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[18136] もしもあなたが悪ならば(異世界騎士物語)
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:e700d56f
Date: 2019/11/22 21:53
※この小説は小説家になろうとノベルアップ+にも投稿しています。





 炎は天を焦がさんばかりに立ち上っていた。
 異形のものどもは己の存在を誇示する様に咆哮を上げていた。

「飛竜が二匹……か。残りの兵士と魔物はどうとでもなるだろうが、空から竜に襲われるのは勘弁して欲しいもんだな」

 幾度も破壊槌や投石器の攻撃を防ぎ、原型を留めぬほどに崩れ役割を果たせなくなった頼りない城壁を背に、赤毛の騎士は内心を隠すように軽い調子で呟いた。
 敵に魔術師は居ない。居たのならば、この城はとうの昔に陥落していただろう。奴らときたら、人が攻城兵器を苦労しながら組み立てている間に、ちょっと呪文を唱えただけで壁の一つや二つ吹き飛ばしてしまうのだから。

「そろそろ突破しましょうか」

 騎士がこの絶体絶命の状況をどう切り抜けようかと考えていると、隣からそれが決定事項であるかのように語りかけてくる声があった。
 振り返ったそこには、白い衣装に身を包んだ神官らしき者が居た。衣装ばかりか髪まで白いが、その容姿は老人のものでは無くむしろ若すぎるほどで、戦場に似つかわしいとはとても言えない風貌だった。

「あのな巫女様よ。あんたにはあの馬鹿みたいに並んで棒立ちしてる野郎どもと、洗濯もんみたいにヒラヒラ飛び回ってる爬虫類が見えないのか?」
「今は見えますが? 私が以前は盲目だった事をお話しましたっけ?」

 遠回しに「おまえは馬鹿か?」と聞いたのに、瞳を丸くした相手から返ってきたのはズレた答え。それを聞いて騎士は吐息を漏らし、遅れて胸の奥から不快感と怒りがこみ上げてきた。
 こんな年齢不相応に内面の幼い子供を、戦場に連れて来てしまった事に。力があるとは言え、こんな子供を頼らなければならないほど追い詰められた、不甲斐無い大人(自分)たちに。

「大丈夫ですよ」

 大きな手で顔を覆い俯いていた騎士に、巫女は先程よりやわらかい声で、微笑みながら言って見せる。
 その顔は間近に迫った死の恐れは無く、むしろ見るものを安堵させる聖母の笑みのようだった。

「兵はあなたが何とかしてくれるのでしょう? なら私とあなたの二人なら、この包囲を突破できない道理はない」

 それは自信に満ち、聞くものにも確信を持たせる不思議な声だった。
 その声を聞き騎士はしばし呆然とした後、一番性質の悪いのは目の前の巫女だと気付き苦笑した。もしこの巫女が死ねと命じれば、自分はそれが正しいのだと妄信して首を切るかもしれない。
 それほどまでに、巫女の言葉には力があった。

「巫女様の言いようでは竜を何とかする術があるようで。俺は兵士だけ蹴散らせば良いのか?」
「ええ。あなたに渡したのは騎士の剣。あなたが高潔にして公正なる騎士である限り、その身は折れることも欠ける事も無いでしょう」

 その言葉を聞き、騎士は自らの剣をためつすがめつ立ち上がった。
 巫女の言葉を全て信じたわけでは無い。信じてなどやるものか。ただ本当にこの巫女が自分たちに勝利をもたらす女神なのだとしたら、この程度の奇跡起こしてくれなくては困る。そんな言い訳をしながら、騎士は巫女を信じるために剣を握った。

「ならば俺はおまえの先を駆け、立ちふさがるもの全てを斬り捨てよう。この背をゆるりと追って来い」
「ええ。頼みますクリストファー」

 自らの名を呼ぶ巫女の声に押されるように、騎士は走り出す。
 後ろに気はとめない。あれほど自信満々ならば、自分の身くらい守ってくれなくては困る。故にただ前のみ目指して駆け抜け、障害を排除するのみ。
 まず最初に立ちはだかったのは、豚のような顔をしたオークの兵士。鈍重な動きで剣を振り上げるオークの首を、赤い騎士は一切の容赦なく切り裂いた。



[18136] 一章 白騎士1
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:e700d56f
Date: 2010/05/15 16:30

「グっ!?」

 剣を振りぬいたはずの右腕が何か固いものに弾き返され、男は呻くように声を漏らした。
 戦士としての本能か、男は痛む右手を折りたたむように引っ込めながら立ち上がろうとしたが、膝をついて周囲を見渡したところで自分が居るのが戦場では無い事に気付く。
 視界に入るのは、質素というよりは貧相な有様の部屋。そこが自分に割り当てられた宿舎の一室だと認識した所で、男は自分が寝ぼけていたのだという事に思い至る。

「夢……か。しかも赤い騎士の」

 英雄譚に憧れる少年ではあるまいに、お伽噺の英雄の夢を見るとは。枯れ果てたと思っていた自分にもそんな稚気が残っていたのかと、男は知れず苦笑していた。

「……どうしたんですか? すごい音がしましたよ?」
「ああ。すまん。寝ぼけただけだ」

 遠慮がちなノックと共にドアの向こうから呼びかけてきた声に、男はベッドから下りながら謝意を述べた。
 夢のせいか額に浮かぶ汗を拭いながら窓を開ける。男の顔が辛うじて出せる程度の小さな窓からは大した風景は見えない。しかし室内に入ってくる光は頼りないため、太陽は未だ空に無く、山の向こうを登ってきている最中だという事が知れた。

「はあ、まあ良いですけど。むしろ同じ時間に起きられたから良しとします。朝食の前に馬の世話をしてきますね」
「なら俺も……」
「駄目です」

 同行を申し出ようとした所を拒否されて、男は咄嗟に返す言葉を持たなかった。
 そしてそんな男を無視するように、少年の声は得意そうな調子で言葉を続ける。

「あなたに代わって雑用をするのも僕の仕事だってのに、いつも出遅れてばかりですからね。今日くらいはちゃんと仕事をさせてください」
「む……」

 そう言われてしまっては、返す言葉などますます無くなってしまう。男は相手に見えないと知りつつも、両手を上げながら「まいった」とドアの向こうへと返した。

「じゃあ行ってきますね。マスターはゆっくりしててください」

 返事も聞かずに遠ざかる足音を聞き届けると、男はドアを開け大またで宿舎のそばにある井戸へと向う。目覚めたばかりであるにも拘らず気分が高揚しているのは、先ほどまで見ていた夢が原因だろうか。しかし夢は夢でしかなく、お伽噺はお伽噺でしかない。
 今の時代に竜など存在しない。オークやゴブリンといった亜人たちは姿を消し、異形の魔物たちは人里はなれた秘境へと身を隠し、その脅威は過去のものとなった。

「ふう……」

 井戸に辿り着いた男は、その無骨な手で水を掬い上げると、叩きつけるように顔を洗った。勢いよく飛び散った水は男の短い頭髪を僅かにぬらし、周囲の地面に黒い斑点を残す。

「……」

 水のはられたタライを覗くと、白髪混じりの金髪の男が、皺の浮かび始めた顔をこちらへと向けていた。それを見て気落ちしている自分に気付き、男は知らず笑う。
 冷たい水によって目が覚めてみれば、男は千の軍勢を打倒する若き英雄などでは無く、中年と呼ばれる年齢にさしかかった矮小な存在でしかなかった。当たり前のはずの現実が、男には何故か惨めに感じられた。

「……素振りでもするか」

 夢は夢でしかない。だが夢の中の赤毛の騎士と男には、一つだけ共通する事があった。
 男の名はコンラート。大陸の南西部を治めるピザン王国の騎士である。





「化物ですと?」

 突如聞かされた現実味の無い話に、コンラートの言葉はどこか訝しげな声色を含むものとなってしまっていた。しかし玉座に座る王は気にする様子も無く、むしろ深刻な様相で顔の皺を深くした。

「馬鹿馬鹿しいと、そう思うじゃろう?」
「……いえ」

 老いた王の弱弱しい問いに、コンラートは明確な答えを返す事ができなかった。
 異形のものどもの脅威は過去のもの。彼らは人が足を踏み入れる事を拒むような秘境や、いつ誰が作ったのかも知れぬ闇に包まれた迷宮から出てくることは無い。普通の営みを送っていれば、実際に目にすることなどそうあるものでは無い。

「嘘をつけぬのは、おぬしの美点であり欠点じゃな。儂とて全てを信じたわけでは無いが、化物が出たというグラウハウはあれの領地でな。大抵の事は自分でやってしまうあの子が、珍しく頼ってきたのだから、無視してしまうのはちと心苦しい」
「お察しします」

 気遣いの言葉を返したコンラートは、王が何故自分にこの話をしたのか理解する。
 王の言うあの子とは、第一王女たるゾフィー殿下の事であろう。女の、しかも王女の身でありながら騎士の位を持ち、領地と爵位まで与えられている他国では考えられない立場のお方だ。
 王の三人の子は揃って優秀だが、ピザンでは女性にも王位継承権がある上に、過去の名君に女王が多い。故に次の王はゾフィーではないかと噂されており、それを裏付けるように王は一人娘を何かと気にかけている。
 その王女に信頼できる兵を貸してほしいと言われれば、王としては最も信頼する騎士を派遣しないわけにはいかなかったのだろう。

「では、準備が整い次第グラウハウへ調査に赴きます」
「うむ。吉報を期待している」

 安堵した様子の王に一礼すると、コンラートは無駄の無い動きで玉座を後にした。





 グラウハウとは馬をとばせば王都から一日とかからぬ場所にある、人口百に満たぬ小さな村だ。人々は田畑を耕し日々の糧を得ており、その生活は豊かとは言いがたい。そんな村で化物とやらが目撃され始めたのは、一週間ほど前からだという。
 最初は村の近くの森の中で、狼にしては大きすぎる四足の獣の姿を村人が偶然見かけただけ。しかしそれ以来その獣は頻繁に村の近辺で目撃されるようになり、五日前にはとうとう村人の一人が行方不明になったという。
 仮に化物が単なる巨大な狼だとしても、村人が行方不明となったのは事実である。ならばその化物を討つ事に、何の躊躇いもあろうはずが無い。しかしグラウハウを治めるゾフィー王女は、何故か自身で動かず父である国王に援軍を求めた。

「何故って、単にグラウハウが王都に近かったからじゃないですか? それによく言うでしょ、困ったときの白騎士頼みって」
「……」

 グラウハウへと向う道すがら、自らの従騎士が子供のような笑みを浮かべながら発した言葉に、コンラートは無言で視線を返すと疲れたように吐息を漏らした。
 白騎士と聞けば人は立派な騎士をイメージするかもしれないが、実際には便利屋のようにこき使われる、十五年前に仕官した平民騎士たちの俗称であった。元々はコンラートと同期の三人を指しての言葉であったが、他の二人は雑用など数年で卒業し、誰が聞いても羨むであろう名誉な役職へと就いた。
 故に今では白騎士はコンラート一人。望めたはずの地位を蹴り飛ばし、大した名誉にもならぬ事件解決に国内を奔走する変わり者。それがコンラートという騎士への周囲の評価であった。

「ああ、でもラッキーだなあ、相手が化物とは言え実戦に行けるなんて。他の騎士の下についたって、訓練と警備の繰り返しで経験なんてつめやしないし、マスターの従騎士になって良かったってもんです」
「カール。遊びに行くのではないぞ」
「分かってますよ」

 軽い調子でべらべらと喋る従騎士を、コンラートは意識して重い声で戒めた。それに微塵も不満な様子を見せない少年は、変わり者のコンラートの従騎士をしているだけあり、同じく変わり者なのだろう。

「化物などそうそう出てくるものでは無い。しかし例え相手がただの狼でも、君を戦わせるつもりはないぞ。俺には君を立派な騎士に育て上げる義務がある。すすんで危険に晒すつもりはない」
「えー良いじゃないですか。……あー分かった、分かりましたよマイマスター!」





 道中で一夜明かしたコンラートたちが村に辿り着いたのは、日も登りきらない明け方であった。空気の底に沈殿したような重い冷気は、肌を刺すようにコンラートたちを責め否み、いつの間にか現れた朝霧は不安を駆り立てる。
 なるほどこれならば化物が出てもおかしくない。そんな事を思いコンラートは頭を振った。化物などそうそう出てくるものでは無いと、カールに言ったばかりではないか。


「出涸らしのような茶で申し訳ありません。この村では、茶葉を手に入れることが難しいので」
「いえ、ありがたく」

 村の中心にある小さな教会の中。村の代表だという神官の言葉にコンラートは浅く頭を下げると、目の前に出された茶をすすった。神官の言葉通り、それは白湯のように薄かったが、それでもその温かさは冷えた体には良く効いた。

「化物などと村人は言っていますが、あれは狼なのでしょう。襲われた方の治療をいたしましたが、噛まれた痕も爪の痕も見た事のあるそれと変わりませんでした」
「襲われた者が居るのですか?」

 思いがけぬ神官の言葉に、コンラートは反射的に言葉を発していた。それに神官はゆっくりと頷くと、黒い修道服の袖をまくって見せる。

「この村に来たばかりの頃に、私も痛い目に会いました。ですがそれは狼が飢えていたからの事。普通ならば、人間の不味い肉など彼らは見向きもしません」

 つまりは今この村を襲っている狼たちは普通では無いのだろう。無意識の内に口髭を撫でながら、コンラートは考え込んでいた。
 コンラートとて元は貧しい村の出だ。神官の言っている事は事実であると分かるし、彼からすれば襲ってくるか分からない狼よりも、悪意に満ちた人間の方が余程恐ろしい存在であった。
 では何故? 何故狼たちは抵抗が激しく、食いでもない人間を襲っているのだろうか。

「実は……一昨日ほど前から旅の魔術師が一人滞在しているのですが、その方は何か思い当たる事があるようです」
「魔術師……信用できるんですか?」

 眉をひそめながら放たれたカールの言葉を、コンラートは戒めようとはしなかった。魔術師は魔法という神秘を行使するが、同時に研究者でもある。彼らの多くは禁忌を暴く事こそが己の使命であるかのように振る舞い、時に災厄を振りまく事すらある。
 戒律に縛られ、多くのタブーを持つ教会の神官の中には、彼らを悪魔の使いであるかのように忌み嫌うものが多い。目の前の神官はもちろん、生まれながらの貴族であり信仰心に厚いカールも、魔術師という存在に良い印象は持ってはいないのだろう。

「ご挨拶ね。余計な諍いを起こしたくないなら、口を慎んだら?」

 凛とした声が教会の中に響いた。
 発生源を探そうと慌てて振り返るカール。それに続いてゆっくりと立ち上がり後ろへと向き直るコンラート。いつの間に現れたのか、教会の大きな入り口の前に一人の少女が佇んでいた。
 年の頃は十六か十七くらいだろうか。薄緑色のワンピースのような服の上から外套を纏った体は華奢で、同じ年頃のカールと見比べると性別の差を考慮しても頼りなく見える。
 しかしその金色の髪の隙間から覗く銀色の光を見て、コンラートは彼女を見た目通りの少女と侮る事はできないと判断した。そんなコンラートの様子に気づいたのか、少女は緑色の瞳を丸くすると、すぐに猫のような目をカールに向けながら左手で前髪をかきあげて見せた。

「これを見ても信用できないって言うなら、むしろアンタの無知を哀れむ所だけど、どう?」
「へ……? あ……ええ?」

 困った様子で視線を右往左往させるカールを見て、コンラートは噴出しそうになった。元々高くは無かったであろう少女のカールへの評価が、どん底にまで下がったのがはたから見ても分かる。先ほど一瞬だけ持ち直した少女の機嫌が、今この瞬間に斜面を転がり落ちるように急降下しているのが、ありありと見て取れるのだから。

「カール。あのサークレットは魔法ギルドの党員の証だ。すまないお嬢さん。俺の教育不足だ」
「いいえ、気にしていませんおじ様。でもできるなら、私の事はレインと呼んでくれませんか。その呼び方は嫌な奴を思い出すので」
「では俺の事はコンラートで良い。平兵士と変わらぬ下級騎士だ」
「……カール。カール・フォン・アルムスターだ」

 カールの自己紹介を聞いて、コンラートは再び噴出しそうになる。コンラートに続いて名乗ったカールの声は、不貞腐れた子供のようだったから。





 レインと名乗った魔術師の後ろを追いながら、コンラートは隣を歩くカールの仏頂面を横目で確認し、自分の口元が緩むのを感じた。いつも自分の周りを人懐っこい犬のように動き回っている様子とは、随分と違って見える。
 それも仕方ないだろう。あのレインという少女は気が強く口も達者だ。控えめで男をたてる事を心得た、淑やかな貴族の令嬢しか知らぬカールからすれば、未知の怪物にも等しい難敵だろう。言いたい事を言われ、ろくに反論もできないのでは面白いはずが無い。

「……本当に信用できるんですか?」

 往生際の悪いカールの言葉に、コンラートは今度は隠そうともせずに笑みを向けた。
 魔法ギルドの党員は、自らの行動を常に自問自答し、私利私欲のために力を振るわぬ事を神々の名の下に誓っている。その身分は国によっては神官以上のものとして扱われ、信用という点でも戒律に縛られた神官と同等だろう。
 その程度の事はカールも知っている。故に、信用できるかというのは少女個人の事を指しての事だ。

「真っ直ぐとした気性のようだし、嘘を平然とつけるような子ではあるまい。本音を隠さないのは問題ではあるがな」
「……」

 最期に付け加えられた言葉を聞き、カールは苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。

「余程の箱入り娘で無い限り、女性というのは強かなものだ。それでも女性をか弱きものとして扱うのが男というものだぞ」
「……まさかマスターから女性の扱いを教わるとは思いませんでしたよ」

 苦虫を噛み潰していた顔が、豆鉄砲をくらった鳩のように変化するのを見て、コンラートは浮かべていた笑みを苦笑へと変えていた。カールが驚くのも無理はない。コンラートは女遊びなどしなかったし、何よりこの歳になって未だに独り身なのだから。
 無論コンラートが男色だというわけでは無い。ただ愛した女性がいささか強過ぎ、コンラートは一途過ぎた。思いを振り切れぬうちに、いつの間にか三十路を越えていたのだ。

 大体相手も性質が悪い。様々な騎士や貴族に言い寄られながら靡きもせず、しかしコンラートには気安い口をきく。もしかしたらと、望みがあるのではと、男だったら思わずにはいられまい。
 コンラートは彼女の歳を知らないが、出会ってそれなりに経つのだから、それなりの歳なのは間違いない。男の自分はともかく女の身でどうする気だと、勝手な心配までしてしまう。

「コンラートさんの女性関係も気になるけど、今はこっちに興味を示してくれないかしら」

 目的地についたのか、クルリと振り返って呼びかけてきたレインの声に、思い人への不満を考えていたコンラートの意識が現実へと戻ってくる。
 そこは村からそう離れてはいない場所に広がる森の入り口であった。背の高い針葉樹ばかり生えた森は薄暗く不気味で、何より何処からか漂ってくる異臭が胃に負担をかけてくる。

「なんだいこの臭い?」
「見れば分かるわよ。そこの木の裏」

 鼻を摘んでいるせいか妙な声を出すカールに、レインは臭いなど感じていないのか平然とした様子で持っている杖で近くの木を示した。それに従って木の裏側に回りこんだカールが、何を見たのか大きく目を見開き鼻ばかりか口まで手で覆ってしまう。

「……これは、見事なものだな」

 それは一体何を指した言葉だったのか、発言者であるコンラートにも分からなかった。
 レインの示した場所には、地面に縫い付けられた狼の死体があった。しかしその体を貫いているのは剣とか槍とかでは無く、人間の頭くらいの太さを持つ氷柱。それは余程の冷たさなのか、陽が登っているというのに溶ける様子を見せず、むしろ狼の死体の表面を薄く氷付けにしていた。

「昨日の夜に村に入り込もうとしてたから、追い掛け回してしとめておいたんです。まあその後に他の奴らに囲まれそうになったから、適当に蹴散らして慌てて逃げたんだけど」
「無茶をする。森のもっと深くまで誘われていたら、命が無い所だ」

 そう言いながらも、コンラートは内心でレインの評価を高くしていた。
 狼の体を易々と貫く氷の魔術。実戦でそれを成し、しかも多数の狼に囲まれ傷一つ無く逃げおおせてみせる。少なくともこの少女はカールのような見習いでは無い、戦いを知る一人前の魔術師だ。

「む? 昨夜しとめたならば、この腐臭は一体」
「そう、それなんです」

 コンラートの疑問に答えるように、レインは手にした杖の先端で狼の毛皮を撫でた。すると毛皮はナイフでも入れられたように簡単に引き裂かれ、辺りに漂う匂いが濃くなる。その事から間違いなくこの死体が腐り始めている事が知れた。

「一晩で腐ったっていうのかい? そんな魔法でもあるの?」
「あるわけ……いえ、あるにはあるわね。でもこの臭いは、私がこいつをしとめる前からしてたわよ」

 つまりこの狼は、レインと追いかけっこをしていた時には、既に腐り始めていたという事になる。体の一部に酷い怪我を負い、腐り落ちる事はあるだろう。だがこの狼は、一部どころか全身くまなく腐っている。

「アンデッド……か。なるほど、これは厄介だ」

 答えに辿り着いたコンラートは、騎士である身には荷が重い敵を思い吐息を漏らした。しかし同時に感謝した。アンデッド等という正真正銘の化物と戦える、魔術師の少女が偶然ながらもこの場に存在する事を。
 そしてこの騎士と魔術師の偶然の出会いは、後の世に大きな影響を残す事になる。



[18136] 一章 白騎士2
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:e700d56f
Date: 2010/08/31 13:51
 敵の正体が分かったところで、コンラートにできる事は少なかった。
 アンデッドは普通の武器では倒せない。その体を操っている怨念なり魔力なりを断たない限り、彼らは心臓を貫かれようが頭を潰されようが活動を続ける。全身を潰してしまえばさすがに動きようが無いが、そんな暇などありはしないだろう。
 アンデッドへの有効な攻撃は少なく、魔術や魔法の武器で霊的なダメージを与えるか、破邪の力を持つとされる銀製の武器を使うかに限られる。そしてこの場に魔法の武器も銀製の武器も無い以上、頼れるのは魔術師であるレインだけであった。

「うーん。一晩でこんなに劣化するなんて、やっぱり向いてないのかな私」

 そう呟きながら地面に刺さった杭を睨みつけるレインを、コンラートは興味深げに眺めていた。結界の基点だという杭は手の平に収まる程の大きさで、それらが三歩……歩幅の大きいコンラートならば二歩程の間隔で埋められている。それが小さいとは言え村全体を囲んでいるらしい。全部で何本あるのか、コンラートは数える気にもならなかった。

「もうこれならやり直した方が早いわね。カール水汲んできて」
「はあ? 何で僕が?」
「他に誰が居るのよ。まさかコンラートさんに行かせるつもり?」
「う……」

 反論にあっさりと正論で返され、カールは呻くような声を漏らすと素直に踵を返した。さらに言い返さないあたり、カールも根が素直という事だろうか。先ほどの口答えも、不機嫌なために反射的に返してしまっただけであり、レインを殊更邪険に扱うつもりは無いのかもしれない。

「すまぬな。いつもはもっと素直なんだが」
「あれが? ……いえ、私の言い方にも問題ありますよね。どうも同年代にはキツイ話し方をしてしまって」
「ほう?」

 意外とも言えるレインの態度に、コンラートは感心した様子で小さく声を漏らした。
 出会って短い時間でコンラートがレインに抱いた印象は、とにかく真っ直ぐな娘だというものだ。よく言えば純粋、悪く言えば短気。そして真っ直ぐである故に、悪意を向けられればそれが小さなものでも反抗してしまうのだろうと。
 しかし今見せた自身の行動を省みる謙虚さは、短気の一言で彼女の性格を表すのは失礼だったとコンラートに思わせた。

「歳の近い知り合いが一人しか居なくて、その子がまた口が悪いんです。それで仲良く喧嘩するのが当たり前になってて……」

 話しているうちに気分が沈んできたのか、レインは地面に突き立てた杖に持たれかかるように額を乗せた。

「私昔から全然友達ができなくて。実家の都合のせいだと思ってたんですけど、もしかして性格悪いのかな私……。「何でそんなに生意気なの?」って言ったら「おまえもだろ」って返されたし……」
「ふむ……」

 どこでスイッチが入ったのか、レインは顔を地面に向けたまま延々と愚痴り始める。それを隣で聞いていたコンラートは、困ったように口髭を右手で撫でた。
 困るといえば困るのだが、こういった感情は一度吐き出し始めたら全て吐き出した方が良い。そう判断し、コンラートは時折相槌を打ちながらレインの愚痴に付き合った。

「……それ何の呪いだい?」

 レインが額でグリグリと杖を押し、このままでは物理的に沈んでいくのではないのかと思われたとき、両手に水の入った桶をぶら下げたカールが帰ってくる。そしてレインを見るなり訝しげな視線を向けたが、彼女の怪しげな謎の動きを見れば当然だろう。

「……地脈の流れを感じてたのよ」

 堂々と偽りを言い放つレインに、コンラートは拍手を送りたくなった。落ち込み始めたときには心配したが、この様子なら恐らく大丈夫だろう。
 しかし当分はレインとカールが打ち解ける事は無さそうだと思うと、口元に苦笑が浮かんでしまう。そういった意味では、この少女の愚痴を聞かせてもらったのは、ある意味光栄な事なのかもしれない。





 村を守る結界を構築する作業は、コンラートにとってはともかくカールには退屈なものであった。村の外周を回りながら、手の平に収まる程の大きさの杭を抜き、よく洗った後にレインが埋める。それを延々と繰り返すという、とても地味で根気の要る作業だ。

「さっきから何やってんだいそれ?」
「結界の基点を作ってるのよ。魔力を効率よく通すための目印でもあり……要するに水を流すために水路を作るみたいなものね」

 そこまで言うと、レインは実演して見せるように木の杭を両手で握り、祈るような動作をした後地面へと埋めた。

「何か地味だなあ。呪文だけ唱えてパパッと終わらないの?」
「呪文唱えて「はい終わり」っていうのは、何らかの短期的な現象を引き起こす魔術に限られるわ。結界とか魔力付加みたいな効果が持続する魔術は、事前の準備をしっかりしてないと、効果がすぐに切れちゃうの。私にワンちゃんたちが居なくなるまで呪文唱え続けてろって言うの?」
「はあ、銀の短剣でもあれば、その間に僕が退治してやるんだけどね」

 そう言って架空の剣を握り締め、剣舞を見せるカール。鍛えたかいがあるというべきか、その動きはコンラートから見ても及第点を与えられるものだ。しかしレインの目にはどう映ったのか、彼女はしばらくキョトンとした様子でカールを見つめると、唇の端を持ち上げて人の悪そうな笑みを浮かべた

「そうね。もしもの時は頼りにしてるわ騎士様」





「――父なる天、母なる大地、そして四方を守護する偉大なる神々よ」

 胸の前に杖を掲げ、歌うように言霊を紡ぐレイン。その姿には先ほどコンラートに見せた弱さは見受けられず、集中するためか目を閉じた顔は、見るものを惹きつける美しさすら感じられた。

「――私の願いを聞き届けてください。慈悲深き女神の子たる私たちをお守りください」

 空気が変わったのが、コンラートにも分かった。この村に来た時は、結界の存在に気づきすらしなかったコンラートにそれが分かったのは、単に目の前の少女の空気に呑まれた故の錯覚だったのかもしれない。
 しかし結界がはられたのは間違いないらしく、それまで口以外はまったく動かさなかったレインが、大きく息を吐きながらコンラートたちの方へと歩み寄ってきた。

「これでアンデッドは勿論、悪魔だとか魔物だとかいった悪しきものは村に入れません。まあ私には信仰心なんて雀の涙ほどしか無いから、神様に見放される可能性もありますけど」
「え……? 今のって神聖魔術だったのかい?」

 今更気付いたといった感じで驚いてみせるカール。だがそれも仕方が無いかもしれない。
 神聖魔術とは神々への信仰心を力の源とする、本来ならば神官の得意とする魔術だ。この村の神官は魔力が少ないために使う事ができないが、だからと言って魔力があるから使えるというものでもない。
 本人は否定しているが、神聖魔術が神聖魔術として成り立っているのは、術者であるレインに確固たる信仰心があることの証だ。

「今のは基本にして最高と言われる結界魔術よ。境界の内を女神の御座す場に見立て、女神を守る四柱の神の力を借り聖域と成す」
「へえ、神様も随分と太っ腹だこと」
「まったくね」

 ニヤニヤと嫌らしい笑いを浮かべながら言うカール。しかしあっさりと肯定で返され、その笑みは戸惑ったものへと変わる。カールからすれば、出会った瞬間から衝突していた相手の態度が突然軟化したのだから、わけが分からぬだろう。戸惑うのも無理はないが、事情が分かっているコンラートから見ればそれも微笑ましい光景だ。

「さて、これで村の安全は確保できたが、狼たちはどうする? できる事があるなら無論手伝うつもりだが」
「そうですね……」

 狼たちは夜になると村にやってくる。レインが二日前に結界をはってからはそれも不可能となっていたのだが、それでも彼らは村の周囲をうろついているのだという。
 もしレインが結界をはっていなければ、いくら戸締りをしても村人は安心しきれず、無謀な行動に出ていたかもしれない。村人たちの精神は、篭城している兵のようにすり減らされていた。

「結界越しに魔術を使ったら、境界線を侵食してしまう可能性があります。迎撃するにしても結界の外に出なければならないし、そうなると狼たちも襲ってくるでしょうね。コンラートさんはアンデッドと戦った経験は?」
「十五年前のキルシュ以来だが、まあどうにかなるだろう」
「え? キルシュ防衛戦に参加してたんですか?」

 レインの言葉にコンラートは無言で頷いた。それを見たレインの顔に影が差したのは、恐らく伝聞で当時の状況を知っているからだろう。
 無差別に人々を蹂躙しながら進軍する死者の群と、それを食い止める軍人や傭兵、義勇兵たち。コンラートが騎士に任じられたのは、その時の活躍を評価されたためだが、それを誇る事ができないほど失われたものの多い戦争であった。

「それなら、コンラートさんは大丈夫ですね。ついでにカールも、頼らせてもらって良いかしら?」
「いや……できればそうしたいんだけどね」

 コンラートに言われた言葉を思い出したのだろう。カールは困ったようにレインから視線を反らすと、コンラートへ懇願するような目を向けてくる。それだけでレインは事情を察したのか、呆れたような声を出す。

「過保護過ぎませんか? アンデッドと言っても下位、殺せないだけで普通の狼とそう違わないし、鎧をちゃんと着てれば死にはしないと思いますけど」
「む……それはそうだが」

 過保護と言われて、コンラートは言葉につまった。カールはコンラートにとって恩のある貴族の次男坊であり、初めて引き受けた従騎士でもある。心の底に遠慮が無かったと言い切る事はできない。
 それにコンラートの身に着けている使い古したブリガンダインとは違い、カールの鎧は全身を覆うプレートアーマー。狼の牙など通さないであろうし、オーダーメイドのそれが致命的なまでに動きを妨げる事は無いだろう。確かに心配し過ぎなのかもしれない。
 何よりも、自分と同年代の少女が戦っているのを前にして、ただ何もせずじっとしていろというのも酷だ。多少危険でも、戦わせてやった方が良い結果を招くかもしれない。

「……そうだな。俺一人が頑張っても、狼全てを相手にはできまい。レインに近付く狼はカール、おまえが止めるんだ」
「え……? は、はい。頑張ります!」

 何を言われたのか分からなかったのか、カールは間の抜けた声を返した。しかし少ししてコンラートの言葉を認識したのか、背筋をピンと伸ばし、はりのある声で返事をした。

「あ、ありがとな」

 レインに向かい礼を言うカール。それにレインは見惚れるような笑みを返した。 

「大丈夫。誰にでも初めてはあるから。……そう言って私の先生は、暗くて何か変な臭いのする迷宮に私を引きずり込んだわ。何とか生き残れたけど、今でもトラウマよ」

 抜け落ちるように表情が消えていくレイン。それを見たカールは引きつった顔をコンラートへ向ける。コンラートの顔も若干こわばったものだったが、それでも激励するようにカールの背を叩いたのは年長者の余裕であった。





 日が落ちてしまえば、人々は眠りにつくのが当たり前の事となっている。それは暗闇の中でできる事は少なく、あえてするような事も無いため。そして何より、明かりを灯すための油も勿体無いからであった。
 しかし太陽が姿を消し、月が地を見下ろすようになっても、グラウハウの村人たちは眠りについていないらしい。時折家のドアや窓がそっと静かに開き、コンラートたちの様子を窺っている気配がした。

「頑張ってくださいの一言くらい無いんですかね。遠巻きに眺めて視線すら合わせないなんて、感じ悪いったらありゃしない」
「そう言うな。何もこちらを嫌っての行為ではないだろう」

 カールを嗜めるコンラート。しかし彼も村人たちの様子に、不満が無いわけではなかった。
 騎士や貴族といった存在を、畏怖する人間は少なからず居る。そこに魔術師まで加われば、警戒するなという方が難しいだろう。

「……」

 視線を村の反対側へ向けてみれば、結界の境界線に立つレインの後姿が見える。彼方に見える森を睨め付けて動こうとしないその姿は、背後にあるものを拒絶しているように見えた。
 魔法ギルドの党員と言っても、他の魔術師と変わらぬと考える者は多い。このような扱いに、レインは慣れているのかもしれない。コンラートにはそれが腹立たしく思えた。

「……来ました!」

 森を見続けていたレインが叫ぶ。コンラートとカールも慌てて駆け寄りながら視線を向けると、森の中から幾つかの影が出てくるのが見える。それらの影は迷う様子も見せず、一直線にこちらへと向かって来ていた。

「まずは大き目の魔術でまとめてやります。残りは一匹ずつ狙いますから、フォローをお願いします」
「了解だ」
「分かった」

 結界から歩み出たレインを守るように、両脇に二人の騎士が立つ。その姿を認めたのか、狼たちはただ一点を目指し一つの影となって駆ける。

「――氷の精霊よ。古の契約に従い、我が声に応えよ」

 祈るように杖を掲げるレイン。その口から呪文が紡ぎ出され、淡い光に体が包まれる。
 魔術において重要なのは意思であり、呪文はただの言葉だとコンラートの知る魔術師は言っていた。だが実際に耳を通るレインの声は、強い力を感じさせる。あるいはそれこそが、声に意思を乗せるという魔術師の力なのかもしれない。

「うわあ……来てる。来てるよ」
「――集い満たせその身にて、汝ら儚くも美しい」

 狼たちは近付いて来る。後十秒としない内に接触するであろう時になって、カールが情けない声を上げた。しかし肝心のレインは焦る素振りも見せず、憎らしいほどゆっくりと詠っている。

「――大気よ、凍れ」

 それは短く、シンプルな言葉だった。ただそれだけで、間近に迫っていた狼たちを閉じ込めるように、大地に巨大な氷の花が咲いた。

「――氷の精霊よ」

 なおもレインが呪文を唱えるのを聞き、一瞬呆けていたコンラートは剣を握りなおし走った。小さな小屋ほどの大きさはあろう氷の檻に、とらえきれなかったものが居る。散り散りになっている今が機だ。攻撃を受けても怯まないような連中にまとめて来られると、さしものコンラートでも分が悪い。
 狼に近付くにつれ、獣の臭いと腐肉の臭いが混ざり合った、嗅いだだけで胃液が逆流しそうな臭いが漂ってくる。人と狼の違いはあるが、アンデッドと相対した経験が無ければこれだけで戦意を喪失していたかもしれない。それほどまでに臭いは酷いものだった。

 腐敗が進んでいるのか、腹から腐肉をぶら下げている一体が、コンラート目がけて跳びかかる。所々毛皮が剥がれ落ち、肉を露出させているその狼は、村人の証言通りコンラートの知る狼より一回りも二回りも大きい。しかしコンラートは相手の大きさなど関係無いとばかりに、剣を両手で握り渾身の力でもって叩き落した。

「――貫け!」

 頭蓋の中身をぶちまけ、それでも立ち上がった狼の体を、後方から飛来した氷柱が打ち抜いた。返り血がコンラートの顔に付着し、辺りに漂う腐臭が強くなる。しかしそれを気にする余裕は無かった。コンラートは喉元に食らいつこうとした狼の足を切り落とし、遠ざけるように蹴り飛ばす。
 敵わないと判断したのか、残りの狼が慌てて森へと引き返す。しかしそれらはコンラートが追うまでも無く、虚空より発生した雷にうたれて硬直し、そのまま地面へ倒れた。

「ほう」

 足に食らいつこうとした狼の首を刎ねながら、コンラートは感心した様子で声を漏らした。コンラートに向かってきた狼より、逃げる狼を優先する。相手を全滅させる事が重要である以上、それは正しい。しかしコンラートを信頼していなければ、あっさりと彼の周囲に居る狼を後回しになどできなかっただろう。

「――凍れ!」

 また一体、最初より小さな氷によってその身を閉ざされた。予想していた以上の手際の良さに、コンラートは何度目か分からぬ感嘆の声を漏らす。
 判断に迷いが無い。そして迷いが無い故に速い。それはもしかしたら、先生とやらに迷宮に引きずり込まれた時に身についた、生き残るための決意なのかもしれない。

「き、来た!?」

 カールの怯えたような声が響く。見れば先ほどコンラートが蹴り飛ばした狼が、カールとレイン目がけて駆け出していた。足を一つ失っているはずのそれは、不気味なほどの速さで二人に迫る。
 コンラートが今から向かっても間に合わない。いや、元より間に合わせるつもりなど無かった。その狼がカールたちの方へと向かっているのに気づきながら、コンラートは他の狼を優先したのだから。あるいはレインもコンラートの思惑に気付き、その狼への対処を後回しにしたのかもしれない。

「う……うわあ!!」

 足を無くしても構わず動く狼に、カールは怯えながらも自ら向かっていった。しかし両手で力任せに振り下ろした剣は、狼には当たらず地面を砕き、辺りに土が飛び散る。
 薪を割るのではないのだから、そんなに大振りをしてどうするのだ。そうコンラートは苦言を漏らしそうになったが、その場は黙ってカールの戦いを見守った。カールも目の前の相手に集中しているのか、コンラートに助けを求めようとしない。我武者羅に、だが次第にいつも稽古でやる通りに、必死に剣を振り回し狼を寄せ付けまいとする。
 剣が何度か狼に当たり、その姿を形容しがたいものへと変えていく。それでも牙を剥き続ける狼。アンデッドゆえか、体を省みない突進がカールに届きそうになった所で、それまで停滞していたレインの声が響いた。

「――貫け!」

 横合いから飛んで来た氷柱に、狼は弾き飛ばされ地面をバウンドしながら転がった。それきり動かなくなったのを見て、剣を青眼に構えたままのカールが尻餅をつくように座り込む。張り詰めていた糸が緩んだのだろう。

「無事かカール?」
「……無事ですよ。色々納得いきませんけど」

 頬から滴り落ちる程の汗をかいたカールにジト目で見上げられ、コンラートは苦笑するしかなかった。当たり前といえば当たり前だが、カールはコンラートがわざと狼を逃がしたのに気付いていたのだろう。それはレインに過保護と言われ、コンラートなりに考えた結果の行動であった。しかし当の少女は、座り込んだ少年と似たような視線をコンラートへと向けてくる。

「わざわざ危険を減らしてやるなんて、やっぱり過保護じゃないですか」
「む……」

 そう言われてしまえばコンラートに返す言葉はない。レインの師のようにいきなり迷宮へ叩き込むのはやり過ぎだが、いささか温かったのは事実である。

「はいはい、どうせ僕は臆病だよ。無我夢中で剣振り回して、はたから見れば滑稽だったろう」
「そんなわけ無いでしょう。一所懸命戦ってる姿のどこが滑稽なのよ」

 その言葉を聞き、カールは呆けたように動かなくなってしまった。否定されたのが意外だったのか、それを言ったのがレインであったのが意外なのか。どちらにせよ言った本人は納得いかなかったらしく、拗ねたように視線を反らした。

「さあ終わったって村の人たちに知らせないと。行きましょうコンラートさん」
「え? あ、ごめん! じゃなくてありがとうなのか? とにかくごめん!」

 まるでそこに存在しないかのように横を素通りされ、カールもようやく相手の機嫌を損ねたと悟ったらしい。足をもつれさせながらも慌てて立ち上がり、謝罪と礼を繰り返す。
 その光景を眺め、コンラートは笑みを浮かべながら感心していた。友達ができないのは、自分の性格が悪いからではないかと悩んでいたレイン。しかしそれは本人の考えすぎだったらしい。今のレインとカールの関係は、友人のそれと変わらないのだから。
 そうなるともう一つの原因である「実家の都合」とやらが気になるが、聞くのは野暮だろう。コンラートは開きかけた口を閉じ、レインとカールの……仲良く喧嘩する二人の後を追った。





「アンデッドか。他にもいるやもしれんが、何よりも如何にして湧き出たものか。……調べる必要がありそうじゃな」

 コンラートの報告を聞き、王は頬杖をつきながら言った。
 余程の強い未練を残さない限り、死体が独りでに蘇るという事は無い。何より人間ほど知能の高くない動物は死の際に怨念が残り辛く、外的な要因が加わらない限りアンデッド化する事はまず無いと言われている。何者かが意図的に狼をアンデッド化させた可能性は極めて高い。

「それで共闘したレインという魔術師じゃが、容姿はどのようじゃった?」
「年の頃は十六程で、胸元辺りの長さの金色の髪。背はそれなりにありましたが、魔術師らしいというか細身でしたな。しかし報酬はいらぬと本人が申しておりましたが」
「むう……」

 説明を聞いて唸る王を、コンラートは訝しげに見つめた。王は特に魔術師に隔意は無いはずだが、何かしら懸念でもあるのだろうか。

「どうかなされましたか?」
「いや。この数年でおぬしの強運も尽きたかと思うたが、まだまだ健在のようじゃと思うてな」
「確かに。グラウハウに魔術師が滞在していたのは幸運でありました」
「うむ。……ご苦労であった。下がって良い」
「ハッ!」

 退室の許可を得たコンラートは、気になる事はあったが詮索はせず素早く王の前を辞した。その場に他の臣下は居らず、玉座に腰かけた王のみが残される。

「ジレントの姫君とは。さて、どう借りを返したものか」

 困ったような、しかしどこか楽しげな声で王は呟く。
 ジレント。それは小国ながら決して無視する事ができない力を持つ、ピザン王国の北に位置する国の名前であった。



[18136] 二章 裏切りの騎士1
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:e700d56f
Date: 2010/11/09 13:18
 コンラートという騎士は、有能ではあったが世渡りの上手いタイプでは無かった。あからさまな侮蔑の視線や罵りを黙らせる話術も無ければ、不和を解消し味方にするような要領の良さも無い。騎士となって十年以上経つ今でも、コンラートの事を侮り妬む者は多い。
 そんなコンラートが今まで平穏無事にやってこられたのは、王を始めとする王族や貴族が、彼の剣の腕や人柄を高く評価し、強力な後ろ盾となってくれたからに他ならない

「おお、来たかコンラート」
「召致に応じました……が、お忙しそうですな陛下」

 王の執務室へと足を運んだコンラートが最初に目にしたのは、丈夫そうな樫の木の机の上に、所狭しと並べられた紙の群であった。その有様にコンラートは呆気に取られ、思わずといった感じで呟く。それに対し王は皺を深くしながら苦笑を返した。

「よく目を光らせておらんと、何やらよからぬ事を企む輩も多くてな。おぬしもその事は身にしみておろう」
「はい。何度申しても、陛下は私を間者か何かと勘違いしておいでのようなので」

 何やらよからぬ噂が聞こえてくれば、その真偽を確かめるよう命じられるのはコンラートであった。無論一介の騎士に過ぎないコンラートにできる事は限られるが、いつの間にか騒動に巻き込まれ、いつの間にか領主の不正を暴いているという事が何度かあった。
 全てはコンラートの正義感と強運の成せる業だろう。しかしだからと言って「何かやらかしてくれるかもしれないから、とりあえず送っとけ」という風にあちこち走り回らされては、コンラートとて文句の一つや二つ出てくる。

「そう言うな。そういえばおぬしの従騎士、アルムスター公の倅じゃったな。此度の叙任式に間に合うか?」
「問題無いかと。精神的に未熟な所もありますが、齢を省みれば仕方の無い事。心乱れようとも、体が自ずと動く程度には鍛え上げています」
「そうか。大儀であった」
「ハッ」

 返事をしたものの、コンラートは王の言葉に疑問を持った。カールをコンラートに預けたのはあくまでアルムスター公であり、王の意思は介在していない。労いの言葉を受ける理由は無いはずだ。
 コンラートの思いを知ってか知らずか、王は頬杖をつくと何も語らなくなった。何を考えているのか時折眉がピクリと動き、次第にその表情は厳しいものへと変わっていく。
 一体何事なのか。沈黙と王の様子にコンラートが耐えかね口を開きかけたところで、王の重い声が執務室に響いた。

「コンラート。これから話すこと、おぬしには不快かもしれぬが心して聞いて欲しい」
「……ハッ」





「――ここに願う。彼らが信仰を胸にあらゆる暴虐に抗い、全ての弱きものの守護者となる事を」

 王の前に跪く従騎士の姿を、コンラートは様々な思いを噛み締めながら見つめていた。
 王宮のすぐそばに位置する大聖堂には、その日多くの王侯貴族と騎士とが集っていた。ある者は自らの子の晴れ舞台を、ある者は自らの配下となる兵の御披露目を、そしてある者は自らの従騎士が巣立っていく姿を見るために。

「――今まさに騎士とならんとする者よ。道を誤ることなかれ。教会の下祈る人々全ての守護者たれ」

 正面のステンドグラスに描かれた女神の姿を通して、光が騎士たちを祝福するように包み込んでいる。その女神の名を、コンラートは知らない。
 祭壇の前に立つ王の言葉を、彼らはどれほどの間覚えていられるだろうか。先の戦から十年以上も平和が続き、そしてこれからも続いていく中で、その力を守るはずの人々に向けずにいられるだろうか。
 王都から離れた地に暮らす人々は王の名など知らない。神官でない人々は女神の名を知ろうとしない。実感の得られない言葉は時と共に心から零れ落ちていく。

「何辛気臭い顔してんだい。このめでたい席で」

 囁くように呼びかける声があって、コンラートは少しだけ首と視線を横へと動かす。そこには金色の髪を肩口で切りそろえた、女騎士の横顔があった。女の名はリアといい、コンラートと同じ平民上がりの騎士である。
 コンラートから見える右目は、何かを睨むように薄く開いている。しかしその目は意図したものでは無く、それ以上開かないのだという事をコンラートは知っていた。彼女が誰にも話そうとしない、原因となった怪我の理由も知っている。その程度には、コンラートとリアは付き合いが長かった。

「独りで居た時期が長かったからな。家族が居なくなるようで寂しいのかもしれん」
「だったら嫁さんでも貰いなよ。騎士だって言うだけで、十以上も年下の女だって寄ってくるだろうに」

 叙任式は未だ終わっていないため、二人の声は自然と小さなものになっていた。それに反応するように、周囲の目が二人へと集まり始める。
 しかしその視線に咎めるような色は無く、むしろ興味深げに見ているものが多い。それに気付いたリアが、楽しそうに唇の端を持ち上げる。

「平民騎士が並んでると目を引くね。その平民騎士に息子を預けた物好きは、アルムスター公爵だっけ?」
「ああ。俺を気にかけるだけでなく、よほど信頼してくれているらしい」

 コンラートがそう答えたところで、人々から小さな声が漏れた。何事かと視線を祭壇へと戻すと、カールが退いた王の前に一人の赤毛の少年が跪くところが見える。
 王の髪も赤いが、少年のそれはいささか赤さの度合いが違う。王が炎ならば少年は血。人によっては不気味に感じるほど、見慣れない髪色だ。

「あれが王弟殿下ね。名前は……何だっけ?」
「ヴィルヘルム・フリードリヒ・カイザー・フォン・ピザン。第二王子と名が重なっているため、カイザー殿下とお呼びするのが適当だ」

 王侯貴族特有の長い名前を聞き、リアは「あっそ」と興味を欠片も示さず流す。

「まだ十四歳だろ。例え王族でも騎士は飾りじゃ無いんだ。ちゃんとやってけるのかね」
「やっていけると判断した故の今だろう。並程度にも育っていないならば、責任者の首が飛ぶ。万が一飾りにしかならぬなら、物理的な意味でも飛ぶだろう」
「あいつの首が飛ぶのかい? そりゃ見てみたいね。私はあいつが死ぬとこなんて想像もできないよ」
「俺にもできんさ。それ以前に、彼女の教え子が並程度で終わる事も想像できん」
「それもそうだ」

 そう言い合って、二人は声を出さずに笑った。





 叙任式が終わった後には、新人騎士たちは賜ったばかりの武器や防具を身に着けて、騎馬試合に臨むのが通例であった。騎馬試合といえば団体戦が主となるのだが、新人騎士たちに連携を求めるのも酷であるため、基本的には一騎打ちのみが行われる。

「我が名はカール・フォン・アルムスター! 我こそはと思うものは名乗りをあげろ!」

 普段は騎士たちが訓練に使う、王宮の一角にある広場。人でできた生垣の中心で、騎乗したカールが吼えるように声をあげる。そしてそれに応えた若い騎士が、悠然と人の群の中から進み出る。
 誰かが名乗りをあげ、誰かがそれに応える。例え試合であっても、一騎打ちの際にはこのやり取りが不可欠とされている。

「またアルムスターの息子が勝ったぞ!」

 二人の騎士がすれ違った瞬間、片方の騎士が体勢を崩し馬から落ちる。敗者となった騎士は相手の攻撃を盾で防いだが、勝者であるカールの槍の一撃は重く防ぎきれなかったらしい。

「さすがはアルムスター公のご子息だな」
「師は白騎士コンラートか。ならばあの技量と胆力も納得だ」
「何を馬鹿な。カール殿の才あっての事だろう」

 周囲から漏れ聞こえる声は、カールの力を褒め称えるものもあれば、指導者であるコンラートを持ち上げるものまで様々であった。先ほどから試合がカールの独壇場である事を考えれば、その称賛は当然のものだと言える。
 惜しむらくはカールの父であるアルムスター公がこの場に居ない事だが、この様子ならば胸をはって彼の人の前に立てそうだとコンラートは内心で安堵する。

「我はカール・フォン・アルムスター。我こそはと思うものは名乗りを上げよ」

 もう六度目となるカールの名乗りに、応える者は居ない。連戦で体力を消耗している以上挑む側が有利なはずなのだが、それでも挑戦者が現れないのは、カールの実力が此度に叙任を受けた騎士たちの中では飛び抜けているためだろう。
 このままでは、誰かが大人気ない真似をする事になるかもしれない。そう思われたところに、一人の少年騎士が騎乗してカールの前へと進み出た。それを見た人々の間から、驚きと好奇を含んだ声が上がる。

「我はカイザー・フォン・ピザン。お相手する」

 王弟殿下の静かな名乗りに、周囲の者たちは喝采を上げる。
 十四になったばかりのカイザーの身長は、新人騎士たちの中でも頭一つ低い。そんな体で連勝中のカールに勝てるのかという疑問と、もしかしたらという期待が人々の中で湧き上がる。
 ほぼ同時に二人の馬が走り出し、広場の中心で交差する。すれ違うたびに打ち合い、再び距離をとると反転し相手目がけて馬を走らせる。それは一般的な一騎打ちの光景だったが、一つだけ奇妙な事があった。
 カールの突きを、カイザーは苦も無く槍で弾いている。カールの槍の力の流れを変えて受け流しているだけの事だが、十四歳の少年がさも簡単そうにやってのけるものでは無い。
 カイザーの才と努力が並では無いのか、それとも師が良かったのか。どちらにせよこのままではカールは負けるだろう。

「クッ!」

 焦れたカールが槍を持ち直し、カイザーの体目がけて薙ぎ払う。突きは通じないと判断しての行動であったが、それは裏目に出る。渾身の一撃はあっさりとカイザーの槍で打ち上げられ、次の瞬間には体を大きく傾けて馬から滑り落ちていた。
 相手の攻撃を弾いた後、石突で体を押す。カイザーがやった事は言葉にすればそれだけの事だが、二つの動作は流れるように無駄が無く、鮮やかだった。

「み、身代金が……」

 肩を落とし、馬を引きながらコンラートの所へやってくるカール。その様子に思わず笑ってしまったのは仕方ないだろう。
 騎馬試合の勝者は、敗者に「身代金」を要求する権利が与えられる。それは名前の通りに金はもちろん、武器や防具あるいは馬まで対象になる。
 金銭の場合は敗者の身分で金額が決まる。公爵家の人間であるカールは、買った時の収入より負けた時の支出が多くなる場合が殆どだ。一度の敗北でも手痛いものになったのは間違いない。

「残念だったな。しかし相手が悪い。正に神童と言うほか無いな」
「いえ、僕も調子に乗ってました。戦場に出たら歳なんて関係ないし、殿下みたいなのがたくさん居るんだから精進しないと」

 あんなのがたくさんいてたまるか。そうコンラートは思ったが、せっかくやる気になっているのに水をさす事も無いと思い口をつぐむ。

「……さすがにあれを見て挑もうとする者も居ないか」

 カールとカイザーの居なくなった広場は、新たな戦士の登場を待ちうけているが、誰も進み出ようとしない。カイザー自身が名乗りを上げていないとはいえ、今出れば呼応するのはカイザーである可能性が高い。皆尻込みしているのだろう。
 ただの腕試しならともかく、試合で負ければ身代金をとられてしまう。無謀な挑戦をする者は居ない。

「……」

 カイザーの方へコンラートが視線を向けると、それを見つめ返す瞳があった。カイザーのそばに控える小麦色の肌の騎士。遠目からでも目立つ赤い瞳が、コンラートを見つめていた。

「カール。槍を貸してくれ」
「え? ……まさかカイザー殿下と戦うつもりですか?」
「そんなわけが無いだろう」

 言外に「大人気ない」というカールに、コンラートは苦笑しながら兜をかぶる。そして騎乗してカールから木槍を受け取る頃には、目当ての人物も木槍を片手に馬上の人となっていた。
 申し合わせたように、二人の騎士が広場の中央へと進み出る。いつの間にか周囲は静寂に包まれ、一挙手一投足を見守るように二人に注目していた。

「我は白の騎士コンラート。一騎打ちを申し込む」
「同じく白の騎士ティア・レスト・ナノク。謹んでお受けします」

 二人の名乗りが静寂を破り、それからしばらくして人々の間から沸き立つように声が上がった。
 白騎士といえば国でも上位の実力者だ。平民でありながら、その腕だけで騎士という地位を勝ち取った者たち。その白騎士同士の戦いに興味が湧かないわけが無い。

「ハアッ!」
「フッ!」

 一騎打ちは、まるで先ほどの教え子たちの攻防を焼きなおしたようだった。正面から馬を走らせ、交差する瞬間にコンラートが槍を振るい、ティアがそれを受け流す。
 一つ違う所があるとすれば、ティアが攻撃を流しながら反撃をしている事。しかしそれもコンラートの槍に受け止められ、決定打にはならない。
 幾度かの交差の後、攻防に変化が表れた。ティアの乗っている馬が嘶き、その場に止まってしまったのだ。するとコンラートも馬を制止し、二人の馬は並び立つかっこうになる。

 その体勢のままコンラートは槍を繰り出し、ティアはそれを受け流すと即座に反撃した。
 突き、払い、打ちつける。二人の攻防は武の心得の無いものからすれば神速であり、多少なりとも腕に覚えのあるものはその絶技に舌を巻いた。賑わっていたはずの人々は息をする事すら忘れ、決着がつくのを固唾をのんで見守っていた。

「むっ!?」

 突き出した槍を絡め取られ、コンラートは呻くように声を漏らした。武器を落とせばその時点で敗北が決まる。コンラートを馬から落とすのは無理だと悟り、槍に狙いを絞ったのだろう。
 しかしそれはコンラートからしても望むところであった。

「ハアッ!」
「!?」

 奪われそうになった槍を、渾身の力で引き戻し相手の槍ごと持ち上げる。そのような強引な返し方をされるとは思わなかったのか、ティアは腕ごと打ち上げられた槍を手放してしまっていた。
 万歳のように両手を上げた状態のティアのそばに、木槍が軽い音をたてて転がる。それを確認するように視線を向けたティアは、呆れたように兜の下で吐息を漏らした。

「勝負あった!」
「コンラートの勝ちだ!」

 静止していた時が動き出したように、人々の間から声が上がり始める。それを合図にして、コンラートとティアは馬から下りると兜を脱いでお互いを見やった。

「参りました。槍では貴方に敵いませんね」
「いや、馬上では俺に利があるからな。これが試合でなければ、馬から引き摺り下ろされて俺が負けるだろう」

 それは紛れも無い事実。コンラートは槍や馬上での戦いが得意というわけではないが、ティアはその二つを苦手としている。
 何よりも彼女の最大の武器は、四つ足の獣もかくやというほどの瞬発力にある。馬上ではその武器を封じられてしまい、逆に弱くなると言う妙な騎士なのだ。

「しかし負けは負けです。「身代金」はどうしますか?」
「そうだな……そのリボンなどはどうだ?」

 問われて返したコンラートの言葉に、ティアは目を丸くした。
 装飾品を要求する事は、少ないが前例はある。しかし首の後ろで髪をまとめたリボンは、ありふれた物であり金銭的な価値は無いに等しい。それでも求められたのだから、ティアは微笑みながら長い髪をまとめていたリボンを解いた。雪のように白い髪が、風向きをなぞるように靡く。

「相変わらず欲が無いですね。それとも私に気をつかったのですか?」
「金には不自由してないのでな。それに君が身に着けていたというだけで、俺にとっては純金にも等しい価値がある」

 コンラートの言葉に、ティアは微笑を返す。差し出した腕の手首にティアがリボンを結びつけるのを眺めながら、コンラートは苦笑するしかなかった。
 最初に求婚したのは、まだ二十歳にもなっていない若造の時分だったろうか。明確な拒絶の言葉を発しない彼女を相手に、コンラートは何度も愛を囁き続けている。そしてその度に、ティアは返事もせずに微笑みかけてくるのだ。その曖昧な態度こそが答えという事なのかもしれない。
 しかしはっきりとした答えを貰うまで、コンラートは粘り続けるだろう。それは意地というより、単なる慣れなのかもしれない。

「さあ、早く逃げた方が良いですよコンラート。大人気ない人が襲ってきますから」
「何?」

 リボンを結んだ手を軽く叩くと、ティアは馬を引いて去っていく。そしてそれと入れ替わるように、青い鎧を着た騎士が黒馬に乗ってコンラートの方へと駆け寄って来た。
 その姿を見てコンラートは吐息を漏らす。ああ確かに大人気ない人が来た。

「我は蒼槍騎士団団長クラウディオ・フォン・ピザン! 白騎士コンラートに一騎打ちを申し込む!」

 慣例を無視した名指しの挑戦状に、コンラートは呆れつつも兜をかぶりなおす。
 ピザンという姓からも分かるこの王族の男は、王弟の年上の甥であり、現王の息子である第一王子だ。逃げる事などできないし、逃がしてくれるわけが無い。

「白の騎士コンラート。全力でお相手する」





 騎馬試合が終わった後は、新たな騎士の誕生を祝い宴が催される。今回の叙任式には王族や有力貴族の多くが参加し、宴も他に類を見ない大規模なものであったが、コンラートがそれに出席する事は無かった。

「いや、中々見物だったよ、一人の女を巡って一騎打ち。同じ女としてティアが羨ましいねえ」

 安物の葡萄酒片手に上機嫌に話すリア。コンラートはその言いように苦笑を返すと、硬いチーズを口へと放り込んだ。その手にティアのリボンは無い。嫉妬に猛る王子様に「身代金」として奪われてしまった。
 宴を抜け出して二人が来たのは、城下町にある酒場。ただし上流社会の人間が訪れるような所では無く、平民たちが仕事の疲れを癒すために訪れるような安酒場だ。まだ昼間ではあるが、食事を取りにきた人間でそれなりに賑わっている。

「やはりここの炙り肉は美味いな。パンに挟んで食べるのが一段と良いというのに、城の奴らは信じようとしないから困ったものだ」

 そんな中に、一人場違いな人物が居た。癖のついた赤い髪を、無造作に後ろへ流した男。着ているものこそ庶民と変わらないが、内面から滲み出る空気は明らかに他と違っている。
 そして何より目を引くのは、無骨な手には似合わない黄色いリボン。言うまでも無くコンラートが思い人から奪い、恋敵に奪い取られたそれであった。

「……クラウディオ殿下。何故ここに?」
「ここは俺の行きつけの店だ。別に表に「王族お断り」と書いているわけで無し、来て何が悪い?」
「主に宰相閣下の胃に悪いかと」

 当然のようにコンラートとリアのテーブルへ腰かける第一王子に、コンラートは苦言を呈すると吐息を漏らした。
 クラウディオの奇行が始まったのは昨日今日の事では無い。しかし目の前でこうも頓着無い様子を見せられると、臣下の一人としては頭が痛くなってくる。

「何だその目は? それにそっちに居るのはグラナート夫人だろう。俺にばかり文句を言うな」
「うちのは私に甘いから平気ですよ。この程度で文句言われるなら、その前に騎士を辞めさせられてるし」

 そう言ってスープにパンをひたして食べる彼女を、一体誰が伯爵夫人だと信じるだろうか。クラウディオとは違い、見た目から雰囲気まで完全に場に溶け込んでいる。
 玉の輿というある意味女の夢を実現したこの女性と、コンラートは付き合いが長い。しかし結婚前と後とで、彼女に変わった様子などありはしない。それは本人の性格もあるが、夫の放任主義も原因の一つなのだろう。

「しかしティアはさすがに抜け出せないか。久しぶりに三人で飲みたかったんだけどね」

 心底残念そうに言うリア。それにコンラートも黙って頷き返す。
 コンラートとリア、そしてティア。事情は違えど平民上がりの三人は、よく一緒に行動し周囲からも一括りに見られていた。もっとも平民上がりの上に女性という二人ばかりが注目され、コンラートはおまけのように扱われるのが常であったが。
 その三人の集まりに変化が起きたのは、ティアが当時生まれたばかりの王弟殿下の専任騎士に選ばれた時であった。

「ティアはカイザーにべったりだからな。おかげで俺は叔父相手に嫉妬を燃やさねばならん」
「さすがに四六時中供をしているわけでは無いでしょう。城内で寝泊りをしては居ますが」
「詳しいね。やっぱ気になる?」

 茶化すような言葉に、コンラートは複雑な思いを抱いた。気にならないと言えば嘘になるが、コンラートが詳しいのはそれが理由では無い。

「近々ティアが王弟殿下の指南役から外されるらしい」
「は? 騎士になったって言ってもまだ世話役はいるだろ。まだ子供だよ?」
「後任に俺の名が上がっている」
「ごめん。まったく経緯が理解できないんだけど」
「もしやあの噂か? ティアがカイザーを誑かしているという与太話」

 横から放たれたクラウディオの言葉に、リアはあからさまに眉をひそめる。
 当然だろうとコンラートは思う。そんな下らない噂を流す者もそうだが、それを真に受けたかのようにティアを王弟から遠ざけるのもふざけている。

「何処の馬鹿が流した噂だいそれ。赤ん坊の頃から世話してんだから、母親みたいに懐いてるだけじゃないか」
「俺もそう思う。しかし他ならぬティアが受け入れてしまってはどうしようもない。もっとも、後任に俺の名を出すあたり納得はしていないらしいが」
「まあ少なからず「平民のくせに」って空気はあったしね。代わりにアンタを指名したのは、最後の嫌がらせってわけか」

 リアは納得したとばかりに頷く。自由奔放なほうでいて、彼女は人の心の機微に鋭い。以前から王宮に内在する不満に、気付いていたのかもしれない。

「ほう。するとティアは暇ができ、コンラートはカイザーの世話に忙殺されるわけだ。口説き落とす良い機だな」
「どうぞご自由に。時間ができた程度で口説き落とせるならば、御互いに十年以上も粘っていないでしょう」

 冗談めかして言うクラウディオに、コンラートは笑って返す。心の底では分かっているのだ。彼女は誰にも心を許しはしないと。
 初めて出会ったとき、ティアはコンラートより年上だと思われた。しかし今ではコンラートのほうが年上に見える。これはコンラートが歳より老けているというだけでは無い。
 おかしいと感じたのは、コンラートの頭髪に白いものが混じり、リアが小皺を気にし始めた時であった。ティア変わっていない。成長する事もなければ老いる事も無い。出会った時と同じ姿のまま、出会った時と同じ声で、出会った時と同じ微笑をずっとコンラートに向けている。
 もしかしたらティアは不老なのではないか。そんな突拍子も無い妄想が、年を経るごとに現実味をおびていく。そしていつか逃げるように目の前から居なくなるのではと、そんな根拠の無い不安が、コンラートの中で膨らみ続けている。

「まあ、彼女の期待に応えられるよう、王弟殿下にも気張ってもらうとしよう」
「これ以上頑張らせるのかい。どこまで強くなるかねえ」
「王国最強くらいにはなって欲しいものだな」

 不安を払うように先を考えるコンラートに、リアとクラウディオも笑って応じる。
 しかしコンラートが王弟殿下の指南役になるという未来が、現実になる事は無かった。



[18136] 二章 裏切りの騎士2
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:e700d56f
Date: 2010/10/26 15:26
 戦の後には略奪と陵辱が行われるのが当たり前であった。むしろ碌な対価も与えられない兵士達には、略奪こそが戦場における報酬であり、誰もがそれを目的に敵陣へ我先にと切り込んだ。
 そしてそれは騎士たちも同じであった。後に騎士道と呼ばれる精神が形作られるまでは、高潔なはずの騎士の中にも蛮行を働く者は絶えなかったのである。

「酷いなこりゃ」

 かつて一つの集落があった跡を眺めて、赤い騎士は嫌悪の表情を隠そうともせずに言った。周囲には焼け落ちた家々を見回る兵士たちが何人か居たが、彼の言葉を聞いても特に反応は見せない。
 集落を囲む木々は黒い骨のような姿を晒していた。焦げた地面には無残な骸が襤褸切れのように打ち捨てられていた。
 戦争だからと言って捨てるには、あまりに酷いその有様。赤い騎士の言葉に賛同する事はあっても、反論などできるはずが無い。

「位置的に両軍から無視できない位置にあるから、最悪の場合は占領するのも検討……って俺は聞いてたんだが。先走った上に殲滅かよあの馬鹿ども」
「どうするのですか兄上? この事が広まれば、エルフたちが本格的に敵対する可能性も……」
「考えたくねえなあ」

 自らを兄と呼んだ女騎士の言葉に、赤い騎士はうんざりといった様子で返す。
 焼き払われたのは、人では無くエルフたちの集落であった。元々友好的とは言えない彼ら相手に何度も言葉を重ね、ようやく理解者が現れ始めたときになってこの惨劇だ。今までの苦労を打ち消し、さらにお釣りもくるだろう。

「というか何で俺があの狸どものフォローを考えなきゃならんのだ。敵よりも先に殺したくなってきた」
「発言には気をつけて下さい。兄上にもしもの事があれば、巫女様の周りに俗物ばかりが侍るようになります」
「俺も結構な俗物だと思うんだが、確かにまずいな」

 守ると誓った少女の姿を思い出し、赤い騎士は顔をしかめた。
 この惨状を知れば、あの少女の表情は曇るだろう。しかし泣かない。自分の役目を果たすため、弱音も吐かずに気丈に振舞うに違いない。
 泣いて良いのだと、甘えてくれて構わないのだと何度言っただろうか。その度に少女は大丈夫だといって笑う。それを見た人間が、さらに心配するのにも気付かず笑うのだ。

「隊長! 生存者が……うわあ!?」
「どうした!?」

 呼びかけてきた兵の声が悲鳴に変わる。見ればまだ歳若い兵士が、他の家よりはマシといった程度に原型を留めている屋敷から慌てて距離をとっていた。そして崩れた壁の残骸を掻き分けるように、黒い人影が冬眠から覚めた熊のようにゆっくりと這い出してくる。

 闇が人の形をとったような。そんな印象を受ける女だった。煤に汚れた肌は褐色であり、毛先の焦げた髪は墨を吸ったような漆黒。見慣れないヒラヒラとした衣装までも、合わせたように黒色だった。
 影の女王。その姿は、以前エルフの仲間に聞いた古き存在を思い起こさせた。

「貴様ら……」
「ん?」

 女に吸い寄せられるように、無意識に歩みを進める赤い騎士。しかしその赤い騎士に向けられた闇色の瞳には、明確な憎悪と殺意が込められていた。

「貴様らがあぁっ!!」
「うをっ!?」

 何処に隠し持っていたのか、女が横薙ぎに振るった剣を赤い騎士は後ろに飛び退って避ける。そしてなおも女が追いすがり斬り下すのを、抜き放った剣で受け止めた。
 受け止めた衝撃で腕が痺れる。その細身のどこにそれ程の力があるのかと、赤い騎士は半ば呆れながら女へと視線を向ける。

「話を……」

「聞け」とは続けられなかった。
 間近で見た女の服は、所々が裂かれ血が滲んでいた。
 そして何よりその瞳。様々な負の感情を宿した瞳が、この女が死ぬまで止まらないだろうことを赤い騎士に理解させた。

「兄上! 退いてください!」
「んな暇あるか! 下手すりゃ俺より強いぞこの女!?」

 剣を打ち払い距離をとろうとしても、女は張り付くように追ってきて斬りつけてくる。そして足を止めてしまえば、襲ってくるのは剣の嵐。相手が怪我人だからと手加減する余裕などありはしない。

「チッ! 死んだら俺たちを存分に怨みやがれ」

 誰にも聞こえないように呟く。様々な覚悟を決め、赤い騎士は剣を強く握りなおした。





 薄っすらと開けた目に入ったのは、見慣れた自室だった。エルフの集落でもなければ、焼き払われた跡も無い。その事に安堵し、そして失望した。
 そんな自分に呆れながら、コンラートはベッドから下りて小さな窓を開ける。僅かに明るくなり始めた空は濃い雲に覆われており、降りしきる雨の雫が窓辺に伸ばしたコンラートの手を濡らした。
 最近になってコンラートが早起きになったのは、なにも歳をとったことだけが原因では無い。目覚めの早いときには、決まって赤い騎士の夢を見るのだ。そして不気味なほどに現実感のある夢を夢と認識する前に、唐突に目覚めて現実という世界へと放り出される。

 もしかしたらあの赤い騎士こそが現実であり、今の自分こそが夢なのではないか。そんな背筋が寒くなるような事を思い、少しして鼻で笑った。
 もしコンラートが夢であり赤い騎士が現実だとすれば、赤い騎士は夢で出会った人間と瓜二つの存在に出会ったという事になる。コンラートの良く知る人間が、夢に出てきたと考えた方が自然だろう。
 そもそもいい歳をした男が、夢が現実ならばなどと考える事がおかしい。ようやく完全に目覚めたらしい頭で、コンラートはそう考え苦笑した。

「少なくとも、彼女と敵として相対したくはないな」

 気づかぬ内に漏らした言葉は雨音にかき消される。
 夢の中に出てきた黒い女は、髪や瞳の色こそ違えど、コンラートの思い人そのものだった。





 叙任式から数日後。コンラートはとある屋敷の一室へと足を運んでいた。
 前日から降り続けている雨のせいか、春とは思えないほど外の空気は冷たかったが、その部屋の暖炉には薪がくべられており、室温はコンラートには暑く感じられるほどであった。しかしそれも仕方ないと、部屋の主を見れば誰もが思うだろう。

「……」

 コンラートの隣には、叙任式で賜った武具を身に着けたカールがいた。そしてそのカールを寝台の上で上半身だけ起こして見つめるのは、彼の父であるアルムスター公。
 王ほど高齢でないアルムスター公が老いて見えるのは、その体が病魔に蝕まれているからに他ならない。事実以前にコンラートが対面したときに比べれば肉は落ち、残った皮が皺をより深いものにしていた。ときおり咳き込む口を押さえる手は、枯れ枝を思わせる。
 そんな父を前にして、カールは凛々しく眉を上げ、口元を引き締めて微動だにしなかった。言葉には出さずとも、自分は一人前なのだと、もう心配しなくても大丈夫だと、その姿が父に向かって告げていた。

「はは、あのお調子者のカールがこれほど立派になるとはな。礼を言うコンラート」
「いえ。俺は少しばかり手助けをしただけの事。カール殿の努力があればこそです」

 コンラートに他人行儀な呼ばれ方をされ、カールの顔が少しだけ歪む。
 平民出身であるにもかかわらず、もしかしたら平民出身だからこそ、コンラートは相手の立場というものを常に考えて行動する。既にカールがコンラートの従騎士でなくなった以上、以前のように気軽に話す事は無いだろう。
 もっとも話し方が丁寧になっただけで、本質的な付き合い方は変わらないのだが、カールがそれに気づくのは少し後になってからだった。

「試合での奮闘は聞き及んでいる。おまえには兄であるフランツの助けとなって欲しかったのだが、恐らく他の騎士団からも誘いが来る事だろう。家の事は心配せず、おまえの好きな道を選ぶといい」
「はい。父上」

 いくつか言葉を交わした後、カールは一礼して退室する。それを確認したアルムスター公は、ゆっくりと起こしていた上半身を寝台へと横たえた。

「すまんなコンラート。話の続きはこのままさせてくれ」
「構いませんが……一体どうなさったのですか?」
「ただの風邪だと医者は言っていたがな。これが中々性質が悪く、一ヶ月たっても治る気配も無い」

 そう言って咳き込むアルムスター公の姿は、先程よりもさらに弱弱しく見えた。息子が父を安心させようと振舞っていたのと同じように、父も息子を心配させまいと無理をしていたのだろう。

「このままでは徐々に弱って死ぬと、あの医者遠慮なく言い切りおった」
「な……薬は飲まれておらぬのですか?」
「飲んでも治らんのだ。私の体自体が、弱りきっているらしい」

 元々風邪というのは、人体の治癒力だけで治せる病気だ。しかし逆に言えば、人体が弱りきっていては治るものも治らない。子供や老人が風邪で死ぬ事は、さして珍しいものでは無い。

「……コンラート。ジレント共和国に住む魔女のもとへ使いに行ってもらえんか?」
「魔女ですと?」

 思わぬ要請に、コンラートは眉を寄せながら聞き返していた。
 魔女と呼ばれるものは、大抵の場合は曲者だ。そもそも普通の魔術師ならば、魔女などと呼ばれるはずはない。

「ミーメ・クラインという名だ。魔術だけでなく様々な知に通じ、薬の類も扱っているという」
「なるほど。あるいは公爵閣下の体を治せるかもしれぬということですか」
「うむ。幸い後継には恵まれた。だがカールは放っておいても大丈夫だろうが、フランツの方にはまだ領主として教えねばならん事が山ほどある。生きながらえる事が出来るならば、僅かな希望でも縋りたい」

 アルムスター家の領地は広大だ。コンラートには分からぬが、いかに優秀な配下を揃えても、その上に立つ領主には苦労も多いのだろう。

「では、すぐにでもジレントへと参りましょう」

 しばらくの間は好きにして良いと王には言われている。国外とはいえジレントは隣国だ、行って帰ってくるのにそれほど時間はかからないだろう。

「よろしく頼む。気難しい方だと聞くが、おまえならば大丈夫だろう」





 ジレント共和国は大陸の北西部に位置する小国であるが、その在り方から周辺各国は過度な干渉を控える重要な国でもある。
 元は行き場をなくした魔術師たちが集って出来た国であった。しかし彼らが独立を勝ち取ると、戦禍によって書物や知識が散逸する事を恐れた学者たちまで集まり始めた。そうして魔術師たちの国は、いつのまにか学問の国になっていたのである。


「ミーメさんに用ね。アンタみたいなのが来るのは珍しいな」

 道を尋ねた魚屋の店主にそう言われ、コンラートは困ったように笑みを返した。

 ジレントの主要都市は全て海に面しているが、コンラートが訪れたネスカという港町は特に物の往来が多く活気がある。
 行き交う人々の顔は皆晴れやかであり、路上に物乞いの姿も見られない。それだけで、このピザン王国の百分の一ほどの人しか住まない小国が、大陸でも無二の豊かさを誇る事が知れた。
 そんな町に魔女と呼ばれる者が住んでいるというだけでも驚きであるのに、店主の様子からして住人とも交流が深いらしい。森に住む魔女というのは、童話の中だけの存在なのかもしれない。

「ミーメさんなら二つ向こうの建物の二階に住んでるよ。でも覚悟しときなよ、あの人初対面の人間の依頼なんてまず聞かないから」
「忠告感謝する」

 頭を下げて踵を返すと、コンラートはきびきびとした動作で店主の示した白い建物を目指す。しかしその内心ではどうしたものかと悩んでいた。
 気難しいとは聞いていたが、初対面では信用されないほどだとは思わなかった。場合によっては何度も訪ね、拝み倒す事になるかもしれない。アルムスター公の事を思えば苦では無いが、病状の事を考えれば少しでも早く話を聞いて貰う必要がある。
 何か良い方法は無いか。コンラートは考えたが、結局何も思い浮かばず目的地へと着いてしまう。とりあえず誠心誠意話すしかあるまいと結論し、コンラートは目の前の頑丈そうな木の扉をノックした。

「……はーい! ちょっと待ってください」

 聞こえて来た声は、予想していたよりも澄んでいた。その事をコンラートが不思議に思う暇も無く、目の前のドアが開き妙齢の女性が顔を出す。
 腰に届く髪は空色で、白いワンピースのような衣装に包まれた体は平均的な女性のそれ。その辺りを歩いていても違和感が無いであろう程に、現れた女性は「普通」であった。

「どちら様でしょうか?」
「あ……ああすまぬ。ピザン王国の騎士コンラートと申す。アルムスター公の命にて、ミーメ・クライン殿に薬の処方を依頼したく参った」

 出てきた人物が予想外の姿をしていたため、呆気にとられるコンラート。それに女性は髪と同じ色の瞳を訝しげに向けてきたが、コンラートの話を聞くとその警戒も次第に解けていく。

「ああ……アルムスター公の」

 思いあたる事があるのか、納得したような様子を見せる女性。恐らくは、事前にアルムスター公からの手紙なり先触れなりが届いていたのだろう。

「中へどうぞ。居心地の良い場所では無いけれど、外ではまずいでしょう」
「それでは失礼する」

 女性に案内された室内には、何かの材料であろうか様々な植物や乾物が吊るされており、部屋の隅にそびえ立つ二つの棚からは本が溢れかえり地面にまで堆く積まれていた。
 その不気味とも言える有様を見て、コンラートは不安になるどころか逆に安心していた。もしかしたら同姓同名の、魔女では無い別人の家を訪ねたのではないかと思っていたのだ。

「それで、何の薬を所望でしょうか?」
「その前に確認したいのだが。失礼ながら貴女がミーメ・クライン……魔女殿で間違いありませぬか?」

 コンラートの問いに女性は目を丸くする。その反応にコンラートは魔女という呼び方は不味かったかと焦ったが、その焦りごと吹き飛ばすように女性はクスクスと笑い始める。

「なるほど。さっきから戸惑っていたのはそのせいね。私がミーメ・クラインで間違いありません。てっきりレインから、私の事を聞いたのかと思っていたんですけど」
「レイン……?」
「グラウハウ村だったかしら? そこで貴方と会ったレインは、私の教え子なんです。髭が素敵な騎士様と、生意気な騎士見習いの男の子と一緒に戦ったって手紙が来て。あの子は人との繋がりを大事にする子だから、手紙をくれるたびにどんな人と知り合ったか教えてくれるんですよ」

 髭が素敵と言われて、コンラートは苦笑しながらそれを撫でた。元々は周囲に見くびられまいと若い時分に生やし始めたものだが、素敵などと評されたのは初めての事だ。
 歳をとったせいか、それとも髭が似合う程度の威厳のようなものが身についたのか。自分の半分ほどの年齢の少女に褒められたと思うと、光栄であると同時にどこかむず痒かった。
 ともあれ、偶然会ったレインに信用された事で、気難しいという魔女にまで信用されたのはありがたい。王が常々言っている通り、コンラートの運はかなり強いらしい。

「いや、師がいるとは聞いておりましたが、これほど若い方とは思いませんでした。それに魔女と聞いては、俺のような無学なものはお伽噺に出てくる老婆を想像してしまいましてな」

 コンラートの言葉にミーメは再び笑みを漏らす。その姿は魔女と呼ばれるにはあまりに邪気が無く、そして美しかった。

「魔女という呼び名の意味も様々ですから。数百年前なら人類に敵対的な魔術師。さらに起源を遡るなら、その名は「境界の上に立つ者」を意味します」
「境界?」
「生と死の境界。産婆のようなことや傷の治療、あるいはコンラートさんの今回の目的のような薬の作成まで。人々の生と死に立ち会うのが、私たち魔女の仕事だという事です」

 だからこそ、魔女は人々に忌避されたのだろうとミーメは付け加える。人々には理解できない知識や技術でもって、人々の生死の場に関与する。人によってはその姿は死神のように見えたに違いない。
 時代が移り変わり、悪の魔術師を「魔女」と呼ぶようになってからは、本来の意味での魔女たちも人々に排斥されるようになった。ミーメが魔女を名乗りながら人々と暮らすのは、ジレントという特殊な国だからこそ出来ることなのだろう。

「少し話がそれましたけど、どんな薬をお求めかしら? 風邪薬から毒薬に惚れ薬まで、作れというのなら作りますけど」
「詳しくはこれを、依頼主であるアルムスター公の詳しい病状が書かれております」

 コンラートが懐から丸めた紙を取り出して渡すと、ミーメはすぐさまそれに目を通す。

「風邪……食欲不振に微熱続き。高齢なため体力の低下……。なるほど、普通の薬ではダメねこれは」

 所々を口に出しながら読み終えると、ミーメはすぐさま立ち上がり何かの根っこや皮のようなものを机の上に揃え始める。そして材料が揃い椅子に腰かけた所で、慌てた様子でコンラートへと向き直った

「すいません、すぐにできますから。どこかで時間を潰してきてもらっても構いませんよ。あまり居心地の良い場所では無いでしょう?」
「いや、待たせてもらいましょう。よそ者が剣をぶら下げていると、どうにも警戒されるようでしてな」

 面と向かって何かを言われたわけでは無いが、この町の人々は明らかにコンラートの事を気にしていた。
 一目で異国の人間と分かる、騎士然としたコンラートを注視するのは、この国の成り立ちを考えれば当然である。しかしそれが理解できるからと言って、視線が気にならなくなるはずも無い。

「じゃあ、少し待っていてください」
「承知」

 短く応えると、コンラートはミーメが作業する様子を眺める。白い陶器の中で磨り潰される植物の中には、コンラートの知っている物もあった。まだ田舎の村で暮らしていたときに、近くに住んでいた老婆が、体に良いからと湯で煎じて飲んでいた記憶がある。
 今にして思えば、あの老婆もある意味では魔女だったのかもしれない。弱った家畜の子供を瞬く間に元気にしたり、嵐が来るのを予知したりと、幼いコンラートからすれば魔法としか思えないことをやってのけていたのだから。

「コンラートさんも顔色が優れませんね。どこか悪いなら薬を出しますけど?」
「は?」

 ミーメの呼びかけに、コンラートは間抜けな声で応えた。それも仕方ないだろう。ミーメは作業を始めてから、一度も振り返っていないのだから。コンラートの顔色など分かるはずがない。

「……最近朝早くに目が覚める事が多いので、そのせいかと」
「不眠では無さそうですね。騎士としての習慣ですか?」
「いや、どうにも妙な夢を見るのです。お伽噺の英雄の夢を……」

 言ってからコンラートはしまったと思った。英雄の夢を見るせいで寝不足だなどと、子供ではあるまいに恥ずかしい事だ。少なくとも、人に話すような事では無い。
 しかしミーメはコンラートの思いなど気付かなかったように、茶化す様子も無く言葉を紡ぐ。

「夢は啓示であると神官や一部の魔術師は考えていますけど、本人の無意識の欲求や願望を表しているとする学者もいます。それらを強く大きく反映しすぎて、支離滅裂なものになってしまうとか」
「願望?」

 だとすれば、それは随分と歪んだ欲望だとコンラートは思った。英雄になりたいなどと、自分には思う資格すらないのだから。

 彼の初陣であり最大の戦場は、隣国のキルシュに侵攻したリカムという帝国との戦いであった。罪の無い民をも蹂躙するその非道に、多くの名高い騎士や戦士、魔術師らが憤り義勇兵として立ち、仕舞いにはピザン王国の正規軍までも参戦し、まだ成人していなかったコンラートもそれに加わった。
 英雄たちに並び立ちたいと思わなかったわけでは無い。しかし彼が無謀とも言える戦の場へと赴いたのは、国境近くにあったために戦渦に巻き込まれた、故郷の人々の仇を討つためであった。

 仇討ちといえば聞こえは良いが、実際のコンラートは憎しみと自棄に駆られて暴走していたにすぎない。だが並の大人よりも頭一つ背が高く、本来両手で扱う戦斧を片手で振り回すほどの怪力を誇るコンラートは、幾度もの死線を乗り越え生き残った。
 リカムの魔術師によってアンデッドたちがはびこり、殺された仲間がすぐさま起き上がり襲いかかってくるという悪夢のような戦場。
 誇る事などできなかった。仲間の死体を潰した自らの両の手を切り落としたいとすら思った。戦後になって冷静になると、コンラート本来の生真面目で甘い性分が、己の罪を責め立てた。

 騎士の位こそ返上しなかったが、コンラートは出世を望まなかった。むしろ望めなかったのかもしれない。
 自分のような者が騎士などとおこがましい。より良い地位を欲するなどもっての他だと、潔癖すぎた当時のコンラートは思ってしまった。

 しかしそれは昔の事。今のコンラートはそれほど思いつめてはいないし、戦場での事を割り切る程度には成熟している。そうでなければ、ティアに代わって王弟の指南役となる事も断わっていただろう。
 あるいはそのためだろうか、英雄と呼ばれた騎士の夢を見るのは。もっと高みを望めと、夢を通して自身へと言い聞かせているのだろうか。

「まあそれほど気にしない方が良いんじゃないかしら。夢は夢でしかありませんから」

 もっともな言葉に、コンラートは苦笑を返すことしか出来なかった。





「ご苦労だったなコンラート。何度書状を送っても無視されたというのに、こうもたやすく薬を持ち帰ってくれるとは。さすがと言うべきか」
「偶然に過ぎませぬ。しかしそういうことは事前におっしゃってください」

 寝台に横たわったままではあるが上機嫌なアルムスター公に、コンラートは苦言を漏らすと疲れたように吐息をついた。
 最初にミーメと顔を合わせたときの反応からして、初対面では信用されないというのは事実だったのだろう。事前に思っていた以上に、今回の任務は困難なものであったらしい。己の強運に感謝してもしきれない。

「薬が効かぬようなら、直接診断するので連絡するようにと申しておりました」
「ほう。随分と優しいな。一体どんな魔法を使ったコンラート?」
「俺は何もしておりません。魔女には魔女の矜持があるのでしょう」

 一度引き受けたからには最後まで面倒を見る。そうミーメは言っていた。彼女なりの仕事に対する誇り、そんなものが感じられた。

「アルムスター公!」
「む? 何事だ?」

 突如部屋に踊りこんできた配下に、アルムスター公は鋭い視線を向けた。しかし余程余裕が無いのか、配下は一礼するとコンラートを無視するように寝台へと歩み寄り、手にした封筒を手渡す。

「……王からだと?」

 封をした蝋の上に押された印章を見て、アルムスター公は訝しげに声を漏らす。しかし封をあけ中に入っていた手紙を読み進めるにつれて、表情が厳しくなり皺が深くなっていく。

「すぐに領内の港を閉鎖しろ。ゼザの山道にも兵を置け。例え相手が王侯貴族であっても、絶対に通すな!」
「は……? な、何故でございますか?」
「詳しい事は追って知らせる! しらみ一匹見逃すな!」
「は、はい!!」

 病に臥せっているはずの主の強い言葉に従うため、配下は慌てて退室して行った。それを見送ると、アルムスター公は勢いよく咳き込む。

「無理をなさいますな。一体どうしたというのですか?」
「事はおぬしにも……いや、王国全土に関係する。……王弟殿下がさらわれた」
「……なっ!?」

 それはまったく予期していなかった言葉であった。王族なれば危険に巻き込まれることもあるだろう。だが少なくとも王位継承権を巡った争いではあるまい。
 明言されたわけでは無いが、次代の王が第一王女であるゾフィーであることはほぼ決まっている。王弟であるカイザーが、その手の理由から狙われる事はまずありえない。

「まさかリカムの手の者が?」
「いや、首謀者はこの国の人間だ」

 その言葉にコンラートは信じられないといった顔を向ける。
 一体どこの誰が、何のために王弟殿下をさらう必要があるというのか。

「ナノク卿……ティア・レスト・ナノク。王弟殿下を拉致したのは彼女だ」

 それはまったく想定の埒外にあった名前。
 しかしコンラートの心のどこかには、彼女の裏切りに納得する自分が居た。



[18136] 二章 裏切りの騎士3
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:e700d56f
Date: 2010/08/08 13:39
 ティア。リア。そしてコンラート。白騎士と呼ばれた彼らは、いずれも平民出でありながら騎士に任じられた者たちだが、三人を見出した人間はそれぞれ異なる。

 コンラートを騎士に任じたのは、当時はまだ王子だったドルクフォード王であった。先王が病に倒れ戦場を離れなくてはならなくなった際に、王は戦線を支えるのに重要な役割を果たしていたコンラートを略式ながら騎士に任じた。

 リアを見出したのは、先王が死去した後にドルクフォード王に代わり前線へと出てきたクラウディオ王子であった。コンラートと同じく当事は若造であったクラウディオは、戦死者が続出する中でとにかく能力のあるものを重用した。

 そしてティアが騎士に任じられたのは、他の二人と違い戦場では無かった。先王の三人目の妃であり、カイザーの生母である王太后。ティアという女性は、ある日突然太后を守る騎士として表舞台に現れた。
 先王が亡くなり太后もそれを追うように身罷られた今では、詳しい事情を知る者は誰一人として居ない。確かな事は老いた王に嫁がされた若き太后と、ティアという騎士との間に友情とも言える絆があったという事。そして太后が亡くなった後に、ティアはその子であるカイザーに忠をつくしたという事だ。
 だからこそ、そのティアの裏切りはピザン国内に大きな波紋を呼んだ。





 中庭へと通じる通路を、ピザン王国第一王女であるゾフィーは足早に歩いていた。足を踏み出すたびに炎を宿したような赤い髪が揺れ、紫紺の瞳は睨めつけるように前だけを見ている。
 ここ数日降り止まない雨が、地面や建物に当たりどこか落ち着くような音色を奏でていたが、それもゾフィーの足音によってかき消されていく。その大きな音は、まるで彼女の内心を表しているようであった。

「淑やかにしろと今更言う気にもならんが、少しは苛立ちは隠したらどうだ? 従者が逃げ出すぞ」

 不意に声をかけられて、ゾフィーは足を止める。視線を向けた先には、兄であるクラウディオが通路の手すりにもたれかかってゾフィーを見つめていた。

「自分では抑えているつもりなのですが」
「つもりなだけだろう。ここに力が入っているのが丸分かりだ」

 言いながらクラウディオが指先で突くと、ゾフィーの眉間に微かな皺が浮かんだ。素直なその様子が可愛らしく、自然と浮かんだ笑みを隠そうともせずに、クラウディオは口を開く。

「連れ出したのはナノク卿だぞ? 何を考えているかは分からんが、少なくともカイザーを陥れるような真似はすまい。まあそのまま戻ってこない可能性はあるがな」
「戻ってこなければ大問題ではありませんか?」
「おお、確かに大問題だ」

 眉間にさらに力をこめ、睨むようにクラウディオに視線を向けるゾフィー。それを見下ろしながら、クラウディオはくつくつと笑った。
 周囲の者から恐れられる騎士姫の怒りも、兄でありそれなりの修羅場を潜り抜けたクラウディオからすれば可愛いものであった。普段ならばさらに余計な言葉を一つ二つと重ねる所なのだが、今日ばかりはクラウディオも自重する。
 ゾフィーの歳は十八。歳の離れた二人の兄よりも、年下の叔父と仲が良かったのだ。今国内でカイザーの安否を一番気にかけている人間は、間違いなく彼女であろう。

「そう心配するな。親父が念のためと言って俺を呼び出した。恐らく俺も出る事になる」
「それでどう心配するなというのですか?」
「親父の念のためほどあてにならんものは……いや、逆にあてになりすぎるのか。まるで未来を見通しているようだと、付き合いの長いものなら口を揃えて言う」

 クラウディオの言葉に、ゾフィーは眉をしかめた。兄の言うような事など、ゾフィーには心当たりが無い。確かに王である父は思慮深く聡明であるが、未来予知じみた先見性など見せた事は無い。

「まあ勘が良いのだとでも思っておけ。俺も勘が良いのは知っているだろう。親父のそれは俺以上だというだけだ」

 反論こそしないが、明らかに納得のいっていない様子のゾフィーの頭を、クラウディオは苦笑しながら撫でる。

「それに呆れるくらい運に恵まれた男が居るからな。案外すぐに見つかるかもしれん」

 直接の部下では無いが、先の戦争以来の付き合いである騎士を思い出し、クラウディオは呟いた。そして口に出してみると、本当に実現しそうだと思えるのだから不思議なものである。
 しかし仮に見つけたとしても、連れ戻す事はできないだろう。その未来もまた決定事項であるかのようにクラウディオには思えた。





 壁のように行先を阻む土砂降りの雨の中を、コンラートは突き穿つように駆けていた。
 アルムスター公より借り受けた栗毛の馬は、足は速く疲れ知らずな名馬であったが、降り続ける雨は、容赦なくコンラートと馬の体力を奪い視界を遮る。逃げ隠れする相手を追跡するには、悪条件ばかりが揃っていた。

 追いかけてどうするつもりかと、コンラートは手綱を握ったまま己へと問う。
 王と国へ忠義をつくすならば捕らえるべきだろう。だがティアを、愛する女性を断頭台の下へ引きずり出すような真似をコンラートができるだろうか。

「……考えても答えは出ないか」

 コンラートは雑念をはらうように頭を振った。ティアが何を考えてカイザーを連れ出したのか分からない以上、彼女に味方していいものかどうか判断はできない。
 彼女を捕らえるにしても助けるにしても、会って言葉を交わすのが先だ。そもそも会えない可能性のほうが高い。そうと気付くと、胸に巣くっていた不安が治まるどころかさらにざわつき始める。

 コンラートが馬をアルムスター公の領地の西――王都から見て北方面へと走らせたのは、実の所何か確信があっての事では無かった。ただ少なくとも王都周辺にティアたちは既に居ない。それだけは自信を持って言える。
 恐らくティアは馬を使わない。使ったとしても途中で乗り捨てるだろう。そしてカイザーを担ぐなり背負うなりして走って移動するに違いない。

 ピザン王国内でも有数の使い手といえば、コンラートを含む五人ほどの人間の名が上がる。しかし一番強いのは誰かという話になれば、名が上がるのはティアとクラウディオの二人だけだ。
 ティアは人間離れした速さ、クラウディオは未来予知の如き勘の良さ。特殊能力と言っていいその能力は、それだけで人間という枠から二人を除外するには十分である。しかしさらに二人に共通する異常性として、底知らずな体力が上げられる。
 二人が本気で手合わせをすると、あまりの長さに太陽が飽きて寝てしまう。二人の話になると必ず出てくる冗談なのだが、実はそれが冗談でない事をコンラートを含む数人の人間は知っていた。
 そんなティアだ。カイザーを担いで走るなど造作も無い。既に王都付近に敷かれた包囲網も抜け出しているに違いない。

「!?」

 視界に何か白いものがかすめたのを認め、コンラートは慌てて馬を制止した。突然の事に抗議するように嘶く馬をなだめながら、森を貫くようにのびている街道の脇へと視線を向ける。
 山野を駆けて育ったコンラートでも、この豪雨の中で森の中に何か居るか見極める事は困難であった。しかし一瞬だけ、確かに、森の中ではありえない色が混じっていたように見えたのだ。

「ティア……」

 呟くように漏れた言葉に返事は無い。

「ティア!」

 気のせいだったのかと思いはしたが、コンラートは叫ぶようにティアの名を呼んだ。叫んだ後に、まるで悲鳴のようだと叫んだ当の本人が思った。

「……何故街道を横切ろうとした矢先に、あなたが来るのでしょうか」

 諦めたように、街道沿いに生えた木の影から捜し求めていた人が現れた。普段身に着けている胸当ては無く、ワンピースのような部屋着の上に厚手の上着を纏うという奇妙な出で立ち。余程急いでいた事が、その姿から知れた。

「……ティア」

 木の影から現れた姿を見て、コンラートの口から安堵したような声が漏れた。それとは逆に、雨具も纏わず濡れた髪を顔にたらしたティアの顔には、明らかな落胆の色が見て取れる。
 ティアの出てきた木の向こうからこちらを窺う影がある。頭まで布で覆われ顔は分からないが、僅かに見える髪の色からしてカイザーだろう。助けを求める様子も、逃げ出す素振りも見せないのを確認し、コンラートの予想は確信へと変わった。

「別に殿下をさらったというわけでは無いのだな?」
「……」

 確認の意味をこめた問いに答えは無い。ただティアの顔に微かに浮かんでいた戸惑いの色が、徐々に消えていた。

「何故答えん!?」

 コンラートの怒声をあびても、雨のカーテンの向こうでティアは表情を変えずに佇んでいる
 その通りだと、自分は反逆者では無いと答えて欲しかった。例え国へ反意を抱いたのだとしても、心情的に納得できる理由が語られると思っていた。
 だがティアは何も答えず、感情の見えない赤い瞳をコンラートに向けるだけ。それはコンラートが今まで見たことの無い、明確な拒絶の色を含んだ姿だった。

「コンラート。『やはり貴方は運が悪い』……今ここで私と出会わなければ、貴方は貴方の中の私を信じていられたでしょうに」
「何?」

 しばらくしてティアが放った言葉は、雨音にかき消されそうな小さなものだった。辛うじてそれを聞き取ったコンラートだったが、その意味するところが理解できない。
 そんなコンラートを無視するように、ティアはスラリと腰に下げていたサーベルを抜いた。

「待てティア!」
「待ちません。理由も話せません。ならばこうするしかないでしょう。――貴方は騎士なのだから」
「……」

 食いしばった歯から嫌な音がした。会えばどうにかなるのでは無いかという期待は裏切られた。それどころかティアは、己の行動の理由を話すことすら拒否した。
 ならばどうするか。
 決まっている。王がカイザーを連れ戻そうとしている以上、コンラートは王に仕える騎士としてそれを成すしかない。

「分かった……ティア」

 強く閉じていた口を開くと、コンラートは腰の剣をゆっくりと抜いた。青眼に構えた剣の向こうで、ティアは半身になってだらりと腕を下げている。
 その一見隙だらけの様子を訝しむコンラートだったが、顔を滴る雨水を拭おうとした瞬間、地が弾け、大粒の雨を蹴散らしながらティアの体が宙を飛んだ。

 コンラートが迎撃のために剣を握り直したときには、ティアの体は視界から消えており、辛うじて白い髪の軌跡が目に残っているだけ。しかしコンラートは勘に近い予想でもってティアの攻撃を予測し、自らの右後方へ向けて横薙ぎに剣を振るう。
 水滴を散らしながら走る剣。コンラートが後ろへ体を向けたのに引っ張られるように、剣はさらに加速し分厚い雨のカーテンすらも切り裂いた。一瞬だけできた雨粒の存在しない空白の向こうには、コンラートの攻撃を紙一重で避け距離を取るティアの姿。だが途切れた雨が再び地面へと落ちる頃には、コンラートとティアの間合は再び零になっていた。

 コンラートは力自慢ではあるが、決してのろまではない。むしろその踏み込みは鋭く、数歩の距離ならば一息でつめることもできるだろう。
 だがティアの速さはそれを越える。コンラートが一息ならば、ティアはいつ踏み込まれたのかすら分からない。そんな領域だ。彼女がどこに移動したのか予見していなければ、とても対応できる速さでは無い。
 コンラートはティアの動きに対応できているようでいて、その実は彼女を近づけないために大振りの攻撃で対処しているに過ぎない。ティアの残照すら見つけられず完全に見失えば、その瞬間に勝負は決してしまうと言って良い。

 だが一見優勢に見えるティアにも、それほど余裕が在るわけでは無い。
 移動速度こそ常識を逸脱しているティアも、剣速自体はコンラートとは互角でしかない。そしてコンラートとティアでは、手にした剣の重量が、そして何より体格が違う。まともに打ち合えば、ティアが競り負けるのは必定である。
 相手が並みの剣士ならば、すれ違った瞬間に首が落ちている。しかしコンラート相手ではそれは不可能だ。常に移動し反撃が不可能な状態を作り出さなければ、コンラートの剣はティアへと届く。

「ウヲオォッ!」

 振りかけた剣に手応えがあり、コンラートは雄叫びを上げながら渾身の力を込めて振りぬいた。遅れて視線を向ければ、剣を右手で握り左手でみねを支えたティアが、弾き飛ばされるように後ろへと跳び地面を滑っている。
 手応えは薄く、コンラートの力が逃がされたのは明らかだった。剣の持ち方から察するに、受け流す余裕は無かったのだろう。そのまま受ければ剣が折れると判断し、自ら跳んだに違いない。
 よくもこれほど素早い判断が出来るものだと、コンラートは自分の事を横に置きつつ呆れた。

「……」

 一気に距離は開いたが、ティアに逃げる素振りは見られない。そもそも逃げるつもりならば、こうして剣を合わせてはいなかっただろう。
 彼女が本気になれば、馬でも追いつけるか怪しいと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。事前に思っていた以上に善戦できている事といい、ティアを人外と評するのは間違いだったのか。
 
「十五年……。決して短くない時間とはいえ、貴方がここまで追いすがる事が出来るとは思いませんでした」

 独り言のように呟かれた言葉は、いつのまにか雨がやみ周囲が静寂に包まれていた事もあり、コンラートの耳にもよく聞こえた。そして意味を理解するなり、コンラートの口にその場の状況も忘れたような笑みが浮かぶ。

「そうか。強くなっているか俺は」
「ええ。腕力こそ衰えていますが、強くなっています」

 確かに、初めて会ったばかりの頃の手合わせは、コンラートが一方的に負けてばかりだった。力任せに戦うコンラートと、それをひらひらと避け、誘導し、剣を打ち合わせることすらしなかったティア。
 良いように踊らされるコンラートの姿を見て、他の騎士たちは自分の事を棚に上げて笑った。コンラートの数あるあだ名の中に、「暴れ牛」などというものが加わったのはその頃だった。

「君のおかげ……だろうな。誰よりも強く、騎士らしく、しかし女性らしさを損なっていない君は、若い俺にとって憧れだった」

 そして年を経るにつれて、憧れは恋情へと変わっていった。その中でも変わらなかったのは、ティアという騎士が越えるべき目標であった事だ。
 ティアの事を除けても、国内にはクラウディオという最強の騎士がいた。うぬぼれる暇などコンラートには無かったのだ。

「本当に貴方は……。貴方とは本当に、別れ際に会いたくは無かった」
「……そうか」
「しかしそれでも、行かせて貰います」
「……」

 無言で剣を構えなおしたコンラートに対し、ティアが腕を曲げ、剣で口元を隠すように構えた。初めて見せた構えと、直前に発した言葉が彼女から僅かな油断も消え去った事を示している。
 大丈夫だ。ティアとて化け物では無い。追いきれない速さであっても、こちらを攻撃してくる瞬間を狙えば勝機はある。
 そうコンラートは自身に言い聞かせていたが、対峙するティアが唐突に零した言葉に、水面のように澄んでいた心は乱された。

「――風の精霊よ。契約の下、我が命ずる」
「なっ!?」

 紡がれた言葉は、紛れも無く風の精霊魔術を使うための詠唱。
 ティアが魔術を使えるなどと、聞いた事が無い。しかし空気が震えるかのような独特の感覚は、今正に魔術が構築されている事をコンラートに知らせる。

「クッ!」

 混乱したまま、コンラートは半ば反射的にティアとの距離をつめていた。実際それ以外に対処法など存在しなかっただろう。
 コンラートに魔術師と戦った経験は幾度かあれど、それによって得られた結論は「剣士は魔術師に勝てない」という多くの人間が知る当たり前のものでしかなかった。
 魔術師に距離は関係無い。そして魔術が完成してしまえば、剣士がそれに対処する事は絶望的と言って良い。
 故に剣士の勝利するための条件はただ一つ。魔術師の詠唱が終わる前に魔術師を倒す事。その唯一の勝機を手にするため、コンラートは地面を滑るように駆け、その勢いのままにティアの体を躊躇無く薙いだ。

「――天より流れ落ちる雫」

 剣を振りぬいたコンラートの背後から、淡々と詠唱を続けるティアの声が聞こえてくる。剣の通ったそこに、ティアの姿は無い。
 見えなかった。これまでよりさらに速く動いたのか、それとも何らかの魔術を用いたのか、それすらも分からなかった。

「――其は共に在り集う」
「ぬうッ!?」

 しかしそれでも、コンラートは即座に体を反転させ剣を振る。
 まだ間に合う。いや間に合わせなければならない。コンラートに魔術への対処法が無い以上、危険であっても攻め続けるしか勝利への道は存在しない。

 しかしそんな道は、最初から存在しなかった。

「――来たれ、そして爆ぜよ」

 ティアが短く命じた瞬間、コンラートの視界が回った。耳に届いたのは、大砲を思わせる炸裂音。全身を襲うのは、まるで破壊槌をその身に受けたかのような鈍い衝撃。
 何が起きたのかも理解できぬうちに、コンラートの体は泥を撒き散らしながらぬかるんだ地面へと叩きつけられ、手足はおろか指先も動かせないまま仰向けに転がった。

「か……はっ!?」

 息をしようとすれば、痙攣したようにひきつる喉から空気の塊が漏れた。体を動かそうとすれば、左腕から焼きごてを押し付けられたような痛みと熱が登ってきた。それは久しく感じていなかった、骨の異常を知らせるシグナル。
 息をするだけで、体中を電流のような激痛が走った。荒い呼気は火傷するほどの熱を帯びているような気がした。

「ぐぅ……ぬうッ!」

 それでもコンラートは体を反転し、無事な右手を泥に塗れさせながら、体を無理矢理持ち上げる。普段なら一瞬で終わるその動きは酷く緩慢で、体のそこかしこから訴えられる痛みは脳を焼き視界を濁らせた。
 どうにか立ち上がり周囲を見渡せば、丁度正面にティアの姿があった。あまりの勢いに月まで吹き飛ばされたのかと思ったが、その距離は当初の二人の間合とそう大差は無い。
 霞む視界に映るティアの姿は、どこか寂しげで泣いているようにすら見える。そういえば初めて彼女と出会った時は、その白い髪と赤い瞳を見て兎のようだと思ったのだったか。そんな事を思い出して、コンラートは場違いな笑みを浮かべた。

「風の精霊魔術とは……な。よくも十年以上も隠し通したものだ。君が魔術を使うなど……想像すらしなかった」

 魔力は誰にでもあるものだが、それを魔術という力にまで昇華できる者は少ない。まして魔術師の殆どは隠遁しており、表舞台に立つものの多くは魔法ギルドに所属している。
 ピザン王国ほどの大国でさえ、直接召抱えている魔術師は十人に満たない。こんなところに隠れ魔術師が居るなどと、誰が想像出来ただろうか。

「コンラート……これ以上は……」
「分かっている。俺の……負けだ」

 自らの敗北を告げ、コンラートは跪くように膝を折った。もはやコンラートには歩く力も残されていない。もはやティアを倒すどころか、近付く事すら出来ない。
 コンラートが認めるまでも無く、勝敗は決していた。

「行け……ティア」
「……」

 コンラートの言葉に、ティアは無言で頭を下げると踵を返す。その背中をコンラートはただ見つめる。
 聞きたい事がどれほどあることか。今回の事。王弟の事。ティアの事。コンラート自身の事。知りたい事は山ほどある。
 だが聞くことは出来ない。ティアはそれを拒絶し、コンラートは負けたのだから。

「……ティア、少し待って」

 ティアのそばへと歩み寄ったカイザーが、変声期を終えていない少年特有の高い声で言った。驚いたようにふりかえるティアを気にするでもなく、カイザーはゆっくりとした足取りでコンラートの方へと足を進める。

「この剣を」

 かけられた言葉に、コンラートは咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。差し出されたのは、カイザーの腰にかけられていた、幼い体にはいささか不釣合いな身幅と重量のある剣。
 互い違いの引っ掛け棒のような鍔のつけられた見慣れぬそれは、装飾の少ない実用本位のもののようだったが、それでも王弟たるカイザーの持ち物であるからには値打ちの低い駄剣ではありえない。
 そんなものを素直に受け取るわけにも行かず、コンラートは跪いた体勢のまま首を横に振ろうとした。

「これは騎士の剣。あなたが騎士としての誇りと忠誠を失わない限り、その身は折れることも欠ける事も無い」
「!?」

 しかしカイザーから語られた言葉に、コンラートは首を振るのも忘れ、幼い王弟の顔を凝視してしまっていた。

『――あなたに渡したのは騎士の剣。あなたが高潔にして公正なる騎士である限り、その身は折れることも欠ける事も無いでしょう』

 それはかつて夢の中で聞いた、巫女の言葉。ただそれだけの言葉。渡してきた人間も、渡された剣も、夢の中のそれとは似ても似つかない。
 しかしそれでもコンラートの心は静まらず、カイザーはその心を制するように言葉を続ける。

「どうかその力で、ゾフィー姉様を支えて欲しい」

 そして最後にかけられた言葉に、コンラートは現実へと引き戻された。
 王はもう高齢だ。それに対し、後を継ぐゾフィーは若い。そう遠くない内に、ピザンは経験の浅い女王が統治する事になる。
 コンラートはそれを助けなくてはならない。現王のようにゾフィーがコンラートを重用するかどうかは分からないが、騎士の一人として国と王に仕える事はやめないだろう。ならばカイザーに頼まれるまでも無く、コンラートはゾフィーを支えなければならない。

「……御意」

 短く、しかしはっきりとコンラートは言うと、動かない左腕を垂らしたまま右腕だけで剣を受け取る。
 怪力で知られるコンラートからすれば、その身幅の厚い剣も今まで扱ってきた武器に比べれば頼りない。しかし右腕に預けられたそれは、今までに持ったどのような武器より重く感じられた。



[18136] 二章 裏切りの騎士4
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:e700d56f
Date: 2010/08/08 13:39

 ふと空を見れば、山のように盛り上がった雲が、西の空に陣取っているのが目に入った。その見事と言っていいほどに立派な白い塊を見て、コンラートはほうと息をつき、ここ数年ほど、このように空の景色を眺める事すら無かったのだと思い至り苦笑した。
 後ろを振り返れば、彼方に朝日を受ける王都が見えた。視線を前へと戻せば、眼下には大地がコンラートを迎え入れるようにどこまでも広がっていた。もしコンラートがあと十も若ければ、同じ光景を見て、抱く思いは違ったのだろうか。

「しっかりしろ」

 自らを叱咤するように言うと、コンラートは固定された左腕を労わるように撫でる。
 歳をとればとるほど変わるのは難しくなる。かつて上司であった兵士長は、コンラートたち若手の兵を前にそう零していた。変わるという事は、今ある何かを捨てる事と同義。歳をとればとるほど持ち物が多くなり、そしてそれを捨てる事は難しくなるのだと。
 それと同じだろうか。光に満ちた明日への希望より、先の見えない未来への不安の方が勝るのは。歳をとり何かを得るたびに、何かを失い先は短くなるばかり。しかしそれでも――

「行ってまいります。殿下」

 帰ってくる場所がある。託された思いと、預けられた期待がある。
 それらの思いを胸に、コンラートは旅立った。





「コンラート。おぬしの騎士の位を剥奪する」

 諸侯を集めての場にて、玉座に座る王からその言葉は放たれた。それに即座に反応できたものは居らず、玉座の間は沈黙に包まれる。
 コンラートは騎士としては有能であるが、平民出であるために疎ましく思うものも多い。騎士でなくなるならば、神妙な顔をして、さも残念そうに「いた仕方無し」とそれを支持する者も居たことだろう。しかし王が突然下した罰は、そういった人間が喜び勇んで受け入れる事ができないほどに、唐突であり理不尽であった。

「お待ちください陛下!」

 誰もが動けない中、しわがれ声と共に進み出る者がいた。驚いた諸侯が一斉に目を向けたそこに居たのは、つい最近まで病に伏せっていたアルムスター公であった。
 魔女の薬が余程効いたのか、その体は相変わらずの皺だらけではあるが、生気に満ちている。その姿は、王国を支えてきた重鎮の一人が、未だ健在である事を示していた。

「王の心、私には痛いほどに分かります。もしも我が子が何者かにさらわれ、部下がそれを救えずおめおめ戻ってくれば、私とて怒り狂いその者に罰を下すでしょう」

 王にとってカイザーは弟にあたるが、その年齢は実子である三人の子よりも離れている。そのため王はカイザーに兄として接することに慣れず、我が子同然の扱いをした。
 故に王のカイザーに対する親愛の情は親としてのそれに近く、それこそ氷のように冷え切った瞳の奥では、業火の如き怒りをたぎらせている事だろう。

「しかしここに居るコンラートは先の大戦での英雄。戦無き世においても王と国と民のために働き、多くの功を上げております。一度の失態で、挽回の機会も与えず罷免するなど……」
「控えよアルムスター公。そなたの意見を許した覚えは無い」
「……ハッ。申し訳ありません」

 射抜くような眼光といっそ冷淡と言っていい王の言葉に、アルムスター公は歯噛みしながらも下がった。
 王は本気だ。ここで強く意見した所でその決定は覆せないであろうし、何より自身とコンラートの立場をより悪くしかねない。納得がいかずとも、口をつぐむしかなかった。

「コンラート。何か申し開きはあるか?」
「……ありませぬ」

 跪いたままコンラートは短く答える。その左腕は肩からつり下げられており、服の下には折れた肋骨を庇うように布が巻かれている。
 コンラートがティアを逃がしたと知れた直後、彼がわざとティアを逃がしたのでは無いかと言う噂が流れた。二人の関係を考えれば、そのような噂が流れる方がむしろ自然であっただろう。
 しかしそんな噂も、全身に傷を負ったコンラートの姿を見れば、誰もが間違いだと理解した。だがその事実も、王の決定を覆すのには何の役割も果たさない。

「恐らくカイザーは既に国外へ出ているだろう。今後の捜索はロンベルク侯に一任する。よいな?」
「仰せのままに」

 王に応えて恭しく頭を下げたのは、背も体格もそれなりで、ひょうひょうとした笑みを浮かべる中年の貴族。その姿を見るなり、アルムスター公を始めとした幾人かの貴族が、他人には分からぬ程度に顔をしかめた。
 ロンベルク侯爵家は代々子沢山であり、国内外を問わず婚姻――あからさまな政略結婚を行ってきた一族だ。各国に人脈があり、国外に逃亡したティアとカイザーを探すには適任と言えるであろう。しかしその言動の節々には、国への忠節よりも自らの家の繁栄を願う思いがにじみ出ている。
 信用できない。それがこの場にいるほぼ全ての者の判断であり、そのロンベルク候を頼る王に、余裕が欠片も無い事を思わせた。





「コンラート殿!」

 玉座の間を辞し長い廊下を歩いていた所に、自らを呼ぶ声が耳に入り、コンラートは足を止める。振り返れば宰相閣下――第二王子であるヴィルヘルムが息をきらせながら走って来ていた。その様子を見て、コンラートは慌てて歩いてきた廊下を駆け戻る。

「閣下。そんな体で無理をなさいますな!」
「はあ……余計な世話です。子供の頃とは違うのですから、これくらいで倒れたりはしません」

 渋面で放たれたヴィルヘルムの言葉に、コンラートは「はあ」と気の抜けた声を返すしかなかった。それが気に食わなかったのか、ヴィルヘルムはさらにムッとした様子で、息を整えながらも言葉を放つ。

「大体……呼び止める間も無く出て行った上に、即座に姿を消した貴方のせいで私は走り回る破目になったのです。王宮を走って移動しているのですか貴方は?」
「いえ、普通に歩いておりますが……」
「ならばその無駄に長い足のせいですか。さすが『巨人』と呼ばれるだけの事はある」
「よくそんな古い呼び名をご存知ですな」

 巨人というのは、キルシュ防衛戦からしばらくの間、コンラートのあだ名となっていた呼び名だ。単にコンラートの体躯を褒めるだけのものでは無く、でかくて邪魔だという揶揄も含まれており、あまり呼ばれて心地良いものでは無い。
 ヴィルヘルムが何を意図してその名を呼んだかといえば、単に嫌がらせのためだと本人に聞けば答えるだろう。王と諸侯の調整役となっているヴィルヘルムからすれば、コンラートの存在は頭痛の種の一つ。自重を促すためにも、厳しい言い方をしてしまうのだろう。
 その言い方を省みれば、やはり単に嫌われているという可能性も高いのだが。
 
「しかし私めに何か御用で?」
「兄上から伝言を頼まれたのです。まったく伝言程度その辺の兵にでも任せれば良いでしょうに」
「それは、お手を煩わせ申し訳ありませぬ」
「煩ったのは足と肺ですがね。王都の東の城壁沿いにある教会に行き、そこにいる神官に会えだそうです。確かに伝えましたよ」

 伝言が終わるなり、ヴィルヘルムは踵を返して走ってきた廊下を戻っていく。その後姿を、コンラートは困ったように眉を下げつつも、頭を下げて見送った。





 ヴィルヘルムの伝言に従いやってきた教会は、王城からは離れた位置にあるこじんまりとしたものであった。窓の無い壁際には、奇妙に捻れた木が寄り添うように生えており、建物自体が古い事もあり、どこか独特の趣のようなものを感じさせる。

「このような所にな」

 御世辞にも立派とは言えない教会の様子に、コンラートは意識せずそんな事を口にしていた。ここにいる神官が何者かは知れないが、クラウディオが指定したという事は彼の知り合いなのだろう。それだけで会った事のない神官に不安を覚えるのは、クラウディオの日頃の行いのせいであろうか。

「御免」

 中に人の気配があったため、コンラートはその人物に聞こえるように、断りを入れながら入り口を開く。

「お、いらっしゃい」
「……」

 しかし中に居た人物を見て、扉に手をかけた状態のままその動きを止めた。
 猫を思わせる左目に、半ばまでしか開いていない右目。そして自分同様に教会には不似合いな剣をぶら下げたその人物は、コンラートの一番の友人とも言える女性であった。

「……何をしているリア?」
「殿下に頼まれてね。良いからとっとと懺悔室に入りなよ」

 有無を言わさず背中を押され、コンラートは無理やり懺悔室へと押し込まれる。その強引さに眉をしかめながらも、変わらぬ彼女を嬉しく思う。
 ティアが逃亡し、コンラートが騎士でなくなった今、かつて白騎士と呼ばれた騎士はリア一人。そのリアも、伯爵家に嫁いだ以上、厳密に平民騎士とは言いがたい。
 ピザンにはもう平民騎士は居ない。自分たちを目標とし、夢を見て兵になったものたちの事を思うと、コンラートの胸は悔恨で押しつぶされそうになる。

「さあ、迷える子羊よ。自らの罪を告白しなさい。慈悲深き女神はあなたの罪を許し癒すでしょう」

 しかしその思いを吐き出すべきであろう場所に、コンラートの罪を許す神は居なかったらしい。網の張られた小窓の向こうから聞こえて来た、重々しい男の声。その声を聞き、コンラートはようやく伝言の目的と、リアがこの場に居た理由を悟った。

「どうしました?」
「いえ、あの方が勧めるだけあり、頼りになりそうな神官殿だと」
「ハッハッハ。そうだろう。俺ほど頼りになる男はこの国には他に居ないぞ」
「でしょうな」

 それまでとは打って変わって軽い口調となった声に、コンラートはつられるように笑った。そうして二人してしばらく笑うと、小窓の向こうの神官役は悔しげに謝る。

「すまなかったなコンラート。親父の様子がおかしいのは分かっていたが、まさかおまえから騎士の位を取り上げるとは思わなかった」
「いえ、クラウディオ殿下に頭を下げられては、こちらとしてはむしろ居心地が悪い」
「そうか。だがおまえも悪い。俺は何度もうちの騎士団に誘っているというのに、あんな頑固親父の下にいつまでも居るのだからな」

 拗ねたようなクラウディオの言葉に、コンラートとしては苦笑いするしかなかった。クラウディオ以外にも、コンラートを欲しがる騎士団はあった。それらを断わり王の下に居続けたのだ。
 それは内実はどうあれ、賞賛されてしかるべき忠誠の形であっただろう。にもかかわらず、王はコンラートから自らが与えた最たるものを奪い取った。コンラートが王を恨んでも、殆どの者は納得し、同情するかもしれない。

「俺は失態を犯し、それに罰が与えられた。当然の事でしょう」
「アルムスター公が反論したのを聞いていなかったのか。おまえは自分を過小評価しすぎだ。親父もらしくない。ボケて脳が腐ったか。コンラート、隙があったら親父の臭いをかいでみろ。腐臭がするかもしれんぞ」
「そんな隙などありませぬよ」
「だろうな。今の親父は老いをどこかへ捨ててきたようだ。色々と抗議しようと思ったが、気迫で負けた。……我ながら情けない」

 小窓の向こうで肩を落としているであろうクラウディオを想像し、コンラートはそれも仕方ないと思う。

「それで、本題はいかなるものでございましょう。雑談をするために、このような場所に呼び出したわけではありますまい」

 話が止まったのを見計らって、コンラートは問うた。
 表立った話をできない人間が、懺悔室で密談を行うというのはよくある事だ。クラウディオも何か話しづらい事があるのだろう。そう思い、コンラートは話の先を促す。

「ああ。カイザーとティアだがな、今はジレントに居る」
「ジレントに?」
「それを公表しなかったのは、ジレント相手に無茶はできんからだ。今の親父ならば、ジレント相手にでも戦をしかけかねん。矢の代わりに炎だの雷だの降ってくる戦場は御免だ」
「確かに」

 魔術師が作り上げた国であるジレントは、当然魔術師が多く国軍の二割が魔術師であると言われている。その上魔法ギルドの本部はジレントにあり、議員の多くは魔法ギルドの党員で占められている。
 即ちジレント共和国と魔法ギルドはほぼイコールの組織であり、ジレントに危機が迫れば、党員の多くは自国よりもジレントを優先する。下手をすれば、大陸全ての魔法ギルドに所属する魔術師を敵に回しかねない。

「ともかく、ジレントに居るティアとカイザーは身の安全を保障されている。それを伝えておこうと思ってな」
「なるほど。しかし何故二人はジレントに?」
「さてな。もしかしたら、俺たちには想像もできん陰謀でも動いているのかもしれんが、その辺りは慎重に探りをいれていくしかあるまい。さて、その話は置いてだ。コンラート、おまえに頼み……というか提案がある」
「提案?」
「騎士を辞めたついでに軍を辞めてくれないか?」
「……何故?」
「リカムが怪しい動きをしているのは知っているか? そのリカムとの国境にあるリーメスに、おまえを派遣しようと言い出した連中が居てな。もしリカムが本当に動いたならば、援軍にお前一人をやっても全滅するのは目に見えている。要するに親父の後ろ盾の無くなったおまえを潰すつもりだ。親父もそれを止める様子が無い。親父がその気なら、俺でもおまえの立場をどうこうするのも不可能だ」
「……」

 コンラートは返事を返すこともできず、右手で顔を掴むように覆った。
 例え騎士の位を剥奪されようとも、王に仕え忠を尽くす気持ちは変わらないつもりであった。これまで通り仕え続ければ、騎士の位は与えられずとも王の信頼は取り戻せると思っていた。
 しかし王はコンラートを見捨てた。それほどまでに、カイザーを連れ戻せなかった事に怒りを覚えているのか。

「俺の方で別口の援軍をねじ込むくらいはできるだろうが、それでは後が続かん。親父が生きている限り、俺やアルムスター公を始めとした者がおまえを買っていても守りきれん。今すぐにでも、この国を離れろ」

 クラウディオの声が、コンラートにはどこか遠く聞こえる。結局コンラートは、明確な答えを返すこともできず、しばらくの間懺悔室から動く事ができなかった。





 どれほどの時間がたっただろうか。祈るように両手を組み、混濁する思いを整理していたコンラートは、気の晴れぬまま立ち上がった。
 答えは出ない。このままでは確実に命を落とす、無謀とも言える任につかなければならないと分かっていても、逃げるようにこの国を出る事がコンラートには不誠実に思えた。国のために使い潰されるのも、己の役割では無いか。そんな事を思いそれが異常だと分かっていても、コンラートは他の選択肢を選べそうに無かった。
 そもそも、今更この国を離れ、どのように生きていけば良いのか。子供の内に故郷を失い、軍人としての生き方しか知らない。国を出ても、自分はすぐに野たれ死ぬのでは無いか。コンラートにはそう思えてならなかった。

 考えるのは一旦止め、雑念を払うように頭を振る。久方ぶりに意識を外に向けてみれば、クラウディオはとうの昔に向かいの部屋からは消えており、外にある気配は一つだけであった。
 恐らくはリアだろう。ティアとの事もあり、話す事は多い。何から言うべきかと悩みながら、コンラートは懺悔室から足を踏み出す。

「……そなたは」
「む?」

 予想外の、聞きなれぬ歳若い女性の声に、コンラートは伏せていた顔を上げる。
 そこには寂れた教会には不似合いな、白いドレスを纏った令嬢が佇んでいた。意表をつかれたように見開かれた目の色はアメジストを思わせ、背中に流れる髪は炎のような赤色。その作り物のように整った顔にコンラートはしばし見とれたが、特徴的な瞳と髪の色を見て、目の前の人物が何者か悟り慌てて跪いた。

「失礼しましたゾフィー殿下」
「良い。このような所で私と会うとは思っていなかったのであろう。私もここにそなたが居るとは思っていなかった……というより兄上が謀ったのだろうな。御互いあの人には苦労するな、シュティルフリート卿」

 ゾフィーの口から紡がれた、滅多に呼ばれぬ己の家名を聞き、コンラートは顔を地面へ向けたまま微笑を浮かべる。
 山村の生まれのコンラートに元々家名は無く、騎士となったときにアルムスター公より送られたそれが唯一のものであった。しかしシュティルフリート――「穏かなる守護者」を意味するその名は、コンラートには少々重く、気恥ずかしいものであった。故に自らそれを名乗る事は無く、周囲の者も必要が無ければ呼ぶ事も無く、そのうちにコンラートの家名を知っている者の方が少ないという状態になってしまっていた。
 しかしゾフィーは、その家名をあっさりと口にした。顔を合わせた機会も少ない王女に、それなりに目をかけられていたのだと思うと、コンラートは内心の喜びを抑えきれずにはいられない。しかし今の己にそれに浸る資格は無いと思い直し、意識して硬い声で話す。

「……殿下。ぶしつけながら、献上したき品がございます」
「何か?」
「この剣を」

 コンラートがゾフィーの前に跪いて差し出したのは、カイザーから受け取った剣であった。それを見たゾフィーは、しばし黙考した後に口を開く。

「それは?」
「カイザー殿下より賜ったものです。わたくしめにゾフィー殿下の支えになって欲しいと。しかしわたくしはこの国を離れねばなりませぬ。故にこの剣を持つ資格無く、殿下にお渡しすべきと思い至った次第にございます」

 本音を言えば、手放したくは無かった。夢と符合するカイザーの言葉が気になったという事もあるが、それ以上に託されたものを手放す事が口惜しかった。
 しかし言葉にした通り、既にコンラートではゾフィーを支える事ができない。故に自らの感情など置き去りにして、コンラートは剣をゾフィーへと手渡した。

「そうか……カイザーが私の事を」
「ハッ。どうかゾフィー殿下の頼りとする騎士に、カイザー殿下の思いと共に、この剣をお渡しください」

 コンラートが言い終わると、ゾフィーはゆっくりと頷き剣を手に取った。さすが騎士としての訓練も受けているだけはあるのか、他の貴族の令嬢ならば地面にぶつけていたであろうそれを、ゾフィーは慣れた手つきで受け取った。そして手の中の剣をためつすがめつ眺めると、どこか納得し感心したような声を出した。

「カッツバルゲルか」
「カッツ……? その剣の名でございましょうか?」
「うむ。かつて蒼槍騎士団と対を成した、赤剣騎士団の団員が用いた剣だ。赤剣騎士団の消滅と共に姿を消した剣だが、カイザーもどこで見つけてきたのか」

 そっと窺ったゾフィーの顔は、穏かな笑みを浮かべていた。子供の悪戯を見つけた、母親のようなどこか暖かみのある笑み。それを見ただけで、ゾフィーと面識の浅いコンラートにも、二人の仲がどのようなものであったか想像できた。

「この剣に相応しい騎士ならば、丁度一人心当たりある」
「どなたでしょうか?」
「そなただ。シュティルフリート卿」

 自らの名を呼ばれ、コンラートはハッとしたように顔を上げた。それを見つめるゾフィーは、先ほどまでとは違い力強い視線をコンラートへと向けており、見つめられたのが歳若い兵士ならば、思わず平伏してしまいそうな威厳を背負っていた。

「しかし、わたくしは……」
「国を離れるのだろう。今の父の事を思えば、それがそなたにとっての最善であろうと私も思う」
「ならば」
「なればこそ、私はそなたがすぐに戻れるよう、玉座を譲られるのを待つのでは無く、奪い取ってやろうと思う」

 告げられた言葉の意味が飲み込めず、コンラートは唖然としながらゾフィーを見上げる。するとそれまでのともすれば威圧的とすら言える空気が途端にやわらぎ、クスクスと笑う一人の少女の顔がそこにあった。

「父の存在が国の危機を招くならば、早々に隠居してもらうのも手であろう。このままでは、ジレントに戦をしかけかねん」
「ジレントに?」
「兄上に聞いたかもしれぬが、カイザーは今ジレントに居る。一応私と兄上で情報は止めてはいるが、ロンベルクならば調べ上げるのも時間の問題であろう。そして今の父がジレントへの侵攻を躊躇うとは思えぬ」
「……陛下はそこまで」
「焦って……いや、病んでいるというべきか。父のあの様子は、後先を考えぬ破滅主義者ように見える。きっかけが何かは分からぬが、それを探っている暇も無い。そなたも長年仕えた主の豹変に思うところもあるだろうが」
「……」

 気遣わしげに視線を向けるゾフィーに、コンラートは言葉を返せずにいた。村を焼き払われ、死にかけたところを拾ってくれたのは、他ならぬドルクフォード王だ。命を救われ、騎士として採りたてられた恩を返しきれたとは、今でも思えない。
 しかし……。

「……陛下が王としての道を踏み外そうとしておられるならば、止める事が救いとなりましょう」
「それがそなたの忠義か。ならば私は、そなたの忠義が自らへの刃とならぬよう、気をつけるとしよう」
「わたくしはそのような大層な者では……」
「大層なのだ、そなたは。先の戦にてリーメス二十七将に数えられたのは伊達ではあるまい。他国に引き抜かれないかと、私は心配でならぬ」

 心配といいながらも、ゾフィーの表情には歳相応の笑みが浮かんでいた。
 キルシュ防衛戦において主戦場となったのは、リーメスと呼ばれる大陸を横断する古代の城砦跡であった。故にその戦にて名を上げた戦士や魔術師を、人々はリーメス二十七将と呼んだ。
 大陸を巻き込んだ戦で名を上げ、その功績、あるいは武を讃えられた者たち。ゾフィーのような年若い者からすれば、正に生ける英雄。最初から英雄として己の世界に存在した故に、嫉妬や侮蔑の感情などあるはずも無く、無条件にその力を認め、あるいは実態以上にその力に畏怖してしまう。

「私は、自らの力で玉座を勝ち取る事で、そなたの主足ると示したいと思う。だからその時は、私の預かったこの剣を、どうかそなたが受け取って欲しい」

 十以上も歳の離れた、未来の王たる少女の願い。それはコンラートにとっては複雑であり、重いものであった。
 しかしそれでも、コンラートは己の心が震えるのを感じていた。それは歓喜。己を認め、必要としてくれるものが居る事に感激し、仕えるべき主が王たる片鱗を見せたことに対し欣喜する。そしてその湧き出る感情に、コンラートは己の中に騎士としての生き方が染み付いている事に気付き、そして受け入れた。

「……御意。その時が訪れれば、例え地の果てにあろうとも、何者よりも早く殿下の下に馳せ参じましょう」





 王都から少し離れた、小高い丘を越えて、コンラートは歩き続ける。彼女がその姿を見つけたのは、意識して探したから。幸運にも見つけることのできた、豆粒ほどに小さくなった騎士の姿を、城壁の上から無言で見送る。

「行ったか」
「はい」

 不意に背後からかけられた声に、ゾフィーは驚く素振りも無く答える。そのゾフィーの様子を面白そうに眺めながら、クラウディオは彼女の隣に立ち彼方の騎士を見やった。

「それで、話してみた印象はどうだ?」
「私が知る通りの、誠実な人柄でした。その上腕もたつのでしょう?」
「ああ。俺には劣るがな」

 肯定の後、ニヤリと笑いながら言うクラウディオに、ゾフィーは呆れ、困ったような笑みを向ける。

「しかし、何故おまえはそこまでコンラートに入れ込んでいるのだ? 接点など無かったはずだが」
「……」

 クラウディオの問いに、ゾフィーはすぐには答えなかった。遠い昔の記憶を反芻するように噛み締めると、ゆっくりと語り始める。

「……些細な事です。十五年前の、戦が終わったばかりのあの時、祭りのように騒がしい城下を見て、お転婆な私は当然のように城を抜け出した」

 今にして思えば、随分と無茶をしたとゾフィーは思う。父や城の者達は心配しただろうし、抜け出したのに気付けなかった付き人は罰を受けたかもしれない。
 しかしそんな事に気が回らないほどゾフィーは子供で、恐いもの知らずであった。庭を散歩するような気軽さで、弾むように城下の石畳の上を駆けていた。

「馬車に轢かれかけただとか、暴漢に襲われそうになっただとか、特に衝撃的な事件が起きたわけでもありません」

 そんな事が起きていれば、父や兄の耳にも届いたであろうし、今もゾフィーの付き人をしている老騎士は首を吊っていただろう。

「ただ私が躓いて、当たり前のようにそれを受け止めた騎士がいた。それだけです」

 まるでゾフィーが転ぶのを予期していたように、その騎士はゾフィーの前に居た。戸惑いながら、ガラスの調度品を扱うように慎重にゾフィーに触れる手の平は硬く、見上げた顔はひょろりと伸びた背の割には幼さが残っていた。
「気をつけなさい」と優しい声で言って、騎士は呆然としているゾフィーの頭を撫でた。威張りちらし、しかし彼女や彼女の家族には媚びへつらう、嫌な騎士。礼節を重んじ、幼いゾフィーにまで過度に恭しく丁重に接する騎士。そのどちらとも違う、騎士らしくない騎士。抱いた印象は、それだけ。

「きっかけがあり、よく見てみれば、あとは誰にでも分かる。私が入れ込んでいるのではなく、彼が誰よりも騎士らしい騎士であった。それだけの話です」
「ふん……まあそういう事にしておくか」

 引っかかりのある言い方をするクラウディオ。それに抗議するように、ゾフィーは鋭く細めた目を向ける。しかし彼女の兄上は、ニヤニヤと嫌らしい笑みを引っ込めようともしない。

「初恋か?」
「違います」

 先ほどの語り口の熱が冷めたように、無愛想にゾフィーは否定した。それを見て、クラウディオは声を上げて笑う。

「ハッハッハ。まあいい。カイザーの逃げたジレントに暴発寸前のリカム、そして親父。やる事は山積みだというこの面倒な時期に、わざわざ玉座を取りに行く物好きな妹のために、俺も気張るとしよう」
「ええ、頼りにしています兄上」

 下の兄とは別の意味で対処に困る兄に、ゾフィーはひっそりと吐息をつきながらも言う。
 視線を再び彼方の丘へと向けたが、そこには既に人の姿は無く、ただ緑色の地面がどこまでも広がっていた。この別れはしばしのもの。そうあることを願い、ゾフィーは城へ――自らの戦場へと戻っていった。



[18136] 三章 女神の盾1
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:e700d56f
Date: 2010/11/03 12:43
 王宮の一室にて、王女は紅茶と白い紙の置かれたテーブルを前に、自らの設立間近な騎士団の調整に追われていた。自らの領地を持っている以上、ゾフィーにも直下の戦力はある。その規模を拡大し、新たな騎士団の設立を目論んだのだが、見事に人材が集まりそうに無い。
 腹立たしい事に、多くの者は騎士団の設立自体を、王女の道楽としか見ていない。人材が集まらないのは、当然といえば当然であった。しかし平時ならもう少し集まっただろうにと、宿敵たるリカム帝国に文句を言いたくなる。

「いっそ直接会って引き抜くか」
「それはなりませんぞ姫」

 漏れた呟きに返事があり、王女は背後に控える騎士へと振り向いた。すると立派な白髭をたくわえた老騎士マルティンが、嗜めるように言う。

「姫に直接声を頂けば、確かに従う者は多い。しかし周囲はそれを姫が無理強いしたものと思い、顰蹙をかいかねませんぞ」
「構うものかと言いたいが、そうもいかぬか」

 今の王女は、大胆な行動を起こす事が出来ない。そもそも普通に引き抜いたとしても、優秀な人材を取られる側は良い感情を持たないだろう。上手くいかない現実を前に、王女は疲れたように吐息を漏らした。
 そもそも、本来ならば自分がこんな事をする必要は無かったのだ。そう思うと、この状況を押し付けた人物に、仕方が無いと理解しつつも文句を言いたくなった。

「ゾフィー。少し時間はとれませんか?」
「兄様? どうぞ」

 突然の来客に、王女は考えを一時放棄し客を招きいれた。現れたのは王女の兄にあたるヴィルヘルム。彼は王女の座るテーブルの前まで来ると、腰を落ち着ける素振りも見せずに話し始める。

「あなたの騎士団についてなのですが、少数ならば近衛から何人……か……」
「……?」

 何が起きたのか、ヴィルヘルムは話しながら訝しげに王女に視線を向ける。そして盛大に眉間に皺を寄せると、口を閉じてしまった。その行動の意味が分からず、王女は老騎士と顔を見合わせて首を傾げる。

「……マルティン。少しゾフィーと二人きりにしてくれませんか」
「それはできませんな」

 第二王子にして宰相たるヴィルヘルムの言葉を、マルティンは考える様子も見せず、即座に切り捨てた。マルティンにとってゾフィーをヴィルヘルムと二人きりにするのは、猛獣の檻に兎を放り込むに等しい。
 クラウディオが騎士ティアに求愛しつつも、しっかり妻を娶り一児をもうけたのに対し、ヴィルヘルムは二十代後半になるにもかかわらず未だに独身。その理由は、ヴィルヘルムが実の妹を溺愛しているためだと、まことしやかに囁かれている。
 城下にまで広がっているその醜聞を、きっぱりと否定できる人間は居なかった。実際にヴィルヘルムのゾフィーへの愛情は、兄妹のそれとしては行き過ぎている。ゾフィーを幼い頃より見守ってきたマルティンが、心配するのも無理は無かった。

「良いマル爺。呼ぶまで下がっていろ」
「しかし……」
「私が兄上に腕力で負けるわけが無かろう」
「それは……確かにそうですが」

 今でこそ人並みに、あるいは以上に働いているヴィルヘルムだが、幼少の頃は病弱であった。この所は病気こそしていないが、それほど体力があるわけでは無い。一国の姫君としてはありえないほどの武を持つゾフィーを、力尽くでどうこうするのは無理だろう。
 渋々ながらも納得したマルティンは、一礼すると部屋から出て行った。

「マルティンもあなたも、随分私を嘗めているようですね」
「今更でしょう。それで、一体どうしたのですか?」
「話は簡単です。ゾフィーはどこですか?」
「……何を言っているのですか兄様。父上が中々ボケないと思っていたら、兄様が先にボケるとは」

 眉をひそめながら言う王女に、ヴィルヘルムはくつくつと笑みを返す。しかしその笑みの奥で、ギラリと目の色が変わった。

「誰に口をきいているのですか。そんな稚拙な変装で、私の目をごまかせるとでも?」
「……何の事でしょうか?」
「ああ、話す気が無いのなら構いません。王女の名を騙る不届き者を、捕らえ拘束し拷問にかける。ぱっと見は似てないわけでもありませんし、楽しめそうですね」

 今にも舌なめずりをしそうなヴィルヘルムの姿に、王女の心に恐怖が入り込み、僅かに顔を歪めさせた。その様子を見て、ヴィルヘルムはそれまでの獲物を狙う蛇のような視線をやわらげると、口元を吊り上げるようにして笑った。

「冗談ですよ。まあこれ以上白を切るつもりなら、冗談でなくなりますが」
「……も、申し訳ありません!」

 口元こそ笑ってはいるが、相変わらず冷たく見下すような目。その人では無く物を見るかのような視線に、王女のふりをする少女は、屈服し観念するしかなかった。
 王女という演技を止めてしまえば、本人の性格は似ても似つかない気弱なもの。今の状況に虚勢をはる事もできず、血の気がひいた顔は青く染まっていた。

「し、しかし何故分かったのですか?」

 何故ばれたのか、少女には不思議でならなかった。実際にゾフィーと入れ替わった事は数回しかないが、いずれも周囲の者――クラウディオにすら気付かれずに役目を果たしてきている。ゾフィーを真似るために、彼女の性格を把握し、本人の知らない癖すら再現した。自分以上にゾフィーを知る人間など、他に居ないと自負している。
 そんな少女の自負を、ヴィルヘルムは容赦無く打ち砕いた。

「ゾフィーはもう少し肩幅が広い。瞳の色もあなたほど青みがかってはいませんし、鼻は美しい。そして何より髪がいただけない。ゾフィーの髪はもっと光沢があります」
「……あの、これはゾフィー様の髪を使っているのですが」
「ゾフィーの? ああ、騎士の修行を本格的に始める時に、一度短く切っていましたね。ならば保管している内に痛んだのでしょう。管理が甘い」
「そ、そうですか」

 次々と出てくる駄目出しに、少女は疲れたように眉間をおさえた。指摘されるのは外見の特徴ばかり。少女が必死になって身に着けた振る舞いや仕種は、この宰相閣下の愛の前には意味を成さなかったらしい。

「それで、ゾフィーはどこに?」
「その……アルムスター公のもとに。理由はお答えいたしかねます」
「アルムスター公の。彼は選定候の一人ですね。そういえば兄上もアルムスター公以外の三公と接触しているらしいですが」
「……お答えいたしかねます」

 最初から知っていたとしか思えない的確さで、ヴィルヘルムはゾフィーの目的を遠回しに言い当てる。
 選定候とは、新たな王を決める際に投票権を持つ諸侯の事である。彼らの支持を受けなければ、王になる事は許されない。彼らの支持を得ずにゾフィーが王位を得れば、それは簒奪と判断されかねないのだ。
 少女は先ほどとは違った意味で、頭が痛くなってくるのを感じた。

「ふん。まあ良いでしょう。しかし、何故兄上を頼っておいて、私には相談一つ無いのですか!?」
「お答えいたしかねます」

「アンタが色んな意味で危ないからだ」という言葉は飲み込み、少女は繰り返すように同じ言葉を言い放った。もっとも少女本来の性格では、そんな事を言う度胸もありはしないのだが。

「ところで……あなたは誰ですか? ゾフィーの真似ができるという事は、ゾフィーに近しい誰かなのでしょうが」
「お答えいたしかねます」

 今度は強い意志をこめて、少女は繰り返し拒絶の言葉を紡ぐ。それにヴィルヘルムは小さく唸ったが、すぐに笑顔で語りかけた。

「私と結婚しませんか?」
「お断りします」

 トチ狂った宰相閣下に、少女は笑顔で、しかし全力で拒否を示す。そして同時に自らの主に、一刻も早く帰ってくるように心の中で願った。





 
 ピザン王国とジレント共和国との国境のそば。大陸の北西部の半島を区切るように、その山はそびえ立っている。
 ゼザと呼ばれるその山は、比較的緑の多い大陸北西部には珍しく、焦げ茶色の岩肌をさらした寂しげな山だ。板か何かで整えたようにその形は見事な三角形であり、遠くから見ればその色と相まって巨大な砂山のように見える。その綺麗過ぎる山は、人工的に作られたものでは無いかという学者も居るが、手段も目的も不明なその説を裏付けるものは未だに見つかっていない。
 多くの学者の興味を集めるゼザの山。しかし今のコンラートにとっては、その浪漫に溢れる山も、殺風景で隠れ場所の無い厄介な山でしかなかった。

 山のふもとに広がる町の中、コンラートは砂にまみれた石畳の上を、特に行く当ても無く彷徨っていた。
 人々は既に眠りについているのか、明かりのついている民家は無く、足元を照らすのは楕円を描く月の光のみ。その月も途切れ途切れの雲の欠片に覆われて、今にも姿を隠しそうだ。

「……来たか」

 足音も無く近付いてくる者の気配を感じ、コンラートは腰の剣へと手をかけた。それが合図だったかのように、樽だの石だののガラクタがつまれた影から、闇色の何かがコンラート目がけて飛んでくる。

「フゥ!」

 抜刀と同時に、コンラートは飛来した何かを弾き返し、叩き落とした。月明りにてらされて浮かび上がったのは、柄の短い投擲用のナイフ。暗闇の中で使う事を前提としているのか、その刀身は黒く塗られていた。
 それに気をとられる暇も無く、今度は民家の屋根や壁際から人影が飛び出してきて、挟み撃ちにするように、先ほどと同じナイフを投げてくる。それに対しコンラートは剣を両手で握りなおすと、竜巻のように回転しながら全て叩き落した。

 コンラートがこのような襲撃を受けるのは、これが初めてではなかった。王都を離れて一週間ほど経ったときに、宿を求めて夜の街を歩いている所に、何の前触れも無くナイフの群が現れたのだ。
 その場は何とかしのいだが、四方八方から襲い掛かってくるナイフに、右手だけでは分が悪かった。完治していない左腕に、随分と無理をさせてしまう。折れた骨は城での神官の治療もあり治りかけていたが、完治が一週間は遅れただろう。
 そしていざ完治しても、黒いナイフを使う襲撃者たちは、コンラートがどこに逃げても付きまとってきた。こうして夜になると、コンラートが一人になるのを見計らって、嫌がらせのように襲いかかって来る。

「ハアッ!」

 しかしコンラートも一方的にやられてばかりでは無い。ナイフを弾き、かわしながらも、襲撃者の位置を見極め、影に隠れる彼らを斬りつけた。だが彼らは胴を裂かれ、腕を切り落とされても、人形のように冷静であった。致命傷を負っても気にかける様子も無く攻撃を続け、コンラートから距離をとり、最後には逃げおおせてしまうのだ。
 
「クッ!?」

 影に隠れた襲撃者を、がらくたごと叩き切る。剣は襲撃者に届いたらしく、吹き飛ばされるガラクタに紛れて血が飛び散った。しかしやはり襲撃者は傷口を庇おうともせず、コンラートから逃げながらも、ナイフを的確に投げ続ける。
 コンラートは対処しきれず、左手で鞘を腰から引き抜き、飛来するナイフを剣と鞘とで叩き落とした。その中でも冷静に周囲を窺い、コンラートは自身が窮地に立たされていることに気付く。
 これまでの襲撃者の数は、片手で数えられる程度のものだった。しかし今この場に居る者は、数えるには片手では足りず、飛来するナイフは数えるのが面倒になるほどであった。
 四方を囲まれ同時に攻撃されれば、いかにコンラートといえども無傷ではいられまい。そしてナイフに毒の類でも塗られていれば、かすり傷でも致命傷となりかねない。

 コンラートは背後に迫ったナイフを横に跳んで避けると、その場からの離脱を試みた。しかしそのコンラートの行動を予測していたように、屋根の上から、壁の向こうから、路地の裏から、計ったように黒い影が飛び出してきてコンラートを包囲する。そして足を止めたコンラートをハリネズミにせんと、二十を軽く越えるナイフの群が襲いかかった。

「――女神よ、その翼で我らをお守りください」
「!?」

 いかにして被害を最小限にするかと考えるコンラートの耳に、男とも女ともとれない澄んだ声が響いた。

「何!?」

 そしてその声に応えるように、光の粒子がコンラートの周囲を包み込み、薄い壁を作り上げた。淡く光るその壁は、闇の侵食を拒むように、黒いナイフを全て弾き返すと溶けるように消えていく。

「――女神よ、私たちが罪を許すように、私たちの罪をお許しください」
「!?」

 いつの間に現れたのか、襲撃者たちとは異なる小柄な黒い影が、呆気に取られるコンラートのそばを通り抜けた。それから逃れるように散っていく襲撃者たち。しかし小柄な影はコンラートですら追いつけなかった彼らに追いすがる。

「……速い」

 その後姿を眺めながら、コンラートは意識せず呟いていた。コンラートが知る中で最も速いといえるティア。彼女には及ばないが、それでもその速さは人間離れしていた。
 そして小柄な影は容易く襲撃者の一人に追いつき、その背に手にした杖を向けながら、神聖なる言葉を紡いだ。

「――誘惑より導き出し、私たちを災厄からお救いください」

 小柄な影の持つ杖から光が溢れ、一人の襲撃者を包み込んだ。闇を切り裂くその光は一瞬で、辺りはすぐに静寂を取り戻す。そしてコンラートが閉じていた目を開けば、そこには小柄な人影だけが佇んでおり、そばには襲撃者が一人倒れていた。

「……何が起きた?」

 わけが分からず思わず呟いたコンラート。それに気付いた小柄な人影が、ゆっくりと振り返る。そして狙ったように顔を出した月が、その姿をコンラートの前に晒させた。

 月明りにてらされて浮かび上がったのは、黒い修道服を纏い、ゼンマイのように先の曲がった杖を持った歳若い神官。煙突のような筒状の帽子からこぼれるのは、肩の辺りまで伸ばされた黒い髪。月明りの下でも分かる肌の色素の濃さといい、この大陸では見慣れない、明らかに異郷の人間だと分かる容姿だった。
 顔は中性的であり、声の事もあり性別がどうにも判別できない。ただ自分が散々手こずった襲撃者を倒したのが、十代中ごろの子供とも言える若さであったことに、コンラートは少なからず戸惑った。 

「白の騎士コンラート殿ですね」
「……俺はもう騎士では無い」
「それは失礼しました。私の名はクロエ。以後お見知りおきを」

 そう言って頭を下げるクロエを見て、コンラートはようやく目の前の神官の性別が分かり、内心でほっとしていた。
 クロエというのは、大陸南東部で多く見られる女性の名だ。そのためコンラートはクロエを少女と判断し、男物の修道服を着ているのは何か事情があるのだろうと一人納得する。
 後にこの勘違いを聞いて、とある王弟殿下が窒息寸前まで笑い転げるのだが、それは別の話。

「これまでご苦労様でした。カイザー殿下の命により、これより先我々女神教会が、貴方を保護します」
「カイザー殿下が?」
「詳しくは後ほど。派手にやりましたから、人が集まってくるかもしれません。付いて来てください」

 自分のやったことの派手さには自覚があったのか、足早にその場から動くクロエ。コンラートは状況が掴めない事に戸惑いながら吐息をつくと、素直にその後ろに従った。





 クロエに案内されたのは、街の中心地にある教会だった。クロエはそこで待っていた神官に幾つか指示を出すと、コンラートを奥へと案内する。
 招き入れられたのは、旅の途中に訪れた信徒に貸し与えられる、ベッドが面積の半分を占める小さな部屋だった。クロエはその部屋の様子を確認すると、コンラートへと向き直る。

「今晩はここを使ってください。コンラートさんにはベッドが小さいかもしれませんが」
「なに、ベッドがあるだけでありがたい」

 申し訳無さそうに言うクロエ。それにコンラートが笑いながら返すと、つられたようにクロエも笑う。その年相応な笑みに和みつつも、コンラートは顔を引き締め、気になっていた疑問を口にした。

「しかし、カイザー殿下の命令とは?」
「正確には命令では無くお願いです。私に……我々に直接命を下したのは、アルバス教国になります」
「アルバスが?」

 アルバス教国とは、多くの信徒を抱える女神教の教主が自治する国の名だ。現在存在する四つの大陸全てに領地を持つ唯一の国であり、コンラートたちの居る南大陸には、北西の半島の最北端に領地が存在する。
 国境を接するジレントとの不仲は、子供でも知っているほどの常識であり、神官と魔術師の不仲を象徴する典型とも言える。そのような国が、何故ジレントに居るはずのカイザーの願いで動くのか。

「先ほどはああ言いましたが、カイザー殿下自身は、貴方が気になるという程度の事しか言っていません。カイザー殿下の発言でジレントの上層部が貴方に興味を持ち、何者かに貴方が狙われている事に気づいたのです。貴方は国王とは袂を分かったそうですが、未だ第一王子であるクラウディオ殿下の信頼は厚い。そのクラウディオ王子が、妹であるゾフィー王女を王にしようと画策している」
「……(実際にはゾフィー殿下にクラウディオ殿下が使われているのだろうな)」
「将来ピザン王国の中枢を担う方々に、信頼される貴方を助けて恩を売る。それがアルバス教国の狙いです」
「待て、カイザー殿下はジレントに居り、俺の事を調べたのもジレントなのだろう。何故アルバス教国が出てくる?」
「ジレントは中立国です。魔法ギルドの存在のために、中立などという言い分は怪しいにも程があるのですが、それでも他国に直接的に関与は出来ません。しかしカイザー殿下の願いを無下にもできず、アルバス教国へと情報を流すことにしたのです。ピザン王国は王の権力が強く、他の国ほど聖職者が政治に影響力を持てませんから、アルバス教国も良い機会だと思ったのでしょう。最もこの件については大した期待はなく、他のルートから色々ちょっかいを出しているようですが」
「……ん? 君はジレントの人間では無いのか?」

 クロエの口ぶりからして、その所属はジレントであるかのように思えたが、神官がジレントに帰属するというのも珍しい。アルバス教国の命令に従うのならば尚更だ。
 そのコンラートの疑問に、クロエは苦笑しながら答える。

「国籍はジレントですが、神官である以上はアルバス教国の命令には逆らえません。まったく、あの天然王子が余計な事を言うから」
「……仲が良いのだな」

 疲れたように愚痴を漏らすクロエに、コンラートは呆れながら辛うじて言葉を返した。王弟殿下を相手に、目の前に居ないとはいえ天然呼ばわり。コンラートが頭の固い人間であったなら、無礼者と一喝し剣を抜いていたかもしれない。

「襲撃してきた連中だが、何者かは分かっているのか」
「恐らくは。……先ほど私が使ったのは、浄化の神聖魔術。本来ならば体の異常や呪いの類を打ち消すものなのですが、彼は息の根を止められたように事切れた。……まるで最初から死んでいたかのように」
「……アンデッド」

 重々しく呟いたコンラートに、クロエは無言で頷く。

「私はリカム帝国の宮廷魔術師イクサと面識が在ります。残っていた魔力の残り香からして、貴方を襲ったのはイクサに間違いないでしょう」
「あの宮廷魔術師か……。しかし何故俺を?」

 先の大戦の際に、コンラートはイクサと戦場で顔を合わせた事がある。灰色の長い髪を無造作に伸ばした、気味の悪い男だった。
 イクサは騎士になったばかりのコンラートに、こともあろうか寝返りを勧めてきた。それを鼻で笑い斧槍で殴りかかったが、その後はこっぴどくやられて死にかけた事しか覚えていない。
 取るに足りない。そう判断されたと思っていたのだが。

「魔術も無しに、アンデットを行動不能なまでに潰せるだけで、イクサにとっては脅威でしょう。彼は数によって戦況を覆す。単独で戦況を覆す英雄は、イクサにとって天敵のはずです」
「……英雄か」

 自分はそんな大層な者ではないと言いかけて、コンラートは口をつぐんだ。
 見た目からして、クロエは十五歳前後だろう。キルシュ防衛戦が終わった頃に、生まれているかどうかも怪しい。ならばゾフィー以上に、コンラートを英雄という形でしか知らないはずだ。それを卑下してわざわざ訂正するのも、何とも居心地が悪そうだった。

「しかしこの後はどうすれば良い? ジレントを経由しアルバス教国へ行くにしても、山道を行く間も奴らは襲ってくるだろう」
「ゼザ山には、魔法ギルドが管理する地下遺跡があります。山の向こう側まで通じていますし、地元の人間にもあまり知られていませんから、安全に抜けられるはずです」
「そんなものがあるのか。しかしイクサも、その遺跡を知っている可能性はあるのではないか?」
「知っていても、内部の構造を完全に把握してはいないはずです。広大な上に細長く似たような見た目の通路が、蟻の巣のように張り巡らされていますから、恐らく私たちに追いつく前に迷いますね」
「……そうか」

 説明を聞き納得はしたものの、それでは自分たちも迷うのでは無いかと心配になる。それを見透かしたように、クロエは微笑みながら言う。

「私は内部を把握していますからご心配なく。私がコンラートさんの下へ派遣されたのは、そのせいでもあります」
「そうか。ならば頼りにさせてもらうとしよう」
「お任せを。それに私は神聖魔術の他に体術の心得もありますから、万が一のときはそちらの方もお任せあれ」
「はは、頼りにしよう」

 得意げに笑ってみせるクロエに、コンラートも笑って返す。見た目だけならば頼りになどとてもできないが、コンラートはレインという見た目にそぐわない実力を持った例を以前に見たばかりだ。そのためクロエの言葉を、言った本人が呆気にとられるほどあっさりと受け入れた。
 そのレインをクロエの比較に思い浮かべたのは、どちらも同じ年頃の少女だと思ったからなのだが、その勘違いはしばらくの間正される事は無かった。



[18136] 三章 女神の盾2
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2010/09/29 13:45

 日が傾き、辺りがオレンジ色に染まり始めた夕暮れ時。焼き払われ、焼けた土と肉の臭いが漂う平野にて、千を越える戦士たちが宴を行っていた。
 彼らは巫女の名の下に集った戦士。地獄の悪鬼すらも従える、人と思えぬ一人の王の支配に抗うべく集った、人類の希望。そんな彼らが祝い騒ぐ周囲には、オークやリザードマンといった亜人たちの死体が転がっている。
 その中には少数だが、ドラゴンと呼ばれる存在も混じっていた。そしてそれを打ち倒す事に貢献した者たちは、周囲の者たちに己の武勇がいかに優れているのかを得意げに語る。

 その中でも多くの戦士が集まるのは、赤い騎士を中心とした集団であった。どうすればドラゴンを単騎で打ち倒せるのかと訪ねる若い戦士に、赤い騎士はグッと酒をあおると、笑いながら答える。

「だから、ドラゴンなんて隙を見つけたら懐に飛び込んで、心臓刺せば一発だろ」

 さも簡単そうに言う赤い騎士に、年かさの戦士から「できるわけねーだろ」と野次が飛ぶ。実際ドラゴンの懐に飛び込める者など、この場では赤い騎士を含めて五人も居まい。ましてドラゴンの体を容易く貫ける剣など、世界中を探して十もあるかどうか。
 その内の一である剣を巫女より預けられ、ドラゴンをものともしない武威と胆力を持つ赤い騎士は、皆に認められる英雄であった。そんな彼の元には、憧れから、あるいは下心から、多くの者が集った。

「ん……。悪い、ちょっと便所」

 そう言って赤い騎士は立ち上がり、足早に周囲の人垣をかき分け走り出す。そして人の輪から外れた丘の上へと登った所で、ようやく目当ての人物を見つけた。
 沈みかけた夕日を臨むその姿は、日が落ちるとともに消え去るのでは無いかという儚さを赤い騎士に感じさせた。風に靡く黒い髪が、闇色に染まり始めた空に溶けていくように見える。
 だがその見た目とは裏腹に、その内に激情を抱えるのを知る赤い騎士は、一瞬見とれた自分をごまかすように肩をすくめた。

「相変わらず陰気な奴だな。勝ち戦なんだから、酒の一杯でも付き合えよ」
「貴様は相変わらず陽気だな。人によってはそれが不快だと何故分からん」

 夜の闇を宿したような瞳に睨まれ、赤い騎士は苦笑する。初めて出会ったときに比べれば、随分と優しいものだ。憎悪と殺気に満たされたあれは、早々忘れられるものでは無い。

「おまえ顔は綺麗なんだから、周りの奴らに愛想笑いでもしてやれよ。一気に人気者だぞ」
「なってどうする。人間は騒がしく煩わしい」
「おまえも人間だろ。そりゃエルフに育てられりゃ、人間なんざ煩くてたまんないのかもしれないけどさ」

 赤い騎士の言葉に、黒い剣士は僅かに顔を歪める。虎の尻尾を踏んだかと身構えた赤い騎士だったが、黒い剣士はその顔を悲痛な色に染めると、すぐに顔をそらしてしまった。

「……悪い。無神経だった」
「……いや、良い。外に出て分かった。あんな事は、よくある事なのだろう」
「まあ確かにな」

 戦になれば、悲劇が量産される。たった今火を囲んで騒いでいる戦士たちの中にも、家族や愛する者と死に分かれた者は居るだろう。

「だけどな、よくある事だからって平気なわけがないだろ」
「……」

 赤い騎士の言葉に黒い剣士は答えない。ただ少しだけその背から力が抜けたのを感じ、赤い騎士は安堵したように吐息をついた。

「そういえばあいつとは上手くやってるのか? 同郷なんだろう?」
「知らん。確かに見た目からして同じ人種なのだろうが、私の故郷はあの里だけだ」
「いや、そりゃそうかもしれないけどな。少しは相手してやれよ。泣くぞあいつ」

 情け容赦の無い言葉に、赤い騎士は呆れながら言う。そして振り向いた黒い剣士の顔にも、呆れの色が見えた。

「そもそも、何故異教の神を奉ずる神官が、巫女に付き従っている?」
「何故って、そりゃあいつ個人が気に入ってるからじゃないか? おまえだって仇も同然な俺たちに、協力してるのはそのせいだろ?」
「……さてな」

 笑みを浮かべて言う赤い騎士に、黒い騎士は短く言った。そしてこれ以上相手をする気は無いと言わんばかりに目を閉じる。

「つーかな、あいつを巫女として崇め奉ってる連中以外は、あいつ個人が好きだから、あんな胸糞悪い神官連中と協力してんだよ。巫女が世界を救うだのなんだのってお告げは、俺たちには関係無いのさ」
「……では貴様は何故巫女に従う?」
「誰があんなガキに従ってるって? 危なっかしくて見てられねえから、世話やいてるだけだぜ?」
「個人として……か。ならば忠告しておくが、ガキ等という呼び方は、一人の女性に対して失礼だと覚えておけ」
「ああ、確かに。どうにも会ったときの印象が強くてな。……あいつも、もう大人だよな。そういえば」

 思い出し、変わらぬように見えたその笑顔が大人びたものになっていた事に、今更ながらに気付く。出会った当初から保護者気分であったがために、気付けなかったのか、あるいは気付こうとしなかったのか。
 
「一人前の女として扱う……か」
「言っておくが、妙な真似をしたら叩き切るぞ」
「おお、恐い。おまえも結構変わったな」
「かもしれんな」

 そう言って赤い騎士は笑い、黒い騎士も口元に微かに笑みを浮かべた。





 少々窮屈なベッドの上で、コンラートは目を覚ました。教会の裏手にある井戸で顔を洗い戻れば、クロエでは無くコンラートと同じ年頃の神官が出迎える。この教会を切盛りするその神官は、コンラートに気付くと愛想よく笑い、朝食の用意をしてくれた。
 出されたスープは豆ばかりの質素なものであったが、香ばしい臭いを漂わせるパンは焼きたてらしく、手で裂けば糸を引くのではというほど弾力があった。それをわざわざ自分のために用意してくれたのだと思うと、コンラートは自然頭が下がる。それを見て神官は目を丸くすると、「これも私の仕事ですので、遠慮せずどうぞ」と朗らかに笑った。

「ところで、クロエ……殿はどちらに?」

 食事が終わり人心地ついた頃に、コンラートは姿の見えない若き神官の名を出した。敬称をつけるべきか迷ったが、神官としての身分があるならば気安く呼んでいいものでは無い。いささか間が空いてしまったが、目の前の神官は気にした風も無く、コンラートの質問に答える。

「クロエ司教ならば、鍛錬をすると言ってどこかへ行かれました。すぐに戻られるかと」
「なるほ……クロエ殿は司教なのか?」

 聞き流しそうになったクロエの呼び名に、コンラートは違和感を覚え問いかけた。
 神官の階位には厳密には司教、司祭、助祭の三つしかなく、枢機卿や大司教といった役職にある者も階位の上では司教となる。そして大司教でなくとも、司教の階位を持つならば、一つの教区の管理を任せられるはずだ。
 一つの教会を任されるのならばまだ在り得る。だが教区の大小の違いはあれ、他の神官をまとめなければならない地位を、例え有能であっても、年若い神官に与えるものだろうか。

「コンラート殿のおっしゃられているのは、教区司教ですね。クロエ司教は修道司教……その能力と信仰の証、神聖魔術の使い手として優れていると認められ、司教の叙階を与えられたそうです」
「そのような制度があるのか」
「元は魔物や異端狩りを行う方々に、一定以上の権限を与えるために始まったそうです。もっとも、過激な思想の方も居り問題になっていますが」

 教会の恥。そう神官は言い捨てたが、それは仕方の無い一面もあるのだろうとコンラートは思う。
 魔物はともかく、異端というのは外道に堕ちた魔術師の類だ。人間を狩るなど、正義感だけでやれる事では無いだろう。言い方は悪いが、汚れ役も必要だ。
 しかしあの子供とも言っていい歳の神官に、果たしてそのような役目が全うできるのだろうか。

「ああ、クロエ司教が戻られたようです」

 立ち上がった神官を目で追えば、その言葉の通りにクロエが扉を開けて入って来る。頭を下げて何事かを伝える神官に、クロエは頷きながら耳を傾ける。堂々としたその姿に、コンラートは感心し、己の若い頃と比べて苦笑する。

 騎士となった後に、世話になった兵士長に何度へりくだるなと注意されただろうか。騎士というのは単に武を振るえば良いという存在では無く、他の兵を纏める役割を担っている。傲慢であってはならないが、必要以上に遠慮して下の者に侮られては勤まらない。
 理解はしていても、平民出のコンラートには厳しい要求であった。今ならば周囲に侮られる事は無いだろうが、それは己の実力と経験に裏打ちされたものであり、立場を弁えた故と言うには弱い。
 そういう意味で、ゾフィーは立場に足る威厳を既に持っていた。コンラートの能力や実績を評価しつつも、決して自らの上には置かない。人の上に立つ者の振る舞いを崩さなかった。それは資質だけでなく、生まれついての王たる彼女の立場故だろう。

 それではクロエはどうなのだろうか。コンラートのように経験に裏打ちされるものが無い以上、やはりゾフィーと同じく生まれついてのものなのか。
 そう思いながらコンラートがクロエを見守っていると、神官が何事か謝るのに対し、慌てたように頭を下げ返していた。それを見て、コンラートは口元がにやけるのを自覚する。
 どうやらクロエも、司教という自分の立場を演じきれてはいないらしい。それが分かると、親子ほども歳の離れた司教殿に親近感がわいた。





 ゼザの山を貫くように存在するという遺跡は、町からそう遠くない、何の変哲も無い岩陰に入り口が隠されていた。杖を手にしたクロエが開錠の呪文を唱えると、重い音をたてて黒く巨大な岩が左右へと割れていく。

「まるで子供向けの昔話だな」

 コンラートは呟き、中へと入るクロエの後ろへ続く。昔話ならば、秘密の呪文で開く扉の中には宝物があるものだが、果たしてこの遺跡には何があるのか。

「探せば宝もありますよ。ここはお墓ですから」
「墓?」

 コンラートが聞き返したのにクロエが頷いた所で、二人の背後で独りでに岩戸が閉じ始める。徐々に太陽の光は削られ、周囲が闇に落ちそうになるが、クロエが壁の何かへと触れると辺りに光が漏れ始めた。

「……石?」

 急激な光度の変化に目を薄めながら、コンラートは光の発生源を見やった。波を複雑に交差させたような装飾の施された壁。その壁に二、三歩ほどの間隔ごとに、光を放つ石が埋め込まれていた。

「光を蓄え放出する石です。もっとも、ここでどうやって光を蓄えているのかは、誰にも分からないそうですが」

 クロエがコンラートの疑問に答えるように言い、遺跡の奥へと歩き始める。その後を追いながら、コンラートは遺跡の通路の細さに辟易しそうになった。
 通路の幅は、壁際から手を伸ばせば反対側の壁に手が付くほど狭い。クロエのような小柄な者ならともかく、コンラートのような大男では、壁際にへばりつかないとすれ違う事すらできないだろう。不幸中の幸いは、天井がコンラートの背の倍はあることだろうか。
 はぐれる心配が無いのは良い事だが、万が一襲われるような事があれば、満足に剣を振れそうに無い。クロエの言う通り襲撃が無い事を、コンラートは祈った。

「墓というのは、一体誰の? 山を横断する程の大きさならば、さぞ立派な御人の墓なのだろうが」
「人ではありません。ここは黒き民に信仰されていた、太陽神の墓です」
「神の……? ではこの遺跡が作られたのは」
「千余年前。まだ一つだった世界が、四つに別たれた時代です」

 千年。一つの言葉にしても遠く感じるその時代は、神に愛されたという巫女が伝説を遺した神話の時代だ。
 そしてその時代には、様々な神が各地にて奉られ、今日において世界中で信仰されている女神も、一部地方で信仰される土着の神にすぎなかったという。

「黒き民というのは、私のように黒髪黒目の一族の事です。本来ならば、北大陸の多島海と呼ばれる地域に住んでいます」
「随分と遠い。何故このような異国の地に、信仰する神の墓を建てたのだ?」
「一族の一部は、巫女と共に各地を巡り、魔の者との戦いを手助けしたそうです。しかし聖戦の終結と同時に世界は裂け、砕かれ、別たれた」
「世界が砕けた……か。何とも信じがたい話だな」

 四つの大陸は、かつて一つの世界だった。しかし巫女と魔の者共との戦いの結末において、天に届くほどの巨大な魔神が呼び出され、神々を屠った。そしてその魔神は巫女たちに打ち倒されたが、その力の余波は凄まじく、世界を四つに砕いたという。

「結果彼らはこの南大陸へと取り残され、故郷へ帰る術を失った。故郷の人々に、信じる神が死んだ事を伝えられなかった彼らは、せめて自分たちの手で神を慰めようとした。太陽神の御霊が天へと昇れるように、天へと向かう山に墓を作り」
「なるほど。しかしそのような場所に、俺のような者が立ち入って構わないのか?」

 話を聞く限り、ここは墓であると同時に聖域でもあるのだろう。クロエは黒の民の一族なのだろうが、部外者であるコンラートが、おいそれと踏み荒して良い場所だとは思えない。

「構いませんよ。この大陸に居る一族は、今や私を含め数人だけ。文句を言う人間は居ません。他の大陸と容易に連絡が取れるようになってからは、北大陸の方々にも墓の存在は知らされましたが、元々ひきこもりな気質なので、わざわざ参ってくるような人は皆無です」
「……そうか」

 勿体無いと、コンラートは思った。
 周囲にあまり存在が知られていないという事は、ゼザの街が今よりも小さかった頃に、外部の者たちの手を借りず、黒き民たちはこの墓を建てたのだろう。そして建造物の知識の無いコンラートでも、この墓がかなりの手間をかけて作られた事が分かる。
 どれほどの労力と年月をかけて、この墓は作られたのか。どれほどの思いを込めて、彼らはこの墓を作ったのか。
 人々にこの墓の存在が知られず、また彼らの意思も忘れ去られてしまうのは、コンラートにはとても残念な事に思えた。





 通路はどこまでも伸び、同じような景色ばかりが続いた。時折見られる分岐点も、クロエは迷い無く進み、案内役を黙々とこなしている。
 コンラートはそれほど口数の多い方では無く、自然両者の間に会話は少なくなった。ただコンラートが何か疑問を抱き口を開けば、クロエは打たれた鐘のように素早く応えてくれた。

「クロエ殿は、赤い騎士について詳しいだろうか。巫女に付き従った英雄だと、寝物語に聞かされたのだが」
「赤い騎士……ローラン王国の騎士ですね。巫女の下に集った勇者たちの中でも、最も勇敢な戦士であり、戦場では自ら先陣をきることにより巫女の身を守ったと言われています」

 その短い説明の中に、既に知らない情報が含まれており、コンラートは自分の知識があてにならない事を思い知った。
 コンラートが知るのは、赤い騎士の戦場での活躍を断片的に語った英雄譚だけ。赤い騎士がどのような立場にあったのかすら、まったくと言っていいほど知らない。

「教会の聖典の中では、一騎当千の兵であり、礼節にも気を配った騎士の中の騎士であると記されています。しかし民間レベルで伝わる話の中では、気さくで巫女に対しても気安かったというものもあります。教会の影響の少ない地域ほど、その手の伝承が多いので……まあそういう事なのでしょう」

 最後は言葉を濁したクロエだが、要は教会による情報操作があったという事なのだろう。
 夢の中での赤い騎士の言動を思い起こし、コンラートは納得し、だがすぐに馬鹿馬鹿しくなり苦笑した。己の曖昧な妄想とも言える夢を基準に、英雄を語るのは失礼だろう。

「詳しくは、ピザン王家の方のほうが詳しいかと。ピザンを建国したのは、赤い騎士の妹にあたる方ですから」
「そうなのか?」

 予想外の情報が、ある意味身近な場所にあることを知り、コンラートは驚いて聞き返していた。そもそも、赤い騎士に本当に妹が居た事すら知らなかった。案外あの夢も、まったく的外れなものでは無いらしい。

「そのために、リーメス二十七将に数えられたクラウディオ王子は、一部で赤い騎士の再来と謳われたとか」
「ああ。だが本人が……少しらしからぬ性格であったからな。どちらかというと、クラウスの方が赤い騎士の再来に相応しいと、周囲に言って聞かせていた」

 しかし赤い騎士が本当に気さくな人物であったのなら、確かにクラウディオはその再来と呼ぶに相応しいと言える。案外コンラートも、クラウディオをモデルにしてあんな夢を見ているのだろうか。

「クラウス・フォン・ヴァレンシュタインですか。リーメス二十七将の一人であり、祖父の代に爵位と領地を失った没落貴族。その活躍から爵位の返還が検討されたものの、大戦末期のロートヴァント逃亡戦において戦死したとか」
「……君は学者でも志しているのか?」

 若干の疑念を抱きながらコンラートは問うた。二十七将の一人に数えられているものの、終戦を待たずして亡くなったクラウスの知名度は低い。あと数十年も経ち、関係者が全て死んで全てが歴史として語られるようになれば違うのかもしれない。しかし今の時点では、クラウディオやコンラートといった存命している者の方が、人気も知名度も高いのが現状だ。

「学者肌ではありますが……キルシュ防衛戦に詳しいのは、知り合いのせいでしょうね。どういうわけか、知り合いに二十七将が数人いるので」
「何? ……ジレントといえば『埋葬』で知られる魔術師フローラ殿だが」
「そのフローラさんです。あとは『鉄拳』ロッドさん。素手で鎧を打ち抜ける、コンラートさんと並ぶ非常識の塊です」
「……俺は非常識か?」
「甲冑着込んだ兵士を片手でぶん投げたと聞きましたが?」

 否とは言えなかった。むしろ当事立ち回りが下手だったコンラートは、周囲を引かせるために、その怪力を誇示するような行動を多用した。敵兵を掴んで他の敵兵に投げつけた事など、幾度行ったか覚えていない。

「だが素手で甲冑を貫くよりは常識の範囲内だろう」
「どちらも常識の範囲外です」

 冷たいとすら思える断言に、コンラートは呆気にとられ、すぐに苦笑した。礼儀正しい神官だと思っていたのだが、存外に容赦が無い。
 そもそも、キルシュ防衛戦には多数の魔術師――歩く非常識が参加していたのだ。その中で、コンラートやクラウディオといった騎士や戦士は二十七将に数えられた。そんじゃそこらの非常識では、太刀打ちできない程度には非常識に違いない。

「……やってくれる」

 突然足を止め、クロエが唸るように呟いた。コンラートからは後姿しか見えないが、その背中から立ち上る怒りにも似た気配が、尋常でない雰囲気を感じさせる。

「どうした?」
「……何でもありません。先を急ぎます」
「先を急がなければならない事態だという事か?」
「……」

 重ねて問うたコンラートの言葉を無視するように、クロエは歩き始める。コンラートはその拒絶ともとれる姿に戸惑い、後ろを追従しながらどうしたものかと考える。
 本人が何でも無いと言っているのだから、例え何かがあるのだとしても触れるべきでは無いのかもしれない。コンラートに不利益があるようならば、クロエは素直に事情を話すだろう。放っておいても、特に問題は無い可能性が高い。
 しかしクロエの今の様子からして、クロエ自身には大問題が起きている可能性もある。それを放っておくのも、個人的には気分が悪い。

「推測だが、現在この墓を管理しているのは君なのだろう。もしかして墓に異常があれば、君にはわかるようになっているのではないか?」
「……ええ」
「ならば、俺に遠慮せずその異常を解決すると良い。俺に手伝える事があればそうしよう」
「……しかし」
「遠慮無しというのは問題だが、遠慮するなと言っている相手にまで遠慮する必要は無い。特にそれが年長者ならばな」

 慎重に言葉を選びながら、コンラートは言った。要は子供は遠慮するなと言いたかっただけなのだが、そう言うとクロエは子供扱いするなと反発する気がしたのだ。
 果たしてそれは正解だったのか、立ち止まって振り返ったクロエの顔は、不満と諦観が入り混じったなんとも不思議なものになっていた。

「姉さんといいロッドさんといい、何故私の周りにはお節介な大人が多いのでしょうか」
「それは君が素直で人の話をよく聞くからだろう。年寄りは忠告を受け入れてくれる若人を好むものだ」
「……私は自他共に認める捻くれ者なのですが」

 クロエはそう言ったが、コンラートの言葉にも納得できるものがあったのか、その顔には苦笑が浮かんでいた。

「墓の中心部、太陽神の祭られた祭壇に複数の侵入者が居ます。汚れたものを感じますから、十中八九イクサの手の者でしょう」
「この遺跡の中で追いつくのは無理だと判断し、墓を荒らして君をおびき寄せようといった所か」
「そんな所でしょう。まったく、相変わらずやる事が一々腹が立つ。少し戻る事になりますが、それでも行きますか?」
「無論だ」

 力強く頷くコンラートに、クロエも頷いて返す。二人は合わせたように踵を返し、向かう先にあるのは罠であると承知しながら、狭い通路を駆け抜けた。



[18136] 三章 女神の盾3
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2010/11/09 13:16

 ジレントに住む魔女ミーメ・クライン。彼女は魔女の後継としてだけでは無く、魔法学者としても大陸に名が通っている。故にミーメの下で学びたいと言う者は多いのだが、彼女はそれをことごとく断わってきた。
 そもそも彼女は未だ若く、後継を作ることに焦るような歳では無い。そのため弟子と言える存在は、巨大な権限を使って押し付けられたレインという少女だけであった。
 そのレインも独り立ちを始め、ようやく肩の荷が下りるというその時に、ミーメは新たな重荷を背負わされる事になる。

 カイと名乗る育ちの良さそうな少年。白髪の女性剣士を従者にしたその少年に、魔術を教えて欲しいと連れてきたのは、魔法ギルドの党首であった。
 魔法ギルドの党員が政治に多大な影響を与えているこの国において、その党首というのは実質的な最高権力者に等しい。そうでなくとも恩ある人からの頼みごとを断わる理由が見つからず、ミーメはその厄介事の塊を引き受けることになったのである。

 赤い髪に紫の瞳。そんなカラフルな生命体の正体など、ミーメには一つしか心当たりが無かった。そして数日と経たない内に、ピザン王国の王弟がさらわれたと言う噂が流れ、その心当たりは確信へと変わる。
 魔女は魔女らしく森の奥にでも隠居するべきだろうか。彼女がそう考え始めたのは無理も無いかもしれない。


「最初に知っておいて欲しいのは、魔術は便利そうに見えるけれど、その実様々な制約があり万能の力では無いという事。単独で一軍を滅ぼすような魔術は、一握りの才能のある魔術師にしか使えないし、並みの術者は一日に何度も魔術を唱える事は出来ない」

 ジレントの港町ネスカ。広いとは言えない宿の一室で、ミーメはどっしりとしたテーブルを挟んで腰かけるカイと向かい合い、魔術の授業を行っていた。
 ミーメは説明を続けながらも目の前の少年の様子を観察するが、魔術を習いたいというのは本当らしく、その顔には真剣な表情が浮かんでいる。やる気があるならば自分も手を抜く事はできない。そう考えミーメは気付かれないよう気を引き締め直した。

「魔術を使えるようになっても、それが脅威といえるレベルになるには、多くの才能と努力が必要なの。ハッキリと言ってしまえば、魔術の世界では才能が無ければ何もできないわ。努力が不要だとは言わないけれど、才能が無ければどんな努力も無駄になる」

 残酷とも言える事実を口にしても、カイに不安の色は見えなかった。それもそうだろう。ミーメが軽く見積もっても、少年の持つ魔力は稀に見る巨大なものだ。
 それ故に、この歳まで誰も魔術を教えなかった事に疑問が残るのだが、詮索をすればいらぬ厄介事を呼び込みそうだと思い、知らぬふりをして説明を続ける。

「魔術というのは、基本は超常的な何者かの力を借りないと成立しないわ。精霊魔術なら精霊の、神聖魔術なら神の、暗黒魔術なら魔の力を借りる。そしてどんなに魔力が高くても、精霊や神との相性のせいで、使える魔術と使えない魔術ができてしまう」
「基本はって、自力で魔術を使える人も居るんですか?」

 説明の途中で言葉を切ったミーメに、カイが片手を上げて疑問を口にする。それにミーメは頷いて返すと、視線をカイへと向けながら説明を続ける。

「歴史上は居たという事になっているわ。代表的なのは、神の力を使ったとされる巫女ね。厳密には神の力を預けられたという事になっているけれど、通常の魔術のように呪文を唱える事無く、様々な奇跡を起こしたとされている」
「じゃあ普通の人間には無理ってことですか?」
「そうね。それこそ人間をやめないと無理でしょうね」

 そう言ってみたが、ミーメ自身は人間という存在を、神や精霊に等しい存在へと高める方法など思いつかない。下手に魂を弄っても、人でも神でも無い何かへと変貌するだけだと知っている。

「まあそれは置いておいて。最初に魔術の適正を調べるわ。地水火風の基本属性の内、二つくらいは適正があるはずだから」
「分かりました」

 素直に返事をするカイに好感を持ちながらも、ミーメは魔術式を描いて検査の準備を始める。その結果は予想だにしないものとなるのだが、その事が表沙汰となるのに数年ほどの時間がかかることとなる。





 気をつけなければ体をぶつけそうな狭い通路を、コンラートとクロエは駆けた。
 先ほどは侵入者を捨て置こうとしたクロエだったが、コンラートの前を先行し、それに追いつけないコンラートを待つ姿には焦りが見られた。
 この墓はクロエの先祖たちの手によって作られ、歴史的な価値もある遺跡だ。荒らされて面白いはずは無い。

「そこを抜ければ着きます! 警戒を!」
「承知!」

 クロエに叫び返しながら、コンラートは剣の柄へと手をかけつつ走る。そして唐突に狭い通路が途切れて視界が開けると、蓄光石の光よりも強い太陽の日差しがコンラートの目を眩ませた。

「……ここは」

 反射的に閉じた目を開けば、それまでの狭い通路とは比べ物にならない、広大な空間が広がっていた。
 地に敷き詰められた人一人と同程度の大きさの石畳は、数えれば千を越えるのでは無いだろうか。周囲は削り取られたように円形の絶壁に囲われており、見上げても先が見えないそれは天に届くのではないかと思わせる。
 そして真上を見れば、丸く切り取られた空の中央に収まるように、太陽が悠然と輝きを放っていた。

「いやいや、よく来てくれました。白の騎士に黒の民」

 芝居がかった男の声と、手を打ち合わせる乾いた音が広間に響いた。その発生源へと視線を向ければ、祭壇らしきせり上がった台座の上に、軍服らしき黒い衣装を纏った男が居た。周囲には黒い甲冑に身を包んだ五人の騎士が、男を守るように佇んでいる。
 その軍服に、何よりその男自身に、コンラートは見覚えがあった。

「貴様は……デニス! 何故ここに居る!?」
「おや、一介の魔術師に過ぎない私を、コンラート殿が覚えていてくださったとは恐悦至極。私のような引きこもり、余程の問題が起きないと表に引きずり出されませんからねえ」

 コンラートの問いには答えず、男――デニスは王侯貴族に対するそれのように、大げさな素振りで頭を下げる。

「お知り合いですか?」
「……ピザンの近衛に所属する魔術師だ。周囲に居る者は、やはりそうなのか?」
「アンデッド……ですね。祭壇に死体を供えるとは、神と私に対する挑発でしょうか」
「これは失礼をしました。イクサ殿に、クロエ司教を呼び寄せるならば、ここが一番だと教わりましたので」

 あっさりとした暴露に、クロエが眉をひそめる。それを横目に、コンラートも半ば怒鳴るようにデニスへ問う。

「貴様……リカムに下ったのか!?」
「いえいえ、私はリカムになど下っていませんよ。大陸の二大強国の間で、蝙蝠めいた真似などすれば、あっさりと消されかねませんからねえ」
「ならば何故!?」
「答える意味も必要性も感じません」

 左手を額に当て、呆れたように首を振るデニス。その様子に苛立ち、コンラートが動こうとしたのを見計らったように、デニスが嫌らしい笑みを浮かべ口を開いた。

「まずは小手調べといきましょうか。……行きなさい!」

 デニスの命令に応えて、四人の騎士が祭壇から飛び降り駆けた。
 甲冑を着込みフルフェイスの兜によって顔の隠された騎士たちは、同時に抜刀するとコンラートとクロエを包囲する。それに対し、コンラートも腰の剣を抜き、クロエも杖を構えながら背中合わせに構える。

「生きている人間と遜色の無い動き。アンデッドとしてはそこそこ高レベルです。恐らく生前の意識を保っており、技術も再現できるかと」
「それは面倒だ」

 アンデッドの多くは、明確な意思は持たず緩慢な動きしかできない。それは不死性と引き換えに与えられた欠点のようなものだが、目前の黒騎士たちにはそれが無いという事だ。
 しかしそれでも、アンデッドとの戦いに慣れたコンラートからすれば、面倒程度の事でしかない。

「逃げられるよりは、余程やりやすい。……フンッ!」

 同時に向かってきた黒騎士のうちの一人に、コンラートは自ら踏み込みその胴を薙ぐ。対して黒騎士は、防御という概念を忘れたように同時に剣を袈裟懸けに斬り下そうとする。しかし剣を握った腕を振り下ろす頃には、黒騎士は下半身を地面に忘れたまま、上半身だけで宙を舞っていた。
 そんな仲間の姿に怯むでもなく、黒騎士の一人がコンラートの背後に回りこみ剣を振るう。しかし即座に振り返ったコンラートの剣に打ち負かされ、体勢を崩したところで首を刎ねられた。
 それでもなお、黒騎士は首を無くした体だけで斬りかかろうとするが、やはり動きは鈍るらしく、コンラートに蹴り飛ばされて地面を転がる。

「――女神よ、私たちが罪を許すように、私たちの罪をお許しください」

 一方で呪文の詠唱を始めていたクロエにも、二人の黒騎士が同時に襲いかかる。それを確認したコンラートは援護に回る。そしてそれらの光景を眺めながらも、クロエは慌てる様子も無く静かに詠唱を続ける。

「――誘惑より導き出し」

 呪文を唱え続けながらも、クロエは振り下ろされた剣を杖で受け流した。そしてそのまま黒騎士の喉を杖で押さえつつ、右足を黒騎士の後方へと滑り込ませる。するとクロエの倍の重量はあろうかという黒騎士が、足でも滑らせたように勢いよく仰向けに地面へと叩きつけられた。
 その光景に驚嘆しつつも、コンラートはクロエ目がけて振り下ろされた残りの黒騎士の腕を切り落とし、返す刀で袈裟懸けに切り裂いた。しかしアンデッドである彼らは、その体を切断されてももがき、立ち上がろうとする。

「――私たちを災厄からお救いください」

 しかし黒騎士たちが体勢を立て直す前に、祈りのような詠唱が終わると同時に、クロエの持つ杖の先から光が溢れ出した。その光はクロエの足元に居る黒騎士を包み込み、そして地面の上でもがき立ち上がろうとしていた他の黒騎士にまで届く。そして光が収まるのと合わせるように、黒騎士たちは崩れ落ち、地面に倒れていた者たちも身動きしなくなった。

「……呆れましたねえ。材料が凡庸でも、丁寧に作ったアンデッド兵は十人程度の働きはするはずなのですが」
「足りぬな。力こそ衰えてきてはいるが、このコンラート百人程度の働きはできると自負している」
「千人と言わないところに真実味があるのが恐ろしい。しかし、ならば、こちらも百の兵に匹敵する戦力を投入しましょうかねえ。出番ですよニコラス」

 デニスの声に応えるように、最後の黒騎士が祭壇から飛び降りる。しかしそれまでの黒騎士とは違い、ニコラスと呼ばれた黒騎士は距離をつめようとせず、コンラートたちを観察するようにゆっくりと顔を向けた。

「……デニス殿。貴方にも助力願いたい」
「何?」

 突然のニコラスの言葉に、その場に居たものは揃って表情を変えた。
 コンラートはアンデッドであるはずのニコラスが言葉を発した故に、デニスはニコラスが命令に黙って従わなかった故に、そしてクロエは自らの目論見が外れた故に。

「私は他のアンデッドとは作りからして違う故に、浄化程度で魂が肉を離れる事は無いが、かの司教ならば私を滅する術式を知っていても不思議では無い」
「なるほど、確かに」

 ニコラスの言い分に気分を害した様子も無く、デニスは納得し祭壇から一歩ずつ下りていく。そして階段を下り終えると、長い前髪を右手で払い、そのまま指揮者のように掲げる。

「それに私も、生来見学する側の人間ではありませんからねぇ。英雄と化物の戦い、混ぜてもらうとしましょう。――火の精霊よ、古の盟約の下、我が命ずる」
「――女神よ、瞳のように私たちを覆ってください」

 デニスが精霊に語りかけ、クロエが女神へ祈る。そして魔術師と神官の間に立つ剣士たちが同時に駆け、両者の剣が広間の中央でぶつかり合った。
 渾身の一撃を止められ、コンラートの顔に驚愕の色が浮かぶ。

「互角だと!?」
「力で己と拮抗する者が居ないとでも思うたか? 貴方はアンデッドの真の恐ろしさを知らぬ」

 鍔迫り合いの最中に放たれた言葉に、コンラートは納得し一旦距離をとる。
 アンデッドとなったものは、生前とは比べ物にならない力を発揮する。既に死んでいるために、己の体を庇う機能が停止するためだ。
 それに加え、眼前のニコラスは、アンデッドとなる以前からかなりの実力者だったのだろう。そうでなければ、アンデッドと化したとはいえ、コンラートに比肩する怪力を持つわけがない。

「――其は死地へと赴く盲目の羊、汝を誘うは聯翩れんべんの大火と知れ!」

 幾度も剣を打ち合い、再び鍔迫り合いとなったところで、デニスの詠唱が終わり十を越える火球が生み出される。それに反応するようにニコラスが後ろへと跳び、その体を避けるように弧を描いて火球がコンラートへと迫る。

「――親鳥が雛を翼の陰に匿うように、私たちをお守りください!」

 しかしデニスの詠唱が終わるのに僅かに遅れて、クロエの詠唱も完了する。以前に襲撃者のナイフを防いだのと同じように、光の粒子が集いコンラートを守る壁となる。
 火球を避けるべきか迷ったコンラートだったが、クロエの障壁を信じ覚悟を決めると、迫り来る炎の塊を無視してニコラスへと一気に踏み込んだ。炎がコンラートを追跡するように次々に地面へと着弾し、幾つかの火急が直撃したものの、それらは障壁に阻まれ散るように消えていく。

「ハアッ!」
「グッ!?」

 障壁が消えない内に、コンラートは剣を力任せに振り下ろした。防御を考えないその一撃に、ニコラスは受けきりつつもうめき声を上げる。痛みを感じる事は無くとも、軋む体が限界を訴える。アンデッドである自分が、力任せに戦えば負けるという事実を、ニコラスは驚嘆とともに受け入れた。

「恐れ入った。新たな体を得て十を越える年を経たが、油断の許されぬ戦いは幾年ぶりか」
「随分と長く死に損なっている。きっちり死んでいれば、土にかえって安らかに眠れていたであろうに」

 言葉を交わすうちにコンラートの身を包む障壁が消え、二人は距離をとり構え直す。お互いの実力を理解し、迂闊には攻められず睨みあう形となる。

「む?」

 その両者の隣を、黒い影が駆け抜けた。それがクロエだと分かったのは、コンラートは勿論ニコラスからも到底手が届かない彼方へと影が去ってから。その後姿を眺めつつ、コンラートは呆れたように吐息を漏らした。

「……良いのか? 子供というのは目を離すと無茶をする」
「俺では魔術師の相手は難しいのでな。それにおまえを放置できん」

 敵でありながらそんな事を聞くニコラスに、コンラートは苦笑で返す。アンデッドだというのに、そこらの騎士よりも騎士らしい様子に複雑な感情が浮かぶ。しかし敵である以上は、打ち倒すしかない。

「だが心配であるのは確かだ。手早く終わらせてもらおう」
「そうはいかぬ。力では負けたが、勝負はそれだけで決まるわけでは無い」





「ほう、守ってばかりでは勝てませんが、下手に攻めても自滅するだけだというのに――火の精霊よ、古の盟約の下、我が命ずる」

 駆けて来るクロエを見やり、内心で哂いながら、デニスは新たな魔術の詠唱に入る。
 このままでは不利だと判断し接近戦に持ち込むつもりなのだろうが、デニスとて軍人の端くれであり剣の心得もある。少々気を散らされた程度で詠唱をしくじってやるつもりも無く、むしろこの状況は望むところだと言っていい。

「――灼爛たる大地を覆うものは、彼岸に集い蠢動しゅんどうする」

 先ほどクロエが黒騎士にやったように、カウンターで魔術を叩きつけてやろう。そう決めてデニスは笑い、風のように駆けてきたクロエを注視しながら詠唱を続ける。

「――蝗旱こうかんは流れを呑み尽くし」
「――西方を守護せし戦神ルクツェルヌよ」

 走りながらも詠唱を始めたクロエ。それにデニスは内心で首をかしげた。
 戦神ルクツェルヌの名において行使される魔術は、神聖魔術には珍しく攻撃系のものが多い。しかし攻撃系の神聖魔術を使えるのだとすれば、何故わざわざ接近する必要があるのか。ましてこのタイミングでは、明らかにデニスの魔術の方が先に完成する。
 疑問に思うデニスの眼前で、クロエが杖を振りかぶる。デニスは剣を抜きその一撃を受け止めると、強引に押し戻した後に跳び退って距離をとった。そして押し返されたたらを踏んでいるクロエ目がけて剣先を向けながら、自身の魔術を完成させる呪文を唱える。

「――大火は恵みを屠り蹂躙する!」

 デニスの声に応えて、前方の地面より巨大な炎の壁が現れる。それを見て、クロエは祈るように杖を両の手で掲げる。その祈りを嘲笑うように炎の壁は前進し、クロエへと襲い掛かり、その小柄な体を完全に飲み込んだ。

「あっけないですねえ。魔術の構成も潜在魔力も見事なものでしたが、やはり経験が足りませんでしたか」

 炎の壁は、いまや炎の絨毯となってデニスの眼前の空間を支配している。クロエがその中から逃れる気配が無い以上、その身は焼き尽くされ灰となる事だろう。

「――私の怒りをもって立ち」

 しかしその予想を裏切るように、炎の中からクロエの声が聞こえてくる。

「チィ! 腐っても修道司教ですか!」
「――彼方の憤りに立ち向かい」

 どうやって炎に耐えているのか。そんな事を考えている暇は無い。デニスはクロエが自身の魔術を耐える事によって、確実に魔術を当てに来た事を悟る。そしてようやく炎の絨毯が消失し、焼け焦げた石畳の上にクロエが現れ、杖をゆっくりとデニスへと差し向ける。

「――私の敵へと裁きを命じてください!」

 詠唱の終わりとともに、杖の先に光が集まり、一筋の線となって走る。

「――あらゆる力阻む盾よ!」

 それに対抗しデニスが呪文を唱えると、その身を不可視の壁が包み込む。それとほぼ同時に光の線がデニスの足元を薙ぎ払い、それをなぞるように地面から光の奔流が湧き上がった。

「むうッ!?」

 光の圧力によって不可視の盾が軋み、僅かに漏れた力がデニスの体を圧迫する。必死に魔力を不可視の盾へと送り込み維持するデニス。光の奔流は数秒で収まったが、それと同時に不可視の盾は耐えかねたように砕け、消失した。
 直接光を浴びても死にはしなかったであろうが、それでも大きなダメージをおっていただろう。冷や汗を拭いながら、デニスは相対するクロエへと剣を構える。

「一流と評するに申し分の無い威力ですねえ。神官なのは格好だけで、信仰心の欠片も持ち合わせていないと思っていたのですが。それに常時展開されている結界のみで私の魔術に耐えるとは、とんだ馬鹿魔力だ」

 高位の魔術の使い手は、常時自らの体を薄い結界で守っている。その上一般人に比べれば、魔術に対する抵抗力も高い。しかしそれでも何の魔術も用いずに、デニスの魔術に耐えたクロエの魔術への耐久力は、反則だと言って良い。
 このままチマチマと魔術を唱えていては分が悪い。デニスはそう判断し、格闘戦に持ち込むか、あるいはクロエの結界すら貫く大魔術を唱えるために、剣を構えたまま相手の出方を窺う。

「観念してください。命を弄ぶ者には、神に代わり私が罰を下します」

 杖を槍のように構え、クロエが言う。対するデニスは内心で舌打ちしたが、それを悟られぬよう口元に笑みを浮かべると、相変わらずの人を嘗めたような口調で言葉を紡ぐ。

「ハッ、貴方が神罰を下すと? 神罰によって滅んだ一族である貴方が?」
「……」
 
 クロエの返答は無い。しかしその中性的な顔が微かに歪み、集中が僅かに切れたのをデニスは見逃さなかった。間合を保つために少しずつ下がっていた足を止め、石畳を蹴ると一気に加速する。
 隙を見て攻めるつもりであったクロエは、逆に攻められたために咄嗟に反応できず、自身の喉下へと伸びた剣先を仰け反るようにして避ける。そして体勢を崩したところに振り下ろされたデニスの剣を、片膝をつきながらも辛うじて杖で受け止めた。

「フハハハハッ! 敵の言葉に感情を揺さぶられるとは、まだまだ子供ですねえ!」
「……煩い黙れ」
「おやおやあ? 地が出てますよお。規範を実践し模範となるべき司教殿が『煩い黙れ』などと暴言を吐いて、感心しませんねえ?」
「……」

 剣を押し付けながら、さも嬉しそうに言うデニスに、クロエは無言で歯を食いしばる。本音を言えば今すぐに思いつくだけの罵詈雑言を叩き付けたいところであるが、目の前の人物に効果があるかは疑問であるし、さらなる嫌味を呼び寄せかねない。
 クロエは苛立つ感情を無理矢理抑え、全身の力を使ってデニスの剣を押し返し、体ごと弾き飛ばす。

「やれやれ、言い返せないから実力行使ですか。まったくこれだから子供は」

 額に左手を当て、呆れたように頭を振るデニス。いくら挑発されても、クロエはそう簡単に己の感情を顔にだしてやるつもりは無い。しかし表面はともかく、内心まで冷静でいられる余裕は無くなっていた。

「……潰す」

 周囲に漏らさぬよう、口の中で呟き、クロエは杖を持ち直してデニスへと殴りかかる。対するデニスはそれを予想していたように受け止め、両者は引く事無く鍔迫り合いとなる。

「――風の精霊よ!」
「――女神よ!」

 剣と杖とをぶつけ合いながらも、両者は呪文の詠唱に入る。正にそれは己の全てをぶつける戦いとなっていた。



[18136] 三章 女神の盾4
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2010/11/25 12:48

 アルムスター公の下にゾフィー王女の使いを名乗る者が訪れたのは、王弟が誘拐され、友人の息子とも言えるコンラートが姿を消してから、半月ほど経ったときであった。突然の来訪に、アルムスター公は何事かと思い悩んだが、いざ客を通した部屋へと赴けばそんな悩みの一部は消えていた。
 革張りのソファーに腰を下ろし、所在なげに視線を彷徨わせる、長い金色の髪を帽子で押さえた侍女らしき少女。こちらに気付くなり、慌てたようにピンと背筋を伸ばす姿を見れば、もたらされた話の内容はともかく、少女自身に警戒を抱く事ができるはずがない。
 実の息子たちすら緊張せずにはいられない仏頂面にはひとまず退場してもらい、これ以上少女が萎縮しないよう、人の良い笑みを浮かべて声をかける。

「待たせてすまん。どうも最近そこかしこで問題が起きていて、中々手が空かなくてな」
「い、いえ。私の方こそお忙しい所に突然お邪魔して、も、申し訳ありません!」
「いやいや。気にしなくても良い」

 アルムスター公が言うと、侍女は上から糸で引っぱられたように立ち上がり、早口に謝罪の言葉を紡ぐ。それにアルムスター公は苦笑しながら返すと、対面のソファーに腰かけ侍女にも座るように促した。

「それで、ゾフィー殿下より言伝があると聞いたが」
「は、はい。じ、実は……」
「ああ、落ち着きなさい。ゆっくりで構わぬからな」

 見るからに余裕が無く、何度も言葉をつかえる侍女。それにアルムスター公は再び苦笑すると、手で制しながら落ち着くのを待つ。

「それと、こういった場では帽子を取った方が良かろうな」
「え……ああ! 申し訳ありません!」

 アルムスター公に指摘され自らの失態に気付いた侍女は、引きちぎるように頭上の白い帽子を取り去る。

「……なっ!?」

 すると帽子に押さえられていた髪が零れ落ち、その最中に金色の髪が瞬く間に別の色へと変わった。
 瞳の色や肌の色は変わらず、変化したのは髪の色のみ。しかしその表情も口調も変えた赤い髪の少女は、先ほどまでの落ち着きと自信の無い様子は消えうせ、相対する者を圧倒する威厳を背負っていた。

「……さて。改めて話をさせてもらって構わないだろうか、アルムスター卿」

 そう言って笑みを浮かべる少女は侍女などでは無く、この国の王たる人の娘である王女その人だった。

「これは……失礼しましたゾフィー殿下」
「良い。こちらこそ騙してすまなかった。それなりに付き合いの長い者でも、見抜かれはしないかと試してみたかったのでな」

 ソファーから腰を離し跪いたアルムスター公に、ゾフィーはすまなそうな、しかしどこか楽しそうな笑みを浮かべる。それに苦笑を返しながら、許しを得たアルムスター公はソファーへと戻り腰を落ち着ける。

「恥ずかしながら、ゾフィー様だとはまったく気付けず。幻術の類でも使っておられたのですかな?」
「髪の色は魔術で誤魔化したが、後はただの演技だ。ジレントに留学した時に、暇を見つけては学んだのだが、才能が欠片ほどしか無いらしく、こんな手品まがいのものしか覚えられなかった」

 そう言って笑うゾフィーは、侍女の制服を着ていることもあり、とても王女には見えない。少し瞬きをする内に見事に纏う空気を切り替えられて、アルムスター公は感心すべきか呆れるべきか迷った。

「まったく……そういった所は陛下の若い頃にそっくりですな。マルティンもさぞ苦労している事でしょう」
「ほう? 父上にも茶目っ気などというものがあったのか?」
「それはもう。今のクラウディオ殿下と良い勝負でした。爺になっても、私やコンラート相手に無茶を言っておりましたよ。……最近はお変わりになられましたがな」
「やはり変わったか。……カイザーの事が原因だろうか」
「いえ。戦の最中は、常にあのような刃の如き気を放っておりました。恐らくは、己の命あるうちに、リカムとの戦いに何らかの決着をつけたいのでしょう」
「……今の私に国は任せられないか?」

 本題とも言えるゾフィーの問いに、アルムスター公はピクリと眉を動かす。そしてあごを擦りながら、神妙な顔をして言う。

「平時ならば……今のゾフィー様でも国を治めるのに何ら問題は無かったでしょうな。しかし今は戦時。求められるのは、強く頼もしい指導者です。未だ歳若いゾフィー様では、侮る者が現れましょう。そしてそれはいらぬ諍いの元となりかねませぬ」
「女だから、とは言わないのだな」
「今更でしょう。元々ピザン王国の始祖が女性なのです。それにどういうわけか、ピザン家の方々は、女性の方がしっかりとした傾向が強い。クラウディオ殿下も今でこそ少し落ち着かれましたが、ゾフィー様と同じ年頃の頃は、縛り上げておきたい思いに幾度駆られたか」
「……そうか。あれで落ち着いたのか」

 様々な意味で破天荒と評するに相応しい己の兄を思い、ゾフィーは自分でも意識しない内に呆れの色に満ちた声を出していた。父も若い頃はやんちゃだったというならば、兄も爺になれば大人しくなるのだろう。そうゾフィーは希望的な観測をしておく事にした。

「そういった意味では、我々のような爺共はゾフィー様を好意的に見ております。立場故のしがらみ以外の、感情などを起因にした問題が発生するとしたら、血気盛んな若造共からでしょう」
「だが卿は私が今すぐに王となるのは反対なのだろう?」
「ええ。今は時期尚早。それに私はドルクフォード陛下との付き合いが長い。ただ不安だからと言うだけで、陛下を玉座から引き摺り下ろす真似などできませぬ」
「……そうか」

 長年仕えた王への忠心。それは容易く曲げられるものでは無いのだろう。それに確かに今の状況で、ゾフィーをあえて玉座に据えようと思う者は少ない。王が突然人が変わったかのように容赦が無くなったのは事実だが、王位から退かせる理由としては弱いのだから。
 ゾフィーたちが危惧しているように、ジレントへ考え無しに戦をしかけたとしても、諸侯がそれに不満を示さなければゾフィーは道化にしかならない。魔術師を嫌う者はピザン国内にも居るのだから。
 さすがにジレントの魔術師たち相手に大損害でも出せば、乗り気であった者たちも、ここぞとばかりに王に責任を押し付けるだろう。しかしリカムと事を構えた以上は、そちらに全力を尽くしても勝てるかどうかは未知数なのだ。余計な被害を出しては国が瓦解しかねない。

「……せめて私がもっと歳をとっていれば」
「淑女にあるまじき発言ですな」

 思わず零れた呟きに、アルムスター公が呆れたように返す。

「しかし私が言う事でもありませぬが、陛下が老齢である事は事実。先の大戦の時ほどの求心力はありますまい。武のクラウディオ殿下に知のヴィルヘルム殿下。お二方の補佐を受けたゾフィー様が立てば、領土を広げすぎ疲弊を感じさせるこの国も、勢いを取り戻すやもしれませぬ」
「ならば」
「ならばこそ、私はゾフィー様以上に心配な方々が居るのです」

 ゾフィーの言葉を強い口調で遮るアルムスター公。向けられる瞳は大志を抱く少年のように強い光を宿しており、外見の老いを忘れさせるほどだ。
 しかしゾフィーは嫌な予感がした。それはむしろ確信かもしれない。話の流れから、この後にアルムスター公の言う事が分かってしまったのだから。

「クラウディオ殿下とヴィルヘルム殿下。……お二人はそれはもう仲が悪うございましてなあ」
「……知っている」

 能力も性格も正反対なためか、ゾフィーの兄である二人の王子は仲が悪い。顔を合わせればヴィルヘルムが挑発し、クラウディオも応じるが舌戦で勝てるわけが無く、最後には暴れ始めて周囲に止められる。
 一度ヴィルヘルムはクラウディオに殴られた方が良いのでは無いか。ゾフィーは日頃からそう思っているが、実は既に何度か殴られて重傷を負っていたりするのは知らない。ゾフィーという妹ができてからは、ヴィルヘルムの攻撃性が薄れ自重を始めたためだ。
 周囲の者は、これ以上に二人の王子が歩み寄るのは不可能であると感じている。しかしゾフィーならば、ヴィルヘルムに僅かなりとも――ある意味で多大な変化をもたらした彼女ならば、二人を和解させる事もできるのでは無いか。アルムスター公はそう思い、ゾフィーに二人の仲立ちをするよう促しているのだ。
 無理だと言いたい。言いたいのだが、二人の仲の悪さを危惧しているのはゾフィーも同じである。それでアルムスター公が折れてくれるのならば、どうにか打開策を考えてみようかという気にもなる。

「……ヴィルヘルム兄様に何を要求されるか」

 自分を危険なまでに溺愛している兄の事を考え、ゾフィーは眉間を押えながら吐息を漏らした。
 自分に変装した侍女を差し出してみようか。そんな事を考えるが、後日それが洒落にならない事を知り、さらに心労を重くする事となる。





 クロエとデニスの戦いは、魔術を用いない格闘戦へと移行していた。それはクロエに半端な魔術が効かないためであり、さらにクロエ自身が攻撃系の神聖魔術をあまり習得しておらず、デニスを倒すには力不足であったためだ。

「フッ!」
「甘い!」

 振り下ろされた剣をいなし、大道芸のように手元の杖を反転させると、クロエは渾身の力でそれを突き出す。

 クロエの持つ杖は、司教杖と呼ばれる儀礼用の杖だ。まともに剣と打ち合えば、刃を弾き返すどころかその身に埋め、二つに両断されてしまう程度の強度しかない。
 しかしクロエの得意とする魔術が、貧弱な杖に剣と打ち合う力を与えている。
 魔力付加エンチャント。手にした武器や道具に魔力を送り込み固定する事により、様々な効果をもたらす魔術。
 クロエの魔力が尽きない限り、その手にある杖は魔剣と呼ばれるモノとすら打ち合う事を可能とする。

「上手いですが……軽い!」

 しかしその杖を、デニスは体勢も気にせず力任せに打ち払った。

「ッ!?」

 攻撃を虫でも払うように無造作に退けられ、クロエは追撃を諦め跳ねるように後ろへ退いた。
 それは普通ならばデニスにとって相手を追い詰めるチャンスであったが、クロエの脚力は普通では無かった。あっという間に石畳五つ分は開いた距離に、デニスもまた追撃を諦めるしか無い。

「いやはや、見事ですねえ。まだまだ荒はありますが、こと相手の力を流すという事にかけては、その歳で至れるはずのない領域へと達している」
「……」

 足を止め賞賛を送るデニス。その顔には未だ余裕があり、対するクロエにはそれが無い。

「ですが、それだけですねえ。貴方には敵を押しきる力が無い。並みの相手ならば、その技術で封殺できるのでしょうが、生憎と私は剣の腕も並ではありませんからねえ!」

 言いながらデニスの顔に浮かんだ笑みは、蛇を思わせる陰湿なものだった。

 デニスにとってこの戦いは、結末の分かりきったものだった。魔術を防がれた時は驚いた。しかし次いで放たれたクロエの魔術は構成こそ見事であれど、攻撃系の魔術としてはそれほど上位のものでは無かった。デニスを打ち倒すには足りない。
 互いに魔術戦での決定打に欠け、格闘戦に移行すれば、あとはデニスの勝ちは決まったも同然だ。速さこそ人並み外れたクロエだが、力も、技も、経験もデニスには及ばない。

 コンラートがかつて力と技でティアと拮抗したように、デニスもまた自力の差でクロエの速さという武器を圧倒している。

「クッ」

 クロエの喉から声が漏れた。デニスが聞けば悔しさからこぼれ出たものだと思ったであろうが、そうでは無い事を伏せられたクロエの顔を見れば理解しただろう。
 クロエは笑っていた。
 己が熟達した人間には届かない事など、嫌というほど知っている。長い間本を読み、暗がりの中で知識のみを頭に詰め込み続けたクロエには、才能があってもそれを生かす経験が無い。

「来ないのなら、こちらから行くとしましょうかねえ!」

 踏み込むと同時に突き出された剣。踏み込みの勢いの乗せられたその突きは重く、吸い寄せられるようにクロエの左胸へと向かう。
 多少強引とも言えるその攻撃は、デニスにとって布石でしかない。

 これまでに打ち合い把握したクロエの力では、この突きを防ぐ事はできないし、完璧に受け流す事もまた難しいだろう。そうなるとクロエはこの突きを避けるしかなく、いかにクロエでも逃げの体勢に入っていない状態では、咄嗟に移動できる距離もたかが知れている。
 無謀にも向かってくる事は無いだろう。しかし逃げたとしても休む事無く追撃を続ければ、いずれクロエは崩れる。

 己が勝利へと至る道筋を描き、デニスは笑う。
 しかし対峙するクロエも、また笑っていた。

「何ィッ!?」

 デニスの予想を裏切り、クロエは逃げる事無く立ち向かってきた。それだけならば、デニスも驚愕し声を上げる事など無かっただろう。
 突き出された剣がクロエの胸へと届く刹那、刀身が軋み、歪んだ。手に伝わる感触は目の前の光景が現実である事を知らせ、このままでは剣が半ばからへし折られる未来をデニスに確信させる。

「常時展開型の結界にこれほどの強度があるはずがッ!?」

 驚愕は一瞬。咄嗟に剣を戻した判断は間違いでは無い。しかしそれは決定的な隙であった。
 両手で杖を振り上げるクロエ。そして振り下ろされた杖はそれだけで折れるのでは無いかというほどしなり、どれほどの力がこめられているのかが分かる。
 だが分かりやすい。故にデニスはそれを間髪手にした剣で防ぐ。だが気付かなかった。今まで速さと技に頼ってきたクロエが、こんな力任せの一撃を本命にするわけが無いのだと。

「グゥッ!?」

 衝撃は足に、次いで痺れるような痛みと熱が太ももを襲った。デニスが視線を向ければ、蹴りを入れたのであろうクロエの足が地面へと着地する所だった。
 そしてその足が、跳ね上がるように動いた。その動きはさながら雷のようであり、目に捉えきれないそれを防御する事は不可能だと、デニスに知らせる。
 しかしデニスは魔術師だ。剣で防げないのならば魔術で、例え詠唱を行う事ができずとも、簡易の障壁程度は展開できる。そして何よりクロエほどでは無くとも、その体は常時薄い結界で守られている。小僧の蹴り程度防げないはずが無い。

「なッ!?」

 防げないはずが無い、突破できないはずの障壁を圧しながら、クロエの蹴り足がデニスへと迫る。否、既に障壁は粉砕され、辛うじて押し止めるのは一層の結界のみ。そしてその最後の守すらも、クロエの蹴りは打ち砕いた。

「ゴォッ!?」

 槍のようなクロエの蹴りが、デニスの鳩尾へと突き刺さる。障壁と結界により威力が殺されたとはいえ、無防備に受けたそれはデニスに地獄の苦しみを与えた。

「拙い杖術に付き合ってくれてありがとうございました。おかげでようやく蹴りをいれる隙ができた」

 這い蹲り、口から涎を垂らすデニス。今まで演技がかった言動をしていた男とは思えない、無様な姿を見下ろしながら、クロエは感情の窺えない淡々とした口調で告げた。





「オオォッ!!」
「ハアァッ!!」

 二人の男の雄叫びとも言える気合とともに、金属のぶつかり合い擦れ合う耳障りな音が広間に響き渡る。その音が消える間も無くニコラスが剣を横薙ぎに振りぬき、コンラートはそれを潜るように避ける。そして体勢を低くしたまま足元を払うが、ニコラスは後ろへと跳び退ってそれをかわし、コンラートはそれを追うように踏み込み剣を振り下ろす。
 一進一退。そう表すのに相応しく、二人は決定打を欠いたまま、目まぐるしく攻防が入れ替える。そして再び二人の剣がぶつかり合い、何度目かも分からない鍔迫り合いとなった。

「貴方は……本当に人間か?」
「さてな。巨人やら暴れ牛などと呼ぶ輩も居たのだし、案外人以外のモノが混ざっているかもしれん」

 苦しげに言うニコラスに対し、コンラートもまた攻めきれぬ事に焦っていたが、その内心を隠すように笑みを浮かべて言った。
 しかし牛は無くとも、巨人やそれに類する亜人の血は本当に混じっているかもしれない。コンラート自身そう思ってしまう程度には、己の身体能力が異常な事は理解している。
 だがそれでも、コンラートは人という枠をはみ出してはいない。ピザン国内だけでもクラウディオやティア、そして他にも数人ほどコンラートと並ぶ騎士は居た。あくまでもコンラートの強さは、人の強さでしかない。

「貴様があの腐った魔術師の人形の一人だというのならば、俺は人として負けるわけにはいかぬ!」
「グッ!?」

 ぶつかり合っていた剣を押さえ込み、コンラートの剣がニコラスの甲冑の隙間を縫うように左脇を切り裂く。

「カアッ!!」
「ぬッ!?」

 普通ならば重傷であるが、アンデッドであるニコラスは落ちかけた左腕を庇おうともせず、右手に握った剣を突き出す。油断したわけでは無いが、剣を振りぬいたばかりのコンラートは回避が遅れ、ニコラスの剣の切っ先が首の皮を薄く切った。
 あと少しでも反応が遅れていれば、ただの人でしかないコンラートは死んでいただろう。その事実にひやりとし、己の首が確かに繋がっているのを確認しつつ、コンラートは改めてニコラスへと向き直る。

「普通ならば今ので終わりなのだがな。やはりアンデッドは厄介だ」
「……私とて負けるわけにはいかないのだ。人であることをやめた故に手に入れた力。それを否定する事は許さん!」

 ニコラスの言葉は怒りをもった嘆きであり、どこか悲壮さを感じさせる慟哭でもあった。アンデッドとして十年以上も活動を続けてきた男にも、譲れないモノがあるのだろう。

「偽りの生の中で己を確立するのは強さのみという事か。良いだろう、俺が貴様を地の下へと叩き返してやる」
「大した自信だ。貴方自身が墓に入らぬよう気をつけるのだな」

 無論コンラートに油断は無い。その上ニコラスは左腕が繋がっているのが不思議な状態であり、無理をすれば鎧にぶら下がるような状態で千切れるだろう。切断された部位も動かせるとは言え、そのような状態では剣を振るにも支障が出る。
 それ程間をおかずして勝敗は決するだろう。

「このガキがあッ!?」

 しかし剣を構えた二人が対峙する場に、聞く者をすくませる憤怒と怨嗟に満ちた声が響く。
 その声の元を辿れば、デニスがクロエの前に崩れ落ちているのが目に入った。しかしクロエに勝者の余裕は無く、異様な雰囲気を漂わせるデニスを油断無く、むしろ恐れるように警戒していた。

「何か策があるのかと付き合ってみれば、一撃入れただけでとどめも刺さずにしたり顔ですか。甘いですねえ。なめてますねえ。そのふざけた結界のおかげで危機感が薄いようですし、戦いを試合とでも勘違いしているのですか」

 ゆっくりと立ち上がりながら、デニスは早口にまくしたてる。それにクロエは何も返さない。何も返せない。己が甘かったという事は、目の前に居るキレた男を見れば明らかだ。

「ニコラス。万が一にもコンラート殿を近づけないようにしなさい。全て諸共滅ぼします!」
「……承知した」

 デニスの命令に、ニコラスはしばし無言であったが、低い声で答えるとコンラートへ向き直る。しかしその姿からは、不本意といった感情がありありと見て取れた。

「――闇を住処とし、影を渡る者共よ、我に従え!」
「!? ――女神よ、我が主よ、私は貴方を頼り訴えます!」 

 デニスの詠唱を聞くなり、クロエが血相を変え詠唱を始めた。そして詠唱を続ける最中にも、クロエは杖と体術を駆使して攻撃を続けるが、デニスはそれらを苦も無く捌ききる。
 コンラートには、詠唱を聞いて魔術を特定するような知識は無い。しかしクロエの様子からして、デニスの唱えている呪文が危険である事は予想できた。事実デニスが唱えている魔術は、単独で行使が可能なのは一握の者だけであろう大魔術であり、たった二人の人間を殺すには過剰なものだった。
 それを察したコンラートは、ニコラスを倒す事よりも、デニスを止める事を優先する。

「クッ! 邪魔だッ!」
「ヌゥッ!?」

 立ちはだかるニコラスを、コンラートは剣での連撃によって打ち崩すと、トドメとばかりに蹴り倒す。そして即座にクロエと対峙するデニスの元へと走るが、焦るコンラートを嘲笑うように、デニスの詠唱は淀みなく続く。

「――地の底に繋がれし強禦きょうぎょなる螢惑けいわくの化身、火輪を求め駆け巡る!」
「――敵が私を囲み、仇が私を罵り、悪が私を攻めようとも!」

 詠唱を続けながらもクロエは妨害を続けるが、やはり近接戦闘ではデニスに分があるのか成果は無い。故にコンラートは一刻も早く二人の下へと駆けつけようとしたのだが、突然その首に何かがぶつかり、喉を握りつぶさんばかりに締め上げ始めた。

「グアッ!?」

 あまりの痛みと苦しさにその場に崩れ落ちる。何事かとコンラートが視線を向ければ、そこにはニコラスの腕だけがコンラートの首を囲うように肩に乗り、その手で喉を万力のように締め上げていた。

「手向けだ。その左腕くれてやろう」
「グッ……貴様!」

 振り返れば、剣を収めたニコラスが右手をこちらへ向けて立っていた。当然その体に左腕はついていない。
 千切れかけていた腕を自ら切断し、コンラートの足止めをするために投げつけたのだろう。いかにアンデッドとはいえ、このような戦法をとる者は、コンラートにとっても初めの相手だった。

「――過怠かたいは燐火となりて瑤階ようかいを登り」

 そしてその足止めは見事に成功したのだろう。今までデニスの詠唱を妨害しようとしていたクロエが、それを放棄してコンラートの下へと駆けて来るのだから。

「では、巻き込まれぬうちに私は失礼させていただく」
「ニコラス!」
「もし生き延びたならば、また会おう。シュティルフリート」

 そう告げると、ニコラスは己の影に吸い込まれるようにして消えていった。転移魔術の類であろうが、ニコラス自身は魔術師では無かった。他の魔術師――恐らくはイクサによって呼び戻されたのだろう。
 しかしそんな事を推察している暇もコンラートには無かった。ニコラスが消えるなり、首に絡みついた腕の力は弱まり引き剥がせたが、既にデニスは魔術の詠唱を完成させようとしている。
デニスの詠唱があとどれくらいで終わるのかも分からないまま、コンラートは一か八か妨害に向かおうとする。しかし風のように駆け、滑るように目の前で停止したクロエに手で制され、その場に止まる事を余儀なくされた。

「――私は恐れずただ願います、貴方が私の魂に触れ、私をお助けくださることを」
「――現世うつしよの境界を突き穿つ」

 クロエがコンラートを背に庇うように立ち、デニスが指揮棒を振るうように右手を掲げる。

「――女神よ、誠実にして潔白である貴方の僕をお守りください!」

 クロエが詠唱を終えると同時に、杖で石畳を打ちつける。すると石畳の上に複雑な文様が浮かび上がり、二人を覆うように光の壁が顕在する。
 そしてそれに僅かに遅れて、デニスの詠唱が完了した。

「――吹き出でよ、煉獄の炎!」

 命ずるように、デニスが右手をコンラートとクロエを指すように振り下ろす。
 同時に石畳が軋むように揺れ、青い光が漏れ始める。そして瞬きをする内に、広間は蒼炎に埋め尽くされた。



[18136] 三章 女神の盾5
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2010/11/13 12:19

 クラウディオの下に弟であるヴィルヘルムが訪れたのは、いよいよ激化しようとしているリカムとの戦に備え、自らの騎士団の取り纏めを行っているときであった。
 突如訪れた己の国の宰相を、クラウディオは礼を失さぬよう、しかし盛大なしかめ面で迎える。それに対しヴィルヘルムは、嘘くさい笑みで「お久しぶりです兄上」と大げさな礼をとって見せる。そして頭を上げる頃には、その顔の笑みは嘲笑へと変わっていた。
 クラウディオはその態度に苛立ち、傍らにある壷を投げつけたくなるが、それでは相手の思う壺だと思い必死に心を落ち着ける。

 幼少の頃から、クラウディオはこの性根の腐った弟が苦手であった。病弱であったために周囲に甘やかされて育ったが、人の思いに敏感な上に下手に頭が回るせいで、早くから人の裏表というものに気付いた哀れな弟。
 だがその弟は、人の暗部を見てショックを受けるような可愛い性質では無かった。

 今では真っ黒なヴィルヘルムだが、クラウディオが気付いた時には既に腹が黒かった。
 己に比べて健康を通り越して超人と化している兄に嫉妬したのかは定かでは無いが、クラウディオに頻繁に喧嘩を売った。そしてクラウディオが言い負かされ、腕力にものを言わせようとすると、計ったように誰かが止めに来るのだ。
 体の弱いヴィルヘルムに何をするのだと、周囲はクラウディオを責める。当然クラウディオはヴィルヘルムが悪いのだと言う。しかしヴィルヘルムは、十人が見れば十人が褒め称えるであろうその顔に、見れば罪悪感で首を吊りたくなるような泣き顔を浮かべ、自分は何ら後ろ暗い事も無い善人でございますと言葉にせず主張するのだ。
 ゾフィーが生まれていなければ、いつか殺し合いになっていただろうとクラウディオは確信する。もっともそうなった場合、いつの間にか諸侯を全て味方に付け、クラウディオを国外追放してしまいそうなのがヴィルヘルムの恐ろしい所なのだが。

「それで、何の用だ」

 自室へと招きいれ、ソファーに乱暴に腰を落とすと、クラウディオは警戒心を隠そうともせずに問いかける。それにヴィルヘルムは鼻で笑って返しながら、音もたてずに対面のソファーへと座る。

「幾つかありますが、まずは貴方の大切な親友の事をお話しておきましょうか」
「親友? グスタフの事か?」

 グスタフとは、アルムスター家と並ぶ領地を持つ三公の一つ、ローエンシュタイン家の嫡男だ。一般で言う親友ほど本音をぶつけ合うような親しい仲では無いが、そもそも上級貴族の中で歳の近い人間が他に思い浮かばない。

「コンラート殿です」
「そっちか」

 納得いったとばかりに、クラウディオは手を打つ。しかしコンラートの事を親友と言われると、それもまた違和感が残るのも確かだ。
 何せあの男は、そこらの貴族の盆暗息子たちよりも、礼儀というものに気を使う。クラウディオは己が王族の人間としては、下の者に気安すぎる事は自覚しているが、コンラートはそれを戒めるように臣下としての礼を崩さない。戦友だと言えば、コンラートも頷くだろうが、親友などと言えば、あの男は滅相も無いと畏まって否定するに違いない。

「彼が今何処にいるか知っていますか?」
「知らん。あいつの事だから、ティアとついでにカイザーを探して、大陸を右往左往しているのでは無いか?」
「確かに右往左往していましたね。暗殺者に命を狙われて」
「何だと?」

 聞き捨てなら無い事をさらりと言われ、クラウディオはソファーに預けていた体を持ち上げる。

「既にジレントへ抜けたそうですから、これ以上手出しはできませんがね」
「何処のどいつが……まさか親父では無かろうな」
「まさかと言いながら確信しているのでは? ジレントの国境でのいざこざ、私の耳にも入っていますよ」

 腹を探ろうとしたら探られて痛い腹をグサリと刺され、クラウディオは頭を抱えた。よりにもよって、ある意味ではロンベルク候よりも警戒すべき相手に、何故一番知られたくない情報が漏れているのか。

「誰から、どこまで聞いた」
「蒼槍騎士団の方からですよ。何でも兄上がカイザーとナノク殿を発見できなかったというのは嘘で、ジレントとの国境で遭遇し戦闘になったとか」

 情報源が己の部下であると聞かされ、クラウディオは疲れたように吐息を漏らした。
 人の口に戸は立てられないというが、身を持って体験する事になるとは思わなかった。しかし部下を責める気にはならない。ヴィルヘルムの事だから、断われないように脅しの一つでも使ったのだろう。むしろ哀れな生贄に、労わりの言葉でもかけてやるべきかもしれない。

「……戦いの顛末は聞いたか?」
「ええ。団員の一部が命令に反し暴走。カイザーを殺害しようとしましたが、ナノク殿と雇われ傭兵に返り討ちにあったとか」
「そうだ。しかも俺がジレントとの国境に居たのは親父の命令で、しかも不可解な事に連れて行く団員まで指定された上でだ」
「怪しいにも程がありますね。父上らしくも無い。そして狙いも分からない」

 状況からして、団員たちにカイザーを害するように命じたのは王に思える。しかし王にカイザーを害する理由が無いのは、他ならぬクラウディオたち自身が知っている事だ。

「それで、カイザーの次はコンラートか? ますます何がやりたいのか分からんぞ」
「カイザーを連れ戻せなかった恨みとも取れますが、そのカイザーを殺そうとした可能性がありますからね。皆はカイザーがさらわれたせいで、父上の人が変わったと思っているようですが、むしろ人が変わったからこそカイザーが逃げたと私は思っています」
「……確かに、カイザーは自身の意志で逃げていたな」

 だとすればきっかけは何だったのか。仮にカイザーが王を恐れて逃げたのだとしても、何故それを他の者に相談しなかったのか。不明な事は未だ多く、謎ばかりが増えていく。

「カイザーがあの時に、素直に事情を言ってくれれば良かったのだが、ティアに反論できずに見限られたのが痛いな」
「ほほう。ナノク殿は何と?」
「……今の親父にどうせ逆らえないだろうと言われた。実際俺は一度親父に抗議したんだが、生きた心地がしなかったぞ」
「確かに、今の父上の殺気混じりの眼力には逆らえませんね。ゾフィーならば尚更だと思いませんか? 矢面に立たせるのは可哀相だ」
「……やはり気付いていたか。だが王となると言い出したのはあいつだぞ」

 ヴィルヘルムが上目づかいに、責めるように言ったのに対し、クラウディオは苦虫を噛み潰したように顔を歪め、言い訳だと自覚しながらそんな事を口にした。そしてその言い訳はヴィルヘルムにはやはり不快であったらしく、顔の角度を変えると鼻で笑い、見下すように見てくる。

「私と違って、貴方は阿呆であっても健康なのですから、王になれない事は無い。騎士としての実績があり、不可解な事にカリスマ性も持ち合わせているのですから、私に政治を丸投げして王になっても問題は起こらないはずだ」
「丸投げなんぞしたら、おまえに暗殺されそうなのは俺の考えすぎか?」
「ハッハッハ。まさかそんな事をするわけが無いでしょう。せいぜい弱みを握って傀儡になってもらうだけです」
「……」

 本気なのか冗談なのか分からないヴィルヘルムの言いように、クラウディオは下手に返事もできず無言を貫く。実際の所、クラウディオとて責任を投げ出すような真似をしようとは思わない。しかしこの弟が自分の補佐に回ると、フラストレーションでどうにかなる未来しか想像できない。

「それに七選定候の内、四人がゾフィーを支持しないそうですよ。困りましたねー」
「まったく困ったように見えないが? それ以前に楽しんでないかおまえ?」
「選定候の支持無くして玉座にはつけない。逆に支持さえあれば、どこぞの馬の骨が玉座を簒奪しても合法なのだから、我が国ながら不思議な事です」
「俺はおまえの頭の中が不思議だ」

 かけられた声に気付かなかったかのように、一人呟くヴィルヘルム。そもそもこの弟との会話に、耐えられる者は居るのだろうか。そんな事を考えクラウディオが気を緩めた所に、ヴィルヘルムは狙ったように本題とも言える話を切り出した。

「しかしゾフィーも中々やりますね。アルムスター公と話し合い、条件を満たせば支持に回ると確約を貰ったそうです」
「ほう……」

 ヴィルヘルムはそう言うが、その条件はアルムスター公が最初から考えていたものであり、譲歩をするふりをしてゾフィーに飲ませたのは容易に想像できた。クラウディオ自身ゾフィーの才覚は認めているが、武力では己に劣り、知略ではヴィルヘルムに劣る。そして何より、二人の兄に比べれば圧倒的に経験が足りない。
 古狸と言って良いアルムスター公の下にゾフィーが赴いたのは、あくまで助力を請うため。ゾフィーがどれほど頭を巡らせても、アルムスター公相手に対等な交渉を行う事は難しいだろう。

「それで、どんな無理難題を押し付けられた?」
「貴方と私が親友になれば良いそうです」
「……は?」

 クラウディオは告げられた言葉の意味が飲み込めず、間の抜けた声を漏らす。
 自分と弟が親友に? ゾフィーという緩和材が居なければ、反目の末に潰しあいになっていたであろう男と?

「ありえん」
「そうですね。血が繋がっているだけで悪夢だというのに、精神的な繋がりまで求められようものなら、私は己の存在に耐え切れず自害しますね」
「おまえなら自害する前に俺を殺すだろう」
「ハッハッハ。そんな事をするはずが無いでしょう」

 朗らかに笑いながら、ヴィルヘルムは言う。しかしその目の奥には、明らかな嘲笑の色が見て取れた。

「貴方の血で手を染めるなど汚らわしい。自分で死んでください」
「おまえが死ね!」

 子供の喧嘩のような罵倒を叫び、クラウディオは立ち上がる。歳をくって負荷に強くなった彼の堪忍袋の緒も、最悪とも言える仲である弟相手では、ついに切れざるをえなかったらしい。
 そのまま殴りかかろうとしたクラウディオだったが、タイミングを見計らったかのように飛び込んできたヴィルヘルムの護衛騎士に縋り付かれ、さらにリアまで召喚されては大人しくするしかなかった。
 その騒ぎを聞きつけたゾフィーは、怒ることすらできず渇いた笑いを漏らすしか無かったという。ヴィルヘルムに事情を話し、後日兄弟三人で話し合うつもりだったのだが、まさかヴィルヘルムが先走って喧嘩を売りに行くとは予想していなかった。
 いっそ永遠に会わせない方が良い。そう彼女が思ったのも無理からぬ事かもしれない。





 ジレントの首都ランライミアは、同名の湖を基点に造られた街である。大陸中の知が集まるといっても過言では無い学術都市でもあり、湖の周囲に広がる町並みだけでも、他国の首都にひけをとらない規模と華やかさを誇っている。
 しかしそれ以上に訪れたものの目を引くのは、湖の中央に浮かぶ土台のような巨岩と、その上に立つ建築物の数々であろう。夜になれば薄っすらと光を放ち、湖の上に灯火のように浮かぶ街。しかしその場所も、かつてはただ水面が広がるだけであったという。

 ジレントの建国が成り、多くの学者までも集まり始めたのを見た初代魔法ギルド党首は、共に国を支えていく事となる彼らの願いを聞き大いに悩んだ。
 彼らの願いとは、戦火や政治的、宗教的な理由によって失われてしまう、書物や知識の保存。そしてその願いは、戦となれば己の意志を無視して利用される、魔術師たちとっても他人事では無かった。
 大陸中、後には世界中から書物を集め、魔術師たちは結界を張った。しかしそれでも安心できなかった初代党首は、物理的にも外敵の侵入が難しい街を造ろうと思い至る。そして百を越える魔術師が、数年の時をかけ、前例の無い大規模な儀式の末に生み出したのが、中心街の礎となっている巨岩だという。

 労力。時間。資金。どれをとっても無駄だらけと評されるその愚行は、手段のために目的を忘れがちな魔術師たちらしい偉業であった。
 湖と絶壁に囲まれ、出入り口となるのは一本の橋のみ。ランライミアの中心街は、城砦では無く街でありながら他に類を見ない堅牢さを持ち、未だ外敵の侵入を許した事が無い。そして内部においても、軍の中でも剣術、魔術に優れた精鋭たちが目を光らせ、食い逃げ犯すら魔術で捕縛するという容赦の無さで治安を維持している。
 そんな大陸一安全とも言える街に、コンラートは居た。





 ゼザの山の内部を走る墓を抜け、国境を通過し、導かれるままにランライミアへとやって来たコンラートは、中心街の宿の一つへと案内された。しかしその規模と内装を見れば、果たしてここは本当に宿なのかと、疑問に思わずにはいられなかった。
 まず広さからして、子供は勿論大人も走り回れるのでは無いかというほど広い。備え付けられたベッドは体が沈むほどやわらかく、巨人と揶揄されるコンラートの体が二つは収まる程の大きさがあった。
 床には何やら光沢のある石材が使われており、その上に敷かれた絨毯も並べられた家具も、派手さこそ無いが精巧な技巧がこらされており、素人目に見ても高級品だと分かる。そして室内には手抜き無く手が行き届いているらしく、埃の一つも見かけられない。

「……俺には過ぎた待遇だろう」

 それらを確認し、状況を把握したコンラートは、しかし受け入れる事ができず抗議めいた声を漏らした。それにクロエは苦笑を返す。

「中心街には庶民向けの宿というのが無いんです。元々それなりに重要度の高い施設しか建設が許されていませんし、一部の高官を除いた役人や大学に通う学生は、外街に住居を持っているくらいです」
「では俺も外の宿に泊まればいいだろう」
「万が一を考えてそれは遠慮してください。ジレント国内でコンラートさんにもしもの事があれば、公式には何も無かった事になるでしょうが、アルバスはここぞとばかりにジレントへ責任追及という名の嫌がらせをしてきます」
「……身に余る扱いに涙が出そうだ」

 己の身が国家間の不和を招きかねないと聞き、コンラートはうんざりといった様子で言葉を漏らした。
 表面だけ見れば、アルバスがコンラートの身柄をそれだけ大切に思っているという事。しかし実際には、コンラートを利用したピザンへの干渉にあまり期待は無いと、クロエが認めている。
 それでも無視できない問題に発展するというならば、それは元から両者の仲が悪い故であり、いちゃもんに近い。そのうちジレントの方角から嵐が迫れば、それすらもジレントのせいにするのではなかろうか。

「まあアルバスの老人たちの思惑は置いておいても、コンラートさんにはここに泊まって欲しいのが私の本音です。……自分が未熟だとは理解していたつもりでしたが、ここまで不甲斐無いとは思いませんでした」

 自嘲する様に言いながら、クロエは視線を下げる。そこには包帯にまかれたコンラートの右手があった。その包帯の中身が、炭化して今にも崩れ落ちそうだと言われて誰が信じるだろうか。

 墓の中心部での戦いは、魔力を使い果たしたデニスが、ニコラスと同じように転移魔術で撤退する事によって終わりを告げた。
 クロエに目立った怪我は無く、見事にデニスの大魔術を防ぎきった。しかしデニスの魔術もまた侮れず、結界の一部を破壊されてしまい、結果そこから漏れた蒼炎によってコンラートは右手を焼かれてしまったのだ。
 炎がコンラートの右手に触れたのは、結界の修復が終わるまでの瞬きほどの僅かな間。たったそれだけの間に、コンラートの右手は火傷などを通り越して炭となっていた。もし破壊された結界の範囲がもっと広ければ、それを修復する暇も無く二人は黒い塊となって絶命していただろう。
 そう思えば、コンラートがクロエに感じるのは、結界を破壊されたことに対する非難よりも、感謝の念が強かった。

「気にするな。確かに怪我はしたが、俺の命があるのは間違いなく君のおかげだ」
「しかし止めを刺すまではしなくても、無力化する機会があったのを見逃しました。間違いなく私の判断ミスが招いた過失です」
「それはそうだが……そもそもの原因は、君が侵入者を無視しようとしたのを、引き止めて戦うように唆した俺自身だ」
「無視したら別の場所で襲われていたかもしれません。私自身も最後には納得したのだから、コンラートさんに責任はありません」

 礼を述べていたはずが、いつの間にか責任の取り合いになってしまい、コンラートはどうにも反応に迷った。どう話しても譲りそうに無いその様子は、頑固というよりは意地になっているように見える。
 神官らしく責任感が強いと言えば美徳のように聞こえるが、感謝を受け入れてもらえないというのは、どうにも居心地が悪い。
 
「何度も言うが、怪我の事は気にしなくて良い。戦争をしていれば大怪我をする事もあったし、何より治癒魔術ならば治せるのだろう?」
「それはその通りですが……。痛みませんか?」
「感覚が無いだけだ。君のくれた痛み止めが効いているのだろう」

 コンラートは笑って言ったが、一方のクロエはさらに沈んだ顔をした。恐らくは、自身の治癒魔術でコンラートの手を治しきれなかったので、不甲斐無さを感じているのだろう。
 しかしジレント国内に入ってから、クロエが処方してくれた痛み止めがよく効いているのも事実だ。己のできる範囲の事をやっていて、それが成果となっているのだから、十分に胸をはれる事だろう。それでも沈んでいるのは、若さ故だろうか。なまじ高い能力を持っているために、あれもこれもやろうと、から回っているのかもしれない。

「そういえば痛み止めは君が作ったそうだが、神官というのは薬学の知識もあるものなのか?」

 話題を変えるために、コンラートは気になっていた事を口にした。
 神官の多くは治癒魔術を得意とするが、高位の治癒魔術を完璧に扱うためには人体や医術の知識が必要とされる。その一環で薬の知識もあるのかと思い聞いたのだが、クロエは首を横に振った。

「薬学にまで手を伸ばす神官はあまりいません。私は姉に様々な知識と技術を仕込まれたので、薬もその一部という事です」
「ほう、姉に」

 姉に教わったと聞き、コンラートは感心して声を漏らした。それはクロエと姉の知識と能力に対する純粋な感心もあったが、それ以上にクロエの顔に浮かんだ微かな笑みに対するものが多い。
 クロエはコンラートに対し笑みを向ける事はあったが、それは所謂愛想笑いのものだと見るものが見れば分かるものだった。しかし今クロエが見せた笑顔は、見逃してしまいそうな程微かなものだったが、だからこそ本心からのものだと分かる。
 余程その姉が敬愛しているのだろうと思うと、コンラートの顔にも自然と笑みが浮かんだ。

「コンラートさんの怪我も、姉に治してもらうつもりです。丁度この街に来ているそうですし、姉は人体の復元魔術が使えますから」
「復元? 治癒魔術とは違うのか?」
「一応は治癒魔術に分類されます。傷などを治す魔術には治癒、再生、復元の三つのレベルがあるんです。治癒は人体の自然治癒力を高めるもので、当然自然治癒で治すことができない怪我は治せません。私の使えるものはこのレベルですね」

 最後に付け加えられた言葉は、どこか困ったような声色だった。
 クロエという神官は、治癒や攻撃といった直接的な魔術を不得手としているらしい。逆に得意とするのは、結界、障壁や魔力付加による簡易マジックアイテムの作成。近接戦闘も行えるとは言え、その本来の役回りは守りに特化したものなのだろう。

「再生は怪我を治すのでは無く、直すと言えばいいのでしょうか。欠損した部位すら、新たな血と肉を作り出して治す事ができます」
「元通りという事か」
「そうは言い切れません。例えば失われた腕などを再生したとしても、上手く馴染まずに違和感や後遺症が残る事もあるんです。体が怪我をしたという事実を覚えているのかもしれません」
「なるほど。魔術も万能では無いと言うしな」

 魔術師たちに魔術は便利そうで羨ましいといえば、彼らは揃って「それほど便利では無い」と口にする。それは事実でもあるが、コンラートのように一切魔術を使えない者からすれば、ちょっと火を出せるだけでも十分に便利だ。
 しかし魔術師たちは、できる事よりできない事を重視し、さらなる高みを望む。むしろそのような思考で無いと、魔術師は務まらないのかもしれない。

「では復元魔術と再生魔術はどう違うのだ? 単語を聞いただけでは同じものに思えるのだが」
「復元魔術は怪我をする前の状態に戻す魔術です。怪我を無かった事にするのと同じですから、当然後遺症の類も残らない。結果だけ見れば再生と似ていますが、過程の方向性が違うので、治癒系統とはまったく別の魔術だとも言えます。術者自身にも相当の人体に対する知識が要求されるので、知識と魔力に優れた一流の神官や魔術師でも、復元のレベルに至れる者は僅かだそうです」
「ほう」

 一流の者でも使える者は僅かというならば、クロエの姉は間違いなく優秀な治癒術師なのだろう。コンラートがそこまで考えた所で、部屋の入り口を叩く軽い音が三度室内に響いた。

「来たようです。私が出ますから、コンラートさんは座っていてください」

 クロエに言われた通りに、木製のやたら頑丈そうな椅子に腰かけると、コンラートはクロエの姉とはどのような人物だろうかと考える。

「むぐっ!?」
「?」

 呻くような声が聞こえ、コンラートは視線を向ける。するとそこには、青空色の髪の女性に抱きしめられたクロエの姿があった。
 クロエの顔が押し付けられた胸はあまり豊かとは言えないが、それでもクロエを窒息させるには十分らしく、何とか拘束から逃れようともがいている。しかしどれほどの力がその細腕にあるのか、解放されるどころか緩む様子すらない。

「会いたかったわクロエ。コンラートさんもお久しぶりです」
「……ああ、久しいなミーメ殿」

 クロエを抱きしめたまま挨拶をしてくる女性に、コンラートは辛うじて挨拶を返す。
 クロエの姉らしき女性。それはかつてアルムスター公の使いで出会った、魔女ミーメ・クラインだった。





[18136] 三章 女神の盾6
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2010/12/16 11:45

 荘厳な空気に包まれた礼拝堂に少女の声が響く。それに少し遅れて口を開いた女たちの声が重なり、絡み合う音は美しい旋律となって人々の耳へと届いた。
 礼拝堂は舞踏会が開けそうなほど広かったが、訪れた人が予想以上に多かったために急遽椅子は片付けられた。人々はふとした拍子にぶつかりそうになりながら、しかし文句の一つも言わず立ち続けている。その理由は、喪服のような黒い衣装を着た女たちの中で、ただ一人白い衣装を纏っている少女だろう。

 白い肌と白い髪。巫女と呼ばれる少女の姿は、穢れを知らぬ処女雪を思わせる。その姿を一目見ようと、その声を少しでも耳にしようと、日頃神に祈らない者たちすらこの場に訪れた。
 そんな中で一人、礼拝堂の片隅で他者を寄せ付けず佇む男が居た。巫女の頼る第一の騎士とされ、人々に赤い騎士と呼ばれる者である。

「……」

 赤い騎士は無表情に、内心では不快に思いながら巫女の姿を見つめていた。
 重苦しい雰囲気の中で、ありがたい聖歌を。聖歌などともてはやした所で、歌はただの歌だ。
 一声命じれば魔物の動きが止まり、手を振り下ろせば雲も無いのに雷が落ちる。そんな奇跡を起こす巫女であるが、この歌によって起こる奇跡などありはしない。もしかしたら起こす気も無いのかもしれない。
 元々この歌は、大女神様のありがたい御言葉とやらを神官が伝えるために、客寄せとして始まったのだ。それでも人々の心の慰めになるのならばと、巫女は断わりもせずこの「見世物」に参加している。
 彼女の優しさにつけこむような神官たちのやり方が、赤い騎士には腹立たしかった。

「……やっと終わったか」

 巫女と修道女たちの歌が終わり、赤い騎士は背を壁から離す。
 視線を巫女へと向ければ、黒い髪の異国風の青年神官が歩み寄る所だった。それに気付いた巫女が微笑を浮かべ、赤い騎士は胸の中に重石を入れられたような感触を抱いた。それが嫉妬と呼ばれる感情であると気付き、赤い騎士は馬鹿らしいと一人笑う。

 自分は巫女の親兄弟でも恋人でも無い。彼女が誰と仲良くなろうが関係無いはずだ。
 しかしそんな事は言い訳で、視線をもう一度巫女へと向ければ、再び胸にズシリと不快なモノが居座る。耐え切れず目を反らそうとした赤い騎士だったが、その寸前に巫女が顔を向け、花が咲くように笑った。

「おーおー。嬉しそうだな」

 先ほどまでの大人びた表情とは違う、歳相応の笑みを向けられ、赤い騎士もつられるように笑った。そして軽く手を振ると、巫女は礼拝堂の奥へと消えていく。

「珍しいな。君がこんな所に来るとは」

 声をかけられ視線を横に向ければ、いつの間に移動したのか、先ほどまで巫女の側に居た黒髪の神官が居た。人の良さそうな笑みで、闇色の瞳を赤い騎士へと向けている。

「たまには様子を見に来ないとな。あの狸爺どもが調子に乗る」
「ああ彼らか。いっそ感心するほど欲に塗れた俗物だな。他国の神官は俗世から離れ聖人と呼ばれるに相応しいと聞いたが、まったく噂はあてにならん」
「……まあな」

 口では非難する風に言いながら、黒髪の神官はくつくつと笑う。赤い騎士はその姿に呆れながらも、言っている事は事実であるので肯定の意を口にした。

「よそ様はともかく、アンタは良いのかよ。女の尻追っかけて、随分と禁欲的なようで」
「そう言われてもな。太陽神が戒律で男女の交わりを禁じているわけで無し。太陽神に仕える神官が婚姻関係を結んではならないという決まりも無い。むしろ男が魅力的な女性を口説くのは自然な事だろう」
「何とも緩い神様だな」
「太陽神だからな。太陽は生まれも思想も関係無く恵みを与えてくれる。太陽の光を浴びることができないのは、光の苦手な者か、あるいは光から逃れる後ろ暗い者たちだけだ」

 そう言って祈る仕種を見せる神官は、外見だけ見れば確かにらしい神官であった。その内面の緩さも、太陽神に仕える神官としては許容範囲だというならば、神官として優秀という評価も間違いでは無いのだろう。

「ふーん。まあこれからもあいつの事頼む。俺は四六時中一緒には居られないからな。狸爺どもから守ってやってくれ」
「任されよう。しかし俺が女神の神官連中から、女神の巫女を守るというのも変な話だな」

そう言って笑う黒髪の神官。それに赤い騎士も「違いない」と笑って返した。





 ランライミアの中心街には、共和国議会議事堂や魔法ギルド本部など様々な重要施設が存在する。その中でも訪れる人々が多いのは、中心街が作られるきっかけともなった書物の収められた図書館だろう。
 見れば城かと思う程の巨大さを誇る図書館。初めて訪れたものは、まず入り口にある案内板を見たところで、己が何処へ行けばいいのかと迷う事になる。かくいうコンラートも、歴史書の類を求めて図書館を訪れたのだが、その歴史書だけを集めた区画が存在している事にまず驚き、次にどこをどう行けばその区画へと辿り着けるのかと迷う事となった。
 散々さまよった後、慣れた様子の女性に道(?)を聞き、ようやく目当ての区画へと辿り着く。しかしそこで目にしたのは、己の身長の倍はあろうかという本棚が、広い空間を細切れにするように立ち並ぶ姿。
 何故これほど歴史書があるのかと、コンラートが愚痴を漏らしそうになったのも無理はない。それでも気力をふりしぼり、自分の望みの本を探すが、候補が多すぎて分からない始末。
 見かねた様子の魔術師の男性に本を見繕ってもらった頃には、コンラートは机につっぷしたくなるほどの疲労を感じていた。

「……なるほど。分かりやすい」

 図書館に来てからどれほどの時間が経っただろうか。萎えた気力を奮い立たせて本に向かうコンラートの姿は、鎧姿で無い事もあってか、騎士というよりは初老の学者のように見える。もっともその手の中にあるのは、ジレントの子供たちが学校で使う、ここ千年程の世界史を記した教科書なのだが。
 しかし子供向けと言っても侮れず、その内容は簡略化されてはいるが要点を押さえており、コンラートが子供の頃に読んだ歴史書のそれよりは遥かに有用であった。

「精が出ますね」

 半ば飛ばすように一冊目を読み終わり、千年前の聖戦を中心に書かれた本を読んでいるところに、女性の声がかけられた。手にした本から視線を上げれば、長机を挟んだ対面にミーメが座っていた。どうやら自身も本を探しに来たらしく、正面から少しずれた机の上に、何冊の本が積み重ねられている。

「これはミーメ殿」
「こんにちはコンラートさん。一応護衛に来ました」

 護衛と聞き、コンラートは意味が分からず首を傾げる。それにミーメはクスクスと笑うと、周囲に聞こえぬように声を落として説明する。

「クロエに頼まれたんです。私は正式な魔法ギルドの党員ではありませんから、ジレントに迷惑もかかりませんし。ジレントがコンラートさんに直接関りたくないという話は聞きましたか?」
「一応は。どうにも疑問が残る理由だが」
「でしょうね。でもその理由は、ピザン所属の魔術師に狙われた事で、ある程度予測がついたのでは無いかしら?」
「俺を狙っているのは、ピザン王国の中枢に居る者。最悪ドルクフォード陛下であると?」

 迷い無く、はっきりと己にとって信じられない予想を口にするコンラート。それにミーメは虚を突かれたように目を見開く。

「気付いていたんですか?」
「考える時間はあったからな」

 しかし可能性として考えても、できれば違って欲しいというのがコンラートの本音であった。それに仮に王がコンラートを憎んでいたとしても、果たして一人の人間にそこまでするだろうか。さらに――

「しかしそれでは、イクサのアンデッドたちが襲ってきた理由が分からない。今ピザンとリカムは戦争の真最中のはずだ」
「何らかの密約があったのだと思いますけど……。その密約の内容によっては、コンラートさんとコンラートさんに関る人間は、ピザンとリカムという二大国を敵に回すことになります。ジレントの魔術師たちは強力な兵だけれど、実際に戦えば物量に押されて被害は免れないだろうし、勝てる戦でもやらずに引きこもっていたいのが本音でしょうね」

 ミーメの言葉に、コンラートは己の中に黒い淀みのようなものが湧き出でるのを感じた。
 事が大きくなりすぎている。一介の、騎士の位を剥奪された素浪人の男を、二つの国が付け狙っている。
 ゾフィーが王となれば仕えると誓った身。他国に騎士として招かれるという、都合の良い未来を期待していたわけでは無い。しかしそれでも今の境遇を省みて、憂鬱になるなと言う方が無理だろう。

 この状況で、本当にアルバスはコンラートを受け入れるつもりなのか。流されるままにクロエの導きに従ったが、このままで良いのか。
 一度考え始めれば、命を惜しみドルクフォード王の下を離れたのが、そもそもの間違いだったとすら思えてくる。ピザンに残り、ゾフィーの手伝いをする中で、王に何があったのか調べるべきだったのだと。

「いや……それでは殿下に迷惑がかかるか」

 対面のミーメには聞こえぬよう、コンラートは呟いた。
 ただでさえ隙を見せられないゾフィーが、コンラートという爆弾を抱えるはずが無い。王にコンラートを差し出せと命ぜられれば、ゾフィーは抗いきれないだろう。それはクラウディオも言った事だ。

 玉座を取ると、ゾフィーは宣言した。ならばコンラートは、それを信じて待つべきだろう。
 ゾフィーが王となり、ピザンに戻りさえすれば、イクサにどのような思惑があれど、戦場という場所で決着はつく。それまでは、アルバスの世話になってでも生き残ろう。アルバスの思惑は気になるが、コンラート一人を助けた程度で、大した借りを作れるとはあちらも思っていないのだから

「……それにしても、コンラートさん学が無いっていうのは嘘じゃ無いですか。ジレントはそうでも無いけれど、他国では字を読める人の方が少ないでしょう」

 コンラートの考え事が終わったのを見計らったように、ミーメが言う。コンラートはそういえば初対面でそんな事も言ったかと思い出し苦笑した。

「それほど買いかぶられても困る。元は山奥の村の生まれでな。村を焼かれ、偶然ドルクフォード陛下に拾われるまでは、自分の名も書けなかった」
「お城で勉強をさせてくれたんですか?」
「いや……城では雑用をしていただけだ。しばらくそうしている内に、ある貴族が俺の後見人になってくれてな。子供が居ないのが寂しかったのだろう。ガキの俺を相手に色々な事を教えてくれた」

 当事十二歳になったばかりであったコンラートは、申し付けられた仕事を文句も言わず黙々とこなした。
 元々山野を駆けて育った身であり、その体は同年代の子供と比べても大きかった。力仕事も大人と遜色無い効率でこなすその姿を、下働きの者たちは好意的に見ていたし、兵士たちは将来が楽しみだと、暇を見て稽古をつけてくれた。

 そしてそんな姿を見てコンラートを預かりたいと申し出たのが、武人としても名高いマクシミリアン・フォン・へルドルフ伯であった。しかし伯爵家の人間が孤児を引き取りたいと願い出ても、周囲の者はそんなうまい話があるわけが無いと疑う。コンラート自身も、子供ながらに自分はどうなってしまうのかと不安になった。
 しかし他ならぬドルクフォードに説得され、コンラートはヘルドルフ家へ行く事を決意する。そして恐る恐るヘルドルフ伯爵家へと赴いたコンラートが見たのは、何ら裏の無い笑顔で自身を迎えてくれるマクシミリアンと夫人の姿だった。

「俺自身まだ子供だったからな。どうしても目上の方相手の遠慮はあったが、面倒を見てくれる人の存在はありがたかった」

 元々コンラートには両親は居らず、村の皆の世話になりながら育った少年だった。立場を考えれば親のようにとはいかなかったが、それでも主である二人を敬愛し、その恥にならないようにと努力した。いつか生まれてくる子の力となって欲しい。そう頼まれたときは、認められたことに歓喜し、尚更精進しようと決意した。
 だがその幸せも、ヘルドルフ家での暮らしも、突然終わりを迎えた。

「……まあそういうわけだ。それなりに学びはしたが、付け焼刃のようなもの。こうして子供向けの本でも参考にしなければ、知識に穴がある」

 そう言ってコンラートが傍らの本を見せれば、ミーメもその内容に気付き笑った。

「それでも学ぼうとする姿勢は大事だと思いますよ。そういえば赤い騎士の事を気にしていましたね」
「恥ずかしながら。それとクロエ殿の祖先が巫女に付き従っていたと聞いてな。尚の事興味が出てきた」
「ああ。クロエは女神の盾の直系だから。司教なんて無茶な地位が通っているのも、そのせいでしょうね」
「女神の盾?」

 どこかで見たその言葉。すぐに思い至り手元の本をめくれば、その単語の書かれたページが現れた。

「……巫女の護衛を担った神官。戦場でも巫女の側に控える最後の砦とも言える存在であり、己の命をかけてでも巫女を守ろうとする姿から巫女の盾。あるいは女神の盾と称された」
「そうそう。その神官です」
「元は異教の神を奉じる神官だったが、巫女と出会った際に女神の御心に触れ改宗した」
「そこは真っ赤な嘘です」
「……何だと?」

 読み上げた一文をあっさりと否定され、コンラートは眉をしかめる。
 本の筆者が偽りを書いたのかと背表紙を見るが、そこに書かれた名はコンラートも知るほど高名な神官のもの。確かに歴史を専門にしていたとは聞いた事も無いが、それでも己の信仰する宗教に絡んだ間違いを記すだろうか。
 訝しげに本を眺めるコンラートに、ミーメは疑問を察したのか、苦笑しながらそれに答えた。

「女神教会にとっては、巫女の騎士たちは全員女神教徒であった方が都合が良かったんでしょう。クロエたちの一族が隠れ住んでいたのも、その辺りにうんざりしていたからという理由もあるとか」
「何とも……」

 歴史は勝者が作るものだと言うが、仮にも聖職者がそのような行いをするとは、コンラートには信じがたいことだった。
 いや、恐らくはコンラートの手に在る本の筆者も、間違った歴史を鵜呑みにし、本に記しただけなのだろう。千年も前の事実など、今を生きる人にとっては夢にも劣る現実味しかない。

 しかし何より気になるのは、ただ夢だと思っていたあの光景が、ことごとく過去の事実と符合する事だ。
 コンラートに過去視などという能力は無い。そして前世の記憶などという、創作のようなこともありえないだろう。生まれ変わり、輪廻転生などと言うものは存在しない。それがこの世界のことわりだ。

 あるいはコンラートが覚えていないだけで、もしかしたら過去に巫女やその騎士たちの事について、詳しく知る機会があったのかもしれない。そしてそれを夢として思い出しているのかもしれない。
 しかしだとしても、どこで、どのようにして、そんな事をコンラートは知りえたのか。

「しかし今更ではあるが、やはりクロエ殿はミーメ殿の実の妹というわけでは無いのだな」
「……は?」

 隠す気も無いのだろうと思い、コンラートはミーメとクロエの血が繋がっていない事を口にする。しかしそれに対するミーメの返答は、予想していないものだった。
 ミーメは目を見開き、信じられないことを聞いたと言わんばかりの驚きを、その顔に映し出している。それを見てコンラートは己が失言したと思い、慌てて頭を下げる。

「すまぬ。気軽に言って良い事では無かった」
「いえ。確かにクロエとは血が繋がっていないし、妹では無いんですけど……」

 どうやら気を悪くしたわけでは無いらしい。そう判断しコンラートは内心で安堵する。しかし一方のミーメは歯切れ悪く、どこか戸惑った様子のままだ。
 コンラートは一体どうしたのかと心配になり始めたが、次にミーメから放たれた言葉によって、今度は自分が戸惑う事になる。

「クロエは……妹じゃ無くて弟です」
「……」
「男の子なんです」
「……」
「……」
「すまぬが。本人にはくれぐれも内密に」
「ええ。その方が良いでしょうね」

 自分が女と勘違いされていたと聞いても、クロエの性格からして怒りはしないだろう。しかし不機嫌になり、無愛想さに拍車がかかるのは間違いない。そう思いコンラートは口止めし、ミーメもそれを了解した。
 しかしこの事はミーメからカイザーへと伝わり、長い時を経てクロエ自身の耳にも入る事になる。





「久しぶりだねクロエ」

 笑みを浮かべ歓迎するカイザー。それにクロエは小さな声で「ああ」とだけ答える。

 コンラートの泊まっているのと同じ宿の一室を、クロエは訪れていた。
 部屋に備えられた丸いテーブルには、二つのグラスと蜂蜜の使われた幾つかの焼き菓子。勧められたそれをクロエは遠慮し、グラスの中身に口をつける。

「相変わらず甘いものは駄目なの?」
「そういうおまえは相変わらず甘味に目がないな」

 子供っぽいとすら思える口調でカイザーが言い、クロエも普段より荒い言葉でそれに答える。そんな二人の顔には、合わせたように笑みが浮かんでいた。
 その歳相応の顔をカイザーを知る者が見れば、驚きはせずとも騙されたと苦笑するかもしれない。

 王弟カイザー殿下は、兄や甥たちには似ず、姪であるゾフィーと似た堅い性格である。それが王国に仕える者たちの認識であり、世間に広がる評判だ。
 しかし実際のカイザーの性根は、ピザン王家の男たちの例に漏れない、やや自由奔放なものである。それが周囲に知られなかったのは、彼の母親代わりとも言えるティアと、一番仲の良い家族であるゾフィーの影響だろう。公私の区別を徹底する者がそばに居れば、自然それを真似るようになる。
 その上カイザーは、王位を継がず騎士となる事を前提に教育を受けている。指南役のティアは、ピザン王家の男の性格を多少なりとも矯正するという、偉業を成し遂げたのかもしれない。

「ティアさんも、お久しぶりです」

 椅子にも座らず、カイザーの後ろに控える女性に、クロエは遅れて挨拶をする。

「お久しぶりですクロエさん」

 短く応えると、ティアは軽く礼をしながら微笑む。それにつられるように、クロエも微笑で返した。

 ティアに敬意を持って話しながら、その主であるカイザーに気安く口をきくクロエの姿は、事情を知る者からすれば奇妙な光景に映る事だろう。だがカイザーと初めて会ったときに、クロエは彼の正体を知らなかった。年下の、世間知らずな少年の世話をぶっきらぼうにやいていたら、それが定着してしまったのだ。
 相手が王弟殿下であると知り、態度を改めようとしても後の祭り。本来当然であるはずの、丁寧な物腰で接すれば、カイザーもまた王弟らしい威厳……もとい威圧感を背負って対応してくださる始末。
 明らかに怒っている様子のカイザーと、その背後から必死に目で訴えてくるティア。クロエが折れ、王弟殿下と「お友達」になるまで三日とかからなかった。
 せめてもの救いは、己の正体を知る人間の前ではカイザーも態度を改める事だろう。その辺りの分別はしっかりとしているのだ、この王弟殿下は。

「コンラートの護衛は上手くいきそう?」
「……何とも言えないな」

 カイザーの問いにクロエはしばし黙考し、眉を寄せながら答える。

「守る事にかけては、クロエさんほど秀でた人も居ないと思いますが。コンラート自身も、相手が二流程度の魔術師であれば、自力で生き残れる腕はあるはずです」
「確かに、守るだけならどうとでもなると思っていたんです。だけど前に戦ったレベルの魔術師がまた来る事があれば、私には荷が重いかもしれない」

 コンラートとクロエの力を知る故に、ティアはクロエの弱気に疑問を持ったのだろう。不思議そうに、心配そうに聞いてくるティアに、クロエは意識しない内に渋面で返していた。
 結界や障壁の類に限定すれば、クロエは一流の魔術師も嫉妬する程のものを持っている。だがそれでも彼は十五になったばかりの若造だ。判断ミスからコンラートを危機に陥れ、最悪彼の足を引っぱる可能性すらある。

「任務が単純に安全の確保なら、この街に居てもらえばそれで終わりなんですが」
「下っ端は大変だね」
「……一応司教だ」

 頬杖をつき、睨むような視線を向けクロエは漏らす。しかし下っ端というのも、あながち間違いでは無いのだろう。
 地位はあれど、クロエの立場は微妙だ。そしてそれはクロエの先祖の扱いが、教会上層部の間で微妙な事に端を発している。

 表向きには女神を奉じ、巫女の盾となった神官の末裔。しかし実際には、太陽神を信仰し、子々孫々まで女神教に改宗する事を拒否し、表舞台から姿を消した一族の子孫。
 クロエが女神教に改宗したのは喜ばしいが、千年の長きにわたり対立してきた事も無視できない。クロエを支持するか否かで派閥ができかねないほどであり、教会の長でありアルバスの国主である教皇も、その扱いに苦慮しているという。今回のたった一人での任務も、もしかしたら誰かの嫌がらせなのかもしれない。

「やっぱり改宗しない方が良かったんじゃない?」
「言うな。挫けそうになる」

 あっけらかんとしたカイザーの言葉に、クロエは打ちのめされたようにテーブルに突っ伏した。




[18136] 三章 女神の盾7
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2011/12/27 17:48
 ランライミアの中心街へと至る橋の終わりには、関所のような門がそびえ立っている。そこでは数人の役人と兵が出入りする人間を監視し、各個人が門を通った時刻までほぼ正確に記録している。

「……はい、結構です。お通りください。次の方どうぞ」

 橋のたもとに建てられた、小さな小屋の窓口で、役人は国から発行された通行許可証の提示を求め、それを基に出入りの記録をしていく。しかし半ば流れ作業と化している業務の最中に、この街では有名人である少年の名前を見つけ、手元に落としていた視線を上げると会釈した。それに少年も応えると、通行許可証を受け取り門を抜ける。

「あれ? クロエじゃない」

 門を背にしばらく歩いた所で、少年は聞き覚えのある少女の声に呼ばれ足を止めた。

「……なんだ、レインか」
「なんだ、じゃないわよ」

 歩み寄って来るレインを見るなり、無表情に言う少年。その反応にレインはムッとして眉を寄せ、そしてどこか呆れたような声で話し始める。

「どこ行ってたの。いくら中心街の警備が厳重だからって、間諜の類を完全に防ぐ事はできないんだから、あまりコンラートさんのそばを離れない方が良いんじゃない?」
「言われなくても分かってる。だけどコンラートさんだって一流の戦士だ。俺が居なくてもそう簡単にやられたりはしないだろう」
「相変わらず可愛くないわね。先生に倣ってお仕置きしちゃおうかしら」

 そう言うと同時。レインが杖の先端を軽く蹴り上げると、杖はその勢いのまま彼女の手を基点に弧を描き、少年の首へ吸い付くように動き静止した。杖の先端には透き通った氷の刃。それを見た少年に驚く素振りは無く、むしろどこか感心したような様子を見せる。

「魔力付加の一種か。無詠唱でこの速度とは、成長著しいな。だけど冗談にしちゃやりすぎだ」
「あら、ありがとう。だけど冗談じゃ無いからやりすぎでは無いわね」

 刃と同じ温度で放たれた言葉に、少年は訝しげに眉をひそめる。対する少女はニコリと、どこか寒気のする笑みを浮かべた。

「クロエったら神官になってからやけに気取っててね。私やカイと話すときはタメ口だけど、それでも一人称は『私』のままなの。『俺』なんて誰が相手でも言わなくなったわ」
「……そうだったか? 自分では自覚が無かったんだが」

 少年は呆気にとられたように目を見開き、次いで不思議そうな顔をする。その様子に嘘は見られない。だがそれでもレインの目は凍てついたままであり、杖に宿る刃をとく気配も無い。

「いい加減にしろレイン」
「そっちこそ観念しなさい。確信がなきゃ、街中でこんな事するわけ無いでしょう」
「だから、その確信の理由は何だ?」
「女の勘よ!」

 堂々と、迷い無く放たれた言葉に、少年は今度こそ本気で呆気に取られたように、目も口も開きっぱなしになった。そのまましばらく二人は動かず、騒ぎを聞きつけ様子を見ていた兵たちも、手が出せず困ったようにお互いを見やる。

「……くく、クアッハッハッハ! 女の勘か。それは素敵だ」
「あら、諦めたの。クロエはそんな笑い方しないわ」

 可笑しくてたまらない。そんな風に笑う少年。
 一方のレインは、手にした杖をいつでもその喉下へ滑り込ませる事ができるよう手に力を込めた。周囲に集まった兵たちはその数を増し、二人を包囲するように立ち並び剣や杖を油断無く構える。

「ハッハ……。流石姉さんの弟子だ。徐々に言動が似てきてる」
「姉さん……? アンタまさか!?」

 レインが相手の正体に気付き、僅かに気を反らした瞬間、少年の右手が氷の刃に覆われた杖を掴んだ。一見無謀なその行動は、対人戦の経験の少ないレインには効果的であった。相手を傷つけることに一瞬の躊躇いを見せたその隙に、少年の体が密着するほど接近し、そのままレインは抵抗する暇も無く、左手と襟を掴まれ投げ飛ばされる。そしてさらに、少年は振り回すようにレインの体に勢いを持たせ、地面へと仰向けに叩きつけた。

「ッ――!?」

 背中を石畳に強か打ちつけ、レインは呼吸もできず咳き込むように呼気を漏らした。今までに経験した事のない種の痛みに、整った顔が歪む。

「あいつと同じだな。経験の少なさが、才を殺している」
「レイン様!?」

 静かに告げる少年に向け、周囲の兵が一斉に飛び出し、密かに詠唱を終えていた者は炎や氷のつぶてをレインに当たらぬよう加減して放つ。しかしそれらを、少年は手を振っただけで埃のように跳ね除けた。そして剣を構えた兵が斬りかかれば、人間離れした跳躍で背後にあった建物の上へと退避してしまう。

「チッ。入り口を抜けた瞬間にばれたのは予想外だったが、強引にでもやる事はやらせてもらう」
「追え! そちらの二人は各部に向けて伝令。急げよ!」

 少年が建物の上を跳んで逃げるのを、数人の兵が同様に人間離れした動きで追っていく。その頃になってようやく立ち上がったレインへと、他の兵に命令を出していた中年の兵が走り寄る。

「レイン様。ご無事で?」
「無事よ。はらわたが煮えくり返りそうだけど」

 駆け寄った兵が思わず後退るほど、愛らしい顔を台無しにする憤怒の顔でレインは呟く。
 殺す事も人質にする事もできたのに、見逃された。あっさりと無力化された事と合わせてレインにはかつてない失態であり、強さというものにコンプレックスに近いプライドを持つ彼女には許容できない屈辱であった。

「あいつが私の知ってる奴なら、並みの魔術師じゃ歯が立たない。ロッドさんなりミーメ先生なりに、早めに援軍要請をした方がいいわ」
「それは承知しましたが、レイン様はどちらへ?」

 立ち上がるなり何処かへと歩き出すレインに、兵がどこか心配そうに問いかける。先ほどの曲者を追うつもりならば、何が何でも止めなければならないと、兵は緊張した様子で答えを待つ。

「命令系統に組み込まれてない私が、あまり勝手をするわけにもいかないでしょう。本物のクロエがうろつかないように、見張りに行ってくるわ」

 先ほどの怒りに満ちた表情はどこへやら。不貞腐れたような顔でそう言うと、レインはヒラヒラと手を振ってその場から去っていった。





 図書館での調べ物を終え、コンラートは宿への帰路へとついていた。ふと建物に隠れていない左手を見れば、太陽が彼方に見える山の谷間へ収まるように沈み始めている。
 狩人も唸るであろう視力を誇るコンラートの目には、湖の岸辺の街を歩く人すら見える。家路へ急いでいるのか、あるいは一仕事終え酒場へとくりだすのか。ともかく一つ言えるのは、活気という点だけ見れば、中心街よりも外街の方が勝るという事だ。
 それも中心街の重要性を考えれば仕方の無い事なのだろう。完全に国の管理下にある中心街では、店を出すにも厳しい審査をされ、道端に露天を出す事すら許されない。宿は勿論の事酒場や食事所一つをとっても、庶民には近寄りがたい洗練された店構えのものばかりだ。
 どちらの方が良いかは人それぞれだろう。だがコンラート個人は、悩む事無く外街の方が居心地が良いと言う。性に合わない中心街から、己に相応しい外街を眺める。それがコンラートにはどこか座りが悪かった。

「む?」

 横切った通りの向こうに、見覚えのある白い髪が見えた気がして、コンラートは立ち止まった。
 何故今まで思い出さなかったのだろうか。このジレントにカイザーが居るのは間違いない。ならば彼女もカイザーのそばに、ジレントに居るのは必然だというのに。

「っと、失礼!」

 走り出そうとして、通りを歩いていた婦人とぶつかりそうになる。頭を下げ一言詫びている間に、彼方に見えた白い髪は消えていた。
 しまったと思い、通りを歩く人々を縫うように急ぐが、大柄なコンラートはどうしても小回りがきかない。できる限り急ぎ、しかし他の者の迷惑にならぬよう歩いたのでは、目的の人は既にどこかへ行ってしまっただろう。半ばその事を確信し、そして予想通りに曲がり角の先に探し人が居ない事を確認すると、コンラートは落胆し吐息を漏らした。

 しかし踵を返し戻ろうとしたところで、視界の端を翻る白髪が掠めた。
 それを認めたコンラートの反応は早かった。今度こそ逃がしてなるかと、先程より人通りの少ない路地であった事もあり、周囲の人間が思わず視線を向ける勢いで駆ける。
 そして路地を抜け、少し大きな道へと躍り出た所で、右方向の曲がり角に消えていく白髪のしっぽを捉えた。
 それを追い角を曲がり、そして再び白いしっぽを見つける。そんな事を何度か繰り返しながら、コンラートは街中を走り続ける。

「……まさか、わざとやっているのか?」

 普通に歩いているのならば、とうの昔に追いついている。逃げようとしているのならば、到底追いつけないだろう。
 誘われているのか踊らされているのか。どちらにせよ彼女らしいと思い、笑う。

 彼女は真面目そうに見え、滅多な事では笑わないというのに、極稀に、気まぐれのように、ちょっとした茶目っ気を見せるのだ。
 最初にその洗礼を受けたのはリアだった。長雨の続くある日、どこからか迷い込んできた大きな蛙をジッと見て、そして唐突にそばに居たリアの頭に乗せた。
 普通の女性ならば悲鳴の一つもあげたであろうが、リアは血と泥に塗れて生きてきた元傭兵。その程度で怯むはずも無く、むしろ突然の友人の奇行に唖然としていた。一連の光景を見ていたコンラートが何をやっているのかと尋ねても、何をやっているのだろうと真顔で問い返す始末。
 その日を境に、思い出したように子供の悪戯のような真似を始めたのは、彼女なりに友人相手に気を抜いた結果だったのだろうか。

「ハッハッ……」

 軽く息がきれてきた所で、通りがかった建物の隙間の先に白髪の後姿が見えた。後姿とは言え、ようやく完全に捉えたその姿を見失わぬよう、コンラートは肩を壁にぶつけながらも狭い隙間を走り抜ける。
 しかしそんなコンラートから逃げるように、建物に切り取られた細い景色から、彼女の姿は消えうせた。

「ティア!」

 いつかと同じように、泣いているような情けない声で、コンラートは愛する女性の名を呼んだ。直後に建物の隙間を抜け、視界が開ける。
 いつの間にそれほど走ったのか、コンラートが辿り着いたのは中心街の入り口から離れた、議事堂の建てられた高台の一部だった。申し訳程度に柵の立てられた崖のそばへと歩み寄れば、赤く染まる街並みと、陽光を反射して煌く湖が目に入る。

「良い眺めでしょう」

 不意に声をかけられ振り向けば、そこには捜し求めていた女性が佇んでいた。

「殿下が教えてくれました。街から出なければ好きにして良いと言われた次の日には、地元の人間だって知らないような場所を探し当てるのだから、流石は陛下の弟と言ったところでしょうか」
「そうか……。俺としては、流石はクラウディオ殿下の叔父だという感想だが」

 逃亡も、戦いも、別れも、再会も無かったように自然に話しかけてきたティアに、コンラートも素直に思ったことを口に出していた。不思議とそれが当然のように思えたのは、久方ぶりに見た彼女に変わった様子が無いからだろうか。

「……」

 そんなティアから視線を反らし、コンラートは眼下に広がる街並みを見つめた。ティアもまた隣に立つと、コンラートに倣うように柵の向こう側へと目を向ける。
 どちらも言葉を発する事はしなかった。ただ静かに並び立ち、街の喧騒をどこか遠く聞いていた。

 話したい事があった。しかし実際に会ってみると、それを口にする事ができなかった。
 納得したはずだ。あの日、ティアと戦い負けた時に、何も聞かないと決めたはずだ。
 恐らくはティアもコンラートも、あの時が今生の別れだと思っていたはずだった。しかし二人は出会った。いや、恐らくは会いたかったから会えたのだ。

「貴方がこの街に居る事は知っていましたが、先ほど偶然見かけたときは迷いました」
「俺とは会いたくなかったか?」
「いいえ。ただ、迷っただけです。だからちょっとした賭けをすることにしました」
「賭け?」
「ええ。ちょっとだけ本気を出して逃げても、貴方が追いつけば会うことにしようと」

 それを聞いたコンラートは、下手な言い訳に笑うしかなかった。
 確かにティアは少しだけ本気を出したのだろう。しかしそれならば、曲がり角の度に都合よく翻った白髪の先だけ見えるはずが無い。彼女はコンラートに追いついて欲しかったから、わざと見つかるように動いたのだ。

「それで、賭けに勝った俺に何か賞品はあるのだろうか?」
「そうですね。一つ面白い昔話をしましょうか」

 そう言って目を閉じるティアの顔には、どこか自嘲するような表情が浮かんでいた。





「ううー」
「……」

 宿の一室にて、クロエはコンラートの帰りを待ちつつ、ミーメが新たに執筆した論文に目を通していた。
 普通の神官にとってジレントは忌むべき国である。しかし魔女を姉にもつクロエにそんな感情は無く、むしろ自らを利用しようとする他の神官が居ないために、居心地が良いほどだ。

「ううー」

 コンラートの護衛についても、街への侵入自体が難しいため気を張る必要が無い。

「ううー」

 そのためリラックスして趣味と実益を兼ねた読書に興じていたのだが、先ほどから訴えるような、抗議するような、不満そうな唸り声が聞こえてきて、まったく手元の文書に集中できずにいた。

「……唸るな。言いたい事があるなら喋れ」
「聞いてくれるの? クロエは優しいなあ」
「私が優しいなら、世界は優しさで溢れかえっているな」

 クロエが文書をテーブルに置き視線を向ければ、カイザーが満面の笑みを浮かべていた。尻尾でもあれば勢いよく振っていそうなその姿に、クロエはもう一度吐息を漏らす。
 一見頭が温そうに見えるカイザーだが、決して馬鹿では無い。世間知らずではあっても、世間に善人しかいないなどとは思っていないし、むしろこれまでの狭い世界の中では油断なら無い人間との付き合いの方が多かっただろう。
 それでもこの少年は幼い子供のように無邪気だ。きっとそれは本人の強さと、そばに居てくれる人への信頼のためだろう。そのどちらもが、クロエには羨ましくて仕方が無かった。

「今ミーメ先生に魔法物理学っていうのを習っててね、課題に問題集みたいなのを渡されたんだけど、難しくてさ」
「もう少し頑張れ。姉さんはあれで教え方が上手いし、本人が理解できてないような課題は出さないぞ」
「うん。理屈は何となく分かるんだけど、数字と記号の羅列を見てると脳が働くのを拒否するんだよね。それに理解できなくても魔術は一応発動するし」
「……典型的な魔力馬鹿だなおまえは」

 痛む頭をほぐすように、クロエは眉間をグリグリと押す。
 たまに居るのだ。理論なんて大体分かってれば良いじゃ無いかと、ノリで魔術を使ってしまう輩が。無論そんな事では魔術の構成に綻びが出るのだが、カイザーのように馬鹿げた魔力を持っていれば並以上の効果は出せる。
 クロエも魔力自体は馬鹿の仲魔だが、幼い頃にミーメに教育されたためか、神官でありながら魔術師以上に魔法理論に精通している。そうでなければ、魔術の中でも構築と維持が難しい結界の類を得意とはしなかっただろう。

「ねえ。クロエたちのお師匠さんってどんな人だったの?」
「毎度の事だが、唐突だなおまえの質問は」

 クロエは眉間から手を離すと、カイザーを見やり苦笑する。

「子供がそのまま大人になったみたいな、いい加減な預言者だよ」
「自称預言者?」
「いや。私も最近まで半信半疑だったが、本物だったらしい。歴史の大きな節目に現れ、時の権力者や英雄に様々な助言や道具を与え導く、世界の天秤の計り手。女神教会にも『青の調停者』として認定されている」
「聞いてるだけで嘘くさいんだけど」
「まあ嘘の方が良いだろうな。十五年前に、おまえの国について予言したらしいし」

 クロエの言葉が予想外だったのか、それまで緩んでいたカイザーの顔が、真剣なものに変わる。

「僕は聞いた事が無いけど?」
「内容が内容だからな。……十五年前の戦争の終結後、リカムに抵抗した連合三国の王の前に青の調停者は現れ、幾つかの予言をした。
 ローランドは長きに渡る繁栄の代償に、緩やかな衰退の後に一人の姫を遺して滅び、キルシュは戦場にて王子が流れ矢により死した後に、一年の時を待たずして王もまた凶刃に斃れ滅ぶ。そしてピザンは二度王が変わりし後に終わりを迎える。
 ローラン王国を祖とする三国の滅びの予言は、その場で聞いた者たちの胸の内に秘められ、他言される事はほぼ無かった。直接聞いた人間の中で健在なのは、ドルクフォード王を含めて数人だけだろう」

 特にピザンの国王であるドルクフォードは、その内容を下手に漏らす事はできなかっただろう。他の二国と違い、ピザンは王が二度変われば滅ぶと、具体的な時期まで予言されている。周囲の不安を煽らぬためにも、黙っているしかない。

「……もしかして、クラウディオ兄様じゃ無くてゾフィー姉様が後継者になったのって、その予言のせいかな。兄上の次の王の治世が長く続けば、それだけ予言の時は遠ざかるって事だし」
「可能性としてはあるだろう。しかし『探求王』とまで呼ばれたドルクフォード王が、そんな消極的な策だけで終わるとは思えないけどな」

 何せ若い時分には、城を無断で飛び出して冒険の旅に出たという、規格外の王様だ。有り余った行動力で、何とか予言を回避しようと、足掻いて足掻いて足掻き続けるに違いない。

「クロエ!!」

 どちらも話す事が無くなり、自然と沈黙が続いていた所に、一人の少女が叫びながら乱入して来た。余程急いでいたのか、乱れた金髪と息を整える少女を見て、クロエは呆れたような声で言う。

「相変わらず落ち着きが無いなレイン。少しは姉さんを見習え」
「黙りなさいシスコン。確かに先生は素晴らしい人だけど、アンタは美化しすぎなのよ」

 半目になって睨めつけるレインと、それに対し無表情に、しかし不満そうな雰囲気で視線を返すクロエ。そしてその二人を、カイザーはにこやかに眺める。
 二人はカイザーが城を出るまでの知り合いには居なかったタイプだ。自分と歳が近く、人に敬われる立場にあるにもかかわらず、歳相応に笑い合い喧嘩もする。
 クロエには半ば強制したとはいえ、カイザーの正体を知っても自然に接してくれる。そんな二人が、カイザーは好きだった。

「ミーメ先生の素晴らしさは置いておいて、何かあったんじゃないのレイン?」
「何かあったなんてもんじゃ無いわよ。クロエと瓜二つの奴が、偽造許可証使って門を正面突破してきたわ」
「なんだって?」

 詳しく話を聞こうとクロエが腰を浮かせかける。しかし動き出す前に、空気が張り詰めるのを感じとり、クロエとレインは動きを止めた。

「……やられたわ。本気でこの街に単独で挑むつもり?」
「どうしたの?」
「外を見てみろ。刺激的な事になってるぞ」

 言われたとおりに窓辺へと移動し街を見下ろし、カイザーは予想外の光景に固まった。
 格子のように規則正しく敷かれた街路を、見た事も無い異形が闊歩している。二足歩行するそれは立ち並ぶ建物の二階に頭が届くほど巨大で、肌は鱗に覆われ手には鋭い爪が生え、顔は爬虫類のそれであった。
 リザードマン。そう呼ばれる魔物は群を成し、我が物顔で道を行き、人々は悲鳴をあげ逃げ惑っている。
 さらに視線を上げれば、鉛色の羽が生えた人型が飛び回っていた。人型ではあるが、その両の目は赤く不吉な色を放ち、姿形は人々が想像する悪魔のそれに近い。

「ガーゴイル……だな。あいつの十八番の召喚だ」
「あれが……」

 古の時代に人々に脅威を与え、とうの昔に姿を消した魔物たち。それらが大陸で最も安全であるはずの街を蹂躙していくのを、カイザーは唖然としながら見ていた。
 街を守る魔術師や兵士たちが魔物たちに挑むが、いくら訓練を重ねた彼らも魔物との戦いの経験は皆無だ。人間以上の耐久力と力を持つ敵に、戸惑い手間取り少しずつ被害を出してしまっている。
 このままでは取り返しがつかなくなるのでは。そう思い焦るカイザーの頭に、ポンと誰かが手を置いた。

「大丈夫だ。奴らは強いが頭が弱い。時間が経って慣れれば、魔術の使えない兵だけでも対処できる」
「……本当に?」

 確認するように問うたカイザーの頭を、クロエは安心しろとでも言うように二度叩いて手を離した。

「……クロエ。悪いけれどアンタは」
「まぎらわしいから動くな……だろ。代わりにコンラートさんの事は何とかしてくれ」
「言われなくても、優先的に動いているでしょう」

 ジレントの兵は実戦経験が少ないが、それを補うように経験豊富な傭兵を指揮下に組み込んでいる。優秀さという点においては、心配する必要も無い。
 クロエは動じる事無く窓辺から離れ椅子へと腰かける。その姿は落ち着いた、老齢の指揮官のような余裕すら見えた。

「良いの? あいつを放っておいて?」
「下手に動いて下を混乱させるわけにもいかないだろう。それにあいつの狙いが分からない。カイが狙いの可能性もある上にティアさんがこの場に居ない以上、私はここに居た方が良いだろう」

 そう言いながらも、クロエはどこか冷めた目で窓へと視線を向ける。

「……身内の始末は自分でつけたいけどな」





「何事だ……これは?」

 眼下に広がる街に、降って湧いたように現れた異形の群を、コンラートは呆然と見つめていた。
 街路を歩き回り、身幅の広い剣を振り回すトカゲ人間。その足元をチョロチョロと走り回り、棍棒を叩きつけ街を破壊する醜い小人。そして空を跳び回る、石のような体の悪魔。
 伝説の中で語られ、余程の秘境にでも赴かなければ見ることのできない異形の魔物たち。しかし何故だろうか。見たことの無い、そのはずの異形に、見覚えがあるのは。

「コンラート! ガーゴイルがこちらに来ます!」
「むぅ!?」

 ティアが警告を発するとほぼ同時。柵の向こうの崖から五体のガーゴイルが飛び出し、二人目かけて鋭い爪を突きたてんと襲いかかって来た。それをコンラートは跳び退って避けると、いつの間にか周囲を取り囲んでいたガーゴイルを威嚇するように睨み付けた。

「コンラート。やはり貴方は運が悪い。ランライミアが襲撃を受ける、歴史的な瞬間に立ち会うなんて」

 コンラートと同じくガーゴイルの攻撃を苦も無くかわし、背中合わせに立ったティアが静かに言った。
 だがコンラートは笑った。運が悪い。万人に聞けば誰もがそう言うであろうこの状況で、彼は笑ったのだ。

「いや、悪いことばかりでは無いさ。初めて君に背中を預ける事ができる」

 そう言いながら長剣を抜く背後で、ティアが呆気に取られているのが分かった。しかしそのティアも、コンラートの言いたいことを理解すると、笑いながらサーベルを抜く。

「確かに。長い付き合いですが、貴方と共闘するのは初めてですね」

 背中合わせに剣を構え、ガーゴイルたちと対峙する二人。その二人を警戒するように飛ぶガーゴイル。そしてすぐに二体のガーゴイルが、焦れたように二人に襲いかかる。

「コンラート、彼らの体は石です。全力で叩き斬って下さい!」
「承知! 君のように上品にはいかないが、やってみよう!」

 二人は同時に駆けだすと、それぞれが襲いかかって来たガーゴイルへと剣を振る。
 そしてティアのサーベルがガーゴイルの胴体を二つに両断し、コンラートの長剣が頭部を殴り飛ばし粉砕した。



[18136] 三章 女神の盾8
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2011/01/04 13:40
 
 薄暗い部屋の中、外套をかけた椅子に背を預け、手すりにもたれかかるように頬杖をつきながら、デニスはぼうと光る水晶玉に目を向けている。水晶球には街の中で暴れる魔物たちの姿が映し出されており、その異様な光景には魔術師の端くれであるデニスも顔を歪めた。

「不満そうだな、デニスよ」

 不意に、他に人は居ないはずのその場にしわがれた、聞く者を不快にさせる声が響いた。デニスが声の主へと視線を向ければ、そこには鳥かごに入れられた黒く大きな鳥。

「いえ、そのようなことはありませんよ」

 その鳥へと、デニスは顔はそのまま声の調子だけを変えて言う。それに鳥はくちばしを動かしながら、短く「そうか」と言葉を発する。

 鳥かごに入れられたその鳥は、魔術によって作られた魔法生物である。魔術によって二つに分けられた、一つの魂を宿す鳥。彼らは二つでありながら一つであり、片割れの聞いた声を瞬時に自らの口から発する。離れた者との対話のためだけに作られた、鳥だったモノの成れの果て。

「どう見ても、一人の魔術師では不可能な召喚である事は、この際良しとしましょう。私は他の魔術師とは違って、過程よりも結果を重視しますしねえ。ですが、この襲撃に何の意味があるのかと、それが分からず悩んでいるのですよ」

 デニスが手を翳すと、水晶玉が一瞬白く輝き映る場面が変わる。
 自らの倍はあろうかというリザードマンと対峙する、薄い金色の髪の戦士コンラート。かつての同僚であるその戦士が、この程度の魔物に苦戦するはずが無い。そしてデニスの信頼に応えるように、コンラートはリザードマンの剣を両断し、返す刀でその腹部を深々と切り裂いた。

「量で攻めても英雄は討ち取れない、なんて事は言いません。そりゃ戦い続ければいつか疲れてヘマでもしてくれるでしょうがねえ、だったら街中で襲うのは下策でしょう」

 魔物を打ち倒しているのはコンラートだけでは無い。もしこれだけの魔物をコンラート一人に向けていれば、彼を殺すこともできたかもしれない。
 もっとも、デニスの自信を根元からへし折ったあの少年が居る限り、その可能性はかなり低いものとなるのだが。

「今回の目的はあくまで威力偵察よ。牙を抜かれ腑抜けた魔術師どもが大事に抱える、囚われの王子様もここに居るようであるしな」
「……そういえば先ほどから見覚えのある白い頭がチラホラと。彼女が居るのならば殿下も居るのでしょうが、こんな大騒ぎを起こしたら、別の場所に移動されるのでは?」
「クカッ、それもまた良し。この程度の騒ぎで自ら不落城を捨てるのであれば、むしろ事を運ぶに利となるわ」

 喉に何かつまったような、気味の悪い笑い声を聞き、デニスは眉間に皺を寄せる。
 立場的には協力者であるが、デニスは鳥の向こうに居る男を欠片も信じてはいない。自国の第二王子である腹黒宰相の方が、まだいくらか信頼にはたるだろう。いつ裏切るとも知れない協力者など、実際に現場で動かなければならない人間には、敵以上に警戒すべき対象でしかない。

「しかしあの少年は何者ですか? 随分とクロエ司教に似ていましたが」

 目の前の水晶に映る景色を直接眺めているであろう少年の姿を思い出し、デニスは鳥に向かって問うた。それに鳥は再び奇妙な笑い声を上げると、人の心を逆撫でるような嫌らしい声で言う。

「彼奴らは双子よ。生まれながらにして憎み合う事を運命付けられた、哀れで愛しい歪んだ子供たちだ」
「……ふむ」

 何かを考え、納得するようにデニスは息をつく。鳥が言っている事を全て理解することなどできようはずが無い。しかしそれでも、双子がお互いに憎み合っている事は分かった。

「性格が根本から捻じ曲がっているようには感じましたが、中々面白い。己の不幸を呪い、それでも尚、神に縋るのであれば、さぞかし立派な狂信者となるでしょうねえ」
「クカカカカッ!」

 デニスの言葉がつぼに入ったのか、鳥が狂ったように笑い声を上げる。そのあまりの不気味さ、異様さに、デニスは思わず椅子を引いて鳥から距離をとった。
 直接対峙しているわけでも無いのに、鳥の向こうに居る男の持つ気に呑まれそうになる。この男は正気なのか。浮かんだ疑念は、すぐに正気であるはずがないという結論に変わった。

「こんな狂人と直接やりあって、よく生き残りましたねえコンラート殿」

 鳥には聞こえぬよう小さく呟きながら、デニスは水晶に映る男の姿を眺めた。





 見慣れぬ、畏怖すら感じさせる魔物たちの襲撃は、確かにランライミアを守るジレントの兵士たちに衝撃と焦りを与えた。しかし時が経ち、魔物にも兵にも被害が出始めれば、次第に状況は人間側に有利なものとなる。
 魔術師たちがリザードマンを燃やし、凍らせ、稲妻で打ち倒せば、それまで逃げ腰になりながらも侵攻を阻止していた兵士たちは奮い立つ。そしてその中でも年長の、冷静なベテランたちが己の力と技のみで巨大な魔物を討ち取れば、若い兵も恐怖を忘れて気勢を上げた。
 ある者は街を守る使命に駆られ、ある者は手柄を立てんと奮起し、ある者は仲間の仇を討たんと昂奮する。兵たちの気迫はうねりとなって街を包み込み、最初暴虐にふるまっていた魔物たちは、その波に押されて逃げ出すものすら出始めていた。

「――貫け! ……よし! 残りは一匹だ、囲んで一気に殲滅しろ!」

 兵たちの隙間を抜け、橋の方へと逃げようとしていた小さなゴブリンを魔術によって生み出した炎の弾丸で撃ち抜くと、中年の兵は部下たちに命じてリザードマンを取り囲んだ。
 門番長を務めるその男の名はマリウス。見た目は冴えないが、十五年前のキルシュ防衛戦にも参加した歴戦の兵であり、初歩的なものではあるが魔術も使える逸材である。
 元々傭兵であった彼は、キルシュ防衛戦の後には大規模な戦も無く、職にあぶれ流浪する身でしかなかった。そんな彼をジレントへと誘ったのは、かつての戦友であり、リーメス二十七将にも数えられるフローラ・F・サンドライトであった。
 魔法ギルド党首の娘である彼女は、戦後故国に戻ると議会の一員となり、実戦経験のある兵を自国に引き入れる計画を推進した。その計画にてマリウスはジレントへと招かれ、不安定な傭兵家業を辞め、国を守る兵士としての道を歩む事となる。

「俺が注意を引く! その隙に一斉にかかれ!」

 そう言うなり、マリウスはリザードマンに正面から挑みかかる。それを迎撃しようと振り下ろされたリザードマンの剣は、マリウスの剣によって反らされるとそのまま地面へと突き刺さった。そしてその剣を再び振り上げる前に、リザードマンは四方から伸びた剣と槍とに貫かれ、絞められた鳥のような声を上げてのけぞり、そのまま後ろへと倒れる。そのままリザードマンはピクリとも動かなくなり、淡い光を放ちながら空気に溶けるように消えていった。

「……こちらの被害は?」
「二名が重傷。戦闘に影響があるほど怪我を負ったものはそれだけです」
「怪我人はあちらの小屋に運んで治療してやれ。他はこのまま待機だ」
「応援に行かなくてよろしいのですか?」

 副長を務める青年の言葉に、マリウスは「ほう?」と感心した声を出した。
 鎧に身を包みつつも、頭に銀色のサークレットを身に着けた青年は、魔法ギルドの一員でもあり魔術師である。他国での特権階級といえば、貴族と神官が当てはまるが、ジレントにおいては魔術師が彼らに代わり特権階級に居ると言って良い。
 要するに、マリウスの副長を勤める青年は、将来を約束されたエリートだ。そんなお坊っちゃんが初めての実戦をそつ無くこなし、あまつさえ上官に意見までしてくるとは、意外に頼りになるらしい。

「俺たちはあくまで門番だ。上から命令があれば動くが、そうでない限りはここを死守する事を第一に考えろ」
「しかしこの場の敵は撃退しました。他に戦力を回しても良いのでは?」
「敵の増援が来ないとも限らん。それについては、俺よりも魔術師寄りなおまえが危惧すべきことだろう」

 そう言われて、青年はハッとして周囲を見渡すと、無言でマリウスに頭を下げた。
 相手が召喚によって魔物を引き入れた以上、どこから何が飛び出してくるか分からない。この場を安全だと判断して戦力を他にやった所で、狙ったように新たな魔物が現れるとも限らないのだ。命令無しの自己判断で動くなとは言わないが、自らの責務を疎かにしてまで余計な事をする必要は無い。

「すいません。しかし相手が召喚師ならば、誰かが元を叩かないと……」
「それは俺たちが考える事じゃ無い。おまえが考え付く事くらい、お偉いさんも考えてるさ。命令が来ないって事は、大元を叩く大仕事は他の奴がやるって事だ」
「……大丈夫でしょうか」
「心配性だな。まあ生き残るのなら、おまえくらい臆病な方が……」

 言いかけて、マリウスは目を見開き言葉を止めた。自分と対面に居る副長の遥か後方の大通りに、巨大な魔方陣が浮かび上がり光を放つ。そして光が治まった後に現れたそれが信じられず、マリウスは呆けたように口を開けたまま動けなくなる。

 他国の首都にも劣らない広さの大通り。その大通りを占拠するように、緑色の巨体が横たわっている。その体はリザードマンと同じく鱗に覆われているが、太陽の光を受けて輝くそれは美しくすらあり、金属に勝る頑強さを感じさせた。
 ゆっくりと巨体を持ち上げた手足は馬の胴体よりも幅があり、その先には兵たちの手にする剣が針に見えるほど太く鋭い爪が生えている。そして街を見下ろすように天へと伸びる首の先には、狼とも獅子とも言えない見たことの無い顔(少なくとも蛇や蜥蜴のような可愛いものでは無い)が鮫の歯のような牙の並んだ口を開け、地鳴りのような声を漏らしている。

「ど、どどどドラゴン!?」

 兵の一人が、震える声で言う。できれば見間違いであって欲しかったそれは、確かにそこに存在するらしい。現実逃避をやめたマリウスは、しかし空想の世界以外のどこに逃げれば良いのかと、目の前の絶望的な存在に頭を抱えたくなった。
 ドラゴンの鱗はダイヤよりも硬く、爪は山をも削り、咆哮は大地を震わせ、様々な属性のブレスを口から吐き、知能の高いものは人語を解し魔術すら使う。神以外に神に並びうる存在。それほど高位の生命体なのだ。

「隊長……逃げた方が良いのでは?」

 青ざめた顔で、小鹿のように足をガクガクと震わせながら言った副長は、さぞ将来大成するだろうとマリウスは思った。幾度も死線を越え、棺桶に片足を突っ込んできたマリウスですら、今すぐに回れ右をして駆け出したいのだ。他の兵たちが腰を抜かしているのと比べれば、立派だとすら言える。

「そうしたいのは山々だけどな、奴さんこっちをガン見してる」

 長い首をグルリと回して周囲を見渡したドラゴンは、いかなる理由かマリウスたちを細長い目でジッと見つめていた。たったそれだけで、マリウスたちを冬の寒気かんきをも上回る寒気さむけが襲い、十人ほど居た部隊の半数が気絶してしまった。
 知識としてドラゴンの脅威を知らずとも、生物の本能が彼らに教えてくれた。あれには勝てないし、逃げきる事もできない。自分たちはあの巨体がこちらに興味を示した時点で、死の未来を決定付けられたのだと。

「ん?」

 悠然と、万物の支配者であるかのごとく見下ろしていたドラゴンが、首をのけぞらせるように天へと向けた。それなりの距離があるというのに、聞こえてくる音は、洞窟を抜ける風の音のよう。

「まずい! 結界を張れ!」

 ドラゴンが何をしようとしているのか予期し、マリウスが叫ぶ。しかしそれに反応できたのは副長だけであり、張られた結界は下位の魔術ですら十も防げるか怪しい頼りないものでしかなかった。
 ドラゴンの首がしなり、反動をつけて前へと出された口から吐き出されたのは、光を放つ球状の塊。どのような理屈でそうなっているのか、ボールのようなそれは雷を圧縮したものであるらしく、バチバチと音を立てて放電しながらマリウスたちの居る門へと落ちてくる。

 ああ、これは死んだな。
 マリウスは自分でも驚くほど冷静にそう判断し、半ば無意識に駆け出していた。





「うわああああっ!?」
「逃げ、逃げろ!」

 中心街の入り口から離れた大通りを守っていた兵士たちは、突如目の前に現れたドラゴンの姿に混乱し、完全に恐慌状態へと陥っていた。何せ首が痛くなるほど見上げて、ようやく全貌が把握できる巨大さだ。この化物が少し身動ぎしただけで、そばに居た者は踏み潰され絶命し、離れた門へと放たれた雷のブレスの余波だけで体が動かなくなる者まで居た。
 僅かな希望にすがり、ドラゴンへと攻撃を加える勇敢なものも居たが、剣は弾かれ歪み折れ、魔術によって生み出された炎や氷、雷、かまいたちもろもろは、鱗を僅かに傷つけただけで霧散した。仮に鱗の下の肉体を傷付けられたとしても、この巨体。致命傷を与えられるわけが無い。
 これに挑むのは無茶、無理、無謀だ。頭の螺子の飛んだ馬鹿でなければ、逃げるのが当然であり、人として正しい。

「全員退け! アレは人間に太刀打ちできる相手じゃ無い!」

 そんな中で、声をはりあげて部下たちに撤退を命じる男が居た。しかし男自身はその場に留まったままであり、逃げるどころか剣を抜いて徐々に前へと進み出ていた。
 勝てるはずが無いと分かっている。相手が相手だ。逃げても罰せられる事は無いかもしれない。
 故に部下には退避を命じたが、自身がそれをする気にはなれなかった。勝てずとも、あれの注意を引けば少しは被害が減るかもしれない。そんな脆弱な希望と正義感から、男は命を投げ捨てる決意をした。

「せめて時間稼ぎだけでも……」
「ふむ。ならば俺が行こう」
「なっ!?」

 玉砕覚悟でドラゴンへと挑もうとしたその時、男の肩を誰かが叩くと、そのままズイと男を庇うように前に進み出た。
 その背はそれなりに体格の良い男でも見上げるほど高く、引き締まった筋肉のついた手足は逞しいが、並以上の長さがあるためにどこかひょろりと長い印象を受ける。

「おう。それなら俺も混ぜてもらうか」
「は、はあ!?」

 そしてさらにもう一人、男が一人進み出て並び立った。
 背は先に進み出た男より少し小さいが、盛り上がった筋肉は鎧のようであり、男の体自体が一つの肉の塊のように見える。
 誰もが恐怖におののき逃げ惑う中進み出た二人の男。彼らはお互いに気付くと一方は穏かに、もう一方はニヤリと笑い、少しも気負いの無い様子で話し始める。

「武器ももっておらぬようだが、それでアレと戦うつもりか?」
「そういうおまえさんこそ、そんな貧弱な鎧じゃ着るだけ無駄だぜ。一発でお陀仏だ」

 お互いに言うと、男たちは笑い合った。自分たちがどれほど馬鹿であるか、語るまでも無い。

「俺はロッド。巷じゃ鉄拳だのゴリラだの言われてる」
「ほう、そなたがあのリーメス二十七将の一人の……。俺はコンラート。元ピザン王国の騎士だ」
「へえ、おまえさんがあの白騎士コンラートか」
「生憎と、今はただのコンラートだ」

 そう言うと、コンラートは抜き身のままの剣を握り直す。目の前の死の予兆に、手が微かに震える。初陣の時も、初めてアンデッドと戦ったときも、イクサとたった一人で対峙した時も、これほど死というものを明確な形で感じた事は無かった。
 だが何故か、どうにかなるのではと、楽観的な思いが湧き上がり、それが無責任に背中を押す。
 何を馬鹿なと、コンラートは己の愚かさに苦笑した。自分にそんな大層な力は無い。夢の中の彼のように、ドラゴンと戦いそれを打ち倒すような、神話の時代の英雄のような真似などできようはずがない。
 そもそもコンラートには、この街を守る理由はあれど、守らなければならない義務は無い。本来この街を守るべき兵士や魔術師たちが逃げ惑う中、自らも逃げて誰が責めようか。

「ブレスを吐かれたら厄介だ。一気に懐に踏み込むぜ!」
「承知!」

 だがコンラートを押し止めようとした微かな迷いは、隣に立つ男の言葉によってかき消された。
 同じ二十七将に数えられては居るが、コンラートとロッドに面識は無い。それでもロッドの言葉が後押しとなったのは、僅かなやり取りだけで彼が一流の戦士だと感じられたからだ。彼と二人ならば、例え相手が万の軍勢に匹敵する相手でも、勝てはせずとも善戦はできるだろうと確信させる力強さがあった。

 二人が駆け出したのに気付いたのか、ドラゴンが見ただけで危機感を煽る爪の生えた前足をゆっくりと持ち上げる。振り下ろされるそれは、頑強な砦の城壁すら一撃で打ち崩すだろう。

「ウオオオオォッ!!」

 しかしコンラートは足を止めず、雄叫びを上げながら走り続けた。
 恐怖はある。恐くないはずがない。もしあれを人間が受ければ、爪で引き裂かれるか、それとも地面に叩きつけられ潰れるか。胸を突かれるだとか頭を割られるだとか、そんな最期がマシに見えるほど凄惨な死を迎えるのは間違いない。

 そんな予測を、叫び声で打ち消した。
 考えるな。失敗の後を予測し対処するのは大切だが、失敗の後が無いのならば考えるだけ無駄だ。
 ただ我武者羅に、あの断頭台の刃を越えて、あの怪物へと一撃くれてやる事だけを考えろ。

「クアッ!?」

 自らへ目がけて振り下ろされたドラゴンの前足を、コンラートはすんでの所で転がるように潜りぬけた。そして地面へとドラゴンの足が着弾すると、ガアンと岩同士がぶつかるような音がして、地面が二度三度軋みを上げて揺れた。砕け、弾けた石畳の欠片がコンラートの背へと襲いかかり、鎧にぶつかり軽快な音を立てる。
 気休めにもならないはずの鎧は、予想外の所でその役目を果たしたらしい。その事に何故か得意になりながら、コンラートはそのまま前へと転がり続けそうな体を何とか押し止め、半ば屈んだ体勢のまま体を反転させると、その勢いのままに長剣を横薙ぎにドラゴンの前足へと振りぬいた。

「グウッ!?」

 手に伝わる手応えは、相手が本当に生物であるのか疑いたくなるものだった。岩を叩いたとしても、これほど腕が痺れはすまい。現にガーゴイルを斬ったときは、殴ったに等しい結果ではあれ破壊に成功しているのだ。
 しかしその結果にも怯まず、コンラートは弾かれた長剣の勢いを利用するように、今度は反対方向に体を回転させると、そのままの勢いで再び長剣を前足へと叩きつける。

「なっ!?」

 だが衝撃を予想していた手に、頼りない空を切るような感触が伝わった。改めて確かめるまでも無く、手の中の長剣は根本から折れてほぼ柄だけの状態となっている。
 岩すらも砕く頑丈さだけが売りの長剣も、ドラゴンの鱗には勝てなかったのか、傷一つつける事もできすその役割を終えてしまっていた。

「ガハッ!?」

 しかし呆然としている暇など無かった。目の前の前足が虫でも払うように振り回され、偶然胸に当たっただけのそれに、コンラートは馬にでもはねられたように吹き飛び仰向けに地面に叩きつけられる。

「ぐ……」
「危ねえ!?」
「むっ!?」

 コンラートが起き上がろうとした所を、ロッドが引き摺るように駆け抜けた。遅れてその場所に在ったのは、先ほどまで振り回されていたドラゴンの前足。
 あのまま悠長に倒れていたら、コンラートは潰れたトマトのような末路を辿っていただろう。背筋が冷えるのを感じ、コンラートは思わず唾を飲んだ。

「……すまぬ。助かった」
「良いってことよ。しかし参ったな、鱗に傷すらつけらんねえとは」
「剣も折れた。今の俺たちでは蚊にも劣るな」

 倒せるとは思っていなかったが、まさか傷一つつけられないとも思っていなかった。

「普段は武器には頼らねえんだが、今回ばかりは伝説級の武器でも欲しいぜ」
「……伝説の剣か」

 ロッドにつられるように呟き思い出したのは、赤い騎士の持つ騎士の剣。夢の中の赤い騎士のように、ドラゴンの鱗すら貫ける剣があれば、あるいはこの怪物に一矢報いる事もできるのだろうか。

「む?」
「なんだぁ!?」

 進退窮まった二人から離れた場所に、突如長い何かが飛来し突き立った。重量を感じさせるそれは二つあり、それぞれが柄の長い斧と斧槍であった。

「あれは……ティアか!?」

 二つが飛来した方へと目をやれば、カイザーの下へと戻ったはずのティアが居た。
 何故と問う暇は無い。ドラゴンが再び前足を振り上げるのを確認したコンラートとロッドは、合図も無く同時に駆け出す。そしてロッドが斧を、コンラートが斧槍をぶつかるようにその手に抱え、地に着いたままの前足へと駆ける。

「コンラート! 同時に行くぞ!」
「承知!」

 踏み込んだのは同時。石畳を踏み抜くのではないかという勢いで下ろされた足は、根でも生えたかのように二人の体を地へと固定する。

「オオオオォッ!!」
「ぜりゃあぁっ!!」

 そして踏み込んだ勢い全てを乗せるように、斧と斧槍がドラゴンの前足へと叩きつけられる。
 金属同士が擦れるような耳障りな音がして、ドラゴンの前足が動いた。斧と斧槍とが叩きつけられたそこから鱗が何枚か弾け飛び、削がれた肉の間から血が噴出す。

「やりやがった!」
「あの二人本当に人間か!?」

 何もできず、だが逃げる事も良しとせず留まっていた兵たちが、目の前の光景に驚き、呆れ、喝采を上げた。
 この場で初めて人間によって負わせたドラゴンへの傷。しかしそれ以上に見ていた者たちを驚かせたのは、ドラゴンの前足が殴られた勢いもそのままに、付け根を基点にして振り子のように宙へと舞っていた事だ。

「と、危ねえ!?」

 片方の前足を上げた状態で、地に着けていた前足を殴り飛ばされたドラゴンは、体勢を崩し倒れこむ。咄嗟にコンラートとロッドはその場から離れようとするが、その二人の腕を何者かが取り、ドラゴンの体の下から引っ張り出すように跳躍した。

「ティア!?」
「動かないでください」

 自らの手を掴む相手を見れば、そこにはティアが居た。いつの間にこれほど近付いたのかという疑問は、ティアの常識外れな速さを考えれば抱く方が間違っている。しかし大の男二人を引き摺って、ドラゴンから家三件分は距離をとるのだから、その力も並ではなかったらしい。

「――不可視の盾よ!」
「――巡る風、境界となりて我らを覆え!」

 そんなティアへの驚きもよそに、コンラートたちを待ち構えるように詠唱を行っていた魔術師たちが、障壁と結界とを複数展開する。何故とコンラートは問いかけたが、ティアの視線を追えばその疑問の答えがそこにあった。
 ドラゴンの体の向こう。大通りの彼方にある石造りの大きな門。その上に一人、白いドレスのような衣装を纏った女性が佇んでいた。





「魔術の補助無しでドラゴンを殴り飛ばすなんて。ロッドさんはともかく、コンラートさんも人類の常識に喧嘩を売っているのかしら」

 中心街の入り口。橋のたもとに立つ門の上で、ミーメはドラゴンが体勢を崩すのを半ば呆れながら見ていた。
 自身も魔術師である時点で、常識に喧嘩を売っているのは自覚しているが、だからこそ魔術無しで魔術師を越える戦いぶりを見せた二人に、驚きよりも呆れが先に浮かぶ。

「――氷の精霊よ、古の契約に従い、我が声に応えよ」

 しかし呆けている場合では無い。ドラゴンが動きを止め、周囲から人も退いた。このチャンスをみすみす見逃すわけにはいかない。

「――其は雲根より出でし雹霰はくせんの使徒。寒月に惑い冷渋し、白圭はくけいとなりて集散する」

 唱えるは、ミーメの扱える中でも五指に入る威力を持つ大魔術。ドラゴンを打ち倒すには少し足りないかもしれないが、これ以上の大魔術は街が壊滅しかねない。今使おうとしている魔術でも、ドラゴンの周囲に居るものには被害が出るかもしれないが、そこは運が悪かったと諦めてもらうしかない。
 そう内心で思い笑うミーメを見る者が居れば、魔女と罵りの意味で呼んだだろう。

「――琳琅りんろうと、霜威となりて降り注げ」

 冷気を操る事を最も得意とする氷の魔女は、躊躇う事無く詠唱を完了し、終わりの言葉を口にした。





 目も口も開きっぱなしにして、コンラートは目の前の光景を驚愕と共に見つめていた。
 突如ドラゴンの頭上に現れたのは、城を支える大黒柱を思わせる巨大な氷の柱。その氷の柱は下の方にいくにつれて細くなっており、その鋭さはつららのようだと言うよりも、氷の槍だと言う方がしっくりきた。
 そんな氷柱がドラゴンの頭上に幾つも、数えてみれば十三も浮かんでいる。そしてそれらは、門の上に立つミーメが腕を振り下ろすと、指揮された軍隊のように一斉にドラゴンへと襲いかかった。
 氷柱はドラゴンの足を、尻尾を、胴体を、砂の山でも穿つように貫いた。そして貫かれたそばから、ドラゴンの体表を侵食するように氷付けにし、その生命力を奪っていく。

「くうっ!」
「くそ! ――巡る風よ、我らを覆え!」
「――不可視の盾よ」

 その衝撃の余波を受けて、障壁を展開していた魔術師は呻き声を上げ、結界を展開していた魔術師はそれを維持しきれず再構築を余儀なくされ、それに気づいたティアも障壁を展開してその時間を稼ぐ。
 魔術師たちの奮闘に、コンラートはミーメ一人が行使した魔術にそれほどの威力があるのかと震撼した。
 コンラートには分かるはずも無いが、あの氷柱一つでも、小屋程度ならば跡形も無く吹き飛ばし、小さな湖であれば完全に凍らせる程の力を秘めている。その氷柱が十三。少し効果範囲を工夫すれば、一軍すらも滅ぼせるであろう大魔術。例え一流と呼ばれる魔術師であっても、その余波ですら防ぐのに全力を注ぐ必要があった。

「やったか!?」
「流石は魔女様だ!」

 一際大きな氷柱に首を貫かれ、ドラゴンの頭が力なく地面へと横たわった。誰もが突然の大魔術の発動に驚いたが、その結果を見れば驚きはすぐに消え去り、歓喜と安堵の声を上げる。

「ふいー。ミーメの奴俺らごと殺す気か。何にせよ助かったぜ」
「……」
「ん? どうしたコンラート?」
「いや……」

 声をかけられても、コンラートは生返事しか返せなかった。視線の先には横たわるドラゴン。確かにドラゴンは身動き一つしないが、未だその巨体を大通りに晒している。
 召喚された生物は、死ねば仮初の肉体を消失させ在るべき場所へ還るはずだ。にもかかわらずドラゴンの体が在り続けるという事は、ドラゴンが死んでいない事を意味する。

「オイ!?」
「コンラート?」

 知りもしないはずの知識でそう判断したコンラートは、他の者が驚く声も置き去りに駆け出していた。そしてドラゴンがそれに気付いたように、体を横たえたまま口だけを動かし、大きく息を吸い込み始めた。そして集められる空気の量に比例するように、その口の奥で雷の固まりが形成されていく。

「させません!」

 しかしその雷が解放される寸前で、コンラートよりも遅く駆け出したはずのティアが、ドラゴンの左目を切り裂いた。
 鱗は硬くとも、眼球はそれほどの強度はなかったのか、ドラゴンは片目を失い、氷に貫かれ凍りついた体をよじらせる。

「ハアァッ!!」

 そしてなおも雷のブレスを放とうとするドラゴンの右目に、コンラートは斧槍を突進するままに突き立てた。斧槍はドラゴンの眼球を引き裂き、貫きながら深くその身を埋めて行く。
 両目を奪われたドラゴンは、斧槍を右目に突き刺したまま、唯一自由になる首を狂乱したように振り回した。腹の底に響くような悲鳴は地を揺らし、先ほどまで勝利に浮かれていた者たちの背筋を凍らせた。

 どれほどの時間が経ったのか、誰も言葉を発する事ができない中で、ドラゴンは空を仰ぐように首を伸ばすとピクリとも動かなくなった。地鳴りのような鳴き声も止まり、辺りは痛いほどの静寂に包まれる。
 動かなくなったドラゴンの首が、ゆっくりと地面へ倒れていく。周囲に居たものはその太い首が倒れる衝撃に備えたが、予想していたそれは訪れなかった。ドラゴンの首が倒れるのに合わせるように、ゆっくりとその体が透けていく。
 そしてドラゴンの姿が完全に消えうせると、そこには十三の氷柱と、凍った石畳と建物だけが残された。





 今度こそドラゴンを倒し、命を拾った者たちは快哉を叫んだ。その喜びようはまるで百年に渡る戦を終えたようであり、よくぞアレと戦ってくれたと讃えられるコンラートやロッド、ティアを困惑させるほどであった。
 そんな様子を、街の中でも一層高い建物の上から、つまらなそうに眺める少年が居た。

「まだ戦いは終わってないのに、暢気なもんだ」

 そう言い捨てる少年の周囲には、何人かの兵士と魔術師が倒れている。その体は例外なく血に塗れており、地面はまるで最初からそうであったように赤く染まっていた。
 確かめるまでも無く全員息絶えている。

「まあ残りの魔物も殆どやられたみたいだし、でもこのまま逃げるのも面白くない」

 もう一体ドラゴンを召喚すれば、うかれた奴らはどのような顔をするだろうか。
 そんな事を考え、少年はゆっくりと右手を振った。すると地面を染め上げていた血が流れるように動き、複雑な幾何学模様の描かれた魔法陣のようなものを形成する。

「――我は黒き血に連なりし者。境界の此方より彼方へと命ずる」
「やめよ、アースト」

 召喚のための詠唱を始めた所へ、かすれた声が制止をかけた。
 いつの間に現れたのか、アーストと呼ばれた少年の肩に黒い鳥がとまっていた。それだけで声の主を悟ったアーストは、忌々しげに顔をしかめながらも言う。

「何故だ? もう一度ドラゴンを召喚して、俺がミーメを抑えれば、コンラート・シュティルフリートは確実に殺せる」
「魔女を甘く見るな。元身内だからこそ、ぬしは奴の本当の恐ろしさに気付けぬ。それにその街には、魔女に匹敵する魔術師であるフローラ・F・サンドライトも居る」
「それぐらい俺なら」
「自惚れるでないわ! 未だジレント軍も魔法ギルドも全戦力を投入しておらぬ。そもそもぬしの弟が出張らぬ時点で、ジレントが追い込まれておらぬは確実。慢心し状況も把握できぬとは、ぬしも腑抜けた魔術師に毒されたか!?」
「ぐ……」

 反論できず、アーストは悔しげに口をつぐんだ。
 初めて中心街へと大規模な攻勢を受けたというのに、ジレントは明らかに戦力を出し惜しんでいる。後に備えているのか、それともこれが威力偵察である事に気付いているのか。
 どちらにせよ、これ以上長居すれば、アーストは逃げる機を逃して捉えられかねない。

「分かった。混乱している内に脱出する」
「良い子だ」

 子供を褒めるように、嫌らしい声で鳥が言う。そして離れていくそれを、アーストは睨むように見送った。

「臆病者の糞爺め。いつまでも穴倉の中に居られると思うなよ」

 誰に言うでもなく、吐き捨てるように言うと、アーストはその場から姿を消した。



[18136] 四章 黒の王子・白の娘1
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2011/01/09 15:03
 夜も更け、多くの者たちが仕事を終え家路へと急いでいるであろう刻限。食事や酒を求めて人が集うランライミアの外街の酒場の中は、一種異様な雰囲気に包まれていた。
 その原因は、酒場の中央のテーブルに陣取った、大柄な二人の男だ。
 客たちはジョッキを手にしたまま話し、カードに興じていた者たちは新たな賭け事の登場に興奮し、給仕の女は注文をとりながらもチラチラと視線を二人に向けている。

 酒場に居る全ての人間の注目を浴びている内の一人は、元ピザン王国の騎士コンラートだった。コンラートは肩のこりをほぐすように腕を何度か回すと、少し離れた場所でクロエが吐息を漏らすのに気付き苦笑する。
 コンラート自身、自分は何をやっているのかと少し呆れているのだ。静寂を好む気質のクロエだから、内心では「何やってんだこのおっさんどもは」と苛立っているのかもしれない。

「さーて、巨人コンラートのお手並み拝見といこうぜ」

 丸いテーブルに、木の幹のような腕を勢いよく乗せ、男が言った。
 これから始まるのは男同士の戦い。もっともその内容は腕相撲なのだが、その参加者はどちらも名の知れた戦士。娯楽に飢えた客たちからすれば、騒ぐなという方が無理な話だ。

「歳なのでな。手加減してくれよ、鉄拳のロッド殿」

 口ではそう言いながら、挑戦的な笑みを浮かべコンラートもテーブルへ腕を乗せる。そしていつの間にか現れた審判役に互いの手を取られながら、両者は決闘さながらの気合を漲らせ、開始の合図とほぼ同時に右手に力を込めた。





 キルシュ防衛戦で名を馳せたリーメス二十七将は、例外無く通り名を持っている。これはそれなりに有名な人間ならば珍しいことでは無く、歴史に名を残すような人間ならば通り名を持っているのが当たり前と言えるほどだ。
 その理由の一つは、余程独創的な名前でも無い限りは、過去の偉人、下手をすれば同世代の有名人と名が被るためだと言われている。
 例えば「巨人」あるいは「白の騎士」と呼ばれるコンラートも、同じリーメス二十七将の一人に「隻眼」あるいは「悲恋の騎士」と呼ばれるコンラード・マラテスタという同じ名の人間が居る。そういった紛らわしい人間同士を区別するために、二つ名で区別する習慣ができたのだ。

「いやー参った。ちょっと酒を奢るつもりが、余計な金が出ちまった」

 テーブルの上で残った硬貨を並べ数えながら、心底困った様子でロッドは言った。

「自業自得です。いい加減に、その場の勢いで行動するのは自重してください」

 言いながらクロエが視線を向けた先には、台が真っ二つに割れ、足が根元から折れた残骸。少しばかりムキになった、大人気ない男二人の真剣勝負によって破壊された、哀れなテーブルの末路だ。
 怪力と馬鹿力で知られる戦士たちの戦いの舞台は、酒場の古びた木製のテーブルでは荷が重かったらしい。一度コンラートが押され、即座に巻き返しを図り、ロッドも負けじと本腰をいれ両者が拮抗した所で、バキッと小気味良い音をたててテーブルは三分割されてしまった。

「かー。可愛くねえ。ミーメに甘える時の万分の一でもいいからよぉ、少しは兄貴分にも愛想を向けてくれよ坊主」
「いつ私が姉さんに甘えましたか?」

 千切ったパンを手に持ったまま、射抜くような視線を向けるクロエ。しかし流石は英雄の一人に数えられる男か、それとも単に慣れているのか。ロッドは殺気混じりのそれを気にした風も無く、むしろ「かっかっか」と愉快そうに笑う。
 そんなロッドの態度に、クロエは頭痛を耐えるように眉間を押さえる。コンラートはそんな二人のやり取りを見て、何となくではあるがクロエの性格というものが掴めてきたと感じた。
 真面目で感情を表に出さないように見えるが、心を許した者が相手ならばその限りでは無い。逆にコンラートに対するような丁寧な対応は、警戒を解いていない表れだろう。
 例えそれが怒りや嫌悪だとしても、感情を素直に出している時点で、クロエはロッドという男にそれなりに甘えているのかもしれない。

「失礼だが、兄貴分という事は、二人も義兄弟ということだろうか?」
「私はこんな兄を持った覚えはありません」
「まあミーメが姉だってんなら、俺も兄貴だろうな」

 正反対の答えに、ロッドは首を傾げる。
 自分は知らないとばかりに首ごと視線を反らすクロエに、ロッドは苦笑しながらも説明してくれた。

「兄弟弟子ってやつだ。まあ俺は三年ほど、殺す気としか思えない扱きを受けただけだがな」
「私は七年ほど共に居ましたが、師よりも姉に教わった事の方が多いですね」

 それは果たして兄弟弟子といえるのか。そもそも弟子である三人が、魔女に神官に戦士と一貫性が無い。
 その混沌とした弟子たちを鍛えた師の正体は預言者なのだが、それをコンラートが聞けばさらに首を傾げる事となっただろう。

「まあそれは置いといてだ。ドラゴンなんぞに喧嘩売ったってのに、生き残れておめでとさん。あと犠牲になった奴らに、安らかに眠れるようにと祈ってやってくれ。こっちは坊主の役目だな」

 ロッドの言葉に、コンラートは今更ながら自分がどれほど無茶をしたのかを自覚した。
 ガーゴイル一体でも、並の人間では手に余る怪物なのだ。ドラゴンともなると、例えリザードマンと大差ない大きさだとしても、その戦闘能力は桁違いなレベルに跳ね上がる。
 まして中心街に現れたのは、大通りを占拠するほどの巨竜だ。動けなくなった所にトドメをさしたのはコンラートだが、ミーメ・クラインという魔女の大魔術が無ければ、あそこまでドラゴンを追い詰める事すらできなかっただろう。

「そういえば……マリウスさんが亡くなったと」
「ああ。部下を庇ったらしくてな。そっちも虫の息だったんだが、生きてはいたから奴も本望だろうよ」

 ロッドがかつて所属していた傭兵団は、名を黒刻傭兵団と言い、フローラと行動を共にしていた事で、ジレントではそれなりに名が知られている。キルシュ防衛戦の終結と同時に解散し、団員の殆どがフローラに誘われジレントへと流れてきていたが、今でも軍人を続けている者は少ない。
 キルシュ防衛戦の始まりから終わりまでを戦い続けた傭兵団。あの地獄を生き延びたが故に、平穏な暮らしを求める者が多かったのだろう。

「先の大戦以来ロッド殿の噂は聞かなかったが、ジレントに仕官していたとはな」
「仕官……ねえ」

 コンラートの言葉に、ロッドは悩むように眉を寄せる。

「……坊主、俺って兵士なのか?」
「……何で私に聞くんですか」

 顔を寄せ合っての内緒話は、騒がしい酒場の中だと言うのにコンラートに丸聴こえだった。

「ロッドさんは荒事専門ですが、一応は外交部の所属ですよ。まあどちらにせよ国に仕えていますから、仕官という表現に間違いはありませんが」
「そうか! いやー、隠密って外交に含まれるんだな」
「厳密には外交部の下部組織として諜報局があるだけで、実質的には大統領が直轄する組織のはずです。あと堂々と隠密と名乗るな」

 呆れたように説明をしつつも、最後には丁寧な口調も捨てて注意するクロエに、コンラートはこみ上げる笑みを隠すために陶器のカップへと口をつけた。
 ロッドは先ほどクロエに可愛げが無いと言っていたが、なかなかどうして愛らしい。恐らくロッドも、半ばわざとクロエに注意されるような態度をとっているのだろう。

「しかし……こちらはあまり昨日の事件は気にしていないようだな」

 酒場で騒ぐ客たちを見て、コンラートはどこか複雑な思いでこぼした。

「ああ、良くも悪くも、中心街あっち外街こっちは別の街だって事だ。貴族が居ないから、ジレントは身分の区切りの薄い国だとは言われてるがな、実際は魔術の才能と頭の出来で区切られちまってる」
「魔術はともかく、学力で区別するのは合理的だと思いますが」
「坊主みたいにお勉強ができる奴はそう思うだろうよ」

 どこかからかうようなロッドの言い方に、クロエは納得いかないのか胡乱な目を向ける。

「……貧乏人には学問を修める暇も金も無いだろうな」

 しかし反論は思わぬところから来た。髭を撫でながら、どこかしみじみとした様子で言うコンラート。それにクロエは驚いたように、ロッドは面白そうに視線を向ける。

「何だ、アンタも似たような経験ありか?」
「特別学ぼうとしたわけでは無いがな、学ぶ暇や場所が無かったのも確かだ。ジレントでは無料で子供を学校に通わせる事ができるそうだが、それでも大学に行くには足りないのではないか?」
「ご名答」

 コンラートの言葉が余程我が意を得ていたのか、ロッドは嬉しそうに両手を叩いてみせる。

「生まれってのはそう簡単には覆せねえもんなのさ。貴族が幅利かせてる大国で、成り上がったアンタに言うと説得力が無いかもしれねえがな」
「いや、己が運が良かった事は自覚している」

 ドルクフォード王に拾われた事。ヘルドルフ家に迎えられた事。そして騎士に抜擢された事。
 無論コンラート自身の努力と力が認められた部分もあるだろうが、それでも運が良かったのは間違い無い。この広い世界で、埋もれていく才能など掃いて捨てるほど居るのだから。

「それに陛下や殿下たちを見ていると思うのだ。生まれながらに生き方を決められるのは、さぞ不自由だろうと。人の上に立つ事を望まずとも、あるいはそのための能力が無かろうとも、泣き言を漏らして逃げる事は許されない。
 幸い俺の知る方々は優秀な御仁ばかりだが、もしそうでない人間が地位ある立場を継がねばならないとすれば、それは本人にとっても周囲にとっても不幸な事だろう」
「王侯貴族がそんな殊勝な考え方するかねえ。キルシュだって、元はローランドの愚王にキレた、甥だか叔父だかがぶっ建てた国だ。無能が上に立てば、下に居る奴らが何とかしようとするもんだ」

 最悪無能なら引き摺り下ろされる。そう告げるロッドに、コンラートは思い当たる事があり渋面を作った。

「ま、おまえさんもこの街に居る内に身の振り方を決めるこった。近々ピザン国内で一騒
動起きるぜ。大陸の端っこまで行ってたら、いざって時に間に合わねえぞ」

 言外にアルバスへ行くなと告げるロッド。それにコンラートは訝しげに眉をひそめ、クロエは不機嫌そうに目を細める。

「私の仕事の邪魔をするな。機密情報を漏らすな。どちらからつっこむべきでしょうか?」
「坊主もコンラートを案内してる所じゃなくなるぞ」
「何をどこまで知っているのですか貴方はッ!?」
「ハッハッハ。んなもん言えるわけねえだろ」

 掴みかからん勢いで詰め寄るクロエを、ロッドは豪快に笑って片手で制する。
 そんなロッドにコンラートは呆れながらも、助言をくれたことに感謝し、何も言わず静かに頭を下げた。





「だから、菓子作りは計量が命だというのに、何で大雑把に砂糖をぶち込むんだおまえは?」
「砂糖くらい大雑把でいいじゃない。それ以外はなるべくレシピ見て量ったし、何より美味しいんだから問題ないでしょ?」
「この砂糖をそのまま固めたみたいなクッキーのどこが美味いんだ?」
「アハハ、本当に字の通りの砂糖菓子みたいだねそれ」

 クロエが眉間に皺を寄せながら問い、レインが目を泳がせながらも反論し、カイザーが笑いながら言うのを、コンラートは居心地の悪さを感じながら眺めていた。

 司教殿と王弟殿下がこれまでの印象と違いすぎるのは、彼らの年齢を考えれば戸惑いよりもむしろ納得する思いが強いので良い。しかしこの若者三人と自分が、何故宿の一室で同じテーブルを囲んでいるのか。
 どうしたものかと同じくテーブルに着くティアへ視線を向ければ、彼女は三人のやり取りを微笑ましそうに見守っており、完全に保護者兼傍観者の立場を貫くつもりらしい。もっともその外見は二十代前半にしか見えないため、三人に混じってもあまり違和感は無さそうなのだが。

「コンラートさんはどうですか? 美味しいですよね?」

 しかしこの場で一番浮いている存在に、レインは当たり前のように……むしろ縋るように話題をふってくる。
 聞かれたのは彼女の作ったクッキーの感想だろう。確かにテーブルの上は、皿に盛り付けられた、少々歪な形のクッキーが占拠している。しかし場の状況を受け入れるのに神経を使っていたコンラートは、それに手を伸ばす余裕など無かった。
 クロエの言葉を信じるならば食べたくは無いが、拗ねたような上目遣いで「食え」と訴える少女を無視する事もできない。部屋中の視線が集まる中、コンラートは無言で楕円に歪んだクッキーを一つ摘むと、じっくりと味わうように咀嚼した。

「……」

 言葉にできない。
 見た目は何の変哲も無いクッキーは、その実一部の人間に対する兵器であったらしい。少なくともコンラートの味覚に依る判断を下すならば、先ほどのクロエの言葉を全力で支持する事になるだろう。果たして自分の舌は再起可能なのかと、本気で心配になってくる甘さだ。

「……濃いコーヒーに合いそうだな」
「大人ですねコンラートさん」

 少女を傷つけまいと、精一杯に気遣った評価は、即座にクロエに見抜かれた。





「さて、今更ではあるけど、久しぶりだねコンラート」
「ハッ。カイザー殿下もご健勝でなにより」

 子供三人によるクッキー談義も一段落し、ようやく場の空気が落ち着いたところで、カイザーは改めてコンラートへ向き直ると微笑みながら言った。それにコンラートも応えると、椅子に腰かけたまま、頭をテーブルに着きそうなほど深く下げる。
 本来ならば、椅子から降りて跪きたい所なのだが、先ほどまでのお茶会のような雰囲気が残っていたため、そこまですると場が白けそうだった。そのためコンラートとしては最大限譲歩し、椅子に座ったまま礼をしたのだが、カイザーはそれでもまだ不満であったらしい。気だるそうに椅子の上で体を傾け、どこか呆れたような視線をコンラートへと向ける。

「そこまで硬くならなくても良いよ。僕は出奔したも同然の身だし、コンラートも既にピザンの騎士じゃ無い。ただの子供にそこまで気を遣わなくてもいいだろう」
「お言葉ですが、私が騎士で無くともピザンへの忠誠は変わりませぬし、例え出奔しようとも、カイザー殿下がピザン王家の血に連なるお方である事実もまた変わりませぬ」
「まったくもってその通り。丸め込まれてはくれないか」

 降参するように両手を上げるカイザー。しかしその顔には、何とも内心を読みがたい笑顔が浮かんでいる。
 そのカイザーの様子に、コンラートは王弟に対する評価を改める必要があると感じた。
 人伝に聞き、自身が見た限りでは、幼いながらも隙の無い、良く言えば大人びた人柄だと思っていた。しかし今目の前に居る少年は、年齢相応以上に幼く、しかし油断ならない狡猾さを感じさせる。
 そのアンバランスさは、幼き頃の第二王子ヴィルヘルムを思い起こさせる。それにカイザーの頭の名はヴィルヘルム。命名者は、両者の性質を予見していたのだろうか。

「しかし……忠誠ね。じゃあもしゾフィー姉様じゃ無くて、兄上がもう一度仕えてくれと言ったら、コンラートはピザンに戻るの?」
「その時は喜んで陛下の下へと参りましょう」
「……なるほど。話に聞いた以上の義理堅さのお人好しだね」

 皮肉にも聞こえる言葉は、どこか嬉しそうな声色で放たれた。しかしそれでもまだ納得いかないものがあるのか、カイザーは尚もコンラートを試すような言葉を重ねる。

「騎士の位の剥奪は、多分コンラートが思っている以上に不名誉な事だ。事情を知っている人間なら同情するだろうけど、そうじゃ無い人間はコンラートを騎士になるに値しない人間だと判断する。そんな烙印を、兄上はコンラートに押したんだ。だのに何故兄上を恨まない?」
「騎士の位の剥奪は、陛下の期待に応えきれなかった私の不甲斐無さが招いた事。それに私もまた、陛下が何故そこまでお怒りになったのか事情を知りませぬ。恨むべきは、本当に陛下であるのか……」
「そうだね。事の元凶は僕だ」

 そう言ったカイザーの声は、悔恨か後悔か、どこか沈んだ色が見えた。しかしそれでも、カイザーは視線を反らさずコンラートの言葉を待っている。

「……私はあの時ティアに負けました。故に殿下を追う事はしなかった」
「そうだね」
「しかし、殿下が私をこの場に招かれたという事は、お話しするつもりだと判断してよろしいのでしょうか?」
「うん。僕も全ての理由を知っているわけじゃ無いけれど、コンラートは信用できそうだし、何よりもう巻き込んだも同然だからね」

 そう自嘲するように言うと、カイザーは順番に眺めるように、視線をクロエとレインに向ける。それだけで二人は察したらしく、無言で席を立つと部屋の外へと出て行った。
 バタンとドアの閉まる音がして、室内の空気が変わる。カイザーの顔にも、先ほどまでのような子供らしさは無く、引き締まった顔は凛々しさすら感じられた。

「さて。事の始まりは、何故僕が国を出なければならなかったか。その理由は、ある時突然、前触れも無く、兄上がある事に気付いた事に端を発する」
「ある事?」
「そう。十四年前。厳密には十五年前かな。その頃の事を当然僕は知らないけれど、コンラートにとっては色々と印象深い頃だね。リカム帝国と連合三国、及び大陸中から集まった義勇兵たちの戦い。戦場がキルシュ王国に限定されていたとはいえ、参加した人間だけ見れば正に大陸を巻き込んだ大戦だった。
 そんな戦争が終わってしばらくしてから、僕は先代であるブルーノ王の妃エリスの子として生を受けた」
「はい。終戦と同じ年の生まれであるために、その象徴として国中から祝福を受けたと記憶しております」

 終戦の際のお祭り騒ぎも、コンラートには見たことも無い規模であったが、カイザーの生まれた時はそれすらも越えていた。
 街に出れば誰もが王弟の誕生について話し、それにあやかろうとしたのか、多くの親が自らの子にカイザーに因んだ名をつけた。王都の店は王弟の誕生を記念して商品の値を割り引くか、あるいは王弟の名を冠した商品を作り出し、商魂逞しい様子を見せていた。

 当事を思い出し、コンラートは自然と口元に笑みが浮かぶ。カイザーもまた笑みを浮かべたが、その笑みにコンラートは何か違和感を覚えた。

「終戦を前に、ブルーノ王は亡くなったよね?」
「はい。そのためにドルクフォード陛下は、戦中でありながら王都に戻らざるをえませんでした故、よく覚えております」
「ブルーノ王は突然死んだわけじゃ無い。数年前から体調を悪くして、亡くなる一年前には病床についていたんだ」
「はい。故に王子であったドルクフォード陛下自らが、キルシュへ諸侯と共に出陣いたしました」
「そこまで聞いて、コンラートは本当に気付かないの?」

 そう言うカイザーの顔には、相変わらず笑みが浮かんでいる。しかし何故だろうか、その笑顔がどこか無理しているような、泣いているような風に見えるのは。
 それに先ほどからカイザーは、一度もブルーノを父と呼んでいない。まるで生まれる前に死んだ王は、自らの父で無いというように。
 そして次に放たれた言葉に、コンラートは思考を止めた。
 聞かされた言葉には、怒りか恨みか悲しみか、様々な負の感情を煮詰めたような、聞く者の心胆を寒からしめる悪意があった。

「死に損ないの爺に、母上を孕ませる元気があったと思う?」




[18136] 四章 黒の王子・白の娘2(一部改訂)
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2011/12/27 17:47
 重い音をたてて扉が開く。その扉が開き切らぬ内に、ヴィルヘルムは玉座の間を支配する静寂を切り裂くように、足早に玉座に腰かける王の下へと歩み寄った。玉座の上の王は、初夏だというのに白い毛皮を肩にかけ、少しも姿勢を崩さずどっしりと構えてそれを迎える。
 その様子に、今更ながらヴィルヘルムは違和感を覚えた。
 父はこれほどまでに余裕の無い人だっただろうか。親不孝者である事は自覚しているが、こんな冷たい瞳で息子を見る人だっただろうか。
 人が変わったと皆は言うが、これは最早別人と言った方がいくらか納得できる程だ。

「……陛下。ジレントへの出兵を命じたそうですが、何故に?」

 内心の思いを封じて、ヴィルヘルムは静かに問いかける。本来ならば詰問したいほどのその問題を、抗議もせずに問うに止めたのは、目の前の王が恐ろしいからだ。
 考えが読めない。故にこちらが強硬に出れば、どのような対応をしてくるのか予想できない。裏で人を動かす事を本分とするヴィルヘルムに、今の王と直接対峙して自分の手札をきる愚を犯す意味も度胸も無かった。

「カイザーはジレントの首都ランライミアに居る。その奪還のためだ」
「それはロンベルク候の情報でしょうか?」

 言いながら、ヴィルヘルムは視線を横に向ける。
 そこには中年の貴族――ロンベルク候が居た。だがその表情は暗く、己の存在を隠すように身を縮める姿は、何かを恐れているように見えた。いつもひょうひょうとしていた、油断ならない男の姿では無い。

「その通りだ」

 王の答えに、ヴィルヘルムは視線を戻す。しかしその答えに納得したように見せながら、ヴィルヘルムは内心で不思議に思った。
 ロンベルク候の顔が広いとは言っても、ジレントに対する情報網は皆無に等しいはずだ。故にカイザーの情報が漏れるとすれば、それはピザン内部からのはず。しかしピザンの関係者から事情を聞きだしたのだとすれば、蒼槍騎士団がカイザーを逃がした事も知れるはずだ。にもかかわらず、王がその事について言及する様子は無い。
 さらに言えば、カイザーがランライミアに居る事は、魔法ギルドに繋がりのあるヴィルヘルムですら確認の取れていない情報でもある。ロンベルク候にそれを確認する手段などあるのだろうか。

「ロンベルク候。失礼ですが、その情報は信頼のおけるものなのですか?」
「も、勿論ですとも。閣下が信用できぬというのであれば、私自ら先陣をきりカイザー殿下をお救いいたします!」
「……はあ。そうですか」

 あからさまに怪しいその態度は、やはりヴィルヘルムの知るロンベルク候のそれでは無い。もしかしたら王に脅されでもしているのかと思ったが、それでもここまで分かりやすく怯えるだろうか。

「しかし交渉も無しに戦をしかけるには、相手が悪すぎるのでは? 何よりジレントは中立国。そこにいきなり兵を送れば、周辺国にいらぬ警戒をさせかねません」

 カイザーやゾフィーのもろもろの問題を考慮しなくても、今はリカム帝国との戦争に集中したいのがヴィルヘルムの本音だ。かつての大戦のように、キルシュ王国とローランド王国を味方に引きずり込まなければ、押し負ける可能性すらある。
 そうでなくとも、ジレントを敵に回せば、大陸中の魔術師と、魔術師に寛容な国も敵に回りかねない。そうなれば最悪大陸の国々を二分――リカムを含めれば三分しての戦いとなる。
 そしてもしそうなれば、戦火の中心となるのは間違いなくピザンだ。いかな大国とはいえ、そんな馬鹿げた戦いをする体力があるはずがない。

「魔法ギルドの党首であるサンドライト様に、お話をされるべきではないでしょうか」
「党首がこちらに応じるとは思えん。交渉は行わぬ。余計な事は考えず、おまえは己の職務を果たせ」
「……御意」

 しばしの沈黙の後、ヴィルヘルムは頭を下げその場を後にする。退室する間際にロンベルク候を見るが、彼は相変わらず小さく身を縮めて震えていた。
 明らかにおかしい。少なくとも、ジレントに攻め込もうなどという勇ましい言葉は、彼の本意ではあるまい。カイザーがランライミアに居るという情報をもたらしたのが、彼だというのも疑わしい。

「ロンベルク候は置いておくとしても、問題は父上がサンドライト様に連絡すらしないという事」

 人気の無い廊下を歩きながら、ヴィルヘルムは一人ごちた。
 魔法ギルド党首ミリア・フェイ・サンドライトは、ドルクフォード王の古い友人でもある。例え友人であっても、政治的な場面では対立する事もあるだろう。しかしそれでも、交渉の窓口としては有用なはずだ。カイザーの安全を考えるならば、戦を仕掛ける前にあらゆる方面から交渉を行うべきなのだから。
 それをしないという事は、できない理由があるか、やりたくない理由があるか、あるいは……。

「まあどちらにせよ、諸侯を焚きつける材料にはなりますね。すいませんね父上。もしかしたら、私などには理解できない深い考えがあっての行動なのかもしれませんが、私は貴方よりもゾフィーやカイザーの方が大事なので」

 そう呟くヴィルヘルムの顔には、少しも悪意を感じさせない美しい笑みが浮かんでいた。





 居心地の悪さを感じながら、コンラートは湯気の立つ紅茶を口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。
 先日カイザーやクロエ、レインといった子供たちに囲まれたときも居心地は悪かったが、現在感じるそれはいささか方向性が違った。突如コンラートの泊まる部屋に訪れ、手ずから紅茶を入れてくれた人物が、コンラートなどではまともに対面できぬ方であった故に。

「少し濃かったかしら」

 コンラートの対面に腰かける、たおやかな高齢の女性。その仕種はカップを置く動作一つをとっても洗練されており、皺の浮かんだ顔はそれでも生気に満ちており美しかった。
 一見すればどこの貴婦人かと思う女性だが、薄い金色の髪を押させるように着けられたサークレットが、彼女がただの女性で無い事を教える。

 女性の名はミリア・フェイ・サンドライト。南大陸の魔術師たちを統括する、魔法ギルドの党首である。

「あら、口にあわなかったかしら?」

 コンラートの困り顔をどう取ったのか、ミリアはどこかゆっくりとした、聞く者の心を安らげる声で言った。

「いえ、そういうわけではありませぬ。恥ずかしながら、私の舌では茶葉の違いも分かりませぬ故」

 実際には味を感じる余裕も無かったのだが、コンラートは慌てて本音混じりの謙遜で応対する。
 ヘルドルフ家に居た頃に紅茶の入れ方も嗜み方も教わったが、いかんせん味覚が庶民なコンラートでは、紅茶の繊細な味わいを理解する事はできなかった。
 都会に住むものならともかく、物品の流通の少ない田舎では、食事すら娯楽にならない場合すらある。コンラートの住んでいた村もそういった類であり、普段の食事は豆や草ばかりの味気無いものばかりだった。
 そんなコンラートからすれば、塩をふっただけの肉や魚ですらもご馳走だったのだ。王都での暮らしで少し舌は肥えたが、それでも王都での一般的な民の感覚と大差は無い。嗜好品に類する紅茶など、不味くさえなければ文句が出ないのだ。

「ふふ。聞いていた通り、その辺りの騎士より騎士らしい方ね。ドルクの下では、随分と振り回されたのでは無いかしら?」
「恐縮であります。しかし……その、サンドライト様は陛下とお知り合いなのでしょうか?」

 魔法ギルドの党首に対しどのような尊称をつければ良いのか。一瞬悩んだコンラートだったが、無難に呼ぶと続けて疑問を口にした。

「聞いた事が無いかしら? ――赤の王子は探求の王。剣士に神官、魔術師すらも従えて、情熱の港より船出し死の海へと挑み行く」
「それは……何度か知り合いが語っていたのを聞いた事がありますが」

 謳うように紡がれたそれは、三十年以上も前に吟遊詩人たちに語られた冒険譚。コンラートも断片程度は聞いた事があるが、その全容までは知らない。

「その赤の王子が、察しているでしょうけれどドルクフォードの事よ。流石に私たちの名をそのまま使う事は無かったみたいだけれど、その中で語られる冒険は確かに私たちの思い出」

 穏やかな声で語りながら、ミリアは当事を思い出すように目を閉じる。

「遺跡があると知れば探索して、化物が出ると聞けば退治して、魔術師が作った迷宮に乗り込んだりもしたわ。そうしている内に仲間が増えて、ついには皆で船の扱いを覚えて大陸の外まで飛び出した。
 ……その中で死んでしまった仲間も居たけれど、一緒に過ごした日々は今もよく覚えているわ」

 初めて聞くドルクフォードの過去に、コンラートは驚きつつもなるほどと納得した。
 ティアがカイザーを「さすが陛下の弟」と言っていたが、それはこの事を知っていたからなのだろう。確かにクラウディオも王族らしからぬ人だが、無断で国外に飛び出すような真似はした事が無い。

「あら、ごめんなさいね。思い出話をするつもりは無かったのだけれど、貴方が私たちの仲間に似ていたから、つい昔を思い出してしまったわ」
「仲間……というと、先ほどの話しの?」
「ええ。ドルクが貴方を気に入っていたのも、きっかけはそのせいかしら」

 そう言って穏やかに笑いながら見つめてくるミリアに、コンラートはどこか気恥ずかしい気持ちになる。
 しかし確かにドルクフォードは、ただ戦場で拾っただけの子供に対して世話を焼きすぎていた。それはコンラートに、かつての友の面影を見た故の事だったのだろうか。

「まずは、此度はランライミア、ひいてはジレントを守るために尽力していただき、真にありがとうございました」
「いえ。私は当然の事をしたまでの事。それに……あるいはあの襲撃は私を狙ったものやもしれませぬ。むしろこちらは謝罪を述べねばなりません」
「証拠も無い憶測だけで、謝るものでは無いわ。確かに議員の一部には、貴方を早々に追い出すべきだという人も居るけれど、あの襲撃が貴方一人を殺すためのものだとすれば、やり方がおかしいのは誰の目にも明らかでしょう?」
「それは……確かにそうですが」
「なら、謝らないで、こちらの感謝を受け取りなさい。だけど、今後はドラゴンに挑みかかるなんて、無謀な真似はしない方が良いわね」

 嗜めるような言い方に、コンラートは再び気恥ずかしくなり困ったように笑みを浮かべる。
 優しさと厳しさの混じった声は、かつて面倒を見てくれたヘルドルフ夫人を思い起こさせる。コンラートに母は居ないが、ミリアから感じる暖かな感情は、母という存在を想起させるものだった。

「だけど、行動を起こした貴方が、より良き未来を引き寄せたのも確かだわ。そして彼女も、貴方が引き寄せた縁よ」

 そう言ってミリアは、先ほどからそばに控えるように立っていた、妙齢の女性へと視線を向けた。女性はそれに応えるように頷くと、一歩進み出てコンラートに向かい頭を下げる。
 女性はワンピースのような服の上に、薄い草色のケープを纏っていた。後ろで纏められ、右肩から前へと垂らされた髪は濃い草色で、額にかかる前髪の隙間からは、魔法ギルドの党員の証である銀色のサークレットが覗いていた。
 確かめるまでも無く、魔法ギルドに所属する魔術師の一人だろう。

「ツェツィーリエと申します。普段は司書をしておりますが、先の事件の中でコンラート様の名を聞き参りました」
「……なるほど」

 ツェツィーリエと名乗った女性の言葉に、コンラートは先のミリアの言葉の意味を理解した。
 ツェツィーリエは魔法ギルドの党員ではあるが、所詮司書でしか無く、この街に出入りする人間を把握する立場には無かったのだろう。コンラートが魔物たちと戦わず、その存在を周囲に知られる機会が無ければ、ツェツィーリエがこうしてコンラートの下を訪れる事も無かったに違いない。

「それで、俺に何の用だろうか?」
「不躾ながら、私をコンラート様の従者としていただきたいのです」
「……は?」

 ツェツィーリエの言葉に、コンラートは間の抜けた声で返していた。
 コンラートは貴族でもなければ、裕福な商家の人間でも無い。少し前までは騎士であったが、それも剥奪された身だ。
 突然従者にしてくれ言われても、何故自分がと困惑するしかない。

「……それは魔法ギルド、あるいはジレント議会からの命令だろうか?」
「いいえ。確かにミリア様は、この街にいる間だけでもコンラート様に護衛をつけるべきだとおっしゃられましたが、正式な命令で無いそれに応えたのは私の意志です」
「むう」

 ますます理由が分からなくなり、コンラートは唸る。あるいはかつてのコンラートの名声に、「白騎士」や「巨人」と呼ばれる戦士に憧れての事かと思ったが、魔術師であるツェツィーリエが戦士に憧れるだろうか。
 考えてはみたが答えは出ず、コンラートは素直に本人にその理由を問い質す。するとツェツィーリエはバツの悪そうな顔をすると、それを隠すようにもう一度頭を下げた。

「恥ずかしながら、私がコンラート様の従者を申し出たのは、コンラート様を頼りとしたい問題があるからなのです」
「問題?」
「まず最初に、私が何故コンラート様の事を知っていたかをお話します。シレーネという名に、聞き覚えは無いでしょうか? かつてヘルドルフ伯の屋敷にて、侍女をしていたのですが」
「シレーネ……。ああ、よく覚えている。面倒見の良い方だったが、お痛をすると容赦無く尻を箒で打ってくれた」

 恰幅の良い、侍女というよりはどこぞの店の女将のような人だった。屋敷に厄介になっているだけのコンラートを、「ぼっちゃん」などと呼び世話を焼いてくれたが、怒るとその体格も相まってオーガのようであった。
 そんな事をコンラートが言うと、ツェツィーリエは突然顔を伏せてしまう。しかしその様子は先ほどとは違い、どこか恥じいるようなもの。

「その……母が大変失礼をいたしました」
「母……? シレーネ殿の娘か」

 予想外の事実に、コンラートはしげしげとツェツィーリエの姿を観察してしまっていた。
 シレーネは丸々とした体の、豪快な性質の人だったが、目の前のツェツィーリエは痩せ過ぎなほどであり、接した感じでは物静かな印象だ。

「あの……コンラート様?」
「むっ? 失礼した。よく見てみればシレーネ殿の面影があると思ってな」

 羞恥と抗議が混じった声で言われ、コンラートは我に帰り頭を下げた。
 しかし言葉に出した通り、よくよく見てみれば、ツェツィーリエの髪の色や目元の辺りなどは、確かにシレーネの面影を感じさせた。
 案外ツェツィーリエがシレーネのように太れば、瓜二つになるかもしれない。

「本当に申し訳無い。それで、シレーネ殿はお元気だろうか」
「母は三年前に亡くなりました。ジレントに移り住んでから、幼い私たちを育てるために苦労していたようで、無理が祟ったようです」
「……そうか。それは残念だ」
「今回私がコンラート様の下へ参ったのは、母の遺言を果たすためでもあります」
「遺言?」

 その内容に見当がつかず、コンラートは首をかしげた。
 コンラートの記憶にあるシレーネは、確かにコンラートを気遣ってくれていた。しかしそれでも、遺言を残されるほど親しかったわけでは無い。

「ヘルドルフ夫人の子が死産した事を覚えていらっしゃるでしょうか」

 苦い過去を、不意打ちのように掘り起こされて、コンラートの顔が強張る。
 戦争が終わり、数ヶ月ほど経ったときに、ヘルドルフ夫人が流産し自らも命を落としたと、コンラートは噂で聞いた。かつて母のように接してくれた人の死を、噂でしか知る事ができなかったのだ。

「……覚えている。夫人の死を看取れなかった事は、悔やんでも悔やみきれん」

 そもそも夫人のお産の場に、コンラートは戦死したマクシミリアンに代わり出向きたい程であったが、それは叶わなかった。

 キルシュ防衛戦の末期、リカム帝国の皇女であり、リーメス二十七将の一人に数えられる焔姫アレクサンドラによって、ピザンとキルシュの連合は大きな痛手を負った。
 アレクサンドラ自身は、フローラとの戦いに敗れ前線を退いたが、キルシュ軍は王都へ、ピザン軍は国境付近のリーメスへ撤退を開始した。その際に追撃するリカム軍との間に起こった戦いを、ロートヴァント逃亡戦と連合側は呼んでいる。

 追撃するリカム軍と、逃げるピザン軍。幸いイクサは居らず、アンデッドの心配をする必要は無かったのだが、リカムの将軍ウォルコフはそれを幸いと思わせぬ、嵐の化身の如き鬼将であった。
 最終的にウォルコフはクラウディオによって討ち取られたが、それは総大将が出張らねばならない程に追い詰められたという事でもある。
 多くの将兵がウォルコフに敗れ、命を落としていた。そしてその中には、リーメス二十七将に数えられたクラウス・フォン・ヴァレンシュタインと、ピザンの剣と讃えられたマクシミリアン・フォン・ヘルドルフも含まれていた。
 夫人の懐妊を心から喜んでいたマクシミリアン。その手で自らの子を抱く事ができなかったのは、どれほど無念だっただろうか。

 その後、伯爵家はマクシミリアンの弟であるマリオンが継ぐ事となる。そしてそれを機に、コンラートは追い出されるようにヘルドルフ家を離れ、国仕えの騎士となった。
 マクシミリアンの死とマリオンの家督の継承が、コンラートとヘルドルフ家の繋がりを断ってしまったのだ。

「しかし、その事とシレーネ殿に何の関係が?」
「ここから先は、私の家でお話させていただけないでしょうか。例えミリアさまであっても、お聞かせするわけにはまいりませんので」
「あら、残念ね」

 それまで黙って成り行きを見守っていたミリアが、少しも残念そうでない様子で言う。

「……分かった。聞かせてもらうとしよう」

 どんな内容であれ、故人の願いを無下にするわけにもいかない。そう判断したコンラートは、大きく頷くと了承の意を伝えた。





 宿の自室にて、クロエはカーテンを閉め切ったままの薄暗い中で、女神教会の使いより届けられた手紙を開封していた。
 封筒をベッドの上へと放り投げると、椅子にも座らず立ったまま中身を読んでいく。読み進めるにつれその顔に嫌悪とも落胆ともつかない表情が浮かぶが、それも読み終わる頃には呆れへと変わっていた。

「――火よ」

 おもむろに手紙をテーブルの上の皿へと乗せると、クロエは掌から火を出してそれを燃やした。それは機密保持のためでもあるが、それ以上に手紙の内容の不快さ故でもある。
 一刻も早く目の前のものを消したいという感情が、手っ取り早い処分方法をクロエに選択させた。

「クロエー。居るー?」

 闇を宿した、暗い瞳で炎を見つめていると、ドアの向こうからレインの声が聞こえてくる。それにハッとしたようにクロエが顔を上げれば、その瞳はいつも通りの強い意志を感じさせるものへと戻っていた。

「居るぞ。何か用か?」
「お母様がコンラートさんに用事があったから、ついでに来てみただけよ。……って、室内で何燃やしてるの!? 火遊び!?」
「違う」

 皿の上で燃え盛るそれを見るなり、レインが甲高い声で叫ぶ。それを否定しながらも説明をしないクロエに、レインは微かな違和感を覚えた。
 いつもならば、否定の言葉の後に一つ二つと嫌味が続くのだがそれが無い。そしてよくよく観察してみれば、クロエにどこか元気が無いと感じた。明確な理由は無いのに、レインは感覚的にそれを理解したのだ。

「どうしたの? 大丈夫? また何か無茶な命令でもされたの?」
「いや……ある意味ではそうかな」

 気遣いながら聞いてくるレインに、クロエは否定しようとしたが、すぐに苦笑してそれを認めた。
 普段は意識していないが、レインはクロエよりも年上なのだ。こういう時にらしい態度をされると、思わず縋りたくなってしまう。それを自覚しながらも、クロエは首をふってその思いを追い出した。

「いつかの結婚の約束、お流れになりそうだ」
「約束って……二十五までに相手が見つからなかったら、お互いに妥協して結婚しようってやつ?」

 何とも若者らしくない約束を、レインはよく覚えている。
 レインもクロエも、恋人はおろか友人と言える存在すら居ないという、ある意味で似た者同士だった。恋などしている自分が想像できず、かといって政略結婚などごめんだと思ったレインが、クロエに半ば冗談で言い出した事だ。
 冗談半分とは言っても、確かに半分は本気だった。その程度にはレインはクロエの事が好きだったし、心を許している。だからこそ、冗談半分という事にしておかないと、恥ずかしくて仕方が無かったのだ。
 そんな約束を、クロエの方も本気で受け取っていた事が、レインには驚きでありどこか気恥ずかしい事だった。

「でもそんなの、アンタが神官になった時点で諦めてたけど? もしかして二十五になったら辞めるつもりだったの?」
「選択肢の一つとしては考えてた。だけどもうすぐ、逃げられなくなりそうだ」
「何? 司教なんてぶっとんだ階位よりも重大な事なんて、大司教に任命されるくらいしか思いつかないんだけど」

 枢機卿という可能性は、いくらなんでも無いだろう。そもそも大司教……それ以前に今の司教という立場がありえないのだ。これ以上にクロエが女神教会に縛られる事態など、レインには思いつかない。

「内緒だ。とりあえず、一つ任務が終わって、その任務を達成できなかったせいで次の任務が来た……と言った所か」
「任務って、コンラートさんをアルバスに連れて行く以外に? そういえばアンタ、ローランドまで一人で行ってたらしいけど、どんな任務だったの?」
「下らない任務だよ。何処に居るか分からない。そもそも本当に居るかも分からない人間を探せって言う、雲を掴むような任務だ。ローランドまで行ったのは、手がかりが無いから勘で行ってみただけだ」
「何それ? 誰を探せって言われたの?」

 レインの問いに、クロエは言って良いものかと悩む。しかしそれは一瞬で、そもそも荒唐無稽な話なのだから、言っても問題は無いだろうと判断した。

「白い髪に白い肌。白銀の瞳を持つ白き娘――現代の巫女の探索だよ」





「ここが私の家です」

 外街に出てそれほど歩かない内に、ツェツィーリエの家はあった。白い石造りの家は中々の大きさであり、それなりに収入のあるもので無ければ住む事ができないであろう立派なもの。しかし年代物であるらしく、所々が薄汚れていた。

「まずは会ってもらいたい人が居ます。私の妹なのですが」
「そなたの?」
「はい。ですが、それは表向きの嘘です」

 あっさりとした暴露は、いきなりすぎてコンラートには驚きを与えなかった。ただ単純に、何故かという疑問が浮かび上がる。

「ヘルドルフ夫人の死ですが、母が言うにはお産のためでは無いそうです。何者かに毒をもられたと」
「……何だと?」

 家の中を案内しながら言ったツェツィーリエの言葉は、コンラートには思ってもみないことであった。そのためコンラートは、意識せず睨むような顔をツェツィーリエに向けてしまう。
 それに少し怯みつつも、ツェツィーリエは話を続けた。

「犯人は見つからず、それ所か夫人の毒殺の事実すら公にされませんでした。それ故に母はマリオンを疑い、ヘルドルフ家を離れたそうです」
「それは……確かに毒殺が事実であれば、それをマリオン殿が知らぬはずが無いし、隠蔽に関ったのは間違いないだろう。だが実行犯とは限らないのではないか?」
「確かにそうですが、当事マリオンは伯爵家を継ぎながらも、夫人の影響力の強さに煩わしく思っていたそうです。夫人の死が、マリオンにとって都合が良かったのは事実かと」
「むう……それはそうだな」

 反論できず、コンラートは唸るように声を漏らした。
 そもそもコンラート自身、己をヘルドルフ家から遠ざけたマリオンをあまり良くは思っていない。庇う理由などありはしないのだ。

「犯人が誰であったとしても、夫人を殺した人間が居た事は確かです。だから母は、その害が夫人の子にも及ぶのでは無いかと案じ、死産であったとしてマリオンから隠し、ピザンを離れジレントへと移り住んだそうです」
「待て。夫人の子だと? 生きているのか!?」

 驚愕の事実の連続に、とうとうコンラートは叫ぶような声を出してしまった。
 かつて主と慕った、お二人の子が生きている。それがどれだけ予想外であり、また幸運な事であるか、コンラートは普段祈らぬ神に感謝すら抱きそうになる。

「はい。先ほども言った通り、私の妹として母の手で育てられました。体は弱いですが、本当に頭の良い子で、私などの拙い教えで大学でも通用するほどの知識を得てしまうほどです」
「そうか……。そなたとシレーネ殿には、感謝してもしきれぬな」

 体が弱いというのは心配だが、愚鈍でないのは幸いだ。
 女王が自然に受け入れられるお国柄故か、ピザンでは女性の領主も少なからず居る。婿養子で立場が弱い者などは、妻を家の代表として立てる事もあるほどだ。
 もしマリオンを排除せねばならぬ事になっても、家督を継ぐ事ができるかもしれない。

「しかし……何故シレーネ殿はジレントに? ピザン国内の誰かを頼るわけにはいかなかったのか?」
「……その答えは、あの子に会えば分かります」

 そう言ってツェツィーリエの指さした先に、一つの扉があった。
 廊下の突き当たりの、一番奥の部屋。恐らくはそこに、マクシミリアンと夫人の子が居るのだろう。

「どうか驚かないでください。事実を知っても、あの子をあの子として見てあげて下さい。勝手な願いですが、私にはもうあの子をどう扱うべきなのか、分からないのです」

 ツェツィーリエの声は、先ほどまでとは違い弱弱しく、己が罪咎を責める色を持っていた。それにコンラートは僅かに臆し、扉を開けるのに尻込みしてしまう。
 だが、主であった二人の子を、見捨てるなどという選択は初めからありえない。
 何があっても驚くものかと、自身の心に渇を入れ、コンラートは力強い手で扉を開けた。

「……これは?」

 部屋の中は闇だった。部屋の奥に見える窓から微かに光が漏れてはいるが、その前にかけられた漆黒のカーテンが、まるでそれこそが目的であるように太陽を遮っている。
 子供を隠すためかと思ったが、ツェツィーリエは彼女を妹として公表しているかのような言葉を使った。仮の立場を持ち、隠す必要の無い子が、何故暗闇の中に居るのか。

「ツェツィーリエ? 帰ってきていたの? ……その人は誰ですか?」

 扉が開いたのに気付いたのか、暗闇の中から声が言った。その声は子女のそれにしても高く澄んでいて、力強かった。もしその声で旋律を奏でれば、笛の音のように聞こえたかもしれない。

「突然失礼しました。私はコンラート。お嬢様のご両親の世話になった者です」
「コンラート……さん? 白い騎士の?」
「いえ……今は騎士ではありませぬ。気軽にコンラートとお呼びください」

 暗闇に向けて、コンラートはなるべく警戒を与えないように、穏やかな声で言う。
 まだ十四になったばかりの少女に対するには、少々硬い口調になってしまったが、立場を考えればこちらは気軽にというわけにもいかない。
 あるいは、マクシミリアンが生きていれば、そんなものは気にするなと背中でも叩かれたかもしれない。しかしそうならなかった以上、コンラートは貴族の令嬢に対する態度を崩す気にはなれなかった。

「お嬢様。よろしければお名前を聞かせていただけませぬか?」
「あ……はい。私は――」

 歌うように、少女は言う。そしてそれに合わせたように、ツェツィーリエの手によって、室内に明かりが灯される。
 そして明かりに照らされて、闇の中に浮かび上がった姿に、コンラートは言葉を失った。

「モニカ……。モニカ・ケルルです」

 そう名乗る少女の背は、コンラートの胸元よりも低く、触れれば折れるのでは無いかと思わせる程に華奢だった。しかしその造作は整っており、ハッキリとした目鼻立ちのためか大人びた印象を受ける。
 ゆったりとしたドレスを纏っている事もあり、その姿は正に人形のよう。しかし少女の相貌は、その美しさを讃える事を忘れさせるほどの異常を内包していた。

「……巫女?」

 自身の口から漏れた声が、いやにかすれているのを聞き、コンラートは己が混乱している事を自覚する。

 水色の衣装から覗く少女の肌は、病的なほどに白かった。
 絹糸のような髪は、汚れの無い雪をそのまま紡いだようだった。
 そして焦点の定まらない、一目で盲目と分かるその瞳は、他には二つと無いであろう白銀を宿していた。



[18136] 間章 騎士と主
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2011/12/25 11:36

 薄暗い宮殿の中を、甲冑を身に着けた女性が早足で移動している。
 リカムの首都は大陸でも北寄りに位置し、標高が高いこともあってか夏でも汗をかくほど気温が上がる事は無い。初夏の今ならば、凍えるような風もおさまりいくらかすごしやすくなっているはずなのだが、宮殿の中は氷ででも出来ているかの様に肌寒かった。

「これはカディロフ将軍。貴方がここに来るとは珍しい」

 廊下の交差する十字路にて、呼びかける声があり女性は立ち止まった。

「……セルゲイ」
「こんにちはサーシャ。うら若い乙女がこんな所に来るものじゃありませんよ」

 あんまりな言い草に、サーシャは苦笑いで返す。
 そこに居たのは、サーシャと同じリカムの将軍セルゲイ・バイエフであった。彼女にとっては古い馴染みであり、最も信頼する相手でもある。

「どうしたのですか? さっきも言いましたが、貴方がここに来るなんて久しぶりではありませんか」
「陛下に奏上を」

 短く答えたサーシャに、セルゲイはあからさまに顔をしかめてみせる。

「聞かなくても結果は分かりきっていますね」
「ああ。相変わらずイクサの言いなりだ」

 人形帝。あるいは傀儡帝。それが十五年前にリカムの皇帝の座を継いだグリゴリー三世のあだ名であった。
 国政の殆どは他人任せ。特にイクサの持ち出す案件は疑問を挟まず即座に受け入れ、逆にイクサと敵対的な者の言葉にはまったく耳をかそうとしない。
 それほど長い歴史を持たないリカム帝国は、三代皇帝にして愚帝を頂いたと陰口を叩かれる始末だ。

「セルゲイ。私は十五年前、確かにこの国は変わると思った。陛下ならば、この血塗られた国を変えてくださると。しかし実際にはこの有様だ」
「変わるには早すぎたんですよ。誰もが私や貴女のように、過去のしがらみを忘れる事ができるわけじゃない」

 サーシャとセルゲイ、二人の父は、リカムに滅ぼされた小国の騎士であった。自らの祖国を滅ぼした国に、平然と仕える事のできる者は少ないだろう。
 この国は、その巨大な腹の中に多くの憎しみと怨嗟を抱えている。

「それでも! イクサが居なければ少しはマシになったはずだ! おまえには分からないかもしれないが、日に日に奴の魔力は強大になっていく。その黒い魔力のせいで宮殿の中は侵食され、空気は淀み、兵の中には立っているだけで倒れる者まで出始めた」
「そのまま死んだらアンデッドにされそうですね」
「セルゲイ。私たちは、新たな魔王の誕生を見過ごしてしまったのでは無いか?」

 軽口にも反応せず問うたサーシャに、セルゲイは笑みを消して視線を返した。セルゲイとて、イクサの危険性は十分に承知している。
 だがどうしようもないのだ。あの男を殺すことなどできないと、この十五年間で多くの者が証明してきたのだから。

「……今は目前の問題に対処しましょう。ピザンとの戦、中々に手こずっているようです」
「……戦力の出し惜しみをするからだ。私が行けばリーメスの一つや二つ」
「ウォルコフ殿が行くそうです。いや、もう本当に素晴らしい笑顔で出立されましたよ」

 自分と同じ将軍の地位にある人物の名前を聞き、サーシャは呆れたような顔をする。

「何故嬉しそうに? 巨人はピザンを離れたのだろう?」

 ユーリー・ウォルコフという男は、先の大戦で最強と謳われた鬼将ウォルコフの息子であり、自らも二十七将に数えられた武の申し子だ。
 しかしどんなに大勝していた戦いでも、コンラートとの一騎打ちになると予定調和のように敗退し、一方的に不倶戴天の敵として認識しているのはリカム軍内では有名な話だ。

「祖国の危機となれば彼も戻ってきて、例え一平卒の立場でも文句も言わず剣を振るうでしょう」
「なるほど。そこまでピザンを追い詰める自信があるという事か」
「しかし最初はお父上の仇である、クラウディオ殿を狙っていたはずなのですがね。ことごとくコンラート殿に阻まれて、完全に目的を見失っていますね」
「思慮深い方なのだが、どうにも抜けているからな」

 一応は先輩にあたる人物に、二人の評価は遠慮が無かった。





 長らく膠着状態にあったピザン王国とリカム帝国の戦いは、ピザンが守るリーメスをリカムが突破する事により一気に動きを見せた。

 リーメスを守るピザン諸侯は、当初こそその猛攻をよく凌いでいた。しかし攻め手に加わった、僅か五百ほどの援軍によって、あっさりと、あっけないほどに短時間でリーメス要塞を陥落されたのである。
 援軍に現れたのは、リカム帝国白竜騎士団と、それを率いる将軍ユーリー・ウォルコフ。十五年前の戦いにおいて、ピザン王国に多大な被害を与えた鬼将ウォルコフの息子であり、自らも二十七将の一人に数えられる英雄であった。

 かくしてピザン諸侯軍は敗走を余儀なくされる。
 ピザン諸侯は大軍のままの撤退を避け、西と南に別れて逃亡を始めた。一方のリカム軍も、奪取したリーメスに少数の守りを残すと、同じく二手に別れ追撃を開始する。

 西へ逃げたピザン諸侯軍は、ザウツブルクにてアルムスター公爵軍に合流。背後に迫るリカム帝国軍へと対峙する。
 対しリカム帝国軍を率いるユーリー将軍は、兵数に差が無くとも質で大きく勝ると判断。正面からピザン諸侯軍へと攻め込んだ。

 アルムスター公爵領ザウツブルクのフロッシュ平原にて、両軍は激突した。





「壮観だな」

 平原の彼方からやってくるリカム軍を見やり、男は自身でも不思議なほど冷静な声色で漏らしていた。
 その身を包むのは、煌びやかな装飾の施された鎧。よく使い込まれたそれだけを見れば、男は歴戦の勇士であるかのように思われるかもしれない。
 しかしその甲冑は、父であるアルムスター公より譲り受けたものでしかない。男――フランツ・フォン・アルムスターにとっては、眼前に迫ったこの戦いこそが初陣であった。

「不安ですかな?」

 不意に横から問われ、フランツはそちらへ視線を向ける。
 そこには騎乗した中年の騎士が一人。厳しい顔には一筋の深い傷跡が走り、正に歴戦の勇士といった空気を醸し出している。

「不安さ。だがそれを部下に悟られてはならない。……そういった意味では、私は指揮官失格かねパウロ?」

 その言葉は、苦笑では無く気負いの無い微笑の下から発せられた。それを見てパウロは首を横に振ると、岩のような顔を崩して笑みを見せる。

「外面だけを見れば完璧ですとも。しかし初陣では下は勿論上からも色々と漏らす物です故。せいぜい気を張っていてください」
「それは是非とも遠慮したいね。例え初陣であっても、優雅に己の本分を全うしなくては」

 そう身振り手振りを加えて言うフランツの姿は、舞台の上に立つ役者のようであった。はたから見れば滑稽ですらあるが、これで無能ではないのだから性質が悪い。実際貴族の令嬢(一部子息)の中には、フランツの立ち振る舞いに憧れ、挙句真似をする者までいる始末だ。
 父であるアルムスター公は、何故こうなったのかと頭を抱えていた。しかしパウロは、フランツが自分に自信をつけるために、あえてそのように振舞っていると気付き、特に咎めるような真似はしていない。
 見ていて面白いという理由もあるのだが、それは秘して墓場まで持っていくべきだろう。

「戦力は互角でもこちらが不利。さて、どうすべきだと思うパウロ?」
「何故不利だと思うのですかな?」
「おや? 教えてくれたのは君だろう。単純な兵の質の差もあるが、さらに問題なのは指揮系統の差だ。あちらが全軍将軍の指揮下で統制されているのに対し、こちらは一応私が総指揮官とされているものの、実際には諸侯が各々の手勢を率いて戦うしかない」

 そこまで言うと、フランツは苦笑した。

「そしてそうなれば、各々の諸侯の思惑によって足並みも揃わず、最悪面倒事を他に押し付けて勝手に逃げ出す者も現れるだろう。事実既に白竜騎士団という、一番面倒な相手を押し付けられるのは決まっているしね」
「リカムの四大騎士団の一つ。率いるはリーメス二十七将の一人ユーリー・ウォルコフ。勝てる気がしませんな」
「英雄とはそれほどかい?」

 あっさりと敗北宣言をするパウロに、フランツは取り繕うのも忘れてその顔に驚きの色を浮かべた。

「士気の高揚という意味でも厄介ですが、二十七将に数えられた者たちは、いずれも一騎当千の化物ですからな。こちらもクラウディオ殿下やグラナート夫人に、出張っていただきたい所です」
「……コンラート殿が居てくれれば良かったのだがな」

 旧知の名が出て、今度はパウロが驚く。

「フランツ様はコンラートを嫌っていると思っていましたが」
「嫌うというよりは、畏怖しているのさ。もしかしたら嫉妬かもしれないね。主に全身全霊を持って尽くす忠義の騎士。私は領主などよりも、騎士になりたかったよ」
「領主も王に仕えるものでしょう」
「いやいや。王と領主の関係など、意外にドライなものだよ。まったくカールが羨ましい。ゾフィー王女から直々に騎士団へと誘われたそうじゃないか」

 コンラートが罷免され、その従騎士であったカールの扱いに国内の誰もが苦慮した。
 彼が優秀である事は、騎士に任命された後の騎馬試合で証明されている。しかし国王の不況を買った者の身内を、己の懐に入れるのは勇気がいる。
 そうやって領主や騎士団がまごついている内に、颯爽とカールを引き入れたのがゾフィー王女であった。口の悪い者は、王女の道楽騎士団に入れるなど宝の持ち腐れだと喚く。しかし当のカールがゾフィー王女に心酔してしまっては、いくら騒いでも後の祭りであった。

「ふふふ。私の手伝いをさせている内に、どさくさ紛れにカールに領主を押し付けようという私の野望は潰えたよ」
「お二方の破滅の道が回避されて何よりです」

 フランツは騎士になど向いていないし、カールもまた領主には向いていない。
 冗談半分なのだろうが、半分マジだとフランツの目が言っている。よほど騎士になりたいのか領主が嫌なのか。恐らくは両方だろう。

「戯言はここまでにしよう。ここは被害を最小限に抑えるために、守りに徹するべきだろうか? クラウディオ殿下の蒼槍騎士団が来られれば、かのウォルコフ将軍も恐るるに足らずだ」
「何と消極的な。ここはウォルコフ将軍を討ちに行くべきでしょう」

 予想外の提案に、フランツは今度こそ顔に出さぬようにして驚いた。

「攻城戦ならともかく、逃げ道がいくらでもある野戦では決着がつき辛いと教えてくれたのはパウロではなかったかね。そうでなくても相手はあの鬼将の息子だよ?」
「だからこそです。普通ならば指揮官は後方で守られるものですが、ウォルコフ将軍は間違いなく、絶好のタイミングで、こちらの嫌がる時を見計らい、自ら突撃してくるでしょう。そしてそうなれば『英雄』が居ないこちらの被害は甚大。あたら兵を失い逃走する破目になるでしょうな」
「ああ、何と絶望的な予想だろうね。しかしパウロの言いたい事は分かった」

 そう言うと、フランツは婦女子が見れば一目で陥落するであろう、魅惑的な笑みを浮かべた。





 ざっと見渡した部屋の中は、応接室には見えなかった。
 目に付く調度品の類は、壷か花瓶か判断のつかない陶器だけ。置かれた椅子や机は小さく、何より部屋自体が狭い。
 椅子に腰かけた主の背後に控えたは良いが、壁際にへばりついてもなおその背が近すぎる。
 ここは本当に三公に数えられるローエンシュタイン家なのかと、同じく三公の出であるカールは呆れた視線を巡らせた。

「落ち着かないか?」
「はい!?」

 不意に目前の主――ゾフィーに声をかけられ、カールは慌てて妙な声を上げてしまう。
 すぐさま視線を前へと戻すが、そこには相変わらずピンと伸びた背。その姿に恥を覚えたのは、カールに浮ついた心があったためだろう。

「いえ、落ち着かないのは確かですが……」
「それは私のせいか。すまぬな、わがまま王女の世話をさせて」
「滅相も無い!」

 大声で否定するカールに、ゾフィーは首から上だけ動かすと、横目でカールを見やり笑った。その姿に、カールはますます慌てている自分が滑稽に思えてくる。

「し、しかし、ゾフィー様の従者に、僕などを指名してよろしかったのですか? せっかく騎士団を連れて来たのだから、他に適役はいくらでも居たでしょう」

 王女の道楽騎士団。その内実が他の騎士団にひけをとらないものだと、カールは即座に気付いていた。
 何より王女に長らく仕えていた、リーメス二十七将の一人マルティン・ローデンバルトが居るのだ。本人はもう歳だからと謙遜していたが、彼一人居るだけで他の騎士団に劣らぬ戦いをする事ができるだろう。

「今回は政治的な話故、アルムスター家に連なるそなたにも聞いておいて欲しいのだ。それにそなたが居ること、それ自体に意味がある」

 要は「アルムスター公爵はゾフィーに協力的である」という、ローエンシュタイン公へのメッセージだ。その上で、他の選定候がゾフィーに協力的であると話せば、これまで色良い返事をしなかったローエンシュタイン公も折れてくれるかもしれない。

「はあ。じゃあ騎士団を連れて来たのにも何か政治的な思惑が? 僕だったら脅迫にしか見えないんですけど」
「そちらは……念のためだ」
「はい?」

 珍しく歯切れの悪い返事に、カールは首を傾げる。
 公爵家の人間であるカールだが、それほどゾフィーと接した機会は多くない。それでも今のゾフィーの姿は、らしくないものだと思える。

「待たせたな」

 カールが首を傾げている間に、勢いよくドアが開きローエンシュタイン公が姿を見せた。
 その不躾な態度と言葉にカールは眉をひそめるが、ゾフィーは気にした様子も無い。その美貌に笑みを浮かべて、ローエンシュタイン公へと向き直る。

「構わぬ。こちらも急だった故、迷惑をかけただろう」
「確かにな。戦の最中にこそこそと動き回るどこぞの姫君のせいで、余計な手間を取らされる」
「ローエンシュタイン公!?」
「良いカール」

 不敬にも程がある態度にカールは激昂しそうになるが、当のゾフィーは片手を上げてやんわりと制してくる。
 確かにカールが怒ったところで、この状況は改善されないだろう。そう理解すると、カールは不満を顔にはりつけつつも、前に出かけていた体を戻した。

「フン。アルムスターの倅を懐柔したか。口はそれなりに巧いようだな」
「ふむ。私はどちらかというと剣を振る方が得意でな。……このように」
「……え?」

 目の前の光景に、カールは唖然とした。
 ゾフィーが立ち上がったと思ったら、正面に立つローエンシュタインの胸を貫いた。いつの間に剣を抜いていたのか、カールには見えなかったし、何よりその行動が理解できない。
 実は凄く怒っていて、限界を越えたのだろうか。そんな事を暢気に考えていたが、すぐに正気に戻りカールは叫んだ。

「ゾフィー様!?」
「何をするか!?」
「ええ!?」

 自分に続き、胸を貫かれたはずのローエンシュタイン公が叫んだので、カールは驚きの声を上げる。
 見間違いだったのかと思ったが、確かにその胸元には穴が開き、僅かだが血も流れている。血が少ないため傷が浅かったのかと思ったが、よくよく見てみれば、その穴は完全に貫通して向こう側が見えていた。
 死んでもおかしくない。というか死んでないのがおかしい。

「演技が下手だなローエンシュタイン。胸を突かれたら死ななければならないだろう。それとも、銀の剣で無いと不服か?」
「……え?」

 ゾフィーの言葉に、ようやくカールは状況を把握する。
 アンデッド。そう呼ばれるモノにローエンシュタイン公はなってしまっているという事。

「国内にイクサの手の者が紛れ込んでいるとは思っていたが、まさか貴様がな」
「まさかと言ったか。そう思っている時点で、貴様らは後手に回っている」
「何?」

 ローエンシュタイン公の言葉に顔をしかめるゾフィー。そんなゾフィーに向かって、ローエンシュタインは最早話す事は無いとばかりに、人語ですらない雄叫びを上げて襲いかかる。

「遅い!」

 ゾフィーの剣が翻り、ローエンシュタイン公の両の手を切り飛ばす。しかしゾフィーにアンデッドとの戦った経験が無いのが災いした。両手を失ったローエンシュタインは、それを気に止める様子も無く、捨て身でゾフィーへと迫りその喉下へ食らいつこうとする。

「危ない!」

 間一髪。ゾフィーの背後から躍り出たカールが、その顎が届く前に首を切り飛ばした。
 アンデッドは、例え首を切り落とされても行動を続ける。それを思い出したゾフィーは今更ながら警戒を増すが、首を切り飛ばされたローエンシュタインの死体はピクリとも動こうとしなかった。
 何故だろうかと疑問に思うゾフィー。その答えはカールの手の中にあった。

「銀の短剣か。用意が良いなカール」
「お守りのつもりだったんですけどね。使う事になるとは思いませんでしたよ」

 そういっておどけてみせるカールだったが、その胸の内では心臓が激しく自己主張していた。
 何せ突然主人の命の危機が訪れたのだ。相手がアンデッドであると判断し、咄嗟に腰の剣では無く短剣を抜けたのは、半ば無意識の事。我ながらよくやったと褒めたい気分だ。

「しかしよくローエンシュタイン公がアンデッドだと分かりましたね」
「ああ、私にもよく分からないが、何故か確信めいた勘が働いた」

 自分でも不思議なのか、心なしか目の力を緩め可愛らしい顔でゾフィーが言う。
 間違っていたらどうするつもりだったのかと思ったが、カールは聞かないことにする。

「しかしローエンシュタインの周囲のどこまで、イクサの手が及んでいるか分からぬな。最悪ジレント攻めに加わっているグスタフもイクサの手の内にあると見るべきか」
「そういうのは後にして、まずは騎士団と合流しませんか? 敵地だと分かったのにのんびりしてるわけにもいかないでしょう」
「それもそうか」

 僅かだが、屋敷の空気が変わった。恐らくはローエンシュタイン以外にもアンデッドが居るのだろう。すぐにでもここに殺到するかもしれない。
 カールの言葉に頷き、ゾフィーはドアへと歩き始める。しかしそれを遮るように、カールが前に立った。

「……私は守られるほど弱くは無いぞ」
「万が一という事があります。それに、例えどんなに強かな女性が相手でも、か弱きものとして扱え。それがマスターの教えです」

 カールの言葉にゾフィーは目を丸くする。あの堅物と言っていいコンラートが、そんな事を教えるとは予想外だった。
 しかしすぐにそれがとてもおかしな事に思えて、ゾフィーは笑みを浮かべる。

「そうか。ならば大人しく守られるが、無茶はしてくれるな」
「御意!」

 ゾフィーの言葉に勢いよく答えると、カールはドアを蹴り飛ばすようにして開けた。 




[18136] 五章 黄昏の王
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2015/07/20 22:25
 ピザン王国とリカム帝国の戦いは、国境のリーメス要塞からピザン王国内へとその戦場を移していた。

 リーメスを突破され西と南に撤退したピザン諸侯軍は、それぞれが後方戦力と合流し追撃するリカム軍へと対峙する。
 西へ撤退したピザン諸侯軍は、ピザン王国北部のフロッシュ平原にてアルムスター公軍と合流。アルムスター公の子フランツを総指揮官に迎え、鬼将の子ユーリーの率いるリカム軍を迎えうった。
 一方南へ逃げたピザン諸侯軍は、ピザン王国北東部のプラッド洞窟城への撤退に成功。しかし迫るリカムの騎士シルキス率いるリカム軍との戦力差は大きく、城主であるデンケン候の指揮の下、篭城を開始する。

 リカムとの戦闘が長引き戦域が拡大する中、ドルクフォード王は王弟カイザーの奪還を理由に、ジレント共和国への侵攻を命じる。
 魔術師の国への侵攻。無謀とも言えるその戦いに、ロンベルク候を始めとした諸侯が参加。その中には三公の一家、ローエンシュタイン公の子グスタフも含まれていた。

 ジレントへの侵攻が始まろうかというその時、新たな問題が起こる。
 ピザン王国南東部、ローエンシュタイン公爵領にて、アンデッドの軍団が出現。偶然その場に居合わせた、ゾフィー王女率いる騎士団による討伐が始まった。

 夏戦争。
 後にそう呼ばれる戦いは、混迷を深めていく。





「フロッシュ平原とは、何とも嫌な場所で戦い始めたものだな」

 未だに慣れない広い宿の一室にて、コンラートは呟く。
 椅子に腰かけた彼の対面には、クロエが座りピザン王国の現在の状況をかいつまんで説明していた。コンラートの呟きを聞いて、手にしていた紙束から視線を上げる。

「フロッシュは草はともかく木が一本も生えていない、殺風景な場所だと聞きましたが」
「ああ。だが不思議な事に蛙が多い。近くに水辺が無いというのにな」

 故にフロッシュ(蛙)平原。安直な名前だが、地名などというのは単純なものが多い。

「軍隊等が通れば、さぞ多くの蛙が踏み潰される事だろう」
「……それは確かに嫌ですね」

 潰れた蛙の大群を想像したのか、クロエは僅かに顔をしかめる。

「しかし……この期に及んでジレントを攻め、挙句にアンデッドか」
「……」

 再び呟くように言ったコンラートに、クロエは沈黙で答える。コンラートが何を考えているか、付き合いの短いクロエも察しているのだろう。
 しかし何も言わない。彼の都合を優先するならば、コンラートを何が何でも引き止めねばならないだろうに、それを口に出そうとしない。本当に出来た少年だと、コンラートは思う。

「俺はピザンへ戻る。戻らねばならぬ」
「……それはそちらの方のためですか?」

 クロエが言うと、それまで置物のようにコンラートの背後に控えたままだったツェツィーリエが、すっと視線を上げた。

「厳密には、彼女の妹のためだ。それに……ゾフィー殿下の事、ジレントの事、イクサの事……陛下の事。ここまで来て動かぬ方が俺らしく無いと思う」
「お家騒動は戦後にでもやれば良いでしょうけど、他は一刻を争いますね」

 そう言って、クロエは苦笑する。

 モニカの、ヘルドルフ家の事を、コンラートは包み隠さずクロエに話した。それがこれまで自身を守護してくれた彼への礼儀だと思ったし、下手に疑われないための打算でもある。
 それでも、「巫女」に関する事は一切話さなかったのだから。

 あの後コンラートが真っ先にした事は、モニカの髪を染める事であった。
 この娘が巫女だと疑われてはならない。巫女だと思われてはならない。その時が来るまで、己の手で庇護しなければならない。そうコンラートはモニカを見た瞬間に感じたのだ。
 彼女は間違いなく巫女だと、ただ少し魔術が得意なだけの、盲目の少女を巫女だと確信した。

 もしかしたら、あの夢に引きずられているのかもしれない。夢の中に出てきた巫女と、あまりにもモニカの容姿が似ていたから、珍しい白髪と銀の瞳が重なって巫女だと思い込んでいるのかもしれない。
 だとしても、巫女を連想させるモニカの姿をそのままにしてはおけなかった。
 神官の中には、神に仕えているとは思えない俗な人間が居る。そういった連中に利用されるような事があれば、モニカは間違いなく不幸になるだろう。

 だからクロエにも話せなかった。今後誰にも、クラウディオやゾフィーにも話せないだろう。
 もしかすれば、クラウディオやゾフィーならば、何時か話す時が来るかもしれない。
 そしてクロエには、間違いなく何時か知られる事になるという確信がある。

 彼は巫女の側に侍った、女神の盾と呼ばれた神官の末裔だ。自分と同じように、理屈など超越した直感で、モニカが巫女であると確信するだろう。
 それは予測でも予想でも無い。運命というのだろうか、大きな力のうねりをコンラートは感じていた。

「まあ私も次の任務を仰せつかっていますから、コンラートさんには丁度良かったのかもしれません」
「次の任務?」
「ええ、これがまた荒唐無稽なんですが……」

 荒唐無稽。クロエがそう語った任務の内容に、コンラートはますます運命というものの存在を感じとらずにはいられなかった。





 カールという少年は、決して真面目とは言い難い性格であったし、お調子者という評価がこの上なく当てはまる少年であった。
 騎士の修行が始まるときも、やる気など微塵も無く、むしろ面倒だとしか思わなかった。しかも師事する相手は、平民上がりながらリーメス二十七将に数えられた白騎士コンラート。さぞ辛い修行になるだろうと、憂鬱にならざるを得なかった。

 顔中に不満を貼り付けたカールを見て、コンラートは苦笑していた。貴族のどら息子を押し付けられて、さぞ困っているのだろうと、カールは他人事のように思った。しかし次の発言には、久方ぶりに度肝を抜かれた。

「失礼ながら閣下。ご子息は騎士に向かぬかと」

 本人を前にして、遠慮なく言い切った。
 この場合、頭に「失礼ながら」と付けているのは、何の慰めにもならないだろう。言葉通りに失礼だと発言者が理解しているだけで、まったく配慮などありはしない。
 しかしそれに応えた父に、カールはまたしても驚く事になる。

「だが領主にはなお向かぬ」

 こちらも遠慮が無かった。身内だから当然の事であろう。
 かくして向かないと太鼓判を押されたまま、カールはコンラートの従騎士となる。しかし当初のカールは、今ほどコンラートの事を尊敬してはいなかったし、むしろ反発する事の方が多かった。

 コンラートは噂で聞いた以上に義理堅く、穏やかな人間だった。それこそ罠にでもかければ、あっさりとかかってくれそうな程に純朴な男だったのだ。
 実際には罠にかかるほど間抜けでは無いだろう。しかし当事捻くれていたカールには、自分の倍近く生きている人間が、何故これほど真っ直ぐに生きられるのか不思議でならなかった。

「周囲は卑怯者ばかりだ。何故自分も卑怯な手を使ってはならないのか」

 そう問うたカールに、コンラートは迷わず返した。

「例え傷付き馬鹿を見ようとも、俺は正直者でありたい。俺を信じてくれている人たちのためにも、俺は俺を囲む世界に真摯でありたい。それが愚かな事だと言うのなら、俺は愚か者で結構だ」

 そう言い切ったコンラートの瞳は力強かった。それに見惚れて、カールは気付いた。自分はこの人のように生きたかったのだと、己の内心に燻る火に気付く。
 なんてことはない。お調子者のカール・フォン・アルムスターは、自分で思っていた以上に根が素直な愚か者だったのだ。





「初陣がアンデッドだなんて、ついてないよなあ僕も」

 ローエンシュタインの屋敷から逃げ出し、騎士団が借り切っていた宿まで辿り着くと、ようやく王女の護衛という重すぎる任務を終えたカールは、ソファーに倒れこむようにして背を預けた。
 愚痴を漏らしてから、そういえばこれが初陣では無かったと思い出す。しかしその初陣の相手の狼も、アンデッドであった事に思い至り、ふっと吐息をついた。
 何故これほどアンデッドと縁があるのか。師であるコンラートの因縁がうつったのだろうか。

「お疲れ様です」

 不意に労いの言葉をかけられ、カールはピンと背筋を伸ばした。いつの間に近付いていたのか、そこには金色の髪の少女が一人。微笑みながら紅茶の入ったカップを差し出していた。

「ありがとうアンナさん」
「いえ。こちらこそお礼を。ゾフィー様は無茶をする方ですから、心配していたんです」

 その言葉に、カールはなるほどと思いながら紅茶を受け取る。
 アンナという少女は、王女の騎士団に随行してはいるが、騎士の位を持っているわけでは無く、兵士ですらない。あくまで王女個人に仕える侍女。それが彼女の公の身分である。
 しかしながら、行軍には苦も無く着いて来るし、剣の腕もそこらの男顔負けときている。それでも常の彼女は侍女らしいというか、大人しく淑やかな少女だ。それだけで、最近強い女性とばかり縁のあるカールにとっては、オアシスとも言える癒しの対象であった。

「戻ってくるまでに、何度か襲われたんだけどねえ。もっぱら殿下が追い詰めて、僕はトドメさすだけだったよ」

 最初はゾフィーも宣言通り守られるつもりだったらしいが、我慢できなかったのかカールが頼りなかったのか、戦闘が始まって十秒経つ頃には剣を抜いていた。
 アンデッドを倒せる銀の短剣をカールが持っている以上、役割分担としては間違っていない。しかしもしカールが銀の短剣を持っていなければ、完全に活躍の場を奪われていた事だろう。
 カールは改めてゾフィーもピザン王家の人間だと認識する。父の言う通り、ピザン王家の人間は、自分で戦いたがる上に守られる気が無い。これほど困る主はそう居ないだろう。

「クラウディオ様に比べれば大人しいものだと、マルティン様はおっしゃっていましたよ」
「それは比べる相手が間違ってるよ。あれじゃ嫁の貰い手が無いんじゃないかと、心配になるね」
「生憎と、婿を貰う予定は無いのでな。その心配は杞憂だ」

 話題の人の声が聞こえて、カールは笑みを浮かべたまま固まった。すると悪戯に成功した子供のように、ニヤリといった感じの笑みのゾフィーが階上から降りてくる。

「……それは何とも勿体無い。ゾフィー様ほどの器量良しが独り身で通すなんて」
「調子が良いなカール」
「それが性分なもので」

 ようやく再起動を果たしたカールは、これ以上取り繕っても無駄だと開き直る。ゾフィーに続いてやって来たマルティンは顔をしかめていたが、注意をするほどでは無いと判断したのか口を開こうとしない。

「それで、どうするおつもりですか?」

 今後の方針を問うカールに、ゾフィーは隣のソファーに腰かけると、アンナから紅茶を受け取りつつ答える。

「この地のアンデッドの処理は、騎士団の半数に任せ、我々は王都へ戻る。……最悪の状況を考え、行動せねばなるまい」
「……はい」

 ローエンシュタイン公の最期の言葉が真実ならば、イクサの手はピザン王国の深くまで届いている事だろう。もしかしたら、一連の戦い自体が、イクサの手の上で踊らされていただけなのかもしれない。

「ひ、姫様! 大変です!」
「どうした?」

 一人の騎士が、慌てて駆け込んでくる。カールは名を知らないが、ゾフィーとそれなりに付き合いの長い、騎士団の中核の一人だ。
 息を整えると、栗毛色の髪を額に張り付かせ、汗に塗れたまま口を開く。

「アルムスター公が、ジレントへと向かっていた諸侯の軍の立ち入りを拒否。改めてジレントへの侵攻を非難したとの事」
「ほう。やってくれるなアルムスター公も」

 そう言いながらゾフィーが視線を向けてくるので、カールは得意になって胸を張ってみせる。
 しかし続く言葉に、言葉を失った。

「陛下はこれを裏切りと断じ、アルムスター公の討伐を指示。グスタフ・フォン・ローエンシュタインの手で、アルムスター公は討ち取られました」

 この男は今何と言ったのか。
 カールは意味が理解できなかったし、したくなかった。しかし事実という名の刃は瞬く間に彼の芯に達し、否が応でも理解せざるを得なかった。

「カール……」

 気遣うように、ゾフィーが名を呼ぶ。
 ああ、父よ。確かに自分は騎士になど向いてはいなかった。だがそれでも、主君に、何より女性に気を遣われるなど、情けなくて仕方が無い。
 お調子者にだって意地がある。何よりも、近付きたい背中があり、憧れた生き方がある。

「……大丈夫です。王都に戻りましょう殿下。そしてこんな戦い、終わらせてやりましょう」

 そう言って顔を上げたカールの顔は、お調子者のそれでは無く、固い意志を秘めた騎士のそれであった。





 三公の一人に数えられるクレヴィング公は、王宮の中を逃げるようにして歩いていた。
 王宮の中は、不安になるほどの静けさに包まれている。いや、もしかしたら彼自身の内心がそう思わせているのかもしれない。
 ローエンシュタイン公が死に、アルムスター公が討たれた今、正式な三公は自分だけ。自分の動きが、ピザン王国全体へ大きな影響を与える事になる。

 ゾフィー王女が、玉座を欲し選定候たちの支持を求めている事を、他ならぬ選定候の一人である彼は知っていた。
 家柄に似合わぬ、小心者だと自覚しているクレヴィング公は、明確な答えを出さず悩み続けた。下手をすれば内乱になりかねぬ状況下、どちらに付くべきかと。
 だが事態は動き、悩む時間は無くなった。

「……ヴィルヘルム殿下」

 見張りの兵を遠ざけ、クレヴィング公は小さな声で言った。
 王宮の地下。すえた臭いの充満した、本来罪人の入れられる牢の前で、居ないはずの、居てはならない人の名を呼んだ。
 すると暗がりの奥で蹲っていた影が、ゆっくりと顔を上げる。

「これは……クレヴィング公。何故このような場所に?」
「ぅ……殿下」

 ヴィルヘルムの姿を見て、クレヴィング公は処理しきれない感情にもまれて涙を零しそうになる。
 牢に入れられるときに暴行を受けたのか、所々は血に塗れていた。血の気の引いた顔は、病弱だった幼い頃の彼を思い起こさせた。
 王族であるヴィルヘルムへのあまりに酷い仕打ちに、クレヴィング公はただただ悲しくなった。

「何故……何故このような事に?」
「父上によると、私は国家転覆を謀った大罪人だとか。まあまったくの誤解というわけでもありませんが、情けも容赦もありませんね父上も」
「ッ……」

 そう言ってヴィルヘルムは笑ったが、無理をしていると分かるそれがより痛々しく、クレヴィング公は声をつまらせる。
 王は情の深い人だった。厳しくはあっても優しい方だった。
 それなのに何故このような事になってしまったのか。

「私が……私がもっと早く決断していれば」
「その場合は、私が牢に入れられるのが早まっただけかもしれません。明確な証拠も出さずにこの有様ですので」

 自分に逆らう者は容赦しない。執政者としては必要な要素だが、ここまで来ると恐怖政治だ。
 
「私に……私に何かできる事は?」
「命が惜しければ、一刻も早く私と話すのを止めて、王宮から逃げ出しなさい」
「できる事は!?」

 珍しい、記憶にある限り初めてのクレヴィング公の怒声に、ヴィルヘルムは呆気に取られた。
 涙に濡れ、充血した目が見つめてくる。その何と力強い事か。

「……領地に戻り、ゾフィーへの支持を表明し挙兵してください。貴方が動けば、他の選定候も動くでしょう。そうなれば、直属の兵が少ない父上は、自ら玉座を降りざるをえなくなる。それでも父上が諦めなかった時は……」

 実力行使しかない。それを理解すると、クレヴィング公はゆっくりと頷いた。

「今の会話も聞かれているかもしれません。すぐに動いてください」
「御意!」

 返事と同時に、クレヴィング公は踵を返した。その後姿を眺めながら、ヴィルヘルムは背を壁に預けると、疲れを吐息に乗せて吐き出す。
 幼い頃ならいざ知れず、今のヴィルヘルムに忠義の心を持っている者は少ない。何せ他者に厳しく腹が黒い、恐い恐い宰相様だ。疎まれるとまではいかないが、厄介な人だと思われているのは確かだろう。
 そんなヴィルヘルムを思い、クレヴィング公は泣いてくれたのだ。

「まったく、この国は人材に恵まれている。たっぷりとこき使ってやりなさいゾフィー」

 呆れ、しかしどこか嬉しそうに、ヴィルヘルムは届かないと知りながら妹へと呼びかけた。




[18136] 五章 黄昏の王2
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2012/01/28 14:28
 アルムスター公と初めて会ったのがいつだったのか、コンラートは覚えていない。
 キルシュ防衛戦の折、一人突出したコンラートが、背後から斬られた事がある。何とか致命傷は免れたが、敵は当然手を緩めず、コンラートは死を覚悟した。
 そんな時に現れてコンラートを助けたのが、アルムスター公その人であった。

「借りは返したぞ」

 そう言って去っていくアルムスター公に、コンラートは困惑するしかなかった。後で聞いた話には、コンラート自身も気づかぬ内にアルムスター公の危機を救った事があったらしい。
 しかしそんな記憶の無いコンラートは、むしろ自分が借りを返さなければなるまいと、同じ戦場にアルムスター公が居れば気にするようになっていた。
 そうやってコンラートが借りを返したと思えば、今度はアルムスター公が借りができたと思い返そうとする。そんな奇妙なやり取りが続き、やがて二人は歳の離れた友人のような関係になっていた。





 いつかティアと出会った高台へと、コンラートは来ていた。どこぞで草刈でもしているか、濃い草の香りが漂ってくる。
 その香りを乗せてくる風は、夏も間近だというのに冷たかった。まだピザンに居た頃にも、春にしては寒いと思っていたのだから、今年は全体的に季節の巡りが遅いのかもしれない。

「わあ、良い風」

 傍らで言う声がして、コンラートは視線をそちらへ向ける。
 真っ白な布で目隠しをした、黒い髪の少女がそこに居た。髪を染め、その双眸を隠したモニカである。

 魔術で髪の色を変えたのでは、魔術に通じた者にはばれるかもしれない。故にコンラートは、故郷の村の老婆から聞いたおぼろげな知識を引っ張り出し、とある植物を用いてモニカの髪を染めた。
 常に瞼を閉じていたとしても、何かの拍子に瞳の色を見られるかもしれない。故に布で覆って隠した。

 姿を偽るような真似をさせる事に、コンラートは申し訳なくなった。しかし当のモニカは、母が黒髪だったと知ると、お揃いだと言って喜んでいた。もしかしたら、あまりにもコンラートが申し訳無さそうだったので、気を遣ったのかもしれない。

「街の中でも、こんなに精霊の集まる場所があるのね。まるで踊っているみたい」
「そうですか。私にはとんと分かりませぬが」

 精霊につられたのか、それこそ踊るような足取りで回ってみせるモニカに、コンラートは自然と笑みを浮かべた。
 コンラートには、まったく魔術の才能が無い。そのこと事態を残念に思った事は無いが、目の前の少女と世界を共有できないのは、少しだけ残念かもしれない。
 もっとも、モニカほど精霊に好かれる人間もまた珍しいと、ツェツィーリエは言っていたが。

 精霊魔術の行使に精霊の力が必要な以上、精霊に好かれるというのはそれだけで才能と言える。もしこのまま目が見えないままでも、モニカはそれを苦としない程の大魔術師となるかもしれない。

「とっ。お嬢様。あまりそちらに近付いては危ない」
「あ……。ごめんなさいコンラート」

 崖の側に立てられた柵にぶつかりそうになり、コンラートは慌てて手を伸ばす。するとモニカは驚いたように眉を上げたが、すぐにコンラートの言葉の意味に気付くと、沈んだ声で謝罪する。

「コンラート。何かあったの? 元気が無いみたい」

 見上げるように顔を向けてくるモニカに、コンラートは意表をつかれた。目が見えていないはずなのに、その仕種はそれを感じさせない。

「……恩のある方が亡くなりましてな。一度亡くなりかけた所を生き延びたというのに、人の生き死にというのはままなりませぬ」

 魔女から貰った薬で生き延びた時間で、アルムスター公は未練を払拭できたのだろうか。死者と話す術が無い以上、それを確かめる事はできない。
 ただアルムスター公が生きた時間。彼が稼いでくれた時間を無駄にする事だけは、あってはならないと思う。

「お嬢様。私は一足先にピザンへと戻ります」
「……戦いに行くの?」

 不安そうに聞くモニカに、コンラートはふっと笑うと肩膝をついて顔の高さを合わせる。そして彼女の手を包み込むように握ると、なるべく優しい声で言った。

「少し聞き分けの悪い者共を成敗に行くだけです。すぐにお嬢様とツェツィーリエを迎えに参ります」
「……心配です。コンラートは優しいもの。本当は戦いたくないんでしょう?」

 モニカの言葉に、コンラートは息を飲む。
 己の弱さを、コンラートは他人に漏らした事は無い。それは新兵ならばともかく、コンラートのような古強者ならば、とっくの昔に克服しておくべき葛藤だからだ。

 コンラートは復讐のために剣を取り、憎しみの刃で敵を殺した。しかしそんな刃は、あっという間に折れてコンラート自身を傷つける事になった。
 初めて殺した相手が、驚愕に目を見開いたまま倒れて動かなくなっていく光景を、コンラートは未だに覚えている。むせ返るような血の臭いを、断末魔の悲鳴を、今でも覚えている。

 自分が殺したのは、どこかで生きる人が愛する「誰か」なのかもしれない。
 自分が殺した相手にも、大切に思う「誰か」が居たのかもしれない。

 自分が故郷の人々を殺され泣き、憎しみを抱いたように、誰かが己の手で殺めた人を思い悲しみ、憎むのだろう。
 そんな事に、コンラートは手遅れになってから気付いたのだ。

 しかし彼は戦士だった。敵は殺さなければならない。ならばそれに迷う事はあってはならない。
 己の迷いが無意味であると知りながら、コンラートはそれを捨てる事ができなかった。それを捨て去るという事は、己の中の一部を捨てるのと同義な気がしたのだ。
 そうしてコンラートは迷いを心の奥へと押し込めたまま、戦場に立ち続けた。

「モニカ様。私は騎士です。戦いを恐れ疎んじても、使命のために必ず勝利します」
「でも前にもう騎士じゃ無いって……」
「騎士とは、信仰を胸にあらゆる暴虐に抗い、全ての弱き者の守護者となる者。ならば私は、間違いなく騎士なのでしょう」

 己を卑下し、歩き出さない言い訳をするのはやめよう。
 騎士では無いと嘯いて、己の性根を曲げて生きるのはやめよう。

「このコンラート、力には勿論幸運にも恵まれております。必ず生きてお嬢様の下へ戻りますとも」

 そうコンラートが言い切ると、モニカは安心したように微笑んだ。それを見て、コンラートはこの少女を守るという決意を新たにする。
 彼女がマクシミリアンの娘だからというだけでは無い。彼女が襤褸に身を包んだ、浮浪児のような姿で現れたとしても、コンラートはこの娘を守られねばならないという天啓を受けただろう。

 かつて赤い騎士は、巫女の側に立つ事よりも、その前を歩く事を選んだ。道を切り開き踏み固める、先駆けの騎士として巫女を守った。
 己が赤い騎士の再来であると、自惚れた事を思ってはいない。しかしその真似事程度はできるだろう。伝説とはなれずとも、伝説の先触れとなろう。

 コンラート・シュティルフリート。
 かつて英雄の一人に数えられた男は、この時自らの意思で英雄となる事を決意した。





 アルベルト・フォン・クレヴィング公が挙兵。ゾフィー王女の支持を表明し、ドルクフォード王へ退陣を迫る。
 よく言えば慎重、悪く言えば臆病であったクレヴィング公の突然の宣言に、ピザン諸侯は驚く。

 それとほぼ時を同じくして、アルムスター公の死によりその地位を継いだフランツ・フォン・アルムスター公も、ゾフィー王女への支持を表明する。
 一度はリカム軍を退けたものの、未だリカム軍との睨み合いが続く彼の側には、他の諸侯や援軍に訪れたクラウディオ王子が居た。彼らもまたその表明を支持し、周囲への圧力を強めていく。

 少し遅れて同じくゾフィー王女支持を表明したのは、未だプラッド城にて篭城を続けていたデンケン候とアルダー候であった。
 リカムの激しい攻め手の中篭城しているのに、何故情勢を把握しているのかと周囲は疑問に思ったが、プラッド城の秘密を知る一部の者は苦笑したという。

 これらに続き、残りの選定候――アングリフ候とインハルト候もゾフィー王女の支持を表明した。王国全体にゾフィー王女を王にと求める気運が高まる。
 しかしその中で、未だゾフィー王女支持を表明しない選定候が居た。ローエンシュタイン公爵の位を継いだグスタフ・フォン・ローエンシュタイン公である。
 彼がゾフィー王女を支持しなかった理由は、ドルクフォード王への忠義を通した、ゾフィー王女が父を殺したと勘違いした等諸説ある。しかしその内実がどのようなものであったか、公になる事は無かった。





 クレヴィング公の挙兵とそれに続く選定候たちの動きを、ゾフィーは王都へと戻る道すがら聞く事となった。アルムスター公が死に、次に頼りになりそうなデンケン候が篭城の最中にあるため、選定候の動きをあまり気にしていなかったゾフィーは、良い意味で期待を裏切られる事になる。

「大義名分は得た。後は父上がどう動くかだが」

 天幕の中で、ゾフィーは集めた騎士たちを前にして言った。
 騎士団とは言っても、その全てが騎士の位を持っているわけでは無く、多くは平兵士だ。何とか千名余りを集めたゾフィーの騎士団も、今この場に集められた騎士は十数人に過ぎない。
 しかもこのような事態を予想していなかったため、椅子や机も用意できず各々が思い思いの場所に立っているという有様だ。一部の騎士は、落ち着かないのか視線をうろうろと彷徨わせている。

「六人の選定候による退陣要求に、陛下は沈黙を守っています。これに対し選定候たちは実力行使……には出れずに、リカムの進撃を抑えています」

 栗色の髪の騎士の説明に、他の騎士から「そりゃそうだ」と合いの手が入る。逆にリカム軍を放置して、王都に向かわれても困る。

「ただクレヴィング公は違いますね。挙兵とほぼ同時に王都へ向けて行軍を開始していますから、下手をすれば我々よりも早く到達するかもしれません」
「それはありがたいな。できればこちらと足並みを揃えるように、伝令を頼む」
「何でです? 近衛程度なら俺たちだけでも十分でしょう」

 ゾフィーの言葉に、集められた中でも年かさの騎士が不満そうに聞く。

「蒼槍騎士団の一部が、クラウディオ殿下の命令を無視して王都に残っているんですよ」

 答えたのは、ゾフィーでは無く栗色の髪の騎士だった。

「まず間違いなく、陛下の命で残ったのでしょう。数は二百程です」
「二百か……」

 その数に、騎士たちは皆不安げな顔をする。
 高々二百と思われそうだが、蒼槍騎士団は末端の兵まで精強な王国最強の騎士団だ。頭の騎士はともかく、その下の兵が寄せ集めな騎士団五百では、数の差をひっくり返される可能性もある。

「加えて、グスタフ殿……ローエンシュタイン公の率いる軍が王都に。どうやら陛下に呼び戻されたようです」
「あー、そりゃクレヴィング公に手伝ってもらわないと、まずいっすな」
「そういう事だ。ここで無理をする必要も無い。自分の騎士団の手綱を握れていない兄上には後で苦言を呈するとして、宮廷魔術師たちはどうしている?」

 ゾフィーの質問に、騎士たちの顔が聞きたくないとばかりに歪む。仮に動かれたら、こちらの被害は甚大だ。文字通りの全滅の危険性もありえる。

「一人は行方知れずで、残りも既に王都を離れています。全員魔法ギルドの党員ですから、ジレント攻めの時点で陛下を見離しているでしょう」
「デニスは? あいつは近衛の所属でしょう。しかもはぐれ魔術師だ」

 長い金髪の騎士の言葉に、全員がそういえばと思い出す。軍属の数少ない魔術師。しかも魔法ギルドに所属していないため、戒律に縛られていない厄介者だ。

「まったく動きが掴めません。この状況で敵に回るほど馬鹿じゃない事を祈りましょう」
「あいつは馬鹿じゃ無いけど、言動がウザイんだよ」

 年かさの騎士の言葉に、何人かの騎士が同調するように、嫌そうな顔で頷く。一体何をやらかせば、これほど嫌われるのだろうか。

「とにかく、我々はこのまま王都へ向かう。……どうやら頼もしい援軍も来るようだ」

 ゾフィーの言葉に、騎士たちは不思議そうに顔を見合わせる。援軍に来るのはクレヴィング公だが、お世辞にも頼りにはなりそうにない。

「また勘ですか?」
「うむ。とびっきりの援軍が来る予感がする」

 カールの言葉に、ゾフィーは目を閉じて大仰に頷いてみせる。
 その姿に若い騎士たちは首を傾げ、一部歳のいった騎士たちはどこか呆れたように納得していた。





 前アルムスター公を排し、ジレントへの足がかりを得たピザン諸侯軍であったが、クレヴィング公の動きに対するためローエンシュタイン公軍が撤退。大きく戦力を削がれる。
 しかし諸侯は進軍を取りやめず、ついにジレントとの国境に位置するシュレー平原へと到達していた。

「いや、ようやくあの高慢な魔術師どもに鉄槌を下せると思うと、気が高ぶりますなあロンベルク候」
「……そうだな」

 馴れ馴れしく話しかけてくるヘルドルフ伯に呆れながら、ロンベルク候は己の不運を嘆かずにはいられなかった。
 馬上から眺める平原の先には、ジレントの玄関口ヴェスタの街並みが見える。ジレントが街中への侵攻を許すとは思えない。ここからは見えないが、既にあちらも迎撃の準備は済ませており、こちらが動けばすぐにでも兵と魔術師たちが姿を現すだろう。

 ロンベルク候は、このジレント攻めに反対だった。しかし彼はピザン王国の滅亡を確信しており、その後の事を考えある男に媚を売っておかねばならなかった。
 その結果が、ジレントへの侵攻という無理難題だ。どちらにせよ己の身が破滅するならば、いっそ祖国のために死ぬべきだったかと今更ながら後悔し始めていた。

「報告! 騎馬が一騎こちらへ向かっております!」
「何? 降伏の使者かもしれん。通せ」

 ヘルドルフ伯が勝手に指示を出すのを、ロンベルク候は呆れながら聞いていた。一体どんな頭をしていれば、ジレントが降伏するなどと考えられるのだろうか。

 リーメス二十七将の一人、埋葬フローラ・F・サンドライト。彼女が全力で魔術を行使すれば、千を越える兵が一瞬で葬られかねない。
 さらに前アルムスター公の病を治したという、フローラに匹敵する魔術師、魔女ミーメ・クライン。彼女が同時に出てくる事があれば、ロンベルク候は最早貴族の地位も捨てて全力で大陸の外まで逃げるだろう。
 その他大勢の魔術師たちも、その数が百や二百になれば、一瞬で数千程度の兵が犠牲になる。普通魔術師は百も二百も集まらないのだが、それを集めてしまうのがジレントという国なのだ。

 長きに渡り利用され、ぶちキレた魔術師が作った国は伊達じゃ無い。彼らが戦いもせずに降伏する事は、万が一にもありえないだろう。

「……おい……あれ……」
「……ラート……」

 騎馬が近付くにつれ、兵士たちがざわつき始める。不思議に思い目を凝らせば、その理由はすぐに分かった。
 こちらへ近付いてくるのは、ジレントの兵とは思えない重装備の騎士であった。一般的なものの倍はあろうかという長剣を帯び、背中には斧槍を背負っている。
 そして何より、その騎士に誰もが見覚えがあった。

「……コンラート」

 ピザン国内にリーメス二十七将に数えられた者は数人居れど、中でも平民上がりの騎士として民衆の人気を集める巨人コンラート。
 国王に罷免され、姿を消したはずの男がそこに居た。

「貴様! 何故ジレントから出てきた!?」

 ヘルドルフ伯が怒鳴るように問うと、すぐそこまで近付いていたコンラートの馬が足を止める。その上に乗るコンラートは、一瞬ヘルドルフ伯を見て眉をひそめたが、すぐにそれを隠してロンベルク候へと向き直った。

「ロンベルク候。貴方がこの軍の指揮者ですかな?」
「……いかにも」

 コンラートの問いに、ロンベルク候は平静を装って答える。横でヘルドルフ伯が何やら喚いているが、聞く気もなれない。

「すぐにジレントへの侵攻を取りやめて頂きたい。無駄な死者が出るだけだと、お分かりのはずだ」
「……それは、私の一存ではできん」

 できるならば、とっくにやっている。
 何らかの事情があり、ロンベルク候が引けないと察したのか、コンラートは困ったように髭を擦ると再び口を開く。

「ならば、私をこのまま通してほしい。私は急ぎ王都へと行かねばなりませぬ」
「貴様! さっきから好き勝手を言いおって、さてはジレントに寝返ったな!」

 コンラートの言葉に、ヘルドルフ伯が怒鳴り散らす。実際この状況では、コンラートがジレントに味方する者だと思われても仕方が無いだろう。
 しかしロンベルク候は、ここに来て己の失敗を悟った。
 コンラートとの距離は短い。仮にこの男がここで暴れ出したなら、兵など蹴散らして指揮官である自分を討ち取ることもできる距離だ。隣にいるのは武名で知られるヘルドルフ伯家の人間だが、現当主のマリオンはそれほど腕が立つわけでは無い。

「こいつを捕らえろ!」

 ヘルドルフ伯の命令を聞き、兵士がコンラートを取り囲む。しかし兵士たちはコンラートを囲んだ所で動かなくなり、お互いを窺うようにチラチラと視線を揺らし始めた。
 彼らとてコンラートの武勇は知っている。自分たちがかかっても、返り討ちになると分かっているのだ。

「……どいていただきたい」
「何を! おまえたち早くかからんか!」

 コンラートが静かに言うのに、ヘルドルフ伯は苛立ちを増したように怒鳴り散らす。
 俯いたコンラートの表情は見えない。もしかしたら己の祖国に失望しているのだろうかと、ロンベルク候は自分の立場も忘れて哀れに思った。

「どけと言っている」
「な……にを……」

 再び発せられた言葉に、ヘルドルフ伯の勢いが削がれる。それは小さな声であるのに、地を揺らすかのような力があった。
 コンラートの馬が少しずつ進み始める。どっしりと大きい栗毛の馬は、人間の都合など知った事かとばかりに、悠然とその足を踏み鳴らす。

「どけえっ!!」

 放たれた怒号に、空気が震えた。籠められた力に、兵士たちはその身を震え上がらせた。
 ドサッと何かが落ちる音がする。誰もがコンラートから目を離せず、その原因を確認する事ができなかったが、どうやらヘルドルフ伯が落馬したらしい。

「……御免!」

 凍りついたように動かなくなったピザン兵たちをすり抜け、コンラートを乗せた馬は駆け出した。
 その背を追う者は居なかった。誰もが呆然としたままその姿を見送り、ついに見えなくなるまで、誰一人動く事はできなかった。





 ドルクフォード王は玉座に座り、ずっと目を閉じていた。
 周囲に人は居ない。居たとしたら、この状況下で動こうとしない王に、何らかの進言でもしていただろうか。

「クカッ。寂しいなあ、ドルク」

 誰も居ないはずの空間に声が響いた。ドルクフォードの声では無い。しわがれた、老人のような声だ。

「玉座は窮屈そうだな。おぬしには似合わぬと、皆で笑ったというのに」

 いつの間に現れたのか、黒いローブに身を包んだ老人がドルクフォードの前に立っていた。哀れみと、嘲りの混じった顔で、ドルクフォードを見下ろしている。
 しかし話しかけられたドルクフォードは、反応も見せず目を閉じ続けている。まるで眠っているかの様に。

「懐かしいなあ、皆で過ごしたあの時間が。私とロドリーゴと、ミリアにベルベッド。イリアスとライアンに、そしてティア。あれほどの人物が揃ったのは、間違いなくおぬしの人柄故よ」

 友に対するように、老人は語りかける。だがその顔には、相変わらず悲しみと喜びが混在した、狂気の色が浮かんでいた。

「あの日。あの場所で。我らは本当の神と出会った。そこで知った、運命というものを。だがそんなものは変えてみせると、我らは笑って言ったのだったな」

 そこまで言うと、老人の顔から笑みが消える。同時にその顔から狂気の色は消え、残ったのは無。
 生気を感じさせない。感情も見えない。ただ顔の形をした面だけがそこにあった。

「あの女も笑っていたな。今にして思えばあれは嘲笑だったのか。運命は変えられぬと、誰よりもその身で知っていたのだから」

 そう言って、老人は喉がつまったような奇妙な笑い声を上げた。何も宿していない面が、醜い笑みの形に歪む。

「クカッ。最期だドルク。……武運を、友よ」

 そう言うと、現れたときと同じように、前触れも無く老人の姿は消えた。 




[18136] 間章 王女と従者
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6642b7ac
Date: 2012/03/02 21:42
 アルベルト・フォン・クレヴィングは、とても慎重でとても臆病な男だ。
 彼も最初から今のような性格だったわけでは無い。クレヴィング家はピザンでも有数の力を持つ三公の一つ。その跡取り息子として生を受けた彼が、卑屈でなどあろうはずが無い。
 しかし彼の悲劇は、己を知らぬ事にあった。
 彼の父は、幼い彼が何かを成すと、どのような事でも大げさに驚き、賞賛して見せた。それは一人息子に自信をつけさせるためだったのだろうが、結果それは良くない方向へと働いた。
 己は天才だと、アルベルト少年は信じて疑わなかった。
父が突然亡くなり、公爵家を継がなくてはならなくなったときも、己ならば全て上手くいくに違いないと確信していた。

 しかし現実はそれほど甘くなかった。

 己の出した政策が、次々と失敗していく事に、クレヴィング公は焦った。そして焦って仕事をする彼に、部下たちは休めと何度も言った。それが「仕事をするな」という意味である事に、それなりに頭が回る彼はすぐに気付いた。
 誰しも失敗する事はある。次で挽回すれば良い。実際にそうすればクレヴィング公は自信を取り戻していたかもしれない。しかし父の欺瞞に守られていた彼は、初めての挫折に打ちのめされ、臆病になっていた。
 自分は何をやっても上手くいかないのだと、そう考えた。そうして以後クレヴィング公は、仕事を部下に任せ、深い部分に自ら触れようとしなくなった。

 適材適所。部下に見合った仕事を回すという意味では、クレヴィング公は領主として及第点を取れる程度にはなっていた。しかしそれでも、失敗を恐れるクレヴィング公は臆病なままだったのである。





「私は正面から攻めるつもりは無い」

 クレヴィング公軍と合流し、軍議を始めるなり、ゾフィーはそう言い放った。

「はあ、王家しか知らない抜け道でもあるんですか?」

 長机の前に対面する形で座っている騎士たちが、揃って首を傾げている中、カールは冗談めかしてそう言った。

「よく分かったなカール」
「ってあるんですかい!?」

 さらりと答えるゾフィーに、年かさの騎士が驚いたように聞き直す。そんなものがあったとしても、そう簡単に話していいものでは無いだろう。そんな周囲の気持ちに気付いたのか、ゾフィーは一度咳払いをすると、己の考えを話し始める。

「勿論そう簡単に知らせて良いものでは無い。よって私に同行するのは、私が信頼できる数名という事になる」

 その言葉に、クレヴィング公と配下の騎士たちは顔をしかめる。
 数名での侵入となると、当然危険が伴う。結果ゾフィーが殺害、あるいは捕らえられては意味がない。
 さらに信頼できる数名となれば、その判断基準に実力の良し悪しを反映させる事も難しい。危険な賭けとも言えるその作戦を、王女自ら行うのはリスクが高すぎる。

「正面から戦われた方がよろしいのでは?」
「それでは被害が大きくなる。リカムが攻め込んできているというのに、内乱で兵力を損なうのは馬鹿げていよう」
「……左様で」

 迷い無く言うゾフィーに、クレヴィング公は何かを諦めたように吐息を漏らした。
 この王女殿下は勝つことを前提に、いや勝つことが当然であると確信してさらなる未来を見据えている。それは間違いなくドルクフォード王譲りの気質であり、クレヴィング公には絶対に理解できない剛胆さであった。

「私たちが父上を確保するまでの間、クレヴィング公には正門で敵の陽動をしてもらう。そういう意味では、他の誰でも無いクレヴィング公が来てくれたのは幸いだった」
「恐縮です」

 ゾフィーの言葉に、クレヴィング公は苦笑しつつ頭を下げた。
 クレヴィング公は、慎重にして臆病な男であると知られている。攻め手を緩めたり、突然兵を引いたりしても、相手方は怖気づいたと思い陽動を疑われにくいだろう。

「しかし問題もあるかと。陛下も当然抜け道を知っているはず。ならばこちらにゾフィー殿下の姿が無ければ、すぐに意図を悟られるかと」

 クレヴィング公の指摘に、騎士たちはもっともだと頷く。しかし当のゾフィーはむしろその指摘を待っていたとばかりに、不適な笑みを浮かべて見せた。

「それならば問題無い。出番だアンナ」
「……え?」

 椅子に座らず、天幕の隅っこに控えていたアンナが、何のことでしょうとばかりに驚いてみせる。しかし本当はゾフィーの考えを把握しているのだろう。「私驚いてます」と言わんばかりの顔には汗が浮かび、口元は盛大に引きつっていた。

「そこに居るアンナは、もの心つく前からの私の従者であり親友でな。背も私と変わらぬし、カツラでもかぶせておけば遠目には私と区別がつかぬだろう」
「ひ、ひ、ひ、姫様? さ、流石に今回ばかりは、私には荷が重すぎると思うのですけど!?」

 アンナの言葉に、その場に居る誰もがそれはそうだと同意した。
 背は確かにゾフィーと同じくらいだし、顔つきもよく見てみれば似てなくも無い。
 しかしその立ち振る舞いが、あまりにも似ていなかった。こんな挙動不審なゾフィーなど、誰も見た事が無い。

「問題無い。私が誰よりもアンナの事を理解しているように、アンナも私の事を誰よりも理解してくれている。ならば私になりきるなど朝飯前のはずだ!」
「いや、無理でしょ」

 何やら握り拳を作って力説するゾフィーに、カールが律儀につっこみをいれる。

「はい! 私以上にゾフィー様を理解している人間など居ません! 必ずやりきって見せます!」
「ああ……できるんだ」

 女の子って分からないなあ。
 盛り上がる女二人をよそに、天幕の中の騎士たちは無言で心を一つにしていた。





「大丈夫なんですかねえ」
「それはアンナの事か? それともこちらか?」
「両方ですよ」

 カールがそんな事を漏らすと、前を歩いていたゾフィーが苦笑しながら振り向いた。それにつられてカンテラの灯りが揺れ、影法師たちも踊るように揺らぐ。
 城内に通じているという洞窟は、屈まなければ進めないほど低く、狭かった。ゾフィー付きの騎士であり、騎士団の最大戦力であるマルティンを連れてこなかったことに納得してしまう。
 あの巨体がここを進もうとすれば、間違いなく途中で詰まっていたことだろう。

「先も言ったが、アンナは常に私とともに居た。勉学に付き合わせたし、騎士修行にも付き合わせた。私にできることは、全てとは言わないが大概アンナにもできる。自慢の侍女だ」

 それはもはや侍女ではない。そうカールは指摘しそうになるが、ゾフィーの顔を見て止めた。
 カンテラの灯りに照らされた顔は、本当に誇らしげであり、曇らせるのは無粋に思えたのだ。

「でも確かに僕も心配ではあります。アンナは能力はありますが、性格的には姫様と逆で大人しい子ですから」
「トムもか。……うむ。一度アンナの本気を見せるべきか」

 栗毛の騎士の言葉に、ゾフィーは一人納得し何やら考え始めた。
 この王女の事だ。次に飛び出す言葉はこちらを驚かせるものに違いない。

「しかしトーマスさんやルドルフさんたちはともかく、何故僕を連れてきたんですか?」

 ふと気になり、カールはゾフィーに問いかけた。
 年かさの騎士ルドルフや栗毛の騎士トーマスを始めとした騎士たちは、ゾフィーとそれなりに付き合いが長く、確かな信頼が見て取れた。だがカールはゾフィーに仕える人間の中では新参、騎士としても頭の見習いが取れたばかりのひよっこだ。信頼などあろうはずがない。

「将来有望で実力もある。何よりそなたはあのコンラートの愛弟子だ。信頼しない理由がどこにある?」

 あっさりと言うゾフィーにカールは目を瞬かせた。
 信頼されていたのも意外だが、その理由に師であるコンラートの名前が出てきたのだ。カールには不意打ちに等しく、金槌で頭を殴られたような気分である。
 しかし考えてみれば当然。コンラートの処遇によってカールが不利益を被ったように、カールの評価がコンラートへの評価となるのもまた当然だ。
 己が不甲斐ない真似をすれば、コンラートの顔に泥を塗ることになる。今更ながらそれに気づいたカールは、この大役を任された機会、一層奮起せねばと決意を新たにした。

 もしこの時ゾフィーがニンマリと笑っているのを見ていれば、カールは己が上手く乗せられた事に気付いただろう。
 しかし現時点でも今後もゾフィーの方が何枚も上手であった。

「カールは素直だな。グスタフも、もう少し殊勝な男ならば良かったのだが」

 分不相応な野望を持ったことが、あの男の不幸であり限界だろう。
 敵対する事となった男を思い、ゾフィーは静に吐息をついた。



[18136] 五章 黄昏の王3
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:0641a1f6
Date: 2012/03/25 08:40

 英雄たちに二つ名があるように、王や皇帝といった指導者たちにもあだ名がつけられることは多い。
 リカムのグリゴリー一世ならば「虐奪帝」
 ピザンのドルクフォードならば「探求王」「黄昏王」
 そしてアレクサンドロスならば「禿頭帝」というように、中には不名誉なあだ名をつけられる者もいる。

 ドルクフォードの後を継ぐこととなるゾフィーは、波乱万丈な生涯を送った父同様、様々なあだ名をつけられることになる。通りが良いのは「騎士姫」「暁の女王」等だが、中には「墓穴王」等どという不名誉極まりないものも存在する。
 父が戦略を得意としていたのに対し、ゾフィーは戦術、あるいは前線での指揮に優れた才覚を表した。それ故か、戦略的な失敗から罠にかかることが多く、ついたあだ名が「墓穴王」
 墓穴を掘っていたのは、正式に王位を継いでいない未熟な時期ばかりなため、一部では「墓穴王女と呼ぶべきだ」という意見もあるが、なんの救いにもならないだろう。 現にゾフィー王女に仕える人間がこの話を聞いても、何の役にもたたなかったのだから。





 隠し通路を抜けた先は、ごつごつとした岩の隙間から、背の高い草の生い茂る岩場であった。カールは狭い出口から、鎧をそこかしこにぶつけながら這い出ると、疲労困憊といった様子で吐息をついた。

「ちょい急ぎすぎたか。大丈夫か坊ちゃん?」
「……大丈夫だと強がる程度には大丈夫ですよ」

 にやけ面で聞いてくるルドルフに、カールは胡乱な目を向けながら立ち上がる。
 悔しいが、侮られるのは仕方がない。ルドルフはともかく、カールに続いて洞窟から出てきたゾフィーすら余裕が見て取れるのだ。コンラートにしごかれ、それなりに体力に自信はあったのだが、どうやらそれは自惚れであったらしい。

「まあ年季の差ってやつだな。積み重ねってのは大事なもんだ」
「ルドルフさんは積み重ねたものが崩れ始める歳でしょう」
「お、言うじゃねえか」

 カールの言葉に、ルドルフは気を悪くした様子もなく豪快に笑う。
 ルドルフは騎士ではあるが、領地を持たない雇われ騎士――ミニステレアーレとも呼ばれる下位の騎士だ。高潔どころか気安く、漁師のおっさんのような雰囲気を醸し出している。

「二人とも黙れ」
「……はい」

 ゾフィーに冷たい声で言われ、カールは叱られた犬のように身を縮める。
 敵地に潜入しているというのに、騒いだのだから叱責はやむない。しかし声を潜めているとはいえ、一番うるさいおっさんがまだ笑っているのはなんだか納得がいかなかった。

「……すまぬな皆。どうやら罠にはまったらしい」
「……え?」

 ゾフィーの言葉に抜けた声を返すカール。しかしすぐにその意味を察し、剣へと手をかけると周囲を伺う。

「待ち伏せか!?」

 ルドルフが叫ぶのを待っていたように、草場から、岩影から騎士たちが現れる。

「この臭い……まさかアンデッド!?」

 黒い甲冑に身を包んだ騎士たち。その騎士たちから漂う死臭をかいで、トーマスが悲鳴のような声をあげた。
 アンデッドいえばイクサ。前大戦に参加した者たちにとっては忌々しき敵であり、直接知らぬ者にとっては御伽噺の悪魔にも匹敵する恐怖の対象だ。

「数は五十か。カール、これは多いのか少ないのかどちらだと思う?」
「どう考えても多いでしょうに!?」

 五十人近いアンデッドの騎士たちに対して、ゾフィーに随行している騎士は八名だけ。死に損ないの騎士を相手にするには心許ない。
 そう思いカールは半ば自棄になって叫んだが、それを聞いたゾフィーは不敵に笑って言い放った。

「そうか? 私は足りないと思うのだが……」

 言いながら、ゾフィーは抜刀し悠然と足を踏み出した。そしてそれに呼応するようにゾフィーの騎士たちが構え、トーマスが心得た様子でゾフィーの背に控える。

「トムは私の背を任せる。ルドルフはしんがりだ」
「はい!」
「あいよ。任せといてください」

 ゾフィーの命に、二人は気負った様子もなく応える。

「残りは私に追従しろ。……食い破る!」
「この人無茶苦茶だぁ!?」

 王女自ら吶喊を始めるのを見て、カールは命令通りに後を追いながら叫ぶ。
 しかしながらゾフィーはただのお姫様ではない。群がるアンデッドの剣を避け、受け止め、弾き返し、お返しとばかりにアンデッドを斬り裂き、斬り伏せ、叩き潰し、時には蹴り飛ばしながら進軍を続ける。
 その姿はさながら戦乙女。もし自らに命の危機が降りかかっていない状況であれば、見ほれていだたろう。

 ちなみにカールの兄でありアルムスター公であるフランツが後に戦場のゾフィーを見て、
「さすがはゾフィー様! 戦場の花、いやその美しき苛烈さは薔薇に例えてまだ足りません。火花、いえ炎纏いて舞い踊る不死鳥にも勝る装厳でありながら華々しきお姿は、正に戦の女神ルクツェルヌの化身!」
 と訳の分からない賛美をしたとかなんとか。

「……無茶苦茶だ」

 そんな光景を見て、銀の短剣でチクチクとアンデッドにトドメをさしながら呟くカール。
 しかし後にクラウディオがコンラートを救うために単身敵軍に突撃したという話を聞き、ピザン王家の気質とコンラートが一部貴族に嫌われている理由を、呆れ混じりに納得するのだった。





 ピザン王都シュヴァーンでの戦いは、膠着状態となっていた。
 それも当然のことで、攻め手のクレヴィング公は消極的な攻めしかしない。対する防衛側の指揮官は、王直属の騎士の一人であるルクスという男だったが、こちらも当然守りに徹し反撃も些細なものだった。

「ありがたいと言えばありがたいのだが……」

 王都を囲む城壁の上から、ルクスは来たと思ったらすぐに退いていくクレヴィング公の軍を眺めていた。
 いくらクレヴィング公でも、このような意味のない前進と後退を繰り返すだろうか。よく観察してみれば、ゾフィー王女らしき赤髪の女騎士が、クレヴィング公に何やら文句を言っているのが見えた。
 王女がしびれをきらし、本格的な戦いが始まるのも近いかもしれない。

「どうしたのですか? 相手が本腰を入れる前に、一発やってしまえば後が楽だと思うんですがねぇ」
「……デニスか」

 いつの間にか背後に居た顔色の悪い男を、ルクスは嫌悪の色も隠さずに振り返った。

「籠城中に打って出るなど愚の骨頂」
「籠城というのは援軍が来るから意味があるんですよ。来ますかねぇ援軍?」

 デニスの言葉に、ルクスは苦々しげに顔を歪めた。
 来るわけがない。最早国内の殆どはゾフィー王女に組している。今王都に居るだけが、ドルクフォード派の全戦力なのだ。
 負けは確定したも同然。ならばせめて被害が少ない状態で降伏しようと思ったが、ドルクフォードはそれを予期したようにデニスを見張りにつけた。
 今降伏などすれば、デニスは味方諸共兵たちを焼き払うだろう。この男にはそれができる力があり、それを戒めるものも存在しない。

「おや、また性懲りもなく来ましたよ。伏兵を使う機です」

 もっとも機はこれまでに幾度もありましたが。
 そう嫌みたっぷりに言われ、ルクスは唇を噛んだ。

「……合図を送れ」

 そのたった一言で、ルクスは己が堕ちたのを自覚した。





 クレヴィング公は、城門前で適当に矢を放ってお茶を濁している最中、突然現れた集団に度肝を抜かれた。
 王都の横手に広がる森から飛び出してきたのは、青い甲冑に身を包んだ騎士たち。蒼槍騎士団――クラウディオ王子自らが厳選し、鍛え上げた王国最強の騎士団であった。
 その最強の騎士団が、騎馬を駆けてこちらの軍勢の横っ腹を目掛けて突撃してきたのだ。気の小さいクレヴィング公でなくても驚くし慌てただろう。

「陣形を組み直せ! 城門は気にするな!」

 しかしながらゾフィー――のふりをしたアンナは冷静であった。慌てふためくクレヴィング公を横目に、蒼槍騎士団の進行方向に城門からの攻撃が届かない事を確認すると、迅速にその突撃に対処する。
 だがその行動も焼け石に水。
 青い塊となった蒼槍騎士団と接触した瞬間、クレヴィング公軍の兵が幾人か吹き飛ばされた。

「耐え……いや退け!」

 クレヴィング公が辛うじて言う頃には、蒼槍騎士団は軍勢を貫き通しこちらへ背を向けていた。その背に矢をかける余裕もない。
 五千を越える軍勢を、たった二百の騎士たちが蹴散らしている。王国最強の騎士団。敵にしてみればとんでもない悪夢であった。

「また来るぞ!」
「ぐぬぅ」

 反転し再び迫る蒼槍騎士団に、クレヴィング公は唸ることしかできなかった。
 どうすればあれを止めることができるというのか。このままでは無意味に兵を失うだけだ。

「……来た」
「何?」

 クレヴィング公が撤退も考え始めたその時、アンナが静かに呟いた。
 その視線を追えば、普通のものより二回りは大きい馬に乗った騎士が、こちらへ向けて駆けていた。その騎士はクレヴィング公軍と蒼槍騎士団の間まで来ると馬を止め、おもむろに背負っていた斧槍を構える。

「馬鹿な、無謀だ!」

 単騎で蒼槍騎士団に向けて駆け始めた騎士。それを見てクレヴィング公は無意識の内に叫んでいた。

「いや、彼ならば――」

 ――コンラートならば可能だ。

 囁くように言うアンナ。
 そしてコンラートと蒼槍騎士団がぶつかり合った瞬間、その言葉は現実のものとなった。

「ぬおおぉぉ!」

 雄叫びが戦場に木霊した。
 同時に振るわれた斧槍は蒼槍騎士団の騎士たちの胴体を切り裂き、幾人かの騎士たちが殴り飛ばされ宙を舞った。
 しかも斧槍が振るわれたのは一度ではない。相当の重量があるであろうそれが、羽のように素早く一閃される度、蒼槍騎士団の騎士たちが木の葉のように舞い散っていく。

「……コンラート」

 その光景を、クレヴィング公は半ば呆然としながら見つめていた。
 ああそうだった。十五年前の戦いでも、彼や二十七将に数えられた英雄たちは、単騎で戦果を挙げ味方を鼓舞していた。
 そんなコンラートを、クレヴィング公は嫉妬しつつ確かに認めていた。何故あの時、アルムスター公のように彼を庇えなかったのだろう。





「……ぬるすぎる」

 コンラートは、蒼槍騎士団の中を駆け抜けながら、違和感に顔をしかめた。
 王国最強の騎士団。その名に相応しい力を確かに蒼槍騎士団は持っていた。自分一人に、ここまで一方的にやられるはずがない。

 よくよく見てみれば、彼らの動きはどこかぎこちなかった。それが僅かな行動の遅れにつながり、その遅れによりコンラートの攻撃が一方的に通る結果を生み出している。

 アンデッド。その可能性が浮かんだが、彼らの返り血は温かかった。
 しかしクラウディオの命に従っていない事といい、彼らに何かが起こっている。

「む!?」

 コンラートが蒼槍騎士団を突き抜け、距離を取ったところで彼らの身体が弾け飛んだ。
 見れば地面が山のように隆起し、そこから巨大な石の柱が針鼠のように何本も突き出していた。突然現れたそれに跳ね飛ばされ、残っていた蒼槍騎士団はあっさりと全滅した。

「……付いて来るなど言ったのだが」

 それが誰の仕業であるか察し、コンラートは馬上で吐息を漏らした。
 しかしいつまでも呆れてはいられない。コンラートは馬の腹を蹴ると、クレヴィング公の下へと駆け出した。



[18136] 五章 黄昏の王4
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:b68b183d
Date: 2012/07/01 11:53
 ツェツィーリエ・ケルルという少女にとって、母は世界だった。
 ただ一人の肉親であり、常に笑顔で支えてくれた母が、ツェツィーリエは大好きだった。
 そんな母の口から「ぼっちゃん」とやらの話題が上るようになったのは、ツェツィーリエの歳が七になるより少し前。

「背は私より高いけど、やっぱりまだ子供だねぇ。伯爵様との稽古の後は、泣くんじゃないかと心配になるよ」

 だけどきっと将来大物になるよ。
 そういって締めくくられる母の話を、ツェツィーリエは半ば呆れて聞いていた。
 なるほど貴族の後ろ盾のある子供なら、出世は有利になるだろう。しかしせいぜい兵士長止まり。大物にはまだ遠い。
 母の言う「ぼっちゃん」とは違い、子供らしくない子供であったツェツィーリエは、そう考え母の言を大袈裟だと切り捨てた。

 しかしそんなツェツィーリエの予想は、数年の後には裏切られることになる。

 敵の突撃を単騎で止めた。
 不死であるはずのアンデッドを、容易く行動不能に追い込んだ。
 王を守るため無謀な殿をつとめ、イクサ・レイブンと対峙しながらも生き残った。
 敵国の将ユーリー・ウォルコフと一騎打ちを行い勝利した。

 次々と届けられる報は「ぼっちゃん」が確かに大物であった事を伝えていた。

 そしてついには騎士にまで任じられた「ぼっちゃん」に、ツェツィーリエはいつしか羨望を抱くようになる。
 母の見立ては正しかったのだと、それだけの事が誇らしかった。

 しかし「ぼっちゃん」の凱旋を待たずして、ツェツィーリエは母に連れられて逃げるようにピザンを後にした。
 数年後母が死に、わけありにも程がある義妹を育てる事になると、ツェツィーリエは「ぼっちゃん」の事を思い返す余裕すら無くなった。
 働きながらも自己錬磨を怠らず、義妹には母がそうしてくれたように愛情をそそいだ。
 魔力さえあれば無茶のできる魔術師でなければ、ツェツィーリエは過労で倒れていただろう。
 そうして十年以上の時が過ぎ、ジレントの魔術師として生きることに馴染んだ頃に、その噂は大陸を駆け巡った。

 白騎士コンラートが騎士の位を剥奪され、ピザンから姿を消した。

 最初に浮かんだのは何故という疑問で、次いで沸き上がったのは怒り。
 何故英雄とまで呼ばれた彼が、そのような不名誉な烙印を押されねばならないのか。

 魔法ギルドの伝手を使い、ツェツィーリエはコンラートの情報を求め続けた。しかし不自然なほどにコンラートの情報は少なく、ピザン王都を離れて以降の足取りは掴めなかった。

 そうして数ヶ月が過ぎたときに、それは起こった。

 ランライミアに溢れ出た魔物たち。書物でしか見たことのない異形たちが、街を蹂躙した。
 そしてさらに現れたのは、小山ほどはあろうかという雷竜。誰もが恐慌し、逃げ惑い、絶望した。

 しかしそんな中で雷竜に挑みかかる人影をツェツィーリエは見た。
 一人は何度か見かけたことのある、リーメス二十七将の一人「鉄拳」ロッド・バンス。
 隣に立つのは、巨漢のロッドが小さく見えるほど長身の戦士。

 彼こそがコンラートに違いないと、ツェツィーリエは直感的に理解した。
 そして彼は雷竜を殴り飛ばし、魔女の援護があったとは言え、トドメまでさしてみせた。

 英雄。彼は確かに英雄に違いないとツェツィーリエは思った。
 そして確信した。彼こそが義妹を救ってくれる、赤い騎士の再来だと。





「蒼槍騎士団を単騎で……さすがコンラート様です」

 ピザン王都シュバーンの南に広がる森の中、ツェツィーリエは彼方で繰り広げられる戦の様子を見ながら、つぶやくように言った。

「私としては、この距離で正確に蒼槍騎士団だけ吹き飛ばした貴女も凄いと思いますけど」

 呆れたような声に振り返れば、そこには幼さの残る神官――クロエが居た。

「魔力操作には自信があります。クロエ司教には及ばないと思いますが」
「……私は攻撃系は苦手ですから、比べようがありませんよ」

 ツェツィーリエの背が女性にしては高いこともあり、自然クロエを見下ろす形になる。
 一見無愛想なその顔を、よくよく見てみれば拗ねたようであり、なるほど義妹と同い年というのは本当らしいと今更ながらに納得する。

「改めてお礼を。貴方の助けがなければ、コンラート様には追いつけなかったはずです」
「……もののついでです。私自身は確信が持てるまで、内乱に手を出すなんて事はできませんから……」
「だから私を利用した。という事にしておきましょうか」

 ツェツィーリエの言葉に、クロエはますます眉間のしわを深くする。

 ツェツィーリエはクロエを噂程度でしか知らないが、少し話を交わしただけでその性格を大体把握していた。
 神官であり、深い信仰心と高いモラルを持ちながら、どこか悪ぶった言動が見られる。
 要するに反抗期なのだろう。なまじ深い知識と高い知性を有するために、感情的に振る舞うことを良しとせず、皮肉めいた言葉でごまかしている。
 その境遇からは考えられないほど天真爛漫なモニカとは、正反対と言って良い。正反対故に、会わせてやれば案外仲良くなるかもしれない。
 もっとも神官であるクロエにモニカに会わせるのは、現時点ではリスクが高すぎる故に実現しないだろうが。

「雑談はここまでにしましょう。コンラートさんが城に突入しついきます……また単騎で」

 クロエに言われてツェツィーリエが視線を木々の向こうへやると、そこにはまたしても常識外れな光景が繰り広げられていた。
 巨馬が攻城兵器を足場にして跳躍し、さらにコンラートがその背を蹴って城壁の上へと登ってしまう。
 当然守勢の兵が殺到したが、斧槍の一振りで十人ほどが木の葉のように吹き飛ばされ、誰も近づこうとしなくなってしまった。

「私たちも行きましょうか。転移はできますか?」
「お送りはしますけど、私は行きませんよ。この戦いがただの内乱でないという確証が無い限り、立場上手出しはできない」
「なるほど。相変わらずぬるいですねぇ」
「!?」

 不意に聞こえてきた第三者の声。
 それに二人が振り返る前に、近くにあった木々が爆ぜた。
 同時に咲いたのは炎の花。それは瞬く間に木々や草花に燃え移り、最初に飛び散った木片が地面に落ちる頃には、森は炎の海に飲まれ蹂躙されつくしていた。

「我ながら見事な炎ですねぇ。ですが、詠唱を破棄した半端な魔術では足りない。そうでしょう司教?」

 燃え盛る炎を従えて現れたのは、ピザンの魔術師デニス。確信を持って語りかける口元には、軽薄な笑みが浮かんでいる。

「――地を穿ち、駆け抜けよ!」
「――不可視の盾よ」

 返答は女の声と、地面を突き破って現れた石の槍だった。人の胴ほどの太さのある石槍は、解き放たれた矢のようにデニスを強襲したが、顕現した魔力の盾に阻まれ砕け散った。

「……無粋。私たちの宿縁を、二流魔術師が踏み荒らすとは」
「文字通り横やりをいれたのですが、気にいりませんでしたか」

 炎の幕が開け、クロエとツェツィーリエが姿を見せる。
 背後を守るように杖を横向に構えるクロエ。その後ろから、ツェツィーリエが魔力を受けて鈍く光る鉄杖を突き出していた。
 それぞれの顔に、苛立ちと上品な笑みが浮かぶ。

「……そもそも、私とおまえの間には、いかなる縁も存在しない」
「おや、つれないですねぇ。私はあなたの可愛らしい顔が歪む度に、並ならぬ愉悦を覚えているというのに」

 デニスが笑い、クロエが苛立ちに歯を剥く。

「おまえはっ!!」
「来なさい。私は此処に、敵は此処に、倒すべき悪は此処に在る。ならばどうだ。どうする貴方は。クロエ・クライン司教!」
「私は女神の盾。誓いは此処に、女神の僕たる私が、悪の尖兵たるおまえを討つ!」

 クロエが絡みつく炎を散らすように杖を振り、デニスが蛇のような陰湿な笑みを浮かべて剣を抜き放つ。
 二度目の殺し合い。お互いの手を知る故に、はなから全力。加減も油断も無い。
 しかしその戦いに、前回とは異なる役者が紛れ込む。

「……ツェツィーリエさん?」

 クロエの隣に、あたかもそれが当然の事であるかのように、一人の魔術師が並び立っていた。

「あなたの送迎はここまでです。あとは自力でコンラートさんを助けてください」
「それは重畳。しかしここにあなたを一人残していくつもりはありません」

 予期せぬ返答に、クロエは戸惑いツェツィーリエを見上げる。
 するとツェツィーリエは、どこか馴染みのある笑みを浮かべて見せた。

「魔女様に、あなたを助けてほしいと頼まれました。見ていないとすぐ無茶をすると」
「……過保護な」
「それが姉というものです」

 クスリと笑いを漏らすツェツィーリエに、クロエは疲れたように吐息をつく。

「保護者同伴とは、やはりまだまだ子供」
「黙れ外道に墜ちた魔術師。ツェツィーリエさんが残った時点で、おまえの命運は潰えた」

 クロエの宣言に、デニスは眉をひそめた。聞こえる声に今までの激情は無い。しかし込められた殺意は質量を増しており、炎にまかれているというのに背を冷たいものが走った。

「私は女神の盾。仲間と共にある時こそ、私の真価は発揮される。――女神よ。私は求め、訴えます」
「――火の精霊よ、古の契約に従い、我が声に応えよ」
「――土の精霊よ、古の契約に下、我が声に応えよ」

 クロエが詠唱を始めると同時に、デニスとツェツィーリエの詠唱が重なり旋律を奏でる。

「――弱者が泣き、強者は笑い、敗者が打ち捨てられ、勝者は謡う。
 だけど私は知っています。信じる私と、救いを求める人々を、あなたが決してお見捨てにならない事を!」
「――揺らぐ炎は呵々と笑い、奇禍は渦動し嚥下する。
 ほふり奪えその身にて、皆乍に飲み尽くせ!」
「――岩頭は落着し雪崩落ち、奔流となりて蹂躙する。
 汝は知る。迫る大過を逃れる術無き事を!」

 三者の詠唱が終わると同時、炎の渦が巻き起こり、岩が雪崩のように木々をなぎ倒し、光が周囲を覆い尽くした。



[18136] 五章 黄昏の王5
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:179dd35c
Date: 2012/07/01 14:43
 赤い騎士を始めとした騎士道物語に、男ならば一度は憧れを抱くだろう。
 忠義を尽くし、正道を貫く誇り高き生き様。教会が積極的に騎士道という概念を広めたこともあり、騎士は人々の模範となる生き方を定められ、神官と並び規範を守ることを求められた。
 だが実際には、誇り高き騎士など都合の良い偶像でしかない。

 命がけの戦の中で礼を尽くす騎士など一握りにすぎない。
 領主が配下の騎士に裏切られた例など枚挙にいとまがない。

 そんな中で騎士の中の騎士と呼ばれたリーメス二十七将の一人ロラン・ド・ローランや、白騎士コンラートは騎士道を体現したかのような存在であった。
 片や王命に逆らいながらも、人々を守るために戦い大戦を勝利に導いた英雄。
 此方は絶対絶命の状況下、自らの命よりも王への忠を取った忠義の騎士。

 そんな忠義の徒であるコンラートは、どのような思いでかつての主ドルクフォードへと対峙したのだろうか。

――もしもあなたが悪ならば





「南の森で……とにかくいろいろ起こっています!」
「見れば分かる!」

 部下の報告に、クレヴィング公は怒鳴るように言い返す。

 王都の南側の森で火災が起きた。その報告がもたらされて五分も経たずに起きたのは、局地的な天変地異であった。
 岩石の群が津波のように木々を押し流し、炎の竜巻が木と岩を巻き上げながら燃やし尽くし、閃光が走ったと思ったら地面が爆発する。
 確かめるまでもなく、魔術師という名の人災が戦いを始めたのは明らかであった。

「土属性の魔術師は、恐らくはコンラートの仲間であろう。炎はデニス・モーガン……やはり動いたか」
「……こちらに来なかったのは幸いですが」

 疲れを滲ませた声で言うクレヴィング公。
 蒼槍騎士団に続き、デニスがこちらへ攻撃を仕掛けていたら、間違いなく壊走の憂き目をみていただろう。
 出てきたタイミングといい、魔術師を味方につけてきたことといい、コンラートというたった一人の援軍がもたらしたものは大きい。

「しかし……私が偽物だと気づいていたようだな。挨拶の一つもなしに突撃とは」
「まさか。陛下を優先しただけでしょう」

 そばに居るクレヴィング公でさえ、隣に居る少女が影武者だと忘れそうになるのだ。
 あのような遠目から、看破できようはずがない。

「いやはや、流石は白騎士。熱い戦をしおる」

 不意に聞こえた声に視線が集まる。
 そこには体を覆うほどの大盾を背負った老騎士マルティンが居た。馬の手綱から手を離し、見事な白髭を撫でながら、しわだらけの顔に生気を漲らせながら笑っていた。

「たぎるかマル爺?」
「枯れたと思うたこの老骨にも、熱き血潮は未だ流れていたようです」
「ならば、そろそろ本気で攻めるとしよう」
「なんですと!?」

 アンナの言葉に、クレヴィング公は思わず声を上げていた。

「ア……ゾフィー様。我々の目的は陽動であり……」
「時間は十二分に稼いだ」
「敵方の被害も抑えよとのご命令のはず」
「このままずるずると続けても、双方の被害が増すだけだ。一度敵を蹴散らし引かせた方が、結果的に被害は少なくなる」
「むう……」

 一理ある。何より敵を気遣って、こちらの兵を損じたのでは本末転倒だ。

「マルティンを先頭に、騎士団で突破口を開く。クレヴィング公は援護を」
「……御意」

 淀みのない指令に、クレヴィング公は諦めたように答える。
 アンナの姿は、もはやゾフィーと見分けがつかない。軍議の場でうろたえていた侍女と同一人物とはとても思えない。

「行くぞ! 王女直属の騎士団の武勇が、決して蒼槍騎士団に劣らぬものである事を見せつけよ!」

 影武者であるアンナの号令を受けて駆ける騎士団。
 その後ろを追うクレヴィング公。その最中にありえない光景を目にする。

 先頭を駆けるマルティンが徐に下馬し、大盾を構えて走り出したのだ。
 御歳七十歳とは思えない健脚ぶりに目をむくが、同時に後続を置き去りにして突貫する姿に焦りを覚える。

 たぎりすぎだ。自殺するつもりかあの爺さんは。
 そう叫びそうになったクレヴィング公であったが、赤い弾丸と化して走り抜けるマルティンに、そのような心配は杞憂でしかなかった。

「ふんぬ!」

 マルティンが敵兵目掛けて突っ込むなり、大盾にぶつかった兵たちが馬車にはねられたように吹き飛ばされた。
 それは先ほどコンラートが蒼槍騎士団に突撃した光景の焼き直しのようであり、さらに続く騎士団が腰の引けた兵たちを蹴散らしていく。

「……」

 そうだった。あの爺様もリーメス二十七将(非常識)の一人だった。凡人の常識など通じるはずがない。

「……我々も続くぞ」

 必要無さそうだが。
 その言葉を飲み込んでクレヴィング公は馬を駆けさせた。





「下手に踏み込むな! 迂闊だぞ!」
「カール! トドメを!」
「任せてください!」

 乱戦と言って良い戦いの中、カールは銀の短剣片手に縦横無尽の活躍を見せていた。
 これは何も、彼がアンデッドを仕留められる武器を持っている事だけが理由ではない。

 当初こそ自分の身を守るだけで精一杯だったカールだが、戦場の空気に慣れ余裕が出てくると、本来の力を遺憾なく発揮し始めた。
 敵の間合いに素早く踏み込み、的確に攻撃を当ててみせる。言葉にすれば簡単だが、間合いをはかり取り合うというのは、戦いの基本である故に難行である。
 コンラートはカールを鍛える上で、当然ながら自身のような力に任せた戦いを彼に期待しなかった。剣の振り方や、足運び、馬の御しかたや馬上での戦い方など、徹底的に基本となる技術を体に覚えさせた。
 基礎を異常なまでに仕込み、後は実戦で自身にあった戦い方を模索させる。一見無責任なようだが、コンラートの目論見通り、カールの戦才は戦いの中で開花しようとしていた。

「ここを抜ければ玉座の間は目前だ。続け!」
「了解!」

 黒騎士を蹴倒して奥へと向かうゾフィー。トーマスとカールがその背を追い抜き、重厚な扉を走り込んだいきおいそのままに蹴り開ける。

「……え?」
「……は?」
「……ほう」

 扉の先に広がる光景に、トーマスが驚き、カールが呆れ、ゾフィーが感心したように声を漏らす。
 恭しく剣を胸の前に掲げ、道を成すように整列する騎士たち。厳かな儀礼の最中であるかのような広間。その支配者を気取る男が、ゆっくりとその姿を現す。

 全身を覆う白銀の鎧。下げられた剣は二振りあり、華美な装飾を施されながら実用性を損なわぬよう作られた逸品であった。
 焦げ茶色の髪は撫でつけられたように全て後ろへと流されており、一目で神経質だと分かる顔にの眉間にはしわが浮かんでいる。
 遅れてきた英雄。
 二十七将に匹敵する武勇を持つとされながら、歳幼き故に前大戦に参加できなかった男がそこに居た。

「足癖の悪いことだ。飼い犬は主に似ると言うが、本当のようだな」
「グスタフ……いや、ローエンシュタイン公と呼ぶべきか」

 ゾフィーの声に、グスタフは眉間にしわを寄せたまま、つまらなそうに鼻を鳴らして答えた。
 その不遜な態度に、同じ三公の出であるカールはあからさまに顔をしかめるが、ゾフィーに手で制され前に出そうになった体を押し止められる。

「それが貴様の新たな犬か。そんな若造に寵愛を与えるとは、兄上方ほど人を見る目は無いようだな」
「父上に尻尾をふる犬が言う。随分と不機嫌のようだな。そんなに私に求婚を拒まれた事が堪えたか?」
「……は?」

 さらりと告げられた言葉に、カールを含む数人から間の抜けた声が漏れた。

「求婚って、ローエンシュタインが王家に婿入りなんて話、初耳ですよ!?」
「私も婿をとるつもりはない。いや、可能性自体はあり得たのだが、この男、他に王に相応しい男は居ないと、自信満々に言い寄ってきてな」

 ゾフィーの説明に、配下の男どもは呆れと敵意のこもった視線を向ける。
 対するグスタフは、ただ不快そうに眉間のしわを深くし、低い声で言う。

「貴様と婚姻が可能な貴族の中で、最も優れているのは私で相違ない」
「否定はせぬ」
「ならば、王に相応しきは私のみ」
「ハッ、つまり貴殿は私が王に相応しく無いと言っているのだろう」

 吐き捨てるように言うと、ゾフィーは鋭い視線とともに剣先をグスタフへと向ける。

「一つ勘違いしているようだが、私の婿となる者は王ではなく王配となる。王はあくまで私。王配が有能であるに越したことは無いが、それ以上に求められるのは、無用な権力闘争を起こさぬ無欲さだ」
「夫を飼い殺すか」
「そうなるな。故に野心の塊のような貴殿を、王配に据える事は万が一にもあり得ぬ。そして何より……」

 一度言葉を区切ると、ゾフィーはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。

「傲慢な男は私の好みではない。クレヴィング公に謙虚さを見習って出直すことだ」

 付け加えられた言葉に、不機嫌を貼り付けたようなグスタフの顔が怒りに塗りつぶされる。
 グスタフはクレヴィング公を嫌っている。見下していると言って良い。そんな男を引き合いに出し、あまつさえ自身をその下に置くなど、耐え難い屈辱であった。

「そのような口、二度ときけぬよう躾てやろう」
「拒まれたから無理やりか。まるで強姦魔だな」
「貴様!」

 ゾフィーのからかうような言葉に激昂するグスタフ。その怒りに応えるようにグスタフ配下の騎士たちが抜刀し、ゾフィー配下の騎士たちが剣を構え直す。

「加減はせん。死よりも無惨な結末を覚悟しろ」
「せいぜい盛れ。私の躰、犬に許すほど安くはない」



[18136] 五章 黄昏の王6
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:aa1c6e85
Date: 2012/09/02 10:17
 遅れてきた英雄。
 グスタフ・フォン・ローエンシュタインの代名詞とも言えるその称号は、その武を賞賛すると共に少ない揶揄が含まれている。

 彼と彼の同世代の人間は、後世に谷間の世代と呼ばれている。
 キルシュ防衛戦にて活躍した、クラウディオ王子やコンラートを初めとして若手の英雄たち。彼らの多くは、15年後のピザン動乱に端を発した同盟戦争においても戦力の中枢を担い、その圧倒的な存在感を示した。
 そして同盟戦争において名をあげるゾフィー王女やクロエ司教、アルムスター兄弟を初めとした新たな時代の担い手たち。
 その二つの世代の板挟みとなったのが、グスタフを初めとした谷間の世代であった。

「全軍コンラートには構うな! 余計な被害を出すだけだ!」

 そしてドルクフォード派の指揮官であり、今敗軍の将へとなりかけているルクス・フォン・ガーランドも、グスタフと同じく谷間の世代と後世に呼ばれる年代であった。

 元々中堅の伯爵家の末っ子であるルクスは、大きな功績もなければ失敗もない、まこと無難な男であった。ただ王に忠誠を誓い、生きる意味の半ばをそれに預けて生きてた。
 王の命に従い、結果追いつめられた今の状況。それを今までの人生を省みて自業自得と思う程度の殊勝さはルクスにもあったが、トドメをさしにきたのが行方不明だったコンラートであったのには、中々複雑な思いを抱いた。

 立場的には、ルクスとコンラートはかつての同僚である。むしろ歳も経歴も上なのはコンラートであり、もしもルクスに周囲の目を気にしない度量があれば、彼に敬意を払っただろう。
 だがルクスは実に無難な男であり、コンラートは身分というものを呆れるほど尊重する男だった。
 十も年上の同僚に、丁寧に接せられるのは、ルクスにとっては居心地の悪いものでしかなかったのだ。

 できる限り、ルクスはコンラートから距離をとった。そうしないと、余計な派閥争いに巻き込まれるかもしれないという懸念もあった。
 しかし少しだけ、残念そうにこちらを見てくるコンラートに思うところが無かったわけではない。

 もしも自分がもう少しだけ図々しくて、コンラートと歳が近ければ、自分たちは親友にだってなれたかもしれない。

 それがあまりに都合の良い妄想だとはルクスにも分かっていた。
 だからこれは罰なのだろう。
 密かな憧れを抱いた彼に挑み、華々しく散ろう。そんな微かな願いを踏みにじるように、背後の部下であったはずの男に貫かれたのは。





「ルクス殿!」

 かつての同僚が胸を刺されるのを目の当たりにし、コンラートは悲鳴じみた叫びをあげた。
 焦点の合わない、明らかに正気でない兵士。その兵士に背後から裏切りを受けたルクスは、何が起こったか分からないとばかりに視線を彷徨わせ、最後にコンラートをみると、何故か安堵したような笑みを浮かべてその場に崩れ落ちた。

「クッ、どけぇっ!」

 城壁の上にひしめく兵の群を文字通り吹き飛ばし、コンラートはルクスの下へと駆けた。
 多くの兵はコンラートの暴威を恐れ、自ら道をあけたが、仕事熱心な何人かの兵は果敢にコンラートに挑みかかり、即座に叩きふせられた。その中に死人が居ないのは、流石と言うべきであろうか。

「ルクス、ルクス殿!?」

 周囲の兵をあらかた片付け、コンラートはようやくルクスへとたどり着く。その上半身を抱き上げ名を呼べば、ルクスは少しだけ驚いたような顔をして、そして微笑んだ。

「俺の名を……覚えてくれていたかコンラート殿」
「当たり前でしょう!」

 当たり前と言われ、ルクスはあまりの彼らしさに苦笑した。今は敵となった自分を労るコンラートに、自分でも知らぬうちに歓喜した。

「すまん……コンラート。俺は……陛下を……陛下を正せなかった」

 誰よりも王に厚い忠誠を尽くしたコンラート。しかし彼は王の下を追われ、そして道を踏み外した王への刺客となって戻ってきた。
 そうさせたのは自分だ。自分ならば、コンラートにそんな決意をさせる前に、王を止める事だってできたのだから。

「いえ。俺も陛下を……陛下のそばにあれば、忠言はすれど行動に移すことはできなかった」

 コンラートの言葉に、ルクスはああと納得する。
 きっとあの時、コンラートが騎士の位を剥奪されたのは必然だったのだ。
 悪へと堕ちた王を討つために、彼は王の騎士ではない、他の誰かになる必要があったのだ。

「だが、ありがとうルクス殿。間違っていても、間違っていると分かっていても、よく陛下の騎士であり続けてくれました」

 礼を言われ、ルクスは照れたように笑う。確かにコンラートならば、主が世界の敵になっても、共に世界と戦っていただろう。本当に義理堅く、不器用な男だから。
 自分はどうだろうか。晩節こそ汚したが、かつて名君と讃えられた主に相応しい騎士として生きられただろうか。

「コン……ラート……陛下の最期を……頼んだ」

 そう言って、ルクスは二十数年の生涯に幕を閉じた。





「姫様そこです!」
「惜しい! 惜しいですぞグスタフ様!」
「どこが惜しいんだ。てめえの目ん玉はタピオカか!?」
「うるさい邪魔するな!」

 ゾフィーとグスタフのぶつかる広間は、一種異様な熱気に包まれていた。
 一騎打ちを行うゾフィーとグスタフ。その周囲で戦う配下の騎士たち。
 グスタフの優位に気を逸らした騎士をトーマスが蹴り飛ばし、ゾフィーのピンチに気もそぞろなカールの頭を敵の騎士が戒めるように剣の腹で叩き、野次を飛ばす騎士をルドルフが同じく野次を飛ばしながら投げ飛ばす。
 皆一様に二人の一騎打ちに見入っており、真面目に戦っている者は皆無であった。そんな配下たちにゾフィーはあきれ混じりに笑みを向け、グスタフは眉間のしわを深くしてみせる。

「さて、皆も興が乗ってきたようだ。ここは一つ、私も隠し芸でも披露すべきか」
「下らん」

 ゾフィーの言を一蹴し、グスタフの剣がゾフィーの顔めがけて走る。それを素早く受けたゾフィーだったが、その一撃は重く、たまらず一歩後退ってしまう。

「つまらぬ男だな貴殿は。慢心しているくせに余裕は無い。まあ当然か」
「知った風な口を!」

 再び放たれた一撃を、ゾフィーは余裕をもって受ける。しかし力の差は歴然であり、ゾフィーの体は少しずつ後退していく。

「知った風な口……とな。むしろ気づいていないのか、自信に満ちた貴殿に余裕が足りないわけを」
「黙れ!」

 また一歩、グスタフの剣戟を受けてゾフィーが下がる。
 舌戦では優位に立っているように見えるゾフィーであったが、実際の一騎打ちでは圧倒的に不利であった。相手は二十七将に匹敵すると言われた遅れてきた英雄。弱いはずがない。
 体格も純粋な力も、男であるグスタフが勝る。経験においてもグスタフに軍配が上がる以上、小手先の技や速さで埋められる差ではない。
 このままではゾフィーはなぶり殺しにされる。だと言うのに、ゾフィー配下の騎士(カール除く)たちは一様に主の勝利を信じ、疑っていなかった。

「隠し芸と言えば、私はジレント留学の折に魔術を学んだのだが、才能が無かったらしく、こんな手品紛いのものしか覚えられなかった」

 言いながらゾフィーはそっと自らの髪を撫でる。すると後頭部で編み上げられた赤い髪が、瞬く間に金色へと染まってしまう。

「……それは自分が王家に相応しくないという皮肉か?」
「そうかもしれぬな。物事の表面しか見ない者には、良い目眩ましだ。赤い髪が無くなるだけで、目の前にいても私だと気づかなかった男も居た故」

 それが誰であるか、言われなくともグスタフは理解する。そして怒った。この女は不遜にも自らを試し、不甲斐ないと笑っていたのだと。

「……貴様」
「こういった詠唱を必要としない、術者の力だけで発現する魔術は単に『魔術』と呼ばれている。まあ細分化する必要も無いほど、初歩的で簡単な魔術だということだ」
「黙れ!」

 己の心情など知ったことかとばかりに説明をするゾフィー。その口上を、生意気な囀りを止めるためにグスタフは何度目か分からない剣戟を放つ。

「な……に?」

 しかしゾフィーの剣はその剣戟を打ち払い、グスタフの喉元をかすめた。

「そして今私がやったような事は、魔術師からいわせれば『魔術』ですら無いらしい」

 そう言ってゾフィーが放った剣戟は三度。袈裟、正面、逆袈裟を通る単純な連撃。
 見え見えなそれをグスタフは当たり前のように防ぎ、そしてたたらを踏んで後退った。

「グゥッ!?」
「魔力による身体能力の強化。魔力を使ってはいるが、術の形など成していない、ただの力」

 重ねられる攻撃に、グスタフは声も上げられず防御に専念するしかなかった。
 先ほどまでとは打って変わり、ゾフィーの剣戟を受ける度にグスタフの体が後退していく。
 女性らしさを損なわない程度の体格のゾフィーが、長身のグスタフを力でねじ伏せていく。それは斜面を転がる岩を小石で押し返すような、見る者は目を疑わずにいられない異様な光景であった。

 グスタフは内心で舌打ちする。身体強化を実戦で使う者が、これほど身近に居るとは思わなかった。
 身体強化は魔術ですらない。だが魔力の扱えない非魔術師に使える技法でもない。
 そして魔術師たちは一部の物好きを除き身体強化を使わない。いくら力を増しても、付け焼き刃の格闘で戦士に勝てるはずがないからだ。
 一部しか有効に扱える者が居ないマイナー技法。そんなものを自国の王女が切り札にしていたなど、どうして予測できようか。

「さて、ズルをしているようで些か心苦しいが、次で決めさせてもらおう」

 そう言うと、ゾフィーは腰を落とし剣を水平に構える。

「なめるなよ小娘!」

 放たれたのは、単純な横薙。防げる。防げないはずがない一撃をグスタフは余裕を持って受け止める。
 そしてそのままグスタフは意識を失った。





 魔法ギルドの戒律の一つに「党員の私闘を禁ずる」というものがある。一見当たり前とも言えるその戒律は、魔術への理解の深い者ほどその重要性を実感する。
 何故なら魔術師の戦いは、周囲を巻き込みかねない。むしろ巻き込むのが当たり前な広範囲に及ぶためだ。上位の魔術師が人災と呼ばれるのは、決して比喩ではない。

「要するに、迷惑だから暴れんなという事ですね」

 クロエの言葉に、ツェツィーリエはばつが悪そうに視線を逸らす。
 しかしその先に見えたのは、更地となったかつての森。二人の魔術師が大暴れした結果であった。

「……今日初めて、戒律を本当の意味で理解できた気がします」
「それは何より。三流魔術師なら理解しなくても問題無いのですが、ツェツィーリエさんは間違いなく一流ですから」

 年下の少年に戒められ、ツェツィーリエはそっと吐息をもらした。思いの外戦いやすく、調子に乗ったのは否めない。
 ツェツィーリエのような完全後衛型の魔術師の弱点は、詠唱が終わるまで無防備に近い状態になることだ。その問題に対処するために、魔術師は剣士を相棒にしたり使い魔を盾にしたりと試行をこらす。
 そういった意味で、クロエという存在は魔術師にとって反則に近い。無詠唱でも限定的に上位魔術すら防ぐ結界のエキスパート。本人は女神の盾を名乗っているが、最早その盾っぷりは万能の盾と銘打てるほど。
 現に魔術師としては格上のデニスを、まったくの無傷で撃退できたのだから。

「さて、放火魔も尻尾を巻いて逃げましたし、さっさとコンラートさんを追いましょう」
「協力してくれるのですか?」

 内乱に手は出せない。そう言っていたクロエの変化に、ツェツィーリエは疑問をもらす。
 するとクロエは、無表情に、だが少し嫌そうな顔で答えてくれた。

「イクサが絡んでいるのが確定した以上、神官として見逃せません」

 そして見逃すつもりもない。自分と兄の運命を歪めたあの男を。
 黒い瞳を闇色に沈めながら、クロエはツェツィーリエに気付かれないよう呟いた。



[18136] 五章 黄昏の王7
Name: ガタガタ震えて立ち向かい◆7c56ea1a ID:5fdb16cf
Date: 2012/09/03 12:40
 城壁を越え城へといたる道をコンラートは駆けていた。踏み慣れた石畳の道は進む度に軽い音を返し、このような状況でありながら王都で過ごしてきた日々を思い起こさせる。





 ドルクフォードという王は、ピザンらしいと言うべきか非常に気さくな王様であった。コンラートがただの子供であった時はもちろん、騎士として部下になっても気軽に声をかけてきた。
 それはコンラート相手に限ったことではなく、他の誰にだってドルクフォードは自然であった。

 白騎士と呼ばれ始めた頃に、ティアやリアと共に王宮の離れへ向かう所を偶然ドルクフォードに見つかった事がある。するとドルクフォードは、供の騎士を引き連れて、友人にでも会ったかのように話しかけてきた。

「白騎士三人が総出とは、うちの庭でどのような事件が起きたのだ?」

 聞かれた三人は揃って呆気に取られ、一番ドルクフォードに慣れていたコンラートはいち早く正気に戻ると、苦笑しながら答えた。

「事件も大事件。離れの塔の物置にて、夜な夜な怨霊が彷徨うているとの事です。獣のような声で恨み辛みを唱え、誰彼構わず冥府へ引きずり込まんと徘徊しているとか」
「ほう。それは確かにおもし……由々しき事態じゃな」
「ちょっ、本気にしないでくださいよ陛下。本当に怨霊なんて居るなら、あたしらじゃなくて神官呼んでますよ」

 さも大事であるかのように語るコンラートに、興味津々なドルクフォード。その様子に焦ったように、リアが口をはさむ。

「大体そんな与太話ほっといたら良いんですよ。なのにコンラートが調べるだけ調べようってきかないから」
「確かに与太話だろうが、使用人の一部が怯えているのも事実だ。何もないなら何もないと、俺たちが保証するだけで彼らも落ち着くだろう」

 思いのほか真面目に言われて、リアは決まりが悪そうに目をふせた。自分と同じく剣を振るしか能がないと思っていた男が、そこまで考えて行動を起こしたとは思っていなかったのだ。

「ふむ、ならばここは王自ら臣下の心の安寧をはかるべきか」

 その言葉にリアが呆気に取られ、ティアが苦笑し、コンラートはまた始まったと眉間を押さえた。

「大臣。午後の政務は遅らせて大丈夫か?」
「多少は融通がきくかと。後回しになって困るのは、今のところ陛下だけですな」

 ヴィルヘルムの前任であり白髭とあだ名される大臣は、穏やかな口調でそう言ってのけた。するとドルクフォードは、玩具を見つけた子供のような顔で歩き始める。

「そうか。では行くとするか。ああ、ぬしらも来い。白騎士三人でも護衛は十全とはいえ、仕事をせぬわけにもいくまい」

 自分がサボるのを棚に上げて言うドルクフォードに、お付きの騎士たちもやはり苦笑いで応じる。
 付き添いをしているだけあり、ドルクフォードの行動にも慣れているのだろう。

「……申し訳ありません。陛下の気を引くような言い方をすべきでは無かった」
「気にするな。我らを置いていかないだけ、今回はマシだ」

 謝罪するコンラートにも、気を悪くした様子もなく答える。
 どうやら置いて行かれる事が多々あるらしい。他の国なら責任者の首がとんでいる。

「ほれ、どうした。早く怨霊とやらの正体を拝みに行くぞ」

 子供のような王様に、騎士たちは皆笑いながら付いていく。
 もっとも怨霊が実在し、二百年に及ぶ悲劇と愛憎の結末を目撃する事になるとは、その場に居る誰にも予測できないことであったが。





「……ありえない」

 目の前の光景に、カールは意識せず呟いていた。
 ゾフィーが放った一閃は正に目にもとまらぬ一撃であり、斬られたはずのグスタフが投石機に乗せられた岩のように壁まで吹き飛ばされていた。
 何故剣で斬って吹っ飛ぶのか。斬って当然のように真っ二つになっても困るが、どのみちグスタフは生きているのか。
 自らの主の予想外の強さに、カールは感動など覚えずひたすら呆れていた。

「どうだ。うちの姫様は強いだろう」
「強すぎますよ!? 遅れてきた英雄を余裕で追い越して、伝説にでもなる気ですか!?」

 カールの叫びに、グスタフ配下の騎士たちも同意するように頷く。彼らからすれば、英雄に匹敵すると思っていた主が見た目可憐な姫君に倒されたのだから、さぞかし内心は複雑だろう。
 しかしそれも「ピザンだから」という誰かの一言で納得に変わる。

 ピザン王家は元は騎士の家系であり、民衆や騎士たちの支持を受け圧政から人々を救うために立った、いわば騎士たちの王なのだ。
 騎士の頂点に立つ騎士の王が最強でないはずがない。そんな摩訶不思議な認識がまかり通るのがピザンである。
 無論そんな国は大陸はもちろん世界中を探してもピザンだけであり、代々化け物を輩出している王家もピザンだけである。

「さて、そなたらの主は倒れたが、まだやるか?」
「やりませんやりません。やる気がないことくらい、さっきからグダグダしてるのを見れば分かるでしょうに」

 どうやら副官らしい騎士の言葉に、その場の空気がゆるむ。気づいてみれば、その場で剣を抜いているのは先ほどまで戦っていたゾフィーだけであった。

「やはり今回のことは、グスタフの独断か」
「そりゃ家臣一同止めましたとも。しかしそこで突っ走るのがローエンシュタインというか。……やっぱりお家とり潰しですかねえ?」
「潰すつもりは無いが、グスタフの他に有能な血族が居ないのが悩ましい。しばらくローエンシュタインには不遇の時代が続くであろう」
「寛大な処置に感謝いたします」

 臣下の礼をとる騎士にゾフィーはただ頷いて返した。
 そして広間の奥を見やると、無言で歩き出す。

「……身体強化か。何でもっと浸透しないんですかね。ダメ元で使ってみようとすらしないなんて」
「正確には使わないのではなく、使っているのに気づかないそうだ」

 呟きに明確な答えが返ってきて、カールは驚いて視線を上げる。するとゾフィーが悪戯に成功した子供のように笑ってみせる。

「不思議に思ったことはないか、コンラートやマル爺たちの怪力無双ぶりを。体格が良いというだけでは、あの馬鹿力は説明がつかぬ」
「そりゃあまあ……て事はまさか?」
「コンラートと並ぶ怪力で知られるロッド・バンスは、無意識に身体強化を行っている事が発覚し、魔術の習得にも成功したそうだ。彼らの多くが持つ無尽蔵の体力も、恐らくは魔力による補正が働いているのだろう」

 言われてみれば納得してしまう仮説であった。
 魔術師と並ぶ常識はずれな戦士たち。彼らも術とは別の形で魔力という力を行使していたのだろう。

「まあその辺りは、そのうち魔法ギルドが論文にでもするであろう。問題は、意識的に身体強化を使えるようになって、私はようやく英雄と並び立てたと言うこと」

 突き当たった扉を、ゾフィーは無造作に片手で押した。すると重厚な、見るからに重そうな扉が、それが己の役割であるかのようにゆっくりと道をあける。

「父上。王位をいただきに参りました」
「来たかゾフィー。我が娘よ」

 ゾフィーの言葉に、ドルクフォードは玉座に頬杖を付いたまま応えた。
 見た目は既に老体そのもの。しかしドルクフォードが閉じていた瞼を開いた瞬間、玉座の間を重圧が包み込んだ。
 探求王。キルシュ防衛戦が起きた時には既に全盛期をとおに過ぎていながら、自ら前線に立ち多大な戦果を上げリーメス二十七将に数えられた武の王。
 老人だからと言って侮れぬ。先ほどグスタフと戦ったときとは比べものにならないプレッシャーをゾフィーは感じていた。

「父上。最初に一つ問いを。何故ですか?」
「曖昧な問いであるな。聡明な我が娘らしくもない」

 そう言いながらも、ゾフィーの真意は伝わったのだろう。ドルクフォードは一つ吐息を漏らすと、ゆっくりと語り出した。

「何故かと聞かれれば、わしにも分からん。強いて言うならば、未来に恐怖した」
「未来に?」
「わしは賢者や預言者と呼ばれる存在に幾度も出会ってきた。だが彼らは助言や預言を明確な言葉にする事を嫌う。
 その意味を理解するのは多くの場合後になってからだった。あの言葉はそういう意味だったのかと、過ぎ去った過去を省みてようやく気づく」

 そこまで言うと、ドルクフォードは息をついた。
 そして謡うように、悲しげに言葉を紡ぎ出す。

「ピザンは二度王が変わりし後に滅ぶ」
「災いは不義より沸き立つ」
「生まれるはずのない赤子。それこそが世界を殺す悪魔の子である」

 語られた言葉は、最初の一つ以外は具体性に欠けその真意を読み取れない。

「異なる三人の預言者から、わしはそれを聞かされた。一見関係のない三つの預言。
 だが我が血に宿る宿命が訴えた。それらは決して無関係ではないと。
 そして我が身に宿る呪いが教えてくれた。過程を飛ばし、ただ一つの答えだけを」

 救いを求める罪人のように、怨みを残す咎人のように、ドルクフォードは震える声で言う。

「カイザー。あの子は悪魔の子だ。あの子の存在が世界を滅ぼす」



[18136] 登場人物設定等
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:64249a1b
Date: 2012/03/17 08:16
簡単な人物紹介。現時点で少しでも名前が出ている人間と、リーメス二十七将のみ。
一部悪乗りの産物なので本気にしないでください。

ピザン王国
・コンラート・シュティルフリート
 Conrad Stillfried
 白に近い金色の髪に琥珀色の瞳。並の男より頭一つ以上背が高く、手足も長い。三十路を越えて久しいそろそろ中年。
 ピザン王国の騎士。元は山村に住む平民であったが、戦功を評価され騎士に取り立てられる。シュティルフリートという姓は、騎士叙任の際にアルムスター公に送られたものだが、滅多に名乗らないので知っている者は少ない。
 国王直属の騎士ではあるが、騎士としての身分は下位である。
 なおコンラートは、作者が小説ドラゴンクエストのライアンが好きすぎて生まれたキャラである。

・リア・フォン・グラナート
Leah Von Glanert
 金色の髪を肩の辺りで切り揃えている。右目を負傷しており、瞼が半分までしか開かない。
 元々それほど美人というわけではなかったが、グラナート伯に見初められてから外見に気を使うようになり、その化けっぷりで周囲を驚かせた。
 コンラートと同じく、平民でありながら騎士に任じられた一人。前大戦の後にグラナート伯に求婚されグラナート夫人となる。
 蒼槍騎士団の副官の一人であり、団長であるクラウディオ王子の信頼も厚い。

・ティア・レスト・ナノク
Tear Rest Nanoch
 小麦色の肌に白い髪、赤い瞳を持つ。黒白赤という作中一二を争う派手カラー。
 出自のハッキリとしない平民騎士。コンラートやリアと合わせて、白騎士と呼ばれた(本来家紋・紋章を入れるべき位置が空白だったため)。
 王弟カイザーの専任騎士であり、教育係も勤めている。
 常識離れした瞬発力を持ち、コンラート程の実力者でもその動きは追いきれない。
 しかも人一人担いで数十キロ走っても息切れしないほどの体力を持つ。本人は人間だと主張しているが間違いなく人外です。

・ドルクフォード・フォン・ピザン
Dorcford Von Pisan
 ピザン国王。かつて大陸中を旅した経験を持ち、探求王と呼ばれる。
 赤い髪に紫の瞳。老いを感じさせない体格だが、皺はさすがに増えてきた。
 戦場以外での働きは地味だが、ピザンという大国を維持してきた手腕は確かである。
 大陸を旅した事実から分かるように、若い頃はかなりやんちゃだった。かつての仲間が今の爺臭いドルクフォードを見たら大爆笑必至である。

・クラウディオ・フォン・ピザン
Claudio Von Pisan
 ピザン王国第一王子。蒼槍騎士団団長を務める。
 赤い髪だが、目は王家の血が薄いのか碧眼。また作中のピザン一族の中で唯一の癖っ毛。
 王族でありながら気安い性格であり、よく平民の服装で城下を散策している。問題のありすぎる性格だが、武勇に優れており民の人気も高い。
 ティアに惚れており、コンラートと一緒によく求婚している。
 妻も子も居るのに自重しないのはさすが王族。というよりクラウディオ個人の性格。

・ヴィルヘルム・フォン・ピザン
Wilhelm Von Pisan
 ピザン王国第二王子。同国宰相を務める。
 赤い髪に紫の瞳。兄とは逆に瞳の紫が濃い。
 兄とは異なり武芸を苦手としており、その反動か頭がよく回り腹が黒い。
 妹第一主義。ゾフィーが止めていなかったら、兄弟喧嘩の延長でクラウディオを殺していたと公言している。

・ゾフィー・フォン・ピザン
Sophie Von Pisan
 ピザン王国第一王女。王女でありながら領地と騎士の位、伯爵位を持つ。
 赤い髪に紫の瞳。髪の長さは腰まであるが、騎士姿のときは後頭部で結上げている。
 文武に優れた才覚を見せ、次期国王として期待をされている。
 兄二人ほど傍迷惑な性格では無いが、一般的な王侯貴族に比べればフットワークが軽すぎるのは確かである。
 コンラートを騎士としてロックオン。マルティンはコンラートに胃薬を送る準備を始めた。

・カイザー・フォン・ピザン
Kaiser Von Pisan
 ドルクフォードの弟。十四歳にして、年上の騎士たちを圧倒する武芸の才を見せる。
 赤い髪に紫の瞳。ピザン王家の中でも特に髪が赤く、血の色に近い。従者のティアと合わせて派手カラー主従。
 本名はヴィルヘルム・フリードリヒ・カイザー・フォン・ピザンだが、第二王子と名前が被って紛らわしいのでカイザーの名がよく使われる。
 なお他の王族貴族にも一応長い名前はあるが、面倒臭すぎるのでゾフィー以外は決めてないし、どうせ出す機会も無い。
 ちなみにピザン王国の人間の名前はドイツ式で統一しているが、ピザン姓はフランス系。つまりドイツとフランスが混じって変な事になっているのだが、気にしてはいけない

・マルティン・フォン・ローデンバルト
Martin Von Rodenwald
 ゾフィー王女付きの騎士。背は普通だが横に広い。太っているわけではなくて単にでかい。
 白い髭を生やした見事なお爺ちゃんで、そろそろ引退を考えている。
 というか引退するつもりだったのに、お転婆王女のお世話役を言いつけられて十五年。
 そろそろ夜逃げも考え始める。

・アンナ
Anna
 ゾフィー王女付きの侍女。侍女ながら護衛も兼任する。
 金色の髪に薄い紫色の瞳。
 幼い頃からゾフィーと行動を共にしており、ジレントへの留学にも同行した。
 しっかりしているように見えるが、根は小心者。今日も王女に振り回されて涙目になっている。

・アルムスター公
Herzog Von Armster
 ピザン王国の公爵。諸侯の中でも大きな力を持つ三公の一人であり、国王を決める投票権を持つ七人の選定候の一人。
 コンラートと付き合いが長く、自身の息子を従騎士として預けるほど信頼している。

・カール・フォン・アルムスター
Karl Von Armster
 アルムスター家の次男坊。コンラートの従騎士として修行を積み、騎士に叙任される。
 金髪の短い癖っ毛。体格はそれほど良くなく、背もそれなり。
 同期の騎士の中では頭抜けた実力を持つが、本人は比較対象のコンラートが凄すぎたため、その事実にしばらく気付かなかった。
 世の強すぎる女性に戦慄を覚えている。

・フランツ・フォン・アルムスター
Franz Von Armster
 アルムスター家の長男。弟とは異なり、父に領主としての教育を受ける。
 金髪の長髪癖っ毛。背は高いが痩せ型で、見てると折れそう。
 本人は領主の重責に怯んでおり、それを隠すためかやけに芝居がかった言動で自身を鼓舞している。
 世の強すぎる女性に羨望を抱いている。

・パウロ
Paul
 フランツの補佐的な役割を担う。
 顔面が岩みたいな人。頭突きで敵の兜割ったとかいう逸話がある。
 というかドイツ風ならパウルじゃねえか。やってくれたなこの野郎。

・アルベルト・フォン・クレヴィング
Alvert Von Clewing
 三公の一人にして七選定候の一人。慎重すぎる上に臆病な性格であり、一部の貴族に侮られている。こういう人は追い詰められるとヤバイ。
 背が高くて痩せ型なひょろ長い人。コンラートと違って本当にひょろい。

・ローエンシュタイン公
Herzog Von Lohenstein
 三公の一人にして七選定候の一人。クレヴィング公とは逆に自らの地位を鼻にかけた言動が多く、一部の貴族に受けは良いが、逆に嫌っている者も多い。
 ちなみに七選定候の姓の頭文字を並べたら、Arcadiaになるようにするつもりだったが、ローエンシュタインの頭文字がRでは無くLだという事に登場させてから気付く。
 ローエンシュタイン一族が敵となった瞬間であった。

・グスタフ・フォン・ローエンシュタイン
Gustav Von Lohenstein
 ローエンシュタイン家の跡継ぎ。
 焦げ茶色の髪に碧眼。眉間に皺が標準装備。
 類稀な剣の腕を持っており、先の大戦に参加していれば確実に活躍していたであろうことから「遅れてきた英雄」と呼ばれる。

・マリオン・フォン・ヘルドルフ
Marion Von Helldorf
 ヘルドルフ伯。武勇に優れた家系として知られるが、マリオン自身は大した腕は持っていない。
 自らの兄の夫人を毒殺した疑いがある。

・ゲオルグ・フォン・ロンベルク
Georg Von Romberg
 ロンベルク候。各国に人脈があるが、それが逆にあだとなり進退窮まっている。
 太り気味。甲冑を着ている時にこけたら自力で起き上がれない。そのまま転がしたくなるのを家臣は必死に抑えているらしい。

・アルフレート・フォン・デンケン
Alfred Von Denken
 デンケン候。国王を決める投票権を持つ七選定候の一人。
 オールバックの茶髪に髭と地味系な外見だが頭はきれる。
 剣の腕はそこそこだが、軍略に明るい軍師系。でもやる気はあんまり無い。
 一人娘を溺愛しており、娘の話になると止まらない。篭城中に敵の軍勢に向けて娘自慢をかましたという武勇伝を持つ。

・ヨアヒム・フォン・アルダー
Joachim Von Alder
 アルダー候。七選定候の一人。
 長い金髪を後ろでまとめている。三公を除いた選定候の中で一番年下。
 背は低いけど何でもできるオールラウンダーな人。器用貧乏とも言う。
 本人もそれを自覚しており、四番手ぐらいで良いやと妥協している。

・テオバルト・フォン・アングリフ
Theobald Von Angriff
 アングリフ候。七選定候の一人。
 赤茶色の髪と瞳。岩のような体をしている。
 不言実行を信念にする寡黙な人。実際は単なる口下手。
 そのため妻に愛していると言ってと毎日のようにせがまれ困っている。リア充爆発しろ。

・ヴィルヘルミーネ・フォン・インハルト
Wilhelmine Von Inhalt
 インハルト候。七選定候の一人。
 波がかった銀色の髪を腿の辺りまで伸ばしている。かつて国中の男子を魅了した美女だが、そろそろ四十路。熟女イエーイ。
 現時点で七選定候唯一の女性領主。領主ではあるが、騎士では無いので戦は夫に任せている。
 婿養子の夫のこき使われっぷりに、家臣は涙を禁じずにはいられないとか何とか。

・デニス・モーガン
Dennis Morgan
 ピザン王国近衛騎士。騎士としての身分を持つが、その本質はカオス寄りの魔術師。
 魔法ギルドに所属していないはぐれ魔術師であり、魔術の使用に対する縛りが存在しない。個人の欲のために魔術を使い、その結果どのような災厄がもたらされようが気にしない。
 コンラートとはそれなりに付き合いがあった。ひねくれたデニスの相手をまともにする相手が他に居なかったとも言う。


ジレント共和国
・ミーメ・クライン
Meeme Klein
 魔女と呼ばれる魔術師。薬の製造の他、魔法学者としても名高い。あらゆる属性の魔術を操る事から「スペルマスター」とも呼ばれる。
 青い髪に青い瞳。外見はどこにでも居そうな普通の女性。
 一見人当たりの良い女性だが、身内以外には冷たい。
 本作のチートというか賢者的なポジション。彼女が出張ったら大抵の問題が解決してしまう。

・ミリア・F・サンドライト
Myria Frey Sandrite
 魔法ギルドの党首。ジレントでは魔法ギルドの党員が政治に強い影響を与えているため、実質的なジレントのトップ。
 見た目は上品な初老の女性。
 ミーメと個人的な親交があり、彼女に無理難題を押し付けられる数少ない人物でもある。

・フローラ・F・サンドライト
Flora Fin Sandrite
 魔法ギルド党首ミリアの娘。一見若く見えるが、十五年前の戦いに参加していたので結構いい歳。
 現在はジレント議会の議員の一人であり、家の権力を使って色々暗躍している。

・レイン
Rein
 ミーメに師事する魔術師の少女。魔術の才能はあるが、戦いには向いてないとはミーメの評価。
 金髪碧眼。魔法ギルドの党員の証である銀のサークレットをしている。母親は優しいたれ目なのに、自分はキツイつり目なのを気にしている。
 クロエとは憎まれ口を叩きあっているが、唯一の友と言っていい存在であり、よく分からない結婚の約束もしている。
 友達が少ない事が目下の悩み。

・クロエ・クライン
Chloe Klein
 ミーメの義理の弟。ジレントの国籍でありながら神官という、かなり珍しく物好きな少年。巫女に仕えた神官の血をひいており、実はかなりの重要人物。
 黒い肌に黒い髪に黒い瞳という黒尽くめ。中性的な顔立ちの上に髪も長いので、コンラートに女と間違われる。煙突みたいな黒い帽子がトレードマーク。
 一見礼儀正しいが、心を許すほど口が悪くなるという難儀な性格をしている。
 結界に関しては天才と言ってよく、奇襲でもしない限りクロエを殺せる人間は皆無と言っていい。

・ロッド・バンス
Rod Bans
 かつてリーメス二十七将に数えられた英雄。現在はジレントに仕えているが、実質的にはフローラの下僕。
 茶色い髪を全て後ろに流して縛っている。縦も横もでかい大男。筋肉で着ている服が弾け飛びそうになっている。
 コンラートと並ぶ怪力であり、大抵の事を筋肉でねじ伏せる。ちゃっかり初歩的な魔術も使えるが、筋肉の前では大した意味は無い。

・ツェツィーリエ・ケルル
Cecilie Kerll
 かつてコンラートを恐怖のずんどこに叩き落した侍女の娘。魔法ギルドの党員であり、その証である銀のサークレットを身に着けている。普段は大図書館の司書。
 緑色の髪を束ねて肩から垂らしている。女性にしては背が高いが、コンラートの側にいると低く見える相対効果に密かに喜んだらしい。
 妹のモニカを愛しているが、彼女の立場を考えどう接したものかと悩んでいる。
 名前がタイプし辛いので作者が大後悔したキャラ。
 土属性の魔術師だが「土属性って地味だよね」と言われるとキレる。地味系美人だが地味と言われるとやはりキレる。

・モニカ・ケルル
Monika Kerll
 ツェツィーリエの妹。その正体はピザン王国の前ヘルドルフ伯マクシミリアンの遺児であり、巫女疑惑ありという設定つきすぎて面倒臭い娘っ子。
 白髪に白銀色の瞳。肌も病的なほどに白い白尽くし。色的にクロエの逆バージョン。でも髪は染めて黒くなる。
 ぽやぽやした癒し系少女だが、たまに鋭くなり、ロケットダッシュで人の心の中に突撃をかます。大切なものは目に見えないというが、元から目の見えない彼女にそんな事は関係無い。
 コンラートが小説ドラゴンクエスト4のライアンの影響を強く受けているので、彼女は同作品の勇者ポジションと言える。


リカム帝国
・グリゴリー三世
Grigory
 リカム帝国皇帝。イクサの言いなりなため人形帝。傀儡帝と呼ばれる。
 紫色の髪に焦げ茶色の瞳。
 十五年前に即位するまでは、祖国を変えることに意欲を燃やしており、臣下の人気も高かった。

・イクサ・レイブン
Ikusa Reven
 リカム宮廷魔術師長。死者を操るネクロマンサー。
 灰色の髪に黒い瞳。見た目は完全に老人。
 アンデッドの軍団を操り、かつてキルシュを地獄へと変えた。
 十七年前までは普通の魔術師だったが、キルシュ防衛戦の最中に何があったのかネクロマンサーとなり、悪の魔術師の代名詞となる。

・サーシャ・カディロフ
Sasha Kadyrov
 リカム赤竜騎士団団長。赤竜将軍。
 長い金色の髪を三つ編みにしている。体格はそれなりで、一般的な女性と比べて背も高くない。
 リーメス二十七将イリアスの娘であり、その類稀な剣と魔術の腕で将軍の地位まで登りつめた。
 かつてグリゴリー三世に心酔した臣下の一人であり、彼を変えてしまったイクサを敵視している。

・セルゲイ・バイエフ
Sergei Baiev
 リカム青竜騎士団団長。青竜将軍。
 うねる黒髪。眠たげな茶色い目が印象的。
 リーメス二十七将ルスランの息子であり、サーシャとは幼馴染。その剣の腕と戦術眼、要領の良さで将軍の地位まで登りつめる。
 サーシャにある秘密を隠しており、その償いのために彼女を助けようと決意している。
 リカムに忠誠心があるわけでなく、イクサをどのようにして倒すか、サーシャとは違い現実的な視点で日々策を練っている。
 でも最終的にはサーシャを無理矢理さらって逃げようかとも思っている。

・レオニート・アニチキン
Leonid Anichkin
 リカム黒竜騎士団団長。黒竜将軍。
 黒髪を逆立てた初老の男。
 かつて鬼将と恐れられた、イヴァン・ウォルコフの親友。前大戦時には病のため参加しなかったが、戦後になり快復し将軍に戻る。
 リカムの将来を憂いており、無駄だと知りながら皇帝に奏上を続けている。

・ユーリー・ウォルコフ
Yuri Volkov
 リカム白竜騎士団団長。白竜将軍。鬼将イヴァン・ウォルコフの息子。
 銀髪に青い瞳。体格からして人外だった父とは異なり、普通の人間サイズ。
 自分が最も輝くのは戦場であると自負しており、強者との戦いに何よりも喜びを覚える戦闘狂。
 普段は落ち着いており、思慮深く部下の意見も聞く出来た人なのだが、戦場に立つともう手が着けられなくなる。
 前大戦の因縁から、コンラートを宿敵と見なしている。

・ニコラス
Nicholas
イクサによって生み出されたアンデッドの騎士。全身を黒い甲冑で覆っており、その容姿は隠されている。
 コンラートと比肩する力を持ち、アンデッド特有の捨て身の戦い方はニコラス自身の戦闘能力と合わせてかなりの脅威となっている。
 自身がアンデッドであることを忌みながら、それ故に手に入れた力を誇示するなど、イクサの人形ではなく内心に葛藤を抱えている。

・アースト・レイブン
Arst Reven
 イクサの下で暗躍する少年。暗黒魔術と召喚魔術を使いこなし、見た目は小柄ながら人外じみた身体能力を有する。
 クロエの双子の兄であり、容姿は瓜二つ。だが神官の弟に対し、悪の魔術師を地で行っており、その性質は逆といっていい。
 過去にクロエと命がけの死闘を繰り広げ、そして敗れた。クロエの歳に似合わない性格は、兄の裏切りによるところが大きい。

リーメス二十七将
1ベルベッド
Velvet
 魔闘士。青の調停者。
 謎の魔術師。度々戦場に現れてはキルシュに味方し、戦況をひっくり返した。
 主にイクサがアンデッドを放った戦場に現れたため、彼と何らかの因縁があったと言われている。
 その正体は調停者と呼ばれる神の使徒であり、世界の天秤を計り手たる預言者。終戦後に滅びの予言を遺し、己の弟子である魔女(Chaos)と神官(Law)に世界の調律を託すと姿を消した。

2ジョルジョ
Giorgio
 野牛。
 黒刻傭兵団団長。キルシュ防衛戦初期からキルシュ側に付いた義理人情に厚い将。彼を慕いイクサやロッドといった猛者が防衛に参加し、結果的に彼の存在が第一次キルシュ防衛戦を勝利に導いたといえる。
 しかし第一次キルシュ防衛戦末期に、黒狼傭兵団の団長と戦い相打ち、果てる。

3ロッド・バンス
Rod Bans
 鉄拳。
 黒刻傭兵団の団員。素手で鎧を裂くほどの腕力を誇り、巨人コンラートと並んで二十七将でも上位の怪力と言われる。
 第一次キルシュ防衛戦の途中から参加し、第二次防衛戦の終わりまでの間を生きぬいた。
 第二次防衛戦末期のキルシュ王都での戦いにおいては、フローラと共にリカム軍へ奇襲をかけ、ロランが皇帝を討つ機会を生み出した。

4フローラ・フィン・サンドライト
Flora Fin Sandrite
 ジレントの宝石。花姫。埋葬。
 キルシュ側を守るために立った義勇兵。魔法ギルド党首を代々務める一族の娘であり、現党首の長女でもある。
 土の魔術を得意とし、数百の兵を一瞬で生き埋めにしたという。またアンデッドが跋扈した第二次防衛戦においては、万を越える者たちをその偽りの生から開放したと言われる。

5イクサ・レイブン
Ikusa Reven
 ネクロマンサー。裏切り。蝙蝠。
 第一次キルシュ防衛戦にてキルシュ側につきながら、第二次防衛戦にはリカムの宮廷魔術師として参加した男。
 その強大な魔力でアンデッドの軍を操り、キルシュを地獄へと変えた。彼が裏切らなければリカムはもっと早く負けていただろうと、当事を知る誰もが口にしたという。

6ヴォルフ
Wolf
 野犬。
 黒狼傭兵団団長。キルシュ防衛戦にリカム側に初期から参加し、多大な戦果を上げながら同時に民衆を虐殺する暴挙に出た悪名高い男。
 第一次防衛戦末期に黒刻傭兵団の団長を打ち倒すが、自らも重傷を負い命を落とす。

7グリゴリー一世
Grigory
 虐奪帝。
 一代で周辺の小国家軍を統一し、リカム帝国を建国した皇帝。占領した国を徹底的に蹂躙したため、虐奪帝と呼ばれる。
 第一次防衛戦末期に狙撃を受け撤退。その後自軍の騎士の裏切りによってその生涯を閉じた。

8アレクサンドロス
Alexandros
 暴虐帝。禿頭帝。
 グリゴリー一世の後を継ぎ皇帝となった彼の甥。その容姿は醜く、人格的にも褒められた人間ではなかったという。
 有能であったが、自ら指揮をとった第二次キルシュ侵攻において討ち取られた。
 彼の死によってリカムは撤退。キルシュ防衛戦は事実上の終戦を迎える。

9ジャンルイージ・デ・ルカ
Gianluigi De Luca
 双槍。
 キルシュの将軍。それほど武名の高い者が居なかったキルシュ内において、二十七将に数えられる数少ない将。
 勝敗共にあれど大敗は無い無難な将。最終的に王都まで追い詰められるも、ピザン王国軍とローランド王国軍の一部が突撃するのを確認し、自らも手勢を率い特攻。結果彼の決断が連合軍に勝機をもたらした。 

10コンラード・マラテスタ
Conrad Malatesta
 隻眼。悲恋の騎士。
 戦争末期に頭角を現したキルシュの騎士。初陣を勝利で飾り、王都防衛では僅か二百の兵で南門を守り抜き、ピザン王国の援軍の到着まで持ち堪えた。
 類稀な美貌を持ち、模擬戦中の事故により片目を失った際には、その発端となった騎士がコンラードを慕う女性たちの報復を恐れて姿を眩ませたと言われる。
 兄ジュゼッペの下へ嫁いで来た女性イザベルと恋に落ちるが、それに気づいたジュゼッペの嫉妬によってイザベルは殺害され、コンラードは失意に堕ちる。
 その後終戦まで彼は戦い抜いたが、和平が成ると自らの刃で命を絶った。

11ドルクフォード・フォン・ピザン
Dorcford Von Pisan
 探求王。
 ピザン王国の王子。第二次キルシュ防衛戦に軍を率いて参加、その最中に父王が死亡したため後を継いでピザン王となる。
 二刀を振るい多くの敵兵とアンデッドを屠ったが、臣下はその姿に敬意を持ちつつも、前線へ出たがる王子の扱いに苦慮したという。
 戦術よりも戦略レベルでの戦場構築を得意としており、ピザンにキルシュほどの損害が出なかったのは、ドルクフォードの戦略眼のおかげだとも言われる。

12クラウディオ・フォン・ピザン
Claudio Von Pisan
 蒼槍。炎の将。赤い騎士の再来。
 ドルクフォードの長子。父が前線から退いた後は指揮を引き継ぎ、その気性と武功から炎の将と称される。
 ロードヴァント逃亡戦においてリカムの将イヴァン・ウォルコフに追い詰められるが、見事これを撃退し国境への撤退に成功する。

13コンラート・シュティルフリート
 Conrad Stillfried
 巨人。
 ピザンの騎士。並の男より頭一つ背が高く、片手で甲冑を着た兵を放り投げたという逸話がある。
 キルシュ王都での戦いにおいてリカムの将ユーリーと一騎打ちを行い、見事勝利する。またリカムの魔術師イクサと直接対峙して生き残った数少ない人間でもある。

14リア・セレス
Leah Celes
 死蝶。金獅子。
 ピザンの騎士。流れの傭兵であったが、クラウディオに見出され騎士に任じられる。
 キルシュ王都の戦いではコンラートと共にリカム軍へ突撃。皇帝を討ち取る隙を作る事に貢献した。
 後にグラナード伯と結婚する。

15マルティン・フォン・ローデンバルト
Martin Von Rodenwald
 ピザンの盾。
 ピザンの騎士。全身を覆う程の巨大な盾を持ち、その盾を使った突進は十を越える兵を吹き飛ばした。
 部下思いの将であり、第二次キルシュ防衛戦のロートヴァント逃亡戦において、負傷した三人の兵を担ぎながら山を越えたという。

16クラウス・フォン・ヴァレンシュタイン
Klaus Von Wallenstein
 不動。梟。
 祖父の代に爵位を失った没落貴族・リカムの将を単騎で討ち取り名を上げる。
 その活躍から爵位の返還も検討されたが、ロートヴァント逃亡戦において戦死する。

17ブラッグ
Bragg
 破壊槌。
 黒刻傭兵団の団員。ジョルジョが死んだ後に傭兵団をまとめる立場になったが、第二次防衛戦の末期、キルシュ王都の戦いにおいて、かつての仲間であるイクサの手にかかって死亡する。

18イヴァン・ウォルコフ
Ivan Volkov
 鬼将。白竜将軍。
 リカムの将軍。実直にして頑固とも言える性格であるが、部下たちの信頼は厚く、彼の指揮する部隊は士気が高いことで知られた。
 皇帝の起こした侵略戦争に疑問を持つが、それを押し殺し自らの役目に従事する。
 巨人コンラートを越える巨漢であり、その暴力の嵐の如き戦いぶりから鬼将と呼ばれた。
 ロードヴァントの戦いにおいて敗走するピザン軍を追討したが、クラウス、マクシミリアンとの戦いで傷を負い、その怪我が原因でクラウディオに遅れをとり命を落とす。

19ユーリー・ウォルコフ
Yuri Volkov
 リカムの銀狼。リカムの犬。白竜将軍。
 イヴァンの義理の息子。父であるイヴァンを尊敬しており、彼を手本とし騎士としての己を磨いた。
 キルシュ防衛戦には終戦間際に参加し、初陣を大勝で飾るが、その直後にイヴァンが戦死する。仇であるクラウディオと戦場でまみえ、それを討とうとするが、コンラートに阻まれ重傷を負った。
 その後すぐに戦線に復帰し、キルシュ軍を圧倒するが、ピザン軍との戦いではことごとく敗走を重ねた。

20マクシミリアン・フォン・ヘルドルフ
Maximilian Van Helldorf
 ピザンの剣。
 ピザン王国の伯爵。優れた剣の腕を持ち、キルシュ防衛戦では自ら前線で剣を振るった。
 少ない手勢でリカムの軍を手玉に取ったが、イヴァン・ウォルコフとの戦いで敗北、戦死する。
 コンラートの剣の師であり、一時期は彼の養育者であり保護者でもあった。
 子宝に恵まれず、伯爵家は甥が継ぐことになる。

21ウェンディ・ドゥーゼ
Wendy Duse
 狩人。千里眼。
 キルシュ防衛戦に初期から参加していた義勇兵。弓を得意とし、障害物さえなければ目視できる範囲の標的を確実に射抜いたという。
 第一次キルシュ防衛戦において、リカムの皇帝グリゴリー一世の右胸を射抜き、リカム軍を撤退させる事によりキルシュの危機を救った。
 だがその後行方を眩ませ、第二次キルシュ防衛戦には姿を見せず、イクサの裏切りと合わせてキルシュは再び危機に陥る事になる。
 その正体は不明であるが、キルシュの狩人、リカムに占領された国の騎士、リカムの虐奪帝の22(ヴェンティドゥーエ)番目の子等様々な噂が流れた。

22イリアス・カディロフ
Ilyas Kadyrov
 相反の騎士。
 リカムの将。リカムに占領された小国の将軍であり、故国の独立を条件に虐奪帝の下で剣を振るった。
 しかし同胞からは裏切り者とされ、リカムの者たちからも信用されず、ついには戦場で孤立。五百名の部隊は文字通り全滅する事になる。

23ルスラン・バイエフ
Ruslan Baiev
 裏切りの槍。
 リカムの将。リカムに占領された小国の騎士であり、リカムに忠誠を誓いながら虎視眈々と復讐の機会を伺っていた。
 ウェンディによってグリゴリーが狙撃された後、手勢を率いて皇帝の天幕を襲撃、復讐を果たすこととなる。
 しかしその後キルシュ軍の襲撃を受け手勢は壊滅。ルスラン自身は陣営からの逃亡に成功するが、後日ラース川の川縁で胸に矢が突き立った死体で発見される。

24アレクサンドラ
Alexandra
 焔姫。
 リカムの皇女。魔術師として優秀な才を見せ、第二次キルシュ防衛戦において従兄弟である皇帝の命で戦場へ赴く事となる。
 大魔術によりキルシュの千を越える将兵を焼き殺し、ピザンのクラウディオ王子を撤退させるきっかけを作った。
 フローラとの魔術の撃ち合いに競り負け捕虜となりかけるが、ユーリーによって救い出され帝都へ帰還。その後は戦場に出る事は無かった。
 歌劇などでクラウディオと不倶戴天の敵であるかのように扱われるが、彼らが実際に同じ戦場で見えた事は一度しかない。

25ロドリーゴ
Rodrigo
 癒しの御手。安らぎの祈り。
 キルシュに教区と領地を持つ大司教であり、同国の宰相も兼任していた。
 第一次防衛戦では政治家として戦うが、第二次防衛戦が始まりアンデッドが跋扈すると、自ら前線へ赴き死者の浄化を行った。
 ロドリーゴの派遣した神官たちにより、アンデッドへの対策が取られるが、それでも数の暴力には勝てず戦線の後退を余儀なくされる。
 王都防衛の際にもアンデッドの浄化のために戦線に立つが、イクサによって心臓を握りつぶされ絶命する。

26ジェローム・ド・ローラン
Jerome De Roland
 策謀王子。ハイエナ。
 ローランド王国の第一王子。父王の反対を押し切ってキルシュへと出陣し、その狡猾さと抜け目無さでリカムの軍勢を翻弄した。
 アンデッドが現れてからは国境付近にまで撤退し沈黙を保っていたが、キルシュ王都での決戦に突如駆けつけ、騎馬隊と共にリカム軍へ突撃し、皇帝を討ち取る決定的な隙を生み出した。
 戦果を見れば間違いなく英雄だが、その漁夫の利を得るかのような戦法のために彼を蔑む者も居る。

27ロラン・ド・ローラン
 Lorrain de Roland
 騎士の中の騎士。勇者。
 ローランド王国第二王子。兄ジェロームとは異なり、少ない手勢と共に前線で戦い続けた。
 キルシュ王都の戦いにおいて、圧倒的不利な中コンラート、リア、ジャンルイージ、コンラード、ロッド、フローラらと共に皇帝の下へと突撃する。
 この突撃はそれぞれが示し合わして行ったものではなかったが、兄ジェロームの援護によって奇跡的な連携を見せる。結果ロランは一人皇帝の下へ辿り着き、ついにこれを討ち取ることに成功した。
 戦争を終わらせた英雄としてロランは讃えられたが、ローランド王国への帰路の最中、何者かの放った矢によって命を落とす。早すぎる英雄の死に、国中が涙した。



[18136] 五章 黄昏の王8
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:d44a15db
Date: 2012/09/15 12:26
 世界が滅ぶ。
 おとぎ話でしか聞かないようなその危機は、実のところ幾度も世界を襲っている。

 五百年以上にも渡り戦乱が続き、女神教会も影響力を発揮できない西大陸。そこでは邪神や悪魔を崇拝する邪教徒たちが暗躍し、幾度も彼らの信仰する魔を現世に呼び出さんと儀式を繰り返している。
 遊牧民族が暮らし、大きな争いもなく平穏そのものの東大陸。その東大陸を東西に分断する黄泉の翼と呼ばれる断層は、七百年ほど前に邪神が蘇りかけた際の傷痕だという。
 そしてほんの数ヶ月前。南大陸はジレント共和国とカンタバイレ王国の国境にまたがる沈黙の森にて、神殺しの神具を巡り一組の兄弟が殺し合うという事態を女神教会並びに魔法ギルドが確認している。

 世界の危機は常にある。ならば何故それは今まで現実のものとならなかったのだろうか。

 闇があれば光がある。悪を行う者がいれば正義を成す者が居る。
 いつの時代、どんな場所にも、悪が蔓延ればそれを滅する勇者は現れる。そして彼らは、決して偶然その場に誕生するわけではない。

 調停者。
 神の使徒であるとされる彼らは、賢者や預言者として勇者に道を示し、時に様々な形で力を与える。
 世界が悪へと傾かぬよう働きかける、天秤の計り手。道に惑う人々を導く世界の牧者。

 だか一部の高位の魔術師、神官は彼らをこう呼ぶ。
 ――運命に縛られし者、と。





「カイザーが世界を滅ぼす?」

 訝しげな声はゾフィーのもの。彼女だけではない。後ろに並び立つ騎士たちもまた、揃って戸惑いの色を浮かべていた。
 その様子を見てドルクフォードはククと小さな笑いを漏らす。

「信じられぬか」
「……はい。むしろ父上の正気を改めて疑っています」

 気遣いも何もない娘の言葉に、今度こそドルクフォードは声をあげて笑う。その姿に人がよく聡明な王の面影はない。
 狂気。それがドルクフォードを蝕んでいるのは明らかであった。

「そうだろうとも。誰も、信じまい。だからわしはここまで追いつめられた。
 ――命限りある者。そのなんと愚かなことか」

 唐突に紡がれた言葉。聞き覚えのあるそれに、ゾフィーはまゆをひそめる。

「それは」
「歌劇に登場する妖精の言葉じゃが、なるほど限りある命はわしを愚かにした。
 わしは恐い。わしが死ねば誰もカイザーを本心から疑わぬだろう。残り少ない生の中で、己の使命を受け継ぐ者の居ないこの焦燥。未だ若いぬしらには分かるまい」

 ゾフィーは言葉に詰まる。未来など、運命など変えてみせると今のゾフィーならば豪語できる。十年後、二十年後に多くの経験を積み、現実という重みを理解しても言い切る自信はある。
 しかし、死の間際に希望の欠片も掴めない状態で、己の手の届かない未来に希望を抱けるだろうか。

「……そも、カイザーが世界を滅ぼすというのが馬鹿げています。あの子にそんな力があるはずが無い」
「ハッ、果たしてそうかな。わしはあの子が恐ろしくてたまらないぞ」

 ククと笑いながら、王は言う。
 そして徐に立ち上がる。話は終わったとばかりに、どこからか取り出した二振りの剣を手に、玉座から降りてくる。

「ゾフィーよ。なるほどわしは狂うておるのかもしれぬ。だが止められぬ。この狂気を止めるには、もはやカイザーを殺すより他に無いのだ。あの子を殺さねば、わしは安らかに眠ることすらできぬ」

 そして現れる黒騎士たち。王の影から、柱の影から、黒い絵具が染み出すように滲み出でる。

「アンデッド。父上、やはりあなたはリカムに……イクサに国を売ったのですか!?」
「それで世界を救えるならば、わしは祖国を質に出そう」
「黙れ! もはやあなたは王ではない!」

 激昂し、ゾフィーは剣を抜いた。

「全員抜刀! 死に損ないどもを駆逐せよ!」
「了解!」

 主の命を受け、それまで事の成り行きを見守っていた騎士たちがゾフィーに並び立つ。

「父上。あなたの狂気はここで止める!」

 ゾフィーが叫ぶと同時、広間を風が支配した。
 原因はドルクフォードへ向けて駆け出したゾフィー。地がはぜたのかと思わせる勢いで走り出した彼女は、そのまま空間を切り裂きドルクフォードへと肉迫する。
 風すらも後に従う刹那の進撃。それにドルクフォードは、老いた英雄は、当然のように反応してみせる。
 しかし疾風の一撃は、守りを容易く凌駕した。

「ぐぬぅっ!?」

 苦悶の声を漏らしたのはドルクフォード。防いだはずの剣戟は、ドルクフォードの剣を押し返し、体はぬいつけられたかのように地面へと固定される。

「ハアッ!」
「ぬぅ!?」

 動きを封じられたドルクフォード。そこへゾフィーは容赦なく追撃を加えていく。
 それにドルクフォードは遅れることなく反応してみせる。しかしその体はやはり老いたもの。重すぎる一撃に体が圧され、徐々に崩れていく体勢。

「おのれ!」

 しかし探求王の名は伊達ではない。左の剣で攻撃をいなしながらの右の連撃。二剣を使ってのお手本のように研ぎ澄まされた技術がゾフィーを襲う。

「遅い!」

 だが相手は探求王の娘。老獪なる王の技巧の結晶ともいえる一撃を、魔力で強化された力と速さで打ち落とす。

「ぬはぁ!?」

 そして攻めも守りも突破したゾフィーの剣が、老いた王の体を玉座の下まで吹き飛ばす。誰の目から見ても、勝敗の行く末は明らかであった。

「もはやあなたは私一人すら卸しえない。……認めてください、父上。」

 命じるような、懇願するような、様々な思いののった言葉だった。
 ゾフィーにとって父は全てにおいて完璧な人だった。王として、人として、父として、尊敬の念を抱かない方がおかしい英雄だった。そんな父が、自分のような小娘に膝を屈している。
 自分などに負けないでほしかった。
 最後まで完璧な王で居てほしかった。
 勝手な願いとはいえ、ゾフィーは父の姿に失望せずにいられなかった。

「……やっぱり強すぎる」

 一方カールはドルクフォードを容易く圧倒したゾフィーに、改めて畏敬の念を強めていた。
 師であるコンラートも底の見えない強さであったが、カールは彼が本気で戦うところを見たことがない。果たして全力ならばどちらの方が強いのか。
 ありえない妄想を、顔に出さず内心で笑う。コンラートとゾフィーが全力で戦うことなどまずないだろう。コンラートは既にゾフィーに剣を捧げることを誓っているのだから。

 王が屈し、呼び出された四体のアンデッドも数に押されて倒れ始めた。カールが出しゃばらずとも、戦いはそう経たない内に終わるだろう。

 戦いは呆気なく終わった。

 そして始まったのは、一方的な蹂躙であった。

「え?」

 黒い影が視界を横切った。
 沼の底からさらいだしてきた泥のようなそれは、尾を引きながら鳥のように中空を飛び回っている。その影がカールの体をすり抜けた。

「うわ!?」

 突然のそれに反応すらできず、遅れてカールは自分の体を確認する。しかし行動を起こす前に、カールは膝から崩れ落ちた。

「あ……?」

 自分の足を見下ろして、カールは間の抜けた声を漏らした。
 崩れ落ちた膝は、そこから先が無かった。足甲は万力で挟まれたみたいにひしゃげていて、その中身はもっと酷い。
 裂けた肉は潰れた柘榴みたいで、突き出した骨はささくれだった枝のよう。獣だってもう少し上品に食いちぎるだろう。そう思わせるほどぐちゃぐちゃだった。

「あ……ぎぃ、ああああーーーー!?」

 そんな惨状を目のあたりにして、ようやく気づいたみたいに痛みが押し寄せてきた。
 痛い。痛くてたまらない。なのにその痛みが強すぎて、どこが痛いのかすら分からない。

「き゛ゃああ!?」
「腕が!? う、腕ーーーー!?」

 気づけば広間は血に染まっていた。先ほどまでアンデッドを駆逐していた盛強な騎士たちが、手足を失い人形みたいに転がっている。
 しかしそんな血の海の中に立つ人影を見つけ、カールは涙で濡れた視界でそれを見た。

「……」

 剣を構え、ゾフィーが一人影と対峙していた。襲いかかる影を剣で打ち落とし、払い、避けている。
 なすすべもなく倒れた騎士たちを思ってか、歯を食いしばりながら、ゾフィーは影に向けて剣を振り続ける。

 何でそんなわけのわからないものに立ち向かってるんですか。
 普通逃げるでしょ。
 もういいから逃げてください。

 そう言いたいのに、口から漏れるのは意味をなさない呻きだけ。
 痛みで流れた涙に悔しさが混じる。

 幾度打ち合ったのか、ゾフィーの剣が甲高い悲鳴みたいな音をたてる。限界を越えた剣は根元から折れて弾き飛ばされ、ゾフィーを守る盾が無くなる。
 だがそれでもゾフィーは諦めなかった。折れた剣を捨て、体勢を低くすると襲いかかる影を避ける。

 避ける避ける避ける避ける避ける。
 牛を手玉にとるマタドールのように、紙一重で影の突進から逃れ続ける。
 しかし限界はすぐにきた。もとより甲冑を着た状態で、燕を思わせる影を避け続けたのが異常だったのだ。
 壁際に追い込まれ、体勢を崩し、身動きがとれなくなったところで、ゾフィーの体を影が貫く。悲鳴もあげずに、ゾフィーは穴の空いた自らの体を押さえながら倒れた。

「ゾフィー様!?」

 瞬間、役目を放棄していた喉が叫びをあげていた。
 何かを考える前に、無事な腕を使って血の海の中を這っていた。

 足が無い? それがどうした。
 ゾフィーは体のど真ん中を抉られたのだ。どう考えたって致命傷だ。
 早く、早く助けなければ。足なんてくれてやる。だから、だから何としてもゾフィー様を。

「……ほう。新兵が、恐慌をおこして当然の状況で、自らの命より主を案じるか」

 聞こえてきた声に、カールは体が鉛のように重くなるのを感じた。
 カールだけではない。広間全体が海の底にでも沈んだみたいに、圧迫と息苦しさを感じさせる。

「まるであの時の小僧のようではないか。クカッ。つまらぬ童を弟子にとったと思うていたが、なるほど見る目がないのはわしの方であったか」

 知っている。知らないけど知っている。
 カールは知らない。知っているはずがない。
 だけどまともな人間なら本能で知っている。
 ――この男が悪であると。

「だがな童。無茶無理無謀で他者を救えるのは、英雄だけだ。おまえには何も救えぬよ。わしが手を振るだけで、貴様は蟻のように潰れて死ぬのだから。クカカカカカッ!」

 そう笑いながら、声は影を振り下ろした。



[18136] 五章 黄昏の王9
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:303fc4af
Date: 2012/10/31 16:48
 ガンと、岩でも殴ったような音が響いた。
 立っている者のいない血塗れの玉座の間の中に、いつの間にか現れた男が二人。

 一人は長い灰色の髪を垂らした魔術師の老人。悪名高いリカムの宮廷魔術師長にして、リーメス二十七将に数えられたネクロマンサー――イクサ・レイブン。
 一人は長剣を携え、斧槍を構えた長身の男。白騎士と呼ばれ、リーメス二十七将に数えられた巨人――コンラート・シュティルフリート。
 かつて一度だけ対峙した二人の「英雄」がそこに居た。

「……」

 ゆっくりと、コンラートは周囲を見渡した。
 ドルクフォードが倒れている。玉座にもたれるように、縋るように。
 カールをはじめとした騎士たちが倒れている。手足をもぎとられ、壊れた人形のように。
 ゾフィーが倒れている。あの騎士姫が、ただの力無き姫君のように、体を穿たれて。

「イクサァッ!」
「クカッ。十五年ぶりだな小僧。このタイミングか。このタイミングで来るか! 相も変わらずの英雄様よ!」

 憎悪。嘆き。憤怒。激情を込めて咆哮するコンラート。
 期待。享楽。歓喜。目と口を大きく開き嘲笑うイクサ。

 振り下ろされる腕。それに呼応するようにコンラートへと襲いかかるは、音速の影。

「フゥー……ハァッ!」

 コンラートは手にした斧槍を構える。息をつき、間を置いて振り下ろされたはずの斧槍は、しかし音速の影の襲撃を凌駕し神速の断頭台の刃となって影を叩き落とす。

「落とすか! 我が謹製の使い魔を!」

 イクサが手を振れば、さらに影が現れる。その数は五。ほぼ同時にコンラートへと襲いかかる。
 だが見えている。音速の影をコンラートの眼は確かに捉える。
 刃がバラけた鋸のような腕を持った小人。その存在の希薄さからして、実体を持つのは鋸の部分のみ。

「……フッ」

 見えているのならば、やることは一つしかない。息を吸い、少しだけ吐き出すと、呼吸を止めて斧槍を振りかぶる。

 袈裟懸けに振り下ろした斧槍が影を二つまとめて吹き飛ばし、勢いを殺さず背後へと振り上げられた瞬間、いつの間にか回り込んでいた影を跳ね飛ばす。

「……ハァッ!」

 そして振り上げられた斧槍が一時止まった後、地面へと振り下ろされ、瞬く間に再び背後へと一閃された。

「……凄い」

 その姿を、カールは呆然と見上げていた。
 自分たちが対応すらできず、ゾフィーすら追い込まれた影を木の葉でも払うように撃退する師の姿。
 自分の師はやはり英雄だと感動し、今の有り様を忘れそうにすらなる。

「よく頑張ったカール殿。後は俺に任せ休むと良い」

 場にそぐわない、優しい声だった。そしてその声に合わせるように、広間の床から光が立ち上る。
 太陽を思わせる暖かな光。それに包まれてカールは眠るように意識を失った。





「かたじけない。クロエ殿」

 突如発生した光の渦は、血塗れの床を滑るように移動し、倒れていた騎士たちを包み込んでいた。
 治癒の魔術。そうあたりをつけたコンラートは、それを成したであろう神官の姿を見つけ、謝意を述べる。

「……久しぶりです。私の魔力が尽きそうになるのは」

 いつの間にか広間の入口に居たクロエは、相変わらずの無表情で言う。しかし冗談めかしたその言い方からして、言葉の意味は本位ではないのだろう。
 知れば知るほど内面がひねくれているのが分かってくる。中々厄介な性格の少年だとコンラートは苦笑する。

「ツェツィーリエも、助力感謝する」
「当然の事をしただけです」

 クロエの隣に居るツェツィーリエに礼を言うと、どこか誇らしげな言葉が返ってきた。
 こちらはこちらで、本気でコンラートの従者をやるつもりらしい。
 まったくもって己は運が良い。

「クカッ……クカカッカッカッカッ!」

 不意に、狂った笑い声が響いた。

 三人が同時に視線を向けたそこには、玉座のそばに立つイクサの姿。
 上半身だけを抱えるように曲げ、何かを押さえるように両手を巻き込みながら、大口をあけて壊れた歯車のような笑い声を漏らしていた。

「おまえが、おまえが来るか。今日は何という日だ。吉日か。なあ、テラス・レイブンよ!」
「……私をその名で呼ぶな」

 今まで聞いたことのない声だった。
 意図的に殺意をのせたわけでもない、感情を排したわけでもない、ただひたすらに冷たい声だった。

「カカッ。失敬、今はクロエ・クラインと名乗っていたか」

 イクサの言葉を聞きながら、コンラートは先ほどのやりとりを反芻していた。
 テラス。それは恐らくクロエの本来の名なのだろう。そしてレイブンという姓。
 その姓を持つ者はこの場にもう一人いる。

「コンラートさん」
「む?」

 コンラートの思考を遮るように、クロエが声をかける。その顔は相変わらず無表情ながらもふてくされたようであり、先ほどのような冷たさはない。

「このヒーリングフィールドは本来最高位の治癒魔術なのですが、 私が使ったのでは重傷者の命をつなぎ止めるのが精一杯です。何より王女殿下は術を止めたら死にかねません」

 坦々と語られたそれに、コンラートは慌てて倒れ伏したゾフィーを見やった。するとそんなコンラートの反応を予期していたかのように、クロエはゾフィーのそばへと移動していた。

「私は治癒に専念します。……貴方は勝てますか? イクサに」

 クロエの言いたいところを理解し、コンラートは渋面を作る。
 回復も戦闘も等という器用な事は、いかなクロエでも不可能。
 彼はいざとなったら見捨てると言っているのだ。騎士たちも、ゾフィーすらも。

「……クロエ殿」
「はい」
「ゾフィー殿下を頼む」
「……はい」

 絞り出すように言った言葉に、クロエはしばしの迷いをもって答えた。
 気づいたのだろう。いざとなればイクサや己の命すらも後回しにしてゾフィーを守ってほしいという、コンラートの思いに。

「ツェツィーリエ」
「はい」
「付いて来るなと言った手前勝手だが、助力を請いたい」
「もちろんです」

 こちらは微笑みで応えてくれた。
 相手はたった一人で戦局を塗り替えた、リーメス二十七将に数えられた者の中でも最強に近い魔術師。同じ二十七将でも、下から数えた方が早いコンラートでは、一流の魔術師が味方でも勝機はないに等しい。
 それでも、ツェツイーリエはそれが当たり前であるかのように、コンラートの後ろに侍るように並んだ。

「クカッ。気の早いことだ。小僧。おまえがわしを倒せるとでも? そんな事はできぬし、やる意味も無い。何しろわしよりも先に貴様は退治せねばならぬ『敵』が居るだろう」

 愉しげに、笑みを浮かべて言うイクサ。その言葉の意味が分からず、所詮狂人の言う事と気にせぬようにと自身に言い聞かせるコンラート。しかしふとイクサの側で動くものを見つけて、すぐにその真意を知る事になった。

「さあ、そろそろ目は覚めたかドルク。ぬしならできるはずだ。運命を踏破すると誓い、その生涯をもって戦い続けてきたぬしならば!」

 期待するように、言い聞かせるように言葉を紡ぐイクサ。そのイクサの言葉に応えたかのように、それまで力なく項垂れていたドルクフォードの体が持ち上がった。





「先生? 何してるんですか?」

 ジレントの首都ランライミア。その中央街の宿屋へと師を訪ねてやってきたレインは、魔女の工房と化していた部屋が少しだけ、本当に少しだけ片付いているのを見て疑問の声をあげた。
 相変わらず大量の本は本棚に納まりきらず溢れ出しているし、天井から見た事も無い植物やら生物の干物がぶらさがっているが、床が見えているだけでずいぶんと片付いているといえるだろう。
 何せこの師は、自分の部屋の片付けはできても工房の片付けはできない。部屋の大きさに対してものが多すぎるので、いくら片付けてもすぐに溢れ出すのだ。
 そんな師の工房が、比較的綺麗になっているのを見てレインは驚いたわけだが、当のミーメは気にする様子も無くお茶の準備などを始めている。

「今日はお客さんが来るのよ。だから少しくらいは綺麗にしておかないと」
「……ここに呼ぶんですか、お客さん?」

 何というチャレンジ精神だろうかと、レインは呆れてみせる。
 本が溢れているのはまだいい。奇妙なキノコがぶら下がっているのも、まあまだ許せるだろう。
 だが蝙蝠なのか鼠なのかそれとも実は猿なのか。魔物と言われれば納得してしまいそうなナマモノがぶらさがっているのは駄目だろう。まともな神経をしている人間なら、入った瞬間に後ずさりしてそのまま部屋を出て行くに違いない。

「魔女としての私に用があるのだから、仕方が無いでしょう。それに知り合いだから大丈夫よ」
「知り合いですか?」
「レインも知ってる子よ」

 そう言われてレインは首を傾げた。魔女に用があるようなお客は、ミーメから「子」と呼ばれる程度の年齢でしかないらしい。
 魔女の客に来る子供。そんな知り合いは居ただろうかと悩むレインだったが、答えは突然現れた。何の前触れも無く、ドアを開け放って。

「お邪魔するぞミーメ殿!」

 元気よく挨拶をしながらも、挨拶の前にドアを開け放つ無法者。一体誰だと視線を向けたが、その正体にレインは呆気にとられる。

「ふむ。レイン・フィール・サンドライトも居たのか。久しいな」

 そう言ってニヤリと似合わない笑みを浮かべるのは、レインとそう変わらない歳の少女。
 肌はこの大陸では珍しい褐色で、腰まで届く髪は闇を溶かしたような黒。そして自信に溢れ輝きを放つ目は、これまた夜のような漆黒だった。
 自身の友人にどこか似た、だが内面はまったく似ていない少女を見て、レインは半ば叫ぶように声をあげていた。

「な、何であんたが此処に!?」
「何って商談だが? 私の実家が何をしているのか、忘れたわけではあるまいレイン・フィール・サンドライト」
「一々フルネームで呼ぶな!?」

 会うなり喧嘩……というよりレインが一方的に突っかかっているだけだが、ともかく微笑ましいやりとりをする二人にミーメはクスリと笑う。それに気付いたのか、レインは一旦矛先を収めると、自らの師に詰め寄るようにして問いかける。

「先生どうしてカムナが居るんですか!?」
「どうしてって、商談よ。私の薬の製法をカムナに教えて、売りさばいてもらってるの」
「はい!?」

 まったく知らなかった事実に、レインは本日何度目か分からない驚きの声をあげた。
 ミーメの魔女としての技術、所謂ウィッチクラフトは、ミーメの一族が細々と伝えてきたものだ。確かにそこいらの薬よりは強力だが、その製法を赤の他人に教えたあげく、売りさばく事まで許可するとは。弟子でありながらウィッチクラフトについては一切教えられていないレインからすれば、驚天動地の出来事であった。

「その薬だが、丁度大陸の南の方では風邪が流行っているそうでな、売れに売れているぞ。カンタバイレの商人共も歯軋りしている事だろうな」
「……何で先生の薬が売れたらカンタバイレの商人が悔しがるのよ」

 まったくついていけない話題ながら、疑問に思ったことをぶつけるレイン。するとカムナは「ふむ」と顎に手をあてると律儀に説明をしてくれる。

「元々薬の分野は、カンタバイレのノートン大学と、スポンサーとなっているフート家が独占していてな。他の商家は参入しても旨みが無いので、ここ五十年ほどはその状態が続いている」
「じゃあ何でアンタは参入したのよ」
「レイン。よく効いて安い薬と、あまり効かなくて高い薬。商人が売れて嬉しいのはどちらだと思う?」
「そりゃ高いほうが……ってまさか」
「そのまさかだ。長く一家が一つの分野を独占していると、腐り果てるといういい例だな」

 そう言ってニヤリと笑うカムナ。要するに、この少女は不正がまかり通っている商業ルートに正道から殴りこんだのだ。

「……アンタ恨まれるんじゃないの?」
「ふっ、向かってくる根性があるならば、表も裏も叩き潰してやるまでだ。我がフェンライト家、既に大陸の西部は掌握しているに等しい。いずれ全土に進出するだろう」

 さらりと大陸制覇宣言をするカムナに、レインは驚くよりも呆れた。
 自分よりも一つ年下のこの少女は、どうやら自分の家どころか他の商家も制御下に置いているらしい。彼女の親が無能だったのか、それともカムナが優秀すぎるのか。あまり認めたくは無いが、間違いなく後者だろう。

「ところでクロエはどこかな? この街に滞在しているはずだが」

 一転黒い笑みから可愛らしい笑みに変わるカムナ。それを見てレインは確信した。
 当主自らわざわざ説明に来るまでも無い商談の話しにきたのも、商談に来たのに肝心のミーメとあまり話していないのも、全て本命のついででしか無いためだと。

「クロエならついさっき転移でピザン王国まで飛んで行ったわよ」
「何と!? クッ、さすがに転移を使われると情報収集が追いつかん」

 悔しそうにテーブルに手をつくカムナ。その様子をレインはハッと嘲笑う。

「相変わらずのストーカーっぷりね。クロエに嫌われるわよ」
「嫌われてもクロエに尽くせれば満足だ。私が実家に力をつけさせたのも、クロエの後ろ盾となるためだしな」
「……その行動力だけは凄いと思うわ」

 そしてそれは、単なる色恋沙汰だけが原動力では無いのだろう。
 見た目から分かるとおり、カムナはクロエと同じ黒き民。その聡明さを買われ、フェンライト家に迎え入れられた養子だ。
 黒き民というのは同朋意識が強く、例え他人であっても長らく苦楽を共にした家族や友人であるかのように助け合う。
 本当の家族に裏切られたクロエからすれば、カムナという少女は救いともなっているのかもしれない。

「しかしピザンか。もしや件の白騎士の……?」

 不意に言葉を止めたカムナ。訝しげにレインとミーメは視線を向ける。

「く……アアアアァァァァッ!?」
「え? ちょっと、どうしたのカムナ!?」
「顔がどうかしたの!?」

 突然。カムナは顔を両手で覆って蹲った。その様子に、レインはうろたえながらも声をかけ、ミーメも治癒呪文の発動準備をしながら歩み寄る。

「ああ……目が……」
「……目?」

 言われて見てみれば、カムナの両手は確かに顔では無く目に当てられていた。余程痛むのか、いつも余裕綽々と言った態度を崩さない少女が、外聞も取り繕わずにのたうちまわっている。

「どういう……ことだ……ミーメ・クライン?」
「……え?」

 今の状況にミーメがどう関っているのか。疑問に思うレインだったが、ガバと顔を上げたカムナを見て、その異常に目を奪われる。

「この時代に……生まれるはずが無い。居るはずが無いのに!?」

 友人と同じ、夜を宿したような漆黒の瞳。しかし今そこにあるのは、血のように赤く染まった赤色の瞳だった。





「……」
「……? どうしたのティア?」

 宿の一室。カイザーはお茶を入れていたティアの動きが止まったのを見て、何かあったのかと声をかけた。
 ティアはしばらく呆けたように動かなかったが、しばらくすると見慣れた笑みを浮かべてカイザーに答える。

「いえ、今日のお茶のお供は何にしようかと思いましたので」
「何だ。それならこの間にレインが作ったクッキーでいいんじゃない? クロエが手伝ったおかげで、何とか食べられるものになってたし」
「ではそうしましょうか」

 そういって微笑むと、一旦その場を離れるティア。ドアを抜け、静かに閉めたところで、片手で顔を覆うとゆっくりとその場に座り込んだ。

「……慣れませんねこの痛みは」

 右手に覆われた瞳。その色はいつもと変わらないルビーのような赤色。

「ドルク。あなたなのですか?」

 静かに放たれた問い。それに答える者は居なかった。



[18136] 五章 黄昏の王10
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:303fc4af
Date: 2012/11/01 23:27

 そこに在ったのは、たった一つの異常だった。

 先ほどまで打ち捨てられた骸のように玉座にもたれていたドルクフォード。老いさらばえ、娘に敗れた無様な王。その王が身動ぎをすると、己の体の調子を確かめるように何度かその手を握る。
 様子がおかしい。それは誰の目にも明らかだった。

「……これが力か。イクサ」

 そう呟くように言うと、ドルクフォードはゆっくりと立ち上がった。

「そうだ。かつて私が欲し、そしておまえが四十年前に拒絶した力だ」

 対するイクサは、それまでの狂人めいた笑いが嘘であったかのように、感情を押し殺した、どこか威厳すら感じさせる真剣な顔で答えた。

「運命を踏破するものに与えられる力。今のおまえならば神すらも打倒できよう。さあ、あらゆるものを切り捨てて進むと良い。汝が真の敵を滅ぼすために!」

 己の手を眺め、ドルクフォードはゆっくりと頷いた。そして動いた。

「な……」

 地を蹴る様子は無かった。足を前に出す予兆すらなかった。だというのに、ドルクフォードは一瞬にして加速し、常人の目に留まらぬ速さで広間を横切る。

「……かせん!」

 だがそれを、コンラートは神速の斧槍の一撃でもって押し止めた。ギンと金属の打ち合う音が広間に鳴り響き、火花が宙を彩る。
 コンラートは何とかドルクフォードの歩みを止めながらも、目の前の光景に驚愕した。
 とっさの事とはいえ、全力で放った斧槍は打ち負け、弾かれた。踊る火花の向こうには、だらりと二振りの剣を持ったドルクフォードの姿。ようやく気付いたとばかりに向けられた視線に、コンラートは背筋が凍る思いをする。

 道端の石ころでも見るような、無情な目だった。かつて騎士の位を剥奪された時にも見なかった、己の存在を否定するかのような冷たい瞳。そしてそれ以上の異常がコンラートを釘付けにした。
 ピザン王家の人間特有の、アメジストを思わせる紫紺の瞳が消え失せていた。
 赤。コンラートの思い人と同じ、ルビーを思わせる赤色がそこにあった。しかし見慣れたはずのその色の何と不吉な事か。
 床を濡らす血よりも赤い。この世にこれ以上鮮やかで、見るものを恐れさせる赤色が存在するのだろうか。

「邪魔だ……コンラート!」
「ぬぅっ!?」

 跳ね上げるように、無造作に、ドルクフォードは両手にぶらさげた剣をコンラートへと見舞った。避けられないと判断したコンラートは、叩きつけるように斧槍で迎撃するが、結果はまたしても同じ。斧槍は打ち負け弾かれ、当然のように剣を振りきるドルクフォードの姿が合った。

「ぐっ……」
「去ねい!」

 さらに放たれる剣戟を、コンラートは必死に持ち直した斧槍で受け流す。否、受け流す事しかできなかった。
 片手で振るっているはずの二刀の、何と重いことか。コンラートほどの怪力をもってしても、油断をすれば持っていかれると確信させる。

 一体ドルクフォードに何が起こっているのか。ティアを髣髴とさせる人外の如き動きに続き、コンラートを圧倒する力。キルシュ防衛戦で活躍した十五年前でさえ、これほどの力をドルクフォードは持っていなかったはずだ。
 いや。そもそも十五年前の時点で、ドルクフォードは齢五十を越えていたのだ。全盛期よりは衰えていたに違いない。もしかすれば、全盛期のドルクフォードはティアの如き速さと、コンラートに比肩する力を持っていたのかもしれない。
 しかし、だとしても、何故今のドルクフォードがその力を発揮できているのか。

「陛下! これ以上何をしようというのですか!?」
「カイザーを殺す。邪魔立てするな!」

 ドルクフォードが言うや否や、嵐のような剣戟が襲ってきた。瞬く間に放たれた十をゆうに越える斬撃は、外から見れば壁のような質量をもってコンラートへと襲い掛かる。
 それをコンラートは斧槍の矛先で弾き、柄で受けてやり過ごす。しかしとても捌ききれる数では無く、致命傷こそさけたものの幾つかの剣戟が浅くコンラートの体を切り裂いた。

「それは……予言とやらが関係しているのですか!?」
「その通りだ。あの子は世界を滅ぼす。故に殺さねばならぬ!」
「そうならぬよう、見守り、導く道もあるはずです!」
「そうするには、わしの時間はあまりにも短い。わしがあの子にできる事は、殺してやる事だけなのだ!」

 身勝手な。そう叫ぶ事もできず、コンラートは再び放たれた剣戟の嵐へと立ち向かう。
 しかしそれは何と圧倒的な暴力か。とてもではないが、小回りのきかない斧槍では防ぎきれない。
 そう判断したコンラートは、斧槍を捨てて腰の長剣を抜き放った。

「それは下策だ。コンラート!」

 ドルクフォードが言い放つ。そしてその言葉の通り、コンラートのとった行動は誤りであった。

「なっ……!?」

 キィンと澄んだ音をたてて、長剣は半ばから折れた。切れ味は二の次の、頑丈さだけが取り柄の剣は、ドルクフォードの持つ細身の剣にあっさりと打ち負けたのだ。
 剣を失い無防備なコンラート。そしてドルクフォードは、そのコンラートへと無慈悲に打ちかかる。

「――打ち砕いて!」

 しかしそこへ救いの手が現れる。それまで二人の戦いを見守っていたツェツイーリエが、横合いから魔術を叩き込んだのだ。
 言霊に応えて現れたのは、人一人ならばたやすく飲み込むであろう巨岩。それが隕石を思わせる速度でドルクフォードへと襲い掛かる。

「ぬるい!」

 目の前の光景に、コンラートとツェツィーリエは目を疑った。
 ドルクフォードに迫る巨岩。しかしドルクフォードが剣を振り上げ、振り下ろしたそれだけで、巨岩は真っ二つに割れて標的の側を素通りしてしまったのだ。
 魔術を斬る。いくら何でもありえないにも程がある。

「……カッ!」
「きゃあ!?」
「なっ!?」

 そして一瞬にしてツェツィーリエへと接近すると、柄で彼女の頭部を殴りつけた。
 力なく地面に崩れ落ちるツェツィーリエ。その姿に肝が冷えたが、どうやら気絶しただけらしい。
 だが安堵はできない。一流の魔術師であるツェツィーリエは、常時その体を障壁で鎧っているはずだ。殴られた程度で、昏倒するはずが無い。

「……この剣は今では伝説となったドワーフの手によって鍛えられ、我が友にして最高の神官ロドリーゴによって祝福儀礼を施された、現存最強の聖剣。例え魔術師であろうとも、この聖剣ある限りわしは殺せぬ」

 ああ確かに。昔まだ小間使いとして城に居た時に、そんな話を聞かされた事があった。
 子供相手の戯れだと思っていたのだが、まさか本当だったとは。なるほど我らが王は、思っていた以上に「英雄」だったらしい。

「そしてその槍も、現存する中では最高位の魔槍だ。どこで手に入れたのかは知らぬが、手放したのは失策であったな」

 驚く事に、コンラートが先ほどまで振るっていた斧槍も、ただの斧槍では無かったらしい。一体ティアはどこからそんなものを持ってきたのやら。本当に謎だらけの女性だ。

「さて、おぬしの負けだコンラート。敗者は道を開けよ」
「……まだ負けてはおりませぬ」

 言ってコンラートは折れた剣を構え、魔槍を拾う隙を窺う。

「……そうか」

 だがあっさりと、ドルクフォードはコンラートの内へと踏み入った。

「……が……ふ」
「気付いておらなんだか。己の体がいつもより動く事に。魔槍の補助が無ければ、おぬしはわしと打ち合うことすらできぬ」

 気づかぬ内に、ドルクフォードの聖剣が鎧の覆っていない腹部を貫いていた。
 なるほど。イクサの使い魔の動きがやけによく見えたり、ドルクフォードの人外めいた動きを見切れたりと、やけに冴えているとは思っていたが、まさか魔槍のおかげだったとは。

「私は……いつも……肝心な所で足りませぬな……」
「……眠れ、コンラート。ここからの戦いに、供は要らぬ」

 そう言うと、ゆっくりと聖剣が腹から引き抜かれた。





「……クソッ!」

 苦戦するコンラートを見て思わず漏れた弱音に、クロエは内で己を罵倒した。
 コンラートを守ると誓いながら、まったく守れてなどいない。傷付いた人々を助けたくとも、己の治癒魔術では足りない。
 もし騎士たちを見捨てて参戦したとしても、その時はイクサが動くだろう。イクサと自分では、いくらやりあってもあいこで終わりだ。現状を打破するには至らない。

 治癒魔術を苦手とする。神官としては致命的とすら言えるその欠点を、クロエは類稀な結界の腕と格闘術で補ってきた。だがそんなものは、今は毛ほどにも必要とされていない。
 何故自分はいつも足りないのだろう。いくら頑張っても、必要とされるものは手に入らない。他人の力を借りなければ歩く事すらままならない。
 いっそ才など無ければよかった。そうすれば、夢の残骸を抱えて平凡な生を送れただろう。
 だがそうするには、クロエは賢しすぎ、弱すぎて、頑固だった。
 今更変える道など己には無い。歩みを止める事など、最初から許されていない。
 やるしかない。例え無理だと分かっていても、道理を蹴倒して進むしかない。

「……随分とはりつめた顔をしているな」

 不意に聞こえて来た声に、クロエはハッとして視線を向けた。

「子供の内は、もっと気楽に生きた方が良い。失敗した責任など、大人がとるものだ」

 意識を失っていたはずのゾフィーが、仰向けに倒れたままクロエを見つめていた。しかしその発言に、思わずクロエはムッとしてしまう。

「私はもう十五です。そうでなくとも、神官として認められ、司教に任命された責任がある」
「カイザーの一つ上か。あの子に見習わせたい勤勉さだな。上辺だけで、あの子は本質が暢気すぎる」

 確かに。そう思いクロエは一連の騒動に巻き込まれるきっかけとなった少年を思う。
 あのお気楽王子の事だから、今頃面倒事は他人に押し付けて、自分は紅茶を片手に甘味を貪っている事だろう。そう考えると、友人と認めていても腹が立ってくる。

「……貴女が王になったならば、カイザー殿下には地獄すら生温い激務をお与えください」
「そのつもりだ。手綱をよく握っておかないと、うちの男共は揃って働かぬ。……ヴィルヘルム兄様は別だが、あの人は別の部分に問題がありすぎる」

 そう言って笑うゾフィーだが、その顔には少なからぬ苦悶が混じっていた。怪我の度合いを考えれば、話しているだけでも苦痛だろう。

「単刀直入に聞く。私は助かるか?」
「……人間内臓が一つ二つ無くても生きていけます」
「……そうか」

 要は内臓を一つ二つは諦めろという事だろう。どこが駄目なのかは分からないが、クロエの思いつめた顔からして軽いものではあるまい。

「……クライン司教だったか。一つ頼みがある」

 そう言うと、ゾフィーは一振りの剣を手繰り寄せた。





 ざあざあと音がする。
 雨か、波か、それとも風に揺れて擦れ合う木の葉の音だろうか。ざあざあと寄せては引いていく音は、次第に遠くなっている気がする。

 ふと己が己である事に気付いた。
 自身の手すら見えない闇の中、ぽつんと一人立っている自分が居た。

 ここは何処だろうか。こんな所で立ち止まっている暇は無い。早く行かなければ。

 ――何処に?

 浮かんだ疑問は、己の存在を揺るがす毒であった。
 何処へ行けばいい。何をすればいい。何を成せばいい。
 ――どうせいつかは死んでしまうのに。

「……おれは」

 己の名を呼ぼう。己の道を思い返そう。
 そうすれば、見えてくる道があるはずだ。
 そう誰かが言った気がした。





 コンラートという男の最初の記憶は時計塔だった。
 山奥の、寂れた村には不似合いな、首が痛くなるほど見上げてようやく頂上の見える、石造りの時計塔。それを眺めながら、農具の手入れを手伝っていたのが最初の記憶。

 コンラートに親は居ない。ふらりと村に現れた男が、知り合いだという村の老婆に頼んで置いていった、何処の子とも知れぬ孤児。その事をコンラートは不幸だと思った事は無いし、己を捨てたのであろう親を恨んだ事も無い。

 村の人々は純朴で、優しかった。年老いた老婆には子供の世話はきつかろうと、皆でコンラートの世話を焼き、生きる術を教えた。
 元々寂れた村には大人しか居らず、一番若い隣人の青年も三十を越えていた。だからコンラートは、村の皆から可愛がられ、期待された。

 痩せた土地しかない村ではろくな作物が取れず、日々の糧は痩せた土地でも育つ味気無い豆と、時折大人たちが狩ってくる兎や鹿といった肉であった。
 コンラートは幼い頃から弓を引き、罠のはり方を覚えて村のために働いた。幼いコンラートは獣の気配を気取るのが上手く、すぐさま村一番の狩人となった。そんなコンラートを見て、大人達はこの子は森の妖精から授けられたに違いないと言い、コンラートもその言葉をまんざらでも無い思いで聞いていた。

 しかしそんな日々を、炎が焼き尽くした。

 リカムとキルシュの戦争が始まって間も無い頃、村をリカムの兵たちが襲った。
 どうやら傭兵、しかも敗残兵であったらしい彼らは村を襲い、略奪し、それだけではあきたらず火をつけた。
 逃げ惑う人々は嗜虐の笑みを浮かべた傭兵達に殺され、立ち向かった男たちも皆殺された。

 幼いコンラートは、その時には大人と遜色無い体格となっていたが、相手は戦いの専門家であり、何より数で勝った。
 手斧を片手に傭兵達に襲い掛かったコンラートは、二、三人の傭兵を殴り倒したところで、あっさりと切り伏せられて地に伏せた。

 コンラートの記憶はそこで途切れている。次に目覚めたときには、コンラートは見た事も無い真っ白なシーツに包まれて、これまた触った事のない柔らかなベッドの上で寝かされていた。
 周囲の人に話を聞けば、どうやらそこはピザン王国の王都シュヴァーンの修道院らしい。何やらやたらと気をつかって説明してくれる神官にコンラートは首を傾げたが、しばらくして自分を助けたという人が現れて神官の挙動不審ぶりは最高潮に達した。

「ふむ。目が覚めたか」

 現れたのは、赤い髪に口髭を生やした初老の男だった。どうやら偉い人らしく、着ているものの生地は上等なもので、穏やかな態度の中にも気品のようなものが感じられた。

「すまなかったな。もう少し早く行ければ、村の他の者達も助けられたかもしれんのだが」

 そう言って謝る男を、コンラートはただぼうっと見ていた。

「折角助けたのだ。生活の目処が立つまでは私が面倒を見よう。その先どうするかは、ゆっくりと考えると良い」

 そう言って去っていった男が、この国の王子様だと知ったのはそれからすぐの事だった。
 王子様の割には老けてるな。コンラートが最初に思ったのはそんな事だった。





 生家は代々続く騎士の家系だった。だがそれをありがたいと思った事は一度も無いし、貴族の義務とやらには辟易していた。

 俺は頭はそれほど回るわけではなかったが、こと戦いに関しては天賦の才を天から与えられたらしい。同年代の子供の剣など止まって見えたし、国一番の騎士とやらの剣も、体が追いつけば避けられそうだなと、子供ながらなめた事を考えていた。
 しかしその武を誇る機会には恵まれなかった。
 初めての試合。父が俺に命じたのは「わざと負けろ」という一言だった。
 相手は父の上司の子。恥をかかせるわけにはいかないと、己の子供に親の都合を押し付けた。

 結論から言うと、俺は負けてなどやらなかった。
 結果俺は父に意識を失うほどボコボコに殴られ、他の貴族から白い目で見られることとなった。慣習を守れない愚物。そんな所らしい。

 それから俺は腐った。生魚もビックリな速度で腐り果てた。
 強くなろうと努力しても、その成果を見せてはならないとなれば、何のために強くなれというのか。もし戦になったとしても、俺はあんな理解不能な連中と轡を並べ、越え太った無能な王様のために戦わなければならないのだ。そこにどんな栄光があるというのか。

 そうやって腐ったまま大人になり、妹が正式に家を継ぐ事になると、俺への嘲笑は強まった。
 それでも良かった。妹は真面目で頑固な所があったが、俺と違って我慢すべき所は我慢できる「大人」だった。面倒臭い立場を押し付けた申し訳なさはあったが、俺にはできないことだと言い訳した。

 そしてその戦は起こった。
 悪魔と契約した狂王が、世界を相手に戦争をしかけた。各国は愚かな王を誅伐せんと、一斉に兵を差し向けた。

 結果は惨敗。魔王と化した王の配下たる魔物たちに、軍はことごとく敗れ去った。
 そして凡愚な俺は最前線に向けられた。皮肉な事に性根が腐っても才は腐らなかったらしく、俺は戦いの中で戦技を磨き、生き残った。最前線の、壊滅した部隊の中で生き残ったのだ。
 そんな絶望的な状況の中だった。
 あいつと出会ったのは。

 ……って、オイ。
 これはおまえじゃ無くて俺の記憶じゃねえか。





 誰かに呼ばれて、コンラートは我に帰った。
 そして惑う。己は一体誰なのかと。

「まったく。あっさり死にかけるからそんな事になんだよ」

 誰も居ないはずの闇の中、誰かの声がした。
 振り向けば、一人の男が居た。赤い髪に紫紺の瞳。甲冑を身に纏い装飾の施された剣をぶら下げた、誰かに似た騎士。

「貴方……は?」
「誰だって? 俺と違ってそれなりに頭回るんだから、気付いてんじゃねえのか?」

 そう言って騎士は不適に笑った。
 確かに、予想はついている。しかしそれはありえない。ありえてはならないのだ。

「それは置いといて。何気ぃ失ってんだおまえは。このままあいつを行かせる気か」
「……しかし」
「気を張れ。落ちる意識を根性で無理矢理繋ぎとめろ。最期にトチ狂ったが、良い王様だったんだろう? だったら止めてやらねえと駄目だ」

 言い聞かせるように、羨むように騎士は言う。

「ほら、構えろ。『俺たちの剣』が来るぜ」

 そう言うと、赤い騎士はコンラートの背をトンと押した。





「コンラートさん!」

 聞き慣れた、中性的な声がコンラートの意識を引き戻した。
 同時にコンラートは折れた剣を捨て、右手を無造作に、確信を持って伸ばす。
 飛来するのはS字型の鍔のついた、幅広の剣。クロエが投げたその剣は、まるで最初からそこにあるのが正しかったかのように、コンラートの手の中へと吸い寄せられた。

「その剣は!?」

 正面に立つドルクフォードの顔が驚愕に染まる。しかしそれも一瞬。死に損ないにトドメをささんと、嵐の如き剣戟の群が襲い掛かる。

「ふぅ――」

 その剣戟をコンラートは見据える。
 見えている。先ほどまで壁にしか見えなかったその剣戟の一つ一つが見える。
 故に、打ち払う事も不可能では無い。

「――ハアッ!」

 剣を振るう。上から、横から、下から襲い掛かる剣戟に合わせて、我武者羅に剣を振る。

「なッ……ぬぅ!?」

 驚愕は一瞬。すぐに冷静さを取り戻したドルクフォードが距離を取る。
 だが行かせない。これ以上はやらせない。
 コンラートは右手に剣を握り締め、己が全力でをもって駆けた。
 貫かれたはずの腹に力がこもる。腹だけでは無い。右手に握り締めた剣を通して、全身に燃えるような力が漲るのを感じる。
 まるで剣に宿る英霊たちが力を貸してくれているように、コンラートはこの瞬間人を越えた者と並び立った。

「オオオオォォォォッ!!」

 雄叫びを上げながら追いすがり、コンラートは剣を振り下ろす。
 ドルクフォードの聖剣がそれを阻む。しかし聖剣はコンラートの剣に打ち負け、高い音を立てて地に転がった。





 ――静寂。
 広間は沈黙に満たされ、ただ息をつくコンラートだけが音を発しているようだった。

「……その剣が、何故ここにある?」

 静寂の中、ドルクフォードがコンラートの手の中を見て言った。

「……この剣は、カイザー殿下から託されたものです」
「そうか。このような形で、わしを越えるか……カイザー」

 コンラートの答えに、ドルクフォードはふっと息をついた。
 その体を走る傷は深い。どうあっても、助かることは無いだろう。

「前言を撤回しよう。その剣は騎士の剣。持ち主が公正にして高潔なる騎士である限り、折れる事も欠けることも無い……神話の時代から受け継がれた、現存最高の聖剣」
「これが……」
「おぬしがその聖剣の主となるか。なるほど、因果とはかくも……」
「陛下!?」

 膝をついたドルクフォードにコンラートは駆け寄る。しかしドルクフォードは片手を上げてそれを制した。

「他の剣ならばまだしも、その剣で斬られたならば我が身を滅ぼすのに余りある。口惜しい。カイザーの事だけが心残りだったというのに」
「……私が居ります」

 コンラートの言葉に、ドルクフォードはゆっくりと顔を上げる。

「私だけでありませぬ。陛下にはゾフィー殿下。クラウディオ殿下とヴィルヘルム閣下。優秀なお子が三人も居られるではありませぬか。カイザー殿下一人、卸しきれぬはずがない」
「……そうか。そうであったな。老いては子に従え。ただそれだけの事であった」

 何を一人から回っていたのかと、ドルクフォードは笑う。

「しかし人とは欲張りよな。カイザー以外にも、もう一つ心残りがあることに気付いた」
「何か?」
「親馬鹿と言われるかも知れぬが、どんなに優秀でも親は子が心配なのだ。我が子らは、これからの世を生きぬけるであろうか」

 言いながら、ドルクフォードは視線をコンラートへと向ける。それでけで言いたい事を察したコンラートは、膝をつき笑って言った。

「私がお支えします。私だけでなく、この国は多くの臣下に恵まれております」
「……そうさな。アルムスターの倅たちは先が楽しみであるし、クレヴィングもここぞという所で目を開きおった。ローエンシュタインはちと心配ではあるが、デンケン候が居ればそう悪い事にはなるまい。まこと頼りになる者たちばかりだ」

 そこまで言うと、ドルクフォードはジッとコンラートを見つめる。

「その中でも、わしが最も頼りとした騎士がおぬしだった」
「陛下……?」

 ふとコンラートは異常に気付いた。
 ドルクフォードの体が透けていく。まるで氷が水に溶けていくように、徐々にその姿は薄くなっていく。

「陛下!?」
「うろたえるな。これが堕ちた者の末路。死体など遺す意味も無い」
「イクサですか? やつが陛下の体を!?」

 コンラートの言葉に、ドルクフォードは首を振った。

「アンデッドになぞ、死んでもなってやるものか。――命限りある者、その何と愚かな事か。だが限りあるからこそ命は尊い。限りあるからこそ人は足掻く」
「父上……」

 いつの間にか、ゾフィーがコンラートの隣に立っていた。傷付いた体に息をきらせながら、父の最期に目を揺らがせている。

「ゾフィー……わしは王としては無難にやってきたつもりだが、果たして父として良い親であったのか」
「……他の誰かが父ならば、私はこれほど自由に生きられませんでした。貴方は最高の王であり、自慢の父です」

 その言葉を聞いて、ドルクフォードはくしゃりと顔を歪めて笑った。

「ハハ……自由か。やはりまだまだ視野が狭い。世界は広く、多くの驚きに満ちている。この広大な大陸ですら、世界の一部でしかない。その一部を見る事ができたのは、わしの人生の宝だ」

 それはかつて世界を旅した探求王の本心だろう。男なら、男でなくとも冒険に憧れるもの。それをこの老人は成し、紆余曲折の果てに王となった。

「王になど……なるものでは無い。……可愛い娘よ。もしも許されるのならば……王では無く人として……」

 それは王としてでは無く、父としての願い。
 娘へ叶わぬ願いを告げながら、探求王はこの世から姿を消した。



[18136] 五章 黄昏の王 終局
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:f288fbc0
Date: 2015/09/04 00:29
「つまらん」

 酷く不快な声が言った。
 同時に向けられた視線の先には、玉座の隣に佇むイクサの姿。皺だらけの顔に無という表情を貼り付けて、今しがたドルクフォードの消え失せた場所を見下ろしていた。

「……イクサ」
「つまらん。つまらんよ。四十年。あのドルクが、誰よりも強く傲慢な英雄が、己の無力さを思い知り人ならざる力を求めるのを、四十年もわしは待ったのだ。また貴様か。十五年前のように、貴様が全てを台無しにするか、小僧ォッ!」
「ぐぬっ!?」

 イクサが激昂すると同時に、その体から溢れ出す魔力が巨大な暴風となってコンラートたちに叩きつけられた。ただそれだけで、コンラートはたたらを踏み、かろうじて立っていたゾフィーはその場に膝をついていしまう。

 十五年前?
 確かにコンラートは十五年前にイクサと対峙している。しかしその時コンラートは一方的に敗北し、イクサに傷一つ負わせる事ができなかった。
 そんな状態で、一体何を台無しにしたと言うのか。

「父を……狂わせたのは貴様か!?」

 コンラートが思いを巡らせている一瞬の後、ゾフィーが立ち上がりイクサへと向かう。するとイクサは新しい玩具を見つけたかのように、それまでの怒りの形相をゆるめ、ゾフィーを嘲弄する。

「クカッ。わしはこの国で少し遊んだだけよ。新しい手駒を試す機会も欲しかったのでな。しかし思いの他この国の者たちは愚かであった。不死をくれてやる。その一言で一体どれほどの人間がわしに膝をついたと思う?」
「遊んだだと。……私たちの国で、遊んだだと!?」

 ――ふざけるな!

 咆哮と同時、ゾフィーが駆ける。手に父の遺した聖剣を手に、憎き魔術師目がけて飛ぶように迫る。
 そして突き出された聖剣が老いた魔術師に届く刹那、闇が沸き立つ溶岩のように噴出した。

「――ガッ!?」
「ゾフィー様!?」

 その闇の奔流を受けて、ゾフィーが弾き飛ばされる。コンラートは慌ててゾフィーを受け止めるが、大砲のように打ち出されたその体は勢いよくコンラートを巻き込み転倒する。

「ぐ……」

 その衝撃で、コンラートは腹部の痛みに悶絶した。今まで忘れていたというのに、一度自覚したそれは地獄の責め苦のようであった。そして思い出す。ゾフィーもまた腹に風穴が開いていたという事を。

「ゾフィー様。傷が……」
「……傷はクライン司教が塞いだ。問題無い」

 苦悶の声を押し殺し、ゾフィーはそう言い放つと立ち上がった。だがそれがやせ我慢である事は明白で、青ざめた顔からは汗がとめどなく溢れていた。

「本当に塞いだだけですよ。中身がかき混ざって愉快な事になる前に、他の神官に視てもらって下さい」

 今にも倒れそうなゾフィーを両の手で支えるコンラート。そんな二人を庇うように、小柄な影が進み出た。

「……クロエ殿」
「まったく。師からも聞いていましたが、ピザン王家の人間は、揃いも揃って無茶をする」

 背を向けたクロエの顔は見えない。しかし笑っているのだろうとコンラートには分かった。

「……これは?」

 ゾフィーの声につられて視線を前に向ければ、イクサの居た場所……ドルクフォードが消えたその場に、黒い穴が開いていた。
 ぽっかりと宙に開いた穴は、光という存在を知らないかのように暗く、歪で、底なしだった。まるで臓腑を煮詰めた悪魔の鍋のように、不気味に蠢いている。
 その穴を認めた瞬間、コンラートの中を虫が這い回るような悪寒が走った。

 アレはダメだ。
 この世にあってはならない。
 塞がなくてはならない。
 己が身など省みず。
 身命を賭して閉じねばならない。

「……それは私の役目のようですね」

 その言葉にハッとした。
 覚えの無い使命感に駆られ、駆け出しそうになっていた何者かは消え、ただのコンラートがそこに居た。

「クロエ殿……これは?」
「異界への孔。どこの世界かといえば、どう見ても天界ではありませんし。魔界……でしょうね」

 魔界。
 千年前の戦いで破れた魔の者どもや邪神が封じられた、光の欠片も差さない闇の世界。
 そんな場所と、アレは繋がっているというのか。

「調停者をこのような形で使うとは、人を越えた者の執念の恐ろしさか」
「調停者……? いや、あれをどうにかできぬのか?」
「閉じる事自体は私にも可能ですが……揺り戻しでかなりの規模の空振が置きますね」
「空振?」
「空気が揺れるんです。自然現象の空振なら精々建物が揺れる程度ですが、この場合揺れる程度で済んでくれるか……まあ私が何とかします」

 それまでの葛藤は何だったのか、クロエはあっさりとそう告げた。
 それがまるで諦めを含んでいるようで――

「……クロエ殿!」

 ――震えた、すがるような声で、コンラートは背を向けた少年の名を呼んでいた。

「何ですか? ああ、危険ですからコンラートさんはゾフィー様を連れて脱出を……」
「俺は友人を見捨て逃げるつもりは無い」
「……」

 コンラートの言葉に、クロエの肩が震えた。
 歳に似合わぬ強さを持ってしまった、孤高の少年の体が揺れた。

「……」

 少年は何も言わない。ただ何かに耐え、拒絶するように背を向け続ける姿は、まるで泣いている子供のようで。

「……まったく。ここに残ったところで、魔術師でもない貴方にできることなどありませんよ」
「な!?」

 クロエが杖を軽く振ると、幾重もの魔術式が飛び交い血塗れの床に魔方陣が描かれる。そして次々と消えていく倒れていた騎士たち。転移魔術。そうあたりをつけながらも、コンラートは理解ができなかった。
 いくらクロエでも、このような大魔術を詠唱も無しに行うのは不可能なはずだ。この人数を転移させられるなら、苦手だという治癒魔術で命を繋いだりする必要が無いのだから。

「急を要するので座標は姉さんの側を指定しています。姉さんは独特の価値観で動く人ですが、さすがに目の前に瀕死の人間が転がってたら治癒くらいはしてくれるでしょう」

 だというのに、事も無げにクロエは言った。

「……何故?」
「さあ、何故でしょう」

 そう言いながら、クロエは落ちていた二振りの聖剣を拾い上げると、目の前の孔など見えていないかのように颯爽とコンラートの――支えられたゾフィーの前に跪く。

「ゾフィー様。父君の形見の片割れをお借りすることをお許しください」

 そう言うと、一振りの聖剣を、ドルクフォードの残した剣を恭しくゾフィーへと捧げる。戸惑いながらもゾフィーはそれを受け取った。

「クライン司教……そなたは一体……」
「私は代理人です。かつて我が師や貴女の父君が選ばれたように、今は私がそうなってしまった。そしてきっと、次は貴女なのでしょう」
「……!?」

 そう言って微笑むクロエの顔を見て、コンラートとゾフィーは息を呑んだ。
 夜の闇を宿したようなクロエの瞳。その瞳が澄み渡る空のような青色に染まっていた。
 色こそ違えど、それはまるでドルクフォードに起きた異変と同じようで、言い知れぬ不安を二人に感じさせる。

「……クロエ殿」
「コンラートさん。俺は死にません。だから……」

 言いかけて、クロエは言葉に詰まったように口を閉じた。

「……だから、また会って話をしましょう」
「……ああ。また会おう」

 その言葉を最後に、コンラートとゾフィーの姿が揺らぐ。地に描かれた魔法陣の輝きに導かれ、二人は闇が濃くなっていく城から消え去った。






「ああ、まったく。お人好しにも程があるよコンラートさんは」

 一人残された少年は、笑いながら一人ごちた。

 嘘をついた。生き残れる確率など零に等しいのに、死なないなどと言い切った。
 
「……」

 無言で黒い孔を睨む。光すら拒む闇の奥は見通すことはできない。しかし今のクロエには見えていた。その深淵に居る者が不適に笑うのを、ただ恐怖に耐えて見返していた。
 このままではこの孔を閉じることはできない。孔の底でこちらを見上げている奴をどうにかしなければ、むしろこのまま広がり続けこちら側を侵食してしまうだろう。

「荷が重い。これ絶対私じゃなくてコンラートさんかゾフィー様の『役割』だろ」

 愚痴りながらも、クロエはドルクフォードが残した聖剣を握りなおし歩き始める。
 死ぬのは恐くない。そんな上等な感情を抱けるような生き方は許されなかった。
 だがそれでも、無責任に命を捨てるには抱えたものが多すぎた。

「さて、ちょっと世界を救いに行きますか」

 散歩にでも行くような気楽さを装い、軽い口調でそう言うと、クロエは黒い孔の中へ、奈落の底へと身を投げた。






 コンラートたちが城から退避した数時間後。王都を謎の振動が襲い建物という建物は崩壊した。
 事前に何者かにより王都の住人は退避させられており、人的被害は零に等しかった。
 ただ一人。クロエ・クラインという神官が行方知れずとなった以外は。



[18136] 間章 夏戦争の終わりと連合の崩壊
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:e9b77304
Date: 2012/11/25 20:01

 ピザン王都シュヴァーンにて大規模な地震が発生。建物という建物は崩壊し、小高い丘の上に建つ城も原型を留めぬほどに崩れ落ちた。

 その報告を聞き、キルシュの王がうろたえたのは当然の事であった。
 再び侵攻を始めたリカム。そのリカムに対抗しうる国家は、この大陸においてピザンを置いて他に無い。だというのに、そのピザンで内乱が起こった挙句に首都の崩壊だ。最も頼りになるはずだった味方の惨状に、動揺せずにいられるはずがない。

「陛下は……ドルクフォード陛下はどうされた?」

 玉座から腰を浮かせながら、キルシュ王は報告を持ち込んだ部下へと問いかける。

「恐らくは城の崩落に巻き込まれて……地震の直前に突入した巨人コンラートに討たれたとの情報もあります。王都に侵攻していたゾフィー殿下は、王都の外に居られたためご無事のようです。今すぐピザンがどうこうなることは無いとは思いますが……」

 すぐに立て直せるような状況では無い。
 国内がゾフィー王女中心に纏まり始めていたとはいえ、王都の崩壊という事実はピザン国内に大きな影響を与えるだろう。国の中心であり、経済の中心でもあった街が壊滅したのだ。その影響はピザン国内はおろか近隣諸国にまで及ぶ。

「何という事だ……これでは援軍など望めぬではないか」

 せめて内乱が終われば、ピザンにも余裕ができ援軍をもらえるとふんでいた。しかしその希望的観測は、未知の災害によりあっさりと崩れ去った。
 キルシュ単独では、リカムに対抗する力など無い。以前の戦いとは異なり、リカムはキルシュに戦力を集中せず多面作戦をとっているが、それでも圧倒的な戦力差は如何ともしがたい。

「……情けない事だ。自国すら満足に守る事ができぬとは」

 先の大戦は、キルシュにとって屈辱の歴史でしかない。自国の騎士たちはことごとく戦死し、頼りになるのは傭兵と義勇兵たちばかり。仕舞いにはピザン、ローランド両国に尻拭いをさせる結果となったのだ。
 このままでは駄目だと、キルシュ王は国の立て直しを計った。しかし先の大戦で国内は荒れ、正規兵の多くを失った。その傷跡は十五年で癒せるものではなかったのだ。

「……頼りになるのは、ジャンルイージ将軍だけか。せめてローランドが動いてくれれば」

 先の大戦でリーメス二十七将に数えられた「双槍」ジャンルイージ・デ・ルカ将軍。いかな英雄とはいえ、年老いた彼一人では戦線を支えきる事はできないだろう。
 そしてローランドからの援軍にも期待できない。ローランドもリカムから自国を守らねばならないのだ。こちらに回す戦力があるかは疑わしい。
 しかしそんなキルシュ王の予想を裏切る報告が、新たに現れた伝令によってもたらされた。

「ローランドから援軍です! 既に国境を越え、我が軍とリカムの対峙するリーメス要塞へと向かっているとのこと!」
「なんと! ジェローム陛下が動いてくださったか!」

 ローランドの王。先の大戦でリーメス二十七将の一人に数えられた「策謀王子」ジェローム・ド・ローラン。
 かつてその抜け目無い策と合理的過ぎる戦術から「ハイエナ」と蔑まれた男だが、友好国の危機に思い腰を上げたらしい。

「すぐに前線に伝えよ! ローランドと協力し、リーメスを奪還するのだ!」

 高らかに命ずるキルシュ王。しかしそれから時を待たずして、彼は絶望の中に沈む事となる。





 リーメス要塞。
 かつて北方の異民族の侵入を防ぐために作られたとされるその長城は、ローランド、キルシュ、ピザンの三国に跨っており、今なおその堅牢さを維持している。
 北方の小国家軍がリカム帝国として統合されてからは、リカムと連合三国の間での主戦場となっており、十五年前の戦いでも何度も双方が奪い、奪われた重要拠点である。
 そして今もまたリカムに奪われたリーメスに向けて、キルシュはエミリオ・デ・ヴィータ王子率いる部隊を差し向けていた。
 総大将をエミリオ王子としながらも、その下には前大戦の英雄ジャンルイージ将軍も参陣。正にキルシュの総力を挙げた軍勢であった。

「右翼が敵の歩兵部隊を突破!」
「よし! そのまま進軍して敵の陣を突き崩せ!」

 
 報告を聞きすぐに指示を伝えたエミリオは、すぐさま視線を戦場へと向けて頭を巡らせていた。

 リカムとの戦い。当初は相手が篭城を決め込み長期戦になるかと思われたが、キルシュ恐るるに足らずと踏んだのか、リカムの将レオニート将軍はリーメスから打って出ての野戦を選択してきた。
 これはキルシュにとっても好奇であったが、相手はリカム四大騎士団の一つ黒竜騎士団。未だ練度に不安があるキルシュ軍には荷が重い相手であり、戦いは完全にジャンルイージ率いる部隊頼りとなっていた。
 それでも、そのジャンルイージの奮闘によって、僅かながら勝機が見えてきていた。指揮官としては情けない限りだが、エミリオはジャンルイージの活躍に期待して、その僅かな勝機を手繰り寄せる策を練る。

「ここで撤退され、篭城されては打つ手が無くなる。多少強引にでもレオニートを討たなければ……」

 それがどれほど難しいか、初陣のエミリオにも分かっている。むしろ初陣である自分が指揮をとっている事がそもそもおかしいのだ。しかしそうしなければならない程に、今のキルシュには人手が不足していた。

「報告! 東より新たな部隊が……ローランド王国の旗印です!」
「何!? あの策謀王が動いたのか!?」

 援軍の到来に沸きあがるキルシュの兵たち。しかしエミリオは、不吉な予感に眉をひそめた。
 相手はハイエナと呼ばれた男だ。自軍の消耗を避け、圧倒的に優位な戦にだけ参戦し、実の弟を謀殺したという噂すらある不義の王。無論噂は噂に過ぎないが、問題はそんな噂が流れてしまうような人間性だ。
 事前の知らせの無い援軍。恐らくは無断での国境の突破。
 まさかという思いは、右翼を任せていたジャンルイージが慌てて部隊を反転させたことで確信へと変わった。

「伏せろ!」

 半ば無意識にエミリオは叫んでいた。しかしその警告も虚しく、突然の王子の指示に呆然としていた兵士たちは次々と飛来する矢に貫かれた。
 雨のように降り注ぐ矢。それが放ったのは、援軍に来たはずのローランド軍であった。

「……予想通り過ぎて『裏切ったな』と叫ぶ気にもなれないな」

 阿鼻叫喚。混乱し逃げ惑う兵士たちを眺めながら、エミリオは自分でも不思議なほど冷静に呟いていた。
 矢霞の中を抜け、必死にこちらへと向かってくるジャンルイージを見れば、そこに至るまでに幾つの死体があるのか数えたくなくなるほどだった。

 これはもう負けだ。さっさと逃げ出して、城か隣のピザン王国にでも逃げ込もう。
 そう判断すると、エミリオは全軍に撤退命令を下した。その中で多くの兵を失うと確信していながら、それ以外の方策を取れなかったのだ。





 こうしてキルシュ軍は、ローランド王国の裏切りによって全軍の六割を失うという大敗をきした。指揮官のエミリオ王子は行方知れずとなり、双槍ジャンルイージ将軍は戦死。歴史に残る大敗北であった。
 そしてそのほぼ同時刻。自室にて胸に剣を突き立てて息絶えたキルシュ王の遺体が発見される。これによりキルシュは機能不全に陥り、リーメスでの大敗から一週間と経たぬ内にローランドに占領された。

 ピザン王国及び各国はローランドの裏切りを非難したが、ローランドのジェローム王は「我が国の領土を不当に占拠していた賊を討ち取ったに過ぎない」と宣言。
 キルシュがかつてローランド王国領であったのは事実だが、その宣言に納得するものなど当然居なかった。
 しかし既にキルシュを支配していたヴィータ王家は滅んだも当然であり、ピザンも身動きができない現状ではそれを戒める国も無く、事実上キルシュはローランドに併合される事になる。

 一方のピザン王国は、王都の崩壊により遷都を余儀なくされ、ジレントに向かった部隊が返り討ちにあったこともあり、大きな混乱に見舞われていた。
 次期国王と目されていたゾフィー王女は、王都での戦いで重傷を負い、療養のため一時表舞台から姿を消す。
 空になった玉座。一時的な処置として、その座にはクラウディオ王子が就く事となる。アルムスター公やインハルト候を初めとした選定候の一部からは不満の声が上がったが、動乱の中でその存在感を増したクレヴィング公がクラウディオ支持に回った上、ゾフィー王女からの取り成しもあり沈黙した。
 こうして探求王ドルクフォードの後継者、紅炎王(後の血塗れ王)クラウディオが誕生する。

 そして夏が終わり冬が来る。
 大陸の北部は冬になると積雪のために軍の行軍はほぼ不可能となる。故にリカムは侵攻の手を休め、未だ国内が混乱しているピザンも軍を引き地盤固めを始めた。

 こうしてリカムの侵攻に始まった夏戦争と呼ばれた戦いは一応の終局を見せる。
 しかしピザン、リカム共にこれは次の戦いへの準備期間であると認識しており、再び両者がぶつかるのは確実であった。
 しかし一年の時が過ぎてもリカムは動かず、ピザンもまた公にできない理由から軍事行動に消極的であったため、不思議な膠着状態が続く事になる。

 そして両国のにらみ合いは二年続き、また夏が訪れる――。 





[18136] 断章 選定候
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:5b1483ba
Date: 2013/07/07 21:28
「離宮を使う時が来るとはな」

 王都の中心から離れた、ほぼ無人となっていた宮殿。それでも使用人たちは仕事に手を抜かなかったらしく、床には塵一つ落ちていない。
 そんな離宮の長い通路を、クラウディオはヴィルヘルムを伴って歩いていた。

「先々代が戯れに造った余分です。守りには難がありますし、何より趣味が悪い。高価なものを使えば良いものができるというわけではないのに」
「ほう、珍しく意見があうな。だが、今から城を建てる時間も金もないぞ」

 地震と思われる災害により、王都の中心にそびえ立っていた城は崩壊し、周囲の建物も砂のように脆くも崩れ去った。
 不幸中の幸いというべきか、戦の最中であったため住人たちは避難していた。しかし住む家を失った彼らは途方にくれたし、主要施設を失った統治者も頭を抱えた。

 クラウディオがヴィルヘルムの顔を盗み見れば、まだ本調子ではないであろう血色の悪い顔に皺を刻んでいた。

「当たり前でしょう。今の王都の惨状を見て、余計な出費を提案するようなら暗殺しています」
「父上ではあるまいに」
「父上はああ見えて細かい計算は得意でしたよ。旅暮らしで身に付いた……のでしょう」

 そこまで言うと、ヴィルヘルムが不意に立ち止まる。
 何事かとクラウディオが振り向けば、ヴィルヘルムと目があった。
 冷たく、しかし吹き上げる熱を秘めた瞳と。

「父上は多くの苦労を背負い、多くの責務を果たしていた。貴方とは違う」

 今更ながら、クラウディオはヴィルヘルムの内心に気づいた。
 この妹以外に興味の欠片も無いはずの弟は、ともすれば兄や妹よりも父を慕っていたのだ。
 いや、そもそも父に最も近い場所にいたのは、宰相という立場にあったヴィルヘルムなのだ。その偉大さと苦労を、間近で見てきた彼が、父を認めぬはずがない。

「貴方では、父上の代わりにならない」
「……」

 敵意すらこもった言葉に、クラウディオは何も言い返せなかった。
 反論できないからではない。この弟が自分に向けてきた苛立ち。その理由の一端がようやく知れ、納得したためだ。

「……確かに、父上は凄いな」

 放浪時代ばかりが有名なドルクフォードだが、旅をやめ国に戻ってからもその人生は波乱に包まれていた。
 クラウディオが生まれたばかりの頃、ドルクフォードには兄にあたる人間が六人居た。精力旺盛なプルート王にしては少なかった王子たちは、決して愚かでも欲深くも無かったが、生まれた時代が悪かった。

 いつからか領主たちの力が増し、選定候の存在すら形骸化していた時代。その結果繰り広げられたのは、各々の領主の同盟が次期王を祭り上げての継承戦争だった。
 結果国は割れ、血で血を洗う戦が起こった。その中でドルクフォードは兄たちを蹴散らし、背後にいた領主たちをねじ伏せたのだ。
 王が王として君臨し、選帝侯が正常に機能している今の状態は、ドルクフォードと彼の忠臣たちの活躍がなければありえないものだった。

「認めようヴィル。俺は父上に敵わない。王としても将としても、親としても男としても、勝てるはずが無いと逃げてきた」

 もしクラウディオにドルクフォードに打ち勝つ強さがあれば、少なくともジレントに戦を仕掛ける事は無かっただろう。そして戦友をむざむざと国から去らせるような真似はしなかった。

「以前おまえは言ったな。ゾフィーに重荷を背負わせるのは可哀想だと。ああ、まったくその通りだ。何より十以上も年下の妹に全て押し付けて逃げるなど、情けなくて仕方が無い」
「……遅すぎますよ」
「まったくだ。だが、俺にもまだできることがあるのなら、あいつの代わりが務まるのなら、国と民のために、この身を捧げよう」

 宣言するように言いながら、クラウディオは目の前の重厚な扉を押した。
 長い年月で痛んでいたのか、軋んだ重い音を立てて開く扉。その扉が開ききったそこには、部屋を占拠するほど巨大な円卓。その円卓を囲むように、5人の男女が座っていた。

「揃っているな、選帝侯」
「クレヴィング公とローエンシュタイン公が居ませんが」
「クレヴィングには雑務を任せている。今一番この国の状況を知っているのはやつだからな。グスタフについては療養中だ」
「療養……ですか」

 クラウディオの答えに、アルムスター公フランツは微笑みを浮かべた。
 相変わらず小娘たちが見れば騒ぎ立てそうなそれは、しかしどこか油断できない胡散臭さを感じさせる。
 クレヴィング公の変わりようにも驚いたが、こちらの若き公爵も父の死と英雄との戦いを乗り越え一皮むけたらしい。
 頼もしいことだとクラウディオは顔に出さず笑う。

「さて、おまえたちを集めた理由に察しはつくな?」
「王都の惨状やリカムの事ならこの面子にはならないでしょう。ゾフィー様の戴冠式の先伸ばしについてですか?」
「いや、王には俺がなる」
「なんですって!?」

 クラウディオの言葉に、腿まで伸びた美しい銀髪の女――インハルト候が円卓を叩きながら声をあげた。

「どういうこと? 私たちはゾフィー殿下を支持して動いたのよ。何であなたが出てくるの」
「ゾフィーは王都の戦いで重傷を負った。命にかかわるものではないが、しばらくは絶対安静だ」
「教会から枢機卿でも教皇でもひっぱってきなさい!」
「無茶を言うな」

 予想通りの反応にクラウディオは頭を抱える。
 このクラウディオと同年代に見える女は、ドルクフォードの治世に貢献した忠臣の一人だ。ドルクフォードに懸想していたと言われ、一時期はゾフィーの母なのではと疑われたこともある。
 もちろん事実無根の噂でしかないが、そんな疑いをもたれるほどのゾフィー贔屓だということでもある。彼女曰く「可愛くない」クラウディオがゾフィーにとって変わるのは、面白くないに違いない。

「デンケン! あなたもゾフィー殿下を支持していたでしょう」
「僕もというより、グスタフくん以外みんな支持していたでしょう」

 インハルト候に話を向けられ、デンケン候は困ったようにあご髭を擦る。

「でも今クラウディオ殿下に王位を託すのも、妙手なんですよねえ」
「何でよ!?」
「僕だってゾフィー殿下には期待してますよ。今回の立ち回りも中々良かったし、お会いした時に感じた覇気は正に王のそれだ」

 そこまで言ってデンケン候は肩をすくめる。

「でもゾフィー殿下はどちらかというと治世の賢王だ。国が落ち着くまでは、乱世の英雄であるクラウディオ殿下にでばっていただくのもありでしょう」

 怪我をなさっているのなら療養してもらいたいですしね。
 そう付け加えるとデンケン候は再び肩をすくめてみせた。
 それを見てインハルト候はさらに反論しようとするが、それは第三者の声に遮られた。

「ゾフィー様なら乱世でもやってけると思うけど、怪我をなさってるなら確かにね。良いんじゃない、ゾフィー様が持ち直すまでは、クラウディオ様に血をかぶってもらうってことで」
「……くっ」

 肩口まで伸びた金髪を後ろでまとめた小柄な青年――アルダー候までも納得して見せたため、インハルト候も勢いが削がれる。

「私は反対です」

 だがそんなインハルト候に加勢する声が上がる。
 この場の選定候の中では最年少だが、爵位では最上位であるアルムスター公フランツだ。

「クラウディオ殿下が王となり、結果その支持者が増えれば、ゾフィー様に王位を譲るべきでないと言う輩が現れるに決まっています。その場凌ぎのために混乱を招く必要は無いでしょう」
「ほう」

 アルムスター公の意見に、デンケン候が感心したように声をあげる。
 二対二。意見が割れたことにより、自然その場にいる者の視線は一人に集まった。

「……」

 アングリフ候。岩から削り出されたような武骨な容貌の男は、腕を組み瞼を閉じたまま身動きひとつしない。
 しかし自身の意を求められた事に気付いたのか、目を見開くとゆっくりと周囲を見渡し、低い声で言った。

「……ゾフィー殿下の容態と、ゾフィー殿下御自身の考えが聞きたい」

 どっち付かずの発言は、しかし同時に正論でもあった。
 今度は選定候たちの視線がクラウディオへと集まるが、彼は何故か苦虫を噛み潰したように口元を歪めていた。
 何か後ろ暗いことでもあるのか。そうインハルト候が言いかけた所で、不機嫌そうな男の声が響いた。

「王女様は悪い魔法使いに呪いをかけられました」
「は?」

 おとぎ話の一説のような一言に、誰かが呆けた声を漏らした。
 間髪を入れず入り口の扉が開かれる。現れたのは眉間にしわを浮かべたグスタフと、柔和な顔付きのクレヴィング公。そして彼に押される車椅子に腰かけた、美術品のように麗しき容姿の王女だった。

「ゾフィー!? 安静にしていろと言われただろう! 何故連れてきたクレヴィング!?」

 詰問するように言うクラウディオ。それにクレヴィング公はゆっくりと顔を向けると、突然顔を青ざめて震えた声を出し始める。

「ゾ、ゾフィー様に脅されたのです。『私を選定候の下へ連れていけ。従わねば干物のような貴様を、縛って吊るして本物の干物にしてくれる』と。私とて妻子ある身。干物にされてなるものかと、泣く泣くゾフィー様に従ったしだいでして」

 嘘だ。そう全員が思った。
 以前までのクレヴィング公ならばあり得る話だが、彼はクラウディオに問い詰められるまで平然としていた。
 この腰抜け爺、どうやら腰を落ち着かせたついでに、愉快な方向に趣旨変えしたらしい。

「……で、おまえはどうしたグスタフ? 何ださっきのどこぞの語り手のような説明は?」
「……殿下に脅された」

 らしくない言葉に誰もが耳を疑う。

「フフ」

 どういうことかと重ねて問う前に、不意にゾフィーが笑みを漏らす。するとグスタフは体を震わせると、焦ったように視線をゾフィーからそらした。
 とうやらこちらは本気でゾフィーの言いなりらしい。

「さて、私の体だが芳しくない。内臓をやられた故、満足に食事もできぬ」
「だから、高位の神官か魔術師に治療を!?」

 円卓に身を乗り出して言うインハルト候。しかしゾフィーの口から語られた言葉に、凍りついた。

「無理だ。今の私には治癒魔術は効かない」

 空気が軋む音が聞こえた。
 インハルト候はもちろん、それまで不動の姿勢を崩さなかったアングリフ候すらも、何を言われたか理解できず目を剥いた。

「イクサの呪いだ。治癒だけでなく、私の身に流れるあらゆる魔力が阻害されるらしい」

 おかげで己自身も魔術が使えないと、ゾフィーは痛むのか腹部を擦りながら言った。

「……つまりゾフィー殿下の怪我は治らないと?」
「いや、魔力を阻害されるだけ故、魔力によらない自然治癒はできる」

 それはつまり治らないも同然だ。
 魔術という奇跡なくして、無くした腹の中身が元に戻るはずがない。

「まあ要するに、私は二度と剣を振れぬ体になったわけだ」

 落胆した様子もなく、あっさりとゾフィーは告げた。



[18136] 断章 ロード
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:5b1483ba
Date: 2016/10/26 21:29
 ピザンの王都を大地震が襲い、国内は混乱に見舞われた。しかしゾフィー王女の無事と狂王の最期が伝えられると、皆は安堵と希望に沸き立った。
 特に国民を喜ばせたのは、行方不明だった白騎士コンラートの帰還であった。騎士の位を剥奪されながらも、王女を救うために単身戦場へ乗り込み、外道に堕ちたかつての主を誅殺した。

 さながら物語の英雄のような偉業に、誰もが歓喜し、酔いしれる。

 しかし誰も知らなかった。
 何故王都を突如地震が襲ったのかを。
 何故地震の規模の割りに被害が少なかったのかを。

 そして栄光の影で、命を賭して世界を守った少年が居たことを。





 マルティン・フォン・ローデンヴァルト。
 齢五十五という高齢でリーメス二十七将の一人に数えられた猛将であり、七十を迎えてなお戦場に立った最後の老兵。
 先々代であるブルーノ王の時代からピザンに仕え、四十年前に起きたグルーノの変と呼ばれた内乱においては、先代であるドルクフォードと敵対する兄王子に付き、彼を大いに苦しめたという。

 負傷した部下三人を背負い山を越えた。暴走した馬車を身一つで止めたなど幾つもの武勇伝を持ち、もはやその存在は生ける伝説と言って過言ではない。
 そんな彼に先の大戦の後に任されたのは、最前線の辺境の領地で無ければ、精鋭を集めた軍でも無く、当時四歳を迎えたばかりの王女の従者であった。

 多くの者は親馬鹿な王の身勝手で益の無い人事だと笑い、一部の者は老いたマルティンへの気遣いに違いないと訳知り顔で納得して見せた。
 しかし誰が予想しただろうか。幼い王女一人の世話が、万敵にも劣らぬ難事であると。

「ピザン家の女は、男に比べ聡明で分別があるなどと誰が言い始めたのか。わしに言わせれば、好奇心と賢しさと行動力が無駄に高い悪ガキだ。いや、単純なぶん悪ガキの方がいくらか扱いやすい」

 何度拳骨を落として叱ったかと、マルティンは愚痴混じりに言う。
 王女を拳で殴るなど、普通ならば首をとばされてもおかしくない暴挙である。しかしドルクフォードやクラウディオといったピザンの男たちに振り回されてきたコンラートからすれば、大いに納得してしまう事でもあった。
 騎士修行を平然とこなしてしまうゾフィーだ。今では振舞いに隙無く美目麗しきお姫様も、昔はさぞお転婆だったのだろう。

 唐突にマルティンに食事に誘われ、何事かと身構えて彼の屋敷を訪れたコンラートであったが、前菜が運ばれてくるなり始まったのはゾフィーに関する愚痴であった。
 それなりに長い付き合いではあるが、まさか主君の文句を垂れ流されるとは思わず、コンラートは苦笑いをするしかない。

「しかしローデンヴァルト様がこのような屋敷をお持ちとは知りませんでした。かなり古いもののようですが」

 地震により多くの建物が崩れ落ちた王都ではあるが、震源地である城から離れた建物はそれなりに残ってはいた。
 マルティンの屋敷もその一つであり、今は家を失った人々の避難所として解放されている。

「ここはわしの家が代々継いでいる別邸だ」
「別邸ですと?」

 それにしては立派すぎないかと、コンラートは首をひねった。

 自らの領地を持つ領主たちは、当然ながら王都に長期間滞在するための別邸を持っている。
 ピザンのような封建制国家では、領主同士の繋がりが重要だ。そのため王都での活動の拠点となる別邸は、仮宿だからと質素になったりはせず、むしろ見栄をはり大規模になる。
 しかしローデンヴァルト家は軍事に力を入れている家系であり、いらぬ見栄をはるような家柄とは思えない。
 故にコンラートは不思議に思ったのだが。

「わしの五代前くらいだったか。『領地の経営は苦手だ。適任者に任せて自分は軍に専念する』と言って領地を代官に丸投げしたらしくてな。別邸のはずの王都の屋敷が本邸になってしまったわけだ。
 ……いや、気持ちは分かる。だがわしも代官に頼りきりだが、さすがに暇を作って視察や確認はしておるぞ?」

 あまり領主として褒められたものではないと自覚しているのだろう、長い白髭を撫でながら言い訳をするマルティン。
 そんなマルティンに、コンラートは苦笑しながら返す。

「お気持ちは分かります。俺もモニカ様をお支えせねばならぬのですが、領主の仕事とやらはさっぱりで。従者が私などと比べるも無く博識故、口を出す必要も無さそうですが」

 ピザンに戻ったは良いが、当初コンラートはへルドルフ家に関する問題をどうすれば良いかを、まったく考えていなかった。
 いきなりモニカの爵位継承を訴えても、それが認められるはずがない。ゾフィーやクラウディオとて、コンラートをそういった形で贔屓などするはずがない。
 故に手詰まりに等しかったのだが、事態は思わぬ方向へ進んだ。

 かつてへルドルフ伯に仕えていた騎士や兵士、使用人たち。彼らはモニカの事を聞き付けると、一斉にモニカが前へルドルフ伯の娘であると証言し、さらに現へルドルフ伯マリオンの罪を責め立てたのだ。

 ほとんどの者は尻馬に乗っただけらしいが、一部は本当にモニカの事やマリオンの悪事を知っていたらしい。
 無論そんな人間はマリオンに頭を押さえられていた。しかしマリオンがジレントに手勢をほとんど連れていった隙に、さらにコンラートという中央に顔が利く援軍を得て、一斉に動き出したということらしい。

 結果マリオンは義姉殺しの罪に問われ、ジレントに惨敗して逃げ帰ったところを拘束された。
 あまりにあっさりとした幕引きに、ツェツィーリエなどは気どころか魂が抜けたように呆然としていた。もっとも一日も経った頃には立ち直り、モニカをもり立てるために奔走していたが。

「ふむ、新たなヘルドルフ伯に義姉の女魔術師か。今の内に主導権を握っておけコンラート。女というのは感情で動いているように見えて、観察眼は鋭く時に道理を越えて答えに辿り着く難解な生き物だ。
 上司であれ部下であれ、自分より頭の回る女子が職場に居れば、肩身が狭くなる」

 苦笑いを隠すように葡萄酒を口に含むマルティン。そんなマルティンにコンラートもまた苦笑で答えた。
 マルティンが言っているのは、間違いなく経験談だろう。ゾフィー王女という、世界でも有数に難解な姫君に付いていたのだから、さぞ苦労も多かろう。

「まあその苦労もぬしに投げて仕舞いだ。ようやくわしも隠居できる」
「……俺は騎士ですらありませんが」

 今のコンラートは、未だ浪人の身だ。騎士任命の話は当然あり、クラウディオに騎士の誓いを捧げるのだろうと周囲は予想していたらしいが、コンラートはそれを断った。
 その際の混乱は凄まじかった。
「忠義の騎士がピザンを見限った」と大騒ぎ。沈没間際の船から逃げ出す鼠を見たかのような有り様であった。

 無論コンラートがピザンを見限るはずがなく、騎士任命を断ったのはクラウディオではなくゾフィーに剣を捧げると決めていたためである。
 国王への忠を拒み、王位を逃した王妹に忠誠を誓うコンラートに、周囲は相変わらず変わり者だと呆れた。
 逆に事前にコンラートがゾフィーに剣を捧げる約束をしていたと知る面々は、彼らしいと笑っていた。
 そしてアルムスター公フランツは羨ましさと嫉妬からコンラートを睨んでいた。

「……失礼。どうも弱気になっていたようです」
「なに、迷うのがおぬしらしい。他にもな、普通ならば切り捨てるようなものに悩む。そんなおぬしの甘さと誠実さを、わしは気に入っておる」

 そういってカカと笑うマルティン。しかし不意にその顔から笑みが消え、皺だらけの顔が獅子のように厳ついものに変わる。

「コンラート……」
「……何か?」

 ただならぬ様子に、コンラートは肉を切り分けていた手を止めマルティンを見る。

「おぬしわしの養子にならぬか」
「……は?」

 知らず間の抜けた声が漏れた。
 何を言われるのかと身構えはしたが、出てきた言葉はまったく予想の範囲から外れたもの。
 ここで呆けずしていつ呆けるのか。そんな思いが浮かんだコンラートだったが、すぐに正気に戻り開いていた口を閉じて開き直す。

「失礼。しかし何を急におっしゃるのですか」
「何かおかしいか? わしは後継ぎを先の戦で亡くし、子宝も期待できん。家を存続させるためにも、養子をとるのが自然ではないか」
「そこで俺を選ぶのがおかしいかと」

 普通は遠縁の親戚か親い貴族か、百歩譲っても貴族の血を引いた庶子だろう。
 コンラートのようなどこの馬の骨ともしれぬ輩を、後継者にするなど聞いたことがない。

「うちは代々戦馬鹿だからのう。血筋にはあまり拘らんというか、拘っておったらとっくに断絶しておる。わしとて父は家を飛び出した三男坊で母は踊り子だ」
「ならば尚更、誰でもいいならば何故俺を?」
「まあわしもな、領地は王家に献上するつもりであったが、おぬしに託した方が結果的には良い方向に動くのではと思ったのだ」

 そう言って茶をすするマルティン。

「ゾフィー様を守り立つならば、おぬし自身が力をもつべきだろう。何よりヘルドルフの後継の後ろ楯となるなら、一騎士よりよほどやれる事は多くなる」

 マルティンの言葉にコンラートはなるほどと頷く。しかし肯定のためにもう一度首を振る気にはならなかった。
 ローデンヴァルトが代々継承しているのは伯爵位。そのような分不相応なものを、コンラートのような謙虚で頭の堅い男が受けとるはずがない。

「どうせ男爵位を授けようという動きはあるのだ。少しばかり色がつくだけだろうに」
「……少しではありませぬ」

 基本ピザンでは、男爵というのは領地を持たない。未だ家督を継いでいない子息や功績を立てた平民に送られる、名誉職のようなものでしかない。
 しかし伯爵ともなれば話は違う。公爵や侯爵より下位ではあるが、立ち回り方によっては国政にも食い込める正真正銘の貴族だ。
 コンラートのような成り上がりが伯爵となれば、いらぬ諍いを生みかねない。

「カッ! そんな小さい連中なぞ蹴散らしてやれ。」

 しかしマルティンは気弱なコンラートに一喝すると、無茶な事を言い始める。
 マルティンの言い分も分かるが、コンラートには無茶でしかありえない。

「もう決めた。ぬしに断る権利はない。なに、ゾフィー殿下に進言すれば、喜んで賛同して下さるじゃろう」

 したり顔で言うマルティンに、それは違いないとコンラートは同意したくないが同意した。しかしゾフィーやクラウディオが認めても、ヴィルヘルムや諸侯は認めないだろう。
 そう楽観的に構えていたコンラートだったが、後日何故かヴィルヘルが賛同し、さらにクレヴィング公をはじめとした諸侯まで味方になってしまい、完全に逃げ道を失うのであった。



[18136] 断章 継承
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:5b1483ba
Date: 2013/09/01 08:25
「戴冠を認めないときたか」

 離宮の一室。臨時の次期王クラウディオの公私兼用の部屋にて、主は一枚の紙切れをつまみ上げ苦々しげに言葉を漏らした。

「字が読めないのですか。認めないとは書いていません。条件付きで認めるとあるのです」

 一方幽閉されてから体調が優れないらしいヴィルヘルムは、顔色こそ悪いものの相変わらず冷静かつ嫌みにクラウディオに言葉を投げる。
 それにクラウディオはピクリと眉を痙攣させるものの、激しやすい己を戒め努めて平静を装い言葉を投げ返した。

「条件というのは『ピザンが不当に奪った教会の領地、及び自治権の返却』のことか?」
「そうです」

 女神教会からの書状。それを汚らわしいものであるかのようにつまみ上げながら、クラウディオはヴィルヘルムに言う。

「正気かヴィル? 教会の生臭坊主どもが、うちの庭で何をしたかなど、俺よりお前の方が詳しいだろう」

 魔女狩り。
 先代プルート王の時代に女神教会の一部過激派が起こした運動は、大陸全土に広がり、ピザンも例外では無かった。
 異端狩りは常に行われていたが、それは堕ちた魔術師を討伐するものであり、そう頻繁に行われることではない。
 しかし魔女狩りと呼ばれたそれは頻繁に、毎日のように行われた。何故なら魔女とは名ばかりの魔術師や薬師。教会へ不満を持つ者、挙げ句には財産持ちの商人や下級貴族までもが『魔女』として狩られたためだ。

「俺はあの好色ジジイの事はあまり好きでは無かったがな、女神教会の生臭坊主を叩き出したのは、数少ない功績だと思っている」
「好色なのは貴方もでしょう。しかし確かにプルート王の判断は間違いでは無かったと思います」

 魔女狩りは、魔女の名を利用した人狩りだった。
 教会が反抗勢力を駆逐し、財源を確保するための隠れ蓑に魔女の名が使われただけだった。

「で、どうするのだ? 俺はこんなふざけた要求を飲むくらいなら、破門されるか、いっそリカム正教会に改宗するぞ」
「敵国の国教に改宗してどうするのですか。貴方は信仰というものを軽く考えすぎだ。破門されただけで民の多くは貴方の王気を疑い、改宗しようものなら反乱が起きかねない」

 詳しい歴史は省くが、ピザンやキルシュといった旧ローラン王国に属した国は、独立の際に女神教会からの支援を受けた。簒奪とも言える行為を、教会の権威によって正当化したのだ。
 王の権威は教会の権威の下にある。王が即位する際には教皇がそれを認め冠を授ける。
 権威無く力のみをふるうなら、それは蛮族と変わりない。
 民衆の支持を得るためにも、教会という後ろ楯は必須なのだ。

「……民にとって神とはそれほどか?」
「民には教会の恥部など伝わりませんから。毎週の礼拝で神官から有り難いお話を聞くのがせいぜいですよ」
「……それを聞いて俺は益々教会が嫌いになった」

 王位を継ぐと決めてから加速度的に増えていくストレスをため息と一緒に吐きながら、クラウディオはどうしたものかと頭を抱える。

「しかし父上の治世の間には放置していた問題を掘り起こすとは、なめられていますね」
「仕方ないだろう。俺は父上とは違い、戦働きはともかく政治的な功績は無いに等しい」
「ですね。しかし彼らも貴方も忘れていませんか? ……父上の統治を支えた臣下は未だ健在だということを」

 そう言って笑うヴィルヘルムは黒かった。
 腹の中の黒さが滲み出るどころか溢れ出す勢いで黒かった。

 クラウディオはヴィルヘルムの機嫌が微妙に悪いのは察していたが、ようやく真実に気付いた。
 この弟は兄と一緒に自分も侮られたと判断したのだと。
 そして弟の機嫌は微妙どころではなく、近年まれに見るほどに最悪だったのだと。

「……何をする気だ?」
「弱みを握ったと勘違いしてはしゃいでいる方々には、キツイ灸を据えて現実を直視してもらいましょう」

 そう言って笑うヴィルヘルムは、どこから見ても悪人かあるいは悪魔だった。





 どのようにして女神教会を陥れようかとヴィルヘルムが考えているほぼ同時刻。ピザンのとある街のとある屋敷をさる神官が訪ねていた。
 サントという名の神官。彼は修道司教の地位にあり、経験も実力も確かな高位の神官である。
 しかし今回彼が受けた依頼は、久方ぶりに緊張を強いられるものであった。

 治療を頼まれた事など数えきれない。治癒魔術に特化している故に修道司教に甘んじているが、逆に言えば治癒魔術のみなら最高位の修道枢機卿にも負けないと自負している。
 しかしそんなサントにも、今回のそれは難易度が高過ぎた。

 治療するのは訪れた街、スタルベルグを治める伯爵にしてピザン王国第一王女ゾフィー・フォン・ピザン。
 さらに彼女を蝕むのは、リーメス二十七将にかぞえられた魔術師イクサ・レイブンの呪いだったのだから。

「……無理です。私の手にはおえません」

 ゾフィー王女の私室の中。招かれた高位の神官は、ついに匙を投げた。

「そなたほどの術者でもか」

 元より期待は薄かったが、それでも治療を諦めるのが早すぎる。
 故にゾフィーは手に終えぬ理由を訊ねた。

「治癒そのものは難しいものではありません。しかし呪いが……解呪だけでも私には手が余るというのに、一度解呪してもカビのようにどこからかわきでてくるのです」
「つまり解呪しながら治癒ができる神官ならば……」
「かのネクロマンサーの呪いを解くだけでも枢機卿クラスの力が必要です。重ねて治癒を行うなど……」
「クライン司教はやっていたが?」
「あの方は特別です」

 ハッキリと言われ、ゾフィーはどういうことかと問う。

「ジレントの出身ですし、噂では使用を自粛しているだけで、精霊魔術や暗黒魔術にも通じているとか。
 修道枢機卿になるに足りぬは年齢だけ。敵味方を問わずそう評価された神童です」

 淀みのない賛辞に、ゾフィーは平静を装いながら盛大に汗をかいていた。





「……そんな世界の宝のような神官を戦争に巻き込んでしまったのか」
「……面目次第もございません」

 サントが帰り、静かになった部屋にコンラートを招き入れると、ゾフィーは椅子に腰かけたまま呻くように言った。
 落胆もあったのだろう。力無く椅子の肘掛けにもたれていたゾフィーだったが、コンラートの沈んだ声を聞くと慌てて姿勢を正した。

「いや、そなたのせいではあるまい。それに、そなたはもう後がないという時に、最高の援軍を連れてきたのだ。誇るが良い、我が騎士よ」

『我が騎士』
 そう強調して言うゾフィーに、コンラートは笑いをこらえながら頭を下げた。
 ゾフィーからすれば、子供の頃から憧れ、見上げていた騎士が己に仕えてくれているのだ。
 隠しきれない喜びを醸し出すその様は子供のようであり、そういえばまだこの方は二十歳になっていなかったなと、今更ながらにコンラートに思い出させた。

「しかしそなたがジレントからヘルドルフ伯の娘を連れ帰るとは思わなかった。モニカと言ったか。最初侮っていた役人が下を巻くほど優秀と聞いたが」
「はい。盲目故に軽んじられたようですが、モニカ様は盲目故に一度聞いたことを忘れぬとか。義姉であるツェツィーリエの補助もあり、経験を積めば問題なく領主としてやっていけるとのことです」

 そうコンラートは本人たちから聞いたが、実際にはまだまだ問題は多いのだろうと察している。
 だがマリオンが当主を継ぐ以前の、マクシミリアンに仕えていた旧臣やその縁者が続々と戻っているとも聞く。彼らならばマクシミリアンの遺児であるモニカを支えてくれるだろうと、コンラートは半ば楽観視もしている。

「まだ十五になったばかりだったか。クライン司教といい、カイザーといい、十五年前に生まれた者は、何かの祝福でも受けているのか?」

 ついでにフェンライトという商家では、十五歳の養女が家の実権をほぼ握り類い希な商才を見せつけていたりするのだが、今の二人は幸か不幸かそれを知らない。
 もっとも後日『大陸制覇』を掲げる彼女と嫌でも関わる羽目になるのだが。

「新たな時代の担い手……やもしれません。私やクラウディオ殿下も、十五年前の戦の最中にはそう呼ばれたものです」
「……十五年といえばコンラート。前々から疑問だったのだが」

 急に態度を変え見上げてくるゾフィー。
 その様子をはてと見下ろし、コンラートは既視感を覚え僅かに身を固くした。

 ゾフィーの顔は悪戯を思い付いた子供のようだった。
 見覚えがある。あって当然だ。その顔は彼女の父であるドルクフォードが、何やら悪巧みを思い付いたときのそれと瓜二つなのだから。

「そなたの実年齢が四十を越えているというのは本当か?」
「……それが本当ならば、私はドルクフォード陛下に拾われた時には二十二、三の成人だったことになります」

 その十歳分のサバは何処からわいて出たのかと考え、己の老け顔のせいだろうと自己完結する。
 確かに歳のわりには皺や白髪が多いが、十も歳を間違われるほどだろうか。

「うむ。そうだな。私が十五年前に見たときは、確かにまだ幼さが残る顔立ちだった。……そなたいつの間にそれほど老けた?」

 純粋に疑問におもっているのであろうゾフィーからは、まったく悪意が感じられない。
 恐らくコンラートは、この程度の悪ふざけは気にしないと確信しているのだろう。
 実際コンラートはあまり気にしていないが、うら若き乙女であるゾフィーに『老けている』と言われると、少し、ほんのちょっぴりだけ、胸が痛くなるのは仕方あるまい。

「……主にドルクフォード陛下にこき使われたせいかと」

 故に少しばかり意趣返しに走ったのだが、効果はてきめんだった。
 目を驚愕に見開き、血の気の失せたゾフィーの顔はさながら罪人のようであった。

「私は、そなたに無理は言わぬからな。父上の分まで責任を持って労るからな」
 そして慈愛に満ちた顔で、まるで老人を労るかのように手を握ってくるのだ。
 コンラートをからかうための演技なのだろうが、本音も混じっているであろう上に迫真すぎて、反応に困る対応である。

「……ありがたき幸せ」

 そしてその優しさは嬉しかったが、それほどまでに自分は老け込んでいるのかと、少し心配になったコンラートだった。



[18136] 終章 アンファング
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:fc55db6a
Date: 2015/07/20 22:38
 夏の始まりを告げる虫の声。その騒がしいとすら言える鳴き声が聞こえ始めた日ですら、肌に感じる風は春のように涼やかで肌寒さすら感じさせた。

「……ようやく一区切りつきました、陛下」

 王都の外れにある墓地。その中でも一際大きく荘厳な墓を、コンラートは訪れていた。
 ピザン王家を象徴する赤と青の宝石があしらわれた、歴代の王の墓。この墓にドルクフォードを埋葬することに意見を唱える者もいたが、最終的にはドルクフォードの三人の子が押しきり葬儀もきちんと行われた。
 晩節を汚したとも言われるが、それでもドルクフォードは英雄であり皆に慕われる王だった。誰もがその死を嘆き涙した。その光景を見て安堵したのは、コンラートがドルクフォードの葛藤を知る故だったのだろうか。

「こんなところに居たのかコンラート」

 不意に声をかけられ、コンラートは目の前の墓から目を離し背後を振り返った。

「ゾフィー殿下。また護衛もつけずにお一人で……」
「ちゃんとマル爺が付き添ってくれている。大体余計な体力を使うなと言われて車椅子など使っているが、押してくれる人間が居ないなら歩いたほうが余程楽だ」

 そういう彼女の遥か彼方を見やれば、目立つ巨漢の老人が得意げに親指を立てていた。
 どうもマルティンという老人からは、自分が今まで背負ってきた苦労や心労を全て押し付けてやろうという悪戯心を感じる。それだけコンラートを信頼しているとも言えるのだが、その茶目っ気のせいで素直に受け取る気になれないのは仕方ないだろう。

「それにしても、戴冠式が終わるなり姿を消すものだから、兄上が『コンラートは何処だ!?』と騒いでいたぞ。まったく兄上のコンラート好きにも困ったものだ」
「それはまた……」

 さっさと逃げておいて良かった。コンラートは口にこそしなかったがそう思った。

 こうしてピザン王国に戻ってきたコンラートだが、全てが元の鞘に収まったというわけではない。
 理想の主従であると周囲に認められていたドルクフォードは死に、コンラートの後ろ盾となってくれていたアルムスター公を初めとする諸侯も亡くなるか代替わりをした。
 以前よりも、コンラートの立場は微妙なものとなった。そのコンラートと即位したばかりで盤石と言える基盤を持たないクラウディオが必要以上に近づくことは、現状に不満を持つ者たちにいらぬ諍いの元を与えかねない。

「確かに、新たにアルムスター公となったフランツなど、露骨にコンラートを嫌っているな。父や弟とは上手くいっていたというのに、何をやらかした?」
「私は何もしておりません。そもそもお父上やカールとは違い、それほど話したこともありませぬ」

 フランツがコンラートを嫌う理由。それは単なる嫉妬にすぎなかったりする。
 敬愛する父に信頼され、騎士としての理想を体現し、あろうことか最も高貴な女性とすら言えるゾフィーの寵愛を受けている。
 若くして公爵として驚くほど有能なフランツだが、羨ましいというだけでコンラートを嫌うあたり、まだまだ青いということかもしれない。

「親から子へ引き継がれていく。だが私は、父の跡を継ぐことができなかった」

 少し車椅子を進めてコンラートと並ぶと、ゾフィーは父の眠る墓を見ながら言った。

「玉座を取ると、そなたの主に相応しい人間であると証明すると嘯きながら、もう王としてどころか騎士としても……女としても役割を果たせない。無様だな、私は」

 己の有様を卑下しながらも、その姿には己の現状に嘆く弱さは微塵も感じられなかった。
 凛と伸ばされた背中。なるほどこの少女は強い。そうコンラートは改めて思った。
 しかし故に脆い。生まれながらの王であり折れることを知らない少女は、いつか限界を越えて砕けてしまうだろう。

「……それでも、私の主は貴女です」

 しかしそんな事は関係ない。
 断言するコンラートに、ゾフィーが目を瞬かせて振り向いた。

「貴女がもう剣を振れぬというのなら、私が代わりに振りましょう。貴女が敵を殺せと命じれば、私はそれに従いましょう。貴女が大義を為すために力が必要ならば、私がその力となりましょう。
 貴女にはまだできることがある。剣を振ることしか能がない私などよりも、多くのものが見えている。そんな貴女を支えるために、私は剣を捧げたのです」
「……」

 コンラートの言葉にゾフィーは応えない。応えることができずに、ただ驚いたように目を丸くしている。
 そうしてどれほどの時間が経ったのか。ゾフィーは諦めたように目を閉じると、安心したような笑みを浮かべて言った。

「無為の信頼がこれほど重いものだとは思わなかった。励まされているはずなのに、さっさとやるべきことをやれと叱咤されているようだ」
「滅相もない」
「分かっている。ただ俄然気が引き締まるということだ。なるほど、父上がそなたを重用した理由の一端が分かった気がする」

 そう言ってほほ笑むと、ゾフィーは右手をコンラートへと差し出す。

「コンラート。王にこそなれなかったが、それでも私は王家の人間だ。この国のために身を捧げる決意はとうにできている。そのためにどうか、そなたの力を貸してくれ」
「……御意!」

 跪きゾフィーの右手を取ると、コンラートは誓いの言葉を口にした。
 もう二度と違えはしない。そうもう一つの誓いを立てながら。





 ドルクフォード王の死から二か月後。ドルクフォードの第一子であるクラウディオ王子が正式に王に即位。前大戦での二つ名「炎将」に倣い「紅炎王」と称される。
 新たな王の下団結するピザン王国だったが、リカムによる侵攻と内乱による被害は大きく、国の立て直しに多くの時間と労力をとられることとなる。
 その中でクラウディオは、リカムの宮廷魔術師であるイクサに通じている疑いのある諸侯を粛清。その容赦の無さと苛烈さから「血塗れ王」と呼ばれることとなる。

 その一方。王妹となったゾフィーは、二百年前に壊滅の憂き目にあい解散した王家直属の騎士団「赤剣騎士団」の再結成を宣言。その団長に前大戦の英雄コンラート・シュティルフリートを任命する。
 最初王妹の道楽と諸侯に嘲りを受けた赤剣騎士団であったが、身分を問わず優秀な者を重用しリカムとの戦いにおいても獅子奮迅の活躍、蒼槍騎士団と並び最強の騎士団と呼ばれる事となる。

 ピザンとリカム。
 二つの大国の睨み合いは続き、決着がつかないまま大陸は次第に荒れていく。
 そしてこの硬直状態は二年もの間続くことになる。





「ようやく戻ってこれたか」

 ピザン王国北部ネージェの港町。西大陸からの交易船も訪れるその港に、一人の青年が降り立った。

「西大陸に飛ばされ彷徨っている内に半年。女神教会からのついでと言わんばかりの任務を片付けるのに一年。そこから単に帰る算段をつけるためだけに半年。まったく、師匠と旅をしたときはもっと簡単に他の大陸まで渡れたんだが、どんな無茶をしてたんだあの人」

 愚痴るような言葉はしかし楽しげで、声にはようやく帰還できたことへの歓喜が浮かんでいた。

「ともあれ、これでやっと借り物を返すことができる。それに、誓いも果たせた」

 大切なものを慰撫するように、青年は腰に下げた剣を――対の聖剣の片割れを撫でる。

「約束通り、死なずに帰ってきましたよコンラートさん。話したいことがたくさんあります」

 そう言ってクロエ・クライン。二年の歳月を経て少年から青年へと成長した神官は、歳の離れた友人が居るであろう王都へと目を向けた。

 行方不明だった最後の欠片。
 彼という役者の帰還を機に、停滞していた時が再び流れ始める。



[18136] 第二部 一章 赤の騎士団
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:f288fbc0
Date: 2015/09/02 21:37
 その日、大陸の中央部を嵐が襲った。

 大陸にまたがるリーメスは、過去幾度となく各国が奪い合ってきた城塞ではあるが、長い歴史の中で朽ち果て、本来の長城としての役割は果たしていない。
 それでも長城には幾つかの城塞が付随しており、各国はリーメスを占拠してはその城塞を利用していた。
 中でも最西部に位置するリーメス。
 キルシュ防衛戦末期にピザンが奪取し、二年前の夏戦争においてリカムが奪還した城塞にも嵐は迫っていた。





 西リーメス城塞の一室。燭台や調度品といったもので飾りたてられてはいるが、無骨な空気の消えない石造りの部屋に、一人の女性が入ってくる。
 腰に届く金色の髪をフィッシュボーンに編み込み、きっちりとした赤いチュニックを身につけたその姿は男装の麗人そのもの。しかしその背や体格は平均的な女性のそれであり、屈強な兵と並べば見劣りするに違いない。
 それでも女性が纏う空気には歴戦の戦士を思わせる覇気があり、見るものを惹き付ける華があった。

 女性の名はサーシャ・カディロフ。
 リカム帝国が誇る赤竜騎士団の団長であり将軍である。

「ようやく休めるか。まったくあの馬鹿どもは」

 身を拘束するようなきつめのチュニックを緩めながら、サーシャは一人ごちた。
 嫁ぎ遅れたと言って良い歳のサーシャだが、四将軍唯一の女性であり、何より見目麗しいため兵からの人気は高い。
 しかしそのせいか、直属の兵の中には勝手に親衛隊を名乗り、劇場の男優を追いかける少女もかくやという勢いで騒ぎ立てる者が絶えないのだ。
 見せしめにいつもの倍以上しごいても「ありがとうございます!」と叫ぶ強者までいる始末。
 放置してもうるさいし、罰を与えてもやかましい。一体どうしたものかと悩み、何故こんなことで悩まなければならないのかと情けなくなってくる。

『……サーシャ』
「!」

 上衣を脱ぎ、肌を外気にさらしたところで聞こえてきた声。机に立てかけておいた剣を手に取り、抜剣するサーシャ。
 しかし周囲に誰も居ないことを確認すると、ようやく声の正体に思い当たり耳元へと手をそえた。

「……急に話しかけるなセルゲイ。心臓に悪い」
『そう言われましても。呼び鈴を鳴らすこともできませんしね』

 左耳につけた水晶のイヤリングを介して伝わる声は、リカム帝国の将軍でありサーシャの幼馴染みである男のもの。
 八つ当たりじみた苦言を漏らすサーシャに、どこか楽しげな声色で応える。

『急にすいませんね。ですが帝都の様子を、定期的に教えるように言ったのはサーシャですから』
「そうだったな。それで、そろそろそちらは雪は溶けたか?」
『まだちらほらと。一昨年と昨年に続き、今年も冷夏になりそうです』

「……そうか」

 どこか気落ちした声で言いながら、サーシャは用意されていた湯と布で体を拭いはじめた。
 リーメス城塞には、風呂などという気のきいたものはない。部下の目を気にしないならば、溜め水でも使って水浴びはできるだろうが、生憎とサーシャは女だ。
 切羽詰まった場面で自分が女である事を主張する気はないが、平時から恥を知らぬほど女を捨ててはいない。

「今年も不作になりそうか」
『ローランドから輸入はしていますが、こうも続いては限界があります。ピザンを切り取るのが先か、ローランドを裏切って攻めるのが先か』
「豊穣の大地を手に……か。それだけの理由で有史以来大陸の南北で戦っているのだから、根が深い」

 伝説の時代に世界が砕け、南大陸ができて以来、大陸の北部と南部の国や民族は争い続けてきた。
 リーメスも、元は大陸北部から略奪に来る蛮族の侵入を防ぐために、ローランド王国が築いた長城だ。
 もっとも、民衆に多大な負担を強いた長城の建設によって、反乱とキルシュの建国を招いたのだから、本末転倒としか言いようがない。

「それと……レオニート将軍について嫌な噂を聞いた」
『噂じゃありませんよ。遂に我慢の限界がきたらしく、イクサに挑んで返り討ちです』

 自分たちと同じ将軍の死をあっさりと告げるセルゲイ。しかしそれを非難する気はサーシャにはおきなかった。
 あのイクサが政に干渉を始めてから、幾度同じことが起きただろうか。
 サーシャとて、勝機があれば同じことをしただろう。だが勝てるはずがない。
 なまじ魔術の心得があるために、サーシャは誰よりもイクサの力を正確に評価してしまっている。
 アレは正に世界を救う英雄の反存在だ。自分達のような端役では、噛ませ犬にもなりはすまい。

「それで、レオニート将軍ほどの武人なら、一太刀くらいは入ったか?」

 戦士は魔術師に勝てない。魔剣の類いがあれば善戦はできるかもしれないが、レオニートの愛槍は業物であっても魔力のこもらないただの槍だ。
 もし何かの間違いでイクサに攻撃が届いたとしても、その身を傷つけることは夢のまた夢でしかない。

『一太刀どころか、イクサの飼い犬すら越えられませんでしたよ』
「……あの黒騎士か」

 いつの頃からか、イクサに重用されはじめた黒い甲冑に身を包んだ騎士。
 素性は知れないがあのイクサに従っているのだ。中身はアンデッドであると噂されており、実際他に何人かいる黒い甲冑の騎士は死臭漂うアンデッドナイトである。

『あのレオニート将軍相手に互角でしたよ。イクサの横やりが無ければ、勝負は分からなかったでしょうが』
「横やりが入ったのか?」
『ええ。いきなり足元に影が広がって、ズボッと沈んだと思えば鎧と血糊を残しておなくなりに。死体がどうなったかは私にも分かりませんが』
「……まあ予想はつく」

 ネクロマンサーに殺されたのだ。まず間違いなく人形の材料にされるだろう。
 しばらくすれば、イクサ配下の黒騎士の中にどこかで見たような顔が混じっているかもしれない。

『サーシャ。そろそろ本気で逃げるか寝返るか考える必要がありますよ』
「……駄目だ。陛下を見捨てられない」

 当たり前のように囁かれた、ある意味当然の裏切りの誘いに、サーシャはしばしの沈黙の後答えた。

「陛下さえ開眼していただければ、まだリカムはやり直せる」
『イクサがそれを許しますか。まあ逆に言えば陛下を人質にされているわけですが』

 何だかんだと言いながら、セルゲイもまたリカムを捨てない理由はそれだ。
 イクサさえ居なければ、自分たちの祖国はやり直せる。だからこそ、従うふりをして牙を研ぎ澄ましてきた。

『ですがサーシャ。引き際を誤れば、全てが失われます。ただでさえ貴女は、反イクサの筆頭と表だって認識されているのですから』
「……分かっている。粛清されない程度に大人しくしているさ」

 憎しみを噛み殺し、サーシャは決意を新たにする。
 その内心を読み取ったように吹き荒ぶ風と雨が、嵐の到来を告げていた。






「降ってきたぜ。こりゃ見張りなんてやるだけ無駄だな」

 兵たちの食堂として使われている部屋で、休憩に入った粗野な騎士が腰を下ろしながら言った。

「夜も深い。敵さんも夜遊びするほど気合い入ってないだろ」
「ああ、何せこのリーメスを奪ってから二年だもんな。探求王が健在なら、こんなにのんびりできなかっただろうぜ」
「……そうかな」

 食事をとりながら言い合う二人の騎士。そんな二人の言葉に、ちびちびとカップの中身を減らしていた生真面目そうな騎士が呟くように言った。

「新たな王であるクラウディオは、反乱分子はもちろん疑わしい程度の不穏分子も問答無用で粛清していると聞く。財産も領地も没収し、ピザン王家の力は建国以来最大と言っていい」
「つまり……どういう事だよ?」
「足並み揃えない部下にキレて、独裁政治で無理やりまとめてるってことだよ」

 いまいち話の理解できていない様子の軽そうな騎士に、粗野な騎士があきれ混じりの笑みで言った。

「何だよ。俺はてっきりピザンは正義の味方だと思ってたのに、それじゃうちと同じじゃねえか」
「……おまえ言葉選べよ。レオニート将軍の噂知らねえのか」
「陛下に粛清されたって? 馬鹿にすんなよ。俺だってホントはイクサに殺されたって事ぐらい分かるさ」
「分かった。おまえが馬鹿だってことは分かったから口閉じてろ」

 胸を張って言う軽そうな騎士に、粗野な騎士はため息をつく。

「しかしうちもどうすんのかね。いくら兵力でこっちが勝っても、四将軍の一人が欠けたんじゃ不安も残るぜ」
「確かに。四将軍以外に優れた将が居ないでもないが、ピザン諸侯は厄介だ。血塗れ王の粛清劇を切り抜けたのだから、能力も信も高いものが厳選されたとも言える」
「ピザンと言えば、あの噂知ってるか?」

 不意に話に割り込んできた軽そうな騎士。それに生真面目そうな騎士は眉をひそめたが、無言で先を促した。

「先月から白竜騎士団がピザンに攻めこんでるだろ」
「ああ。そのせいで俺ら赤竜騎士団は、代わりにリーメスくんだりで留守番してるんだからな」
「その白竜騎士団を、妙な集団が何度も撃退してるらしいんだよ」
「妙な集団?」
「ああ、見た目は騎士だが、武装がまったく統一されてなくて、鎧も兜も得物までてんでバラバラ」
「騎士崩れの傭兵か?」
「だと思うだろ。だが奴らかなり統率されてるらしい。個々の技量も確かで、白竜騎士団は手を焼いてるって話だ」
「あの戦の申し子相手にか?」

 白竜騎士団の長であるウォルコフは、指揮官としては問題が多いが武人としては間違いなく大陸最強の一角だ。
 それに白竜騎士団には、副将のシルキスがいる。ウォルコフが暴走したとしても、悪手はとらないはずだ。

「何者だそいつら」
「さてね。だが奴ら、一つだけ共通点があるそうだ」
「共通点?」

 訝しげに問う生真面目そうな騎士。それに軽そうな騎士は焦らすように口に酒を含むと、何故か得意気に言う。

「奴ら揃って赤拵えの鞘をぶらさげてるらしい。得物は剣やら槍やらメイスにハンマーとてんでバラバラだが、使いもしない鞘だけお揃いってわけだ」
「なるほど。赤鞘の騎士団と言ったところか。同じ赤を象徴する騎士団として、是非闘ってみたいものだが」
「よせよ。あの銀狼を手玉にとる連中だぜ。戦わないに越したことは無い」

 今回のリーメスでの留守番のように、赤竜騎士団は貧乏くじをひく割合が高いのだ。
 これ以上運気が下がってたまるものかと、粗野な騎士は景気よくカップの中の酒を飲みほした。

「……何か騒がしくないか?」
「ん? まさか親衛隊がまた団長にちょっかいでも出しぃ!?」

 生真面目そうな騎士に言われ、粗野な騎士がのんきに言っている最中、突然テーブルが吹き飛んだ。
 否。吹き飛んだのは部屋そのものであり、原因は石造りの床をぶち抜いて生えてきた石柱だ。
 どうやらそれはリーメスを横断するように生えてきたらしく、崩れた壁の向こう側、食料の備蓄子まで阿鼻叫喚の大惨事となっているのが見えた。

「つっ……だから魔術師は嫌いなんだ! 宣戦布告ぐらいしやがれってんだ! よーいドンで始めないと、こっちは何もできずに死ぬだろうが!」
「生きてるがな。どうやらリーメスの防御を抜くのが目的で、人的被害には期待してないらしい」

 頭にスープの入っていた皿を乗せたまま叫ぶ粗野な騎士に、生真面目そうな騎士が石柱をなでながら言う。

「襲撃! 襲撃者だ!」
「遅えよ!?」

 今更な情報に咆哮しつつ、粗野な騎士は走りだす。続いて生真面目そうな騎士が、軽そうな騎士を引きずりながら走りだした。



[18136] 一章 赤の騎士団2
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:f288fbc0
Date: 2015/09/02 21:38
「何事だ!?」

 突如リーメスを襲った巨大な石柱の群れ。魔術師の非常識さを見せつけるようなその攻撃で死者が出なかったのは幸運以外の何物でも無かったが、元々古びてガタのきていた城砦の機能を麻痺させるには十分な一撃であった。
 石柱の命中した個所は言わずもがな、衝撃で崩壊した壁は確認するのが億劫になるほど多岐にわたり、被害が無い部屋を探す方が難しい程である。

「ほ、報告します!」
「入れ!」
「ハッ。サーシャさ……失礼しました!?」

 しかし流石は帝国四大騎士団の一角というべきか、団長であるサーシャの下を伝令が訪れたのは彼女が身なりを整え終わるよりも遥かに早かった。
 入室を許され蝶番の外れたドアを押しのけた伝令兵は、下着同然の薄布しか纏っていないサーシャを認め慌てて体を反転させる。

「良い。そのまま報告しろ」
「ハッ! 何分この有様ですので正確な事は分かりませんが、魔術師――恐らくマスタークラス以上の攻撃と思われます。各部隊長の無事は確認されておりますが、末端の兵までは把握できておりません」
「敵は確認できていないのか?」
「現時点でリーメス周辺に軍勢の姿は確認されておりません」
「……妙だな」

 この混乱。仕掛けるには好機である。だというのに敵は攻撃を始める素振りすら見せず、奇襲を行ったと思われる魔術師も次の手を打ってこない。

「もしやあの捕虜の……」
「伝令!」
「些事は良い。報告を」

 一つの可能性を見出したサーシャであったが、それを追及する前に新たな伝令が到着する。
 そしてその伝令がもたらした報告は、その一つの可能性を忘却してしまうほどにあり得ないものであった。

「城砦の正面に襲撃者です! 数は一!」
「……私の聞き間違いか? 襲撃者は何名だと言った?」

 チュニックを纏いながら伝令に視線を向けるサーシャ。あり得ないと、そう断言できる報告を聞いたためか、その目は冷たく伝令を怯ませるほどである。
 しかしそれでも、ただありのままの事実を報告するため、伝令は丹田に力をこめ声を張り上げた。

「襲撃者は一名! ハルバートを携えた長身の騎士が我が方の兵を塵芥のごとく蹴散らしております!」
「長身の騎士だと」

 まさかと、サーシャの脳裏に一人の騎士が浮かんだ。
 可能かといえば可能だろう。彼ならばいかに精兵といえど、名も通らぬ雑兵を複数相手どるなど慣れたもののはずだ。
 だが可能だからと言って、実行するほど馬鹿ではないはずだ。

「伝令!」
「報告を!」

 しかし新たにやってきた伝令。その報告がサーシャの予想が当たっていたことを告げた。

「襲撃者はコンラート・シュティルフリート! ピザン騎士、巨人コンラートです!」

 コンラート――巨人。白騎士。暴れ牛等の異名を持つピザンの騎士。
 前大戦でリカムに多大な被害をもたらし、キルシュ王都の決戦の際にはローランドの王子ロラン・ド・ローランが皇帝を討つ隙を作りだし、大戦を終結に導いた立役者の一人。
 そして――

「……やはり彼か」

 ――サーシャの父と同じリーメス二十七将に数えられた英雄の一人。

「乗せられるようで癪ではあるが良い機会……か。確かめさせてもらうぞ――英雄」

 そう静かに呟くとサーシャは鎧も身に着けず半壊した部屋を後にした。





 戦争は数で決まる。ある種の例外を除き、それが常識であり本質である。
 いかに個々の技量が高くとも、二対一では不利。相手が三人、四人と増えていけば、腕に覚えのある人間でも敗北は免れない。

 しかしそんな常識を覆す存在がこの世には居る。

 例え十の兵が同時に襲いかかろうとも、彼らに剣が届く事は無い。
 例え百の兵が陣を組もうとも、彼らの一撃は容易くそれを打ち砕く。
 例え千の兵が戦を仕掛けようとも、最後に立っているのは彼らだけ。

 一騎当千。その言葉を体現する。故に英雄。

「囲め! 常に周囲から牽制しろ!」

 そんな存在が、赤竜騎士団の守るリーメスに正面からやってきていた。

「ぎゃあ!?」
「そ、そんなばッ!?」

 漆黒の斧槍。それが振るわれる度に赤竜騎士団の兵たちが木の葉のように蹴散らされていく。
 その冗談のような光景は既に十を越えるほど繰り返され、兵の損耗は五十を越えた。

「怯むな! 相手は一人。魔術師でも化け物でもないただの人間が一人だ! 致命傷を与えれば死んでくれる、実に簡単な相手だ!」

 しかしそれでも、一時的に指揮を預かった副団長イシドルは冷静に兵を鼓舞していた。
 そして配下の兵たちもまた臆することなくその指揮に従い、己の役目を全うしていく。

「今!」
「放てぇ!」

 イシドルの指示に従い、包囲の外で密かに準備を整えていた弓兵たちが一斉に矢を放つ。驟雨のように飛来したそれは常人ならば防ぎようのない死の雨である。
 しかし忘れてはならない。英雄とは死を越えてこそ英雄なのだと。

「ハアッ!」

 ゴウと重い唸り声をあげて、コンラートの手にした斧槍が風車のように回転する。
 ただそれだけで飛来した矢は全て叩き落され、包囲の中には無傷のコンラートが一人佇んでいた。

「……すげえ」
「……」

 騎士の一人が漏らした賛辞を咎める者は居なかった。否。認めざるを得なかったのだ。目の前の騎士が自分たちなど及ばない、正真正銘の英雄であると。

「我が赤竜騎士団をもってしてもこの有様か」

 静寂に包まれる戦場の中、不意に不似合いな女性の声が響いた。

「さ、サーシャ様!」
「イシドル。兵を下がらせろ。やるだけ無駄だ」

 剣を抜き、鞘を預けながらサーシャは歩みだす。それに合わせコンラートを包囲していた兵たちが割れる。

「……」

 徐々に大きくなる男の姿を、サーシャは観察する。
 巨人という異名の割には、それほど巨躯には見えない。背は確かにサーシャでは見上げなければならない程に高いが、それに反して細身な体のせいだろうか。
 年齢の割に渋みを感じさせる顔と言い、老木のような印象を受ける男だった。しかしそれは決して頼りないものではなく、他者を慈しみ見守る暖かさと力強さがあった。

「……」

 誰もが息をのみ沈黙を守る中、一足一刀の間合いまでたどり着くとサーシャは歩みを止めた。
 コンラートが斧槍を構え、周囲が緊張に包まれる。

「……私はイリアス・カディロフの子にして赤竜騎士団団長を務める者、サーシャ・カディロフ。白騎士コンラート殿とお見受けするが、いかが?」

 しかしサーシャは剣を携えたまま、構えることも無く言葉を紡いだ。
 その静かな名乗りと問いかけにコンラートは驚いたように目を瞬かせたが、納得したように頷くと斧槍を引き口を開いた。

「いかにも。我はピザン王妹ゾフィー殿下の配下にして、赤剣騎士団団長の地位を預かるコンラート・シュティルフリートと申す。帝国四将軍の一人に名を知られていたとは光栄だ」
「敵ながら、その忠心と勇猛さはリカムでも鳴り響いている。何より父と同じ二十七将に出会え、こちらこそ光栄に思う」
「二十七将の子が戦場に立つか。なるほど、俺も年をとるはずだ」

 そう言って笑うコンラートに、サーシャもまた状況を忘れたように笑みを返した。
 なるほど、この男は噂通りの男らしい。できる事ならこのまま剣を置き語り合いたいとすら思うほど、出会ったばかりの男にサーシャは好意を抱いた。

「何故一人で……と問うた所で無駄な事か。さて、いささか惜しくもあるが、敵として出会った以上はやるべき事は一つ」

 だが相手は敵である。そう自分に言い聞かせ意識を切り替えると、サーシャは剣を青眼に構える。
 そしてそれに呼応するように、コンラートも笑みを消し斧槍を構えなおした。

「……鎧を着けなくて良いのか?」

 しかしいざ戦わんとした所で、コンラートからそんな言葉が発せられた。
 それに今度はサーシャが驚いたように目を瞬かせたが、すぐに気を取り直すと挑発的な微笑む。

「気遣い無用。何より、貴方相手に鎧など邪魔なだけだ」
「若いな。いや、強いというべきか。非礼を詫びよう。知らず侮っていたようだ」

 そしてコンラートもまた穏やかに微笑むと、意識を戦場のそれへと切り替える。

「では――」
「いざ――」

 ――参る!

 赤竜騎士団と赤剣騎士団。
 同じ赤を冠する騎士団を率いる者同士の戦いはこうして始まった。



[18136] 一章 赤の騎士団3
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:f288fbc0
Date: 2015/09/09 01:00
 白騎士。巨人。暴れ牛。
 コンラートを表す様々な異名。その異名の数々は彼の騎士としての力を誉め讃え畏怖するものであると同時に、少なからぬ揶揄の込められた蔑称でもあった。

 白騎士は彼を初めとした平民騎士を指す言葉であるが、紋章や家紋を持たない空白の騎士――所詮平民でしかないという侮りを。
 巨人は彼の体躯を誉めると同時に、無駄にでかくて邪魔だという僻みを。
 そして暴れ牛は、彼の力任せで技術の無い未熟さを笑う嘲りを。

 だがそれらの蔑称が付けられたのは、もう十七年も昔の事である。長い年月の中で名の中に込められた蔑みは忘れ去られ、純粋に彼を讃える称号となった。
 何よりも、十七年の年月の間にコンラートが築き上げたものが、彼を嫌う者にすらその蔑称を呼ぶことを躊躇わせたのだ。

(これのどこが暴れ牛だ!?)

 獣の唸り声のような音を立てて自らに迫る斧槍を躱しながら、サーシャは内心で独り言つ。
 その長身から放たれる斧槍の一撃は断頭台の刃を思わせた。
 否。その恐怖は断頭台のそれをはまったくの別物。目の前で暴雨のように降り注ぐ刃に比べれば、ただ首を切るためだけに存在する刃など何と可愛いものか。
 この刃の前では急所など関係無い。例え表皮を掠めただけでも肉は削ぎ落とされ、万が一にも直撃すればその部位は引き千切られて落ちるだろう。
 そして更に恐ろしいのは、それらの攻撃が決して力任せなものでは無いという事だ。

(隙が見えない。見えたと思ったら誘いで、誘いに乗らなければむしろこちらの隙を突かれる。厭らしさではセルゲイの方が上だが、力も速さも比べものにならない)

 斧槍を受け流すだけで腕が痺れた。躱したはずの一撃の余波で体が崩れそうになる。

(暴れ牛ならどれほど御しやすいか。なるほど。それ故に――)

 ――巨人。
 伝承の中にある巨人とは、ただ山のような体を持つだけの存在ではない。
 時に神と敵対し、時に神と同一の存在とすら見なされる。竜と並び神の領域を侵し得る最上位の怪物。

(そう。コンラート・シュティルフリート。貴方は確かに――)

 ――神(悪魔)を倒し得る怪物(英雄)だ。

「っ……ハアッ!」

 横薙ぎに払われた斧槍を後ろに跳んで躱したサーシャは、そのまま一気にコンラートとの距離を取った。

「はあ……」

 大きく、しかし静かに息をつく。
 できることなら体を屈め、思い切り息を吸い込みたい。だが呼吸が乱れている事を悟られれば、相手は間違いなく好機とみて追撃してくるだろう。
 故に、まだまだ余裕がありますと言わんばかりに、落ち着いた素振りでサーシャはコンラートを見据える。

「……恐れ入った。加減されていると分かるのに、それに腹を立てることもできない。あのイクサと戦い生き残ったのは伊達ではないという事か」
「生き残ったと言っても、俺は一方的に蹂躙され気絶したところを見逃されただけなのだが。二十七将に数えられた事と言い、どうにも俺は過大評価をされやすい性質らしい」

 よく言う。髭のはえた口元を撫でながらとぼけたように言うコンラートに、サーシャは自分でも知らずのうちに笑っていた。
 確かに十七年前ならば、まだ若造であったコンラートに二十七将の名は過ぎたものだったかもしれない。だが今目の前に居る男は、間違いなく英雄と呼ばれるに足る戦士だ。
 謙遜か、あるいは本当に自分の価値を分かっていないのか。
 どちらにせよ、どこか抜けたところがあるのは間違いない。

「しかし確かに加減はしているが、それはそなたも同じことだろう」
「……何?」
「赤竜将軍は剣士としてだけではなく、魔術師としても一流だと聞く。だというのに、決めはおろか牽制にも魔術を用いないとは。俺程度は魔術を使うまでも無いということだろうか」
「……」

 コンラートの言葉にサーシャは咄嗟に返す言葉を持たなかった。
 確かに、コンラートと同じくサーシャにとっても今の戦いは全力と呼べるものでは無かった。しかしそれを指摘する理由がサーシャには分からない。

「……失礼した。決闘ならば対等でなくてはならないと、知らず己を制していた」
「なるほど。そら遠慮するな。そなたの一番得意とする魔術を使うと良い」

 挑発するような物言い。しかしコンラートの人柄故か、その言葉はまったく挑発になっていなかった。むしろ何かを企んでいるのが丸分かりで、逆に何もないのではと思考の螺旋に迷い込みそうな程だ。

「……では、お言葉に甘えるとしよう。――風の精霊よ。古の契約に従い我が声に応えよ」

 剣を右手で構えたまま左手を突きだし、サーシャは魔術の詠唱を開始する。

「――流れ落ちる雫。泫然と降りしだく禍階は空を裂き、暗涙の調は地維を砕く」

 そしてそんなサーシャを、コンラートは斧槍を構えたまま何もせず見ていた。
 魔術。先ほどの矢衾等とは比較にならない、確実な死をもたらす力の顕現。それを待ちわびるように、コンラートはサーシャの詠唱が終わるのを待っている。

 何かあると、その場に居る誰もが思っただろう。
 もし仮に何もなくこのままコンラートが死んでくれたなら、むしろ文句を言いたくなる程だ。
 なればこそ、サーシャは一切の躊躇いを捨て、その魔術を放った。

「――汝、天と地の狭間を蕩揺する者。謡え、高らかに!」





「盛り上がってんなあ」

 リーメスの一角。壁が崩れ去り、窓が窓として機能していない隙間から外の様子を窺いながら、若い兵士が呟く。

「どれどれ。僕も見ていいかな?」
「駄目に決まってんだろ」

 部屋の中。傾いて隙間のできたドアの向こうからかけられた言葉に、兵士は呆れたように返す。

「だがコンラートくんが来てるんだろう。そして此処の守備を任されているのはカディロフ将軍だ。未だ現役のリーメス二十七将とリーメス二十七将の娘がリーメスを舞台に因縁の対決だ。誰だって見たいに決まってるじゃないか」
「アンタなあ。自分が捕虜だって自覚無いのかよ」

 どこか興奮したような声に、兵士はますます呆れを強くして言う。
 大体コンラートがキルシュ防衛線に参加したのはイリアス・カディロフが戦死した後なのだ。同じリーメス二十七将に数えられたというだけで、二人には面識どころか接点もありはしない。

「なあ良いだろう。別に逃げたりしないから僕にも見せてくれないか?」
「アンタいい加……」

 兵士の言葉が不自然に途切れる。兵士自身も何故急に自身の言葉が途切れたのか分からず喉を押さえれば、そこにはまるで最初からそこにあったかのように小さなナイフが生えていた。

「……ぁ」

 そしてそのまま、兵士は言葉を紡げないまま崩れ落ちる。その兵士の骸を跨いで、何者かがガタついたドアを蹴破った。

「お見事。しかしドアはもう少し丁寧に開けてくれないかな。どうしてゾフィー様の配下の人間は、ドアを蹴破るのが好きなんだろうね」
「別に好きで蹴破っている訳では無いんですけど……」

 ドアを蹴破り、男の茶化すような言葉に応えたのは、黒装束に身を包んだ細身の青年だった。しかし一点だけ、腰に身に着けた短剣の鞘だけが赤い。

「君は赤剣騎士団のスヴェンくんだったかな。もう十年以上も前にマルティン殿相手にスリに成功。後に捕まったものの、その腕を買われて色々と経歴を誤魔化して兵士になった」
「覆面してるのに何で分かるんですかねえ。しかもその色々と誤魔化した経歴を何で知ってるんですかねえ」

 呆れと猜疑心の混じったスヴェンの言葉に、男は椅子に腰かけたまま愉快そうに笑って返した。

「諜報専門の部下を持ってるのはゾフィー様だけじゃないからね」
「やっぱりアンタの仕業ですか。俺が侵入する間に他の団員が陽動に回るはずだったのに、団長が一人で突っ込んで来てんのは」
「察しの通り。僕が指示した」
「どうやってとか、どうしてとか、聞いてる場合でもないですね」

 そう言うと、スヴェンは顔を振って男を促す。

「さっさと脱出しましょう。まあアンタなら俺がわざわざ迎えに来なくても大丈夫だったんでしょうけど」
「それは買いかぶりというものだよ。僕は戦いの方はからっきしなんねで」

 そう言うと男――七選定侯の一人アルフレート・デンケンは胡散臭い笑みを浮かべた。



[18136] 一章 赤の騎士団4
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/10/19 22:33
 それまでの戦の騒乱が嘘だったかのように、その場に居る人間は誰一人音を発することができず、ただ風の吹きすさぶ声だけが響いていた。

「なるほど。一度は受けたことのある魔術だが、それでもうまくいかぬものだな」

 サーシャが放った魔術の中心地。嵐の巻き起こす風よりも遥かに強烈な、破壊槌を思わせる風の砲弾の爆心地に居ながら、コンラートは平然と言葉を紡いでいた。
 いや。よく見れば額に一筋の血が滴っているが、むしろそれこそが異常。
 戦士は魔術師に勝てない。その常識を打ち破る異常がそこにあった。

「魔術を……斬った?」

 兵士の一人が半ば無意識のうちに呟いたのを契機に、コンラート包囲していた壁がざわめき動揺する。
 魔術を斬る。そんな荒唐無稽なこと、見たことはもちろん聞いたことすらないだろう。
 炎に包まれた道を剣で切り開く。それと同様の無理難題なのだ。できると考える方がおかしい。

 だが現に目の前でコンラートはそれを成した。
 手にした斧槍で、眼前に迫った風の砲弾を斬り伏せ、打ち捨てたのだ。
 その異常性。魔術師に劣るものではない。

「……魔槍か」

 一方、魔術を斬り捨てられた当の本人は、すぐに冷静さを取り戻しコンラートの手の中にある斧槍へと興味を移していた。
 魔剣聖剣の類は魔力を帯びている。故に魔術へと干渉することも不可能ではない。
 しかしそれだけでは片手落ちだ。仮に砲弾を真っ二つに切り裂けたとしても、その残骸はそのまま標的目がけて飛んでくる。
 そういう意味では、受け止める方が無謀であれまだ物理的には意味のある対処だろう。

 だが現にコンラートは魔術を斬り捨てた。多少の負傷があるところを見ると完全に相殺できたわけではないらしいが、ただ斬っただけならばそこまで威力は減衰されなかっただろう。

「まさか」
「うわあ!?」
「何だ!?」

 騒然とする兵士たちの一部が突然叫び出し、雪崩を打つように囲いが崩れる。

「どうした!?」
「う、馬! 馬です!」
「馬ぁ!?」

 その原因は、突如乱入した栗毛の馬だった。
 並の馬より二回りは大きいであろうその栗毛の馬は、曲がることなど知らぬとばかりに眼前の兵士たちを蹴散らし、囲いを突き崩す。

「どうやらここまでのようだな。さらばだカディロフ卿!」
「な、シュティルフリート殿!?」

 混乱するリカム軍をよそに、コンラートはそう呟くと構えを解き槍を収めた。
 そんなコンラートへと突き進む巨馬が迎えなのかと一瞬思ったサーシャだったが、しかし馬は主であろうコンラートが目前に迫っても止まろうとせず、むしろ速度をさらに上げていく。
 このままではぶつかる。リーメス二十七将の一角が馬に轢かれて退場か。
 そんな心配をしてしまったリカム軍のお人よしな面々だったが、そんなものは杞憂でしかなかった。

「ふっ」

 段差でも超えるように軽くコンラートが地を蹴ると、そのままクルリと回転して導かれるように馬の背に収まる。
 そしてそのまま速度を落とさず去っていく背に誰も手が出せなかった。
 あまりに華麗な逃走劇に、見苦しい追撃など野暮だとすら思ったのかもしれない。

「……追いますか?」
「やめておけ。追いついても返り討ちにあうだけだ」

 絶対にやりたくないと顔に書いてある副官からの質問に、サーシャは苦笑しながら返す。
 何より、あの栗毛の馬は中々の駿馬のようだ。今から馬を用意して追いかけたのでは、到底追いつけるものではない。

「それよりも現状の回復が先だ。被害の確認に人員の点呼、及び再配置。嵐が迫っているというのにこの有様。寝床の確保すらできないぞ」
「それは一大事。すぐに取り掛かります」

 敬礼しすぐさま行動に移る副官の背を眺めながら、サーシャは先ほどの戦いを思い返す。

 魔剣で魔術を相殺する。可能か不可能かで言えば可能だが、常人に行える業ではない。
 魔剣は使い手を選ぶ。そして魔剣はその真の力を解放するとき、使い手の魔力を食らうのだ。
 恐らくコンラートも、魔槍に魔力を食わせる術を心得ているということだろう。
 魔術師ではないが魔術に対抗する術を持っている。
 それは戦士と魔術の絶対的な相性差を覆すものであり、あるいはあの悪魔とも……。

「まずいな。彼を倒す方法よりも、どう味方に引き込むかという手段ばかりが頭に浮かぶ」

 この気分の高揚は、好敵手に出会えたというだけのものではない。
 もしかすれば己は、この手詰まりの現状を打破する最上の戦友(とも)と出会えたのかもしれない。
 そんな馬鹿げた確信があった。

「いずれにせよ、もう少しは大人しくしておくか。イクサめ。今に見ておけよ」

 そんな小物めいた言葉を吐きながら、サーシャは少女のように晴れやかに笑った。





「団長が帰ってきたぞ!」
「マジか!?」

 リーメスから死角になるよう丘を越え、木々の間を無茶な速さで走り抜け、ようやく自軍の陣地へとたどり着くとコンラートは詰まっていた息を吐き出した。

 単騎での赤竜騎士団への特攻。
 聞けば誰もが無謀だと思うだろうし、やれと言われれば「おまえは阿呆か」と命じた人間に食ってかかることだろう。
 事もなげにそれを成したように見えるコンラートだったが、その内実は綱渡りの連続だった。
 まったくピザンのお偉方は無茶ばかり言うと、不満に思いながらもその期待が心地よいと思っている自分に気付き苦笑する。

「ご無事ですかコンラート様!?」
「ツェツィーリエか。見ての通り大事はない」

 馬を部下の団員たちに任せたところへ走り寄ってきた自らの従者の様子に、コンラートは腕を掲げて無事を伝える。

「ツェツィーリエもご苦労だった。あれほど相手が混乱したのは、そなたの奇襲がうまくいったおかげだろう」
「……よかった。私はろくに確認もせずに後退しましたから。あのまま残ることをお許しくだされば、赤竜騎士団の戦力を三割は削ぎましたのに」
「護衛もろくに居ない状態でそんな無茶をさせるわけにもいかんだろう」

 ツェツィーリエは典型的な後衛型の魔術師であり、例え相手が雑兵でも複数の人間に距離をつめられては対処に時間がかかる。
 複数を相手取っても時間がかかるだけで済む辺りが魔術師が常識外れと言われる所以だが、そちらに気を取られて本来の役割を果たせないのでは本末転倒だ。
 故に今回は役目を果たすなり即座に退かせた。

「それに今回の目的はあくまでも陽動だからな。そちらの首尾は?」
「おう。うまくいきましたぜ」

 コンラートの疑問に答えたのは、二人の会話を邪魔せぬように控えていた中年の騎士だった。
 名はルドルフ。領地を持たない下級騎士ではあるが、キルシュ防衛線にも参加し生き抜いた古参の兵(つわもの)である。

「あっちの天幕で待ってもらってます」
「そうか。体調はよろしいのか?」
「元気そのものっすな。どうやらリーメスはよほど快適だったらしい」
「なるほど。しかしルドルフ。以前も言ったが、無理して俺に敬語を使わなくてもいいのだぞ?」
「ハッハッハ! そう言いなさんな。お互い立場があるんだから、気持ち悪くても我慢してくだせえ」

 快活に笑って言うルドルフに、コンラートも仕方ないと笑って返す。

 今では団長と部下という関係の二人だが、以前は騎士と平兵士という逆の立場であり、終戦後は長きにわたり下級騎士という同じ立場にあった同僚だ。
 コンラートの立場がコロコロと変わっても縁が切れない程度には、お互いに気心の知れた関係でもある。

「では、俺は客人の相手をしてくる。後のことはそのまま副団長の指示で動いてくれ」
「了解。気を付けてくだせえよ」
「今回のことで嫌という程理解している。ツェツィーリエ。すまぬが同席してくれ」
「分かりました」

 ルドルフの示した天幕は、他のものと比べ一際大きいものだった。
 本来なら団長であるコンラートが使うものなのだが、今回ばかりは客人に譲らなければならない。
 何せ相手は一応伯爵位を持つコンラートより目上の存在なのだから。

「失礼します」
「おお。コンラートくんかい。ようやく会うことができたね」

 天幕へと足を踏み入れたコンラートを出迎えたのは、焦げ茶色の髪を後ろへ流し、どこぞの流行に敏感な劇作家のように小洒落た髭をたくわえた男だった。
 アルフレート・フォン・デンケン。
 ピザン王国の筆頭貴族である七選帝侯の一人であり、夏戦争の折には百名足らずの兵だけで白竜騎士団を自らの居城へと釘付けにし続けた名将である。

「いやはや助かったよ。あの状況で僕を助け出してくれるとは、さすがはリーメス二十七将だ。うっかりリカム軍の虜になったときは死を覚悟したのだけれど」
「その割には随分と余裕があられたようで。私に『単騎で陽動しろ』などと指令を飛ばせるくらいなら、ご自分で脱出する手筈も整えられたでしょうに」
「いやいや。そこは僕の部下が優秀なだけだよ。足手まといの僕を連れての逃走なんて、さすがに無謀だよ」

 そう言って笑うデンケン候だが、足手まといというのは謙遜ではなく彼の本心だろう。
 先ほど彼を名将と評したが、彼自身は武勇に優れた人間というわけではなく、むしろ智謀策謀に優れた軍師寄りの軍人である。
 だからこそ、うっかり捕まったなどという言葉が信じられないのだ。
 捕まったふりをしてリカム内部の何かを探っていたのだと言われても、コンラートはあっさり信じるだろう。

「そこも含めて言い訳をするとだね。君に単騎で陽動に出るよう言ったのはその方が被害が少なくなると確信していたからだよ。赤竜騎士団のカディロフ将軍に、君に興味を持つようさりげなく誘導しておいたしね」
「なるほど。通りで簡単に一騎打ちに持ち込めたと。しかしそれでは私が捕まる可能性も高かったのでは?」
「布石は他にもあるよ。言わないけど」

 そう言って軽く笑うデンケン候に、コンラートは痛む頭を庇うように押さえた。
 自分自身すら賭けの代価に出したお人だ。それなりに自信があっての策だったのだろうが、その全容を教えてもらえないとなると使われる側としてはたまったものではない。

「クラウディオ陛下にはこのまま王都まで護送せよと命を受けておりますが、何か問題は?」
「リーメスに忘れ物をしたと言ったら取りに行ってくれるかい?」
「拒否します」
「じゃあ仕方ないか。いいよ。久しぶりに陛下の顔を見に行くとしよう」

 最初から断られると分かっていたのか、あっさりと引き下がるデンケン候にため息を漏らしながらコンラートは天幕を後にする。

「どう見る?」
「嘘はおっしゃられていないかと。もっとも、私程度に見抜かれるような方ではないでしょうが」

 ツェツィーリエの言葉に、コンラートも確かにと頷く。
 今の七選帝侯の中で筆頭とされるのはクレヴィング公だが、一番の曲者と言えば間違いなくデンケン候だろう。
 あくまでも王家に忠誠を誓い、野心など欠片も感じさせないクレヴィング公とは異なり、デンケン候は頻繁に王であるクラウディオの思惑を裏切り、そしてそれ以上の功績でもって黙らせている。
 今回の救出から間をおかずの召喚も、彼へ釘を刺すために違いない。

「ともあれ王都に戻るしかないか。陛下もお待ちかねだろう」
「そのことなのですが。私はこのままモニカ様の下へ向かってもよろしいでしょうか?」
「お嬢様の?」

 思わぬ提案に、コンラートは思わずツェツィーリエのを振り返った。
 するとツェツィーリエは、申し訳なさそうに顔を伏せながら言う。

「また宮廷魔術師への勧誘がきそうなので」
「なるほど。確かに今ピザンでは魔術師が不足している。そなたのような一流の魔術師を陛下が欲するのは道理か」

 夏戦争の末期。ドルクフォード王がジレントへの侵攻を決定したのを受けて、魔法ギルドに所属していた魔術師たちの殆どはピザンから出奔した。
 王が変わりジレントとの戦が終われば戻って来るだろうと思われていた彼らだが、実際には一人も戻ってこないという誰もが予想しなかった事態に陥っている。
 これには新王であるクラウディオはもちろん、宰相であるヴィルヘルムも珍しく本気で焦ったらしい。

 そもそもピザンが大国とはいえ他国とは比べ物にならない魔術師の数を有していたのは、国王であるドルクフォードと魔法ギルドの当主であるミリアの間に個人的な友誼があったからに他ならない。
 例えジレント攻めが起きなかったとしても、ドルクフォードが王でなくなった時点でほとんどの魔術師はピザンを去っていたのかもしれない。

「しかし仮にもそなたの主である俺に断りもなしか。一体どうしてしまったのか……」

 今のクラウディオに、かつての快活で大らかだった面影はない。
 人前で笑うことはなくなり、過ちを犯した配下には苛烈な処分を下すようになっていた。
 かつてのふわふわとした根無し草のような態度よりはマシだという者も居たが、そんな意見は半年前に起きた事件で消し飛んだ。

 リカムの宮廷魔術師イクサと繋がりがあるとされた諸侯の処刑。
 裁判も行われずクラウディオの独断で行われたそれは、証拠という証拠もろくに提示されなかったため諸侯から多くの非難を受けた。
 もしかすれば王の不興を買っただけで濡れ衣を着せられ処刑されるのではないか。後ろ暗いことのない者でもそう考えた。
 もっとも、烈火の如き勢いで怒り狂い責め立てたインハルト候が五体満足でピンピンしているのだから、そんな独裁政治など行われるはずがないと皆分かってはいるのだが。

「まるでドルクフォード陛下のような。しかしクラウディオ陛下にそれほど焦るような理由はないはずだが」
「コンラート様?」
「む? いや、すまぬ。それではそなたはモニカお嬢様の下へ向かってくれ。お嬢様も久しぶりに君に会いたいだろうしな」
「はい。ありがとうございます」

 主としてではなく、コンラート個人の言葉としてそう付け加えると、ツェツィーリエもまたそれまでの張り詰めた空気を和らげて、ふわりと笑みを浮かべ礼を言った。



[18136] 一章 赤の騎士団5
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/10/19 22:34
 ピザン王国の軍は、現在大きく三つの部隊に分かれて展開している。

 リーメスを挟んでリカム帝国と対峙する北方軍。
 ローランド王国に占領されたキルシュ解放を目的とする東方軍。
 そしてピザン国内の守備及び遊撃を担当する中央軍。

 コンラートの率いる赤剣騎士団は、一応はクレヴィング公が司令官を務める中央軍に所属している。
 しかしそれは騎士団の能力を期待されたからなどでは当然なく、単に扱いに困ったから気の弱いクレヴィング公に押し付けられたというのが正解に近い。

 もっとも、夏戦争以来クレヴィング公は相変わらずの弱々しさを見せつけながらも妙な強かさを発揮しており、押し付けられるふりをして赤剣騎士団を自らの手元に引き寄せたのではないかともっぱらの噂となっているのだが。
 そんなクレヴィング公の変化に気付いた諸侯の中には「クレヴィング公は確かに臆病者だが、キルシュ防衛線においても逃げるような卑怯者では決してなかった」と思い出したように持ち上げる者も居た。
 たったそれだけのことを機に、クレヴィング公の評価は「臆病者」から「やるときはやる人」に変わったのだから、人の噂というのは勝手なものである。

「ゾフィー様? 起きてくださいゾフィー様」
「……ん? アンナか」

 宮殿の一室。
 今では王妹となったゾフィーは、執務室となっている部屋でまどろんでいたところを侍女に起こされた。

 枕にしていた腕の下には、ふやけてしわくちゃになった報告書。
 それを見てやってしまったと思うと同時、コンラートやマルティンが居たら「はしたない」と叱られていただろうと想像し苦笑する。
 こちらを尊重してくれてはいるのだが、年端のいかない娘を相手にするように小言には遠慮がないのだあの二人は。

「すまないアンナ。最近どうにも眠気がとれなくてな」
「お疲れなのでしょう。お体のこともあるんですから、昔みたいに無茶をしては駄目ですよ」
「面目ない」

 こちらはこちらで幼馴染だけあって忠言も率直だ。
 それに感謝しながらも、さてふやけた報告書をどうしようかと考える。
 クレヴィング公なら苦笑しながら受け取ってくれそうだが、それに甘えるわけにもいかない。

 現在のゾフィーの立場は、クレヴィング公旗下の一諸侯という扱いであり、その権限は決して大きなものではない。
 これは本人たちの思惑はどうあれ、王位に就いたクラウディオに既に子息が生まれている以上、ゾフィーには王位継承の目がなくなったと判断されたことが大きい。
 もっとも、アルムスター公やインハルト候のような熱烈なゾフィー支持者は今も健在なのだが。

 しかしゾフィーを見限った者たちの間で予想外だったのは、ゾフィーが組織し統率する赤剣騎士団の活躍だろう。
 北方軍の守りをリカム軍の一部が突破。後は中央軍に任せるしかない。でもクレヴィング公で大丈夫か
 そんな状況下で鮮烈な初陣を飾ったのが、まだ名前も公表されていなかったコンラート率いる赤剣騎士団であった。

 ピザン王国内へと侵入してきたのは、武勇に優れるがすぐ暴走すると評判な白竜将軍ユーリー・ウォルコフ。
 リーメス二十七将の中でも最強とうたわれたイヴァン・ウォルコフの息子であり、自らも二十七将の一人に数えられた鬼将。
 そしてそれと対峙したのは、何の運命かキルシュ防衛線においてユーリー相手に無敗を誇ったコンラートだった。

 これは何もコンラートがユーリーより強いというわけではなく、相性の問題が大きい。
 ユーリーの武はいわば暴風。小手先の技など力尽くで捩じ伏せる嵐のようなもの。
 そしてコンラートは、その嵐を何とか受け止められる程度には馬鹿力で、小手先以上の技を持った武人だった。

 コンラートを技で倒せる者はユーリーには近づくことすらできないが、そのユーリーにコンラートは容易く近づける上に技を使って打ち勝てる。
 そんな相性は十年以上経っても変わらなかったらしく、お得意の乱戦に持ち込んだユーリーは計ったようにコンラートとの一騎打ちとなり、そして予定調和のように見事に敗走した。
「覚えてろよ!」と小悪党の見本のような捨て台詞を吐いて逃げるユーリーに、コンラートが懐かしさを覚えるよりも脱力したのは言うまでもない。

 ともあれ、王女の道楽と思われていた騎士団の活躍が、ゾフィーの評価を上げる一助となったのは確かである。
 伯爵位を与えられたとはいえ、元平民のコンラートを団長に据えるという大抜擢も、一部の貴族を除いた者たちから高く評価された。
 これは身分に問わず有能なものは登用するという姿勢に加え、前王ドルクフォードにより不当に騎士の位を剥奪されたコンラートを、その娘であるゾフィーが厚遇したという美談として扱われたことが大きい。
 ちなみにそのことを聞いた現王クラウディオは「俺だってコンラートを蒼槍騎士団に入れようとしたのに!」と拗ねた。

「そういえばコンラートは上手くやっただろうか」
「大丈夫でしたよ」
「ひう!?」

 何となしに呟いたゾフィーの言葉に、その場に居ないはずの男の声が答え、驚いたアンナが悲鳴を上げかけて飲み込んだような奇妙な声を漏らす。

「……スヴェンか?」
「はい姫様」

 いつの間にそこに居たのか、束ねられたカーテンの裏から細身の青年が現れる。
 相変わらずその顔は覆面で覆われており、表情は読み取れない。

「女の部屋に勝手に入って来るものではないぞ」
「プライベートな時間なら考えますけどね。一応報告に来たんですが」
「だったら正面から……いや、やはりいい」

 この黒尽くめに覆面の男が正面から来れば、逆に目立って間違いなく騒ぎになるだろう。
 ならば普通の恰好をしろという話だが、スヴェンは自称恥ずかしがりやとのことで顔は見せたくないのだという。
 十中八九嘘なのだろうが、顔を見せたくないというのは半ば本気なのだろうと諦めた。
 親同然に慕っているマルティンの保証がなければ、信頼など到底できなかったであろう不審者ぶりだ。

「それで。大丈夫ということはデンケン候の救出は上手くいったということか?」
「はい。詳しいことは団長から聞いてください。先んじて成果報告だけしに来ましたけど、まだ騎士団は帰ってきていない以上、俺はここには居ないことになってるんで」
「確かに。今回は兄上から直々の任務だ。先に私が報告をうけるわけにはいかないな」

 そう言いながらも、ゾフィーは不満げに顔をしかめる。

 自分の騎士団に指揮者である自分を飛び越えて命令を下されるのは、例え相手が兄であり王であっても気持ちのいいものではない。
 団長が古くからの友人であるコンラートだから気軽に話をするついでに命令を下したのだろうが、困るのは当のコンラートだ。
 断ることもできずこんな任務を請け負ってしまったと、大の男が申し訳なさそうに縮こまりながら話に来たときは、何をやっているのだと頭を抱えたくなった。

「姫様が自由に動き回れないから、騎士団の統率なんてどうせできないとでも思ってるんじゃないですか?」
「悔しいが否定はできんな。こんな体でなければ、今回のことも兄上に文句を言って私自らリーメスへ赴いたのだが」

 そう言いながら、ゾフィーは自らの腹部を擦った。

 人間内臓の一つや二つ無くても生きていける。
 クロエにそう言われたとおり、ゾフィーは臓器の一部を失いながらも生きている。
 だが傷ついた体の中身は未だ治癒しておらず、イクサの呪いによって魔術による治療も受けられない状態が続いている。

 並の術者ではイクサの呪を解呪し、さらに治療を施すことは不可能だ。
 しかしそれを可能としたクロエは、あの日を境に行方知れず。

 彼の姉であり魔女と呼ばれる魔術師ミーメ・クラインならばあるいはと思ったが、弟を行方不明にしておいてそんなことを頼めるほどゾフィーは恥知らずではない。
 それにコンラートはミーメを魔女と呼ばれているとは思えない普通の女性だと言ったが、彼女をよく知る人間ならば敵と認識した相手には容赦しない冷酷な人間だと評する。
 下手に刺激をして敵と思われては、どんな目に合わされるか分かったものではない。

「枢機卿クラスの神官を呼び寄せようにも、神官はピザンを嫌ってるのが多いですからね」
「かと言って魔術師も、夏戦争でのジレント侵攻よりピザンに寄り付こうとしない。本当に、困ったものだ」

 神官も魔術師も好意的ではない。それはゾフィー個人にとっても困ることだが、ピザン王国全体にとっても死活問題となっている。

 リカムの宮廷魔術師イクサ。彼の使役するアンデッドの軍団を相手にするには、どうしても魔術の力が必要となる。
 銀製の武器を全軍に行き渡らせる余裕はないし、魔法の武器など論外だ。
 今はまだ戦場がリカム国内へと移っていないためか、イクサも戦場に出て来ていないようだが、このまま戦が続けば間違いなくこの問題は避けては通れない。

「団長をアンデッドのど真ん中に放り込んだら、一人で殲滅してくれるんじゃないですか?」
「スヴェン……いくらコンラートでもそれは無理だろう」

 確かにコンラートは、かつて通常の武器のみでアンデッドを行動不能に追い込むまで叩き潰した男だ。
 さらに今では何処からか手に入れた魔槍と、カイザーが何処からか見つけてきた聖剣まで持っている。
 キルシュ防衛線で活躍したリーメス二十七将の中では弱い部類だとされるコンラートだが、それらの武器と長年の修練により、今ならば上位とはいかずとも中堅には並べるだろう。

 しかしそれでも一人でアンデッドの軍団を相手取ることは無茶無理無謀の類だ。
 どんなに桁外れの怪力と武威を誇っても、彼は普通の人間なのだから。

「いや、俺も数日前までならそう思ってたんですけどね。まあいいや。後は本人から聞いて下さい」
「何だその気になる言い方は?」

 ゾフィーの問いには答えもせず、スヴェンは窓を開け放つと躊躇いもせず縁に足をかける。

「ちょっ!? ここ三階ですよ!?」

 思わず叫ぶアンナを無視して、スヴェンはひょいと窓の桟を飛び越えてしまう。
 慌ててアンナが窓際へと駆け寄るが、外を見渡してもスヴェンの影も形も見えない。

「心配するだけ無駄だアンナ。スヴェンはスヴェンでコンラートやマル爺とは別の方向に人間離れしているからな」
「だからって、目の前で自殺まがいのことされたらびっくりしますよ!」
「うん。まあそうだな」

 頬を膨らませて年端のいかない少女のように怒るアンナに、ゾフィーも苦笑しながら肯定する。
 アンナだってゾフィーの影武者を務められるだけはあり、身体能力は高いのだ。この高さから飛び降りても無傷で済む術は心得ているだろうに、まるで本当に何も知らない侍女のように狼狽える。
 いっそ滑稽なほどの自己評価の低さだが、それでいて腹を決めるとすっぱりと動揺など切り捨てるのだから面白い。

「しかし数日前までは……か。一体コンラートはリーメスで何をやらかしてきた?」

 赤剣騎士団設立時の初期メンバーであり、ここ二年でコンラートを観察し尽くしたはずのスヴェンが言うのだ。余程のことがあったのだろう。
 そう半ば期待しながら自らの騎士団の帰還を待つゾフィーだったが、そのコンラートが単騎で赤竜騎士団に突撃したと聞き呆れたのは言うまでもない。





「おやおやー? コンラート殿ではありませんか」
「……」

 玉座の間の入口。国王であるクラウディオへの報告を済ませ退室したところに声をかけられ、コンラートは彼にしては珍しく嫌悪も露わにして無言で振り向いた。

「……何か用かデニス?」
「冷たい反応ですねえ。用がなければ声をかけてはいけないとでも?」

 あからさまに邪険にしているというのに、ニヤニヤと人の神経を逆なでするような笑みを浮かべながら寄って来るデニスを確認し、コンラートは大きくため息を漏らした。

 夏戦争にてドルクフォードに従ったデニスが何故のうのうと宮殿内をほっつき歩いているのかというと、彼が今このピザン王国の宮廷魔術師長を務めているからだったりする。
 当初は敗軍の将ということで処罰も考えられたのだが、今となっては貴重な魔術師であるということ。さらにドルクフォードに組した割にはまったく戦闘行動を起こしていなかったということで、晴れて無罪放免となったのだ。
 もっとも、戦闘行動を起こさなかったのは何か考えがあってのことではなく、個人的な好奇心で本来外野のクロエに突っ込んで返り討ちにあい動けなかっただけなのだが。

「いえ、面白い話を聞きましてねえ。何でも赤竜将軍の木っ端魔術をあなたが斬り捨てて見せたとか」
「耳が早いな」
「それはもう。我が友の活躍ですからねえ。聞いた時は心が躍りましたとも」
「……」

 勝手に友と認定されて、コンラートは何とも言い難い表情で沈黙する。
 実際この面倒くさい男とまともに会話をするのはコンラートくらいなので、傍から見れば友と言っても間違いではないのかもしれない。
 なまじ真面目な男だから、冷たくあしらうことはできても無視はできないのだ。
 そして残念なことに、デニスという男は相手が何か反応を示すだけで勝手に盛り上がる空気の読めない男なのである。

「して、赤竜の小娘はどの程度でしたか。剣と魔術。両道を志す人間は希ですからねえ。同類として気になるのですが」
「剣の腕は敵ながら見事だった。女とは思えぬほどの力に加え、繊細な技を兼ね備えている。経験の差でどうにかなったが、青二才の頃の俺ならば負けていただろう」
「ほうほう。まあ身体能力の強化は当然しているでしょうねえ。では魔術の方は?」
「それを門外漢の俺に聞くのか? 使われた魔術は一つだけ……『流れ落ちる滴』で始まる詠唱だったか。風の中位魔術だったはずだが、だからと言ってそれが得意属性かは分からん」
「……なるほど」

 期待したほどの情報は得られなかったが、コンラートの見解を聞きやはりこの男は面白いとデニスは口を歪めて笑う。

 詠唱を聞いただけで魔術の種類を特定するなど、魔術師でもない人間がそう簡単にできることではない。
 恐らくコンラートは魔術に対抗するために、自分では使えない魔術書の類を読み漁ったのだろう。馬鹿力のせいで脳筋だと思われがちなコンラートだが、そこらのボンクラ貴族よりは余程頭の出来がいい。
 そして生真面目である故に、必要な知識や気になる分野について学ぶ意欲も高いのだ。ジレントに滞在していた時も、図書館に通い詰めて本ばかり読んでいたと聞く。
 自ら何かをひけらかすようなことはしないこの男の頭には、どれほどの知識が詰まっているのか。そちらも中々に興味深いと、デニスのコンラートへの期待は無駄に大きくなっていく。

「ふむふむ。参考になりました。お礼にへルドルフのお嬢様に魔術を教授して差し上げましょう」
「断る」
「おやおやー?」

 にべもなく拒絶され、デニスは不思議そうに首を傾げた。

「何故ですかねえ? 私はこれでも魔術師としては一流であると自負しているのですが」
「おまえのような人格破綻者をお嬢様に近づけさせるか」

 一見嫌がらせのようなやり取りだが、今回に限ってはデニスは本気で礼のつもりで言っている。
 もっとも、礼で言ったという事実は数秒で忘れ、コンラートの反応を見て楽しむ方向へと即座にシフトしているが。
 真面目に相手をしては駄目な人間。
 頭に糞がつくほど真面目なコンラートには正に天敵のような存在である。

「お嬢様に何かすればただでは済まさんぞ」
「アハハー? 仕方ありませんねえ。今回は諦めますよお父さん?」
「永遠に諦めてくれ」

 半ば本気の殺気も意に介さず笑うデニスに、コンラートは本日何度目かになるため息を漏らした。



[18136] 一章 赤の騎士団6
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/10/25 01:56
 ピザンの誇る王都シュヴァーンは、夏戦争の終わりと同時に空振によって崩れ落ちた。
 その後仮の首都として使われているのは、先々代であるプルート王によって建てられたエルデエンデと呼ばれる平城とその城内町であるが、守りには難があり近々別の城に王宮の機能を移すのではないかとまことしやかに噂されている。
 そんな城の仮の玉座の間に、二人の男が居た。

 忠誠を誓うように跪くデンケン候。
 そして玉座に座るクラウディオ・フォン・ピザン。

 二年前よりも痩せた新たな王が、頬杖をつきながらデンケン候を見下ろしていた。

「それで、望みのものは見つかったか。デンケン候」
「ええ、まあ。予想していたよりはリカムも酷い有様のようで」

 威圧しているのかと思えるような重々しい声に、デンケン候は気にした素振りもなくいつも通りに答える。
 末期の病んだドルクフォードにすら自分の我を押し通した男なのだ。この程度の重圧でどうにかなるような、やわな精神はしていない。

「指揮官クラスはもとより、末端の兵士にまでイクサの横暴ぶりが噂になっているほどです。反乱が起きないのは、ひとえに皇帝であるグリゴリーがイクサの手の内にあるが故。その皇帝陛下を救い出そうと動いた者もいるようですが、皆さん揃ってイクサの忠実な手駒に」
「ふん。ネクロマンサーめ。十七年前も厄介だったが、いよいよ手がつけられなくなってきたか」

 死者を使役するイクサに殺されたものは、そのままイクサに操られ彼の戦力となってしまう。
 十七年前は単に雑兵が増えるだけでしかなく、それでも厄介だったというのに、今は質まで揃い始めている。
 今のイクサの手駒の中には、リーメス二十七将クラスの化け物が何人居てもおかしくない。

「まあ逆に言えば、リカムの将軍たちも従うふりをしながら虎視眈々とイクサを誅する気を狙っているようでして。上手くイクサを排除できれば、恩を売ってこの戦争自体を終わらせられるんじゃないかなあと」
「ほう? 随分とまた面白い冗談を言うなデンケン」

 イクサを排除するなど、それこそリカム全軍を相手にするのと同等の難題だ。
 まったく笑いの影も見えないクラウディオの言葉に、デンケン候はそれでも余裕を崩さずハハと笑みを零す。

「いやねえ。このまま軍としてぶつかっても、キルシュの二の舞になるのは目に見えてるでしょう。なら少数精鋭を直接ぶつけた方が確実だし被害も少なくなると思うんですよ。あのキルシュ王都の乱戦の中で、皇帝を討ったリーメス二十七将のように」

 キルシュ防衛線の最後の戦いは、リカム帝国と連合国、そして傭兵や義勇兵も巻き込んだ多くの勢力が一堂に介した戦いであった。
 その中でリカム帝は討ち取られたのだが、そこに至るまでにはリーメス二十七将と呼ばれた各陣営の英雄たちの活躍があったのだ。

 傭兵であるロッド・バンスとジレントの魔術師フローラ・サンドライト。
 キルシュの将軍ジャンルイージ・デ・ルカとコンラード・マラテスタ。
 そしてピザンの騎士であるリア・セレスとコンラート・シュティルフリート。

 彼らがほぼ同時に一転攻勢に出たのは単なる偶然と言われているが、その偶然を勝機へと変えたのがローランドの策謀王子ジェローム・ド・ローラン。
 そして兄の援護を受けてただ一人皇帝の下へたどり着いたのが、二十七将の中でも騎士の中の騎士と呼ばれたロラン・ド・ローランであった。

 圧倒的な兵力差がありながら皇帝を失ったリカム軍は混乱。
 そのままリカム帝は亡くなり、キルシュ防衛線は終わりを告げた。

「ふん。あんな奇跡が二度起こるものか。大体貴様は知らんのだ。アンデッドの軍団の恐ろしさを」
「聞いてはいますよ。だから軍としてあたるのは危険だと」
「精鋭ならばなんとかなると思っているのが甘いんだ。あんな地獄……人間が耐えられるものではない」

 そう言ってクラウディオは、それまで固まったように動かなかった表情を苦し気に歪めた。

 コンラート程ではないが、クラウディオとてあの死者たちとの戦いを悪夢のように思い出すことはある。
 クラウディオたちのような猛者ならば、確かに下位のアンデッドなど物の数ではない。
 しかし心が、精神が、死体を延々と潰し続けるその苦行に耐えることができなかった。
 かつての仲間を、友を、自らの手で切り裂き踏み躙るその罪深さに吐き気がした。

「十七年前はまだマシだった。キルシュのロドリーゴ枢機卿の力添えがあればこそ、あの地獄に人は立ち向かうことができた。だがロドリーゴ枢機卿はもう居ない。教会もピザンに素直に手を貸そうとはしないだろう。挙句の果てが魔法ギルドからの実質的な絶縁状だ!」
「いやー、ドルクフォード陛下の暴走が今になって効いてきてますね」

 激するクラウディオに、なおもデンケン候はペースを崩さず呑気に言う。
 本当に分かっているのか。そう言いたげなクラウディオの視線に、ようやく笑みを引っ込めてデンケン候は肩をすくめる。

「でも現状はそういうことでしょう。神官も魔術師も頼れない。なら私たちだけで何とかするしかない。だったら少数精鋭をぶつけるのが一番マシだって言ってるんです」
「なるほど。一番マシか」

 上策などでは決してなく、むしろ愚策だと分かって言っている。
 この飄々とした男がそんな策を出さねばならないほどに、一見均衡を保っている戦況はピザンに不利だということだ。

「まあ私の方でも手はつくしますよ。上手くいけば赤竜将軍と、あとおまけで青龍将軍も味方に引き込めそうなので」
「……リカムの四将軍の半分を引き抜くだと? 本気で言ってるのか?」
「ええ。それだけあちらもイクサがヤバいと思ってるわけですよ。でも引き抜けても現状あまり意味がないと思いますよ。どのみちイクサとぶつかるんだから、死体が増えるだけの結果になりかねない」
「確かにそうだ。クソッ。イクサ一人の相手にここまで苦心せねばならんとは。魔王かあいつは」

 クラウディオの愚痴に、デンケン候もそう言えば赤竜将軍が似たようなことを言っていたなと思いだす。
 両陣営の実力者からそんな意見が出るのだから、本当に奴は現代に蘇った魔王なのかもしれない。

「……魔王が復活したなら勇者様の再来でも現れてくれませんかねえ」

 そんなデンケン候の呟きは、誰にも聞かれることなく消えていった。





 夏戦争が終わりその活躍から爵位を賜ることとなったコンラートだったが、当初その爵位の格を巡ってちょっとした問題が起きた。

 まず最初に提案されたのは最下位の爵位である男爵位。
 功績を上げた平民に与える爵位としては他国でも一般的であるし、何より領地を持ってなくても問題がない。
 逆に英雄と呼ばれた男に与えるには分不相応ではないかと意見も出たのだが、何より本人が過ぎたものを望まない性格であることは知れ渡っていたため、特に滞りなく爵位の授与は行われる予定だった。

 そこに待ったをかけたのが、先々代のプルート王の時代から仕えた老臣であり、リーメス二十七将の一人に数えられたマルティン・フォン・ローデンバルトであった。
 自分には後を継ぐ者が居ない。故にコンラートを養子として迎えたいと彼は宣言したのだ。

 当然多くの諸侯が反対した。
 何の縁もゆかりもない平民に爵位を継がせるなど認めがたいことである。
 これで前例ができてしまいそれが当たり前となってしまえば、自らの領地と爵位を何かの間違いで平民に横取りされてしまうかもしれない。
 彼らはそう考えた。

 当然そんなことなど滅多に起こることではないが、普段は自分に都合のいい妄想ばかりしているくせに、自らの損得に関することだけ想像力が豊かになるのが小物というものである。
 誰か一人が文句を言えば、普段は忠臣面をしている者たちが我が意を得たりと次々と声をあげた。

 一度流れができてしまえばそれを変えるのは難しい。
 これはもう無理かとマルティンが思い始めた頃にその流れを変えたのは、誰もが予想しなかった人物であった。

「よろしいのではないでしょうか。元々ローデンバルト家は武門の家柄。白騎士と誉れ高いシュティルフリート卿ならば相応しいでしょう」

 反対派が大声を上げる中さらりと言ってのけたのは、まさかのクレヴィング公であった。
 これには反対派も声を失った。

 あれは誰だ?
 本当にクレヴィング公か?
 イクサに洗脳でもされたのか?

 そんな風に反対派が戸惑っている間に話を進めるクレヴィング公。
 そして反対派がようやく我に返り口を出そうとしたところで、またしても思わぬ人物から横やりが入る。

「シュティルフリート卿は他国からも英雄と名高い騎士です。養子の件は保留するにしても、伯爵位と領地を与えるのは妥当では」

 まさかのヴィルヘルムである。
 前任の白鬚宰相とあだ名された老人とは正反対の、腹黒宰相と呼ばれ敵よりも味方から恐れられる悪魔。

 ヴィルヘルムがコンラートに味方したことに困惑する諸侯も多かったが、彼は元々ドルクフォードの下で長く宰相をしていた男である。
 ドルクフォードを除いた人間の中で一番コンラートの人柄やその功績を熟知しているのが他ならぬ彼なのだ。普段の様子からは想像もできないが、彼もまたコンラートを高く評価し後ろ盾となっていた人間なのである。

 そうして国内で一番恐い人のお墨付きを貰ったコンラートは、めでたくマルティンの爵位と領地を継承することとなった。
 本人を置いてきぼりにして決まった出来事に、コンラートが唖然としたのは言うまでもない。





「それはまた……派手にやってきたな」
「不本意ですが」

 リーメスでのデンケン候救出の経緯を聞いて苦笑するゾフィーに、コンラートもまた苦笑しながら返した。
 戦場で無茶をするのは初めてとは言わないが、それは大抵の場合止むに止まれぬ事情のあってのことだ。今回のように誰が聞いても「何やってんだ」と呆れるようなことをやってのけることなど、そうそうあるものではない。

「どうぞ」
「ああ、ありがとうアンナ殿」
「いえ」

 紅茶を出されて礼を言うコンラートに、アンナはクスリと笑うと従者らしく部屋の端へと控えた。
 本来なら侍女や執事に礼など言うものではないのだが、未だに根が庶民なコンラートはどうにも世話になっておいて何も言わないというのに慣れないでいた。
 まあアンナはゾフィーの幼馴染だというし、そういう相手ならばゾフィーも普段から礼を言っているだろうと無理やり納得する。

「ともあれご苦労だった。しばらくは体を休めてくれ。場合によっては、そなたたちもしばらくは前線にでることになるかもしれないのでな」
「なんと。私たちのような寄せ集めがですか?」
「その寄せ集めの頭は誰だと思っている」

 コンラートがわざとらしく驚くのに合わせるように、ゾフィーもまた分かりやすく不機嫌な様子を見せながら言って見せる。

「蒼槍騎士団とローエンシュタインの手勢がキルシュ攻略へ向けられたのは知っているな」
「はい。クラウディオ陛下が蒼槍騎士団の指揮権をローエンシュタイン公に預けたことに、不満を漏らす者も多かったとか」
「その辺りは兄上なりにグスタフに機会を与えたということだろう。腐っても三公だ。このまま冷遇を続けるわけにもいかん。故に夏戦争の汚名を払拭する分かりやすい功績が必要なわけだ」
「そのような思惑が。しかし万が一ローエンシュタイン公が失態を犯せば、クラウディオ陛下の責任問題にもなるのでは?」
「あれでグスタフは有能な男だ。余裕を持って周りを見ることができるなら、つまらん失敗などしないだろう。だからこそ増長しないよう私の手であの高い鼻を折っておこうと思ったのだが、予想より早くに兄上に取り上げられてしまった」
「……それはまた」

 ローエンシュタイン公も助かったと思ったことだろう。そう思いつつもコンラートは口をつぐんだ。
 彼の鼻など夏戦争でゾフィーに負けた時点でポッキリとプライドと一緒に折れている。案外クラウディオも、ゾフィーに弄られるローエンシュタイン公が気の毒で前線へと逃がしたのかもしれない。

「それでそのグスタフだが、昨日妙な報告を寄越したらしい」
「妙ですと?」
「キルシュ王国の旗を掲げた小勢が、リカムの大軍相手にちょっかいを出しているらしい」
「キルシュが?」

 王国の旗を掲げているというのならば、恐らくはキルシュ王国の騎士なり貴族なりの残党だろう。
 だがその行動はおかしなものだ。小勢だというのならばそのままピザンにでも逃げ込んで亡命なり援軍なりを望むだろうに、何故無謀な戦を仕掛けているのか。

「ヴィルヘルム兄様は夏戦争での壊滅戦を生き延びた者ではないかと推測していた。故にピザンも信用できないのではないかと」
「なるほど」

 夏戦争でのキルシュ軍の壊走は、ピザンにも衝撃的な事件として伝わっている。
 辛うじて均衡を保っていた戦場に、ローランド王国からの援軍が到来。しかしそのローランド王国軍は、仇敵であるはずのリカムではなく、キルシュ王国軍へと矢の雨を浴びせてきたのだ。
 かつて連合を築いた片割れが裏切り、そしてもう一方は滅んだ。
 これによりピザンはただ一国でリカム、そして裏切りを働いたローランド王国と対峙しなければならなくなり、状況はさらに逼迫した。

「ピザンがローランドと同じように背後から撃つやもしれぬと。しかしローランドの今の王はかの策謀王子ではありますが、こちらはよくも悪くも嘘をつけないクラウディオ陛下ですぞ?」

 今では余裕がなく苛烈な印象ばかり強くなっているクラウディオだが、キルシュ防衛戦では王子でありながら自らも最前線で剣を振るい、部下の危機には自らの身を危険に晒した義の将だ。
 どう考えても騙し討ちや裏切りのできるような男ではない。

「王はあれでも居るだろう。邪魔になったら表情一つ変えずに後ろから刺しそうな人が」
「……ああ」

 誰のことを言っているのか一瞬で理解し、コンラートは短く納得の言葉を漏らした。
 色々と世話になっている身ではあるが、そういう点ではある意味信頼している。

「まあそういう流れで、私にちょっとした任務が舞い込んできたわけだ」
「まさか」
「ああ。そなたの予想通りだろうな」

 そう言ってニヤリと笑って見せるゾフィーを見て、コンラートは心配するよりも仕方ないという気持ちが強くなった。
 何せその笑みときたら、彼女の父であるドルクフォードにそっくりなのだから。

「私が兄上の代行としてキルシュの残党と接触する。そこでどのような交渉をすることになるかは、まあその時の状況次第だ」

 そうさも簡単な任務であるかのように、ゾフィーは言った。



[18136] 一章 赤の騎士団7
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/10/26 21:28
 ピザンにおいて武の名門と言えば、三公の一つであるローエンシュタイン家。ピザンの盾と称えられたローデンバルト家。
そして剣と称えられたヘルドルフ家があげられる。
 そのローデンバルト家をコンラートが継承することは貴族のみならず民の間でも大いに話柄となったが、それと同等に話に上ったのが、ヘルドルフ家の新たな当主であった。

 戦場で非業の死を遂げたリーメス二十七将の一人マクシミリアン・フォン・ヘルドルフの子供。
 悪い噂の絶えなかった前ヘルドルフ伯であるマリオンの後釜にかの英雄の子供が就くばかりか、盲目でありながらそこらの魔術師にも劣らぬ魔術の才を持つという。
 さらにそれがまだ年端もいかない少女だというのだから、噂を食べて生きているような者たちの間で話題にならぬはずがない。

 しかし当のモニカは、魔術と本で学んだこと以外は何も知らない、箱入りと呼ぶに相応しい少女である。他の貴族たち、特に適齢期を迎えながら伴侶のいない男共にはさぞ上等な餌に見えたことだろう。
 貴族にとって横のつながりも重要な以上、その流れは必然でもある。故に新たなヘルドルフ伯がどこぞの貴族に押し切られ、政略結婚へと至るのは時間の問題かと思われた。

「わしの目の黒いうちは、半端な男をモニカの婿と認めん」

 そう言って待ったをかけたのは、コンラートに家督を譲り隠居したはずのマルティンだった。
 夏戦争のあと暇ができたマルティンは、コンラートを後継として受け入れる準備をしながらも、かつての戦友の娘であるモニカをいたく気に入り孫同然に可愛がっていたのだ。

 隠居したとはいえ、半ば生ける伝説と化したマルティンに異を唱えることなどできるはずがない。
 さらに正式に伯爵となったコンラートに「複雑な生い立ちのお方故、もう少し時間を下さらないか」と頭を下げられては、殆どの貴族は黙るしかなかった。

 こうして新旧ローデンバルト家当主の守りを得た新たなヘルドルフ家は、異様な存在感を持ちながら誰も手出しできない妙な立ち位置へと収まった。
 その顛末を見守っていた義姉がほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。





 しばしの休暇を得たコンラートは、今では馴染みの愛馬となった栗毛の馬を走らせて、モニカの待つヘルドルフ家の屋敷へと向かっていた。

 他の多くの諸侯とは異なり、ヘルドルフ伯であるモニカは戦線には出ず未だ領地の掌握に専念している。
 これは本人が望んだことも大きいが、実際にそうしないと領地が立ち行かなかったというのが紛れもない事実だからでもある。
 何せ前当主であるマリオンはお世辞にも立派な領主ではなかったし、税を余分に取り立てて賄賂を贈るという悪い領主のお手本のような真似までしていた。
 しかも夏戦争の末期には、少しでも多くの兵を雇いジレントへと連れていくためさらに重税を課していたのだ。
 そのため新たに領主になったモニカとツェツィーリエが最初にしたことは、屋敷にあった無駄に豪華な家財や装飾品を売り払うことだったというのだから笑えない。
 案外モニカが帰還しなくとも、反乱なり暗殺なりでマリオンはどのみち退場していたかもしれない。

「いやー、この辺は緑が多いですね。土地が肥えてるのかな?」
「そうだな。近くに大きな川が流れているだろう。あれが上流の山から栄養の多い土と水を運んでくるそうだ」

 唐突に周りの景色を指して言う声に、コンラートは昔親代わりであったマクシミリアンが自慢げに話していたことを思い出して言う。

「へえ。なるほど。川は水だけじゃなくて土とか栄養まで運んでくるんですね。そういうことまで考えたことはなかったな」

 そんなコンラートの説明に素直に感心して頷いているのは、しなやかな体躯の黒馬にまたがったカールだ。
 ここ二年で背が少し伸び、顔つきや体つきも角ばったものになり大人びてきている。
 その成長をコンラートは感慨深く眺めながら、できれば父であるアルムスター公にもお見せしたかったと少しだけ残念に思う。

「しかしよかったのかカール? せっかくの休暇だというのに俺に付いて来て」
「だって王都に残っても、男所帯に囲まれて毎日酒盛りに付き合わされるだけですよ。かと言って実家に戻っても兄にこき使われますし、マスターに付いていくのが一番マシってもんです」

 そう言ってため気をつくカールの姿は、見る者が見れば若い頃のコンラートそっくりだと言ったかもしれない。
 師弟というのはやはり似るものなのだろうか。

 コンラートが赤剣騎士団の団長となることが決まり、一番喜んだのは間違いなくカールだろう。
 二度と会えないかもしれないとすら思った尊敬する師が直属の上司になるのだ。これで喜ばないはずがない。
 そしてそんなカールの態度は、赤剣騎士団内でもコンラートをよく知らない人間にいい影響を与えた。
 アルムスター公爵家の人間があれほど尊敬しているのだ。やはりコンラートという騎士はそれほどの男なのだろうと。
 もっともカール自身にはそんな意図など欠片もなかったのだろうが。

「フランツ殿は抜け目のない方だからない。恐らくは閣下の教育の賜物だろう」
「えーえー、それは僕が一番よーく知ってますよ。ですから僕に公爵家を継がせるのは諦めろと、マスターからも言ってやってくれませんか?」
「……まだ諦めていないのか」

 新たなアルムスター公が有能であることは満場一致で認められることだろうが、同時にその変わり者ぶりでも有名になっている。
 曰く、どこの舞台役者を連れてきた。
 貴族ならば身形を気にするのは当然ではあるが、フランツのそれは行き過ぎというに相応しいものだった。

 さらに彼を有名にしたのが、その極端なまでのフェミニストぶりだ。
 もはや女性崇拝とすら言えるほどまでに至ったその矛先は、この国で最も高貴な女性であるゾフィーにも向けられており「貴女が望むのならば、私は領地も爵位も投げ捨てて貴女だけの騎士となります」と宣言までしてみせた程だ。
 当然実際に投げ捨てられたら困るので、ゾフィーは笑顔を引きつらせながら辞退した。
 あの遅れてきた英雄と名高いグスタフすら振り回すお姫様がドン引きするのだから、その変人ぶりが知れるだろう。

「あの入れ込みっぷりは異常ですよ。『まったくカールは羨ましいなあ。アッハッハ』って、まったく笑ってない所か殺意込めた目で見てくるんですよ!?」
「なら分かるだろう。残念ながら俺もその殺意を向けられる筆頭だ」

 現在ゾフィーに一番近しい男は、護衛役だったマルティンの座をそのまま引き継いだに等しいコンラートだ。
 フランツにとってコンラートは怨敵と言っても過言ではない。

「大体ゾフィー様は確かに美人ですけど、そこまで執着するほどの人ですかね。僕はもっと大人しい子がいいですよ」
「なるほど。殿下にしっかりと報告しておこう」
「ごめんなさい! 不敬でした!」

 馬上で頭を下げるカールに、コンラートはやれやれと首をふった。





「ややあ? ぼっちゃんじゃないですか!」

 ヘルドルフ家の屋敷の入口に立っていた兵士が、コンラートの顔を見るなり驚きの声を漏らした。
 その懐かしい呼ばれ方を聞き、コンラートは仕方ないなと苦笑する。

「久しいなオットー。ぼっちゃんはやめないか?」
「いや、すいません。どうしてもぼっちゃんの顔を見てると昔を思い出して」

 そう言って笑う兵士の顔の皺は深く、もう老人と言っていい年齢だ。
 どんなに偉い人間も、老人と肝の据わった中年女性には勝てないものだと相場が決まっている。故にコンラートも苦言を漏らすのは一度だけで、素直にその懐かしい呼び名を受け入れた。

「お嬢様はいらっしゃるだろうか?」
「ええ。ぼっちゃんが来られると聞いて、朝からそわそわとされてましたよ。馬と馬具は私が預かりますので、どうぞそのまま中に」
「すまぬな。では行くかカール」
「はい」

 二頭の馬を引いて厩舎へと向かう老兵をちらちらと気にするカールを促してコンラートは足を進める。
 気持ちは分かる。あの栗毛の馬はその大きさでも圧倒されるが、見た目通り中々に気性が荒い。あんな枯れ木のような老人に任せて、もしものときに大丈夫なのかと心配なのだろう。
 しかしあの馬を預けるのは今回が初めてではなく、どういうわけかこの屋敷の人間の前では大人しく、お上品に振る舞っているのだ。
 もしかしたら主であるコンラートが信頼する人たちだからと、彼女なりに感じ取り気を遣っているのかもしれない。

「それにしても。天下の赤剣騎士団の団長をぼっちゃんだなんて呼ぶのはここくらいですね」
「子供の時分に世話になったからな。こういう関係は年が経っても案外変わらぬものだ」

 面白そうに笑うカールに、コンラートも笑みで返す。
 今のヘルドルフ家の屋敷には、マクシミリアンが当主だった時代に仕えていた者たちが多い。
 マリオンが投獄されその臣下も居なくなり、さてどうしようかと考えていたところに是非とも雇って欲しいと集まってきたのが彼らなのだ。
 先ほどの老兵のようにもう現役は辛いだろうという歳の者も多いのに、マクシミリアンと夫人に受けた恩を返したいと集まった。そんな彼らをモニカは喜んで受け入れた。

 高齢の者ばかりだったが、逆に言えばその道のベテランたちだ。新しい当主を迎えたばかりの屋敷は上手く回った。
 最近では若い者も増えてきて、その教育にも力を入れてくれている。
 まったく頭が上がらないと、ツェツィーリエも安心したように言っていた。
 もっともそのツェツィーリエも、メイドをしていたシレーネの娘だと知れてからは、まるで親戚の娘のように扱われるのでどう対応したものかと困っている様子だが。
 
「コンラート!」

 そうして勝手知ったる他人の家とばかりに邸内を歩いていたところに、不意に鈴を転がすような声がして軽やかに跳ねるような足音が響いてくる。

「いらっしゃいコンラート!」
「おっと。お邪魔しておりますモニカ様」

 廊下の向こうから助走をつけて飛び込んできた少女を、コンラートは軽々と受け止める。
 ふわりと腰にまで届く黒髪が広がり、花のような香りが届く。

「しかしモニカ様。年頃の淑女がそう気安く男に肌を触れさせるものではありませんぞ」
「でもコンラートは私のお兄様みたいなものでしょう? 兄妹ならこれくらい当たり前だと思うのだけれど」
「兄というよりはお父さんといった見た目ですけどね」
「カール……」

 しみじみといった様子で呟くカールに、コンラートは胡乱な目を向ける。
 もっともコンラートとモニカの間には十五の年齢差があるのだから、親子でもおかしくはない。お爺ちゃんと言われなかっただけマシだろう。

「お邪魔してますモニカ様。相変わらずお美しい」
「ありがとうカール。ごめんなさい挨拶が遅れて」

 カールの挨拶に合わせて淑女の礼をするモニカ。それにカールは騎士の礼を返しながら、デレデレと分かりやすく顔を緩めている。
 カールが言ったことはお世辞などではなく、モニカの母譲りの容姿は人目をひくものだ。盲目ゆえに瞼はいつも閉じられているが、それすらもどこか神秘的な魅力を彼女に与えている。
 カールが相好を崩すのも道理だろう。その上カールが苦手とする気の強い女性とは対極に位置するような、周囲を安心させる気質の少女だ。
 コンラートも、カールにならばモニカを任せても大丈夫かもしれないとは思ってはいる。
 もっとも、今のままでは少々不安なので、本当にその気があるなら直々に鍛え直してやるつもりではあるが。

「私には見えないけれど、そんなにコンラートはおじさんに見えるのかしら?」
「そりゃあもう。あ、でもそれはそれで渋くてカッコいいって人気があるんですよ。僕の同年代の女の子たちだって、コンラート様みたいな方なら歳が離れてても気にしないって子は多いんですから」

 とってつけたようなフォローは嘘というわけではないだろう。
 実際婚姻相手としてコンラートの人気は高い。元平民とはいえ伯爵だ。余程の問題がなければ黙っていても女は寄って来るだろう。
 さらに一部の人間たちに人気な理由は、三十路を迎えながら独身だという点だ。
 二十歳を越えて久しい、嫁ぎ遅れと呼ばれる女性たちにとっても比較的気後れせずに話ができるに違いない。これを逃せば後がない。そんな貴族令嬢たちから熱烈なラブコールを受けていたりする。

 モニカへの政略結婚は押しのけたコンラートではあるが、自身へのそれはにべにもできず、ほとほと困り果てている。
 今更恋愛結婚などできるとは思っていないが、下手な女を迎え入れて浪費されたり家を乗っ取られたりしてはたまったものではない。
 ゾフィーやマルティンに相談しながら時間を稼いでいるものの、いつか押しの強いどこぞの令嬢に押し切られるかもしれない。

「それにモニカ様だって……」
「おお! よく来たなコンラート!」
「……げ」

 続いてモニカを口説こうとしたのであろうカールの言葉を遮ったのは、のっしのっしと歩いてくるマルティンだった。
 コンラートを後継に迎え隠居したマルティンは、コンラートに代わり領地の仕事を片付けながらも、モニカのことを気にかけよく様子を見に来ている。
 今日もそのためにこの屋敷を訪れていたのだろう。あるいはコンラートが来ると聞いて時期を合わせたのかもしれない。

「ご無沙汰しております義父上」
「うむ。おぬしも健勝のようだな」

 マルティンを父と呼ぶことに最初は違和感を拭えなかったコンラートだったが、この二年ですっかり慣れた。
 まあ呼称が変わっただけでその関係性はあまり変わっていないので当たり前かもしれない。

 ローデンバルト家を継いだコンラートではあるが、その名はコンラート・フォン・シュティルフリート=ローデンバルトという複合姓となっている。
 複合姓というのは貴族には珍しいものではなく、例えば他家に嫁いだ女性の実家が名家であった場合は、嫁ぎ先と実家の家名を同時に名乗ることが多い。
 アルムスター公に賜った姓を捨てるのは忍びないだろうと、マルティンの方から提案してきたのだ。
 その上で子にはローデンバルト姓を継がせなくてもいいと言うのだから、本当に当初は爵位を返上し領地も王家に献上するつもりだったのだろう。

「それに……何やら見慣れた顔があるな」
「は、はは。お久しぶりですマルティン様」

 マルティンの姿を確認するなり、そろりそろりと距離をとっていたカールだったが、当然見逃されるはずがなく何やら剣呑な視線を向けられる。

「そなたの事もよーっく聞いておるぞ。師であるコンラートや実家の威光に驕ることなく己を磨き、戦場でも若手とは思えぬ活躍だとな」
「い、いえ。私などはまだまだで」
「うむうむ。その謙虚さ。若いころのコンラートを思い出す。故にわしが少々鍛えてやろう」
「何でそうなるんですか!?」

 マルティンの申し出に驚いて声をあげるカール。
 冗談のようなやり取りだが、マルティンの目は一度狙った獲物は逃がさんとばかりに真剣そのものだ。

「さて。久方ぶりに体を動かすか」
「た、助けてー!」

 そうしてどすどすと去っていくマルティンと、首根っこを掴まれ引きずられていくカール。
 止める間もないあっという間の出来事であった。

「……マル爺はカールのことが気に入っているのかしら?」
「そういうことですな」

 どこかズレているように見えるモニカの認識だが、事実マルティンがカールを扱くのは見込みがあるからだろう。
 可愛い孫も同然の娘にまとわりつく悪い虫というだけならば、近づくことすら許さないはずだ。

「まあ義父上もさすがに歳ですからな。そう長くはかからぬでしょう」
「そうね。じゃあお茶でも準備して待ってましょうか。庭で採れたベリーを使って焼き菓子を作ってみたの」
「ほほう。それは楽しみだ」

 モニカの小さな手に引かれ、コンラートは邸内を歩き出す。
 かつて過ごした屋敷が、以前と同じ暖かい空気に包まれているのに安堵しながら。



[18136] 二章 再来
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/10/30 20:30
 表向き東方戦線への援軍として招集された赤剣騎士団は、迅速にキルシュ国内へと行軍を進めた。
 ピザン王国とキルシュ王国の間にはロードヴァントと呼ばれる山脈が横たわっている。キルシュ防衛戦の最中に一度は撤退路に使われた山ではあるが、山道と呼べるようなものはろくになく、軍勢が越えるのは無謀だとされるような悪路だ。
 故にキルシュへの行軍はロードヴァントを南に迂回しての遠回りになるわけだが、それでも彼らが素早く移動できたのは、既にキルシュ入りしていたローエンシュタイン公であるグスタフの功績が大きい。

 傲岸不遜と呼ぶに相応しいグスタフではあるが、その戦場構築は実に模範的であり慎重であった。
 特に補給線には細心の注意を払っており、万が一にも敵による妨害や分断が行われないよう少しずつ戦線を押し上げていた。
 それを追いかける形となった赤剣騎士団は、補給の心配をすることなく身軽なまま進軍を行うことができたのである。

「……」

 左手をゆっくりと流れていくロードヴァント山脈と、麓に広がる森を視界に収めながら、コンラートは馬上にて非常に居心地の悪い思いをしていた。
 馬の調子が悪いわけではない。休暇中も少々働かせてしまったが、むしろ丁度いい暇つぶしだったとばかりに元気いっぱいだ。
 故にこの居心地の悪さは、コンラート自身や馬に由来するものではなく、予想外のイレギュラーによるものである。

「どうしたコンラート? 眉間に皺が寄っているぞ?」
「……いえ。何でもありませぬ」

 顔のすぐ下から声が聞こえて、コンラートはゆっくりと視線を向けながら答えた。

「そうか。無理はしてくれるなよ。もうそなた一人の身ではないのだからな」

 そう言って前を向いた赤い頭には聞こえないよう、コンラートは大きく息をついた。

 手綱を握るコンラートの腕の中には、ちょんと納まるようにゾフィーが座っている。
 それに照れるような歳ではないが、相手が主であり未婚の女性となれば話は別だ。気を遣わないわけがないし、むしろ気を遣わない方がおかしい。

 何故こうなったかと言えば、実はグスタフが補給線を完全に、完璧に構築してしまったことが理由の一つだったりする。
 補給を現地で受けられるならば、運ぶ物資は最低限で済む。故に身軽となった軍は通常では考えられない速度で行軍ができるわけだ。
 だったら馬車などという悠長なものは使わず、馬に乗った方が早く到着できるな。
 そうこのお姫様は考えちゃったわけである。

 今のゾフィーに遠乗りをさせるなど、コンラートはもちろん兄であるクラウディオもヴィルヘルムも、クレヴィング公もアルムスター公もインハルト候も――とにかく誰も認めないだろう。
 予想外に多くの人間から反対され困り果てたゾフィーであったが、あまりに多くの人間に小言をこんこんと重ねられて意地になった。
 そして「なら誰かの馬に同乗すればいいのだろう!」と自棄気味に言いだしたわけである。

 行軍を早めたいから馬車を使わないのに、同乗して馬を疲弊させたのでは本末転倒である。
 故に却下されるはずだったその計画は、しかしクレヴィング公が思い出したように放った一言で現実味が出てしまった。

「コンラート……シュティルフリート卿の馬ならば殿下を乗せても問題ないのでは?」

 そう。コンラートの愛馬である。
 パトリシアと名付けられたその栗毛の馬は、雌とは思えぬほどに体が大きく力も強くて疲れ知らずだ。ゾフィー一人どころか、五、六人ほど無造作にその背に乗せても気にせず走ることだろう。
 問題はあの気性の荒い馬が素直にゾフィーをその背に乗せるか。しかしやはり彼女は空気の読める馬らしく、実に大人しく主の主であるゾフィーを受け入れてみせたのだ。

「うむ。見た目のわりに可愛いやつだな。まるでコンラートのようだ」

 ふー緊張したとばかりにもそもそと馬草を頬張るパトリシアの鼻先を撫でながら、そんな感想を漏らすゾフィー。
 まるでということは、ゾフィーはこの髭の生えたくたびれた男を可愛いと思っているのか。
 そんな疑問を抱いたコンラートだが、口に出したら実にいい笑顔で肯定されそうなので聞かなかったことにした。

「団長。もう少しで国境を越えます。一度休憩をとった方がよろしいのでは?」
「うむ。もう少し進んで森の切れ目を越えれば小川があるはずだ。そこで休むとしよう」
「了解」

 そう言って乗り出していた身を引いたのは、色素の薄い肌と銀色の髪が印象的な青年だ。背はそこらの騎士よりも余程高く胸板も厚いが、彫像のように整った顔、特に切れ長な目が冷たい印象を見る者に与える。
 彼こそがこの赤剣騎士団の副団長であり、名をコルネリウス・フォン・インハルトという。
 次期インハルト候。要するにあの選帝侯の一人であるヴィルヘルミナ・フォン・インハルトの息子である。

 最初その話を聞いた社交界に疎い若手の騎士や兵士たちは、あの美女にこんなでかい息子がいるのかと大いに驚き騒いだ。
 何せインハルト候は見た目だけなら三十そこそこだ。老け気味の二十代だと聞けば納得する者すらいるだろう。
 もっとも、インハルト候を巡って争った男たちはその騒いでいる若造たちの親世代なのだから、その実年齢も少し考えれば分かりそうなものなのだが。

 そんな母親譲りの美貌を持つコルネリウスは、自分の母のことを面白おかしく噂する団員たちをただ静かに見つめていた。
 それに一人が気付き口をつぐみ、それを見てどうしたのかと視線を追った者も口を閉じる。そうして他の一部の騎士たちが顔をしかめていた騒ぎは、僅かな時間で収束した。

 不快だっただろうに、声をあげることもなく視線だけで場を治めたコルネリウスをコンラートは称賛した。
 それにコルネリウスは相変わらず表情を変えずに瞑目すると、意外に低い声で「いえ」とだけ言って頭を下げる。
 なるほど。中々気難しい若者のようだとコンラートは判断した。

 身分を問わず集められた集団だ。規律維持のためには彼のような者が副団長には適任だろう。
 そう不愛想な態度も気にせず評価したコンラートに、コルネリウスはただ無言で視線を返していた。
 後から思えば、あれは内心で困っていたのかもしれない。
 その母譲りの容姿とは裏腹に、彼の性格はむしろ母にこき使われる父にこそ似ていたのだから。

「しかし、インハルト候もよく跡継ぎを騎士団に入れる気になったな。あれほど優秀ならば、是が非でも生き残らせて家を継がせたいだろうに」
「まあ当主になっても戦となれば危険は避けられませんからな。それにこの騎士団の将来性を買って、箔が付くと判断したのでは?」

 そう一般論を言うコンラートだが、インハルト候の意図についてはほぼ予想はついている。
 彼女はゾフィーを守るため、自身が最も信頼する人材を……息子を差し出しだのだ。跡継ぎを失う危険よりも、主君の命を取った。
 恐らくゾフィーはインハルト候がそこまで自分に入れ込んでいるとは思ってもいないだろう。事実王位を逃した王女に未だそれほどまでの忠誠を抱いていることは異常ですらある。
 そうなるといよいよあの噂、ゾフィーの母がインハルト候だという話に真実味が出てくるが、さすがのドルクフォードもそこまでやらかしてはいないだろう。

 そう信頼するコンラートだが、今は亡きアルムスター公を初めとした古株に聞けば「いや、昔のあいつならやりかねない」と断言したことだろう。
 若い頃のドルクフォードに振り回された忠臣たちは、自分の主をある意味完璧に信頼していた。

「あれが先ほど言っていた小川か?」

 手綱を握ったまま考え事をしていると、じっと前を見つめていたゾフィーの声に引き戻された。
 見れば確かに、左前方に広がっていた森が途切れ、その向こう側から小さな水の流れが確認できる。

「はい。あの川を越えしばらく行けば、キルシュに属する小さな村が見えてくるはずです」
「ということはすでにこの辺りはキルシュ国内ということか。さて、一体何が待っているのか」

 そう呟くゾフィーの顔は見えないが、きっと祭りを前にした子供のように口を歪めて笑っているのだろうなと思った。
 そして彼女が笑っている限り、自分たちが窮地に陥ることがあっても絶望に落ちることはない。
 そうコンラートは確信した。



[18136] 二章 再来2
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/11/06 13:06
 国境を越え幾つかの村や町を経由し、ようやく赤剣騎士団が辿り着いたのは、キルシュ王都を目前に控えた寂れた村であった。
 今でこそ人は少ないが、キルシュ王都への旅路の最中あるのだ。昔は商人などもよく滞在しもっと人も多かったらしい。
 しかし十七年前のキルシュ防衛戦で多くの男手を失い、さらに二年前のリーメスでの壊滅戦に参加した者たちもほとんどが戻って来ず、村には老人や女子供ばかりが残されたのだという。

 そんな事情の村だから、ピザン王国軍は村人たちに歓迎された。
 これが略奪を行うような軍なら蛇蝎のごとく嫌われただろうが、グスタフは末端の兵にまで規律を徹底し、村人に無体を働いた兵には例外なく懲罰を与えた。
 さらに食料の類は略奪するまでもなく本国から輸送されていたし、むしろ村の新鮮な食料を買い取りさえしたのだ。
 かくしてピザンの軍勢は村人たちにかねがね好意的に受け入れられることとなる。

「むう。何とも意外な」
「殿下……」

 村に駐留している兵に案内され村の中を歩いている最中。グスタフの非の打ちどころのない村への対応を聞いて、ゾフィーは眉間に皺を寄せながら納得いかないとばかりに呟いた。
 それを聞いてため息をつくコンラート。馬車を使わないと決めた時もそうだが、この姫様は一度こうと決めると頑固になるところがあるらしい。

「殿下はどうもローエンシュタイン公を過小評価しているように思えるのですが」
「いや、私もあいつの能力は信頼している。しかしいかんせんあの人格が……」

 そう言いながら振り向いたゾフィーは、しばしコンラートの顔を見つめると少しだけ眉間の皺を薄める。

「いや、案外コンラート相手でも殊勝な態度をとるのか? どうも私があいつに侮られているのは、私が女だからというのが大きいようだし」
「はあ」

 そして何やら納得いった様子で言うゾフィーに、コンラートは何も言えずただ曖昧な声を漏らす。
 何か言おうにも、コンラート自身グスタフとはろくに話したことがないのだ。むしろ仮にも公爵とそんなに頻繁に話す機会があるはずがない。
 そういう意味では先代アルムスター公との縁は本当に奇妙なものであったし、何故かやたらとコンラートをフォローしてくるクレヴィング公の行動も本人からすれば謎である。
 そういう不思議な縁が多いのも、コンラートが強運と言われた所以かもしれない。

「まあともあれ、ここからどうするかはグスタフの出方次第にもなる。細かいところはここの部隊の責任者に聞いてからにしよう」

 そう言って考えを切り上げると、コンラートを従えたゾフィーは軍が間借りしている宿へと向かった。





 この村の部隊の指揮者はエーベルという男だった。一応は子爵位を持ち自身の手勢を率いてローエンシュタイン公の旗下に付いたが、その手勢の少なさ故に前線での活躍は期待されなかったらしく、こうして補給基地となっている村の警備を任されたのだという。
 人手が少ないのかそれとも性分なのか、手ずから茶を用意し出迎えるその姿にコンラートはいささか面食らった。
 もっとも、末端の貴族ともなるとこういった人種は珍しくないのか、ゾフィーはいたって普通に応じていた。あるいは王族であるゾフィーに下手な茶坊主などあてがえないと、子爵自ら接待したのかもしれない。

「このような遠い地までお疲れさまでした殿下」

 茶の準備が終わると、エーベルはテーブルを挟んで向かい合う質素な木製の椅子に腰かけ深々と頭を下げた。
 対面にはゾフィーが座り、その少し後ろに控えるようにコンラートは立っている。
 コンラート自身も椅子は勧められたのだが、この場での護衛という意味もありそれは遠慮した。こういった話し合いの場で、自分がでしゃばるべきではないと判断したためでもある。

「エーベル卿も。異国の地で慣れない中、手間を取らせてすまない」
「いえいえ。こうして殿下のお顔を拝見できただけでも役得というものです」

 そう言って笑うエーベルは、小太りなように見えるが中々愛嬌のある男だった。
 歳は少々いっているが、若い頃はさぞ浮名を流したのであろうと思わせる手慣れた空気を感じさせる。

「とはいえローエンシュタイン公の采配が見事というほかなく、私のやることなどないに等しいのです。リカムもローランドも度々こちらの補給線を狙ってきたようですが、全て察知されて撃退されており、私たちの出番と言えば帳簿をつけることぐらいのものでして」
「こんな前線と壁一枚しか隔てていないような場所でか?」
「ええ。おかげで配下の兵にも緩みが見られ、近々一喝してやろうと思っていたところでのゾフィー殿下のご到来。あってはならぬことですが、もし万が一にも粗相をいたしましたら、コンラート殿も遠慮せず叩きのめしてやってください」
「お……私がですか?」

 思わぬタイミングで話を向けられ、コンラートは思わず聞き返していた。
 どうにもこういった、坂道を転がるチーズのように舌が回る男は苦手だった。
 一見何の意味もなさそうな言葉を怒涛の勢いで吐き出して、それをこちらが噛み砕く前に意見を求めてくるのだ。あまり弁の立たないコンラートでは、どう返していいのか分からず対処に困る。

「いやはや。私のような軽い男は部下にも嘗められてしまいましてな。その点コンラート殿のような将の見本のような方に叱責を受ければ、彼らの背筋も伸びるというものです」
「……無論ゾフィー殿下に無礼を働くようならば容赦はしませぬが」
「おお、それは心強い。まったくこのような勇将を傍に侍らせられる殿下が羨ましい」

 ここぞとばかりにおだててくるエーベルの言葉はわざとらしくすらあったが、対するゾフィーは「ふふん」とばかりにご満悦の様子であった。
 相手がお世辞を言っていることなどゾフィーとて分かっているだろうに。それでも乗って見せるのが貴族の嗜みというものなのだろうかとコンラートは少し悩む。

「ではエーベル卿。そろそろ本題に入りたいのだが?」
「……御意」

 ゾフィーがそう言うと、エーベルの纏う空気が変わった。
 顔つきは柔和なままではあるが、その目から軽い光は消え凄みすら感じる。

 なるほど、これだから貴族という生き物は油断ならない。
 そう改めて思いながら、コンラートも気を引き締め直しエーベルの示した地図へと視線を向ける。

「ローエンシュタイン公率いる主力は既にキルシュ王都を射程に捉えるまでに軍を進めております。しかし守勢が有利なのは戦場の常。幾度か兵を進めたそうですが、敵勢の巧みな用兵に翻弄され、最初の城門すら越えられないのが現状です」
「ここまで順調に進軍してきたグスタフがか?」
「様子見ということでしょう。下手に強行突破して、城門の内に罠がないとも限りませんからな。それでも慎重に過ぎるのは、どうもキルシュ王都にジェローム王が来ているという噂がありまして」
「……あの策謀王子か」

 ローランドの王。ジェローム・ド・ローラン。
 彼は弟であるロランと共にリーメス二十七将に数えられた男ではあるが、その在り方は他の二十七将とは一線を画す。
 彼らの殆どはその武勇をもって名をあげた。二十七将等と呼ばれているが、その在り方は個の武によって立つ兵である。
 しかしローランドの王子であったジェロームは、その類まれな戦術眼と騙し討ちすら厭わない徹底した策によって戦果をあげた。個人の武ではなく軍団を用いた指揮で名を馳せた、正に将として優れた人間だったのだ。
 うだつの上がらない小勢も彼が指揮すれば十倍の敵すら打ち倒す精鋭と化す。そんな噂が立つほどの鬼才とされた。

「だが逆に言えば、ローランドには優れた兵と指揮官は居ても『英雄』はいない」
「はい。ましてこちらは数で勝る。故に対ローランドの戦は、策謀王の奇策を封じてしまえば、順当に事が進み順当に勝利できる実に普通の戦となります。だからこそローエンシュタイン公も、万全の布陣を敷き相手を正面から叩き潰す布石を打っているということでしょう」
「戦いは始まる前に勝敗が決まっているとは言うが。なるほど。なまじ腕が立つだけに自分が前に出る男かと思っていたが、指揮官としても遅れてきた英雄の名に恥じないということか」

 相手が策を弄するならば、策など通じない盤石の布陣でもって迎え撃つ。
 なるほどグスタフはこの戦において一切の隙を見せず事を進め続けている。
 これならば夏戦争での汚名を返上してお釣りも来るだろうと、コンラートは他人事ながら安心する。

「そういうわけでして、えー、その……」
「どうした?」

 急に言葉を濁し始めたエーベルに、ゾフィーは訝しげな眼を向ける。だがどうにも、エーベルは迷っている素振りを見せても本気で困っているようには見えない。

「……援軍など不要どころか邪魔なので、さっさとキルシュの残党を探して来いとローエンシュタイン公が」
「……」

 その言葉を聞いてゾフィーの動きが止まり、コンラートは無言で天を仰いだ。
 何故グスタフはもっと穏便な伝言ができなかったのか。このまま行けば国内の評判だけでなく、ゾフィーからのいささか理不尽とも言える評価の低さも覆っただろうに、鎮火しかけたところに爆薬を放り込むとは。

「ふ……ふふふふふ。相変わらず自信過剰な男だなあのトンチキは!」
「はあ」

 案の定怒り心頭なゾフィーの様子に、コンラートはため息を漏らしながらエーベルを見る。するとエーベルも、困りましたなとばかりに肩をすくめる。
 なるほど。こうなると予測していたからこそ言い渋り、私はそんなこと思ってませんよとアピールするために困った素振りを見せていたのだろう。
 もしコンラートがこんな伝言を任せられたら、実行するまでに胃に穴が開くに違いない。
 やはり貴族のやり取りというのは遠回しで面倒くさい。そうコンラートは他人事のように思った。





「まったくあの男は!」

 滞在中お使いくださいと案内された空き家に入ってもなお、ゾフィーはグスタフへの怒り冷めあらぬ様子であった。
 なまじこれまで彼の功績を見て冷静に見直そうかと思っていたところに、思春期の男子のような嫌味混じりの命令をされて余計に腹が立ったのだろう。
 グスタフも余計なことは付け加えずにただ「援軍不要」とだけ伝えればよかっただろうに。ゾフィーのそばを離れたせいで、折れた鼻がまた伸びたのだろうか。

「わあ、結構いい食器に茶器までありますよ。使わせてもらいましょうか」

 一方侍女であるアンナは仮の宿となる空き家の中を見分し、早くもお茶の準備を始めている。
 こちらはこちらで、気弱そうに見えるのに中々マイペースだ。ゾフィーに振り回されたせいで自然とそうなったのか、あるいは元々の資質か。
 ともあれ今回の強行軍にも平然と付いて来て、こうして平常通りに己の本分を全うするのだから心強い。

 しかしゾフィーたちはともかく団員全員が宿泊するほど空き家はないので、他の団員は村の外に天幕をはって休むことになる。
 少々申し訳なくも思うが、村人たちが好意で食事を用意してくれるというからそれで我慢してもらうとしよう。
 ご馳走という程ではないだろうが、保存食よりは余程マシなはずだ。

「しかしそれなりに歩き回りましたが、お体に異常はありませぬか?」
「この程度でどうにかなるはずがないだろう。まったくコンラートもマル爺も過保護すぎる。ここ最近は車椅子に乗せられてばかりで、歩き方を忘れるかと思ったぞ」

 そう言って腕を組んで怒って見せるゾフィーに、コンラートも申し訳ないと苦笑する。
 しかし過保護と言われても、よく見張ってないと何をしでかすのか分からないのがピザン王家の人間だ。少し目を離したすきに、肌身離さず持っている父の形見を握って素振りをしていたことなど一度や二度ではない。
 せめてやるなら子供の悪戯のように隠れないで目の前でやってくれというのがコンラートの本音である。

「しかしエーベル殿も当たり前のように言っておりましたが、既に前線ではキルシュ残党軍の存在は広く認知されているようですな」
「ん? ああ。小勢故に小回りがきくらしく、様々な戦場に出没しているらしいな。そんな真似を続けられるということはそれなりに兵法に通じたものが率いているのだろうが、さて何者だろうか。まず思い浮かぶのはジャンルイージ将軍だが」
「ジャンルイージ将軍は戦死したとのことですが」
「ああ。しかしあくまで敵であるローランドの発表だ。もしかすればという可能性もある。むしろ私としてはエミリオ王子を取り逃がしたことを素直に認めたのが意外だったが」
「確かに。しかしもう二年も経っています。生存は絶望的では?」
「そう二年だ」

 エミリオ生存を疑問視するコンラートに、ゾフィーはむしろその年月を強調した。

「何故キルシュの残党は二年もの間動かなかった? 仮にピザンの出方を窺っていたのならば、何故あちらから接触してこない?」
「……動けない理由があった。あるいは動く理由ができた?」
「どちらにせよあちらにも事情があるのだろう。最悪会っても門前払いは覚悟しておいた方がいいかもしれない」

 そう言うと、ゾフィーはアンナが用意した茶に口をつけた。



[18136] 二章 再来3
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/11/13 12:58
 当初の目的地である王都目前の村まで辿り着いた赤剣騎士団ではあったが、それまでの迅速な行軍とは裏腹にしばらくは村に腰を下ろして地味な作業が続いた。
 戦局によっては本隊に合流することもありえたのだが、当のグスタフに援軍不要と言われては余計な世話をする義理もない。
 故に本来の目的であるキルシュ王国残党との接触を目指すべきなのだが、何せ相手は小勢の上にゲリラ戦を仕掛けているような連中だ。
 神出鬼没という表現が適切なほどその行動は読めなかったし、何よりキルシュ国内の地理を知り尽くしている。
 ただ闇雲に動き回っても、残党軍を見つける前にこちらがローランドかリカムの軍勢に見つかりかねない。

 何処を捜索すべきか。
 部隊をどのように分けるか。
 どの程度の行程になるか。
 物資はどの程度必要か。

 知りえる限りの情報を吟味しながら慎重に計画を練る必要があった。
 そうして今後の捜索態勢を整え、編成された各班長への指示を終えるころには三日が経過していた。
 なるほど。偉くなるとこういった仕事も増えるのだなあと、コンラートは自分の肩を叩きながら息をつき、自分もずいぶんと親父臭くなったものだと自嘲した。

「お疲れさまでした」
「ああ。すまない」

 会議が終わり与えられた部屋に戻ったコンラートだったが、すぐに来客がありそれに応じていた。
 コルネリウス。氷の彫像を思わせる美丈夫が、わざわざ茶器の準備までして訪ねてきたのだ。

「しかし一体どうしたんだ? 会議の場で何も言わなかったということは、個人的な用向きのようだが」
「はい。その……アルムスター卿のことなのですが」
「カールの?」

 もしかしてまた調子に乗って何かやらかしたのだろうか。
 そう心配するコンラートに、コルネリウスは慌てたように首を横に振った。

「いえ。どうして私の班に彼を入れたのかと思ったので」
「そんなことで……もしや仲違いでもしていたか?」
「とんでもない。彼は人をよく見ています。ふざける相手は選ぶでしょう」

 選んでもふざけるのは駄目だろうと思ったコンラートだったが、それ以上にコルネリウスの言い様がおかしくて笑いそうになった。
 部下たちにはその容姿のせいもあり氷の貴公子などと呼ばれているのに、今の彼は礼儀正しく気遣いもできる好青年だ。
 少し大人しすぎるのが心配にもなるが、部下の前では取り繕えているので問題はないだろう。
 あのインハルト候の息子がまさかこんなに謙虚な青年だとは思わなかったが、父親似だと言われれば大いに納得してしまう話だった。
 婿養子であるインハルト候の夫が尻に敷かれているというのは、平民にまで知られているほど有名な話だ。

「その、何故愛弟子をご自身ではなく私の班にと思いましたので」
「……」

 愛弟子。そう言われてコンラートは一瞬固まってしまった。
 確かにカールをかつて従騎士として指導したし、現在も何かと目にかけている自覚はある。
 しかし愛弟子と言われると首を傾げざるを得ない。果たしてアレに可愛げはあるのだろうか。

「うむ。まあ俺の班に入れてしまっては、贔屓をしていると他の団員に思われかねないだろう。いつかはあいつも隊を率いることになる。そなたの下でそれを学んでほしいのだ」
「なるほど。しかし私では……」
「俺に遠慮などしてくれるなよ。他の騎士と同じように厳しくしてやればいい」
「分かりました」

 そう了承したコルネリウスは、どこかホッとしたように見えた。
 恐らくは団長であるコンラートの弟子だからと、いらぬ気遣いをしそうになっていたのだろう。

「しかし君も心配性だな。それでは気苦労も多いだろう」
「はい。家でもいつも父と一緒に端っこで縮こまっています」

 団長としてではなくコンラート個人として言えば、コルネリウスも少し纏った空気を和らげて返事をした。
 こんな寄せ集めの騎士団に来るだけはあるというべきか、本来なら格下であるコンラートに思うところもないらしく素直だ。
 それでも部下たちに氷と称されるのは、この騎士団での己の役割はそういうものだと理解してそう演じているからだろう。

「母のせいで流れている噂について聞かれたくないというのもあります。特に母がゾフィー様の産みの親などというのは……」
「確かに品のいい話ではないな。しかし殿下は気にしていなかったぞ。むしろ『それならコルネリウスは私の兄だな』と面白そうにおっしゃっていた」
「それは……何といいますか、恐れ多い」

 実母の不貞の噂を流されるのは確かに居心地が悪いだろう。
 幸いなのは、その噂の当事者の片割れがまったく気にしていないどころか面白がっているところか。
 もっとも、もう一方はそのせいでさらに心労を増やしているようだが。

「俺が言うのもなんだが、ゾフィー殿下を一般的な貴族の子女だと思わぬことだ。ドルクフォード陛下やクラウディオ陛下もそうだったが、何かやらかさないか見張っておいて場合によっては首根っこを掴むつもりでいた方がいい」
「……」

 コンラートの言葉に、コルネリウスは切れ長の目を大きく見開いて硬直した。
 そしてややあって瞼を定位置に戻すと、何やら合点がいったように頷きながら言う。

「だからローデンバルト卿は貴方を後継にしたのですね」

 言外に「そんな真似をできるのはおまえらくらいだ」と言われ、コンラートは苦笑するしかなかった。





 まだ日が顔を見せず薄暗い時間に、赤剣騎士団は一班十名ほどの部隊に別れて行動を開始した。
 主な目的が捜索とはいえ、いつ敵の部隊と遭遇するとも知れぬ上に、キルシュの残党とも場合によっては戦闘になる可能性がある。
 そのため捜索に出た部隊の多くは、早々に馬を置いて山間部や森の木々の間を隠れるようにして移動していた。
 鎧兜を身に着けいつ終わるとも知れない道程を進むのは、中々に消耗する。
 当然そうしているうちに兵の中からは不平不満が出てくるわけだが、そこをうまく捌くのも隊を任された者の務めだろう。
 そういう意味で、コルネリウスという男はある意味合格であり、ある意味では不合格であった。
 何せ不満があろうとも、口に出すのを憚られるほどの重圧を背負っているのだから。

「カール様。副団長って人間ですかね」
「それは団長は間違いなく人外だと言ってるのかい?」

 少し息が上がっているまだ少年と言える歳の兵士の言葉に、カールは呆れたように返した。

 副団長であるコルネリウスの率いる班は、ロードヴァント山の東に広がる森の境界をなぞるように進んでいた。
 こういった斥候が主任務となる行軍の場合は、数名を先行させ前方の安全を確認し、その後ろを本隊が追う形になるのだが、この班ではその先行人員を班長であるコルネリウス自らが行っていた。
 兵士たちはそれはありなのかと驚いたし、コルネリウスを除き唯一の騎士階級の人間であるカールも、先行させるのは下の兵に任せるべきだと進言した。しかしコルネリウスは相変わらずの凍り付いたような顔で「それが一番効率がいい」と押し切ってしまったのだ。
 そして実際のところ、コルネリウスの索敵は見本のように完璧であった。
 死角があれば即座に走って確認に向かい、しかし後方の人間は走らせない程度の距離を保ち続ける。
 言葉にするのは簡単だがやれと言われてすぐできることではない。というかコルネリウスのような立場の人間がやることではない。

 そんなわけで、後ろを付いていくカールや兵士たちは、いくら疲れてもそれを口に出すことができなかった。
 一番動いているコルネリウスが汗一つかいていないのだ。そんなことを口に出せる勇者がいるはずがない。

「団長は人外って、そんなの当たり前じゃないですか。リーメス二十七将ですよ。リーメス二十七将」
「君たちの中でリーメス二十七将がどうなってるのか凄い興味が出てきたよ」

 一人の兵士の言葉にその通りだと頷く他の兵士たち。しかしそれも当然かとカールは思う。
 カールは現在存命中のピザン国内のリーメス二十七将全員と面識がある。そしてその全員の戦いを見て確信したのは、彼らは才能や努力といった言葉では片付けられない、普通の人間とは隔絶した人間なのだということだ。
 力、速さ、スタミナ。そのどれもが常人の限界を越えており、修行の果てに身に着けたと言われるよりも、生まれついての異能だと言われた方が納得してしまう程の異常だった。

 ゾフィーの話では、恐らく無意識に魔力によって身体能力を強化しているのだろうということだったが、一体どうすればそんな技法が身に付くのだろうか。
 気になるなら聞けばいいのだが、実際に聞いてみれば「自然に身に付いた」とか「俺ってそんなことしてたのか」とか言われるに違いないと確信しているので聞いていない。
 ただゾフィーのように魔術を学びその真似事はできるというので、カールも魔術の教本を取り寄せ日々勉強している。
 もっとも、集中力が続かず枕になっている時間の方が長いのだが。

「ん? ……姿勢を低くしろ!」
「え、は、はい」

 前方のコルネリウスが手で指示するのを見て、カールは静かに、だがよく通る声で命じた。
 そのまま木々や草の影に隠れるようにして、コルネリウスの元まで地面をなめるように移動する。

「どうしました副団長?」
「敵だ」

 コルネリウスが短く答えて指で示した先には、確かにピザン王国とは異なる軍団が居た。
 鼠のように隠れているこちらの気も知らずに、堂々と旗を掲げ悠々と歩いている。
 顔も判別できないほどの距離だ。こちらに気付かれることはないだろうが、念のため姿勢をさらに低くしてカールは敵軍を観察する。

「……リカムの旗印。数は千前後。馬鹿ですかあれ? 周囲を森と山に囲まれたど真ん中をのんびりと、旗まで立てて」
「あちらとしては大きな問題はない。ピザン王国の本隊は遥か先。私たちのような少数では手を出せない。そもそも数が多い故に、見つからずに進むのは無理だと開き直っているのだろう」
「やっぱり馬鹿じゃないですか。あの程度の規模じゃ、本体に正面からぶつかっても蹴散らされて終わりますよ」
「そうだな。それにやはり迂闊だ。あれほど無防備では少数の兵の奇襲でも瓦解しかねない」
「それって……」

 キルシュの残党のことですか。
 そうカールが口にする前に、それは起こった。

「何だ!?」

 突如響き渡る怒号。地を蹴る音。混乱する声。
 カールたちの潜む森とは反対側の木々の影から、リカムとは別の軍勢が飛び出してきたのだ。
 彼らはあっという間に行軍するリカム軍の横っ腹に食らいつくと、未だ動揺している敵兵たちを容赦なく屠っていく。

「キルシュ王国の旗! アレが残党軍!?」
「見事な奇襲だ。だがあの人数では」

 離れているため正確な数は分からないが、恐らくキルシュ残党軍の数は百にも満たないだろう。
 このままではすぐに押し返される。その予想通りに、すぐにキルシュ残党軍は圧力を失い逃走を始めた。

「あ、あれ? 何か早すぎませんか? もう少し粘れたように見えたんですけど」
「……」

 カールの疑問にコルネリウスは何も答えない。
 ただその切れ長な目をさらに薄くして、じっと戦の流れを見つめていた。

「……伏兵か?」
「え?」

 不意に漏れた呟きを拾い、カールは改めて戦場を俯瞰する。
 確かに、キルシュ残党軍の鮮やかな撤退は、リカム軍を誘っているようにも見える。
 しかしそれはそれでおかしい。
 キルシュ残党軍は小勢のはずだ。誘い出したところで、あの規模の軍団を殲滅するほどの伏兵など用意できるのだろうか。

「!?」

 その時カールの頭に一つの答えが浮かんだ。
 過程を飛ばして、唐突にその光景が見えたのだ。

 後から考えればいくらでもその理由は出てきたのだろうが、その時のカールには自分の出したその答えが突拍子もない妄想にしか思えなかった。
 しかしそれでも、無視するにはその答えは大きすぎた。

「副団長! 単独行動の許可を!」
「何?」

 だからカールは、説明する手間も惜しんでそう口にしていた。
 いや、恐らく説明しろと言われてもできなかっただろう。口に出してしまった今ですら「おい馬鹿やめろ」と根拠のない暴走を内心で止めようとする自分がいるのだから。

「……」

 コルネリウスは瞳に一瞬戸惑ったような色を映したが、すぐにいつもの氷の顔を作り出してカールを見つめた。
 相変わらず何を考えているのか分からない顔だが、コルネリウスも「こいつは何を考えているんだ?」と考えていることだろう。
 だというのに。

「許可する。行け!」

 コルネリウスは当たり前のようにその不可解な暴走を認めた。

「ッ……ありがとうございます!」

 それを聞くや否や、カールは礼を言いながら駆け出していた。
 ああ。分かるぞ。リカム軍はまんまと罠にはめられている。
 そしてその罠の要は、この森を抜けた先の丘に陣取っているに違いない。
 何の根拠もないのにそう確信し、カールは木々の枝に打たれ、肌が浅く切れるのも気にせず走った。

 森の外ではまだ軍勢が争う音が鳴り響いている。
 それに焦りを感じながらカールは走り、そして森を抜け、目の前の丘を駆け上がった。
 そして長い上り坂を終え、ようやく視界が開けたところで――。

「うわっ!?」

 ――視界を閃光が白く染め上げ、山でも崩れたような轟音が鳴り響いた。

「……何だ……今の?」

 ようやく視界が元に戻り、顔を庇っていた右腕を下すと、そこにはもう何もなかった。
 いや、何もないのではない。そこには地獄があった。

 丘の切れ目から見下ろした先には、焼け焦げた大地が広がっていた。
 そしてその上には煙をあげる黒い何か。
 それが焼けた死体だと分かり、カールは背筋を何かが這い上がるような悪寒を感じる。
 異様で、そして壮絶な光景だ。天上に御座す神の罰だと言われれば誰もが納得するに違いない。
 千人は居たであろうリカム王国軍の兵士たち。それが一人残らず炭になって草原に転がっていた。

「……嘘だろ」

 その光景にカールは自分でも意識しないうちに震えるように声を漏らしていた。
 こんなことが人間にできるのかと、二つの意味で戦慄していた。
 そして何より。

「……レイン」

 閃光が走り腕で顔を庇うまでの刹那に見えたもの。
 白い光を背にしてこちらを振り返ったのは、かつて一度だけ出会い共闘した魔術師の少女だった。



[18136] 二章 再来4
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/11/20 12:52
 最初その報告を聞いた時、誰もが耳を疑った。
 リカムの千を越える軍勢を、百にも満たないキルシュ残党軍が文字通り全滅せしめたと。
 しかし報告者が頭を疑われたのは一瞬のことで、それを成したのが魔術師だと知れると皆いっせいに「ああなるほど」と納得した。
 その反応を見ても、魔術師という存在が戦場において反則的なものであると認識されていることがよく分かる。
 そして報告自体には納得したものの、同時に更なる疑問が浮かび上がる。一体その魔術師は何者で、何故キルシュ残党軍に協力しているのかと。

「魔術師と一言に言ってもその性能は差があります。駆け出しならば人一人をようやく焼き殺せるか。平均とされる多くの魔術師たちも、せいぜいが十数人を巻き込むのが関の山でしょう」

 せいぜいだの関の山だのと言うツェツィーリエだが、そんな平均的な魔術師が四桁単位で集まっているジレントが、いかに潜在的に強力な軍事力を有しているかが知れるだろう。
 そしてそんなことをあっさりと告げてしまう彼女もまた常人とは異なる感性を持った魔術師なのだと。

 キルシュ残党軍の捜索のために村を経ってから一週間後。
 思うようにキルシュ残党軍捉えることのできなかった赤剣騎士団の面々は当初の予定通りに帰隊し、さてどうするべきかと話し合っていた。
 空き家にとりあえず各班の長だけでも集めたものの、やはり十人以上の人間を入れるには狭すぎて座る場所もない。
 こういった会議が苦手なルドルフなどはあからさまに「早く終われ」と言いたそうな顔をしていた。
 
 コルネリウスの班以外にもリカム軍とキルシュ残党軍の戦いに遭遇した班はあった。
 しかし揃いも揃って見事に逃げられ、さらには残っていたリカムの軍に追いかけられ命からがら逃げだした者たちまで居たのだ。
 むしろこれ幸いと残敵を押し付けられたふしもあるというのだから、キルシュ残党軍の指導者も中々したたかだと言わざるを得ない。

「敵に見つからないようにと少数編成で捜索に出たのが裏目に出たな。あるいは遭遇したのがコンラートの班だったなら、コンラート一人に残敵を押し付けてキルシュ残党軍を追えただろうに」
「……」

 心底残念そうに言うゾフィーに、コンラートは何も言えず顔を微妙に歪めて沈黙した。
 一見するとあんまりな扱いだが、実際コンラートなら可能だろうしゾフィーもできると信頼して言っているのだから文句も言いづらい。

「それで、カールは魔術師の姿を確認したそうだが本当か?」
「……はい。一瞬でしたけど、確かに見ました」

 ゾフィーの言葉に、それまで他の先輩騎士たちに追いやられ部屋の端に居たカールがおずおずと答えた。

「どんな者だった?」
「金髪の女の子。いや、女性です。サークレットをしていたから魔法ギルドの党員だと思うんですけど……その」
「どうした? 珍しく歯切れが悪いな」
「いえ、その、何といいますか。……アレ多分知り合いです」
「……は?」

 カールの言葉に、騎士たちは驚き一斉に視線を向ける。
 それにカールは一瞬怯んだように見えたが、そこは流石は大貴族の人間というべきかすぐに体裁を整えはっきりと言葉を口にする。

「名前はレイン。団長とも面識があります」
「レインだと?」

 懐かしい名を聞き、コンラートは思わず聞き返していた。
 そして同時に納得する。通りでカールに落ち着きがなかったはずだと。

「何者だ?」
「まだ夏戦争が始まる前、グラウハウに狼のアンデッドが出たことは覚えておいででしょうか」
「ああ、そんなこともあったな。その後立て続けに大きな事件ばかり起きてそれどころではなかったが」

 今にして思えば、あのアンデッドはイクサと何らかの関りがあったのだろうか。
 ドルクフォードは調査すると言っていたが、ゾフィーも言っているようにその後は大きな事件ばかり起きてコンラートもすっかり忘れていた。
 ドルクフォードがイクサと繋がっていたことを考えれば意図的に封じられたのか、あるいはそれがそもそものきっかけだったのか、今となっては分からない。

「その討伐に私とカールが赴いた際に共闘した魔術師の少女です。彼女はクロエ司教の友人でもあったらしく、私がジレントに亡命してからも何度か顔を合わせています」
「ふむ。では間違いなく正式な魔法ギルドの魔術師か。……ん? レイン?」

 コンラートの報告を聞いていたゾフィーだったが、不意に何かに気付いたようにレインの名前を反芻する。

「レイン……レイン。ケルル殿。もしかして、もしかするのだろうか?」
「お答えいたしかねます」

 そしてツェツィーリエに顔を向けて何やら確認すると、彼女は張り付けたような無表情で回答を濁した。
 しかしそれでは答えているも同然だ。違うのならば違うと否定すればいいのだから。

「もしや殿下もご存じでしたか?」
「いや。知っていることは知っているのだが。これ言っちゃっていいのだろうか」

 そういえばこの姫君はジレントに留学経験があったと思い出し、もしや知り合いなのかと聞くコンラート。
 それにゾフィーは曖昧に答え、何やら困ったように悩み始める。

「……よし。私は何も知らない」
「無理がありますよ殿下」
「やかましい」

 そしてどうやら方針が決まったらしくなかったことにしたらしいゾフィーと、呆れたようにつっこむ栗毛の騎士トーマス。
 一体どういうことなのか気にはなるが、何か重要な意味が隠されているならばツェツィーリエが後からこっそりと教えてくれるだろう。
 彼女は魔法ギルドの党員ではあるが、最優先にするのは妹のモニカであり、その次は妹の保護者であり自らの主人であるコンラートだ。
 場合によってはジレントを裏切るのではないかと、他人事ながらコンラートも心配になってくる。

「ともあれ、キルシュ残党軍と接触する窓口として、そのレインという魔術師に仲介を依頼するという手もあるか。しかし下手に近づくのも危険だな。話を聞く限りマスタークラスだろう」
「何ですかい。そのマスタークラスってのは?」

 ゾフィーの言葉に疑問を発したのはルドルフだった。なるほど。確かに普段魔術師と接することのない人間には聞き慣れない言葉だろう。
 そう思い説明すべきではとゾフィーに視線を向けたコンラートだったが、ゾフィーは「そうだな。ではそなたがやれ」と目で伝えてくる。

「いずれかの属性の最高位の魔術を制御することに成功した魔術師のことだ。一種の極みにまで達した高位の魔術師の総称だと思っておけばいい」
「極みっすか? そのレインって嬢ちゃんはまだ子供でしょう」
「その認識は今日の夕飯で生ごみと一緒に捨てておけ。魔術師というのは生まれついての魔力量がものをいう。そもそも魔力が足りなければ、最高位の魔術を制御する以前に発動すらできないのだからな。そういった意味では魔力を制御できていない子供の魔術師の方が危険だ」

 もっともあれから二年が経ったのだ。もうレインも子供という歳ではあるまい。
 一体どのような経緯があってキルシュ残党軍に加わったのかはしれないが、党首の娘であるフローラ・サンドライトもキルシュ防衛戦ではロッドたちの所属する傭兵団に参加していたのだ。
 現場主義の魔術師が義勇兵や傭兵になるのは、案外よくあることなのかもしれない。

「コンラート。次に戦場でその魔術師を確認したとき接触することは可能か?」
「……そのための許可をいただけるならば」

 相手が本当にレインならば、コンラートが顔を見せれば話が上手く進むかもしれない。
 カールでもいいのではないかとも思ったが、二人はお世辞にも相性がいいとは言えなかったし、何より先日の接触であちらはカールを見事に無視している。

「許可する。他は気にするな。何をおいても目的を遂行せよ」
「御意」
「聞いての通りだコルネリウス。次の戦いではそなたがコンラートに代わり指揮を取れ」
「承知しました」

 主君からの命に、団長と副団長が応えた。





 夢を見ている。
 それは久しい感覚だった。
 四肢は弛緩して力が入らないというのに、まるで糸で操られているように勝手に動いている。
 それはそうだろう。今この場にいる己は己でないのだから。

「どうしたのクリストファー?」

 小鳥の鳴くような、澄んだ声が自分を呼んだ。
 その声にハッとして目を向ければ、教会のステンドグラスを通した光に包まれるようにして一人の少女が佇んでいた。
 巫女。そう呼ばれる白い少女。

 やはり似ている。そう思いもっと近くでその姿を見ようと思うが、やはり体は他人のもののようでピクリとも反応しない。
 ただこの少女を守らなければと、そんな思いだけが重なり合うように己の心を満たしていた。

「ああ、そうだな。だけど――」

 ――この子はおまえのお姫様じゃない。

「ぐあっ!?」

 唐突に、理不尽に、何か大きな力に弾かれてコンラートはたたらを踏みながら後退った。
 同時に地面を踏みしめ、己の体が自由に動くことに気付く。

 目が覚めたのか。いや違う。
 何故なら目に映る景色はそれまで夢で見ていた教会そのままで、しかし弾き飛ばされた場所には先ほどまでとは違う者が居る。

「まったく。人の夢を覗くもんじゃねえぞ。こう見えて俺はシャイなんだ」

 そんな白々しい言葉を吐きながら、人のよさそうな笑みを浮かべる騎士が居た。
 己の主の兄王に似た、赤い髪の騎士が。

「貴方は……」
「赤い騎士。なんて気の利かない名前で呼ぶなよ。俺にはクリストファーって立派な名前があるんだ」

 そう名乗りをあげる赤い騎士を見て、そういえば夢の中で彼はそう呼ばれていたなと思い出す。

「まあ別にどう呼んでもいいんだが……ああ、クリスって愛称はやめてくれ。妹の名前がクリスティーヌつってな。略されると紛らわしいんだこれが」

 そう言うと嫌そうに、しかしどこか嬉しそうに赤い騎士は笑う。
 恐らく自分と似た名である妹を大事に思っているのだろう。聞かずとも、それが知れた。

「……何故?」
「ん? それは俺の事か? それともこの状況か?」
「貴方は何故俺の中にいる?」

 所詮は夢だ。多少の理不尽には目を瞑ろう。
 故に、コンラートはこの夢を見始めてから一番気になっていた疑問を口にした。

「おお。過程や結果なんぞ無視して核心というか原因ついてきたか。やっぱおまえ俺と違って頭いいな」
「ご謙遜を」
「いや、本当俺頭悪いんだよ。無駄に年月過ごしたせいで経験つーかパターンで判断はできるようになったんだがな。油断するとあっちこっちに考えが飛んじまって」

 それはある意味頭の回転が速いのでは。
 そう思ったコンラートだったが、今この瞬間も問いに答えず話が飛んでいるので事実ではあるのだろう。

「ん、それで何で俺がおまえの中に居るかって話だったか。実はおまえは伝説の赤い騎士の生まれ変わりだったのだ! つったら信じるか?」
「一割ほどは」

 生まれ変わり。輪廻転生などというものは存在しない。それが女神教会の教えであり世の常識だ。
 それを一切疑わず信じるほどコンラートは信心深くはないが、いくら調べても神官はもちろん魔術師たちにすら転生は否定されていた。

 ――まるで誰かが見てきたかのように。

「まあ見たことあるやつも居るんだろうな。この世には、つーかあの世か? まあとにかく魂の海っていうもんがあってな、そこを管理してる姉ちゃんがまた美人なんだわ。さすが神様。いやでも神ではないんだったか?」
「……はあ」
「あ、わりい。また逸れた。まあとにかくその魂管理してる姉ちゃんに聞いたら、俺たちが想像してるような輪廻転生なんてもんはあり得ないって言われたわけだ。それはそれでショックだよな。俺が生きてた時代って、悲恋の末に死んで生まれ変わった恋人がみたいな話が流行ってたんだけど、そういうのもあり得ないのかよって」
「……」

 案外よくしゃべるなと思いながら、黙って赤い騎士の話を聞くコンラート。
 結局自分の問いの答えは何処に行ったのだろうか。
 しかしそれを聞こうと口を開いても、それがきっかけでさらに話が明後日の方向に飛びそうなので、諦めて相手が満足して話し終えるのを待つことにした。
 夢の中で見た過去ではそれほどおしゃべりには見えなかったのだが、もしかして暇だったのだろうか。

「それで……あ、これヤバいな」
「は?」

 そうして千年前の大衆娯楽について熱く語っていた赤い騎士だったが、不意に顔をしかめると不穏なことを口にする。

「おまえ聖剣近くに置いて寝てるか? いやこの際斧でも槍でもなんでもいいけど」
「聖剣ならば肌身離さず持っていますが」

 唐突な問いかけに戸惑いながらも答えるコンラート。すると赤い騎士は上出来だとばかりに拳を掲げ、笑いながら口を開く。

「おお。じゃあ頑張れ」
「は? いや、ちょっと?」

 そしてそのまま何の説明もされず、コンラートは急速に己の体から力が抜けていくのを感じた。
 夢から覚めるのかと気付き、そして思う。
 一体目覚めたところに何が待ち受けているのかと。



[18136] 二章 再来5
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/11/27 12:03
 目を覚ました瞬間コンラートの目に飛び込んできたのは、漆黒に染まる天井と、それを遮る黒い影の輪郭であった。
 誰かが覗き込んでいる。それだけならばコンラートの反応は遅れ、その何者かに一撃貰っていただろう。
 しかし夢の中で赤い騎士から警告を受けていたコンラートは、すぐさまそれが己に害をなすものであると判断し、傍らにあった聖剣を抜き放つと黒い影を切り裂いた。

「――ッ!」
「ぬぅ!?」

 体を両断された影が叫ぶ。
 しかしそれは言葉としての意味を持たない風の唸りのようであり、両断された体からは淀み腐った水のように血が漏れだすだけであった。
 ある意味見慣れた人間のそれではない。

「アンデッド!」

 敵を認識すると同時に、コンラートは聖剣だけを手に部屋を飛び出していた。
 現状の確認など後回しだ。今優先すべきことは、主であるゾフィーの救援に他ならない。

「ゾフィー殿下!」
「こちらだ」

 無礼を承知で部屋のドアを蹴破ったコンラートに、意外に冷静な声が返ってくる。
 無事だったかと安堵し、次いで床に何かが転がっているのに気付き息をのむ。

「……よくご無事で。ドルクフォード陛下のご加護でしょうか」
「加護などというものがあるかは分からぬが、まあ父上のおかげだろうな」

 そう言って微かに笑みを浮かべながら、ゾフィーは肌身離さず身に着けている対の聖剣の片割れを得意げに掲げて見せた。
 キルシュ防衛戦で活躍したロドリーゴ枢機卿が祝福儀礼を施したという聖剣だ。アンデッドにはさぞ効果覿面であったことだろう。
 これが普通の剣であったならば、今の魔術が使えず体の調子も悪いゾフィーでは、倒しきれず押し切られていたかもしれない。

「ともあれ敵襲だコンラート。狙いは私かそれともそなたか。ネクロマンサーめ。ようやく動きを見せたと思ったら寝込みを襲うとは品がない」
「ハッ。すぐに周囲を確認し安全の確保を……アンナ殿は何処に?」
「こ……ここにいまーす」

 そういえばと思い出し、ゾフィーと寝食を共にしていたはずの侍女の名を出せば、部屋の奥のベッドの影から何とも頼りない声が聞こえてくる。

「ああ。斬っても斬っても向かってくる死体が余程怖かったらしい。それでも健気に耐えてくれていたのだが、倒せたと思ったらあの通りだ」
「だ、だって本当にこっちが殺されるかと思ったんですよ!」

 そう言って瞳を涙で濡らしながら言うアンナだが、手にした細身の剣は死臭の漂う血に濡れていた。
 なるほど。最初はアンナが襲撃者と相対していたが、アンデッドだと分かりゾフィーが聖剣を抜いたという流れらしい。
 アンナとて決して弱くはないのだが、速さや技に重きを置いた剣術では、急所を突いても動きを止めないアンデッド相手はどうしても相性が悪い。
 むしろゾフィーが動くまでよく粘ったと褒めるべきだろう。

「他にもアンデッドが居るやもしれません。村人たちには悪いですが、何処か一ヶ所に避難させるべきでしょう。スヴェン!」
「ここにいまーす」
「ひやっ!?」

 名前を呼べば即座にベッドの下から滑り出てきたスヴェンを見て、アンナが悲鳴をあげコンラートも内心で驚く。
 半ば冗談で名を呼んだのだが、まさか本当に居たとは。
 もう二年近い付き合いになるのだが、未だにこの青年の気配と行動は読めない。

「状況は分かっているな。外の天幕で寝ている者たちを叩き起こしてきてくれ」
「もう起こしました。半分はこっちの救援に、もう半分は安全地点の確保という形で動き始めてます」
「……そなた分身でもできるのか?」
「分身はできません」

 分身はということは他に何かできるのだろうか。しかし今はどうでもいいのでコンラートは流すことにした。

「ならばおまえはその神出鬼没ぶりを生かして村人を守れ。単独で動くことになるがやれるな?」
「御意。じゃあ行ってきます」

 コンラートに命じられると、スヴェンは相変わらず雑用でも済ませるような気軽さで返事をし、そして部屋の影に紛れるようにその姿をかき消した。

「では、殿下はこちらでお待ちください」
「いや、私も行こう。一緒に居た方がよさそうだ」
「しかしそのお体では……」
「心配無用。戦うならまだしも付いていくだけならどうとでもなる。まったくそなたもマル爺も本当に心配性だな」

 そう呆れた顔で言われて、コンラートは仕方ないなと苦笑した。
 何よりイクサが直接手を下しているとすれば、いつどこから奇襲されてもおかしくない。同行してもらった方がいいのは事実だろう。

「では。私が先を行きます故、後をごゆるりとお追いください」
「了解。まあいざとなれば背中ぐらいは守って見せよう」

 先ほど戦わないと言ったばかりだというのに、ニヤリと笑ってそんなことを言うものだから本当に心配だ。
 同時にどこか懐かしく思う。
 かつて今のように、誰かが追ってくるのを待ちながら、ひたすら前を向って駆けていた記憶を。





 予想通りというべきか、村の中にはアンデッドたちが地面から這い出し、生きた人間へと襲いかかっていた。
 しかし幸いというべきか、村人への被害は少なかった。
 彼らはピザン王国軍に指示されるまでもなく篝火をたき、神官からもらったというありがたい聖水を撒き、必要とあればアンデッドたちを閉じ込めた家屋に火をつけた。
 皮肉にも、十七年前のキルシュ防衛戦にてアンデッドとの戦いに巻き込まれた者が多かったが故の迅速な対処であった。

 しかしそれでも、ただの村人にアンデッドを倒しきることは不可能に近い。
 幸いコルネリウス率いる騎士団が駆け付けすぐさま村人たちの守りとなったが、相手を倒しきれないということは変わりない。
 何せ相手は腕はもちろん首を切り落としても元気に襲ってくる死にぞこないたちだ。そもそも余程の使い手でなければ、動いている相手の体を切断することすら難しいだろう。
 村の中央の広場に陣取り、周囲の家の隙間を進軍してくるアンデッドたちを堰き止めはしたものの、決定打を持たない兵士たちは徐々に後退を始めていた。

「こ、こんな相手にどうすれば」

 若手の兵士や騎士たちが狼狽えるのは当然だった。
 斬っても斬っても向かってくる死体の群れは怯むということを知らず、そして己の体を省みない力任せの突進は人間相手の戦いに慣れた者でも対処に手間取る。
 何よりアンデッドたちが動くたびに、まき散らされる淀んだ血と腐った肉の臭い。この場が初陣となる新兵は居なかったが、そうでなければ幾人かは戦意を喪失していたことだろう。
 それほどまでに、今この場を支配する空気は一般的な戦場がマシに思えるほどの地獄であった。

「なーに。こういう鈍い連中相手にはな、こうすりゃいいんだよ!」

 そんな若手の兵士たちを押しのけてアンデッドたちの前に立ちはだかったのは、騎士団の中でも年長のルドルフだった。
 彼は手にしたメイス――鉄のこん棒にオナモミを思わせる棘のついたそれを振りかぶると、全身全霊の力を込めて振り下ろした。

「――!!」
「ひぃ!?」

 そしてその先に居た痩せた男のアンデッドに鉄塊がぶつかると、泥粘土のようにひしゃげて腐った血と肉が飛び散った。
 そんな様となっても空気を漏らすような声しか出さないアンデッドではあったが、それを見て悲鳴をあげたのは若手の兵士たちだ。
 とても人とは思えない動きをしていたとはいえ、潰れたそれは間違いなく人の肉であり、漂ってくる死臭混じりの血霞は本能的な恐怖を彼らに与えた。

「ほらっ、何ビビってんだ。相手はあの通り動く死体だ。殺すんじゃなくて潰すつもりで行け!」
「ビビってんのはアンデッドじゃなくてルドルフさんにですよ」
「お?」

 そう言って腰の引けている若手たちの中から飛び出したのは、右手に剣、左手に短剣を握りしめたカールであった。
 風のようにルドルフのそばを抜けると、掴みかかってきた鎧を着こんだアンデッドを斬り伏せ、ほぼ同時に左手の短剣で喉を貫く。
 たったそれだけで、そのアンデッドは操り糸を断たれた人形のように崩れ落ちた。

「銀の短剣か。ズルいぞおぼっちゃん!」
「用意周到と言ってください。大体相手を全部力任せに潰してたら体力が持ちませんよ!」

 そんな言い合いをしながらも、ルドルフは目の前のアンデッドを叩き潰し、カールはその死角をフォローするように立ち回る。
 生まれも育ちも考え方まで違う二人ではあるが、その即席の連携はそのためにあつらえた歯車のように噛み合っていた。

「……すげえ」
「ぼさっとしてんな! 俺たちだけじゃ全部は防げねえぞ!」
「え? うわああ!?」

 しかしそんな二人に群がっていたアンデッドの一部が、よろけた拍子にようやくきづいたとばかりに後方へと向かい始める。
 ルドルフもカールもその気になればそれを押しとどめることはできたが、かと言ってこのまま向かってくる全てのアンデッドの相手をしていては身が持たない。
 そうして少しずつ、暴れまわる二人の後ろの兵たちにもアンデッドが集り始める。

「……あちらはルドルフたちに任せるしかないか」

 一方コンラートは、ルドルフやカールとは丁度反対方向からまろび出てきたアンデッドたちを処理していた。
 そう。その動きは戦いというよりは処理に近かった。何せ手にしているのは正真正銘神話の時代の残り香ともいえる聖剣だ。急所を突くどころか、掠めただけでも死者をあの世に叩き返すには十分である。
 故にコンラートの居る東方面のアンデッドはほぼ彼一人によって殲滅されていたのだが、問題は他の場所だった。

 北と南はそれぞれ副団長であるコルネリウスと古株であるトーマスが頭となり対処していたが、いかな猛者でもアンデッドを通常の武器だけで潰し続けるのには限度がある。
 西からくるアンデッドに対処するルドルフとて、カールの予想以上の奮戦が後押ししているとはいえ、全てのアンデッドを押しとどめ続けるのには限界があるだろう。
 村人たちの守りにはエーベル卿たちがついているが、その数も質も頼りになるとは言い難い。
 突如現れたアンデッドたちに四方を囲まれた今の状況では、どこか一ヶ所が破られればそのまま部隊は崩壊し、村人たちも虐殺されるだろう。
 
「うわあ!?」
「何だ!?」
「む?」

 どうしたものかと考えていると、突如背後から驚き戸惑う声が聞こえて、コンラートは周囲のアンデッドをまとめて斬り捨てると視線を向けた。
 確認できたのは一瞬であったが、トーマスたちの担当する南方面のアンデッド目がけて炎が雨のように降り注いでいた。
 周囲への被害を考慮したのだろうか、一つ一つの火は地面にぶつかればすぐさま散ってしまうような小火で頼りない。しかし魔力で編まれたその種火は、アンデッドを浄化するには剴切であった。
 雨に濡れて萎れる草花のように、アンデッドたちが次々とその場に倒れていく。

「ツェツィーリエか」

 誰がやったのかと言えば、コンラートの従者しかおるまい。
 姿こそ見えないが、恐らく村の外から援護を始めたのだろう。最悪彼女が切り開いた一角から逃げられるか。そう思ったコンラートだったが、その希望はあっさりと覆される。

「団長! 焼けたアンデッドの下から新しいアンデッドが生えてきました!」
「死人は生えるものではないだろう!?」

 部下からの報告に思わずそう言ってしまったコンラートだったが、目の前の敵たちを斬る合間に視線を向けてみればその報告に納得してしまった。
 ボコボコと、倒れ伏したアンデッドを押しのけるように、別のアンデッドが雨後の筍のように頭を突き出し這い出して来る。
 どうやら未だ姿を現さないこの狂宴の主は、客を休ませる気がないらしい。

「団長。魔術師殿から伝言です」
「ッ!? 言え!」

 突然耳元で囁くように言われて、コンラートは驚きながらも先を促す。
 少しだけ視線を動かせば、己に背を合わせるようにスヴェンが短刀を振るっていた。余程切れ味のいい短刀なのか、それとも彼自身の腕か、それほど刀身が長いとは言えない得物で次々とアンデッドたちの四肢を切り落としていく。

「このまま援護してもキリがないので、死人を操っているであろうイクサを見つけ出すのを優先するそうです。勝てなくても意識を反らせばアンデッドの召喚は止まるだろうと」
「しかし彼女一人では……」

 ツェツィーリエの魔術師としての実力は信頼しているが、魔術師として最高峰の使い手であるイクサを相手取るにはあまりにも実戦経験が不足している。
 しかし本人が言う通り、このまま援護を続けてもイクサよりも先にツェツィーリエの魔力が尽きるだろう。

「……スヴェン。アンデッドたちを操っている者を探し出せるか?」
「もうやりました。その上で最悪のお知らせとちょっといいお知らせがあるんですが」
「何だ?」
「魔術師殿は諦めていないみたいですけど、これ付近に潜んでる人間とか居ませんよ。かなりの遠隔、それこそキルシュ国外からアンデッドを操っています」
「……」

 あり得ないという思いは、相手が相手である故に抱けなかった。
 キルシュ防衛戦でも同じようなことは何度もあった。だというのに、イクサは自ら現れた時以外は一度もその姿を捕捉されなかったのだ。
 各国の精鋭が斥候や間者を放っても見つからなかったのだ。ならばイクサは絶対に見つかるはずがない場所からアンデッドを操っているというスヴェンの結論にも納得がいく。

「突破して逃げるだけならどうとでもなるが、村人をどうするか」
「そんでちょっといい知らせなんですが」
「む? 何だ?」

 最悪の知らせの印象が大きすぎて、ちょっといい知らせとやらを聞き逃していた。
 我ながら余裕がないと自嘲しながら、向かってきたやけに派手な服を着たアンデッドの首をはねる。

「神官らしき人間が一人この村に向かって来てます。もしかすれば救世主かもしれません」
「神官か……。いや待て。こんな夜更けにか?」

 その神官が神聖魔術の使い手ならば、この土地自体を浄化してアンデッドの出現を止められるかもしれない。
 しかしコンラートの疑問通り、こんな時間にこんな場所を神官が一人で出歩いているのは明らかに異常だった。
 今のキルシュは戦場だ。一人でのこのこと歩いていい場所ではない。

「あー多分まともな神官じゃないんでしょうねアレ。何か全身黒っぽかったし、危うく追いつかれかけましたもん」
「何だと?」

 この目の前にいるかも怪しいような青年を捉えかける。確かにそれだけで異常と言えるだろう。
 さらに気になったのはその印象だ。全身が黒っぽく、異常な速さを誇る神官。
 そんな存在に、コンラートは一人だけ心当たりがあった。

「あ、噂をすれば影が」
「何?」

 風のようにアンデッドを切り刻むスヴェンの視線を追う。
 すると雲の切れ目を纏った月を背負うように、黒い影が空から降ってくる。

「うわあ!?」
「な、何者だ!?」

 その影が降り立ったのは、最も守りが薄くなっているトーマスたちの陣だった。
 兵たちが驚き、トーマスが戸惑いながらも誰何するが反応はない。

「……」

 無言で佇む黒い神官服を纏った何者か。その左手には神官には不似合いな宝石のあしらわれた直剣が握られていた。
 そして動揺する周囲をよそに、神官はこれこそが答えであるとばかりにその直剣を抜き放った。

「……なっ!?」

 驚きの声は誰のものだったのか。
 抜きざまに放たれた一閃。ただそれだけで神官の目前に迫っていたアンデッドたちが両断され、そのまま壊れた人形のようにその場に落ちる。

「あの剣は!」

 今にも飛び出しそうになっていたゾフィーか叫ぶ。
 驚いて当然だ。
 何故ならその剣は、ゾフィーが肌身離さず持っている父の形見と同じだったのだから。

「――女神よ、私たちが罪を許すように、私たちの罪をお許しください」

 アンデッドの壁を切り崩した青年神官は、そのまま剣を地面に突き立てると、両手を包み込むようにかざして祈りの言葉を口にした。
 懐かしい、しかし以前より低くなった声を聞き、コンラートは確信する。

「――誘惑より導き出し、私たちを災厄からお救いください!」

 ――帰ってきたのだと。





「クカ……クカカカカカッ!」

 笑う。哂う。嗤う。
 闇の中で、灰色の髪の老人が、ぜんまい仕掛けの人形のように痙攣しながら声をあげる。

「来た! 来たぞ! 烏の片割れが、運命に縛られた忌み子が帰ってきた!」

 クルクルと狂ったように踊りながら歓喜の声をあげる老人。
 ああまだだ。未だ狂うわけにはいかない。
 やっと始まったのだ。終わったはずの――が。

「クカッ! ああ、今日は何という日だ! 吉日か! やはりおまえはあんな出来損ないとは違う! ……なあ、テラスよ」

 そう言うと、老人は黒い青年を映し出す水晶を愛おし気に撫でた。



[18136] 二章 再来6
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/12/04 14:08
 戦いは唐突に終わりを告げた。
 突如現れた青年神官の祈りは浄化の光となって村を覆い、湧き出ていたアンデッドたちはその仮初の生を終え眠りへとつき、清廉なる気は例え相手がイクサといえど侵し得るものではなかった。
 正に救世主。村とピザン王国軍の救い手となった青年神官は、しかし礼を言われるのも気に留めず手早く死者の弔いと埋葬の準備を指示した。

 正規の手順で弔われた死者はアンデッドにはならない。ならば彼らは誰にも看取られることなく死んでいった者たちなのだろう。
 彼らを哀れに思うならば手を貸してほしい。そう言って頭を下げる青年神官に否と言えるものが居るはずがなかった。
 村人も、子爵の配下も、赤剣騎士団も総出で働いて、それまで戦っていた相手を弔う準備を整えた。
 そうしてようやく日の出という時刻には、大雑把ながらも彼ら全員を埋葬できるだけの大きな穴が掘れた。
 いささか大雑把に過ぎるのではないかという意見も出たが、重要なのは心だと他ならぬ青年神官に言われ納得する。

 そうして死者たちの弔いが終わり、不格好ながらも彼らを弔う墓ができたころには、太陽は中天を過ぎ傾き始めていた。
 この頃には皆疲れ切り、全てが終わると同時に泥のように眠りに落ちる。
 しかしそんな村の中で、眠気を感じることもできず起きている者たちが居た。

「ようやく終わった……か。話しには聞いていたが、アンデッドとの戦いというのは予想以上に消耗するな」
「今回は神官が来てくれたので助かりました。あのままでは夜明けまで延々とアンデッドが沸き続けたでしょうからな」
「……十七年前はどれほどの地獄だったのだ」

 あのまま神経をすり減らされるような戦いが朝まで続いたであろうと聞き、ゾフィーはげんなりとした様子で息をつく。
 その様子を見て、コンラートは言い過ぎたかとも思ったが、事実ではあるので撤回はしなかった。

「まあそれでも終戦が近い頃にはアンデッドとの戦いも楽になっていました。ロドリーゴ枢機卿の手の者が各国の軍に派遣されておりました故」
「ああ。神官でありながらリーメス二十七将に数えられた変わり者だな。父上とも親しかったと聞く」

 そう言いながらゾフィーは手の中の聖剣を撫でる。
 ドルクフォードの形見であるその聖剣も、ロドリーゴ枢機卿が祝福儀礼を施したという。一国の王と他国の神官に一体どのようにして繋がりがあったのかは不明だが、そんなものを贈られる程度には付き合いがあったのだろう。

「そして、この剣の片割れを持つあの神官。……やはりそうなのか?」
「恐らくは」

 コンラートに問いかけるゾフィーの顔は、どこか不安げであった。
 それも仕方あるまい。ゾフィーにとってあの時行方不明になった少年神官は己の罪の象徴だ。己の不甲斐なさが彼を追い詰めたと。

 事情を聞けば誰もがゾフィーに責任はないと言うだろう。
 実際あの場に居たのが誰だったとしても、結末は変わらなかったに違いない。

 しかし、それでも。
 何かができたのではないか。
 あの日。あの時。
 あの業を背負うのは己であるべきだったのではないか。
 そんな理由のない後悔が波のように襲ってくるのだ。
 そしてそれはコンラートも同じであった。

「早々に会って話を聞きたいところだが、あれだけ働かせた後に休ませもしないわけにもな」
「あの、ゾフィー様」

 そう結論してとりあえず休もうかといった所で、不意にドアの外からアンナの遠慮がちな声が聞こえてくる。

「どうした?」
「その、例の神官様がお話をしたいといらっしゃってるんですけど……」
「……」

 予想外の言葉に、コンラートとゾフィーは無言で顔を向き合わせる。

「礼儀知らず……ということは万が一にもありえんな」
「気を遣ったつもりが遣われた。ということでしょうか」

 休息が必要だと思い訪問を控えたのだが、あちらはあちらで事情を説明しないとこちらが落ち着けないと察したのだろう。
 妙なすれ違いに苦笑しながら、ゾフィーはアンナに入室の許可を出した。





「キルシュにアンデッドが出たそうですよ」
「……そうか」

 唐突に現れてそんな報告をするヴィルヘルムに対し、クラウディオは視線を手元の書類に向けたまま、さして大したことではないかのように応えた。

「冷静ですね。やはり予想していましたか。いつもの獣じみた勘で」
「何だその悪意のこもった言い方は。勘がいいのは俺だけではないだろう」

 予知能力めいた勘の良さは、今は亡きドルクフォードも含めてピザン王家の人間ならば大なり小なり持ち合わせているものだ。
 もっとも、普段は己の行動が上手くいくかどうか確信が持てる程度の限定的なものであり、森羅万象を見通した予言のような真似はできないのだが。

「まあゾフィーも自分が動くことで同時にこの戦争が新しい局面へと至ることは予想していたようですね。もっともそれがイクサだとまでは予想していなかったでしょうが」
「ふん。分からんぞ。今ピザン全軍の中で魔術師を帯同しているのはコンラートとフランツだけだ。しかもコンラートに従う魔術師は一人だけだが、そのコンラート自身がアンデッドとの戦いには慣れている。一番アンデッドとの戦いに向いた軍団が、一番にアンデッドとぶつかったのだ。まるで誰かが場を整えたようではないか」
「あえてあちらがぶつけてきた可能性もありますね。場合によってはモーガン卿を前線に派遣すべきかもしれません」
「唯一の魔術師を出すのか? 王都がアンデッドに襲われでもしたらどうする?」

 今ピザン王国に所属している魔術師は、コンラートの従者であるツェツィーリエ。アルムスター公に仕える三人の元宮廷魔術師。そして宮廷魔術師長であるデニスだけだ。
 そして個人ではなく国に仕えている、完全に自由に使える魔術師はデニスのみ。彼を前線に出してしまえば、王都の魔術的な守りは零になってしまう。
 それこそイクサが単騎で特攻でも仕掛けてくれば、そのまま落ちる可能性もある。

「ヘルドルフ伯が居るでしょう。彼女も盲目とはいえマスタークラスだと聞いています」
「……待て。おまえコンラートを怒らせるつもりか?」

 平然と、年端のいかない小娘に王都を守らせると言ってのけたヴィルヘルムに、クラウディオは呆れと苛立ち混じりの声を漏らした。

「王国に仕える伯爵に戦に参加するよう要請して何か問題が?」
「ああ問題ないだろうな! だが奴の心象は最悪になるぞ! ただでさえ最近距離を取られているのに、これ以上気まずくなったらどうしてくれる!?」
「知りませんよそんなこと」

 真剣に気持ち悪いことを言い出したクラウディオの怒声を、ヴィルヘルムは胡乱な目を向けながら軽く流す。

「この程度で忠義が揺らぐなら貴方の普段の行いが悪いんです。父上がどんな無茶を言っても彼は仕方ないと笑っていましたよ」
「最後には斬られたがな!」
「父上の最期と同じところまで落ちるつもりですか」

 ドルクフォードがコンラートに斬られる羽目になったのは、その最期があまりにも王としての道を外れていたからだ。
 むしろあらかじめドルクフォードがコンラートを罷免していなければ、彼はそのまま主への忠義を貫き共に地獄へと落ちていただろう。
 今にして思えば、ドルクフォードはコンラートを思っていたからこそ騎士の位を剥奪したのかもしれない。

「そうだ。フランツから魔術師を借りるのはどうだ?」
「アルムスター公に仕えている魔術師たちは、父上のジレント攻めで出奔した者たちですよ。今更こちらの言うことを聞くと思いますか?」

 加えて最近のアルムスター公の周りには人と力が集まりすぎている。
 王家との力関係を鑑みれば、あまり借りを作りすぎると後が怖い。先代のアルムスター公と違って、現アルムスター公であるフランツはどうにも読めない所がある。
 反乱……は流石にないだろうが、ゾフィーを王位につけろと問題を蒸し返すくらいはするかもしれない。

「現状一番気軽に頼れるのがヘルドルフ伯なのだから仕方ないでしょう。それともモーガン卿は手元に置いて、ヘルドルフ伯を前線に送りますか?」
「おまえそれこそ血を見るぞ。マルティンが隠居をやめて殴りこんできかねん」
「そうでしょう。いいじゃないですか王都守護なんて万が一が起こらない限りは安全で誉れ高い任務」

 実際そんな事態にはならないと、それこそヴィルヘルムは「確信」しているのだ。
 イクサはあくまで戦争で決着をつけようとしている。そんな予感があった。

「まあイクサが本気を出すとすれば、我々がリーメスを奪還してリカムの国土に攻め込んだときでしょう。それまでに魔法ギルドか女神教会の協力を取り付けたいところですが……」
「それができたら苦労せん」

 未だ糸口すら掴めない両者との関係改善を思い、クラウディオは顔をしかめてため息をついた。





 部屋に招き入れられた青年神官は、椅子を勧められると最初面食らった様子だったが、すぐに苦笑しながらゾフィーの対面に座った。
 その苦笑の意味が分からず揃って首を傾げる主従だったが、それを察した青年神官はすぐにその理由を口にした。

「カイ……カイザー殿下にもよくお茶の相手をさせられました。こちらが身分を理由に断ると『友達じゃないか』と拗ねるもので」
「あの馬鹿者は相変わらず子供っぽい……いや、もしや二年前の話だろうか?」
「二年前もそうでしたが、先日久しぶりに会った時にも同じやり取りを。もう十六になるのに昔と同じように拗ねるので、思わず横っ面を殴りそうになりました」
「なるほど。次があるなら遠慮せず殴り飛ばしてやるといい」

 夏戦争が終わっても、ジレントへと逃げたカイザーと従者のティアはそのまま留学という形であちらへと残った。
 実は魔術の才能があり、あの魔女ミーメ・クラインに弟子入りしたというのだから驚きだが、それを理由にして帰国を先延ばしにし続けているのだ。
 クラウディオなどは素直に感心しているが、ゾフィーやヴィルヘルムは単に帰国して王族としての義務を果たすのが嫌なだけだと推測している。
 カイザーは外見を取り繕うのは上手いが、その実かなりの怠け者なのだ。首根っこを掴む者が居なければ日がな一日寝て過ごしかねない。

「さて、此度はこの村の窮地を救ってもらい感謝している。そして二年前も。……そなたには助けてもらってばかりだな」
「礼を言われるようなことでは……。私にとってイクサは親の仇も同然。言わば自ら身を投じた私闘であり、神官としてはとても褒められたものではありません」
「それでも我らは助けられた。ありがとう」
「……恐縮です」

 ゾフィーの言葉に合わせて揃って頭を下げる主従に、クロエもまた困った様子を見せながらも返礼した。
 人の上に立つ者が軽々しく頭を下げるものではないという者もいる。だが感謝や謝罪の気持ちがあれば、自然人は頭を下げるものだとゾフィーは思っているし、コンラートもそのことについてとやかくいうつもりはなかった。
 どうせ人目もないのだ。咎めるものも居はしない。

「しかし二年か。失礼だが、もうそなたは見つからないと思っていた」
「そうでしょうね。私も正直に言うと、生き残れるとは思っていませんでした」

 ゾフィーの言葉に、クロエは力なげに笑った。
 それを見てゾフィーの後ろに控えていたコンラートは思う。
 自分は何というものをこの青年に背負わせてしまったのだろうと。

「すまない」
「すまなかった」
「申し訳ありません」

 言葉こそ違えど三者が再び頭を下げ、そして予想外のそれにすぐさま頭を上げて目を丸くした。

「……私とコンラートが謝るのは当然として、何故クライン司教が謝る?」
「……一人で何もかも分かったつもりで後先考えずにやらかしたと言いますか。いえ、まあ確かにああする他なかったのも事実ではあるんですが」

 ゾフィーの疑問にクロエは自嘲しながらそう漏らす。
 確かに、あの時の状況はわけの分からないことばかりだった。
 ドルクフォードの突然の消失。
 魔界へと繋がるという穴。
 そして――。

「そういえば……目の色が戻っているな」

 ――青く染まったクロエの瞳。
 その瞳も、今はその墨を吸ったような髪色と同じ漆黒のそれへと戻っている。

「あれは調停者として選ばれた者の証です」
「調停者?」

 聞き慣れない言葉をゾフィーが鸚鵡返しに呟く。知っているかと目で聞かれたが、生憎とコンラートも心当たりはない。

「調停者というのは、世界を存続が危ぶまれるほどの危機を回避するため、女神より知識や力を与えられた存在とされています」
「それは……勇者と呼ばれる人間ではないのか?」
「勇者というのは結果的に世界を救った人間です。調停者の多くは預言者として勇者を導くか、あるいは賢者として勇者の傍らにある者です。
 女神は人の意思の力を信じており、自ら力を与えた者が直接的に世界を救うことをよしとしないと言われていますが、確かなことは分かりません」
「まあ女神の意思などそれこそ巫女でもないと分からないだろうな」

 巫女という言葉を聞き、コンラートは二人には気取られない程度に体を固くした。
 モニカ。巫女と思われる少女に、今の所その兆候はない。
 このまま何もなければそれでいいのだろうが、そういうわけにもいかないのだろう。
 女神が意思をもってこの世界に干渉しているというのなら、モニカという少女の存在にも何か意味があるはずだ。
 あるいは彼女こそが――。

「だからこそ、あの場で私が調停者として覚醒したのは異常でした。先ほども言ったように、調停者が直接的に世界を救うよう配置されることはまずありませんから」
「……待て。何か事が予想以上に大きくなっているのだが。もしやあの穴、放っておいたら世界がどうにかなっていたのか?」
「ドラゴンがトカゲに思えるような怪物が這い出てこようとしていましたね。それこそ世界を四つに引き裂いたとされる邪神のようなものが」

 神話における世界の崩壊が再現されると聞き、コンラートは改めて身震いした。
 話だけ聞けば荒唐無稽にも程があるが、あの夜の闇よりも深く暗い穴を見た後では本能的に納得してしまう。
 それはゾフィーも同じであったらしく、微かに体を震わせると動揺を隠すように茶を口にしていた。

「……そんなものをよく閉じられたな」
「ぎりぎりでしたが。おかげで空間ごと弾き飛ばされて、帰ってくるのにこれほど時間がかかりました」
「二年もかかるとは何処まで飛ばされた。世界の果てか?」
「西大陸です」
「……本当に、よく帰って来られたな」

 今でこそ数少ないながらも貿易船が行きかっている大陸間だが、ほんの五十年ほど前にはその位置すらハッキリとはしていなかった。
 神話に置いて四つに引き裂かれたというのだから、他にも三つ大陸があるのだろう。そんな認識が常識だったのだ。

 もっともそれが常識な時代に、自ら船を出して大陸間を巡ってきた破天荒な王子が居たりする。今この場で呆れているゾフィーの父親であるドルクフォードである。
 他の大陸への航路を確立したとして彼の偉業の一つに数えられているが、それを聞いた当時の臣下たちが「何やってんだあの馬鹿王子は」と思ったのは言うまでもない。

「まあ一年ほどは帰る手立てもないので保護された国で働いていただけですが。あちらでは神官も魔術師も数が少ないので優遇されましたし」
「よく言葉も分からないのに馴染めたものだな」
「幸い言葉は分かりましたから。一時期師に連れられて旅をしていましたので」
「……何者だその師は」

 先ほども述べた通り、大陸を行き交うことは生半可なことではない。
 それをさも簡単なことのように成すとは、さぞ高名な神官なのだろうとゾフィーは思ったわけだが。

「私の師はベルベッド。キルシュ防衛戦にも参加した、流浪の魔術師です」

 告げられた名は、確かに高名ではあるが予想外のものであった。



[18136] 二章 再来7
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/12/11 15:17
 ベルベッドと呼ばれる魔術師には謎が多い。
 彼の名が最初に歴史の表舞台に現れたのは、ピザンのプルート王が存命の時代に起こった継承戦争の前夜。

 兄王子と共に狩りに出かけたドルクフォードであったが、そこで彼は不意に命を狙われる。民衆から人気の高い彼を恐れた兄王子による暗殺であった。
 背後から毒矢を射かけられ命からがら逃げだすも、矢は肌をかすめてしまう。
 解毒しようにも周りには兄王子の手の者ばかり。当時旅暮らしから戻ったばかりのドルクフォードには信用できる臣下も居ない。
 そんな絶体絶命の状況の中。ふらりと現れてドルクフォードを救ったのが、魔術師ベルベッドであったとされる。

 その後もベルベッドは大陸の各地に現れては、時に要人の命を救い、時に預言めいた言葉を残したりと不可解な行動を続け、一種の怪人のように扱われた。

 そんな彼の名が一躍有名になったのは、第二次キルシュ防衛戦。きっかけは第一次キルシュ防衛戦で義勇兵としてキルシュに与しながら、第二次防衛戦ではリカムへと寝返った魔術師イクサであった。
 ベルベッドは彼に対抗するように戦場に現れてはアンデッドたちを殲滅していったのだ。

 単独で戦い、他の者との接触を徹底的に回避するベルベッドの正体は謎のままだったが、偶然その姿を捉えたジレントの魔術師フローラによってベルベッドという名だけが判明する。
 フローラが何故ベルベッドの名を知っていたかについては、本人が頑なに口を閉ざし語られることはなかったという。
 ただ魔法ギルドに所属する魔術師ではないらしい。そんなことだけが分かった。

 そしてキルシュ王都の決戦では、ロドリーゴ枢機卿を暗殺するために姿を現したイクサと一騎打ちを繰り広げたが、ついに決着がつくことなく終戦を迎えたという。
 アンデッドに対抗したロドリーゴ枢機卿と並び戦局に多大な影響を与えた魔術師。故に彼は正体不明ながらもリーメス二十七将の一人に数えられた。





 ゾフィーの体は未だ治癒していない。そう聞かされたクロエはまるで予想だにしなかったとばかりに目を見開いた。
 確かにあれから二年経つのだ。枢機卿クラスの神官を探し出すのは難しいことではあるが、仮にも王族であるゾフィーであれば不可能ではない。
 しかしクロエにとって予想外だったのは、女神教会のピザン王国への嫌悪の強さだった。
 元々彼は魔術師たちの国であるジレントの人間だ。幼少の頃より世界中を旅した経験もあり、その価値観は一般的な神官からはかなりズレている。
 信仰と戒律を重んじる神官たちの頭がそれほど固いとは思ってもみなかったのだろう。

「……これは。何で普通に生活できてるんですか」
「普通ではないぞ。周りに無理をするなと叱られてばかりで、最近は車椅子に座っていることの方が多い」
「女性ならピザン王家の方でも大人しいだろうと思ったのが間違いでした」
「何だその騙されたと言わんばかりの顔は」

 そう文句を言うゾフィーだが、クロエは先ほどから彼女の腹部に右手を当てたまま目を閉じている。
 それでも内心でそう思っているのは間違いないだろう。何せコンラートもかつて同じことを思ったのだから。

「そのまま動かないでください。――女神よ。憐れんでください。私たちの嘆きと悲しみを聞いてください」

 ゾフィーの文句は聞こえなかったかのように、クロエはそのまま祈りの言葉を紡ぎ始めた。

 魔術師の使う精霊魔術の詠唱とは違い、神官の使う神聖魔術の詠唱は神への祈りの言葉である。
 神へと訴える祈りだからこそ、その言霊には信仰を乗せなければならない。
 ただ向いているというだけでなく、混じり気のない信仰を必要とする。故に神聖魔術の使い手は、信仰を体現するものとして他の神官からも敬仰されるのだ。

「――その御手で傷を包んで下さい。打ちのめされた彼らを癒して下さい」

 そう言葉を終えると同時に、クロエの手から淡い光が漏れだしゾフィーを包み込んでいく。

「しばらくこのまま我慢してください。私の治癒魔術では完治には至りませんが、体は楽になるはずです」
「む。何だかこそばゆいな。しかしそなたでもこれはどうにもならないのか」

 治癒の光が体へと染み渡る感覚に慣れないのだろう。何やらもぞもぞと身じろぎをしながらゾフィーがそう漏らす。

「恥ずかしながら私は治癒魔術は苦手なので。解呪自体はそう難しいものではありませんから、あとは治癒魔術の得意な人間が居れば完治も可能です」
「……なんともアンバランスだな」

 かのネクロマンサーの呪いの解呪をそう難しいものではないと言ってのける人間など、目の前の青年を含めて大陸に数人しか居ないだろう。
 同時にその力を頼もしくも思う。
 彼にとってイクサの力は対抗できるレベルのものだということに他ならないのだから。

「どうせ動けないのならば先ほどの続きといくか。そなたの師がベルベッドだという話だが」
「はい。しかし私も師が何者かと聞かれると答えに困ります。どこの国の出で、どのように生きてきたのか、師から聞いたことはありませんから」

 表情を変えずに告げられた言葉が事実か否か知る由もないが、本当ならば弟子にとってもベルベッドという人間は謎の存在だったということだろうか。
 兄弟子であるというロッドも、半年ほど鍛えられたということ以外は口にしなかった。
 もしかすれば師弟関係以上の、人間としての繋がりはなかったのかもしれない。

「ただドルクフォード王のアシカ船団に参加していたという話は聞いたことがあります」
「アシカ船団?」
「ドルクフォード陛下が若い時分に他大陸を巡ったという船団ですな。船団長を務めた陛下自ら命名したという話です」
「よく知っているなコンラート。娘の私も船団の名は初耳だぞ」
「私が王都に来たばかりの頃は、吟遊詩人がよく酒場で詠っていましたので。そういえばキルシュ防衛戦が終わってからは流行が移ったらしく、とんと聞かなくなりましたな」
「なるほど。それでは私が聞いた事がないのも道理か」

 当時のゾフィーはまだ二つ三つという年頃だろう。いくらお転婆なお姫様でも、さすがに酒場まで遊びに行ったことはないに違いない。

「師によると、そのアシカ船団には後に英雄と呼ばれる人間が何人も参加していたそうです。キルシュのロドリーゴ枢機卿も参加していたとか」
「なるほど。父上とロドリーゴ枢機卿が友人だと言っていたのはその繋がりか」

 生前の父からはまったく聞いたことのなかった交友関係の謎が解け、ゾフィーは納得いったとばかりに頷いた。

「ロドリーゴ枢機卿と言えば……これをお返ししなければなりませんね」

 思い出したようにそう言うと、クロエは治療の手を止め腰の帯に下げていた聖剣の片割れを鞘ごと引き抜く。
 そしてゾフィーの前に騎士のように跪くと、両の手で恭しくそれを掲げた。

「この聖剣があったからこそ、私は神の威光すら届かない闇の中でも光を見失わず、混迷の西大陸でも生き残ることができました。言葉では言い尽くせぬ感謝と共に、父君の形見をお返しします」
「……うむ。そなたの勇名は公に知られることはないであろうが、私の胸に深く刻もう。大儀であった」

 そう言ってゾフィーは掲げられた聖剣に手を伸ばすと――。

「……殿下?」

 ――すぐにその手を引き戻しクスリと笑った。

「しかし私はこの通りの体だし、そもそも二刀を使う術など心得ていない。その聖剣は引き続きそなたに預けておこう」
「何故私などに? 配下の騎士に下賜された方が余程使い物になるでしょう」
「そうは言っても、それをくれてやりたい騎士は既にもっと上等な聖剣を持っている」

 そう言いながら胡乱な目を向けてくるゾフィーに、コンラートは肩をすくめて苦笑する。
 この聖剣とて一度ゾフィーの手に渡ってからコンラートに託されたものなのだが、元々見つけてきたのがカイザーなのでどうにも納得がいかないのだろう。

「それに昨夜そなたが浄化魔術を使った時、聖剣を触媒にして効果を高めていただろう。それこそただの剣士が持つよりも、そなたの方が余程うまく使い物にしてくれるに違いない」
「……そういえばゾフィー殿下は魔術の心得がおありでしたね」

 そういった方面から言いくるめられるとは思っていなかったのだろう。クロエは妙に納得したように頷くと、もう一度瞑目し頭を下げて聖剣を腰へと戻した。

「では、その信頼にお応えするため、今殿下が一番必要としているであろう情報をお伝えします」
「む? 何だ?」
「キルシュ王国軍……皆さんが残党軍と呼んでいる方々の本拠地です」
「……何?」

 予想外の言葉に呆気にとられるゾフィー主従に対し、クロエは悪戯が上手くいった子供のようににこりと笑って見せた。





「何ともビックリ箱のような神官だな。まさかキルシュの残党と接触予定だったとは」
「確かに。彼自身が有能なのもあるのでしょうが、周りの人間が放っておかないのでしょう」

 クロエが去った室内で、驚きを通り越し呆れた様子で話すゾフィーを見て、コンラートは苦笑しながら相槌を打った。
 その境遇も生まれも、知られれば利用しようとする者が甘汁に群がる蟻のように集まるに違いない。
 それでいて最強の庇護者とも言える姉の下を離れて行動しているのだから、ただ利用されるような甘い人間ではないのだろう。
 二年前もその片鱗はあったが、さらに単身西大陸に飛ばされて生き延びたのだ。さぞ強かに成長したに違いない。

「確かに最初に見たときは別人なのかと思った。男子三日会わざればとは言うが、年頃の男子というのはあれほど背が伸びるものなのか?」
「彼は元々小柄でしたので、余計にそう見えたのでしょう。案外カイザー殿下もゾフィー殿下より高くなっているかもしれませんぞ」
「それはいかん。相手を見上げて叱るなど格好がつかない」

 年下の叔父を見上げている自分を想像したのだろう。ゾフィーは何やら苦い顔をする。
 しかしすぐにその興味は別の者に移ったのか、傍に控えていたコンラートを見上げると「そういえば」と語りかけてくる。

「父上の船団のことといい、そなた希にぽろりと聞いたこともないような情報を漏らすが、まだまだ私をわくわくさせるようなネタを隠していないだろうな?」
「さて、どうでしょうか」

 耳年増というわけでもないコンラートでも、様々なことを調べているうちに自然と小耳に挟んだ噂話のようなものは多い。
 しかしだからと言って、言えと言われてぽんと浮かんでくるものでもない。

「そうだ。そもそもそなたから他の二十七将の話を聞いたことすらなかった。これはうっかりしていたな」
「そう言われましても。私はずっとピザン王国軍に居たわけですから、他の陣営の二十七将のことなど知りませんが」
「ではあれだ。不動のクラウス。彼のことなら知っているだろう。ある意味そなたと同じ白騎士だ」
「本当にある意味ですな」

 クラウス・ヴァレンシュタイン。
 キルシュ防衛戦で活躍し二十七将の一人に数えられた彼は、戦時徴用で騎士に任じられた一人であり、確かにある意味コンラートの同類である。
 しかし彼は元々祖父の代に爵位を剥奪された没落貴族の家系であり、平民騎士とは言い難い。白騎士の由来である空白の紋章を使うまでもなく、ヴァレンシュタイン家の紋章は存在するのだから。

「彼の方が幾分か歳は上でしたが、私のようなものにまで礼を尽くす律儀な男でした。ただ家の再興のためと気張りすぎるきらいがあり、故の不動の渾名です。退くということを知らぬかのような戦いぶりでした」
「それは何とも扱いづらそうな男だな。それでも生き延びるあたりは流石というべきだが」
「はい。ですがかの鬼将イヴァン・ウォルコフが相手では分が悪かった。私は息子のユーリー・ウォルコフの相手をしていたので直接見たわけではありませぬが、片手片足を失っても槍を手に立ちはだかる姿は壮絶なものだったそうです」
「ロードヴァント逃亡戦か。だが結果的にその奮闘によってウォルコフに手傷を負わせ勝利へと繋げたのだから、見事な執念だ」
「ええ。しかしクラウディオ陛下はたいそうお怒りで後が大変でした」

 誰がそこまでしろと言ったと、クラウディオはクラウスの遺体の前で地面を殴りながら嘆き叫んでいた。
 元々身分の差というものを考えない王子ではあったが、友人と言えるほどに身近に接していた故にその死をただの部下の死と割り切れなかったのだろう。
 それを見たコンラートはクラウディオと距離を置くべきだと思ったのだが、むしろあちらがそれまで以上に執着を始めた。
 他の貴族たちがコンラートを初めとした白騎士をさらに険しい目で見るようになったのは言うまでもない。

「思えばクラウディオ陛下が戦場で無茶をするようになったのはあれからです。今大人しく玉座に座ってくれているのは、我らのような古株からすれば奇跡のように思えるほどに」
「流石の兄上も歳を重ねて自重を覚えたのだろう。……最後の最後に盛大にやらかしてくれる予感はするが」

 最後にぼそりと付け加えられた不吉な言葉。
 それを高い聴力で逃すことなく拾ったコンラートは、ああこれは現実になりそうだなと諦めながら思った。



[18136] 二章 再来8
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6dd4c7b7
Date: 2016/12/25 15:03
 ピザン王国がキルシュ残党軍と呼ぶ集団を、クロエはキルシュ王国軍と称した。
 その呼び名は彼らの自称などではなく、その内情を把握しているジレント共和国が彼らをキルシュ王国の正規軍だと認めており、そしてそれを率いる者がそれを認めさせるほどの正統性を有しているということらしい。

「ジレント共和国はキルシュが敗北したその日の内に、人を送り込んでキルシュの生き残りと接触していたそうです」

 キルシュ王国軍の本拠地への案内役を買って出たクロエは、ロードヴァント山へと向かう道すがらそう話した。

 クロエという案内人が居るとはいえ、今から向かうのはリカムの大軍へ少数でゲリラ戦を仕掛けるような集団の本拠地である。
 あまり大勢で動いて敵に位置を悟られてはまずいし、何よりキルシュ王国軍がこちらに気付いて逃げ出してしまったら意味がない。
 故に同行するのはコンラートとゾフィー、そしてカールにトーマスの四人だけであった。
 当初騎士団の馬を借りることに難色を示したクロエに、もしかして乗れないのかと同乗も考えたコンラートだったが、そんな心配もよそに今は巧みに馬の手綱を操っている。
 では何故あれほど渋っていたのかと不思議に思ったコンラートに、クロエは困ったように言った。

「別に馬に乗らなくても同じ速度で幾らでも走れるんですが、実際にやったら変な目で見られるなあと思って」

 それをコンラートにしか聞こえないように言ったクロエの判断は正解だろう。
 もしゾフィーに聞かれていたら「是非ともやって見せてくれ」と子供のような笑顔で言われたに違いない。

「表向きはピザンと距離を取っているジレントですが、水面下では議員や役人、軍人たちが日々動き回っています。キルシュが落ちれば次はピザン。ピザンが落ちれば次にジレントと、他人事を気取っていられる時間は短いですからね。ですからキルシュ国内にも、非公式に外交部の人間が何人も出入りしているようです」

 外交部とクロエは言ったが、実際に動いているのは以前自分は隠密だと言っていたロッドのような人間だろう。
 酒場でそんな情報をポロリと漏らす彼が隠密に向いているかには疑問が残るが、危険地帯に単独で派遣する戦力としてはこれ以上ない逸材であるのは間違いない。
 何せ彼は武器を選ばない。時には素手で全身甲冑を纏った兵士を叩き潰したと言われる人間だ。例え風呂や排便の最中でもその身は武装されていると言っても過言ではない。

「なるほど。しかしクロエ。君は魔法ギルドと女神教会、どちらの意向で動いているのだ?」

 相変わらず妙に物知りなクロエの話を聞いて、そういえばとコンラートは彼の立場を思い出す。
 彼は魔法ギルドの支配するジレント共和国の人間だが、その身は女神に仕える神官だ。
 二年前にコンラートを保護した際にも、その両陣営のパワーゲームに巻き込まれて身動きを取れない節があった。
 故に今の彼はどういった立場にあるのか気になったわけだが。

「お答えしかねます。ただ近々女神教会で大きな変革が起きるとだけ」
「それは君が関わっているのか?」
「いえ。ですが私個人としては面倒な事態だとだけ言っておきます。どうせいざとなれば教会なんて都合のいい入れ物からは逃げるつもりですが」
「……そうか」

 神官らしからぬ言葉を口にするクロエの表情は、今まで見たことのない暗いものだった。
 神聖魔術の強力さを見るに彼の信仰は本物だろう。だが彼はその信仰とは別の所に己という人間の根をはり、女神教会という権威に縋る弱さを持っていない。

 元々旅暮らしの根無し草だ。いざとなれば何処へでも行ける自由が彼にはある。
 それは祖国に忠誠を根付かせたコンラートとは真逆の生き方ではあるが、それを不義と罵る気にはならなかった。
 コンラートが騎士として己を立脚したように、クロエにはクロエの生きる理由が既にその身と心を律しているのだろう。
 その若さで人としての尊厳を知り貫く彼を、敬いはしても卑下する理由などありはしない。

「ふむ。なら教会に居づらくなったら私の下へ来るか?」

 二人の話に割り入るように言葉を挟んだのは、相変わらずコンラートに抱えられるように同乗していたゾフィーだった。
 その目は爛々と、面白いものを見つけたとばかりに輝いている。

 ああ、確かに。
 かつて流浪の魔術師に師事したというこの博識な青年神官は、好奇心旺盛な姫君にとっては未知という未知を詰め込んだ宝箱のようなものに違いない。
 ピザン王国では事例が少ないが、キルシュ王国で大臣職を務めていたロドリーゴ枢機卿のように、他国では神官や魔術師と言った学問を治めた人間に政務を任せることも多い。
 故にその提案自体は私情が多大に含まれてはいても、それほど奇異なものではないのだが。

「謹んでお断り申し上げます」

 クロエはにっこりと、その中世的な顔に笑みを浮かべて拒絶した。

「……何故だ!? というか今そなた笑顔の下で『馬鹿言うなまっぴらごめんだ』と思ったな!?」
「カイザー殿下に友人と認定されただけでも厄介なのに、これ以上頭痛の種を増やしたくないので」

 身を乗り出して文句を言うゾフィーに、クロエは先ほどの笑顔を引っ込めてつっけんどんな態度で言った。
 カイザーの友人というだけはあり、ピザン王家の人間への対処は嫌という程理解しているらしい。
 引けばさらに押される。故に多少の無礼は承知の上で反逆せねばいいように押し切られてしまうのだ。しかしそこでクロエのような反応をしても「おお、正直なやつだな!」と気に入られてしまうので質が悪い。
 本当に、普通の王家や貴族の人間ならば考えられないような方々である。

「おのれカイザー。戻ってきたら覚悟しておけ」

 そして折角の好意を袖にされたゾフィーは、その悔しみを年下の叔父に向けることにしたらしい。
 カイザーもピザン王家の人間なのだから、その未来を予知してさらに帰還が遅れるのだろうなと、コンラートは他人事のように思った。





 キルシュ王国軍が本拠地を置くのは、木々に覆われたロードヴァント山の麓近い谷間の中であった。
 その谷間の入口は折れてしなり垂れ下がった木々と枝葉に遮られており、クロエの案内がなければ到底見つけ出すことなどできなかっただろう。
 もっとも、クロエ自身も初めて訪れるその場所を見つけ出すのに少々手間取ってしまったと恐縮していたが。

「いや、むしろ始めてきたのによく分かったね。僕にはさっぱりだったよ」
「周囲を注意深く見ればヒントはありますよ。今回の場合は、周囲の枝の折れ具合と風の臭いを見て、何人もこちらの方向に歩いていった形跡を辿ったんです」
「……君本当に神官?」
「さて。旅暮らしが長いと多芸になるものですよ」

 いつの間に仲良くなったのか、先頭を歩くクロエの隣をカールが話しかけながら歩いていた。
 負けん気の強いカールがクロエに突っかかるのではないかと心配していたのだが、意外にうまくいっているらしい。
 もっとも仮にカールが突っかかったとしても、クロエの方が何枚も上手なので相手にされなかっただろうが。

「……殿下。団長」
「む? どうした?」

 不意に一番後ろを歩いていたトーマスに声をかけられ、コンラートとゾフィーは足を緩めた。

「あの神官は本当に信用できるんですか? こんな場所、確かに隠れるにはうってつけかもしれませんが、いざ襲われたら逃げ場が限られます」
「……確かに」

 トーマスの言う通り、狭い谷間の底は足場が悪く、立地もとても守りに適した場所ではない。
 もし谷の上から矢でも射かけられたならば、隠れることもできずにハリネズミにされるだろう。
 だがしかしだ。クロエがわざわざ罠にはめるような真似をするとも思えない。

「申し訳ありません。しかし私はあの神官のことをよく知りませんから」
「いや。むしろよく進言してくれた」

 確かにコンラートはクロエに近しすぎる。彼が何かを企んでいても、疑いたくないという気持ちがあれば見逃してしまうかもしれない。

「いや。大丈夫だろう」

 そう思いトーマスに礼を言ったコンラートだったが、一方のゾフィーは楽観的とすら言える軽さでそう言ってのけた。

「また勘ですか?」
「違う。そなた私が全部勘で決めていると思っていないか?」

 呆れたように言うトーマスに、ゾフィーは心外だとばかりに憮然としながら返す。

「……レインの友人だからな」
「はい?」
「……」

 呟かれた言葉に、トーマスは呆気にとられたような声をだし、コンラートはやはりかと納得した。

 ゾフィーはレインと面識がある。そしてレインはジレントの中でも特別な立場にある少女なのだろう。
 思えばジレントの人間の多くは、彼女を「レイン様」と貴人のように扱っていた。ジレントの中でも有力な魔術師や議員の家系の出である可能性は高い。
 そう思いコンラートは納得したのだが。

「動くな!」
「やっぱり!」

 突然放たれた警告に、トーマスがほら見たことかとばかりに声をあげた。

「落ち着けトーマス。あちらとしても予想外の事態のようだ。あまり刺激はするな」

 そうトーマスに言いながら、コンラートは周囲を警戒しゾフィーを庇うように前に出た。

 前を歩いていたクロエたちのさらに前方。二十人ほどの武装した男たちが弓に矢をつがえてこちらに狙いを定めていた。
 もし罠に嵌められたのだとしたら、四方を囲まれていなくては片手落ちだ。立ち位置からして、こちらの接近に気付いて慌てて防備に出たといった所だろう。

「私はクロエ・クライン。そちらでお世話になっているレイン・フィール・サンドライトの友人です」
「友人? 神官の君がか?」

 クロエの言葉に、どうやら指揮官らしい青年が訝しむように聞き返した。
 それも当然だろう。魔術師と神官が不仲であるのは神官と縁が浅いピザン王国ですら常識だ。ロドリーゴ枢機卿のような神官を国の中枢に迎え入れていたキルシュの人間ならば、とても信じられるものではないに違いない。

「信じられないとおっしゃるならば、私を拘束していただいても構いません。どうかレインに言伝を……」
「いや。その必要はない」
「? ……ゾフィー殿下?」

 自らの身をもって潔白を訴えるクロエ。しかしそんな彼を制するように、それまで沈黙を守っていたゾフィーがコンラートの影から前へと進み出る。

「何とも私は運がいい。貴方が居て私が居る。これほど話が早いことはない」
「……なるほど。話を聞いてまさかと思っていたが、本当に君がここに来るとは」

 意味深に笑うゾフィーに、指揮官らしき若草色の髪の青年が弓を下しながら言う。

「お久しぶりですエミリオ殿下。ご健勝のようで何よりです」
「そういう君は相変わらず元気すぎるようだね。ゾフィー王女」

 そう言うと青年――キルシュ王国第一王子エミリオ・デ・ヴィータは楽しげに、不敵な笑みを返した。



[18136] 二章 再来9
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2016/12/25 15:02
 エミリオ・デ・ヴィータ。
 ローランド王国に占領されたキルシュ王国の第一王子であり、二年前の壊滅戦では指揮官として前線部隊を率いていた青年である。
 年齢的にはゾフィーと同年代であり、十七年前のキルシュ防衛戦には当然参加していない。故に二年前の戦いこそが初陣だったのだが、その評価はあまり高いものではない。
 しかしリカム帝国を相手にそこそこの戦いをして見せた彼だ。圧倒的に兵の質で劣る黒龍騎士団相手にそこそこの戦いができるだけで彼の有能さが分かるというものだろう。
 しかしその有能さとは裏腹に、彼はあまりにも運が悪かった。

 ローランド王国の裏切り。
 かつての同盟国の軍を、当然こちらの援軍に違いないと国境を素通りさせてしまったのがそもそもの間違いだった。
 エミリオがその到来を知りもしやと思った時には手遅れであり、彼はリーメス二十七将の一人ジャンルイージ将軍や多くの兵の犠牲と引き換えに生き延びた。

「その時は僕よりジャンルイージが生き残るべきだと思ったんだけれどね。父上はもちろん叔父上や従弟まで殺されて、今やヴィータ王家の人間は僕だけだ。まったく荷が重い。僕はどう考えても戦に向いた人間ではないというのに」

 そう言いながら自嘲するエミリオだったが、その顔に絶望の色はなく、むしろ現状を楽しんでいるような余裕が見えた。
 その顔をコンラートは知っている。追い詰められて一皮むけ開き直った、非常に面倒くさい男の顔だ。
 なるほど。リカムとローランドはリーメス二十七将の一人を討ち取るという制勝と引き換えに、厄介な人間を生き残らせてしまったらしい。

 エミリオに案内されて連れてこられたのは、谷間にぽつりと開いた洞窟の中だった。
 開けた場所には机や椅子にベッドといった生活用品まで置かれており、仮の拠点ではなく本当にここを本拠としているらしい。

「そう言う割には先ほども自ら弓をひいていたが?」
「それくらいしかできなくてね。まったく。隻眼のコンラッドはどうして遠近感の掴めない片目で前線で戦えていたのやら」

 そう言いながらエミリオが覆った左目には、遠目では分からなかったが黒い眼帯が巻かれていた。

「それは二年前に?」
「ああ。他にも腕やら足やら色々やられてね。目が覚めたのは一年ほど前なんだ。おかげで動けるようになるのにさらに時間がかかったよ」
「よく隠れ通せたものだな」
「ああ。森の魔女殿に助けられてね」
「……魔女?」

 エミリオから放たれた言葉に首を傾げるゾフィー。そんなゾフィーを見やると、エミリオは楽し気に語り始める。

「森で一人暮らしをしているというご婦人に助けられたんだ。しかしこちらの事情は根掘り葉掘りと聞く癖に、自分の素性は一切教えてくれないときてる。怪しげな薬も飲まされたから勝手に魔女と呼んでるんだ」
「調べなかったのか?」
「ああ。何せ僕が動けるようになったらジレントから次々と使者がやってきたんだ。深入りしたらまずい、もしかしたら本当に魔女かもしれないじゃないだろう」
「……」
「……私も知りませんよ」

 わけがわからないと、首を回して胡乱な瞳をそのまま向けてくるゾフィーに、クロエが無表情に返す。

「そうなのかい? 君の友人であるレインは知っていたようだけれど」
「彼女と私では立場が違います。分かっていて言っていますよね?」
「はは。もちろん。君だってさっき彼女のフルネームを言っちゃってたじゃないか」

 そう言われて疲れたように息をつくクロエ。そしてコンラートもまたやはりかと内心で納得する。

 レイン・フィール・サンドライト。先ほどクロエはレインの名をそう表した。
 その家名を名乗る人物に、コンラートはジレントでの滞在中に会っている。

「彼女は今?」
「先ほど人をやった。そろそろ来る頃だと……」

 エミリオの言葉に呼ばれたように、洞窟の奥から慌ただしい、しかし軽やかな足音が響いてくる。

「エミリオ様! クロエが来たって……」

 駆け込んできた少女はエミリオの名を呼ぶと周囲を見渡し、そして目的の人物の顔を見つけると大きく目を見開いた。

「ああ。友人が訪ねてきているよ。君に神官の知り合いがいるとは思わなか……」
「……クロエ!」

 エミリオの言葉も聞かず、少女は歩みを進める。
 そして夢遊病者のようなおぼつかない足取りでクロエの前まで来ると、そのまま倒れ込むように彼の胸元に飛び込んだ。

「……」

 予想外の光景に、誰も言葉を発することができなかった。
 縋りつかれたクロエも、ただ困った様子で少女の肩を抱いている。

「申し訳ありません。話は後程」

 しかしこの状況はまずいと判断したのか、一言謝ると少女を抱き上げ洞窟から出て行った。
 誰一人止めることもできない見事な逃亡であった。

「……はて。一体彼らはどういう関係かな?」
「クライン司教は二年前から行方不明になっていたので、そのせいだろう。まあ確かにそれだけではなさそうだが」

 そう言って王子と王女は人の悪そうな笑みを浮かべる。
 二人が結婚を約束しているというのは、言わない方がいいだろう。そうコンラートは判断し友人の未来に幸があることを祈った。

「まあしばらくはそっとしておこう。最近はレインも休みなしだったからね」
「やはりこき使っていたのか。魔法ギルドの姫君を」
「……えぇ?」

 魔法ギルドの姫君。
 それを聞いたカールが小さく驚きの声を漏らし、慌てて口をつぐんだ。

 サンドライト家。
 リーメス二十七将の一人埋葬フローラの生家であり、魔法ギルドの党首を代々務めている一族の名だ。
 ジレントに身分制度はないとはいえ、その血筋と国内での立場は他国での王族に等しい。

「人聞きが悪いな。彼女が望んだことだよ。魔法ギルドの党首であるミリア様からの願いでもある」
「まあ姉のフローラがキルシュ防衛戦に供もつけずに参加していたのだから今更か。そしてジレントはキルシュへの援助にかなり積極的だと」
「ああ。物資に人員、情報なんかも融通してくれてね。正直なところ、僕だけでは散り散りになった兵たちを探し出して、こうして軍を組織するなんて不可能だったよ。いやはや、これはもうジレントには足を向けて寝られないね」
「なるほど。ここぞとばかりに恩を売られまくったと」
「仕方ないだろう。意地を張っても人も物も生えてこない」

 言外に情けなくはないかと言うゾフィーに、エミリオは素直に認めつつも拗ねたように視線をそらした。

「大体ピザンがさっさと援軍を寄越してくれればまだやりようがあったんだ。あんなタイミングでお家騒動を起こすとか何を考えてるんだ君は」
「仕方あるまい。イクサに嵌められたのだから」

 しかし今度はこちらの痛いところを突かれ、今度はゾフィーが視線をそらす。
 その二人を見てコンラートが一つため息をつくと、それまでエミリオの後ろに控えていた兵士も合わせたように息を吐いた。
 なるほど。あちらの王子様も中々曲者らしい。

「……やめだやめ。過去の失敗を嘆いても始まらん」
「……確かに。今は未来のことを話すべきだね」

 そしてしばらくすると、合わせたように意見を合わせる二人。
 面識はあれど付き合いは浅いはずだが、息は中々あっているらしい。

「そもそもピザンの援軍をあてにしていたのなら、何故素直に表に出てこなかった? おかげで私が兄上の名代として直接確認と交渉に来る羽目になったのだが」
「率直に言うと信用ができなかった。もしピザンがキルシュをローランドに代わり支配するつもりなら、僕は居ない方が都合がいいはずだ」
「ああ、それはない。まったくない。少なくとも今のピザンの中枢にいる人間はキルシュを占領するつもりはない」
「へえ。表向き正当な支配者を失った土地をわざわざ解放してむざむざ手放すと?」
「ああ。何せ今のピザンに領土を広げる体力はない。適当な者を領主にしたところで、今はよくとも数年も経てば独立されかねん」
「臣下を信用していないのかい?」
「信用できるのならば、我が国はイクサなどに好き勝手はされなかった」

 そう忌々し気に言い放ったゾフィーに、それまで穏やかな対応をしていたエミリオも笑みを消した。

「クラウディオ陛下では国は治まらないか」
「それは兄上を見損ないすぎだ。むしろ父上が偉大過ぎた。何せ一度は割れかけた国を繋ぎとめた王だ。だが個人によって繋ぎ止められた国の末路など知れているだろう」
「むしろ英雄であるクラウディオ陛下でなければ割れていたか。いやはや。そこにいる白騎士殿のように忠義に生きる臣下ばかりなら楽だろうにね」
「楽なわけがないだろう。繋ぎ止めるべき臣下がこちらを繋ぎ止める鎖に変わるだけだ」
「……」

 ゾフィーの言い様に、コンラートは何も言えず苦笑した。
 あんまりな言い様だが、要は臣下を律する必要がなくとも自身を律することができなければ結果は同じということだろう。
 統治者としては色々と自由すぎるピザン王家の人間には、コンラートのような糞がつくほど真面目な人間が側に控えている方がいいのかもしれない。

「では、こちらに占領の意思がないならば、今後は同盟を結ぶということで構わないか」
「もちろん。実を言うと君が来なければ、そちらの王都への進行に合わせて勝手に参戦させてもらうつもりだったしね」
「漁夫の利狙いか」
「当然だろう。王都の奪還を人任せにしておきながら、後からのこのこ出て行ったところで誰が付いてくる? 大体文句ばかり言われる筋合いはないよ。ピザン王国がローランドとの戦いに専念できたのは、僕たちがリカムからの援軍の相手をしていたからと言っても過言ではないのだから」
「なるほど。そうやって恩を売っておいて黙らせるつもりだったと」
「もちろん。まあヴィルヘルム閣下が本気でキルシュを潰すつもりだったら、こんな小賢しい駆け引きなんて無意味だろうけれどね」

 そう言って肩をすくめて見せるエミリオだが、さすがのヴィルヘルムもそこまで極悪ではないと踏んでいるのだろう。
 だが同時に彼を警戒しているのは間違いない。クラウディオという新王が混迷の中で国をまとめられているのは、間違いなく弟であり宰相であるヴィルヘルムの力があってこそのことなのだから。

「しかしそんな心配は杞憂だったわけだ。細かいところは後でつめるとして、同盟については了解したよ。もっとも、こちらが壊滅なんてしていなければ確認するまでもない関係だったわけだけれどね」
「確かに。だが僥倖だ。ピザン一国で戦い続けれなければならないと思っていたのだから、キルシュ王国の旗が未だ折れていないというのは大きい」
「油断すればすぐさま折られそうな旗だけれどね」

 そんな卑屈な物言いとは裏腹に、エミリオは少しも悲観している様子などない、むしろ戦を前にして気を高ぶらせる武人のように笑った。





「……」

 声も漏らさず泣くレインを、クロエは手ごろな岩に腰掛けてずっと抱き続けていた。
 洞窟を出て、谷間をその異様な脚力で飛び越えてまで人気のないところまで来たのは、誰にも邪魔されたくなかったというのもあるが、周囲の視線が痛かったからだ。
 レインはこのキルシュ王国軍の兵士たちと余程良好な関係を築いていたらしい。何せレインを抱き上げて移動するクロエを、まるで親の仇ですらまだマシだという勢いで睨めつけてくるのだから。
 ある程度の事情は伝わっていたのだろうが、そうでなければその場で袋叩きにでもされていたかもしれない。

「……」

 しかし予想外だったのはレインの態度だ。
 今までどこで何をしていたと、怒鳴り散らされ殴られるくらいは覚悟していたというのに、まさか泣き縋られるとは思わなかった。

 いや、本当はクロエにも分かっている。この少女の強気な態度はコンプレックスの裏返しだ。その内ではいつも孤独に怯えて震えている。
 誰かに必要とされたい。そんな一念で努力を続け、こんな誰もが無謀と呼ぶ戦いに身を投じてしまった。
 そしてその孤独をより強くしてしまったのはきっとクロエだ。
 もしクロエが行方不明などになっておらず、変わらずレインのそばにあったならば、ここまで無茶な真似はしなかっただろう。

「……クロエ」
「うん?」
「ごめん。もう少しこのままでいさせて」
「いいよ。私もごめん。ずっと連絡もできなくて」

 ある程度落ち着いたが、恥ずかしくて顔を上げられないらしい。
 そう察してクロエはレインの頭を気にしなくていいと撫でる。
 同時に自分にこんな優しい声を出せたのかと内心驚いた。二年前のように憎まれ口が出ると思ったのだが、少しは大人になれたということだろうか。

「……怒らないの?」
「何を? むしろ私が怒られると思ってたんだけど」
「だって……いつも先生と一緒になって言ってたじゃない。レインは戦いには向いてないんだから無理するなって」
「ああ。でも最終的に決めるのはレイン本人だしなあ」

 むしろ師であるミーメはまだしも、昔の自分はよくもまあ仮にも年上の少女相手にそんな生意気な口をきいていたものだと苦笑する。
 それに理解もできるのだ。戦う力を持っていながら、いや例え戦う力がなかったとしても、ただ待つだけなのは辛いに違いないと。

「それにこうしてキルシュ王国軍が健在で、ピザン王国と同盟を組めるところまでこれたのなら、レインはやり遂げたということだろう。私の心配なんて余計なお世話だったってことだ」
「でも……姉さんならもっとうまくやれたもの」
「だから何だ? 実際に体を張って成し遂げたのは、フローラさんでも姉さんでも俺でもないおまえだ。やればできるに意味なんてない。そんな戯言のたまうやつらなぞ、私がやってやったんだと笑顔で見下ろしてやればいい」

 そう慰めながらクロエはレインを優しく抱擁する。
 レインは非凡な才を持った魔術師だ。しかしそれを誇るには、姉であるフローラの影があまりにも大きすぎた。
 加えて親子ほども離れた年齢差は、姉妹に競い合う舞台すら用意させなかった。
 才能の差はそれほどでもなかったのだろうが、経験の差は埋めがたいほどに大きい。いっそ本当に親ならば素直に誇れたのだろうが、レインにとってフローラはあくまでも姉であり、周囲も姉に劣る妹としてレインを見ていた。
 自分より劣る者たちに、姉の劣化品であるとレッテルを貼られる。それはどれほどの屈辱だっただろうか。

 だからレインには心許せる友などいなかった。
 己を見下す人間に笑顔で対応できるほど器用な人間ではなかったのだ。

「レイン・フィール・サンドライトはキルシュ王国を救った偉大な魔術師だ。これからおまえはそうやって称えられる。いやそんなことはどうだっていい。例え誰かがおまえを貶めたとしても、私はおまえを誇りに思う。私はレインが大好きだからな」
「……ッ」

 クロエの言葉に、レインは言葉に詰まったように息を漏らし、そして軽く彼の胸板を叩いた。

「ようやく泣き止んだのに……また泣かせるようなこと言うんじゃないわよ」
「それは光栄だ。いつも意地っ張りだったレインが素直になってくれるなんて」
「もう!」

 顔を伏せたまま、拗ねてポカポカと殴ってくるレインをクロエは苦笑しながら包み込む。
 ああ、ようやく本当に意味で帰って来られたのだと。



[18136] 三章 王都ルシェロの戦い
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2017/01/01 12:34
 キルシュ王国の王都ルシェロ。かつてキルシュ防衛戦で最後の決戦が行われたこの地に、連合三国が敵として集うことになるとは誰が予想していただろうか。
 王宮のある東側の小高い丘は天然の要塞と化しており、その三方を囲む高く厚い城壁は投石機の一撃すらも打ち返す。
 十七年前のキルシュ防衛戦に置いてリーメス二十七将の一人隻眼のコンラッドがたった二百の兵で南門を防衛できたのも、彼の指揮能力だけでなくその城壁の堅牢さが理由に挙げられる。

 そんな都を攻めることになったピザン王国軍ではあるが、その成果は芳しくはなかった。
 戦いにおいて城攻めには防衛側の三倍の兵量差が必要と言われるが、攻める場所が限られるならばその兵力差はさらに開きを見せる。

 例えば先の夏戦争でのプラッド洞窟城の戦い。
 リカムの騎士シルキス率いる五千の兵に攻め込まれたプラッド城だが、城主であるデンケン候は近隣の領主たちに「援軍不要」とだけ伝令を出し、僅か三十名の兵だけで夏戦争が終わるまでプラッド城を守り通している。
 プラッド城が洞窟城と呼ばれる通り洞窟の中に埋まるように建てられ、進入路が限られた特殊な城だからこそ成せた偉業であるが、他にも圧倒的な兵力差で防衛側が驚くほど長期間持ち堪える事例は多い。
 極端な話にはなるが。人一人しか通れない通路を防衛するのに大軍は不要なのである。

 加えてルシェロ攻めの難易度を高くしているのは、ローランドの王であるジェロームの存在である。
 キルシュ防衛戦に置いて策謀王子と呼ばれた策略に優れた王。加えて性格まで悪いその王が要塞と化している都に居座っているのだから手が付けられない。
 今この大陸で誰も攻めたがらない場所の一つはルシェロと言っても過言ではないだろう。

「いや、性格が悪いってただの悪口じゃないですか」

 キルシュ王国軍との同盟を取り付け、ピザン王国軍本隊と合流するべく馬上の人となっている最中。
 今のキルシュ王都の状況を説明されたカールが、呆れたように言った。

「性格が悪いのは指揮官としては長所となりえるのだ。性格が悪いということは、相手の嫌がることを見抜くのが上手いということ。そんな輩と戦いたいか?」
「嫌です。なるほど。つまりはヴィルヘルム閣下みたいな王なんですね」

 コンラートの説明を聞いてそんなことを言い出すあたり、カールも中々いい性格をしている。
 しかし実際そういうことなのだ。味方であれば頼もしいというのは十七年前の戦いでコンラートも実感しているが、敵に回るとなればあれほど恐ろしい人間はそう居ない。
 優勢に戦いを進めていたはずなのに、いつの間にか指揮官が討ち取られていた。そんな展開が日常的に起こり得るのがジェロームの采配する戦場なのだ。

「随分とジェローム王を高く評価しているな。コンラートは彼の指揮下で戦ったことがあったか?」
「いえ、ありませぬ。ありませぬが……」

 腕の中から見上げてくるゾフィーに、コンラートはどう説明したものかと悩む。
 実際コンラートはジェロームの指揮下で戦ったことはない。決戦となった王都ルシェロでの戦い。それだけが唯一共闘と言える戦いであった。

「あの戦いは当事者である私やリアも奇跡としか言えないような戦いでした。私とリアは他の兵たちを置き去りにしてリカム軍に吶喊を仕掛けましたが、アレは正に若さ故の愚行。そしてそれはキルシュ王国のコンラッド殿も同じ、最早後なしと一矢報いるつもりでの特攻だったと後に話しております」
「ふむ。英雄と呼ばれたそなたたちが揃って命を捨てる選択をするしかないほどの劣勢であったということか」

 当時王都ルシェロに居たのは、リカムとの戦いで疲弊したキルシュの正規軍と、アルムスター公の率いるピザン王国軍の別動隊。それに義勇兵の面々だけであった。
 そんな場所へ電光石火の進撃を果たしたのがリカムの第二代皇帝アレクサンドロスであり、その兵力は長大な王都ルシェロの城壁を完全に完全に包囲するほどの大軍であった。
 籠城以外に道なし。そんな連合軍の判断を嘲笑うように、王都の正門は力押しで破られ半日と持たなかったという。

「そんな状況でしたから。私もリアも皇帝の所まで単騎駆けでたどり着けるなどとは思っておりませんでした。まあそれでも己の馬鹿みたいな力は自覚しておりましたから、少しでもリカム軍と皇帝の肝を冷やしてやれと思ったわけです」
「しかしそれが思いもよらぬ好機となった」
「はい。フローラ殿の大魔術。ブラッグ殿率いる傭兵団とロッド殿の奮戦。さらに突如現れたローランド王国の騎馬隊による突撃と、全てが示し合わされていたかのように絶妙なタイミングでリカム軍を襲いました」

 一体どこからどこまでがジェロームの思惑通りであり、はたまた単なる偶然出会ったのか。
 確かなのは、そんな乱戦状態の中でジェロームは見事弟であるロランを皇帝の下へ送り届けたということだ。
 そして騎士の中の騎士と呼ばれた英雄によって、戦いは終わりを告げた。

「そんな相手ならばグスタフの苦戦もやむなしか。どれ、珍しく落ち込んでいるであろう奴の顔を見に行くとしよう」

 ようやく見えてきた王都を前に陣取ったピザン王国軍の野営地を眺めながら、ゾフィーは意地の悪い笑みを浮かべてそう呟いた。





 遅れてきた英雄と呼ばれていたグスタフ・フォン・ローエンシュタインではあるが、此度の戦での連戦連勝はその名が偽りではないことを証明するものであった。
 さらに彼の評価を高くしたのは、その勝利が己の圧倒的な武に任せたものではなく、軍団の指揮や統率に徹した指揮官としても勝利だったからだ。
 統率者として申し分なし。かつて自らを王の器だと豪語したのもただの自信過剰ではなかったのだと、色々と因縁のある赤剣騎士団の面々すら認めていた。

「ハッ。そんな快進撃も最近はご無沙汰のようだが。どうした? やはり本物の英雄には勝てなかったか?」
「……」

 そんな本物の英雄と呼ばれるようになったグスタフを、天幕に案内されるなり挑発するゾフィー。
 それを後ろで聞いていたコンラートは、無言で天を仰いだ。

 相性が悪いとは聞いていたが、まさか挨拶もそこそこに喧嘩を売るとは。
 この色々と破天荒ではあるが道は外れないお姫様にここまで言わせるとは、グスタフはグスタフで何をやらかしたのだと頭が痛くなってくる。

 ふと視線を前に向ければ、同じく天を仰いでいたグスタフの副官と目が合い大きく頷かれた。
 つい最近同じようなことがあったのは気のせいだろうか。どうやら苦労人というのはそこら中に居るらしい。

「……申し訳ない。全ては俺の不甲斐なさが招いたことだ」
「ほう? てっきり反論から入ると思ったが」
「……」

 ゾフィーの言葉に思いっきり顔をしかめるグスタフ。その顔には「反論から入ったら文句を言うだろうが貴様」とありありと書かれていた。

「まあその辺りはそなたの仕事だ。とりあえずキルシュ王国軍との接触はなり、同盟も再締結することができた」
「ふん。どうせ小勢だろう」
「それがそうでもないようでな。今はバラバラに活動しているが、集結すれば三千になるそうだ」
「なるほど。確かに小勢ではないな」

 だが大軍でもない。例えばリカム帝国ならば基本となる一軍が千人であり、それらが軍団を組むことで万単位にまで膨れ上がる。
 ピザン王国軍とて、今回キルシュ解放にあてられた人員だけで三万近くになる。
 三千の援軍などいらないとは言わないが、自らの指揮下に入るわけでもないのだから大した助けにはならないというのがグスタフの本音だろう。

「数は確かにな。だが聞いて驚け。今のキルシュにはマスタークラスの魔術師が帯同している。しかも魔法ギルドの党首の次女であるレイン殿だ」
「何だと? 属性は?」
「主に氷と雷だそうだ」
「雷か……。殺傷力は高いが、できれば土属性の魔術師が欲しいな」
「土属性ならこちらに居るだろう。コンラートの従者が」
「そういえば」

 急に話をふられて、コンラートは慌てて姿勢を正す。
 そんなコンラートに、グスタフは先ほどまでの不機嫌な顔はどこに剥がしてきたのか、輝くような期待に満ちた顔を向けてくる。

「シュティルフリート卿。貴方の従者の力をお借りしてもよろしいか」
「は、はい。構いませぬが」

 ローデンバルトではなくシュティルフリートと呼ばれ、コンラートは驚きながらも了承の意を返した。
 確かにシュティルフリートの名は捨てていないが、今のコンラートはローデンバルト家を継いだ身であり、ほとんどの者はそちらの名を呼ぶ。
 そもそもシュティルフリートという家名自体忘れかけられていたのだが、同年代でもないグスタフは一体どこで知ったのだろうか。

「ふぁーはっはっは! 土属性の魔術師による城壁の突破に、さらにマスタークラスの魔術師による最高のタイミングでの兵の殲滅。これだけやれば、かのジェローム王とて後手に回るはず!」

 そう勝利を確信して快哉をあげるグスタフだが、一方のコンラートはそう上手くいくだろうかとむしろ不安を煽られる。

「……これは一波乱来るな」

 そしてその不安を肯定するように、ゾフィーが不吉なことをぽつりと呟いた。





「やはりだったな」
「はい?」

 指揮所となっている天幕を出るなり放たれた言葉にコンラートは首をかしげる。見れば隣を歩いていたお姫様が、不機嫌そうに不貞腐れている。
 会うなりグスタフをやり込めていたというのに、何が不満だったのだろうか。

「そのグスタフだ! 私には礼のレの字もないのに何だあのコンラートへの態度は!?」
「はあ。確かに意外な対応でしたが」

 傲岸不遜な男だと騎士団の面々から聞かされていたので、さぞ見下されるだろうと思っていたのに丁寧ですらあるように思えた。
 それほどコンラートを通じてツェツィーリエの手を借りられたのが嬉しかったのだろうか。

「そんなわけあるか。あれは大多数の男が拗らせたアレだ。目の前に憧れの人が居てはしゃいでる少年そのものだ」
「ローエンシュタイン公が? 私を?」

 まさか。
 そう言いたいところではあったが、確かにグスタフの態度には尊敬の念すら抱いているように見えた。
 彼の父である前ローエンシュタイン公には、下賤な成り上がりと大いに嫌われていた自覚があるのだが、一体何がグスタフをそうさせたのだろうか。

「奴とて武には誇りと拘りを持っているだろうからな。コンラートのような人間に畏敬の念を抱くのも当然だろう」
「そんなものでしょうか」

 どうやらグスタフが己を敬っているらしいとは理解したコンラートだったが、先代が先代だけあり素直に受け入れられない。
 先代と懇意にしていたアルムスター公については逆の結果になっているので、ある意味バランスは取れているのかもしれない。

「それはそれでいい。今度私の騎士がいかに素晴らしいかこれでもかと自慢しておこう」
「どうかほどほどに」

 その場には絶対に立ち会わないでおこう。そうコンラートは決意した。



[18136] 三章 王都ルシェロの戦い2
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2017/01/08 12:00
 魔術師に限らずあらゆるものには属性というものが存在するとされる。
 有名なものは地水火風の四属性であり、人間でもいずれか一つあるいは二つの属性を持っており、魔術師が扱う魔術もその属性に大きく影響されると言われる。
 これは魔術師たちの使う精霊魔術が、それぞれの属性の精霊の力を借りるからである。そして稀にではあるが、自らの属性とは異なる精霊とも相性がいいという人間も居り、そういった人間は複数の属性の魔術を操ることもできる。

 現代に生きる魔術師の中で有名なのは、魔女の異名を持つミーメ・クラインだろう。
 彼女自身の属性は水なのだが、全ての属性の最高位の魔術を習得しているため、魔術師たちの間ではスペルマスターとも呼ばれている。
 正式な魔法ギルドの党員ではない彼女がジレント国内において多くの羨望と尊敬を集めるのも、ただ学者として高名なだけではなく、その実力も他の追随を許さない高みにあるからだと言える。

 そしてコンラートの従者であるツェツィーリエだが、彼女はマスタークラスの高みにある魔術師ではあるが、その属性は土の属性に限定され他の属性は火と風の初歩的なものが扱えるだけである。
 これはさして珍しいことではなく、複数の属性を操ることのできる魔術師の方が数は少ないのだが、彼女本人にとっては中々複雑な問題であるらしい。

 曰く、地味であると。

 確かに火のような派手さや、風のような洗練されたイメージは土にはないだろう。
 一番初歩的な魔術はそれぞれの属性のつぶてをぶつけるものなのだが、火や風の属性のつぶてならともかく、土のつぶてなど「それ石投げた方が早くないか?」と言われることも多い。
 土という物質に依存した魔術である故に、どうにも強さや派手さをイメージされないのだと、酔った勢いでコンラートに愚痴っていたこともあるほどだ。

「だが物質に依存しているが故に、一番破壊力があるのも土属性だろう。ローエンシュタイン公もそのあたりを考えて、あの城壁をどうにかしてくれるだろうと期待しているようだが」
「……誰もがコンラート様やローエンシュタイン公のように道理を分かっていればよかったのですが」

 そう言って遥か彼方にそびえ立つ王都の城壁を見つめて、長くため息をつくツェツィーリエ。
 これほど気にするとは、過去に属性絡みで何があったのだろうか。もしかしてジレントでは、属性によっていじめが発生したりするのだろうか。

「いえ。ただ私が土属性と言うと、見た目通り地味だと言われることが多いので」
「なんと」

 自嘲するように渇いた笑みを浮かべるツェツィーリエだが、まあそれもちょっと分かるとは口が裂けても言えなかった。
 確かにツェツィーリエの容姿は派手なものではない。長い草色の髪を束ね、ふちの薄い眼鏡をかけた姿は理知的な印象があるが、華やかさとは確かに無縁だろう。

「だがそんなものは個人の価値観の問題だろう。そなたほどの器量よしならば、色事に気の多い軟派な者などより余程誠実な男が寄ってくるのではないか?」
「そうでしょうか?」

 コンラートの言葉に疑いの色を乗せた声を返すツェツィーリエだが、その顔から影がひいたのを見れば機嫌はいくらかよくなったらしい。
 実際赤剣騎士団の中では中々に彼女の人気は高いのだ。男所帯の中に例え派手さはなくとも見目麗しい女が居れば、人気が出ない方が嘘というものだ。
 しかし団長であるコンラートの従者という立場や、普段の本人のそっけない態度のせいで、どうにも近づきがたいという印象を持たれているのも事実である。
 準貴族とも言える魔法ギルドの党員であり、ヘルドルフ伯の義理の姉という立場も気軽に声をかけづらい原因かもしれない。

「それこそ玉の輿を狙えるのではないか? ピザンの貴族は情熱的な方が多いし、魔法ギルドの党員であるそなたならば周囲の反対も少ないだろう」

 例えばグラナート伯などは、傭兵上がりの平民騎士であるリアに求婚したことで有名だ。
 今ではそれなりに身綺麗になったとはいえ、あの女を捨てているとしか思えないリアのどこに惚れたのかは疑問が残るが、フラれてもフラれても挫けずに求婚を続ける姿に、周囲も盛り上がり何かの祭りのような騒ぎにまでなっていた。
 もしリアの方にその気がなければ完全に嫌がらせになっていただろう。そういう意味では素直になれないリアの逃げ場を断ったグラナート伯の作戦勝ちとも言える。

「私は妹が結婚するまでは自分のことは後回しで構いませんので」
「……そうか」

 これは間違いなく嫁ぎ遅れる人間の発言だと思ったが、さすがにそれを指摘することはできなかった。
 そしてモニカが今の発言を聞けば姉であるツェツィーリエの結婚が先だと同じことを言うだろうなと、実際に聞いてもいないのに確信した。

「かと言ってお嬢様の結婚を早めるのもな」

 そもそも自分の結婚をどうするか。
 主従揃って何とも色気のない話だと思いながら、コンラートは問題を棚上げにして目前の戦に集中することにした。





 戦というものは、個人での戦いとは異なり完全な勝敗が決まることは少ない。
 平野で軍勢同士がぶつかったとしても指揮官が討ち取られることは少なく、余程の兵力差がなければ相手を全滅させることも稀だろう。
 攻城戦においても、城を完全に制圧する前に交渉で立ち退きを認めさせるということの方が多い。

 勝利とは勝つことそのものではなく目的を達成すること。
 そして今回のルシェロでの目的とは、ジェローム王の排除ではなく王都の奪還にある。

「そういう意味ではさっさと尻尾巻いて逃げてくれた方がありがたいのだけれど。戦いが長引いても兵が消耗するだけだ」

 他の隊と合流しながら王都へと向かう道すがら、エミリオは何とも覇気のない様子でそう言ってのけた。

「いいのそんなので? 家族や兵士の敵討ちとか考えない普通?」
「不思議とあまり。裏切られたと分かったときもそうだけれど、僕はそういう激情とは無縁の人間らしくてね。我ながら人としてどうかと思うけれど、生き残れたのはこの冷静さのせいだろうから何とも言えないね」

 呆れたようなレインの言葉にも肩をすくめて答える。その様子に、レインはどこかうすら寒い感覚を覚えた。

 日頃の付き合いでそれなりに分かってはいたが、この王子様は個というものが薄い。他人はもちろん自分の命すらも、状況に利するか否かで考えている節がある。
 まるで国という装置を円滑に回すための我欲のない歯車だ。
 それは彼の元々の性質なのか、それとも二年間の大敗で色々と壊れてしまったのかは分からないが、信用はできても信頼はできない類の人間であるのは間違いない。

「アンタすっごい名君になりそうだわ。そんで幸福そうな国民に担がれて自分だけ不幸になるの」
「それは本望だ」
「でしょうね」

 王としては間違いなく有能だが、人としては壊れている。しかも本人がそれを自覚しているのに治そうともしないし、そもそも必要がないと思っているから質が悪い。

「ああでも、ゾフィー王女と話した時は久々に胸が高鳴ったよ」
「恋……なわけないわよね。まあアンタとは真逆の王様よねあの子は」

 エミリオが無欲に国に尽くす王ならば、ゾフィーは自らが先陣をきりその姿で民を導く王だ。
 光と影。陰と陽。
 どちらが優れているというわけではなく、その性質が面白いほどに異なっている。

「でもあの子はもう王にはなれないでしょ。残念だったわね。その治世が見れなくて」
「そうかな? 僕は不思議と彼女が王になると確信しているよ」
「どうやってよ。今のクラウディオ王は戦場には出てないし子供もいる。死ぬならゾフィー王女の方が早いでしょ」
「うん……例えば僕が死んで彼女がキルシュの王になるとか」
「ないわ。というか何の正統性もないでしょそれ」

 ローランドの前身国であるローラン王国から分裂独立したピザンとキルシュではあるが、両王家に血縁関係はなくゾフィーにもキルシュのヴィータ王家の血など入ってはいない。
 ローランドの簒奪を非難したピザンが、それを同じことをやるとも思えない。

「交渉の話を聞いた時も思ったんだけど、アンタもしかしてピザンにキルシュを明け渡したいの?」
「まさか。でもその方が民にはいいだろうね。キルシュは疲弊しすぎた。独力で立て直すよりは、ピザンに何もかもおんぶ抱っこになった方が色々と都合がいい」

 つまりは自分が王になるよりも、ピザンに占領された方が国民のためだと言っているのだこの馬鹿王子は。
 ピザン王家の面々とは逆ベクトルの馬鹿っぷりに、レインは頭が痛くなってくるのを感じた。

「アンタの国でしょうがアンタが立て直しなさい」
「ハハ。レインのそういう遠慮がないところ僕は好きだよ」
「私はアンタみたいなの相手にしてると凄い疲れるわ」

 ジレントに居候しているピザンの王子様といい、何故こうも王家の人間というのは面倒くさい人種が多いのだろうか。
 やはり政治に関わる人間とはどこか歪んでいくものなのだろうかと、レインはそういえば自分の姉も面倒くさい人だったと思い出す。

「ともあれ全ては国を取り戻してからだ。さて、ピザンの方はどんな風にあの策謀王を打ち破るつもりなのか。楽しみだね」
「アンタはもう少し当事者意識を持ちなさいよ」

 客観的を通り越して他人事な様子のエミリオに、レインは大きくため息をついた。





 王都ルシェロの東の丘に建てられた王宮。その王宮の一室にて、ローランドの王ジェローム・ド・ローランは一人物思いにふけっていた。
 目の前には玉座。だがジェロームは手の届く位置にあるそれを眺めるだけで、座るどころか触れようともしない。
 所詮は他人の玉座。過去に簒奪されたそれを奪い返したなどという妄言も、この国へ攻め入るためにいいわけでしかない。

 再びこの地に戻ってくるのにどれほどの時間を費やしただろうか。
 キルシュ防衛戦で策謀王子と呼ばれた若き英雄も、今では王位を継承しふてぶてしい顔つきの男となった。
 眉間に皺を寄せ不機嫌な様に見えるのも、この男の生きざまを表していると言ってもいいかもしれない。

「陛下」

 不意にその背に声がかけられる。
 ジェロームがそれに気づいて振り向けば、いつの間にこれほど近くに居たのかすぐそばに一人の少女が居た。
 ピザンの王女とは真逆の、華奢で虫も殺せないようなたおやかな姫君だ。纏ったドレスも装飾こそ控えめなものの、戦場と化したこの地にはとても似つかわしいものではない。

「シドニーか。何故此処に居る? 昨夜の内に城を出るよう言ったはずだが」
「納得がいかなかったからです」

 見た目からは想像もつかない気丈な目を向けてくる姪に、ジェロームは口元を歪めて笑う。
 なるほど。流石はあの弟の娘だ。口で言っただけで従うようならば、最初から苦労などしなかった。

「今日にもピザンが攻めてくるというのに、何が納得いかんというのだ」
「陛下がこの地に残るということです。確かにこの城は高い丘の上にあり防備に優れていますが、いざ城壁が破られ包囲されれば逃げ道を失います。こんな異郷の地で、何故陛下が背水の陣を敷かねばならないのですか」
「……そこまで分かっていておまえが逃げなくてどうする」

 ジェロームには子がいない。この用心深い男は、こんな歳になるまで女を愛するふりすらできなかった。もし子ができたとしても、我が子すら疑い、追い詰め、殺していたかもしれない。
 だからこそ、ジェロームが死ねば次の王は目の前にいるシドニーということになる。
 だというのにこの状況で逃げるのを拒否するとは。似なくともいい所が父親に似ている。

「それに何という屈辱だ。おまえは私が負けるとでも?」
「いいえ。陛下は此度の戦に勝つでしょう。次の戦にも勝つでしょう。そうやって勝ち続けて、そしていつか負けるのです。そこまでしてこの地に居続ける理由は何ですか?」

 いつかは負ける。それは確かな事実だった。
 キルシュがかつて圧倒的な物量差でリカムに押し切られたように、ピザンとの戦が続けば国力の差でいつかは負ける時が来るだろう。
 リカムがピザンを倒せばという展望はジェロームにはなかった。その程度には敵を、かつての味方を信頼していた。

「ふむ。おまえは何故リカムがこの国に拘ったか知っているか?」
「リカムに一番近かった。それだけではないのですか?」
「そうだな。あらかた大陸の北部を統制し、残るは南だけ。かの虐奪帝が侵攻を始めた理由はただそれだけだったのだろう」

 グリゴリー1世。たった一代で大陸北部の小国家群を統一し帝国を打ち建てたかの皇帝は、深い思惑などなくただ奪うだけだったに違いない。

「だがな。どうしても奪われてはならないものがあった。それを知っていたからこそ、あの魔術師は暗躍し、ロドリーゴも女神教会をたきつけて戦へと駆り出したのだろうさ」
「奪われてはならないもの? それは……」
「シドニー」

 疑問の言葉を遮るように名を呼ばれ、シドニーは目を瞬かせた。

「巷ではこう言われているそうだな。騎士の中の騎士。我が弟にしてそなたの父ロラン・ド・ローランを謀殺したのは、王位を奪われると危惧した私だと」
「そんな!」

 聞き捨てならない言葉に、シドニーは声を荒げた。
 だがそれはその話を信じたからではない。むしろ許せなかったからだ。

「そのようなはずがありません! 伯父様がお父様を殺したのならば、どうしてこれほど私を愛してくれましょうか!」
「ハッ。おまえは本当に大物だな」

 零れた笑みは鼻で笑うようなものだったが、見た目通りにシドニーの言葉を嘲るものではなかった。
 ただ我ながら分かりにくく捻くれた己を、まさかこの姪が理解してくれていたとは思ってもいなかったのだ。

 思えばシドニーの父であるロランもそうだった。ジェロームが憎まれ口を叩いても笑っているので何故だと問えば「だって兄上は私を愛しているからそんなことを言うのでしょう」と聞いている方が寒気のするようなことを言ってくるのだ。
 決して他人を無条件で信用するような能天気ではなかった。だというのに兄であるジェロームには全幅の信頼を寄せてくる。
 一度まさかと思い「心でも読めるのか?」とも聞いたが、それにロランは驚いたような顔をして「兄上は意外にロマンチストなんですね」と言い、嬉しそうに笑っていた。

 ああ、どれだけ策を弄しても、この弟にだけは自分は勝てないようだ。
 そう諦めたのはいつの頃だったか。

「私はおまえに懺悔せねばならん。だがそれは今ではない」
「陛下?」
「もし万が一私が倒れ、それでもおまえが真実を知りたいと望むならば――クロエ・クラインという神官を頼れ。師と違って信頼に足る小僧だ。……いや、もう一人前の男になっている年頃か」
「陛下の口から話してはくれないのですか?」
「ああ。何せこの通りに捻くれた男なのでな。例え死の間際でも本音など漏らせん」
「では試しに死に際まで陛下のおそばに居させていただきます」
「本当におまえたちは私の話を聞かんな」

 さっさと離れろというのに言うことを聞かない小娘に、ジェロームは顔をしかめながらも内心で笑う。
 こうやって言うことをきかない弟を放っておけなくて、父王に逆らい戦に出て英雄などと呼ばれる羽目になったのだったか。

「まあよい。どうせ今から逃げろと言うのも無茶な話。だが次の機会には縄で縛ってでも帰らせるぞ」
「では縄抜けの練習をしておきます」
「たわけ」

 いくら言っても口の減らないシドニーに、ジェロームは不機嫌そうに鼻を鳴らし、内心で笑った。



[18136] 三章 王都ルシェロの戦い3
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2017/01/21 12:30

 キルシュ王都ルシェロでの決戦を前にして合流したキルシュ王行軍を、ピザン王国軍の指揮官であるグスタフは歓迎と共に出迎えた。
 ある意味他人を値踏みすることに長けた彼のことだから、内心ではどう思っているかは分かったものではないが、それでも表面的には同盟国の王子であり次期国王をにこやかに出迎える。
 それを受けたエミリオも満面の笑みだったが、少しばかり人を見る目に長けたものにはその笑顔が胡散臭いものに見えただろう。
 やはり政治というものは面倒くさいなと思うコンラートであったが、軍人というものは時に外交の矢面にも立たされるものだし、何より今やローデンヴァルト家の当主は彼なのだから他人事ではいられない。
 伯爵位といい騎士団の長という立場といい、与えられた分不相応な地位に今更ながら辟易する。

「此度はこちらの我儘を受け入れてくれたありがとうローエンシュタイン公。不甲斐ない我らに代わりここまで戦い抜いてくれたことを感謝する」
「もったいなきお言葉。しかし私たちがここまで戦ってこれたのは、エミリオ殿下を初めとしたキルシュの諸将が影でリカムの軍勢を牽制成されていたからこそ。此度の戦の勝利の栄冠は貴方にこそ相応しい」

 遠回しな言い合いに顔が渋みに染まりそうなのを我慢するコンラートだが、隣ではゾフィーがにこやかに笑みを浮かべている。
 どうやらこの表面的に友好的でありながら、すぐそばで地獄の窯を茹でているような空気を楽しむことにしたらしい。何とも頼りになる姫様である。

「ところで……そちらは殿下の配下の者でしょうか?」

 ひとしきり歓談が済んだところで、グスタフが今気づいたとばかりにエミリオの後ろに控える者へと水を向けた。

「……」

 そこに居た人物を、この場で気にしていなかった人間などいないだろう。
 背はコンラート程ではないが人ごみの中でも頭が突き出るであろう程に高く、男性でありながら腰に届く長い紫紺色の髪を首元でまとめている。
 それだけでも目立つ容姿をしているというのに、さらに彼を浮かせているのがその相貌を隠す白い仮面だ。
 どこぞの劇場の怪人を思わせるそれは場違いにも程があり、顔を隠すという行為に疑問を抱かない人間が居るはずがない。

 不審者。
 そう評するのがこの上なく適当な男であった。

「彼の名はローシ。思うように動けない私を補佐しキルシュ軍をまとめてくれている恩人です」
「ほう。ローシか」

 エミリオの紹介を聞いて、それまで黙っていたゾフィーが意味深に舌の上で転がすようにその名を反芻した。

「で? その仮面はなんだ。昔酷い怪我をして醜いので隠しています等と言ってくれるなよ。そんなもの私は気にしないから見せろと返してしまう」
「ハハッ。だそうだよローシ」

 そうエミリオが話をふると、ローシは困ったように口元に笑みを浮かべながら首を振った。

「訳があり人前に顔を晒すことができませんので、ご無礼をお許しください」
「ほう。その訳とやらは教えてくれないのか?」
「いえ。ゾフィー殿下にならばお見せしても構いません」
「何?」

 まさかそう素直に来るとは思わなかったのか、ゾフィーが呆気にとられたように目を丸くする。
 それを見て悪戯に成功した子供のようにエミリオとローシは笑う。

「しかしお見せできるのはゾフィー殿下だけです。その上で私をどう扱うかもゾフィー殿下にお任せします」
「……なるほど。では他の者は全員壁と話していろ」

 ゾフィーに命じられ、コンラートは素直に、グスタフはややあって体を反転させて天幕の仕切りへと相対する。

「それでは。見せてもらおうではないかローシとやらよ」
「ふふ。承りました」

 挑戦的に言い放つゾフィーの言葉を受けて、ローシが仮面へと手をかける。

「……」

 そしてゾフィーがどのような反応をするかと思えば、広がったのは沈黙であった。
 微かに動揺したような空気が伝わるが、果たしてその理由は何であったのか。

「……はあ。なるほど。納得した。いや、色々と納得できんがその仮面には納得した」

 ややあってため息を漏らすと、ゾフィーは疲れたような口調でそう告げた。

「皆もういいぞ」

 許しを得て振り向けば、相変わらずにこやかに笑うエミリオとは対照的に何やら呆れたようなゾフィーの顔があった。
 一体ローシとやらの仮面の下にはどんな衝撃的な顔が隠されていたのだろうか。

「何故貴方が此処に居てエミリオ殿下に仕えているのかは知らないが、顔を隠す理由は分かった。正直なところ信用はできんが、エミリオ殿下が卸しきることを期待して私からは何も言わん」
「ハハッ。ありがとうございます」
「ふん。それでグスタフ。軍議はいつ始める?」
「半刻もすれば諸侯も集まる予定です」
「では私は少し休んで来る。いくぞコンラート」
「御意」

 天幕を後にするゾフィーを追い、コンラートも歩み出す。

「……それほど心労がたまるような相手でしたか?」
「ああ。これはもう本国の兄上か兄様に報告しないと、私一人では判断がつかない」
「それほどですか」

 一体あのローシという男は何者なのか。
 こうして見逃した以上、敵というわけではないのだろうが。

「そういえば彼の名を聞いた時、何やら意味深げに呟いていましたが。もしや本名だったのですか?」
「まさか。むしろあまりに堂々とした偽名故に笑うしかなかった」

 コンラートの問いに、ゾフィーは失笑する。

「ローシというのはな。大陸北部の古語で『嘘つき』という意味だ」





 策謀王の率いるローランド王国軍に、リーメス二十七将と並び称されるような武を誇る英雄は居ない。
 しかしだからと言って彼らが弱兵かと言えばそんなことはなく、むしろその均質化され組織化された兵たちは精鋭と言っても過言ではないだろう。

 そもそも奇策とは常道で勝てない場合に使われるものであり、平時から乱発していては悪手となりかねない。
 戦いは始まる前に勝敗が決しているというのは一つの真理だ。日頃から兵を鍛えず、いざ戦となってから策を弄する指揮官など無能以外の何者でもない。
 そしていざ策を成そうにも、兵が命令を実行できなければ本末転倒だ。

「まあ兵士が策を実行しようとしてなくても、いつの間にか策の一部になってたりするのがジェローム王の恐いところなんだけどねえ」

 そう言って馬上でためいきを漏らすのは、今ではグスタフの指揮下に入っている蒼槍騎士団の副長であるリアだ。
 あと少しすれば戦も始まろうとしている時間にこうしてコンラートと轡を並べているのは、各々の騎士団の役割の最終確認のため。
 どちらも少数精鋭の騎士団である故に、その一手が戦局を大きく左右する。策謀王の罠にはまるようなことがあれば、力技でそれを食い破ることができるのもコンラートとリアくらいのものだろう。

「ふむ。ならばローエンシュタイン公の手腕はどうだ? ここ最近はずっと指揮下にいたのだろう」
「ああ、まあ一流なんだろうねえ。順当に準備が終わって順当に戦が始まって順当に勝ってる。相手が伏兵だの罠だの巡らせても冷静に対処。頼もしすぎてつまんないほどさ」

 そう肩をすくめて言うリアだが、元傭兵である彼女がお坊ちゃんなグスタフをそう評するなら高い評価と言えるだろう。
 命あっての物種と考える彼女からすれば、一種のばくち打ちとも言えるジェロームのような指揮官こそ遠慮したいものであるはずだ。

「でもねえ。ああいう手合いは悪辣な人間相手には不覚をとるもんだよ。そんで『卑怯者!』ってみっともなく喚きながら首を落とされるのさ」
「まさか。そのような小物ではないだろう」

 傲岸不遜などと評されていたグスタフだが、その実力は本物だ。加えて少し話した程度ではあるが、その芯には彼なりの矜持があると感じた。
 例え嵌められたとしても己の不甲斐なさを恥じ次へと生かそうとするに違いない。

「そうやって誰も彼もいい様に評価するのはアンタの甘いとこだと思うけどねえ」
「心外だ。俺とて無能を取り立てるほどお人よしではない」
「まあアンタも今じゃ一騎士団の長だしね。そこまでとは思ってないさ」

 お人よしであること自体は否定しないリアに、さりとてそれも当然かとコンラートも苦笑する。
 もしコンラートがお人好しでなければ、この世にお人よしなど居なくなってしまう。

「そういやあの黒スケはどうしたんだい? アンタらに付いて来てるって聞いたけど」
「黒……? もしやクロエ殿のことか?」
「そうそう。その黒スケ」

 仮にも司教殿を捕まえて何という言い様だと思ったが、戒めた所で目の前の女は聞きはしないだろう。
 そういう点は長い付き合いで嫌という程理解している。

「彼は神官だからな。ネクロマンサーが出てきでもしない限りは、国家間の争いに出張るつもりはないそうだ」
「そりゃあ残念。どれくらい腕をあげたのか見てみたかったんだけどね」

 そう言って笑うリアは、クロエと一度剣を交えたことがあるらしい。
 カイザーの亡命騒ぎ。そのときにカイザーの護衛を半ば騙される形で依頼されたクロエは、成り行きで蒼槍騎士団と戦う羽目になったのだという。

「いや、剣の腕自体は粗削りだったけど、体裁きや覚悟はそそるものがあったね。一端の戦士って面構えだったよ」
「なるほど。しかしこの二年でさらに腕を上げたようだぞ」

 アンデッドを容易く両断して見せたのは、聖剣の力だけではなくクロエの剣術のさえがあってのことだろう。
 あの反則的な神聖魔術抜きでも、そこらの騎士や兵士では束になっても適わないに違いない。

「ほー。そりゃあ楽しみだ」

 そしてそれを聞いて肉食獣のような笑みを浮かべるリアを見て、コンラートはやってしまったと今更ながらに気付いた。
 どうやらクロエはこの女傑に随分と気に入られてしまったらしい。

「……そろそろ始まるみたいだね」
「ああ」

 ピザン王国軍が並び立つ遥か後方。
 赤い髪を翻す王女と二人の魔術師が並び立つ。

「――土の聖霊よ。古の契約に従い我が声に応えよ」

 目を閉じ、契約の言葉を紡ぎ出すツェツィーリエ。
 彼女の役割は城壁の破壊。もしくは突破の足掛かりを作ることだ。
 土属性の魔術による大質量攻撃。例え城壁を破壊できなくとも、積み重なった瓦礫は城壁への攻撃を容易にすることだろう。
 だがそんな次善は必要ない。必ず城壁を破壊して見せるとツェツィーリエは豪語した。

「――打ち捨てよ。朽ち果てよ。地母の呼び声は叫喚となり大地を覆い、群盲は走狗となりて塵界を震駭する」

 彼女ができると言うのならできるのだろう。無理を通して無様を晒したり、偽りを口にするような女性ではない。
 この二年。ずっと己を支え続けてきたツェツィーリエの言葉ならば無条件に信じるであろう程にコンラートは信頼していた。

「――謳え。其は人界を乱じる凶報なり」

 そしてその信頼に応えるように、ツェツィーリエの詠唱は終わり奇跡が顕現した。





「やはり魔術師というのは反則だな」

 王城の遥か前方。
 堅牢なる王都の守りが地を走るように生えた幾重もの巨大な岩の槍に突き穿たれ崩れ去るのを、ジェロームは王宮を囲む内壁の上で呆れたような声を漏らしながら眺めていた。

 然しもの策謀王とてこのような事態は予想外だったのか。
 否。可能性の一つとしては考えていた。しかしそれを実行できる魔術師が果たして今の時代に存在するのか。その確信を持てなかった。
 よしんばそのような高位の土の魔術の使い手が居たとしても、ドルクフォード亡き今のピザン王国に味方する可能性はどれほどか。

 あり得る未来ではあるが、無視していいほどの限りなく低い可能性。
 そう常識的な判断を下したジェロームは見事にあてが外れたということになるが、それでも余裕を崩さず陰湿な笑みを浮かべている。

「随分と楽しそうですね陛下」
「ああ。何だ。また私の言うことを聞かなかったのか」

 戦場に意識を裂きすぎたのか、ジェロームは姪がすぐ隣で己を見上げていることに声をかけられようやく気付いた。
 王宮の一番奥で毛布にでもくるまって震えていろと命じたというのに、一体どのような命令ならばこの小娘は聞いてくれるのか。

「いきなり策が破綻したのは窮地と言うものでは?」
「ハッ。一つ策を破られた程度で揺らぐ戦術こそが最初から破綻しているのだ。肝要なのはただ先を読むのではなくあらゆる状況を想定することだ」

 なればこそ、既にピザンは策に落ちている。
 自らを縛る檻を食い破り、解放されたと喜び勇み虎口へと落ちてきているに過ぎない。

「さあ戦だ。つまらぬ戦だ。こんなもの早々に終わらせるに限る」

 そう口では不満げに言いながらも、ジェロームの顔には泣く子も黙るであろう凶悪な笑みが浮かんでいた。





 城壁などの高所を奪い合う戦いは、大抵の場合攻め手が悲惨なこととなる。
 何せ防衛側は上方という戦場に置いて絶対に有利な場所に陣取れるのだ。そこから矢を射かけるのは当たり前だが、腐った水だの糞尿だのと言ったものを敵に浴びせかけるという嫌がらせのような戦法が当たり前のように使われたりする。
 しかし一見すればただの嫌がらせのようなそれも、士気は下がるし病気は蔓延するしで中々に厄介な問題だ。
 攻城戦が長期戦になることが多いことも踏まえれば、実に理にかなった戦法だと言える。

「矢に怯むな! やぶれかぶれに撃ちまくってるだけだ!」
「走れ走れ!」

 しかしそんな厄介な城壁も、ツェツィーリエの放った岩槍によって木っ端微塵と成り果てた。
 丁度ピザン王国側から城壁目がけて斜めに伸びた岩槍は城壁を見事に貫き、崩れ落ちた瓦礫を越える道となっている。
 中には崩落に巻き込まれながらも生き残ったローランド兵も居るようだが、皆ろくに動くこともできずに討ち取られていく。

「いやはや。レインのおかげで魔術師の凄さは知っていたつもりだけれど、単なる殲滅手段ではなく戦術に組み込むとさらに厄介だね」

 最早勝敗など決まったのではないか。そんな空気すら漂う戦場をキルシュ王国軍を率いるエミリオは自ら弓を手にしながら駆けていた。
 当初は戦意高揚のためだけに前線に出てきたのかと思われていたエミリオだが、その手にした弓は飾りではなかったらしく、先ほどから何人ものローランド兵の脳天を撃ち抜いている。

「ハッ。だからこそ魔術師はジレントに引き篭もったのだろう。これを見て彼らを利用してやろうと思わない人間が居るなら、余程の大物か愚物に違いない」

 その声に応えるのは、己の長身に見合う程の長剣を振るうローシだ。
 接近戦はからっきしなエミリオを守るように、周囲の敵兵を次々にその膂力を生かした一撃で昏倒させていく。

「なるほど。ではジェローム王は大物だろうか愚物だろうか」
「間違いなく大物だ。しかし利用してやろうと思ったからと言って、実際に利用できるほど魔術師というものは甘くない」
「うん。僕もローランドに魔術師が召し抱えられたという話は聞いたことがない。では残念ながらジェローム王もここまでだろうか」
「それこそまさかだ。かの策謀王の意地の悪さを甘く見てはいけない。きっとこの理不尽な戦況すら覆すような策を幾重も仕込んであるぞ」
「例えば?」
「そうだな。今まさに目の前で起こっているかな」

 そう言われてエミリオが市街地の先へと目を向ければ、先ほどの意趣返しのように瓦礫がピザン王国軍を襲い始めた。





「……まさかずっと準備していたのですか?」
「もちろんだ。何もせずに町が崩れるはずがなかろう」

 シドニーの呆れたような言葉に満面の笑みで答えるジェローム。
 二人の視線の先。眼下の城内町の一角の建物が支えを抜かれた積み木のように次々と崩れ落ち、雪崩のようにピザン王国軍に降り注いでいる。

「ハッハッハ。他人の国だからこそできる策よ。後片付けのことなど考えたくもないな」
「まだしばらく滞在するつもりではなかったのですか?」
「それはそれだ。街に一般人などもう住んでいないのだから、別に困りはすまい」

 そう悪びれもせずに言い放つジェロームに、シドニーはやはりこの人は性格が悪いと再確認する。
 手柄欲しさに先行していたピザン諸侯の軍は見事に瓦礫の一部となったらしく、遠目でも阿鼻叫喚の有様が見て取れた。
 加えて崩れた建物の残骸が大通りを完全に塞いでおり、即席の壁となっている。
 さらに一度ことが起きればもう一度起こるのではと思うのが人間だ。ピザン王行軍の進行は確実に遅れるだろう。
 魔術という反則によって勢いを得た敵方の出鼻を、ジェロームは見事に挫いた形になる。

「さて、城壁は破られたが内に一つ即席の城壁ができた。ならばやることは同じだ」

 そのジェロームの言葉を合図にしたように、建物の屋上に次々とローランド王国の兵が現れ、立ち往生するピザン王国軍目がけて矢を射かけ始めた。





「おい! 誰か手を貸せ!」
「無理言うな! あんな矢衾の下に出ていくとか殺す気か!」

 城壁を乗り越え快進撃を続けていたピザン王国軍であったが、それ故に調子に乗って先行した部隊はジェローム王の策にまんまと嵌ってしまっていた。
 瓦礫の下に埋まった上司を助けようと声をかける忠義溢れる兵も居たが、怒鳴り返したルドルフの言葉通りローランド王国軍の兵士が雨あられと矢を射かけてくる中では蛮勇でしかない。

「さーて、どうしますか。攻城兵器の類は外に置いて来てるし、持って来れても相手が瓦礫じゃ崩してもまた埋まるだけですぜ」
「仕切り直しが妥当では? 城壁を突破できただけでも御の字でしょう」
「さて。我々はそれでいいが、他のお偉方が何と言うか」

 何とか原形を保っている建物の影に隠れながら交わされたルドルフとトーマスの言葉に、コンラートは難しい顔をした。
 確かに城壁を突破し、城内町の半ばまでこちらの手に入ったのは一定の戦果を挙げたと言えるだろう。しかしそれに気をよくして己も手柄をあげようとした一部諸侯の軍は、ろくに戦果を挙げることなくむしろ敵の策に嵌まるという失態を演じている。
 総指揮官であるグスタフが撤退を指示しても、果たして素直に退いてくれるだろうか。

「別に馬鹿が突撃して死んでも俺らにゃ関係ないでしょう」
「その馬鹿も頭数に入れないとリカムとの戦いに影響するのだ。それに馬鹿に付き合わされる兵が哀れだろう」

 コンラートたちのような生粋の軍人たちとは違い、諸侯の率いる兵の多くは傭兵か徴兵された民だ。
 小金のために命をかける傭兵はともかく、民をいたずらに死なせるような国に未来はない。

「じゃあどうすんですかい。正面から撃ちあうとかごめんですぜ」
「うむ。そうだな……」

 ルドルフの言葉にコンラートは少し悩む素振りをすると。

「ここは一つ無茶をしてみるとしようか」

 そう散歩にでも行くような気軽さで口にした。



[18136] 三章 王都ルシェロの戦い4
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2017/01/22 11:45
「ピザンの連中出てきませんね」
「そりゃそうだ。頭抱えて震えながら隠れてんだろ」

 動きを見せなくなったピザン王国軍と相対するローランドの兵たちであったが、その姿に気負いはなくむしろ気楽さすら感じられた。
 城壁を突破されたときは誰もが驚き戸惑ったが、こうして王の策が決まれば圧倒的に優位な立場はそのままだ。
 ほぼ一方的に敵を狩れるこの状況で油断するなという方が難しいだろう。

「貴様ら弛みすぎだ! 戦場では何が起こるか分からんのだぞ!」

 しかしそんな状況でも兵を叱咤するのが指揮官というものだ。
 しかしろくに指揮もこなせない小隊長の言葉に、兵たちはうんざりと言った顔を向けている。

「確かに城壁吹っ飛ばされたのは驚きましたけど、あんな魔術日に何度も使えるもんじゃないでしょ」
「そうそう。敵さんも一度撤退するみたいだし、小休止じゃないですか」
「フンっ。これだから庶民は」

 そう言ってやれやれとため息をつく小隊長の姿は、中々にイラッとくるものであった。

「いいか! 常識を捨てろ! 戦場では不測の事態が起きても即座に対処できるように……」
「……え?」
「……え?」

 そのまま説教を垂れ流し始めた小隊長であったが、それまで不貞腐れたような顔をしていた部下たちの顔色が変わったのを見て何事かと己の背後を振り返る。

「――ガハッ!?」

 しかし何が起こったのか確認することもできないまま、小隊長は地面に叩きつけられ意識を失った。
 その姿を見てズルいと思う部下たち。何せこの絶望的な状況を知ることもなく逃げ出すことができたのだから。

「ふむ。別に踏みつけるつもりはなかったのだが、運が悪かったな」

 倒れ伏した小隊長を足蹴にしたまま呟いたのは、老木を思わせるようなひょろりと背の高い男だった。
 しかし鎧の隙間から覗く体躯を見ただけで、多くの者がその手足から繰り出される一撃が凡庸なものであるはずがないと悟っただろう。

「さて。結果的に単騎駆けになってしまったのだから、一応やっておこうか」

 そう言いながら男は背負っていた斧槍を構えると、大きく息を吸い込んだ。

「我こそは赤剣騎士団団長コンラート・フォン・シュティルフリート=ローデンヴァルト! 手柄を欲する者はこの首を取りに来い!」

 先ほどの大魔術もかくやという勢いで大地を震わせる咆哮に、ローランド兵たちは揃って悲鳴をあげた。





「見ろシドニー。馬鹿だ。馬鹿が居る」

 戦場で起きていることの一部始終を見ていたジェロームは、建物の上を斧槍を振り回しながら疾走する騎士を指さしておかしそうに言った。

「あれは……何ですか? 人間が四階ほどの高さまで飛んできましたよ?」
「飛んできたように見えたのなら飛んできたのだろうよ。片足がひっかかる程度の足場でもあれば、飛んでくるだろうああいう連中は」

 唖然とするシドニーに、ジェロームは何を言っているのだと常識のように非常識を語る。
 彼とてリーメス二十七将に数えられた人間だ。例え自分自身にあれほどの身体能力はなくとも、戦場にはああいう人外がごろごろ居るものだとよく知っている。

「あのひょろ長さは巨人コンラートだな。相変わらずの馬鹿力よ」
「一人増えましたけど」
「あの女は死蝶のリアか。おお、白騎士二人が揃うとは。これは相手も本気だな」
「のんきに言っている場合ですか」

 突如屋上へと躍り出たコンラートとリアは、それぞれ別方向に駆けていきピザン王国軍を牽制していた弓兵たちを蹴散らしてく。
 そして弓兵の攻撃がなくなったとなれば、下に残っていた兵たちも次々と出て来て進軍を再開するのは必然だ。
 一度は膠着した戦線が、徐々に押され始めている。

「よく見ておくがいいシドニー。戦場にはどういうわけかああいう馬鹿が絶対に現れる。そしてその馬鹿っぷりでこちらが入念に仕込んだ策をご破算にしてくれるのだ」
「魔術師並みに理不尽ですね」
「そして我が弟にしておまえの父であるロランもリーメス二十七将の中でも一、二を争う馬鹿であった。おまえもきっと馬鹿の血をひいた馬鹿の仲間だから馬鹿の戦いっぷりを参考にしておけ」
「馬鹿馬鹿言いすぎです陛下」

 理不尽に己が策を破られたというのに嬉しそうなジェロームに、シドニーはため息を漏らしながら言う。
 そして己も馬鹿に違いないと言われ、そういえば思い当たる節もあると気付く。

 ナイフとフォークより重いものを持ったことがないような育ちのシドニーだが、ふとした拍子に持ち上げたものがやけに軽いと思うことが多々ある。
 そして今の自分には無理でも、少し鍛えれば己と同じ大きさの岩でも持ち上げられそうだという妙な確信があるのだ。
 ジェロームの言う通り、少々道を踏み外せばシドニーもまた馬鹿の仲間入りとなる予感は十分にある。

「しかしどうするのですか? このままでは一気にこちらまで攻め込まれますよ」
「何。まだまだこれからよ」

 シドニーの言葉にそう返すと、ジェロームはにやりと悪人の見本のような笑みを漏らした。





「む?」

 屋上の弓兵たちを一方的に追い立てていたコンラートだったが、不意に首筋がちりちりと焼けるような感覚を覚えて立ち止まる。

「……まずい!」

 そして即座に身を伏せたのは、確信あってのことではなくほとんど勘に任せてのことであった。
 瞬間コンラートが居た場所を高速で掠めていく何か。コンラートの動体視力でも辛うじて捉えられたそれは、黒い矢であった。
 ただしそれは一般的な矢のそれではなく、その大きさを鑑みれば槍と言った方が正しいだろう。さしものコンラートであっても、正面から受けるのは分が悪い。

「……バリスタか」

 槍矢の飛来した方角を見れば、さらに王宮に近い建物の屋上に弩砲が並び立つように設置されていた。
 威力こそ破格だが、大型である故に取扱いに難があり固定する必要もある不便な武器だ。あのような位置に設置したところで、足元を狙うことなどできないだろう。
 つまりジェロームは、弓兵を蹴散らすためにわざわざ屋上に登ってくる人間が居ることを予想していたということになる。

「流石というべきか」

 一台や二台ならともかく、ああも大量に設置されては近づくこともままならない。
 幸い弓兵の殆どは片付いている。ここで無理する必要もあるまいと、コンラートは素直に屋上から撤退した。





 城内町の戦いは一進一退が続いた。
 策謀王が策を打てばコンラートやリアを初めとした将たちが食い破り、しかし食い破られた先には更なる策が待っている。
 イタチごっこの様相を呈していた戦場ではあったが、それでも戦線は徐々に押しあがりピザン王国軍が王宮へと迫っていく。

 順調だ。まことにもって順調だ。
 だからこそ、総指揮官であるグスタフはこれまでにないほどに策謀王の一手を警戒していた。

「何かある。絶対に何かあるぞこれは」

 もう少しで蒼槍騎士団と赤剣騎士団のどちらかが王宮へと達するだろう。
 だが達した瞬間に全てが台無しになるという予感をグスタフはひしひしと感じていた。

「……一度進軍を止めろ」
「ええ。止めてどうするんですか。罠があるにしても踏み込む以外にどうしようもないでしょう」
「だからと言って無策で踏み込む馬鹿があるか」

 副官の言葉に、グスタフはいつにも増して不機嫌そうな顔で応えた。

「ジレントの姫君に連絡を。罠があるなら罠ごと吹っ飛ばす」
「ああ、そのために温存してたんですね」

 グスタフの言葉に納得すると、副官はすぐさま伝令を走らせる。
 レインの得意とする氷や雷の魔術は城壁のような大物の破壊には向かないが、対人であればこの上ない効果を発揮する。
 伏兵や罠の類があったとしても、人が居なくなればどうしようもない。
 これで勝負は決する。グスタフはそう確信する。しかし。

「だが何だ。この悪寒は」

 勝利を確信しながらも、なおグスタフは言い知れぬ恐怖に蝕まれていた。





「そうだ。来るがいい。この王宮へ至った時にこそ貴様らの敗北が決する」

 徐々に押されている戦況の中。ジェロームは未だ余裕を持って笑っていた。
 それをシドニーは「ああ、また悪辣な罠をはっているのだな」と関心と呆れ半分で眺めている。

「ではそろそろ決着ですか?」
「いや。どうやらあちらもこのままでは埒があかぬと気付いたか。それとも単に怖気づいたか」

 ピザン王国軍の進軍が止まったことに気付き、やはりそう綺麗に嵌まってはくれぬかとジェロームは笑う。

「どうするのですか?」
「何。退くというのなら追いはせん。まだやるというのならこちらも手札を尽くすだけよ」

 ――もっとも。このまま帰ってくれた方がありがたいのだが。

 そう口に出さず思うジェローム。

「ああ。しかしそれではつまらないだろう?」

 そんなジェロームの内心を見透かしたように、嘲弄めいた声が響いた。





「団長! ローエンシュタイン公から進軍を一時停止するようにと伝令です!」
「なにぃ!? ここまで来て臆病風にでもふかれたのかあのぼっちゃん!」

 幾度も策謀王の罠に阻まれながらもようやく城内町を抜けようという所で、その勢いを削ぐような命令をもたらした伝令にルドルフが不満を露わにする。
 他の者たちも声にこそ出さないものの気持ちは似たようなものだろう。ここまで何とか来れたものの、度重なる敵の策により皆フラストレーションがたまっている。
 ここで引き返せと言われても、はいそうですかと素直に頷くことはできないに違いない。

「……」

 だがそんな空気の中で、コンラートはただ無言であたりを警戒していた。
 確かに順調だ。これまでの経緯を考えれば順調というのは大いに語弊があるのだが、結果的に被害を最小限に抑えて敵の喉元に食らいつこうとしているのだから上出来だろう。

 だがならばこの暗闇の中で獣に追い立てられたような焦燥感は何だ。
 多くの者は何も感じていないのか、それとも戦意がそれを打ち消してしまっているのか。

 このまま進んではならない。
 いや、この場に留まることすら許されない。
 一刻も早く尻尾を巻いて逃げるべきだと、己の中の何かが警告している。

「……? おい、何か聞こえないか?」
「はあ? そちゃ戦場なんだから色々聞こえるだろうよ」
「いやそうじゃなくて。何か軋むというか割れるというか」

 兵たちの話す声に紛れてコンラートにもそれは聞こえた。
 空がないている。災いの到来を告げるように大地が悲鳴をあげている。

「!? 全員伏せろ!」
「え?」
「団長? 何を言って……」

 コンラートの警告に僅かに遅れて、空気が弾けた。
 火山の噴火と地鳴りと嵐が同時に起きたような轟音が鳴り響き、王宮の鎮座する丘が鳴動する。

 ――さあ。立ち上がれ英雄。何。相手はただの神話の残照だ。おまえたちなら抗えると私は信じている。

 その光景を誰が予想しただろうか。
 魔物や幻獣の脅威が過去のものとされた、後に凪の時代と呼ばれる歴史の終わり。
 いや、そんなものはとっくの昔に終わっていたのに、誰も気付かなかっただけなのかもしれない。

「イクサめ。とうとう我慢ができなくなったか」

 崩れた王宮と丘を見上げて、ジェロームは忌々し気に呟く。
 土煙の向こうでそれが唸り声をあげる。人の手には負えない怪物が目を覚ます。

 ルシェロ王都の戦い。
 後に同盟戦争と呼ばれる戦争の中でも節目となるこの戦いは、戦争とは別の側面を指して別の名で呼ばれることになる。

 ――九頭竜討伐戦と。



[18136] 三章 王都ルシェロの戦い5
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2017/01/23 19:52
「ッ……。一体何が?」

 突然体中を襲った衝撃に、シドニーは顔をしかめながら立ち上がった。

「……え?」

 そして気付いた。己の背後。王宮があったはずの丘が消失し、立ち上がる白煙の中で何かが蠢いているのを。

「あれ……は?」
「エレオス。かつてローランの守護として崇められ、そしてローランドに封じられたもの」
「伯父様?」

 思わず漏れた疑問に答えたのはジェロームであった。
 崩れた内壁の縁に足をかけ、忌々し気に白煙の向こうに居るものを睨みつけている。

「アレがこのような場所に居るということは、イクサは裏切ったということか」
「その通り」

 独り言のように漏れた声に答える者がある。
 見れば黒衣を纏った青年が、弾け飛んできた大岩の上にくつろぐように腰掛けていた。
 その髪は墨を吸ったように黒く、肌もこの大陸では見慣れない黒さだ。

「お初にお目にかかる策謀王。プレゼントは気に言ってくれたかな」

 そして喜色に染まるその瞳すら、夜の闇に染まったように漆黒だった。

「クロエ……ではないな。あやつも捻くれてはいたが、そのように顔に歪みが表れるほど性格は悪くない。とすれば貴様がアーストとやらか」
「おや。知っていたか。しかし裏切ったと言われるのは流石のイクサも心外だろう」

 そういってくくと笑うアーストの顔は、クロエと瓜二つでありながら明確な別人のそれであった。
 そう。それはむしろ人の不幸を嘲笑うネクロマンサーのような。

「クロエと、女神教会と通じていたのだろう。自国可愛さにリカムに付いたのかと思えば、その裏で寝首をかく準備を進めていたと」
「ふん。キルシュに用があったのでな。利用させてもらっただけのこと」
「なるほど。憎きキルシュを滅ぼしつつ、リカムの裏をかくつもりだったと。しかしそれでは戦後にピザンともめるとは思わなかったのかねえ」
「その時は私の首で収めるつもりであったわ。しかしローランドが滅びたとなれば、それも不要となったか」
「……え?」

 ジェロームが何を言っているのか、シドニーは咄嗟に理解できなかった。

 キルシュを滅ぼしながらピザンと和解するために己の首を差し出す。
 何故それほどキルシュを憎むのか。何故そう簡単に己の首を差し出せるのかなどとても納得いくものではないが、考え方としては分からないでもない。

 しかしその後。
 ローランドが滅びたとはどういう意味なのか。

「おや? 後継者にローランドの秘密を教えてなかったのか策謀王」
「知る必要もあるまい。どうせそれを実際に確認するころには国は滅んでいるのだ」
「……」

 アーストと対峙し振り向こうともしないジェローム。
 しかし会話の端々を拾っただけで、シドニーは分かってしまった。元よりエレオスの伝説は聞いたことがある。

 ――曰く、ローラン王国を守護した聖なる龍。

 その龍がローラン王国を引き継いだ形になるローランド王国でどのように扱われているのか、シドニーは聞いたことがなかった。
 しかしジェロームは先ほどエレオスはローランドに封じられたと言っていた。
 つまり――。

「……アレはローランドが滅びた時に現れる?」
「おお正解だ。中々頭が回るお嬢さんじゃないか策謀王」

 そう言って顔を歪めて笑うアースト。しかしシドニーは自らの出した答えを口にしながらも、頭の芯で理解することができないでいた。
 ローランドが滅びたという悪夢のような答えを。

「大方私の不在をついて侵攻したのだろう。いや。これほど短時間となると、イクサ自身が動いたか」
「ああ。今やローランド王都は死者の都だ。アンタも色々女神教会と通じて対策はしていたようだが、あんな三下どもではアンデッドはともかくイクサ自身には歯も立たなかったよ」
「ハッ。これだから人外どもは。こちらの策を力技で台無しにしてくれる」

 そう漏らしながらも、ジェロームの声は心折れたもののそれではなかった。

「シドニー。これを持ってピザンへ亡命せよ」
「お、伯父様?」

 そう言ってジェロームが差し出したのは、奇妙に歪んだ形状をした短剣のような何かだった。
 思わず受け取ってしまったが、その金属とも陶器ともとれない不思議な手触りに戸惑う。

「王宮を探してもないと思えば、やはりアンタが回収していたか」
「無論。何のために私が自ら手を下したと思っている」
「つまり放っておいても勝手に滅びるキルシュに直接引導を渡したのは、ただ憎いだけでなく俺たちに先んじるためだったと。冷徹なのか感情的なのか分からん人だなアンタ」
「ふん。覚えておけ小僧。そういう矛盾をはらんだ存在を人間というのだ。行けシドニー」
「で、でも伯父様!?」

 剣を抜き放ちながらかけられたジェロームの言葉を、しかしシドニーは素直に聞き入れることができなかった。
 目の前の黒い男は何かおかしい。見た目はとても強者になど見えないが、纏う空気が人のそれではない。
 ジェロームを置いていけばどうなるか、考えずとも分かってしまう。

「行けと言っている。これは命令だ」
「ッ!?」

 しかしそれでも、シドニーはジェロームの不器用な命令(願い)に従った。
 渡された短剣を胸に抱き、そこかしこに散らばった瓦礫をかき分け走り出す。

「それで? アンタが俺の足止めを?」
「ふん。嘗められたものだ」

 できると思っているのか。そう見下した笑みを浮かべて言うアーストに、ジェロームは不敵な笑みを浮かべて相対する。

「私とて二十七将に数えられた男だ。来い。戦場ではついぞ振るう機会のなかった私の剣を見せてやる」

 そう宣言すると、ジェロームは跳躍し巨石の上に佇むアーストへと躍りかかった。





 その光景に、ピザンキルシュ連合軍の兵は我が目を疑った。

 王宮を目前にしてグスタフの命令で足踏みを余儀なくされた兵たちを襲ったのは、雷を思わせる轟音と弾け飛ぶように四散した丘の残骸であった。
 家屋よりも大きいそれらは砲弾のように城内町へと降り注ぎ、幾人もの兵がその下敷きとなり絶命していた。
 それでも運よく生き延びた者たちが見たのは、丘ごと吹き飛んだ王宮のあった場所に立ち上る白煙。

「な、なんだアレ!?」

 一体何事かとその様子を見守る者たち。そんな彼らの前に白煙を引き裂いて身を晒したのは、巨大な蛇の頭であった。
 しかし一見すれば蛇のような頭蓋をもつその生物の口には、鮫を思わせる鋭い歯が剣山のように並び生えていた。
 加えてその身を覆う赤茶けた鱗。宝石を思わせる光沢を持つその美しい鱗は鋼鉄よりも固く、その身はそこにあった王宮を一回りするのではないかと思えるほどに長大であった。

「何だアレ!? あんなのありか!?」
「何本あるんだよあれ!?」

 ドラゴン。神と並び得る力を持つとされる世界の支配種族。
 さらに兵たちを驚かせたのは、胴体と思われる根元から伸びた首が幾重にも別れ、その先にそれぞれ頭が付いていたことだお。
 その数九。
 それは一匹だけでも人の手に余る竜が九匹居るも同然であった。

「ん? ……待てよ。まさか……」

 九つの竜の首の一つが、城内町を見下ろして口を大きく開く。
 何をするつもりなのか。そんなの決まっているだろう。

 竜が口を開けたのだから、それは食うか吐くかのどちらかに決まっている。

「ま――」

 瞬間竜の口から噴出する業火。
 頭上から降り注ぎ、地面へと至り舐める様に地を這うその赤い死に、瞬く間に百を越える兵たちが飲み込まれた。

「ブレス! よりによって火竜かよ!」
「うわあ。凄いなあ」
「いや、何でお前はそんな呑気してんだよ!?」

 誰もが慌てふためき逃げ場を探しているというのに、感心したように竜を見上げるカールにルドルフが声をあげる。

「いや。確かに今すぐ逃げ出したいんですけど、まあ何とかなりそうな気がするので」
「ああ!? 何とかなりそうって誰がどうやって……」

 ルドルフの文句は、いつの間にか自分たちに背を向けて悠然と歩いている男によって止められた。

「……団長?」

 コンラート。
 自分たちの長が斧槍を手に竜の方へ歩みだす。

「コルネリウス。瓦礫に埋まっている連中を救助しながら撤退しろ。幸いアレはあの場から動けないようだ。ブレスにさえ気をつければどうにかなるだろう」
「……団長はどうなさるおつもりですか?」
「俺は……そうさな。無謀だと分かっているのだがな。どうにもやらなければいけないような気がするのだ」

 そう言って笑うコンラートの顔に気負いはなかった。
 それを見て、コルネリウスもまた大きく息を吐き、迷いと恐れを振り捨てる。

「……了解。後ろはお任せください。ご武運を」
「応。では行ってくる」

 コルネリウスの言葉を受け、コンラートは軽快に駆けだした。

 恐怖はある。だがそれはかつてジレントで雷竜と向かい合った時のそれと比べれば随分と軽いものだった。
 頭が九つ。なるほどならば同士討ちでもさせてやるか。
 そんな風に考えてしまう程度には、その脅威を対処可能な存在として認識していた。

 果たしてそれは単なる慢心であったのか、それともコンラートの力が竜などものともしない領域へと至っていたのか。
 後者はありえないだろう。あの大口で噛み砕かれ、業火のブレスで焼かれれば、いかなコンラートと言えど絶命は免れない。

「だがまあしかし。何とかなるだろう」

 だというのに、コンラートは本当にそんな不確かな希望で走り出していたのだ。
 まるで誰かが。己の中に居る者が大丈夫だと言っているような気がして。

 そうしてコンラートは丘の残骸を乗り越え、王宮を囲っていた内壁を潜り抜け、九頭竜へと対峙する。

「これは……でかいな」

 見上げた竜のその巨大さは、ジレント共和国で戦った雷竜と遜色ないほどだった。
 しかし今回は首が九つ。単純にあの時の九倍の相手をするに等しい。

「確かになあ。しかしおまえさんも相変わらず肝が据わってんな」

 さて単騎でどう相手をするべきか。
 そう考えていたコンラートの隣に、いつの間にか一人の大男が並び立っていた。

「……ロッド殿? 何故此処に?」
「よう。まあ何故かと言われれば隠れて仕事の最中だったんだけどな。おまえさんだけじゃ荷が重かろうと出てきたわけだ」
「なるほど」

 隠密だという彼のことだ。この戦の影で何やら暗躍でもしていたのだろう。
 ならば姿を晒して大丈夫なのかとも思うが、彼はそういう細かいことは気にしないだろう。まことにもって隠密らしくない隠密だ。

「しっかし首が九本もあるとは厄介だな。まあ一人あたり二本も潰せば釣りが来るだろう」
「二本?」
「馬鹿言うんじゃないよ」

 それではとても足りないと言おうとしたコンラートだったが、それを遮るように女のよく通る声が響く。

「アンタらみたいな馬鹿力と違って、こっちはせいぜい陽動が関の山だよ」
「確かに。そもそもあれに心臓の類はあるのか?」

 両手に剣を手にリアが颯爽と瓦礫を乗り越えて現れ、それに遅れてグスタフが姿を見せる。

「だがまあ注意を引けばそれだけこちらの勝率は上がるんじゃないかい?」
「アレの注意を引こうなどと思える時点で、おまえも中々大物だな」

 さらにこちらへと向かってくるのは、エミリオとローシだ。
 世間話でもするような調子でやって来て、丘に根付いた九頭竜を見上げている。

「まったく。何でこんなに命知らずが集まって来るんですか」

 呆れたような声で言いながら、また一人死地へとやってくる。

「クロエ殿」
「今レインがツェツィーリエさんの手も借りて、このでかぶつにも通用するような大魔術の準備を進めています。倒せはせずとも瀕死程度には追い込めるでしょう」
「なるほど。では我々はそれまで時間を稼げばいいわけだな」
「そういう……動かないでください」

 納得するローシの言葉をクロエが肯定している最中に、事情など知ったことかとばかりに竜の頭の一つが炎のブレスを吐き出す。
 かつてデニスが見せた炎の魔術が小火に思える程の業火の奔流が真っすぐにコンラートたち目がけて疾走する。

「――女神よ」

 しかしそんな炎を、クロエは呪文詠唱を破棄した簡易障壁だけで防いで見せた。
 聖剣を持った右手を翳せば、淡い光の壁が顕現し炎の突進を受け止める。

「これくらいのブレスなら私の防御魔術で防げます。私はブレスへの対処を優先するので、それ以外は各自自分で何とかしてください」
「適当だな」
「何。十分だろう。こちらには神の祝福(ブレス)があるということだ」

 敵の攻撃の一つを防げるというだけでも、大いに助けになるに違いない。
 加えて稀代の魔術師が後ろに控えているのだ。
 ただ時間まで生き延びればいいなど、何と気楽なことだろうか。

「どこがだ。一飲みにされればひとたまりもないぞ」
「ならせいぜい逃げなよ。それを首の一本でも追っかけてくれるなら、そんだけ他が楽になるさ」

 総指揮官だというのに参戦するつもりらしいグスタフに、今更戻れと言う気もないのかリアがにやけながら発破をかける。

「エミリオ。おまえは逃げた方がいいのではないか。立場的に」
「いやいや。こんなおいしい状況で逃げるわけないじゃないか。立場的に」

 一方此方もやる気満々のヴィータ王家最後の生き残り。
 きっと己の主も怪我と呪いがなければ嬉々として参戦していたのだろうなと、コンラートは半ば呆れながら思う。

「さーて。じゃあ竜退治といこうじゃねえか英雄(大馬鹿)ども!」
『応!』

 魔術の一種だろうか、どこからともなく取り出した戦斧を構えたロッドが咆える。
 それを合図にして、英雄たちと竜の神話の時代を再現する戦いが始まった。



[18136] 三章 王都ルシェロの戦い6
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2017/01/24 19:39
 王宮のあった丘が弾け飛び、その中から九つ首の竜が現れるのを、ゾフィーたちは王都から離れた地平から見ていた。
 遠目にも、いや遠目だからこそその巨大さが分かる。
 その威容は消し飛んだ王宮に匹敵するほどの巨大さであり、頭の一つが身じろぎしただけで首が周囲の瓦礫をなぎ倒していく。

「あれは……もしやエレオスか?」
「知ってるの!?」

 その竜を見てその名を言い当てるゾフィーに、傍らにいたレインが驚いて声をあげる。

「ローラン王国の守護聖龍だ。首のそれぞれが八方を守護し、残りの一首がローラン王国そのものを守っていたとされている」
「ああ、何か聞いたことがあるような。ってそれアンタのとこが独立するよりも前の大昔の話でしょ。何で今更、しかもローランドならまだしもキルシュに出てくんのよ!?」
「私が知るか!?」
「お二人とも落ち着いてください。それどころではないですよ」

 言い合う二人を嗜めるツェツィーリエであったが、彼女とて現状を理解しきれず混乱している。

「……策謀王の仕業でしょうか?」
「どうかな。話に聞くジェローム王があんな理不尽なものに頼るとは思えんが」
「問題はアレを今どうするかでしょ。どうする? ぶっぱなす? というかぶっぱなしていい?」
「落ち着け魔術馬鹿」

 今にも呪文詠唱を始めそうなレインの頭を押さえつけ、どうしたものかとゾフィーは考える。
 この魔法ギルドのお姫様はとりあえずやってみてから考えるタイプのようだが、現状アレに対する貴重な攻撃手段であるのに後先考えずにやらせるわけにもいかない。

「あ、クロエがコンラートさんたちと時間を稼ぐから、その間に何とかしろって」
「精神感応か? しかしアレを相手に時間稼ぎに出向くとは、何とも命知らずな」

 そう呆れたように言いつつも、ゾフィーの顔は羨ましげであった。
 それはそうだろう。竜退治など正に神話の英雄の所業だ。
 もし体が万全であったなら、今すぐにでも聖剣片手にかの竜目がけて突撃していたに違いない。

「ツェツィーリエは魔力は回復しているか?」
「いえ。低位の魔術なら幾つか使えますが、最上位のものでもなければあの竜には通じないでしょう」
「となるとやはレインをどう使うかだが……。レイン。氷と雷ならどちらが得意、あるいはどちらがあの竜に効きそうだ?」
「得手は大差ないわよ。それでどちらが効きそうかといったら……火竜みたいだから氷でしょうね。でもある意味逆属性の真っ向勝負になるから、威力が足りなければまったく効果なしって結果になるかもしれないわよ」
「……安定を取るなら雷か」

 しかし必ず効くであろう雷を用いたところで、それが致命傷になるかと言えば疑問が残る。
 下手に深手を負わせて逆上させればどうなるかも予測がつかない。
 ならばここは賭けに出よう。駄目だったなら尻尾を巻いて逃げ去って、どうするかは後で考えよう。

「レイン。氷だ。射程は十分か?」
「うーん。できればもっと近く。その上で障害物がないといいんだけど」
「周りは城壁と丘の残骸だらけだぞ。障害物がない場所など」
「それなら私がどうにかできるかと」
「本当か?」
「お任せください」

 ゾフィーの問いに、ツェツィーリエは自信に満ちた笑みで言った。





 戦闘の始まりは竜の咆哮によって告げられた。
 長い首の内の一本がその身を鞭のようにしならせ、その巨体をコンラートたち目がけて振り下ろす。

「散れ!」

 咄嗟に放たれた警告は誰のものだったのか。
 その竜の一撃は大地を軋ませそこかしこにあった瓦礫を粉砕する程度には強力であり、そしてでかい図体にも拘わらずその速さは流星を思わせた。

「何。ただの打ち下ろしが速いのは道理。横の動きはそれほどでもないと見た」

 そう冷静な推測を漏らすのは、言葉の通り横へと跳んで竜の一撃から逃れたグスタフだ。
 その他の面々もこの状況でのこのこと出てくることはあるというべきか、誰一人として先ほどの竜の一撃を受けたものは居なかった。

「となると立ち止まらずに動き回るべきだが、大丈夫かエミリオ?」
「多分ね。……そんな顔をしないでくれよ。大丈夫。あれくらいなら避けられないことはないし、ダメだと思ったらさっさと逃げさせてもらうさ」
「最後まで付き合って名を上げるつもりではなかったのか。立場的に」
「無理して死んだら本末転倒だからね。立場的に」

 話を聞いているだけでは余裕に見えるエミリオとローシだが、この間にも竜の首は次々に襲いかかってきている。
 先ほどのように首を振り下ろしてくるもの。
 蛇のようにうねりながら食らいついてくるもの。
 そして地獄の業火を思わせるブレスをまき散らすもの。

「――女神よ」

 しかし次々と放たれる炎の嵐も、クロエが祈りを捧げれば勇者たちの体を覆う光の膜が現れ、防がれそらされていく。

「詠唱破棄の上でこの人数を同時に守護するとは。あの若さで枢機卿クラスかあの神官!」
「ハッハッハ。凄いだろうちの坊主は。これで俺らも攻撃に集中できるってもんよ!」

 クロエの神聖魔術の効力に目を見張るグスタフと、我が事のように胸を張り竜へと飛びかかるロッド。

「ぜりゃあっ!」

 そして全力で叩きつけられた戦斧により、一本の竜の首から鱗が飛び散り、肉が削げて鮮血が舞う。

「――!」

 それは竜からすれば表面を削がれた程度の傷であったが、それでも痛みは感じたのか。
 ロッドの攻撃を受けた首が地鳴りのような悲鳴をあげ苦し気にのたうち回る。

「感覚はそれぞれ独立しているようだな」
「だからなんだってんだい。鉄拳のやつでもあの程度しか削げないなら、私ら完全に囮にしかならないじゃないか!」

 ロッドの攻撃の結果を冷静に見ていたコンラートであったが、確かにリアの言う通りこちらから竜へまともにダメージを与えることは難しそうだ。

「だがそれを踏まえた戦い方というものがあるだろう!」

 そう叫びながら、コンラートは降ってきた首の一つを避けながら蹴りつけ、加速した勢いそのままに飛んだ方向にいた他の首目がけて斧槍を叩きつける。

「――!?」

 そしてそれもロッドと同じような結果に終わった。
 鱗こそはぎ取ったもののそれでも内の肉は硬く、その表面を僅かにこそぎ落とした程度で弾かれてしまう。
 だが他の者たちからすれば、コンラートと先ほどのロッドの攻撃は目を疑うものであったのは間違いない。
 何せ目に見えるダメージこそ少ないものの、斬りつけた勢いで竜の首が殴り飛ばされたように吹き飛んでいるのだから。

「やっぱアンタと鉄拳は人外だよ!」

 そう褒めているのか貶しているのか分からないことを言いながら、自分へと食らいついてきた竜の首をかわし斬りつけるリアも並の人間ではない。
 何せ斬りつけたのは、狙いすましたように先ほどロッドの攻撃で鱗が剥がれた部分なのだから。

「よし! 肉だけなら何とか斬れる。アンタら気張ってこいつの鱗全部剥ぎ取りな!」
「無茶言うんじゃねえ!」
「何年かかると思っている!」

 リアの命令に揃って食ってかかるロッドとコンラート。
 事もなげに言ってくれるが、二人とて全力で攻撃した結果がそれなのだ。
 弱音を吐くつもりはないが、休みもなしに殴り続けられるほど人間は辞めていない。

「ぐおっ!?」
「ローエンシュタイン公!?」

 大した成果もなく嫌がらせのように竜へと攻撃を続ける中、食らいつこうと迫った竜の咢をかわしたグスタフが、偶然迫っていた他の首に弾き飛ばされ地面へと叩き落とされた。

「やっべえな。死んだか?」
「ッ……生きている! 私には構うな!」
「……だそうだよ。下手に助けても文句言われるだろうし。放っておきな」
「確かに。プライドの高いお人だからな」

 どうやら大丈夫そうだと判断し、注意を竜へと向き直すコンラートたち。
 彼らとてそれほど余裕はない。次々と波のように連続で迫ってくる竜の首を相手にしているのだ。少し気を抜けばそれこそ命取りとなりかねない。

「クソッ! 無様な」

 一方まともに竜の首の一撃を受けたグスタフであったが、地面に叩きつけられたというのに鎧に傷が入った程度で済んでいた。
 無論衝撃を受けた体の節々は痛み悲鳴をあげているが、致命的なレベルではない。
 クロエの防御魔術は未だ健在だ。ブレス対策にと本人は言っていたが、その加護はあらゆる攻撃に対し発揮される。

「大丈夫ですか?」

 偶然にもすぐ近くまで飛ばされてきたグスタフに、クロエは戦場を睨めつけたまま問うた。

「ん? ああ。大事ない。助かった」
「それはよかった。しかしまだ戦意が落ちていないとは。コンラートさんたちといい、よくアレに立ち向かう気になれますね」

 聖剣を携え、術式を維持するために意識をさきながら放たれた言葉は、限りない本心であった。
 実際クロエの防御魔術が発動していなければ、先ほどの一撃でグスタフは再起不能になっていても不思議ではない。
 それが分からないほど無能ではないだろうに、何故この状況で前を向くことができるのか。

「ふん。できることとやるべきことをやっているだけだ」

 それに対し、グスタフは何だそんな事かとばかりに吐き捨て、地を蹴って戦場へと舞い戻る。

「……何というか。ピザンは気持ちのいい馬鹿が多いな」

 それを見送ったクロエは、呆れたように口で言いながらも笑っていた。
 そう、だからこそ。
 自分はこちら側に立つとあの時決めたのだ。

「見ているんだろうアースト。どうせこれもおまえの仕業だろう」

 未だ姿を見せない。英雄ではなく怪物へと成り果てた兄へと告げる。

「そんなに私が憎いか。ならせいぜい踊ってろ。双子だからと言って、私はおまえといつまでも向き合っているつもりはない」



[18136] 三章 王都ルシェロの戦い7
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2017/01/25 22:42
 時は少し遡る。
 コンラートたちが竜の下へと集うその少し前。策謀王と召喚士の戦いは、その僅かな時間で決していた。

「チッ。こういう結果か」

 舌打ちをするのは黒の召喚士。その背中からは血に濡れた剣の切っ先が突き出ている。
 足止めのはずであった一騎打ちは呆気なく終わった。
 一瞬で間合いを詰められたアーストはそのまま腕を斬り払われ、そしてあっけなく胸を貫かれたのだ。

 そもそも彼は召喚魔術に特化した魔術師である。
 近接戦闘の心得はあれど、その技は修練を重ねた達人の業に届くものではない。
 ジェロームをただ策を弄するだけの謀将と侮り、魔術の発動すら許されない近距離に身を晒した油断が招いた結果であった。

「ああ確かに弛んでた。慢心が過ぎるとおまえは笑うか。だが――」

 しかし致命的な傷を負いながらも、なおアーストは嘲るように笑っている。

「――強者にはその慢心が許される」

 その宣言を証明するように、ジェロームの頭がぐちゃりと潰れた。

「……」

 アーストへともたれかかるように剣を突き立てるジェローム。その背に抱きつくように、黒い体躯を持つ巨人が寄り添っていた。
 そしてその巨人は顔そのものよりも大きいのではないのかという大口で、むしゃむしゃとジェロームを頭から咀嚼している。

「流石だよ策謀王。アンタは何一つ間違っていなかった。ご丁寧に魔剣まで準備して。普通の魔術師相手なら間違いなくアンタは勝っていただろうよ」

 そう言いながら、アーストはジェロームの遺体を巨人に押し付けるように離し、自らの胸を貫く剣の柄に手をかける。

「そう。どこまでも普通だったのがアンタの敗因だ」

 そう言って、アーストは剣を無造作に引き抜いた。
 剣先から血が滴り落ちるが、その大元であるはずのアーストの傷口はゴムのように圧縮されて閉じ、そしてすぐに傷口そのものがなくなってしまう。

「チッ。とはいえ魔剣の一撃だ。中まで治すには時間がかかるか」

 いかにその身が人ならざるものへと変貌していたとしても、人と同じ機構を持つ以上心臓の機能の低下は体全体へと影響する。
 ただがわだけを似せた人形ではないのだ。

「ああ分かってる。あいつと遊んでる時間も余裕もない」

 だからアーストは、この場に弟が来るであろうことを予期しながら撤退を選択した。
 一度は敗れた相手だ。万全の状態でなければ戦うべきではない。
 何より二人の戦いは、より相応しい舞台で、ドラマティックであるべきだ。
 そうでなければ己があまりにも滑稽ではないか。

「どうせ最後にはぶつかり合うしかないんだ。光に裏切られた英雄と、闇に反逆した化け物と。歪み捩れた俺たちの行きつく先なんて破滅しかないだろう?」

 そうこの場に居ない弟へ向けて呟くと、アーストはジェロームの体を食べ終えた巨人を消し、逃げたシドニーを追い始めた。





 英雄たちと竜の戦いは続く。
 コンラートやロッドの剛力無双が竜の首を次々と殴り飛ばし、その他のものたちも鱗の剥げた弱い部分を狙い攻撃を叩き込み続ける。

 たまらないのは竜の方だ。
 例えその傷の一つ一つは人間にとって爪の先程の僅かなものだったとしても、それが全身を次々と襲うのであれば脅威だろう。
 故に竜の首は眼前をちょろちょろする虫たちを排除しようと荒れ狂い、他の首のことを考えないものだからぶつかり合うものすら出始めていた。

「うおっ!?」
「ロッド殿!?」

 そんな首の暴走に巻き込まれ、ロッドが弾き飛ばされ宙を舞う。

「くっそ! 大丈夫だ! しかしやっこさんお怒りだぞ。こりゃチャンスか?」
「どこが! この有様でその台詞。嵐の最中に水路の様子を見に行く爺かいアンタは!」

 リアの指摘通り、他のことなど知るかとばかりに暴れまわる竜の首は、その動きが予測できない分先ほどまでよりも厄介であった。
 しかも荒れ狂う竜の首は九本あるのだ。それらがブレスを吐きながらのたうち回りぶつかり回っているのだから、その中心部は嵐さながらの荒れ模様だ。
 当初こそ少し余裕があったものの、今では全員三度以上は首にはね飛ばされている。
 いくら致命傷にはならないと言っても、蓄積されるダメージは馬鹿にならない。

「まあ僕は最初からあまり近づいてないけどね」
「そうだな。そろそろ他の連中から『あいつは何をしに来たんだ?』と思われているぞ」

 暢気にブレスを避けながら言うエミリオに、ローシが呆れたように言葉を返す。
 実際のところ、この場で竜にまともなダメージを与えられているのはコンラートとロッドくらいのものだが、エミリオは弓という武器の特性上竜から距離を取っている。
 未だ一度も攻撃を受けていないと言えば聞こえはいいが、逆に言えば囮の役割すら果たしていない。
 最も彼は王族。しかも今となってはキルシュのヴィータ王家最後の生き残りだ。
 役立たずどころか今すぐケツをまくって逃げても誰も文句は言わないだろう。

「ああそれは居心地が悪いな。仕方ない。森の魔女殿に叩き込まれたとっておきだったのだけれど、格好つけるつもりで機を逃せばそれこそ格好がつかない」

 そう言いながらエミリオは少なくなった矢を弓につがえると――

「――風の聖霊よ。古の契約の下我が声に応えよ」

 ――一つしか残っていない目を見開きその呪文を口にした。

「――我が一矢は風刃を宿す。侃侃(かんかん)と貫きたまえ!」

 詠唱の完了と共に放たれた矢は、一見すればただ何の変哲もない矢でしかなかった。

 しかしその矢が不意にグンと強風にあおられたかのようにその軌道を変え、吸い込まれるように竜の首に刻まれた傷口へと吸い込まれていく。

「――爆ぜよ」

 そして矢が着弾(・・)すると同時、火薬が破裂したような爆音が鳴り響き、矢の命中した竜の首の周囲が見えない刃で切り刻まれ、肉がズタズタに引き裂かれる。

「――!?」

 矢を受けた竜が、それまでの比ではない咆哮を、悲鳴をあげる。
 痛みに耐えかねたように首を打ち付け回り、その度に切り刻まれた肉の一部が地面へと落ちていく。

「うん。やはり致命傷にはならなかったけど、嫌がらせ程度にはなったかな」
「……」

 やりきったとばかりに笑顔で言うエミリオに、そばにいたローシは何も言えず沈黙した。

「うわあ。えぐいね。人間がくらったらミンチになるんじゃないかい?」
「……あまり想像したくないな」

 思いがけないエミリオの一撃の威力に、コンラートとリアも感心するよりも先に恐れを抱いた。
 矢を媒介とした魔術。恐らくは付与魔術(エンチャント)の類だろう。
 クロエはエンチャントをただ杖の強度を上げるためだけに使用していたが、今エミリオがやったように武器に魔力をこめ炸裂させるものも存在する。
 最も身体強化と似たようなもので、肉体労働は苦手な魔術師の中には使い手が少ない魔術なのだが。

「……」
「おっと! どうされたロッド殿?」

 先ほどよりもさらに激しさを増した竜の攻撃を避けながら、急にロッドが黙り込んだのに気付きコンラートが問う。

「……いや。何でもねえ。おら、どんどん行くぞ!」

 しかし様子がおかしかったのは一瞬で、そう答えるころにはロッドは戦斧を構えて手近な竜の首へと殴りかかっていた。
 不審に思ったものの、コンラート自身もそれほど余裕があるわけでもなく、すぐさま戦いへと集中する。

「……! レインの準備ができました! 皆さん離れてください!」
「来たか!」

 クロエの言葉を聞き、一斉に竜から離れクロエのもとへと退避する。
 それを追うように首を伸ばす竜だが、根元がすぐさまには付いて来ず、鎖に繋がれた犬のようにバラバラに蠢く。
 しかしそれまで別々の意思で動いていた首たちが突然一つの生物としての本分を思い出したかのように、一斉に口をあけ喉の奥からギュルギュルと渦を巻くような音を立て始めた。

「九本同時ブレス!?」
「防げるか坊主!?」
「――――女神よ、我が主よ、私は貴方を頼り訴えます」

 焦る周囲をよそに、全員が逃れたことを確認するとクロエは祈りの言葉を紡ぎ始める。

「――敵が私を囲み、仇が私を罵り、悪が私を攻めようとも」
「詠唱なげえぞ馬鹿!?」
「ああ、もう黙ってな馬鹿!」

 淡々と口を動かすクロエに焦れたロッドが叫び、その頭をうるさいとばかりにリアがはたく。

「……この呪文は」

 コンラートにはその祈りの言葉に聞き覚えがあった。
 かつてジレントへと向かう道すがら、遺跡の中でデニスと対峙したときに使われたものだ。
 あのときはデニスの大魔術に押され、綻びを許しコンラートの片手が消し炭となる結果となった。

 では今回はどうか。
 相手は神話の時代の怪物である竜のブレス。しかも九体分だ。
 その火力はデニスの大魔術の比ではない。

「――私は恐れずただ願います、貴方が私の魂に触れ、私をお助けくださることを」

 だがあれから二年経った。
 あの頃より背が伸び、剣の腕もあげたクロエ。だが上がったのはそれだけではない。
 元より人並み外れていた結界魔術。その成長は今も止まることなく続いている。

「――女神よ、誠実にして潔白である貴方の僕をお守りください」

 竜の炎が解放される寸前。クロエの祈りが届き光の壁が周囲を覆い聖域を形成する。
 それとほぼ同時に九つの竜の口から炎が解き放たれ、光の壁とぶつかりあい周囲を膨大な熱量が包み込んだ。



[18136] 三章 王都ルシェロの戦い8
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2017/01/26 20:02
 ジェロームの命を受け逃げたシドニーではあったが、一体どこへ逃げるべきかと迷っていた。

 王宮や付近に潜んでいたローランド軍は壊滅状態。王宮へと向かって来ていたピザン軍は論外だろう。竜の被害により混乱している彼らに話を聞く余裕などない。
 かと言ってその背後にいるであろう本隊へ向かおうにも、市街地は崩壊しているし迂回しようにも瓦礫の山で辺りは迷路とかしている。
 せめて瓦礫のない場所まで出られればと思い走り回るが、彼女は知るよしもないが瓦礫は王都の周囲の平原にまで及び大地はえぐれ、とてもか弱い女の足で抜け出せる距離ではない。

「ッ……」

 それでもシドニーは歯を食いしばり、走るのにはとても適さない踵の高い靴で駆け続けた。
 状況はとても理解できたものではない。今胸に抱いている奇妙な短剣も、託されただけでその重要性など知りはしない。
 それでもシドニーは弱音を吐かず走り続ける。
 あの伯父がやれと言ったのだ。ならばそれが間違いであるはずがない。
 何より自ら時間稼ぎをしているジェロームの覚悟を無駄にはできない。

 祖国が滅んだのも、伯父が死を選んだことも、とても現実感がなくて夢の中のように地を蹴る足も頼りない。
 だけど生き残っているからにはやらなければならないことがある。ここまできて全てが台無しになるなんて嘘だ。

「よう。意外に足が速いなお嬢さん」

 だというのに。そいつは待ちくたびれたとばかりにシドニーの行く手の瓦礫にくつろいだ様子で腰かけていた。

「貴方は……」
「アーストだ。まあ覚えなくてもいい。どうせイクサの手駒の一つだ」
「ッ!?」

 ニヤリと口を歪めて笑うその姿に、シドニーは本能的な恐怖を感じて踵を返した。

「……え?」

 しかしその行く手を、羽の生えた悪魔のような人型が阻んだ。

「おっと動くなよ。妙な動きをすれば食っていいと命令してある」

 それだけではない。
 黒い体躯の巨人だの、空を飛ぶ悪魔だの、トカゲのような亜人だの。
 神話の時代の物語の中でしか見られないような異形たちがシドニーを取り囲んでいた。

「素直にそれを渡すなら見逃してやる。……どうせアンタが生き延びるのは予定調和だしな」

 付け加えられた呟きはシドニーには聞こえていないことだろう。
 ――ローランドは一人の姫を残して滅びる。
 それがベルベッドの、彼らの師が残した預言の一つであった。

 その預言にどれほどの意味と拘束力があるのかアーストは知らない。
 既にキルシュへの預言――王子は戦場にて流れ矢で死に、その後王もまた刃に倒れるというのは外れているのだ。
 このままではピザンの王が二度変われば滅ぶという預言も実現するか怪しいだろう。

「伯父様は……陛下はどうしたのですか?」
「ん? 言わなきゃ分からないほど血の巡りが悪いのか? さあ素直に渡せ。あの意外にお優しい王様なら、アンタに命をかけてまでそれを守れとは言わないだろう」
「……ッ」

 アーストの言葉にシドニーは唇を引き結び声を押し殺した。
 それを見てアーストは「ああこれはダメそうだ」と他人事のように思う。
 お偉いさんというのはこと自分が生き延びる術には通じているものだ。そうやって美味しいところだけを食いつくす故に、彼らは偉い人間でいられるのだから。

 無論そんな人間ばかりではないと人は言うだろう。
 しかしアーストはそんな人間ばかりだから絶望の底へと叩き込まれたのだ。
 だと言うのに。

「お断りします。私は伯父上の素直じゃない言葉には従わないと決めたのだから」

 何故世界は今頃になって人の上に立つ者の矜持などというものを見せつけるのだろうか。

「……そうか」

 ともあれ、ローランドへの預言もこれで外れることになりそうだ。
 この絶体絶命の状況の中、一人残された姫は自ら死を選んだのだから。

「いい覚悟だ。そして残念だ。アンタみたいな己を知る真っ当な人間ほど早死にするんだからな」

 そう言うとアーストは刑の執行を宣言するように右手を掲げた。あとは一声命じれば、異形たちは目の前の姫を引き裂き、食らい、蹂躙しつくすだろう。
 だというのに、シドニーは死を前にしてなお心だけは負けるものかと気丈にアーストを睨み続けていた。

 だがそれだけだ。
 覚悟だけでは誰も救えないし救われない。故にアーストという青年はここまで堕ちたのだ。
 だからもしこの少女が救われるとしたら、それは覚悟のおかげなどではなく、完全にただの偶然だったのだろう。

「なっ!?」

 一陣の旋風が、異形たちの間を駆け抜けた。

「相変わらず、貴様の召喚する魔物は美しくないですね」
「……アンタは」

 その声に聞き覚えがあった。
 あって当然だ。
 何せどういうわけか憎き弟に肩入れし、自らの敗北の原因となった人間の一人なのだから。

「……ティア・レスト・ナノク」

 サーベルを構えシドニーを守るように立ちはだかったのは、今はジレントに居るはずのカイザーの護衛騎士であるティアであった。
 そしてそれは一体どれほどの早業であったのか、彼女とシドニーの周囲に居た異形たちは気付けば八つ裂きにされ、存在を維持できず空気に溶け始めている。

「……何故だ? 何故このタイミングでおまえが出てくる!?」

 理不尽だ。あり得ない。
 元々得体の知れない女ではあるが、その行動原理は今は亡き主君である王太后とその忘れ形見であるカイザーに依存しているはずだ。
 クロエに味方したのとて、カイザーの友人だからというただそれだけのこと。今この場でシドニーに味方する理由などないはず。

「そして何より、相変わらず引き際を心得ていない」

 余裕を失い取り乱すアーストを無視して、ティアはサーベルの切っ先を向ける。

「せいぜい逃げ惑いなさい。私は貴方のお姉さんやクロエさんとは違って容赦はしませんよ」

 そう言って微笑むティアの顔は、圧倒的な強者のそれであった。





 私に考えがあります。
 そう告げたツェツィーリエの出した案を常人が聞いたなら「そんな無茶な」と呆れたことだろう。

「何それ面白そう」
「確かに」

 だが生憎と、この場に居るお姫様二人は一般的なそれとはかけ離れた非常識の塊であった。
 片方は妙案だと納得し、もう片方は面白そうに目を輝かせている。
 元より片方は王女でありながら騎士修行をこなした武闘派であり、片方は魔術師という常識外れの存在だ。
 当然と言えば当然の反応とも言える。

「では、準備はいいですか」
「OKよ。やっちゃって!」
「では――土の聖霊よ。古の契約の下我が声に応えよ」

 準備万端。そう言いながらも詠唱を始めたのではレインではなくツェツィーリエの方であった。
 一体何を始める気なのか。もしこの場を見ている第三者が居たならばそう訝しんだことだろう。

「――其は地の勢威を知るもの。隆々と、盛り立てよ!」

 唱えられたのは地の中位魔術。それ自体は地中から石柱を出現させる。せいぜい相手の意表をつくていどの大した威力のない魔術でしかない。

「キャアっ!」

 しかしそれもツェツィーリエのような高位の魔術師が用いれば、顕現する石柱の高さは天へと届かんとばかりに遥かなものとなる。
 その先端に立たされたレインは、予想してはいてもやはりその勢いに驚かされたらしく、悲鳴をあげながらバランスを取り天高くへと跳ね上げられる。

「――氷の聖霊よ。古の契約に従い我が声に応えよ」

 そして瓦礫の山よりも遥かな高みに至ったところで、レインは開けた視界の中に現れた九頭竜へと手を翳し詠唱を始めた。

 瓦礫が邪魔ならば瓦礫のない高さまで行けばいい。
 何とも単純で、何とも無謀な行いである。

「――其は天を支配する者。我は根源の理を欲する者。汝は無涯の果てに至る者」

 幸いというべきか、竜は突如現れたレインには目もくれず、揃ってクロエの障壁を焼き尽くさんとブレスを吐き続けている。
 ああよかった。あのブレスと正面から撃ちあって威力を削がれる心配はないわけだ。
 そう今まさにそのブレスと正面から対峙している神官のことなど心配もせずに、レインは己が知る中で最上位の魔術を発動させる。

「――嗚呼(ああ)終焉は此処に訪れた。極光よ。皆尽く弥終(いやはて)へと誘(いざな)え!」

 詠唱が終わると同時に、レインの前方に展開された巨大な魔法陣から光が放たれた。
 いや。それは極限にまで圧縮された冷気の塊であった。
 空を走るそれは空気中の塵や僅かな水分すら氷漬けにし、未だブレスを吐き続ける竜へと突き進む。

「いっけー!」

 ありったけの魔力を術式に注ぎ込みながらレインは叫ぶ。
 そして極光は空を穿ち、九頭竜の命を刈り取らんと襲いかかった。



[18136] 三章 王都ルシェロの戦い9
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2017/01/27 19:24
 その光景を、王都ルシェロに居た人々は救助の手も逃げる足も止めて見上げていた。
 王都の西方向から飛来した白い極光。それが九頭竜の頭の一つを飲み込んだ瞬間、凍り付くのと砕けて落ちるのは同時だった。

「――!?」

 それでも極光はなおも止まらず、九頭竜の頭を次々と飲み込んでいく。
 最初に極光にさらされた三つの頭は即座に凍り付き動かなくなり、その首によって直撃を免れた幾つかの頭も、極光の飛来する方向へと向き直ろうとして凍りかけの首を無理に動かしたせいで表面が砕けて折れた。
 全てを停止し零へと至る冷気の奔流。
 これほどの冷気を操れる人間など、レインを除いては師であるミーメ・クラインをおいて他に居ないであろう。

 私は姉に劣っていない。
 私は姉とは違う。
 私は私だ。
 私を見てよ。

 そんな少女が抱き続けたコンプレックスとそれに負けない意地と矜持の結晶は、確かに彼女が一流という言葉では足りない魔術師であることを証明した。

「ああ。知ってたよレイン。でも謝らなきゃいけないかもしれない。正直ここまでやるとは思ってなかった」

 その光景を結界越しに見たクロエは、知らずそう呟いていた。

 二年前の時点で、レインはマスタークラスではなかった。ただ年の割には優秀な、それだけの少女だったのだ。
 コンプレックスの固まりなレインと、憎まれ口が減らないクロエは喧嘩ばかりしていた。
 そんな関係でありながらもレインがクロエに固執したのは、憎まれ口すら言う相手が居なかったからだ。
 それほどまでに彼女は孤独だった。

 だから|自分は救われた(・・・・・・・)のだと今なら分かる。
 なんてことはない。孤独なのはクロエも同じこと。ただ孤独を辛いと思うような可愛げのある性格ではなかっただけ。
 そんなクロエに友人という温もりを与えたのがレインと、不本意ながらカイザーだったのだろう。

 それはもしかすれば傷の舐めあいのような関係だったかもしれない。
 だが二年の別離が結果的にその関係性を変え、相手を信じながらも依存しない強さを育ませた。

 ああおまえは強い。素敵だ。最高だ。
 友として誇りに思う。

「だから……ここからは私たちの仕事だ」

 極光が消え、静寂に包まれる王都。
 そこには砕けた竜の頭が七体。完全に凍り付き動かないものが一体。

「……仕留めそこなったか」

 そしてその表面の大部分を氷漬けにしながらも、なお健在なものが一体居た。

 仕留めそこなったとローシは言ったが、むしろ成果は上々だ。
 クロエは竜の頭は半分は残るとみていた。その予想をレインは軽々と上回ったのだ。
 だからこそ、彼女に謝ると共にその成果を称えなければならない。

「何。一本くらいなら何とかなるだろう」
「だな! あのときも結局トドメをさしたのはおまえさんだからな」

 クロエ以外の人間に落胆が広がる中、そう言って前に出たのはコンラートとロッドだ。
 そのなんと頼もしいことか。
 ただ武威を誇るだけでなく、その姿で人々を鼓舞する。正に英雄の背中だ。

「はあ。まあ確かにさっきまでよりはマシさね」
「ふん。元よりそのつもりだ」

 その背を追うように、リアとグスタフが両の手に剣を持ち進み出る。

「さて。ここからが正念場だが、どうするエミリオ?」
「当然付き合うさ。何ならトドメをいただけないかとすら思っているよ」

 そしてそれに続き、エミリオとローシも歩み出す。
 それらを見送りながら、クロエは折れそうになる膝に喝を入れる。

 実を言えば疲労困憊だ。ずっと防御魔術を維持し続けている上に、先ほどの結界魔術は掛け値なしの全力を尽くした。
 だがここで弱音を吐くことはできない。
 だってそんなの格好悪いじゃないか。

「レインの意地っ張りを見習うとしようか」

 そう呟いて、クロエは残りの魔力を総動員して全員を守護へと回す。

 戦況は一気に有利になった。
 何せ相手は首一本だ。しかも手足などないものだから攻撃手段は限定される。
 数の優位がなくなった以上、決して勝てない相手ではない。

「そら、こっちへきな!」

 リアがわざとらしく竜の頭の前に立ちはだかり挑発する。
 当然竜は激昂しリアへと襲いかかるが、即座にリアは退避し大口を開けた頭だけが取り残される。

「ハハッ。予想通りの反応だ。あまり大口を開けるものじゃあないと親に教わらなかったかい? 馬鹿に見えるよ」

 そしてそんな竜の前に出てきたのはエミリオだ。
 手にした弓からは既に矢が放たれており、吸い込まれるように竜の口へと飛んでいく。

「――爆ぜよ」

 そして発動した風の刃の爆弾に、竜は口内を切り刻まれ首をのけぞらせた。
 どうやら舌はそれほどの強度はなかったらしく、口から滝のような血と共に肉片が零れ落ちる。

「今だ!」
「承知!」

 そしてそこに同時に襲いかかるのはグスタフとローシだ。
 両側面から飛びかかった二人は剣を腰だめに構え、体当たりするように竜の目へと突き立てる。

「――!!」
「ぐぅ!?」
「がっ!?」

 そしてそれは弾かれることなく竜の目を潰したが、すぐさま二人は暴れまわる竜に跳ね飛ばされた。
 両の目は潰した。だというのに竜はなお苦悶の声をあげ、暴れまわり、激昂して得物を探し回る。

「大人しくしやがれ!」

 そんな竜を、頭上からロッドが戦斧で殴りつけた。
 その威力たるや、今までの比ではない。体重そのものを乗せた一撃は竜の頭蓋の表面を砕き、殴り飛ばされた竜は地面へと叩きつけられる。

「――おおおおっ!」

 そして地面へと縫い付けられた竜へと落下していくのは、斧槍を構えたコンラートだ。
 先ほどのロッドと同じように、自身の体重と剛力全てを乗せて、斧槍を竜の頭へと突き立てる。

「――!!」
「グッ!」

 先端部分が完全に竜の頭蓋を突き破り、竜が悲鳴をあげてのたうちまわる。
 その頭上で、コンラートは片手でなんとか斧槍にしがみついたまま、腰から聖剣を抜き放つ。

 その聖剣は竜の鱗すら切り裂く。
 今まで使わなかったのは、竜の体があまりに大きすぎてそもそも刃先が竜の急所へと届かなかったからだ。
 魔槍が聖剣に劣らぬ逸品である故に、コンラートは切れ味よりも竜を殴り倒して牽制する制圧力を優先した。

 だが今は違う。残る竜の首はただ一本で、万が一仕損じても挽回が効く。
 遠慮なしに聖剣を叩きつけてやるチャンスだ。

「――終わりだ」

 そして逆手に持った聖剣を、コンラートは深々と竜の頭へ振り下ろした。




[18136] 女神同盟
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:26b38996
Date: 2019/11/22 21:52
「肋骨は半分。右足にひび。両手の靭帯に全身の打ち身切り傷擦り傷内臓への負担に内出血その他諸々。まあ要するにしばらく絶対安静です」
「……なるほど」

 クロエから告げられた怪我の具合を聞いて、コンラートはしばし考え込むと納得したようにゆっくりと頷いた。

「何が『なるほど』ですか! 無事な部分の方が少ない重傷じゃないですか!」

 そんなコンラートを見て、彼が寝かされたベッドをバンバン叩きながら叫ぶのはツェツィーリエだ。
 それを見てクロエが呆れ混じりに笑い、コンラートは萎れたように身を縮めて弱り切った顔をする。

 九頭竜――エレオスを見事討伐することに成功したコンラートたちであったが、それで全ての問題が片付いたわけではなかった。
 何せ奪還目標である王宮はエレオスによって四散し元あった場所すら分からない状態だし、戦場となった城内町は瓦礫が降り注ぎ無事な建物を探す方が難しいほどだ。

 せっかく祖国を解放したというのに、キルシュ王国軍の兵士たちはその惨状を見て落ち込んでいた。
 もっとも彼らの新たな王であるエミリオが「アッハッハ。いっそ清々しいね」と笑っていたので悲愴さの欠片もなかったが。
 もしかすれば兵士たちを元気づけるために明るく振る舞っているのかと思ったが、レインに言わせればあれが素らしい。
 それはそれで中々にタフな王子様だ。

 そんな風に現状の確認と今後の対策のために走り回っていたコンラートだったが、不意に足に痛みを感じてたたらを踏んだ。
 その時はまあ怪我でもしたのだろうと放っておいたのだが、時間が経てば経つほど痛みはひどくなっていく。
 その内に全身が痛み出したがそれでも働き続け、見かねたコルネリウスに「私が代わりを務めますから」と説得されクロエに診てもらえば、こうして見事絶対安静を言い渡されたというわけだ。
 傷を見つけるたびに眉間のしわが深くなっていき「集中すると痛みを感じないって本当なんですね」としみじみとした様子で言ったクロエが印象的であった。

「まあいくら防御魔術をかけていたとはいえ、あの大質量の体当たりを何度もくらえばそうなりますよ。投石器や破砕機生身で受けるようなものですからね」
「そうだな。だからツェツィーリエ。この怪我は仕方がないことであり、それほど怒らずとも……」
「私が怒っているのは怪我をしているのに放置して動き回っていたことです」

 言い訳をすればぴしゃりと反論され、コンラートはこれは参ったとばかりに眉を下げた。
 確かに。もしコルネリウスが気を回していなかったなら、体を診てもらうのは後回しにして働き続けただろう。
 それで倒れたり最悪死にでもしていたらと考えれば、ツェツィーリエの怒りは至極ごもっともなことである。

「とにかく。絶対安静と言われたのだから大人しく寝ていてください。食事の手配や身の回りのお世話は私がやりますから」
「いや、そな……」
「分かりましたね?」
「……うむ」

 ツェツィーリエのような妙齢の女性に世話などさせられるか。
 そう言おうとしたコンラートであったが、整った笑顔で言われ、その迫力に頷くしかなかった。

「……」

 その様子を見ていたクロエは「従者というより世話女房みたいだな」と思ったが、ツェツィーリエはそういうからかいに慣れていないだろうし、今後の二人の関係がぎこちなくなりそうなので口には出さなかった。

「まあコンラートさんも立場的に多忙でしょうし、ゆっくりと休むいい機会ではないでしょうか。どっかの隠密は隠密のくせに『怪我が酷くて動けないから寝床貸してくれ』と押しかけてきましたし」
「ああ。何というか、自由なお人だなロッド殿は」

 兄弟子の行動に渋面を作るクロエだが、ロッドがエレオスとの戦いで重要な役割を果たしたのも事実なので扱いに困っているのだろう。
 今は赤剣騎士団に割り当てられた建物の一角で療養しているが「リーメス二十七将の一人が何故此処に?」という問いには「偶然通りかかった」と言い張っている。
 ジレント本国の彼の上司は、今の状況を聞いて頭を抱えているに違いない。

「それに休む口実ができてむしろ幸運だったかもしれませんよ。今更各国のお偉方はてんやわんやでしょうからね」
「む? 何か動きでもあったのか?」

 確かに王都に竜が出現したなどと聞けば大騒ぎになるだろうが、その竜も見事討伐されたあとだ。
 一体何が大事なのかとコンラートは疑問に思ったわけだが。

「あの後すぐにローランドのシドニー王女が保護されました。そして彼女の言う通りなら、大陸の情勢は一気に動きます」
「ローランドの。しかし保護だと?」

 いくら非戦闘員とはいえ、相手は敵国の王族だ。保護という名目に違和感を覚えたコンラートだが、その疑問はすぐに晴らされる。

「リカムはローランドを切り捨てました。既にローランド王都は死都となり生存者は皆無。ローランからローランドと名を変え神話の時代から続いた王国は滅亡しました」





「キルシュが片付いたと思ったら、ローランドが滅んだだと」

 ピザンの王都シュヴァーン。
 執務室にてキルシュ解放の戦いの顛末を報告されたクラウディオは、信じられないといった様子で呟いた。

「さすがの貴方もこれは予想外でしたか」
「いや……予想はしていた。むしろリカムとローランドがいつまでも仲良く手を繋いでいると思っていた人間が居ると思うか?」
「でしょうね。しかしあまりに早すぎる」

 リカムとローランド。同盟を組んでいた二国ではあったが、いつかどちらかがどちらかを裏切るだろうと誰もが予想していたに違いない。
 だがそれは両国とピザンがまともにぶつかり始め、戦力バランスが崩れた頃になると思われていた。
 今回確かにローランドはキルシュを奪還されたわけだが、ローランド本国は無傷で残っていたのだ。
 一体なぜリカムはこのタイミングでローランドを滅ぼしたのか。

「戦略的にも政治的にも意味はない。なら皇帝ではなくイクサの指示か」
「でしょうね。案外策謀王がイクサの裏をかきそうになり、慌てて潰したという可能性もありえるかもしれません」

 一体イクサが何を目的に戦争など仕掛けたのか。今でも分かっていることは少ない。
 十七年前も唐突に敵へと寝返った魔術師だ。いっそ理解不能な存在と割り切った方がいいのかもしれない。

「しかし頭が九つもある竜が出ただと? ゾフィーとグスタフの連名でなければふざけた報告を上げるなと燃やしていたところだぞ」
「どうやらイクサの配下には桁外れの召喚士が居るようです。ジレントを襲った魔物たちと雷竜もその者による仕業だと」
「コンラートとリアは重傷。グスタフも無理はするなときつく言われているか。倒せたのは僥倖だがこれが何度も現れるようならこちらがすり潰されるぞ」
「そもそもマスタークラスの魔術師と神官の援護があっての成果ですよ。一頭だけならリーメス二十七将クラスが複数いれば何とかなりそうだという意見もありますが」
「そう都合よく居るか」

 早期決着を付けるために戦力の比重をキルシュへと傾けていたというのに、結果はこれだ。
 もしエレオスが現れたのがキルシュではなくピザンとリカムの国境であったなら、全滅かよくて潰走していただろう。

「そう言う意味ではこれは救いの一手となるかもしれませんよ」
「救いどころか悪魔の一手に見えるのだが」

 にこやかに胡散臭い笑みを浮かべながらヴィルヘルムが取り出した書簡を見て、クラウディオは嫌そうに顔をしかめた。
 何せそれはアルバス教国の、女神教会からものだ。
 王位の継承を渋ったことに始まり、神官の戦場への派遣要請を断られたり、ゾフィーの治療すら拒まれたりと、クラウディオの個人的な感情で言えばリカムよりも嫌っていると言っていい。

「まあ読んでみてください。一通目から中々いい報告ですよ」
「二つあるのか……」

 言われて渋々と書簡を読み始めたクラウディオであったが、読み進めるにつれ喜びはせず、むしろ眉間のしわを深くしていく。

「……教皇が変わっただと?」
「はい。しかも新しく教皇に選ばれたのは修道枢機卿です」
「教皇は教区枢機卿から選ばれるという決まりはどうした?」
「慣例であって明確に定められたことではありませんからね」

 代々の教皇は、神聖魔術の使い手であり実働部隊である修道派ではなく、事務担当の教区派から選ばれてきた。
 これは実力主義の修道派に力を与えないためという建前があるためだが、今回はそれを崩すしかない事態へと女神教会が追い込まれた背景がある。

「教皇に選ばれたオンドレイ枢機卿ですが、一か月ほど前に教区枢機卿たちの昔の悪事を暴き立てたそうです。横領だとか賄賂だとか孤児の売買だとか」
「そんなもの末端の腐った連中なら日常茶飯事だろう」

 高尚な教えを説いている神官たちではあるが、中枢では政治闘争にあけくれており、監視の目の届かない末端では不正が横行していたりと組織としてはかなり腐敗している。
 それでも実権を握っている教区枢機卿たちが同じ穴のムジナだからと見逃されていたわけだが、そんな悪事とは無関係な修道派が政治闘争に殴り込んできたというわけだ。

「修道派の神官を動員してかなり強引にことを進めたようですが、教区派でも悪事に手を染めていない真っ当な神官からは支持されているようです。逆に言えば新教皇を支持しない神官は後ろ暗いことがあると自白しているようなものなので、主流からは外されているようですね」
「大丈夫なのかそれは? 武闘派が権力を握って異端狩りでも始めたら厄介だぞ」
「そこまで考えなしなら教区派の支持は得られなかったでしょう。まあ注意は必要でしょうが、それよりも問題はこちらの書簡です」
「一体何だというのだ」

 もう一つの書簡を受け取ったクラウディオは、眉をひそめながら封を開き読み進めていく。
 しかしその顔は、先ほどまでの比でない驚きに染まっていく。

「……女神教会が魔法ギルドと手を組んだだと?」
「それも驚きですが、もっと重要なのはその下です」

 ありえない。それこそ歴史的な事件と言える女神教会と魔法ギルドの歩み寄りも重要なこと。
 そう言われてクラウディオは改めて読み進め、そして驚愕した。

 ――女神教会は魔術師イクサ・レイブンを女神に反逆する異端と認定し、その殺害もしくは排除を決定した。
 ――同時にこれを擁するリカムもまた異端であると認定する。
 ――女神を奉じる者たちよ。集え。そして悪魔を討伐せよ。
 ――此処に女神を奉じる者たちの同盟。女神同盟の結成を宣言する。



[18136] 女神同盟2
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6aa7d7c5
Date: 2019/11/22 21:52
「帰還命令ですと?」

 キルシュの王都ルシェロ。
 戦とエレオスの出現により残骸だらけとなった街だが、まだ幾つか原形を留めている建物もあり、そのうちの一つを赤剣騎士団は仮の宿としていた。
 その中でもエレオスとの戦いにより重傷を負い絶対安静を言い渡されていたコンラートだったが、見舞いついでに告げられた言葉に驚きの声をあげた。

「ああ。良くも悪くも戦局は一気に動いた。敵が本腰を入れる前に部隊の再編成をと言った所だろう」
「陛下はリカムとローランドを相手に二面戦争を覚悟してこちらに戦力を集中していたはず。恐らくは我々は西の国境にあるリーメスの攻略に回されるのでは」
「なるほど」

 ゾフィーの言葉に続いて言うコルネリウスにコンラートは納得する。

 ローランド王国は滅びた。
 厳密にはローランドの首都が完全に死者の都と化したのだが、国の中枢を落とされ王も死んだとなれば滅んだも同然だろう。
 その用心深さ故に権力を中枢へと集めていた策謀王の政策が裏目に出た形だ。

 幸いというべきか王位継承権を持つシドニー王女はピザンに保護されたが、彼女自身に自ら国を奪還するような力はない。今のローランドに彼女を担ぎ上げるような気概のある人物も残っていないだろう。
 あるいはピザンが彼女を利用してローランドを再興するかもしれないが、それも戦後の話となるだろう。
 今のピザンにそこまでの余裕はない。

「イクサが本腰を上げ、しかも竜まで戦線に投入してきたとあっては兄上が焦るのも無理はない。そなたとリア。そして己自身。ピザンの最高戦力とも言える存在をどこに配置すべきか、頭を悩ませていることだろうな」
「……西側から一気に攻め上がるとお考えですか?」
「恐らくは。折角魔法ギルドが協力を申し出てきたのだ。地理的にもそちらの方が理にかなっている。もっとも東側を手薄にするわけにもいかぬ故、グスタフはこちらに残されるだろうな。キルシュの王都解放という功績をあげたのだ。しばらくは休んでいても文句は言われまい」
「でしょうな」

 何せあれほどグスタフへの苛立ちを露わにしていたゾフィーが言うのだ。
 夏戦争でのグスタフの禊は終わったと言えるだろう。
 それに二十七将たちに混じって竜に挑んで見せたのだ。
 将としてだけでなく、一人の兵(つわもの)としてもグスタフは大いに名を上げたと言っていい。

「しかしローランドを放置するわけにもいきますまい。アンデッドは放っておくと増えますぞ」
「そちらは女神教会が何とかするだろう。餅は餅屋。死者には坊主だ。修道派の教皇なのだから迅速に動いてくれることだろう」
「確かに」

 突然の女神教会の教皇の交代の情報は瞬く間に大陸全土を駆け抜けたが、前教皇をはじめとした教区派の不正を暴いたとあって、概ね好意的に受け止められている。
 さらにイクサだけでなく彼を擁するリカム帝国そのものを異端と認定し、魔法ギルドとの同盟を願い出たのも女神教会側だというのだから驚きだ。
 新教皇と彼を支持する者たちは、神官らしからぬ頭の柔らかさらしい。
 あるいは毒にも薬にもならないプライドよりも実を取ったのだろうか。

「……このことだったか」

 以前クロエが言っていた「近々女神教会に大きな変化がある」というのは、新教皇の台頭のことだったのだろう。
 クロエ自身は関わっていないような言い様だったが、事前に知っていたということは新教皇の派閥から信頼され情報を渡されていた可能性もある。
 どちらにせよ、魔法ギルドと女神教会の板挟みになっていた彼にとっては良い変化であるに違いない。

「ともあれ団長であるそなたがその有様では動くに動けん。国に戻ったところでしばらくは休養を申し付けられるだろうから、素直に休んでおくことだな」
「その言葉そのままお返しします」

 ゾフィーの言葉にコンラートは苦笑しながらそう返す。
 元々この姫様は長旅ができるような状態ではないのだ。クロエの治癒によって少しはマシになったとはいえ、そのクロエに出会ったこと自体が偶然のこと。
 必要性があったが故の無茶とはいえ、しばらくは大人しくしていてもらいたいのが本音だ。

「どっちもどっちなので素直に休んでください」

 しばらくは「そなたが」「いえゾフィー様が」と言い合っていた二人だったが、呆れたようなコルネリウスにぴしゃりと言われて揃って情けない顔を晒してしまう。
 どうやらこの副官も上司二人の扱いに慣れてきたようだ。
 そう思うとおかしくなり、同じことを思ったらしいゾフィーと二人で笑ってしまったのだが、当のコルネリウスは突然笑い出した二人にさらに呆れを深くするのだった。





「よう。久しぶりだな坊主」
「お久しぶりです。元気そうで何よりです」

 ほぼ同じ時刻。同じ建物にて。
 怪我をしたから休ませてくれと赤剣騎士団の下へ押しかけて来たロッドと、それを聞いて呆れていたクロエが顔を合わせていた。
 しかしクロエの反応に、ロッドは枕をクッション代わりに上半身を起こしながら「おや?」と感心する。

 二年前なら坊主などとあからさまに年少扱いすれば即座に文句が飛んでいたのだが、随分と余裕ができたらしい。
 我慢している様子はない。本当にこの程度の軽口は流せるようになったのだろう。
 そう思うと兄弟弟子の成長に嬉しく思うやら寂しいやら、中々複雑な思いをロッドは抱く。

「相変わらず好き勝手やってますね。隠密を廃業したわけではないのでしょう」
「そうは言うが俺が加勢しないとヤバかっただろうありゃ。白騎士二人はともかく他の連中は言っちゃ悪いが居ないよりマシ程度だ」
「それはそうですが」

 分かっている。分かっているからこそ文句も言いづらいのだ。
 決め手がレインの魔術だった以上ロッドが居なくても何とかなっただろうが、時間を稼いでいる内に確実に何人かは犠牲になっていただろう。
 それほどまでにこの男の怪力による制圧力は高い。

「それにおまえはおまえでそれこそ隠密みたいな真似してるらしいじゃねえか。ローランドのお姫様に名指しで呼び出されたって?」
「何で知ってるんですか」
「ああ、たまたま聞こえてきてな」

 そうとぼけて言うロッドだが間違いなく嘘だろう。
 部外者が居ると分かり切ってる場でそんなことを漏らすほど、赤剣騎士団の面々は間抜けではない。
 別に赤剣騎士団を探りに来たわけではないのだろうが、それでも情報を集めているあたり、腐っても隠密と言ったところだろうか。

「ジェローム陛下にお会いしたことがあるんですよ。イクサとの戦いで助力を下さることも約束していました。だというのに戻って来たらリカムに寝返ってるものだから騙されたのかと思いましたが、アレで中々義理堅いお人だったということでしょう」
「おまえあの策謀王とよく対等に話せたな」
「師と面識があったそうですよ」
「なんだと?」

 思わぬ言葉にロッドが珍しく余裕のない声を出す。
 しかしそれも一瞬で、恥ずかしいところを見られたとばかりに頭をかくと、目で続きを促す。

「十七年前。キルシュ防衛線に参戦するか悩んでいたロラン王子を焚きつけたのがベルベッドだったそうです。ロッドさんという兵器を育てていたのといい、余程キルシュを落とされたくなかったんでしょうね」
「誰が兵器だ。誰が」

 そう文句を言うロッドだが、実際ベルベッドが彼を弟子にしたのはそのためだったことは察している。
 ミーメやクロエとは違い、ロッドはキルシュ防衛線以降はベルベッドと顔すら合わせていないのだ。
 用済みとなったと考えるのが妥当だろう。

「あのおっさんも今はどこで何やってんだか」
「少なくとも身動きは取れないのでしょうね。動けるなら間違いなく回収していたであろうモノを見つけましたし」
「なるほど。それがおっさんがキルシュに拘った理由か」
「ええ。私や姉さんの守っていたものと同じでした」
「……」

 クロエの言葉を聞いて、ロッドの目の色が変わる。
 枕に預けていた上体を起こし、真剣な目でクロエを見る。

「坊主。俺はジレントについてんのはフローラへの義理があったからだ。だがそれだってとっくの昔に返したと思ってる。俺の力が必要なら言え。どうせ故郷と呼べる場所もない根無し草だ。世界を敵に回しても戦ってやる」
「そんな大それた真似をする予定はありませんよ。でも覚えてはおきます」

 そう言うと、クロエは礼をするように頭を下げた。



[18136] 女神同盟3
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6aa7d7c5
Date: 2019/11/29 21:30
 女神教会の新教皇による女神同盟の締結宣言は、大陸に大きな影響を与えた。
 リカムを敵と定め、同盟の名には女神を冠したのだ。悪く言えば「この同盟に協力しないものは女神教徒ではない」と脅しているとすら言える。

 さらに人々を驚かせたのは、その女神同盟に真っ先に参加を表明したのが、魔法ギルドを擁するジレント共和国だという点だろう。
 女神教会と魔法ギルド。国を越え大陸全土に影響を持ちながら、不倶戴天の敵とも言える二つの組織が手を組んだ。
 もうどちらが勝ち馬かなど馬鹿でも分かるだろう。
 今まで傍観を決め込んでいた小国家群は一斉に女神同盟への参加を決め、ピザンとリカムに次ぐ大国であるカンタバイレも重い腰を上げた。

 もっとも、今までほぼ単独と言える状況でリカムと対峙していたピザン王国の人間は、自分たちも参加することとなった女神同盟を勝ち馬などとは思っていなかったのだが。





「おめでたいことだな。有象無象が出てきたところで敵が増えるだけだろう」
「殿下」

 女神同盟が成立してからの諸国の動きを聞き、吐き捨てるように言ったゾフィーにコンラートは咎めるように声をかけた。

 今二人が居るのはピザンへと戻る馬車の中だ。
 賓客を乗せるような上等なものではない軍用の馬車の中には雑多なものも一緒に詰め込まれ、ガタゴトとよく揺れるそれは尻を痛めつけるが、確かに馬そのものに乗っているよりは幾分か楽ではある。
 ただその揺れのせいで固定もされていない荷物が雪崩落ちそうになるため、コンラートはその大きな体躯を生かして防波堤の役割を果たしていた。
 別に殊更強く押さえつけているわけではなく、ただもたれかかっているだけなのだが、怪我人にさせることではないと文句を言っても罰は当たらないだろう。

「事実だろう。これからの戦場には間違いなくイクサのアンデッドが出てくる。アレに対処できる人間は限られるし、殺されたら死に損ないの仲間入りだ。ろくな士気も練度も装備もない連中が来たところで生贄にしかならないだろう」
「それはそうですが」

 そのことを一番よく分かっているのは、コンラートを含むキルシュ防衛戦に参加した者たちだろう。
 キルシュのロドリーゴ枢機卿の手回しで神官たちが派遣されるまで、各軍はアンデッド相手に徐々に磨り潰されるような戦いを強いられていた。
 だがだからこそ今回の女神同盟の話はピザンにとって益ではあるのだ。
 神官と魔術師たちが戦線に加わってくれるならば、アンデッドへの対処も容易となる。

「そんなことは分かっている。私が気に食わないのは、その『女神同盟』などという御大層な名前を使って、ほぼ強制的に大陸全土を巻き込んだことだ。アンデッド対策の援軍ならば女神教会か魔法ギルドのどちらかでも十分なほどだったのだ。だというのに、何故その双方が参加した上で他の国を巻き込む必要がある」
「何故でしょうなあ」

 そうとぼけるコンラートだが、直感的にその意味を悟っていた。

 これは聖戦だ。
 女神の名の下に魔王を倒す神話の時代の再現。
 そのための「目撃者」は多い方がいい。
 女神の名を広めたいのか信徒を増やしたいのかは分からないが、そういう「演出」のためであるのは恐らく間違いないだろう。
 もっとも、そんなことをコンラートが考えてしまうのは、巫女の再来としか思えない少女の存在を知っているからかもしれないが。

「それにしても言葉はお選びください」
「何だ。今日はやけに小言が多いな。いつもは苦笑いで流しているだろう」
「それはそうですが……」

 ゾフィーの言葉に、コンラートは困りながら視線を馬車の一角に向ける。

「……」

 軍用の粗末な馬車には似合わない、薄水色のドレスを纏った少女がそこに居た。
 今は亡国となったローランドの王女であるシドニーだ。

 当初彼女の身柄はキルシュが預かるという案もあったのだが、当のエミリオが「うちにそんな余裕はないなあ」と言うのでそのままピザン預かりという形になった。
 そのためこうして赤剣騎士団の帰還に合わせてピザン王都へと護送しているのだが、随分と聞きわけがよくこんなボロ馬車に詰め込まれても文句の一つも言わない。

 だが仮にも他国の王女様である。
 うちの色々と規格外な王女様から何か悪い影響を受けないかと、コンラートは気を使っているのだ。

「そういえば先ほどから何度もコンラートを見ているなシドニー。やらんぞ。これは私の騎士だ」
「はあ?」

 突然何か言い出したゾフィーに、コンラートは思わず間の抜けた声を出していた。
 先ほどからシドニーがちらちらとこちらを見ていたのには当然気付いていたが、それが何故そんな話になるのか。

「あら。それは残念です。護衛をつけてくださるなら是非とも白騎士コンラート様をお願いしたかったのですが」
「むっ」

 しかし当のシドニーは突然のゾフィーの言葉に動揺した素振りも見せず、むしろ挑発するようにそんなことを言いだす。

「何故だ。ピザンには二十七将なら他にもいるぞ」
「叔父様……ジェローム陛下が何度か口にしていたのです。コンラートという騎士はおまえの父と同じ種類の馬鹿に違いないと」
「そなたの父――ロラン王子か」

 ロラン・ド・ローラン。
 策謀王子ジェロームの兄であり、騎士の中の騎士と謳われた英雄。

 キルシュ防衛戦に二人の王子が参加したことで勘違いされているが、元々ローランド王国はキルシュへの派兵に消極的であった。
 しかしそんな中で王命を無視する形で飛び出したのがロランだ。
 自分に従った少数の部下だけを引き連れて、アンデッドの蔓延るキルシュへと乗り込んだ。

 王命に背き義のために立ち上がった姿と、皇帝を討ち戦いを終焉へと導いたこと。
 そして終戦から時を置かず何者かの狙撃により命を落としたことにより、その名は英雄として祭り上げられ大陸全土へ広がった。
 リーメス二十七将の中でも最も偉大な勇士であったと言っても過言ではない。

 そんな英雄と似ているというなら本来なら喜ぶべきなのだろうが……。

「そうか。ロラン王子も馬鹿だったか」
「……」

 その似ている部分をして「馬鹿」と言われたのでは喜べるはずもない。

 いやジェロームの言いたいことも分かるのだ。
 義のために王命に背く。それが称えられたのは結果を出したが故のことであって、一般的に言えば間違いなく咎められるべきことであり馬鹿のやることだろう。
 そしてそういう馬鹿の同類だと言われれば、コンラートに反論する余地などあるはずがない。

「かつての敵国へと連れていかれ、誰が味方とも知れぬ立場へと置かれ籠の鳥となるのです。せめて信頼できる騎士に傍に居てほしいというのは我儘でしょうか?」
「そなたしおらしく言っているが、楽しんでいるな?」
「……バレましたか」

 儚げな、容易く折れそうな空気を纏いながら言うシドニーだったが、ゾフィーにつっこまれるとあっさりとかぶっていた猫を脱いだ。

「……」

 その姿を見て一瞬庇護欲のようなものを感じたコンラートだったが、見事に裏切られ女は恐いと改めて認識する。
 少なくともこの姫様方は、コンラートの頭の出来でどうこうできるような方々ではない。
 もっともそれでも請われれば姫を守る騎士として傍に侍ってしまうのが、コンラートがコンラート(馬鹿)である由縁なのだが。

「どうせならヴィルヘルムの兄様を口説いてくれないか。神職についているわけでもないのにあの歳で未だに独身というのは流石に外聞が悪い」
「無理でしょう。ヴィルヘルム様がゾフィー様を溺愛しているというお話は有名ですもの」
「……そうか。ローランドにまで伝わっているのか」

 自分の兄の醜聞がかつての友好国とはいえ大陸のほぼ反対側にまで伝わっていると知り、遠い目をするゾフィー。
 そんなゾフィーを横目に、どうやらシドニーもこの様子ならばあまり心配せずともピザンでやっていけそうだと、コンラートは少し安堵した。



[18136] 女神同盟4
Name: ガタガタ震えて立ち向かう◆7c56ea1a ID:6aa7d7c5
Date: 2019/12/06 21:29
 女神同盟が成立しリカム帝国への反撃が始まるかと思われた大陸情勢だったが、実際には上層部がもめにもめて今後連携がとれるかすら怪しい状況が生まれていた。
 その原因は魔法ギルド……ではなく、同盟の発端であるはずの女神教会だ。
 なんと彼らは自分たちで独自に部隊を結成し、リカムへ進軍すると言い出したのだ。

 これに待ったをかけたのはピザンとキルシュだ。
 彼らが当初女神教会に期待したのは後方支援。武器に祝福儀礼を施してもらえれば通常の武器でアンデッドの打倒が可能になるし、正規の手順で葬ってもらえればアンデッド化もしない。
 そういった形での支援を期待していたし、実際それが最も効率が良いのだ。

 しかし新たな教皇はそれを良しとはしなかった。
 女神の怨敵は我らの手で駆逐せねばならない。
 そう断言し自らも部隊を率いて前線へ出ると言い出したのだ。

 ハッキリ言ってこれには女神同盟に参加した全ての国が呆れた。
 何度も言うが彼らが女神教会に期待したのは後方支援。誰も前線で敵と殴り合えなどとは言っていない。

 要するに、女神教会の腐敗を正し改革を成し遂げた新教皇は、政治的手腕に優れたタイプの人間ではなく、ものごとを運よく勢いで解決してしまった脳筋だったのだ。





「魔法ギルドが同盟なんぞ組んだ理由が分かった。あいつらを放置していたら世界が滅びるぞ」
「それは言い過ぎ……とも言えないかもしれませんね」

 ピザン王都の王宮にて。
 執務室で頭を抱えるクラウディオと、その言葉を否定しきれずため息をつくヴィルヘルム。
 状況が好転すると思っていただけに、女神教会の暴走とも言える行動に疲れ切っていた。

「大体敵はアンデッドだけではないのだぞ。普通の兵士を相手に神官の集団をぶつけてどうする気だ」
「まあ治癒魔術が使えるので粘りはするでしょうね。粘るだけですが」

 治癒魔術といっても戦場で一瞬で傷を癒せるような高位の使い手は一握りだ。
 損耗を遅らせることはできても止めるほどではないし、そもそもそんな高位の治癒魔術を連発できるわけもない。
 そこを指摘しても教皇は「だが女神の敵は倒さねば!」と熱弁するだろう。
 そしてタチが悪いことに今回の改革に賛同した修道派の神官たちは、そんなありがたいお言葉に賛同する信仰に厚い者たちである。
 もしコンラートが現状を聞けば、クロエの言っていた「個人的には歓迎できない」というのはそういう意味だったのかと納得したことだろう。

「幸いなのは魔法ギルドのミリア様が変わらず理性的だったことでしょうか。最悪女神教会の狂信者たちが全滅しても何とかなるでしょう」
「言うなヴィル」

 狂信者とあっさり言ってのけたヴィルヘルムに「こいつやはり内心で激怒しているな」と気付くクラウディオ。
 計算高い彼にとって、理屈の通じない相手というのは嫌悪すべき対象なのだろう。

「まあデンケンの工作が成功すれば赤竜将軍と青竜将軍はこちらに寝返るだろう。ならばリカムの四将軍も残すは白竜将軍のみ。神官たちをつっこませてもある程度はイケルだろうが」
「イクサがそれを予想していないとは思えません。最悪寝返る前に始末されるのでは」
「それはそれでこちらにはありがたい……とも言い切れんな」

 イクサに殺されるということは、アンデッドとなりイクサの手駒になるのと同義だ。
 そして世界の敵とも言える状況に追い込まれたイクサが、国という容れ物と中身に拘るだろうか。
 皇帝を含めたリカムの主要人物が全員アンデッドにされてもおかしくない。

「デンケンに工作を急がせるべきか。戦後のことを考えてもせめて将軍クラスには生き残ってもらわんとこっちの手間が増える」
「戦後のことを考えられるだけまだ余裕があるかもしれませんね」

 事態が好転したとはいえ、負けるとは欠片も思っていないらしい兄に、ヴィルヘルムはやはり自分のような人間とは別のものが見えているのだろうと、今は亡き父を思い出しながら納得した。





 ピザン王国へと帰還したコンラートをクロエが訪ねてきたのは、彼が休養に入った次の日だった。
 キルシュに残っていたはずにもかかわらず間を置かずの訪問。まさか慌てて後を追ってきたのかと思えばそういうわけでもなく、単に彼の移動速度が常人のそれを越えているだけらしい。
 そういえばクロエは馬と同じ速度で走れると言っていた。
 もしや本気になればそれ以上なのか。ティアとどちらが速いだろうかと、最近顔を見ていない同僚を思い出しながら思う。

「まあわざと移動を早くしているというのもあります。すいません命令が届いていませんでしたと言い訳できるので」
「もしや何か理不尽な命でも受けたのか?」

 女神教会で改革が行われクロエの立場も改善されたものだと思っていたが、どうも本人の様子からしてそうではないらしい。
 そもそも最近分かってきたが、クロエは信仰心はあっても性格的に神官に向いていない。
 理由があれば戒律に背いても女神は納得してくれますと言い放つ、現実的なものの見方をするタイプだ。
 それは彼の性分なのかそれとも魔術師に育てられたが故なのか。
 ともかく熱心な女神教徒とはそりが合わないのは確かだろう。

「矛盾した命令を受けるのは今更ですけどね。どうも私を自分の直属に取り込みたいようでして。現代に産まれているはずの巫女を探せという任務も継続中なのに、教皇にはりついてどう捜せと」
「……」

 さらりと放たれたクロエの言葉に、コンラートは反応せずにいられた自分を褒めたくなった。
 巫女の捜索。
 つまりそれはモニカのことではないのか。

 モニカの容姿は伝承にある巫女そのものだ。
 仮にモニカが本当に巫女ではなかったとしても、そんな命令を女神教会が出しているということは何らかの形で利用される可能性が高い。
 否。既にモニカはピザン王国の伯爵という立場にある。
 いかに女神教会でも強硬姿勢はとれないはず。

 ともあれこのことはツィツェーリエと、モニカを気にかけてくれていて信用もできるマルティンにも話したほうがいいだろう。

「コンラートさん。もし私が神官をやめたら雇ってくれませんか?」
「なんだと?」

 そんなことを表に出さないよう必死に考えていたら、突然予想外のことを言われてコンラートは驚愕し聞き返してしまった。
 神官をやめる。まさかそこまでクロエは追い詰められているのか。

「正直に言いますと私が女神教会に所属していたのは情報を集めるためです。しかしその目的もほぼ完遂したので、これ以上所属しているメリットは薄いんです」
「……」

 あっけらかんと言い放つクロエに、薄々気付いていたとはいえそこまで女神教会への帰属意識が薄いのかとコンラートは呆れた。
 あるいはそうなるほど冷遇されていたのだろうか。

「しかし何故俺なのだ?」
「信用できるという点が第一。そして貴方ならイクサを倒せるのではないかと思ったからです」
「……」

 それは買いかぶりすぎだとは言えなかった。
 それ以上に、クロエが何故そこまでイクサに拘るのかが気になったからだ。

 以前クロエはイクサを親の仇も同然の存在だといった。
 つまりそのままずばり親の仇ではないということだ。
 ならば何故?

「コンラートさんなら予想はついているでしょう。イクサは私の実の父親です」
「……そうか」

 その告白への驚きはなかった。
 確かにコンラートは可能性の一つとして考えていた。

 イクサの本名はイクサ・レイブン。
 そしてイクサはクロエをこう呼んだ。
 テラス・レイブンと。

 さらにイクサは白髪交じりではあるが、その肌の色は他では見ないほど濃い褐色だ。
 名前と容姿。
 ここまで揃っているなら両者が血縁関係であると考えて当然だ。

「そのことは女神教会は?」
「知っています。だからこそ私は彼らに重要視されながらも疎まれた」

 それは当然だろう。
 巫女を守った女神の盾の直系であることは確か。
 だがその事実自体が、女神の盾の直系でありながらネクロマンサーとして世界の敵となったイクサの子だという証明だ。
 女神教会としては蓋をしたい事実に違いない。

「復讐か?」
「違います。そもそも私は物心ついたときには師に拾われ、イクサとろくに面識はありません。ですが……」

 そこまで言うと、クロエは右手を自らの胸へと当てた。
 そして爪を立て、内にあるものを握り潰すかのように力を込める。

「奴と会った瞬間に分かった。分かってしまったんです。確かに奴は私の父親だと。あんな化け物が、自分の父親だと!」

 クロエの性格からして、父親が犯罪者だとしても「それがなにか?」と気にしないだろう。
 だが実際に父と会ってみればそんな態度は取れなかった。
 本能が、自らに流れる血が、目の前にあるものが父であり、決して許してはならない悪だと叫び訴えた。

「奴を殺さないと私は自分という存在を許せない。私と奴は別のものだと証明しないと生きることは許されない! ……そんな個人的な理由です。私がイクサに固執するのは」

 そうそれまでの血を吐くような声が嘘のように、静かにクロエは言葉を終えた。

 ああ、これは駄目だ。
 コンラートではこの子に何もしてあげられない。
 彼の心は既に決意を固めてしまっている。あんな激情を自らの意思で抑え込んでしまえるほどに。
 コンラートでは言葉を尽くして彼の心を救い上げることはできない。
 だが――。

「俺がイクサを倒せるかどうかは分からないが、君が俺の下に来たいというのなら歓迎しよう。こうして言葉を交わした時間は少ないが、俺は君のことを信頼している」

 傍に居て見守ることはできるだろう。
 コンラートの言葉に、クロエはただ無言で感謝を示すように頭を下げた。


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