<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[18214] 片腕のウンディーネと水の星の守人達【ARIA二次創作】
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:7f398847
Date: 2012/02/28 02:05
まず最初に一言。
すいません。
すいません。
すいません。

AQUA・ARIAの二次創作なのに、いきなりタブーを犯させていただきます。
さらに、私自身の文章力のなさ・計画性のなさのせいでストーリーが破綻するかもしれません。
また、ウンディーネたちの出番は少なくなるかもしれません。
またエースコンバット4要素が多いです、クロスしていると言うわけではありませんが、オヤッと思うような地名、出来事があります。

そんな文章でもいいのなら続きを読んでくださると嬉しいです。
それでは、はじまりはじまり・・・いいのか、こんなものはじめて。




≫≫2012年2月24日午前1時46分において。
とりあえず、一区切りがついたので、作者名を全て変更するなどSSの整理を行いました。

≫≫2012年2月28日午前2時4分において。
第二章はあまり水の星の守人、つまりAQUAコーストガードの出番が少なくなるかもです。多少、題名に偽りあり、となるのでご了承ください




[18214] Prologue 『アクシデント』
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/02/24 01:44


アッリ・カールステッド(Alli・Carlstedt)
『ネオ・ヴェネチア』ミドルスクール在校生
『AQUA』第七管区開拓宙域 競技船『ルクス』号



必死に前へ前へと出していた足がほつれて船の床に倒れる。
まだ出発地点からさほど進んでいない。
脱出ポッドまでの僅かな距離がまるで遠い。

「あっ・・・・・・。」

倒れた衝撃で船の破片が刺さった腕から血が流れ出すが、気にならない。
もうほとんど腕の感覚がなく、大して痛くないから。

「・・・はぁ・・・はぁ・・・あついよぉ・・・くるしいよぉ・・・お母様ぁ、お父様ぁ・・・。」

私のかすれきった声に反応してくれる人は何処にもいない――――――私の目の前でお母様とお父様は吹き飛んだ。
私を、かばって。

「・・・私のせい・・・なのですかね・・・やっぱり。」

私が、もっと星を近くで見れたらなぁ・・・と、誕生日が近づいていた日に、まるで願望のように言っていなかったら。
そうすればお父様は知り合いから軍の退役艦を改造した競技船を借りてクルーズをし、イレギュラーの大型デブリと衝突事故を起こすこともなかっただろうに。

「・・・なにが学校で一番の才女ですか・・・ゴンドラ部のエースですか・・・『オレンジぷらねっと』の採用内定者ですか・・・。」

すばらしきネオ・ヴェネチアの水先案内人『ウンディーネ』の一員になれると思ったら、家族を死に案内した水先案内人『死神』になっていたなんて、笑えない。
私を応援して力づけてくれ、また、時には私に反対するお父様をしかりつけたしっかりもののお母様の、オレンジぷらねっとの制服を着たときに見せた少し寂しそうな顔。
それは多分、いつの間にか私が親離れをするようになっていた事が寂しかったから・・・でしょうか?
最後まで私がウンディーネになることに反対していたお父様が、内定が決まったとたんに見せた嬉しそうな顔。
反対していたのは、私が負けず嫌いなのを熟知していたからだと思うのですよ。
そして、あの嬉しそうな顔はきっと自分のたくらみが成功したのもあると思うのです。
あの飄々としたお父様のことです、そうに違いありません。
でも、他にもいろいろな顔を見せてくれたお母様とお父様はもう・・・いないのです。
少し前の自分だったら、宇宙船の安全性が非常にあがった23世紀にこんな事故なんて起きない、もし起きても、それはドラマや映画の中だけなのです―――そう笑い飛ばしただろうに、今自分がその当事者になっているなんて―――
―――本当に、本当に笑えない冗談なのです。
ああ、それにしても死に際なのにどうしてこうも思考がクリアなのか。
お陰で自分の体が冷えていくのが実感できる・・・まったく、神様を呪いたいぐらいです。
足音を立てて死が近づいてくるこの感覚、感じたくもない。

「・・・ああ、いやです・・・死にたく、ない、のですよ・・・。」

仰向けになり、そうつぶやく私の頬にとっくに涸れたと思っていた涙が落ちるのを感じた。

「・・・だれかぁ、たすけて・・・。」

こんな通常の航路から外れた所にすぐに救助が来るはずないのに、私は誰かに助けを求めた。
















アンネリーゼ・アンテロイネン(Anneliese・Anteroinen)中尉
『AQUA Coast Guard』第7管区所属
『AQUA』第七管区開拓宙域 哨戒機『フーケ』




漆黒の中にぽっかりと浮かぶ船が見えてくる。
その船はところどころで小爆発を起こしているうえに、船体横に亀裂が発生している―――本来なら脱出ポッドで乗員が脱出しててもおかしくない状態。
だが、乗組員が脱出した形跡は認められない。

「いい、もう一度確認するわよ。要救助者は3名。アレクシス、アルマ・カールステッド夫妻とその娘のアッリ・カールステッド。それぞれの容姿、頭に叩き込んでおいて。」

遭難船からのSOS信号を受け、哨戒機に乗り込んだときに読み上げた要救助者リストを再度読み上げる。
私は最初、この管制官から送られてきた要救助者リストを見たときに、えっ!、と思った。
なぜならそのリストには、私がAQUAコーストガードの仕官学校時代の恩師―――アルマ・カールステッド―――の名があり。
アルマ教官の夫で、マンホームの軍隊からAQUAコーストガードに派遣され現在のコースとガードを築いたのち退役したアレクシス元大佐の名前もあったのだ。
そんな宇宙での船舶事故、及びその対処法のことをよく知る彼らが、この状況下で脱出を選択しないわけがない。
そう、そんな彼らが脱出できていないとすれば、脱出ポッドが壊れ外に出られないのか、それとも船内に閉じ込められたか、あるいは―――。

「隊長・・・もしかしたら、もう全員・・・。」

「ッ、この馬鹿!私たちはコーストガードなのよ!その中でも私たちSAR(捜索救難の英語略)任務部隊が諦めてどうするの!」

だが、最悪の可能性は私も考えていた。実際ほかの似たような状況が発生したSAR任務の際、誰も助けられなかったことを経験していた。
死体袋を三つ・・・もしかしたら、それぞれの遺品だけを回収して脱出することになるかもしれない。
そもそも小爆発を起こし船体に亀裂が入った船から要救助者を救助するというのは非常に困難である。
船内酸素も残り少ないだろうし、もしかしたら要救助者が外に吸い出された可能性もある。
その場合は遺体の発見は不可能といってもいい。
更に小爆発を繰り返しつつも船の形がまだしっかりと残っているということは、まだ主動力部が爆発していないということだ。
そして、先行させた無人観測機からの報告によれば、「 いつ爆発してもおかしくない状態 」なんだそうだ。
だが、たとえ二次被害の危険性があったとしても、私達は救助に向かう。
理由はただひとつ。

『AQUAのコーストガードのSAR任務部隊はどんなときでも、どんな命も見捨てない。』

どの時代の何処の救助隊・任務部隊、もしかしたら軍隊にもあるかもしれない陳腐なモットー。
でも、私達はこのモットーを胸に数多くの救出任務をこなしてきた。
今回もそれに従うだけ。

「各員、20分だ。20分で全ての要救助者を発見・救出し、全員欠けることなく脱出する、いい?」

「「「「「「了解!」」」」」」

でも、私としても部下の命は大切だ。可能な限り、二次被害はやっぱり避けたい。
そのために与えられた突入から捜索・救出そして脱出までの時間。約20分・・・長いようで短い時間だ。
これが観測機からの情報と船の設計図―――軍の退役艦だったお陰か、データバンクに登録されていて、すぐに見つかった―――から、救助活動ができる時間を求めた、私達に与えられた時間だ。
これ以上経過すると、主動力部の爆発の危険性が大幅に上がり、また、艦内酸素もほぼ尽きるため要救助者の命も保障されなくなる。
そしてこの20分は既にカウントが開始されている。
刻一刻と減っていくカウントを見て、思わず機長に言う。

「機長!まだ乗り移れないのですか!?」

「もうちょっとだ、もうちょっと待て!今、相対速度を同調させているんだ。あと30秒ほどで目標艦とドッキングできる!」

「くっ、了解!」

焦りで荒れた声になる。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。
隊長たる私が焦ってはいけない。
焦ったら、助けれる命も助けられなくなる。
深呼吸を一回し呼吸を整えたところで、隊員に指示を飛ばす。

「各員、装備確認およびスーツ気密確認!HMD(ヘッドマウントディスプレイ)下ろせっ!」

外部モニターにはもう目の前に船の表面が見える。
それがだんだんと接近していく。船体表面のディティールがわかってきた。
あと、少し。

「ドッキングするぞ!衝撃に備えろ!」

機長の言う通りに手近な物につかまって衝撃に備える。

ドンッ!

機体が揺れ、船のエアロックにドッキング、そして隔壁開放の字がHMDに表示される。
プシュゥッッという音ともに哨戒機側の隔壁が開放される。
その奥―――事故船側―――の通路はところどころで火花が散り、火災を起こしている部分も見える。

「全員無事に戻ってこいよ!葬式なんてごめんだからな!」

「必ず戻りますよ!各員突入!GO!GO!GO!」

号令とともに私は他の救助隊員達を引き連れて、通路に進んでいく。
残された時間は、あと19分。




















・・・・・・・・ドンッ・・・・・・・・

「・・・ぇ・・・?」

船体を揺らした衝撃に、私は失いかけた意識を取り戻す。
酸素が船内の火災によって徐々に失われていくせいで、ガンガンなる頭。
だがそんな状態でも認識できた、デブリと衝突したときの音と微妙に違う何かの音。
それが何かを確かめるために壁まで這って行き、まだ生きたコンソールを探す。

「・・・あった・・・。」

壊れかけているがまだ動くコンソールが爆発の衝撃で床に転がっていた。

『ああ、ここがかつてCICとして使われていた場所でよかったのですよ。』

そう心の中で呟き、なんとかコンソールを引っ張り寄せる。
そして、まだ動く監視カメラを検索する。

―――Hit
   ・第13右舷甲板監視カメラ
    船に出来た亀裂が見え、そこらで小爆発をしている。

   ・第19上部甲板監視カメラ
    デブリの衝突でひしゃげた艦橋と退役したときに武装解除された砲塔・・・そしてカメラの隅に移る何か。

「え、もしかして・・・。」

震える指で拡大する。
映ったのは、漆黒の宇宙を背景に映える白と黄色を基調としたカラーリングの機動性と長距離行軍能力を重視した小型機。
そして、機体の横に描かれたトライデント(三叉槍)。
―――AQUAコーストガード所属の哨戒機。

「助けが・・・来たのですか・・・?」

検索に引っかかった最後の監視カメラには、船内を進む救助隊員達の姿が映っていた。

「・・・死にたく、ないのですよ・・・。」

歯を食いしばり、足に力を入れて立ち上がる。
目指すのは、出発地点―――艦橋。お母様とお父様が死んでいる場所。
お母様は首に現役時代の認識票を今でもかけていた。それには、所定の操作をすると救難信号が出る機構が組み込まれていると聞いたことがある。
その操作も教わったことがある。
そして出された信号を頼りに救助隊が来てくれれば―――

「助かるかも、しれないのです・・・。」

そう思ったとたん、体中の痛みがぶり返してくる。
左腕なんか痛みが消えてなくなったと思ったのに、今では焼けるように熱い。
それでも何度も転びながらも、少しずつ艦橋へ向かっていった。
『助かるかもしれない』という希望にすがるために。




















《居住区には誰もいません!》

《こちらもです!》

隊員からの通信が入る。その通信に苛立ちが募る。
まだ要救助者は一人も発見できていない。なのに、HMDの端に映るカウントはもう半分を切ろうとしている。
更にさっきから船内の酸素が急速に減っている。
おそらく、どこかでかなり大規模な火災が発生したのだろう。酸素がなくなれば火災は消えるが、要救助者の命の炎も消えてしまう。
しかも観測機からの情報だと、主動力部のエネルギーが増大してきているようだ。
このままでは―――

「隊長!」

「なに!?」

「特定救難信号、我々コーストガードの非常用救難信号が出ています!」

「なんですって!?」

愕然とした。
非常用救難信号・・・・・・隊員が緊急事態に陥り、身動きができなかったり負傷していたりしたときに出す信号。
まさか、もう二次被害が出始めているなんて・・・。

「場所は!?」

「CICの上の通路、艦橋付近です!」

「艦橋付近?」

そこはまだ救助隊員を向かわせていない場所。
私の命令を無視して先行した馬鹿がいた・・・?

「認識番号は?」

「それが・・・TAR751001なんですが・・・」

「TAR751001・・・?」

TARの75番台はちょうどアルマ教官の現役時代の認識番号のはず。
それはもう使われていない。
そんな番号が何故こんなところに?
・・・まさか!?

「機長、聞こえる!?」

《なんだ、何か異常でも!?》

「TAR751001の認識番号を持つコーストガード隊員は誰か、すぐ検索して!」

《なぜだ?》

「いいから、早く!」

《了解―――出たぞ・・・アルマ、アルマ・カールステッドのものだ!》

やっぱり!
認識票の救難信号はちょっとやそっとの衝撃じゃ発せられない。
所定の動作を踏んでからでないといけない。
その動作が出来る人間が―――つまり、最低でもアルマ教官かアレクシス元大佐のどちらか一人はそこにいる。

「各員、要救助者は艦橋付近にいると思われる!急げ!」

「了解!」

残りカウントはあと250ほど。















ああ、神様。
先程は呪ってやると思ってしまってすいませんでした。
思考がクリアなお陰で、CICにあった救命パックと緊急用酸素ボンベの位置を思い出せたのですよ。
まぁ片腕で、それも利き腕じゃない右腕だけで引きずり出すのに苦労しましたけど。

「ふぅ・・・。」

手元には、お母様の首もとの鎖からはずしてきた、軽く発光している認識票。
発光しているのは救難信号が出ている証拠のようです。
さらに救命パックの中に入っていたキットで、自分が知る限りの、そして今の自分でも出来る応急処置を施す。
そうはいっても、ほとんど出来ませんが少しはマシでしょう。

「これで一息つけ、るでしょうか・・・。」

さっきまで感覚が戻っていた左腕も、再び感覚がなくなってきた。
さらに救命パックを引きずり出すだけで残された体力は全て使い切ってしまった。もう一歩も動けやしない。

「ああ、ここで眠ってしまえば、また、お母様とお父様に会えるのでしょうか・・・?」

それもいいかもしれないと思うのです。
そして、いままでの楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったことや苦しかったこと・・・いろいろな場面がまるで早送りで再生されるかのように思い出される。
・・・・・・ああ、本当に走馬灯ってみえるんですね。
そう思ったとき、視界の端に私に駆け寄ってくる救助隊の姿が見えた。

「要救助者確認!」

「要救助者確認、了解!」

オレンジ色のスーツを着たそのたくましい姿に安堵しつつも、もうちょっと早く着てほしかったと思う。まったくもって遅いのです。

「・・・・・・本当に。本当に遅いのですよ。」

そう呟いて、私は意識を手放した。









「要救助者確認!」

「要救助者確認、了解!」

目の前には通路を赤く染めた血の海に横たわる少女の姿。見るからに危険な状態。

「伍長!診て!」

「了解!」

「他に要救助者は!?」

まだ、カールステッド夫妻がいるはず・・・。
要救助者の少女の後ろの床を見てみると、ずっと後方まで赤い帯ができていた。
最初の発信源は艦橋付近だった。とすれば、そこから助けを求めて這ってきたのか。
おそらく、この帯を辿っていくとそこが艦橋なのだろう。

「探します!」

そう言って先任軍曹が部下から一人を率いてバディ(2人、相互支援できる最小単位)を組み、赤い帯を辿っていった。








とある軍曹
『AQUA Coast Guard』第7管区所属
『AQUA』第七管区開拓宙域 競技船『ルクス』号・艦橋


赤い帯を辿っていくと確かにそこは艦橋だった。正確に言うと『艦橋だった場所』に辿りついた。
あちこちでスパークがはじけ、様々な破片が浮かんでいる。幸い火災はない。
そして艦橋中央部に食い込んだ、どでかい『何か』。隕石にも見えない。
細長い直方体のそれは、どう考えても人為的なものだった。
それに取り付いていた一等兵が報告してきた。

「軍曹、こいつはコンテナです。刻印されたシリアルナンバーから2250年代のものと思われます。こいつ、まだ中身が入っているようですが。」

「今は要救助者を探せ。事故の調査はしかるべき人間にやらせろ。」

「了解。」

そう一等兵に命じたとき、背中に軽い衝撃を感じた。
少し大きい破片でもあるのだろうか・・・・・・そう思い振り返ると目の前に初老の男性の死体があった。
その死体は、おそらく首から左腕にかけて破片が切り裂いていったのだろう、首と左腕がもげかけ、両足は間接が増えており、腹を60cmほどの破片に深々と貫かれ、内臓が見えていた。
思わず思考が停止する。
こういった事故現場で活動する以上、死体を見たことがないわけじゃない。酸素がなくなって苦悶の顔をして死んだ遭難者、遭難船内で発生した有毒ガスで首をかきむしった遭難者もいた。
だが、ここまでひどい損傷具合の死体を見るのは初めてのことだった。
いちど頭をふって、思考を取り戻す。顔をそっと起こし、確認する。アレクシス元大佐か・・・・・・特徴点も一致する。
遺体の損傷具合からして、おそらく即死だろう。苦しまずに死ねた。それだけが彼にとって唯一の救いだったかもしれないが、あの少女は父親のこんな姿を目にしたというのか。
もしかしたら、こうなる瞬間すら見てしまったのかもしれない。
幾つかの死体を見たことのある大の大人ですら、思考が停止したのだ。14歳の彼女にとって、それはどれほどのショックだっただろうか。

「PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってなきゃいいが・・・・・・。」

思わずそう呟やきながら、装備品の中から死体を入れておくための黒塗りの袋を取り出す。
こういった宇宙間事故で、遭難者を助けれる場合は少ない。むしろ、遺体がまだあるということは幸運なのかもしれない。宇宙を永遠にさまよわないから。
それでも、それでもだ。正直言って、この黒塗りの袋―――俺たちは死神のポケットと呼んでいる―――は使いたくなかった。

「それにしても・・・・・・ひどいな。」

周りを見渡せば、『真っ赤』だった。
周りの床や天井、壁にこびりついた血はまだこの艦橋に1G弱の重力がかかっていたときについたもののようだ。
そして重力の制御が利かなくなってから出た血は回りにぷかぷかと浮かんでいる。
それらが合わさって、この空間は暗い赤で染まっていた。
もし、自分たちがスーツをつけていなかったら、おそらく強烈な鉄錆臭が鼻腔を通っただろう。

「軍曹、見つけました。」

遺体をポケットに収容し終わったとき、一等兵からそう声がかかった。
近づいてみると、確かに『要救助者』はいた。物言わぬ骸となっていたが。
こちらも損傷具合がひどかったが、特に背中が妙にひどく、背中のいたるところに大小さまざまな破片が突き刺さっていた。わき腹を何かにえぐられているが、おそらくそれも破片によるものだろう。
なぜこうなったのだろう?
一等兵も同じ感想にいたったようで、

「どうしてですかね?」

「知らん・・・・・・だが、まぁ、大体予想はつく。」

背中を丸め、手をまるで何かを守るように交差させていた形跡が見られる。

「彼女がこうして身を挺してわが子を守らなければ、俺たちが使ったポケットの数は三つになっていただろうな。」

「なるほど・・・・・・母の愛ですか。死んじまったら元も子もないのに。」

「言うな、それは。そのとき最善かつ最良の手段を彼女はとったまでだ・・・・・・俺たちが言うべきことじゃない。」

「わかりますよ、自分も二児のパパですからね。自分か、子供か、って言われたら、間違いなく子供を選びます。」

「そういえば、お前は子供もちだったか。」

一等兵は部隊の中では年少組だが、双子の父である。

「それでも、死んだらあの女の子はどうするんですか。まだ14ですよ。」

「だがお前も言っただろう?子供を優先するって。彼女もそうしただけだ。」

「分かってますけど・・・・・・この状況でこれ以上の選択はないだろうとは思いますけど、それでも・・・・・・。」

苦々しく一等兵が呟く

「・・・・・・ではさっさと合流し、脱出するぞ。彼らの命を無駄にしないような。」

「・・・・・・そう、ですね。了解。」

そうだ、今は助かった命がある。それを守ることを最優先に考えるべきだ。

「よし、分かったなら急いで彼女を収容。「了解。」俺は隊長に報告しておく。」

彼女は助かったとしてこれからどうするのだろうか。隊長に報告しながら、頭の片隅でそれを考えていた。
今までの救出者のケースからするとPTSDに陥るという可能性が一番高い。
しかも、直接には診てないがあの左腕の状態はかなり危険だ。今後動かなくなることもありうる。
そうなったら、生体義肢を移植するだろうが・・・・・・はたして、彼女はその腕を受け入れれることができるのだろうか。
考えてもキリがない、か。

「ん?軍曹!」

「どうした?」

慎重に遺体をポケットに入れていた一等兵が声を上げた。

「何でしょうね、これ。何かの箱のようですが。」

一等兵がなにやら箱を手渡してきた。
大きさはそれほど大きくなく、むしろ小さいというレベル。色はグレーで無地。刻印もない小さな箱だった。
だが妙に気になった。

「どのへんで見つけた?」

「彼女のポケットに引っかかってたようなんですが、入れる際にはずれたところを見つけました。おそらく遺品でしょう。」

「よし回収しておくぞ・・・・・・と、おっとっと。」

船が爆発で少し揺れる。もうあまり長くはもたない可能性が高い。
急いでその箱をバックパックにしまいこみ、艦橋を出る。

「こいつぁ、急いだほうがよさそうですね。」

「ああそうだな、急ぐぞ!」













「そう・・・。」

軍曹たちからの報告、現実というものは常に非情であった。
遅かった・・・いや、報告によればデブリと衝突した際に即死した可能性が高いらしい。。
だが、そんなことは私達にとって何の慰みにもならない。
しかし、既になくなっていたということはこの少女が救難信号を発信させたのだろうか。
両親のどちらかから、起動法を教えてもらっていたのだろうか。
だとしたらこの事故の中で、唯一の幸運かもしれない。
まぁいい、そんなことを考えるのは後でも出来る。
今はこの少女を救うことをまず考えるべきだ。

「伍長、どう!?」

「脈はありますが、意識ありません!」

「身体は!」

「左腕はもう駄目かもしれませんが、他に目立った外傷はありません!ですが、血を流しすぎています!早急に輸血が必要です!また、内臓にもダメージがある可能性があります!」

「ポッドを!それで搬送するわよ!」

ポッドとは私達の使う担架のようなもの。
それ単体で小型の救命ポッドとしての役目もある上に、ある程度の医療行為が行える。
止血も可能だ。
更に要救助者を衝撃などから守るためにかなりしっかりとした耐爆・防弾使用。
ちっとやそっとじゃ中の負傷者にダメージは伝わらない構造になっている。
だが、そんな高性能なポッドでも輸血することは最低限しかできないし、医療行為ができるといっても応急処置に毛がはえたものに過ぎないから、早急にしかるべき施設で治療を受ける必要がある。
それに意識がないのならなおさら急がねば。

「いい、みんな! 『慌てず』『急いで』『慎重に』に運びますよ!」

「いつもどおりですよね、了解!」

隊員が少女を慎重にゆっくりとポッドに入れる。そしてあとはこの少女を哨戒機までなんとか運び治療を受けさせるだけ。

「すいません、遅れました!」

そういいながら、ポケットを担いだ軍曹と一等兵が戻ってくる。

「大丈夫よ、まだ遅刻じゃないわ。」

「ありがたい!」

「各員、点呼!」

それぞれの分隊長から全員いるという報告があがってくる。
後は全力で機に戻るだけ、だがカウントはもう40をきっている。

「各員、機に戻りますよ!」

「了解!」

それを聞いた隊員たちは一瞬安堵の表情を見せた。
だが、基地に帰って要救助者を病院に搬送するまでがSAR任務なわけで。

《中尉、緊急事態だ! 動力部がッ!》

その機長の上ずった声にこたえる暇もなく。
次の瞬間私たちを爆風が襲った。














―――長!隊長!
頭ががんがんなっている。うっすらと目を開けると、軍曹が声をかけながら手早く私のスーツの損傷部分を補修している姿が見えた。

「・・・はぁ・・・はぁ・・・くっ、何が起こって・・・?」

「大規模な爆発が起きました!我々は現在火と破片、爆発に囲まれています!」

「要救助者は!?」

「無事です、他の隊員もです」

要救助者のバイタルメーターを見ると、さっきと多少あがっているが問題のない数値である。
それに安堵したが、軍曹たちが運んでいた夫婦の遺体を入れた死体袋がない。

「すいません、衝撃で離してしまい通路の奥へ・・・取りに戻れそうにありません。」

見やれば船の破片で通れなくなった通路の奥のほうに黒い袋が見える。
あそこまでは確かにとりにいけそうにない。それにこのような緊急事態に死体はデッドウェイトになりかねない。
いまは生きている人間のことを考えるべきだ。
そう考えるとひとつ課題が浮かんだ。と同時に、一等兵が不安そうに聞いてきた。

「隊長・・・どうやって脱出しますか?」

そう、脱出法だ。
回りは火の海。
CICの方面は火が回っていないが、そこから脱出ポイントを目指すと大幅に時間を食う。
だからといって火の海を強行突破するのは無理だ。ポッドを抱えたまま火災でもろくなった部分を通って、無事に脱出ポイントまでいけるとは思えない。
時期に酸素を消費尽くして炎は消えるだろうが、それを待つわけにもいかない。
動力部は依然危険な状態にあるから、一刻も早く脱出しなければならない。
一体どうすれば―――

「隊長!」

「軍曹、なにか案でも!?」

いろいろと地図を見たり、構造図になにやら書き込みをしていた軍曹が顔を上げ言ってきた。

「アレクシス元大佐のやった方法じゃ不可能なんですか!?」

「アレクシス元大佐のやった方法!?」

「はい、10年ほど前、マンホームで惑星間豪華客船が同じような事故を起こしたとき、その救出作戦を指揮したアレクシス元大佐は巡洋艦の艦載砲で脱出口を開けました。それが使えないでしょうか!?」

船内図をHMDに展開。
確認すると、CICの近辺、さらにそこから甲板までには爆発するようなものは何もない。そもそも、この船は競技船に改装されているのだ。攻撃系の装備など爆発物はすべて取り払ってある。
これなら砲撃しても爆発はしないだろう。
だが、改装されたとはいえもともと駆逐艦だった船だ。私たちの使う哨戒機の搭載砲程度じゃ、はたして装甲を貫いて穴を開けることができるのか。
アレクシス元大佐の事例のときは巡洋艦の威力の高い主砲(そのときは貫通力の高いAP弾を使用)を使って装甲が施されていない客船だったからできたのだ。
なら、搭載砲でも似たことがやれそうな部分を探せばいい。なるべく近くに。しかし、どこなら・・・

「あのひしゃげた艦橋を吹き飛ばせばいいんです。」

軍曹がそう言って、さっき書き込んでいた構造図を見せてきた。
確かに艦橋も爆発物が近くにないから、アレクシス元大佐の事例の真似が出来るかもしれない。

「機長、聞こえる?」

《ああ、聞こえている。》

「艦橋を吹き飛ばしてほしいのだけれど、できる?」

《君らの真横だぞ!・・・不可能じゃないが、危険だ!》

「今でも船に残っているのとどっこいどっこいだと思うけど?」

カウントは既に0。
いつ主動力部が大爆発してもおかしくない。

《・・・・・・分かった、離れていろ。》

機長もそれが分かったようで、すぐにやってくれるようだ。

「各員、下がれ下がれ!」

「機長、やって。」

《了解!》

搭載砲から弾丸が発射され、ひしゃげた艦橋部分を吹き飛ばす。ついでにこの事故を起こした忌々しいコンテナも。
これが地上だったら、搭載砲の発射音が連なって聞こえるだろう。

《・・・ふぅ。よし、吹き飛ばしたぞ。急いで戻って来い。》

確かに、艦橋のあった部分は根こそぎ吹き飛んでいる。

「了解。・・・ッッ!」

ズシィィィン・・・。

船が大きく揺れる。
観測機情報だと既に主動力部は小爆発を起こし始めたらしい。

「くっ、急げ!」

軍曹があわてたように声を上げ、艦橋までの道を先導する。
艦橋へたどり着いた隊員たちは慌てて艦橋への扉をこじ開け、宇宙へ飛び出していく。そして背中のスラスタを吹かして哨戒機の後部ドアから兵員室へ入っていった。
今のところはスムーズだ。
ポッドは先頭の隊員たちに持たせてあるから、もう収容されたはずだ。
後は殿の私が脱出するだけ。

「隊長、急いで!」

だが、ここになって爆発が本格化し始めた。
後ろを見やれば、既に爆発し崩壊し始めている船。

「くぅぅぅうぅぅ、間に合ってぇぇぇぇぇ!」

スラスタを限界まで吹かし、兵員室に滑り込み、隔壁を閉鎖。
次の瞬間、私は体に衝撃を感じ意識がなくなった。


続け。



[18214] Prologue 『守人達のデブリーフィング』
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:797c0df7
Date: 2012/02/24 01:39
アンネリーゼ・アンテロイネン(Anneliese・Anteroinen)中尉
『AQUA Coast Guard』第7管区所属
『AQUA』第七管区基地中央整備ドッグ



AQUAコーストガードは基本的に貧乏だ。
理由は多々あるが、その中でも大きいのが国際的―――太陽系的―――な軍縮だろう。
ここ百年ほど人類の歴史の中でも類を見ない平和な期間が続いている。
その結果が軍事関係の予算の削減である。当然、AQUAの数少ない軍事的組織であるコーストガードもその影響を受けた。
SAR(捜索救難)任務やAQUA周辺のごみ(デブリ)掃除、また、安全なシーレーンの確保や海賊の討伐。
その他もろもろの平和を維持するのに必要なことは数多く、それらを実行するにはそれなり以上に金が必要だ。
そのため軍縮のため予算が減ったことはコーストガードにとって悩みの種といえた。今では、コーストガードの上層部から最下層の一端まで毎日の資金繰りに予算とにらめっこする毎日だ。
それは第7管区も例外なくそうで。
彼らは前回の救助任務―――カールステッド家の船舶事故―――の際に傷ついた哨戒機を前に頭を悩ませていた。

―――A14~C9までの装甲は全て交換だ!F1~F8もだ!急げ!

―――チェック項目の80~110まではカットしろ。このコーストガードじゃ、大型目標攻撃関連の装備なんてどうせ使わないからな。

―――回路が分断されていた!? だったら別の回路をバイパスして繋げ!マニュアルばっかじゃなくて、ちったぁ考えろ!!

―――ランプドアはもうだめだな。替えもってこい!

―――の銃身を交換するぞ!道を空けろ!

―――こりゃエンジン内部に破片が入り込んでんな・・・・・・。よし、ばらすぞ!

第7管区にある哨戒機整備用の無重力ドック内では、整備員達が上へ下へ、右へ左へと奔走していた。
彼らが群がるのは、カールステッド家船舶事故の際、最後脱出した直後に爆発した船の爆風をモロに喰らい、ぼろぼろになった哨戒機である。
そんな彼らにフヨフヨと近寄る中尉の階級章をつけた、一人の妙齢の女性仕官。
彼女は整備班の中央で指揮を取る曹長を呼び出した。

「整備班長! この子、どうにかなりそう?」

「かなりきついですね!こいつの機体寿命を考えれば、新しい機体を買った方が良いぐらいでしょうな、この損傷度じゃ!」

耳元で怒鳴られた整備班長の返答は周りの音に押されないようとても大きかった。
その返答に鼓膜が痛いのと言われた内容の二つの意味で、第7管区のSAR任務部隊の隊長であるアンネリーゼ・アンテロイネンは頭を抱えた。
たしかにこの哨戒機、コールサイン『フーケ』―――19世紀初頭の小説『ウンディーネ』を書いたドイツの作家から―――は古い。
マンホームのアメリカ航空宇宙軍で使われていた奴のお古で、ここに来たときには既にだいぶ草臥れていた。
それでも長いこと運用していて愛着もある。
それに新型に変わったとしても、その向上した性能はコーストガードには役不足なのだ。今のままで十分以上に対応可能だ。
なによりあまりお金がないのだ、われわれコーストガードには。

「う~ん、それでもどうにかならない?」

「しかし、こいつは軍にいたときに実戦を経験しているぐらいお古ですよ!ちょいと無理だとおもいますがね!」

さらに、と曹長はそこで言葉を区切り言った。

「古い機体を運用し続けていたせいで救助活動に失敗したなんてことが起こったら、目も当てれませんよ。」

そうだ、例えお金がないからと節約して助けられる命を助けられなかったとしたら・・・・・・ダメだ。
だとすれば、やはりそろそろ換え時なのかもしれない。
だが、軍縮により削減された予算では、哨戒機一機新規購入するだけでも一苦労なのだ。

「う~ん。でも、予算が通るかなぁ・・・・・・。」

「通るにきまってますよ、上も分かってくれると思います。むしろ、通さざるを得ないというか。ま、今のところはごみ掃除の方に予算が回されると思いますがね。」

今回の事故は宇宙を漂うデブリを除去しきれていなかったことが大きな原因の一つだとされている。
公式的にはあそこは安全区、競技区として定めていた宙域だ。このAQUA周辺の宙域の中でも、多くの競技があそこで行われている。
なのに、今回の事故が起きた。つまり、デブリ除去が完璧ではなかったようだ
そのことをマスコミに指摘された。まぁ、マスコミも宇宙のゴミを100パーセント除去するのは不可能なことは百も承知だったから、そう強く批判的ではなかった。
だが、事故が起きたのは事実だし、そもそもコーストガード当局が安全だといってしまった地域での事故なので、しばらくデブリ掃除に力を注ぐと公式に発表したのだ。
今頃、各管理区の手漉きの部隊および、工作活動を中心とする後方支援部隊はそれぞれにあてがわれた宙域のデブリ除去に総動員されているだろう。

「しかし、機体がない状態でどう配置につくんです?」

「しばらく私の隊は配置にならないみたい。たぶん直に休暇が出されると思う。」

「どうして?・・・・・・ああ、隊長ご自身の、その骨折のせいですか。」

班長の目が私の腕、方から包帯で吊っている右腕を見ながら言った。
私は、そうよ、と苦笑いしながら言った。この骨折はある意味自業自得なのだから。

「その間、ほかの隊がカバーしてくれるそうだから、今度ほかの隊長さんにあったときにお礼を言っておかなきゃ。」

「そうですね、そのほうがいいでしょう。」

―――班長ぉー!ここなんですがー!

「おっと、では自分は指揮に戻ります。」

「うん、がんばってね。」

「もちろんですとも。あなた方がここに再び戻ってくるときには完全な状態であいつを渡しますよ!」

「毎度毎度ありがとね。」

「礼には及びません。あいつらも俺も・・・・・・俺達整備班にとって、この仕事は生きがいにもなっているのでね、全力を尽くさせてもらいますよ!」

整備班長はそう言い残し、ビシッと敬礼して、混沌とした彼らの戦場へ戻って行く。
私も一回伸びをして、整備ドックから離れ、居住区への通路に出るとその居住区のある方向から見知った顔がやってくる。

「アンネリーゼ隊長!話は終わりましたか?」

そういいながら、接近してくるのは彼女が最も信頼を置いている軍曹。
今回脱出法を私を含めた隊の全員の命を救った脱出案を提示した今回の事案で最大の功労者でもある。
しかし、一応上官に敬礼もせずに近づいてくるのはいかがなものか。一応敬語で話しかけてきてははいるが。
・・・・・・でも、現場に出ている時間は私よりもはるか長い軍曹だ。多少はいい。
それにコーストガードはあまりそういうことに頓着しない部隊も結構あるらしい・・・・・・まぁ、平時限定だが。

「ええ、おわったわ。」

「哨戒機の状態は?」

「少し厳しいみたい。とりあえず新しいのを貰えるように上と交渉しようかな、と。そっちはどうなの?」

「隊員16名、全員精密検査終了しました。みんな怪我こそしていますが、とりあえずは異常無しです。重傷者は隊長だけですよ。なんでまた、機内に滑り込むときに減速しないんだか。」

「なはは・・・・・・。」

そう、この骨折の原因は速度の出し過ぎで減速できずに天井に高速でぶつかったときにできたのだ。
無意識にとっさに防御したので腕ですんだが、もしもそのまま頭から突っ込んでたら首の骨を折っていたかもしれない。
急減速するための装置があることをあのときなんでか忘れていた。それを使わずに普通に減速しようとしていたから、速度を殺しきれなかったのだ。
恥ずかしいので、報告書には脱出直後の爆発で哨戒機が弾き飛ばされたときに怪我をしたと書いてある。
・・・・・・報告書の改ざん、立派な軍規違反である。

「あ、あれはしなかったじゃなくて、できなかったの、軍曹。」

「まったく、アン。お前は昔から妙なところで変な事やらかすな。」

軍曹はまるで昔なじみの友人のように言った・・・・・・まるでもなにも、実際、ハイスクールでは同級生だったし、というかそれ以前の幼少期のころからの友人、つまり幼馴染なのだが。

「仕方ないじゃない、焦ってたんだから。」

「まぁ、な、わかる。俺だってあの場面じゃ、盛大に吹かしていただろうから人のことは言えないしな。しかし仮にも小隊指揮官がそれでどうするよ。」

「うう・・・・・・。」

「そこがほかの古参連中に小娘ってからかわれる理由だと思うぞ。まぁいいさ、同じ失敗を繰り返さなきゃな。で、体のほうは大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫。一ヶ月間は任務に付けないけどね。怪我が治るまで療養よ。」

「で。その間、俺たちはどうすれば?」

「う~ん、そこまではちょっとわからないかな。」

「フムン。だったら、俺としては休暇をもらいたいところだけど、な。久しぶりに故郷の友人に会いに行きたい。」

「そうね・・・・・・私も久しぶりにネオヴェネチアの空気を吸いたいなぁ。」

私と彼はネオヴェネチア出身だ。家が隣同士の典型的な幼馴染という関係。ちなみにもうまたまた隣家に仲のいい男の幼馴染がいるのだが、それは余談である。
ゲームの好きな友人が言うには、それなんてマンホームの乙女ゲー?とのことらしい。
乙女ゲー?マンホームのゲームのジャンルのようだが、意味がわからない。
しかしまぁ、ここ最近は訓練に訓練、デブリ除去に今回の救出作戦にとずいぶんと働いたもので、ネオヴェネチアでゆっくりできるほどのまとまった休暇をとれていなかった。
ここ数ヶ月間は少しでも休暇を取れれば、連日の訓練の疲れを癒すか、隊員たちと繁華街に繰り出して飲んだり食べたり歌ったりと騒いだりしていた。
長い休暇じゃないと、せっかくネオヴェネチアに戻っても大して疲れが取れないからだ。あそこはゆったりとした時間がなければ、あの雰囲気の中で過ごせない。
いや、無くても過ごせそうな気がするのだが、やっぱりあそこは時間の流れがゆったりとした場所なのだ。
短い時間でタイムスケジュールと睨めっこしながら過ごす場所じゃない。そう考えて戻っていなかったのだ。
だから、だろうか。あのゆったりとした時間の流れを持つネオヴェネチアの空気がとても懐かしく感じられる。
目を閉じると、ネオヴェネチアの風景が呼び起こされる。
あの煌く水面を切っていくゴンドラたち、白煙を黙々と出す浮島、大空を縦横無尽に行きかうエアバイクの群れ・・・・・・最後に見たのはどれぐらい前だろうか。
おもわず久しぶりにやってみたいことが言葉となって、どんどん口から出て行く。

「それでトラゲットに乗って、なじみのレストランに入って・・・・・・で、アドリアーノと会いたいな。」

ほかにも色々・・・・・・と言おうとした時、彼が憮然とした顔をしているのに気づいた。

「ん? どうしたの?」

「おまえなぁ・・・・・・元彼の前で現夫の話を普通するか?まぁ、元彼って言ってもかれこれ10数年前の話だけど、な。」

「あっ、ご、ごめん」

「気にしてないから、いい・・・・・・どうした?何がおかしい?」

思わずちょっと笑ってしまったようだ。彼が本当に気にしてないなら、あんなしかめっ面しないのに・・・・・・と、思う。
彼とはハイスクール時代、恋仲だった。まぁ、甘い関係というわけではなかった( はず )が、彼と一緒に飲んだり騒いだり遊んだりするのはとても楽しかった。
友人いわく『 どこが甘いのよ、ボケ。まるで砂糖たっぷりの紅茶を飲ませられる見たいだったわ 』とのこと。
しかし、私が大学に入ると彼もどこかへ消えてしまい(後からわかったことだが、コーストガードに入隊していた)、自然解消した仲だった。
ちなみに彼のほうが長い軍歴を持つというのは、彼がハイスクール卒業後すぐにコーストガードに入隊したからだ。
私が入隊したのは今からだいたい8年前。大学を中退して士官学校へ入り、卒業してSAR任務の資格を何とかとって、隊に配属された時にはすでに中堅の域に達していた。今ではもうベテランにも片足を突っ込んでいる。
それにしても、あんな顔をするということはまだ結構その気があるんだろうか。

「ううん、なんでもない。」

「ならいいんだが、まったく。」

しかし、あのちょっと拗ねたような顔は少し、可愛いと思ってしまった・・・・・・お互い三十路を超えているのに、何てこと考えているんだろうか。
と、思っていると彼は任務中とはまた違った真剣な顔をしていた。この顔をしたときは大抵・・・・・・

「ところで、だ。彼女の様子はどうなんだ・・・・・・?」

「・・・・・・アッリ・カールステッドのことね。」

そう、自分達が助けた人間のことを聞いてくるのだ。

「ああ・・・・・・で、どうなんだ?」

「目は覚めたらしいんだけど・・・・・・やっぱりと言うかなんと言うか。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の兆候が見られるみたい。医師や看護師以外の面会も拒絶している。」

「そう、か・・・・・・当然と言えば、当然だが・・・・・・やるせないな。」

「救出しに行ったとき、彼女、自分で救難信号出したり、酸素ボンベを引っ張り出したり、手当てしたりしてた。そのときは冷静に行動していたから、私は大丈夫かなって思ったけど、やっぱり無理していたのかしら。」

「そりゃそうだろう・・・・・・両親が目の前でずたずたになったんだぞ。PTSDにならないほうがおかしい。それでも、なってほしくないと思っていたがな。」

「一度おった心の傷は、現代医学でも直せない・・・・・・たとえ足や腕がなくなったってすぐに生体義肢がつけられる時代なのに、いまだ人類はその手の傷を治せない。」

「今は病院のほうで、見てくれている。悪い言い方をすれば、監視している。だが、・・・・・・退院した後、薬に逃げなけりゃいいがな・・・・・・。」

PTSDに陥り、周りに誰も支えてくれる人がいなかった場合。薬、麻薬に逃げてしまう場合があるのは私も知識として知っていた。
麻薬取引は22世紀初頭の撲滅運動で、20~21世紀ほどの勢いはない。だが、あるところにはあるものであるところは一緒である。患者はそういったところから多額の金で購入する。
使っている間は、事故のことを忘れていられる。だが、だんだんと体が薬に馴れ、その効き目が薄くなっていく。そして、事故の恐怖を忘れられなくなってしまい、さらに多くの麻薬を・・・・・・その循環。
最後には・・・・・・まぁ、言わずもがな。体が壊れ、死ぬ。そこも昔と一緒。

「まったく、ままならないな・・・・・・。」

「はぁ・・・・・・。」

「・・・・・・なぁ、お前のほうで彼女預かれないか?少し調べてみたんだが、彼女身寄りが無いみたいなんだ。」

「・・・・・・はい?なんですと?」

突拍子も無い発言で思わず聞き返してしまったわけだが・・・・・・もし、本当に身寄りが無いのなら、確かに私が保護者となったほうが良いかもしれない。
まぁ、でも私だけに限らず大人なら誰でもいいと思うのだが。

「ちょうど今、お前のところに彼女と同世代の女の子を下宿させてるんだろ?」

「ええ、マンホームに住んでいる従姉妹の娘だけど?」

「友達ができりゃ、多少はましだろ、たぶん。」

「・・・・・・そう簡単だとは思えないけど。」

彼はどうやら友人が出来れば、薬に手を出しにくくなると考えているようだが・・・・・・。
果たしてそう上手くいくだろうか。

「で、今預かっている女の子はどんな子なんだ?」

「えっと、それは、その・・・・・・あ、あはは・・・・・・。」

「前から言っていたよな・・・・・・ちゃんとメールのやり取りぐらいしとけ、いくら忙しいからってそれを怠っているようじゃ保護者失格だぞ。」

件の女の子は現在ミドルスクールに入っている。
つまり、アッリ・カールステッドと同年代だ。だが、それ以外のことはよく知らない。
定期的に向こうからメールが来るが、あまり彼女の私生活までは書かれてないし、私自身も聞いていないので、彼女が具体的にどんな学校生活を送っているか全くわからない。
どんな友達がいるのとか、食事はどうしているとか。

「まぁ、とにかくだ・・・・・・カールステッドの娘を預かってほしいわけだ。」

「私は別にかまわないけど・・・・・・彼女自身がどう思うか分からないし、それにいきなり公的に預かるなんて無理でしょ?法的にも。」

「その点は問題ない。こっちのツテで話をしておいた、いつでも準備できる。後はお前と彼女の承諾だけだ。」

「・・・・・・準備良いね。」

「当然だろ?」

それにしても、何で彼は今回こんなに拘っているのだろうか。いままで助けてきた人の数も相当いたが、ここまで入れ込んだ例は見たことがない。
まさか・・・・・・

「惚れた?」

「・・・・・・俺が?誰に?」

「アッリ・カールステッド。」

「馬鹿か、そういう訳じゃない。ただ・・・・・・いや、なんでもない、気にするな。」

彼はそう言うと黙りこくってしまった。こうなると、絶対に口を割らない。

「まぁ、いいか。分かった、一度会ってみる。彼女が私の家に来るならそれもよし、来ないは来ないで彼女の人生・・・・・・それで良いよね?」

「ああ、かまわん。・・・・・・ああ、それともし預かることになったら、時期を見計らってこれを渡してくれないか。」

そう言いながら、彼は何の変哲もない小さな黒い箱を手渡してきた。

「これは・・・・・・?」

「遺品、だと思う。アルマ・カールステッドの・・・・・・いや、おそらくカールステッド夫妻の。たぶん、アッリへのプレゼントだったんだろう。」

「何で分かったの?」

「開けてみろ。」

「・・・・・・オールの形をした、イヤリング・・・・・・?」

中に入っていたのは、ピアシングを必要としないタイプのイヤリング。
形はまさしく、ネオヴェネチアを行きかうウンディーネ達が使うオールの形状。カラーリングから、モデルは最近勢力を伸ばしてきている新興水先案内店のようだ。
それが保護クッションにちょこんと乗っていた。
入れてあった箱の内蓋には三人の名前と写真が張ってあった。
そして一行の文字列。

『私達のウンディーネ、アッリへ。』

たった数グラムもなさそうな物なのに、なんて重いのだろうか・・・・・・。
思いが重い。まるでマンホームの古典芸能とやらを彷彿とさせる言い方になってしまうが、これに関しては正しいかもしれない。

「このイヤリングのカラーリング・・・・・・オレンジぷらねっとの物、かな?」

「ああ、そうだろうな。彼女、その会社に内定が決まっていたらしい。おそらくそれはそのことに対する祝いなんだろう。ちなみに会社のほうはミドルスクール卒業と同時にシングルへの昇格試験も考えていたようだ。」

「それって・・・・・・。」

「相当な水先案内人に、『 もしかしたら 』トッププリマにだって『 なれたかもしれない 』な。」

「『もしかしたら』『なれたかもしれない』・・・・・・?」

「彼女、ミドルスクールのゴンドラ部じゃ相当な漕ぎ手だったらしい。なんでもネオヴェネチアにある全ての水路を頭に叩き込んであるとか。」

「それでなんで『もし』、ifなの?」

おかしい、そこまでの技量、知識を持っていてなぜ『 なれたかもしれない 』なのか?

「・・・・・・左腕は彼女の利き腕だったはずだ。そして、あの傷じゃおそらく生体義肢をはめることになるはず。」

生体義肢―――医療複製技術の発達した今、生来の腕とまったく同じ腕を義肢としてつけることが可能になった。
だが、神経リンクの成功率は7割だ。高いような気もするが、残り3割は以前のようには動かなくなるか、あるいはまったく動かない場合もある。
それ以前に、移植された腕を精神は自らの腕として認識できるのだろうか。

「たとえ移植に成功しても、その腕を拒絶する人もいる。」

「ッ、それって・・・・・・。」

「ゴンドラの操船も今までのようにはできなくなるだろう・・・・・・最低でも『オレンジぷらねっと』の内定は消されるな。彼女をお前に預かるように頼んだ理由のひとつにそのことがある。」

両親が死んだ上に、さらに未来への希望も破壊される。大人ですら耐えれるか分からない。
それをわずか14歳の少女が受け止めなければならないのだ。あまりにも酷な話だ・・・・・・。

「・・・・・・ねぇ、それじゃあさ。その箱渡さないほうが良いんじゃない?」

ふと、そう思った。退院してすぐに渡したのでは、もしかしたら、いやきっとその事故のことを思い出してしまうのではないだろうか。
そして、明日へ向けて生きる気力も奪ってしまうのでは。
ただでさえ打ちのめされボロボロになってしまった心に、とどめの一撃を与えてしまうのではないだろうか。

「さっきも言ったろ?時期を見計らって渡せとな。彼女が自信のトラウマを克服したときに渡してやってくれ。あるいは克服しようとしている時に。」

「それって、責任重大だね。」

「そうだな。」

箱を手が白くなり痛くなるほど握り締める。そのせいでよりいっそうはこの存在を意識してしまう。その思いも。

「分かった、任せて・・・・・・けどさ、彼女が私を拒絶する可能性もあるんだけど。そうしたら、これどうするの?」

「・・・・・・まぁ、大丈夫さ。お前のところに転がり込む、勘だがな。」

「あなたの勘がよく当たるのは知ってる。ネオヴェネチアに関係する事柄では特に、ね。じゃ、その間を信じる方向で退院したら早速会ってみる。」

「任せたぞ。」

「ところでさ、私にこの話を持ちかけた時点で私に拒否権無かった?」

「そんなことはない」

その『当然だろう?』的な顔をしていってもなんら説得力を持たないんだけど・・・・・・それにしても拒否権が無いというのはどういうことか。訴えてやろうか。

「勝つ自信があるならな、受けてたつぞ。」

そう澄まして言う軍曹の顔はにやりと笑っていた。





















SSって難しい・・・・・・。



[18214] 第一章 『スタートライン』 第一話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:797c0df7
Date: 2012/02/24 01:41
目が覚めてみたら、体のある部分の調子がおかしかった。
―――それは左腕。生体義肢の証拠である文字と管理ナンバーがうっすらと刻印された、わたしのDNAで模造した生体義肢だった。











アッリ・カールステッド
『ネオ・ヴェネチア』ミドルスクール在校生
『オレンジぷらねっと』本社前




病院の人にエアバイクでオレンジぷらねっとの所まで送ってもらった。
リハビリのおかげで、しっかりと大地を踏んでオレンジぷらねっとの本社を見上げれるほどには体力が回復した。
まったく。すべてが、何もかもが、ここにいることすら、夢みたいだ。
あの事故も、それから一ヶ月間の病院でのリハビリ生活と検査の日々も。
実はまだ、わたしは家のフカフカのベッドで寝ていて、耳元でガチャガチャなり始めた目覚まし時計―――ゴンドラ部の朝練習のために早起きするべく置いた―――をまどろみの中で探しているんじゃないだろうか。
だとしたら、どんなにうれしいことだろうか。
朝おきたらダイニングキッチンからはパンの焼ける香ばしいにおいが、お母様のわたしを呼び起こす声とともに漂ってきて。
玄関であわてて靴を履いているときに、『怪我しないように、がんばれよ。』とお父様が軽くわたしのお尻を蹴飛ばして。
ネオヴェネチアがまだ目覚める前の誰もいない静かな水路でほかの部員たちとともにゴンドラを漕いで。

―――でもわたしは、あの事故でそれら『全て』ができなくなった。

わたしに残されたのは、ゴンドラだけだった。
でも、腕の調子がおかしいことに気づいたあの日から、それすらも奪われ。
わたしの目に映る世界は、まるで、色をなくしたようだった。












アレサ・カニンガム
『オレンジぷらねっと』ウンディーネ管理部部長
『オレンジぷらねっと』ウンディーネ管理部、第一執務室



「そう、それじゃあ・・・・・・。」

「・・・・・・はい、すいません。」

夕暮れでその社名と同じ色にに染まるオレンジぷらねっとの一室。
そこには、二人の女性がいた。
片方は薄いクリーム色の髪を肩まで伸ばした少女・・・アッリ・カールステッド。
もう一人の机に座る妙齢の女性は、オレンジぷらねっとの元トッププリマ―――先日、ウンディーネ管理部長へ転身した―――アレサ・カニンガム。つまり私だ。
アッリの右手は左腕を堅く掴み、私の視線はそこから離れない。

「どうしても無理なの?もう一度、ウンディーネを目指すのは?」

「・・・・・・もう、無理なんですよ。腕を失ったんですよ?ただでさえ正確かつ緻密なオール捌きを必要とするウンディーネが、腕を失ったんですよ?」

「・・・・・・。」

あの事故から一ヶ月、確かに彼女は生き残った。だが、彼女の両親を奪った死神は代わりにウンディーネにとって自らの命と同等のものを奪っていった。
利き手である左腕の欠損だ。腕は宇宙線により細胞が死滅していた部分が多く、結局、肩口まで切除することとなった。
だが、それぐらいだったら左腕に生体義肢をはめればいい。
しかし、彼女の場合は・・・・・・

「たしかに、生体義肢の手術は上手くいきました・・・・・・でも、それは日常生活に支障が出ない『かもしれない』というだけで、ウンディーネとしてやっていくのは不可能なんですよ。」

そこでアッリは目線を下に落とす。
そのとき、アッリの顔から透明な雫が落ちたのをアレサははっきりと見た。
彼女の場合、義肢をはめる手術が成功したは良いもののその神経接続がうまくいかなかった。生体義肢の装着の際、誰にでも起きる可能性のあることだ。だが、彼女にはそれが起こってしまった。

「もう、わたしには普通にゴンドラを動かすことすらできません。」

再び顔を上げたアッリは今にも声を上げて泣き出しそうな様子だった。

「だから、うちに来るのはお断りしたい、と?」

「・・・・・・はい。」

そう答えたとき、アッリの顔から透明な雫が落ちたのをはっきりと見た。

「本当に、もう普通にゴンドラを動かすことはできないのかしら?」

「・・・・・・はい。」

またポツリと。

「ためしたの?」

「いいえ。」

私は少し納得がいかなかった。
実際に動かせるかどうかやってみないとわからないこともあるのではないのか。
それとも、やらずともわかる理由があるのか。

「日常生活だって支障をきたさない『 かもしれない 』って腕なんですよ、この左腕。」

「?」

「反応が1秒ほど遅いんです。それに時々腕が止まるんです、意思に逆らって。はは、お茶を飲もうとしたときに腕が止まってカップを落としたこともあるんですよ?どうやって、どうやってこんな腕でゴンドラを操れば良いんですかっ!?」

彼女は言葉を言うたびに涙をポツリポツリと落としていく。最後はもう泣き声と大して変わらなかった。
確かにそんな腕では、うまく操船できないだろう。カップを落としたってことは、筋肉も緊張してしまうということだ。
操船中にもしそんなことがおきたら・・・・・・最悪、オールを取り落とすかもしれない。
さらに反応が遅いというのは、もう致命的だ。もし何かが起きたとき、客の命を保障できなくなる。それはもうウンディーネとして失格だ。

「だから、絶対に無理なんですよ、もう。」

「でも、あなたはウンディーネとしての能力だけでなく、学業成績も優秀だったでしょ? 事務員として・・・・・・。」

このままではいけない。
私はそう思った。なんとか、ここに、ウンディーネというものに繋ぎ止めなければ、彼女は・・・・・・

「わたしはもう、この町にも居たくないんです。」

ここにいると、お父様とお母様を思い出して辛いから―――と、アッリは言う。
その目からはもう大粒の涙があふれ出していた。
この少女にこんな顔をさせるのは誰だ―――私はそう思った。
衝突感知機能と自動防衛システムを切っていた彼女の父親の知人か。
ごみ掃除(デブリ除去)をもっとしっかりやらなかったコーストガードか。
他にも様々な事故の原因が推察されているが、おそらく、そのどれでもないだろう。
そう、あれは不幸な、不幸な事故だったのだ。
たまたま知人の貸した船が、小惑星の間をすり抜けるスポーツのための船であったため最初からシステムが切られていた不運。
たまたまコーストガードの定期除去作業の数日前で、クルーズの航路上に確認されていないデブリがあった不運。
他にも様々な不運が重なった事故だったのだ。
幸運があるとすれば、事故宙域付近で訓練中だった部隊があったことと特別救難信号の出し方をアッリが知っていたこと。
そして、彼女の命の炎が燃え尽きる前に救助が間に合い生き残ったこと・・・・・・それぐらいだろうか。
いや、もしかするとそれも不幸なのかもしれない。
たった一人生き延びてしまったのだから。

「・・・・・・あなたなら、うちの次世代エース格アテナ・グローリィとよきライバルに、そして友人になってくれると思ったのだけれど。」

「・・・・・・。」

「ふぅ・・・・・・まぁ、いいわ。それじゃあ、貴方はこれからどうするの?」

「そう、ですね・・・・・・まだ何も考えていません。」

「そう・・・・・・わかったわ、帰ってもいいわよ。」

「・・・・・・はい。」

礼をして、アッリは扉へ向かって歩いていく。
その後姿は以前スカウトしに行ったときに見た、ほかの部員たちを引っ張るたのもしさはなく、どこか儚く見えた。

「・・・・・・ねぇ、まだ先のことを考えていないのなら、もう一度聞くけれど・・・・・・。」

「しつこい、のですよ、カニンガムさん。わたしはもう無理なんです。」

「なら、仕方ないわね・・・・・・でも、せっかく助かった命なんだから、絶対に早まったまねはしないでね。」

「それは・・・・・・分かってるのですよ。」

ガチャッ。

扉が閉まり、アッリの足音が遠ざかっていく。
たとえ、使い物にならなくてもウンディーネとして雇いたかった。
ウンディーネではない彼女はきっと、生きているけど死んでいるだろうから。
だが、そんな考えを頭をふって脳内から追い出す。使えない人材を無理して雇うわけにはいかないのだ。
彼女にも食わせなきゃならない社員達、彼女にとっての家族がいるのだから。
だが―――

「まったく、これはただのいい訳かしら。」

もし使えない人材を無理して雇うわけにはいかない、という思考が最初からあったのなら。
そもそも最初のアッリの言葉にうなずいて、彼女の内定証明書を破り捨てればよかったのだ。
しかし、今私の机の引き出しにはいまだその内定証明書が残り続けている。

「私自身に未練がある、か。」

それにしてもまったく、ままならないものだ。

「はぁ、もしもこの世に神様がいるんだったら・・・・・・。」

その顔にオールを全力で叩き込んでやりたかった。
























「ただいま、なのですよ・・・・・・。」

その声に「 おかえりなさい 」答えてくれる人などいない。
玄関を開けると、入院期間中である一ヶ月の間に積もった埃で廊下がひどく汚い。家の外見も人が一ヶ月間すまないだけで、とても痛んだ外見になってしまった。
それはアッリの心の内にある堤防にひびを入れるのに十分なことだった。
体を掻き抱いてうずくまる。

「なんで、なんでなのですか・・・・・・。入院していた間は何にも思わなかったのに、何でいまさらこんなに悲しいのですかっ!」

退院してすぐに目に入ったネオヴェネチアの町並み。
オレンジぷらねっとにつくまでに目にしたウンディーネやゴンドラ。
ミドルスクール付近で近くを通り過ぎたゴンドラ部の後輩達が操る小さなゴンドラ。
家へ戻ってくるまでに通った、幼い頃両親と遊んだカッレやカンポ。
それらを含めたネオ・ヴェネチア全体がアッリの思い出の宝箱。
でも、いまではその中には二人いない。アッリがプリマになったらまず最初に乗せようとしていた人。
―――お母様とお父様。
そして、その影響か分からないが、それ以外の思い出も色が抜け落ちていた。

「・・・・・・こんな思い出を抱えながら生きていくくらいならいっそのこと・・・・・・。」

涙を拭きもせずに、ノロノロと立ち上がる。立ち上がったときに周りの埃が舞い上がり、それを吸い込んでむせてしまう。
それが無性に悲しさを呼び出した。

「ゲホッ、ケホッ・・・・・・うぅ。」

ゆっくりと前へ進んでいく。その後ろには足跡が綺麗に付いていた。どれほどのホコリが積もっていたのだろうか。

「わたしはこれから、何を糧に生きていけばいいんでしょうか・・・・・・。」

・・・・・・ミシッ、ギシッ・・・・・・

「そういえば、わたしは何のためにウンディーネになろうとしていたんだっけ・・・・・・。」

外はもう薄暗い。廊下は明かりをつけていないからさらに暗い。
上を見上げると天井に蜘蛛の巣が張られている。
角には埃の吹き溜まりが出来ていた。
周りの全ての音が世界が止まったかのようにしない。

「ネオ・ヴェネチアが好きだから?・・・・・・ううん、違う・・・・・・。」

・・・・・・キシッ、ギッ・・・・・・

「ゴンドラ部でエースだったから?・・・・・・これも違う・・・・・・」

・・・・・・キッ、コッ・・・・・・

「わたしを褒めてほしくて?・・・・・・なにか、まだ違うような・・・・・・。」

・・・・・・ギシッ、ガチャッ・・・・・・

キッチンダイニングへの扉を開けて中に入る。
そこも、埃で一面灰色く染まっていた。

様々な番組を放映していたホログラフテレビ―――お父様と一緒に見た『プリマをねらえ!』のアニメがなかなか面白かったのですよ。
やっぱり、今思うとあのわからずやな態度はわたしを奮起させるためだったのでしょうね。
本当に反対する気でいたなら、ウンディーネのアニメである『プリマをねらえ!』をあれほど熱心に見たり、ウンディーネ関連の情報雑誌を積み上げたりしないと思うのですよ。
それに気づけなかった自分は本当にわからずやな意地っ張りだったのだろう。

「こんなことになるんだったら、あんなひどい言葉、言わなきゃ良かったのです・・・・・・。」

アッリが反抗して言った言葉の中には、お父様がマンホームの軍にいた頃の誇りを汚すようなものもたくさんあった。
それでも殴るとか蹴るとか暴力的なことやわたしに逆にひどい言葉を浴びせたりは一切しなかった。

「せめて・・・・・・せめて、内定が決まった時。一言謝っておけばよかったのですよ・・・・・・。」

キッチンのカウンターを上げる。
ふと、目線をリビングの方にもって行くと、そこに―――もともと灰色だったためかあまり埃は目立たない―――バーチャルイメージマシーンが。

お母様が家でもわたしが練習できるようにと、買ってきたマンホーム―――たしか日本だったか―――の割と高級モデル。
お母様だけではポンと買えるような代物じゃなかったはず・・・・・・そういえば買ってきた少し後、お父様が隠しておいたへそくり―――ベターすぎることに隠していた場所は大人の絵本の間らしい―――が消えたと言って騒いでましたっけ。
澄ました顔でそれをお母様は流していましたが・・・・・・。

「せっかく、お父様のへそくりを犠牲にしたというのに、『Alison』とか言うハンドルネームの奴のハイスコアを抜けなかった。悔しいのです。」

キッチンに入り、部屋を見渡すとまるで昔に戻ったような気がした。
でもそこには、退役して、時間が余っても料理を練習せず、下手なままだったお父様の代わりに料理を作るお母様の姿はなく。
母の料理が出来るまでの間、ぐでーと昼寝しているお父様の姿もない。
さらに、いろいろ思い出してしまう。
思い出すとつらいことはアッリにも分かっている。
でも、思い出さずに入られなかった。
ネオ・ヴェネチア『宝箱』のなかでも取って置きの宝物。

ああ、そうか―――

「わたしはお父様とお母様に喜んでほしくて・・・・・・ウンディーネを目指したんだっけ。」

思い出すとせっかく流れ出すのが止まっていた涙が再び出る。

「もう、喜んでくれる人もいない。お父様とお母様がいないんじゃ、何処にも糧なんて存在しない。だったら・・・・・・。」

包丁を棚から取り出す。
それを高く振りかぶる。
照準は自らの右腕。

・・・・・・すいませんなのです、カニンガムさん。
早まった行動はするなと言ったのに早速破らせてもらいます。
・・・・・・ごめんなさいなのです、AQUAコーストガードの皆さん。
助けてくれた命、ここで捨てさせてもらいます。わたしはやっぱり家族がいないこの世界で生きていくなんてできない。今日一日で、そう実感しました。

「お父様、お母様。今から、そっちに行ってもいいですか・・・・・・?」

そして振り下ろされた包丁の切っ先は―――

ドタドタドタドタッ!「ダメェエェェェェェェェェェェェェ!!」 ドンッ! 「げふぅ!」

走りこんできた黒い影によって、右腕に届くことはなく。

・・・・・・ザクッ・・・・・・

包丁は手から離れて飛んで行き、床に垂直に刺さった。

「ア、アイリーン?」

「駄目、こんなこと絶対に!自殺なんて!」

―――アイリーン・マーケット。 アッリがゴンドラ部にいたときの同級生で副部長であり、わたしの親友。
その手にはわたしの退院祝いだろうか、わたしが小さいころから好きな菓子屋の箱がある。
もっとも、わたしを突き飛ばしたときに潰してしまったようだが。

「自分が何をしようとしていたか分かる!?」

「分からないわけ、ないじゃないですか。」

「だったら、アレを見て!」

アイリーンはそう言って、どこかへ指をさす。
そういわれて指差された方向へ顔を向ける。

「ヒッ!」

そこには床に深々と刺さった包丁。
僅かに差し込んでくる外の光で、よく研がれた刃がきらりと光る。
もし、その下にあったのが床でなく自分の腕だったとしたら―――

「う、うあ。」

「わかったでしょ。 さ、はやく立って。」

アッリは差し出された手を受け取って立ち上がる。
気が付いたら、全身が震えていた。

「まったくもう・・・・・・後輩達が変なアッリを見たって連絡してくれて。いやな勘が働いて急いでこの家に来たから良かったものの・・・・・・私はまた誰か近くの人が死ぬなんて、嫌よ。」

「ごめんなさいです・・・・・・。でも、わたしはもうこんな誰もいない世界。」

「こんな誰もいない世界って、どんな世界?たしかに貴方の両親はいないわね。」

「いないですよ、だからこんな世界・・・・・・。」

「ねぇ、その世界。そこには私たちもいないの?」

そう言って、彼女はポカッとわたしの頭を小突く。

「あ・・・・・・。」

「もっと私・・・・・・ううん、ゴンドラ部全員を頼ってもいいと思うんだけどね。先生達もいる、隣人もいる。たしかに、両親の穴はふさげれないけれど、他にも高く山になっているところがいっぱいあるじゃない、この世界には。それに。」

あなたにとってはネオ・ヴェネチア全体が宝物なんじゃないの―――そう言って、朗らかに笑う彼女の顔はたしかにわたしの記憶と一致し。
色の抜け落ちた世界の中でそこだけが鮮やかな色に染まっていた。

「さて、と。 泣け。」

「????」

いきなり泣けというアイリーン。ちょっと意味がわからない。

「ここに来るまで、一回もちゃんと泣いてないでしょ、多分。だから、泣け。」

「いや、そんなことを言われてもですね。」

「問答無用!さっき自殺未遂したのもきっとちゃんと泣いてないからだと思うし。」

「この家にいたるまでに十分泣きましたよ!」

「自分ひとりで泣くのと、誰かの胸で泣くってのは違うよ!」

そう言って、アイリーンはアッリを抱き寄せる。

「わぷっ!」

「男の子の胸板のようにはいかないけどね・・・・・・まぁ、胸薄いしちょうどいいんじゃない?」

「普通、女の子は胸が小さいとコンプレックスを抱くと思うんですが。」

「コンプレックス? コンプレックスなんて持つほうがバカらしい! 貧乳はステータスだ、って今から300年も昔の人が言っていたらしいんだよ? 多分その言葉って、人それぞれのよさがある、その前には胸の大小なんて関係ないって言ってると思うんだよ!」

まったく、彼女は何時もそうだ。
コンプレックスやジトジトした嫉妬心は絶対に持たない。
下手とはいえないが良好ともいえない操船技術をわたしと何時も比べられていても、それをカラカラと笑いながら受け流す。
でも対抗心は人一倍強いからよく技術書を読んでいる。
比較されて批評されたときも、ただ受け流すだけじゃなくて、何も言わず、むしろ感謝さえ言いながら、自分の技術向上につなげるのが彼女のすごいところだと思う。

「さぁて、泣け。思う存分。」

「も、もう、泣けるような雰囲気じゃないと思うんですが。」

「本当にそう?いま、ここで私が貴方の髪を撫でさすっていたら、たぶん泣くと思うんだけど。」

そう言って、本当にわたしの髪を撫で始める。

「ちょ、ちょっと本当に、本当に耐えられませんから。」

「耐えなくていいから、今は泣いて。あまり溜め込みすぎると壊れちゃうんだよ?」

そう言ってアイリーンはわたしをやさしくギュッと抱きしめる。
その感触はまるで母のようで。
背格好も性格もまるで違うのに、そう感じた。

「あ、あう。」

ほろほろと涙が流れ出ていく。
それを見たアイリーンがさらに強く抱きしめてくれて。
さっきまでひび割れから水を流し続けていたわたしの心の堤防は完全に崩れ去った。

「うわぁぁあぁぁぁぁぁぁあぁ!! お母様ッ、お父様ッ!!なんで、何で事故なんか! 何で死んじゃったりするんですか!?」

「そう、思いっきり泣いていいよ。今は泣いてもいいときだから。」

アイリーンはアッリが泣き疲れて眠るまでずっと抱きしめ続けていた。






















「~ ♪ ~」

「んぅ・・・・・・。」

あたりはもうすっかり暗くなった頃。
泣きつかれてベッドに寝かさせられていたわたしは目を覚ました。

「ここは・・・・・・?」

周りを見てみればわたしにとって知らない部屋・・・・・・ではない。
わたしにとってここは見慣れた場所。

「わたしの部屋・・・・・・?」

「あ、ようやく起きた。もう寝てからだいぶ経つよ。お陰で少し心配しちゃった。」

そういいながらカラコロと笑う。

ああ、よかった。
ここにはまだ、わたしの宝物がある。

「で、どう? 少しは楽になったでしょ。」

「そう、ですね。だいぶ気持ちが楽になったのですよ。・・・・・・心配をかけてすいませんなのです。」

「いいって。さ、もう夜は遅いからまた寝て。」

「あなたはどうするのですか?いや、そもそもこんな時間までここにいてもいいんですか?」

「・・・・・・うちの保護者は物分りが良いからきっと分かってくれるよ!それに、めったに職場から帰ってこないし!」

「はぁ、それは物分りが良いんじゃなくて、半ば諦めているんじゃないでしょうか・・・・・・。」

彼女に欠点があるとすれば、事後承諾が多いことや計画性が少し足りないことでしょうか。
事実、彼女はゴンドラ部の練習内容を学校に提出せずに勝手に練習を行っていたときがあった。そのとき、ほかの船とぶつかりそうになったことが学校側にばれて、練習内容の未提出と共に大目玉を食らった。
本人曰く、『 やろうと思えばやれるが、ついつい忘れてしまうんだよ・・・・・・めんどくさがりじゃないよ! 』とのこと。
こんな彼女の保護者( 母親だろうか )は毎日、気が気でないのではないだろうか。

「ところで、なんですが。さっき歌っていた歌ってもしかして・・・・・・。」

「あ、やっぱり気づいた?舟歌(カンツォーネ)。ここんところ、ずっと練習してたんだけど・・・・・・どうだった?」

「あ、よかったですよ・・・・・・しかし、失礼ですが、あなたってこんなに上手かったでしたっけ?」

わたしの記憶に残る彼女のカンツォーネはそれほど上手くは無かったはず。

「プリマウンディーネになるためには、カンツォーネも必要でしょ?」

「まぁ、そうですね。」

舟歌が歌えないプリマなんてわたしは見たことがない。

「でね、私が入社したのオレンジぷらねっとなんだ・・・・・・アッリと同じ、ね。ま、私の場合一般の入社試験を低空飛行でぎりぎり通過したって所だけど。」

なははは・・・・・・と笑いながら、アイリーンは言った。

「やっぱり置いていかれたくないからねー、アッリにさ。だから、いつもより練習量を増やしてるんだ。」

置いていかれたくない?アイリーンはまだわたしの左腕が、使えなくなっているのを知らないのだろうか。

「あの、アイリーン。わたしは・・・・・・「はい、ストップ。」・・・・・・え?」

「左腕がどうのこうのっていうのは、わたしも人づてにだけど知っている。で、それがどうしたの?」

「それが、って・・・・・・あのですねぇ、わたしの利き腕が左腕なのはアイリーンも知ってますよね!その利き腕がおかしいんですよ?それがどうしたのはないでしょう!」

「ごめん、でも私はまだアッリに諦めてほしくない。だって、ウンディーネじゃないアッリなんて・・・・・・生きていないじゃない。」

「それは、あなたが勝手にそう思ってるだけで・・・・・・。」

「そうかもしれない、ううん、そうだね。」

「だったら、勝手なことを言わないでください!!」

大声で彼女に怒鳴ってしまった・・・・・・彼女と親友になってから、いや知人の段階から考えても初めてのことだった。

「・・・・・・ごめん、なさいです。怒鳴って。」

「ううん、気にしないで。実際、本当に勝手なこと言った私が悪いんだから。でも・・・・・・さっきのことは私の本心だよ。」

「・・・・・・・・・・・・無理ですよ、絶対」

「・・・・・・そっか。」

彼女のとてもつらそうな顔に耐え切れず、寝返りを打って寝たふりをする。

「・・・・・・・・・・・・。」

「明日、さ。ちょっと連れて行きたいところ、あるんだけど。一ヶ月遅れの誕生祝と退院祝いで。」

「・・・・・・・・・・・・。」

「今は・・・・・・ゆっくり寝て。おやすみ。」

再び寝室にアイリーンのカンツォーネが響き始めた。まるで母親の子守唄のように。



[18214] 第一章 『スタートライン』 第二話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:797c0df7
Date: 2012/02/28 00:56
アッリ・カールステッド
『ネオ・ヴェネチア』ミドルスクール在校生
『自宅』



朝。
ネオ・ヴェネチアの市場が開き、郵便物を集めるゴンドラや漁に出かける小船、出勤する会社員や市場へ向かう主婦などを乗せたトラゲットのゴンドラが水路を行きかうようになる時間帯。
にぎわい始める町の中央から少しばかり離れたところに、アッリの家はある。

「ん・・・・・・。」

目が覚める。
耳を澄ませば、遠くに市場の賑わいが聞こえる。
だが、郊外とも言うべき位置にあるこの家の周りの空気は静かだった。

「くぅっ・・・・・・。」

思いっきり背伸びをして、眠気を振り切る。
その拍子に頭からナイトキャップがずり落ちる。

「・・・・・・あれ?」

いつの間にかわたしは寝巻きに着替えていたのか。
昨日の夜は着替えずにそのまま寝てしまったのに・・・・・・まさか彼女―――アイリーン―――が勝手に服を変えたのだろうか。
よくよく自分の衣装を見てみると、下着まで換えられている。

「まったくアイリーンは・・・・・・妙なところで気が利くのですね。」

そういえば、彼女は今何処に―――そう思ったとき、階段の下、一階の台所の方からなにか物音が聞こえてくる。
なるほど、朝食でも作っているのだろうか。
着替えて下に下りようかと思い、洋服を入れてあるタンスに向かう。
ベッドサイドにはわたしのお気に入りの服がきちんと畳まれた状態で置いてあった。よく分からない気恥ずかしさを感じて、箪笥から自分で服を選んで着ることにした。
階段を下りて台所へ行くと、そこには、エプロンをかけたアイリーンがいた。
その手にはフライパンが握られていた。
アイリーンもアッリの姿に気づいた。

「おはよー!」

「おはようございますなのですよ。」

「よく寝れた?」

「おかげさまで。」

彼女はどうもわたしが寝付くまで傍にいてくれていたようだった。
それどころか、ずっと起きていたのではないだろうか。
彼女の目元にはうっすらとだが、隈が出来ていた。

「・・・・・・あの、昨日は・・・・・・。」

「怒鳴ったこと?それに本当に私が悪いんだから、気にしなくて良いんだよ。」

「でも・・・・・・。」

「はい、グダグダ言う前に、まずは朝ごはんを食べる!これ重要だよ!」

そう言いながら、彼女は油をひいたフライパンにパンを入れる。
さらに、机の上にあるバットには牛乳らしき液体が入っていて、そこにはもう一枚パンが浸されていた。
これは、もしかして・・・・・・

「フレンチトースト?」

「うん。大好物でしょ?」

「そうですが・・・・・・。」

わたしは彼女に自分の好物を言ったことはなかったはずだ。
なのに、何故分かったのだろうか?
それにパンが焼けてくるにしたがって漂ってくる匂いは、いつもお母様が焼いてくれたときのにおいと同じ。

「ごめん、勝手におばさんのレシピ帳、読ませてもらったよ。」

「ああ、それで・・・・・・。」

バットの横には使い古され、ぼろぼろになった手帳が一冊。
たしかにあれはお母様のレシピ帳だ。

「ごめん、思い出させちゃったかな?」

「大丈夫ですよ。むしろ嬉しいのですよ。」

「はは、おばさんのように上手くいくとは限らないよ?」

そう笑いつつも、彼女の雰囲気は真剣そのものだ。
パンの両面をこんがりきつね色に焼き上げ、取り出す。
ところどころに少し焼きすぎた部分のあるそれを器に盛り、バターやメイプルシロップ、シナモンを振り掛ける。

「あ、シナモンは少なめにお願いするのですよ。」

「はいはい、了解」

それが終わると、彼女は手早く自分の分を作り始める。
その間にわたしは2人分の飲み物を用意する。
わたしは蜂蜜を溶かし込んだミルク、アイリーンはブラックのコーヒーだ。飲み物の好みは、ミドルスクール時代に分かっていたことだ。
そうこうしているうちに彼女の分のフレンチトーストが出来上がる。
どうも彼女は両面しっかりとカリカリに・・・・・・それも少しばかり焦げ目が目立つぐらい焼いて、たっぷりとシナモンをかける派のようだ。
・・・・・・なぜ、シナモンをあんなにドバドバかけるのでしょうか。
わたしには少し分からないのですよ。

「うっ、それ、美味しいのですか?」

「おいしいよー、シナモンは。」

そう言いながら、自分のトーストをぱくつくアイリーン。
その姿はお母様にそっくりで。
これでその横にお父様がいてくれたなら―――そう思ってしまった。
だが、アイリーンはアイリーンだ。お母様では、無い。

「・・・・・・食べないの?」

「え、あ、ごめんなさい。」

―――今は目の前で幸せそうにシナモンまみれのパンを頬張る、無二の親友との朝食を楽しむべきなのです。

そう思い、意識をトーストに戻す。
一口頬張る。

サクッ

「・・・・・・おいしい、のですよ。」

パンに染みたミルクは多すぎもせず、バタくさくもなく、わたしの好きな銘柄のシロップの甘さが素晴らしい。

「いい仕事をしてくれるのですね。もしかして料理得意ですか?」

「どうなんだろう・・・・・・保護者がめったに仕事先から帰ってこないから、一通り料理は出来るけど・・・・・・普段は軽食ぐらいしか作らないし。まぁ、これでも何か作るのは好きなんだ。」

「そうなんですか、割と家庭的なんですね。結婚してください。」

「うんまぁ、その点はちょっと自信があるかな・・・・・・あとナチュラルに結婚してくださいって言わない。」

「冗談ですよ。」

「冗談が言えるなら・・・・・・まだ、アッリはアッリだよ。ウンディーネの。」

また、それか。自分が急にイラついてくるのが分かる・・・・・・親友のはずのアイリーンが、何故、そんなわたしをいらいらさせるような言葉を言ってくるのか。

「だから、昨日も言ったとおり、わたしの左腕は・・・・・・!!」

「・・・・・・。」

「お客様の安全も、わたしたちウンディーネは考えてなきゃいけないんですよ?突発事態に対処できないウンディーネなんて・・・・・・」

「いまさ、『わたしたち』って、言ったよね。まだアッリは。」

イライライライラ。

「なんで・・・・・・なんで、そう言えるんですか!わたしの気持ちも知らないで!お母様にお父様がいなくなって、ウンディーネにも成れなくなって!」

「ウンディーネには、なれるよ。あなたなら。」

「もういいです!あなたなんか嫌いです!!どうせ、根拠なんて無いんですよね!」

食べかけのトーストをアイリーンの顔に投げつける。
べチャッという音と共に彼女の顔にそれが張り付く・・・・・・わたしは、当てるつもりは無かった。避けてくれると思ってたのに。

「なんで、避けないのですか・・・・・・?」

「避けたくなかったから。ここで避けたらさ・・・・・・アッリ、潰れちゃうかもしれない。そう思って。」

「・・・・・・そんなこと、」

「あるよ。誰かが、アッリの心を受け止めなきゃいけない。避けたら、私がアッリのことを拒絶しているようなものだもの。」

「だから、避けなかったのですか!?」

「うん。」

そう言いながら、彼女は涼しい顔で顔に張り付いたトーストを取り、ティッシュで顔を拭いた。
彼女は・・・・・・どうして、いつもいつもいつも、そんなにわたしに尽くしてくれるのか。今だって、パンを投げつけたのに。

「そんなの・・・・・・偽善じゃ。」

「そうかもしれない。ここに第三者がいたら、五体満足の人間が何を言ってる、やっているって言うかもしれない。」

「だったら、こんなことやらないで!」

「ごめん、やらせて。それで、私のすることが嫌だったら・・・・・・正直に私のこと、嫌いになってくれてもいいよ?」

「ッ、そんな・・・・・・。」

「でも、私は絶対にあなたのことを嫌いになんかならないし、離れもしない・・・・・・けれど、私が傍にいるのを、あなたが嫌がるなら私は離れるしかないかな。
私はアッリに幸せそうな顔をしてほしいもの。それを阻害しているのが、私だったら。そのときは離れるよ。」

なんで、彼女はそこまで言えるのだろうか。
もし私が、アイリーンのような立場だったら・・・・・・絶対にこんなこと言えないし、やれない。
しかも、何も恐れずに・・・・・・いや、違う。よくよく見れば、彼女の体がわずかに震えているのが見える。
・・・・・・ああ、そうか。彼女もきっと怖いんだ。たぶん、私に嫌いって言われたのが。さらに拒絶されることが。
それでも、彼女は私を受け止めてくれた。
本当になんでそこまでできるんだろうか。

「・・・・・・・・・・・・もしかして、わたしのことが好きだからとか、そういう理由で「うん、そうだよ?」・・・・・・えっ?」

「あなたにこんなこと言うのも、するのも、みーんなあなたが好きだから。好きで好きでたまらないから。」

カァッッと顔が赤く火照るのが、はっきりと分かった。
それを隠すかのように、思わず冗談を言ってしまう。

「ま、まさか・・・・・・あなたがそんな趣味だったとは!?」

「ちょちょちょ待ってよ!何を想像してるの!さすがに女の子同士なんて趣味、無いから!」

「冗談ですよ、冗談。」

「クスッ。そっか・・・・・・その顔だよ。私が見たかったの。」

とても穏やかな笑顔をしたアイリーンが嬉しそうな声で言った。
わたしは、いつの間にか笑っていたようだった。
気づくと、彼女に対するイライラはどこかへ吹き飛んでいたようだ。
あんなに、わたしは苛立っていたのに。
・・・・・・彼女に『好き』って、言われただけで。
その事実にたどり着いたとき、わたしは更に顔を赤くする羽目になった。
・・・・・・わたしだって女の子同士なんて趣味、無い・・・・・・はずです、うん。
グルグル回り混乱する頭。そこに追い討ちをかけるかのごとく、アイリーンが言った。

「・・・・・・間違いなく、私が男だったら、嫁にもらいたくなる、ううん絶対にもらうって意気込むぐらいの笑顔だね、うん。」

「ふ、ふぁあ!何てこと言うんですか!?」

更に真っ赤になる顔。おそらくアイリーンの側から見れば、ユデタコのようになっていたに違いない。
それに気づいたアイリーンがニヤニヤとした顔を隠さずに、さらに追撃してくる。

「あれ、どうしたのアッリ?とても顔が真っ赤だけど・・・・・・もしかして熱かな?」

ピトッと、アイリーンがおでこを当ててくる。
なんというか・・・・・・何かがやばい気がしてくるので、すぐさま離れる。

「なっ、何するんですかぁ!?」

「あはは、ごめん。つい、おもしろくて・・・・・・。」

「私をこんなにしたんですよ?責任とってください。」

「え、えーと。つかぬ事をお聞きしますが、どうやって?」

「結婚してください。」

「・・・・・・う、火照った顔で上目遣い禁止!ダメッ!なんか目覚めそうだよっ!」

「ふふん、まだまだ甘いのですよっ!さっきのには、私も結構やばかったのですから!」

その後もワーワー騒いで、たぶん一月ぶりぐらいの笑顔をわたしは沢山して。
ああ、楽しい。やっぱり、彼女とはこうやって冗談を言い合ったりする方がいい。
本当に楽しくて・・・・・・なぜか、涙が出てきた。

「あ、あれ?なんでだろ。楽しいはずなのに、涙が出るほど笑ったわけじゃないのに、なんでこんなに。」

「大丈夫?アッリ。」

彼女はいつの間にか席を立って、わたしの後ろに回りこんで抱きしめてきた。
さっきわたしの投げたフレンチトーストの、調味液の甘いにおい。それに混じる、別のいい香りは彼女の使うシャンプーの匂いだろうか。

「・・・・・・ウンディーネに成ってほしいのも、今こうしているのも、全部、私の勝手な欲求。
そんなふうに自分の欲望を押し付けているんだから、私の事、本当に嫌いになってくれてもいい。
でも、今日一日。今日一日だけは、お願い。私に、あなたの知らないネオヴェネチアを・・・・・・『希望』を案内させて。」

「ばか。嫌いになんて、やっぱり、できません。あなたは、わたしの親友なんですから。
『希望』、かぁ・・・・・・では、今日一日、案内よろしくお願いします、ウンディーネさん。」

「あは、まかせて。あと、ありがと。やっぱり、私、あなたに嫌ってほしくなかったみたい。体の震えがぜんぜん止まらないんだ。」

彼女の体温も少し震える体も、じかに感じるほど、彼女の抱きしめる力が強くなる。
後ろから回された手に、自分の手を重ねると、不思議と安らいだ気持ちになってきた。きっと彼女も同じ気持ちなのだろう、体の震えがだんだんと収まってきた。

「『希望』・・・・・・どこにあるんでしょうね。」

「あなたが気づかないだけで、このネオヴェネチアには・・・・・・ううん、この世界には希望がそこらじゅうにある。今のアッリには、それが少し良く見えないだけなんだよ?」

「そうかもしれませんね。でも、アイリーンは、なんでそんな風に言えるのですか?」

「だって、昔にそのことを教えてくれたのはアッリだもの。だから、今度は私の番。私が見つけた、『希望』を教えてあげたい。」

わたしがアイリーンにそんなことを教えた覚えが無いのですが。

「・・・・・・あの。それは、どういうことですか?」

「んー、どういうことだろうね。ささっ、今はご飯食べよ?もう一度焼いてあげるから、ちゃんと食べてよ。お百姓様に叱られるよ。」

有無を言わせない空気をまといながら、彼女は静かに笑うだけで、それに答えてくれなかった。















アンネリーゼ・アンテロイネン(Anneliese・Anteroinen)中尉
『AQUA Coast Guard』第7管区所属・・・・・・非番
『マルコ・ポーロ国際宇宙港』



「うー!」

「おい。」

「やー!」

「おい!」

「たー!帰って来ました、ネオヴェネチア!ああ、久しぶりの我が故郷!」

「おい!!まったく、朝っぱらから、えらくハイテンションだな、お前は・・・・・・。って言うか、性格変わってないか?」

私と軍曹は、数ヶ月ぶりにこのネオヴェネチアの石畳を踏んでいた。
私の夫であるアドリアーノ・カッシーニ大佐は、まだこの星にはいないのが少し残念だ。
なんでも、アメリカ宇宙総軍に何かの訓練にオブザーバーとして呼ばれたそうだ。
まぁ、2、3日中には戻って来れるそうだから、それまでの辛抱だ。

「そりゃ、そうよー!夫に会えるんだもの!」

「ええい、分かったから、腕を振り回すのをやめろ。周りに迷惑だ。それに今は先に『AQUA Coast Guard』としての仕事を終わらせるぞ。騒ぐのはそれからだ。」

「うん、分かってるよ!あと、軍曹も性格が変わっているような。」

「変わらざるをえないだろうが。まったく、本当に分かっているのか、こいつは。制服を着ているときぐらい、頼むから、部隊にいる時と同じように振舞ってくれ。俺の身が持たん。普段は御し易いのに、夫が絡んだときばかりこいつは・・・・・・。」

とても憔悴しきった顔で言われた。確かに少し可哀想だったので、自重することにした。
それに、ここには遊ぶためだけに来たのではないので少し気を引き締める。
しかし、部隊にいるときと同じように振舞ったら、中尉と軍曹という徹底的な壁が存在するはずなのだが・・・・・・まったくそんなものは感じさせない。
そういえば、部隊では私、弄られ役だったなぁ・・・・・・反撃できたのかな。
・・・・・・やっぱりこれ以上はやめておこう。後の仕打ちが怖い・・・・・・下士官ズほど、私は恐ろしいものは無いと思っている。

「『SSSA(Solar System Speace Airline:太陽系航宙社)』所属の客船の乗客の安全を守るために、設置されている装備の確認かぁ・・・・・・正直、私たちがやる意味があるのかな?」

「病み上がりにはちょうどいい仕事だろ?と言うか、まだ完治して無いだろうが、その腕。」

「まぁ、そうなんだけど。」

あれから一ヶ月たったが、まだ腕は治りきってはいない。
ギブスは取れたが、医者によるとまだ激しい運動は控えてほしいらしく、私が現場に戻るのも、もう少しだけ先になりそうだった。
だが、一応は両腕を使えるので、それ以外の仕事を回された。
・・・・・・正直言って、あまりやる気がしないのだが。やっぱり私は、たとえ忙しくて、故郷に帰る機会がが少ないとしても、現場にいるほうが好みらしい。
この確認も立派に人のためになっているとはいえ、早く現場に戻りたい。

「いくらやる気が少ないからって、手なんか抜くなよ?それこそ、俺達の誇りに傷がつく。」

「手なんか抜くつもりは無いよ。でも、やっぱり私は現場かなぁ。」

「ま、そりゃそうだろうな・・・・・・俺もできるなら、現場のほうがいい。だが、所詮、現場は対処療法に過ぎん。一番重要なのはやっぱり、日ごろの準備や心構えだろ?」

当然そうだ。できることなら、私たちは出動してはいけない存在だ。
一番命が失われる可能性を低くするには、事故そのものが起きる可能性を減らさなくてはいけない。
それでも、宇宙と言うのは人が思う以上の事が良く起こる。
カールステッドに起こった事故の原因もそれのひとつだ。事故の調査の結果、あれは衝突感知装置が対応し切れないほどの超高速で飛来したコンテナが衝突したものだった。
衝突感知装置は付いていた・・・・・・つまり、アレクシス元大佐が装置をつけていなかったための事故じゃない。多少の名誉は守られたことになる。
だが、可能性を下げるために私たちは常日頃から努力し続けねばならないのだ。

「まぁ、今日やることは挨拶だけだ。しかも夜な。」

「だから、その前にアッリさんに会わないと。たしか、昨日か今日辺りにネオヴェネチア総合病院から退院だよね?」

「そのはずだが・・・・・・。」

「じゃあ、朝ごはんついでに、ここで食べよ?ここなら、病院から出てきてもすぐに分かるし。」

「そうだな、とりあえず腹に何か入れとかないとな。」

私たちは病院の出口付近を見ることのできるカフェレストランへと入って、そこで朝食をとることにした。
だが、私たちは知らなかった。
アッリ・カールステッドがすでに退院していたこと。
たとえ、今日退院だったとしても、彼女は病院の屋上から病院の職員のエアバイクに乗せてもらって、直接オレンジぷらねっとの本社前へ行ってしまい、このレストランからは見えないことを。
さらに、すでに私たちが友達にさせようとしたアイリーン・マーケットと彼女はすでに親友とも言える間柄だったことを。
全ては、私がアイリーンときちんとメールのやり取りをしていなかったことに起因していたわけで、自業自得なのだが。
兎も角、私達はこの時、出てくるはずの無い少女をほぼ丸一日待ち続けてしまったわけである。




































なんか、百合っぽくなっちゃったけど、そんな関係にさせる気はありません。
・・・・・・文章が増えない。短くてすいません。



[18214] 第一章 『スタートライン』 第三話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:997fd31b
Date: 2012/02/24 01:41
アッリ・カールステッド
『ネオ・ヴェネチア ミドルスクール』在校生



コッ、、コッ、、カッ
コッ、、コッ、、カッ
コッ、、コッ、、カッ
前を行くアイリーンの艶やかな長い黒髪が、テンポのいい足音と共に左右に揺れ動いている。
まだ冬の匂いを残した風がゆったりと吹いていく。耳を澄ませば、ネオヴェネチア中心部の喧騒がその風に乗って聞こえてくる。
わたしはアイリーンに手を引かれるまま、幾つかのカッレ(小道)にカンポ(広場)、カンピエッロ(小広場)を通り過ぎていた。
どこへ歩いているのだろうかと、わたしがおもいだした頃、あるカッレの中ほどで彼女の歩む速度はだんだんとゆっくりになり、やがて止まった。
目の前には猫の額ほどの小さなカンピエッロ。
中央には何の花だろうか、とても可愛らしい青い小さな花が植えられた鉢植えが置かれていた。
アッリは背伸びをすると、私のほうへ振り向いた。
この様子を見るに、ここがどうやら終着点のようだった。

「アッリ、ここだよ。」

アイリーンが指差した方向へ振り向くと、目の前にはひとつの店があった。
普通のお店なら看板がかかっているだろうところに、小さなゴンドラの模型がかかっていた。

「あの、ここは?」

「ん、スクエーロ(ゴンドラ工房)だよ。」

わたしが見えていない『希望』なるものを案内すると言っていたアイリーンに最初に案内された場所は、少しばかり、いやかなり場末の小さな一つの工房だった。
一見すると蔦が這い、古臭く、外観はお世辞にもきれいとは言えないが、なぜかわたしのココロを安心させるような雰囲気がそこにはあった。
工房と一体化しているらしい小さな店の、これまた小さなウインドーにはおそらくネオヴェネチアンガラスで作られたであろう、丸っこい姿の火星猫が飾ってある。
本来看板がかかっている場所には、ゴンドラの模型がかかっていた。
しかし今いるこの入り口からだと、たぶんあるだろうゴンドラや工房の中を見ることが出来ず、いまいち『スクエーロ』という気がしない。
そんな風に少し不審げなわたしの様子に気づいたのか、アイリーンはこう言ってきた。

「ねぇ、アッリ。ちょっとここの香りをかいでみなよ。まぁ、個人差があるだろうけど、たぶんスクエーロって分かるはずだよ。」

スンスンと匂いをかぐと、削りたての木の香りとか、ワックスの匂いとか、そんな諸々の匂いが交じり合った独特の不思議な香りがする。
・・・・・・なるほど、確かにこれは様々な匂いが醸しだす工房独特のにおいだ。以前、職人が多い所を通った時、漕いでる最中ずっとこんな感じの香りが漂っていた。
しかしそんな匂いの中に混じる、人工物的な、そしてツンとした、少し鼻につくような匂いがあった。
なにか工作機械でもあって、それに使うためのオイルか何かだろうか。

「こんなところに、こんなお店があったなんて、わたし知らなかったのですよ。」

「ふふっ、そりゃそうだろうね。ここはあんまり人が来ないし。私が知っているのだって、偶然だもの。」

「偶然、ですか?」

「そう、偶然。前にさ、ゴンドラ部の備品のゴンドラを盛大に壊しちゃったことがあったでしょ?」

1年ぐらい前になるか、確かにそんなことがあった。
脇道から運河に入るとき、スピードの出しすぎでヴァポレットの進路上に飛び出してしまったのが原因だったか。まぁとにかく大事にならなくて良かった、と部員一同で胸をなでおろしたことを覚えている。
わたしがそのことを思い出したのを察したのだろうか、アイリーンは再び喋りだした。

「でね、そのときにゴンドラの修理を頼んだのがこのお店なんだ。だから知ってるんだ、私。でもこのお店、水路に面した方はきっとアッリも目にしたことがあるはずだよ。だって、ここゴンドラ部の練習コースの遠回りルート上にあるんだもの。」

「へぇ、そうなんですか。」

「あはは、水路だけ覚えててもダメだよ、アッリ。立派なウンディーネになるためにはさ。」

そう言いながら、両手の人差し指をクロスさせてバッテンを作る彼女。

「むぅ・・・・・・。で、ですが、それ以前にわたしはもう一度ゴンドラに乗ると決めたわけじゃ。」

「さてさて、簡単な説明も終わったし、中に入ろっか。」

そう言いながらわたしの手を引っ張り、大きな黒字で『CLOSED』と書かれたボードが吊り下がっているドアのノブに手をかけた。
彼女はまたわたしの言葉を無視した。朝のようにとまではいかないけど、またわたしは怒ってもいいんじゃないだろうか。
わたしは無言でにらめ付け圧力をかけたのだが、彼女は歯牙にもかけずドアノブをガチャっと回した。
・・・・・・はぁ、まったくもう。
こうも考えられるぐらい、自分は余裕を持てれるようになったのだ、彼女のおかげで。
彼女がいなかったら、と思う。そうしたら私は、いまここにいない。昨日の時点で既にお父様お母様の元へ逝っていたんじゃないでしょうか。
そんないっぱいいっぱいのわたしを助けてくれた彼女には感謝している。
だから、わたしはアイリーンを強く止めない、思うままにさせます。
ひとつ以外は。

(わたしは・・・・・・貴女の期待に添えることはできないのですよ、きっと。)

少し翳りを見せた私の様子に気づいたのか、彼女はドアを開けるのをやめて振り向いて言った。

「どうしたの? 大丈夫?」

「あっ、ううん。なんでも無い、のですよ。」

そう言いながら、朝のように彼女はわたしを抱きしめた。
ナチュラルにそんなことをしてきた彼女に赤面する。
意識してやっていない分、性質が悪い。

「ん、そう? なら、いよいよ入ろうか。」

彼女はドアへ向き直り、先ほど開けかけたドアを今度こそ開けた。
・・・・・・しかしですね、アイリーン。わたしにはこの看板に『CLOSED』と書いてあるような気がするんですが?
もう一度見る。
うん『CLOSED』だ。もうこれで三度は目にしたんだ、見間違いだなんてことは無いはずだ。
つまり、だ。

「ちょ、ちょっと待ってください!まだこのお店、開いていないじゃないですか!」

「気にしないーい、気にしなーい。」

「気にしてください! 迷惑ですよ!」

「大丈夫、大丈夫! もし、謝らないといけない事態になっても、私がアッリのためなら体を張って謝るよ!」

胸を張って、自信満々にそういうことを言うアイリーン。
ちょっと頼もしいことを言っていますが、そういう問題じゃないと思うのですよ。そもそもこんな場面で使うような台詞じゃない。
ちなみに、今の台詞に朝の会話を少し、本当に少しばかり思い出して赤面してしまったのです、まる。
まったく、本当に何を言っているんでしょうかね、わたしは。さっきと云い朝と云い、ここのところちょっとおかしいような気もします。

「まぁまぁ、とにかく入ってみようか!それに、私があんなにウンディーネになれるって言った訳が、ここに居る・・・・・・違うか、あるんだよ。だから、ね?」

「なにが『ね?』ですか!?「それじゃ、Let`s GO!!」って、ああっ!」

ドアを開け、そのまま中へずかずか入っていくアイリーン。
ああ、もう!何をやっているのですか!はぁ、仕方ない。わたしも入ることにしましょうか。
まったく。彼女の保護者の顔が見てみたいものです。ちゃんと躾はやっているのでしょうか。



「へくちっ!」

「ん、どうした風邪か?それともあれか、マンホームの古典表現のひとつで、いまだに使われている伝統ある『誰かに噂されてのくしゃみ』ってやつか?だとしたら・・・・・・ベタ過ぎるとは思わないか?」

「わたしに聞かれても分からないよ。」

という会話を、ある病院の前でとある人物が退院するのをひたすら待っている一組の男女がしたそうだ。



仕方なく、本当に仕方なくわたしもアイリーンに続いて店に入ろうとする時に、ふと上を見上げると、ゴンドラの模型に何か文字が書いてあるのに気づいた。
ここの工房の名前、だろうか。

「Atelier・Alison、か。ん? アリソン・・・・・・どこかで聞いたような気がするのです。」


(挿絵のつもり お手数ですが、HTTP://WWW.PIXIV.NET/member_illust.php?mode=medium&illust_id=15871418と入れてくださると下手な挿絵が見れます)



















ガチャっと言う音の跡に、澄んだカランコロンというなじみの音が店内に響いた。
中は少し薄暗かったが、目がその暗さに慣れたときわたしは驚きの声を隠すことができなかった。

「ふっ、わぁぁ。これは・・・・・・。」

「『ようこそ、素敵でワクワクドキドキがいっぱいなゴンドラ・オール・創作アクセサリー・雑貨の工房、アトリエ・アリソンへ!』」

アイリーンがそうやたら長い口上を言ったが、わたしは周りに目を奪われ言葉を返せなかった。
わたしの目に一番最初に入ったのは、店の奥にゴンドラ、そしてオールのモックアップ(実物大模型)だった。
綺麗な外観の白いゴンドラ・・・・・・おそらくはプリマ(手袋無し)用のゴンドラだろうか。
横には黄色いラインが入っていて、それがアクセントになり単調になりがちな白にメリハリをつけていた。
どこかで見たようなゴンドラのような気もするが、さて、どこで見たのだったか。
さらに店内を見渡すと、なるほど外の見た目どおりにこの店は狭い。
が、そこには所狭しとゴンドラやオールの模型、ネオヴェネチアンガラスや木でできたゴンドラ用のアクセサリー、そして普通の(つまり人用の)アクセサリーや小物、雑貨までもが無造作に置かれていた。
でも、無造作に置かれている割にゴチャッとした感じを与えてこないのはどういう事なのだろうか。
しかもその量が半端がなく多くて、圧倒されて『これが全部落ちてきたら、間違いなくわたしは死んじゃいますね』みたいなよく分からない感想を抱いてしまうほどのものだった。
床に置かれた、あるいは天井から吊り下げられたそれらには、埃避けのためだろうか、丁寧に薄いベールがかぶせられていた。

「どう、驚いたでしょ? 私も最初はびっくりしたんだよ。」

「これは、ちょっと驚くのですよ。」

これを見て驚かない人はあまりいないんじゃないだろうか。
上を見ても横を見ても下を見ても、360度上下左右あらゆる方向がゴンドラやオール、アクセサリーや雑貨で埋まっている。
まるでゴンドラ好きのためにあるような店だ、わたしだったら一週間ここで時間をつぶせそうだ。

「うわぁ、すごいですね・・・・・・これ、少し可愛いんじゃないですか? どう思います、アイリーン?」

わたしはすぐ目の前にあった籠に埋もれていた、リボンに似せてあるらしい髪飾りを右手で手に取り、それを頭の横にポンッと付けずに置いて、アイリーンに見せた。
すると彼女は急にニコニコと微笑みだした。
なんでしょうか、似合わなかったのか。

「ふふふっ。」

「ん?どうしました、アイリーン。何かおかしいですか?」

やっぱり、どこか似合わなかったのでしょうか。
たしかにわたしはこういうものは似合わないでしょうね、きっと。
ところが、彼女が笑った理由は似合う似合わないと言う問題じゃなかった。

「いや、さ。やっぱり、朝の笑顔も素敵だったけど私はこっちのほうが、好きなものに夢中になってるアッリの方が好きだね。」

わたしがその言葉を理解する前に、アイリーンのあたたかい手が私の頬に触れる。
その瞬間、わたしは目を見開いたと思う。
そして、カァァァァァと朝のように。
まぁつまりはだ、本日二回目のユデタコなわけだ。
って、またか。だ、誰でもいいのでこのお馬鹿さんのアイリーンを早くどうにかしてください。
このままだと、本当にそっちの趣味の人へ・・・・・・や、やばいのですよ!
だれか、助けて!!

「・・・・・・それにしてもさ、アッリはやっぱりもう一度漕げるよ。」

いきなりのその言葉に火照りが冷める。

「え?」

「だって、店の中に入ったとき、一番最初に凝視してたの、あの奥のゴンドラとかオールでしょ?」

「そ、そうでしたけど・・・・・・この店に入ったら、一番目立つものはそれじゃないんですか?」

それにこのお店はスクエーロ(ゴンドラ工房)だ。当たり前に目が行くはずではないのか。
だが、どうも違うらしい。
それがそうじゃないんだよ、そうアイリーンは言った。

「前にここでバイトをしたことがあったんだけど、ここに入ってきた客はまず最初にアクセサリーに眼が行くんだ。ゴンドラ用じゃないほうだよ。・・・・・・でね? それは、なんとここを訪れるほとんどのウンディーネもそうなんだ。」

「でも、それってまた漕げるようになることとはまったく関係が、」

「うん、無いね。でも私はそう思っちゃたんだ。あ、気を悪くしたらごめんね! 思わず出ちゃった言葉だから。」

そう言う彼女はどこか、しまった、という困ったような顔をしていた。
彼女は結構思ったことをすぐに口に出してしまう、損なタイプの人間だ。
・・・・・・仕方が無い、と肩をすくめ言った。
でも、

「あ、いえ。大丈夫ですからそこまで深く頭を下げなくても。それに、少し元気が出てきました。」

「そっか、ありがと。」

そうお礼を言うアイリーンのはにかんだ顔は、とても可愛かった・・・・・・って、何を思ってるんだ、わたしは、また!
またもやカァァァァァと。

「ん? どったの?」

私の変化に気づいたアイリーンが顔を近づけてくる。
あなたが悪いのですよ、あなたが!
ああ、もう!
しんみりとなったと思ったら、次は顔が赤くなるほど照れる。 わたしってこんなに感情の起伏があるような人間でしたっけ?

「なんでも無いのです! と、ところで、このお店雑貨が多いですよね、本当にスクエーロなんですか?」

ここの雑貨の量は、スクエーロというよりも雑貨屋に近いものだ。

「うーん、小物、雑貨屋兼スクエーロってとこかな。ここを来る人の3分の2ぐらいは、そもそもここがスクエーロってことを知らないんだよ?」

「そ、そうなんですか。それって良いことなのでしょうか・・・・・・。」

悪いような気もするのですが、と続ける。
その言葉に、たしかにどうなんだろうね、とアイリーンも同意を示した。
実際どうなんだろうか。

「ここの主に聞けばいいんじゃないのかな?」

「そうですね・・・・・・あっ、そうでしたのです。ここに勝手に入ったことを謝らないと。」

周りの小物が可愛いかったし、ゴンドラにも興味を引かれていて、忘れていた。
なんてことだ、勝手に上がりこんで色々商品に触ってしまった。どうしよう・・・・・・。

「大丈夫、大丈夫。店員さんの事は私、良く知っているから。あの人達なら、怒らないよ。」

「あのですね、そういう問題じゃないのですよ。これは礼儀ですよ、アイリーンはそういうところがダメだと思うのです。」

「あはは・・・・・・ごめん。」

アイリーンは片手を顔の前に持ってきて、小さく礼をした。

「まったく・・・・・・で、その主さん、あるいは店員さんはどこにいるんです?」

そう言いながら、わたしはアイリーンからムギュッという音と共に一歩近づいた。
・・・・・・んん、なぜにムギュっ?

「そこにいるよ、アッリの下に。」

「へ?」

思わず間抜けな声を出してしまった。
しかし、下?どういうことなのです?とりあえず下を見ましょうか。
・・・・・・見なかったことにしたいのです。わたしやアイリーンと同じぐらいの少女の頭ををわたしは踏んづけている様子を。
ああ、なるほど。さっきのムギュッと言う音は彼女の頭を踏んづけた音だったのか、と納得。
ゴンドラの図面となにやらよく分からない文字の配列が書き込まれた端末に突っ伏して寝ている、青っぽい色の髪の毛をショートにした少女。頭には三角巾を巻いていた。
なんで気づかなかったのでしょうか。決してゴンドラやアクセサリーの山々に釘付けになっていて、足元がおろそかになっていたわけではないはずだ。
彼女はまるで周りの雑貨に偽装するかのように埋もれている。これでは踏んでしまうのも道理か。
いやそういう問題じゃないですよね・・・・・・。
しかし、彼女の周りのものがまったく崩れていないところを見ると、彼女はこの狭い空間で寝返りもしなかったのでしょうか。うっすらと髪の毛には埃が積もってるし。
はっ、いけないいけない。
なんだか呻き始めているような気がするし、このまま頭を踏んづけたまま冷静に観察をしている場合じゃない。
とりあえず足をどけようとした時、

「・・・・・・ふわ・・・・・・あれ?お客様、なのかしら?」

その少女はもぞもぞ動き出し、わたしに踏んづけられた状態のまま起きてしまった。
わたしはとっさに、謝った。ここまではいい、頭を踏みつけていたのだから謝るのは普通だろう。
ただ状況が問題だった。

「ごめんなさい!」

なぜか、本当に何故なのかは分からないが・・・・・・足もどけずに。

「ほへ? どういうことかしら? ごめんなさい、寝起きでよく分からないのだけど・・・・・・お客様なのかしら?」

踏みつけられている状態なのに、この少女はいたって普通に応対している。
正直、寝ぼけてるのも度があると思った、彼女には。

「ぷっ、くすくす、あっはっは!」

この場には、わたしとわたしが踏んづけている少女。
そしてその横には、その会話を見て吹き出し、肩を震わせ、そして耐え切れずに大きな声で笑い出したアイリーンがいました。
とても滑稽な状況で会話しているわたしとその少女を横で笑うアイリーンにちょっと腹が立ってきたのですが・・・・・・。


そしてポカッと。


シュ~という擬音でもしてしまいそうな、出来立ての見事なたんこぶを頭のてっぺんに拵えたアイリーンと、ようやく普通の体勢(つまりは立ち上がった、と言う事)に戻った謎の少女。
アイリーンには勢いでちょっと強く叩いてしまいましたが、結構痛そうですね・・・・・・自分で叩いておいてなんですが。
でも、あの場面ではわたしは怒ってもいいと思う。

「ごめんなさい、痛かったですか?」

「あはは、ちょっと痛かったかな~。まぁ、私も調子に乗りすぎちゃったかな、ごめんね。」

とりあえず彼女は謝ってくれたのでこれでよしとする、問題はこの少女のほうなのだ。

「あの、貴女も大丈夫でしたか? すいません、踏みつけたままでいて。」

そう言いながら、わたしは先ほどまで自分の足で踏んでいた少女にペコリと頭を下げた。

「ふふっ、大丈夫よ。こう見えて、私は結構頑丈なの、かしら?」

「何故疑問形で返すんですか、分からないですよ。まぁ、大丈夫ならいいんですけど・・・・・・ごめんなさい。」

わたしがもう一度頭を下げると、彼女は微笑みながら「よろしい」と言うと、服をパタパタと叩き、こちらに視線を向けて、なぜか小首をかしげて言った。

「さてと、じゃ、そろそろ紹介? 私はアリソン。アリソン・エレット。ようこそ、私の工房アトリエ・アリソンへ?」



[18214] 第一章 『スタートライン』 第四話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:17930650
Date: 2012/02/24 01:42
アッリ・カールステッド(Alli・Carlstedt)
『ネオ・ヴェネチア ミドルスクール』在校生
『Atelier・Alison』 



アリソン・エレットと名乗った、語尾にクエッションマークでもつきそうな奇妙なイントネーションで話すその少女。
顔立ちからたぶん年はわたし達と、あまり大して変わらないように見える・・・・・・でも、どこか大人びた雰囲気をまとっていた。
語尾に疑問符がつきそうな独特のイントネーションといい、この雰囲気といい少し不思議な少女はこの工房の主のようだ。
たしかに、このスクエーロとも雑貨屋とも言いがたい不思議な雰囲気の店にはとてもあっているように思えるのです。
でも、わたしにはどうもそうは思えなかった。
わたしと同じぐらいの年―――15,6ぐらいで、小さいとはいえ一端の工房を運営していけるのだろうか。

「その顔は疑っている? それも仕方がない?」

エレットさんはわたしの様子を伺い、思案するそぶりを見せながらそう言った。
しばし考える様子を見せた後、彼女はわたしに口を開いた。

「じゃ、少し訂正。父さんが帰ってくるまではここは私の工房? 本来は父さんの工房なの。」

なんでも彼女はここの工房は自分の物ではなく、臨時に預かっているだけと言う。
しかし、店先に掛かっていた看板には確かに『Atelier・Alison』、『アリソン』と彼女の名前が書かれていたのだが。
自分自身の名を工房名にしている人は結構多いはずだ。
そう思っていたので、ここも彼女のお店だと思ったのですが、違ったのでしょうか。
そもそも工房名が自身の名=その工房の主と言う考え自体が違ったのでしょうか。

「ふふふ、それはうちの父さんの親ばか? 私はネオヴェネチアの学校に行かずに他の都市の学校へ行っていたのだけれど、その間に勝手に私の名前を付けたの?」

「なるほど、娘の名前を工房の名前にしたんですか、たぶんそれは寂しかったからなんでしょうね・・・・・・確かに、少々親ばかですね。」

そういえば、お父様も自分の競技用拳銃になぜか私の名前を彫っていましたが、今考えるとそれもまたずいぶんと親バカだったのですね。
いつも傍にいて応援してくれたお母様とは違う愛し方をしていたんだなぁと・・・・・・。
記憶のページを捲ればどんどこどんどこ溢れて来るそんな思い出。
・・・・・・でも、もうそれは『思い出』にしか過ぎないのだ。
それらはもはや絶対に増えることもない。
あ、しまった、と思う。
昨日アイリーンにあれだけ泣いてから、心配をかけまいと泣かないようにしてきたのに。
できるだけ両親のことは考えないようにしてきたのに。
いつもどおりを心がけてきたつもりだったのに。
また、また涙腺が緩んできた、ホロホロと涙がこぼれそうになってくる。

「えいっ!」

「あ、ひゃうっ!」

だが、涙が零れ落ちる前にアイリーンが後ろからギュッと強く抱きしめてきた。
トクントクンというアイリーンの心音と体温がわたしを落ち着かせる。
抱き疲れた瞬間は正直驚いたが、そのおかげで泣かずにすんだ。
親友ともいえるアイリーンの前ならともかく、初対面の人の前で泣くなんてみっともないし、恥ずかしい。
そうならなくて良かった。

「人前で泣きたくないのは知ってるよ。アッリ、大丈夫?」

小さく笑いながらそう小声で問いかけてくるアイリーンを見やる。
・・・・・・まったく彼女には敵わないのですね。

「はい、大丈夫ですから、離れてくれませんか?」

いつまでもこうして抱きつかれた状態は恥ずかしい。
しかも今は人の目があるのだから、すぐに離れてほしいのですが。
でもちょっとだけ、もう少しだけこうしていたいような・・・・・・。

「ふふっ、仲がいいのね、二人は?」

エレットさんのそんな言葉に、そうだよーと間髪いれず即答するアイリーン。
まあ・・・・・・否定はしませんけどね。
ええい、否定はしませんから強く抱きしめないでください!
まぁ、ともかくエレットさんには泣きそうになったところは気づかれなかったようだ。

「ところで、自己紹介してくれる? 初対面だから?」

おおっと、そういえば、どたばたしていたせいですっかり忘れてしまっていました。
それでは、ゴホン。

「私は「アッリだよ、アッリ・カールステッド。私が『あの子達』を使わせたいなぁって、いつも言っていた女の子だよ。」、むぅ。」

・・・・・・突然、アイリーンがわたしの自己紹介に割り込んできたのですよ。
あと後ろから抱きついたまま紹介しないでください!
恥ずかしいじゃないですか。
ところで、『あの子』って誰なのでしょうか。

「そう、貴女が・・・・・・話は聞いていたけど。それにしても、アッリちゃんね・・・・・・アッリ、アッリ? あれ、どうしようかしら?」

そう言いながら、エレットさんは頬に指を当てあーでもないこーでもないと呟いている。
何か、考えているんでしょうか。

「あの、どうしたんですか? 何かわたしの名前に気になるところでも?」

「そうじゃないのよ、そうじゃ・・・・・・う~ん?」

「???」

「アリソンはね、アッリの渾名をどうするか悩んでるんだよ。」

アイリーンがそう説明した。
なんでも、エレットさんは人のあだ名を考えることが好きらしく、例えばアイリーンの場合はリーンという風に名前の後ろの部分からつける事が多いらしい。
で、わたしの名前である『アッリ』はそのようにあだ名をつけられないから、彼女は悩んでいるらしい。
なるほど。

「う~ん、だったらAlliを逆に読んでIlaでアイラ・・・・・・それとも、リア? どうしよう・・・・・・?」

「あの、エレットさん。わたしは何と呼ばれても大丈夫ですから、そんなに拘らなくても。」

別にわたしはどう呼ばれようが気にはしないので、そんなに悩む必要は無いんじゃないか、と思って言ってみると。

「私が困るの!?」

なぜか怒鳴られてしまいました。
彼女にとってあだ名を付けるということは、もしかしたら初対面の人に対する彼女の儀式みたいなものかもしれません。
それにしたって、人前でやるのはどうかと思うのですが。
そして、その後数分もうんうん唸っていましたが、ようやく決まったようです。
ところで、その瞬間に彼女の頭の上にティンという音ともに豆電球が光ったように見えたのは気のせいでしょうか。

「うん、決めた? Alli・Caでアリカちゃんで決定? 家系がわかるようにファミリーネームの頭文字を取り入れてみたの?」

「おおう、いつもとはぜんぜん違う命名法則ではないんじゃないですか?」

「う~ん、だってどうもどれもシックリこなかったから? とにかく、これから私はアリカちゃんって呼ぶことにする?」

Alli・Caでアリカ・・・・・・Carlstedt家のCaが入っているのは正直嬉しいのですよ。
もうカールステッドの名を持つ家族はいないのですから。

「アッリ?」

心配そうに顔を覗き込んでくるアイリーンに、笑って大丈夫だと返す。
そっか、と小さくアイリーンも笑う。
大丈夫、だと思うのです。
あなたがいてくれる今は、まだ、誤魔化せられる。
なんとか、いつものように笑っていられるのですよ。

「んーと、それじゃ本題に入ってもいいかな、アリソン?」

アイリーンはいつになく真剣な顔になると、そう切り出した。
・・・・・・でも、シュールですね。アイリーンはまだ抱きついたままなのですよ。

「えっと、その前に一つ質問。なんでリーンがいる? バイトは今日じゃないのに?」

エレットさんは不思議そうにわたしにいまだ抱きついている(エレットさんが悩んでいる間もずっと!)のアイリーンに聞いた。
アイリーンはひとつため息をつくと、こう答えた。

「一つはアッリのため。アッリに紹介したいものがあるから。もう一つは・・・・・・いつもの『アレ』だよ。」

「・・・・・・ええと。もしかしなくても、私、またやっちゃった?」

なんだかエレットさんの声が震えているような気がするのです。

「ふぅ、アリソン。もう10時回っちゃってるよ。私が起こしに来ない時はいつもだね、まったくさ。若いとはいえ立派な社会人なんだから、朝7時までには起きて開店準備ぐらいするべきだよ。」

10時を回っている、アイリーンのその言葉にエレットさんの顔が即座に青くなる。
怯えすらふくんだ声で、エレットさんはしゃべった。

「もう一度確認する? 私、寝坊した?」

「うん。アルフォンソおじさんに知られたら、またかって怒鳴られちゃうよ。」

若干苦笑しながらアイリーンは肯定を返す。
その言葉によって土気色、とでも言うんでしょうか血の気のなくなった顔を手で覆い、体をビクビクと震わすエレットさん。
なんだか、怯える小動物みたいに見えて可愛いと思ったのは秘密です。
そしてエレットさんは自身で時計を確認する。
10時15分ぐらい・・・・・・たしかにとっくに10時は回っている。

「ちょ、ちょ、ちょっと待っててね、二人とも!」

ドタ、バタ、ガシャ、ゴチャ・・・・・・

エレットさんはそう言葉を残して、三角巾をはずしながら何かとぶつかる音ともに奥のほうへ駆け込んでいった。
はて?
よくわかりませんが、一連のことから彼女にとってなにか恐ろしいことがおきたようですね。
たぶん、『寝坊』したから・・・・・・これはいったい全体どういうことなのでしょうね?
なんだか私にとって良くない予感がするのですよ。

「あの、アイリーン。これはどういうことですか?」

「う~んとね。ここでバイトしていたこともある・・・・・・っていうか今もしているんだけど。で、私は彼女に『自分はお寝坊さんだから起こしてくれ』って頼まれていたから、起こしてあげようと思ったんだけど。」

むむむ、これはどうしましょうか。
お店が開いていないのに勝手に店内に入るのは、ご法度です。
ですが、アイリーンはここのバイトです、店員さんです。なら、始業時間までに起きずに寝坊してしまった店長を起こすのは、たぶん大して問題は無いはずだ。
ましてや、頼まれたこととあっては・・・・・・つまりですね、さっきのことは。

「アッリの取り越し苦労だね!」

そうにこやかに言葉を返すアイリーンにわたしは青筋を浮かべたはずだ。
そして、黙って腕まくりをする。

「アイリーン、もう一回叩かれておきますか? そういうことは先に言っておいてください。」

「うっ、叩かれるのは嫌だね・・・・・・いやさ、どうなるかなーって思ってやっちゃたんだ。ごめん。」

「いつも言ってますが、いい加減に懲りてください。」

そう言えば、わたしが落ち込んでいる時、彼女はいつもこんな感じに茶目っ気を発揮していましたね。
落ち込んでいるときのわたしは、そんな彼女に時々イラついていたのですが。
・・・・・・ああ、そうか。
それは彼女なりの元気付けの仕方だったのだろう・・・・・・いつもは他人に対して、こういう悪戯っ気は全く出していなかったから、たぶんそうだろう。
やっと、気づいた。

「アイリーンの言うとおり、『宝物』はただ単に見えないだけなのかもしれませんね。」

しかし、そんな元気のつけ方はどうかと思うのですよ。人によっては、むしろ逆効果のときもあるのですからね。
でも、いままでありがとう、なのですよアイリーン。

「ん? アッリ、なにか言った?」

「いいえ、なんでもありませんよ。ところで、なのですが。」

話を変えて、感謝の気持ちを隠すことにする・・・・・・恥ずかしいから。

「いつまで抱きついているつもりですか。」

エレットさんが戻ってきても抱きついていそうな雰囲気なので、話を変えるついでにそう言っておく。
というか、最初からいままで―――時間にして10数分―――ずっと抱きついていたのです、アイリーンは。
いくらなんでも長すぎでしょう。
それにさっきから『あたって』いるのですよ、柔らかなアレが。
自分でいつも薄いだなんだ言っていますが、密着しているとソレとわかるぐらいにはあるのですよ。
同性といえども朝から大好きだなんだと言われている状態で、それに長年の行為に対する感謝を(内心でとはいえ)したばかりで、このシチュエーションにドギマギするのは・・・・・・健全ですよね、ね。
おかしくなんか、ないですよね、そうですよね。
とりあえず、脳内の誰かさんに尋ねてみた。

「ありゃりゃ、そう言われるといつまでも抱きついていたいなぁ、なんて。」

「いやですね、わたしはエレットさんに誤解はされたくないのですよ。」

「う~ん、アッリが嫌がるならやめようかな。私はアッリが嫌なことは、あまりしたくないし。」

ヒョイっ

そう言って、アイリーンはようやく離れてくれた。
離れた体温に名残惜しそうに、声を漏らしそうに成ってしまいましたが、ぎりぎりのところで踏ん張ることが出来たのです、ホッ。
そしてちょうどそこへエレットさんが戻ってくる。

「えー、もう抱きつくのやめちゃったの? せっかく写真に残しておこうと思ったのに。」

戻ってきたエレットさん―――作業着らしいツナギ姿からどこか民族衣装のような雰囲気を持った服装に変わっていた―――は、口を尖らせてそう言った。
悪戯をしようとして失敗した子供のような顔の彼女の手には一台のカメラが。
さっきまでの大人びた雰囲気にかわり見た目どおりの子供っぽさが感じられた。
やはり、よくわからない人だ。

「可愛い女の子が仲良くしている姿を見ると、微笑ましいじゃない? ああ、もう少し早く頭が覚醒していれば、ほえほえすることが出来たのに・・・・・・悪かった?」

「悪いです。肖像権の侵害です、訴えますよ?」

「あら、それは嫌ね。分かった?」

そう言うとエレットさんはカメラをポケットに収めた。
ほえほえとはどういう意味なのか分かりませんが、もしかしてそっちの趣味の人なんでしょうか。
まぁ、趣味は人それぞれなのでかまいませんが、その趣味に巻き込まれたくはありません。

「ふふ、誤解してるでしょ、今? ちゃんと私には好きな人がいるわ、もちろん男性のね?」

「ほっ、それはよかったのですよ。」

「でね、その人なんだけど・・・・・・「あ、アリソン。いい加減本題に入ってもいいかな?」あら、そういえばそうね。」

またしてもアイリーンは人の話をさえぎって・・・・・・たとえ、『本題』とやらが重要でも、失礼とは思わないのですかね。
ここは一つ言っておかなくては。

「あのですね、アイリーン。そうやって人の話を遮るのはよくないですよ。その『本題』だってそんなに急ぐ必要があるんですか?」

「ごめん。アリソンはその人の話になると、全然止まらないんだ・・・・・・私が前聞かされたときは半日つぶしたんだよ? 他人の惚気話をそんなに長く聞いていられる?」

うっ、ソレはきついものがあります。

「二人で何を話しているの?」

「ま、まぁ色々と。そ、それでアイリーン。本題って何ですか?」

「そうね、私も気になる? まぁ、予想はつくけどね?」

先ほどとは違い、抱きついてないのでちゃんと真剣に見えるのです。
そしてこう切り出した。

「アリソン。例の子達、オートフラップ付オールとその管制用AI『リップル』をアッリのリハビリのために使わせて欲しい・・・・・・もしかしたら、それがアッリにとって希望になるかもしれないから。」





















アンネリーゼ・アンテロイネン(Anneliese・Anteroinen)
『AQUA Coast Guard』中尉 第7管区所属
ネオヴェネチア中央総合病院 



「だめだ。やはり、もう退院したらしい。昨日の夕方に退院し、そのまま局員のエアバイクでオレンジプラネット本社前へ移動。そのまま自宅へ帰って、現在はある店内にいるらしいな。」

「やっぱりか~・・・・・・でも、どうして現在位置まで分かるの?」

「たしか生体義肢装着者は術後数週間の間、患者の生体データや位置情報を逐一送るデータリンク機能を搭載したリストバンドを巻くよう定められていたはずだ、たぶんそれでだろう。」

「そっか、でも大丈夫かな・・・・・・。」

私ことアンネリーゼと我が隊の誇る軍曹殿は日も高く上ってきたのに出てこないアッリに痺れを切らして(主に私が)病院に勤めている軍曹の知り合いに聞いてみると、『もう退院した』ということだった。
入院期間中は極めて落ち着いていたらしいが、大丈夫だろうか。

「データリンクで送られてくるデータは極めて正常だ。少なくとも、お前の予想している最悪のケースじゃないぞ。」

「そう。良かったぁ。」

「ふぅ、全く・・・・・・病院側も患者が置かれた状況のことは知っているんだ。そういうところのサポートぐらいしてる、そう心配することは無いと言っただろうが。」

知り合いに連絡を取って、頼み込んだらずいぶん御執心なんですねとからかわれちまったぞ、全く・・・・・・そう言って、彼は頭を掻いた。
いや、まぁ・・・・・・心配してのことなんだから、いいじゃない。
とにかく、自宅に帰っても『最悪のケース』にはなっていないから、安心していいかもしれない。
流石はあのアレクシス大佐とアルマ教官の子供だ、きっと心が強いのだろう。

「ところで、あるお店って?」

ふと疑問に思ったことを口にしてみる。
彼が『あるお店』と言ったとき、少し笑ったからだ。

「俺達の知っている店、あの工房だ。『Atelier・Alison』。」

「ああ、あの! ジノの彼女さんがいるところじゃないの。」

『Atelier・Alison』は私達の古い知り合いが経営している小さなスクエーロだ。
最近、なぜか雑貨屋さんの方が有名になりだしているいるが、それはその知り合いの娘が関係している。
その娘―――親友のジノの彼女さん―――は、大学を出た後すぐにスクエーロとしての勉強を始め、いまでは大学で得た知識をゴンドラ造りに生かそうとしているらしい。
で、その片手間にいろいろな雑貨のデザインや製作をしてそれを店においていったのだが、それが予想以上に反響を呼んでしまい今の状況になったらしい。
しかし片手間でこの人気ならば、本気でデザイナーをやりだしたらどうなるのだろうか。

「でも、なんでそんな所にアッリさんがいるのかな?」

「さあな。で、行くのか? 場所は分かった以上、お前のしたかったこと―――養子縁組を持ちかけること―――も、すぐに実行可能だが。」

「んー・・・・・・やめとく。」

私が養子縁組を持ちかけたかったのは、すぐそばに誰か支えてくれる人が必要だと思ったからなのだが、病院から送られてきた身体情報のデータを見ると昨日の夕方と朝に少し心拍数が上がっただけで、極めて安定しているらしいし、なにより入院中見舞いにしょっちゅう来ていた少女がいるらしい。
その少女は退院日だけでなく、またアッリさんと一緒に生活するから自宅で注意すべきことは何かということまで、アッリさんの担当医に聞いていたらしい。
私達のような見ず知らずの大人から養子縁組を持ちかけられるより、その少女と一緒に生活したほうがずっといいはずだと思う。
なにより、たとえ養子縁組を組んだとしても私や夫は大抵家にいないから大して意味が無いんじゃないかと思ったのもある。
また、あの遺品も彼女が新しい生活に落ち着くまで渡さないほうがいいはずだ。
軍曹も私と同じ結論に達したようで、私の言葉にこう答えた。

「そうか・・・・・・まぁな、同世代の友人の方が俺もいいと思う。」

「うん。」

「でだ、どうするんだ。これから。」

そう、これで午後の予定が開いてしまった。
挨拶に行くのはマルコ・ポーロ国際宇宙港が静まった深夜だから、まだまだ随分と先の話だ。

「んー、そうだね。どうしよっか。」

「どうするったって、そりゃ・・・・・・。」

しかし、幸運なことに今日はちょうどあることが行われる日なのだ。
私と軍曹の目線は一通のメールに注がれる。
その文面は・・・・・・

『大先輩方!
 久しぶりに私達の海へ潜りに来ませんか!
 後輩ズも全員集合ですヨ!
 
 あ、こらバカピカリ、何、先に勝手に音声入力してんの!
 ああ、もう!
 先輩方、忙しくなかったらで構いませんから久しぶりに一緒に潜りに行きませんか?
 
 姉ちゃん、先輩達誘うのもいいけれど、そろそろ原稿上げてくれないか?
 
 うっさい!
 〆切はまだ一週間も先でしょ、いつも間に合わせてるからいいじゃない! ゲシッ!!
 
 あぐっ!
 
 また無理かもしれませんけど、私達はいつもあの海で待っています。
 追伸:あ、あのまだあの味に及びませんけれど、トン汁も作ります!
 
 集合場所 喫茶『夢ヶ丘』 
 byネオヴェネチアハイスクール ダイビング部OB・OG一同。』

お互いに顔を見合う。
軍曹の顔は私達が少年少女だったころいつもしていた顔、つまりは弾けるような笑顔をしていた。
きっと私も同じ顔をしているだろう。

「あいつらもかわらないんだな。」

「ふふっ、全くね。」

彼らのこのやり取り・・・・・・ハイスクールを卒業して、それぞれが自分の道を進んでいても何一つ変わらないことが可笑しかった。

「しかし、ちょうど良いときに送ってきたもんだな。で、どうする?」

「行くしかないよ、せっかく誘ってくれたんだしね。」

「そうだな、行くしかないな。」

足取りも軽く、私達は病院の前から歩き出した。



[18214] 第一章 『スタートライン』 第五話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:17930650
Date: 2012/02/24 01:42
アッリ・カールステッド(Alli・Carlstedt)
『ネオ・ヴェネチア ミドルスクール』在校生
『Atelier・Alison』


「オートフラップ付オールとその管制用AI『リップル』、ですか・・・・・・?」

「うん、アッリに見せたかったもの。今日ここへ来た最大の理由。で、アリソン。答えは? もし使うとして、お金はいくらぐらい払えばいい?」

「やっぱり? ここのところ、貴女がデータ取りにいやに熱心にやっていたことと貴女との会話の中でたびたび出てくるようになった手が不自由な人の話・・・・・・それらから大体は予想がつく?」

「流石だね・・・・・・で、結局どれぐらい?」

どんどん話を進めようとするアイリーンとエレットさん・・・・・・ちょ、ちょっと待ってください。
そもそも、わたしには『オートフラップ付オールとその管制用AI『リップル』』とやら自体がさっぱりわからないのですが!?

「まってリーン。アリカちゃんが困ってる? まずはあの子達の紹介をしてあげないと?」

「ああ、そういえば何も説明していなかったね。えっと、なんて言うのかな。アリソン、代わりに説明してくれないかな?」

自分でわたしに使わせようとしているものを説明しないんですか。
まぁ、アイリーンですからね。
あと本当にわたしのことは『アリカ』って呼ぶことにしたんですね、エレットさんは。

「じゃ、そうする? まずはオートフラップ付オールのほうから紹介するから?」

ガサゴソ、コトン。

エレットさんは周りの品物を片付けて一定のスペースを作ると、奥のほうから一本のオールを持ってきた。
その滑らかな流線型の先端部を持つそれを、パッと見るとそれはまるで舟をこぐためのオールというより、空を飛ぶ飛行機の翼のように思えた。
そして、その翼にはまたさらに小さな羽がいくつか付いていた。

「これがオートフラップ付オール、この子の持つ最大の長所は、水流の偏向能力『ベクタード』?」

「あの、ベクタードって何ですか? 偏向?」

「本格的に喋ると、小難しい理論の集合体になってしまうから、噛み砕いて言うと・・・・・・。」

そう言ってエレットさんが説明するには、オールの先端部分の水かきに相当する部分に大昔の飛行機についていたフラップのような可動式の小さな翼を持ちその中に水流を制御する能力を持った機器が内蔵されているとのことらしい。

「それが、ここと・・・・・・ここと・・・・・・ここと・・・・・・ここ?」

エレットさんの白い指がオールの上をすべり、フラップのある位置を指し示していく。
場所は、ええと・・・・・・先端部に二箇所、左右に一箇所ずつ。
んで、その水流を制御する能力というのが『ベクタード』で、それはシルフ達も使うエアバイクやサラマンダーたちの仕事場である浮島に用いられている技術の応用により、このオールの周りを渦巻く水を制御することを可能にした技術なのだそうだ。
エアバイクを浮かせる力場のようなものを水中に発生させることによって、オールを漕いだ際の水の動きの変化を制御するとかなんとか。
エレットさんによれば、これでも細かく噛み砕いた説明なのだそうだが・・・・・・かなり専門用語が多いと思うのですよ。
ナントカ機関だとか、ナンチャラフィールド発生器だとか、カントカの法則だとか、云々。
隣で一緒に聞いていたアイリーンはいつのまにやら、頭からシュ~という音でも上げそうな白煙を上げて撃墜されているのですよ。

「・・・・・・それで、主任技術者のサナダ氏が開発した・・・・・・。」

「あ、あの。もうちょっと、もうちょっと簡単になりませんか?」

「ん? もしかして、難しくなっちゃった?」

「は、はい・・・・・・。」

最初のほうは分かりやすく説明しようとする気があったようですが、もうそんな気ありませんよね?

「ごめん? 専門分野になるとちょっと夢中になってしまうことがあるから? ええと、それじゃあ分かりやすく言うと・・・・・・極端に言えば、魔法みたいに水を操ることが可能なオール?」

その力を使うと、最初に少し力を加えてやれば止まることなく、なんとオールが『泳ぐ』ことが出来るそうだ。
独りでに水面を滑らかに切って進むオールの勇姿?を想像してみると・・・・・・とてもシュールな絵なのです、それは。

「えっと、説明だけじゃ分からない? ちょっとこの子を起動してみる?」

「あ、はい。お願いします。」

「じゃあ、リーン?」

「了解、了解。」

エレットさんからオールを手渡されたアイリーンは、それをゴンドラ漕ぎのように握り、オールの柄部分の一部の突起を押した。

カチッ・・・・・・フオン、フオォン、フオォオン、、、、。

「おおおう、これは!」

機械の駆動音のようなものがなりだすと、無風のはずの店内に風を感じた。これは、エアバイクが空に飛び立つときの感じに似ているのですよ。
最初は小さかった駆動音が段々と大きく低く唸るのしたがって、感じ始めた風の勢いが強くなっていった。
そして次の瞬間なのです。

「よーし、そぉーれっ!」

ブワッ!

アイリーンの掛け声とともに、突風のようなものが顔にぶつかった・・・・・・エアバイクが宙に飛び上がったときのダウンウォッシュ、そうあんな感じの。
だけどその風の強さの割りに店内はひどく穏やかだ。
あの風の強さなら周りのものが少しぐらい乱れていても不思議じゃないのに。

「ふふ、やっぱりアッリも驚くよね。けど、これだけじゃないんだよ。アッリ、ちょっと降参のポーズとってみて。」

「こう、ですか?」

アイリーンに言われるがまま両手を挙げる。
すると、顔にだけ風が当たっている感じがする、両手には全く何も感じない。
アイリーンは今当たっている風が両手に当たったら手を下げて、と言った。

「んで、このオールを・・・・・・よいしょぉっと!」

いきなりアイリーンがオールを大きく振り回し始めたのですよ、それじゃ風の流れも変わって・・・・・・しまわない?
両手は挙げたままである。

「どう? すごいでしょ? こんなに大げさに振り回しても風の流れは変わらない、『ベクタード』によって風を制御しているから。これを水に当てはめるように応用すれば、アッリの左腕が変に反応しても、オールを落としたり船の操船を誤ったりはしないと思うよ。」

「この子のすごさ、分かった? でも、この子は元からあった水流をうまく扱うことしか出来ない。空気や風と違って、水の力というのは存外に強くて重くて、この程度の力では無理やり最初から水流を生むことは不可能? だから、使い手がまずしっかりと漕ぎ始めなければいけない。」

このオールが出来る事はせいぜいがその程度らしい。
水流を自ら起こして泳ぎ始めることはできず、発生した水流を利用するのだそうだ。
もう少し出力が大きくて、発声する力場も力強いものだったならば、全て自力で泳げるそうなのだが。
なんでも、オールに、それも小さなフラップに内蔵するために小型化をした結果、出力が原型になったエアバイクの駆動部より遥かにパワーダウンしたんだそうだ。
だから、あくまでウンディーネのサポートしかできない。
ふと、疑問がわく。

「あれ? だったら、それって別にオールにつける必要はないんじゃないですか? 舟のどこかにつければ、素人考えですが前に進むことができるんじゃないですか? 舟だったら、もっと大きくても良いじゃないですか。」

「ん、それも考えた? マンホームの太平洋上に浮かぶ巨大ギガフロートにはサイズがとんでもなく大きいだけで、これと全く同じ技術が用いられている? けど、それじゃあウンディーネは廃業?」

「・・・・・・え。」

観光案内は機械音声と記憶装置、ゴンドラの航行はこの技術と後はGPSによる誘導で。それでウンディーネを代用できるシステムが完成する。しかも絶対に観光案内を間違えることも無いし、操船を誤って事故を起こすことも無いだろう完璧なシステム。
エレットさんによれば、それが今の技術ならたやすく可能なはずらしい。
更にこう言った。
人間が出来ることのほとんどをもう機械は代わりにやれる、と。

「でもね、そんなすごい機械でも不可能なことがある? それは営みを創ること。」

「営みを、創ること?」

「人がそこにいるって言う温かみ、人と人とがつながる絆、そこに人がいるから生まれる世界の色。抽象的だけど分かる?」

「なんとなく、ですが。」

例えばウンディーネで考えてみれば。
・・・・・・人が違えば、同じ観光案内のルートを辿ったとしても、内容や受ける印象が変わってくる。
たとえば、食いしん坊なウンディーネだったら穴場なレストランやマル秘グルメを力説するだろうし、歌が得意なウンディーネだったらその場その場に合ったカンツォーネを歌い、お客様を楽しませるだろう。
人懐っこいウンディーネだったら、お客様との世間話で盛り上がっていつの間にか友達になっているだろうし、操船が得意なウンディーネだったら、華麗な操船技術を見せられて驚くかもしれない。
よき相談相手にもなるかもしれないし、そばにいるだけで幸せになれるように思えるかもしれない。
そうなるのは心がある人だからだと、たぶんきっと彼女は言っていると思う。

「でも、一人の人間が出来る事はあまりにも少ないから機械を使わなければならない。私は営みの中にさりげなく機械を溶け込ませる事がしたい。」

あの変なイントネーションは鳴りを潜め、ハッキリとした喋り方でそう言った真剣な顔つきのエレットさん。
このことはきっと彼女にとって譲れない何かなんでしょうね。
と、そこで彼女はハッとした顔になった。

「・・・・・・あ、ごめん話がずれた? とにかく、この子はすごいことが出来るオールってことだけ分かってくれればいい?」

確かに少々話がずれたような気もするのです。
いつのまにかフラップ付きオールの話から飛んでいましたしね。
もしかしてエレットさんって注意してないと話をどんどん転がしていく人なんでしょうか。

「じゃ、次行く? この子・・・・・・フラップ付きオールだけでも水を操れるけど、ウンディーネのオール捌きで発生する複雑な水の流れまでは制御できないから『リップル』が補佐するの。」

たしか、管制用AIといっていましたっけね、『リップル』を。

「フラップ付きオールは力はあるんだけど、それをうまく扱えない? つまりは、馬鹿?」

「・・・・・・生みの親が子を馬鹿って言っていいんですか?」

「子を馬鹿って言うのは親の特権? で、『リップル』にはもう一つビックリするかもしれない特徴があるんだけど? 見たほうが早い?」

アリソンさんは服のポケットの中から小さな丸い円盤状の物を取り出して言った。

「起きて、リップル。貴女のことを紹介してるから?」

≪・・・・・・りょうかい。いま、おきる。むにゃ、しばしばまってくれ、まいまざー。≫

「うひゃあ!」

突然、寝ぼけ眼で目をこする三頭身ぐらいの白黒のライン入りのベレー帽のような帽子をかぶった黒髪のジト目をした少女が現れました・・・・・・ええと、なにこれ。
急に目の前に出てくるので驚いてしまったではありませんか。

「これはホログラフ、ですか。」

「うん、そう? ほら、リップル? お客様に挨拶しなさい?」

≪フムン、リップルだ。よろしく。まだ暖まってないから、こんなくちょうで失礼する。もうすこしまってくれ。≫

「あ、ああ、ご丁寧にどうも。」

そういうと彼女は目を閉じ、それと同時に円盤状の物が静かに低くうなりだした。

「ふふっ、やっぱりアッリも驚いてるね?」

「当然ですよ、アイリーン。」

いきなり喋るAI、まぁそれぐらいなら見たことがあるが、映像つきで人間のように喋るAIは初めて見たのですよ。
ドラマやアニメ、映画の中ならともかく現実で見ることになるとは思いもよりませんでしたよ。
これがマンホームのジャパニメーションのキャラクターのようにデフォルメされていなかったら、もっと驚いたかもしれません。

「『リップル』は、アリソンが学校にいたころ、機械と人が溶け込む・・・・・・ならば、やっぱり擬人化しか無い!って言った人がアリソンのグループにいたらしくて、それであれよあれよと言う内にこの子が生まれたんだって。」

「機械に擬似感情、そして容姿を持たせ人がコミュニケーションを取れるようにすることによって溶け込みやすくする・・・・・・って発想は良かった? でも、その子の外見を考えた人・・・・・・擬人化しか無いって言った人が大のジャパニメーション好きでそんな風になった。人格形成は普通の子になるように私がやったから、たぶんまとも?」

≪・・・・・・よし、完璧に起きたぞ。で、マイマザー。私を起こしたということは、自己紹介しなさい、か?≫

「そう?」

≪マイマザー、いい加減その変なイントネーションはやめてくれ。誤認識してしまう。ああ、ではコホン。汎用AIの『リップル』だ、元々汎用的に作られたAIだからマイマザーの説明は間違ってるな。別に管制専用のAIじゃない、他の仕事も出来る。それと『リップル』は私を含めた汎用AIの総称だ、私自身にはまだ名前は無い・・・・・・とは言っても、まだ私しか『リップル』はいないから私の固有名詞としても良いぞ。≫

おおう、確かにまともそうですね。
わたしのイメージしていたSFに出てくるようなAIですよ、この固そうな口調が。

「む、私としてはもう少しインパクトのある自己紹介をして欲しかった?」

≪インパクト? それは少し厳しいが。ふむ、なら・・・・・・そうだな、こういう自己紹介はどうだ?私は汎用AIなのだが、元々は軍事利用を前提としたAIだとしたら君達はどうする? 例えば、軍事衛星の攻撃管制や無人攻撃機の制御などだ。≫

そう言うと『リップル』はわたしの方を向いて、にやりと笑った。
その時です、わたしに電流のような何かが走った。
なぜでしょう、わたしはこう思った・・・・・・『これはやるしかない』、と。

「ほうほう、軍事利用ですか・・・・・・ということは、エレットさんは死の商人なんですか?」

「・・・・・・え?」

≪ふふ、そうだな、きっとそうだ。いや、死の商人ではないな。まっどさいえんてぃすとだ、このようにか弱い少女の容姿を持つAIに人を撃たせるんだから、もしかしたら変態かもしれないなっ。≫

「え? え?」

「となれば、死の商人はきっとアイリーンですね。あなたをわたしに使わせようとしたんですから。」

≪そうだなっ、きっとそうにちがいないっ。≫

「あははー、アッリに『リップル』。ちょっと良いかな?」

「はい、なんでしょうか。」≪なんだ? アイリーンさん?≫

「アリソンが混乱してるよ? これ以上するなら、私・・・・・・お・こ・る・よ?」

「ごめんなさいです。」≪申し訳ない。≫

なんでしょう、急にガラッと雰囲気が変わった。
空気がピリピリ緊張しているような気もしてきます、魔王閣下降臨ですか?
正直、足が震えてきたんですけど。ついでに悪寒も。
これは、間違いなく怒っていらっしゃいますね、ハイ。
だから素直に謝るのが正解なのです。
それにしても、このAIとまさかここまで息が合うとは思わなかったのですよ。
さっき思ったSFに出てくるようなAIを訂正してジャパニメーションに出てくるようなAIに変更です。

「あのエレットさん、本当にAIなんですか、これ?」

「ひうっ、ごめんなさい私は死の商人じゃないマッドサイエンティストでもない変態でもない。ゆるして。」

「・・・・・・すいません、ごめんなさい。元に戻ってはくれませんか?」

まさか、すこしAIと合わせて弄っただけでこうなるとは思いもよりませんでしたよ。
ああ、アイリーンの批難の視線が痛い、痛い。
アイリーンはエレットさんの背中をやさしくさすってあげて、なんとか彼女を元の調子に戻してくれました。
無論、その後にアイリーンによって頭をぐりぐりされましたが。
仕方ないじゃないですか、『リップル』からヤレという意思を持った目線が飛んできたんですから。
そういえば、あのにやりと笑った時の目、どこかで見た覚えがあると思ったらお父様がお母様を弄るときや悪巧みをしている時の目に似ていたのです。
本当にこの『リップル』はAIなんですか、いやに人間じみているんですけど・・・・・・本気で疑いたくなってきましたよ、わたしは。
この円盤状の物は実は通信装置で人間がリアルタイムで通信しているとしても、わたしは絶対に驚きませんよ。

「はぁ、ふぅ・・・・・・まさか、アリカちゃんにリップルがそんな子だとは私は思わなかった?」

「ううっ、ごめんなさい。」

≪すまなかった、マイマザー。だが、インパクトのある自己紹介をして欲しかったと言ったのは、マイマザーだ。≫

「私だけど、私だけど? アレは少しひどすぎる? それにあなたの容姿を決定したのは私じゃない。」

≪うう、すまない。≫

「アッリには、またあとで私がきつーく言っておくから。グリグリつきで。」

アイリーン、あなたは本当にわたしのお母さんですか?
本当に、本当にそっくりだと思うのですよ・・・・・・。

「まぁ、とにかくこれでアリカちゃんとリップルの相性はバッチリだってことが分かった? あとは貴女の意思しだい?」

エレットさんは『リップル』のホログラフを発生させていた円盤状の物をオールの柄の一番上にはめ込むと、柄をわたしの方へ差し出した。

「意思、ですか。」

「そう。これを握るか、握らないか。」

「それは・・・・・・。」

さっき見せてくれたように、フラップ付きオールそして『リップル』が、わたしの腕が突然変な風に動いたとしても自分の力を使い、わたしを助けてくれる。
あとは彼らに助けてもらいながら練習そしてリハビリをすれば、左腕はどうにでもなるだろう。
エレットさんはそう続けた。
そういえば、お医者様も同じようなことを言っていたのを思い出した。
正直に言えば少し希望が沸いた、もう一度漕げるようになるかもしれないと。
それに、歩けることすらできない人が、リハビリの結果で歩くどころか走れるようになったのを、昔テレビで見たことがある。
しかも、その話は二百数十年前のマンホーム(地球)の物だ。
今の技術ならより確実だとは思う。
でも、わたしはまだ迷っている。
これでどうにかならなかったら、漕げるようにならなかったら、もう二度と元に戻らないとしたら・・・・・・。
そう思って、一歩目を踏み出せない。

「エレットさん、すいません。まだ怖いです、迷って、しまいます。」

「アッリ、すこし腕の力を弱めて。痕が付いちゃうよ。」

「あ・・・・・・。」

アイリーンの手が左腕を握り締めていた指を一本一本丁寧に優しくはがしていく。
見れば、うっすらと痕が付いていた。

「ごめんなさい、アイリーン。わたしは・・・・・・。」

「ううん、謝らなくて良いよ、アッリは。迷ってるってことは、昨日や今日の朝みたいに『どうせ』って言って否定せずに、漕ぐことに挑戦することを選択肢に入れてるって事だと思うから。違うかな。」

「それは・・・・・・あっている、と思うのです。あのオールの力を見たとき、これならばって思いました。でもわたしはその希望が・・・・・・。」

その希望が壊れてしまうのではないか・・・・・・そう思ってしまう。
その可能性が無いわけじゃないから。

「いいよ、アッリ。迷ってくれるだけでも、私にとっては十分だもの。あとはアッリがゆっくり時間をかけて決めて。私は、アッリに後悔して欲しくないから。」

「分かりました、なのです。」

アイリーンはわたしをこれ以上前へ押そうとはしなかった。
彼女がしたのはあくまでスタートラインの位置を教えただけなのだ、その位置に付いて一歩目を踏み出すのはやはり自分だ。
そこにアイリーンのちょっとした厳しさのような、本当に母親のような厳しさを感じた。

コォーン・・・・・・コォーン・・・・・・コォーン

突然壁にかけられていた時計が鳴る。
12時なら分かるが、今は11時だ・・・・・・一体なんだろうか。

「あ、もう予定の時間? じゃ、アリソン。予定通りアッリも連れて行くから。」

「OK? 屋上で暖機している? 『リップル』は待機状態。」

≪了解した、マイマザー。≫

時計が鳴るのと同時に、アイリーンとエレットさんは慌しくオールを片付けて、さっきせっかくOPENにした看板をCLOSEに変えた。
・・・・・・あのですね、わたしの希望になるかもしれないオールをその辺に放置しないで欲しいのですが。
いや、まだあれを握るとは決めたわけじゃないんですけど、さっきまであれほど話の中軸に置かれていたものをぞんざいに扱われているのを見ると、なんだか言いようの無い無常感に襲われるのですが。

「えっと、あの話についていけないのですが。」

なんだか、今日は話に置いてけぼりにされることが多いと思うのですよ。

「あはは、ごめんごめん。えっと、朝さ。希望を教えてあげるって言ったよね。なにも希望はこれだけじゃあないの。今から行くところにもある・・・・・・まぁ、今度は希望って言うより、心が落ち着く場所、気分がすっきりする場所、かな。私がね、迷いごと悩み事があるときいつもそこへ行ってるんだ。」

「あの、それはどういうところなんですか?」

「ふふっ、私やアリソン、そして彼女達はそこを『ウンディーネの寝所』って呼んでいるんだ・・・・・・あとは行って見てからのお楽しみかな? じゃ、これ読んでおいて。」

そう言って、彼女はわたしに『初心者ダイバーのススメ』なる本を渡してきた。
・・・・・・はて?


























「ああ、そうだ。アッリ、誤解が起きないように先に言っておくけれど・・・・・・。」

「はい、なんでしょうか。」

「アリソン、27歳だからね。」

「・・・・・・ええっ!?」



[18214] 第一章 『スタートライン』 第六話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:17930650
Date: 2012/02/24 01:42
アッリ・カールステッド(Alli・Carlstedt)
『ネオ・ヴェネチア ミドルスクール』在校生
ネオアドリア海上空




ペラ、パラ、ペラ、パラ、、、、

「むぅ、おかしいのです。どうしてわたしはこの空を覚えているのでしょうか。」

わたしのその小さな呟きは、本を捲る音ともに風に流されて虚空へと消えていった。
わたしは『ウンディーネの寝所』なる場所へ向かっている三人乗りのサイドカー付きエアバイクに乗りながら、アイリーンより渡された『初心者ダイバーのススメ』なる本を読んでいるのです。
この本は、題名のとおりに、初心者がダイビングをするに当たって覚えなければいけないことが一通り網羅されているとのこと。
また、初心者ダイバーだけでなく、まったくの素人・・・・・・それこそ初めてダイビングする際にも読めと渡されるマニュアルブックなのだそうです。
そんな本がわたしに渡されたということは、きっと水の中に潜るのでしょう。
それはまず間違いないはずだと思うので、わたしは今こうして空中へ本を落としてしまわないようにしながら、体験ダイビングに必要な知識というものを覚えているのですが。
でも、なにか引っかかるようなことがあるのですよ。
『初心者ダイバーのススメ』に関してのことじゃないんですが・・・・・・『ウンディーネの寝所』とやらに向かう途中、いくつかの島を目にしてきたのですが、それらがどうにもわたしの記憶に残っているのです。
どこか懐かしい感じとともに。

「おかしいのですよ、なぜこの航路を覚えているのでしょうか?」

「ん、どうしたの、アッリ?」

「い、いえ、なんでもないのですよ。」

「ん? 分からない事があったら聞いてね? これでも私は一応資格(ライセンス)持ち・・・・・・アドヴァンスドウォーターダイバーっていう資格持ちだから頼ってね?」

・・・・・・アイリーンはいつ資格を取ったんでしょうね。
いつもは学校終わったら部活だったし、休日だってみんなで自主練をしていたり、集まってワイワイやってることが多かったはずだ。
座学などはちょっと空いた時間にテキストを使って勉強できるでしょうからいいとして、時間がどうしても必要な実習はいつの間にやったのでしょうか?
まぁ、疑問は置いといて。正直その申し出はありがたい。

「えっと、それじゃ分からなくなったら聞きます。」

「ん、了解。なんでもオッケーだからね。」

「アリカちゃんは初心者ですらなくて入門者だから、今日は安心して潜れるように私たちが全力でサポートする?」

「あ、ありがとうございます。」

ダイビングは安全なレジャーだけど、そのためにはたくさんの守らなくちゃいけない事があるからね、とアイリーンが言う。
確かにそのようなのですよ、この本を読んでいない状態で、わたしが潜りにいけばまず間違いなく・・・・・・。

ぷちっ!

という音とともにペッチャンコになったでしょうね。
水の力はとても偉大なのですよ、ほんの数メートル潜っただけでも、わたしの体に押しかかる圧力は陸上の数倍にもなるのですから。
ううむ、フラップ付きオールで水流を発生させることが不可能なのが分かる様な気がするのです。

≪チェックポイントC『ニューエスピリトゥサント』島を通過。目標地点まであと少しだぞ、マイマザー。≫

「リップル、彼女達はもう集まってる?」

≪肯定だ。おお、しかも珍しいことにのほほん中尉殿と軍曹殿も来ているようだ。いつもは忙しくてこれないということが多いが、今日はそうではないのだそうだ。≫

「へぇ! ちょっと楽しみ?」

楽しみ、か。なら、マイマザーたちが潜ってる間、私は浜辺で日光浴でもしていようか・・・・・・と、エアバイクの計器に取り付けられ、このエアバイクの航路管制を行っている―――汎用AIの名は伊達じゃなかった―――『リップル』が言う。
充電することを日光浴と表現するとは本当にすごいAIだと思うのですよ。
しかし、『ニューエスピリトゥサント』・・・・・・うむむ、やっぱりどこかで聞いたことがあるのです。
そして、これから向かう島もきっと知っている、覚えている。
エアバイクの高度がだんだん下がり、ネオアドリア海と所々に浮かぶ島々が見えてくると、よりそう感じた。
わたしは絶対にこの風景を、潮の香りを覚えていると思うのですよ。
アイリーンが言うには、わたし達が向かう先はネオアドリア海沿岸部でも有数のダイビングスポットが多数存在する諸島の一角。
にもかかわらず、テレビなどで紹介されたことのない知る人ぞ知る秘密の場所、というかエレットさんほか数人しか知らないらしい場所。
そこにはわたしのようなダイビング未経験のど素人でもダイビングが出来るぐらい、潮の流れがゆっくりの、かつ深度もそれほど深くないダイビングスポットがあるのだそうだ。
・・・・・・なんでしょうか、この既視感というのでしょうか、そこで潜ったような曖昧な記憶があるような無いような?
テレビで紹介されたのなら、この既視感やさっきから感じるオボロゲな記憶もその映像がたまたま脳裏に残っていると説明できそうなのですが。
それもないとなると・・・・・・やっぱり実際に行ったことがあって、そこで潜ったのでしょうか?

「でも、潜ったのならなぜわたしはこのことを忘れていたんでしょうか。忘れちゃいけない記憶のはずなのにって、あれ?」

なぜわたしは忘れちゃいけない記憶だって思ったんでしょうか。
むぅ、のどの奥に魚の骨が引っかかったような不快感を感じるのです。記憶を掘り起こそうにも、どうもわたしの記憶の坑道は途中で崩落しているようでそこまで到達できない。
うんうん考えているうちにエアバイクの高度は随分と下がっていた。
わたしがそれに気づいたときタイミングよく、アイリーンがエアバイクから身を乗り出すようにして目の前に浮かぶ島々の一つを指差した。
そして、彼女は声を張り上げていった。

「あ、アッリ! 見えてきたよ! あれが、今日の私達のダイビングスポットの、」

ふぅ、とそこで彼女は一呼吸置いて言った。

「ノースポイント島だよ!」















アッリ・カールステッド(Alli・Carlstedt)
『ネオ・ヴェネチア ミドルスクール』在校生
『ノースポイント島』


「それじゃあ、リップル。ユー・ハブ・コントロール?」

≪了解だ、マイマザー。アイ・ハブ・コントロール。エアバイクを着陸させる。総員対ショック防御、もとい着陸するときにゆれるため体をしっかりホールドするように。≫

「はいですよ。」

「了解ッ!」

・・・・・・ヒュウゥゥン、ヒュウ、ヒュウウウン、パスン。

「ひぃぃやっほっーう! とぉうちゃぁぁく!」

「アイリーン、声が大きいのですよ。鼓膜が危険です、鼓膜が。それにしても、ちょっとテンションがおかしいと思うのですよ?」

「ごめんごめん、つい! ここへ来るの、久しぶりでねッ!」

「だから声が大きいと。」

「ふふふ、リーン。ちょっと係留するの手伝う?」

「ほいほい。・・・・・・よっと。」

エレットさんはわたし達が乗ってきたエアバイクを小さな入江に作られた手作り感漂う駐機場に泊めた。そこには既に、ゲタ(水上に機体を浮かべるためのスキー板状の浮き。)をはいた6人乗りの大型エアバイク、通称エアカーが泊まっていた。
その胴体の側面には『ぽこてん33号Jr改くん』と書かれているのです・・・・・・ぽこてんというのはかわいい名前なのですが、33号って数字が大きいような・・・・・・しかも、改、それにJr? 不思議な名前だと思うのですよ。
エレットさんに私も手伝いましょうかと訊ねたけど、大丈夫と言われてしまい手持ち無沙汰になってしまったので少し周りを見渡す。

「ふむ・・・・・・やっぱりです。この島の雰囲気、どこか懐かしい感じがするのです。」

うーん、どうしてなのか分からないけど落ち着くのです。
子供のころに来たことがあるのでしょうか・・・・・・。

「これでよし? リーン、道を確認しておいて? ここは植物が成長するのが早いから、そのせいで、以前来たときの道がもし塞がっていたら通れるようにしておく?」

「了解だよ。ああでも先輩達が先に通ったんだから、それは無いと思うけどなぁ。」

「・・・・・・あ。」

「あははっ。でも、ま、アッリはここへくるのは初めてだからね、転ばないようにきれいにしておくことにするよ。じゃ、またあとでね、アッリ。」

エレットさんは既に道を知っている様子のアイリーンに先行してもらって、道を確認してくるように頼みました。
アイリーンはエアバイクの後部収納箱から鞘に入った鉈を手に持って藪をザカザカと進んでいってしまったのですよ。
手馴れた様子で鉈を使ってこれから進む道と思われる藪の切れ目を大きくしたアイリーン・・・・・・なかなかアウトドアな人だったのですね。

「よいしょっと? じゃアリカちゃん、はぐれないようにちゃんとついて来る?」

≪では、マイマザーが迷う心配は?≫

「無い、はず?」

「筈なのですね・・・・・・少し心配なのですよ。大丈夫なのでしょうか。」

エレットさんはエアバイクから外した『リップル』を吊るしたバッグを背負うと、わたしについてくるように促した。
わたしはおとなしくエレットさんの後についていくのですが、彼女が入っていくのはアイリーンがさっき少し広くしたとはいえ、人が一人通れるぐらいの獣道。
薄暗いし、なにかが飛び出てきそうな雰囲気なのです。
少し怖かったので、エレットさんの服のすそをつかんでしまいました。
すると彼女は優しく微笑んで歩みの速度を落として、わたしが転ばないようにしてくれました。
なんだか、恥ずかしいです。

ガサゴソ、ガサゴソ・・・・・・。

そのままエレットさんの服のすそをギュッと握り締めながら、細い獣道をたどって、うっすらと暗い鬱蒼と茂る藪を掻き分けていく。
この島はどうにも結構複雑な地形のようで。
・・・・・・坂道にトンネル、ところどころにある開けた草っ原を目にし。
・・・・・・だれが架けたかわからない丸太の一本橋、でこぼことした砂利の道を歩き。
くもの巣が私の顔にべチャッと張り付いたとき、まるであの有名なマンホームの古い童謡の世界に紛れ込んでしまったかのような錯覚をしてしまったのですよ。
遠くに見える、島の中央にある丘のてっぺんあたりにある巨木もその原因なのでしょう。もしかしたら、狸のお化けの一つも出てくるかもしれませんね・・・・・・。
そして、エレットさんは楽しそうにその古い童謡を歌っています。
その楽しそうに歌う彼女の姿を見ると、失礼ですけど、とてもじゃないですが年上には見えないのですよね。
うーん、エレットさんは27歳だとアイリーンが言っていたけど、本当にそうなんでしょうか。せいぜいが、わたし達と同い年ぐらいのように見えるのですよ。

「あの、エレットさん。失礼ながら質問があるのですよ。」

「うん?」

「えーと、エレットさんは本当に27歳なんですか?」

「ん、本当にそう? ちゃんと大学だって出てる? 飛び級したりはしてないよ?」

≪まぁ、マイマザーは少々実年齢より若く見られることが多い。君が間違えるのだって不思議ではない。≫

そもそも彼女が言っていた『学校』をわたしはエレットさんの見た目で判断してミドルスクールかハイスクールだと勝手に思っていましたが・・・・・・。
冷静に考えて見れば、『ベクタード』やら擬似人格AIの研究だとか、普通はミドルスクールやハイスクールじゃやってない、と言うか、やれないですね。

「じゃあ、なんでアイリーンはエレットさんのことを呼び捨てにしていたんだろう?」

アイリーンは自分よりも年上―――1歳2歳の範囲は誤差の範囲だけど―――の人にはほぼ必ずさん付けしていたはずだ。
仲のいい年上の人でも名前にさん付け程度で呼び捨てにはしていなかったはず。
いままでのエレットさんとアイリーンのやり取りを見るに、相当親しい仲なのでしょうけど親しき仲にも礼儀あり、です。年上は敬わなければ。
まぁ、さきほどエレットさんをその場のノリで弄ってしまったわたしが言うべきことじゃないんでしょうけど。
・・・・・・決して、決してエレットさんがアイリーンと仲良くしてるのを見て、嫉妬したとかそういうことじゃないですよ!
えーと、えーと。誰に言っているんでしょうかね、わたしは。

「もちろん、最初は貴女みたいに『エレットさん』だった? でも、私がお願いした?」

「アリソンって呼び捨てにするように、ですか?」

「うん。さん付けされるのは、少し恥ずかしい? それに・・・・・・秘密を共有する仲間だから?」

「秘密? 仲間?」

「ふふふ、秘密は秘密? もっとも・・・・・・アリカちゃんには、直に関係なくなるけど?」

「へ、あの、それってどういうことですか?」

「秘密?」

秘密ばっかりじゃないですか、とわたしがむくれると、昔から女は秘密が多いほうがいいと言って悪戯っぽく笑うエレットさん。
むぅ、エレットさんはとても不思議な人なのですよ。こういうときは、なんだか大人の女性のように見えるのです。
そして、また歌いだす彼女。
それを見ていると、わたしもこうムラムラとあの童謡を歌いたくなってくるのですよ。
少し恥ずかしいですが、それではコホンと。

「 ~ ♪ ~ 」

わたしが歌いだすと、エレットさんはわたしと調子を合わせて歌いだしました。
歌い出せば恥ずかしさもどこへやら、わたしは元気に歌を歌っていた。
一回通して二人で歌い終わると、エレットさんは微笑みながらわたしに言った。

「へぇ、綺麗な歌声?」

「あ、ありがとうございます。」

「流石はウンディーネを目指しているだけはある?」

「え、なんでそのことを?」

まさか歌声からウンディーネに話が飛ぶとは思わなかった。
ウンディーネの腕にはカンツォーネの巧さも関わってくるので歌も練習する必要があり、それで歌が巧い人も結構多い。だから、でしょうか。
あの事故の起きる前のわたしなら、胸を張って当然の一言も言ったのでしょうが。

「ウンディーネかぁ・・・・・・わたしには、もう目指す理由が無いのですよ? 理由が無いのに、喜んでくれるお母様もお父様も失ったのに、ウンディーネを目指してもいいのでしょうか?」

せっかくフラップ付きオールと『リップル』という希望を教えてもらったけど、わたしみたいに理由を失った人間が握ってもいいのでしょうか、もっとふさわしい人がいるんじゃないでしょうか。
それが、その希望が壊れてしまうんじゃないかという恐怖心以外で、あの希望を手にしなかったわけ。

「もしわたしがあの『希望』を握るんだとすれば、それは、ただ両親がを失った悲しみから逃れるためなのです。はたしてそれで、そんな理由で・・・・・・本当にゴンドラを漕いでいいのでしょうか?」

「・・・・・・いいと思う? だって、それだって立派な理由?」

「そんな。そんなこと、ないです。ただ逃げたいから、漕ぐだなんて・・・・・・それはなんだかウンディーネに、いやゴンドラに対しての・・・・・・冒涜のような、そのような風に感じてしまうのですよ。」

「大丈夫、ひとつ教える? 私の尊敬する大先生の受け売りだけど・・・・・・『理由は何だっていい、無くてもいい。とにかくまずは動くことだ、試すことだ。』・・・・・・すこし改変しちゃったけど、私はこの言葉のおかげで今がある?」

「理由はなんだっていい、ですか・・・・・・ッ。」

突然、視界がガラッと変わった。高く上っていた日は、あと少しで沈みそうな夕日に変わり、わたしの手を握っていたエレットさんの手は、大きくゴツゴツした男の手に変わった。
これは、なんでしょうか。
驚いて顔を上げて、その男性を見上げたけれども顔は影で隠れてよく見えなかった。

『・・・・・・いいか? 理由は何だっていいんだ。それこそ、無くてもいい。まずは動け、挑戦しろ。』

「実際、何かを始めるのに『抱負』とか『決意』とか『がんばる』とか、あってもなくてもいいんだ?」

『実際な、何かを始めるのには『抱負』や『決意』や『がんばる』は・・・・・・あってもいいが、なくてもいい。どんなささいなことでも、逆に人生を左右するほどのことでもソレは変わらない。』

これは『デジャヴ(既視感)』? エレットさんの声に重なるようにして男性のような声が脳に響く。
そういえば、デジャヴの発生はなにか忘れている記憶があるからだと、なにかで見たことがある。
ならば、わたしがこのデジャヴを感じていると言うことは以前にも似たようなことを、わたしはこの島でが体験したのでしょうか。

『やらなくちゃ、やってみなくちゃな・・・・・・なんにも出来やしないし、なにも変わらないんだ。あー、わかるか?』

「やらなくちゃ、やってみなくちゃ、なんにもできないし、なにも変わらない・・・・・・。」

「うん、そういうこと? 理由の良しあしを決めるのはすべてが終わってからで十分? やらない後悔よりは、やった後悔のほうが私はいい、と思う? 後悔はいつでも出来る、それこそ人生の終わる間際でも? でも動けるのは若いうちだけ? だからまずは動くことだ、貴女は今、その時? つらいだろうけど、私はそう思ってる?」

わたしの口から男の言葉をなぞって自然に言葉が出る。その言葉にエレットさんはそのように返すと、裾を握りしめていたわたしの手をつないで、再び歩き出した。私も結構年食ったのかなぁ、こんな説教じみたことを言うなんて、と頬を掻きつつ呟きながら。
つながれたその手はアイリーンの手と違って少し冷たかったけど、不思議に温かく感じられた。
その温かさにわたしは我を取り戻した。
あのデジャヴ・・・・・・昔、わたしはこのエレットさんのような小さな手じゃない大きくてゴツゴツした手と手をつないで、ここを歩いたことがあるのでしょうか?
ゴツゴツした手だったような気がするから、お父様かと思ったけど、お父様の手はコーストガードにいたという割には綺麗な手だった―――わたしが生まれたときには既に最前線から離れた指揮官になっていたからかな?―――からたぶん違う。すべて曖昧な記憶だけど、その手は少なくともお父様の手じゃなかったと思う。
そして、エレットさんの言うことと同じようなことを言っていたはずだ。
でも顔も思い出せない・・・・・・むむむ、あとちょっとで出そうなんですけどねぇ。
と、エレットさんが突然なにかを思い出したかのようにわたしの方へ振り向いた。

「あ、そうそうあの言葉にはまだ続きがある?」

「さっきの言葉に、ですか?」

「うん。『動けば、必ず何かに出逢える』っていう? だから動こう? いま見えないものも、感じれないものも、わかるだろうから? さぁて、この森を越えれば目的地?」




















≪なぁ、マイマザー。≫

「ん、なに?」

≪お姉さんぶっているところ悪いのだが・・・・・・残念ながら道を間違えているぞ? だいぶ最初からな。≫

「え゛っ!?」

≪そろそろまずいかと思って声をかけたわけだが、正解だったか。≫

「ああ、道理で道なき道、あるいは獣道を進んできたんですね・・・・・・。」



[18214] 第一章 『スタートライン』 第七話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:17930650
Date: 2012/02/24 01:42
アッリ・カールステッド(Alli・Carlstedt)
『ネオ・ヴェネチア ミドルスクール』在校生
『ウンディーネの寝所』







・・・・・・どれぐらい歩いただろうか、わたしは一瞬だけど目が眩んだ。
ここへ来る直前まで薄暗い茂みを歩いてきたから、急に茂みの切れ目から射してきた太陽の光に、暗闇に慣れていた目が驚いたのだと思う。
やがて光に目が慣れると、断崖絶壁に囲まれた小さな浜辺と小さな湾が目に映った。
静かな、されど耳にはっきりと残る透き通るような波の音ともに。







森を抜けると、そこは別世界だった。







ザザァン、ザザァァン・・・・・・。ザザァン、ザザァァン・・・・・・。

「ふっわぁ・・・・・・きれい、なのですよ・・・・・・。」

キラキラと光る白い砂浜に、どこまでも青く感じる海が作り出す穏やかな波が打ち寄せる。その波音はまるで磨き上げられた、自然と言う職人が作った精巧な楽器のようにも感じた。
この湾はどうもトンネルのような海側の崖にできた洞窟を通じて外の海とつながっているようで、そこから波が入ってきているようだ。
その波の音はわたしが抱え込んでいたものを流し去ってくれるような、優しいララバイのよう。
・・・・・・ほぁ~。まるで、お父様が好きだと言っていた水上機乗りの豚さんが出てくるマンホームの古典アニメのワンシーンを切り抜いてきたかのような風景なのですよ。砂浜の中央にいくつかのパラソルや椅子、とっても旧式のラジオにネオヴェネチアで発行されているいくつかの新聞までありますし。
そういえば、あのアニメの舞台もアドリア海でしたっけね。これで水上機を止めるための浮きまであったら完璧なのですよ。
さらにパラソルの周りにはダイビングのための道具でしょうか、何本ものボンベや機材が置いてあるのが見えます。あと、なぜかゆらゆらと湯気の立つ大なべもあるようです。
空を見上げれば崖に切り取られたまあるい水色のキャンパス。そこは雲が複雑な形状を描き、前衛芸術のようなどこか別世界に引き込まれるかのような雰囲気を放っていた。
なんだか心がドキドキワクワクしてくるのですよ・・・・・・そう、秘密基地みたいで。エレットさんが言っていた秘密とはここのことなんでしょうか。
そして、ここも・・・・・・これまでのように、微かに懐かしいようなデジャヴを感じるのです。
こう、何て言うんでしょうか。恋い焦がれるような・・・・・・とでもいうんでしょうか、この求める心を言い表すには。とても、とってもこのデジャヴの正体を探りたくなる。
どきどきドキドキ。
そわそわソワソワ。
少し不思議な感覚が体を抱いて、包み込む。

「どうしたの。すこし様子が変?」

「あ、いえ。なんでもないのです。」

わたしの変な様子に気づいたのか、エレットさんが声をかけてくる。
このデジャヴの正体を明かすのはまた後で。今はただこの素敵な場所を精一杯全力で楽しもう、体全体で感じよう。
アイリーンが、エレットさんが、わざわざ案内してくれたのだから。

「大丈夫そう? ではでは、コホン。ここが、私やリーン、そしてネオヴェネチアハイスクールダイビング部OB・OGの秘密基地『ウンディーネの寝所』。」

「ここが『ウンディーネの寝所』ですか・・・・・・これが、さっき言っていた『秘密』ですか?」

秘密を共有する仲間の件の『秘密』とは、このことだろうか。こんなに綺麗な場所ですからね、わたしだったら秘密にして隠したくなるのですよ。
そう思ったのですが、

「いいえ? 詳しいことは潜ってから? ここはまだまだ入り口、かな?」

違うそうなのですね。
フムン、彼女が言うにはここは別に秘密にするほどではないとのこと。ネオアドリア海に浮かぶ島では別段不思議な地形ではないらしい。
もっとも、ここまで湾の入り口が狭いのは稀だと注釈を入れる。

「さてと、じゃあみんな自己紹介? まずは招待客であるアリカちゃんから? とと、アリカってのは渾名だからね、みんな? じゃ、お願い?」

「あ、はい。」

エレットさんにそう返事してから、わたしは周りをぐるりと見渡す。
わたしをエレットさんを含めて、7人の人影が囲っていた。
わたしは人見知りする方ではないと思っている。でも、こんな風に大人の人たちに囲まれるというのは・・・・・・威圧されているようで、少し怖い。

「あ、アッリ・カールステッドです。卒業証書をもらっていないから、まだネオヴェネチアミドルスクールに在学中ってことになっています。ええと、今日は初めてのダイビングなので、よろしくお願いします。」

7人がそれぞれ「よろしくー。」「頑張ろうね。」やら様々な返答を返す。そして、その7人の中から「じゃ、自己紹介は私からいくね。」と言って、緑がかった色の髪をざっくばらんにショートにした小柄の女性が飛び出てきた。

「私はネオヴェネチアのダイビングショップでネオヴェネチア周辺の海のインストラクターをやっている小日向 光(こひなた ひかり)と申します! 今日は私たちがしっかりとサポートするからね! だから、大丈夫っ! 安心して一緒に潜って楽しんじゃおーよ!」

えーと。この女性は小日向 光さん。彼女は無駄に明るいって事でみんなから『ぴかり』と呼ばれているそうです。
うむ、そのあだ名が非常にしっくり来るのです。こっちまで明るく元気になりそうなぐらい天真爛漫な、まるで太陽みたいな人です。
うーん、わたしも『ぴかり』さんと呼んでしまいましょうか。

「今日はよろしくね? 私は大木 双葉(おおき ふたば)です。ネオヴェネチアでお菓子屋さん兼喫茶店の『夢ヶ丘』ってお店をやっているから、今度良かったら来てみてね? 私は本職のインストラクターじゃないんだけど、教えることの可能なライセンスも持っているしダイビング歴も結構長いから遠慮なく頼ってね?」

彼女は大木 双葉さんです。ロングの艶やかな黒髪の女性です、同性でも見ほれるような綺麗な髪なのですね。ちょっとうらやましいです。
ふーむ・・・・・・喫茶『夢ヶ丘』って、前になにかのテレビの特集で見たような気がするのです。そのお店の店長さんのようですね。よし、今度行ってみましょうか。
それにしても、彼女のあだ名は『てこ』だそうです。由来が分かりませんが、あだ名とは結構由来が分からないものです。気にすることはないか。
彼女達からは自分たちのことをあだ名『ぴかり』『てこ』で呼んで欲しいとの事。

「君がアリソン先輩が言っていたアリカちゃんだね? ダイビングは初めてだろうけど、ここは深くても5、6メートルぐらいだから、基本をしっかり守ってオレ達の言うこ「長いっ! 喋りすぎ!」ぐあっ!」

「私がコレの姉の二宮 愛(にのみや あい)、んでコレが弟の二宮 誠。ご覧のとおり双子ですっ。ダイビングは安全なだけじゃないから、私達の言うことをしっかり聞いてちゃんと守るように。いい? まぁ、私達もてこちんやアリソンと一緒で本職のインストラクターじゃないけど、経験豊富な自信はあるよ。だから存分に頼ってもOK・・・・・・ってか、頼らないとダメ。分かった?」

「はい、分かったのですよ。」

細目の男性が二宮 誠さんで髪をツインテール状にした女性が二宮 愛さんですね・・・・・・うーん、二宮 愛さんのほうはどこかで見たことがあるような?
・・・・・・ああ!

「えーと、もしかして二宮 愛さんは漫画とか描いていらっしゃいますか?」

「ええ、そうだけど?」

「もしかして、『ハテシナイソラ、シンエンノウミ』っていう離島で生きるダイビングインストラクターの少女と本土との連絡機の若いパイロットが主役の漫画を描いていますよね? わたし、その作品のファンなんですよ!」

「へぇ、よかったじゃないか、姉(あね)さん。というわけで、さっさと原こってアグッ!「いつも締め切りには間に合っているでしょ? そう何度も同じこと言わないの!男なら、もう少しどっしりと構えていなさい。 はぁ、全くこのやり取りも何度目なんだか・・・・・・私は確かにその作品の作者よ。ありがと。ちなみにコレは私の担当兼アシスタントよ。双子で漫画を作っているようなものね。」なにゆえ、毎度毎度蹴られるんだよ、まったく。」

やっぱりわたしの好きな漫画の作者さんでした。著者近影で見たことがあるんですよ。まさか実際に会えるとは思いもよりませんでしたが。
しかし、なるほど。あの水中描写の多さや綺麗さが売りの作品が生まれたきっかけは彼女自身のダイビングの経験があったんですね。
・・・・・・それにしても二宮 誠さんはあんなに強く蹴られて痛くないのでしょうか。まぁ、ぴかりさんやてこさんが何も反応しないので、これはいつものやり取りのようですし、あれが二宮 愛さんにとっての愛情表現なのかもしれませんね。それにしたって、少し強すぎだとは思ったけど。
ともかく、彼らはそれぞれ『姉(あね)ちゃん』『弟くん』などと呼ばれているそうです。わたしは『姉(あね)さん先輩』『弟(おとうと)さん先輩』と呼ぶことにしました。
そして、この4人はミドルスクールの卒業生。つまりはわたしやアイリーンの先輩に当たるというわけです。
彼らはダイビングサークルで知り合ったそうです・・・・・・サークル自体は今は解体されてしまいましたが、小日向さんのダイビングスクールにダイビングがやりたいミドルスクール生は行っているそうです。

「ん、じゃ次は私? アリカちゃんには一度自己紹介したけど、もう一度? アリソン・エレットよ。一応この湾の管理者かな? 発見者は別だけどね、私のほうが長くここにいるから。今日は楽しんでくれるとうれしいかな? それじゃ改めてよろしく?」

「よろしくお願いしますのです。」

さて、エレットさんの自己紹介が終わり、あとは他のメンバーより少し大人な感じの二人が残ったのですが・・・・・・なにやら怪しいのですよ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや、ちょっと待って。アイリーンがいつのまにかこのダイビングチームに入っていたのも驚いたけど、なんで彼女までいるの?」

「はぁ、だから言っただろ? お前はアイリーンとちゃんと連絡をとれってな。まったく最初からそうしていれば、ここで驚くことは無かっただろうに。彼女とアイリーンが同じ学校、さらに同年代ということで知り合いである可能性は俺も少しは考えはていたがな。しかし、まさかここを教えるぐらい仲が良いとは思いもよらんかったさ。正直、俺も驚いているんだ。ふむ・・・・・・ここへ来てからも、ちゃんと位置情報を逐一確認しとくべきだったのか?」

「いや、病院の関係者でもないのにそんなことしちゃだめでしょ。プライベート、特に年頃の女の子の場合は繊細なんだから。」

「お前のようにか?」

「むっ、怒るよ?」

小声でひそひそと話をする女性と男性。この二人もどこかで見たような、そんな気がするのです。

「あの、アンさん軍曹さん。自己紹介はしないんですか?」

てこさんがそう声をかける。
軍曹? 軍事組織か何かに所属しているのでしょうか?
うーん、このAQUAには軍事組織は・・・・・・お父様とお母様のいたAQUAコーストガードぐらいしか思いつかないので、AQUAコーストガードの人、なんでしょうか。

「あー、うん。てこちゃん、分かってるよ? うん、分かってる。あーあー、ねぇ軍曹。どうやって切り出したらいいと思う?」

「どうやってって・・・・・・お前は何も悪くないんだから、普通に自己紹介で良いだろ。」

「普通、ねぇ・・・・・・うーん、ちょっと緊張しちゃって。こうやって助けた人と再会するのって、あまり無いからさ。まぁ、けど、うん・・・・・・やってみる。」

ぬぬぬ。聞き耳を立ててみても、全く聞こえないのですよ。
大の大人が、わたしがたとえ年下だとしても、人前でコソコソコソコソと内緒話するのはだらしがないと思うし、失礼だと思うのです。
などと思っているうちに、どうやら相談も終わったようです。やれやれ。

「そ、それじゃ私から。私はアンネリーゼ・アンテロイネン。AQUAでのアイリーンの保護者「保護者失格だがな。」割り込むな!「違ったのか?」あ、うう。もう! えっと軍曹はもう放っといて・・・・・・私は貴女やアイリーン、それに彼らと同じミドルスクール出身でね、何期も上だけど先輩だよ。そして、こっちの彼が・・・・・・。」

「軍曹でいい。身内じゃ、こいつはほぼ俺を指す固有名詞だ。俺を呼ぶときはソレで頼む。ま、今日のダイビングは楽しんでくれ。俺やアンは人命を救う仕事・・・・・・俺とアンはAQUAコーストガードの隊員だからな。」

「AQUAコーストガードの隊員・・・・・・ですか。」

お父様は精々いくつかの港湾警備ぐらいが関の山だったコーストガードを、今のようなAQUA周辺やAQUA~マンホーム間のシーレーン警備すらも可能な組織に育て上げた『コーストガードの大親父』などと呼ばれた英雄的存在だったらしいし、お母様は泣く子も黙る鬼教官、そして優秀な隊員を数多く輩出する名教官だったらしい。
正直なところ、わたしにはピンとこなかったけど。
お父様はグータラだったし、お母様は・・・・・・ああ、なんだか今思い出すと分かるような気がするなぁ。鬼教官も名教官のどちらも言われた理由が。
この二人が言葉通りにAQUAコーストガードに所属していたら、確かにわたしの両親のことを知っているだろうし、間接的とはいえわたしの事も知らないはずがないだろう。
もうお父様とお母様のことは思い出すことしかできないのですね。
自然、つい自分の世界に沈み込んでしまいそうになる、泣きそうになる。
ははっ、いけませんね。しんみりとした雰囲気を招待客のわたしが作っちゃ。グッと唇を締めて耐えることが出来たのは、ここのありとあらゆるものを吹き流すような雰囲気のお陰か、周りにあまり恥ずかしい姿を見られたくないという生来の癖のせいか。
それにしても。聞けば、アンテロイネンさんに軍曹さんはなかなかここへは仕事の都合で来れなかったらしい。そしてあの4人と会うのも久しぶりだったそうです。そんな久しぶりの再会を邪魔しちゃいけないとおもうのですよ。
そして、わたしは顔をしっかりと上げてアンテロイネンさんを見て・・・・・・・・・・・・ひいてしまった。自然と足が一歩下がり、顔がうわぁとゆがむ程度には。

「そういうことだから例え貴女が危険になっても大丈夫よ、私達はプロだから!」

そうぺカーという音まで聞こえてきそうな顔で明るく言い放つアンテロイネンさんの手には緊急救急キット(AQUAコーストガード専用)と大文字で書かれた赤い箱が抱えられていた。
そして軍曹さん(本名を教えてくれたっていいと思うのですよ)は、緊急用ボンベや大型のダイバーナイフ、頑丈そうなロープ。さらには圧縮空気を用いることによって握り拳大にまで小型化することに成功した救命浮き輪にビーコン浮き(SOSを出す浮き)などなど、専門的なものを含めた海での救助作業に必要な七つ道具的なものを準備していた。
・・・・・・シャ、シャレにならないと思うのですよ、あれらを持ち出されたら。
いつの間にか、足がもう一歩下がっていた。だって、あの二人。すっごくいい笑顔で、まるで『どうだっ!』って言わんばかりの顔で準備しているのですよ!
やる気があるのがとってもよく分かって、非常に心強いのですが・・・・・・。

「アンおばさんには、できれば活躍して欲しくないなぁ・・・・・・まぁ、心配しなくても私がしっかりとサポートするから大丈夫っ・・・・・・それにさ、これ見よがしに準備しちゃアッリを怖がらせちゃうよ。私が彼女を呼んだ理由を分かって欲しいなぁ?」

「うっ、ごめんねアイリーン。安心させなきゃって思ったからなんだけど。」

「アンおばさんはそうだろうけど、たぶん軍曹は違うよね?」

「・・・・・・まぁ、つい何時もの癖がな。こんな時でもどうにもこうにも。すまん。」

「ふふっ、謝ればよろしい・・・・・・なんて言うと思った? ということで・・・・・・「ぬぐぉっ!」・・・・・・これでよし。やっほ、アッリ! どう、ここは?」

と、そこへ先ほどまでガチャガチャと機材の点検整備をやっていたアイリーンが来たのですよ。
アンネリーゼさんと軍曹さんに二言三言話し、なぜか軍曹さんの膝に前から蹴りをかました後(このときのアイリーンは半目で少し怖かったのです)、こちらへクルッと体を向けてそう言った。

「え、えーと、そうですね。きれいなところだとは思ったですよ、なんだかずっと大切にしたい宝箱のようにも思いました。」

「ふふっ、そうだね。私達もそう思うよ。ここを知っているのは今ここにいる面子以外だとジノさんって人と一部のダイビング部のOB・OGぐらいかな。アンおばさんの友人の軍曹さんがここを発見して、ここを秘密にしたんだ。それこそ、この湾を私有地にまでしちゃってね。」

「ということは、ここは軍曹さんの土地なんですか? ほへぇ、それはすごいですね。」

湾一つを私有地にしてしまうとは、なかなか出来ないのですよ。軍曹さんはお金持ちなのでしょうか。

「まぁ、な。おかげで今も借金があるがな。後悔はしてないぞ。」

と、軍曹さんから言葉が。なるほど、お金持ちではありませんでした。それにしても、借金までしたなんて、相当ここに入れ込んだんですね。
まぁ分からないでもありません。この素敵な宝箱は誰だって独り占めしたくなると思うのです。

「本当はアンおばさんにだけ、ここの秘密を教えるつもりだったんだよ。軍曹さんは。」

「ほっとけ、昔の話だ。」

なんだかアイリーンが軍曹さんをからかっている様なのです。ふむふむアンさんと軍曹さんは何やら上司と部下、友人同士以上の関係でもあるのでしょうかね。
まぁ昔の話だそうなので、今は違うかもしれませんが。
それにしてもアン『おばさん』ですか・・・・・・おばさんと言うほど、アンテロイネンさんは年を取っているように見えないのですが。

「ああ、そういえばアッリにはまだ言っていなかったよね。アンおばさんは私の母さんの妹なんだ、だから叔母さん。彼女が私のAQUAでの保護者だよ。あんまり居ないから本当に好き勝手やらせてもらってるけど。おっと、もう一つ言っていなかったね。私はマンホームからの留学生なんだ。」

「そうだったんですか?」

うーむ、初めて聞いたのですよ、そんなことは。ネオヴェネチアに関して、特に陸の上にあることは私より良く知っていますから、てっきりちゃきちゃきのヴェネチアっ子だと思っていたのですが、違ったのですね。
それに、ほとんど居ないのに保護者って言ってもいいのでしょうかね、アンテロイネンさんを。まぁあれですか、アイリーンがしでかした事の責任を取る書類上の保護者でしょうか。だとしたらお疲れ様と言いたいですね、一見優等生のアイリーンですが、結構問題児なのですよ。気苦労も多いでしょうね・・・・・・事実ゴンドラ部時代はそうだったのです、部長のわたしの胃は大変でしたよ。毎回毎回、彼女が何かしら事件を起こすたび、キリキリと痛む胃を労わりながら関係各所に謝罪行脚をしたものです。

「ま、詳しいことはお昼に話そうよ。ぴかりさん、とりあえずは、アッリの練習のために一本潜りませんか? ウンディーネの寝所の名前の所以の出来事が起きる時間まではまだ半日あるから、水中で呼吸することに慣れさせときたいです。」

「うん、そうだね、アイリーンちゃん。私もそう思っていたところだよ。じゃ、一本潜ってみてみよっか。それじゃあ、皆準備してー!」

最初の準備は水着に着替えること、スーツを着て機材を背負うのはその後だ。
わたしはアイリーンに手を引かれ、ぴかりさんやてこさん、姉さん先輩にアンネリーゼさん、そしてエレットさん達と共に、何時も着替えに使っているという崖の下の岩陰に作られた、少しボロっちいバラック小屋へ行った。
ちなみに男性二人はその辺の岩陰らしい。
さて、いよいよ着替えるのですが、ここで一つ問題が。

「あの、いいですか? 水着とか替えの下着とか、わたしここへ持ってきてないですよ?」

そう、わたしは水着を持ってきていないのだ。そもそもアイリーンは潜りに来ることを内緒にしていたのだから、わたしの現在の所持品は財布とかその程度のものなのですよ。

「だーいじょうぶっ! ちゃーんと私が持ってきといたよ! たぶん、アッリのお気に入りの奴。」

「え、あ、ありがとうございます。」

アイリーンがちゃんと持ってきてくれていたようなのです。わたしの髪の毛と同じ薄いクリームシチューのような白を基調とし、赤い模様がワンポイントを添えたお気に入りの下着。水着もひとまず安心・・・・・・って、あれ?
ここで一つの疑問が・・・・・・なんで、アイリーンがわたしのお気に入りの下着が分かったのでしょうか?
水着はまだ分かる。アイリーンとは、いっしょに泳ぎに行ったこともあるし、そのときにこの水着がお気に入りだといった覚えがある。
でも下着は・・・・・・?
じっとアイリーンを見る。

「・・・・・・あはは。」

アイリーンは黙って目線をそらしたのですよ。これは、あやしい。

「じとー。」

「・・・・・・なははは・・・・・・。」

わたしがジッと彼女を見やれば、やっぱり彼女はあさっての方向を向いてごまかすように笑う。

「まぁ、いいのですよ。結果的に助かったのですから。あなたがどうやってわたしの家で下着のある位置を、お気に入りのものを知ったのは、この際置いておきましょう。」

「あ、ありがと。」

追求しても仕方ないのですよ、どうせ答えてはくれないのですし。
まぁ、『たぶん』と言葉の前に付けていたから、きっと彼女はわたしの髪の毛の色からソレっぽい奴を箪笥から探してきたのでしょう。
人にあった何かを見つける、探すといったことはアイリーンの得意分野ですし。旅行代理店とかに勤めれば、一目お客様とあっただけで、お客様がもっとも満足するコースを見つけてしまうんじゃないでしょか。

「その水着、かわいいね。」

「ありがとうございます、てこさん。」

水着を着ると、てこさんからそういう言葉が。かわいいとほめて貰うのはうれしいのですよ。照れて、少し耳が赤く、そして熱くなる。
・・・・・・ただ、この水着はかわいいだけじゃないのです。色々とアタッチメントがありまして、それで様々な水着のタイプに替えれるという優れものなのです。
今回は動きやすいように一番基本の何も付いてないツーピースタイプを選択したのです。
これを買ったとき、アイリーンには男の子回路を持っているねと言われてしまいました。いいじゃないですか、換装や合体。ロマンですよ。

「みんな着替え終わったー?」

もう既に着替えを終わらせたぴかりさんが、外から、バラック内でまだ着替えているみんなに声をかける。その声で、アイリーンやでも若干名、着替えが終わってないのです。
てこさんです。てこさんはそもそも普段着から着替えようともしてないのですが。

「てこさん、着替えないんですか?」

「ああ、私はちょっと陸でやらなきゃいけないことがあるから。でも、後でもう一本潜るときはちゃんと潜るよ。じゃ、がんばってね。」

「あ、はい。」

「アッリぃー! 着替え終わったぁー?」

とと、てこさんが着替えないとしたら、わたしがこのバラックに残ってる最後じゃないですか。
急がないと。

「い、いま行くのですよっ!」

「あ、このバラックちょっと古いから、気をつけ「あひゃんっ!」」

ゴロン、ドスン、ドンガラガッシャーンッッ!!

「・・・・・・てね、先に行っといたほうが良かったかな・・・・・・って、そんなことより、怪我はない!?」

慌てて外に出ようとしたら、せ、盛大にこけてしまったのですよ。
どうも床に段差があったようですね。
わたしが転んでしまった拍子に、なんか上から色々落ちてきたのですよ・・・・・・うう、痛い。

「アッリッ! 大丈夫!?」「アッリちゃん、大丈夫だった!?」

「あ、アイリーン、ぴかりさん。大丈夫です、ちょっと痛いけど平気です。あの、この落ちてきた奴、片付けるの手伝ってくださいませんか?」

「いいよー。」「もちろん。」

アイリーンとぴかりさんはわたしのお願いに快く承諾してくれました。
アイリーンは分かるのですが、ぴかりさんも出会ってからまだ僅かしか経ってないのに、本当にありがとうございます。
それにしても・・・・・・随分といろいろなものが落ちてきたんですねぇ。
大昔のマンホームで使われていたという一眼レフカメラや、はじめて人類が月に降り立ったときの宇宙船の模型、なんだか懐かしい感じのするすすけたやかんに、とても簡単なつくりの刃の錆びた折りたたみナイフ。牛肉、野菜入りと描かれた看板。・・・・・・わたしたちよりもずっとずっと昔の人たちの物ばかりが、子供の宝箱をひっくり返したように、山となっていた。
それらをアイリーンやぴかりさん、てこさんと協力して、古いものだから傷つかないように片していく。
そして。山がなくなるかとなったときに、わたしは気づいた。
その山の下から、明らかに違う年代のものが顔を覗かせていることに。

「・・・・・・これは?」

「ああ、なるほど。アッリちゃんが転んだ拍子にまずこれが落ちてきて、その衝撃で他のも落ちてきちゃったんだね。」

それは、幼い子供が乗るようなサイズの小さな小さなゴンドラでした。
古ぼけて、今水の上に浮かべたら、きっと浸水して沈んでしまうだろう、ひどく痛んでしまった小さなゴンドラ。
わたしは、それを無意識的に抱え上げる。
・・・・・・なんでだろう、とっても懐かしい感じがするのです、このゴンドラからは。
この古びて、木目が黒くなってしまっている所に、意識が吸い込まれるかのように感じる。

「・・・・・・よしっ! これでアッリが持ってるそのゴンドラだけで片付け終了だよっ!」

「あ、はい。」

でも、アイリーンのその声にわたしはゴンドラから意識を離し、それをコレクションの開いた場所に置いた。
デジャヴも感じなかったし、きっと気のせいだろうと思いつつ、でもどこか後ろ髪を引かれるような微妙な心境で、わたしはバラックを出て、アイリーンたちと合流することにした。














「それにしてもあの量のコレクション、軍曹さんが集めたんでしょうか?」

「なんでも、軍曹さんの憧れの人が集めていたのを持ってきたんだって。」

「なんで?」

「そこまでは知らないよ。ああ、でも・・・・・・もしかしたら、ここは本当は軍曹さんが見つけたんじゃなくて、その憧れの人が見つけて、それでここに自分のコレクションを持ってきただけ・・・・・・って、ことは?」

「根拠は?」

「あのバラックがどうみたって『10数年』は経っているように見えるから、かな。軍曹さんが自分で立てたって割にはしっかりしてるし、ソレでいて古いから。」

「『10数年』、ですか・・・・・・。」








[18214] 第一章 『スタートライン』 第八話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:17930650
Date: 2012/02/24 01:43




そこは青い蒼い碧い藍い、どこまでもどこまでも続くような果てしない深遠の世界。

ふと、わたしの大好きな、いま横で泳いでいる姉さん先輩の漫画のキャラが言った言葉を思い出す。
その言葉の意味をずっと想像して楽しんでいた。
でも、想像は想像でしかなくて。
現実は想像なんかをはるかに上回っていて、もっとずっといっぱいすごかった。なにが凄いかなんて、言えるわけがない。言いようがない。たとえ言葉に表せられたとしても、この世界に来てみなければ絶対に分かるはずないと思う。

・・・・・・コポ、コポ、コポポ・・・・・・コポポポポ

上を見やれば、わたしの吐いた息が万華鏡のようにクルクルと色を変えるたくさんの泡となって、キラキラ輝く海面へ向かって上へ上へと昇っていく。
ぶつかっては大きくなったり小さくなったり。パンと泡が割れるような音も無数に聞こえ、パチパチと拍手のような音も聞こえる。
水の舞台で踊るかのように、わたしはクルクルと泳いだ。
楽しかった。あの事故以来、はじめて心の奥底から笑顔になった。
『わたし』ことアッリ・カールステッドは今。
マンホームに伝わる古い伝説の登場する、本物の水の妖精・・・・・・ウンディーネと同じように水の中で生きていたのです。

























「あっ、おかえりっ! みんなー!」

てこさんの元気な声が初ダイビングで疲れきったわたしを出迎えた。
足取りは重く、足に鉛が絡みついたかのようだった。さらに体全体をいやな倦怠感が包み込む。それでもザブザブと打ち寄せる波をかき分け、なんとか浜辺まで上がることができた。
荒い息をゆっくりと整えながら、粒の細かいやわらかい砂地に仰向けに倒れこむ。
まるでフカフカの布団のように、優しくわたしの体を砂地は抱きとめてくれた。

「あはは、やっぱりだいぶ疲れちゃってるみたいだね。で、どうだった? 初めての海の中は?」

てこさんがわたしにタオルとぬるめのスポーツドリンクを手渡しながら、そんな質問をしてくる。
わたしは震える右手でそれを受け取ると、一気に飲み干す。最後の一滴までのどの奥に流し込んだら、てこさんの質問に答える。
心に溜め込んだたくさんの感想を吐き出すように、大きく口を開けて一気に。

「・・・・・・最ッ高でしたッ!」

「ふふっ!」

てこさんが嬉しそうに微笑む。周りの皆もおなじように。

「なにが最高って、全てが全て。もう何がなにやら説明できないですけど、もう全部素敵でしたッ!」

わたしが海の中で過ごした時間は、ダイビングするに当たってとりあえず必要な最低限の基礎技能の練習でほとんど消えた。
しかも、その間はとてもじゃないけど海の中を楽しむことは出来なかった・・・・・・マスククリアーの練習の際にゴーグルの隙間から入れる海水が目に入って、目が痒くなるわ、水圧差で耳はキーンと痛くなるわで。
でも、である。最後にほんのちょっとだけ、自由に泳がせてもらったときのことだった。
本当の水の妖精の一人や二人、べつに居てもおかしくない別世界・別次元。
それが、わたしが抱いた初めての海の感想。
青蒼碧藍・・・・・・わたしの思いつく限りの青を言い表す色の単語をいくつ並べても、全く届かない表現できない。あの海の色は、一体全体何色だと言えばいいんだろうか。
水の都と呼ばれるネオヴェネチアで暮らしていたのだから、海、いや水は日常のワンピースだったはずなのに。
でも、海中・・・・・・水中は全くの非日常だった。
水面という薄氷のようなたった一つの隔たりが、その境界。その隔たりを越えてしまうと、人には全く優しくない世界が広がる。重いボンベを背負い、幾つもの機材を装着し、特別な訓練をつまなければ、水中は人間が生存するにはあまりに過酷で。たとえぶ厚い鉄の皮を身にまとった潜水艦でも深く潜りすぎれば、水圧でペシャンコにされてしまう、そんな世界。
でも一度海に受け入れてもらえさえすれば、全ての悩みを洗い去ってくれるかのような、よく分からない、言いようの無い感じが全身を包み込む。無限の抱擁感とでも言えばいいのだろうか。海は全ての生き物の母ということも、よく分かるような気がする。

・・・・・・そういえば、わたしは以前にも似た感覚を経験しているのです。もっと前に。いつ、そしてどこだっただろうか・・・・・・?

「ぴかり、アッリちゃんはどうだった?」

「うん。飲み込みが早くて、私としてもだいぶ助かったよ。正直、マスククリアーの手際のよさはてこを上回ってたかな?」

「ふふ、そうなんだ。私は随分と長いこと苦手だったから、ちょっと羨ましいかも。アッリちゃん、気分悪くなったりとか頭が痛くなったりとかはしていないかな?」

「はいっ! ぜんっぜんっ大丈夫ですっ! 何も問題ありませんっ!」

「病院にいる友人に確認を取ったんだが、リストバンドから送られてくる生体データには目立った異常は見当たらないそうだ。強いていれば心拍数があるときを境に一気に上がってることぐらいだが・・・・・・まぁ、こいつぁ仕方ないか。万が一ってこともあり得るから、一応注意しとけよ」

軍曹さんが苦笑しながら、ぴかりさんにそう伝える。そうです、心拍数が上がるのは無理ないのですよ。あんな世界を体験すれば興奮しないほうがおかしいと思うのですよ。

「はい、分かっています。でも、この調子なら次の一本も大丈夫そうだね」

「たぶん熟練者のサポート有りなら、例の時間帯も潜れると思うよ」

「あ、次っていつから潜るんですか!? はやく『ウンディーネの寝所』について知りたいのですよ!」

自分でもびっくりするぐらいテンションが高くなっている気がする。その勢いのまま、わたしはぴかりさんとてこさんに聞いた。
すると、次潜るのは日が沈みかかるぐらいの時間帯らしいのだが、肝心の『ウンディーネの寝所』については・・・・・・

「それは潜ってからのお楽しみ、ってね」

「きっとびっくりすると思うよ? 期待しててね?」

「むぅ、でも気になるのですよ。それも猛烈に・・・・・・アイリーン、どうしても教えてはくれないのですか?」

と、こういう風に。そう、悪戯小僧のようにてこさんにぴかりさんは笑って誤魔化すので、アイリーンに聞いてみることにした。ですが、まぁ答えは期待しちゃいません、この島へ来る途中何度も聞いたのに答えてくれませんでしたもの。少しは答えが違うかなと思って、聞いてみた。
すると、やはりアイリーンもこれまで通り笑いながら誤魔化しを言う。ただ、その笑いはてこさんやぴかりさんの、そしてここへ来るまでの質問時の笑顔と違って、どこか真剣な雰囲気を漂わせていた。

「私も答えられないなぁ、その質問。だって答えちゃうと、全部台無しになっちゃうと思うから」

「そうなんですか?」

「うん。ただ・・・・・・今のアッリには絶対に見ておいて欲しいんだってことだけは教えるよ。あのオールを握るか握らないか、その選択の前に。それだけは覚えておいて欲しいな」

「??? ますます意味が分からないのですが?」

「分からないように言ってるからだよ」

「怒りますよ?」

「ははっ。とと、アッリ。そろそろ体しっかり拭いて暖まらないと、風邪引いちゃうよ?」

「話を逸らす気ですか、アイリー・・・・・・へぷちっ!! ううう。さ、寒ぅっ!?」

と、興奮しきっていた体が落ち着いてくると、体がぶるぶると寒さに震えだす。
まだ春で、水温はそれほど高くない。そのせいで体温を思いのほか奪われていたわたしの体は、春のそよ風が吹くのにも悲鳴を上げていた。

「焚き木があるから、早く暖まろーよっ!」

「おーけいなのですよ。ううう、さむっさむっっ!」

アイリーンと一緒に寒さに震える体に鞭打って、パチパチと暖かそうな火の粉を飛ばす焚き木に近づく。
すると、木の焦げる匂いの中に少し違う匂いが混じっていた。やわらかいこの木の焦げる匂いもいいが、この食欲をそそられるような匂いはいったい何なんだろうか。
時間もちょうどお昼を少し過ぎたころだし、匂いに釣られてわたしのお腹も『グゥ』となってしまう始末。
恥ずかしくなって周りを見回しても、誰も気づいていない様子だ。どうも、みんなの視線がてこさんに集中していたからのようだ。

「はい、みんな。上がってからずっと私のほうを見ていたけど、たぶんこれを待っていたんだよね?」

「「「当然ですとも! いぃぃやっほーう、待ってました!」」」

「うーん、よだれが口からあふれそう!」

「ふむ、いい匂いだな。また上達したのか?」

てこさんがそう言いながら、みんなになにかを配って歩いていた。それがてこさんに視線が集中していた理由のようです。
それにアイリーンやぴかりさんに姉さん先輩が大喜びで飛びつき、アンさんと軍曹さんは海から引き揚げた救助道具をいそいそと片付け、それを食べ始めた。あれはいったいなんでしょうか?
・・・・・・んん、これはお味噌の匂いでしょうか?

「はい、アッリちゃんも。体がホカホカ暖まるとおもうよ」

「えーと、それは?」

「ん? 豚汁だよ、知らないかな?」

「いや、知っていますけど・・・・・・なぜ配ってるんですか?」

「てこひんがひゃっきひったよふに、はらたはたためるはめ? ぷはっ、ダイビング上がりにはこれが一番暖まるんだよっ!」

ハフハフとてこさんから渡されたお椀の中のものを食べながら、姉さん先輩が言った・・・・・・口に物を入れながら。
女性なのですから、お上品に食べてもらいたいものであります。ほら、弟さん先輩が深いため息をこぼしているじゃないですか。

「はい、どうぞ?」

「あ、ありがとうございます」

豚汁。わたされたお椀を見れば、ホカホカとあったかそうな湯気をたてる味噌汁の中に、たくさんの色とりどりの野菜や、食べやすいように薄くスライスされた豚肉がふんだんに入っていた。その上には少しだけかけられた七味が。
おおう、お味噌汁の上に浮かんでいる透明な豚肉の油がぷかぷかと浮かんでいる。こってり系も大好きなわたしにとって、これは高いポイントだ。
お味噌の匂いと野菜の匂いが混ざってとても食欲をそそるし、木のお椀がまたいい風情を感じさせてくれる。
これらの視覚や嗅覚、触覚情報をまとめると、なるほど、たしかに豚汁である。
スプーンとおわんを受け取り、口を近づける。ととっ、食べる前のお約束。

「で、では、いただきます」

「うん、召し上がれ?」

口をつけたときの想像とたがわぬ熱さ、でもそれを気にせず、まずは一口。
・・・・・・なんだこれは・・・・・・旨い。ウ・マ・イ・ゾーッとでも叫びたくなるような、絶妙なお味噌の味。いやお味噌の味だけじゃない、これは豚肉の油がその味噌に濃厚な甘みを提供してくれて、より深みのある味となっている。ふんだんに入れられている野菜も甘くて口の中でとろける。さらに、木のお椀に入れられているからか、僅かに漂う木の香りがなんとも言えない風味だ。食感に変化を与えるこんにゃくやピリッとくる七味もまたGOOD。
まぁ、いろいろと御託を並べたところで、大事なことは一つだけ。それをてこさんに伝えなければ。

「とってもとっても、おいしいのですよっ!!!」

そう叫んだら、あとは無我夢中でこの豚汁を食べつくすのみだ。

フゥフゥ、パクパク、モグモグ、ズズズ、ゴックン。

「ふっ・・・・・・ごちそうさまでしたっ! さいっこぉーでしたっ!」

「うおっ、はやっ!? すごい食いっぷりだね」

「これだけ喜んでくれると、作った私も嬉しいかな」

そう言うてこさんは、しかし、自分のお椀をすすって一言。「でも、まだあの味には届かないなぁ・・・・・・」
その言葉が気になってぴかりさんに聞いてみると、ぴかりさんの祖母がよく作ってくれた豚汁を目指しているのだけど、まだ届いてなくて納得がいっていないのだとか。
うーん、この豚汁はとてもおいしいと思うのですがねぇ。これを上回る豚汁というのがあるのでしょうか。だとしたら、一度は食べてみたいものです。
お母様はこういった味噌とか醤油とかを使うような和食系はあまり作らなかったので、おふくろの味というわけでは無いのに、どこか懐かしく感じる。もしかしたら、わたしは日系の血が流れているのかもしれません。
とか考えているうちに完食。夢中で食べていたからか、結構な量があった筈なのに、あっと言う間に食べてしまったのですよ。
ほんわかと体も温まってきた気がする。
そして、わたしのお腹はまだまだ行けると声を上げていた。
となれば、その主はそれに答えざるをいけないだろう。というか義務のようにすら感じる。とにかく、あの豚汁がもっと食べたいのですよ。
お代わりがあるかどうか、てこさんに早速聞いてみなければならないのです。

「あの、これのお代わりってありますかっ!?」

「うひゃっ! あ、ある、あるよっ。だからそんなに慌てなくてもいいよ、アッリちゃん?」

そう言いながら、てこさんはパチパチと火の粉を飛ばしている火の上に乗っけられている鍋を指差す。
その中にはクツクツホカホカと湯気を立てる豚汁が。
たぶんそれを目にした瞬間、わたしの目は光り輝いていたのだろうと思う。てこさんが一瞬引くぐらいには。

「それではっ! さっそくお代わりお願いしますっ!」

「ふふっ、はいはい」

空になってもじんわりとした温もりの残る、わたしの木のお椀をてこさんに渡して、お代わりを入れてもらう。
お代わりを入れてもらうのを待つ間アイリーンと喋ってようと思いましたが、いつのまにかアンさんや軍曹さんとえらく真剣な顔つきで何事かを話していました。
・・・・・・むぅ、なんだか少し気に食わないのです。別にアイリーンがアンさんと軍曹さんに取られているからとか、そういう理由じゃないのですよ、はい。
やることがなくなってしまったので、お代わりをひたすら待つ。むむむ、てこさんの動きの一つ一つがひどく緩慢に見えるのです。もっとはやく、はやく。

「はい」

「それでは、いただきます!」

ほかほかと湯気を立てるお椀が近づく。わたしはそれに心臓をドキドキさせていました






だが、楽しい時間は終わりを告げる。






他ならぬ、自分の腕によって。





わたしは忘れていた。どうしようもならない、自分の左腕のことを。暖かい皆に囲まれて安心しきっていたのだ。
わたしは、もう昔のようには戻れないのに、まるで昔の自分のように振舞って皆と笑いあって。



ひ、くん。



「あっ、つぅ・・・・・・」

「! 大丈夫!? アッリ!?」

砂浜に音もなく木のお椀が落ちる。そしてお椀に並々と注がれていた豚汁が砂浜の色を濃く染めた。ウェットスーツ上に落ちた汁がスーツ越しに間接的に熱を伝えてくる。
落とした原因は、左腕の痙攣。
そう、左腕を生体義肢にしてから起きるようになった『発作』という奴だ。入院中はよく起きていたけど、退院してから一度もこいつは来なかった上に、アイリーンが傍に居てくれていたお陰で、気が緩んでいて油断していた。
この腕の痙攣で、わたしは・・・・・・ゴンドラを漕げなくなった、オールを握れなくなった。自分の意図しない動きを起こす腕がその原因。
こんな腕で操船して見ろ、オールを落としてしまったり、最悪転覆だ。
いまだにフルフルと痙攣を続ける左腕を呆然と見やるわたしに、アイリーンが濡れタオルと冷水を持って、慌てて声をかけてくる。

「やけどは!?」

「ああ・・・・・・大丈夫ですよ、アイリーン。大丈夫です。勿体無いことをしてしまったのですよ、ホント。ああてこさん、豚汁おかわりはいりません。おいしかったです。少しっ、失礼しますねっ!!」

「あ、アッリっ!」

でも、わたしはそんなアイリーンの心配を無視するかのように、矢継ぎ早に喋って、逃げ出した。ただ、逃げ出したかった。何でかは、分からない。
ただ、アイリーンには失礼だったかな、そう思う。せっかく誘ってくれたのに。
やっぱり、わたしは・・・・・・。


みんな、ただ呆然とわたしが走り去って良くのを見送っていた。































アッリが森に消えてから少しの時を置いて私たちは覚醒した。

「すいません! あのっ、私っ、アッリを追いかけますんでっ! あとよろしくお願いしますっ!」

「リーンだけじゃ追いつけないから? 私も行く・・・・・・リップル、ナビゲートよろしく?」

≪了解、マイマザー≫

そう言いながらカールステッドが去った方向へ、アイリーンがなぜか豚汁を魔法瓶に入れて、そして『リップル』を引っつかんだアリソンが駆けていくのを、私たちは黙って見送った。
軍曹も額にしわを寄せて何とはなしに空を睨んでいた。

「あの腕・・・・・・やはり後遺症が残ってしまっていたようだな。くそったれとも言いたくなるさな。こういうときばかりは、なぜもっと早く現場に辿りつけなかったのか・・・・・・そう思ってしまう。意味が無いのにも拘らず、な」

「うん・・・・・・そうだね」

軍曹がそう呟く。あの腕の傷はおそらく衝突直後の破片で傷ついたものだったはずだ。あの深さでは、たとえ、もっと私達が早くあの現場にたどり着いていたとしても、あの左腕は生体義肢に変える必要があっただろう。でも、もしかしたら。そう思ってしまう。私達にとって最大の職業病だ、どうしても助けられないものを助けれればとつい考えてしまうのは。

「アン先輩、軍曹先輩・・・・・・あの、いまのは?」

「姉ちゃんも含めて皆もたぶんアリソンから聞いていたと思うけど、あれが今のアッリが抱えている後遺症よ。突発性・・・・・・えーと、正式名称は忘れちゃったけど、つまりは、ああいう風にいきなり腕が痙攣したり腕がピクンと変な風に動いたりするの。ただ、私たちも初めて目にしたけど」

あの腕では、確かに客を乗せたゴンドラを操舵することは叶わない。ウンディーネだって人を運ぶ仕事だ、まず第一に安全性・安定性が求められる。華麗な操舵だの美麗な歌声だの豊富な知識だのは、当然のことではあるが、それをクリアしてからなのだ。彼女はプリマどころかウンディーネになることすら危うくなってしまった。

「そうなんですか・・・・・・。でも、それがなんでアリソンの『ベクタード』の技術を、オートフラップオールを使うことになるんですか?」

「ああ、それはだな・・・・・・」

左腕が痙攣するのだったら、左腕を出来るだけ使わないようにすればいい。そこで右腕をメインに漕ぐようにフォームを改良するが右のパワーは左に比べて弱い。制御も甘い。そこを左腕のレベルまで右腕を鍛えるまでの間、オートフラップオールでサポートするのだ。それでは左腕の問題は解消されない・・・・・・つまり依然として客の安全確保の問題とかが残るから、いずれ何らかの方法で克服するしかないが、何もやらないよりはマシだ。
もしかしたらリハビリを重ねれば元に戻る可能性だってあるのだし。

「ようは、彼女がもう一度漕ぐことが可能だと気づけさせればいいんだ。彼女はゴンドラすら漕げなくなってしまってると思い込んでる。両親がなくなったり、生体義肢になっていたり、それが不備を持っていたりと精神的にかなり参っている状態の今の彼女が、ウンディーネとの繋がりだけじゃなく、ゴンドラとの繋ぎすら無くしてしまったら、いよいよもって追い詰められてしまう・・・・・・そうアイリーンは考えたんじゃないか?」

「たぶん、そうだと思う。私もそうしてただろうと思うし」

「あれ? じゃあ、なんで彼女は躊躇っちゃったの? 『ベクタード』技術は私にはよく分からないけど、とにかく凄いってことは分かるわよ。あれがあれば結構いい線行くんじゃないのかしら?」

「うーん、確かになぁ。なんで迷ってるのか・・・・・・」

姉ちゃんの疑問に私は頷く。使える技術があるんなら、それを使えばいいと思うのだけれど。
姉ちゃんと二人してどうしてなのか、うんうん唸っていたら、軍曹はこう呟いた。

「できない、ということを知ることが怖いんだ、彼女は」

できない、ということを知ることが怖い? できるかできないかは、やってみなくちゃわからないというのにどうしてなんだろうか?
軍曹は話を続けた。

「誰だって先の見えない暗い小道を進むのは怖いだろ? それと同じことだ。それにたぶんだが、彼女は『ベクタード』技術は最後の道しるべであるかのように考えてしまっているはずだ。もし、その道しるべが間違ってたらと考えちまって、その小道に足を踏み出すことができないんだよ。別に『ベクタード』技術ってのは無数にある道しるべの一つで、最後でもなんでもないのにな」

その言葉にみな納得する。てこちゃんはどこか自分にも共通したことでもあったのか頻りに頷いている。

「まぁ、全部俺の想像だが・・・・・・あんなふうな不安たっぷりな目、そして雰囲気。まるで昔の、あの事故直後の俺だ。悪く聞こえるかもしれんが、お前が想像できるわけがない。挫折しようと打ちひしがれようと・・・・・・俺と同じようにあの事故で両親を失ってもなお、俺をジノを励まし続け、前に向かって歩みを止めずに進み続けてきたお前には特にな」

そうだ、あの時の事は今でもすぐに思いだせれる。今の彼女と12年前の『あの事故』後の彼は似ていた・・・・・・両足を失い、両親も親友もそして彼が心の底から愛していた幼い頃からの憧れの女性も一度に失った、あの頃だ。あの時の軍曹も、昔のように昔みたいにって何度も口にしていたっけ。正直に言うと、あのときの軍曹は見ていられなかった。
軍曹の言うとおり、今のアッリは昔の軍曹だ。
私は無性に不安になって、アッリの後を追いかけようとした。
でも軍曹は、立ち上がろうとする私の肩を押さえて座らせると、言った。

「だが、ま・・・・・・心配する必要は無いだろ。それより、次一本のために準備をするぞ。今日初めてダイビングをした素人を日没間近の危険な時間帯に潜らせるんだから、色々準備しておかないといかんからな。アン、手伝え」

軍曹は立ち上がって機材を身につけると、蛍光テープやブイを持って再び海に向かう。

「え、でも、なんで心配する必要が無いって? あなたの言うことがもし当たってたら、最悪の展開も」

「病院側へのデータリンクは正常に機能しているだろ、何かあってもすぐに俺たちの元へ連絡が入る。更に言えば、この場所には事故などの万一のときに備えてファーストエイドキットだってあるんだぞ?」

「それでも・・・・・・」

「なにより、だ」

そこで軍曹は言葉を区切り、振り向いた。

「俺やジノにお前が、てこにぴかりがいたように、彼女にはアイリーン・マーケットがいるみたいだからな。こう言う時に優しく背中を押して、共に小道を進んでくれる奴が居てくれるなら、何も心配いらんさ。それに、アイリーンはアッリに『ウンディーネの寝所』を絶対に見せるって息巻いていたんだろ? なら絶対にアッリを連れて来るさ、たとえ引きずってでもな。となれば、俺たちが心配すべきは次のダイビングで彼女を安全に潜らせることだけだ、違うか?」

二言三言話しただけだが、アイリーンという少女はどうもアンに似て相当頑固者のようだしな・・・・・・そう言うと軍曹はニッと笑い、手をたたき合わせて。

「よし皆、固まっているな! さぁ、動け動け動け! あまり時間は無いんだからな!」
































「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

随分と長い距離を走った気がする。さすがにダイビングした後に、全力疾走は体にムチを打ちすぎた。疲れ切った体を大きな木の幹に預け、膝を抱えてしゃがみ込む。
そうしていると、随分と惨めな気持ちになった。抱えた膝に顔をうずめる。

「・・・・・・ホント何やってるんでしょうかね、わたしは」

風で葉が揺れる音もせず、静かで寂しい雰囲気の森の中。涙は零れ落ちるのをやめるどころか、さらに大粒の物へと変化していった。
いつのまにかこの島の奥深くに来てしまったようだ。暗い森の中で一人きりだということを考えて、さらに心細くなる。昨日、家に戻った時と同じ感覚。

「ホントだよね、アッリ?」

「あ、アイリーン!?」

と、心底暗くなっていたわたしの所へ、いきなりガサガサッという音と共に茂みからアイリーンが出てきた。
気配も無く葉っぱが揺れる音さえ立てずにわたしの傍まで接近するという、特殊部隊も真っ青なアイリーンの接近術で実現したあまりにも唐突過ぎる出現に驚いた。

「私も、居る?」

「うひゃっ!? え、エレットさんもですか!?」

さらにアイリーンが出てきた茂みとは反対側からエレットさんもニュッと顔を覗かせてきたことで、わたしは完全に泣き止んだ。

「な、なんで二人が?」

「それは当然アッリが心配になったからだよ?」

「私も同じく?」

わたしの質問に対する二人の回答に、当然のようにそう答える二人。
アイリーンは付き合いが長いから、まぁ分かるとして・・・・・・エレットさんもなぜ同じ答えなんでしょう? 出会ってまだ数時間しか経ってないのに。

「はい、これ。疲れたでしょ?」

「ひゃっ、あつ!?」

そんなわたしの疑問を他所に二人は茂みから抜け出すと、わたしの両隣に腰を下ろし魔法瓶から湯気の立つ液体をコップに注いで手渡してきました。
この匂いは先ほどの豚汁か。
その熱さに多少驚きつつも、受け取ろうとしたわたしはしかし、受け取ることができませんでした。
また溢してしまうのが怖くて、伸びた手を途中で引っ込め、顔をうつむかせる自分自身にわたしはよりいっそう惨めな気分になって・・・・・・。

「ふーむ? ならば・・・・・・あーん?」

「へ?」

そして、口元に差し出されたスプーンに驚いて顔をあげることになった。

「なんですか、一体?」

「ん? だから、口を開けてっていう意味で『あーん』って言ったんだけど?」

「いや、それは分かるんですけど」

わたしが手を出さなかったから、と当然のように『あーん』をした理由を述べるアイリーン。
そしてわたしが手を出さなかった理由についても述べた。またひっくり返すのが怖かったから、手を出さなかったのでしょ・・・・・・と。

「そこまで分かっていて、なんで・・・・・・」

わたしはアイリーンのわたしを気遣う優しさと同時に、それにこたえず殻に閉じこもっているような自分自身を情けなく感じて、また顔を俯かせた。

「んー、なんでって朝に言ったとおりだけど・・・・・・今はやっぱりちゃんと食べて、次のダイビングに備えてほしいからかな。あとはあれだけお代わりをお願いしていたから、もっと欲しいだろうと思って」

「・・・・・・わたしはいいですっ・・・・・・二人はっ」

「そういうわけにはいかないよ、アッリ。朝言ったよね、『希望』を案内してあげるって。その一つはあのオール、一つは次のダイビングにある。だから絶対潜って欲しい。それに、ダイビングは体力が必要だってことは、アッリもさっきのダイビングで知ったよね? だから、はい」

そう言われて、もう一度差し出されるスプーン。

「いいですっ!」

「いやいや、そういうわけにも」

プイッと顔を背けるわたしを追いかけるようにアイリーンのスプーンもまた動く。

「だから、いいとっ」

「うーむ、この頑固者!?」

こんなことを二度三度と連続でやっていくうちに・・・・・・あ、なんだか少し楽しくなってきたのですよ。
そんなわたしとアイリーンの堂々巡り気味なやり取りを見かねたか、今まで黙っていたエレットさんが口を開く。

「しかたがないリーン? こうなったら最後の手段を使うべき?」

妖しい笑みをその顔に浮かべながら。

「な、なんだか、モーレツに嫌な予感しかしないのですが・・・・・・」

「・・・・・・口移し?」

「ああ、やっぱりぃ!?」

く、口移しってあれですよね、キスってレベルじゃないアレのことですよね!?
流石にこれはやろうとはしませんよね・・・・・・って、アイリーン!? なに手を顎に当てて真剣に考え込んでいるんですか!?

「ふむ・・・・・・」

「あ、アイリーン、その手があったかって顔しないでください! だ、だいたい口移しって!?」

≪口移しとは自分の口内にあるものを自分の口から相手の口へ直接移す方法であり・・・・・・≫

「やっぱりこういう風に相手が拒絶する時には効果覿面?」

「わぁお、ノリノリですね『リップル』もエレットさんも」

「大丈夫、私も結構恥ずかしいから」

そう言うと、ずいっとわたしの方へ体を乗り出してきた。その肌は桜色に上気していて、わたしの心臓もなんだかドキマギしてくるのですよ。
・・・・・・い、いや違う違う!わたしはそんな趣味は無い、無いはずなんです!
ああもう、朝にも同じようなことがありましたよねっ!?

「そういう問題じゃありませんよ!?」

「でも私はアッリが相手なら・・・・・・問題じゃないよ?」

「顔を真っ赤にしながら口に含まないで!? 本気にならないでって、あなたがそうでも私にそんな趣味は!? のわー!?」

それからしばらく、わたしは口を近づけてくるアイリーンと激しい攻防戦を繰り広げた(その間、エレットさんは後ろで気味悪くニヤニヤ笑っていた・・・・・・存外、腹黒いのかもしれません)。

「はぁっはぁっ・・・・・・なんとか乙女として大事なものは守り切りましたよ。なんてことしてくさってんですか、アイリーン?」

「むっ、だって食べてくれないし?」

「・・・・・・分かりました、分かりましたから口を近づけてくるのはやめてください。おとなしく食べればいいんですよね。そいつを渡してください」

「だめ、あーん?」

「ぅぅぅ、します、しますよ、もう! 小っ恥ずかしいですけど!」

余計に疲れたような気がしつつ、しぶしぶと大きく口をあけ、おとなしくアイリーンが口に含ませてくる豚汁を啜る。
多少ぬるくなってもその豚汁の美味しさは露ほども衰えていなくて、改めててこさんの料理の腕前に感心する。

「けふっ。ごちそうさまでした、お腹いっぱいですよ。まったくもう」

「はは、あれだけいいって言ってた割には持ってきた分は全部食べちゃうんだもの、お腹いっぱいにもなるよ」

「う、うるさいのですよ。美味しいんですから仕方ないじゃないですか」

「それは確かに? てこちんのケーキ今度食べに行くと、いつもそう思う?」

お腹が満腹になったことで血が上った頭が冷え、そこで一つの疑問がわき出る。
あの場から逃げ出したわたしを追いかけ、さらにはここまで・・・・・・少々やりすぎな気がしないでもありませんが、とにかく手厚く助け気遣ってくれた二人。アイリーンはともかくとして、わたしとは全く面識のないエレットさんまでどうしてここまでしてくれるのか? オートフラップオールやAI『リップル』など、素人目に見ても結構なお値段の代物まで用意してくれた上に、もし使用するとなったら、もし故障した時のアフターサポートも無償で完備。更には練習にも付き合ってくれるらしい。
まったくもって、なにもかも都合がよすぎる。

「どうしてなのですか?」

「なんでかって言われたらなぁ・・・・・・うーん、色々と世話になってるアイリーンに頼み込まれたからってのもある? でも、やっぱり一番の理由は・・・・・・貴女のファンだったから?」

「・・・・・・はぁ、ふぁん・・・・・・ですか?」

「そう、ファン? その一員として、今のアリカちゃんはなんだか見ていられなくなくて?」

「は、はぁ・・・・・・?」

ふぁ、ふぁん?
いきなりの突拍子もない言葉に少し唖然とする。思わず聞き返してしまうほどでした。
いや、いきなりというわけじゃないのかな? わたしの質問に答える形で登場したわけですし。それでも、なんというかなぁ・・・・・・。
まぁともかく、ファンとして応援したくなったというのなら、なんとなく分かるには分かるのですが(それでもやりすぎな感がありますが、それは置いといて)、いつファンになったのかということが疑問点ですね。
確かに月刊ウンディーネにはミドルスクールのゴンドラ部に所属する生徒や各有名案内店の養成所の候補生など、ペアに上がる以前の次々世代のウンディーネを特集するコーナーが度々設けられる。そのコーナーにわたしも載ったことがあるにはあるが、二回しかない。ましてや一回はゴンドラ部全体の特集で副部長(この取材の時、わたしはまだ副部長だったのだ)として取材されたのであり、わたし個人ではない。
だとすると、わたし個人を取材した方でファンになったのだろうか? そうだとしても、その一回だけでファンになったりするのだろうか?

「うーんと、実を言えば、アッリちゃんのことは記事になる前から知っていた? それこそリーンちゃんが貴女の親友になったころぐらいの昔から?」

「ええっ!? どういうことですか?」

「つまりは3年以上前からってことかな? んーでも、アッリのことをどうやって知ったの?」

どういうことなのだろうかと、驚くわたしとアイリーン。
3年ぐらい前ってことは、だいたいアイリーンと出会ったあたりか。だとしたら、まだわたしはペーペーの平部員で雑誌にも載った覚えがない。アイリーンの言うように、わたしのことを知る機会はほぼ無いと言っていいはずだ。

「アリカちゃんはバーチャルイメージマシーンでプレイできるゴンドラシミュレーション、その中のある部屋(サーバ)内ランキングで『Alison』っていうハンドルネームには見覚えがある?」

随分昔から目にしていたハンドルネーム、わたしがどんなに足掻いてもハイスコアを抜けなかった『Alison』とか言うハンドルネームの奴のことは非常に記憶に残って・・・・・・って、アレ?
『Alison』?
Alison・・・・・・ありそん・・・・・・アリソン。アリソンはエレットさんの名前です。それにエレットさんの店に入ったときに感じた、あの違和感、あるいは既視感は。
ひょっとして・・・・・・もしかして、もしかしなくても。
そしてエレットさんは口を開く。

「それは私? アリソン・エレット?」

「そうなんですか!?」

「『Alison』って、いつもアッリが話していた奴のこと?」

『Alison』
仮想現実の中でわたしがライバル視していたプレイヤー。わたしがタイムをなんとかそいつのタイムに近づかせると、それをいつもかるーく離したタイムを打ち立てくる、なかなかにいやらしい奴だった。
奴は最初はわたしより下手で遅かったが、わたしが奴を追いかけ始めてからはどんどんタイムを上げていき、最終的には公式に公表されているプリマクラスのタイムと同程度にまで上げていた。
たとえ現実ではなく、仮想現実の世界であったとしても、そんな成績をオールだこの一つも出来ていない綺麗な手を持つ彼女が出せれるのだろうか。
よしんば彼女が元ウンディーネだったとしても、そんなことがあり得るのだろうか。おそらくアイリーンもそう思ったのだろう、にわかには信じられないといった顔をしながら彼女の手と自分の手を見比べていた。

「えーともしかして、元ウンディーネさんとか?」

「いいえ、私は昔から、それこそミドルスクールの時からずっと研究畑? 体を動かすことなんて苦手中の苦手?」

「じゃあ、どうやって」

「不思議に思う? 全てはプロトタイプ時代のオールとリップルのお陰?」

≪私の先祖というか、兄にあたるAIだな≫

エレットさんは自身が開発した、より小型で高性能なベクタードのデバイスの性能を実証するため、オートフラップオールを仮想的に作った。
その実験をサーバ管理者に許可を取ったうえで、わたしのよく入っていたサーバを改造してベクタードのシミュレートを行っていたそうだ。またその実験途中で、現物を開発し、それらを彼女にゆかりのあるベテランのプリマウンディーネに実際に使用してもらい動作データなど運用する際のデータを収取した。そのデータをプロトタイプの『リップル』にフィードバックして開発・更新したために、どんどんタイムが上がっていったそうな。
からっきしの素人でもシングルクラスレベルのスコアが出せれる、つまりはそれだけの性能があるという実証試験が順調に進む中、いつもランキングの彼女のすぐ後ろに一人のユーザのIDがいつも刻まれていたのに気づいたらしい。

「開発スタッフみんなで驚いた? まさか同じユーザーがずっと付いてくるとは思わなかったから? プロフィールに公開してあった年齢を見て、二度ビックリした?」

そのIDのハンドルネームはわたし個人を特定するようなものではなかったが、そのずっと付いてくる様子にわたしの評価がスタッフ内でどんどん上がっていったそうな。
いつしか、この諦めの悪いウンディーネ志望のユーザーのことを親しみを込めて『ライバルちゃん』だなんて呼ばれるようにもなっていたらしい。

「そういえば、開発に協力してもらったウンディーネさんはよく話していた? 『どんなにタイム差をつけても、何度も噛みついてくるこの諦めない子が、もしウンディーネになったら相当化けるだろうなぁ』って? この年での技量の高さじゃなく、諦めずに食いついてくるところを、彼女は大層褒めていた?」

そしてアイリーンが彼女の店でバイトをするようになってきてから、段々とこの謎のユーザー=わたしことアッリだという風に考え出したとのこと。アイリーンの話すゴンドラ漕ぎの上手い友人の話とわたしが時々そのサーバ内でのコメントの類似から、そう考えたらしい。
わたしは時々アイリーンに『Alison』のことを愚痴っていましたが、アイリーンがそのことを『Alison』と名前が一緒なエレットさんに喋っていてもおかしくはないですよね。
そして、今回の事件のことを聞いて、定期的にログインしていたのに一月もの間ログインしなくなった謎のユーザーとわたしとの関連性についてちゃんと調べ確認したらしい。

「それでね、開発メンバー全員で話し合って決めた? 『もし彼女がウンディーネになることを諦めないのならば、全面バックアップしよう』って?」

「えっ?」

「ちなみに貴女を応援しているファンは私達だけじゃない・・・・・・あのコミュニティーのメンバーの皆もそう?」

あの部屋では、わたしとエレットさんの勝負はよく話題になっていたらしい。『天才』のエレットさんと『努力』のわたしの名勝負だったと。わたしはそういったチャットにもオフ会なる物にもあまり参加していなかったから、いままで全く知りませんでしたが。
エレットさんがまるで嫌味のようにスコアを上げていく中、在来のメンバー内で唯一食い下がっていったのがわたしだった。そのことで他のメンバー内でわたしに在来メンバーの威信を背負わされていたようなのです・・・・・・全く知りませんでしたよっ!?
(エレットさんが『天才』と呼ばれていたのは時々の参加にもかかわらず、毎回スコアを大幅に上げていくからだそうだ。わたしの場合は少しずつでも地道にスコアを伸ばしていくからだそうだ)

「みんな貴女の事情を知ってからは大変な騒ぎになった? さて、どうしようかって?」

最初は、やれ皆でお金集めて最高級の義椀を用意しようだの代わる代わる家を訪れて世話をしようだの、色々意見が出たらしい。
が、最終的に一つにまとまったそうだ。

「みんな本当は会って話したがってたけど、全員時間があわない、渡す機会がないからって私に・・・・・・貴女と直接会うことのできる私に託されたものがある? はい、これ?」

開けてみてと、一つの小さい袋をわたしに差し出すエレットさん。
ぱりぱりと、誰のセンスか年ごろの女の子ということでかは知らないが、やけに可愛らしい袋の紐をほどくと・・・・・・中から出てきたのはたくさんの便箋だった。

「っ! これって・・・・・・!」

『ガンバレ! 復帰するんなら、また一緒に漕ごうよ!』
『つらいだろうけど、頑張って!!』
『頑張りましょう! 私も頑張ってます!』
『めげるんじゃねぇぞ』
『今度飲みに行こう! んで、泣こう!』
『上を向いて歩こ? でも無理はしないでね?』
『笑えとは言わん。だが泣いてるよりかは、な』

一つ一つの便箋に書かれた無数の励ましの言葉。書いてくれたユーザーのハンドルネームと本名が書き込まれ、誰が誰だか分かるようにか、アバターと照らし合わせるように個々人の写真も貼られていた。さらにはそれぞれの住所、なんとマンホームやルナ1の住所も含む住所も書いてあった。
そして、そのどれにも最後に書かれていた二言でわたしは目を見開いた。

『寂しかったら、会いに来いよ!!』
『というか、こっちから会いに行くかも!!』

「ったくもう・・・・・・お互い顔も名前も知らないのに、あんまり喋ったこともないのに・・・・・・行くことができない住所だってあるじゃないですか。それにわざわざネオヴェネチアまで来るんですか、彼らは? お人よしすぎるでしょう」

「たとえ言葉を交わさなくても・・・・・・何度も何度も同じレースの舞台でともに競ってれば、一種の連帯感・仲間意識が生まれる? 現実だろうが仮想現実だろうが。そういうのって案外強い? こうなるのは当然? それに、勝負の決着はまだついていないって、皆言っていた?」

その手紙には、自分の操舵法やらリハビリ法やら元気の出るお菓子の作り方やら、少しでも役に立てれば・・・・・・という思いの詰まった小講座が開かれていた。

「はぁ、ほんとうに・・・・・・まぁったく、お人よしかつはた迷惑な人たちですねっ!」

ぽろんぽろんと。ぐしゃっと顔をゆがめて、こぼれだした涙はとても甘かった。朝に流した涙と同じ味で。
ああ、そうか。嬉しいんだ、わたしは。

『両親の穴はふさげれないけれど、他にも高く山になっているところがいっぱいあるじゃない、この世界には』

確かに、そうだ。そうなんだ。
目を閉じれば架空の世界で一緒に漕いだ仲間たちが投影される。その姿はアバターだ、現実の姿じゃ無い。それでも、わたしにとってはプライベートでの練習時間の半分を共にした、掛け替えのない仲間たちだった。
まったく、誰が言ったんでしょうね、『こんな誰もいない世界』だなんて。ふふっ、そういえば、わたしでしたねそういえば。
気づいていないだけで、わたしは一人ではなかった、か・・・・・・。
ポフッと肩を組むようにアイリーンが手をまわして、わたしの体を寄させる。おとなしくわたしはそれに従い、回された手を握って体重をアイリーンに預けた。

「ほらね、アッリ。世界にはさ、気づいてないだけで希望が宝物が・・・・・・絆が一杯でしょ?」

「・・・・・・はいッ!」

もらった手紙の束を空いた手で胸に抱きしめて思う。
アイリーンから一つ、エレットさんから一つ、さらにこれでまた一つ、希望をもらった。
ランタンの数はどんどん増え、暗かった道も随分と明るくなった。


ありがとうございます、みなさん・・・・・・今度はちゃんとチャットに参加しようかな?


密着しているアイリーンの暖かい体温に誘われて、微睡んでいく意識の中でそう考える。
彼女が言うには、まだまだこれからが本番らしい。楽しみだ。アイリーンの『希望』ツアーが終わるころには、両手で持ちきれないほどのランタンやランプ、提灯に行燈と、さらには暗視スコープすらも渡されているだろう。種類豊かで豊富な希望が。
・・・・・・ならば、わたしにあと必要なものは一つ。それでも残る暗がりを。足を取られ転んでしまうことを。それらを恐れたりせずに、ただただ前へ進み続ける『勇気』だけ。






[18214] 第一章 『スタートライン』 第九話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:17930650
Date: 2012/02/28 00:57








なぜ、だろうか・・・・・・ひどく懐かしく、優しい感じのする夢をわたしは見ていた。
まだまだ幼い頃のわたしがぶかぶかの何処かで見たような矛のようなマークがプリントされたジャケットを羽織っていて。そんなわたしを父のように大きく広く硬い背中に負ぶい、さやさやと風の流れる夕暮れの中を進んでいく若い男。
顔の見えぬ男がぎこちなくつむぐ歌は、どう間違ってもそうは聞こえないはずなのに、まるで子守唄のようで。そしてどこか聞き覚えのある、いやわたしのよく知る歌。
これって・・・・・・わたしが始めてモノにしたカンツォーネ(舟歌)?
まだヴェネチアがマンホームに存在していたころからゴンドリエーレ(今で言うウンディーネ)によって歌われていたという古いカンツォーネ。
初めてそれを覚えたいって言ったとき、顧問の先生はひどく驚いた。よほどマニア向けの本じゃないと載っていないぐらい古いカンツォーネだって。
なんでそれを覚えようって、思ったんだっけ・・・・・・そうだ、どこか耳に残ってたんだ、この男の歌った歌が。
いつしか歌は止み、男は言う。

「な? ちゃんと漕げれるようになっただろ? 時間はかかっても動けば必ず何かが変わるんだ。」

寝ている奴に言っても無駄か、そう笑いながら、わたしの方へ肩越しに振り向こうとして・・・・・・・・・・・・・・・・・・












・・・・・・っり、アッリ、アッリってば! 起きろー!

「・・・・・・あぅ?」

優しく肩をゆすられる感触で、わたしは意識を覚醒した。ぼやけた視界一杯に広がるアイリーンの微笑む顔。

・・・・・・ふに。

と後頭部に感じる柔らかい感触でわたしはどうも膝枕されて・・・・・・されて・・・・・・膝枕?
急に心臓の鼓動が早まる。
ドキドキと目線を横へ逸らせば、水着に覆われた・・・・・・・・・・・・いや、見てはいけません考えてもいけません!
たとえ同性同士だとしても、なにかイケナイと思うのです。この至近距離では。
それにしても、この後頭部の柔らかいフニフニとしたアイリーンノ太ももの感触、なんともいい難い気持ちいい感触ですね。って、そうじゃないのです!
そこはかとなくどころか、このままではやはりヤバイ気がしてくるのですよ!
ああ、でも・・・・・・もっと長く感じていたいと思うのです。
しかしです、長くこの感触を楽しんでいたりしていたら、やはり女の子としてノーマルな域を出てしまうかもしれません。
ううう、なんとも名残惜しい気がするのですが・・・・・・とにかくこうなったら、一刻も早くこの体勢から脱出せねば。
そう、わたしはのーまるなはずなのです。
そして、この魔の沼から脱出すべく、一切の魅惑を振り切って体を起こそうとして・・・・・・

「うひゃぁ!?」

「あいたぁー!?」

が、わたしが起き始めていた事に気づいていなかったのか、アイリーンのおでこに急に跳ね上げた頭は勢いよくぶつかり、ゴーンと景気のいい音が浜辺に響いた。

「ごめんなさい!」

「うう、大丈夫。大丈夫だけど・・・・・・うーん、やっぱり痛い。」

「本当にすみません!」

「いや、大丈夫だから・・・・・・めいびー。」

おでこを抱えてうずくまるアイリーンと、彼女に頭を何度も何度も下げるわたしの影が、夕日に赤く染まりつつあった浜辺に伸びてゆくのであった・・・・・・・・・・・・

「いや、そうじゃないだろ。いい加減に戻って来ないか?」

軍曹さんがそう言いながらポコンと頭を小突くことで、ようやくわたしは周りの状況に気づいた。
周りを見渡せば、そこはわたしが逃げ込んだ森の奥深くじゃなくて、案内されてきた砂浜だった。
赤く染まった太陽は燃える水平線に触れようとしていて、その反対側の水平線はきっと夜の帳に覆われていることでしょう。
湾を覆う崖の影は長く伸びて、この猫の額ほどの浜辺の殆どを覆っていた。そして湾の入り口からは光が一筋差し込んで、わたしたちの居る場所だけを影から切り取って照らしていた。
状況を統合すれば、つまりは夕方なのです。
次のダイビングは夕方ぐらいだと言っていたので、その前にアイリーンは起こしてくれたのでしょう。
んん? でもわたしはあの森の奥で眠ってしまいましたけど・・・・・・どうやって、そこから運ばれてきたのでしょうか?
自分で自分を重いとは言いたくはありませんが、二人だけで運べるとは思えないのですが。

「私が軍曹さんに運んでもらうようにお願いした?」

「まったくなんで俺が・・・・・・。」

そう疑問を出すと、エレットさんがそう答え、その回答に軍曹さんはぼやく。
なるほど、軍曹さんが運んできたのですね。なら納得できます。コーストガードで鍛えられた身体能力なら、わたしの『軽い』体を運ぶなど造作ないでしょう。
そして、どうやって運んだのか、なんとなくわかる気がする。なんでかは分からないけど負ぶさってきたような気がするのです。そんな気が。
むむ、もし負ぶさってきたのなら・・・・・・

「あの、エレットさん? 軍曹さんがわたしをここへ運んでくるとき、どうやって運んでいましたか?」

「え? 当然負ぶって?」

「ふむ、ならば・・・・・・」

ささっと、胸を隠すように腕を体の前で交差させる。

「・・・・・・軍曹さん、もしかしてわたしの胸の感触を?」

「なんで、俺が10代前半の子供の胸の感触を楽しんだことになるんだ!? おいおい、お前らも何をこっち向いてやがる!?」

わたしの発言を聞いてか、周りの皆も軍曹さんに批判的な目を向けていた。
しかも、この場には軍曹さんしか男の方はいません。まさしく四面楚歌という他ならない状況に軍曹さんは追い込まれたわけです。
加えて言えば、アイリーンなんて今にも軍曹さんを射殺しそうな眼光で睨んでいますよ!? 基本的には温和なアイリーンが珍しいのです。
・・・・・・自分でやっといて言うのもなんですが、なんだかとても可愛そうに思えてきました。
考えてみれば、わざわざわたしを運んでくれたのですから、恩を仇で返す行為でしたね。

「すいません、冗談です。」

「まったく、大人をからかうのは・・・・・・ん? ああ、そう言えば、カールステッド嬢。さっきアイリーンに膝枕されているときに、まるで思春期の少年のような反応をしていたな。」

「え゛っ!?」

ま、まさかあの時の太ももの柔らかさに動揺している様が見られていたのですか!?
い、いかんのですよ! わたしが誤解されてしまいますよ!?

「そ、そんなはずはありえませんなんですよ!?」

「おい、言葉が少しおかしいぞ・・・・・・まぁいい、その反応だ。なるほどなるほど。」

気づけば、ぴかりさんとてこさんは頬を押さえて、ほほう・・・・・・なんて呟いているし、姉さん先輩弟さん先輩はなにやら意味深な顔で頷きあっている。その口から零れた言葉は、まぁ色々あるよね、と。
極め付けにはアイリーンが、

「う、うん。ま、まぁ・・・・・・ア、アッリが相手なら私もいいかな、なんて・・・・・・。」

なんて言ってしまうからには。

「はぅうぅ・・・・・・。」

わたしの顔は、もはや想像するまでもない色に染まっているだろう。
・・・・・・朝にもこんなことがありましたけど、あの時は冗談で済んだのに。
こう皆の前で言われると。なんだかわたしはそっちの趣味を持っているのが事実のように感じて。
ああ、もう諦めてそっちの道へ行ってしまうしかないのカナ、ワタシハ。

「あうあうう・・・・・・。」

「・・・・・・ふっふふふ、ふあはは! 勝ったっ!」

「なんだかひどくデジャヴを感じるけれど・・・・・・勝ったって、軍曹そうじゃないでしょ!」

バシャッという音と共に冷たい感触
きっと触ったら火傷でもするのではないかと思うほどに、赤く火照った頬を急激に冷やしていく塩気の混じった水。
どうやらアンさんがわたしの頭からバケツで汲んできた海水をぶっ掛けたようです。
そのすぐ後、軍曹さんを彼女がフィンではたくパコーンという音が。
さらに、同じく頬を赤くしたこの場の皆にも海水をぶっ掛けることで、この混沌とした状況に収拾がついた。(その後に更に軍曹さんが叩かれました。)

「ふっ、冗談に決まってるだろう。」

「軍曹、貴方ももう30越えたよね? いい年こいといて、十代の女の子に意地悪しない!」

ふぃぃ・・・・・・しかし危なかったのですよ。誤解されるのもそうなんですが、自分がそっちの道に進んでしまうかも知れないという瀬戸際でした。
いやぁ、アンテロイネンさんが居なかったらやばかったですね。
さすがコーストガードの隊長さんといった所か、皆が場の雰囲気に飲まれているのに、ちゃんと動けるなんて。
そんな彼女は軍曹さんの背中をわたしの方へ押し出して、謝りなさいともう一度頭を叩く。

「・・・・・・ふむ。すまんな、あれは冗談だ。」

「・・・・・・いえ、こちらこそ悪かったです。ですが、ちゃんと今回の件は忘れてくださいね?」

二人して、ギロリとにらみ合う。
ふむ。それにしても、なんだか軍曹さんとは一緒に冗談を言ったり、言い合ったりする中に今後なるような気もするのです。いわゆる虫の知らせという奴でしょうか、これは。
まぁ、毎回毎回わたしは結局は軍曹さんに言い負けるだろうと予想できますが、相手は30歳を越えてますし?
彼より『15も若い』わたしは、まだまだ『若い』ので『年の功』で負けたのだと思うのですよ。

「おい、今なんか考えただろう? このおっさんとか。俺はまだおっさんじゃないぞ。」

「・・・・・・いえいえ、そんなこと考えていないですよ。なにも。」

「ほほう、また弄られたいのか? ま、なんだ。時間のようだ、機材をセッティングしろ。カールステッド嬢も十分休めただろ?」

PiPiPiと軍曹さんの携帯端末が音を鳴らし、この湾が皆の言う『ウンディーネの寝所』へと変貌する時間が差し迫ってきたことを知らせる。
夕日はもう半分以上水平線へ沈みこみ、海は暗くどこまでも深く感じられた。
舞台は砂浜から海中へ。
さて、と。では、『ウンディーネの寝所』・・・・・・その全容、しかと拝見させてもらいましょうか!


































ボコ、コボコボコボ・・・・・・

昼間とは全く違った様相を見せる海の中。
昼はあれほどどこまでも見渡せるような気がしてしまうぐらい澄み切っていたのに、今の海の中は吸い込まれそうな黒で埋め尽くされていた。
その漆黒は、まるで星の存在しない宇宙のようで。
自然と思い出してしまう、あの時の事を。
『ウンディーネの寝所』を見るためには難度の高いナイトダイビング行わなければならないため、アイリーンが初心者のわたしを補助をするため傍を泳いでくれている。
わたしはその手をぎゅっと握って、恐怖に耐える。
アイリーンはわたしの手を更に強く握り返し、言った。

≪大丈夫だよ、私が着いてる。アンおばさんも軍曹さんも上でスタンバっているから。≫

≪はい、そうでしたね・・・・・・でも、もう少し握っててもらってもいいですか? やっぱり・・・・・・怖いので。≫

≪ふふっ、お安い御用で。≫

今のわたしとアイリーンはバブル型のヘルメットを被り、海上のボートから空気を送ってもらっている。
だからアイリーンとこうして無線で会話することもできる。それが今のわたしには何より有難いことだった。
たとえ傍にアイリーンが泳いでたとしても、口にだして発散できない状態だったら、わたしはきっとストレスで参っていたことだろう。

≪現在時刻、1759時。この時期に記録されているデータどおりなら、そろそろご主人は帰宅するはずだ。≫

≪了解、リップル? サンプリング開始?≫

≪アイ、マム。1800時より、サンプリング開始・・・・・・今。≫

無線に、わたしの側をぷかぷかと浮かんでいる無人潜航ユニット(*)内のリップルと海上のボートに居るエレットさんの間での、これまたよく分からない会話が無線に入り込んでからは、しばらく静かなままだった。
(*:エレットさんいわく、これもベクタードを応用した推進装置を組み込んでいるらしく音も無く水中を自在に動けるらしい)
その後は、わたし自身の小さな息遣いの音だけが、ヘルメット越しに静かな海に溶け込んでいく。
そんな気がするぐらい、音も無い、光も無い、動く生き物の影も無い。
日は完全に沈みきり、月もまた月光を海中に射すほど高い位置には存在しないのだ。
だがそれも、本当にしばらくの間だけだった。






・・・・・・!






ゆっくりと天へ上っていく月の光がふわりと優しく海へ注がれ、照らし出された海中は、漆黒の空間は色を持ち出していった。
そこは、優しい淡い光がゆらゆらとオーロラのように揺らめく、なんともはや神秘的な世界。
わたしはその美しさに、言葉を失った。
月光に煌く水面、水中に漂う星光のカーテン、海底に吸い込まれていくお月様の影。
その全てが、わたしを誘っているようで。
逸る気持ちに急かされて、わたしは思わずアイリーンの手を引っ張り、光のカーテンに囲まれた舞台に踊り出る。

≪ちょ、ちょっと、アッリ!?≫

≪踊りませんか、アイリーン! この素晴らしい光の舞台で!≫

≪全くもう、アッリってば・・・・・・でもまぁ、ここの主人達もアッリを歓迎してくれているみたいだし、いっか。≫

≪どういうことですか、それ?≫

≪まぁまぁ、耳を澄ましてみてみ≫

はしゃぐ気持ちを抑えつつ、わたしはアイリーンの言うとおりに目を閉じて、静かに耳を研ぎ澄ます。
光が差し込み始めても、相変わらず音の無い海の中で何が聞こえるのだろか。
よく耳を澄ましても、聞こえるのは静かに波が浜辺に打ち寄せる音だけ。
だが・・・・・・それも、ほんの少しのことだった。





不思議な『歌声』が聞こえた。





ヘルメット越しにでもはっきりと分かる、不思議な『歌声』。
いや、人の歌声では無い。なら、どんな音、あるいは声なのかと聞かれても、やっぱりそれは不思議な『歌声』としか、わたしには表現できなかった。
いつの間にかその『歌声』は、この湾を満たしているかのように色々な方向から聞こえてきていた。
わたしは、ただただ、圧倒されていた。引き込まれるような『歌声』、何処かへいざなう様な少し怖い、でもワクワクドキドキしてくるような『歌声』
そうだ、この感じ・・・・・・『カンツォーネ』だ。
ゴンドラ乗りの魂の一つの舟歌、わたしの知るそのどれにもこの『カンツォーネ』は似ていない。
なのに、わたしの知るカンツォーネとこの『カンツォーネ』は同じように感じた。
わたしは当然のように疑問を抱いた・・・・・・全くもって聞いたことの無いこの『カンツォーネ』の主は、いったい何者なのだろうか、と?


その答えはすぐに出た。


≪ん・・・・・・ひゃぁ!?≫

突然、わたしのすぐ横を黒い影がすり抜けていった。
それも一つ二つじゃない、複数の影が後から後から幾つも流れていく。
その黒い影は、さっきの『カンツォーネ』を歌いながら、いつしかわたしの周りをグルグルと回りだしていった。
その影は優に30はあるだろうか、大きいものや小さいもの、更に小さい影を引き連れたものなど多種多様。
ふいに、その影を照らすように月光が強くなったように感じた。
そして映し出された影は・・・・・・

≪いざ、お帰りなさいませ、『ウンディーネの寝所』の主人達!≫

≪・・・・・・!! イルカ!?≫

イルカの大群が、そこに居た。
アイリーンはそのイルカの大群を迎えるかのように、大きく手足を広げ叫んだ。
その声は周りの水中に広がっていき・・・・・・その声にこたえるかのようにイルカ達もまた先ほどの『歌声』と似た『歌声』を返す。
アイリーンとイルカ達がまるで会話しているかのように、何度かそれは繰り返された。
いや、事実会話できているのかもしれない。繰り返すうち、イルカ達の表情が細かく変わったりするのを見てしまうと。
アイリーンに視線を移し、聞く。

≪アイリーン・・・・・・もしかして、イルカ達と会話できるのですか?≫

≪いやいや、流石に無理だよ、アッリ。でも・・・・・・なんとなく、分かるような気がしてこない?≫

そう言って、アイリーンはまたイルカ達に向かい合う。
それに釣られて、わたしもイルカ達の方へ再び目を向けると、気づいた。
目を凝らしてよく見れば、このイルカ達はどれも形が微妙に違っている。個体差とかじゃなくて、種として微妙に違うような気がしたのだ。

≪あの・・・・・・アイリーン、あのイルカ達は一体?≫

≪あのイルカ達が、この『ウンディーネの寝所』の主。そして・・・・・・アイリーンに今日一番見せたかったもの。≫

アイリーンはそう言うが、わたしにはまだ不思議なイルカ達としか、まだ思えない。
今日出会ったベクタード技術やダイビング部OB・OG達、そしてあの皆からの手紙と来た最後に彼らが来るのは、いまいちよく分からない。
いや、確かに海の圧倒的広大さ、その変化の素敵さ、そして不思議な彼らイルカ達との出会いは、とってもとっても大事な思い出になることは間違いないのです。
でも、なんで彼女は今までの中でも一番真剣な顔をしているのでしょうか。

≪アッリはさ・・・・・・あのイルカ達を見て何かに気づかなかった?≫

≪え? えーと、そりゃまぁ・・・・・・。≫

わたしはさっき感じた違和感をアイリーンに話した。
すると彼女は大きく頷くと、わたしの手をつれ、イルカ達の回遊する輪に沿いながら泳ぎだした。
そして彼女の口から紡ぎだされるのは、横をわたし達と共に泳ぐイルカ達、いや様々な今の動植物達の昔話。

≪昔々、始まりは、2000年代にまで遡って・・・・・・≫




今からおよそ200数十年を遡った2000年代中ごろ、つまり母なる星がまだマンホームではなく地球と呼ばれていた頃、アドリア海を中心とした生息域を持つ一種のイルカが絶滅の危機に瀕していた。
その頃地球は新たに完成した永住型月基地や地球火星間中継基地、新型高速宇宙船など、続々と人類は宇宙という新たなフロンティアへの礎を築きつつあった。
その一方で・・・・・・地球環境は刻一刻と悪化しており、歯止めが着かなかった。
もちろん各国政府もただ見ていただけではなかった。
人類の生存域を、そしてなにより母なる星を守るため、地球全土での環境保護が国連で訴えられ、各国が互いに協力し合い地球全土で積極的に実行に移された。
そのことを、世界中のマスコミはこう評した。
―――真に地球全人類が一つの守るべきものを得た、と。
だが・・・・・・宇宙開発の進歩に反比例してか、努力もむなしく環境は悪化するばかりであった。
各地の沿岸部は徐々に水没し、南アメリカの原生林はもはや昔のような緑を持たず、アフリカは各国の必死の緑化事業にもかかわらず乾燥していくばかりであった。
南極には広大な大地が出現し、北極はただの海へと。
その影響で各地で絶滅していく様々な動植物。
このままでは、太古の昔より生息してきた、環境の変化にめっぽう強い台所のあいつすら絶滅するのではないか・・・・・・そういう話も、冗談に聞こえなくなっていた。
しかし・・・・・・運命の日が訪れた。
ある国連総会で決定した一つの事項。
―――我々、人類が地球を再生する技術を手にするその日まで、地球のあらゆる種を保存しよう、と。
それは可能な限り実行され、そのデータはノルウェーに存在するスバールバル島の地下130メートルに設置されたシェルター『ノアの方舟』に保存され、その時を待った。
その中には絶滅間際のそのイルカ達のデータも含まれていた。
そして時は過ぎ・・・・・・2100年代後期。
火星でのテラフォーミングは成功しつつあり、水の惑星『AQUA』へと変遷してった。
地球もまた火星でのテラフォーミング技術のフィードバックにより、人が管理していかなければ維持できなかったものの確実に自然を取り戻していった。
そんな中、およそ100年間保存されていた様々な動植物は、甦りつつあった地球に、生まれつつあった火星に解き放たれていった・・・・・・。

≪・・・・・・で、それがどういう関係が?≫

≪うん、これからが大事なところだから。私がアッリに伝えたいことは、伝えなきゃいけないことは・・・・・・。≫

2200年代中ごろを過ぎようという頃、およそ半世紀前にネオ・アドリア海に放たれたあのイルカ達の調査が行われた。
その調査団の中には親子孫三世代にわたって、そのイルカを追い続けてきた海洋学者の姿もあったという。
彼らはワクワクしながら、調査を行った。
かつて見た、すばやく海を切り裂いて泳ぐ美しいイルカ達の姿がもう一度見られると信じて。





≪でもね、アッリ。それは夢物語にしかすぎなかったんだ。≫





得られた結果は、失敗。
かつてのイルカ達は既に絶滅して、今この場にいる形状の不ぞろいな・・・・・・突然変異体ばかりのイルカ達がいた。
確かにそこには保存されていたかつてのイルカ達が解き放たれたはずだった。
テラフォーミングによって、かつての地球の姿をほぼ忠実に再現したのに、なぜもとの種は再び絶滅してしまったのか・・・・・・。
そして調査グループは一つの結論を出す、一度失ったものは、もう二度と甦らない、と・・・・・・。

≪アッリの左腕・・・・・・生体義肢で『元のようには戻った』かもしれないけど、忠実に元には戻ってこない。元のようには、漕げないんだよ。≫

≪・・・・・・ッ!! それじゃあ、なんですか! わたしはもう昔のようには漕げないと、もう二度と!? そんな事を・・・・・・そんな事を言うために、アイリーンはわたしをここへ連れてきたんですかっ!?≫

自然と声が涙声になる。

≪アッリ・・・・・・お願い、もう少しだけ聞いて。≫

≪嫌ですっ! もう聞きたくありませんっ! 今日もらった色んな光が、皆からもらった希望が、全部曇ってしまいますっ!≫

≪お願い。≫

≪嫌ですッ! アイリーンなんか・・・・・・『マーケットさん』なんか、嫌いですッ!! 大っ嫌いですッ! 親友でも・・・・・・友達なんかでも、ありませんッ!≫

くしゃくしゃの顔で泣き叫びながら、わたしはアイリーンを拒絶する言葉を吐き出す。
心のそこでは、今日の朝のようになって欲しいと思っているのに。
わたしは最大級の拒絶をした。
友達になってから、初めて言葉に出した『マーケットさん』。
親友でも、ましてや友人でもない、アイリーンをただの知人にしてしまう言葉。

「本当にあと少しだけだから・・・・・・聞いて。」

でも、そんなわたしを彼女は優しく抱きしめ、ヘルメット同士を接触させる。
『お肌の触れ合い回線』とかいう機能で聞こえるアイリーンの生の声は、朝と違って全く震えて居なかった。

「アッリの気づいた、固体ごとの違和感。学者達も当然それに気づいて、より詳細にこのイルカ達を調べ上げた・・・・・・そしたらね、あったんだよ。このイルカ達にはかつてのイルカ達の遺伝子がはっきりと。」

遺伝子に刻み込まれたかつてのイルカ達。
そう、かつてのイルカ達はこのAQUAの環境に合わせて進化している最中だったのだ。
数々の突然変異という名の試行錯誤を繰り返しながらも、着実にかつてのイルカ達の遺伝子を引き継いだ新たな種へと。
調査グループは結論を変えた。
失われたものは戻ることなどないが、生き物は失ったものを糧に進化していくことができる、と。

「アッリの腕もきっと一緒だと思うんだ・・・・・・迷いながらも、失敗しながらも、その義肢は確実にアッリの腕になる。また漕げるように、なる。元のようにはならないけど、元の漕ぎ方はきっと生かされてる。全く新しいアッリの新しい漕ぎ方には。」

それに、人間は失敗をすぐに生かせれる数少ない生き物の一つだしね―――ここまでが私の言いたいことだと、アイリーンは言った。
わたし達の周りをクルクルと回るイルカ達の中で最も醜く、そして逆に小さな美しいフォルムの仔イルカを連れた一匹が、そうだそうだとわたし達の横を通り過ぎながら鳴いた。
失ったものは、もう二度と戻らない。
でも、たとえ失われたとしても、ちゃんと生かされている。

「・・・・・・アイリーン。」

「ふふ、ありがと、アッリ。名前で呼んでくれて。私、アッリの親友になれて本当に良かったって思ってるよ・・・・・・じゃね、アッリ。私は先に上がってるから。」

そう笑って言うアイリーンの顔には、一切の後悔も含まれていなくて。
そうして彼女は、海上のボートへ上がっていく。
わたしには・・・・・・それが、彼女の『アイリーン』の最後の姿のような気がして。次会うときからは『マーケットさん』になってしまうような気がして。
慌ててアイリーンを追いかけて行こうとした。




でも・・・・・・




―――あれ・・・・・・なんで、こんなに息苦しいんだろ・・・・・・おかしいな。あいりーんをおいかけなきゃだめなのに。

なぜか、わたしの体は意思に反して重くなっていき・・・・・・意識もまた、遠くなっていった。





















==========================================================

今回は結構無理やりな論理な気がしましたが、私は失ってもその血は受け継がれるのだということが言いたかったのです。
あとは地球からマンホームへの変遷は、もう完全に私自身の趣味です。
ARIAの世界観をぶち壊しのような気もしますが・・・・・・。

==========================================================






[18214] 第一章 『スタートライン』 第十話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/02/28 00:58
赤く色づく夕暮れ時、AQUAがかつてのAQUA・・・・・・火星のような色に染まっていく。
静かに浜辺に打ち寄せる潮騒が刻一刻と夜へのカウントダウンを進めていく。
あの醜いイルカたちが、幼い少女の乗ったゴンドラの周囲を無邪気にグルグルと回り続けている。
幼い姿の『わたし』は、ゆっくりと岸へ体に見合った、木目の美しい小さなゴンドラを寄せていた。
オールの柄をギュッと握りしめるその手は震え、足は生まれたばかりの小鹿のように、崩れ落ちそうなほど力がなくかろうじて立っているだけの状態。
その顔は強張って、泣き出しそうな顔をしていた。
悲しいから?
怖かったから?
それらじゃないような気がするのだ。
確かに顔はひどく強張っていた、だがその口元は・・・・・・笑みを浮かべていた。

「こ、こげた?」

「・・・・・・ああ、そうだ。おめでとう」

浜辺にふらふらとゴンドラがたどり着くと、『わたし』は放心したように前へ倒れこむ。
一歩も歩けないように疲労困憊している『わたし』をあの例の男、今日の夢に出てきた彼が優しく受け止め支えていた。
彼は『わたし』にジャケットを掛けた。矛のようなマーク、『AQUA Coast Guard』が美しい青い星を守るように描かれたトライデント(三又槍)の下に小さくプリントされたジャケットを。

「よく頑張ったな?」

「え、へへ。がんばりましたです・・・・・・」

ばふっと、彼は『わたし』の頭を撫でまわした。
ワシャワシャとその撫で方は荒かったけれども、優しさや嬉しさが伝わってくるように撫でられたところがずんずん熱くなっていく。
顔が柔らかい何かに変わったかのように、『わたし』はにやけ顔になる。

「でも、これでお父様とお母様は喜んでくれるでしょうか?」

「ん?どうしてだ?」

「ただ漕げるようになっただけなのに」

わたしは思い出した。
なぜ『わたし』がここへいるのか、彼は誰なのか、どうして漕げるようになりたかったのか。

―――『わたし』はあの両親が出張で出かけていた一週間の初日に、ある街角で『彼』と出会ったこと。

―――彼に最近疲れた顔の多い両親を元気づけるにはどうしたらいいかを相談したこと。

―――ゴンドラが漕げないことを指摘されて、馬鹿にされて・・・・・・そこからゴンドラを漕げるようになった姿を見せたらどうかと提案されたこと。

―――ゴンドラを上手く漕ぐ彼に練習を見てもらいたくて、無理を言ってこの島へ探索へ来る予定だった彼について行ったこと。

そして、目の前に映るこの情景は。
この湾の主である、あの醜いイルカたちが帰宅してくる夏の夕暮れの中で、わたしが『わたし』が初めて漕いだときの様子だった。
『わたし』は笑顔から、不安げな雰囲気を覗かせた表情へ変わる。
ネオヴェネチアの子供なのにゴンドラが漕げなかったのを克服しても、周りの子供たちの水準に追いついたってだけでお父様とお母様が喜んでくれるのか、という不安。
だが彼は、笑いながらわたしの不安を完全に否定した。
俺がこうで、お前の両親がそうならないわけがない、と。

「出会ってから数日の俺がこんなに嬉しくなった、幸せな気持ちになったんだから、もっと長く一緒にいるご両親もきっと同じように思うだろ?」

「そう、でしょうか?それに貴方は本当に、そんなに喜んでいるのですか?」

「お?そんなに言うんなら、この顔を見てみろ。お前はどう思うんだ?俺のこの顔を見て」

そう言って、彼は顔をわたしが見えるようにか、砂浜へ腰を下ろした。
彼の顔は水平線に沈む夕日にオレンジに照らされていた。
その顔は。
とても嬉しそうな顔、幸せそうで喜んでいた。純粋にわたしが漕ぐことに成功したことを。
・・・・・・『わたし』が、わたし自身までが、なんだかとても嬉しくなって幸せになるくらいの屈託のない素敵な笑顔だった。
ボッと顔が熱くなる。
照れてる?
いや違う、これは・・・・・・そうか、嬉しいんだ。
わたしは、そして昔の『わたし』も今まで感じたことない幸せを感じていた。
それを頭が感情が処理しきれなくてそれが顔に熱になって表れてた。

「で、どう思った?喜んでいないように見えたか?」

「・・・・・・いえ、そんなことは全然」

「だろ?なら大丈夫だ。それに、お前は動いたんだ。このことは絶対今後につながる、たくさんの失敗もいづれは生かされる」

「本当に?」

「ああ、本当だ。だから安心して見せるといいぞ」

彼の言葉を聞いても不安そうな顔を見せ続ける『わたし』を見ると、彼は一計を案じたように真新しい魔法瓶を取り出した。
アツアツで内容物を保存できる、主要構造は20世紀から変わっていない魔法瓶から、手にしたコップへ茶色い液体を注ぐ。

「さて初漕ぎの記念で、俺特製のココアをあげよう」

彼は『わたし』に湯気を立てるコップを手渡した。
甘い香りが漂うが、その中にココアのにおいとは少し違う独特な匂いが混じる。
その匂いを嗅いでみると、『わたし』もわたしも苦手なシナモンの香り。
シナモンココアだ。

「え、あのシナモンは苦手で」

「動いてみろ、だぞ?俺の自慢の奴だ、一口でいいから飲んでみてくれ」

「・・・・・・でも」

自分から自らが作ったココアを啜り、うまいとつぶやく。
それでも飲もうとせず、それどころか嫌そうな表情すら浮かべる『わたし』に対して、なにか懐かしいものを見るように柔らかいほほ笑みになる。
その笑みになかば引き込まれるようにして、『わたし』はコップに恐る恐る口をつける。

「あ、おいしい・・・・・・」

「だろ?自慢だといっただろうが」

ココアを飲んだ『わたし』は素直に美味しいと言った、シナモンは本当に苦手なはずだったのだが。

「俺のココアは美味しい、そう言ったな?それはお前がシナモン嫌いでも、飲んでみるという踏み出した一歩で知ったことだ。だから、両親に見せるのも『動くこと』の一つだ。それで両親がどう反応するかを知るのも、新たな出会いって奴だ」

そう言って彼はココアを飲みほし、立ち上がる。

「それで、その新たな出会いでお前が辛くなったりしたのなら・・・・・・その時はあの路地の家を訪れるといい」

「・・・・・・はいです。頑張ってみますです」

彼の言葉は、『わたし』に灯をくれた。
それは、前へ踏み出す勇気であったり、一緒についていてくれるという安心感であったり、もし何かあっても慰めてくれるということであったりしたが、とにかく『わたし』はきっと前へ進むことが出来るだろうと思う。
だって『わたし』が彼に言葉を返す際には、満面の笑顔だったのだから。

「っと、そういえば、なんて呼び出せばいいんですか?もしそうなって、貴方の家に行ったとき」

『わたし』は今まで聞き忘れていたことを聞こうとする。
彼自身も忘れていたのだろう、そういえば、と不意を突かれたような顔をしながらその問いに答えた。

「ああ、そう言えば名前を名乗っていなかったな。俺は、・・・・・・

答えはこの夢に出てくることは無く、ただ海鳥たちの鳴き声とイルカたちの泳ぎ回る音、そして真っ赤な夕日の光がわたしの夢のカーテン・コールだった。























懐かしい夢を見ていた。
夢の中身はほとんど覚えていないけれど、あの『彼』の笑顔と、その笑顔を目にしたときのわたしの気持ちははっきりと覚えていた。
そして、わたしはひとつ大事なことを思い出した。
























ゆっくりとわたしは目を開けた。
その目に映ったのは、満天の星空。漆黒の宇宙を無数の星々が明るく照らし出し、更にまぶしく光り輝く星雲がその海を横切っていた。
周りの切り立った崖によって星空はまあるく切り取られ、額縁で囲われた一枚の絵のようにわたしは感じた。

「・・・・・・あ」

あの星空で、あの宇宙でわたしのお父様とお母様は死んでしまったというのに、その星空にわたしは呆けたような驚きの声を上げることしかできなかった。
それほどまでに、その星空は美しく見事だった。その星空は今日潜った海のように、果てしない底へ吸い込まれそうで。
この光景を言い表すなら、唯一語でいい。
バラエティのレポーターのように、長々と言葉を装飾する必要なんてない。
その言葉は、

「綺麗、だなぁ・・・・・・」

綺麗。
その言葉で十二分だった。

「ん?起きたのか?」

と、そこへわたしの呆けた声に反応するかのように一人の男の声が聞こえる。
この低い声は軍曹さんか。

「軍曹さんですか?」

「ああ。体はもう大丈夫か?」

よいしょっと体を起こす。
どうやらわたしは浜辺に寝させられていたようだった。乾いたシャツにホットパンツ、服も着替えさせられていたらしい。
彼は読んでいた書類を机に置くと、魔法瓶を片手にわたしへ近づいて来た。
心配そうにわたしの体調を聞いてくる彼を見ると、あの浜辺で冗談を言い、わたしをからかう意地悪な大人ではなさそうだ。


「・・・・・・なんか、また失礼なこと考えなかったか?」

「いえいえ、優しいのだなーと」

「棒読みじゃあなぁ、まったく」

ドサッと軍曹さんはわたしの横へ腰を降ろした。彼は肩の荷を降ろしたかのように大きなため息をひとつつくと、安堵の表情を浮かべた。

「何もないなら何よりだ。バイタルチェックは異常なしでも、起きずに今まで寝てたんだ。普通に起きてくれて、本当に安心したよ」

彼が言うには意識の混濁でも失神状態でもなく、唯の睡眠状態にわたしはあの後なったらしい。
そう、わたしはやはり溺れていたようだ。
溺れた、とは少し違うかもしれない。水の中でわたしを守るはずのスーツのバブルヘルメット内の酸素が薄くなり、一時的に高山病に近い症状になったらしい。
すぐにスーツのエラー自己修復機能と、わたしの気配が消えたことに気づいたアイリーンのお陰で復旧され、本当に一時的なもので、全く健康には影響がなかったらしい。
むしろ意識を失う手前の急激な心拍数の増大に病院側は焦ったようだ。
ただ、アイリーンはバディシステムを一時にでも解除したせいで、ライセンスを一時停止されたそうだ。

「そうだっ!アイリーンは、アイリーンはどこですか!?」

アイリーンに謝らなければ、追い立てるかのようにわたしは軍曹にアイリーンの場所を聞いた。
その心拍数の増大に寄与した、彼女の顔がこびり付いて離れない。
自分が言った『マーケットさん』、まるで他人のように言ってしまったあの言葉が原因だとしても、わたしはアイリーンと仲が悪くなりたくなかった。
わたしにここを教えてくれたこと、ダイビング部の面々やアンさんに軍曹さんと出会わせてくれたこと、アイリーンが言ったあの言葉。
そのどれもが、今のわたしにとって暗闇を照らす灯になった。
でも、わたしは一時でもそれらを手に握らせてくれたアイリーンを拒絶してしまった。
アイリーンとの絆という、一番明るい大きな光なのに。
わたしは、その光を失うのが怖かった。

「落ち着け、そこで寝てるよ」

喰いかかるように軍曹さんに詰めるわたしに、彼が指をさしたのは、わたしのすぐ足元。
体を丸めたアイリーンがそこで静かな寝息を立てていた。
なんというか灯台下暗し、という感じでしたか。

「まだ寝てる、起こすなよ?」

「あ、はい」

完全に熟睡しているような様子の彼女を起こさないようにか、軍曹さんは小さな声でわたしに言った。
周りにはダイビング部の方々やエレットさんも砂浜にシートを敷いて横になっていた。
あれ?
アンおばさんさんがいないようなのですが。

「ああ、アンの奴は今頃ネオヴェネチアに戻ってSSSAの講習会を開いてる頃だろうな」

元々彼らが今日ここに来れたのは、SSSAの客船が安全基準を満たしているかの確認や事故時の対応の講習のためにネオヴェネチアへ来ていたからだそうだ。
それで、たまたまその講習が深夜からだったので、空いた時間にダイビング部の方々と再会するために訪れたのこと。
あれ、でも今の説明だと軍曹さんもアンおばさんと一緒に行っていないといけないと思うのですが。

「お前さんが心配でな、ここに残らせてもらった。それに俺はおまけみたいなものだ、今回の任務は実質休暇だよ」

「心配、ですか」

「まぁ病院の知人に、このぐらいなら病院に戻さなくても大丈夫、そう言われてたんだがな・・・・・・どうしても気になってな」

軍曹さんはそう言うと、星を見るかのように仰向けで寝転がった。
なんとなく、わたしも軍曹さんもそれきり黙りこくった。
わたしも彼と同じようにどさっと砂浜に仰向けになり、眼前に広がる満天の星空を仰いだ。
しばらくそうして静寂が流れ、時が過ぎてゆく。
そして流れ星が頭上を越えて消え去っていくとき、軍曹さんが口を開いた。

「なぁ、カールステッド嬢。マーケット嬢の言葉、勝手にすまんが聞かせてもらっていた。その言葉、お前はどう受け止めた?」

「・・・・・・あの、聞かれていたんですか?」

「ああ、リンクさせてもらった・・・・・・で、どう思ったんだ」

彼は顔をこちらに向けずにそう問いかけた。
わたしはその問いに答えられない。
わたしの心は、まだしっかりと形が出来ていなかったから。

「正直言ってショックでした。失ってしまったものは戻らない。そう言っているようなものでしたから」

元のままを完璧にトレースだけを考えていたわたしは、その言葉は死刑宣告のようなものだった。
でも彼女はそこから更に続けた。

「トレース、じゃなくて、利用すると考えるべきなんです。要はリサイクルしろっていう感じでしょうか?」

まったく、彼女らしいと思う。
思い起こせば、ゴンドラ部時代の彼女自身幾度もゴンドラを漕ぐフォームを変えては捨て変えては捨てをやってきていたのだから。

「だから、もう戻らないときっぱり諦めて、もう一度漕ぐことだけを考えることにします。漕げないってあきらめちゃダメなんです、まだ」

まぁ、できれば元のフォームは取り戻したいですけど、と付け加える。
軍曹さんはわたしの返答に頷いて言った。

「なるほど、そうか」

「はい、今はそうだとしか言えません。だから、わたしは・・・・・・もう一度挑戦してみます。少し、いやとっても怖いですけど」

人間は失敗をすぐに生かせれる数少ない生き物の一つ、彼女はそう言いきった。
試行錯誤を何回でもできるという特権の行使は、数多い人間の義務でも最も重要な物だということだろうか。
なら、わたしがもし漕げなかったとしても、きっとそこから何か得るものはあるはず。
もしそうなったら、フォームをがらりと変えて、右腕を利き腕にでもしてみましょうか?

「だから、とにかくまずはもう一度オールの柄を握ってみます、まずはそこから」

「そうか」

「はい。やっぱり怖いですけど。でも、彼女はわたしの親友です。親友の言葉に耳を貸さない人がいると思いますか?」

わたしのその言葉を聞いて、軍曹さんは苦笑した。
まるで昔の自分のようだ、と。

「俺も昔な、お前ぐらいの時に両親を失ったんだ。その時に両足も」

「え?」

「俺の両足もお前の左腕のように生体義肢なんだ。お前と同じように、絶望して自暴自棄になって・・・・・・でもアンがいた」

自暴自棄になった彼をアンおばさんは励まし続けたのだそうだ、自分自身も両親を失っていたらしいのにだ。
軍曹さんとアンおばさんの関係は、今のわたしとアイリーンの関係に似ていて、必要以上にわたし達のことが気になったらしい。
それもここに残った理由だと彼は言った。

「いろんな人に励まされ元気づけられてたが・・・・・・やはり一番心に届いたのは、アンの、親友の言葉だった」

「わたしと同じように?」

「ああ、そうだ。アンの血筋はなにか特別な力でも流れているんじゃいのかと錯覚してしまったよ、お前さんを見て、自身を振り返ると」

「ですね」

軍曹さんは詳しく自分の過去を喋ろうとはしなかったけれども、薪に仄かに照らされるその横顔から、彼にとって、とても大切な記憶だということは伝わってきた。
彼はわたしの視線に気づくと、少し頬を赤くし照れを隠すように頭を掻きながら言った。

「まぁ、こんな小っ恥ずかしいことはアンの目の前じゃ絶対言えんがな」

・・・・・・案外かわいいところもあるんですね、軍曹さんにも。
人をからかうのが好きなようだし、案外子供っぽいのかもしれません。
体だけは大きくなった悪ガキ、そういった雰囲気を感じるような気がします。

「じゃあ、お前はどうだ?マーケット嬢に対して何か言うのか?」

いきなり軍曹さんが振ってきた質問だが、わたしがそれに答えられないはずがない。
さっき言ったように、わたしは一つ決心したのだから。

「謝って、抱きついて、ありがとうと感謝します。そして、これからもよろしく、と頼みます」

「ふーん、昔俺がアンに対して思ったことと一緒なんだな」

「わたしは軍曹さんと違って、真正面から言えますし」

「ほっとけ」

軍曹さんがポコッとわたしを小突く。
彼とはなんだか初めて会った気がしない、なんというか、もっと以前に出会ったような気がするのだ。
それを笑おうとして、のどが少し乾いてきているのに気付く。
そういえば、昼間から何も飲んでいないような気がする。

「あの、軍曹さん。飲み物何かありませんか?」

「ああ、のどが渇いたか。俺の飲みかけのココアならあるが、どうする?」

そう言って軍曹さんは、少し煤けた魔法瓶を掲げてみせる。
それで構わないと、わたしは首を縦に振ってその意思を彼に伝えると、コップを取り出してそそいだ。
魔法瓶の口から流れ出てくる茶色い液体、甘い匂いからどうもココアのようである。
と、そのコップを受取ろうとして、手が止まる。
昼間アイリーンに『あーん』された記憶が脳裏をよぎるが、男の人にそれをしてもらうのは恥ずかしいし、でもこぼすのも怖いですし・・・・・・。
逡巡しているわたしを軍曹さんは見ると、呆れたようにため息をつきながらこう言った。

「何のためのもう片腕だ。がっちりとホールドしてりゃ、こぼすことは無いだろう?何でもかんでも一つの手で背負い込んじまおうと考えるからいけないんだ。もっと他の手を頼ればいいと思うぞ」

「・・・・・・一つの手で背負い込むな、ですか。そうですね」

「ん、どうした神妙な顔になって?俺は何か変なこと言ったか?」

軍曹さんは図らずも更に灯りをわたしにくれました。
背負い込むな、か。
ほんと、わたしはアイリーンに皆に助けてもらってばかりなのに、わたし自身だけで努力して頑張ろうと考えているように思えた。
あのバーチャルネットのゴンドラコミュニティの彼らだって、アイデアを出し合ってくれると言っているのだ、頼らなきゃいけないですよね。
そういえば、AQUAコーストガードのモットーの一つにこういうのがあったような気がする。

「使える手はなんでもつかえ、孫の手、猫の手とわず全ての手を」

「お、俺達AQUAコーストガードのモットーにあったな、そういうの・・・・・・ん?それって、今のお前に一番必要なんじゃないか?」

「そのようです。それでは、軍曹さん。コップ、渡してください」

ココアひとつ飲むのに決意が必要だとはおかしいですが、心を決めてコップを受け取る。
軍曹さんと喋ってる間に少し冷めたのか、それほどコップは熱くなくって、右手でがっちりと支えることが出来た。
冷めてきたと言っても、まだ湯気は出てるし、むしろ飲みやすい温度まで下がっていて嬉しい限りだ。
湯気と一緒に漂ってくる甘い匂い、それに誘われるように口をつけ・・・・・・ようとして、口はコップの縁の寸前で止まる。
この匂いはシナモンか。
だけど、このシナモン入りのココアのにおい。
昔どこかで嗅いだことがあるような気がする懐かしい匂いだった。

「ん?シナモン苦手だったか?」

わたしが飲もうとしないのをシナモンのせいかと思った軍曹さんが問いかけてくる。

「まぁ、苦手ではあります。でも・・・・・・これも挑戦、動くこと、なのでしょうね」

口をつけ、飲む。
その味は、香りと一緒で懐かしい味だった。
お腹だけじゃなく、心までホカホカ温まってくるような優しくて柔らかい甘さ。
シナモンの風味がそこへアクセントとして添加されて、甘さに深みを与える。
間違いなく、このシナモンココアは美味しかった。

「どうだ?俺自慢のシナモンココアは?」

「おいしいです、とっても。軍曹さんの優しさが伝わってくるような柔らかい味でした」

「恥ずかしいこと言うな、おい。まぁいいさ、満足してくれたなら」

軍曹さんは、ほっと一息いれるわたしを横目で眺め、自分のコップにもココアを注ぐ。
のんびりした雰囲気が流れる。
そういえば、今のわたしは軍曹さんと実質二人きりだということに、今更ながらに気づいた。
親友や他の人たちがぐっすり寝静まっている中で初対面の男の人と二人きりで夜の浜辺に起きている、なんだか背徳的な感じがしてドキドキしてきた。
・・・・・・わたしが軍曹さんに惚れたとでも?
いやいや、まさか、そんなことは無いですが、あまり男友達のいない自分にとっては年上の男の人と一緒にいるだけで、ムムム。
わたし一人で悶えていると、現在のわたしの状況を知ってか知らずか、わたしが悶々としている原因たる軍曹さんがいきなり口を開いた。
お前は凄いな、から始まったその言葉はわたしの心を整理するのにちょうどいいものだった。

「俺は一年間は茫然自失だったのに、お前は一月で、いや実質この数日のうちに、また前へ歩いて行こうと考えれるようになった・・・・・・どうしてなんだ?」

考えてみれば、二日前は自殺すらしようとしたのに、今日では前向きに考えている。
やっぱり、起きる前に見たあの懐かしい夢がトリガーだったか。
両親に喜んだ顔がもっと見たい、それも理由だったけど、もっと深くのもっと大事なことを思い出したから。

「わたしが漕ぐことで前に進もうとすることでアイリーンが、ううん、誰かが笑って喜んでくれるのなら、わたしは頑張れますから」

わたしは多分、軍曹さんより早くにそういった自身にとって大事なことを心に見つけることが出来たのだと思う。
だから、軍曹さんより早く復帰できたんだろう。

「でも、わたしは人でなしでしょうか?お父様もお母様も死んだのに、自分のことばかり考えているのは」

「人でなし、ねぇ・・・・・・どうだろうな。ただ一つ言えることがある」

「え?」

「夜明けのようだ、海を見てみろ。ここは朝も素晴らしいんだ」

気づくと確かに夜は過ぎようとしていた。湾の入り口の方の空が白くなりつつあった。
向こう側の水平線にはもしかしたらもう太陽が顔を覗かせているかもしれない。
わたしは軍曹さんに言われるがまま、海を眺める。
急に潮騒とは趣の異なる音、ファサァと風が流れ木々の葉が揺れる音が響く。
それと、同時のことでした。

「う、わっ!?」



突然、海が万華鏡になった。



そうとしか言いようがない光景がわたしを出迎えたのだ。
風で揺れた木々の葉の間をすり抜けるように海面へそそぐ朝日は無数のレーザーのようで。
刻一刻と姿を変える木洩れ日は揺れる海面でさらに撹拌され散乱して、周りを囲む崖に無数の光の星々を生み出している。
言葉を失ったわたしの横で、シュボっと軍曹さんは紫煙をくゆらしていた。

「・・・・・・綺麗だろ?開けない夜は無いんだ。人は夜が明けたら、今日のことを考える。カールステッド嬢、お前はもう朝を迎えたんだ」

「朝?」

「前を向いて進むことが出来るようになった、昔のことは夜の時間に夢の世界で。それまでは前へ万進してもいいと思う。過去は忘れるべきじゃない。ただ、前へ進もうとするときは前を向いて歩け、出ないと思いもよらん物にぶつかったりする」

「それでいいんでしょうか?」

「さぁな、分からん。これは俺の経験から言ってることだから、違うかもしれない。だが、確かに今のお前は前を見据えているはずだ。違うか?」

乱反射した朝日が光の粒となって、わたしを包み込むかのように周りを漂い、それはまるで昼の世界へ足を踏み出そうとするものを歓迎するかのように数を増していった。
ポツリとつぶやく。

「アイリーンは、許してくれるでしょうか?」

「ん?ああ絶交の話か?許すも何も、たとえ絶交したところで、彼女はきっとお前の世話を焼くだろうさ」

「ふふっ、でしょうね」

湾の中まで暖かな日の光が届くようになってきた、どうやら海が万華鏡のようになっていた時間は終わりのようだ。
朝の光に照らされて、夜の星々は姿を隠していく。
死んだ人々の魂は光り輝く星となって、夜の人々を照らしだす・・・・・・昔にお父様がそう言っていた。
ならば、わたしは過ぎさる夜に一時の別れの挨拶をしなければならない。

「またいつか、お父様、お母様。わたしは、前へ進ませてもらいます」

























「あれ?もう朝・・・・・・ってアッリは!?じゃなくて、カールステッ!?」

「何言い間違えたように変えようとしてるんですか?アイリーン?」

「え・・・・・・『アイリーン』って」

「アイリーン、わたしはもう一度ゴンドラに乗ってみます、付き合ってもらえませんか?」

「え、あ、うん。もちろんだけど」

「それと、ごめんなさい。まだわたしと友達でいてくれますか?そしてこれからも、わたしと一緒にいてくれますか?」

「・・・・・・!うん!」



[18214] 第一章 『スタートライン』 最終話
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/03/10 22:21


頬を撫でる柔らかい風が、わたしの肩口ほどまで伸びた髪をふわりと巻き上げる。
ネオヴェネチアの過ぎ去る春の匂いを包んだ、初夏の優しい風。
今からわたしがやろうとしていことの成功を祈り、ダイビングの皆さんはいつもの日常へと戻っていった。
彼らが日常に戻るのと同じように、周りはいつも通りに時間が流れる。
あの事故から一月、ミドルスクールは年度替わりの長期休暇が終わって入学式も終わった。たぶん、今頃は各部活の生徒達が新入生の勧誘に校内を駆け回っていると思うのです。
ふと、あの頼りない後輩はしっかりと部長としてやっていけてるのかなと思う。
周りと協調性のない子や無口で人見知りしそうな子とかが入っちゃうと、気の弱いあの子ではちょっと厳しいかもしれません。
たまには見に行ってやるとしましょうかね。
あとはアイリーンですよ、オレンジぷらねっとに出す書類をちゃんと書けたでしょうか?
間違っても、名前とかの綴りを書き間違ったりしてないといいんですけど。
そこで、はた、と気づく。 
一昨日までの自分は他人のことを気にかける余裕なんて、まったく無かったのに、こうも変われるとは。

「ふふっ、アイリーンはもう立派なウンディーネですよ」

わたしを夜の底から文字通り水先案内してくれた黒髪の親友を思う。
そんな彼女は後ろで、エレットさんが倉庫から持ち出してきた自前のゴンドラの前に立つわたしを心配そうに見つめていた。
軍曹さんが用意してくれたライフジャケットをミドルスクール時代のジャージの上に身に着けているし、彼がウェットスーツで待機しているので、たとえ水にボチャンと落ちちゃっても大丈夫だというのに。
でも、今のわたしには彼女の心配が一番の勇気に思える。

「サポートお願いしますね、リップル?」

≪了解だ、マスター。いつでもどうぞ≫

手に握りしめたオール、あのオートフラップオールに囁きかける。
わたしの声に反応するのは、今はあの可愛らしい少女の姿を隠したAIリップルの声。
その声はわたしの首筋に張り付けられた、普段でも目立たないように肌色の骨伝導マイクから伝わる。
直接わたしの中へ音が伝わってくるようで、不思議な感じでなんだかむずかゆい。

「本当に大丈夫なんでしょうね、あなたのシステムは?」

≪問題ないさ、マスターも私の試験成績は見ただろう?加えて実験回数に成功回数もだ。それに今更不安がられても、使われる立場である道具の私が困る≫

「それはそうですけど、一応確認のためということで。ほんとーに大丈夫なんですよね、エレットさん?」

「アリ・カちゃん?私の作った水流用『ベクタード』を信じない?そのオールで不安な点はAIの外見だけ?だから、安心してリップルに任せてくれれば大丈夫?」

≪ほれ見ろ≫

「はいはい、存分に頼らせてもらいますよ・・・・・・だから、しっかり頼みます」

≪心得た≫

あの風の無いところにさえ、旋風を巻き起こす出力には不安はなかった。
でも、わたしの手がエラーを吐き出すタイミングはわたし自身にさえ分からないから、それを機械が感知できるのかという疑問。
エレットさんによればわたしの腕のエラーを感知するのではなくて、発生した船に影響のある水流を感知して制御するのだとか・・・・・・他にも注意が色々あったけど、あまり覚えていないのです。
でも、エレットさんが言った一番重要なことはしっかりと刻み込んだ。

「あなたが出来るのは、あくまで水流の維持や管理・ちょっとした偏向・・・・・・だけなんですよね?」

≪ああ。だから≫

「わかってます。一番最後に重要になってくるのは、やっぱりわたし自身」

≪その通り、私は万能ではない。だからこそ、失敗を恐れずに、つまりは水ポチャ覚悟というわけだ。頼られるのは嬉しいが、頼られすぎも困るのでな≫

オートフラップオール、そしてAI『リップル』は例えて言うならば松葉づえのようなもの、だから使用者が前へ進もうと頑張らなければ、それは唯の棒となる。

「データリンク、問題なし?いつでもどうぞ?」

リップルのデータ収集とそのバックアップ制御のためのリンクが正常に稼働していることをエレットさんは告げた。
つまり、いよいよその時が来たっていうことです。

「いざってなると、結構怖いものがありますね」

≪・・・・・・マスター。私を信じろ≫

「そうでしたね。では・・・・・・行きましょうか」

一度深呼吸をして気合を入れる。
ゴンドラの上に乗るだけなのが、これだけ怖くなるなんて・・・・・・でも、やるしかない。
ここが、わたしにとってもう一度のスタートライン、最初の一歩を踏み出さなきゃです!

トンッ・・・・・・

「と、とりあえずはOKですかね?」

≪乗り込むだけで怖がってどうするんだ?≫

「わ、分かってはいますけど・・・・・・」

久しぶりに立ったゴンドラの上は、こんなにも不安定だったのかと思う。
あの『彼』や両親のような笑顔が見たくて、あれほど長い時間練習して上達して慣れ親しんだ船上だったのにだ。

「でも、ようやく一歩踏み出せたんだ・・・・・・」

これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である・・・・・・とは、たしかルナ1(月)に初めて足跡を残した宇宙飛行士の言葉だったか。
ならばわたしの踏み出したこの一歩は、『これは人類にとっては小さな一歩だが、わたしという一人の人間にとっては偉大な飛躍である』と言ったところでしょうか。
チャポンと水中へオールを下ろしながら、わたしはそう思った。
そう、小さなそれでいて大きなこの一歩を踏み出したなら、次は歩き出そうじゃないか。
場所は、わたしの家の前の少し広めの水路、行きかうゴンドラは少なくわたしの挑戦にとって好都合。
この場所で、わたしの再挑戦が始まるのだ。

「見ていてください、お父様、お母様」

へたれた自分に活を入れるように、大きな声で威勢よく。

「さて、と・・・・・・アッリ・カールステッド、漕ぎますっ!」


















アッリ・カールステッドが前へ進みだしたころ、バーチャルネットにあるゴンドラシミュレータのある一室。
ヴェネチア(ネオではない)のカンポを模した空間の中央に幾つかのアバターが集まっていた。
中央にある井戸の上には時計が掲げられ、時を刻んでいた。

:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪たしか、『Alison』からの報告なら、今頃だよね?大丈夫かな・・・・・・?≫

小鳥のヘアピンが愛らしいオールを抱えた少女のアバターから、『Alli』ことアッリ・カールステッドを心配する言葉がポップする。
それに反応するように二つのアバターから発言がポップした。

:鍛冶屋 ≪大丈夫だ、彼女を信じろ≫

一つは寡黙そうな老人のアバターから。
もう片方は21世紀のある国の軍隊の格好に身を包んだアバターからだ。
兵隊風のアバターの発言はここにいるアバターの操り手にここにいる意思を確認するかのような内容だった。

:マリンコ中尉 ≪やはりここにいる全員、彼女のことが心配か?オーバー≫

:写真屋さん ≪そりゃそうよ!≫

:ソラヒト ≪そうだよ、ボクらは皆彼女の、『Alli』のファンなんだし?マリンコさんは?≫

ポンッと環境音とともにほぼ同じタイミングで二つ発言がポップする。
それらはカメラを首にひっかけた狸パーカーと飛行服姿の少年のアバターからであった。

:マリンコ中尉 ≪むろん、俺もファンだ!オーバー≫

飛行服姿の少年のアバターの発言にそう答える兵隊風のアバター。
オートフラップオールの力を借りた半機械人の『Alison』、対、努力家『Alli』のレースはこのルームによく集まる人々にとっては非常に有名なものであった。
そのレースは引き分けのまま、『Alli』のリアルでの不幸、両親の死と片腕の消失という形で幕を閉じた。
皆それが残念でならないのと同時に、皆のヒロインだった『Alli』に同情した。
いや同情、とは少し違うかもしれない。
ここにいる人々は皆『Alison』にタイムアタックを挑んでいた、いわば戦友だ。
友人を助け起こすのに、同情はいるか?
否だと、彼らはそう思っていた。
だからこそ、今日その友人が再び立ち上がろうとするのを心待ちにしているのだ。

:鍛冶屋 ≪・・・・・・しかしワシらに出来ることは吉報を祈って、待っていることだけか≫

:写真屋さん ≪あの『Alison』の力を頼らなきゃいけないってのが、なーんか癪だけどねー≫

:鍛冶屋 ≪言うな、今彼女に一番助力できるのはあれなんだ≫

:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪そうですよ。それに、だからこそ、今ここにいる私たちは希望を持って祈っていましょう?≫

:写真屋さん ≪あたりまえのもちのろんよー!私一人でここに今いない人たちの分まで祈ってやれるわ!≫

:マリンコ中尉 ≪おいおい、随分と威勢がいいな。オーバー≫

:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪あはは。このままじゃ、お祭り騒ぎで祈る祈らない以前にめちゃくちゃになりそう・・・・・・ちょっと心配、かな≫

少女のアバターが心配そうに、周りの熱狂ぶりを指摘する。
それを収めるためにか、はたまた火に油を注ぎたいのか、飛行服姿のアバターが提案する。

:ソラヒト ≪ここにいる皆はお祭り好きだからね!それじゃ、先に乾杯でもしてようか?ボクが音頭とっても?≫

:鍛冶屋 ≪かまわんだろ≫

なぜ、『Alli』の挑戦が成功したわけでもないのに乾杯をしようとするのか。
なぜならそれは、彼らにとって考えてみれば、『Alli』が再び漕ぐことに挑戦すると聞いただけで、感無量であったし、なにより『Alli』の諦めの悪さを知っていたからだ。
彼らは『Alli』が、一度挑み始めたら追いついて追い抜くまで挑み続けるのだと知っていたからである。
そして、彼らはこの空間を表示する画面の前に、それぞれ自前の飲み物を用意してくる。
と、ここで兵隊風のアバターが、メモ帳とペンを携えたアバター・・・・・・つまりこの私に指をさし、言ってきた。

:マリンコ中尉 ≪ああ、そうだ『ルポラ』、お前も参加しろよ。いつまで第三者気取りでモノローグ書いているんだ≫

ああ、そうだすまないね。
それじゃ、参加させてもらおうとするか。

:ソラヒト ≪グラスの準備は大丈夫だね?それじゃ行くよー、せーのっ≫

そのポップと共に私も用意しておいた缶ビールを開け、掲げる。
おそらく皆、思い思いの飲み物を掲げていることだろう。
私達の小さなヒロインのために。

:マリンコ中尉 ≪彼女の作戦の成功を!≫

:写真屋さん ≪彼女の行く末に光をっ≫

:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪えっと、航海の安全を≫

:鍛冶屋 ≪苦難に挫けず、進めることを・・・・・・≫

;ルポラ ≪彼女が、私の記事に面白く書ける日が来ることを≫

:ソラヒト ≪そして彼女に笑顔に祝福が訪れんことを祈って―――!≫

汗臭い基地の片隅で、写真だらけの大きな部屋で、ある大プリマのサインの飾ってある小部屋で、工具が無数に存在する工房で、深夜の会社のオフィスで、下駄をはいた飛行機のある格納庫で、母国の言語も身分も職業も年齢も性別もありとあらゆることは違うけれども気持ちは同じ。
それぞれがそれぞれの画面を前にして、キーを叩いた。

≪≪≪≪≪≪乾杯!≫≫≫≫≫≫




























キシ、軽い軋む音をたてるエレットさんの古いゴンドラを、ゆっくりと岸壁から離すように漕ぎ始める。
一掻き、二掻き、三掻き・・・・・・慎重にオールで水を掴んでは推進力にすべく、後ろへ流していく。
出だしは上々、とは言えないけれども。
なんとか漕ぐことはできた。

「今漕げてますよね、わたし」

≪ああ、確かに漕げている。だが、ゲームでいえばチュートリアルを終わったところだぞ?≫

「ふふっ、了解」

次第にゴンドラの線速を上げていくが、ゴンドラは今のところ安定しているようだ。
少なくとも、基本的な体のフォームやオールの捌き方ぐらいは、しっかりと脳内に記憶されていて、体も対応してくれている。
というか、これはもはや。

≪マスター。マスターの操舵はまるで脊髄反射みたいな感じだ。髄液に動作がインプットされているんじゃないか?≫

「あ、ははは。一体全体どれほど練習していたのでしょうかね、昔のわたしは」

≪だが、この事実はこれ以上ないほどのマスターの味方だ。マスターはただ『発作』が起きたときのことだけを考えてくれればいい≫

まるで脊髄反射のように基本的な動作は繰り返せれる、これはいい。
だが、わたしには二つ不安があった。
一つは、リップルが指摘してきた例の左腕の異常動作である『発作』。
そして、リップルが気づいていなかった、もう一つの敵は・・・・・・ウンディーネがウンディーネたる所以、ただ自分だけがゴンドラに乗れればいいというものじゃないこと。
お客様が安全にゴンドラに乗り、かつお客様が楽しめるようなオール捌きを提供すること。
そう、ウンディーネは全身でネオ・ヴェネチアの魅力を案内しなければならないのだ。
今のわたしにそれが出来るだろうか?

「『リップル』、制御系メモリの使用領域を予備メモリから10%追加してみようか?」

≪了解≫

心地いいキシュ、キシュという機械音が、水中からオールを引き抜くたび、フラップから聞こえてくる。
わたしの全盛期とでも言うべきかミドルスクール時代よりも安定感があるのは、ちゃんと『ベクタード』が機能している証拠か。
この能力、確かについつい頼りがちになってしまいそうだ。
気を引き締めて、さらにゴンドラを進めていく。
ゴンドラのスピードが上がるたび、わたしの心臓の鼓動もまた早くなっていく。
それは『発作』が起きるのが怖いからなのだろうか?

「ううん、違うか。これはきっと・・・・・・」

これはきっと、新しいネオヴェネチアに出会えるような、そんな気がしているからか。
揺らめく波間に映る人々の営み。
交差点を声を掛け合いながら行き交うゴンドラの群れ。
誰かが落っことしでもしたのか、波に揺られ漂っていくオレンジが青い水面にアクセントを。
遠くで商品を値切る主婦の声が聞こえる、店主は必死に値切られまいと抵抗しているけど、ちょっと無理そう。
今までも見て聞いて感じていたはずの周りが、どうしてこんなにも新鮮に感じられるのだろう?
こんなにもワクワクドキドキで漕いだのは、今まで感じたことが・・・・・・いや、初めてあの湾で漕いだときも、そういえば同じ気持ちだった気がする。
チクリ、とこんな気分を感じているわたしは心に痛みが走る。
こんな気持ちを味わえるなら、この再挑戦も悪くない、だなんて。
・・・・・・でも、わたしは決めたんだ。
今は前しか見ないって。

≪マスター、心拍数が若干増大しているが?≫

「大丈夫、問題ないです。それより、水流偏向、上手くいっていますか?」

≪抜かりはない・・・・・・ただ、そろそろ危険性が出てきた≫

「例の発作、ですね」

≪ああ、気を付けてくれ≫

ゴンドラのスピードが上がり、水面にウェーキが出来始めると、自然とオール捌きも大きな動作が増えてくる。
そのようなオール捌きの最中に例の『発作』が出たならば、確かに危険なのだ。
注意したいが、注意のしようがないこの『発作』が恨めしい。

「ううう、またぞろ怖くなってきたでありますよ・・・・・・」

「カールステッド嬢、心配するな。たとえ水に落っこちても、すぐに引き上げてやるから」

≪私を信頼しないのか?≫

「そ、その時は光速でお願いしますよ?リップルには全力で信頼していますよ」

今来るか、次の瞬間来るか、それともそのまた次の瞬間にそれは来るのか・・・・・・。

「怖がるな、とは言わん。恐怖は安全装置だからな。だが、それを乗り越えなきゃ再スタートにはならんぞ!」

「ッ!?はいっ!」

段々表情が不安の雲に覆われていくわたしに、軍曹さんの声が響く。
今はただ前へ漕いでいよう。









そして・・・・・・その時は来た。
水路の端の曲がり角まで来て、ゆっくりと旋回して再び反対側の曲がり角までゴンドラを漕いでいた。
その5度目、いや6度目か。
水路の中央、一番速度が乗って一番オール捌きが大胆になる場所で、『発作』は起きたのだ。













ぐらり、と一気にゴンドラが不安定になる。
いつもの発作とは違い、ピクリ何て可愛いものじゃなくてビクンと今までで一番大きい物だった。

「うあ、うああ!?」

「アッリ!」

アイリーンの声がやけに遠く遅く聞こえる。
全ての感覚がスローモーションに感じる、わたしの制御を離れた左腕に持っていたオールが大きな水しぶきを上げて滅茶苦茶な水の流れを生み出す。
右腕で支える?
―――無理だ。この無理な体勢で右腕で支えようとしたら、それこそ転覆だ。
なら、制御から離れているのはごく短小な時間だから、回復と同時に復帰を図る?
―――これも、無理。今まさに体の体勢を崩し始めているのに、待つことはできない。
だったら、落ちないように足で踏ん張る?
―――無理じゃないけど、微妙。体力の落ちたわたしが踏ん張ってどれぐらいの効果があるか。
自分で自分を褒めたくなるぐらいの思考の速さで、いくつかの対策が浮かんでは否定されていく。
駄目だ無理!
その時、声が聞こえた。
諦めるな、と。

「『リップル』、オーバライド!『ベクタード』、出力120%、水流とゴンドラの安定を最優先!」

≪マスター、踏ん張れ!あとはこちらで受けもつ!≫

「!、はいっ!」

今までで一番大きい駆動音が、オールの先端から響き渡る。
ヒュゥゥオォォンと、トンネルの中を風が抜けるような甲高い音と共に、オールは水流を綿菓子を作るときのように、文字通りオールの先端から絡めとっていく。
まるで飴細工のように粘性があるように見えるのは視界すらもスローモーションになっているからか。
そんな不思議な光景を視界の端に入れつつ、ゴンドラの進行方向左に落ちようとしていたわたしの体を支えるべく、下半身にグッと力を入れる。
左足を軸に、傾きかけていた体を無理やり元に戻そうとする・・・・・・駄目だ、体勢が崩れて右足がゴンドラ漕ぎの際の定位置から外れる。
それはウンディーネとしては下の下、失格だ。

でも今は・・・・・・お上品にならなくてもいい、まずは水に落ちずに漕いでみせるのですよっ!

ゴンドラの縁に右足をかけて力をいれて、上体をグイッと引き起こす。
一時的にゴンドラの重心が左へ傾いたことにより発生したゴンドラの不安定さはオートフラップオールがその全力を尽くし、相反させ消した。
右手には再びオールの柄が握られている、どうやら体勢を立て直すことに成功したようだ。

「はぁぁ、ふぅ」

安堵のため息が漏れる。
心臓の動機が和らいでいくのと同時にスローモーションだった世界が元の速さへ加速していく。
なんとか、なったのでしょうか?
だとしたら・・・・・・。

「アッリ!」

アイリーンが叫ぶようにわたしを呼ぶ。
そんなに大声でなくても聞こえてますって・・・・・・。

「アッリ!!」

だからなんでしょうか?
わたしはとりあえずは漕ぐことに成功した余韻に浸りたいのですが、そう思ってアイリーンの方を向こうとして気づく。

「まーえー!」

目の前に壁が迫っていたことを。

≪あーマスター、こりゃ無理だ≫

「・・・・・・ですよね」

何とかできないかとオールを握る手の力を強めるが、諦めた台詞をリップルは発した。
・・・・・・水ポチャですね。
何ともしまりのない。

そして。


ゴツンッ!


ゴンドラの舳が壁にぶつかった音と共に、わたしは水の中へ盛大に頭から突っ込んだ。





















「アッリ!大丈夫!?」

「ええ大丈夫ですとも、げほっ、ちょっと水を飲んじゃいましたけど、げほっ」

わたしが水に突っ込んだ瞬間には軍曹さんも水に飛び込んでいたそうで、瞬く間にわたしは救出されました。
鼻から水を吸い込んでしまったようで、鼻水は出てくるわ、気管支にも少し入ったのかさっきからむせ続けるわ、さんざんですが。
わたしは、これ以上ないほどの満足感に満たされていました。
酷い顔になっているのに、さっきからニヤニヤと笑みを絶やさないわたしを不思議に思ったか、アイリーンの目が丸くなる。

「ふ、ふふふ・・・・・・これはこれはこれは」

「あ、アッリ?ちょこーと、怖いよ?」

「うふふふふふ、ふふ?やっぱり一度じゃ無理かぁ」

「アリ・カちゃーん?」

アイリーンやエレットさんが体を何やらびくびくさせながら、わたしに声をかけてくるが、わたしには全くもって聞こえていなかった。
軍曹さんは、自身にも経験があるのかやれやれといった風に肩をすくめていた。

「漕げた、のですよね。わたしは」

「え、うん。アッリはちゃんと漕げてたよ、でも最後は・・・・・・」

アイリーンの表情に影が落ちる。
彼女は最後の失敗が気にかかっているようだ。
でも、今のわたしにはそれは些末な出来事でしかない。
漕いでいる間は緊張と不安で気づいていなかったが思い返してみると、あの最後の『発作』の手前までの自分のフォームは、限りなくかつての自分の物だった。
つまり、自分はまだ漕げるのだ。
ならば、残された課題は。
仰向けになったわたしの目の前に浮かぶ海の底とはまた違う、吸い込まれそうな蒼穹の大空へ左手を伸ばし掌を広げる。

「必ず乗りこなしてやるのですよ、このじゃじゃ馬を!」

「・・・・・・アッリ」

そう叫ぶと同時に、ギュッと拳を握る。
わたしのその動作にアイリーンは一瞬呆けたような顔をする。
でも、その目に涙が浮かび始めるのもすぐだった。
わたしは彼女に抱きついた。
体が濡れたままだから彼女の服が濡れてしまうと思ったけど、彼女が押しのけようとしないので、このままわたしは言うことにした。

「アイリーンが居てくれたおかげで、わたしは挑戦することが出来た、漕ぐことができた」

「う、ん」

「今のままのフォームじゃ、たぶんウンディーネにはなれっこなさそうです。でも、貴女は言いましたよね?『迷いながらも、失敗しながらも、その義肢は確実にアッリの腕になる』って」

昨日の夕方のダイビングで言っていたアイリーンの言葉。
今のわたしなら、それは嘘に聞こえなかった。

「うん、私はそう言ったよ?」

「その言葉、今なら信じます。いえ、実行します。必ず、この義肢を御してやります」

「うんうん・・・・・・」

「わたしは、貴女にこれからも迷惑をたくさんかけると思います。だから先に感謝しておきます。今まで、ありがとう。これからも、いつまでもありがとう」

「アッリぃ・・・・・・」

「全く、貴女が泣いてどうするのですか?」

立ち上がり、エレットさんからタオルを受け取る。
けど、それを使うのはわたしじゃなくて、アイリーンです。
アイリーンの頬を流れる綺麗な涙の粒を優しく拭い取ってあげ、彼女の手をとり立ち上がらせる。

「うん・・・・・・ごめんね」

「ほら、涙を拭ってください。わたしに取っての王子様?」

「・・・・・・はは、アッリ。ちょっとキザだよ、それ」

「やっぱりキザですかねぇ?」

「うん、とっても」

そして、二人で笑いあう。
雲一つないこの青空のように、わたしの心も澄み切っていた。

























:マリンコ中尉 ≪成功したってよ!オーバー≫

:鍛冶屋 ≪そうか≫

:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪よかったぁ・・・・・・≫

:レポラ ≪ふーん、記事向きな内容?≫

:ソラヒト ≪レポラはいつもそれだねぇ・・・・・・≫

:写真屋さん ≪まぁ、とにかく?もう一度いく?≫

:ソラヒト ≪そうだね、そうしようか!せーのっ≫

≪≪≪≪≪≪我らがヒロイン、アッリ・カールステッドにとりあえずのグランドフィナーレを!乾杯!≫≫≫≫≫≫







[18214] Epilogue 『そして始まる、これから』
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/03/02 00:09

「さぁて、と。これからどうしましょうかね?」

「え?どうしようかって?」

「いやぁ・・・・・・考えないようにしていたのか、すっかり忘れていたんですけど、わたしの家って借り家なんですよねぇ」

体を拭いて着替えて、ようやく一息ついたところで思い出したことがあった。
実務的な面で、これからの生活をどうしようかということだ。
より具体的にいうと、今のままじゃ、ウンディーネになんかなれっこないけど、では特訓をしている間の資金や衣食住はどうするのかということだ。
資金は両親の遺産があるので十分なのだろうとは思いますが、衣食住はどうしようもないです。
あの家はAQUAコーストガードの社宅なので、コーストガードの隊員だった両親が死んでしまった今、そろそろ引き払わなければならないのです・・・・・・世知辛いですが、世の中そう甘くは無いようです。

「だったら私のうちに来れば?アンおばさんもほとんど家開けてるし」

「たしか、アイリーンは明後日から寮に入らなきゃいけないと記憶していたのですが?」

「・・・・・・そうだった!」

「そうですよ、だから今日や明日はともかく、明後日以降もお邪魔するわけにはいきませんよ」

オレンジぷらねっと社に所属するウンディーネは、原則として社の寮に入らなければいけない。
その入寮式が丁度明後日に控えているのだ。

「うーん、でもアッリなら何事もなく家を使ってくれそうだから、アンおばさんも勝手に使う許可をくれると」

「それはない。カールステッド嬢はまだ医療バンドを巻いていなきゃいけない病み上がりの病人だ、一応な。だから、一人にするわけにはいかんのだ」

「えー」

「えー、と言われてもな。マーケット嬢だって、医者から彼女の退院後に注意しなきゃいけないことを聞いていただろう?もし、何かあった時の責任はどうするんだ?」

「う、たしかに」

確かに一人で料理中に先ほど起きたクラスの『発作』でも起きたら・・・・・・想像したくはないが、体にダメージを負うのは必須でしょうね、包丁やら鍋やらで。
思わず眉間にしわがよる。
ううむ、まさか前を向いた瞬間に、自分の介在できない問題が転がっているとは。

「困ってるようだな?」

「意地悪そうな顔ですね、軍曹さん」

「酷い言われようだな、おい。まぁいい。その困ってることについて、ちょいと提案があるんだが」

にやりと例の意地悪い顔でそう言う軍曹さん。
なにかよからぬことでも考えているのか。

「アッリ・カールステッド、思い切って、アリソンの世話にならないか?」

「はい!?」

軍曹さんはなんとエレットさんの家の世話にならないかという。
エレットさん自身でもないのに彼はまるで自分の家のことのように喋りだした。
エレットさんの父親であるアルフォンソおじさんはゴンドラ職人なのだが、その技術や伝統を受け継ぐ人を探したり、あるいは自らのそれを受け継いでくれる人を探すために、世界を巡っているらしく殆ど家にいないのだそうだ。
それで、家には空き部屋が幾つかあるそうで、そこに住まないかとのこと。
食事も一人作るのも二人作るのも変わらなく、大して負担にはならないだろうからとも。
下宿先やとりあえずの宿を探そうかと考えていたわたしにとって、大いに渡りに船であったが、エレットさんの負担にならないかと心配になる。
それに、これはエレットさんの意志が絡んでいるのでしょうか?
軍曹さんはグッと親指を立てて、自信ありげに言った。

「大丈夫だ、根回し済み」

「うん、私は大丈夫?うちは大きいし、なにげにこう見えても、結構裕福?自慢じゃないけど、私は大学時代の特許料で結構稼いでいる?」

「いや、でも・・・・・・エレットさん、脅されたとかありませんか?」

この人のことだから、自身の体躯に物を言わせて脅したんではないだろうかと心配になる。

「・・・・・・俺はいったいなんだと思われてるんだ?」

「へんたい」

「そろそろ怒るぞ?」

「まぁまぁ二人とも落ち着く?アリ・カちゃんが言うようじゃなくて、これは私自身の意志?だから、大丈夫?」

「彼女も言ってるんだ、お世話になっとけ。それに彼女の人脈は半端ない、お前はきっと多くのいい出会いを経験できるはずだ」

エレットさんが、そう言い軍曹さんも追随する。
アイリーンの方を見れば、彼女もその方がいいよとばかりに首を縦に振っていた。
それにお世話になるなら多少なりとも顔見知りの方の方がやっぱりいろいろと安心できますし、オートフラップオールの整備やリップルの調整もエレットさんしか出来ないし、彼女の世話になるのは何かと好都合である。

「なら・・・・・・お言葉に甘えさせていただきます、エレットさん」

「交渉成立?あと、これからは『エレットさん』じゃなくて『アリソン』でお願い?」

「わかりました・・・・・・エレッ「アリソン?」」

「貴女は私達の秘密の場所である『ウンディーネの寝所』に訪れた?それに、私の家に来る?」

「お邪魔でなければ、お願いしたいです。さん付けでもダメなんですか?」

「私のお世話になるんだったら、『アリソン』って呼ぶ?OK?」

「うー了解です、アリソン」

年上の方を下の名前で呼び捨てにするっていうのはどうにも違和感を感じますが、さてと、これでわたしの衣食住は目途が立ちました。
これで一つの懸案は解消された、しばらくは問題は無い。
ただ・・・・・・自身を引っ張るちょっとしたしがらみにけじめを付けるために、できるだけ早く訪れなきゃいけない場所がある。
あとは・・・・・・

「あ。そうだ、アッリ一番重要なこと忘れてるよ!」

アイリーンがポンと何かを思い出したように手を付く。
彼女が覚えていて、わたしが忘れているようなことなんてあるのでしょうか?
うーむ、俄かには信じがたいのですが一応聞いてみましょう。

「ええっと、なんですか?」

「えへへー、じゃいくよー?」

彼女はなにやら恥ずかしそうに笑うと、思いっきり深呼吸をした。
そして彼女の口が、何やらメロディを口ずさみ始める。
それはやがて大きくなっていき、あの曲になってくる。
マンホームの20世紀後半よりあるアジアの国で使われ始め、そしてその国の文化も併せ持つネオヴェネチアのミドルスクールやハイスクールでも執り行われる本来のヴェネチアには無い『ある式』でよく使われる曲。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル作、『見よ、勇者は帰る』。
わたしが入院中で欠席したミドルスクールの卒業式でも、きっと流れたあの曲だった。
なら、彼女が後ろに隠し持ってるのは。

「タ~ンタターンタタ~~~ンタン、タタタタターンタンタ~ン♪」

「アイリーン、もしかして」

「タ~~ンタタン♪・・・・・・ふふっ。アッリ、前へ出て?」

彼女はハニカミながら、後ろ手に持っていた紙の端を大事そうに両手で持った。
わたしはおずおずとアイリーンの前へ進み出る。

「アッリ・カールステッド殿。貴方は本学を優秀な成績で修めたことを証し、これを賞する。AC0073年度下半期卒業。おめでとうっ!」

「ありがとう、ございます」

「あと、粗品。ゴンドラ部の顧問や後輩たちからだよ」

慌てて受け取った卒業証書を脇に挟んで、それらを受け取る。
ミドルスクール初等部からお世話になった顧問の先生からは彼女が愛用しているメーカーの縁のレースが可愛らしいハンカチを、後輩たちからは励ましのメッセージが書き連なった寄せ書きを。
寄せ書きには今年ゴンドラ部のミドルスクール高等部に参加出来るようになったばかりの子たちの名もいた。
書いてある中には小生意気にも『先輩よりも早くプリマになってやる』って言葉も書いてあったけれども、その勝気な子のことを考えたら納得。
誰もわたしには掛け替えのない後輩たちだった。

「ああもう、泣けてくるじゃないですか」

涙が溢れるけれども、これは止めちゃいけないうれし涙。

「卒業おめでとう、アッリ。それと、これは・・・・・・私がアッリからの卒業の意味もあるんだ」

「えっと、どういうことですか?」

涙をさっそくもらったハンカチでふき取りながら、アイリーンのセリフに対する疑問を言う。
涙は拭いても拭いても乾かなかったけれども。

「私はこれからアッリとはさ、離れなきゃいけないんだよね?」

「・・・・・・まぁ、そうなりますかね。ちょっと、寂しいですけど」

入社すれば自然と疎遠にならざるを得ない、同期入社の繋がりもあるでしょうし。
彼女が一緒にいてくれれば、それはわたしには理想だけれども現実的ではないのだ。
だから、アイリーンは言う。
アッリと別れるのはアッリ以上につらいのだ、と。

「だから、アッリにこれを。私とアッリの絆が途切れないように」

わたしの髪の毛を優しく梳いてから、彼女は手に持っていた物をわたしの左側の髪の毛へ結わえつけた。
夏が始まろうとしていることを示すサラッとした風にフワリと棚引くそれは、これからの季節に合いそうな爽やかな、それでいて吸い込まれるような蒼色のリボンだった。
しかし、唯のリボンではないようで、その形状は不思議なものだった。

「これが私からのもう一つの誕生日プレゼント、アッリが決してくじけないように、そして私とアッリの絆が永遠につながり続けるように」

リボンの結び目から延びる布は途中でねじれ、そして結び目へと戻っていた。
数学の小話として聞いた経験のある、真ん中を切ると一つの輪っかになったり、表面を走ると絶対に終わりのないあの不思議な性質を持つメビウスの帯。
その形をモチーフにしたリボンだった。
彼女は自分の後頭部にも同じリボンを結わえると、決意を表すかのように胸に手を当て一気に言う。

「今まで私はアッリに頼り切っていた、後を追っていた。でもこれからは、私がアッリの前を進む。私は待ってるよ、オレンジぷらねっとで」

わたしは一瞬呆気にとられました、彼女は今までわたしと一緒にいるか後ろを半歩遅くついてきていた存在だったから。
でも、考えてみればもう彼女はわたしより前に進んでいるのは事実だ。
だからこそ、彼女はわたしからの卒業とも言ったんだろう・・・・・・彼女自身、わたしよりも前に出てきたことはこれまで一度もないのだからして。
今までもこれからも、彼女とわたしは親友であると、わたしは確信を持って言える。
今後は『親友である』という前に、『ライバルでもあり』と付け加える必要が出てきただけのことです。
彼女はそれを自覚したから、『わたしからの卒業』と決意したんでしょう。
なら、わたしはライバルとしてこう答えねばなるまい。

「・・・・・・待つんなら、プリマで待っていてくださいよ?目標が高い方が追いつきがいがあるので」

「ふふっ、了解だよ。それに言われなくたって、プリマになるのは私の夢だから。でなきゃ遥々マンホームからやってこないよ」

「アイリーンこそ、途中でくじけないでくださいよ?あとは書類をちゃんと出すことと規則を守ることと・・・・・・」

「アッリ、それは分かってるって!もう!」

「はいはい・・・・・・」

お互いに軽口をたたきあう。
映画とかでよく健闘を祈りあって軽口をたたきあうシーンがよく見られるけど、彼らの気持ちがなんとなくわかるような気がする。
信頼の証、絶対に大丈夫だという意思表示なのかもしれない。

「では、お互いに頑張りましょうか?」

「うんっ!」

コツンッとグーの手をぶつけ合う。
わたしが前へ進み始めたのと同じように彼女もまた前へ進み始めねばならないのだ。
ゴーンとネオヴェネチア全体に響くような重い鐘の音がサン・マルコ広場から聞こえてくる、今ちょうど12時のようだ。
そして、それがスタートの合図のように彼女は進む。

「じゃあ、アッリ。私は入寮説明会に行ってくるよ」

「そこはちゃんと覚えていましたか」

「いや~、さっき言われたから思い出したんだけどねっ」

「まったくもう・・・・・・貴女の苦手な説明会ですが、寝ないように気を付けてくださいね?」

「さ、さすがに寝ないんじゃないかなー。とにかく、行ってきます!」

「はい、行ってらっしゃい」

トタトタと小走りに駆けだしていくアイリーンをわたしは笑顔で見送った。
彼女が大通りへ続く道に出たのを見届け、わたしも行動を開始する。

「アリソン、軍曹さん。すいませんが、わたしのいない間にわたしの家の掃除や整理お願いしていいですか?」

アリソンが構わないという意思を示すように場所とわたしの家の間取りを聞いてきたので、素直に答え、鍵を手渡す。
不用心かもしれないのですが、アリソンと軍曹さんなら悪いことはしないでしょうから安心です。
と、軍曹さんが少し不思議そうな顔をして聞いてきた。

「ん?家の掃除や整理は構わんが・・・・・・なんだ、カールステッド嬢はどこかへ行くのか?」

「アレサ・カニンガム部長に会いに、オレンジぷらねっと本社オフィスへ」

向かう場所は二日前にも訪れた、あの部屋。
わたしはわたし自身にちょっとしたけじめを付けるべく、あの部屋に向かうのだった。



















「それで?アポもなく、急に私を訪ねたのはどういうことかしら?」

「いや何、一つ確認しに来ただけですよ」

私は、アレサ・カニンガムは少々の驚きを感じていた。
理由は目の前にいる少女だ。
太陽は高く上り、今頃寮の方ではアン・ウェンリー寮長が新入社員に寮に関して様々なことを講義しているであろう時間帯。
人事部長としてそちらに出席し、挨拶を終えたところに受付から困惑した様子で突然入ってきた面会願い。
その面会を願ったのが目の前にいる薄い白いクリーム色の髪の毛、左に鮮やかな青の不思議なリボンを結った少女・・・・・・アッリ・カールステッドだ。
彼女はわが社に内定し、入社待ちだったが事故で左腕を全損。
生体義肢に変えてからもリハビリが上手くいっていなかったようで、おととい訪れたときには死んだ魚の目をしていて、まるで生きているという気がしかなかった。
ところがだ、今私の目の前にいる彼女の表情はどうだ。
そんなことを感じさせず、それどころかどこか飄々として自信がありげで・・・・・・そう、私が彼女をスカウトしに行った時そのものだ。
一体この二日間、いや実質昨日のうちに彼女をがらりと変える何か劇的なことでも起きたのか。

「えーと、確認したいことは・・・・・・言う前に、アレサ部長?どうしたんです?」

「あっと、ごめんなさい。ちょっと驚いたものだから」

「まぁ、おとといのわたしを目にしていますからねぇ・・・・・・無理もないですよ」

あっけらかん言うその表情やしぐさに、無理に頑張っているという様子は感じられない。
なんだろうか、部長時代よりも何て言えばいいか、そう明るく見える。
性格や動作じゃなくて、オーラ、あるいは雰囲気のようなものと言えば分かりやすいだろうか。

「アレサ部長もお忙しいでしょうから、手短に行きますね?」

「え、あ、ええ。その方が助かるわ」

「では、コホン。わたしの内定証明書、まだ保存してあったりってしますか?」

内定証明書?
ほんの二日前のことだし、確かにまだ私は未練がましくも残している。
それが今の彼女に必要だというのだろうか。

「内定証明書?」

「はい。それがまだあるのかな、と思いまして。あれば見せてもらえないでしょうか?」

彼女のこの発言、様子・・・・・・彼女はきっと以前のように漕げるようになったのだ、でなければ、この何とも言えないオーラは出せないはずだ。
ならば話は早い。
この内定証明書の一番最後の記入欄、入社申請の所に彼女の名前を記入してもらわなければ。

「ちょ、ちょっと待っててね。すぐに出すわ」

ガサゴソと鍵をあさり、鍵付き引き出しから彼女の内定証明書を取り出す。
ほんの二日前にしまったばかりだったはずなのに、まるでその時の彼女の心境を表すかのようにクシャクシャになっていた。
私は落ち着いてそれを手渡した。

「はい、どうぞ」

「おおう、本当に残してあったのですね。少々意外です」

「そうかしら?さぁ、早く書いて?」

「書く?何を言っているのですか。わたしはこれを・・・・・・」

ビリッビリッビリリッ!!

「おや、どうしたのですか?そんなに驚いたように口を開けて」

あんぐりと。
今の私の表情を社員が見たら、その驚きで私と同じようになるかもしれない。
唖然。
部屋に備え付けの鏡に映る表情を見て思う、これほどこの言葉に似つかわしい表情は正直経験がなかったと。
彼女はあろうことか、自身の内定証明書を、確実にオレンジぷらねっとの社員になれる切符を破り捨てたのである。

「わたしが何時漕げるようになったから、内定証明書に署名するので寄越してくださいといいましたか?」

いたずら小僧のようにニヤニヤと笑いながらそう言う彼女。
なるほど確かにそうである。
そうであるが。

「・・・・・・貴女はそれでいいの?」

「何がです?」

「漕げるようになったと言っていない、つまりまだ漕げないということよね?漕げるようになったら、すぐにでも入社できる切符を貴女は」

「それがどうした、ですよ。アレサ・カニンガム部長?」

彼女は言いきった。
過去の自分が得た切符は、もう自分にとっては期限切れなのだと。

「その切符は過去のわたしの業績です、今のわたしの評価じゃあない」

「それは、そうだけど・・・・・・」

「わたしは、今の自分を、未来の自分を評価してほしいのですよ?もう一度」

「もう一度?」

そして彼女は、道が長く険しい道のりであろうとも、ある道を進むことを決めたことを表明する。
瞬間、彼女の眼に力強い炎が垣間見えた気がした。

「はい。わたしは自分が納得できるレベルに達したら、一般入社試験を受けます。その時に取るか取らないかを決めてください、今日や今までのことは一切忘れて他の受験者を見る目と同じように同じ基準で」

オレンジぷらねっとは自前のウンディーネ育成校を持ち、またスカウティングも積極的に行っている。
だが、それ故に一般入社試験の門は狭く低い、今年度上半期の同試験でも18人中3人しか合格できなかった。
合格率は、わずかに1割強である。













「『わたしは前へ進んで行きます。何があろうとも、この長い旅路を』か・・・・・・ふふふ。これは予想外だったわね」

彼女が廊下を去っていく音が微かに聞こえる。
私は、彼女が残していった無残にも八つ裂きにされた内定証明書をゴミ箱へ片しながら思う。
とても優秀で・・・・・・そしてとても不思議な人材になるだろうと。
この二日間の夢見心地が嘘のように、今晩は久しぶりにいい夢を見れそうだった。

































かくして、わたしのけじめは付けおわった。
安易にオレンジぷらねっとへ入社する方法は失われたのですが、わたしの心はアイリーンからもらったリボンの色のように澄み渡っていた。
軍曹さんの尽力により、アリソンの家へわたしの部屋をほぼそのまま再現したそうだ。(軍曹さんは作業が終わると、そのままアンおばさんの手伝いに行ってしまったそうだ、これでしばらくは会えないらしい。少しさびしい。)
わたしは『Atelier・Alison』と書かれた看板を見上げる、思えば激動の一日だった。
二度目の入店、でもこれからは入店じゃなくて、

「ただいまです、アリソン」

「おかえりなさい、アリ・カちゃん。ううん、私の家族、アッリちゃん?」


わたしの長い旅路は、こうして始まったのである。






[18214] Prologue 『One Day of Their』
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/03/02 00:13

PiPiPi!
短い電気音の後にぶわっと広がる架空の世界、その世界の一角を占める空間の連絡や集会のための広場のような場所にポンッとアバターが出現する。
アバター名は『Alli』。
鮮やかな青のリボンを結わえ、薄いクリーム色の髪を肩程まで伸ばした少女のアバター。
少女のアバターは一言のメッセージを空間に表示させた。
いつか彼らが訪れたときに困らないように、ここのメンバーたちだけのパスを掛けた住所等の資料を添付して。
そして、このメッセージが彼女とその戦友たちを奮起させ、このアバターの操り手に数々の物語を生むことになるのである。

:Alli ≪えっと、初めまして。Alliことアッリ・カールステッドです。わたしのことを心配したメッセージをたくさん頂きました。元気づけられたり、参考にさせてもらったり・・・・・・全部、わたしの宝物です。ありがとうございました。やっぱり、わたしはウンディーネを目指すことにします。前をどこまでも向いていくって決めました。追伸:時々練習のためにここへ来るかもしれません、その時はよろしくお願いします。それでは・・・・・・≫








この彼女のメッセージを、偶然にも一番に見ることが出来たのは先日のどんちゃん騒ぎに参加できなかったアバターだった。
『Re;サナダ』と表示されるそのアバターは白衣を着て、メガネをかけて・・・・・・どこからどう見ても研究者と言った風貌であったが、頭にかぶった場違いなハンチング帽のせいで奇妙に見えた。
アバターはそのメッセージを前に二度三度右へ左へ何かを考えるように行き来すると、メッセージの下にツリー状に自らのメッセージを付け足した。

:Re;サナダ ≪リップルの調子はどうだい?おかしいことがあったら、すぐにアリソン君に相談するんだよ。開発者の言うことは聞いてね≫

アバターの操り手はそこまで書き込むと、アバターを退出させ端末の電源を落とした。
彼は、窓からそそぐ朝焼けに染まる研究室のような部屋の壁掛け時計を見、自分の腕時計も見て、更には卓上の時計も見て、それから腰を上げて何やら旅支度を始めた。
今年もお仕事の時期がやってきた、とつぶやきながら。








兵隊風のアバターはメッセージを見て、その操り手と同じように口をあんぐりと開けていた。
彼の認識では、アッリ・カールステッドに送った手紙には大したことは書いてなかったので、まさかお礼を言われるとは思っていなかったためである。
ともかく若干律儀な彼はそのメッセージに返事を書こうとして、メッセージの下についた研究者風のアバターのメッセージを読んで呆れる。
彼女の心配より自身の作った物の方が心配なのか、と。
これだから研究者って奴は、まぁ奴もAI抜きに心配していたし目くじら立てる必要は無いか―――操り手は端末の前でつぶやく。
奴が書き込んだんなら、自身も書き込むべきかと手を躍らせる。
朝食から戻ってきた部下に冷やかされながら、彼はそのメッセージの下に更にメッセージをぶら下げた。
彼自身の経験に基づいた言葉を乗せて。

:マリンコ中尉 ≪目標が決まったなら、それはいいことだ。俺みたいになるなよ?じゃ、その目標に絶対に到達すると自分に言い聞かせながら、ガンバレ。オーバー≫








兵隊風のアバターと入れ違いに老人のアバターがログアウトする前に連絡事項を確認しようとし、アッリ・カールステッドからのメッセージをに気づく。
メッセージを見た老人のアバターの操り手は、思う。

「前を向いていく、か。だが、時々は立ち止まって周りを見てみないと、思わぬところから何かが飛び出てくるかもしれないぞ」

彼は端末から立ち上がると、その年を感じさせない軽快な足取りで上りきった太陽に照らされる自らの工房へ行った。
毎年彼の下にある物の製作を頼みに来る孫のような存在の『彼女』が訪れたときに困らないために、彼は毎日作品を作り腕を落とさないようにしているのだ。
はてさて今年はいったいどんな無茶で難題なデザインが来るのかと、少々の不安と多数の期待を持ちながら。
彼の去った端末に表示されるAlliのメッセージの下には、彼の残したメッセージがぶら下がっていた。

鍛冶屋 ≪急いてはことを損じる。時には立ち止まって、己を振り返るのも大事だ≫








鍛冶屋の去った空間に出現する少女のアバター。
そのアバターの操り手である彼女は毎日夕方に学校から帰ってくると、このゴンドラシミュにログインする。
彼女の夢もまたアッリ・カールステッドと同じようにウンディーネになることなのだ。
ここのメンバーの中で最も真面目に練習をしている彼女は、アッリ・カールステッドが『漕げなくなった』と感じた時の気持ちをおそらく誰よりも一番理解していた。
そして、彼女はアッリ・カールステッドのメッセージにこう書き残す。
自身もいつか同じ舞台に上がると決意して。

:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪いつかネオ・ヴェネチアの船上で会いましょう。それまで私もがんばります!≫

そして彼女はマンホームではできないゴンドラの練習をするために、この空間から退出しゴンドラシミュを起動させる。
いずれAQUAに赴いて、自らの夢を叶えるために。









飛行服姿の少年のアバターがメッセージを確認する。
その操り手である『彼女』はいつも通りの時間にここへ来訪し、太陽が地平線へと姿を隠そうとする時間まで、行っていたことの緊張をほぐすべくゴンドラを漕ぐのだ。
その前に連絡やニュースを知ろうと広場に立ち寄り、アッリ・カールステッドのメッセージに気づいて、それを読む。
彼女は自身が今の生業に至った経緯を、脳裏に浮かべながら返信を書き込む。

:ソラヒト ≪山頂への道は色々。これだけって決めてかかると、足をすくわれるよ?臨機応変に、頭を柔らかく。それじゃ、頑張ってね。ボクも応援してるよ!≫

書き込みながら、彼女は端末の前で装具を解きジャケットを脱ぎ、ラフな格好でゴンドラシミュを開始する。
毎日の仕事のための練習で、凝りに凝った体をほぐすように。








カメラをぶら提げた狸パーカーの女性のアバターの操り手の彼女は、今日は訪れる予定はなかった。
ただ、とっぷりと夕闇に浸かる旅先のホテルで端末一式を借りれたために、たまたま来れたのである。
そんな彼女はメッセージに気づくと、あわてて仕事道具から今日の仕事で得た成果を引っ張り出す。
アッリ・カールステッドのメッセージへの返信にそれを添付し、本文を書きこむ。

:写真屋さん ≪人生楽しいことも苦しいことも、その時その時を楽しめたもの勝ち。でも時々は過去を思い出して。そして未来に思いを馳せる。どちらも、とてもとても大事なことだからねー≫

添付された写真には、アッリ・カールステッドの未来を暗示するような、どこまでも抜けるような青空と険しい山肌が映っていた。








『私』こと記者風のアバターの操り手は、今日一日のまとめを掲示板に連絡として書き込む。
アッリ・カールステッドのメッセージが書き込まれてからのログをざっと読み通し、端末の前でほほ笑む。
このメンバーは皆彼女のことが好きなんだなぁ、と。
もちろん自分も含めて。
多少彼らとは興味の矛先が違うような気もするが。
とにかく、自身もこのログの最後に書き込む。

:レポラ ≪いつか私の記事に載るように頑張ってくれると嬉しい。記事に載ってしまえば、未来に残せるのだからね≫

深夜の夜空には星が瞬き月が輝く、さぁ、今日はもう寝よう。
明日も上司に叩かれ、私は今を未来に残すための原稿を書き上げるのだ。








アッリ・カールステッドは、自身のメッセージの最後に付け加える。

≪それでは、おやすみ。そして、おはよう≫

まばゆい光で目をさまし、大きく欠伸して眠気をかみ殺し、歯を磨いて朝食をとって。
では、今日も一日を始めましょうか。





[18214] 第二章『ある一日の記録』 第一話『機械之戯妖~前編~』
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/03/22 21:14





あれからマンホーム時間で一月程の時が経った。
わたしはアリソンの家に厄介になりつつ、ゴンドラの練習をしたり、アリソンのお店の手伝いをしたりして日々を過ごしていた。
ゴンドラの練習は、相変わらず時々起きる例の『発作』でオールを暴れさせてしまい、水に浸かったり浸からなかったりであまり進展が見られないのですけど。
ま、めげるつもりは到底ありませんが。
時々やってくるアイリーンは、指導教官との相性がいいのか見るたびに技量に知識を向上させていますから、負けてはいられませんよ。
今日も、古ジャージの下に水に浸かってもいいようにスクール水着を着こんで、毎朝のように寝坊するアリソンを叩き起こして、彼女にアイリーンから貰った群青のリボンを結ってもらい、エネルギーバーを口に放り込んで朝練に行くという日課をこなそうとしました。
ところが、です。
いつもはわたしが起こさないと起きないアリソンがとても珍しくもわたしより先に起きていて、そして言うのだ。

―――アッリちゃん、今日はゴンドラの練習をちょっとやめて、手伝う?

と。
その言葉と共に、彼女は今朝の新聞―――ネオヴェネチアンタイムズ、このネオヴェネチアではポピュラーな日刊新聞だ―――を差し出し一面を見るように言う。
わたしはアリソンから新聞を受け取り、一面をざっと目を通して彼女の言わんとしていることに気づく。

「なるほど、アクア・アルタですか。そういえば、もうすぐ夏でしたね」

「そう、明日にアクア・アルタが起きる可能性大?だから準備をしないと?」

一面には今年のアクア・アクアが明日に迫っていることが報じられていた。
観測技術の向上でほぼ正確にアクア・アルタのやってくる時が分かるのである。
かつてマンホーム時代のヴェネチアではアクア・アルタは厄介者のような存在で、濁った水で市内は汚れるわ、海水で建物は傷むわ、観光客も目減りするわと散々だったようです。
ヴェネチアの水没の直接的な原因も大規模なアクア・アルタであったそうですし。
ですが、ネオヴェネチアではそんな心配は少なく、むしろアクア・アルタをお祭りのように楽しんですらいる人も多い。
そんなネオヴェネチアの市民は呑気な物というか手慣れたもので、アクア・アルタの時期が迫ると、低いところのものを上に揚げたり、食材や生活必需品など消耗品を買い溜めにお店へ走るのです。

「去年は父さんがいたから、何とかなった?でも今年は用事で帰ってこれないそうだから、朝から丸一日使ってでも片づける?」

「確かにこれほどの量の物をわたし達だけで片づけるのは骨が折れそうですね」

店内は物、物、物、と様々な商品が上に下に並べられているので、ものすごい量です。
これは本当に丸一日片づける作業に徹しないと、明日の早朝のアクア・アルタまでに間に合わないと思うのですよ。
でも、先週にもアクア・アルタが来ることがニュースになっていませんでしたっけ?
だったらその時から片づけを始めていればよかったのではないだろうか?

「私だって店は開いていたい?だからギリギリまで粘っているし、それに買い溜めはもう済ませてあるから、あとは片づけだけ?」

アリソンは確かに裕福でしたが、お店を開くこと自体が今の彼女にとって一番の楽しみになっているのだとか。
だったら、朝は自分で起きてほしいものです。

「でも、リーンにも応援を頼んだけど来れるかどうか分からないらしいから、少し間に合うかどうか心配?」

確かに、アイリーンもいれば何とかなるだろうとは思います。
重いものはともかく、わたしとアリソンよりも身長が高く、また体力的にも戦力になりそうではあったのですが。
オレンジぷらねっともギリギリまで操業し続けるそうで、朝客の少ない時間帯に最大限準備をしておいて、終業後に残りをやってしまうんだそうです。
アイリーンのようなペア組は今日は練習なしで、朝からずっと片づけを手伝わないといけないのだそうだ。
オレンジぷらねっとの可能な限り自社社員でこなすという所に、少しでも経費削減をして安くお客様にサービスを提供するという心が見えるのですが、さてアイリーンはどう思っていることか。
・・・・・・まぁ、全力で楽しんでやっているでしょうね、彼女なら。

「あれ?だったら、てこさんやぴかりさんを呼んでみてはどうでしょうか?」

「それも考えたんだけど、てこちゃんは私と同じようにギリギリまで店を開いているし、ぴかりちゃんは地元の漁師さんたちの助っ人にもう取られちゃった?」

「アクア・アルタが来ると確かに漁師の皆さんは準備でてんやわんやですからね、納得です」

ぴかりさんは地元の漁師さんたちの漁具の片づけや海中の様子を確認したりと、この一週間ほど本業のダイビングのインストラクターと掛け持ちで頑張っているらしい。
てこさんもアリソンと同じでお店を開いて楽しみを感じる人なので、なんとアクア・アルタ中も小さなボートでケーキやお菓子を街で売り歩くのだそうだ。
そのために今日は一日焼き菓子や日持ちのするケーキをせっせと焼いているのだそうだ。
ちなみに姉さん先輩は連載の締切が近いらしく、アリソンは邪魔をしてはいけないからと連絡自体していないのだそうだ。
締切が近いなら、きっと弟さん先輩も姉さん先輩の下で原稿を待っているでしょう・・・・・・たぶんどつかれ、手伝わされながら。

「それで手伝ってくれる?」

ふぅむ、確かに身近で手伝えそうな人はわたししかいませんねぇ。
まぁ、わたしもアリソンの世話になっている身ですし、手伝わないわけないんですけど。

「もちろんですよ。ちゃちゃっとすませてしまいましょう」

アイリーンもキリキリ働いているでしょうし、わたしも今日はゴンドラ抜きで働くことにしましょうか。
丁度来ている服はジャージに水着、別に汚れてもいい装備です。
アイリーンからもらったリボンを丁寧に箱にしまって自室に戻し、最近伸びてきたと感じてきた髪を作業しやすいようにポニーでまとめて頭巾をかぶって。

「よしっ」

一声いれて気合を入れる。
アリソンもいつのまにやら、いつもの民族衣装のような恰好から動きやすく汚れてもいい作業着へと着替えていた。
さてと、これで戦闘準備は完了です。
そして・・・・・・わたしとアリソンは無数の敵と相対した。










第一話 『機械之戯妖グレムリン ~前編~ 』
片腕のウンディーネと水の星の守り人達 第二章 『ある一日の記録』












日は水平線に触れ、赤くオレンジのような光だけが大気圏の防衛網を突破してネオヴェネチアの街並みへそそいでいた。
彼らの戦いはもうすぐ終わりますが、わたし達のお店の片づけという戦いはいまだ終わらずです。

「ふぅ」

アリソンが淹れてくれた紅茶で一息つく。
レモンの風味でさっぱりとしたそれは、わたしの疲労を解して取ってくれるようだった。
それでも、疲れは消えては無くならないのです。

「はぁ・・・・・・」

ため息をつく。
朝作業を開始して、途中昼食と休憩をはさみ、汗水たらして数々の商品や展示用模型を3階の物置まで引っ張り上げて、ようやく床や壁が見え出してきましたというのに。
ここでまさかのラスボス登場イベントが発生して。
夕日に照らされて伸びる、それらの黒い影が疎ましい。

「・・・・・・これ、どうすればいいでしょうかね?」

わたしの目の前には、店内に展示されていた実寸大模型モックアップのゴンドラに本物のそれやオールの山々。
アリソンの作品やその父親のアルフォンソさんの作品らしいのですが、これらはどう頑張っても、女二人じゃ片づけようがない。
モックアップはともかくゴンドラやオールは水に浸かってもいいような気もしますが、アリソン曰くこれらは食品サンプルのようなもので、なるべく奇麗なままで陳列しておきたいとのことで、これらも上に揚げねばなりません。
アイリーンが居れば、多少は何とかなったかもしれませんが、彼女はオレンジぷらねっとの片づけに予想以上に時間がかかっているようで、結局今日は手伝いに行けないとすまなそうな声で連絡があったばかりですし。
それに加えてこの左腕です。
今日だって、何度か『発作』が起きまして物を落っことしそうになったり落としてしまったり。
念のため割れ物には手を付けないでいたおかげで、そうそう大事にはなりませんでしたが、左腕をかばうように使ってきていた右腕はもうパンパンです。
結果、わたしはこれらの品々を前にどうしようもなくたたずんでいるわけです。

「本当に、どうすればいいでしょうか。もう諦めていいじゃないですかね?」

「諦める?前を向いて進むって決めたのは誰だった?」

「この種の障害が待っているなんて、予想だにしませんでしたよ」

その後も疲労からか、普段は言わない不平を不満たらたらで述べるわたしに、アリソンはほほ笑むと、自信たっぷりに大丈夫だという。
何が大丈夫なのだろうかと訝しむと、彼女は携帯端末を取り出して、どこかにメールを打ち始めた。
そのメールを送信して1分と立たずに返信が返ってくたようだ。
アリソンは端末を開いてその返信を確認すると、口を開く。

「そろそろ、援軍が到着する?」

「は?援軍、ですか?」

「そう援軍?ちょっぴり臆病だけど健気な大きな小人ととっても頼りになるしっかり者の小さな巨人が?」

大きな小人と小さな巨人?
まるで矛盾しているではないか。
この一月アリソンと共同生活を過ごして分かったことが、彼女は意外にも結構詩的な表現を好むのだ、出来や内容はともかくとして。
もっともこのことを指摘すると、アッリちゃんもそうじゃないと口を尖らせて言ってくるのですが、はて?
ともかく、アリソンのそういった癖がまた出たのかなと思って納得した時だった。

「ん、もう夜・・・・・・って、アレ?」

急に夜が来た。
さっきまで店のドアから差し込んでいた夕日の光が消え去り、漆黒の闇が広がる―――店のドアから放射状に、他の窓から差し込む光はそのままで。
ということは、これは夜じゃなくて・・・・・・夜じゃなくて、なんだろうか?
答えは、アリソンがドアを開けたことで分かった。

「こんばんは、アリソン君ひさしぶり。君がアッリちゃんだね?オフラインでは初めまして。二人ともご苦労様です」

巨人がネオヴェネチアを踏みしめていた。
差し込む夕日の光をその広い体躯で遮るその巨人は、およそ2メートル・・・・・・いや、もっと大きいように見えた。
しかし、その巨大な体に反して、アリソンに挨拶した巨人の発した声はむしろ違和感を感じるほどにとても優しく労わるような物だったことにびっくりする。

「ほら、さっさと入んなさいってば。貴方は図体が大きいんだから、道を塞いでしまってるでしょ」

「ああ、ごめん」

とその巨体の後ろから、なにやら女性の声が。
その声に押されるように、その巨人はのそりとゆっくりドアを潜り抜ける。
改めて彼を見ると、やはりとてつもなく大きい。
身長が160弱のわたしと比べると、巨人というか胴回りの太さから大木ーって感じるのですよ。
ですが、大きなものに対する恐怖というものは全く湧いてこず、どこか大きなぬいぐるみのような・・・・・・柔らかい優しさを感じる。
若干たれ目気味のくりくりとした目は童話に出てくるような大男のそれではなくむしろ・・・・・・。
ああ、あれに近いか。
昔聞いた童話に出てきた優しい森のクマさんだ。

「いらっしゃい?アルヴァン君、アンバーちゃん?」

「チャオチャオ、おひさー!今回もよろしくねっ!」

そして陽気な声でアリソンに挨拶する女性がなぜか大きく見えるドアを潜り抜ける・・・・・・って、女性が小さいのか。
たぶん、わたしより20、いや30近く低いか。
彼女の釣り目気味の瞳は大男の影の中で明るく光り輝いていた。
その姿は猫科の肉食獣のようで、彼女の方が彼より怖く見えた。

「で、彼女が?」

「うん?あの『ライバルちゃん』だよ?」

「あいっかわらず聞き取りにくいというか分かり難いと言うかややこしい発音ね。今日も翻訳しっかり頼むわよ、アルヴァン?」

「翻訳って・・・・・・ひどい?」

「そうだよ、アリソン君に失礼だよ」

「まぁまぁ、天才は奇妙だというのも常だからいいじゃない。それよりも、彼女に私達の説明をしなくていいのかしら?アリソン?」

小柄な女性がわたしをニヤリと猫のように笑い見る。
なんというか、彼女になにやら狙われていませんか、わたし?

「ああっと、アッリちゃんごめん?えーと、こっちの大きい方がアルヴァン・コリンズ、で―――」

「小っさい方の、この私がアンバー・コリンズ。姓で分かると思うけど、こっちの朴念仁の妻よ」

「改めて初めまして。アルヴァン・コリンズと言います」

大男と猫女(失礼だとは思いましたが、この表現がぴったりに感じましたのです)はわたしに挨拶する。
大男―――アルヴァンさんはゆっくりとその体躯にふさわしい大きな頭の上にちょこんと乗っかる小さなハンチング帽を取って、紳士のように。
猫女―――アンバーさんは堂々と腰に手を当ててハキハキと自己紹介をした。
彼らがアリソンの言う援軍なんだろう。
しかし大きな小人と小さな巨人というのは・・・・・・と思って夕闇の中に並んで立つ二人を見やると、アリソンがそう言っていた理由が分かった。
アルヴァンさんはその大きな体に似合わず、どこか縮こまって見え、逆にアンバーさんは堂々とした立ち姿から実際よりも大きく見えた。

「で、この彼女が?」

アリソンがそう言って、わたしにあまり似合わないウインクをする。
えーと、ああそうか。
彼らが自己紹介したのなら、わたしも自己紹介をしなきゃですね。

「えと、わたしは―――」

「知ってるよ、アッリ・カールステッド。15歳。オレンジぷらねっと志望、されど事故により断念・・・・・・いや、延期かな?現在はオートフラップオールで練習中。自身の技量に納得したら再度入社試験を受ける―――違う?」

わたしはアンバーさんに自己紹介を中断させられたので少々むっとしましたが、その後に彼女が色々わたしのことを話すので呆気にとられる。
わたしのことをよく知っているのか?
でも彼らとは初対面だし、アリソンが教えたのか?
しかしアリソンは首を振って違うと言い、彼らに聞けばよく分かると言うのだが・・・・・・アルヴァンさんはニコニコと笑い、アンバーさんは面白そうに口をゆがめ言う。
―――分からないかな~、と。
アリソンはそんな二人に困ったように笑い、わたしに救いの手を差し伸べた。
あくまで彼らの楽しみを潰さない範囲で、のようでしたが。

「はい、ここでアッリちゃんに3つのヒント?」

1、アルヴァンさんとアンバーさん、そしてアリソンはわたしのことを『ライバルちゃん』と呼ぶことがあるらしい。
2、わたしと彼らはここではないどこか、このネオヴェネチア以外で、会ったことがあるが長く会話はしていない。
3、アルヴァンさんの被るハンチング帽はどこかで見たことがないか?

―――これら4つのヒントで分かるんじゃないかとアリソンは言った。
4つのヒントと言われても・・・・・・んん、そう言えばアリソンの研究室ではわたしのことを『ライバルちゃん』と呼んでいると、以前言っていましたっけね。
とすると、彼らはアリソンの同僚か。
では2つ目のヒントは?
何処かであった・・・・・・わたしはそれほどネオヴェネチア以外には出た経験が少ないので、幼いころ行った旅先でしょうか?
うむむ、難しい。
ならば、ここは3つ目のヒントを考えてみましょう。
アルヴァンさんのハンチング帽はハンチング帽としては極めて一般的な形状で、色はシックで落ち着きのある深みのあるベージュ、アクセントに白い複雑な模様が入っている。
これはどこかで見たことがあるような気がするのです、確かにここではない何処かで。
では、どこかと言われると首を傾げるしかないんですけど。

「困ってるようだし、僕から4つ目のヒントを言わせてもらうよ。いいかな、アンバー?」

「んー、まぁいいか。オーケーだよ」

「それじゃあ―――ここじゃあないってのは、必ずしも『現実』ってわけじゃない」

『現実』じゃない?
夢の中、という訳じゃないでしょうし・・・・・・リアルじゃない、ならヴァーチャル『仮想現実』かな?
だとすればわたしと接点のあるのは・・・・・・ゴンドラシミュだけですね。
そう言えば、ゴンドラシミュをプレイしていた時にあのハンチング帽を被ったアバターを見たような気がする。
名前は、えーと、なんだったか―――おお!

「もしかして『Re;サナダ』さんですか?」

「ああ、正解。僕達のアバター名は君の扱うオールの能力『ベクタード技術』の前身をたった一人で開発した有名な技術者の名前にあやかってつけたんだ」

「時々、私も息抜きにアルヴァンのアバターを借りてプレイしているのよ。アルヴァンの引っ込み思案な漕ぎ方より、速いでしょ?」

『Re;サナダ』、そのアバターは日によって操舵の特徴が変わっていた。
ある日はわずかな水流の流れを計算したような繊細なオール捌き、またある日は水流がなければ作ればいいじゃないといった感じのダイナミックさが特徴的な物だったり。
なるほど、あのような不思議な現象のからくりは、二人で一つのアバターを共有して使っていたからか。

「君のことはすまないけど、『ライバルちゃん』って呼んでいた時から色々調べさせてもらっていたんだ」

『Re;サナダ』はわたしが入る前からいたコミュニティの古参メンバーのひとりだった。
その時、研究室にいた彼らはオートフラップオールの実験場所を探していたアリソンに、何気なくこのゴンドラシミュでやってみないかと勧め、今に至ったそうである。

「以前から動きのいい子がいるなぁとは思っていたんだけど、『Alison』に喰らいついていく君の姿が格好よくってね」

「いやはや、毎回毎回あのデッドヒートには熱くさせられたねぇ~」

「あのアバター越しにも伝わってくる絶対勝ってやるっていう意思に」

「たとえ離されても次のチャンスを狙う冷静な判断力」

「「すっごい見ものだった、うん」」

二人がうんうんと感慨深げにわたしの話をするのですが、内容が―――うっひゃぁ、なんだかとても恥ずかしいのですよ。

「うーん、悶えている姿も可愛いねぇ、ほんと。写真で見た時よりもずっとね―――ふふっ」

ぞわわっと。
恥ずかしさの熱を一気に冷まし、むしろ鳥肌が立つほどに寒気を感じるのです。
なにやらアンバーさんから非常に視線を感じるのですよ!
原因はそれか!

「アンバーちゃん?アッリちゃんに手を出したら、アイリーンって子がたぶん般若のように怒るだろうし・・・・・・私も、怒るよ?」

「冗談だって、冗談」

アリソンがため息をつきながらアンバーさんを諭す、というか抑えにかかりだす。
アンバーさんは可愛い女の子を見るといつものこうなると、アルヴァンさんがわたし説明してくれたのですが・・・・・・先ほどの視線と言い、彼女はわたしの要注意人物に認定です。

「さて、と?援軍も来たことだし、お喋りは一回中断して、作業を再開する?このままだと、お仕事に間に合わない?」

外はもうすっかり暗くなり、夜の帷が街を覆う。
男たちは仕事を終えて、帰宅前の一杯を飲みに酒場へ集い、女たちはそんな男たちにため息をつきながら晩御飯の準備をしだす頃合いだ。
確かにこのままぐだーと駄弁っていては、一日が終わってしまうでしょう。

「よっしゃ!じゃあ、やるとしますか!アルヴァン、力仕事よろしくぅ!」

「ああ、了解だよ」

「アッリちゃんも、できる範囲でいいから手伝う?」

「もちろんです」

「よーし、それじゃあ始めるとしよー!」

アンバーさんの音頭で、わたしたちは再び片づけ戦争を開始した。




そして、わたしたちは―――

「はい、アルヴァンはこっち持つ!私とアリソンはこっち!アッリちゃんは、その紐を支えておく!」

「はっはい!」

順調にボスたちを―――

「さぁ歯ぁ食いしばって、踏ん張れ!アルヴァンはKeep Moving!!」

「了解ですっ!」

二階へ―――

「あぶないっ!」

「っ!・・・・・・ふぅ、助かりました。でも、太もも撫でないでください、アンバーさん」

「ごめんごめん、手が滑ってね」

アンバーさんの魔の手から貞操を守りつつ、どうにかこうにか送り届けることに成功したのです。




ふと時計を見やると、日付の境界線を跨いでいた。
深夜のネオヴェネチアは波の音だけが響き、微かに路地を照らす月の光に包まれた静かな街なのだ。

「援軍があったとはいえ、結構時間かかった?」

「うぅ、疲れたのです、モーレツに。ああ、今ベッドに倒れこんだら10秒と経たずに寝れる自信があるのですよ・・・・・・」

ヘロヘロになるまで今日は働いた、明日はアクア・アルタですから休めるからいいんですが。
ところが、アリソンはこれから更に仕事があるのだという。
ご苦労様です、わたしは寝させてもらうのですよ。
そう思った時だった。
あっ、とアリソンが間の抜けた声でつぶやく。

「・・・・・・しまった?ビーコンやGPSユニットまで奥の方にしまっちゃった?」

ピシッと時が止まったように、アリソンのその言葉に絶句するアルヴァンさんとアンバーさん。
わたしの見ている前でいつまでもフリーズしているかなと思った彼らですが、アンバーさんが復活(?)した。

「どうするのよ、私らアレが無いとこの街の水路全く分からないわよ・・・・・・?」

半ば呆然とアンバーさんが青い顔で口にする。
どうやら彼らの仕事とは、この街の水路で行うもののようですがなんでしょうね?

「一回片づけたやつを漁ってみようか?」

「いやそれだと間に合わない?」

アンバーさんに数瞬遅れアルヴァンさんも復活し、対応策を提案するが、アリソンはそれは不可能だという。
まぁ、そのビーコンとやらが片づけられている場所にもよるでしょうが、今日片づけた部屋の入り口付近には特に大きな物―――要はあの『ラスボス』達―――が置いてありますので、それを退けるだけでもかなり時間がかかるはずです。

「その作業ということを明日以降に回すことはできないんですか?」

なんとなく聞いてみる。
彼らの口調だと、どうも今晩中にやって終わなければならないようなのだ。

「うーん、行政府に対する言い訳が思いつけば不可能ってわけじゃないけれど・・・・・・ねぇ、アリソン。片づけた順番覚えてる?」

「ううん?だから?」

「うーん、ビーコンが無くても場所ぐらいはかろうじて覚えてはいるけど・・・・・・当てにならないしなぁ」

「だよねぇ。夜のネオヴェネチアの水路って、昼間以上に何処に自分たちがいるか分からないし」

深刻そうな顔でどうすればいいかを話し合う彼ら。
片づけてしまったアリソンが悪いと思うのですが、アルヴァンさんとアンバーさんの様子からして、アリソンが片づけてしまうのに気づかなかった自分自身もあるので責めきれないようだ。
アンバーさんなんて今日はずっと仕切っていましたからね、おかげで効率良く作業出来て大変助かりましたが。
その時は、なるほど確かにしっかり者の小さな巨人だと思いましたが、どうしてか変に抜けているようです。
一つの物事についつい集中して、他のことをきれいさっぱり忘れてしまうタイプなのかもしれません。
わたしがそろそろ寝ようかなと彼らの慌てぶりを他人事に感じながらそう考えていると、アルヴァンさんがこんなことを口にした。
曰く、

「せめて水路の地図さえあればなぁ・・・・・・」

ピクンとわたしの耳が反応して眠気が引く。
水路の地図、ですか。
ふむ。

「あの、そのお仕事って重要なんですか?」

「え?ああ、重要と言えば、この街にとって僕たちの仕事はとても重要だね。さっきアンバーも言ったように、今晩中に作業を終わらせたい仕事だよ」

アクア・アルタの直前は水路の水かさが大幅に増して、彼らの作業に都合がいいらしいのだ。
また、アクア・アルタの前後はネオヴェネチアの水路を行きかう船が少なくなるのもいいらしい。
別に他の日でも時間を掛ければいいそうなのだが、時間も係るし、なによりこの時間帯が彼らの仕事に許可された時間なのだそうだ。
なのだが、あろうことか仕事のポイントが分かる装備一式を片づける際に部屋の奥の方にしまってしまったらしく、それを取り出そうにも時間も係るしで、どうしようかということだ。
もし今回作業が遅れたら、遅延の理由を行政府に説明して他の時間を取り付けねばならないのだが、その理由が今回のようなことでは締りが悪いというか問題であるそうだ。
ネオヴェネチアの行政府は多くのことでは寛容で甘いですが、幾らなんでもなぁなぁ主義では無く、それはそれ、これはこれ、だそうです。
そして、更に重要なこととして・・・・・・これは明日のアクア・アルタに関係しているのだそうだ。
ふむふむ。

「地図さえあれば大丈夫なんですか?」

「あっても微妙だけどね、夜の水路って標識がよく分からないし・・・・・・まぁ、あればマシかな?」

「なるほど・・・・・・」

先ほどアルヴァンさん自身も地図さえあればと言っていましたが、本当に作業する場所は分かるんでしょうか。
もしそうなら、少しばかり手伝えるかもしれないのですよ。

「さっき言っていたように場所は覚えているんですよね?」

「場所というか・・・・・・場所の名前かな、それは覚えているよ」

場所の名前だけだと結局地図があっても迷うような・・・・・・ああ、だからGPSが必要だったのか。
でも場所の名前が分かるのなら。
うん、いけそうだ。
ところで、今のわたしはまともに漕げやしませんが、今のわたしと昔のわたしでは変わらない部分があります。

「あのひとついいですか?」

「ん?なにアッリちゃん?」

「地図ならありますけど・・・・・・たぶん、案内も可能な」

「えっと?どこに?」

わたしの変わらない所、それは自身の脳内に溜め込んできた大量の知識、ネオヴェネチアの水路を隅々まで漕ぎまわった成果であるプリマにだって引けを取らないと自負する水路の記憶。
アンバーさんのセクハラには辟易しますが、彼らの仕事はこのネオヴェネチアにとって重要そうですし、お父様もお母様も困ってる人がいたら助けなさいと言っていたし、なにより―――きっと彼らは喜ぶだろうから。
もちろん、自分の力量で出来る範囲内じゃないといけないですが、今回は案内するだけなのでたぶん出来る筈。
薄く微笑むわたしを見て、不思議そうに首をかしげるアリソン達。
わたしは彼らによく見えるように自身の頭を二度三度叩き、言う。

水先案内人ウンディーネの真似事にすぎないかもしれませんが・・・・・・自信はあります。貴方達を案内させてくれませんか?」





[18214] 第二章『ある一日の記録』 第一話『機械之戯妖~後編~』
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/03/24 02:45












「次の十字路を右に曲がってください。その後は右手に小さな庭へ続く鉄扉の所まで直進で着きます」

「おっけー!」

静音性に優れた船外機のお陰で、ひどく静かに航行する一艘のゴンドラ。
最新のスクリューは殆ど波を立てず、まるでただ水の上に浮かべているかのように、わたし達の乗るゴンドラは深夜のネオヴェネチアを進んでいた。
立ち並ぶ家々の屋根の隙間から時々AQUAの二つの月を望むことが出来る。
マンホームならルナ1・・・・・・真ん丸とお団子のように丸い一つの月が望めるのだろうか?
アルヴァンさんが指示してきた場所は、普段はあまりゴンドラの通らない静かな路地裏(水路裏?)だった。
月光と彼ら3人が持つ端末からの光だけがこの狭い路地を照らす。
薄らとあらゆる物を分け隔てなく照らす自然の月の光と彼らの顔とわずかな範囲だけを照らす人口の光、全く別の二つの光が織りなす不思議な空間。
いつもと違う顔を見せるわたしの知らないネオヴェネチアの姿がわたしの前に広がっていた。





第一話 『機械之戯妖グレムリン ~後編~ 』
片腕のウンディーネと水の星の守り人達 第二章 『ある一日の記録』







「よーし、停止用意ぃー・・・・・・エンジンストップ。アルヴァン、作業開始。アリソン、モニタリング頼むわ」

「わかった」

「了解?」

アルヴァンさんが指定したポイントへ案内すると、彼らは船を止め揺れないように錨の代わりに『ベクタード』装置(水流制御装置)を入れ、船を水上に固定し、アンバーさんの指揮の下作業を開始した。
ネオヴェネチアのゴンドラサイズ規定ギリギリのサイズのわたし達の船に搭載されたコンテナから、アルヴァンさんが水中作業用と思われる黄色いマシンを取り出す。
彼はそれに背負っていたケースから何重かにシールされたカプセルを搭載し、水中へ沈めた。
それをアンバーさんは確認すると、端末を操作してマシンを水路の奥底へ潜航させる。
いつもは見慣れたネオヴェネチアの水路ですが、その端末に表示される水路の様子はとても新鮮に感じられた。
水面で屈折した月光は、波が無いために殆ど拡散されることなくレーザーのように暗い水の中を切り裂いていた。

「作業項目チャーリー、確認・・・・・・完了?私とアルヴァン、アンバーの作業ID?」

「はいはい、カタタッと入力!んでっ、送信!」

「受信確認、第1ロックの解除を確認?第2ロックへ?認証キーのパス、今回はどんなのかな?」

「えっと、今回のパスは・・・・・・『ヘミングウェイにはアカザエビのリゾットを』。20世紀の文豪、アーネスト・ヘミングウェイがヴェネチアにいた時に好んだ、彼縁の料理、ね」

「彼はこれを『薬』だと呼んでいたらしい?」

「ふーん、薬ねぇ・・・・・・ま、私達がやろうとしていることもこの街にとっては確かに薬には違いないけどさ。まったく、相変わらず担当の人は洒落てるというか」

「そうだねぇ、よく毎回毎回考えるもんだとつくづく思うよ。『ヘミングウェイにはアカザエビノリゾットを』・・・・・・っと。おっけっ、送信完了」

彼らは幾つかの作業項目を軽口をたたきつつも手早くこなし、パスワードでしょうか短文を入力すると、端末に表示される水中に変化が起こる。
今まで煉瓦の壁にしか見えなかったところがパクンと観音開きして、どこか違和感を感じる壁面が現れると、その壁面からネジのように回転しながらシリンダーが上昇してくる。

「よし、認証された。作業項目エコーへ」

「ん?投入システムのエラーチェック・・・・・・完了、異常なし?」

「カプセルのシールを投入レベルまで開封、投入準備よろし」

「それじゃ先も長いことだし、サクッとやっちゃおっかな。作業項目フォックストロット、投入するよー」

アンバーさんがマシンへ命令を下す。
その命令を受け取ったマシンは自身の機内に取り込むようにシリンダーを固定する。
するとシリンダーの一部がスライドしぽっかりと暗い空洞が広がり、そこへマシンは器用にアームを駆使して持ってきたカプセルをカチリと収める。
マシンが離れると、シリンダーは再び螺旋状に回転しながら元の位置へ戻り、扉が閉まった。
流れるように無駄のない作業、マシンもシリンダーもどうやらプログラムされた動きをアンバーさんの命令で実行したようだ。

「都市管理デバイスへの投入を確認?作業項目ゴルフへ?」

「了解、作業項目ゴルフ開始。カプセルのシールを全て開封・・・・・・開封を確認したよ、こちらも異常なし」

「作業項目ホテル。ラストいくよ」

アンバーさんのその指示に、アルヴァンさんとアリソンはなにやら随分アナログに見える鍵を取り出すことで答える。
それらは月光と端末から漏れ出る光でキラリと光った。
頑丈そうなケースに収められた鍵穴へ鍵を差し込むのをアンバーさんは確認すると、自らも差し込み言った。

「3、2、1、回せっ」

回せの一言で3人は同時に鍵を回すと、端末に完了の文字が躍った。

「全システム異常なし、データリンク正常に稼働中。グレムリンは中央制御で都市維持系へ浸透を開始した、浸透速度も問題なし?」

「マシンも引き揚げたよ。自己エラーチェック走らせたけど、異常なし」

「ふぅ、とりあえずは一つ終わったわね。簡易レポートを上に送って」

「了解?」

アリソンが作業の過程に異常は無かったか確認し、アルヴァンさんが水中からマシンを引き揚げコンテナに戻す。
どうやら今までやっていた彼らの仕事が無事に一段落ついたようで、アンバーさんは胸をなで下ろしたようだ。
その作業過程を黙って見ていて、ふと思う。
ネオヴェネチアで見るような光景じゃないような、なんというか、そんな違和感をわたしは感じたのだ。

「よーし、じゃ次いこっか。アッリちゃん、また案内頼むわ」

「あっ、はい」

「次のポイントは―――」

アルヴァンさんの指示したポイントはまたしても似たようなゴンドラの交通量の少ない場所だった。
作業を見守っていたわたしですが、この場所とそして感じた違和感と併せて彼らの言う『仕事』が気になるのです。
たぶん案内しているのだから、これぐらいは聞いてもいいはずだ。

「あの」

「なんだい、アッリちゃん?」

「今までの作業って、なんなんですか?これがネオヴェネチアにとって大事なことだそうですが、どんなことをしているんでしょうか?」

わたしのその問いにアルヴァンさんはエンジンを再始動させながら答えようとしたが、彼が言うには結構長い話になるらしい。
それこそ、AQUA開拓時代―――つまり、火星入植時代だ―――にまで遡らないと、ちゃんとした解説には成らないのだそうだ。
だが、掻い摘んで言えば、彼らのやる仕事の成果は火炎之番人(サラマンダー)や地重管理人(ノーム)のように無くてはならないものらしい。

「そうだなぁ・・・・・・さしずめ私やアルヴァンは、機械之戯妖グレムリンと言ったとこかぁ?」

アルヴァンさんやアンバーさんの仕事は、有機的ナノマシンという顕微鏡でも見れるか見れないかという極小サイズの有機素材から作られた機械の制御及び管理等なのだそうだ。
このナノマシン群は建物の建材内で活動し、建材の破損部を修復したり、腐食部を除去しその部分を新造したりしているらしい。
アルヴァンさんの説明もアリソンと同じように専門用語だらけでさーっぱり分からなかったのですが、アンバーさんが苦笑しながらとても分かりやすい表現をした。

―――小さな小さな修理工たち―――

なるほど、それならなんとなく分かる。
つまりはこの街の修理をするナノマシンなのでしょう。
このナノマシン群は、建材を修復したり製造したりする能力は持つが自分たちにそれを実行することは不可能、つまりは自己複製、自己修復はできないのだそうだ。
その理由として、自己複製時のプログラム暴走による事故を防ぐためだとか色々あるそうなのだが、とにかく、自分で自分を治すことはできなく、普通の生き物と同様に寿命が存在しているこのナノマシンはある一定の期間が経過すると死滅し、減少していってしまうのだ。
そうすると、建物の維持管理に影響があるために、こうして一定期間に一度ナノマシンの『子供』、なにも情報が入力されていない真っ新のナノマシンを補充するのだそうだ。
補充されたナノマシンは先代までのデータを勉強(ロード)し、死滅した先代の作業を引き継ぐのである。
最近はナノマシン技術の向上により、一世代の寿命が長くなり昔のように頻繁に補充を繰り返さなくてもよくなったそうですが、それでもしっかりと補充をしなければならないそうだ。

「で、そのナノマシンがどうしてグレムリンって呼んでいるですか?というかグレムリンとは?」

「グレムリンってのは、20世紀ぐらいに伝承が生まれた機械のスペシャリストな妖精で―――」

大抵は機械を弄ったりする悪戯ばっかりらしいのだが、その機械の使用者が危険な状況に陥ったら逆に助けてくれるそうだ。
そこから、彼らのような極小の機械を操るこのナノマシンをグレムリンと呼ぶのだそうだ。
そのナノマシンを操り躾けるアルヴァンさんやアンバーさんのような人々もグレムリンと呼ぶのだそうだ。
もっとも、こんな洒落た呼称を付けられているのはAQUAで活動している人々だけで、マンホームでは、なにやらひどく長くて小難しい名称なのだそうだ。

「おっと、そこのT字路を左へ。そしたらすぐ右の脇道へ入ってください」

「おお、本当に覚えているんだ」

「アッリちゃんだから、当然?」

「なんでアリソンが答えてるのさ?」

「いやぁ~褒められて悪い気がする人はいないですよ。というわけでどんどん褒めてくださいな」

「おいおい、調子乗っていいのかい?」

「大丈夫です、自分のできることは弁えているつもりですから・・・・・・あ、次、少し分かり難いですが入ってすぐ右に細い路地があります、そっちへ」

「わかった」

深夜のネオヴェネチアの水路は真っ暗闇の迷宮で、光に誘われて道を間違えると朝まで抜けられない。
そうならないように、わたしは自分の頭に展開した地図にこれまで通ったルートを記しながら、彼らを誘導していく。
わたしは彼らを第2、第3ポイントと順調に誘導していき、今わたしたちは最後に一番大きくて遠いカナル・グランデの端にあるというポイントへ、事故を起こさないようにゆっくりと向かっていた。
陸地へ溢れ行く水の流れに飲まれないように少し大きめの水路を選択して、ネオヴェネチアのダンジョンを抜ける。
夜遅くまで営業する立ち飲み酒屋バーカロやリストランテ、それにホテルの灯りが水辺へ照らし出される大運河カナル・グランデへたどり着く。
水面にゆらゆら揺らめく人々の営みの光は深夜と言えど、いや街を闇が覆う深夜だからこそ、柔らかく温かみがあった。

「うーん、文明の光って素晴らしいね!」

「確かに?明るいのは、やっぱり心が落ち着く?」

「はは、気を抜かないで最後もしっかりやらないとね」

「うーん、眠たくなってきたのです・・・・・・」

カナル・グランデに出てしまえば、あとは水路通りに進んで行けばいいだけなので余裕が出てきて眠くなってくる。
ここまで案内して来た以上、彼らの作業を彼らを案内した人間として、なんとなく責任のような物を感じるので最後まで見届けたい。
だから、わたしは睡魔に負けぬように、あの手この手で踏ん張るのですが。
ゴシゴシと目を擦ったり、苦手ですけどコーヒーを飲んだりアリソンの端末を覗き込んだり・・・・・・。
眠気覚ましに、作業風景をぼんやりと眺めていて思った疑問について聞いてみることにした。

「質問なのですが、そのナノマシン群・・・・・・グレムリン達は、どんなふうにネオヴェネチアでは活躍しているんですか?」

マンホームでは大規模な建物になるとこのナノマシン群は用いられるようだが、ネオヴェネチアにはマンホームの摩天楼のように高いビルや町ひとつ包んでしまいそうなドームなどありません。
大聖堂や教会に使われているのかとも考えましたが、どれもかつてのヴェネチアからの移築或いは複製した建材で建築されたと覚えていたので、それは少し違和感が残る。
では、どこで活動しているのだろうかと思ったのだ。

「さっきの作業時に投入用のシリンダーを見たよね?あれは地下深く―――地重管理人ノームの住まう空間よりは上だけど―――の、このネオヴェネチアの街並みを支えている土台に繋がってるんだ」

「ということは、このネオヴェネチアの建物の建材自体には使用されていないんですか?」

「正確に言えばちょっと違うけど、つまりはそういうこと。だから、マンホーム時代のヴェネチアと一緒で、余り波を立ててはいけないんだ。建物が傷むから」

「ほほう。では、正確に言えば、とは?」

「それがアクア・アルタと深く関係しているんだ」

アクア・アルタが起きるとネオヴェネチア市内は通路と水路の区別がつかなくなるぐらい冠水してしまう。
21世紀のマンホームとAQUAの海の水質は全く違うが、それでも元々マンホームのヴェネチアから移築あるいは再現した建材では水に浸かると傷み劣化していくのは避けられない。
そのため、アクア・アルタが過ぎると建材の状態確認や修復のためにナノマシン群がネオヴェネチアの隅々まで行き渡るのだそうです。
今回のナノマシン群の追加はその作業に万全の態勢を整えるためもあるようだ。

「常時か一時か、コンピュータによる完全制御か僕たちのような存在による限定的手動制御かという違いはあるけれども、ネオヴェネチアを維持している基本システムはマンホームで使われているものと殆ど変わりがないんだ」

「・・・・・・ああ、なるほど」

「ん、どうしたんだい?」

「いえ、少し思ったことが・・・・・・あのシリンダーを見たとき、ちょっと違和感を感じたのですよ。それの理由が、なんとなくですけど分かったのです」

たぶん、あれは普段抱いていたネオヴェネチアの印象と離れていたから感じたのだ。
まるで機械のように仕事をこなす彼らに、この街では普段は見ることのない合理的で機械然としたシリンダーにネオヴェネチアには無い空気、マンホームの気配を感じ取ったのだろう。
それを、わたしは違和感と感じ取ったのだ。

「ふーん・・・・・・だから、かな?アッリちゃんは、私達の作業を少し気持ち悪げに見てたのって」

何か考えるように目をつぶりながら、わたしの感想を聞いていたアンバーさんが、若干険しい表情でそう言った。

「・・・・・・顔に出てました?」

「いや機械バカの二人にはさ、分からなかっただろうけど、私は分かっちゃったかなぁ」

「「機械バカはひどくない?」」

「実際そうでしょうが。で、違和感だけならともかく・・・・・・これでも私やアルヴァンは誇りを持って『グレムリン』をしているんだ、どうして嫌そうな顔をするのか聞きたいな」

決して広くはない船の上で器用に足を組み替え胡坐をかき、言葉を発するアンバーさん。
すごく低くドスの効いた声だけど、その真剣な顔つきはどうやら怒っているものとは違うようで少しホッとする。

「・・・・・・偏見じゃないか、そうは思っているんです。でも、」

わたしはマンホームは人間味を無くすような星のように感じていたのだ。
幼いころマンホームへ仕事で向かった両親がゲッソリとした顔で帰って来て、家に着いてまず言った一言『自分を見失いそうになる』が、ひどく印象に残っていたからだ。
そんなマンホームで使われているシステムがネオヴェネチアにもあるということで、なんだかいずれはネオヴェネチアもマンホームのようになってしまうのではないだろうかと無意識に不安になってしまっていたのだろう。
自分が自分でいられなくなる様なアイデンティティの喪失が、ごく自然に起きてしまう嫌な街にはなって欲しくないのだ。

「なるほどね、なるほど。私ら夫婦はマンホームに住んでいるんだけど、確かにあすこで暮らしていると、自分も歯車になってしまったように感じるから、否定はしない」

「そうかなぁ?」

「あんたは生まれも育ちもマンホームで、しかも機械に囲まれているだけで幸せの機械バカでしょうが!」

「ひどっ」

「まぁアッリちゃんが心配しちゃうのも分かるけどね・・・・・・便利なのも分かるけど、何もかも自動化されてしまうとね。自分が何のために生きているか分からなくなっちゃう奴も多いから」

苦笑しながら彼女はわたしの肩を叩く。
わたしより背が低いために、あまり威厳とかは無かったけれども。

「そういう心配だったら大丈夫。この街はうまい具合に機械と人と自然が共存している。それに、ここにアリソンが住んでいることが一番の証拠」

自然学、生物学、機械工学、情報工学、美術にデザイン・・・・・・ありとあらゆることに手を出して、この世のすべての物が共存して繁栄できる道を探求する探求者、それがアリソンなのだとアンバーさんは自慢げに誇り高く言った。
そういえば、わたしと彼女が出会った時も同じようなことを言ってましたっけ。
営みの中にさりげなく機械がいる、だったか。
たぶん、さりげなくということは違和感なくということだと思う。
そして、この違和感というやつがわたしの感じた不安なのだろう。

「ん、確かに私はそういった共存・共生の研究が目的でこの街に住んでいる?偶然にも、私の目指す理想形に近いものがこのネオヴェネチアだから?」

「機械は影に日向に人を助け、人は己のできることは己でやって・・・・・・だったかな、君の理想形は?」

「機械は人がいなければ働けない、人は機械が無ければ出来ることは限られる?支え、支えられる関係がこの街にはもう出来上がっている?そして、それが崩されることは無いと思う」

「?・・・・・・なぜですか?」

「だって、私が守るから?」

「だってさ。この道の専門家のお墨付きが出たんだから、大丈夫だって」

「頼りにして、いいんですよね?」

「もちろん?人という字は支えあっている二人の人間を表したものだって、私は思っているから?だから、どんどん頼って?私も頼ることがあるから?オッケー?」

「はいっ!」

「さて最後もしっかりやってしまおうか?」

喋っている間にいつのまにやら最後の作業場所へたどり着いていたようだ、アルヴァンさんがゴソゴソ例のマシンを取り出して準備する。
アリソンもスリープさせていた端末を起ち上げて、アンバーさんも同様に。
男たちの笑い声が聞こえてきていたバーカロやレストランの灯も消え、ホテルの灯りもぽつぽつとしか残っていない本当の意味での深夜。
アクア・アルタの始まりを告げる街に潮の満ちていく音だけが、この空間に満ちていた。





















「んぅ?」

ユサユサ体を揺すぶられる。
どうもわたしは眠ってしまっていたようだ、ちゃんと最後まで作業を見ようと思っていたのに不覚です。

「はい、目覚ましコーヒー?」

「あ、ありがとうございます」

湯気を立てるカップを受け取る。
黒くて苦いアツアツのコーヒーは、再び眠気に負けそうになる脳をシャンとしてくれる。

「作業は終わったんですか?」

「ああ、お陰でね」

夜空にはまだ星が瞬いているが、先ほどまでの暗さは無くなってきたような気がする。
朝が近づいてきたのだろうか?

「さてとアッリちゃん。僕らの仕事を手伝ってくれてありがとう」

「いえ、そんな。お礼を言われるようなことはしていませんよ。それに、わたし自身試してみたかったんです」

ウンディーネになる夢への道に戻れる可能性が出てきた今、わたしは溜めていた知識が朽ち果てずに、今のわたしも助けてくれるのかを確かめたかったのだ。
アルヴァンさんとアンバーさんはそれを聞くと、同時に言った。

「なら、もっとオートフラップオール、いや『リップル』に頼ってよ」

「え?今だって頼っていると思うんですが?」

倒れそうになった時を助けてもらったり、舟を進む力を貸してもらったりと自分では十分すぎるほどオートフラップオール、そしてリップルには頼っていると思うのですよ。

「送られてくるデータが僕らの予想と大きく違って芳しく無いのとか、オールの使用率も悪いのは、やっぱりアッリちゃんが道具だと考えて使っていたからかな?」

「そうです、ね。確かにそうだったかもしれません」

一月の練習を思い返せば、練習の時以外はリップルの電源は落としていましたし。

「たぶんアリソンはオートフラップオールや『リップル』はあくまで道具、支え杖みたいなものだって説明したと思うんだ」

「したけど?」

「はぁ、やっぱりね・・・・・・あんね、アリソン。私らがAIをアレに搭載した理由は自己学習だけのためじゃないんだよ」

「ええっと?そうだっけ?」

「ほら、アンバー。やっぱりアリソンは忘れていただろ?アリソン、僕が何のためにAIを女の子のグラフィックにしたと思っているんだい?」

AIを女の子のグラフィックに?
あれ、それって・・・・・・

「自分の趣味?」

アリソンがズバッと言った言葉に、アルヴァンさんはコケて(器用にも船の上で)、アンバーさんはやれやれと首を振る。
アルヴァンさんは小さくため息をつく。
ちょっと意外ですが、全くもって否定しない所を見ると、彼は所謂ヲタクというものらしいです。
アルヴァンさんは一度首を振ると、確かにそれもあったれどもと言い、続けて言った。

「自身の相棒、パートナーとして受け入れやすいように。自身の半身としても機能して欲しいとも、僕達はある意味思っている」

「どういうことですか?」

「アッリちゃん、『リップル』は自己学習能力があるけど、もう一つの機能があるんだよ」

「それは、疑似感情の進化。共に前へ進めるパートナーとしての機能よ。貴女の感情をデータ化して蓄積して・・・・・・いずれは貴女を支える優秀な相棒へと成長する」

今の感情データは冗談を言ったりすることは出来ても、アリソンの作った初期の人格データのままらしい。
それではAI『リップル』の性能は十全には働かず、そうするためにはAI『リップル』をわたしが連れ歩いていろんな感情に触れさせて学ばせて、成長させていく必要があるのだそうだ。
共に支えあい、共に成長していく次世代の機械。
彼ら二人の説明が進んで行くたびにアリソンの顔がだんだん普段は見られない険しい顔へなっていく。

「そりゃあアリソンの思想とは反するよ、機械は人に非ず、人は機械に非ず。でも、これは私達のチームで出した一つの答え」

人は機械にはなっては駄目だし、機械は人になっても駄目、なぜならそこには『営み』が無いから・・・・・・アリソンはそう考えていたから、機械は機械のまま、人は人のままでお互いに共存できる道を探っていた。
『アンドロイドは電気羊の夢を見ない』のだと彼女は言った。

「それは分かってるし理解している、疑似的なものはあくまで偽。所詮コンピュータだ、つきつめれば0と1で表せれる」

「だったら、なぜそんな機能を?私だってあの『子』のことは好きだけど、「そこだよ、アリソン君!」・・・・・・えっと?」

「僕達はこう考えたのさ、機械が人のようになるならば、『機械』って種族を作ってしまえばいいんじゃないのかなってね」

彼らは機械であることを自覚した人のように振る舞える機械と人との関係は、人間同士の関係に近づける・・・・・・そこには『営み』が生まれるのではないだろうかと考えたのだ。
それは『人と人』という関係では偽かもしれないが、『人と機械』という関係では偽ではない。
なぜならば、それは新しく生まれた関係だからだ。
いや、案外新しくないかもしれない。
機械が生まれて、いや道具が生まれてから人は、なぜか道具にも魂の入った別の種族と見ることが幾度となくあった・・・・・・『人と人』のように絆を感じることさえ。
その結果生まれた物の中には、グレムリンもいたのだ。
そこまで聞いてアリソンは少し考えるように目をつむる、口からこぼれ出る呪詛のような呟きは頭の中を整理しているのだろうか?
しばらくして、彼女は柔らかな微笑みを浮かべて言った。

「・・・・・・OK、理解したし納得もした?」

先ほどの険しい顔が嘘だったようにそう言う彼女。
結構怒っているようにも見えたのに、一体どういう事なのだろうかと首を傾げるとアルヴァンさんがわたしに小声で説明してくれた。
アルヴァンさんが言うには彼女の長所は、柔軟にこうやって自分の意見とは違うものを受け入れれることが出来ることなのだそうだ。

「でも、その機能を使うかどうかはアッリちゃんが決める?」

「へっ?わたしですか?」

「アッリちゃんが使うもののことだから?」

いきなりわたしに振られた話題、正直先ほどのアルヴァンさんらとアリソンの口論はどちらかと言えば議論であり、互いに理論を語っていたのでわたしにはサッパリでした。
わたしに使わせたい物の事だからか、ちょくちょくアンバーさんが解説を入れてくれたものの、やっぱりよく分かりませんでした。
ふむ、どうしましょうか?

「・・・・・・そうですね、面白そうですし。その機能使わせてもらいますよ」

「アッリちゃんはそれでいい?」

「いいかと言われても、良い悪いは分かりませんので。難しい話は任せるのですよ。ただ・・・・・・新しい種族の誕生に付き合える、そう考えると面白そうじゃないですか」

「なるほど?アッリちゃんがそう決めたなら、おっけー、アルヴァン君アンバーちゃん『リップル』をアップデートして?」

「・・・・・・もしかして、今すぐに?」

「当然?私だって、確かに興味があるし善は急げともいうし?」

実に楽しそうなアリソン、なんだかんだ言っても自分の理論とは違う理論の実験を楽しみにしているようです。
・・・・・・って、つまりわたしは実験動物ですかい。
そう考えるとちょっと嫌だなぁと思いますが、ニコニコ笑顔のアリソンとアルヴァンさんを見ていると・・・・・・うーむ、まるで新しい玩具を手に入れた子供のようで、いまさら拒否しづらいのです。

「まったくあの二人は・・・・・・根っからの研究者だねぇ」

「あれ?アンバーさんも研究者では?」

「ああそうだけども。元々はアルヴァンにAIの拡張を別視点から考えてくれないかって言われてアリソン達の研究グループに入った、全く別の畑の人間だからさ私は。ちょっち離れた視点で見れるんだわこれが」

「・・・・・・そうは言っても、目が楽しそうですよ?」

「あはは、やっぱり?理系と文系、畑は違えど気になるもんは気になるのよ。ま、あの『子供』らの手綱は握っとくから、『リップル』を任せるよ」

そう快活に笑うアンバーさんはわたしに顔を近づけそう言った。
『子供』ねぇ、全く同じことを彼女は考えたんですかね。

「ところで、わたしは何をすれば?」

「ああ、名前を付けて普段持ち歩いてくれるだけで十分だから」

「と言われましてもオールは重いですよ?」

現在『リップル』が入っているのは、あのオートフラップオールの柄にあたる部分です。
あのオートフラップオールを持ち歩けと言うのか?

「だから、これをね」

手渡されたのは群青のシンプルなピン、アイリーンに貰ったリボンの色によく似た色だった。
彼らはわざわざアイリーンのリボンと同時に着けてもあまり目立たないような色とデザインにしてくれたようだ。
投影機能と通話機能に簡単な記憶領域が内蔵されているそれは限界まで肉抜きして軽量化し、更に人体工学に基づいた形状なために長時間つけていても特に疲れや違和感は感じさせない作りなのだそうです。

「で、これがあれば持ち歩けると」

「持ち歩けるし、もちろん会話もできる」

ただ小声が一番いいらしいですが。
そりゃそうか、投影せずに『リップル』と会話を続けているとはた目には何やら怪しい人にしか見えないですからね。
さて、と。
名前、ですか・・・・・・。

「むぅ・・・・・・」

ずっとわたしは『リップル』をリップルと呼んでいたので、考えたことは無かった。
彼らが言うにはこれから現状の『リップル』をアップデートすることによって、それによって感情の進化を促す機能を追加して、わたしの相棒とするらしい。

「ずっと思っていたことがあるんです。リップルの瞳って、青いじゃないですか」

そう、可愛らしい少女にデザインされたそのAIの瞳は突き抜けるような群青、空の色だった。
たとえ人によってデザインされた人工的な物でも、わたしには引き付けられるものがあったのだ・・・・・・自然には発生しえない不思議な色だったからだろうか?

「うん、そうデザインしたけど・・・・・・特に意識した覚えはないけど、嫌だったかな?」

「いや、嫌とかじゃないんです。変更とかしないか確認したいのですけど」

「君の相棒になるんだ、デザインの変更の有無も君が決めることだ」

「だったら・・・・・・今これよりわたしのリップルは『シエロ・オキオ』と」

だからわたしは、リップルを『シエロ・オキオ』、『空の目』、『SkyEye』という名で呼ぶことにします。
自分でも安直だとは思いますが、直感で決めた方がいいと思うので。

「ふむ、いい名前?」

「なはは・・・・・・そうですかね?」

「それじゃあアップデートするとしようか、名前は『シエロ・オキオ』でっと」

「ん、ちょっと手際よすぎ?」

手早くアップデートを進めていくアルヴァンさんを見てアリソンがジト目で彼を睨み付ける、アリソンが言うには前もって機能は組み込んであったんじゃないか、とのことです。
どうやら『リップル』を彼らが生んだときにはもうこの機能は考えてあったようですね彼は。
それがアリソンには気に食わないようですね、まぁ自分が主導していた物に他の物が混ざってることは職人としてもやはり嫌なことなんでしょう。
と、アルヴァンさんの作業の手が止まる。

「おや?朝かな・・・・・・」

水平線の向こうから光が伸びてきて、次に太陽が顔を覗かせ朝日でわたし達を照らす。

「ってみんなひどい顔ですねぇ・・・・・・」

「そういうアッリちゃんも?」

照らされる顔にはひどく黒い隈が出来ていた。

「研究室にいた頃は2、3日の徹夜ぐらいどうってことなかってけどねぇ・・・・・・年かしらねぇ」

「お互いもう30越え、もう数年で40歳だからねぇ・・・・・・」

「ははは?」

「アリソンはいいよねぇ、飛び級してきて研究室だからまだ20代だしねぇ・・・・・・」

しみじみしみじみ呟く顔はなんだか見ていて悲しい気持ちになってきますね。
アリソンの顔の隈がアルヴァンさんとアンバーさんに比べて薄いのがより痛々しい。

「さぁてと・・・・・・送信。これで、次起動したときから君に預けた『リップル』はシエロちゃんだね。大事に育ててくれ」

「そっ、そう言われると、なんだか小恥ずかしいですね・・・・・・」

体が何だかムずかゆくて、ついつい頬を掻く。

「これで今日の仕事は全部終わりっ!」

アンバーさんが疲れたように首を捻りながら言い、アルヴァンさんも伸びをしながらそれに同調して頷く。
ふと気づけば街はすっかり水浸し、水路と道路の区別がおよそ付きません。
建物の建材の隙間隙間から浸透していく水の分子は、建材を劣化させ腐らせていってしまうでしょう。
ですが、あの先ほど投入されたばかりのナノマシン群によって、ゆっくりとだが劣化するスピードより若干早く修復していくのだそうだ。
科学の力ってすごいですね・・・・・・。

「ま、それも限界があるんだけどねー」

アンバーさんは言う。
やはり最後は人の能力にかかってくるのだと、あらゆることが機械で済ませれるマンホームでもそうなのだそうだ。
機械を整備する機械がいて、またそれを整備する機械がいて・・・・・・終わりはどこかと聞かれれば、それは人であると。
機械とは人とは・・・・・・なんだか深い気がしてきます、実際深いのでしょうけどわたしには分かりません。
そういったことはアリソン達のような学者先生に任せますよ。

「ところでですが、役目を終えたナノマシンってどうなるんですか?」

「ああ、そう言えば言ってなかったね。海の底を覗いてみれば分かるかな?」

アルヴァンさんが言うまま、増水したネオヴェネチアの海を覗き込む。
アクア・アルタでも相も変わらず綺麗なままのその海の底には普段は何もなく、いやそもそもたとえ浅いところでも意識して見た事なんて無かったわけですが。
そしてわたしは息をのむ。

「あっ!」

星空が広がっている。
空から消えていく星々を取り込むかのように海の底で増え続ける無数の光の点々。
あれが老朽化し役目を全うしたナノマシンのなれの果てなのだという。

「役目を終えたナノマシンは放出され、自然界に流れ出る。そしてこの有機ナノマシンの構成は宇宙食に使われる合成物や動物プランクトンと組成がほぼ一緒・・・・・・ここまで言えば、後は分かると思うよ」

「つまり、魚たちに食われてそれをわたし達が食べると」

このシステムはネオヴェネチアで主に用いられ、2世紀近い昔から改良を重ねられ運用されてきたそうです。
また、設置から今までに健康被害を出したことは無いから、体に関して心配することは無いとはアルヴァンさんの談です。

「不思議でしょ、街を支える機械が巡り巡って私達の体を作る物にもなる。まるで太古の昔から続けられてきた自然の営みのようにね」

「確かに・・・・・・不思議ですね」

体をなんとなしにペタペタと触る。
この体もある意味機械達でできているのだろうか?
・・・・・・そうか、だからアリソンはこの街を拠点にしているのか。
そして、それを守るためにもこの仕事を手伝っているのではないだろうか?

「うん?終わった打ち上げにてこちゃんのケーキ屋さんに突撃する?」

「おお、あのおいしいお店かっ!?」

「それは楽しみだね」

「てこさんのケーキですか、楽しみです」

ワイワイと眠気もどこへやら打ち上げを考えるわたし達の姿は静かな海面に長く長く伸びて、街の幾つかの影と混ざり合っていた。
およそ8時間、夜を徹して行われた作業はこうして終わったのでした。
彼らはその後、他の都市へも同様の作業があるからと打ち上げが終わるとすぐ、この日に運航する数少ない便に飛び乗っていきました。
なんだか慌ただしい別れでしたが、ヴァーチャルでならいつでも、リアルでもまたいつか会えますね。
さて次一緒に漕ぐことになる『Re;サナダ』は果たしてどっちかな?


そして長い夜が終わり、わたし専用のAI『シエロ・オキオ』もまたこうして誕生し、わたしと一緒に色々な困難に遭っていくわけですがこの時はまだ只のAIでした。




















:今日の日記 あくあ歴74年 ○月△日です。
今日はアクア・アルタの前日です。
アリソンと二人でたくさんの荷物を片づけ、明日に備えていました。
夕方ごろに、わたしはここのアバター達の一人『Re;サナダ』のユーザーと出会うことになりました。
彼らとアリソンの会話、さすが研究者と言ったところかわたしにはサッパリでしたけれども。
行動を共にした時に見せた彼らの楽しそうな横顔が、すべてを語ってくれそうでした。

:追伸
わたしのAIに名前が付きました。
『シエロ・オキオ』です。
お見知りおきをお願いしますね。



[18214] 第二章『ある一日の記録』 第二話『23世紀の海兵さん ~前編~』
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/03/28 02:39




機体の至近で炸裂する爆風に押されガタガタ揺れる機内、兵士たちは胸に抱きかかえるそれぞれの相棒を握りしめて振動に耐えていた。
男は機内の窓から外を眺める。
目標の地点付近から、まるで歓迎の花火のように打ち上げられる対空砲火。
これが本当に歓迎のパーティーで可愛らしい踊り子が踊っているのならばいいのだが、残念ながら待っているのはむさ苦しい兵隊なのだ、自分たちと同じような。
だが、と男は頭を振って口を開く。
自分たちは海兵隊だ、そして奴らは違う・・・・・・この差は部下たちに、そして男自身に言った。
パイロットが叫ぶようにして着陸地点に着くことを知らせるのと同時に激しく揺れる、至近弾か。
ドアガンナーが激しく外へ重火器を打ち鳴らし、ランディングゾーンLZを確保。
そして・・・・・・後部ドアが開く、出撃だ。

「Go!Go!Go!」

LZが確保されている今のうちに全員が外に出なければならない、排除した脅威が再び現れるのも時間の問題だからだ。
部下をたきつけて機外へ飛び出す。
一帯は敵の勢力下、逃げ出したい気持ちを抑えつつ目標への入り口を爆破、突入する。
降下地点は目標の建物の屋上、作戦内容は捕虜の救出だ。
大抵の戦いは下から攻めるより、上から攻める方が圧倒的に楽だ。
男の率いる部隊はスムーズに上の階から攻め落とす・・・・・・6階クリア、5階クリア、4階クリア。
3階目標の階だ。
パチパチと破壊された電燈が火花を散らす通路は、殺された人間の出す血液で赤く染まりつつあった。
男はHMDヘッドマウントディスプレイの端に映る作戦経過時間を見やる、予定より僅かにだが遅い。
予想以上に目標周辺の守りが手厚かったからだろうかと思考する・・・・・・間に合うのか、とも。
だが、目標はもう目の前、この壁の向こう側だ。

「突入まで、5、4、」

目標が立てこもる部屋の外、男は自身と同じような格好の部下と共に壁に爆薬を張り付け突入準備を整えていた。
手に持つ得物は室内戦闘に向いた短銃身のケースレス弾を採用した火薬式ライフル、23世紀でも有用なそれはいまだに歩兵の一番の相棒だ。
十分なストッピングパワーと取り回しの良さ、室内の制圧戦にはこれ以上ないほど最適だ。

「3、」

室内の怒鳴り声が大きくなる。
あまり時間の猶予はないようだ。

「2、」

この部屋の反対側にも男の部下が二人、突入準備を完了させ待機している・・・・・・両側から突入し制圧だ、しかも壁から。
ドアの方ばかり警戒している目標はひとたまりもないだろう。

「1、」

得物を握りしめる。
最高の環境を用意したのだ、あとは自分の技術を信頼するしかない。
そして、

「0、突入ブリーチ

爆発音。
壁が吹き飛び、進入口が開ける。
突入。

「×○△××○ッ!?」

意識が集中し、スローモーションを掛けたビデオのようにのろのろと動く己の体と目標の体。
室内は薄暗かったが、男の装備により昼間のように明るく見えた。
目標が何かをわめいているが男の耳には入らない・・・・・・椅子に縛り付けられた人質を2人、揃いの目だし帽を被った目標は6人と確認する、彼の持つ情報の通りのようだ。
殆どの目標が慌てふためいていたが一人反応がいい奴がいた、咄嗟にナイフを抜きこちらへ振りかざしてくる。
だが、彼が男の最初の犠牲になった、頭から血をふきだしその目標は倒されてしまう。
一人、二人、三人目と男が打ち抜いた目標の数を脳内で数えたところで、パパンッというどこか抜けた音共に他の目標が崩れ落ちていた。
どうやら彼の部下達が片づけたようだ。
捕虜は敵の暴行に遭って顔が大きく膨らんでいたが、命があっただけ十分すぎるほどだ。
捕虜を支え、追いすがる敵を撃退して再び屋上へ戻ってきた機に飛び込む。
映画とは違う、絶大な航空支援のお陰で機体は撃墜されることなく、大空へ舞い上がった・・・・・・そこで、男の視界が切り替わり殺風景な大きな部屋へと変わる。
ガランと広がる体育館ほどの空間が広がり、持っている銃は重さと取り回しを可能な限り再現された張りぼてのようなものである。
そう、今までの戦闘は全て仮想空間内の物だったのだ。
これは民間で出回っている仮想シミュレータよりも、高精度に再現する大規模なヴァーチャルトレーニングルームだ。

「お疲れ様です、少佐殿。100点中90点、十分好成績ですよ」

男は装甲服のHMDを外し、短く刈りそろえた髪の汗を拭う。
インナースーツの内側を流れる脂汗を気持ち悪く感じながら、苦々しげな表情で自信の訓練成績を眺める。
誤射は無し、あとは時間で減点と言ったところだった。

「お世辞はよせよ、先代はもっと上なんだろ?」

「あはは・・・・・・先代は別です、あれは人外言うんですよ?さ、上がってください。これ以上は精神汚染が危険域に突入しますよ」

「了解。ところで、先代はどれぐらいやったんだろうな、コイツ」

「あまりやりたくはない、とだけ」

「先代もやっぱり人間か、安心したよ。よし、野郎ども喜べ。今日は終わりらしいぞ」

ヴァーチャル空間での戦闘訓練、ある種の催眠状態を利用して再現したこの訓練はまるでリアルよりもリアルで本当に人を殺したかのような感覚、あるいは自分が死ぬような感覚まで持たせてしまう。
男も、そしてその部下や同僚に上司(結果はともかく)苦手としていた。
だが、彼らはそれを黙々と毎日幾度となくこなす(もちろん限度は決まっているが)。
それが仕事であり義務であり・・・・・・誇りでもあるからである。

「あ、そうそう。少佐殿、朗報ですよ」

そんな強靭な体と精神を持つ彼らも、時として休養が必要なことがある・・・・・・こんな訓練ばかりしていては、どちらも参ってしまうからだ。
統合軍所属アメリカ海兵隊武装偵察部隊フォース・リーコンの一員たる彼・・・・・・『マリンコ中尉』こと、アラン・マーレイ少佐も例外ではなかった。

「貴方の休暇届が受理されたんですよ、一週間ほどですが・・・・・・で、どんなズルを使ったんですか、少佐殿?」

ヴァーチャルトレーニングルームの管理者である中尉の女性は、自分たちは休みが無いのにとでも言いたげな目で睨めつけながら言う。
・・・・・・そう、アランとて休暇は必要だが、彼は少々休みを取りすぎなクチがある。
それも彼自身の広い伝手で、自由自在にだ。
予算不足人員不足と毎日戦っている彼女のような存在には、恨まれるのも当然だろう。

「なに、古い伝手を頼っただけさね」

「また、例の友人ていう奴ですか・・・・・・しかも軍の飛行機に便乗するようですね?金が無いわけじゃないでしょうに、ケチな真似をするんですね少佐?」

「たまたま目的地を燃料補給で立ち寄るから便乗させてもらうだけさっと」

彼女のジト目を手で避けながら、アランが予てから申請してあった休暇届が受理された事を素直に喜び、鼻歌を歌いながら手帳のカレンダーに取れた休暇の日付を書き込む。
そして、その休暇時に行く場所も。

「それで、今度はどこへ?」

これは純粋に興味本位か、とアランは考えたが彼女の眼の奥には強い光があった。
ああ、これはと彼は思った。
ケチった旅費は彼女への土産へと変貌するのだろうな、と。
苦笑しながら彼は行き先を彼女へ伝える。

「ネオ・ヴェネチアさ」

彼の目的は、訓練とは違った平和なヴァーチャル空間で出会った、ある一人の強い心の少女に会うためだった。












第二話 『23世紀の海兵さんマリンコ ~前編~ 』
片腕のウンディーネと水の星の守り人達 第二章 『ある一日の記録』














「走れっ!海岸線を突破して崖に取り付くんだっ!」

「Move!Move!Move!」

「何人陸に上がれたっ!?戦車は!?クソッタレ、第一波は失敗だぞ畜生!」

「衛生兵ッ!どこだッ!?」

無数に辺りに木霊する銃声、近くで遠くで鳴り響く鉄のドラム、右へ左へ行きかう銃火。
ここは戦場だ。
血飛沫をたて倒れる壮年の兵士。
呆然と失った腕を探して彷徨う負傷兵は数瞬のうちに周りに蹲る骸と化した。
若い兵士が大声で泣きわめきながら呼ぶ名前は母か恋人か妻か。
浜辺は無数の戦死者で埋まり切り、打ち寄せる波はどこまでも赤く染まっていた。
ついさっきまで上陸艇で『海岸で会おう』と笑いあった配属以来の戦友は既にあの中だ。
僕は友軍の死体を乗り越え踏みしめ、ビニールで包まれた僕の身を守りそして敵を同じ人間を殺すための銃を抱いて、必死で駆ける。
あの物言わぬ骸の一つに自分もならないように・・・・・・・・・・・・



「って、何見ているんですか?随分物騒な映画のようですけど」

「何って、20世紀ごろの大戦争を舞台にした戦争ものの映画?なかなかに興味深い内容で面白い?」

ネオヴェネチアはもうすぐ夏。
だんだん春秋用の衣服じゃ暑くなってきました、そろそろ衣替しないといけませんね。
そんなある日のことです、シエロを連れていつもの練習コース―――まだだいぶシエロに頼ってますが、なんとか水ポチャは無くなりました―――を巡ってきて昼ごろに帰ってくるとアリソンが何やらドンパチうるさい映画を見ていました。
なんとなく見れば若い青年が、黒々と曇った水の雨の代わりに銃火の雨が降る浜辺に上陸している所でした。
敵の銃火で倒れ死んでいく兵士たち、なんだか映画とはいえこうもバタバタ死んでいくと無常を感じます。

「少々意外でした、アリソンがそんな興味を持っていただなんて」

「ん?私も戦争は嫌い?」

「なら、なぜです?」

「銃器ってのも、ある意味完成されたデザインだからある程度興味がある?」

なるほど、確かに彼女の定義でいう所の理想のに近くはありますね、遠くの敵を撃つため人間が『狙う』という動作の必要な銃火器は。

「むぅ、それでも余りいい気分じゃないですよ・・・・・・特にわたしは」

「!!ごっ、ごめんなさい!すぐに消すっ!」

珍しくはっきりとしたイントネーションで言って、慌てて映画を消そうとするアリソンを手で止める。
確かに苦悶の顔をして兵士が倒れるシーンを見ると、わたしはあの瞬間を思い出しそうになってしまいそうになりますが、今わたしが渋い顔をしているのは・・・・・・やっぱり戦争のワンシーンだからでしょうか?
このおよそ百年、つまり一世紀ほどの間このような大規模戦は・・・・・・いや映画の舞台である世界中を巻き込んだ大戦はあの戦いからは起きてはいないから、どうしても特別異質に見えるのですよ。

「う~ん、でもアッリちゃん・・・・・・」

「いいえ、大丈夫ですよ?まだ見ていても」

アリソンに大丈夫だと言ってその映画を見続け、最後まで見届ける。
この物語には奇抜な展開は見受けられず、王道的な展開が続いていきましたが飽きが来させないような造りでよくできた良作だなという印象を抱きました。
映画を見ると何となくわたしはいつもエンドクレジットロールまで見届けますが、この映画もそのように最後まで見ることにした。
何でかいろいろ面白いんですよ、クレジットも。
時々変な名前も見つけられるし。
そして、ふと、そのエンドクレジットロールに気になる文字列を見つける。
撮影協力:アメリカ合衆国海兵隊、USMCと。
わたし達の住む23世紀現在の世界は緩やかに統合された連邦政府の下、かつての国家区分や民族、宗教区分で自治を行っています。
その中でかつてアメリカ合衆国と呼ばれた国はアメリカエリアとして存在しています(ちなみにイタリアはイタリアエリア、日本はジャパンエリアです)。
エリアは国に近いものの国ではない自治体です。
つまり国としては無いはずなのに、かつての国の軍隊の呼び名のまま表示されていたので気になったのです。

「アリソン、まだ各国の軍隊ってあるんですか?」

「んー、名称だけ?今は全部統合軍扱い?だけれど、まだ組織自体は存在している所も結構多い?」

「へぇ~、そうなんですか・・・・・・少し意外です」

「ん?」

「だって、もう100年は、大規模戦争なんて3世紀近く起きていないのに、そういった軍隊組織がまだ数多く残ってるのが不思議に感じるのですよ」

「・・・・・・確かに戦争は、もはや映画やゲームの中、画面の向こう側の出来事でしょって笑って済ませれるとても平和な時代だけれど・・・・・・そう、コーストガードのように警備や人命救助色々な役目だって存在する?」

それっきりで話題は終わりとばかりにパンっと手を叩いて彼女はそう言うと、映画を消して昼ご飯の支度をするためにキッチンへ向かった。
横目でそれを眺めながら、わたしはふと思う。
軍隊は戦うために存在するのだ、わたしが目指すウンディーネのように平和な時が最も評価される存在ではない。
では・・・・・・今のような時代に軍隊に所属する兵隊は、どんな気持ちで日々を過ごしているのだろうか、と。
そして、あの映画を見てから、一週間がたった今日。
わたしはアリソンの客人を迎えるために、マルコ・ポーロ国際宇宙港の正面出入り口に来ていた。

「普段見ない格好で来るから一目で分かるって、アリソンは言っていたけど・・・・・・ふぅむ、普段みない恰好の人と言われましてもねぇ」

さっきその客人が乗っているらしい便が空港に下りるのが見えましたので、そろそろ出てくるはずなんですが。
チラホラとその便でやって来たと思われる乗客が出てくる、彼らは各々のリアクションでネオ・ヴェネチアへの第一歩を踏み出していた。
空に浮かぶ浮島、水面を行き交うゴンドラに目を奪われ言葉を失う者。
歓声を上げながらカメラで手当たり次第取り出す者。
ネオ・ヴェネチアで何か商談でもあるのか、スーツを着た少し太ったその人は何処かへ連絡をしだす。
そんな彼らを出迎える風の乾き具合が、夏がもうすぐ訪れることをそれとなく伝えていた。

「なんだか一日ぼーっとしていたい日なのですよ・・・・・・」

≪・・・・・・アッリの気持ちも大変良く分かるのだが、寝るなよ?見過ごしてしまってはダメなんだからな≫

「分かってますですよ、シエロ。変な格好ならすぐに気づくでしょう?」

空を見上げながら、聞こえてきた声に小さな声で返事をする。
『シエロ・オキオ』、その声はわたしのサポートをしてくれるAIのものである。
人工知能の作った声なのだがここ一月ばかりわたしと一緒に過ごしただけで、嫌味や叱咤などの声色も作れるようになってきていて、普段の声も妙に淑やかになって来ていて耳の心地がいい。

「普段見ない格好ってどんな格好なんでしょうねぇ・・・・・・変な格好ということなんでしょうか?」

≪私に聞かれてもな。どれ一つマルコ・ポーロ宇宙港の監視網にハックして中を覗いてみようか?≫

「それ、犯罪なのですよ」

≪冗談だ、本気にしないでくれよ?人間の君が≫

「当たり前です、わたしだって冗談ですよ」

・・・・・・なんだか、冗談を言ったりすることもやたら多くなってきた気がするのですけどね。
まだシエロが『リップル』だった、最初に出会った時も相性がいいような気がしていたのですが、それはボケとツッコミ的な相性の良さだったのだろうかと疑いたくなる。
ちなみにボケはシエロでわたしはツッコミです、AIの方がボケるとはこれ如何に?

「それにしても遅いですねぇ・・・・・・そろそろ30分経過しますよ?」

≪そうだな。入星手続きに時間でも奪われているのでは?≫

「本当に審査官の目に留まるような変な格好で今頃別室呼び出しとか、されてないですかね。だったら話のネタになりそうで面白そうなんですが」

≪アッリ、君はひどいことを言うんだな。精々、どんな用で来たのかを聞かれるぐらいだろう・・・・・・観光ですかと聞かれたのに、戦争をしに来たと言ってなければ≫

「?」

シエロがよく分からないことを言う、なんで観光しに来たかと聞かれて戦争するために来たと答えるのでしょうか。
テロリストだとしたら、とんだおバカなテロリストですね。
けれども、別室呼び出しは何だか本当な気がしてきたのです。
ボケッと待っているの吝かでは無いんですが、アリソンが歓迎の料理を作ったらしいので早めに連れて帰りたいのですよ。
再び空を何とはなしに見上げる、降り注ぐ陽光がまぶしいけれどまだ照りつけるような暑さは無いのが救いか。
だが、その太陽が何かによって急に遮られる。
雲ではない・・・・・・小型の宇宙船だ。
逆光で暗く見えるそれは、太陽系航宙社SSSAの持つ舟より丸みが少なく、主に直線で構成された細長い武骨な形状だった。
シエロが『ASC-130V』大気圏・宙間両用輸送機の改修機で要人輸送用の機体なのだと説明してくれた。
つまりは軍、あれはマンホームに拠点を置く統合軍の物だという。
軍用にしては明るい色遣いのそれは、要人輸送機と言われれば納得できる。

≪そう言えば、今日は統合軍の機がここへ立ち寄ると朝のネオ・ヴェネチアンネットニュースに事前通告があったな≫

「そうでしたっけ?」

≪なに、記事は端っこにちょっとだけだった。知らないのも道理だろう≫

シエロになんでここへ来たのか聞いてみると、要人機の燃料補給のためらしい。
この機はマンホームから帰ってきて原隊に戻る途中だそうです。
空港の業務に支障をきたさないためか、それとも要人機それ自体の護衛の問題の為かはわからないが、輸送機はすぐにネオ・ヴェネチアの空へ再び舞い上がっていった。
すぐに加速をして空の彼方へ消えて行ってしまう、旅客機の持つ優美さとはまた違った機能美を持った輸送機だったと今にして思う。
写真でも撮っておくべきだったでしょうか、珍しそうだし。
気持ちのいい風が吹いていて、なんとなくこのまま待ち続けていても損は無いんじゃないかと思い出す。
あふぅと欠伸をする。
このままだと寝てしまうかもしれませんねぇ・・・・・・。
だが、私が寝てしまう程待つ必要は無かった。

≪おや、あれは?≫

「ん、どうしたのですかシエロ?」

≪アレがそうじゃないのか?≫

「んー・・・・・・うわっ!?」

マルコ・ポーロ国際宇宙港の出入り口から一人の壮年の黒人男性が現れたのだ。
ただ、彼は異質だった。
まず青いのだ。
まるで深海の色をそのまま移し染めたような青い上下の制服を着ていた。
そして厳つい肩に、純白の制帽と思われる帽子に武骨なアタッシュケース、極めつけはその黒い肌にきらりと光るサングラス・・・・・・そう、一週間前にアリソンと見た映画に出てきた海兵隊の制服姿にそっくりの男性だった。
普通では見られない格好をしたこの男性が間違いなく客人だと、わたしは絶対の自信を持って言える。
誰かを探すようにサングラスを光らせ首を振るその男に声をかけるのは勇気がいることでしたが、わたしは手を振って彼の名前を呼ぶ。

「マーレイさーん、アラン・マーレイさん!こっちなのですよー!」

入り口から結構離れた運河の桟橋に止めた舟から叫んだので、聞こえているか少々不安だったのですが、どうやら無事に聞こえたようでこちらへ歩いてくる。
その姿は堂々とし背筋が伸びた綺麗な物で、惚れ惚れするような見事な歩きを見せる。
だんだん暑くなってきた季節で、しかも冷房の効いた宇宙港から出てきたから温度差もあって普通なら汗をかくぐらいはするだろうに、彼は全く汗をかかず涼しげな顔で桟橋から舟へ飛び乗った。

「ようこそネオ・ヴェネチアへ、です。マーレイさん」

舟に飛び乗った時に、船が結構揺れたのに彼は殆ど体をぶれさせることなく座り込んだのですが、彼は超人だったりするのでしょうか?
わたしは舟に捕まっていないといけなかったのに。
それにしても制服姿を遠くから見ていた影響か、先ほどは凄く凛々しく見えたのですが、すぐそばまで近くなってよく見てみると、まるで少年のように若々しい。
彼はアタッシュケースを放り出して、気の抜けたように笑ってくつろぎだす。

「お迎えありがとさんだ。すまんな、少し遅れちまって」

「いえ、気持ちのいい日なので待つのは別に良かったですよ?今日は風が心地よかったので、ひょっとしたらそのまま寝てしまったかもしれないですけどね」

「俺はせっかちでなぁ、40年と少し生きてきたが待つことでそう思ったことは一度として無い!」

「・・・・・・あの。女性の方にそれで嫌われたことは?」

「数え切れん・・・・・・」

わたしの指摘に明るい太陽のように笑う顔が、急に曇ってしょぼんとした顔つきになる。
まさに急転直下、表情があまりに一気に変わりすぎて、なんだか漫画のように見えて少しおかしかった。
きっと感情表現の豊かな方なのだろうと思う、だから若く少年のようにも見えたのではないだろうか?

≪失礼、アラン・マーレイさん。貴方の制服はもしかしなくてもブルードレスでは?≫

「うわっ、いきなり投影機能を勝手に使わないでくださいシエロ!ビックリするじゃないですか!?」

「おお、これがあの噂の・・・・・・ふむふむ」

急にシエロが自身の外部投影機能を作動させてわたしの前に現れる。
投影装置を積む髪飾りが頭の右側にあるので、投影可能な位置がどうしても限られるために若干急に私の目の前に現れる感じになるのだ。
いきなりシエロ側から作動させられると、いきなり飛び出すので驚いてしまうんですよ。
マーレイさんは興味深そうに顎を撫でながら、シエロを眺める。

「本当にまるで人間みたいな反応をするんだな、感心というかなんというか・・・・・・」

≪伊達に疑似的な感情を持っているわけではないさ。で、話を戻すがブルードレスと呼ばれる制服を使っているのは・・・・・・≫

「ふむ・・・・・・だが、俺の制服の正体をばらすのは後でな」

≪!むぐぅ・・・・・・≫

ホログラムのシエロの口を塞ぐように手を置くマーレイさん。
シエロも空気を呼んだのか、何もしゃべらなくなる・・・・・・空気を読むなんて流石ですね、わたしはシエロの言おうとしたことの続きが気になるんですけど。
マーレイさんはシエロの反応に気をよくしたのか、大口を開けて笑う。

「むぅ、シエロも続きを言ってくれればいいのに。ま、いいです。余り人の服には興味はありませんしね」

ガクッとズッコケてマーレイさんは苦笑いする、結構気合入れて着込んだ服なのにそれは無いよとか言いながら。
待つ事を億劫に感じる男に、気合の入った服について評価すると言ったような気遣いなど不要なのですよ。

「ところで、どうして遅れたんですか?あと、一応聞いておきますけど、ブルードレスってなんです?コスプレ?」

入星手続きが遅れたのか、はたまた彼の服装に問題があってそれで遅れたのか少し気になったのだ。

「コスプレは無いだろ、おい・・・・・・さっき軍の輸送機が降りてきたの見えなかったか?」

先ほどのあの要人輸送機の事でしょうか?

「はい、見えましたけど。それが何か?」

「あれがたまたまこの付近を通るってんで、便乗させてもらったんだが・・・・・・入星手続なんぞ久しぶりだったうえに、こんな風に来たのも初めてだったから手間取っちまったんだ。それでな」

「あれに乗っていたんですか!?」

「アリソンから聞いてなかったのか?ま、その方が面白言っちゃ面白いだろうな。オーバー?」

不思議そうに言うマーレイさんでしたが、途中からニヤリと少年のように笑う。
ころころ変わるその表情は見ていて飽きなさそうです。
でも、その表情になにやらデジャヴを感じる・・・・・・そうアルヴァンさんとアンバーさんに出会った時にしていた表情のような。
そして、語尾にオーバーを付けるこの口調は。

「面と向かい合っては初めてだよな?『マリンコ中尉』こと、アメリカ合衆国海兵隊武装偵察部隊フォース・リーコン所属のアラン・マーレイ少佐だ、よろしくな!」

「本当に兵隊さん!?」

「おうよ!というわけで、これから3、4日よろしく頼むわ!」

彼の顔を照らす太陽のように朗らかに笑う、もう中年なのにまるで少年のような彼。
そう、彼もまた、あの仮想空間で共に過ごした一員だったのだ。
そして彼が、アラン・マーレイが、わたしが初めて出会った23世紀に生きる日陰、非日常の存在・・・・・・兵隊さんとなったのだ。


















「で、アンタかい?『Alison』ってのはよ?」

「うん、そうだけど?」

バチバチ火花を視線の間で散らす両者、まるで竜虎相対すとでも言った雰囲気を彼らは醸し出していた。
二人の間になにかあったというのでしょうか?
痴情の縺れ・・・・・・は、あり得ない。
アリソンには自身の学生時代からつかず離れずな恋人がいて、彼女が浮気などするはずもないのだ・・・・・・丸一日かけてウンザリするほど惚気話を聞かされましたから、まず間違いない。
では、一体全体何事だろうか?

「海兵隊は体が資本、ウンディーネだって変らんはずだ。機械の力に頼るなどもっての外だろうが」

「ん?海兵さんだって、機械には頼るでしょ?それと同じ?」

「確かにそうだが、最後に頼るのは己の体であり精神だ。するならば、技量の回復に機械を使わせるより、まずは肉体を苛めあげ、鋼の心を鍛えさせるべきだと思うがな」

「あら?海兵さんはアッリちゃんを兵隊にでもするつもり?」

「そうは言っていない。ただな、このままあのナントカ言うオールを使わせたところで入社試験に合格できるのかってことだ」

「私のオールがゴンドラ教会に認められないと考えているから?それとも、あのオールを使って私が貴方に勝ったのが悔しいから言っている?」

「前者はともかく、後者は違う!」

「まぁまぁまぁ、二人とも落ち着いてくださいよ・・・・・・特にマーレイさん。兵隊さんが怒ったら誰も手付けられませんよ?」

二人の距離がだんだんと近づいて、マーレイさんの腕の射程範囲にアリソンが踏み込んでいきそうだったので、間に割って入る。
でもアリソンはともかく、ガタイのいいマーレイさんを押しのけようと手で押そうと思っても、全く動じません。
まるで分厚い柱を押している感じのようだった。
流石は海兵隊員ですね、映画や小説に聞く立派な軍人通りの体つきです。
って、感心してないで、まずは全力で剣呑な雰囲気を発しているマーレイさんをアリソンから離さないと。
いや逆の方がいいですね。
アリソンをマーレイさんから引き離す。
マーレイさんに背中を見せながらアリソンを押すのはなんだかすごく怖くて勇気のいることでしたが、何とかできてホッとする。
頑張ったのです、わたし!

「全く、アリソンもマーレイさんも何が原因でヒートアップしているんですか?」

「うーむ、なんというか・・・・・・今の君の指導方法に関してだ」

「はぁ?」

「海兵さんはアッリちゃんがこのままオートフラップオールだけを使って練習するのに懸念があるそう?」

オートフラップオールは優秀ではあるが、ゴンドラ協会には認められていないオールなのだ。
ウンディーネ業務に使うと違法となり、良くて除名、悪ければ警察の御用である。
よって、わたしは通常のオールでもってオレンジぷらねっとの入社試験を受けねばならない。
それなのに、わたしが今そのオールで漕げるようになったとして、入社試験に合格できるのかとマーレイさんは心配していて、たとえ時間がかかっても、通常のオールで何度も練習をするとともに、左腕の問題をカバーできる程度まで基礎体力及び運動能力の強化に時間を当てるべきじゃないのかと彼は言うのだ。
逆にアリソンはオートフラップオールで練習して、まずはわたしの漕ぎ方の感を取り戻すと同時に自信を付けさせてからの方が効率はいいのではと考えているのだ。
どちらの意見も重要で参考になる意見ですので、どちらに着くこともできませんね。

「わたしの練習法は、わたしが決めますとだけ言わせてもらいますよ?それにシエロと一緒に練習していくって決めた以上は、オートフラップオールは手放せないですし」

「ふふ、勝った?」

「ぐぬぬ・・・・・・」

「いや、勝った負けたじゃなくてですよ?マーレイさんの言うことも一理ありますし、もし海兵隊仕込みの訓練法があるならぜひ聞きたいですね」

「ほら見ろ」

「くぅ・・・・・・」

「いや、ですから」

まるで子供のように、わたしの言葉に一喜一憂するマーレイさんとアリソン。
遠慮なく舌戦を繰り広げるさまは古い付き合いでなじみのある友人のようですが、アリソンによれば、アリソンとマーレイさんはわたしと彼のように現実では初対面なのだそうだ。
初対面の男の人を家に上げ、あろうことかそのまま泊めさせるというのはどういう了見なのだろうかと思うのですが、マーレイさんも軍人として、何より男として不埒な真似はしないと宣言している。
その点を信じるとして、どちらにせよこれから3、4日ほどは同じ屋根の下同じ釜の飯を食う仲になるわけなのですが・・・・・・。

「だから、俺は思うわけだ・・・・・・」

「いや、それは違う?なにより・・・・・・」

「二人ともお願いですからわたしの話を・・・・・・」

・・・・・・はぁ。
なんだか、色々と騒々しい週になりそうですね。



[18214] 第二章『ある一日の記録』 第二話『23世紀の海兵さん ~後編~』
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/04/22 02:42


太陽が沈み、街々に人々の夜を支える明かりが灯り始める。
そんな中、街灯がポツリポツリとあるだけの狭い路地のあるお店―――アリソンの雑貨屋兼スクロッコの『Atelier・Alison』―――の前で、わたしは精も根も使い切ってレンガ造りの路地に突っ伏していた。
冷たいレンガが火照った肌に心地いい。
もう一歩たりとも動けないのです。

≪あー、マスター?動けるかー?≫

「・・・・・・」

≪返事が無いな、只の屍か?≫

「ま、まだ死んじゃいないのですよぉ」

なんとかシエロに答えるが、正直かなりしんどいのです。
どうしてわたしがここまで疲労困憊しているのかというと・・・・・・。

「なんで街を案内するだけで、疲れ果てなきゃいけないのですか!?」

そうマーレイさんのせいである。
彼がこのネオヴェネチアを訪れた理由とは、彼は妻と今度の正規の長期休暇の際にネオヴェネチアへ訪れたいそうなんですが、その時に『嫁さんにネオヴェネチアのいい場所見せたい』と下調べのためなんだそうだ。
下調べだから、可能な限りケチりたくて軍の輸送機に便乗したとのことで、また、アリソンの家に泊めてもらう様に頼んだのもそのためだそうです。
そして、今日。
わたしは朝練を抜いて、朝から彼にこのネオヴェネチアを案内して回っていたのですが、初めて訪れたこの街に彼はまるで幼い子供のようにありとあらゆることに大はしゃぎ。
しかし嗜好は子供ではなく大人ですので、引き寄せられるのは真昼間から開いている酒場へ突入しようとしたり、おっぱい橋ポンテ・デッレ・テッテの逸話を聞いて寒いおやじギャグ、しかも下ネタを披露してのけたり。
しかも、案内するときにニコニコ顔のアリソンが連いてきて悪乗りもかますものだから、わたしは右へ左へ振り回されてばかりだったのです。

「昨日はあれだけ意見の相違で喧嘩していたのに、どういう分けなんですか!?」

≪それはアレだ。アリソンだからだ≫

「そーいえば、そーですよねぇ・・・・・・」

まず心の強さありきと考えるアリソンとまず体の強さありきと考えるマーレイさん、お互いに全く意見が違うのと昨日初対面の影響が大きいとシエロは昨日の喧嘩の原因を分析する。
確かにアルヴァンさんたちとアリソンとの関係は大学時代からですが、マーレイさんとはヴァーチャルネット内で会話したことはあっても、面と向かい合ったのは昨日が初めてです。
たしかにこの差は大きそうだが、アリソンの特徴は相手の意見を受け入れ否定せずに考えてみること。
きっと彼女はマーレイさんとよく意見を交換して意気投合したんでしょう。
でなきゃ、新しい訓練プランを完全に結託したように肩を組みながらわたしに差し出したりはしないのですよ。

≪あのプランは、ものの見事にアリソンの訓練構想とマーレイの海兵隊仕込みの訓練が合わさったハイブリッドだったな≫

「あ、あんなん実行できるわけないのですよ!大体、装備品50キロで長距離行軍って正気の沙汰じゃないのですよ!?」

≪いや実際の訓練でも似たことはしているようだぞ、ホレ≫

どこで入手したのか、茶色い軍服と大きい帽子を被ったグラフィックになったシエロはわたしにあるホログラム映像を見させる。
その格好は後日、アルヴァンさんが用意してくれたものなのだと聞かされたが、彼はなんと他のコミュニティメンバーに対応した衣装もデザイン済みだったというのだから驚きだ・・・・・・閑話休題。
とにかく、その映像はわたしには衝撃、衝撃の連続で途中でギブアップしました。

「あの、これって20世紀の大戦時代ですよね?」

≪いや?2290年度の映像だな!≫

地獄のような海兵隊の訓練風景、見るに堪えなかったのです。
しかも大きな戦いのあった20世紀ではなく23世紀の今の映像だという、さらに言えば20世紀のころからこの訓練はほとんど変わっていないのだと。
肉体と精神を極限まで鍛え上げるそれは、マーレイさんの言うとおり確かに効果はありそうであった。
なにしろ、ご丁寧にビフォーアフターである青年が映されましたが、ひ弱な青年が屈強な男たちに混ざっても違和感なくなっていたのです。
ううう、こんな訓練とコラボされた日にはウンディーネになる前に死んでしまいますよ・・・・・・。

「し、シエロ!わたしの支援AIなら士気を下げるようなことをしないでくださいよ!」

≪はっはっは、悪い悪い?それにこれは少々の誇張表現込みでな、少し脅かしてみた≫

主人を脅かす支援AIって、なんなんですか!?

「スクラップにしますよ!?」

≪むぅ、それは困るなぁ?≫

「懲りたらこれっきりにしてくださいなのですよ?ああ、もう何だか昨日と今日だけで変に感情を進化させてませんか!?」

アルヴァンさんの説明では多くの人の感情に触れさせることが一番の教育だとも言っていたが・・・・・・。
一人で何人分もの感情を見せるマーレイさんと接触させたことは色々と危険だったかもしれないと思う。

「わたしはシエロがマーレイさんのように妙に感情豊かにもアリソンのように不思議イントネーションにもなって欲しくないのですよ」

≪おや、マスターはわたしの母か姉かね?≫

「違いますけど、わたしが貴方の感情教育のために連れて歩かねばならないので、何か責任を感じるのですよ」

教育係のようなものでしょうか?
だが、このシエロという名の出来の悪い教え子は口答えをするのですよ。

≪AIの進化というのは様々な種類の感情に触れることによって為されるんだぞ?あれらもいいデータだ≫

「マーレイさんはともかく、生みの親もデータ扱いですか」

≪ははは、当然だろう?多くの人の感情に触れパターンを蓄積することが、一番の人工知能の感情の発展には貢献するのだぞ?≫

「もう、シエロの感情機能は完成されているような気がしてならないのですよ・・・・・・」

カラカラと笑うホログラムのシエロをため息をつきながら胡乱げに眺める。

「お~い、いつまで外でのびてんだ?風邪ひくからはよ家はいらないか―?」

陽気なマーレイさんの声が店内から聞こえる。
一緒にはしゃいだからか、アリソンは特に疲れは感じていなかったらしく台所で晩御飯の支度を始めているようだ、コンソメのいい香りが鼻孔を抜ける。
でもわたしは彼ら二人のその声にため息をつきながら返事をして、疲れ切った体を壁に手をついて支えて起ち上げさせる。
ちなみに今日回ったのは街のほんの一部ですので、明日も回るそうです。
マーレイさんの滞在日時はあと4日。
わたしの胃や体力、そしてそれらを丸ごと含めた忍耐力は持つのでしょうか、と半ば諦めながら考える。
ああ、今日も空に輝く星々がまぶしいのです・・・・・・。
あんなんで本当に軍人として部下を率いていられるのだろうか、と苦笑しながら思う。
でも、です。
わたしは彼のことは全然知らなかったのです。
まるで少年のような表情を見せる彼に、もう一つの顔があったことをまだわたしは知らず、ただ軍人にあまり見えない陽気な黒人だと思っていただけでした。
その日の夜のこと。
わたしはのどが渇いたので水を飲みにリビングへ降りてくると、そこにはマーレイさんが居たのですが。

「ッ!?」

昼間見せたコロコロ変わる明るい表情は消え失せ、そこにあったのは能面のような無表情と冷めきった眼、ともすればまるで昆虫の瞳のようだった。
冷たい氷のような雰囲気を放ちながら彼は手の中の物を弄っている。
リビングのテーブルの上にぶら下がる電球の灯りに照らされ鈍い光を放つそれらの部品を、彼は丁寧に小さな埃までも掃除していく。
部品に油を挿しそれらを黙々と組み上げ、彼の掌にあるものが完成する。
それは拳銃だった。
映画で見るよりも武骨で機能的で機械的で無機質なそれ。
彼はそれを無言で持つとホルスターに入れて抜いて構えて。
その動作を繰り返すマーレイさんは陽気な黒人のマーレイさんから、わたしの日常とかけ離れたところにいる非日常の存在の兵士、マーレイ少佐となっていた。

「ん、そこにいるのはアッリちゃんか?どうしたー?」

「ひぅっ!?」

だが、わたしがいることに気づいた次の瞬間にはまたあの陽気な黒人へと戻った。
最もわたしは先ほどまでのマーレイさんの雰囲気に押されて、おびえたような声しか出せなかったのですが、彼はそれを普通に急に驚いた時の声だと思ってわたしの知る普段通りに話しかけてくれた。

「もう夜は遅いから早く寝ろよ?明日も連れまわすんだからな?」

「は、はい」

彼が話しかけてきた時、彼は手の拳銃もその整備に使っていた道具も全部自身のバッグへ片づけてしまったようだ。
もしかしたら、結構長くわたしは硬直していたのかもしれません。
わたしを労わるように彼は頭をポンポン叩くと彼に割り振られた寝室へ向かっていった。
彼は、マーレイさんはどちらが本当の彼なんでしょうか?










第二話 『23世紀の海兵さんマリンコ ~後編~ 』
片腕のウンディーネと水の星の守り人達 第二章 『ある一日の記録』












目の前にはバケットに山ほど積まれたチケッティという切手のように小さなおつまみと木箱に収められた、もちろん満タンのワインボトル。
それをげんなりとした顔で眺めるわたしがショーウィンドウにぼんやりと映っていた。
現在時刻は太陽が昇って朝の時間が終わったぐらい。
それなのに、この男どもは・・・・・・!

「いつまで飲む気なんですか!?マーレイさん!?」

今日はアリソンは夏に向けた商品の製作活動に専念するらしく工房に引き籠って出てこないので、わたしが一人でマーレイさんを連れてネオヴェネチアを案内することになったのですが、案の定と言った事態に陥ってしまいました。
どうも、昨日はアリソンがある意味ストッパーになっていたようなのです、ああ、もちろん彼女がいたから悪化した事態も多かったのですが。
で、どんな事態になっているかを説明すると。
まず、朝から開いている居酒屋にマーレイさんが興味を持ってしまい、入店します。
止めるわたしを無視して、彼がカルティッツァ―――『ヴェネチア』の男達に朝を告げるお酒らしい―――を一杯引っかけている所に地元のおっさんズが集結してきて飲み始めます。
マーレイさん、ノリの良さを発揮し彼らに加わる。
そして、なぜか飲み会が始まったのです。

「ああ、もう!酔っ払ったら案内もできませんし、なにより迷惑なのですから!?」

「はっはっは、そう言わないでくれよアッリちゃん。彼らだって言っているじゃないか・・・・・・えーと、なんだっけ?」

「「「朝日に目覚ましと一杯、お昼に後半頑張ろうと一杯、夕方にお疲れ様と一杯、夜にまた明日と一杯、そしてラストにお休みともう一杯!」」」

陽気なおっさんズがグラスやジョッキや徳利を掲げ、口をそろえてそう言った。
マーレイさんはそれを笑いながら自身でもう一度言い、グラスを空にする。

「あの、それだと今の飲み会はどこに当てはまるんですか?今は朝でもお昼でもありませんよ?」

「あっはっは!そいつぁ忘れてたな!それじゃ追加しようじゃないかよ、アッリちゃん!小昼時におやつ代わりに一杯だ!」

「そ、その考えは無かった!?」

「もちろん3時のおやつの時もだ、違うか諸君?」

「「「異議ナーシ!!」」」

酒屋の中は笑い声に包まれる。
いつもこんな客ばかりなのだろうか、店主も一緒になって盃を交わしはじめた・・・・・・外にはCLOSEDの看板が掲げられていた。
彼らの飲み会はいつまで続くのだろうかとアルコールの匂いでボンヤリとした頭で考える。
なまじっかネオヴェネチアの男は酒に強く、マーレイさん自身もその体躯も合わさってかなり強い部類のようだ、ザルと言ってもいいかもしれない。
わたしはアルコールの芳醇な香り渦巻く立ち飲み酒屋バーカロから這い出し、新鮮な外の空気を深呼吸して肺に送り込む。
そりゃ、わたしだってワインのアルコールが放つ香しい匂いは好きだし、お手頃でスナック感覚で食べられるチケッティは大好きです。
でも、二つともあの量は異常でしょうと言いたい。
ため息をつきながら、あのチケッティの山からテイクアウト用の紙袋に放り込んでおいたそれを口に放り込む。
わたしが取ってきたチケッティのお代は、もちろんマーレイさん持ちですと店主には言ってきましたよ?
揚げたてホカホカホクホク、パリポリサクモチっと。
時にはしょっぱく、時にはふんわり甘く、時にはピリッと辛い。
一つ放り込むごとに、口の中に様々な食感と味が広がる。

「マーレイさんもコレみたいに、たくさんの味を持っているのでしょうか?」

いまだに酒屋で男たちと乱痴気騒ぎをするマーレイさんを眺めていると、そんな気がしてきた。
チケッティもいろんな味がある。
それと同じようにマーレイさんもいろんな味を持つのだろうかと・・・・・・アイリーンは一つの味しかなさそうですね、誰にでも明るい顔を見せる魅力的な彼女には裏表などなさそうだ。
いや、わたしが目にしたことが無いだけで、たとえ彼女でもきっと違うだろう。
アリソンも、そして一月ほど前に出会ったアルヴァンさんにアンバーさんも。
紙袋に入れてきたチケッティの最後の一つを掌に転がす。
塩味の揚げ物が多いチケッティの中にどうして紛れ込んだのか、珍しいビターチョコレートのお菓子だった。
当たりのような気がして少し嬉しく思いながら、口に入れる。
チョコは柔らかく溶け、香ばしいカカオの香りと共に口に苦味が広がる。
苦いものはあまり得意ではないのですが、このチョコは自然と普通に食べることが出来た。
昨晩偶然見た彼の顔はこのチョコの苦みのようだったのかもしれません。
恐怖心や怯えを感じつつも、なぜか朝になってまた案内を求められた時も拒否せずに、彼から離れようとはあまり思えなかった。
なぜでしょうか?

「おーうアッリちゃん!終わったぞー?」

マーレイさんがそう声を掛けながら酒屋から出てくる。
酒屋のドアが開き、先ほどまで酒宴を繰り広げていた男たちがぞろぞろ出てきて帽子を被ったり別れの挨拶をしたりして方々へ散っていく。
・・・・・・もっと長くやるかとばかり思っていたのですが。

「随分早いんですね?」

「ん?いくらなんでも、みな終わらせるタイミングは意識しちゃいるさ」

「「「またなー、軍人さーん!いつか、また飲もうや!」」」

「ああ、了解だ!」

少々飲みすぎたのか足元が若干ふらつく人を肩で支えながら最後に出てきた男は、マーレイさんにそう言うと手を振って広場の喧騒の中へ消え去っていった。
それを笑顔で見送る彼はビシッと敬礼を決める。

「正直なところ、わたしは夜まで続けるかと思っていましたけど」

「彼らにも仕事がある、遊びに来た俺は邪魔するわけにもいかんだろう?」

「うーん、彼らはどこまでもいつまでも飲み続けそうな気がするんですが?」

「そりゃアッリちゃん、それは間違いだ。彼らだって自分の仕事に誇りも義務感も責任感も・・・・・・とにかく、何かしら自分の仕事に思う所はあるはずさ。それを放り捨ててまで、飲みはやらんのよ。もし邪魔なんてしたら、彼らの誇りを汚すことになるかもしれんしな」

子供にはまだわからんかもしれんけどねと付け加え、彼はテイクアウトしたチケッティを口へ放り込み、同じく持ち出したワインボトルを傾ける。
どうやら赤ワインのようで、芳醇なブドウの香りがカナルグランデの風の中に溶け込んでいく。
ネオヴェネチアのゆったりと時間が過ぎていくのどかなひと時を、マーレイさんは心から楽しんでいるように見えた。
その癒されたような横顔にわたしは誘われたように聞いた。

「マーレイさんも、そうなんですか?」

「まぁな。俺だって仕事の時は真面目に真面目、大真面目だぞ?」

「昨晩のように、ですか?」

・・・・・・あっ、と思った。
マーレイさんは少し驚いたような顔をして、困ったように呟いた。

「まさか見られてるとは思わなかったが。あった方がどこか安心できるからって、やっぱり持ってくるべきじゃなかったな・・・・・・迂闊だった。それにしても、アッリちゃんには見られたくなかったがなぁ」

そういうマーレイさんの横顔は、ばつの悪そうな後悔の念が見え隠れしていた。

「うっ、すいません・・・・・・」

「まぁ、見られたからにはしょうがない、か」

マーレイさんは昨晩整備していた銃は自身の私物で、弾が打てないように封印処置された4世紀近く昔の骨董品の銃だから安全だと説明してから、わたしにこう聞いた。
その時の自分は怖かったか、と。

「言ってもいいのですか?」

「ああ、心置きなく言ってくれ。覚悟はある」

「では・・・・・・とても怖かったです。心の底から」

「そうか、そうだよな。それが普通の反応だ。気に病む必要は無いさ」

「いえ、気に病んでなんかいないですよ?怖かったものは怖かったですし・・・・・・正直言えば、今だって少し怖いぐらいですし」

そう言ってわたしは若干マーレイさんから距離を取る、ただしニヤニヤしながら後退したので、マーレイさんも冗談だとわかったようで肩を竦めて口を尖らせる。

「存外ひどいなアッリちゃんは・・・・・・まぁ怖がられても仕方がないし、なにより平時では軍人は評価されず怖がられて避けられる存在であるべきなんだ。だから、アッリちゃんの反応は少し複雑だけど、嬉しいね。その反応には誇りすら感じてさえいるんだ」

「えっと、自らの仕事が評価されてないのに、どうして嬉しいんですか?」

特に軍人は・・・・・・映画みたいに画面の向こう側だけの知識でしかないけど、命を懸けてる職業なのに、世間からは低評価されてその職に就いているマーレイさんは嬉しいと言う。
わたしには理解が出来なかった。
自身の職業がけなされても大丈夫だというのでしょうか?

「マーレイさんは自分の職が評価に値しない、そう思っているのですか?」

「いや、そういうわけじゃあない。ただ『この時代』で評価されるべき存在じゃないんだよ、俺たちは」

「軍人が?」

「そうだ・・・・・・少し、歴史の話をしようか」

23世紀の現在から遡ることおよそ3世紀、世界は戦乱に包まれていた。
一年前の兵器が一年立つと旧式扱いされ世代が変わり兵器が目まぐるしく生まれていっては消えていく、そんな時代。
それらを操作するための人間たる兵士もまた数万、数十万単位で命を散らしていく時代。

「2度の世界大戦、ですか?」

「そうだ、学校で習っただろ?あの時がおそらく最も軍人が持て囃された時代だっただろうな。それはなぜだったと思う?」

「戦争だからじゃないんですか?」

「そうだな、戦争だからなんだが。一番の原因は国民にも相当の被害があったからだ」

無差別爆撃、無差別虐殺、民族浄化、大量破壊兵器の実戦投入・・・・・・戦勝国、敗戦国関係なく両陣営はお互いの国民を殺しあった。
それこそ兵士の犠牲よりも多くの人間が亡くなった。

「俺達軍隊は国家を守るために存在するが、兵隊は国民を守るために存在する。俺たち軍人が仕事をするってことは、国民が犠牲になっているときなんだ。そして、仕事をすれば評価され持ち上げられる」

「つまり?」

「俺たちが仕事をせず、怖がられているんなら、今は平和だということだ。『抜かぬ剣こそ平和の誇り』とも言うしな。そして俺は軍人であることを誇りに思う。たとえ数十年しか保てない平和だったとしても、そのたかが数十年の平和を生んでいる自分たちのことをな」

先ほどの暗い顔からは想像できないほど爽やかにそう言って自身の話を締めくくるマーレイさん。

「ただな、アッリちゃんにはやっぱりあまり見てほしくは無かったな。陽気なただのオッサン状態のままでいたかった」

「あう、すいません」

「いやいや、たとえ旧式で見た目だけの玩具だとしても、懐に銃の重さを感じてないと怖く感じる臆病な俺が悪いのさ」

苦笑いしながら頭を掻くマーレイさんはごく自然体で、昨晩のマーレイさんもごく自然体で・・・・・・甘いものの中に一粒紛れ込んだ苦いものは、より苦く感じるけど、それがアクセントになるように、それらがマーレイさんの魅力(?)を上げていた。

「それにしても、凄いです」

「ん、なにがだ?」

「たとえ嫌われても、避けられても、そうやって自分の仕事に誇りがあるように言えるなんて、凄いと思ったんですよ」

「どんな仕事であれ、誇りを持つのは当然だと思うがな・・・・・・むしろ誇りを持てないんだったら、それは自分向きの仕事じゃないってことだろ?俺はそんな奴には、さっさと転職をお勧めするさね。俺は偶々この職についたんだが、それで偶々誇りを持てたから今でも兵隊やっているだけなんだぜ?」

「それでも凄いです、カッコいいと思うのですよ?」

わたしは本当に彼のことが、年下のわたしが言うのもなんだけれども、気に入ったのだ。
自分の仕事に絶対の誇りを持ち、平和だからこそ誰からも評価されない平和と言う成果を出し続けるために前を歩むその姿勢が。

「はっはっは!そう言ってくれると、やっぱり嬉しいな!」

ガシガシと照れたように丸刈りにした頭を豪快に掻くマーレイさん。
なんだかんだ言っても、怖がられるよりはやっぱりこっちの方が気持ちがいいようだ。
だからこそ、本当にマーレイさんが格好よく見えるのだ。
正しき軍人の在り方と言うやつだろうか、彼の様な生き方が。
戦争を知らないわたしには、本当の答えは分からないけれど・・・・・・今、この時代には、それが一番正しい気がする。

「ありがとな、なんだか元気が出たぜ。お前が見た俺の顔を見て怖がらずにカッコいいなんて言った奴は、お前で二人目だ。部下は怖がらないが、カッコいいなぞ言わんからな!」

「へぇ・・・・・・わたし以外にもいたんですね、物好きでしょうか?」

「・・・・・・お前はやっぱり時々ひどいな、少し傷つくぞ?ま、物好きにゃ違いないがな」

「で、誰なんですか?」

「俺の嫁さんなんだ、これが。こんな俺に惚れ込んで押しかけ女房のような真似してまでアタックしてくるんだなんて・・・・・・本当に物好きだよなぁ。しかも結婚しても、俺は任務でしょっちゅう家にいないし・・・・・・後悔してるだろうな」

寂しそうな顔でそう言ったマーレイさん、肩を落として何だか暗い雰囲気になってしまいました。
余程奥さんに対して、普段は仕事ばかりしている自分が後ろめたく感じているようだ。
仕事優先の男だと思われて、愛想をつかれてるのではないだろうか不安になっているみたいです。
だから家族サービスのように、ネオヴェネチアへ旅行することを決めたのかもしれません。
最も、わたしにはそんな心配は無用の物だと思うのですよ。
その奥さんがわたしの想像通りの人物なら。
・・・・・・それにしても、本当にコロコロ雰囲気が変わる人ですね、マーレイさんは。
たぶん、奥さんは彼のこんなところにも惚れたのではないだろうか?

「大丈夫ですよ、マーレイさん?」

「ん、どうしてだ?」

「普段のマーレイさんと昨晩の様なマーレイさん、どちらも貴方なのだと受け入れられた方なんでしょう?奥さんは。だったら、大丈夫です。同じ女性のわたしが保証しますよ」

「アッリちゃんとあいつとは、親と子ほどの年の差があるぞ?」

「幾つになっても、乙女心っちゅー物はあまり変わりがないのですよ!」

「そ、そうなのか」

わたしの力説に少し引きながらもなんとか納得するマーレイさん。

「では、マーレイさん。街案内を再開しますよ?奥さんを喜ばせたいんでしょう?」

「・・・・・・!ん、ああ。そうしようか」

わたしの誘いに、彼は空っぽになったチケッティの袋を握り潰し、まだ中身の残るワインボトルを懐にしまった。
使命感だろうか、今度はちゃんと書き取るぞと呟きながらいそいそと鞄をあさりメモと筆記用具を取り出すと、いつでも取り出せるように胸ポケットに挿した。
彼の準備は万端のようだ、わたし達も小昼時の休憩は終了だ。
わたしはパンパンと服の埃を払って言った。

「さぁ行きましょうか!ああ、もちろん今度はバーカロには寄らせませんよ?」

「なぬぅ!?」

底に驚かないでくださいよ、全くもう・・・・・・。
























「ありがとな、いろいろ教えてくれてよ」

「どういたしまして。ちゃんと奥さんをエスコートしてくださいよ?」

分かっているさと、随分厚くなったメモ帳をポンポン叩くマーレイさん。
今日はマーレイさんが帰る日だ。
わたしは彼を宇宙口の出入り口まで見送りに来ていた。

「あとはウンディーネを雇えば完璧ですよ?」

「おう、そうさせてもらうさ・・・・・・いずれはアッリちゃんに案内してもらおうか?」

「あはは、善処しますよ」

「まぁ人を楽しませるのはウンディーネだけじゃないさ、道はいくらでもある。まだ先は長いからな、じっくり悩めよ!」

ぽんぽんとわたしの肩を叩いて、彼はバッグを背負った。
もうすぐ搭乗の時間だ。
だから、最後にわたしはある質問をした。

「以前掲示板にちょっと不思議なことを書きこんでいましたよね?あれってどういうことなんですか?」

『目標が決まったなら、それはいいことだ。俺みたいになるなよ?じゃ、その目標に絶対に到達すると自分に言い聞かせながら』と、マーレイさんはわたしのメッセージにそう返信したのだが、どういうことなのだろうかと不思議に思っていたのだ。

「ああ、あれか。本当はな、俺は軍人になんかなる気もなかったんだ。目標も持たずに日々ダラダラ過ごしていたんだが、偶々友人に勧められて士官学校を受験したんだ。それが、なぜか合格しちまってな」

その後に教官にこっぴどく指導されて隊を任せられるまでに成長した時に、気づいたら今のような誇りを持つようにもなっていたのだそうだ。
恥ずかしいのか後悔しているのか、微妙な表情でそう答えたマーレイさん。
ちょっと意外に感じつつも、やはり彼は凄いと思う。

「だからな、目標が持てたってだけで十分だと俺は思ったのさ。目標が無い奴は毎日がつらいぞ?まぁ目標が決まった奴は、あとはそのまま突き進むだけだからな、ある意味楽だ。途中で諦めなきゃ」

「実体験なのですか?」

「そうだ。だから心配だったんだ、目標を見失ったように見えたって君の友人からメールを貰った時にはな」

友人とはきっとアイリーンの事だろうと思う。
どうやら彼女は随分前からわたしの入っていた部屋の住人と連絡を取っていたようだ、何とも相変わらず根回しが速いですねぇ、彼女は。

「でも、今なら大丈夫そうだな。そのことを確認できたのも、この旅の収穫だな」

「頑張りますよ、わたしは。精一杯」

「その意気だぜ!じゃあな、サヨナラだ。またどこかで会おう!」

ポフッとわたしの頭を一撫でしてから、彼は踵を返して宇宙口の出入り口へ歩き出した。

「あ、最後にもう一つ質問良いですか!?」

だが、わたしは門をくぐろうとしたマーレイさんを呼び止める。

「今の仕事、やめたいと思ってますか?」

その質問に彼はぴたりと動きを止めると、顔だけをこちらへ向けてニッと笑って返答した。

「うんにゃ、俺にとっちゃ兵隊は天職らしい。やめるつもりなどないさ!」

「わたしもいつか貴方のようになれますか?」

「・・・・・・なれるさ、アッリちゃんなら必ずな!」

そう言うと今度こそ彼は宇宙口の人混みへと消えていく。
さてと。
彼のようになれるかまだ分からないけれども、わたしも練習に行くとしますか。
今のわたしには目標があるのだから。































:今日の日記 あくあ歴74年 △月△日ですよ。
一週間ログインしませんでしたね。
実は、なんとマリンコさんが遊びに来てくれていたので、そのためなのです。
彼が滞在中に見せてくれた多彩な面はここでは絶対に知ることのできないものばかりでした。
その中でも彼の仕事に関する一面はちょっと怖かったけれども、凄くカッコよかったのです・・・・・・奥さんが居なければ惚れてたかもしれませんね、と思うぐらい。
彼のように仕事に誇りを持てるようになりたいのです。
とにかく、まずは入社試験ですね。
頑張ります。

:追伸
彼が来たことで悪影響が一つだけ。
コロコロ雰囲気の変わるマリンコさんと一緒に行動してたら、その影響を受けたのか・・・・・・
シエロが本格的に変な方向に走り出したのですよ!?
うわぁぁぁん!




[18214] 第二章『ある一日の記録』 第三話『Luciferin‐Luciferase反応 ~前編~』
Name: ヤオ◆0e2ece07 ID:f7b5c4d9
Date: 2012/09/20 19:45






≪おお、もうすぐのようだぞ≫

 ポッ、と。
 わたしとアイリーンが持ってきていた夜光鈴の、今まで透き通るような音を奏でていた夜光石が蛍のように明滅を始める。淡くわたしとアイリーンの顔を照らすその夜光石の光の点滅の周期がだんだんと早くなっていっている。

「ん、分かった。周りの人たちも、そろそろみたいだね」

≪夜光鈴市の初日あたりに買った人の夜光鈴は、もう落ちているはずだが≫

 確かに周りの水上に浮かぶ、光を船上に載せた舟の群れの中にはその光が海へと消えていくものもいた。ネオヴェネチアの澄んだ海の中へ、まるで幻影のように揺らめく光を残して沈んでいく夜光石。今日はアクアの夏の風物詩、夜光鈴に使われる夜光石の寿命の日だ。
 元々はマンホームの夏の風物詩だった風鈴。今はそれらは消え去ってしまったが、アクアの入植者達が持ち込んだ風鈴は形を変えて今に伝わっていた。
マンホームの伝説・伝承で度々登場し、時には怪しいパワーストーンとして存在し、しかしながら実際にAQUAで発見され実在する物になった鉱石のひとつ、『夜光石』を使用して。アクアに現実のものとして存在したそれは、蛍や深海魚が持つルシフェリン、そしてルシフェラーゼを持つ鉱石で、ルシフェリンがルシフェラーゼによって酸化される時に淡い光を放つのだ。ルシフェラーゼという酵素と、それによって酸化されることで発光するそれらの物質の総称であるルシフェリン。
この二つの物質はある種の生物が保有し、交尾活動や威嚇行動に用いられてきたことは、人類が火星をテラフォーミングし水の星へと生まれ変わらせる以前から研究や調査によって知られていた。だが、それが無機物、それもマンホームのように生物が発展・進化していなかったとされるアクアで採掘された鉱石に含まれているのは、23世紀現在の今でも謎なのだと言う。わたし達現代人類が知らない火星の時代、つまり、まだ火星に水が残っていてに存在していた生物の化石じゃないかという仮説や、はたまた外宇宙からの生命体がもたらしたのだという仮説まで真剣に議論された時期もあったらしい。
 浪漫溢れる話ですが、さすがにそれは無いんじゃないでしょうか?20世紀の終わりに巨大な異星人の宇宙船が落下してきた訳でもあるまいし。
 でも、人の心を安らげるような淡い光にひと月で寿命を迎える儚さ以外にも、この謎に包まれた神秘のベールが人々を惹きつける要因なのではないだろうかとわたしは思う。

「でも、そんな理屈はどうだっていい、ですかね」

 わたしの脳裏にある男性が思い浮かぶ。
 彼は発光の理論などどうせ理解できんからどうでもいいと切り捨て、ただ自らのモノづくりが出来ればいいと毎日窯へ向かっていた。大きな工房を弟子たちへ譲り、自らはごく一部でもいいから人が心から幸せになれるような好きになれるような作品が作れればいいと、彼の情熱を表すかのようにムンムンと熱気に包まれる自宅の小さな工房で小さく笑っていた壮年の男性。彼の作った作品達は、理性ではなく本能で素敵な物だとわかるようなモノばかり。彼の作品には難しい理論や定義など、頭が痛くなるような理屈は一切関係せず、自身の感性のみを頼りに生まれたもの。
 その結果生み出されてきた彼の作品たちは、不思議にも人が美しいと感じる黄金律を取ったりするなど、理屈が通用する様な造形になるんだそうです。理屈抜きで作っていた物が、理屈で語れるようになるなんて、すこしばかり可笑しかった。
 それらの作品と同様に、わたしは、星の瞬く光とも、水面の煌めきとも、人々の営みの光とも違う夜光石の放つ光に心の底から惹かれていた。

≪私は夜光石の光は、光量、色合いにその他の要素をすべて再現し、立体映像を投影することが出来るが・・・マスターのその顔は得られそうにないな≫

「えっ?どんな顔ですか?」

≪・・・どんな顔、と言えばいいのだろうな。私のデータには無いな。わからん≫

「ふふっ、シエロもまだまだだねぇ・・・言い表すのは一言で十分なんだよ?すごく魅力的な顔だね、アッリ!」

「またアイリーンは恥ずかしい台詞をぬけぬけと。シエロこんなのを真似しないでくださいね?」

≪ふむ?了解した≫

「二人とも手厳しいなぁ」

 柔らかい光のベールで覆われるゴンドラの上。
 ただの談笑のはずなのに、なんだかいつもと違う気がするのはわたしの気のせいなのでしょうか?

≪むっ?どうやらアリソンの奴は終いのようだな≫

 と、喋っている間にも夜光石の寿命を迎えた夜光鈴の一つ。
 それはオートフラップオールに括り付けてきたアリソンの物で、中の夜光石がポッと、最後に少しだけ煌めきを残して海の中へ沈んで行った。アリソン自身は急な仕事で見に来ることはできなかったが、今頃携帯端末片手に屋上へ上がり、仕事しながらこの光景を眺めているだろう。

「ありゃりゃ。アッリの奴もそろそろじゃないかな?」

「そのようですね、アイリーンのもそうじゃないですか?」

 わたしとアイリーンの夜光鈴の先に吊るされた夜光石の明滅が、終わりかけの線香花火のように放つ光を減少させていく。
 その減っていく光の粒子で照らされる二つの夜光鈴は、夜光鈴市で売られているような綺麗な形状をしたものではなく、ちょっと歪だった。
 中の夜光石は綺麗な形状なのですけどね、彼に手取り足取り教えてもらいながら作ったそれは、自分でいうのもなんですが美しく仕上がったと思います。そのドロップ上のそれを覆う傘の部分は、やっぱり駄目ですけど。

「改めて見直すと、こりゃ不格好ですねぇ・・・」

「初めて作った物にしては上出来だったと思うよ。次作るときにはもっといいのを作ろっか」

「あの人が言っていたように、ちゃんと反省しながら・・・ですね?」

「ふふっ、そうだよ?反省しなきゃ、経験した意味がないからね」

 彼は言っていた。ひたすらな経験と何リットルもの汗、『ソレ』と思えるものを作りたいという意欲。なにより一番大事なのは、わが身を振り返ること。自分が何をやりたいのか、何が駄目なのか、何が出来るのか、何を諦めていたのか・・・そういうことを、時々は考える。そうすれば、おのずと良い物は出来上がるのだそうだ・・・理屈抜きで。ある意味、これも理屈なのかもしれませんけどね。

「では、また・・・来年に、あの工房で」

 わたし達の夜光鈴が不格好なのは、わたし達自身でデザインして、彼の協力を借りながらだったが、自分で窯の中で熱く燃えるガラスを回して、汗水たらして創り上げた物だからだ。彼の工房で道具と材料を貸してもらって、互いに作りあった夜光鈴。最近少し疎遠に、どこか遠くの存在に感じてしまっていたアイリーンとの絆をもう一度固く結びつけた大切な物。
 夜光石の明滅するぼんやりとした光を眺めながら、わたしは一月ほど前の出来事を思い出していた。心を乱していた、あの時のわたしに彼が言った言葉と共に。
 あれは、高く高く伸びる白い雲が群青の空に漂い始め、夏の暑さがネオヴェネチアに訪れたある初夏の日でした。












第三話 『Luciferin‐Luciferase反応彼女とわたしの結びつき ~前編~ 』
片腕のウンディーネと水の星の守り人達 第二章 『ある一日の記録』














「デザインイラストを届けてほしい、ですか?」

 最近の日課になりつつあった島の外周をぐるりと回るコースを、いつも通りに練習をしてアリソンの店へ戻ってくると、彼女から水滴が浮かんだ労いの缶ジュースと共にファイルに綴じられた、紙に描かれたいくつかのイラストを渡された。
 なぜか蓋ごと取れる大昔のタイプの蓋をパキっと取り外して。蓋を開けた瞬間から新鮮なかんきつ類の香りが鼻を抜けていき、はやる気持ちを抑えてゆっくりと良く冷えた缶を傾ける。からからに乾いたのどを癒すかのように、甘さ控えめのサッパリとしたオレンジジュースがのどに流れ込んでいくのを感じながら、わたしは渡されたファイルに綴じられた絵を何枚か眺める。
 それらに描いてあったのは、ネオヴェネチア、いえAQUAの夏の風物詩とも言える夜光鈴のようでした。

「これは?」

「毎年、私は夜光鈴市に商品を出品している?今年のデザイン案はこれなんだけど、これを知り合いのネオヴェネチアングラスの職人に作ってもらう?」

「はぁ、本当に多彩なんですねアリソンは」

 アリソンは幾つかの工房からネオヴェネチアングラスのデザインを請われているのだそうですが、これは自分からその工房に作ってもらいたいと毎年お願いしているものだそうで、今年もOKが出たから早速デザインを送りたいのだそうだ。
 彼女の本職は確か技術者だったはずなのにデザインまでやるとは・・・その技術者と言ってもどれが専門の技術者なのやら。オートフラップオールは機械工学と物理学の融合ですし、シエロの様なAIは情報系、かと思えばナノマシン工学や材料工学にも造詣が深いときたもんです。まぁ、このお店だってゴンドラ&オールの工房、スクロッコのはずなのにアリソン手製の小物や家具が並んでたりもしますから、彼女がデザイン系にも優れていることは理解はできるのですが。
 彼女に苦手な分野ってあるのでしょうか?料理だって美味しいですし。学生時代には彼女を指して20世紀の大科学者・技術者だったフォン・ノイマンに例えられてミニノイマン、あるいは芸術だけでなく様々な分野に優れた才能を発揮した芸術家ダヴィンチの女性版、ウーマンダヴィンチと呼ばれた彼女の才能が羨ましい。
 もっとも、彼女に言わせれば自分は器用貧乏なだけで、彼らの様な本当の意味での天才・秀才ではない、とのことです。彼らの功績が偉大すぎて、そんな風に言われても困るのだそうで。
 ふむ、確かに・・・でも、羨ましのは羨ましいのですよ。

「うーん、届けるのは別にかまいませんけどね。練習にもなりますし。ですが、なにも直接届ける必要はあるのですか?メールとかは」

「彼はそういうのは受け取らない?」

「え?なら、手紙もダメなんですか?」

「手紙でもいいけれど?いつもは封筒に入れて郵便屋さんに届けてもらっていたから?」

「では、どうしてですか?わたしは練習だってしないといけないのですよ?」

「彼に出会えるのはきっと貴女にとってもいい機会だと思うから?」

「はぁ?どういうことですか?」

 彼、というからには男性なのでしょう。
 その彼の作るネオヴェネチアングラスやその製作風景を見るのはわたしにとっても勉強になるらしい。わたしはウンディーネを目指してますから、夏でより一層熱くなっているであろう工房で汗だくになってガラスと格闘する職人さんたちの姿を見て何が勉強になるというんでしょうか。ゴンドラ練習との関連性が見えないのです、強いて言うならば繊細な手作業が要求される造形技術とオールの操舵でしょうか?
 悩むわたしをアリソンは少し見つめた後、特に今のわたしには、とアリソンは行ってみるように強調してきた。

「今のわたし、ですか?」

「説明しようにも、説明しにくいというか説明したくない?ただ一つ言えることは・・・最近のアッリちゃんはなんだか焦っている、というより不安?ううん、それよりも・・・ジェラシーなムードに包まれている?」

 ぎくり。缶ジュースの水滴で手が滑って、危うく落としそうになる。いや、今のは本当に水滴のせいだろうか?
 わたしの心にざわめきが生まれようとしていた。彼女の言ったジェラシームード、つまり嫉妬心に。一体誰に対して持つ嫉妬なのか、それはわかるまいとわたしは思ったのだが。

「それも、たぶんリーン関係で?」

 ああだめだこりゃ。
 彼女にはばれていたかと、若干の諦めを感じながら缶ジュースの最後の一滴まで飲み干してテーブルに戻し、タオルで汗を拭く。最後の一滴はいやに酸っぱく、タオルも乾いたままだった。苦々しい顔つきになったわたしを見て、やっぱりかという風にアリソンは一度ため息をつく。
 隠していたつもりだったのだが。
 彼女にはなんでもオミトオシとでもいうのだろうか、学生時代に心理学者フロイトの生まれ変わりとか言われなかったのかどうか少し気になるのです。

「それは・・・確かに否定できないですけども」

「だから、すこし心配?」

「むぅ・・・」

 確かに今のわたしは、心が落ち着いていないということは自覚している。なんだか練習しても気が散って手に付かず、その成果も得られていないような感覚がここのところ続いていたのだ。
 原因は、たぶんあれだろうと思いつくのです。というか、それしかありえないのですが。
 その原因とは、一週間前、まるまる一月ぶりにアイリーンと出会ったこと・・・オレンジぷらねっとの制服に身を包み、片手袋シングルとなり、仲間たちと競い合いながら練習している彼女と。
まず初めに驚いたのは彼女の技量。以前の彼女は、かつては中の下か下の上と言った感じで操舵に関してはあまりパッとしていなく、舟歌カンツォーネも上手くは無かった。どちらかと言えば、技巧より人柄や知識で人を惹きつけるタイプのウンディーネになりそうだと、顧問の先生は予想していました。ですが、今の彼女は、同期の中でもトップクラス、下手すればオレンジぷらねっとのシングル勢の中でも上位に位置するんじゃないかというぐらい、操舵もカンツォーネも以前より遥かに上達していた。正直言えば、以前のわたしより上手いと感じたぐらいです。
 自分がいまだに漕ぐことがようやく安定してきたというのに、彼女はどんどん先へ行っていく・・・そんな彼女に嫉妬したのかと言えば、そうではない。むしろ、アイリーンが上手くなるのは嬉しいことなのですよ。
 けれども。わたしの脳裏から、あの光景が消えないでいた。
 彼女を呼ぶ声の後、慌ててわたしとの会話をごめんと言いながら打ち切って、駆け出していく彼女の後姿。彼女の名前を呼んだであろうわたし達より一回り程年上のように見えるプリマウンディーネと、この夏の太陽のように眩しい笑顔で仲良く喋るアイリーン。その直後、アイリーンはわたしの名前を、こちらへ手を振りながら呼んできました。たぶん、わたしをあのプリマウンディーネ―――おそらく彼女がアイリーンの言っていた蒼羽教官だろう―――にわたしを紹介するつもりだったのだと思う。でも、わたしはアイリーンが彼女に見せた笑顔に苦しいほどに心が締め付けられていて。わたしは用事を思い出したと苦しい言い訳をして、その場を逃げ出してしまった。
 あの締め付けられるような苦しさはすぐに嫉妬しているのだと気づいたけれど、気づいてしまったせいで今の状況があるのです。
 それ以来、わたしは心がざわついて・・・何度、自分は嫉妬に狂う男性か変態かと戒めた事か。しかし、その行為は全く意味をなさずに練習しても手が付かない日々が続いていた。そんな日々にイラつき、また手が付かなくなっていってという悪循環だ。

「でも、『アイリーン・マーケット』とは関係ないんじゃないですか?彼と会うことって」

 気が付いたら、なんだか裏切られたような刺々しい気分を載せて彼女の名を口に出してしまっていた。
 彼女には彼女の生活が、プリマを目指す道がある。わたしはわたしで、オレンジぷらねっとの入社試験に合格するためにも、事故以前のようにとまではいかなくても安定して漕げれるようになるっていう目標への道がある。その道を変えるつもりないし、諦めるつもりが無いのは変わっていないけれど。
 今はまだこの二つの道は交わることは無いとは言えないが少ないから、彼女との接点が減っていくのは道理です。
 彼女に新しい友人が出来るのも分かる、わたしだってあのヴァーチャルゴンドラシミュの人たちとのメールや実際に出会うなど交流が増えたから。なのに、彼女が新しい友人や教官と仲良く並んでいる所を見ると、心の中にモヤモヤが浮かぶ。しかも、仲良さそうに話しているその友人たちや教官ではなく、アイリーン・マーケット本人に。
 はぁ・・・本当にわたしは何をやっているんだろうか、前を向いて進んで行くという気持ちは変わらないのに。それを阻む、忌々しい心のもや。

「彼の作る物は素敵な物ばかりだし、色々な不思議な効果があるって噂がある?今のアッリちゃんには役に立つかなって?」

「例えば、どんな効果があるんです?無病息災とか願望成就とかですか?」

「・・・例えば、縁結びとか?」

「縁結びって、アイリーンとは恋人とかの関係じゃないのですよ!?だいたい彼女も女性です!」

「ただの例として出しただけ?他意は無い?」

 全くアリソンは突拍子もないことを時々言うものだから困ったものですが、今のわたしの心境はきっと恋人に愛想を尽かれてないか心配の男か、あるいは愛する彼氏が他の女性と話しているのを見て嫉妬する彼女だとかの心境に近いと自覚しているために、わたしはあまり彼女の言葉に反論できなかった。自覚しているだけに、より気分は落ち込む。
 親友であるアイリーン相手に嫉妬に狂いそうになっている自分に、恥ずかしさや怒り、そしてそれ以上の自己嫌悪を持つ。
それらがないまぜになって今のわたしは練習しても上達せず、むしろ悪くなっているような気もするようになっていた・・・これは、いわゆるスランプという奴なのでしょうか。
 たぶん、今の状況は今まで通りの練習をしてもどうにもならない。
 彼女に、アイリーンに出会わないと・・・出会って、それから何をするというんでしょうかね、わたしは。
 小さくため息をつく。
 どうせどうしようもならないなら、彼女の提案に乗ってみるのもいいかもしれません。アリソンの言う彼とはどのような人物かは知らないが、殆どの物(ヴェネチアングラスでさえ工房があれば作れるとアイリーンが言っていた)を自分で作ってしまえる彼女が、わざわざ頼み込んでまで自分の構想を作って欲しいと言う相手なのだ、きっと何かがあるに違いないと思うので、とても興味がわきますし。

「まぁ、羽伸ばしついでに行くってのもありでしょうね・・・縁結びは抜きですよ?」

「縁結びは抜き?」

「え、縁結びに拘らなくてもいいじゃないですか!ただ、本当に最近はわたしはダメダメですし・・・」

「ね?だから、気晴らしついでもいいかなって?」

だから、彼女のその提案にわたしは乗ることにした。

「・・・そうですね。わかりました、引き受けます」

「あ、それともう一つ?ちょっと遠いし、潮の流れが速いところも通るから、今のアッリちゃんだと少し心配?」

「むっ?それじゃあどうやって届けろと言うんです?言っておきますが、わたしエアバイクの免許もないですし、動力付きボートの操船も分かりませんよ?」

 色とりどりのコピックで彩られたデザイン画の束をファイルに戻し、リビングに掛けてあったショルダーバッグを手に取る。そのファイルも学生時代に愛用していた耐水バッグに入れて、万が一バッグが水に濡れてしまっても大丈夫にする。水の都と呼ばれ、縦横無尽に水路が走っているネオヴェネチアではこういった物は必須なのです。少々表面が煤けているものの、その耐水性は失われてはいないだろうそれに入れたファイルを大事にショルダーバッグに入れる。お世話になっているアリソンの頼みを受けた以上、大事に扱わないといけませんね。

「ふふふ?だから、運転手さんを用意してある?」

 そう言いながらアリソンは、わたしとその運転手さんの二人で食べるようにとバスケットを渡してきた。
 中を開けてみたところ、なにかのツンとした匂いを微かに感じ取った。バスケットの中に用意されていた昼食は、瑞々しいレタスとチーズとベーコンを挟んだサンドイッチとシナモンシュガーたっぷりのチュロスのようです。それに加えて、保冷剤代わりのキンキンに冷えたグレープフルーツジュースを入れた水筒。
 ふむ。なるほど、シナモンシュガーに含まれるシナモンがツンとした匂いの原因でしたか。
んん?
 『シナモン』シュガー、ですか?

「あの、アリソンさん?」

 シナモンシュガーが苦手なことは、アリソンの家に居候するようになって直後に言っておきました。それから、彼女はシナモンを使った料理を滅多に出さなくなりました・・・わたしの心を乱す例の少女がやって来る時以外は。彼女が来訪するときは、おみやはシナモンシュガーのチュロスと相場が決まっていたようでした。
 そんな代物が入っていて、運転手さんが誰かなんて分からないはずがない。

「どうしたの、アッリさん?ちょっとしたサプライズを用意してあるだけ?」

 悪戯っぽく微笑むアリソンは、サプライズの正体を確かめることは許さないと言った風。そんなアリソンにわたしは抗議の声を上げる・・・今のわたしの心が分かるなら、どうして彼女を呼んだのかと。

「わたしは。わたしは自分の今の心が分かるつもりです。だから、分からないのですよ?今の状況の抜け出し方が。今の彼女に、今のわたしは一体どういう顔で会えばいいんですか?分からない、分からないのですよ」

「普段通りでいい?」

「その普段どおりが出来ないから困ってっ!」

 トンッと。
 アイリーンやわたしよりも背がい低いアリソンは少し背伸びをするようにして、アリソンはわたしの頭に手を置いた。そして、貴方は大丈夫だからと小さくつぶやきながらわたしの頭を撫でる。クシャクシャと撫でられるうちに、なんだか何とかなるような気もしてくるのはどうしてのでしょうか?これが見た目はともかく大人としての風格か。
 背伸びに少し疲れたのか、ふぅと息を吐きながら彼女は背伸びをやめ、わたしの手にバスケットを握らす。わたしがしっかりと

「大丈夫だから?今日の夜は採掘された夜光石が初めて発光する発光試験が行われる日。掘り出された夜光石に含まれるルシフェリンがこのアクアを包み込む大気の酸素と出会い、ルシフェラーゼ反応が起きる日・・・だから、きっと大丈夫?」

 彼女はそう言うと・・・何を意味しているのか、さっぱりわかりませんでしたが・・・わたしの背中を押して、半ば追い出すように店の外へ通じるドアの前に立たせる。一度彼女の顔を肩越しに見やると、自信たっぷりな笑顔で、わたしが逃げないように腰に手を当て、仁王立ちしていた・・・どうやら、相当の自信を持っているようなのです。その彼女の笑顔は、自分では上手いこと言ったつもりなのだろうか、巷で言う所のドヤ顔のようでした。
 今は。少なくとも、今は彼女のその自信を信じるしかないでしょうね。

「分かりました・・・行ってきます」

「いってらっしゃい?」

 わたしはドアを自ら開けて、アリソンの頑張ってねという声と共に店の外の船着き場へ足を進めた。

「うぁ、眩しい・・・」

 薄暗いアリソンの工房兼店舗内にいたせいか、外に出た瞬間に太陽の眩しさで目がくらんでしまった。
 と、日が何かで遮られ目を薄ら開くことが出来た。頭に当たる感触からして、どうやら大きな麦わら帽子を被せられたようだ。その麦わら帽子の影から、灰色のワークパンツに包まれたスラリとした足が伸びているのが見えるが、麦わら帽子の広い鍔で被せた張本人の姿は見えない。もっとも、シナモンたっぷりのチュロスがバスケットの中に用意されていた時点でサプライズの中身は大体予想がつくんですけれどもね。
 でも、わたしは胸に相変わらず嫌な感じを感じていた・・・どうしてかは、分かっているけれども。
 そして。案の定と言ったところか、普段はわたしの練習用ゴンドラとアリソンが仕事や用事に使う小型エンジン付きのゴンドラしかない船着き場に、更にもう一艘、ゴンドラが舫いを繋いでいた。アリソン曰くの『運転手さん』と共に。

「やっぱり貴方ですよね・・・・・・お久しぶりです、アイリーン?」

「やっほ!久しぶりだね、アッリ!」

 黒と白のコントラスト、黒いネクタイが茹だる様な暑さにアクセントを加えるように吹く涼風に揺らめいていた。髪を割と適当に短く切ったのか、わたしに被せた物と同じものだと思われる麦わら帽子から覗く毛は結構ばらばらで、そのせいか少女というより少年のように感じる黒髪の少女。ここ最近よく目にするオレンジぷらねっとの制服ではなく、動きやすそうな濃い灰色のベストにそれらと対照的な白シャツの少女が太陽にも負けないような笑顔でオールを握っていた。
 オレンジぷらねっとに入社してから僅か数か月で両手袋ペアから片手袋シングルへと昇格した若手ホープ、そして今月の月刊ウンディーネにも少しだけだが取材されるほどには期待されているシングル、アイリーン・マーケットがそこに立っていた。
 例の彼女に向けた笑顔と、『全く変わらない』笑顔を見せながら。








感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.088206052780151