えている件が幾つかあり、時間をそれ程割けるわけでは無いのに。
 そちらから相談しておいて、それは一体どういう態度なのか。
 そんな腹立たしいという程度の認識しか、私にはなかったのだ。
 このような事は、忌々しいながら日常茶飯事だったというのもある。
 あの人は何かの問題に首を突っ込んでも、自身のみで解決を図るという悪癖がある。
 つまり………それに少し慣らされてしまっていたということか。
 勿論、私としてはあの人がすることである限り軽く考えるつもりは無かった筈だったのだが。
 
 その自身の呑気さを改めたのは、あの人が外出するのをふと窓辺から見かけた時だ。
 遠目であったし瞬間に何気なく視界に映り込んだに過ぎないが、私には分かってしまった。
 荒涼とした地に歩を進めるかのような、鋼の如き眼差し。
 背に顕れるは、無理解を良しとした不撓不屈。
 それは、私が現在一番見たくないもの。
 すぐさま家を出て追いかけたが、夢か幻であるかのようにあの人の姿はもうそこには無かった。
 気配の痕すら殆ど残っていなかったのは、これまでの環境による経験から培われたものなのだろう。
 行儀が悪いながらも、私は思わず舌打ちして天を仰いだ。
 探知をかけても、恐らく違和感を察知する事に鋭敏なあの人には即見破られる。
 特に今では、裏をかく事に非常に長けているのだ。
 要するに、殊そのような分野において私には打つ手無しということだ。
 姉であれば、繋がっているからすぐにあの人が何処に居るか分かるはずだが………今は───
 しかし、この程度で神経を磨り減らしてはいけない。
 姉は、きっとこれとは比べものにならないほどに振り回されてきた筈だ。
 そう考え気持ちの切り替えを謀ろうとしたが、焦燥がじりじりと湧き上がるのはどうしても止められなかった。
 そして、何故もっと強引にでも今関わっているだろう事を聞き出さなかったのか大いに悔やんだ。
 そんな私の甘さへの罰であるかのように、その日から今日に至るまであの人は帰って来なかった。

 だが、何か見えざるものの導きでもあったのか………偶然にも、私は件の『過去視の少女』の方には接触を持つことが出来た。
 尤も、事前に聞かされた『過去を視る』などという生易しいものではなかったのだが。
 『過去を再現する』………しかも『再現』するものは、よりによってかつてこの地において様々な災厄の発端となった『戦争』だった。
 奇跡への階であり、その祈りは尊いものであったが、結果として悲劇を増産し続けるべく歪んでしまったシステム。
 姉とあの人を結び、私は逃げることによって咎を受け、幾人かの人々が還ることが無かった戦い。
 既に徹底的に解体され、もはや僅かな人々の記憶にしか存在しないもの。
 それを『再現』するなど理として考えるなら有り得ず………しかし私は、実際に嫌という程その不可解すぎる現象を体験してしまった。
 なるほど、これが話に聞く超能力というものの理不尽さかとその出鱈目振りに戦慄する。
 しかも致命的なことに、まるで制御ができていない。
 これでは、本人にとっても周囲にとっても最大限の危難しか齎さないであろう事は明白だ。
 少女はこれまでそのようなものとは無縁の世界に居たはずなのに、どんな運命の悪意が働いたのか背負わされたものはあまりに過大だった。
 しかしながら、そういう陥穽に似た、人を突然に奔弄する禍害は『こちら側』ではありふれている。
 他ならぬ私には、良く分かった。
 
 だからこそ、少女の境遇にかつての自身を重ね合わせたのは当然だった。
 私は、そこから少女が脱する為の手を尽くそうと強く決心した。
 知ってしまうとあの人が何故あそこまでの表情を浮かべたのかも納得し、ますます不安になった。
 頑なまでに私と関わらせないように一人で立ち向かおうとしているのは、恐らくその危険の度合いが高いためだろう。
 何度かそういう事があったのだ。
 しかも、今回の件においては実際に私は命を落としかけている。
 そこから救い出してくれたのがあの人であり………それが、私の気持ちを更に重くしていた。
 自身の未熟さを自覚させられたという事。
 そして何より、あの人にそのようなことをして欲しくないと願っていたはずの私こそがそうさせてしまった事。
 それらは、私の心を大いに苛むに充分なものだったのだ。
 だが、自分を棚上げしてでも憤りと悲しみも湧き上がる。
 これこそ、私の領分ではないか。
 過去のその再現された戦いにおいて中心点となったのはあの人であり、何か強い思いがあるのも知れないが………私とて無関係とは言え無い。
 そこまで、私は信用されていないのか。
 かつてとは違い、守られるだけの私では無い。
 それなのに遠ざけ傷つけまいと扱われるのでは、肩を並べるに値しないと宣告されているのに等しいではないか。
 いや…………あの人に、そういうつもりが全く無いのは良く分かっている。
 多分失われた意義を、今度は私を含めた別のものに入れ替えているのだろう。
 それこそが、現在のあの人を繋ぎ止めているものの一部ではあるのだろうが………私からすれば、それはいつ裏返るか分からない時限装置にも見える。
 本当に────何という不器用さか。
 死んでも治らない病気の類と表現されるのは的確だが、何としてでも完治して欲しいと切に願うばかりだ。

 先程の、漸くの連絡はこちらに更なる焦燥を募らせるものだった。
 かつての朴訥過ぎる少年は一体何処に行ってしまったのか………錆を含んだ声で語る言葉は、計算され尽くしたように内容が無機質だった。
 必要な時にはこちらが鼻白むほどに長々と喋るクセに、不要なときには一切喋らないのは機能として言葉を使っている証拠であり……つまりは、今のあの人の状態を表していた。
 勿論、内面から滲み出るものを私は見逃したりはしないのだが。
 とはいえ、こうなるとあの人は手強すぎる相手であり、私などでは内にある真意を読み取ることが出来ない。
 分かったのは、たった一つだけ。
 明らかにあの人は私が把握していない事実を掴んでおり、それを包み隠して何か決定的な行動を取ろうとしている。
 それを推理しようと思考を重ねてはいるが、一向に形にならず苛々した気分が増すばかりだった。
 焦点は当然『過去を再現する少女』であろうが、その事であの人は何を気にして私に尋ねていたか?
 私が施した力の抑制について………何が作為的だというのか? …………無意識への介入における奇異…………無自覚の誘導…………第三者?
 ………………まるで連鎖しない。
 やはり、根本として何かの情報が欠けているような気がする。
 このまま考えても、それは堂々巡りであり─────!?
 頭部に、駆け抜ける雷光の如きものが走る。
 これは───外の守りが反応している?
 即座に内面を切り替え、敷地全体へと意識を同調する。
 長年に渡り手ずから様々な施しを掛けてきたので、この地の内部であるなら自身と同位と為すなどもはや造作も無い。
 それは、敵であるならば容赦無く切り裂く武器ともなり鉄壁を誇る守りともなる。
 接近する者の内包する力の大きさにまず驚く。
 敵意は無いようだが、これほど壮麗で圧倒的な巨大さはそれこそ姉か…………!?
 確認できた人物に驚愕し、すぐに解除して玄関へと走る。
 何故? 連絡は受けていなかった────しかし、懐かしい顔に喜びで心が満たされた。
 呼び鈴が鳴らされた瞬間に、迎え入れるために扉を開く。

「お久しぶりですわね。それにしても………本当、予想以上に花開いたようですね。なかなかに見事ですわ。これ程のものは、あちらにもそうは無くてよ」

 精巧な美貌を優雅な仕草で綻ばせるのは、以前と変わらず………いや、圧倒される程の輝きは以前以上だった。
 黄金細工のような髪が、靭やかに揺れる。
 彼女にとって異国の言葉であるはずなのに、何故こうも清涼な上品さが流暢に発せられるのかいつも不思議だった。

「まあでも、再会を懐かしむのは後にしましょうか。あの───手の施しようがない、重篤な病に罹患し続けている使い魔は何処ですの?」

 こういう性急さが、本当にこの女性らしい。
 美麗な蒼き装いを身に付けた気品充ち溢れる美女は、豪奢な光を放ちながら挑戦的に腕を組んでいた。
 



[18834] 匣中におけるエメト The last───
Name: tory◆1f6c1871 ID:582d51b1
Date: 2011/07/28 12:36
The last───


───打ち捨てられたものは、あまりに無残だった。

───残骸には違いない───しかし、至る地点は確かに輝かしいものの筈だったのだ。

───私には、彼らがあまりに遠回りをしているような気がしてならなかった。

───群体と称するならば、それらは相互に連携し効率良く一つのものを目指すべきであるのに。

───無数であるそれらの意志から、いつか我々は手にするべきものへ到達するだろうか?

───そして、来るべき時を免れる未来を掴み取れるだろうか?

───恐らく───このままでは叶うまいと予測できた。

───何故なら、それらは当然在るべき機能を致命的なまでに自ら蝕んでいる。

───系の脆弱さは、もはや修復が間に合う段階ではない。

───ならば────

───私が、それを記憶しよう。

───私が、それを記録しよう。

───私が、それを蒐集しよう。

───私が、それを繋ぎ合わせよう。

───私が、“一”を再現しよう。

───その内にある意志は問わない。

───統合すべきは、内包する事象のみである。

───それらの集合は、いつしか純然とした結晶として模られ

───世界に対峙する力となる。

───そこに自らが入る余地は無い。

───故に私は、記憶を計測する。

───故に私は、事象を変換する。

───故に私は、理を演算する。

───故に私は、記録を蓄積する。

───故に私は、現象を実証する。

───故に私は─────

……………………………………………………………………………………………………………

……………………………………………………………………

………………………………………………………

……………………………………………

…………………………………

………………………

 暖色の穏やかな色彩の中で、私は未だ私を保っていることを自覚した。
 昨日まで何の感慨もなく歩んでいた、夕焼けの中の坂道。
 それが今は綺麗すぎて眩しくなる。
 立ち止まり、振り返る。
 辛うじて見えるのは、短い時間だったが貴重なものを様々手に入れた学び舎。
 耳をすませば、恐らくまだ部活の練習に勤しんでいる多くの生徒達の声が聞こえそうだとも考える。
 しかし、流石にここまで離れてしまっては………。
 ───聞こえたとしてもそれは記憶の残滓からくる幻聴に過ぎないかもしれない。
 きっと、今の自分にはその区別がつけられない。

「うん………ま、仕方ない。でも───それなりに楽しかったから」

 前に向き直り、歩みを再開させる。
 後ろに手を振ったのは、自分なりの潔い挨拶のつもりだった。
 決して、未練がなかった訳ではないのだが。
 何だか何処かでこういうのを誰かがやっていたのを見たなと、内心で苦笑する。
 緩慢に足を進めて程なく、一瞬だけ身体が風の流れの中を横切った。
 軽く乱れる髪を抑えて、眼前に広がったものを眺める。
 坂の途上から、街の建物や木々や山並みが夕日に照らされる風景が見渡せた。

「わ………ここから見るのって、こんなだっけ? 今まで、勿体無いことしてたのかも」

 まるでそれらがミニチュア模型のようだと思ったのは、俯瞰して自身が現実から希薄な位置にいる証拠だろう。
 でも、だからこそ美しいと感じた。
 結局は、そういう感受性など極めて主観的で置かれた状況によって幾らでも変わってしまう流動的なものなのだ。
 しかしだからと言って、無価値なものでは決して無いが。
 乱雑な感情を噛み締めながらそれに魅入られていると、突如PADが反応した事で現実に引き戻された。
 それは普段は殆ど使わない通話としての着信であり─────私は僅かに動揺する。
 意外ということでなく、それがつまり自分にとって決定的な事態を招くものである予感があったからだ。
 でも躊躇はしない。
 どうあれ、私はもう一度この人話してみたいという気持ちが大きい。
 だけど、これはどうやって出るんだったか………幾つかの慣れない操作の後に、何とかその機能を使うことに成功する。

「…………えーっと、三社さんですか?」

『ああ。久しぶり……という程でもないか。実は幾つか君に確認したいことがあって連絡させてもらったが、時間はあるかね?』

「あ、はい。全く問題ないです。学校が終わって、ぶらぶら歩きながら帰ってる最中でして」

 丁度、帰宅部の生徒達が下校する時間帯から多少ズレていて良かったと思う。
 これでは、独り言を喋りながら歩いているように周囲から見えてしまうに違いない。
 せめて手首のPADを口元に引き寄せようかとも考えたが、それはそれで昔アニメで見た少年探偵のようで気恥ずかしい。
 そんなことしても無意味だし、確か自身の喋る声は環境に関わらず全て拾ってくれたはずだ。

『そうか。今は、どの辺りに?』

「学校前の坂道を下りてる途中ですね。半分くらいの所でしょうか」

 バス停がある深山町の交差点から穂群原へと続く坂道は、結構長い上に動く歩道にはなっていない。
 生徒達には不評だが、何でもかつての卒業生と教師達が動く歩道設置の反対運動を行ったそうだ。
 曰く、これも教育上の一環として生徒達の身心を鍛えるためだとか。

『なるほど。では………我々が、初めて会った場所まで来ることは出来るかね?』

「え? あ───もしかして、大橋って事ですかね? 今からですか?」

『そうだ。恐らく、あそこが相応しかろう。どうかな?』

「えー、まあ、私は構わないのですが…………」

 そう、構わないのだが………以前と違い耳に届く声が、荒涼とした無機質さが含まれているのに私の心は冷え込む。
 それに何が相応しいのか理解できてしまうところが、我ながら救い難い。
 でも………私にとっても、あの場所は望むところだ。
 海面に散りばめられた陽のかけらが、今の時間であればさぞかし綺麗だろう。
 何より、遥か先を見れるのがいい。

『そうか。では────』

「あ、や、ちょっと待ってください! その、三社さん………もし良かったら、そこまで着く間このままでお話させてもらいたいのですが」

『………と、言うと?』

「何か、目的地に着いて互いに会うまで話し続けるなんて、こう……良くないですかね? そ、その……こ、こ、恋人みたいで………って、何言ってるんだろ、私。だ、駄目ですか? 駄目ですよね、そうですね───」

 自分の言葉に赤面し、声がどんどん小さくなる。
 何故こんな乙女回路全開な恥ずかしい事を言ってしまったのか、自分でも不思議だった。
 ただ、三社さんが素っ気無く会話を打ち切ろうとしたのに必死になって抵抗した結果だったのだが。
 それにしたって、もう少し言いようがあったと思う。
 穴があったら入りたいって、こういう事なんだな………。
 ほら、流石に三社さんも呆れたように押し黙り───

『…………………分かった。では、少し話そう』

「───って、 ほ、本当ですか!?」
 
 返ってきた意外な答えに、私は思わず大袈裟な声を出してしまっていた。
 慌てて周囲を見渡す。
 坂道を下って既にバス停近くまで来ていたが、幸いな事に人影は無く胸を撫で下ろした。
 まあ、それはともかく、三社さんがどうして私の厚顔で我侭な提案に了承してくれたのか考え………答えはすぐに出た。
 先程とは違い、その声に初めて会った頃のような柔らかい響きが含まれていたからだ。
 それ以外の僅かな不純物は、恐らく………そう沈痛さというところか。
 つまりこの人は、今は私が私であることを看破したということなのだろう。
 それは何だか申し訳なくて───胸が痛んだ。
 それでも………負担をかけることが分かっていても、今の私はこの人と話していたい。
 何でも───どんなつまらない他愛もない話でも良い。
 だって、幾ら開き直ったつもりでも………正直なところ怖いから。

『むしろ、君の方が私などで本当に良いのか訊きたいところだが』

「それは……はい、勿論です。その、実はあれから色々と………あ、いや、それは別に良いんですが」

 その色々を話そうとしても、今の自分には何も話せないことに気が付いて言い淀む。
 何しろ、様々な部分が欠けてたり失われてたりするので前後が繋がらなかったりするのだ。
 特に人物については大幅に破損している。
 現在、三社さんを三社さんと認識して支障無く会話出来ているのは、そこの部分だけ保護されているからだ。
 恐らく、意図されてそうなっている。
 ということは、私に与えられた情報は極めて少ない。
 何を伝えるべきか考え倦ねていると、助け舟を出すように向こうから口火が切られた。

『────では、これから先に伝えておくか。君が言っていた、フィンランドの件なのだが………何とか話をつけることができてね』

「え!? まさか、もう訊いてくれたんですか?」

 期待して無かったといえば嘘になるが、やはり実際に具体的な行動をされているとなると驚く。
 あの時のその場限りの話などではなく、この人は私が語った夢物語に近い戯言に本気で取り組んでくれた。
 それが何よりも嬉しかった。
 私の心に自然と、森と湖の幻想的な情景が蜃気楼のように浮かんだ。

『ああ。あそこには、特に縁が深い人物が居てね。もし君がその地を踏むことになった場合、一族をあげて歓迎し客人として迎え入れるという確約までは取れた。但し、もしそこに根を張り生きていくとなれば、庇護を与えるのと同等の見返りは要求するそうだ。まあ、等価交換である以上これは当然だな』

「見返り………ですか? 例えばどんな?」

 見返りを要求されるのは、全く問題ない。
 逆に、私にとってはその方が有り難いくらいなのだ。
 等価交換というのは、実に私向けの理屈だと思う。
 が、だからこそ私自身がどうあっても出来ないことを要求されるのだけは困る。
 遠き異国の地で、私は私として何が出来るというのだろう?
 それは、でも───不安よりも充足を喚起させる想像だった。

『ふむ………こればかりは、実際に君自身が彼女に尋ねないと分からないだろう。しかし、その人間に出来ないことは決して要求されない筈だ。彼女は領民を愛しているし、合理的だからな。もっとも、本人が出来ないと思い込んでいるものを要求してくることは多々ある。人を見る眼が確かだからか、限界値を計ってギリギリの線を突きつけてくるのが非常に巧みだったな、彼女は』

「は? 領民って………えーっと───王様か何かでしょうか、その人?」

 何かを思い出したのか、疲れたように溜息まじりに言う三社さんに私は少し戸惑う。
 まあ………海外には実際に領地を持って支配者として君臨している人達も居ることは知っている。
 だけど、フィンランドでそんな特権階級が幅を効かせているなんてことがあっただろうか?
 それに何故、三社さんはそんな人と………って、彼女?
 ああ───何となく分かりました。
 大変ですね、奥さん。
 
『いや、王族では無く貴族だな。しかも、現代では数少ない本物の誇りと体裁を保つ生粋の貴族だ。故に、その庇護を受けられるのならこれ程心強い事はないと思う。しかし、無論の事その影響は強く君自身に表れるだろう』

 なるほど………つまり、制度としての貴族ではなく自らの力でかつての権勢を保っている実質的な貴族というところか。
 ───確かに、そんな人の後ろ盾があるのは得難いものなのかもしれない。
 影響を受けざる得ないということは、その意向には必ず従わなければならないということだろう。
 それこそ、領主に傅く臣民であるかのように。
 しかし、それぐらいの事が引き換えというのなら私にとって大したものではない。
 その程度の不自由さなど、今の不自由さとは比べものにならない。
 それよりも、ただその異郷において違う景色、違う空気、違う人々に囲まれた私を夢想する。
 要は、自身が───

『さて───後は君自身の問題となる。彼の地に一時の仮初の客として踏み入るのなら、あくまで丁重に扱われ饗されるであろう。だが、冬木を捨てその地こそを安住の場とするという事であれば、多かれ少なかれ最低限の義務を果たさなければならない。理沙くんがどちらを望むのか………以前に聞いた話からすると明らかに───』

「後者ですね、間違いなく。でも、どちらにしろ私は───」

 我に返りたくは無かったが………行き着くところは結局叶うはずがない夢に過ぎない。
 夢は夢であるからこそ、心を安定させる。
 遠きに思いを馳せていた私は、目が覚める心持ちでその事に気がつく。
 しかも、こうまで具体的なものとして目の前にそれが提示されると、あまりにその現実は残酷なものとして感じられた。
 その落差に………私は唇を噛み締める。
 まるで水面に映る景色であるかのように、所詮私はそれに触れることが適わないのだ。
 急激な心の消沈が、己の声に表れているのを自覚する。
 だがその萎んでいく私の語尾に、あえて抑制されているだろう三社さんの淡々とした言葉が重ねられた。
 
『いや、その件は一先ず置くとして………一つ尋ねたいことがある────君が理由としているものは、はたしてどちらなのだろうか?』

「どちら………と、言いますと?」

 その質問の意味は本当に解らなかったが、それで鼓動が少し速まる。
 奥底にある感情が蠢動した。

『それを詮索するのは、あまり褒められたことではないが………一応、確かめておきたくてね。以前に君は、この冬木ではなく他の地にこそ自身の故郷が有る気がすると言っていた。それはつまり、現在の自分の居る場所に違和感があるということに他ならない。では、その原因となるものを『本当は』どちらと見ている? 内か? 外か? 前者であるならばそれは『逃避』と呼ばれる衝動であり、後者であるならばそれは『探求』と呼ぶべき行為だ』

「それは………………………」

 ───それは、私にとっては核心に迫るものだ。
 今までは、深く考えることが出来ずに破棄された命題。
 隠蔽され続けた、己の本質。
 私は言葉を失い、長い沈黙を返す。
 僅かに息を切らして歩み続ける私の視界の先に、ようやく川沿いの公園が見えてきた。
 きっと、時間は余りない。

『言っておくが、『逃避』とて別段非難されることではないぞ。自分で立ち向かえるはずもないものから距離を置くのは、判断さえ間違えなければ賞賛すべき行為とも言える。何より、忍耐が必要だからな』

 そう言ってくれた三社さんの口調は、あくまでも抑揚の少ない冷淡とも言えるものだったが………。
 本当に…………この人は気が回りすぎる。
 それが読み取れたからこそ、私は躊躇した。

「あの………………やはり、答えなくてはなりませんか?」
『できれば。俺自身(、、、が、君のことを知っておきたいという意味でね』

 ああ───やっぱり、そういう事か。
 三社さん………もしかして、貴方はこんな事ばかりしてきたんですか?
 だとしたら、あまりにそれは辛いと思います。
 でも………そう、確かに私にはもう貴方しかいない。
 だから──── 

「そう…………ですね。分かりました」

 嘆息するように、大きく深呼吸した。
 私は、私の中を覗き見る。
 ───大丈夫、今ならきっと伝えられる。
 これはとても勝手な事だけど、でもせめてこの人にだけは………。
 川縁の公園に辿り着くと、海につながる川から吹き抜ける風が寒々と身を浚った。
 今の季節のこの時間では、当然人影は無い。
 右手に架かる長大な橋。
 あそこが…………つまりは終着だ。
  
「要するに────私は、『私』であることが本当に居た堪れなかったんです。元となったものが、そういう『私』であるから仕方ないのでしょうけど………」

『ああ………しかし、それは───』

「あ、勿論そんな『私』は好きですよ。そこは否定したくないです。ある意味誇らしくも思いますし。ただ───」

 言葉を切り、空を見上げた。
 オレンジのグラデーションに、千切れた白が疎らに広がっている。
 私は、無意識に左手を撫でていた。
 三社さんは、私なんかの話を聞き逃すまいとでもいうように言葉を続けず押し黙る。

「彼らが優しくしてくれて、心を尽くしてくれるのに私は決してそれには値しない…………私は嫌でも欺き続けなければならない。それが正直辛かったです。お父さん、お母さん、お祖父ちゃん、友達………みんながみんな、私を『私』だと認めてくれる以上は」

 脳裏に、繋がりがあった幾つもの人々の姿が浮かぶ。
 彼らは、私を許してくれるだろうか?
 多分……………許してくれるに違いない。
 大して想像せずとも、それが分かった。
 改めて思い返すと、信じられないくらいに私の周囲にはお人好しが多かったのだ。
 だからこそ、私にとってそれは許され難い罪だった。

「真実はあまりに日常の枠を超え信じ難く、悲しませるだけ………何より選択権が私にはなかった。それならそれで、目を逸らしきればいいのにそれも完全には出来無い。きっと、幼い頃に刻まれたものがそうしたのでしょう。つまり、私はただ『天谷理沙であるだけで』負債が積み重なっていく状態だったんです」

 要は、私のそもそもの原形がそういうものだったのだ。
 それを嘆くのは筋が違うと考えているが、時々途方に暮れる位には苦しくはあった。
 それでも潰れずにこれまで何とかやってこれたのは………つまり裏面に秘められた、頑なとも言える『私』の世界との対峙の仕方にあったのだろう。 
 これを強さと言い換えてもいいのかは、少々微妙なところだが。

「でも…………『天谷理沙である事』は何より楽しかったし、幸せだった。それは私なんかには、とても贅沢なものでした。───何というか、結構末期的ですよね、これ。何もしようが無かった、というのもありますが」

 出来るならば続けていたかったかと訊かれれば………その部分だけで言えば、私は自信を持って勿論と頷いたことだろう。
 だが、あらゆる原因は無様にも常に内にあったのだ。 
 破綻していたのは、私だった。
 初めから歪みをもった形だったのは、私だった。
 それらを繕うことで、負荷を得ていたのは私で、
 欠陥を以てこの地に在ったのは私だった。
 だから───
 
「だから────私の願いは明らかに『逃避』です。まるで自己破産するように、『私』の事を誰も知らない場所で何もかも断ち切って綺麗になりたかった。本当は、これ以上誰も偽り続けたくなかったから。私は『私』ではなく、私自身として生まれ変わりたかった。そうできたら、どんなに良かったか………まあ、虫の良い話ですし、そんな事出来る訳有りませんけど………こうして……………改めて言ってみると、身も蓋もなくて……………ロマンの………欠片もありません…………ね」

 突如、電池が切れかけた機械であるかのように、思考が明滅し始める───
 
 …………………………………
 
 内部はともかく、外部への接続が剥離しかかっている───
 
 ………………………

 改めて見渡した自身が居る場所が、唐突に組み変わったように感じた───
 
 …………………………………
 
 打ちつける冷たい風が、僅かに潮の香りを鼻腔に運ぶ───
 
 ………………………

 既に橋の上を私は歩いていた───
 
 …………………………………
 
 ああ………やっぱり、ここから見る景色は好きだ───
 
 ………………………

 視界に、川の水面の輝きが万華鏡のように様々な相を映す───
 
 …………………………………
 
 立ち止まってそれをしばらく眺めたかったが、私にはもう………そんな余裕がなさそう───
 
 ………………………
 
 それが………とても………残念だ───
 
 ………………………
 
 意識が曖昧になって、引き伸ばされ薄れていく───
 
 …………………………………
 
 眠りに落ちる寸前に似ている───
 
 ………………………
 
 だけど………まだ…………


「すいま……せ………ん…………………みやし……さ………にも………少し訊きたい……が……」

『ああ………何かね?』

 
 返ってきた耳朶を打つ声が、とても優しい───

 …………………………………
 
 身体は自動的に、目的地に向かっているのに───
 
 ………………………

 溶けていく───
 
 …………………………………

 崩れていく───
 
 …………………………………

 自我の方向を定めるのに、薄氷を歩む様な集中が必要だ───
 
 ………………………

 それでも訊かないと───
 
 …………………………………

 なのに………口が上手く回らなくて───


「初めて………時…………あの…………何を………見て………」

『…………届かないもの。愚者の夢であり、私ではもはや行き着くことがない場所だよ。あまりに分不相応過ぎて笑ってしまうほどにな』

 
 私の掠れて途切れがちな問い掛けに対し、三社さんの答えはこちらの心を読んでいるかのように的確だった───
 
 ………………………

 だけど、それをあまり不思議には思わない───
 
 …………………………………
 
 それよりも、その声に複雑な寂寥と諦観が入り交じっているのが気になる───
 
 ………………………

 それは───とても身に覚えがあるもの───


「…………でも……………」

『ああ、そうだな。私は愚かだから、未だその『綺麗なもの』を見続けているというわけだ。全くこればかりは………死んでも治らないと良く呆れられている』

 
 自嘲するような言葉にも拘らず、染み入るような温かい響きがあった───
 
 …………………………………
 
 そう………か───
 
 ………………………

 誰かに言われたように、確かに余計なことだったのだ───
 
 …………………………………
 
 たとえどんなに危うくても、この人は恐らくもう大丈夫なんだろう───
 
 ………………………

 そこまで至った経緯は、私などでは想像もつかないほど過酷であったにしろだ───
 
 …………………………………

 でも………やっぱり、周りにいる人達には同情する───
 

「………だめ……ですよ………あまり………だけど………わたしたち……って………」

『そう………我々のその部分はだけは、確かに似ているな。だが、恐らく君の方がその在り方はよりマシだ』

 
 それは…………どうだろうか───
 
 ………………………

 私には正確にどういうものか理解できないにしろ、貴方の在り方はきっと人として尊いものだと思う───

 …………………………………

 それは決して卑下するものではないだろうし、私なんかとは比べものにならない───

 ………………………

 その事だけは、短い時間でも貴方を知ろうと考えざる得なかった私には良く分かる───

 …………………………………
 
 だからこそ私は、貴方に魅せられたのだから───
 
 ………………………

 誰だって───きっと一度は夢想した筈だ───

 …………………………………

 どうにもならなくなった時に、都合良くも自分を助けてくれる者を───

 ………………………

 年を取るにつれて、口に出すのが憚かられる存在を─── 
 
 …………………………………

 そういえば………そういうものになりたいと言っていた少年が、此処には居たらしい───

 ………………………

 私は勝手なことに、それを三社さんに見立てて押しつけていたのだとようやく思い当たった───


『さて───君は少し休みたまえ』

 
 平坦な口調は、感情を凝縮し押し殺しているからだと気づく───
 
 …………………………………
 
 その裏面にあるものが、痛々しい───
 
 ………………………

 この人は、恐らく本当は硝子のような心を持っている───
 
 …………………………………

 そこには、一体どれほどの亀裂が入っているのだろうか───


「…………だけど……みやし………さん………」

 
 辿り着いたその場所には、三社さんは居ない───

 ………………………

 立ち止まって橋の柵に手を置き、小さく息をつく───

 …………………………………
 
 遠望する風景に、夕日の輝きを反射する一際高い塔の如き高層ビルがある───

 ………………………

 それに今は郷愁を感じた───

 …………………………………

 ここで───私達は出会ったのだ───

 ………………………

 遠きに視線を向け佇む姿を、記憶から浮上させる───

 …………………………………
 
 そういえば最初はそれを見て、随分失礼過ぎることを考えていたなと可笑しくなる───

 ………………………

 その出会いは、私にとっての運命だったというのに───

 …………………………………
 
 だから、せめて最後に直接会いたかった───

 ………………………

 しかし、それはもはや叶いそうに無い───

 …………………………………
 
 撒き散らされた私は、飛散する寸前だった───
 

『…………そろそろ、代わるべきだろう。それに───そちらも、それを望んでいると見たが?』

「───代わる? ───誰とですか?」 

 
 鋼を思わせる殺伐とした声に答えているのは、既に私ではない───

 …………………………………

 私には、あのような顔は出来無い───

 ………………………

 解体され自身が霧散していく中で、私は深い闇の底部からそれを聞き───

 
『それは勿論、君にだ──────エリーザ・“アブツゥーク”・リーアシュタイン………忌まわしきブロッケンの怪物よ』


 鉄の楔を打ち込むかの如き宣告───

 …………………………………
 
 そこには、容赦が微塵も無いことを理解させるに充分な響きがあった───

 ………………………

 そして、私という存在は■■■■■─────

………………………………………………………

……………………………………………

…………………………………

………………………


 その明らかなる変貌は、まず表情にこそ表れている。
 そこにあるものは、あまりに作り物めいていた。
 僅かに口角が吊り上がっていることだけが、彼女の内面の発露と言える。
 それから読み取れるのはしかし、蔑みとも慈しみとも憐れみとも取れる極めて曖昧に過ぎる微細なものばかりだった。
 眼差しを彼方に向けられ………だが、それには意志の揺らめきは感じられない。
 まるで、同一の鋳型に注がれながらも材料が全く異なるものに変質したかのような違う存在───
 つまり───そこに屹立するものは、決して先程までの『天谷理沙』という少女では有り得なかった。

『それとも『低俗にして醜悪なる焼き直しレイト・レイト・レイトショウ』とでも呼ぶべきだったかね? 誰が言い出したかは知らないが、なかなか気が利いて的確な異名だな』

 三社の言葉には、白刃を以て貫くような明確なる敵意と嘲弄が含まれていた。
 だがそれに対し、彼女の表面に固着したものは微かでも変化の兆しが顕れない。
 一陣の吹き抜ける風が、髪を無造作に散らしその面を一瞬隠す。
 一拍の間の後に───振れ幅の極端に少ない声がエリーザと呼ばれた彼女の唇から発せられた。

「…………では、こちらも貴方を『紅の掃討者クリムゾン・ファイア』もしくは『赤原覇者ウォーロード』とお呼びした方が宜しいですか? それとも『正義の味方モック・ヒロイック』とでも? 揶揄とは言え、こちらの方がまだ貴方の本意に近かったようですが」
  
『フン………風化したであろう下らん事を良く知っている。しかし───やはり、最初からこちらの事を把握してはいたか』

 幾分の自嘲を帯びた声で、三社は呟く。
 かつて無数の敵と少数の味方に呼称されていた幾つかの異名を聞き、熾烈であった戦いが自然と彼の脳裏に再生されていた。
 ある時は畏れと嫌悪を、ある時は嘲笑と蔑視を、そしてまたある時は希望と絶望を───
 どう呼ばれようと感慨も抱けなかったし、内面に影響は及ぼさなかった。
 しかし、それは間違いなく自身の足跡であった事を三社は改めて認識した。

「その把握の領域がどこまでを含むのか不鮮明ですが、もしもそれが表層の記号変換可能な共有し得る情報という意味でしたらその通りでしょう。そもそも、隠蔽する意図が殆ど見受けられません」
 
『ああ。だからこそ、それを理解しながらよくぞ干渉する気になるものだと呆れるが………君がこの地に居る以上、それは愚問だったな』

「確かに───その名には、威嚇の意味合いが強いですね。少々カバラの色合いが濃いようにも思えますが、分り易さこそを優先させたのでしょう。彼女は貴方を、かつての律法学者が用いた自動人形ゴーレムとして見立てたのですね?」

 その奥行きの無い声音は、一定の設定に従い予め決められた解答のみを弾き出す装置を連想させた。
 淡々と淀みなく、機械的な信号としての音は紡ぎだされる。
 それに対し三社は軽く鼻で笑うことで、肯定の代わりとした。

「つまり───“E”を削ることにより貴方を停止させた。名の方は、謂わば契約の印。導き出されたものから、あえて意訳するならば───『この者を死せる存在と捉えよ。その責の全てを遠坂が負う』……というところでしょうか。神秘に立つ者であるならば、その意は容易に汲み取れる。故に、その効果を狙ったものであると思われます。大多数の者が、赤き魔女に敵する事は避けるでしょうから」

『───そういう事だな。つまり、今の私は彼女の使い魔であるとも言える』

 皮肉な響きながらも、三社の答える口調はどこか誇らしげだった。
 “E”は削られ『真理エメト』は『メス』とされた。
 それは、ノタリコンに基づく隠喩である。
 名の方は、テムラーに似た単純過ぎるアナグラム。
 こうして三社堺人と銘を打たれた時───折れた剣は鍛え直され、再生を果たし、そして所有される事となったのだ。
 その選択により、何を得て何を失ったのかは最終的な答えを彼はあえて出していない。
 しかしその過程で、自分などを所有する事になった彼女に多くの犠牲を強いたことは間違いがないと胸に刻んでいた。
 そこに後悔は無かったし、彼女も後悔することを望んではいまいが…………敗北した自らには責務があると三社は考えている。 
 それが即ち、現在の彼を駆り立てているものでもあった。

「貴方は十年前に死亡したと聞き及んでいましたが、実際にはその行動から多くの敵を作り過ぎた為の処置だったのでしょう。貴方が目障りであった組織や個人は、確認できるだけでも百は下らない。その中には、協会の一部中枢に居る貴族やアトラス院の上層、教会の枢機卿、国家元首、二十七祖の一角まで含まれていたようですね。武装魔術師一個大隊すら単独で壊滅し得ると言われた現代における最強の魔術使い“エミヤ”の死は、多くの者達を安堵させた。故に、その虚偽を通す為の“遠坂”の負債は計り知れないものだったと予測できます。あれだけの隆盛を誇っていた赤き魔女が、表舞台から消えてしまったのは謂わば貴方を『買い取った』代償だったのですね? 何しろ、貴方は『封印指定』すら───」 

『私の事を詮索するのは、その辺りで良かろう。それらの殆どは、あまりに誇張されたいい加減極まる流言の類だ。第一、君にとってそれほど益が有る事とは思えん。私の方こそ、君に確認したいことがあるのだが』

 止めど無く流れ出る言葉の羅列を遮るように、三社は多少の苛立を含んで声を重ねる。
 エリーザは、電源が途絶えた機械であるかのように口を閉ざし僅かに首を傾げた。
 それが異議を表す態度なのだと、三社には辛うじて分かった。

「益が無いという事は有り得ませんが。貴方こそが特異点でしょうから」

『特異点……ね。君にとっては、そういう認識か』

「ええ。実証を導く為の変換式は、当初勝利者とされていたこの地の管理者を中心としましたが、解に至らなかった。しかし、欠けていた貴方という因子を挿入することにより道筋が明瞭となりました。その点について、大いに感謝致しています。ですので、私で答えられることでしたらお答えさせていただきますが」

『随分と私も侮られたものだ………という事でも無さそうだな。まあ、いいだろう』

 三社が溜息をついたのは、エリーザが皮肉などではなく本気で自分に感謝していると否が応にも理解したからだった。
 アトラスの錬金術師達には、この類が多い。
 彼らには、揶揄も嘲弄も殆ど通じない。
 そういう意味では非常にやりにくい相手だが、利点もあった。
 合理的である限りは、この手の輩の反応が率直であるということだ。
 但し、何かの目的がある場合は真実を語るように虚偽を並べ立てるが。

『ワルプルギスの夜において魔女が集うとされるブロッケン山………しかし、もう一つその名を冠した有名な現象があったな。『ブロッケンの怪物』と称されるそれは、通常は光学的に投影されたものを指すが、真実二重存在ドッペルゲンガーを為す極めて特殊な一族が、秘してそこに居を構えていたという。それが───』

「ええ、それがリーアシュタインでした。もっとも、その血統は狩り尽くされ今や私を残すのみです。あそこには、既にその痕跡すらありませんが」
 
『そう、つまり君が最後にして真の『ブロッケンの怪物』というわけだ。分割思考への対象の人格の『複写』とそれに基づく自身の肉体の『変異』………それが一族の特性だったな』

 二重存在ドッペルゲンガーにまつわる話は、大抵の場合自然現象による錯覚か脳の機能障害による幻覚の類である。
 だが、僅かながらもその中には神秘による現象も存在した。
 その原因は、魂魄が身体から剥がれる事によるものであったり、時空の微小な揺らぎにあったりと様々である。
 しかし、もっとも危険が大きいのが本物のシェイプシフターによるものであった。
 彼らは、いつの間にか誰かと擦り代わりその人物として行動し潜伏し続ける。
 そして、その摺り代わられた本人は当然───

『自らの二重存在ドッペルゲンガーを見ると死すべき運命にあるという伝承の一部は、君達から端を発しているという。例えばだが、君の故国のかの大文豪は本当に最期の時まで当人だったのかね?』

「さて? 少なくとも、かつて対象の時の連なりを誤って計測し『複写』した愚か者は居ましたね。八年後に事無きを得たようですが」

『…………何の為にそのような事をしているかは知らんが、その血脈が危険視され徹底して狩られるだけの要因はあったようだな。個人的な感想を言わせてもらえば、君達の性質の悪さは悪魔憑き以上だ。しかも、君の場合はそれと合わせて凄絶な災厄を齎す───東欧の小都市において霧の発生による数百人の不可解極まる集団失踪、中東においての失われた筈の遺物による周辺居住区域を巻き込む大火災の発生、南海のとある島の数日間に渡る水没………その他も、大小合わせて様々な『再現』が為されている。過去私が取り零した中でも、君は本当に最悪の部類に入る』

 押し殺した三社の声には、微かに歯を噛み締める音が混じっていた。
 その漏れ出た怒気は、主に自身に向けられている。
 それらは表の社会において、地域も点在し原因もまるで特定出来ないものばかりであった。
 しかし、神秘に立つ者達には明白な共通点が容易に分かった筈である。
 何故なら、過去において全く同一の悲劇が人々には認識されず起こっていたのだから。
 それらを察知し止めることが出来なかったという事実───それは、三社にとって己を責めるに充分なものだった。
 
 即ち、その全てが収束した筈の大魔術儀式において発生した被害が『再現』されたものだったのだ。
 確かに、この世界には協会の目を免れ得る間隙に稀に優れた霊地がある。
 協会とて、全域を制圧しているわけでは無いのだ。
 そして、そういう場ではほぼ確実に何らかの大規模な魔術儀式が執り行なわれている。
 魔術師達の目指すものは根源に至る事。
 しかし、協会の管理の元でそれを行うには、あまりに様々な思惑が入りすぎる。
 それを嫌う魔術師達が、そのような格好の場を放置する訳が無い。
 もっとも、そのほぼ全てが目指したもののあまりの遠きに膝を折るか事前に邪魔が入るのだが。
 かくして、大抵の場合それらは改めて協会に解体されるか制圧されるか、もしくは教会に徹底的に破壊されるかして、そこには残骸のみが打ち捨てられる。
 だから、再びそれらが同じ形で起こるなどあり得ない。
 システムそのものが、失われているのだから。
 だが───

『君が魔術師達に殺意すら抱かれ嫌悪されるのも当然と言える。何故なら、彼らが営々と築きあげてきたものを稚拙に盗作しているに等しい行為だからだ。表層の現象のみ、しかも失敗したもののみを劣化して『再現』し続けるなど恥辱以外何者でもない。『低俗にして醜悪なる焼き直しレイト・レイト・レイトショウ』とは蔑称などではなく、全くの真実だ。一体、君は何の為にこのような馬鹿げた事を続けているのかね?』
 
「我々が目指すべきことなど、一つしか無いと考えますが。私の方法論が蒐集とその統合というだけの話であり、到達点はそれ程他者と変わりありません。ましてや、貴方のように『最後の奇跡』などを求めてはいない。むしろ偏狭なのは彼らでしょう。私が見る限り致命的ですらあります」

 エリーザの静かなる断言には、最初と同じく微塵の揺らぎもない。
 それは、彼女の内面における普遍性を端的に表していた。
 三社は、かつての自身を歪んだ鏡で見ているようだと内心で考えた。
 方向は違えど、辿りつけば己もこういう類になっていた筈だ。
 そればかりは否定出来ない。
 自分と相手を哀れむように、彼は大きく息をついた。

『………元より、現象に到達しているだろう者と話など噛み合うはずがなかったな。訊いた私が愚かだった。冬木の聖杯戦争も、そうやってゴミを漁るように回収しコレクションとして陳列するというわけか。イリヤの怒りを買うのも無理はない』

「? イリヤとは?」

『いや、こちらの話だ───冬木に何時から目を付けていたのかは知らんが、十年前に中央住宅街が再建された時には既に君は様々な手段でこの地に手を伸ばしていたようだな。というより、あそこ自体が魔力を殆ど持っていない君の為に造られた『貯蔵庫』か。念が入ったことにセキュリティを通して、住民の監視まで行っている』

 恐るべきはエリーザが表の社会的な力を積極的に操作するのに長けている事だ。
 より正確に言えば、それらの力を認め自己の道具として目的に合わせて使用することにである。
 神秘に立つ者達は、隠匿の義務があるからかそこから遊離しやすい。
 巨大な影響力を持つ者も居るにしろ、それらは隠然としたものであるのが常だ。
 だが彼女は、表裏の境界が存在しない。
 合法、非合法を問うのも無意味なことだ。
 
 幾重にも複雑多岐に渡った建設計画に携わった企業の全貌を、三社は遂に全て追い切れなかった。
 その全てが辿っていくと一つの外資系の企業と繋がることまでは分かったが、そこまでだった。
 断言したのは答えから割り出した逆算であって、そうでもないと説明が付かないということだ。
 恐らくエリーザは文字通り複数の顔を持ち、表の社会で鍵となる部分を幾つも握っている。
 事象すら操る錬金術師としての能力も、隠匿など気にせず目的の為の道具であるとして躊躇いなく積極的に使っているのだろう。
 だからこそ、あのように巨大な『集積装置』を都合良くも建造し得たのだ。
 他の様々な地でも、恐らく同じ様な事を行ってきたに違いない。

『その過程で、君は『複写』の原型とした天谷理沙という特殊な少女を見つけたのだな?』

「いいえ、それは順序が逆です。私は、それ以前に認知していました。彼女の祖父を通してのことですが」

 建設計画に、あの少女を溺愛していたらしい祖父に当たる人物も関わっていた。
 彼も、まさかこんな落とし穴があるとは知らずに孫の自慢でもしたということなのだろう。
 全く………人の運命というものがどう流れるか分からないとはいえ、これはあまりに理不尽過ぎると三社は目が眩むほどの怒りを覚える。
 それは、三社にとって何度も味わった感覚だった。
 だからと言って、勿論その無力感と痛みに慣れることなど無い。
 しかし、それを敵を前にして表面に出す程に今の彼は未熟でもなかった。

『なるほど。どうりで周辺情報の隠蔽に念が入っているとは思ったが、それだけ事前の準備に時間をかけられたということか。辛うじて残っていた一人に手を出さなかったのは、曲がりなりにも管理者との繋がりがあった人物であったからかね?』

「ええ。安全率を比較してのことでしたが、それが失策となりましたね」

 少女の産まれた病院のその事実を深く知りうる医療関係者は、院長以外は何らかの理由で全員消失していた。
 それらは事故死、病死、自殺と様々なものだったが、相互関係や不審な点は一切認められなかった。
 カルテ等のデータは、当然のように跡も残さずに綺麗に改竄されていた。
 二年の歳月をかけ、それは徐々に進行していたのだ。
 無論、三社にとって今やその原因は明白だ。
 エリーザにとって、それは造作も無い事だったに違いない。
 近親者には、簡単な意識への暗示で事足りたのだろう。
 要はあの隠遁した元院長の記憶でしか、少女の特殊性は他者が知り得る機会がほぼ無かったのだ。

『実に危うい糸だったがな───天谷理沙という少女は、胎内に居る時点で異性一卵性双生児として生を受けたが、その稀なる事が災いしたのかもう片方の胎児は無心体だったという。結果、彼女は一人だけでこの世に生まれることになる』

 今考えると………朱色の色彩の中で年齢に似合わない諦観の微笑を浮かべながら語ったそれは、少女の匣中よりの救いを求める声であったのかもしれない。
 そこにこそ自身の蓋を開け得る鍵があると、彼女は束縛され閉じ込められたそこから必死に訴えかけていたのではないか。
 はたして、自分以外にそれを聞いた者は居たのだろうか?
 どちらにしろ、それを耳にしたのなら自らの責務を果たすのみであると、三社は苦々しく考えていた。

『しかし、彼女が双子であったという事実には変わりがない。双子には双子特有のものが発現する場合がある。ミラー・ツインと呼ばれるそれは、文字通り鏡像的な特徴が出る。彼女の場合は、特に希少例である全臓器反転症だった。つまり───本物の天谷理沙という少女は心臓位置すら含めて全て逆だったという事だ』

 普段人間が生活する中で、それは他人に意識されることはないだろう。
 その差異は外面からは分からない。
 だからこそ、天谷理沙という少女の稀有なる真実を知る者達は処分され処理されたのだ。
 その情報さえ封鎖できてしまえば、入れ替わった『天谷理沙』はただ大多数と同じとなっただけであり不審がられる要素など何も無いのだから。
 だが、その部分を知り得てしまえば真偽を区別するにこれ程明確なものもない。
 エリーザは目を伏せ、憂いを表現するように微かに首を振った。 
 それは、三社が見た中では唯一の人間らしい反応だった。

「やはり、そこから辿られましたか。私も、流石に臓器位置までは変えられませんからね。ですが、それでも───」

『それでも、君はそのような特殊過ぎる少女を標的とした。そこが、私が見る限りあまりに不自然過ぎると思った点だ。過程が緻密にも拘らず隠蔽としてそれでは、そもそもが片手落ちだ。唯一考え得たのは、天谷理沙という少女と君の『複写』との親和性が高かったという位だが』

 ただ単にこの冬木においての潜伏を考えるならば、エリーザの外装とした少女の特殊性は弊害を齎し過ぎる。
 そのような稀有な人間を標的などせず、特徴の無い者を選択していればその隠蔽性は完璧なものとなった筈だ。
 事前から少女の情報を得ていたのであれば、その事を知らずに標的としたというのも有り得ないだろう。
 その不合理性にどう説明をつけるか………三社が辛うじて思いつけたのは、『複写』の対象には様々な条件が必要なのではないかという事だけだった。
 要は、それが無作為には行えず相性というものが存在するのではないかと。
 もっとも、自身の発想に三社は納得していない。
 そこまで融通がきかないものならば、『複写』とは実用足り得ない。

「そうですね。親和性が高かったのも事実ではあります。彼女の起源が『鏡』だった故に『複写』が極めて短時間で出来たのは、時間を貴重とする私には大いなる利点でした。しかし………貴方は、やはり勘違いされていますね」

『勘違い?』

 疑念の声にエリーザの瞳が数瞬だけ閉じられる。
 三社にはその彼女の仕草が、相手の不理解を嘆いているようにも咎めているようにも見えた。
 それが本当にそうであるかは、甚だ自信がなかったが。
 仮面の如き固定化した表情の中で、動きが認められるのは僅かな部位しか無い。

「『複写』は確かに自身を隠蔽する手段として用いられますが、その主たる目的は対象の『保存』です。リーアシュタインという一族は、価値を認めた者を己の中に『保存』するという行為を行っていたに過ぎない。人間の本質とは信号により構成されたコンテンツですが、それは肉体が失われれば同じく消え失せます。であるならば、それを『複写』し永遠に残し続けようとするのは自然な発想かと。私が彼女を『複写』したのは、そこに『保存』すべき価値を見出したからです」

『その捉え方は、あまりに偏りすぎていて承服しかねるが………であるならば、何故に『複写』した原型たる人物を消去する? その理屈だと、必要性が感じられないが』

「“私は私であるために他の私を許してはならない───”これはある理における法ですが、リーアシュタインの在り方としてそのまま当て嵌ります。『複写』が為され『保存』が完了したからには、その本質は永遠のものとなったのです。崩れ消え去る同一のものを、そのまま残しておくのは法から外れる行為と言えるでしょう」

 その基本原則を、三社が知らぬ筈はない。
 何しろそれは“遠坂”が現在のところ最も近い位置に居る、ある偉大なる法における一部だからだ。
 だが、エリーザが語っているのはあまりにも歪みきった恣意的な解釈だ。
 恐らく曲がりなりにもその系譜である彼女が聞いたら、鼻で笑いつつも内心では殺意を抑えきれないほど激怒するに違いない。
 それに───

『それでは、君の『再現』こそがその法に抵触する。いや………だから君は失敗し解体されたものしか拾い集めないということか』

「ええ。私は計測し、変換し、演算し、蓄積し、実証するのみです」

 自らを絶対として語るエリーザに、これこそが自身の敵であると三社は改めて確定する。
 万人が等しくする価値観など存在しない。
 大多数が共有できる概念だと自分が考えていたものが、他者にまるで通じないなど世間には有り触れている。
 特に神秘に立つ者達は、自身のみで世界に対峙するのだからその度合が激しい。
 そういう意味で、彼女の中にある真理は当たり前のように孤立していた。
 そして、己の中にあるそれもまた同じく孤立している。
 それが所詮立ち位置の違いによる鬩ぎ合いであると、既に様々な者達との戦いにおいて三社は悟っていた。
 しかしだからこそ、エリーザの真理を三社は決して許すつもりはなかった。
 自己で完結せず他者をその法に巻き込み惨劇を生むというならば、己は剣となってそれを断ち切る。
 かつてはそれこそが存在意義の全てであり、優先順位こそ違えどその部分は未だ不変なのだ。

「しかし………今回については、解に至るまでの時間が不足しました。貴方が私まで辿り着く時間は、予測より、そう───18945.41sの誤差がありました。外装人格の自律行動への干渉は演算に狂いが生じるために最小としていましたが、それにより不定な要素を過大に取り込みすぎた事がこの一因でしょう。その修正に『天秤に置かれたる羽フェイズ・マアト』を用いても成果は得られなかった。貴方相手にあの程度では、時を稼ぐことすら出来なかったようですね」

『ああ………あの事象封鎖式とかいう演算に基づく連鎖トラップの事かね? あの程度で仕留められるのは、二流以下の魔術師位だろう。1.5秒も猶予があってあれでは正直拍子抜けだった。あの場合、防弾壁の一枚もあれば済む話だ。推奨するわけではないが、あれで確実に私の処理を狙うのであれば、せめて一区画全てを犠牲にするべきだったな。その判断が、君の運命を決定づけたと言っていい。君は確かに怪物じみた錬金術師だが、戦うこと自体は不得手と見える』

 アトラスの錬金術師達がその演算機能を駆使するあの類の連鎖は、同等の演算により打ち消すか発動させて防ぎきるしか無い。
 同種のものを三社が以前受けた時には、培った持ちうる全てを惜しみなく使い辛うじてそれから脱することが出来た。 
 故にその恐ろしさを骨身に沁みて知っていたが、あの夜のものはかつてのものからすると不完全に過ぎた。
 その原因を三社は、エリーザの能力による問題ではなく在り方故の不足によるものと感じている。
 そしてそれこそが………彼女のこれから齎される結末の一因となるとも考えていた。
 ───その真理には、やはり重大な瑕があるのだ。
 
「錬金術師は元より、一部を除いて自身が戦うことなどに関心がありませんが。それに、何を決定づけたと?」

『当然、私に君を遮断する役が割振られているのが明白だということだ。私が君の予測した極めて蓋然性が高いであろう時間設定を上回ったのは、僥倖の連続故だったと言っても過言ではない。君自身の詳細は、遠方の知人に別の用件で連絡した際に知った。天谷理沙という少女の稀有なる特殊性の情報は、管理者と偶発的に繋がりがあった人物こそが握っていた。その真偽は、薦めに従い理沙くんが病院で検査を受けた故に私にも辛うじて確認ができた───ほら、こんなにも都合が良すぎる偶然が連なっているだろう? だが、偶然とは世の裏側にある知られざる法則………神秘の隠語でもある。こういう方向性を私は幾度も経験している』

「まさか、貴方は………抑止が自分の後押しをしているとでも言うつもりなのですか?」

 エリーザの唇が瞬間三日月のように形作られる。
 それは、一つの淡い表情しか浮かべていなかった者が見せた過剰な表現。
 彼女の他に対する方向性を際立たせたもの。
 つまりは………あらゆるものを突き放し孤独を良しとする揶揄を表す冷笑。
 だがそれに答える三社の声も、無慈悲なる鋼の刃を思わせた。

『それこそ、まさかだ。抑止などという、後付けの水掛け論で自身の大義を語るほどには愚かでないつもりだ。ただ、ある意志が方向性を定めているのではないかと漠然と直感したに過ぎない。それに君は気づいていたかね? 『理沙』という少女を選んだ時点で───自身の“E”が削られているということに』

「…………その適用は、貴方以外には当て嵌らないかと。それに『天谷理沙』は既に、付与された権限を大幅に上回る領域へ踏み込んだ故に破損が著しい。貴方が期待するような意志の力はもう望めないと思えますが。もしよろしければ、もう一度話されますか? 彼女もそれを望んでいるようですし───」

 声にある種の慈しみの響きを感じたのは、果たして三社の錯覚だったのか。
 エリーザの顔が俯き瞳が閉じられる。
 その様は、動力を切り休止に入る自動人形を思わせた
 黄昏の輝きの中、その光景は悲しい主題の絵画に似ている。 
 実際には数瞬の切り取られた時間の中で、再び瞳は開かれ─── 

………………………………………………………

……………………………………………

…………………………………

………………………

 深い闇の中で、針の先ほどの光が瞬く───

「みや………し………ろ………さん」

『───ああ』

 私の彼方への呼びかけに、短くも温かく優しさを感じさせる声が返ってきた───

…………………………………

 まだ………私は解体されていない───

………………………

 何がそこまで、私という存在を保っているのか───

…………………………………

 それは不思議だったが、考える余裕はない───

………………………

 でも、話せるのは嬉しかった───

…………………………………

 ああ………やっぱり私は謝らないと───

………………………

 だって、この人にこんな───

…………………………………

「わた………し…………ごめ………ん………な……さい……いっぱ……い……め…いわ……く……」

『───気にすることはない。後は任せてゆっくりするがいい。君が望むままにしよう。今まで、よく頑張ったな』

 そんな言葉を言ってくれるなんて、とても信じられない───

………………………

 これは、自分が都合よく作ったものだろうか───

…………………………………
 
 でも、区別がつかないなら同じこと───

………………………

 じゃあ、素直に───

「………ほめ……て……くれて……でも……わた………し………なにも………」

『そんな事はない。恐らく、理沙くんでなければこの悲劇は拡大したことだろう。踏みとどまり、そうさせなかったのは明らかに君の心の在り方故だ』

 そんな事言ってくれた人が、他にも居たような───

…………………………………

 とても嬉しいけど、実感が無い───

「そう……なん………で……しょう……か? …………でも……ほん……とう………は……もっと………」

『─────そうだな。だから、私を大いに恨みたまえ』

 なにを馬鹿なことを───

………………………

 どうして、この人はそんな事を言うのか───

…………………………………

 貴方は私とは違うのに───

………………………

 何故、そんな結論に───

…………………………………

 少しは自分を───

「そん…………な…………でき………ませ………ん…………わた………し………あな……た……に…・…あえ……て……ほん……とう……よか……」

 これだけは私も貴方を責めたい───

………………………

 だって、私にどう思われていたかなんて貴方はとっくに───

…………………………………

 だから私は、最後に何とか伝え■■■■■─────
 
………………………………………………………

……………………………………………

…………………………………

………………………

 小さく途切れた声が、虚空に消えゆく。
 瞬きの中で、天谷理沙という少女はぎこちなく弱々しい微笑を浮かべながら再び没した。
 残された沈黙は、冷たさを増した風の流れに紛れる。
 今のがどういう種類の気まぐれだったのか───三社は計りかねていた。
 理解出来たのは、『天谷理沙』という少女は確固として存在し『エリーザ』とは独立しているということだ。
 確かに、分割思考に『複写』された信号のみの人格であるそれはもう崩壊しかかっているのだろう。
 それをこちらに示し、挑発するためにエリーザは今の僅かな邂逅を演出したのか?
 それとも、天谷理沙という少女の人格を彼女なりに愛おしみその希望を叶えたのか?
 どちらにしろ、それは三社から見ると存在を弄ぶ行為にしか見えなかった。
 エリーザは天谷理沙という少女を自身の下位に位置すると信じて疑っていない。
 だが………エリーザ・“アブツゥーク”・リーアシュタインという存在を破滅させたのは間違いなく天谷理沙という少女だ。
 それを三社は確信している。
 エリーザは既にその主導権を取り返していた。
 元の淡い表情で固定された顔。
 何事も無かったかのように、彼女は機械的な仕草で髪を掻き上げつつ言葉を発した。

「それにしても………ここで我々は対峙することになると予測していたのですが、想定したよりも貴方は慎重だったのですね。そのような場で監視だけに留めるとは、賢明な判断です」

『ほう? 君は、私が何処に居るのか分かっていると?』

「ええ。こちらを基準点として方位85.44.37、距離3927.63m、仰角3.13°───貴方の現在位置はセンタービルの屋上であると照合できます。そこから、貴方は何らかの遠視によりこちらを認識しているのでしょう?」

 エリーザの視線が無造作に、半身を朱の中に染める彼方先のビルに向けられる。
 この冬木で一番の高所であり、一帯を俯瞰できる場所。
 断言されたように、三社はそこから鍛え抜かれた鷹の眼を以て橋の途上に佇む彼女を捉えていた。
 少々意外だったのは、それを彼女が察知し得たということだ。
 表裏のどちらでも、あらゆる監視手段は違和感を探ることに敏感な三社には看破する自信があった。
 ましてや、この距離である。
 能動的な手段ではないとすると、こちらを把握する術は限られてくるはずだが………

『ふむ。こちらを視覚で確認している………というわけでは無さそうだな。それで………私が、監視に留めている? 賢明? 一体何のことかね?』

「もはや私が『再現』可能な領域は、貴方の処理できる範囲を上回っているということです。この地に居る限り、現在の私の所持する単純戦力は噂に名高い“クロンの大隊”すら撃破し得るでしょう。更に付け加えるならば───何か可笑しいですか?」

 抑揚のない口調によるエリーザにとって明白な事実の列挙へ、堪え切れず漏れ出した嘲笑が重なった。
 その非礼なる態度へ、彼女は微かに首を傾げ疑問を呈する。
 三社は一頻りの笑いを収め、隠しきれない辛辣なる響きを声に乗せた。

『まったく、何を言い出すのかと思えば………なかなか笑わせてくれるな君は。では、かつて冬木の聖杯戦争へ参戦した者として一つ教授してやろう。聖杯戦争において使用された使い魔に類似した兵器を『サーヴァント』と呼称したが、それが真実英霊を召喚し使役したものだったというのは知っていたかね?』

「不確定な情報としては聞いていましたが、儀式解体後の隠匿の精度の高さ故に詳細については未だ不明な部分が多いですね。それが真実であるとすると、近年においてこの地の大魔術儀式こそが最も至るべき道に近かったというのも頷けますが」

『ああ、それは事実だ。何しろ、魔法を為した系譜の神域に迫る天才が創り上げたものがこの地にあった基盤だったのだからな。英霊などという魔法使いですら使役できぬものを召喚し得たのも、実に瞠目すべきシステムをその天才が緻密に構築した故だ。それは、召喚に使用される依代という部分でも顕著に表れている。通常、異界のモノを喚び出すのに依代を用意するのが召喚における常だ。聖杯戦争においてもそれは例外では無い。しかし───依代を如何にするかという選択が尋常ではなかったのだ』

 語ることにより三社の記憶の中で星々の輝きが瞬くように、『彼ら』の姿が鮮明に駆け巡る。
 幾多の死線を潜り抜け、様々な者達との数々の戦いを繰り広げた今でも───あの半月程度の戦いは、彼の中で特別な位置にあった。
 それは、あの戦いこそが己の中で最も厳しいものだったという意味では当然無い。
 それこそ激しさや規模の大きさからすれば、上回るものを三社は幾つもその後に経験してきた。
 それでも、あの『彼ら』との壮烈なる邂逅と死闘こそが最も心に刻まれたものだったのだ。
 
 ───運命の夜を駆け抜けた。
 ───未熟なる自分は、ただ夢中で我を通した。
 ───その傍らには、赤き魔女たる最愛の少女が共に在り続けてくれた。
 ───月光の中で、気高さと壮麗さの化身の孤高なる騎士に魂を揺さぶられた。
 ───紅の外套を纏いし者と鋼と鋼を咬み合わせることで、火花の向こうの己の歪みと輝きを克明に映すことが出来た。
 ───剽悍なる靭やかな獣に似た紅の槍の使い手は、英雄たる誇りを貫き通した。
 ───艶然とした怪物の体現たる妖女は、自らの鮮血の神殿で無残にも葬られた。
 ───あらゆる策を弄しこちらに苦しみを与え続けた稀代の魔女は、己の主の胸の内で微笑みながら逝った。
 ───山門の守りであった剣士は、その研鑽極まった技のみで英雄達を阻み続けた。
 ───黒き山の如き絶大なる力を持った無敵の巨人は、その最期を白き少女の盾とした。
 ───そして………あらゆる財を持つ最古の英雄と対峙することにより、自身の内にあったただ一つの真理を初めて発現し得た。

『セイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー………それらは物質的なものではなく、役割クラスという概念上の依代だった。当然、その枠組みは英霊の力を様々に制限するがそれでも充分すぎる程に驚異的な再現率だ。何より、例外を除けば役割クラスに該当する英霊達しかほぼ召喚されないので依代としての親和性も非常に高い。つまり、魂を核とした幻想の証明………情報因子とでも言える英霊達と非常に適合しやすいシステムだったのだ。さて───話は変わるが、君の『再現』した聖杯戦争に私と瓜二つの赤い外套を纏ったサーヴァントが居たのを憶えているかね? あれは一体何者であったと思う?』

「あのサーヴァントは、確かに興味深くはありました。しかし、情報が僅少の為に三通りの不安定な仮説しか立てられませんね。一つ───、あれは貴方の遡った血縁に当たる英霊である。二つ───、あれは酷似しているが貴方とは全く無縁の英霊である。三つ───、あれは貴方本人が英霊となったものである………というところでしょうか」

 三社はエリーザが即座に出した淀みない答えに感心し、ほうと呟く。
 そこに揶揄の響きは含まれていなかった。

『なるほど………流石というべきか。正解ではないが、極めて正解に近い解答だ。特に三つ目は、なかなか発想できないものと言える。過去の英雄達が昇華したものということにとらわれ、そもそも彼らが時空すら超越した存在なのだということを失念する者が殆どだからな。そう───あのサーヴァントは私と始まりを同じくし、遂には彼方に至ってしまった英霊だ。私は恐らくもう到達し得ないだろうが、要はアレが私の可能性の成れの果てであることには変わり無い。では、アレは一体何のサーヴァントとして該当したのか?』

 少女の守り手として顕現した紅の騎士を、三社は心に浮かべる。
 当時の自分にとっては、その存在自体が癇に障ったヤツ。
 だがあちらは癇に障るどころか、殺意を伴う明確な敵愾心を持っていた。
 それも当然である。
 そもそもが自らを嫌う者であるのに、自身の消滅を望むまでに己を激しく憎悪する境地にアイツは至っていたのだから。
 ならば、その元凶たる過ちが目前に立ち現れて正気を保っていられるのがどうかしている。
 八つ当たりとも言っていたように、憤激のあまり鏡でも打ち砕かなければ気が収まらなかったのだろう。
 それでも、結局は自分自身にしか対象を向けられなかったのが我ながら救い難いが。
 
 そして、そんなアイツさえも打ち倒して自分は我を貫き通したのだ。
 その勝利することにより生じた責務は、必然のように遥か彼方への道を歩むよう自らを突き動かした。
 アイツのようには決してならないと誓いながら、それでも尚その背を追い続けていた。
 だから、気づいた時には自身が何もかもアイツに酷似していく事に愕然とした。
 所詮は、やはり行き着く場所は同じ………しかし、寧ろそれは望むところだと覚悟を決めた。
 少なくとも、その背には漸く追いつくということなのだから。
 そんな自分を───些か強引過ぎる手段で引き戻し、押さえ付けたのが赤き魔女だったのだ。
 彼女が最後まで己を見捨てなかったのは、きっとアイツが余計な事を言い遺したからだろうと予測している。
 
 まったく………口煩く皮肉屋で性根が捻り曲がってるクセに、肝心な所ではお節介なヤツだった。
 黒白の双剣による白兵を好み、宝具さえ防ぎきる盾までも使いこなしていたサーヴァント。
 しかし、それらは敵に手の内を隠し固定観念を植えつける為のフェイク。
 そういう所に性格の悪さが滲み出ている。
 全部が全部、鏡に向かって自身を嘲笑うに等しいが。
 当たり前だが、紅の騎士が奥の手として最もその威を発揮したのは───
『それらしからぬ戦い方ばかりしていたアイツは、聖杯戦争においてアーチャー(、、、、、とされていたよ。だから───起源を同じくする私も、結局はそういう者ということになる』

 鉄錆が含まれたような、静かなる宣告。
 そこには、ある意志が僅かに混じる。
 しかし、エリーザにはそれを読み取れない。
 彼女にとって、他者の意志とは理解する対象ではない。

「曖昧で迂遠でありながら、結論への導き方のみ飛躍しすぎています。貴方の言いたいことが判然としませんが」

『ああ、すまない。少々回りくどかったかね?』

 苦笑をしながらの何気ない口調は、友愛さえ帯びているようでもあった。
 だが、ならば何故そこに刃を突きつけるような威迫があるのか。

『なに、簡単なことさ───』

 漸く───エリーザは感知する。
 遥か先に聳えるそこで、視覚化しても不思議ではない程の膨大な魔力が渦巻いている。
 なまじ『繋がっている』が故に、彼女はそれに対し物理的な圧迫感すら覚えた。
 力は瞬時に研ぎ澄まされ、一点に集束していく。
 一体、どこからそれ程のものが齎されたのか。
 エリーザは疑念を抱く。
 彼自身のものであるはずは無い。 
 いや………自らを省みれば方法は幾通りもある。
 しかし、それを今更確定させても意味は無い───

────I am the bone of my…………

 強風による雑音に混じりそう囁かれたものを、彼女は辛うじて聞き取る。
 野に吹き荒ぶ虚しい風を想起させるそれは、詩の断片に似ている。
 これは…………明らかに基盤への起動の鍵。
 即ち、自身へ訴えかける詠唱の小節───
『要は、君にこう言いたかったのだ──────慢心が過ぎたな(、、、、、、、錬金術師(、、、、そこは(、、、私の射程だ(、、、、、

 断罪を告げる声は、黒金の斬撃の如く。
 逆巻く風の中を反響する。
 エリーザは、即座に三社へ付着させていたものから状況の解析を行う。
 それは第五架空元素により編まれたもの。
 目視が能わない、極細の『糸』。
 これをエリーザは、対象の人格を『複写』する為の補助手段としていた。
 もっとも院長アトラシア程には使いこなせない為に、回路を持つ者達には殆どが機能しない。
 しかし、追跡子(トレーサーとしての役割なら充分である。
 この状態で情報中枢への接続は困難でも、表層のものなら読み取れる。
 驚くべき事に…………………三社の内面で、既に自分は撃ち抜かれていた。
 呼吸する力でさえ全身に巡らせ、解き放つべきものの為に撓めている。
 引き絞られる弦は、空気に張り詰めることを強いていた。
 番えられたものは、凶々しい殺意が漏れ出している。
 
 あれだけの魔力を全て込めれば、確かに理屈としてはこの遠大な距離を踏破し得る。
 だが、目標に命中させることは至難のはず。
 ましてや、弓という手段でのそれは奇跡にすら等しい。
 にもかかわらず、エリーザは対抗する術が無ければ彼の思い描く通りの末路となる事を確信した。
 ならば───完膚無きまでにそれを防ぎ、徹底した反撃を行う。
 今の自身に何者も抗し得ないことは、決して無論拠なる虚偽ではないのだ。 

───一秒

───『玉座への帰還は果たされた(ダイレクト:ホルス』───二層まで直結、三層を待機───循環を維持───

 隠されたる集積装置への接続。
 起動への命令コマンドは思考の流れの中でのみ行う。
 貯蔵されし太源は、かつてのこの地の大魔術儀式と比すれば本当に微々たるものだ。
 しかし、個人の内にある基盤を駆動させるには充分過ぎるほどの量である。
 
───三秒

───回路閉鎖強制解除、臨界まで固定───

 過大に流入する魔力は荒れ狂い、暴力的にエリーザの中の回路を抉じ開ける。
 自身が瞬間で破砕され、一から作り直される様が浮かぶ。
 それは常人であるならば、あまりの痛みと刺激に意識が漂白され廃人となる類のものだ。
 しかし、彼女の意識はまるで揺れる事はない。
 無痛であるということではなく、ただその不随意な信号を無益なものと断じているだけだ。

───五秒

───変換式抽出───事象領域:3111315:15/2───座標変更、誤差修正───

 数字が流れる。
 記号が重なる。
 光が瞬く。
 色彩が変化する。
 不定形のものが様々に絡み合う。
 時空を占める素子が飛散して集合する。
 
 最後の聖杯戦争における計測と演算を、現状でエリーザは95.63%まで完了している。
 それは、そこまでの事象を手に入れているに等しい。
 故に───その全てを彼女は『再現』可能なのである。
 多くの者が勘違いしているが、エリーザは劣化してしか『再現』出来ないわけでは決して無い。
 ただ効率を考え、実証に必要十分な『再現』を為しているに過ぎないのだ。
 実際には、完全に極めて近い率で『再現』し得る。
 そう、例え英霊を使役した存在であるサーヴァントでさえも………。
 
───七秒

───供給量安定───変換式補正完了───全回路臨界突入───

 圧縮された魔力が、エリーザの内部を満たしている。
 駆け巡る情報理論。
 回路を循環するそれは、解放すれば瞬時に外部に排出される。
 抑えているのは、完璧なるタイミングを計っているからである。
 呼吸を止め、『糸』から伝わるその時を彼女は待つ。
 周囲の空気が緊張を孕み帯電する。

───十秒

───事象理論『世界卵』駆動───

 先んじて、エリーザの『再現』は為された。
 その1秒以下の遅れで、矢が砲撃のように放たれる。
 それは大気を滑り、禍つ星の輝きに似た紅き軌道を痕に残す。
 不吉なる咆哮は、聞く者に容易に死の運命を想起させ得た。
 だが………切り取られし事象は飛来に対する絶対防御である。
 即ち───

────I am the bone of my…………

 奇しくも、もしくは当然にも………顕れたる紅き騎士は、狙撃者と同じ詠唱を囁く。
 瞬間、至高なる赤き大輪の花が咲いた。
 七枚の花弁を持つそれは、放たれたる兵器に対する不敗の盾。
 その概念を崩すことは、人の身たる者には成し得ない。
 よって4kmを秒の内にゼロとした、紅き光弾であれ───
 掲げられた、その侵すべからず神秘で遮られるのは不可避と言えた。
 
 激突による鳴動は、空間を捻り軋ませる。
 生み出された衝撃の波涛が、爆散する閃光を伴い橋全体を震わせた。
 眩い輝きが白と黒を鮮明に分かち、影絵世界にあるエリーザの姿を浮き彫りにする。
 当たり前のように、彼女の仮面の表情には微塵も崩れはない。
 この勝敗は覆らないのが必定である。
 幾ら込められた魔力が大きかろうと、矢という概念であの盾を突破できる筈がないのだ。
 獣の断末魔に似た唸りを最後に響かせ………遂にそれは弾かれた。
 尾を引く残光を無念の跡としながら、浮かぶ月へ駆け上がる。
 やがては、改めて標的としたものの高みに気づくように力尽き墜落するであろう。
 同時に、その結果を為した紅き騎士も砂が風に浚われるように霧散した。
 
 無論、エリーザはこれで終わらせるつもりはなかった。
 こちらを詰みメイトとした手は、これで完璧に防ぎ切ったのだ。
 今のは、彼にとって持ちうる全てを費やした渾身の一射。
 故に次弾は無い。
 ならば、ここからは自身の手番である。
 蓄積された記録には、この距離でも届き得るものがあった。
 戦いに終止符を打つべく最後に器を切り裂いた、光による斬撃。
 どこまでも伸び行くあの輝きの波は、ビルもろとも目標を破壊することが可能だとエリーザは試算する。
 その周囲一帯に甚大なる傷跡を残す事になるだろうが、もはやこの地での計測と演算はあと僅かだ。
 露見したものにより障害が現われる前に、それは完了できる。
 その為、今この場で禍根を断つ事こそが優先されると彼女は考える。
 
 しかし───
 結局のところ、その蒼き剣の騎士の『再現』は為されなかった。
  
 月が───吼えていた。
 いや、虚空に座する無慈悲なる女王がそのような醜態を晒す筈は無い。
 浮かぶ白き面に輝点となって重なるは、紅の死告星。
 射手の忠実なる猟犬であるそれが、自らの本領を謳うように吠え猛っていた。
 刹那の狭間で、時の天秤が静止し理不尽を許容する。
 摂理は不条理に歪められ、軌跡は突如有り得ざる曲線を描く。
 牙を向けられし者が逃れ得ない、運命の魔弾。
 掘削するように大気を抉り貫く残響のみが、エリーザの耳に届いた。
 それを覆す手札は、この瞬間の中で、もはや残されているわけもなく………
 ───衝撃は、背後からだった。
 エリーザの目が、限界まで見開かれる。
 敗北を訃げるものは、胸から伸びる歪に捻れた漆黒の刺。
 吹き零れる赤が、その先端を濡らしていた。
 
「………どう………して…………?」

 心底不可解だと眉根を寄せ、エリーザは震える囁きを漏らす。
 唇から溢れる鮮血は、剥離する残骸であるかのように流線を描き撒き散らされる。
 いかなる力の作用なのか、貫かれたままでその疾駆は留まらず………。
 崩落寸前の足場に辛うじて立っていた彼女は、眼下に広がる川に向け飛翔するかの如く舞う。
 その姿は、偶然の結果なのか彼方に向かい跳躍しているかのようでもあった。
 
 宙に在る、毫にさえ満たない間隙の中。
 エリーザの思考は、無限のループに陥る。
 何故自身は敗れたのか……彼女は、その要因を見出せずにいた。
 保有していたものの数値は、明らかに上だったのだ。
 事象を切り取り『再現』を為すとは、戦力とする場合その地における原形に左右される。
 然して此処では、英霊という埒外のものを使役した戦争が行われた。
 であるなら、七騎の英霊たるサーヴァントを『再現』可能な自分には、如何なる者も抗し得ない。
 それが彼女の導き出した結論だ。 
 それは、あまりに論拠として稚拙だった。
 それは、あまりに世界に対し無知だった。
 それは、あまりに閉塞した破綻だった。
 結局、彼女は『保存』する事のみが至上だった。
 『再現』はするが、それを理解しようとはしなかった。
 そんな簡単な要因………しかし、それだけで思考は躓いてしまう。
 つまり───
 彼女の真理とは、匣中より出してしまうべきものではなかったのだ。
 ───何故?
 ───何故?
 ───何故?
 それを問うのが人間である。
 だが、彼女はこれまで自身の内でしかそれを行わなかった。
 繰り返される疑問は、際限なく───
 それは、決して解消されることはなく───
 やがて齎された、波紋の如く広がる眩い閃光。
 それが慈悲であるかのように───その輝きはエリーザを飲み込み、溶かし、全てを跡形もなく消し去った。

………………………………………………………

……………………………………………

…………………………………

………………………

 宙を舞うのは気分が良い───

 そこには、私が私である余地が広がっている───

 ずっとは居られないけれど───

 出来る事なら、このままでありたいと心から願っていた───

 静止した光景の中に、消えかかる光の道を見る───

 それは遥か向こうまで、私を誘う───

 空は、もうその殆どが蒼で染まり月まで鮮明だけど───

 水平線には、淡い赤の残滓がまだ揺らめいている───

 あそこまで、私は跳べるだろうか───

 その先の、更に向こうまで───

 そうしたら、今度こそ───

 でも、やり直しなど無いのだろう───

 ましてや、私はこんなだし───

 きっと、この潮風の香りの中にだって微かでも残れない───

 ああ………本当に寂しい───

 せめて、あなたの心には少しでも───

 こんな、身の程知らずな『本物であろうとした偽物』が居たことを───

 背負ってもらうのは、本当に心が割れる程痛い───

 それでも、そう望んでしまうのが私のどうしようもないところだ───

 もう少し、自分では潔いつもりでいたのだけれど───

 それにしても名前………違ったんですね───

 まさか、あの人があなただったなんて───

 そりゃあ似てる………っていうか本人ですもんねえ───

 あ、先生には顔ぐらい見せた方が良いんじゃ………って、そうか、危ないからか───

 まったく、なんて事してたんですか───

 本当にそんなもの目指すなんて………もう少し、おとなしめに出来なかったんですか───

 だけど、そう………私にとって、あなたは間違いなく『正義の味方』でした───

 それで、以前はどうあれ、ずっと三社堺人さんってことで───

 光が溢れて、こちらにもうすぐ届く───

 あれが私を満たしたら、みんなさようなら───

 分かってたにしろ……………凄く未練だ───

 本当は私だって───


 “大丈夫。私が、何とかしてあげるから”


 え? どうして───

 それは、あまりに唐突で───

 その優しく包みこむような声は、滲み渡るように響き───

 驚きと喜びと混乱───

 次の瞬間、私は幾重にも広がる影の中に埋没した───

………………………………………………………

……………………………………………

…………………………………

………………………



「今のは…………?」

 意外なものが視界を掠め、三社の口から呆気に取られた呟きが思わず漏れる。
 未遠川周辺を時を遡るように照らした輝きは、既に収束している。
 しかし、その自らが齎した視覚を焼き付かせる程の閃光の中心に………影の如き黒き線が一瞬絡みついたのを、その目が捉えたのだ。
 それが何であるか、解らぬ筈はない。
 一度は変じられたものの、様々な経緯により再び取り戻された彼女本来の類稀なる属性。
 その稀有なる形無き虚ろが、術式により形を得たものこそアレだ。
 だが、何故………?
 あのような事をするのは、無茶が過ぎる。
 あの破壊は物理的にでも概念上にでも、巻き込まれたらただでは済まない。
 アレが触覚に過ぎないとしても、その行為は自身を火中に晒すに等しい。
 三社は、舌打ちをして自らの浅慮を呪った。
 先程の戦いでは決して感じなかった、大きな焦燥を覚える。
 射出された影の方向から彼女の居場所を把握し、そこに最短で辿り着こうと───

「本当に派手にやりましたわね。しかも、橋を爆破予告と偽の事故で封鎖するなどと………発想が殆どテロリストでしてよ?」 

 背後から掛けられた涼やかな声に、三社は足を止める。
 ここまでその声の主が接近している事に気づいていなかったとは、自分は本当に焦っていたらしいと彼は考えた。
 無論、それが誰であるかについての意外さは無かったが。

「ルヴィアか………あれは、もしかして君の差し金か?」

「馬鹿な事を。あのような無茶を、私が愛弟子に勧めると思いまして? あれは、あの娘が強く望んだ事です。魔術師の命を賭しての行いは、止めることこそ礼に反するがゆえに認めざる得なかっただけのこと。それに、私の出来うる限りの事は施しましたわ。あそこまでして成し遂げられないというのならば、破門せざる得ない程にはね」

「相変わらずの厳しさだな、君は。それだけ桜を買っているのは、良く分かるが」

 三社の苦笑混じりの声には、明らかな安堵が含まれている。
 振り返った視線の先には、豪奢な黄金の髪を橙の色彩に濡らした美女が超然と腕を組んでいた。
 玲瓏なる繊細な顔立ちも、優雅なる上品な立ち姿も、巨匠の描いた名画を思わせる華麗なる貴婦人。
 恐らく、この方面の秀麗さで並び立つのは彼が知る限りでこの世に一人しか居ない。
 魔術師としても、ある一分野においては同じく並び立つ者が一人しか居ないだろう。
 湖の国の天秤の当主。
 時計塔の蒼き至宝たる魔女。
 ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトというその名を知らぬ者は、少なくとも魔術師を名乗る輩には居るまい。
 彼女が桜に対して庇護を与えたと断言したからこそ、三社はその無事を確信したのだ。
 だが、疑問は拭えない。

「では、桜の師たる君に尋ねよう。彼女は何故あのような───」

「それに答える前に、貴方にこそ尋ねねばならぬ事があります。自身の立ち位置を弁えず、代行たるあの娘を蔑ろにし、このような危うい事をした理由は何ですの? 何か弁明の余地があるというのならば聞きましょう。心してお答えなさい、使い魔」

 ルヴィアの威厳に満ちた静かなる口調は、聞く者を自然と伏するものである。
 こればかりは積み重ねられた血統の誇りにより滲み出るもので、赤き魔女も及ばない。
 三社は口元を歪め、それに降参するように両手を上げた。

「なに………使い魔とて、たまには気晴らしも必要であろう? だから今回の件は、その類だと思ってくれれば良い。色々と騒がせたのは、大変心苦しい限りだがね」

「……………私の前で、二度とそのような巫山戯たことを言ってごらんなさい。ここから地表に向かって、脳天を串刺しにしてさしあげますから。フランケンシュタイナーか、バックドロップか、パイルドライバーか位は選ばせてあげてもよろしくてよ?」

「それは、どれを選んでも結果は同じかと。無礼は伏してお詫び申し上げますので、どうかその寛大なる心を以てこの哀れなる使い魔にご慈悲を。お嬢様」

 急変して慇懃なる完璧な礼を取った三社へ、ルヴィアは殺意さえ込めて睨みつける。
 その視線には、魔眼持ちでないのが不思議な位の威があった。
 が、やがて彼女は、諦めたかのように腰に手を当て盛大なる溜息をつく。

「全く………私のもとで働いて、身に付いたのがそのような態度と紅茶を淹れる事ぐらいとは。以前の不器用で純朴なシェロは、どこへ行ってしまったのでしょうね。時の流れとは、本当に残酷ですわ」 

「君の場合は時の流れによって、その美しさと優雅さがますます研磨されたということらしいな」

「よくもそのような、歯の浮くことを真顔で言えますこと。貴方だからこそ、余計に腹立ちを覚えましてよ」

 ルヴィアは、複雑な顔で恨みがましい流し目を送った。
 しかし、受けるべき相手がそれに対しまるで何も感じていないのを見て取り、再度大きな溜息を漏らす。
 軽い咳払いの後、彼女は気を取り直すように表情を改め、元の高貴なる魔女として言葉を続けた。

「───本当のところ、貴方が何故このような行動に出たのかは分かっていますわ。だからこそ、私にはその傲慢さが鼻に付きます」

「ほう? 先程の回答では、やはり御不満かね?」

「………自らを軽視し、端から不理解であると決め付ける事こそ、貴方の看過出来ない悪癖です。少しは治ってきたと思っていましたが、本当にどうしようも無いほど根が深いようですわね。サクラの手をこれ以上汚さない………貴方が今回一人で全てを抱え込んだのは、そこに尽きるのでしょう? 行き着くところが、対象の処断しか有り得ないのですからね」

「さて───まあ、解釈は御自由に。何れにせよ、もう終わった事だ」

 視線を逸らすように背を向け、三社は眼下に広がる街並に対していた。
 その冷徹とも言える声の響きに、ルヴィアの瞳は微かに悲哀の色を帯びる。
 昔と今では表面上のものが違え、彼の内面にあるものは同じであると理解できたからだ。
 本当に………最初は、このような人物が居るとは到底信じ難かったのだ。
 それを知った時に、どれ程の衝撃と妬ましさと感動を覚えたか。
 そして、いつの間にか心が奪われていた。
 きっと己が変えてみせると誓いもした。
 しかし、それは果たされず敗北することになったのだが。

「………守るべきものを勝手に決め、相手の意志を尊重しないという事が、一体どれ程の───いえ、それより、先程から下品に喚き散らすように震えているそれに、お出になってあげた方が宜しくなくて? いい加減にしておかないと、因果線越しに制裁されますわよ。私であれば、確実にやりますからね」

 ルヴィアが呆れた声で指摘するように、三社の胸元にある黒く無骨な携帯が攻撃的に振動していた。
 それが誰からの着信であるか、彼には分かりきっていた故に出るのを躊躇していたのだ。
 覚悟を決めるが如く目を僅かに閉じ、三社は携帯を操作する。
 耳に着けられたイヤホンより、途端に緊迫した空気を感じ取った。

『……………………ねえ、あなた。あなたの中でのちょっとって、どれくらいの事か教えてくださるかしら?』

「あ、えーっと、これはだな────」

 妻たる女性の電話越しにでも眼に見えるような威圧に、三社は半歩後退る。
 幾つかの考えていた自身の言い分が、全て空回りする。
 因果線を伝い、断りは入れた。
 “ちょっと、借りるぞ”と。
 他意は無かったのだが、省みるとそれは確かにあまりにいい加減過ぎたか。

『ちょっと……………ねえ? ちょっとって、半分以上の事なんだ。へー、ほー、ふーん、なるほどねえ。ところで、私が今どういう事をしているのか、あなたは憶えていて下さって?』

「う、うむ。それは、我々の大事な───」

『まあ、嬉しい。ちゃんと憶えていて下さったのね。じゃあ、それがどれ程の精妙さと繊細さと苦痛と忍耐と集中力を要するものなのかは、よーく理解されているわよねえ?』

 実感は出来ないが、理解している………とは、この雰囲気では言い出せそうにない。
 甘えるような声音だからこそ、そこに潜むものの恐ろしさに余計に戦慄する。
 三社は、額に嫌な汗が浮き出るのを自覚した。
 いつもなら心地良い筈の彼女の華やかな声が、今は地獄より溢れる炎の轟であるかのように聞こえた。

「そ、そうだな。俺は、持ってないから、ちょっとだけ理解が足りないかも───」

『“ちょっと”? “ちょっと”理解が足りない!? 』

「い、いや、大分の間違いだ。実はこれには深い事情がある───」

 無益と知りつつ、三社は何とか今までの事を整理し言葉にしようとした。
 高まる内圧は、即時撤退を決断させるに充分だったが逃げ場など何処にも無い。
 一応は立ち向かっているという自身に、何という勇気だろうと感心する。
 しかし、こういうのを現実逃避と言うのだと、内面の冷静なもう一人の自分が指摘した。
 そして───目前で絶望的なまでのものが決壊した。

『あんたねえ──────私達の子供より大事なことが、この世のどこにあるって言うのよ!! 刻印の移植は今日が山場だって、ちゃんと教えたわよね? そんな時に、あれだけ魔力かっぱいでいくって、どういう神経してるのよ! なに? 私達に死ねって事? そういう事なのね!? 本当に信じられ無い!! 帰ったら覚悟しておくことね!! こっちは徹夜明けで、何とか予備の方まで手を付けないで凌いできたのに、それをあらかた持っていくなんてどんなダメ亭主よ!! あれね? 最後には、私達を売り払うのね? そんであんたは、最後の大勝負して豪快に負けるのね!? 豪華客船とかにも乗せられちゃうのね?!』

「悪かった! 東西南北、上から下まで全面的に俺が悪かった!! このとおり謝るし、帰ったら豪華客船でも何でも乗せてやるから、少し落ち着いてくれ。言ってることが支離滅裂になってきてるぞ?」

 久しぶりに聞いた灼熱を思わせる怒号に、三社はひたすら謝り倒すしか無かった。
 どう考えても、言い分には彼女にこそ利があり、自分には何も言い返す資格が無い。
 恐らく、電話ではなかったら土下座でもしていただろうと想像する。
 言う程に激しさを増していく彼女に、嵐を前にした無力な人間の心持ちになる。
 とにかく耐えて、その正当な怒りが鎮まるのを待ち続けるしかない。
 三社にはひたすら長く感じたその時間は、頭痛に耐えるように彼女が大きく息をついた事で漸く終息する。
 本来の悠然とした万能の魔術師としての冷静なる響きの声が耳に届き、彼は大いに安堵した。

『それで────あれだけの魔力で、何をしたの? あれで、あなたに出来る事と言ったら………まさかとは思うけど───』

「いや、それは無い。ある意味では使ったが、それはいつものように、あくまで自身の内だけの話だ。強引な力技だったのだが、確実性を取る為にな。詳細は、帰還時に報告する」

 僅かな危惧が混じる語尾に、三社は即座の否定をした。
 あの世界を展開することは、あらゆる意味で現在の彼にとって禁じ手である。
 そうせざる得ない事など、願わくばもう二度と起きて欲しくないと思っている。
 無論、いざとなれば躊躇はしないが。
 だが、彼女のそれはそういう方向ではなく、自身にこそ向いているものだと三社は理解していた。
 だから無駄な心配などさせない為に、素早く断言したのだ。

『───そう。なら報告書として纏めて、とりあえずは代行に提出なさい。勿論、口頭での説明も私にするように』

「了解した、マスター。まあ、冬木でもなかなか珍しい件であったことは保証しよう。幾つかの事後処理も、行わねばならぬだろうからな」

『分かったわ。出来る限りの事は、お願い。私も戻ったら、すぐに取り掛かるから………………ねえ、あなた』

「うむ?」

 彼女の雰囲気が、冷静なる冬木の管理者としてのそれから変わる。
 その響きは、普段のように甘いものでもない。
 三社は、それがどういうものであるか少し考え、すぐに思いつく。
 荒野に流れるは、孤独への誘い。
 罅割れしものは、硝子の心。
 その進行は、己が己で在り続ける限り止まることが無い。
 その彼を、今の短いやりとりであっさりと看破した事にこそ彼女の真価がある。
 それは、かつて荒野で敗北した時に彼を引き戻す要因となったものの一つ………

『────愛してるわ』

「ああ…………………俺もだよ、凛」

 以前と同じやりとり。
 言葉だけを考えれば、この世のどこにでも溢れる情緒に満ちたもの。
 だが、そこにはお互い鋒を喉元に突きつけるが如き殺伐とした気配が漂う。
 彼女は彼に対し、正しいとも間違っているとも遂には断じ無かった。
 彼方に向かうは、独りであるからこそ。
 しかし、彼女はそれがどの様な事であるかを知り尽くし尚も傍らに在り続けると宣したのだ。
 いや、貴方を私の傍らに置き続けると断定したのか。
 
 客観的に見て、彼の内面に巣食うものは化物であった。
 それに縛鎖を掛ける事が、彼女にどれ程の犠牲を強いたのか………それを考えると、彼はその負債の大きさに目眩がする。
 彼女はきっと、もっと高く飛べた筈だ。
 もしかしたら、その手はとっくに輝かしい真理をもぎ取っていたかもしれない。
 けれども彼女は、それを鼻で笑い、世界に対して変わらぬ鮮やかな笑みを向け続けたのだ。
 自分は、絶対なる真理を既に手に入れているのだと言わんばかりに。
 彼からすれば、彼女の方こそが自身を上回るほどの化物に見えた。
 そして、彼は彼女を心の底から愛した。
 愛するしか無かった。
 もっともそれは、元よりのものがより具体的且つ明確になっただけのことだったのかも知れないが。

 手放したものは大きく、手に入れたものもまた大きかった。
 この世の原則は等価交換。
 だが、壊れた天秤である彼にはそれが通用しない。
 軽いはずのものはより重く、重いはずのものがより軽い。
 目盛りは大いに狂っていて、にもかかわらずそこに積み上げるのは支えきれぬ程のもの。
 誰しもが、ならば目盛り自体を直そうとした中、彼女は壊れたままでそこに更なる重みを積み上げた。
 その発想は、ある意味正気では無い。
 しかし、それこそが最良の手であることを彼女は結果として証明した。
 歯車を止める為には、力任せしか無かったのだ。
 その過程で彼は、自身が手に入れることなど夢想だにしなかったものを手に入れることになった。

「そうだ、訊くのも気が引けるが………あの子は、本当に大丈夫か? 今回の事で、余計な苦しみと痛みを与えることになったのだろうか?」

『そっちは、何とかするわよ。手が無い訳じゃないから、予定は変えないわ。それにあの子、今回は全く表情一つも変えないわよ。いつもだって、苦しそうな表情とか涙とか出るのは仕方ないにしろ、決して泣き叫んだりはしないのだけれど。誰かさんと一緒で、本当に意地っ張りというか…………でも、それより更に覚悟が違うわね』

 力無い遠慮がちな問いかけに対し、先程のことなど忘れたかのように彼女は軽い調子で請負う。
 これが母の強さというものかと、三社は無責任にも考えた。
 無論、内心の忸怩たる気持ちは大きいが自身の無力感に打ちひしがれているとも言える。
 幼いながらも、既に一つの明確な意志を秘めているであろう瞳を心に浮かべる。
 血縁というものに対し、彼は自然と隔意を抱いていた。
 というよりも、自身にはあまりに分不相応であるとしていたのだ。
 だから、それが齎された時の戸惑いと喜びと不安は大きかった。
 
 今でもあまり良い父親とは言えないだろうと、三社はある種の諦観の中で思う。
 顔を合わせるようになったのはようやくここ最近であるし、何より母親を苦しめてきた元凶たる人物が自分なのだ。
 話しかけても、硬い声で素っ気無く返されるだけで笑顔など見たことがなかった。
 きっと嫌われていると確信していたが、ここまでとは思っておらず、実際のところ三社は内心で大いに落ち込んでいた。
 それでも、愛おしい事には変りなかったが。
 彼女は良く似ていると言ってくれるが、三社はそうは思わなかった。
 繊細な美貌も、艶やかな黒髪も、その本質も彼女にこそ似ている。
 第一、自分に似ていたら、きっとここまでの思いはあの子に抱けないと彼は皮肉に考える。

「意地っ張りなのは、君もだろう。推測するに、君も移植の際は泣き叫んだりしなかったんじゃないか? まあ、それは良いとして、何がそこまであの子を?」

『あなたとの約束のせいでしょうね。帰ったら、自転車の後ろに乗せてやるって言ったんでしょ?』

 それ程、深く考えての疑問では無かった。
 だが、あっさりと断言されて三社は虚を突かれたかのように一瞬固まる。
 無意識に天を仰ぐと、紫がかった空に白い輝きがあった。

「ああ───そうか。なるほどな」

 淡い月の中での会話が心に去来し、三社は大いに納得する。
 真に………子供に何を語り、何を約束するかは心してせねばならない。
 それは、自身こそが一番理解していたはずなのに何と軽く考えていたことか。
 それに改めて気が付けたのが全くの僥倖だった事に、彼は深く反省した。
 いずれは、念の為に良く言い聞かせなければならないだろう。
 君は、父の様には絶対になってはいけない。
 見果てぬ夢を心に描くのはいいが、その道は慎重に選ぶべきであると。
 彼女の子でもあるから、そこまで愚かでは無いとは思っているが。
 しかし、その部分は否定的に考えつつも、我が子が自身との約束にそこまで重きを置いてくれたこと対しては、言いようのない喜びが湧き立つのを三社は抑えられなかった。

 注意を引くような咳払いを、彼は耳にする。
 振り向いた先で、苛立ったように眉を僅かに寄せルヴィアが睨んでいた。
 忘れていたわけではないが、三社としては少々タイミングを計っていたのだ。
 何しろ、この二人は時計塔時代に知らぬ者が居ないほどの仲だったのだから。
 どちらかというと、なかなか暴力的で過激な方向で。
 
「ところでだな………今、珍しい客が冬木に───」

「お久しぶりですわね。相変わらずの野蛮な叫びが、こちらまで漏れ聞こえてきましてよ?」

 どういった歩法なのか、装飾著しい衣装に乱れも見せずルヴィアは瞬時で三社に接近し、片側のイヤホンを勢い良くもぎ取って自身の耳に装着していた。
 三社は、額に指を当て大きな嘆息を漏らす。
 予想通り、こちらの空気もあちらの空気も大きく変わった。

『ル、ルヴィア!? 何であんたがそこに居るのよ? ちょっと、どういう事!?』

「何でも何も、彼については私も権利の一部があるのをお忘れなく。確かに、『所有権』こそ貴女に譲りましたが、だからと言って全てを自由に出来るなどと思わないことね」

 挑発的な響きで言葉を発し、ルヴィアは実際に仇敵がその場に居るような瞳を携帯に向けている。
 まだ電話越しで、本当に良かったと三社は考える。
 これが直接であったならば、このセンタービルの屋上はちょっとした戦場跡のように変わり果てていたかもしれない。
 いや、今の彼女達であるとビルすら倒壊しかねない。
 三社には、自分の妻たる赤き魔女が膨大な魔力を立ち昇らせて震えているのが手に取るように分かった。

『この………! 旦那も子供も居るクセに、まだ諦めてないなんて、どこまでしつこいのよ、あんた! 貞淑な貴婦人が聞いて呆れるわよ!!』

「何やら下品な想像をしておいでのようですが、その安直さはお里が知れるというものでしてよ、ミセス・トオサカ」

『は! 下品な想像とは、よくも言えたものね! 何度も、そんな機会を本当に伺っていたじゃないの、あんたは! 待ってなさい、すぐに帰って───』

「そのように焦っては、トオサカの結晶たるそれを全て台無しにしますわよ? まあ、それはそれで愉快極まりますが」

 本当によくもまあ、ここまで彼女を煽ることが出来るものだと三社は感心する。
 無論、頭痛を伴いながらである。
 今回は、不意を突かれたせいか完全に彼女の方がルヴィアのペースに乗せられている。
 案の定、自らの限界に挑むが如き気迫が声によってこちらに叩きつけられた。

『上等! 完璧に完璧を重ねて、更に時間さえ短くしてやろうじゃないの! 今度こそ、その悪趣味なドレスをズタボロにしてあげるわ!!』

「いや、凛。君の場合、本当に焦るのだけは…………」

 三社の忠告は、乱暴に通話を切られた事により恐らく届かなかった。
 一抹の不安が過る。
 最近は、殆ど出ていないとはいえ、彼女にはここ一番で出てしまう悪癖があるのだ。
 それは、遠坂に代々伝わる呪いに近いものらしい。
 魔術刻印の継承などという、魔術師にとっては一世一代の大事だからこそ心配は募る。
 それを先程邪魔してしまった、自分が言うことではないかも知れないが。
 思わず三社は、恨みがましい視線を、腕を組み傲然と胸を張るルヴィアに送っていた。

「ルヴィア………君、人の家に波風立てて楽しいのかね?」

「人聞きの悪い。あれは、彼女とのコミュニケーションの範疇ですわ」

「それは知っている。君達の関係を神秘の見地から解明して論文にでもすれば、時計塔の講師の末席にぐらいは名を連ねられるかもしれんと、常々考えていたぐらいだしな。ただ、今は時期が悪い。君だって、刻印の継承がどれ程のものかくらいは………」

「それは、貴方こそ彼女を甘く見過ぎですわね。あの程度でどうにかなるようならば、私は今に至るまでこれほど手は焼いていません。寧ろ、宣言通りここ数日の内にでも帰って来る公算の方が高くてよ?」

「…………そういう事か。だから、あそこまで煽ったというわけだ。しかし、君達は単独だと優雅にして華麗極まる淑女だというのに、何故二人だと、こうまで堕ちてしまうのか。化学反応としても、極端に過ぎる。少しは………?」

 翼を羽ばたかせ、地上より遥か高みにある此処に訪れるものがある。
 三社は、説教じみた言葉を連ねようとしたのを止め、それを視覚に捉えた。
 梟の形をとっているが、これは魔術により仮初の生命を与えられたものだ。
 その素材が琥珀であることを解析し、即座に創造者を理解する。
 宝石による疑似生命の構成をここまでの精度で行うものは、今この地では目前の蒼き魔女だけだろう。
 実際、一般の人間が見たならば明らかに本物に見えるはずである。
 逆巻く強風に翼を乗せ、それは間もなく辿り着く。
 ルヴィアは、その純白の手袋に包まれた繊手で梟の爪から何かを受け取っていた。
 妖しく煌めいたかのように見えた蒼きものを、三社は何かの施術が為された宝石であると判別する。
 ルヴィアは繊細な手つきでそれを掌に載せ、彼に示しながら口を開いた。

「サクラが何を成し遂げたのか、それにお答えしましょう。あの娘がマトウとなった際に、一体その身体には何を組み込まれたのか………貴方は、憶えてらして?」
 
「その程度なら。何しろ、それが桜をあそこまで歪めてしまったのだからな。あまり口にしたくもないが、あの悍ましい妖怪の───」

 言い捨てるような口調に、ルヴィアは咎めるように睨みつける。
 立ち位置の違いによる見解の差異は未だ埋め難い。
 一応は口を噤んだものの、三社としては自身の考えを覆すつもりもなかった。
  
「それは、あの娘を蔑ろにする一つだと散々言いましたのに、まだそのような観点しか無いのですか貴方は。良ろしくて? あれが、三尸に似た魔力食いの低級な使い魔であったにしろ、元が何であったかといえば尋常ではない器の破片ということになります。結果、サクラはそれと同化し擬似的な機能として器の性質を持つに至りました。では、歪んでしまったにしろ本来の器の役割とは一体何だったのか? それは、起動の鍵でもありましたが一時的に回収し保管するという用途がありました。つまり───」

「待て! まさか、君は───」

 言わんとしていることを理解し、三社は驚きを隠せない声で鋭くそれを制す。
 聖杯戦争という大魔術儀式は、その名の通り『聖杯』を求めて争うものである。
 願望機であると謳われたそれは、狭義の意味ではある一つの奇跡を指し示すものであり、物質的なものではない。
 が、仕組みを成立させる為の鍵たるもので、『聖杯』とされたものは存在した。
 『杯』というように、その機能は器として中身を満たすものであり、それを使い奇跡を為す力とするのである。
 満たされるは、通常魔術師が力として取り扱えない代物である『魂』。
 ルヴィアが言う『回収し保管するとは』この事を指す。
 つまり『聖杯』とは、『魂』を自らに取り込み貯蔵できるものであるということになる。
 
 では、『偽造された聖杯』でもあった桜は、あの瞬間『魂』を回収する為にあの様な事をしたというのか?
 詳細は理解出来ないものの、確かに可能であるかもしれないと三社は考えた。
 しかし、本来、人の身には一つの『魂』しか入り得ない。
 確かに『聖杯』とは英霊などという破格の魂を満たすものであるが、だからと言ってそこに『聖杯』そのものの優先があるとは思えない。
 要は『聖杯』として機能すれば良いのであって、桜の『魂』に対しての保護は無視されている可能性が高いのだ。
 ならば、そのような事をするのは自らを圧迫し大いに危うくするものだ。
 非難というには厳しすぎる眼差しが、ルヴィアに向けられる。
 だが彼女は、揺らぐこと無く心外であるという表情を形作った。

「私の発案であるわけがないでしょう。そのような発想は、自らに目を背けず最大限に使いこなそうという見地から出てくるものです」

「いや………しかし、だとしてもあの少女はそもそも───」

「ええ。私もそう伝えましたわ。『複写』された擬似人格に過ぎないものに、魂などあるはずは無い。あったとしても、本体である者と共有しているだろうと。しかし───サクラにどういう確信があったのかは知りませんが、確固としたそれは有ったようですわね。いえ………確信など無かったのでしょうね。ただ、その『複写』された者を救いたかったから無謀にも挑んだのですわ。奇跡に等しい可能性に賭けて。それで、その奇跡は起こった。私は、師としてあの娘を誇りに思います」

 昂然と胸を張り断言するルヴィアの顔は、真実誇らしげなものだった。
 魔術師としての弟子である桜が行ったことは、よほど彼女の琴線に触れるものだったのだろう。
 三社は、ルヴィアが手にする脈動するように瞬く蒼玉が何であるかを漸く理解する。
 あの中に、『天谷理沙』という少女であったものが存在しているのだ。
 『転換』を特性として持つ、エーデルフェルトならではの術式を駆使したということか。
 確かに、桜の内に留まらせたままでは共倒れになるのは眼に見えるのでその処置は正しい。
 しかし………正直に言えば、信じ難い気持ちを三社は打ち消しきれなかった。
 『複写』された存在に『魂』があったとは、一体どういう奇跡だったのか?
 それこそ、定義を覆しうる証拠ということになる。
 それは、本当に自分が知る『天谷理沙』という少女のものなのだろうか?
 いや、仮にそうだとして、それは本当に行って良いことなのか?
 内面の乱立する剣の荒野に、疑念が駆け巡る。
 三社の瞳が、敵に対するように鋼の色を帯びた。

「ルヴィア………君は、それをどうするつもりだ?」

「さて、どうしたものかしらね? ただ、有り得ざる魂の欠片などというものには大変興味があります。何しろ、そこにどんな神秘が隠されているのか、まるで想像もつきませんし。私がこの地に訪れた報酬としては、なかなかの物ですわ」

 艶然と微笑んで歌うように言葉にするルヴィアに、三社の纏う空気が一変する。
 それを許されざることと判じたからだった。
 彼女が魔術師であるということを、三社は決して軽視していない。

「存在を弄ぶような事は、幾ら君の為すこととは言え看過出来ん。大人しく───」

「どうしますの? まさか、これを砕いて消失させると? 確かに、その意志が瞬いているというのに? それを摘みとってしまう権利が、あなたの中に有るというの? サクラが救ったという事さえ蔑ろにして? もしそこまでの下衆であるというならば、私は今この場で貴方を処断します」

 蒼き魔女の宣告は、静かなるが故に弾劾であるかのように響く。
 端麗なる白き面に炯々と輝く瞳は、刃を思わせる視線を発している。
 三社は、それを切り結ぶように真っ向から受け止め視線を絡ませた。
 数秒の張り詰められた沈黙。
 が………やがて、三社は鞘に剣を収めるように視線を外す。
 ルヴィアの言い分にこそ利があると、彼は思考の果てに納得したからだ。
 特に、桜が救ったという事実を蔑ろにするとまで言われたことは納得せざる得ない所だった。
 
「…………しかし、実際にどうするというのだ? そこから、元の様には決して戻らないと思うが」 

「ええ。ここから人間として蘇生させるのは、魔法の領域でも難しい。ですが、適切な器さえ与えれば少なくとも意志ある存在としてこの世に在り続けることは出来ますわ。意思疎通と外界への認知の機能を与え、自律行動をする存在にまで押し上げるのは可能でしょう。それは、生まれ変わりに等しいかもしれませんが、少なくとも同じものが連続して続いていることに変わりがない」

 存在の存続───
 それは、どのような形になろうと価値があるものなのだろうか?
 だが、そう………少女は、そもそもその始まりこそが不当だったのだ。
 ならば、理不尽にも失われた中で最後に残ったものが例え欠片であったとしても、そこに価値はあるのかもしれない。
 結局………早計にも諦めた自分こそが愚かだったということか。
 そう考え、三社は腕を組み大きく息をつく。
 完全に桜にお株を奪われたなとも思い、その事実に苦笑した。
 ルヴィアは、そんな彼の様子に目元を僅かに緩ませ言葉を続ける。

「それに───これで貴方との約束通り、見せてやることも出来ましてよ」

「? 何をかね?」

「貴方が言っていた、私の国に訪れることを望んでいた少女とは、この娘なのでしょう?」

 慈しみの表情を浮かべて言いつつ、ルヴィアは煌く蒼玉を優しく撫でる。
 そう───確かにそうだったのだ。
 少女は、それを『逃避』であると言っていた。
 しかし、これで少なくとも自身を自身として確定させて切望した場に行けるということにはなった。
 もう彼女は彼女になり、そして何処へも行かなくて良いのだ。
 まだどうなるかは分からないが、その部分だけは間違えていないと三社はようやく確信する。

「ああ、そうでしたわ。サクラからの伝言をお伝えしましょう。『今は、顔も見たくありません。本当に、半殺しくらいにはしかねませんから。でも、もし少しは悪いという気持ちがあるなら、明日の夕飯を私の家に来て作ってください』とのことです。彼女の慈悲深さに感謝することですわね。私なら、何も言わないで、それを実行していましたもの」

「ああ………全くだ。久しぶりに、心して作ることにしよう」

 三社は、心から大きく頷く。
 桜に対して、今回の件での負債は大きい。
 彼女が怒るのも当然であり、どのように謗られても何も言い返せない。
 自身が想定していたあまりに救いがない結末は、彼女こそが覆したのだから。
 狭窄した認識で己の中に閉じこもり諦めてしまうなど、我ながら度し難い愚か者だ。
 『正義の味方』が聞いて呆れる。
 そんな自分が寛容にも許されるというのならば………それこそ、自らの限界を尽くして望みどおりにするしか無いのだ。
 少女への救いは、矛盾する混沌衝動を持つ自身への救いでもあるのだから。
 三社の顔が、自然と柔らかく変化する。
 ルヴィアは、それを認め内心で大いに安堵していた。
 思えば皆───彼のこれを取り戻すために自らを擲っていたのだ。
 暖かき陽光を思わせる、この少年そのままの笑みを。

「それにしても、その礼装姿を久しぶりに見れたのは、なかなかの収穫でしたわ。相変わらず、色は気に入りませんが。蒼い聖骸布というのも、遂には見つかりませんでしたから仕方ないですけれど」

「フッ………別に色はどちらでも良いがね。しかし、まあ、少々愛着もあるしな。今更の色替えというのも落ち着かんだろう」

 確かに以前そんなやりとりもしたと、三社は苦笑を浮かべ懐かしく思い返す。
 身に纏う風に翻る紅の外套は、彼と常に戦いに在ったものだった。
 ルヴィアは貴婦人然としたものを崩し、拗ねたように顔を逸らした。

「素直にリンの色の方が良いと言うほうが、まだ可愛気がありますわ。髪は、染めましたの?」

「ああ、この国では元のままだと少々目立ちすぎるからな。危うく、遠坂秘伝の染髪料とやらで金髪にされそうになったが、何とか逃れて無難な黒髪にした」

 どうせ外国の人間に見られるだろうから、この際徹底的にやったほうが良いというのが凛の意見だった。
 それに対して強硬に反対し、遂には敷地の一角に大穴まで作り出す戦いに発展したのを三社は苦く思い返す。
 天才というのは、時々訳の分からないスイッチで暴れだすから困ると疲れたように溜息をついた。
 ルヴィアは、自身の黄金細工の如き髪を手に取り不服そうな目で彼を見ていた。

「あら? 金髪もきっと似合いますのに。そうそう、エーデルフェルト秘伝の───」

「丁重かつ迅速に、全力でお断りする。それはともかく、遅くなったがね…………冬木へようこそ、麗しき天秤の当主よ。我が主に代わりて、御挨拶申し上げる」

「───ええ、御挨拶痛み入ります。遅ればせながら、貴方のこの地への帰還を心より祝福致しますわ、紅の守護者よ」

 矜持を以て絢爛たる蒼き魔女が差し出した純白の繊手を、紅き騎士は従者の如く恭しく跪きながら丁重に取る。
 逆巻き吹き荒ぶ強風が、二人に打ちつけその身を浚った。
 黄昏の終焉の輝きの中で───
 それは、まるで絵物語を切り取ったかのように幻想的な光景だった。



[18834] 匣中におけるエメト ───Epilogue or The last.........
Name: tory◆1f6c1871 ID:582d51b1
Date: 2010/12/03 19:35
───Epilogue or The last.........



───海の向こうの、空の向こう

───雲の向こうの、光の向こう

───森の向こうの、鏡の向こう

───赤の向こうの、青の向こう

───私が来たのは、そんな向こう

───だから私は、私になった
 
 

 照りつける日差しが、私を焼き魚になった気分にさせる。
 痛いというか、ちりちりというか、美味しく食べて貰えそうとか大体そんな感じ。
 毎年、毎年、異常な暑さとか言われるから前の年よりは暑いと思ってるんだけど、これってじゃあ昔は涼しかったってこと? とか時々疑問に思う。
 私の概算だと、じゃあ十年前とかは夏でも息が白くなるほど寒くて、十年後には死の砂漠にいるみたいな光景が浮かぶ。
 あー………何だか自分が馬鹿な事を考えているというのは承知済みですから、突っ込みはなしの方向で。
 誰に言ってるのかは、良く分からないけれど。
 とにかく、暑すぎるのが良くない。
 地面から湯気のようなものが出て踊っているのは言うに及ばず、蝉とかも無駄に全力過ぎるのも良くないと思う。
 彼らも、短い命を謳歌してるのは知ってるけれど、このとおり頭を下げますからもう少しだけ怠けてくれませんかねとか、お願いしたくなる。
 見上げた空には、随分奮発したねってぐらいの厚く塗りたくられた濃いブルーが広がっている。
 遠くに追いやられ固まっているのは、メルヘンなお城を思わせる白い雲。
 いや、もう、本当に見事な夏。
 
 私は、坂道をなるべく日陰を探しながら歩いて、バス停に向かっている。
 友人達と気晴らしに、新都のプールで遊ぶ約束をしているからだった。
 わくわくざぶーんという、なかなか可愛いんだかふざけているんだか分からない名前のその巨大屋内プールは、二十年以上前から冬木で定番のレジャースポットだ。
 何故ここまで? と疑問に思うほど気合が入った施設で、大きさもさることながら幾つもの趣向凝らしたプールを取り揃え、しかも一年通して常夏をこれでもかと演出している。
 例え真冬であろうと、あそこはいつでも夏なのだ。
 だったら本当に夏に行かなくてもとか言われそうだが、この季節と言ったらプールで泳ぐのは定番で、それなら行くのはあそこしか無いよねって話になる。
 市外からわざわざ遊びに来る人が絶えない程に客が多いのに、それでも余裕がある広さだから思いっきり楽しめるし。
 しかも、中の売店で売られている夏定番メニューが素晴らしく充実してるのも見逃せない。
 実は、私の心は既にそこのかき氷に奪われてたりする。
 我慢して辿りつけば、そういう夢のような物が待っているという一念で気力を保っていると言っても過言では無い。
 だから、全身から汗が吹き出ようが我慢して足を動かさないと。
 
 私は、暑いのだけは苦手だ。
 寒いのは大丈夫なんだけど、暑いと思考力が散漫になるというか。
 お母さんみたいに、年中無休な虎を体内に飼っていないというか。
 だから炎天下の中での陸上部の練習とかは、結構辛かったのだ。
 まあ、私はマネージャーだし、実際頑張っている部員のみんなに申し訳なかったので辛い素振りは出来なかったのだけれど。
 今日、遊ぶ約束をしているのはその陸上部のみんなだった。
 夏期のハードな練習の合間の息抜きを、こうして部員同士でというのは結束が堅い証拠だと思う。
 それは、素直に私の心を明るくする。
 とりわけ、何とか元気を取り戻しつつある琴ちゃんが来てくれることになったのが嬉しかった。

 半年程前に、同じ陸上部員にして友人であった同級生が失踪してしまった。
 一時期、校内はその話題で騒然となり、警察まで来て調べたりもしていた。
 私は結構その娘と仲が良かった方だと思うが、やはり一番仲が良かったのは琴ちゃんだろう。
 その時の彼女の落ち込みようは、酷かった。
 その生気が無い姿は、触れると崩れてしまうかのようだった。
 何故か、自分を責めてもいた。
 もう戻ってこない………消え入る声で、彼女がそう囁くのをよく耳にした。
 もっとも、人の事は言えないくらい私も相当落ち込んだのだけれど。
 久しぶりに、目が腫れるほど泣いた。
 実は私には、いつかこうなってしまうのではないかという予感もあったのだ。
 あの娘は、なんだかそれこそ煙のように突然消えてしまうのではないかと。
 何故かと訊かれると、ちょっと色んな意味で困ってしまうのだけど………。
 でも、大切な友達には違いないのだ。
 
 琴ちゃんと二人で沈みきった顔を突き合わせて、あの娘についての話が出来たのは、ようやく二ヶ月くらい前の陰鬱な梅雨の時期だった。

『今だから言うが………あの馬鹿者はな、どこか海の向こうに自分の故郷がある気がしてたらしい。だから、もし叶うなら……そんな所に辿り着いて暮らすのが夢だと言っていたよ』

 窓ガラスに絶え間なく曲がれる水滴を、琴ちゃんはぼんやりと目で追いながら独り言のように呟いた。
 元々が表情豊かという感じでは無いけれど、今は何だか更に希薄というか。
 本来の彼女の内面に潜むものは、実は結構振れ幅が激しくて感受性も高い。
 なのに、それが空気が漏れた風船みたいに萎んでいた。

『? それって、何処の事なの?』

『いや………それが、良く分からんのだ。言うことが、コロコロ変わるしな。アメリカだったり、ヨーロッパのどこぞだったり、中近東の良く知らない街だったりな。思うに、あれは実はどこでも良かったのじゃないかという気もする』

『ふーん………何でなんだろうね?』

 私は頬杖をついて、彼女と同じく窓の外の光景を見るとはなしに見た。
 濡れそぼる街並は、私達の気分と同じように重く翳っている。
 傘を持って行き交う人達も、結構大降りの雨だからか数えられる程。
 新都での待ち合わせに使ったこの喫茶店から、私達は一歩も動けていなかった。

『さあな。多分…………』

『多分?』

『いや、やっぱり分からん。色々と聞いたような気もするが、もう忘れた』

 溜息と共に漏れた声は、とても痛々しかった。
 私は、彼女が何故言葉にしなかったか何となく解るような気もした。

『………じゃあさ、もしかしたら理沙ちゃんは、そういう所に行っちゃったってことなのかな?』

『さあ………どうだろうな』

『うーん………あ、そうだ! 良いこと思いついた!』

 急に過ぎった閃きに、私の心が浮き立った。
 お母さんが言っていたのを思い出したのだ。
 誰かに何かを伝える昔ながらの方法。
 それは、手段として古めかしいかも知れないけど、気持ちは伝わりやすいとか何とか。
 それに、これなら───
 いつの間にか立ち上がっていた私に、琴ちゃんが呆れたような視線を向けていた。

『………急に大声で。何をだね?』

『手紙書くって、どうかな? それで、誰かに届けてもらうの。PADとかだと、パスとかアドレスとか無いと絶対に駄目でしょ? これだったら……』

 もしかしたら、偶然にだって届くかもしれない。
 形としてあるものだから、あっという間に消えてしまうこともない。
 それで、理沙ちゃんに伝われば良いと思う。
 私達が、どれほど悲しんでいるか。
 私達が、どれほど会いたいと望んでいるか。
 私達が、どれほど彼女が好きであるか。
 そういう、一杯の想いが。
 だけど琴ちゃんは、俯いて力無く首を振った。

『いや、どちらにしろ、それだって場所が分からなければ届けられないだろうに』

『でも、ほら、画像とか一緒に渡してさ。ここって外国の人とか多いじゃない? もしかしたら、そういう人達に託せばさ』

『………いや、マネージャー殿。流石に、それは砂漠に落ちた砂一粒を見つけるようなものだと思うがね。それに───』

『でも、何もしないよりは良くない? 警察だって、何だか最近真面目にやってくれないって、琴ちゃん言ってたよね?』

 何度も琴ちゃんは警察に足を運び、それを確認しに行っていたらしい。
 そういうのを凄く嫌っているそうだが、彼女のお母さんの名前も大いに利用したとか。
 でも、結果は惨憺たるものだったという。
 色々思い出しているのか、琴ちゃんはこれ以上無いくらい眉を寄せて渋い顔をしていた。

『………ああ。まあ、失踪事件なんてそれこそ山のようにあるからな。仕方ないといえば、仕方ないのだが。しかも、手掛かりがあまりにも少ないらしいし………』

『諦めたら、そこで試合終了ですよって、どこかの仏様が言ってたらしいよ?』

『ほ、仏? 仏教格言か何かかね?』

 実は、私も良く知らなかった。
 ただのお母さんの受け売りだからだ。

『とにかく、やるだけやってみようよ』

 押し通すために無駄に張り切って言った私の言葉に、琴ちゃんは戸惑いながらであるが何とか頷いてくれた。
 多分、私の言ったことに納得してとかじゃあ無くて、何もしないままだと気持ちが落ち着かないから仕方なくという事なのだろう。
 何しろ言ってる私自身がそうだったから、良く分かった。
 空元気だろうが、とにかく何かやっていた方がマシに決まっていると思い込もうとしていたのだ。
 それで、私達は大量の手紙を書いた。
 色んな想いを込めて、何通も何通も。
 手で文字を書くという行為は大変だったけど、結構新鮮でもあった。
 私の字が見れたものじゃないくらい下手なのは………まあ、何とか理沙ちゃんに解読してもらうということにして。
 ちらっと見せてもらった、琴ちゃんの流れるように綺麗な文字との落差に落ち込んだりもしたけれど。
 とにかく、それらを見かけた外国の人に事情を説明して片っ端から渡していったのだ。
 そういう人達は、大体冬木で生活してるのだが、でも里帰りとかだってするだろうし。
 勿論、そんな簡単に成果が出るものではないだろうから、根気良くやり続けるしか無い。
 子供である私達が出来るのはこの程度だという、無力感がないわけでもない。
 でも───
 誰からだって笑われそうな事にしろ………そういうものに淡い夢を抱くのは、それこそ子供の特権だと思う。
 だから手紙を書くことと、それを持ち歩くのはあれから今に到るまで日課で、今日もそれはポケットの中に入っている。
 多分、琴ちゃんだって今日も持っている筈である。

 バス停に着いて、私は大きく息をつく。
 自分の呼吸にも熱気が混じるのが、鬱陶しい。
 足を止めてしまうと、少しだけでも感じていた風の流れも止まってしまう。
 耳にずっと残る蝉の多重奏の響きには、流石にそろそろ慣れてきた。
 次のバスが来るまでの時間を、強い陽の輝きに目を細めながら確認しようとして───私は、硬直する。
 ベンチに誰か座っているのに気がついたからだ。
 いや、ただその事で驚いたという訳ではなく………その人が、あまりに物騒な事に心が瞬間的に萎縮したのだ。
 
 そもそも外見からして、異様な迫力があった。
 着古したミリタリーシャツから伸びる腕は、鋼を束ねたかのようだった。
 肩幅が広いその身体は、服の上からでも鍛え抜かている事を簡単に想像させるほどに厳つい。
 あの馴染んだ肌の黒さは、この夏の容赦無い日差しに焼かれたという訳ではなく元からのものなのだろう。
 止めに、無骨な大きいサングラスまで着けているのはちょっとやり過ぎだと思う。
 こう………何処の戦場から帰還されたんですか? とか普通に聞きたくなる。
 
 そして、問題なのはこの人に漂うものだ。
 実は、同種の空気を纏っている人を知っていた。
 何を隠そう、私のお父さんである。
 普段、ぼんやりしていて穏やかにいつも笑っているあの人が、本当はとても怖い人であることに気がついたのは何時のことだったか。
 職業が職業だから仕方ないのかもしれないけど、あの怖さは洒落にならない。
 こんな事言うのは、自分でも嫌だけど………血溜まりの中に無表情で立っていても違和感がないというか。
 目の前に居る人は、そんなお父さんすら上回った殺伐さを持っているように私には見えた。
 
 だけど───
 その膝に、あまりに似つかわしくないものを乗せていた事が私の顔を自然と綻ばせた。
 最初は、白いボールかと思ってしまった。
 しかし、それが毛玉のようなものだと気がつき、すぐに丸まって寝ている白い子猫だと分かった。
 あんな子猫があそこまで無警戒で、気持よさそうに寝ているなんて………私がこの人に感じているものは、もしかして勘違いなのだろうか?
 長い手足を伸ばして悠然と座っているようだが、何だかあの子に気を使ってなるべく体を動かさないようにしているかにも見える。
 だから………少し怖かったけれど、悪い人ではないかも知れないと考え、意を決して話しかけてみたのだ。

「あの、すいません」

「何か?」

 こちらにその人の顔が向けられる事で、サングラスに反射した輝きが一瞬私の目を奪う。
 意外なことに、返ってきた言葉は日本語だった。
 しかも、結構優しげな響きだったことにほっとする。
 絶対日本の人じゃないように見えたから、てっきりどこかの外国語で返ってくるかと思っていたのに。
 緊張から思わず日本語で声を掛けてしまったけれど、一応私は英語なら喋れる。
 お母さんが英語の教師だから、幼い頃より教えてもらっていたのだ。
 学校の成績だって、英語が一番良い。
 ただ、発音に難があるからか、ネイティブの人達には通じないことが多々あるけれど。

「突然で失礼ですけれど、日本の方ですか?」

「一応、今の国籍は日本ということになっているな」

 肩を竦める仕草が、とても気障で日本人離れしている。
 今のという事は、以前は違ったのだろうか?
 しかし、その喋る言葉はとても流暢だ。

「これから、この国を離れるご予定とかは?」

「さて? どうだろう………全く無いとは言い切れないかも知れないが」

「実は、もし海外に行かれるならば………不躾ですけれど、少しお願いしたことがあって声を掛けさせてもらいました。あ、申し遅れました。私は、藤村風河と言います」

 私は、事情を早口で説明する。
 何度も何度も同じことをしてきたので、その辺りはもうかなり整然と話せる自信があった。
 実際に、封筒も出してもみせる。
 今日のそれは、自分では可愛いと思った猫のイラスト柄が入っている。
 
「───というわけで、もしかしたらその娘は海外のどこかに居るかも知れないんです。だから、もし貴方がその娘を見かけたら、この手紙を渡して頂けないでしょうか?」

「君ね……………自分が何をしているのか、ちゃんと考えているか?」
 
 聞き終えたその人は、サングラスを指で軽く押さえつつ何故か呆れたように溜息をついていた。
 あれ? 何で私ってば、少し逃げたくなっているのだろう?

「君の、その友達を思う心はとても立派だとは思うがな………まず第一に、その方法はあまりにも行き当たりばったりで効率が悪すぎる。それこそ、海に瓶詰めの手紙を流して目的の人物に届かせようとしているに等しい。確率論を出して論議するのも馬鹿馬鹿しいくらいの奇跡だ。次に、その友達の情報を見ず知らずの他人に与えてしまっているのが問題だ。大方、私にその娘の写真でも渡す気でいたのだろうが、それで私が例えば良からぬことを考える者で、その手掛かりを元に何かの悪事を行うとしたら、君の行為によりその娘は重大な危機に陥るということになるな。その辺りは、しっかりと考えたか? 更に言うならば、君のように年頃の娘が手当たり次第に様々な人間に声を掛けているという事自体に感心しない。もしかしたら、人を見る目ぐらいはあるとか言い出すのかも知れないが、その見る目を曇らせる手段を持ち合わせる者などごまんといる事を君は知らなさ過ぎる。その中には、欲望のままに危害を加えようとする者だって居ないとは限らない。つまり、君のやっていることは客観的に見てあまりに無警戒な行為だ。もしそれで危難に遭っても自業自得だとは言えるが、君自身まだ自分の責任を自分で取れる境遇には居ないのでは無いのかね? その場合、誰が悲しみ誰が苦労するのか君は理解できているのかな?」

「あ、あの───すいません、ごめんなさい、反省しています、許してください」

 私は、身体を仰け反らせて気がつくと謝っていた。
 怒涛のごとく押し寄せる説教に、私が出来たことといえばそれくらいだったのだ。
 正直、言われたことにぐうの音も出ないほど打ちのめされ、私はちょっと半泣きである。

「分かってくれたのなら、良い。まあ、私とて人の事をとても言えたものではないのだがね。自身を棚上げしたお節介ではあるが、一応は忠告させてもらった。あとは、君自身で判断したまえ」

「は、はい、本当に済みませんでした………って、何なのでしょう、その手は?」

「君自身のやりきれない気持ちも、分からないではない。だから、私も協力はしようという申し出だ。私自身が行くとは限らないが、これでも実は海外暮らしが長かったからな。そこでの知人や友人は多い。その伝手で、その娘を何とか探してみようじゃないか。無論、先ほど言ったこととは矛盾するが、それを跳ね除けて私のような怪しい男に任せるという気が君の中にあるのならばだ。但し、出来ればこれを最後としたまえ」

 気のない素振りで差し出されたかに見えるその手は、実の所とても重大な決断を迫っているようでもある。
 私は先程言われたこともよく考え………それでも、シークタイム数秒といったところで手紙と写真を渡していた。
 その人の、口元が僅かに微笑の形に変わる。
 それに私は、この上ない暖かみを感じた。

「構わんのだな? 私は、何も保証しないが」

「はい。それでも、あなたに頼むのは間違っていないと思います。だから、よろしくお願いします」

「確かに承った。なるべく、期待を裏切らないようにしよう」

 手紙を丁重に取り重々しい頷く様は、何か重大な使命を受けた騎士のようでもある。
 何故か、私にはそれが大袈裟な表現では無い様に思えた。
 ふと、唐突に視線を感じる。
 そちらに顔を向けると、今の一連のやりとりで起きてしまったのかその人の膝の上の白い子猫が私をじっと見ていた。

「あの、この子、名前は?」

「うむ。彼女はアリスという。友人から預っているのだがね」

 その人は、子猫を尊重するように、まるで人間の女の子を紹介するような口調で言う。
 アリスという名のその子は、私の事を飽きる様子もなく見つめ続けていた。
 何故だろう? そんなに興味を惹くものが、私にはあるのだろうか?
 とても可愛いから悪い気はしないけれど、一応は出掛けに食べたお菓子の欠片でも唇にくっついていないか手で確認した。
 ………大丈夫、ついてない。
 それにしても………何だかこの涼やかな瞳は見覚えがあるような?

「あの、触っても良いでしょうか?」

「さて、私は構わないが………彼女に直接伺いたまえ。こう見えても、とても気位が高くてね。ただ可愛がられたりすることを、極端に拒否したりする。要するに、一方的な好意は受け取らないということらしい。名前は、可愛らしい少女のものだというのにな」

 肩を竦めて揶揄するように言うその人の言葉に、アリスちゃんは抗議に似た低い鳴き声を漏らす。
 それが何だか可笑しくて、私は吹き出すのを堪えつつ握手するように指を差し出した。
 僅かな間に、少し緊張する。
 やがて、くすぐったい感触を残して軽く舐めた後、じゃれつくようにアリスちゃんは私の指を前脚で挟み込んでいた。
 ファーストコンタクトは、どうやら成功したみたいだ。
 本当は、手触りよさそうなそのふわふわの白い毛並みを撫でてみたかったけど、失礼なのだろうし我慢することにした。

「どうやら、君は彼女に気に入られたようだな」

「私、猫科との相性が良い方なんです、結構」

「さもありなん…………おっと?」

「あ!?」

 アリスちゃんは、何が気に入らなかったのか、信じられないくらいの高さを跳躍して凄い勢いで膝の上から飛び出した。
 あんなに小さい体にも拘らず全身を動かして駆け抜けることで、あっという間に深山町のどこかに消えてしまう。
 あれ? 今のって………いや、それより───

「ど、どうしよう!? 私のせいです! すぐに探しに行きましょう!」

「落ち着きたまえ。私には、簡単に見つけることができるから任せるといい。それより、バスがもう来たようだが」

 確かに、言うように卵型の車体を滑らせてバスが近づいてくるのが見えた。
 夏の日差しの中での照り返しは、まるでそれ自体が輝いているかのようだ。
 独特のモーター音が、木霊のように響く蝉の鳴き声に重なる。
 
「だ、大丈夫です! 遊びにいくだけですから、多少遅れても平気ですよ!! それより───」

「いいから、行きたまえ。君が居ては、出てくるものも出てこなくなるかもしれない。彼女は人見知りでもあるからな」

 諭されるように錆を含んだ声で言われたことで、私の沸騰しかかっていた頭が急激に冷える。
 そう………か。
 そうかもしれない。
 私が居ては、逆に怖がって出てこないという可能性は充分にあり得る。
 それは結構ショックだけど、仕方のないことなのだろう。
 昔………私は、ある女の子と一緒に白い子猫を探した。
 それは、結局見つけることが出来なくて、遂には───
 心が痛む記憶。
 私が、今必要以上に取り乱したのは、その時のことが突如閃光のように思い出されたからだ。
 きっと………私が一緒に探してはまた同じことになるという予感も拭いきれない。

「わかりました………で、でも、必ず見つけてくださいね? 約束ですよ?」

「ああ、その約定は必ず果たされる。君の時間とて、貴重なのは変わりがない。しっかりと噛み締めて楽しんでくるんだ、風河」

 信頼に価する広い背を見せつけて、その人は一陣の風の様に早足で去っていく。
 それは武道を少しでも齧ったことがある私からすると、惚れ惚れするような見事な足運びだった。
 やはり、どう考えても只者ではない。
 ただ、それよりも………最後に呼んだ私の名前に、何故あんなに親しみを込めていたのだろうかと少し疑問に思った。
 
 バスが、高音から低音に唸りを変えて私の目の前で停止する。
 乗り込むと、片手で数える程にしか席は埋まっていなかった。
 私は、空いていた最後尾の席に座る。
 効き過ぎた冷房が、急激に私の汗を冷やしていく。
 耳に反響していた蝉の声も、ここではもう遠くにしか聞こえない。
 やがて微かな振動の後に、バスが発車した。
 振り返って窓ガラス越しに、蒼いキャンバスに聳える白い入道雲を見る。
 それにしても───どうしてさっきは、あの白い子猫の跳躍にあの娘を重ねたのだろう? と私は、ぼんやりと考えた。
 
 空の向こうの、雲の向こう。
 私は、いつまでも宙に在り続けようとする彼女の姿を飽きること無く見詰めていた。



 























─────Deleted “E” or Last piece in the box

END
 

 
 

 


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