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[1515] 【完結】悪魔がたり(中編連作・現代・オカルト・ミステリ風味)
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d
Date: 2013/09/01 22:44

※この小説は、小説家になろう様にも投稿させていただいております



 序 “指さし”に関する宝琳院庵の考察




 人を指さす、という行為を、キミはどう思うかな。
 そうだね。一般的に他人を指さすという行為は大変無礼なこととされている。
 だが、通俗的な観念などに言及しても仕方がない。実際的に、人を指さすことに関して、キミはどう思う?

 ボクはね、指をさすという行為が、ひどく攻撃的なことに思えるのだよ。実際、北欧のほうのまじない・・・・には、指をさすことによってかける呪いすらあるらしいしね。

 私見だが、指さしの本来の意味というのは"集中"ではないかと思う。
 水鉄砲の理屈さ。水を、ただ飛ばすより、細い口を通したほうがよく飛ぶだろう? それと同じ。指をさすことによって、意思や感情を漠然とではなく、明確に向ける。集中した意識は、相応に強くなるのだろうね。だから、ともすれば攻撃的とも取られるのだと思うんだ。

 結局なにが言いたいのかって?
 いつも通り、ただの戯言さ。オチを求められても困るな。








 ユビサシ








 靴音が響いた。
 静まり返った校舎の中、それは驚くほど強く耳を打った。
 明かりひとつない教室の闇の中、鍋島直樹(なべしまなおき)は隠れていた。気配を悟られぬように息をひそめ、影を気取られぬよう身をかがめ、そうしながら、扉越しにようすを探っていた。

 ゆっくりと、だが確実に。靴音は近づいてくる。
 直樹は、呼吸が荒くなっていることを自覚して、息を抑えた。
 ほとんど同時に、複数個の呼吸音が、はたと止まった。
 同じようにして隠れている、直樹の仲間のものだった。

 姿が見えないのは、闇のせいばかりではない。教室が常とは一変していた。
 机は乱雑に積み上げられ、直樹の身長をはるかに越える板が乱暴に室内を切り分けている。およそ教室とは思えない雑多な空間。だからこそ身を隠すにはちょうどよかった。

 と、一条の光が廊下側の窓を撫でていった。
 靴音はますます近くなっている。
 それは扉の前で止まった。
 扉越しに相手の息づかいさえ感じる。
 直樹は息を潜めた。そうせねば確実に気取られる、そんな距離だった。

 扉に、手がかかる気配。
 たっぷり一呼吸の間。それが数倍にも感じられた。
 不遠慮に、警戒なく、扉が開かれ――機は満ちた。


『わっ!!』


 声をあげ、直樹たちは一斉に飛び出す。
 これ以上ないというタイミング。逃げる余地などない。

 だが、哀れな被害者となるべき標的は、懐中電灯を揺らしもしなかった。無論、悲鳴ひとつ上がらない。


「……わ」


 一拍遅れ、思い出したように、声を上げただけだった。


「あー、失敗失敗」


 頭を掻きながら、直樹は教室の明かりをつけた。
 教室に明かりがともる。
 標的――担任教師の千葉連(ちばつらね)を囲うように、異様な扮装をした男女が思い思いのポーズを決めていた。

 動く死体――ゾンビの扮装をした直樹を筆頭に、吸血鬼やフランケンシュタインなど、西洋ホラーのキャラクターが節操無く並んでいる。


「ちぇ、やっぱり千葉ちゃん驚かすのは無理か」


 直樹は肩を落とした。彼女を驚かそうと言いだしたのは彼だった。それだけに、悔しげな様子だ。

 それを慰めるように、蛇の髪を持つ妖女――メデューサの手が、直樹の肩に置かれる。
 中身は龍造寺円(りゅうぞうじまどか)である。直樹の幼馴染であり、よく見なれた顔のはずなのだが、怖いほどハマっていて恐怖が先に立つ。


「だから言ったろう? 恐竜並の神経してる千葉先生に、この手の悪戯は無駄だと」


 直樹の肩に手を置いたまま、円は達観したように目を細めている。
 小柄で、どうみても年下の少女にしか見えない担任教師は、さきほどから放心したように動かない。
 それを心配したのだろう。腰の曲がった醜怪な老人に扮した神代良(くましろりょう)が、おずおずと彼女に声をかける。


「だ、大丈夫ですか? ち、千葉先生」

「ダイジョーブだって。かわいい生徒のかわいいイタズラじゃねーか。な、千葉ちゃん?」


 生笑いする良の肩をバンバン叩きながら、狼男の格好をした鹿島茂(かしましげる)が、千葉教諭に笑顔を向けた。
 泣き女――バンシーに化けた多久美咲(たくみさき)も、「せんせー、大丈夫?」などと、みなの間から、爪先立ちになって顔をのぞかせている。


「すいません、千葉先生。俺は止めたのですが」

「けっきょく協力したけどね」


 ため息をつきながらの吸血鬼――中野一馬(なかのかずま)の発言に、全身包帯巻きの諫早直(いさはやなお)が冷静に突っ込んだ。


「やれやれ」


 と、ひとり、離れたところでわれ関せずを決め込んでいる、宝琳院庵(ほうりんいんいおり)。彼女だけはなんの扮装もせず、ただのセーラー服姿だった。
 生徒たちに囲まれ、ようやく状況を理解したのだろう。千葉連の顔が、見る間に紅潮する。


「もう、みんなもう高校生にもなって、つまらない悪戯しないの!
 それと鍋島くんに鹿島くん、先生をちゃんづけで呼ばないでって何回も何回も言ってるでしょう!」

「まあまあ、そう怒らないでくださいよ、千葉先生」


 むきー、と、子供じみた怒りかたをする担任教師をなだめるように、直樹はごく自然に取り繕った。

 反応の鈍さと童顔のせいで生徒に舐められがちな彼女だが、思考速度と頭のよさは別物だという見本のような人物である。
 そのうえ柔、剣道の段持ち。つきあいが長い、上級生ほど恐れる傾向にある教師なのだ。
 もっとも、「千葉ちゃん上級者」を自称する直樹や茂は、それを承知の上で、彼女をからかうスリルを楽しんでいるのだが。


「もう。こんな時間まで学園祭の作業するのだって、ホントはダメなんだからね。たまたまわたしが宿直だったから、特別にやらせてあげてるんだから」

「まあまあ……と、もう十時か……夜食にしないか?」


 説教モードに入りつつあることを察した直樹は、話題をそらした。
 とは言えまったくの方便でもない。夕食をとってからこちら、ずっと作業を続けてきたのだ。


「買い出しに出るか。俺と直樹と……あと一人ほど、手が欲しいな」


 直樹の言葉を受けて、まとめ役の一馬が一同を見まわす。


「ぼ、僕が行こうか?」


 と、おずおずと手を挙げたのは神代良だった。
 それを片手で制し、蛇女、円が前に出た。


「いや、神代、私が行く」

「り、龍造寺さん、女の子に」


 言いかけた良を、ふたたび制したのは茂だった。


「察しろって、良チン。あ、委員長、オレ牛丼とラーメンね」


 良の肩に手を置きながら、茂は一馬に向かって親指を立てた。笑顔でいるのだろうが、狼男のマスクの上からでは表情はわからない。


「じゃ、わたし食べ物と飲み物、適当によろしく」


 巻き付けた包帯と格闘しながら、直が手を挙げた。
 一馬は顔をしかめた。
 律儀な性格なのか、一馬には物事の曖昧を嫌う性質がある。


「直、注文は正確に頼む」

「いいじゃない一馬。ここはいとこ同士、以心伝心ってことで、なにか良さそうなもの買って来て」

「ちょ、みんな人の話……」


 勝手に進んでいく話に、ひとり取り残される担任教師。
 そこに威厳は皆無である。


「千葉センセ、なにがいい?」

「え、えーと……シュークリームとプリンをお願いします」


 生徒たちの勢いに流され、ちゃっかり注文してしまう彼女だった。








 徒歩にして五分。
 最寄りのコンビニエンスストアに入った三人は、買い物カゴを持って食料品ゾーンに突入した。
 むろん、扮装は解いている。
 中野一馬は、そのトレードマークともいえるメガネを端正な顔の上に載せていたし、円もその長く、つややかな黒髪を外に出していた。


「あー、なに買ったらよかったっけ?」


 直樹は一馬に尋ねた。
 注文の内容はすっかり頭から放擲されていた。
 頭脳労働に関して、直樹はこの友人に、おおむね任せているのだ。


「鹿島は牛丼にラーメン。直はサンドイッチ、と。宝琳院は肉気が食べられないからサラダ。神代や多久は小食だし、適当におにぎりやサンドを買っておこう」


 一馬が、すらすらと並びべ立てる。
 聞いておきながら、直樹は軽く引いてしまった。


「一馬。おまえ、ひょっとして、クラスのヤツの好み全部知ってんの?」

「いや? 全員は知らないし、好みまではわからん。だが、教室で食っているヤツ好みくらい、見ているからわかるだろう?」

「……お前を基準に常識を語るなよ。わかんないって、なあ、円」

「ん?」


 直樹は幼馴染の少女に同意を求めた。
 弁当の束をカゴに詰め込みかけた姿勢のまま、円は首を傾けた。話を聞いていなかったらしい。


「おい。もしかしてそれ、全部買うつもりか」

「そのつもりだけど?」


 不思議そうに問い返してきた円に、直樹はため息を落とす。


「おまえなあ。そんな金、どこにあるんだよ」

「金なら気にしなくていい。千葉先生から、軍資金をもらってきたからな」


 得意げに一万円を取り出して見せたのは、数馬である。
 むろん、あの担任教師がそんな気を利かせるはずもない。彼が言いくるめて出させたに違いなかった。


「いや、それ全部使っちゃえって意味じゃないだろうに」

「なに、受け取った以上はこちらのものだ。どんどん買っていいぞ」


 一馬が両手を広げ、円を煽る。
 円は当然のように、黙々と弁当を詰め込みだした。こうなっては最後である。


 ――千葉ちゃん、かわいそうに。


 直樹は心の中で、ひそかに手を合わせる。
 彼女の一万円は、いくらも残らないに違いなかった。
 弁当ばかり詰め込む円を、さすがにおかしいと感じたのだろう。一馬が怪訝な顔になる。


「龍造寺、そんなにだれが食べるのだ」

「一馬」


 直樹は諭すような口調で声をかける。


「円の胃袋は、不思議空間とつながってるんだ」


 その言葉に、中野一馬は顔を引きつらせた。
 普段はセーブしているだけに、つきあいの長い一馬も、知らなかったらしい。

 最終的に買い物カゴは三つ必要になった。
 心配していた予算も、なんとか範囲内に収まり、事なきを得た

 会計を済ませた直樹と一馬は、弁当を温め続ける大食女を、コンビニの外に出て待った。
 温い風が、肌を叩いて行った。


「明日にはもう、文化祭だな」


 ふと、一馬が口を開いた。


「そうだな」


 同意して、直樹は感慨深げに空を仰いだ。
 祭を前にした奇妙な高揚感のせいだろうか。星空が、いつもよりずっときれいに見える。
 好んで道具係になったわけではない。むしろ、無所属の帰宅部だったせいで押しつけられた形だった。
 だけど、こんな光景が見られるなら、悪くなかったのかもしれない。
 直樹はそう思った。

 高校二年の学園祭。
 おそらく、受験を控えた来年は、これほどのんびりとは構えていられないだろう。
 そう思えば、この祭が、一層特別なものに思える。


「直樹。お前、結局どちらなのだ?」


 ふいに一馬が尋ねてきた。


「なにがだ?」


 直樹は不審げに問い返す。
 質問の意図がつかめなかったのだ。
 一馬の視線が、気の利いた言葉を求めるように宙を彷徨った。


「龍造寺と宝琳院だ。どっちが好きなのだ?」

「……なんでお前がわざわざそんなこと聞いて来るんだ」


 直樹はうんざりしたようにため息をついた。
 思いのほか直接的な、そして聞き飽きた質問である。


「別に? ただの嫉妬だよ。外見だけなら佐賀高2年のツートップを独占している、お前に対する、な」


 飄々と構える一馬からは、言葉のような嫉妬の感情は見られない。
 多分に含みを持たせた言葉なのだろうが、その深いところまでくみ取ることは、直樹には出来ない。


「あのな、円とはただの幼馴染だし、宝琳院は、ありゃただの話し相手だぞ?」


 だから直樹は、もはや言い飽きたセリフを繰り返した。

 龍造寺円は直樹の幼馴染である。
 家が隣同士ということもあり、長い付き合いのせいもあるのだろう。かなり気安い間柄だ。

 宝琳院庵のほうは、すこし説明しづらい。
 偶然図書室で出会って、なにげなく話したのが最初だと思うが、それ以来なんとなく図書室で益体もない話をするのが習慣となってしまっている。

 それぞれ理由は違うものの、恋愛感情は皆無と言っていい。
 無論そのことは、一馬もよく知っているはずだった。


「直樹、すこしは自覚しろ。完璧超人の龍造寺が甘えるのも、孤高の女王の宝琳院と会話できるのも、お前だけなのだぞ?」

「む」


 直樹は言葉に詰まった。そう言われれば、返す言葉がない。
 知らないものが、ふたりと直樹の関係をどう思っているか。そのことに関して、直樹は痛いほど分かっている。


「いくら直樹がただのトモダチだと主張しようと、ほかの人間が信じるはずがあるまい。実態が分かっているクラスの連中はともかく、お前、クラス外ではかなり敵意を持たれているぞ?」

「……ふーん」

「韜晦するな。心当たりはあるはずだ」


 はぐらかすような返事をした直樹だったが、一馬はさらに踏み込んできた。
 さすがに。
 彼相手にそこまで突っ込まれては、正直に答えるしかない。


「まあ、無くはないが……お前、ひょっとして心配してくれてるのか?」

「む。まあ俺も、もしお前がひとりを選ぶんだったら、おこぼれに預かりたいほうだからな」


 視線を逸らしながら、一馬が答えた。
 明らかな照れ隠しだった。
 そんな一馬に、直樹は意地悪い笑みを浮かべる。


「諌早に言うぞ」


 直樹のまわりでうわさが立っているように、一馬も、いとこ同士で仲がいい諌早直とのあいだをうわさされているのだ。
 たがいにしゃん・・・とした美形で、並んだ姿が映えるだけに、こちらはなかば公認と言ってもいい。


「なぜ直が出てくる。それこそただの従姉妹だ」


 この話題にも、一馬は眉ひとつ動かさない。本当に不思議そうに話すものだから、直樹は思わず苦笑した。
 と。


「――なんの話だ」


 急に背後から声をかけられ、直樹は飛び上がった。
 心臓を抑えながら振り返ってみれば、そこに居たのは円だった。弁当を温める作業が終わったのだろう、両手に弁当の詰まった袋を下げていた。


「なに、他愛ない話だ。さあ、終わったのなら行こうか」


 ズレた眼鏡を直しながら、一馬は平然と誤魔化した。








「はっはっは、労働後のメシはウメーな!」


 笑顔で牛丼とラーメンをかっ込んでいるのは鹿島茂である。
 狼男のマスクは、すでにはずしている。締まった顔立ちは、見る者によっては強面と映るかもしれない。獣毛を思わせるグレーの髪が、余計にそれを強調している。

 神代良のような気弱な少年にとっては、苦手な部類に入るはずなのだが、存外相性がいいらしく、隣り合って座っている。


「の、喉、つめるよ」


 心配してコップを茂の前に置く良だが、その中身がコーラと言うのは、悪意があるとしか思えない。


「良チンそれコーラコーラ! 飲んだら余計に吹くっつーの!」


 ノリよく突っ込む茂。
 けっこうばしばし叩かれているのだが、良はなぜかうれしそうだ。


「まったく、少しは落ち着いて食べられないのか」


 そんな光景に、こぼしたのは中野一馬だ。
 サンドイッチを千切りながら、鳥のようについばんでいる。
 神経質な食べ方である。


「まあ、食事の仕方なんて人それぞれでいいじゃない」


 その隣で、諌早直がしたり顔で言った。
 やはりいとこである。サンドイッチを千切ってついばむそのしぐさは、一馬とよく似ていた。


「んわー、こんな時間に食べたらまた太っちゃうよう」

「こんな時だし、たまにはいいじゃないですかぁ」


 千葉連教諭と多久美咲のふたりは、そんな会話をしながら甘味にとろけている。
 おなじような溶けかたをしているので、並べると姉妹にも見える。どちらが妹か、あえて言うまでもないだろう。
 おっとり顔の美咲がおねえさんオーラを放っているせいもあった。

 宝琳院庵はといえば、さきほどから静かにサラダを口にしている。
 彼女の場合、食事中だけでなく、常時無言なのだが。

 そして龍造寺円は四つ目の弁当にとりかかっている。
 草食類の庵とは好対照である。引き立て役とも言えそうだ。


「……円、腹八分目にしとけよ」

「ああ、そのつもりだ」


 あきらめたように直樹が言う。
 素直にうなずくと、円は弁当を残らず自分の手元へ引き寄せた。
 それでも八分目だという自己主張らしい。
 初めて目にする連中は、あっけにとられている。
 直樹はため息をつくしかない。

 いつもの風景、というには、学園祭前夜という状況は特殊だが、おおむね二年五組の、普段の食事風景だった。


「でも、なんとか間に合いそうだな」


 空になった弁当の容器をかたづけながら、直樹は大分形になってきたセットを見やる。
 洋風オバケ屋敷という分けのわからないコンセプトに、はじめはどうなるかと思っていたのだが、どうやらいい形に仕上がりそうだった。


「ああ。前日になって全然出来てなかったときには、どうなるかと思ったが。やれやれだ」


 一馬も、終わりが見えてきてほっとしたのだろう。ため息をついた。
 クラス委員で責任感が強いだけに、進行の遅れに人一倍神経を使っていたに違いない。


「だから言ったろ? なんとかなるって」


 と、対照的に気楽なのは鹿島茂である。
 から笑いするグレー髪の少年に、直樹は眼を眇めた。


「鹿島、サボりまくってたおまえが言うなよ……千葉ちゃんのお目こぼしがなかったらぜったい間に合わなかったぞ?」

「まあ、間に合ったんだからそう言うなよ、ナベシマ」


 調子よく手をひらひらさせる茂に、直樹たちも苦笑するしかない。
 普段サボってばかり居た茂だが、今日の働き頭は間違いなく彼だった。


「さ、口ばっかり動かしてないでさっさと済ませるぞ」


 一馬が手を叩いて場を締めた。
 それを合図に、みなが動き出す。


「へいへい、おい良、壁紙の仕上げすっぞ」

「う、うん」


 首を鳴らしながら、茂が立ち上がった。
 良もあわてて右に倣う。


「一馬、小道具はだいたい終ったんだけど」


 直樹は一馬に尋ねた。
 衣装などの小道具を担当していた直樹たちは、食事前に作業を終えていたのだ。


「なら他の所を手伝うんだ。看板も、もう仕上げだ。鹿島たちか宝琳院を手伝ってくれ」

「おーい、終わったんなら背の高いヤツ――鍋島と龍造寺はこっち手伝ってくれー」

「おう」


 茂に声をかけられ、直樹は手を挙げて返す。
 背が高い、と、ひと括りにされた円が眉を顰めた。女性としては長身の彼女は、身長について言及されるのを嫌っているのだ。


「じゃあ、あたしは宝琳院さんを手伝うね」


 おなじく手の空いた美咲が、首をきょろきょろさせた。
 宝琳院庵の姿を探しているのだろうが、その姿はすでにない。
 彼女はすでに一人、作業を再開していたのだ。
 それをきっちりと把握している一馬が、教室の奥を指さした。


「宝琳院なら奥の方で魔法陣を書いている。まったく、凝り性もいいとこだろう。アレは」


 そう言って、一馬はため息をついて見せた。
 普段クラスにまったく貢献しない彼女が、珍しくがんばっているのだ。もういいとは言いづらいのだろう。


「さ、もうひとがんばりするか!」


 直樹は気合を入れると、新たな作業場へ向かった。








 それから一時間、深夜零時前。
 直樹たちは、ようやく作業を終えた。


「終わったぁ」


 筆を放り出し、諫早直が両手をあげて伸びをする。


「あー、こっちもしゅーりょー。っかれたー!」


 ほとんど同時に、鹿島茂もその場で大の字になった。
 直樹も、倣って黒板に背を預けた。
 作業中は感じなかった疲労感がどっと押し寄せてくる。だが、それ以上に、達成感が心地よい。
 
 ふと気になって、直樹は時計を見た。




 時計の針が、十二の位置で重なる。




 午前零時ちょうど。世界は反転した。






[1515] ユビサシ2
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d
Date: 2009/09/14 01:48


 突如、耳鳴りに襲われた。
 脳内で反響するような、痛みさえ伴うそれに、直樹は耳を押さえてもがいた。

 つぎの瞬間。
 世界が凍りついた。凝り固まった世界が、そのまま反転するような、異様な感覚。
 強烈な異物感が、反転する。おのれが異物になる。
 自らが異界に放り込まれたことを、直樹は否応なしに理解させられた。


「う、えええぇ!」


 神代良が、嘔吐くようなうめきをあげた。
 内臓に直接響くような異様な恐怖に、直樹も、こみあげて来るものを懸命に押さえる。
 直樹は見た。
 ボードと机で堰をされた教室。その奥から押し寄せてくる、実体のない、怒涛のごときものを。


「WWWWWWW……EEEEEE YA‐HAAAAああああぁ!!」


 それを声と認識出来た者が、何人居ただろう。
 この世のものではありえない、異様な音だった。
 それが、次第に意思を持った声と化していく。
 呼応するように、波濤が、人間の脳に認識できる実像かたちを結ぶ。


「ぐぅぅっどぃいぶにんっ諸人こぞりて! HA‐HA!」


 金縛りに遭ったように動けぬまま、直樹たちはそれの前に立たされることになった。
 漫画やアニメーションのような、ひどく抽象化された悪魔の姿だった。いや、虫歯菌の方が近いかもしれない。
 映像作品からそのまま出てきた様な、しかし確かな質量を持った異常な存在。
 それは一同の真ん中に陣取り、顔らしきものを一巡りさせ。
 唱えるように声を上げた。


「――ゲェーィムの時間だ!」


 黒光りする、三又に分かれた指が、直樹たちの前に示された。
 瞬間。
 心臓が裏返った。
 頭の中が真白になる。
 直樹は感じた。
 体の中から、直樹にとって決定的に重要ななにか・・・が頭上に集まっていくのを。

 目の前に、異様な光が生まれた。
 光は仲間たちの頭上から発していた。
 数字。
 光によって書かれた数字が、みなの頭上に浮かんでいるのだ。
 そう認識したとき、邪悪な声が再び響いた。


「ルールは簡単だ! いま、テメェらの頭に出た数字! その数字が大きいヤツが強い! 相手を指さして名前を呼んでみろ! BOM! そいつは死んじまう! ただし、自分の数字が小さかったら自分がBOMだ! HYA-HAHAHA!」


 クルクルと、それは宙を回転しながらはしゃぎ回る。


「数字が小さいヤツも心配するな! ご指名の時に二人、三人一緒で指させば、みんなの数字が足し算される! オマケに殺したやつの数字はこちらのものって寸法だ! HYA‐HOO!!」

「――何者だ」


 皆が異様な状況に圧倒される中、誰何の声が上がった。
 龍造寺円だった。
 直樹が横目で見ると、彼女は普段と変わらぬ様子で、悪意の塊に視線を向けている。
 それは答えた。


「オレは悪魔さ! お前らは子羊だ! HYA‐HAHAHA!」


 哂いながら回転する――悪魔。
 その仕草はコミカルながら、声には魔性が篭っている。


「なぜ、私たちがゲームをしなくてはいけない」

「なぜ? WHY? それはな、お前らが――生き残るためだよ!」


 悪魔が応えた。
 ひどく抽象化された両眼は爛々と輝いている。


「この世に出た瞬間、一匹喰って成り代わってやったんだよ! お前らの中の誰かが、オレの本体だ! ゲームを放棄してもいいが……そうだな、一時間、誰も指名しなければ、そのたび一人殺すと誓おうじゃねえか! 逃れるためには……わかるよな!? オレの本体を殺すっきゃないわけだ! HAHAHA! じゃあ、れーっつえんじょい、デスゲェーィム!」


 哄笑を残して、悪魔の姿は掻き消えた。

 呆然と、直樹は立ち尽くす。
 あまりの現実味のなさに、みな押し黙ったままだった。
 痛いほどの沈黙が、あたりを支配した。

 色調が反転した世界に紛れ込んだような。あるいは空気が硬質の――ガラスのように変化したような。
 そんな、たしかな実感だけが、あった。


「……っは、ははははっ! ったく、冗談きついね! 宝琳院か? それとも多久か? 変な演出はいいから、ホラ、ネタバレ」


 茂が、重い空気を振り払うように、教室の奥に向かって声を投げかけた。


「あの、いまの声、なんですかぁ?」

「……」


 図ったように、ちょうどふたりが奥から現れた。
 おびえたような多久美咲。対照的に宝琳院庵は、にやにやと口の端を曲げている。状況を楽しむような、そんな様子だ。


「宝琳院、お前の仕業か?」


 直樹が問いかけた。
 多久美咲がこんなことをやるとは、誰も思っていない。だが、自他ともに認める奇人である宝琳院庵には、こんなとんでもない悪戯でも、やりかねない雰囲気があった。

 だが、彼女はゆっくりと首を横に振る。


「宝琳院、おまえの所業ではないのだな?」


 一馬が念を押すと、宝琳院庵は言葉を惜しむように頷いた。
 そんな仕草が無愛想に見えないのは、彼女の生来の美質だろう。


「では、一体どういう事なんだ」


 一馬の言葉が、教室に響いた。
 それぞれの頭上に浮かんだ数字は、錯覚で済ませられるものではない。


「っは! なにかの冗談に決まってるだろ? なんだ? こうして名前呼びゃ相手が死ぬってか?」

「おい鹿島。冗談でもこっち指差すな」


 直樹は顔をしかめた。
 そうすれば死ぬと言われたうえで、指を差されるのは、気持ちのいいことではない。


「あー、ワリィワリィ。でも、こんなの試してみりゃわかるって。な、良チン」


 言って茂が目を向けたさきは神代良である。


「え、あ、う」

「いくぜ、良チン」


 しどろもどろになる良に、茂は冗談のように軽く、指先を向けた。
 彼が神代良を選んだのは、なんのことはない。彼から見えている数字のなかで、この小心な少年の数字がもっとも小さい“2”だったからだ。
 それに力関係上、指名しやすくもあった。


「ち、ちょっとまって――」


 だから。鹿島茂は、良の静止を聞かなかった。
 考えもしなかっただろう。
 彼の持つ数字が、最小の“1”だと。


「神代良!」


 ボン、と、音がした。
 鹿島茂が真っ白になった。
 一瞬、誰もがそう思った、つぎの瞬間。

 鹿島茂の形が崩れた。
 形を失い、砂袋からぶちまけられたように。茂だったものは地面にまき散らされた
 地面に積ったそれは――ただの塩。

 冗談のような沈黙が、あたりを支配した。


「――うわああああああっ!」


 長い長い数瞬の後、神代良が、爆発するように悲鳴を上げた。

 続いて多久美咲が、非現実的な、しかし無惨きわまる光景に、その場で倒れこむ。
 中野一馬も、諌早直も言葉を失い。
 宝琳院庵はひとり、眉一つ動かさない。


「う――」


 直樹も、思わず後じさった。
 血の気が引いている。冷たくなった指に、そっと指が絡んだ。
 幼馴染の少女、円のものだった。
 円の指は、直樹のそれよりなお冷たい。それが直樹に正気を保たせた。


「あああっ! 鹿島、くん!」


 神代良が、膝を落として嗚咽を漏らした。
 その目の前には、鹿島茂であった塩の山が残酷に存在している。
 頭上には“3”の数字が冷たく輝いていた。






[1515] ユビサシ3
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:4667f81e
Date: 2009/09/14 01:49


 鹿島茂は死んだ。
 だれひとりとして、それから口を開こうとしなかった。
 冗談のような死のゲーム。そこで、実際に人が死んだ。ごまかしようのない事実が、楽観を無慈悲に打ち壊した。

 鍋島直樹は、その場に座り込んでいた。
 龍造寺円がそれにそっと寄り添っている。ふたりの姿は、たがいをかばいあうようだった。

 諫早直は、気を失って倒れた多久美咲を介抱している。
 彼女が心配だというよりも、なにかをしていないと落ち着かないようだった。
 彼女たちのそばについている一馬も、どうしていいかわからないのだろう。ため息と頭をかくしぐさを繰り返している。

 宝琳院庵は、椅子に座ってみなを見降ろしていた。
 彼女だけが普段と変わらない。

 神代良は、すこし離れてひとり、膝を抱えて座っている。
 神経質に爪を噛み、らんらんと輝く瞳は虚空をさまよっている。

 間接的にとはいえ人を殺した。
 その事実が、小心な少年を追い詰めていた。無言の空気すら、彼にとっては非難であった。
 
 彼の心境を推し量れなかったことを、だれも責められない。
 あまりにも異常な状況に、だれもが自分のことで精一杯になっていたのだ。
 
 だが。
 たとえばこのとき、だれかが彼に、一言でも声をかけていれば、彼を励ましていれば。
 あるいは、のちの運命も変わっていたかもしれない。


「一馬」


 長い沈黙を破ったのは直樹だった。


「どう思う」


 相談する相手に中野一馬を選んだのは、やはり彼を頼る気持ちが大きかったからだろう。
 だが、一馬の反応は、鈍い。


「直樹か……すまん。落ち着くまで待ってくれ」


 普段冷静な彼が、ノイローゼのように頭を抱えている。
 直樹はおのれに活を入れた。
 頼れる親友がこんな状態である以上、自分で考えるしかなかった。


 ――まず、そうだ。わかることから整理していこう。


 直樹が最初に思いついたのは、全員の数字を確認することだった。

 中野一馬が“4”
 諫早直が“6”
 神代良が“3”
 宝琳院庵が“4”。


「――直樹、私の数字、わかるか?」


 目を向けると、むこうも似たようなことを考えていたらしく、円のほうから声をかけてきた。
 彼女の頭上、淡く輝く数字。


「“3”、だろ?」

「なんだって?」

「だから、“3”」


 円がわずかに眉をひそめた。


「ちょっと指で示してくれないか?」


 不審に思いながら、直樹は指を三本突き出した。
 円が淡いため息を落とした。


「自分の数字は認識できない。そんなルールがあるようだ」

「なんだって?」

「直樹の数字は――だ」


 彼女の言葉の、その部分だけが、無音。
 直樹はうそ寒いものを覚えた。

 と、会話に何か耳障りな音が混じった。
 その音に、直樹が耳をそばだてていると、それはやがて哄笑へと変わる。


「――HYA‐HAHA! 自分で気づくとはたいしたもんだ! YO‐HO!」


 大気をかき混ぜるように、異様な空間のうねり・・・をともなって。
 悪魔が、ふたたび姿を現した。


「YO! 一時間どころか十分も経たずに殺っちまうなんてたいしたもんだ、やるもんだ! 気づいての通り自分の数字はわからねえようにしてあるぜ! ゲームを面白くするための“エッセンス”ってヤツだ!
 じゃあ、この調子で“DEATH-GAME”楽しもうぜHYA‐HAHAHA!」


 言うだけ言って、思うさまはしゃいで、悪魔は再び姿を消した。
 予期せぬ不意打ちに、直樹の思考は微塵に吹き飛ばされた。
 再び、沈黙が教室を支配する。


「――っ! なんなんだよ!?」


 直樹が、抑えていた感情をぶちまけた。


「なんだよこれ! なんで俺たちが――」

「落ち着け直樹!」


 声とともに冷えた感触が、直樹の手を包んだ。
 円の手だった。
 彼女の瞳は、直樹を見据えたまま離れない。
 言葉はない。それがかえって直樹の心を落ち着かせた。


「――すまん、円。落ち着いた」


 急に気恥ずかしくなり、直樹は手を振りほどいた。
 円が緩やかに口角をわずか、持ち上げた。彼女の微笑だ。


「ああ。まずは落ち着いて考えるんだ。あの悪魔の言葉が正しいのなら、あと五十分は、猶予がある。それまでに、悪魔を探し当てればいい」

「悪魔を……見つける」


 直樹は、円の言葉を反芻する。
 悪魔は言った。これはゲームだと。
 開放されるためには、悪魔を見つけなければならないと。
 だから。
 制限時間までに悪魔を見つける。それが当たり前の解決策だ。


「そうだな。人が死んだ以上、馬鹿らしいなんて言ってられないんだ。なんとか見つけないと」

「そうだ、直樹。パニックを起こせば、悪魔が喜ぶだけだ」


 つけ加えられて、直樹は眼をそらした。
 やんわりと、さきほどの醜態を咎められた気分だった。


「だけど、どうやって――」

「直樹、名前は?」

「っ!? 鍋島直樹」

「好きな食べ物は?」

「ラーメン」

「家族構成は」

「両親とじーちゃんと妹と弟、知ってんだろーが」

「まあ、この程度でぼろを出すとは思えないけれど、やっておく価値はあるんじゃないか?」

「――って、いまのテストかよ!?」


 直樹は半眼になった。
 円は抜け目なく試したのだ。


「……悪くないな」


 横合いから声をかけてきたのは中野一馬だった。

 自分たちの中に、悪魔が混じっている。
 それがどの程度、入れ替わった人間の知識を持っているのかはわからない。
 だが、どれくらい巧妙に化けているのか。それを知るためにも、やっておく価値はある。

 一馬はそう主張した。


「俺も、やってみてもいいと思う。けど、正解を確認できるか?」


 直樹の指摘は的を射ていた。
 趣味嗜好性癖、誰もが誰ものことを知っているわけではない。
 だが、一馬は首を横に振って言った。


「俺はわかる」


 顔色は悪い。無理を押しているようにも見える。
 それでも。推して立つ彼の姿は、直樹の目に、なによりも頼もしく映った。

 一馬が持つ情報は確かで、質問を受けたほうが呆れるほどだった。
 気絶した多久美咲はさておき、まずは諫早直、それから龍造寺円、宝琳院庵と順に答えていく。
 爆弾を探り当てるような緊張をともなう答弁は、しかし滞りなく進んでいく。


「つぎは神代だな」


 神代良の番となった。
 みなの注目が、この膝を抱えた少年に集まる。


「――るさい」


 神代良が、小声でなにかつぶやいた。
 前髪に隠れ、その表情は誰にも見て取れない。


「神代?」

うるさい・・・・


 今度の言葉は明白だった。
 ぎょっとした一馬を尻目に、神代良は立ちあがる。眼が尋常ではない。


「どうせみんな、ははっ、僕が悪魔だって思ってるんだろ!? よってたかって僕を殺すつもりなんだろ! 殺される前に――殺してやる!」


 直樹は射竦んだ。
 それはまさに殺気だった。
 人を殺す。その意志を明確に浴びた経験など、むろん直樹にはない。
 小柄な良が、直樹の目には恐ろしい肉食獣と映っていた。

 良の指先が、直樹に向く。
 猛烈な悪意が指先に集中していくのがわかった。


「鍋島――」


 死んだ、と、直樹は思った。
 たしかな死の予感が、黒いもやとなって心臓を鷲づかみにする。

 だが、名を唱え終えるまでの一瞬。
 言葉と言葉のわずかな隙間に、彼女は体をねじこんてきた。


「――直樹!」


 悪魔の指名が終わる。
 だが、なにも起こらない。

 それも当然。
 良の指先にあるのは、指名者とは別人だった。

 直樹をかばうように、良の前に立ちはだかっていたのは――龍造寺円。

 神代良が、このとき逡巡を見せたのは、正しい。
 鹿島茂の行動から、良が持つ数字は、残る七人の中で最も小さい"2”だとわかる。茂の“1”を加えて“3”である。
 そして直樹を守る彼女の数字も“3”なのだ。
 おなじ数字の者を指名すればどうなるのか。わからぬ以上、迷って当然だった。

 だが円はためらわなかった。
 一瞬も指先を惑わせず、円の指先がまっすぐ神代良をとらえる。

 直樹は選択を迫られた。
 同じ数字のふたりが指名し合えばどうなるか。
 なにも起こらないか。あるいは両方死ぬか。


 ――円が死ぬ。


 そう思ったとき、直樹の指がとっさにあがった。
 円を救う、その一念。ほかのことなど頭にない。


『神代良!』


 ふたりの声が重なった。
 最後の瞬間、神代良の面に浮かんだのは、恐怖。
 顔をくしゃくしゃにしたまま、臆病な少年は塩の柱と化した。
 真っ白な塊が崩れていく。
 神代良のカタチが崩れていく。
 それが床に山を成したとき、直樹はようやく己の罪を思い知った。
 殺してしまったのだ。神代良を。ほかならぬ直樹の手で。


「なんだ……なんなのだ、お前たち」


 吐き捨てるような一馬の声を、直樹は他人事の遠さで聞いた。


「なぜ、そんなに簡単に殺せるんだ。おかしいぞ、お前ら」

「一馬」

「来るな!」


 直樹は体を強張らせた。
 拒絶、だけではない。一馬の目に浮かんだのは、たしかな敵意。
 直樹の表情を見て、一馬の顔に悔恨の色が浮かぶ。
 

「……すまない。言いすぎた」


 だが、直樹には、どう答えて良いかわからなかった。


「直樹くん、龍造寺くん」


 凍てついた空気のなか、声をあげたのは普段寡黙な少女、宝琳院庵だった。


「すこし席を外したほうがいい。たがいに落ち着くべきだ」


 その言葉が、みなの心に重く響いた。







[1515] ユビサシ4
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d
Date: 2009/09/14 01:50


 教室の扉を、直樹は後ろ手に閉じた。
 見送る一馬たちがどんな表情をしているのか、見たくなかった。
 直樹の頭からは、親友の見せたあの表情が離れてくれない。
 直樹は後悔を押し殺した。龍造寺円を選び、神代良を見捨てた、それは代償である。直樹が甘んじて受けなくてはいけないものなのだ。


 ――いまは。そう、いまは、残ったやつらが助かるよう、尽くそう。


 前をゆくふたりの少女を見やって、直樹はそう誓う。
 このふたりも、教室に残った一馬たちも、直樹にとってはかけがえのない友なのだ。
 だが、残った者のうち、すでにひとりは欠けている。








 教室を離れ、直樹たちは図書室に場所を移した。
 県下有数の蔵書を誇るといわれる、市立高校としては法外な規模のそれは、校舎の南側、二階と三階に渡る形で存在している。

 三階図書室は直樹たちの教室から棟続きである。
 直樹たちは大机を囲んで座った。宝琳院庵が他を寄せ付けぬオーラを放ちながらほとんど毎日使っているせいで、彼女の占有物となっている場所である。
 彼女につきあって入り浸っている直樹にとっても気安い空間である。


「さて。いま現在、我々が置かれた状況というものを整理してみようか」


 机に直接腰をかけた宝琳院庵が、直樹たちに指を立てて見せた。
 病的なまでに白い肌に、高揚のためだろうか、淡い紅潮がみてとれる。

 人死にまで出ているなか、彼女の態度は不謹慎なのかもしれない。
 だが、直樹にはそれをとがめる資格がない。なにより、彼女の積極的な態度は歓迎すべきことだった。


「我々はいま、悪魔を自称する存在により、死のゲームに参加させられている。
 ゲームの内容は知っての通り。これ以上犠牲を出したくなければ、速やかに悪魔を見つけ、殺さなくてはならない」


 宝琳院庵の言葉に、直樹は頷く。


「まったくもってナンセンスな話だが、これは夢でもなんでもなく、現実に起こっていることだ。さらに言うのなら、いまのボクの物差しでは測りきれない、科学物理学心理学、ついでに言うなら現実社会の常識、すべてから外れた事態だと言っていい」


 髪をいじりながら、彼女は一息つき、また口を開いた。


「あの悪魔。あれ自体は、まあ集団催眠の一種だとしよう。我々の頭上に浮かぶ数字、これもその類として、人が塩と化す。あれだけが説明不可能な、だが、たしかな現実だ。
 どんな技術をもってしてあんな真似ができるのか、見当もつかないよ。だから、まあ、ここは、悪魔なる超常現象を起こす存在があることを認めることにしよう。そして、それが基本的にルールに則って力を行使している。それはたしかだ。悪魔が、あの聖書に出てくるような存在かどうか、などということはこの際どうでもいい。それができる存在が、事実実際存在するのだ」


 直樹も円も、彼女の話に聞き入った。
 当たり前のことまで言葉にしなければ気がすまない彼女のセリフは、噛み砕いて理解するのに骨が折れるのだ。


「だが、あれが本物として、あれの言葉すべてを本当にするのは、存外危険なことかも知れないね」

「どういうことだ?」


 直樹が尋ねた。
 彼女は基本的に会話という形のコミュニケーションを、直樹としか行わない。自然、彼が話を進める役となっている。


「一体あの悪魔という存在は、なんのために、このようなゲームを始めたのか、ということだよ」

「なぜ……って、あんな化け物の考えなんて理解できるかよ」


 直樹は吐き捨てた。
 悪魔の思考など、想像するだにおぞましい。


「それだ。そこで思考停止するのはよくない。たしかに何の理由もなくするなんてこと、この世にいくらでもある。だが最初からそうと決めてかかるより、なぜ、と思考を推し進めるほうが建設的だと思わないかね。
 考えてみよう。なぜ、こんなことをする必要があるのか。相手になんの得があるのか」

「なんの得って……」

「――相手はリスクを負っている。自分もゲームに参加するというリスク。見破られれば、すくなくとも乗っ取った自分の現し身は失われる。その上でゲームをやる価値が、悪魔にはある。そういうことだろう」


 直樹が頭を悩ませていると、横から円が口をはさんだ。
 肯定するように、宝琳院庵はこくりとうなずいた。


「なぜ、アレが現れたのか。なぜ、このようなゲームを始めたのか。きっと、理由があるはずなんだ。
 時間があれば、まずそのあたりを突き詰めてみたいところだけれど、いまはなにぶん時間もない。そちらは置いておいて、いまは取り急ぎ、あの悪魔と我々の因果関係を考えてみよう。そこから、きっと犯人も見えてくる」

「――ちょっといいかな。すこし待っていてくれ」


 円が手を挙げて話を止めた。


「なんだ、円。トイレか」


 腰を浮かせた円に、直樹は声をかけた。
 返ってきたのは拳骨だった。
 軽く叩いたつもりなのだろうが、彼女の力は並ではない。


「直樹くん。キミはデリカシーというものを心得たほうがよいと思うよ」


 痛みで頭を抱える直樹に、宝琳院庵がため息を落とした。


「で、宝琳院。いったいだれが悪魔なんだ? 見当くらいついてるんだろう?」


 いまだ頭をおさえながら、机に腰をかける少女に、直樹は問いかけた。

 だてに彼女と会話を重ねてきてはいない。
 会話の進め方から、彼女がすでにある程度の答えを出していることを、直樹は悟っていた。


「まあ、龍造寺くんが帰ってくるまで待とうじゃないか。それほど時間がかかるということもないだろうしね。その間に、そうだね、キミの考えを聞かせて欲しいな」

「俺の考え――って、む」


 直樹は思考を巡らせた。
 だが、手がかりすらつかめていない状態で、だれを疑えというのか。
 本人確認のための質問も、結局悪魔の偽装が、すぐにぼろが出るようなものでない事を確認させられただけだった。


「深く考えなくていいよ。キミの感じたことを、率直に教えて欲しい」


 頭を抱えてズルズルと沈み込んでいく直樹に、宝琳院庵が助け船を出した。


「異常すぎてわけわからん、ってのが、感想だけど……そうだな。まともな感じがする」


 それでも首をひねりながら、直樹が出した答えはそれだった。
 少女の口の端が、わずかにあがった。


「ほう、まとも、ね」

「もちろん異常なんだが、悪魔ってもっとめちゃくちゃと言うか、破天荒と言うか、そんなイメージがあったからかな。それにしちゃまともすぎる。まるで人間が考えたみたいなゲームだな、と思う」

「ほう……」


 宝琳院庵は拳を顎に押し当て、うなるように喉を鳴らした。
 そのあたり、つくづく猫っぽいと直樹は思う。思うだけで口にしないのは、学習の成果である。


「すまん。的外れだよな」

「いや、鋭い」


 慮外の言葉に、直樹はきょとんと眼を開いた。
 少女が苦笑を浮かべた。


「一面を突いている、と言うことさ。理解はできずともあちらにはあちらのルールがある。そしてそれは、人の感覚に近しい。ボクも、漠然とだがそんな印象を受けた。
 むろん、だからといって状況が変わるわけではない。だが、まともに推し進めれば、正解にたどり着くことができる。そんな手ごたえを、ボクも感じた」


 少女は己が指を直樹の鼻先に押し当ててきた。
 不敵に笑うその姿は頼もしい。だが同時に、彼女には似つかわしくないと、直樹は思った。
 良くも悪しくも、いつもの彼女のテンションではない。
 直樹はそのことに不安を感じざるを得ない。


「龍造寺くんが帰ってくるまで、ただ待つというのも建設的ではないね。推理とは関係ない、悪魔というものに関して考えてみないか」


 と、彼女は、そんなことを言ってきた。
 直樹は首をひねる。


「悪魔、っつっても、あれだろ? なんか漫画とかで敵っぽいヤツ」

「……その認識で真実に近しいものが見えているのだから、呆れたものだ」


 宝琳院庵はあきれたように息を落とした。深いため息だった。


「悪魔、というのは諸宗教にみられる、煩悩や悪、邪心などを象徴する超自然的な存在をさす言葉だ。一般的にはキリスト教における神の敵対者を指すのではないかな? キミに文学的教養を期待しているわけではないから、たとえばファウストなどを引き会いに出すことは止めておこう。悪魔にたいする細かい検証は端折るとしても、あの自称悪魔の容貌は、悪魔の描写の範疇に収まる。
 アレが悪魔、ないしはその鋳型に自分を当てはめている存在だとしよう。なぜ、アレは現れたんだろうね」

「なぜ……って、ゲーム?」

「それは、手段や目的であっても、どうやって現れたかという謎を解くものではないよ。我々とはなんの縁もない悪魔が、なんとなくこんなゲームを始めた。そう決め付けるのは、悪魔が我々とはなんの縁もないと証明してからでも遅くはない」


 宝琳院庵はそこで言葉を止めた。
 こちらの言葉を待っているのだと気づいて、直樹は思考を巡らせる。


「なにが言いたいのか分かりにくいけど、ひょっとして、あれか? お前が描いた、あり得んほど凝った造りの魔法陣。あれのせいで出てきたって言いたいのか?」

「なかなか素敵な着眼点だ。あれはボクがルーン文字とかを適当に配置してそれっぽくでっち上げたものだが、それでも偶然召喚陣の役目を果たしたという可能性は否定できない。その場合、悪魔容疑者はボクと多久くんかな?」


 自分を容疑者に加えることにためらいがない。この辺りの常人離れした客観性というのは、こんなとき、いっそ頼もしい。


「まあ、いまは容疑者の話じゃない。ボクたちの中にキリスト教信者はいないし、もちろん悪魔が興味を引くような聖人もいない。それでも悪魔が現れた理由トはなにか。
 ボクは、現れたんじゃなく――喚ばれたんじゃないか、そう考えている」

「呼ばれた?」

「ああ。それが、ボクらが持ち合わせる縁として、一番実際的ではないかと思うのだよ。誰かが、おまじないのノリで喚び出してしまった、とかね」

「そんなことが、あり得るのか?」

「かなり有力だと思うよ。すくなくとも教室の魔法陣から喚び出されたと考えるよりは――」

「すまない。待たせた」


 扉を開けて入って来たのは円だった。
 彼女の軽い会釈に目線で応え、宝琳院庵は居住まいを正した。


「ちょうど龍造寺くんも来た所で、解決編といこうか。もっとも、龍造寺くんなら見当くらいついているかもしれないがね」


 宝琳院庵がいたずらっぽい瞳を直樹の幼馴染に向けた。
 彼女が他人に向けて話しかけるという異常事態に、直樹は眼をしばたたかせた。
 やはり今日の彼女はどこかおかしい。


「いや、さきに宝琳院の推理を聞きたい」

「ふむ。なら応えさせてもらおうか。この事件、考えるべき所は悪魔が召喚された手段とタイミングだ。直樹くんとも話していたが、教室の魔法陣で偶然召喚されたというケースも、無論考えられる。だが、ボクは、悪魔が召喚されたのは、あの場所あの時間である必要性は、必ずしも無いと思うんだ――つまり」


 宝琳院庵はつき立てたひとさし指を、円から直樹に流してみせる。


「あの時点より前から、犯人は悪魔に乗っ取られていた。そう考えることもできるということだ。その場合も、容疑者はおのずから絞られてくるだろうね」

「どう言うことだ?」

「あれが人により召喚されたモノだとすれば、かなり専門的な知識が必要となる。その手の専門書を読む機会など限られている。インターネットで調べるにしても、本物にいき当たるには、ネットにかなり熟練していなければ不可能だろうしね」

「当てはまるのは、神代や一馬あたりか」


 視線を宙にめぐらせて、直樹は名前を挙げた。
 ただし、直樹はIT関係にうとい。ふたりがネット関連に詳しいのはたしかだが、宝琳院庵の求める技量をもっているかまでは判断がつかない。


「ところが、もうふたりほど容疑者が上るのだよ」

「ふたり?」

「ああ。そしてそれこそが、今回の悪魔の最有力候補と言ってもいい。それは――」


 彼女は息をため、勿体をつける。
 注文に乗って、直樹も身を乗り出す。


「それは?」

「宝琳院庵!」


 突然。
 横合いから声が叩きつけられた。
 言葉の意味を理解しるよりはやく。彼女の全身が、残酷なまでに無機質な白色に変わった。
 彼女が崩れる、そのさまを、直樹の瞳は冷然と映し続ける。


「ほうりん、いん」


 直樹の声に、塩の塊は応えない。


「――考えたんだ」


 声の主は扉の向こうにいた。
 直樹は眼を疑った。
 クラス委員にして直樹の親友、中野一馬。それに寄り添うような格好で諫早直がいた。


「この図書室の主。魔法陣を描いた張本人。悪魔がいるとすれば、宝琳院しかないと」


 一馬は冷然と言った。
 意味を理解した、瞬間。直樹の頭は煮え返った。


「――かぁずまぁっ!!」


 拳を震わせ、直樹は叫んだ。
 一馬の反応はない。ただ指先が、小刻みに震えている。
 怒りを抑える作業が精一杯で、直樹はそれに気づけなかった。


「怖いな……こんなことで人が死ぬなんて」


 震える指に目を落として、一馬がつぶやいた。
 となりに似たような姿があることすら、気づく様子はない。


「お前ら、よく平気でいられるな。人が死んだんだぞ? こんな簡単に人が死ぬんだぞ? なぜそんなに平然としてられる!?」


 一馬はヒステリーのようにまくしたてた。
 そのさまが、よけいに直樹の怒りを煽りたてる。


「宝琳院は、宝琳院は――」

「――違ったようだな。だが仕方ないだろう? 悪いのは疑われる要素を持ち合わせていた宝琳院だ」


 言った一馬も、泣き笑いの表情を浮かべている。
 だが。直樹は拳を握りこんだ。宝琳院庵に過失を押しつけるその言いようが、直樹には許せない。


「近づくな!」


 一馬が叫んだ。
 直樹は行き足を止められた。


「宝琳院が違ったとしも、もうひとり容疑者がいる。頻繁に図書室に出向いているんだ。本を探す機会もあったろう、なあ、直樹・・ ・・?」


 直樹は耳を疑った。
 予想外の言葉。だが弁解できない。
 直樹が図書室に通っていたのは宝琳院庵と話すためだが、ほかの者から見れば、直樹も立派な容疑者なのだ。

 一馬を見た。
 その瞳には多量の怯えと、微細量ながら狂の色が混じっている。
 彼の伸ばす指に、直樹は殺意を感じた。
 とっさに避けようとする直樹を、指は苦もなく追い――横から伸びてきた腕が、それを絡めとった。諌早直の腕だった。


「一馬! やめて! 間違ってたのなら、もう殺さないで!」


 目に涙を浮かべ、彼女は従兄弟に懇願する。


「直、お前は黙って俺の言う通りにしろ!」

「一馬!」


 激高した一馬は直を乱暴に払い飛ばした。
 円が直樹の脇を軽く突いた。
 意図は、問うまでもない。一馬の頭上に浮かぶ数字は“6”になっている。円は“5”。直樹の数字はおそらく“2”ないし“3”。龍造寺円と直樹が協力すれば、一馬を殺せる。

 迷うことはない。
 殺さなければ殺される。中野一馬は、親友は、ためらいなくそれをする。
 死ぬ。
 鹿島茂のように神代良のように宝琳院庵のように塩の塊になって――死ぬ。
 その事実に、直樹はあらためて恐怖し。

 一馬の指先が直樹に向けられた。
 一瞬遅れて、直樹と円が一馬に指をさす。
 三人の声はまったく同時。


「中野一馬」

「鍋島直――」


 勝敗を決めたのは、名前の音数。
 なかのかずま。六音。
 なべしまなおき。七音。
 たった一音の差が、明暗を分けた。

 中野一馬の指先が、雪白に染まり、みるみる形を失っていく。
 直樹はそれを、身を切られる思いで見つめた。

 中野一馬は責任感の強過ぎるきらいがある。
 みんなのために、なんとしても悪魔を見つける。その思いのあまり、暴挙に出たのだろう。
 だがそれは、あまりに悲しい愚挙だった。

 宝琳院庵は死んで、中野一馬も死んだ。悪魔は、未だに見つからない。


「か……ずま……」


 頭を押さえていた諫早直の手が、だらりと垂れ下がる。
 いつも明るく振舞っていた彼女。いま、その顔に、生色はない。
 血のつながったいとこ同士、仲のよかったふたり。その片割れが、二度と戻る事はない。それは、彼女にとって、どれほどの絶望だろう。
 直樹には、かける言葉などない。中野一馬は、ほかならぬ直樹が殺したのだから。


「……馬鹿、なんだから」


 小さくつぶやくような声が、直樹の耳に届いた。







[1515] ユビサシ5
Name: 寛喜堂 秀介◆ae2fa14e
Date: 2009/09/14 01:52

 宝琳院庵。
 中野一馬。

 かけがえのない友人だったふたりを、直樹は一瞬にして失った。
 いや、ひとりは、おのれの明確な意思のもと、殺した。己の命と親友と、天秤にかけて、浅ましく自分を選んだのだ。

 諫早直は、下を向いたまま動こうともしない。
 声をかける事もためらわれるような、そんな態度が、直樹には、無言の責めであるように思われた

 直樹は涙を禁じた。悲しむ資格など、直樹にはない。
 もとより、そんなところはとうに通り過ぎていた。いまの直樹は、自らの五体をなにかに叩きつけてすり潰してしまいたい。そんな思いに駆られている。
 直樹もまた、心が死んでしまっていることに、本人は気づいていない。


「直樹」


 見かねて円が声をかけた。


「一度教室に戻ったほうがいい。多久も、一人にしておくわけにもいかない」


 目を向けて、直樹は円の瞳に悲しみの色が浮かぶさまを見た。
 そして気づいた。


 ――いまは。この悪夢が終わるまでは。


 直樹は無気力であることなど、許されないのだ。
 宝琳院庵が殺され、中野一馬を殺した以上、龍造寺円を、諌早直を、多久美咲を守るのは、もはや直樹しかいないのだ。
 直樹は半ば死んだおのれの体に鞭を入れた。


「一度、戻るか」


 直樹が口に出していったのは、諫早直に聞かせるためだった。
 ひとりにさせておくのは心配だったが、一馬を殺した張本人である直樹や円がいても、逆効果でしかない。


「俺たち、教室に戻ってるから」


 頑なに下を向き続ける彼女にそれだけ言って、直樹たちは図書室を出ていく。


「待って」


 背後から、直のか細い声が上がった。


「大丈夫、だから。行けるから」


 そう言って健気に、直は無理やりの笑顔を造ってみせる。
 その目が、死んでいる。
 いっそ無残なその姿に、直樹は声をかけることもできず、ただ、直に合わせて歩速を緩めることしかできなかった。

 校舎の中で、唯一灯りがついた彼らの教室は、だというのに暗く沈んでいた。
 仕切ってあるせいで、やけに狭く感じた教室も、いまはうそ寒いほど広い。
 三人が教室に入ると、その音が耳に障ったのだろう、多久美咲の目が薄く開いた。
 寝ぼけ眼の少女は、かるく頭を振って、ようやく視線をこちらに向けてきた。


「あ……ゆめ、じゃ、ないの?」


 美咲は戸口に立つ直樹達をぼうっとみて、口を開いた。


「神代くんは?」


 言う間に、状況を思い出したのだろう。美咲の顔がどんどん青ざめていく。


「中野くんは? 宝琳院さんは? いったいどうしたの?」


 美咲の質問に、直樹は答えることができなかった。
 それが、なによりの、答え。
 美咲は後じさった。面に浮かぶものは、怯えというより、恐怖に近い。


「多久――」

「来ないで!」


 美咲のあげた叫びは、明確な拒絶。


「おかしいよ! わけ分からない! 近寄らないで!」


 彼女の言葉に、直樹はあらためて傷を抉られた。
 神代良と中野一馬を殺したのは直樹である。
 鍋島直樹はふたりの人間を殺した。たとえそれが身を守るためだとしても、言い訳してはならない、事実なのだ。

 多久美咲が直樹に向ける視線は、まるで怪物を見るようだった。
 それでも、直樹は現状を彼女に伝える義務がある。
 口を開こうとして、直樹の肩に手が置かれた。

 手の主――円が、首を横に振る。
 いまの彼女には、言葉は通じない。興奮した彼女を刺激しないほうがいい。
 無言の言葉が、明確に伝わってきた。

 直樹はあきらめて、地面に腰をかけた。
 美咲は、警戒するように距離を置き、やがてその場で座り込んだ。
 廊下側と、窓側の壁際。
 それが、美咲と直樹の心の距離だった。
 伏した頭の奥から、すすり泣く音が聞こえてくる。

 直樹は、ただそれを聞いているしかない。
 いや。すべきことは、ある。


「――円」


 決然と、直樹は声をかけた。
 肩を並べて座る幼馴染は、揺れぬ表情で直樹を見ている。


「なに? 直樹」

「宝琳院が、お前なら見当がつくだろうって言ってたけど、どうなんだ?」


 直樹は問うた。
 彼女はわずかに目を伏せ、そして答えた。


「推論交じりに八割がた、といったところだが」

「それでいい、聞かせてくれ」

「――千葉先生」


 ふたりの会話に、錆びたような高い声が割って入った。
 諫早直だった。宙に視線を据えて動かさず、それでも声は直樹たちに向いていた。


「千葉先生も、巻き込まれてるかもしれない」


 言われて、はじめて直樹はその可能性に思い至った。
 なんとなく、死のゲームに巻き込まれたのは教室にいた八人だけだと思っていたが、よく考えてみれば職員室にいた彼女も、巻き込まれていないという保障はない。


「それは……考えていなかったな」


 直樹は腕を組んで唸った。


「ひとりだけ安全なところに居たのなら、あの人が犯人かもしれない」


 陰に篭ったような、直の声だった。
 その様子に、直樹は漠然とした危うさを感じた。


「――わたし、行って来る」

「私も行こう」


 決然と立ち上がる直に、円が同調した。


「俺も」

「いや。やめておいた方がいい」


 諫早直の様子が不安になった直樹は、続こうとして、円に止められた。


「私と直樹は“仲間”だから、直樹は残った方がいい」


 円が耳打ちした言葉が、すべてを語っている。
 いまの直を、いたずらに刺激するわけにはいかない。直樹は残るしかなかった。


「気をつけて、行ってこいよ」


 円たちの背に、直樹は声をかける。
 軽く手を挙げて、円がそれに応えた。








 階段を下りた正面にある職員室の中、扉を開けて右手の奥に宿直室がある。
 ふたりは無言で歩を進めていく。

 憑かれたように行く直の前を、円は静かに歩いている。
 彼女もまた、ふたりの人間を、指さしで殺した。
 にもかかわらず端正な顔に、罪悪も、悔恨もみられない。

 龍造寺円には、生まれたときから欠けているものがあった。
 感情である。
 彼女は生来、希薄な感情しか持ち得なかった。
 それゆえ、人がなぜ笑うのか、なぜ泣くのか、理解することができなかった。
 だが、天性聡明な彼女は、物心つくころには、そんな自分を隠すことを覚えていた。

 しかし、演技をすればするほど、自分が人形のように思えてくる。
 感情を揺り動かすため、橋の上から河へ飛び込むような、あるいは走ってくる車の前に飛び出すような無茶もやった。
 だがそんな訓練が、円によりいっそう怪物じみた冷静さをもたらした。

 それもあきらめ始めた十一歳の春。円は直樹に出会った。
 引っ越してきた実家の隣。そこに住む少年の顔を見たとき、少女の胸は高鳴った。

 少年と話している間中、心臓が躍り上がっていた。少年の一挙手一投足が気になり、また、なに気ない会話すら、楽しくて仕方ない。
 このような体験は、円にとって初めてのことだった。

 おそらく、父親や友人に尋ねれば、すぐさま答えが返ってきただろう。
 それは恋というものだ、と。
 だが、自分の異常をひた隠しにしてきた円には、相談する相手などいなかった。
 それゆえに。
 龍造寺円にとって、鍋島直樹は、自分を人間にしてくれる無二の存在なのだ。

 いま、直樹を残してきたのも、底にある理由は、直樹を危険に巻き込まないためだ。
 彼女にとって、直樹を守るということは、自分の命よりはるか上位におかれるべき事項なのだ。








 暗い階段を下りると、正面に職員室が見えてきた。扉に手をかけ、円はそろそろと開く。
 音ひとつ立てずに中に入ると、諫早直も、それに続いた。
 闇の中、雑然と並んだ机を縫って進んでいくと、奥のほうから明かりが漏れているのが見えた。

 それを宿直室だとあたりをつけ、円はなお注意深く足音を殺しながら近づく。
 と、部屋の中から声が漏れ聞こえてきた。
 特徴的なその声色は、円たちにとって、聞きたくもない類のものだった。


「――てなわけだ! がんばってゲームやろうぜYA‐HA!」

「ふざけないで! わたしの生徒たちに指一本でも触れて御覧なさい。どんな手段を使ってでも、あなたを殺してやるから」


 円は迷わず扉を開けた。
 そこにいたのは千葉連と、あの悪魔。
 悪魔を相手に、千葉連は一歩も引かず、相対している。その姿は、紛れもなく教師のもの。


「YA-! 大事な生徒さん達が来たぜ!? どうする? センセイよ! HA-HAA!」


 嘲笑を残して、悪魔の姿はかき消えた。
 その虚空にしばし視線をとどめ、ようやく気付いたのだろう。戸口に立つふたりを、彼女は顧みた。


「……あ、龍造寺さんに諌早さん、みんなは無事なの?」


 心配そうな教師の顔、その頭上には“3”の数字が浮かんでいる。
 円が答えようと、言葉を選んだ、一呼吸ほどの間。
 円の背後から指が伸びた。


「諌早さん!?」

「千葉連!!」


 直の声には一片の躊躇もない。
 淡い驚きの表情を浮かべたまま、千葉連は塩の柱と化した。


「諌早」


 円が、瞳を直にむける。
 諫早直はそれに警戒するように一歩、間合いを外した。


「――これで、わたしの数字はあなたを越えた」


 円は、片眉を上げた。
 諫早直の貌は憎悪で歪んでいる。そこまでの憎悪をぶつけられた事が、円にとっては純粋に意外だった。


「一馬は慎重なヤツだから。宝琳院さんが“4”なら、わたしの数字は“4”以上。それに宝琳院さんの数字を加えて“6”。いまので“9”。やっと、あなたを殺せる数字になった」

「中野のことか」


 そのことに思い至らなかったのは、円が鈍いからではない。
 円は、直樹を通した感情しか知らない。
 だから直樹に絡まない感情に関しては、円は極端に鈍いのだ。たとえそれが殺意であっても。


「あれは、やっぱり一馬が悪いんだと思う……でも、あいつは死んであなたは生きてる。そんなこと――許せない!」


 静かに、そして迅速に、直の指先は円を捉えた。
 あらかじめ計算を立てていた諫早直と、心理的な不意をつかれた龍造寺円。その差は歴然。


「龍造寺――」


 だが、龍造寺円の身体能力は、その差を埋めてなお余りある。
 直の口が最後の言葉を紡ぐはるか前に、円の拳は五歩の距離を埋め、直の腹に突き刺さっていた。
 体重の乗った円の拳は、華奢な直の意識をたやすく奪った。


「護身術のひとつも習えば、間合いの取り方くらいわかったろうに」


 軽くため息をつき、円は直を担ぎ上げる。
 抵抗なく持ち上がる彼女の軽さに淡い羨望を覚え、円は口を引き結んだ。
 部屋を出ようとして、円は足を止めた。顧みれば、千葉連であった塩の塊が地面に散らばっている。


「一番手ごわいと思っていたが、やはりスタートの差はいかんともし難かったな。
 あなたがいつものようにぼやぼやしてる内に……こちらはとっくに覚悟をきめていたんだ」


 言葉を投げ捨て、円は引き戸を閉めた。
 円にとって、直樹さえ無事なら、だれが死のうと、どうでもいいことなのだ。







[1515] ユビサシ6
Name: 寛喜堂 秀介◆ae2fa14e
Date: 2009/09/14 01:53


「真っ当に解いていけば、必ず正解にたどり着く」


 そう言った彼女は、死んでしまった。

 高校生の癖にやたらと達観した少女だった。
 いつも醒めていて、人の輪から外れたところにいた。
 そのくせ独りぼっちになるわけでもなく、すこし離れたところで皆の姿を見ているのだ。

“孤高の女王”。彼女はそう呼ばれていた。
 それも、彼女の一面には違いない。
 だが、直樹には、彼女が輪に入る事を頑なに避けていたように思うのだ。
 一座の主役となれる資質を持ちながら、観客に甘んじて、またそれを楽しんでいるふしが、彼女には確かにあった。
 そんな宝琳院庵が、事件に関わり、自ら舞台に上がった。

 結果、彼女は死んだ。

 決して尊敬できるような人柄ではなかったけど、なぜか気が合った。
 頭を使うことが苦手な直樹だったが、彼女と話しているときは、不思議とそれを楽しいと感じた。
 いま思えば、彼女は自分を啓いてくれていたのかもしれない。その事に、いまさらながら気づいた。

 いま、こうして筋道だてて考える地力を与えてくれたのは間違いなく宝琳院庵だ。
 だから、それに応えるためにも、直樹は考える。
 龍造寺円、諫早直、千葉連、多久美咲、そして鍋島直樹。
 悪魔に取って代わられたのは一体誰なのか。
 宝琳院庵は、おそらく答えを出していた。
 最後の答えまでは聞くことができなかったが、答えまでの道筋は、すでに用意されていた。


“あれが人により召喚されたモノだとすれば、かなり専門的な知識が必要となる。その手の専門書を読む機会など限られている。インターネットで調べるにしても、本物にいき当たるには、ネットにかなり熟練していなければ不可能だろうね”

“ところが、もうふたりほど容疑者が上るのだよ”


 パソコン以外で、専門書を読む可能性のある場所。なにより、宝琳院庵が確信を持って、ある、と言える場所。


 ――“図書室の主”。


 宝琳院庵の異名だ。
 なら、それがあるのは、図書室以外考えられない。
 直樹は思い立ち、腰を上げた。


「多久。俺、ちょっと図書室行ってくるから」


 返事を期待していたわけではない。直樹としては、美咲を不安がらせないよう、こちらの意図を知らせておきたかっただけだ。


「はやく……帰ってきてね」


 意外な返事に、直樹は驚いて振り返った。
 美咲は膝を抱いた姿勢のままだった。

 心を開いてくれたわけではない。
 だが、そうして声をかけてくれる程度には、信頼が残っている。
 直樹はすこし、救われた。


「ああ」


 その言葉に、あらん限りの感謝を込めて。直樹は灯りひとつない廊下に踏み出した。
 時刻はすでに午前三時に近い。あの悪魔の言っていた“一時間の縛り”など意味を成さないくらい、多くの人が死んだ。
 だが、それも終わる。


「――見てろ、宝琳院。俺が、悪魔の正体を暴いてやる」


 決意とともに、直樹は拳を握り締めた。








「ただいま」


 出てから五分も経っていないだろう。
 ふたたび教室の扉を開いた直樹は、多久美咲に声をかけた。
 彼女は出る時と同じ姿勢のままでいる


「うん」


 返事はそれだけだった。
 直樹は美咲から少し距離をおいて地面に座る。
 しばらくの間なのか、それとももっと長い時間が経ったのか、直樹にはわからない。


「鍋島、くん」


 ふいに美咲が、口を開いた。


「なんだ?」


 直樹は問い返す。見れば美咲は顔を上げ、こちらを向いていた。


「――なんで、こんなことになっちゃったのかな」

「多久」


 彼女の泣き出しそうな顔を見て、言葉に詰まる。


「文化祭、どうやって回るかとか、みんなでどうやって遊ぼうとか、ついさっきまで考えてたのに――考えられたのに。なんで、みんな信じられなくなっちゃったんだろう」


 言葉が震えている。顔を伏せているのでわからないが、泣いているのだろう。


「いやだよ。こんないやな気持ち、いやなのに、我慢できない――あたし」


 美咲の言葉をさえぎるように、教室の扉が開く。
 目を向けて、直樹は目を見開いた。
 扉の奥には、動かない諫早直を担ぐ龍造寺円の姿があった。


「もういや! この人殺し!」


 両手で頭を抱え、美咲がヒステリックに叫んだ。 
 冷静に考えれば、直が死んだわけではないとわかったろう。だが、美咲の絶叫に、直樹も一瞬引きずられた。


「鍋島くん! あんな人殺し、殺そうよ! もういやだよ、こんなの!」


 人殺しを恐れ忌みながら、人殺しを望む。
 その不整合すら、彼女はもはや見えていない。


「鍋島くん!」


 多久美咲が直樹を促した。
 彼女はすでに円を指さしている。

 円はなにも言わない。ただじっと、直樹に目を向けている。
 それがかえって直樹を落ち着かせた。
 落ち着いてみれば、なんのことはない。直が気を失っているだけである。直樹はようやくそれに気づいた。


「多久、落ち着け。諫早は死んでない」


 直樹は美咲をやわらかく諭した。
 直が殺されたと信じて疑わなかったのだろう。美咲は驚いて目をしばたかせた。


「諌早は気絶させただけだ。千葉先生は諌早に殺された」


 美咲の瞳に理性が戻るのを待ってから、円が事情を説明した。


「そうか」


 直樹は視線を落とした。
 彼女まで死んでしまったのは、痛恨事である。
 直樹がもっと早く気づいていれば、すくなくとも千葉連は助かった。
 だが、いまそれを嘆いても仕方ない。後悔するのは、残された“三人”が無事生き残ってからでも、遅くはない。


「じゃあ、ここらで、解決編といこうか」


 龍造寺円、多久美咲、それに気絶している諫早直を見回し、直樹は口を開いた。
 言葉が宝琳院庵に似てしまったのは、こんな場面に使える言葉が、ほとんど宝琳院庵との会話でしか知らなかったからである。


「生き残った四人。この中に――悪魔がいる」


 確信を持って、直樹は言い放った。
 それが、推理ものの常套句であることすら、直樹は知らない。だが、だからこそ、言葉には重みがあった。


「だれ? だれなの?」


 多久美咲が不安げに皆を見回す。
 龍造寺円は、戸口に立ったまま、微動だにしない。
 諫早直は未だに気絶したままで、廊下側の壁にもたれかかっている。
 三人を視線で追っていき、直樹は美咲の所で目を止めた。


「多久。あんただ」


 その言葉が美咲に沁みるまで、たっぷり二呼吸ほど時間を要した。
 理解とともに、美咲の表情が驚きに変わる。


「――どうして? ひどい。なんであたしが悪魔なの?」


 思わぬ人物からの攻撃に、美咲の表情には強い怯えがある。
 だが、鍋島直樹は揺るがない。
 この指名に、仲間の命がかかってくるのだ。その重みが、直樹の感情を揺らさない。


「宝琳院庵が残してくれたヒント。あれが役に立ったんだ。この事件、悪魔を呼び出す機会と能力があったのはふたりだ」


 指を立て、直樹は説明する。


「ケースその一、あの悪魔がこのオバケ屋敷の魔法陣で偶然召喚されたとする。だとしたら、容疑者は宝琳院か多久になる」


 直樹は一呼吸置き、理解を促した。
 魔法陣が完成したと思われる時、その場所にいたのは、このふたりだけ。
 迷うことなき容疑者である。


「その二。悪魔がそれ以前に召喚されていたとしたら、悪魔を呼ぶための専門的な知識が必要となる。その本が、図書室にあった」


 直樹は、一枚のカードを取り出す。図書館の貸し出しカードだ。


「去年の五月に宝琳院庵、つい三日前に多久美咲。この本を借りたのは二人だけだ」

「そんな、それだけで」

「それだけで十分なんだよ」


 美咲の弁護を、直樹は遮った。


「悪魔を呼び出すってのは、普通の事件とは性質が違う。だれしも機会があれば可能ってもんじゃないんだ。クリアすべき条件があって、それを満たすものがひとりである限り、犯人はそいつでしかありえない」

「――私も同意見だ」


 口をはさんだのは円だった。


「ついでに言うなら、私も直樹も悪魔やまじないには疎い。諫早がその方面にのめり込んでいたのなら、中野が必ず気づいている。
 多久は、そんな本を借りるくらいには、悪魔……黒魔術かな? まあどちらでもいいが――それに興味があったのだ。なら、答えは出たようなものだ」


 指をさす円。直樹も、それに倣う。
 いやいやをするように、美咲がかぶりを振る。
 哀願を振り切って、明白な意思のもと、直樹は告げた。


「お前が悪魔だ、『多久美咲!』」


 ふたりの声が重なった。






[1515] ユビサシ7
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:e412df37
Date: 2009/09/14 01:55


 ボン、と、音がした。
 美咲を形作っていた輪郭が、淡い音を立てて崩れていく。
 同時に、直樹は聴いた。薄いガラスが割れるような音を。それがなにを意味するのか、すぐに気づいた。


「円――数字が」


 直樹は円の頭上を示す。彼女の、それに諫早直の頭上に浮かんでいた数字が、消えていた。


「……消えたようだな」


 円も、直樹を見て確認したのだろう、淡い安堵の表情を見せた。
 数字が消えた。
 それは、無事死のゲームを乗り切った事を意味する。

 だが、失った物は、あまりにも大きかった。
 悪魔を見つける。そんな馬鹿げた事のために、人が死にすぎていた。

 多久美咲の残骸を見ながら、直樹は思う。
 彼女は何故悪魔などを喚ぼうと思ったのだろうか。
 興味本位だったのかもしれないし、切なる願いがあったのかもしれない。
 それも、もはや知る事はできない。

 だが、直樹は思う。
 悩みがあったなら打ち明けてほしかった。
 叶えたい願いがあるなら、相談してほしかった。
 なにも直樹でなくていいのだ。
 諫早直でも、龍造寺円でも、クラスのほかの女子でもいい。悪魔なんてつまらないもの・・・・・・・に頼る前に、身近に頼れる者があると、気づいてほしかった。

 だけどそれも、もう遅い。
 みんな死んでしまったのだ。

 突然、耳鳴りが直樹の耳を打った。
 悪寒が、直樹を襲う。
 空気が一変した。
 時計の逆回しのように、世界がふたたび反転する。
 正常が、異常に返る。
 それは、あの悪夢の再現。


「ガァァッデェム! やってくれたな。オメデトウくそ野郎共! HA-HA!」


 悪魔が、虚空から姿を現した。


「推理は正解だぜ! ただチョーット足りないところがあるけどな! HYA-HAHAHA!」


 目論見が破れたにもかかわらず、壮絶に馬鹿笑いする悪魔。
 だが、それはもはや悪魔の姿をしたものにすぎない。あの狂的な存在感や悪意は、どこかへ消え去っていた。
 直樹はこの悪魔に恐怖を感じない。
 だというのに、とてつもなく不吉な予感が、直樹を捉えて離さない。


「なにが足りない?」


 円の問いは明快だった。彼女に恐れの色はない。
 まるで人に対するように――ただ敵に対するように、円は惑わなかった。


その三・・・、悪魔が召喚されるのはゲームが終わってからだって事さ! 人に寄生するような半端なカタチじゃなく本物、真性の悪魔がな! HYA-HAHAHA!」

「どういう、ことだ」


 理解が追いつかない。
 直樹は問い返すのがやっとだった。


「なんでこんなゲームを始めたと思う? このゲーム自体が、悪魔を呼び出すための儀式なんだよ HYA-HAHA! 数字は命の幻像ヴィジョン! そのやり取りこそが、悪魔を喚ぶ儀式なのさHA-HA!」 


 唐突に、直樹は思い出した。


“一体あの悪魔という存在は、何のために、このようなゲームを始めたのか、ということだよ”


 そこまで目が届いていた、皮肉屋の少女が居た事を。
 彼女に教えられたにもかかわらず、悪魔探しに気を取られ、忘れていた。
 直樹は悔恨に歯嚙みした。


「――もっとも、五人じゃあチト足りない。足りないが、こんなときのために用意してあるのさ!」


 悪魔の、にやりと笑う口が真紅の三日月を描く。


「教室の魔法陣、あれをチョチョイと弄っておいたのさ! それを通してオレのパーフェクトボディーがお出ましだ! HA-HA-HA-HA!!」


 悪魔のように哂い、悪魔は教室の奥に飛んでいく。


「待てっ!」


 直感的に剣呑さを感じ取り、直樹は追いすがった。
 いま止めなくては、取り返しがつかない。
 方法など考えてもいない。だが、足掻かずにはいられなかった。


「直樹!? まって!」


 背中で聞いた円の声を無視し、悪魔の背中を追う。
 だが、小回りのきく上に宙を飛ぶ悪魔は、教室の仕切りなど構わず越えていく。
 悠々と飛んでいく悪魔を、歯ぎしりしながら直樹は追いかける。
 三重に折り返してやっと最後の角を曲がろうとした、そのとき――背筋に悪寒が走った。


 ――この先に行ってはいけない。


 本能が全力で体を制止させた。
 抗おうにも、体の中でいう事をきくパーツが、一箇所も見つからない。


 ――この角を曲がれば、死ぬ。


 それを直感でなく、実感として、事実として認識させられた。
 ひやりと、冷えた感触が手に触れ、直樹は肩を跳ね上げる。
 それが円の手だと気付いて、振り返り。
 直樹は、頭から血の気が引いていくのを感じた。

 円が。いつも無表情で、感情を面に出すのが下手くそな円の顔が、明確な恐怖の感情を刻んでいた。


「GYAAAAAA!!」


 魂消るような悪魔の悲鳴が、壁越しに聞こえてきた。


「AAAAAAAA……■■■■■■ーー!!」


 悪魔の声が意味を失っていく。
 それは現れたときの巻き戻しのよう。
 耳を覆いたくなるような長い断末魔の末、音が途切れたとき、直樹は悪魔が消えた事を知った。

 なにが起こったのか、まるでわからなかった。
 ただ、薄い板切れ一枚向こうには、あの悪魔より絶望的な“何か”があることが、たやすく知れた。


“其処に居る者。我が前に姿を見せよ”


 鈍く、低い声が、聞こえてくる。
 それは明確に直樹たちへ向けられたもの。
 抗いがたい力に引きつけられるように、直樹は足を踏み出した。


 ――瞬間、命を鷲づかみにされた。


 真綿で包まれるように、直樹は相手の視線に捕らえられた。
 一刹那の間に、鍋島直樹という存在そのものが、相手の掌に落ち込んだ。
 直樹は、視線を上げた。

 二メートルほどの魔法陣いっぱいに、絶望が靄となって浮かんでいた。
 漠然と人のカタチを取るそれは、さきの悪魔とは似ても似つかない。だが、それが同質の。同質で、はるかに圧倒的な存在であると、一目見て思い知らされた。

 しかし。
 直樹は同時に奇妙な違和感をおぼえた。
 その正体がわからぬうち、魔法陣の中の存在がわずかに揺らめいた。


“よくぞ悪魔のゲームを乗り越えた”


 発せられたのは、意外にも賞賛。
 だが音が波打つたび、直樹の心臓は直接揺さぶられた。


“褒美に何でも願いを叶えてやろう。死後の魂と引き替えにな”


 直樹は似たような話を聞いた事を、おぼろげに思い出した。
 いつだったか、宝琳院庵との役体もない会話の中でそんな話を聞いたことを覚えている。
 そこまで思いめぐらせたとき、直樹の頭にひらめくものがあった。

 違和感の正体を知った。
 否応なしに、すべての歯車が噛み合う。


“どうした? 思い悩むまでもない。この世の栄耀栄華も、世界の真理も、全てお前の物となるのだぞ”


 悪魔の言葉は熱をもって直樹の心に響く。
 それは、魂を魅了されたかのよう。
 だが、直樹は惑わない。揺らぎもしない。
 直樹は、確信をもってその言葉を口にした。


「――ふざけた冗談はよしたほうがいいぞ。宝琳院・・・







[1515] ユビサシ8(了)
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:e412df37
Date: 2009/09/14 01:57


「――ふざけた冗談はよしたほうがいいぞ。宝琳院・・・


 直樹は言い放った。
 そう、さきほどから直樹が感じていたのは、違和感というよりむしろ既視感に近かった。
 理ではない。直樹には直感的に、目の前の存在が宝琳院庵だと気づいたのだ。

 沈黙に含まれた微細量の驚きを、直樹は感じた。
 ややあって。笑いをこらえきれぬように、くすくすと笑いが起こった。
 さざ波のような圧力が小刻みに肌を打つ。
 人のカタチを取っていたモヤは、より収束し、直樹よりはるかに縮んでいく。
 最後に残っていた薄靄が取り払われたとき、そこに現れたのは漆黒の髪に真っ白な肌、お姫様のような姿の少女、宝琳院庵のすがただった。


「やはりキミは怖いね。直樹くん――うん。ボクとしても、キミと話すときは、この姿のほうがしっくりとくる」


 円の手から、たしかな震えが伝わってきた。


「なんで魔法陣から宝琳院が出てくるんだ?」


 思わず、口調が宝琳院庵と話す時のものになる。


「なぜ、か。なぜだと思う? この魔法陣は悪魔を呼び出すためのもの。ならば答えはひとつしか無いのではないかな」


 黒髪を、撫でるように弄る。
 いつも通りの仕草で、彼女は言った。


「ボクが悪魔だからさ」


 他人を弄るようなニヤニヤ哂いすら、いつもとおなじ。
 だが、言葉の内容は、笑い飛ばせるものではない。


「宝琳院が……悪魔?」

「まさに。この十七年、人の姿を借りてはいたが、正真正銘、真正の悪魔だよ」

「マジでか……」


 直樹は絶句した。


「マジなのさ」


 宝琳院庵もおどけて肩をすくめてみせた。


「妙な成り行きで現し身を失うことになったがね。キミたちも無事なようでないよりだ」


 言葉を失う直樹を尻目に、宝琳院庵は笑みを崩さない。


「ときに直樹くん、その魔法陣の端っこ……その文字を削ってくれないかい? 正直ここは窮屈でね」


 直樹は何気なしに動きかけ――隣に立つ少女に腕を引かれた。


「やめろ。悪魔を、自由にしたいのか」


 円の声は振り絞るようだった。
 直樹も宝琳院庵に従おうと思ったわけではない。言葉に込められた力に、体が反応してしまったのだ。


「つれない事を言うね、龍造寺くん。キミとは、膝を突き合わせて話す機会に恵まれなかったが、クラスメイトじゃないか」

「お前が宝琳院の知識と姿を持っているとして、それが本人である保証にはならないだろう。よしんば宝琳院当人だったとして、悪魔の力をもったお前が、以前と同じであるとは思えない」


 ニヤニヤ哂いを止めない宝琳院庵に、円が強い視線を投げ返した。


「それにあの悪魔は言った。その魔法陣はあの悪魔を完全な形で喚び出すためのものだと。ならばいま目の前にいるお前の正体は、あの悪魔だ。そんな奴の言葉を、信じるわけにはいかない」


 直樹は絶句した。
 宝琳院庵はニヤニヤと哂い。
 龍造寺円は彼女を睨む。


「みごと」


 と、宝琳院庵は言った。


「大要において龍造寺くんは正しく、本質においては直樹くんが正しい。一人一人は及第点だが、ふたり合わせれば満点だ。まったく、すばらしい。キミたちは理想のコンビだよ」


 手放しの賛辞と、言葉の内容、双方に直樹は絶句する。
 宝琳院庵という人間として過ごしてきたと、彼女は言い。
 直樹たちに死のゲームを強いた悪魔だとも、彼女は認めた。


「なんで」


 直樹は、口を開く。


「何で、こんな事を」


 それしか言えなかった。
 宝琳院庵を信じていた。
 たった一年ほどの思い出が、宝物のようだった。
 それを、すべて否定された気分だった。


「勘違いされては困るが、あれは正確にはボクではないよ」


 宝琳院庵は顔をしかめて見せた。
 それが本当に拗ねたようで、直樹は混乱する。


「多久くんが悪魔召喚の参考にした本、あれも、日本語訳本にしては、悪くない。悪くないんだが、しょせん本場のものに比べれば劣化も甚だしい。結果、ずいぶんと中途半端な召喚になったようだね。ボクの、力の一部だけを呼び出してしまった。無色の力は多久くんによってカタチが与えられた。彼女の想像する悪魔・・・・・・・・・という、カタチをね」

「それが……あの悪魔」

「その通り。あれも、おのれが何者かの一部だという事を自覚はしていたのだろう。だから、あんな儀式ゲームを行った。本体が、ゲームに巻き込まれてるなんて知りもせずにね」


 悪意で凝り固まったようなあのゲームに、宝琳院庵が関知していない。
 それがわかってひどく安心している自分に、直樹は気づいた。
 彼女が悪魔であるという事実よりも、彼女に嘘がなかった事のほうが、直樹にとっては大事だったのかもしれない。


「信じないで」


 龍造寺円が、直樹の腕を引いた。


「たとえ事実だったとしても、宝琳院が悪魔だろうということには変わりない。だから、そいつを自由にしてはいけない」


 円の言葉に、宝琳院庵はため息をついて見せる。


「やれやれ、嫌われたもの……は、もとからか。それがどんな感情に根ざすものかは知ってはいるが、理論武装が完璧なだけに厄介だね」


 円の顔に淡い怒りの色が浮かんだ。
 手を強く握り込まれ、直樹は危うく悲鳴を上げかけた。

 
「タダで出せとは言わないよ。親しき仲にも礼儀あり。人間ケジメは大事だからね――そのためにこんなものがある」


 宝琳院庵の手に、五つの輝く球体が現れた。
 それがなんなのか、直樹にはわからなかった。だが宝玉めいた輝きを持つそれは、なにがしかの温度を感じさせる。


「鹿島茂、神代良、中野一馬、千葉連、それに多久美咲の魂だ。この五人を生き返らせてやろうじゃないか」


 にやりと、笑みを浮かべ、宝琳院庵は言った。
 それこそ、悪魔の取引というものだろう。
 五人の命と引き替えに、この悪魔は自由になる。
 直樹は迷わなかった。


「わかった」「断る」


 直樹と円が、同時に逆の返事をした。
 たがいの言葉に驚いたように、ふたりは眼を合わせる。


「直樹」

「円」


 直樹と円はにらみ合う。
 それを宝琳院庵はニヤニヤ哂いで見守っている。


「なんでだ? みんなが生き返るんだぞ?」

「それでこいつを自由にしたら、もっとひどいことになるかも知れないだろう!」

「それでも、俺は宝琳院を信じるし、なによりみんなの命が返ってくるんだぞ! 一馬たちが生き返るんだぞ!」

「そしてみんなまとめて宝琳院に殺されるか!? 生き残った人間の命を危険にさらすのか!?」

「宝琳院がそんなことするわけないだろ!!」

「このわからず屋!」

「薄情者!」


 ふたりの声は次第に高ぶり、終いには罵りあいになる。
 もとより、ふたりの大事なものが違った。
 円は死んだもの達の命などより、鍋島直樹のほうがよほど大事であり、一方直樹はみんなが生き返る事のほうが重要だった。
 これでは話は平行線、決着がつくはずがない。


「――ふたりとも、まあ落ち着きたまえ」


 たまらずといった風に、宝琳院庵が仲裁に入った。
 こころなしか、こめかみが痙攣しているようにも見える。


「ふたりとも、もっと理性的に話し合いたまえ。感情でものを言い出しては、たがいに妥協点も探れないぞ。
 まったく、発音に意味を持たせることで、自らの考えを子細に伝えられるほど高度に成長したその伝達器官を、あらくたな感情をぶつける事にしか使えないとは……キミたちは獣かね」


 宝琳院庵の言葉に、ふたりは思わず顔を見合わせた。
 悪魔に呆れられるという、非常にイタイ図だった。
 だが、ご高説もっとも。直樹と円はたがいに苦笑を浮かべる。


「もういい、好きにしろ。たとえ死ぬ破目になっても、直樹と一緒だ」


 でも。と、円は言葉を継いだ。


「もう一度考えてくれ。みんなを生き返らせることが、生き残ったものを危険にさらしてまでやる価値のあることなのか」


 直樹にとって、その言葉は重い。
 五人もの人間が、巻き込まれて死んだ狂気のゲーム。
 その中で生き残った、たしかな命を、直樹は抵当にしようとしているのだ。


「円……みんないなきゃ、意味がないんだ」


 円のまっすぐな言葉に、直樹はまっすぐに返した。


「一馬も、鹿島も、神代も……多久も、宝琳院だってそうだ。あんなゲームで理不尽に死んでいって、そのままなんて、俺は我慢できない。もし生き返ることができるんなら、なんだってやりたい」

「直樹……」


 直樹の言葉から、覚悟を酌んだのだろうか、円はそれ以上なにも言って来なかった。


「もちろん、分の悪い賭けじゃないさ。一度言ったけど、もう一度言う。俺は、宝琳院を信じてる。人間性じゃなく、その在り方を、な」


 直樹は言いきった。
 円の顔にあきらめ混じりの苦笑が浮かんだ。
 黙ったまま。円が顎で宝琳院庵を示した。
 促されるまま、直樹は魔法陣の文字を、指示通りに削った。


「ありがとう、直樹くん、やはりキミは親友だ」


 魔法陣はもはや意味を成さなくなった。
 自由になったはずの宝琳院庵だが、彼女は彼女のままだった。
 いつも通りのニヤニヤ哂いを浮かべたまま、宝琳院庵は掌に収まっていた魂を、宙に飛ばした。
 三つの魂はこの教室の入り口のほうへ、ひとつは地面をすり抜けて階下へ、もうひとつは図書室のほうへ向かっていった。

 魂は、元の場所に収まり、皆が生き返る。
 それは、直樹の望んでいた事。
 だが、ひとつだけ、直樹は宝琳院庵に聞きたいことがあった。


「宝琳院。お前はどうするんだ?」


 直樹の問いに、宝琳院庵は腕を組み、首を傾けた。


「さて、人に混じってその生を観るのは、ボクのライフワークのようなものだからね。このままじゃいずれにせよ、長く世に留まれないし……また、人の胎を借りて赤ん坊からやりなおすさ」


 それが一番楽だしね、と、彼女はつけ足した。


「駄目だ」


 おそらく、もっとも穏当に済ませられるであろう宝琳院庵の考えに、直樹は否をつきつけた。


「ほう? どうしてだい?」


 宝琳院庵が、珍しく意外の表情を作った。
 言うまでもない。
 直樹にとっての日常には、宝琳院庵も含まれるのだ。
 失って初めて、直樹は当たり前のようにみんながいる尊さに気づいた。
 もうそれを、手放したくなかった。だれかが欠けるなんて許せなかった。


「そんなこと、決まってる」


 だから直樹は、宝琳院庵なら断れない、とっておきの手を使う。


「明日、もう学園祭だ。みんなそのために、遅くまでがんばったんだ。その結果をみんなで見たいし、お前とは、それを肴に話してみたいんだ」


 自信たっぷりに言い切った直樹に、円も宝琳院庵も肩を落とした。


「そんなことで、ボクに宝琳院庵に戻れと?」

そんなことだから・・・・・・・・、だ」


 直樹は、言い切った。


「いつの間にか、当たり前になって、当然のように感じてたけど、そんな当たり前が、俺にとってはかけがえのない事なんだって気づいた。みんなで共有する思い出一つ一つがどれほど大切か、わかった。それを、たかがゲームで死んだくらいで台無しにしちゃいけないんだよ。宝琳院、俺はみんなと思い出を作りたい。俺のために、戻ってきてくれ」


 直樹の言葉に、宝琳院庵は面食らったように目を見開いた。
 まるで子供の我儘のような、理屈になっていない理屈だった。
 沈黙はたっぷり一呼吸。
 ややあって、宝琳院庵は笑いをこらえきれないと言うように、声を漏らす。


「ふ、ふ、はっはっは、なるほど、至言だ。たしかに、たしかに宝琳院庵に戻る程度の労力と比較すべき事じゃない――ボクも、キミたちと学園祭を楽しみたい」


 ためらいなく、宝琳院庵は魔法陣の外へ足を踏み出した。
 その足に、腕に、どこからか飛んできた塩が絡んでくる。それとともに、宝琳院庵を取り巻く瘴気のようなものが、急速に収まっていく。
 瞬きひとつする間に。
 いつも通り、ごく当たり前の、ただの人のような、宝琳院庵の姿がそこにあった。
 彼女は直樹に歩み寄り、手の甲を、直樹の胸に当てた。


「直樹くん、言ったからには責任を取ってもらうよ。明日一日、つき合ってもらうからね」


 満面の笑みを浮かべる彼女に、直樹は、不覚にも頬が紅潮するのを感じた。


「駄目。直樹は、私と行くから」


 横合いから円が直樹に腕を絡めてきた。
 その様子に、宝琳院庵がニヤニヤ哂いを浮かべ。


「――さて、直樹くん。龍造寺くんからもお誘いがあったようだが、どうするね」


 爆弾を投げかけた。


「さん――」

「三人で行こう、は駄目だぞ?」


 円が釘を刺した。
 いきなり逃げ口を塞がれ、直樹は窮地に立たされる。
 そんな直樹に意地悪な笑みを向けて、宝琳院庵はとんでもない提案をしてきた。


「どちらと行きたいか、直樹くんに選んでもらおうか。好きなほうを指差しで・・・・・、ね?」


 じりじりと追い詰められていく。
 直樹は脂汗が流れるのを自覚した。


「直樹」

「直樹くん」


 ふたりとも容赦ない。
 直樹は息を飲み込み――殴られるのを承知で、左右の手で指差した。




 ユビサシ 了




[1515] 閑話1
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:b5b04a28
Date: 2009/09/22 00:19


 嵐のような学園祭も過ぎた、とある休日のこと。
 鍋島直樹(なべしまなおき)は、最寄の駅から二駅先にある城東新町まで足を伸ばしていた。
 直樹の地元はいまも城跡が残る旧城下町だ。観光客向けの店が多い反面、学生が遊ぶところといえば、貧弱極まりない。
 自然、遊ぶときは遠出することになる。

 とりあえず繁華街へ向かうため、直樹が駅の構内を出た、矢先。
 思わぬ光景をとらえ、直樹は足を止めた。

 駅前にでん・・と鎮座する、有名芸術家の作だという巨大なオブジェ。
 その下に、宝琳院庵(ほうりんいんいおり)が立っていたのだ。
 抜けるような青空の下、病的に白い肌が眩しいほどで、非常に人目を引く。
 定期的に時計へと目をやっているあたり、だれかと待ち合わせしているらしかった。

 青空と宝琳院。

 デートと宝琳院。

 宝琳院を悪魔に書き換えても可である。


「……似合わねぇー」


 思わず口から出た言葉は、掛け値なしの本音である。
 およそ、その名とイメージにそぐわない。

 それにしても。
 直樹はうなった。
 彼女に、休日をともに過ごす相手がいたとは驚天動地である。相手の顔が非常に気になった。


「――と、あんまり詮索するのも悪趣味か」


 想像をめぐらせかけ、直樹はそれを振り払った。
 興味はそそられたが、友人のプライベートを詮索する真似はしたくなかった。

 ちょうど小用を足したくなったこともあり、直樹はその場を離れ、駅の構内へ戻った。
 しばらくして出てきた直樹は、すこし遠回りしてオブジェを避けながら、それでも宝琳院庵に目をやってしまう。
 直樹は目を丸々と見開いた。

 男が引っかかっていた。
 男が引っかかっていた。あの・・宝琳院に。


「いやいや」


 直樹は自分の目を疑った。
 一度目を閉じ、瞼ごしに眼球をしっかりと揉みほぐしてから、直樹は尾再び目を見開く。

 男が宝琳院庵を、熱心に口説いていた。

 目の錯覚ではないらしい。
 直樹は現実を受け入れることにした。

 考えてみれば、宝琳院庵はすこぶるつきの美少女である。
 直樹とて、彼女が宝琳院庵でさえなければ素直にかわいいと思うだろう。
 見ず知らずの他人が惹かれることも、無いことではないだろう。

 なんとなく見てはいけないものを見た気になって、直樹は眼をさまよわせた。
 宝琳院庵は迷惑そうなようすを隠しもしない。
 男のほうは気にした風もなく、しつこく声をかけている。

 他人と会話しない彼女が、どう断るか、かなり興味があったが。


 ――それもまた趣味が悪い。


 直樹は切り捨てた。
 友人が困っているのを見ながら、手を貸すことをためらうなど論外だった。


「宝琳院」


 手をあげて直樹が近づいていくと、宝琳院庵が振り返った。
 釣られるように、男の視線が直樹に向かう。
 値踏みするような表情。
 視線の交錯は、時間にすれば一瞬だった。


「――ちっ」


 舌打ちを残して、男は去っていった。


「よ、宝琳院、意外なところで会うな」


 すこし誇らしげな調子で、直樹は友人に声をかける。


「――あなた、だれですか?」


 意識が凍るとは、こういう事を言うのだろう。
 直樹は、彼女の口から発せられた言葉に、その場で硬直した。


「わたしの目の前にいるあなたは、だれですか?」


 少女が言いなおす。
 直樹はいまだ固まったままである。


「わたしの目の前にいるあなたは、だれですか? わたしは、あなたが姉の知人ではないかと推察します」


 ようやく、直樹は意識を取り戻した。
 目の前にいる宝琳院庵そっくりの少女は、どうやら彼女の妹であるらしかった。


「姉――って、ひょっとして宝琳院の妹か?」

「わたしも宝琳院ですが」


 至極平坦な口調で、そう返された。
 直樹はどう応えていいかわからない。

 友人と瓜二つの少女は、かまわず言葉を続ける。


「わたしも宝琳院ですが、あなたの言いたいことは、察することができます」


 言葉を継ぎ、一拍。


「わたしも宝琳院ですが、あなたの言いたいことは、察することができます。宝琳院庵はわたしの姉です」


 つぎつぎと言葉を継ぎ足してゆく、奇怪なしゃべり方である。


「俺は、鍋島直樹……って、姉さんから聞いてないかな」

「肯定です」


 返答は端的だった。
 直樹はひとまず胸をなでおろす。まともな会話も可能なようだった。


「わたしの名前は宝琳院白音(ほうりんいんしらね)と申します。ご承知の通り庵の妹です――さきほどはありがとうございました」

「いや、余計なお世話かと思ったんだが、困ってそうだったし」


 直樹は頭をかきながら応じた。
 平坦な口調に無表情。よくよく見れば、宝琳院庵とは芸風が違う。
 とはいえ、区別がつくとすればその程度。あとは顔の造作から体型までほとんど同じである。まるで双子だった。


「ですが、思った通りの方でした」


 姉とおなじ声で、妹は言った。


「ん?」

「姉から得た情報から、わたしなりに鍋島さんとはどんな方か、想像しておりました――主人公のような方だと」

「また妙な比喩だな」


 主人公のような、とはどんな意味か。
 直樹が考えているあいだに、白音が言葉をつけ加える。


「ギャルゲーの主人公のような方だと」

「――っておい! なんか枕言葉がついてベクトルが変わったぞ!」

「優柔不断ヘタレ属性がついたギャルゲーの主人公のような方だと」

「意味はわからんがそれははっきりと悪口だろ!」

「これをきっかけに白音ルートに入るのですね」

「なんの話だよ!?」

「ですが、わたしは十四歳。きっぱりと攻略不可だと申しておきましょう」

「だからなんの話だよ!?」


 と、ひとしきり叫んで。
 直樹は気づいた。ここは天下の往来である。
 恐る恐るあたりを見回せば、無遠慮な視線が直樹たちふたりにおもいきり集中していた。


「……あー、つーか、あいつ、家でなに話してんだ? ひどい歪曲が為されてるみたいだけど」


 直樹はごまかすように空咳をした。
 周囲はごまかせないが、自分くらいはごまかしておかねば、羞恥に耐えられなかった。

 白音は、やはり無表情のまま、不思議そうに首をかしげた。
 十四歳ということは宝琳院庵と三つも違うはずだが、外見上はまったく変わらない。
 姉が発育不良なのか、妹の方が成長過多なのか。きっとその両方だろう。


「姉は、あの通りの人ですから、家でもほとんど口を開きません」


 白音の何気ない言葉に、直樹は絶句した。
 気を許した人間とは普通に会話しているものだと思い込んでいたのだが、どうやら彼女の無口は筋金入りらしかった。


「口を開きませんが、家族ですので、会話レベルの意思疎通は可能です」

「家族……」


 直樹はその言葉をかみ締める。
 宝琳院庵は悪魔で、おそらくは家族も、それを知らない。
 だが。妹である彼女は、純粋に宝琳院庵を、姉と慕っているのだ。


「具体的には、日記を盗み読みして知っております」

「――って駄目だろそれ! 犯罪だ!」

「家族ですから」

「そこだけ聞けばイイ言葉だけど前振りが最悪だ!」

「かけがえのない、家族ですから」

「そこを強調したって駄目!」

「かけがえのない、家族ですから、姉の気持ちを、姉の言葉で知りたいんです」

「なんかイイ話になっちゃったじゃねぇか! ……って、いいことなのか。いや、よくはないけど」


 わけがわからなくなって直樹は口を閉ざした。
 対する少女はどこか誇らしげである。

 宝琳院庵の妹、宝琳院白音。
 直樹は深い感慨を込めてため息をついた。


「ああ、なんか、ベクトルは違うけど、間違いなく宝琳院の妹だな」

「光栄です」


 白音の口の端が、わずかにあがった。


「姉のことを、あなたの言葉でうかがいたいところですが、残念ながら本日はバイフォーとの約束があります。後日、お聞かせ願うために、よろしければ携帯電話の番号とメールアドレスを交換願えますか?」

「いや、そりゃいいけど……バイフォーって、外人さんか?」


 耳慣れない音に、直樹は首を傾げた。
 ニュアンスから人物の名であることは間違いなさそうだった。


「クラスメイトです」


 やはり端的に、白音は答えた。


「クラスメイトの、通称です」

「通称? あだ名か。にしてもバイフォー? 妙なあだ名だな」

「multiply by four(四倍)が由来と聞きました」

「ふ……ん?」


 とっさに意味がわからず、直樹は生返事する。


「双子(ツイン)で混血(ダブル)であるのが、由来のようです」

「……2×2=4、て訳か。気のきいたあだ名だけど、中学生っぽくはないよな。それとも、学校ではそういうネーミングが流行ってるのか?」

「違います」


 即座に彼女は否定し、そして続けた。


「違います。事実です」

「どっちだよ。学校で流行ってるってことか?」

「違います。事実、実際として、バイフォーはあれら・・・の本質を現す言葉なのです」


 白音は断定口調である。


「どこかで掛け算が働いているとしか思えない。特に、ふたり揃うと手がつけられない。しかもあれらが絡むと、やたらと事態が大げさになる。まさに、災厄の双子です」


 至極深刻なようすだ。
 そういう年ごろなのかな、などと思いながら、直樹はかるく相槌を打つ。


「――と、いまはバイフォーの話などしている暇はありません。電話番号です」


 思い出したように、白音が言った。


「電話番号です。連絡手段が必要なのです」


 言って携帯電話をつきだしてくる。
 とりあえずは断る理由もない。直樹は携帯を取り出し、番号とアドレスを白音に送ってやった。


「これで、連絡は取れます」


 携帯をしまいこむ白音の姿はどこか満足げだ。


「連絡は取れます。ですが、約束が必要です」


 と思えば、また言葉を継いできた。
 面倒な、と思いながら、直樹は白音を促した。


「連絡は取れます。あとは、あなたと会うために、約束が必要なのです」

「いや、いいけど。宝琳院の話が聞きたいってんなら、別に」

「約束です」


 白音が突出してきたのは右の小指だった。


「約束の、指きりです」


 そのしぐさはどこか幼げで。
 直樹はあらためて、彼女が年下なのだと納得した。


「約束の、指きりを……破ったらどうなるんでしょうか? 魚河岸にハリセンボンって置いてありますかね?」


 やんわりと脅しの言葉をつけ加えた少女に、直樹は苦笑を向ける。


「べつに破りゃしないよ。約束の、指きりだ」


 直樹は、白音に向かって指を差し出す。
 小指と小指が結び合う。
 やけに冷たい手だな、と、直樹はなんとなく思った。








 再会を約して、鍋島直樹は去った。
 その残像を、白音は無感動に見つめつづける。
 ふと、いやな予感を覚えて、白音は我にかえった。


「レディ――ゴーッ!」


 同時に、背後から声が上がる。
 白音はとっさに一歩横へ移動した。
 その脇を、ふたつの人間砲弾が吹き抜けていった。

 小気味よい音が響いた。
 背後にあったブロンズ製のオブジェに、砲弾が突き刺さったのだ。


「……鍋島澄香(なべしますみか)、鍋島忠(なべしまただし)、いったいなんの真似ですか」


 オブジェに突っ込んだふたりに一瞥をくれて、白音はため息をつく。
 ふたりが頭を押さえて振り返ってきた。あがった音からして相当強くぶつけたはずだが、存外ぴんしゃん・・・・・としたようすである。


「――さすが、白音ちゃん。あたしたちの攻撃を躱すとわ」


 かたわれの少女が、畏怖の混じった瞳を白音に向けた。


「馬鹿なっ! 後ろにも目がついていると言うのか!?」


 いまひとりの少年も、驚愕を面にだした。
 容貌はたがいに相似形。
 彫りの深い顔立ちといい、中学生には見えない長身といい、日本人離れしている。そのくせ、髪だけはやたらと艶やかな黒色。
 白音は盛大にため息をついた。


「バイフォー。わたしはあなた方の買い物につき合うために待っていました」

「うん」「そーだね」

「待っていました。一時間前から」

「え? そうだっけ?」「待ち合わせ三時じゃなかったっけ?」


 とぼける双子に、白音の眉が一瞬だけ、跳ね上がった。


「待っている一時間のあいだに、ふたりの男性に声をかけられました」

「ナンパ?」「ナンパ?」


 とたんに双子の瞳がそろって輝いた。


「ひとりはあなたがたの兄です」

『え!?』


 ふたりの声がそろった。
 白音は不敵に笑って見せる。


「電話番号を交換しました。メールアドレスもです」

「うっ……」「いつの間に……」

「よって、あなた方の兄とはメル友と言ってよいでしょう」

「な、なんと……」「そんなことが……」

「親友と呼んでも過言ではありません」

「そんな……」「ぼくたちですら義兄弟止まりなのに!?」

「おつき合いしていると言えない事もありません」


 がーん、と、わかりやすい驚愕の表情を浮かべ、双子が固まった。
 みごとな三段論法なのだが、ふたりが気づいたようすはない。


「というわけで、わたしはあなた方の義姉です。敬って崇めなさい」

「お義姉さま!?」「ははーっ!」

「さあ、義弟たち。さっさと買い物を済ませましょう」

「おごって、お義姉さま!」「奢って、お義姉さん!」


 双子の言葉に、今度は白音が驚愕する。


「まさか、そう返してくるとは……」

「お義姉さまだものねー」「義弟たちに奢るのは筋だよねー」

「まさか、そう返してくるとは思いませんでした。やはり、侮れない……」


 なにやら微妙な空気を背負って、対峙する三人。
 周りの目は、たいそう白いものだったが、彼女たちは気にも留めていない。

 だから。

 冗談のようなその会話を、直樹の幼馴染、龍造寺円(りゅうぞうじまどか)が聞いていた事など、天真爛漫な中学生たちが気づくはずもなかった。







[1515] 閑話2
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:9963233c
Date: 2009/09/22 00:26

 店内に入ると、テーブル席はすでに埋まっていた。
 休日の午前中である。なかなか繁盛しているようだ。
 店内を見渡す。窓側一番奥の席に、直樹は待ち合わせの相手を見つけた。
 ちょうどむこうも直樹を見つけたらしい。無表情のまま手を振ってきた。

 宝琳院白音。
 先日知り合った、友人の妹である。
 直樹は半眼になってつかつかと歩み寄った。


「昨日ぶりです。直樹さん」

「ああ」


 しれっと言うこの曲者少女を睨みつけると、直樹は彼女の真正面に座った。


“明日、会えないでしょうか。”


 そんなメールが彼女から送られてきたのは、昨日の夜である。
 急なことではあったが、直樹は白音と会う約束をした。どうしても言わずにはいられないことがあったのだ。


「――あのな。澄香と忠に妙なこと吹き込んだろう。えらい目にあったぞ」


 直樹は眼を眇める。
 子供のころは可愛かった双子の・・・・・も、いまのガタイでされては暴力と変わらない。いじられるネタがあればなおさらだった。


「肯定です」


 白音は悪びれたようすもなく言った。


「肯定ですが、予想外のことです」


 淡々と言葉を継ぐ。
 彼女の癖のようなものである。


「肯定ですが、予想外のことでした。その程度で済んだとは」

「――って確信犯か!?」

「冗談です」


 思わず声を上げた瞬間。
 言葉をねじこまれ、直樹はつんのめった。
 いいように玩ばれている。
 ため息をついたところで、ちょうどウェイトレスが注文を取りにきた。


「――コーヒー」

「アッサム。ミルクでお願いします」


 注文を伝えると、直樹は白音に目を向けた。
 大きな椅子にちょこんと座る姿は、仕草を除けばほとんど宝琳院庵そのもので、直樹はどこかむず痒い気持ちになる。


「――紅茶とか、詳しいのか?」

「いえ、識っているだけです。紅茶を」


 ――話を続ける気、ねえのかよ。


 と思うほど、学習能力がないわけではない。
 直樹は白音の言葉を待った。


「紅茶が美味しいことを」

「ふ……ん?」

「ここの紅茶が美味しいことを。そしてコーヒーはそれほどでもないことを」

「さきに言えよ!」


 直樹は思わず大声で突っ込んでしまう。
 あたりは水を打ったように静まりかえった。
 周囲の視線は遠慮なくふたりに集中している。


「つーか、お前、俺をからかってるのか?」


 大柄な体をちぢ込ませてから、直樹は声をひそめて言った。


「いえ、からかうつもりはありませんでした。気を悪くされたのなら謝ります」


 白音が深々と頭を下げた。
 丁寧きわまる態度に、直樹のほうがあわててしまった。


「本日お呼びしたのは、姉の話を伺いたいからです」


 白音が要件を切り出した。


「わたしなどが、姉を心配するなど不遜もいいところかもしれませんが、普段の姉を知るだけに、心配でもあるのです」


 彼女の無表情では、その心情は図りがたい。
 ただ、その言葉は真性のものである。直樹はそう感じた。


「いいさ。なにが聞きたい? 俺も、それほど答えられるわけじゃないかもしれないけどな」


 直樹は両手を組んで、白音に微笑みかける。


「まず、これを読んでいただきたいのです」


 そう言って白音が出したのは、一冊の大学ノートだった。
 表紙には、達者な筆致で宝琳院庵の観察日記と書かれている。


「これは――」

「姉の、日記です」

「いや、観察日記って……宝琳院らしいっちゃらしいけど。で? これが?」

「読んでください」


 白音は、なんのためらいもなく言ってきた。


「いや、そりゃ駄目だろ」

「読んでください。あなたは読むべきです」


 直樹の前に、顔を近づけ、断言する白音。
 その迫力に圧されるように、直樹はのけぞる形になる。

 ノートに目を落とす。
 興味がないと言えば嘘になる。だが、勝手に相手のプライベートを詮索するのは気が進まなかった。


「読んでください。当事者のあなたは読むべきです」

「当事者?」

「読めばわかります」


 進められて、直樹はついに表紙を開いた。




 9月29日(金)

 今日も図書室に入り浸る。
 図書室に来る面子も固定してきて、人間観察よりも読書のほうに身が入る毎日だったが、今日は面白い人物に出会った。
 鍋島直樹。
 無論先述のクラスメイトであるが、とても本を読む、あるいは調べ物をするなどの知的好奇心を満たす作業を好むとは思えない人物だったはずだ。彼の中でどのような革命が起こったのだろうか。
 こちらを見つけて声をかけてきたので、それに応え、益体のない会話をした。
 と言っても、こちらは例のごとく言葉にはしなかったが、妙に会話がかみ合う。
 なかなかに面白い思考回路を持つ人物で、ボクのインスピレーションを刺激してくれる。知らぬ間にボクは声に出して話をしていた。




 いきなり開いたところで、そんな言葉が踊っていた。
 なんと言うか、言葉の端々に含まれる毒が、いかにも彼女らしかった。
 直樹は、そのまま続きに目をやる。




 9月30日(土)

 午前のみの授業を終え、図書室に向かうと、鍋島直樹もついて来た。
 どうやら昨日の話が面白かったようで、当然のようにボクの領地たる大机に座ってきた。
 ボクとしても前日は久しぶりに面白い思いをさせてもらったのだ。話をするのにやぶさかではなかった。
 彼といると、知の泉湧くこと滔々としたもので、気がつけば日が傾いていた。
 正直言おう。素直に、楽しかった。




 直樹は、心臓の鼓動がすこし早くなってきたのを感じた。
 他人の秘密を見ているという背徳感と、行間に潜む微細な好意が、直樹の心を刺激する。

 のどに渇きを覚え、冷や水に手を伸ばしかけたところ、ちょうどコーヒーが運ばれてきたので、それで口を湿らせた。
 不味いとは言わないが、普通としか評価しようのない味だった。
 あまり詳細に目を通すのもどうかと思い、直樹はすこし飛ばして先を見る。




 2月11日(日)

 明々後日はバレンタインだそうだ。
 バレンチヌスなる聖人にも、製菓業者の手なる一大イベントにも興味はないが、日ごろの感謝をこめて、直樹くんには何か渡すべきだろうか。
 いや、ただでさえ龍造寺くんからチョコレートをもらえる直樹くんには、世の男どもの嫉妬が降りかかる日だ。それに一助を添えるのも、まあ楽しくはあるが、本義ではないだろう。
 だが、図書室でこっそり渡すという手はある。
 都合よく、明日は代休だ。デパートを冷やかしてみるのも悪くない。


 2月14日(水)

 本日バレンタインデイ。鍋島直樹氏に未曾有の災厄が降りかかった日でもあった。
 まず早朝一番に龍造寺女史謹製のチョコレートをもらった直樹くんは、クラスメイトから揉みくちゃにされていた。
 さらに、下駄箱と机に差出人不詳(直樹くん本人は確認しているだろうが)のチョコレートが入っており、いっそう一部男子から批判を浴びることになった。
 だが、同じクラスに大量のチョコレート(と同数量の女性の好意)を確保していた中野一馬くんが居たせいだろう、クラス内では比較的平穏と言えた。

 昼休み。直樹くんが龍造寺くんからチョコレートを頂いたという噂は学校中に広まっており、一部の強硬派男子と、ごく一部の女子が、殺気立った目で直樹くんを見ていた。
 さらに放課後、図書室でボクがチョコレートを渡した後、帰りに直樹くんは追い掛け回されていた。
 およそそのような集団の心理は理解しがたいが、一助を成した者として、一応十字を切っておいた。吐き気がした。無理をするものではない。




 ――悪魔……十字切るんだ……


 心の中で、なにかがガラガラと崩れていく気がする。
 しかし――直樹は首をかしげる。
 たしかに、登場人物として自分が出てきてはいるが、読む必要があるとも思えない。
 だが、白音が断言するからには、それに足るものがあるのだろう。
 直樹はさらにページを読み飛ばす。




 4月9日(月)

 今日は始業式だ。毎年クラス分けに悲喜交々な様を観察するのは、なかなかに心を楽しませるものがある。
 だが今年に限っては、ボクも類に漏れないようで、他人がどのクラスに割り振られたのかを探すなどという、普通の学生のようなことをしていた。
 自分の名前を探していると、後ろから直樹くんに声をかけられた。また同じクラスになれたことを喜ぶ趣旨のものだった。
 直樹くんと一緒になれたのは、正直うれしかった。




 どうも、毛色が変わってきている。
 直樹は、気づき始めた。なにやら、文章からほのかに色気のようなものが漂ってきた。




 5月2日(水)

 明日からゴールデンウィークだ。
 しばらく直樹くんの顔を見ることができないのは、残念だ。このところ、なにかにつけ彼の顔が思い浮かぶのは、これはどうしたことか。
 まあいい。
 直樹くんは、この休みを利用して、家族旅行を予定しているらしい。家族仲がよくて、なによりのことだ。だが龍造寺くんまで一緒とは、どうしたことか。


 5月7日(月)

 長い休みが明けて初日。直樹くんは旅行でのことを楽しげに話してくる。
 だが、何故だろう。今日はちっとも楽しくない。
 旅行での話というより、龍造寺くんとの思い出話になっているからだろうか。
 その話になるたび、なにか焦れたような、妙な感情がわき起こる。体調が悪かったらしい。今日は早めに寝るとしよう。


 5月8日(火)

 昨日の続きのような一日だった。直樹くんと龍造寺くんが同じ日焼けをしていることが、至極気になる。
 気がつけば、二人を見比べている。
 どうも妙な気分だ。休みボケというものだろうか。
 家に帰ってからも、なにか悶々としたものが収まらない。こんなとき無趣味はつらい。白音に本を借りた。恋愛小説を読むとはあいつもマセたものだ。
 本を読んでいると悶々として眠れなくなった。





 これ以上はマズイ。
 直樹は無言で日記を閉じかけ――白音に腕をつかまれる。


「駄目です」

「だめだって、これヤバイって!」


 宝琳院庵の日記を見るのも拙いが、読んでいる直樹のほうも、どんどん顔が紅潮してきている。


「駄目です。あなたには見る義務があります」

「なにがだよ。いくら関係あるからってこれは不味いって!」


 なにが不味いって、どんどん宝琳院庵を意識しだした自分が一番不味い。
 直樹は腰を浮かしかけるが、白音の腕がそれを許さない。


「駄目です。あなたには最後まで見る義務があります……見てて面白いので」

「コラいま最後にボソッと何いった!?」

「いえ、わたしとしては姉の悩みを解決したいと思いまして。たぶん、さきを読み進んでもらえば解決するものと」


 白音の真剣な声色に、直樹はしばし黙考し――浮かしかけた腰を下ろした。


「も、もうすこしだけだからな」


 直樹の声色も、どうも嫌々ながらとと言う感じではない。




 7月21日(土)

 今日は終業式だった。明日から直樹くんに会えないかと思うと、気が沈んで来る。
 どうも……参った。
 正直に言おう。どうやらボクは、直樹くんに好意をもってしまったようだ。
 まったく、常に客観を自らに課しているわたしが、このざまだ。ままならないものだ。
 思えばこの夏休みも、冷却期間としてはちょうどいいかもしれない。
 夏休みが明ければ、彼とごく普通に接することができる。そんな自分が戻ってくるといいのだが。


 8月14日(火)

 今日、偶然直樹くんと出会った。
 嘘だ。
 本当は、彼がいるであろうことを知っていて、彼の家の方まで足を伸ばしたのだ。
 彼と益体も無い話をした。ただそれだけで満ち足りてしまった。
 なんて安いやつなんだ。
 それも直樹くんが悪いのだ。
 わたしを、ただの女に貶めた直樹くんが悪い。そう思わなければ、やっていられない。堕ちたものだ。




 直樹は、言葉も無い。
 どんどん深みに嵌まっていく宝琳院庵の姿が、そこに描かれていた。
 ――だが。




 9月3日(月)

 恋。これは恋なのだ。
 わたしは、ようやく気づく。
 生れ落ちてより一度もそのような感情を抱いたことが無かったので、気づくのに遅れた。
 大幅に後れを取ってしまったようだ。
 だが、まだ遅きに失したというには、早すぎる。




 ――だが、決定的な違和感を、直樹は見逃しはしなかった。


「てい!」


 と、一番最後のページをめくる。


「――あ!?」


 焦ったような白音の声を無視して、最後の日付を探す。
 日付と、宝琳院庵が告白を心に決めたこと、その最後に、こう書かれていた。




 著・宝琳院白音




 痛いほどの沈黙が、二人の間に流れる。


「――やっぱり、お前の仕組んだイタズラか」


 直樹は目を眇めた。
 イタズラとしては悪質すぎる。


「変だと思ったんだよ。宝琳院は筋金入り・・・・だからな。こんなことを書くわけがない」


 直樹は白音を追い詰めるように、日記を指でたたいて見せた。
 白音は、無表情のまま。


「ひどいです」


 無表情のまま、目に涙をためる。


「ひどいです。せっかく苦労したのに」


 ポロリと、涙がテーブルに落ちた。


「ひどいです。せっかく苦労して、直樹さんの慌てふためくさまを堪能しようと思っていたのに」

「最後の言葉で罪悪感も吹き飛んだぞ」


 嘘泣きか、本当か。判断しかねたが、発言の内容に同情の余地はなさそうだ。
 すこし気になって、仕込みにどれくらい時間をかけたのか尋ねてみると、徹夜しました、という言葉が返ってきた。
 どうやら昨日からたった一日ですべての仕込みを終えたらしい。


「――その根性には、脱帽するよ」


 感心半分、あきれ半分といった調子で息を吐き、直樹はテーブルに日記を置く。


「だが、俺を騙すには――」


 とん、と、直樹の指が日記の上にのせられる。


「――ちょっと早かったようだな」

「――ほう? なにが早かったのかな?」


 極低温の声が、背後から投げかけられた。
 蛇に睨まれた蛙のように。背後からの強烈な視線に、直樹は動けなくなった。


 ――拙い。不味い。マズイ。


 動かない首を、無理やり後ろに向ける。
 予想通り。そこには龍造寺円の姿があった。


「教えてくれないか。直樹」


 静かな怒りをたたえ、円は仁王立ちでいる。
 さらに、その横に。


「――ボクも、キミについて言っておきたいことがあるのだよ、直樹くん。たぁっぷりとね」


 宝琳院庵までが、怒りを隠しもせずに、そこにいた。


「キミが、人の日記を見る事をためらわない人種だったとは思わなかったよ。それに、妹を泣かせるような人だともね」


 その言葉に、白音はあからさまに涙をぬぐって見せる。


 ――罠か!?


 気づいても、もう遅い。
 この状況はすでに詰みである。


「宝琳院。これは、だな」


 宝琳院庵に釈明しようとすると、直樹は円に腕をつかまれた。


「直樹。わたしにも言うべきことあるんじゃないか? いろいろ・・・・と」


 ふたりのようすに、直樹は弁解を考え――本日の生存をあきらめた。








 鍋島直樹がふたりの美少女に引きずられていった後。
 白音は、何事もなかったかのように顔を上げた。無表情の中に、特定の感情は見て取れない。


「直樹さん、思ったより切れ物でびっくりしました」


 ミルクティーを口にし、少女は窓の外に目をやる。
 哀れな子羊が、駅前の往来で脚光を浴びていた。


「ですが、気づかなかったようですね。あの日記、途中までは本当の日記そのままだったのですけど。せっかく見せて差し上げたのに、気づかないなんてもったいない」


 ほんのわずか、白音は口の端を上げる。


「とはいえ、ふふ、脈がないわけでもない。こういうの、妹冥利に尽きるとでもいうのですかね」


 そう、ひとりごちて。
 少女はカップの中身を一気に干した。







[1515] ユビオリ1
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:f00cf785
Date: 2007/12/21 23:53



 学園祭から数えるのに、もはや月単位で指を折らねば間に合わなくなった初冬の休日。

 鹿島茂(かしましげる)は学校近くの路上で、クラスメイトの姿を認めて、足を止めた。

 普段の彼なら、腕を振り上げ、挨拶のひとつもしながら通り過ぎるところだ。

 だが、そうもいかない。

 あの神代良(くましろりょう)が、野暮ったい私服姿ながら必死の面持ちで、少女に話しかけている。 そんな希少な光景を無視できるほど、茂の好奇心は怠け者ではない。



「女口説くなんて――やるじゃん、良チン」



 普段おとなしい彼が、身振り手振りで必死に話かける様子に、茂の表情も緩む。



「……でもそれは、ちょっと犯罪っぽくねー?」



 問題は、神代良の目の前にいる少女が、どう見ても10代前半であることだ。

 無論、それくらいの年でも、大人びた少女などいくらでもいる。しかし、当然彼女はその手合いではない。

 神代良も充分以上に童顔とは言え、見る者が見れば、警察に通報されそうな光景である。

 それはさすがに――茂としても勘弁してほしかった。



「――よ、良チン!」



「うっ、うわわわわ、か、かしまくん!?」



 気配を殺して背後に回りこみ、いきなり覆い被ると、神代良は面白いように取り乱した。

 腹の中で反応を楽しみながら、茂は良の背中から首を覗かせた。

 艶のある髪を後ろに束ね、幼さの残る顔立ちの少女が、大きな瞳をさらに見開いていた。

 ランドセルをしていれば小学生、制服なら中学生に見えるだろう。どちらにも見える、微妙な年代だ。



「良ちーん? さすがにマズイだろ」



「ち、ち、ちがうよ!」



 茂が半眼を向けると、童顔の同級生は顔を真っ赤にして否定してきた。



「ぼ、僕は、ただ、鍋島くんについて聞かれたから……」



「あ? ナベシマ? 何であいつのハナシ?」



「――あ、あの!」



 二人の話に割り込むように、少女は声を上げた。



「わたし、鍋島直樹さんを、紹介してほしいんです!」



 その言葉に、茂と良は固まった。少女は、顔を真っ赤にしている。

 冷たい風は、冬の訪れを感じさせた。









 それから少し後。

 二人は少女を案内して、古民家の立ち並ぶ寂びた町並みの中にいた。

 休日のこととて、観光客の姿も少なくない。行きかう人たちの目に、自分たちはどう映るんだろう。

 鹿島茂は考える。



 ――たぶん、兄弟ならいい方だろ。



 もともと、鍋島直樹の実家に行くなど気が進まないのだが、そう思えば、二重に嫌気がさしてくる。



「あー、やだなー。城の中なんかに行くの」



 ぼやきながら、茂は獣毛を思わせるグレーの髪をくしゃりと掻いた。

 そう言いながらも結局案内する面倒見のよさは、万人が認める彼の美質だろう。



「城の中?」



 少女――石井陽花(いしいようか)が首をかしげた。

 どうもこの界隈のものではないらしい。茂がそう思ったのは、この辺りの人間なら、“城の中”を知らない者はないからだ。



「し、城の中ってのはね、ほら、この辺り、旧城下町じゃない? だから、城のワク――土塀とかの跡が、まだ残ってるんだ。その辺りに住んでるのは、旧家が多いから」



「そ、どーも城の中の連中は、付き合いにくいんだよ。ナベシマはまだマシな方だけどな。それでも、わざわざ家に行こうとは思わねーって」



 二人が説明してやると、陽花の顔から血の気が引いた。



「そ、そんな大変な家の人なんですか?」



「さあ? 家のほーにゃ、とにかく関わることねーからな。さっぱり」



 気後れした様子の陽花に、茂は肩をすくめて見せる。

 これは掛け値なしに事実で、茂が“城の中”に住む友人を訪ねたことは皆無である。



「ま、行ってみりゃわかるさ。オレがいるんだ。門前払いなんてこたないだろ」



 根拠希薄、自信過剰な態度は、しかし年下の少女を勇気づける役には立ったらしい。陽花の表情がわずかに緩んだ。

 それから、5分ほども歩いただろうか。

 神代良が覚えていた住所を頼りに、三人は鍋島直樹の自宅にたどり着いた。

 何故、彼がそんなことを覚えていたのか、茂は詳しく突っ込む事は避けた。

 直樹の家が龍造寺円の隣だと言うことと無関係ではないのだろうが、それは言わぬが華だろう。



「ここ……っぽいな」



 鍋島の表札が入った日本家屋を前に、三人は立ちすくむ。

 鉄筋コンクリートの建築物は、人を威圧する。などと言うが、茂としては、平屋建ての庭付き日本家屋こそ、そうだと断言したい気分になった。



「う、うわー、ほんとに旧家って感じだね」



「こんなお屋敷がまだ残ってるんですね……」



 良と陽花も、門から中を覗き込んで、呆然としている。

 この辺りの家屋の平均からすれば、むしろ小さい位だが、それでもマンション住まいの茂とは雲泥の差である。



「よし、呼び鈴鳴らすぞ」



 念押しより、むしろ自分を後押しするために宣言し、茂は呼び鈴を鳴らした。

 どこか郷愁をさそうブザー音の短い余韻が消えて、数秒も待っただろうか。はーい、という声とともに、近づいてきた足音が止まると、間置きなしに玄関の扉が開いた。

 茂より拳ひとつほど高い長身が、こちらを見下ろしてきた。

 育ちがにじみ出るような、柔和な顔に、無造作に伸ばした髪がかぶさっている。



「はい――って、鹿島か。どうしたんだ?」



 淡い驚きを宿したその瞳に、自然、威圧されたような気になった。どうも最近急に貫禄が出てきて、気後れするときがある。

 それも癪な話なので、茂は勤めて平静を取り付くろった。



「ナベシマ、ちょうどいいや。学校ら辺でオマエに会いたいってやつがいたんで連れてきたんだよ――オイ、お前ら、ヘイのカゲに隠れてんじゃねーよ」



 茂が声を投げかけると、小心な同級生とそれより頭ひとつ小さい少女は似たような仕草でこそこそと出てきた。



「神代、に――えーと、初対面だよな?」



 仕草よりも、その取り合わせに不審を感じたのだろう。直樹の表情に困惑の色が浮かぶ。

 茂よりさらに数歩を隔てた遠間で、少女の頭は下げられた。



「い、石井陽花です。初めてお目にかかります」



 石井陽花の態度は、年齢にしては上等だろう。育ちのよさを自然と見せつけられた気になり、茂はひねた感情が湧きあがってくるのを自制した。

 だから来たくなかったんだよ。

 茂はくしゃりと頭を掻く。面倒な感情を抱えながらの友達付き合いなど、せずにいられるに越したことはないのだ。



「にいさーん、お客さん知り合いー?」



 と、直樹の脇から、声とともにひょっこりと顔を出してきた少女に、茂は不意打ちを受けたように仰け反った。

 艶のある黒髪に国際的な容貌。茂とさしてかわらない視点で、こちらを覗いてきたのは、文句なしの美少女だった。



「あ、こいつ――」



 ある意味家よりも衝撃を受けた茂の表情を見て察したのだろう。口を開きかけた直樹の言葉は、しかしより大きい声にかき消された。



「ば、バイフォーの――澄香(すみか)先輩!?」 



 ほとんど驚愕と言っていい表情を浮かべる陽花に、少女――澄香は頼りなげに首をひねった。



「あれ? えーと……あ、五本指の!」



 脳内の人名録に、陽花の名を発見したのだろう。とたんに澄香の顔が晴れ、勢いよく陽花を指差した。



「知り合いか?」



「は、はい。学校の先輩です」



 いまだ驚きを隠せない様子で、陽花が問いに答えた。

 だが、ほんの少しだけ、彼女の表情が自然体に近くなったのを見て、茂は自分の役目が終わったことを知った。



「そ、か。知り合いがいるんなら丁度いいや。良チン、帰るぞ」



 言葉にからことさらに影を取り除き、茂は、自分の背に隠れている同級生に声をかけた。

 いきなり声をかけられた良は、挙動不審に手振りだけで応えてくる。傍目には踊っているようにしか見えなかったが。



「鹿島、上がって行けよ。茶くらい出すぞ?」



 影のない直樹の言葉に、茂は片手で謝った。



「すまんが、どーもオレこの辺居心地わりーんだよ。落ち着かねーんだ。じゃな、ナベシマ。またガッコーでな。

 

 手をひらひらさせて、茂は踵を返す。



「ちょっとまって――あ、鍋島君、また学校で!」



 あわててついて来る神代良の気配を背後で感じながら、茂は歩を緩めない。

 寒空を仰ぎながら、茂の感心は、すでに休日の残りをどう過ごすかに移っていた。

 たまの休日。珍しく親切心を発揮して、不案内な場所まで来た。

 鹿島茂にとっては、ただ、それだけの話。



 だが、鍋島直樹にとっては――






[1515] ユビオリ 2
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:5872132d
Date: 2007/12/23 22:16



 クラスメイトたちが帰った後、直樹は石井陽花を自分の部屋に通した。

 案内を澄香に任せたのは、緊張した様子の少女に対する配慮だったのだが――お盆に湯呑みを載せた格好のまま、直樹は戸口から妹に半眼を向ける。

 だらしなく両足を放り出して座る妹と、その前で正座して畏まっている少女の姿。

 茶を淹れてくる間の数分は、まったく無駄に過ぎたらしい。



「えーと、粗茶ですが」



「あ、す、すみません!」



 茶托に載せて湯呑みを渡すや否や、少女の頭が畳にぶつかった。

 お辞儀だと気づくのに数瞬を要するほどの、それは見事な頭突きだった。

 どうもこの少女、自分をよほどのえらいさん(・・・・・)か何かと勘違いしているのではないか。

 直樹は冷や汗を隠すように、髪を掻きあげる。

 学校の先輩の、しかも年上の兄弟相手なら、心情的には理解できなくもない。だが、それにしても、な反応である。



「いや、そんなに畏まらないで。こっちまで緊張してくるし」



「い、いえ、その――結構なお手前、じゃなくて、その、ご馳走様です!」



 そう言って陽花が茶を一気飲みする。

 熱くないのだろうか。半ば感心しながら直樹は湯呑みを傾けた。

 口中に広がる苦味に、顔をしかめる。少し濃かったらしい。



「兄さん、あたしの分は?」



「盆に載ってるだろ? 勝手に取れよ」



「えー? あたしも陽花ちゃんみたいに手渡ししてよー。差別じゃーん」



 ばたばたと両の足を振り回す妹のありさまに、ため息が漏れる。どちらが年下かわからない。



「彼女はお客さんだろうか……ほら」



 直樹は投げやりに湯飲みを押し付けた。

 愛が足りない、などと口を尖らせたものの、リテイクを要求する気は無いらしい。大人気ない妹はおとなしく茶をすすりだす。



「――で」



「ハ、ハイッ!」



 声に反応して、少女の背筋がバネ仕掛けのように伸びあがった。

 とても会話になりそうにない。直樹はやむを得ず不肖の妹を頼ることにする。



「澄香、オマエ、いちおう二人とも知ってるんだから、紹介してくれ」



「え、あたし? じゃ、まー」



 不承不承、といった風情で居住まいを正すと、澄香はわざとらしく空咳してみせた。



「こっちがあたしの兄で、鍋島直樹。直進の直に樹木の樹。佐賀野高校の2年生。ちなみに彼女なし」



「ほっとけ」



 余計な一言を付け加えた妹に、直樹は口をへの字に曲げる。



「――で、こっちはあたしの後輩――泰盛学園の一年生。“五本指”の一人で石井陽花ちゃん。太陽の陽にお花畑の花」



 その紹介とはかけ離れた彼女の様子に、澄香は何も思わないのだろうか。

 直樹は問いただしてみたい気分になったが、さすがに当人の前でははばかられた。



「さっきから気になってたんだけど……五本指って何だ?」



 直樹は当然、と言うより、澄香の紹介を聞けば、誰もが感じる疑問を口にした。

 妹たちの“バイフォー”もそうだが、とても一介の中学生を示す言葉とは思えない。



「えーとね。泰盛学園の一年に、運動成績その他諸々何をやってもトップ5って子らがいるんだけど、その子らがつるんでて、そう呼ばれてるの。

“親指”横岳聡里、“人差し指”石井陽花、“中指”深堀純、“薬指”姉川清深、“小指”倉町時江――だったかな? で、五本指。まあ“親指”の聡里ちゃんが最近死んじゃったからフォーフィンガーって感じだけど」



「澄香、人の死を茶化すな。すまん、石井」



「いいんです。鍋島――お兄さん。実は、そのことで相談に来たんですから」



 目を伏せる石井陽花の顔に、明確な恐れの色が見て取れた。

 彼女の口から紡がれる言葉は、間違いなく不吉な種類のものだろう。そう、直樹は確信した。



「最初は、ただの遊びだったんです……」



 しばらくの逡巡の後、陽花の口が、ゆっくりと開いた。



「しし座はトラブルに注意とか、AB型は今日絶好調とか、そんな感じで、適当に引っ張ってきた占いを、5人で順番に、メールで回してたんです」



 目を伏せたまま、陽花は言葉を継ぐ。その、痛みに耐えるような表情に、澄香まで粛然と居住まいを正す。



「でも、途中からおかしくなった」



 その声を絞り出すまでに、多分の勇気が必要だったのだろう。陽花の語調が、一瞬、強くなった。

 

「出した覚えのないメールが相手に着いたり、逆にそんなメールが届いたり……それも、最初は2、3周に一回くらいのものでした。でも、そんなメールがどんどん増えていって、内容もどんどんおかしなものになっていったんです」



 言葉が止まった。面に浮かぶものは、恐怖か悔恨か。



「それで、聡里が……死んじゃって……でも、届いてくるんです。いないはずの、聡里からのメールが。しかも、それが、妙に当たるんです。占いなんかじゃなく、純なんかノイローゼになっちゃって」



 そこまで続けて、陽花はやっと息を吐いた。うつむき加減だった彼女の顔が、まっすぐに直樹と相対する。



「今朝、一通のメールが来ました。鍋島直樹に会えなければ――死ぬ、と」



「――それで、俺に会いに来たのか」



 直樹は、髪を掻き揚げて唸る。

 呪いのメール、とは、違うだろう。未来に起こる事を伝えるメール。予言のメール。

 面識のないはずの鍋島直樹をピンポイントで指定できるあたり、本物(・・)なのだろう。

 それは――否応なしに学園祭前夜を思い起こさせる。



「わかった。力になれるか分からないけど、調べてみる」



 直樹は、力を込めて口に出した。

 あても、無くはない。というより、その手のモノに詳しい人物を、直樹は一人、知っていた。

 多分、それも、偶然ではないのだろう。



「お願いします。どうしたらいいか分からなくて」



「ああ。任せとけ」



 必死で頭を下げようとする陽花を手で制し、直樹は拳で胸を叩いた。

 地獄のような体験をした。

 もう二度と関わるものかと思った。

 だが、関わってしまった以上、そして頼まれた以上、この少女を見捨てることなど、できない。

 石井陽花を、助けよう。

 言葉以上に、直樹は強く、心に誓った。







 石井陽花は家路を急ぐ。

 朝から感じていた、死への恐怖から解放され、自然と頬が緩む。

 鍋島直樹は、いかにも頼もしげなお兄さんだった。何より4つも年上ということで、陽花も素直に彼を頼る気持ちになった。

 泰盛学園でも指折りの奇人、あのバイフォーの兄だと言うのには、驚かされたけれど。

 死んだはずの横岳聡里から送られてくる不吉なメール。

 そのことを思い返すたび、陽花の心は締め付けられる。たとえ超常現象の存在を認めるとしても、横岳聡里があのようなメールを送ってくるなど、決して有り得ない。誰よりも陽花が、それを理解していた。

 だからこそ。メールを送ってくる何者かに、得体の知れない恐怖を感じるのだが。

 陽花は、ふと、空を仰いだ。この天の上にある世界に、聡里は居るのだろうか。

 夢想は、メールの着信音に阻まれた。

 ひやりと、首筋につめたいものを覚えながら、携帯電話を取り出して確認する。

 発信者の名前は横岳聡里。



“小指に危険が迫ってる”

 

 そんな内容の、メールだった。



「――時江!」



“小指”倉町時江の名を叫びながら、彼女の番号を呼び出す。

 受話口に耳を当てても、呼び出し音が続くばかりで、それが余計に不安をあおる。

 ――と、交差点の向こうから悲鳴めいたものが聞こえてきた。

 陽花の目が、大きく見開かれる。

 電話をかけていた当人、倉町時江が、必死の面持ちで駆けてくるではないか。

 まるで、見えない何かから逃れるように。



「時江!!」



 陽花の声が聞こえたのだろう。時江の瞳が陽花を捉えた。

 彼女は何かを叫びかけ――唐突に、宙に舞った。

 交差点に進入して来た車に轢かれたのだ。気づいたときには、時江の小さな体は横倒しになっていた。

 地面に滲んだ血が、見る間に広がっていく。

 車から出てきて、何かを叫ぶ運転手の声すら、耳に入らない。

 メールの着信音が、異様に大きく、陽花の耳を打った。

 震える手で、確認する。

 陽花は、思わず携帯を取り落とした。

 地面に落ちた携帯は、無機質な文字を映し出す。

 発信者は、横岳聡里。内容は、ただの一言。



“小指折った”






[1515] ユビオリ 3
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:767e65ff
Date: 2007/12/26 01:20



 宝琳院庵は悪魔である。

 声に出せば正気を疑われそうな話は、しかし、紛れも無い事実だ。

 艶のある豊かな黒髪も、どこか浮世ばなれした、オヒメサマ(・・・・・)のような容貌も、生来の寡黙さと相まって、神秘的と評されることが多い。

 一部の男子からは、信仰に近い人気を集めているようである。

 直樹から見れば、齢を重ねた猫又が、うまく人を化かしているようにしか見えないが。

 その悪魔は、直樹にとってクラスメイトであり、そればかりか親友でもある。

 もっとも、彼女が悪魔だと知ったのは、最近のことであるが……

 ともあれ、怪奇現象に関して、彼女は言うなれば専門家である。直樹としても大いに当てにしたいところなのだ。

 

「――ふむ、で、直樹くんは、ボクに何を聞きたいんだい?」



  昼休み、いつも通り、閑散とした図書室。昨日の出来事を一通り話すと、彼女はそう尋ねてきた。

 そうしながら、なぜか机の上に腰を移し、こちらを見下ろしてくる。

 直樹はもはや理由を尋ねる気にもならない。

 おおかた説明時には見下ろさないと気が済まないとか、そんなくだらない理由だろう。



「そういう怪奇現象とかに心当たりはないか?」



「……ふむ」



 宝琳院庵の手が、顎に当てられる。

 その仕草を見ていると、直樹はどうしても毛繕いしてる猫を連想してしまう。



「直樹くん。“スクエア”という降霊術を知っているかい?」



「スクエア?」



 耳慣れない単語だった。



「怪談としてなら聞いているかもしれないね。吹雪の中山小屋に避難した4人の人間が、睡魔と闘うため、部屋の四隅に立ってバトンリレーのように回っていくというあれだよ。
 ネタばらしすれば、本来5人いなければこのリレーは成り立たない。4人の他に5人目の何かが居た、という話なんだが、それに近いと思わないかい?」



「えーと、ちょっと考えさせてくれ」



 宝琳院庵の言葉を反芻する。

 携帯電話でのメール回し。欠けたメンバー。居なくなったはずの5人目から届くメール。

 山小屋でのリレー。足りない人手。それを埋める5人目の何か。

 

「欠けたものを何かが埋める。共通点をあげるとすれば、それか?」



 直樹の回答に、宝琳院庵は満足げにうなずいて見せた。



「ご明察。相変わらず鋭いね。欠落を埋める概念、これさ」



 及第点をもらって胸をなでおろしていると、宝琳院庵の指先が伸びてきて、直樹の目の前で止められた。



「直樹君」



 宝琳院庵の視線は、ぴたりと直樹に合わせられる。



「人間、何が一番怖いと思う?」



 ここで彼女が答えを必要としていないことは、経験上理解していた。

 直樹は、彼女の言葉をじっと待つ。



「――何もない。無こそ、あるいは不可知こそ、人のもっとも恐れるところだよ。だから、説明できない自然現象に神を見出した。大空を、宇宙を概念で埋め尽くした。なぜなら、空隙には、必ず恐怖が、魔が入り込むものだからね」



 魔、その響きには、直樹の背筋を冷たくさせるものがあった。

 関わった者にとって、それは悪夢以外の何者でもない。



「だったら、メール回しのメンバーが急に欠けて、そういったものが入り込んだ。そういうことなのか?」



「おいおい直樹君。ボクは全能の神ではないし、ましてや今のボクはヒトの鋳型にはめられて魔的な部分を残らず削ぎ落とされているんだ。君が持ってきた程度の情報では判断できないよ。あまり人を万能だと思ってもらっても困る。早合点しないでくれよ。君の言葉から、そういう可能性が探れると言っただけだ」



 あきれが多分に混じった、宝琳院庵の言葉だった。



「そうか……」



「それに、事件に関わることを、ボクはお勧めしないよ。いまの君にはチャンネルができてしまっているからね」



「チャンネル?」



「ボクが勝手につけた言葉さ。一度体験した者は、同じことを体験しやすい。なぜなら、そういうものが在ると認識してしまったから。
 脳が存在を認識し、いままで見過ごしていた事象を知覚してしまう。結果、そういったものに出会いやすくなるということだよ」



 その言葉に、直樹は息を飲む。

 道を歩いて、ふと横を見れば、悪魔が哂っている。それは、ぞっとしない話だった。



「チャンネルができてしまった君が、そういうつもりで、そんな事件に関わる。これは、君が思っているより、はるかに危険なことなのだよ」



 しつこいくらいの忠告に、危険の深刻さを自覚させられる。

 確かに、危険かも知れない。

 だけど――直樹は、決意を瞳に込め、視線を宝琳院庵に送り返す。



「だからって、見えない崖のそばをうろついてるやつを見て、無視するなんて真似は、もっと出来ない」



 心に誓った。

 石井陽花を、あの少女を助けると。その覚悟は、偽物であってはならない。

 視線が絡み合い――降参するように、宝琳院庵からため息が漏れた。



「――なら、老婆心ながら龍造寺くんと同行することをお勧めするよ」



 彼女なら、頼りになるからね、と、彼女は付け加えた。

 暗に頼りにならないと言われたことに、直樹は気づきもしなかった。









 放課後を待って、直樹は石井陽花に電話をかけた。

 宝琳院庵の話から得たものは多くは無かったが、それが情報不足に起因することは分かっていたので、話を聞いておきたかったのだ。

 メールを送ってもよかったが、彼女が置かれている状況を考えれば、嫌がらせでしかない。

 鞄を片手に、校舎裏の駐輪所に向かっていた直樹の足が、止まった。



 ――この電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が切れています



 機械的なメッセージ。

 ふと、不安がよぎる。

 泰盛学園は基本、授業中携帯電話の電源OFFだ。優等生の石井陽花はそれを遵守しているのかもしれない。

 だが、すでに放課後である。ひとつのメールが命を左右するかもしれない今の状況で、電源の付け忘れなど考えられない。



「澄香や忠は部活があるから繋がるはずが無いし……仕方ない」



 ものすごく気は進まなかったが、泰盛学園にいるもう一人の後輩に頼るしかなかった。



「もしもし」



「白音、鍋島直樹だけど」



 きっちり3コールで出た相手に、直樹は声をかける。



「もしもし、白音です」



「聞こえてないのか? 直樹だ」



 直樹は心持ち大きな声で名乗った。



「もしもし、白音です。ただいま電話に出ることが出来ません」



「嘘つけ」



 どう聞いても肉声だった。



「入浴中です」



「嘘つけ!」



「冗談です。まあ格好は入浴中と同じですが」



「本気か!?」



「――冗談です。反応しすぎです、直樹さん。欲求不満ですか?」



 信じる方も信じる方だけど……直樹は思う。この悪魔の妹は、何の悪意があってこうも自分を弄るのか。



「お前……年上からかって楽しいか?」



「それは是、ですが……直樹さん。火急の用とお察しします。用件を承りましょう」



 声色から直樹の焦りを察したのだろうが、それでも言葉遊びを止めないあたりが、宝琳院白音の宝琳院白音たる所以だろう。

 直樹は息を深く吐いて、気を取り直す。



「白音はそっちの一年の、石井陽花って知ってるか?」



「承知しています」



「今どうしてるかわかるか?」



 直樹は、調べるのに時間がかかることを覚悟していたが、一息も待たずに答えは返ってきた。



「病院に行っております」



「病院?」



「友人の方が入院したとかで」



 病院に行ったと聞いて、一瞬肝が冷えたが、当人は無事らしい。直樹は胸をなでおろした。



「そうか。本人に何かあったわけじゃないんだな」



「ええ……時に直樹さん」



「なんだ?」



「今日、少し、お時間をいただけませんか? いつもの喫茶店なのですが」



 白音にしては珍しい、急な話だった。

 だが、石井陽花が見舞いで連絡が取れないのなら、どの道時間をつぶさなくてはならない。それにRATSなら、場所的にも動きやすい位置だ。

 そこまで考えて、直樹は白音の誘いを受けた。



「やれやれ」



 携帯を閉じて、直樹はため息をついた。陽花の無事は確認できた。とりあえずはそれで充分だった。



「――直樹、どうかしたのか」



 いきなり背後から投げかけられた声に、一瞬、心臓が跳ね上がる。

 声の主は、確認するまでもない。



「……円、いきなり後ろに居るのやめろ。心臓に悪い」



「何の話なんだ?」



 誰からの電話だ、と、聞かないあたり、やりにくい。



「いや……何でもない」



 直樹はそう答えた。

 悪魔が関わる事件に、円を巻き込みたくはない。

 自分は自ら関わっておいて勝手な言い草かもしれないが、それが直樹の本音だった。



「あやしい」



 半眼になった円の目が、直樹に向けられる。



「いや、なんでもないって」



 直樹は、それでも誤魔化す。

 円の瞳が、一瞬だけ、寂しげな色彩を帯びた。



「――そうか」

 

 そう、呟いて。後は、何も詮索してこない。

 何か言ってやりたかった。だが、どう取り繕おうとこの明敏な幼馴染は察してしまうだろう。



 ――すまん、円。



 直樹は、心の中で頭を下げた。実行に移せないことが、歯がゆかった。






[1515] ユビオリ 4
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:b1f98689
Date: 2007/12/30 04:11



 喫茶店“RATS”の扉をくぐり、目を軽く店内にまわす。

 すぐに見つかった。

 店の一番奥まったところに、姉と相似形の、宝琳院白音の姿があった。

 だが。直樹は眉を動かす。

 いつもなら直樹が座っているはずの席を、見知らぬ後姿の主が占めていた。

 年のころは白音と同じ位か。座っていても明らかに白音より背が高い。制服が同じことを思えば、彼女も泰盛学園の生徒らしい。

 白音が軽く手を挙げてきたので、同じように返しながら、直樹は二人に近づく。



「直樹さん、お手間です」



「ああ――そっちは?」



 白音が促すまま、彼女の隣に座る。そうすると連れ少女の姿と相対することになる。

 見て、顔の小ささに、まず驚いた。

 身長に不釣合いなほど小さい顔に、すべてのパーツが整然と配置されている。その顔立ちにふさわしい、均整の取れた体型だが、どこか鋭角的な印象を受けた。

 値踏みするような直樹の視線に怯えるように、切れ長の目が伏せられる。



「直樹さん」



 白音の批難がましい視線が、横から突き刺さる。



「直樹さん、無遠慮に見るのはどうかと思います」



「いや、その、すまん」



 かなり不躾だと自覚していたので、素直に謝った。



「直樹さん、いやらしい目で無遠慮に視姦するのはどうかと思います」



「してねえ! 不名誉なこと人前でしゃべるな!」



「半ば冗談です」



「半分は本気なのかよ!」



「さて、彼女を紹介させてもらいましょうか」



「こら、こんなときだけさっさと話題変えんな。お前俺の事どんな目で見てんだよ」



 今度は直樹の方が半眼でにらむが、白音は相変らずの無表情で知らぬ顔である。



「彼女はわたしの後輩で、深堀純です。ちなみに中学一年生ですのでフラグはありません」



「だから、俺に不当な評価を与えようとするなよ」



 直樹はうめくような声をあげた。

 おや、と、白音が声だけで意外を表現して見せた。



「もっと年下がお好みで? それは直樹さん見損なっていたと言わざるを得ません」



「違う! 何でお前は逆逆に解釈すんだ!」



 なおも言い募りかけて、気づく。

 深堀純。

 五本指の、中指。



「深堀純って……五本指のか?」



「ご存知でしたか」



「ああ」



「ご存知でしたか。さすがです」



「澄香に聞いたんだけどな」



「ご存知でしたか。さすがにアンテナが広い。他校の女子、それも中学生までチェックしているとは」



「してねえ!」



「冗談です。石井陽花をご存知でしたので、そのことは予測しておりました」



 切りよく突っ込みが入ったところで、満足がいったのだろう。白音の口元が、わずかに綻んだ。

 掛け合いが終わるのを待っていたのだろうか。ちょうどウェイトレスが注文を取りにきたので、直樹は紅茶を頼む。



「今日直樹さんをお呼び立てしたのは、彼女のことなんです」



「て、ことは、用があるのはそっちの彼女の方ってことか」



「肯定です」



 直樹は、少女、深堀純に目を戻した。



「深堀、だったな。あんたの用件は、石井と同じか?」



「は、はい……たぶん」



 直樹が内に含めたものを、正確に汲み取ったのだろう。

 純の首が、縦に動いた。



「そうか。俺としても、もう一度ちゃんと事情を聞きたかったんだ。丁度いい」



 直樹の言葉はまったくの本音だった。

 宝琳院庵との会話から、情報不足を痛感していたところだ。しっかりと聞いておかなかった直樹自身の責任だが。



「……鍋島先輩、陽花から、どこまで話を?」



 そう、純は切り出してきた。



「たぶん、おおよその流れは聞いてる――と」



 いきなり携帯が鳴りだして、会話を中断させられた。

 すまん、と、断りながら携帯を取り出し、発信者を確認した。

 石井陽花。

 その名を見て、直樹は慌てて通話ボタンを押す。



「石井か」



「お兄さん……すみません。本当ならすぐに電話しておきたかったんですけど」



 電話を通しているからだろうか。陽花の声は、昨日聞いたときより一段沈んで聞こえた。



「気にするな。見舞いの方が大事だろ」



「すみません」



 陽花が頭を下げる気配を感じて、直樹は苦笑した。直樹もよくやるのだ。



「お兄さん」



 陽花の声が、一段と低いものになる。



「お見舞いの相手は、小指――倉町時江なんです。この意味、わかりますよね」



 その言葉の意味が、判らぬはずが無い。直樹の顔から一気に血の気が引いた。



「いつだ? 大丈夫なのか?」



「意識不明の――状態です。面会謝絶でした」



 絞るような、陽花の声だった。



「直樹さん。今から会えませんか? 詳しいことをお話したいんですけど……」



「いまRATSにいるけど、来れるか?」



「駅前の喫茶店ですね。なら15分ほどでいけます」



「じゃあ、待ってるから」



「はい。では」



 通話が切れた。



「石井からの電話だ。15分ほどで来るって」



 伺うような白音と純の視線に、直樹は説明する。



「どうする? 石井が来てから一緒に話を聞こうか?」



「いえ――」



 否定の言葉が、純の口から漏れる。



「陽花が話すなら、陽花に任せます。自分、話すのは得意で無いので」



 純がため息をつく。

 感情の種類の読めぬ、色の無いため息だった。



「いいのですか? 純」



「――ええ。自分、やっぱり、性に合わないですし」



 白音に、やはり色の無い笑みを向けると、純は立ち上がった。



「直樹さん、手間を掛けてすいません。先輩も、すみません。お願いします」



「ええ」



 頭を下げる純に、白音は軽く返すだけだった。

 純の細長い後姿が見えなくなる。

 向かいが空いたので直樹は白音そちらに席を移した。



「さて、と、直樹さん」



 白音の手が卓上で組まれる。



「直樹さんが知りたがっている情報、お教えしましょうか」



 そう、言って来た。

 考えてみれば、事態に触れていて、この少女が把握していないわけがない。



「頼む」



 直樹は、頭を下げた。



「では、深堀純のスリーサイズですが――」



「――ちょっと待て」



「はい?」



「何でわざわざそんな話を?」



「ああ」



 ぽむ、と手を打つ白音。



「石井陽花の方ですね。確かにあちらの方が女の子らしいですし――」



「それも違う。もちろんまだ会ってない“薬指”でも無いぞ」



「突っ込みに暖かさが感じられません……」



 拗ねるように口を尖らせる白音だが、無表情のままでは不気味だった。



「ですが、わたしも命を肴にするような不謹慎なことはするつもりはありません。手っ取り早く、この事件と、5人について説明させていただきます」



 白音の言葉に、自然、直樹の背筋が伸びる。



「五本指について、どこまでお聞きになりましたか?」



「うん? 五人の名前と、一年生のトップだってことくらいだけど」



「その認識では甘いです。あの五人は、ただのエリートではありません。学区内の小学校から、それぞれ一番の成績で入ってきた筋金入りです。いわばエリートグループなのです」



「ふーん。エリート……中一でねぇ」



「直樹さんのような一般人には想像もつかないかもしれませんが、泰盛学園クラスの進学校では、早くからそういった概念が存在するんですよ」



「おい、ナチュラルに見下すなよ。それに佐賀高だって県下じゃレベル高い方だぞ?」



「そのレベルを下げることに貢献している人間が言うことじゃないですけどね」



 そう言われれば、ぐうの音も出ない。

 だが、この少女、何故自分の成績を知っているのだろうか。

 直樹は眉根を寄せる。

 姉から聞いたとしても、偏見で判断したとしても、問題がある気がする。



「ですが、だからでしょうか。彼女たちはつるんでいるものの、仲良しといった風ではなく、本当に集まっているだけ。ただのグループなのです」



「ただの……グループ」



「エリート同士の仲間意識がつなぎ止める関係。孤独な五人の集まりと言った方がよいのかもしれません」



 それが、どういったものなのか、直樹には想像もつかない。



「宝琳院――姉の方が5人集まってる感じか?」



「さすがに五本指に失礼でしょう」



 白音は断言してきた。

 口に出してみて、直樹もそう思ったのだが、姉に対して言う言葉ではないだろう。



「彼女たちにトップがいないことも、一因でしょうね。全員文武両道で、はっきりとこいつが一番とは言い切れない。まったく対等な関係ゆえに、どこか遠慮があるのかもしれません」



「対等、ね」



 直樹からすれば理想的な関係に思える。



「だからこそ、問題があるってのも皮肉なもんだな」



「ええ。5人のそういった隙間こそ、今回の怪メール事件が生まれた土壌でしょうね」



 何気なく言った白音の言葉に。

 どきりとした。

 間隙に魔が潜む。宝琳院庵の言葉が、否応なしに思い出される。

 無論、白音の言わんとしていることは、自ずから別のことだろうが。



「横岳聡里、彼女の名はご存知で?」



「聡里って……死んだって言う?」



「ええ。面倒見がよくて、なんとなく、五人の中心にいた存在でした。“親指”の二つ名も、そこから来たんですよ」



「あ、割り振られた指にも、理由があるのか」



 直樹が手を打つと、白音は正解、という様に頷いて見せる。



「ええ。面倒見のいい“親指”横岳聡里。5人の行動を左右する“人差し指”石井陽花。体に恵まれた“中指”深堀純。人当たりがやわらかい“薬指”姉川清深。体は小さいけどしっかり者の“小指”倉町時江。ですが、皆が皆、一番だったのです。互いに抱く感情は、一筋縄ではありません。実際、横岳聡里に対しても、嫌がらせをされていた形跡があります」



「嫌がらせ?」



 聞き捨てならない言葉だった。



「5人が、メールを回していたことはご存知で?」



「ああ」



「それに、出した覚えのないメールが混じっていたことは?」



「それも聞いた」



「それも、嫌がらせのひとつです」



 あまりにあっさりした口調だったので、危うく流すところだった。

 その意味を理解して、絶句する。



「なん……だって?」



「簡単な話です。自分がメールを出しておいて知らないと言う。知らないメールを受け取ったと言う。2、3人もいれば成立しますよ」



 淡々と、白音は仕組みを解いてみせる。

 直樹は考えても見なかったが、現実的(・・・)に考えるなら、そんな答えも出て来るのかも知れない。

 いや――直樹は考える。

 実際そこまでは、本当に嫌がらせだったのかもしれない。

 だが、その後は、説明しようがない。間違いなく超常の領域。



「じゃあ、その後は? 死んだはずの横岳聡里からメールが来たって話はどうなんだ」



 直樹の問いに答えようと、白音が口を開いた瞬間。

 店内に人が入ってきたのを、背中で感じた。

 待つ者の心理として、振り返って確認する。果たして石井陽花だった。早い。時計を見れば、10分も経っていない。

 よほど急いで来たのだろう。

 陽花に手を挙げてやると、こちらに気づいたのだろう。早足で近づいて来る。それを追いかけるように、同じ制服を着た少女が後から続いてきた。

 ふわふわの髪に、やわらかい顔立ちの少女だった。文句なしの美少女、と言うには、幼さが勝っていたが、あと数年もすれば、それも自然と抜けるだろう。

 顔から、明らかに疲れが見て取れた。それで、彼女の素性が知れる。



「姉川清深。五本指の“薬指”です」



 横から白音が説明する。会釈すると、向こうも会釈を返してきた。

 その前で、動かない陽花に首をかしげ、視線の先を見やる。白音と目が合った。



「宝琳院……先輩……」



 陽花の、居心地の悪そうな表情にも、白音は平然としたものだ。



「石井、こいつも深堀から相談を受けてるらしい。たぶん、いて邪魔にはならないと思うけど」



「いえ、直樹さん」



 白音は、すっと立ち上がる。



「お邪魔しては申し訳ないです。お先に失礼させていただきます」



 そう言うと、白音は、あらかじめ用意していたのだろうか。剥き身の千円札を一枚、テーブルの上に置いて、静かに席を離れていく。



「おい、いいよ、奢るから」



「その分は、後輩たちにどうぞ。では」



 飄々と、白音は去っていった。

 白音を見送って突っ立ったままの二人に、直樹は座るよう促す。

 二人は揃って直樹の向かいに座った。

 注文で話が断ち切られても都合が悪い。直樹が話を切り出したのは、二人が注文を終えてからだった。



「それで、石井。聞かせてもらっていいか?」



「……はい」



 神妙な顔で、陽花が頷く。



「昨日の帰り道、メールがありました」



 言葉とともに、携帯が差し出された。



“小指に危険が迫ってる”



「その後、時江が事故にあって……何かに追われるように交差点に入っていって……轢かれました」



 陽花はもう一度携帯を操作する。



「その直後、来たメールです」



 差し出してきた携帯のディスプレイに現れた、ただの一言。



“小指折った”



 その短い文面に、おぞましいものを感じた。

 陽花の、肩が震える。

 仕方ない。目の前で、その惨劇を見たのだから。



「大丈夫だ」



 直樹は、意図的に明るく振舞う。



「白音もそうだけど、俺もいるし、知り合いに専門家もいるんだ。何とかなる。して見せる」



「お兄さん」



「大丈夫だ」



 もう一度強調する。

 このときにはもう、直樹は詮索を諦めていた。

 いろいろと聞きたい事もあった。だけど、今この少女に必要なのは、支えなのだ。

 はい、と、小さく頷いた彼女の貌が、少し、和らいだ。

 その後、少し雑談して、二人もだいぶ肩が楽になったらしい。素直な笑顔を見せるようになった。

 姉川清深がものすごい京訛りだったことには驚かされたが。

 どうも、最近まで京都にいたらしい。

 やわらかい雰囲気も、それでかな。などと、京都のイメージを清深に重ねた直樹だったが、京都にいった経験は皆無である。

 丁度話もひと段落したこともある。そろそろ店を出ようか、切り出そうと口を開きかけて。

 ぞくりと、背筋を強烈な寒気が這った。

 明確な視線を感じて、肩越しにそちらを見る。

 強めに色が入ったガラスを隔てた、店の外。男の姿が、そこにあった。

 がっしりとした体格に、木彫り細工のような厳つい顔が乗っていた。

 睨みつけるようなその顔の後ろに、影のようなものを見て、直樹は思わず怖気が振るった。

 男は、黒い影を背負ったままこちらに背を向ける。

 そういったものに出会いやすくなる。そういった宝琳院庵の言葉を実感した。

 

「お兄さん」



 陽花は、男視線を送り、眉を顰めてみせる。



「いまの人、横岳聡里の兄です」






[1515] ユビオリ 5
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:66528274
Date: 2008/01/02 20:33



 死んだ“親指”横岳聡里の兄が、なにものか(・・・・)に憑かれている。

 それが、事件に関わっていないと考える方が難しい。

 とはいえ、陽花たちに聞く雰囲気でもなかった。二人の、彼に対する態度は、明白な拒絶だった。

 横岳聡史。泰盛学園高等部の三年生で、生徒会役員。“五本指”のような、あるいは“バイフォー”のような個性こそないが、優秀な生徒だという。

 兄弟仲は良くも悪くもないが、他の五本指との面識くらいはある。

 あとで双子に聞いた話の中で、直樹がまとめられたのはそれ位だった。

 運悪く二人一緒だったため話が四方八方へ飛び交った結果、費やした時間に比べれば過小ともいえる情報だった。

 念のため、陽花と清深を家まで送ってきて、これも幸いなことに徒労に終わった後だ。精神と肉体、二重の疲労から、直樹は自室で畳に突っ伏した。

 ともあれ――天井を見上げながら、直樹は情報をまとめてみる。

 5本指が皆でやっていたメール回し。

 一連の怪メール事件に関して、時系列に二つのポイントを打つことができる。

 ひとつは、出した覚えのない怪メールが回り始めた時点。

 もうひとつは“親指”横岳聡里からのメールが死んだ後に送られてきた時点。

 怪現象が始まったのは、さて、どちらからなのか。

 直樹は考える。

 後者は、紛れもなく怪現象だろう。しかし、前者はどうか。

 宝琳院白音が言ったように、同じ5本指からの、嫌がらせなのかもしれない。

 だが、もしそうでないなら――ひとつの可能性が導き出される。

 横岳聡里が怪現象によって死んだ可能性。

 空いた席に呼び寄せられたのか、それとも、無理やりに席を空けたのか。

 嫌が上にも、文化祭前夜を思い起こす。

 あの、指差しによる悪魔のゲームは、それ自体が悪魔を召喚する儀式だった。

 この事件も、それと同じではないか。そう考えれば、陽花に見せられたメールに引っ掛かりを覚える。



“小指折った”



“折れた”ではなく、“折った”

 それまでは、あくまで予言だった。だが、これは明らかに違う。直樹はそこに、何らかの意図を感じずにはいられない。

 それに、“小指”倉町時江は、死んでいない。少なくとも、今はまだ。

 横岳聡里は死んだというのに。この違いは何なのだろう。

 直樹は、自分の手を見る。

 尋常に揃った五本の指。その、親指を折る。そして小指。次に折れるのは薬指だろうか。

 だが、それには奇妙な違和感を感じる。

 直樹は、指を折るなら、親指から人差し指、中指と、外から内へ順番に折っていく。それが、普通だろう。

 直樹はもう一度、親指から小指、薬指中指人差し指と順番に折っていく。出来上がった拳を開けようとして、気づく。

 指折り、ではない。逆なのだ。

 指を立てて数える、その逆。巻き戻し。それが何を意味するのか、わからない。だが、何かしらの意味を見出そうと思えば、できそうだ。



「あー」



 直樹は、頭をかきむしる。

 疑問ばかりで、全く答えが出てこない。

 横岳聡史の問題もある。

 怪現象のそばに、そういうものがあって、それが無関係とは、考え難い。



「どっちにしても、宝琳院の領域だよな」



 学園祭前夜と決定的に違うこと。それは、直樹が当事者ではないことだ。

 あの時は、ゲームのルール自体が、悪魔への対抗手段だった。

 だが、今回は。部外者である今回は、それが無い。

 具体的にこの怪現象を何とかする段になっては、宝琳院庵の知識と手を借りざるを得ないのだ。



「明日だな」



 直樹は一人語ちる。



「明日、宝琳院庵に石井と会ってもらおう」



 たぶん、それが、一番いい手段だ。

 彼女の前で大見得を切っておいて情けない話だが、プライドと陽花達の命を天秤にかけるわけにはいかない。









 だが、次の日、宝琳院庵の席に、彼女の姿は無かった。

 不安になって、直樹は白音にメールで尋ねる。宝琳院庵に直接連絡が取れればいいのだが、残念ながら彼女は通信手段となるこの文明の利器を所有していない。



「ただの風邪です。季節の変わり目には必ずやるのでご心配なく」



 白音からは、そんな答えが返ってきた。

 ただの風邪だ。引き合わせるのが、1、2日遅れるだけのことである。

 だが、それにしても間が悪い話だった。

 昼、何か資料が見つからないかと図書館を覗いてみたが、図書館の主がいないせいで、どこを探せばいいのかすらわからない。

 結局、昼休みを丸々使って徒労に終っただけだった。

 一度うまく行かないと、万事うまく行かないものだ。

 直樹はため息をつく。

 このズレが、これ以上続かぬことを祈るしかない。

 宝琳院庵の手を借りるのは、後日になったが、その間3人を放って置くわけにはいかない。

 せめて帰り道くらい付いていてやろう。その旨、メールで送ると、すぐに了承と感謝の返事が返ってきた。

 泰盛学園は、城東新駅のひとつ手前、城東駅から自転車で5分の、丘陵地の上に建っている。佐賀高からは、自転車があれば30分もあれば充分カバーできる距離だ。

 直樹は自転車の鼻先を泰盛学園に向ける。

 ペダルに体重を預け、漕ぎだそうとして――踏み込めなかった。ペダルが、ものすごく重い。

 背後を見る。

 円が、自転車の荷台をつかんでいた。



「直樹」



「円」



 視線が絡み合う。

 こういうとき、幼馴染というものは厄介だ。たったそれだけで、何を言いたいのか判ってしまうのだから。



「直樹、教えてくれ。何に関わってるんだ」



 すべてを、打ち明けたい。

 円の悲しげな瞳に、抗いがたい衝動に駆られる。



「――すまんっ! 後で謝る!」



 それを振り払うために、直樹は自転車を漕ぎ出した。

 今度は、抵抗は感じない。



「直樹――」



 あっという間に離れていく円の、最後に聞こえてきた言葉を振り払うため、直樹は全力で漕ぎ出した。



 私を、頼ってくれないのか。









 そのまま、気がつけば泰盛学園にいた。時計を見れば、20分ほどしか経っていない。

 自転車を壁にもたれかけさせ、自身も、校門の脇に背中を預けた。

 下校する者達もまばらになったとはいえ、他校の制服を着た直樹は、人目を引く。

 居心地の悪さを感じながら陽花たちを待っていると、一人、見覚えのある顔を見かけた。

 昨日、RATSで窓越しに見た男、横岳聡史だ。



「おい」



 聡史は、厚ぼったい唇を直樹に向けてくる。相対すると、直樹の身長では見下ろさなくてはならない。

 とはいえ、位負けせぬ態度と、背負っている影を見せられては、威圧を感じざるを得ない。



「あんた、いったい何なんだ?」



「は?」



 何を言われているのか判らず、直樹は目を白黒させる。



「何で、姉川とあんなとこにいた? 何でこんなとこにいるんだ」



 焦りか、苛立ちか。その形相に、ただならぬものを感じた。



「俺は、ただ、相談されてただけで……」



「相談?」



 聡史は、その言葉を反芻すると、すさまじい形相で直樹をにらみつけ、直樹に背を向けた。



「あんまり首突っ込むな。迷惑だ」



 去り際に吐き捨てた言葉に、鬼気のようなものを感じた。

 直樹は、ため息をついた。

 聡史は死んだ横川聡里の兄だ。

 犯人が実在するのなら、ひょっとしたら彼は、一人で犯人を追っているのかもしれない。

 実在しない、犯人を。



「あ……鍋島さん」



 校門に背をもたせ掛け、3人を待っていると、のどかな京訛りが直樹の名前を象った。

 見れば、姉川清深が、通学鞄を抱えてそこにいた。



「えーと、確か、姉川か……ほかのふたりは?」



「え、と……その……」



 姉川清深は急に言葉を濁す。



「どうした? まさか何かあったのか?」



「そ、その……あの……お手洗いに……」



 消え入りそうな清深の声に、直樹は内心頭を抱えた。

 

 ――人前で中学生の女の子に何強要してんだよ、俺。



「……す、すまん」



「い、いえ……」



 二人の間に気まずい空気が流れた。

 校舎のほうを見やりながら、直樹は陽花たちの姿を探す。互いに微妙に目をあわさない。

 直樹は居たたまれなくなってきた。



 ――石井、頼むから早く来てくれ。



 心の叫びに応えるように、ふいに二台の自転車が校舎裏から飛び出してきた。



「にーさーん」「にーちゃーん」



 双子だ。

 速度を落とす気配すら見せない。悪魔の笑顔を浮かべながら突っ込んでくる。

 とっさに清深をかばう。

 身を固める直樹を尻目に、自転車は、急ブレーキとともに見事なジャックナイフターンを決め、二台揃って直樹の前に腹を向けた。



「へいへいへーい」「このところ毎日別の女連れてますにゃー」



「こらー。そこの子たち!」



 双子に続くように校門から出てきた黒のセダン車から、注意の声が投げかけられる。

 助手席の窓から顔を出したのは、中年の男だった。半分白くなった髪を後ろに撫でつけ、くたびれたグレーの背広を着込んでいる。笑顔がシワと同化しているらしく、いまひとつ感情が読みとれない。



「競技用でもないのにそんなことしちゃ危ないぞー」



「はーい」「ごめんなさーい」



 先生なのだろう。あの双子が、無いことにしおらしく謝った。注意点が微妙にずれてる気もするが。

 長々と説教する気は、もとより無かったらしい。男の頭が引っ込み、車は直樹たちを横切っていく。

 直樹は盛大にため息をついた。



「澄香、忠。静かにしろとはいわないが、頼むから平穏な方法でコミュニケーションとってくれ」



「じゃーねー」「母さんには遅くなるって言っとくよー」



 直樹の注意など聞く気も無いらしい。来たそのままの勢いで、双子は去っていった。

 部活はどうしたんだとか、変に勘ぐるなとか、先生に迷惑かけるなとか、いろいろと突っ込む暇もなかった。



「……いまの、その、バイフォー先輩、やよね」



「ああ。そう呼ばれてるらしいな」



「ほな直樹さんって、バイフォー先輩のお兄さんなん?」



「ああ……言っとくけど俺にも双子の兄弟がいて揃うと手が付けられなくなるなんて設定はないから」



「そおですか」



 心底ほっとした様子の清深に、直樹はあの双子の素行が知れた気がした。

 と、メールが鳴る。

 確認すると、陽花からのメールだった。



“すみません。ちょっと用事ができました。わたしたちはいいので、清美をお願いします”



 そう書いてある。

 清深にそれを見せると、ほなお願いします、と頭を下げられた。

 姉川清深の家は、泰盛学園のある丘陵地を北に越えた、民家もまばらな辺りで、帰り道を進むにつれ、どんどん人の気配が消えていく。

 時節柄、道端は落ち葉でうずもれている。だと言うのに木立に囲まれた道は薄暗い。

 直樹は気が滅入ってきた。

 おとなしい彼女が自分から会話を振ることはなく、無言のままどんどん沈んで行きそうなので、直樹は益体もない話で清深のネガティブ思考が浮き出ないようにする事に腐心した。



「――直樹さん、聡里のこと、聞いてはります?」



 不意に、清深が口を開いた。



「ああ」



 直樹はうなずく。彼女がどんな意図で言ってきたのかは知らないが、肯首するに不足無い知識はあるはずだった。



「聡里、きっとわたしを恨んどる」



 呟くような、清深の言葉。



「きっと聡里はわたしを殺そうとしとるんや」



 多分に恐れを含んだ言葉に、直樹は違和感を覚えた。



「なぜ?」



 そう、尋ねる。なぜ、聡里に恨まれているのか。なぜ、そんな確信が持てるのか。

 恐れるように、忌むように、清深は身を震わせる。



「聡里を殺したんは――わたしなんや」



 驚きより先に、後頭部に鈍い音を聞いた。

 視界から色が消え、脈動しながら遠ざかっていく。足から大地の感触が消え、しばらくして頬にカサカサした感触を覚える。

 それが落ち葉だとわかって、ようやく、地面に倒れたのだと気づいた。

 海の中にいるような感覚の中、メールの着信音を、直樹は確かに聞いた。






[1515] ユビオリ 6
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:010d8523
Date: 2008/01/04 22:10



 真っ暗だった。

 目に写るものは、黒一色。その中に、ほんの少しだけ、光が見えた。

 いや、違う。光と見えたものは、本来視界いっぱいに広がるはずの光景。それが、はるか遠い。

 体が、地面と溶け合って一体化したような感覚。意識が、闇に沈みこむ快楽。そんな中で。



「――!」



 清深の悲鳴が、耳を打った。

 思い出す。

 友の死を。

 鹿島茂が塩の柱となったことを。宝琳院庵が地面で塩の山と化したことを。神代良を、中野一馬を殺したことを。

 憤怒、絶望、悔恨、あらゆる陰惨な感情を舐め尽したことを。

 皆は、忘れた。

 だが、直樹は、忘れない――忘れられない。

 ずっと抱え続ける。その事実があったことを。人が死んだことを、人を殺したことを。

 だからこそ、鍋島直樹は悲劇を許容しない。

 

 ――これ以上、殺させてたまるか!



 直樹は手放しかけていた意識に活を叩き込む。

 意識が、体の枠にぴたりと収まった。同時に、後頭部に鈍痛。ゆがむ視界の中で、かまわず背後を窺う。

 そこにいたのは――横岳聡史。

 聡里の兄だった。



「……なん、で」



 直樹は訊いたつもりだったが、声にはならなかった。

 なぜ、横岳聡史が自分を殺そうとするのか。直樹には理解できない。意識の半ばは、いまだ亡羊としたものに支配されていた。



「お前も――オレの――邪魔する――」



「人殺し! ――さん殺す気なん!?」



 うねる音が、波のように耳を打つ。

 頭の中で何かが閃いた。事態の根底にあるものと、その大要が、直樹の頭の中で急速に組み上げられていく。

 だが、今は。この絶望的な状況をどうにかしなくてはならない。

 直樹は、渾身の力を込め、両足を地につける。

 しかし、すぐに膝が抜けた。頭を強打されたせいだろう。バランス感覚が駄目になっている。

 そこへ、直樹の腹に足が突き刺さる。

 体が二つ折りになったところを二発、三発。バットか角材か、それすらもわからない。ただ、衝撃に腹筋が引きつる。

 死の足音が、確実に近づいてくる。直樹はそれを肌で感じた。



 ――死ねない。



 直樹は、手探りで聡史の足を探し出す。

 背中に、衝撃。もはや痛みも麻痺している。



 ――こんなところで、死ねない。



 ゆっくりと、這いずるように、直樹は聡史にしがみつくように立ち上がった。

 力を振り絞り、聡史の襟首をつかむ。

 それで何かできるわけではない。正直それが、直樹の限界だった。

 だけど、倒れない。倒れるわけにはいかない。いま、意識を手放しては。また、人が死ぬことになる。その思いだけが、直樹を支える。

 しかし、直樹の渾身の力は、聡史にたやすく振り払われる。

 左右によたって、直樹は地面に尻餅をついた。

 そこへ聡史が振りかぶる。フルスイングの構え。構える手が間に合わない。直樹は、死を間近に見た。



 ――だが。



「――がっ!?」



 攻撃は、直樹に届かなかった。矢のように飛んできた何かが、得物を掴む暴漢に突き刺さったのだ。

 直樹の目の前で、自転車が倒される。

 革靴が、間近でアスファルトを打つ。



「――直樹を、殴ったな」



 その声は。



「――直樹を殺そうとしたな」



 耳慣れたものながら。



「――お前は、私の敵だ」



 とても、頼もしく、耳に響いた。









「お前は、私の敵だ」



 そう言い放った長身の少女は、恐れ気もなく武器を持った少年に相対した。

 その背が、暴力の烈風をさえぎる。

 不意に凪いだ悪意に、揺り返すように、痛みが蘇ってきた。



「なんだ、てめえは!」



 怒気もあらわに、暴漢が得物を向けてくる。金属バット。今まで自分を打ち据えていたものの正体を、初めて知った。

 怒りも悪意もすべて受け止め、それでも龍造寺円は超然と佇む。



「くそくそくそ、何で邪魔ばっかりするんだよぉ!」



 聡史の声からは、明らかに自制が失われていた。

 怒声と同時に凶器をも叩きつけようとバットを振りかざす聡史。その鈍重な動きをあざ笑うように、瞬きした次の瞬間には、少女は聡史の懐にもぐりこんでいる。

 それを追う聡史の目の動きすら追い抜いて、掌が狂人の顎を打ち抜いた。

 一瞬にして目の焦点を失った暴漢に、一片の躊躇も無く逆手の肘が打ち込まれた。

 ゆっくりと、少年が崩れ落ちる。

 それを振り返りもせず、ようやく少女の眼が直樹に向いた。

 淡色の感情に鉄の意志。その姿に、直樹は体の芯から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。



「大丈夫か、直樹」



「な、んとか」



 心配かけまいと、やせ我慢して見せる。

 正直なところ、骨にヒビ位は入っているかもしれないが。



「――まったく」



 冷えた手の感触が、直樹の頬を撫でる。



「あまり一人で無茶しないでくれ」



 円の言葉に、直樹は苦笑した。



 円を巻き込みたくない? 円が心配?

 このざまで良く言えたものだ。



「助かった。円」



 直樹は、揺らぐ頭を清深に向ける。



「姉川。教えてくれ」



「はい」



 姉川清深は、おぞましいものを見るように、聡史に目を向ける。



「この人のことですやろ」



「ちがう」



 直樹は、言下に否定する。



「メールの内容だ」



「え?」



 要領を得ないなりにも、直樹の焦燥を感じ取ったのだろう。慌てすぎてお手玉しつつ、携帯は何とか清美の手に収まった。



「多分、一緒にいる石井がマズイ」



 清深の顔が青ざめる。携帯が、手から零れ落ちた。

 それが、直樹の目の前で画面を映す。

 メールの内容はただの一言。



“人差しが危険”



 そのメールに、直樹は眉も動かさない。



「犯人は深堀純だ」



 必死に身を起こしながら、直樹はその名を告げた。









 五本指。選ばれたエリートの集まり。五人の仲間たち。

 所詮、上辺だけの関係だ。

 ただ、なんとなく集まっただけで、普通の人間から見ればその関係は友達ですらない。

 そんなことは分かっている。

 だが、それでも。

 ――深堀純にとっては、例えようもなく暖かいものだった。



 朱をさしたような夕焼けの校舎。その屋上で、純は空を仰ぐ。

 足元に、同じ制服を着た少女が転がされている。

 石井陽花、だと、彼女を良く知る者でも分からないかもしれない。束ねていた髪は乱暴に乱され、顔も涙と腫れでぐちゃぐちゃになっている。

 だが、純は、気にも止めずに空を仰いだ。

 思い返すのは、昔のことだった。



 父は、娘の成績にしか興味はなく、それ以外の個性を、純に求めなかった。

 母は、純に興味がなく、ただ、冷たかった。

 それが当たり前だったからか、それとも、それを当たり前と思う純の感性ゆえか、彼女の周りに友達と呼べる存在は見出せなかった。

 学校でも、どこでも、ずば抜けた長身と、身体能力と、頭脳をもった少女は、孤独だった。

 少女は一人、高みに立って、誰も近づけなかった。中学でもそうだと、確信していた。



 だが、その予想は、あっさりと裏切られた。

 自分がどれほど努力しても、肩を並べてくる人間が、五人もいたのだ。



「キミが深堀さん? 城南のトップだったっていう」



 自分の胸元までしかないくせに、やたらと肩幅がある少女の不躾な質問に、純は、ただ頷いた。



「わたしは横岳聡里。佐賀小のトップなのです」



 その名は知っていた。体力測定や、テストの成績上位者の常連として、だったが。



「他にも、城東とか城北のトップもいるんだけど……あなたも来ない?」



 そういって、彼女は手を差し出してきた。

 その暖かい手に触れ、初めて、純は自分が冷え切っていたと自覚した。

 その手は、もうない。

 温もりの残滓を求めるように純は手を見つめる。

 奇妙なメールが飛び交うようになって、聡里は変わった。心労からだろう。数キロも痩せたし、いつもぴりぴりしていた。それでいて、考え込むのをやめなかった。

 事故に遭ったのだって、そのせいなのだ。

 純は、拳を握り締める。

 メールを出していたのが、陽花たちだとわかって、純は復讐を決めた。

 同じ恐怖を味わわせてやらねば、気が済まなかった。

 倉町時江の時は、失敗した。

 メールの件を切り出したとたん、逃げられたのだ。

 その挙句、勝手に事故に遭った。

 ただ、逃げるときに、情報を残してくれたのは、幸いだった。



「わたしじゃない。陽花さんが――」



 それだけで充分だった。犯人を確信するには充分すぎる情報だった。



「う……う」



 陽花のうめき声に、純の夢想は破られた。

 意識を取り戻しかけているようだ。

 目を覚ましたら、もう一度同じことを繰り返そう。繰り返して、繰り返して、そのまま死ぬまで続けるのだ。

 聡里を殺した女だ。あっさりと死なせてたまるものか。

 怒りがわき起こり、陽花の体に蹴りを入れようとして、不意に、扉が開いた。

 そこに立っていたのは、ぼろぼろの姿になった、鍋島直樹だった。









 扉を開き、間一髪、間に合ったことを知った。

 夕焼けの校舎、フェンスを背負って、昂然と佇む深堀純。地に崩れている、殴打の跡も痛々しい石井陽花。



「もうやめろ! 深堀!」



 直樹の声に、ぎらぎらと輝く瞳がこちらに向けられる。



「――止める? 何で? せっかく、やっと聡里を殺した犯人がわかったのに何で止めなくちゃいけないんです?」



 本当に分かっていないような、その表情は、人を感じさせない。

 だからなおさら、放って置けなかった。



「止める!」



 直樹は叫ぶ。



「お前はまだ一人だって殺しちゃいない! 地獄のような思いを味わっちゃいない! まだ戻れるんだ!」



 向こう側に行ってしまった直樹と違って――深堀純はまだ戻れる。

 もう届かないあちらの世界を、彼女に捨てて欲しくなかった。



「戻って何があるんです?」



 純の声は、感情の色すら見えない。



「聡里がいない世界で、聡里を殺したやつが生きてるのに、のうのうと普通の人生を送れと? 舐めないでください。そんなの、死んだ方がマシだ!」



 世界を呪うような、純の言葉だった。

 否定の仕様もない、拒絶だった。

 だが――



「違う」



 それを否定する言葉が、直樹にはあった。

 だが、言ってしまっていいものか。直樹が言葉を迷わす間に、清深が、直樹の脇を抜けて前へ出る。



「違うんや、純ちゃん」



 清深が、常にない強い口調で受け継ぐ。



「聡里を殺したのはあのメールやない――聡史さんなんや」



 その言葉に、深堀純は凍りついた。

 無理もない。予想もしなかったに違いない。だが、それは厳然たる事実なのだ。



「う、そ」



 それは、縋りつくような言葉だった。否定を求めるように、純の目が彷徨う。



「本当や」



 残酷な肯定だった。

 横岳聡史――聡里の兄は、姉川清深に恋愛感情を抱いていた。

 だが、それは清深にとって迷惑でしかなく、聡里にとってもそれは嫌悪の対象でしかなかった。

 折りしも怪メールの件でフラストレーションがたまっていた聡里は、聡史を強い口調で批難し……殺された。

 それが、横岳聡里の死の、真相だった。



「それでも! 半分はお前たちが殺したようなものじゃないか!」



 それを聞いて、なお搾り出すような純の言葉。必死に自己を肯定しようとするようだった。



「――ちがう」



 か細い声が上がった。皆が、その声の主を探す。

 純の足元、倒れ付していた陽花が、顔を上げていた。



「聡里は、わたしたちのことを知っていた。知って――許してくれた」



 陽花の眼の焦点は合っていない。それでも、必死で口を開いていた。



「一言、謝って、そしたら許すって、言ってくれた」



 途切れ途切れの言葉に、弁解の様子は一片も無い。ただ、事実を述べているとしか思えなかった。



「聡里が死ぬ前の晩。聡里はわたしを呼び出して……すべてを知って、許してくれたの」



 直樹は、息をつく。

“親指”横岳聡里。その二つ名に恥じない少女だったのだろう。



「そんな……じゃあ……じゃあ、僕のやってきたことは何だったんだ!?」



 純の声が震える。少女の表情は虚ろに墜ちた。

 何も無い。

 復讐の大義を失った深堀純には、何も残っていなかったのだろう。

 そう、連想させる、悲惨な貌だった。



「うわああああああああああああああっ!!」



 少女は絶叫した。その意味は知り得ない。






[1515] ユビオリ 7(了)
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:010d8523
Date: 2008/01/04 22:37



 その後は、警察の管轄となる。

 横岳聡史は逮捕された。

 実は、かなり以前から、警察は彼に目を付けていたらしい。

 犯行は衝動的なものだったし、直接的な証拠はないものの、犯行を類推するに足る証言はとれていたようだ。

 直樹も被害者として事情徴収を受けるはめになった。

 そこで、直樹は妙な再会をする。

 校門前で双子を注意していたあの教員。彼が、担当の刑事として現れたのだ。まあそれも、本件は殺人で、暴行の方はおまけのようなものだったので、通り一遍の説明で済んだ。

 深堀純の方は、彼女自身には何の咎めもなかった。

 石井陽花の両親などは、娘の腫れ上がった顔を見てずいぶんと騒いだようだが、陽花自身が純の罰を望まなかった。

 ただ、本人の罪の意識までは消せない。

 仲間を傷付けた、その事実と、彼女がどう折り合いを付けて行くのか。それは分からない。

 なんにせよ、それはもう、直樹に口出しできる領域ではない。

 ただ、泰盛学園では、姉川清深と包帯巻きの石井陽花が、うつむき加減で5センチも背が縮んだような深堀純を励ます姿が見られたらしい。

 そこに、直樹は陽花たちの何某かの覚悟を見出した。彼女たちも、今回の事件で何か思うことがあったのだろう。

 春には、四人が元気に遊ぶ姿を、直樹は見ることになるのだが、無論この時は知るはずも無かった。









「――で、結局、直樹くんはどの辺りで深堀純が犯人だとわかったんだい?」



 いつもの図書室。宝琳院庵は大机に腰をかけながら尋ねてきた。

 直樹の頭には包帯が巻かれている。

 円に抱えられるようにして病院に連れて行かれ、精密検査を受けた結果、異常なし。単純な打撲傷のみで、骨にはヒビひとつ入っていないと言うのだから、我ながらあきれた頑丈さだった。



「横岳聡史に殴られたとき。頭がぶれて、かえってピントが合った」



「まるで壊れたテレビのようだね」



 ニヤニヤ笑いを顔に貼り付け、口から出る言葉にはひどく遠慮がない。

 風邪も治って宝琳院庵は完調のようだった。



「仕方ないだろう? そもそも、一連の事件を、怪奇現象だと思い込んでいたんだ。わけがわからなかったはずだよ。一度思考が吹っ飛んで、ピントが合わさったって感じか」



 口に出して、本当に壊れたテレビのようだと思えてきた。



「なるほどね。じゃあ、仕掛けはボクが当ててやろう。大体読めてきた」



「おう。どうぞ」



 宝琳院庵の言葉に、直樹は促す。



「まず、横岳聡里死亡以前の怪メール。これは石井陽花、倉町時江、姉川清深3人による狂言だろうね。全員に満遍なく怪メールが届いていることを思えば、一人飛ばしに3人が協力する必要があるだろうからね。この際5人と言うのは収まりの悪い数字だけど、それがかえって事態を判り難くしていたみたいだね」



「そうだな」



 直樹はため息をつく。

 そもそも、石井陽花が自分たちの恥を隠すため、そのあたりの情報をぼかしたのが、誤解の始まりだった。



「そして主導者は“人差し指”石井陽花だろう。三人をまとめられるパーツは、彼女くらいしか見当たらない」



「その通り」



 肯定する。

 それがどんな意図にせよ、五人をまとめられるのは横岳聡里でなければ石井陽花しかいない。

 だからこそ、陽花は聡里を嫉視していたのだろうけど。



「そして、横岳聡里死亡後の怪メール。あれも、怪現象ではない。そもそもメールなんてのは携帯電話が同じなら誰が出しているかなんてわからないんだ。横岳聡里が死んでいても、彼女の携帯電話さえあれば、犯行は事足りる」



「ああ。その辺り、俺も見誤ってた」



 直樹がその事実に気づいたとき、連鎖的に校門前で清深にかかってきたメールのことを思い出さなければ、あるいは陽花の命は無かったかもしれない。

 犯人がどのような経緯で聡里の携帯を手に入れたのか。また、両親はなぜ携帯電話の解約をしなかったのか、それは結局、分からなかったが。



「妙に当たると言うその占いも、やろうと思えば簡単な話さ。占いに必要なのは、未来を当てる力じゃない。当たったと相手に信じさせることだからね。心理学、いや、詐欺師の領域さ」



 宝琳院庵は肩をすくめて見せた。

 あっさりと言ったものの、それはそれですごい技術だと思うのだけれど。



「犯人は、横岳聡里の復讐だと言うことを印象付けたかったのだろうが、それでかえって犯人が限定された。5本指最後の一人、深堀純だ」



「ああ。深堀は怪メールのトリックに気づき、犯人は三人のうちの誰かだと確信して、まず倉町時江に近づいた。横岳聡里にメールを出していたのは、間違いなく彼女なのだから、これは当然の選択だろう。だが、同時に最悪の選択だった」



「ほう? 何故だね」



「横岳聡里が3人を許したことを知っていたのは、石井陽花だけだった。横岳聡里を殺したのが横岳聡史だと知っていたのは姉川清深だけだった。倉町時江の主観では、横岳聡里は三人の怪メールで精神的に追い詰められて死んだんだ。それを知って、深堀純は憎しみを石井に向けた」



 直樹は渋面になる。

 秘密を話せるほど、心を許していなかった。だからこそ生まれた負の連鎖だった。



「なるほどなるほど。複雑怪奇も過ぎて、事象が捩れまくっているね。そのうえ、横岳聡史が独自に動いているんだから、外から見れば本当にわけがわからない」



「ああ――ほんとにな」



 直樹は、視線を彼方に移した。

 本来解決していた悪戯メール事件。

 未解決ながら、おそらく何日もしないうちに解決していたであろう殺人事件。

 どちらの事情も致命的に知らなかったがゆえに、深堀純による一連の事件は起きた。

 事態は入り組んでなどなかった。

 ただ、離れすぎて、個別過ぎて、だれも彼女の独走を止められなかった。

 それは、悲しい以上に寂しい話だった。

 直樹が感傷に耽っていると、突然メールの着信があった。

 確認すると、相手は宝琳院白音。その後の経過をお伝えします。放課後、RATSで会いましょう。とのことだった。



「――そういえば、ひとつ、疑問が残るね」



「何のことだ?」



 不意に聞かされ、直樹は不審を面に出す。



「怪メールのトリックに気づいたり、それを逆用して犯人を揺さぶったり、そこまでの犯人像からは、きわめて知的で慎重な姿が浮かんでくる。だが、翻って実際の犯行はどうだ。稚拙かつ野蛮。行き当たりばったりもいいところだろう」



「そりゃ、誰でも実際にやる段になれば、人が変わるってこともあるだろう」



 それは実体験でもあった。自分が知的とは、お世辞にも思わないけれど。



「そうかもしれない。だが、もうひとつ、可能性が考えられるね」



「可能性?」



「協力者がいたんじゃないかってことだよ」



 宝琳院庵は指を立てて見せる。



「それなら、彼女の支離滅裂な行動にも納得がいく。深堀純は犯行に当たって彼女に相談できなかった。だから、犯行は稚拙にならざるをえなかった――とかね」



「それは……」



 たった一人の人間を、連想させた。

 怪メールのトリックを容易く暴いた人物がいた。彼女は、確かに深堀純に相談を受ける立場にあった。



「そういえば直樹君。さっきのメール、白音からだろう?」



「ああ、そうだけど?」



「丁度いい。伝えておいてくれないか。水風呂に入らされた礼はきちんとさせてもらうから、そのつもりで、とね。まったく、柚子に擬した氷まで入れて。ボクは前田利家かと言うのだ」



 ――白音、なんて命知らずなことを。



 宝琳院らしからぬ妙なオーラに、直樹は思わずたじろぐ。

 おおかた、この悪魔が出張って全てぶっちゃけられるのを遅らせたかったのだろうが、それにしても無謀としか思えない暴挙だ。

 そのあたりの動機などは彼女に会ってから聞く事として、ふと、直樹の頭に閃くものがあった。



「じゃあさ、石井の危険を知らせたメール。あれは共犯者が送ってくれたのかな」



「いや」



 宝琳院庵の首は横に振られた。



「一連の流れから見ても、横岳聡里の携帯電話を所持していたのは深堀純に間違いない」



「じゃあ、いったい何故深堀はそんなメールを?」



 直樹は想像をめぐらすが、これといった理由は見えてこない。

 そんな直樹の姿に、宝琳院庵もまた、視線を宙に泳がせる。



「さて――それこそ本当に、あの世からのメールじゃないかな」



 宝琳院庵は悪戯っぽく哂って見せる。



「横岳聡里も、仲間に、殺し合いなどして欲しくなかったろうしね。空隙に潜むのは、何も魔だけとは限らないだろうさ」



 何より――そう言い置いて、宝琳院庵の口が微笑を象る。



「空いた席に座ったのが、席の持ち主だなんて、それは、楽しい想像じゃないか」



 その言葉に、直樹は、全面的に同意せざるを得なかった。









 ユビオリ 了






[1515] 閑話3
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:185c3aef
Date: 2008/01/09 01:58



 髪が、風になびいた。

 豊かな黒髪は、陽光に映してなお漆黒を保っている。その深みに誘われるように、人々は髪の主に目を囚われる。

 だが、そのまま少女の視線を目で追った者は、二度、目を驚かすことになる。

 少女の足が向かう先には、鏡に映したように、そっくり同じ容姿の少女が立っているのだ。



 宝琳院庵ほうりんいんいおり宝琳院白音ほうりんいんしらね

 双子ではない。れっきとした姉妹である。歳も三つほど離れている。

 だというのに二人は容貌から体格、髪型にいたるまで瓜二つだ。

 誰に責任を帰すかといえば、これは両方と言うしかない。二人の相似形は、お互いが歩み寄りをみせた結果なのだ。

 発育不全の姉、宝琳院庵が手を挙げる。それに応えるように、発育のいい妹、宝琳院白音が小さく首を上下させた。

 互いに表情に乏しく、まるで作業のような風景である。



「お待ちしておりました」



 白音は、神妙な様子で頭を下げると、手に持った包みを捧げた。



「これは、まず、お詫びの代わりに」



 姉の視線が包みに向けられた。

 包装紙は近所でも有名なケーキ屋のものである。であれば、当然中身もその店のものだろう。

 姉が無言で受け取るのを見て、白音はわずかに息を吐いた。それが安堵のため息であると、彼女を良く知る者なら分かっただろう。

 五本指の事件から、まだ何日も経っていない。

 事件に際し、白音は姉を騙して水風呂に入れ、二日も寝込ませた。

 それが事件を決定的に把握していなかったが故の過ちであったのだから仕掛けられたほうも救われない話である。

 無論、報いは、しっかりと受けることになったのだが。

 白音がわざわざ朝から並んで手に入れた水月堂のショートケーキは、彼女の最大限の謝意なのだろう。

 それは、姉にも伝わったはずだった。

 

 今日はどこへ連れて行くつもりだい?



 そう言う代わりに、宝琳院庵の首がわずかに傾いた。

 無論、その含みは妹にも充分に伝わっている。



「ここからすこし歩くことになりますが、小森公園です」



 無口が身に染みた姉相手に言葉遊びする気はないのか、白音の言葉は簡潔だ。

 小森公園、と聞いて、姉の眉が顰められた。

 冬場の公園に対する不満、と言うより、単純に名前が気に入らなかっただけのようだが。



「我慢してください。日曜日に人気のない公園なんて、そうはないんですから」



 再び、姉の首が傾く。



 何でそんな人気のないところに行かねばならないんだい?



 言葉にすれば、そんなところだろう。



「それは着いてからのお楽しみです」



 白音は、無表情で答えた。

 それから、二十分も経っただろうか。

 迷い無く歩を進めていた妹の足が、ぴたりと止まった。



「姉さま」



 白音の口調は、常のように平坦極まりない。



「道に迷いました」



 それに対して、姉は無反応だった。どんな言語も、その表情からは引き出せない。

 木枯らしが、耳元で高い音を奏でた。









 それから迷走すること三十分。二人は完全に現在地を見失っていた。

 入り組んだ住宅地に入りこんでしまい、方向感覚を喪失してしまったらしい。見慣れた場所にもかかわらず、どちらに進んでいるのかも判らないという体たらくだ。

 次第に増し始めた背後からの無言の圧力に、さすがの白音も耐えかねたのだろう。

 少女の目は、人を求めてさまよいだした。

 やっとのことで、曲がり角の先に人の姿を見つけ、安堵の息と共に、白音は後姿を追いかけた。

 後姿からして妙な女性だった。

 染めたばかりなのか髪の根元まできれいなブロンドに、柄抜きの着物を着込んだ姿は、アンバランスとしか言い様がない。



「すみません」



 白音の声に応じるように、ゆるりと、袖が翻る。

 その瞳は青の光をたたえていた。

 顔立ちといい、明らかに欧米人である。

 この不意打ちには、さすがの白音も虚を衝かれたのだろう。瞳が定まっていない。



「何でしょう」



 だが、予想に反して。彼女の口から紡ぎだされたのは、流暢な日本語だった。

 年のころは三十半ばほどか。もっとも、白音に年長の女性の年齢を計る技能はない。ただ漠然と、大人だと感じただけである。



「え、と、あの、小森公園ってどこでしょう」



 自分でも何を言っているのか分からない様子で、白音は言葉を左右に散らす。

 そんな姿に、女性の金髪が揺れた。



「それなら、この通りを右に折れて左手よ」



 笑いの残滓を方に残しながら、女性の手は通りの奥を指し示した。

 白音が壊れた人形のように、かくんと頭を下げる後ろで、追いついて来た姉は優雅な礼を見せた。

 女性のほうは、この相似形の姉妹に興味を示したのだろう。大きな瞳が、さらに大きく広がった。



「お嬢さんたち、双子さん?」



「いえ、姉妹です」



 落ち着きを取り戻したのだろう。白音の声が平坦なものに戻った。



「あら、ごめんなさい。うちにも双子がいるものだから、てっきり」



 薄紅を引いた唇が、微笑を形づくった。

 長い言葉にまったく言いよどみがないあたり、こちらに長く住んでいるのだろう。

 白音は、ふと思い至ったように時計を確認した。無論、迷走した時間分、予定は押している計算だ。



「ありがとうございました。では、急ぎますので」



「ええ。気をつけてね」



 角の左右で分かれ、ひとしきり女性の振る手に応えてから、白音は姉に向き直った。



「では、行きましょう」



 白音の声に頷いてみせた姉の顔には、こんな言葉が書いてあった。



 いいものを見せてもらったよ。



 金髪の女性が言った通り、公園はすぐそこだったらしい。ものの数分で、公園の外縁が視界に入ってきた。

 人気のない、という言葉からできたイメージとはかけ離れた大きさのそれは、住宅地のデッドスペースを埋めるように極端な鋭角を二人に向けていた。

 とはいえ、延べ面積では相当な広さになるだろう。



「わたしは、そこのコンビ二で飲み物を買ってきますので。姉さまは奥の方にベンチがありますから、そこで待っていてください」



 白音の言葉に、了承の意が返ってくる。

 気ぜわしくコンビニエンスストアに向かう白音に対し、宝琳院庵の顔には何も浮かんでいない。

 ただ、足は公園の奥に向けられた。









 広い公園には遊具ひとつなかった。

 無論、恋人たちが好むような気の利いた施設もなく、かといって山水を象った風流を楽しむ要素もない。

 嫌がらせのように植えてある大量の木々が、なんというか、この公園を作るに当たっての無計画さをしのばせた。

 宝琳院庵はわずかに顔をしかめた。

 木々の合間から見えた件のベンチに腰をかける男の姿があったのだ。

 だが、近づいて行き、男の頭に白い包帯を認めたとき、彼女は、また別の意味で顔をしかめる事となった。

 完全に、妹の腹の内が読めた。

 

 ――これで仲直りしましょう。



 そんな白音の声が、聞こえてくるようだった。

 間違った理解から生まれた、あさって方向を向いた好意である。だが、妹の好意自体は、彼女にとって貴重なものだった。

 男が、彼女の姿を認めたのだろう、立ち上がって向かってくる。



「遅いぞ!」



 男――鍋島直樹の唇は、青みがかっていた。手に持った缶コーヒーも、カイロの代わりとして、その短い旬を終えているらしい。

 彼が白音にどう言いくるめられて、この場に来たのか、聞いて見たくはあった。

 だが――

 宝琳院庵は、ないことに、ニヤニヤではない、純粋な笑みを浮かべた。



「ずいぶんと待たせたようだね。お詫びと言ってはなんだが――」



 言葉と共に、右手の包みが、掲げられる。



「水明堂のケーキがあるのだが、どうだい?」



 鍋島直樹の目が見開かれた。提案よりも、むしろ少女の微笑みに、戸惑いを覚えたように見えた。

 ともあれ、その後のことも含めて。

 宝琳院庵にとっては割と有意義な、とある日曜日の出来事だった。






[1515] 閑話4
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:a238c764
Date: 2008/01/13 03:11



 風が、冷たくなった。暦を数えてみれば、もう十二月である。

 運動部の連中と違って、帰宅部の鍋島直樹はわざわざ北風と戦う必要もない。

 期末テストも過ぎたある平日の午後。直樹は友人と共にファーストフード店に来ていた。

 二階の中央席を占領する面子は、華やいだ雰囲気とは無縁だった。

 目の前には男二人。直樹と合わせて男三人。むさ苦しいとまではいわないが、暑苦しいのは確かだ。

 直樹は、正面に目をやる。

 層を重ねすぎて、自重で潰れそうなハンバーガーにかぶりついている大柄な男は、店内の気温を数℃も上げているようだった。

 斎藤正之助。縦にも横にも、直樹より数回りはでかい。佐賀高でも、そうは居ない偉丈夫である。そんな彼が科学部に席を置いている、などといわれて、果たして何人が信じるだろうか。

 直樹はいまだに信じられない。個人的に、佐賀高七不思議のひとつだと思っている。

 ともあれ、部活動の関係で放課後につるむことは少ないものの、休日などに良く遊ぶ友人である。



「もうすぐ冬休みじゃな」



 正之助の野太い声が卓上に投げ落とされた。

 そうだな、と、直樹は返す。



「うむ、期末テストも終わったことしだな」



 正之助の隣に座る中野一馬も同意した。いつも通り、姿勢を崩さぬ端正な姿は、独特の雰囲気も含めて、人目を引く。



「思いださすな」



 よほど嫌だったのだろう、正之助の顔が盛大に歪められた。鬼瓦のような形相を見れば、子供は泣き出すかもしれない。

 もっとも。

 直樹としてもあまり触れたくはない話題ではあった。



「今回の科学、満点取れんかったんじゃ」



 まあ、直樹とは、悩みのレベルが違うようだが。

 頭を抑える正之助だったが、そんなことで落ち込まれては、直樹の立つ背がない。皆無である。



「ふむ、正之助にしては珍しいな。どこを間違ったのだ?」



「選択問題で凡ミスじゃ。ああ、時間を戻したいのう」



「――おまえら、勉強の話やめろよ」



 二人の会話に、直樹は顔をしかめる。



「せっかくテストも終わったのに蒸し返すな」



 直樹としては、すでに終わったことにしたい出来事なのだ。

 愚痴なら結構だが、それにしてもこの二人とは、悩みのレベルからして違いすぎる。というより、二人の成績で悩みが生まれるということ自体、直樹にとっては贅沢な話だ。



「オウ、そういえば」



 思い出したように、正之助が手を打った。拍手のように豪快な音が、店中に響く。

 驚いた人の目が集まるのを、正之助は気に止める様子もない。同席の直樹としては、是非とも気にして欲しいところだが。



「直樹、クリスマスはどうするんじゃ?」



「なんだよいきなり」



 不躾な質問だった。

 その意図が分からず、直樹は不審を眼差しに移して投げかけた。



「女とどこか行かんのか」



 単刀直入というか、ぶっちゃけすぎだった。



「いや。クリスマスは毎年家族で過ごすことになってるからな。従兄弟も来るし、そんな予定はありません」



 直樹は、いささか演技じみた溜め息を吐いてみせた。

 たいてい円も参加するのだが。正之助の考えているようなことは皆無である。



「そういうの、気になるなら一馬に聞いて見ろよ。面白い答えが返ってくるかもな」



 直樹は、一馬に話を投げた。



「どうなんじゃ?」



「ふむ?」



 静かに、コップがトレイにのせられた。

 真横からの射るような視線にも、一馬は涼しげなものだ。



「確かに、幾人かから誘いはあったが……全て断った」



「何でじゃ!」



 正之助の声が、店内に響いた。何事かと、客の目が集まる。お構いなしに正之助は盛大に嘆いてみせた。



「もったいない。一人くらいワシに回さんかい」



「と、いわれてもな。こういうイベントの日くらい、みなで楽しむものだろう?」



 平静を崩さない一馬である。

 毎年、クラスでクリスマス会を企画している彼は、間違いなくそう思っているのだろう。 



「ちがうじゃろ? 逆じゃろ? イベントの時こそ女優先じゃろ?」



 熱弁する正之助だが――直樹はこっそりとため息をついた。

 イベントの日くらい・・・・・・・・・。一馬の言葉を、正之助は聞き流したらしい。

 細かいところをつつくと正之助が発狂しそうなので、直樹も教えるつもりはないが。



「ふむ、であれば、正之助は来ないのか? クリスマス会」



「あったり前じゃろう! 今年こそマサコちゃん口説くんじゃ!」



 気合のこもった正之助の拳が、卓上で天を向いた。



「ふむ? だが、戸田はクリスマス会に参加すると言っていたが」



 一馬のたった一言で、正之助の握り拳は力なく卓上に落ちた。

 告白されたことまで言わなかったのは、一馬なりの気遣いなのだろう。



「……参加しちゃるよ。クリスマス会」



 なにやら葛藤があったようだが、想い人が参加する以上、答えは決まりきっていた。

 気合と共に体まで萎んだような正之助だった。



「今年は何人くらい来るんだ?」



 静かになった正之助を尻目に、直樹は一馬に顔を向ける。



「まだ全員には声をかけていないが――ふむ、女子は、ほとんど来る計算だな」



「死ねばええんじゃ……」



 指折り数える一馬に、正之助から怨嗟の声が漏れた。

 無論、その参加率の高さが、クラスのためと言うより、一馬自身に向けられた好意によるところが大きいことを知ってのことだろう。



「男連中は?」



「まだ返事は半分くらいしかもらっていないが、それも相当数――おそらく彼女持ち以外は集まる予定だ」



「大盛況だな」



「十八人ほどか」



「多いなっ!?」



 ちなみに。

 直樹たちのクラスの男子総数は二十一人である。



「どんだけ甲斐性ないんじゃ、うちのクラスは」



 自分のことを棚の最上段に上げた正之助の発言だったが、直樹はあえて何も言わなかった。



「千葉先生も来ることだ。クラス勢ぞろいの感があるな」



 なにげない一馬の言葉に、直樹と正之助は視線をあさってに向けた。彼らの担任教師、千葉連。年の瀬には二十六になる。



「いい先生だな。わざわざクリスマス潰してまで」



「そうじゃのう、自分のことなぞ構わんと。なかなかできんことじゃ」



 不思議と、この場にいない独身女性教諭に対する生あたたかい空気が、辺りに満ちた。

 もうひとつの可能性など、誰も口にしなかった。



「ふむ、そういえば」



 一馬が口を開く。



「クリスマス会の企画で異性の好みに対するアンケートがあるのだが」



「アンケート?」



 直樹は聞き返した。初耳である。



「ああ、好みの異性三人を挙げてその傾向を計るのだ。ついででもある。お前達の好みも聞いておこうか」



「三人、ねえ」



 直樹は首をひねる。一人出すよりは気楽かもしれないが、それでも気恥ずかしいものだろう。



「ワシが言おうか? マサコ、チズル、ヤスメじゃな」



「胸か」



「胸だろう」



 自信たっぷりの正之助の発言に、直樹たちは同時に突っ込んだ。



「ワシは胸が大好きなんじゃ」



「聞いてねえよ」



 正之助の熱い主張を、直樹はつめたく切り捨てた。だが、三人の名から瞬時に共通項が出た時点で、正之助と同じ穴の狢だろう。



「直樹はどうなのだ?」



「俺か?」



 一馬に言われて、視線を宙にめぐらせる。

 二度ほど、ウーロン茶で喉を潤した後、直樹はやっと口を開いた。



「――純粋に、好みで言うぞ」



「ああ」



「いっとくけど、好きってわけじゃなく、純粋に好みだからな」



「わかっている」



「積極的にじゃなくて、あえて選べばだからな」



「何でそこまでこだわるんじゃい」



「直樹、とっとと言え」



 二人に冷たく突っ込まれ、直樹はしぶしぶと口を開く。



「――円と宝琳院と諫早かな」



 ふむ、と、一馬が虚空に描かれた三人の姿を見比べた。



「顔じゃな」



「いや、女っ気の薄さだな」



 二人とも、冷静に分析を終えた。



「しかし何でじゃ? 言っちゃなんじゃが、あんな色気のかけらのないやつらを」



 正之助の問いに、直樹は答えなかった。その視線を遠くに定めたまま、動こうともしない。



「まあ、ほぼ想像通りではあるが」



 一馬は首をひねってみせる。



「なぜ直などを? あれのどこが好みなのだ?」



 本気で分からない、といった風な、一馬の言葉だった。

 その言葉に、直樹の顔が青ざめた。訴えかけるような視線も、二人には通じない。



「そーじゃの。胸ナシ、性格キツイ、粘着質の三重苦じゃ」



「だーれーがー三重苦だって?」



 不意に、後ろからかけられた声に、正之助の顔がこわばった。

 南無、と、直樹の顔が額に当てられた。

 背後に仁王立ちしているのは、話題の人、諫早直である。



「言ってみなさいよ、正之助……それに一馬」



 直の目が一馬に向けられた。

 無論、一馬も、先ほどから顔を引きつらせている。



「さっきから聞いてれば、色気がないとかあれ呼ばわりとか……いったい誰の話なのかしらね?」



 猫なで声に、充分以上の殺気がこもっていた。



「じぃーっくりと聞かせてもらいましょうかあ。あ、直樹くんはいいから。どうせ人数あわせだろうけど、選んでくれてありがとね」



 ズルズルと、引きずられるように連れ去られていく一馬と正之助。

 残された直樹は、心の中で手を合わせた。核弾頭級の地雷に身を投げ出した二人の末路は、想像するだに恐ろしい。

 助かった、と、胸を撫で下ろした姿勢のまま、直樹は固まった。

 一馬たちと入れ替わるようにやってきた人物は、彼がいま会いたくない人間の、文句なしに一番と二番だったのだ。



「やあ、直樹くん。どうしたんだい? こんな真冬に汗なんかかいて。何か楽しいことでもあったのかい?」



 一切合財分かっているくせに、宝琳院庵はそんなことを尋ねてきた。獲物をいたぶる猫のような怪しい瞳は、確かに直樹を捕らえている。ニヤニヤ哂いもいつもの二割増しだ。

 対して龍造寺円は無表情だった。

 ただ、長年付き合いのある直樹でも、感情は読みとれなかった。おまけに、まったく口を開こうとしない。

 これも、逆のベクトルでプレッシャーだ。



「ほら、正之助! 自己批判なさい! 女の魅力に胸は関係ないと、声高に主張して前非を悔いなさい!」



「い、いやじゃー! ワシはおっぱいが大好きなんじゃー!」



 向こうは向こうですごいことになっているが、とりあえず直樹には、彼らを気遣う暇はなさそうだ。

 居たたまれない空気を誤魔化すように。ウーロン茶を、音を立ててすすり上げた。






[1515] ユビキリ 1
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:4f267b64
Date: 2008/02/02 23:16



 直樹は怒っていた。

 なぜだかわからない。目の前に少女がいて、彼女のことが無性に腹立たしかった。

 直樹は少女をにらめつける。

 十を少し超えた程度か。顔立ちは恐ろしく整っていた。

 だが、容姿よりも、およそ人というものを感じさせない醒めた目が、むしろ印象に残る。

 喧嘩でもしたのか、少女の体には、無数のかすり傷や、打ち身が見られた。

 違う。

 彼女は、直樹のために怪我をしたのだ。

 だからこそ、直樹は腹を立てていた。

 出会ったときからそうだった。彼女は、自分のことなど、かけらも考えない。いつも、直樹のことを優先してきた。

 返してやれるものが何もないのに、少女は直樹に忠実で、それが彼には許せなかった。

 つまるところ。

 直樹は、無力な自分に腹を立てていたのだ。



「やくそくだぞ」



 口から出た己の声は、目の前の少女に似合うほどに高かった。



「これから、かってにムチャするな。ちゃんとぼくの言うことを聞くんだ」



 直樹が言うと、こくりと、少女の首が上下した。

 勝手にさせていては、彼女はまた、直樹のために傷つく。直樹は、それが怖かった。

 だから、そばにいて止めようと心に決めた。少女と共にあることを、疑いもしない。それゆえの、言葉だった。



「ユビキリだ」



 それは、少年にとって神聖な契約にも似た儀式だった。

 少年と、少女の小指が結びつき、誓約の言葉とともに離れた。

 風が、雑木を凪いでいた。

 葉と葉がこすれ合う音が、耳に障った。

 それが、次第に電子的なものに変わっていき――視界は光に満たされた。









 けたたましいアラーム音に、直樹は目覚ましを乱暴に叩いた。抗議することなく、目覚ましはおとなしくなる。

 直樹は寝起きの顔をしかめた。

 普段、夢の内容など覚えていない直樹だが、今朝に限っては、はっきりと覚えていた。



「むぅ。今頃なんであんな夢……」



 いままで記憶の片隅にもひっかかってこなかった、遠い日の出来事である。

 今思い返すと、ずいぶん自分勝手なことを言っていたと思う。

 気恥ずかしさをあくびでごまかし、直樹は半身を起こした。

 窓から差し込む光は、冬のためだろう、すいぶんと淡い。

 暖かい布団に未練を残しながら、直樹は起き上がろうと膝を立てた。

 不意に、左の小指がうずいた。



「なんだこりゃ」



 視線を落とすと、小指の付け根に、赤い糸が結ばれていた。

 寝ている間に絡みついたらしい。あんな大昔のことを思い出したのも、ひょっとすると、これが原因かもしれない。

 だが。

 直樹は顔をしかめる。

 よりによって小指に赤い糸だ。冗談にしても性質が悪い。

 無論、直樹は、この糸が運命の異性とつながっているなどと言う迷信など信じていない。さっさと糸を解くと、朝の支度に向かった。

 直樹の朝は、早い。これは、直樹の功績ではなく、朝食は家族揃って、と言う鍋島家の方針ゆえである。

 通勤に一時間かかる父親が一番早く出発し、続いて双子の妹と弟が出る。学校まで二十分しかかからない直樹は、となりに住む幼馴染が迎えに来るのを待って、一番最後に出るのだ。

 いつも通り、間なしに二回鳴らされた呼び鈴に、直樹は鞄を担いだ。

 母親に挨拶を済ませて玄関を出ると、幼馴染の龍造寺円が、律儀に突っ立っていた。

 夢に出てきた少女をそのまま成長させたような、と言う印象は、まさに正しい。あの少女は、龍造寺円の幼いころの姿なのだ。

 作りものめいた、整った顔立ちに、微細量の笑みを浮かべる彼女の姿は、まるでいつもと変わらない。

 だから、直樹が感じた妙な居心地の悪さは、全面的に彼の責任だろう。

 直樹はその原因をすべて夢に押しつけ、円と肩を並べて自転車を漕ぎだした。いつもより少しだけ早く学校についたのは、寒さのせいだけではないだろう。

 冬休み前日。学校は終業式を残すのみである。

 午後から始まる長期休暇を待ちかねたわけでもないだろうが、教室に入る直樹を向かえた面子は、いつもより幾分多いようだった。

 戸口から手を振りながら教室を横断していると、落ち着いた、よく通る声に呼び止められた。

 切れ長の瞳をメガネの光で隠した、学校屈指の美男子は、クラス委員にして直樹の親友、中野一馬である。



「一馬、おはよう」

「うむ、直樹も。いつも通り早くて結構なことだ。龍造寺も」



 挨拶を返した一馬は、おそらく円に目を移してみせたのだろうが、メガネがそれを隠していることを、本人はわかっていないだろう。

 円もいつも通り気のない挨拶をしたあと、自分の席に向かった。



「直樹。二十四日のクリスマス会のことだが」



 メガネを正しながらの一馬の言葉は、直樹が昨日彼に送ったメールに関してのことだった。



「ああ。俺も円も出ることになったから。急に言いだして悪いな」

「うむ、それはよいが。どうして急に? まあ、ありがたいのだが、ご両親に悪いようでな」



 イベントは家族で一緒に。そんな家庭方針を知っているだけに、一馬も気がねしているらしい。

 だが、そう言われては、直樹の方が申し訳ない気持ちになる。



「ま、あんまり気にしないでくれ。親父は、もともと帰るの遅いし。クリスマス会はキリのいいところで帰らせてもらうつもりだし」



 一馬がいぶかるのも無理はない。これまでずっと参加しないと言い続けてきたのだから。

 だが、直樹には、どうしても参加しなくてはならない事情ができてしまったのだ。









 終業式の前日のことである。いつも通り、放課後の図書室。例によって直樹は宝琳院庵と雑談していた。

 さすがにこの時期になると、静かな場所を求めて受験生たちが図書室に増えてくるのだが、佐賀野高校の図書室は、二階と三階に渡っており、生徒達は主に続き階の図書室を利用している。宝琳院庵が主となって久しい三階図書室は、一、二年生のテリトリーなのだ。

 あいかわらず、宝琳院庵は大机を占領して文句ひとつ言われない環境を確保していた。

 直樹がその話題を思いついたのは、本当に何気なくだった。



「悪魔を倒すにはどうすりゃいいんだ?」



 口に出した時には、直樹は失敗を悟っていた。



「嫌がらせかね」



 予想通り、彼女の細く弧を描いた眉がひそめられる。

 悪魔に向かって「お前の倒し方を教えろ」と言っているようなものだ。無理もない。

 ちなみに、比喩でも何でもない。

 宝琳院庵は悪魔である。

 冗談のようだが事実だ。どこか浮世ばなれした、オヒメサマ・・・・・のような容貌の主で、形容される言葉には、常に肯定的なものが連なる彼女であるが、直樹から見れば詐欺としか思えない。



「というか、ボクを殺す気かい?」

「違う違う!」



 彼女の瞳に剣呑な光が宿るのを見て、直樹は慌てて手を交差させた。

 宝琳院庵を敵に回すなど、考えるだに恐ろしい。見かけ通りの運動音痴ゆえ物理的脅威は皆無だが、精神的に殺されかねない。



「そうじゃなくって、前に言ってたろ? チャンネルがどうとか」

「ああ」



 直樹の言いたいことに気づいたのだろう。宝琳院庵の顔に、いつものニヤニヤ哂いが戻った。

 一度体験した者は、同じことを体験しやすい。

 そういうものが在ると認識してしまえば、それまで見過ごしていた事象まで捉えててしまう。結果、そういったものに出会いやすくなる。

 であれば。悪魔が存在すると知ってしまった直樹は、悪魔と出会う確立が高くなっているということになる。



「それで、何かあった時に何とかできないかな、と思って」

「浅はかだね」



 言下に、切って落とされた。



「……そう言うけどな、また何かあったら」

「そんな時、普通の人間なら避けるものだよ。危険を避ける。人間として当然のことだ。むしろそのためにこそ、そういうチャンネルはあると言っていい」



 そう言って、宝琳院庵は口に出した言葉を味わう風をみせた。



「直樹くんの場合、全力で突っ込んでいくのだから、そりゃあ命がいくつあっても足りないね。猿でももう少し学習するだろうに」

「ほっとけ」



 前回、事件に自ら顔を突っ込んだ直樹である。



「で、どうなんだ。それとも、人間じゃあどうにもできないことなのか?」

「そうでもないよ」



 軽い調子で彼女が言うのを、直樹は淡い驚きで迎えた。



「キリスト教のお題目や十字架なんか良く効くね。場合によっては念仏も有効だ」

「なんか適当だなオイ」



 いっそ楽しげに弱点を並べ挙げる宝琳院庵に、直樹は疑わしげな目を向ける。



「そんなものだよ、悪魔なんて。しょせん概念的な存在だ。同じ概念や、それが象徴化されたものに弱いのさ」

「なら、学園祭前夜のあれも、ナムアミダブツで解決できたってのか?」



 学園祭前夜に現れた悪魔による死のゲームで、辛酸を嘗め尽くした直樹としては、承服しかねる話である。



「以前も言ったかもしれないが、あれは特別さ。よほどの条件が揃わねばあのような事は起こり得ない。例外中の例外なんだよ」



 宝琳院庵はそう言うが、一度でも体験すれば、その恐ろしさは忘れがたい。何か保険が欲しいと思うのが人情だろう。

 無論、そんな都合のいいものがないことはわかっている。直樹としても、ただの話題のつもりだった。

 だが、そのせいで、続く話題が出てきたのだから、結局直樹の思いつきが自分の首を絞めたともいえる。



「そういえば、クリスマスってキリストの誕生日なんだよな」



 会話の流れからは自然だったが、宝琳院庵を不必要に刺激する言葉だったのは間違いない。

 彼女の目が眇められるのを見て、直樹は再び両手を交差させるはめになった。



「いや、違う、別に嫌がらせじゃないって」



 直樹に向けられる視線は、呆れと哀れが半ば、といったところだった。



「確かに、一般的にはそういうことになっているね……クリスマスを表す日本語と言えば聖誕祭や降臨祭になるしね。無論、主語はキリストの、だ」



 心底いやそうなその様子が、直樹の目には多少滑稽と映った。



「で、なんだい? そんな事を言い出して。ひょっとしてクリスマスに何かイベントでも企画しているのかい?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど――」



 直樹は、どう説明したものかと首をひねる。



「それくらいの時期に従兄弟が来るからな。こっちのクリスマス見てどう思うのかなって思ったんだけど」

「――ちょっと待ってくれ」



 宝琳院庵は考え込むような仕草になる。



「えらく文脈が繋がっていないように思うのだが、あれか、君の従兄弟というのは欧米人か」

「ああ。母親のつながりの従兄弟だからな」

「待て待て、それも初耳だぞ? 君の母親も、その連累か?」

「あれ。言ってなかったっけ?」

「……言っておくが、ボクは男がかわいらしい仕草をすることに否定的だぞ」



 直樹が呆けたように首をひねっていると、辛辣な言葉が飛んできた。



「いや、そんなつもりじゃないけど……あれ? マジで言ってなかったか」

「少なくとも、ボクがその情報を耳にしたことはないよ」



 宝琳院庵はわざとらしくため息をついて見せた。

 てっきり彼女も知っていると思いこんでいた直樹は、居心地の悪さを誤魔化すように頭をかいた。



「それにしては、直樹くん。君の容貌はお世辞にも国際的とは言えないようだけど……柄は大きいが」

「ほっとけ。血が繋がってないんだから当たり前だ」



 直樹の生母は、直樹を生んだ後すくに死んでしまった。いまの母は継母で、あの騒がしい双子の生母である。

 とはいえ、物心ついた時から母としての役割を放棄したことのない、目の青い母親に、直樹は好意以外の感情を持ちようがない。

 とはいえ、それすらも宝琳院庵にとっては初耳だったらしい。



「それも初耳だ」

「言ってなかったか?」



 また首をひねる直樹である。

 宝琳院庵との付き合いは、一年と少しといったところだが、交わした言葉の数から考えれば、意外としか言いようがない。



「龍造寺くんじゃないのだから、君の事を何でも知ってると思っては困る」



 彼女の言い様は、なかなかに皮肉が利いていたが、直樹は聞かなかったことにした。



「ま、そんなわけで、従兄弟はイタリアの人なんだ」

「それでさっきの話に繋がるわけだね」



 得心がいった、と言うように、宝琳院庵が息を落とした。

 ここまで話を持ってくるのに、ずいぶんと遠回りしたものだ。



「そういうわけ。まあ、本人も別に熱心な信徒ってわけじゃないらしいけどな」

「ふむ、とはいえ欧米の方はその教えが生活習慣に根付いているからね。不信心だとしても、日本のそれとは比べるべくもないだろうよ――もっとも、海外旅行などしたことがないボクには判断しようがないがね」

「宝琳院ってさ」



 直樹は感心を息に変えて吐き出した。



「つくづく日本人なのな」



 顔の造作も、毛並みも、趣味も、精神性も、宝琳院庵は根っからの日本人としか思えない。

 彼女の正体が、実は悪魔である、というのは、結構詐欺なのではないだろうか。



「両親も国籍も、紛うことなき日本人なのだから、当然じゃないか」



 ぬけぬけとのたまうものだから、直樹としても苦笑するしかない。



「ああ、クリスマスといえば、直樹くん、クリスマス会、どうするんだい?」



 ふと、思いついてように、宝琳院庵がそんなことを尋ねてきた。



「あいにく欠席だ。毎年クリスマスは家族で過ごすことになってるからな」

「ふん? 直樹くん、この手のイベントをスルーするような人じゃないだろう? 何か特別なことでもあるのかい?」



 直樹の答えに、彼女は不服のようだった。

 だが、致し方ない。昔から、家族のイベントをはずすことだけは、母親は許さないのだ。従兄弟も参加するクリスマスだけに余計だろう。

 それを説明しても、宝琳院庵はまだ納得いかないようだった。



「宝琳院の方はどうなんだ?」

「ボクとて行かなければこんな話は切り出さないさ。だが、直樹くんがいないんじゃあ面白くない」



 いつものニヤニヤ哂いを消して、宝琳院庵が顔を近づけてくる。圧されるように、直樹はのけぞった。

 直樹の至近に、宝琳院庵の顔がある。絵的なまずさよりも、無言の圧力に、直樹は屈しそうになる。



「君が教えてくれたように、二度とないイベントを楽しむことにするよ――だから」



 彼女の口の端が、大いにつりあがった。



「どちらかなんてケチ臭いことはいわないことだ。学園祭で両方選んだ直樹くん?」



 完敗だった。その言葉を出されては、直樹は首を縦に振るしかなかった。

 半ば脅迫に近い宝琳院庵のお願いに屈するかたちで、鍋島直樹のクリスマス会参加は決められた。






[1515] ユビキリ 2
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:5e16228f
Date: 2008/02/05 23:40



 冬休みが始まって数日後。

 福岡空港国際線ターミナルの到着口に、鍋島直樹の姿があった。

 十二月二十四日、クリスマスイブである。

 夜にはクリスマス会が待っているのだが、埋め合わせとして直樹は家の用事に使い倒されるはめになった。無論ここにきたのも、従兄弟を迎えるためである。

  到着口からが吐き出される人の波も三度目になって、ようやく直樹は待ち人の姿を見つけた。



「やー、ナオ!」



 キャリーバッグを転がしながらやってきたのは、長身の欧米人だった。

 大きい。長身の部類に入る直樹が、なお上を向く形だ。そのわりにスリムで、全体的に細長くみえる。服もタイトなものを選んでいるから、余計だろう。

 ただ、手や頭といった末端部分が不釣合いに大きい。頭に乗ったブラウンの帽子が、同色の髪と一体化したようで、余計にそれを強調している。総合的な印象と言えば、“マッチ棒”だろう。



「レオン兄さん、久しぶり」



 直樹も手を挙げながら、一年ぶりに会う従兄弟に歩み寄る。

 そのままハイタッチ――にはならなかった。

 互いの瞳がぎらりと光る。

 乾いた音が、空中で響いた。

 直樹の手は、レオンが被る帽子の、十センチ手前で静止している。レオンの手が、直樹の動きを阻んだのだ。

 小刻みに震える二人の腕が、そこに込められた力のほどを示していた。



「お・ま・え・は・なんで毎度毎度人の頭狙うんだぁ」

「い・い・じゃ・ないかどれくらい進行したか気になるしぃ」



 がっぷり四つに構えながら、双方妙な笑みを浮かべている。どちらかというと、レオンの方がより必死なようだ。



「に・い・さんも、もう若くないんだから気にしなきゃいいのに」

「だ・ま・れ・一の位を切り捨てたらまだ二十だぁ」

「一・昨・年・までは四捨五入だったよねぇー」

「お・ま・え・こ・そ・こんな日に使いっ走りってことは、どうせ女いないんだろう」



 不毛な会話である。そのうえ、大柄な男二人の取っ組み合いは、人目を集め放題だ。

 たっぷり三十秒ほどの格闘の結果、ようやくそれに気づいたらしい。二人は互いに視線を交わし、手を離した。一時休戦である。

 年齢の差か、それとも元々の体力差か、レオンははや肩で息をしている。

 

「ナオ、荷物持ってくれ。ボクはもう疲れた」

「まったく。ほんとに年寄りみたいだな」



 へた、と、その場に腰を落としそうなレオンに、直樹はため息をつきながら荷物をあずかった。



「無茶言うなよ。チャンピーノからここまで何時間飛行機に乗ってたと思うんだ」

「プラス一時間ちょい、ここから電車だけどね」



 直樹が言うと、レオンの恨めしげな顔が返ってきた。

 両手を横に広げ、肩をすくめるさまを言葉で表わすならば、“オーノー”だろう。









「ハゲのオジサン、久しぶりー」「ハゲのオジサンこんにちはー」



 家の玄関を潜ってすぐ。

 秒速数万光年で言葉の暴力に打ち貫かれたレオンは、その場に崩れ落ちた。

 さすがの直樹も哀れをもよおす、それは悲しみっぷりだった。



「こら、二人とも、従兄弟相手におじさんはないでしょう」



 ごん、ごんと、双子の頭の上に拳骨が落ちた。

 頭を抱える双子を見下ろす瞳は青い。髪は見事なブロンドで、顔立ちから見ても明らかに欧米人であるが、身にまとっているのは柄抜きの着物である。

 年のころは三十半ばほどか。顔立ちは双子に似ている、と言えば逆になる。

 彼女は双子の生みの親で、つまりは双子が母親似なのだ。



「だってー」「干支が同じだし」



 いいわけを聞かずして、再び母の拳が落ちた。

 ちなみに、彼女も干支は同じである。それが拳の重さに一助を加えた可能性は否定できない。

 結果、双子は、そろって床を転がることになった。レオンの膝も、いまだ地についたままである。

 床を這う三人に、直樹はため息を落とした。

 とりあえず哀れなレオンを尻目に、直樹は彼の荷物を客間に放り込むことにした。

 しかし、それから十分も経たないうち。

 直樹が部屋でくつろいでいるところに、レオンがほうほうの態で入ってきた。

 その慌てように、直樹は怪訝な目を向ける。



「兄さん、どうしたんだ」

「ナオ、助けてくれ。あの悪魔の双子め、俺の貴重な前髪を引き抜こうとしやがるんだ」



 直樹が尋ねると、そんな答えが返ってきた。

 心底脅威を感じているらしい。レオンの表情は真剣そのものだった。

 直樹は呆れるしかない。



「兄さんが嫌がるから喜ぶんだよ。一、二本も抜かしてやりゃ満足すると思うけど」



 とはいえ、そろそろ額が広いなどという言い訳も、苦しくなってきたレオンである。彼にとっては、一、二本が大問題なのだろう。

 それに関してレオンが口を開きかけたところで、直樹の部屋の引き戸が開いた。

 入ってきたのは、もちろん件の双子だ。



「おじさーん!」「つるぴかー!」

「おわー! やめろー!」



 獲物を捕らえて喜ぶ原始人のように、レオンの周りで奇妙な踊りを踊る双子。

 レオンが過剰に反応するから楽しんでいるだけなのだろうが。

 正直、直樹も見ていて楽しかった。

 だが、レオンの受難も長くは続かなかった。



「こら」



 と言う声とともに、二本の手が伸びてきて、双子はつまみ上げられた。

 十四とはいえ、二人とも高校生といっても通じる体格である。それに見合った体重を有している筈だが、深く考えると恐ろしい結論が出そうだった。

 腕の主は龍造寺円である。



「あー! おねーちゃん!」「円ねーちゃん!」



 吊り下げられているというのに、双子は楽しそうに手足をばたつかせだした。

 さすがに耐え切れなくなったのだろう。円の手から、人型をした重りが切り離された。



「人の嫌がることはしちゃ駄目だ」

「はーい」「わかったー」



 双子は存外おとなしく引き下がった。二人そろうと手のつけられない双子も、なぜか円の言うことには素直なのだ。

 そのまま去っていく双子を見送って、レオンの頭が上がった。円に向けられた視線は、尊崇の色が強い。



「おお、助かったよ、マドカ」

「一年ぶりです」



 感謝の念を隠さないレオンに、円が返した言葉はあっさりしたものだ。



「またすこし、後退したみたいですね」

「はう!」



 言葉の銃弾に打たれ、レオンの体がのけぞる。



「――立場が。どうも年々双子の遠慮がなくなってきてる」



 付け足された言葉は、レオンの身を支える役には立たなかった。再びくずおれるレオンの姿は、もはや哀れというほかない。



「円。レオン兄さん無駄に傷つけるな」



 言い方に気をつけさえすれば、だれも傷つくことはなかったろうに。

 直樹はため息をつく。

 円は何のことか分からないと言う風に、首を傾けていた。









「ナオー」



 レオンの声を聞いて、直樹は振り返った。

 疲れも手伝って、あれから客間に閉じこもっていたはずだが、退屈の虫がうずきだしたらしい。

 なにがうれしいのか、レオンの顔には笑みが張り付いていた。



「ナオ、聞いたぞ」



「……何を?」



 直樹はいぶかしげに聞き返した。レオンの上機嫌の理由が、まったくわからない。



「今夜、出かけるんだって?」

「ああ、クラスの会があるから。早めに戻るつもりだけど」

「遅くていいぞ」



 笑顔を崩さないレオンに、直樹はひっかかりを覚える。

 そういえば。

 直樹は思い出す。母もこの話をしたとき、上機嫌だった気がする。いつもは家族のイベントをはずすと怒るのに。



「どんな魂胆だよ」

「ナニとぼけてんだよ」



 直樹が目を眇めると、いきなり細長い腕が首に巻き付けられた。



「チャンスだぞ。ちゃんと決めてこいよ」

「何の話だよ!」



 思わず声を荒げる。



「マドカと――」

「まてまて、待ってくれ。なんでいきなりそんな話になるんだ」



 チョークスリーパーから逃れながら、直樹は頭を手にあてる。数秒ほどは、本気で息ができなかった。



「ハハハ、とぼけるな――いや、言わなくてもわかってるよ。照れくさいんだろう? 大丈夫。戦果を聞くほど野暮じゃない」



 全てわかってる。そんな様子のレオンに、頭を抱えたくなった。

 要するに、直樹が円のことを好きだと誤解されているのだ。むろん、情報源であろう母にも、である。

 

 ――いやにあっさり出させてくれるはずだよ。



 直樹は心中に愚痴をこぼす。

 クリスマス会をダシにしたデートだと思われていたのだ。

 無論、直樹は龍造寺円を嫌ってはいない。好きか嫌いかで問われれば、好きと答えるだろう。

 だが、それが恋愛感情かと聞かれれば、直樹は首を横に振らざるを得ない。

 円とは、かれこれ六年ほどの付き合いになるが、一貫して幼馴染で友人で、互いに保護者のような関係だった。

 ほとんど家族同然であり、他の感情を抱きようがないと言うのが、直樹の実感である。



「ナオ、いい物を貸してやろう」



 そういってレオンが取り出した物は、直樹の目に馴染みのないものだった。無論、磔刑を受けた聖人をデザイン化した、十字を描くこの意匠を、直樹は何度も目にしたことがある。だが、実物としてちゃんとした形で見るのは、おそらく初めてだろう。



「なにこれ」



 直樹は、自分の手の平に収まったこの寂びた銀色の十字架と、それを渡した本人とを交互にみる。



「これはな、無神論者だったおじいさまが買った唯一の十字架だ。信心深いおばあさまを口説くために買ったらしい」

「罰当たりだな、それ」

「無神論者だし。その辺りは気にならなかったんじゃないか? まあ、それはともかく、霊験あらたかなのは確かだよ。ボクも保障する。三回くらい効いた」

「それは逆に駄目なんじゃあ……」



 直樹は笑みを作りそこなったような、妙な顔になった。少なくとも二回、別れている計算になるのだ。



「まあ、それはともかく」



 レオンはにこやかな様子で、肩に手を置いてくる。直樹の話など、耳に入っていないらしい。



「がんばれよ」



 なんのてらいもない、祝福の表情だった。

 結局、気づかい自体はうれしいのだが。飄々と去っていくレオンに向け、直樹は肩を落とす。



「俺は円と付き合いたいわけじゃないっての」



 この誤解は、根が深そうだった。






[1515] ユビキリ 3
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:e219777e
Date: 2008/02/08 20:56



 誤解による期待に満ちた、家族の視線に送りだされ、直樹たちは家を出た。

 クリスマス会が始まるのは夜七時。場所が城東新町の駅前なので、それほど急ぐ必要はない。

 自転車で駅まで行き、六時三十六分の電車に乗れば、じゅうぶん間に合う計算だ。



「直樹さん」



 駅前で自転車を止めていると、独特のイントネーションが直樹の耳を打った。

 思わず振り返ると、顔見知りが立っていた。先日の事件のおり、知り合った少女、姉川清深である。



「その節はお世話になりました」



 その京なまりよりも、造形的な美しさのほうに、誰もが意識を奪われることだろう。

 とはいえ、まだ中学一年生でしかない少女の顔立ちは、まだ幼さが勝っている。直樹としても、同じ事件で知り合った石井陽花や深堀純とセットでしか認識していない状態である。

 無論、二、三年も経てば意見も変わってくるのだろうが。



「いや。結局俺は何もできなかったし。それより、こんな時間にこんなところでどうしたんだ?」



 直樹の問いに、喜びを宿した含み笑いが返ってきた。



「クリスマスパーティーです――四人で」



 嬉しさがこぼれおちそうな清美の声だった。

 かつて、孤独なエリートの集まりと評された彼女たちも、少し変わったらしい。



「そっか」



 直樹はつぶやいた。その一言に、いろいろな感傷を込めて。

 彼女たちが歩いてきた道。歩いていく道。けっして平坦ではない。いまなお、彼女らと、その周りには複雑な感情が残っていることは、想像に難くない。

 それでも、いま。姉川清深がこんな表情で話せることこそ、尊い。



「直樹さんは、と――」



 そこで、ようやく直樹の後ろに立つ存在に気づいたのだろう。清深の視線は直樹を通り過ぎて円に固定された。

 まずいものでも見たかのような表情で、彼女の視線は吐息とともに下に落ちた。



「陽花もむくわれへんなあ」



 そのつぶやきは、直樹の耳には届かなかった。



「どうした?」

「いえなんでも。彼女さんにもお世話になりました」



 まっすぐ円に向いたその礼に、直樹はにがりきった表情になる。



「幼馴染だ」

「さいですか。失礼」



 そうですか、と、清深はおじぎしてみせた。

 どこか安心した表情は、何に向けられたものか。その表情すら見逃した直樹にわかるはずがない。



「ほな、気張らんと。メリークリスマスや」

「おう。石井たちにもよろしくな」



 手を振りながら自転車を駆る清深に、直樹は手を振りかえした。

 彼女の影が見えなくなって、感慨の余韻と共に、直樹はようやく手をおろした。



「直樹」



 円が、声をかけてきた。



「なんだ?」

「なぜ彼女に思われたんだろうな」



「こっちが聞きてえよ」



 真剣に考える様子の円に、直樹は髪を掻きながら応えた。

 レオンといい、清深といい、今日はそんな話ばかりで、どうも面白くない。



「ま、クリスマスだしな。二人で歩いてりゃ、勘違いもされるだろ」

「そんなものかな」



 どうも円は承服しかねているようだった。



「さ、急ぐぞ。電車まで時間ないぞ」



 首をひねる円の手をとって、直樹は駅に向かってかけだした。









 駅前はクリスマスムード一色で、アレンジの利いた軽快なクリスマスソングが流れている。ライトアップされた某有名芸術家の巨大オブジェは、イルミネーションの照り返しを受け、妙なまだら模様になっていた。

 その真下に等間隔に並ぶ男女の合間に意外な顔を見つけ、直樹は目を瞬いた。

 どうも今日は知り合いと顔を合わす巡りあわせになっているらしい。

 宵闇に溶け込みそうな黒髪と、対照的にしろい肌。どこかオヒメサマ・・・・・を連想させる少女。

 と、ここまでの描写は、直樹のクラスメイト、宝琳院庵とまったく変わらない。容姿改革髪型服の趣味まで似通っている。

 宝琳院白音。宝琳院庵の妹である。直樹とも、縁あって親しい。

 向こうも直樹たちに気がついたようで、白音はこちらに向けて手を振ってきた。



「よう、どうしたんだ」

「外食です」



 歩み寄って声をかけると、端的な答えが返ってきた。

 あいかわらずの無表情で、ここだけは姉と違う。



「家族揃って外食です」

「そっか」



 直樹は頷いた。どうも彼女との会話に慣れたらしく、自然と次の言葉を待ってしまう。



「姉が心配ですので、家族揃って新町で外食です」

「心配されてんのかよ、宝琳院!」

「まあ、姉ですので」

「姉だからってのが理由になるってどんだけ頼りないんだよ宝琳院!」

「あの通り、見目麗しい姉ですので」

「同じ顔だろ! 自画自賛かよ!」

「あの通り、見目麗しい姉ですので、心配になるのも無理はないかと……完膚なきまでにへこまされた男の将来とか」

「心配してるの、ひっかかった男のほうかよ! むしろ信頼しすぎだろ!」

「まあ、冗談ですが」

「冗談かよ!」



 ここまで瞬息の答応である。言い終えたあと、直樹は不思議な充足感に包まれた。なんだか癖になってしまいそうだった。



「……直樹」



 だが、そんな直樹の耳に、冷水のような声がさし込まれた。無論、呆然とみていた円である。



「楽しいか?」

「……ちょっと楽しかった」



 思わず本音が漏れた直樹に、呆れ顔が返ってきた。



「もう行くぞ。時間がない」

「――少々お待ちを」



 直樹の腕を引く円に、白音が待ったをかけた。

 無論、彼女も無意味に引きとめたわけではないだろう。直樹は片眉を上げてみせ、説明を促す。



「もうすぐ、姉たちが来ますので」

「え? まだ宝琳院、会場にいってないのか? 白音と一緒に来たんじゃないのか?」



「肯定です」

 直樹の問いに、明快な応答である。



「肯定ですが、来る途中、母がジュースをこぼして姉の服を汚したのです。いま、着替えを買っているところなのですよ」



 母、と言われて、直樹は妙な表情になった。むろん、この姉妹そっくりの母親を想像してのことである。



「そっか。じゃあ、あいつが来るまで待ってようか、円」



 直樹は隣に目を向けた。



「いや――」



 円の口の端が、わずかに歪む。円が良くやる、不快の表情である。



「先に行っておく。直樹は待っているといい」



 声色にはさして変化がなかったので、直樹はそれがごく淡いものだとわかった。

 どうもあの文化祭前夜以来、円は宝琳院庵を意識している様子だった。その彼女に待たされるのが不満だったのだろう。

 直樹はそう推し量った。



「ん。じゃあちょっと遅れるかもって言っといてくれ」

「わかった」



 そう言って歩いていく円の背を見送りながら、直樹はふと、思う。

 そういえば、円が自分の提案を断ったのは、久しぶりだな。

 無論不快ではない。むしろ、先日若気の至りを思い出してしまった直樹にとって、ああいう態度は好ましくもある。

 ふと、円に向けた手を見て、直樹は眉を顰めた。左手の小指。その付け根に巻かれていた、赤い糸を思い出したからである。

 とはいえ、それはそれだけの話だった。

 事実、白音に目を転じたときには、直樹はそのことを意識から追い払っていた。



「そういや、お前は何でこんなとこにいるんだ?」



 直樹の問いに、白音は口の端を上げて見せた。哂いを表現したのだろうが、あいかわらず目は笑っていない。



「ここにいれば、直樹さんが来ると知っていましたので」

「確信犯かよ」



 直樹は、ため息をついた。

 聡い少女だが、意図が読めないところが最大の難物である。

 しばらく白音と雑談していると、本通りの向こうから悠々と歩いてくる宝琳院庵の姿をみつけた。

 とすれば、その後ろを歩く中年の男女は、宝琳院庵の両親だろう。

 直樹はそう見当をつけた。

 人目を引く容貌の娘たちに反して、両親のほうは、むしろ地味すぎる印象が強かった。よく見れば顔立ちは整っているから、原因があるとすれば格好と、まとう雰囲気だろう。



「やあ、直樹くん。よく来てくれたね」



 ――よく言うよ。脅迫したくせに。



 などとは、両親の前で言うわけにもいかない。言葉を押し殺して、かるく手を挙げることで応えた。



「龍造寺くんがいないということは、別々に来たのかね」

「いや。一緒に来たけど先に行ったんだ」



 直樹がそう言うと、宝琳院庵はふむ、と考える様子を見せた。



「これは……彼女には悪いことをしたかな? 白音も少しは気を利かせてくれればいいのに」

「気を利かせたつもりですけれど」



 直樹には理解できない、姉妹の会話だった。



「ほう」



 と、深みのある低い声が直樹の耳を打った。

 みれば、声の主は、宝琳院庵が連れてきた男性である。



「庵がこれほど話すとは。話には聞いてはいたが、驚くべきことだ」



 耳にいつまでも残る、存在感のある声だった。この存在感が十分の一でも外見に反映されていれば、人目を引くことは疑いない。



「紹介するのも面映いが、父と、母だよ」

「始めまして。庵の父です」

「庵の母です」



 宝琳院庵の紹介に、そろって頭を下げられ、直樹も慌てて礼を返す。

 母親のほうは、外見と同じく、五分と記憶しておくことも難しそうな声だった。



「どうも、鍋島直樹です」

「直樹くん」



 いきなり宝琳院父に手を握られ、直樹は何事かと目を見開く。



「娘を頼んだよ」



 いきなりなにを言いだすのか。直樹は頭が真っ白になる。



「父は、姉を心配しているのです。帰りは姉を送っていってください」



 白音が付け加えなければ、もっと慌てていただろう。彼の意図がわかって、直樹はひとまず胸を撫で下ろした。

 それにしても、言葉が足りなすぎな父親だった。



「わかりました。ちゃんと送ってきますので」

「直樹くん」



 一応胸を張ってみせた直樹に、宝琳院庵から声が投げかけられる。



「もう時間だよ。急がなくていいのかね」



 その面には、相も変わらないニヤニヤ哂いが張り付いていた。









 無論、直樹には知る由もない。

 向かう先に待ち構えている、文字どおりの悪夢を。






[1515] ユビキリ 4
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:1e6f0ff2
Date: 2008/02/10 22:18



「だが、クリスマス会を料亭でやるとは、なんともミスマッチだね」



  肩を並べて歩いていると、宝琳院庵が話しかけてきた。クリスマスの賑わいは、通りひとつ隔てただけで、ずいぶん遠いものになっている。



「ああ。やってるのが一馬の親戚でな、離れを貸してもらえたらしい」



 直樹が説明すると、宝琳院庵は、なるほどね、と納得したようだった。

 料亭とクリスマスについて話を掘り進める暇はなかった、件の料亭に着いたのだ。駅から五分とかからない近場だった。

 塀で囲われた敷地の中、唯一外に向けて開かれた空間に足を踏み入れると、そこは別世界だった。

 玄関口までの短い小道の左右は、小さい庭のようになっていて、苔の生えた岩や、ししおどしがしつらえてある。

 竹が岩をたたく軽妙な音に、いまだ遠くに聞こえていたクリスマスソングも、意識からかき消された。

 直樹も、こんなところに保護者抜きで入るのは、初めての経験だ。

 緊張を飲み込んで中に入ると、仲居と思しき若い女性が、いらっしゃいませ、と、声をかけてきてくれた。



「すみません。佐賀野高校のクリスマス会に来たんですけど」

「一馬さんのお友達ですね。伺っております」



 直樹が伝えると、仲居の如才ない笑顔が返ってきた。

 すこし戸惑ったのは、仲居が和服姿だったからだろう。和服姿の女性が苦手な直樹である。

 そのまま、直樹たちは渡り廊下を通り抜け、離れに案内された。母屋と造りは同じだったが、やや風格が劣るのは、重ねた時代の差だろうか。とはいえ、直樹たちのクラス全員が入ってもまだ余裕のありそうな、大きな建物だった。

 だが。直樹はいぶかる。



「少し、静かすぎるな」



 宝琳院庵が、直樹の疑問を代弁した。

 直樹たちが最後だとすれば、四十人近くの人数が入っているはずの離れからは、しわぶきひとつ聞こえてこない。



「ああ。まあ、驚かせようと思ってるのかもしれないけど」

「その手の悪戯を考えつくのは、たいがい君だろうに」

「……ま、とりあえず入るぞ」



 とっさに言い返すこともできず、誤魔化すように、直樹は離れの引き戸を開けた。

 その格好のまま、直樹は立ち尽くした。

 倒れていた。

 誰が、ではない。誰も彼も、みな、倒れ伏していた。

 中野一馬も、諫早直も、鹿島茂も神代良も、斎藤正之助も千葉先生まで、部屋にいる四十人近い人数の全てが倒れていたのだ。

 最も間近、直樹の足元では、先に向かった龍造寺円が横になっていた。



「おい、円」



 不吉な予感に駆られて、直樹は円を足で揺り動かす。

 だが、円からはわずかな反応も返ってこなかった。

 ひっくり返してみる。

 手を鼻先に当てると、なまあたたかい空気が手のひらに触れた。



「寝てるのか? おい、円、寝ぼけるな」



 指先で鼻っ面を弾いたが、彼女が起きる様子はない。

 焦りが、じわじわと胸に迫ってくる。



「直樹くん」



 背後から声をかけられた。無論、宝琳院庵の声だ。



「謝っていいかね」

「なんだよ」

「さんざん例外だ何だと言ってしまったが、この事態は想定できなかった」

「何の話だ」



 焦りからだんだん語調が強くなっていく。そんな直樹に宝琳院庵は難しい顔を見せた。



「これは、悪魔の仕業だ」



 直樹は、宝琳院庵に顔を向けた姿勢のまま、固まった。言葉の内容に、と言うより、ただ、理解するのに時を要した。



「宝琳院」

「なんだね」

「解説、頼む」



 直樹は頭に手を当てた。悪魔、と言う言葉に、これほど心を乱されるとは思わなかった。過ぎたことではあったが、あの文化祭前夜の悪夢は、いまだ直樹の心に強く爪あとを残していたらしい。

 ただ眠っているだけ。それならば、なんということはない。

 だが悪魔が関わっているとなれば、それですむはずがない。直樹が必要としているのは、まず、状況を整理することだった。



「了解した……といっても直樹くん」



 あくびをかみ殺すような彼女の仕草に、直樹までつられかける。

 おかしい、と、直樹が気づいたときには、すでに意識の大半が睡魔との抵抗に割かれていた。

 強烈な睡魔の波に、まともに思考できない。宝琳院庵の言葉も、半ばは理解できなかった。



「どうやら誘われているようだし……向こうで話そうか」



 続いて、体が重くなった。

 宝琳院庵がもたれかかっている、とも、気づけない。ただ、本来片手で支えられるはずの彼女の体重に、直樹は抵抗するすべを失っていた。

 体が横倒しになる。

 急激な睡魔の訪れに淡い危機感を感じながら、直樹の意識は闇に墜ちていった。最後に、淡い疼きを感じて直樹は指を見た。

 なんとなく、赤い糸の事を、最後に思い出した。









 深いまどろみの中、直樹は自分の名を呼ばれた気がした。



 ――誰か、呼んでるのか?



 そう考えたとたん、急速に、意識は浮上しだした。

 眠りの海から顔を出せば、直樹はそこで目覚める。

 だが、本来通るべき道を間違えた。そんなことを、妙に確信してしまう。

 何とかしようともがきながら、意識は否応なく浮上していき――霧越しに見るような淡い光が、目に入ってきた。



「直樹くん」



 その声は、夢の中でなく、現実に耳を打った。

 と、直樹は思ったのだが。

 声をかけてきた、自分の腹の上に乗っている物体に、直樹は目を疑わざるを得なかった。

 猫である。

 黒猫である。公家眉のように、額に二つ白い斑点が並んでいる。



「直樹くん、目を覚ましたかい?」



 その猫が、人語を話すのだから、尋常の事とは思えない。

 だが、幸か不幸か、鍋島直樹はこのような怪現象に慣れてしまっている。



「その声。ひょっとして――宝琳院か?」

「ご明察だね」



 半信半疑で問いかけてみると、期待通りの言葉が返ってきた。



「前々から猫っぽいとは思ってたけど……なんでまたそんな格好になってんだ」



 心配よりあきれの方が強いのは、彼女が姿を自在に変えるさまを目の当たりにした経験ゆえだろう。

 宝琳院庵(猫)は、猫の顔で器用にも渋面をあらわしてみせた。



「まあ、それも含めて、説明させてもらうよ。ここがどういった性質のものか、直樹くんにも理解してもらう必要があるからね」



 そういって、直樹の腹の上に鎮座する黒猫。邪魔である。



「――ってそこで落ち着くな。俺が起きれんだろうが」

「っと、乱暴だね」



 手で払うように宝琳院庵を追うと、直樹は半身を起こした。

 やっと得た満足な視界を得た直樹は、だが、そのままの格好で固まるはめになった。

 何かが見えたから、ではない。なにも見えない。

 薄い霧で遠くまでは見とおせないが、見渡す限り、なにもなかった。



「驚いたかね」



 宝琳院庵の声が、呆然とする直樹の耳を打った。



「ここは、夢の中だよ――多分、そう説明するのが、一番わかりやすい」

「ゆ、め?」



 そう言われても、直樹には実感がない。

 五感がまったく鈍っていないからだろうか。夢の中と言われるよりも、悪魔が造った世界とでも言われた方がよほど納得がいっただろう。

 それを口に出すと、猫らしからぬニヤニヤ哂いが返ってきた。

 

「あいかわらずいいひらめきだね。夢の中、と言うのは、起こった現象を短絡的に説明したもので、原因を求めるなら、悪魔――というより、魔に属するものの仕業、ということになる」

「要点だけ簡単に頼む」



 事細かに説明される前に、直樹は釘をさした。

 とりあえずこの奇妙な空間がどんなものか判らないと、落ち着いて話もできそうになかった。

 それを明確に察したのだろう。宝琳院庵は尻尾を左右に揺らしながら前足を挙げてみせた。



「とりあえずは安心したまえ。この空間は、油断、即、死にいたるような、性質の悪いものではないようだ。先に言ったように、夢の中のようなものさ――ただし、複数のものが共有する、ね」



「俺たちが、一緒の夢を見てるってことか?」

「その理解で正しいよ。この姿も」



 言って、宝琳院庵は自分の姿を示してみせた。猫の体で器用なことだ。



「その副産物さ。他の人間のイメージが、ボクに影響を与えているんだろう。きっと、ボクのことを猫っぽいと思っているやつがいるんだろう」



 ――すまん、それ、俺だ。



 とは、無論言えるわけもない。直樹は黙っておくが吉、を決め込んだ。



「とまあ、そんな風に、あやふやにして強固な空間だ。このあたりは外延部のようだけど、中の方は相当混沌としていると思うよ」

「どうすりゃいいんだ」

「簡単さ」



 宝琳院庵は猫の口で笑みを形作った。



「みんなの夢でできた空間なら、みんなを起こせばいい。簡単だろう?」









 夢を見たことがあるか、と、聞かれれば、無論直樹はイエスと答えるだろう。

 だが、はっきりとした自我を持って夢を体験した事など、これも当然、ない。

 先ほどまでは学校の廊下だった場所が、見渡す限りの草原に変わり、それがまた電車の中になるに至って、直樹はこのでたらめな空間を理解することをあきらめた。

 なまじ実感があるだけに、性質が悪い。

 そういうものだと割り切らねば、気が狂いそうだった。

 一方、直樹の肩にぶら下がっている黒猫型不可思議生物は、楽しげにふむふむと頷きっぱなしだ。

 そのたびにひげが頬をくすぐって、鬱陶しい。



「おい、宝琳院。さっきから頷いてるけどなんかわかったのか」

「素晴らしい。美事だな、この空間の創作者は」



 なにやら感に堪えないようすの黒猫に、直樹は目をすがめる。



「一人でわかってないで言ってくれよ」

「よろしい」



 と、直樹の肩の上に立とうとする黒猫だったが、あるいている人間の肩の上に直立するなど、いくら猫とはいえ難しいらしい。すぐにあきらめて肩からぶら下がる形に戻った。



「この空間は、みんなで共有する夢。ボクはそう言った。だが、夢というのは、無意識の領域だ。同じ夢を見せようと思っても、個々のちょっとした差異が、それをまったく別の方向に導く。だから、この空間は混沌としている、と、思ったのだが――いや、驚いた」



 宝琳院庵の尻尾がぴたん、と直樹の腰を打った。



「クラスのみんなは、この空間を構成する要素だ。それがこの空間に及ぼす影響を消去することなどできはしない。だが、それを偏在させることによって、確固たる“世界”を築くことに成功したのだ」

「簡単に頼む」

「じゃまなのどけて広場をつくった」

「了解」



 直樹は左手を挙げてみせた。

 と、直樹は気づく。

 左手の小指に、何か引っかいたような傷があった。

 少しひっかかりを思えた直樹だが、おおかた肩に乗った黒猫の爪にひっかけられたのだろう。そう思い、思考の脇にどけた。

 いまはそんなことに気をとられている場合ではない。



「でも、いったいなんでこんな空間をつくったんだろうな」

「それは、ボクにもわからないよ。なにぶん、いまみえているのは現象だけだからね」

「ああ。不思議パワーは使えないんだったか」



 宝琳院庵の言葉に、直樹は彼女が何度か言っていたことを思い出した。



「その通り。今回は実地で調べていくしか、方法がないのさ――と、どうやら中心部が近づいてきたぞ」



 その言葉どおり、空間を隔てる薄霧の幕が、直樹にもはっきりとみえた。

 二度ほど足をためらわせ、直樹は思い切って幕の向こうに足を踏み入れた。






[1515] ユビキリ 5
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:6c02261b
Date: 2008/02/14 22:59



 目の前に出現したのは、見慣れた光景だった。

 林立する本棚。綺麗に並べられた机と、宝琳院庵の占有物になっている大机。 間違いない。佐賀野高校の図書室だ。



「図書室、だよな」

「そのようだね」



 二人は思わず顔を見合わせた。どんな奇妙な世界が待っているのかと身構えていただけに、戸惑いを隠せない。

 だが、完全にいつも通りの環境と言うわけではなかった。

 なんだか外が騒がしい。

 それも、部活動や休み時間の騒がしさとは、また違う。お祭り騒ぎに近い。



「いったいどうなってるんだ」



 直樹は思わず肩に乗る黒猫に目を向ける。

 その疑問に答えようと彼女が口を開きかけたとき、急に扉が開いた。

 二人の視線が、扉に向かう。

 姿を現したのは、よく見知った顔――親友の中野一馬だった。



「おまえら、学園祭中は図書館閉鎖だろう。どうやって入り込んだ」

「学園祭?」



 意外な言葉に、直樹は思わず問い返す。

 返ってきたのは、一馬の怪訝な表情だった。



「寝ぼけているのか? まあ、昨日も遅かったのだ。無理もないと言えばないのだが……お前たち二人が、そろって姿を消せば、何かと支障も出るだろう。龍造寺も探していたぞ、あまり心配させるな」



 それだけ言いおいて、一馬は去っていった。

 その背中を呆然と見つめて、直樹と黒猫はふたたび顔を見合わせる。



「……どういうことだ?」

「彼の言葉を信じれば、ここでは学園祭真っ只中らしいね」



 直樹の肩から飛び降りて、黒猫は直樹に向き直った。

 四肢を伸ばし、首を上げる彼女だが、いかんせん身長が違う。いつもの大机に乗ってなお、直樹が見下ろす形になるのだから、彼女もやりにくそうだ。



「というか、一馬、猫姿のお前みて何にも言わなかったな」

「猫の姿は、宝琳院庵という個性からイメージされたものだ。ボクとして認識するのに差し支えないということだろう」

「じゃあ、一馬にはいつもの宝琳院にみえたってことか?」

「そういうことだね」



 納得して、その事項を脇に置きかけ――慌てて引き戻した。



「――っていまお前肩に乗ってたじゃないか! あいつ普通に流してたぞ!?」



 さすがの一馬も、肩に女子高生を乗せた親友を、スルーはできないだろう。



「乗っていたといっても、肩からぶら下がった状態だったからね。せいぜい君の肩に手を置いてる、くらいにみえたんじゃないかな」



 平然と答える黒猫に、直樹は想像してみた。人気のない図書室。いきなり開く扉。うろたえる直樹と、自分の後ろに隠れ、その肩に両手を置く宝琳院庵。

 えらく問題のありそうな絵面である。

 一馬が妙に歯切れが悪かったことを思い出し、直樹は机に突っ伏した。思い切り誤解されている。



「ま、夢の中だしね。気にすることはないよ」



 後頭部に、黒猫の前足が乗せられた。

 肉球の感触をもってしても、直樹の心は癒やされなかったが。



「……にしても、よりによって学園祭かよ」



 後悔を振り払うように首を振り、直樹は立ち上がった。

 窓の外を見れば、否応なしに実感できる。

 校門に据えられた巨大なアーチに、その脇から校舎まで続く屋台、普段は見られない私服姿の人間も多い。窓からみえる木々も、本来なら葉を落としていたはずである。



「夢の材料はクラスのみんなだからね。学校は造りやすい舞台だった、という理由が考えられるね。学園祭という非日常を舞台に選んだのは、夢の中にいるみんなに、これが夢だと気づかれにくくするためじゃないかな」

「何でわざわざ?」

「夢というのは基本的に無意識の領域だ。だけど、ごくまれに、夢の中で、自分が夢をみていると気づくことがある。そうなると、夢は思考によって、強烈な干渉をうけるんだ。だから些細な違和感を感じさせないために、非日常を演出しているんじゃないかな」



 宝琳院庵の解説を、直樹は腕を組んで咀嚼する。



「なるほど……なら俺たちがやるべきことも、みえてくるな」

「その通り。呑み込みが早くて助かるよ。そう、造られた舞台が学校だった、というだけで、やるべきことは変わっていない」



 尻尾をピンと立て、口の端を上げるさまは、元の宝琳院庵と変わらない。



「ここが夢の中だと気づかせればいいのさ」



 言い放つ黒猫に、直樹は頷いた。



「とりあえず、ここを出るか。こんなとこ他に誰も来ないだろうし」

「そうだね」



 左肩を出口に向けると、宝琳院庵が肩に飛び乗ってきた。あくまで楽する存念らしい。

 ちょうどそのとき。



「直樹」



 直樹を呼ぶ声が、扉の向こうから聞こえてきた。

 明らかに女性の声である。直樹を名前で呼び捨てる女性は、ひとりしかいない。



「円、大丈夫だった――」



 言いかけた口は、開いたまま塞がらなかった。

 扉を開けて入ってきたのは、別人だった。円より拳ふたつは低いが、それは未発達を表すものではなく、むしろ成熟した、女性的なラインの持ち主だ。眉にもかからないほどの短髪は、円とは対照的である。

 成富やすめ。クラスの女子だ。



「直樹、こんなところにいたのか。探したぞ」



 ――おかしい。



 直樹は、額に冷たい汗がにじむのを感じた。

 成富やすめとはそれほど親しくないし、無論下の名で呼ばれたこともない。

 それに、鼻にかかるような声こそ彼女のものだが、口調が違う。仕草も違う。違うと言うより、むしろ、非常に見覚えのある口調や仕草だ。

 そう。あれではまるで、龍造寺円だ。



「成富、何やってんだ?」

「何を言っているんだ、直樹」



 直樹の問いにも、やすめは怪訝な顔をするばかりだ。



「行くぞ、直樹」



 ごく自然に、やすめは腕を掴んできた。そのまま腕を組んでくる彼女に、直樹は思いきり取り乱す。



「ち、ちょ、成富! 何でいきなり――て言うか胸、胸当たってるんですけどー!?」

「まだふざけてるのか? 普通に円と呼んでくれ」



 拗ねる表情も円と同じで、しかし、直樹はそんなことを考えられる状態ではない。



「宝琳院! 宝琳院! 助けてくれ!」



 助けを求める声は、悲鳴に近かった。



「やれやれ」



 呆れたような黒猫のため息が、肩に落ちた。



「成富くん」

「なんだ? 宝琳院まで。私の名前は」

「成富やすめだ。成富くん、君の名前は成富やすめだ」



 やすめやすめやすめ、と、彼女の名を連呼する黒猫。まるで催眠術師のようだ。



「成富……って、あ、宝琳院さん――わっ」



 瞳の焦点が合ったかと思うと、彼女はいきなりのけぞった。



「何で猫? てゆうか夢? なにこれ――」



 うろたえるやすめの周りに、波紋が生じた。水鏡に映した姿が、水滴に揺られるように、やすめ自身の姿も揺らぐ。

 間近で起こった現象に、直樹は思わず飛び退った。

 だが、ごくあっさりと。成富やすめの姿は、図書室に溶け込むように消えていった。



「なんだいきなり!?」

「落ち着きたまえ」



 いきなり鼻先に肉球が当てられた。



「ボクが彼女に夢を自覚させたせいだろう。これを造ったものにとって都合が悪かったので意識を隔離されたと言うところか」

「おい、成富は無事なんだろうな?」



 宝琳院庵の説明に、直樹は眉をつり上げた。

 やすめを心配してのことだったが、彼女の態度が、あまりに情のないものと映ったのだ。

 対する黒猫の態度は、落ち着いたものである。



「それに関しては大丈夫だろう。彼女はこの世界の構成要素だからね。それに、今は起きていても、いずれまた眠る。そうなれば、また取り込めばいい。無理にどうこう・・・・することはないだろうよ」

「要するに、一時的に隔離しただけか」

「そういうことだろう」



 とりあえず彼女が無事らしいとわかって、直樹は安堵のため息をついた。



「と言うか、何で成富が円になってんだ」

「ひょっとして、円くんもすでに目を覚ましているのかもしれないね。その代役として彼女が龍造寺円を演じている、とか。とにかく、今は判じようがないがね――ところで直樹くん」

「なんだよ」

「ずいぶんと鼻の下が伸びていたようだね」



 痛いところを突かれて、直樹の顔が引きつる。

 宝琳院庵の口調には獲物をいたぶるような響きがあった。



「いきなりあんなことされりゃびっくりするだろ、ふつう」

「円くんとは普通にやっているじゃないか」

「円と一緒にすんなよ。あいつは家族みたいなもんだし、同じことやられても成富とじゃ話が違う」

「それは主に胸の話かね」

「違うって、つーか、やけに絡むな」



 違わなくはないのだが、できればそっとしていて欲しい話題だった。ちなみに、成富やすめはクラスで指折りのバストサイズの持ち主だ。



「ちなみに、胸の数では負けてはいないよ。みてみるかい?」

「そりゃ猫だからだろ。つーか数で勝負すんな」



 無論、猫の乳などみせられても嬉しくもなんともない。

 そんな馬鹿なやりとりをしていると、再び扉の向こうに人の気配を感じた。



「直樹」



 特徴のある野太い声は、同じクラスの斎藤正之助のものだった。

 だが。

 入ってきた正之助の姿をみて、直樹は固まった。

 宝琳院庵が猫になったように、イメージによるものだろう。もともとガタイと筋肉の無駄遣いを絵に描いたような正之助だが、ふた回りも分厚い筋肉に鎧われた姿は、戦国猛将もかくやという威風だった。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 夢の中なのだから、鎧でも何でも着ていればいいのだ。

 だが、正之助が着ていたのはセーラー服だった。

 セーラー服姿の戦国猛将。

 破壊力抜群である。



「直樹、こんなところにいたのか。探したぞ」



 そんなことを言いながら駆け寄ってくる肉弾重戦車(セーラー服)に、怖気が振るう。



「正気をとりもどせぇ!」



 途方もない危機感に駆られ、直樹は反射的に延髄蹴りを決めていた。

 火事場のくそ力だろう。瞬息一動作で行われた蹴りは、正之助に影さえ捉えさせず、彼の意識をかなたに飛ばした。

 操り人形の糸が切れたように、正之助が崩れ落ちる。気絶確定の倒れ方だった。



「直樹くん、それはちょっとひどいんじゃないかな」



 肩で息をしていると、呆れたような宝琳院庵の声が耳をくすぐった。



「あ、いや、思わず……ってか、こいつ俺の手を握ろうとしたんだぞ? 気色悪い」

「彼も悪気があってやったわけではないだろうに……第一これじゃ成富くんと同じ方法が使えないじゃないか」

「すまん」



 言い訳のしようもない。

 だが、直樹は後悔していなかった。こんな姿の物体と腕を組むなら、素っ裸で校内をかけ回る方が数段ましである。



「まあ、過ぎた事を悔やんでも仕方ない。いつまでもここにいるわけにもいかないし、外に出ようじゃないか」



 指図するように、黒猫は尻尾を背中にたたきつけてきた。

 それに答えて戸口に向かい――ふと、不安がよぎった。

 その正体は、直樹自身もわからない。ただ漠然と、不安を感じただけである。

 直樹はそれを自身の臆病に帰した。

 悪魔が絡んでいるせいだと、無造作に振り払った。

 小指の傷が、すこし痛んだ。

 




[1515] ユビキリ 6
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:dc0724bb
Date: 2008/02/17 22:06



 扉を開くと、喧騒の波が肌を打った。

 廊下の左がわに立ち並ぶ、普段は無個性な教室も、種々の装飾を施されており、その入り口に群がるように、人が群れている。

 廊下を行き交う人も、どこか浮かれたようすだ。私服姿の人間が、かなり混じっていた。

 記憶の中にある学園祭と、ぴたりと重なる光景だ。

 だが、何かがおかしい。

 直樹はこの世界に、どこか違和感を感じた。



「宝琳院、まずはどうする? 教室にいってみるか」

「ふむ」



 思わず肩に目をやったが、宝琳院庵は考え込んでいるようすだった。

 ややあって、彼女の尻尾が直樹の背をたたいた。



「いや、とりあえずひと巡りしてみよう。どうも相手の意図が読めないと言うのは、面白くない」



 宝琳院庵の言いように眉を顰めた直樹だったが、考えてみれば、確かに元凶である悪魔の目論見もわからないまま動くのは、危険かもしれなかった。

 あの学園祭前夜の事件では、死のゲームそれ自体が、ある種の儀式だとわからず、結果として悪魔の召喚を許してしまった。

 助かったのはあくまで僥倖である。あの事件の轍を踏むわけにはいかなかった。

 彼女の言葉に従い、校舎を巡っているうちに、直樹は違和感の正体に気づいてきた。

 人の気配が、薄いのだ。

 肩が擦れ合うほどの混雑の中にもかかわらず、そこに人を感じられない。

 成富やすめや斎藤正之助は違った。他のクラスメイトたちもだ。

 なら、その違いは、夢をみている者と、夢の中の登場人物でしかない者との違いだろうか。

 校舎をひと回りし、外まで来たところで、直樹は肩に乗る黒猫に顔を向けた。



「宝琳院、何かわかったか?」



 その質問に、黒猫は首をひねる。



「わからない。と言うのが正直なところだね。向こうは完全に匂いを消している。意図のかけらも読めないよ――直樹くんはどう思う?」



 質問を返され、逆に直樹が頭を悩ますことになった。。



「宝琳院にわからないものが俺にわかるかよ……まあ、気になったことはあったけど」

「ほう? なんだい?」



 黒猫が、興味深げな目を向けてきた。



「校舎――っていうか、学校全体もなんだけど、ほんとにそっくりそのままだろ? それに比べたら、人の扱いがぞんざいな気がしないか? 芝居じゃあるまいし、他人にそいつのフリさせるなんて」 

「夢を見ているものは、そう感じないだろうけどね。だが、確かにその通りだ。注意しておくべきだろうね」



 宝琳院庵は一応頷いてくれたが、それは本当に瑣末事だ。

 いつかの、五本指の事件などと違い、これは確実に悪魔の仕業である。

 だというのに、目の前にあるのは現象だけで、悪魔も、その意図もまったくみえない。直樹はそのことに、苛立ちを禁じえない。

 ひょっとして宝琳院庵も、同種の感情を抱いているのかもしれないが、猫の表情から感情の所在を探るなど、不可能だった。



「さて、これからどうするかだが」



 琥珀色の瞳が直樹に向けられた。



「これ以上調べても、多分何も出てこないだろうね。いっそ揺さぶってみようか」



 宝琳院庵の提案は、鍋島直樹にとって歓迎すべきものだった。

 真綿でじわじわと締め付けられていくような圧迫感を我慢し続けるよりは、その方が性に合っていた。

 だが。

 直樹は淡い不安が、胸中に根ざすのを感じた。

 果たしてこれは宝琳院庵がとるべき手段なのだろうか。

 非常な観察力と卓識こそ、宝琳院庵の持ち味である。その彼女が、自ら動いたことを思い返せば、文化祭前夜に行き当たる。

 あの事件で、宝琳院庵は一度、死んだ。



 ――馬鹿らしい。こじつけだ。



 直樹は自分の妄想を振り払った。

 あの時との状況と一緒にするわけにはいかない。

 待っていて状況が変化するとは限らないのだ。それなら、積極的に変化を求める行動は、むしろ理にかなっている。



「円も、みなかったしな」

「気になるかね」

「当たり前だろ」



 独り言のようにつぶやいた言葉を拾われ、直樹は口の端を曲げた。



「直樹くん校舎を回っているあいだ、ずっと気にしていただろう? それでもみつからなかったんだ。やっぱり、さきに目を覚ましたんじゃないかな」

「俺たちが起こさなくても、勝手に夢だと気づいたってことか?」

「その通り。直樹くんと同じように、龍造寺くんもあの事件を体験したからね。異常に対して敏感になっているはずだから、その可能性は高いと思うよ」



「そっか。じゃあ、とりあえずは安心していいんだな」



 宝琳院庵の説明に、直樹はひとまず胸を撫で下ろした。

 彼女の推測どおりなら、円も成富やすめと同じように隔離されているのだろう。

 それなら、安心できる。

 直樹が心配しているのは、龍造寺円が、直樹たちと同様、目覚めた状態で動く回っていないか、と言うことである。

 円は、わが身を省みず、無茶をするところがあるのだ。

 宝琳院庵にそれを言えば、人のことは言えない、などと返されるだろうけれど。



「じゃあ、本格的に取り掛かるか。みんなの目を覚ませば、この世界もなくなるんだろう?」



 明確な目標が定めれば、やはり心に張りが出る。直樹は不敵な視線を宝琳院庵に送った。



「ああ。だが、ことによると、全員を起こす必要はないかもしれないよ」

「どういうことだ?」



 ちらりと白い牙をみせる黒猫に、直樹は問い返した。



「ここは夢で、建材はクラスのみんなの記憶だ。とはいえ、つぎはぎでこうも見事に学園祭を再現できるはずはない。どこかに、この夢の雛形を持つ人間がいるはずなんだ。そいつを起こせば、この夢は一気に崩壊するだろう」

「要するに、核になるやつがいつってことか……ぱっと浮かぶのは、一馬だな。単にイメージだけど」



 直樹がそういったのは、本当にイメージだけである。クラスのまとめ役であり、中心的存在だからという安易な連想だった。



「だが、試してみる価値はあるだろうね」

「直樹」



 と、宝琳院庵との会話をさえぎるように、野太い声が聞こえてきた。

 いやな予感がして振り返ると、案の定、小走りで駆けて来る正之助の姿がみえた。

 二度目ながら、その外見の破壊力に、直樹の顔は引きつる。



「ひどいじゃないか。いきなり蹴りつけるなんて」

「直樹くん、自制したまえ」



 近づいてきた正之助に同じ対応をとりかけて、宝琳院庵に静止された。

 怒りを押さえて深呼吸。

 とりあえず、目の前の物体を消去することが先決だった。



「いいか、お前は斎藤正之助だ。円じゃない。斎藤正之助だ。正之助、正之助正之助正之助正之助正之助……」



 親の敵のように名前を呼んでいると、不審な目をしていた正之助も、つられて

名前を口にしだした。



「正之助正之助……って、なんじゃ、直樹、お前何しとるんじゃ……ってなんじゃぁこの格好はぁ!?」



 己のセーラー服姿に、正之助は雄たけびを上げた。

 むろん、速攻で夢だと気づいたのだろう。成富のときと同様、正之助も波紋と共に世界に溶け込んでいった。



「これでまた誰かが円くんの――」



 いいさして、宝琳院庵の声が途切れた。そう思った瞬間、何かが肩にずしりとのしかかってきた。

 見れば、元通りの宝琳院庵が、直樹の肩を視点に二つ折りになっていた。



「戻ったのか? 宝琳院」

「ああ。どうやら猫の犯人は彼だったらしい」



 言いながら身を起こす彼女をみて、直樹は思わず噴出しかけた。



「ほうりんいん……みみ」



 笑いをこらえながら、かろうじてそれだけ言う。

 彼女は、不思議そうに耳に手をあてる。が、そこではないのだ。

 宝琳院の頭に、猫の耳が鎮座しているのだ。



「耳がどうしたのかね」



 まじめくさって言うものだから、直樹はこらえきれず、とうとう爆笑してしまった。









 中野一馬は学園祭中、クラスの出し物にかかりきりだった。

 責任感の塊のような彼のことだ、ろくに他の催しをみもせず、教室にいたに違いない。

 学園祭中は、ろくに寝てもいないのに大丈夫か、と、心配したものだが、この際探す手間が省けてありがたい。

 再び人波をかき分けて教室にいくと、あいかわらずの盛況だった。

 あの悪魔のゲームの舞台に、再び足を踏み入れることには、さすがの直樹もためらいがある。

 とはいえ、状況が状況だ。直樹は扉の前で受付をやっている、クラスの女子に声をかけ、中に入っていった。

 学園祭前夜と違って、あたりは薄暗い。電灯を落としているのだから、当然だろう。

 とはいえ、薄暗さは、この種の催しに欠かすべからざる要素だろう。とくに、素人仕事丸出しの、墓石や棺おけといった各種小道具の難点を隠すには最適らしい。雰囲気のある舞台に、直樹はわれながら感心してしまう。

 とはいえ、本番で味わえなかった自己満足に浸っている場合ではない。

 直樹たちはゾンビ役の同級生に声をかけると、暗幕をくぐって準備スペースに入った。

 教室を仕切ったときに、邪魔にならないよう苦心して作った場所だ。

 中では、釣竿を手にした一馬が、休憩中の女の子たちと雑談していた。



「よう、一馬」



 直樹が声をかけると、一馬は話を止め、顔を向けてきた。



「直樹か。どうした?」

「あー、え、と」

「どうしたんだ?」



 とっさに言葉が出てこず、直樹は目をそらした。

 よく考えれば、成富やすめや斎藤正之助の場合とは勝手が違う。

 中野一馬は、中野一馬のままだ。

 どうやって、これが夢だと気づかせるのか。

 不審の目を向けてくる一馬に、視線を左右にさせていると、直樹の肩を押して、入れ替わるように宝琳院庵が出てきた。



「中野一馬くん」



 一馬のメガネずり落ちた。

 当然と言えば当然か。宝琳院庵が一馬に話しかけたことなど、直樹の記憶上絶無である。



「どんな天変地異が起こるのだ? 宝琳院が口を開くなど」



 一馬の驚きように、宝琳院庵は多少鼻白んだようだった。



「そこまで言われる筋合いはないが、夢の中での出来事だ。当然だろう」

「夢?」

「いまが何月何日だと思っている? クリスマスイブじゃないか」



 そう言われ、しばし考え込むようすだった一馬だが、記憶と現状の不整合を見出したのだろう。やがて面に納得の色が浮かんだ。



「む……では、これは夢か。そういえば、過去にもやった作業だな。そうか――」



 一馬がそう言った瞬間、世界に波紋が走った。

 成富やすめや斎藤正之介の時の比ではない。ゆがみは教室全体を覆っていた。

 避けるすべはない。

 否応なしに、直樹たちはゆがみに巻き込まれた。






[1515] ユビキリ 7
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:00c50f91
Date: 2008/02/22 23:28



 薄暗い空間に、熱気が渦巻いていた。

 その中央部。輝かしい四角の檻の中に、彼はついに降り立った。



「ナオ! やってやろうぜ! 俺たちイタリア系移民の根性を見せてやれ!」



 セコンドのレオンの叱咤に、直樹は軽く頷いた。

 相手は、輝かしい王座の主だ。前評判でも相手の有利は動かない。



 ――だが。



 直樹は、拳を握りこむ。

 目の前では、黒人特有の、バネの利いた筋肉が、しなやかにリングを舞っている。

 だが、直樹の目には、もはや彼の腰に巻かれたベルトしか映っていない。



「あんたにゃ、そのベルトはふさわしくねえよ」



 直樹の胸に去来するのは、王者とのさまざまな因縁。屈辱の数々。それが、握る拳に力を与える。

 ゴングが鳴った。

 直樹はゆっくりと、リング中央へ歩を進める。



「レオン、ちょっとベルトを取ってくるぜ」



 背中のトレーナーに声をかけ――



「――阿呆か」



 やけに冷たい声と共に缶ビールの直撃を受けた。

 激痛に、直樹はリングの上を転がりまわる。



「目を覚ましたまえ、直樹くん」



 あきれ交じりの声が、空から降ってきた。

 聞きなれた声に、直樹は今の状況を思い出す。

 同時に、舞台の幕が降りるように、観客も、レオンも、王者も消え失せた。



「……宝琳院」

「まったく、君と言う人は」



 あきれに、淡い怒りが混じっていた。



「気張りすぎも考えものだが、逆はさらに性質が悪いよ。自分をしっかり持っていれば、君が夢に捉えられることなどないはずだよ」

「えーと……俺、どうなってたんだ?」



 頭のこぶをさすりながら、直樹は宝琳院庵を見上げる。

 教室からここまで、記憶が飛んでいた。



「来る時に見ただろう? あの空間の外延部。みなの夢のかけらさ。それに囚われていたんだよ」



 ロープに体重を預け、宝琳院庵は直樹を見下ろしている。

 すでに夢だと気づいたからだろう。あたりは闇に溶け、もはや四角いリングしか存在していない。



「学校は? いったい何が起こったんだ?」

「中野くんが当たりだった――と、言いたいところだけどね。あいにくまだ夢は続いているよ」

「なら、なんでこんな状況になってるんだ? いったい何が起こったんだ?」



 淡々と語る少女に直樹は疑問をぶつけた。さすがにニヤニヤ哂いを収めている彼女だが、猫耳のおかげでかえって滑稽にみえる。



「中野くんは、夢の核ではなくとも、代替不可能な存在だったからじゃないか、と考えているんだけどね。夢への影響を最小限にとどめるために、周りごと沈められたんじゃないかな」

「じゃああそこにいたやつらは」

「一緒に沈められたろうね。起こす手間が省けたわけだ――まあ直樹くんを探す手間で相殺だけどね」

「悪かった」



 宝琳院庵の、皮肉のきいた言葉に、直樹は両手を挙げて降伏した。

 言い訳の余地もない失態である。おまけに醜態だった。



「まあ、まったく無駄だったわけでもないよ。おかげで向こうがまったく何もしてこないわけも、なんとなく読めた」

「どういうことだ?」



 なにやら不敵な表情を浮かべる宝琳院庵に、直樹は説明を求めた。

 ニヤニヤ哂いを復活させ、少女は指を立ててみせる。



「ボクたちは、今は起きてるよね。正確には脳が起きている状態だけど、いつまでも起きていられるわけじゃない。深い眠りに入れば、ボクたちに抗うすべはない。さっきの君のように夢に取り込まれてしまうだろう。そうなれば、向こうの勝ちだ」

「つまり、向こうが何もやってこないのは、する必要がないから、なのか」

「たぶんね」



 直樹の理解に、合格判が押された。

 だとすれば、時間はそれほど残されていないだろう。直樹たちが夢の中に入ってから、体感で小一時間は経っていた。



「とりあえず、戻ろうじゃないか。いつまでもここにいても、仕方がない」

「ああ。とにかく戻ろう」



 ロープをくぐる宝琳院庵に続いて、直樹も闇に身を投げた。









 出た先は、教室の外だった。

 振り返ってみると、教室のあった部分は、闇に包まれている。

 戸口に立って中を覗いてみても、その中に何があるわけでもない。教室の中身が、完全に消えているようだった。



「直樹くん」



 後ろから、宝琳院庵が声をかけてきた。

 振り返ってみて、即、直樹は状況を理解した。受付のクラスメイトやら、後ろに並ぶかたたちの視線が直樹に集中していた。

 目は、口ほどにものを言う。



「鍋島、邪魔」



 受付台に座るクラスメイトの言葉が、みなの思いを代弁していた。

 直樹はひたすら頭を下げながら、その場を退散した。



「直樹くん。次は誰を狙おうか」



 数クラスも離れたところで、宝琳院庵が声をかけてきた。

 そう言われて、直樹は首をひねる。

 教室にいた者は、軒並みいなくなった。

 教室にいなかった者、と言えば、部活の方の出し物に出ているやつらと、当日暇な道具係くらいである。



「……そういや鹿島は屋上で寝るって言ってた気がする。風邪引くぞってのに毛布一枚かついで」

「寝ているのなら、動かないだろうね。ここは確実につぶしていこうか」



 直樹に異論はない。宝琳院庵の言葉に従い、屋上に向うことにした。

 廊下の両脇に階段があり、屋上に行くなら、西側の階段を使わねばならない。

 階段を上っていくと、屋上階の、外へ出る扉の前に、毛布が横たわっていた。

 人型に膨らむその中身が誰かは、言うまでもないだろう。

 さすがに外は寒かったらしかった。



「鹿島」



 声をかけると、毛布がピクリと動いた。

 そのまま、しばし待つ。

 やがてもぞもぞと毛布が動きだし、鹿島茂の顔が覗いた。



「ん? あ? ……だれ?」



 寝ぼけているのだろう、半ば閉じられた瞳で、そんなことを言ってきた。



「直樹だよ、鍋島直樹。寝ぼけんな」

「あ? なべしま……ナベシマか」



 夢の中で寝ぼけると言うのも、妙な話だった。

 大口を開けてあくびをして、ようやく茂の目がまともに直樹に向けられた。



「ここどこだ?」

「夢の中だよ。寝ぼけんな、鹿島」



 言いながら、ふと思いあたり、逃げ場を探った。先ほどの二の舞になれば、宝琳院庵に合わせる顔がない。

 

「夢? かしまって……オレか?」

「ナニ寝ぼけてんだよ。お前の名前だろ、鹿島茂」

「鹿島……鍋島……ああ――」



 鹿島茂の顔に、理解の色が現れた。



「これ、夢か」



 彼がそう言った瞬間。割れたガラスのように、世界が砕け散った。

 とっさに外への扉を開く。

 空間が、崩れていく。

 視界の両端にそれが映り、とっさに跳んだ。

 次の瞬間、足元が崩れる。

 視界に闇が広がり、また急速に縮んでいく。すべりこんだ先は、固いコンクリートだった。

 腹に衝撃を受けて、直樹は咳き込む。とっさの受身をしくじったのだ。



「あー、痛っ」

 

 咳がおさまり、何とか立ち上がろうとして、小指に鋭い痛みが走った。

 みれば、黒猫にひっかかれたと思しき傷口が、広がっていた。



「あー、痛そー」



 傷口は小指の付け根を一周してしまっっている。実際痛かったが、我慢できないほどではない。直樹は血を舐め取って、治療完了とした。

 振り返れば、扉のあった一帯が闇に包まれている。

 一馬ならともかく、茂が代替不可能な人間だったということに、直樹は首をひねらざるを得ない。とはいえ実際結果が出ては、納得するしかなかった。



「大丈夫かい?」



 と、闇の向こうから宝琳院庵の声が聞こえてきた。

 彼女も無事、逆側に避難できたらしい。



「ああ。なんとか。宝琳院も無事か?」

「あらかじめ離れていたからね」

「――宝琳院」



 宝琳院庵とは別の声が、横から割り込んできた。

 どうやら、誰かが来たらしい。



「誰だー?」

「また円役の子だよ。見たいかい?」



 尋ねると、そんな答えが返ってきた。無論、それが誰であれ、みて気持ちのいいものではない。



「速やかに目を覚ましてやってくれ」



 直樹は即答した。



「了解、戸田勝子、目を覚ませ」

「えっ?」



 戸田勝子、と聞いて、直樹は思わず闇の中を覗きこみかけた。

 無論、何もみえるはずがない。おまけに、速やかに目を覚ましたようで、戸田勝子の地の口調が聞こえてきた。



「ああ」



 直樹は、なんだか惜しいことをした気がして、声を地に落とした。

 戸田勝子。クラスで一番の巨乳である。



「鼻の下が伸びてるよ」



 そんな声が返ってきた。

 ばればれだった。









 宝琳院庵と合流するために、その間に挟まる闇は問題だ。

 一度はまっただけに、ためらいもあった。

 だが。



「普通に、まっすぐ進んでくれば出られるよ。夢に囚われなきゃね」



 この挑発的な言葉に、直樹は速攻で闇に飛び込んだ。

 浮遊感とともに、闇を突っ切る感覚。

 そのまま、着地した先は固い地面だった。

 階段の踊り場である。振り返ると、闇は踊り場にまでかかっている。



「ほら、こんなもんさ。しっかりと自分を持つことだよ。それが夢の中では肝要だ」

「……肝に銘じておくよ」



 にやにや哂いを浮かべる宝琳院庵に、憮然と返すしかなかった。

 そのまま階段を降りようとして、直樹は足を止めた。階段の影から、クラスメイトの神代良が姿をみせたのだ。



「よう」

「あ、鍋島くんに、宝琳院さん」



 声をかけられてはじめて気づいたのか、良の肩が跳ね上がった。

 おどおどしたようすだが、神代良にとっては普通の応対である。慣れたもので、直樹は気にもかけない。



「ちょうどいい。神代、ちょっと離れて――そう、踊り場まで来てくれないか」

「え? いや、鹿島くん呼びに来たんだからそうするつもりだけど」



 言いながらも、律儀に上がってくる良と入れ替わるように、直樹たちは四階まで降りた。

 何事かと不審な顔を向けてくる少年に、直樹は頷いて見せる。



「おっけ、じゃあ神代、お前はいま夢を見てるんだ。学園祭なんてとうの昔に終わったろ?」

「え? そうだっけ?」

「その通りだよ、神代くん。私が話しかけてくるなんて、夢の中以外ありえないじゃないか」



 横から、宝琳院庵も口を挟んできだ。

 とんでもなく失礼な言い草だったが、その言葉に良も納得したらしい。少年から波紋が広がった。

 次いで、ガラスのように、波紋が割れた。いずこかへと落ちていく破片の奥から闇が広がり、直樹たちの足元まで侵食してくる。



「神代も、当たりか」



 直樹はひとりごちた。

 期待していたとはいえ、立て続けに引き当てては、かえって不安になるものだ。



「こんなやつが、あと何人いるんだ」

「さてね」



 横から宝琳院庵のため息が聞こえてきた。



「とはいえ――ふむ、深読みしようとすれば、できるか」

「宝琳院?」



 なにやら考え込むようすの少女に、声をかける。彼方に向けられた彼女の瞳は、すぐに戻ってきた。



「いや、妄想の類だよ。ああ、話は何だったかな――中野くんたちのような存在のことだったね。それに関しては、推論がある」

「言ってみてくれ」

「夢に核たる存在がある、と言う推測は、いまも変わっていない。だが、それを補強するため、核たる人物がみていない場所の情報は、他の者たちから引き出している。その中で要となっているのが、中野くんであり、鹿島くんであり、神代くんなのだろう。逆に言えば、核になる人物は、教室や屋上に行かなかった人じゃないかな」



 直樹は、その言葉を反芻した。

 その推論が確かなら、核になる人物が行かなかった場所の数だけ、一馬たちのような存在がいることになる。

 まともに付き合っていたら、学校中穴だらけになりそうだった。



「核になるやつを探した方が早そうだな。屋上はともかく、教室に行ってないとなると、結構絞られるな。怪しいのは――そういや千葉ちゃんがいたか」

「ふむ? 千葉先生かい? 生徒の出し物を見ずにおくような人とは思えないが」

「なんか親が会場に来てて、逃げ回ってたってうわさだけど……」



 中野一馬に聞いた話だから、本当のことだろう。

 それに関して直樹は、あえて深く考えなかった。



「そう言うことなら、根気よく当たっていくしかないようだね。とはいえ、あの先生の行きそうなところなど、想像はつくか」



 直樹は宝琳院庵の視線を追った。

 視線の先は校庭、食べ物関係の屋台が立ち並ぶ一帯だった。

 無論、偏見である。

 だが、その推測は正しかった。誰のイメージが反映されているのか、小学生としか思えないちんちくりんな担任教師は、複数の屋台の食べ物を抱え込み、別の屋台に並んでいた。

 なんだか、色々な意味で哀しくなった。

 速やかに覚醒願ったのは言うまでもない。






[1515] ユビキリ 8(了)
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:fb9e5a1d
Date: 2008/02/27 20:14



「なぁ、宝琳院」



 屋台群を隠すように出現した闇を眺めながら、直樹は声をかける。



「なんだね、直樹くん」



「偶然なのか?」



 直樹は端的に尋ねた。

 この夢の核たる部分を占めていた四人。中野一馬、鹿島茂、神代良、千葉連。彼らは全て、前夜の悪夢のような出来事に関わっていた人物である。

 果たして、これは偶然なのか。



「何のことか、想像はつくよ。疑惑はあるが、それはそれで筋を通して推し量れそうだが――いかんせん証拠がない。決め付けるのは危険だろうね」



「そりゃあ、そうだけどな」



 直樹は頷いてみせる。だが、やはり昨日の今日・・・・・でこの共通点というのは気になる。



「でも――」



 言いさして。

 いきなり地が揺れた。とっさのことで、地に膝をつく。

 一瞬のことだったが、確実に揺れた。

 だが。直樹は呆けたように辺りをみることになる。

 回りの人間は、いまの地震にも平然としていた。まるで何事もなかったかのように。

 そんななか、ひとりで青ざめていては、己の正気を疑いたくもなる。



「地震ではないよ」



 平然としたようすで、宝琳院庵は見下ろしてくる。



「夢が、不安定になっているようだ。まあ、構内のそこらじゅうこんなものがあるんだ。現実感も何も、あったものじゃないだろう。鋭い者は、これが夢だと気づくかも知れないね」



 宝琳院庵の言葉どおり、構内の数箇所で、波紋がみえた。

 だが、それでも夢は醒めない。

 不意に、じくりと指が痛んだ。

 何気なく小指を見て、直樹は言葉を失った。小指の付け根の傷が、深くなっていた。骨すらみえるほどに。



「どうかしたのかい?」



 息をのむ直樹に、宝琳院庵が心配げに顔を覗かせてくる。



「いや、指が、なんか切れてる」



 そう言って宝琳院庵に見せると、彼女は目を見開いた。



「これは……直樹くん。何でこんなになるまで放って置いたんだい!?」



 珍しく彼女の語調が荒い。

 あまりの剣幕に、直樹は不安を覚えた。



「何か、マズいのか?」



「ああ、拙いね。決定的に拙い。指が切れる、しかも小指だ。これはまさに指きりだよ」



「いや、つまんないぞ」



 指が切れてユビキリ、とは、とんだブラックユーモアである。しかも当事者としては、まったく笑えない。



「シャレじゃない。指きりの語源は、遊女が客に愛情の不変を誓う証として、小指を切断していたことに由来するんだ。そこから約束を必ず守るといった意味になったのだがね」



「でも、ここは夢の中だぞ?」



だからやばいんだよ・・・・・・・・・。精神だけの世界で、概念というものがどれほど力を持つか。わかってないようだから言ってやるが、その指が切断されれば、直樹くんは、悪魔の下僕になってしまう。そう言う類・・・・・の呪いなんだ」



「な!?」



 直樹は絶句した。珍しく深刻な宝琳院庵の形相をみれば、戯言などでないことは明白だ。



「自由に動かせておいて、こんな仕掛けをしておいて、本命はこれか? そういうことなのか・・・・・・・・・



 拳を地へ投げ、宝琳院庵は直樹に目を向けてくる。



「――急ごう。時間は、それほど残されていない」



 宝琳院庵がきびすを返す。

 その面に明らかな焦りをみて。直樹はあらためて、背筋が冷たくなるのを感じた。



「急ぐって、どこへ!?」



「多久美咲だ。そういうこと・・・・・・ならば、彼女が最後のパーツだ」



「お、おい。どういう――」



 聞こうとして、宝琳院庵の指が、直樹の目の前に据えられる。



「重ねて言うぞ。急ぐんだ。ボクは君が悪魔の手先になるさまなど見たくはないんだ」



 激し過ぎている。と、直樹は感じた。表面こそ取り繕っていはいる。だが、これは彼女の、宝琳院庵の歩みようでは、決してない。

 けれど、止まれとはいえない。鍋島直樹のためを思って、彼女は焦っている。憤っている。

 そんな彼女に、どんな言葉をかければよいというのか。喉もとまでのぼらせかけた言葉も、形をつくる力を持たなかった。

 宝琳院庵の言う、最後のパーツを思う。



「多久美咲」

 

 その名の主は、かつて、悪魔だった。

 悪魔に、取って代わられていた。なりすまされていた。騙られていた。彼女の命は、悪魔に奪われていた。

 ならば。中野一馬、鹿島茂、神代良、千葉連に続く名として、その最後の名として、彼女はふさわしい。

 だが、宝琳院庵の焦りは、そんな理解からくるものか。より深いものがあるように、直樹には思えた。

 ともあれ、それを聞く暇はない。

 直樹は宝琳院庵に従い、走る。



「宝琳院! 場所は!? 多久がどこにいるか、知っているのか!?」



「知らないよ」



「自信たっぷりに言うなよ! じゃあどこへ走ってんだよ!?」



「侮らないで、欲しいな。 ボクが、何の、考えもなしに、走ってると、思うのかい?」



「息切れてるぞ!」



「放送室、だよ。場所が、わからないなら、呼べばいぃ――」



「――っと!」



 足をもつれさせた宝琳院庵の腰を、直樹はとっさに抱えた。

 そのまま、走る。



「放送室だな!?」



 えらく人目を引いたが、やむをえない。直樹はそのまま校舎一階の放送室に駆け込んだ。



「二年生の多久美咲さん。至急、放送室までお越しください。繰り返します二年生の多久美咲さん。至急、放送室までお越しください」



 係の生徒に放送を流してもらい。

 放送室の前で待っていると、しばらくして多久美咲が現れた。



「あれー? 鍋島くんに、宝琳院さん。どうしたのー?」



「多久くん。これは夢なんだ。君は夢をみているんだよ」



「ふーん。そっかー。夢なんだー」



 美咲の言葉に、慌てて避難しかけたが、何も起こらない。

 美咲はボーっと立っているだけである。



「多久くん? これは夢なんだよ? わかっているのかい?」



「夢なんだー」



「……」



 言ってるだけで、ぜんぜん自覚していなかった。



「ちょっと来たまえ。そう、玄関から外がみえるだろう? あそこにあるものはなんだい? 夢でなければありえないじゃないか」



「そうだねぇ」



 なんだかのほほんとした雰囲気に、直樹まで和んでしまいそうだった。



「だから」



「ああ」



 さらに口を継ぐ宝琳院庵に、不意打ちのように、美咲が手を打った。



「これは夢なんだね」



 その瞬間。

 津波のような波紋が、全てをなぎ払った。

 世界を映した鏡が、割れて崩れ落ちるようすを、直樹はみた。

 その奥に潜む闇に、全てが落ちていくさまを、直樹はみた。

 そして。

 気がつくと、あたりは闇だった。

 何もない。

 無。

 夢の残滓すらない、完全な無の中を、直樹は立ち尽くしていた。

 近くにいたはずの、宝琳院庵もいない。

 じくりと、小指が痛んだ。すでに小指は、骨まで傷つけられている。









 ふむ。と、宝琳院庵は鼻を鳴らした。

 あたりは完全な闇である。

 自分以外を知覚できない、そんな状態にあってなお、心乱されたようすはない。夢が破れたおかげか猫耳も外れ、完全に元の宝琳院庵に戻っている。



「直樹くんとはぐれた――いや」



 宝琳院庵は辺りに目を配る。

 足場すらない。上下すら定かではない。だがそれも、宝琳院庵にはさして問題でもないようだ。



「そのように強いられたのかな? ふむ。ここならば、はっきりとわかる。まさか君だったとはね。予想していたなかで、最悪のケースだよ――目的はなんなんだい?」



 その瞳が、虚空の一点を貫く。



龍造寺円くん・・・・・・



 宝琳院庵は、その名を呼んだ。応えるように、虚空から人の姿があらわれた。

 龍造寺円である。

 女性にしては長身の彼女は、宝琳院庵と比べて頭ひとつ近く高い。そこから降ってきたのは、ただの一言。



「あなたを殺す」



 殺気も殺意もない、ただ事実を述べるような口調だった。



「そのために、そのためだけにその力・・・を? 正気の沙汰とは思えないね、多久くんの有様を見たろうに」



 宝琳院庵はため息をついた。

 彼女は瞬時に理解していた。龍造寺円がやったことは、かつて多久美咲がしでかした事と同じである。

 悪魔を、呼び出したのだ。おそらく、件の本を用いて。

 だが事実は、宝琳院庵の予想をはるかに超えていた。



「無色の力。多久が誤って召喚したものを、あなたはそう評した。なら、やりようによっては、力だけ手に入れる――悪魔の力を我が物とすることも、できるはずだ。そう考えた」



 冷厳たる円の声に、宝琳院庵は何も応じない。

 自覚していないのかもしれないが、龍造寺円はすでに人の領域から外れている。半ば、宝琳院庵の領域にいた。



「この場を用意したのは、人間としてのあなたではなく、悪魔、宝琳院庵を殺すため」



 彼女の目論見は、完全に正しかった。

 夢の跡地。そこに残るのは、虚無。宝琳院の、悪魔の、本来棲むべき世界。概念の領域。

 概念としての宝琳院庵が消滅すれば、人だろうが悪魔だろうが関係ない。彼女には消滅するしか、術は残されていない。



「みなに夢をみせた、あの状況は、全て偽装フェイクか」



「ああ」



「本当に欲しかったのは、この場所、この状況か」



「ああ」



「直樹くんにかけられた呪いすら――誤導ミスディレクションか」



 その言葉にのみ、円の顔がわずかに動いた。だが、応えは返ってこない。



「完璧だ。加えることはなにひとつない。削るところはなにひとつない。よくぞ思索し、考察し、思考し、計算し想像し想定し――実践した。その理と知と勇に、敬意を表する」



 ――だが。と、宝琳院庵は、口を小さく動かす。



「なぜ、と、聞いてもいいかね。これでも君とは仲良くやれているつもりだったのだが」



 宝琳院庵は尋ねた。

 だが、応えはない。その能力がないかのように、円の面には何も映っていない。



「――意思は問わない。その能力がある。それ自体、脅威だ。それに、あなたがいるから直樹は危険な目に合う」



 わずかに開かれた口から漏れた言葉は、それだった。その最後の言葉にのみ、明確な敵意があった。

 宝琳院庵は苦笑に近い表情を浮かべた。

 彼女自身、常に止める側である。だが、止められたためしがない以上、弁解の言葉はない。

 だから、宝琳院庵は前半分にのみ、応じた。



「人のカタチを取っている以上、人のワクを超えた力は使えない、と、言ったと思うがね」



 だが、その言葉も、何も生まなかった。

 完全に人の姿を映すが故、宝琳院庵は人の持たざる力を使えない。逆を言えば、人ならざる力を使える以上、龍造寺円はすでに人から外れていた。

 無言のまま視線を受けながら、なおも宝琳院庵はニヤニヤ哂いを浮かべる。

 ここにあっても、彼女はいまだ宝琳院庵だった。



「ここまでやった君に関して、それはを言うのは、失礼と言うものだろうね――だけど」



 宝琳院庵の口が、逆月を象る。



「君がなぜ、ボクを消そうとするのか、本当のところは君でも気づいていないんじゃないかい?」



「なに?」



「君は理知的な人物だ。心の底から、ボクが危険だなんて――考えていないんじゃないかな」



 と、宝琳院庵は言った。

 龍造寺円は、彼女が認めるほど、血の巡りがいい人間である。観察力分析力理解力は群を抜いている。

 宝琳院庵を放置しておく危険性と、一部とはいえ悪魔を召喚するリスクと、どちらが大きいか、そんな計算ができない人間では、ありえない。



「君がボクを殺そうとするのは――邪魔だからじゃないかい?」



「なに?」



 再び、同じ言葉が返ってきた。その声に、不審の色がある。

 宝琳院庵は指差した。龍造寺円に白い指先がのびる。



「ボクが直樹くんといるとき、君はどう感じていたのかな? 焦れたかい? それともボクに怒りを感じたかな? いろいろと理由付けしているが、君のそれは――嫉妬ではないかい?」



 断ずるように、宝琳院庵は指を振り下ろした。

 円の目が見開かれる。しばし、沈黙。やがて――唇が、笑みの形に歪められた。



「なるほど……この感情は嫉妬なのか」



 円の肩が、震える。



「だとしたら存外――心地よい」



 言葉をかみ締め、自らを抱く姿は――歪んだ喜びに満ちていた。



「そうだ。私はオマエが気に食わなかった。直樹を独占するオマエが、直樹を動かせるオマエが、直樹の好意を当然のように受けるオマエが!」



 自覚したことで、感情が堰を切って溢れたのだろう。怒涛のような、円の独白だった。

 澄んだ理性の光は、もはやその目から失せ、代わりに狂の色が爛々たる光を放っていた。



「私の前から消えうせろ!」



 悪魔の力を持つ円に、人間のワクに収まった宝琳院庵が対抗できるはずはない。

 強大な力の波が、宝琳院庵に襲い掛かる。

 諦めるように、彼女は目を閉じた。

 宝琳院庵は、満足していた。人が、人の知を振り絞って、人たることをかなぐり捨てて、全身全霊で悪魔じぶんを殺そうとしている。

 そして、それが宝琳院庵の全てを凌駕したのだ。望むべくもない“死”だった。

 心残りといえば、鍋島直樹のことだが、悪魔が龍造寺円であったなら、口惜しいが許せなくはなかった。

 満ち足りた気持ちで、宝琳院庵は最後の時を待った。

 ――だが、終焉は、いつまで経ってもこなかった。

 不審に思い、宝琳院庵は目をあける。

 そこに。目の前に。鍋島直樹が、彼女を守るように立ちはだかっていた。









 状況はわからなかった。

 闇の中に、一人、取り残されていた。

 ただ、聞こえた。虚空に響く、宝琳院庵と――円の声が。

 だから。直樹は走った。

 地もない空間を、必死に駆けた。直樹は本能的に理解していた。この空間がどのようなものかを。

 ただ概念が、全てを支配する。強い意志が、全てを凌駕する。ならば、そう望めば。彼女がどこにいようと、直樹はそこにたどり着けるのは、自明だった。



「何やってるんだ、円」



 宝琳院庵を背にかばい、直樹は龍造寺円をにらみつける。氷のような円の瞳が、わずかに揺れた。。



「直樹、じゃまをするな」



 円の言葉に、直樹は口を引き結ぶ。

 宝琳院庵アクマを殺す。円はそう言った。

 鍋島直樹が、それを承知できるはずがない。

 二人は対峙する。絶対に譲れぬものをかけて。奇しくもそれは学園祭前夜の巻きなおしだった。



「直樹くん……その、指は」



 宝琳院庵が、沈黙を破った。その声には多分の驚きを含まれていた。

 当然だろう。直樹の左手小指は、すでに持ち主の手から離れていたのだ。

 それは、呪いが成就した証。

 だったら、直樹は、悪魔の――その力を手に入れた円に服従していなくてはならないはずだ。

 だが、直樹は平然と立っていた。何に抗うわけでもなく、ただ相対していた。



「ああ、これか」



 直樹はこともなげに答える。



「切れそうだったんで、噛み切った・・・・・



 直樹の言葉に、円と宝琳院庵、双方が絶句した。

 理屈は単純である。呪いで切れれば終わり――であれば。それより前に、切ってしまえばいいのだ。自分の意思で、自分の力で。

 理屈ではそうだ。

 だといって、自分の指を切れるものだろうか。

 だが、直樹はやった。

 ただ、時間を得るために。宝琳院庵を助けるためだけに、直樹は己の指を食いちぎったのだ。



「なぜだ。直樹」



 円が、問う。



「なぜ、そこまでする? そんなやつのために、なぜ」



友達ダチだからだ」



 直樹は、円に目を据える。



「それ以外に、理由がいるか?」



「なら――私はなんだ?」



 問いかける円の顔色は、焦燥と困惑がない交ぜになっている。



「私は、直樹にとって、なんなんだ」



「幼馴染だよ」



 直樹は、ポケットから取り出した手を、拳の形に握り固める。



「幼馴染で、友達ダチだ。そんで、悪いことしたお前は、いまから俺にぶん殴られるわけだ。オーケー?」



 拳を突き出す直樹に、円の瞳が怒りに燃える。



「ふざけるな!」



 怒声が、物理的な威力を持って放射された。

 矢面に立たされた直樹は、たたらをふむ。



「直樹には私がいればいいんだ! 私には直樹がいればいいんだ! 私と直樹だけでいい。他は何もいらないんだ――直樹」



 感情というものが存在しなかったころの円を、直樹は知らない。生きている実感のなかったころの円を、直樹は知らない。独りだったころの円を――直樹は知らない。

 それでも、察するに余りある、言葉だった。

 それでも、決して頷いてはいけない、言葉だった。。



「いやだね」



 直樹は、視線を円から離さない。



「俺はそんなんじゃ足りない。そんなんじゃあ寂しくて仕方ない。俺はみんなが欲しいんだ。宝琳院も、お前も、一馬も茂も良くんも諫早も、クラスのみんなも母さんや父さんや澄香や忠や、レオン兄さんも。白音や石井や姉川や深堀や、今まで出合った、今まで世話になったみんなが――欲しいんだ」



 直樹は、歩を進める。圧されるように円が退る。



「わからない」



 円が言う。惑うように。



「わからないわからないわからないわからないわからない――そんなこと、聞けるものか。そんなこと容れられるものか!」



 感情の爆発とともに、異様な気配が飛んできた。

 悪魔の力。直撃を受ければ、たとえ加減されたとしても、直樹に成す術はない。

 はずだった。

 何も起こらない。

 直樹が突き出した拳の前で、異様な気配は霧消した。



「なぜ、力が効かない」



 円の声には焦りの色が色濃く落ちていた。



「ガキだな、円。そんな力なんかに頼らなくったって、人間その気になればなんだってできるんだよ!」



 胸を張って、直樹は立つ。



「いつか、言ったよな。もう二度と、ひとりで無茶すんなって。約束を破って、しかもそれが、悪さするためだ。これは――お仕置きが必要だろ」



 宣言するように。直樹は、拳を円に向けた。



「グーだ。女相手でも手加減しないぞ」



 宣言通り。直樹は円に向かって飛ぶ。

 迎え撃つ円の力、そのことごとくを弾いて。

 円の顔に焦りが浮かび。

 直樹の拳が円の頬を貫いた。









 拳を受け、宙に舞うなかで、円は、天を仰ぐ。

 円にとって、直樹はかけがえのない存在だった。彼がいなければ、円は感情というものを持てない。直樹を通してしか、円は感情を抱き得ない。

 直樹は彼女を人間にしてくれる無二の存在だった。

 だが、気づいてしまった。

 洗いざらいぶちまけて。毒を吐き出して。それが、その感情が己のものであると。

 そして、直樹に対する感情の揺れの正体も――気づいてしまった。

 それで。円の心の奥底にある、直樹に対する切迫した感情が溶けた。

 円は、いまやっと直樹のくびきから解き放たれる。正真正銘、一個の人間になるのだ。



「直樹」



「なんだ?」



 つぶやくように口に出した言葉に、返事が返ってきた。円は、迷わす一番聞きたかった事を尋ねた。



「私は、馬鹿な事をしたか?」



「ああ。大馬鹿だ」



 くつくつと、円は哂う。

 いま、こみ上げてくる感情が、己のものだと思えば、余計に可笑しかった。

 狂おしい歓喜とともに――龍造寺円は、いま、生まれた。









 目を覚ますと、元の離れだった。

 直樹は半身を起こした。

 直樹の背にかぶさっていた宝琳院庵が畳に落ち、うめき声か聞こえた。

 辺りを見回す。

 広間には、クラスのみんながそこらじゅうで寝転んでいた。眠りはだいぶ浅いようで、何人かは、すぐにも目を覚ましそうだ。

 顔を地面にぶつけた宝琳院庵が、恨みがましい瞳を向けてきた。



「おはよう」



「……ああ、お早う」



 恨み言が口から発せられる前に、言葉をねじ込んでやると、宝琳院庵も不承不承と言った風に、挨拶を返してきた。

 互いに身を起こす。

 肩を並べて座る形になった。逆側で身を横たえている円の目は、まだ閉じられている。



「直樹くん、今回は助かったよ。だがまさか正面突破とはね」



 宝琳院庵の、ひそやかなため息がもれ聞こえた。



「だけど、龍造寺くんの力が効かなかったのは、どんなカラクリなんだい?」



「これだ」



 尋ねてきた彼女に、直樹は拳を開いてみせた。

 そこにあるのは十字架。直樹がレオンから借りた、古びた十字架だった。



「悪魔の力を跳ね返したのは十字架。シンプルだろう?」



 自信たっぷりに言う直樹に、宝琳院庵の口がぽかんと開かれる。



「……鰯の頭も――いや、コケの一念、まさにそれか。そんなもので、あれに正面から立ち向かうなんて。まったく、君は」



 宝琳院庵からため息がもれた。

 無論、古びた十字架などで、悪魔の力を跳ね返せるはずはない。だが、直樹は信じた。呆れるほどまっすぐに、信仰した。

 一転の曇りもない信頼こそが、一徹の信念こそが、円の力を跳ね返したのだ。宝琳院庵が呆れるのも、無理はない。



「あきれたか?」



 顔を覗きこむ直樹に、宝琳院庵の――素直な笑顔が向けられた。



「――いや、惚れ直した」



「ナニ?」



 完全に予想外の言葉だった。あまりのことに、直樹の思考が停止する。



「どうだ、直樹くん、ボクと番わないか?」



「つがう――ってなななななにいってんだいきなり!?」



 いきなりの爆弾発言に、直樹は声が裏返る。



「なに、君ほどの男は、この人生で得がたい。そう確信したのだ。どうかね?」



 宝琳院庵は、いつものニヤニヤ哂いで擦り寄ってくる。光すら映さない漆黒の瞳に、吸い込まれそうだった。



「いきなりそんなこと言われて答えられるか!」



 悲鳴に近い直樹の言葉である。



「無論、恋人からで結構だ――なんなら過程をすっ飛ばしてもいいよ」



 さらに爆弾を投げ込む宝琳院庵に、手も足も出ない。

 直樹は心中の焦りを手足で表現するばかりである。

 その腕が、急に引っ張られた。

 みれば、円が訴えるような目でこちらを見つめていた。

 脂汗が流れる。

 直樹はポケットに収まっている十字架を思った。

 恋愛成就のご利益があると言う十字架。



「効きすぎ――つーかもはや呪いだ」



 十字架に一方的な恨みをぶつけて、助けを求めるように、直樹は辺りに目を流した。まだ、誰も起きてこない。



「メリークリスマスだコン畜生みんな起きやがれぇ!」



 直樹の叫び声が、広間に響き渡った。









 ユビキリ 了






[1515] 閑話5
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:9ea3c0ff
Date: 2008/03/03 19:36



 ――まずいもんみてもうたわ。



 姉川清深は、思わず額を押さえた。

 友人たちと三人連れで初詣に向かった先でのことである。

 例年かなりの混雑になるので、時間をずらしたのだが、それでも賑わいは大差ない。賽銭ひとつ入れるのもひと仕事。境内五ヵ所を回るとなると大仕事だ。

 そんな中、偶然目を向けたさきに、清深は鍋島直樹の姿をみつけてしまった。

 清深にとっては大恩人である。普段なら大歓迎するところだ。

 だが、女性と二人連れとなれば、話は違ってくる。しかもそれが、清深たちの先輩、宝琳院白音と言うのは、なおまずい。

 清深は、ちらと横をみた。

 石井陽花と深堀純。二人の親友は、別のほうをみて話している。

 清深はこっそりと安堵のため息をついた。

 石井陽花は、あの四つも年上の先輩に恋愛感情を抱いてるのだ。

 清深自身は、恋愛と言うものについて、いまだ関心がない――と言うより、以前あった事件のおかげで拒否感すらあるのだが、できることなら陽花の恋愛は、成就させてやりたいと思っている。

 それだけに、この絵面をみせるのは非常にまずかった。



「どうしたの? 清深」

「いや? なんでもあらしまへん」



 怪訝な顔を向けてくる陽花に、清深はあわてて首を振る。



「あらしまへん?」

「なんでもないです、や」



 二人が首をかしげるさまに、清深はあわてて訂正した。京都に長く住んでいたおかげで、京なまりが染み付いている。たまに、こうやって言葉が通じないことがあるのだ。



「そういえば、二人は願い事、何にするん?」

「わたしは――えへへへ」



 注意をそらすため、とっさに出した質問に、陽花はなにやら身をくねらせはじめた。

 口を開かなくても、何を考えているかわかるから不思議である。



「僕は、やっぱりみんなが元気でいられますように、かな」



 彼方へ向けるように、純が言った。

 その言葉は、清深の心の深い所で響いた。

 人を傷つけ、人を憎悪して、人を拒絶していた純。あのころの純を知っているから、そこから立ち直っていくさまをみていたから。

 こんな言葉が、なによりも重く感じられた。



「せやね」



 染み入った感動が、自然と言葉になった。

 五本指と呼ばれていた自分たち。その実、孤独な五人の集まりだった。

 ただ、集まっているだけの、遠い存在だった。

 中心だった横岳聡里が殺され、それに続くあの事件を経て、清深たちもまた、変わった。純を支え、助けるうち、清深は心と心のあいだに血が通うということを、この歳になって初めて実感した。

 その、みえざる血のつながりをこそ、友と言うのだと、思い知ったのだ。



 ――と。



「あけまして!」「おめでとー!」



 二つの小規模台風が三人を直撃した。

 いきなり三人いっぺんに囲まれて、二人がかりのハグを受ける。あまりのことに、清深は硬直した。

 みれば、鍋島澄香と鍋島忠。白音と同じく学校の先輩だ。ただし、関わってはいけない種類の、と、枕言葉がつく。

 この国際的な容貌の、黙っていればもてるに違いない双子は、その騒々しさと振りまく災厄から、バイフォーの二つ名で恐れられているのだ。



「ば、バイフォー先輩!」



 驚いて声を出したときには、もうすでに抱擁は解かれている。ハイテンションな双子は肩を並べ、鏡あわせに手を振り上げてくる。



「いえーい!」「おめでとー!」



「お、おめでと――行っちゃった」



 挨拶を返そうとしたときには、双子はすでに別の場所へ突進をかけていた。

 陽花も頭の下げどころを失って、戸惑いを隠せないようすだ。



「台風みたいな人だな」



 純の評価には、深く頷かざるをえなかった。



「――そこにいるのは、澄香たちの後輩じゃないか?」



 耳慣れない声にそちらを向いて、清深は目を見開いた。

 長身に、腰まで伸びた長髪。透き通るような美貌の少女が、そこにいた。

 とっさに誰だかわからなかったのは、清深の記憶力不足のためではない。クリスマスに会ったときは、悪く言えば人形のような美人、と言う印象が強かった。だが、いまの彼女はまるで別人だ。生気に満ち、内から輝くようだった。



「あ、かの――じゃのうて、たしか、円さん。あけましておめでとうございます」

「あけましておめでとう。元気でな」



 あっさりと微笑を残して、そのまま龍造寺円は人ごみの向こうへ去っていった。



「あ、いっちゃった……」



 ふたたび、頭を下げそこなった陽花である。



「清深、いまの人」



「ああ。龍造寺円さんゆうてな、直樹さんの知り合いや」



 純が目を向けてきたので、清深は説明してやった。



「うわ、緊張したなー。みただけでどきどきしてきたよ」



 顔を紅潮させながら目を輝かせる純。そのようすに、清深と陽花は思わず目を合わせた。

 白音といい、龍造寺円といい、それに横岳聡里にしてもそうだ。どうして彼女はこう、頼もしげな女性に懐くのか。

 突っ込んで考えると、妙な想像になりそうだった。



「五本指」



 声をかけられて、振りかえった清深は、自分の目を疑った。

 光を拒むような黒髪と、対照的にしろい肌。どこかオヒメサマ・・・・・を連想させる少女。

 そこにいたのは、紛れもない宝琳院白音だった。



「え――って、宝琳院先輩!?」



 清深はなにがなんだかわからなくなる。さきほどまでは確かに、彼女は直樹の側にいたはずだ。



「五本指、久しぶりです」

「あ、先輩。おめでとうございます」



 言葉を重ねる白音に、ようやく我にかえった。清深は慌てて頭を下げる。



「五本指、久しぶりです。息災で何よりです」



 三度言葉を重ねた白音に、今度は頭の上げ時を失ったのだろう。陽花は腰を折りっぱなしである。

 だが、それにも構わず、清深は目を向こうにやった。

 向こうにも白音がいる。わけがわからない。

 というか。

 いままでの面子が、みんな直樹の周りに集まってた。



「姉川清深」

「は、はい?」



 声をかけられ、あわてて目を戻した。

 よく考えれば、先輩が新年の挨拶をしているのに、よそ見などしていいはずがない。



「姉川清深。あなたの疑問は察することができます」

「はあ」



 混乱しながらも、清深は律儀に相槌を打つ。



「姉川清深。あなたの疑問は察することができます。あなたはわたしが分身の術を使えるのかと、疑っていますね」

「おもってへん!」

「冗談です」



 白音の表情はまったく動かない。代わりと言うように、彼女の唇に指が乗せられた。

 清深は、肩を落とした。そういえば、こういうことを真顔で言う先輩なのだ。



「――ただ高速で移動しているだけです」

「先輩が徒競走で転んでへんとこみたことあらへんし!」

「ではこういうのはどうでしょう。いまここにいるわたしは、あなたの妄想であると」

「勝手に人のこと幻覚もちにせんといて!」

「あとはクローン人間説と蜃気楼説とロボット説と姉妹説とドッペルゲンガー説くらいしか思いつきません」

「……ひそかに本当っぽいことまで混ぜんといてください!」



 思わず聞き逃してしまいそうなあたりに紛れ込ませている辺り、性質が悪い。



「さすがです」

「いや、褒められても」

「いや、さすがです。姉川清深」



 そこまで言われると、かえって居心地が悪い。



「いや、さすが関西人です。姉川清深。突っ込みのキレがいい」

「勝手に芸人にせんといてください!」



 それに対して白音がなにか返しかけて。

 こん、と、会話を破るように、白音の頭に拳が落とされた。

 清深は、目を見開いた。

 拳の主は、白音の姿を鏡に映したような少女だったのだ。



「うわ、白音先輩が二人!?」



 俄然目を輝かす純はさておき、清深も、驚きでとっさに声が出ない。



「うっそ。そっくり」



 陽花も驚きを隠せないようだ。



「双子さんやろか」

「姉です」



 そっくりさんのほうに声をかけてみると、白音の方から答えが返ってきた。



「三つ年上の、姉です」



 なにやら含むところがありそうな言いかただった。



「三つ年上の姉です。最近すこし浮かれすぎです」



 ふたたび、宝琳院姉の拳が落ちた。本当に仕草だけなので、痛くはないだろうが、なぜか白音は嬉しそうだった。



「お前ら、何やってんだ」



 呆れたような、男の人の声が降ってきた。

 みれば、宝琳院姉妹の後ろに頭二つちかく大きい男性が立っている。



「あ、お兄さん」



 現金なもので、とたんに陽花の目が輝きだす。



「あ、鍋島先輩。その節は、すみませんでした」



 純が、深く、頭を下げた。

 あの事件以降、二人は顔を合わせていない。考えてみれば、純が謝っていない、そして許されていない、最後の人物だった。

 直樹の顔が、やさしく綻ぶ。その手が、純の肩に置かれた。



「ああ。元気そうで何よりだ」



 笑顔が、分厚い。そう感じたのは、なぜだろう。直樹は、純の心根から発せられた言葉を、がっしりと受け止めてみせた。

 その強さは、単純に歳の差からくる、と言うわけでは、やはり、ないのだろう。清深には、とても察し切れなかった。



「直樹さん、あけましておめでとうございます」



 感謝の念を多分に込めて、清深は直樹に頭を下げた。

 直樹は笑顔をこちらに回してくる。



「おう。お前らも一緒に参るか?」



 その言葉に対する返事は、三人みごとに揃った。

 双子の先輩が、龍造寺円が、こちらに駆けつけてくる。それを迎えて、直樹が境内に向け先陣を切った。

 なにやら心配していたのが馬鹿らしくなってくる、騒がしさだった。

 それについていきながら、とりあえず今年一年、いい年になることを願って。

 清深はとびきりの笑顔を青空に向けた。






[1515] 閑話6
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:7f62aa05
Date: 2008/03/16 21:40


 新年早々雪がちらついていた。

 騒がしい双子たちはそれにさそわれるように飛び出していったし、レオンは某学問の神様を祀る神社を訪ねて隣県まで足を伸ばしている。親類一同も軒並み帰っていって、鍋島家は久々に静かだった。

 正月気分もすっかり抜けた一月五日、退屈の虫が動き出すのは、直樹も変わらない。かといって、本格的に足を伸ばすには、今日は寒すぎた。

 日も高くなってから、直樹は外に出た。散歩のつもりだった。



「あら、直樹くん」



 歩いていると、後ろから声をかけられた。

 誰かと思い、ふりかえる。クラスメイトの諫早直だった。

 鍋島直樹より頭ひとつ低い彼女だが、全体的に細身のせいか、すらりとした印象を受ける。足の長さと顔の小ささがそれに輪をかけているようで、比較する人間がいなければ十センチは大きくみえるだろう。



「よう、諫早」



 軽く手を挙げると、同じ仕草が返ってきた。

 その手が、道路の向かいを指さす。



「直樹くん、いま暇? ちょっとお茶のまない?」



 指先にあったのは、喫茶店“RATS”だった。あてもなく歩くうち、いつのまにかこんなところまで歩いてきていたらしい。

 寒さが堪えるこんな日のことである。直樹は二つ返事で応じた。



「――アッサム、ミルクで」



 迷いもせず、直樹は注文した。

 メニューにはいろんな種類の紅茶が並んでいたが、直樹には呪文にしかみえない。いまだに白音が頼んでいたもの以外頼めない直樹である。



「わたしはカフェオレとショコラケーキ」



 諫早直が頼んだものは聞いただけで舌がむず痒くなりそうな甘いものだった。

 昼前である。直樹からみれば暴挙でしかない。

 しかも、注文からほどなくして、ウェイトレスに運ばれてきたケーキは、けっこうなボリュームだった。



「こんな時間によくそんなの頼むな。昼飯食えないぞ」

「だいじょうぶ。別腹だから」



 呆れたような直樹の言葉に、直はからりと笑顔。



「それよく聞くけど、マジで入るのか?」



 直樹は疑わしげに尋ねた。

 女性が甘味を前に、必ず口にする決まり文句だが、直樹にとっては謎な言葉だ。



「わりと入るもんよ? 何でか知んないけど。円とかもそうでしょ?」

「あんな規格外あてにならねえよ」

「あー。円、よく食べるからね」



 直の表現は控えめに過ぎた。

 円の食事量は異常である。最近また増えた気すらする。基準としてこれほどふさわしくない人間もいないだろう。



「澄香もなんでもかき込むほうだしな」

「妹ちゃんね。成長期だしねー」



 直樹の妹、澄香は十四歳である。体格は一人前だが、やはり一般的な女性並に考えるわけにはいかない。



「逆に宝琳院とその妹は食わなすぎてわからん」

「あれ? 宝琳院さん、妹いたんだ」



 知らなかったらしい。直の片眉が上がった。



「ああ。そっくりなやつがな」

「で、いっしょに食事するくらいには、直樹くんと親しいわけね」



 直はフォークの先を直樹に向けてきた。にやついた笑みに、直樹はむずかゆくなる。



「なんだよ。妙に絡むな」

「いえいえ。外でも人気なようで、大変けっこうなことだと思いますよ?」

「なんだよ、その言い方」



「クラス内人気投票二位、鍋島直樹くーん」



 フォークをマイクにして、歌うような調子で、直は囃した。



「妙なリズムつけて歌うな。あれは俺も驚いたよ」

「まあ、二位票で稼いだっぽいけどね。たぶん本命票入れたのは三、四人かな?」



 直樹は思い出して渋面になった。発表のあと、なぜか男どもに袋叩きにあったのだ。しょせん二位なのに。

 パーティー中、宝琳院庵と龍造寺円をはべらせていたのが、男どもを刺激したのかもしれない。



「一馬がごっそり票をかっさらってったからな。にしてもなんで俺が二位なんだよ」

「他にろくなのいないしねー」

「消去法かよ」



 そんなことで票を入れられても、まったく嬉しくない。



「いや、でも実際、納得の結果だよ? 直樹くん、最近かっこよくなってきたし」



 不意打ちだった。

 さらっと言われて、直樹は面食らう。



「真顔で言うなよ……」



 気恥ずかしさを隠すように、目を眇める。



「へへ、照れた?」

「言わすな」



 こちらを覗きこんでくる直から、逃げるように目をそらした。

 その反応を楽しむように、直はフォークでくるりと円を書く。



「なんかねー。芯が入ったって言うか――うん。やっぱかっこよくなったって感じ」

「まあ……色々あったしな」



 直樹は思いかえす。

 学園祭前夜の、悪魔のゲーム。

 五本指にまつわる、別個の事件。

 クリスマスの、悪夢の策略。

 この数ヶ月に、一生に一度のような事件を三度も体験したのだ。変わらないほうがおかしい。



「わたしとしてはそのイロイロが知りたいわけなんですが」

「それはノーコメント」



 韜晦するように直樹は言った。

 口にすれば正気を疑われるような出来事である。

 直樹の態度からそれと察したのか、直はそれ以上突っ込んでこなかった。

 かわりに、しばし箸がすすむ。

 ふたり同時に、カップに手が伸びた。



「そういえば、クリスマスから、何か進展あった?」



 と、突然。直が身をのり出してきた。



「そういうこと聞くなよ」



 言いながら、同じ分だけ直樹も身を引く。

 直の口がにやりと笑みのかたちに曲げられた。



「円、なんか変わったし」

「ああ。いいことだ」



 押してくる直から、目をそらしながら答える。

 クリスマスの出来事を説明できない以上、教えることはできない。



「宝琳院さんとも、妙に近くなっちゃったんじゃない?」



 それに対しては、直樹は黙秘を貫く。

 視線が顔に突き刺さる。



「ねえ、結局どっちなの?」

「どっちもねえよ」



 直樹は即答した。

 確かに。だんだん抜き差しならないところに追い詰められていっている気はする。

 だが、いまの時点ではまだ宝琳院庵と、あるいは龍造寺円と付き合うなど、考えられない。



「えー、もったいない。佐賀高二年のツートップだよ?」

「それは全然関係ないだろ。だいたい宝琳院はともかく円には別に迫られてるわけじゃねぇよ」

「え?」



 直の目が点になる。

 直樹は手抜かりを悟った。

 言わずともよいことを洩らしてしまったのだ。



「え? うそ。宝琳院さんが? 告白? マジで?」

「あ、いや」



 身を乗り出してくる直に、なんとかごまかしそうと言葉を探す。

 なにも浮かばなかった。



「告白、されたのね」



 強い口調で押してくる直に、直樹はなにも言えなかった。



「へぇ。そうなんだ。ふーん。あの宝琳院さんがねぇ」

「おい、まだうんとは言ってないぞ」

「何年来のつきあいだと思ってるの。顔に書いてあるっての」



 言われて思わず顔を押さえた。何かついてるわけじゃないが、見透かされている気がした。



「で、それ保留にしてるってこと?」



 直の目が剣呑な光を帯びた。

 いい加減な態度だと思ったのだろう。直は他人事を本気で怒れる人である。



「保留じゃねえ。あのな、じゃあお前はいきなり番おうとか言われて返事できんのかよ」

「番うって――あー、つがいの番うね。うわー、そりゃ引くかも」



 かなり必死の弁解だった。どんどん墓穴を掘っている気もしたが、直は一応の理解を示してくれたようだ。



「あいつの言うことは本気か冗談か分かりにくい。こっちもどうしたらいいかわからん」



 窮地を脱し、直樹は息をつく。

 喉がからからになった。紅茶を口にしたが、ぜんぜん味がわからない。



「あー。でも、あの宝琳院さんがねぇ。変わるもんだわ……直樹くん、入学した時の、クラスの自己紹介覚えてる?」

「あー。いきなり前行って黒板に名前書いて、それだけで戻ってったあれな。あれはびっくりしたな」

「そ。女の子たちの、どの輪にも入んないで、なんか均等に距離を置いてる感じでさ、それでいて侮られない、嫌われない。そして何より誰とも口を開かない」



 直のため息は、当時を思い返してのものだろう。

 あきらかに異質でありながら、クラスに溶け込んでいる。冷静に考えれば異常なことだった。とはいえ、それが当時の直樹たちには、自然と受け入れられた。



「あれはびびったよな。あれで話しやすいって詐欺じゃねえのって感じだ」



 無口な宝琳院庵のことだ。たいてい相手が一方的に話すかたちになるのだが、それが気にならない圧倒的な聞き上手なのだ。

 どこかオヒメサマ・・・・・を連想させる彼女の容貌とあいまって、宝琳院庵が畏敬の対象となったのは、ごく自然だったのかもしれない。



「だから、二学期になって直樹くんと話しだした時は、そりゃあ驚いたよ。恋愛フラグかって」

「フラグってなんだよ」

「いま思えば、ある意味正しかったんだね。円派のわたしとしちゃ複雑だけど」

「円派ってなんだよ!」

「それからでも、もう一年以上経つんだね」



 手を組んで、背もたれに体重を預けると、直はそう言ってきた。直樹の問いなど、まるで意に介さない。

 だが、直の言葉は、直樹の感傷を誘うものだった。



「そっか。そんなになるんだな」



 直樹は視線を宙に遊ばせる。

 宝琳院庵と、あの図書室で会ってから一年。どれくらいの言葉を交わしただろうか。

 そしてこれから、どれだけの言葉を交わすのだろう。

 考えてみれば、高校生活は、すでに半分を超えている。



「もうすぐ三年だな」

「そうだねぇ」



 同様の感慨を、直も抱いたようだ。互いに深いため息だった。



「……最後の一年ね」

「それを言うには、まだ早いだろ。春になって桜が咲いてからの話だ」



 行くように、逃げるように、去るように。そう言われる三学期だけど、無いものと数えるには長すぎる時間だ。

 そうだね、と、直も同意した。しみじみとした口調だった。

 ふと、目が合う。

 感傷的な自分が急に照れくさくなり、誤魔化すように笑う。直も、同じような照れ笑いになる。

 なぜだか急におかしくなる。どちらともなく、照れ笑いが笑いにかわった。高く低く、笑い声は店内に響いた。



「……そういえば直樹くん、遅くなったけど」

「なんだ?」



 ひとしきり笑い合ったのち。

 いきなり、直が居ずまいを正した。つられて直樹の背も伸びる。



「今年一年、よろしくお願いします」



 そう言って直は丁寧に頭を下げてきた。

 それで初めて、新年の挨拶がまだだったと気づいた。

 あらためて直樹も頭を下げる。



「こちらこそ、よろしくお願いします」



 冬休みの、ある日。何でもない日常だった。






[1515] 外伝 神がかり1
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:c95dfe0c
Date: 2008/09/28 18:13


「はじめまして、だね、ふふふ。あなたどこの小学校?」



 泰盛学園に入学し、はじめて話しかけてくれたのは、長いおさげが印象的な女の子だった。

 すぐに死んだ。



「ああ、君があの――宝琳院先輩の妹なのか」



 はじめて話した先輩は、姉に対してなにやら畏敬に近い感情を抱いているようだった。

 すぐに死んだ。



「ぜひとも姉のように、本を読み尽したから、などと言うわけのわからない理由でよそへ編入なぞしないで欲しいものだな」



 姉の担任でもあった教師は、姉を快く思っていないようだった。

 次の日に死んだ。



「イェアー! 白音ちゃん」「白音ちゃんおはよー!」



 いつも飛びかかるようにして話しかけてくる双子の同級生は、ハーフらしい。国際的な容貌と、年不相応の体格の持ち主だ。

 まだ死んでいない。



 この学園はどこかおかしい。

 宝琳院白音はそう思う。

 泰盛学園に入学してからおよそ一ヶ月。実に三人もの人間が死んでいる。

 連続殺人事件、ではない。言葉にしてあらわすなら、連鎖した事件と言ったほうが正しいだろう。平素なんの問題もないように見えた人間が、いきなり狂乱し、あげくに自殺する。まるでなにかに憑かれたかのように。

 ネコの呪い。と、学内ではひそかにささやかれている。

 その呪いで、人が死ぬのだと。

 そのためだろうか。猫避けに水入りのペットボトルを常備している生徒も多い。

 馬鹿げている――とは、白音は思わない。

 人死にという異常事態がこれほど続けば不安になるのは当然だ。それを理外の存在に仮託して避けようとすることは、幼稚ではあっても、けっして愚かではない。

 じっさい呪いを否定する生徒のほうが、むしろストレスを溜め込んでいるように見えるのだから、迷信というのも馬鹿にはできない。



 「まあ、なにも考えないのが一番のようですが」



 連休明け早々。早朝の廊下を吹き抜けていった双子を眺めながら、白音はひとりごちた。

 入学して早々に、そのにぎやかさ・・・・・がうわさになっている双子は、校内の沈んだ空気を破ってくれるという点で、おおむね好意的に評価されていた。



「やぁ、白音ちゃん」



 双子の足音が消えぬうち。後ろから声をかけられ、白音はふり返る。

 そこにいたのは、ひとりの女生徒だった。

 造作すべてがやわらかいラインで構成された温色の美少女である。白音の知人で、名を小城元子と言う。白音も一年の中では背が高いほうだが、元子はさらに拳ひとつ抜けている。

 当然と言えば当然である。なにせ彼女はふたつも年上なのだ。

 前年度までこの学び舎にいた姉を知るものとしては例外的に、白音に気安く話しかけてくれる先輩だった。



「小城先輩。おはようございます」

「おはよう、白音ちゃん」



 白音が礼をすると、やさしい笑顔で返された。

 つやのある黒髪を背に流す、そのしぐさは同姓の目からも色っぽく見える。



「今日もいい天気だね。“ヒゼンさま”に感謝しなくちゃぁね」



 まあ、発言にはドン引きだが。

 よい先輩なのだが、自分で作ったらしい妙な神様を信仰しているのは、白音が見てもどうかと思う。

一人教いちにんきょう”などという妙なあだ名を奉られる所以である。



「今日はいっしょにお昼、しないかな?」

「わかりました」



 元子の誘いに、白音は即応した。

 彼女が昼食をともにする知人といえば、双子しかいない。その双子も、気まぐれにいろんなグループに突撃するので、彼らを気にかける必要はまったくなかった。



「うん。“ヒゼンさま”のご加護がありますように」



 笑顔ひとつ残して。小城元子は去っていった。



「あっ」



 と、すぐ横で転んだ男子生徒が鞄の中身をぶちまけた。

 教科書やノートが舞い散るなか、白音の上履きにぶつかったものがあった。

 水の入ったペットボトルだった。

 その男子生徒はまっさきに、ペットボトルを回収した。









「ちょっと」



 昼休み。元子の住処である放送室に向かう途中で、白音は見知らぬ生徒に呼びとめられた。

 見れば男女の二人連れである。

 上履きの色は双方、黄色。二年生らしい。声をかけてきたのは男のほうだった。



「何か?」

「ちょっと、つきあってほしい」



 白音が首を傾げると、男が言葉を重ねた。

 逆立った髪といい、顔立ちといい、ライオンを髣髴とさせる、が。

 終始だるそうな無表情をみれば、餌をもらうのに慣れて狩りを忘れてしまった動物園のライオンと評したほうが、適切に思える。



「はい」



 男の言葉に、白音はうなずいた。

 だが、男の様子は変わらない。三度、口が開いた。



「ちょっと用があるから、つきあってほしい」

「……はい」



 返事はしたが、妙な様子に白音は戸惑う。



「あー、ごめんね。こいつ言葉、足りないんだ」



 見かねたのだろう。女のほうが、口を挟んできた。

 鷹のような、鋭い目つきの主だ。

 男とは対照的に、声にも立ち居振る舞いにも張りがある。白音と同程度の身長ということは、二年生なら平均程度だろう。癖なのか、しきりと肩を揺らしていて、背中まで伸びたポニーテールがそのたびに揺れていた。



「キミ、宝琳院――イオリ先輩の妹だろう? すこし聞きたいことがあってな。いいか?」

「はい」



 白音は無表情のままうなずく。

 少女の眉がひそめられる。



「あー。言葉は、通じてるよな?」

「はい」

「……ここまで徹底されてると、バカにされてる気もするんだけど。通じてるんだな、いいんだな?」



 少女は執拗に念を押してきた。

 どうやら、白音の無表情――と言うより無反応に戸惑っているようだった。

 幼少のころから、すぐそばに仕草や表情だけでコミュニケーションを成立させる人間がいたせいか、白音は必要最低限のことしか口にしない。そのうえ無表情なのだから、ちゃんと聞いているのか不安になるのもしかたがないかもしれない。



「はい。ですけど、あなたがたはどなたですか?」



 あらためて白音のほうから尋ねると、ふたりは目を見合わせた。

 自分たちを知らないことがおかしい。そんなそぶりだ。



「わたしは立花雪。でもってこっちが大友麒麟。二年生。よろしく」



 女生徒――立花雪の紹介は簡潔極まりないもので、しかし、それで充分だった。



「“双璧”の、おふたり、でしたか」



 畏敬を込めて、白音はその名を口にした。

 二年生に文武両道の生徒がある。編入生ながらその優秀さは万人に勝る。

 いわく、さきの期末考査の総合得点では互いに並んでトップだった。いわく、陸上競技の校内記録ではふたりの名がずらりと並んでいる。さらに、競技会や各種大会のおり、表彰状には事前にふたりの名前が書いてある。入賞すると分かっているからだ――などといった眉唾もののうわささえある。

 互いに優越のつけようのない、一対の宝玉のごとき存在。だから人はふたりをこう呼ぶのだ。

“双璧”と。

 有名人である。新入生で、うわさに疎い白音ですら聞かずにはいられない名だ。



「その呼び名、大げさすぎてイヤなんだけどな」



 そう言って眉をひそめた雪だったが、うわさが本当であればその二つ名は大げさでもなんでもないだろう。

 言われてみれば、なるほど。その名にふさわしい雰囲気を、彼らは持っていた。



「で、付き合ってくれるかな」



 あらためて問う立花雪の言葉に、抗う理由はなかった。









「こんなところで話すのもどうかと思うんだけどね」



 中等部の、校舎と体育館に挟まれた中庭。体育館側の外壁に肩を預けながら、立花雪は鋭い目を向けてきた。

 彼女が大友麒麟に向ける目つきも似たようなものなのでそれが標準らしいが、知らなければ怒っていると勘違いしかねなかった。



「あんまり人に聞かれていい話じゃないから」

「はい」



 返事をすると、深いため息が返ってきた。

 無愛想に関しては、あきらめてもらうしかない。



「なんか、君と喋ってると手ごたえなさ過ぎて不安になるよ」

「そうですか」



 無表情のまま返す白音に、より深いため息が返された。



「ま、本題に入ろうか」



 その点に関しては、あきらめたらしい。雪はすっぱりと話題を切りかえてきた。



「この学校で起こってる事件は、もちろん知ってるだろう?」

「はい。“ネコの呪い”ですね」



 白音はうなずいた。この泰盛学園に、現在進行形で起こっている事件と言えばそれしかなかった。



「ああ。その、ネコさんの呪い。あれについて、君はどう思ってる?」



 言葉を受け止め。白音は視線を雪に据えたまま、思考をめぐらせる。

 ややあって、白音は口を開いた。



「環境かと」

「……どういうことだ?」

「環境だ」



 白音の言葉をそのままなぞったのは麒麟だった。

 雪の怪訝な視線は、麒麟に移った。



「犯罪を醸成する環境だ」

「ちゃんと説明しろ」



 雪の瞳が剣呑な色を帯びる。



「犯罪を醸成する――起こりやすい環境が先にあって、その影響を受けたものが犯行――傷害、自殺をするんじゃないか。そう、言いたいのだろう」



 雪のためにだろう。言葉を易しく解きながらではあったが、麒麟の言葉は白音の考えを過不足なく言葉に表していた。



「なるほど、環境ね。あー」



 雪はなにやら言葉を探すように視線をさまよわせている。

 まるで用意していた言葉がオシャカになったような狼狽ぶりである。



「ねえ、宝琳院さん。キミは目にみえない存在を信じているかな」



 ポニーテールを揺らしながら、雪は尋ねてくる。

 それが本題なのだろうが、あきらかに会話の繋がりがおかしかった。



「むりやりだな」

「麒麟は黙ってろ」



 白音と思いを重ねた麒麟の言葉は、雪の視線ひとつで封殺された。

 しばし沈思して、白音は口を開く。



「それが超自然的な存在のことをさしているのであれば、信じておりません」

「……まあ、普通そうだよな」



 白音の回答に、雪は肩をすくめてみせる。



「でも、この状況。狂気が伝染していくさまを考えてみてくれ。狐憑き、悪魔憑き。古来そんな言葉であらわされるそれを想わせないか?」

「精神医学的には統合失調症の類かと」

「ていっ!」



 割と本気で手刀を喰らい、白音は頭を抑えることになった。



「水を差さない。これから本題なんだ――で、わたしは実は、そういうのを祓うスキルがあるヤツなんだ」

「いきなりだぞ」

「うるさいあんたは黙ってろ――と、いうわけなんだ」



 麒麟のほうにも手刀を送って、雪は視線を白音に返してくる。



「わかりました」



 白音は頷いた。



「わかってくれた?」

「その手の話を喜ぶ人を知っています。いっしょに放送室に行きましょう」

「わたしをあんな電波女といっしょにするなっ!」



 雪が叫んだ。思い切りいやそうな顔である。



「たいして変わらんとおもうが」

「麒麟うるさい! つーかあれか!? お前ら共謀してわたしをおちょくってるのか!?」

「まさか」「そんなわけないだろう」



 同時に返す白音と麒麟。息がぴたりと合っていた。



「さてはお前ら、仲いいだろう」

「……ふむ」



 目を眇めてくる雪に、麒麟はどこか納得したように、相槌を打った。



「付き合うか、宝琳院」

「お断りします」



 唐突の誘いを、白音は瞬息で断った。



「雪、ふられたぞ」

「当たり前だ――つーか初対面でなに告白してんだ」



 しごく常識的な発言とともに、雪の拳が麒麟に落ちた。

 麒麟のほうは、いまだ承服しかねたように首を傾けている。



「あー、とりあえず麒麟は黙ってろ――宝琳院もとりあえず信じれ。じゃないと話が進まないし」

「はい」



 うなずきながら、白音は考える。

 立花雪の言葉には、虚実を交えたような歪みがない。少なくとも雪自身は、おのれが漫画やアニメに出てくるような――退魔師のようなものだと信じているらしい。

 ありえなくもなかった。

 そう言った職業に従事するものの存在は古くからあったし、現在もあるだろう。それに従事するものが同じ学校にいる確率は、微少であっても皆無ではない。

 それに、悪霊祓いを治療行為の一環として解釈するなら、存外いかがわしい行為ではない。

 狐に憑かれた。悪魔に憑かれた。

 そんな妄想に取り付かれた人間を治すためには、とり憑いている狐や悪魔を祓ったと思い込ませればいい。そう考えれば、今日の精神医学にも通じるものがある。

 案外当時の精神風土の中で生まれた、経験則的な療法なのかもしれない。



「とにかく、わたしにはそういうスキルがある。こっちに転校してきたのも、それっぽい気配を感じたからなんだから。そこんとこ押さえておくこと。くれぐれもあの電波女と同列に扱わないように」



 雪は強く念を押してくる。

 よほど小城元子に含むところがあるらしい。



「で、この事件が起こって、調べてるんだけど。どうも――キミの周りで起こっているみたいだから。なにか心当たり、ないか?」

「それは、わたしを疑っておられる。と、解釈してよろしいんでしょうか」



 わずかに身を硬くして尋ねたが、話の流れ上、雪が求めているのは実体を持つ犯人ではなく、架空の――この場合、“ネコの呪い”だろう。

 案の定、雪は首を横に振ってみせた。



「ぶっちゃけわたしはそういう・・・・気配に敏感だから、わかるんだ。キミからは憑きものの匂いがしてこないからね」



 雪の言葉は、白音にとって理解の外にあった。

 彼女と自分はお互い別の理に基づいて生きている。そして揃って思考を推し進めるための歯車が、決定的に欠けている。

 白音はそう実感した。本来ならばその役目を大友麒麟に求めたいところだったが、彼は突然の告白ののち、押し黙ったままである。

 あんがい、黙ってろ、という立花雪の命令を律儀に守っているのかもしれない。



「そうですか。とはいえ、心当たりと言えるものはありません」

「そうか……まあ、それならいいんだ」



 雪がため息をつく。なにか言いかけたように見えたが、それがなんだったのか。白音の推測の及ぶところではない。



「でも、事件はキミの周りで起こっている。いつ巻き込まれてもおかしくないんだ。気をつけたほうがいい」



 言いおいて、雪は去っていった。

 それを見送って、白音は動く気配のない麒麟に目を向ける。



「あなたも、立花先輩とご同業なのですか」

「いや」



 麒麟の口が、もそりと動く。



「いや、違う」

「では?」

「いや、違う。が、手伝っている。そのような縁だ」



 その無表情からは、なにも読み取れない。

 白音には、二人の関係を量りかねた。

 少なくとも、ただ同時期に転入してきた転校生。あるいはただの恋仲であるというわけでは、なさそうだった。



「宝琳院」



 と、麒麟が声をかけてくる。

 はい、と、白音は応じた。



「宝琳院、携帯を持っているか」



 この問いにも、白音ははい、と、答える。



「アドレスを教える。身の回りに妙なことがあれば、連絡がほしい」



 どうやら、それが本題らしかった。

 さきの麒麟の言葉を信じれば、雪を手伝う行為の一環とも取れるし、あるいはただアドレスが知りたかっただけかもしれない。

 どちらにせよ、麒麟には妙な下心はないように見えたので、白音は了解した。



「そういえば、大友先輩。ペットボトル、持っていないのですね」

「あれは迷信だ」



 最後にそんな会話をして、白音は麒麟と別れた。放送室では小城元子が、首を長くして待っているはずだった。






[1515] 外伝 神がかり2
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:c95dfe0c
Date: 2008/09/28 18:12


 いち早く食事を終えた生徒たちとすれ違いながら、白音は放送室に向かう。

 放送室、と名はついているものの、実は本来の役目を果たさなくなって久しい。

 学内放送は、職員室の放送施設で間に合わせるし、かつてあった放送部も諸事情で廃部となっている。

 事実上の空き部屋で、それを小城元子が私室としているのだ。

 校舎一階の正面玄関側、いちばん端。放送室の前に立った白音は、手のひらを返して、甲の部分で二度、扉を叩く。



「待ってたよ。入って」



 なかから元子の声が聞こえてきた。

 言葉に従い、部屋にはいる。小城元子が屈託のない笑みをうかべ、出迎てくれた。



「お待たせしました」



 恐縮しながら、白音は部屋に足を踏み入れる。

 放送器具が雑然と積まれたせいだろう。なかはずいぶんと狭い。

 よくみれば放送器具の他に元子の私物らしきものがそこらに転がっているのだが、白音はあえて見ないふりをしていた。自分の理解を超えた不可思議物体ばかりだからだ。例の猫避けペットボトルまであるのは、まあ、ご愛嬌だろう。

 窓辺に用意された席につくと、元子も向かいに座る。



「毎日の恵みに、“ヒゼンさま”に感謝を」



 弁当をひろげ、無機質な空間に彩を添えてから。合唱してなにやら祈りだす元子。

 いつものことである。

 白音は黙したまま手を合わせ、弁当に箸をのばした。

 ふたりとも、食事中に口を開く習慣はない。そのまま、静かに食事を終えて。

 さきに口を開いたのは白音だった。



「小城先輩」

「なに? 白音ちゃん」



 弁当箱を鞄にしまいながら、元子はゆるりと顔を向けてきた。



「“ネコの呪い”について、どう思われます?」

「……白音ちゃん」



 元子の口が、静かに開く。咎めるような調子だ。



「ひとが亡くなった事件を茶呑み話にするのは、感心しないな。“ヒゼンさま”に叱られるわよ?」



 平素の元子にない、手厳しい指摘だった。

 白音はあわてて詫びる。言われてみれば、たしかに不謹慎だ。上級生として元子が注意するのも当然だろう。



「でも、どうしてそんな話を? またなにか、起こったの?」



 と、元子の疑問を否定してから。白音は釈明する。



「さきほど“双璧”のふたりと、その件に関して話しましたので」

「ああ。それで遅れたんだ」



 白音の言葉に、得心がいったように。元子は頷いてみせた。

 立花雪が小城元子を知っているように、元子も“双璧”のことを理解しているらしい。



「妙な人でした」



 心底からの実感を込めて、白音は言った。

 それに対し、元子も深く頷く。



「そりゃあそうだよ。まがりなりにも“数字”だしね」

「数字?」



 白音は鸚鵡返しに尋ねる。



「そう。数字のあざなを縮めて“数字”。双璧――ふたつの壁で、二が入ってるでしょ?」

「はい」

「この学校で数字が入ったあだ名で呼ばれるってのは、特別な意味合いがあるんだ。個性と能力を兼備した才能の主にしか与えられない称号。それが“数字”なの」

「では、先輩も」



 白音は聞いた。

“一人教”小城元子。彼女のあだ名にも、数字が含まれている。そして個性と才能、ふたつながらにして恵まれているのは、彼女も同じだ。

 だが、元子は首を横に振って否定した。その表情には、多分に苦笑が含まれている。



「わたしは、ただの代替品。本当の一番は、いなくなっちゃったから。便宜的に一をもらっただけ……ちなみに本当の一番って誰だかわかる?」



 試すような調子で、元子は尋ねてきた。

 白音は首をかたむけ、考える。

 そんな質問が出てくると言うこと自体、白音のが知っている人物だと教えているようなものだ。

 その上で“数字”に該当するような奇人は、ひとりしかいない。



「もしや、姉ですか」

「正解」



 白音の答えに、元子は破顔した。

 納得である。

 ほかならぬ白音の姉――宝琳院庵ならば、“一人教”や“双璧”の横に並べても遜色ない。



「そう。“孤高”――ってね。よばれてた。あの人こそ、本当の一番」



 弧、は独りの意味であリ、やはり一に通じる。

 元子の視線は、どこか遠くをみるようで、憧憬にあふれていた。









「あー、きみ、お嬢ちゃん? ちょっといいかね」



 放課後。いつものように一人で校門を出た白音は、見知らぬ男に声をかけられた。

 年は、かなり上。おじさんと呼称されるべき人種でも年上の部類に入るだろう。半分白くなった髪を後ろに撫でつけ、くたびれたグレーの背広を着込んでいる。

 しかし。抱いた印象は、その冴えない外見とは対極。どこか油断のならないものを感じさせる男だった。



「なにか?」



 縮めた肩ごしに、白音は尋ねた。

 彼女の不審と警戒にも悪びれた様子なく、男は無遠慮に近づいてくる。



「わたしは――なんだ。ここ、いま事件起こってるでしょ? それで、こういう身分なんだけど」



 そう言って男が取り出したのは、黒い装丁の手帳だった。

 内側に刻まれた、桜の代紋。それの示すところは、白音もさすがに承知していた。



「刑事さん、ですか」

「まあ、そのような者なんだよ、これが」



 さきほどまでとはまた違ったベクトルで身構える白音に、刑事は顔をくしゃりと丸める。



「すこし、車のほうまでつきあってくれないかな。ほら、なんだ――ここじゃ話しづらい」



 刑事の指が、後ろに停められた黒のセダン車に向けられる。

 シワと同化したような笑顔からは、なにも読みとれない。

 体温がゆるやかに下がっていくのを感じながら、白音はゆっくりとうなずいた。



「――さっそく本題なんだけれど、きみ、この学園で起こっている事件について、知ってることを教えてくれないかな」



 助手席で棒のように固まっている白音に、刑事は直裁に尋ねてきた。



「事件、と、お考えですか。事故ではなく?」



 白音は遠慮がちに問い返した。

 白音自身、彼らが自殺するさまをみたことがある。狂人のように暴れまわり、飛び降りる。そのさまは、まさに悪魔憑きを呼ぶにふさわしい狂態だった。

 そこに人為の介在する余地はない。

 刑事のため息がハンドルに落ちた。



「思えない。思えないんだけど――まあ、こんなに死んじゃってるからねぇ。さすがに偶然で済ますわけには、いかないしねえ」



 しごくまっとうな意見である。

 一度なら、事故だろう。二度なら、偶然と言えるかもしれない。だが、三度。これほど重なったならば、そこに事件が起こりうる必然があるのではないか。そう考えて然るべきだろう。

 白音はますます慎重に言葉を選び、脳内で復唱してから、口を開いた。



「人が突然暴れだし、そして自殺する。同じことが、判を押したように起こる――悪霊に、あるいは悪魔にとり憑かれたかのように」



 あるいは――化け猫に乗り移られたように。とは、さすがに言わなかった。

 非現実的な比喩を重ねても、意味はない。



「悪魔憑きか――なかなか洒落たいいまわしだねえ。ふむ。ほかには?」

千布衛ちぶまもり伊藤惣太いとうそうた小森半平こもりはんぺい……それに、わたしが入学する以前にもひとり、いたらしいですけれど」



 白音は記憶を探りながら自殺者をあげていく。



「ほかに、なにかあるかい?」



 また、刑事が尋ねてくる。



「……“ネコの呪い”。みな、この件に関してはそう、うわさしています」

「なるほどねえ」



 ふむふむ、と、刑事は納得したかのように頷いた。



「なにか、得心されることがあったのですか?」

「ああ。いやね、この学校の生徒たちもさきの飛び降り事件と結び付けて考えているんだな、とね」

「さきの?」

「お嬢ちゃんも言ったろう? きみが入学する前に飛び降りがあってね。そいつの名前が、秀林寺寝子しゅうりんじねこなんだ。これが」



 白音はわずかに眉を動かした。

 ネコの呪い。この悪魔憑きの事件を、生徒たちはそう呼んでいた。

 言葉でのみ、聞いていたものだから、白音はそれを“猫”の呪いだと思っていた。

 でも、それが“寝子”の呪いだったとしたら。

 一連の事件は、生臭みを持ってくる。



「屋上からの飛び降りだったからね。暴れてたかどうかは、これは分からないけどねえ。時期的にもすこしあいてるし。
 だがまあ、この事件に関しては有力な容疑者として名前があがった生徒がいてね――まあ、ぶっちゃけると君のお姉さんなんだけど」

「……姉をお疑いですか」



 白音は尋ねた。

 刑事が長い息をつく。



「疑ってる、って段階でもないんだよね。その事件に関しては、自分の意思で飛び降りたってことになっちゃってるし、件の――“寝子の呪い”に関しては宝琳院庵との関連性がまったく見えてこない。
 ただね。そんとき捜査してて思ったわけだよ。この娘ならやりかねないってね」



 ま、藁にも縋るってヤツなんだけど。と、刑事は肩をすくめてみせた。



「そう言うこと……ですか」



 白音は喉に渇きを覚え、唾液を飲み込む。

 姉ならやりかねない。とは、まったく思わない白音だが、姉になら可能かと問われれば、頷いてしまうだろう。

“数字”を異才の証明とするなら、宝琳院庵はまさにそれにふさわしい人物であることを、白音は知っている。



「だから、ほら。聞いておきたかったんだよ」



 刑事の瞳が、こちらに向けられる。

 観察されている。そう感じたが、だからと言って何ができるわけでもない。



「今日のところはもういいよ。お姉さんが容疑者だなんで、ま、ショックもあるだろうからね。
 でも、まあ、なんだ。お姉さんの様子がおかしかったら、おじさんに教えてくれるかい?」



 その言葉に、白音は頷くしかなかった。









 宝琳院庵。

 白音とは血の繋がった姉である。年で言えば三歳上の十五歳であり、現在高校一年になる。

 去年まで泰盛学園に在籍していた彼女は、中等部卒業とともに市立佐賀野高校に入学した。

 光が避けて通るような真っ黒の髪と、対照的にしろい肌。どこかオヒメサマを連想させる容貌は、おそらく白音の将来の姿だろう。容貌の類似性に関して、指摘されることは多い。

 徹底した無口で、必要なこと以外まったくしゃべらない。

 しかも日常のコミュニケーションなど仕草ひとつで済ましてしまう庵が言葉を必要とすることなど、めったにない。家族である白音すら、挨拶以外で意味の通った言葉を聞くことは稀なのだ。

 頭は、いい。よすぎると言ったほうが妥当かもしれない。

 この事件を起こしたのが彼女だと言えば、学校の皆が一片の疑問もなく納得するほどには。

 白音は姉を信じている。しかし、ほかにこれといった容疑者がいないのもまた、事実だった。



「さすがに、手詰まりですか」



 自室のベッドに寝転がり、白音は天井を見つめる。

 立花雪と話したとき、白音はこの事件の根底を、それを醸成する環境にあると規定した。

 だが、人為的に環境を変質させることも、また可能なのだ。

 それができそうな者となれば、また限られてくるのだが。



「いっそ立花先輩の戯言を信じたい気持ちです」



 馬鹿なことを言っていると自覚しながら、白音はぼやいた。

 悪魔憑き、狐憑き。そんなものに責任を転嫁してしまえれば、どれほど楽なことか。

 考えれば考えるほど、思考の泥沼に入っていく。

 むろん白音は探偵ではない。事件を解決してやろうなどとは、かけらも思っていない。

 白音が欲しているのはただひとつ、姉が犯人ではないと言う確証だった。

 だが、それすら、いまの段階では確信できない。

 情報が足りないからだとは、わかっていた。とくに、秀林寺寝子の事件に関しては、まったくわからないと言っていい。それが余計に事態を見極めにくくしていた。



「やはり、尋ねましょう」



 思い立って、白音は携帯を開いた。

 電話帳に記録された、父以外ではただ一人の男性。大友麒麟。彼ならば秀林寺寝子の事件を知っているかもしれない。

 むろん小城元子に聞いてもよかったが、彼女では情報の正確性に難がある。その点において麒麟は信頼できた。

 白音は麒麟にメールを打った。



“秀林寺寝子の事件について尋ねたいことがあります”



 ほどなくして、電話がかかってきた。

 麒麟からである。



「もしもし」

「もしもし」

「はい」

「もしもし。大友麒麟だ」

「はい。白音です」

「もしもし、大友麒麟だ。なにが聞きたい」



 言葉を繰り返す妙な癖があるらしい。

 内容のない会話だが、なぜか調子は合っている。



「メールした通り、そのままの内容です。秀林寺寝子という人が飛び降りた、その事件について伺いたいのです」

「事故だ」



 麒麟の返答は、短い。

 白音は続く言葉を待った。



「あれは事件ではない。事故だ。今回の件とはなんら関係がない」

「わたしが伺いたいのは、その事故そのものです」



 白音の質問に、しばし、受話器は沈黙をはき続ける。



「事実」



 と、麒麟の言葉が切れる。



「起こった事実を言う」

「はい」



 白音は喉を鳴らした。



「全校集会だった。秀林寺先輩が屋上から落ちた。全員出席。宝琳院先輩だけ保健室に行ってその場にいなかった」



 白音は麒麟の言葉から事故の大要を描いた。

 どうやら消去法的な容疑であるらしい。



「なぜ、落ちたか。分かりますか?」

「事故だろう」



 麒麟の言葉が返ってきた。



「自殺ではない。他殺ではない。むろん雪の領域に関わることもない。であれば、事故としか考えられない」



 麒麟と白音の思考形態はきわめて近い。麒麟がそう判断したのだとすれば、白音が当時そこにいたとしても、おそらくそう判断したに違いない。

 問題があるとすれば、宝琳院庵が本気になって事件を仕組んだとしたら、白音を欺きうると言う事実である。

 こっそりとため息をついて。白音は麒麟に礼を述べ、通話を切った。

 再び、白音はベッドに転がる。

 結局、宝琳院庵の犯行の可能性を、はっきりと否定する情報は出てこない。

 頭の中に、あの刑事の顔がちらつく。

 補導され、尋問を受ける宝琳院庵。想像すれば、余裕の庵に対して、刑事の顔は憔悴し切っていた。なんて姉だろう。

 妙な想像に顔をしかめていると、突然ドアを叩く音が耳を驚かせた。



「はい、どうぞ」



 扉が開く。そこにいたのは渦中の人、宝琳院庵だった。

 庵は手の中の肌襦袢を指差した。

 言葉にすれば、お風呂、先に入るよ。だろう。



「はい。どうぞおさきに」



 微笑を残して、ドアが閉まる。

 姉が浴室に入る音を聞いてから、白音は立ち上がった。向かうさきは、姉の部屋である。

 畳の間に山と詰まれた本の群れと、対照的に小さな衣装棚。女の気配の薄い部屋だったが、それに慣れた白音は、とくに異常とは思わない。

 音をたてないよう、慎重に部屋を探った白音は、本棚の一番端に、目当ての本を探し出した。

 ハードカバーの表紙には、宝琳院庵の観察日記とある。鍵もついていない。

 姉の日記である。

 直裁に、事件について書いてあればよし。でなくとも、彼女が犯人ならば、何らかの匂いを残しているはずだった。

 むろん、庵に見つかればこっぴどく叱られることは目に見えている。白音は大急ぎで日記に目を走らせた。

 ぺらぺらとページを送りながら、日付を追っていく。

 ふと、目が止まった。

 秀林寺寝子。この文字が目に入ったのだ。



 ――二月十八日。



 そこからはじまる文章に、白音は目を通していく。



 このごろ、とかく図書室が五月蝿いのは、やはり注目されるべき人材がここを訪れるようになったせいだろう。

 以前にも書いたことと思うのだが、秀林寺寝子。あの眠り猫のようないけ好かない女は、なにが楽しいのかわが聖域で高いびきをかいている。

 これは許されざる悪徳だ。そもそも図書室とは、いや、本と言うものは先人の知識の昇華であり、そこから汲み取るべきものは無限にある。ましてやこの図書室と言う空間には無数の本が林立しているのだ。

 貪る、と言うことは何事においても悪徳であると(そしてボクの領域であると)承知しているが、貪らずにいるのもまた悪徳と言うべきだろう。

 そも知識欲と言うものは、かのファウストすら――筆が外れた。あの腐れ三毛がすべて悪いのだ。どういうわけか妙な連中も転校して来たものだし、そういえば小城元子が妙な芸風を覚えてきた。すべて寝子のせいだ。



 さらに読み進めて行くと、求めていたものが見つかった。

 日付は、一週間ほど後である。



 秀林寺寝子が飛び降りた。ボクの責任だろう。どうにか始末せねばなるまい。



 その日にかかれていたのは、たったそれだけだった。

 次の日に目を通そうとして。

 とん、と、肩を叩かれた。



「――っ! あ、あ、姉さま」



 背後に立っていたのは、宝琳院庵だった。

 いつの間に上がってきたのか。いつの間にそこにいたのか、まったく分からなかった。

 おのれと相似形のような容貌に、にやにや笑いが張り付いている。



「そ、その……これは……」

「どうしたんだい? きみは他人のプライバシーを侵すような人間ではないだろう?」



 驚きのあまり、喉が引きつりそうになった。

 この無口な姉が口を開くところなど、久しぶりにみたのだ。



「そ、その」

「教えてくれるかい? このボクに。なにかよほどの理由があってのことなんだろう?」



 張り付くように尋ねてくる姉の声には麻薬が混じっていた。

 酩酊したように、白音は今日のことを洗いざらいしゃべってしまっていた。



「ありがとう、もういいよ。つぎからはこんなことしちゃあ駄目だよ?」



 姉に背中を押されるようにして、白音はふらふらと部屋を後にした。

 部屋に帰っていく白音を見送ってしばらく。彼女の口の端が三日月にかたどられた。



「ふうん? 転校するだけじゃ収まらなかったのか。こりゃあたいへんだ」



 それがなにをさしての言葉か、誰にも分からない。









 つぎの日、事件が起きた。

 前日のことを引きずって、頭にもやをかけたまま授業を受けていた白音は、真っ先にそれを発見した。

 硬直する白音のほかにも、気づいたものが出てくる。

 ざわめきが静かに、教室中に広がった。

 窓側の生徒は覗きこむように校庭のほうを凝視し、ほかの生徒はそんな彼らを不審げに見つめる。やがて、廊下側の生徒の中にも窓際に駆け寄る生徒が出るにいたって、女教師は黒板から注意を外に向けた。



「あなたたち、授業中――」



 教師の言葉はそこで止まった。

 彼女の顔から血の気が引いていくのが、ありありと見て取れた。



「“孤高”……」



 教師は絶句した。

 周囲の光すら拒絶するように。漆黒の髪をなびかせ、現れたのは宝琳院庵。白音の姉であった。

 宝琳院庵は悠然と、校舎へ入っていく。

 ざわめきは収まらない。

 騒然としたまま授業が終わり、昼休みとなる。

 すぐさま教室を飛び出したが、探すあてなどあるはずもない。

 もしやと思い、かけ込んだ図書室も、無人だった。

 とりあえず玄関口にいないのを確かめてから、職員室に向かおうとしたところで。

 こちらに来る宝琳院庵の姿を見つけてしまった。



「おや、白音、なにを急いでいるんだい?」



 いきなり声をかけられ、白音の背筋が伸びた。



「姉さまこそ。なぜ学校に?」



 その問いに宝琳院庵は答える。ニヤニヤ哂いを浮かべたまま。



「なに。わたしの用はもう済んだ。いまから帰るところさ」



 ざわめきを背に受けながら、宝琳院庵は白音の横を通り過ぎていく。



「もう、白音はなにもしなくていいんだよ」



 白音の耳にそうささやいて。庵は去っていった。

 白音は一歩も動けなかった。

 ざわめきが大きくなる。

 遠くで悲鳴が聞こえた。



「“双璧”が飛び降りた」



 そんな声を聞いて、頭の中は真っ白になった。






[1515] 外伝 神がかり3
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:c95dfe0c
Date: 2008/10/09 23:15

 怒号。悲鳴。喧騒。

 呆然とする白音の前を、二台の担架が駆けて行く。

 教員たちの先導で、担架が救急車に運ばれていくさまを、白音は見ていることしかできなかった。

 立花雪の足は、本来ありえない、いびつな形にゆがんでいた。

 大友麒麟の顔はタオル越しにも真っ赤に染まっていた。

 なぜ、そんなことになったか。生徒たちはこう考えるに違いない。



“寝子の呪い”だ、と。



 決定的にまずい状況だ。

 宝琳院庵が存在し、人が飛び降りた。

 秀林寺寝子の事件の、まるで焼き直し。

 あの刑事も、確信を深めるに違いない。宝琳院庵こそ、この事件の犯人だと。

 いや、刑事だけではない。白音自身、姉に対して疑念を抱かずにいられない。



「もう、白音はなにもしなくていいんだよ」



 帰り際の、姉の言葉。

“寝子の呪い”はもう起こらないから、なのだろうか。

 それとも、もう起こさない・・・・・から、なのか。

 前者なら、犯人は立花雪ないし大友麒麟であり。

 後者なら犯人は宝琳院庵だ。



 ――わたしは、どうすべきなのだろう。



 白音は、自らが断崖に立っていることを認識した。

“寝子の呪い”は終わる。

 それなら、これ以上関わることはない。

 もう人が死ぬことはない。すべて忘れれば、日常が戻ってくるのだ。

 だけど。



 ――それでいいのか。



 白音は自問する。

 千布衛、伊藤惣太、小森半平、立花雪に大友麒麟。

 これ以上、事件は起こらないにしても。もう、じゅうぶんに事件は起こっている。

 仇を討とうとは思わない。

 だが、せめて。

 事態を解いて晒しあげることが。“寝子の呪い”からこの学校を解放することこそが、おのれの義務ではないか。

 白音はそうも思う。

 と。



「いえーっ! 白音ちゃーんっ!」「ひゃっは-っ!」



 激しくいやな予感に、白音は立ち位置を半歩、ずらす。

 肩口を掠めるように、ふたつの弾頭が吹き抜けていった。

 弾頭は急旋回し、ぴたりとこちらをロックオン。砂けむりをたててこちらに――



「お待ちなさい。双子」

「し、白音ちゃん?」「こわっ!? 恐ろしいであります! サー!」



 苛立ちが顔に出ていたせいか、双子はいきなり直立不動になった。



「なんの用ですか。双子」

「用事じゃないよ。白音ちゃんのお姉さんみにきたの」「教室中大騒ぎだったし。職員室も」



 両手をばたばたさせながら弁明してくる双子。白音はあごに手をそわせ、考える。



「わざわざ職員室に立ち寄ったのですか?」

「寄ってないよ。なんか放送で流れてただけ」「宝琳院がここにきたとかとかなんとか……」



 それを聞いて。ふいに、白音の頭にひらめくものがあった。



「ふむ」

「白音ちゃん?」「白音ちゃん?」



 顔を寄せてくる双子にも無反応。ひとしきり思考を走らせて。



「――なるほど」



 白音は頷いた。

 宝琳院庵のやったことに整合性を求めれば、可能性は限られる。

 あとはそれに基づいて必要な情報を集めれば。

 解に届くのはたやすい。

 かわりに白音は大事なものを失うことになるが。



「ここまでわかった以上、解いてみせるのが――義務と言うものでしょう」



 迷いを断ち切るように。白音は言い捨てる。



「なにが?」「なにが?」


 ハモリながら聞いてくる双子に、白音は目を伏せながら、言った。



「なに、ただの――悪魔退治です」









 扉を開けると、彼女はそこに居た。

 夕暮れの部屋。窓辺にあって外を眺める彼女は、なにを見ているのだろうか。

 しなだれるように窓枠に体を預ける姿は、怪しいまでに――美しい。

 小城元子。放送室の主は、その領地をあまねく支配していた。



「あら、いらっしゃい」



 つやっぽい唇が微笑をかたどり、白音に向けられる。

 白音は笑わない。無表情のまま元子の前に立ち、ただ、告げる。



「伺いに参りました」



 白音は言う。



「あなたに、伺いに参りました」



 言葉を重ねる白音。元子の顔に戸惑いの色が浮かぶ。



「……なにを――」

「――一連の事件について、あなたに伺いに参りました」



 突きつけるように。

 白音は再び、言葉を重ねた。



「……どうしたの? 大友君のまねごとなんかしちゃって。似合わないわよ?」



 悪戯した子供に諭すように、元子はやさしく言ってきた。

 はじめて。

 白音は口元に、細片のごとき笑いをあらわした。



「なるほど。これは便利。正直ハマりそうです」

「……なにを言っているの? 白音ちゃん」

「用件を小出しにすることによって相手の反応を測る。これはそういった技術だということです――そして断言しましょう」



 無表情のまま、淡々と。

 白音は告げる。疑念を確信に変えて。



「一連の事件。その犯人は小城先輩、あなたであると」



 白い指先をゆるやかに伸ばし、白音は元子に言い放った。



「……わたしが、犯人?」



 元子の顔に浮かぶのは、驚きでも、意外でも心外でもない。

 ただ挑むような調子で、彼女は尋ねてきた。

 白音は指を下ろして。

 そして宣言する。



「そうです。あなたが、この悪魔憑き。“寝子の呪い”を仕掛けた――犯人です」



 変化は、速やかだった。

 空気が変わった。

 そう感じたのは、小城元子の表情から、生来のものと思えたやわららかい表情が拭い去られたからだろう。

 表情を、そして五体を律する心意には、硬質なものさえ感じられる。



「“神憑りかみがかり”。悪魔憑きではなく、そう呼んでほしいものね。“ヒゼンさま”の御業には、そんな言葉こそ、ふさわしい」



 変貌にふさわしい芯の通った声で。

 事実上、犯行を認めて。

 小城元子は立ち上がった。

 細められた目の奥には、異様な光が見え隠れしている。



「神憑りですか……馬鹿らしい」



 挑発ともとれる白音の言葉、それを受け流しすように。

 元子は笑った。



「ひとつ、話をしましょうか。昔のわたしの、話」



 元子の視線が窓の外に向けられる。



「わたしはね、宝琳院先輩にあこがれていた。“孤高”、そう呼ばれる先輩のあり方に。そしてその象徴である“数字”に。
 だから、奇人を装った。神様の声が聞こえる変人を……演じていた」



 元子は語りだした。ごく淡々とした調子だった。



「だけど“数字”の栄誉は、わたしじゃなく、あいつに与えられた。あの“眠り三毛”に……まあ、当然ね。しょせんわたしは紛い物で――あいつは本物だったんだから」



 元子は微笑む。過去のおのれをあざ笑うように。



「全校集会のとき、屋上にあいつの姿を見つけて。あくびするあいつをみて、わたしははじめて彼女を憎いと思った。あんな横着者が、わたしのほしいものをみんな手に入れていくのが、許せなかった。
 だから。わたしははじめて、“ヒゼンさま”に願った。あいつに“触れて”って。
“ヒゼンさま”は願いをかなえてくれた。あいつは馬鹿みたいに、屋上から落ちた」



 暗い悦びが、元子の顔に浮かぶ。

 白音は確信した。

 元子の呪いと、秀林寺寝子の墜落。この偶然の一致が、元子の狂信を生んだのだと。



「わたしは狂喜した。これで本物になれた。宝琳院先輩に認めてもらえるって。
 でも、けっきょく先輩は、わたしなんて歯牙にもかけなかった。わたしにはヒゼンさまが、神様がいるのに、あの人はけっきょく認めてくれなかった……」



 でも、いいの。



 と、そう言って。元子はこちらに顔を向けてきた。

 その顔にはやわらかい笑みが浮かんでいる。

 このときだけは、いつも白音がみる小城元子の微笑だった。



わたしには白音ちゃんが居るから・・・・・・・・・・・・・・・



 やはり、という思いとともに。

 白音は事件の原因を確信した。

 小城元子は宝琳院庵の身代わりとして白音を求め。近づくもの、害意を持つものを許さなかったのだ。

 人が死ぬには、あまりにも馬鹿らしい動機だった。



「そのために、三人も殺したのですか」

「殺したのはわたしじゃないわ。“ヒゼンさま”よ。それも触れただけ。それだけであの人たちは耐え切れずに、気が触れた」



 結局。小城元子は理解していないのだ。

 おのれが人を殺したことを。その責任を“ヒゼンさま”に転嫁して省みない醜悪さを。



 ――なら、理解らせて差し上げましょう。



 そう決意して。白音は鼻を鳴らす。



「神様? そんなものは存在しません」



 無表情のまま、白音は空間いっぱいに両手を広げる。



「あなたが支配するこの放送室。それが“寝子の呪い”を演出する、大仕掛けの種でしょう」



 白音はそう、切り出した。

 気づいたきっかけは宝琳院庵の行動である。

 彼女は教師に放送室への配電を停止するよう、依頼していたのだ。

 校内放送用のマイクをつけたままにしたのは、放送室からの放送を停める、緊急措置だったのだろう。

 原因が放送室だとわかれば、推理を組み立てるのは簡単なことだった。

 白音は機材をテーブル越しに操作する。

 コンポから、CDが吐き出された。



「不可聴域の重低音を鳴らし続け、みなに無意識下のストレスを与えるとともにきわめて暗示のかかりやすい状態を作っていたのでしょう。そのうえで、秀林寺寝子の事件をうわさに流し、その存在を認知させる。
 こうして事件を誘発しやすい環境を整えれば、あとは簡単な暗示で事件が起こる。間違っていますか?」



 CDとともに突きつけるように、白音は言った。

 うわさ自体は自然発生かもしれない。だが、それにペットボトルという予防法を付与したのは、まちがいなく元子だろう。

 怪談は、その予防法をセットにすることで、爆発的に伝播力を増すのだ。



「それは“ヒゼンさま”を降ろす儀式――」

「笑止。断言します。これだけ環境を整えれば、“ヒゼンサマ”などいなくても、事件は起こせると」



 ねじ込むように、白音は言葉を吐く。



「ヒゼンさまなるものは、あなたの幻想です」



 その瞬間、部屋に張り詰めていたものが、音を立てて壊れた。

 彼女の神殿のようだった放送室は、すべての虚飾を剥いでただの部屋に、戻った。

 元子はその言葉を呆けたように受け止めて。



「げん……そう? あは。そうかもしれないわね」



 見たこともないような貌で、笑った。



「それでもいい。それでもいいのよ。神様なんか。最初から、ほしかったのは……あなただったんだから」



 ゆっくりと、元子の手が白音の奥襟を捕らえる。

 そのまま引き倒され、両手を押さえつけられた。顔が近い。額が触れそうなところに、元子の顔があった。



「宝琳院先輩の代替物なんかじゃない。一目見たときからずっと、わたしはあなたが――欲しかった」



 無理やりに、唇を押し付けられる。

 おのれと同質の、しかし明白な異物が白音の舌に絡みついてきた。

 微細量の陶酔感と、体の芯をとおる疼痛。

 あまりに予想外の展開に、白音は抵抗することすら忘れていた。



「白音ちゃん。わたしの――白音ちゃん」



 元子の膝が、白音の両足を割って入る。

 明確な貞操の危機を感じて。それでも白音は眉ひとつ動かさない。

 確かに、想像を超えたところにある事態だった。

 だが。



「あなたが力に訴えることは、想定の範囲内です」



 微妙にしびれた白音の声とともに。



「突貫ー!」「それー!」



 騒がしい音を立て、乱入して来たふたつの影が、あっという間に元子を絡めとった。



「……わたしがなんの策も立てずに一人で来たと考えていらしたのなら、甘い、と、言っておきます」



 切ないため息をひとつ吐いて立ち上がり。

 地面に押さえつけられた元子に、白音は冷たい視線を落とす。



「さすが、ね。でも、白音、ちゃん。忘れてない? わたしには、“ヒゼンさま”が、ついていることを」



 両腕を締め上げられながら、元子は苦しく微笑んだ。



「触れて。“ヒゼンさま”」



 双子に目を向けて、元子はそう命じた。たったそれだけの、おそらく瞬間催眠。

 だが、なにも起こらない。

 双子は相変わらずぐいぐいと元子を締め上げていく。

 こうなることはわかっていた。

 催眠に関するあらゆる要素は潰しているのだ。しかも相手は能天気を絵に描いたようなこの双子である。効くわけがない。



「あなたは言った。神様などどうでもいいと。あなたは神を自ら捨てたのです」



 言い捨てて、白音は元子に背を向ける。



「そんな――ヒゼンさま、お助けください! ヒゼンさま、なぜ声をかけてくださらないのです!? ヒゼンさま、ヒゼンさま、ヒゼンさまヒゼンさまヒゼンさまヒゼンさまひぜんさまぁーっ!!」



 絶叫を尻目に、白音は放送室をあとにした。









「こんなところですが」



 外で待機していた男に、白音は声をかけた。

 男は帽子を脱ぐ仕草をしてきた。脱帽、と言うことらしい。



「……まさか、ねぇ。中学生の身でだよ? 犯罪を起こしやすい環境をつくる――なんで考え付くものかい?」



 男が深く、息をつく。



「本人は知らずにやったのでしょうが。元来先輩は聡明な人です。狂信の中に、無意識にも合理を取り込んでいたのでしょう」

「……やれやれ。そんな中学生は、きみの姉さんがいれば充分だと思ってたのになぁ」



 その言葉には深い感慨が込められていた。

 この刑事は、姉を直接知っている。白音はそう確信したが、口にはしなかった。

 どのみち今回の件とは、関係ないことだ。



「先輩は罪に問われるのですか?」

「うーん。難しいねぇ。彼女は犯罪を教唆したわけでも、ましてや直接手を下したわけでもない。それに、ほら、未成年だしね。
 ま、学校側からは、内々に処分があるんじゃないかな」

「そうですか」



 白音はそれに関して、声にも感情をみせなかった。

 たとえどうであれ、小城元子が白音にとってよい先輩であり、大切な存在だったことには変わらない。

 心にできた虚ろは、しかし、おのれが刳り貫いたものなのだ。

 と。



「おっちゃーん!」「刑事ぁっ!」



 あわてたように、放送室から双子が飛び出してきた。



「どした?」

「押さえつけてたらホシがグッタリなって」

「そりゃあ、おい、無茶しすぎだよ!」



 それを聞いた刑事は、放送室に飛び込んでいった。



「双子」



 刑事に続こうとした双子を、白音は呼び止める。



「なあに?」「なんか用?」

「感謝します。手伝ってくれて」



 白音は頭を下げた。

 放送室のすぐ外に待機していたはずなのにやけに助けに来るのが遅かったり、かえって面倒を増やしている気もするけれど。

 それでも、特別に親しいわけでもない白音に協力してくれたことには、礼を言いたかった。

 だが。



「当たり前ジャン」「友達だろ?」



 当然のように。双子たちはそう、言ってきた。

 白音はふいを打たれ、絶句した。

 友達。そのような呼び名で、おのれを形容されるとは思ってもみなかった。

 だけど。

 その言葉は当然のように、白音の腑に落ちた。



「ありがとう」



 白音は自然、笑みを浮かべていた。

 それに対し、はじめて別々の反応を見せる双子を眺めながら。

 この双子とは、いままでとは違った付き合い方ができると、確信した。






[1515] 外伝 神がかり エピローグ(了)
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:c95dfe0c
Date: 2008/10/10 23:46



 幽気さえ伴って、彼女は現れた。

 光すら拒絶するような漆黒の髪。眩いまでにしろい肌。

 すべてをあざ哂うかのような笑みを面に浮かべて、少女は立花雪の病室に入ってきた。



「やあ、立花くん。直接に会うのははじめてではあるのだが、同じ学び舎に学んだ者として、ここは久しぶりだね、とでも言っておこうか」



 話しかけてくる彼女には敵意など微塵もなく。だからこそ、雪は警戒した。



「……他人とは話さないと聞きましたよ。宝琳院先輩」



 宝琳院庵の様子を伺うように、雪は鷹の目を鋭く向ける。

 一見してただの人にみえる。

 だが、その瞳の奥に潜むかすかな違和。その底にあるものは、周囲を支配する魔の香りと、おそらく同質のもの。



「それは誤解だよ。ボクはただ、必要な場合しか話さないだけだ。必要があるのなら、言葉を惜しむつもりはないよ」



 そう、話しかけて、無造作に。宝琳院庵はベッドに腰を下ろしてきた。

 雪の腕が、彼女の腰に触れる。

 雪は動けない。腰から下が、ギブスで固められているのだ。校舎から落ちたときの負傷は、彼女から身動きする術を奪っていた。



「なにを――」



 ――しにきたんだ。



 と。そう言いかけて。

 雪の歯が、がちりと音を立てた。

 歯の根があっていない。

 はじめて。雪はおのれが畏れを抱いているのだと、気づいた。



「ふむ。なにをおびえているんだい?」



 宝琳院庵が、弄うような調子で問いかけてくる。

 ぎり、と。

 歯を思い切り、食いしばる。惰弱な己に対する怒りが、恐怖をねじ伏せた。



「それだけ凶悪な匂いをふりまいて、なにを言ってるんだ。化け物」



 枕に頭を預けたまま、雪は言い放つ。

 鷹の目に、つよい光が宿っていた。



「ふむ? わかるのかい?」



 化け物、と、そう呼ばれて怒ることもなく。

 宝琳院庵は平然としたものだ。



「察しの通り、わたしは尋常な存在ではない。キミの頭の中にあるくくりで言えば、まあ化け物で正しいのだろうね」



 にやりと笑う宝琳院庵。

 雪の背を、ひやりとしたものが這った。



「だが、それがわかるキミも尋常ではあるまい。人の腹から生まれ、人という鋳型からひとつもはみ出していないこのボクを、そう断じるのだから」



 その言葉に、雪は目を丸くした。



「……マジか?」

「大マジだよ。こんなところで嘘をつく意味など、ボクにはとても思いつかないね」



 嘘をついているようには見えない。雪はまじまじと、宝琳院庵を眺める。



「なら、怪異を起こしたり、瘴気で人を狂わせたりは……」

「それができたら人間じゃないだろう?」



 雪はため息をついた。



「馬鹿だろ、あんた」

「ボクの趣味の問題だ。ほうっておいてもらおうか」



 さすがに宝琳院庵も、むっとした様子で口を引き結んだ。



「しかし、それだけ鼻が効いて、“寝子の呪い”を解決できなかったは、なぜなんだい? キミならばもっと早く解決できたはずだよ」



 その問いに対し、雪は口をへの字に曲げた。



「あいにくと買いかぶりだ。たしかにわたしは魔の気配に敏感だけど、その感覚は嗅覚に近い。発生源を特定できるほど精密じゃないんだよ。学校とここ、二ヶ所で同じ匂いがしなかったら、とても気づけなかったろうよ」

「なるほどね」



 雪の説明に宝琳院庵がうなずく。



「そのあたりが、キミが小城元子に後れを取った要因かな?」



 なに気なしに、本題に導かれ。

 ふう、と、雪はため息をついた。



「匂いの発生源を特定できなかったから負けた、なんて言いわけなんかする気はない。わたしはあいつの背後にいた化生に、手も足も出なかった」



 思い返すにはまだ、痛みが生々しすぎる出来事だ。

 小城元子の背後に、確かに居た存在。それが触れた瞬間、雪の自我は霧散した。

 つぎに気づいたのは、病院のベッドの上。

 雪はなにもできないまま、負けたのだ。



「あの、化け物」

「――神だよ」



 いきなりそう言われて、雪は理解できなかった。



「んあ?」

「神というものを、信仰により生じた“現象”の集合体だとするなら、小城元子の背後にいたものはまさにそれだと言ったんだ」



 淡々とした宝琳院庵の説明に、雪は眉をひそめる。



「あれが神だと?」

「そのとおり。“ヒゼンさま”という名の、小城元子が信仰する――カミサマだよ」



 そう言って、彼女は雪を見下ろしてくる。

 化け物を退治る古い家で育った雪にとって、あまりにも噛み砕きすぎたその言いようは不遜に聞こえた。

 むろん、噛み砕いただけで、ことわり自体は雪の知識にも適う。



「たしかに。あんたの理屈で言えば、あれは神なんだろう。だけどたった一人の信仰が生み出す神に、あれほどの力があるはずが、ない」



 雪は断言した。

“ヒゼンさま”が宝琳院庵の言うような存在であるなら、雪が後れを取るはずがなかった。

 雪の言葉に、宝琳院庵もうなずく。



「むろん。キミを負かすほど力を持つに至ったのには、理由がある」



 そう言って、宝琳院庵は指を一本、突き出してきた。



「寝子の飛び降り。あれを覚えているだろう?」



 その問いに、雪は首を上下させた。

 学校中の生徒が見ている前で起こったあの惨劇は、まだ、記憶に新しい。



「小城元子の信仰を深めたのは、間違いなくあの一件だが、それはなにも彼女一人に限ったことではない。学校と言う小さなコミュニティーであんな事件が起こればみな不安になる。畏れる。なにをか?」



 宝琳院庵の口が、三日月をかたどる。



「……彼女を飛び降りさせた、目に見えぬ、理解できぬなにか・・・――ではないかな?」

「つまり、あの事故に対する恐れに、小城元子が“ヒゼンさま”というカタチを与えたってこと、なのか?」



 そのとおり、と肯定の言葉が返ってきた。



「さらに漠然とした恐怖は“寝子の呪い”として、より具体的な恐怖の対象となり、“ヒゼンさま”は格段に力をつけた。キミが太刀打ちできないほどに」

「……なるほどな」



 仏頂面のまま、しばらく唸って。

 雪は深いため息をついた。



「で、なんの魂胆があってそれを教えるんだ? またあいつと噛み合わせるつもりか?」

「ふむ? そういえば言っていなかったかな」



 にやりと。宝琳院庵が哂う。



「この件に関しては、すでに白音が解決した」



 皮肉な笑みは、どこか誇らしそうだった。



「……白音。あの娘が?」

「その通り」

「どうみても一般人の、あの娘が? どうやって」



 呆然と、雪は尋ねる。

 立花雪は若年とはいえ専門家である。その彼女が手も足も出なかった相手だ。宝琳院白音が勝てる道理はなかった。



「信じていないから……だろうね」



 そう答えた宝琳院庵の表情からは、毒が抜けていた。



「あの娘は神も悪魔も信じていない。怪力乱神を語らずと言うかね、徹底した論理思考の持ち主だ。一連の事件。その因果を徹頭撤尾、理で解き明かしてみせただろうよ。
 信仰の大本である小城元子の狂信がわずかでもほつれれば、それによって編まれた神も影響力を失う――まあ、白音のことだからそんなに生易しい真似はすまい。完膚なきまでに元子の信仰を分解したのではないかな?」



 雪はしばし、絶句し。



「化け物か。あんたの妹は」



 かろうじて、それだけもらす。



「化け物じゃない。とことんまで人間なのさ。あいつは」



 そう言って、妖しは哂う。



だからこそ・・・・・神も悪魔も敵うわけがないんだ・・・・・・・・・・・・・・





 神がかり 了






[1515] 閑話7
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:c95dfe0c
Date: 2008/10/23 22:01



「なんなの……あの女はぁ!!」



 鈍い金属音とともに標識の看板が揺れた。

 おのれの拳でそれをなした石井陽花の表情は、ひとつの感情に彩られ、こゆるぎもしない。

 人通りの多い交差点ちかく。否応なしに衆目があつまる。

 むろん、同行している自分たちにも。

 なかば達観した瞳で。

 姉川清深は自分たちに向けられた視線を受け入れていた。

 それが陽花の奇行に対する正当な評価だと理解しているからだ。

 とはいえ、彼女が荒れる気持ちも理解できなくはない。

 龍造寺円。

 想い人のそばにいる、協力無比なライバルの存在に、彼女はついに気づいてしまったのだ。



「……ああ、おねえさまのことか」



 しばし首をひねって、深堀純が手を打った。凛と整った彼女の顔がゆるんでいる。

 清深はこっそりとため息をつく。頼れる女性に弱いのはいいが、これでは妙な嗜好があるようにしかみえない。



「まったく! ちょーっと幼馴染だからって四六時中べたーっと引っ付いちゃって!」

「まあ、鍋島先輩だし、しかたないけど」

「そうよねお兄さんはかっこいいからもてるのはしかたないけど」



 微妙に話が噛みあっていない。

 はたから聞いていると混乱しそうな会話だ。



「だいたい、なんであんな美人なの!?」

「美人だねぇ」

「美人やなあ」



 清深も純も、これには完全に同意せざるを得なかった。

 容貌にしろスタイルにしろ、文句のつけようがない美少女である。造作に一点のぶれもなく、彼女そのものが一種の芸術品としか思えなかった。

 が。

 非難めいた視線が、清深に向けられる。



「な、なんやの?」

「……清深が言うな。つか嫌味か」

「その顔でまだ不満なのか?」



 一斉に非難を浴びた。

 仕方あるまい。清深もまた、すこぶるつきの美少女なのだ。



「まあ、でも、やっぱり強力なライバルさんやで? 陽花」

「っ!」



 無言の圧力にたえかねて、視線をあさってに向けながら。清深は矛先を逸らした。



「頭のできなら負けないもん!」

「おねえさま、模試でも全国レベルらしいよ?」

「た、体力ならっ!!」

「バット持った聡史さん、瞬殺したんよ? あのひと」

「ううっ」



 ふたりに突っ込まれ、たじろぐ陽花。その表情が、しだいに怒りの色に染まっていく。



「なんですかその完璧超人は!? なんでそんな人が実在するんですか!?」



 思いきり逆切れである。

 龍造寺円に対して神の偏愛を感じざるを得ないというのは、清深の、掛け値なしに本音なのだが。

 それにしても。

 清深はつくづく思う。



「なんであそこまできれいなひとが、直樹さんなんやろ」



 悪意からではなく、不思議に思う。

 彼が格段劣っているというわけではない。

 身長は高いし、普段はぼんやりした印象だが、いざというときは頼りになる。またそのときの、芯の通ったりりしい顔は、かっこいいとも思う。

 決して悪くはない。それどころか恩人補正を合わせれば立派に……

 まあともかく。

 そんな直樹と釣り合いが取れないと言うのは、龍造寺円のスペックがぶっちぎっているからである。

 彼女と釣り合いが取れそうな男性というのを清深は思い浮かべることができなかった。



「そりゃあ、お兄さんが、素敵な……」



 まあ、陽花にとっては別らしい。

 紅潮した頬を押さえ、くねくねしだしてあとは言葉にならない。

 ご馳走さまという感じだ。



「……でもまあ、陽花はほっておいても、鍋島先輩、もてるよな」



 陽花から視線をそらして、純が話しかけてきた。



「まあ、ああいうお人柄やし、人気あるのもわかるんやけどねぇ。彼女さんもせやけど、白音先輩のお姉さんも直樹さんやろ?」

「ああ、あの伝説の。だよね、あのひとも相当美人」

「せやし、白音先輩本人もあやしいと思わへん?」

「えっ!? せ、先輩が? どういうこと!?」



 純が泡を食って聞いてきた。

 おなじ顔の姉妹にもかかわらず反応が違うのは、妹のほうとより親しいから、というよりは、性格の差異だろう。

 見かけによらず世話好きな白音は、純の好みに合致するのだ。



「だって、白音先輩、“RATS”でよく直樹さんとしゃべってはるやん? あの時、なんや生き生きしてはるやない?」

「う……」



 否定できないのだろう。純は言葉に詰まった。

 無表情きわまる宝琳院白音の感情を読むことはほとんど不可能に近いが、だからこそ、ささいな違いが意味深に見えるのだ。

 本当のところは清深にはわからないが。

 そんなことを話していると。



「――なにを話しているのです?」



 いきなり。

 うしろから聞き覚えのある声が投げかけられ、清深は固まった。

 振り向くまでもない。

 話題にしていた当人、宝琳院白音の声だった。



「白音先輩」



 純が嬉しそうに手を振る。

 軽い会釈でそれに応じ、白音はゆっくりとこちらに近づいてきた。



「五本指、なにを話していたのです?」

「いや、その」「内輪の話でして」

「五本指、何を話していたのです……と、尋ねるまでもなく、最後の言葉といまの反応からあらましは推測できましたが」



 白音は言ってきた。

 わかって当然。そんな口調である。



「直樹さん――や、その周りの人物についての話でしょう?」



 真顔のまま、口元だけで笑いを表現する白音に、純も清深も引きつった笑みを浮かべた。 

 化け物である。

 名門泰盛学園でトップクラスの成績を誇り、一年生にして“数字”を賜る栄誉に浴した清深も、この先輩にだけは敵わないとつくづく思う。



「は、はい。それで直樹さんのどこがいいのかと言う話になって――」

「それでそこの娘は妄想全開になっているわけですか」



 陽花のほうを見やって、白音はことさらにため息をついて見せた。

 彼女の妄想がどこまで飛んでいるのか、清深にもわからない。



「まあ、安心なさい、五本指」

「はい?」

「わたしがあの人を思う気持ちは、たとえば妹が義兄を想うようなものです」



 そう言い残して、白音は去っていった。



「そうか、兄妹愛か」



 純が、なぜか胸をなでおろす。



「いや、なんか……兄の前に“義”とかついてへんかった? 微妙に妖しい感じで」

「ってことはやっぱり、庵先輩のほうは直樹さんなんだ?」

「いやぁ。白音先輩のほうにもその気、あるように見えたけど?」



 たがいに目を合わせ、沈黙する。

 宝琳院庵と宝琳院白音。直樹との三角関係。

 考えるだに恐ろしい修羅場が、ありありと想像できた。



「でもまあ、やっぱり一番のライバルは」

「おねえさまだよな、どう考えても」



 純と清深、ふたりの視線が陽花に向けられた。

 顔立ちは、幼い。中学一年生という年齢を考えれば締まった顔つきだが、やはりかわいい以上の評価を受けることはないだろう。

 体つきは年相応――よりすこし小さめだ。

 頭はいい、と言ってもそれはテストで点数を取れるたぐいの賢さである。私生活ではむしろ子供っぽい言動が目立つ。

 むろん色気など皆無である。

 勝ち目などこれっぽっちもなかった。

 はあ、と、ふたりのため息が重なった。



「え? なに? なんのため息?」



 妄想世界から返ってきた陽花が尋ねてきた。

 夢みる少女に、清深はあらためてため息をつく。



「直樹さんがロリコンやったらまだ勝ち目あるやろうけど……のぞみ薄やね」

「ろ、ロリとか言うな! 時江よりましでしょ!?」

「あのこは比較対象にならへんやろ?」

「年相応どころか見た目完璧小学生だしな。まあ、正直時江も陽花も、おねえさまから見ればたいして変わらないだろうけど」



 辛らつな突っ込みに、陽花は涙目だ。

 むろん。年相応どころかそこからあふれ気味なくらい育っている龍造寺円のスタイルと比べる勇気は、清深や純ですらない。



「ううう、じゃあどうすればいいってのよ」



 へこみすぎてつぶれそうな陽花を見やりながら、清深はしばし沈思。



「べつに基本スペック負けててもいいやん。最終的にくっついたほうが勝ちなんやから」

「どうすればいいの!?」



 食いついてきた陽花に、清深は考えを披露する。



「まあ、まず考えつくんは先延ばしやね。ふたりのあいだに割り込んで徹底的にそういう雰囲気にならんように邪魔したり。あとは逆にふたりをあと押しするようなうわさ流して気まずくさせるとか、実際ひっつけてもうてから、上手いこと別れさすように仕向けたら、もうよう付き合えんやろし。それで陽花がまともに女として見てもらえる年齢になったら一気に勝負をかけたら……どないしたん? ふたりして妙な目して」

「清深ちゃん……腹黒っ!」

「さすが京都人だ……」



 ふたりの瞳には恐れの色さえある。

 思い切り引かれていた。すこし毒が強すぎたらしい。



「でも勉強になるっ! ほかになにか策は?」

「ええと……」



 陽花のほうは直樹への想いが勝ったらしく、首を突っ込んで聞いてきた。

 それにどう答えようかと首をひねっていると。



「あれ? 石井に深堀に、姉川じゃないか」



 当の直樹が現れた。



「ああっ!? お兄さん!!」



 言葉のはしにハートマークをちりばめながら、振り返ったの顔が引きつる。

 直樹にぴたりと従う長身の女性を見咎めたためだ。

 龍造寺円である。

 その姿に顔を紅潮させる純に、あえて気づかないふりをして。



「直樹さん、どちらに?」



 清深が尋ねると、直樹は親指で道路の向かい側を指し示した。

 そこにあるのはラーメンししや。男子学生のあいだで評判だと、清深は小耳に挟んだことがあった。



「ラーメン屋。お前らも行くか?」



 直樹は笑顔で尋ねてくる。

 さて、夕食も近いことだし、どうしようか。清深が考えるうちに。



「はいっ! 喜んで!」



 陽花が即答していた。



「じゃあ、僕もっ!」



 純もそれを聞いて二つ返事で応じる。

 そうなれば清深とて行かないわけにはいかない。

 なんだかんだ言って、彼女たちの行動は、陽花の意思で決まるのだ。



「わたしも、ご一緒させてもらいます」



 清深は達観した瞳を、空に向けた。









 もうもうと湯気で煙るラーメン屋のカウンターに並びぶと、店員の、威勢のいい声が飛んできた。



「いらっしゃい! 円ちゃん、なんにする?」



 その店員とは顔なじみなのだろう。軽く会釈してから、長身の美少女は静かに言った。



「とりあえずラーメン五杯」

「あいよ! ラーメン五丁っ!」



 ――気のはやい人やな。うちらの分まで頼むやなんて。



 などと清深が眉をひそめていると。



「じゃあ俺もラーメン、メン硬で」



 直樹が何気なく、注文した。



「え?」



 と、三人の声が揃う。



「お前たちはなんにする?」



 などと楽しげに聞いてくる円に、あっけをとられて。

 円の前に並べられた五杯のラーメンを目にして絶句した。

 トンコツのこってりスープの上には背油が浮き、細メンはひしめきあってそのボリュームを主張している。それを汁ひとつこぼすことなくすすり上げ、一滴も残らずスープを干す。

 その作業は、清深が麺を半分も食べないうちに終わった。

 そして、その後の言葉はさらに予想外。



「すまない。ししやチャレンジ盛りとチャーハン、ギョーザ三人前ずつ、それとお冷やおかわり」



 そう言って空になったピッチャーを突き出すさまを見て、むしろ苦笑いがあふれてきた。



「こいつの胃袋は、なにかメルヘン的不思議時空とつながってるんだよ」



 清深以上に達観しきった表情で、直樹が説明する。

 グラスを持つとき小指を立ててるのがちょっとうざかった。



「ちなみにこれ、間食な」



 苦笑いを超越して、清深も悟りを開けそうな気分になった。

陽花が漏らした言葉が、清深たちの心情を余すところなく表していただろう。



「人間じゃねえ」



 その言葉に。

 龍造寺円は見惚れそうな笑みを浮かべ、口を動かしてみせた。



 そ・の・と・お・り



 彼女の口は、たしかにそう動いた。






[1515] ユビツギ 1
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:4332f105
Date: 2009/03/09 01:39


 季節を一ヶ月もさき送りしたような陽気だった。
 佐賀野の駅から吐き出される人の表情も、心なしかぬるい。喫茶店"RATS”からそれをながめる直樹も、さきほどからしきりにあくびをかみ殺していた。
 待ち合わせの時間を過ぎても、友人はまだ来ない。このまま窓辺でまどろんでいるのもいいか、などと直樹が思い始めたとき。

「ごめんなさいよ」

 ふいに声をかけられて、直樹は頬杖を崩した。
 あわてて頭を上げると、テーブルのまえに、白いコートを着た女が立っていた。

「なんですか?」
「ちょいと相席してもいいかい?」

 言われて、直樹は視線を店内へ滑らせた。ざっと見ても二、三の空き席がある。

「いいけど……空き席ならあっちのほうにありますけど」

 言葉の頭さえ聞かずにバッグを席に放り投げた彼女は、言い終わるころにはもうそれにコートを重ねていた。

「ああ、いいんだよ。おねーさんはきみと相席したいんだ」

 あげくにそんなことを言うものだから、直樹が平静でいられないのも当然だろう。
 ウェイトレスにフレッシュミルクを注文する彼女の横顔を、直樹は落ち着かない気分でながめていた。

 自分を「おねーさん」などと言っているが、歳は直樹とそれほど離れているようには見えない。長身の直樹を子ども扱いするのだから、見かけよりも年上なのかもしれないが。
 顔立ちは整っている。ただ、軽さと温さが面に出ているせいか、美人という感じはしない。

 だが、どこかで見たような。そんな既視感をおぼえてならない。
 初対面の彼女に対して、なぜそんなことを思うのか。直樹が考えているうちに。

「さて」

 注文を終えた彼女が、視線を転じて話しかけてきた。

「きみ――ああ、名前がわからないと呼びにくいな。よかったらおねーさんに名前を教えてくれないかな?」
「鍋島直樹、ですけど」

 なんとなく抗しがたいものを感じ、直樹は名乗った。
 女のほうは、それを聞いて深くうなずいてみせる。

「直樹……うん、まっすぐに根を張った大樹を連想させるよい名前だね――じゃあ直樹。おねーさんがなぜ、見ず知らずのきみと話したいと思ったか、だけどね」
「はい」
「きみに惚れたからだよ――と、そんなに引かなくてもいいのに。傷つくねえ。軽い冗談じゃないか」

 彼女は口を尖らせたが、致し方ない。初対面の女性に不意討ちでそんな言葉を聞かされて、とっさに反応しろと言うほうが酷だろう。

「まあいいさ。それで、おねーさんも理由なしにこんなことをしてるわけじゃない。
 きみが、ちょっと問題を抱え込んでいるように見えたんでね、相談に乗ってやろうかと思ってね」
「問題、って、特にはありませんけど」

 嘘である。彼女の言った通り、直樹は問題を抱えている。あえて知らぬふりをしたのだ。
 直樹が抱える問題とは、いわゆるオカルトに関わるもので、おいそれと他人に言えることではない。
 そんな直樹に、彼女はにやりと笑い、言った。

「まあ、見ず知らずのおねーさんには言いにくいだろうね……小指が動かないなんて」
「……なんのことですか?」

 あやうく動揺を面に出すところだった。
 とぼけはしたが、事実である。まさにそれが、直樹が抱えていた問題だった。
 それを見破った彼女は、ただものでない。一般人だとしたら、並外れた観察眼の持ち主であり、そうでなければ、直樹の知人のように、魔の領域に関わるものだろう。

 そんな直樹の心の動きすらも見透かしたように、彼女は微笑を浮かべた。弄るような、どこかで見たような笑顔だが、悪意や害意は見出せない。

「警戒してるね? まあ仕方ないか。おたがい会ったばかりなんだから。
 安心して。おねーさんは直樹にとって、この件に関してはいい人さ」
「この件に関しては?」

 妙な物言いである。

「そりゃあそうだよ。おねーさんはおねーさんの都合でしか動く気はないからね。その気がなくてもキミにとって都合が悪いことも、してしまうかも知れない。だけど、この件に関してなら、おねーさんには全面的にキミの味方になれる。なぜなら、おねーさんには都合が存在していないからね」
「要するに……」

 彼女の言葉を噛み砕き、その意味するところを理解して、直樹は目を眇めた。

「暇なんだな」
「その通り。そこへ妙な問題を抱えてるきみを見つけたんで、ひとつ相談に乗ってやろうかと思ったわけさね」

 彼女は胸を張ってうなずいたものである。
 どうしようもなくマイペースで、自己中心的だ。
 ここにきてやっと、直樹は既視感の正体に気づいた。つまるところ、彼女のあり方は――宝琳院庵、そっくりなのだ。

「さあ、話してくれないか? その指が、どんな異常の結果失われたかを」

 手のひらを向けて促してくる彼女に抗することを、直樹はため息とともにあきらめた。




 クリスマス前夜のことである。直樹は夢に囚われた。
 クラスの皆を巻き込んだ、学園祭の夢。その中で、直樹はひとつの呪いにかけられた。
 刻々と深くなっていく傷が指を切断したとき、悪魔に心を支配される、そんな呪いだ。逃れる術もなく、刻限が迫ったとき、直樹は思い切った手段に出た。
 自ら小指を噛み千切ったのだ。
 暴挙と言っていい。だが、それにより直樹は呪いから逃れることができ、ひいては親友の命を助けることができた。

 だが、当然のように代償は求められた。
 夢から目覚めたあとも、直樹の小指は動かなくなった。

「あの時われわれがいたのは、ただの夢の中ではない。もっと根源的な――概念の領域だ。そこでキミは指を断った。明確な意思のもと、断ち切った。
 実世界での影響は免れまいよ。たとえ肉体的には無傷であろうと、ね」

 事情を知る宝琳院庵は、動かない小指についてそう説明した。
 だが、彼女はこうも付け加えた。
 肉体が精神の影響を受けるように、精神もまた、肉体の影響を強く受ける。直樹の小指も、いずれ動くようになるだろう。
 しかし、二月も半ばになったいまでも、不思議と小指が直樹の意思を伝えることはない。

 本当のところ、動かない小指に関しては、直樹はそれほど気にしていない。
 夢の中とはいえ、それで後悔するような生半可な覚悟で噛み千切ったわけではなかった。
 だが、小指が動かなくて不自由ふる直樹を見るにつけ、己を責める幼馴染を見ているのはつらかった。




「――なるほどねえ」

 直樹の説明をひととおり咀嚼すると、彼女は目を細めてうなずいた、
 人名などは挙げていないものの、悪魔にまつわる出来事はほとんどそのまま説明した。にもかかわらず動じた風がないのは、やはりそちらの方面に詳しいからだろう。

「それは、その、友達の言うとおりだろうね。直樹の小指が事実実際満足を保っている以上、欠けたものもいずれ補填される。それが長引いているのは、きみの思い込みの強さゆえかな? 意思の強さが、この場合逆に災いしてるんだね」

 直樹はうなずいた。
 彼女の分析は、宝琳院庵のものとほぼ等しい。

「ま、このさい気長に待つしかない。自縛が解けるまで、ね」

 おのれが己を縛っている。彼女の表現は、おそらく現象として正しいのだろう。
 だが実際問題として忘れられるはずがなかった。己の指を噛み千切った、あのときの緊張、恐怖、激痛。そして覚悟の強さが、小指を断つイメージをいまだに薄れさせない。
 思い返して直樹は思わず身震いした。

「ま、おねーさんが言えるのはこれくらいかな」

 それを見ていたのか見ていなかったのか、おおきなあくびをすると、彼女はあごを机の上に落した。それでも顔だけは上げて、彼女は最後に付け加えた。

「あとひとつ。欠けているってことは、どこかで埋めるものを求めているってことだから、妙なものを惹いちゃうこともある。気をつけてね……」

 それでおしまいとばかりに彼女は目を閉じた。その頭に直樹は苦笑を落とした。
 彼女と話していると、まるで宝琳院庵と話しているような錯覚を覚える。

「ありがとう」
「お礼ならここの紅茶代でいいよ」

 感謝の言葉に、目をつぶったまま返された。
 直樹は達観した表情でレシートを手元に寄せた。マイペースで妙にずうずうしいところまで、宝琳院庵にそっくりだった。

「またなんかあったらおねーさんに相談しなさい」

 そう言ってすやすやと寝息をたてだした彼女を見ながら、直樹はふと思い出して携帯電話を取り出した。
 本来この喫茶店で待ち合わせていた相手、クラスメイトの鹿島茂のことを思い出したのだ。
 時間は二時過ぎ。遅刻魔の茂とはいえ、一時間の遅刻は例がない。
 その鹿島茂から、知らぬ間にメールが来ていた。

"悪い。急用ができた。良チンも無理になったから違う日に遊ぼうぜ”

 直樹の予定は、こうしてつぶれた。
 むろん、神ならぬ直樹である。喫茶店で談笑する直樹たちを見た茂たちが気を利かせて帰ったことなど知るはずもなかった。




 ふたり分の会計をすませ、店を出たところで、直樹はかるくのびをした。まだ日は高い。残った休日の午後をどう過ごすか、考えながら歩き出したとたん。
 いきなり誰かとぶつかった。
 
「あ、すみません」

 思わず謝ったが、その対象を、直樹はとっさに見つけそこなった。
 予想より数十センチも下に、彼女はいたからだ。
 子供だった。しゃがみこんでいたので視界に入らなかったのだ。

 そばに転がっている一本の松葉杖を見つけ、直樹はあわてて拾い上げた。どうやらけが人にぶつかってしまったらしい。

「すまん。大丈夫か?」

 気遣いながら、松葉杖を差し出す。
 はい、と、はっきりとした口調で返事して、少女は顔を上げた。

 小学校の高学年くらいだろうか。パッチリとした目の、かわいらしい感じの女の子だ。
 包帯やギブスの類をしていないのを見れば、治りかけているのだろう。それでも杖に縋って立ち上がろうとする少女を見かねて直樹は手を差し伸べた。
 少女は大丈夫、と断るように手のひらをこちらに向け――手が触れあう。
 瞬間、電撃が走った。

「わちっ!?」

 慌てて手を引っ込めたが、少女の手は磁石のように引っ付いて離れない。
 自然、少女を吊り上げる形になってしまった。
 直樹はひとつ、呼吸してから手を左右に振った。つられて少女も手を振る形になる。直樹のほうが手が長いので、少女の体が泳いだ。

 手と手が引っ付いて離れない。異常である。
 慣れたくもなかったが、直樹は過去の経験から、これがなんに由来する現象か、見当をつけてしまっていた。

 青ざめる直樹とは逆に少女のほうは、この異常を冷静に受け入れているようだった。それよりも彼女の興味は直樹自身にあるようで、さきほどからしげしげと直樹を見つめている。それに気づいた直樹は、自分が値踏みされているように感じた。

「ふーん」

 商品に価値を認めたような調子でうなずくと、少女は直樹に対してまっすぐな瞳でこう尋ねてきた。

「あなたが、あたしのだんな様?」

 直樹の思考はそこで停止した。




[1515] ユビツギ 2
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:3dab3b5e
Date: 2009/04/06 01:07


「ダンナサマ?」

 直樹は頓狂な声をあげた。
 それはそうだろう。見ず知らずの少女から、「あなたがわたしのだんな様?」などと聞かれたのだ。素直に受け入れられるほうが、どうかしている。

「……え? なにかの遊び? ごっこ?」
「ごっこじゃないもん」

 とまどいながら直樹が尋ねると、少女は頬を膨らませた。

「これが証拠」

 引っ付いてしまった右手を差し上げて、彼女は主張する。
 まるでそれがシンデレラのガラスの靴だと言わんばかりだ。

「なあ、きみはこれについてなにか心当たりがあるのか?」

 ふと気づいて、直樹は尋ねてみた。
 彼女が異常を受け入れているのは、その原因を理解しているからではないか。そう思われたのだ
 直樹の質問にこくりとうなずいて、少女は左手で器用に携帯をとりだした。

「こんなメールが来てたから」

 突き出しされた携帯の画面には、ごく短い文章が映し出されていた。

"小指は重なり、比翼となる”

 比翼とは空想上の鳥の名である。一翼一眼を持ち、つねに雌雄一体となってたがいに支え合う。連理と併せて、男女の契りが深いことのたとえに使われる言葉だ。

 結婚式で、そんな無駄知識を披露していた話好きの叔父を思い出しながら、直後に直樹は凍りついた。
 差出人の名が眼に入ったのだ。

「横岳、聡里……」

 忘れられない名だった。
 五本指の“親指”だった彼女は、直樹が関わることになった“ユビオリ”の事件に先立って死んでいる。

 事件のおり、“中指”深堀純は彼女を装って不吉な予言メールを送っていた。
 他の五本指を助けるため、“本物”が送ったメッセージも紛れていたのではないか。宝琳院庵はそう言っていた。

 このメールは間違いなくその類だった。

「そう。こんなメールが来て、こうなっちゃったのなら、あなたがだんな様だって思うしかないでしょ?」

 それで。
 彼女が何者か、直樹は理解した。
 このメールを受け取ることができる人間のうち、直樹が顔を知らない人間はひとりしかいない。

「きみは"五本指”の小指だな? 交通事故で入院してた」
「やっと気づいた? 鍋島直樹さん」

 少女はふわりと笑った。彼女のほうは、すでに気づいていたらしい。

「石井たちから俺のことを聞いてたんだな?」
「うん。写メまであるからすぐにわかったし」

 微笑んで、少女はやおら居住まいを正した。

「あらためて自己紹介します。あたしは倉町時江くらまちときえ。ご存知のとおり"五本指”の小指です」

 急にかしこまって自己紹介する少女に、直樹は妹が彼女を評した言葉を思い出した。

 小さいが、しっかりもの。

 なるほど、小さい。他の“五本指”と同学年だから、中学一年生のはずである。しかし、想像の中で彼女たちの横に配置してみても、倉町時江はとびぬけて小さい。顔立ちが幼いから、余計にそう思える。長身の深堀純などと比べれば大人と子供だった。

「鍋島直樹だ。妙なことに巻き込んじゃったみたいだけど、まあ、なんとかするから任せてくれ」

 直樹の言葉に、時江はなぜか一瞬ためらい。

「はい。だけど、あたしにできることがあったら、させてください」

 意を決したように、そう言ってきた。

「よろしくな、倉町」
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「いやいやいや、その挨拶はなんか違うから」

 直樹はあわてて手を横に振った。
 陽気に似合わず、道行く人の視線は、直樹につめたかった。




「俺に任せてくれ」

 とは言ったものの、直樹になんとか出来るあてがあるわけではない。
 ただし、なんとかできる人間については、たっぷりとあてがあった。たとえばそれは佐賀野高校三階図書室にいる、いつも無言で本を読んでいる少女だったり、最近ちょっと人外めいてきた幼馴染だったりする。
 今回の場合は佐賀野駅前にある喫茶店“RATS”で爆睡している自称おねーさんだった。

 むろん直樹とて、行きずりの彼女に助けてもらおうとは思っていなかった。
 なぜ彼女を頼るはめになったのかといえば話は単純で、向こうから首を突っ込んできたのだ。

 起こっている事態について、まずは倉町時江に理解してもらう必要があった。
 とはいえ、足が不自由な彼女と立ち話するわけにもいかない。そこでふたりは喫茶店“RATS”に入った。
 距離が近かったのと、行きつけの気安さから選んだだけで、他意はない。だから窓側席で寝息をたてていた彼女を避け、奥の席を選んだのだが。

「ちょいと、素通りなんてつれないじゃない」

 いつの間に目を覚ましたのか、腕枕の隙間から顔を覗かせ、声をかけてきたのだ。

「おねーさんの予想は当たったろう?」

 言って相席を進めてきた彼女に、とりあえず相談してみようという気になった直樹だが、意外にも時江がかなり渋った。

「女の人だし、初対面だし、そもそも人の手を借りるのって好きじゃないもん」

 時江はそう主張した。
 むろん、直樹とて彼女が理想の相談相手だとは思っていない。
 信頼関係を築くには、彼女との付き合いはあまりにも浅い。
 それでも、いま、ここにいて、必要な知識を持っている。それが、どれほど貴重なことか。

 もちろん宝琳院庵とすぐに連絡がつけばそれに越したことはないのだが、あのローテク悪魔は携帯なる文明の利器を所有していない。
 龍造寺円は力こそあるものの、知識に関して不安が残る。彼女を頼ることは、最良でなくとも最善の選択だ。

 そう信じて、直樹は時江を説得した。
 これは異常の法理による出来事であり、解決にはそれに精通した彼女の知識が不可欠だと説明して、なんとか時江を席につかせた。

「倉町時江。あなたは?」
「え?」

 ふて腐れながら自己紹介した時江に、なぜか女のほうが言葉に詰まった。

「……ネコ丸ニャン太郎?」
「誰だよそれ」

 しばし首をひねった彼女が出した名前に、直樹は瞬息で突っ込んだ。
 偽名以外のなにものでもなかった。

「つかなんでそんな意味不明な偽名を名乗るんだよ」
「ネコ丸ニャン太郎さん」

 目を眇める直樹に、ネコ丸ニャン太郎(自称)は、拗ねたように指を弄りだした。

「だって、本名を名乗ったら直樹はおねーさんのことをおねーさんと呼んでくれなくなるだろう?」
「もとから呼んでないけどな」
「ネコ丸ニャン太郎さん」
「わたしはきみにおねーさんと呼ばれたいので、名前は名乗りません」

 なぜか胸を張って、彼女はそんなことを宣言した。

「なんでだよ」

 直樹は頭を抑えた。
 意味不明である。

「ネコ丸ニャン太郎さん」
「そこの小娘? いい加減にしないとおねーさん的打っ潰死ぶっつぶしリストに、最優先のチェック入れて載せちゃうぞ?」

 そしてこんどは時江に向かって、猫なで声で脅し始めた。
 むろん、彼女の恥ずかしい偽名を連呼していた時江も悪いのだが、自分で名乗っておいて理不尽極まりない。

 ともあれ、そんなことで時間を空費していても仕方がない。
 話を引き戻し、直樹は一連の経緯を、なるべく主観をまじえずに説明した。そのほうがより判断しやすいと思ったからだ。
 このあたり、さすがに直樹も慣れてきている。はたで聞く時江も、無言で直樹の言葉を咀嚼していた。

「なるほど。わかりやすい説明ありがとう。ときに直樹」
「なんだよ」
「こんな状況になったのに、意外と落ち着いてるんだね。それに手馴れてる。他にもなにか厄介ごとに関わってきたみたいに」

 彼女は興味深げだったが、直樹はそれについてはぐらかした。
 予言メールに関わる“ユビオリ”の事件は倉町時江にとって、いまだ癒えていない傷だろうし、ことの起こり、“ユビサシ”の悪夢は、直樹にとって忘れられない傷なのだ。
 それに、必然的に風変わりな悪魔、宝琳院庵のことを話さずにはいられなくなる。さすがにそれは拙い気がした。

「まあ、すこし気になるけど、いまは置いておくとしようか。まずは直樹たちがいま置かれた状況を、おねーさんが説明してあげよう」

 ちょうど、彼女が注文したホットミルクが運ばれてきた。

「まあ、相談料はこれで」

 一方的に宣言すると、彼女はグラスを傾け、なかのミルクをぺろりと舐めた。妙に艶めかしい仕草だ。

「きみたちがくっついた原因、これはたぶん直樹も察しているんじゃないかな?」
「おそらく、としか言えないけどな」

 直樹は肯定した。解決策となればさっぱりだが、理由について、直樹はある程度推測がついている。
 直樹の欠けた小指。倉町時江、五本指の“小指”。このあたりの共通性が鍵に違いない。

 直樹の内心を読んだかのように、女は微笑んだ。

「うん、たぶんきみの想像で合ってるよ。欠落の符合。それが起こった現象の大本さ。
 きみは小指が欠けている。そっちの幼女は小指の概念を持っている。簡単に言えば、失われた小指を彼女で補完してしまった、と、そういうことさね」

 やはり。
 直樹はうなずいた。彼女の説明は、直樹の想像からそうは外れていない。
 幼女あつかいされた時江はさすがにむっとしていたが、いまは話の腰を折るわけにもいかない。我慢してもらうしかなかった。

「そしてこれから説明するのが、直樹たちにこれから起こりうるであろう問題だ」

 そう言って、彼女はゆっくりと語りだした。

 鍋島直樹。倉町時江。言うまでもなく、もともとは別個の存在である。
 しかし、相互に欠落を埋めたことによって、それに変化が生まれた。精神的にも肉体的にも個別の存在でありながら、概念的にはひとりの人間。そんな奇形が生じてしまったのだ。
 歪みは、じきに精神へ影響を及ぼすだろう。

 どうなるのか。
 まず、記憶を共有するようになる。
 ふたりが共に知っている事柄を接点として、だんだんとそれは広がり、ついにはすべての記憶が入り混じってしまう。

 つぎに意識の融合が始まる。
 共有する知識、それが誰のものなのか、わからなくなる。それは意識に及び、頭の中で考えている事すら共有するようになってしまう。

 最後に、自我の融合。
 記憶、意識、経験、個性、すべてが混濁して、鍋島直樹、倉町時江というふたつの人格は消失し、それとはべつに一個の人格が出来上がる。
 誰でもない誰かに、なってしまう。

 むろん、直樹の指がいずれ回復するように、実質的にはふたりである以上、まったく単一の人格にはなり得ない。
 鍋島直樹であった個体と倉町時江であった個体には、おのずから差異が生じる。
 だが、それはもとの人格にはなり得ない。
 鍋島直樹という、あるいは倉町時江という人格は、永遠に失われてしまうのだ。

 とうとうと語る彼女の目は、しだいに獲物をいたぶる猫のような、らんらんたる輝きを帯びてくる。

 ――こいつ絶対Sだ。

 直樹は首筋につめたいものを感じた。時江などはおびえたのか、直樹の指をぎゅっと握っている。

「鍋島さん、この人信じていい人なんですか? なんだかものすごく邪悪な匂いがするんですけど……」
「落ち着け倉町。気持ちは非常によくわかるが当人の前で危険な発言はよせ」

 あわてて直樹が言い聞かせるが、言われた本人は平気な顔をしている。

「はっはっは、おねーさんは気前がいいから許しちゃうけどね。だからもっとおびえた顔できゃんきゃん泣いてみろコラ」
「ひっ!?」

 嗜虐心丸出しの笑顔に、時江が悲鳴を上げる。

「しっかり怒ってるじゃねえか」
「あ、ウェイトレスのおねいさん。レアチーズケーキとホットミルク追加で」
「しかもしわ寄せが俺に来るのかよ!?」
「ふふふ。どさくさにまぎれて毒吐いてたのに気づかなかったとでも? おねーさんの傷ついた心には栄養が必要なのさ」

 しれっと言われ、直樹は達観した気持ちでレシートを受け取った。情報代としては高くないと言い聞かせてみても、レシートに書かれた値段は変わらない。
 それにしても、みごとに話の腰が折れた。

「で」
「でってなにさ?」
「俺たちが置かれた状況は理解した。このまま放って置いたらヤバイってのもな。なにか解決策があれば、教えてくれないか」

 直樹は真顔を作りなおして尋ねた。
 女の顔に苦笑が浮かぶ。口元にミルクとケーキのカスがついている。

「そう言われてもねえ。おねーさんだって万能じゃないんだ。この場合、できるのは助言くらいのものさね」

 えへん、と空咳して彼女は居住まいを正した。

「直樹はおのれに欠けたものを、もととは違った形で補ったわけだ。ふたりは相互に補完し合うかたちながら、れっきとした別の人間で、だからその補完の形はいびつだ。
 だったら、まったく欠けた形そのままのものが見つかれば、ふたりが一緒にいる必要はなくなるんじゃあ、ないかな?」

 その言葉を充分に反芻し、直樹はふと顔をあげた。答えがおぼろげながら見えた気がする。

「つまり、なくした小指を見つければ」
「そうさね。欠落を埋めたことによって、直樹の中で、失われた欠辺は浮いた存在になってしまっている。
 となると、わかるものには、案外わかっちゃうんじゃないかな? 特に、どこでなくしたか知っているものには、ね」

 直樹は彼女が言わんとしていることに気づいた。
 いま、このときならば、龍造寺円――悪魔の力を持つ少女は、直樹がなくした欠辺を見つけることができると。

「ありがとう」

 感謝を一言に込め、頭を下げた。時江もあわてて従う。
 女の顔に微笑が浮かんだ。

「おねーさんができるのはこれだけだよ。じゃあおやすみ、混ざらないように気をつけて。相手が思ったことが分かりだしたら、もう危ないからね」

 忠告を終えると、彼女はひとつ、伸びをしてテーブルに伏した。

「あなた、いったい何者なの?」

 最後に、時江が尋ねた。情報を消化することに専念していた彼女が、女に対して唯一発した疑問だ。

「ただの気まぐれさね」

 女の答えはごく短いものだった。
 そこから言葉が続くのかとおもえば、いくらもたたず、静かな寝息が聞こえてきた。

「まだ寝るのかよ」

 直樹はため息をついた。
 感謝は、いくらしても足りないほどである。
 しかし、それ以上に、彼女に対していろいろなものをあきらめながら、直樹はレシートを手に席を立った。

 レジで、自分の勘定分はきっちり払うと主張した時江に対し、直樹は頭を撫でてやりたくなった。





[1515] ユビツギ 3
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:3dab3b5e
Date: 2009/04/06 01:05


 かつて城があった場所は、観光用に新築された一部を除いて、大部分が公園になっている。
 公園ではあるが、もとは城だ。石垣や土塀、堀などはそのまま残っている。

 龍造寺円が腰を下ろしているのも、そんな石垣の上だった。
 季節はずれのぬるい風に髪をなびかせながら、彼女の視線は揺れることなく彼方に据えられている。

 人通りはない。
 地元のものなら、その事実を不思議に思うだろう。時節が外れているとはいえ、休日である。城跡を訪れる観光客は、少なくないはずなのだ。
 にもかかわらず、龍造寺円が腰を下ろすこの石垣周辺だけは、ぱたりと人の足が絶えている。
 円がそうしたのだ。

 結界、とでも呼ぶべきものが、円の周囲に張り巡らされていた。
 侵入者を拒むような剣呑なものではない。侵入者に居心地の悪さを感じさせる、その程度のものだ。
 とはいえ、とうてい人間わざではない。
 それができる存在に、いまの円はなっていた。

「悪魔の力を借りて、悪魔の力を行使する。そういう存在を、古来なんと呼ぶか、知っているかい?」

 円は宝琳院庵の言葉を思い返す。

「魔女、と、呼ぶのだよ」

 人でありながら、人ではない。
 しかし円は思う。
 人でありながら、人の心を持たなかった以前に比べれば、いまの自分のほうが、よほど人がましいと。

 いまの円には、感情がある。
 想うだけで暖かなものがこぼれてくるこの感覚が、自分のものであると、自信をもって言える。
 それはなによりも尊く。
 だからこそ、直樹に対して申し訳なかった。直樹が小指を失ったのは、ほかならぬ円の責任なのだ。
 
「気にするな」

 と直樹は言う。
 屈託のない、円の大好きな笑顔で。
 そんな直樹の力になれるのであれば、魔女としての己を否定すまいと、円は心に決めていた。

 遠く見えるは御城手前の駅。そちらから吹く風は温い。
 だが。
 唐突に湧き上がった違和が、黒いもやとなって円の心に沁みてきた。

 あまりにも明確な不吉の予感。それを生じさせたのは、ひとつの気配である。
 円の結界をつきぬけ、確たる意思をもって近づいてくる存在を、円の鋭敏きわまる感覚は捉えていた。

 砂利を撥ね退ける音。気配は薄皮をはぐように明確になってくる。敵意と闘志。わずかに恐怖が混ざった感情の波が、円には視えた。

「キミがそれでいいと言うのなら、ボクとしてはなにも言うまい。だが、くれぐれも気をつけたまえ」

 身構えながら、円はふいに宝琳院庵の忠告を思い出していた。

「人にとってキミの存在はすでに異物であり――異物は、常に狩られるものなのだから」

 そして彼女は現れた。

 同年代の少女だった。
 鷹のごとき瞳は強い意思を宿し、五体すべてが明確な己のもと、律せられている。
 凛然と。そう評すにふさわしい姿。結い上げられた髪は、刀の下げ緒を思わせる。
 一振りの太刀のごとき少女は、車椅子に乗って、ゆっくりと姿を現した。

「まさか。本物とはな」

 感情をゆるがせないままに、少女は口を開いた。
 刃のごとき言葉に応じるように、円は立った。立たざるを得なかった。
 この、車椅子に乗った、せいぜい高校生位の少女は、いままで円が出合ったどんな人間よりも強い。

「何者だ」

 誰何に、少女はためらいなく名乗った。

「立花雪」

 ゆっくりと、少女は車椅子から立ち上がった。不自由な仕草に偽りはない。左足が利かないのはあきらかだった。

「お前のような化生ものを……討つ者だ」

 切りつけるような言葉とともに、立花雪は抜いた。
 稲妻が弧を描いたように、円の目には映った。




 コール音が留守電に切り替わった。二度目だった。
 直樹は沸きだしてきた焦りを押さえつけながら、携帯を切った。

「また、出なかったの?」
「ああ」

 耳をそばだてていた時江に、直樹はため息とともにうなずく。

「状況を整理すると」

 視線を宙に浮かべながら、時江は難しい顔になる。

「あたしたちは、くっついてしまった手を、一刻も早くなんとかしなきゃいけない。
 そのためには専門家が必要で、直樹さんにはその心当たりがある。だけどその人とは連絡がつかない」

 そこではたと止まり、時江は困ったように眉寝を寄せた。

「まずくない?」

 拙い。思い切り拙い。
 とはいえ、拙さばかり言い立てても、状況はよくならない。

「とりあえず、あいつの家のほうにかけてみるよ」

 再び携帯を操作し、円の自宅の番号を呼び出す。
 数コールのあと、つながった。出たのは円の父だ。
 どこかのんびりした調子で、「なんの用かな」などと尋ねてきた。

「おじさん。円は家にいる?」
「居ないよ」

 質問に、期待した答えは返ってこなかった。

「どこへ出かけてるんだろうね」

 などと、人ごとである。

「出かけるとき、円、どこ行くか言わなかったの?」

 首を捻ったのは、外出時、必ず家族に出先を告げる円の習慣を知っていたからだ。
 それに富家の気安さか、円の父、隆は円とともに帰ってきて以来、これといった職も持たず、ずっと家の中でのんびり過ごしている。どこへ出かけたか、円から聞いていないはずがない。

 電話の向こうから、隆の苦笑が漏れ聞こえた。

「ごめん。僕、今日は朝から出かけていて、いま帰ったところだから。聞いてないんだ」
「そりゃ珍しい――じゃなくて、なら心当たりとかない?」

 隆のほうに持って行かれそうになった会話を、あわてて引き戻す。
 この際、隆の事情について詳しく尋ねる時間が惜しい。

「うーん。父さんが聞いてるかもしれないけれど、あいにくそっちも出かけてるみたいなんだ。自転車があるし、車は僕が使っていたから、どちらも近場だと思うんだけど」
「わかった。ありがとう」

 礼を言って直樹は電話を切った。
 居場所こそ特定できなかったが、自転車があるとなれば、円は歩いて出かけたに違いない。学校へ行くにも駅に行くにも、円は自転車を使う。
 となれば、円が居る場所はかなり絞られる。

“城の中”一帯。彼女が行きつける場所となると両手で数えられる。
 たとえば。
 直樹は履歴から鍋島澄香の名を探し出し、コールした。

「あ、澄香? 円知らないか?」
「え? おねえちゃん? しらなーい」

 なになに、と脇から忠志の声が聞こえてくる。どうやら双子そろって居るようだ。

 ――この急いでるときに。

 直樹は心中で嘆いた。
 この騒がしい双子がそろっているとなると、まともな意思の疎通は期待できない。
 案の定、電話のむこうからわいわいと会話する声が聞こえてきた。

「なに?」
「円おねえちゃん探してるんだって」
「デートに誘うの?」
「なわけないでしょこんな時間から」
「ならなんの用なのかな」
「告白とか?」
「ほう、それは興味深い話ですね」
「でも円ねーちゃんいないよね」
「じじいは来てるのにね」
「じじい知ってるかもね」
「でもいまうちのおじいと五目並べしてるよ」
「囲碁でしょう」
「うんそれ。しかもめっちゃ負けてる」
「行ったら怒るよね」
「うん、絶対怒られる」
「なら、じじいはいないことにしとこう」
「うん、そうしよう」

 なんだか他の声も混じっている気がしたが、双子からこれ以上の情報を得ることは不可能と確信するに充分なやりとりだった。
 電話を切り、直樹は浅く息を切った。
 続いて誰に電話をかけるか、知人の生活圏を思い浮かべながら考えていると。

 ――ひょっとして、陽花と清深が通りがかりに円を見ているかもしれない。

 ふと、思い浮かべて。
 ぞっとした。
 陽花たちの出先など、知るはずがない。
 だが、直樹は識っていた。

「混ざらないように、気をつけてね」

 喫茶店の彼女に言われたことを思い出す。
 その最初の段階。記憶の共有が始まっているらしかった。

 芋づる式に浮かんでくる陽花たちの個人情報を、直樹はあわてて振り払う。
 映像つきで鮮明に浮かんだ記憶は、拙いなんてものじゃなかった。

 と、不安になって、直樹は時江のほうを見た。
 同じことが彼女にも起こっているはずだった。
 時江は直樹の目をまっすぐに見て言った。

「そんなに気にすることじゃないですよ。すくなくともあたしは平気だから」

 それがなんについての言葉なのか、直樹は怖くて聞けなかった。




 気をとりなおして、直樹は石井陽花に電話した。

「もしもし、おにいさん?」

 数コールも待たず、電話越しに輝いた声が返ってきた。

「もしもし、陽花か?」
「――え?」

 呆けたような声。

「陽花?」
「ええっ!? ……ちょ、ごめん、清深代わって! ニヤニヤが止まらないいま絶対まともに返せない変な子だと思われるっ!」

 携帯から口が離れたのだろう、後半は声が遠かった。
 直樹が不審に思っていると、姉川清深がおっとりした京なまりで話しかけてきた。

「直樹さん、陽花になに言うたん? なんやおかしなってるけど」
「いや、なにも――」

 言いかけて、直樹は石井陽花を下の名で呼び捨てにしていたことに気づいた。
 時江のそれがうつったのだろうか。
 ひやりとしながら、直樹は誤魔化すように頭をかいた。

「そういやうっかり下の名前で呼んじゃったな。気を悪くしてないか?」

 直樹の言葉に、特別深いため息が返ってきた。

「その逆やろけど……ところで直樹さん、なにか用でした?」

 なにかをあきらめるような口調が引っかかったが、それを気にしている余裕はない。直樹は清深に、龍造寺円を見なかったか尋ねた。

「いや、見いひんだけど。通りがかっとったら純ちゃんが見つけとるやろし」
「そうか。すまないが見かけたら連絡してくれないか? 探してるんだ」
「わかりました。直樹さんの頼みやし、うちらも手伝わせてください」

 ありがたい言葉だった。円の所在がわからぬ以上、しらみつぶしになる。人手が増えれば助かるのだ。

「すまん、世話になる」

 心の中で頭を下げると、直樹は円が居そうな場所を伝え、捜索を頼んだ。
 その脇で、時江は複雑な表情を浮かべていた。
 直樹はそれに気づかなかった。




「とりあえず俺たちも戻って探そう。ここからなら……タクシーのが早いか?」

 通話を終えると、直樹はそう提案した。
 移動手段としては、おそらくそれが最速だ。
 財布には厳しいが、いまの状況で時間と天秤に掛けるわけにはいかない。
 だが、時江は申し訳なさそうに首を振った。

「わたし、車、ダメなんです……すみません」

 直樹ははっとして、うかつを恥じた。
 配慮してしかるべきだった。ユビオリの事件で、倉町時江は車にはねられ、重傷を負ったのだ。
 それが、彼女の心に癒えぬ傷を残していることは想像に難くない。

 時江の口惜しそうな表情は、足を引っ張る己のふがいなさゆえか。

「ま、電車でもそんなに変わらないさ。向こうの駅前に自転車置いてるしな」

 努めて明るく言い放つと、直樹は励ますように彼女の頭に手を置いた。





[1515] ユビツギ 4
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:3c14772e
Date: 2009/04/29 22:15



 車椅子の少女――立花雪が、刀を抜き放った。
 円の目には、たしかにそう映った。
 しかし、構えた彼女の手には何物も握られていない。
 真に迫った彼女の動きが刀の幻想を見せたのだろうか。

 そうではない。
 尋常ならぬ感覚を持つ彼女の目には、怏々たる剣気が刀の形を描いているさまが視える。
 円は瞬時に悟った。龍造寺円にとって、それが致命的なものだと。
 間合いを計りながら、円は歩を後ろに滑らせた。

「わかるか? これが脅威だと」
「……それは、何だ」
「雷切」

 短く、切るような答え。
 言葉に乗せられた重みから、少女がこの業に置いた信頼のほどが知れる。

化け物おまえと同じ領域にある刀。化け物を斬るための――化け物刀だ」

 ゆらゆらと。体を細かく左右に振りながら、彼女は笑った。
 円は瞬時に言葉の意味を理解した。

 人の領域から外れた、肉を持たぬ存在。それを斬るためにある、刃金の身をもたぬ刀。それが、雷切の本質なのだろう。
 概念を切り裂く刃だ。斬られれば肉の身をもつ円とて無事には済むまい。

 だが。
 円は雪を見た。擬態ではない、足の不具。

 ――その様ではろくに振るえまい。

「侮るな」

 円の声なき声に、少女は静かな殺気で答えた。
 間合いが詰まる。
 かくり、かくりと身を傾がせながら。

 ――打ち込む隙がない。

 と、円は視た。
 一足一刀の間合いをやや超えて、ふいに少女の体が大きく傾いだ。
 円の生存本能が、全力で悲鳴を上げた。本能的に体が後ろに跳ね飛んだ。

 刹那。
 雷が奔った。
 取り残された髪が宙に舞う。

 円は戦慄した。
 斬撃の軌跡すら追えぬ神速の斬撃。起こらぬはずの刃風が肌をしびれさせた。

「足が利かなくとも、貴様なんぞに後れを取るつもりはない」

 少女は身を起こし、ふたたび体を揺らしだした。
 獲物をみる鷹の目は、円を捕らえて離さない。

 円は凝視する。
 不自由な動きながら、立花雪の動作に破綻はない。体を傾ぐその動作すら内包した斬撃。円はそこに重年の修練をみた。
 
 ――素手では、勝てない。

 円は痛感した。蹴り足に力がないとはいえ、敵の残撃は円の拳足の間合いよりはるか遠くから飛んでくる。そのうえ、受ける術がない。概念の刀で斬られればどうなるか、実践するわけにはいかないが、およそただですむはずがなかった。

 だが。

 ――死ねない。

 心の中で吼えた。
 円は命を、こんなところで終えるわけにはいかない。人形のようだった円に心を与えてくれた直樹のそばで、直樹のためにある命なのだ。

 円は心を奮わせた。
 脳が、めまぐるしい速度で、生を掴み取る手段を模索する。
 考え付いた十数の選択肢のなかから、円は強固な意志を以ってひとつの手段をつかみ出した。

 直後、雪の表情に驚愕の色が浮かんだ。
 龍造寺円の双腕から伸びる、異様な気配。それが太刀の形を結んだのだ。
 概念の刀。立花雪の雷切と同質の存在。円はそれを瞬時につくりあげたのだ。

「化け物め」

 雪の、歯を食いしばる音。
 修練を、資質が陵駕する不合理が、そこにあった。
 だが、無手ならともかく、剣術に関して、円は雪に遠く及ばない。
 敵が剣術の達人であること。しかし不自由な足ゆえ、間合いはやや狭いこと。加えて体捌きにおいては円が勝っていること。すべて鑑みて。

 ――互角か。

 額にうっすらと汗をにじませながら、円は敵の隙を見出すことに集中し始めた。




 松葉杖をついた小学生くらいの少女と、手をつなぎながら歩く。
 非常に人目が気になる行為である。人通りのおおい駅の構内であればなおさらだろう。
 非常時非常時と自分に言い聞かせて、直樹は周囲の視線を意識からシャットアウトしていた。
 それが悪かったのかどうか。

「痛っ!? ガキ、ナニしやがる!」

 いきなり背後で起こった怒声の正体が、とっさにわからなかった。

「ご、ごめんなさい」

 そう言って頭を下げる時江と、口元と眉根を盛大に歪めた、非常に反社会的な髪型をした、二十歳過ぎの男。
 ふり返った直樹はすぐに事情を理解した。
 時江が杖先で男の足を引っ掛けてしまったのだろう。
 涙目になって謝罪する時江だが、男の怒りが静まる様子はない。

「すみません。勘弁してやってください」
「ああ?」

 おびえる時江と男の間に割って入ると、男は怪訝な顔で見上げてきた。

「なんじゃにーちゃん。謝っとんのになに見下ろしとっか」

 ことさら威圧的に言ってくる男に、直樹は困惑した。
 他意はまったくないが、二十センチも身長差があるのだ。どうしても見下ろす格好になってしまう。

 けんか腰の男をどう宥めたものか、直樹はとにかく謝った。
 直樹は思い違いをしていた。男がほしかったのは、おびえて必死で許しを請う直樹の姿であり、それによって己の強さを誇示することだった。
 落ち着き払った直樹の様子は、それだけで男を刺激した。

 歯車のかみ合わないサイクルは、しかし唐突に終了した。

「っ、まぁ、気ぃつけぇ」

 そう言って逃げるように離れていく男を、直樹はあっけに取られて見送った。いきなり、なぜ。疑問はすぐに氷解した。

「おう、直樹」

 と、背後から声をかけてきたのは直樹の同級生、斉藤正之助だった。
 長身の異丈夫で、文系クラブにしておくのがもったいないくらいの筋肉の持ち主である。しかも極彩色の花柄シャツを着込んだ正之助はその筋の人間にしか見えない。そんな男が迫ってきたのだ。男があわてるのも無理はなかった。

「正之助、助かった。あんまり揉めたくなかったんだ」
「その前に逃げたんじゃが」

 直樹の礼に、正之助は軽く鼻を鳴らして応じた。
 助ける前に、外見だけで逃げられたことが気に食わないらしかった。
 ふと、正之助の目が時江に向いた。

「それは迷子か?」

 つながった二人の手を見ながら、怪訝な様子だった。
 それにたいし、直樹が言い訳をさがしていると。

「へ――」

 正之助を見た時江の顔が、急に引きつった。

「変態だーっ!!」

 構内を行き交う人の目が、一斉に集中した。

「おい直樹」
「おい時江」

 玉突きした視線が時江に落ちた。
 正之助の顔は、若干青ざめている。直樹も血の気が引いていた。
 時江は思い切り引いていた。

「だって、変態だよこのひと! なんでセーラー服なんて着てるの!?」

 直樹は時江が何を言っているのか理解した。
 クリスマス前夜の事件。夢に閉じ込められた折、斎藤正之助は龍造寺円の代替として彼女を演じさせられていたことがあった。
 そのときの姿が、思い出すもおぞましいセーラー服姿。
 その記憶を、時江は読み取ってしまったのだろう。
 場面だけ見せられれば、誰でも彼が変態だと思う。時江の反応は、致し方ない。

 だが、場所が決定的にまずかった。
 変態扱いは洒落になっていない。叫んだのが少女だけに威力倍増である。

「おい、直樹」

 正之助が青ざめた顔を直樹にむけた。乾いた声だった。

「これにナニ吹き込んだんじゃ」

 説明しようがない。だが、説明責任が直樹にあるのは明らかだった。

「わからん。ヨウと間違えてんじゃないか?」

 直樹はごまかすように言った。
 斎藤用子は正之助の、二つ下の妹である。幸いにも似ていない。兄が戦国猛将なら妹は京劇役者といった風情で、長身と濃い顔立ちが共通点といえば共通点か。

「ふぅむ」

 かなり無理のある説明だったが、正之助には腑に落ちるところがあったようだった。どこをどう納得したのか、直樹にはさっぱりわからなかったが。

 ともあれ、最初の疑問をまた持ち出されては厄介である。
 電車の到着を告げるアナウンスが流れたのを幸い、直樹たちは正之助と別れた。

「あのひとと妹さん、ぜんぜん似てないです」

 言ってきた時江に、直樹はため息を落とす。

「記憶、無理に読もうとするな。記憶が混じるの、お前のほうが早い気がするぞ」
「すみません」

 謝る端から、視線が宙をさまよっていた。
 果たして自分の秘密はいくつばれているのか。すでに達観した気持ちになりながら、直樹は全力で急ぐことを決意した。




 直樹の携帯電話が突然鳴ったのは、御城手前駅を降りてすぐのことだった。

 円からの電話か。
 意気込んで携帯を取り出した直樹だったが、期待は裏切られた。
 ディスプレイに表示されている発信者は宝琳院白音。宝琳院庵の妹だった。

 珍しいことではない。彼女とは、ときおり会って話すほどには親しいのだ。
 この非常時、のんびり雑談している時間はないが、無視することもできず、直樹は通話ボタンを押した。

「もしもし」
「白音か? なんの用だ?」
「なんの用だとは失礼ですね。せっかく龍造寺先輩の所在を教えて差し上げようと思っておりましたのに……まあ、純たちの頼みです。いまのは聞かなかったことにしておきましょう」

 いつもどおりの抑揚のない声が、わずかに不機嫌の色を帯びていた。
 すまん、と謝って、直樹はつぎの言葉を待った。
 しばし、無言。

「わざわざ調べてくれてすまなかった。感謝するよ、白音」

 電話越しに伝わってきた圧力に、直樹は押されるように頭を下げた。
 よろしい、と、持って回った調子で、白音は謝辞を受けた。
 直樹は胸を撫で下ろした。意外とこういった形式を尊重するらしい。

「龍造寺先輩は城跡のほうに行っております」
「どうやってわかったんだ?」
「わたしは双子の家に遊びに来ておりましたので。龍造寺先輩のおじいさまにうかがったところ、こころよく教えていただきました」
「あの気難しいじいさんにか?」

 直樹は首ひねった。意外だった。円の祖父、龍造寺周三は頑固な性質である。しかも碁仇を相手に負けが込んでいるとなれば、声をかけたとたんに怒声が飛んで来かねない。
 いや、考えてみれば宝琳院白音は、外面だけは礼儀正しい娘である。意外と頑固じじいとは、相性がいいのかもしれない。

「飴をもらいました」

 よほど気に入られたようだった。

「とにかくサンキュな、白音。またあらためて!」

 白音に礼を言って携帯を切る。
 時江と頷き合うと、通りのはるか奥に見えている城跡に、自転車の頭を向けた。




[1515] ユビツギ 5
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:25ddc56c
Date: 2009/05/31 23:14



 ふたり乗りの自転車を飛ばしながら、直樹は唇を引き絞った。
 すでに目の前まで来た城跡。その一角から、異様な気配が感じられたのだ。
 直樹には覚えがある。クリスマス前夜、円が放っていたものと同一の、魔の気配だ。
 円はたしかにそこにいる。であれば。
 彼女が電話に出られない理由。遠くからでもわかるほど気配を放つ理由。
 考えうる回答は多くない。

「くそ、やな予感しかしねぇ」

 焦りを隠さない直樹の言葉。それに反応するように、つながった時江の指が震えた。

 ――馬鹿か、俺は。

 直樹は内心で己に向けて叱声を放った。
 焦っても始まらない。ましてや時江にとって頼れるものは、この場に直樹しかいないのだ。直樹が冷静でいないで、どうして事態を解決できるというのか。

「怖いか、時江」

 一呼吸。気を落ち着かせ、直樹は時江に問いかけた。
 それに対して時江は無言で首を横に振る。

「ホントなら怖くて泣いちゃうんだろうけど、不思議と怖くない。直樹と一緒だから……かな」

 彼女の言葉に、直樹は思わず笑った。ひどく共感できる話だ。

「わかるよ。こいつと一緒なら、なにがあろうと怖くない。俺にもそんな奴がいる」

 図書室の机に、見下すように座る少女の姿を思い浮かべながら、直樹は言った。
 だから。
 直樹が彼女を恃むように、時江が頼ってくれるなら。自分も彼女のようにありたいと、そうでなくてはならないと、直樹は思う。
 時江が、すがるように体を預けてくる。
 安心させるように、直樹は彼女の手を握り返した。




 世界は、静かだった。

 ――不思議だ。

 思考のどこかで、他人事のように、龍造寺円はつぶやいた。
 さきほどまで耳に障っていたあらゆる音が消えている。
 景色も消えた。草木も、砂利も、石垣もない。天地すら、視界から消えうせた。
 在るのはただひとり。敵手たる少女だけ。
 限りなく閉じたふたりだけの世界。その中で、円は立花雪を急速に理解していた。
 剣筋から呼吸。それに連なる剣理、それを通して意思、思想へと。究極まで深化した“読み”は、己の中に仮想の立花雪を構築していた。
 いつしか円は立花雪になっていた。
 雪からみる円に、隙はない。
 打ち込めない。崩せない。這入れない。
 立花雪も、円になっているのだろう。不思議と円はそれを確信している。
 円から見る雪は、隙だらけだ。
 だが、彼女のどこをどう斬ろうと、致命傷にはなりえない。迎え撃つ彼女の刀が円の死命を制する。立花雪となった円には、それがよくわかる。
 どちらかに、わずかでもほころびが生じれば、瞬時に決着はつく。それが死という形でしかありえないことを、円は確信していた。
 両者に隙はない。
 だから双方動けない。
 ただ、急速に削られていく。
 体力も、神経も。
 そのことに法悦にも似たよろこびを感じながら、ふたりは同じ表情で微笑っていた。
 たがいに好機をつかめぬまま、無限に等しい時が過ぎ。
 突如出現した陰。それを隙と見て、体はばね仕掛けのように敵に襲い掛かった。




 時江を背負い、石段を駆け上って。たどり着いた直樹が目にしたのは、対峙するふたりの姿だった。
 ひとりは円だ。すらりと伸びた長身をわずかにかがめるその姿勢は、引き絞った弓を連想させる。
 もう一方は、直樹の知らぬ顔。円と同年代の、そしてきわめて希少なことに、身長も同程度の少女だった。
 立花雪。時江がそう認識した少女は、重心を定めぬふらふらとした動きながら、逆に動かない円と。

 ――どこか釣り合っている。

 そんな印象を受けた。
 双方、手にはなにももっていない。だが、そこに刀でもあるかのごとき構え。
 立花雪の"雷切"や、円が編み出したその模倣について無知な直樹だが、それでもふたりが構えた両手の先から伸びた強烈な気配が絡み合っているのは感じることができる。
 直樹は一瞬、割って入ることも忘れて魅入っていた。

「――っ、円!」
 
 我に返り、直樹は飛び出す。
 それを、人影がさえぎった。
 直樹はとっさに足を止めた。見れば男である。長身だが、草食動物を思わせる無害そうな顔立ち。それを裏切るように、額をよぎる古傷は深く、重い。

「大友麒麟……先輩」

 直樹の背から降りながら、時江がつぶやいた。
 泰盛学園三年生、大友麒麟。泰盛学園の数字、"双璧"の片割れだと、彼女の知識が告げる。
 少なくとも、味方ではあるまい。
 そう判断し、直樹は身構えた。

「待て――待て、いま、彼女たちに手を出すのは拙い」

 麒麟の大きな手が、押しとどめる形をつくった。

「何故だ」「なぜ」

 声が、かぶった。
 違う。意識の共有が深まって、心に浮かんだ疑念を同時に声に出したらしい。他人事のように考えながら、視線はひたと麒麟に据える。
 
「大友麒麟。邪魔をするのなら」
「話を聞け――話を聞け、あまり気を揺らすと、どちらかが死ぬぞ」

 麒麟が言った。至極真剣な表情だった。偽りの色は、見られない。

「どういうことだ」

 直樹の問いに、麒麟はゆっくりと言葉をつむぐ。
 彼女たちは、目に見えぬが、刀を構えている。
 概念の刀。それは人を殺傷せしむる力を持っている。すなわちこれは無手の戦いではなく刀を振るっての殺し合いなのだ。本来なら人死にを出さずにはいられない。

「だが、ふたりの実力が非常に拮抗しているせいで、双方動けない、膠着状態に陥っている。たがいに対して集中しきっているせいで、外の声など耳に入らぬだろうがな。仲間を助けたくば下手に手を出すより、このまま双方の気力が費えるまで待つしかない」

 大友麒麟からは敵意も悪意も感じられない。彼の説明は、おそらくこれ以上ないくらいに正しい。
 だが、その正しさを確認する時間は、もはや無かった。
 三十分か、一時間か、それほどの時間を費やせば、時江はむろん直樹すらおのれの意思を保っていられるかあやしい。

 ――どうする?

 直樹は時江に目を向けた。心の中で出した声は、もはや口にせずとも彼女に伝わる。

 ――待ってもいいです。けど、それじゃ直樹は納得しないよね。

 時江の顔には不敵な笑顔が浮かんでいる。
 心の形まで似てきたのかもしれない。
 そんなことを考えながら、直樹は歩を進める。時江は置いてきた松葉杖の代わりとばかり、直樹の腰に抱きついたまま、それに従う。

「あいにくだが、そんなに待てないんだよ」

 直樹たちの異常に気づいたのだろうか、麒麟は静かに退いた。逡巡と期待、そのふたつを面に浮かべて。だが、それに気をとられている余裕はない。
 たがいの殺気に満たされた空間に、身を割って入る。それがどんな結果を生むか、直樹にはある程度推測がついていた。
 ここに身を投じた瞬間、ふたりは突然現れた遮蔽物を隙とみて、押し込めていた力を瞬時に解放するだろう。どちらが勝つにせよ、直樹は死ぬ。
 いや、それ以前に空間にはふたりの意思がこれ以上ない密度で詰まっている。割って入る余裕など、微塵もない。
 それでも。
 直樹はちらと時江に目をやった。
 今から起こるすべてを見逃すまいと直樹の手を握りこむ、小さな女の子にとっての“彼女”であろうと決めたのだ。
 だから。
 恐怖を押さえ、不安を押しのけて、前に進む。

「手は」

 麒麟の声を、直樹は背中で聞いた。

「手は、あるのか」

 その問いに、直樹は不敵に笑い――逆に問い返した。

「お前には、見えるか?」
「なに?」
「あいつらの手の中に何があるか、お前には見えるか?」
「……いや、感じるが、観えない」
「――俺にも見えねえよ」

 言って、直樹は飛び込んだ。左手と、そこにつながる時江を精一杯離して。
 対峙する両者を分かつように、ふたりの間に割って入る。
 つぎの瞬間、凍りついた時間が動き出した。
 龍造寺円、立花雪、ふたりが跳んだ。
 三つの影が一塊になった。
 立花雪の見えざる刃が大上段より降りかかり。
 龍造寺円の見えざる刃は下段より迎え撃った。
 雪の斬撃が、直樹の頭頂部より侵入した。
 円の刃先はわずかに軌道を変え、直樹の背を滑って雪の刃を受け止めた。
 刃はかみ合って彼の心臓で止まり――それでも直樹は崩れない。

「効かねえ」

 自分に言い聞かせるように、直樹は言い放つ。
 龍造寺円に背を向けて、立花雪を見下ろして。
 そのまま体を預けるように倒れこんできたふたりを支え、それでも直樹は立っていた。
 消耗で口も聞けないでいるふたりの少女を見下ろして、はじめて直樹は息をついた。とたん、冷や汗がどっと流れ出た。一瞬の、しかし膨大な消耗に、心臓の鼓動が耳を打っていた。

「――驚いた」

 そんな直樹に、麒麟が声をかけてきた。

「驚いた。どうやって"雷切"を防いだ」
「見えないってことは、無いってことだ。無いもんじゃあ斬れないさ」

 口を曲げ、直樹は強く言った。
 麒麟は絶句した。
 概念の領域にある化け物刀“雷切"。信じていないから、見えないから影響を受けないというような、なまやさしいものではない。
 生身の人間相手でも、心ごと切り裂いて殺せる力を有しする妖刀なのだ。
 だが、麒麟は知らない。
 思い込みだけで悪魔の力を跳ね返し、すぐに復元するはずの概念上の小指すら切り離したままにする、直樹の化け物じみた意志の強さを。
 見えざる存在を否定する直樹の意思が、立花雪と"雷切"を上回ったのだ。

「なるほど」

 おぼろげながらそれを理解したのだろう。麒麟がうなずく。
 雪は顔をしかめていた。直樹の理不尽からではない。

「おい、何故刀を止めた」

 円に向かっての言葉だ。
 最後の瞬間、円は雪との勝負を捨てて直樹を助ける姿勢を見せた。それが許せないらしい。

「死んでも、直樹は斬らない」

 肩で息をして、唇をかみ締めたまま。円はつぶやいた。
 一瞬だけ、雪は面食らったように目を見開いて。よほど答えが気に入らなかったのだろう。すねたように横を向いた。

「拗ねている」

 求めてもいないのに麒麟がそれを説明する。

「己が認めた者に、自分より重い存在がいることが気に入らない。それで拗ねているのだ」
「麒麟!」

 雪が焦ったように麒麟を怒鳴りつける。すこし赤面していた。

「まったく、この忙しいときに。とりあえず喧嘩の理由は何なんだよ。と、白音みたいな、悠長な話し方はやめてくれよ。時間がない」

 直樹がため息混じりに麒麟に目を向ける。
 麒麟の表情に不審の色が浮かんだ。

「宝琳院白音を知っているのか?」
「ん? ああ」

 麒麟の不審混じりの質問に、直樹もいぶかりながらうなずいた。よく考えれば同じ学校なのだ。共通の知人がいてもおかしくはない。このさい奇妙なのはそれが悪魔――宝琳院庵の妹であったということだが。

「どうも事情が違うらしい。どうやらそちらのことも、あらためて聞いておく必要がありそうだ」

 麒麟が言ってきた。真剣な表情だった。
 誤解があるようだ。
 そう感じたが、いま話している暇はない。
 いまは円の手を借りて、一刻も早くこのつながった小指を離さねばならない。

「ええ」

 だが、時江はうなずいた。

「時江」
「とりあえず誤解を解くのがさきです。わたしならまだ大丈夫ですから」

 受け答えも存外はっきりしている。まだ大丈夫そうだった。
 であればたしかに。円たちの争いを止めた直樹だが、止めただけなのだ。話すことで誤解が解ければ、彼らが邪魔立てすることはなさそうだった。
 直樹は事情を話すことにした。
 円と雪も加わって、経緯を語る。
 とある事件から悪魔に関わり、そして円が悪魔の力を手に入れたこと。そして、いまの直樹の事態。
 麒麟と、そして雪の表情に、しだいに理解の色が加わっていく。

「なるほど。"孤高"が絡んできていたのか……」

 すさまじい渋面で雪がつぶやいた。よほど宝琳院庵に対して意趣があるらしい。

「だが」
「ああ。円はムダに人を害するようなヤツじゃないし、宝琳院にはその能力がない」

 顔を向けてきた雪に、直樹が断言する。それができるくらいには、直樹はふたりのことを理解しているつもりだ。

「つまり……骨折り損か」
「言うな麒麟。疲れてくる。気負ってた分恥ずかしい」

 頭を抱える雪と、それを眺める麒麟。ふたりを横目に、直樹は円に、こちらの事情を話す。
 失った小指を偶然出会った"小指"で補完してしまい、くっついたまま離れなくなったこと。それをなんとかするために円を探していたことをかいつまんで話した。

「直樹」

 円の顔から血の気が引く。

「わたしのせいで――」

 言いさした円の唇に、直樹は手を当ててふさいだ。

「お前が悪いんじゃないよ。この指を噛み切ったのは俺で、厄介ごとを引き込んだのも俺だ。自業自得なんだよ」

 直樹は笑ってみせた。微塵の影もない笑顔だ。
 円の唇が潤びた。すこしのあいだ目を閉じていた彼女が、再び目を開いたとき、その瞳は活力を取り戻していた。

「すぐになんとかしよう。直樹の深層を当たって、どこかへしまいこんだ小指を探せばいいんだろう?」
「ああ、たのむ」

 直樹は黙って頭を下げた。

「――おい、そこのでっかいの」

 と、いきなり声が飛んできた。声の主は立花雪だ。直樹に他意でもあるのか、充分以上に不機嫌な声だった。

「なんだそこの釣り目」

 直樹もやり返すと、雪のほうはそっぽを向きながら。

「たぶんわたし、役に立てると思うんだが」

 そう言ってきた。

「……どういうことだ?」
「わたしの雷切ならお前とちっこいのをつなぐ縁も切れる」

 むこうを向いたまま、雪は断言した。
 それができるなら、ありがたい話だが。
 直樹は内心首を捻る。誤解が解けたとはいえ、雪は御世辞にも直樹に好意を抱いていない。
 直樹はありていに疑問を口にした。

「知るか! やるのかやらないのか!?」
「きっかけが――そちらの彼女と仲良くなるきっかけが欲しいらしい」

 顔を真っ赤にした雪。淡々と説明する麒麟。
 あきれた目で直樹は言った。

「お前、友達作るの下手糞だろ」
「ツンデレなんですね」

 時江に追撃され、拗ねきった雪をなだめるのには円の口ぞえが必要になったが、ともかく。

「じゃあ、いくぞ」

 雪が"雷切"を構える。
 間に合った、と、直樹は胸を撫で下ろした。
 我慢を重ねてきたが、油断すれば記憶がなだれ込んでくる状態というのは、精神衛生上非常によろしくない。子供とはいえ異性に自分の心を読まれているとなればなおさらだった。
 とはいえ、そのせいで同化に抗うことができたともいえた。

「時江」
「は、はい」

 直樹が促すと、時江はおずおずと、手を伸ばした。つながった手が直線を描く。
 
「でも、大丈夫なんですか? その"雷切"、直樹には効かなかったんでしょう?」
「それはコイツが馬鹿強い意地で"雷切"を否定したからだ。いくらなんでも無意識に"雷切"を無効化されちゃたまらん」

 すさまじい仏頂面を作る雪。

「でも、あたしの目には見えないんだから不安にもなりますよ。格好だけちゃんばらの真似してるのって案外馬鹿みたいな格好だし」
「……おい、あんまり馬鹿にすると斬ってやらんぞ」
「いいですよ? そのときはそっちの円さんに頼むもん。そうなると困るのは先輩だしー」

 意図的にか無意識にか、急所をつかまれて雪はぐうの音も出ない。

「とにかく、やるぞ。やるからな」
「またごまか――」

 なおも時江が言いかけたとき。
 瞬転。
 時江の言葉を制するように、架空の刃が振り下ろされた。
 だが、刃が指を断つ直前。

「おい、どう言うつもりだ」

 雪は目を眇めた。彼女が刀を振り下ろした瞬間、倉町時江は腕を引いていたのだ。
 なぜ、そんなことを。
 奇異の目が時江に集まる。
 低い声で、時江は言った。

「あとすこしだったのに……邪魔な女」

 まるで別人のような声だった。その意味を咀嚼する暇もなく。
 つぎの瞬間、直樹の心臓がどくんと跳ねた。




[1515] ユビツギ 6(了)
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:a45bd770
Date: 2009/05/31 23:12


 心臓が跳ね上がった。
 それは鍋島直樹という人格個性の危機に際しておのれの本能が放った最大限の警告であったのかもしれない。
 事実、一瞬遅れて直樹を襲った、情報と意識が混在する怒涛のごときしろもの・・・・は、直前まで彼を苛んでいたそれ・・とは比較にならぬ圧力で直樹を侵した。
 それでも。直樹は耐えた。
 自己を確立する、己の根源的な部分にまで無遠慮に這入って来るそれ・・から、必死で己を守り通した。

「やっぱり、まだ耐えちゃうんだね。あのふたりを止めたのをみて、まだ少し足りないかなと思ってたよ」

 苦笑交じりの倉町時江の言葉を、直樹は聴覚を介さずして聞いた。

「なぜ?」

 つづいて直樹の耳を打ったのは、彼女の肉声だった。

「あたしはこのままでいいのに、なぜ、邪魔をするの?」

 心底わからぬというように、無邪気な苛立ちを込めて、彼女は言う。
 あまりにも意外な言葉に、みな凍りついた。
 彼女の意図を正確に理解し、最初に問いかけたのは立花雪だった。

「なにバカなこと言ってるんだ。このままじゃ」
「溶けて混ざっちゃう――でしょ? 素敵じゃない。あたしが直樹になって、直樹があたしになるだなんて」

 目を鋭く細めた雪の言葉を継いで、時江はうっとりと語った。
 身を抱き、動けないでいる直樹に身を寄せる彼女の表情には、偽りの色などまるでない。

 動転しながらも、直樹は倉町時江の意思を正確に理解した。
 いや、倉町時江の記憶と意識が、否応なしにそれを理解させた。
 だから。直樹は自分が時江のすごみを見損なっていたことに、いまさらながら気づいた。

 倉町時江が、自分の身に起こった異常について正確に理解したのは、直樹と同じ、喫茶店“RATS”で彼の女性から説明を受けた時である。
 しかし、彼女は実にその時から、直樹と同化することを決意していたのだ。

 彼女が目的を達するにはいくつかの障害があった。
 その最たるものは、異常を解決するスキルを持つ少女、龍造寺円の存在であり、彼女との出会いを遅らせるために、時江は自動車に乗れないふりをしたり、ガラの悪い男に水からぶつかるような真似もやった。

 でありながら、精神の同化に対しては、時江は強く抵抗した。
 時江が幼いから、同化が先行しているのだ。などと直樹は勘違いしていたが、とんでもない。彼女は己にとって必要と思える情報を引き出す以外は、強い意志をもって同化を拒絶していたのだ。
 目的は、同化を遅らせることではない。
 同化に抵抗する、直樹の意志。その巨大な精神の堤を決壊させるに足る水量を得るために、彼女はわざと直樹に楽をさせていたのである。

 彼女に失策があるとすれば、直樹の精神の強さが目算以上だったことだろう。
 円と雪の争いを止めた直樹を見てそれに気づいた時江は、現段階で一気に直樹と同化できる確信を持てず、ぎりぎりまで時間を稼ごうとした。
 だがそれも、立花雪の問答無用に破られた。

 それゆえ。たったそれだけの計算違いによって、直樹はかろうじて意識をたもっていた。
 それも、風前のともしび。体を動かす余力さえ、いまの直樹にはない。

「だから……邪魔しないでね、円先輩?」

 そんな直樹に背を預けて、一顧だにせず。時江はうしろに声を投げかけた。
 無言で間合いを計っていた龍造寺円が、唇を噛む。
 油断があれば不意打ちもできよう。対応が遅ければ隙も突けよう。
 だが。
 龍造寺円が事態を理解し、時江の手を巻き込んででも彼女から直樹を切り離す、その覚悟を決める一瞬よりはるかに速く、倉町時江は対応を済ませていた。
 直樹に身を寄せている――円から見れば直樹を盾にする格好の時江を、円が斬れるはずがなかった。
 状況を打破するすべての手段を封じて。

「じゃあ直樹。ひとつになろう?」

 時江は融けるような笑顔とともに、直樹の胸に身を投げてきた。
 意識が、抗いがたい甘美さで直樹に這入ってくる。
 混ざる。交ざる。
 心が解け合いながら、直樹は時江になっていくのを感じた。
 そして直樹は時江になった。




「ねえ、時江ちゃん」

 唐突に光景が浮かび上がる。
 わいわいと、にぎやかな教室。小学校の頃の、いまよりもいくぶん幼い時江が、クラスメイトの少女に声をかけられていた。

「暗記のテスト、いっしょに覚えっこしない?」

 遠慮がちな少女の提案を、時江は一言で却下した。

「もう覚えたからいい」

 継ぐべき言葉を失って、おろおろする彼女を、訳知り顔の女生徒が引っ張っていく。なにやらぼそぼそと言っているのは、およそ悪口に決まっていた。
 あの少女も、つぎから自分に近づいてくることはないだろう。
 それでもいい、と、時江は思った。
 
 倉町時江は、狎れ合うことが苦手だった。
 小さなころから大抵のことはこなせたから、その必要がなかったと言ったほうがいいのかもしれない。

 一緒に。

 その言葉を、時江は飽きるほど聞いてきた。
 遊び、勉強、運動、その他の場合でも、常にその言葉がついて回る。
 しかし、時江から見れば同級生たちは、あきれるほどなにもできなかった。そんな同級生たちが言う“一緒に”など、時江にとっては一方的な成果の搾取でしかない。

 だから中学に入るまでの倉町時江は孤高を貫き、それを苦痛とも思わなかった。
 しっかりしている。
 そんな評価をもらったのは、他人の手を借りず、ほとんどのことを自分ひとりの手で行った結果だった。

 県下屈指の進学校、泰盛学園の中等部に進学した時江は、そこではじめて自分に等しい実力の持ち主が存在することを知った。
 横岳聡里、石井陽花、深堀純、姉川清深。倉町時江とあわせて“五本指”と呼ばれるようになる、学年トップのグループ。

 彼女たちはなにも求めない。
 なぜなら彼女たちもまた、独りでできる人間だからだ。
 それが心地よくて、自然と集まるようになった。友達未満の淡いつきあいと人は言うが、時江にとってはそれが好ましかった。比較的馴れ馴れしい横岳聡里を、むしろ鬱陶しいと思っていたくらいだ。
 この関係がそのまま高校卒業までつづき、ひょっとしたら何人かは大学まで同じかもしれない。時江はその程度にしか考えていなかった。

 だけど、彼女たちは変わった。
 きっかけは、“ユビオリ”の事件だった。
 メール回しによる嫌がらせから始まり。
 横岳聡里が殺され。
 そして深堀純が暴走した。
 彼女に追われ、事件の解決を見ぬうちに交通事故で入院することになった時江は、事の顛末を伝聞でしか知らない。
 知ってはいても、見てはいない。
 識ってはいても、感じてはいない。
 だからだろうか。倉町時江は変わらず――だからこそ、取り残された。そのことに、時江は言い知れぬ劣等感を覚えていた。

 変わった三人と、変わらない自分。
 いや、進化した三人と、変わらない自分だ。
 彼女たちが得たものを、時江だけが得ることができなかったのだ。
 時江だけが欠けた欠陥品だった。
 それゆえ、欠落を埋める部分を求めた。
 己より進んだところにいる三人が畏敬を、あるいは尊敬を、あるいは敬愛の念を注ぐ鍋島直樹こそがそれだと信じて、倉町時江は直樹とひとつになることを選んだのだ。

 ――馬鹿なことを。

 直樹は思う。思っただけでなく、はっきりと口に出した。
 それに弾かれるように、直樹の内から倉町時江の個性が浮き出てきた。
 時江と直樹。ふたつの個性が渦巻く意識の中に相対す。

「勘違いしてるぞ、時江。おれはお前が求めてるような上等なもんじゃない。お前が欠陥品だったら、俺なんか欠陥まみれの大欠陥品だ」
「うそだよ」

 直樹の言葉を、時江は言下に否定した。

「“ユビサシ”の悪魔を見破り、“ユビオリ”の事件を解決し、“ユビキリ”の悪夢を破った直樹があたしより劣ってる? 気休めはよしてください。あたしの欠陥は、あたしが誰より理解してる」

 時江も直樹になっていたのだろう。彼女が知らぬはずの事実をあげて、少女は自嘲気味に笑った。

「理解してる?」

 直樹は鼻で笑った。時江に対する怒りが、そうさせた。

「そうだな。賢いお前なら、理解はしてるだろうさ。でも――納得はしていないんだろう? だからお前はそこで止まったままでいるんだ。そうだろう? 倉町時江」

 言葉をぶつける。
 時江は理解しているはずだった。直樹が時江になっていたように、時江は直樹になっていたのだ。
 だったら、彼女は知っているはずなのだ。
 直樹にあって、時江にないもの。いや、直樹ができて、時江ができないこと。
 それこそが、“ユビサシ”の悪魔を、“ユビオリ”事件を、“ユビキリ”の悪夢を打ち破る力となったことを。

「わかった風なことを」

 痛いところを突かれたのだろう。時江の語気にも、怒りが混じる。

「わかった風じゃない。わかってるんだよ」

 直樹は不敵に笑う。時江となっていた直樹にとって、その言葉は掛け値なしの事実だ。

「だから時江が自分に足りないと思っているものを、俺は知っている。時江がそれを受け入れられないでいることもな」

 直樹は言った。黙然と恨むように睨みつけてくる時江の視線を受け止めながら。
 時江は認めたくないのだ。そんなことが、そんな弱さが、鍋島直樹の、石井陽花たちの強さだと。

「だから、俺が言ってやる。お前が言えないでいることを俺が言ってやる。お前がためらう最初の一歩を、俺がいっしょに歩いてやる」

 そう言って。直樹は時江に笑いかけ。

「倉町時江、俺を――頼ってくれ」

 手を、差し伸べた。

 人を頼る。そんなことが、時江には出来なかった。
 幼いころから“狎れ合い”をさげすんできた時江には、その手の行為にたいする拒否感が拭いがたくある。
 だから、認められなかった。己の弱さを。己が弱いと宣言することを。
 それゆえ、さきに行く仲間たちを黙ってみていることしかできなかった。
 頼ることも甘えることもできず、歯をくいしばって耐えるしかなかったのだ。

 すこしのあいだ、茫然としていた時江の顔が、一気に崩れた。
 少女は泣き笑いの表情になって。

「うん」

 涙交じりの声で、はっきりとうなずいた。




「――直樹、直樹」

 肉声が、耳を打ったのを感じて直樹は我にかえった。
 円が心配そうに顔をのぞかせている。
 その背後に空が見えた。背中に砂利の感触を感じて、そこではじめて直樹は自分が寝転がっていることを知った。

「円」
「よかった。まだ直樹だ」

 円は泣きそうな顔で笑った。
 その背後で、ふん、と鼻を鳴らした少女がいた。立花雪だ。

「五、六秒の気絶で同化するようなやわな神経してるヤツに雷切を無力化されてたまるかよ。大げさだ」

 毒づく彼女の言葉を聞いて、直樹は不思議に感じた。感覚の上ではその百倍の時を過ごしていたのだ。
 意識を共有するがゆえに、一瞬のうちに濃密な情報交換を行っていたのだろう。
 それにしても、直樹は不思議に思う。
 妙に意識が澄んでいた。時江との同化は、歩みを止めたかと錯覚するほど弱まっている。

「麒麟、とりあえずちっこいほう抑えてろ。とっとと切り離すぞ」

 その作業に入る途中だったのだろう。直樹と時江はすでに別々に寝かされ、土壇場に引きすえられた死罪人のごとき扱いを受けていた。
 目を覚ました時江が暴れださないよう、彼女を抑えにかかった麒麟だったが、そのような気遣いはもはや必要ないことを、直樹は知っている。

「必要ないよ」

 目を開けた時江が、麒麟の手を払った。表情は、至極穏やかなものになっている。

「心配しなくても、もう暴れないから」

 そう言って、時江は半身を起こした。直樹も同じように身を起こす。
 たがいに指を引き合う。
 得心したようにうなずいた雪が、見えざる刀を構えなおした。

 ――手を放すのも、なんだかさみしいよね。

 時江が、声に出さずして話しかけてきた。
 直樹は笑う。

 ――またいつでも、手をつなげるさ。無理やりくっつけなくたって、人間の手ってのは、それができるように作られてるんだ。
 それに、“小指”がいつまでも俺に、鍋島直樹にくっついてても都合が悪いだろう?
 五本の指には――それぞれおさまる場所があるんだからな。

 その言葉は、息を切らして駆けてくる三人の影を立花雪の向こうに見つけたからだった。

 石井陽花。
 深堀純。
 姉川清深――五本指。

「背中を押してやろうか?」

 微笑む直樹に、時江は首を振る。

「みんな!」

 そして、時江こゆびはおのれが帰るべき場所を見つけた。
 欠落の充填。それは異変の収束を意味する。
 まさに“RATS”で彼の女性が言ったとおり。ふたりの指は、音もなくはなれた。




 それから。
 倉町時江はいいように変わった。妙な気負いも劣等意識もなくなったせいだろう。屈託なく笑うようになった。
 直樹のおかげだと、はにかみながら告げる時江を見るにつけ直樹は思う。この事件も、結局彼女にとってはいいことだったのだろうと。

 だからこそ、亡き横岳聡里もあんなメールを送ってきたのかもしれない。
 死んでまで、友達思い。
 いまさらながら、直樹は彼女の墓前に供え物のひとつでも持っていきたい気分になった。

「ああ、春だな」

 強い風が運んできた暖かな空気に、直樹はしみじみとつぶやき、のびをした。握られた拳は、五本そろって畳まれている。




 エピローグ




 夕刻が迫り、客足もひとまず絶えた喫茶店“RATS”の窓側二番テーブルに、ぽつん・・・と黒い少女が座っていた。
 闇色の髪に、対照的にしろい肌、浮世離れした美少女である。休日だというのに県立佐賀野高校の制服を着込んだ彼女はひとり、テーブルについていた。

「――過去にあった話をしよう」

 かたり・・・とも音を立てずにティーカップを置くと、ふいに彼女は口を開いた。
 誰に言うでもなく、しかし透き通った声は、言い聞かせるような調子だ。

「一人の少女がいた。おまじないやジンクス。そんなものを信じる、普通の女生徒だった」

 だけど。
 彼女は続ける。

「彼女には負けたくない奴がいた。そいつに勝つために、自分で作った“神さまを信じる”キャラクターを演じ続けることさえ、した。
 そんないじましい努力を見て、そいつは何をしたと思う?」

 答えを待つように、紅茶で唇を潤し。
 再びティーカップをおいて、彼女はつづけた。

「飛び降りたのさ。あたかも少女の呪いで落ちたかのように装った。
 結果、少女はおのれの神を信じて、狂信してしまった。いびつな神を想像し、創造してしまった。何人もの人間が死ぬような惨状を、生み出してしまったんだ」

「――なあ? 秀林寺寝子」

 宝琳院庵は声を投げかけた。
 それに応えるように。
 ふいに、背中合わせになった後ろの席から、あくびが聞こえてきた。

「買いかぶりさ。わたしはきっかけを与えただけさね。あとのことには、まるで感知しちゃあいないさ」

 年若い女の声だった。ひどく眠たそうな調子だ。
 宝琳院庵は軽く唇を食んだ。彼女には珍しい、いらだちの表現だった。

「だから余計にたちが悪いのだ。火種を起こして後は感知せず。お前が起こした混乱に幾人が巻き込まれたことか」
「監察すれども感知せず。たまに動けばろくなことにならない。あんたも充分にたちが悪いさ」

 糾弾するような宝琳院庵に対し、声を返す彼女――秀林寺寝子には弄るような響きがある。
 宝琳院庵はまたカップに口をつける。
 二呼吸ほどの間。
 宝琳院庵はふたたび口を開いた。

「今回はなにをたくらんだ」

 鋭い、刺すような声だった。
 それに対する寝子の声は相変わらず眠たげなものだ。

「わたしはなにもたくらまないさ。その場その場で思いついたことをやる気まぐれさね。行動に善はあり、また悪もある。中立ではなく混沌。なんでもありこそわたしの身上だ。
 だからみんな言うんだろうね? “眠り三毛”って」
「ならばずっと眠っていたまえ。迷惑だ」
「そこはそれ、猫なもので。眠ったふりしてちらりと見ているわけで。で隙あらば喰らってやろうとね……まあ」

 言いながら、寝子は肩をすくめてみせた。背中越しに話している宝琳院庵には無論見えないが、彼女は衣擦れの音からそれを察した。

「今回はいたずら半分、善意半分ってところさね。立花雪と龍造寺円に関しては、せっかく似たような世界に住んでるんだから、ちょっと紹介してみようとね」
「魔と退魔だ。事前知識もなく会わせれば戦いになることぐらい、想像がついただろう」
「そう。たがいに生き残れば、ふたりが仲よくなることまでね。あのふたり、根っこの部分がよく似ているからねぇ」

 ふふ、と、秀林寺寝子が笑った。
 宝琳院庵は笑わない。

「直樹たちのほうは、これはわたしが仕掛けたわけじゃない。あの子が勝手にハマっただけだよ。彼への助言は、純粋に好意からさね……ま、気まぐれだけど」

 そこまで言って、寝子は席を立った。

「寝子」

 とどめようとする宝琳院庵からするりと逃れ、秀林寺寝子は発った。最後にくるりと振り返り。

「また会うかもしれないし、会わないかもしれないけれど、ひとまずはさようなら、と、言っておこうよ。でわ」
「秀林寺、寝子……腐れ三毛め」

 ひょこりひょこりと、足を引きずりながら歩いていく彼女のうしろ姿に、宝琳院庵は吐き捨てた。
 秀林寺寝子。宝琳院庵が知る限り最も悪魔的で、性質が悪い――人間である。




 ユビツギ 了

              


           



[1515] 閑話8
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:a45bd770
Date: 2010/06/14 22:47

 ふよふよと、目の前でポニーテールが揺れている。
 思わず引っ張りたくなるような動きだ。姉川清深は衝動的に手を伸ばしかけて、かろうじて自制した。
 ほとんど同時に、教師から指名される。おかげでしゃっくりをしそこなったような返事をしてしまった。

 優等生の不意の失敗に、授業中の張りつめた空気が一気に緩む。
 顔が真っ赤になるのを自覚しながら、清深は努めて平静を装い、英文を読みあげた。


「時江、なんでポニーにしたん?」


 授業が終わってすぐ、清深は失敗の元凶に詰め寄った。完全に照れ隠しである。相手もそれをわかっているのか、清深より一段低いところから苦笑を返してきた。 

 時江――倉町時江は、清深の友人であり、清深と同じく泰盛学園“五本指”の一人だ。
 小指に例えられるだけあって十三という年齢以上に小柄である。言えば当人は怒るだろうが、小学生に間違えられることも、まれではない。
 見かけ不相応にしっかりした彼女だが、芯の部分ではあんがい子供っぽい。
 だから。


「直樹がこれ、好きだから」


 苦笑のあと、不意に見せた彼女の表情に、清深は面喰らってしまった。


「……へえ? 直樹さんポニー好きなんや」

「ポニーもだけど、正確にはうなじ好きかな? ほら、直樹さん大喜び」


 と、短めのポニーテールを掻きあげてうなじを見せてくる。
 肉づきと色気が決定的に欠けている気がしたが、あえてそれを口にはしなかった。
 どこでそんな情報を仕入れたのやら。
 おそらく直樹さんの妹弟バイフォーあたりからではないかと清深は憶測した。


「いや、大喜びはせんやろ。直樹さんロリちゃうし」


 ――というか時江まで直樹さんか。


 清深は食傷したように、内心でこぼした。
 おなじ“五本指”の石井陽花が、直樹を一途に慕っていることを知っているだけに、清深としても素直に応援しにくいものがある。
 まあ、陽花も時江も直樹にとってはまとめて守備範囲外だろうが。


「ナチュラルな毒舌ありがとうこの恋愛完全フル武装め畜生」

「やめ! なんやわたしが出会いのために身だしなみに過剰に気ぃ使っとるみやいやないの」

「使ってなくてそれなの!?」


 時江ばかりか他の女子クラスメイト達からも非難めいた視線を投げかけられ、清深は賢明にも口を閉ざした。実年齢より上に見られることこそないものの、清深はすこぶるつきの美少女なのだ。


「ま、いいけどね。どのみち清深でもまだ対象外なんだし」

「まあ、せやろな」


 清深は同意するにやぶさかではない。
 いくら作りが美しかろうが、清深はあくまで歳相応、十三歳の少女である。
 それを恋愛対象に入れることにためらいがない男だったら、こちらから願い下げである。


「妹が澄香さんだしね。あのひと自分のスタイルと乳考えずにべたべた引っついてくるし。それで下手に耐性できてるから多少大胆に迫っても、じゃれてきてるくらいにしか思ってないし」

「……まあ、その辺鈍そうやしな、あのひと」


 清深が思い浮かべたのは宝琳院庵や龍造寺円の姿である。
 直樹と同い年の、それぞれタイプの違う美少女で、しかも直樹に好意を持っているのだが、彼女たちからのアプローチに応えたという話は、とんと聞かない。


「極端に鈍いってわけじゃないんだけどね。その方面に関しては、意識しないようにしてるってゆうか、ほかの人にまで気が回ってないってゆうか……」

「時江、なんでそこまで知ってるん? さすがに詳しすぎとちゃう?」


 さすがに不審に思って清深は尋ねた。
 時江の顔に不敵なものが浮かび上がる。


「あのひとのことなら大抵わかるよ。好きなものも、嫌いなものも、初恋の人とか初めて見たAVとかまで」

「知りすぎや……」


 ドン引きだ。もはやストーカーの領域である。
 まあ興味深い事柄に関しては、清深も、あとでぜったい詳しく聞こうと思っているのだが。


「ま、ともかく。もう何年かは直樹も絶対一人だし、その間に直樹好みになろうと画策中」

「決めつけたらかわいそうやん……」


 確かに本人が鈍いのも悪いのだが、小学生みたいな少女にそんなことを断言される直樹に、清深は哀れを覚えずにはいられない。


「逆に、直樹の好みをあたしに近づけようと努力もしてる」

「いやいやいやそれはせんでいいやろひとつ間違うたら犯罪者やし」

「具体的にはネットで収集したあたしくらいの体型の女の子のエロ画像をプリントして直樹の家に送りつけてる」

「ナニその嫌がらせ以外の何物でもない行為!? 恋とか始まる前に終わるわ直樹さんの人生が! どっち向いて努力しとるんや!」


 冗談が通じない方面に真正面から喧嘩を売る行為である。
 必死に説いてそれだけは止めさせたところで、チャイムが鳴った。
 間を置かずして担当の数学教師が入ってくる。
 ふたたび背を向けた時江の後頭部で、短めのポニーテールが揺れている。


 ――直樹さんに出会ってから、なんや変わったな、この娘も。


 授業の準備をしながら、清深は苦笑交じりにため息をついた。

 以前はもっと冷めた目の少女だった。
“五本指”のグループを、むしろ人を寄せ付けない壁代わりにしている節があった。
 だけど、最近の時江はクラスメイトとも屈託なく話す。上手に他人を頼るようにもなった。
敬して遠ざけられていた彼女が、だんだんと好意的な目で見られてきていることを、清深は知っている。

 鍋島直樹と出会ったおかげで、倉町時江は変われた。
 深堀純が、石井陽花が、姉川清深がそうであったように。
 清深はそれをなによりもありがたく思い。この少女を変えた少年に感謝をしながら、小声でささやいた。


「時江。変わったなぁ」

「直樹と、みんなのおかげでね」


 言いながら立てた小指をいとおしげに見る様は、本当に人が変わったように、清深の目には映った。




 さて、とある休日の昼下がり。
 JR佐賀野駅前に居を構える喫茶店“RATS”の店内、窓がわ手前の席に一人の少女が据わっていた。
 ランドセルがよく似合う年頃である。おひとり様での入店も丁重にお断りされそうだが、その割に紅茶を喫する姿は堂々としたものだ。
 言うまでもなく倉町時江である。


「さあ、直樹からデートの申し込みがあったんだけど」


 時江は携帯でメールを確認しながらつぶやいた。
 ちなみにそこに書かれている文面はこうである。


 ――お前が送りつけてきたブツについてちょっと話があるから今日一時に“RATS”に来い。


 まあ、およそ色気のありそうな話ではない。
 が、時江は楽しそうである。なんにせよ、直樹と出会えることが嬉しいらしい。
 微妙に危機を告げる彼方よりのメールも華麗にスルーして、機嫌よく鼻歌など口ずさんでいる。

 そんな風に緩んでたからだろう。彼女はとんでもない失敗をやらかした。
 ふらりと入店して来た見覚えのある少女を見て、思わず声をかけてしまったのだ。


「あ、ヨウさん」

「ん?」


 彼女が不審げに切れ長の目を向けてきた時、時江は初めて失敗を悟った。
 百八十を超える長身の、京劇役者と見まごう華やかな美女。“ヨウ”こと斉藤用子は鍋島直樹の知人であって倉町時江とはまったく面識がない。
 とある一件で直樹と知識を共有してしまった時江が一方的に知っているだけなのだ。


「知らん顔だな。わたしを知っとるのか」


 身長差は約四十センチ。しかも時江は椅子に座っている。
 はるか高みから見下ろす姿に威圧され、時江はたじろいだ。


「あ、いえ、その、直樹さんから話を聞いてて」

「ふ、ん?」


 とっさに誤魔化した、その言葉に、用子は興味深げに鼻を鳴らした。


「直樹先輩の知り合い、か。どこの子じゃ?」

「え、あ、家は城東の東はずれで、泰盛学園に通ってて」

「あ、澄忠スミタダラインのつながりか」


 用子が手を打った。
 一瞬首をひねった時江だが、鍋島澄香と鍋島忠のふたりを指しているのだと気づいて、あわててうなずく。


「はい。そうなの、です」

「そっかそっか。興味深い……つーか気になるのう。直樹先輩、普段わたしのこと、どう話しとるか」


 言って用子は遠慮なく向かいの席に座ってきた。
 まずいこと言ったかもしれないと思いながら、時江は咎めることもできずに“RATS”スペシャルパフェを注文する彼女を見ていることしかできない。


「それで、どうじゃ? 直樹先輩、わたしのことどう言っとった?」


 時江の頭ほどもあるパフェをスプーンでつつきながら、用子は切れ長の目を興味深げに向けてくる。


「えーと」


 時江は首をひねった。
 むろん直樹は用子のことなど一言も話していない。
 だから、直樹が普段考えているままのことを話した。


「見た目がでかくて派手で、ノーメイクのくせにまんま京劇役者。あとオッパイでかい。不遜で尊大で厚かましい割に考えが古臭い、いろんな意味で正之助の妹」


 直樹が鬼に遭うまで、あと一分。


 

 



[1515] 外伝 刀ぞうし 前編
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:a45bd770
Date: 2010/06/29 18:13
 生業は退魔師です。

 などと自己紹介すれば、十人中九人には正気を疑われる。
 立花雪はそんな時代に退魔師の家に生まれ、そして育てられた。


「感じよ」


 まずは見鬼を覚え。


「畏れよ」


 とるべき距離を叩き込まれ。


「律せよ」


 人と幽冥の境界を侵すモノと戦うことを教えられた。

 実にそれが、雪が師である人たちから教わったすべてである。
 続く教えを授かる前に、父は死んだ。母も祖父母も、退魔の業を知る縁者門人ことごとくが滅びた。


 ――巨大な魔に、災れたのだ。


 そう、教えられた。
 それ以外、雪は知らない。
 死に顔も、見ることは許されなかった。


「もう……修業なんてしなくていいんだって」


 葬儀の間、面倒を見てくれた親戚の女子中学生の言葉に、雪はかたくなに首を振った。

 修業を止めるということは、退魔師にならないということだ。
 雪にはそれができなかった。
 それだけが肉親とのつながりだったからだ。
 この時、雪はわずか九歳。父母を忘れるには、あまりにも幼すぎた。

 数年と経たず、雪は一人前と呼ばれる退魔師になった。
 師のないまま、ほとんど独習である。天才と呼んで差し支えなかった。

 だが、才能では埋められぬものがある。
 特に退魔の業に関しては、口伝によるところが大きい。師を持たぬ雪は、自然、行き詰まった。

 師を外に求めることを、雪は考えなかった。
 いわゆる高名な除霊師のほとんどが眉つばであると、雪の父は常々語っており、それが一門衆以外の退魔師に対するぬぐい難い不信を雪に植えつけていた。

 技量がつたないことを自覚し、限界を間近に感じた中学一年の夏休み、雪はついに他力に縋ることを決めた。








「久しぶりだなぁ、雪坊」


 御笠山岩屋寺。
 境内にふいと現れた少女を笑って迎えたのは、剃り痕の青々とした僧形の青年だった。


「乗雲兄ぃ」


 雪も破顔した。
 数少ない縁者の一人である乗雲は、雪が兄とも恃む人間である。


「大友の坊ちゃんはどうした? 一緒に来なかったのか?」


 大友の坊ちゃん――大友麒麟は、雪と同い年の少年である。
 雪の父母が属していた退魔師一門の、宗家の嫡男だが、雪とは違って退魔師にはなっていない。
 諸事情があって雪と麒麟は非常に縁近い。だから乗雲はこう尋ねたのだが、雪は不機嫌に口の端を曲げた。


「知らん。あんな奴」

「ん? ははぁ。さてはまた一万田のとこへ行ったか?」

「知らん!」


 言い当てられて、雪はプイと横を向いてしまった。
 一時期ともに暮らしていた親戚の少女――いまは大学生の一万田仁実を、雪は快く思っていない。
 原因は彼女が大友麒麟と過剰に仲がいいことにある、というのは、雪自身、認めがたいところではあるが。


「はっはっは、それにしても雪坊、今日はまた何の悪さしに来た?」

「いきなりひどいぞ。休みだから遊びに来たとは思わないのか」

「そんなことは盆暮れ以外にきっちり顔出してからにしろ放蕩娘」


 手の甲でこつりとやられる。
 雪は苦笑交じりに頭をかいて言った。


「雷切を、譲り受けに来たんだ」


 雷切とはこの寺に安置されている霊刀の名である。
 もともとは立花家伝のもので、先代の使い手は雪の父だった。
 その父も常に身近に置いていたわけではないらしく、先代住職だった乗雲の父に雷切の現物を見せてもらった記憶がある。
 見ただけで背筋が震えてしまったことが、強烈に印象に残っている。


「そのときが来れば、雪坊が受け継ぐことになる」


 と言われて四年。
 当時は未熟な自分には過ぎたものだと、あえて求めることはしなかった。
 だが、いまは違う。例え未熟であろうと、この無双の霊刀を手に入れなくてはならない理由が、雪にはあった。


「ふむ……」


 黙然と目をつぶり、しばし。乗雲が口をきいた。


「雪坊が自分から求めてるってことは、頃合いなのかもしれないな」

「――あ、じゃあ」

「ああ。雷切伝承の資格を、刀に問うてみる時期なんだろう」

「資格を、問う? 刀に?」


 雪は切れ長の目を大きくひらき、首をかしげた。








 岩屋寺の本棟のあるところから百メートルほど山を登ったあたりに、小さな庵がある。
 父母が存命だったころ、法事などで岩屋寺に来たおり、二、三度その庵を見た覚えがある。


 ――そのたび飛んできた乗雲兄ぃに怒られたっけ。


 雪は思い返しながらほほ笑んだ。懐かしい思い出である。
 乗雲の背を見ながら山道を登っていくと、記憶通りの庵が姿を現した。


「雪坊、念のために確認しとくが、生臭の類は口に入れていないな」

「もちろん」

「じゃあ、庵の裏手に小さな浴堂があるだろうから、そこで沐浴を済ましておいてくれ。その間に俺はここを開ける手続きをしておく」


 扉一つ開くにもいろいろと作法があるのだろう。乗雲は帳面を片手に手順の確認を始めた。


「わかった。覗かないでよ」

「たわけ。そういうことはもう少し育ってから言え」


 意地悪く返されて、雪は髪をくしゃくしゃと掻いた。

 沐浴を済ませ、戻った時、すでに庵の扉は開かれていた。
 広さは二十畳ほどか。道場を思わせる板張りのだだっ広い空間である。
 戸口からの光のせいでかろうじて見えるが、扉を閉じればほとんど夜に等しい暗さだろう。


「それで、乗雲兄ぃ、試練って?」


 雪が問うと、乗雲はことさら神妙な顔になり、口を開いた。


「雷切に指一本触れることなく、雷切を持ち出せ」

「……は?」

「それが雷切を伝承する資格、らしい」


 乗雲の口調がやや自信を欠いたものになる。
 乗雲の父は二年前に目を瞑った。
 急な死ゆえに、若い乗雲にはまだ伝えられていなかったことも多いのだ。


「……どうやって?」

「さあな。それを考えるのも試練のうちじゃないか?」


 まあがんばれ、と、軽く言って、乗雲は本堂に戻っていった。

 残された雪は庵の扉を閉める。
 自然の明かりが消えた。
 目が慣れるまで待って板の間の奥に膝を進めると、つややかな漆塗りの感触が指先に触れた。刀を飾る台座だった。

 目を凝らしてみる。までもなく、異様な気配が刀全体から漂ってくる。
 ふいに鈍く光ったと見えた。刀身の輝きである。雷切はすでに鞘が払われていた。


「これが、雷切」


 雪は思わずつぶやいた。
 刃渡りは、常寸より少々短く二尺二寸。
 わずかに黒を含むにび色の地金と、油が自然と浮き上がってきたような美しい波紋を持つ、刀。

 記憶にある雷切と、形は寸分も変わらない。
 だが、退魔師としての腕が上がったせいだろう。目の前にあるものが、どれほどの力を秘めた刀か、今の雪には理解できた。

 鍔鳴りの音だけで妖魅は去るだろう。剣の持つ威のみで悪霊は魂消るだろう。刀を振るえばあらゆる魔を滅するだろう。
 それだけの威力を、この刀は間違いなく秘めている。雪がいままで見てきた中でも破格の霊刀である。


「これが、この刀があれば」


 ――麒麟が傷つかなくて済む。


 雪は秘めた本音を口にした。








 立花雪には一つの後悔がある。
 家族が死んで乗雲の家に預けられた時、退魔の技の修業にかまけて、同じ境遇に落ちたはずの同い年の少年のことを頭の隅に追いやってしまっていたことだ。
 
 家族を失った最初の正月、雪は麒麟と再会した。
 久しぶりに会う宗家の息子の姿を見て、雪は眉をひそめた。
 麒麟の体の随所に擦り傷や青あざがあったのだ。骨まで見えそうな抉り傷まで見てとれ、それでも麒麟は一門の惣領として上座に座らされていた。麒麟は眉ひとつ動かさなかったが、痛くないはずがない。


「修業だ。大友一門の惣領として、一刻も早く一人前になってもらわねばならん」


 問い詰めた雪に、麒麟の養父となっていた男はそう言った。
 麒麟の一族もまた、退魔の技を修めたものは居なくなっている。この男も血族ではあるが、この世界のことなど聞きかじり程度にしか知らぬ筈だった。


 ――そんな者がなぜ、麒麟を鍛える? なぜ焦って速成を図る?


 不安になった雪は保護者に頼み、事情を調べてもらった。
 理由を知って雪は震怒した。
 なんとあの男は、麒麟の養父として、政財界にも顔の利く退魔の名門大友家を食い物にするために、幼い麒麟に虐待にも等しい修業を課していたのだ。

 いや、それだけならまだいい。厳しい修業というなら、雪が己に課してきた修練も、決して劣りはしない。だが男は己の半端な知恵による、てんで見当違いの修業をさせ、しかもそれで成果が上がらぬ麒麟を虐待していたのだ。

 すぐさま男のもとに乗り込んだ雪は、冥者に対するときのみ見せる貌で言い下した。


「大友麒麟はわたしが鍛える。なにも知らぬ凡俗が手を出すことなど許さぬ」


 この傲慢な宣言を、男は切歯扼腕しながらも受け入れた。
 退魔の業を修めたものを身近に知る彼は、だからこそ彼らに対して必要以上の畏怖を抱かざるを得なかった。
 男は己の娘ほどの少女に、“本物”を見、そして恐れたのだ。

 この無茶苦茶を、ほうぼう当たってそれぞれに面目のたつように取り計らってくれたのは、保護者である乗雲の父だった。この点雪は深く感謝している。

 麒麟を預かった雪は、最初に言った。


「なにもしなくていいから。いまは、休んでいいから」


 雪は麒麟に修業をつける気など、毛頭なかった。
 大友一門である自分が麒麟の代理として仕事をこなせば、どこからも文句は出ない。中世や、まだその匂い残る近代ならいざ知らず、現代では仕事の数も多くはないのだ。

 しかし、雪は行き詰まってしまった。
 凡百の術者に劣るつもりは、むろんないが、大友、そして立花として面目のたつ力量でないことは、雪自身痛感している。
 
 いまだにあの男は麒麟の養父である。
 雪が家名を損なうようになれば、あの男はまた首を突っ込んでくるかもしれない。
 
 その焦りゆえに、雪は力を、雷切を求めたのだ。




[1515] 外伝 刀ぞうし 中編
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:a45bd770
Date: 2010/06/26 20:31

 ――手を触れずに、雷切を持ち出す。


 刀と相対しながら、雪はその手段を模索した。
 飾り台ごと抱えて、あるいは板張りの床を抜いて持ち出すことをまず考えついたが。


「ちがう。トンチじゃないんだから、そんなことしてどうする」


 雪は即座に首を横に振った。
 念のため試してみたものの、飾り台は床に据え付けられている。
 そのうえ床も、刀のある付近は鉄板か石板でも噛ませているのだろう。叩くとひどく鈍い音がした。

 かといって、雪の手持ちに、手を触れずにものを引き寄せるたぐいの術法などない。というか、そもそも雪の属する流派にも存在しないはずである。

 自我がある類の霊刀でも無いようで、となれば呼び寄せることもできない。
 いろいろと手段を模索しては見るものの、試した数だけ失敗を重ねただけだった。

 気がつけば、はや夕刻。
 いったん出直すため、雪は庵を出て本棟に戻った。
 出迎えてくれた乗雲は、熱い焙じ茶を用意してくれた。


「さすがに苦戦してるみたいだな。キツそうか?」

「苦戦、というか、どう攻めたらいいのかが、わからない感じ……乗雲兄ぃ、おじさんからなにか聞いてない?」


 乗雲に尋ねたのは、本来与えられるべき情報が与えられていないのではと疑ったからだ。


「無いな」


 だが、返ってきたのは否定の言葉。


「親父の残した手帳にも、ヒントになりそうなことは書いてなかった」


 ――てことは、足りないのは腕か。


 雪はため息をつく。


「あきらめるか?」


 挑発するように、乗雲が笑顔を向けてきた。

 まさか、と、雪は首を振り否定した。
 己の未熟は理解している。理解して、そのうえで挑んでいる。
 だから、雪に落胆など微塵もない。


「わたしが諦めるわけ、ないだろ?」


 ただ挑戦的に笑うのみである。








 次の日から、雪は離れに籠りきりになった。
 定時の食事も庵に持ってきてもらい、片時も刀から離れず、頓知のような難題に挑み続けた。

 そして数日が過ぎる。
 思いつく限り試しては見たが、それでも雷切を持ち出すことはできていない。
 酷使しすぎて痛くなってきた頭を揉みほぐしていると、外から食事時を告げる声があった。

 乗雲の声ではない。だがよく知った声だ。
 雪は庵の扉を開いた。扉の向こうにいたのは、寝ぼけたライオンのような髪型と顔立ちをした、雪と同年代の少年だった。
 大友麒麟である。


 ――仁美姉ぇのとこから戻ってきたのか。


 そう考えると、雪は心が波立つのを感じた。

 この修業は雪の勝手な行為である。
 とはいえ、麒麟を思ってのことなのだ。
 雪が苦労している最中に女とイチャイチャしていたかと思うと、さすがにやりきれない。


「そこに置いとけ。入るなよ。女くさい体で近づいたら刀が穢れる」

「ひどい言われようだ」


 麒麟の返事は淡々としたものだ。
 長い付き合いで、共有した時間は下手な兄弟よりも長い筈だが、雪は未だに麒麟の思考が読み切れない。


「苦戦しているのか」


 唐突に。麒麟は尋ねてくる。


「悪かったな」


 雪は仏頂面になって返した。


「状況は乗雲さんから聞いている」

「そうか」


 麒麟の言葉に、雪はそっけなく返した。
 麒麟は退魔の業を修めていない。雪が頑なにそれを強いてきた。
 だから門外漢である麒麟には、あまり首を突っ込んでほしくなかったのだ。

 だが、麒麟は当然のように首を突っ込んできた。


「一度――一度刀に触れてみてはどうだ」


 雪はあきれ顔になってしまい、あわててそれ手で隠した。
 頓珍漢な助言だったが、麒麟を門外漢にしたのは、ほかならぬ雪なのだ。


「馬鹿を言うな。刀に触れるのはルール違反」


 雪は一言で却下する。
 すると麒麟はどこかあきれた表情でため息を漏らした。


「お前は真面目すぎる」

「そっちは不真面目すぎるけどな」


 即座に切り返すが、帰ってきたのはふたたびのため息。


「ルール違反なのは、刀を持って外に出ることだろう。室内で振るう分にはなんの問題もない。そもそも刀を理解しようと思えば、使ってみるのが一番の早道ではないか?」


 雪はぐうの音も出なかった。

 食事を終え、麒麟を帰すと、雪はやや遠慮がちに刀を手に取った。


 ――重い。


 最初にそう感じた。
 つぎにひやりとした冷気が、手の甲を撫でた。
 まるで刀の周りの気温だけが、数度も低くなったようだった。
 だというのに、手のひらに感じつのは、熱。刀を鍛えた時に加えた熱が、芯のほうで燻っているような感覚。


 ――名刀だ。


 理屈抜きに、雪はなぜかそう確信した。
 新たな尊崇の念とともに、ゆっくりと息を吸う。
 溜めたものをすべてを吐き出すように、雪は雷切に向かって強く念じかける。


 ――雷切よ。お前の力、わたしに見せてくれ!








「――で、駄目だったか」

「ウルサイな」


 朝食を運びがてら、話を聞いた乗雲の一言に、雪は口を不機嫌に曲げた。

 結論からいえば、雷切は願いに応えた。
 まるで吸い付くように雪の手に収まった雷切は恐ろしく手になじんだ。
 構えるだけで離れ全体を己の意中に落とし、一振り一振りが確実に気を裂いた。

 だが、それだけだった。
 恐ろしいまでの威力を秘めた霊刀は、己を持ち出すための手がかりを寸毫も教えてくれなかった。


「まあ、それでも進捗はあったんだ。麒麟に感謝しないとな」


 乗雲の言葉に、癪だとばかり雪は頭をかいた。


「その麒麟は?」


 助かったのは事実なので、麒麟の居場所を尋ねる。


「一万田のとこ」

「よし殴る」


 一万田、まで聞いて雪は即座に断言した。
 目が据わっている。雷切を持ち出して一刀両断にしかねない勢いだ。


「まあ待て。怒りすぎだ」


 あわてて乗雲がなだめにかかる。
 雪は収まらない。


「あんのエロ馬鹿……人が知恵熱でるほど頭悩ませてるのに、お気楽に色ぼけやがって……」


 毒づく雪に、乗雲がはたと動きを止める。


「まて、雪坊。おまえなにか勘違いしてるぞ?」


 言われて雪は怪訝な顔を向けた。


「大友の坊ちゃんが一万田のとこ入り浸ってるのは、あそこの蔵書から、お前の役に立つ資料がないか探してるからなんだよ」


 雪は切れ長の目をまん丸に見開く。
 次いで、居心地悪そうに肩をゆすりながら渋面になった。


「あいつめ、余計なお節介を……言ってくれたら、いいのに」


 雪はくるりと背を向けた。
 照れ隠しなのは明らかだった。
 乗雲がやや意地の悪い笑顔を浮かべたのだが、後ろを向いていた雪は気付かなかった。

 立花雪は知らない。
 大友麒麟の、もう一つのお節介を。
 大友家と付き合いのあった権力者の間を動き回り、雪の仕事の成果を利用して大友健在を周囲に知らしめ、大友家惣領の威勢を回復しようとしていることを。
 雪の禁を守り、退魔の道に背を向けながら、なお雪の力になろうとしていることを。
 麒麟もまた、戦っていることを、雪はまだ知らない。







[1515] 外伝 刀ぞうし 後編
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:a45bd770
Date: 2010/06/27 20:49

 その日の夕方、食事を持って現れたのは麒麟だった。
 今朝乗雲に教えられたことがしきりに思い出され、雪はばつが悪くてまともに顔が見られない。


「すこし、考えた」


 麒麟のほうは相変わらずで、そんな雪に気づいているのかいないのか、とにかく気遣う様子などない。


「雪。お前は以前雷切を見ているな?」

「ああ」


 尋ねられた雪は、照れも入ってぶっきらぼうに返す。
 昔見た雷切の姿は、いまでも鮮明に思い出すことができる。

 ふと、違和感を覚える。
 その正体を探るより先に、麒麟が問いかけてくる。


「お前の記憶にある雷切は、どのようだった?」


 その問いが、漠然とした違和感の輪郭を鮮明にした。
 記憶の中の雷切は、いま目の前にあるそれと比べて、はるかに見劣りがする。
 当時の自分が未熟だったため、刀の本質を見抜けなかった。雪はそう思っていたが、果たしてそれは正しいのか。

 もし、本当に過去の雷切が現在のそれより劣っていたとしたら、それは何故なのか。


「どうした? 雪」

「いや……おかしな話だけど、昔見た雷切のほうがしょぼかったような」


 考えがまとまらぬまま問われ、雪は疑問をそのまま口にした。


「しょぼい、か」


 腕を組み、考える風になった麒麟が、しばらくして口を開いた。


「雪、すこし考えた」

「……聞こう」


 しばらく迷ってから、雪は言葉を促した。


「当時の雷切と、現在の雷切が別物ではないか?」

「それは、たぶんない」


 雪は否定する。
 たしかに当時の雷切のほうが見劣りはする。
 だが、印象はひどく似ているのだ。二者の違いは、例えるならば同じ人物の青年期と老年期だ。

 それをそのまま口にすると、ふむ、と麒麟がうなずく。


「雪が見た当時、雷切には所有者がいたな」

「ああ。いたよ」


 ほかならぬ、雪の父である。
 だが麒麟はあえて所有者という言い方をし、気遣いを察した雪も、あえて言及しなかった。


「所有者が居なくなって雷切の凄味が増したと……雪、ひょっとして、本当に大事なのは、刀そのものではないのかもしれないな」


 問われて、はたと悟った。


 ――雷切に指一本触れることなく、雷切を持ち出せ。


 その、頓知のような言葉の、本質を。
 そして、そのヒントを与えてくれた目の前の少年に目を眇める。


「麒麟、お前、わたしが自分で答えを出せるように導いたろ」

「なんのことか分からんな」


 麒麟はとぼけるばかりである。
 ぼうっとしているようで、このような芸当を平気でやるのだから始末に負えない。


「はぐらかすな。礼くらい言わせろ。これでも……感謝してるんだ」


 頬を赤らめ、そっぽを向きながらも、雪は礼を言った。
 それを見て、麒麟の表情が、ほんの少しだけほころんだ。








 夜。闇に慣れた雪の目には、雷切の刀身は眩い三日月のごとく映る。


 ――きれいだ。


 あらためて、雪は思う。
 だが、この時に限っては。用があるのは、この美しい刀にではない。

 膝を進め、そっと手を伸ばす。
 触れるのは柄ではない。雷切が纏う神威そのもの。
 いや、神威こそが本当の雷切なのだとすれば、まさにいま初めて、雪は雷切に触れるのだ。

 意識のチャンネルをズラす。
 雷切に、手を近づけていく。
 刀身が纏うものに手が触れた――刹那。

 雷のごとき衝撃が雪を貫いた。
 悲鳴すらあげることができず、雪は卒倒した。


「……は、はは」


 体は、動かない。
 それでも雪は、仰向けに倒れたまま、台上の雷切を仰ぎ見て笑った。


「嬉しいな、雷切。初めて本気で応えてくれたな」


 掛け値なしに本音だった。
 この試みが正しいと、いまの反応が教えてくれたようなものだ。


 ――なら、何度でも挑んでやる。


 雪の覚悟は揺れなかった。

 体が動くようになると、雪はすぐさま立ち上がり、雷切に挑んだ。


「くあっ!?」


 同じ光景が再現され、雪はふたたび地に倒れ伏す。
 だが雪はまた立ち上がり、雷切に挑む。

 何度も衝撃を受けては倒れた。
 受け身も取れず倒れ続けた為、体中痣だらけになった。
 それでも、雪は挑み続け、それでも、雷切は拒絶し続ける。


 ――あと一歩なんだ。


 雪はあきらめない。


 ――もう少しで、雷切が手に入るんだ。


 意識も朧となりながら、体を引きずり、這いずるようにして雷切に挑む。


 ――あと、一歩。


 ついに雪の意思に反して、体は自らの役目を放棄した。


「く……そっ」


 砂を噛むようにして、雪は悔しさに歯を食いしばる。
 あと一歩である。
 乗雲に支えられて、麒麟に手助けされて、それでも、一歩、足りない。


「なんで、応えて……くれないんだ」


 雪は呪詛するように呻いた。
 答えなど、とうに分かっている。
 誰のせいでもない。雪自身の、実力が――たった一歩を埋めるほどにも、無いのだと。


「う、うう、う」


 己の不甲斐なさに涙を浮かべながら、雪はそれでも立ち上がろうとする。
 だが、もはや体は一ミリたりとて動かなかった。

 長い間、雪は天井を見つめていた。
 絶望的なまでの無力感が、雪に己の意識を手放させなかった。
 麒麟のことを考えた。
 乗雲のことを考えた。
 一万田仁実のことを考えた。
 いまは亡き人たちのことを考えた。
 そして雷切のことを考えた。

 天井を見ながら、雪は考える。
 雷切に、いわゆる“心”などない。
 いままで散々触れ続けた雪は、それを知っている。


 ――なら何故、雷切は使い手を選別する?


 ふと、そんな疑問が生じ、雪は推し進めた。
 この霊刀は、使い手になにを望むというのか。

 刀は器物である。
 器物の意義は、使われることにこそある。
 では、刀の使い方とは。刀が欲することとは、なにか。

 斬ること――ではないか。

 思い至った雪は、ぞっとして息をのんだ。
 美しいまでに純粋で、残酷な有り方である。


 ――わたしは、不純か。


 雪はその問いに己を映し返す。

 雷切に力を求め、それによって大切な存在を守ることを望んだ。退魔師として一流と認められることや、もはや正体の知りようのない父母の敵を討つ事も、望まぬではない。

 刀に比べれば、あまりに不純なあり方である。


 ――律せよ。


 ふと、父の教えが思い浮かんだ。
 人の領域に踏み込む魔を退け、魔の領域に踏み込む人を退治る。
 生きるために。麒麟を助けるために雪が捨てた、あまりにも単純な退魔師の在り方。
 それこそが雷切の望む使い手の姿ではないのか。


「……雷切よ」


 雪は声を絞り出した。
 体は動かない。だが、思いは這いずり往き雷切の前にある。
 心の手で刀身に触れ、雪は雷切に語りかけた。


「わたしは誓う。お前がただ刀であるように、わたしもまた、ただ――」


 雪はそこで言葉を止めた。
 人と幽冥の間を律する、ただそれだけの存在。
 そんなものに雪がなれば、誰が麒麟を救うというのか。

 雷切を手に入れる。
 雪がそれを望んだのはなんのためだというのか。


「誓う!」


 力強く、言い正す。
 正答を捨て去って。ただ己の信念を以って、雪は雷切に挑む。


「お前がただ刀であるように、わたしもまた、ただ立花雪であることを!」


 めちゃくちゃだと、雪もわかっている。
 退魔の道を行くのなら、捨てていかねばならぬものがある事を、雪は知っている。
 だが、なにかを捨てるには。立花雪は、あまりにも失いすぎていた。


「大切なものを守る、そのためにこそ、わたしは雷切――お前が欲しいんだ!」


 生のままの思いをそのままぶつけて、心の手で雷切を引き抜いく。
 瞬間。かつてない衝撃が全身を奔り、立花雪の意識はそこで吹き飛んだ。

 長い長い、死のごとき沈黙ののち、よろよろと、雪は身を起こした。
 電撃にも似た衝撃が、かえって体に活を入れたらしい。手足が動く。

 雪は飾り台の上の雷切を見た。
 刀から発せられていたものが消えている。
 それを当然と受け止め、ごく自然一動作で。
 雪は何も持たぬ手で刀を鞘走らせるしぐさを行っていた。

 手元から伸びた怏々たる気は、かつて目の前の霊刀が宿していたものだ。
 実物ではない。概念としての霊刀そのもの。妖を斬るためだけの、刀の形をした神威。


「雷切」


 つぶやき静かに目を伏すと、雪は抜け殻となった雷切に一礼して背を向けた。








「――と、言うわけだ」


 雷切に関する長談を、雪はそう締めた。
 城跡を間近に見る旧城下町の古民家の一つ、鍋島家の屋敷の一室。
 枯れた喉を茶で潤す雪の前に居るのは、この家の長男、鍋島直樹のみである。


「ふうん? 曰くのある物なんだな」


 ただ一人の聴衆は関心顔でうなずいた。


「だけど……なにか裏があるんだろう? 円が帰ってくるまでの暇つぶしとはいえ、こんな話をしたのは。」


 雪より二歳年上のこの少年、妙に鋭いところがある。
 雪が言葉の最初からたっぷり含んでいたものがあることに気づいたらしく、水を向けてきた。

 いたずらが見つかった子供のような表情になって、雪は答える。


「由来がわかって、理屈がわかって、そこにあると理解できた。
 なら、もう間違ってもクソ意地ひとつで雷切を否定するなんてできないだろう?」


 ただの意趣返しだよ、と付け加えると、雪は涼しげに笑った。
 指と指がつながった、とある事件のあと。春休みの一幕である。





[1515] 閑話9
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:6652687b
Date: 2011/08/18 22:27
 突風が春めいた香りを運んできた、とある休日。
 直樹は通い慣れた城東新町ではなく、そのひとつ向こう、城東駅で降車した。

 新しく開発され、立派な繁華街になっている城東新町一帯にその地位を奪われてはいるが、かつては城東駅周辺が、城東地区の中心地だった。

 その面影を偲ばせながらも、どこか寂びた風情の駅構内。
 午前十時を半ばも過ぎたころ。一緒に降車したのは両手で数えられる程度で、だから改札の向こうで待ち構えるように立っている少女の姿も、すぐ目に入った。

 光すら吸い込まれる漆黒の髪に、対象的に白い肌。
 時代劇に出てくるオヒメサマのような容姿の美少女だ。

 直樹の知人である。
 クラスメイトにして友人である悪魔少女(比喩ではない)の三つ下の妹で、名を宝琳院白音という。


「お待ちしていました」


 改札を出ると、歩み寄ってきた白音が口を開いた。
 姉と違って完全な無表情だが、同じように感情の薄い龍造寺円と幼馴染やっている直樹である。どこかほっとした様子があるのに気づいている。


「お待ちしておりました。直樹さん」


 そして、いつものように言葉を重ねながら。


「お待ちしておりました。直樹さん。どうか助けてください」


 電話で連絡してきたときと同じように、助けを求めてくる。
 少女の声音につられたように、直樹は硬い表情でうなずいた。









「なんだって?」


 直樹は声を上げた。
 白音の家に向かう道すがらのことだ。
 彼女が直面している困難について詳しいところを聞いては、そうせざるを得なかった。

 この、親友に瓜二つの中学二年生は、無表情のままこう言ったのだ。


「料理を作りたいので手伝ってください」


 またぞろ何か厄介な事件かと身構えていた直樹は、これを聞いて思い切り脱力した。
 そんな態度が気に入らなかったのだろうか。白音はこれが自分にとって深刻な問題だということを精いっぱいに主張した。

 どうも両親が外泊することになり、自分で料理を作る羽目になったらしい。


「つーかなんで俺」

「双子を頼れと?」

「それ以外にあてはねぇのかよ」

「年下ならなくもないのですが、同級生や年上にはいません」

「つーか、そもそもなんで料理をしようと? コンビニじゃ駄目なのか?」


 直樹の問いに、白音は深刻な顔で言った。


「姉さまに、命じられたのです」


 まあ、つまりはそういうこと。
 ふたりで留守番をすることになり、家庭の指揮権を握った宝琳院庵が、その権限を発動し、家事の当番を割り振ったのだ。
 
 ちなみに、宝琳院庵は料理ができる。
 いつも彼女が持ってきている、ミニマムサイズの弁当箱の中身は、彼女のお手製だ。
 そんな彼女が、わざわざ妹に料理させようというのは、彼女に料理を覚えさせようという親心に違いない。

 しかし。


「かなり本気で挫折しそうです」


 家に入り、台所に案内された直樹は、見た。
 テーブルに広げられた皿には炭と生ごみが前衛的に盛り付けられている。
 姉の期待に応えようと一生懸命やったのだろう。
 だが、彼女に料理の才能は皆無らしい。異臭に鼻をつまみながら、直樹はこっそりとため息をつく。


「宝琳院は?」

「外出中です」

「ま、この臭いに気づかないほど、あいつも鈍くはないか……それで、俺に助けを求めたわけか」

「肯定です」

「でもな、白音。俺も料理はできんぞ」

「……それも予測済みです」

「なんだその、ちっ使えねーなこの先輩、みたいな表情は」

「直樹さんは勘が鋭すぎてやりにくいです」

「全肯定かよ! ちょっとは気を使って否定するふりくらいしろよ!」


 直樹の突っ込みには答えず、白音は混沌と化した食卓を片づけ始めた。
 直樹はそれ以上追及することに意義を見いだせなかったため、黙ってそれを手伝うことにした。


「ところで直樹さん、お知り合いに料理ができる人間は? 龍造寺先輩などは、直樹さんが呼べば飛んで来てくれそうですが」

「本当に来そうだからやめろ」


 なんとなく背後を確認してから、直樹は肩を落とした。
 最近人外っぷりに磨きがかかってきた彼女なら、比喩ではなく飛んで来かねない。


「あいつはな。料理自体は上手いんだけど……無理だ」

「どうしてです?」

「喰うんだよ。作った分だけきっちりとな。中学の時だったか、親がいないときに円に飯作ってもらったときあったんだけど、その時も本気で美味そうな料理作ってさ、涎垂らしてる澄香と忠の目の前で全部平らげやがった」


 指をくわえて半泣きになっていた双子を思い出しながら、直樹は説明する。


「なんであのひとは、あれだけ完璧なのに、女性としてだけはすこぶる残念なのでしょう」


 お前もたいがいじゃないか、と思いながら直樹は口にしなかった。賢明だった。









「まあ、とりあえずいっぺん作ってみろ。どこがおかしいのか見てやるから」


 一通り台所を片づけてから、直樹は白音に言った。
 白音は神妙な顔で、では、作ってみます、と言って料理を作り始める。
 レシピと作り方の載った本の通りだ。直樹の眼には、工程に問題はないように見える。
 料理下手の基本とも言える無謀なアレンジもなく、それどころか完全に教科書通り。一見理想的な工程なのだが。


「これは……」

「オムライスが……魔界転生されました」


 ふたりは息をのんだ。

 どこかボタンをかけ違えたとしか思えない。
 出来上がったオムライスは、異界の造形物と化してしまった。
 直樹の眼には別段おかしいところは見られなかったが、どうも要所要所で失敗しているらしい。しだいに崩れていく形。人の口に入るものには不要な臭いは段々とその臭気を増し、ついには異界の法則が働いたとしか思えないものが生まれる。魔界転生とは言い得て妙である。


「一見ちゃんと料理で来てる風なのにな……ポイント抑えたら一気に上手くなりそうなんだけどな」


 それをことごとく外しているが故の、この失敗なのだろう。
 一種の才能と言っていい。
 一朝一夕で改善できるとは、直樹にはとても思えない。


「なるほど……では、もう一度やりますので、直樹さんはチェックをお願いいたします」


 だが白音のほうは直樹の、指摘とも言えない感想に一定の価値を見いだしたらしい。
 真剣にうなずくと、魔界転生したオムライスを脇にやり、再びレシピとにらめっこしながら料理をしはじめる。

 そのひたむきな様子に、直樹は素直に感心した。


「白音」

「なんですか直樹さん?」

「お前、えらいな。駄目だったらコンビニ飯で済ませることもできるのに」


 正直な話、直樹は白音を安く見ていた。
 困難に当たればこれを乗り越えようとせず、賢く立ち回ってそこから逃れる。そんな傾向のある少女だと思っていた。

 だが、目の前の少女は、真剣に、ひたむきに、困難に正面から挑んでいる。


「姉さまを失望させたくないのです」


 直樹の言葉に、白音は静かに答えた。


「姉さまは、必要がなければ日常会話すらまったくしない人間です。だからと言って心が通ってないとは言いませんが……本当に少ないんですよ。姉さまが私を頼ってくれることなんて」


 たとえそれが、白音に家事を覚えさせるための口実だったにせよ。
 小声で呟きながら、白音は続けた。


「ですので、本当にうれしいのですよ。今回のことは」


 料理ができないからといって、宝琳院庵は失望しない。
 だが、料理ができないからとあきらめれば、おそらく彼女はがっかりすることだろう。
 それがわかるからこそ、白音は頑張るのだ。姉の期待に応えるために。


「……おまえはほんとにえらいよ」

「照れます」


 しみじみと言った直樹に、白音がわずかにほほを紅潮させた。

 ちょうどその時である。
 かちゃり、と小さな音とともに、部屋の扉が開いた。
 猫のごとく無音で、その奥から姿を現したのは、宝琳院白音と瓜二つの少女。

 宝琳院庵。
 直樹のクラスメイトにして親友。そして白音の三つ年上の姉だ。


「宝琳院」

「やあ、直樹くん。なにやらいい雰囲気だったみたいだね……お邪魔だったかい?」


 いつも通り、顔ににやにや笑いを貼りつかせて、悪魔は笑う。
 たしかに。部屋にふたりきりの少年少女。少女のほうはわずかにほほを染めている。いろいろと勘ぐれる状況である。


「いえ、姉さま、それは誤解です」


 白音が妙にあわてた調子で否定した。
 姉のほうはすこし意地悪な微笑を浮かべるのみだ。
 それを見て、また白音があたあたと弁解めいたものを口にする。頭のいい娘だが、この少女、あんがい想定外の事態に弱い。


 ――宝琳院のやつ、分かってて意地悪してんだろうなあ。


 紙切れ一枚ほどもやましいところの無い直樹は、ふたりの様子をほほえましげに見ながら――放りっぱなしになっている炒め物に気づいて、あわてて火を止めた。









 耳まで赤くなっていた白音がようやく落ち着くと、不意に直樹と宝琳院庵の目が合った。
 黒髪の悪魔少女の視線は、そのままテーブルに向かい、そこに降臨されたオムライス(魔界転生)で止まる。


「それにしても直樹くん。ありがとう。うちの妹が世話になったようだ」

「たいした事、してないけどな」


 苦笑を浮かべながら、頭を下げてくる少女に、直樹は頭をかきながら応じた。


「それで、姉さま……昼食なのですが」


 白音がおずおずと口を開いた。
 すでに昼前になっているが、出来上がっているのはオムライス(魔界転生)と、直樹が気づいて火を止めたおかげで惜しくも完全体になれなかった炭(80%)のみだ。


「ふむ、そうだね」


 白音の言葉に、宝琳院庵は珍しく口に出して答えた。


「白音には、もうひと頑張りしてほしいところだけれど……お客様もいることだ。今日は一緒に作ることにしよう」

「姉さま」


 やさしい笑みを浮かべる姉にたいし、無表情な妹はわずかに口の端をあげた。

 それからふたりは、肩を並べて料理を作り始めた。
 切られた食材は、多少不揃いだったが、宝琳院庵が重そうに持つフライパンの中で踊ると、魔法のように食欲をそそる香りを放ちだす。

 妹がミスをしそうになるたび、姉が肩を叩いてそれを教えてやる。
 ふたりがテーブルに並べた料理は、先程のそれが嘘のように、誰が見てもおいしそうなものだった。


「さて、料理ができたよ。直樹くん、もちろん味見してくれるだろうね?」


 料理をまえに、宝琳院庵は笑いかけてくる。


「ああ、もちろん」


 と、直樹は微笑み返した。









「ところで直樹さん」


 食事を前に、白音が話しかけてくる。


「なんだ?」

「今日は本当にありがとうございます。なにかお礼ができればいいのですが」

「いいって。手料理喰わしてくれるなら、それで十分だよ」


 配膳を手伝いながら、直樹は笑って答えた。


「でも……あ、そういえば姉さま。食事の邪魔になるので、髪をまとめて差し上げますね」


 宝琳院庵がこくりとうなずくと、白音はいそいそと姉の長い髪を高く結いあげ始めた。
 光さえ拒むような黒髪の隙間からちら見える白いうなじに、直樹はどきりとしてあわてて目をそらした。

 その反応を見て、悪魔少女がにやりと笑う。


「ふむ、ひょっとして、この髪型にすることが、直樹君へのご褒美になるのかい?」


 獲物を見つけた猫の眼つきだ。


 ――なんて奴に教えてやがるんだ時江。


 直樹は、白音に情報を漏らしたであろう少女を恨みつつ――とりあえず直接の元凶である白音にたいして、恨みがましく目を眇めた。







[1515] 閑話10
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:55280d8f
Date: 2011/09/30 23:55

 その日、鍋島直樹はいきなりの怒鳴り声に夢の中から叩き出された。
 目を開き、時間を確認すれば、まだ日付も変わっていない、
 期末試験が終わり、気楽な休日をしこたま遊び倒した直樹の体は、まだまだ睡眠を欲している。


「……いったい何なんだ」


 重い体をひねりながら身を起こすと、言い争う男女の声がはっきりと聞こえてきた。


「なんだよっ!!」

「なにさっ!!」


 壁一枚隔てたすぐ隣からだった。
 直樹の、双子の異母兄弟。澄香と忠が使っている部屋だ。


 ――珍しいな。あいつらが喧嘩なんて。


 あくびを噛み殺しながら、直樹は思った。

 澄香と忠は、昔から仲がいい双子だ。
 仲がいいと言っても性別の違う兄妹のこと。普通ならそれなりに距離があるものだが、この双子にはそれもない。

 いつも一緒につるんで騒ぎまわっている。
 その、騒ぎまわるのレベルも常人とは隔絶しているのだが。
 思い出しながら直樹がたそがれている間も、喧騒は止まない。

 そして。

 ばん、と襖が開く音。
 続いて競うように廊下を駆ける音。
 それから直樹の部屋の襖が勢い良く開く音。


「――にーちゃん、いっしょに寝よ!」

「――兄さん今日いっしょに寝よ!」


 直樹に向かって突っ込んできた双子は、餌を求めるヒナのごとく詰め寄ってくる。
 勢いに押されてのけぞった直樹になお顔を寄せながら、双子は互いに睨みあった。


「俺のほうが速かった!」

「手はわたしのほうが早く入ったよ!」

「澄香女だろ! 部屋で寝てろよ!」

「兄妹だからいいんです―! 忠こそ部屋で一人寂しく寝なさいー!」

「なんだよ!」

「なにさ!」


 ガンガンと額をぶつけあいながら、双子は布団の上で騒ぎだす。
 原因はさっぱり分からないが、とりあえず双子がなにを求めているのかは分かった。

 直樹は眉を顰め、脱力感とともに深いため息をついた。


「おまえらな……一緒に寝たいなら、三人で寝りゃいいだろ」

「にーちゃんとは寝るけど、澄香となんか寝たくないんだよ!」

「兄さんと寝るのはいいけど忠とはヤなの!」

「おーい、おまえら。十秒以内に騒ぐのやめないとグリグリやるそ?」


 直樹が双子によくやる罰だ。
 双子は飛び上がって正座すると、両手で自分の口を押さえた。


「……それで」


 布団の上に胡坐をかくと、直樹は並んで正座したふたりをねめつける。


「――おまえらなんで喧嘩してんだ」

「それは澄香が!」「それは忠が!」


 弾けるように答え、お互い睨みあう双子に、直樹は両手で拳を作った。
 あわてて基本姿勢に戻った双子に、「とにかく」と、直樹は不機嫌に言いつける。


「夜は騒ぐな。俺は眠いんだ。帰って寝ろ」


 不満げな顔のふたりを尻目に、直樹は早々に布団をかぶってしまう。
 すると、ふいに澄香が拗ねたように声を上げた。
 


「……じゃあいいもん。わたしはおねーちゃんと一緒に寝るもんねー。忠は兄さんと寝てればいいさ!」

「あ、ズルイぞ! 円ねーちゃんとは僕が一緒に寝るんだ!」


 忠も即座に応じる。
 止めようとした時には、すでに双子は部屋を飛び出ている。
 口論しながら玄関のほうに駆けてゆくふたりにため息をつきながら、直樹は枕元に置いていた携帯電話を手繰り寄せた。

 着信履歴から、双子の向かった先。隣家に住む幼馴染の龍造寺円に電話をかける。
 深夜だというのに、いつも通り、彼女はワンコールで出た。


「もしもし円? もうすぐ澄香と忠が行くと思うから――撃退しといてくれ」

「わかった」


 躊躇なく答える円に「お休み」と言ってから、直樹は再び目を閉じた。
 直後に遠くから双子の悲鳴が聞こえてきた気がしたが、すぐに睡魔が直樹の意識を攫って行った。









 次の日の朝。
 朝食のテーブルにやってきた双子は、互いに一言もしゃべらないまま席につくと、そっぽを向き合って食べはじめた。
 母が青い目を向けて行儀の悪さを注意したが、双子たちは生返事をして、食事を終えるや否や競い合うようにして登校していった。


「まったく、あの子たちは……後で直樹さんからも注意してやってね」


 父親は既に出勤しているので、母の愚痴は自然と直樹に向けられる。
「了解」と、片手を挙げて返しながら、直樹は珍しいこともあるものだと内心驚いていた。
 澄香と忠。いつも一緒に居て飽きもせずに騒いでいるあのふたりが、日をまたいで喧嘩を引きずったことなど、十四年間ふたりの兄をやってきた直樹の記憶にもほとんどない。


 ――ま、それでも。大事にはならないだろ。


 この時の直樹は、ふたりの喧嘩にたいしてそれほど危機感を持っていなかった。

 しかし、その日の夕方。


「――迷惑です」


 放課後速攻で喫茶店“RATS”に呼び出された直樹は、宝琳院白音から開口一番、苦情を訴えられた。

 光すら拒絶するような漆黒の髪と、対象的に白い肌。どこかオヒメサマじみた容貌の主。
 同級生にして友人である宝琳院庵と瓜二つの妹は、双子の喧嘩のとばっちりを受けたのだろう。ぼろぼろの姿だった。


「双子をなんとかしてください――可及的速やかにです」


 いつも通りの無表情も、心なしか荒んでいる。
 その様子を見るに、相当なことをやらかしたようだった。


「あいつら。まだ引っ張ってんのか」


 直樹は椅子に背を預けながら、困ったもんだとつぶやく。


「いつ以来だろうな……小五ぐらいの時マジ喧嘩して、あの時は一週間くらいそんな状態だったなあ」

「待てません」


 思い返しながらそれを伝えると、少女は焦ったように肩をゆすりながら主張する。


「待てません。あの双子、このペースなら三日もあれば学校を潰してしまいます」

「おい、さすがにそれは冗談……じゃ、ないみたいだな」


 白音の瞳は真剣そのもので、けっして大げさに言っているわけではない。

 本当かもしれない、と直樹は思った。
 なぜだか知らないが、関わったトラブルを相乗倍に増幅してしまう。そんなところが双子にはある。
 ましてや自分たちがトラブルの火種となっているのだ。トラブル永久機関がフル稼働すれば、いかに泰盛学園。卒業生に地方や中央の有力者が多数名を連ねる名門校とて傾かないとは言い切れない。

 考えていくと、あまり良い未来には行き当たりそうにない。
 白音も同じように予測し――おそらくは間に入って止めようとしたがゆえに、ぼろぼろの姿になり果てたに違いない。

 遅まきながら危機感を覚えはじめた直樹は、まだ半分以上残っていたミルクティーを一気に干すと、ポケットから携帯を取り出す。


「俺からちょっと話してみる……つっても、ふたり一緒じゃ文字通り話にならんし、どうしたもんだろ。
 片方呼び出したら、絶対もう片方もついて来るだろうし」

「喧嘩をしているのに、なんで一緒に行動してるんですかと言いたいです……ですが、直樹さんが兄としての義務を果たしていただけるのなら、私も知恵は出しましょう」


 心底疲れたような声で息をつきながら、少女は策を述べた。
 直樹が頭をかいて呆れるような、実に彼女らしい策だった。









 ちょうど同じころ。
 双子――鍋島澄香と忠は、私立泰盛学園から佐賀城に向かう道を、自転車を押しながら歩いていた。
 時間も時間。帰宅する生徒は多い。その中を、ふたりは険悪なオーラを放ちながら早足で突き進んでいる。


「忠、あんたのせいで白音ちゃんに怒られたじゃない」

「なんだよ。そんなの澄香のせいだろ」

「嘘。忠が消火器なんて持ち出さなかったら、あそこまで騒ぎ大きくならなかったもん」

「そのあと澄香だって車イスとか出してきたじゃん。立花先輩の。白音ちゃんが怪我したの、あれに乗せられて階段でクラッシュしたせいだろ!」

「忠がバリアーにした大友先輩が不甲斐なく跳ね飛ばされたせいじゃない!」


 双子の会話は段々ヒートアップしていく。


「おい、おまえら。バイフォー。往来のど真ん中で騒ぐもんじゃないぞ」


 下校途中の生徒の一人が、たまりかねたように双子をたしなめた。
 注意された双子たちは怪訝な顔になり、お互い不機嫌な表情を向け合う。


「……誰? 先輩?」

「三年生の人だろ。ほら、こないだ新町のほうで見た」

「ああ。髪の長い奇麗な人と一緒に居た先輩だ」

「そうだろ。奇麗な人とデートしてた先輩」


 その会話に、男子生徒があせりはじめ、ふたりを止めようとした、その時。


「……瀬川君?」


 男子生徒の背後から、絶対零度の声がかけられた。
 彼が振り返ると、そこに居たのは、泰盛学園中等部の制服を着た、ショートカットの女生徒だった。


「き、菊ちゃん」


 男子生徒があとずさる。
 それをゆっくりと追いながら、女生徒は感情を消し去った声で続ける。


「その髪の長い奇麗な人について、話を聞かせてほしいんだけど。たっぷりと。詳しく……血を吐くまで」

「こわっ!? 怖いよ菊ちゃん! いや違うんだ。話を聞いて――」

「ええ。聞かせてもらうから。力づくででも」


 さらにあとずさる男子生徒。
 そのとき、けたたましいクラクションとブレーキ音が響いた。
 彼女の圧力に道にまで押し出された男子生徒を轢きかけた自動車が、少年の制服の裾を掠めながら激しくスピンして急停車。幸い道は混んでおらず玉突き事故は避けられたが、道路の真ん中で停車した車のせいで、ほどなくして渋滞が起こる。

 クラクションの嵐の中、冷や汗を垂らした男子生徒はようやくにしてへたり込み、周りにいた一人身の男子生徒たちから舌打ちの雨を浴びた。

 大参事の中でも、双子は平然としている。
 委細構わず再び口げんかを始めようとしたところに。


「澄香。忠」


 透明な声がかけられた。
 双子が振り返ると、そこに居たのはよく見知った顔だった。
 長身に艶やかな長い髪。恐ろしいほど顔の整った少女。直樹の幼馴染、龍造寺円だ。


「おねーちゃん」「円ねーちゃん」

「おまえたち、まだ喧嘩しているのか?」


 普段姉と慕う円の姿を見て顔を輝かせた二人だったが、喧嘩の話題が出た瞬間、即座に顔をそむけあった。

 周りではいまだに騒動が収まっていないが、その元凶である双子の存在は、すでに周囲の人間の意識から外れている。
 むろんそのことに双子は気づいていないし、ましてやそれが龍造寺円の仕業とは、想像だにしないだろう。

 去年のクリスマスイヴ。“ユビキリ”の事件以来、彼女にはこんな魔法めいた事が出来るようになっているのだ。


「とりあえずいっしょに歩こうか。ここは騒がしい」


 さりげなく双子たちを騒動から切り離した美しき魔女は、ふたりを誘う。

 そこへ、唐突に電話が鳴った。
 着信音は、忠の携帯電話のものだ。
 ディスプレイで発信者を確認した忠の顔が輝く。


「あ、にーちゃんからだ――はい。もしもし? にーちゃん?」


 わざと聞かせるように口にする忠に、澄香はむーと口を膨らませた。
 しかしその直後、澄香の携帯電話も鳴り始める。こちらはメールらしく、澄香は画面を一瞥しただけだった。


「にーちゃんが、俺だけに、話があるってさー!」


 電話を切ると、忠は調子に乗ったように澄香にひけらかす。
 澄香はむーと頬を膨らませていたが、忠が自転車に乗っていなくなると、ふいに不敵な笑みを浮かべた。


「忠のやつ、怒られるとも知らずに」


 少女は意地悪く笑いながら、円にメールを披露した。

 発信者は“白音ちゃん”。
 直樹が双子を一人ずつ呼び出して説教しようとしていることを暴露する内容だった。


「……小賢しい知恵を巡らせる」


 それだけですべてを察したのだろう。円が小声でつぶやいた。


「なになになんの話?」

「いや」


 顔を寄せてきた澄香に、長身の美少女はかぶりを振って、涼しい顔で言った。


「――直樹に知恵をつけている、小賢しい策士気取りの話だ」


 もちろん澄香にはわからない。
 円のほうも、いちいち説明などしない。


「それより澄香。なにか食べに行かないか?」


 ただ、ごく当然のように。直樹の手助けをするだけだった。









 円が澄香と向かった先は、行きつけのラーメン屋、ししやだ。

 テーブル席に向かいあって座ったふたりは、注文のラーメンが来るや、妙齢の乙女にあるまじき勢いで、猛然と麺をすすり始める。
 円などは、一度に五杯ものラーメンを並べさせ、まるでわんこそばのように次々とラーメン鉢を空にしていく。

 呆れたような周りの視線を独占しながら、ようやく一息ついたころ。


「……それにしても、珍しいな。澄香が忠と喧嘩するなんて」


 ぽつりと、円が言った。
 ごくさりげなく、嫌味にならない。そんな調子だった。


「悪い?」

「悪くはないんじゃないか? 仲がいいといったって、たまには喧嘩もするだろう。まあ、おまえたちのは少々騒がしすぎるが、それもただそれだけのことだ」


 身構えた澄香に対し、長身の美少女は涼しげに答える。


「――まあ、仲直りしたいとちょっとでも思ったら、相手にちゃんとそれを伝えておけ、とは言っておく」

「わかってるよー。普通だったら寝て起きたらそう思えるんだけどなー。いまは無理だ。顔会わせたら絶対ムカムカが復活しちゃう」


 腹立ちが蘇えってきたのか、澄香は渋面になった。
 そんな澄香の様子を見ながら、素知らぬ顔で、龍造寺円はぽつりと尋ねた。


「そんなに腹が立つか? 忠と違うことに」


 それは、知らぬものにとってはまったく意味不明で。
 鍋島澄香にとっては、この上なく急所を抑えた質問だった。

 しばし絶句していた澄香は、深く息をつき、それからあきらめたようにこぼした。


「おねーちゃんには、敵わないなあ」


 それは、間違いなく肯定の言葉だった。

 バイフォー ――鍋島澄香と鍋島忠は双子だ。
 ただの双子ではない。日本人とイタリア人のハーフ。髪の毛は日本人的な黒だが、掘りの深い顔立ちは日本人離れしたもので、はっきり異国の血が混じっているとわかる。

 だから、小さいころは同年代の子供たちにからかわれた。
 いつも庇ってくれる腹違いの兄は純血の日本人で。血のつながった母親の金髪と碧眼を、双子は受け継がなかった。
 容貌の違いは澄香たちを集団から弾き出し、それゆえ同じ特徴を持つたったひとりの相手とのつながりを、強く意識するようになった。

 鍋島澄香と鍋島忠。ふたりは一緒のもので、同じように扱われることを強く望んだ。
 当人を識別する名前と言う名の記号が違うだけで、澄香は忠で、忠は澄香でなくてはならなかった。

 しかし、両者の差は厳然と存在する。
 澄香は女で、忠は男。この性別の差は、否応なしにふたりの違いを浮き立たせる。

 最初は、澄香が初潮を迎えた時だった。
 自分が相手とは別のものだと否応なしに思い知らされて、互いが互いに腹を立てた。
 自分たちが同じものだと思っている双子にとって、その差異はとても許せないことだった。

 澄香と忠は一緒でなければならないのに。
 ふたりは一緒の存在なのに、こんなことで色分けされるのが許せなかった。

 だから、喧嘩になった。


「今回のも、きっかけはちょっとしたことで……でも、やっぱり私と忠が違うものだって自覚しちゃったのが原因なんだと思う」


 食後に頼んだコーラをストローですすりながら、澄香は物憂げにつぶやく。
 澄香も、今では分かっているのだろう。自分が忠とは別個の人間なのだと。
 でも、それを認めたくないのだ。認めてしまえば自分たちが今まで守ってきた大切な何かが、壊れてしまうから。


「ああ。わたしと忠がほんとに同じだったらなあ」


 澄香が漏らした言葉は、掛け値なしの本音だろう。
 少女の様子をしばらく眺めていた円は、七杯目のラーメンを食べ終えて一息つくと、苦笑に似たものを口の端からこぼした。


「……同じことを考えたやつがいるよ」


 円が言ったのは、ひと月前“ユビツギ”の事件で知り合うことになった少女のことだ。

 倉町時江。
 彼女は自分が劣った存在だというコンプレックスから、自分にかけたものを手に入れようとして、鍋島直樹と融けて混ざりひとつになろうと目論んだ。


「そいつは実際、相手とひとつのものになりかけて――でも失敗した」

「なんで?」

「違うからだよ。人がふたりいれば、それが別々なことは当然で、たとえ心がひとつだとしても、別の体を持ち、別の生活をして、他人から別人と扱われる以上、心は変わってしまう。実際ひとつになること自体無理だったんだ。
 でも、それ以上に。そいつはひとりの人間として、他人に寄り添うことを選んだ」

「なんで?」


 分からないという表情だ。
 ひとつのものでありたいと願う彼女にとって、あるいはそれは愚かな過ちに思えるのかもしれない。


「さあな。私はそいつじゃないから、理由までは分からないよ。
 ただ、そうだな。そいつにとっては、同じになるより、別の対等な存在であることにより価値を見いだしたんだろう。そのように、私には思えた」


 おそらく、澄香には理解できないであろう推論を告げて、円は八杯目を注文する。


「もうひとつ」


 しばらくして、目の前に置かれたラーメンをすすりながら、円はふと思いついたように口を開いた。


「互いが互いで完結する。ほかに何もない、そんな世界を望んだ奴がいた。でも、そいつも、そのことをあきらめた」


 他ならぬ円のことだ。
 去年のクリスマス、円はその障害である宝琳院庵を排除するためにクラスメイトを巻き込んだ壮大な策を巡らし――他ならぬ想い人、鍋島直樹自身の手でそれを破られた。


「それは、なんで?」

「不可能だと気づかされたから、かな?」


 澄香の問いに、円は、今度は迷いなく答える。


「その人の抱えてる世界はとても大きくて、自分一人で閉じ込めてしまうことなんて、到底できなかった。
 それに、気づかされたから。その人が好きってことは、その人をその人にした、その人の世界丸ごとを好きだということを。そこから直樹を切り離したとしたら、直樹は直樹でなくなってしまうかもしれない」

「……途中からもろ自分の話だってばらしてるんだけど――というかおねーちゃん、兄さんを拉致監禁でもしようとしたの?」


 冷や汗を浮かべ、引きながら問う澄香に、円は「似たようなものだ」と涼しげに答えた。
 話を聞いて、思うところがあったのだろう。円の食事風景をしばらく眺めてから、澄香はふと口を開いた。


「わたしたちも、そのうち破綻するのかなあ」


 澄香が天井を仰ぎ、つぶやいた。
 いや。すでに自分たちの関係が破綻しかけていることに、気づいているのかもしれない。

 麺をひとすすり。それを挟んでから、円はゆっくりと口を開く。


「その時になってみなければわからない。
 でもな、澄香。たとえそうなっても、また新たな関係を結べばいいと、私は思う」


 自分の経験を語っているためだろうか。その言葉には、妙な自信が込もっている。


「……簡単に言うなあ」


 空になったコップの、中の氷を指先でかき回しながら、澄香がぼやく。


「難しくしているだけさ。当人同士の意地とか、遠慮とか、怯えとかがな」


 円はやさしく微笑みながら、澄香に諭した。

 しばらくの間、澄香は悩んでいる様子だった。
 やがて「よし」と勢いをつけて立ち上がると、少女は決意のこもった瞳を円に向け、言った。


「いまから忠と仲直りしてくる」


 そんな澄香に、円は見惚れるような笑顔を浮かべて言う。


「それはいいことだ。今ごろ忠も、直樹に言われてそう考えているだろうしな……がんばってこい」


 目を輝かせながら店を飛び出して言った澄香には、彼女の後半の言葉は聞こえていない。
 しかし円はさして気にした様子もなく、ラーメンのお代りを三杯で止めておくべきか悩み始めた。

 双子たちが仲直りできることを微塵も疑っていない。
 それは計算の結果か、それとも信頼か。いずれにせよ、成長していく少女を寿ぐ彼女の気持ちには、疑いを挟む余地などない。

 季節はすでに、春。
 短い休みの先には、新学期が待っている。







[1515] ユビサキ1
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:55280d8f
Date: 2012/01/18 23:28

 春。桜の季節。
 在学生にとっては、しばしの休息の時期。
 長期の休みを満喫するのは誰も同じで、それは例えば市立佐賀野高校生、多久美咲(たく みさき)も同じだった。

 暖かな日差しの恩恵を満身に受けながら、日がな一日ぼーっとしているのが常態で、友人たちの間では生命活動の有無すら論じられる日々を送る彼女も、たまには友人と遊びもする。

 その日、美咲が遊ぶ約束をしていたのは、中学生の時、彼女と最も仲のよかった友人だ。
 美咲とは別の高校に進学したせいで頻度こそ減ったものの、同じ趣味を持つ者ということもあって、いまでも一緒に遊ぶ仲だ。

 趣味というのは、オカルトやおまじない関係のこと。
 中学生の時は、前世とか何とか、現在の美咲が思い返せば悶絶しそうなことをやっていたものだ。

 まあ、そんな仲なので、会った時の話といえば、どうしてもオカルト関連に偏ってしまう。
 美咲としては恋愛相談なんかもしてみたいと思うのだが、まあ、普段仲間の居ない趣味人と言うのは、同じ趣味の人間と話す機会には自重しないものだ。

 結果として、美咲はオカルトとおまじないとジンクスと学校の愚痴が入り混じったものを、数時間にわたって聞かされる羽目になってしまった。

 とはいえ、美咲も嫌いではないのでさほど気にしていない。
 というより、おっとりしている美咲は、次々とまくし立てる友人に口をさしはさむ機会を逃し続けながらも、けっこうそれを楽しんでいた。

 そんな、彼女にとってはありきたりな日常の中で。


「美咲ちゃん、そういえば、――って知ってる?」


 多久美咲は、運命に出会った。









 春休みが終わり、新学期が始まった。
 新たな気持ちで迎えた高校生活最後の春は、どこかせわしない。
 そう感じるのは、やはり卒業後のことを否応なしに考えさせられるからだろうか。


「将来、ねえ……」


 つぶやいてみて、鍋島直樹はため息をついた。
 教室の窓から見える外。グラウンドの周りでは、真新しい制服の少年少女が、初々しい笑顔で行き来している。

 一年生のころは、将来のことなど考えもしなかった。
 二年生でも、二学期の頭くらいまでは、友達と遊ぶことに夢中だった。
 もし直樹がそのままだったなら。三年生になった今でも、あるいは変わらないままだったかもしれない。

 しかし、文化祭前夜。
“ユビサシ”の事件が、直樹のすべてを変えた。

 名を呼び、指をさす。その行為だけで人が死ぬ。
 生き残るためには、仲間の中に紛れ込んだ悪魔を指名しなければならない。
 そんな悪魔のゲームに引きずり込まれ、直樹は否応なしに人の狂気と、己の無力さ愚かさに気づかされた。

 その後も“ユビオリ”の事件。“ユビキリ”の悪夢。そして“ユビツギ”の謀略に関わり、平凡な人生であれば一生かけても起こり得ない濃密な経験を経て、直樹は成長してきた。

 だが、それが果たしてまっとうな成長かと問われれば、直樹自身、首を傾げるしかない。

 普通ならば。
 三年間の高校生活、仲間たちと一緒に勉学に励み、文化祭や体育祭などの行事をともに営み、気の置けない友達と遊び、恋愛の一つや二つ、経験する。
 年上には面倒を見てもらい、同学年とは手をつなぎ、年下の面倒をみる。小中学生から続く小さな社会を営みながら、大人への階段を上っていく。そんな成長が、おそらくは望ましいのだろう。

 それに比べて、直樹が経験したことは、どうだろう。
 いびつで、悪意と憎悪と負の感情に満ちていて、真っ当な成長に必要とは思えないものばかりだ。


 ――だから自分の進路一つ、まともに決められないのかもな。


 知っている適当な学校名をあてはめることしかできなかった進路希望調査のプリントを思い返して、直樹はまた、ため息をついた。

 直樹の悩みは、的外れではないが、やはりすこし違う。
 なんとなく。行ける所へ。あるいは、将来を先延ばしするために。
 進路を決めてしまう人は少なくないし、それはけっして間違いではない。
 現在決める力がないなら、自分の成長を待って、十分な情報を得てから決めようという選択は、それはそれでひとつの方法だ。

 だが、直樹は精神的に成長してしまったが故に、進路を決めるには明白で明確な意思と確信が必要だと思いこんでしまっている。
 それゆえに、悩んでいるのだ。


「やっほー直樹くん」


 と、唐突な声が、直樹の思索を破った。
 聞きなれた声だ。振り返らずとも、直樹には誰だかわかる。


「諫早」


 憂鬱を引きずった声で返しながら、直樹は顧みた。
 そこに居たのは、予想通り。ショートヘアの、凛とした雰囲気の美少女。

 諫早直(いさはや なお)。
 直樹の幼馴染にしてクラス委員の少女である。
 本人、胸が無いのを気にしてはいるが、細身で均整の取れた彼女のプロポーションを羨む女子は多い。


「よう」


 直樹が声をかけると、「や」と手を上げてから、少女は直樹の前の席を蹴飛ばして寄せ、座った。


「い、椅子がうらやましい」


 遠くで席の持ち主がつぶやいたのが耳に入ったが、直樹はあえて聞こえないふりをした。
 それがクラスメイトの神代良(くましろ りょう)の声だということも、今後の健全な友人関係のために気づかないでおく。


「直樹くん。アンニュイってるねー。なんか憂鬱でも?」

「……進路の決まってる諫早にゃ無縁の悩みだよ」


 直樹は拗ねたように返した。
 この優等生なクラス委員は、すでにして自分の将来を教師と定めており、そのために自分が行くべき大学すら明確に定めている。


「あー、進路か」


 納得げに微笑んでから、諌早直は直樹に顔を寄せてきた。
 造りの小さな顔立ちはよく整っていて、理想的に配置された大きな瞳が輝いている。
 その片方を閉じてから、この美少女は直樹に向けて、拝むように手を合わせてきた。


「お悩みのところ悪いけどさ、直樹くん、ちょっと相談に乗ってくれないかな?」

「いいけど……なんだよ」

「美咲さん。彼女、最近ちょっと変なのよ」


 直樹の耳元で囁くように、彼女はそう言った。

 多久美咲。クラスメイトの名だ。
 “ユビサシ”の事件で密接に関わってしまったものの、直樹としてはただの級友の一人であり、特別親しいというわけではない。

 それを疑問に思いながら、直樹は事情を尋ねた。


「変、って、なにがだ?」

「素行がおかしい――ってのはオブラートに包み過ぎかな」


 と、言葉を切って、少女はすこし躊躇ってから口を開いた。


「あのね、最近彼女、妙な宗教にハマってるみたいなの。その相談」

「宗教?」


 唐突な話だが、直樹は驚かなかった。
 オカルトやおまじないが好きで、それが高じて悪魔まで呼び出してしまった彼女である。宗教にハマる素養はたっぷりとある。


「ちょっと心配でね。もともとのほほんとした子だったけど、今は話がいまいち通じなくて、怖いっていうか」


 それを聞いて。
 直樹は思い出した。
 誰にも相談せず、一人悩み、ついには悪魔を呼びだそうとした美咲と、その結果生まれた惨劇の夜のことを。

 あの日、直樹は強く願った。
 悪魔なんてわけの分からないものの力を借りるより、友人を、クラスメイトを、そして自分を頼って欲しかったと。

 だったら。
 この、諫早直の相談に対する答えなど、最初から決まっていた。


「わかった。俺も何か考えるから、直は多久のことを気にしといてくれ。できれば相談に乗ってやってくれ、頼む」


 あのとき、後悔でしかなかった想いを言葉にして、直樹はこの、面倒見のいい幼馴染に頭を下げた。


「了解、まかせて」


 と、直は席を離れていった。
 タイミングを見計らったように、空いた椅子に滑り込んだのは、もう一人の幼馴染の少女。


「円」


 龍造寺円。
 諌早直とは対照的に長身だが、長く美しい髪と、輝くような美貌は学内でも際立った存在感を示している。
 昨年から続く異常な体験を共有する数少ない人物の一人にして、元凶であったこともある。直樹にとって家族にも等しい幼馴染だ。


「よ、よし、今日は椅子を持って帰る!」


 やっぱり遠くから神代良の声が聞こえた気がしたが、聞こえないことしておく。
 心配しなくても、彼の兄貴分で突っ込み役の鹿島茂(かしま しげる)が良の暴走を止めてくれるだろうことを、直樹は確信している。


「直樹。なんの話だった?」

「多久が妙な宗教にはまってるらしい。相談された」


 顔を近づけ、尋ねてきたので、直樹は円の耳元で説明した。
 あまり広めていいような話では無いため、やむなくとった措置だったが、直樹に向けられる無言の殺気が、クラスメイト達が抱いたであろう誤解を明確に物語っている。


「そうか」


 直樹の説明に、円はどこか不満げだった。
 説明不足ゆえ、ではないだろう。明敏な円は、さきの言葉だけで、幼馴染ふたりがどのような会話をしたのか、脳内で再現できる。


「なんだよ」


 それでもっと見てくる円に、直樹は眉をしかめ、返した。
 幼馴染の少女は目を眇めて、珍しく粘着質な声で、こうつぶやいた。


「直の言うことはよく聞くんだな。いやらしい」

「おい、捏造すんな。俺は別に諫早の言うことだけ特別聞いてるわけじゃねえ」


 事実ではないが、無根でもない。
 なにより円にそんな皮肉めいたことを言われると思っていなかった直樹は、妙に図星を指された気になって、焦りながら返す。


「どうかな。私の言うことは、三割くらいは却下されてる気がするが」

「それは直が基本正論家で、お前が最近常識はずれなことばっかりするからだ」


“ユビキリ”の悪夢以降、この幼馴染は手に入れた悪魔の力を便利に使うことにためらいがない。
 円に真っ当な人間として生きていって欲しい直樹としては、どうしてもそれを止めざるを得ないのだ。
 まあ、円に悪魔の力を使わせたくない一番の原因として、円が直樹の夢の中に遊びに来た時、ちょうど直樹がいやらしい夢を見ていたことがあるのだが。

 直樹の弁明にしばし目を眇めていた円だったが、ふいに彼女は、くぁ、とかわいいあくびをしはじめた。


「寝不足か? そういや今朝もあくびしてたな」


 直樹はこれ幸いと話題を変える。
 その意図が分からぬはずはないだろうが、円はああ、と素直に頷いた。


「なんだか最近名前を呼ばれる気がしてよく眠れない」

「気をつけろよ――どうした」


 話している途中、円が窓の外に目をやったのを見て、直樹は尋ねる。


「いや」


 と、同じように首を傾けながら、なお外を見ている円に、直樹も視線を窓の外に移した。


「また、呼ばれた気がした」


 偶然だろうか。
 円の視線の先、道端の木陰には、多久美咲の姿があった。







[1515] ユビサキ2
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:55280d8f
Date: 2012/01/25 22:12


 放課後。直樹は宝琳院庵のもとを訪ねた。
 鬱々とした気分を吹き飛ばしてしまった美咲の問題について、相談するためだ。

 行先は、例によって三階図書室。
 佐賀野高校の図書館は規模が大きく、校舎の二階と三階に渡って存在する。
 生徒たちは主に続き階の図書室を利用するのが常であるが、この少女は長年縄張りとなっていた三階図書室を新たな一、二年生に明け渡す気などないらしく、相変わらず部屋の中央にある大机に居座っている。

 光すら吸い込まれる漆黒の髪に、対象的に白い肌。
 時代劇に出てくるオヒメサマのような容姿の悪魔少女は、“ユビサシ”の悪魔から続く幾多の因縁において、常に直樹の相談役だった。
 しかしながら。


「相談を持ってきてくれたことに関しては、まあ、ボクを信頼してくれていると思えば悪い気はしないし、良いのだけどね」


 今回の相談に対する彼女の返事は、色よいものではなかった。
 直樹は意外を隠せないでいると、彼女は黒髪を手で梳りながら、言葉を続ける。


「基本的には知ったこっちゃない、というのが正直なところだね」


 声の温度が、心なしか常より低い。


「冷たいな」


 直樹は思わず非難めいた言葉を口にした。
 それに対し、悪魔少女は悪びれもせず、ただ口の端で苦笑を形作る。


「弱い人間は、いつだって山のようにいるし、ボクはそんな人間を散々見てきたからね。
 そんな人間の姿も、まあ嫌いじゃないけど、やっぱりボクは突き抜けた人間は好きなのさ……誰かさんみたいにね?」

「こっち見んな」

「……どっちが冷たいんだか」


 直樹が切り捨てるように言うと、悪魔少女はやれやれとばかりにため息をついた。


「まあ、宗教に嵌るってことは、どこかに救いを求めてるってことだよ」


 ややあって。
 仕方なく、という風に、悪魔少女は説明を始めた。
 この辺り、人が良いのか、それとも直樹のために仕方なくなのか。

 六分四分、あたりじゃないかと、直樹はにらんでいるのだが。


「救い?」

「まずは聞きたまえ。こういうのには順序があるんだ……多久君の家庭環境は――そうだね。観察した限りでは特に問題がないようだったが」

「分かるのか?」

「ぼうっとしてる多久くんがいつも定時に登校するのは保護者がしっかりしているためだろう。
 靴下や身の回りのものを見ても金に困っている風には見えない。彼女はアルバイトをしていないから、家もそこそこに裕福なのだろう。
 普段に親しんでいるからだろうね。“おとーさん”“おかーさん”と呼ぶ声音にも屈託がない」


 さらさらと述べられる推論には淀みがない。
 宝琳院庵は人間観察が趣味だ。だからこそ、美咲のことを相談したのだが、あまりの詳しさに、直樹は思わず引いてしまった。


「だから」


 ほっそりとした白い指を立て、少女は結論を述べる。


「――悩みがあるとすれば学校。それも、まあ恋愛関係だろうね」

「恋愛……」


 直樹は口の中でつぶやいた。
 いつもぽやぽやとした彼女の印象からは少し外れたものに思えるが、それは高校生の持つ悩みとしては至極まっとうなものだ。

 平凡で、健全で、そしてありふれた悩み。
 しかし、だからこそ。神にまで縋ろうという美咲の苦悩の深さに、直樹は思いを馳せずにはいられない。


「そう、恋愛といえば」


 最後に。
 彼女は机の上で足を組み替えながら、直樹に目を流し、言った。


「いつまでもボクの告白を宙ぶらりんにされても困るな。いや、断られても諦めないつもりではあるんだけどね?」









「あー」


 うめき声と唸り声がないまぜになった音を口から発しながら、直樹は帰路を行く。
 足取りは幽霊のようで、ふらふらと一方に定まっていない。
 宝琳院庵の最後の言葉は、それほど効いた。

 彼女の鍋島直樹に対する好意に関して疑う気はない。
 なんとなくだが、本気で言ってるんだろうなとは感じている。
 だが「いきなり結婚してくれ」などと斬りこまれて、それを正面から受け止められるほどに、直樹は成熟してない。本気でどうしようと途方に暮れている。
 だが。


 ――いつまでも宙ぶらりんに。


 この言葉が効いた。
 鍋島直樹が何よりも共感せざるを得ない言葉だったから。

 直樹は天を仰ぎみた。
 その向こうに、なにを見ているのか。しばらくしてから、直樹は口を開いた。


「やっぱり、このままじゃ駄目だよな。こんな俺のことを……好いてくれてる奴が居るんだから」


 声音には、しかしいまだ迷いが含まれていた。









 翌日は土曜で、授業は午前中で終わった。
 まだ日の高い放課後。直樹は駅前の喫茶店“RATS”に、宝琳院白音を呼びだした。

 相談のためだ。
 もちろん直樹の個人的な恋愛相談などではない。多久美咲について彼女に意見を求めるためである。
 しかし、事ある毎に会って相談し合っている直樹と妹に対し、宝琳院庵は最近わりと本気で危機感を抱いているらしい。


「まさかボクを放っておいて、白音に手を出すつもりじゃないだろうね。そんなことされたらボクは泣くよ?」


 などと、らしくもなく釘を刺してきたものだ。

 それはともかく。
 直樹が聞きたかったのは、多久美咲が嵌っているという新興宗教についてだ。
 およそこの日本において、新興宗教が絡んだもので良いニュースを見たことのない直樹にとっては、まず最初に確認しておかねばならないことだった。


「名前は、えっと、なんて言ってたかな? なんとか様? そんな感じ」


 諌早直から聞いていた名前を出して尋ねる。
 白音、宝琳院庵と瓜二つの妹である彼女は、「そんなに短い言葉も覚えられないなんて残念な頭の造りですね」とでも言いたげに軽く鼻を鳴らした。


「直樹さんは想像通り、残念な頭の造りをしています」

「想像した言葉より数段ひどい!?」

「いえ、以前直樹さんに指摘されたので、今度は言葉をオブラートに包んで口にしました」

「内心ではさらにひどいのか!?」

「――というか、直樹さん」


 居ずまいを正して、白音は言う。


「人に相談をするのなら、情報を正確に覚えておくのは当然のことと思いますけれど。軽い気持ちで関わろうというわけでも、ないのでしょう?」


 彼女の言う通りだ。
 生半可な気持ちで関わろうとしているのではない。
 だったら多久美咲に関する情報の一片一片は、なにより貴重であるはずなのだ。


「あ、ああ。ごめん白音、その通りだ」

「……いえ。別に、私に謝られてもですけれど」


 直樹が頭を下げると、白音は無表情をすこしだけ崩した。
 白音をよく知る直樹には、彼女がすこし動揺しているのだとわかった。
 白音の表情が平静に戻るまで、数呼吸。それだけ置いて、彼女は口を開いた。


「まあ、その情報からでも、他のキーワードを攫えば答えに行きつくことは容易です」


 姉と同じように、少女は指を立て、口を開く。


「天使様」

「テンシサマ?」

「ええ。直樹さんのご学友が嵌っているのは、それでしょう」

「教えてもらっていいか?」

「ええ。もっとも、それほど詳しいわけではありませんが」


 白音はそう前置きしてから、言葉を続けた。


「天使様は宗教、と言うほどたいしたものではありません。
 法人登録もしてありませんし、それどころか僧侶とかお坊さんに類する、教えを与える人間も、神殿や聖地に当たるものもありません」

「どういうことだ?」

「おまじないのようなもの。だと考えてもらって結構かと。
 厳しい教えもなく、縛りもほとんどない。そんなゆるい感じのもので、だからか中高生の間では相当な速度で広まっていると伝え聞いております」


 伝え聞いている、と言う割には、異常に詳しい。
 聞いた情報を自分なりに整理、分析しているのだろう。
 このあたり、やはり宝琳院庵と姉妹だな、と直樹は思う。


「どんな教えなんだ?」

「天使様はいつも見ていて、それに恥ずかしくないことをしていれば、天使様は助けてくれる――といった感じの、簡単なもののようです。まあ、霊験あらたかなようですね。私は信じてはいませんが。とるに足らないおまじないの延長のようなものでしょう」


 白音はきっぱりと断じた。


「そんなものか」


 直樹は胸をなでおろす。
 騙してお金を取られる類のことは、心配しなくてよさそうだった。
 なら、素行の乱れも許容範囲だろう。白音も一から十まで知っているわけではないので安心するわけにはいかないが、諌早直や――直樹自身がしっかりすれば、酷いことにはならないだろう。

 そう、直樹は安心した。してしまった。
 宝琳院白音は想像もつかなかっただろう。自分が与えたその安心が、直樹に最悪の選択をさせてしまうことを。









 月曜日の放課後、直樹は多久美咲を屋上に呼び出した。
 あらかじめ事前情報を得ているせいで、妙な緊張はしていない。
 ただ美咲を屋上に誘ったとき、クラス中から直樹死ねな視線を投げかけられた気がしたが。

 部活動に励む少年少女の声を背に、待つことしばし。ゆっくりと扉が開き、多久美咲は姿を現した。


「あ、あの」


 美咲の態度は、たしかに変だった。
 どこかそわそわしながら、後ろ手で扉を閉めた彼女の顔は紅潮しており、伏せられた目には、ある種の期待の光があった。


「ああ、多久――」

「鍋島くん」


 おかしい。
 目の色が尋常ではない。
 瞳から発せられる異様な圧力に、直樹は思わず押し黙ってしまう。
 そんな直樹に対して、美咲は頬を赤らめたまま、ひとり、小声でつぶやいている。


「やっぱりこのシチュエーションは告白だよね。ついに願いがかなうんだね。嬉しいな。嬉しいな」


 右に、左に。体を揺らしながら、少女は恍惚の瞳で天を仰いでいる。

 直樹は身震いした。
 宝琳院庵が以前言っていた言葉を思い出す。
「不可知とは、人が最も恐れるものだ」と。たしかにその通りだ。
 だから。いま目の前に居るこの無害な少女を、直樹はなによりもおぞましく感じている。


「……多久」

「美咲、って呼んで欲しいな。鍋島くん」


 どこか焦点の合っていない瞳で返事をすると、多久美咲はゆらり、富を揺らしながら近づいてくる。
 その足取りは、たがいの息の音が聞こえる距離になっても止まらず。ひたり、と身を寄せて、はじめて少女は破顔した。


「えへへ。鍋島くんの香りだあ」


 冷や汗をかきながら、直樹は動悸を抑えきれない。
 それは美咲から送られる秋波に当てられたからではない。恐怖のためだ。

 直樹にはわからない。
 多久美咲が、なぜこうも自分に好意を、それも狂気に近いレベルで寄せるのか。

 当然だ。
 直樹は知らないのだ。
 おまじない好きの美咲が、悪魔を召喚してなにを願おうとしたかを。
 彼女が抱いたささやかな願いを。


「ねえ、鍋島――いえ、直樹くん?」


 明るくて、いたずら好きで、だれにも屈託なく話しかける。
 そんな一人の少年に、多久美咲はほのかな好意を抱いていていた。
 文化祭でいっしょに設営をするようになり、ともに時間を過ごすうち、その想いは、はっきりと恋愛感情に変わった。

 だが、彼女の恋は絶対に実らない。
 龍造寺円。彼とつかず離れずにいる、幼馴染の美少女。
 宝琳院庵。彼と話す時だけ饒舌になる、無口な、お姫様のような美少女。

 そんなふたりに、美咲は敵うはずがない、と思い。
 それでもあきらめきれず、胸の痛みから逃れるために、彼女は悪魔に縋った。

 その結果、“ユビサシ”の惨劇が生まれたことを、直樹は知らない。


「み……さき」


 何も知らない直樹にとって、美咲が寄せてくる好意はあまりにも過剰で、唐突で、だからこそ恐怖を覚えずにはいられなかった。
 直樹は必死で告げるべき言葉を考えたが、制服越しに感じる美咲の体温が、直に触れる彼女の吐息が、直樹の思考を無茶苦茶にかき乱す。


「直樹くん? わたしね――」


 美咲が決定的な言葉を口から紡ぎだしかけた、そのとき。
 ガチャリと、ドアノブを回す音。同時に屋上の扉が開いた。
 助けを求めるように、直樹は視線を送った。扉の奥にいたのは、直樹が良く知る顔。

 諌早直だった。


「あ、その、ごめん。お邪魔だった、よね?」


 身を寄せ合うふたりの姿を見て何を勘違いしたのか、彼女は頬を赤らめ、居心地悪そうな笑顔を向けてきた。


「お邪魔だよ」


 とりあえず空気を変えるきっかけになれば。
 そう思った直樹に先だって言葉を返したのは、多久美咲。
 その声色は、さきほどとは打って変わって冷たく――ぞっとするほど暗いものだった。


「――あなたは、いつもそう。おせっかい焼きなのに、空気が読めなくて、わたしが大切にしてる場所に、ズカズカと踏み込んできて……」

「み、美咲さん?」


 諌早直にとっても、見たことのない多久美咲の姿だろう。
 うろたえたように手を交差させる彼女に、瞳に狂の色をたたえた少女はゆっくりと近づいてゆき――自分の肩越しに後ろを見て、呼びかけるように言った。


「ねえ。悪魔さま・・・・?」


 直樹は感じた。
 美咲の背後に在る、異常な存在を。

 猛烈な悪寒。
 時間が裏返る感覚。
 胃液が逆流する。

 忘れない。
 忘れようがない。
 このおぞましい感覚は、直樹は心に強く焼き付けられ、癒えない傷として残っている。

 それ・・が諫早直に触れた。瞬間。


「あああああああっ!!」


 直は絶叫した。
 気が、触れたように。
 感情の暴風を吐き出すように、彼女は叫び続ける。


「諫早ぁっ!!」


 暴れ出そうとする直を、直樹は必死で抑えつける。
 それを尻目に、美咲は悠然と、直樹たちの脇を通り過ぎていく。


「――じゃあ、またね。直樹くん」


 当たり前のように出てゆき、しばらくしてから。
 ふらりと姿を現した龍造寺円が、ようやく気を失い、倒れてくれたた直を見て顔色を変えた。


「呼ばれた気がしたので来てみれば……何があった?」


 直樹にも、わからない。
 その日から、多久美咲の姿は学校から消えた。





[1515] ユビサキ3
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:55280d8f
Date: 2012/01/29 22:11

 三日が過ぎた。
 多久美咲の無断欠席も、三日目だ。
 親は捜索願いを出したらしい。つまり家にも帰っていないということだ。


「いったい、どこ行ったんだよ……多久」


 駅の改札口。
 吐き出される人の群れを眺めながら、直樹はため息をついた。

 屋上の一件以来、直樹は時間を見つけては、美咲の行方を追っていた。
 一人だけではない。直樹は彼女を探すため、自分が持つあらゆる縁故を頼って捜索の手を借りている。
 あの、異常の力を帯びた多久美咲をどうにかするため、だけではない。もう一つ、直樹には彼女を追う理由があった。

 諌早直。
 直樹の幼馴染は、あれ以来ずっと寝込んでいる。
 多久美咲が「悪魔さま」と呼んだ、異常の気配の主。
 あれに触れられた直は、狂奔のあと、心を奪われたように虚脱したままでいる。


「いったい何があったのだ」


 中野一馬。
 親友にして諫早直の従兄弟である彼に問われた直樹は、満足な答えを返すことができなかった。
 直樹自身、理解できなかったからだが、あの時は犯人扱いされても文句は言えない状況だった。龍造寺円が弁護してくれなかったら、どうなっていたことか。

 その、円。
 悪魔の力を得て魔女のような存在になった彼女でも、直を癒すことはできなかった。
 円は美咲が直に何をしたのか、直接見ていない。それゆえ、彼女の心を鷲掴みにして離さない何かを、どうにもすることができないのだという。

 宝琳院庵は、多久美咲がまたぞろ悪魔を呼び出し、異常の力を手に入れたのではないかと推測している。
“ユビサシ”の夜、悪魔召喚に使われたあの書物は、佐賀野高校三階図書室に、たしかに眠って貸し出された形跡はない。
 だが、美咲が以前この本を借りた折、必要な部分を書き写していたならば、どうだろう。可能性は、否定できない。

 しかし、どれだけ推し測っても、結局は確信に至らない。
 結局。多久美咲に直接会って、問いただすことでしか、真実に行き着く手段はない。
 そして多久美咲の「悪魔さま」の正体がわからなければ、諌早直を回復させることもまた、叶わないのだ。


「多久。お前はいま、どこにいるんだ」


 つぶやきながら、直樹は“ユビサシ”の夜を思い出す。
 人の命が、紙屑のごとき軽さで奪い、奪われていった悪夢の一夜。
 屋上で諌早直に対したときの多久美咲は、まさしくあの領域の住人だった。


「――ひょっとして、まだお前、あの夜を彷徨ってるのか」


 日中だというのに、あたりは薄暗い。
 駅の外を見れば、雨。空は分厚い雲に覆われている。


「雨、か」


 薄暗い天を見上げながら、直樹はつぶやく。
 その手は、強く握りこまれている。

 直樹は悔しい。
 あの夜を、いまだ乗り越えられていない、自分の無力が悔しいのだ。









 駅前の喫茶店“RATS”。
 苦い思いを噛みしめながら、直樹は注文した紅茶を口にする。
 疲労を覚え、ひと休みするために入ったのだが、まったく寛げていない。
 雨は止まず、むしろ勢いを増すばかりだ。日中とは思えない暗さで、外を行きかう人間の顔立ちすらはっきりと分からない。

 そんな、何もかもが不安定な時を見計らったように。


「――おや。直樹じゃないかい」


 その声は、かけられた。

 聞き覚えのある声だった。
 見ると、テーブルの間仕切りに体を預け、一人の少女がこちらを見下ろしている。
 年のころは、一見直樹と同程度。整った顔立ちを緩めたい放題に緩めた少女の顔は、忘れようがない。
 二ヶ月前、“ユビツギ”の事件に遭った時、直樹に適切な助言を与えてくれた自称“おねーさん”だった。


「あんたは」

「おねーさんだよ、直樹。わたしのことはそう呼んでくれって言ったじゃないか……ともあれ、直樹、またぞろ悩み事を抱えているみたいだね」


 いつかのように、少女は猫のごとき笑みを浮かべ、言った。


「――良ければ、おねーさんが相談に乗ろうか?」


 その、提案を。
 直樹が断れるはずがなかった。

 注文を通した彼女は、届いたホットミルクに呆れるほど砂糖をぶちこみ、おまけとばかりに直樹のミルクティーにまでスティックシュガーの洗礼を浴びせた。

 いわく。


「頭の疲れにはこれが一番」


 たしかに砂糖は即効性の高い脳のエネルギー源だが、彼女の場合、明らかに過剰摂取だった。
 そんな砂糖ミルクを舌で舐めとるように啜りながら、一通り話を聞いた少女は、すべてを理解したように深くうなずいた。


「なるほど。直樹のトモダチが、ねえ」


 友達、という言葉に、彼女は妙な抑揚をつけた。
 多久美咲が屋上で見せた異常な好意は説明しなかったが、彼女には、なにか察するものがあったのかもしれない。


「――それで、直樹はどうしたんだい?」

「助けたい」


 直樹は即答した。
 諌早直を救う。これは当然だ。
 だが、それ以上に。直樹がやりたいことなど、半年前から決まっている。
 多久美咲を助けたい。彼女の悩みを支えたい。彼女を悪魔の誘惑から――救いたい。


「俺は多久を……引きずってでも、日の当る所に戻したいんだ」


 決意の声は、静かで、強く。
 だからこそ、それに応える冷めた声は、いやでも直樹の耳を打った。


「なるほど。でも、おねーさんは協力できないかな」

「……理由を聞いていいか?」


 奇妙な既視感を覚えながら、直樹は問い質した。
 対する少女は、小憎らしいほどに落ちつき払っている。
 ゆっくりと、言い聞かせるような調子で、彼女は口を開いた。


「言ったろう? おねーさんはおねーさんの都合でしか、動くつもりはないって」

「ああ」

「だから今回の件には、おねーさんは直樹に協力できない。おねーさんにはおねーさんの都合があって、それは直樹の都合とは相容れないから。分かるかな?」


 言葉の意味は、わかった。
 だからこそ直樹は耳を疑った。
 今回の件に、自分は一枚かんでいる。
 目の前の少女は、まさにそう言っているのだ。

 直樹は、少女を見る。
 整った顔を緩めた美少女。
 その、半ば閉じられたような瞼の奥で、漆黒の瞳は強く輝いている。


 ――まるで、油断させた獲物を捕らえんとする猫のように。


 ぞくりと、寒気がした。
 考えてみれば、直樹は彼女の名も知らない。
 そのことに淡い恐怖を覚えながら、直樹は問う。


「お前は……いったい、何者なんだ」

「……おねーさんはね、とても頭のいい人なんだよ」


 問いには直接答えず。
 彼女は眠るような眼を見開き、話し始めた。


「――創造力が豊かと言った方がいいかな。キャラクターと環境さえわかっていれば、そこで何が起こりうるか、どんなドラマが生まれるのか、ありとあらゆる可能性が分かってしまうんだ」


 矢継ぎ早。少女は早口で滔々と語る。


「面白くないだろう? まるで退屈そのものだろう?」
「だから、おねーさん、いつもいつも眠ってるんだけどね」
「だからおねーさんは、おねーさんの確定予測を突き抜けてくれる人間が大好きだし、そういう要素を作りだすこともしてきたんだ・・・・・・・・・・・・・


 目は爛々と輝いている。
 さながらそれは獲物を狙う猫科の猛獣のような。
 血の気が引いていくのを感じながら、直樹は再び名を問うた。


「言い忘れていたね。おねーさんの名前は秀林寺寝子」


 少女は名乗った。
 それはもっと早く尋ねるべきだったと後悔させるには十分な名。
 もはやはっきりと見開かれた目に吸い込まれそうな錯覚を覚えながら、直樹は続く彼女の言葉を聞いた。


「――今回に限っては……直樹の敵さね」


 同時に猛烈な睡魔の波が直樹を襲った。
 そういえば。この少女、直樹のミルクティーに手ずからスティックシュガーを入れていた。
 似合わぬことをするものだと思っていたが、睡眠薬か何かを混ぜていたのだ。


「くっ」


 直樹は耐えた。
 抗いがたい重力を伴う睡魔を、歯を食いしばって堪えた。
 ただ強い意志だけで、耐えがたい欲求をはね退け意識をつなぎとめた。
 だが、つぎの瞬間。首筋を襲った、あまりにも的確な衝撃に、睡魔と意思との拮抗はあっさりと崩れ去った。


「直樹が睡魔に耐えることができるなんて、出会ったときから知っていたよ」


 意識が闇に沈む直前、直樹は至極つまらなそうな少女の声を聞いた。





[1515] ユビサキ4
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:55280d8f
Date: 2012/02/03 00:08
 異様な倦怠感とともに、直樹は目を覚ました。
 あたりは薄暗い。頬にはコンクリートの冷えた感触。


 ――日が落ちてかなり経つな。


 直樹は霞のかかった頭でそう考えた。
 起き上がろうとして、出来ない。後ろ手に縛られている。


 ――場所は。


 闇の中で目を凝らしながら、直樹は考える。

 おそらくは、どこかのビルの一室。
 コンクリートが剥き出し、ということは、元は倉庫か何かに使われていたのだろう。
 あたりは異様に静かだ。身をよじった時の、音の反響から見て、防音設備などは無いようだ。
 それでいてこの静けさ。人通りから相当離れた場所。


 ――城南埠頭の北にある、廃ビルのひとつか。


 直樹は見当をつけた。
 こういう思考法が身についているというのは、やはりあの悪魔少女の薫陶よろしきを得た結果と――哀しいことに、実戦経験ゆえと言える。


「しかし、秀林寺寝子……くそ、あいつが宝琳院の言ってた『悪魔のような人間』だったなんて、どんな縁なんだよ」

「その評価は、至極真っ当で正当なものだと思うんだけどね」


 と、背後から唐突に声。


「――わたしはやっぱり、直樹には“おねーさん”と呼んで欲しいなあ。親愛の念を込めて」


 忘れもしない。直樹が意識を失う直前に聞いた声。
 すなわち――秀林寺寝子。


「おまえっ!?」


 身をよじり、振り返って。
 直樹は思わず目を見開いた。

 目が慣れ、おぼろげながらもあたりの様子が分かるようになっている。
 暗がりの中、直樹の背後に居た少女は――直樹と同じように、後ろ手に縛られて転がされていたのだ。


「なぜに!?」

「簡単な話さ」


 反射的にツッコんだ直樹に、少女は何故か得意げに鼻を鳴らして見せる。


「おねーさんは、ただ直樹の身柄を欲している人に連絡しただけで、その人と取り立てて友好的というわけじゃあないからね。諸共に拉致監禁されてしまったというわけさ」

「わけが分からない!」


 直樹は思わず叫んだ。
 まったく意味不明の行為だ。
 頭を抱えたくなったが、両手が縛られている今はそれすらできない。


「まあいい。よくないけど……で、一体ここはどこなんだ」

「おいおい直樹。言ったはずじゃないかい? おねーさんは直樹の敵だって。
 いくら一緒に縛られていて相身互いなんだとしても、おねーさんが何のメリットもなく教えてくれるだなんて虫のいいことは考えないでほしいな」

「……じゃあ、教えてくれたら、これからあんたのことは“おねーさん”と呼ぶよ」

「城南埠頭北の廃ビルの一つだよ」


 ――こいつ即答しやがった!


 心中突っ込みながら、直樹はとりあえず「ありがとうおねーさん」と礼を述べた。


「ふふ、ありがとう。親愛もなにもない外面だけの言葉だけど、それでも嬉しいよ。
 で、教えるのは場所だけでいいのかい? 直樹が与えてくれたものの対価としてはあまりにも小さすぎるから、もっとサービスしてあげたい気分なんだけど」


 少女は上機嫌を隠さず、提案してきた。
 薄気味悪さを感じながら、直樹は慎重に口を開く。


「……じゃあ、聞く。おねーさんはなぜ今回、俺の敵なんだ?」

「キミとおねーさんの目的がカチ合っているからだよ。直樹」


 少女はさらりと答えた。

 人一人を敵にする。
 そのことに対して何の構えも見てとれない。
 まるで、直樹から行為を受けようと敵意を受けようと、たいして差のないことだとでも言うように。

 得体の知れない衝動に駆られながら、直樹はなお問う。


「目的?」

「そう、おねーさんの今回の目的は直樹と、おねーさんが目をかけているもう一人の人間とを出会わせること。
 あのままだと直樹は電波女みさきちゃんと出会ってしまって、説得できちゃって、結局“彼女”と面白い出会い方をすることはなくなってしまうからね」

「……見てきたようなことを言うんだな?」

「言ったろう? おねーさんは登場人物と舞台が分かれば、そこで起こる先の可能性を完全に網羅出来るんだ。見てきたような、じゃなくて見てきたんだよ。おねーさんの脳内でね」


 言いながら少女は細い肩で頭を示して見せた。
 どこか茶目っ気のある笑顔で、当然のように話すその言葉は、しかし恐ろしい。
 人間の今を知るだけで、未来のあらゆる可能性を想像できる。そんなもの、もはや予知の領域だ。


「そんなことができるなら……なぜ想像だけで済まさないんだ」


 直樹は強く、少女を睨みつける。
 未来をシミュレートできるなら、あの“ネコの呪い”を起こすことに何の意味があったのか。
 秀林寺寝子があの事件を想像の中のみで終わらせていれば、何人もの人間が死ぬことはなかったのだ。

 そんな、直樹の言葉に。
 少女は口の端を釣り上げ皮肉に哂う。
 その様は、まるで猫の化生そのもの。


「なぜ? 何度も観た映画に、直樹は興味が持てるかい? 予測を裏切らない展開を面白いと思うかい?
“現実は時として予測を裏切る”。おねーさんにとって稀に起こるそれ以上に面白い娯楽はないのさ。映画とは違って、好き勝手にいじれることを含めてね」


 だから、あえて“まぎれ”を起こしやすい環境を作る。
“まぎれ”を起こす人間を投入する。あるいは造り出す。

“眠り三毛”秀林寺寝子。
 直樹は戦慄とともに、理解した。
 あの宝琳院庵をして悪魔的と呼ばわしめた秀林寺寝子という少女の、本質を。

 傍観者ではない。プレイヤー。
 宝琳院庵とは、似て非なる性質。
 起こる事象を娯楽として観察するのではなく。
 楽しんでいるのだ。環境を造り人を操り、その結果を。まるでゲーム感覚で。


「お前……」

「ふふ」


 直樹の怒りをはぐらかすように、少女は微笑を浮かべた。
 艶のある笑みに、思わずどきりとして。


「さあ時間だよ。待望の、出逢いの時が来た」


 悪魔のごとき少女の宣言。
 まるでそれが招いたかのように、不意に足音が聞こえてきた。
 大人数を予想させるそれは次第に近づいてきて、部屋の前で、ぴたり止まる。


「――いま、時は満ちた」


 扉が、開いた。









 唐突に、明かりがついた。
 闇に慣れた直樹の目を、蛍光灯の光が刺す。
 おぼろげな視界に映ったのは、驚くほど均整のとれた影だった。
 次第に目が慣れていく中で、相手の姿かたちがはっきりと見えるようになる。

 立ち居姿、顔の造作、そして装い。
 すべてが計ったように調和している。
 それゆえ直樹が認識したのは、一個の美しい少女、ただそれだけ。それ以上の感想を持ちようがなかった。

 少女の後ろには幾人かの男女の姿が見えたが、部屋の中に入って来たのは彼女一人。


「はじめまして」


 どきりとするような透明な声で、少女は口を開いた。


「君は」

「小城元子」


 声には、何の感情も込められていない。
 まるで壁に対して話しかけているような、そんな超越した精神性を感じさせる声。


「神がかりの巫女、と呼ばれています」


 静かに、少女は歩み寄り――間に居た寝子を無造作に踏みつけて、直樹の前に立った。
 寝子は無反応。踏みつけられたことにすら頓着した様子なく、直樹と小城元子の姿を視界に映し続けている。

 その異様に、直樹は気づかない。
 目の前に居る少女の存在感は、秀林寺寝子の最悪にすら、目を移すことを許さない。


「神がかりの、巫女」

「そう。神がかりの、巫女」


 オウム返しに語調を合わせ、少女――小城元子は言葉を続ける。


「“背後様”を信仰する方々には、そう呼ばれております」

「……ハイゴサマ?」

「ええ。わたしたちのここには」


 と、少女は方の後ろを撫でるように示した。
 計算されたように、魅力的なしぐさ。それは情欲よりもむしろ敬虔な気持ちをふるい起こさせる。


「それぞれの神様がいる。それを信じている方々、です」

「……そうか」


 直樹は理解した。
 白音が言っていた、美咲が嵌った“宗教”。その巫女。
 白音が天使様と言い、美咲が悪魔様と呼んだ、人それぞれの神。
“背後様”とはその総称なのだ。


「“背後様”の教えには、神職や神官は居ないじゃ?」

「ええ、その通り。正確には、わたしは巫女ではありません。
 ただ、わたしは使えるのですよ。鍋島直樹さん。多久美咲があなたに見せたような力を。それゆえ、巫女と呼ばれているのです――ねえ? “ヒゼンさま”」


 直樹は身震いした。
 彼女が“ヒゼンさま”と呼ぶ、その時の声は、同時に感じた強烈な存在よりはるかに狂の気を帯びている。


 ――“一人教”、“ヒゼンさま”……思い出した!


 思い至り、直樹は青ざめた。
 かつて泰盛学園を“ネコの呪い”で蹂躙した“神がかり”の少女。
 あの立花雪を手もなく葬り去った狂信者。名前では気づかなかったが、この言動、間違いない。

 小城元子がしゃがみこむ。
 背後には、年若い男女の集団。
 みな一様に、瞳に狂の色を宿している。それでも直樹の眼には、彼らが全部同じに見えた。
 ひとえに、小城元子が抱える狂気の強さゆえに。

 宝琳院庵から聞いたあの事件から、約二年。
 少年院に送られたはずの少女は、その心により恐ろしいものを抱えて、ここにある。


「あなたのことはよく知っています。鍋島直樹さん」

「なぜ。俺のことを知ってる?」

「ふふ。あの双子の兄で、あの“孤高”宝琳院庵と親しく、あの宝琳院白音と近しい。わたしがあなたのことを知りたいと思うには、十分な理由でしょう?」

「……俺を、どうするつもりだ」

「別に」

「別に?」

「あなた自身には微塵も興味はありません。ただしばらくは、ここに居てもらいます」

「なぜ」

「あなたは餌です」

「餌……」

「宝琳院白音を呼び寄せるための、餌。わたしはあなたにそれ以上の価値を認めていません」


 白音の名を聞いて、ふいに直樹は目の色を変えた。


「――白音を、どうするつもりだ」


 直樹は知らない。
 小城元子が、元から白音に対して執着している事実を。
 それは宝琳院庵が、“ネコの呪い”の事件を話す際、プライバシーの観点からあえて教えなかったためだ。
 だから直樹は誤解した。小城元子の、白音に対する執着が、彼女たちの深刻な企みに関わることだと。白音の身の危険だと。

 それゆえの、勁い瞳。
 それゆえの、強い意志。

 だが、神がかりの巫女はそれを無視して、直樹に背を向けた。
 これ以上直樹に与える言葉など、何一つないとでも言うように。
 そのまま顧みもせず、秀林寺寝子を蹴飛ばすように押しのけ、小城元子は静かに部屋を出ていった。

 扉が閉まる。
 鍵のかけられる音。
 足音は離れていき、そして静寂は戻った。


「いたた。ひどいことをするもんだ」


 ややあって、寝子が口を開いた。


「大丈夫か?」

「大丈夫じゃないよ。文字通り踏んだり蹴ったりだ……踏まれたり蹴られたりかな? まあ、痣くらいは出来てるだろうねえ」

「そうか。良かったな」

「さすがにその言葉はひどくないかい? 乙女のやわ肌に傷付けられたんだよ? 直樹が責任とっておねーさんを嫁にもらってくれるとか言ってくれても罰は当たらないよ?」

「なんでだよ。おねーさんがあいつにやったこと考えたら自業自得だろうが」


 この悪魔のごとき少女は、過去、小城元子の呪いでそうなったよう装って、自ら校舎の屋上から飛び降りた。
 その結果、小城元子は己の神を信じて、狂信してしまった。歪な髪を想像し、想像してしまった。何人もの人間が死ぬような惨状を、生み出してしまった。

 それこそ、“ネコの呪い”。
 いわば、当時小城元子を狂わせたのは秀林寺寝子なのだ。


「いや、あの娘はおねーさんが“ネコの呪い”騒動の時に何をやったかなんて知らないからね? て言うか知ってたらおねーさんあの娘の子分達にマワされるくらいのことはされてるよ? あの娘その辺怖いんだ」

「つくづく、よくそんな奴にコンタクト取ろうと思ったな。というか、恨みもないなら、なんであんたは攫われたんだ?」

「ああ、それは簡単。足手まといさね」

「足手まとい?」

「あの子は直樹を調べてるって言ってたろう? じゃあ、直樹がかなり行動力があることや、そこそこ動けることは知っていて当然。でも、おねーさんを放っておいて自分一人で脱出するような真似を、直樹はしないだろう?」

「……そういうことか」


 察して、直樹は舌打ちした。
 その心の中を呼んだように、少女は深くうなずいた。


「そう。その通り。おねーさんは足が不自由だからね。直樹に対する足かせとしては、かなりうってつけなんじゃないかな?」

「……反吐が出る」

「直接的な手段を取ったわけじゃないとはいえ、伊達に五人も殺してるわけじゃないさ。狂気と合理が理想的にかみ合ったあの子に人の情を求めるなんてお門違いさね」


 それは、その通りだろう。
 事件当時ですら、彼女は平然と人を殺し得た。
 二年が経ち、“背後様”の教主のごとき位置に収まっている現在の小城元子からは、どこか超越したものすら感じる。


「そうかよ……で、どうだったんだ、おねーさん。俺とあいつを出会わせたかったんだろう? こんな出会いで満足か?」

「満足だよ」


 答えた少女の表情は、まったく言葉を裏切っていない。


「思い出してごらん? あの娘はことさらに直樹を取るに足らない存在だと強調していたろう? 相当直樹を意識している証拠さね」

「そうは見えなかったが」

「そう見えないのは当然さ。あの娘は意識してキャラクターを作れるからね。自己暗示が強いんだ。
 でも、やっぱり直樹のことは無視できない。宝琳院姉妹。鍋島姉弟バイフォー。大友麒麟に立花雪。そして不肖このわたし。あの子がどうしても意識せざるを得なかった人間が、直樹と深く関わりすぎている。もちろん、多久美咲もね」

「多久が?」


 思わぬ名を聞いて、直樹は思わず聞き返す。


「そうさ。直樹も見たんだろう? あの子が“背後様”――“悪魔さま”だったかな? あれを使って人を害する様を。
 自身と同じ資質。才能。だからあの子は多久美咲を無視できない。かつておねーさんを無視できなかったように」


 そう言って。
 悪魔のごとき少女は、にぃ、と笑う。


「だからこそ、面白いことになる」

「おねーさん」

「なんだい直樹?」

「一体どんな展開を望んでいるのか知らないけど、あんたの思うようにはいかないぞ」


 何故なら、と、直樹は口を開く。


「俺がここにいる。だから、なにが起ころうとも――多久は俺が助ける」


 それは、変わらぬ直樹の覚悟だ。
 絶対に覆らぬ、直樹が選んだ道だ。
 挑むように言った言葉。だが意外にも、秀林寺寝子は「それでいい」と笑って返してきた。


「それでこそ直樹だよ。わたしの予想を越えた化物になった小城元子をも乗り越え、これから高確率で起こる悲劇を跳ね返して見せること。それこそ、おねーさんが見たいものなんだ」


 でも、とりあえず。
 と、少女は言葉を続ける。
 その顔には、底意地の悪い笑みが浮かんでいる。


「――それには先ず、今から起こる第一関門をクリアしてくれないとね」


 言葉と同時、ドアノブが回される。
 直樹は驚き身をよじって振り向いた。寝子との会話に集中して、足音に気付かなかった。
 遠慮がちに扉が開く。生じた隙間から身を割って入ってきたのは――思いつめた表情の、多久美咲だった。





[1515] ユビサキ5
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:55280d8f
Date: 2012/02/23 23:05
 多久美咲は、城東の上流家庭に生まれた。
 父は一流企業の管理職で母は専業主婦。祖父母は三軒挟んだ古民家に住んでおり、両者健康。同じ屋根の下にはいないものの、行き来は頻繁だ。

 子供は、美咲一人。
 温良な家族の愛情を、美咲は一身に浴びて育ってきた。
 評価には、おっとりとした、という形容を使われることが多い。
 良い友人、良い家庭に恵まれ育ってきた美咲は、自然とそうなっていた。

 天然、という形容は、しかし彼女にはふさわしくない。
 相手の言葉をゆっくりと噛みしめる癖があるため、反応は常に遅いが、頭はむしろいい方だろう。ただし運動に関しては壊滅的であるが。

 ほとんどストレスもなく育ってきた美咲だが、彼女にはひとつの趣味があった。
 オカルトだ。かつてそれが高じて悪魔を召喚し、直樹たちクラスメイトを死のゲームに巻き込んでしまったことがある。
 今やそれを知っているのは鍋島直樹、龍造寺円、宝琳院庵の三人のみであり、美咲自身それを忘れているが、彼女の性質は、だからこそ直らなかったと言っていい。

 だから。
 己の背後にある“背後様”を“悪魔さま”と名付け、それが実態を持つほどに――信仰してしまった。

 自然と人が集まった。
“背後様”を信じている人は多く、しかし実際に力を持つ“背後様”がいる人間など存在しなかった。
 信仰の中心として、象徴として、祭り上げられないわけがない。

 しかし。より人を集めるものがいた。
 それが“神がかりの巫女”小城元子。“背後様”の教えを、最初に受けた少女だ。

 彼女は長い間、塀で囲まれた施設に居た。
 それでありながら、密かに教えを広めていき、たちまち教えは塀を越え、広がっていった。
 多久美咲は彼女に会い、知った。自分が、彼女が出所するまでの代わりでしかなかったことに。
 背後に“ヒゼンさま”を持つ彼女は、圧倒的なカリスマを持って人を集め、美咲は彼女の後塵を拝すことになった。

 美咲はそれでもよかった。
“悪魔さま”は確実に、自分の背後に居る。
 それだけで、美咲は強くなれた気がしたし、実際、鍋島直樹と想いを通じることもできた。
 元子と一緒に巫女をやって、直樹と一緒に居られれば満足だった。

 だが、あの日。
“悪魔さま”に願い、諌早直に罰を与えたことを元子に伝えると、彼女は美咲に、廃ビルから出ないように言いつけた。
“背後様”のことを――正確にはそれが力を持つことを知り、邪な心を持って美咲と接触を図る人間から切り離すために。

 つらかった。
 家族に会えないこともそうだが、それ以上に、やっと想いを通じあえた鍋島直樹と会えなくなることが。
 このままいつまでも、廃ビルの中で仲間と過ごすしかないのだろうか。そんな考えが浮かび始めた、矢先。美咲は直樹が廃ビルに捕えられたことを知った。

 何故かはわからない。
 ひょっとして、自分を探してこの場所に乗り込んでくれたのかもしれない。そう思えば、美咲の胸はときめく。

 小城元子は会ってもいいと言ってくれた。
 でも、会ってどうしよう、という迷いがある。
 直樹と一緒にここで過ごす。それはひとつの理想だけど、やっぱり、直樹は帰りたいだろう。自分と同じように。

 でも、逃がせるだろうか。
 あの“神がかりの巫女”を裏切って。
 迷いを引きずったまま、美咲は唾を飲み込み。一度、深く呼吸してから扉を開いた。









「直樹くん」


 入ってきた少女に、直樹は目を驚かせた。
 この数日、直樹があらゆる伝手を頼って探しまわり、それでも見つからなかった少女だからだ。


「多久、お前」

「美咲、って呼んでほしいな」


 呆然とつぶやいた直樹に対し、少女はすこし恥ずかしげに頬を掻いた。
 思わず見とれるようなしぐさだった。直樹は頭の中で首を振りながら、口を開く。


「ここに居たのか」

「うん。あれからずっと、ね」

「家族への連絡もなしに、どういうつもりだ」

「あたしも連絡は、したかったんだけど……駄目なの。“教義”で携帯は持ってちゃいけないし、しばらく帰らない方がいいって巫女様が」


 美咲の様子は、心底困ったようで、家族と教義の板挟みに会っているのがわかった。
 直樹は深く息を吐き出す。


「だったら俺の携帯使え。ポケットに入ってるから。親にくらいは無事だって連絡しとけ。無茶苦茶心配かけてるぞ」


 そういうと、美咲は決心したように縛られた直樹のポケットをさぐり出し、首をひねった。


「あれ? でも、直樹くん携帯ポケットに無いよ?」

「……くそ、当然盗られてるか」

「当然だろう? この状況で携帯を取り上げない間抜けは居ないよ」


 横から、急に声が割って入った。


「おねーさん」


 直樹は言って秀林寺寝子のほうを振り返る。
 美咲が小首をかしげた。


「おねーさん? この人直樹くんのおねーさんなの?」

「その通りさ」


 と、寝子は臆面もなく嘘をついた。
 だが、下手に直樹との関係を勘ぐられるよりは、それで納得してもらった方がよほど手っ取り早い。


 ――ひょっとしたら。


 直樹は思う。
 彼女が直樹に自分のことを「おねーさん」と呼ばせたのは、自分が直樹の姉だと美咲に誤解させるためだったではないか。
 だとしたら、秀林寺寝子。この悪魔のごとき少女は、あの“ユビツギ”の事件の折から、数か月後の今、この状況を予測していたのだというのか。

 ぞっとするような考えに至って。
 ふと、直樹は気づくことがあった。


「……美咲。おねーさんの――そうだな。あの分厚い厚底靴。あれのヒールのへんをちょっと調べてくれるか?」

「え? う、うん」


 美咲は靴を片手に首をひねりながらも、素直にヒールの辺りを探りだす。


「あ、ちょっと、いやだよいやらしい」


 美咲は案外遠慮がない。嫌がる寝子の靴を、無理やり奪ってしまった。
 美咲が靴をひねると分厚いヒール部分が外れ、中から携帯電話が出てきた。直樹のものだ。


「俺の、ってことは、いきなり当たりか」


 もうひとつのヒールには、秀林寺寝子の携帯が入っているに違いない。


「直樹、なんでわかったんだい?」


 靴を奪われた寝子が、恨めしげに眼を眇めてくる。
 直樹は涼しげな顔で視線を受け止めた。


「おねーさんは読めてたんだろ? 俺と一緒に誘拐されることを。だったら、あらかじめ大事なものは隠しておける。そう思って見たら、おねーさんのファッションで、すこし靴に違和感があったからな。これだと思った――美咲」

「はい?」


 解説のあと、急に声をかけたためか、美咲は一拍遅れて首をかしげた。


「とりあえず、それで家に電話しろ。話はそれからだ」

「でも……」


 少女はしばらくためらって、それから、口を開いた。


「……おとーさんに怒られる」

「怒られるようなことをしたんだから、当たり前だろ? つーか俺も怒ってる。でも一番怒る権利があるのは、一番心配した人間に決まってるだろう?」


 直樹はそう言って笑いかけた。
 美咲は、しばらく直樹の言葉を咀嚼するように目を伏せて。


「……うん」


 と、うなずき。
 美咲はためらいながら、家族に電話をかけた。
 彼女が声を出した途端、怒鳴り声が直樹まで届いた。
 それから、美咲はつっかえながら、涙を流して謝っていた。
 その涙は暖かなもので、見ている直樹もなんだか暖かい気持ちになった。

 電話を切った後、美咲はやけにすっきりとした顔で、直樹に微笑みかけてきた。


「直樹くん、逃がしてあげる」


 意外、ではない。
 多久美咲が、どうやら小城元子にたいしてそれほど好意を抱いていないことは、なんとなく察してとれた。
 しかし、直樹に執着していた彼女が、あっさり逃がしてくれるというのは、これはやはり、よい変化なのかもしれない。


「美咲。おねーさんは足が不自由なんだ。出来るか?」

「出来るよ。あたしだって“悪魔憑きの巫女”で、それなりに人望はあるんだから」


 強い意志を秘めた瞳で、多久美咲は部屋を出て行った。
 しばらくして、彼女は数人の男女を連れて帰ってきた。みな、中学生から高校生くらいか。一人だけ三十路過ぎと思しき男が混じっている。


「安心して。神がかりの巫女様より、あたしの言うことを聞いてくれる人たちだよ」


 彼女はそう説明した。

 直樹たちは、縄を打たれたまま数人がかりで担ぎ出された。
 通路は、薄暗い。所々、目印のように灯してある蝋燭がなければ、とても歩行はおぼつかない。

 蝋燭は不規則かつ必ず扉の向かい側に置かれている。
 人の気配がある。ひょっとして、そこに人がいるという目印なのかもしれない。
 だとしたら。少なくない数の人間――おそらく数十人が、この場所に滞在していることになる。

 辺りは異様な空気に包まれている。
 まるで、この場所に住まう人間の、狂気を映したかのよう。

 それは。
 美咲に従い、自分たちを担ぐ少年たちを見ながら、直樹は思う。
 それは、この少年たちや――美咲からも、確実に発せられている。

 階段に差し掛かったところで、人とすれ違った。
 まるですべてが眼中にないような、そんな瞳をした少女は、美咲の姿を見ると一礼し、そのまま、また何も見えないように過ぎ去っていった。

 その後、数人とすれ違ったが、やはり反応は同じ。
 驚きも感動もなく、ただ無表情。わずかに見て取れたのは、多久美咲に対する敬意と、若干の羨望。
 口を開く者がいたかと思えば、それは己の“背後様”に対する祈りの言葉でしかない。誰もが誰もを顧みない。


 ――こいつら、縛られてる俺たちにすら、かけらも興味がないってのか。


 寒気を覚えながら、直樹は思う。
 ここは、異界だ。すべての人間が、自分にしか興味がない。
 感情が凍てついたような。あるいは、狂気が凝ったような。尋常でない世界。

 間違いない。
 ここは、あの悪夢の夜と同じだ。
“ユビサシ”の、死のゲームが生み出した、狂気の空間と、同じ世界。


 ――多久……お前。


 美咲の後ろ姿は、この異空間に、哀しいほどに馴染んでいる。
 まるで、自分はこちら側の人間で――二度と、元の世界に戻ることはないとでも言うように。









 無事廃ビルを出た直樹たちは、大通り近くまでそのまま担がれてきた。
 もう深夜近い。車は多いが、人通りはほとんどない。路地際の異様な集団に注意を払う人間はいなかった。

 直樹と寝子は、そこでようやく縄目を解かれた。
 それほど無茶に縛られたわけではないが、それでも数時間縛られ立手首には、深く縄目が残っている。


「大丈夫?」


 ひりひりと痛む腕をさすっていると、美咲が心配そうに顔をのぞかせてきた。
 たいした事はないさ。と返しながら、手首足首をほぐす。
 長時間固定され、固まった直樹の関節が自由を取り戻した頃。
 その様子を、ほほを緩めて見ていた美咲が、ふいに口を開いた。


「それじゃあね、直樹くん。電話、貸してくれてありがとう」

「美咲」


 直樹は分かっていた。
 美咲が、自分と一緒に帰るつもりなどないと。
 だから、まるで永遠の別れのように言う彼女の表情は、想像通り、悲しみに満ちていた。


「ほんとはずっと一緒に居たかったけど、そうするつもりだったんだけど……やっぱり、わかったの。それをやったら、あたしの好きな直樹くんは、いなくなっちゃうんだって」


 言って美咲は笑顔を作った。
 作り笑いの奥に潜んだ寂しさと、悲しみが、隠し切れていない。


「美咲、お前、帰らないつもりか?」


 直樹は、あえて問いを発した。
 答えは分かっている。だけど、言わずにはいられない。


「お前は、本当にそこにいたいのか?」

「帰りたい」


 美咲の声は切なげで、絞り出すようだった。
 その、悲しみに。悲しみを強いたあらゆるものに、直樹は、怒りを覚えずにはいられない。


「――帰りたいよ。でもね、あたしを“悪魔憑きの巫女”と慕ってくれる人たちがいるの」

「だからどうした!」


 直樹は声を張り上げた。
 怒りをぶつけるように、めいっぱい言葉を叩きつけた。


「たしかにお前は“巫女様”なのかもしれない。それで救われてる人間がいるのかもしれない。だからってお前は“多久美咲”を捨てるのか!?」

「直樹くん……」

「捨てなくていいんだよ! 簡単にあきらめるなよ! 迷って涙流すくらい大切なもんなら、みんな抱え込んじまえよ! 手に余るんなら助けてやるよ! 俺だけじゃない! 家族にも、クラスメイトにも、もっと相談しろよ! もっと――勇気出せよ!」


 一息に吐き出して、直樹はじっと美咲を見据える。
 迷いは、彼女の視線に出ている。大通りに立つ直樹と、路地の陰に控えている仲間たちとの間を往復する彼女の視線は、そのまま美咲が何を悩んでいるか、察するに足る。


「……巫女様」


 ややあって。
 いままで居ないもののように控え、黙っていた男女。
 その中で最も年かさの、少壮の男が静かに口を開いた。


「円城寺さん」

「巫女様――いえ、失礼ですがあえて多久さん、と呼ばせて頂きます。初めて出会った、あのときのように」


 男は言葉を続ける。


「私はあなたを信じた。憧れた。それは私たちが使えない超常の力を使えるからだけではありません。
 あなたの人柄が、依るに足るものだったから。多久美咲を慕う気持ちがあったから、あなたのもとに集ったのです。同じ教えを信じる……仲間として」


 男が、静かに語る言葉。
 それに同調するように、周りの男女も粛として、美咲にただ視線を送っている。


「円城寺さん……みんな」

「“背後様”の教えを、自らが頭に立つことに利用した“神がかりの巫女”を、私はけっして信頼してはおりません。あれは教えを私曲する者です。だからこそ、わたしはあなたに本拠から離れて欲しい。少なくともここに居る人間は、みなそう思っております」


 男の言葉に、彼の仲間たちはみな同意を示した。
 彼らの言葉を、戸惑いながら受け止めて。
 美咲は深く、うなずいた。


「……分かりました」


 言葉とともに、彼女は歩を進めた。
 つま先は大通り、直樹の側に向かう。
 少女の顔に、街灯の冷めた光が触れる。
 もう一度、少女は振り返り、仲間に向かって宣言した。


「あたしは、“神がかりの巫女”から離れます。みんなは自分が。自分と、それぞれの“背後様”に恥じないよう、それぞれ考えてやりたいようにしてください。じゃあ、また。こんどは同じ教えを信じる人として、会いましょう。最初に出会った、その時みたいに」

「ええ。美咲さん。では、また」


 気がつけば。
 あの、廃ビルの中で見た狂の色が、ここにいる人達から消えている。

 きっかけは、直樹の言葉だったかもしれない。
 だが、自分で払わなくては、狂気はけっして拭えはしないのだ。
 みなが大通りに出て、それぞれの方向に歩いていく。その表情には、どこか強い芯を感じた。

 それを見送ってから、多久美咲と鍋島直樹は笑顔を合わせる。


「行くか、美咲」

「ええ、直樹くん」


 大通りと路地裏。光と闇の間堺を越えて直樹が差し出した手を、多久美咲はしっかりと握った。









「しかし、うまいことやったもんだね」


 タクシーを拾い、美咲を送った帰り。
 それまでずっと大人しく座っていた秀林寺寝子は、不意にそう言ってきた。
 城東から直樹の住む旧城下町への途中、薄暗いタクシーの中。助手席に座る彼女の顔は、よく見えない。


「上手いこと?」

「当面の問題をぶつけることで地雷要素を彼女の意識から逸らして、図式を単純なものにさせた。これが上策だったってことさ」


 運転手をはばかって小声で返したが、少女のほうは遠慮するつもりがなさそうだ。
 不審全開な話題だったが、壮年の運転手は少年少女の会話を邪魔するつもりはないらしい。知らぬ顔をして聞き流している。
 それに感謝しながら、寝子の言葉を咀嚼して、直樹は首をかしげた。


「地雷要素……何のことだ?」

「多久美咲の、鍋島直樹への恋愛感情。これが実は大地雷。下手打つと拉致監禁~ふたりは永久に~エンドまであったんだ」

「あ」


 指摘され、直樹はようやくその事実に思い至った。


「完全に忘れてた……」

「天然とか。展開と関係ないところでおねーさんの予測を裏切って欲しくないんだけど」

「それくらい読めとけよ」

「なんでもかんでも勘任なきみの動きって、本当に読みにくいんだよね」

「おい、人をなんにも考えてないみたいに言うなよ。けっこう悩んでるんだぞ?」

「まあ、おねーさん的にはちょっと得した気分になったからいいんだけどね」


 抗議に耳を貸す様子はないらしい。
 直樹はあらためて、思い出してしまった問題に頭を抱える。


「はぁ。マジで美咲、なんで俺のこと好きなんだよ……」

「教えないよ。レディのプライベートだからね。でも、そうだね。別にたいした理由はないよ。いつの間にか好きになっていた。それで不足かい?」

「いや、でも俺なんて」

「直樹の自分への過小評価は脇に置くとして。きみは勘に頼るくせに行動に理由を求めすぎだよ。好きになるのに理由なんていらないだろう?」

「理由なんて、要らない……宝琳院が憤死しそうな台詞だな」

「いや、直樹がどう思ってるか知らないけど、彼女はもっとおおらかな人間だよ。人を理で読み解くのはただの趣味で、それに収まらない理不尽も、彼女は立派に許容している」


 そんなもんかね。と直樹はつぶやいて。
 そうだよ、と少女は振り返り、片眼を瞑ってみせた。

 タクシーは直樹を御城手前駅に下ろすと、夜の闇の中に消えていった。
 去り際に寝子は何も言わなかった。彼女がその可能性に気づいていなかったはずがないから、やはり直樹の敵である少女は、そこまで言う義理などないと思っていたのだろう。


「さて、帰って……円たちへは、メールだけしとくか」


 諌早直を障った“悪魔さま”の正体があの“ヒゼンさま”と同質である以上、すでにネタは割れている。
 あとは宝琳院庵に仕組みを解いてもらい、円に処置を任せれば、諌早直も回復する。すべては元通りになるのだ。


「そうだな、そしたら俺も……」


 直樹のつぶやきは、夜風に流れてすぐに消えた。









「“悪魔憑きの巫女”が袂を分かった」


 悪魔の住処のごとき廃ビルの一室。
 カーテンと絨毯で赤く彩られた部屋で、小城元子は椅子にもたれかかりながら口の端をわずかに上げ、一人語落る。


「たしかに損失かもしれないけど、それって予測のうちなんだよ。鍋島直樹さん」

「白音ちゃんをわたしのものにする、その手筈はもう整っている。それにまだ気づいていないのなら……あの女の買いかぶりだったのかしら? だとしたら、至極愉快だわ」

「――ねえ? “ヒゼンさま”?」


 元子は静かに、背後の影に語りかけた。




[1515] ユビサキ6
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:55280d8f
Date: 2012/02/23 23:04

 週末の朝が来た。
 直樹の目覚めは快調だった。
 ここ数日抱えていた億劫な気持も、もうすっかり晴れている。
 ジェットコースターのようだった木曜日を越え、心配の種だった多久美咲の問題がひとつ解決して、初めての登校だ。

 学校へ行けば、美咲の元気な姿が見られる。
 宝琳院庵に相談し、龍造寺円の手を借りれば、諫早直も治せる。
 円には、「また自分に知らせず厄介事を」と愚痴られるだろうが、まあ仕方がない。
 それよりも日常を取り戻せたことがうれしく、またそれを実感したい。遠足当日の子供のように、学校へ行く時間が待ち遠しくて仕方がなかった。


「……そういえば円のやつ、今日は遅いな」


 朝食後。
 いつもより早く出かける準備を済ませた直樹は、時計を見てつぶやいた。
 毎日きっちり同じ時刻に迎えに来る円が、今日に限っては五分も遅れている。
 仕方なしにコーヒーのお代わりをして、時計とテレビを交互に見ながら待っていると、ようやく呼び鈴が鳴った。


「遅いぞ」


 言いながら戸を開けて、直樹は目を見張った。
 そこにいたのは幼馴染の少女ではない。その父である隆だった。
 家で悠々自適に暮らしている彼が、珍しくスーツなど着込んで立っている。直樹が初めて見る隆の姿だった。


「おじさん。どうしたんですかそんな恰好で」


 直樹は尋ねた。不審が表情に出ている。
 それを察したのだろう。隆は娘似の、硬質に整った顔を柔らかく崩し、苦笑を浮かべた。


「いや、実はいま僕、勤めに出てるんだよ」


 直樹は目をまん丸にした。
 龍造寺隆を善く知る者にとって、それは驚天動地のことだ。


「親父にはずっと前から言われてたんだがね、年の瀬ごろから円が、変わってね。言うんだよ。わたしは変わった。父は変わらないのか? って」


 彼はそう言って、苦笑を浮かべて見せた。

 龍造寺隆は円が十一の時に実家へ帰ってきた。
 親友と思っていた男に裏切られ、経営していた会社を潰し、母に逃げられ、無表情な娘とともに、逃げ戻ってきた。
 背負った莫大な借金を父――円の祖父に肩代わりしてもらい、なにも信じられなくなって、ただ家に引きこもっていた。


「負け犬」


 円の祖父が隆をそう呼ぶのを、何度も見た。
 息子を発奮させようとしての発言だったのだろう。
 だがそれでも彼は、「事実だから」と無気力に笑っていた。
 それが、変わった。娘に諭され、己の中の頑ななものを少しずつ溶かしていき――今、外に出ている。

 その変化を、幼馴染の少女の成長と重ねて。
 直樹は痺れるような感動とともに、こみ上げてくるものを必死で抑えた。


「おめでとうございます」


 笑顔を作り、祝辞を述べると、隆も笑顔を返してきた。
 その笑顔は、現在の、生まれ変わった龍造寺円とぴったり重なる。


「直樹君ならそう言ってくれると思っていたよ。娘を変えてくれた君なら」


 照れくさくて、直樹は頬をかいた。
 自分の幼いころを知る年長者に手放しでほめられるというのは、やはり恥ずかしいものだ。

 むずかゆい物を感じながら、直樹ふと思いだして尋ねる。


「ところで、円は今日どうしたんです?」

「ん、円から聞いていないかな? 昨日、友達の家に泊るって連絡があったんだけど」

「そうだったんですか」


 妙に嫌な予感がした。
 だが、直樹はあえて面には出さなかった。
 勘違いかもしれない。それでせっかく前へ進んでいる彼に、要らぬ心配をかけたくなかった。


「まあ、円が嫌がらなかったら、誰んとこ泊ってたのか聞いときますよ」

「頼んだよ」


 そんな会話を最後にして、直樹は隆とともに家を出た。







 本鈴が鳴っても、円は教室に入って来なかった。
 そのまま落ちつかない一限目を過ごし、授業が終わるや否や、彼女に電話をかけたが、繋がらない。
 授業の合間を見つけて、彼女の狭い交友関係を片端から当たっていったが、やはり消息を得ることは出来なかった。

 唯一、中野一馬が、昨日彼女を見ていた。


「……諫早のとこへお見舞いに来て、その後どこへ行ったかは知らない、か」

「ああ、夕方にな。ふらりとやってきて、ふらりと出ていった。龍造寺のお陰というわけでもないのだろうが、それから直も元に戻ってきている」

「それは――」


 朗報だ。と言おうとして、直樹は言葉に詰まった。
 いやな予感が舌に絡んで離れない。
 本来喜ぶべきことなのに。

 いや、理由は分かっている。
 諫早直を癒したのは間違いなく円だ。
 しかし、なぜ、それが出来たのだろうか。
 諫早直を縛る“悪魔さま”の障り。その正体は、いまだ直樹しか知らないというのに。


「時に直樹」


 沈黙を、一馬が破った。
 その視線は、直樹の背後に据えられている。


「その状態は何事だ」

「直樹くん、どうしたの?」


 前後から声をかけられ、直樹はうんざりと息を吐いた。
 久しぶりに学校に来た多久美咲は、明るい笑顔で朝からずっと直樹に張り付いている。
 昨日まで円の居た位置だが、それが美咲に変わっただけで、クラスメイトたちの目が違う。


「なにあれ、どういうこと?」

「龍造寺さんが可哀そう」

「それを言うなら宝琳院さんだって……てあんまり焦ってないわ。正妻の余裕?」

「いや、正妻は龍造寺さんでしょ。宝琳院さんは、なんていうか……クラブのママ?」

「とにかくあの天然タラシはいっぺん死んどけばいいと思うよ」

「直樹死ね」「鍋島死ね」「鍋島死ね」「とりあえず殺そう」

「いや、まて。いくら女侍らしとるといっても、貧相な女じゃワシも本気で殺す気になれん」

「去年のクリスマスの男子人気投票で成富さんは鍋島のやつに――」

「殺すぞ。ワシの怒りゲージはすでにマックスじゃ」


 まるであの廃ビル以上の敵地だ。
 敵意と害意が渦巻く教室の空気に、美咲はまるで気づいた様子がない。
 気付きながら知らんぷりしているとすれば、ずいぶんと図太い神経をしている。

 そうこうしているうち、授業開始のベルが鳴った。
 男どもはあからさまに舌打ちして席に戻った。


 ――昼が怖い。


 円のことに加え、渦巻く敵意に頭を痛める直樹には、講義はさっぱり頭に入らない。

 そして昼。
 終了の号令後、直樹は即座に席を立った。
 しかし、すぐにその行為が失敗だったと悟る。
 いつの間にか扉近くにいた男子生徒たちが、さりげなく出口を固めていた。
 直樹の行為は、敵の行動を誘発する引き金でしかなかった。


「よう。直樹」


 と、さりげなく肩に手を置いてきたのは、斉藤正之助。
 直樹の親友にして戦国猛将の雰囲気を漂わせる巨乳フェチだ。
 他にも数人の男子生徒が、殺気だった目で直樹ににじり寄って来る。


「ちょっと、おまえら、怖いから。怖いから」


 じりじりと後退りながら、両手を上げてなだめにかかる。
 だが、男たちは問答無用とばかり、無反応でただゆっくりと近づいて来る。

 直樹は助けを求めて教室を見回した。
 宝琳院庵は早々に図書館に向かったらしく、不在。
 多久美咲は、ここ数日の無断欠席についてだろう。担任教師の千葉連の呼び出しを受けており、やはり不在。
 斉藤正之助や神代良は、端から直樹を襲う側だ。歯止め役であるはずの鹿島茂も、余興を見物する姿勢を崩していない。
 最後の頼みの綱。クラス委員の中野一馬も、懇願するような直樹と目を合わせた瞬間、あきらめろとばかり、肩をすくめて見せた。


 ――絶体絶命だ。


 横目で背後を見ながら、最悪窓から廊下に飛び出そうと、手順を確認していた、その時。

 がらり、と、扉が開けられた。
 視線を向ける。別のクラスの少女だ。上履きを見るに、二年生。


「鍋島直樹さん?」


 みなの注目が集まる中、彼女はそう言った。
 全員の視線が直樹に集まった。少女はまっすぐ直樹に歩み寄ってくる。
 向けられた視線など一切意識に無いような、そんなそぶり。直樹は強烈な既視感とともに、いやな予感を覚えた。


「巫女様から、手紙をこれに」


 そう言って、少女はさっさと帰っていった。
 全員、あっけにとられた、その隙を縫って――直樹は動いた。
 窓の鍵を解き、窓を開き、級友の机を乗り越え、廊下に飛び出す。一連の動作にかけた時間はわずか一呼吸。

 廊下を出たばかりの少女に背を向け、直樹は走りだす。
 直後、教室を怒号が飛び交った。おおかた直樹が受け取った手紙をラブレターか何かと勘違いしたのだろう。

 だが、そんなことに構っている暇はない。
 直樹は走る。向かう先は三階図書室。宝琳院庵の領域だ。


「直樹くん? なんだいそれは? ラブレターかい?」


 図書室に飛び込み、息を弾ませながら扉に背を預けていると、宝琳院庵が楽しそうに声をかけてきた。
 彼女のからかいを無視して、直樹は乱暴に封を開け、中に入っていた手紙を取り出す。ひと目見て、その姿勢のまま凍りついた。

 文章は、ごく短く、単純。


 ――龍造寺円を取り戻したければ、白音ちゃんを連れて来て頂戴。


 差出人の名は、“神がかりの巫女”――小城元子。
 すべてを理解し、直樹は怒りのままに手紙を握りつぶした。




[1515] ユビサキ7
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:55280d8f
Date: 2012/04/09 02:57
 龍造寺円が攫われた。
 なぜか。そう思うより先に、ひとつの疑問が浮かぶ。


「どうやって」


 剣道。合気道。
 天稟に恵まれた彼女は、たとえ集団を相手しても、平然とあしらえる。
 その上、悪魔から得た超常の力があるのだ。無敵と言っても過言ではない。

 彼女がその気なら、捕えられることなど、あり得ない。
 だからこそ。直樹も、その可能性を考慮の外に置いて顧みなかった。


「――しかし、彼女は攫われた」


 宝琳院庵が口を開いた。
 珍しく大机にも座らず、直樹の肩に手を添えて。
 ただ棒立ちでいる直樹の顔を、真正面に見据えて。


「どの様にして。その理由に、当然キミは気付いているだろう。だがしかし、落ちついてボクの推論を聞きたまえ」

「落ちついて?」


 直樹の口から出たのは、激情に任せたそれからは程遠い、平坦な声だった。


「落ちついてるさ。ああ、落ちついてるとも。だからいきなり飛び出したりしないでお前にちゃんと説明もしたんだ……だから、いいだろ?」

「聞きたまえっ!」


 言うや踵を返しかけた直樹に、鋭い制止の声が飛ぶ。
 直樹は再び足を止め、振り返った。ふたりの視線がぶつかる。
 静かに。静かに燃えていた直樹の怒りの炎が、はじめて漏れ出た。


「宝琳院」

「直樹くん」


 少女は退かない。
 彼女が直樹の肩に置いた、ほっそりとした白い手。
 そこに込められた力は、貧弱ながら、絶対に離さないという明確な意思が宿っている。


「……聞かせてくれ」


 激情と、はやる心を再び押さえつけ、蓋をした直樹は、どっかと椅子に座った。
 それを確かめると、少女は安堵したように息をつき、ようやくいつものように大机に腰をかけた。

 昼休みも半ば。
 部屋を訪れる人間もいたが、ふたりの異様な様子を見ると、すぐに立ち去ってしまう。
 結果、無人の図書室で、鍋島直樹と宝琳院庵は、まるでお互いが敵だというように睨みあう。


「まず、円くんがどうやって攫われたか」


 宝琳院庵が口を開いた。


「これは明快だ。無理やりではない。彼女は自分の意思で小城元子のもとに赴いたんだ。条件はおそらく直樹くん、キミの開放」

「ああ、だろうな。つまり」

「つまり小城元子に出会ったその時には、キミはすでに用済みになっていた。だから見逃されたのだろうね。キミも、多久君も」

「……美咲も?」


 直樹は口を挟んだ。意外な名だった。
 これに対して悪魔少女は眉根を寄せ、息を吐いた。


「ボクはいまだに名字で呼ばれてるのに……地味にへこむんだけどね」


 少女のつぶやきはため息よりも小さく、直樹の耳にまで届かなかった。


「そう。多久君も、だ。邪魔だからね」

「邪魔?」

「考えてもみたまえ。集団に、トップを脅かすほどの権力と実力を持った人間がいる。邪魔だろう?」

「だからあえて、逃げる美咲を見逃したと?」

「おそらくはね」


 もし、彼女の言う通りなら。
 昨晩の出来事が、すべて小城元子の策のうちだったというのなら。

 嫌悪と、なにより怒りから、直樹は歯噛みする。

 美咲の涙は何だったというのか。
 美咲の決意は何だったというのか。
 すべてを手のひらの上に置いて、ほくそ笑んでいたというのか。


 ――あの、小城元子という女は!


「決意は尊いものさ。たとえあると思っていた障害が空疎なものだったとしてもね。
 多久君は障害を乗り越え成長した。それは彼女にとって、かけがえのないものだよ」

「でも、だからこそ。美咲の涙を、決意を、そして多久についていった人たちの意思を、あいつは汚した」


 絶対に許せない。
 許すことはできない。
 直樹は、はっきりと理解した。
 小城元子。あの“神がかりの巫女”は、鍋島直樹にとって不倶戴天の敵だと。


「だからといって冷静さを欠いてはいけないよ。キミはひとつ、重大な事実を見落としている」


 硬く拳を握りこむ直樹に、悪魔少女は人差し指を立て、そう言った。


「重大な、事実?」

「そうさ。龍造寺くんが捕えられた理由は推測できる。だが、考えてみたまえ。なぜ龍造寺くんはいまだ捕えられ続けている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」


 その、言葉に。
 直樹は殴りつけられたような衝撃を受けた。

 彼女の言う通りだ。
 直樹の身柄と引き換えであれば、龍造寺円はほとんどの交換条件に応じるだろう。
 だが、だからといって。直樹が解放された後も、彼女が捕虜の身に甘んじているだろうか。
 否。そうなれば、おそらく彼女は平然と拘束を解き、制止する人間を打ち払い、ついでに元凶を叩きのめして悠々と帰ってくるに違いない。


「直樹くんが解放されたにもかかわらず、龍造寺くんは帰って来ない。なぜか。考えられる理由はふたつ。ひとつは直樹くんが解放された事を知らないこと。そしてもうひとつは、龍造寺くんが自ら望んで捕えられたままでいること」

「円が、望んで?」

「ああ、そうさ。手段はいくつか考えられるよ。たとえば相手が他人を害する手段や手駒を持っていて、直樹くんや家族なんかを間接的に人質にとったり」


 ありそうな話だ、と直樹は思った。
 相手は宗教団体の教祖のような存在だ。
 手駒など、いくらでも都合できるだろう。
 だが、直樹の同意を振り払うように、少女は言葉を続ける。


「――でも、それはおそらく違う。なぜなら、小城元子。彼女は本質的に、人を信じていない」

「人を、信じていない?」


 素直にうなずけない言葉に、直樹は思わず聞き返した。
 思い出してみても、小城元子は人を使い従えることに長けているように見えた。
 他人に不信を抱きながら、はたしてあれほど多くの人間を動かせるものなのだろうか。


「ああ。他人を己の制御化に置ける、などと、彼女は慢心していない。むしろ逆だ。自己を半ば神格化しながらも、彼女は自分の能力すら過信していない……いや、己の存在を絶対とするために、手に余る信者を振るいにかけることさえしている。狂信していながらも合理的。彼女はそんな人間だよ」

「ふるい?」


 その言葉に引っかかりを覚え、直樹は問い返した。
 宝琳院庵は、小城元子が信者に振るいをかけたという。


「一体どうやって?」

「携帯電話」


 少女は端的に答えた。


「――小城元子は教えの中で携帯電話の所持を禁じた。その主たる理由がそれさ。
 考えてもみたまえ。携帯電話と宗教を天秤はかりにかけて、あえて後者を選ぶのがどんな人間か」


 人差し指を立て、彼女は示す。


「社会人では無理だ。彼らは携帯電話の所持を半ば義務付けられている。大学生でも難しい。自然、信徒は中高生が主となるんじゃないかな?」


 彼女の示した方向性。
 小城元子という少女の本質を悟って、直樹はぞっとした。


「自分の手に余る、年上の人間を排除して、信じやすい、操作しやすい人間で周りを囲って、それでも、手駒としてすら他人を信じていない?」

「その通り」


 直樹の言葉に、悪魔少女はうなずいた。


「そして彼女が一番信じていないのは、自分自身だ……だからこそ恐ろしい・・・・・・・・・


 自らの能力を過信しない。
 それはけっして欠点ではない。
 信じていないからこそ、失敗した時のことを考える。
 万全の策すら過信せず、補いフォローし布石として万事に備えることができる。

 それゆえに、この悪魔少女をして言わしめたのだ。
「恐ろしい」と。


「しかし、それなら。騙しでも人質でもないなら、円がいまだに捕まっている理由は何なんだ」

「……それを教える前に、直樹くん。キミに言っておきたいことがある」


 直樹の問いには答えず、宝琳院庵はふいに切りだしてきた。
 至極真剣な瞳に、直樹は無言でうなずいて言葉を促す。
 彼女はきっぱりと言った。


「この件に、白音を巻き込まないで欲しい」

「……それは」


 直樹は言葉に詰まった。
 怒りが先に立つあまり、いままで廃ビルに乗り込んで助けることしか考えていなかった。
 しかし冷静に考えてみれば、数十人の信徒の目をかいくぐり、龍造寺円を助け出すなど不可能に近い。

 鍵が要る。
 敵の本丸、小城元子のもとへ通じる通路の鍵が。
 それは宝琳院白音の存在以外にはありえなかった。


「白音なら、直樹が頼めば喜んで協力するだろう。だが、ボクはそれを望まない」


 何故ならね、と、彼女は続ける。


「小城元子という少女は、本当に危険なんだ。いや、彼女だけじゃない。数十人にも及ぶ信者たちをも相手にしなきゃならない。
 直樹くん。ボクは白音をそんな危険に放り込みたくない。勝手かもしれないけど、ボクは龍造寺くんよりも、白音の身の安全のほうが大事なんだ。もしキミが白音に危ない橋を渡らせようというのなら……ボクはキミを絶対に許さない」


 言葉には強い意志が込められていた。

 彼女の言うとおりだった。
 直樹にとって龍造寺円が、そうであるように。
 宝琳院庵にとって、宝琳院白音という少女は、かけがえのない存在なのだ。

 迷い。が、直樹に生じた。
 宝琳院庵と出会ってから、二年。
 はじめて会話してから、一年半。
“ユビサシ”の夜から、半年あまり。
 会話を、知識を、助力を、そして好意を、彼女はくれた。
 直樹がこれまで体験した幾多の事件。そのなかで、宝琳院庵は常に味方でいてくれた。

 だが、白音の手を借りるという選択をするのなら、彼女は初めて直樹の敵となるのだ。
 だが、それでも。龍造寺円が。大切な家族が取り戻せるというのなら。他に手段がないというのなら。

 直樹は選ばなくてはならない。
 宝琳院庵を敵にして白音に助けを請うべきか。
 それとも、あるかどうかわからない他の方法を探るのか。


「――選びたまえ。キミがどの道を行くのかを」


 そして、気づいた。
 彼女がこんな態度をとる以上、龍造寺円を救うためには、宝琳院白音の存在が絶対に必要なのだと。


「俺は――」


 考え抜いた末、出した結論を、直樹は少女に告げた。









 城南北。
 佐賀野駅から、町を越えてすぐ南。
 古めかしい町並みを残す旧城下町とは対照的に、ビルの林立するオフィス街だ。

 唸るような霧笛の音を、かすかに聞いた気がして、直樹は振り向いた。
 城南の、南の果ては海だ。港もある。霧笛はそこから響いてきたのだろう。

 それは、直樹の迷いが聞かせた幻聴だったのかもしれない。


「直樹さん」

「ん。ああ、なんでもないよ、白音」


 声をかけられた直樹は、我に返ってかぶりを振った。
 傍らに立つのは一人の少女。光を拒むような髪は、夜の闇に同化して、少女の白い肌を浮き立たせている。

 自らの選択が正しかったのかどうか、決めてしまった今でも、直樹はまだ確信が持てない。
 だが、直樹は選んだ。最も厳しい道を。ならば、迷っている暇などない。

 やるしかない。
 だから、やる。
 そのためにあらゆる手段を使うことを厭わない。
 大切な幼馴染を取り戻す。いまはそれだけを考えていればいい。

 直樹はそう自分に言い聞かせ、前を向く。


「行くぞ、白音」

「承知しました」


 直樹の言葉に、少女は無表情のまま、短くつぶやいた。









「巫女様」


 静かに目を伏せていた小城元子は、呼ばれて顔を上げた。
 信者の一人だ。幼い顔立ちの少女だが高校生。元子を心酔しており、元子にとって使いやすい人間の一人だ。


「何かしら?」

「鍋島直樹が来ました。宝琳院白音も一緒です」

「そう……他に連れは?」

「居ません」

「別口で来たりは」

「ありません。ご存じのように、路地の両端と佐賀野駅に見張りと連絡役を置いていますが、異常の報告はありませんでした」


 その通りだった。
 さらに言えば、佐賀野高校の直樹のクラスでも、異常があったという報告は無い。
 とはいえ、万全ではない。携帯電話が使えない以上、どうしても報告にラグは出る。
 なにより、見張りの人間は小城元子ではない。失敗や愚鈍ゆえの見落としもあるだろう。

 それでもいい。
 人を集めようとも、こちらにはそれ以上の人間がいる。
 警察に頼ろうとも、こちらが万事有利に出来る伝手と手札を、すでに用意している。

 なにより。
 相手の急所である龍造寺円さえ押さえておけば、どんな状況に陥っても対処はできる。
 そして龍造寺円が彼女の手から奪われることは、けっしてあり得ないのだ。


「では、こちらへ通して頂戴」









 蝋燭の朧な明かりしかない廊下を、直樹たちは案内された。
 案内は全員男。前と後ろに二人づつ付いている。みな、顔には警戒の色が見える。

 昨晩と変わらない、不気味な雰囲気。
 異界のごとき空間を越え、二階の奥まった一室へ案内された。
 首領や教主が居るのは最上階と相場が決まっている。直樹もそのつもりでいたため、意外だった。


「二階の北側奥。最上階かと思っていた」


 独語しながら、通される。

 白い世界が、視界に広がった。
 十二畳ほどの空間。白い布が敷かれ、天上から吊り下げられたそこは、まるで巨大な天蓋付きのベッド。

 その中央。
 布が盛り上がった部分に腰をかけて、小城元子は待っていた。


「ようこそ、鍋島直樹さん。白音ちゃんを連れてきてくれたみたいね」


 まるで説き聞かせるように、彼女は言った。


「――そして、久しぶりね、白音ちゃん」


 続いて彼女は白音に顔を向け、話しかけた。
 この時だけは、彼女は二年前の温顔の美少女だった。


「お久しぶりです」

「お久しぶりです。小城先輩」

「お久しぶりです。小城先輩、相変わらず――狂っているようでなによりです」


 静かに。
 直樹に寄り添いながら、凛然たる調子で白音が答える。
 小城元子は、演技のように大袈裟にかぶりを振ってみせた。


「相変わらずね、白音ちゃん。その言葉づかいは止めなさい。気分が悪いわ」

「円は」


 二人の会話に、鍋島直樹が割って入る。


「――円は無事か」

「無事よ」

「どこに居る」


 声に怒りの匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
 元子は困ったように肩をすくめて見せた。


「直樹さん。この状況であなたが強く出られる要因があるのかしら? たとえば、後ろにいる彼らに言って、あなたから白音ちゃんを引き離すこともできるのよ?」

「やってみろよ。出来るならな」


 金属の擦れる音。
 それは直樹たちの手元から生じていた。
 なんと直樹と白音は、お互い手首に鎖が巻きつけられ、つながっていた。
 囚人が繋がれるような鉄鎖。結束部は、ご丁寧に針金でぐるぐる巻きにしてある。


 ――まるで、宝琳院白音をけっして手放さないとでも言うように。


「なんのつもりかしら?」


 困惑した様子だった。
 たしかに、意味のない行為だろう。
 この廃ビル。小城元子のテリトリーに入った以上、すでに直樹に抗う術などない。
 この鎖にしても、たとえば番線切り(鉄線を切る鋏)ひとつあれば事足りる。手元に無くても、ものの一時間で調達できるだろう。せいぜいが時間稼ぎの手段にすぎない。

 そう、だれから見ても。
 あまりに愚かに思えるその行為。
 だが、だれもが鍋島直樹を笑えなかった。
 その瞳に浮かぶ光が。怒りが。恐ろしいまでに澄み通った意思が。
 鍋島直樹が、この場にいる小城元子以外のすべてを相手に出来る覚悟と力を持っていることを、否応なしに教えていた。

 殴られても、蹴られても。直樹は立ち上がるだろう。
 金属バットで強かに殴りつけても、あるいはナイフで刺したとしても、死ぬまでこの男は止まらない。
 冗談ではない。この場にいる人間で人を殺す覚悟のある者など、たった一人を除いて居はしないのだ。

 神がかりの巫女、小城元子以外には。


「円はどこだ」


 直樹は重ねて問う。
 燃える瞳に焼かれながら、元子はうそ寒くなるような笑みを浮かべた。


「たしかに、交換の秤に片方だけ乗せているというのも不公平ね…来て頂戴」


 彼女の声に応じるように。
 一人の少女が吊り下げられたシーツの陰から姿を現した。
 龍造寺円だ。佐賀野高校の制服を着たまま、しかし表情は夢遊病者のそれ。


 ――ああ、やっぱり。


 ふらふらと歩みくる幼馴染を、直樹は片手で抱きとめる。
 その、瞬間。やにわに伸ばされた円の右手が、猛禽の如く直樹の首筋を襲った。


「直樹さん!」


 白音が悲鳴を上げた。
 うめき、片膝をつく。意識は保っている。


「あいにく龍造寺さんは、あなたといっしょには帰りたくないみたいね」


 ――龍造寺君に起こったことを説明しよう。


 直樹は思いかえす。宝琳院庵の言葉を。

 龍造寺円は春ごろから、名を呼ばれる錯覚を覚えていた。
 寝不足になるほど、頻繁に。

 宝琳院庵は言う。
 彼女は事実名を呼ばれていたのだ、と。
 名を。超常の力を持つ者の名を。龍造寺円と重ねあわされた名を。


“悪魔さま”“ヒゼンさま”“背後様”


 魔の力を持つ彼女は、崇拝の偶像とされ、半神半人の存在に祭り上げられた。
 崇拝者の望みを叶える半現象と化してしまった。

 それが、信者を振るいにかけたもうひとつの理由。
 純粋多感な中高生。外界と隔絶された異界とも呼べる廃ビル。
 龍造寺円を絡め取るまでに強い狂信を得るにふさわしい環境だ。

 信仰の中心にあって龍造寺円はまさしく神と同化しただろう。
 小城元子が、そして信者たちが思う“背後様”そのものになっただろう。


「――さあ、“ヒゼンさま”。彼に“触れて”」


 言葉に従い、円の白い手が直樹に近づいていく。
 触れれば気が触れる、狂気の神の御業。それは間違いなく彼女に宿っているに違いない。

 小城元子が笑う。
 より以上に明確に、直樹は笑った。


「そんなことだと、思ってたよ」


 ――だから、直樹くん。宝琳院庵としての最後の忠告だよ。


「――あいにくと、白音は大事な預かり物でな。簡単に引き渡すわけにはいかないんだよ」


 片膝をついたまま、直樹は円の腕を掴んだ。
 しっかりと握られた手は、力では決して劣らない円の腕を、微動だにさせない。


「なら、どうするつもり? 龍造寺円を敵にして、私を相手にして、このビルに居る五十を超える人間を向こうに回して、あなたはどうやって白音ちゃんを守るというの?」

「白音は守る。円は目を覚まさせる。お前はぶん殴る。五十の敵もぶっ飛ばす……とっくの昔に腹は決めてんだよ!」


 歯を食いしばり、立ち上がりながら、直樹は吼える。


「覚悟だけでそれができるつもり? ならば這いつくばって己の無力を噛みしめなさい――“ヒゼンさま”!」


 元子の声に応じるように。
 意思の感じられない円が、指を伸ばす。
 まるでユビサシのように。あの悪魔の遊戯のように。
 しなやかで美しい指先から、おぞましい気配が伸びて。

 それでも直樹は、円の手を離さない。
 まっすぐに彼女を見据えたまま、巨大な悪意を真っ向から受け止めんと歯を食いしばる。


「俺はこの手を、離さない!」

「馬鹿野郎! 離しとけ!」


 不意に飛んできた罵声とともに、直樹の眼前に銀光が走った。
 おぞましい気配が霧消し、同時に右手から一瞬、感覚が消えた。
 力が抜けた一瞬の隙に、円が直樹の手を振りほどき、飛び退った。
 かわりに、二人の間に身を割って入ったのは、鷹の目を持つ少女。そして獅子を彷彿とさせる容姿を持つ、澄んだ瞳の少年。


「立花、大友!」


 直樹が叫んだ。
 立花雪。大友麒麟。
 泰盛学園中等部三年、“双璧”。
 元子の表情に、驚愕の色が現れた。

 一息。思考の空虚の間を縫うように、雪は跳ねた。
 不自由な足での異形の歩法。目で追うことすらできず、四人の男たちは一瞬で地に伏した。


「どうやって――つっ!?」


 言いかけて、悟ったのだろう。元子の瞳に怒りの色が現れた。
 この二人であれば、見張りの目を盗むことはさほど難しくない。
 しかし、小城元子の居場所がこれほど早く特定された理由。それは、携帯電話に他ならない。
 直樹は事前に、隠し持った携帯電話をスピーカーモードで通話状態にしたまま廃ビルに入っていた。そして元子の居場所を口頭で告げていたのだ。

 宝琳院庵の助言。


 ――退魔のふたりを、連れていきなさい。


 そして。


 ――信頼できる仲間たちを、連れて行きなさい。


「正之助、一馬、鹿島、良君、千葉ちゃん――野郎ども!」

「おおぅ!!」「みんな、引き続きメールの打ち合わせ通りに動け!」
「目標廃ビル! 野郎共、のりこめぇっ!」「龍造寺さああああん!」「――ってなんで先生ちゃんづけなんですか!?」


 もう一つ、宝琳院白音の持つ携帯から、威勢のいい声が返ってきた。


「やっとだ。お前の否定したもの、全部かき集めて、やっとここまで来た……お前をぶん殴れる状況にな」


 感覚のない右手を無理やり動かし、直樹は指先を小城元子に向け宣言する。


「――小城元子。おまえを倒して、円をこの手に取り戻す!」







[1515] ユビサキ8(了)
Name: 寛喜堂 秀介◆c56f400a ID:55280d8f
Date: 2012/04/16 03:51
 そのメールは、昼休みも終わりになってから届いた。

 差出人は、鍋島直樹。
 受け取った人間の多くにとっては、取り逃がした獲物からのメールだ。
 彼らは舌舐めづりしながら文面を見た。直樹らしく、ごくごく短い文章だった。


 ――円を助ける。手伝ってくれ。


 事情は知らずとも、彼らは知っている。
 鍋島直樹が、龍造寺円に関してこのような冗談を言う人間ではないことを。

 だから、動いた。
 男たちをまとめたのは直樹の親友、中野一馬だ。
 彼にだけは、直樹から詳しい情報が伝えられている。

 一馬は巧妙だった。
 けっして時間を合わせず、三々五々。
 私服に着替えて三人と固まらず、直樹が廃ビルに入ってから、ようやく全員を集合させた。

 その数、十六。

 相手の総数は、五十を超える。
 そのうち、迎撃に出てきているのは半数程度。
 携帯電話がないため、連絡が満足にとれないのだ。ビルに居る人間の多くが、いまだ事態を把握していない。

 この騒ぎだ。
 外の喧騒が聞こえていないはずがない。
 だが、同じビルの廊下を通りすがる人間にすら興味のない者が、この騒ぎに興味を持つだろうか。

 加勢は十人を越えないだろう。
 それでも相手はこちらの倍。
 劣勢? 否。

 喧嘩慣れした鹿島茂が居る。
 一騎当千の斉藤正之助がいる。
 小柄ながら武道に通じた千葉連教諭がいる。
 そして円を助ける王子様にならんと欲する必死な男たちの士気は、沸騰して蒸発寸前だ。


「負ける要素など、どこにも無いな」


 中野一馬は落ち着き払って眼鏡を外す。
 一呼吸。はずみをつけて敵中に身を躍らせながら、みなに向かって叫んだ。


「押し込め! まずは二階階段を押さえろ! 龍造寺たちを絶対に助け出すのだ!」









「――円。君の相手は、わたしだ」


 直樹と小城元子の間に立つ唯一の障害。
 元子の信仰する、障る神――“ヒゼンさま”と化した龍造寺円には、退魔の少女、立花雪が相対す。

 雪の瞳に迷いはない。
 その意思を示すように、澄みきった光をたたえている。

 立花雪は、円と過去に戦い、引き分けている。
 だが、いま彼女と戦って、雪が負ける要素は無い。

 実力は互角。
 ならば。小城元子の意思という名のノイズを抱えたいまの彼女が、万全の立花雪に敵うはずがない。


「円を返せ」


 歩を進め、直樹は小城元子に向き合う。
 もはや彼女との間に、障害は無いも同然。
 だが。怒りながらも、神がかりの巫女に焦りの色は見られない。
 まるで。このような絶対の窮地をすら、予測済みだとでも言うように。


「――“ヒゼンさま”」


 小城元子のつぶやき。同時に、風が薙いだ。
“ヒゼンさま”が、眼前の立花雪を無視して、その凶刃を直樹に向けたのだ。

 この隙を見逃す雪ではない。
 体を傾いだ彼女は、瞬息のうちに障り神の胴に、実体を持たぬ神威刀“雷切”を送りこんでいる。

 存分に斬った。
 並の魔にとって消滅に値する斬撃。
 だが、“ヒゼンさま”を倒すには足りない。
 肉体を持ち、さらに信仰によりその存在を支えられた“ヒゼンさま”を倒すには、さしもの神威刀とて、一撃では不足。

 斬られてなお、“ヒゼンさま”は動きを止めない。
 この、ぞっとするほど美しい障り神は、雪に斬られ、膝をつきながらも宝琳院白音の袖を、思い切り引いたのだ。
 絶対に離さないよう、鎖でつながっていたはずの少女は、なんの抵抗もなく直樹から離された。見れば鎖は断たれている。

 誰が。いつの間に。
 考えるまでもない。“ヒゼンさま”。
 立花雪に対し隙を作ってまで、かの障り神がやったことがそれだったのだ。


 ――なぜだ。


 焦って白音を追いながら、直樹は考える。
 いまさら白音を奪ったところで、元子の状況は変わらない。
 白音を人質にして逃げたとしても、この廃ビルしんでんを放棄してしまえば、“ヒゼンさま”は龍造寺円に戻る。
 そして白音。元子が彼女を使って何かを企んでいたとしても、それが成功することは絶対にあり得ない・・・・・・・・


「ふっ」


 直樹は追う。
 だが一歩届かず、白音は元子の手に収まった。
 神がかりの巫女は、口元に微笑をうかべ――静かに、後ろに跳んだ。


「待てえっ!」


 壁際まで飛び退った元子に、直樹はなおも追いすがる。
 その手が、白音の袖に触れるかと思われた、直後。直樹の手は空を掻いた。


「なっ!?」


 直樹は驚愕の声を上げた。
 小城元子はさらに後ろへ飛んだのだ。
 吊り下げられたシーツのさらに奥。本来ならば壁のあるはずの場所より、まだ向こう。

 シーツが引きちぎられる。
 純白のそれに包まれながら、白音を抱え、元子はゆっくりと落ちていく。その口元には微笑が浮かんでいる。

 計算されていたのだ。
 住処を二階に置いていたことも、シーツだらけのこの部屋も。
 細工した非常口をシーツで隠し、さらにはその一部がロープ代わりになるようにも計算されていたのだ。


「こ、の、野郎おおおおおっ!」


 直樹は吼えた。
 円を捨て駒にした怒りと、白音を奪われた怒りで。
 直樹はシーツの命綱も持たずにふたりを追いかけ飛び降りる。

 暴挙。あまりに無謀な行い。
 さしもの元子が、驚愕の表情を浮かべ、悲鳴に近い声を上げた。


「――な? 馬鹿ですか!?」

「関係ねえ――関係ねえ――関係ねえっ!」


 激しい感情とともに、直樹は空中で体を叩きつける。


「こっちはとうの昔にキレてんだよぉ!」


 叫びながら、額をぶつけるようにして。直樹は元子に拳を叩き込んだ。


「くうっ」


 苦悶の表情を浮かべながら、元子はそれでも白音を離さない。
 さらには細やかな足を伸ばし、直樹の体を押すように蹴ってくる。

 直後、地面に落ちた。
 元子と白音は、クッション代わりに用意していたのだろう、ごみ袋の山に。直樹はアスファルトの上に。


 ――ここまで、計算、かよ。


 衝撃にうめき声を上げながら、直樹は心中毒づいた。
 最後の蹴りで直樹をクッションの位置から追いだしたのだ。

 元子が、白音を抱えて立ち上がる。
 直樹は追おうとして身をひねり、激痛が走った。


「ぐうっ」


 右肩だ。
 落下の際、したたかにぶつけたためだ。
 ヒビか、砕けているのか。とても動かせない。
 衝撃に思考の右半分が真っ白になっている。残る半分は痛みの灼熱に焼き切れる寸前。

 それでも、直樹は身を起こす。
 まともに体の制御も出来なくなっている。体を二度ほど傾げながら、ようやく立ち上がった。


「まだ、立ちますか」


 冷たい声が降ってきた。
 小城元子だ。別人のような――素の彼女の声。


「本当に、邪魔な男。いますぐに消えてもらうわ」


 悪意の渦が、彼女の伸ばした腕にまとわりついていく。
 その指先が、直樹に向けられる。


「“ヒゼンさま”。御手をお借りいたします――さあ愚者よ、触れなさい・・・・・


 おぞましい気配が、直樹に触れた。
 痛みと空白に埋められていた直樹の思考が、闇に埋められる。
 湧きあがる狂気。命を冒涜するような恐ろしい衝動が、直樹の精神をおろし金で摩り下ろしていく。
 
 直樹の体が傾く。
 ゆっくりと、前へ。
 視界も朧になってさえも、まだ前へ。
 直樹の意思はけっして折れない。砕けない。


「返せよ。白音を、円を。いますぐ……返しやがれ」

「く……白音ちゃん」


 さながら幽鬼のごとき様。
 動揺を覚えたのだろう。元子が白音を抱き寄せた。
 しかし。


「――誰のことだい? それは」


 返ってきた言葉は、元子の想像を超えていた。
 目をむく元子に、にやにや笑いを返す、その様。白音ではなく、まるで彼女の姉そのもの。


「あ、あ、孤高……宝琳院庵、先輩」

「その通り」


 呆然とする元子の腕から身をひねって逃れながら、悪魔少女は言葉を返した。


「双子が居れば入れ替わりを疑え。なんて推理モノでは常識の範疇なのだが、実際やられてみると、案外わからないものだろう?」


 もっとも、ボクと白音は双子じゃないけどね。と彼女は付け加えた。


「そんな、そんな。わたしは知っている。白音ちゃんの顔も。体も。癖もしぐさも匂いも味も! わたしが先輩と白音ちゃんを間違うはずがない!」

「寝食を共にして十五年目だ。ボクのかわいい妹のことを、ボク以上に知っている人間なんてのは、ちょっと存在しないだろうさ。だからキミも騙された」


 宝琳院庵は笑う。悪魔のように。


「そもそも、考えてみたまえ。このボクが、かわいい妹を変質者のもとへ、たとえ保護者つきだとしても許すはずがないだろう? ――と」


 言葉の最中に、元子はわき目もふらず逃げだしている。
 それを追うため、身を引きずるようにして駆けだす直樹の体を、宝琳院庵は肩を回して支えた。


「大丈夫だよ直樹くん。小城元子と信者の信仰と偶像である龍造寺くん。これによって“ヒゼンさま”の存在は強固に支えられていた。その中核の元子が側にいないんだ。龍造寺くんもじきに我に返るさ」

「そう……か」


 と、安心したのが悪かったのだろう。
 直樹は意識を手放してしまった。


「お、重いよ直樹くん」


 非力な宝琳院庵では直樹を支えきれない。
 結果、もろともにごみ袋の山に突っ伏してしまった。


「まったく直樹くんときたら。まさか白音を使わずに龍造寺くんを助ける、なんて無茶をやってのけるなんてね」


 くつくつと、悪魔少女は笑う。


「――欲張りも、ここまで徹底していれば、逆に好感が持てるというものだ」


 ――頑張ったね。ボクの大好きな直樹くん。


 そう、ささやいて。
 少女は無防備な直樹の唇に、さえずるように口づけた。









 かの廃ビルに隣接する雑居ビルの屋上に人影がある。
 一連の騒ぎを俯瞰していたのは、一人の少女。


「直樹の逆鱗に触れたのが、良くなかったかな。ずいぶんと単純な解決になってしまったねえ」


 逃げていく小城元子を見やりながら、少女は一人ごちた。
 秀林寺寝子。“眠り三毛”の異名を持つ介入者プレイヤー。満足げな笑顔の中に、微細量の不満が混じっている。


「――まあ、足りないものには気づいたはずだ。それを満たすために、小城元子。キミはどう努力してくれるかな? 願わくは、いい意味でボクの予測を裏切るものであってほしいがね」


 そのために。
 がんばりなさいな努力家さん、と、つぶやいて。
 少女は目を細めた。




 エピローグ

 次の日の午後、直樹は諫早直の家を訪れた。
 体調は良いようで、直樹が見舞うと、彼女はパジャマ姿でベッドから出てきて、お茶の用意をしようとして母親に叱られていた。


「昨日のこと、詳しい話を教えて欲しいんだけど」


 中野一馬に、事件について聞いていたのだろう。直は話を聞きたがった。
 すべてを話すわけにはいかないので、話せない部分を適当に誤魔化しながら、直樹は事件の経緯を説明した。


「今回のことって、結局何だったんだろ」


 話を聞き終えると、直はため息とともに、そうつぶやいた。
 彼女からすれば、本当によくわからない事件だったに違いない。
 多久美咲の心配をしていたら、よくわからない原因で寝込んでしまっていて、気がつけばすべてが終わっていた。
 そのうえ直樹と美咲が急接近していて、龍造寺円が攫われたあげくにクラスの男連中大集合で事件が解決していたのだ。どこがどうつながってそうなったのか、直樹の説明不足も相まって本当に意味不明だろう。


「さあな」


 直樹はため息とともに言葉を返す。
 今回のことは、本当に何だったのか。

 小城元子。
 自分すら欺きながら、自分すら信じきれない。
 そんな矛盾を孕んだ、だからこそ恐ろしい、狂気と合理の芸術的融合が産んだ“神がかりの巫女”。

 秀林寺寝子。
 彼女はあらゆる未来の可能性を想像し得る。
 それゆえに驚きに飢え渇き、退屈の末に己が描いた未来図を破りうる人間を求め、また生み出すことを目論む、恐るべき“介入者プレイヤー”だ。

 本来間接的な縁しか持っていない元子と直樹は、秀林寺寝子の介入を受け、仇敵とも呼べる関係になった。

 彼女との戦いで、得たものはあるだろうか。
 ずいぶんと失敗したし、それを取り返すために無茶もやった。
 みんな取り戻したといっても、単純なプラスマイナスで言えば、ゼロなのかもしれない。

 だけど。
 直樹は思う。

 プラスマイナスゼロは、無ではない。
 失った事実は残る。取り戻した事実も残る。
 そこで得たものは。
 経験は、想いは、そして決断は、けっして無にはならない。

 だから、直樹は笑って言った。


「でも、まあ、みんないい経験したんだと思うよ」

「直樹くんは単純でいいわね」


 あきれ顔を向けられ、ふと、直樹は思い出した。
 直に、大切なことを伝え忘れていたことを。
 しばし、ためらって。


「そういえば、直。一馬はどうしてる?」


 そう尋ねたのは、話のきっかけづくりだった。
 しかし一馬の名を聞くと、少女は盛大にふくれっ面を作ってしまう。


「デートだってさ。このところわたしの面倒見てたせいで、不義理しっぱなしだったから」

「あいつにとってデートは義理でやるものか」


 直樹にとって理解不能だが、一馬は昔からそうだった。
 デートの誘いがあればどんな相手でも断らず、遊びにせよ食事にせよ、相手を楽しませることに腐心するのだ。


「そうね、根っからのホスト体質らしいわ」


 もちろん直もそれを知っている。
 ふたりは笑顔には、多分に苦笑の成分が混じっていた。


「お前も頑張れよ」

「な、なによ。急に」

「いや、まあ、その、なんだ。そろそろ傍から見ててしんどくなってきたし、とっととくっついてくれないと俺がむずむずするというか」


 不意な言葉に戸惑う直に対して、直樹は婉曲な言い方をした。
 この幼馴染が、昔から同い年の従兄弟に恋愛感情を抱いていることを、直樹は知っている。


「うわ、直樹くんに言われるか……ま、ぼちぼちね、ぼちぼち」


 察したのだろう。軽く額に手を当ててから、彼女は誤魔化すように手をひらひらさせた。
 従兄弟の性分に対するあきらめと苦悩が、等分量にじみ出ている。


「あんたもしっかりしなさいよ。円ちゃんも宝琳院さんも。あ、あと美咲さんもかこのタラシ朴念仁。みんないい子なんだから泣かすんじゃないわよ」

「ああ、そうだな。しっかりやるよ。俺もな」


 そう言って笑顔を向け合っていると、不意に部屋のドアが開けられた。
 入ってきたのは直樹と直、双方にとっての幼馴染である、長身の美少女。


「円」

「お邪魔だったか」


 龍造寺円は、そう言いながら、密かな自己主張だろう。直樹と肩が触れ合う位置に陣取った。
 それからしばらく雑談して、直樹は円とともに暇乞いした。


「具合はいいのか」


 家を出てから、直樹は円に尋ねた。
 肉体的な負傷はほとんどなかったが、一時的にせよ障り神“ヒゼンさま”と化していたのだ。精神的な影響が、ないはずがない。
 しかし円はそんなそぶりをまるで見せず、「すっかり、いい」と微笑を返してくる。


「直樹こそ、肩は大丈夫なのか?」

「ヒビ程度だよ。固めてあるからたいして痛くはないさ」


 少女はそうか、とうなずいて、しばし無言で歩く。
 しばらくして円が口を開いた。


「直樹」

「なんだ?」

「ありがとう。助けてくれて」


 ふと、直樹は気づく。
 以前の円なら、もっとすまなそうな顔をしたものだ。
 直樹に迷惑をかける行為を、彼女は恐れる傾向があった。
 だけど、いま直樹に向けられた表情はまぎれもない笑顔だ。
 素直に頼ってくれている。それを嬉しく思いながら、照れくさくなって直樹は頬を掻いた。


「お前が先に俺を助けてくれたんだ。当たり前だよ。当たり前」

「それでも、嬉しい」

「俺も礼を言うよ。ありがとうな、円」


 交差点に差し掛かり、ふたりは横断歩道の前で足を止めた。
 信号待ちではない。円が足を止めたからだ。


「よかったのか? 直のことをあきらめて」


 ぽつり、と円がつぶやいた。
 直樹はすこし驚いてから、気づいて納得した。
 直と直樹の会話を、円は部屋の外で聞いていたのだ。


「いいんだよ。つーかとっくにあきらめてたさ。結果が出てないのをいいことに、感情に決着つけるの先延ばしにしてただけなんだよ。まったく、女々しいにもほどがあるっての」

「踏ん切りがついたか」

「ああ。いつまでもこのままっつーわけにもいかないしな。ちゃんと、ちゃんと応えていこうと思ってる」


 彼方を見つめながら、直樹は言う。
 その、握りしめた拳に、円の冷たい手が、そっと添えられた。


「なら、直樹。まずはわたしと――」

「――抜け駆けを見逃すわけにはいかないな。龍造寺くん」


 と、横合いからの声が、ふたりの会話を遮った。
 光すら拒絶する漆黒の髪に、合わせたように黒一色の装い。対象的に白い肌。

 宝琳院庵だ。
 円がわずかに眉を顰め、邪魔者を睨みつけた。
 悪魔少女はどこ吹く風と、片目をつむって円とは逆方向から直樹に寄り添う。


「邪魔者」

「どっちが、といえば、まあお互いなんだろうけどね」


 円がまっすぐに言うと、宝琳院庵のほうは婉曲に答えた。

 対象的なふたりだと、直樹はあらためて思う。
 そんなふたりを、直樹は素直に、好きだと言える。

 予感がある。
 この好意は、そう遠くない未来、恋愛感情へと変化する。
 それが円と庵、どちらに対するものなのかは分からないけれど。
 しかし、そうなったとき、もう一方との関係はどうなるのだろう。

 願わくは。直樹は思う。
 そのままの関係を保っていきたいと。
 どれほど困難であっても、それをあきらめたくないと。


「なんせ俺は、二択で両方って答えるくらい――欲張りだからな」


 拳を、握りこむ。
 そこに掴んだものを。直樹は、離すつもりはない。




 ◆




 人を指差す、という行為に関して、以前話したことがあったと思う。
 あれを踏まえた話になるのだが、虚空を指差す、という行為を直樹くんはどう考えるかな?

 ボクはね、こう思うんだ。
 人は虚空に何がしかの意味を見いだす。
 だったら、虚空を指した先には、何でもある。そう、虚空とは可能性、未来なんだ。

 直樹くんは自らが指差した、その先に何を見る?

 出来ればそこに、ボクの姿もあれば……嬉しいんだけどね。




 ユビサキ 了






[1515] 閑話11
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:55280d8f
Date: 2012/11/23 00:24


 佐賀城跡。
 かつて城が建っていた場所は、観光用に新築された一部を除いて公園になっている。
 風の運んで来る新緑の香りを嗅ぎながら、鍋島直樹は石垣の上に腰をかけ、そのまま仰向けに寝そべっていた。

 休日のこと、観光客の数も多い。
 そのざわめきを耳に受けながら、直樹は日常的で平和な時の流れを噛みしめて、口元に微笑を浮かべた。


「直樹さん、なに寝転がってニヤニヤしとるんじゃ」


 声とともに、直樹の視界に影が落ちた。
 首をひねり、声の主を確認する。長身の少女が直樹を見下ろしていた。


「ヨウか」


 斉藤用子。
 直樹の親友、正之助の、ひとつ年下の妹だ。
 戦国猛将な兄正之助のどこに似たのか、古風な趣ながら、京劇役者のような華のある容姿の主だ。


「どうも。直樹さん、日曜の昼間っからぼーっと、なにしとるんじゃ」


 呆れたような声だ。
 直樹からすれば平和の実感を噛みしめる行為なのだが、はたから見ればぐうたら・・・・にしか見えないに違いない。


「考え事だよ」


 身を起こしながら、直樹は答える。


「――ヨウこそ、なんでこんな所ウロついてんだ」

「わたしはランニングじゃ。たまには動いとかんと、調子が悪いしの」

「……なんで兄妹そろって体力お化けのくせに文系なんだ」


 直樹はしみじみとため息をついた。

 兄、正之助は戦国猛将のガタイで科学部。
 妹の用子はというと、文芸部で小説なぞ書いている。意外性の高い兄妹たちである。


「そういやさ、ヨウ」


 ふと思いついて、直樹は用子に声をかける。


「なんです? 直樹さん」

「お前、恋愛小説とか書くんだな」


 直樹の言葉に、用子はしばし、理解しかねたように首をひねり。
 ややあって、彼女の顔は一瞬にして茹だった。


「な、な、な、なんでそれを! 兄貴じゃな? 兄貴じゃろ! あの馬鹿、なんで他人の秘密を無遠慮にばら撒くんじゃ!!」


「それに関しては、お前もわりとどっこいどっこいな気がするがな……まあ」


 ぎゃーと喚きながら耳まで真っ赤な少女の姿を眺めながら、直樹はしみじみとつぶやく。


「意外っちゃ意外だよな。ヨウが恋愛小説なんて」


 ぴたり、と用子の動きが止まる。
 それから、彼女は剣呑な視線を直規に向けてきた。


「直樹さん、そりゃちょっと、失礼じゃないかのう?」

「いや、ヨウに恋愛が不似合だなんて言ってないぞ。俺が意外だって言ったのは、お前がそういう、なんつーか、その手の心の葛藤みたいなのを、文章とかで表現したいって思うのが意外っつーか」


 頭のてっぺんから足先まで抜けるような直情少女だ。
 もっとストレートな。週刊少年漫画のバトル物のような、分かりやすく面白いものを書いているんじゃないかと、直樹は勝手に思っていた。


「それは、恋愛が不似合より角が立つような気がするんじゃが」

「気を悪くしたのなら謝る。ごめんな、ヨウ」

「ま、いいじゃろ」


 直樹が手を合わせて謝ると、少女はさらりと謝罪を受け入れた。


「また、見せてくれよ。お前の恋愛小説、見てみたい」

「またそういう……直樹さん、からかわんで下さい」

「からかってるんじゃない。ほんとに見たいんだよ」

「課題図書読むのに2週間もかける直樹さんが?」

「いつの話だよ……まあ、いろいろあって、近頃は本を読むのも嫌じゃなくなってきたんだよ」


 二年近く前、一人の少女と出会ってから。
 宝琳院庵という熱狂的な本好きと話すようになってから。
 直樹にとって睡眠導入剤でしかなかった小説も、少しずつその立ち位置を変えてきている。


「まあ、からかうつもりがないのなら、いいんじゃが……そうか。直樹さん恋愛小説を読みたいか」


 今度は用子のほうが、しみじみとつぶやいた。


「おかしいか? つか恋愛小説だから読みたいんじゃないぞ」

「いやいや。恋愛に興味が出てきたのはよいことじゃ」

「興味が出てきたって……俺は別に恋愛に興味がなかったわけじゃないし」


 訳知り顔でうなずく用子に、直樹は自己弁護を試みた。
 事実なのだが、しかし用子のほうは、またまた御冗談を、と言いたげな反応だ。
 鍋島直樹。龍造寺円と宝琳院庵という二大美少女に好意を寄せられながら、まったく恋愛ごとに発展しなかった、そんな少年の評価など、ごらんのあり様である。


「まあまあ、ええことじゃないですか。どうです? ここは一発、わたしとつき合わんですか?」


 ごく自然な流れで、さらりと。
 斉藤用子は直樹に、告白の言葉を伝えた。
 それに対する直樹の反応はというと……嘆息。その一事。


「なんでため息じゃ」

「お前な……兄貴の方もそうだけど、ノリと思いつきでものを言うんじゃない」


 そのあたり、遺伝だなと直樹は思う。
 彼女の兄、正之助も、よく思いつきでいろんなことをやらかしている。
 もっとも、正之助にそれを言えば、「お前の思いつきで痛い目見たことのほうがよっぽど多いわい」と、返されるだろうが。


「まあ、ノリなのも思いつきなのも否定せんが……乙女の告白にその返しは傷つくんじゃが」


 恨みがましい視線を向けてから、用子は直樹の隣に腰をかけた。
 二人の肩が並ぶ。直樹よりも拳ひとつほどは低いが、女性としてはずば抜けた長身だ。


「こうして肩を並べて目線が上に向くのも、知り合いの中じゃ直樹さんぐらいのもんじゃし、体あいとるんなら、つき合って欲しいんじゃが」

「身長かよ」

「重要じゃ」

「もし俺より男前で身長高い奴が居たら?」

「一も二もなくそっちに行くわい――まあ、直樹さんより男前なんぞ、そうはおらんじゃろうけど」


 せいぜい兄貴くらいじゃな、とつぶやいてから、用子は肩を寄せてくる。


「どうじゃ? 考えてくれんか?」


 言葉に偽りはない。
 間違いようのない、本心からの告白だ。
 だから直樹は、用子に向かって本心を返した。


「悪いけどな、ヨウ。俺はお前を妹くらいにしか見れん」

「はっきりと言うのう」


 直樹の返答を予測していたのか、用子はすっきりと笑った。
 若干の安堵が見られるのは、龍造寺円を出し抜いた負い目を背負わずに済んだからだろうか。
 幼いころから「なんでもできるお姉さん」だった円を、二つ年下の用子は尊敬しているふしがあった。


「しかし、直樹さん。妹を侮っちゃいかんぞ。世の中には実の妹と恋愛関係になる小説なんかも、あるんじゃぞ?」

「マジか……」


 用子の言葉に、直樹はカルチャーショックを受けた。

 直樹にも妹が居る。鍋島澄香がそれだ。
 直樹にとって澄香は女性ではなく、感覚としては性別妹だ。
 それが恋愛対象になるとは、一体どういったことか。理解不能である。


「理解できんって顔じゃな。直樹さんとこは義理の妹なのに」

「母親や弟妹に、義理もなにもねえよ。そんな文字がついたとしても、実の親兄弟となにが変わるってんだ」


 直樹が言うと、用子の表情に柔らかい笑みが浮かんだ。


「直樹さんのそう言うまっすぐなとこ、好きなんじゃが……頑固じゃな」

「いや、お前ほどじゃない」


 直樹の言葉にかか、と笑ってから、「一度直樹さんと澄香をモデルに小説書いちゃるよ」と言い、用子はまた笑った。


「まあ、なんにせよ、楽しみにしてるから、見せてくれよ」

「ああ、そういえば」


 直樹の言葉に、用子が思い出したように手を打った。


「わたし、小説の投稿サイトに投稿しててじゃな、たぶん直樹さんの携帯でも見れると思うんじゃが」


 言いながら携帯を取り出し、とん、とん、とん、とリズムよく操作し手から、少女は携帯を直樹に押し付けた。
 スマートフォンの大きな画面には、文字の並んだページが開かれている。機械音痴の直樹はもたもたと携帯を受けとり、その拍子にページを戻してしまった。


「おっとと」

「なにやっとんじゃ、直樹さん」

「すまんすまん。おお、なんかタイトルがずらっと並んでる。これみんな小説か。すごいな……ヨウのはどれだ?」

「真ん中あたりにあるやつじゃ。タイトルは……ええい、口で言うのも恥ずかしいわ。これじゃ、これ」


 表示された一覧の中ほどを、少女は指差す。


「これか。えーと、投稿者white soundの“朴念仁でポニーテール萌えな俺のせいで彼女と彼女の妹と幼なじみと妹とその他大勢が修羅場すぎる”? すごいタイトルだな」

「違う。わたしはそんなハーレム系ラブコメなんぞ書かん。その下じゃ」

「“観月祭~不思議の夜の恋舞曲”……これか? 作者名 斎宮司……サイグウジ? っての」

「そうそう、それ、あと名前はサイグウ ツカサじゃ」

「男っぽい名前だな」

「ペンネームなんじゃから、気にせんでください。それより、ほら、読んで」

「ああ」


 直樹は文章を開くと、目で追いはじめた。

 主人公は長身がコンプレックスの少女。
 そんな彼女が、ある町のお祭りで一人の少年に出会う。
 少女はひと目見て少年に惹かれたが、少年は自分より背が低かった。
 コンプレックスが邪魔して少年に素直に接することができない少女と、素直で一途な少年。
 二人はループする一夜の祭りの中で別れては出会い、そのなかで心を通わせていく。そして最後に、月の見える丘で、二人は幻想的に結ばれる……


「――どうじゃった?」


 黙って隣で見ていた用子が、顔をのぞかせてくる。
 ほろ酔いにも似た読後の余韻に浸りながら、直樹は用子に視線を返す。


「なんというか……ヨウも乙女だな」

「あらためて言われんでも乙女じゃ」


 しみじみと言うと、用子は胸を張って答えた。


「面白かった。なんつーか、ヨウの生の想いが詰まってるっていうか、それがわりと共感できたりして……いいな。なんかお前と一晩語り明かした気分だよ」

「は、恥ずかしいこと言わんで下さいっ」


 直樹の言葉に、少女は赤面する。
 書く小説から連想される作者のイメージに近しい、それは乙女の姿だった。


「でも、なんか不公平じゃ。わたしは自分晒したのに、直樹さんは晒してないのは」


 ややあって。ほほを朱に染めたまま、少女は不満げに漏らした。


「俺も何か書けってか? 無茶言うなよ。俺が読書感想文書くのにどれだけ唸りながら規定の字数埋めてると思ってんだ」

「なら、書くのは置いといて、話の筋だけでもええから。ほれ」


 恥ずかしさを紛らわすためか、用子はなぜか必死に進めてくる。

 お話。
 直樹は腕を組んで考える。
 自分が話を作るとしたら、どんなものにしたいだろう。
 と、考えれば、直樹は自然と思い浮かべてしまう。作り話よりよほど不可思議な体験の、数々を。

“ユビサシ”の悪魔。
“ユビオリ”の事件。
“ユビキリ”の悪夢。
“ユビツギ”の謀略。
“ユビサキ”の障り神と、巫女。
 悪魔を騙る人間と、語る悪魔の物語。


「そう、タイトルをつけるなら――」


 直樹の言葉は、しかし中断を余儀なくされた。
 直樹の足元、石垣の下に、見慣れた顔を見つけたからだ。


「円に、宝琳院、それに澄香と白音じゃないか」


 直樹の幼馴染の龍造寺円に、妹の澄香。
 悪魔少女、宝琳院庵と、その妹で人間の、白音。珍しい組み合わせだった。


「また直樹は。ヨウなんかとイチャイチャして」


 自分を放っておいて、という不満を体全体で表しながら、円。
 それに対して宝琳院庵が、いつものニヤニヤ笑いを崩さずに口を挟む。


「いやいや円くん。キミなら二人の様子を見ればそんな気配は欠片もないと洞察するに苦労はないだろう? まだ付き合ってもないのにそこまで縛るのは、ボクはどうかと思うよ?」

「傍観ばかりでいまだに名字呼び。妹にまで遅れを取っているあなたには言われたくない」

「ひ、ひとが気にしてる所を……」

「そんなことはありません」


 やや焦った口調で、宝琳院庵そっくりな妹、白音が口を挟んだ。


「そんなことはありません。何故なら、この中で直樹さんとの仲が最も進展しているのは、姉さまに他ならないのですから」

「おお! 白音ちゃん、断言しちゃった! その根拠は?」


 澄香が調子を合わせて尋ねる横で、宝琳院庵が白音に冷たい視線を送る。


「白音? きみ、またボクの日記を見たりしてるのかな?」

「あ、いえ、姉さま、しかしこれは非常手段というか……」

「なるほど、白音ちゃんのお姉さんの日記には、兄さんとの仲の進展具合とか書いてあるんだね! で、どこまでいったの!? もうキスとかした!?」

「黙秘! 黙秘です!」


 カオスである。
 宝琳院庵と龍造寺円のいがみ合いに、白音が自爆気味に加わり、澄香がとにかく煽る。収拾がつかない。


「あーもう、お前ら、とりあえず喧嘩すんな落ち着けあと澄香はあとでおしおきだ!」

「なんで!?」


 石垣の隙間に足をかけながら、直樹は少女たちの所へ下りていく。
 その様子を見ながら、残された少女はぽつりとつぶやく。


「これは、あれじゃな、こまごま違うが」


 少女は、先ほど見た投稿小説のタイトルを口にする。


“朴念仁でポニーテール萌えな俺のせいで彼女と彼女の妹と幼なじみと妹とその他大勢が修羅場すぎる”


「ヨウ! 馬鹿なこと言ってないで手を貸せ!」


 足元では、お仕置きを免れんと目論む妹連合と円、それに直樹を盾にした宝琳院庵という三つ巴が形成されている。
 その様子を眺めながら、長身の少女はしみじみとため息をついた。


「……平和じゃなあ」

「ヨウ、いいから手伝えーっ!」





[1515] 閑話12
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:55280d8f
Date: 2012/11/27 22:03
「おい、直樹。お前、つきあう女に求めるものは何じゃ?」


 学校での休み時間。
 親友の斉藤正之助さいとうしょうのすけが唐突に質問を向けてきた。
 戦国猛将じみた偉丈夫の、唐突な質問の真意を考えながら、直樹はすこし首をひねる。
 教室のうち、四人ほどの女子が耳をそばだてているのだが、直樹はまったく気づいていない。


「……心?」


 直樹の答えを聞いて、正之助が、はあああっ、と深いため息をつく。


「直樹、お前はほんとにつまらんのう」

「だったら、正之助。お前はどうなんだよ」

「おっぱいじゃ」

「言うと思ったよ……」


 ちなみに正之助の発言で、教室にいた巨乳艦隊が全員とっさに身をかばったのだが、彼は気づいていない。
 大きな地声を押さえようともせず、戦国猛将は近くの席で携帯をいじっている男子生徒に顔を向けた。


「おい鹿島。お前はどうなんじゃ?」

「えー?」


 声をかけられた少年――鹿島茂かしましげるは、面倒くさそうに獣毛を思わせるグレーの髪を掻くと、しばらくして答えた。


「相性?」

「意味深だな」

「解釈によっては血を見るハメになるのう」

「え? な、なにが?」


 直樹、正之助が顔を見合わせていると、神代良くましろりょうが首を突っ込んできた。
 茂とよくつるんでいる気弱そうな少年だ。一連の会話が耳に入っていたはずだが、よくわからないといった風情。


「いやいや、分かんないならいーんだよ良ちん。そのままのキミでいてちょーだい」


 携帯で良の頭を撫でながら、茂が生暖かい笑みを送った。


「そうじゃ、神代。お前はどうじゃ? お前は女になにを求める?」


 首をかしげている良に向かって、正之助が尋ねる。
 この内気そうな少年は、しばらく恥ずかしそうにもじもじしてから、やっと答えた。


「……従順?」

「ぬ。そ、そうか」

「なんか神代の黒いとこ垣間見た気が……」


 良の答えに正之助と直樹はちょっと引き気味。
 逆に茂は平然としたものだ。


「そっか? 良ちんケッコー素で黒いぜ?」

「み、みんな、なに言ってるのさ?」


 三者の反応に、良があわてた様子で抗議した。
 三人とも全く取り合わなかったが。


「そういやさ」


 ふと、直樹が思いついたように視線を後ろに向けた。
 後ろの席では親友の中野一馬なかのかずまが、教科書に視線をやりながら、涼しげに話を聞いていた。


「一馬はどうなんだ?」


 その瞬間。教室の女子がすべて私語を止めた。
 この、しゃん・・・とした眼鏡の美少年がクラスの女子にいかに好意を持たれているか、そのほどが知れよう。


「ふむ?」


 話を振られて、一馬はひとつ、鼻を鳴らしてから、答える。


「……そうだな。教養のある話を一緒に楽しめる女子には、興味があるな」









 昼休み。
 食事もそこそこに、教室中の女子のほとんどが図書室へ一目線に駆けて行った。
 その様子を、ひとしきり見送ってから、中野一馬がぽつりとつぶやいた。


「これでクラスの学力アップが図れるな」

「一馬。やっぱお前が一番黒いわ」


 直樹はしみじみと言った。
 一馬はどこ吹く風だ。そればかりか、やおら立ち上がり、教室に残った男性陣に目を向けた。


「お前たちも、いいのか? 勉強ができるやつは女の子に勉強を教えるチャンスだぞ? 勉強できないやつも、一緒に勉強を名目にいろいろと話すきっかけを作るチャンスではないか!」


 思い切り扇動だろ、これ。と、直樹は呆れながら、その様子を眺めている。
 一馬の扇動にまんまと乗って、男性陣は猛然と図書室へ向かっていった。図書室の主である宝琳院庵としてはいい迷惑だろう。


「――男子もOK。一挙両得だ」

「つーか男子、釣られ過ぎだよなー」


 鹿島茂がにやにやと笑いながら、感想を口にした。
 学食組やら所用やら、他の理由で外している人間もいるのだろうが、すでに教室に残っているのは茂に良、一馬と直樹の四人だけになっていた。
 正之助は真っ先に図書室に向かった口だ。さぞかし宝琳院庵に恨まれることだろう。


「――で、ホントのトコはどーなのよ中野。おめーがほんとにオンナに求めるモンって何よ?」

「ふむ。嘘を言ったつもりはないのだが」


 茂の質問に、眼鏡を正しながら、一馬が返す。


「――たとえば宝琳院なぞ、俺の好みだぞ?」

「え?」

「焦ったな? 直樹」


 とっさに反応してしまった直樹は、一馬がにやりと笑う様を見て、悟った。
 カマをかけられたのだ。直樹は恨みがましく視線を一馬に向ける。


「……お前、騙したな」

「はっはっは、お前も修業が足りんな」


 一馬が愉快気に口元に微笑を作る。
 その、背後から。


 ――そう……修業が、足りないねぇ。


 幽鬼のごとき声が、がらがらの教室に響いた。
 光すら跳ね返す黒髪に、大昔の、オヒメサマのような容姿の美少女。

 宝琳院庵だ。
 いつものニヤニヤ笑いもない。
 それどころか肉声を発している。
 直樹以外には必要でない限り、ほとんど言葉を使わない彼女にとって、それは極大の感情表現だ。

 教室中が恐怖に凍りついた。


「さあ、中野くん。このボク相手に喧嘩売ったんだ。じっくり話し合おうじゃないか。ボクの図書室を荒らしてくれたお礼は、たあっぷりとしてあげなきゃあ、いけないからね」


 南無三。と、直樹は両手を合わせる。
 一馬は観念した様子で、彼女に連れられて行った。

 あとに残ったのは、男三人。


「コエー。オレあのコが怒ったとこ初めて見た」

「ぼ、僕も」


 茂と良は完全にビビっている。

 当然だ。
 直樹でも背筋が凍る。
 宝琳院庵には腕力が無い。
 だから物理的にどうこうということはない。

 しかし、彼女には言葉がある。
 鋭すぎる舌鋒で精神を刺し殺される。
 彼女の逆鱗に触れるというのは、そういうことなのだ。


「あー、そーいやさ、ちょーどいいや。ご両人」


 恐怖の余韻も去って、しばらく。
 ふと、思いついたように、鹿島茂が直樹らに声をかけてきた。


「なんだ、鹿島?」

「今度オレ、男用意しなきゃイケネーんだけど……来てくんね?」









 要するに。
 3-3で合コンするのに、ちょうどいいから直樹と良に声をかけた、と、それだけのこと。
 龍造寺円や宝琳院庵たちの件もある。気の進まなかった直樹だが、鹿島茂には、先日の円救出の件で借りがあった。
 そんな彼に「あてにしてたヒトが急に駄目になってさ。頼むわ。助けると思って」と手を合わされては、とても断りきれるものではなかった。

 そして当日、正午。
 城東新町のファミレスに集まった、直樹たち三人と、相手の女の子たち。


「どうも、鹿島くんとは知り合いだけど、城南女子大学の二回生、少弐次実しょうにつぐみです」

「同じく一回生の渋川義乃しぶかわよしのです」


 ショートヘアで快活そうな次実に、ロングヘアで大人しめな義乃。
 声音に影がなく、悪く言えば単純そうな次実に対して、義乃のほうは芯のほうに強い張りを感じる。
 しかし、どちらも総じて好感のもてる少女だと、直樹は思った。


「どもども。オレは鹿島茂。コッチが鍋島直樹で、コレが神代良。みんな佐賀高の三年よん。よろしくっ」


 テンション高く茂が全員分の自己紹介をすると、次実が首をかしげた。


「あれ? 鹿島くん、バイト先のひと連れてくるって言ってなかった?」

「わり。急に都合つかなくなってさ。同いのダチ連れてきた。いいだろ? こっちのナベシマはかなりイイオトコだし、良ちんは、あれだ。なかなかイイコだぜ?」

「妙な褒め方するな」

「か、鹿島くん、そ、それって実は褒めてないよね?」


 急に持ちあげてくる茂に、直樹と良は微妙に目を眇める。


「ま、いいんだけど」


 と言う次実の視線は茂に向けられている。

 本命、ってことだろうな。と直樹は察した。
 しかし、もう一人。渋川義乃の視線が微細量の熱を帯びて彼自身に向けられていることに、直樹は気づいていない。


「あり? そいや、少弐さん。もひとりは?」

「もう少ししたら来るはずなんだけど。……あ、ちょうど今来たみたい」


 言って少女は身を乗り出すと、店の入り口に向かって手を振った。
 テーブルをはさんで向かい合っている直樹たちからは、背を向ける形になっているので姿は見えない。
 しかし、一拍遅れでぱたぱたと駆け寄ってくるその足音は、妙な既視感とともに、はっきりと耳に入った。


「遅れてすみません。どうもです。わたし、少弐さんの知り合いで、千葉連ちばつらねって言います。こう見えても一番年上で城南女子の三回生なんですよ……」


 遅れてきた彼女は、自己紹介し、頭を下げた――そのままの姿勢で固まった。
 千葉連。佐賀野高校の教師で、直樹たち3人の担任教師。見た目はいいとこ高校生なので違和感はないが、思いっきり若づくりな装いでの登場だった。

 とっさに固まった直樹たちだったが、絶好のからかいネタを逃す茂ではない。


「千葉チャン。オッスオッス」


 茂が声をかけると、担任教師は解き放たれたように頭を抱えて悲鳴を上げた。


「いやーっ! なんで? 相手社会人じゃなかったんですか? しかもよりによってなんでこのメンツ!?」

「まあまあ、二十歳(笑)のおねーさん。ヨロシク。ところでクリスマスはもう過ぎちゃったねー」

「二十五(クリスマス)過ぎたわたしにそれは嫌味です!?」

「いや、その、千葉ちゃん。大丈夫だよ。俺、黙っとくからさ……ドンマイ?」

「鍋島くんっ慰めないでくださいっ! その方がきついですからっ!」


 慰めの言葉をかける直樹に悲鳴で返した千葉連が、ふと気づいた様子で神代良のほうに目を向けた。


「そして神代くんっ! 無言のままメール連打してみんなに広めようとしないでくださいっ! あなたが一番ひどいですっ!!」


 ひとしきり叫んでから。
 みなの視線を受けて我に帰った彼女は、羞恥にほほを染めながら、半泣きでプルプルと肩を震わせる。


「アーひょっとして、少弐さんのオネーサンが友達とか?」

「うん。姉さんが同級生で、それ繋がりなんだけど。鹿島くんがバイト先の社員さん連れてくるって言うから、それなら千葉さんに紹介してあげてって」

「アーわるかった、のか、よかったのか。まーよろしく。千葉チャン」


 その、言葉が終わるや否や。
 千葉連は脱兎のごとく逃げだした。


「みんなわたしを見ないでくださいーっ!」

「あ、鹿島、俺先生追っかけてくっから!」


 直樹はそう言い置いて、とっさに追いかけた。


「あ、行っちゃった」

「いーんじゃねーの? 元々ナベシマ無理に連れてきただけだし。ま、こっちも2-2で楽しくやろーぜ? あと良ちんちょっとは喋れ」


 残念そうにつぶやいた義乃の機嫌を取るように、茂は上機嫌に愛想を振りまきはじめた。
 その上機嫌の半分近くが、極上のネタを手に入れた喜びから生じた素なのだろうが。









 城東新町駅の正面口。
 某有名芸術家の手なる巨大なオブジェの前に、千葉連はポツンとしゃがみこんでいた。
 心折れ、打ちひしがれた。そんな彼女の姿を見つけて、直樹は迷わず駆けより、声をかける。


「千葉ちゃん、元気出せよ」

「鍋島くん」


 泣いていたのか、彼女の瞼は赤く腫れていた。

 無理もないかもしれない。と、直樹は思う。
 年齢のサバを読んで、精いっぱいめかし込んで合コンに参加している姿を、事もあろうに自分の生徒に見られたのだ。そのダメージは計り知れない。


「いいんですよ」


 彼女は力なくつぶやいた。


「――どうせわたしは聖職に身をささげた身なんです。一生処女なんです……」

「なんか聞いちゃいけない言葉聞いた気がするけど……千葉ちゃん。元気出して下さいよ。こんなことで凹んでるなんて千葉ちゃんらしくないって」

「……こんなこと?」


 一拍置いて、ぴくりと彼女は反応した。


「先生にとっては、すごく深刻なんですよ?」

「でも、それだったら、親父さんの見合い話から逃げ回んなくてもいいじゃないですか」

「鍋島くんは分かってません。見合いと合コンは違うんです。見合いはいやでも、自由恋愛とか、そんなのには先生、憧れちゃうんですよう」


 相変わらずいじいじと地面に“の”の字を書いている担任教師の方を、直樹は励ますつもりでぽんと叩いた。


「まあ、元気だしなよ。千葉ちゃん、いい人だからさ。それは俺、知ってるから。絶対いい人見つかるって」


 生徒たちを、いつも親身になって支えてくれる彼女を、直樹は知っている。
 体を張って、“ユビサシ”の悪魔と戦おうとした彼女を、直樹は円から聞いている。
 そして、あの、小城元子。“神がかり”の巫女と戦った時、彼女は一も二もなく助けてくれた。下手をすれば職を失いかねない暴挙に、なにも言わず協力してくれた。

 そんな彼女が幸せになれないなんてこと、あってはならない。直樹は強く、そう思う。

 その想いが、伝わったのか。
 ややあって、彼女は涙をぬぐいながら立ち上がった。


「ありがとうです。鍋島くん」


 すこし鼻声の担任教師に、直樹はからりと笑いかける。


「さ、いまさら戻れないし、昼にしよう、昼に。もちろん千葉ちゃん奢ってくれるよな」

「はいっ。ふふふ。口止め料に、先生奮発しちゃいますよー」

「そりゃ、楽しみだ。寿司か肉か……千葉ちゃんなに食べたい?」

「私は肉……って、ひょっとしてさっきから先生のことずっと千葉ちゃん言ってません?」

「ま、今日はいいじゃないですか。学校じゃないんだから」

「……まあ、今日のところは先生許しちゃいます。鍋島くん、先生のこと慰めてくれたし、大サービスですよ?」

「はは、じゃ、ま、気兼ねせずに。千葉ちゃん。“和鉄”のランチでも食べに行こうか」

「先生の財布に殺意でもあるですか鍋島くんはっ!?」


 笑いながら、それなりに。二人は楽しい時を過ごす。
 もちろん月曜日には、鹿島茂と神代良の手によって広まった事実により、千葉連はふたたび再起不能のダメージを追うことになるのだが。


「……直樹くん?」

「直樹?」

「あは。直樹くん?」


 まあ、直樹の方もそれなりに。






[1515] 終話 悪魔がたり 前編
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:55280d8f
Date: 2012/11/30 22:54
 一人の少女がいる。
 悪魔のごとく狡猾で。
 悪魔のごとく人を操り。
 悪魔のごとくすべてを嘲笑う。

 そんな少女の、これは物語。







 佐賀野という都市がある。
 人口は10万に少し足りない程度。
 海あり山あり、繁華街あり住宅街あり城下町ありの地方都市だ。

 その東はずれ。
 城東地区。駅前繁華街の、さらに片隅。雑居ビルの二階に、少女は居た。
 まどろみの中にあるような緩みがあるものの、よく見れば、整った顔立ちの美少女だ。

 名を秀林寺寝子しゅうりんじねこという。
 部屋の中心にでん・・と置かれたソファにしなだれかかるように体重を預けて、少女はipadを片手でいじっている。

 一階はそこそこの大きさの喫茶店で、だから二階であるこの空間も、それに等しい広さがあるはずだが、部屋中に林立する書籍の群れや、山と積まれた雑誌、それにファンの音を響かすパソコンが三台。その他ごろごろと雑多なものが置かれているせいで、その閉塞感たるや、四畳半部屋かと錯覚を覚えるほどだ。


「ああ、いそがしいいそがしい」


 とても忙しそうには聞こえない呑気な調子でのたまいながら、ipadで見ているものといえばピザのデリバリーサービスだ。休日の昼間から、暇人と言うほかない。


「もう五分もすれば、来客だ。歓迎の準備をしなくちゃあ」


 言いながら少女は動かない。
 ソファにもたれっぱなしである。
 怠惰を絵に描いたような姿勢のまま、ついに一歩も動くことなく、彼女は客人を迎えることとなった。









 午後二時ちょうど。その男は訪ねてきた。

 年齢は三十路前後か。短く刈り込んだ短髪。
 フレームレスの眼鏡をつけており、面差しは神経質なまでに端正だ。
 紺のスーツに皮の手提げ鞄。白シャツに黒のネクタイ。ボタンはすべて止められており、見るからに几帳面な男だ。

 男は入ってきたときと同じように、きっちりと扉を閉めようとして、戸惑った様子を見せた。


「すまないが、鍵は掛らないんだよ。ここを借りた時からぶっ壊れていてね。いろんな人から説教されるんだけど、面倒くさくてねえ」

「そうですか」


 と、面白くもなさそうに応じてから、男は本の迷路をかき分けて、少女の前までやって来た。
 寝子はソファにしなだれかかったままだ。めくれ上がったブラウスの裾を直そうとすらしない。


「呼び鈴もありませんでしたが」

「すまないね。それも、面倒くさくてねえ」


 男は何か言いたそうな表情になった。
 うら若き少女としてはあり得ないセキュリティ意識の低さに、苦言を呈したものか悩んでいるのだろうと、寝子は皮肉っぽく推測した。


「突然の来訪、すみません」


 ややあって、切り替えたのだろう。
 几帳面に断ってから、男が自己紹介を始めた。
 小森義郎こもりよしろう。と、名乗った彼は、「噂を聞いて尋ねて来ました」と端的に説明した。


「うわさ?」

「ええ。秀林寺寝子。貴女の、噂を」


 噂。
 それがどんなものか、もちろん寝子は知っている。
 とりたてて隠すつもりもない自分の性癖と本性が、世間でどううわさされているか。


「――“眠り三毛”は何でも見ている。知っている」


 そう。その通り。まったくの事実だ。
 とは言わなかったが、かわりに寝子は皮肉気な笑みを浮かべた。


「そんな噂を聞いて、わざわざわたしを訪ねてきたのかい?」

「……ええ。藁にもすがりたい気持ちで」


 彼の表情には、切実なものがある。
 少女は猫科の動物が獲物を見定めるように、瞳の奥に光を隠しながら、問う。


「じゃあ、聞くとしようかな。キミがわたしのもとを訪れた、その理由を」


 ――予測済みだけどね。


 と、口の中でつぶやきながら。
 秀林寺寝子は形ばかりの笑顔を作った。
 笑みの奥から、ほんのわずか。契約を迫る悪魔が人間に対して抱くような、形容しがたい感情の欠片がこぼれた。









「わたしには弟がおりました」


 静かに、男は語りだした。
 寝子と、相対するように立ったまま。
 目をつぶり、宙を仰ぎ見る姿は、黙とうするようだ


「三つ年下の弟です」


 寝子は、笑顔を崩さぬまま、無言で相槌を打つ。
 神妙な態度の男に対して、彼女はいまだにソファにもたれかかったままだ。


「教師をしておりまして」


 三台分の、パソコンのファンが存在を主張するなか、男は淀みなく語り続ける。
 その様は、目の前の少女よりも、一層強く過去に思いを馳せているようだった。


「――その弟が不審の死を迎えました」


 語調は変わらない。
 しかし男の言葉に、ごく淡い、しかしはっきりとした感情の色が加わった。


「なんのことはない、飛び降り自殺なのですが、同様の事件が複数起こっておりまして」


 淡く、にじみ出すように、男から感情が漏れ出してくる。
 それは怒りか、悲しみか。しかし男の口調は端正なまま、歪まない。


「調べさせてもらいました」


 男は、拳を握りこんでいる。
 そこに加えられた力は、はた目にも尋常なものではない。

 異様だった。
 しかし、寝子は構わない。
 話を聞くほうが重要だというように、うなずいて言葉を促した。


「最初は、しばらくのちに処分された一人の少女が原因だと思っておりました。しかし、そのうち違和感を覚え、調べを進めるうち、確信しました」


 少しずつ、少しずつ、男が言葉に込めている感情が、どこに向いているのか、鮮明になっていく。

 男は一呼吸置くと、それから言った。


「――彼女は操られていたのだと。そして真犯人は何の咎も受けず、のうのうと生きていると」


 それは、あまりにも強く、はっきりとした。


「弟の通っていたのは泰盛学園と言います」


 秀林寺寝子への、怒りと殺意だった。


「……なるほどね」


 あからさまな殺意を向けられながら、しかし寝子は笑みを崩そうともしなかった。

 たしかに。寝子は数年前、男が言うようなことを行った。
 一人の孤高な少女に憧れる、純粋な、純粋で狂信的な少女を誤解と狂気の淵へ押しやり、泰盛学園に死の風が吹き荒れる、その犯人を作りだした。
 小森半平こもりはんぺい――小森義郎の弟が狂死した原因を、大本まで求めるのなら、秀林寺寝子こそが真犯人だという言い方も、けっして間違ってはいない。むしろ男の怒りは至極正当なものだと、寝子は考える。

 しかし、寝子が思うことは。


「小森義郎。しかしキミは、どうにも運の悪いお人だねえ」


 無言でナイフを取りだした男に対し、寝子は恐れげもなく返す。


「今日じゃなかったら、もうちょっと穏便に遊ぶことができたんだけどね」

「……あなたは何でも知っているらしい、ですね」


 声を荒げながら、それでも語調を崩さず、男が言った。


「――でも、知っているだけでは、わたしがいまここで弟の仇を討つという、あなたを殺すという事実は、変えられない」


 殺意を伴った、強い言葉。
 それに対しても、ナイフを突きつけられても。
 生命の危機が至近に迫っていても。それでも。

 秀林寺寝子。
“眠り三毛”。
 彼女の態度は揺るがない。


「そうだねえ。このままでは死んでしまうねえ。怖い、怖い」

「戯れるか眠り三毛っ!」

「戯れてないよ。この通りね?」

「ふざけるな! 殺す! 今殺す、すぐ殺す! 絶対にだ!」

「そうやって自分を奮起させなければ殺せない。キミがそんな健常な人間であることには、好意に値するんだけどね」


 ――餌食だね。


 最後の言葉だけが、おぞましいまでに冷たく、残酷で。


「なにを――」


 とっさに返そうとした言葉の途中で、男は唐突に崩れ落ちた。
 男の背後には、いつの間にか、デリバリーピザの配達員の男が立っていた。


「大丈夫ですか!? 秀林寺さん!」


 ――小森義郎、キミも運が悪い。


 心配げに声をかけてきた配達員の男に御礼と愛想笑いを返しながら、寝子は心中でつぶやく。


 たまたま、デリバリーピザの配達員がタイミング良く配達に来ていた。

 たまたま、声を荒げたキミの「殺す」という言葉を聞きつけてくれた。

 たまたまそれが、いつもわたしが不注意にドアを開け放している事を注意してくれる馴染みの人間だった。


「――まあ、全部、分かってたことだけどね」


 面倒事を嫌う寝子に、面倒見良く後のことを引き受けてくれた配達員が去ってから、悪魔のごとき少女は独語した。


「分かりきった結果ほどつまらないものはない」


 だから。
 彼女は続ける。


「キミは、わたしの予想を裏切ってくれるかな? 本日の、本当のゲスト――」


 寝子は、ドアの向こうにいたずらっぽい視線を向ける。
 眠り猫が、伏せた目の奥で獲物をとらえたように、彼女は笑って言った。


「――小城、元子?」






[1515] 終話 悪魔がたり 後編
Name: 寛喜堂 秀介◆f631922d ID:55280d8f
Date: 2012/12/02 20:36

「小城、元子」


 寝子が言った、その言葉に応えるように。
 曖昧な境界線をまたいで、一人の少女が寝子の世界に入ってきた。
 小城元子おぎもとこ。神がかりの巫女。かつて柔らかい曲線で作られた温顔を保っていた美少女は、今はおのれを飾る必要を認めていないのだろう、硬質で無感情な顔を、寝子に向けている。


「お久しぶり、と言うほど間は空いていないかしら? 秀林寺、寝子」


 あえてだろう。寝子の語調をまねて、彼女は言った。
 寝子はソファにもたれかかったままの姿で、かぶりを振る。


「いやいや、なかなか待ちかねたよ。わたしにとって一日は長く、一週間は千秋の思い、一ヶ月もの期間は永遠と同義さ」


 事実、待ちかねた。
 彼女を使って、彼女をいじって、どれほどのことができるだろう。どれほど彼と遊べるだろう。
 そう思えば、この一ヶ月という期間は、寝子にとって掛け値なしに、永遠にも等しいものだった。


「で、元子。キミがこうやってわたしに正面から会いに来た、ということは、あの一ヶ月前の出来事。鍋島直樹との戦いから立ち直った、と見ていいのかな」


 一ヶ月前、小城元子は鍋島直樹と戦い、完膚なきまでに潰された。
 宝琳院白音を手に入れ損ね、“障り神”に仕立て上げた龍造寺円も奪われ、丹念に広げ、育てた組織も、そして自信と自負さえ砕かれて、かろうじて身一つで逃れた。

 そこから立ち直る一ヶ月という期間。彼女が何を思い、どうやって立ち上がったか。楽しみに頬を緩ませながら、寝子は元子を観察する。

 彼女は、寝子を相手にする時としては異例なほど真摯に、口を開いた。


「ええ。立ち直って、足りないものに気づいて……“眠り三毛”秀林寺寝子、あなたに挑みに来た。なによりもまず、あなたの干渉を断つために」


 寝子を指差しながら、彼女は言う。
 言葉に込められているのは、寝子排除への明確な意志と覚悟。
 それは、想像の中でも希少に類するものだ。それも、寝子にとってあまり楽しくない種類の。


「キミの相手は直樹だろう。そこは間違えちゃいけない」


 とはいえ、と、ため息をつきながら。
 寝子は言葉を続ける。


「その選択もなかなかに興味深い。わたしを、この“眠り三毛”に挑もうと、越えようと言うのなら、元子、キミはこの一ヶ月でキミに足りないなにを埋めてきたんだい?」


 秀林寺寝子に挑む、という言い方をした限りは、目の前の少女は気づいているはずだ。
 寝子が持つ、圧倒的な想像力と、干渉力に。それでもここに来た限りは、彼女にはそれなりの勝算がなくてはならない。

 まあなにを持ってきても同じ。寝子は苦も無く潰すだけだ。

 ――とはいえ、小城元子を潰すのは惜しいんだけどね。


 と心中でつぶやきながら、寝子は元子の返答を待つ。
 細く息を吐いてから、“神がかり”の巫女は答えた。


「信頼できる人間……わたしに、決定的に足りなかったのは、それよ」


 ほう、と寝子は目を細める。
 あの状況からなら、当然、小城元子は自分の欠点に気づいているべきだ。
 しかし、それでも。よくできましたと評価したい気分だ、と寝子は思う。

 だが、だからこそ。
 せっかく成長した彼女を、下手に潰したくないんだけどね。と口の中で続けた。

 その間にも、元子の言葉は続く。


「わたしには仲間が居た。信者が居た。下僕のようなものが居た。でも、わたしはそれを一切信用していなかった。
 当たり前よ。あんな無能ども。言葉を与えるだけ、余計な判断をさせるだけ無駄――どころか足を引っ張ることしかしない。
 他人は使うけど、失敗しても切り捨てができるところだけ、可能な限りは自分で賄う。そんな傲慢こそが、わたしが鍋島直樹をしのげなかった理由」


 ――満点。


 寝子はにやりと笑った。


「それを知って、わたしのところへ来たってことは。しかもわたしを誘おうってんじゃなく、逆に挑もうと考えるなんて、キミの新しい仲間はよほど信頼が置ける人間らしいね」

「仲間じゃないわ。ただの同志。だけど、信頼できる、ということに関しては、自信を持って言える」


 その答えは、たとえば鍋島直樹が答えるであろう言葉に比べれば、若干の不満が残る。
 しかし、それでも。この少女に「信頼できる」と言わせた人間に対しては、興味があった。


「それほどキミが信頼する人間というのには、興味があるな。キミの新しい同志とは、いったい何者だい?」


 新しい同志が、元子を中心とした物語の中でどんな役割を持つ人間か、その可能性に思いを馳せながら、寝子は促す。


「来てるわ。入ってきて」


 元子の声とともに、部屋に入ってきたのは二人。
 片方は車イスの少女。もう一人は額に傷を持つ少年。
 寝子は知っている。彼が、彼女が、何者なのかを。小城元子にとってどんな人間かを。


立花雪たちばなゆきに、大友麒麟おおともきりんか」


 ――なるほど、これは面白い。


 寝子は口の端を釣り上げた。
“双璧”、と呼ばれる二人は、頭脳身体能力に関しては元子に引けを取らない。しかしそんなものは評価に値しない。
 立花雪は日本有数の退魔師であり、大友麒麟は九州に冠たる退魔師一族の惣領として、少年ながら政財、宗教界にもパイプを持つ傑物。これこそが、真に評価すべき点だ。

 そこに、一家の宗教を立て、文字通り神がかり的な手腕で多数の信者を掌握しきった“神がかり”の巫女、小城元子が入る。


 ――なかなかに、大きな事が出来そうな組み合わせじゃないか。


 頭の中で三人のコマをいじりまわしながら、寝子は哂う。


「面白い。しかし反目し合っていたキミたちが、よくも手と手を取り合ったものだ」

「それも、テメーのためだよ昼寝女」


 雪が切りつけるように言った。
 車イスに座った少女は、身の不自由がありながら、それでも実際の脅威を伴った、恐ろしく鋭利な殺気を寝子に向けてくる。


「寝子の呪いに魔と退魔の衝突、それに背後様強化の助長。諸悪の根源って言葉に、お前ほどふさわしいヤツは居ねーだろうよ」

「褒めてくれる。嬉しいねえ」


 褒めてねえよ、と雪が吐き捨てる。
 その言葉を引き継ぐように、麒麟が口を開いた。


「お前を」

「お前を無力化出来れば、この町はよほど平穏になる」

「だろうね」


 言って寝子は笑う。
 今現在、秀林寺寝子がこの都市で干渉している他人の人生は数十を数え、干渉可能な人間は、その千倍に上る。
 それが無くなれば。無用な干渉が無くなれば、この町の人間たちは、幸か不幸かは分からないが、少なくとも寝子に干渉されない人生を手に入れることができるだろう。


「でも、どうやって? さっきの男のように、わたしを殺すかい? それとも、世俗とは隔離するかい? 犯すなりなんなりして精神の変調を期待するかい?」


 くつくつと笑いながら、寝子は問いかける。


「そんなことができると思っているのかい。今現在、この雑居ビルはおろか近在する人間のうち284人の動きを把握し、その動向を左右する手段さえ持っているこのわたしに対して、いまものうのうと問答しているキミたちが」


 人を理解する、とは、そう言うことだ。
 人格を、行動原理を、その人間のすべてを理解していれば。
 反応の方向性と、それを引き出す手段を有してさえ、いれば。
 反応のドミノ倒しを起こして、指一本の労力で目の前の三人すべてを薙ぎ払うことすら可能になのだ。

 たとえばいまこの瞬間、秀林寺寝子が手に持つipadを地面に落とすだけで、立花雪は気絶する。こうしているうちに使えなくなったが。
 しかし、そんな手段も、寝子の持つ対抗手段の一つでしかない。

 その、凄みを理解したように。
 雪は、麒麟は、小城元子は、厳しい表情で構えた。
 三台のパソコンの、ファンが回る音。それだけが、空間をしばし支配する。

 だが、緊張を破るように。


「出来るさ」


 声は、彼方より投げかけられた。
 ドアの奥。雪や麒麟のさらに向こうからの声。
 みなが、とっさに振り返る。この場にいるすべての人間にとって、無視を許さぬ声であり、存在。


「何故ならば、秀林寺寝子。強い意志を持ってキミをどうにかしようという人間が、これほどいるんだからね――もっとも」


 ボクたちは人間に加えたものか、微妙なところだけどね。と黒髪の少女――宝琳院庵ほうりんいんいおりは付け加えた。









「宝琳院庵、に、龍造寺円りゅうぞうじまどか。キミたちまで来るかあ」


 寝子は笑顔で言った。
 悪魔から力を盗み取った少女と、悪魔そのものな少女。
 人から外れている、という意味では、“双璧”や“神がかり”の巫女などより、よほど寝子に近しい、あるいは寝子すら超越した存在だ。


「円」


 雪が嬉しそうに声をかけた。
 円は。この、悪魔から力を盗み取った天才は、同性も見惚れるような笑みを浮かべて言った。


「直樹にちょっかいをかけた秀林寺寝子に対抗するためなら、鬼や蛇とでも手を組もうと思ってたけど……同じ考えの人間が居たらしい」


 しかし、と円は続ける。


「あらためて見ても、直樹の好みド直球な容姿だなこの女。妬ましい」


 妙に場違いな、空気を崩壊させるような一言を、この魔女はのたまった。


「なんだいそれ、初耳だよ? まあ寝子、キミに対する許せない度数が跳ね上がっただけだから、現状まったく差し支えないけど」


 それに、悪魔そのものな少女が焦ったように食いついて来るのだから、寝子は苦笑を押さえるのに必死だ。


 ――しかし直樹、わたしの容姿が好みとはね。そんな様子はさっぱり見取れなかったけど。


 寝子は不審げに首を傾けた。
 容姿でなく、性格が原因で、とっくの昔にそんな対象からは外されているのだが、さすがにそこまでは分からない。

 そんな寝子に、態勢を立て直した宝琳院庵が、咳払いひとつして、鋭い視線を向けた。


「寝子、キミの性質を、ボクは放置しておけない」


 大昔の、オヒメサマのごとき容姿の悪魔少女にそう宣言され、寝子は皮肉気に笑う。


「人間を観察して、それを娯楽にしているあなたが言うべきことじゃないさ」

「何度も言うが、寝子。人間に干渉して、自分の面白いようにどうにかなる様を楽しんでいるキミには言われたくないよ」

「そりゃあ、そうなんだけどね」


 と、思いついたように、寝子は顔を上げる。


「あんたに一度聞いてみたかったんだがね、宝琳院庵」

「何だい?」

「あんた、なんで人間なんかに興味を持ってるんだい?」


 それは、知らないものにはあまりに超越した問いに聞こえたかもしれない。
 しかし、この場のほとんどの人間にとっては。宝琳院庵が悪魔そのものだと知る者にとっては、素朴な問いだった。


「決まってるよ」


 悪魔少女は答える。
 深淵に等しい漆黒の瞳の底から、まっすぐに寝子を見つめて。


「ボクは人間が好きだ」


 明快な答え。


「人はちっぽけだ。あまりにも卑小で、無力で、短命だ。でも、ボクは、知っている。そんな人間が、黄金のごとき意思の輝きを見せるのを」


 宝琳院庵は続ける。


「強烈で明確な信念をもって、死をも厭わぬ学習の積み重ねをもって、研鑽と練磨を重ねて生み出したすべてすら、ただの一瞬で消費しきることを厭わぬ人の覚悟が、強い意思が、ボクは大好きだ。だからだよ。ボクが人に惹かれるのはね」


 言いながら、悪魔少女は他の四人を視線でひと撫でした。

 小城元子。自分すら騙す狂信の詐欺師。狂気と論理が高次に融合した、恐るべき“神がかり”の巫女。

 立花雪。脚の自由を失ってなお練磨を重ねる極限の修練者。神すら斬りうる無形の神威刀“雷切”を持つ、最高の退魔師。

 大友麒麟。したたかなる調整者。家名とコネクション、それに読心術の域に達した観察力に会話術を持つ、退魔師一族大友家の、無能にして恐るべき総領。

 龍造寺円。万能の天才。魔の領域に踏み込み、魔に引きずられずに純粋な力のみを盗み出し、そして宝琳院庵を消滅させる舞台さえ整えきった、恐るべき魔女。


 ――そして、宝琳院庵。超越した傍観者。人に惹かれ、人そのものになって人の中で生き続ける、奇妙な悪魔。


 心の中で受け継いで、彼女は思う。
 しかし壮観だ。そして面白い。心が躍るのを抑えきれない。


「ありがとう。でもそれは、やっぱりわたしの答えの、奇形な鏡なんだけどね」


 宝琳院庵のような、人ならぬ身ではない。
 ただの少女が、人の動きを、性質を、未来予測の域で理解する。
 圧倒的な才能を持つ秀林寺寝子とはいえ、その領域に達したのは、気まぐれではない、人間に対する歪で偏執的な愛があったからだった。


「しかし、こんなメンツが集まるなんて、それにしても偶然じゃありえないな。ここまで来たら、見えてきたぞ。二組を同時に来るようにそれとなく仕込みをした人間。元子に双璧を紹介した人間。わたしの予測を越えてこんなことができるのは、一人しか、そう、たった一人しかいない」


 にやり、と、明確に獲物を見定める視線で、寝子は哂う。
 そう。ここまでのメンツがいて、居ないほうがおかしい。関わっていないほうがおかしいのだ。
 いつだって“眠り三毛”の予測を外す、剛腕のごとき強固な意志と行動力を持つ、あの少年が。


「――いい加減おねーさんに顔を見せておくれよ、鍋島、直樹なべしま なおき









「直樹」

「直樹さん」

「直樹くん」


 三種の呼び名、五つの声に迎えられて、それぞれの少年少女と軽く視線のやり取りをしながら、鍋島直樹は寝子の前まで歩いてきた。


「ひさしぶりだな、おねーさん」


 直樹が言った。
 長身の少年の瞳は、その意思の強さを示すように、強く輝いている。


「ひさしぶりだよ、直樹」


 応じて、寝子は笑う。
 興味深く、面白い、と思う。

 寝子は確証をもって言える。
 小城元子に声をかけ、大友麒麟と立花雪を仲介した人間。
 龍造寺円と宝琳院庵に手を取らせ、この場に導いた人間。
 手段を考えたのは別人かもしれないが、これらはすべて直樹の明確な意思のもとで行われたに違いない。


「面白い。これだけの人間をここに集めて、キミは何をしようと言うんだい?」

「なんだと思う?」


 挑むように、直樹が問いかけてくる。
 くすりと、寝子は笑った。まるで母のように。


「ふふ、試すようなことを言うんだね。いくらか考えられる。すべて挙げてもいいが、その中の一つが当たり、なんて、物語としては興ざめもいいとこだ。言ってごらん。楽しみに、聞いてあげるから」


 寝子が促すと、鍋島直樹はひとつ、呼吸してから、口を開いた。


「俺は、ずっと考えてきた。おねーさんのことを」

「光栄だね」

「すべてをいじり操り娯楽にするおねーさんの性質は、正直最悪だ。個人の性質ならいいんだが、おねーさんの場合影響がでかすぎる。現状でも学校一個、集団一個。そんなレベルで騒動が巻き起こるレベルだ。これは、絶対に止めなくちゃいけない」


 でも、と直樹は言葉を続ける。


「同時に、俺は思うんだ。おねーさんは救えない性分でもない、ってな」


 その発言に、部屋にいる誰もが驚きを示した。
 いや、唯一、宝琳院庵は目を伏せ、言葉を噛みしめている。


「そんなこと初めて言われたよ」


 寝子すら、驚きのまま、言葉を返した。


「だってそうだろう。弄りながら、最悪を演出しながら、いつだっておねーさんは最良の結果を求めてる。たとえ物事を娯楽にしか見ていなくても、最悪よりも最良を望むその想いだけは、尊いものだと思う」


 それはいつかの夜、寝子が口にした言葉。
 直樹が、悲劇を跳ね返す姿が見たいと、彼女は言った。気まぐれでなく、心からの言葉で。
 だから。鍋島直樹は、その言葉を信じて、言ったのだ。秀林寺寝子は、けっして救えない性分ではないと。


「分かったようなことを言うんだねえ。あのときの、わたしの言葉が本音だとでも?」

「本音だろう」


 惑わすような寝子の言葉にも、鍋島直樹は揺るがない。気持ちがいいほどに。


「――そんなの、当たり前みたいに分かる。分かってるんだよ、俺は。言葉が、そいつの、どれくらい深いとこから出てるか、くらいはな」

「……まったく、厄介だね」


 人の本質を見抜く。直樹の性質だ。
 寝子としてはやりにくいことこの上ない。


「で、その救えるかもしれないわたしを、直樹はどうしたいんだい?」


 寝子はいっそ率直に、と問いかけた。
 その、言葉を、正面から受け止めるように。鍋島直樹は、秀林寺寝子に向かって、手を差し出してきて、言った。


「秀林寺寝子。俺の、仲間になってくれ」


 少年の言葉に、部屋中のだれもが虚を衝かれた。

 呆然が一息。
 理解にもう一瞬。
 そののち、寝子は――爆笑した。
 愉快だった。腹の底からの笑いだ。予測を裏切るとかそんなちっぽけな喜びを超越した、それは面白い提案だった。


「それで、わたしにどんなメリットがあるんだい?」


 寝子は問う。
 鍋島直樹は差し出した手を引かない。そのままの姿勢で答えた。


「楽しいさ。お前が出来ること、俺が出来ること、宝琳院や、円や、ここにいる全員が出来ること、全部ひっくるめて出来ることってのは、ちょっと怖くなるくらいでかいぞ? それを使って、今度はよりでっかい舞台で、俺たちの、寝子の、最良の結果を追い続ける」


 それは、寝子の想像の、はるか高み。
 鍋島直樹は、純粋な好意で、寝子の予測を越えて見せた。
 少年は、なおも手を差し出し、挑戦的な笑みを送ってくる。


「寝子。俺の仲間になれ。俺がお前にあげられるのは、“ハッピーエンド”だ」


 直樹の言葉が、好意が、寝子に染みたとき。
 悪魔のごとき少女は、不敵に、笑った。


「いいね。胸にくる言葉だよ。ときめくと言っていい。惚れそうだよ。いや、もう惚れているか? とにかく――キミは言うんだな? 俺とつるんだ方が楽しいと。気まぐれなわたしを、けっして飽きさせないと。なら」


 なおも差し出された直樹の手を、寝子は両手で取る。


「――見せてくれ。キミのそばで。そんなことが本当に可能なのかを」

「ああ、これは俺の、挑戦だ」


 お互い、挑むように、不敵な笑み。
 寝子はそれをふいに緩めて、直樹の手を取ったまま、肩をすくめた。


「しかしキミもたいがい迂闊だねえ」

「なにがだ?」

「わたしなんかを惚れさせたら、大変だよ? キミに取り巻く恋愛事をことごとく荒らしてまとめて引っ掻き廻して、ぬるく楽しくラブコメらせちゃおう、なんて思っちゃうような人間なんだから」


 寝子は気まぐれに、直樹が思わず青ざめるようなことを言う。
 それに反応するように。


「やっぱり殺そう」


 剣呑な眼光で物騒なことを言いだしたのは、直樹の幼馴染である龍造寺円。


「ボクも円くんに賛成だけど、まあそれもありかな、と最近思わなくもない」


 対して、宝琳院庵は妙に悟ったような表情で、口元に笑みを浮かべている。


「わたしのモノになる予定の直樹さんをもてあそぶ気?」


 そして、さらりと爆弾発言をかます小城元子。


「あんた、いきなりなに言ってんだ?」

「だって、お得でしょ? 彼を落としたら、自動的に白音ちゃんや龍造寺円や宝琳院先輩や白音ちゃんがくっついて来るんだから」


 立花雪が突っ込むと、元子がしれっと答える。


「加えて五本指に“悪魔憑き”の巫女。羨ましいことだな」

「羨むなっ」


 麒麟がつぶやくと、雪がこちらにも素早く反応し、チョップをかます。


「あほかっ! 勝手に全員とくっつけようとすんな! 俺は一人でいっぱいいっぱいだっての! この際だ、言ってやる! 俺が一番好きなのはな――っ!?」

「おっと」


 直樹が何かを叫ぼうとした瞬間、寝子はソファから足を落とす。
 するとどんな連鎖が起こったのだろう。積み上げられた本の山の頂上から、一冊の本が落ちると、妙な具合に跳ねて直樹の頭に命中した。

 寝子の足元で、直樹は頭を抱えて悶絶する。
 彼に好意を寄せる少女たちが、あわてて駆け寄る。
 そんな直樹たちの姿を慈しむように。悪魔のような少女は、初めて。心から――ほほ笑んだ。




 一人の少女がいる。
 悪魔のごとく狡猾で。
 悪魔のごとく人を操り。
 悪魔のごとくすべてを嘲笑う。
 つまりは、至極人間らしい少女。

 そんな彼女の、これは物語。




 悪魔がたり 了


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