<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[1511] Spell Breaker
Name: 暇人
Date: 2006/01/30 21:27
2004年の6月――久しぶりの雨が大地を潤し、暑い時期の前触れとなっていた。

『Sanctus, Sanctus, Sanctus, Dominus Deus Sabaoth――』

日本、そこはある地方都市――人口は十数万人といったところ。

『Pleni sunt caeli et terra Gloria tua――』

その街の一角で響き渡るはミサ曲『サンクトゥス』。

『Hosanna in excelsis――』

宗教歌の響き渡る教会――外で降り続ける雨の音にも負けない歌声。

『Benedictus qui venit in nomine Domini――』

オルガンの音色に合わせて楽隊の老若男女が綺麗なタペストリーを織り上げる。

『Hosanna in excelsis――』

だが、彼らは別にプロというわけではない。

彼らはこの教区の聖歌隊のメンバーというだけのことだ。

聖歌隊といっても彼らの場合、簡単に言ってしまえば趣味の延長のようなもの。

別にこれで給料を貰うわけでもなく、それぞれが別な職業で働いている人々。

聖歌隊も自身が入りたくて入っただけ。

その心にどれほどの信仰があるかどうかはさておき、信者である以上はやはり趣味ともいえない微妙な活動。

歌が佳境に差し掛かったとき、教会の扉がわずかに開いた。

その瞬間に外に音が漏れ、外で響き渡る雨の音が中に入り込んだ。

そして、その雨音を従え、レインコートを羽織った人影が入ってきた。

聖歌隊はその侵入者を気にするわけでもなく、歌い続ける。

彼らには外の音も、突然の訪問客も気にならなかった。

荘厳な空気が崩れることなく、歌は続く。

それを邪魔しないように静かに椅子に座る訪問客。

そのまま訪問客がレインコートを脱ぐと、下から現れたのはセミロングの茶髪の美少女。

どこか外国のブランドの服、落ち着いたデザインのスカートとブラウスは上品だった。

茶髪は櫛で梳かしたすぐあとのように綺麗で、外国人の血が入っていることがよくわかる白い肌と碧の瞳が印象的だった。

それでもどこか日本人らしい印象もあいまって、不思議な雰囲気を纏っている。

小アジアあたりの文明の交差点で見られる人々のような絶妙な混ざり方といえばいいのだろうか、彼女の風貌はそれに近い。

彼女はそのまま入り口近くの椅子に座り、聖歌隊の練習が終わるまでずっとその場で待つつもりのようだ。

手元には丸められたレインコートを持ち、楽な格好で寛いでいた彼女は時折腕時計を確認しながら歌に聞き入っていた。

○○○○○

そして、午後8時前まで続いた練習が終わった。

練習を終えた人々が帰り始めたとき、徐に席を立った彼女はさっきまでオルガンを弾いていたシスターの元に歩み寄った。

いまだ教会に残る人々は練習での問題点を話し合ったり、世間話をしていたりしていた。

白髪頭の西洋人神父は他の日本人のシスター達と片づけを行っていた。

少女に気がついていたただ一人の西洋人シスターは、神父に断りを入れた後で少女と奥の部屋に入っていった。

シスターのあとに続いた少女の顔には緊張が見られる。

○○○○○

6脚の椅子と長い机が置かれただけの質素な休憩室――。

少女に紅茶を出したシスターは被っていたカソリックの帽子を脱いだ。

衣擦れ音の後、絹のようなブロンドの長い髪が流れ落ちる水のように肩に落ちる。

眼鏡の奥に光る瞳は深青なるサファイア。

陶磁器のような白い肌。

年の頃は10代の後半にも見える怜悧な少女。

細い指先、彼女は目の前の少女に手を差し出した。

「はじめまして、私はこの土地の『調停者』でアーデルハイトといいます。貴女が電話を下さったアサミ・レナさんですね、どうぞよろしく」

電話であらかじめアポイントメントを取ってきた相手に笑顔で挨拶するシスター。

玲菜は差し出された手を見つめたが、しばらくそれを握り返すことが出来なかった。

玲菜の目の前に座る少女――彼女こそ噂に名高きアーデルハイト・フォン・シュリンゲル――数少ない吸血鬼狩りの英雄。

騎士として最高の称号『エムピレオ』を併せ持つ六十四番目の魔導師。

今となってはわずかしか現存しないという魔導師の一人に出会えることは本当に稀な事だ。

だが、その有名人は会ってみれば意外に普通の相手。

故郷でも見かけるようなただの白人少女。

確かにとても美しくはあるが感じる印象はそれだけ……実際の年齢は少なくとも100に近いはずだが、プレッシャーをまったく感じない。

逆にそれが不安だった――この相手は本物かどうか?

少しのあいだ、そう考えたほどだった。

「一つ確認させて、貴女が本物のアーデルハイト? それとも、その体は人形とか使い魔の類?」

そう言われて、相手は苦笑しながら答える。

「私以外にもアーデルハイトという名前の人間は世界に大勢居るでしょうが、少なくともこの街に赴任してきたのは私一人ですから、貴女がお探しのアーデルハイトは私かと」

『高貴なる者』の名を冠する金髪の魔導師はちょっとおどけて答えた。

確かに聞いていた外見とは一致する、そう思えば彼女が本物なのだろうがあるいは偽者かもしれない。

下らない疑問だが、相手は魔導師なのだからなにがあってもおかしくはない。

「……」

少し渋ったが、手をひかない相手の視線に突き動かされ、仕方なく手を握り返した。

「どうも――ですが、珍しいですね」

「珍しい? なにが珍しいの?」

薄く笑ったアーデルハイトは自分のカップにも紅茶を注ぎながら話を続けた。

紅茶にジャムを入れる……あれはロシア流の飲み方なのだが、彼女はドイツの出身ではなかったか?

しかし、それには答えらしきものが与えられていた。

彼女が行方知れずになったのは三十年近く前だったのだから、ロシアに滞在する時間もあったということだ。

当然のことだが、本当に行方知れずになったと思っているわけではない。

彼女のように吸血鬼から命を狙われている人間を彼女の属する派閥が色々な場所をたらい回しにすることで隠していたのだろう。

それが最も妥当な推理だし、理由も説明できる。

そんな玲菜の考えなど露知らぬ様子のアーデルハイトは、こんな場所で隠棲していることで感じる退屈を紛らわせようとしている様子だった。

「いえ……『調停者』の存在自体が人の庭に勝手に交番を立てているようなものですから、新入りの方でも挨拶に来てくださることは稀なのです。因みに、私もここに来て1年ほどですけど、挨拶に来られたのは玲菜さんが初めてですよ」

『調停者』――魔術世界の六大派閥が協定を結んで発足させた治安維持部隊。

魔術師たちの地域紛争を調停し、地域の平和を維持する人々。

六大派閥出身の高名な魔術師から傭兵魔術師までその出身は様々と聞くが、紛争地帯に単身あるいは数名で乗り込み、その地域の平和を維持する。

有事の際には吸血鬼狩りも率先して行わなければならないという事情から、選ばれる魔術師は実践派の化け物じみた連中が主だそうだ。

当然ではあるが、その業務は大変な危険を伴う。

そもそも地域紛争の場で争うのは大派閥に属さない魔術師が多く、彼らの争いは地縁に基づくものが多いのでこれをよそ者が解決するのは難しいのだ。

最悪の場合、調停者自身が彼らに敵とみなされて殺された例さえあるというのだから正義の味方も楽ではないということだろう。

だから、数多の魔術師の中で進んでこの職につくものは少ない。

その報酬が多いとはいえ玲菜はこんな職業をやっている人間の精神を疑う。

そんな玲菜の心情など露知らない様子のアーデルハイトはそのまま自分がここに来てからの思い出などを楽しそうに話した。

だが、そんなことにいつまでも付き合って入られない。

玲菜がここに来たのには理由があるのだから、下らない世間話など聞いている暇はなかったのだ。

「――調停者、私がここに来たのはドルイド魔術師のクレア・マクリール、私の祖母の紹介よ。だからお願い、私の相談に乗って!」

真剣な表情で頭を下げて頼み込んできた玲菜に少々戸惑いながらも、アーデルハイトは懐かしそうにその話に乗ってきた。

「クレア・マクリール? ――ああ、あのレディ・クレアさんですか。彼女にはこの場を借りて祝辞を述べさせてもらいますよ」

「まぁ……ありがとう。貴女にそういわれると多分うれしいとは思うから、今度あったら伝えておくわ。それで話だけど……」

玲菜の祖母、クレアは偉大な魔術師としてそれを称える称号を得た。

それはつい最近のことで、長い研究の果てにそれが認められてのことだった。

わかりやすく言うとノーベル賞を取ったようなものだろうか?

尤も、その取得率では雲泥の差はあるのだが。

「ですが、これでマクリール出身の魔導師は二人になりましたね。これは大変な偉業です、誇りに思って結構だと思いますよ」

未だかつて二人の魔導師を輩出した家系は存在しない。

マクリール家がそれを達成するまでは。

それは偉業などというものではない、すでに奇蹟に等しいほど困難なこと。

「でもそれって私の力じゃないから。家がどうとか言われても正直、関心もないけど」

それは本音だった。

正直、家族を褒められることはうれしいが、それは自分の力ではないし、自分が偉くなったわけでもないのだから当たり前だ。

玲菜は高い自尊心を持ち、家名を誇る典型的な貴族の令嬢だったが、その生まれゆえにちやほやする大人が嫌いだったし、自分の力で掴んだもの以外は決して誇らないと心に誓っていた。

どんなに大切なものでも自分で築いたもの以外はすぐに零れ落ちるのが幻想というもの……だから体を痛めつけ、精神を切り刻んだ果てに自分に残る魔術師としての力だけを頼るべきなのだと心に刻んでいる。

「名門のご令嬢にして、その謙虚な姿勢は評価に値しますね。ですが、なるほど。確かに彼女は私の知り合いです。しかし、あのレディ・クレアさんに孫が出来るほどの年月が経っていましたか……時が経つのは早い。国の諺では『時は羽を持つ』とも言いますが、まさにその通りですね」

アーデルハイトは玲菜の年と変わらない見た目だというのに、遠い過去の出来事のように語っていた。

自慢の祖母、六十八の魔導師の末席に名を連ねた一族の誇り――今は北欧を中心にした大派閥で教授の職にある。

そんな彼女も100歳近い年だというのに、そんな老婆との思い出を語るのはまだ17,8にしか見えない少女だというのはおかしな光景だ。

だがそれも当然か――少女が活躍したという吸血鬼との抗争に一応の決着が着いたのがおよそ100年ほど前なのだから。

「ですが、マクリールの家名を捨てられたわけでもないのでしょう? あれだけ偉大な家名を捨てることが許されるわけもありませんし」

古い魔術師が信じる迷信によれば、家名も大事な体の一部と思うべきらしい。

名は体を現し、言霊としての力さえ宿っているという。

尤も、それが本当に効果を持つことなどほぼありえないのだが。

「まあ……本名はレナ・マリア・アサミ・マクリールだけど、お父さんの顔を立ててあげないと悪いでしょう。一応、婿養子だけど日本に来たときくらいはお父さんの苗字を優先させてあげないとかわいそうじゃない」

「なるほど、見かけによらずお優しい……あの人もそんなところがありましたね。実は昔――」

ただ、彼女の思い出話など聞く余裕はない。

すぐに話を元に戻そうと何とか割り込む。

「え、ええ。そうね――それで、私の話だけど」

「おっと、そうでしたね……数少ない知人の孫の頼みがどのようなものか、それを聞くだけならいくらでも聞きますから、どうぞ仰って下さい」

そう言われ、何とか相手に自分がここにきた本当の目的を伝えようと頭の中でまとめていた台詞をそのまま口にする。

「実は……その、呪いを解く手がかりを探しているの! お金は出すから呪いを解いて! もし、それが無理ならその道の専門家を紹介して!」

勢いに任せて、やや強気に言ってみた。

魔術師が他の相手に相談するなどなかなかあることではないが、意外にも相手は馬鹿にするでもなく、真摯な態度で相談に乗ってくれた。

この場合は馬鹿にする方がむしろ当然だ。

自身で物の性質から成り立ちまでを調べ上げ、動植物から果ては世界自体さえ組み直すのが魔術の本分。

それを他の魔術師に聞くなどどうかしている。

それでも自分を笑い飛ばさない相手に逆に不気味さを感じる。

嘲笑すべきところで哂わない、そちらの方がずっと恐ろしいこともあるのだ。

○○○○○

取り敢えず、その経緯を話し、今までどういう方法を試してみたのか、誰に相談したのか、その結果どうなったのかを切々と語ってみた。

アーデルハイトはそれを真剣に聞いて、色々な質問を繰り返した。

様々な可能性について二人で議論してみたが、結局のところは徒労に終わった。

「……正直、私では無理ですね。まさか神がかけた呪いの例を今の時代に見ることになるとは思いませんでしたが、貴女の場合はその中でも特に運が悪い。名前を持たない神に呪いを受けるとは……最悪以外の何者でもありません」

アイルランドで祖母から魔術の手ほどきを受けていたときに事故で神の怒りを買い、その名前も分からない神に呪いをかけられた。

それは確かなのだが――無名、つまりはほとんど信仰を受けていない神の呪いがどうして危ういというのか?

古い魔術師の祖母ですらそんなことは口にしていなかったというのに、目の前のうら若い少女は深刻そうな顔で語った。

玲菜はそんな顔を見ても、自身が信じる法則を口にしてみた。

「どうして、それが最悪なの? マイナーって事は弱いんじゃ――」

すると、即座にその意見を否定する答えが返ってきた。

「確かに、神々の世界においての信仰とはその力にも大きな影響を与えます。広く世界から信仰を集める神はその力が強大……それは一つの事実ではあります」

「だったら――」

「大切なことはそれだけではないのです。これは全ての人間にもいえることですが、名前とはそれ自体に意味がある一種の言霊です……特に神や悪魔といった手合いはその真の名を知らない限りその力を殺ぐことが容易に出来ません。故に、その神の呪いには有効な対処策はほぼ存在ないのです」

古の時代、魔術師達は本名を隠していた。

それは呪いを恐れ、自身の心を奪われるのではないかと恐怖したからだ。

だが、それはとてつもない魔導師だけに可能な神業、とても普通の魔術師に真似の出来ることではないし、専門でもない限りは魔導師の称号を持っている者でも不可能なのだから、用心のし過ぎということも出来た。

何より、優れた術者が吸血鬼との戦いで死に、あるいは吸血鬼に堕落した末に討たれたためその手の魔術は廃れた。

だから、玲菜も特に名前を隠そうともしないし、大部分の魔術師も隠すことなどない。

神の名前についても同じと考えていたため、アーデルハイトの言葉は青天の霹靂。

玲菜は今までの知識では知らなかった事実に愕然としたのだ。

そして、祖母は確かに偉大な魔術師だが、この分野には疎かったことを思い返す。

そう、祖母をして専門家と謂しめた少女アーデルハイトの言葉は深く胸に突き刺さった。

混乱する頭で、何とか呪いを解く方法がないものかと思案してみた。

「……だったら、そいつの名前を古典で調べればいいの?」

そうだ、祖母の城にある古い蔵書を読み漁ってみればすぐにそんなものは見つけられるはずだ!

広大なマクリール領――その中に聳える城には膨大な数の書物が収められ、古くは千数百年も昔の魔導書などが存在した。

それを解読すれば、彼の土地の神のことなら容易に判別がつくはずだ。

かすかな希望を込めてみた。

しかし、即座にその希望は砕かれる。

「不可能ですね。その名を過去に知られているのなら、信仰もない神にそれほどの呪いをなす力は無いでしょうし、私個人でも呪いを解けたはずです。しかし、その可能性も見えない……相手は過去に人とあまり接触しなかったのでしょう。あるいは彼の成り立ちが人の畏れといった古い意識にあるのならそれに名前などあるはずはありませんし、決して滅びることのない信仰を得た強大な存在ということにもなります」

「……方法はないの?」

青ざめた顔で聞き返すのがやっとだった。

呪いで身を滅ぼされる、その恐怖が襲い掛かってくる。

「無くはないでしょう。神の呪いといっても、即死という類のものではないのですから、その呪いを解くことは無理ではありません。尤も、かなりの時間と優れた協力者を必要とすると思いますが」

最後に、わずかに声が明るくなっていた。

相手の顔にはこちらを助ける意思があるとかいてあったようなものだ。

「? 協力してくれるって事?」

半信半疑ながらも、この期待していなかった強力な協力者の登場を確認してみる。

「ええ。貴女の側は面白そうですし、私もここ20年ばかりは暇でしたから」

「20? ……いくつなのよ、貴女は」

本来、彼女の功績を知っていれば驚くようなことでもなかったのだが、どうも自分とあまり変わらない見た目をしているために20年と聞いてびっくりして、思わず聞き返していた。

「女性に年を聞くとは、礼を失していますね。それに、魔力と魔術をうまく使えば多少の長生きなどさして難しいことでもありませんでしょう?」

別に怒ったわけでもなさそうだが、教えてはくれないようだ。

確かにそういう魔術師もいると聞く、玲菜の祖母はわざわざそんなことはしなかったが、技術自体は古い文献でも読んだことがあるし、自身でも可能だとは思う。

「……答えたくないなら、それでもいいわよ。因みに私は14だけど」

「14? だとすれば、わりと老けていますね。てっきり私の体よりもだいぶ年上かと」

真顔で目の前の少女はとんでもないことを口にする。

どっちが失礼なのだろうか?

思わず、そう口にしたくなる一言だった。

「この――」

「ふふっ、失礼。ほんの冗談です。ですが、14……この国なら中学三年生?」

「ムカつく家庭教師がついてたから大学レベルまでなら多分問題ないとは思うけど、一応この国の規定だとそうなるみたいね」

「なるほど、ですが呪いを抑える霊薬を作るだけでも一人前の魔術師としてかなりのものですよ。それ所か、その年で魔術を使いこなすだけでも貴女は天才の器だ」

「? そうなの? たったそれだけで天才って、本気で言ってる?」

自分と母、祖母くらいしか魔術師を知らない玲菜は天才などと思ったこともなかったのだが、アーデルハイトにそういわれて少し照れた。

「ええ。大抵、普通の魔術師は厳しい修練を積んだ末に魔術を使えるようになります。そもそも魔力の使い方を覚えるだけで10年ほどは鍛錬を要するといわれているくらいですから……これを聞くと、ご自分がいかに恵まれているかがお分かりになられるでしょう?」

「へぇ……そうなんだ」

正直、そんなことを突然聞かされても実感が湧かない。

ただ事実を事実と認めることしか出来なかった。

だから、口から漏れたのは如何にも気の抜けたその言葉だけ。

「……他の魔術師の前で言えば殺されますよ、多分。尤も、当代マクリール卿の孫娘と聞けば、当然だと納得する人の方が多いかもしれませんが」

「そう、例えば貴女は嫉妬とかするの?」

シュリンゲル家は彼女の代まではまったく名を聞かない田舎錬金術師だったと聞く。

だが、吸血鬼討伐の折に幾多の魔術師を葬ってきた吸血鬼の王を屠ったことでその名が知れ渡り、その後も功績があったことから魔導師の称号を得たという。

それならば、彼女は途方もない秀才ということになるだろう。

歴史も積まず、確かな師の下で学んだわけでもなく、ポッと出の魔術師が魔導師の称号を得た例は彼女を入れても3人だというのだから、その努力は想像に難くない。

しかし、意外にも答えは違った。

「いいえ、どちらかといえば私も天才肌でしたから貴女に特別嫉妬はしませんね」

そんなものだろうか?

歴史も積まず、優れた師にも恵まれない家に天才など生まれるものだろうか?

これはどの分野についてもいえることだが、真の天才とは人口に比例するものではなく、その文化的背景が大きく影響するものだ。

芸術の下地のないところにその道の天才は生まれず、数学を学ばない世界で数学の天才は生まれない。

知能の高さ、身体能力の高さなどで図抜けた人間は人口にも比例するのだろうが、それらと本当の意味での天才はまったく違う。

天才とは生み出すものだ、真似をするのではなく、新たに創造する力を持った人間――それらは積み重ねがない場所に生まれない。

生まれた家がそういう条件でなかったとしても、育った国がその条件を満たしていれば天才も生まれるだろうが、シュリンゲル一族は衰退の家。

ただ一人、世界に冠たる天才を生んだ家は彼女が生まれるずっと前からの近親婚により力は弱り、病気に悩まされ、現在までに生き残るのは彼女だけ。

あの家は閉鎖的で外との交流もほとんどなかった、そんな場所には天才など生まれない。

だというのに、彼女は特別なのだろうか。

「それより、学校には通われるのでしょうか?」

学校、玲菜に聞くのだからそれは中学校のことだ。

魔術師が学校に通う、別にないわけではない。

彼らとて人間社会と隔絶されて生きているわけではないのだから、人間社会で生活する上で学校などへ行くことはある。

玲菜はあまりそういう協調性を重要視する空間になじみがなかったので、ちょっと眉をひそめ、面倒臭そうに回答した。

「? 別にどうだっていいでしょう? 何かあるの?」

アーデルハイトは別にいやな顔をするでもなく、笑顔のまま答える。

「いえ、せっかく来ていただいた玲菜さんのためですから……地元の先住民の方々がおかしな妨害をしてきたときにお守りして差し上げようかと思いましたもので」

地元住民――いわゆる土着の魔術師達のことだが、魔術師というのは如何にも人間らしく中央では大組織を作って群れるくせに、自分の土地に余所者が来ることは嫌がるというダブルスタンダードを持っている者が多い。

群れを作りながらも、一方では孤独でありたい……矛盾する感情なのだが、それは吸血鬼という外敵が存在するために元々は孤立主義者ばかりであった魔術師たちが仕方なく群れを作るようになったという理由がある。

マクリール家のような名門、シュリンゲル家のような孤立主義を貫く衰退の家、そういった連中ですら結局どこかの派閥に属している。

それは弱いからでも、悪しき画一主義のためでもない。

単純にそれが最も効率のいい方法だからだ。

大昔、六大派閥の原型ができたころは派閥も脆弱でメンバーも少なかった、故に参加することに意義を見出すことは困難だった。

だが、吸血鬼との戦いの激化により群れの力を求めるようになった多くの魔術師達が大挙して派閥に加わるようになると、状況は一変する。

そこは世界の最先端をいく魔術の殿堂となり、吸血鬼への防壁となり、最も優れた研鑽の場へと姿を変えた。

そういう事情があるため、プライドを重視して自分の家だけで単独の研究を試みることはあまりにも浅はかなのだ。

だが、六大の派閥が伸張することを面白く思わない魔術師も当然存在し、彼らは自分たちの土地への余所者の流入を嫌う。

アーデルハイトはそういった排他主義者との抗争を警戒して言ったのだろう。

だが、玲菜にはその申し出も大してありがたい話でもなかった。

「先住民って……私のお父さんの家、元々この街にあるのよ。だから、言ってみれば私自身がその先住民」

「ああ、そうでしたか。それなら大丈夫でしょうね」

「それより、アデット?」

「? はい? アデット? 誰ですか、その方は?」

「貴女よ、貴女! 他に誰もいないでしょう! しっかりしなさいよ」

「……玲菜さんのその気安さはクレアさん譲りですね」

苦笑しながらも、まんざらではない様子で玲菜に続きを促した。

「で、アデット。私以外にこの街に魔術師はたくさんいるの?」

「いえ、そう多くもないと思いますけど……何しろ自営業者の方が多いのでこちらも把握しきれておりません。何より、私の管轄する地区が北海道くらいあるもので、巡回も年に一回くらいですから、会ったことのない方も大勢おられると思います。それでよろしいのでしたら、この街近郊に住む6名ほどの方にお会いして喧嘩をしないでください、と釘を刺しておきました」

「幼稚園の先生じゃないんだから……喧嘩をするなって言ってもねぇ、効果なんかなかったでしょう?」

そういわれて、相手は首を振った。

「いいえ、それが不思議なのですが私の前任者の代には激しかった勢力争いがここ一年ばかりは沈静化しておりまして、今は任務を果たして平和を維持できています」

アーデルハイトは本当に不思議そうな顔で言っていたが、中央の魔導師が突然出張してきたのだから、それもあるいは仕方のないことだろう。

六大の派閥とて、ここに軍隊を派遣するほどには結束力を持たないが目の前にいるただ一人の魔導師が吸血鬼を討伐した者なら警戒して当然だ。

何より、錬金術師にして騎士、『魔導師』の称号さえ手に入れた白き英雄に喧嘩を売るような自信家はそうそう現れないと思う。

そんな怪物の目的が平和を維持したいだけだというのなら、一々刺激する方が馬鹿というものである。

彼女は本当にそんなことにも気がついていないのだろうか?

「本当に、いい加減な話ね」

本音は隠していってみた。

「そうでしょうか? 平和になるのなら、いい加減でもそちらの方がよろしいのでは? それに、ここは世界の他地域に比べてかなり安全ですよ。吸血鬼も出ませんから」

「あ、当たり前よ。あんな化け物、出てきたら困るじゃない」

○○○○○

吸血鬼、三つのタイプが存在する怪物。
その数は100にも届かないが、彼らは人類全ての敵だ。
故に彼らを倒した者は例外なく英雄。

彼らを滅ぼしたければ、太陽と雨をうまく利用しろ。
彼らは太陽の下では弱者になる。
彼らは雨に当たれば力が半減する。

銀を打ち込めば、体も再生できなくなる。
完全に体を破壊すればそれでおしまい。
十字架と大蒜だけは止めておけ、彼らにそれは効果がない。

世にも恐ろしき闇を統べる者たち。
彼らは全て同胞であり、結束は固い。
彼らはただ一人を始祖と崇める、それ即ち最初の一人。

一つは王族たる古い吸血鬼……古の魔物、不老不死の超越者。
ただ一人を発端とする人とは別の種族。
一人の王と二十の子供達、二十一の中で生き残るは四。

彼らの中で純血はただ一人、それこそが王。
二十の子供達は皆、混血。
生き残るは一人の王と三人の子供達、合わせた数が四。

一つは貴族たる新しい吸血鬼……王の入れ知恵で堕落した五十の魔導師たち。
堕落者、禁忌を犯した者……人を捨てた悪魔達。
六十八の選ばれた魔術史上最高の天才たち、堕ちた五十の中で生き残るは十六。

一つは兵卒たるどちらでもない吸血鬼……意図的に創られた魔物。
堕落者たちの従卒、創造物。
古の時代よりの魔物、新しき創造物、二百の中で生き残るは六十四

彼らを殺せ、そう叫ばれて久しく、魔術師達は幾多の吸血鬼を屠ってきた。
生き残るは八十四の怪物……流派を超えて憎まれる彼らに安住の地はない。
しかし忘れるな、彼らが一人の例外もなく最強の敵である事実を。

古い吸血鬼は特に例外的だ、彼らは弱点など持たない。
新しい吸血鬼は伝承をそのままにした弱点を持っている。
どちらでもない吸血鬼も新しい吸血鬼に同じ。

注意すべきは古い吸血鬼……彼らの恨みは深く、その根源は数千の時を遡る。
注意すべきは新しい吸血鬼……彼らは自らを誰よりも愛するが故に人を捨てた。
注意すべきはどちらでもない吸血鬼……彼らは感情など持たない。

彼らに噛まれても安心しろ、君は決して吸血鬼には堕落しない。
吸血鬼は一種のプログラム、自力でソレを完成させる以外に成る方法はない。
だがそれは五十の天才達でさえ手助けを必要とした魔術、君には不可能だ。

もしも噛まれたときはさっさと自決すべきだ。
吸血鬼に堕落しない代わりに、君はすぐに彼らの操り人形にされるから。
それは決して望まぬ運命となるから。

○○○○○

「そうですね。でも、私の管轄地ではご安心を。地元の方々とも仲良くなって、地域の安全を守り続けますから」

何とも信じられない能天気そうに語る少女は余裕だからそう語るのだろうか?

確かにそれもあろう、だがそれがいえるのはせいぜい兵卒レベルまでの話、それ以上は数多の魔術師が束になってようやく一人ずつ撃破できる化け物。

アーデルハイトとて夜では彼らを滅ぼすことは難しいだろう。

「それはそうと……先ほどの話の通りでしたら、玲菜さんも吸血鬼に分類されますね。今は全て滅ぼされましたが過去にそういう種類の怪物がいましたから」

それは知っている、自分が薬を飲むのをやめるか、呪いに耐えられなくなったときに堕ちる怪物の姿は悪夢に何度も見た。

文献にしかその姿をとどめない怪物はとても恐ろしく、人の肉を口にする汚らわしい姿ばかりが思い浮かぶ。

吸血鬼というにはあまりにも違うその怪物、それは恐怖だ。

「……戦うつもり? それともチクるつもり? なら……」

古い吸血鬼の中でも『真祖造り』を可能としたただ一人を滅ぼした魔導師を相手に戦う? 

玲菜は自分でそういっておきながら、それがあまりにも愚かだとわかっていた。

勝てない、絶対に。

『魔導師』とは歴史に残るほどの偉業をいくつも為しえた人々だけに与えられる最高の名誉称号――五千年も遡るといわれる魔術の歴史上にも六十八人しか存在しない人々。

彼ら以外には使うことが出来ないほどの高度な魔術を行使する天才、その理論から派生した流派や魔術は数知れないという『魔術の世界を先へと導く魔術師たち』。

二千年前に六大派閥が出来て以降、古い時代の者まで検討に検討を重ねて数えられてきた人々で、その名誉は例え吸血鬼に堕落しても剥奪されることはない。

事実、称号が創設された時点でその多くが吸血鬼に堕落していた。

堕落した人々を称える行為に反感を覚えた少数派や単独で魔術を研究する魔術師達はその権威を認めようとしないが、六大派閥はただの大組織ではなくその研究において最高峰にあることは明らかな組織。

その最高学府が最早その道で並ぶものがないと認定する相手が凡庸であるはずもない。

実際に全ての魔術師は彼らを内心では認めている。

認めざるを得ないほどの才能の差を感じさせられるからだ。

魔術の世界は才能だけが全てではない。

努力と根気で大業を為しえたものは多い。

だが、魔導師に名を連ねた者たちの中にそういう人間は少ない。

故に吸血鬼は強力なのだ、本当の意味で百年に一人という天才中の天才が成った怪物なのだから凡百の人間達がおいそれと手出しできる相手ではない。

実際は少し違うがそれに類する吸血鬼を狩った相手に玲菜が勝てる要素など何一つなかったし、その確率はゼロだった。

いや、アーデルハイトが多くの狩人達と一緒に討伐に出かけた相手こそ全ての原因を作り出した吸血鬼だったのだからそれよりも悪い。

『真祖造り』あるいは『魔王』と呼ばれた古い吸血鬼の一人『メイサ』、先王の子供の中で唯一魔術に精通した者。

五十の偉大な魔導師を残らず闇に落とした悪鬼は、それ自身も強力な存在で数多の討伐隊を滅ぼしたことでも知られた。

それを討伐したが故に彼女の名声は百年経った今でも語り草になっているくらいなのだ。

「いいえ。そのようなつもりは毛頭ございません。思いますに、玲菜さんの場合は少し特殊でしょう。治せないわけではないのですし……ただここの平和を維持する者として貴女を監視することもあるかもしれません。ですので、今後ともよろしく」

現在、最強の一人に数得られている相手に殺意は感じられない。

まったく……この相手は本当に吸血鬼を殺した化け物なのだろうか?

「わかったわ、それは仕方が無いと思うし私も反対しない。それじゃあ、よろしく」

今度は差し出された手をしっかりと握ってやる。

「どうも。ところで、例の件は私も調査してみますから定期的にどこかでお会いすることに致しませんか?」

「あ、よろしくお願いね。それはそうと、会う時間までとってくれるの?」

「ええ、今度連絡しますね。お電話番号、伺ってもよろしいですか?」

○○○○○

玲菜が自分の携帯電話の番号を伝えると、アーデルハイトとのお茶会は幕を閉じ、玲菜はそのまま教会をあとにした。

雨が降る中、教会から出て行く玲菜を見送ったアーデルハイトは、すでに神父たちが自室に戻ってしまっていた教会の扉を閉めると、自らも与えられている部屋に向かった。

階段を上るときに見える外の光景――雨が降り、すごく冷たそう。

そのままに階段を上りきると、自室のドアを開けてその中に入る。

質素な部屋――まるで生活感がなく、整頓された机やベッドだけが放置されている。

ため息をつくと、眼鏡を外し、服を脱ぐ。

「玲菜さんか……すごく弄り甲斐のありそうな人。これからはもう少し楽しくなりそうね」

悪役じみた笑いを浮かべ、これから面白くなりそうな生活に期待を馳せる。



[1511] 第一話 『満月の夜に』
Name: 暇人
Date: 2006/11/10 02:08






春――桜の花が咲き誇り、新しい試みを歓迎する季節。

溌剌とした新入社員や新入生が新しい人生のステージを迎え、活躍と研鑽の場に向かっている。

ここ高笠市にある星霜学園高等部でもつい先日入学式を終え、新学期が始まろうとしていた。

新入生達は真新しい制服に袖を通して、クラブを見学したり、学校内を歩き回ったりして新しい環境へ慣れようと必死だ。

しかし、大学受験ほどの慌しさはないとはいえ高校受験を戦い抜いた新入生達の顔には開放感が見て取れる。

笑顔も自然とこぼれ、中学のときからのなじみの友達とグループで談笑している姿もある。

いずれ新しい友人関係が構築され、廃れていく関係もあるかもしれないが同じ高校を選んだ者に対しての近親感が彼らを必要以上に接近させているのもこの季節だからだろう。

窓際の自分の席からそういう光景を眺めながら、俺はあまりやる気のしない古文の授業を聞いていた。

言い忘れていたが俺は篠崎公明。漸くここの二年生になったところだ。

星霜学園は県内で言えば、まぁ上位の学校。

世間では有名な進学校ということにはなっている。

しかし、そういう学校だから授業は結構難しい。

というより、これがどうして人生の肥しになるのかが今のところはわからない。

もしかしたら、大学で古典を学びたくなるかもしれないし、実はまったく役に立たないのかもしれない。

あるいは視野を広げるという意味で役に立つかもしれないし、教養として心の平穏だとかに貢献してくれるかもしれない。

でも、こういうことは予めどういう役に立つのか伝えてくれていた方がいいと思う。

だって、とても大切なことなら居眠りするのももったいないし、ためになるのなら聞くべきだ。

なのに、それが大切なことだとそのときに分かっていなければとても損をした気持ちになると思う。

「篠崎、徒然草の最初のページを読んでくれ」

古典の三原晴彦、60代のベテランでもうすぐ定年という我がクラスの担任でもある先生だ。

白髪頭のどこか愛嬌のあるお爺さんという風貌。

「はい……あの、読みますよ」

席をひいて立ち上がると、真新しい教科書をめくって「徒然草」のページを開いた。三原先生が首を振って合図したので、本文を読み始める。

「……徒然なるままに、日暮、硯に向かいて心に移り行く由無し事をそこはかとなく書き綴れば、あやしゅうこそものぐるおしけれ……」

「よし、そこまで」

席に着くと、吉田兼好がこの文を書いた解説が始まった。

必ず喋るときに『え~、』と入れる先生の癖が面白くて前に数えたときは100を超えたのだが、今日は割りにスムーズだ。

やる気がないことは確かに問題だが、どうにも眠いな。

欠伸をしながら、ふと教室を見回す。

そういえば、このクラスには学園一の有名人がいた。

あまりにも異質だから目立つのは当然だが、その人となりもどこか変わった人。

ドイツかどこかの人間らしい金髪碧眼の女生徒で、ここの生徒会長をしている二年生、たしかシュリンゲルといった。

話したこともないし、話しかけられる雰囲気じゃない相手。

そんな話題もないし……。

少なくとも日本語は流暢だし、こっちが話しかければ答えてはくれるのだろうが、モデルのような外人に話しかけ、仲良くなるだのは映画か小説の世界の話だろうな。

今も教科書を開いて、授業を聞いている相手はどうしてこんな大昔の文学を簡単に飲み込めるのだろう?

俺にも外国語にしか見えないのに……。

因みに、彼女に話しかけたくない理由もないわけではない。

オカルト研究会だとかいう不気味なクラブの長をやっているからだ。

やっぱり日本人が部長をやっているよりも、外国人が部長の方がずっとオカルトっぽいのだが……あまりにもそれらし過ぎて、正直不気味なものがある。

そういうわけで、あの研究会は浮きまくっている。

呪いの儀式だとかをやっているのではないかという噂が真剣に立つくらいだから、その存在はある意味で都市伝説。

部長が生徒の絶大な支持を受けていなければ、その維持すら困難だったと思うのだが……オカルト研究会の部長としての彼女ではなく、生徒会長としての彼女の支持が圧倒的なので誰もアレを廃部にしようなどとは提案しないし、その運動さえない。

確かに彼女は生徒会長としては有能だ。

というよりも、あまりにも無茶が多く、誰もそれを止めない上、たまたまそれがうまくいっているだけのように思えるのだが。

例えば、昨年度の生徒会費の残りを学校側と交渉の末、株や先物取引とかで運用することを許可してもらったとかで、今年は予算が十倍にもなったとか。

倶楽部の部費も十倍になったわけだ。

生徒会費の残りとはいえ、株取引などという危ない橋を渡ったとの批判がおきそうなものだが、部費が十倍にも増えれば結果オーライと考える人が多いのだ。

そのため、彼女の人気は部活動を行っている生徒を中心にとても固い地盤に支えられている。

それに実務はちゃんとこなしているし、備品や施設の運営は見事としか言いようがない。

壊れていた備品がすぐに修理されたり、交換されたりするようになったのは彼女の代になってからというのは最早常識。

だから、対抗馬が出ても勝てるわけがないのだ。

しかし、本当にそれでいいのか?

どんなに有能な会長が贔屓にしている倶楽部でも、あんな不気味な活動をしている研究会を解散しないなんて、どうかしてるだろ?

そうなのだ、あそこに入る人間などいるわけもない! そう思う。

というより、幽霊部員とはいえ部長以外に部員が二人もいる時点で生徒会長の裏工作でもあったのでは? と疑いたくなる。

そう考える俺は少数派……おかしいぞ、それ。

世間がおかしい、それ以外に理由がないくらいにおかしいだろ。

「よし、それじゃあ、今日の授業はこれまで」

この退屈空間から解放される声が教室に響き渡った。

思わず、大欠伸が出た。

とりあえず、退屈で仕方のない時間が終わりだ。

そのまま、学校の授業は順調に消化され、全てが終わると、ようやく帰宅の途につけた。

しかし、今日は退屈だった。

何故か、退屈していた俺は見学や新入部員達で賑わっていた友人達のクラブを遠めに見ていた。

中学のときに同じクラブにいた友人は高校でもそれを続けていて、俺は辞めていた。

今なら負けるかもしれないな……そう思いながら、道草を終える。

そのとき、忘れ物を思い出して教室に一度戻ることになった。

誰もいない教室で、机を探すがそこには置いてなかった。

ロッカーを捜索したとき、そこで探し物は見つかった。

カバンに収めると、廊下を歩いて三年生の教室の前を通り過ぎる。

教室には勉強中の先輩達――受験生なんだな、そう思い出される。

自分は進学校にいながら、あまりやる気はない。

クラスメイト達もすごく頑張っているようには見えないのだが、陰でやっているのだろう。

そのまま、階段を下りていると口論する声が聞こえてきた。

女生徒同士の会話――両方とも俺の知っている相手だった。

一年生のときのクラスメイトと近所の幼馴染。

「浅海、今日は満月ね……この前の夜みたいな舐めたことしてくれたら、今度は絶対に貴女を殺しますから、おわかり?」

白川綾音……近所に住んでる昔馴染みで、黒髪の美しい生徒会の書記。

気の強いところが合って、長い髪をした令嬢然とした清楚な印象の美少女。

「アヤネ……うるさいのよ、貴女。そこをどきなさい。それに、アデットに言われて止めたんじゃなかったの?」

一年生のときのクラスメイト……浅海玲菜。

セミロングの茶髪、碧の瞳のハーフの少女。

どちらかといえば、綾音によく似た我の強そうな相手。

話したことはほとんど無いが、生徒会長とは違ってまだ日本人っぽくも見えるので現実的に人気がある少女。

綾音と人気を分け合うとか何とか。

そんな学園のアイドルみたいな二人が『殺す』だの、危ないことを口にしている。

その言葉の重みは日常会話で聴くのとはまったく別だ、あれはふざけて言っているいい方じゃない。

完全に殺意がある言い方だ。

身を潜めて、その会話に耳を傾ける。

「言うのね、でもあの人は余所者でしょう。それに、ここは我が家代々の……? まぁ、いいわ。一応、伝えたから」

「? ……そうね、それじゃあ。さようなら、白川さん」

「ええ……こちらこそ御機嫌よう、浅海さん」

俺の存在に気がついたのか、二人は会話をやめるとすぐにわかれた。

どちらかがこっちに来る。

別に隠れるようなことでもなかったのだが、アイドル二人が『殺す』なんて物騒なことを言っている場面を見たすぐあとに出会うのは気が引けた。

すぐに隠れようとしたが、階段だから逃げ道は上か下しかない。

すぐに上に駆け上がろうとしたとき、後ろに現れた少女に呼び止められる。

「コーメイ――貴方、今の聞いていた?」

その声は綾音のもの。

キミアキという本名をそう呼ぶのは昔馴染みでも彼女くらいのものだ。

何でも『そっちの方が賢そうに聞こえるから』だそうだが、失礼だと思う。

俺は確かに天才でもないが馬鹿でもない、それくらいは理解して欲しいものだ。

振り返ると、令嬢然とした彼女の姿、色白で華奢な体つき、病弱そうな印象も受けるのだがそんな見掛けとは違ってものすごく活動的な少女は胸の前で腕を組んだまま、階段の途中にいた俺を見上げた。

「……いや、久しぶりだな」

「ええ、家が近いにしては久しぶりね……で、お元気?」

「まぁ……な。それより、らしくなく本気で喧嘩か?」

言われる前に言ってしまった、その方がダメージは小さいだろう。

「いいえ。別にそんなことはありませんけど、彼女とは馬が合わないのによくよく縁があるものだから。ああいうことがあるのは仕方のないことでしょう?」

クラスが同じ、幽霊部員とはいえ倶楽部も同じ、確かに縁はある。

顔を合わせたくない相手とよくよく会うのは気分のいいものじゃない、それは俺にもわからないではないからとりあえず頷いておく。

「それは……そうだろうけど、夜中に浅海と喧嘩? おかしなことでもやってるのか?」

「この私が夜中に出歩く? そんなことは言っていません、聞き間違いよ。それも失礼な聞き間違いだわ」

「? そうだったかな?」

自信家の綾音に力強く断言されると俺の自身はすぐに消え去った。

確かに聞き間違えだったかもしれない、そう思うようになる。

「ええ、そうでした。それよりコーメイ、貴方はあの吸血鬼女と友達なの?」

「吸血鬼女って……浅海? いや違うけど、何で吸血鬼?」

「吸血鬼みたいな顔をしているでしょう? だからです!」

よくわからない悪口だが。

「吸血鬼顔っていわれてもなぁ……俺も会ったことないし。でも、とりあえずお前らの仲が悪いのはわかった。でも、女が殴り合いの喧嘩だけはするなよ、女は顔が命だから」

「ご心配なく。私はそんな野蛮人じゃありませんから。それより、これから帰るのなら途中にいい店が出来たから一緒によらない?」

本人がどこまで自覚しているのか……幼馴染とはいえ学園のアイドルの一人とそんな風に店に行くのはデートと思われないだろうか?

別にそれ自体は気にならないが、周りの人間の視線は痛いほど感じるからな。

「ああ、いいけど」

何故だろう? そう誘われると断れない俺の性格。

「よかった……それと、あの女には近づかない方がいいわ。あれはとんでもない暴力女だから」

階段を下りながら、ひたすらに浅海の悪口を言う綾音。

不思議なことに彼女の言い方は聞いていて気分の悪くなるものではなく、まるで彼女自身のことを言っているようにも聞こえて面白くもある。

あの二人の性格は似ているから。

人の悪口をいわない綾音がこうまで言うのはしかし、珍しい。

二人で寄ったのは最近オープンしたばかりの若者向けの喫茶店、近所の大学生や近くのOLが多い。

そこで最近のお互いの近況報告などを語ったり、世間話をしたり……そのまま、六時くらいにお互いに別れた。




○○○○○




春の六時はわずかに薄暗くなり始めている――そのまま、歩いて自宅に帰る。

単身赴任中の父親は当分帰らないし、母親は昔亡くなった。

兄弟もいないからこの家は一人暮らしの俺には広すぎる気がする。

一人暮らしが始まった当初は友達を家に呼んで飲み明かしたりしたものだが、片付けも面倒だし、ドンチャン騒ぎを何日も続けていたせいで近所から苦情が来たから今はそんなことはしていない。

まったく、面倒だ。

そう思いながら、簡単な食材で夕食の準備を始め……適当に食事を済ませる。

料理本を見て研究するほど食に拘りがあるわけでもないから食事はあっという間だった。

そのあと、テレビをつけニュースを見ていると、突然電話が鳴った。

携帯電話の方で出てみると、相手は学校の友達だった。

「……ああ、なんだアキラか。なんか用か?」

『いや、悪い。俺、明日の宿題が終わってなくてさ……終わってたら、貸してくれない? この前買った格ゲーがあるから勝負もしたいし、な?』

「ん~、でもお前の家って自転車だと滅茶苦茶遠いじゃないか。お前が来いよ」

『いいだろ、そっちは門限もないんだから。こっちは門限ありで、うるさいんだよ。それにどうせ一時間くらいだろ?』

「お前は……一時間もかかる場所に住んでて人を呼びつけるなよ。他な奴はいないのか?」

『いないよ、俺友達少ないし。それに今のクラスの友達ってお前だけだし』

「……そういうことをマジトークするな、断れなくなるだろうが」

『よし、なら来てくれるな?』

「ああ……わかったよ、面倒だけどいってやる。ったく! そっちが一人暮らしなら、ビールの一本でも出してくれないと割が合わないぞ。今日は特別に菓子と茶でも出してくれれば、来週提出のやつも持ってってやるから用意しとけよ」

『悪いな、恩に着る……じゃあ、早く来てくれよ』

携帯電話を切る……時計を見れば、7時前。

普通に考えて、高校生を呼び出す時間じゃないだろう。

この分だと、アイツの家に着くのは8時だっていうのに……面倒だな。

だが、そう思いながらも俺はアキラの家に自転車を走らせていた。

自分しか友達がいないといわれれば、無碍に断るわけにも行かない。

ああ、本当にお人よしだな、俺は。




○○○○○




アキラ、清水明の家は街の外れの田園地帯――こんな場所から学校へ通学しているのは正直、あの男くらいのものだろう。

隣町の学校の方がはるかに近いのに無理をしてより偏差値の高い学校を選んだというのだが……それなら宿題くらい自分で何とかして欲しいものだ。

だがアイツも毎日こんな通学路をよく通う、それだけは尊敬してやる。

春の風が冷たく、足が疲れてくる。

周りはすっかり暗くなってしまったし……そう思っていると、ようやくアキラの家に着いた。

宿題を渡してやると、そのままゲームや菓子で体力と精神力を蓄える。

門限に厳しいという親なのに、友達が来るのはOKで、その友達の帰りが遅くなるのは許容するというのはどういう基準なのだろう?

「よし! サンキュー、とりあえず全部終わったよ。そのゲーム、なかなか面白いだろ?」

「まぁ、な。ただ、技が簡単なのは別にいいけど……グラフィックがイマイチだな。派手にしろとはいわないけど、正直ゲームの趣旨からすれば迫力不足。それよりお前って、何で宿題なんかに必死になってるの?」

隣に腰を下ろしたアキラは菓子をつまみながら、コントローラーを手に取る。

アキラとの戦いが始まった。

「いや……俺は別にこだわりたいわけじゃないんだけど、推薦枠って少ないからな。俺の志望校って普通に入るの難しいから」

「何だよ、そんなことか。おっ! なんだ、お前強いな」

「当たり前だろ、何時間やりこんだと思ってんだよ」

二人の対戦はアキラの圧倒的な勝利で終わった。

もう少しすれば勝てると思うのだが、10時を過ぎれば流石に門限がなくても明日の授業に差し障りが生じるから帰らないわけにも行かない。

「じゃあな、今度は俺の家に飲みに来いよ」

「まあ、親がいないときになら……じゃあ、今日はありがとう」




○○○○○




自転車を走らせ、バカみたいに遠いアキラのいつもの通学路を走る。

とんでもなく面倒に感じてきた、辺りには水田や畑のある家が多く、山も近い。

流石にこの辺りはとても静かで、春だから虫の鳴き声さえほとんど聞こえず寂しくもある。

まるで世界に自分しかいないような錯覚を覚えるが、時間が着実に過ぎていっていることを考えると明日の授業に出るのも憂鬱だ。

10分くらい走らせたときだった。

アキラから聞いた近道である人通りの少ない林道を通ったとき、まるで狼の遠吠えのような獣の唸り声がどこからか聞こえた。

思わず、自転車を止めて周囲を見回した。

アキラ曰く――この辺りは熊が出る。

流石に熊が実際に出てきたら、まぁ逃げるしかないだろう。

素手で戦って勝てるわけも無く、武器になるものもないのだから逃げ切れなかったときは俺の死亡記事が夕刊を飾っているだろう。

そう考えると自然と汗をかく、次第に心臓の鼓動が高まっていく。

それにしても、今のが熊の声か? 

いや、そんなまさか、嘘だろ? 

熊どころか、あれは狼そのものじゃないか。

普通に考えれば日本に狼は現存していない、だが野良犬とは迫力が違った。

だが、とりあえず辺りにその気配はない……あれは割りと近く聞こえたものだったが、いつ移動してくるかわからないのは怖かった。

仮に熊でなくて、狼だとすればその足の速さの点でなお性質が悪いことにさえなるではないか。

逃げられないのではないかと考えると流石に怖くて、そのまま自転車で全力疾走してその場から離脱しようとした。

しかし、その直後、自転車が走る道を少し入った脇にある別荘風の山荘の壁が吹き飛んだ。

「え……?」

俺は逃げ出すタイミングを逃して、その場に自転車を止めていた。

山荘の壁がまるで翼のある鳥のように俺の前を飛び、道路上に降り立った。

それはスローモーションのようで、あまりにも非現実的な光景――口が開いたまま、自転車の上で呆然としていた。

壁が吹き飛ばされた山荘……わずかに明かりが漏れるその場所を見つめると、思わず俺は絶叫していた。

その壁をぶち壊して出てきたのは、三メートル近い巨体に銀の体毛を生やし、血のように赤い瞳をした二足歩行の狼。

いや……狼などという生易しいものではない、ゴリラのように発達した上半身、細長くも筋肉が盛り上がっている下半身、本来は前肢と形容すべきその場所は人の手のようになっており、指先の爪にはナイフか包丁のような鋭さと長さが与えられていた。

だらしなく口から涎を零し、牙をむき出しにした銀の怪物……映画の撮影か?

ありえない化け物は俺を、獲物を襲う肉食獣の眼で睨み付けた。

鋭く、殺意というよりは食欲に支配された怪物の瞳は俺の体から自由を奪っていく。

現実が遠くなっていく……こんなありえない光景に俺は道の上に尻をついて倒れこみ、腰が抜けていた。

化け物が、人の頭など一飲みにしてしまいそうな大口を開けて、ものすごい雄叫びを上げた。

身が竦む、殺されると思った。






[1511] 第二話 『月夜のアルテミス』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 21:33






星々が煌めき、月の女神の玉座を飾る。

月の女神――ギリシャの古典においては『アルテミス』の名で称えられるその姿は、今夜命の危機を感じる人間には死を内包した妖しい美しさに感じられた。

彼の女神が放つという銀の矢でもこの怪物は葬れないだろうと思いながら、今宵最期となるであろう俺の眼は空を見上げていた。

これを見るのは最後になりそうだから繰り返そう……月が綺麗だ。

そうなのだ、空には白い月が今までで一番綺麗な光を放っている。

――なんて綺麗な満月だ……見納めに最もふさわしい光景だ。

大気は未だに冬の冷たさを忘れられず、懐かしむようにそれを再現する。

そして、俺の目の前には狼男としか形容しようのない怪物。

夢だ、これは夢だ、夢でなければ絶対におかしい。

だが、どれほど希っても現実はそれを否定する。

この現実という魔術師は俺を死へと誘うつもりのようで……狼男はそのまま手を着いて、本物の狼のように俺を目掛けて疾走してきた。

まるでそれはライオンに襲われる草食動物が最期に見る光景だった、もっともライオンなどよりも断然恐ろしく見えたが。

しかし、それは当然だ……テレビで見る動物は弱肉強食の世界で生きている、俺はそうじゃない、だから感じる恐怖なのだろう。

その上、狂気しか感じられないが相手の目は少なくとも人間の眼に見えたからその恐怖は際立っていた。

人間に殺される、それは他の何者に殺されるより恐ろしいことだ。

「あ……ぅ……」

声にならない、口ばかりが動く。

化け物が目の前に迫った瞬間、死を覚悟して眼を瞑った。

ありかよ、こんな死に方するなんて……世界で俺だけじゃないか?

こんなに不運な男が世界の何処にいる? 

狼男に食われて死ぬなんて現実離れした死に方を一体俺以外の誰がするっていうんだ。

だが、俺の黄泉の国への旅立ちはその瞬間には訪れなかった。

風を切って、狼男を射貫いた弾丸がそれを止めたのだ。

眼を開いたとき――銀で出来た弾丸に肩を貫かれて、苦しみもがく狼男の体は俺の5メートルくらい先に転がっていた。

道路を削り取るほどの爪が空を切り、自分を狙撃した相手を探し回る赤い瞳が怪しく光っている。

「? コーメイ!? どうしてここに……いいえ、早く逃げなさい!」

知っている声に俺が気がつくと……崩れ去った壁から怪我をした様子の綾音が肩を押さえたまま、拳銃を構えて立っていた。

制服の肩からは止め処なく血が流れ、実に痛々しい。

狼男の赤い瞳が自分を撃った綾音に気がついて、咆哮と共に襲い掛かった。

「ちぃ! バカにして、何度も何度も……簡単にやられる私だと思わないことね!」

彼女の手の拳銃が火を吹いた。

44口径――化け物みたいな拳銃を彼女はなんと軽々と扱うのだろう。

銃を撃った衝撃などほとんど感じさせない、そんな彼女の指は次々に弾丸を放つ。

放たれるは吸血鬼殺しの銀の弾丸――受けた傷は彼らにとっても致命傷になるといわれる魔物殺し。

激しく音を立て、風を切り裂く速さで狼男の体に5つの穴を開ける。

その嵐のような射撃にたまらずよろけた相手に、綾音は刀を構えて韋駄天のような疾走と共に切りかる。

信じられないことだが、今の綾音なら男子の世界記録でも容易に抜くのではないかと思えるほどの速さ。

だが、狼男もそれは同じだったか。

獣の傷口から煙が立ち昇っているが、それはダメージを回復している証拠だろうか。

「はあぁぁ!」

全体重を乗せた刀の一撃。

響き渡る鈍い音、それは硬すぎる筋肉の鎧を貫いた刀の泣き声。

渾身の一撃を受けた狼男の腕が切り裂かれ、鮮やかな赤い花が当たりに舞う。

しかし、狼男の太すぎる腕を切断するには刀の強度が持たない。

腕の半分、骨に刃が食い込むくらいの一撃の後、怒りに燃える瞳で狼男が繰り出したのはまるで槍のような突き。

綾音は咄嗟に狼男の腕を蹴り上げて宙に舞うことで、まるで弁慶と戦う牛和歌丸のような、宙を歩くかのような動きでそれを優雅に躱しきり、見事に地面に舞い降りた。

それだけですでに人間業ではない、あのような怪物に自分から挑むだけでも並みの度胸ではないのにその怪物にあれだけの傷を負わせるのだから。

「くっ、どうしてなの? どうして銀弾だけでなく、御神刀まで効果が!?」

吐き捨てるように愚痴を言った綾音は再び獣と切り結ぶ。

続けざまに起こる鮮やかな打ち合い、それは風の楽団の演奏。

剣と爪が奏でる歪な二重奏は不快でありながらも、聞くものを放さない不思議な響きを放つ。

とても鋭く、まるでナイフのような黒い爪が白銀の刀と切り結ぶ。

それは獣と剣姫が演じた剣の演舞。

その一撃一撃が火花を起こし、幻想的でさえある光景が展開された。

まるで風のような速さで打ち合う両者の動きを完全に捉えることなど不可能だった。

綾音の疾風の剣戟は鮮やか過ぎる真紅の花をいくつも咲かせ、その刀はまるで狂気へと突き進む楽団を指揮するタクトのように優雅に振られる。

その剣先を目視することなど人間に出来るはずもない、そう思えるほどの高速剣。

人ならざる力で振るわれる刀はものすごい音を立て、相手を切り裂き、白銀の羽を羽ばたかせる。

俺はまだ逃げることが出来ずにその場で腰を抜かしていた。

常識を超えた両者の動きと、その異常なまでの迫力に完全に飲まれていたのだ。

まるで地面に張り付いてしまったかのような腰はせっかくの綾音の時間稼ぎを無駄にしてしまう。

咄嗟に獣との距離をとった綾音は刀を地面に突き刺すと、右手を獣に向けて、呟くような声ですごく早口にそれを紡いだ。

「世界潤す水を司りし者、我ここに白川の名において命ず、汝古き盟約の友よ! 今このとき、盟約に定めし務めを果たせ、清浄にして神聖なるその身を我が剣と変え、我が弓矢と変え、邪なる魂魄に制裁を!」

それは歌うように軽やかで、風のように速い詠唱。

わずか数秒の出来事。

だが、命の危機にある俺にはまるで永遠にも感じられた。

「大気漂う水よ、我が魔力が汝に力を与え、我が幻想が形を与え、我が言葉が意味を与える――」

言葉を紡ぎ始めたとき、青い光が綾音の手の平に輝き、辺りに凄まじい風が吹き始めた。

「我らを守るは古の水、偽り照らす水鏡の王、優しき光を纏い世界を包む汝の御手に触れし我が手にあるは氷結の弓、百の壁を抜き、千の敵を討ち滅ぼす真理の矢!」

まるで小さな台風でも近くを通過しているように辺りの木々が激しく揺れ、風速にして十メートルを超えるような風が俺の頬を打った。

言葉が完全に紡がれたその瞬間――それは嵐の前触れに過ぎなかったと思い知ることになった。

身構えていた綾音の手には銀に輝く弓矢! その鏃は細く、光を反射し、途方もない力が込められていることがわかる。

そう、弓はただあれを打ち出すだけの飾りだ、対する矢は素人目に見てもあれはヤバイとわかるもの、狼男も当然それに気がついていた。

「■■■■!」

何と叫んだのかもわからない咆哮を上げると、獣は大地を蹴り上げて突撃してきた。

装甲車のような印象を与える絶対の攻撃、まともに受ければ銀行の金庫も穴が開くのではないかと思えた。

「貴女には悪いとは思いますけど……この私に手傷を負わせたのだから、腕が上げられなくなっても恨まないで欲しいものね!」

叫んだ綾音は引き絞った弓から銀に輝く氷の矢を高速の速さで打ち出した。

野蛮なアルテミスの一撃はまるで光。

それは俺の動体視力などでは目視など不可能だった。

辺りの大気が恐怖で震えるほどのエネルギーを放つ戦車の砲台、その印象は当たらずしも遠からずだろう。

放たれた矢は一秒にも満たぬ一瞬のうちに、耳を劈くはずの音さえも置き去りにして、突撃して来た獣の肩を見事に打ち抜いた。

獣を撃ちぬく瞬間、まるでガラスが割れたような音、その瞬間に肌を凍てつかせる零下何度という冷風が突風のように俺の頬に当たった。

矢は間違いなく狼を打ち抜いた、いや、そんな生易しいものではない。

それは骨の粉砕さえ狙っているとんでもない威力の一撃。

獣の数百キロもの体重が宙を舞い、獣の体がぶつかった木を一本ほどへし折ったほどなのだ。

あれで手加減など考えていたらそっちの方が驚きだ、間違いなくあれは本気。

当たればあるいは戦車でも吹き飛ばされただろう、まるでミサイルみたいな攻撃は人の手で為された一撃、仮に戦車を破壊できないとしても戦闘ヘリを落とすくらいはするだろう。

在り得ない光景といえる、氷の矢がそれほどの威力を発揮したのだからそれはすでに魔法だ。

当然だが、悪夢のような一撃をまともに受けた獣はぐったりと倒れ、その肩を完全に粉砕した氷の矢は大気の熱に溶けるように昇華していった。

狼男が起き上がることはないだろう、あれだけの一撃を受けて立てる生物がこの世に居るとは思えない。

これは夢だ、夢でなければおかしい……人間にあんな真似が出来てたまるか、それも俺の幼馴染が。

そう心の中で叫び続けた。

倒れた狼男の死体を睨みつける綾音の顔は今でも険しい。

見事に倒した相手への警戒をまったく解いていないのがわかった。

「矢の効果がかき消された? あれで仕留められないなんて、どうして!?」

綾音がそう呟く。

俺の視線も綾音から狼男へと移るが、まるで体中から蒸気を発しているような状態の狼男が再び立ち上がってきたのだ。

骨まで見えた肩の大穴が徐々に塞がっていくのが見える。

気持ち悪くて吐きそうなほどグロテスクな傷から流れる血が蒸発するほどに熱を放ち、赤い瞳に恨みと憎しみの感情だけが見られる。

「障壁は全部打ち抜いたはずなのに……アサミ、貴女わざとやっているの? それとも、これが世に言う『対抗力』? だとすれば、なるほど。魔術が効かないというのはそういう理由……」

激しく疲弊した様子の綾音は再び刀を手に取りながら、狼男に文句を言う。

その文句の意味などわからないが、まるで知り合いにでも愚痴を零すようだった。

「ぐるぅぅう!」

狼男にはそんな気配はまったくない、痛む傷の賠償を求め、贖うための血を、肉を奪い取ろうとする獣の姿がより醜くなっただけだ。

「安心しなさい、今度こそ沈めてあげるから!」

刀の少女は再び疾駆する、流れる星の如く燃え尽きようとする生命の全てをかけて、目の前の怪物を打倒するために走る。

両手をフルに使って攻めてくる狼男と、ものすごい太刀筋でそれを全て打ち払う綾音! 攻撃の手数と速さならば獣が押しているのは明らかだが、ただの力押しでしかない相手の攻撃はやすやすと打ち払われている。

だが、だからといって綾音ばかりが攻勢なわけではなかった。

その一撃を受け流すだけで、肩を怪我している綾音の顔が苦痛に歪む。

骨がきしみ、その筋肉が引き裂かれるような痛みが彼女の華奢な体を痛めつける。

彼女を責めさいなむ狼男の方はというと、恐るべきことにこちらが拳銃で与えたダメージ、刀で切り裂いたダメージさえどんどん回復していく。

それはまるで汚れを水で流したときに白い肌が露わになっていくときのように。

まるで怪我などただのこびりついていたただの泥であったかのように。

氷の矢、刀傷や銃創を受けた箇所は完全に元の状態が再現され、その細胞が再構築され、傷つきながらも必死の反撃を試みる綾音をあざ笑う。

「馬鹿っ、コーメイ! 何で逃げないの! 早く、私が押さえているうちに逃げなさい!」

こちらを一瞬振り向いた綾音が必死にそう叫んだ瞬間、その一瞬の集中力のと切れが命取りだった。

相手の爪にばかり気を取られていたとき、不意に繰り出された蹴撃。

当たる瞬間に刀を寝かせて受けたが、相手の体にはその程度では傷さえ与えられない。

響き渡るのは綾音の体に獣の攻撃が食い込んだことを知らせる鈍い音。

蹴られた綾音の華奢な体はそれだけで壊れるのではないかというほどの勢いで、俺が腰を抜かしている方向へ吹き飛ばされた。

まるで大砲が打ち出した弾がそのまま木に激突したみたいだった。

幹が太い木に背中から打ちつけられて、小さなうめき声を上げた綾音はそのまま気絶したようだ。

「おい……綾音!」

思わず、駆け出していた。

今まで俺の体を縛っていた恐怖がその瞬間だけ、退けられた。

木に背中を打ちつけた綾音を見れば、肩の怪我は甚だひどく、よくあれだけ動けたと思うほどだった。

おそらく爪で引き裂かれたのだろう、焼き鏝を押し当てられたような激しい痛みだったはずなのに、凄まじい精神力だ。

だが、彼女を介抱する暇など与えられてはいない。

俺の後ろで怪物が勝利に酔ったような咆哮をあげ、じわり、じわりと……迫ってくる。

俺の真後ろに来た狼男、俺は相手を引き離すために、じわじわと綾音から遠ざかっていた。

だから、相手に追いつかれたとき、綾音はとりあえず追加攻撃を受けないだろうほどの距離、俺は何とか相手を彼女から引き離すことに成功していた。

だが、相手に勝つ手段などない……ただ相手を睨みつける。

見つめる獣の瞳は獲物の最後の抵抗を楽しむように、見えた。

瞬間、俺の首を刎ねるように繰り出されたナイフのように鋭い爪、腕の軌道さえ見えなかった攻撃を何とかしゃがんで躱した。

背中を引き裂かれた痛みが俺の足を止めようとしたが、咄嗟に拾った枝を掴むと咆哮と共に相手の銀色の体に叩きつけた。

腕が枝ごと砕けるのではないかと思うくらいに硬い体、それは筋肉の鎧であるだけでなく何かしらの金属でも仕込んであるのではないかと疑うくらいに硬かった。

綾音が数十合も打ち合った相手に俺はたった一撃で蹴り飛ばされ、そのまま硬いアスファルトの上に倒れた。

十メートルくらいは宙を舞った……体の骨が折れたことは確実、内臓もいためたかもしれない。

受身など取れるはずもなく、叩きつけられた瞬間は呼吸も止まるのではないかと思うほど痛かった。

俺の背中をえぐった爪を長い舌で舐めながら、その血を味わう獣は一舐めごとに極上の、残酷な笑顔を浮かべ……最後に止めを刺そうと迫る。

体が動かないことは確実、立つことも出来ない。

綾音も起きる気配がなく、例え起きたとしても彼女に逃げて欲しいだけだ。

どうしてこうなったのか、綾音があんな場所に居たのは何故か、そんなことはどうでもよかった。

本当に重要なことはこれが現実で、俺達が殺されようとしているということだけだったのだから。








[1511] 第三話 『夜の終わり』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 21:27




そのとき、獣が迫る音と同時に場違いな拍手が聞こえてきた。

――パチパチ――

聞き間違いではない、確かにそれは戦場に響く拍手の音だった。

その拍手の主を探した獣と俺の視線は同時に、同じ場所を捉えた。

――森の中――

月の明かりが降り注ぐ――優しい光の下、拍手を送った相手の顔が見える。

それははっと息を呑むほどの光景、獣さえもすぐには動けなかった。

その場所には金髪に制服を纏った少女、そのブロンドのストレートヘアが月の光で輝き、白い肌はより白く見え、眼鏡の下の碧眼と俺の眼があった。

彼女は間違いなく、クラスメイトの生徒会長。

静寂が復権を果たした森の中、彼女は優しい声で語り始め、今まで背を押し当てていた木から体を離すとこちらに歩み始めた。

「素晴らしい頑張りでしたね、公明さん」

冷静にあの優しげな声で彼女が口にするのは俺の名前、俺を賞賛するために拍手する彼女はまったくこの空間の空気がわからないようだった。

これが夢でもなければ、こんな光景は在り得ない……俺はもう死んだのだろうか?

「■■■■■■!」

彼女の登場に呆気に取られていた獣は威嚇の姿勢を整え、低い唸り声を上げ始める。

それは犬が喧嘩するときに上げる威嚇の声に似ていたが、迫力はまったく違う。

目の前の巨大すぎる肉食獣が上げる唸り声はとても恐ろしい。

灰色狼フェンリル、北欧神話にあって忌み嫌われる獣、この狼はまるでそれのようでさえあったのだ。

「綾音さんも自分で豪語するだけあって、素晴らしい達人ぶりでした。ですが、これから先は私にお任せを……」

戦場を駆るヴァルキリー、死者を選別する死神にして侍女たる伝説の美女は彼女のような姿か? 獣の威嚇さえ風のように受け流し、道上に歩み出たときに口にしたのは自らが獣を討つという非常識な回答。

膝が震え、肩が震え、背中の傷が痛む、俺は倒れた体で何とか立ち上がり、彼女に避難を促そうとしていたのに……咳きをするだけで、痛めた内臓から血が噴出し、口から声も満足に出せない。

それに、体を起こすことは出来ても、立つことは無理そうだ。

「このアーデルハイトが、玲菜さんのお相手を務めさせて頂きます」

獣には本能でわかったのだろう、俺の相手をしていれば後ろの騎士に一撃で殺されると。

獣は俺など決して振り返らず、クラスメイトの少女に全力を尽くす姿勢を示した。

「公明さん、その怪我、とても痛いことでしょうね。後で治して差し上げますから、今しばらく我慢してください」

余裕――風に向かう柳の木のように緩やかに少女は構える。

モデルのように長身とはいえ獣から見ればその身長の半分を少し超えるかどうかという大きさの少女は、恐ろしく自然に獣を迎え撃つ姿勢をとった。

そう、彼女の靭やかな筋肉がわずかに緊張し、目の前の怪物を迎え撃つ準備を整えたのだ。

それはボディービルダーのような筋肉の塊ではなく、体操選手のような必要最小限に絞られた筋肉であると制服の上からでもわかった。

芸術的な肉体美、離れていても月の明かりがそれを照らし出す。

色香も感じられるが、それは欲情の対象になどなりえない彫刻に見るような純粋な美しさ。

「■■■■!」

突然、爆発したような獣の襲撃。

大気を奮わせるものすごい咆哮と共に大地を蹴り上げ、そのアスファルトの道路さえ削って全力で少女に突っ込む筋肉の戦車。

当たれば彼女の体はバラバラにでもなりそうな、そんな狂気の暴走。

しかし、それは少女の手でまるで魔法のように受け流され……驚くことに獣は自身の攻撃で腕をへし折られた。

一瞬の動き、まるでそれは一呼吸のもとに行われた演舞であるかのように綺麗だった。

鮮やかで美しい――一瞬のうちに獣の懐に入った彼女がその体をどうしたのかもよくわからないうちに見事に投げ飛ばし、その際にガラスの割れるような音を立てて獣の腕がへし折られたのだ。

そう、それはまるで魔法のような光景で、巨体が少女の腕で面白いように軽々と投げられ、その拍子に腕がへし折れたのだ。

綾音の早すぎる舞いとは違う、目で見ることが可能な優雅な舞いというべきだろう。

サルサとワルツと例えられる両者の違いは明らかだった。

少女のそれは合気道に似た動き。

別に極端に早かったわけでもないのだが、そもそも荒削りな獣に対しては綾音が取った戦い方――速さと力に勝る相手に速さと力で挑むよりも、今の彼女の戦い方の方が向いているのかもしれない。

「もう終わりですか、玲菜さん……こう言ってもわからないかもしれませんが、無闇に命を殺めることは懸命な魔術師の道ではありませんよ。ですから、理性でその呪いを鎮められませんか?」

金髪の少女はすでに狼男の腕を放し、十分に距離を保っていた。

見つめる先では首を振りながら、へし折られた自分の腕を見つめる怪物。

腕は見事に折られ、そのままありえない方向に曲がっている。

人間なら全治一ヶ月以上は確実な大怪我だと誰もが思うだろう。

だが、獣はその程度ではどうにも出来ない。

折られた腕は一瞬でほとんど折れた瞬間に再生され、まったく動じることなく、獣は再度攻撃を仕掛けた。

涼しげな少女はその余裕を失わず、再び獣との間に有利な距離を保つ。

「わかりませんか? こちらには殺意がない、そちらは殺意だけ……これではその攻撃があまりにも読みやすくなります。賢明なら心を落ち着けてください……無理ですか、やはり」

歌うように呟く少女は円を描くような流麗な体捌きで獣と戯れるように、獣の腕や足をへし折った。

全て獣自身の力で折れるように計算された技、流れる流水に触れることが出来ない獣はまるで遊ばれているかのように無様な醜態を晒した。

とんでもない達人、あれが人の力の極点の一つだということは明らか、そう、彼女は少なくともその超人的な動体視力以外に何等特殊な能力を発揮せず、人ならざる獣を圧倒しているのだ。

舞うように、踊るように、歌うように彼女は獣と戯れる。

理性なき怪物ゆえにその動きは彼女にはとても読みやすかったのだろう、その体に触れられることもなく獣は投げられた。

だが、それを何度か繰り返すと、獣の動きは次第に洗練されていく。

それはわずかな時間のうちに少女の制服の端がナイフの爪に切り裂かれるほどになった。

それは学習などではなく、研ぎ澄まされる本能の力といった方がいいだろう。

まるで本能のままの予想も出来ないほどの動きで少女に襲い掛かる獣、それを相手にすれば、どれほどの武術の達人でも先ほどの綾音のように敗れ去ることは必定だ。

ダメージを与えられるのか、それともそうでないのか? 瞬時の回復が戦うものから気力を奪い去る事実はどうにも否めなかった。

「やれやれ……制服はあとで弁償してくださいね」

あとコンマ数秒躱すのが遅れれば、首を吹き飛ばされたであろう巨大な拳の通過を見送って少女は涼しげに呟いた。

まるで他人事、小さくため息の音さえ聞こえたのだから彼女の神経を疑いたくもなる。

体重はどう見ても最低600キロくらいはありそうな筋肉の塊が暴れ狂うその中で、冷静な表情を崩さない命知らずな少女は攻撃をかわした直後にこちらを向いて叫んだ。

「公明さん、眼を瞑っていた方がいいですよ」

涼しげな少女はそういった。

「これを相手では魔術があまり効果ありませんので、私の剣『サルヴェッツァ』を抜きます――」

獣の攻撃が一段と激しさを増す中、それでも攻撃の合間を縫うような少女の動きに敵も苛立ちを強めていた。

「――あれは、あまり眼によくありませんから、お願いしますね」

俺は少女の言葉に本当に目を瞑った……夢ならば覚めるようにと祈りながら。

眼を閉じる瞬間、垣間見た彼女の口元には笑みさえ浮かんでいたのだから、これは夢ではないのだろうか?

「どうも、そのままあと15秒ほど閉じていてください。大丈夫ですよ、玲菜さん。戦闘不能にするだけですから、死ぬことはないでしょう」

こんな状況でも彼女の余裕は失われない、恐ろしいほど平然と、冷静に彼女はそういった。

そして、彼女が何か言った瞬間――すさまじい光が生じたのがわかった。

太陽のような激しい明かりではなく、地上の月とでも形容しようかという怪しげな明かり。 

青白く、優しい、それでいてとても明るい明かりが空間を覆い尽くしたようだった。

それと同時に、目の前に何かが落ちる音が聞こえた……それは大きな音だった。

重いものが落ちる音が、血飛沫と共に獣の叫び声が俺にも届いた。

「……血が気にならないのでしたら、目を開けてもよろしいですよ――っと、ちょっと、どうして?」

俺が目を開けようとしたとき、獣のうめき声は次第に女のうめき声に変わっていった。

「ちょっと……公明さん。待ってください! ああ、代えの服は?」

慌てる少女の声、だが……俺は瞳を完全に開けていた。

目の前に展開されていたのはさっきまでとは完全に変わってしまっていた世界――剣といったが、一体どんな剣を抜けば世界がここまで破壊されるのだろう?

道の真ん中には血が泉を作り出し、その真ん中には血だらけになって倒れている少女が一人と、それに服をかぶせる金髪の少女……倒れていた茶髪の少女の足が俺のすぐ目の前に転がっている。

あまりにもショッキングなその光景に……俺は気絶した。








[1511] 第四話 『目が覚めると』
Name: 暇人
Date: 2006/05/09 21:36
 


そしてその後、何時間たったのか?

俺を呼ぶ声に目が覚める……その場所はどこかの洋室。

ベッドの上、やわらかいベッドの上にいる自分は今まで夢を見ていた。

そうに決まっている、そう思えば、気分も晴れやか……になるはずだった、部屋の中にいる人々を見るまでは。

「――あら、目が覚めましたか?」

獣の足を何かしらの『剣』で切り飛ばした金髪のクラスメイトは暗闇が覆い隠している空を背景に、窓に背を向けて俺に聞いてきた。

制服とは違う、黒いブラウスとスカート……縁起の悪いことにまるで喪服のようだ。

「……」

「……」

ムスッとしたまま、黙っているのは足を切り飛ばされていた浅海と獣に投げ飛ばされていた綾音。

二人とも制服とは違う、シスターが着ているようなカソリック風の服を着ていた。

沈黙――俺達は互いに見合ったが、何を言うべきかがわからないようだった。

「あの、公明さん? まことに言い難いのですけど、背中の怪我と体中の打ち身、どういうわけか魔術が使えないもので、その……自然に治るのを待ってくださいね」

「え?」

そういわれて、包帯の巻かれた背中を触るとすさまじい痛み! まるでナイフでも突き刺さっているようだ。

「痛ぅ――!! でも……あれは夢じゃなかったんだな?」

思わず触った背中には包帯が巻かれていて、彼女達が手当てしてくれたことがよくわかった。

気付けば自分の服も男物の寝巻きに変わっていたのだから、ちょっと驚く。

「……」

俺達は互いに視線を交わらせ、お互いの顔を見た。

誰も何も言わなかったので、みんなが沈黙した。

「……だから言ったでしょう、貴女がやったって、無理だから止めろって!」

突然、沈黙を破った浅海が綾音を睨みながら言った。

驚くことに切り飛ばされていた足は完治している。

服の上からでも足が綺麗に繋がっているのがよくわかる。

手術でもここまで早く完治することはないだろうに、どういうことだ?

「ふん、信じられない! あれを全て私のせいにする気なの? ずうずうしいわよ、吸血鬼」

文句を言われて、綾音は優美に眉を吊り上げて切り返した。

しかし、どんなに優雅に振舞ったところで相手といがみ合うことに変わりはない。

険悪な空気……二人はかなり前から知り合いだったのだろうか。

「まあまあ、そういう喧嘩は止めて公明さんにもお話をして差し上げなければ。洗脳してしまうというのでしたら、黙っていても構いませんけど……人道的配慮から、それは駄目なのでしょう?」

金髪のクラスメイトは日頃から笑みを絶やさない優しそうな顔のまま『洗脳』だとか、『人道的な配慮』だとか物騒な言葉を吐きながら俺を見つめた。

ちょっと背筋が冷たくなる。

昨夜の光景を見れば、誰だってそうなるに違いない。

「……そうね、貴女がしなさいよ。アデット」

浅海は綾音を睨む視線を外さずに、俺への説明を放棄した。

個人的にはこいつに一番聴きたいことが多いのだが。

「そうですね、そこの吸血鬼は自己中心的で嘘吐きですから。シュリンゲル卿が言った方がいいかもしれませんね」

綾音も視線を逸らした方がまけとでも言いたげな表情で、浅海と睨み合っている。

「それでしたら、私が。まず、どこから話しましょうか?」

どうにも頼りにならない二人の変わりに、自分しか言う人間が居ないことへの不満も漏らさない金髪の少女はカウンセラーが言うようにこちらに配慮した言い方で語りかけてきた。

「……俺にもよくわからないけど……取り敢えず、あれは何だったんだ? あの怪物は?」

そう言った俺を浅海の射殺すような鋭い眼差しが捕らえる。

お前……綾音に負けたぞ、いいのか?

「わかっていらっしゃると思いましたが、あれはそこの玲菜さんですよ」

思ってはいた、聞いたあとで言えば嘘っぽいがあの状況でそうでないといわれる方がおかしい。

しかし、通常なら受け入れがたい話なのに、どうしてここなら俺はこんなにしっかりと受け入れられるのだろう?

「浅海、お前……人間じゃないのか?」

失礼だとは思った。

だが、聞かないわけにはいかない質問を、俺を睨みつける碧の瞳の少女にした。

しかし、その答えは彼女の口からではなく他の場所から与えられた。

「公明さんも失礼ですね。見ての通り、彼女は人間です。ただ――今は呪いを受けているために『人狼』と呼ばれる吸血鬼の一種に酷似した魔物になりますが……あれは本人の意思ではありませんから、許してあげてください」

やさしげな彼女の顔がはじめて曇った。

同時に悔しそうな顔になっているのは浅海と綾音。

自分が彼女達を傷つけた訳ではないと思いながら、昨夜の説明を求めることにする。

状況もわからず、こんな場所に居る現実を少しでも理解したかったのだ。

尤も、聞いたところで理解などすでに超えているとは感じていたが。

「なら……あそこでお前らは一体何を? それに、綾音は? お前らは一体何なんだ?」

わずかな沈黙の後、少女達の視線を受けて一番冷静な金の髪が語り始める。

「――そうですね、わかりやすい言葉で言えば、私たちは流派こそ違いはありますが、魔法使い……私たちの世界では面倒なので『魔術師』と一括りにしますが、わかりやすく言うと確かに魔法使いと言った方がいいでしょうね」

出てきた言葉は最初から理解や常識を打ち壊すものだった。

魔法使い、それは御伽噺を聞いたときのような空虚な印象ではなく、実体を伴ったリアルな言葉として俺の耳に届いた。

「魔法使いって……冗談、じゃ、ないんだよな。昨日のあれを見れば、俺だって信じないわけには行かないし……」

そうだ、昨夜の綾音、傷が治った浅海、狼の足を切り飛ばしたシュリンゲル――あれを人間の技といわれて納得など出来ないが、魔法といわれると不思議なほど納得できた。

魔法、見たことはなかったがあったとしても俺はおかしいとは思わない。

仮に自分の目で見れば、宇宙人でも、恐竜でも、地底人であろうともちゃんと受け入れて、信じるのが俺という人間の流儀だからだ。

しかし、それは普通の人間とは違うと思う。

そう思っている人間は多いとは思うが、その全てがこれを受け入れられるとは思えない。

俺の答えを聞いて、シュリンゲルはがっかりとした表情で呟く。

「物分りがよろしいですね。てっきり現実逃避されるかと思いましたが……どちらにしろ、人が悩み苦しむところが見られず本当に残念ですね……」

金髪のクラスメイトは少し期待はずれ、そういう顔をしながら俺にそう言ったのだ。

そう、ニコニコしている少女が本当にがっかりした表情で俺の苦悩が喜ばしかったのに、と漏らしたのだ。

コイツ――思っていたより、ずっと悪人なのだろうか?

「……世界のどんな手品師だってあんなの無理に決まってるし、どういう特撮でも再現できないだろ、あれは。俺は幽霊とか信じないけど、自分の目で見たものは信じるからな」

俺の考えを伝えると、非難の声はすぐに上がった。

「単純な人ね、コーメイは。昔からそうでしたけど……いつか詐欺にあいますよ」

綾音はちょっと面白くなさそうに口を挟んだ。

昔から俺のことをお人よし過ぎる、そういっていた彼女はこんな無茶苦茶な話を受け入れてしまう俺がどこかおかしい、そう言いたかったのだろう。

実際、俺も口ではそう言ったのだが……心のどこかではやはり夢みたいな現実より、現実に近い夢であってほしいと思い続けてもいた、それは確かだと思う。

「五月蝿いな、それに綾音、お前のあの動きや銃とかは?」

頭のモヤモヤを消し飛ばせるように話を変えることにした。

すると、再び金髪の彼女が答える。

「そこの綾音さんはこの街の古い術者の家の方で、この国固有の魔術に詳しい人です。因みに先ほどは、綾音さんと玲菜さんが少し勝手な真似をしていまして……ですよね?」

眼鏡から覗く青い瞳にジトッとした視線で見つめられた二人は口々に非難を展開する。

「あれは……アヤネが、実際は大した腕でもないくせに『私なら呪いを解ける』っていうから、つい……」

「ほら、すぐに私に責任を押し付ける! 何様のつもり? 貴女がもう少し我慢できれば、私の家に伝わる技法でその程度の呪いなんて」

仲がいいのか悪いのか、昨夜は殺意も感じられた二人の仲は思っていたよりいいのかもしれない。

「と、まあ……このような事情で私の目の届かない街外れの小屋で儀式を行おうとして、大失敗したわけですが……貴方も運がいいのか悪いのか、その呪いを解く手段として私たちの前に現れた」

意外な言葉に思わず耳を疑った。

「は? 俺がその呪いを解く手段? お前ら、一体何の冗談だよ?」

落ち着いた話し方で、俺に理解させようと彼女は続けた。

「わかりませんか? 私はさっき、貴方の傷は魔術では治せない、そういったのですが?」

傷口の痛みを感じながら、はっきりとその言葉を思い出した。

確かにそういっていた。

「確かにそういってたけど、それがどういう……」

俺が言い終わるかどうかというとき、彼女は話を続ける。

「確かに魔術が効かないのは貴方だけではありません。例えば、私たち自身も結界や武装、その他の技術によって直接その効果が現れないようにすることはよくやります。少々長くなりますが、一応説明しますね。まず……」

彼女が言うには、魔術に携わる者達にはいくつもの派閥があって使う魔術様式やその基盤に据える元素が違うとかなんとか。

それで、その代表的な六つの派閥――霊媒師、錬金術師、魔術師、方術師、呪術師、占星術師たちの組織が中央にあって、多くの人々がそれらに学んでいるのだそうだ。

シュリンゲルは騎士と名乗ったが、騎士は凄腕の錬金術師の中から出ていて、分けるなら錬金術師になるのだとか。

ただ、彼女の場合は同時に魔術師でもあるそうで、籍があるのは錬金術協会ということになっているとか。

浅海は本家本元の魔術師、綾音は方術師に分けられるらしい。

尤も、綾音の家は今派閥を抜けているからもっと複雑な分類になるらしい。

綾音の家はいうなれば、一つの枠にとらわれることが愚かしいからどれでも勉強してみたい、という方針に先代から宗旨変えをしたらしく、派閥に捕らわれずに色々な流派を取り入れた自己流の魔術流派を作り上げようとしているらしい。

だから浅海は綾音を雑種呼ばわりするらしいのだが、最近はいくつかの分野を学ぶ魔術師も少なくないというのでその批判はわりと的外れなのだそうだ。

それで、その六大の派閥も昔から何度も抗争や同盟を繰り返していたこと、吸血鬼との接触で彼らとの戦争に突入したこと、これらの要因により元来の真理の探究以外に戦闘に特化した魔術の研究も盛んになったのだそうだ。

その過程から派生した技術に対魔術結界、及びその他の技術があるのだとか。

「それに、玲菜さんが狼化したときのような吸血鬼の類は通常の武器だけでなく、多くの魔術さえ効きにくい――」

吸血鬼――伝承によく出てくる怪物でその起源を辿れば古代ギリシャやメソポタミアにもその原型を見るというが、現実の吸血鬼もおそらくその辺りを起源にする怪物なのだそうだ。

真祖と呼ばれる八十四の吸血鬼が六大派閥、その他の小派閥及び個人レベルの魔術師たちが掃討を目指している怪物でこの名簿が作られた100年前の時点から今までに四十九の吸血鬼が殺されたらしい。

八十四の吸血鬼について厳密には『四人の王族、十六人の貴族、六十四人の兵卒』という意味で『四王』、『十六侯』、『六十四騎』の三階級に分かれているとか。

名簿が作られたことからもわかるように、彼らは増えない。

彼らが増えた唯一の原因が滅ぼされたからだ。

原初の吸血鬼、それが吸血族の王……彼は人間との間に子供を作ることが出来た。

だが、その子供達を孕ますことが出来る女は希少な血族の人間、それも才気溢れる人間だけ。

故に子供の数は二十しかいなくて、魔術師との抗争中に重傷をおった王は世界のどこかで眠りについたのだそうだ。

彼はまた子供に殺されたとも、魔術師に殺されたとも言われており、長い歴史の中登場していないことからもすでに滅びたといわれる。

その代わりに王におさまった者が『魔王』とも呼ばれた王の子で魔術師であった真祖、『メイサ』という名の吸血鬼。

その知は果ての真理にも届くといわれた魔術史上最高の魔導師でありながら、人間ではないことから彼らと敵対した堕落を好む魔物。

最も偉大な原初の魔導師でありながら、人間達の迫害と差別が原因で魔術師たちと袂をわかった末、自らが忌避した吸血鬼たちの元に戻ったのだそうだ。

それが原因か、メイサは幾多の魔導師を堕落させて吸血鬼になる技法を伝えた。

メイサの助言なくして吸血鬼になることは出来ない。

最も不老不死というシステムに通じた者の助言こそが、不老不死への最後のパスポートであり、王による生殖以外で増えなかった吸血鬼の数は一時、二百さえ越えた。

だが、助言を得ても吸血鬼になるだけの儀礼を行えるのは魔導師の称号を得るほどの才気あるものだけ。

強大な怪物の出現に恐怖した世界中の魔術師が狩りを始めると、大きな戦争が始まった。

それは千数百年にわたった戦争――多くの人々が世界中の闇の部分で争った。

殺された人間、吸血鬼合わせればその数、数十万にも届く魔術師が地上から消えた。

不毛な戦いの果て……和平に傾いた吸血鬼側が和睦を申し出ることになった。

条件は『真祖をこれ以上増やさないこと』、『人間が吸血鬼狩りを止めること』……六大派閥のうちの三つが抗争状態にあった当時、おおよそ百年前、彼らは和睦する。

その証として、お互いが行った調査で作られたのが八十四の吸血鬼の名簿。

自ら和睦を申し出たメイサの指示もあり、その居城によっていた吸血鬼の全てがそれに名を連ねた。

それは即ち、世界の吸血鬼の全て。

だが、すぐに派閥間抗争が強大な指導力を発揮した指導者の登場で収束されると吸血鬼に闇討ちを仕掛けるという、卑怯とも取れる協定違反が行われた。

それは朝から始まった戦い――吸血鬼たちの多くが力を失う時間、幾多の兵を従えた軍隊が一気に彼らの城を攻めた。

対する吸血鬼たちの結束は固く、その拠点でもあったコーカサス山麓で激戦が展開された。

しかし、あらかじめターゲットとされて最大戦力を当てられた吸血王メイサが騎士たちとの戦いで敗死したため、戦線は一気に魔術師側に傾き、都合あわせ12時間の激戦は魔術師達の勝利で幕を閉じた。

拠点の陥落で生き残った吸血鬼の全てが世界中に散った。

吸血鬼がその力を発揮できない朝から始まっていた戦争が夜に近づいたとき、全ての吸血鬼が反撃すれば自らも敗北することが必定であった魔術師側もそれを追いかけることが出来ず、一人一人が最強の魔導師といっても差し支えなかった吸血鬼たちが恨みを抱いたまま世界に隠れ住むという最悪の事態が到来してしまった。

彼らは最強、なぜならその存在にダメージを与える術があまりにも少ない。

生き残った吸血鬼をそれ以降も狩ることが出来たのは幸運だったが、未だに生き残っている吸血鬼は三十五――三人の王族、十六人の貴族、十六人の兵卒。

王を失ったために彼ら自身の中にも派閥が作られ、勢力争いまで始まり、その数はたったそれだけまで減ってしまった。

しかし、わずかに三十五の吸血鬼は強力。

決して狩ることが出来ない魔王メイサを狩った騎士、シュリンゲルでさえ夜ならば勝つことも出来ないと言わしめるのがその三十五の内の十九。

事実、狩られたうちの四十八は古い真祖、新しい真祖のどちらにも含まれなかった彼らの僕たち――魔導師出身の吸血鬼はメイサの協力により己の使い魔をいくつか作った、同じく吸血鬼となったそれらのこと。

ドラゴンやオーガ、人狼、そういった存在。

不老不死というプログラムを存在のうちに内包する彼ら吸血鬼には不老不死というプログラムが作り上げる『生かそう』とする力を打ち破るほどのダメージで無ければ通らない。

彼らの不老不死というプログラムは世界という後ろ盾を得た世界の真理、ゆえに真理を打ち砕くほどの、世界の理を覆すほどの奇蹟でなければダメージは通らない。

昨夜の綾音の馬鹿みたいな一撃はその力『対抗力』というものに打ち勝てなかったから、その傷はすぐに再生されたのだとか。

しかも、近代兵器は一部の魔術師が作り上げるものを除けば効果もなく、魔術さえそのほとんど、魔導師でもある彼らに匹敵するほどの術者の攻撃でもなければまず通らないといわれる。

それを貫通する数少ない武装こそ騎士が持つ武装なのだそうだ。

だから、足を刎ねられた浅海の足を繋げるようになるまで時間がかかったとか。

「ですが、貴方はそのどれでもない。貴方は生まれながらに私たちとは違う特性を持っていらっしゃる……つまり、魔術の効かない体」

「魔術が効かない? 俺が?」

思いもよらない言葉に頭の中が大混乱に陥りそうだ。

俺がそんな化け物みたいな連中よりすごいというのだからびっくりしても当然だ。

「ええ、古い文献にはそういう例も記されていますが、存命しておられる方は私の知りうる限り貴方だけです。どこか外国に親戚の方はいらっしゃいませんか?」

居ない、外国にはそんな親戚は聞かない。

「いや、そういうのはいないけど……」

「なるほど……この国も考えようでは古い移民の国、それもないではありませんね。文献では中東あるいはその近辺で数名のお話がありまして、その血族の方かと思っていましたが、確証はないのですね。では、これはお願いを込めての質問ですが、玲菜さんを助けるために協力していただけませんか?」

「協力って?」

「玲菜さんの呪いは強力です。今まで発作を抑えていた薬の効果はほとんどなくなり、眠れない夜さえある……その一番の薬となるのが貴方の血液です。直接飲ませろとは言いませんが、とりあえずそれで発作を抑えて、その後に呪いを解く上でも協力を」

どういう意味かよくわからないのだが、浅海が大変なようだったので彼女のことについて聞くことにする。

「眠れないって、満月の夜だけ?」

「いいえ、満月は呪いの力が最大になる日で、日々彼女は苛まれています。呪いは力を増していき……このままでは私の手で彼女を殺すことさえ必要になるかもしれません。ですから、ご協力を」

夜も眠れぬつらさ、人を殺めるかもしれない恐怖、自分が怪物に変わる屈辱。

そういったものは確かにつらいだろうし、俺も困っている人間が目の前に居て自分が協力すれば何とかなるかもしれないと、命の恩人に言われて断れるほど悪党ではない。

何より、そんなことを思いもしなかった。

「まあ、俺の命の恩人の頼みだし……命が懸かっているのなら断れないけど」

「どうも、深く感謝します。きっと玲菜さんも同じ意見ですよ、そうですね?」

自分のことなのだから、仕方がないと観念した浅海も俺にお礼を述べる。

「……どうも、ありがとう。篠崎君」

我の強い彼女がしおらしく例を述べる姿にちょっと胸が熱くなる。

そんな気持ちを誤魔化すかのように、俺の口が勝手に話し始める。

「なあ、お前らって、どういう友達? オカルト研究会の幽霊部員とその部長って……本当に俺を担いでるわけじゃないんだよな?」

そう、ちゃんと協力をするからには相手のことを色々と知っておかないとまずい。

オカルト研究会――絶対につぶれないお化け倶楽部、そこに名を連ねるのは目の前に居る三人なのだ。

学園の美女、美少女――そういった面子が部員でも誰も入りたがらない倶楽部は彼女達が魔法使いであることと関係があるのだろうかと思った。

「ええ。あれはおふざけといいますか、何か儀式を行うときのいい口実になりますし、空き部屋を自由に使える上に、人のあまり通らない場所がすぐに出来ますから、わざとそういう噂も流しています」

「それに、私とアヤネは友達じゃないわ」

さっきの態度はどうしたのか、自分が終生の好敵手と認めた相手を睨みつける浅海は強い否定の言葉を述べた。

当然、綾音もそれに負けては居ない。

「確かに、それだけは同意する必要がありますね。それにシュリンゲル卿と私も友達ではありませんし」

お嬢様である綾音が『舐めるなよ、このヤロウ!』くらいの気持ちを込めた視線で相手を睨み返していたのだから、彼女達は恐ろしい。

「? 友達でもないのか?」

恐る恐る聞いてみる、どうか綾音が本気で暴れだしませんようにと思いながら。

「二人とも照れていらっしゃるだけです、たまにお泊り会をしたりするほどの仲ですよ、私たち。特に、二人は一緒にお風呂にも入られるような……」

二人はどうでもいいでしょう、とでも言いたげな金髪少女がとんでもないことを口にした。

「そういう嘘は止めて! 気持ちの悪い!」

咄嗟に入るのは彼女の本当っぽい嘘に怒りを隠せない浅海の文句!

「同感です。こんな獣と一緒にだなんて、ひどすぎます!」

綾音もそれには同意した。

彼女達はやっぱり性格が似ていると思う、俺は。

「どっちが本当なんだ?」

ちょっとした意地悪で聞いた。

これくらいの反撃はいいだろう?

「生徒会長も勤めていて、命の恩人でもある私の言葉こそが真実ですよ……ほら、そう思われるでしょう?」

俺の顔に近づくのは金髪美人の顔……だが、少し近すぎるような気が……。

その怪しい瞳に、頭の中がぼうっと……。

「ちょっと! 顔が近いし、邪眼なんて使わないで!」

なんとそう叫びながら、綾音が投擲したのはナイフ――目の前の少女はさっと身を引くだけでそれを華麗に躱した。

その代わり、そのままナイフが白い壁に深々と突き刺さった!

ドスッ、と鈍い音が聞こえるくらいだからその威力がわかる。

すごい力だな……綾音。

華奢な体つきの彼女がいつの間にか俺の中では怪力になっていることに恐怖を感じる。

「まったく、玲菜さんを批判するわりに貴女もずいぶんと野蛮な人ですね。あれ、当たれば痛いですよ……多分」

肩を竦めたポーズでからかう少女。

当たれば痛いかもって……痛いに決まってるだろ!

どうやら、魔術師とやらの神経は相当変わっているみたいな。

ナイフをいきなり投げられても怒るでもなく、ふざけるとは本当に呆れる。

「くっ――これだから! 私、吸血鬼の交友関係を疑いますわ!」

叫びだしそうな綾音、まあ気持ちもわかるけど。

「とりあえず協力はするから、仲良くしような……お前ら」

「いやよ。口ばっかりで役にも立たなかった退魔師なんて当てに出来ないわ」

浅海、お前はこういうときくらいは俺の味方をすべきじゃないか?

どうしてそう喧嘩腰なんだ、相手が綾音のときだけ。

「私も嫌です。どうしてもというのなら、そこの吸血鬼に頭を下げさせて欲しいものね」

わがままお嬢、ここにも一人……とんでもない令嬢方だ。

ただ、一人だけは俺の言葉に同意してくれる。

その言葉に悪意は感じられない、のだろか?

「私は構いませんよ。何しろ、この街で一二番を争う面白い人たちですから。魔術師としての研究対象としてもすばらしい研究素材ですしね」

何とも意味ありげな笑い……すごく悪そうに見える。

流石に争っていた二人も、その笑みには恐怖を感じたらしく、争うのを止めた。

「あら、もう少しいがみ合ってくださった方が仕事らしい仕事が出来て私はうれしいのですけど。喧嘩はもうやめるのですか? 別に殺しあってくれても構いませんよ、それを止めるのが私の仕事ですから」

「……貴女はそこの吸血鬼よりも断然性根が腐っていますね、シュリンゲル卿! 私ももう少しで貴女の正体を見誤るところでしたわ」

綾音の攻撃目標が切り替わる。

結局、誰でもいいって落ちか?

「おっと、私は別に悪役でもありませんし、そういう敵意を向けられるのは嫌いなのですけど。どうしてもといわれるのでしたら……剣の錆になりますか?」

眼鏡から除く瞳は研ぎ澄まされた剣、部屋の空気が凍りつく。

口調は丁寧なのだが、プレッシャーが違いすぎる。

部屋にいた人間全てが緊張するほどのオーラだった。

彼女はそのまま続ける。

「私の剣……この世に斬れない物は何一つ存在しませんから、一撃で殺して差し上げましょう」

その瞬間の殺意は俺も身震いするほどだった。

事実、震える体を止めるだけで必死になるほどだ。

獣の前でもここまで怯えなかっただろうに。

 



[1511] 第五話 『偽りの夜は明けて』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 21:37




「あら、冗談ですよ。本気にしました?」

「……」

「騎士と呼ばれる所以は剣のみではなくその精神があってこそ、昔私の友人がそういっていました。無駄な血など流せませんでしょう? そんな阿呆なことに剣は抜きませんよ」

こんなダークな冗談をいう人間も珍しい。

この人の『殺す』はほとんど本気みたいに見えるから滅茶苦茶怖いな。

「『騎士』って言ってたけど、それって西洋のあの騎士?」

疑問をそのまま口にしてみる。

すると、相手はちょっと考えて、腕を組んだまま口を開く。

「何を言っています、称号だけなら貴族の私がナイトとは……愚弄しているのですか?」

「違うって! 自分でさっき言ったことを忘れんのかよ、お前は!」

「冗談ですよ、一々怒らないでください。騎士とはですね……魔術の世界で云われる『五大元素』すなわち、エーテル、風、土、水、火それらのうちの一つ、土を極限まで使いこなし(当然、他も一流という条件です)、『賢者の石』を使って作り上げる武装を身に着けた魔術師の敬称です。事実上、魔術師同士の戦いで最強の攻撃力を誇るのがこの武装で、術者が用いた『石』にあった特質を発揮します。たまに防具を作り上げる術者もいますが、その手の防具は極大の魔術さえ弾くといわれていますから、局地戦で『騎士』は最強と呼ばれますね」

浅海もその話が出た瞬間、言いたいことでもあったのだろう、食いついてきた。

「そう、騎士は同時に吸血鬼殺しでは最高の術者っていうのも事実。私の足も切り飛ばしてくれたし……ただの人間相手にあんなに本気出す? ありえないわ、正気なの? 『サルヴェッツァ』っていえば、至高剣でしょう! 最強って名高い兵装で生身の人間を傷つけるなんて、頭がおかしいわよ!」

至高剣『サルヴェッツァ』、後に聞いた話によれば最強の吸血鬼を討ち滅ぼした無敵の幻想――錬金術師全ての理想の具現。

彼女に魔導師の称号を与えた原因の最大のものがこれだといわれる。

それを見た者はなく、見たものは即ち即死という反則武装。

世界に数多ある伝説の剣にさえ並ぶというのだから無茶苦茶だ。

それを人間相手に振れば、頭がおかしいと思われても仕方ないとは思うが__あれは人間相手、でいいのか?

それだけは俺もシュリンゲルを弁護する必要があると感じた。

「ええ。私たちが殺されそうなことを知っていてもすぐには助けなかった辺り、精神にも大きな障害があるのでしょうね――シュリンゲル卿?」

それについては弁護しない、俺が襲われるちょっと前に現場についていたくせに面白そうだから眺めていたというのだから、正義の味方失格だと思う。

しかし、彼女は悪びれもせずに綽綽とお答えになる。

「ふふっ、あれが本気といわれては困りますね。本気なら命はありませんし、軌道があと9つは増えます。それに私は人が死ぬような遊びはしませんよ……だって、玩具が壊れると困るでしょう?」

玩具、あの悪女のような顔でそういわれると、コイツ本当は悪い奴じゃないかと思えてくるのだから不思議だ。

若く、清楚、されど妖しく、艶かしい……そういった美貌が彼女にそういう二面性を与えるのだろうか?

「この――貴女は、とんでもない奴ね!」

浅海は食って掛からんばかりに、古いなじみの少女に文句を言った。

「まったくです……このサディスト!」

綾音も追撃に入る。

だが、どんなに言われても敵の壁は厚い。

涼しげな表情で受け流されるのだ。

「どうも、そういうのは褒め言葉として受け取っておきましょう、事実ですから。ですが、正直な話……人が死ぬようなことは要素としては面白くない、それは本気でそう思っていますよ。吸血鬼狩りという職業上、色々な惨禍を目の当たりにしましたから……それもわかって頂けるでしょう?」

一瞬、深く青い瞳に感じられる悲しみ、俺達は言葉もなくそれを見つめた。

申し訳なくなる雰囲気が場に形成される。

すぐに浅海も自らの非を認めた。

「――そう、悪かったわ。ごめん……アデット」

綾音も続く。

「私も……ごめんなさい」

「いいえ、死んだら死んだで時の魔法でも使えばすぐに元通り……と、いう予定ではあったのですけどね」

「?? そんなことが出来たの?」

「いいえ、成り行きで言ってみただけです。だってあれ、成功者はただ一人、生きているかどうかもわからない十七位魔導師その人だけですから私個人ではとてもとても。せいぜい骨を拾って小さなお墓を建ててあげるくらいでしたね。ですから、生きておられてちょっと安心しましたよ」

「貴女は駄目魔導師ですね、本当に!」

悲しそうな顔を見せながら、すぐにおどける相手に怒った綾音。

「なあ、『賢者の石』っていうのはよく映画や小説で出るアレの事だよな? 創れるのか、『星霜の錬金術師』?」

ちょっと面白がって聞いてみた。

『星霜の錬金術師』、学園の生徒会長で、素晴らしい錬金術つまりは金作りの天才は面白そうに話に乗ってくる。

「いいえ……作ったというのは嘘ですね。最初からあるものに手を加えるだけです。賢者の石とは全ての人間の中に存在しまして、我々錬金術師の言葉では超元素『スピリト』、魔術師たちは架空の『第六元素』と呼んでいますね。それを石と形容するのは儀礼的なものに過ぎません。それは本来形のないものとされていますから」

「心って事か?」

「いい線ですが、それとは少し違いますね。魂に付随する要素、と考えてくださればいいでしょう。かつては五大元素の一つ『エーテル』と同じに考えられていた時代もありますが、厳密な意味で違いがあります。これが錬金術師と魔術師の違いの一つと考えてもいいでしょう――あと、いい忘れでしたが『賢者の石』とは『スピリト』を使う技法自体の名称でもあります」

「なるほど」

「そして、公明さんたちがよく本などで知っているのは私たち錬金術師が『赤い石』と呼ぶ錬金触媒のことで――確かにこれを使えば、銅や鉄を金に変えることも可能です」

「……はい?」

「ですから、この『赤い石』が世に言う賢者の石のことです。私もこの前の生徒会費をこれで稼ぎましたし……おっと、失礼ですがみなさんは今日の学校を休まれるのですか?」

そういわれて、腕時計に眼を落とす。

その瞬間、なにが起こっているのかわからなくなった。

「? 何言って……あれ? 8時って……どうして、時間が戻ってる?」

そう、今は夜なのに8時……これは時間が戻ったとしか思えない。

しかし、この部屋の主は優しい顔のままそれを否定する。

「いいえ。皆さんがよく眠れるようにと……ちょっとそこのガラスに工夫がありまして」

窓を開けると――気持ちのいい風と共に朝日が……








[1511] 第六話 『生き残るための選択』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 21:46






土の元素が支配する一つが『石』。

その範囲は広く、宝石からガラス、賢者の石まで――その全てが彼らの力となる。

後で聞けばそういうことらしい……本当に迷惑なことだ。

硝子に見える光景は作られた景色――偽りの夜は晴らされ、真実は白日の下に晒される。

偽りを消し去る真実の光はそのまま『朝の陽光』であった。

騎士でもある魔導師は薄笑いを浮かべたまま聞きたくもない事実を告げる。

「今、朝の8時ですよ。あ……朝食はここの家主のフェルゼン神父が用意してくださっていますから下の食堂で食べましょう」

言葉を受けて、時計に眼をやった綾音は事務的な口調で告げた。

「08時08分……この教会からですと時間がありません。シュリンゲル会長、食事は抜いてください。それに、浅海さんとコーメイもさっさと行きましょうね」

「そうですか、それは残念ですね……神父の手料理はなかなかおいしいのですが」

金髪の彼女はそう言いながら、机の上に置いてあった鞄と制服を手にしてこちらに言った。

「では、私はバイクで行きます。歩きの皆さんはゆっくりと遅刻でもしていてください――では、また後で」

「バイクって、免許あるのかよ?」

俺に聞かれて、財布から自分の免許を取り出して見せた。

それはまさしく彼女の写真だったが……問題があった。

「免許は偽名で取得しています」

大問題である……お前、犯罪とかいう以前に罪の意識くらいないのか?

「いや、お前……偽名って、それは犯罪だろ?」

間違いなく犯罪です、堂々と法律違反を語る少女にはそんなことを言っても聞かないだろうが、とりあえず俺は言った。

俺の正義の声など意に介されはしなかった、今までの流れでそういう人間だとわかっていてもちょっと悲しくなる答えが聞けた。

「技量はありますし、バイクの運転は30年くらいのベテランです。その間、無事故無違反。ほら、まったく問題ないでしょう? 何より、本名で、しかも実年齢で免許が取れるわけがありませんし……これが最大の譲歩です」

確かにそうだろうと思うよ、実際……その顔で百歳とか言われたら誰も信じないよ。

でも、お前は今高校生を演じているわけだから犯罪……なんだけどな。

金髪の少女はそのまま扉を開けるのではなく、窓をいっそう広く開け放つ。

「え?」

俺が思わずそう言った瞬間に、窓から飛び降りやがった!

笑顔のまま……手を振りながら、消える彼女。

直後に聞こえたバイクの音……これは現実なのだが、言っておく。

「飛び降りたな……今?」

窓から身を躍らせた金髪のクラスメイトのことを考え、事実をそのまま口にしていた。

綾音は何をそんなに不思議がっているの? とでも言いた気な表情で俺の言葉に答えてくれた。

「? そうみたいですね。でも、ただの人間でも死ぬような高さではありません。ましてや、あの人は最高の騎士、怪我をするわけもないでしょう……貴方も急がないと遅刻しますよ、コーメイ」

何でもない日常――彼女にとってこんな現実は大した事ではないのだろうか?

その神経を疑わずには居られない。

それに、俺はどうにも学校へ行けない事情であったことに気がついた。

「綾音、お前……俺は背中を大怪我してるんだぞ。それなのにこんな何処かもわからない場所から走って学校へ行けって言うのか?」

「あ!」

ちょっとドジだということが判明した綾音はそのまま、考えるような表情になった。

「ふふっ、アヤネは頭が弱いわね。それじゃあ私は今日サボるから、学校へ行くのならよろしく。じゃあね~」

昨夜人狼に姿を変えていた魔術師は面倒臭そうに体を起こすと、ベッドの上に新品みたいに綺麗に畳まれていた自分の制服を掴み、そのまま部屋を後にしようとした。

「ちょっと待ちなさい、浅海。コーメイの怪我は貴女の責任でしょう! 彼を自宅まで運んであげなさい!」

そういわれて仕方なく振り向いた浅海はちょっと機嫌が悪そう。

「はぁ? ちょっと待ってよ、どうして女の私が篠崎君を背負って帰るなんて力仕事を?」

絶対に嫌、顔にそう書いてある浅海は綾音を睨み付けた。

心なしか……空気が痛い、殺伐としてきた。

「寝ぼけないで、自分が昨日私を蹴飛ばしたこと……忘れたとは言わせませんから!」

「ああ、あのときは私の意識がないから。何をしたのか、よくわからないし」

とぼける気ですか?

「あのバカ力を有効利用すれば、人間の一人や二人はどうということはないはずです!」

「それって、癪に障る言い方ね。私自身この体質は嫌いなのよ、わかってる?」

どんどん部屋の温度が低下していくのがわかる、俺が口も挟めない二人のジェットコースターは上って、上って一気に落ちようとしている。

昨日の夜の光景が再現されるなんて、冗談にもならないぞ!

「都合のいい言い訳ですね。その反則じみた体力でこの私にスポーツ大会で大いなる恥辱を与えたこと――あれで楽しんでいなかったとしたらどういうわけですか!」

俺はよく知らないが、女子の方では何かあったのか? 綾音の殺意は結構本気っぽい。

「そういうのって……大人気ないと思うな、私。女々しいわよ、貴女」

「私は女です、女々しくて何が悪いのですか!」

確かに女々しいって、字は女と書くが……女だったら女々しくても良いって訳じゃないと思う、基本的にこの場合はネガティブな意味で言ってるわけだし。

「なに? 逆ギレ? そういうのって人間としてどうかと思うけどな、客観的にみても格好悪いわよ」

「シュリンゲル卿は仕留められませんが……今の貴女くらい刀の錆にするのは難しくないのですよ」

だろうな、あの高速剣を交わせる人間が何人も身近に居たら実際に俺も怖いと思う。

何より、魔眼だかなんだかよくわからないがおかしな魔術で綾音の刀を躱したことがあるとその本人が言っていたのだから並の身体能力では躱せないだろうな。

綾音自身にもその軌道の全てが目視できるわけではないだろう速さなのだから、昨日の獣にでも姿を変えないと戦いにもならないと思った。

「脅迫、強要……それって、犯罪よ。ハンザイ! おわかり、白川さん?」

その指摘は本当だが、今いうにはあまりにも危ないと思う。

「っ――首を落とします。吸血鬼を退治するのは我々の使命ですから!」

この人……本気ですよ、刀に手を伸ばしてるし――って、俺もヤバイだろ!

「私は本物の吸血鬼じゃないって、アデットが言っていたでしょう? それに貴女みたいなやわな体の女の子の腕を捻ったら……すぐに折れちゃって、かわいそうじゃない」

「相手を女だからと侮辱するとは、マクリールの魔術師は相当な屑みたいですね」

「マクリール家を馬鹿にするつもり? 消し飛ばすわよ、田舎者」

わりに冷静だった表情に怒りの色が浮かび上がる、それは暗い殺意の波動。

冗談にもならない……あれは本気で怒っている。

「だから私たちは気が合わない。同じ元素を司る魔術師が仲良くできるはずもありませんからね!」

後に話を聞けば、別にそんなことは無いのだそうだが……綾音はそうだと思い込んでいるようだ。

同じ元素をつかさどる魔術師は世界にたくさん居るだろうから、それらの全てと相性が悪いなどという事態になったら大問題だろう。

ある程度の予想はついていたが……やれやれ、と思わずにはいられなかった。

「いや、確かに人の家にいつまでもいるのはどうかと思うけど……喧嘩するなよ、お前ら」

その瞬間に二人から睨まれる。

せっかく、口を挟めたのに俺はそれだけで小さくなりそうだった。

この二人、学校とは別人だ、怖すぎる。

「なに、貴方……綾音の肩を持つ気なの? 幼馴染だか何だか知らないけど、綾音に味方するのなら貴方も私の敵って事でいいのね?」

「い、いや、よくない! 断じてよくないぞ! そもそも俺はみんな仲良くした方がいいって――」

まるでヤクザに睨まれたサラリーマン……浅海のこの上なく恐ろしい碧の瞳はゆっくりと赤くなり始めてさえ居たのだから、洒落になりません!

今の彼女がヤクザより怖いのは間違いない、それどころか下手をすれば熊よりも怖い。

あとで聞いたところによれば、太陽が出ているうちならば自分の意思でもある程度は力をコントロールできるというのだからめちゃくちゃ危ない。

早く彼女の呪いを解くしかないと……俺は切実にそう思った。

「浅海、コーメイまで威嚇して……本当に駄犬ですね。誰にでも吠えていては迷惑でしょうから、私が責任を持って調教して差し上げるわ」

「貴女はさっさと学校行けば? じゃないとその首をへし折るけど」

「何です、私に脅し? 舐めないで。夜でもなければ貴女などに負ける私ではありません」

「いや、ほら、そういう怖いことは、だな……喧嘩、よくないって。な、格好悪いって!」

刀から手を離した綾音が代わりに取り出したのは拳銃――うぁ、どうしてそういうもの持ってるんだろ、この幼馴染は。

「――射殺します」

「素手相手にハジキ? 白川の魔術師はとんでもない卑怯者ね」

とんでもない女子高生、世界で一番危ない部屋の中で俺の心臓は止まりそうだった。

「何とでも……勝つことが全て、それが白川代々の教えです。勝者の取る手段は全て正義、故にこれは卑怯ではありません。何より、敗者はいくらでも言い訳しますが、そのように惨めで情けない言い訳を繰り返すくらいなら最初からその必要さえないように非情になるべきでしょう」

何なんだ、その滅茶苦茶危険な考えは?

「ちょっ――お前っ、それは止めろ! 人の家なんだろ、それになんでそんなもの持ってるんだよ!」

もう駄目だ、これ以上何かあったら俺の命にかかわる。

そう思った俺は必死だった。

「……小さな問題よ、コーメイ。この腐れ吸血鬼を殺したら、すぐに学校へ行きますから。もしものときのアリバイ工作はお願いしますね」

ものすごく大きな問題です、この幼馴染の精神もやばいのか?

殺人事件の犯人に仕立て上げられる危険さえあった状況で、俺は必死に二人の争いを止めようとした。

「あ、いいや……お前ら、本気で止めろよ!」

怒鳴っていたのだが、この二人は血が上ると俺の存在など気にかけないようだ。

「五月蝿い。篠崎君、貴方は死にたくなければ布団でも被ってなさい」

その一睨み――街中の一般人でも数キロ彼方まで逃げたくなるような禍々しい赤い瞳……いや、ちょっと怖すぎ。

だが、そのときばかりは俺も折れなかった。

空気が淀み、魔力が渦を巻き、殺意の風が吹き荒れそうな部屋の中、俺はその恐怖に耐えたのだ。

それだけは褒めて欲しい。

「ああ、もう!」

俺はベッドから飛び上がると、そのままびっくりした二人の頭を平手で小突いた。

反撃があれば首から上が消えてもおかしくない二人を相手に俺はその瞬間、英雄だった。

「たっ――!」

「つぅ――何をするのですか!」

思わず叩かれた頭を抑えた二人はさっきまでとは違った殺気のない目つきに変わっていた。

命が繋がったことが確認できただけで、一気に気分が楽になったことは言うまでもない。

俺の背中がその動きで悲鳴を上げていた。

だが、それを顔に出さずに……

「ったく、お前らなんでそんなに仲が悪いんだよ! それに、綾音は拳銃だとかナイフだとか、刀だとか危ないものをこんな狭い部屋で振り回すなよ!」

取り敢えず、反撃を許さない……許せばとんでもない反撃で命が危険に晒される。

彼女達に言い訳はさせない……させれば、俺が一気に悪者にされるから。

「や~い、怒られてる。ばかアヤネ」

「この――コーメイ!」

「いや、綾音だけじゃなくて、浅海もだろ! 俺の背中をえぐっておいて、謝らないし、すぐに喧嘩を吹っかけるし。まあ狼になってるときの事は許すけど、日頃の態度が悪いぞ!」

一人だけを叩かない……この二人の一方に肩入れすれば、命が危ない。

「この、言わせておけば……なんで私が大して仲もよくない篠崎君から、お母さんに説教されたときみたいに……あ!?」

「ほら、みんなそう思ってるんだよ。親のいう事くらい聞いてやれよ、世話になってるんだろ?」

「五月蝿い。それに……って、大丈夫なの? 足が震えてるけど?」

「――よく見れば、コーメイ! 背中の傷が開いて……ああ、無茶をするから!」

あ、あんまり突然動いたから、また頭の中が……ぼんやりと……して、きた。

ベッドのある方向は後ろだったな?

ゆっくり倒れよう……勢いがつけば、傷がひどくなるから。

でも、そこまで考えられない。

倒れた、それがわかった瞬間……背中にやわらかい感触が伝わり、前からも、似た感触が……

眠った……それはおそらく正解だったのだろう。

○○○○○

やがて俺は目を覚ました。

そのとき、他の二人も学校をサボっていたことを知る。

甲斐甲斐しく、柄にもなく手当てをしてくれたようだった。

そのまま事情もよくわからないままに神父が持ってきた食事を食べて、午後のひと時をくつろいだ気分で楽しんでいたときだった。

扉が開いた。

「あら、まだ帰っていなかったようですね。あまり人の家に入り浸られても困るのですけど」

学校が終わって帰ってきた制服姿のアーデルハイト。

紺色のハイソックス、ワインレッドのリボンタイ、ウェストを絞った紺色のブレザー、チェックのプリーツスカート……いつも思っていたのだが外国人がこういう制服を着ると、変なコスプレみたいだ。

部屋にはベッドで朝と同じように寝ていた俺と、本棚にあった本を勝手に取り出して眺めている浅海と綾音……二人は今朝と同じくこの教会のシスターが使っていた普段着のお古。

制服は魔術で直されたのか、綺麗に畳まれたものが置かれていたのだが学校をサボる上では着替えも面倒だったらしい。

「ん? もう帰ったの?」

椅子に座っていた浅海はやれやれ、そういう様子。

部屋の主が帰宅するのは当たり前だが、露骨に面倒そうな顔をする。

何でもあの本は面白いから、邪魔をするな……とか俺に言っていたくらいだから、持ち主が邪魔をしても機嫌が悪いのだろう。

「ええ。人の家で勝手をされると困りますから。それにいくら事情をある程度認識しておられるといっても、この教会の人たちはただの人間です」

その言葉に一瞬、目が点になっていた浅海は事情を飲み込むとすぐに驚きの声を上げた。

「!? あぶなっ――そうだったの? てっきり、今までずっと魔術師だと……この教会は錬金術協会が用意した施設じゃないの?」

確かにそれは驚く……事情を知っているのだと思っていた綾音と浅海は部屋の主がいないにもかかわらず俺と一緒にこの部屋で食事をして、あの調子の喧嘩をやらかしそうになったというのだから……よく気付かれなかったものだ、神父さんの鈍感に感謝しなければならないのだろう。

「ここは私が昔世話をした孤児の少年の伝を頼って見つけた塒でして……彼らの認識上、私は『教会のエクソシストとして活躍していた人』という程度の認識だと思います。教会のエクソシストはほとんどが私の組織とはよくよく敵対する霊媒協会のメンバーですから、調停者としてでなければ来るのもためらわれる場所ですね、ここは」

彼女は鞄を机の上に置きながらそう言ったのだが、『エクソシスト』と聞けば映画などでよくある映像が頭に浮かんだ。

確認するまでもない、魔法使いがいたのだから……エクソシストがいてもおかしくない、そう思いながらも聞く。

「エクソシストって……映画みたいに悪魔までいるのか、この世界は?」

そう、出来れば俺が知りたくなかったことは悪魔が存在するという事実。

その言葉に、三人はきょとんとした表情を浮かべて俺を見つめた。

まるで、お前ってどこまでバカなの? とでも言われているようで居心地がものすごく悪かった。

頭を振りながら、やれやれ、といった浅海がその理由を説明する。

「バカね……貴方は本当にバカ。いい? 私は神様に呪いをかけられたって言ったのよ。神様がいれば、悪魔がいて当たり前じゃない」

当たり前って言われてもなぁ……そんな安直なことをそのまま信じても良いのだろうか。

「じゃあ……まさかサタンとかもいるのか?」

「はぁ? サタンなんているわけないじゃない。だって悪魔っていうのは邪悪な土地の精霊や神のことだから」

「おいおい……神様を邪悪って、言って良いのか?」

「玲菜さん、それではわかりづらいと思いますよ」

「そう? それなら貴方が説明しなさいよ」

「構いませんよ。では簡単に言いましょう……神と精霊は元より私たちとは違った高次の霊格です。彼らには本来善悪というものがありませんから、彼らに善悪の概念を押し付けているのは私たちの勝手な言い分です」

「まぁ、確かにそうだろうな」

「ええ。それで、私たちはその勝手な言い分の元に神と悪魔を分けているわけです。彼らの性質の一端を私たちの価値基準を元に判断して、悪魔と神に分けるわけですから公明さんの考えるような完全な悪魔とは違うと考えてください」

「よくわからないけど、兎に角俺の思っているのと違うのならそれで良い――って、お前急に何を?」

なんとそのまま制服を脱ぎながら、彼女はクローゼットから自分の服を取り出そうとしていた。

「ちょっと、アデットが着替えるまでは眼を瞑っておきなさいよ、貴方」

鋭い視線、軽蔑する眼差しはすごく痛い。

勝手に脱ぎだしたのはあっちだぞ。

「ぬ――いや、俺はそんなこと考えてないって!」

「強い否定は認めているのと同じよ、コーメイ」

綾音も本に夢中だったようでしっかり見るときは見ているんだな。

この二人、こういうことにはすごく息があっている。

なんだかな……

「あら、別に構いませんけど。見られて減るものでもないですし……それに下着になるだけですから」

眼は瞑っているが、俺の目の前でも気にせずに着替えている衣擦れの音が聞こえた。

「殿方の前で肌をむやみに晒すとは……人のことを言う割りには大雑把ですね、シュリンゲル卿」

綾音も久しぶりの反撃の機会とばかりにアーデルハイトを攻撃する。

だが、彼女はそんなことは意に介さない様子。

「着替え終わりましたよ、公明さん。それと大雑把といわれても困りますね。戦場ではそのようなことを気にする人間はいませんよ、綾音さん」

「ここは戦場ではないと思いますけど。どうあっても負けは認めないみたいですね!」

「ええ、負けず嫌いですから。ところで、あなた方はいつお帰りに?」

目を開ければ黒いワンピースを纏った金髪の少女。

腕を組んで、眉を寄せている。

珍しく困ったような表情――まあ、教会の一室に男子生徒と女子生徒を連れ込んでいるのは生徒会長としてどうかと思うが……すでにそんな小事はどうでもよくないか?

「別にいいじゃない、どれだけ居たって。私の家、どうせ私一人だし。両親はアイルランドで働いてるしね」

「私も親は居ますが、シュリンゲル卿のような身元のはっきりした方のところなら問題はないと思います。修練を積んでいる、といえば問題ありません」

有名な魔導師の家、その場で修行という理由なら娘には関知しないのか……あの家は。

俺が親なら絶対に許さないと思うけど。

「まぁ――俺も一人暮らしだけど……あ、やっぱり帰った方がいいよな?」

みんなの事情は違うのに、それでもここに何泊しても気にしない様子……それに苦笑しながら錬金術師は俺の寝ているベッドの脇まで来た。

「お怪我の調子は?」

「朝からちょっと……いや、途中で傷が開いて、な」

「ほう。まぁ事情は察しがつきます。ですが、大丈夫でしょう……私が差し上げた薬は霊薬エリクシル、錬金術の秘薬の一つですから」

「俺の体には魔術は効かないんだろ?」

塗り薬、あるいは飲み薬がエリクシルだったのか? 

それはよくわからないが、薬とはいえ魔術ならばこの体には効果がないはずでは?

「いいえ、基本的にそれは勘違いですね……実際にはかき消されるタイプの魔術とそうでないものがあります。詳しく言うのは構いませんが、わかっていただくほどの説明は長くなりますので……エリクシルについてだけ。これはそもそもが優れた医薬品としての側面が強く、本人の再生力を引き出し、それを助長する程度の効果しかありません。ですから、これは魔術ではなく魔術の知識を応用して創られた別なもの……効果はあります。それよりも玲菜さんの薬の件で公明さんの血液を少し頂きたいのですが」

真面目な表情。

「……わかった、どうすればいい?」

「ええ、シリンジは用意してあります。夜、玲菜さんの変身時間までには間に合いませんが満月を過ぎた今日なら今までのもので多分大丈夫でしょう。薬の完成までは十数日かかると思いますが、構いませんね、玲菜さん? それまでどうにも我慢がきかなくなれば公明さんの血を直接飲んでいただければ抑制の効果はあると思います」

注射器を取り出しながら、ものすごく危ない言葉が紡がれたことを見逃すことは出来ない。

「……さらっと、とんでもない事をいったよな、今?」

そう、注射器を構える相手は今とんでもないことを口にしていたのだ。

「協力はする、そう仰いましたよね?」

「血を吸うっていっただろ、今! それって普通の人間が考える協力の範囲を超えてるよな?」

「いいえ、私の協力といえば命を懸けるくらいに助力を惜しまない、そういう意味です」

「軽い詐欺だぞ、それ!」

「そうですか? では、野獣になった玲菜さんが人を殺して血を貪っても構わないと?」

それは困る。

いくらなんでもそれは目覚めが悪い、俺は仕方なく頷くしかなかった。

「ご協力に感謝を、きっといいことがありますよ。ほら、玲菜さんも……公明さんが協力してくれるのですからお礼を申し上げてください」

「――わかったわよ。ありがとう、篠崎君」

「ああ、でも気にするな。俺も人が死ぬなんていやだから協力するんだ。それに大して知りもしないのにいうのは何だけど、お前が人を殺すなんて嫌なんだ」

ちょっと玲菜の顔が赤くなった気がしたが、気のせいだろう。

注射器で俺の血液を少し抜き取った錬金術師はそれを大事そうに保管すると、意味ありげな表情で俺に聞いてきた。

「……たしか公明さんは一人暮らしとおっしゃいましたね?」

「ん? まぁ、そういったけど」

「なら、玲菜さんが公明さんのところに泊まればよろしいのでは?」

「……はぁ、今なんて言った?」

俺たち三人はみんなその瞬間に思考が停止したように、間抜けな声を上げていた。

「ちょっと、アデット! どうしてそうなるの!」

「そっ、そうですよ、シュリンゲル卿! 若い男女が同衾など――不潔です!」

うろたえる俺達を不思議そうに眺め、あのイタズラっぽい笑みを浮かべる。

「あら、綾音さん。私は同衾まで勧めた覚えはありませんが、素晴らしい想像力ですね」

「く……いいえ、私の聞き間違いだったかしら? 確かそう聞こえたと思ったのですけど。とっ、とにかく! どうして同じ家で暮らす必要があるのですか?」

「簡単です、抑制剤を作るまでの間に不測の事態も考えられますし、満月でない夜でも狼化が強まっているかも知れないでしょう? そのとき、近くに居て薬の原料である血液を飲ませてくれる人が居なければ困ります」

理論としては間違っていない。

その言葉に悪意がなければ……この言葉は確かに正しかった。

反対することが即ちそのまま間違いであるくらいに、彼女は正しかった。

だが、見え隠れする彼女の悪意は本物。

人を虐めて楽しむある意味最低の外道、そんな性癖の少女は俺達がこれからどういう反応をするのか漏らさずに聞き届けますよ、という表情だ。

「断固反対です、生徒会長である貴女がこんな不純異性交遊を認めていいとお思いですか!」

「? 面白いことを……綾音さん、勘違いしておられるようですが、これらは全て正義のためです。不純な心など一片も見られません。清純というには御幣はありますが、理由が理由……貴女は自身の都合で他人など死んでしまえと?」

そう断言されると人間苦しくなる……仮に他人などどうなっても良いなど言うことは憚られるし、これほど現実感のある人の死の可能性を無視など出来ない。

「! いいえ……確かにそんなことは思っていませんけど……でも!」

言い淀む綾音……獲物を絡め取った蜘蛛のように錬金術師はじわじわと外堀を埋めていく。

「ああ、確か白川の家訓にあったはずですね……正義こそ白川の道、と。あれはどうします?」

義を重んじ、正しき道を行く者――彼女の家の始祖はそういう人だったのだそうだ。

その教えが受け継がれているだけましだとは思うが、さっきの恐ろしげな家訓を残したのもこの人らしいからどうかと思うところもある。

「この……どうしてそういうことまで?」

「私は物知りですから……知的好奇心の塊、と申しましょうか」

いいや、知的好奇心とかじゃなくて嗜虐心の塊だろ。

「それなら……私にも考えがあります……わた、私もコーメイの家に行きます!」

恥ずかしそうな表情の綾音が断固として反対してくれると思っていただけに……俺はその言葉を聞き間違いかと思った。

しかし、うつむいた彼女の発言は間違いなく事態の悪化を告げていた。

「……はい!? なんでお前まで?」

ほとんど死に掛けている俺の声……倒れそうだ。

「簡単なことです、いつ前後不覚になった吸血鬼のバカ女がコーメイを殺そうとするかもわからない状況は危険すぎます。だから、私が正義のためにコーメイの家で責任を持って貴方を守る――問題はありませんね、シュリンゲル卿?」

吹っ切れた綾音は勢いのままに理由を付け足して、理論武装した。

確かに、一理ないこともないと思うのだが……!

その瞬間、俺は見た。

金髪の悪魔は口元に悪役じみた笑みを浮かべ、その顔を一瞬で何事もなかったかのような真面目なものに戻したのだ。

「なるほど、流石は綾音さん。素晴らしい考えです。そして、なんと高尚な志なのでしょう……凛々しく美しい、人間の鏡のような心構え、感動します。綾音さんが身を犠牲にしてこう仰っていますから……構いませんね、玲菜さん?」

この合理的な解決法をとても素晴らしいとべた褒めする魔導師は笑みを浮かべて、これから面白くなっていくだろう事態をさらにかき混ぜてやろうと考えている様子。

最悪だな、この人――反論する方法もなく、俺はどんどん追い込まれていく。

「……受け入れろっていうの? そんな悪夢みたいな生活を?」

浅海玲菜、その必死の訴えに金髪の少女が待っていましたとばかりに、きつい選択肢を与える。

「なら、公明さんが玲菜さんの家に行く方がいいですか?」

どちらでも構わないと思いますけど、そう付け加える彼女にはこの問題の結末がわかっているようだった。

「……究極の選択ね。なら、答えは一つ。私の家に――」

「それは駄目! 魔術師の工房に誘い込むなんて真似、絶対に承認できません!」

烈火の如き勢いの綾音がその答えに口を挟む。

その鬼気迫る勢いに押され、浅海さえ何も言えなくなったのだからすごい。

俺は疑問に思ったことを、近くで見ている錬金術師に聞いた。

「工房って?」

芸術家のアトリエみたいな印象を受けるその言葉――予想もつかないわけじゃないが、一応聞いてみた。

「魔術師が研究を行う場所ですよ。玲菜さんの実家マクリール家のような大邸宅に住む魔術師は館とは離れた場所を設けることもありますが、大抵の魔術師はお金がないことや秘密の漏洩を恐れることから自宅をそのまま実験室に使っている場合が多いわけです。おかしな儀式をする場合など、失敗すると命がなくなることもありますから個人的には家族を巻き込まないために、人のいない場所に設けることをお勧めしたいですね。これは大昔の話ですが、ある高名な霊媒師がなんと宿の一室で悪魔を呼ぶという大暴挙を実行して、宿にいた13人を巻き添えにして消えたという逸話もあるくらいですから」

その語源から説明すると、工房(laboratorium)とは労働(labor)と祈祷室(oratorium)を組み合わせた造語で、まさに祈祷を行い作業をする場所、と言うそのままの意味なのだそうだ。

「なるほど……全然洒落にならないな、それ。お前ら魔術師って、人の迷惑考えないやつが本当に多いなと思ってたけど、ソイツは群を抜いてる気がする」

「それで今、玲菜さんはお父さまの実家をそのまま使っていらっしゃいますから、後者の工房……つまり自宅がそのまま実験室になっていまして、おかしな侵入者除けやトラップが色々と目白押しなわけです」

大方はあっていたが……トラップは予想外、そんな危険な場所なのか?

「悪い、そんな危ない場所は俺も勘弁だ。ついでに、俺の家に工房を作るのは絶対に許さない。金をつまれても絶対に断るからな」

俺にまで反対されて、浅海は自分が折れるしかないと理解したようだ。

「つぅ――貴方まで? なら……仕方ないから篠崎君の家に行くけど、そこって多少は広いの? 私の部屋は十畳以上、これは必須だからね!」

その条件は贅沢じゃないか?

そう言おうとするが、あのきつい視線で睨まれると反論するための声は出せなくなる。

しぶしぶながら、彼女に屈する決意を固める。

「……とんでもない客だな。まぁ、部屋はあるけど。でも、二人が来るんだろ? 俺、一応男、お前ら女だぞ。なぁ、近所の目とか考えてくれないか?」

ご近所との仲が悪くなる、あるいは面白い噂を流される……どちらも勘弁願いたい。

特に、親衛隊の狂信者みたいなクラスメイトに学校で何かされないかが心配だ。

「愚問ですね。公明さんの世間体と世の中の平和、どちらが大事だと思います? 自分の自尊心のために数人なら犠牲が出てもしょうがないか、くらいに考えておられるのですか? だとすれば、人の命はなんと軽んじられているのでしょうね」

教会に巣食う悪魔は俺を道徳的に痛めつけ、精神的な快楽を味わう心算のご様子。

断れるはずもない理由を持ち出して、俺を虐める……この女、絶対にいい死に方しない。

そう、ちょっとの付き合いでわかった。

三人の中で一番性格が悪いのはコイツだ。

しかも、虐め方が汚い――合理的な理由を付け加えて俺を追い込むのだから、彼女の陰険さは相当なものだ。

それを楽しんでいることについてはすでに言うまでもない。

「いや、流石にそこまでは考えてないけど……」

当然だ、世間体が人間の命より大事なんて事があっていいはずがない。

どんなに意地悪を言っていても、彼女の言うことはその意味では間違いではない。

だから、わかっていても反論することなど出来なかった。

「なら、答えは決まりですね。面白パラダイス――いえ、失礼、忘れてください。ところで、私もお宅をたびたび訪れることになると思いますが、抑制剤の進行状況やそちらで発生する問題点などを報告しあいましょう。ああ……残念、抑制剤を作る場所は教会ですから、そんな面白そうな場所に行けないなんて……本当に不幸」

「……それがお前の本音か?」

俺の平和な篠崎家を世界で一番危ない家に変えようとする相手は悪魔も裸足で逃げ出すような、悪意の塊だった。

なんだかんだすぐに手を出しそうな二人はこういうネチネチした虐め方はしそうもないのに、この人はそれがこの上ない快感のご様子なのだから救いようがない。

「ええ、嘘偽りなき本音です。ですが……別に私個人の楽しみのためにそう仕組まれた状況ではありませんでしょう? ただ、私は流れを楽しんでいるだけで、私が望んで状況を作り出したわけではないことを忘れないでください」

悪意を本音と言い切る相手、一切の不正もなくこの状況を作り上げる彼女には天から俺の運命を弄ぶ権利を与えられているかのように思えた。

「くっ、確かにお前のいうことに説得力もあるし、正しいとは思うけど……でもな、人の不幸を楽しむのはどうかと思うぞ」

「不幸? 私といるのが不幸だっていうの? 私の方こそ貴方たちと居て不幸だっていうのに!」

茶髪の狼姫、浅海玲菜はあんまりふざけてると、ぶっ殺すわ、とでも言いたいのだろう……ものすごい不満そうに文句を言い始めた。

それを鎮めるのは俺じゃあ無理、彼女の扱いに通じた者の登場を願うしかなかった。

「ほら、そういうのは良くないですね。みんな仲良くしろと昔から言いますでしょう?」

「この――性格が悪すぎるわよ、アデットも!」

「そうですか? いい性格をしているとはよく言われるのですが……悪いといわれることは珍しい」

「それは皮肉っていってるだけじゃない、わかっていってるでしょう」

「何分異国の生まれなものですから、この国の言葉には通じていなくて」

「嘘! そんなに流暢に日本語話しておいて!」

「ふふ、だから貴女はからかい甲斐がある……そうですね、あまり遅くなっても悪いでしょうから、私が車で送りましょう。国際ライセンスを偽名で取得したこともありますから、安心してください」

「そういう事故ったときにどうにも言い訳が聞かないのは……やばくないか?」

「警察に止められれば、簡単な瞳術で誤魔化しますからご安心を。それでは、荷物があれば後で運んでください」

そのまま下に止めてあったベンツに乗ると、俺達は篠崎邸に向かった。




○○○○○




どうも相手は家の場所を調べていたらしくまったく道を聞かなかった。

運転もうまい、これは相当運転しなれているな。

「そういえば、公明さん?」

助手席に座っていた俺に運転しながら話しかけてきた。

他の二人は家に取りに帰るものがあるとかで走って帰ったから、俺とアーデルハイトの二人だけ。

「ん?」

前を向いたまま彼女が俺に聞いてきたのは耳を疑うような言葉。

「公明さんは魔術を使いたいですか?」

あなたは魔術が使いたいですか? 俺にはそう聞こえたのだが。

「……はい? 今なんていった?」

聞き返すのは仕方がない、特別な血族だかなんだかよくわからないが変わっているらしい俺でも、親父が魔術師だというほどに変人ではない。

「魔術を使ってみたいですか、とお聞きしたのですが?」

しかし、それでも俺の耳は聞き間違えていなかったと告げられて困惑した。

「俺は魔術師の子供じゃないぞ。いや、もう間違いないくらいに普通の人間だ」

そう、恐ろしく普通の人間なのだ。

親父はただの出張が多いサラリーマンで、至って普通。

その息子が魔法使いだったら大変だと思うのだが。

「ええ、そうですね。特異体質ですし、正確には魔術は使えないでしょうね」

涼しげな錬金術師は自分の発言を理解できていないのだろうか?

魔術は使えないのに魔術師になれるのか?

「なら……」

俺の疑問に先んじて、彼女はそのモヤモヤを晴らす回答を口にした。

「言い方が他になかったもので紛らわしいことを言ってしまいましたが、魔力をコントロールして怪我を治りやすくしたり、身体能力を高めたり、そういったことをしてみたいですか?」

これはわかりやすい、怪我が治りやすくなったりするのならそれははっきりしている。

「そりゃ……出来るなら」

そう、未だによくわからないが出来るのならそれは出来た方が得だ。

簡単に出来るとは思えないが。

「出来ますよ、魔術師になるのに資格は必要ありませんから」

彼女は魔術師という存在のハードルが恐ろしく低いといった。

そう、誰でも魔術師になれるのだといったのだ。

「資格がないっていっても……ただの人間なんだけど、俺は」

「そうですね。ですが実際、ただの人間が神秘に近づくことは思っているよりは簡単なものです。何しろ私たちの一人一人の魂は星を通じて宇宙、ひいてはこの世界の理に通じているのですから」

「いや、そういわれてもよくわからない」

「そうですか、ですがこれがわかる必要はありませんのでわからないのならそれで構いません。それで、ここが重要なのですが……本来魔力の扱いに通じるには才能のある人間でも10年の厳しい修練が必要で、綾音さんや玲菜さんのような古い家柄の天才でも1,2年以上の修行が必要です。凡人になれば、20年でも足りないといわれる世界です」

結局、ぬか喜びさせたかっただけなのだろうか?

二三十年もかかることがどうして俺に簡単に出来るといえるのか?

「それなら俺は無理じゃないか?」

「普通なら、今から特に才能があるわけでもない貴方が本気で修行しても30年くらいかかるかもしれません。しかし、貴方は別な意味で特別です。だから、この世界のルールは当てはまりません。魔術を使えない代わりの救済措置なのかどうかはわかりませんが、過去の事例から行きますと……適切な修練を積めばあるいは長い歴史の魔術師にも匹敵するほどの速さで習得できるかもしれません。尤もそれは、魔力の使い方だけですが」

魔力といった、魔術ではなく魔力の使い方?

しかし、どちらにしても俺にもおかしな力が使えるというのだろうか?

「!? その――つまり、1年くらいで?」

「そういうことですね。どうです? こちらの世界の人間に成ってくだされば、頭を弄って記憶を操作する必要もありませんし……あの危ないお二方と一緒に暮らすのなら命がいくつあっても足りませんしねぇ?」

意地悪そうな顔に変わる、こいつは強敵だ。

俺を虐める要素を色々なところから抽出して、執拗に責めようとしている。

あの二人の大馬鹿が喧嘩すれば俺の命が危ないかもしれない。

それは事実だが、こうまでも彼女の口車に乗せられていいものだろうか?

「それが狙いなのか、お前は?」

「どうでしょう? それで……習っておきます? 止めます?」

「――習う、それしか答えはないだろ。頭をいじくられるなんて真っ平ごめんだからな」

性格の悪い魔導師、教会でシスターの手伝いまでしているくせにその心は間違いないくらいに真っ黒だと思う。

彼女は獲物がかかったことを喜び、極上の笑顔で俺を見つめて告げた。

「賢明なお答え。いいですね……賢い人は好きですよ」

天使のような笑み、内心に悪魔が潜んでいても彼女の笑顔は魅力的だと思った。

すぐに視線を前に移して、車の運転に集中する。

「で、師匠って呼べばいいのか?」

成り行きとはいえ師匠は師匠、仮にクラスメイトであってもそれは同じ、敬意は払うべきだと思った。

何しろ、俺と比べるとずっと年上だし、他の二人とは雰囲気が違う。

「どうとでもお好きなように。ただ、名前で呼ぶのは長いかもしれませんからアデットで構いません」

気軽に接しろということらしい、本人がそういうのなら俺もその方が言いやすいのでそうすることに同意した。

「ああ、それはわかった。それから、俺はどうすればいいんだ?」

魔術を使えない魔術師――それは魔術師ではないと思うが、取り敢えず彼女が魔力の使い方を身に着けるべきだというので厳しい訓練を覚悟して聞いた。

その答えは気が抜けるほど意外、そして恐ろしく簡単なことだった。

「とりあえず、節度ある生活を心がけてください」

たったそれだけ?

これは魔術師としてではなく、人としてその方がいいという教訓ではないだろうか?

「節度ある生活? それ、関係あるのか?」

俺は相手がふざけているのかと思っていたが、それは違った。

真剣な表情で告げる彼女の顔にはいつものふざけた色が見られない。

「あります、魔力とは即ち体に宿る力……世界から借りるほどの魔術師なら兎も角凡百の魔術師はそれさえ困難。魔力を感じるためには魔力を作り出す体が健康でなければなりません。タバコなどは厳禁、お酒も公明さんの年では止めておいた方がいいでしょう」

よくわからなかったが、ものすごく本当っぽい説明だったので信じそうになる。

しかし油断できない……彼女は内心とっても悪い人、再度確認が必要だろう。

「担いでないか?」

俺も真剣な顔で言ったつもりだ、仮にふざけていればそれでネタを明かすのだろうが、彼女はそうしなかった。

「いいえ、まったく。経験を積んで力を得た魔術師の多くもそうして堕落します――そうなれば彼らさえ弱い。これは基本でありながら奥義、精神を鍛え、肉体を鍛えぬいてこそ得られるのが魔術という神秘。肝に銘じてください……惰弱な者には魔術を極める資格が無いということを」

「じゃあ、お前も鍛えてるのか? あんなに強いのに?」

「当然です、鍛錬を怠ることはそれだけで弱体化を意味します。例え一日とてそれを欠かすことは戦闘において命取り。今までに多くの魔術師が力を過信して、若い魔術師に討たれてきた歴史があります。それを考えれば堕落することはありえません」

彼女は語る、力に溺れる者と自らを驕る者の愚かさを。

力を得た魔術師……彼らは様々な神秘を体現した存在となるがそれを使いこなせなければ意味などない。

神秘を体現した自らを驕り、修練を怠ればそれは即ち夢の終わりを意味する。

心弱き者は堕落する、魔導師でさえも自らの命の終わりを恐怖して吸血鬼の甘言に堕落させられたのだ……自分が堕落しないと断言出来ようか?

色欲、食欲、征服欲、物欲、独占欲、そういったものの一つにでも溺れればそれは終わり、その瞬間に知識と技術という名の鍛えた筋肉が脂肪の塊になる。

常に知識に貪欲であれ、常に周囲より孤高であれ、自らの弱さを捨てよ。

故に言う――精神の弱体は肉体の弱体から始まる、それならば常に肉体を健康に保てと。

それは単純すぎることだが、基本が大事。

「……」

「吸血鬼となった魔導師たちは終わりを克服したおかげで、その精進を決して怠らない。彼らの精神は鉄のように堅く、その肉体は魔術の行使も無しに金剛石さえ砕きます。それを相手にする以上、私も彼らに劣らぬ鍛錬を続けなければならないことは必定でしょう」

アデットが言うには、魔術師が使う魔力というのは人の生命力のようなものだという。

人はそれを意識して初めて、それを鍛えることが出来るのだと。

基本的にスポーツ選手の場合と同じなのだという、魔力とはその種目に必要な特別な筋肉でやたらめったら鍛えただけでは駄目。

それに必要な鍛え方、それを知る師が必要であり、それら以上に魔力の存在を自分で認識する必要があるのだという。

存在しないものを鍛えることなど出来ない、存在を認識して初めてそれを使い、鍛えられるのだ。

さらに彼女は伝えた。

世界中に溢れるこの星の魔力自体を消費することも出来るというが、それは経験をつみ、理を統べるほどの術者だけが可能とする領域であって綾音たちレベル、つまり五大の元素を統べる家柄の天才でもなければ容易にその領域には至れないのだと。

魔導師たるアデットもそれは可能だというが、魔導師たちが使うような大魔術を必要とすることは少ないらしい。

その威力は確かに絶大ではあるが、天候を左右したり、土地を腐らせたり、あまりにも規模が大きすぎて白兵戦向きではないからだそうだ。

魔力とは東洋で言うところの『気』であり、方術師系列の魔術師――つまり綾音の流派が最も得意とするのがこれで、これを意識して利用することで体は強靭に、年を取らないほどに若く、傷さえも治りが早くなるという。

昨日の綾音は俺の登場で動揺したため、精神に乱れがあって力が発揮しきれていなかったらしいが、冷静な状況下でならその身体能力は兵卒クラスの吸血鬼にさえ匹敵するかもしれないとか、冗談めかして恐ろしいことを言ってくれる。

多分、これだけは冗談だと思いたい。

魔力も筋肉と同じで……例えば、どれだけ人の肉体を鍛えても拳でビルを崩せないのと同じように限度というものはあるのだそうだ。

それはその人個人に設けられた肉体の限界であり、魂の限界であるという。

だが、吸血鬼となった魔導師たちの多くはその限界さえ超える――故に貴族種の吸血鬼の多くは通常の攻撃を受け付けない。

王族種に至っては明確な限界さえ最初から存在しないとか、恐ろしいことだ。

「それで、一ヶ月くらいの間次のことに注意してください。早寝早起き、暴飲暴食の禁止、お酒、タバコの禁止……」

健康番組でもあるまいし、どうして俺の楽しみばかり奪うのだろう。

そう思いながらも、魔術師の言葉を素直に聞くしかないことを考えれば従う。

「まあ、それはいいけど……まだあるのか?」

「ええ、とりあえず自身に制約を課してください」

「制約?」

「何でも構いませんが、徐々にハードルを上げてくれればいいでしょう。例えば、今日はテレビを見ない、宿題をする、10キロランニングを毎日する、などのようなものです。絶対に守ることが必須条件です」

「それって、本当に魔術と関係があるんだよな?」

「ええ、それと体を鍛えること。ボディービルダーのようになれとは言いませんが、健康を保てるくらいには鍛えてください」

「なんか……面倒なことばっかりだな」

「ええ、特に自身にかける制約が重要であることを言っておきます。それは制約というものが自身の心を鍛える上でいかに重要なものかを知らしめるものでもありますから。それと、瞑想などはもっと後から始めてください、あれは素人がするものではありませんから」

「悪い、どうしても納得できないからもう一度確認するが……からかってないよな?」

「まったくそのような悪意はありません。ご安心を、努力さえしてもらえれば最低でもオリンピックレベルまでの身体強化は可能になりますから」

「本気で言ってるのか、一年でそんなになるって? 確かに体力の無いほうでもないけど、ただの一般人だぞ……俺は。改造でもしないとそんなレベルにいく訳ないだろ?」

「そうでもないですよ、私に従う限り可能です。因みに、魔術も無しに私たちの域まで来たかったら1000年ほど修練を積んでいただく必要がありますけど……どうします?」

「いや……もうそれは無理だってわかったからいいや」

「では、以上のことだけは守ってくださいね。もし守ってくださるのなら、ご褒美に良いものを差し上げますから」

含みのある笑顔、何か裏がありそうな様子にちょっと思うところがある。

「? 良いもの?」

「内容は秘密ですが、世界にいくつもないほど希少価値はあるものです」

「いいのか? 内容も知らないけどそんなものを人にあげて」

「構いませんよ……あれは本来私たちのような人間には大して必要なものでもないですから」

その希少価値が良い意味のものであることを願うしかないな。

呪いの指輪で、嵌めれば一週間で天国にいけるとかなら絶対に嫌だからな。

「そうなのか? じゃあ……取り敢えず、制約とかなんとかは頑張ってみる」

その日から、師である少女と呪いを解きたい少女、世界で一番おっかない幼馴染の少女……三人と俺の命懸けの日々が始まる。

当然、常に命の危機にあるのは俺だけで、他の人外連中は余裕綽々に俺をいじり倒そうとするだろう。

それを思い、現実感たぷっりの想像に車の中でほろりと涙がこみ上げる。

いや、これは涙ではなく心の汗だ、と思うことにしよう。

『ドナドナ』がぴったりだな、俺。





 



[1511] 第七話 『月の呪縛』
Name: 暇人
Date: 2006/06/19 11:53
「ちょっと、貴方の家って意外に広いじゃない? デザインも割りと格好いいし」

浅海はアデットの車が着く前にすでに門の前で待っていた。

手にはボストンバッグを持ち、篠崎邸の全容が思っていたよりも広いことに驚いている様子。

それも当然か、ここはちょっとしたお化け屋敷にも見えるほど古くて、広い。

戦前のこと、親父から聞いている話ではたしか日露戦争が始まる二年前に俺の曽祖父はアメリカに渡ったらしい。

そして、様々な苦労の末にあの国でちょっとした成功を掴んだ。

しかし黄禍論が一部で騒がれて久しい時代は曽祖父のアメリカ生活を不快なものに変え、また一方で彼ら夫妻の間にも望郷の念が募ったこともあり、未だに幼かった祖父を連れて再びこの地の土を踏みしめた。

故郷に錦を飾った彼は自身が慣れ親しんだ洋風の建築をここに建てた。

アメリカでの生活の喜びと悲しみ、曽祖父はよく親父に語ったのだそうだ。

彼はやはりあの土地を愛していたのだろう、そうでなければこんな家は建てなかっただろうし、思い出など語りはしなかっただろう。

そんな逸話が残る家は築70年。

実際はあちこち補修したいところだがリフォームに使える金もそんなにないから、ちょっとしたお化け屋敷の様相さえ呈しているのが俺の家。

この街の中では比較的和風建築の多い地区にでかでかと建つ洋館はなんと浮いていることだろう。

今は別に金持ちって訳でもないのに、あんな場所に住んでいる俺はそのことがちょっと恥ずかしかった。

アデットが帰ったあと、すぐに綾音もやって来て、彼女達をあまり招待したくもない家に招き入れることになった。

大丈夫、誰も勘違いはしていないだろうが、俺が彼女達を襲うことなど在り得ない……俺が襲われることはありそうだが。

そう、あんな在り得ない力の持ち主を組み伏せたとしたら俺自体の存在がおかしな物になる……そんなことが出来る俺はすでに人間とはいえないと思う。

しかし、待て……美少女を前にした思春期の男としてこの反応はどうだろうか?

学校のアイドル二人が同棲するというのに、彼女達を恐れてさえ居る俺――はっきり言ってあの夜の恐怖はそうそう拭い去れないのは確かだが、情けない。

しかも、彼女達の仲が悪いからあの夜が再現されるのではないかと気が気でないことも……器が小さくて格好悪いな。

そう思いながら、荷物を持つ彼女達を連れて階段を上る。

古い階段はギシギシと音を立てるが、壊れそうな音というよりは味わいのある音だと思ってもらいたい。

ただ、明かりもつけない夜中にこれを聞けばちょっとしたお化け屋敷気分に浸ることが出来るに違いない、とも言っておく。

「ふん、なるほど。ここ、私の部屋ね」

見晴らしのいいテラスがある三階の部屋……この家の最上階である部屋からの見晴らしは確かにいいのだが、彼女がこんなところをうろついていては近所の目が気になる。

「なぁ、地下にいい部屋があるから……」

そう、目立ちそうなものは見えない場所にしまわないと。

「死にたいのならご自由に、ミスター」

咄嗟に赤く変わる瞳――夕暮れになる今の時間、テラスから差し込む黄昏の明かりを受ける彼女のその瞳はものすごく心臓に悪い。

カーテンを開け、テラスに出た彼女がそこに背を預けて、こちらを睨んでいる光景は映画に出てきそうな幻想を伴う……主にホラー系だけど。

「浅海、ここはコーメイの家ですよ。そんな脅迫をして、自分の判断で部屋を決めるなどもっての他です、この私が許しません!」

浅海が持っているのと同じようなボストンバッグを持つ綾音が俺の後ろから援護してくれる……この状況は良くない。

そう思うと同時に、二人は険悪な空間を作り出していた。

「……いや、頼むからこのオンボロな家で喧嘩するのは止めてくれ。部屋は、ほら、ここは浅海でいいから、綾音の部屋は二階に用意するよ」

こんなところであの夜のような戦いを起こされては家がなくなる。

そう、多少近所の目が厳しくなっても、女の子を連れ込んでいちゃついている放蕩息子という情報が親父に伝わらない限りは……我慢することにしよう。

「コーメイがそう言うのなら……別にいいですけど」

綾音が先に折れてくれる、それを受けて浅海も引いてくれた。

最初の危機を回避することに成功しただけで、寿命が縮みそうだ。

当然、たかだか部屋争いくらいで失って構わない命など持ち合わせていないから、その気持ちは誰にでもわかるだろう。

彼女達が喧嘩のとき俺のことを考えて多少の加減をしてくれる? いや、そんなことはないと思うよ……喧嘩しているときのあの眼はかなり本気っぽいから。

○○○○○

危ない二人は俺が用意した部屋に自分の荷物を置くとすぐに中の掃除を始めた。

それも当然で、俺しかいなかったわけだから部屋の中は埃だらけ。

しかし、驚くことに浅海が言うにはそんなひどい部屋でも『魔術で掃除なんて簡単に終わる』のだそうだ。

これは流石に魔術師に憧れる。

主婦の多くも俺と同じ意見だろう……正直に言ってこれだけは俺も羨ましかった。

火が熾せても、空が飛べても、水の上を走れてもこの時代に生きていて得などしそうにないが、こういう実用的な魔術は確かに偉大なものだと思う。

部屋の真ん中に魔法陣と呼ばれる円を書き、その中になにやら見たこともない文字といくつかの数字を書き込んだ彼女はそのまま呪文を唱え始めた。

静かな詠唱、本来急いでなければ詠唱さえ必要ではないのだそうだが、それだと無駄に時間もかかるし、魔力のロスも大きいから魔術師は詠唱を使うという。

何でも、魔術とはパソコンのプログラムのようなものだと考えればわかりやすいらしく、摂理を知った上で組み上げられる魔術というプログラムを起動させるのが魔力という燃料なのだとか。

つまり、魔力はそれだけでは魔術ではなく、魔術というプログラムも魔力の供給がなければただの幻想・空想・妄想の類なのだとか。

だから、俺を含めたただの人間なら誰でも『魔力』は扱えるらしい。

これが魔術になれば、式を組み立てる手法を何十年と研究して初めて普通の人間に使いこなせるようになるのだとか。

そして、今浅海が行っている詠唱とは魔術式というプログラムを一番早く組み立てられる手法で、魔力の消費も抑えられるらしい。

「Come along my butler, I am your Lord――McLir!」

辺りで小さな音がし始めた、何かが動いているような気配。

「Give this room a good cleaning!」

何もない、何も見えないのに描かれた円に埃が、ゴミがひとりでに集まっていく。

対象とする埃が小さいことから重さで選定する、そう言った彼女は部屋の真ん中に集められたゴミをそのまま袋に包んでしまう。

すると、そのわずか10分ほどの作業で疲れたから『俺』に食事を用意しろという。

すぐに、綾音まで『俺』に食事を出せと言ってきたときには流石に泣きたくなった。

しかし、俺も腹が減っていたのは事実。

怪我人に食事を作らせようとする、とんでもないお嬢様方にぐうたら男の恐ろしさを教えてやろうと……電話に手を伸ばしてピザや何やらを注文した。

怪我をしていて背中が痛いし……かと言ってあんな料理の出来なさそうな連中が作ったものは食べたくなかったから、この選択はまずまずだと思う。

そして、デリバリーの力は偉大なり……あっという間に宅配のお兄さんがピザを持って来てくれた。

俺の後ろで騒いでいた綾音と浅海の姦しい声に頬を緩ませたお兄さんが『遊び人だな、君。今夜は徹夜で? 俺は君のことが気に入ったから今日のやつは奢りで良いよ』といってくれたりする。

『あははっ、どうもありがとうございます』と元気に答えると、彼の手からピザやら何やらを受け取り、彼女達が騒いでいた部屋に運ぶ。

○○○○○

「ちょっと! 夜にピザなんて食べたら太るじゃない。貴方本当に馬鹿ね」

ピザを食べながら、そういう浅海に説得力などない。

俺が普段過ごしている居間。

洋室ではあるが、ここだけは靴厳禁で寝転げることが出来るソファーや絨毯が敷かれているし、テレビもあるのでそこで食事することになっていた。

「もう、浅海! コーメイを馬鹿っていわないでもらえる? 人の家に来ておいて失礼だわ」

むしゃむしゃとピザを手に取りながら綾音が文句を言った。

幼馴染でもある彼女に強い言葉で弁護してもらえたことはうれしいが、今は和んでいる空気……それほど切実に死を意識しないので別によかった。

「ねぇ、そういえば明日って休みだったわね」

浅海の一言から俺達は世間話に入った。

そういえば、この面子で『普通』の話をするのはこれが初めてだ。

食事を終え、ソファーの上に体を寝かせて楽な体勢を取った俺は欠伸をしながらそれに答えた。

「ああ、そうだな。日曜日だから。それより、浅海はその、狼の抑制剤を飲まなくてもいいのか? そろそろ夜だろ?」

テレビのリモコンを片手にした彼女からは、実に気だるそうな声が返ってきた。

「もう飲んだ。それより、貴方たち。特に、アヤネは普段何してるの?」

最後の綾音の名前の辺りはすでに欠伸……大口を開けるのははしたないと思うが。

いきなり話題を振られたため、少々怪訝そうな表情をした綾音が言葉を選びながら、それに答えた。

二人の関係は普段冷戦並だがこういうときは和んでいていいな。

「どうしてそういうことを? 企みですか」

人聞きの悪い聞き方だが、普段の関係を考慮すれば当たり前か。

「違うって! ほら、望まない結果だけど共同生活するのよ。お互い、色々在るじゃない? 趣味の邪魔をされたくない時間とか、なんとか」

「なるほど、確かにそれは建設的な提案ね。いいわ。私から言いますけど、私は学校がある日は主にナイフや刀の修行、あと勉強を。休日は読書と修行と、勉強を」

おいおい、そんな詰まらない女子高生ありかよ。

何ともいえない答えを聞いて、一瞬、転げていたソファーから落ちそうになった俺。

そういえば、昔綾音の家に遊びに行こうとしても塾だとか理由をつけて断られてたことを思い出した。

こういう生活なら、それも仕方ないだろうな。

でも、これってはっきり言うと……

「――最低な人生の過ごし方ね。貴女、近いうちに過労で死ぬわよ。これだから日本人は働きすぎっていうのよね」

綾音個人の問題が日本人の働きすぎと関係があるかどうかはさておき、この浅海の意見には心ならずも同意するしかなさそうだ。

勿論、口になど出さなかったが。

「む! そういう貴女はどう過ごしているというのです?」

「私? 私は休日にはお婆様から頂いた書籍を読んだり、趣味のガーデニングをしたり、あと食べ歩きとかもするけど、学校のある日は絵を描いたり、魔術の研究をしたり、あと植物の品種改良研究もするかな。それと……たまに地下のプールで泳いだりするわね」

多彩な趣味、それはわかるが……魔術師なのはほとんどついでだな。

「食べ歩き? まったく、味覚があってないような国の出身だけのことはありますね」

明らかに侮辱したような嘲笑、高飛車なお嬢様っぽい感じだ。

いや、実際にお嬢様だからそれが実に堂に入っている。

「ちょっと、私はアイルランドの出身でブリテンの出身だなんていってないでしょう! まったく信じられないわ、この地理音痴!」

現在は独立した共和国であるアイルランドも、およそ百年前まで隣国イギリスによる七百年間もの支配を受けてきた……怒る気持ちもわからないでもない。

因みに、アイルランド独立の立役者の一人といえば俺の頭の中にはマイケル・コリンズが思い浮かぶ。

有能な作戦指揮官であったマイケルはイギリスとの交渉の席で北アイルランドの分離を独立の代償に認めてしまったことを責められ、過激派のテロで命を落とした。

確かに政治的な駆け引きの末にマイケルが北アイルランドのイギリス支配を許してしまったことは事実だが、そうしなければ独立が達成できなかった事情を考えれば極めて現実的な判断で、事実彼の葬儀では多くの国民が悲しんだといわれる。

「私はイギリスもアイルランドも料理のレベルは違わない、と言ったのですよ。百年も前は同じ国だったのですから料理に違いなどあるわけもないでしょう?」

言い切る綾音には根拠などなかったが、実に自信たっぷりな言い方に俺も信じそうだった。

「この……」

飛び掛ってもおかしくない怒り方の浅海、正直これ以上燃料を注ぐと危なそうな気がしてきた。

「まぁまぁ、故郷を悪く言われると嫌なことはわかるけど、食事中に怒らないでくれ」

「まぁ……篠崎君がそういうのなら、今だけは許してあげる。で、貴方は何をしているの? どうせ、怪我で大して動けないとは思うけど一応聞きたいわね」

「確かに、私もここ数年はコーメイの家に遊びに来ていませんでしたから是非聞いてみたいですね」

取り敢えずの戦争は回避、自分のことならまだ大した燃料ではないだろう。

しかし、それは大きな誤解であることをすぐに知る。

「俺? 俺はまぁ、テレビを見たり、マンガを読んだり、適当にだらだらと……」

二人は信じられないような眼で俺を見つめた。

悪いことでもしたか、俺?

まるで恐竜が歩いているのを見た人みたいな感じ。

「信じられない……貴方それでもったいないとか思わないの?」

「私も浅海と同意見です。いつからそんな怠け者に?」

二人は実に正直に俺の生活が堕落したどうしようもないものだと切って捨てる。

魔術師の生活に無意味なことがこれほど多くあっては認められないらしい、といって……俺は魔術師ではないと思うのだが。

「いや、ほら、高校に入学して勉強もしなくなったし、倶楽部も止めたし、趣味がマンガを読むことだったりするから……俺は結構満足してるけど……悪かったか?」

言い訳など聞く二人ではないことは嫌というほど知っているのに俺はつい、いらぬことを口にしていた。

「最低、駄目人間の典型ね。綾音、ちょうどいい機会みたいだから彼を躾けた方がよさそうね」

「まったく! それには同意しますわ。コーメイ、自堕落な生活に溺れているくせにシュリンゲル卿に魔力の使い方を教えてもらおうとしたとか……魔術を舐めているとボコボコにしますよ」

ニコニコしながら、殺意が迸る綾音と浅海。

「あの……俺は別にお前らを馬鹿になんてしてない……です」

最後の辺りは声にならない。

睨む二人の殺意はほとんど目に見えるほど……ヤバイな、この空間は。

「その怪我治るまで運動だけは勘弁してあげるけど、頭のシェイプアップは出来るわね?」

「いいえ、浅海は甘いです。コーメイは昔から大怪我をしても我慢できる強い男の子でしたから、この程度では問題ないわね?」

怖いな、どうして俺からマンガと自堕落な日々を奪おうという結論に至るのだろう?

それに、いつから俺はそんな強い男の子になったのだろう。

「待ってくれよ、お前ら。おかしなことは、その、それにこの怪我ってお前らの責任じゃ……」

「あらコイツ、私たちに責任を押し付けるつもりみたいね」

「ええ、格好の悪いことね。コーメイ、大丈夫よ。私が昔の貴方の輝きを取り戻させてあげますから……地獄の特訓ですぐに魔力の扱いくらいはマスター出来ますよ、一ヶ月で」

一年かかるといわれた特訓が一ヶ月の地獄に変わろうとしているのか?

ごめんなさい……魔術を舐めたわけではない、それ以上怖い顔をしないでくれ。

「……」

「殺されたくなかったら、明日はマンガとか処分しましょうね、篠崎君」

「それと、コーメイの部屋からおかしな書籍が出てきたときは私たちが住む以上不適切ですから廃棄しますし、貴方にもそういうことをしないようにするお仕置きをしますから」

「そいういのは、ほら、男の証明って言うか、俺が同性愛者じゃない証明になっていいと思うけど」

アレを見つけられたら、確実に命が飛ぶ!

自分の性癖をクラスメイト達に知られるなどという悶絶死しかねない運命が憎い!

「物は言い様、本当にそんな言い訳が通ると思う? それじゃあ私、もうお風呂入って寝るから、明日のために英気を養っておきなさい」

浅海はすっと身を起こすと、そのまま部屋を出て行く。

綾音も数分と立たずに部屋を出て行ったが、俺は明日から地獄を見るかもしれない。

とりあえず、部屋の本はどこかに隠す必要があると思った。

しかし、咄嗟の行動は逆に尻尾を捕まれる恐れさえある。

事は慎重に行わねばならないのだ。

食べていたピザの箱を手に取り、それをゴミ箱に捨てる。

9時を少し回ったところ、未だ時間はあるが体はまだ痛いし、何より傷に効くとか言う薬を飲んでみると眠くなってきた。

「ふぁ~、眠い」

リモコンを手に取り、テレビの電源を切る。

ここはあくまで居間で、俺の部屋はここの二階、綾音の部屋の二つ隣になっている。

誤解を招かないように言っておくが、一階は物置やら親父の部屋、応接間とか事情があって使えない部屋ばかりだったし、何より二人の我が侭を満たす部屋はこの家にいくつもない。

だから同じ階になってしまったことには深い意味はないし、何より……あんな恐ろしい連中をどうこうしようなどとは思わない。

明かりを消すと、そのまま居間を出て階段を上る。

家の広さに比べて貧弱極まりない電灯が階段を照らす。

そう、お金のある時代に作られた部分と、そうでない時期に作り直された部分が非常にアンバランスなのだ。

階段を上りきったとき、そこに綾音が困った顔をして立っていた。

「どうした?」

「私の部屋、どうもシャワーの調子が悪いみたいなの」

古い家である、そんなことはあるだろう。

何しろ浅海と綾音に紹介した部屋はもう十年以上もまともに使われていないのだから、それは仕方ないと思う。

しかし、だからといって無視することも出来ない。

また、無視させてくれるわけもない。

「う~ん。多分使ってなかったから、水道管がイカレタのかもしれないな。俺もちょっと見てみるけど、ほら、お前の魔術とかで何とかできないのか?」

彼女は面白くなさそうな顔で俺に答える。

「あのね、コーメイ。私は確かに広義の意味では魔術師ですけど、水道管の修理なんて真似は錬金術師の領域なの!」

そう力を込められても、事情に疎い俺にはよくわからないのだが。

「? 錬金術師って、アデットみたいな?」

「ええ、鉱物や金属の類については錬金術師以上に詳しい人間はいません。何より、錬金術師は正式に大学の学位を持つ人も多いですから」

そうは言うが、いくら高名な錬金術師でも水道管についての詳しい知識など持っているかな?

そもそも俺のイメージしていた錬金術師は銅や錫を金に変えるような人間だったのだが。

「へぇ、それは知らなかったな。じゃあ、取り敢えず見てみるけど、もしも無理そうだったら今日はあきらめてくれよ」

「それは駄目、却下します。もしもシャワーが出ないのなら、貴方の部屋のを使わせて」

即答した綾音の真意を測りかねる。

平然とした顔で、俺の部屋のを使うという真意は何処に?

それは、確かに幼馴染だけど、男の部屋に来てシャワーまで浴びるって!?

お金持ちのお嬢様女子高生にあるまじき、大胆な発言。

「まぁ、お前がそれで良いって言うのなら別に好きに使ってくれて構わないけど……別に風呂に入らなくても死ぬわけじゃないと思うけど」

その瞬間、刺すような視線が俺を捕らえる。

「うふふっ、私は潔癖症なの。わかりませんか、そういう女心?」

「……ごめん、俺が悪かった。今すぐに部屋に行こう」

そのまま二人で綾音の部屋のバスルームを見に行ったが、あれは駄目だ。

いくら蛇口を捻っても錆びた色の水ばかりが出るばかりで、澄んだ色に変わらなかったのだ。

その上、水の出がものすごく悪い。

二階まで水を引き上げるのは俺の部屋と同じ水道管のはずだから、この部屋に来るまでの時点に問題があるのだろうが、素人がどうにかできるわけもない。

直す努力をすることは構わないが、水道管が破裂したら今夜眠れなくなる。

出来もしないことをするのは良くない、『餅は餅屋』と昔から云うからな。

首を振って、自分の力不足を告げることにする。

「悪い、今度修理の業者を呼ぶことにするから勘弁してくれ」

「仕方ないですね……あっ、でも浅海の部屋も同じ?」

「ああ、確かにアイツにも言ってやらないとまずいな。一応、女の部屋に行くわけだから綾音もついて来てくれ」

「確かに、あの馬鹿女が貴方を襲うかもしれない訳だから私は構わないけど」

俺達二人はそのまま、部屋から出ると階段を上り、三階の浅海の部屋に向かった。

だが三階に着いたとき、そこはほとんど異界だった。

廊下の明かりがチカチカして、獣の低い唸り声のようなものが微かに聞こえた。

床が少し震えている。

地面を揺らすのは低く、恐ろしげな獣の声。

「おい! まさかアイツ、こんな場所で狼に?」

俺は後ろに立っている綾音に叫んだ。

「いいえ、これはただの発作のようなものだから大丈夫。それより、コーメイはここに残っていなさい」

綾音はそのまま俺の前に出ると、浅海のいる部屋に歩みを進めた。

「綾音! 本当に大丈夫なのか?」

「ええ、でもただの人間が近づけば彼女の我慢が利かなくなるかもしれない! 私は中に入って浅海の発作を弱めるようにします、貴方はもう部屋に戻っていて」

「でも、ほら、何かあったらどうすればいいんだよ!?」

「満月でもなければ、私の力で十分抑えられます。それに……浅海もあの姿はあまり見られたくないと思うから、貴方はもう寝なさい。私も今夜はお風呂をキャンセルするから」

そういい残して、綾音は部屋に入っていった。

苦しむ獣の声と共に、歌うように紡がれる呪いの言葉が微かに聞こえた。

獣をあやす子守唄は実に優雅、獣の声が次第に小さくなっていく。

しかし、獣の声が消えることはない……呻き声は人間のものに近づき、逆に耳を塞ぎたくなる。

何も出来ず、その場に立ち尽くす俺は唇をかみ締めた。

耳に聞こえる女が苦しむ声は聞くに堪えないほどの苦しみを与えてくる。

俺は浅海を助けられるはずなのに今は何も出来ない。

この血を飲めば大丈夫だというが彼女はそれを欲しなかった。

おそらく自分の力だけで抑えられる発作だったからだろうが、俺に負担をかけたくなかったからかもしれない。

そう思えば、苦しい、すごく苦しい。

人が苦しんでいるのがわかっていて、その人を救う力があって、相手から頼られず、自らは助ける術を知らない。

頼りにされないことが何よりショックで、彼女との間に信頼などないのだと改めて思う。

足がそのまま階段を下りようとした。

どうせ、俺には何も出来ない……しかし、もう一人の俺が言う。

俺はそれに自分で反論して、二人は言葉を交わす。

『聞いたはずだ、その血があれば取り敢えずの発作は抑えられる』

「でも、俺が近づけばアイツはまた狼になる」

『言い訳だ。怖いから取り敢えず知らないフリがしたいだけだ』

「違う、綾音だって言ったはずだ。俺が近づけば、ただの人間が近づけば本当に危ないんだ!」

『どうかな? 俺は忘れていただけだ、意識してこの瞬間までそのことを忘れようとしていただけだ。血を飲まれる、それは確かに怖いよな? でも、逆に言えばたったそれだけだろ』

「ああ、そうだ。たったそれだけなんだよな、この声を聞くのと血を飲まれるの……比べるとやっぱり血を飲まれる方が安いよな」

人の苦しみと自分の苦しみ、おかしな正義感か?

いや、ただ献血と同じことをするだけの話だ。

正義などという高尚なものではなく、ちょっとした善意。

そう、ちょっと困っている人間を助けてやろうとするだけのことだ。

自分にそう言い聞かせた俺の足は階段ではなく、部屋に向かっていた。

呻き声の聞こえる部屋の前まで来たとき、息を吸い込む。

三度の深呼吸。

これから眼にする衝撃的な光景に気を失わないように気合を入れる。

もし気を失えば、彼女は傷つくことになるからそれだけは絶対にしないと誓いを立てる。

背中の傷、体中の打ち身はまだ痛むが狼の恐怖を克服するために傷のことさえ忘れた。

気合は十分、部屋を空けるために手がノブを握った。

そして、静かにドアを開ける。

○○○○○

月が窓から差し込む幻想的な光景。

部屋はまるで欧州の貴族の館のような怪しい空気を織り成し、目の前の伝説と現実が入り混じった光景をただ俺が受け入れるべき事実に変える。

明かりの差し込むベッドの上には自ら両手足を鎖で繋ぎ、吸血鬼の象徴といわれる血のように赤い瞳をらんらんと輝かせ、もがき苦しむ少女の姿。

体は汗でびっしょり濡れ、額には血管が浮き出ている。

片腕はあの夜の狼のように銀の体毛に覆われ、顔の半分にもその兆候は見られた。

もしも覚悟がなければ、どんな人間でも叫びだしそうな光景。

いや、この苦しみの声と彼女の姿を見れば言葉など出せないかもしれない。

彼女の傍らに立ち、呪文を唱えていた綾音は俺の登場に驚きの表情を浮かべる。

まるで呪いをかけているのは彼女であるかのように見える、魔術を統べる者としての綾音……紺色を纏った魔女は俺に退避を促すための声を上げる。

「コーメイ! 貴方、どうして? 早く出て行きなさい!」

その言葉と同時、綾音のように魔術で消したわけでもないから俺から駄々漏れの人間の臭いを嗅ぎ取った浅海の右腕が一気に鎖を引き千切った!

あるいは手錠の鎖よりも丈夫であろう太い鎖がその限界を超える力に引き千切られ、音を立てて弾けとんだ!

砕けた破片が床に転がるのがわかる。

「!?」

思わず飛びのいた綾音。

しかし、自由になった腕は綾音ではなく、彼女自らの胸を引き裂いた。

白い絹の寝巻きが朱色に染まり、引き裂かれた箇所からは白い肌が覗く。

傷は硝煙を上げてすぐに塞がるが、痛みで一瞬浅海の理性が回復する。

赤い瞳の半獣人は苦しげな声で、俺を叱り飛ばした。

「はぁ、はぁはぁ……なんのつもり、貴方? 早く、ここから出て行きなさい! 私、貴方の血を飲みたくて我慢が出来なくなりそうなの! だから、早く!」

そのとき、浅海も綾音も歩みを進める俺を呆気に取られた表情で見つめた。

俺自身も自分の体が他人のものでないかと心配になる。

「ちょっと、コーメイ! 貴方、何をするつもりなの?」

浅海のベッドの脇まで行くと、膝をついて首筋を差し出す。

「ほら、俺の血を飲めば取り敢えずの発作はおさまるんだろ? なんで俺に言わなかったのかわからないけど、そのために同居したんだから少しは頼れよ」

まるで恐怖を感じていない様子の俺を綾音は口をパクパクさせながら見つめた。

恐怖は感じている、しかしその量が多すぎてすでに表現する手段がないのだ。

俺が感じられる恐怖はすでに限界を超え、限界を超えた恐怖はまるで映画でも見ているように他人事……これは狂気かもしれない。

しかし、この場で冷静でいられるのなら狂っていても良い。

首を差し出された浅海は、だらしなく開いた口から涎をたらしながら我慢できずに俺に噛み付いた。

鋭い犬歯が皮膚を切り裂き、俺の血液を吸い取る。

それがわかるほど近くに彼女の姿があり、俺は黙って彼女に身を任せた。

彼女の息遣いが聞こえ、その心臓の音さえも耳に届く。

極限の恐怖は俺の神経を信じられないくらいに研ぎ澄ましている。

そんなに大量に吸われたわけでもない、程よく吸ったとき、咄嗟に俺の首を離した浅海は半分狼になりかけていた体が完全に元に戻っていて、自分で引き裂いた服からは乳房がこぼれていた。

少女の美しく瑞々しい肌、白く柔らかい胸元、赤く染まった下着……疚しい感情はなく、物語に出てくる幻想的な一場面のよう……そう思えた。

露わになった自信の乳房を押さえると、未だに血を流す俺の首筋に自分の服の裾をちぎったもので止血を行う。

綾音もすぐに気を取り戻して、それを手伝った。

俺の治療が終わった後、その部屋の中で俺達はベッドや椅子に腰掛けて真剣な表情でさっきの俺の行為について話すことになる。

自分で引き裂いた血だらけの服を着替えた浅海は俺を見つめ、感謝ではなく非難の言葉を告げる。

「篠崎君、貴方は浅慮よ。もしも私が貴方を殺していたらどうするつもりだったの?」

言葉のどこかに、非難とは違う心底心配している感情も感じられる。

それを覆い隠すための虚勢、鋭い口調の非難はその奥に潜む本心を感じ取れなければひどく心外なものだったかもしれない。

しかし、俺もそんな言葉を真に受けるほどバカではなかった。

「それなら俺も言わせて貰うけど、どうして俺を頼らなかったんだ? アデットはそれが目的で同棲を勧めたんだぞ」

その言葉を聞き、わずかに逡巡した浅海は俺から綾音に視線を移した。

「アヤネ、彼はわかってないの?」

「でしょうね、シュリンゲル卿が説明を怠ったのでしょう……まったく、いい加減な人!」

苦々しげな綾音の呟き、そこには確かに苛立ちと怒りが感じられる。

「? どういうことだ?」

ため息をつくと、浅海は空の月を見ながら言った。

「簡単なことよ、貴方の血を飲めば確かに呪いは抑えられる。でも、それは打ち消すほどじゃない」

「それがまずいのか?」

「ええ、私は血を飲めば飲むほどより深い飢えに悩まされることになるの。例えそれが貴方の血でも結果は同じ……つまり、一時的な呪いは抑えられても呪い全体は逆に勢いを増す。そうすれば、貴方の血に頼らざるを得なくなるでしょう? それって、すごく悪循環」

俺の血は麻薬と同じ……苦笑しながら、浅海はそう言った。

飲めば快楽を得られる、しかしそれを続ければ……自身の破綻にしか至らない。

「そういうことですね。だから、浅海は自分の力だけで何とかしようとしていたの」

「そんな……だったら、俺の血から作る薬だって意味がないんじゃ……」

衝撃だ、力が抜けるような衝撃。

人を助けるつもりが、彼女をより深い地獄に落としかけているのは自分だといわれる、それが衝撃でなくてなんだというのだろう。

「いいえ、それは違うわ。私が血を欲するのは血に含まれる成分ではなく、別な要因があるから。アデットの話ではそれを薬の原料と分離すれば、発作を抑えるだけで、吸血衝動を高めないものが作れるそうよ」

「じゃあ……俺がしたのは本当に余計なことだったのか?」

それに答えるのは綾音、俺を救うような言葉を口にする。

「コーメイ、それは間違いよ。貴方は愚かだったけど、人間として間違ったことをしたわけではないの」

間違いでありながら、間違いでない……なんと言う矛盾なのだろう。

「?」

意味を図りかねる俺より先に、静かに浅海が口を開いた。

「ええ、確かに私も今夜は久しぶりに眠れそうだし、貴方に感謝しないでもないわ。でも、明日からはああいう命知らずな真似はしないでもらえる? 殺したら、寝起きが悪いでしょう」

ちょっとぎこちなく笑顔を浮かべ、俺の無茶苦茶な行動を非難し、同時に賛美する。

俺はその夜……彼女たちの笑顔に救われた気がする。

月が与えた恐怖は月の夜に持ち去られた、俺はもうあの狼の姿をおそれることはないだろう。

差し出されたやわらかい手を俺はしっかり握り返した。



[1511] 第八話 『感動の次には』
Name: 暇人
Date: 2006/02/11 17:29
「あ~、ほはよう」

眠たげな顔で食卓にやって来たのは浅海。

おはよう、も発音できていないパジャマ姿の同級生は本当に俺の視線が気にならないのか、第二ボタンまで外れている。

しかし、それも仕方の無いことかもしれない。

何でも数ヶ月ぶりのまともな睡眠だったとかで、なんと13時までの爆睡だったのだから、頭のネジも緩むというもの。

当然ながら朝食のフレンチトーストはすでに堅くなり、コーヒーも完全に冷めていた。

そんな朝の弱そうな浅海に対して、綾音は昼飯さえ食べて地下のスポーツジムで汗を流していたのだから何とも対照的だ。

因みにスポーツジムといったが本格的なものではなく、実際はただの広い地下室に簡単な健康器具がいくつか置かれているだけだ。

このアンバランスな家のことを考えればわかるだろうが、立派な地下室は戦争のときなどに使えるだろうと、まだ裕福だった曽祖父がわざわざ改築したもので、しょぼい健康器具は俺達の代になったときに親父が買ったもの。

腹が出てきた親父は適度な運動が必要だと医者に言われたのだそうだが、器具を買ってからすぐにほっぽり出していて、綾音が使うまでは俺もその存在を忘れかけてさえいた。

何とも似た者親子だと、自分でも思わざるを得ないな。

そんな俺はちょうど料理の本を買って帰ったところで、何ともタイミングの悪い浅海との鉢合わせだった。

俺の持っている本に気がついた彼女は馬鹿にするような声で言い放つ。

「なに? 料理の本なんて男の子らしくないわね、軟弱よ。それともコックにでもなりたいの? 料理人の道を志したいなら軟弱でもないけど、違うわよね」

昨夜の感動的な体験はどこへやら……堅くなったフレンチトーストを気にすることなく一口にする彼女はそんなことを言う。

はっきり言ってそれは偏見だし、今の時代を考えてないと思う。

何より、逆セクハラだ。

だが、まぁ……いくら他人が注意しても彼女がそういう家に生まれたのならそれも仕方ない。

自分以外の他人との交流は全て異文化交流である、そういう話を聴いたことがあるし、彼女自身国籍を考えれば外人だし。

まぁ男女同権だとか何とか言い出したのは欧米人なのだから何ともいえないが、浅海の家は如何にも保守的っぽいからそれも然りだろう。

「男らしいかどうかなんて関係ないだろ? 今日の食事もデリバリーって訳には行かないし、それにお前らだって一応客だから料理なんて任せられない。だから、俺が作る以外に誰が料理するんだよ」

「それって、暗に私が料理出来なさそうって言いたい訳? 体の良い言い訳よね、お客様には良いお持て成しが必要だからって言うのは」

心外、そんな顔で俺に文句を言う彼女。

女性は鋭い、俺の真意などすぐに見抜かれる。

「なら、お前って料理が得意なのか?」

見抜かれた以上は俺も気持ちを隠さない、出来るものならやってくれ……そう開き直ったくらいの気持ちで聞き返した。

「レトルト食品なら、ね」

そして、思っていた通りの答えが返ってくる。

レトルト? 絶対にコイツには料理は任せない。

前にテレビ番組で拝んだことのある、あの料理地獄を体験したいのなら任せるのも一興だろうが、料理の素人ほど恐ろしいものはないからな。

「却下だ。それなら俺と同じだし、アデットに言われてるから健康的な食事がしたい」

俺の師匠との約束、取り敢えずそれを守る努力をしなければならない。

最大限の努力をして、それでも果たせないのなら、彼女との約束を果たせないことは別に良い。

不可能ならば仕方ない、しかし努力もしないうちからあきらめることは認められない。

それがこのぐうたら男が持つ最後の信念だ。

堅くなったフレンチトーストを口にする浅海は、その答えを聞いて爆笑する。

噴出しそうになった食事をしっかり飲み込み、苦しそうにコーヒーに手を伸ばして、何とか笑いをかみ殺す。

苦しそうな彼女には申し訳ないが、俺は別にギャグのつもりは無いのだが。

ようやく落ち着いた浅海は、ソファーに腰掛けて本の中身を読み始めていた俺に魔術師としての『彼女』の恐るべき信条を語った。

「貴方がさっき言った事はアデットに云われたのよね? どうせ、健康がどうとかいうやつでしょう? 大丈夫よ、若いから。あの人や他の連中みたいな魔導師は最低でも百に届く老人ばっかりだから、古い迷信じみたことばっかり言うの。お婆様もそんな感じだわ」

あっけらかんとして、この魔術師はとんでもないことを口にする。

茶色の少女は自分の祖母まで迷信に被れているといったのだから、なんとも……親の教育が失敗しているとしか思えないな。

「お前……本当にあの人と同じ魔術師か?」

俺にそう聞かれた彼女は心外、そういう感情を表に出したまま続ける。

「そういうけど、悪いことしてる魔術師も多いからね。それでいて凄腕なんて、星の数ほどもいると思うけど。例えば、よくC国の独裁者の横に立ってる正体不明の外国人がいるでしょう? あれ、よく思い出してみなさいよ……面白いことがわかるから」

 浅海が口にしたC国といえば近年も信じられない粛清の嵐が吹き荒れた社会主義を標榜する西アフリカの国、世界で最も住みにくい国の一つに数得られる砂漠の小産油国だ。

よくある話だが、C国も社会主義とは言いつつ実際は軍事独裁を布いている。

沿岸地域で発見された石油の売買に絡む怪しい噂や近隣諸国とのダイヤモンド鉱山の争奪で軍隊を出動させるなど危ないことを平気でするため、あまり良い印象を抱かれない。

そこの独裁者をしているナントカ将軍は自分が革命の英雄だとか言って、自分の肖像画だとか銅像だとかを国中に配置している絵に描いたような典型的な独裁者。

そして、彼の横に黒人上位主義国家には珍しく白人の顧問官が立っていたことを思い出す。

テレビでも名前は語られないが学者らしい白皙の老紳士だった。

そう――綺麗な赤い眼の。

「……え? ……ちょっと待てよ、嘘だよな?」

そうだ、あっていい訳が無い。

世界中の魔術師に命を狙われる吸血鬼があんなに表立って、悪事を働いているなんて。

「本当よ、本当……シュニッツェラー卿。吸血鬼の貴族で千四百年物……あれだけの悪事を重ねるようなのが指折りの強さなの、日々の健康がどうとか言うのは小さなことよ」

魔導師カール・シュニッツェラー……呪術界の永遠なる覇王。

最古の魔術組織でもある呪術協会の創設者の血を引く偉大な魔導師にして、世界最高の呪い屋。

その神聖な血統から、吸血鬼に身を堕とした今も協会内部に多数の支持者がいる呪術師。

その理知的な風貌に騙されていたが、魔術師の倫理観でも悪い事とされる悪事を重ねまくったとんでもない極悪人らしいから最悪だ。

魔術師同士の戦闘では必ず必要とされる対魔術結界、対物理障壁……そういった理論の元になる禁術を最初に得た男で、その特殊な魔術を纏った彼には近づけないのだとか。

「なぁ――どうしてソイツを退治しないんだよ。誰がどう見ても悪い奴で、何処にいるかまでわかってるんだろ? なら……」

「まぁ、そういうことになるけどね。実際のところ、シュニッツェラー卿に勝てる魔術師なんて世界に何人もいないのよ」

「何人もいないって?」

「人間の中にいたとしても4人くらいじゃない? だって、あの人の別名は『バロル』……知ってるでしょうけどフォモール神族の魔眼王、それに因んで呼ばれる人だから誰もかかわりたくないのが正直なところでしょうね。当然、私は絶対に近づかないつもりだけど」

バロルはケルト神話に登場する神の一人で、その瞳に見つめられた者は全て破壊されるという。

アイルランドの支配権を争った神々の戦い『モイ・トゥラ』の戦場において、自分の孫でもある太陽神ルーの放った魔弾『タスラム』にその瞳を砕かれ、バロル率いるフォモールの神々は壊滅したという。

こんな例えを出したのは、浅海の地元だからではなかろうか?

「バロルって、あの見ただけで人を殺すって云う?」

余談だが、フォモールの軍を壊滅させたのはタスラムに貫かれたために反転して、自らの背後に控える友軍を見つめたバロルの自身の魔眼であった。

神を殺す瞳、それはこの世界に実在するのだろうか?

「ええ、でも実際は魔眼じゃなくて……広域呪術結界と呼ばれる、人を殺す事だけに特化した直径数十キロにも渡る大結界を張るだけよ。まぁ魔術師にとってはそれが即死の結界でもないけど、一般人にとっては二分耐えるのも無理でしょうね」

大した事でもないかのように、さらりと言った浅海。

「……いや、結界を張るだけって……それ、魔眼より断然性質が悪いだろ。相手の前に立つとかどうとか言う以前の問題だからな」

数十キロといえば、近づくことさえ出来ない。

そんなものをでかでかと展開されたら、とてもではないが戦闘にすらならない。

「ええ、悪いわね。だって、吸血鬼は人間の事なんて家畜くらいにしか考えてないもの。仮に彼を攻めれば、大結界が発動してC国の首都圏に住む人間はみんな殺されるでしょうね……化け物じみた吸血鬼狩りでも絶対に手を出さない理由はそれ。前に退治に失敗したときにロシア西部の共和国で数万人が消えたのよ……『飢饉による餓死者』って偽装はされたらしいけどね」

おい、アデット……ここに痛い現実が発生したぞ、悪いことをして性格が矯正不可能でも卓越した魔術師はやっぱり腕が落ちないということだ。

お前には申し訳ないが……いきなり決心が折れそう。

そもそも、話が全然違うじゃないか。

しかし、待て、今はそんな独裁者の陰に隠れている男が問題なのではないはずだ。

そう、俺はそんな世界レベルの緊急事態を解決するわけではないのだから。

「……兎に角、だ! そんな訳のわからない危ない奴の話は忘れて――俺も言われた約束を一日目から破るなんてしたくない。確かに昨日はあれだったが、今日はあのおかしな薬のお陰で傷もだいぶ良くなったから絶対に守る」

「一日破れば同じでしょう?」

食事をあっという間に平らげた浅海は平然と言ってのける。

「うるさいな、それにお前だって怠けてて良いのか?」

そうだ、昨日あれだけ俺のぐうたらを罵りながら自分も同じでは格好がつかないだろう。

俺にそういわれた浅海は気がついたように窓の外を指差して、今までと違う生き生きした声で聞く。

「そうそう、そういえば、ここって広い庭だけど荒れ放題よね。私がガーデニングに使っても良い? 今度薬に使う薬草とか植えたいし」

ここの庭は確かにそれなりに広いのだが、庭師に任せる金もないし、自分たちで庭を整備するのも面倒なので荒れ放題。

春の初めではあるが、雑草がそこらじゅうに生え、とても良い庭とはいえない。

浅海がそれを何とかしたいというのなら別に構わないだろう、何より今よりも悪化することはありえない、はずだ。

「勝手にしてくれ、俺もこの本を見て冷蔵庫の中身と相談したいから」

本を眺めて、それなりの計画は立てた。

尤も、自分で食べるだけならまだしも、人に出すような手の込んだものは経験も無いから自信は無いが。

「ありがとう。そういえば、この家の家系図とかある?」

「ん? 鑑定○でもしたいのか?」

何も考えていなかった俺にそう返された浅海は苦笑しながら、それを否定する。

「違うって、ほら貴方の特殊な血液って、遺伝の可能性が高いから……家系図を調べれば、私の知っている魔術師とかの名前があるかもよ」

「なるほど……でも、ないぞ。そもそもあったとしても、俺の家ってぽっと出の成金だったから、捏造の疑いが高いし。よく言うだろう? 江戸時代には殿様だって、適当に家系図を作ったくらいだから、庶民がどんな無茶をやったか知れたものじゃない」

そう、有名な大名家の家系図でさえ一部に手が加えられているというのだから……庶民の家系図にどんなインチキが隠されえいるかは想像に難くない。

何より、俺の家系に魔術師などいたらそっちの方が驚きだ。

「そうなの? でも、ただの成金のわりには良いセンスしてると思うけど、この家の古いインテリアは」

曽祖父は当時この家を建てたときに、散々『西洋被れ』だとか『ハイカラ』だとか呼ばれていたみたいなのだが、確かに今の感覚で見れば味のある品も多い。

尤も俺は鑑定士でもないからそう思うだけで断言など出来ないし、おかしなセンスだと思うものの方が多い気がするのも事実だ。

「そうかぁ? あっ、そういえば家系図じゃないが、俺の曽祖父の日記やらの書籍が書庫に収めてあったと思うけど」

字が達筆すぎて読めない、あるいは読みにく過ぎて手にとっても数秒で放り出してしまうようなものばかりだが、書庫の中で埃を被っていたのが何十冊かあった。

よくもまぁ古本屋に売られなかったと思う古文書、本当に物を整理するのが下手なのは血筋かもしれない。

しかし、浅海のような人間は古文書のような書物にも価値を見出せるらしい。

「本当? いいわね、今日はそれにしようかな。それってどこ?」

「一階の突き当たり、親父の書斎の三つ横」

「じゃあ、見て良いのね?」

「ああ、でも盗んだりはするなよ」

「ちょっと! それってものすごく失礼だわ」

ふざけて言っただけなのだが、心外だったのかちょっと声が大きくなった。

「いや……悪い、ただの冗談だが」

「そう、ごめん。私もちょっと大人気なかったわ」

「そ、そういえば、ちょっと聞きたかったんだが、吸血鬼って一体何なんだ? いや、確かに今までにも話は聞いたけどよくわからなくて。狼男とかドラゴンとかも吸血鬼って言われても、なぁ? アレは完全に別物だろ、一般人の常識として」

「ああ、ソレ? 簡単に話すけど、真祖って言う吸血鬼が昔どこかで生まれたのよ」

吸血鬼とは不老不死というシステムを内包する生命のことを全てそう呼ぶのだそうだ、だから浅海も広義の意味では吸血鬼。

しかし、今問題になっているのは一人の真祖を発端とする狭義の意味の吸血鬼。

不老不死というシステムは最も強力である彼ら狭義の『吸血鬼』のような超越種にとっても完全なものではない、それを維持する代償として人間から奪い取る血液、実際はそれに含まれる生命力を直接奪うことが必要になる。

要するに食事を人間の血液で代用するということらしいが、ごくたまに吸血するだけで実際は生存可能なのだそうだ。

しかし、彼らにとって血液から奪い取る人間の生命力は自分の力を高めるだけでなく、一種の麻薬のような快楽さえ与える魅惑の食料。

故に一部の吸血鬼は必要以上に殺し過ぎ、また残りの全ての吸血鬼が自分の家畜として人間を飼って生きている。

長くなるが、この世界の吸血鬼が血を吸う場合にはいくつかのパターンがある。

一つはそのまま血を吸って殺してしまう場合。

実に単純なことだが、このとき血を吸われた人間の命はそれで終わる。

当然だが、もう一つは血を吸っても殺さない程度で止めてしまう場合。

このとき、血を吸われた人間はそのまま問題なく日常生活を取り戻せる。

だが、その二つに吸血鬼自身の血を与えるという行為が合わさったとき、最悪の事態となる。

血を吸われて死んだ人間に吸血鬼が自分の血を与えると、それは生ける屍……ゾンビとなって人を襲う吸血鬼の使い魔に変わる。

その体が滅びるまで、あるいは一定期間が過ぎるまでの間、吸血鬼の奴隷として思いのままに操られる人形、その肉体が動かなくなるまでそれは続く。

ゾンビは人間を捕える場合や魔術師との戦いに兵士として導入され、彼らに噛まれたからといってその人間がゾンビになるわけではない。

また彼らを生かすのは吸血鬼の血であり、ゾンビの体が滅びなくとも、定期的に血を与えない限りは自動的に一週間ほどでその命を終える。

生きた人間に血を与えた場合はおよそ一週間の間、その人間は一切の自由意志を吸血鬼に支配される人形と化す。

それは吸血鬼の完全な奴隷であり、その意思の赴くままに殺人でも、強盗でも、自殺さえ彼らの命令一つで実行する。

魔術師はそれに抵抗できるので、一般人がこの犠牲となる。

吸血鬼の多くはこうした人間を何人か飼っていて、定期的に彼らの血を吸い、また血を与えることでその支配権を維持する。

ゾンビにするよりも、こちらの方が遥かに便利なので吸血鬼の多くは無駄に人間を殺すことを好まない。

そして、吸血鬼に支配される人間はまさに『家畜』と呼ばれるそのままの存在でしかなくなり、彼らのためだけに生きることになる。

多くの吸血鬼はその土地の権力者を自身の家畜として飼っていて、その数は平均すると20人程度……吸血鬼によっては同性だけ、異性だけのような好みでわける場合もある。

聞かなければよかったような胸糞の悪くなる話だ。

そんな悪夢の原因を作り出したのが、浅海の言った最初の吸血鬼。

「ソイツが例の吸血鬼全部の親玉だろ?」

「ええ、正確には吸血鬼の最初の王様。そいつは人間の女に自分の子供を生ませて数を増やしていたの。特殊な血族だけが彼の子供を生むことが出来て、生まれた子供は例外なく真祖として生まれた。あ、一応コイツ等の見た目は人間らしいわね」

「混血なのに完全な真祖って言ってたよな? そいつらの一人が後で王様になったんだろ?」

「ええ、その通り。ソイツが二代目の王様で、魔導師をたぶらかして真祖の仲間にしたの。魔導師も人の子、死にたくないっていう気持ちはあるものだから簡単に堕ちていったそうよ」

秦の始皇帝が不老不死を求めたように、幾多の権力者がそれを求めた。

魔術を統べる偉大な賢者であろうとも、その誘惑に負けないことは難しかったのだろう。

しかし、だからといってさっき言ったような非道を行うことが許されるとは思わない。

「そこまでは人間なんだよな、元は」

「最初の王族は違うけど、魔導師出身者は全部そうね。取り敢えず、そいつ等はみんな人間型らしいけど。貴方が聞きたかったのはそのどっちでもない奴でしょう?」

「ああ」

「あれはね、人間を実験台にした真祖造りという実験の犠牲者たちなの」

「どういうことだ?」

「字の如くよ、魔術師との戦いで数を減らした吸血鬼は兵隊を欲したの。それで、自分たちが支配していた人間の中から素質がありそうな連中を改造して不老不死というシステムを無理やり組み込んだキメラを造り出した」

「造り出したって、どういう……」

「キメラって言えばわかると思うけど、人間っていう存在だけだと不老不死というプログラムをまともに扱えない、だから、別な要素を取り込んでソレを動かせるものを造り上げた。それが兵隊吸血鬼よ、全て昼間は人間で、夜は異形の姿に変わる怪物。ほら……私みたいでしょう? アヤネが私を吸血鬼と呼ぶのはそういう理由」

やや自嘲的に言った浅海の姿は印象的だ。

別に悲しんでいるわけでもない、その成り立ちがまったく違うのだから。

ただ、関係がなくとも似た境遇であることを自嘲したのだろう。

「それじゃあ、お話も終わったみたいだから……書庫に行ってくるわね。因みに言っておくけど、狼男やドラゴンは兵隊吸血鬼以外には存在しないわよ。使い魔に似た形の怪物がいることもあるけど、あのレベルの怪物は力が違いすぎるからやっぱり別物ね」

腰を上げた浅海が食器を台所に運ぼうとしたとき、彼女が突然咳き込んだ。

「ごほっ、がはっ!」

「おい、大丈夫か? そんな固いパンなんて食べるから」

手で俺を制した彼女は、口の中から何かを取り出した。

「あ~、苦しかった。アヤネのやつ、こんなので私を撃ったの? あれも相当頭がおかしいわね」

それは銀の銃弾……でかい。

それを弄ぶように手の上で転がすと、俺に投げてよこした。

勿論、ちゃんと拭いてからだが。

「あげる、純銀みたいだから価値はあると思うわ」

「価値があってもなぁ、こんなのどうすればいいんだよ?」

「溶かしてコインにでも変えれば? お守りにはなるんじゃない?」

「なぁ、銀って吸血鬼殺しじゃないのか? どうしてお前って大丈夫なんだ。それとも吸血鬼に銀が効くって云うのは迷信か?」

扉に手をかけた浅海にそれを聞く。

「ああ、ソレ? 銀が効果あるっていうのは本当よ。でも、大したことじゃないけど……さっきも言ったように私って正確には吸血鬼じゃないから」

「あれ? それっておかしくないか?」

「いいえ、勘違いしているのは貴方よ。私は狼になる吸血鬼が別にいたからそれに似ているって言っただけで、これはあくまで呪い。つまり、銀も日光も、雨も効かないの。人間と同じだから」

あ~、なるほど……そういえば言ってたな、狭義の意味と広義の意味ではかなり違うわけだ。

「そういえば、さっきシュニッツェラー卿の話をした時に『魔眼』の話が出たでしょう?」

「ああ、でもあれは結界なんだろ」

「そう、あれは結界よ。でも実は貴方はもうとっくの昔に魔眼を見てたんだけど、やっぱり気がついてないの?」

そういわれて、首をかしげる。

はて? そういえば、教会でアデットが顔を近づけてたけど……あのときの感覚だろうか?

俺がそのことを言おうとしたとき、浅海はそれを制す。

「アデットのあれは違うわ、ただの瞳術よ。因みに、あの大馬鹿錬金術師も未来予知か何かの魔眼を持ってるみたいだけど、実は私よ。私」

ドアから手を離し、自分を指差す浅海。

「? お前が俺に何かしたか? 狼になって殺そうとしたこと以外に」

「意外に根に持つタイプなの? 女々しい男って格好悪いわよ……それで、思った通り貴方にはまったく効いてなかったわけだ。やっぱりその体質は羨ましいかもしれないわね、多分貴方ならシュニッツェラー卿の大結界でも防げるわよ」

「よくわからないけど、俺にいつ使ったんだよ。まさか魅了の魔眼とかゲームじみたヤツじゃないだろうな?」

「あら、私に魅了されたの?」

イタズラっぽい眼で俺を見つめる彼女はどこか教会の悪魔に似ている。

「違う! 効いてないって言ったばかりだろ、何考えてんだよ!」

「何もムキにならなくても良いじゃない……冗談の通じない人。私の魔眼が何か知りたい? でも、交換条件も無くこういう秘密って教えられないのよねぇ」

何かを要求しているのはわかる、しかし譲歩できる限界も同時に存在する。

それを確かめるかのように、俺は失っても構わない条件を口にしておく。

「庭を使って良いって言ったろ?」

「それだけだと不足よ。工房を作らせなさい、この家の中に」

最低の要求、どこかのバカが宿屋を吹き飛ばした話を思い出す。

この家とその宿屋とどちらが頑丈かなど最早問題ではあるまい、そんな危険に巻き込まれること自体が死活問題だ。

「いや、そういうのは良くないと思うな。俺が思うに、そういう危ない核施設みたいなのは絶対にこの家の家風に合わないから嫌だ!」

断固否定された浅海は舌打ちをすると、すねた猫のような顔で扉を開ける。

「ちぇ、詰まらない男ね。秘密って言うのは共有してこそ面白みがあるのに」

浅海はそう言うとそのまま書庫まで行った。

これであきらめてくれることを祈るしかないな。

俺は彼女を見送ると、今日の食事を考える。

不器用そうな二人の料理を食べるのと、俺が自分で作るのを比べると、あの二人に任せる選択肢は存在しない。

何より、金に飽かして生活していそうな二人が節約料理を作れるとは思えない。

これも試練と思うことにしよう、ページをめくりながら冷蔵庫を開ける。

料理を考えるのは難しいな、いつもは適当なので済ませるのに二人の客を迎えると考えるものもある。

○○○○○

「まずっ――篠崎君、貴方は私を殺す気なの? ひょっとして昼間の仕返しに毒でも入れた?」

顔をゆがめて、俺の夕食を酷評する浅海。

手に持った箸が感情を表現する途中でへし折れる。

「焼き魚、マーボウ豆腐、その他も全て駄目。最低です、完全に落第ですね。切腹して、その本質を完膚なきまでに殺された食材達に詫びなさい」

綾音までそういう。

確かに、今日のやつは焼き加減を間違えていたのと、具が切れていなかったのと、微妙に炭になってたのと、失敗は多かった。

兎に角、よくはなかったが……努力点はくれても良いと思う。

「だ、だったら、お前らが作れ! 俺だってなぁ、別に料理が出来ないわけじゃないけど気を利かせて作ったから空回りしたんだよ!」

つい、声を荒げてしまった。

「逆切れ? まぁ、それはいいけど、貴方自身はこれがおいしかった?」

「いや……悪かった、これはさすがにまずいな」

「なら、今度からは私が作りましょう。こんなものを出されていては我慢の限界です」

綾音が茶を飲みながらそういった。

「作るって……綾音が?」

思わず聞き返す、当然、綾音は鋭い眼光で俺を睨みつけた。

「悪いの? 貴方まさか、この私に料理くらい出来ないと思っていて? この料理より出来の悪いものをこの私が作ると本気でそう思ってらっしゃるの?」

自信満々にそういう綾音、意外だ……彼女に料理という特技があったとは。

「そう強気に出られると信じるけど……無理していないよな?」

「花嫁修業の一環としてその程度の教養は積んでいます、どこかの野蛮人と同じにされたらたまりませんね」

気を抜いていたときに突然火の粉が散った浅海は声を荒げて反論しようとしたのだが。

「ちょっと! 私だって料理くらいならまったく出来ないわけじゃ……」

「なら、出来るの? 完璧な料理が出来るって言い切れる? 言っておきますけど、この私に食材の個性を殺したような料理を出すのならその場で貴女を叩き殺しますからね」

そう、綾音の自信に満ちた言葉を受けるとあの浅海でさえ完全に詰まった。

揺ぎ無い自信は一体どこからやってくるのか、彼女は久しぶりに好敵手を沈黙させた。

「……ごめん、そこまで言われると流石の私も謝るわよ!」

謝罪までさせるとは……やりすぎではないだろうか。

これでまずかったらどうするつもりなんだ? どこかに亡命した方が良いと思うくらいに反撃されるぞ。

「決定ですね、これから私が料理番です。洗濯は浅海、貴女がしなさい。コーメイは早く業者を読んで水道管とかの不具合を修理すること、良いですね?」

「……どうして、私が洗濯係なのよ」

「コーメイに自分の服を洗わせたい?」

「それは……仕方ないわね、わかった。わかりました!」 

「なぁ、それなら俺も少しくらい手伝えることがあると思うけど」

「家主は黙っていれば良いの。お分かり? この私が家事も出来ない女だと思われていてはこの上なく不快です、絶対にその認識が間違っていることを証明しますからそれまで私の邪魔はしないでもらえません?」

「はい……わかりました、綾音さん」

「それと、もし修理業者を呼び忘れていたら地獄を見せてあげますからね?」

「あ、ああ。絶対呼ぶよ。忘れない、絶対に忘れないから」



[1511] 第九話 『アマルガスト』
Name: 暇人
Date: 2006/02/15 20:47
 


一ヶ月はあっという間に過ぎてしまった……。

本当にあっという間に過ぎて、なんだか嘘みたいだ。

「うん、篠崎は最近頑張っているな。ここのところの小テストも出来が良いし、授業もしっかり聞いていて大変よろしい」

たまたま来た職員室で出会った先生達にはそう褒められ、体育の時間にはクラスメイトから……

「お前、なんでクラブに入らないんだ? 今からでも頑張ればレギュラー狙えるからうちに来ないか?」

など……そんな言葉が語られるようになっていた。

当然、家にやって来たスパルタ教師二人が昭和のノリで熱血スポ根マンガのような特訓をするものだから体力は確かに向上したと思うし、阿呆には魔術など使えないとか言って罵倒しつつ強制的に家庭教師をするから……まぁ、確かに役には立っているのだが、俺の意思はまったく無視してそういう状態になっていた。

一ヶ月はだらだら過ごせばなんでもない時間だが、そこに命の危機が現実に存在するが故、本気になれば確かに膨大な時間だ。

何しろアデットとの約束で制約さえ作っていたのだから、その辛さは想像に難くないだろう。

今のところ日課には一日10キロメートルランニングなど、帰宅部らしくないメニューが追加されている。

そうそう……アデットの奴はあれだけふざけているくせに、確かにすごい人なのだとは思う。

例の浅海の薬は十日くらい前に一応の抑制剤としての完成を終えていたのだ。

ただ、完全な治療薬となれば時間がさらにかかるとの事……同棲生活は一応終結したわけだが、何故かあの二人は未だに泊まりに来たりする。

庭に作ったガーデニングの植物が心配だとか、家にある文献が面白かったとか……そんな理由をつけてはスパルタ教育に来るのだから、彼女達魔術師の根っこにあるものはどうもみんな同じような気がする。

「公明さん? 今日は放課後にうちの部室まで来てもらって構いませんか?」

誘われたのは誰も近づかない幽霊倶楽部の部室、その金髪の部長は化学の授業が終わったときに俺に近づいてきてそれを告げた。

「約束をちゃんと守ってもらえたようなので、例のプレゼントを差し上げますから」

忘れていたプレゼント、何でも貴重品らしい何かをくれるという話だったな。

「ああ、わかった。浅海や綾音も来るのか?」

「さぁ? どうでしょう、来て欲しいですか?」

彼女の妖しげな雰囲気は、それだけで何かしらの危機を告げようとしているみたいだった。

「いや、来なくて良いです。絶対に来なくて良い。というか、絶対に呼ぶな」

俺が力強くそう言ったのを聞いて、相手は苦笑する。

そして、柄にも無く簡単に退いてくれた。

「そうですか、では後ほど」

悪いことを考えているような笑みを浮かべ、彼女はそのまま次の授業がある教室まで歩いていく。

あまりにもあっさりと退いてしまった彼女の行動に一抹の不安を覚えないでもなかったが、まだ一日の授業が終わったわけではない。

俺もすぐに教室を移動しようとして、教室をでた。

次の授業は教室での数学Ⅱだったな。

そう考えながら歩いていると、後ろから声が変えられる。

「おーい、篠崎」

「ん?」

振り向けば、アキラの顔があった。

「なんだ、用か?」

ニヤニヤしながら、悪友が肩に手を回してくる。

「なぁ、いつから外人趣味になったんだよ? てっきり、お前は幼馴染とか言うラッキーなポジションを確保してる白川の方が好みかと思ってたのに」

ああ……なるほど、そういうことか。

しかし、アキラよ……それは完全な勘違いだ。

「そんなんじゃない、たまたま用事があるってだけだ」

「嘘つくなよ、わざわざ教会までナンパにでも行ったのか?」

ははは、あの人の本当の正体を知らないお前だからそういうことが言える。

あの人の塒まで押しかけたらどんな嫌がらせをされるか……。

それに、綾音もスパルタ教師としてはほとんど星○徹だ……そんなのとラブコメは絶対に成立しない、魔術師を舐めてると死ぬぞ。

「……なぁ、本当にそれは勘違いだって」

「? 浮かない顔して、本当に勘違いだったのか?」

「ああ、勘違いだ。間違いなく勘違い……お前らの抱いている幻想は嘘だ。あの人は性格最悪、人を虐めて喜ぶタイプの真性S女だ。しかも、精神的に虐めるタイプの! 絶対に矯正なんて無理、それは断言できる」

それを聞いて一瞬、頭の中が真っ白になった様子……当然だ、妄想が嘘だったときの衝撃は大きい。

「ははっ、何だお前……振られたのか? いや、人間が小さいぞ。自分を振った女の悪口なんて篠崎らしくない……はは、本当にらしくないよな。あの娘の何処がそんな変態なんだよ、誰もそんなの信じないって」

「……ははっ、本当にわからない奴だな……お前は」

平和なアキラは俺の話を理解しようともしない様子……もういいや、不幸は俺だけで背負うことにするよ。

ギリシャ神話に出てくるカッサンドラの気持ちもわかるというもの――本当のことを言っても信じてもらえないのはこんなにも辛い事なんだな、そうしみじみと思う。

そのまま誰にも理解されることなく、俺は放課後に文化部の部室が並ぶ棟の脇に建つ元倉庫……現在は放課後を含めて誰も近づかないという伝説の禁域『オカルト研究会』の部室を訪れた。

オカルト研究会の部室はあの錬金術師の工房の分室、教会にも作ってもらったらしいが、安全を考慮して危ない実験はここでやるというのだから……生徒の命はどうなのかと聞きたい。

すると彼女は涼しげに答える、『ここはそのために人除けをしてありますし、結界も張ってありますから死ぬのは中にいる人間だけですよ』と。

今から俺はその中に入るのだが……死ぬほど嫌だな。

どうして中の人間だけは事故があったときには確実に死んでしまうようなところに行かねばならないのだろう?

もし俺が本当に死んだとしても、あの無責任魔導師は絶対に責任なんか取らないぞ。

仮に死んだら『世界中の魔術を探し回ってでも生き返らせてあげますから』……そういうが、『それは多分何千年も先になるでしょうね』だそうだから、すごく憂鬱。

冷たいコンクリートの壁、赤茶けた扉、まるで監獄……勘弁してくれ、そう思いながら扉を開ける。

眼を瞑って入ったのだが、ゆっくりと目を開けると……

「……ん? 部屋を間違えたのか?」

外見に比べれば本当に綺麗に整理された部屋。

テーブルの上には顕微鏡やらなにやら置いてあるが、学者が着るみたいな白衣の錬金術師がコーヒーを片手に座っているソファーは革張りで校長室のものより高そう。

部屋の隅には本でいっぱいの机、色々な本が詰まった本棚……机の上には怪しげな連中と一緒の記念写真。

今と変わらない黒い服を着た金髪少女と、白髪らしい白人の老人、黒髪の日本人っぽい中年男、国籍はよくわからないが中東系っぽい妖艶な美女、ターバンを巻いた屈強な黒人男。

写真は白黒で絶対に古いもののはずだが、写真に写った五人の中心に立つ彼女はまったく年を取っていない。

しかも、気をつけて見れば周りの人間達も時代が中世にも匹敵しそうなおかしな服装をしていたりして、ちょっとまともではなさそうだ。

眼を部屋に戻せば、そこはまるで洒落た喫茶店のような落ち着いた空間で、顕微鏡などの実験道具がなければサロンみたいだ。

壁紙まで張り替えられている。

窓の外はあの教会と同じように夜であり、部屋の明かりはまぶしいくらいに輝き、防音設備でも入れたのだろうか……時代遅れのレコードがモーツァルトの『ハイネクライネナハトムジーク』を流している。

「どうです? 紅茶、それともコーヒー? ハーブティーがお好みでしょうか?」

眼鏡に白衣を着たどう見ても科学者といった感じの錬金術師が俺に尋ねた。

部屋のあまりの外見との違いに俺の思考が停止していた。

「……落ち着け、俺。こんなことは大した事じゃない、な……よし!」

「? どうしました?」

「いや、じゃあ紅茶を」

そこに置かれていたソファーに俺も腰を下ろした。

座り心地がよく、体が沈んでいくようだった。

「それではダージリンの最高級品を差し上げましょう。運が良いですね、これは向こうで昔縁のあった農園主の方から直接送っていただいたものでして……つい先日ですよ、こちらに届いたのは」

そういった彼女はポットのお湯を注ぎ、俺の前に紅茶を置いた。

良い香りが部屋を覆う、確かにこれは高い紅茶なのだろう……ちょっと気後れしそうだ。

「……うまい」

すごく良い香りと、ほのかな甘味が最高だった。

「でしょう? それで、私の工房を見たご感想は?」

「いや……お前ら、っていうか主にお前だけだけど。生徒会費いくら流用したんだよ? これってもう完全に刑法の対象になるレベルの業務上横領だ。改装だけでも何百万の世界だろ? 捕まるぞ」

肩にかかる金髪を軽く払うと、今まで気がつかなかったがちょっと覗く耳には金のピアス、何かの紋章のようなものが細かく描かれていた。

外国人はよくピアスをしてる人がいるが、何か意味でもあるのだろうか?

「横領などといわれては面白くありませんね。これは前年の生徒会費を用いて私が作った『赤い石』と『白い石』のご利益です。金と銀を作ったお陰で生徒会費が十倍になったでしょう? これくらい役得というもの、違いまして?」

「ああ……あれって、賢者の石を使って作った金のお陰? 株じゃなかったのか?」

ため息をつきながら、その答えを告げる彼女。

「何を仰るのかと思えば……いいですか? 私は確実な戦いしかしません。株で儲ける事も確率を考えれば可能でしょうが、私のとった方法以上に確実なものはないと思います」

「確かに、賢者の石なら確実だとは思うが……錬金術師が自分の事に力を使ってばかりで良いのか? お前って一応、正義の味方。だから、なんていうか……ほら、そういうヒロインとかヒーローは自分のことは犠牲にする決まりだろ? 秘密の力とかも他人のためにしか使えないとかの制約があってさ」

「すごい偏見だと思いますし、この私が自己犠牲とは……その眼は飾りですか? そもそも、私は貴方の思われているような正義の味方ではありません――というより、そんな青臭いことは魔導師の誰も言わないでしょうね」

「そうか?」

というより、お前の今の発言はどこかおかしい。

自己犠牲とかを否定して、お前に何が残るって言うんだ!

「まぁ、話の要点は掴みました。ですが、私は利益を還元しましたし……もう一銭も残っていませんよ。元々無銭旅行しかしませんし、財産を否定するわけではありませんが、度を越した財産は持たない主義ですから」

「なんだ、お前って貧乏だったのか?」

「貧困に悩んでいるわけでは在りません、この場合は清貧と呼ぶことが正しいでしょう。それに錬金術の秘法を用いれば金銭などすぐに作れますから、普段から多く持ち歩く必要などありません。物騒ですし、保管する場所と時間が無駄ですから」

「羨ましいのやらそうでないのやら……要するに儲けた金はみんなで使って遊ぼうって訳だろ? 悪い考えじゃないよな、ソレ」

確かに、それは悪くないどころか生徒の立場で考えれば最高のパトロンということになる。

ただ、そういうのは次回の生徒会選挙での買収工作に当たるのではなかろうか?

しかし、彼女にこの考えは読まれてはいない。

その証拠に続けられるのは見当違いの発言。

「貴族特有の浪費癖だと思われているのでしたらかなりの偏見と誤解ですけど、掻い摘めばそう言い切ることも出来ますね」

「それより、あの写真っていつ撮ったやつだ?」

部屋の隅に置かれた机の上にある写真立てを指差して聞いた。

机の上にはそれしか写真は無いから間違えるはずは無い。

「あれは百年くらい前に知人たちと撮ったものです。私が老けていないことに驚かれますか?」

「まぁ驚きはしたけど、お前の出鱈目さを考えれば納得は出来る。どう考えてもお前は普通の人間じゃないから」

「やれやれ、褒められているのやら貶されているのやら……よくわからない回答ですね。それより、プレゼントです。ほら、この本をお受け取りください」

彼女が渡したのは茶色い表紙の外国の古本……文字が全然今風じゃない、これは浅海が前に持っていた魔術関係の本によく似ている。

手にしたとき、ずしりと重い。

おそらく、紙ではなく羊皮紙か何かを使ったのだろう。

「魔術兵装に第七魔導書『アマルガスト』と云うものがありまして、それを用いれば貴族種の吸血鬼さえ殺すことも出来るといわれる究極の汎用兵器なのですが……公明さんが持っておられる本はその偽典の一つで『イフィリル写本』と呼ばれるものです」

いきなり意味不明の単語が登場した、アマルガストって何?

しかし、わかることも一つだけある。

「なんだかすごく高そうだな、いいのか?」

そう、長い前置きだけのことはあってこれは絶対に高いだろう。

すると、彼女は涼しげな表情のままに俺の心臓が止まりそうな言葉を告げる。

「今の時代ではその希少価値から同じ重さのプラチナよりも遥かに高価といわれるものですが、別に構いませんよ。ほんの10億程度の金銭にしか値しませんし」

10億ときたか……これが魔術師以外には鑑定できないものだから、実際の価値はよくわからないが兎に角、俺が一生働いても買えないくらい高いものだということだけはわかる。

それをただでくれる? 絶対におかしい。

「本当に、そんな価値のあるものを? いや……悪いな、なら俺も何かお礼をした方が良いのか?」

そう言いかけたとき、彼女は血も凍る本性をちらりと覗かせる。

「ただし、御礼をしたいと思われるのでしたら――一年くらい私の命令には絶対服従の『奴隷』にでもなってもらわなければ釣り合いませんね」

「へ?」

俺は何か聞き間違えたのだろうか?

コイツ、今なんて言った?

「……もしそれを受けてくださるのでしたら、世界最高を自負する私の錬金術で愛らしい『両性具有者』にした後、綺麗な貴族趣味のドレスで『女装』させて、たっぷり可愛がってあげますよ……貴方の脳髄が完全に蕩けるまで私に奉仕させて、ね。それとも、足の舐め方から躾てあげましょうか?」

――信じられないことだが、金髪の美少女は輝く笑顔でこんな変態な事を言った。

――聞き間違いなど無く、一字一句そのままだ。

――聞けば十人が十人、この人がまともではないと判断してくれるだろう発言。

可憐な少女はまるで『御機嫌よう』とでも言うように、丁寧な言葉遣いのままそんなことを平然と言ってのけた。

内容を吟味するまでも無く、その法外な要求がわかる。

しかも、コイツの口から出た単語はどれ一つ取っても、到底可憐な少女が口にするような言葉だとは思えない。

そもそもあの顔で、あの声で、あの瞳で、あの口で俺が絶対に言って欲しくない単語を連発しやがる。

これはどう考えても、完全に逝っちゃってる人の発言だ。

「絶対にお断りだ! お前が勝手にくれたもんだろ、そんな法外な要求が呑めるか! アンタ、完全に頭おかしいぞ。大体、それって間違いなく変態の台詞だ!」

そう力強く否定しておく、こいつにちょっとでも弱みを見せると駄目だ。

彼女は苦笑しながらも本の代金は要求しない、それは冗談であると告げる。

『冗談』、それを魔法の言葉でもあるかのように勘違いしている口なのだろう……許される冗談とそうでないものがあるくらいは理解してしかるべきだ。

しかし、彼女は悪びれもせず、恥じ入る風でもなくそのまま冗談で通す気らしい。

「やれやれ、怒らないでくださいよ……冗談じゃないですか。私たち魔術師の間では挨拶程度の軽い冗談ですよ。魔術師の世界に、この程度の冗談で怒る人は一人もいないくらいの軽い冗談だというのに……公明さんはセンスの無い方、ユーモアのセンスも無しに世の中を渡り歩くのは大変ですよ」

「絶対嘘だ! 試しに浅海にそう言ってみろよ、アンタ絶対に殴り倒される。いや、下手すれば殺されるぞ! 何なら、俺が証人になってやろうか?」

 浅海にこの手の冗談など通じない、綾音に対しても同じこと……二人は潔癖症なところがあるから、笑って済ませるなどありえない。

というより、あんな笑顔であんな変態な要求をされてまともに受ける奴なんているのか?

仮に世界最高の錬金術師っていうのも本当らしいし、さっきの言葉を受ければこの変態さんは確実にそれを実行してくれるぞ。

そういう意味では、確かに目の前の錬金術師は綾音達よりも遥かに冗談の通じない大人ではある。

かなり嫌な大人だ。

「……それでは、この本について説明しましょう」

言った端から完全に無視したよ、この駄目錬金術師は!

『アマルガスト』……最初の吸血鬼を倒したという伝説の英雄、第七魔導師ザラス=シュトラが創ったといわれる人類最高峰の魔道書の一つで、本物の価値は国一つにも匹敵するとかいうすごい本。

アマルガストはただの一般人にも扱える最高純度の兵器、ただの一般人が魔術師や吸血鬼に魔術的なダメージを与える数少ない兵装の一つといって間違いない。

それは数多の魔術式が文字として組み上げられた神秘の書物、魔力の使い方を知らない一般人であろうともただ文字の上を辿るだけで古の時代において最上位とされた魔術さえ使うことが出来る。

それは強制的に魔力を奪うことで魔術を発動させる機能があるためで、一流の魔術師にも扱えない高度な神秘を行使できる代わりに魔力の蓄えのない一般人は一つの奇蹟を行うために命を奪われるとさえいわれる魔性の本。

『イフィリル写本』とはそのアマルガストをコピーしたもので、神さえ殺すといわれる第五魔導師ベルラックが創り上げたものの一つ。

最強の兵器造り、神話の武装さえ再現するといわれるその吸血鬼が創った神秘の結晶が俺の手の中にある本……なのだとか。

「と、まぁ……そういうわけですね。最古の吸血鬼の一人ベルラック、本名イフィリル・ベルジュラック卿は現在六つの協会が保管するだけでも四十七にも及ぶ神話レベルの武装を創り上げた天才付与魔術師です。それはその中では初期の作品といわれていて、彼女らしくないくらいに質の悪いものですので、あげても構わないでしょう。元々私のものですし」

「……なぁ、その話の通りだとこの本を使ったら死ぬだろ、俺? いや、間違いないくらいにあの世逝きだよな。正直に言え、この本は吸血鬼がらみの呪いの品なんだろ?」

「いいえ、大丈夫ですよ。それは彼女の神がかり的な才能をもってしても半分もコピーできなかった粗悪品ですから。完成度は贔屓目に見ても三十パーセントくらいでしょう。簡単な魔術だけなら魔力の消費も少なくて済みますから、今から使ってみましょう」

「? 今使うって?」

「ええ、魔力を使うには体がそれを認識しなければなりませんでしょう? 多少強制的であっても何度か使えばそのイメージが掴めます」

「本当に……死なないよな? 冗談でも仮死状態になったりしないよな?」

「ええ、死ぬことはありません。そのための体力づくりでしたから。サボっていなければ『多分』大丈夫です」

「……本当に怖いな、お前は。憶測で人を殺しても笑って誤魔化す気なのか!」

俺が本のページをめくろうとしても、うまくめくれないページが目立った。

「言い忘れていましたが、本当に公明さんがお亡くなりになられたら大変ですので使っても『取り敢えず』命は繋がる、そういう魔術だけを選べるように細工しておきました。今の魔力量を測る良い指標になるでしょう」

「涙が出るほどありがたい措置だよな……『取り敢えず』命が繋がるだけじゃなく、俺の体が『間違いなく』大丈夫なヤツだけにしてくれれば良かったのに」

「肝の小さいことを……いいですか? 戦士たる者、死に掛けることは最大の名誉の一つだと考えてください。かつてヴァルハラを目指した私の祖先は戦いでの戦死さえ名誉と考えていました。案外、貴方ならヴァルキリーが連れて行ってくれるかもしれませんよ」

北欧神話の主神オーディンは『神々の黄昏』と呼ばれる最終戦争のために兵士となる優秀な戦士を戦場でリクルートしたという。

魔法の神でもあるオーディンは自身が必要とする戦士を集めるためなら、魔法を使って一方だけに味方することもしばしばだったというのだから公平ではないと思う。

そんな彼の戦士集めを任されていたのは『ヴァルキリー』と呼ばれる女の死神たち。

彼女達は後の『ニーベルンゲンの歌』においてゲルマン人最高の英雄、オーディンの血を引くシグルズあるいはジークフリートの名で知られる男との叶わぬ愛を貫いたブリュンヒルドというヴァルキリーのイメージ……絶世の、あるいは傾国の美女のイメージを抱かれているが、伝説の通りだとすれば実際は全然違う。

彼女達は純粋な死神あるいは凶悪極まりない屍食鬼であり、美しい顔の下は浅海が狼化したときの姿もびっくりの怪物らしいのだから、本当に嫌な喩え。

思うに馬鹿でかくて、戦場の死体を鋤でかき混ぜていたような悪女に好かれるのは今よりも勘弁して欲しい状況だ。

特に、神や悪魔までいるときかされてからは……これが冗談に思えなくなった。

「……嫌な話だ。大体、俺がいつ戦士になったんだよ……じゃあ、取り敢えず……これ、なんて書いてあるかわからないけどやってみて大丈夫か? 当然、間違いなく、完全に、絶対に身体に問題が生じない魔術かって事を聞いてるんだからな!」

彼女は本を受け取ると、俺が指差していた魔術の正体を探る。

というより、彼女にはその意味不明な楔形文字みたいな文章が読めるようだ。

「ちょっとお待ちを……爆発など起こされては迷惑ですから。……なるほど、それは火を熾す魔術ですね。大丈夫です。ライター程度の火ですから、トランプでも燃やしてみましょうか?」

そういった彼女はブロックを取り出すと、それを床において、その上に接着剤でトランプを一枚ほど立てたまま接着させた。

彼女が別に椅子を用意し、二人はトランプを見つめる位置に椅子を置いてそこに座った。
 

 



[1511] 第十話 『はじめての魔術』
Name: 暇人
Date: 2006/11/26 15:23






「さぁ、その文字をなぞる前にちょっとしたレクチャーをしましょうか。物が燃える現象についてです……当然、科学的に考えればそれは酸素による燃焼であることはお分かりですね?」

それくらいは高校生ならわかる、ごくごく当たり前のこと。

「ああ、紙とかに含まれている炭素や水素が酸化されるときの熱が炎なんだろ?」

紙の主成分はセルロース、植物の体を作っている素材がこれで、炭素や水素が組み合わさって出来ている。

当然、燃やせば二酸化炭素や水に姿を変えるわけだ。

火は当たり前だが物質ではなく、二酸化酸素や水が生成する際の化学反応で生じるエネルギーが光やらの関係であのように見えているに過ぎない。

だから、誰も物質としての炎には触れない。

「ええ、そこまで分かっておられるのならあまり突っ込んだことを語る必要はないかもしれませんね。では、ごくごく普通の状態では紙は酸素が存在する条件下でもまったく燃えない訳ですが、酸化反応を起こすためのきっかけが必要だから……ということはわかりますか?」

当たり前だ、そこら中で紙が勝手に燃え始めれば命がいくつあっても足らなくなる。

学校などすぐに燃えてしまうだろうし、新聞配達など放火と同じことになってしまう。

つまり、きっかけになるものが無ければ紙は燃えないし、木も燃えない。

「言っていることは簡単なことだろ? その理由は俺達が暮らしている条件下では紙が酸化される温度にないからだ……仮にもっと大気の温度が高ければ燃える。スペインだかポルトガルだったかで、気温が40度以上になった一昨年の夏に山火事が頻発したのはそういう理由だろ。当然、乾燥してたのもあったけど火が熾きたのは熱のせいだ」

「そうです。正確には反応を起こすのに必要なエネルギーが加えられれば良いわけですが、単純にいってしまえばそういうことです。では、私たち魔術師がものを燃やす上で必要なものは何でしょう?」

「ライターみたいな点火源だよな。温度が高ければ良いわけだから。虫眼鏡のレンズで熱を集めるのと同じだろ?」

「酸素が十分にあると仮定すれば、そしてトランプカードが湿っていなければ、それで答えは正しいです。つまり、私たちはその熱を加える必要がある……魔力とは体が作り出す一種のエネルギーであることはご理解頂けていますね?」

「ああ、まだその使い方や存在はわからないけど、その話は聞いた。なんでも魔術を起動させる燃料みたいなものだろ」

「ええ、生物の授業を聞いていればわかると思いますが、酸素を使った化学反応を体内で行うことで私たちは熱を作り出しています、あるいは電気も……魔力もこれに似たものでして、単純な魔術である炎を熾すものの場合は魔力を熱に変換して直接物質の酸化反応を促します」

「高熱をぶつけるわけか?」

「極端にわかりやすく言えば、他の魔術理論を一切無視すれば、そういうことです。物を作り出す技法である『赤い石』も原理は似ていますが、あれは原子レベルでの核融合や核分裂に伴う途方もないエネルギーをほとんどゼロに変える幾多の魔術式を組み合わせた触媒です」

「なるほど、宇宙が出来たときには水素だけが存在していて他の元素は後で出来たって聞くからな。そういえば、シャーペンの芯からダイヤモンドも作れるのか?」

ダイヤモンドとシャーペンの芯は同じ元素から作られている。

一般にこれらは同素体といわれていて、構造が違うためにまったく別の性質を示すが元素は同じという意味でそう呼ばれる。

「魔術理論を発展応用すれば可能でしょうね……ですが、金を作るための触媒はその目的の他には余り応用が利くものではありません。そのために作られた魔術式の塊ですからね」

「大は小を兼ねないわけか。ゲーム機で別なハードのソフトを使えないのと同じ理由と同じだと考えて良いんだろ?」

つまり、あの賢者の石はゲーム機で金を作るためのソフトなら動かせる。

だが、例えばシャーペンの芯を同じ炭素で出来ているダイヤモンドに変えるソフトは動かせない。

導入できないというのが正確なところかもしれない。

「確かにそれは的確だと思います。ですが、触媒はその目的のためなら素晴らしい力を発揮してくれます。私でさえそれ無しでは直接物質を金に変えることは不可能なのですから」

「なるほど、魔術式ってそういう意味か。要するに魔力を目的とする反応や現象を起こすのに使いやすいエネルギーに変換して、対象にぶつけるのが魔術式の役割だな」

「ご名答。魔術式とは私たち魔術師がその構築理論を長年にわたって学び、身に着け、自分にあった構築方法を探すことで得られる技術です。これを文字や護符に置き換えて行う場合、または儀式で行う場合もありますが基本的には頭の中で行う場合が多いですね」

「暗算みたいなもんだな、あるいは哲学か?」

「ええ、それは良い例えだと思います。口に出す呪文、つまりは頭のサポートですがこれもよく似ていますから。ただ……綾音さんや玲菜さんのような天才はこれを怠る傾向にありますね」

「? いや、よくわからないけどあいつらって才能があるんだろ」

「ええ、溢れる才能が大成する邪魔をしないか心配なほどに」

「はぁ? なんで才能に溢れているのに大成の邪魔になるんだ」

「彼女達のような魔術師の魔術は確たる理論の上に立っているというよりは、ほとんど感覚でなされる傾向が多いからです。感覚で魔術を行使するほどの才能は素晴らしい、それを成すのは吸血鬼の王侯貴族と一部の魔導師の系譜に連なる名門、指折りといわれる天才だけですから。ただの魔術師としてはそれでも出来過ぎですが、かの名家を継ぐ者にしてはまだまだ修行不足……公明さんくらい普段から『基本以前のこれ以上ないほどの初歩の初歩』を大事にしてもらわないと困りますね」

「基本以前って……容赦の無い毒舌だよな、お前は」

「諌言をくれる友は先陣を切る勇士と同等な価値がある、とこの国を治めた昔の名君が言っておりましたよ」

家康だったか?

確かにそんなことを言っていた殿様はいたけど、悪意のある拡大解釈だな。

「屁理屈を……口が悪いのと人を思って批判するのは違うと思うけど……兎に角、要は基本が大事だから原理から教えたんだな?」

「ええ、本来は原理を無理に理解する必要はないのですが、自分が何をしているのか理解できていない人間は結局何もしていないのと同じですから、わざわざ説明したわけです。基本的なものは科学的な視点からでもある程度その原理に迫れるものが多いですから、理解しやすかったのでは?」

「ああ、わりに簡単だった。他の魔術もそんな感じに意外に科学的なヤツなのか?」

「魔術と科学は古い時代に別れた兄弟ですから、割と古典的なものにはそういうものもありますね。しかし、全てを考えますと科学的なものから非科学的なものまで多種多様、それは司る元素や使う魔術に起因すると思ってください……中には説明が不可能な哲学的なものまで存在するくらいですから、あまり科学にばかりも頼れませんよ」

魔術と科学の歴史、これは一般的な見地から言われる意見の一つだが二つの相反するものは兄弟のようなものだ。

有名な話ではあるが、あのイギリスの偉大な科学者ニュートンも魔術に並々ならない興味を示したといわれ、俗に『あの時代最大の科学者であり、最後の魔術師』と呼ばれることもある。

魔術と科学が兄弟だといわれる原因は簡単だ。

例えば日照りの続く村に雨が降るとしよう。

この村は長く続く旱魃を取り除くために、人々が考えうる限りの様々な試行錯誤を何度も繰り返していたという前提だ。

ここで、雨が降った事に対して人々の中には原因を知りたいという気持ちが芽生える。

それは一部の人間かもしれないが、例えば一人は自分がした行動あるいは雨が降る絵を描いた、などのジンクスや呪いに求め、やがてはそれが発展した生贄儀式など答えに求める。

他のもう一人は雨が降る直前の雲の動きに注目する。

わかると思うが、儀式に求めると魔術が生まれる。

雲の動きに求めると、天文学や気象学に繋がる。

そう、科学と魔術の根本はほとんど同じ……自分たちの身近な現象の『原因』を知りたいということがその発祥なのだ。

だから、アデットはその原因を知らずに魔術を使うことを嫌ったのかもしれない。

「自分が何をしているかを知ることか……確かにな。それで、これも聞いておきたかったんだが、俺が魔術を使えるのはこの本の力なのか?」

自分の持つ重い本を指差しながら聞く。

「ええ、貴方の特異体質は私の見たところでは『魔術式を強制的に解除する』ことにあります。ですが、これは数少ない例の一つで……神字によって刻まれた、すでに物に刻み込まれた特別な魔術式は解除できないようですね。あるいは研究次第では可能なのかもしれませんが、今のところはその気配がありません。因みに、玲菜さんのあれは完成されていない魔術式の例ですからまた扱いが違ってきます」

「だから、アイツの呪いは簡単には解けないのか……よし、取り敢えず要点を全部聞けたみたいだから、実際にやってみて良いか?」

「ええ……まずこの薬を飲んだ後、軽く深呼吸をして落ち着いてください。私の血液を原料に作った薬で、貴方が魔力の存在に気付くための手助けをしてくれます」

差し出されるのはガラス瓶に入った赤い水。

いわれた通りにそれを飲むと、椅子に座ったままで二回ほど深呼吸し、体をリラックスさせた。

水の味はまるでなく、色以外はただの水と同じだった。

「眼を閉じて、貴方の考える瞑想をしてください……瞑想とは即ち『メレテ・タナト(擬死化の技法)』、己を顧みるように……自らの精神を高め、高揚させ、天の頂に上る気持ちで」

『メレテ・タナト』? 何だ、それは?

そう思いながらも瞑想を開始する。

数分間が過ぎたとき、俺の中では十分にも感じられた時間……部屋の中には時計の音だけが響いていた。

「それくらいで良いでしょう、次にゆっくりと目を開けて……目標を捕らえてください。トランプのカードを見つめ、距離を考え、それを燃やそうと考えてください……強いイメージが一時的に精神を高揚させ、その魔力が高まります」

その指示に従って、ゆっくりと目を開けたとき……俺は目の前にあるトランプのカードに集中した。

あれを燃やす、この体から作り出した熱が……あれを完全に燃やす。

「イメージは固まったようですね……そのまま一気に字をなぞってください」

その声は、三度目にしてようやく俺に届いていた……それに従って、一気に開いていたページの字をなぞる。

文字に指が触れた瞬間、何かが奪われていく感覚が体を包む……指先から血液が流れ出したような気がする。

痛くはない、まるで蛸の吸盤でもくっついたかのようにしっかりと文字に吸い付いた指がまるで他人のもののように感じられはしたが……力をいれて、一気に引いた。

その瞬間、ブロックのトランプが炎上する!

「え……!」

俺のイメージがその場に再現されている、一瞬端が燃えたと思ったら……一気に燃え広がってトランプがただの炭に変わる!

ただライターで焼いたようにしか見えなかったが、確かにそれは俺が起こした奇蹟。

それを見ていた錬金術師は小さく拍手した。

「うん、本来どんな素人でも出来て当たり前なのですが……貴方のような特殊な体質の人がそれを成功させるのを見るのはまたハラハラして良い余興になりますね」

古の魔導書の写本……これを使えば、ただの人間にも俺と同じことが出来るというが、彼女は術の成功を素直に褒めてくれた。

「中途半端に燃え残っていない辺りはイメージが固まっていた証拠でしょう、まだ体力は有り余っていますか?」

ブロックの上にあるトランプの残骸を見聞しながら、こちらに聞いてきた。

体の状況を確認する……確かにちょっとした疲労を感じるが、軽いジョギングの後のような感じで体力自体はまだ有り余っている。

「大丈夫だ……大した疲れはない。まだ続けて魔術を使うのか?」

俺が立ち上がると、そのままトランプをセットしようとしていた彼女もそれに合わせたように立ち上がった。

「ではお聞きしますが、何かしら今までとは違う変化がお分かりでしょうか? あるいは、魔力を使ったときに何か変化をお感じになられた?」

俺は素直に本をなぞったときの感想を伝えた。

「……なるほど、それではまだ不完全ですね。あと三回同じ作業をすれば、今日は終了にしますから今度は魔力を使う瞬間に注意していてください。それと、深い瞑想を行うように」

そういわれたので二、三回目を行うが、確かな手ごたえはまったく感じられない。

そして、最後の一回……俺は瞑想についての知識を聞かされた上で、もう一度深く瞑想に入った。

瞑想とは洋の東西を問わず、自身を死に近づける技法、意図的に死滅心境と絶望認識を作り出すもの。

ここで大切なのは自身が『生きている』こと、つまりは『俺』という存在を感じること。

『俺』という存在は『存在している俺の体』とは違うものなのだとか……存在とは触れられないもので、魔術師の一部が研究するのは『究極根拠』あるいは『至高』についての完全な知識……とかなんとか難解なこと。

彼女に言わせれば実に単純なことらしい、ここは神がいる世界で神以上の存在は星辰、それ以上の存在は宇宙……星辰はこの星のことで、俺達を含めた地球に住む全ての存在根拠。

そして、その星辰は宇宙を存在根拠とする。

では、宇宙の存在根拠とは?

つまり、宇宙はどうして始まったのか、ということ……最初から存在することはない。

存在とはそれに先立つ起源や原因が必要なもの、つまりその原因が存在しなければならない。

魔術の最も根源的な理念であり、科学と根幹を同じくすること……何がその原因か?

何かしらの答えが無ければ、この世界の誕生を証明できない。

それを証明することが出来たとすれば、それは完全な『解』であろう。

しかし、今までの究極的な探求でもそれは掴めない。

だが、それでも『無』は存在しない……それが最大の問題だ。

これを証明するとした場合、宇宙の全ての知識があっても足りない……全ての終焉に触れる必要はないが、その流れを掴む必要があるのだ……と力説される。

錬金術も魔術も、彼女の操る全ての神秘は全ての源と言っても過言ではない宇宙の存在根拠『至高』を証明するためだけに身に着けたものらしいから、その研究課題については熱くなっているようだ。

存在することは存在しないこと……その一部を知れば全てを知ることが出来る、魔導師の中にはそれに触れた者がいるとか、いないとか。

……

…………

熱くなってるところ悪いな、お前の言っていることは意味の分からない電波な話のような気がしてきた……俺の頭じゃ理解しきれない。

正直に言って、俺にはもう、意味のわからない話だ。

ただ、俺も瞑想しているうちに不思議な感覚を覚えていたのは事実だ。

眼を閉じていたとき、体の疲れと相まって……不覚にも本当に眠りかけた。

その瞬間、俺は自分の肉体を失ったような感覚にとらわれた。

まるで死んでしまったような喪失感と浮遊感……幽体離脱とは違う、実に深い恐怖を内包した感覚が背中を襲う。

いや、すでにその背中というものがどこなのかもわからなくなるような不思議な感覚だったのだ。

「――公、あき、さ……ん、き、公明さん?」

体をゆすられて、ぱっと目が覚めたとき……肩で息をしていることに気がつく。

生き返った? いや……世界がまるで違って見える。

自分という生命がここにいる事実がこの上ない喜びに感じられる……なんて綺麗な世界なんだ。

自分の立てる物音を聞くだけでもうれしくなるほどの感覚、これは異常な感覚であるはずなのに高揚感が抑えられない。

「……アデット、お前の言いたかったことはよくわかった……確かに、これはすごい……世界がまるで違って見える」

俺の肩に手をかけていた錬金術師はその言葉を聞いて、自分の椅子にゆっくりと腰を落ち着けた。

「……なるほど、漸く魔力の存在に気がつかれましたか。公明さんのような特殊な血統の方にしては、まぁ標準的な記録ですか」

そういう彼女の顔からは一瞬垣間見た驚きの表情は消え、すでにいつもの冷静さを取り戻していた。

自分の体の中に溢れる魔力というものの存在を感じる、体内をめぐる小さな流れ……そう例えることしか出来ないエネルギーの存在を感じる。

「それでは、最後の一回はもう結構。別段威力に差が出るとも思えませんが、もしもということもありますから……それで、魔力というものをご理解頂けたようなのでそれを使う方法を教えましょう」

魔力とは生命力に直結するエネルギー、それは東洋での気が最もわかりやすい言葉らしい。

生命力に起因する要因であることは自身の魂の成長でそれを強めることが出来るという証明なのだとか……要するに、今まで通りに自身を律する法を作り、自身の体を鍛えるだけ。

ただし、瞑想もやり方がわかってきたのなら追加しても良いのだそうだ。

あまり魔術を学んでいる実感もないは仕方ない、俺が普通の魔術師ならそれにあった鍛え方があるのだそうだが、特異体質ゆえに基本的な方法が一番手っ取り早いというのだから。

「公明さん、その本をたまに使ってみてください。魔力を強制的に奪う本ですが、それは使い方を示す最もわかりやすい方法ですから。ただし、害のない魔術のページだけ指定しておきますから、それを試してみるだけですよ」

「ああ、わかった」

「それに、決してその本の力に溺れてはいけません。貴方自身の力ではないのですから、本当に必要なときだけそれに頼ってください。貴方は魔術師ではない……それを決して忘れないでください」

「そもそもこれに頼るほど困る時なんて永遠に来ないよ、来てほしくもないし……でも、俺を魔術師にしないなら、どうしてこんなことを?」

「魔力の使い方を知る術の中でそれが一番簡単だからですよ。それに、貴方はただ魔力の存在を知っただけ……今までと何かが急に変わったわけではありません。だから、一年かかると申し上げました」

「なるほど……確かに俺のなかの流れは心もとないな、水道をしっかり閉じることが出来なかったときによく似た程度しか感じない。アデットたちの流れはどんな感じなんだ?」

「私、ですか? そうですね、公明さんが言われるように水に喩えるなら……この世の全ての海洋、といったところでしょうか」

「……冗談だろ?」

彼女は冗談めかした態度で続けた。

「どうでしょうか? まぁ量が重要なのではなく、その質が重要なのですからどうでもいいことですが……見ていてください」

そういうと、残っていたトランプをレンガの上に重ねて置き、再び自分の席まで戻って座る。

「おい、何するんだ?」

彼女は指先で小さく何かの形を描きながら、聞いたこともない異国の言葉を発した。

「――morte」

たったそれだけ……紡がれた言葉はトランプの束を一瞬で灰にして、消滅させた。

50枚近いトランプが燃えたわけでもなく、空気に溶けたように消え去ったのだ。

「……お前、今のは?」

見せ付けられた魔導師の魔術に唖然としながらも、彼女に聞いた。

「公明さんが使ったものと同じ種類の魔術です、多少は威力が上ですが」

「はぁ? いや……威力が断然違うだろ? 何処がちょっと上なんだよ」

しかし、彼女は首を振って否定する。

「わかりますか? 応用の問題です、仮に二つのガラス管に水を流す実験をしたとしましょう。このとき、ガラス管に屈曲や細い場所があるのが貴方の使っている本です。対して、私の紡いだ術は真っ直ぐな上に短い……つまり最も効率の良い流れ方をする訳です。実際の実験での差は時間ですが、無駄にかかる時間の分威力にも差が出るのが魔術だと考えてください。私たちが使った魔術、流した魔力はそう違わないのですがその効率が違う……だから、実際は量だけでなく、その質が重要になる。そもそも魔導師レベルにある術者はその魔力量が膨大で、使い切ることなど稀です。覚えて置いてください、その本は普遍的な式に過ぎず、無駄が多いということを」

この本に描かれている魔術式は魔導師ベルラック自身にあったものに過ぎないわけだから、俺に最もあった魔術式ではない……つまり、他人のマワシで相撲を取るみたいなものか。

ただし、原本たるアマルガストはその名を広く知られるだけのことはあり、普遍的でありながらも専門的、矛盾を矛盾でなくした完成品。

アマルガストのページはどれをなぞっても、その人に最もあった魔術式に即座に変換されて起動する。

つまり、流す魔力の量さえ同じなら誰が使っても威力に大差は無い。

ただ、アマルガストが術者から奪い取るのはその魔術を起動させる上で最低限必要な魔力、それ以上の魔力を流せばそれなりに威力は上昇する。

アデットがさっき俺に精神を高揚させろ、と言ったのはそのためらしい。

魔術式とはつまりそういうもの、式がその人間にあったものでない限りは必ず無駄が生じ、魔力は無駄に消費されることになる。

だから、魔術師達は自分達に最もあった式を探し、それを自分のものにする。

故に多くの流派が存在し、多くの情報を持つ大派閥に人々が集まる。

今の状況を招いている根本の原因を一つ知ることが出来て、俺の疑問も一つ消えた。

「ああ、他人の力を自分の力と勘違いするなって言う指摘は確かに正しいと思うし、俺も気をつけたいと思う。お前もなかなか良い事言うよな」

「どこか失礼だと思いますが、話の続きです……魔力を使いこなせばそれだけで本など必要ではなくなります。私や玲菜さん、綾音さんは自身で式を織り成し、自身で奇蹟を行使する者。対して、貴方は借り物を使うだけ。ですが、貴方も自身で奇蹟を行使する必要があります……借り物などではない自身の奇蹟、それは貴方のうちの魔力を使いこなすことが出来たときに発揮されるでしょう」

「……借り物か、確かにこの本はそうだな。でも、体を流れる魔力って言うのは俺のものなんだな」

「ええ、それが貴方の力。全ての人に流れる源泉への道……魔術など用いなくとも、その流れの果てに、名だたる魔術師が数百年かけても知ることがなかった全ての真理を知ることさえ出来ます……それを目指せとは言いません。ただ自身の存在を深く考え、矜持を高く保ってください」

「ああ、よくわかってない部分もかなりあるみたいだけど、その言葉はお前語録の中で一番本気っぽい」

「……玲菜さんの口の悪さが伝染しました? 流れをうまく使い、それを蓄えれば長寿を実現し、発達した運動神経を得ることも可能。それだけのインセンティブがあれば、必死になってくれますね」

「まぁ、な。それより、聞いても良いか?」

「はい?」

「この本って吸血鬼の著作だろ? どうしてお前が持ってるんだ」

彼女はゆっくりとした動作で紅茶に手を伸ばし、自分のカップに注いだ。

それを一口飲むと、語りだす。

「ああ、それですか……ベルジュラック卿は創り出すことが趣味という魔術師で、それを保持することには興味がないのです。彼女は自分が創った危ない武装を方々の魔術師に売り渡す……その兵器がたまに表の市場に出ることもありますからそれをオークションで回収したのです」

「おいおい、こんなのがオークションに出品されることがあるのか?」

「稀にありますね。そういう場合は各地の駐在員が情報を本部に伝えて競り落としますから、流出することは無いと思ってください」

「なら……安心ではあるけど、その『ベルラック』って一体何考えてんだ? 自分の創った最上級の武器を流してもったいないとか思わないのか?」

「彼女はいつか世界を壊すほどの兵器を創れる日を待ち望んでいます。彼女はそれ一辺倒の武闘派ですが、破壊と再生という二つの要素が平行して存在していることで世界が成り立っているという理論を唱えておりまして……つまり、天秤が刹那的に破壊の側に傾くことで、それを補正するための限りない再生が一瞬、世界の理への道を開く……らしいですよ。ですから、それを達成し得ない武器などに価値は無いのだそうです」

「破壊と再生が天秤を成してるって……正しいのか、そいつの考えは? そのためなら世界を滅ぼす価値があるって思うのか? これはお前個人の考えを聞いてるんだが、これは達成可能なのか?」

「さぁ、人を生き返らせるほどの奇蹟さえ武器の力だけで達成するような、怪物じみた吸血鬼の言うことですから……私にもわかりませんね。何より、実験など不可能なことでしょう?」

それはそうだ、実験のために世界を破壊するわけにも行かないのだから証明など出来ないだろう。

「そうだな……じゃあ、今日はすごいものをありがとう。お前に言われたように、あとで色々試してみるよ」

「ええ、それではまた明日……私は生徒会の所用が残っておりますので、玲菜さん達によろしくお伝えください」

「ああ」

そういって、俺はその部屋を後にした。

時間を見れば、三時間をあの部屋で過ごしていたことに気がつく。

○○○○○

ああ、どうしてこんなことになるかな……?

「ちょっと良いもの持ってるじゃない、私に貸しなさいよ」

浅海はそう言って、俺が貰った本をその日のうちに奪い取った。

まるでジャイ○ン、『お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの』と言わんばかりの傲慢さ。

「いや、ちょっと待てよ。それはアデットから貰ったもので……大体、お前らには必要ないんだろ?」

「あら、こんな高いものが必要のない訳ないでしょう。こういう価値のあるものは持つべき人間が持ってはじめて意味があるのよ」

浅海はそういうと、本を持って階段を上っていった。

今日はもう体力切れだったし……明日返してもらえば良いか。

「ったく、ワガママなヤツ」

そう呟きながら、俺も自分の部屋に行き……気持ちの良いベッドに転がった。

魔術を使ったためだろうか、体がだるい。

すぐにまぶたが落ちる。

 
 



[1511] 第十一話 『ある日の出来事』
Name: 暇人
Date: 2006/05/31 23:32
 

「はー、はー……ふっ、はー、はー、ふっ……」

肺が酸素を必要として、体を苦しめる。

汗が噴出し、息が上がって脇腹の辺りには激痛がしてきた。

夏の夜の熱い空気が体にまとわりついて不快だ。

暗い闇の中、いつものランニングコースを走っていた俺は時計に目をやる。

大丈夫、このペースなら新記録は狙える。

今の位置から計算すれば、すでに10キロのうち9キロまでは走り抜けているはずだ、残りはせいぜい数百メートルといったところ。

よし行ける、これなら記録更新だ。

体内を流れる魔力の流れは最初が少なかったために数倍になっただろうか……アデットから教わった『魔力を体内に留める方法』とか言うのを使った初めてのランニング……信じられないことにきつかった坂道を軽々登れた。

尤も、長い距離を走っているうちに結局は苦しくなってきたのだが。

しかし、体に蓄えた魔力がこの記録を実現させてくれているのだろう、そうでなければ説明がつかない。

彼女は言った、魔力は生きている以上はどんな生命にも存在する、と。

例外的に死んでいても膨大な魔力を保有するのもいるみたいだがそれはごく一部の例外。

魔力は流れに例えられたように通常は体内を隈なく回るとそのまま大気に溶け込み、世界に還元される。

それは必要以上の熱が汗で冷やされて消費され、体の表面から大気中に逃げていくのと同じことで、別に体から魔力が流れ出したからといっておかしなことが起きるわけでもない。

それは自然なことで全ての生命に起こっている現象だから。

しかし、その現象を歪めるのが魔術師――さっきも言った『流れ出る魔力を体内に留める』方法、それがアデットから教えられたステップアップの技法。

体から流れ出す魔力を頭の中にイメージした器に溜める、考えてみれば流れ落ちる水を受け止めるようなものなのだからそれはとても単純な方法だ……だが、実際にやってみてその先入観は間違いだと気がついた。

それを思い浮かべていることは非常な精神の集中を必要とするのだ。

そう……仮にイメージした場合頭の中に作られる器は予めそのキャパシティーが決まっていて、流れる魔力を受ける器を思い浮かべたときに自然と形作られる。

最初に思いついた形、それがその人間の器なのだという……直感的なものだが、それは実に正確に自分の限界を示してくれるらしい。

ただし、問題はその後だった……頭の中で一つのイメージをいつまでも維持することは実際かなり難しい、しかし常にそれを思い浮かべていられるようになるまで魔力は一時的にしか溜められないのだ。

それでは生命活動によって生成されたその瞬間の魔力だけしか使えない、それではおのずと限界が知れてしまうだろう……大魔術を使う場合は土地の霊力を使うしかないのでそれで構わないが、基本的なものは練習のために一日に何度も使う可能性がある……このような場合には魔力のストックが必要とされるわけだ。

そして、イメージを常に思い浮かべていられるようになれば自分のキャパシティー分の魔力を体に留めることが出来るようになる。

アデットが言うにはこの器の大きさも魂の成長にしたがって大きくなるとか。

それでこの魔力をたくさん溜め、次の機会に教えてくれるとか言う技法を身に着ければ年をとる速度が通常よりも遅くなり長寿と若さを実現できるらしい。

魔力は生命力に深くかかわる、たしかにその量が多ければ彼女の言う長寿だとかもわからないでもない。

しかし、それ以上に魔力を蓄え、それを拳などに集中させれば気功で言われるように金槌みたいに強化できることが重要だろう……第一、急に老けなくなったときを考えると……女は構わないかもしれないが俺はきつい。

何しろ、恐らく残りの人生を普通の社会で暮らすのだからほとんど年をとらないというのはよろしくない、何より不気味がられて一箇所に長くいられないだろう。

ただ、すでに実現してしまったことのように言ったが実際は未だに修行不足だし、俺の魔力がどれだけ充実していてもアデットほどに老けないわけでもない……俺は今漸く魔力を溜めることができるようになった段階、つまり器を四六時中イメージし続けることができるようになった段階なのだ。

しかし、たったそれだけのことが違いをもたらす……魔力の蓄えがそれだけで体の持久力を高め、自らを消費することで体力の消費を減少させたのだ。

それが体を楽にして、いつもよりも足が遥かに軽やかになった。

今器の大きさは小さなコップくらいだ。

その小さな器に俺のわずかな魔力を全て注ぎ込みすでに入りきらない魔力が体から溢れていたのだが、ランニングで魔力を消費したために再びわずかずつ溜まり、あるいは消費され始めているのがわかる。

それがコースの後半になってもそれほどペースを落とさなくてすんだ原因なのだ。

……ありがとうな、アデット……子供っぽいかもしれないが、なんだかこういうのって面白いよ。

どうせなら、このまま俺がオリンピック選手になるまで教えてもらえはしないだろうか? 行き過ぎた商業主義はよくないが、俺があの家継ぐ頃には相続税払えないかもしれないからな……いや、確実に払えないからあの錬金術師に金を作ってもらった方が良いのか?

確かに考え物だ、これは近いうちに相談せねばなるまい……たまの滞在人二人にも何とかしてもらいたいが、頼むことをプライドが許さない……もう少し傲慢になっても良いのか、俺?

そんな下らないことを考えているうちに家の明かりが見え、旅の終了が近いことを告げた。

最後の加速、水溜りを飛び越えるとそのまま家の門まで一気に駆け抜けた。

○○○○○

「おい……新記録達成だ、信じられるか? 36分だ、たったそれだけでいつものコースを走ったんだぞ。おい、すごいだろ?」

居間に駆け込むと、誰でも良いから自分の興奮を伝えたくて仕方無かった。

すでに俺の家を別荘くらいに思っているらしい綾音と浅海は興奮した俺を唖然とした表情で俺を見つめたまましばらく沈黙し、やがて……

「……遅っ、たった36分くらいでそんなに興奮してたの? 笑わせないでよね……冗談でしょう? あーあ、驚いて損した」

え? なんだ、そのそっけない対応は?

いくら衛星放送でワールドカップを観戦中といってもそれはないんじゃないか?

「世界記録でも出したかのような喜びようで、それは無いと思いません? 私も何事かと思ってびっくりしました」

サッカーの優勝国を当てる賭けをしているとかいう浅海はまだわかるが、そんなことをしていない綾音までそんな……何故俺の成長を喜んでくれない? お前ら、鬼か?

「いや、おい! 10kmを36分だぞ、俺って帰宅部なのにそんな記録出してちょっとはすごくないか? マラソン選手でもないのに、ほとんど時速20キロ近いんだぞ」

それは……確かにいるよ、これくらい早く走れる人間は! 世界中、あるいは日本中を探せばゴロゴロいるよ。

でも、今までの記録が50分くらいだったことを考えると飛躍的な進歩だと思わないかな……

「はぁ? それくらいじゃ全然駄目、はっきり言って足遅すぎ。ラクダでもそれよりは速いわよ」

椅子の上に転げたままリモコンを弄っていた浅海がつまらなそうに告げた。

すでに試合は決している、彼女の態度を見ていると賭けているところの調子が悪いのか?

でもな、浅海……実際、ラクダってかなり足速いよ、もう砂漠だと競馬でラクダを走らせるくらいだから多分速いはずだろ?

「人騒がせですね、本当に」

綾音は上品に欠伸を隠しながら、読んでいた本に眼を戻す。

「だっ、だったらお前らは一体どれくらいで走れるって言うんだよ? 女と男じゃ基本の体力が全然違うんだぞ! 言っとくが大した記録でもないのにそんな強気な発言を……」

「10キロでしょう? 私の最高記録は1分くらいかな……綾音は?」

綾音は面白くなさそうに、浅海の質問に答えた。

「15分くらい……呪いのためとはいえ体力バカの貴女には敵いませんが、平均以上の記録だと思います。それに、男女の体力差など私たちにしてみればそれほど大きなものでもないのよ。確かに基礎体力で差をつけることは重要だけど、もっと重要なのは魔力量の大小とその人がどれだけそれを扱いきれるか、ということ。覚えておきなさい」

俺とは次元が違うところでうろついてるのが天才と呼ばれる魔術師さんたちなんだな……。

「……ごめん、どうやら俺はたいしたことのないレベルで思い上がりすぎてたみたいだ。ってか、浅海の記録って本気で言ってるのか? 時速600キロくらいだぞ、お前……新幹線、いやリニアより早いじゃないか。ありえないだろ、そんな速さで動く人間なんて! そう、そんなのいたらそれこそ詐欺だ」

「ええ、そうね……でも記録は本当。それにしても、綾音って思ってたより遅いのね。トロ子って呼んでも良い?」

綾音をチラリと覗く目には勝者の余裕がうかがえた。

いや、そんな嘘っぽい記録を信じろというのだろうか、この女は。

そして、そんな嘘っぽい記録を信じるのか、綾音は。

「どうせ狼にでもなってインチキしたのでしょう……自分の肉体だけで勝負しなさい! 私の記録は魔力の助けがあったとはいえこの身一つでたたき出したもの、魔術は使っていません!」

本を置いた綾音は相手の不正を疑っていたが、浅海はそう聞かれてもそんな必要が無いと答えた。

俺でさえ、浅海ほどの記録はインチキが無ければ出来ないと思っていたのだが違うのだろうか?

「狼? は、違うわね。あの姿ならどれだけ必死になっても多分5分台くらいしか出ないもの。それでも、確かに私ってアヤネみたいなのと違って家に閉じこもってウダウダやってる魔術師だから、呪いがなかったら本当は体力なんて全然なんだけどね」

「ほら見なさい、私は前々からほとんど体を鍛えもしない貴女などに髪の毛一本とて負けたとは思っていませんからね」

「だって、汗臭くなるのって嫌いなのよ……でもまぁ、魔術は使ったけど、そういうのって私の力だから。それを含めるかどうかは見解の相違ってやつじゃない?」

そう答えられたとき、何か思い当たることがあったのか綾音が舌打ちした。

「……『固有時操作』? ちょっと、それは反則でしょう!」

「固有時操作……なぁ、それってどんな魔術なんだよ?」

浅海は軽くため息をつくと、体を起こしてリモコンでテレビをニュース番組に変えた。

「……私の家は時の魔術の大家なのよ。わかる? 時間の魔術師なのよ、この私は」

「時の魔術?」

口にしてみれば俺も馴染みがある気がする……直感だが、ゲームでよくあるあれか? ヘ○ストみたいな、早く動けるようになる魔法なのか?

俺の疑問符がついた物言いに綾音が同意の言葉を継ぐ。

「ええ、浅海の実家の卑怯な外法です」

『卑怯』の部分に力がこもっていて、本当に憎々しそうだった。

確かにゲームでよくある速く動けるような魔術ならそれは反則だろう、とは思うが魔術師としての争いなら一概にそう言っても良いものかどうか……迷わないでもないな。

「あのね……卑怯って言うけど、時間移動から時間操作まで時間に関する魔術の大部分は私たちが開発した秘法なのよ。だーかーら、真似できない奴の僻みじゃない、そういうのは……ねぇ? 家伝の魔術を使う才能で私に負けてるアヤネさん」

「なんですって! この私が僻む? 料理も掃除も三流以下の貴女を? 馬鹿にしないで下さらない。そもそも、私は別に術者としてあなたに劣ってなど……」

「どうかな? 前に貴女の家で見せてもらった、アレ……言っとくけど、トラウマになりそうだったのよ」

顔の筋肉がピクピクしてるぞ、綾音……てか、一体何があった?

「おい、その綾音の家まで行って浅海は何を?」

「ああ、聞きたい? 実はね、アヤネってば白川家伝統の人形作りで……」

「わー、わー、わー、もうその話はおしまいです! 打ち切り! それは浅海の戯言です、絶対に信じないで!」

もう必死になって騒ぎ立てた綾音にはいつもの余裕など一パーセントも残っていなかった、浅海の首に本気でナイフを突きつけてその話を中断させたのだからすでに本気なのは明白だ。

「あ、あはは……いやね、アヤネ……私ちょっとお茶目さんだから、その……口が滑ったのよ。お願いだから、ナイフは下げて……ほら、怪我すると危ないから、さっさと下げなさいよ! まったく」

ナイフを片付けながらも、彼女の視線は浅海から離れてはいない。

「浅海……前に三丁目の秋芳堂の和菓子で手を打ちましたよね……次に今のような真似をしたら、本気で刺しますからそのつもりで」

「今度は、一丁目のエーデルシュタインのバームクーヘンが食べたいのよねー。アデットに連れてってもらってからあそこのファンで……予約が半年先まで埋まってるスペシャルデラックスなヤツ、貴女の家の名前で融通が利くでしょう? 可及的速やかに電話してよね、番号教えてあげるから」

ネタは知らないが脅迫かよ……アイリッシュ・マフィアなんて物騒な言葉もあるけど、今の浅海もそれに劣らずアレだな。

エーデルシュタインといえば、戦時中に渡って来たユダヤ系ドイツ人が始めたこの辺でも指折りのパン屋……テレビに取り上げられてたのを見たこともあるし、あそこのスペシャルデラックスは一日限定何個の世界らしいからな……いくら地元の名士でも無理じゃないか?

そもそも頼むのなら教会関連でアデットに頼めば良いのに……あそこ、宗教は違っても商品の納入とかで太いパイプがありそうなのに、などと思っていたら戦場はますます混沌としてきた。

「ほう……あんなネタで私を使い走りに出来るとお思い? それに、そんなものを要求するなんて……本当に小さな人ですね、貴女は!」

「は、小さい!? 確実に胸で勝ってる、この私が小さい? 何処に目をつけてるのよ、身長だって負けてないわよ」

「ばっ……サイズではなく、人間が小さいといったのよ!」

浅海が放った見当はずれのパンチはそれでも綾音にはアッパーのように効果があったらしい、それくらいの変化球だったからな……この浅海のわざとらしい日本語の解釈間違いは。

顔を真っ赤にしながら怒った綾音はもう許してくれそうにないんだが。

「? よくわからないわね。でも……どうやら決着をつける必要が出来たみたいね、お互い。先に謝っておくわね、ごめん、篠崎君。貴方の家今から壊れるわよ」

「え? いや、そういうのはちょっと…….よくないかなーって思ったりするんですけど。おい! マジでやる気じゃないよな? 家とか壊さないよな? 本気でやるっていっても駄目だぞ、絶対に許さないからな!」

必死に言ってみたが今睨みあう二人に割って入ることなど出来ない……

「……そうですね、喧嘩というのも文明人にはふさわしくないでしょう。浅海、10キロランニングで魔術無しの勝負をしなさい。手袋はありませんが、決闘を……」

そんな決闘でも家に被害が来ないとは限らない……ここは話を逸らすしかない!

「いや、綾音もそこまでこだわらなくてもいいだろ? それより、時の魔術を使うとどうして早く走れるんだ? 大体想像はつくけど、詳しく聞きたい」

そうだ、取り敢えず片方でも話題に巻き込んで二人の空気を暖めてあげよう。

恐らく作戦は成功する、浅海も俺の言葉に闘争心を一瞬で散らせたみたいだし、それはほぼ間違いあるまい。

「……ああ、それ? 私自身の時間軸をずらして周りよりも早く動くからよ。簡単でしょう?」

「簡単って……どうすればその時間軸が動くんだよ。見えないし、触れないものを動かすなんて無理だろ。大体、時間軸って何だよ」

「ん? 真似でもしたいの? 言っとくけどマクリール以外の魔術師がこれをやるのはほとんど無理だと思うわよ。技術の蓄積量がダンチだから……ていうか、貴方のあの本に出てるの?」

「あのな、そうじゃなくて俺は原理をだな……」

「知らないわ、そんなの。お婆様でもなければわからないわね。私、感覚で使うから詳しい原理を知らないの。別にそんなの知らなくたって、同じように使えれば一緒でしょう? 大体ね、奥義って言うのは人に教えないものなのよ」

使えれば良いなんて……なんて魔術師らしくない魔術師なんだろう。

そもそも今の発言はどうかと思うけぞ、原理なんて知らなくても使えれば一緒って……だったら、お前は何の研究してるんだ!

「まぁ、そのうち調べるわよ。実際、今までの研究で近いところまでは到達したし……固有時間って言うのでわかると思うけど、物理学の難しい理論が必要で私もまだ研究が進まないとこあるのよね」

「いい加減な魔術師だよな、お前は……まぁ俺も物理って苦手だから気持ちもわかるけど」

「でしょう? 私もそう思うのよね」

綾音はそれを聞いて鼻で笑った。

「つまらない言い訳をしないでもらえる? それはただの未熟者です。そもそも浅海は怠け過ぎよ。救いようのないエセ魔術師なのよ」

そういわれてムッとする浅海、面白くないのはわからないでもないが正直言ってアデットみたいな錬金術師とはまるで考え方が違うと思う。

「そういう貴女はどうなのよ、こんなところに入り浸って……私のストーカー? 訴えるわよ」

「ばっ、失礼な! ……自意識過剰、この日本語はお分かり? 今の貴女はまさにそれ」

「えっと……何が過剰なの? 羞恥心ってこと?」

「バカ! 貴女は本当に……やはり一思いに決着を……」

こうして相変わらずな夜は更けていった。

そして、翌日電話を受けた綾音は浅海に警告を残し慌しく家に帰って行くのであった。

○○○○○

白川綾音が慌しく篠崎邸を後にした朝、教会に客が訪れた。

朝の9時になったあたり、土曜だったこともあり教会でやや遅い朝食を食べていたアーデルハイトを呼ぶのはフェルゼン老神父の声。

「アーデルハイトさん、お客様ですよ」

白い髭を生やした恰幅の良い老人はサンタクロースのイメージそのままに見える。

「私に、ですか? 学校関係の方でしょうか」

金髪の美少女は白いブラウスとデニムのスカートという装い、暑い日本の夏を嫌う彼女は早めに衣替えを済ませていた。

「いえ、教会の方から来られたエクソシストと名乗られております。きっと古い同僚の方でしょう」

エクソシスト、そう聞いて良い思いではない。

凄腕の霊媒師たちは霊を操り、精霊や悪魔、果ては神さえ使役する……霊媒師出身の魔導師たちに至っては死者の冒涜者以外の何者でもない、そう思えば彼らと付き合いたくはないのだが。

「わかりました、すぐにその方とお会いします。その方は礼拝堂でお待ちなのですか?」

「ええ……私はこれから少し出かけますので、貴女には施設の管理をお願いしますが、いいですね?」

「はい、教会本部に係ることでしたら後でお伝えします。では、失礼します……食事は後で食べますから残して置いてくださいね」

彼女はそのまま礼拝堂に向かった。

扉を開け、錬金術協会とは犬猿の仲でもあるエクソシストたちとの遭遇に備える。

不可思議な光を放つ白い宝石で飾られた指輪を両手の薬指に嵌めた……彼女にとってそれはすでに戦闘になっても大丈夫な体勢であることを意味した。

ただこの邂逅が実際に戦闘になるとは思わない、しかし、それでも彼らは錬金術師に対して確かな敵意を持っている。

それを思えば、不測の事態も考えられる今の状況で可能性に備える必要はあった。

扉が完全に開くと、整然と並ぶ席の一つに腰掛けていた男に気がつく。

『サラマンドラは燃えよ、ウンディーネはうねれ、ジルフェは去れ、コボルトは勤しめ!』

男を見た瞬間に紡がれるラテン語の呪文――扉に触れていたはずのアーデルハイトの右手にはいつの間にか剣のような銀の釘が握られていた。

それでも動じない男――室内でサングラスをかけた筋骨隆々で坊主頭、六月だというのにコートを羽織っていて右腕は包帯でぐるぐる巻き、身長190センチくらいはある長身の日本人。

年の頃は40代後半、とても善人には見えない威圧感ばっちりの御仁だった。

「……」

アーデルハイトの顔に緊張が走る!

1メートル近い釘を持ったまま思わず身構え、椅子に座っていた男に確かな殺気を向けた。

そこにそれを感じることの出来る人間が居たとすれば卒倒しそうなほどに鋭い彼女の殺意を感じたのか、男はゆるりと立ち上がった。

それでもそのさっきを受け流すかのようなゆるりとした動作には緊張も、恐怖も何も感じられない、彼にはアーデルハイトの存在さえ見えてないかのようであった。

しかし、当然気がついていないわけではなく、サングラス越しに二人の視線がぶつかり合った。

「……久しいですね、義時さん。象牙海岸、あの紅い夜以来でしょうか?」

すでにいつ戦闘になっても良い体勢だが、こんな場所で戦うのは流石に気が引ける。

釘を相手から逸らすと、彼の出方を伺うように慎重に言葉を選びながら言った。

「左様、我らの邂逅はあのときより実に十年ぶり……だがシュリンゲル、最高の錬金術師よ。まさか貴様が我が故国に在って『調停者』をしているとは思わなかったぞ。そして……久しいという相手に物騒なものを向けるとも思わなかった、ククッ……まったく礼儀を知らんな」

「白々しいですね。わかっていたから来たのでしょう?」

アーデルハイトは男の包帯が巻かれた右腕を見つめながらさらに続けて言った。

「……その右腕、10年も経って未だに包帯さえ取れないとは……貴方にしては悪い仕事ですね。名が泣きますよ」

その言葉を受けた男は苦笑しながら、サングラスを外した。

大きな傷が本来目のある場所に広がり、彼の視力が奪われていることは明白だった。

「ククッ、この両目と右腕……私を殺す代わりに貴様が奪ったのだぞ。忘れたか?」

「……」

「流石に私でもこれでは、な。生活に不便は感じぬが、仕事の腕は……確かに落ちたよ」

サングラスを再びかける男を見つめるアーデルハイトは目を細めた。

「……」

「しかし、なんだな……狩りをせぬ狩人など聞いたこともない。貴様のその腕はすでに錆付いてしまったのか? 私の腕のように」

低い声が扉を閉めた教会に響く。

「わざとらしいですね。わざわざ日本まで来た目的は察するところ、いつぞやの復讐でしょう? だとすれば、こんな早朝からやって来たことを後悔することに……」

その言葉を受けた男は苦笑して、それを否定した。

「いや……実に血気盛んなことだな、シュリンゲル。だが確かに本来ならそれが妥当であろうな、私は今……貴様の腕を引き千切り、足を引き千切り、目玉を抜いて、耳、鼻、乳房、体の表面の皮膚も全てそぎ落とした上で腹を割いて引き出した小腸を使って絞殺して……血の一滴も、髪の一本さえこの世には残さんつもりではあるからな」

憎悪しかこもらない声? そうではない、ただ淡々と台詞を棒読みするような丸で感情のない声で男は語った。

その不気味さか、アーデルハイトの釘は再び相手を向いた。

「しかし、按ずるが良い……此度は調停者としての貴様の働きを監察に派遣されたに過ぎん。殺し合うのは……また別の機会としよう。何より、私もこんな街中で朝から戦うほど酔狂でもないのでな」

向けられた殺意に対して、彼はなんと無抵抗にそれを受けていることだろうか?

まるで風を受け流す柳のように、彼に向けられた殺気が彼を通り抜けていくようだった。

「監察官? ……驚きましたね、どうやって協会に取り入ったのです?」

「なに、必要なところに供給が向かうのは必然。吸血王を撃破した件で錬金術協会の躍進甚だしく、それを面白く思わぬ輩も多いということだ。何より、貴様の調停者としての活動は生温過ぎるという理事も多い……それを知らぬ貴様でもあるまい?」

「……妬みや嫉妬は人の常ですか……しかし、貴方のような異端の方術師を迎えるとは形振り構わない行動の受け入れ先は?」

「ふん、察しの通り霊媒師どもだ。確認せずともわかっていたはずだ、この教会を調べ上げたのは奴らなのだからな」

「……それで、私のやり方が温いと知って代わりを用意するか、懲罰人事でも?」

相手はそれを聞いて爆笑する。

「くくっく……愉快、愉快。だが、それは無い……私の目で見たところ、それでも貴様は最優秀だ。代用を立てるとなれば、それは『我々』しかいないが……奴らが納得するはずもなかろうしな」

「義時さん、知っていれば教えて欲しいのですが、彼女は未だにアレを止めていないのですね?」

「ああ、アレは性質の悪い女だからな。だが、それは今関係ない。今回はその代わりに、こちらの情報網が捉えた事件を伝えよう。活動を行う上では実にやりやすくなる情報を、な」

「? 事件?」

「この街近郊の術者、雨峰実篤が死亡した。老衰ということになったために新聞記事にはならぬが、こちらが介入する手立ては十分……諸々の情報はそろえておいてやった」

「雨峰? 隣町の術者ですか……隣町は私の担当地域ではありません。派遣されている方は……」

「ああ、今はいない。しかし、そもそもこの国には空白地帯も珍しくはあるまい。方術協会は数の上では圧倒的だがまとまりにかける。その支配地域は虫食いだらけ……これは協会の勢力を強める良い機会だ。錬金術師も霊媒師も、全体のためになればそれでよいと思えるほどの麗しき自己犠牲の精神は持ち合わせているだろうからな」

方術協会は広大なアジア全域の種々の魔術師達の集まり――元々東北アジア系の術者が主導権を握っているが南アジア系、東南アジア系の諸勢力の伸長により人事の面ではほぼ拮抗状態であり、勢力争いに疲れた一部の名門が主導する新興の協会が分離独立したことで長い間混乱状態にあった。

最近は北方アジア系の有力な指導者が事態を収拾し、各派のまとまりが保たれるようになったために加盟魔術師の数では世界最大といわれる名誉ある地位を維持するために中央での活動や研究を活発化させている。

方術協会には東洋錬金術のような術者から呪術の類まで幅広い魔術師が加盟していて、主には文字や護符などを用いる術者が多い。

普通、魔術を学ぶ上でやりやすいものを選んで学ぶ――例えば、占星術に才能があれば占星術協会に、霊媒術の才能があればその協会に……という具合だ。

だが、この広大なアジアという地域に関してはそれらの全てを包括した『方術』と呼ばれるものが発達している、それは呪術、占星術、霊媒術など諸々を含んでいながらアジアという地域ブロックで巨大な組織を作り上げた例外だ。

ゆえに、地域差などで独自の要素はあるものの厳密な意味で『方術』というものは存在しない、そう名乗るものは大抵魔術師であったり、呪術師であったりするからだ。

しかし、その分専門的な知識を求めるものには向かないが、総合的な知識を高めたい術者には近年は西洋や北米などからも留学してくるほどに魅力的である。

基本的に西洋やアフリカ、新大陸、オーストラリアなどを除いた広大な地域に広がっているためにその支配領域内には大小様々な協会が点在していて、協定の有無によってはその協会の支配域が『虫食い』地域として調停者たる中央の協会の派遣魔術師の管轄外となることがあり、今回の場合はそれであった。

「気に入りませんね……たまたま親交を持ったばかりの雨峰家が絡む事件とは、貴方の関与さえ疑ってしまいます。そもそもただ老人が亡くなっただけのことで、何が問題になると?」

「知っていて私に言わせるか? それは相続だ……遺領と当主権の相続以上に我々を悩ませるものは無い。何より、ここは貴様が派遣されているほどの霊地だ、それを可能とする術者なら記録の書き換えさえ成し遂げるやも知れぬ。わかるだろう……その近くの土地とて田舎魔術師にはもったいないのだ……雨峰翁の二人の孫が座を賭けて争うだろう。いっそ共倒れでもすれば、こちらとしては都合がよいのだがな……お互いその方が楽で助かる」

「互いの身を喰い合う獣……そういうことですか」

人の醜さを蔑むような少女の呟きに、男は皮肉な笑みを浮かべて応じた。

「ああ、弱者は常に互いの足を引っ張り合う……人の世は例え千の年月を経ても変わらぬ。これが真実、貴様は人間という種を過大評価している。それ故に愚かなのだ、貴様は」

「私が愚か、未だ賢者には程遠い以上それは否定しません。斎木監察官、貴方が私にしばらく付きまといたいというのなら構いません。ただ私はこれから雨峰さんの葬儀に向かいます、しかし教会には留守が必要……頼んで構いませんか?」

「それは構わん。だが、うまくやれ……あそこは今異端派の『東方協会』領、こちらの利益になる終わらせ方を心がけろ」

「知っています。東方協会の盟主は多少の縁故のある方ですから、平和的な交渉で解決できると思います。では……」

礼拝堂を去った少女を見届けて、静かに席に腰を下ろす男。

「ふむ、舞台は観客を楽しませるためのもの。黒子の存在も知らぬ女優がどこまで華麗に演じるかをじっくりと楽しませてもらおうか、シュリンゲル」

 
 



[1511] 第十二話 『ある魔術師の悪意』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 22:44






甲山町は山間に広がる人口六万人程度の町――高速道路が近くを走り、ベッドタウンとしての開発が進んでくれたお陰で八十年代の前半から始まった過疎化にもようやく歯止めがかかったところだ。

平成十年からは人口はわずかに増加し、産業の活性化政策も実を結び始めている。

近年開発された新興住宅地ではなく、比較的古い家が多く立ち並ぶ地域に塀に囲まれた大きな屋敷が建っていた。

敷地の中には二つの蔵、大きな鯉が泳ぐ池、黒い屋根瓦の武家屋敷……如何にも伝統的な日本の旧家という印象を受ける。

「あの、遠路遥々お越しいただいた方に申し訳ないのですが、祖父の葬儀は明日の予定ですよ」

喪服の外国人を相手にそう告げたのは雨峰秋継、20代後半の青年だった。

自身の祖父の葬儀は明日であるというのに駆けつけてきた少女に、戸惑いを浮かべている。

「存じております。ですから、今日は魔術師としての別れを告げに参りました」

その言葉に秋継は少し驚いた、まさかこんな昼間からそんな単語が出るとは思わなかったからだ。

「それは、あの……」

「何より、後継者の件では実篤さんから相談を受けた身です。その件でも是非話し合いを」

その言葉を聴いて、青年の顔に緊張が走る。

「わっ、わかりました。では、祖父が相談を持ちかけていたという……シュリンゲル卿で?」

シュリンゲル卿――会ったこともない魔術世界の偉人について、老婆あるいは中年の夫人を想像していた彼は目の前の自分よりも年下にしか見えない相手を疑わしそうに見つめた。

彼女はそんな視線を受けて、少々おどけたように応える。

「年端もいかぬ小娘と思われておられるのでしょうね。ふふっ、意外に思われるでしょうが、こう見えてもこの国が江戸時代といわれていた頃から生きている正真正銘の本物ですよ、私」

自分の疑念を感じ取られたことで動揺を見せながらも、彼はその相手が本物であるとわかった。

「い、いいえ。別に疑ったわけじゃ……」

彼が感じた疑念を覆い隠せる応え方ではなかったが、彼女は別に気にしていない様子で彼に告げた。

「ええ、では失礼しても構いませんね?」

「はぁ……しかし、あ、いえ。どうぞ」

昼間、扉を開けた青年は少女を屋敷へと案内する。

玄関まで案内されたとき、先客の存在を告げる家族以外の靴に気がつく。

「……」

彼女が感じたその予感は確かだった。

襖を開けた先に座っていたのは雨峰夏彦、秋継青年の兄で30代前半の青年。

弟よりやや筋肉質で身長は低め、目つきは優しかった。

彼の横にはもう一人、妹らしき二十代前半の若い女性が座っていた――雨峰亜希子、三兄妹の末っ子でアーデルハイトが知っている情報によれば予め後継者候補から外されている女性だ。

本来、魔術を伝える家は名門になればなるほど女の後継者を認めない――これは前近代的な偏見に基づく性差別が原因だからではなく、長年に渡って魔術を学んだ人々が得た合理的理由による。

一般に魔術師として大成するためには何より自制心や禁欲などが重要なのだが、肉体的な理由からその点では女性より男性の方が魔術師に向くのだ。

そのため、魔術師の家に生まれた女性は適当な婚姻関係構築のための政略結婚に用いられるか、はたまた圧倒的な才能を示すことによって実力で後継者の座を男性兄弟から奪い取るしかない。

ほとんどの場合、男性を最初から鍛えるため女性は魔術師に少ないのが現実なのだ。

それは歴史も語る真理であろう――古今東西の歴史上にも女魔術師は少ないのだ。

ただここで勘違いしてはいけないことがある、『魔女』と『女魔術師』はまったく違う存在だということだ。

『魔女』あるいは『妖術師』とは実際には魔術に至っていない人々のことであり、悪魔が取り憑いて彼らの意思とは関係なく、無理に魔術を行使させられている傀儡に過ぎない。

最悪それですらなく、本人の妄想や周りの策略、あるいは宗教熱が錯覚させているに過ぎない場合さえある。

それらに対して、魔術師は自身の意思で行動して魔術を行使する独立した存在であり、この域に至る女性は世界の魔術師中30%をやや下回る程度なのだ。

女性に関しては魔力の扱いが出来る程度であれば婚姻には十分であり、それ以上については特に大成するほどの才能が見受けられた場合でもなければその術を教えられない場合がほとんどなので、魔術師の家に生まれても公明以下の女性はたくさん見受けられるのだ。

そして今回の場合、雨峰家は200年程度魔術を究めてきた家であり、ただの一般人より遥かに魔術師となる才能と素養を有していて、歴史をある程度積んでいる名門なので亜希子も一応魔術師といえる程度のことは出来るはずだった。

魔術師は代を重ねるほどに、子がより早く魔力を扱えるようになる――普通、遺伝学上いわれるには後天的な獲得形質は遺伝しないものなのだが、魔術という点に関してはその常識は通用しない。

だが、そういった事情はあれ、亜希子の魔術は兄弟たちほどに熱心に教えられたものではなく、後継者に名乗り出るほどの知識もないのだ。

ただ断っておくがそれでも女魔術師はやはり少数だ。

それは現実なのだが何人かの女魔導師あるいは玲菜や綾音のような者もいて、彼女達は実際に後継者が他にいなかったり、あるいは圧倒的な才能が認められて後継者となった一種特別な人間なのだ。

アーデルハイトは亜希子と夏彦に軽く会釈した、相手もそれを返す。

そして、彼女の眼が次に向かったのは、彼の前に座っていた喪服の二人……会社の重役風の理知的な中年男性、鍛えてはいるが筋肉が盛り上がるほどでもなく、力を内に隠しているような印象を受ける。

そして、彼の横に座っているのはカチューシャをした長い黒髪の美少女、よく知った相手。

「やれやれ、こういう場所でお会いするのはこちらとしてはあまり気が進まないのですが……」

男と眼が合ったアーデルハイトは本意ではないことを伝えようとした。

「先に失礼しているよ、シュリンゲル卿……これはただの世間話だが、日頃から娘が世話になっているようで君には感謝している」

「いえいえ、こちらこそ綾音さんの日頃の補佐には助けられています。ところで正臣さん、こちらとしては積極的な干渉の意図があるわけではないことは先に伝えさせてもらいますよ。何しろ、私も今朝知ったところでして」

「ふむ……君には感謝している、その言葉に嘘偽りは無い。だが、錬金術師としての君が我々の協会に口を出すことは許容しかねるな」

正臣たちの前に座り、姿勢を正す。

「ええ、私にその意図は無いと申し上げました。新興の組織とはいえ、そちらの権利と主張に耳を傾けない私でもありませんし、こちらも抗争を望むわけではありません。ただ……こちらにも多少の言い分というものがございます」

「あの……白川さん。この方は?」

話においていかれていた夏彦が口を挟んだ。

正臣はその質問に面倒そうに答え、彼や亜希子には視線さえ向けない。

「『シュリンゲル卿』、そういったでしょう? それより、そちらの意図とは?」

「シュリンゲル卿! あの……吸血鬼狩りの?」

その名を聞いて興奮した様子の夏彦、アーデルハイトと正臣の会話には邪魔者でしかない。

また亜希子はそれを雰囲気で察していたのか、まったく動揺した風ではなかった。

「実篤さんから跡継ぎの方のために協会の援助が欲しいと懇願されました、先週のことで会談は実現しませんでしたが話はほとんどまとまる寸前。そちらからの脱退も視野に入れているとの事でしたが?」

秋継も彼らの中に入り、ゆっくりと腰をすえてその話を聞き始めた。

「こちらも雨峰翁の遺言は聞いている、つい三日前のことだ。法律上、最後の遺言だけが有効であることは知っていらっしゃるのでしょうな?」

「ええ、それは存じております。しかし、そちらも魔術で偽装できない確たる証拠があるわけではないのでしょう? こちらは多少の書類に実篤さんのサインも頂いております……当然、これにも説得力はありませんが、やはり証拠は証拠ですから」

「それは矛盾だな、シュリンゲル卿。我々の証拠が確たるものでないといいながら、自身のものが通用するというのは身勝手というものではないかね?」

「いいえ、滅相もない。聞き間違いというものですよ、それは。私は正臣さんたちの意見もちゃんと尊重するつもりです」

「娘の友人としての君は確かに信用している。だが、錬金術師としての君を信用するかどうかは展開次第というところだな」

「なるほど。確かに、そちらの言い分次第では争うことになるかもしれませんね。ただ、実篤さんが指名した後継者が同じでは争う必要もないでしょう?」

顎に手を当て、わずかに考えた様子の正臣はその意見に同意する。

「ほう……なるほど、確かに後継者が同じであるというのならその点について争うことは無意味。では、指名された後継者が同じ場合の協会の帰属が問題になるでしょうが……それは本人の意思に従うということでよろしいか? 我々もそちらもそもそも発端は任意加入の組織、本人の自由意志を尊重することが大前提ですからな」

「構いません、こちらは方術協会ほか、4つまでの支持は取り付けてありますから」

「僭越ながら、お父さま……こちらで勝手に話を進めてばかりではお三方に失礼です。シュリンゲル卿もその点は同罪かと」

綾音が口を挟んだことで熱が入り始めていた二人の議論は頓挫する。

「なるほど、確かに礼を失していた。では、雨峰家のご兄妹……翁より告げられた後継者を彼の派閥の長として告げる。よろしいか? これは彼の口から直接告げられたこと、私の名誉にかけて嘘偽りなき真実であることを誓う。異論があるなら今のうちに申されよ」

「はい、その点は理解しておりますし当然信用しております」

二人の兄弟の声が重なる。

「……構いません」

最初から後継者になれないことを知っているらしい亜希子は呟くように言った。

祖父の死を悲しんでいるのか、その目がわずかに赤くなっているのは兄達とは違う点だろう。

三人の同意を受けた正臣は咳払いを一つして、厳粛な態度で自らが聞いている後継者の名前を口にする。

「では……こちらが聞いている後継者は長兄の夏彦氏」

わずかに頬が緩んだ夏彦、その横の秋継は唇を思わずかみ締めていた。

続いて、アーデルハイトも自身が聞いている後継者を告げる。

「こちらも、嘘偽りなき真実であると誓いましょう。私が伺っているのは次男の秋継さんです」

それを聞いて、その場の六人を何ともいえない空気が包む。

「ふむ、残念だ……これで君と対立する運命となったな、シュリンゲル卿」

「こちらも残念ですが……協会加盟申請中の魔術師の保護もこの場合は私の仕事ですから、そちらの意見を鵜呑みにするわけにもいきませんね。協議を重ねる必要がありそうです……その前に、お二人に継がれる意思があるのかを伺ってもよろしいですか? 継承権の放棄も選択のうちですから」

「父亡き後、育ての親となってくれた祖父の遺言なら当然その通りに、後を継ぐつもりです。しかし、兄が真の後継者かもしれない……私は祖父の意思が確かめられるまで待ちます」

「……わっ、私も秋継と同じ意見です。祖父も跡目相続での争いは嫌でしょうから、是非話し合いで解決を」

それを聞いて、睨み合った正臣とアーデルハイトの肩の力が抜ける。

「話し合いでの解決、その結論が得られてうれしい。では、翁に別れを告げさせてもらおうか?」

立ち上がろうとする正臣、アーデルハイトも同じように立ち上がる。

「ええ。しかし……聞いた話では実篤さんの死因は老衰ではないとか。遺体の検証を行っても構いませんか、夏彦さん? 呪いの類ならことですし」

「……それは……祖父の遺体はとても凄惨な状況で……診断書を書かせた医者は催眠術で誤魔化しましたが、とてもあれは直視できるものでは……」

自身も医者である夏彦がそういうのだ、状況は悲惨を極めていよう。

亜希子はそれを思い出したのか、わずかに嗚咽を漏らす。

「構いません、何が原因かわかりませんが……多少腕の立つ術者を殺した相手、私の専門分野かもしれませんし」

「その点は私も同感だ、夏彦くん。我々の足元で吸血鬼が暗躍している状況があってはならない。流れの魔術師であっても殺傷を生業とする輩を野放しには出来ん、理解できるな?」

「え、ええ。それは理解できますが……実は……祖父の体から一族秘伝の魔術情報などの流出があるとも限りませんから、すでに焼いてしまって……その、遺体はもう無いのです」

「焼いた? なるほど……いいえ、確かにそれは正論ですね。魔術師としてそこまで考えて行動しておられるのなら、私たちの方が軽率な質問であったと認めざるを得ません」

魔術師の体から情報を得る、数少ない術者にそういう者がいる。

性質の悪い霊媒師出身の吸血鬼は『死者の魂を呼び出して使役する』という……そこまでされれば防ぐ手立てなど無いといっても差し支えないだろうが、兄妹の言う事はこの場合尤もなことだった。

「いえ、それよりも祖父が亡くなった場所ならこの後で案内できますが」

秋継がそういうと、正臣は時計を見ながら考え始めた。

「それはどれくらいの距離かね? 6時から外せない会議の予定があるのだが」

「高笠市との境にある廃業した病院です、私が祖父の行方がわからなくなったために書斎を探しているとこれが机の上にあって……どうも気になりまして」

秋継が差し出したのは、ワープロで打たれた手紙。

正臣はそれを手にすると、ゆっくりと読み上げた。

「『今夜一時、平沢病院跡まで来られたし。例の件について、話したき事あり』……なるほど、何のつもりかわからんが意味のない言葉の羅列か、あるいは世間で言うところの脅迫状の類、と見てよろしいのか?」

「何かを要求しているわけでもありませんから、一概には言えませんがその可能性はありますね。ところで、これを見つけたということは秋継さんが実篤さんのご遺体を?」

「ええ、兄は高笠市の病院勤務で、妹は大学で一人暮らし……この家には私と祖父の二人暮しでしたから」

秋継の回答に夏彦と亜希子も首を縦に振って同意する。

「なるほど、それは気の毒だったな。しかし、あの病院跡とは……あまり遠いわけでもないが会議に間に合わん。申し訳ないが、買収予定先の企業との最後の打ち合わせなのだ。シュリンゲル卿、それにご兄妹……私の名代と言うことで、娘にこの後のことをひとまず任せたいのだが構わんかね?」

正臣がそういうと、綾音が一歩前に出て頭を下げる。

「白川綾音です、よろしくお願い致します」

「綾音さんは私の友人ですし、失礼ながら正臣さん以上の才能の持ち主ですから私は構いませんよ」

綾音を見つめた雨峰家の面々もアーデルハイトのお墨付きがあれば同意する以外になかった。

「元々祖父の死は急なことでしたから、駆けつけて頂いただけで私たち兄妹は十分に感謝しています。ですからそれは構いませんし、白川さんのご令嬢についてもシュリンゲル卿がそこまで言われる方なら私たち兄妹も文句はありませんけど……あの、現場は血や肉の臭いがこびり付いていて、その……若い女性の行くようなところではないですよ。行った私もあまり行きたくないくらいですし、亜希子は祖父の遺体を見たときからずっと気分がよくないといいますし」

秋継は本当に乗り気でない様子。

亜希子は本当につらそうで、うつむいたままだ。

兄の夏彦も祖父の遺体を見たのだろう、かなり気分が悪そうだ。

「構いません、私も白川の後継者です。血を流す覚悟も、殺す覚悟もすでに決めています……お父さまの名代として恥じることの無いようにいたす所存ですので是非ご同行を」

凛とした黒髪の美少女の言葉、研ぎ澄まされた瞳の力強さは見る者を圧倒する。

気圧された様子の秋継は躊躇いながらも、それに同意する。

「はぁ……流石に白川さんのご令嬢ですね……いいですよ、それでは兄は詳しい現場の状況を知りませんので私が車で案内します。それと、兄と妹には祖父の葬儀の準備を進めてもらわないと明日のことがありますから……兄貴、それに悪いけど亜希子、お前にも頼んで大丈夫だよな?」

最後に夏彦と亜希子に話しかけた言葉だけは砕けた感じで、それが彼の地なのだろう。

「あ、ああ……、知り合いの葬儀屋に無理言って頼んだから何とかなる。名簿は……今朝相談したあれで良いよな? どうせ電話で足りることだし」

「ああ。それじゃあ、あと少しで業者の方も来ますから出発しましょう。白川さんにはすぐにタクシーを呼びますね」

「いや、私は車で来ているのでその必要はない。それより申し訳ない、協会の長として無責任だとは思わないで貰いたいのだが、会議やパーティーなど欠席できないものが多くて来週はシュリンゲル卿たちとの協議の席ももてない。君達の継承問題についての調査は娘に一任することになるが、再来週から私も協議に復帰することで納得してもらえるだろうか?」

魔術師とて私生活は大事だ――特に経済活動は実際の富にはあまり結びつかない彼らの研究を支える大事な事業であり、それを疎かにする事はよほどの遺産にでも恵まれなければ考えられないことだ。

アーデルハイトのような金や銀を作り出す一部の錬金術師や、悪事を重ねて資金を稼ぐ殺し屋じみた連中などは別として、魔術師の多くはまっとうな方法で研究資金を集めており、この場合の正臣の行為も突然の事態であることを考慮すれば決して謗りの対象にはならない。

まして、堂々と財閥を形成する吸血鬼さえいるのだから、この程度のことはまったく問題にならないといって良いだろう。

「ええ、こちらも葬儀や色々ありますし、事件が魔術師絡みなら調査に時間をかけるべきだと思います。それは兄や妹も同じ気持ちだと」

「ええ。それに……考えたくはありませんが、吸血鬼なんていたのなら専門家であられるシュリンゲル卿たちに……その、祖父の敵討ちをお願いしたいくらいで」

そんな夏彦の言葉にアーデルハイトは少々困惑しながらも『出来るなら、その期待には応えたいですね』といっておいた。




○○○○○




「――ふーん、なんか最近は色々と物騒になったものね。連続失踪事件だってさ」

ソファーで足を組んだ、パジャマ姿の浅海が『俺の家の新聞』を俺より早く読みながら世間話を始めた。

綾音が朝早くに実家に帰って、今は俺と彼女の二人だけ。

まるで俺が居候しているみたいな空気が家の中に充満していた。

いや、どうして俺より遅く起きてきて堂々と新聞を読んでいる?

それに、何故俺はそんな状況を当然のように甘受しているのだろう?

取り敢えず浅海の方を見てみると、彼女のセミロングの茶髪にはやや寝癖が見られ何と無く気になる……一応、同年代の男の前なのだから髪くらいはちゃんと梳かして欲しいものだ。

いや、今それよりも重要なのは別にあるな。

そう、俺が気がかりなのは俺より遅れて起きて、俺の用意した朝飯を食べ、俺の入れた紅茶を飲みながら……新聞をめくっていく彼女を他人が見ればこの家の主かと思ってしまうだろうこの状況。

ただ、それを全力で拒めないのは何故か? わからないが、追い出せないのは確かなこと。

言えば宿泊費くらいは払うというし、世間話の相手にはなるし、ひょっとすると世話好きなのかもしれない俺の母性本能を掻き立てる相手……だと思い込んでいれば、まだ辛うじて我慢できなくもないのだから仕方が無いとあきらめるか?

テレビのリモコン片手にニュースを見ていた俺はそのとき偶然、彼女の話とまったく同じ事件を眼にしていたことに気がついた。

「へぇ、『連続失踪事件。被害者はこれで8人?』ね。これって、お前が言ってたヤツだよな? 今テレビを変えたところだ……ん? いや、これって隣町か?」

「いいえ、こっちでも四人消えてるらしいわ。合わせた数が七人……あら、昨日から一人増えたの?」

ニュースキャスターは警察署の前から中継で事件の捜査状況などを長々と語っていた。

しかし、実際に事件を解決する糸口もない様子なのは明白で事件の解決は長引きそうだ。

「みたいだな。それにしても捜索願が出たのが2,3日の間で一致してるってのは……素人の俺が考えてもありえない偶然だぞ。警察は何処まで調べてんだろうな……なぁ、浅海?」

「ん?」

「神隠しって言うのは実際にあるのか? その……魔術師的に、だけど」

それを聞いて、少し考えた風な浅海は紅茶をお代わりしながら神隠しについて語り始めた。

「そうね……文献で見たところだと、神や悪魔が人間を直接誘拐することはほとんどないわね。あの手の精霊は魔術儀礼が間を取り持つ場合か術者の仲介がある場合でもないと、一部の例外を除けば干渉できないから」

「よくわからないけど、その、お前の言う一部の例外があったんじゃないか?」

「ありえない、とは言わないけど人数を考えればないでしょうね。『悪魔憑き』って言う現象を知っている?」

『悪魔憑き』――前に見たことがあった映像が頭に蘇る、悪魔と取引した人殺しの魂が人間に取り憑いて人を殺しまわるB級映画だ。

それでは、殺人鬼が悪魔と一つになってあとを追いかけてきた探偵と戦ってたな。

悪魔に憑かれると善人でも急に悪魔みたいな人間になっていた……あれはちょっと、現実にはないんじゃないか?

「多分、想像した通りだと思う。映画でよくあるイメージで良いんだよな?」

それを聞いて、少し考えた様子の浅海は新聞をテーブルに戻して続けた。

「うーん……それ、近いけど少し違うわね。あれはたまたま霊媒師の才能がある人に電波のあった悪魔が取り憑く場合を言うの。魔術師として修行したわけでもなく、その一点に特化したいわゆる天才を持った人間はその魔術を貴方たち風に言えば、超能力の一種として獲得しているのよ……尤も、これも複雑で霊格の高い精霊になればそういう細かいのは全部無視するみたいだけどね」

「なるほど、それは確かに少し違うな。無差別って訳じゃないだけ現実の方がましだ……で、その天才のある人って、それ以外には才能は?」

「修行次第ね、貴方みたいに魔力に目覚めるのは早そうだけど個人差もあるからよくわからないわ」

「やっぱ、そんなもんか。近道はあっても王道は無し、そんな感じだな」

「まぁね。多分それ以外、特に魔術については普通に時間をかけないと駄目みたいよ。それで、他の場合は魔術師が儀式で人間を誘拐する場合。これは性質が悪いことだけど、アデットがいるし……よほどうまく隠れていないと難しいかも。私としては、もっと現実的に集団自殺や宗教関連の事件だと思うけど」

確かに宗教絡みの事件は世界各地で多く見受けられる――数年前には、南米のある宗教団体が集団自殺した事件では400人が死んだ……それを考えれば高々数人が集団自殺することなど異常でもなんでもないかもしれない。

しかし、俺はまだ日本は割と安全な場所だと信じて疑わない人間の一人だ……それは確かに最近は物騒だという、だが親父から聞いた海外の治安の悪い地区の危険度は『物騒な日本』程度とは比べ物にならないほどだった。

そうポジティブに考えればどうも浅海の言う『ありそうな真相』は、違うような気がしてならなかった。

「話を戻すけど……要するに、原因も無く人が消えることはないわけだな?」

俺の言葉を聞いてため息をついた浅海は、新聞を置くと『何を聞いていたのよ、馬鹿じゃない?』くらいの態度でそれに答えてくれた。

「当たり前、原因が無いのに人間が消えるわけが無いじゃない。そういうのは魔術師の私から言ってもあり得ない話よ。でも、まぁ……UFOとかならまだわかるわよ、確率的には地球外生命の存在は証明できるから」

ふっ、思わず口元が緩んだ――天才魔術師といえど所詮は世間知らずのお嬢様だな、浅海……そんな馬鹿なことは常識的にありえないんだよ! 

大体な、宇宙人がわざわざ人間攫いに数光年彼方からやってくるわけがないだろ!

何故かって? 説明するまでもない、理由は簡単だ、宇宙を旅出来るほどに知能の高い連中がどうしてそんなことをする必要があるのか? ということの説明が出来ないからだ。

地球を征服したいのならとっとと滅ぼせば良い、保護したいのなら人間にコンタクトを取れば良い、そう……人類など容易に滅ぼせるはずの知的生命体がコンタクトさえとろうとしないのは明らかにおかしい。

「おいおい、魔術師がそういう変なの信じるなよ。確率的にどうって言うのじゃなくてUFOとかさ……そんなの飛ばす科学力があって、地球人とのコンタクトの取り方がわからないバカはいないだろ? それとも、お前ってあんなの信じてる口なのか、大体イギリスのミステリーサークルだってやらせだっただろ?」

本当に、こんなバカな事を信じてる浅海は面白い。

自然と笑いがこぼれた。

「ちょっと、私の前でイングランドの話はしない! それに、なんで笑うのよ? 確率的に絶対に宇宙には生命が住んでる星はあるし、そこに技術を持った知的生命体がいても何の不思議もないじゃない。ねぇ、ひょっとして私を馬鹿って言いたいの?」

「違うけどさ……ふっ……浅海、お前結構夢見がちなんだな」

ああ、俺はどうして魔術師と宇宙人論争を開始したのだろう?

この議論は決着つかないんだよな、テレビとかでも。

「それ以上笑ったら殺すから、そのつもりで……というより、根本的な意見の食い違いの原因がわかったわ」

「はぁ? それって何だよ? 宇宙人が原始人より賢いかどうかってことか? ぷくくっ」

駄目だ、笑いを殺しきれない……チラリと浅海を見つめながら自然に笑いがこぼれていた。

「馬鹿にしたらコロスって言ったでしょう! 学習しなさい、まったく……原因は貴方たちが言っているUFOが吸血鬼のモノってことよ! 私はそもそも目撃されていないUFOの可能性を……」

「はぁ? あれが生き物だって言うのか?」

空飛ぶ吸血鬼? イメージでは確かにそうなるけど、あんなに早く飛ぶか?

いや、そもそもあれって人じゃないだろ?

浅海はそれを察したか、ようやく調子を取り戻したように語り始めた。

「いいえ、イリヤ・ニアーズバブル・キャッスルゲート……流石にこれは本名じゃないと思うけど、そういわれる吸血鬼がいるの。ま、古い文献でも『イリヤ』っていうとこだけはそのままだから、そういう名前だとは思うけど」

「ちょっと待て、ニアーズバブル・キャッスルゲートって……どこかで聞いたような気がするんだが、どこだったか?」

「通称『アリーチェの翼』、私は『良識の壁を突き抜けた異端(ロケットバカ)』っていう方が的を射ていると思うけど……アデットを含めた、現存する世界最高の三錬金術師の一人よ。ついでに人形作りとしても世界で五本の指に入る大天才」

夜の翼を持つと言われる吸血鬼、『錬金公爵』キャッスルゲート――偉大なる最古の錬金術師。

賢者の石を最初に発見し、千年に渡って不敗という無敵の軍隊を統べる魔術世界最大の領主。

世界でも最古の吸血鬼の一人で、神話の時代に吸血鬼の王や幾人もの王族を滅ぼした魔導師ザラス=シュトラの二代目王への挑戦を防いだ『王の盾』。

『王の剣』と称されたもう一人と共に吸血貴族の頂点に君臨し続ける男。

「それがどうして宇宙人と? 錬金術師で吸血鬼なヤツは宇宙人になるのか? ま、アデット見てると錬金術師は人間が壊れてるか、捻くれてるとは思うけど」

「そうじゃなくて……頭が良過ぎるのも考えものって事。キャッスルゲート財閥って言えば、世界最大の財閥でしょう? 宇宙開発から石油化学産業に駆けての巨人だし」

「ああ……そういえば、思い出した! イリヤって、あの世界一の大富豪か!」

謎多き大富豪、表には顔を出さないという財界の巨人は吸血鬼だったのか!

「ええ、魔術の教科書にも載ってる人形作りの世界最高峰……宇宙へ移民する予定だからふさわしい乗り物を作ることに心血注ぐ科学と魔術の融合者、それがあの人。宇宙に移民なんてSF小説の読み過ぎだと思うでしょう? バカよ、バカ……昔の人間だからきっと頭の中が干からびて空っぽなのよ」

「まぁ……吸血鬼や魔術師の言うことじゃないような……気がしないでもないな。でも、俺としては……」

宇宙への移民ってのはそれほど無茶なことでもないような気がするんだが、何処がそんなに悪い?

「兎に角そんな感じで頭がおかしいから、誰もかかわらない不文律があるのよ。吸血鬼狩りの間にもね、当然、私たちもかかわらないし、吸血鬼仲間でもかかわらないそうよ。目撃が相次ぐUFOはあの人の移民船の試作機、お婆さまから聞いたときは私も耳を疑ったわ」

おいおい、それってその人を宇宙開発事業団にスカウトした方がよくないか?

てか、それほど悪いやつなのか? それに、俺は夢があって良いと思うけど……ひょっとして魔術師的には俺も変人?

「ソイツって、基本的に悪い奴なのか? 別に危害を加えてるわけじゃないし、あんまりそうは思えないんだけど」

「数千年前に終わってるはずの戦いを長引かせたって意味なら悪人だけど、私も個人的には悪い奴とは思わないわ。でも、異常者だとは思うわよ」

因みに、五大人形師とは――キャッスルゲート、アル=マリク、イオレスク、シュリンゲル、サイキの五人で、うちの二人は人を蘇生させ、うちの三人が使う人形は人智を超えた力を持つのだそうだ。

五人はそれぞれ違った人形を極めた魔導師で、うちの何人かは吸血鬼という有難くない状況のためそれを学ぶことは難しくなっているらしい。

「しかし、今みたいなスペースシャトルが飛ぶ時代に、そんなにおかしいか? 俺は別に……!?」

そのとき、玄関の方から声が聞こえた。

「なに、アヤネ? ったく、朝っぱらから出たり入ったりして忙しい……篠崎くん、貴方の家でしょう? 行ってきなさいよ」

「おいおい、こんなときだけ俺かよ」

「さっさと行きなさい。それとも、この家はお客にお客を迎えさせるなんて非常識な家訓でもあるの?」

「そりゃ……ないけど」

「ならダッシュよ、ダッシュ! お客を待たせるなんて主人としては最低でしょう、早く行きなさい」

「この、非常識なのはお前……くっ、鍵、閉めてたっけな?」

玄関に鍵はかけてなかったような……兎に角、勘違いをしていれば、綾音に扉をぶち壊されるかもしれない。

あ、それは浅海の場合か……綾音は待てる人、我慢が出来る人……で、あってくれ。

トーストをかじり始めた浅海はもう無理だとして、俺しかいない。

面倒だが、体を起こして玄関に歩いていく。

そして、すぐに鍵を開けると、ゆっくり扉が開く。

「よう、篠崎。今日は暇だろ? 遊びに来たぜ」

「……」

居並ぶは一年のときにクラスが同じだった友人達――男が二人と女が二人

まずい……よな? 浅海がパジャマ姿で朝飯食ってる状況を言い訳する方法を俺は知らない。

家に上げれば即終わり、学園の美少女と同棲生活していることが月曜には学校中の噂になって処分される!?

親父に連絡、学園を追放、浅海の家族に訴えられ人間不信、親父から絶縁状を叩きつけられる、人生に絶望……ありがちなその場限りの妄想が頭の中を覆い尽くした。

「? どうした、顔青いぞ?」

俺の動揺はすでに顔に出ていたようだ、つくづく縁のあるアキラが心配そうに聞いてきた。

「い、いや……ちょっと昨日から風邪気味でな。それより、こんな朝っぱらからお前ら一体何の用だ?」

玄関に入れずに、扉の外に出て四人と話すことにした。

その行動をやや不審に思いながらも、玄関近くのベンチに腰掛けてくれた四人。

「何って、ほらこの前言っただろ? 去年やった『肝試し』を今年もやろうって」

牧原良介の言葉にしばし考え込む。

よく思い出してみよう……あっ、聞いたね、聞いたよ、それ!

そうそう、そうだった! 電話で聞いたよ。

「思い出した! てか、それって今日だったか?」

良介から貰った電話では確か日にちはまた都合の良い日を考えるって……

「いや、俺達の都合が良い日が今日明日なんだよ。どうせ、公明は一人暮らしなんだからいつでも都合はつくだろ? バイトだってしてないんだから」

星霜学園は世間一般で言われる名門校であり、原則バイト禁止である。

基本的には改革派のアデットが生徒会長になってもそれは変わらない。

そもそも学業が学生の本分だという人である、そういう方向には変わるわけもない。

しかし、だからと言って俺が暇だと決め付けるのはどうかと思うのだが……良介には俺がよほど暇に見えるのだろうか? とても心外だ。

「そうそう、良いよな。一人暮らしってさ。それにここって学校から近いじゃないか、俺の家だとこうは行かないぜ」

「それはアキラの家が遠すぎるだけだろ! それより、俺は別に暇って訳でもないぞ。今日だって、その、ほら、トレーニングをだな……」

嘘じゃない、腕立てや腹筋はやる予定だし、ランニングや瞑想だってある。

「あれ? 篠崎君ってクラブやってたんですか?」

アキラの隣に座っていた少女、所民子は俺が帰宅部だったことが自分の思い違いだったのかと自信なさそうに聞いた。

所民子、その字の音読みから『ショミンさん』などという、昔からじゃなかったらある意味イジメ一歩手前の渾名で親しまれる、小柄で、どこかの誰かさんたちとは違ってみんなに優しい人だ。

俺が彼女のようにショミン、ショミンなどと繰り返し呼ばれれば、すぐにでもマルクス主義に走るのは間違いないな……ま、日本人はほとんど庶民だから特におかしなことを言われているわけでもないのだが。

如何に悪意がないことを知っているとはいえ、それで怒らないのが彼女の良いところかもしれない。

因みに、彼女は実に人好きのする幼い顔立ちで中学生くらいにも見える。

「いや、やってないけど健康のためにやった方が良いって……医者から言われてるんだ」

「え? お医者さんから? あの……ひょっとして病気だったんですか、糖尿病とか、高血圧?」

「おいおい、成人病とか言うやつか? この年で? お前……どんな自堕落な生活してんだよ」

呆れた顔の良介、心配顔のショミンさん。

「違う! 誰が成人病だなんていった? 体力づくりみたいなもんだ、よく言うだろ? 『健全な肉体に健全な魂が宿る』って」

「よくわからんが、まっ、どっちでもいい。それより公明、肝試しだよ、肝試し。去年行った病院跡に今年も行こうぜ、真琴はまだ行ったこと無いし」

良介が肩に手を回す少女は如月真琴、良介とはつい最近付き合いだしたのだとか。

一年のときから一緒には遊んでいたが、付き合うとは思わなかった。

元々は色白だがすでにだいぶ日に焼けた浅黒い肌の陸上部員はショートヘアで少し痩せた少女だ。

「うん……ちょっと怖いけど、良介が面白いって言うから」

楽しそうな表情の真琴。

いや、お前らには悪いが、俺にとってはその程度の肝試しなどすでに怖くも何ともないぞ……もっとおっかないのをたくさん知ったからな。

「時期にはちょっと早すぎないか? 六月の半ばだぞ、肝試しは夏休みにやれば良い」

「なに言ってんだ、篠崎。新聞で連続失踪事件とか取り上げてて時期にあってるじゃないか」

いや、時期にあってるってそういう意味か? それは……正直危ないと思うぞ。

「アキラ、だから物騒なんだろ。大体あの病院跡って、もう解体したんじゃないか?」

「いや、それは無い。親父に聞いたけど、最近の解体予定には含まれてないし、業者連中も手を出してないみたいだ」

良介の実家は建設会社、大企業ではないが地元の建設業界では一二を争う会社らしい。

「だから、今夜やってみようぜ。スリルあるしな。牧原とも相談したんだけど、やっぱ今日しかないよ」

「はぁ……まぁいいよ。お前らとの付き合い長いし、肝試しの約束も確かにしたわけだから。でも、去年みたいに帰り道で警官に補導されかけて俺を置いて逃げたら今度こそぶっ飛ばすからな」

そう、去年こいつ等は俺を置いていきやがった――結果オーライなどというが、お前らは三国志の曹操か!

ともあれ……今思えば笑い話だが、そのときは腸が煮えくり返ったことは言うまでもあるまい。

当然、俺もうまく逃げおおせたわけだから捕まらなかったが……捕まっていたらやばかったな、アデットに何をされていたかわからん。

「取り敢えず、行くのは良いけど今から準備とかあるだろ? 夕方の集合って事で、お前ら解散しろよ」

「それなんだけどな、お前って今彼女とかいる?」

アキラはアデットと話しているのを見たから俺とあの悪魔が付き合っているとまだ勘違いしている。

あれくらいでどうして勘繰られねばならないのか? 答えは明白、アデットとの会話があれ以外にも多く、ずいぶん親しげだったからだろう。

言い訳は限界に近づいているのに、あのバカ錬金術師は何を考えての嫌がらせなのか……

「そうそう、公明ってあの外人さんと付き合ってるんだろ?」

良介にも話していたか……やっぱり。

「外人さんって……浅海さんですか?」

事情をイマイチ知らない様子のショミンさん。

「違うよ、民子。確かに玲菜も綺麗だけど、良介たちが言ってるのは篠崎君のクラスのあの、えーと、なんだったか、金髪の人でしょう? すごく綺麗な……あーでらなんとかさん?」

名門星霜学園に通う生徒の中で外人は何人かいるが、全学年合わせても欧州系の外国人生徒は二人だけ。

逝かれた錬金術師の大先生とわがまま暴君の魔術師……最低だな。

それが彼女になっているのだと勘違いするお前らの神経もどうかと思うが……

「アーデルハイトだろ。でも違うって! 絶対に俺の彼女じゃないし、頼まれても彼氏にはならない! 絶対に!」

俺が強く否定するのを見て、四人はちょっと理解できないぞ、という表情。

それは当然か、さっき言ったような顔しか知らなければ俺が断られることがあっても俺が断ることなど無いと信じきっていてもおかしくは無い。

「いやに力込めてるけど……ま、元気出せ。それより、彼女無しでお前って誰と組むんだ?」

「そりゃ……去年みたいにお前が俺と組んで、ショミンさんとアキラで……あっ」

「ほら、真琴が加わるんだから一人余るだろ。大体、野郎同士で面白くないって喚いてたのは公明じゃないか」

「流れで自分を勘定から忘れるなよ、良介! 去年喚いてたのはお前もだろうが……でも、確かに人数が合わないと困るよな。ちょっと電話して聞いてみる、俺のクラスのやつ探せばいるだろうから……男でも良いんだろ?」

携帯電話に手を伸ばそうとしたとき、後ろから肩に手がかかった。

四人は俺の前にいるから……あれ? 誰だっけ?

嫌な予感と共に首がゆっくり回転する。

「それ面白そうだから、私が一緒に行ってあげましょう」

微笑む美少女、茶色のセミロング、綺麗な碧の瞳……って、おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい!

そこにいたのはいつの間にか私服に着替えていた浅海。

唖然としているのは四人も同じ、こいつらは一年のとき俺と同じクラスだったわけで……つまり、浅海と同じクラスだったから彼女のことを知っているわけで……

「あ、あの……浅海さん? どうして、その……こんなところに?」

驚愕したままに良介が口を開く。

「ん? あら、知らなかった? 私たちってクラブが一緒なの。オカルト研究会って、知っているでしょう。あれよ」

「オカルト、研究会って……あの幽霊クラブ? 浅海さん、部員だったんですか?」

アキラもびっくり、そして俺もびっくり……いつの間に俺はあのクラブのメンバーになったんだ?

「ええ。と言っても、シュリンゲルさんが私の友達だから頼まれて名前を貸しただけの幽霊部員だけどね。実はその誼で篠崎くんとは最近知り合ったの。それで私はちょっと篠崎くんに借りた本を返しに来たところで、ちょうど貴方たちが面白そうなこと話してたみたいだから……ねぇ、オカルト研究って趣味じゃないけど『肝試し』って面白そうだから私も仲間に入れてもらっても良いかしら?」

誰なんだ、お前は……?

こいつは誰だ? コイツは誰だ? 異星人に乗っ取られた浅海か?

何処の星から来たんだ、お前は!

聞こえない、俺には何も聞こえない……絶対に聞こえない!

この魔術師がオカルトは趣味じゃないって言ったことや、何を考えてるのか知らないが肝試しに参加するなんて言い出したことは俺には聞こえなかった。

見えない……視えてない! 満面の笑顔で微笑む浅海なんて見えない!

「勿論です、ぜひ参加してください……おい、篠崎。お前、こういうことだったのか?」

「ったく、学校で言いふらしてヒットマン差し向けるぞ。覚悟しとけよ」

「浅海さんって、いつから篠崎君と知り合ったんですか?」

「玲菜! アンタ付き合ってる男いないって言ってたじゃない!」

最後の真琴の言葉にだけは笑ったまま反論していたが、浅海はこの状況を楽しんでいる様子だった。

バカ魔術師め、なんてことをしてくれた!

ああ……これでしばらく学校で背後が怖くなる。

その上都合の悪いことに彼女達も元々は同じクラス、女子連中はそもそも知り合い……すぐに馴染みやがった。

そして、時間はあっという間にたっていったのである。








[1511] 第十三話 『夜の始まりに』
Name: 暇人
Date: 2006/05/31 23:21
平沢病院跡――高笠市と甲山町のほぼ中間に位置する大きな元個人病院跡。

その敷地周辺に他の建物は無く、旧道を入ってしばらくいった場所にある森の中の廃墟。

かつてサナトリウムであった場所を買い取ったときに院長が改装を加え、その時代に周辺に病院が少なかったことから一時期患者が多く世話になった場所……怪談話はそんな場所に付きまとう。

院長の息子が執刀したある手術で患者が死亡した、原因は医療ミスであることは明らか……厳格であった父親の厳しい叱責は世間を誤魔化そうとした息子を責め立てた。

父親の叱責と患者遺族の追及で心身疲れ果てた彼はある夜、両親を殺害した後に自殺し……患者が残る病院に火を放ったという。

院長家族の生活空間と病院が繋がっていたことが災いした、仮に離れていれば息子は自宅だけを焼いていただろう。

自殺者の体を焼いた焔は患者5人の命を奪ったという……それ以後、この病院跡には自殺した息子とそれを恨む怨嗟の声が夜な夜な響き渡るという。

20年前から巷で語られる怪談――だが詳しく調べればわかること、競合する病院の建設や患者の争奪戦に敗れたこの病院がひっそりとその役目を終えたという事実しかこの場所には存在しなかったのだ。

落胆とともに導き出された真実は語る、怪談とは本来そういうものではないのか、と。

語られた怪談は偽り――だが虚言も年月を経れば事実と違わぬ信仰を集める。

多くの人間達の恐怖という名の信仰は一定の虚実さえ逆転させ、この場所は一部の魔術師が好む霊的なバランスが極端に悪い地域に姿を変えていた。

悪霊を引き寄せ、地磁気や時間の感覚さえ崩しかねない人造の異界……その場にやってきた車から降り立つのは雨峰秋継と綾音、わずかに遅れたのはバイクのアーデルハイト。

秋継の案内するまま、二人は彼に続く。

植物の蔦が覆う白い壁、割れた窓、埃が積もった内部には蜘蛛の巣も目立つ。

この付近の悪童がたまにやって来るというその場所は、秘密基地のような印象を与える実に静かな世界だった。

見る者が見ればこの場所には確かによくないものがいる、そう断言するだろうほどに場は乱れている……神という精霊に向けた人の信仰が彼らを力強い存在にするように、人の信仰の力はそれほどに強大なものだと認めざるを得ない。

ただ、数千年の時を重ねようとも幻想が歪めるのはそこまでのこと……大地の霊脈を移動させるわけでもなく、偽りの魔物を作り出すわけでもない、ただこの場を悪霊と呼ばれる人の残滓がうろつく環境にしているだけのこと。

彼らは直接人に憑くわけでもない、たまたま入りやすい人間に憑くだけだ。

一部の例外はあれ、ポルターガイスト程度のことで人が死ぬことは少ない。

影響があるとすればむしろ魔術師だろう、ここは霊媒師のような人間には実に面白い実験場となる。

殺された雨峰実篤は超一流の術者ではなかったが、霊に憑かれるほど未熟でもなく、また霊媒師の才能がない彼がそのような事態に陥ることは考えにくい。

その70余年の人生の中でよく修練を積んだ平均的な魔術師、それが彼でありその秘術が霊に関するものでないことは彼女達の間ではすでに周知の事実。

「俺がお爺さまを発見した現場、あの時は本当にひどい有様だったんだ。首とか、手とか、でもおかしかったんだ……まるで血が無かった。いや、一滴も零れて無かったって訳じゃなくてな、人間があそこまでばらされたら普通はこれくらいの量が流れるって予想から少ないらしい。医者の兄貴が言うんだから、そうなんだろうよ……」

正臣が去った後、秋継の口調は途端に変わった。

正臣の雰囲気がとてもこんな軽口を許してくれそうに無かったため、無理をしていた彼は正直にそれを二人に告げると以後この調子であった。

しかし、それは別に彼に限ったことではない。

公明とて正臣の前では実に礼儀正しく話す、そういう雰囲気の人なのだ。

自らの父ゆえにそれを知る綾音はそれをおべっかなどとは思わない、ただ目の前に血の跡がまったく残っていないその場所を見つめ、この事件を考えていた。

「他におかしなことは? 例えば、何かがいる気配や匂いはどうです?」

コンクリートの床は割れた窓から入った雨が汚したのだろう、埃に靴跡があったとしても見つけられない状態であり、魔術を使った後にわずかに残る残り香もすでに無い。

妖怪や怪物の類の臭いもすでに雨に流されたか、修練を積んだ綾音でも感じ取ることは出来なかった。

「いや、ないな。そもそも俺はまだ修行中でそういうのとかかわったこともないんでね……それより、あんた等は本当に平気なんだな? 辺りがこんなに薄気味悪いってのに」

直接の害を心配するわけではないが、気分が悪くなるほどこの場の空気が悪いことは事実だった。

しかし、綾音とアーデルハイトにはそれは当てはまらない。

「そうですか……シュリンゲル卿、そちらは何か気がつかれまして?」

自身と同じく周囲を見回していた錬金術師に問うた。

「いいえ、こちらは何も。ですが、これだけ綺麗に消えていては雨だけの影響ではないでしょうね。綾音さんも気がついておられるでしょうが、よく見れば壁の一部や床の破壊の跡は新しいもの……実篤さんの戦いの跡でしょう」

綾音もそれには同意する、確かに20年は放っておかれた建物で悪童達の溜まり場にもなった場所ではあるがいくつか見られる破壊の跡は人為的なもの、それもかなり新しい。

「おいおい……それは本当か? でも、あれでなかなかの術者なんだぜ、簡単にやられたとも思えないんだけどな」

「いいえ、残念でしょうけどシュリンゲル卿の指摘通りです……これは刀? いいえ、浅海の爪にも似ていますね。どう思われまして?」

壁に付けられた四つ並びの傷、よく見れば荒いが好敵手たる狼の爪が同じような傷をつけたことを思い出す。

尤も、その鋭さと深さにおいては雲泥の差もあることはそれを受けたものでもなければ知りようはあるまいが。

「……人間の指と間隔が似ています、素手でこれをしたとすればよほど鍛えぬいた術者でしょうね。いえ、『人間なら』……異常な力というだけのことですけど」

慎重に壁に触れた。

「無論、吸血鬼ならば行いうる攻撃ではあります。しかし、その場合は逆に浅すぎる。本当に、これは……」

壁の傷に自分の手を当てながら告げるアーデルハイト、それを聞いていた二人も深刻な顔となる。

「シュリンゲル卿、その吸血鬼がいたかどうかは感知できませんの?」

「いえ、実際に何の細工もしていなければ可能です。ですが、細工をしていれば私も彼らを発見できないでしょう。そもそも彼らが来た可能性はあるはずなのですが、だとすれば逆に動機が不明です。確かに雨峰が抱える土地は今綾音さんたちと私の係争の場ではありますが世界規模で動く彼らが辺境に興味を持つ訳もありません。記録への接続が目的なら、そもそもこんな事をしなくても私に隠れてやれば良いことですし、もっと良い場所は他にあります」

「あんたを狙ったってことはないのか? その巻き添えで、死んだってことはないのかよ?」

秋継の声はわずかな非難が込められている。

「ありませんね。私を狙いたいのなら直接私を殺せば良いだけしょう? 確かに、簡単にくれてやれるほど安い命ではありませんが、私が彼らならきっとそうするはずです。そして、これが決定的なのですが……あまりにも手口が回り道過ぎます。ましてや狙いが私であるのなら、係っている可能性が高いのは王の敵を討ちたい貴族――特に私を恨んでいる魔導師は名前が思い浮かぶ限りで10人ですが、そのどれとも殺し方が違います。また、死体を残すような間抜けではないでしょう」

「そりゃ、まぁ……確かにそうだけどよ、何か考えがあるのかもしれないだろ? あんたを殺すのに、何かその方が都合がよかったのかもしれないじゃないか」

「いいえ、私もシュリンゲル卿と同感です。王族ならいざ知らず、貴族は自身の手口を悟られぬように死体を隠すといいます。にも拘らず、こんな場所に死体を投げ出す方法は確かに彼らのものではないでしょう」

貴族達は一流どころか超一流の大魔術師、彼らがこんな辺境の魔術師をわざわざ呼び出して決闘するなどありえない。

また百歩譲ってそれがあったとすればそれは遊び以外の何物でもあるまい。

彼らは遊び程度で自分達の手の内を明かさない、それが長生きの秘訣だからだ。

故に、こんなところに死体を投げ出していく殺し方は吸血鬼ではない。

対立する魔術師としてもおかしい――そもそも、知りうる限りそんなものは存在しないし、何の恨みも持たないはずの流れ者が突然彼を殺すこともあるまい。

当然のことであるが、よほどの異常者でもない限り人は理由も無く人を殺さない。

そして、本当の異常者にこんな殺人は出来ない――ここで行われたような手がかりの少ない殺人を犯す場合に必要なのは計画だ、そんな計画を立てられる人間が異常であるはずがないのだ。

また、戦争とは一日二日で起こりうるものではなく、原因は徐々に貯蔵されていって爆発する……魔術師の戦いとはそうして起こるもの。

故に火種の段階で調停者がうまく納めれば戦いは起こらない。

アーデルハイトが広大な地域をカバー出来るのは各地に居を構える協会の魔術師が周辺の情報を伝えるからで、結界などで全てを覆い尽くしているわけではない。

しかし、それではおかしいことになる……実篤が平均的な魔術師だとすれば、人間の悪漢の一人や二人に敗れるはずも無いのだ。

普通の魔術師は少なくとも若いうちは体力に頼ることが多い、それは事実だが技が洗練され、幾多の経験を積むことで磨かれた純粋な魔術が老体となった魔術師に最後に残る武器。

経験値とその技術を持ってして、ただの一般人に敗れるなどよほどのことでもなければありえない。

当然、拳銃などを用いれば話は違うが、そならば証拠は残るし、アーデルハイトたちが痕跡を発見できないなどということは起こりえないのだ。

「考えれば考えるほど説明のつく理由が思い浮かびませんね、自殺でもないのですから……手分けして見落とした証拠を探しましょう」

綾音の提案は実に当然の選択だった。

現時点で思い浮かぶのは流れ者の魔術師が使い魔を連れて彼を襲ったというものだがそれを口にすることなく、先入観にとらわれない捜索をすることが必要に思えた。

尤も、二人は最初から兄妹の誰かを疑ってはいたのだが……三人を見て、その実力の程を知ればそれは無さそうに思えた。

父から誕生日に送られたお気に入りのスイス製腕時計を見れば時間は昼の4時、雨峰邸で無駄に時間を使ったことが理由ではあったが調査には十分な時間が与えられている。

何より、明日は日曜なのだ……雨峰実篤の遺言の件を錬金術師との話し合いで解決したいのは山々でも父にしかその権限は無い、彼女にはこちらしか担当できない以上は絶対に解決したかった。

綾音の提案に二人も同意するしかない、何より現場の気配の無さは魔術師が関わったとしか思えないのだから無視など出来ない。

秋継に至ってはそもそも自身の祖父を殺されたのである、断るわけも無いし、事件に深く関わっていればなおさら断れないだろう。

それから3時間も病院内を捜索しまわった。

○○○○○

「おい……話が違うぜ。俺はこんな……ああ、わかったけど、それだと……ああ。だから、そっちの責任だって言ってるだろうが! さっさと……」

「秋継さん、お友達ですか?」

「!? わ、ちっ……なんだよ? 脅かすなよな」

一瞬、驚いたがすぐに電話の相手との会話を止めると、電話を切った。

「あ、悪い。それじゃ……と。あんた、上はもう探せたのかよ?」

「いいえ、まだです。しかし、実際困りましたね……どうしたものか、難しい」

「なら、もう少し上を探してこいよ。俺も、もうサボらないから」

「そうですか? それでしたら、もう少し探してきますかね……」

それから、見落とした箇所など無いのではないかと思えるほどそれぞれが担当の場を見回った。

しかし、目立った収穫など無い。

黄昏時――そろそろ明かりが必要になった頃、再び現場を見回していた綾音は他の二人の帰還を待っていた。

休息も無く捜索するのは実に疲れる、アーデルハイトと彼女だけならば問題も無いが秋継がいるのだから強行軍というわけにもいかない。

何より、この証拠の無さ過ぎる現場で何かを見つけることは困難に思えた。

埃を被っていた机の上に置かれていたガラクタを掻き分けていたとき、肘が当たって一部のガラクタが床に落ちた。

正直、まったく証拠の見つからない現場にうんざりしていた綾音は腰をかがめてガラクタを拾い集めた。

机の下に落ちたガラクタを手にしたとき、机と床の間に挟まれていた奇妙な紅い欠片に気がつく。

綾音はガラクタを机の上に置き、その欠片を手にした……何かしらの魔術が込められた奇妙な水晶。

紅水晶は見るものを惑わすほどの美しい輝きを放ち、それを手にする魔術師をしばし夢の世界に誘おうとさえした。

手で握れるほどの小さな水晶なのになんという美しさだろう? 

それだけでなく、それに込められた幾多の魔術は綾音の知的好奇心を十分に刺激した。

まったくわからないのだ、何かが施されていることはわかってもそれが何であるのかわからない……魔術師は研究者、求道者、なれば分からないものなど認めたくは無い。

ましてや、きっとこれは何かしらの証拠なのだから。

アーデルハイトに相談する前に十分自分で解析するつもりである――白川家は平安時代に端を発するこの国でも有数の名門、その時期当主たる彼女が知人とはいえ現時点では利害対立するアーデルハイトたちにこれを早々示すのは浅はかな気がしたのだ。

水晶を自分のポケットに押し込むと、時計に目をやりながら二人の帰還を待つ。

ただ、そのときに感じた違和感は何であっただろう? わからない違和感は錯覚だったのかもしれない。

「7時11分、まったくあの人たちは何をして……」

その瞬間、どこからか空を劈くような男の悲鳴が上がった。

聞き間違いなどではない、雨峰秋継のものだ。

咄嗟に上の階に走った綾音、階段を駆け上がったところでアーデルハイトと合流した。

彼女も上の階から降りてきた直後の様子、二人は顔を一瞬見合わせるとそのまま秋継の声がしたらしき部屋に向けて駆けた。

その疾走たるやすでに並みの魔術師などが追いつけるレベルに無い、二人の到着はまさに悲鳴が発せられてから数秒のことではなかったであろうか?

それほどの早さだった。

二人が駆けつけた部屋の床には小さな血溜りと切り飛ばされた人間の右腕が転がっていた。

腰を抜かして倒れた秋継の右腕は肘から先が無く、それが血の原因であることは明らか……驚愕した秋継の顔の先、すでに真っ青になり声さえ発することがかなわない状態の彼の視線の先に眼をやった二人も彼と同じく驚愕する。

泥で汚れた服を纏った赤い瞳の男たち、無精ひげを生やした不健康そうな二人の男が獣のように鋭い犬歯をむき出しにしてその真っ赤に汚れた爪で茫然自失状態だった秋継に襲い掛かったのだ!

『吸血鬼』――その単語を口にする間もなかった一瞬のうち……綾音も反応できなかったほどの速度で、消えたように駆けた錬金術師の足は秋継への攻撃を許すことなく、先に襲い掛かった男の顔を横から蹴り飛ばしていた。

それだけで骨など砕けたのではないかと思うほどの衝撃で男の体は無様な人形のように壁に床に叩きつけられ、ガラクタの中に消えた。

綾音もアーデルハイトが秋継の保護に回ったことに気がつき、残ったもう一人が襲い掛かる瞬間手元に取り出したナイフを弾丸のような速度で襲撃者の眉間に向けて打ち出した。

それが人間であれば当然そんなことをしなかっただろう、だが相手が人間でないことは匂いでわかった……穢れた血の匂い、これは相手が人でないことを告げていた。

眉間に向かって飛燕の速度で飛ぶ弾丸は誰にも弾けはしない、それはそこにあるべきであったかのようにあまりに見事にその場所に吸い込まれた。

ドンッ、と小さな爆発音。

頭に突き刺さったナイフはその余勢を駆って男の体を壁に打ち付けさえした。

いや、咄嗟ゆえに手加減も加えられなかったナイフは男の頭蓋を突き破り、壁にまでその刃を突きたてていたのだ。

赤い瞳の男は何が起こったのかを一瞬見回すようにして、その体をだらりと床に落とした。

その瞬間に無残に吹き飛ばされた頭から吐き気を催すような脳漿や血液、眼球が零れ、壁に血の線を描いた……それを見届け、男が床に座り込むようになった瞬間、彼の体はまるで灰になったように消えていき、そこには何も残らなかった。

机が吹き飛ぶ。

秋継の視線が綾音の神業に向けられていたとき、アーデルハイトに顔面の半分を砕かれた男が最後の抵抗とばかりに咆哮と共に起き上がり熊さながらの速度で、秋継の右腕を斬り飛ばした必殺の爪で、仲間を葬った綾音に襲い掛かった。

緩慢などとは程遠い、あまりに俊敏な怪物はしかし完全に迎撃の態勢に入った狩人の前では敵ではない……敵の命が未だ絶たれていない事を察知していた綾音が構えていたのは本来当たれば如何な怪物といえども無傷では済まぬ銀の矢。

いつぞやの夜の動揺は無い、相手が相手なら手加減など必要もない、機械の如く鮮明な精神、敵の寸部の動きも捉えるほどに研ぎ澄まされたハンターとしての直感は決して獲物を逃がしはしない。

男の鋭い爪が綾音の髪を揺らすほどに接近したとき、それは男が彼女に近づくことを許された限界であったのだと彼は知る。

妖魔を断罪する冷酷で美麗な方術師、同年代の同国人には並ぶものなき使い手の手から放たれたのは今あの夜に戻ったならばあるいは狼さえ沈黙させる銀の矢。

古き時代より契約という名の縛りにより彼女達に力を貸す神にも近い精霊の助力により織り成される一撃はただ無音のままに男の心臓を抜き、壁にそれが通り抜けるための最小の穴を開けるとそのまま夜の空に消えた。

それと同時に音が聞こえた……暗い闇の中で眼にする、綾音に襲い掛かった男の爪が彼女に触れる瞬間に灰となって消え去った光景を。

唖然とするしかない、修行も十分ではなく方術の基礎さえままならない彼にとって目の前で展開されたのはすでに夢の光景。

一瞬、彼女らしからぬほどに冷酷で氷のようであった瞳がゆっくりと日頃の彼女のものに戻った。

と、同時にその手の弓も消えた。

「……大丈夫ですか? 秋継さん」

彼の肩に手を触れるのはアーデルハイト。

「あ、ああ……」

それだけを何とか言い返す。

「シュリンゲル卿、あれは吸血鬼……ですか?」

壁のナイフを抜き取る綾音は、周りを警戒しながら吸血鬼狩りに聞いた。

床に転がる彼らが着ていた服を、ポケットの中身を確かめた後で灰も残らぬように焼き尽くし、綾音の言葉に答えた。

「……いいえ、それだけは断言できます。ですが……さっき最後に倒された男性、わずかに顔の瑕に再生が見られました。あれは説明できませんが、別な要因かと……というより、死体を操っただけではあれだけの身体能力の向上はありえません」

「……じゃあ……一体?」

綾音はナイフを抜き取った床に小さな水晶が落ちていることに気がつき、それを自分のポケットに押し込んだ。

どうやらさっきの戦いで落としてしまったらしい……しかし、未だ何かしらの違和感があるような気がしてならない。

それはアーデルハイトも同じではあったのだが、その正体はよくわからなかった。

彼女が見つめる秋継の腕……急いで病院にいけば繋げることが適うかもしれない、そう思うが早いか綾音に自身の杞憂かも知れぬ事態を告げた。

「夏彦さんと亜希子さんに何かあるかもしれません、秋継さんは私が病院に連れて行きますから綾音さんはお二人を」

少しでも細胞の破壊を防ぐために自身の魔術で彼の腕を冷やしながら秋継を支えたアーデルハイトの言葉に綾音も同意する。

敵が秋継だけでなく、夏彦たちまで襲う可能性は十分にある……襲撃が同時ならば、彼らが危ないことは確実だった。

「では、シュリンゲル卿……後は頼みます!」

集中力は十分だった、精神の高揚は魔力の消費を抑え、怪物相手故に遠慮も無かった……魔力の貯蔵は十分だ。

雨峰邸で待つ敵を周辺の民家などに逃がさないように考えながら、窓に足をかける。

そこに放られたのはアーデルハイトのバイクの鍵、確かに免許は無いが操縦の経験ならある……綾音はそれを掴むと一気に窓から夜の闇の中に飛び降りた。

○○○○○

夜九時、肝試しに向かう一行は良介の兄が運転する車で廃病院の近くまでやってきていた。

本来は自転車で行こうと思っていたのだが、流石に連続失踪事件が発生している現状で自転車に乗っていては、行方不明者捜索中の警官に呼び止められる可能性が高いため暇な上にこういうことが好きな良介の兄が運転手を買って出たのだった。

昔から思っていたのだが、良介の兄である圭介さんは本当に暇な人だ。

8人乗りの車内からはすでに真っ暗になっている外の景色が見えた。

車内にいる人間が多いために曇った窓からもその闇の深さが窺い知れる。

「じゃあ、早速例のお化け病院に行く順番を決めよう。ペアはもう決まってるから代表者のジャンケンで勝った奴から決めてくか。去年俺たちは行ったからわかると思うけど、目的地は前と同じ三階の部屋。行った証拠はこのデジカメでの記念写真を撮ってくること」

デジタルカメラを手に持った良介が簡単なルールの説明をした。

幸いなことに男性陣は一度行っているわけだからみんな目的の場所を知っている、四階建ての建物の三階にある広い部屋――何でもそこで患者が焼け死んだのだと噂に聞いていた。

「ふーん、肝試しってそういうことなの……それで、制限時間とかは無いの?」

浅海はなんだか面白そう、それを見るとなんだか嫌な予感がしてきた。

「それは無い、中をじっくり見たりしないと肝試しの雰囲気が出ないからな。走って戻ってこられても面白くないだろ? だったよな、アキラ?」

そういうルールだったはず、浅海の疑問に答えた俺は病院への道に車が通った跡を見つけて良介が何かしたのではないかと思案していた。

「そうそう、浅海さんもやっぱりこういうの怖い? 大丈夫だって、篠崎はここからの帰りに警官から逃げ切ったような兵だから幽霊が出ても何とかするよ、な?」

俺の肩をつつくアキラ……俺を置いていったお前らならパートナーを置いて帰るんじゃないか? と突っ込みたくなるのを必死に押さえながら首を振る。

「兎に角、さっさとジャンケンするぞ。それと、これが終わったら俺の家で飲み明かそうぜ」

親が海外旅行へ行ったという良介の顔は晴れやか、たまに解放されるとこうなる息子であの家は大丈夫なのだろうか?

「篠崎君、一番にしなさい。一番よ、一番……」

別に何番でも同じだと思うのだが、おかしなことに拘る浅海であった。

 



[1511] 第十四話 『吸血鬼』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 21:55






「最低ね、この役立たず。全然面白くないじゃない……ジャンケン弱すぎるのよ。こんなとこ、普通に歩いてたって全然面白くないからあの子達をびっくりさせるような仕掛けを考えてたのに……貴方の責任よ、私に誠心誠意謝罪しなさい」

どうやら浅海は一番手になって悪質な魔術師ジョークを仕掛けようとしていたようだ、相変わらず洒落にならないことをする。

「変な仕掛けをして本気で幽霊とか出たら危ないだろうが! あいつらが怪我したらどうするつもりなんだよ、まったく。最後でよかったんだよ。ゆっくり出来るしな」

「? 幽霊が出るって? 何言ってるの、こんなに沢山いるのに」

浅海はそれこそ俺の気でも触れたかといわんばかりに辺りを見回した。

「アデット流の冗談のつもりか? 人魂とか怪物とか別に何もいないじゃないか」

同じく周りを見回した俺の眼にはやっぱり何も映らない。

その回答に呆れたような彼女はゆっくりと階段を上りながら語り始めた。

「幽霊って実際は私たちみたいな人間の魂がうろついているのとは違うのよ。人の思い……かな、恨みとか何とかそういう感情が集合して形を成してるの。人みたいな人格を持ってね、見るだけなら別に大した技術じゃないけど……見たい? 怖くて見れないかな?」

「馬鹿にするな、お前もそれを見てて怖がってないのになんで俺が……男がそんなの怖がってられるか!」

見るだけなら魔術ではなく、目に魔力を集中させた上でちょっとしたこつを掴めば見られるという。

「ふふっ、言ったわね。そこまで言うんだから、仮に漏らしたら私の下僕決定よ……なら、いい? 簡単に言うけど、この暗闇の中をよく注意して見ようとしてみなさい」

階段を上りきったところで浅海は懐中電灯の明かりを消し、真っ暗な世界を指差していった。

真っ暗といっても月の明かりが窓から差し込み、わずかな薄明かりが廊下や部屋の状態を示してはいる。

「注意して見ろって……一体どうすれば良いんだよ? アデットみたいにわかりやすく素人に教えてくれ。それと、仮に漏らさなかったらお前は何してくれるんだ」

「仮に漏らさなかったら? そうね、はっきり言ってこれを教えるだけで十分な対価は払ったと思うけど……まったく欲張りな人ね、貴方。でもまぁ、いいかな……今度ほら、映画やるじゃない、あの話題のハリウッド映画」

「うーん、何だっけ? あれ、じゃわからん」

「ほら、『星間大戦』だったかな。宇宙人とか何とか出るやつ」

「あー、あれね。確か日本の俳優もエイリアン役で出てたな、ちょい役っぽいけど……で、それが何?」

「私の親って、ああいう人たち、特に監督とかとよく遊びまわってるから何かサインつきで貰ってきてあげる。話題の映画とかならちょっとした自慢になるんじゃない?」

「なるほど、あの映画俺も結構期待してるからそれなら構わない。それで、注意する方法だけど」

現状とあまり変わらない敗北条件、勝ったら何かくれるというのなら貰ってやるさ。

何より、コイツの前で漏らしたら……多分自殺する。

「取り敢えず、これを見て」

ライターを取り出して火をつけた。

「おい、タバコでも吸うのか?」

「余計なことは気にしない。それより、ちゃんと見なさい……ちょっと催眠術をかけるから」

「は? 魔術は効かないんだろ、俺には」

「前から思ってたけど、ひょっとして救いようのないバカなの、貴方? 催眠術は科学、精神科医も治療によく使う技術なのよ。でも確かに魔術で人を操る方法もあるから科学的な催眠術って言えば良いのかな……もう! ちゃんと見なさいよ……貴方が自己催眠技術でも持ってるのならやりやすいのに……まったく、使えない。私の使い魔以上に使えないわ、貴方。ひょっとして、コウモリ並みの低脳なの?」

「うるさいな! 自己催眠ってあれだろ? スポーツとかでやってる、あれくらい素人でもすぐに出来るよ。要するに思い込めば良いだけだろ、そんなのはな、今すぐだって出来る」

「本当にバカね、素人がいう集中と一流アスリートの言う集中は雲泥の差よ。ったく、少しでも考える頭があるなら、私の言う通りにしなさいよ」

しぶしぶ彼女の言う通りに炎を眺め、俺を陶酔に落とそうとする言葉に耳を傾ける。

すると、徐々にその言葉に心奪われ瞼が落ちた。

頭を振られる、その衝撃に目が覚める。

「ほら、しっかりして。それと、あの本出しなさい」

浅海が言う本はあの魔術本、どれだけページをめくっても次が現れ、見た目を明らかに超越した容量の文字が描かれる不思議な魔導師の遺産。

たまに使っているが貴重なものだということなので多くの場合は手元に持ち歩いている、何しろ十億だ……落としたらそれだけでも恐ろしい、それ以上に泥棒も怖い。

デジカメや予備の懐中電灯や電池を入れていた俺の鞄から本を取り出すと、それを彼女に渡した。

「えーと、どれだったかな……確か、この辺に……あった、ほら……これを使って」

示されたページ、大丈夫だ……確かこのページの魔術なら使っても体に支障は無い。

「でも、確かこれってなぞっても何も無かった魔術だぞ。今度アデットに聞こうかと思ってたんだ」

「へぇ……それは多分……まぁ、取り敢えずなぞってみなさい。『集中して』ね」

「わかってるよ、貸してみろ」

本を受け取ると、それをなぞった。

瞬間、小さな爆発!?

急な爆発に驚いてしまった俺の手から、本が落ちる。

目の前に一瞬青い炎が広がったような気がしたのだ、だが……手で顔を覆って炎から守ったはずなのにまるで熱くない?

ゆっくり手を下ろしてもやっぱり何も無く、浅海もちょっと笑みを浮かべて俺を眺めているだけ。

「どう? 何も見えなかった?」

「……いや……青い炎が目の前に急に広がって……炎の中に何かいた」

そう、思い出してみれば一瞬で広がった青い炎の中に何かが動いていたのだ。

炎はその何かを焼いているように見え、そうあれは……次第に鮮明になっていくあの何かは……

「骸骨みたいな……あれが、その……幽霊?」

「合格。そう、あれが幽霊よ。さっきの魔術は簡単な除霊ってヤツ、普通こんな低級なのは気分を悪くさせたり、雰囲気を台無しにしたり、ポルターガイストくらいしか出来ないからわざわざ退治しないけど、その本が出来たときにはこんなのでも珍しかったんでしょうね。『集中して』ね」

浅海はそういいながら、俺から取り上げた本のページを一気になぞった。

瞬間、懐中電灯も切って真っ暗だった辺りがまるで太陽の真下にでもいるのかと見紛うばかりに光り輝いた。

光の中には十数体もの骸骨やなにやらもう訳のわからないほど醜悪な怪物たちが炎に焼かれている姿が見えた。

一瞬で青き炎は消え去り、再び静寂が訪れる。

「ほら、たくさんいたでしょう? 幽霊」

「あ……ああ、マジでいるんだな、幽霊。それも、あんなたくさん」

「まぁね、アイルランドだともっと幽霊がうようよいて、中には悪霊にまで高まって実際に害をなすのがいついてる城もあるから、こんなのは大したこと無いけどね」

本を俺に渡すと、そのまま月明かりが漏れる部屋に歩いていきそこから外の景色を眺める。

俺もすぐにそこに続いた。

「じゃあ、幽霊がいて、それがどんなのかよくわかったと思うからこの部屋の中を『注意して』眺めなさい。さっきみたいな幽霊がいるって分かってるんだから、あれを探そうとしなさい。あれだけに注意を払うのよ」

「そんなこといわれてもな……急にやれって……ま、わかったよ。やってみる、いるって証明されたんだから、探す努力くらいはしてやる。それより、この部屋にもいるのか?」

「ええ、全部で6体ほどね」

辺りを少し眺めた浅海が平然と言ってのけた。

あんな怪物が6体も?

「よし……なら全部見つけてやるよ!」

辺りを見回した。

埃だらけの机や散らかった書類、割れた窓ガラス、ぶっ壊れた扉……むき出しのコンクリート床には近所の馬鹿が食い散らかしたらしいジュース缶やゴミ。

音は風の音と鳥の声、あるいは虫の声か?

部屋の隅から隅まで眺め、特に影の辺りを調べ上げていく。

見逃すほどに早いのか、あるいは遅いのかもわからない。

だが、相手の形は大体わかっている……それに幽霊がいるということも。

精神は明瞭で、周囲の雑音さえ聞こえない。

アデットにはじめて教えてもらった本格的な瞑想に似た感覚、研ぎ澄まされた神経でわずかでも動く目標物を探し続けた。

「!?」

一瞬、部屋の隅を飛んでいた白っぽい影が見えた。

影が向かったらしい方向を見つめると、月明かりの元に骸骨みたいな醜い顔が浮かび上がる。

息を飲む、はっとするほどに不気味な光景……ゆっくりと浮遊するそれは部屋の中を漂っていた。

そして、それを見つめ続けるうちにその全体がより鮮明に浮かび上がっていく。

だんだんと、ボロを纏ったような5体もの骸骨が部屋中を浮遊していると気がつく。

「あ、浅海……見えた、わかった。いる、確かにここには変な化け物が漂って……」

振り向いた瞬間、目の前にあったのは骸骨の伽藍の瞳、腐ったような皮膚がへばりつき、歯が何本も欠けた幽霊の姿だった。

不覚、浅海がいたそちらを漂っていたソイツに俺は絶叫した。

後に心の底から後悔するほどの大絶叫!

幽霊が俺の顔を通り過ぎて、俺の体を通過していくまでその絶叫は続いた。

漏らさなかった、漏らしかけたけど……

死ぬほど怖かった、いやびっくりした。

それを見つめる浅海が上げた笑い声は鮮明に俺の耳に届く。

あー、やっちゃったな……俺。




○○○○○




「情けないわね、賭けは引き分けって事で無しにしてあげるからちゃんと立ちなさい」

腰を抜かした俺は浅海に手を引かれて何とか立ち上がった。

魔術師とて意識して注意深く眺めない限り幽霊は見えない、今俺はあの忌々しい怪物を探そうともしていないから部屋はまったく最初の状態。

「あ、ありがとう。そ、それよりだな……俺は漏らしてないわけだから、賭けは俺の勝ちだ。まぁ……さっさと上に行こう。時間とか、ずいぶんかかってるからな」

「賭けは俺の勝ちって……女の子の前であんな大きな悲鳴を上げておいて? 恥ずかしくないの、男の子として。それとも何? 実は女の子になりたいって人?」

「勝ちは勝ちだ! ……なんだよ、そんな哀れむような目で見るなよ」

「わかったわよ、今度何か包んで持ってきてあげる。ふっ、本当にかわいそうな人ね。自尊心とか、尊厳とか、これからも色々なものを切り捨てて生きていくのよ、貴方は。それで、最後には何も残らないの、可哀想」

「五月蝿いやい、それよりさっさと行くぞ」

もう神経は参りかけてる、おかしな怪物が辺りを浮遊してるってだけで気分も悪い。

正直、ポジションが逆なら言うことは無いのだろうが……俺は怖がっているのかもしれない。

俺達はそのまま、階段を上がって写真を撮る部屋まで行った。

そこで写真を撮ると、そそくさと階段に向かおうとする俺を急に引き止める浅海。

「何だよ? トイレか?」

「冗談! こんなとこで出来るわけ無いでしょう。そうじゃなくて、何だか……アデット? それともアヤネかな……よくわからないけど、あの二人の匂いがあの部屋の辺りから漂ってくるのよ、ちょっと見に行きましょう」

手をつかまれ、向かったのは写真を撮った部屋とは反対方向にあった扉のぶち壊れた部屋。

よく見れば壁の一部が欠損したり、爪で引っかいたような跡があったり、何やらおっかないものが突き刺さったような跡、ぶっ壊れた机や人が暴れたような跡まで……一体なんだ?

「おい……ここってあの二人の秘密基地か、それとも特訓道場?」

「それは無いんじゃない? あの二人って性格はあんまりあわなさそうだし……それにしても、何が暴れたのかしら?」

机やらぶち壊れた家具の辺りを眺めていた浅海はそう呟いた。

俺もまるで綾音のナイフでも突き刺さったのではないかと思える穴を見つめながら、足元のゴミをよけていた。

「お前じゃないのか? 狼にでもなって……」

振り返った先では、爛々と血に飢えた輝きを放つ赤い双眸が俺を睨みつけていた……浅海の指の爪がナイフのように鋭く伸びて、彼女の口から覗く犬歯は牙としか形容できないほどに鋭かった。

「え? 何かいった?」

手に持った何かを見つめながら、こちらに冷たい問いをかけてきた彼女の気配はめちゃくちゃ怖い。

幽霊など比べ物にならないほど濃密な存在感で、俺という存在に死を感じさせた。

「ごめんなさい……いや、本当、何が暴れたんだろうな? ゴリラかな?」

「よくわからないけど、多分実験でもしてたんでしょうね……こういうのって工房でやって欲しいけど。それに、私だけ除け者にするなんて……今度、ぶっ飛ばす!」

一瞬振り回された爪が、まるでレーザーでも使ったのではないかと思わせるほど綺麗な傷跡を壁に刻む。

その爪はまるで万能剣、四条の跡を刻んだ爪が折れることは無く、逆に壁はわずかに煙さえ上げていた。

悪い……除け者にされてるのって、俺もなんだけど。

「さっ、行きましょうか。不愉快だし……」

「あ、ああ。いや……本当、仲間はずれはよくないな。うん、今度言っとくよ」

先を進もうとした浅海の足がふと止まった、俺も立ち止まったが……何かよくないことでもしただろうか?

逆鱗に触れていませんように……それだけを願いながら、恐る恐る問いかける。

「……なんで止まるんだよ? まさか激怒したとか?」

「黙りなさい。それより、何も感じない? いえ、貴方に聞いても仕方ないわね……気をつけて、よくないものが近くにいるわ。私から離れないで、本も構えておきなさい!」

そう叫ぶ浅海の声は真剣だ、俺も思わず素直に従い本を手に構えた。

「なぁ……よくないものって? 幽霊?」

「いいえ。これは悪霊? いいえ、それよりもクラスの高い怪物……多分、魔力の多い私に反応してきたのね。最初からここにいたんじゃなくて、隠れてて……土から現れた? 数は二、今壁伝いに上がってきてるみたい……一匹は任せるわ、もう一匹は私が捕縛するから。頭の中での式の組み立てに時間がかかるから、時間稼ぎは頑張ってね」

壁に向き直った浅海は俺より一歩分前に構えた。

「俺に任せるって? バカなこと言うなよ! 何だよ、その急展開?」

「新種の怪物なら捕縛してアデットにでも突き出さないと……人を襲うタイプで数がいたら危ないでしょう。それに、それの100ページ目くらいの魔術なら拳銃渡されてるくらいには大丈夫よ。貴方の魔力量はそこそこたまってるから、数発分は持つでしょう。体術も、アヤネが仕込んだのなら適当に体を強化すれば大丈夫、さっきみたいに体の強くしたい部分に魔力を集中させなさい」

窓を睨みつける浅海の瞳はすでに戦闘状態が整っていることを告げていた。

「いや、綾音に仕込まれたって……ほとんど投げられてるだけ、なんだけど。ええい、クソ! 何なんだよ、本当に!」

何がなにやらわからぬうちに浅海が指定したページを開く。

すでに何度か試したが、拳大の石くらいなら粉々に吹き飛ばすような魔術が登場するのもこのページ……今まで到達している最高のページだ。

窓を睨みつけ、鋭い爪を構えた浅海を横目に混乱状態の俺。

「なぁ、何もいないじゃ……」

そのとき、窓にかかるのは土で汚れた手……それが少しはなれた窓にも……ガラスで指を切りながらもほとんど血の流れない奇妙な指。

「死人? まさか……吸血鬼がこの街にいるの?」

驚愕する浅海、絶叫する俺……爛々と輝く紅の眼がさっと窓から覗いたのだ。

俺達を見つけて、にやっと笑ったのはOL風の若い女とスーツ姿の中年男……さっと体を浮かせると、そのまま部屋の中に入ってきた。

「…………」

すでに声が無い、口から除く牙と土の匂い、その青白い肌が彼らを死人たらしめているのは明らかなのに体が動いている。

「なに、貴方たち? アデットがよくやる性質の悪い新手のジョーク……なら言っておきなさい、あんまり性質の悪いことするとぶっ飛ばすって」

出来るだけ穏やかな口調で言った浅海、それを聞いて嘲笑する声を上げるのは女。

「違うみたいね、なら、結局貴方たちが誰なのか教えてもらえるかしら?」

「コロス、血、血、血、ノマセロ、コロス、ヨコセ」

女の狂気に歪む口から発せられたのは、その狂気に見合った言葉か。

「吸血鬼、なの? はじめてみるけど……違うのなら今のうちに言いなさい。魔術師として、吸血鬼は討伐しなければならないから」

「コロス、皆殺し」

喋るのは女だけ、だらりと腕をたらした男はまるで無言で急に襲いかかってきた!

「足を潰して……下手をすれば、女の方を逃がすから私はアイツから目を離せない」

迫り来る男、牙をむき出しにして俺達を引き裂こうと敵意を持って襲い掛かってくる。

まるでゆっくりとした動きに見える、だがそれは人の脚力などではあるまい。

身近な連中の動きを見慣れたゆえに遅く見えるのだろう……本をなぞろうとする指が動かない。

相手は人間だ、いや違うとしても人間の形をしている……それにこんな魔術をぶつけて良いのか?

「早くしなさい、あれはまったく人間の匂いがしないわ……怪物よ。それも明らかに人を襲う、ね」

後三メートルも無い場所に迫った敵、浅海の言葉……俺の指が一気に動く!

瞬間、ガラスが砕けるような音と共に男の体が派手に床を転がった!

浅海の頬を打つ風、その視線は片言の言葉を解した女を睨みつけたまま。

床に転がる男の右足は完全に砕け、引きずりながらもさらにこちらへ進もうとする。

「……見苦しい」

そう、理性のある声で呟いた女は退避するどころか、浅海めがけて狭い部屋の中で大きく跳躍した!

まるで人間的でない跳躍、その着地地点を見てびっくりする……足を引きずる男の頭だ。

まるで果物のような、トマトでも叩き潰したかのようなつぶれ方……男の頭が砕け散る。

その瞬間に飛び散る血液が顔に散っても、浅海は女から眼を離さなかった。

血の眼くらましを仕掛けた女がそれに紛れて浅海の首を狙って爪を立てようとした、俺は完全に茫然自失となり本をなぞるという行為が完全に頭から抜け落ちてさえいたというのに、冷静な浅海は小さく呟いた。

「――悪いわね、式はほとんど完成。貴女、これで終わりよ! Time is on my side……」

その瞬間、世界はどうなったのか?

まるで編集されたビデオテープ、まるで違う場面に時間が跳躍した?

一秒も経たないうちに、女の体は床に完全に押さえつけられ、両腕、両足は逆に曲がっていた。

女の体の上でそれを抑えていた浅海が面倒そうに呟いた。

「ほら、時間を操るって言うのはこういうこと……ちょっと無理したけど、絶対に逃がさない。運が良いわね、殺すつもりなら今首と体が繋がってないわよ……人殺しさん。無駄に魔力を消費させてくれたわけだから、正体とか明かさない? 肝試し中で待ってる友達がいるのよね……早く正体を言わないと、篠崎君とおかしなことしてたって噂になっちゃうでしょう……そうなれば責任、取らすわよ」

完全に組み伏せた相手の耳元に告げる浅海、赤くて冷たい瞳はとても怖かった。

「あ……浅海、その、何だ……兎に角、え? 死体が……」

俺が指差した方向で、浅海が捕らえた女に殺された男の死体が灰みたいになって消えた……まるで空気に溶かされてしまったように。

「ほら、人間じゃなかったでしょう。篠崎君、アデットに電話して。よくわからないけど、拘束してるコイツを突き出さないといけないから」

「ハナセ、離せ、私を離せ! 離しなさい!」

浅海に組み敷かれている女が理性ある声で叫び始めた。

「おい、浅海。この人、人間なんじゃ……」

「いいえ、匂いがさっきの男と同じ。それに……!?」

さっと女から飛び退いた浅海、俺を自分の背後に隠すようにして窓を睨みつけた。

女は折れた両手足をなんと力技で無理矢理曲げて、立ち上がる。

そして、窓の方に退き始める。

「Le clair de lune &eacute;clatant est beau. Ne pensez-vous pas ainsi ?」

「へ?」

生暖かい風に乗って、この世のものとは思えないほど美しく、そして幼い声が聞こえた。

声の方向を見た俺は眼を疑った。

それは、誰もいなかったはずの窓に腰掛ける、真っ黒い厚手のレインコートを着た人影。

月の光の下でも異質なその人物は子供のような小さな体で、そのままゆっくりとレインコートから顔を覗かせた。

「気の利かぬものよ……今夜は月が美しい。其方もそう思わぬか、魔術師?」

レインコートのボタンを外したその姿は、どこかの制服みたいな紺色のブレザーを着た小学生くらいの女の子。

夜の闇よりも黒く、絹を思わせるほどに美しく長い髪。

陶磁器の白よりもなお美しい、人形のものとでも形容するしかない純白の肌。

スカートから覗く脚は床にさえ届いていない、そんな幼い女の子なのに、彼女の顔は成熟した女性のもののように色っぽい。

まさしく月の皇女を思わせる、その少女の赤い瞳――それだけで俺達を襲おうとした両名の仲間であると察しがつくのに、彼らとは存在自体がまるで違う気がした。

少女が纏うのは俺とはかけ離れた存在であることを示す、犯しがたいほどに高貴なオーラ。

彼女の美しく整った鼻梁、貴族的な肌の白さ、口から覗く小さな牙……古今東西の如何なる巨匠でさえも再現できない、美の極致とも思えるほどの完璧な美しさを備えた少女にその場の時間さえ停止したのかと錯覚させられた。

彼女の美しさはすでにそれ自体が芸術だ、性別も、年齢も、宗教も、人種も、民族も、社会的地位も、他の何も関係ない……仮に地上の誰が彼女の美しさに魅了されてもそれは仕方のないことだろう。

彼女は全てを超えた次元で最高に美しい。

如何に寛容な神々さえも嫉妬を禁じえないだろう美という概念の集合体、彼女はまさしくそれだ。

「あ、ああ……ゴシュジンさま、御主人さま」

窓まで逃げた女が美の黄金率を持つ少女の手に触れ、切なそうな声を上げる。

「能無しのクレームを聞いてみれば成功例とは……なんと僥倖に恵まれた夜であろうな。神祖よ、貴方には感謝せねばなりますまいな」

女の頭をなでながら、窓の下に足も届かない状態で静かにそう言った。

驚いたことに女の足の骨はすでに再生していた、当然ありえることじゃない……どうなってるんだ?

浅海に眼をやると、すでに彼女の顔から色が失われている。

汗でびっしょりで、とても生きている気がしない。

「だ、誰……貴女?」

絞り出すような声が彼女の口から漏れた。

震えている? わずか10に届くかどうかという少女を相手に彼女は怯えていた。

そのとき、俺はそれが完璧な美の体現者を前にしての恐怖だと思った。

だが、後に知った事実を総合すればそうではなかったようだ――夜の世界に伝えられる一つの伝説がある……ある貴族についての伝承というべき言い伝えが。

夜を統べた吸血王、その剣と称された第一貴族――最初に人間であることを辞めた魔導師はこの世のものとは思えぬ美貌を誇り、四界に覇を唱えんとした英雄たちでさえもその美の虜にしたという。

曰く、会えば彼女が誰か必ずわかる……

古より幾多の吸血鬼狩りが彼女を滅ぼそうとしてその逆の道を辿った。

3898年という悠久の年月、一つの文明よりも、一つの民族よりも、一つの国よりも長い時間を生き続ける吸血鬼は、こんなにも近くにいて触れることさえ出来るはずなのに、なお永遠といえる距離を俺達との間に有している。

彼女と人間は完全に別の生き物、そうとしかいえない――彼女はその圧倒的な美貌で、俺達を感情のこもらない視線で射抜いた。

その伝説に語られた吸血鬼の名は――

「――妾はベルラック。其方たちは?」

吸血貴族の第一位、最初に人間として生きることを辞めた第五魔導師は艶然とした表情で告げた。

夜の恐怖を体現し、王侯貴族の中でも性質の悪さなら群を抜くといわれた武器作りの吸血鬼は俺にとって別に何の恐怖も感じないただ綺麗なだけの少女に見えた。






[1511] 第十五話 『バイバイ』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 22:00






月下に輝く氷の美貌――月光を総身に浴びながらこちらを見つめる相手は問う。

「小娘、妾はすでに名乗っておろう?」

彼女自身を照らす月の明かりさえ従えた超越者、彼女はその自信に満ち溢れていた。

全てを見下すが如き傲岸不遜な喋り方、しかしこれほど彼女に相応しい喋り方は無いだろう。

万物を統べるモノが纏うオーラはそれに当てられるだけで腰を屈めそうにさえなるのだから、それも仕方が無い。

「……」

浅海さえ喋ることなど出来ない。

彼女が恐れていた予感は完全に的中していたのだから当然だ。

「無礼な輩よな。小童、其方(そなた)――凡百の魔術師になど興味は持てぬが……まあよい。妾の前で名乗りを上げることを許して遣わす」

「……え? 俺か?」

「左様申しておる。原初の一人を前にして身に余る名誉であろうが、礼など要らぬぞ」

少女らしからぬ口調で語る月の皇女は腰掛けた膝の上のトランクに手を載せ、脚をぶらつかせていた。

「偉そうに……お前な、一体何様だって言うんだ」

事情もよくわからない俺はついそう言っていた。

言われた少女は一瞬目が点になり、そして手を口に当てて上品に哂った。

心底面白いものを見たといった様子の氷の女神の哂い。

静かな建物にソプラノの声が木霊し、見るものを虜にする美貌が髪を揺らしていた。

その裏で浅海は顔面蒼白だったのだが、この時点では俺もそれに気がついていない。

「人間の如き下等種族に其方のように豪胆な者がいようとは、真今宵は稀なことも在るものよ。良かろう、其方が妾を生意気と抜かすならそれも一興……俗世の言葉なれど『タメ口』とやらで構わぬぞ」

俺の目の前で、彼女は小さなトランクを撫でながら静かな声でそう告げた。

ようやく哂いも収まったらしいが、確かに感じるのは空気の冷たさ。

特にどうということはない、ただ挨拶に過ぎない会話なのにとても周りが冷たい。

浅海の表情を見れば深刻さはよくわかる。

確かな殺意を持つ相手に感じた本能的な恐怖が彼女の体を震え上がらせていたのだ。

「どうして、こんな場所に……いるの? 吸血鬼、それも大貴族が」

その言葉を聴いて、彼女はわずかに笑んだ。

「非礼な小娘と思うておったが、小童と違い妾を知るか……それもまた一興よな。小娘、俗世には『冥土の土産』という代物がある、と妾も見聞きしておる。世の習いによれば、それには答えてやらねばならぬとか……故に一つだけ答えて遣わす――」

少女は自分の小さな薔薇色の唇をか細い指で広げて見せると、その可憐な容姿に似合わない鋭い犬歯をこちらに示した。

「――妾の所領ヤズルカヤの神域周辺には古くよりこのような怪物の民話が語られておった。妾らが神祖と呼ぶ存在がそれじゃ……永遠の長寿と引き換えにほとんど数を増さぬ連中、山野に隠れ住み隠者のように生きる世捨て人……下らぬ。世の力の顕現たるその神秘を使うことさえ知らぬ愚物じゃ」

口から指を離すと、ゆっくりと自身の胸に手を当てた。

「メイサがその秘法と共に滅びた以上妾らも増える術は持たぬ点では変わらぬ。あれは人を選ぶゆえな。じゃが、考えてみるが良い……妾はその最初の一人。共に開発した秘法ゆえその全ては頭の中に入っておる。それゆえ、下等種族を妾の僕程度には格上げしてくれようと研究をしておった……もう、これで土産は全てじゃ。察しがよければ気付こう?」

浅海が息を呑んだのがわかった。

いや、俺にはよくわからないんだが。

「吸血鬼を作る吸血鬼……に貴女が成る?」

「小娘、それには答えぬが……古よりの伝説とはやはり実際に起こらねば意味を成さぬと思わぬか? これは一つの実験、この女がその実験の証……全て理解できたであろう」

少女吸血鬼の哄笑はその瞬間に一段と高まったかに見えた。

いや、要するに……え!?

「小童、其方から逝くがよかろ……」

俺に視線を移したベルラック、その瞳の紅は闇の中で爛々と輝いてさえいた。

「レナ、私はレナ・マクリールよ……」

俺に向けられた吸血鬼の視線が、自分に注意を戻させようとした浅海の言葉につられて彼女に戻った。

「マクリール……水時計(クレプシドラ)? 時の魔導師か」

「……ええ」

「……左様か、惜しいの」

ベルラックは顔に手を当てて、悩んでいる風に首を振った。

「なにが、残念なのよ」

「愚鈍な小娘よな。それを妾の口から言わせるのじゃから……先ほど冥土の土産、と申したであろう?」

手に持っていたトランクを開ける、その瞬間にその中から飛び出るのは数十の剣。

「!?」

どれも同じもので、それが刃を俺達に向けたまま宙に浮遊する。

剣を見つめながら、彼女は言った。

「ファティーフという……ただ一つの例外を除いた最強の剣、妾の使い魔じゃ。よく目を凝らしてみるが良い」

そう言われて、浅海は驚愕した。

「うそっ……こんなことって……反則よ」

俺には見えなかったが、その剣を持つのは神にも匹敵する強大な精霊たち。

地上にはありえないほど厚い鎧に身を包み、白い髭を生やした老騎士――それは剣の化身、剣が持つ魂だ。

普通、物が年月を経て魂を持つことはありえる、月の魔力か人の魔力か、あるいは土地の力が介在すればそれはありえることだ。

だが、これほどの力を持った剣の化身など在り得ない……まったく同じ顔をした彼らの一人一人の力は一本だけでも浅海の全魔力の数倍、あるいは数十倍であえあった。

十字架剣ファティーフ――吸血鬼ベルラックこと歴史上最高の付与魔術師ベルジュラック卿の創り上げた最強剣。

魔術師たちをして、その破壊力においては最強と言わしめた剣――当然、剣である以上それは一本なら核兵器には遠く及ぶまい。

それどころか、その他の兵器にも遥かに劣る……が、それこそが魔導師ベルジュラック卿をして最高の付与魔術師と言わしめた究極の反則。

それは剣を生む剣、一年の年月を経れば同じ剣を生み出す魔法の剣……存在年数は約1300年――単純計算でもおよそ2の1,300乗……すでにその本数は兆の桁さえ超えるだろう、それらの全てが一つの意思を持ったベルラックの使い魔。

無限と言っても構わない武装の中のわずか数十本が持つ破壊の空気が部屋の生命を凍えさせる。

未だかつて、伝説にある魔術師しかその剣を折った者はいない……それもわずかに7本。

数十の剣など、すでに死亡宣告と同じでしかない。

「今宵、妾の最高傑作に貫かれる幸運に感謝するのじゃな」

「ちょっと、ベルラック卿……」

「命乞いなど聞かぬ」

そして、彼女が手を振った瞬間、二十を越える十字架剣は金縛り状態の浅海に向けて雨のように降り注いだ!

「くっ……!」

意思を持っているかのように、宙を舞う剣に体も動かぬ浅海は思わず目を閉じて死を覚悟した。

「何やってんだ、浅海! 伏せろ!」

思わず体が飛んでいた。

浅海を剣から守るために俺の体はその瞬間、剣より一瞬早く彼女の体を突き飛ばしたのだ。

「きゃっ!」

剣の届かない場所に突き飛ばされた浅海――これでいい……

その瞬間に俺の体に突き刺さるのは二十三の剣――天下最強の剣士、それが二十三人がかりで俺を殺しに来たようなものなのだから、その全ては見事に急所を抜いた。

背中、腕、脚、腰、頭……体中に激しい痛みが走り、体中が毒に侵されたみたいに熱くなる。

視界はその瞬間に真っ暗になった。




○○○○○




串刺しのオブジェ――そんな公明を見下ろすベルラックは感心したように言った。

「……其方の武勇、褒めて遣わす。じゃが、結果も予期できぬ愚物……それこそ人が下等種族たる所以よ」

剣によってハリネズミみたいになっている俺をケタケタ笑いながら一瞥したあと、ベルラックは腰掛けていた窓から降りた。

降り立つベルラックを見つめた玲菜はそのときようやく感情を取り戻しかけていた。

「え……嘘、でしょう? 篠崎くん……何やってるのよ、起きなさいよ!」

倒れた公明に這うようにしてすり寄り、剣の犠牲になった彼の体に手を伸ばした玲菜は呆然としながら、バカみたいにその言葉を繰り返していた。

「起きてよ、ねえ、起きなさいよ! バカじゃないの、何でこんなことをしたのよ、庇われたって私全然うれしくなんてないんだから! 起きてよ、ねぇ、起きてってば……嫌だよ、こんなのって絶対に嫌なんだから」

必死に公明の体をゆする玲菜。

剣が地面まで貫き、彼の体を持ち上げることも出来ない玲菜はただ剣が貫いていない部分を揺らし続けていた。

「復活などありえぬ。死人を蘇生させるほどの理の改変が其方如きに叶うはずもなかろう。その奇蹟を為すは妾を含めたわずかな使い手のみじゃからな」

冷酷な死の女神は嘲笑を込めて、トランクから剣を召喚した。

次は三十――全てが十字架の剣ファティーフ、それの刃は全て玲菜に向けられていた。

「バカ! 起きろ、この!」

泣いている玲菜はそれでも公明の体を揺らし続けていた。

「逝くがよい」

侮蔑、その表情は他を見下す吸血鬼貴族のものだった。

「――んですって……この、化け物! よくも、こんな……許さない。もう許さないから!」

それを受けてか、憎悪の眼差しでベルラックを睨みつけた玲菜。

彼女を支配したのは怒り、自分を助けようとして死んだ間抜けな男と動けなかった自分と、間抜けな男を刺し殺した吸血鬼への凄まじい怒りだった。

部屋の空気は灼熱を通り越して、氷点下にまで下がる。

涙を流していた瞳は哀れみと慈悲を捨て去る。

そして、その瞳は薔薇より赤く、血よりも紅く、夕暮れよりなお赤く、焔よりさらに紅く染まった。

その瞬間の玲菜が帯びた空気は人間のものではない、殺意と暴力が本能の獣のものに等しい。

それに気がついたベルラックは僅かに驚愕するが、再び不遜な表情に戻る。

「妾を殺す? 下等種族の分際で……図に乗りすぎじゃ」

宙を舞う剣は必殺の刃――ベルラックという魔導師は武器を創ることにかけては世界の始まりから現在、遥か未来宇宙という世界の消滅に至るまで、それどころかあらゆる異世界においてさえ並ぶ者がない天才だ。

だが、いかに武器が一流でも所詮あの体格、使い手としての彼女は三流にも劣る。

同時に、彼女自身の身体能力も見た目が示す通り吸血鬼の中でも最も低い。

しかし、それでも彼女を打倒出来ないのは蓄積可能な魔力量の膨大さによる。

その桁は次元が違う、如何に歴史を積んだ吸血鬼といっても彼女ほどの魔力を有する者はいない。

ただの人間の数億人分の魔力――彼女が有する魔力は吸血鬼になる前からすでに人の次元ではない、それは特殊な生まれが原因の異常な魔力量。

古の時代、神と人が交わった結果が玲菜の目の前に立つ存在なのだ……吸血鬼自体よりさらに高次の存在がその起源なのだから、元よりその点で勝負することは愚かかもしれない。

しかし、魔力量が戦闘力をそのまま表すものではないというのも事実だ――仮に身体の強化について言えば、無限の魔力があったとしても実際に反映されるのはせいぜい百程度まで。

それ以上は如何に無限の魔力の助けがあろうとも、実際に体を鍛える以外に強化する方法はない。

ただ、彼女ほどの魔力があればそんなこともいえなくなる、無限の弾丸を放つマシンガンを相手にしていては勝機を見出すことも難しいかもしれない……

思考する一瞬の隙、ベルラックが送った合図で剣は目標を破壊すべく突撃した。

しかし、その瞬間に黒い影は剣など置いて走り去る。

疾駆した影は剣の雨が降り注ぐ瞬間に、その包囲網から走り抜けていたのだ。

「なっ!?」

風は剣をかわされた女貴族の眼前に瞬間移動したかと思うほどの速さで現れると、渾身の一撃をその顔面に向けてたたきつけた。

ものすごい音が狭い空間に響き渡る、凄まじい閃光が闇を晴らした。

その衝撃は女貴族が壁に衝突したときのもの……

戦車の装甲さえ凌駕する女貴族の対物理障壁は在り得ない事にただの拳によって打ち抜かれ、その美しい顔から首にかけて鋭い爪が抉った様に深い傷が残っていた。

その傷からはどす黒い血が糸を引いてさえいた。

ベルラックは驚愕した――相手を見れば実力の程は想像がつく、それが長い年月を生き抜いてきた彼女の能力なのだ……だが、今目の前で自分を殺そうとした女魔術師の動きはまるで人間ではなかった。

魔力による強化以外にも、魔術を使った強化も存在するがこのレベルまでの身体強化は彼女の知識にも無い……これはただ単純に魔術師の身体能力が次元違いであることを示している。

だが、そんな人間がいないことは考えなくてもわかることだ。

しかし、それでは一体……?

得体の知れない相手に覚えるのは警戒感。

わずかに冷や汗が額を流れる。

夜の光の中にあって、闇を纏うのは夜の貴族の特権のはずだ。

されど、目の前の魔術師はその定理を覆し、夜の力を得ている……吸血鬼と同じ赤い瞳と人智を超えた力を持って、最古の貴族ベルラックを圧倒していた。

だが、例え次元違いの腕力で攻撃したとしても、夜の貴族を傷つけるのはやはり難しい……ベルラックの顔の傷から溢れたどす黒い血が急に止まるとその傷口が時間の逆行のように塞がっていく。

それは時間のトリック――吸血鬼という種族特有の、世界の法則という後ろ盾を持つ一つの奇蹟だった。

「立ちなさい……これくらいでは殺さないから」

ベルラックを見下ろし、殺害予告を注げる魔術師は血走った眼で鋭い爪を構えた。

「……小娘、貴様……一体何もの……」

ベルラックの声に反応してか? 

地面に突き刺さっていた剣は次々と再び浅海に襲い掛かった。

その瞬間、紡がれるのは時の魔術『クレプシドラ』。

「!?」

剣は再度的を失い、その主は数十の拳を受けて再び壁に打ち付けられる。

ベルラックにしがみついていたOLはまったくその二人に入り込めなかった。

「がはっ……」

吸血鬼の視力を持ってしても捕らえられない超音速の攻撃は嵐のような連打だった。

裂けた皮膚から飛び散る血液が地面に触れる前に、数十の鉄拳が体にめり込んだ。

脚、手、首……ベルラックの体はどの骨も滅茶苦茶に砕け、それが肉から飛び出てさえいた。

魔術によって痛覚を自ら麻痺させていなければ悶絶してもおかしくないダメージだろう、吸血鬼になったとはいえ彼女の体自体が圧倒的に弱いのだから気を失う可能性さえある激痛のはずだ。

例えば、神経が正常だったならばとても乱暴な生体解剖か拷問を受けているような激痛だったに違いなかった。

「まだよ、まだ……彼の何倍も、何倍も苦しみなさい!」

姿なく、声だけが聞こえる。

それを聞くはずの耳がその根元から千切れたとしても、頭蓋が砕ける鈍い音がそれを邪魔したとしても、確かに闇からその声は聞こえていた。

無残に破壊された紅い瞳の主が目標を探ろうとした瞬間に再びものすごい速度の拳が体を打ち抜く。

それは一気に心臓を抉り出すほどの一撃、次の手刀はそのまま首を切り飛ばした。

しかし、それでも闇がベルラックの体を再生させ、彼女を再び立ち上がらせる。

「障壁を抜いた拳、その魔術……見事の一言に尽きよう。じゃが、それでも妾を滅ぼすには足りぬ……がふっ、あ、ごほっ……」

立ち上がっていたベルラックの体は言い終わる前に頭頂から二つに切り裂かれた、しかし、それでも彼女の体は再生する。

繰り返し、繰り返し、果てることがないのではないかと思えた殺し合い。

その攻撃の間でさえ、剣は一度も姿なき相手を捕らえられなかった。

対して、玲菜の攻撃はダメージにさえなっていれば百度はベルラックを滅ぼしていただろう、だが、それらはまるで意味を成さなかった。

そして、何十か、あるいは何百回かベルラックを殺したとき、彼女は再び復活する。

「止めよ、拳で妾は決して滅ぼせぬ――いや、滅ぼし得る者もおるが……貴様には為せぬ奇蹟よ」

余裕のベルラックを見つめ、それでもなお闘争本能を高めようとする。

しかし、総身の魔力は凄まじい消費によってほぼ枯渇しかけていた。

「はぁ、はぁ……」

そう、肩で息をしながら膝をついて苦しんでいるのはむしろ玲菜の方なのだ。

彼女の魔術は尋常でない消費をもたらす、すでにベルラックに対して全力をつぎ込んでいる以上、その体力は見る見る削られていった。

「『クレプシドラ』の二つ名を継ぐ者レディ・レナ……其方の名は胸にとどめた。されど、この命まではくれてはやれぬ」

見る見るうちに、時間が遡っていくかのように体の骨が再生し、皮膚が再生、服さえも完全に復元する。

「黙りな……さいよ。私は、まだ戦えるんだから……絶対に貴女を、やって彼の弔いを……」

それを見つめる玲菜の眼にはいまだ衰えぬ怒りの焔が燃え盛っていたが、限界は近い。

それでも相手を殴ろうと、疾駆した瞬間――ベルラックの姿が彼女の影に消えた。

「え!?」 

瞬間、自身の後ろから喉に爪を押し当てる小さな体。

少しでも動けば喉を裂かれる。

「『影渡り』という、一種の固有能力じゃ。妾は地上の誰より速い。時間を遅らせたとしても影を移動する妾より速くは動けぬぞ?」

「きゃっ!」

玲菜の後ろをとったベルラックはポンッと彼女の体を突き飛ばした。

咄嗟に反撃の蹴りを振り向きざまに放つが、それが当たった瞬間にベルラックの体は真っ黒いタール状の影に姿を変えた。

「くっ……なによ、これ」

スライムのように脚を絡めとり、体の動きを封じようとする影。

脚をとられて倒れてしまう。

それを見つめる黒い影が哄笑した。

「積みじゃ、食い殺してくれる」

「う、る、さ、い!」

脚を絡め取った影に拳を突き刺すと、そのまま叫ぶ。

「――The light of the sun shine on the darkness!」

闇が蒸発するかのような瞬光が足を絡めとった影を消失させる。

敵の追撃を受けないためにもすぐに立ち上がり、周囲を見回すと瓦礫の影に座っている吸血鬼の姿を捉えた。

「嗚呼、良いな……妾にそこまで抵抗する其方、実に傑出しておる。凡百から頭一つは抜き出ておる……妾に服従するならば召抱えて遣わすぞ」

「黙りなさい!」

「……見事な覚悟、と褒めよう」

失念していた事実に驚愕せざるを得ない、ベルラックはそもそも魔術など何も使っていない。

使ったのは彼女が持っていた武器の一つに過ぎないのだ。

「させる……、ものですか!」

その瞬間、見開かれた瞳が金の輝きを放った。

「ふん、魔眼か……あ、ば、くっ……」

急に苦しそうに胸を押さえたベルラックは、そのまま地面に崩れるように倒れた。

同時に、玲菜も倒れた。

「はぁ、はぁ……どう? 心臓麻痺を想定してる吸血鬼、なんて……いないでしょう?」

苦しそうに息をしながら、玲菜はベルラックに言い放った。

ピクリとも動かない相手、目をハリネズミになっている公明に移せば再び悲しみが彼女を支配した。

だが、そのとき響き渡るのはベルラックの嘲笑。

「!?」

思わず、倒れていたはずの相手に視線を戻した玲菜は驚愕する。

立ち上がって、嘲笑するベルラックがそこにいた。

「面白いものを持っておるな。彼の魔眼の系譜の最上位種が一つとは……そうあるものではない。抉ってくれようか?」

伸ばしたベルラックの手に形作られるのは処刑鎌……魔力を自身が一度作った武器に変換するというまさに彼女特有といって良い魔術。

魔導師ベルラックの大魔術は武器の製作だけではない……彼女は自身が作り上げたもの、自身が経験した現象、自身が想像したものをその魔力から作り上げる。

それはまさしく御伽噺の魔法。

そして、それを目にした魔術師に生存している人間は一人もいない。

「く……」

それを知るがゆえに、彼女は目を瞑った。

いや、体力の激しい消費によって気絶してしまったのだ。




○○○○○




浅海の首に鎌を当てるベルラックは哄笑しながら、魔法の鎌を振り上げた。

空間さえ断ち切る魔法の鎌、人間の作る盾などまったく無意味――霊魂ごと切断されて命など一瞬で奪われてしまう。

ああ、俺も浅海も終わりか……そう思っていた。

しかし、完全に絶えたと思った意識は不思議なことに未だに終わりを迎えない……体は動かないのに、体の中で何かが起こっている様子がわずかに伝わる。

広がっていた病原菌がじわじわと免疫機構に食われていくようだ、砕かれる毒は体の中で無害なものに変えられていく。

それが手に取るようにわかる、しかしまだ起き上がるには気力が足りない。

じっくりと体力を、魔力を体に集めて昏倒している精神を覚醒させようとした。

貯まっていた魔力は本を使ったためにわずかに消費され、剣が突き刺さった瞬間にほとんどが吹き飛んだ……しかし、どうせ小さな器だ……気をしっかり持てばすぐに回復する。

魔力が充実すればあとはただ、それを全てつぎ込んででも精神を覚醒させれば良い。

ベルラック……なんて凶悪な小学生だ、こんな奴は許せない。

魔力が万全になったことがわかる。

完全に一杯ということでもなかったが、これだけあれば覚醒には十分だと思えた。

一、二、三!

その掛け声とともに剣の呪縛を吹き飛ばしたのはほとんど無意識のことだった。

急速に意識が覚醒していくのがわかる。

「うぉぉぉお!」

手にはずっと前に浅海が綾音に撃たれたときの弾丸を加工した剣のキーホルダー――吸血鬼に対して効果がある、だから綾音はこれを使っていたはずだ、それなら絶対にこれは効く!

「なっ!?」

鎌を振り下ろそうとしていたベルラックに俺は飛びかかった。

振り向きざまに鎌を振ったベルラック。

もしもそんなものと手の中のキーホルダーがぶつかり合えば、小さな銀の欠片など一瞬も持ちこたえることが出来ないだろう。

だが、俺の体に触れた瞬間にその鎌自体が塵と化した!

「莫迦な!」

ドン! 音を立てて倒れこんだ俺とベルラック。

浅海は大丈夫、ちゃんと生きてるし気絶してるだけだ。

俺の手に握られた銀はベルラックの首にわずかに突き刺さっていた。

本来ありえないことだ、ベルラックの体を覆いつくす数々の結界はほぼ全ての攻撃を無効化し、本来彼女をありとあらゆる攻撃から完全に守っている。

浅海に砕かれた最強の対物理結界も完全に復活していた、それなのにそれをただの人間に何の魔術行使もなく貫かれた上、肌に銀の剣を突き立てた――ベルラック自身、一瞬何が起こったのかさえわからなくなっていた。

「……ありえぬ……なぜ、人間如きがファティーフを受けて立つ? ええい、邪魔じゃ、退け!」

「ぐはっ!」

片手で軽々と俺の体を投げ飛ばし、さっと体を起こすと、OLに渡していたトランクに手をかけて空に放っていた剣を呼び込んだ。

俺もなんとか体を起こすと、相手に向き合う。

同時に、床に落としていた本を手に取る。

その瞬間に、ベルラックの首筋に突き刺さっていたキーホルダーが急速に熱を帯び、白色の光を放ち始めた。

凄まじいまでの熱、ベルラックは悲鳴を上げてそれに手を伸ばすと自身の首の肉ごと抉り出し、それを床に投げ捨てた。

「ぎゃぁ……くぅ、よくも、よくも妾にこんな真似を……許さぬ……許さぬぞ、小童!」

俺を睨みつけるこの世で最も美しい吸血鬼の瞳には炎が燃え盛り、その殺意は空間の温度を一気に低下させたような錯覚さえ与えた。

咄嗟のことで痛覚を麻痺できなかった彼女の顔が苦痛に歪んでいる。

抉られた首からは血液がドクドク流れ始め、徐々に再生が始まる。

だが、先ほどまでの浅海の攻撃に比べればダメージ回復が遥かに遅かった。

銀には元々吸血鬼、それもベルラックのような桁外れの怪物を攻撃する力などない。

太古の昔、水を銀の器に注ぐと銀のイオンの力で水中の悪性バクテリアや微生物を殺し、食中毒を防ぐ働きがあった、その力とその神秘的な輝きが人々の信仰を集め、毒や食中毒防止の意味から器に用いられるようになった。

それは次第にそれ自体が聖なるものという信仰を集め始め、数十億に上る信仰が神に力を与えるが如く銀にも浄化の力を与えたのだ。

だが、勘違いしてはいけない、ベルラックはそれ以前の、その信仰さえ生まれる前から生きる吸血鬼で本来銀自体を持ってしてもダメージなど与えられないのだ。

しかし、錬金術師なんだからすごい細工のキーホルダーにしてくれ、とアデットに依頼したためそれにすごい細工が施されていたわけで……アレがただの銀の剣や武器でも何の魔術もなしにベルラックにはダメージを与えられなかったらしい。

そう考えると、このときは素晴らしく偶然が味方してくれていたのかもしれない。

「なぜ、なぜファティーフを受けて生きていられる? それに、何故剣が二十三も消失しておるのじゃ!」

夜の貴族、その中でも絶対者たる皇女は叫んでいた。

その美貌を持って全てをひれ伏させる少女は、目の前のあまりにも異質な人間に驚愕し、その精神の安定を欠いていた。

冷静さ、魔導師たる彼女がそれを失うなど数千年ぶりのこと……その上、彼女は恐怖さえ感じている。

在り得ない現象なのだ、目の前の事実は虚言であるかのごとく思えた。

幾千の年月、十字架剣ファティーフが敗れたためしはない――ファティーフは意思を持った彼女自身の使い魔、一年という時間をかけてそれにかけられた魔術によって二つに分かれ、延々とそれを繰り返してきた兆の桁にも届くほどの分身を持った一つの軍隊。

その威力において、魔術師に敗れるなど在り得ない――十字架剣は四大の元素を象った剣、その威力において並ぶ武装は少ない。

だが、目の前の人間は千年にも渡る神秘をたった一夜で崩壊させ、二十三もの剣を葬り去った。

それはすでに悪い夢だ、7本のファティーフを折った魔術師達でさえそれを折るために強力な技術や魔術を行使したのだ、それを何の魔術も無く消し去るなど在り得ない。

元来、力において圧倒的に弱い吸血鬼ベルラックにとって武装の敗北は自身の敗北にも匹敵する屈辱、目の前の正体不明の男に感じた恐怖は彼女が誕生して初めて感じるものだった。

その上、元々戦いに自身が参加しない彼女の体に数百年ぶりに届いたダメージが彼女に恐怖を呼び起こさせていた。

ゆえに叫ぶのだ、髪を振り乱して絶世の美貌を誇る吸血鬼が!

「なんなのだ、何だというのじゃ! 答えよ! なぜ、なぜ魔道を極め、吸血鬼となったこの妾が下等種族を相手に恐怖など感じねばならぬ?」

それは彼女が始めて相手に感じた恐怖を振り払うための絶叫か。

その瞬間に手に握られた、剣をとんでもない速さで目の前の男に向けてマシンガンのように連射した!

だが、その十八にも上った剣や槍、斧、ナイフは全てがかき消される。

一つは一度に五を突く槍、一つは空間を切り裂く鎌、一つは海を割る斧、一つは灼熱の炎を灯す矢――数十の神話を作り上げた武装、その全てがたった一人の人間を相手に消失していく。

目の前の相手は何の魔術も行使していない、それは魔導師である彼女自身にもよくわかる……だが、だからこそ納得など出来ない。

俺の目の前のタイルは矢のように飛んできた槍の衝撃波だけで粉々になり、振られた鎌はそれだけでコンクリートの壁をプリンのように削った。

それでも、この体にダメージはない……全てが届いていないのだ。

だが、俺にとってはそれも当然――魔術によって形を成したもは最初からなかったことになる、魔術が消滅するのだから俺にダメージが届いて良いはずがない、それこそが道理なのだ。

だが、普通の魔術師にとってこれは異常だ。

ベルラックの知りうる限りにおいてこんな無茶な現象はありえない。

神を殺した、悪魔も、人も、魔術師も、吸血鬼も、魔導師さえ……自身の理想を阻むものを全て破ってきた、敗北など知らない武装があった――その全てをこの男が崩壊させようとしている。

「ばかな……莫迦な、莫迦な!」

自身が持つ最強の武装を何の魔術行使もなしに消し去り、続けざまに放たれた全ての武装を消し去った相手に対する恐怖が最高潮に達した。

そのとき、俺は本を構えて相手に告げた。

「俺は篠崎、公明……ただの魔術師見習いだ。ベルラック……動くな、それ以上俺達に何かするつもりなら、この本の最強魔術でお前を道連れにするぞ」

彼女にしてみれば自身の作った本だ、ベルラックはそれを見て驚愕する。

「その本は……つっ、余計なものを! じゃが、その本程度で妾を殺せるとそう思うか? 最大魔術など使えば即座にミイラ、死んでしまうのじゃぞ? 相手が死ぬかどうかもわからぬのに、死ねば犬死。それで良いというか?」

叫ぶベルラックを俺も睨みつけ、精一杯の虚勢を張った。

正体のわからないものに恐怖を感じる、その本能からは彼女さえ逃れることは出来ないようだ。

「命は惜しくない……出来るさ。俺の命を使って最強の魔術を使えば、お前だってただではすまないはずだ。何しろ、お前の作った本だからな……だから、これ以上勝手な真似はさせない」

仮に冷静であったならベルラックは気がついていたはずだ、俺の虚勢に。

怖くて死にそうだ、足は震えている。

声が震えていなかったことだけでも奇蹟だ。

しかし、このままコイツに勝手を許せば浅海も死ぬ、そして俺も殺されるだろう。

そんなことになるくらいなら、必死に抵抗するのは当然だった。

わずかとはいえダメージまで負わされ、冷静さを失っている今のベルラックにはそれが判断できなかった。

仮に、吸血鬼特有の圧倒的な身体能力を駆使して俺を殺せば事は簡単に終わったはず、だが、経験豊かな魔導師であるために、そして自身が体力面において脆弱であることを誰よりも知るがゆえに、彼女は魔術による攻撃に固執していた。

普通なら、そうなった方が勝ち目が薄い……当たり前だ、彼女は最強の魔術師なのだから、魔術師として戦って勝てる人間などいない。

仮にミサイルみたいな威力の魔術ですら彼女の体に届くかどうか、あるいは届いたとしてもダメージになるかどうかなのだから……それこそが王道というものだ。

だが、俺に対してその戦い方は完全に間違っている、俺には魔術が効果をなさない……彼女は恐怖のために冷静でいられなかった、それは計算外のことではあったが俺の運が引き寄せた幸運だった。

それが、この場で俺が生き延びることが出来た要因だと……後に気がつく。

にらみ合っていた二人、そのときベルラックがふっと緊張を緩めた。

「――ウフフッ、アハハ……小童、いやシノザキ・キミアキ……妾に恐怖も感じず、畏怖することも無い魔術師……貴様の命は妾が預かろう。100年後の今宵その首貰い受ける、それまでせいぜい腕を磨くことじゃな」

「……は? いや、何だって?」

「百年の修練を妾が打ち砕く――そうでなければこの屈辱は雪げぬ。覚えておくが良い、妾が百の年月を待っておることを」

その瞬間にベルラックは咄嗟に呪文を口にすると、一瞬で部屋全体に途方もない数のまったく同じ剣を出現させた。

「え!?」

「万物よ、今宵を全て忘却せよ……フフッ、ハハ」

振られた手。

そして、全ての剣が四方八方から俺達に襲い掛かった。

剣が俺を串刺しにする寸前、窓から逃げていくベルラックの姿が見えた。

剣は俺の体に届く前に姿を消した、だが……緊張しきっていたからだが、そのまま崩れ落ちるのをとめることは出来なかった。




○○○○○




「……あれ? 私……なんでこんなところに?」

玲菜は目が覚めたような錯覚を覚えた。

まるで今まで何をしていたのかわからない……ああ、そうだった。

たしか肝試しの帰りに階段を下りようとしていたはずだ。

しかし、気がついたのは床が埃だらけの汚い部屋……

別に魔力の残り香は感じない、元々そういう場所だったのだろう。

それにしても、とても散らかった部屋だ、特に何処が壊れているわけでもないが散らかっている……どうしてここにいたのか? 考えても思い出せない。

しばらく考えてみる。

そして、目の前に倒れていた篠崎公明が幽霊に驚いていたことを思い出した。

不思議と彼を見た瞬間に目から涙が零れ落ちた。

「どうして、私が泣いてるの?」

悲しくないはずなのに、なぜか涙が出た。

目に埃が入ったからかもしれない、そう思いこむことにしたが、心の中ではどこか納得できない部分もあった。

しかし、気分を入れ替えることにする。

「ふふっ、幽霊で気絶なんてして……さっさと連れて行って、みんなの前で恥じかかせちゃお!」

彼の体を肩に担ぎ上げると、そのまま階段をさっさと歩いて降りていった。

担いでいた公明の首筋を見ても、いつも感じていた微かな欲望を覚えない不思議な夜だった。

静寂が支配する夜、実に美しい満月……アーデルハイトの抑制剤を飲んでもこれほど近くに人間の首があれば多少の欲情があるものだが、それをしてはいけないという意識が心から湧いてきて欲望を押さえつけていた。

そして、今恐ろしく魔力が不足していることに気がついた……狼になるのを我慢したために魔力を消費したのだろう、と思った。

「なに、私って……すごい精神力の向上じゃない? これも日々の努力の成果ってヤツかな」

階段をおりきると、後は病院を出て夜道を車まで歩いていくだけで足りる。

時計を見ればわずかに他の組より時間がかかってしまっているが仕方あるまい。

気絶してしまっている相棒がどうなるか……それを考えるだけで玲菜は笑いがこみ上げてきた。

蒸し暑くなってくる、それなのになんて気分が晴れ晴れしているのだろう?

まるで牢獄から開放された直後のような清々しさだった。

わずかに歩いて、道の入り口近くに止まった車に走っていく。

公明の腕を自分の肩に回して、彼の体を支えてここまで歩いてきて大変だった様に見えるように細工した上で玲菜はアキラたちが待っている車に向かった。

車のドアが開くと、首を長くして待っていた良介とアキラが顔を出した。

そして、二人は玲菜が運んできた公明が気絶していたことに気がつき……大爆笑と共に公明の体を運ぶ玲菜に駆け寄った。

「おい、公明! おいおいマジかよ、あの浅海さん……コイツ、本当に気絶してるんですよね?」

良介は脇をくすぐっても気絶したままの公明を見て、本当に楽しそうに玲菜に聞いてきた。

やらせでは無かろう、玲菜もかなり汗をかいている様子だ。

その上、公明がするにはあまりにもらしくない冗談だった。

「それより、早くそっち持ってよ。篠崎くん、病院の中で急に幽霊を見たって言って気絶しちゃったの、まったく大変だったわ。彼の体をここまで私だけで運んできたのよ」

愚痴を漏らす玲菜、多少はオーバーな演技だったが汗を多少ともかいていたためにそれは実に真実味を帯びていた。

促されて、アキラと良介は慌てて公明の体に手を伸ばした。

玲菜は公明を二人に任せて、悠々と車に引き上げていくのであった。

○○○○○

意識が覚醒していくのがわかる。

だんだんと感覚が戻ってきて……周りからのすごい視線を感じるのは何故だろう?

「……し、のざき、おい! いい加減、起きろよ!」

体を揺さぶられている……ああ、五月蝿いな! 起きるよ、だから少しだけ待て。

「ったく、浅海さんにまで迷惑かけて……来週楽しみにしとけよ、学校中の噂にしてやるからな」

良介が楽しそうにそう言っていた……俺が迷惑をかけたって? 何だ、それ?

「本当よね、私あのとき本当にどうしようかと思ったのよ」

浅海は自分がさぞ大変だったかのように語っている。

いや、お前……確かに大変だったけど、俺がどんな迷惑をかけたんだよ!

「いい……かげんに、しろよ……」

「ん? ようやく気がついたか、この小心者」

目が覚めると、俺は良介の家のソファーの上に転がっていた。

目の前にあるのはアキラの顔、浅海や良介、ショミンさんに真琴はそれぞれに飲んだり、食べたり、カラオケで歌ったり……

はっとして自分の胸を確かめる、気を失う寸前に剣が突き刺さった場所を触るが、まるで傷が無かった。

慌てて俺がそんなことをしたものだから、アキラは不審そうな顔。

「おい……本当に大丈夫か? 頭とか打ったんじゃ……」

「いや、そうじゃなくて俺の胸に女の子が……あ、いや、なんでもない。それより、浅海! 俺、なんでここに?」

良い気分になっていたのか、ビール片手の浅海は『ほぇ?』と間抜けな返事を返し、俺の顔を見るとちょっと意地悪そうな顔になる。

「何で、ですって? ふふっ、篠崎くんが幽霊を見て気絶したからでしょう。高校二年生にもなって、大丈夫?」

「はいっ? なんで俺が気絶なんてしたことに……?」

あ、そういう事で話を誤魔化したんだな。

なるほど、確かにあれを正直に言うわけには行かないよな……そうか、なるほどそれなら合理的な理由だ。

そうか、ここは話をあわせないと駄目だよな。

「あっ、いや……申し訳ない、鳥か何かの声に驚いて足を滑らせたんだ。幽霊じゃなくて。仕方ないだろ、頭を強く打って……ほら、ここにタンコブがあるだろ?」

剣を投げつけられて床に倒れたときのものだ、それを擦りながら幽霊でなく合理的な理由があったことを強調する。

しかし、酔っているのだろうか? あるいはこれも辻褄合わせなのか……浅海は目つき鋭く非難してきた。

「頭を打ったって? いい? 私は貴方を背負ってあんな距離を大変だったんだから……ほら、飲みなさいよ。私の酌が受けられないなんていったら、一発芸やらせるわよ。ねっ、みんな?」

その言葉に部屋の中が一気に盛り上がる。

生徒会長に通報するぞ、お前ら……しかも、辻褄合わせにしては……何だか浅海の目がマジっぽいのは気のせいだろうか?

いや、そんなはずは無い……そう、これは演技だ。

こんなところでベルラックの存在を話し合えるわけも無いから演技をしてるんだ。

浅海は素晴らしくうまく演技していて、この饗宴が終わったあとですぐにアデットに……いや、とっくに彼女に通報していることだろう。

恐らく、ここでバカ騒ぎに加わっているのもアデットの指示……なるほど、どういう意図があるのかわからないがそういう指示なんだな?

それなら、俺もこのバカ騒ぎに加わってやろうじゃないか!

「ほら、受け取って」

浅海からコップ一杯分のビールを注がれる、彼女の地元はビールの名産地の一つだから他の連中ほどには酔っていない様子だった。

それは幸いか、もしも酒乱だったら死人が出る。

「わかった、わかった……ほら、これで良いんだろ?」

ビールを一口、二口……あっという間に飲み干した。

歓声が上がる、最新の曲をチョイスしたマイクが俺に回ってくる。

ソファーから一気に体を起こすと、そのままバカ騒ぎの主役へと走って行く俺。

翌週、『幽霊病院で大恥をかいた篠崎くん』の噂が学校を隈なく覆い尽くしていようとは思いもしなかった俺は歌い、飲み、大騒ぎを楽しんだ。






[1511] 第十六話 『Another night』
Name: 暇人
Date: 2006/05/31 23:47
 

「兄さん、明日の葬儀の電話は……もう?」

今まで祖父の死を思い出して気分が悪くなっていたために、居間で休んでいた雨峰亜希子は部屋に入ったとき電話を終えた様子の兄に訊いた。

夏彦は目頭を押さえながら眠たそうに返事をする……無理も無い、ここ数日の忙しさと混乱は彼に満足な睡眠も与えていなかったのだから。

「ああ、縁があった人には伝えておいたよ」

部屋の扉を閉めると、兄の前に腰掛ける。

テーブルの上にはワインのビンが置かれ、疲れを紛らわせるために夏彦が一杯飲もうとしていたもののようだ。

彼は無言のまま亜希子にもグラスを勧め、その中になみなみとワインを注いだ。

「ありがとう……」

グラスを手元に置くと、それに口をつけることも無く礼だけを伝えた。

「いや。それより、こっちの方も片付いた……疲れているのならお前も休め」

椅子に深く腰掛け直すと、グラスの赤ワインで口を潤しながら夏彦は妹を気遣った。

「いいえ。でも……ごめんなさい、私色々取り乱して」

亜希子は申し訳なさそうに肩を落としていた。

夏彦はそれを見て、ため息をつきながら否定する。

「いや……別にそんなことは気にしなくていい。ただ電話しただけの簡単な作業だったから」

亜希子はそこで初めてグラスに口をつけながら、兄が電話した相手の名前を聞いた。

確かに大した数でもないが、社交辞令も多いだろうし、他にも面倒な作業であっただろう。

「……お爺様にはいつも精神の鍛錬が足りないって言われてたけど、当たってたみたい……やっぱり駄目ね、女が魔術師をやるなんて。本当に、私お爺様がアレだけ熱心に教えてくださったのに期待にもこたえられなくて……」」

「亜希子……女性の魔術師が少ないのは周知の事実ではあるけど、名を残している人も大勢いる。駄目なのはむしろ……後継者になったとして、どうするか良く考えていないこの……」

「秋継兄さんか、夏彦兄さんか……この家の魔術関係の遺産、この家、土地……ねぇ、別に後継者がどちらでも遺産争いなんてやめてよ。お爺様もそんなことは望んでいないはずだから」

「こちらはそのつもりだ、大体あんな大物達の目の前で兄弟での遺産争いなんてみっともない真似が出来るわけが無いだろう。むしろ問題は向こう……それより、亜希子はもう大丈夫なのか? もしはっきりしないのなら……これでも医者だ、一応健康に問題が無いか診ようか?」

「自分の体調管理は自分で出来ます! ……それより、今回の件は本当に吸血鬼関連なの? この家にはそんな大問題に関わるようなものは何も無いはずでしょう、それなのにどうして……」

「そんなことはわからないよ。そもそも何でも知っているわけではないのだから」

「そうね……ごめんなさい」

「一々謝ることでもないだろう。お前は秋継の方が適任だと……いや、やっぱりどうでもいい……忘れろ。それより、もう少しで八時になる、そろそろ寝た方が良いだろう。明日はきっと大忙しだ」

「ええ……でも、秋継兄さんが帰ってくるまでは待ちたいの」

「きっと時間をかけた捜索をしているはずだ。結果は明日聞けば良い、今日のところはお前がゆっくり休んで明日に疲れを……!?」

急にどこかから聞こえた物音。

いや、すでに屋敷の中で何かしらの物の怪が蠢いているのが二人にわかった。

「兄さん、これって!?」

それは屋敷の外からの侵入ではない、屋敷の中にいた者が急に怪物に姿を変えてしまったかのような変質だったのだ。

例えば秋継たちが出発する前に、家の者達のみを案じたアーデルハイトが彼らの立会いの下で侵入者探知専門の簡易な結界を張っておいたのだが、それさえ反応していないことを考えればそれは非常事態だった。

「近い、いや……もう周りを囲まれたみたいだ。部屋の前に一人、窓の外に二人……どうしてここまで侵入されるまで彼らに気がつかなかった?」

「そんな!」

「くっ……亜希子、相手は恐らくお前がどうにかできる相手じゃない。手元の武器と呼べるものは護符だけ、おまけに私自身も戦闘なんて素人……窓の外にひきつけるから家に中のどこかに隠れろ! いいか、絶対に近所の民家に害が及ばないようにするんだ。それが……我が家の誇りだからな」

「兄さん、それなら私も……」

夏彦はその瞬間に扉を蹴破り、扉の向こうに立っていたサラリーマン風の中年を扉ごと床に押し倒した。

瞬間、窓のガラスが割れて赤い瞳が部屋の中にいた亜希子を睨み付けた。

「きゃっ!」

飛び散ったガラスが彼女の足元にも飛散し、夏彦はその妹の悲鳴に駆け戻った。

夏彦に扉ごと蹴り倒されたサラリーマンは扉をぶち壊して、床から立ち上がるとわずかに曲がっていた右腕を無理やり正常な方向に矯正し、瞬時にその腕を再生させてしまった。

折れていた骨が瞬間的に復元し、もともとの形を取り戻したのだ。

「こっちだ、化け物ども。ついて来い!」

駆け出した夏彦は窓から侵入を図ろうとしていた二人の吸血鬼を蹴り飛ばして、吹き飛ぶ彼らと一緒に中庭に降り立った。

家の後ろには大きな田畑が広がっているので、ここで暴れても誰かが気付くということはあるまい。

二人の吸血鬼と夏彦が向かい合った直後、彼を追いかけてきた吸血鬼が窓から飛び降りて合流する。

どうやら夏彦を攻撃対象として優先してしまったために亜希子には手を出さなかったらしい。

「兄さん! 逃げて、お願いだから、逃げて!」

窓から叫んだ亜希子の声に、わずかに彼女を見上げようとする夏彦だったがそんな隙を見せれば相手に殺されるのは明白だった。

一見するとただのサラリーマンにしか見えないが、彼らの纏う空気は魔術師にとってはそれだけで恐怖の対象。

「亜希子。絶対にこいつ等を家の外には出すなよ」

叫んだその声は果たして相手に聞こえたか?

彼を囲い込むように輪を縮めた赤い瞳の男達は不気味なうなり声を上げながら、その爪で相手を引き裂く光景を思い描いた。

「ぐるうぅ……」

だらしなく開いた口から垂れるよだれはただただ不気味だ。

身構えた敵を見れば武術などまるで素人なのはわかる、アレはただ単にこちらを傷つけようとする路上の喧嘩スタイルに過ぎない。

多少とも心身の鍛錬のために武術を知る夏彦には相手が一人ならまだ対処できるはずだった、だがこの人数を考えると苦しいかもしれない。

相手の身体能力が同じ場合でさえこの人数差は如何ともし難いというのに、彼らの跳躍や復元力などただの人には無い特性を持ち合わせていたのだからそれも当然だろう。

青白い肌にわずかにこびりつく泥、あちこちが破れているスーツ……それらが生暖かい夜の風にゆれ、同時に疾駆した体を通り抜けて行った。

同様に走り出していた夏彦の手元――握り締められた紙の切れ端に彼の体を流れる魔力が送られた。

切れ端に描かれているのは梵字つまりは『サンスクリット文字』であり、魔力がそれを流れた瞬間に鮮やかな赤色の光弾となって男の一人に襲い掛かった。

そこには恐らく夏彦の狙いが働いていたのだろう、寸分違わぬ連続攻撃となって男の眼前をすっぽり覆ってさえいた。

何より速かった初撃――

「■■■!」

その額を撃ちぬくべきだった弾丸は咄嗟に振り上げられた左腕の肉を抉り取りながらも、完全に軌道を外されて地面に吸い込まれるように突き刺さっていた。

初撃にわずかコンマ数秒遅れた追撃は、未だに残る右腕を盾と変えた吸血鬼の半身を無茶苦茶に抉ったのだが、果たしてその全てが急所を打ち抜いていてくれただろうか。

当然、どちらにしてもこれが一対一の勝負なら夏彦は勝っていただろう。

仮にダメージを回復できたとしても、散弾銃を浴びせられたように体中にダメージを追った男の反撃などで負けるとは思えなかった。

だが、それは叶わぬ願いか……

「……くそっ、なんて奴……!」

渾身の力を込めた最後の符が相手の右肩を吹き飛ばした光景を見届けた瞬間、掴れた腕をただ出鱈目な腕力で引っ張られて夏彦の体は宙を舞っていた。

その相手にぶつけるはずの魔術は完成を見る前……わずかに数秒遅れた、しかしそれが命取り。

感じた苦痛は一瞬だった。

壁に叩きつけられて意識が飛びかけたとき、耳元に感じた吸血鬼の吐息。

首筋に、腕に喰らいつくと同時に貪り食らう悪鬼たちの生命の鼓動は……奪われていく命への鎮魂歌となっただろうか。

○○○○○

白川綾音が雨峰邸にバイクを飛ばして駆けつけたとき、彼女はすでに事態が最悪の結末を迎えていたことに気がついた。

門を入ったときから微かに漂って来るのは穢れた悪魔の臭い……病院で始末した怪物と同じ臭い。

それに混じって血の臭いも感じられた。

玄関の脇に止めたバイクをそのままに、駆けて屋敷に走ると……赤い瞳が彼女を迎えた。

感情の無い赤い瞳が二体分……皆見た目は中年のサラリーマン。

地面に穿たれた穴とそこに放置された男物のスーツから察すると、その脇に倒れた雨峰夏彦が必死の思いで一体を始末したのだろう。

しかし、その奮戦虚しく残り二体の攻撃を受けた夏彦は事切れた肉の塊となっていた。

思わず唇をかみ締める……雨峰亜希子もすでに殺されてしまったか?

そんなことは今考えられない、目の前にいる人間の血が通わぬ怪物を始末せねばならないのだから。

すでに薄々彼の死を予見していた綾音は躊躇いも無く夏彦の遺骸に群がる吸血鬼たちに向かって走った!

にわか吸血鬼に何処まで当てはまるかはわからないが、伝承によれば夜が吸血鬼に力を与え、その身体能力を高めるという。

空間的に狭かった病院ではその身体能力が発揮できずにいた彼らも、この広い庭ではその身体能力の限りを尽くして彼女を襲うだろう。

自身の運動能力を誇示するかの如く、凄まじい速さで繰り出された鋭い爪!

病院からただ夏彦の保護を急いで駆けつけた彼女には武器の補給など無い、今の武器はナイフだけである。

敵はあのような外見に似合わず戦略を知るのか、彼女に襲い掛かった男ともう一人の男で挟み撃ちにしてしまおうという算段のようだ。

最悪の場合、夜の吸血鬼は人体の限界など気にはしないのだろう……だとすれば決して油断など出来ない状況だった。

魔術式を完成させるほどの時間は与えられない、そう踏んだ彼女の判断は間違ってはいなかっただろう。

彼らはそれを本能的に知るかのように一瞬で勝負に出ていたのだ。

繰り出された爪を姿勢を下げて躱した彼女はその腕を掴むと、一本背負い。

華麗に地面に叩きつけた瞬間には、すでに相手の心臓にナイフが突き刺さっていた。

相手の勢いを最大限に利用した片手での投げ技、それは一歩間違えば反撃される危険もある行動であり……それをさせないだけの自信がある故の技であった。

綾音に心臓を貫かれた吸血鬼が灰になって消滅していく。

その瞬間を狙って襲い掛かったもう一人の吸血鬼に対して、一気に地面を蹴って襲い掛かる敵よりも一段高く飛び上がった綾音は全力を込めて、その頭を蹴り上げた。

わずかに距離をとった場所に落下する吸血鬼は、しかし、見事に体勢を立て直して猫のような身のこなしで地面に着地した。

攻撃の際わずかに油断があった、左足を捻ったようだ……戦闘に支障は無いが、人ならざる速度で攻撃を仕掛けた敵にそれは命取りともなりかねなかった。

綾音が仕掛けようとした瞬間、相手が一気に疾駆した。

それは常人では追いつけまい速度、筋肉が悲鳴を上げて、それが千切れる音さえ聞こえる狂気の疾走だ。

一瞬の躊躇いも許されない瞬間……投擲されたナイフは鮮やかな光となって放たれ、吸血鬼の頭を捕らえたはずだった。

しかし、敵の身のこなしが優れていたのか、あるいは彼女のミスか、頭を貫くはずのナイフは相手の肩を貫くに留まってしまった。

当然その疾駆を止めることなど出来ない……ナイフを受けた吸血鬼がそのまま掴みかかって、彼女を押し倒した。

「くっ!」

見れば、ナイフは急所をはずれ相手の右肩に突き刺さっていた。

自身よりも強い力で押さえつけられ、敵の牙を前にするとわずかな恐怖さえ感じる。

まるで頭突きでもするかのように頭を突き出した敵が彼女の首を狙う!

すんでのところでそれを交わすと、視線の先に血を撒き散らして倒れた夏彦の死体が見える。

力で押し返そうとしても相手の方が体勢で優位、苦しくはあるがそれでもこの程度の危機ならば問題ない。

次に攻撃に来た瞬間に一気に敵を滅ぼす、その自身に些かの驕りも無く、それは確信といってもよかった。

獲物を前にした吸血鬼のだらしない口からは涎が零れ、それが綾音の肌を汚した。

実に気持ちの悪いものだが、それにより慌てるような彼女ではない。

ただ獲物を獲るために、再び首を狙った吸血鬼!

その瞬間に、彼女を抑えていた体からわずかに力が抜ける。

肩を負傷していたこともあったのかもしれない、しかしそれは彼女の技だろう。

一気に足に全力を込め、相手の体を投げ飛ばした。

同時に、自身の左手がしっかりと相手を掴み、その右手がナイフを掴むと一気に肩から首へと引き裂く。

夜の闇の中で飛び散る鮮血、ただ自身に何が起こったのかもわからなかった男の顔には驚愕の色だけが見られる。

鮮やかな勝利……敵の体が完全に灰になったことを見届けて、ほっと一息ついた。

押さえつけられた際にわずかに敵の爪で腕を負傷していることに気がつき、応急処置をした。

簡単な魔術で表面的に傷を治癒させたのだ……呪禁師たちのようにその道の専門家ではないだけに大怪我は無理だが、かすり傷程度なら彼女でも容易に処置が出来た。

これも吸血鬼との戦闘を常に想定している魔術師達の宿命だろう。

しかし、保護すべき対象を抹殺されたことに屈辱を覚え、そして不甲斐無さを呪う。

これは雨峰という家を狙った恨みによる犯行だ……まさか翁だけでなく、その息子たちまで狙われるとは思いもしなかった。

そして、相手の行動の早さ、あの吸血鬼らしき魔物は一体何なのだろう?

ゆっくりと立ち上がった綾音はそのとき、恐ろしいものがすぐそこに居たことに……気付いた。

後ろを振り返ることが出来ない、まるでそれが彼女の死を意味しているかのように。

体が硬直して、動けなくなる。

「――見事な腕だ。人にしては、そして女にしては多少はやる」

『死』はそう告げた、皮肉そうな中年の男の声で。

「……何ですか、貴方は?」

後ろを向いたまま、相手に告げる綾音の顔には生気は無かった。

「今は気配を隠しているわけではない、貴様なら答えを聞かずとも察しはついていよう?」

「本物の吸血鬼……ですか?」

「……だが、例え私が何であったとしても今は争う立場にはなく、この件の犯人も私では……」

相手の言葉に不意に答えを知らされた気がした。

そうか、コイツが犯人なのか、と……思った。

「この状況で何を今更……許しません」

意を決して自分が恐怖する相手の方向に振り向く綾音。

その視線の先には長身で筋骨隆々でスキンヘッドの男。

彼女の行動を予期していたのか、相手は苦々しそうに舌打ちをする。

「ちっ、貴様は今大きな勘違いをしているぞ。この事件の主犯は他に……」

「貴方が殺したのね、あの人を!」

獣に貪り食われた夏彦にわずかに目をやりながら、戦闘体制を整える。

「浅慮……が、私の言葉など聞く気は無いか。ならば、面倒だ。このままその軽い頭を冷やしてくれよう……バン、ウン、タクラ、キリク、アク!」

梵語によって紡がれた呪文と同時に左手によって描かれる五芒星の印。

その瞬間、空間を覆いつくすほどに広がるのは相手の結界、それは古の大魔術だった。

「『広域結界』!? そんな、貴方……シュニッツェラー卿?」

相手は苦笑しながらそれを否定した。

「いや、あれほどの大結界には及ばぬよ。だが、見えるぞ……貴様の鼓動が、その艶かしい柔肌が、毛髪の一つ一つまで……最早貴様は我が手の内にあるも同然」

いやらしさは感じられない、相手の心を乱そうとする言葉だ。

ただ、相手の言葉がまったく真実であることもわかった。

「『ボイオテイアの大山猫』……斎木義時……卿?」

その震える言葉に相手は極上の笑みを浮かべた。

魔導師、斎木義時は吸血鬼の一人……それが頭の中に浮かぶ。

「ご名答、勘のよい女だ。しかし、筋肉も、内臓も、何もかも見通す結界内では流石にその容姿も意味を成さんことが悔やまれるな……こうなってしまうと、やはり身分の貴賎を問わず人は醜い。ただ、貴様の場合は処女であることが救いか……処女の血は甘いからな」

羞恥に顔が赤く染まる。

900の時を生きる古の怪物はその名の通り、見通せぬものなどない一点における究極の眼を持つといわれた。

それが内臓から、何から望むものを透視する大山猫の瞳。

魔眼だとばかり思っていた、だが今夜その勘違いは晴らされる。

その正体は古い貴族が作り出した忌まわしき大結界であったのだ。

それは個人を狙うのではなく、一定空間自体に設定される魔術で人が平時展開しうる程度の結界では防ぐことが出来ない特殊なもの。

それから逃れようとすれば、別な方法を用いる必要があるだろう。

この魔術の結果として、術者にはこの空間内にいる生物・鉱物、その他の物質を全て透視・把握することができる。

神話の神がその万能にして巨大な目玉で大地に蠢く人間達を監視しているようなものだろうか。

つまり綾音は全裸で彼の前に立っているに等しく、それはとても若い心で耐えられる屈辱ではなかった。

なぜなら、彼の結界は彼の体内も同じわけで……全て、その全てが彼に見通されるのだから。

「少々動悸が上がったか」

「……この、変態」

「ふっ、低俗なことを言う。それより貴様、シュリンゲルとは多少とも縁があるそうだな? 象牙海岸では奴を殺し損ねたが、貴様はどうだろうな? 勘違いのついでだ、今宵はいっそのことその首に牙を突き立ててくれようか……」

「黙りなさい!」

それは震えながらの叫び声、絶叫といっても良いかもしれない。

憎むべき吸血鬼に震える体が抵抗を許さない、それは彼女にとっての屈辱。

彼の瞳、否その結界に囚われている不快感はすさまじい恥辱。

自身を叱咤するための叫び声は金縛りを一瞬で振り払った!

「世界潤す水を司りし者、我ここに白川の名において命ず、汝古き盟約の友よ! 今このとき、盟約に定めし務めを果たせ、清浄にして神聖なるその身を我が剣と成せ――」

貴族はわずかな詠唱さえ許さずに攻撃できたにも拘らずその光景に見とれた。

眼前で黒いスカートが、長く美しい黒髪が風に靡く。

眼前の敵へ放つための一撃を紡ぎ上げようとする綾音の手に集まるのは吸血鬼が畏れる『水』!

古の精霊に支配された元素は大気から、あるいは彼女自身の魔力から、水を集めてその右手に凝集させる。

「大気漂う水よ、我が魔力が汝に力を与え、我が幻想が形を与え、我が言葉が意味を与える。汝、我が剣となりて昏き混沌を裂け――」

それは見ほれるほどに美しき青の剣――氷とも、水とも知れぬその刀身が一瞬で闇の眷族を討つ刃と化す。

詠唱はわずか十数秒。

しかし、この年齢にあって当代一流といえる術の完成速度でありながら、貴族が如何にハンデを与えているかも理解していた。

彼が本気であるならばすでに攻撃を受けている。

しかし、手加減されたからといってこちらが手加減する彼女ではなかった。

瞬時に指で印を結んでいった。

『――刀印、臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前!』

編まれていく『咒』――吸血鬼殺しにはいくつかの手順を踏んだ方法が用いられる、これはその一つであり吸血鬼であってもその攻撃を受け続けていてはその命さえ失いかねない特殊な魔術。

咒の完成を待って剣が一瞬青白い光を放った。

しかし、敵はそれに感心こそすれ畏れなどしない。

「はあぁ!」

相手の正面まで一気に駆けた綾音、一瞬でその体が反転した。

剣を構えて相手を狙った一撃はすでに距離を感覚で掴んでいたために見事にその太い首に向けて放たれている。

吸血鬼はそれでも余裕だというのだろうか、笑みさえ浮かべている。

それはいずれに根拠をおく自信か、鋼鉄さえ切り裂く一撃を前にして貴族はただその腕前を見届けようとしていた。

最初の衝撃は彼の体を守る障壁との間で起きた。

まるで何も無い空中で他を弾き出す透明な斥力の障壁が剣の侵入を防ぐために凄まじいまでの抵抗を見せる――仮にマシンガンであったとしても、これほどの強度を誇る障壁を抜けることなど出来なかったであろう。

その対物理障壁は最早鉄壁の楯とさえいえる代物だった。

如何に鍛えた魔術師とてこれほどの強度の障壁を構築することなど容易ではない……それこそが膨大な魔力を誇る吸血鬼貴族達に与えられた夜の特権の一つといえる。

しかし、それは鉄壁であっても不敗ではなく、また無敵でもない……全力で放たれた彼女の剣はたったの一撃でその理の壁を打ち抜いた。

貴族の口からはその初手に全力を込めた少女の勝負勘に対する感嘆の声が漏れた、手を抜いているうちに彼を滅ぼしてしまおうというその攻撃に彼は純粋に感心しているのだ。

続けて起こるのは第二の衝撃、それこそは魔術という物理法則外の理を防ぐための障壁――物理法則に根拠を置かない呪いさえ打ち払う魔術殺しの空間はこれほどの魔導師のものになれば本来必殺の大魔術さえ軽微なダメージでやり過ごすかもしれない。

仮に単純な物理攻撃であれば、この結界は反応しなかっただろうが魔術のこもらない攻撃では彼らを滅ぼせないことは歴史が実証している。

例え抜いたとしてもこの結界は厄介というほかあるまい――満足なダメージが伝わらないかもしれないのだから。

それは綾音の一撃とて例外ではなかろう、しかし形を崩しかけた剣に渾身の魔力を叩き込み弾き出そうとする貴族の障壁を剣は確かに打ち抜いた。

打ち抜かれた障壁が再生するまでの時間は確かに貴族への攻撃は有効となる。

その代償が彼女の魔力の大部分であっても構わない、攻撃が通ることもなくジリ貧に追い詰められての無様な死に比べて、たった一撃で勝負を決めようというその心意気は実に彼女らしかった。

そして、首に向けて放たれた一撃は無防備な相手の首を確かに切り飛ばしたはずだった。

だが……

「嘘……どうして、そんな」

剣は確かに相手の首に当たった、だがその首を切り飛ばせない。

いや、薄皮一枚とて切り裂けていないのだった。

「やれやれ、何か当たったか?」

哄笑する貴族は自分の首を狙って放たれた剣を見てもまるで動じていない。

剣をつかまれるという危惧が一瞬で剣をひかせ、再び構えを取らせた。

「くっ!」

きっと対物理障壁突破の際に腕にかかった負荷でかなり握力が弱くなっていた、それが剣のスピードを完全に殺してしまっていたのだろう。

再び無防備な相手に繰り出した全力の一撃。

しかし、それでも相手の体にダメージなど通らない。

「所詮人間の身で起こす奇蹟など児戯に等しい……まったく無意味だな」

何度も繰り返された斬撃、その全てが相手の体に触れていても切ることが出来ない。

しかし、その攻撃を中断して後退した綾音の頭の中にこの不可思議な現象を説明する技法が思い浮かんだ。

「まさか……くっ!」

ナイフを相手の胸、その中の一点に向けて投擲した。

吸血鬼の黒いコートを貫いた瞬間に小さな爆発が起こり、投擲したナイフが砕けて吹き飛んだ。

「は、今頃になって気がつくとは……愚物、貴様は救いがたい」

ようやく吸血鬼は相手に対して構えを取る、そのコートの心臓部分辺りが小さくぽっかりと穴になっていて、その周囲がわずかにこげていた。

辟兵術と呼ばれる古典魔術が存在する。

現存する魔術師に使い手は少ないが、古の時代においては様々に応用されたもので、今の場合は北斗と日月の符を身に着けることで如何な剣を持ってもその身を貫けないようにしていたのだ。

そして、綾音のナイフがそれを貫いたことで最早その加護は消えうせた……相手にとっての戦いは今始まったところ、ということだ。

綾音にとってここまで愚弄されたことに対しての怒りは凄まじい、挙句の果てにこんな簡単なトリックに騙されていた自分に対する怒りが叫ばせる。

「舐めるな!」

咆哮一閃、左の肩から右の脇へ抜けるはずの一撃。

手刀でそれを打ち払おうとした貴族の前で綾音の持つ剣は形を失い、膨大な水となって彼を包み込んだ。

それは粘性を持ったスライムの如く、貴族の体を捉えた水が確かに彼の体を完全にその水に封じた。

流水渡れぬ真祖、その言い伝えは果たしてどれほど真実か?

そんなことはすでに考えの範疇の外、倒すべき敵を前に取り出したナイフをただ突き立てようとした。

守りの呪符を打ち砕き、吸血鬼を封じる神秘の水牢獄を展開している今ならこれで滅ぼせるはずだ。

相手を封じた水の中でさえ、彼女の刃には失速は無い……それこそが水を支配するとまで言わしめる魔術師が生んだ天才の実力か。

狙うは心臓、唯一吸血鬼の急所とされた場所。

抵抗さえしない相手に彼女は勝利を確信した。

○○○○○

その瞬間、吸血鬼の忌まわしき結界が消滅する。

勝利を疑わなかった綾音。

しかし、ナイフを向けた彼女の顔の先にあるのは包帯を巻いた吸血鬼の右腕。

本来は完全に相手を捕縛するはずの彼女の魔力が編んだ水の檻がその貴族の右腕が放つ膨大な魔力に抗し切れなかったのだ……全ては呪符に惑わされて無駄に魔力を散逸させてしまったためだった。

そして何より問題がある……水の檻から覗くその右腕、不思議なことにその右腕を示されただけで体がいうことを聞かずに完全に麻痺してしまったのだ。

思わず、いつぞやの夜に彼女が殺しあったいい加減な魔術師の魔眼が脳裏をよぎった。

だが、これはそれとは原理が違う、魔眼ではなく魔手と言うべき代物だ。

その魔手によって彼女の周りの物理障壁も魔術障壁も全てが一瞬で弾かれていた。

銃弾ならその軌道も捻じ曲げる障壁はそう脆いものではないのだが、あまりにも強大で不可思議な右腕をかざされただけで全てが消し飛んでいたのだ。

それはいくら何でも普通なれば異常、されどこれほどの魔導師を相手にすれば必然。

心臓をあと数センチ先に控えた手からはナイフが零れ落ちた、それは彼女が敗北を認めた証。

やられる、そう思った……吸血鬼との殺し合いで秒のロスなど死と同義だ。

その観念の感情が水の檻を解除させた、大地に落ちるわずかな水とエーテルとなって大気に消えていく水。

わずかに体が濡れた貴族は確かに魔力の総量から見れば多少は疲弊していたのかもしれない、しかし綾音にとってその疲弊はまったく役に立っていなかったといっても問題ないだろう。

膨大な魔力、彼自身も水を支配する家の流れをくむ存在、それが苦手とする水に対しても貴族をこれほど強大にしているのか……綾音は眼を瞑った。

しかし、吸血鬼は嘲笑しながらも、彼女の死を望まなかった。

「なに、そう急く事もあるまい。貴様如きを始末するのにこれほど美しき夜など選ばん。死合う前に言いかけたが……私は協会の監察官としてこの街に来た。貴様らに害をなそうというわけではない、一応そういうルールだからな。それでもわざわざ死合ったのは、貴様がやる気だったので遊んでやっただけだ」

男の言葉に驚愕する、吸血鬼が協会の監察官を?

吸血鬼が監督官をするなど、そんなことは彼女さえ知らない、そんな非常識がまかり通るなどあって良いはずは無い。

それなのに、相手の顔は真実しか語っていないように見えた。

「ほう、貴様……よく視れば亡き娘によく似ている。体の細かな造りもまた、よく似て……もっとも実力はアレよりも相当に上だがな」

その言葉にまた彼女の頬が朱に染まる。

「ぶ、無礼な! 貴様、どこまで私を侮辱するつもりだ!」

毅然とした言葉にも相手は嘲笑だけで答えた、彼女に反撃など許されていない。

体が言うことを聞かないのだ。

「侮辱などしたつもりも無いのだがな、白川綾音」

「!? なぜ、私の名を?」

「監察官といったはずだが。この地をいずれ担当するシュリンゲルのために情報を集めてやっていた私だ、知っていて何がおかしい?」

正論だ、監察官は調停者の力不足や地方の協会との癒着などを調査する存在、さまざまな情報を調べ上げていることに何の疑問があろうか。

「そして、白川……私はシュリンゲルを助けるために調査対象の雨峰の家の者の話を聞こうとしていたところ、というわけだ」

「嘘よ、でまかせだわ!」

「やれやれ、貴様は吸血鬼とあれば容赦なく倒そうとするようだな、おまけに信用もしない。その姿勢は同郷の術師としては率直に評価しよう……だが、名目上対立組織の構成員が監察官に手を出すとどうなるかわからぬわけでもあるまい。いいか、私は貴様がいなければ、あの怪奇な生物を捕らえようとさえ思っていたのだ、その浅慮を反省するのだな」

協会の派遣魔術師の行動を調査する彼らもまた協会の権威を示す存在、それに手を出すことは抗争の種にもなろう。

しかし綾音にも言い分はある、長く抗争を続けた吸血鬼をメンバーに加えるなどという非常識を認めないのは道理、それこそ勘違いして当然のことである。

それもあってか、皮肉を込めて義時に告げた綾音の視線は鋭い。

「……どうして、貴方のような吸血鬼が人間の手助けなど? 人の生き血を啜る獣が慈善事業のつもりですか、『ご先祖様』」

綾音の言葉に義時は嘲笑で答えた。

ゆっくりと彼の右手が綾音の顔に触れた、それを避けることも出来ない。

その瞬間に、まるで体から力が奪われていくような感覚に囚われた。

「うっ、これは……まさか、マン・ド・グロワール? ……ぁあ……くっ、離しなさい! 汚らわしい!」

暴れることも出来ず、口だけで抵抗する意思を伝えた。

不可視の糸に囚われた人形のように動かぬ体ではそれが精一杯か。

「祖先と呼ぶわりに口の減らぬ小娘だ。だが勘違いすることでもない、シュリンゲルの番号を知らぬゆえ……少々電話を借りるだけのことだ。気丈な貴様にいつまでも攻撃など許していては、反撃で殺してしまうやも知れぬ……私も、あの女との決戦を望みはしないのだ」

そう言うと、すでに透視していたポケットの中から携帯電話を取り出した。

薄れていく意識の中、服を通して肌に触れた義時の無骨な体の感触が不快だった。

そして、体のサイズから見ればとても小さい電話を片手に錬金術師の番号を押そうとした。

しかし、その前に思い出したように綾音に視線を戻して告げた。

「……言い忘れていた、白川。貴様の活躍のお陰か、女は生存しているようだぞ。そして、こちらの処理は我々がしておく……貴様は眠っても構わん」

「なっ……にを?」

右手が彼女の頭を通り抜けたような気がした、まるで幽霊が体を抜けるように……その瞬間、綾音の意識が完全に吹き飛んだ。
 



[1511] 第十七話 『夜明け』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 22:29




少し前、市立病院では雨峰秋継の腕の接合手術が完了していた。

「なんとか、手術は成功しました。傷口をうまく繋ぐことが出来たのは切断面が綺麗だったこととよく冷やしておいて貰えたからです」

中年の医師がそれを告げたのは金髪の錬金術師、患者の親戚で付添い人ということになっていた。

そう、医師に信じ込ませていたのだ。

「面会は可能でしょうか?」

「今はまだ難しいですね、そもそも麻酔が残っていますから」

「なるほど。では先ほどの話ですが切断面が綺麗だったというのは? 私の目撃したところでは物の下敷きになったところを引き抜こうとしてああなったと思うのですが」

適当な作り話ではあったが正直に言えるわけも無い。

医師はそれを聴いて、ちょっと首をかしげた。

「そうですか? それは少しおかしい……患者の腕が落ちた現場を見たんですか?」

「いいえ、現場を目撃したわけではなく、大量の出血が見えたのがそういう状況としか思えませんので」

「うーん、それは難しいですね。私の見る限り鋭い刃物かガラスで切断したとしか思えないんですが、近くにそういったものは?」

考え込んだ表情のアーデルハイトに医師は問いかけようとした。




○○○○○




夜の病院――そうは言っても廃墟ではなく、患者が現に入院している病院の一室にその夜、場違いなほどに美しい訪問者が現れた。

入院している秋継はほとんど音もなく侵入したアーデルハイトの存在に、彼女が自分のすぐ脇に立つまで気がつかなかった。

部屋の中には患者は彼一人、そしてそれを訪れる人はいないはずであった。

だが、突然現れた錬金術師にわずかに驚きの表情を見せながら、何とか体を起こして彼女の方を向いた秋継。

百年を越える間老いることさえなかった美貌の錬金術師は世間話をするかのように、見回りの看護婦などが来ないように細工しておいたことを告げた。

「……で、一体何なんだ? いや、その前に腕のことは礼を言わせてもらうぜ」

「構いませんよ。それより、先ほどご実家から電話がありましたよ……お気の毒ですが、お兄様はお亡くなりになられたとか……妹さんは無事だそうで、不幸中の幸いでしょうか」

何かを予感していたのか、秋継はそれを聞いてもさしたる動揺は見せなかった。

「……そうか……」

相手のあまりにもあっさりとした態度はこの場では少々おかしかったかもしれない。

しかし、自分が襲われて兄にも何かあったのではないかというのは推理の飛躍というほどでもない。

秋継の周りには二人の一流の魔術師がいたが、夏彦にはそれがなかった……考えてみれば、彼の死は当たり前だったのかもしれない。

「……」

彼を見つめる視線はどこか厳しかった。

「あんたは俺が悲しくなさそうだって思うか? これで俺が後継者になれるって喜んでいるって思うか?」

何も言わずに見つめているばかりだった相手の態度を非難と思ったのか、秋継はやや興奮気味に言葉を紡いだ。

金砂の髪が揺れ、それを否定する。

「いいえ、まったく悲しんでいないとは思いませんよ……ただ、喜んでいるというのは本当でしょう?」

聞き間違いかと思った。

彼女は人格者ではなかったのか、ただそう思っていた彼にはその言葉を彼女の本音と信じることなど出来なかった。

「へ……なんだって?」

しかし、錬金術師はその言葉を聞いて、せせら笑う。

「あら、それでしたらもう一度申し上げます。私はむしろ、競争相手が死んで喜ばない魔術師が存在することが信じられないわけです。お兄様の死が心の底からうれしいでしょう?」

「は、何言ってるんだ? 兄貴が死んで悲しまない奴なんているか?」

「魔術師とは本来そういう非人間的なものでしょう。私なら、素直に喜びますけどね。対して貴方が喜ばないとは、冗談にしては笑えません」

冷徹とも思える言葉に秋継は驚愕する、アーデルハイトは冷たいサファイアのような瞳で眼鏡を通して彼の心臓を射抜く。

反論など許さない、そういう殺意めいた確かな意思が伺えた。

その存在感に圧迫されて、窒息しそうな魚のように言葉に詰まりながらも何とか自分の口から言葉を搾り出そうとした秋継。

「な、何だよ……いくらあんたが偉い人だっていっても、言って良いこと、と悪いことが……」

「恥の上塗りをする前に自決するか、あるいは全て白状すべき……では?」

秋継の額にはわずかに汗がにじみ始めた。

緊張で鼓動が高まる。

「証拠はあるのか、ほら、証拠は?」

緊張がそうさせるのか、声高にそう叫んだ。

対する錬金術師は実に静かに、そして冷静に言葉を続けた。

「『証拠』ですか――私は何故喜ばないのかを聞いていただけですけど、一体何を証明するための証拠が必要になるのでしょうか?」

自らの失言を上げられて、頭に血が上る。

「は、話の流れでわかるんだよ! 俺が兄貴や爺を殺ったって思ってるんだろ?」

「貴方は本当に勘の鋭い方ですね。確かに、正直に申し上げましてその通りです。そして、その論拠としてはその腕でしょうか?」

自分の包帯を巻かれた腕を見つめながら、秋継はそれが何だといわんばかりに反論しようとした。

「経験、医学的見地からして突然襲われた場合、彼らの運動能力を考慮したとしても、あれほどまで綺麗に腕を刎ねることは出来ません」

「は、何を言ってるんだ。実際にそうなってるから、俺は腕を……」

「ご存じないようなので申し上げますと、人の体は意外に丈夫です。速い、油断していた、などの条件が重なったと言ってもアレでは動いていなかったのと同じです。彼らにその場できり飛ばさせましたね?」

「……なに、が?」

「それは作為的なもの……救いようの無い愚か者ですね、貴方」

その冷徹な事実に秋継は沈黙せざるを得なかった。

「あまりに過剰な演技が貴方の罪を浮き立たせました。夏彦さんが死んだ場合に容疑者となるのは貴方だけですが……疑いを逸らすだけなら、もう少し考えるべきでしたね」

さっと取り出されたのは鋭い刃先のメス、秋継の体が恐怖に竦む。

「ちょ、ちょっと待てよ! 俺がそんなことやった物的証拠もなく、状況証拠だけ……その上、そんなモンで脅す気か!?」

艶然と微笑む相手はその言葉を受けてもメスを収める様子さえない。

「ええ、おせっかいな調査官が調べてくれましたから。あの吸血鬼、例の行方不明事件の被害者ですね。そのレポートによると、被害者が消える直前貴方の姿を目撃した人がいるようですよ……それも三件で」

「偶然だ、偶然!」

「そうかもしれません、また貴方があれほど不可思議な吸血鬼を作り上げる魔術を極めているとも思えまない」

確かに、あの吸血鬼は秋継のような人間にはとても作り出すことなど出来ないだろう。

しかし、状況は彼が怪しいと証明している。

「ですが、無関係でもないでしょう? 彼らが貴方の利害関係者、それも二人を殺し、その被害者の近くで貴方が目撃されている……申し訳ありませんが、状況証拠だけで調査する義務が生じますね」

「俺を調査だと? それは……一体何、をするつも……」

錬金術師はため息をつきながら、平然と言った。

「この場を借りてカミングアウトしますが、私はかなりの拷問好きでして。それで……正直に申し上げてくださった方が、お互いのためだと思いませんか?」

何を言っているんだ、この女は?

それでも、彼女は長々と話し続ける。

「は? いや、調査の話じゃないのか?」

「調査? ああ、拷問でも、自白剤でも、洗脳でも、もっと悲惨な方法でも構いませんよ……あるいは経験値は少ないですが、頭の生体解剖でもしてみますか? 多分、痛いでしょうけど」

「え……いや、何を言ってるんだ、あんた? 話がかみ合ってない」

「あら大丈夫ですよ、ご安心ください」

話が通じたらしい。

それだけで安堵の声が漏れた。

「ほっ。いや、わかってたよ。アンタみたいなのがそんな無茶する訳ないって……」

だが、それは勘違いだと知らされる。

「……男性を解剖するのはあまり趣味ではありませんが……朝までベッドの上でご一緒に楽しみましょうね。きっと良い思い出になりますよ、私のアレは一種の芸術と自負していますから」

「お、おい……あんた、さっきから何を言って……」

「私、張り切っちゃいますから……昇天などしないように頑張ってくださいね」

まともな状況で聴いた言葉なら、体は震えないだろう。

震えたとしたらそれは武者震いか喜びか。

だが、秋継は血も凍りそうな恐怖の真っ只中だった……相手が本気かどうかは目を見れば多少とも予想できる。

そして、錬金術師は冗談など通じそうな雰囲気ではないのだ。

「私が快感に打ち震え、その至高の頂に上り詰めた後でも気絶とかは禁止ですよ。尤もこの腕が如何に錆付いても、貴方が正気でいられる間に殺すようなへまはしませんから、ご安心ください」

彼女の瞳の狂気も、その言葉の真実も、全ては現実……それだけで秋継の心臓はとまるのではないかと思えるほどの冷たい空間。

「なに、そう心配しなくて大丈夫です。永久に苦しませることはあっても、殺しはしませんから。そう、命は大事にしないといけませんからね……少なくとも寿命以上には生かしますから、大丈夫ですよ」

「おい、そんなことしてどうなるか……わかってるんだろう? そもそもアンタは協会の……」

「わかっています、ええそれが大事なポイントですから。そう……何千回も『殺して』と叫ばせてそれを無視する快感、ご存じなのですか?」

「俺の話を聞いてるんだろ! なんで答えないんだ! 話に合わせた回答をしろ!」

「気絶はさせません、そうならない魔術はいくつも知っていますから大丈夫。心臓が止まったら? ご安心を、すぐに蘇生します。出血多量? 大丈夫です、輸血して続けますから……他にご心配の点は?」

「許さないぞ、絶対にそんなことは……」

「――ああ、本当に楽しみ。絶対にすぐには逝かせないわよ。そう、徹底的に終わらせてあげるからね、ボウヤ。Oh! Ich komme aus dem Lachen nicht heraus. Gott segne dich!」

「俺の話を聞け!」

「Was?――失礼。興奮のあまり、無作法な母の口調が少し移りました。しかし……想像するだけで回路がショートしそう、キャハハハ」

その一瞬の狂気と彼女から漏れた高笑いに矮小な陰謀家は耐えられなかった。

「止めろ、その笑いは止めろ! いや、絶対にそんなこと許さない、上が許すと思ってるのか! 訴えてやるからな、絶対に」

アーデルハイトは冷たく笑い、彼を侮蔑のまなざしで射貫いていた。

「上? ああ、天国の母上を愛しておられますか?」

ナースコールを押し続けても、まったく反応していない。

しかも、目の前の錬金術師はとてもまともではない上に、刃物を手にしている。

いや、ナースコールだけではなかった……使用厳禁であるとはいえ、携帯電話さえかからない。

錬金術師に図られた……直感的に気がついても、彼女の狂気に口を挟むことも出来ないし、手を出してどうにかできるとも思えない。

「私はこの手で始末した今でもとても愛していますよ、私はきっと深すぎる愛ゆえに彼女を手にかけてしまったのでしょうね。貴方は、母と同じコースで宜しいですか? OKですか、では……手術開始」

笑顔のまま、その手に握られたメスで容赦なく男に突き立てた。。

その軌道は太腿にしっかり食い込んで、血が溢れた。

まさか、ここまで狂気を感じさせても彼女がそんな事をとするわけがないと踏んでいた男の口からは恐怖と疑念が入り混じった悲鳴が漏れた。

体を回転させて、ベッドの下に落ちてわめき散らした。

「何を大きな声で騒いでいらっしゃるのやら……ここは病院ですよ。お静かに、ルールは守りましょうね」

「うっ、煩い! 狂ってる、狂ってるぞ、お前!」

「本当に失礼な方ですね、私の精神は常に明瞭ですよ。狂った人間にこんな芸術的な突き刺し方が出来るとお思いなのですか?」

「止めろ! もう止めてくれ!」

「私は狂っているというよりは、むしろ、錬金術師としては普通でしょう。何しろ、私たちは貴方たちとは違って、真に永遠を求める人間……研究の対象であるはずの人を、愛の対象と見る術者などいませんからね」

そして、思い出したように付け加えた。 

「あ、いえ私は特別人を愛している方でした。ですから貴方も私の愛し方で、たっぷり愛してあげますよ。あくまで、私の愛し方でね」

ポケットにでも忍ばせていたのか、再び銀の光が煌めくと秋継の体からは鮮血がほとばしった。

搾り出すような悲鳴が響き渡るが、病院関係者の誰もこの場所を訪れることはない。

「あらあら、高速飛翔させた以外にはルーンやオガムを使ったわけでもないのですけど、障壁とか展開しないのですか? 少しは頑張って抵抗してくれないと、貴方を愛し切れませんよ」

嘲笑する錬金術師はポケットの中のメスをすっかり使い果たした。

投擲されるメスをかわそうと動き回ったために床は血だらけ。

ぐったりしている秋継を見下ろしながら、彼女は床に零れた血を指で掬い取って舐めた。

「あぁ……おいしい。人殺しの血はいつも美味、それは誰が作ったルールなのでしょうね……はぁ、とても興奮します、人を支配し、隷属させる喜びに近いですから」

淫靡な光景だった。

自分の唇に当てた手をかわいらしい舌が絡みつくように舐めまわし、こぼれた男の血を舐め取る。

眼鏡の奥の青い瞳はそれだけで霞がかり、彼女だけの幻想の果てに行ってしまったようだ。

「ところで、吸血行為の意味をご存知ですか? 相手の血を飲むことは相手の魂を支配するということ……古典呪術の一系統です。吸血鬼は好きなのですよ……貴方のような、人殺しの血がね。今正直に申し出てくだされば、殺すのも、拷問するのも止めますが如何致しましょうか?」

「あがっ……くぉ、あ……痛ぇ……頼む、助けてくれ。もう止めて……」

倒れてもがく男の苦悶の声に錬金術師は赤く染まった口元を緩めた。

「一分以内で全て答えなさい……クリア出来れば、助けて差し上げますよ。有益でしたら、傷も手当てしましょう」

「あ、ああ、言う、言う……」

天使のような笑顔に変わった錬金術師は男の告白をじっくりと聞いてやったのだった。




○○○○○




「……ここは?」

目が覚めたとき、朝日が邪魔だった。

眩しくて仕方が無い、綾音は手で光を遮りながら体を起こした。

「おはようございます」

アーデルハイトの顔に気がつくと、そこが教会だと気がついた。

服はパジャマに変わっている。

「……貴女が私の着替えを?」

「ええ、サイズは義時さんに聞きましたから」

綾音の視線が鋭くなり、顔は真っ赤になった。

「シュリンゲル卿……まさかあの変態吸血貴族は私の素肌を?」

「いいえ、義時さんの結界なら人間の体を服の上からでも透視出来ますから目算でしょうね。私も昨日知って驚愕しましたよ、あの結界にも、綾音さんのサイズにも……」

「! そうです、良く考えれば貴女は知っていらしたのね? 彼が吸血鬼であるにもかかわらず、受け入れたのですね!」

「そう怒らないでください。私が協会の監察官に任命したわけではありませんし……実は義時さんも昨日の事件に関わりがあったようなので、事情を聞こうとしたのですが……まさかアレがマン・ド・グロワールだとは思いませんでしたね」

ブラウスのボタンを外して下着だけの素肌を晒したアーデルハイトの腹部には何かで抉った様な不可解な、そして大きな傷があるいは胸にまで達していた。

まるで内側から盛り上がったような傷、外側から抉られた傷……いかな凶器を持って行った攻撃かの判断さえつかない

傷口自体がとても尋常のものではなく、苦痛は想像を絶すると思われる。

「結論を申しますと、ご覧のように半ば返り討ち……手ひどくやられちゃいましたね。教訓としては、同じ相手との二度目の戦いは出来れば避けること、でしょうか」

「その傷は……やはり痛むのですか?」

「実際、神経を麻痺させていなければすぐにでも失神するほど痛いでしょう……そうですね、内臓をいくつか破損して、骨も二本ほどを体から抜き取られて、五本を砕かれましたか……脾臓丸ごとと胃の一部は抜き取られてしまいました。盲腸なら問題はなかったのですが、融通の聞かない人ですよ、本当に」

まったく苦痛を感じていないような表情に疑問は感じるところだが、彼女の行ったダメージは実際のものだろう。

それに、言い忘れているところがあった。

「……左腕も、ですか?」

ぶら下がっている左腕を見つめて、錬金術師は苦笑した。

「ああ、これは折られただけです。直に繋がりますよ。内臓は兎も角、骨はステンレスにでも替えますか……月曜までに治ると良いのですけど。まぁ、無理でしたら体を丸ごと変えるしかないでしょうね……正直、ホムンクルスを作るのは時間がかかるのですけど。ああ、本当に時間が足りませんね」

まるで他人事のように言う錬金術師に呆れるしかなかった。

敵に対しての殺意など微塵も感じないし、この傷に対する恨み節も聞こえない。

ただ淡々と事実と状況を説明しただけ、本当に人間的でないと感じさせられる瞬間だった。

「……彼は、あの男は?」

「殺しきれませんでした、あの厄介なことこの上ない腕だけは潰しましたけど……流石に、夜の吸血鬼はしぶとい。朝なら絶対に命を奪えた相手でも、夜は私の命を脅かす……体が直らないというのはそれだけで不公平、私は臓器一式を換えるまで食事も出来ないのですからね。ところで、先ほどから申しておりますように私は内臓が痛んでいて飲めませんが、綾音さんはコーヒーでもどうです? 紅茶もありますが?」




○○○○○




目が覚めたとき、すでに11時過ぎだった。

昨夜の大宴会、浅海と二人して家まで帰って部屋の中にぶっ倒れて……

「あっ、浅海! お前……」

居間の床の上に大の字になって寝ていた俺は、立ち上がったときソファーの上でへそを出したまま寝ていた浅海に気がついた。

顔はそれだけで真っ赤だ、思わず後ろを向くしかなかった。

どういう寝方をすればこうなるのか、熱くなって服を脱いだのかもしれない……上も下も黒い下着だけで、ジーパンを脱いだ上に足を開いていて、口からは涎が……とても見た目通りの寝方とはいえない、性格通りの寝方ではあるが。

艶めかしい白い肌に精緻な装飾の黒が映え、ウェストはまるで蜂のように見事に括れ、スレンダーな肢体はモデルのよう……思わず見とれてしまったが、今目を覚まされると首から上がなくなる!

飲んで暴れる人ではなくてよかったが、今目覚められるとかなりヤバイ。

一方の浅海は、というとあまりにも気持ちよさそうで俺のことなど気にはならなかったのかもしれない。

辺りを見回しても掛け布団も見当たらないし……ああもう!

そうか……俺が部屋を出れば良いのか!

おお、そうだ……確かにそれが一番良いに決まってる、脱ぎ捨てられていた上着とジーパンを彼女の体の上に眼を瞑ったまま載せて、そのままその場を離脱する。

そっと足を忍ばせて部屋を出ようとした。

そのまま扉に手をかけて、ゆっくりと音を立てないように取っ手を回そうとしたとき、急に勢いよく扉が勝手に開いた。

「あ……綾音サ……ン、どうも……おはよう……ございます」

ものすごく機嫌の悪そうな美少女の顔がそこに……昨日の朝出て行った綾音が今帰還した。

「ずいぶん遅いお目覚めのようね……取り敢えず、おはようございます。でもどうかしまして? 貴方、なんだか……お酒みたいな臭いがしますよ」

まずい、いや……ここ二ヶ月ばかりの我が家の風紀委員長が気付いてはいけないことに早速気がついてしまった上に……部屋の中には危険物が……

「部屋の中で飲み散らかしたのですか? 友達付き合いも大切かもしれませんけど、節度を弁えなさい……私も昨日は色々なことがあって疲れているのですよ。本当は忘れ物を取りに来ただけなのだけど、日頃お世話になっている貴方へのお礼ということで掃除くらいは手伝ってあげます。さぁ、そこを退けなさい、こんな良い天気なら窓を開けて空気の入れ替えくらいしなければ……」

耳から聞こえた言葉は反対側の耳から抜けていく。

ああヤバイ、ヤバイぞ、これは……いや、この事態をどう言い訳するよ?

待て、落ち着け! 篠崎公明17歳、いや『享年』17歳。

深呼吸? そんな時間は無い。

落ち着け、落ち着け……うん、そうだ部屋に入れなければ良いんだ。

なんだ、簡単じゃないか、そう簡単だ、小学生にだってそれくらいはわかる……ただ目の前にいる機嫌が悪そうな綾音を説得する言い訳があるのなら、な。

「あ、ああ……あのな、綾音。今日、そんなに疲れてるのにお前の手を煩わせるのは非常に心苦しいんだ。俺の方こそ体を鍛える特訓や軽い武術の鍛錬をつけてもらっている上に食事も作ってもらってるわけで……むしろこっちがお礼がしたいくらいなんだ。だから、気持ちだけ受け取って今日は帰って寝た方がよくないか?」

その言葉を聴いて彼女は少し考えたようだったが、何か不審点でも思い浮かんだらしい。

「そういえば……玄関には浅海の靴も脱ぎ散らかしてありましたけど、彼女は?」

心臓を鷲掴みにされた、心臓が止まりそうな恐怖が迫る。

部屋の中にいる、そこまで言えば彼女の今の姿がばれてしまう……ふぅ、見られたら俺が自然に悪人になって……日を見るより明らかな地獄が展開されることだろう。

そこまで分かっていて正直に言う馬鹿はいない。

「あ、浅海はだなぁ……その、上で寝てるはずだ。何か用事があるなら伝えとくよ、ほら、アイツって朝弱いみたいだから」

不審そうな顔でその言葉を聞く綾音の視線がだんだん疑いの光を持ち始めていた。

「朝が弱いといっても今はもう11時半ですよ。正直、起きていなくてはおかしいでしょう。浅海も一緒に貴方の友達と飲み明かしたみたいですね、そうでしょう? いい? 事実だけを言いなさい! 彼女は何処にいるの?」

「いや、だから本当に寝てるんだって。昨日飲みすぎたから起こすなって言われたんだ」

必死である、素直に帰ってもらうためなら嘘など厭わない。

「浅海にはシュリンゲル卿から魔術師としての託を預かっているの、上で寝ていても関係ありません。今から上に行って見ますけど……貴方は私に嘘を言う不誠実な人間ではないと一応誓ってもらってもよろしいかしら? 嘘だったら、ちょっとお仕置きを受けても良いと」

「あ、あ、ええと……ひょっとしたら、もう起きて家のどこかをうろついてるのかも……しれないな」

冷や汗が流れる、額が次第に汗で覆われていく。

疑わしそうな表情の綾音は俺の顔をじっと見つめてどんどん勘が冴えてきたみたいだった。

「どうして彼女を匿おうとするのかは私にもまったくわかりませんが、そこをどきなさい。大方私の私物を破壊した浅海を隠しているのでしょう? 良い機会ですからあの女に説教を……」

疑惑は別な方向に向いたようだが扉の前で綾音の道をこれ以上塞ぐことなど出来そうになかった、握り拳を作った彼女は多分ボクサーより怖いと思う。

扉からいったん手が離れてしまうともう戻ることは出来ない、部屋に一歩踏み込まれた瞬間俺はそのまま押されるように下がった。

「あーさ……みぃ?」

純粋な少女の瞳孔が一気に開いた気がした、空気が完全に凍りついた。

浅海を呼ぼうとした声が最後には裏返っていたくらいにその光景に動揺していた綾音、ヤバイのは十分すぎるくらいにわかっていたのに、スパイじゃあるまいし窓を破って逃げ出す気もない俺はそのまま煉獄への道が開くのを凍りついたまま見つめていた。

まるで怪談話に出てくる人形の首が回るシーンのように、まるで映画に出てくるロボットのように、綾音の首がゆっくりとこちらを向いた。

無表情、俺が下着姿でぐーすか寝ている浅海と一緒の部屋にいたことに対して冗談にもならないくらい怒ってらっしゃる……?

「なるほど、こういう事情なら隠そうとする気持ちも『理解』出来なくもありません……」

「え? この状況だけで俺が困ってたのがわかるのか?」

静かな声で、ちょっと笑顔になりかけて彼女は言った。

その後、急に訪れた沈黙。

どうしたのか、彼女は笑顔のまま俺の顔を見つめて何も言わない。

口を動かそうにも誤解してくれているのならそのままの方が都合が良いと思いかけていたそのとき……

「そんなわけないでしょう! 不潔です! 本当に貴方たちは私がいないところでなんてはしたないことを……もう我慢できません、今日という今日は私が徹底的に教育して差し上げますわ!」

それは心臓が止まるかと思うほどの絶叫、鬼気迫るほどの迫力の咆哮!

ああ、やっぱりこうなるよな。

そう思っていてもこの瞬間はめちゃくちゃ怖かった。

「いや、ちょっと俺にも言い訳を」

「は? 浅海を隠そうとしておいて言い訳ですって!」

火に油を注いでしまった、激昂する彼女を止める術など最初からなかったのかもしれないがここまでタイミングの悪い俺は考え物かもしれない。

そのとき、その声につられて間抜けな欠伸が聞こえてきた。

「ふぁー、もう……煩いわね。誰……綾音、なの?」

俺と綾音の視線がそちらを捉える。

体を起こした浅海に掛けてやっていた上着が上半身からはらりと落ちた。

「あ、馬鹿!」

思わず口にしてしまっていた。

「へ?」

二日酔いにでもなったか、まだ頭の中がしっかりしていない様子の浅海は顔を下に向けてだんだん事情が掴めてきた様子で……急に小さな悲鳴を上げて服を着始めた。

そのとき、喉を掠めるのは少し冷たい北風さん。

「ほら、貴方はちゃんと目を閉じていなさい」

「了解!」

すぐに目の前が真っ暗になる、どちらがどれほど怒っているのだろうか?

それが気がかりでならない。

そのあと、床に正座させられた俺と浅海はおよそ二時間もの間、綾音サンのご高説を長々と聞かされることになった。

どうして一つ屋根の下でああいうことをしてはいけないのか、とかなんとか……論理的というよりはやや感情的な説教で苦しかった。

しかし、昨日何があったのか知らないがとても機嫌の悪そうな彼女の殺意漂う気迫に気おされて俺達は黙ってそれを聞くしかなかった。

そんな説教が佳境に差し掛かったとき、ふと思いついた言葉をつい口に出してしまった。

「なぁ、思ったんだけど……聞いて良いか?」

「? 何ですか!」

自分の話の途中に口を挟まれて面白くなさそうな綾音はちょっと乱暴な口調だった。

「いや、何て言うか……あれなんだけど、どうして綾音がそんなに怒るんだ? 浅海が怒るのならまだわかるんだけど……やっぱ、おかしくないか?」

それが思わぬ変化球だったのか、綾音は返事に詰まった様子で口を噤んでしまった。

俺の横に正座させられていた浅海も漸くこの場の主導権を手に入れる機会がやってきたとばかりにこれからの綾音の返事を見守る姿勢だ。

二人に見つめられた綾音は詰まったまま顔がちょっと赤くなってきた。

「そ、それは……ですね……あの、ほら、ええ……と……」

あたふたしながら、必死に言葉を探している様子。

「まったく、何なの? さっきから素直に説教を聞いてたけど、理由もなくあんなに長ったらしく説教してたワケ? ちょっと、アヤネ……勘弁しなさいよね」

相手に反撃するチャンスと思ったか、浅海が追加攻撃を仕掛けた。

「理由はあります! つまり、ですね……苛々していたのは本当ですし、あの……」

力強くそういったものの言葉が続かない。

「それにしても、顔真っ赤だけど貴女風邪でも引いた? それとも、まさか……」」

「違います! ごほん、つまり私が怒ったのはですね……男女があんなはしたない格好で同じ部屋に寝ているなんてあまりにも恥知らずだと思ったから説教したまでです。そもそも、魔術を志す者には自制心と種々の煩悩を忘れ去る精神力が求められるわけでしょう、いいですか? 私は魔術の学友として、二人が……その、修練の足りないうちから、健全な高校生として不適切な関係を持とうなどとしていたことに憤激したまでの話で……いいえ、嫉妬とかそういう感情ではなくて、これから私と切磋琢磨していこうという浅海のことを考えて説教したのです。いいですか、決して邪な感情などではなく好敵手を考えての諫言ですからね? よろしいわね?」

すごい早口で急にそうまくし立てた綾音は、言葉を吐き終えて肩で息をした。

詰まっていた言葉を全て吐き出したためだろうか、さっきまで真っ赤だった顔が少し落ち着いた気がする。

しかし、何だ……どうして俺と浅海がそんな仲だと疑われるのか?

一流の魔術師で、あれだけ我の強い浅海にそんな変な気を起こすと思われたことが心外だし、ちょっとありえないと思うけど。

当然、逆ならありそうだとは思うが。

「……なんだか、よくわからないけど……要するに私がこいつに襲われたと勘違いしたわけ?」

浅海、お前はどこをどう縦読みすればそういう勘違いができるんだ?

「二人が付き合っていて、いかがわしい真似をこんな場所でしていると思ったといったのよ! 悪いかしら?」

俺が、浅海が、ではなくて二人が両思いですと?

綾音、お前は俺達がそんな風に見えるのか?

「ちょっと待てって、俺達がおかしな状況だったのはここへ来たときにすぐにお前が気がついてた飲み過ぎが原因で……てか、浅海もなんで服を脱いでたんだよ?」

「は? 私が自分で脱いでたの? キミアキが、じゃなくて私自身だったの?」

公明って……いつから呼び捨てにするほどの仲になったよ?

いや、そういえば……昨日飲み明かしてたときに『篠崎君じゃ、堅いわね。今度からキミアキって呼ぶけど、いい?』って言ってたよな。

んで、俺が『別に良いけど』って言った……か。

しかし、それを聞いていた綾音はとても疑わしそうですごく怖かったりする。

「……ひょっとすると、てか、そうじゃないかと思ってたけど、名誉のために言わせてもらえれば、俺は本当に何もしてないからな。起きたときには浅海はああいう状態だったんだ」

「うーん、確かに……考えてみれば昨日はそんな事した気がしてきたわね」

「……つまり、貴女方は何もおかしなことはしていないのね?」

疑惑が晴れたと思った喜びからか、綾音の表情に光明が差してきた。

「ちょっと、アヤネ。貴女も冗談がきついと思わない? キミアキがおかしなことをすることがあっても私がおかしなことをする気になると思う?」

「思うから疑ったのですけど?」

「おいおい、お前ら……家に泊まりに来てるのはそっちなんだから少しは俺を信用しろよ。いや、確認のために聞いとくけど信用してるから、ここに泊まってるんだよな?」

それはそうだろう、そうでなければこっちが納得できない。

信用も出来ない相手のところに暇つぶしで泊まられては迷惑というものだろう。

「私は貴方がこのバカ女に乱暴狼藉を働かれないか保護しようとしてここにやって来ているの。当然でしょう、事の成り行きは兎も角貴方をこっちの世界に引き入れたきっかけは私と浅海が原因ですから。つまり、私には貴方のいく末を見守る義務があるのよ、納得戴けたかしら?」

なるほど、多少乱暴な気もするが自分の責任を果たそうというのなら確かに立派な心がけだよな、そういうつもりなら俺も嫌がるわけにも行くまい。

「ああ、綾音の言い分はわかるよ。じゃあ……そもそも浅海はなんでこう度々遊びに来るわけ? いや、友達……かどうかはわからないけど知り合いだから訪ねてくるのは良いけど、いい年の女の子が同い年の男の子の家にたまに泊まりに来るというのも考え物だと思うだろ? そもそもこういう事件もおきないわけだし」

あ、こういう言い方するとまずかったか……?

「私に来るなって言いたいわけ?」

案の定かよ、ま、失礼な言い方でもないと思うのだが気分を害したのなら謝っておこうか。

「いや、来るのは構わないって言ったろ? そうじゃなくて、世間体ってものがあるから、その、泊まるのもどうかと……」

「世間体なんて考え方、好きじゃないわ。良いじゃない、ここに来れば料理の手間も省けるし、私の家より学校に近いし、掃除もしなくて良いしね。部屋まで用意してもらって、私も色々持ち込んでるからこっちでリラックスの時間を持つのが研究のために良いと思うのよ。私って、合理主義者だから」

「人の家を別荘扱いかよ……ま、魔術師としての先輩だから、ためになる話も聞けて俺も良いんだけどな」

俺が執事で、綾音がコックといいたいわけですか……お嬢、いい加減にしろよ。

それが気に障った、あるいは暗にそういわれていることに気がついたのか綾音がちょっと強く反論した。

「ちょっと、それなら今まで通りじゃないですか! そういう間違いが起こりかねない状況を控えろって言ったのよ!」

「あ、いや、俺は別に気をつけてくれるのならそれでいいけど……まぁ、騒々しいのも嫌いじゃないし」

「じゃ、決定ね。今度からアルコールは少し控えるようにするわ」

「この……いえ、我慢よ、我慢……取り敢えず、高校生なら当たり前のそういうこともちゃんとしてなかった浅海が改善するというのならそれだけでも良しとします。でも、私はまだ不足だと……」

「あ、でもワインは別よ。あれって、ジュースみたいなものだから」

「まったくわかっていらっしゃらないようね! 酔うのなら一緒です!」

「何言ってるの、ワインはヨーロッパの心みたいなものでしょうが。そもそも昨日酔ったのはちょっと日本のビールを飲みすぎたからで、私、元々お酒には強いのよ」

元々中東近辺で水分やビタミンを補給するための果物酒だったものが葡萄の栽培地拡大に伴って欧州へ伝わり、それがワインの元になったという。

欧州の河川は長く、ドナウ川やライン川では海に流れ着くまでに土壌中のカルシウムなどが川の水に溶け込み一般的にそういう金属のイオン濃度が高い、つまり硬水である。

日本は逆に軟水で、欧州のような硬水だと日本のようにそれを直接飲むと腹を下すことになる、だからワインは水分の補給という意味で特に役に立ったわけだ。

ただそういう意味よりも宗教上の儀礼と結びついたことで欧州にはワインが深く根付いた、日本で言うお茶くらいに思っても良いのかもしれない。

「変なところで強勢を張るな、お前。で、そのなんだ……俺も咄嗟に慌てて隠そうとしたけどちゃんと説明すればよかった。綾音にはおかしな勘違いさせて、悪かった。ごめん」

「わ、わかればよろしいのよ。私も言い分を聞く前からあんなに興奮して、ちょっと馬鹿みたいでした」

「いや、そん……」

「そうよ、本当に良い迷惑。話も聞かないうちからあんなに長い説教だなんて、頭の中エロエロなんだから……日頃から何考えてるのよ、貴女。魔術師がどうたらかんたら言ってるけど、駄目なのは自分じゃないの。笑わせるわよね、本当に」

浅海さん……いや、ちょっとそこまで言うのもよくないんじゃないかな。

案の定……かなり怒ってらっしゃいますよ。

流石に色々早とちりした分我慢してるみたいだけど、これ以上は言わないでくれ。

「まったく、白川って家は貴女みたいなむっつり助平みたいなのばっかりなんでしょうね? 呆れそう……本当に日曜の朝からこんなに煩わされて、休日が台無しじゃない。おいしい料理でも作ってくれないと詫びを入れたことにならな……」

その瞬間にちょっとさっきまでとは違う意味で真っ赤になった綾音が無言のままぐーで浅海を殴ろうとした。

しかし、魔力も使わぬただの高校二年生の攻撃など呪いとはいえ超越種にも匹敵する動体視力を持つ浅海にはスローにさえ見えたのだろう、軽々とそれを顔の前で受け止めた。

「ちょっと! 話の途中でしょう、マナーを知らないわね。それに、今の攻撃はちょっと遅すぎるわよ、トロ子ちゃん」

それが開戦の合図となったのか、その日は六月で最も熱い日曜日となった。

その日の夜、奇跡的にご近所から戦争の騒音についての文句を言われなかった俺達だったが、破壊された部屋を魔術で可能な限り修繕する運命からは逃れられなかった。

死ぬ思いで戦場を生き抜いた俺は勝者なき争いの当事者二人と一緒にその夜のほとんどを使って自分の楽園を再生させることに成功させた。








[1511] 第十八話 『噂』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 22:11




6月19日、その月曜日は少し異常だった。

昨夜の修繕活動で魔力を消費してしまったためか、あるいはただの睡眠不足が原因だろうか、かなり体がだるく瞼は重かった。

しかし、そんなことがその異常の原因ではあるまい、それだけは断言できた。

迷惑な二人組がさっさと家を出て学校へ向かった後で、憂鬱なブルー・マンデーを切り抜けるための気分転換ついでにコーヒーを飲んだ俺は近所の人があの二人に気が付いていませんようにと思いながら家を出た。

午前八時を十分後に控えたその時間でもこの家からなら、ちょっと早歩きに歩いて二十分くらいで俺が通っている星霜学園高等部の校舎に到着する。

すると、そこで初めて異常に気がつく――何故か、クラスメイトや上級生、下級生に至るまでが俺を見てクスクス笑う。

別におかしな格好をしているわけではない、鏡を見て髪もセットしたし、制服もおかしな校則違反があるわけではない。

教室に入ったときも周りの人々の反応は変わらない、そこまで来ると流石に俺も黙っているわけには行かなくなり、席が近いアキラのところに向かった。

こいつも俺を見てなにやら意味ありげな笑いを浮かべている……いや、ちょっと待てよ……あれ、ま、さかこの前のことを言っちゃったのか?

「よう、篠崎。今日も元気そうだな」

椅子に腰掛けたまま、気軽に挨拶をしてきた。

「ああ、おはよう。それより、俺、何かしたか? ほら、クラスのヤツとか何笑ってるかわからないんだ」

予想はなんとなく出来てしまったが、それは嫌な予感ということにしておこう。

あれは誤解、そう俺の思い過ごしなんだ、そう、こいつらもそこまで悪じゃない……はず。

しかし、その最悪の事態は現実になってしまったのかもしれない、アキラは『わからないのか、お前』みたいな表情で少し呆れた風に言った。

「おい、分かってて言ってるんだろ? 昨日の、いや土曜の夜にやった肝試しで見事にお前の肝が潰れたって噂で学校中は持ちきりなんだぜ、浅海さんに迷惑かけて運ばせたってのも当然付け加えて、だけどな。後ろには気をつけとけよ、ファンが怒ってるかもしれないから」

最後の浅海関連の箇所は実ににこやかに、まるで大学の合格でも告げる瞬間のような顔で俺に教えてくれたアキラ。

まったく友達甲斐のない連中も居たものだ……顔面が蒼白になっていくのがわかる。

「ははは……アキラ、まさかそんなでたらめな噂を広めたのは、お前か? それとも良介?」

広がった噂は最早取り返しのつかないことだろう、怒る気力さえない。

いや、そんな気力があっても体中がだるくて体力がない。

ほとんど声にならない声でいつかこの復讐を果たすために犯人の名前を確かめようとすることが最後の抵抗だった。

「うん、というか俺達五人。浅海さんも、それに民子や真琴も……いや、悪かった。怒るかなって思ったけど、そんな気力が抜けたような顔されると悪い事したなって気がしてきた。ほんと、許してくれ」

悪事千里を走る、その故事には偽りはあるまい……ただこの場合は俺の恥が学校中を駆け巡っただけなのだが。

本当に悪いと思っている風でもなかったが、手を合わせて謝るアキラを問い詰めても仕方ない……しかし、忘れるなよ、今度肝試ししたときには魔術本で眼に物見せてくれる。

尤もそれは俺がちゃんとあれを使いこなせるようになったら、だけど。

「……まぁ、そう気にすんなよ。俺は怒ってないから、それにしても浅海か……噂を流した一人は、ふーん、アイツか」

そう、流石にやってくれるあのお嬢は……この決着はつけねばなるまい、今日も泊まるつもりなら夕食に七味唐辛子をこれでもかというくらいに混ぜといてやる。

いや、そういうのはまた家の破壊に……しかし、もっと直接的な復讐をすると命が惜しいし……難しいが兎に角借りは返してやる、多分……覚悟しておいてくれるよな、浅海……さん?

「なんか、お前って本当に心の広いヤツだよな。俺なら怒り狂ってるけど、篠崎は人間が大きいよ、感動したよ」

勝手にとっても人の良い人格にされた俺だが、アキラよ、お前は確実に勘違いしている……俺は怒り狂ってる、その対象に復讐する手段があればしてやりたい。

それが出来れば、これまでどれほど仕返しをしてやっただろう?

だが、浅海に仕返しなんてしてみろ、反撃にどういう攻撃を食らうか……想像など出来ないだろうな、アキラの中での浅海は『意外に話せる学園のアイドル』になったばかりだから。

そのとき、教室の扉が開き先生が入ってきた。

「じゃ、今度はせいぜい俺の器が如何に大きいかを噂で広げといてくれ」

そう言ってすぐに自分の席に戻った。

この席からだと俺より前の列に座っていたアデットの姿が眼に入る、そう言えば昨日の吸血鬼の話は本当にちゃんとしておいてくれたんだろうな?

それにウダウダやってたせいで俺は聞けなかったけど、浅海に伝えるって言ってたことは何だったのか?

ちょうど良い機会だから、次の休憩にでも聞くとするか。




○○○○○




そのあと、憂鬱な月曜日の四時間目までが終わった。

世界史の授業を聞き終わってすぐ昼食になる、俺はそのときちょうど同じ授業をとっていたアデットに声をかけて食堂に誘うことにした。

二人で連れ立って、ではあらぬ誤解の種をこれ以上増やすことにもなりかねないから距離を置いて歩こうかなー、と思っていたのだがあの女、よりにもよって俺の腕を持って歩くなどという暴挙をやってのけてくれる。

「……なぁ、本当に離せって、いや、お願いですから離してください。マジで、そういう誤解を受けたくないから止めてくれ」

そう言われても別に気にする風でもない様子のアデット。

「まあまあ、そういう堅い事は言わないでくださいよ。この学園には別に不純異性交遊禁止という校則もないわけですから」

涼しい表情で言うが……ここの生徒会長な、お前。

食堂を前にして、すでに周りの人々の視線も感じ始めた。

「生徒会長ならそういう校則作れよ、個人的に公の場でこういう事するアベックは好きじゃないし、第一お前自身は気にならないのかよ?」

「別に。私の育った文化圏では愛は語らうものですから。尤も、公明さんとそういう関係になることは無いでしょうけどね。これは単純な嫌がらせです、面白い趣向でしょう? 尤も、私の本気の愛を受け止めてくださるというのでしたら、話は別ですけど……まぁ、私の愛は少し痛いですけど」

は、自分からそう告白する奴はなかなか居ない、流石に強敵だな。

そのまま何とか後ろから刺される前に食堂に着いた。

学園の食堂、いや学園全体は海外の著名建築家に設計を依頼したとかで、かなりおしゃれなテラスとなっている。

実に味のある木目張りの床の上に二十以上のテーブルと椅子が並び、学園の中庭を眺めるガラスの壁からは光が降り注いでいた。

観賞用植物も何鉢か置かれ、学園の中庭には園芸部が咲かせた花が咲き乱れていてどこかのリゾートホテルに来ている印象さえ受ける。

欧州のサンルームをモデルにしただけあってウェスタン風の落ち着きのある空間だ、個人的にはあまり日が眩しいから雨の日がちょうど良いと思う。

俺達は窓際の他と少し離れた席に陣取り、昼食に買ったスパゲティーなどの皿をテーブルに並べた。

「確か、話があるとか……何です? 私も土曜の朝から仕事で忙しくて、これで結構疲れています。それに、体の調子もイマイチでして……特に体に調整し切れていない胃がキリキリするのですけど」

そのために食欲がないのかサンドイッチとコーヒーしか買わなかったアデットは、そのわずかな食事に口をつけながら俺の用件を質した。

スパゲティーをフォークで巻きながら、取り敢えず俺が巻き込まれた事件が大事と考え、そのことから話そうとした。

「? 調整し切れてない? 何言ってんだ……ま、いいや。実は俺と浅海と他の友達とでその、土曜の夜肝試しに行ったんだ」

その言葉を聴いて、何を思い出したかタメ息を漏らすアデット。

典雅な美貌の金髪少女が漏らすタメ息はそれだけで絵になりそうな光景だが、そこからもたらされた言葉は何と言うことか。

「まったく……幽霊を見て気絶するなんて、男性としてどうかと思いますけどね。いえ、仮にも私に師事する者として本当に私まで恥ずかしくなってきます……本当にだらしのない。人間辞めてください、お願いですから猿からやり直してください」

「違うって! それは浅海のデマだろ!」

ちょっと力を込めて否定しておく。

大丈夫だろう、食堂にはクラシックの音楽が流れていて尋常ならざる耳の持ち主でもなければここでの発言が盗み聞きされることもないだろう。

俺の否定を受けて、どうにも胡散臭げにこちらを見つめるアデット。

「デマ? 一体どういうことですか? 言っておきますが、私にだけは臆病者と思われたくないというその矮小な気持ちも虚言を用いては現実味を失いますよ。何より、虚言は大きな罪だと思うのですが」

誰もお前だけに疑われたくないなんて思ってないから、俺はみんなにそういう誤解をして欲しくないんだよ。

「違う、絶対に嘘じゃない……その、だから、俺は今からその件について聞こうとしてたんだよ。浅海から聞いただろ、あの生意気な小学生みたいな奴、俺の本の製作者について相談受けたよな?」

「はぁ? ……本の製作者、というと……イフィリルがこの街に? しかも、公明さんが出会ったというわけですか?」

真面目な顔になって、そう聞いてきた相手に俺も頷いて答える。

「フフッ――実に面白い冗談です。同時に、死んでいただけません?」

「冗談じゃなくて、本気で言ってる。信じられないくらいに綺麗だけど、何の躊躇もなく人を殺すようなガキだろ? 小学生くらいの」

「え、ええ……ですが、そんな。いえ、貴方が彼女を前にして生存していると言う現実を信じろと? すごい笑い話ですよ、それ」

「ああ、そうだよ」

「本気……ちょ、ちょっと待ってくださいね……確率を考えますから」

その後しばらく沈黙が流れた、永遠とは言わないけど実に長い時間だった。

深く考えている様子のアデットには話しかける言葉を思いつかなかった。

そして、漸く考えがまとまった様子で、再び彼女の口が開く。

「あ……いいえ、私もその話ははじめて聞きました。しかし、彼女がここに来たというのならそれにふさわしい気配があってしかるべきなのですが……それに玲菜さんもご一緒だったのですよね?」

「ああ、俺は肝試しをした病院で、ほら知ってるかどうか知らないけど、甲山町との境にあるつぶれた病院で、浅海と二人でペアを組んで肝試しをしたんだけど……」

「ちょっと待ってください、それは少し山道を入ったところにあるあの殺風景な病院ですか?」

「あ、ああ。よかった、知ってたんだな。それで、そこで肝試しや浅海が本の魔術で幽霊を見せてくれたりした後、帰ろうとした俺達の前におかしなサラリーマンとOL風の二人組みが現れたんだ。おかしいっていうのは、その眼が真っ赤で……」

「どこか墓土の臭いのようなものが漂い、服は泥だらけ、牙が覗いていた……でしょうか?」

驚いた、俺の説明を遮っていったアデットの説明はまさにその通りだった。

しかし、そこで深い話になることはなく俺に続きを促した。

「で、そいつらを浅海が退治した後、その、言葉を多少話したOLを浅海が捕縛したんだけど……そこでアイツが出た。どこかの制服みたいなのを着て、長い黒髪の外国人の女の子、『ベルラック』って名乗った……そして、逃げるとき、信じられないくらいの本数の短剣を取り出したかと思ったら俺達に投げつけてきたんだ。俺も、浅海も避けられずに胸に刺さったはずだ。でも、目が覚めたら短剣がなくなってて、いつの間にか俺が勝手に気絶してたことになってたんだ」

全ての事情を聞き終えて、アデットはどうやら俺の話を信じてくれたみたいだ。

「……忘却剣『ジャッバーク』」

「え? 何だって?」

「公明さんを貫いたという剣の名前です……しかし、公明さんは信じられないような体質ですね。改めてそう思いましたよ、良いですか? 忘却剣といいましたが、それにはかなりの誤解がありまして、ジャッバークの本当の名前は『抹消剣』、記憶削りの呪いを付与された魔剣です……持ち主が望む記憶を切り殺す、つまり単純な忘却ではなく抹消です。抹消された記憶は決して戻りません、どんな魔術を持っても、どれだけの年月を持ってしても、どれだけの科学を持ってしても今までそれをなしえた人間はいない……公明さんが初めてでしょう。ましてや、ファティーフを殺すとは……本当に貴方は反則だ」

「ま、あれは俺が意識したんじゃないけどな」

「それが反則だと言うのですけどね。しかし、幸運でした……イフィリルを怒らせてもし『ピサール』が出ていれば、あの病院は蒸発していましたよ。森ごと焼きつくされてね」

「ぴさーる?」

「私も話に聞いただけで見たことはありませんが、人を食い殺す灼熱の槍だそうです。記憶が確かなら、ケルト神話の片隅でも語られていました。あれは昔ある街を食い殺したという逸話を持ったヤズルカヤの宝槍。私の想像通りでしたら誰もあれには勝てないでしょう、例え貴方でも。何しろあれは彼女の作ではなく、原本だけしか存在を許されない星辰の槍と聞きますから……本人も腕を食いちぎられて以降は使わなくなったそうで、出番がないのは救いですかね。一応、言っておきますと多分……街は大げさかもしれませんがこの学園程度なら蒸発すると思いますよ、跡形もなく」

「蒸発って……コンクリートや鉄の沸点って、何千度の世界だぞ……でも、ふーん。ま、やばかったってことか」

「ええ、実に命がけの危ない綱渡り、本当にやばかったと言うことですね。で、玲菜さんの記憶のことですが、話を聞いた限り咄嗟に放ったものでしょうから、彼女とて抹消できるのは数時間以内の記憶に限るでしょう。そういう心配なら要りません、尤も……公明さんが臆病者という噂はしばらく我慢するしかなさそうですが」

「なら、俺の胸に突き刺さったのになんであれは消えてたんだ? それに、他の剣も」

「ジャッバークの原本は現在、北欧に保管されています。彼女をして魔導師足らしめるのはその武器作りの才能だけでなく、自分が作った武器を魔術で完全に再現することです。尤も、彼女とて魔術でそれを再現する以上はかなりの魔力を使いますから長い間実体化することはないのですけど」

「つまり消えたって事か? 時間切れになって、その魔力が切れたって事?」

アデットが首を縦に振ってそれを肯定した。

「あの、ベルラックを捕まえないで良いのか? お前もそんなに落ち着いてるけど、吸血鬼なんだろ、それも指折りの!」

「……実は私今体が弱っています。とても、とても弱っていて……戦えば、死にますよ。それにこの街にはいないでしょう……この前聞いた話では、赤い水晶のようなものを使って私の警戒を無効化したのだとか……現物でもなければわかりませんが、特殊な道具でしょう。あれは酔狂人ですから、きっと肝試しついでだったのでしょうね。私を試す、また道具も試す……こう舐められては、本来殺しますが今は流石に難しいですね」

そう聞かれて、思い出そうとする。

確か……俺に本名を口にされる前、何やら実験の成功とか何とか……

「思い出した、言葉を話したOLが実験の成功例とか何とか、兎に角そんなことを言って、そのOLだけはつれて帰ったみたいなんだ」

「……成功例? ……なるほど、わかりました。しかし運が良いですね、会った吸血鬼が彼女で。あれは自尊心の塊みたいな人ですから、表情に出していなくとも数十年くらいはショックを引きずるでしょう」

本当によく知った相手なのか、そう話したときのアデットの表情に険しさはなかった。

「公明さん、ここは私の担当地域なのでこの件はここまでにしておいてください。深くかかわると、まぁ……適当なところで死ぬかもしれませんし。揉め事の解決を貴方に手伝ってもらっては私の名誉にかかわりますからね」

「絶対に係らない、てか浅海が身動きできなかったような小学生相手に戦えるかって! それに、言っちゃ何だが、あんな小さな女の子を本気で殺したりなんて、俺には出来ないからな」

「小さい? ……ああ、そういうことですか……公明さん、彼女はあれで20代の女性ですよ。そう見えないかもしれませんが……まぁ、それは置いておきまして確か他にも何かありましたよね?」

促されたので、続きの質問をしなければ……

「そう、昨日綾音と浅海が大暴れしたんだ。家具とか滅茶苦茶になって、その修理だけで朝までかかったほど大変だった」

「ほぅ……詰まる所、痴話喧嘩ですか? 公明さんのような人は大変ですね、本当に」

楽しそうにそういう顔はまったく気の毒に思う様子がない。

「違う、痴話喧嘩じゃない! まぁ、兎に角だ。綾音がお前から何か託ったって言ってたんだ。結局喧嘩でうやむやになってたんだけど、俺に関係のあることか? それとも浅海の呪い?」

コーヒーを一口飲み、次の言葉が綴られる。

「いいえ、イフィリルの呪いを打ち破った実績について研究していけばまた発見があると思いますが、現時点で呪いの方は袋小路です。それから、伝達事項はたいしたことではありませんので、ご心配なく。占星術協会からの報告で、ちょっと大地震があって太平洋のどこかの島が消えてなくなる程度のことで、海外旅行は控えなさいというだけのことですから……まぁ、小さなことです。確率は67パーセント程度ですしね」

「あ、ああ……そういうのは政府に知らせてやれよ。マジで、人の命が懸かってるんだろ」

「確かに、魔術師という人種が非人間的であるといっても人命が軽いとは申しません……しかし、ここで報告などしたら、私が預言者にでもならなければなりませんでしょう? 世間のことには干渉しない決まりがありましてね……実際、今のような時代になりますと山の奥での修行などするのも難しい。こういうご時世に、街中で暮らすのは仕方がないにしても魔術で世間を動かすなど当然ご法度です。人を動かすと、特に欲が出て我々の社会が堕落しますからね……精神を鍛えるべき我々を世俗化するような真似をしたら、まぁ逮捕されて縛り首ですか……私はそういうのはちょっと勘弁願いたいですけど」

「OK、わかった。それなら気の毒だけど、仕方がないな……それより今度でいいから、浅海にそれとなく俺が気絶したわけじゃないって教えといてくれないか? はっきり言って当事者にくらいは事実を知って欲しいからな」

「なるほど……しかし、それは残念ですね。もう少し恥でもかいて欲しかったのですが」

「おい!」

「切実なようなので願いは受け付けましょう……ちょっと難しいと思いますが善処します。では、そろそろ授業の時間ですので私はこれで失礼。食事、食べるのなら急いだ方が良いですよ」

時計を見れば、実に後10分くらいか……そのまま俺が無言で残りの食事を平らげたことは言うまでもない。




○○○○○




その瞬間、天井が見えた。

叩きつけられる衝撃が体中を駆け抜け、足の先まで痺れる。

うまく受身を取ったつもりだったのに、畳の上にぶつけた背中を通り抜けた衝撃はそのまま内臓に伝わり、胃液が逆流したような気さえした。

倒れた俺を押さえつけるために、鳩尾への追撃を加えた上に圧し掛かってきた柔らかな体――その衝撃さえ加わり、体を起こすことさえ叶わなかった。

そして、反撃もままならないうちに喉の手前で止められた小さな拳――いかにも女性的な綺麗な手だったが、本来ならその手に握られたナイフが俺の命を奪っていたことだろう。

俺の体の上に馬乗りの姿勢になっていた綾音の顔が覗いた。

「はぁ、は……また足元を疎かにして! これが真剣勝負なら今日だけで20回は死んでいたのよ、真面目にやりなさい! いいえ、これで本気なの?」

鬼気迫る気迫、すでに何十回も投げられ、落とされかけ、体はガタガタ……今日は本当にどうしたのか、学校帰りに『心身を鍛えるためには武道が一番手っ取り早くて、ちょうど良い場所が確保できるの。稽古してあげますから、付き合いなさい』と、言われてついてきてみたら……なんでこんなことに?

華道だか茶道だったかの家元をしている家になんでこんな道場があるのか? それはこの家が魔術の鍛錬に武道を古くから取り入れていたからだ。

魔力は生命力の一種、ならばそれを強化するのは精神力のみならず、肉体も深く作用するはずだ。

だから、それを同時に鍛えることが出来る武道は実に効率が良い……らしい。

すでに開戦から二時間近く、最初からほとんど手を抜いてくれない綾音にすでに半殺しにされ、体中は汗でぐっしょりだった。

「ちょ……無茶、言うなよ……お前に言われてた、基礎体力作り、だけじゃ……こんなに本気出されて、どうにか出来るわけ……ないだろ、はぁ……ほんと、苦しい……腹の上から退けてくれ」

そう、体力作りはアデットは何かしらの武術の経験もあるくせにあまり乗り気でない様子だったので、綾音大先生に師事していたわけだが……走ったり、腕立てしたり、腹筋したり……何一つ武術は教わっていない。

つまり、ぶっつけ本番でこの人は本気で叩きのめしに来たわけだ、半端ないスパルタ式。

「優れた弟子とは師の技を眼で盗むものです。体でそれをこれだけ受けたのなら、何かしら覚えたこともあるでしょう……私が納得するまで何度でもかかってきなさい。もとより、魔術も魔力も何も使っていない生身の勝負……体力的な面を考えても、体重があるそちらが有利なのですから、一本も取れないなどという軟弱な精神はこの際捨てなさい!」

そう言いながら、体の上から退けてくれる。

再び距離をとって、構える……俺も何とか体を起こして立ち上がった。

「まったく……あの不埒者を思い出すだけで、苛々が……」

「? おい、不埒者って浅海か?」

来ていた胴衣を直しながら、何かを考えながら独り言を言っていた綾音に聞いた。

「いいえ、浅海は無法者です……私の言っているのは……いいえ、兎に角さっさとかかってきなさい! 殴っても構いませんのよ」

「どうも。でも、やっぱり女は殴れないだろ。グローブつけてないし、それに突きとかありにしたら俺がヤバイ」

それをどう受け取ったか、真っ赤になって怒った綾音が一喝した。

「! 失礼よ、私はそんなに体重もないのにどうして貴方が危なくなるの!」

怒りのままに駆けた白い風、一瞬構えるのが遅れたのが命取り……口でああ言っておきながらも軽く握り拳を作っていた右手が反射的に出て軽いジャブを放つ。

しかし、その軌道よりもさらに姿勢を低くして避けられ、防御ががら空きになった内に入られる!

「クッ!」

力を入れる前にめり込むように決まっていた鮮やかな掌底!

胃液が逆流したような気持ち悪さと共に体が崩れた、口からは呻き声が漏れてそのまま倒れそうな体を引きずり何とか後ろに下がる。

「ゴホッ、ゴ……」

「どう? 手加減は無用とわかったでしょう、本気で来なさい」

いや、俺は本気ではあるのだが……単純に勝てるわけもないだろう!

しかし、考えようによっては経験値の差を埋める方法も何かあるはずだ――身長、体重、スタミナ、基本的な力なら確かに俺に分があるはずだから、その如何ともし難い魔力量の差を無視できる戦いなら何か方法が……

不意打ち、それ以外にあるまい――誰かを見たと言って、扉の方を見ながら声を出す……引っかかるとは思えないが、素で戦って一本を取れるわけもない、駄目元だ!

「? どうしたの、苦しくて動けなくなった? そうなら、魔力で身体の強化をしても構わないのよ」

乱れていた息を整え、何とか体勢を立て直すと相手のこの上ない申し出にうっかり乗りそうになった。

魔力をコントロールして身体の能力を強化すれば普段の何倍か位の動きは出来たかもしれない、あるいは何倍も行かなくても今よりはましなはずだ。

でも、いくら相手が魔術も体術も一流でも女の子……自尊心が許してくれるはずもない。

それにそれで負けてみろ、俺は自分へ言い訳することも出来なくなる。

そんな恥ずかしいことが出来るわけもない――正直、勝つ自信もないし。

ただ、大声を出したり、目潰ししたり、あるいは降参した振りをしての不意打ちくらいなら……戦術の範疇、だよな?

「冗談だろ、いくら俺が素人でもそんなにハンデ貰ったらお前だってきついはずだ。それにもう二時間近くも投げられて、体力もほとんど限界なのに、この上無理に魔力を使い切ったら明日動けなくなる。本気で来いよ」

多少の誇張はあるがそれは真実だった、嘘はない。

それを聞いて、本当に感心した様子の綾音は俺の心を読みきれていなかった。

それは俺が考えていた作戦が露見していないことを意味するだけでなく、俺の計算違いを露にした。

「……ごめんなさい」

真面目な顔で謝罪する綾音、どうしたというのか?

「ん?」

「貴方がそんな威厳ある、そして高貴な精神を養っていたなんて……見抜けなかった私は自分が『手加減』を加えていたことを深く恥じます……白川の後継者として、手合わせとはいえ本気の相手に手加減するなど、なんて恥知らずだったのでしょう。安心して、本気でやりますから」

「へ? あの、ちょ……手加減って……、その綾音サン?」

一度目を閉じて精神を集中した彼女が再び眼を開いたとき、その総身は凄まじいまでの気迫を感じさせた。

違う、さっきまでとはまったく違う。

「骨が折れるくらいで、それ以上のことをする前に納めますが……貴方のその高貴な精神に敬意を表して、我が流派の奥義でお相手を致します」

目の前で原子炉が臨界点を軽く突破していく……何か、とてつもなく大きい勘違いがあっという間にこの空間を殺伐とした、冗談の通じない空間に作り変えてしまった。

不意打ちなど不可能だ、その隙などない……声も出せないほどの張り詰めた気迫。

本気だ、これが彼女の本気――魔力の助けなどない、魔術の行使もない、それでいてその総身から漲る殺意にも似た気迫は俺の体を麻痺させる。

言わなきゃ……よかったな、ほんと。

計算違い、それ以外の何者でもない。

口は災いの元とはよく言ったな、昔の人……しかし、だからこそこれほどの集中力を乱すものがあれば、その回復は困難なはず。

タイミングだけを見計らって、アデットの名前でも出せば問題あるまい。

構えだけは見よう見まねで、さっきまで綾音がとっていたポーズをとる。

ここから何か続ける技を知るわけでもない、綾音とて柔道の投げ技みたいなので俺を投げたりしてただけだ。

だが、今は違うさっきまでと構えが変わり、すごいのが来る予感が素人でもわかる。

ヤバイ、声を出さないと死ぬかもしれない……今綾音の頭の中から俺が魔術の聞かないからだということは忘れ去られているのだろう、骨が折れたらヤバイのだが。

「では、行きます」

その一言と共にわずかにとられていた距離があっという間に縮まる、それは体が魔力で強化されていたら、仙人が用いたという縮地にも見えたかもしれないほどの動きだった。

呼吸をする時間さえ忘れて、行われるであろう奥義の披露を防止するため、大声で叫ぶ!

「そこ何してるんだ、アデット!」

「!」

見えないほどの蹴りが俺の耳元で止まっていた、目前で体を反転させたかと思った瞬間にはもうその場にあった右足は踵が俺の耳を打つ寸前で一瞬止まったのだ!

「隙あり!」

唖然とした表情の綾音の顔がわずかに見えたときには俺の腕が相手の胴着をしっかり掴んでいて、体育の授業でやった柔道のときに身に着けた大外刈りをかけていたのだった。

そのとき恐怖で体が竦んでいたためか、技をかけた直後の足が滑った。

「あっ、やば……」

びっくりした表情の綾音と俺の体が宙を舞った!

床に叩きつけられるかと思ったが、下敷きになった綾音の体があったためにその衝撃はずっと小さなものだった。

しかし、それでも痛いかな……と思うと目を閉じていた。

人の体の上に倒れこんだわけだから、ちょっと柔らかな感触が伝わった。

「……」

「……」

パシャ!

沈黙が続いた、一体どうしてかよくわからないが綾音まで無言だった。

おかしな手段を使ったから、命にかかわるかと思っていたのだがそれは意外だった。

パシャ!

「……見事でした……シュリンゲル卿の気配にまで気がついて、私を投げ飛ばすなんて……本当に貴方、すごいわ。ただ、そこから手をどけなさい! もう早く、退けて!」

目を開けたとき、朱色に染まりながらも呆然とした綾音の顔がそこにあり、俺の手は彼女の胸の上に……あ、ヤバッ!

さっと手を離すと、そのまま彼女の体の上からどける。

パシャ!

俺が必死に掴んでいたために乱れてしまっていた胴着を直しながら、俺の差し出した手をつかんで起き上がる綾音。

しかし、その視線は俺とは反対の方向に向けられていた。

パシャ!

何とか俺に投げられた衝撃と胸を掴まれた羞恥心を克服しようとしているのかと思ったが、俺もそちらを見て体が固まった。

デジタルカメラを片手に持った金髪の錬金術師は学校帰りらしく制服姿で、鞄を片手に俺達とそれほど離れていないところに立っていた。

それも、極上の悪魔の笑みを浮かべて。

「どうも、こんばんは」

カメラを収めると上品にお辞儀をした彼女がさっきの光景を楽しもうとしているのは火を見るよりも明らかだった。

それが証拠に綾音は苦虫を噛み潰したような顔に変わっていた。

「公明さんたちがこちらで稽古をつけていらっしゃると、正臣さんから伺いまして……気配は隠したつもりでしたが、公明さんがまさかそれを見破るとは思いませんでした。ああいった、綾音さんの熱心なご指導の賜物でしょうかね? 参考までに写真に撮らせて戴きましたが、結構激しい接触があるようですね」

天使のような悪魔がなんとも楽しそうにそう語った。

手に入れた玩具をどう弄ろうかあの明晰な頭脳で考え始めているのか。

「誤解……です。それより、その、どうして貴女がお父様に?」

綾音のその言葉は深く追求される前に相手から主導権を取り戻そうという行動だったようだ。

俺も何か言おうと考えてたけど、言葉が頭の中を回り続けてばかりで口から出てこなかった。

「先日の雨峰家の相続問題で秋継さんは不幸にも病院から『行方不明』になってしまわれたでしょう? その代わりに……ショックから立ち直られた亜希子さんが白川家側の協会に所属したいとおっしゃられて、こちらが手を引くとお伝えに。まぁ、こちらの不手際が目立ちましたし、この責任は私よりもっと上のところが取る事になるでしょうね。ところで、さっきの気配遮断は自信があったのですがどうやって私に気がついたのですか?」

その言葉と同時に二人の視線がゆっくり俺に向いてきた。

今更、嘘八百を並べて綾音から一本取ろうとしたとはいえまい。

「あはは、そんなに見るなよ。勘……だ、勘!」

勢いで誤魔化すしかなかった。

「心眼ですって!? 貴方……本当にこんな短期間ですごい成長を……すごい、私の教え方は間違っていなかったのね。そうでしょう、シュリンゲル卿?」

あ、ちょっと……何かものすごく勘違いなさってますよ。

しかし、勘違いの輪は止まらない。

俺の態度を見ながら少し考えた様子のアデットは、それでも気がついていないのか、見当違いの言葉をさらに続けた。

「確かにあれだけうまく気配を消した私を簡単に見つけてしまったのですから、これは天才か綾音さんのご指導が卓越していたためでしょうね。いつか私もご教授願いたいくらいです……ただその際、さっきのように押し倒した上、胸を揉まなければならないと思うと少し考え物かもしれませんね。流石に自由な校風の我が学園でもああいうのは……ちょっとよくないと思われませんか?」

最後の辺りに実に力の込められた台詞だった、最初の辺りは首を振りながら胸を張っていた綾音も最後の辺りには流石に赤くなっていた。

俺も事故とはいえ……サイズはAとBの間くらいか……いや、つい無意識のうちに測定してたが、あれは事故で、そもそも試合なんだからおかしな気はなくて、このバカ生徒会長が考えているおかしな妄想なんて存在しないんだ。

「そういう邪な感情しか抱けない貴女こそどうかと思いますが」

それは実に冷静な対応でかなり棘のある言い方だったが、そんなことを気にする相手でもない。

「ほう、それは面白い。先ほどの写真で皆さんに聞いてみましょうか、特に風紀委員長などに。校外での活動とはいえ、眼にした以上黙っておくというのも名誉ある学園の生徒として問題がありますからね。ましてや、私は常に公明正大で潔癖な生徒会長、そうでしょう?」

自分の生徒会にわざわざ混乱を巻き起こそうかというこの生徒会長は……何なんだろう? 少なくとも良い人、とは言えないと思うな。

「くっ……要求はお金ですか?」

真剣な顔でなにやら大人の言語を話し始めた綾音。

そもそも何かを要求しているわけでもないのに、そうすぐに金というのは人としてどうかと思うのだが。

「おほほ、金銭が目的といわれては心外ですね。私は富も、名声も、地位も、全て持っていますでしょう……持っていないのはどうしようもなく暇なときに遊ぶ玩具くらいのものでしょうか。尤も、貴女方はずいぶん前から私の玩具でしたけど」

あくまで涼しげな彼女は本来なら自慢にしか聞こえない台詞を実に嫌味のないものに変えていた、それに錬金術師である彼女の言うことは間違いなく真実であった。

「ふ、シュリンゲル卿。貴女はあの程度の映像がどういう脅しになると思われるのですか、魔術師を脅す材料があれでは話にもなりませんわ」

腕を組んで相手を見据えた綾音はほとんど勝利宣言のように高らかに言った。

「それは当然ですね、ただ私は何と言いますか……学園やお父上に娘さんが殿方と二人だけでこういうことをなさっていると、お見せしようかと。第一、いくら格闘技の実習とはいえどうしてああいう体勢になるのか疑問ですし、顔も近すぎました。接吻などしていると勘繰られても仕方の無い角度で撮ってありますからご安心を」

上目遣いに、相手の出方を伺うような言い方だった。

「事故だといっています! 貴女の邪推は度を越していますよ、あれくらいの状況などいくらでも起こりえることですわ」

その否定には俺も同意する、実に早い切り返しで綾音はそう言った。

「かもしれませんね。しかし、事実を判断するのは民衆の目でしょう。白いは黒い、黒いは白い……ね、私の知りうる限りにおいては残念なことですが真理を見抜く眼を持った人というのはごく少数ということになりますよ」

わずかな嘲笑は貴族的な高笑い、この人は本当に……

「なぁ、アデット。お前もわかっててからかってるんだろ? あれは間違いなく事故だって!」

「む、公明さんも否定に回りますか。しかし、私も精神的に何かしらの刺激を必要とすることもありましてね……いっその事、猫のコスプレでもして商店街をにゃーにゃー啼きながら歩くなど、かなり恥ずかしいことをさせたかったのですが、それはまた別の機会にでもしましょうか」

「返すんだな?」

「ええ、記念にどうぞ。お受け取りください」

そういって投げられたカメラを受け取ると、さっきの映像は消去された。

「まったく、貴女は本当に神出鬼没で、とんでもない人ですね」

「そう呆れたような顔で見ないでくださいよ。実はここにもう少し呆れそうな人がいらっしゃいましてね、先日、あの土曜の夜に公明さんは幽霊を見て気絶なされたそうですよ。玲菜さんとご一緒に肝試しをしておられたそうですが、何とも情けない話だと思われませんか?」

「あ、おい! お前、何言って……バカ、それは嘘だって」

「……シュリンゲル卿、そのお話をもう少し詳しくお聞かせくださいませんか」

「すごい噂でしたけど、ご存じないとは。しかし、ええ、喜んで。実はですね……」

カメラを素直に渡したとき、俺は実はコイツは良い奴じゃないかと勘違いした……しかし、もう少し面白そうな遊び方を思いついただけだったのだ。

俺が幽霊に気絶した、という話にもろに乗った綾音がその臆病さに激怒して俺をさらに地獄の特訓につき合わせてくれたことは全て、いつか、アイツに責任を取らせてやりたい事件だった。

「おほほ、本当に情けない話でしょう? 私、お二人よりもずいぶん長く生きていますけど幽霊を見て、女性の前で気絶した男性は本当に初めてです! まさかそんな人がいらっしゃるとは夢にも思いませんでしたよ。その上、気絶する前に玲菜さんに抱きついて、『浅海助けて!』と絶叫したというのは本当に眼も当てられませんね」

なにやら、余計な尾鰭を付けてくれたことも付け加えておこう……この人は最悪だ。






[1511] 第十九話 『アデット先生の魔術講義/ルーン』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 22:35




そこは、誰もいないことを約束された場所――建築途中で放棄される事になったホテルの中。

月の明かりが照らすその場所に金髪の錬金術師が立っている。

七月の暑い夜だからだろう、紺色の半袖ブラウスとスカートを纏った程度。

銀縁の眼鏡の奥に光る青い眼差しは彼女の前に立つ相手を捉えていた。

彼女の前に立つのは神父らしき服装の老齢の白人男性、その脇には栗色の髪の若い修道女と白皙の青年。

「味な真似を……いいえ、貴方達は吸血鬼と結託してわざわざ火種を播いたのですよ。一体、どういう了見ですか?」

錬金術師の問いに、わずかに肩を竦めた神父。

その顔から彼もまた彼女に不平不満があることが見て取れる。

「我々がどういう了見か、ですと? それはこちらの台詞ではないですかな、アーデルハイト殿」

「……シラを切るつもりですか?」

錬金術師の手にはビルの中で拾った鉄パイプが一本――彼女の口がすばやく呪文を詠唱し、白い石が飾られた指輪を嵌めた右手が触れた瞬間に儚い光と共に鉄パイプの姿は消失した。

そして、その代わりに彼女の手に握られていたのは80cm程度の釘状の銀。

神父の前に二人の助手が歩み出て、その手に拳銃を握った。

「……シラを切る? それこそ妄言ではありませんかね、我々は貴女のお手伝いをしようとしただけに過ぎませんよ。それをどのように邪推されたのかは私の存じ上げるところではないが、敵対行為と考えられては困りますな」

神父は武器を構えた相手を前にしてもまったく最初の態度を改める様子がなかった。

「なるほど……義時さんをイフィリルと結託させた上でわざわざ火種もなかった魔術師の家に介入して、どうしようもない屑を傀儡に仕立て上げようとしたのが、私の手伝いとは……素晴らしい言い訳ですね。あわよくば私の殺害も予定のうちですか?」

「話が平行線ではありませんかね。そもそも、斎木卿がベルラック卿を連れ込んだのは私の感知するところではないので……いや、なんとも答えようがない。それに、斎木卿が関わったという魔術師の傀儡化の何が悪いと仰るのか、理解に苦しみますがね。こちらの言いなりになる魔術師が一人増える、むしろその何が悪いのかを説明していただきたいですな」

錬金術師はその回答を聞いて、顔に手をやって苦笑するしかなかった。

本当に、これだから同業者は困る……そんな言葉が漏れた。

「スカラッティ神父……どうして、無駄な争いを起こそうとすることが私のためになるのかを聞きたいと申し上げたのですが? 私の仕事は治安維持のはず、その私が自分で事件を起こしてどうなるというのです?」

錬金術師アーデルハイトに問われて、老スカラッティは一瞬呆然とした。

しかし、すぐに元の調子を取り戻して自分より年少にしか見えない相手に嘲笑を入り混ぜながら、回答する。

「アーデルハイト殿……貴女は一体何を仰っているのかご自分で理解しておられるのか? 治安維持、及び協会全体の勢力拡張……それこそ貴女が支払うべき代償のはず。ならば、斎木卿のやられたことの何処が間違っていると言うのか、それをお聞きしたい」

「一般市民に犠牲が出ました……それの何処が正しいと? 生贄を必要とする儀礼を行うためなら私に申請すべきですし、そもそも一般社会との必要以上の接触は望ましくないはずです」

神父は相手との話のかみ合わなさにいい加減苛々してきた様子だった。

「ハハッ、市民に犠牲が? だから、我々の責任だと? 仰っていることの意味がわかりませんな。ベルラック卿の薬とやらで犠牲になった市民は貴女に殺されたのでしょう? それに、薬を使ったのは我々の組織に加入する前の魔術師だとか……考えうる限り、実験場所を探していたベルラック卿をここに連れてきただけの斎木卿に、ひいてはその雇い主である我々に如何なる非があると仰りたいのか? ベルラック卿にしても罪などないでしょう、薬をまいただけなのですからね。それに対して、貴女は我々の計画も潰されて……まったく理解に苦しみます。もし、これで格好つけたつもりなら……貴女は見た目通りの子供だ」

「いい加減にしなさい、スカラッティ神父! 言うにことを欠いて……私が悪かったと? 言っておきますが、そういった細かい背景は今聞かされたのですよ。その点については義時さんにも非があると思われませんか? それに、イフィリルはこの地で『天命の書板』を行うことさえ可能だったのです……その手引きをした義時さんと戦ってどうして私が責任を問われることに? もしも儀礼に踏み込んでいたらどれだけの犠牲が出たことか、浅慮を呪うべきは貴方のはずです」

「下らぬ妄言を……そもそも『天命の書板』はこの土地だけでは到底足りないでしょう、永遠さえ手に入れた貴女がその程度のことをご存じないとでも? 兎に角、今回の件は我々の責任ではない。斎木卿にも一切の罪はない、当然でしょう? それなのにあの方は腕まで切り落とされて……本当に申し訳ないことをしてしまった。また、魔術師として一般人を使った程度のことで叱責された上に消された前途ある若者も不運だったとしか言い様がない……貴女にも、彼の冥福でも祈っていただきたいですな。さすれば、あるいは冥府で多少の罪の軽減にもなりましょう」

「言っておきますが、彼を殺したのではなく『贖罪』させているだけのこと……人聞きの悪いことは言わないで欲しいですね。それにしても、デビルサマナー・スカラッティ……貴方は噂通りの人物のようです。何を言っても無駄ですか」

「どうですかな、それは。見る人間によるのではないか、と言うのが実情でしょうな……アーデルハイト殿」

「……なら、もう貴方と話すことはありません、この件についての不当な叱責は甘んじて受け入れますが……如何に貴方でも次はありませんよ」

「どうぞご勝手に……それより、85%の確率で悪名高い『霧海』がこの街の近辺に発生しそうだとか。貴女も、さぞ大変でしょう……本当に私を敵に回しても構わないのですかな?」

『霧海』――遥かな昔に滅びた吸血鬼が見る夢、一つの永遠を約束された魔術の残り香。

理想郷と呼ばれるものがある――シャングリ=ラ、桃源郷、常若の国、ヴァルハラ、etc、それらを具現化するのが現実を侵食する夢『霧海』。

誰もが夢見る理想郷、されどそれは『帰らずの森』、『魔の海』などとも呼ばれる死を内包した悪夢。

すでにその身はこの世になくとも、吸血鬼の一つに数得られるソレ。

吸血鬼の魂が運営する一つの世界……かつて海を、森を、大地を、国を霧で多い尽くし、世界に囚われた全てを食い尽くしたそれは、未だに魔術を永続させる吸血鬼の魂を葬るに至らない。

『百合の谷』、呪術師ヨセフ・リリエンタール卿が生み出した最悪の呪い、数多い中でも最悪の魔術災害がソレだった。

原因は不明だが、一説には吸血鬼の魂の睡眠時間と起床時間の影響によって数年ごとに発生して猛威を振るう。

「ええ、どうせそれも計算のうちだったのでしょう。ですが、貴方は敵です……この代償はいずれ頂きますから。では、失礼。せっかくの日本の夜、どうぞ楽しくお過ごしください」

唇を噛み締めた錬金術師は不愉快極まりない会談を途中で切り上げた。

その瞬間に手に持っていた銀の釘が神速を持って投擲されたのだが、銃を構えた二人の助手より速く神父が指を鳴らすと……その瞬間に彼の影から放たれた雷のような光が宙を舞う釘を打ち砕き、その完全な直撃軌道を無効化した。

背を向けて帰ろうとする錬金術師を撃とうとした助手を止めた老神父は去り際の彼女に向けて、返礼さえしたのだから……助手は流石に呆れるしかなかった。

結局、粘りに粘った上層部は自らの責任をうやむやにして、事件は全てなかったことになったのだった。




○○○○○




「なぁ……なんでそんなに機嫌が悪いんだ? 俺、何かしたか?」

俺の目の前に座っている金髪の錬金術師は実に機嫌が悪そう。

いや、見た目には普通だけど……よく会う人の小さな変化には以外に気付いてしまうものなのだ。

彼女は成分もよくわからない粉薬を水で飲むと、一呼吸おいて脱力したような口調で語る。

「別に……何もしていないと思いますけど」

「でも、機嫌が悪いわけだろ。てか、その薬って何の薬? 体でも悪いのか?」

俺の言葉に苦笑するアデット。

「機嫌が悪いと見ただけでわかる貴方は私に好意でも持っておられるのでしょうか? ああ、それと……この薬は媚薬ですよ」

「え? いや……媚薬、ってあれ、その……」

この人は一体何を考えてこんなものを?

「精神鍛錬の一環と言いましょうか。特に肉体的な欲望と戦うことは女魔術師にとって実に……難しいことでしてね。男性を前にして性感が高まるような状況、これに耐えることは苦しい。しかし、それに耐えてこその精神の成長がある……とか、我が家の始祖の師匠が申していました。その実演でしょうか」

……その、つまりこの人はアレか?

今、その……飢えていらっしゃる?

どこか霞がかった瞳で俺を見つめ、舌なめずりした。

「おい、何やってんだ。ちょっ、ふざけてるのか?」

その怪しい瞳は本当にいつもの彼女とは別人のように妖しく、俺がうろたえているうちにブラウスの第三ボタンまでを外してしまう。

彼女の黒い下着が覗く。

「フフッ――実に良い反応ですね。紅潮するだけで身動き一つしない……女に対する侮辱か、あるいはそれが若さというものか……甘美な快感を、貴方に」

俺の横に座ると、顔を寄せ、長い足を絡めてくる。

吐息が感じられるほどに近く、俺は緊張やら何やらで体が動かない。

「さぁ、私がほしいですか?」

耳元で、息が当たるほど近くから甘い声でささやく。

「あ、いっ……いや、俺は、その……」

彼女は俺の手を掴むと、無理やりに自分の胸に押し当ててしまう。

柔らかな感触が伝わる。

そこは本当に……鍛えているはずなのに柔らかな感触だった。

押し当てられても、クーラーが効いた部屋で汗びっしょりになるだけで頭の中が真っ白な俺は指も動かなかった。

「貴方、この私に恥をかかせるつもり?」

どこかいつもと違う口調、いつもより高飛車な気がする喋り方だった。

その言葉と共に軽く耳を噛まれ、唾液を振りかけた舌でねっとりと舐められたときには、何でこうなっているのかもわからない俺の頭は完全にオーバーヒートしていた。

「いや、そのな……あの、こういう場所で、そういうことをするのは……良くないんじゃないかと……」

絞り出すような声で、空いていた俺の手をスカートの中に導こうとしていた錬金術師に伝えた。

その瞬間、彼女の手は止まり……

「ンフッ――クフフッ、アハハ……面白い人ですよね、相変わらず」

彼女は俺の足に絡めた自分の足を解くと、さっさとボタンを直して俺の前に戻って腰掛けてしまった。

汗びっしょりの俺は彼女の行動がまったく理解できない。

「? いや……どういうこと?」

アデットは制服のポケットからICレコーダーを取り出して、さっきの台詞を再生して見せた。

当然ながらそれを聞いていて、彼女の魂胆がわかってしまう。

「一種の悪ふざけですね。あの薬は媚薬ではなく、ちょっとした調整薬でして……暇だったので貴方をからかおうかと」

悪びれもせずに語る彼女はいつもと変わらない嫌な錬金術師の顔をしていた。

「……悪ふざけって……お前、一応女なんだから考えろよな」

「やれやれ、私に魅力がなかったのでしょうか? それとも、先ほどの忍耐は貴方の日頃の修練の成果でしょうか?」

「知らないよ! ……さっきので、もし俺がOKとかしてたら……あれで何するつもりだったんだよ?」

「ああ、取り敢えず修練が足りないお仕置きとして、去勢した後、人間を辞めたくなるまで続く『脅迫ごっこ』でもしようかと。貴方は抜き打ち試験に合格したわけですから、別に責めませんが……はぁ、魅力がないというのは……流石に自尊心を傷つけられますね……」

全然傷ついている様子のない彼女、それを見ていて正直挑発に乗りかけていた俺は冷や汗をかいている。

もしも迂闊な言葉など発していれば、良いように編集されて脅迫の材料にされていたのはあの人の性格を考えれば日を見るより明らかだ。

「あ、ははは……魅力がないとかじゃなくて、俺の、その精神力が向上してるって事だと思うぞ」

「そういうことにしておきますか……優しい人、というよりもしや……男性として不能ですか? ああ、もしそうなら言ってくださればよかったのに。良い病院を紹介しますよ」

「――!? 違う、断じて違うからな!」

「ああ、そういえば常に魅了の魔術をかけているイフィリルを前にしても平気だったとか……いくら魔術の効果を無視したとしても、夜のうちは彼女に勝る美貌はありえないと聞きますから……ひょっとして、同性愛者?」

「それも絶対に違う! 俺は健全な男子高校生だ」

「これも違う……難しいですね。では、私のように特殊な……」

「絶対に違う、お前とは絶対に違うから」

「ああ、耳が痛くなりますからもう少し落ち着いてくださいね。必要なら、鎮静剤を投与しますよ」

「なら、余計なことは言うな!」

「はいはい」

ああ、結局合格してもこういうことを言われるんじゃないか……本当に性格最悪。

「……にしても、お前はさっきどうして機嫌が悪かったのか、それはまだ聞いてないぞ」

俺の言葉に、虚をつかれた格好の錬金術師は一瞬黙って再びゆっくり語り始めた。

「少し……故郷と母のことを考えていましてね……」

オカルト研究会の部室に置かれたソファーに腰掛けた彼女は、面倒そうに体を起こした。

「お袋さんのことを考えるとなんで機嫌が悪くなるんだよ。嫌な人だったのか?」

錬金術師は苦笑混じりにそれを否定する。

「さぁ……一般人的な見方では最低を通り越して児童虐待者、あるいは人格破綻者の誹りを免れないでしょうね。ただ、私はそう悪い感情は抱きませんでしたけど」

「おい、その話は矛盾してないか? なんでそんな人に悪い感情を抱かないんだよ?」

彼女の向かいに腰掛けていた俺も思わず聞き返していた。

人を虐めることが好きな人間が他人から虐められたらどれほど不快だろうか、それを考えてみれば彼女の言っていることは矛盾でしかなかった。

「……貴方が私をどういう人間と考えておられるのか、それについては後ほど伺いたいところですね。それは置いておきまして、何故私が彼女を嫌いでないか? 簡単なことです、嫌いになる理由が存在しないからですよ。私も似た様な事をしますし、彼女なくして私は存在し得ないわけですからね……」

どこか遠い場所を眺めるような目――彼女が普段何を考えているのかを理解できたことなどないが、このときは特にそうだった。

悲しそう? 別にそんなことはない。

うれしそう? それも違う。

強いてあげるなら……何も感じていない、というのが正解だろうとは思う。

「らしくないな。そういうことを考える奴だとは思わなかったよ、お前。そもそも、子供は親を選べないって言うかと思ってた。まぁ、これについては逆も言えるわけだけど」

そう、親も子を選べないよな……実際。

アデットみたいなのが娘だったら、俺もすぐに白髪になるんだろうな……

浅海とかでも結果は変わるまい……連中の親父さんがどういう精神構造なのかを知りたくなってくる。

「いえいえ、何か勘違いをなさっておられるようですが……まぁ、それはそれで構いませんけど。因みに、公明さんのお母さまもご存命ではないそうですが?」

「まぁ、そうだけど。魔術師、って訳じゃないから。そうだな……普通の人? それ以上でも以下でもないと思うけど。それで、お前の親って……どういう子育てしてお前みたいな娘を育てたんだ? 興味本位だけど」

「まぁ、どちらも存命ではありませんから、語っても意味がないと思いますけど……父については顔も、名前も、何も知りません。母は一言で言えば、私と同じような顔で、同じような性格の錬金術師でした。生まれたばかりの娘を人体実験台に使うような人、そういえば大体想像がつくと思います……姉妹はそれで死にましたけど。まぁ……後継者争いで私が殺すのに比べればその方がよかったですね、特に双子の片割れを殺すのは死に際の呪詛が怖いですから」

「へ、へぇ……そうなんだ」

いや、こんな重いこと軽く言われても……困る。

普通に考えれば、アデットの母親が殺人犯なのは間違いないが数百年前のことで時効だし、そもそも魔術師の世界のこと……俺の倫理観の外の法律があるんだろうしな……

仮に、外国人が起こした外国の事件を日本の法律で裁けないように、魔術師の世界のことを俺達の法律で裁くのもまた……無理っぽい。

ああ、こういう場合は、どう反応すれば良いのだろう?

何気なく言ったとんでもない言葉に……驚けば良いのか?

同情すれば良いのか?

笑う? その選択肢だけはとりあえずないと思うが……わからん。

それに、こいつの言っていることの半分は冗談で出来てるから本音かどうかも判断できない。

てか、姉妹までいたのか……そいつらが存命中だったらさぞかしとんでもないことになっていそうだけど。

「――そういえば、人を生き返らせることが出来る魔術師は存在しますよ。彼らに依頼して公明さんのお母さまを蘇生することも出来るでしょう……そうしたいと思いますか?」

「え?」

人を生き返らせる魔術師か……五大人形師のうちの二人は蘇生を可能とし、他にも別な方法での蘇生を行う魔術師がいるとか言ってたっけ……

突然の言葉に一瞬考えてしまう。

だが、結論としては……

「いや、そういうのは駄目だ」

「何故?」

「それは……もしも、お袋が生き返ればそれはうれしいかもしれない。でも、生き返ったお袋は俺達と過ごした記憶も、何もないんだぞ。戸籍やらなにやらも問題だし……作り物の記憶なんて貰っても、それは幸せとは違うだろ。それに、俺は突然生き返ったお袋と、その……うまく付き合えないかもしれないだろ。親父はまだ記憶を弄れるにしても、俺は……」

「フフッ、貴方は真理を知っていらっしゃる。私は……それに気がつくのに何年も掛かったものですが。貴方の仰るように、人が生き返ることはそれだけで不自然です。死なない人間など本来自然でないように如何に魔術を行使しても、生き返った人間が幸せかどうかまでは保証できません。ですが……もしもお望みなら、生き返らして差し上げたのに……ああ、しかし、玲菜さんは後何時間私を待たせるつもりでしょうね? 公明さんもわざわざ付き合わなくても宜しいのに、どうして帰宅なされないので?」

そう、今回は浅海が何やら教えてもらうことがあるらしかったので、それに興味を持った俺はここに居座っていたわけだ。

しかし、待ち合わせの時間を40分も過ぎて……本当に覚えているのだろうか?

すでに授業も終わって、部活も始まっているはずなのだから覚えていればすぐにでも来るはずなのだが。

「興味があるからだけど。別に良いだろ、一応部員ってことなんだし」

「は、こういうときには私の勝手を承認してくださるわけですか。少しは利口になられたではありませんか、師匠としてはうれしい限りですよ。部長としては身勝手な幽霊部員の存在は少し複雑ですけど……では、今度ロッジを主宰しようかと思うのですが、参加します?」

「ロッジ? なんだよ、それ」

「錬金術師が集まる研究発表会、のようなものでしょうか。もっとも、参加者は素人ばかりですから貴方でもきっと楽しめますよ……場所は、ここです」

差し出された地図、それを手にして記憶と照らし合わせてみる。

この場所は確か高級マンションが立ち並ぶ地域では?

「で、その研究発表会は素人ばかりなんだろ? どうして、お前がそんな無意味なことを? プロが素人なんて見ても笑い転げそうになるだけじゃないか」

「あらあら、考えが浅いですね。意外に思われるかもしれませんが、そういう場所でたまに才能がある人が発掘できるものなのですよ。今度推薦状を手にどこかの錬金術師の元に弟子入りする方が出るかもしれない……そう考えれば、裾野を広げる上で割りと面白いものでしょう?」

「あー、なるほど。確かにそれは良いかもしれない、でも俺は絶対に参加しないからな」

「ま、それはそれで構いませんけど……あら、漸くお出ましですか」

「ん?」

アデットがそう言ってから少ししてから俺にもかけてくる足音が聞こえてきた。

すごい地獄耳、迂闊に悪口もいえないなこんな調子じゃ……

そして、勢いよく扉が開いて茶髪の魔術師が登場した。

「はー、はー……ごめん。すっかり忘れてたわ」

予想通り、というか期待を裏切らない奴だよな、浅海は。

クーラーが作動していて実に快適な室内と違って、外からやってきた浅海は暑そうだった。

額に少し汗が見えた。

そのまま扉を閉めると、俺の横に腰掛けて一言。

「で、どうしてキミアキが一緒に? 用事があるのは私よ、貴方はさっさと帰りなさい」

いきなりこんなこと言われて……敵意さえ感じるのは俺だけだろうか?

だが、一々この程度のことで怯むわけにもいかない。

「そう言うなよ、俺もお前が何聞くのか興味があるんだ。別に良いだろ、減るわけでもないだろうに」

「減らなければ良いって物じゃないでしょう?」

一瞬、浅海の目が光った気がした。

正体不明の魔眼か……俺には効果がないらしいけど、結局何なんだろう?

仮に効果があればやばいものなのだろうか?

だとすれば、そんな物騒なもので何度も何度も睨まれてきた俺はこの先も本当に大丈夫かな。

「まあまあ……玲菜さんも一時間近く遅刻しておいて私への謝罪の気持ちが足りませんし、公明さんも野次馬根性のようなものでそう粘るものでもないでしょう。ここは私の独断ですが、公明さんも今回の講義に参加してもらって構いませんよ」

「ちょっ、アデット! そう簡単に素人に教えて良いの?」

「おい、素人素人うるさいぞ。これでも一応見習いなんだ、別に良いじゃないか」

「そういうことですね……今回の講義があるいは後の肥やしになるかもしれませんし、使えない人が聞いたとしても問題になるようなことではないでしょう。それに、免許もない私が他の術者に講義をするのは珍しいことなので、大目に見てあげてください」

人に教えるのに免許持ってないのかよ、この錬金術師は。

「……わかった。我慢する……だから、教えて」

渋々ながらも認めた浅海は大儀そうだった。

「で、何を講義する予定だったんだよ?」

「……バカ、死になさいよ。中身も知らないでそれって、あきれ果てるわね」

「バカっていう奴がバカだろ。お前が死ねよ」

「何ですって……誰に物を言っているか、わかって言ってるの?」

「あ、いや……いつもの乗りで、ちょっと……ごめん、許してくれ」

「いえいえ、楽しい講義になると私が話していたわけですから公明さんの責任とはいえないですよ。そうですね、『ルーン魔術』というものがあるのをご存知ですか?」

俺達の向かい側に腰掛ける錬金術師はソファーから立ち上がると、本棚に置いてあった一冊を手にとってこちらに渡した。

そこに描かれているのはミミズが這ったような文字……というか、完全に記号だな、これ。

『↑』やらなにやら、書くだけなら小学生でも出来るだろう。

「これが一般に『ルーン文字』と呼ばれるものです。実際は人の手で創られたものですが、伝承によりますと北欧神話の最高神であるオーディンが創造したことになっていますね……」

魔術と知識の神、戦の神、死の神……それがオーディンという神の顔。

彼は神槍グングニルを始めとする様々な魔法の道具を所有し、片目を失った代償として世界樹ユグドラシルの根元にあるミミールの泉の水で魔術を含めた様々な知識を得た。

一般には隻眼の老人の姿で語られる彼がユグドラシルの樹で首を吊り、グングニルの槍に貫かれたまま9日9夜の間、自分を最高神であるオーディンに生贄として捧げた結果として、ルーンを得たという。

故にその文字には力が宿るといわれ、魔術に用いられるのだとか。

「ふーん、これがルーンか……でも、こんなので長々呪文を書いたりするだけでも大変じゃないか? それとも読み専用の文字か?」

「バカね、本当にバカ……いい? ルーンはその形に意味があるのよ。基本は書き専用の文字に決まってるじゃない」

「煩いな。わかるわけないだろ、はじめてみたんだから」

「まあまあ、当然ながらルーンは読むことが出来ますから専用とかそういうものでもないですよ。それで、一般的に言われる『オーディンのルーン』は……救い、癒し、敵、解放、矢止め、呪詛返し、鎮火、宥め、航海、対魔、盾、死者、守り、知識、小人、情愛、貞節、最後……で、これらはオーディンが自らを生贄にした結果得たルーンといわれます。しかしながら、後世になりますと他にも有能な術者がいくつか追加したものもありまして、その数はかなりの物になりますね」

本の上に書かれた文字を見ていると、何故俺にも描けそうな落書きみたいなのが力を持っているのかさっぱりだ。

「で、アデットは教えてるわけだから使えるのか?」

「いいえ、正直に申し上げましてあまり使えませんね。これは天性の才能が物を言う魔術ですから、私のようにこの分野に疎い人間にはあまり……玲菜さんは『オガム』というケルト版のルーン文字の話をお聞きになりたかったのですよね?」

「ええ。我が家の魔術に新しいレパートリーを開拓しようかと思ってね……つまり、私によって創始されたっていう分野が欲しいのよね。そうすれば、永遠に名前が残るでしょう?」

「……」

こいつ、本気で魔術師としての知識欲だけから言ってるのか?

この発言から考えればわかるけど、絶対に目立ちたがりの性分が原因だと思う。

「それで、たしか基本はルーンと同じなんでしょう? 文字はわかってるから、詳しい部分を聞きたいのよ。アデットはオガムの方も詳しくないんでしょう、ルーンで良いからそのまま続けて」

「では、お言葉に甘えさせていただきますよ。何しろ、故郷ではオガムなど使いこなせるドルイドには会ったこともありませんでしたから……で、少々実演して見せましょうか」

そういうと、机の上置かれていた紙を取って戻り、それをテーブルの上に置いた。

ソファーに腰掛けると、再び語り始める。

「ルーン魔術の素晴らしい点についてお教えしましょう。この魔術の本質は長い詠唱などを行うことではありません。この魔術の本質は如何にうまく効果的な位置にルーンを刻むか、その一語につきます。見ていてください、まず最初の術式は『刻印』、つまりこのようにルーンを対象に書き込むことです。この際は自分の血などを用いれば良いですね」

「おい、ちょっ……何やってんだ」

アデットはナイフを取り出して躊躇いもなく自分の手の平を切り裂き、そこから溢れる血で紙の上に『↑』を書いたのだ。

それがあまり急だったので驚いてしまった。

浅海はまるで動じる様子さえなかったのに、俺ばかりがおろおろしてしまうのも恥ずかしい。

「最初に刻んだ刻印の位置、これが重要です。力の基点になりますからね……今回は、まあ私にしては良い方でしょう。次の工程は『祈祷』ですが、その前に申し上げておきますと『解読』、『染色』、『試行』を理解しておく必要があります。要するに用いるルーンの意味を理解しているか、ということです。今回の場合、私が刻印したのは『テュールのルーン』、勝利のルーンです。このルーンは武器の強化に用いられ、武器に直接刻み込むことが最も効果的です。そして、この発動条件ですが、今回は『祈祷』と同じで『テュール、テュール』と唱え……玲菜さん、血を少しこれに」

ナイフを渡された浅海は、それを使って指先を少しきると、数滴の血を紙の上に垂らした。

「これでいいの?」

「どうも。これは一般に『供養』と申します、生贄を捧げることですね。このルーンは敵の血を受けることが必要でして、実際に殺していないので、効果は薄いと思いますが……」

なにやら、口元が細かく動き詠唱が行われた様子。

「『葬送』、生贄を確実に捧げたことになりますか……これで儀礼は終了。見ていてください」

紙を持って立ち上がると、縦にしたまま壁に叩きつけた。

その瞬間、わずかだが突き出された先端が……壁に食い込んでいた。

「あらあら……やはり私は才能がありませんね、文字の位置が悪かったのでしょう。と、まあこのような形で行われまして、今回私が行ったのは魔力の少ない人が節約しながら行う場合、またはイフィリルのような人が武器に魔術をかける方法の一つです。自分の魔力を使う、つまり自分を生贄に使う場合、先ほどの工程をいくつか省けますから即効性のあるものだと思いますよ。そして、最後に忘れてはいけないのが……『破壊』です」

さっと、紙のルーンに触れて、いらない線を血で付け足した。

その瞬間にまるで下敷きみたいに真っ直ぐになっていた紙がただの紙に戻ってしまった。

紙を引っ張ると、それは無様に破れ、壁に突き刺さっていた部分だけがそのままそこにとどまっていた。

「……すごいな、それ俺にも使えるか?」

「いいえ、本を使うだけの公明さんには荷が重いですよ。ですが、ルーンは要するにとても簡略化した上でなお力を秘めた式の一系統でして、数十小節、あるいは数十分を必要とする魔術もたった一文字で行える可能性がある反面、実に扱い辛い。一流のルーン魔術師は世界にもそう多くないとか……玲菜さんのオガムの腕が如何ほどかは存じ上げませんが、私以上であるのなら北欧で誰か有能な師を探されることをお勧めしますね。記憶が確かなら、ルーンの元老シグルドリーファ卿がフィンランドかどこかに隠棲中だったと思います。あのご老体に入門叶えば私のような三流などすぐに乗り越え、一流の使い手になれるかと。宜しければ、推薦状は用意しますけど」

「ありがとう……でもね、その日はいつ来ることやら……それに、まだ私はかじったばかりで全然よ。貴女の話が本当に新鮮だったくらいだから」

「うれしいお褒めの言葉ですね。ですが、私はルーンを使う方法の一つを示したに過ぎません。詳しい術者ならいくつも他の方法を示すことでしょう……玲菜さんがあるいは自力でそれに辿り着けることを願っていますよ。ですが、才能がないと思われたらすぐに止めることをお勧めしますね……これは後で研究したらよくなるというものではありませんから。頂点を目指すなら絶対に才能が必要です」

破り取った紙をゴミ箱に捨てたアデットは、テーブルの上の本を片付けると再び席に戻った。

「……なぁ、文字を書くだけなら俺でも出来ないか?」

「無理、と申し上げたはずですが。それに、貴方の特異体質は私からすれば、いいえほとんどの魔術師からすればルーンを完全に身に着けることより遥かに意義深い。ファティーフ殺しの素人の名前はイフィリルが誇りにかけても漏らさないでしょうが、漏れれば貴方を解剖したいという人はいくらでも沸いてくると思いますけどね……実は私も日々その欲望を抑えています。我慢できなくなったら、殺すかもしれませんのでお気をつけあれ」

容赦のない人だよな、本当に。

少しでも望みがありそうなことを言ってくれても良いのに……

「それ、俺にとっては全然ありがたくないから。いや……本気で俺を殺そうとしてるのか?」

「どうでしょうね? まぁ、天は二物を与えず、といいますからちょうど良いのでは? 私など、素手で戦えば玲菜さんほどでもありませんし……正直、魔術が効果をなさない貴方に攻撃する術などそれほどないのでは?」

「そうかぁ? お前なら拳銃でも引っ張り出してきそうだけど……兎に角、俺はさっきのルーンとか、アレくらいなら出来そうな気がするんだけど、本当に無理なのか?」

「フフッ、公明さんはルーンの破壊の仕方だけ覚えていただければそれで結構だと思いますよ」

しかし、なんだか納得の行かない俺がいる。

あの程度のことなら、絶対にできると思うのだ。

「なぁ、だったら俺がここに書いて欲しいって場所にお前らが刻みつけるってのはどうだ? 刻む場所を考えるのが才能なんだろ? だったら俺にもあるかもしれないじゃないか」

それを聞いて、笑うのかと思えば二人は割りと真剣にその願いについて考えてくれた。

そして、少し考えたあと……

「そうですね、確かに見る前から才能を判断するのは良くないかもしれません。どうでしょう? 玲菜さんが選んだ場所に私が書いたものと、公明さんが選んだ場所に私が書いたものを使って比べてみますか?」

アデットのそれはなんともありがたい提案だった。

「ええ、確かにそれは面白そう。書く場所を選ぶだけなら魔術も使えないキミアキとでも勝負できるしね。じゃあ……さっきのアデットのを記録にして、アレと比べてみましょうか」

「壁を穴だらけにされるのも困りますから、今度はレンガ割りにでもしません? 因みに私の最高記録はトランプでのレンガ半分切断です」

「じゃ、負けた奴がこれから夕食でも奢るってことにしましょう。当然、アデットもその半分記録で参加ね」

と、あれよあれよという間に話は進んでいった。

何でもアデットはこの魔術が得意ではないから、見ただけでその出来を判断しかねるらしいので実際にレンガをトランプで切りつけることになった。

そして、俺も渡されたトランプの中の一番力を込めやすそうなところを勘で探り当てて、その場所に鉛筆で印をつけた。

アデットは二人が選んだ箇所に対してさっきと同じルーン魔術をかけた。

そして、これから誰が最も場所を選ぶ才能があるのかを競う戦いが始まるのだった。

「じゃあ、私から行くわよ。このレンガね……よし!」

気合を込めて手に持ったトランプを一度レンガに当て、そして腕を上げると一気にレンガに向けて振り下ろした。

因みに、このトランプはマークがプリントされた面が、ハードカバーの本程度のサイズで普通のものよりだいぶ大きい。

強化されたわけだから、それが当たればレンガに多少ひびが入るのではないかと思った。

瞬間、まるでガラスが砕けたような音が響き渡り、手に握られたトランプが破れて宙を舞っていた。

「……私の負けですね。レンガは見事に切断されています、実に良いセンスをお持ちのようで……羨ましいですよ、玲菜さん」

アデットがそう言ったとき、同時に俺も視線をレンガに戻していた。

宙を舞ったトランプは破れてしまっていたが、レンガは確かに二つに切られていたのだ。

しかし、これは……浅海のセンス云々と言うよりは半ばあの化け物じみた腕力の賜物ではないかと思うのだが……だって、トランプは破れてた訳だし……レンガは確かに切断されていたが、その下のコンクリートも砕けてるからな……アデットとどっこいだと思うぞ、実際は。

「では、真打ご登場……公明さん、魔術の素人がどれほど的確に基点の位置を決められるのか、興味深いデータですので好成績を収められることを願っておりますよ、クスクス……」

「煩いぞ、アデット。トランプを振る浅海がミスったらどうするんだ。黙ってみてろよ」

「はいはい。わかりましたよ、旦那様」

相変わらず性格の捻じ曲がった女だな、この人は。

「そうね、これで負けたら……キミアキの財布パンクさせてあげるから安心しなさい」

おいおい、それだけは冗談じゃないぞ。

しかし、そういう言い訳を聞くつもりなどなさそうな浅海はトランプを手に取り、新しく用意されたレンガに狙いをつける。

この際、浅海の腕力がそのままレンガを砕いてくれることを願うしかあるまい。

ただ、その奇蹟を信じて俺は目を閉じた。

そして、振り上げられたトランプの剣がレンガを打ち抜く瞬間に目を開けていた。

それは奇蹟、そうとしかいえない……トランプは破れもせず、ただ床まで豆腐を包丁で切ったみたいに綺麗に切り裂いていたのだ。

唖然としたのは持っていた浅海とアデット、そして一番驚愕したのが俺。

「……」

「……」

「……公明さんの勝ちですか……まったく、魔術師でないことが惜しいですね。いえ、貴方が持つ特異体質、魔術師でないことが原因で気がついたのでしょうけど……本当に、貴方は位置を見抜く才能だけは私など比べ物にならないほど豊かなようです。そんな奇蹟はシグルドリーファ卿に見せられて以来ですよ……」

「あ、ああ。俺も驚いてる、でも、偶然かもしれないだろ?」

「偶然? バカね、そんなことありえないわ……基点の位置はそう単純なものでもないの。あーあ、魔術も満足に使えないのに負けるなんて……キミアキ、私自信なくしそうよ、本当に」

トランプエクスカリバーに刻印されたルーンを見事に消し去った浅海は、脱力した表情でソファーに腰掛けた。

アデットも、本当に複雑そうな表情だった。

「本当に惜しい、位置を見る才能はあるのに使えないとは……猫に小判、その諺の通りです。いっそのこと、お二人で練習などされては? 玲菜さんも公明さんほどではないにしろ位置を見る才には恵まれているようですから、公明さんの指摘されるポイントと比べていけばその極意に辿り着けるかもしれませんよ」

「ちょっと、そんなことまでペアを?」

「組め、と命令しているわけではありません。提案しただけです」

「そうね……どう、キミアキ?」

こちらを向いた浅海と目があった。

なんだか彼女が俺を見る瞳から俺を見直した感じがするのは気のせいだろうか?

「どうって聞かれても……別に俺には使えないわけで、俺が場所を考えながらお前が実際に使う、なんてのはいつまでも続かないと思うぞ」

「いいのよ、練習のときだけ聞ければ。で、どうなの?」

「んー、まぁいいけど。でも、浅海の家には行かないからな。工房なんて、勝手に入っても良いことなさそうだし」

尤も、この部屋自体が錬金術師の工房ではあるが。

しかも、その本人は機会があれば殺してやりたくなるかもしれない、などとこの上もないほど恐ろしいことを言ってくれるのだから難しい。

まぁ、それは流石に冗談……だと思う。

「じゃ……奢ってくれるのよね?」

「仕方ありませんね。それに、私も……お腹が減りました。奢りますけど、何処で食べましょうか?」

「私はね、エーデルシュタインへ……」

「それでも構いませんが、今度はもっとおいしい店を紹介しましょう。それと、公明さん?」

「ん?」

部屋を出ようとした俺に語りかけた錬金術師。

浅海はさっさと部屋を出て行っていて、今は俺と彼女しかいない。

「今度、隣の県で『霧海』という理想郷が見られるそうなのですが……一緒に見に行きませんか?」

「? よくわからないけど、遊園地なら別に良いけど……」

「ええ、では……約束ですよ」

「ああ」

その意味有り気な笑いはすぐに気にならなくなったが……少し空寒い思いがした。

ただ、俺達はそのまま錬金術師の奢りに預かり、ある夏の日を過ごしたのであった。








[1511] 第二十話 『銀狼奇譚』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 22:05



 
『あ、お父さまですか。わたくし、レナです……ええ、今こちらは夜の7時を少し回ったところですわ。そちらのご都合を考えずにごめんなさいね、わたくしもう少しお電話の時間を早めようとしたのですけど、アーデルハイトさんが例の呪いの新しい糸口についてお話くださったのでそれに時間がかかりましたの。本当にあの方はわたくしによくして下さって、お婆さまのご慧眼に間違いはございませんでしたわ――』

俺が見ている前で国際電話をかけているのは黒いネグリジェ姿の浅海、この人は本当にどうしてこう……性格に似合わずフリフリなのを着たがるのか?

ここは彼女の家――俺の家から30分以上は自転車をとばさなければならないような場所にある古い、小さな洋館、その地下室の中央に置かれた縦横二メートル近い奇妙な箱型のガラスに覆われた『大豪邸』の中なのだ。

外から見える洋館はアデットの話とはだいぶ違う、どれだけ広く見積もっても60坪に満たないの土地に立つ家だった。

部屋もそれほどなく、家具も実に質素なもの……家に来た人がいればそれを見たとしてもこの家が特に金持ちとも思わないだろう。

だが、このガラス内の大豪邸はどうだろう? 恐らくアデットが言っていたのはこちらなのだろうが……俺の家くらい? 冗談じゃない、絶対にもっとでかい!

まずは邸宅の周りの庭、というよりもすでに森という周囲の大自然は数キロ先まで木しか見えない。

電球が一つだけの、暗いはずの地下室の中なのに月が昇り適度に明るく、何も手を加えなければ昼間に太陽が昇り、雨も雪も外と同じに降る。

ガラスの容器の中なのに川が流れ、森からは獣の鳴き声も聞こえてくる、その中央に立つレンガ造りの豪奢な邸宅はまさに貴族の住まい。

それはまさに魔法としか形容することが出来ない、体積や質量をまるで無視した異空間に建設されたマクリール家という魔術師の創り上げた研究成果の一部は、ガラスの箱から延びた電話線や電気コード、水道管がこの家の明かりや水道を補っているらしい。

しかし、こんな地下の一室に大豪邸を作り上げているとは誰が思うだろうか? しかも、豪邸が必要とする電力などは全てコンセント一つで足りて、蛍光灯くらいの電力しか使わない。

ほとんどタダで、まるで海外のリゾート地に立つ富豪たちの城のような邸宅での暮らしを再現できるとはうらやましい限り……コイツは、どうして俺の家になんてたまにやって来るのだろう? 疑問だ、疑問以外の何者でもない。

『ええ、わたくしもお父さまにお会いしたくて、本当に毎日涙を流すような思いで過ごしておりますわ。お母さまはお元気かしら? お爺さまはドイツからお戻りに? パトリックは? もう、そう云う事ばかり……プレゼントですか? わたくし、決して多くは望みませんわ、ええ、ほんのアレクサンドライトのリングと2万ユーロほどのお小遣いだけで結構ですわ――え、すぐに用意してくださるの? ありがとう、お父さま! 愛しておりますわ、それではお休みなさいませ』

何を話していたのか、こっちにはまったくわからなかったがガッツポーズをとっているところを見ると何かしらうまくいった様子だ、この前やってたワールドカップの優勝国を当てる賭けに勝ったのだろうか?

アデットはなにやら贔屓のチームが振るわなかったらしく、かなり面白くなさそうだったが浅海は毎日大騒ぎしてたからな……いくら買ったんだろう?

『あーははは、最高! 賭けにも勝ったし、おねだり作戦は成功したし、もう言うこと無しね! ほんと、この調子で今度は車でも買ってもらおうかなー』

電話を元に戻すと、勢いよく椅子から立ち上がった美少女は指を鳴らして喜びを爆発させた。

何を言っているのかよくわからない俺にも、その喜び方からすごく良いことがあったのは予想できた。

しかし、何かを思い出した様子で再び電話を片手にすると、またどこかへ国際電話。

『こんにちは、こちらレナですわ……ええ、アイルランドの――それで、この前の賭けの賞金全額をわたくしの投資に追加していただける? ええ、それについては我が家の代理人をしていらっしゃる弁護士のジャック・マクナマラにお聞きしていただければわかりますわ。番号は○×○○○-×××、ダブリン市内の番号を探せば住所もわかりますから、よろしく。それで、わたくしの投資利益についてはケイマン諸島の口座にいつものようにお願いね、ええ……おほほ、わたくしこそ貴方のことは素晴らしい運用屋とかっていましてよ、ではさようなら。あー、言い忘れていましたけど、お父さまかお母さまにこのことを話すようなヘマをされたら……全資産を他へ移しますからそのつもりで。ふふ、怖がらないでくださいね、これでも本気ですから。それでは、今度こそさようなら』

今度こそ完全に用事が終わったのだろう、電話を戻すと椅子を立ち上がり、コーヒーをいれた。

そして、そのついでに書棚から本を一冊とると再び机に戻ってそれを読み始める。

「おい、新入り。飯食わねえのか?」

突然聞こえた声に、そちらを振り向くと黒くて大きな体の『犬』。

浅海の使い魔というその黒い犬はよく手入れされているのだろう、光沢のある上品な毛並みの狩猟犬で足も長く、1メートルを大分超えるほどの大きさで、首輪はしていない。

その犬が俺に差し出しているのは、明らかにドッグフード……

「なあ、アンタ。俺、この部屋につれてこられたときから言ってるだろ? 俺は人間だって!」

それを聞いて、明らかに馬鹿にした様子の犬は鼻で笑った。

「へい、ブラザー……頭大丈夫なのか、あン? 野良なんてやってると、ヤバイ物にでも簡単に手を出しちまうのはわかるがよ、自分を人間だっていう犬はお前さんが初めてだぜ。ラリッてんのなら、まあ……なんだかな」

「だーかーら! 俺は篠崎公明って言って、浅海の知り合いの魔術師見習いなんだって! それで、目が覚めたら何故だか道端に寝てて、たまたま通りかかった浅海が捨て犬と勘違いして俺をここに運んできたんだよ!」

それを聞いて、犬はケタケタ笑い続けた――笑う犬……実物を見ると、なんて腹の立つ奴だ。

「おいおい、なんでお前がマスターの名前を知ってるのか知らねえが……確かに、そいつは傑作だぜ! うけるよ、俺が新米ヤロウにここまで笑わされたのは初めてだって言うくらいにお前面白いよ」

「ああそうですか! ……なぁ、アンタ」

「アドルフだ。一応この街の裏仕切ってる顔役だからよ、困ったときは相談しな。それで、新入りは……公明だったな、あっはははは!」

このクソ犬……流石に飼い主があれだと、使い魔もこうなるよな……しかし、コイツは飼い主以下かもしれない。

それに、裏って……犬社会のことだよな? なんだか、マフィアっぽいんだが……気のせいということにしておこう。

「……で、アドルフ。アンタ、使い魔なら浅海と話せるんだろ? 俺のことをちゃんと話してくれれば、何とかなるはずだからアイツに話しかけてくれないか?」

腹がよじれるくらいに笑っていた犬は体を起こすと、まだ笑いの残った顔で俺の頼みに対する答えを発した――しかし、なんだ……どうして、いや、今俺が犬になったからかもしれないが、こう……犬の感情がよくわかるのもかなり複雑だ。

「ブラザー、マスターに話せっていうがよ……あのガキ、そもそも犬の言葉がわからんでもないんだぜ」

このクソ犬、この上俺をからかおうという算段か? 如何に浅海が魔術師とはいえ、動物の言葉までわかるとは思えない! そもそもアデットも確か動物の言葉はわからないといっていたのだから、可能だとすればそれはよほどの特殊技能のはずなのだ。

「嘘吐け! 俺の知ってる魔導師だってそんなこと出来ないって言ってたんだぞ」

「そりゃそうだ。それが当たり前ってもんだからな、でも、あのガキはちょっと特別なのよ……何しろ、化け物みたいに綺麗な狼に化けやがるからな。お前は知らねえだろうが、俺は痺れたね……小便臭い人間のガキだとばっかり思ってたが、ヤロウ……信じられねえ位に犯りたくなっちまうぜ。保障する、あれを見れば他の牝なんてどうでもよくなるってな」

「……」

浅海……お前の使い魔、かなりイタイ奴みたいだぞ……っていうか、お前、狙われてる。

呆れた顔で見ていたせいだろうか、アドルフの奴は流石に笑うのを止めて、咳払いをすると真面目な顔に戻った。

「ブラザー……もし今のこと、マスターが俺たちの言葉を理解できるときにばらしやがったら……打ち殺して、便所に流すぞ。覚えとけ!」

その上、この不良じみた使い魔はあからさまに恫喝してきやがった……ますます真実味を帯びてきたマフィア疑惑だが、犬ならまだ可愛いものだろう。

何たって浅海の地元はアイルランド……アイリッシュ・マフィアといえばアメリカでも結構危ない連中だ、尤もそれは俺の先入観だけど。

「その……なんだ。アンタが勝手に自爆したのは構わないけど、結局のとこ……浅海はいつ俺達の言葉を話す気になるんだ?」

「知らねえよ。気分ってやつだろ? 人間はよく言ってる、気分が乗らない、とか何とか……ただ、俺はこんなことも出来るから、そんなのはどうでも良いんだがな」

そう言うと、横に座ってドッグフードを食べていたアドルフの体が人間のように立ち上がり、その犬の顔がだんだんと人間の男のものに変化していった。

犬のときの上品な感じとは違う、山男のようにワイルドで毛深い40代くらいの、筋肉質の小男。

黒いタキシードを着ていて、よく映画で見かける如何にも執事のような服装だった――ただ、この服装は明らかにこのおっさんには似合っていなかったが。

『レナお嬢様、今日お嬢様が拾ってこられたこの犬、どうなさるんで? まさかここで飼うつもりですかい?』

何か聞き取れるのだが意味のわからない言葉で、コーヒーを入れて読書を始めていた浅海に話しかけたアドルフ。

面倒そうに開いていた本を閉じた浅海は、男を目の前にしてもネグリジェ姿の体を隠すこともなく、平然とした態度で対応した。

『何? まさかこの私に文句でもあるの、貴方』

『いいえ、滅相もありやせん。お嬢様の仰ることが全てでさあ……ただ、どうもあの新入り、ちょっと……頭酷く打ったらしくて、自分が人間だとか訳のわからないことを言ってやして……正直、俺もああいうイカレタのと一緒に暮らすのはきついんで、何とか考えてもらえませんか?』

『自分が人間? へぇ、そんな事言うのがいるんだ』

『へえ、左様で』

何か言った後、急に無表情になった二人はじっと見詰め合ってしまった。

まるで時間が止まったかのような瞬間だった。

『……』

『……』

しかし、緊張は一瞬だった。

『あははははっは、ふははは!』

二人のバカ主従は大爆笑、それは言葉がわからないこの状態でも完全に理解できる。

最低だな、こいつ等。

『あー、苦しい。本当に、そんな馬鹿な犬もいるのね。私、そんな事言うのは阿呆な飼い主が人間みたいに飼ってる、堕落しきった軟弱者だけかと思ってたのに、まさか野良でいるなんて、ほんと傑作だわー』

『まったく、俺も最高でさあ。アーデルハイトの姐さんもきっと爆笑されるでしょうよ』

『かもねー。でも、アデットは言葉わかんないから……じゃ、私がちょっとあの子と話してあげるわ』

何か言った浅海は席を立って、床に座っている俺のところに歩いてこようとしていた。

そのとき、急に何かの音楽が流れてきた――まるで警報のようだ。

『あ、お風呂がはいったみたいね。アドルフ、私、ちょっとお風呂だから服とタオルを用意しておきなさい』

『へえ、かしこまりました』

浅海は俺の目前まで迫りながら、急に方向転換。

部屋の扉を開けると、外へ出ようとした――よくわからないが、このまま浅海を行かせると俺が元に戻るまで時間がかかることは明白だ、絶対にこの場で俺の話を聞いてもらわねば!

駆けた、浅海に向かって慣れない四本足走法で駆けた。

『? 何、私に用があるのならお風呂の後にしなさいよ。まったく……アドルフ、この子いくつくらいの男の子なの?』

俺が足元にまとわり着いたせいで、風呂場までいけなくなった浅海が後ろを振り向いて自分の執事兼使い魔にきいた。

『はぁ……人間の年に直すのは難儀ですが、恐らくレナお嬢様と同年代くらいだと』

『ふーん。自分が人間だっていう男の子で、私と同年代ね……ひょっとして自分が人間だと思ってるから私に欲情でもしてるの?』

内容はわからないが笑いを含んだ言葉だった、コイツは確実に俺の今の事態に気がついていない。

『あはは、だとしたら笑えやすが……ヤロウ、お嬢様に気があるんじゃなくて、拾って飯まで恵んでくださったお嬢様に感謝してるだけでしょう』

『ああ、なるほどね。確かに、そういうこともあるかもね……あら、ちょっと汚れてるわね。よく見れば、埃や泥でちょっと汚いわ……仕方ないわね。家を汚されるのは嫌だし、お風呂で私が洗ってあげましょう。アドルフ、この子を拭くタオルも用意しておきなさい』

『へえ、了解でさ。ですが、お嬢様』

『ん?』

『……ヤロウに気があるなんて仰らないでくださいね』

『……あはは、私が犬に気がある? んな訳ないでしょう、それって変態よ。本当にしっかりしなさい、貴方は私の使い魔なのよ。私の心くらい読みなさい。わかったら、さっさと用意する!』

そう言うと、俺を腕に抱えた浅海はそのまま廊下に出た。

木目張りの実に味のある廊下にはどこかの美術館にでも飾れそうな絵が何点か掛かっているが、大部分は絵の右端に彼女のサインがあることから本人が描いたとわかる。

確かに他のものと比べると数段落ちるのは仕方ないが、それでもどこかの美大で勉強でもしなければ描けないと思うほどのレベル。

色彩豊かで写実的な風景画はアイルランドの城や森、彼女自身、厳しい表情の老婆といった身近なものばかり……それなのに父親や母親、友達の絵さえないのは魔術師としてほとんど閉ざされた世界から出たことがなかったことが原因かもしれない。

想像に過ぎないが、俺は絵を見てそう感じた……日頃見る彼女のわがままや馴れ馴れしさは人との付き合いの少なさが原因……だと思えば、なんて気の毒な奴なのだろう、という同情が心に芽生えた。

きっと浅海はそんな俺の気持ちなど笑い飛ばすだろう、それでも俺は寂しさを寂しさと認知できない彼女という人格に同情する。

『あら、急におとなしくなったわね、貴方。何? 私の絵、犬にもわかるの?』

何か言いながら浅海は階段の下の部屋に入るとそこの電気を点灯させた、古いインテリアの邸宅の中でこの部分は実に近代的だった。

『さあて、貴方は裸だから良いけど、私は脱がないといけないから少し待ちなさいね――』

浅海が何を言っているのか俺にはわからない、それは本当。

次の瞬間、浅海の奴は急に服を脱ぎ始めた!

いや、風呂に入るのなら服を脱ぐのは当たり前だがいくらなんでも急にそんな……眼を閉じる前にちょっと、いや、かなりその裸が見えた……ヤバイ、どう言い訳すれば良い?

衣擦れの音がした、いつもよりその音がよく聞こえたのは犬になっているからかもしれない。

音だけで想像出来てしまう自分の妄想力はなんて罪深いのだろう?

『さて……と。あら、何、本当に自分のこと人間だと思ってるのね、貴方。ちゃんと眼まで閉じて、レディに対する態度がわかっていて大変よろしい』

何か言ったあと、急に浅海が俺の頭を撫でたのはすごくびっくりした。

しかし、驚きながらもしっかりと眼だけは閉じていた。

『でもね、私も犬に見られたからって怒ったりしないんだけど……まぁ、照れるような変わった犬もいるのは面白いけど、ほら、目を開けていいのよ』

何を言っているのかわからないが、取り敢えず目だけは開けるつもりなどない。

開ければ後でどんな言い訳をしても、相手にどれだけ落ち度が会っても俺は許してもらえそうにない。

つーか、死んでしまえば許してもらっても仕方ないわけで……ここで目を開けると、俺をこっちの世界に繋ぎとめている大事なものが消えてなくなるのだ。

『……仕方のない子ね、人間のままだと目も開けてくれないのかな? ……じゃ、狼なら良いわけ?』

目の前でわずかに風が巻き起こった気がした、すごく嫌な気配が……背中の辺りを突き抜けていく。

古傷が痛むような嫌な感覚、目を開ければ叫びだしそうな気配、この迫力はいつかの夜に感じたものに酷似していた。

「ほら、目を開けても大丈夫よ。今、人間の姿じゃなくて狼だから」

それはいつもより若干ソプラノのような気がしたが、浅海の声に間違いなかった……何しろ、この家にいるのは浅海とあのオッサンだけなのだから間違えるはずもないのだ。

いや、取り敢えず眼を閉じているうちに自分のことを告げなければ、この先の寿命が失われてしまう!

「あ、あのな、浅海……俺の話を冷静に聞いて欲しいんだ。冷静にだぞ、冷静に……頼むから、いきなり怒ったりするなよ」

「? 気のせいかしら、貴方の声って……私の人間の知り合いによく似てるのよね。それに……どうして私の名前を知っているの? ……嫌な予感はするけど、一応、貴方の名前を教えてくれる?」

「あははは、いや、そんな怖い声出さないでくれよ。冷静に話し合わないとよくわからなくなるから、兎に角、冷静にな? いいか、本当にパニックになりそうなのが俺だってわかってくれよ……俺は篠崎公明だ」

一瞬、相手が『へ?』といったのが判った気がした、とても間抜けな声だったがそれだけに嵐の前の静けさということもある。

「……キミアキ? あの、アデットの弟子のキミアキ? アヤネによく投げ飛ばされてたり、バカみたいに扱かれてるあの……」

コクリ、首が縦に動いたことで相手の疑いと笑いを含んだような声が急に掻き消えた。

氷河さえあっという間に氷解してしまいそうなものすごい熱を感じた、浅海の顔が真っ赤になったのだろう……これは危険などというレベルではなくなっている、目の前にいるのは華奢な女の子どころか凶暴きわまる人狼なのだからそれも当然だ。

「怒るなよ、そして殴るなよ。俺にもよくわからないし、ずっと眼は閉じてたからな」

沈黙が長く続く。

「ふはっ」

沈黙の中でなされたのは小さな笑い。

「……ふは、あはははは……」

あー、やっぱり壊れた、のだろうか? 

ピントの外れたような氷の冷たさを含んだ笑いだった。

「アハハハ、貴方は今まで私の家に居たのよね? アハハ」

「いや、だからそれはお前が勝手に連れてきたから……」

「居たのよね? フフ」

「ああ、でも俺はちゃんとお前の使い魔に伝えるように言ってたし……」

「見たのよね? 見たんでしょう、私の私生活、見たわよね! 違うなんていってみなさい、その首へし折って川に投げ捨てるわよ」

「見はしたけど……人間の言葉はよくわからなかったし、お前がその、ネグリジェ姿で電話してたところしか……」

「アッーハハハハハハハッハハハハハ! どうして貴方がここにいるの? どういう魔法を使ったの? アデットの差し金かしら? どちらにしても貴方、今すぐ死んで。ほら、さっさと死んで。私のために死んでよ」

「あはは、いやー。冗談きついな、浅海さん」

俺も笑いながら相手に答えた。

「ハハハ、冗談? そう、貴方にとってこういうのって冗談なの」

もう真っ赤になっているはずの浅海はそれでも笑いを崩さない。

「言っておくけど、このままだと『エクスター公爵の娘と結婚する』選択肢しかないから……慎重に答えなさいよ」

エクスター公爵って誰? ましてやその娘となんで俺が結婚なんてする?

「アハハ、だから、俺は目が覚めたら道端に転がってて、どうしてだかよくわからないけど……お前が俺を拾ってここに連れてきたんだよ。でも、俺は何度も言ったからな、ちゃんと俺は篠崎公明だって叫んだし……それより、エクスター公爵ってお前の親父さん? その娘ってお前か?」

次の瞬間は鋭い刃と化した声、この人はマジで怒ってる。

「は? 訳の分からないことを……目が覚めたら突然? 馬鹿じゃないの、そんな言い訳何処を探したら思いつくのよ、その程度の低い脳みそは本当に飾りなの? え!」

頭をゴツンと殴られた、猫パンチみたいなものだったが人狼の馬鹿力のせいで滅茶苦茶痛かった。

「つぅー! 止めろよ、痛いなー。このバカ女!」

頭に手をやると、そこにタンコブが出来ているのがわかる。

「馬鹿ですって! 満足な言い訳も思いつかないくせに……そうね、教えてあげる……『エクスター公爵の娘』は十六世紀にロンドン塔の城守をしていた三代目エクスター公爵が考え出した拷問機のこと、『結婚』っていうのはそれにかけられることなの……お分かり? この家、そのレプリカが置いてあるのよ。もう一回でもふざけた事いうと、貴方にどれほど効果があるか実証してもらうけど? 早く人間に戻りなさいよ、犬の格好なんてして……この私を馬鹿にしてるのなら、本当に許さないんだから」

「冗談じゃない、拷問なんてしなくても俺は本当のことしか言ってないって! 目が覚めたら本当に道端に倒れてて、どうしてだか分からないけどこの体から元に戻れなくなったんだよ! いいか、例え腕をへし折られたってそれ以上の説明なんて出来ないからな」

大声でそれだけ言うと、流石の浅海も一瞬考えた様子だった。

短いながらも思考があっという間に結論を導き出していたのは彼女の天才によることころかもしれない。

「ん……あ! そうか、確かにそれはおかしいわ。アデットの魔術さえ効果のないキミアキを犬に変えるなんて、そんな大魔術はそれこそこの世の中に存在しないもの……ええ、そうよね、そう。ごめんなさい、確かに貴方が自分で変身したとか言うのは私の想像の飛躍だったわ」

ひとまず肩の荷が下りた気がした、一番の難題を解決した今、彼女が何とかしてくれれば俺の問題もすぐに解決するはずだ。

「ふー、よかった。何とか分かってくれたんだな、それより俺もそろそろ目を開けたいから……その、服とか着ろよ」

「別に目なら開けても良いけど、今なら狼の姿だし。さっきは怒ったけど、あれは人間の姿を見られたからよ……因みに、そっちは後でシバキ倒すから安心して、取り敢えず今は大丈夫だから」

「な、何言ってんだお前! 裸なんだぞ、それにお前女、俺男だぞ!」

「はぁ? 犬の姿なんだから別に気にするようなことでもないでしょう? それとも何、貴方今すぐにでも人間に戻りそうなわけ?」

「そりゃ……確かに違うけど、やっぱり倫理的によくないだろ」

「あのね、キミアキ。貴方は犬を見て興奮したりする変態なの? 私、そういう人とはちょっとね……ま、昔のギリシャ人なら分からなくもないわよ……ミノタウロスみたいな神話があるくらいだから。でも、現代の日本人でそれって……ねぇ? やばくない?」

「そんな訳ないだろ! それじゃ完全に人間辞めてるじゃないか」

「そうでしょう。それなら別に良いじゃない、タダの犬だし。キミアキもそういう意味なら私の人狼姿前に見てるでしょう? あれに興奮しなかったのなら同じことよ。それにお風呂入って汚れ落としても別に気にならないでしょう? 犬だし」

「……そういや、お前の使い魔のアドルフだっけ? あれ、お前のその変身した体、狙ってるぞ」

「へぇ、そうなんだ。別に良いんじゃない? 寝てるときには薬のお陰で変身しないし、起きてるときなら自分の使い魔がどうこう出来る訳もないし……それより、お風呂に本気で入らないの? 対策考える前に綺麗になってもらえないと家の中を歩かせないわよ」

「……良いんだな? 俺が目を開けても、絶対に後で俺を殴ったり、喚いたり、兎に角危険なことをしないな?」

「しない、しない……構わないから、さっさとしなさいよ。お風呂に一緒に入った後で私が着替えるまでは待ってもらうけど、取り敢えず目は開けておいた方が便利でしょう?」

「じゃ……開けるぞ」

そう言いながら、ゆっくりと目を開いていった。

目を閉じていたために風呂場の明かりがすごく眩しかったがすぐに鮮明になっていく、そして俺の目の前にいた美しい銀色の狼に気がつく。

何時ぞやの夜とは違い一メートルを少し超える程度の大きさで、その毛並みが光っている錯覚さえ覚えるほどの、体が震えるほどに綺麗な狼……赤い瞳で、本物の狼と同じ骨格で以前のように立ったりすることはないようだ。

「ほら? 別に気にすることでもないでしょう?」

美しすぎる狼が告げた、それは人間の目で見ればただの恐怖の対象以外の何者でもなのかも知れないが、今のように犬の目で見れば彼女の姿はすでに高貴な芸術の粋にさえあった。

吸血鬼ベルラックがその血に塗れた悪名に反する幼き美の化身であったのと同じで、あれを人間から狼に置き換えるとこのような姿になるのではないかと思わせたほどの美しさだ。

「……うぁ」

「あ? うぁ、って……私を見て吐き気でも催したの? それって……そのまま死刑判決受け取れるわよ」

思わず漏れた感嘆を極端に歪曲して受け取られたことは心外だったが、タイミングを考えればそれも仕方ない。

「違うって、ホント……犬の目で見れば、すごく綺麗だなって……思ったんだ」

つい考えもせずに本音を口にしていた……それを聞いた浅海は一瞬呆けたような表情になった。

犬だから分かるが――恐らく人間が見てもその表情の変化などわからないだろうわずかな変化なのだが――彼女は顔中真っ赤になってしまった。

「バカ! おかしなこと言わないで! ……変態! 狼になんて興奮して……この色情狂!」

真っ赤になったまま顔を背けてしまった彼女はそのまま罵詈雑言を投げつけてきたが、すっかり呆けてしまっていた俺の耳にはそれさえ心地よく聞こえてきた。

「いや……綺麗だって言っただけだろ? 何でそこまで言われないといけないんだよ」

「同じよ、馬鹿キミアキ! もう……さっさとお風呂入って人間に戻るから、ついてきなさい」

真っ赤な顔でそのまま風呂の扉を開けると、そこでは大理石張りの風呂が湯気を立ち上らせながら俺達を待っていた。

黒い大理石張りの床は人間の目で見てもかなり広いのだろうが、犬の目で見れば圧倒的だ。

欧米ではシャワーだと思っていたが、浅海の家はそうでもないらしい実に豪勢な浴場だった。

「ほら、そこにボディーソープとかあるから今から体中にこすり付けてあげる。はやく、来なさいよ。犬の体ならちゃんと洗えないでしょう」

そういわれたので彼女の前までいくと、浅海はシャワーの蛇口を器用に回して俺の上にシャワーを流した。

最初は冷たかったが、すぐに人肌くらいになり、次第に心地よい温度になっていった。

すると、俺の腰をついて浅海が割り込んできた。

「ほら、独り占めしない! 私も洗うから、ちゃんと考えなさいよ」

「あ、ああ、悪い。でも、この手じゃ体を洗えないんだけど」

そう良いながら、犬の手になってしまった両手を前に出してみせる。

体中をいったん洗った浅海は一度シャワーを止めると、信じられないくらい器用にボディーソープを手に取りそれで俺の体を洗い始めた。

「私が洗ってあげる、まあ、最初から犬を洗ってあげようと思ってたわけだから同じね……ま、本当は私が人間の姿で、だったけど。やばかったわね、本当に……」

そう言いながら、俺の体の表面をゴシゴシ洗ったものだから体中が泡だらけになっていた。

そうすると、すぐに彼女も自分の体を……なんと人狼の特性であるあの人間みたいな手で洗ってしまうのだからちょっと恐ろしい。

しかし、流石にこの期に及んで俺が自分で洗ってやるというのもおかしなものだから、まあ、仕方ないだろう。

すぐにシャワーでお互いの体を洗い流すと、そのまま湯船に飛び込んだ。

「あー、良い湯だな……本当にお前の家って凄過ぎだ。こんな大豪邸に住んでるのに、どうして俺の家に来るんだ? 俺なら、まずこの家から出ないけどな」

湯船から何とか頭だけを出しながら、それを楽しむ。

犬掻きならあるいは中でも泳げるほどに広いが、正直なところこの格好でうまく犬掻きをする自身がなかった。

俺とは違ってまるで本物のようにうまく泳いでいた浅海は俺の些細な質問に少し寂しそうに答えた。

「ふん、凄い家ね……ま、大きくて立派、それは確かでしょうね。お婆さまが造った魔法の館だから……廊下で私の絵、見たでしょう? あの時、貴方どうして急に暴れなくなったの?」

「ああ……いや、笑われそうだけど、なんかお前って寂しい奴なのかなって……お婆さんの絵くらいしか他人を描いた絵がなかったから、ずっと二人だけだったのかなって……ま、俺の想像だから違ってたら謝るけど」

わずかな沈黙、それが問いの答えを告げていた。

「当たりよ、当たり……私って寂しがり屋さん。本当、貴方は勘が良いのね……運は悪そうなのに、本当にそればっかりは良いんだから……嫌な奴ね、貴方。ま、お母さまやお父さまは大した才能のない人たちだから、お婆さまが私を後継者として育てたいって言っていたのも魔術師としては当然なんだけどね……終いに呪いなんてかけられたら目も当てられないわ」

「浅海……」

「あーあ、本当に下らない話、お涙頂戴の話は大嫌いよ……ワンパターンだもの。それより、キミアキの体でも考えましょうか」

その顔、微かに涙のようなものが見えた気がしたのは気のせいではないだろうが、黙っておくことにした。

「そうだな、出来れば俺もすぐにそれに入りたいと思ってた。何か心当たりってあるか?」

話の話題が変わったせいだろうか、彼女の声色も少し調子が変わった。

「ないわ、はっきり言っておくけど私は知らない。それより、今日の学校はどうしたの? 朝の記憶とかある?」

記憶を思い出していく……今日は7月31日、月曜日……昨日は日曜日だったな。

確か昨日は初めて20キロで50分を切ったんだった、訳判らなくなるくらい疲れて死にそうだったけど、その後……腹筋やらを少ししてから、風呂に入って……魔術本でいくつか練習した後、テレビを見ながら食事で、寝る前に少し本を読んでたな。

読んだ本のタイトルは……忘れたが、確か夏の甲子園に関係した特集をやってたやつだ、うちの高校は野球部弱くて部費が増えても三回戦負けだったけど、中学のときの友達がベンチに入った学校が代表に決まったので買ってたんだ。

それから、すぐに寝て……朝は……いや、なかなか寝付けなくて、しばらくクーラーをつけたり消したりして……結局寝たのは2時過ぎくらいだったな。

それで、朝は……起きて、ん? 起きたのはいきなり道路の上で……俺は……

「――と、まあ、目が覚めたら道路の上にいて、その後よくわからないままうろうろしてたら、たまたまお前が俺を見つけて、そのまま拾ってったんだ」

星霜学園は進学率上昇のためとか言って、夏休み返上で今日も授業があった、だから浅海は学校帰りの姿だったのだろう……俺は……別に任意の補修になんて出る気もないし、出る必要を感じない。

勉強が出来るからじゃない、そもそもそこまでするほどの学校へ行こうと思っていないのだ。

「なに、それ? まったくヒントになる行動がないじゃない。見かけ通りに使えないわね、貴方は……情報が少なすぎる中でどれだけ考えても仕方なさそう。現地へ行って見ましょう、お風呂から出たら貴方の家に行ってみるのよ」

「俺の家に? ま、確かに……それしかないよな。アデットには電話しとくのか?」

「いいんじゃない? 別に、私や、ひょっとすると貴方だけで解決できるかもしれない問題なのに人を頼るのは良くないわ。じゃ、出ましょうか……キミアキはひょっとして長湯する方なの?」

「いや、お前は?」

「私も違うわ、アドルフはそうだけどね」

「あのオッサンが?」

「ええ、ああ見えて格好は気にするから。笑えるでしょう? コウモリなのにね、ホント笑える」

「コウモリ?」

「ええ、元はコウモリ。今は私の呪いの影響で犬になってるの。変わってるわよ、あいつ」

「まあな、でも。お前もあの使い魔も、どっちもどっちだぞ」

「? どういう意味?」

○○○○○

「……どういうこと?」

風呂上りで髪もわずかに湿った黒いジャージ姿の浅海は犬の姿である俺を抱いたまま、クーラーによって室温14度くらいに保たれていた部屋の中で、まるで死んだように眠っていた『俺』の体を見下ろして言った。

浅海は今赤い瞳で、この状態なら人の姿をしていても意識さえすれば今の俺の言葉が分かるし、それを話すことも出来るそうだ。

「俺……だよな? え? だとすれば、どうなってるんだ!」

犬の俺をベッドの上において、浅海はそのまま眠っている俺の脈を取って、息をしているか、心臓が動いているか、瞳孔の具合はどうなっているか、などを調べた。

「……駄目ね、まるで分からないわ。確かに体は生きてはいる、呼吸もしている……でも、脈も心臓の鼓動も生命活動が凄く希薄なの。まるで仮死状態になっているみたい……それに、この体、魂が抜けてる」

真っ青になった浅海は辛うじてそれだけ伝えた。

「魂が抜けてるって……まさか、俺がその、魂?」

この言葉に浅海もギクリとした様子だったが、仕方なく首を縦に振った。

「多分、そうだと思うわ。ちょっと待ってなさい、今クーラーを切って体を温めるから……」

そういうと、部屋のクーラーを切って俺の体に毛布をかける。

そして、背負ってきたナップザックから俺が持っている本によく似た古い魔導書を取り出した浅海はそのページをめくり始めた。

「おい、大丈夫なのか? 俺の体、このまま死んだりしないよな?」

すでに気が気ではなかった、こんな状態で死んでしまったら俺は犬になってしまうのではないか、という危惧も勿論あったし、死にたくなんてない。

「ええい、黙っていなさい。私を信用して、そこに座ってて」

「わかった……」

怒鳴られて、少しショボンとなる。

しかし、俺の本とは違うとはいえ魔導師が綴ったものであるという点では同じだ、それにかかれた知識は今の文明では知り得ないようなことまで描かれているのだろう。

「……難しいわね、物質化した魂の離脱及び動物化なんて本当なら大魔術よ? それが偶然、それも魔術が効かない人の体に起こるなんて実例は……いいえ、これは人間の姿だわ……うーん、これも違う」

どんどんページはめくられていくが、そこに書かれた知識では足りないのか、浅海の顔は晴れない。

「……」

しかし、それでも彼女に全てを任せる以外に方法などない……ここは彼女を信じることにする。

「……レーンス大僧正ハインリヒの日記、『和漢三才図会』の71巻、『甲子夜話』などに見られる肉体から抜け出る魂についての考察……これだわ」

本のページをしっかりと開いて、その内容を精読し始めた。

「……なるほど、そう……でも……あ、そうか…………難しいわね。キミアキ、そこで寝ている貴方の口に触れてみて」

「わかった」

言われるまま、自分の唇に前足で触れると……その瞬間にまるでバリアーにでも弾かれたように触れようとした前足が跳ね除けられた。

「!?」

「……やっぱり……このままだとかなりヤバイわよ、貴方」

「ヤバイって、一体どういう風に?」

浅海は本をじっくりと読み聞かせるように俺にそれを説明した。

「いい? こういう現象について私のご先祖様が研究したことがあったんだけど、貴方の今の状態は魂が肉体から遊離しているということよ。魂と肉体、それともう一つの特殊な要素が人間を構築しているんだけど、そのうちの魂だけが貴方の体から抜け出て犬の姿をしているってわけ。過去の事例では離脱は原因不明とされているけど、ご先祖様の見解だと魔術の修練をしている修行者の精神が非常にリラックスした状態になったときに、その精神的高揚が一定の水準を満たした場合『多重存在』という超高等魔術の亜種として不完全な幽体離脱を完成させてしまうらしいの」

「どういうことだ? それって魔術なのか?」

「いいえ、ご先祖様が言うには一種の超能力の一種ではないか、ということだから魔術ではないと思うわ。あ、この超能力って言うのはこの場合魔術でも説明できない人間や吸血鬼とかの力のことよ。テレビでやってる透視とかじゃなくて、もっと別な現象ね。それで、この現象が起きると魂はたまたま近くにいた動物などのイメージを取り込んだ形になるの。魂はしばらくうろうろした後、大抵は元の体に戻るそうだけどたまに体を入れ違ったり、見失ったりすると、二人の人間の体が入れ替わったり、病気になったり、ひどいときは死ぬそうよ……今はそのひどい状態、魂が体を留守にした時間が長過ぎるの。大体一日、持ってそこまででしょう……でもすでに戻れなくなっているから、儀式でもやって強制的に何とかしないと……」

「な、なら早くやってくれ! そんなに時間がないんだろ、頼むから急いでくれ!」

「そんな簡単に言わないで! ……それは普通の人間なら今からでも十分時間があるでしょうよ、でも貴方の場合は特別、魔術が効果を示さない体にどうやって儀式を行えって言うの?」

「……くそ、こんなときにそんなのってありかよ……」

悔しくて、怖くて、苦悶する声が漏れた。

「待って……落ち着きなさい、人間を構成する魂と体が分割されている現状ならひょっとすると……貴方のあの特異体質が一時的に麻痺しているかもしれないわ。絶望するのはそのあとで、もう打つ手がなくなるまで我慢しなさい」

力強い言葉、それには確かに自信が感じられ、俺もそれを信じずにはいられない何かがあった。

「いいわね?」

『Fire』

その言葉と共に俺の体毛と寝ている俺の髪の毛の一部が小さな炎でちょっとだけ焦げた。

「わっ、お前……急に何するんだ!」

「ごめんなさい、でも確かめることが出来たわ。今の貴方なら魔術が効果を示す……やるわよ。今からなら絶対に間に合うはずだから」

○○○○○

中庭の近所からは見えない場所に描かれたのは同じ中心から描かれた大小三つの円、その中央には俺と寝ている俺の体。

円を囲むように蝋燭が回り、この儀礼の司祭を務める浅海は午後11時、最も深い瞑想にあった。

目を閉じたまま、彼女の口が開いた。

「これから行うのはいわゆる呪いの儀式を応用した、魂の帰還よ……貴方も集中しなさい、そして祈って……『逆行の衝撃』は緩められるはずだけど、もしものときは私もタダではすまないから」

『逆行の衝撃』とは呪いをかける場合にそれが返って来たときに起こる術者への反動、最悪の場合は死ぬことにもなるというものだ。

これを避ける方法は唯一つ、緩衝壁を設けることだけ……自分自身も俺とは別の魔法陣に立っているのはそのためだった。

「わかった……でも、いざとなったらお前だけでも助かるようにしてくれよ」

「お生憎さま……呪いを解く手がかりがなくなったら、私も生きる気なくなるから……黄泉路への道連れに位なってあげるわよ……ここからは黙って体へ戻るイメージだけを考えていなさい」

そう言い終わると、浅海は地面に膝を着くとナイフで自分の手首を切り、その血を小さな銀の器に注いだ。

その傷はすぐに塞がり、聖杯を地面に置くと本を片手に聞きなれない呪文を紡ぎ始めた。

『――el elohem ekohe zebaoth elion escerchie adonai iah tetracrammaton saday……』

言葉と共に俺の周りの円に奇妙な文字が刻まれていく……聖杯から零れ出た浅海の血で!?

それは生きているように地面の上を動き回り、大地に吸収されることなく文字を書き綴っていった。

『――jehova emmanuel tetragrammaton jelah erigion messtah arapheton anasbona jessemon agia eloyn adonay……』

風が俺達の円の周りをものすごい勢いで吹き始め、さながら台風の真ん中にいるみたいだ。

呪文を唱える浅海は汗をかき始めていた……初めての魔術、しかも専門外の呪いを本に描かれた言霊を使うとはいえ、まともに完成させることはとても一筋縄でいくようなことではない。

それこそひとたび気を抜けば逆行の衝撃で彼女自身の破滅さえありえた、それを知りつつもこんな危険に身を投じてくれたことに深く感謝すると共に荘厳な雰囲気さえ纏った司祭としての彼女の輝きに目を奪われそうになる。

しかし、そういった雑念が儀式を失敗させたのでは目も当てられない……俺はただ自分の体に入り込んでいくイメージの完成だけを急いだ。

『おお汝、東方を支配知る王、オリエンスよ! 西方の王パイエオーンよ! 南方を統べる大王マエモーンよ! おお汝、北方を治めるアイギ-ナよ、我忍びやかに汝に訴える。いと強きアドナイの名により、我が望みの成就されんがため、このヒトガタの中に汝の入り込まれんことを――』

その瞬間に、一瞬だけ俺の前足が体に吸い込まれたような気がした。

いける、この調子なら何とかいける!

浅海はすでに汗びっしょりで、心なしか輝くようだった赤い瞳さえその光を半ば失っていた……本来は人を呪い殺しさえする魔術を俺を助けるために使おうとした反動かもしれない。

『――アラトオル、レピダトオル、テンタトオル、ソムニアトオル、ドゥクトオル、コメストオル、デヴォラトオル、セドゥクトオル、汝ら破壊と憎悪の共にして執行人よ、呪いを行い、不和の種を蒔く者よ。我汝に祈念す、シノザキ・キミアキの憎悪と不幸のために、汝らがこの似姿に秘蹟を授け、祝聖を与えられんことを!』

憎悪うんぬんは元々が呪いの呪文なのだから仕方ない、しかし後から考えてみれば気にならないわけでもなかった……ただこのときはその言葉さえよくわからなかったのだから気にするはずもない。

呪文詠唱が終わった瞬間、俺の体に向かって光の道が開かれた気がした。

イメージは実在を伴い、想像は実像を結ぶ……それは儀式の成功を告げる光景だった。

○○○○○

「うぅ……あ、はぁ……くぅ、むぅ……ああ!」

ベッドでうなされていた浅海、儀式は完成したのだがその無理がたたって倒れてしまった彼女を庭から家の中まで運び、ベッドの上に寝かせたのは俺だ。

庭の魔法陣は不思議なことに儀式の完了と共に血の文字、周りのろうそくの火、円を回っていた風ごと全て消滅してしまっていたから聖杯と浅海の本を回収する程度しかすることはなかった。

「……大丈夫か?」

濡らしたタオルを頭に載せてやると、苦しそうな顔が少し楽そうになった。

目がゆっくりと開き、俺を見つめる……瞳はすでに色を失い、いつものような碧色。

これは呪いの力が弱まったとかそういうことじゃない、獣の姿を借りることも出来ないほどに疲弊してしまっているということだ。

綾音との戦いでもそこまでは疲弊しなかったということを考えれば、それは極端なほどの消耗だといえる。

「……ああ……よかった、うまくいったみたいね」

呪文を唱え続けていたためか、やや掠れた声でそう告げた。

「ありがとう……本当に今回は助かった。お前、そんなに消耗して……本当にありがとう」

ちょっと疲れていたのか? 彼女の顔に近づいてみたとき、頬が真っ赤になっていた。

すぐに布団の中に顔を隠すと、手だけを出してそれを振った――お礼など要らないということだろう。

「いいのよ……お礼なんて。私も、貴方が死んだら困るわけだから……一蓮托生、呉越同舟よ! だから、もう……疲れたから一人で眠らせてよ」

照れたような声でそう言った彼女はどこかうれしそうだった。

俺は……恩を感じたためだろう、そんな彼女がどうも可愛く見えた……後で例の件を追及されるわけだから、何ともいえないが。

その夜は何ともいえない夜だった……まぁ、こんな日があっても良いかな。

後日談としては、浅海に軽く殴られた……ことくらいだろうか?

ついでに言うと、この日から彼女が身近になった気がした。



[1511] 第二十一話 『ある夏の夜に』
Name: 暇人
Date: 2006/06/03 09:20
「……」

耳に当てた電話から、ようやく誰かが受話器を取る音が聞こえた。

「こんばんは、教授。夜分遅くに失礼します」

アーデルハイトが相手に電話をかけ始めて、すでに十分以上が経過していた。

受話器を取った相手は一瞬間を置いてこちらが誰であるかを逡巡した様子だったが、こちらが誰であるのかまではわからなかったようだ。

無理もない、アーデルハイトが電話をかけた相手には滅多に面会者などいないのだから。

『ふむ、どうもこんばんは。専用回線に掛かってきたということは協会の幹部か。君……聞き覚えのある声だが、誰だったか? 『教授』と呼ぶからにはかつての教え子の一人だとは思うが……すまないね、君の事がどうしても思い出せないのだが』

老人のしわがれた声――上品でありながら、実に静かな喋り方でどこかの教師のような印象を受ける。

電話の向こうからは彼の声と共にクラシックが流れて来る――モーツァルトだろう。

アーデルハイトが電話をかけている部屋は学園の部室で、外では燦々と太陽が照りつけている。

クーラーの掛かった部室の中で、電話を握る彼女はやや緊張さえしていた。

今、電話を受けている相手は世界中の魔術師のスポンサーといっても良い人物なのだからそれも然りだろう。

ゆっくりと自分の名を告げた。

「ザクセンの錬金術師で名をアーデルハイトと申します」

名前を聞いて一瞬黙り込んだ相手は、苦笑しながらそれに応える。

『ああ、錬金術師アーデルハイト・フォン・シュリンゲル……王殺しのアーデルハイト』

「ええ。その通りです、マルドゥーク教授」

『ゴホン……それで、この私に何の用かな。生徒と教師としてならば喜んで会食の席を用意させてもらうつもりではあるが――ドイツにある私のホテルで食事でもどうだね?』

彼女が今どこにいるかもわかっているはずなのに平気で無茶を言う相手の言葉に苦笑が漏れた。

何より、彼の言葉には戦闘を予期させる響きが含まれていたのだからそれも当然だろう。

「フフッ、性格の悪い人ですね。吸血鬼キャッスルゲート公に手を出せば、私は世界中から怨まれてしまいますよ。会食はいたしませんが、教授には今回お願いがあって電話したのです」

米国在住のイギリス人公爵キャッスルゲート――世界経済を牛耳る大富豪にして、宇宙移民を考える突飛な変人……ついでに、吸血鬼と魔術師双方に資金を差し出すパトロン。

頼み、といわれた老人は欠伸をしながら話を逸らす。

『ああ……女史、そういえばイフィリルが君のところに遊びに行っていたとか。アレで私の遠縁、という建前がある相手だから殺さないでやって感謝しておくよ』

一月ばかり前の事件が頭をよぎり、老人の言葉が癪に障る。

しかし、本来は面白くないことでも彼女は態度には出さない。

「フフッ、実に腹立たしい皮肉ですね。いくら世界最大のパトロンといっても貴方のことは好きになれません。それより、私の話は……」

『ふむ、そういえば君とは何千年ぶりだったか。当時の生徒の中で君のように私たちの高みまで上ってきたのは三人くらい、と記憶しているがどうだったか。君、記憶しているかね?』

「確かにそのように記憶しております。実際には、貴方にご教授願ったのは私の祖先ですが」

錬金術師の始祖である彼に師事した者たちが現在の錬金術師の全ての源流なのだから、間接的には彼に関係のない術者などいない。

しかし、直接彼から学んだ術者の家系も存在して、それらは要するに正統派の家系というわけだ。

『左様、それは尤もな意見だ。そう、普通なら私の生徒と君はまったくの別人だろう。だが、当時から君が熱心に研究していたことを考えれば素直に納得することは出来ない。その体は別物かもしれないが魂まではどうか、実に疑わしい。それはさておき、君が私の弟子の代から数得て何代目なのかを聞きたいのだが?』

「家系図にある限り、37代目でしょうか。祖先はあまり長寿ではありませんでしたから」

それを聞いて、老人は感嘆の声を漏らした。

『たったの二千数百年で君ほどの学術的な成果が得られるなら私も君に師事したいくらいだよ。まったく……宇宙という世界の開拓は実に時間がかかって仕方がない。そういえば女史、君はファッションというものに興味があるかね? いや、二千と数百年昔の君は実に奇抜な服を着ていたが今の君もそうなのかね?』

「教授、先ほどから申し上げていますが、それは祖先の話ですよ……私は興味があるというほどではありませんが、適度に目立たない服を選ぶくらいは気をつけています」

『実は何百年か昔、今でいう光学迷彩というものを研究していて、着ているのに周りからは見えないという画期的な被服を作り出したのだよ。君、モデルとしてきてみるかね? 人体は透明にならず、服だけが透明になるという素晴らしいものなのだが……』

「教授、おふざけはそこまでにして……『霧海』が私の領地近くに発生します」

『ふざけているとは失敬な、私は常に本気で恥辱に頬を赤らめる少女の姿を見たいと渇望している! しかし、なるほど……あの夢に迷った男の成れの果てが君の領地近くに現れるのか?』

「発生地点の予測は情報として得られたのですが、その地点には人家などが点在していまして……彼らを遠ざけたいので、土地の買収を進めてもらえませんか」

予測地点に住む人間は少なく見積もっても数千人、あの災害が発生した場合には誤魔化せるわけもない。

いや、誤魔化す必要はないのかもしれない……生き残れる人間などいないのだから。

老人は彼女の言葉に興味を感じたらしい、それが彼の声からもわかった。

『ふむ……場所は?』

「日本の私の担当地区、その南部地域です」

『構わんよ。あの『霧海』の発生地点にして消滅地点を私の領地に加え、なおかつ君に恩を売り、事業家として世の中に奉仕するという満足感も得られるわけだから……大都市圏なら事情はわからんが、取り敢えず五千億で足りるかね?』

とてつもない金額を当然の如く示した相手に驚嘆の声が漏れた。

「教授……今回の発生地点は半径十キロ程度と予測されますが、辺鄙な土地ですからそれほどは……」

『わかっていないな、女史。誰一人その場に留めて置くつもりがないのなら、本来の価値以上の値をつけてやらねばならない。世間的にはそうではないが、私にすれば端金だ。何しろ、人間とは愚かなもので私の工場で働き、私の店で食糧を買い、私のテレビ局が流す放送を見て、私の自動人形が支配する政府に税金を払う。そして、ライフラインは全て私の会社……いくら使っても、自然に集まってくるシステムは頭を使う必要がなくなってつまらないものだ』

老人の言ったことは尤もだった。

確かに、彼の言った金額で無くとも時間さえかければ土地の収容は可能かもしれないが短時間で全てを避難させようと思えば常識以上の金銭が必要なのだろう。

しかし、アーデルハイトが注目した点は少し違っていた。

「ひょっとすると、ピュレイジュの香水なども教授の?」

欧州で最近流行中の高級品、その発売元の大企業は嫌な予感が当たっていれば老人の関連会社だった気がしてきた。

『確か、自動人形のうちの一人が会長をしていたか……君がファンだというのなら百ダースくらい送るが?』

「いいえ、それは結構です。何を混ぜられているかわかりませんし……変態爺の資本による世界征服とは、本当に……気分の悪いことですね」

人間と同じような外見の自動人形を作り上げる人形師――彼は現在のロボット工学の数世紀先を行く高度な技術と、古代より磨きぬかれた魔術の融合によって完成させた有能な人形達で世界を資本という点において征服した。

事実、それは征服であろう……どんな悪環境でも人間の数十倍の効率で、24時間働いても何一つミスをしない人形達を相手に競争して勝てるわけもない。

同時に、その圧倒的な技術力を持って中世の時代から世界中の情報を握っていたのだから世界の富の半分を人間の真似をしている人形とその主が握っていても不思議ではない。

現在名を知られた財閥の当主、大富豪、それらの多くは実際には一人の錬金術師が作り上げた人形……つまり、分散させているが故に世界はその正体を知らないが、実質はただ一人に莫大な富が集中している構図だ。

尤も、だからといってどうということもない……彼の錬金術師、太古より生き続ける吸血鬼の望みは宇宙への道が開くまでの間、世界のシステムが維持されること。

積極的に悪事を働くわけもないのだから、魔術師達は自分達に資金まで融通する彼に刃を向けることはない。

それは奇妙な共生関係。

『変態、変態と私の非ばかりをいうが、実際には君の口の悪さも変わらない。いや、君風に言えば君の祖先か? どの道、性根の腐ったような家系だ』

「それはお互い様では?」

『かも知れぬ。しかし、奇妙なもので私は名を知られた性格の良い錬金術師など知らないがね』

共に性格が良いとはいえない錬金術師達はお互いを嘲笑し、同時にこの罵り合いを楽しんでいた。

「奇遇ですね、私も同様です。特に、教授とあのアラブ人などは大嫌いな部類ですね。お二人は実に汚らわしい最低の変態爺ですから」

『いや、君……そういう君自身はどうなのか、と激しく問いたいね。噂は聞いているが、君の何処が正常だというのか?』

「噂は噂です。私は貴方よりは絶対にましな部類ですから」

『……私は君とあの忌々しいダキア女が嫌いだ。尤も、二人とも容姿さえもう少し幼くなれば……考えないでもないがね。イフィリルくらいの外見になれないのか? 14までなら、OKだが』

「そういうところが大嫌いです。貴方からは対象への愛が感じられない……一度死んで頂けませんか?」

『君からも愛が感じられないよ……それにしても、君がアレを滅ぼそうとするからにはよほどの自信があるのだろう? 教えてくれたら、国の一つくらいはくれてやるが?』

「ネタは明かせませんが、勝算はあります。かなり高い確率で」

『ハハッ、それもそうだ。君の一族が根付いていた土地はアレに食われたそうだから、さぞ自信はあるのだろうよ。工房を壊された怨みか?』

百年と少し前の惨状が思い浮かぶ。

あの夜、必死で逃げなければどうなっていたか……恐らく死んでいただろう。

「いいえ。邪魔ですから、彼に眠ってもらおうというだけのことですよ」

霧の夜に感じた恐怖はあの時代に捨てた、すでにアレを滅ぼそうというのは恐怖ではなく……ただの業務の一環だ。

『君……建前上言っているだけだとは思うが祖先によく似たことを言う。しかし、用件はわかった。発生時期と詳しい場所を教えておいてくれ』

「わかりました、では……」

場所を伝えた後、電話を切った。

額に手を当てて、数ヶ月先の敵との対決を考えることにする。

○○○○○

俺は……夏の暑い日、浅海のオガム練習に付き合っていた。

「……違う、そこじゃなくてもう少し上だ」

すでに何度言っただろう?

何度も、何度も飽きるほどにそればかり繰り返していたのだ。

すでに沸点などとっくに突破しているほどに苛々している。

……あ……またやってる。

一応言っておけば、苛々しているのは俺じゃない……目の前で59回目の挑戦でミスした浅海。

「――キミアキ、本当に適当に言ってないわよね?」

頬がピクピクしてるぞ、お前。

実際、夏休みの補習授業に出た浅海が学校から帰って俺の家に着いたのが6時で……今は10時だから、かれこれ4時間くらいだろう。

その間、綾音には延々と横槍を入れられ続け、彼女が寝室に上がっていってからもひたすらに失敗続きで……やり場の無い怒りに狂いそうな浅海はとうとう目の前に座っている俺に狙いをつけて、今までのイライラを全部ぶつける気のようだ。

とんでもない話だ、俺も真剣(テレビを見たり音楽を聴いたりで浅海に聞かれたときだけは真面目に)だったのだから……少しだけその八つ当たりは不当な気がする。

尤も、今なんて本を読みながらほとんどページから目を離さずに言ったわけだから……疑われても仕方の無いわけだが。

しかし、言い訳はある……アデットに教えてもらってから何週間か付き合っているのだからいい加減に俺も飽き飽きしてくるというわけだ。

「ああ、そう見えるかもしれないけど……場所は間違いない」

そう、見えた場所は間違っていない。

そして、浅海の指した場所は間違っている。

トランプの上、すでに鉛筆で真っ黒になっているそれはいい加減に破れそうだ。

「あー、もう! 今日はもうやーめた。だいぶ近づいてはきたけどまだまだ全然ね、そう、ポイントは掴めてるんだけど……ねぇ、さっきから何読んでるの?」

俺の手にあるのは宝探しを描いた小説。

オルメカ文明の遺産を探すとかいうストーリーで、主人公は考古学の教授……などというどこかで聞いたような話。

「宝探し……ま、実際に宝が見つかっても土地の持ち主やその州、国やらとの権利関係がややこしい場合や遺跡を破損してしまった場合とか、そういった大切なことを無視してるけど小説としては面白い」

トランプを片付けながら、なにやら考えている様子の彼女。

「ふーん。宝探しね……魔術師的な宝探しなら私も興味あるけどね」

「へぇ、魔術師的な宝探しか。一体何を探すんだ? 聖杯とか、ロンギヌスの槍とか?」

アイルランド関連の話に登場するといえばアリマタヤのヨセフがイングランドまで持っていったという聖杯だろうか。

このアーサー王伝説の聖杯はランスロットの息子にして最高の騎士ギャラハッドが見つけ、聖杯を発見した土地で王となった彼が昇天した際にどこかへ消えてしまったというが……実際はどうなったのだろうか。

「聖杯、ロンギヌスの槍……そういった伝説関連のものはいくつか実在するわ。特に、武器とかなら創り手が今でも健在なわけだし」

「ああ……確かに。それなら武器関連は実在するか……そういったのが宝探しか?」

「ええ、そういう宝探しをする人もいるわね。私はもっと現実的に金銀財宝の方が好きだけど」

「金銀財宝か……そんなの探す魔術は無いのか? もしも場所がわかれば、スコップが砕け散るまで掘り続けてやるけど」

そう、一山掘り当てられるのなら腕が砕けたとしても構わないかもしれない。

死ぬ寸前で発見……というオチが無ければ、だが。

「腕の良い占い師なら見つけるんじゃない? 私の知り合いにはいないからわからないけど、そういうことしてる人もいるらしいから」

「その人の弟子になれたら、一生『師父』と呼んで崇めるよ。実際に宝を発見できたら神として奉って、神殿でも何でも建ててやる」

冗談半分の口調でそういった俺、実際に見つかれば本気で神と崇めるくらいはするだろうな。

それを見た浅海はやや呆れ気味。

「才能も無いのに何言ってるのよ……それより、疲れたし、苛々したから夜風にでも当たりながら散歩でもしない?」

面倒なことを……そう思いながらも外に散歩に行こうという誘いに乗ってやることにする。

ねっとりするような暑さがきっと不快だと思うが、それでも空は綺麗な星々に飾られているはずだ。

「散歩は良いけど、一体どこまで行くんだ?」

「別に、考えてないけど。どこか見晴らしの良いポイントでもあるの?」

少し考えて、ちょうど良い場所を思いついた。

「アデットの塒なんてどうだ? あの教会の近くは静かだし、わりと景色も良いらしいぞ」

「……冗談でしょう? アデットの近くなんてうろついてたらきっとロケット花火でも打ち込まれるわよ。特に、夜はあの人の性格が余計に悪くなるから……」

呆れたような顔の浅海がそう言ったのは尤もかもしれない、確かに俺は浅はかだった……あの人はそれくらいイタズラの範疇で済ませるだろうから……止めておこうか。

「じゃあ、学園にでも潜り込んで時計塔の上に登るとか?」

図書館と一体化した塔、その上に時計があってかなり高いそこからの景色はなかなかのものだとか。

「どうでもいいけど、そんなことをすれば警備員に捕まるわよ?」

「俺は兎も角お前は違うだろ?」

「そうかもね。でも、捕まれば停学食らうかもしれないのよ?」

「かもな。でも、景色はなかなからしいぞ」

「……そういった類のスリル、私はわりと好き。貴方にしては面白そうな考えだわ。目的地は学校の時計塔で決定、でいいわね?」

「ま、自分で言ったわけだから当然だな。綾音はもう寝たかもしれないから、さっさと出かけるぞ」

すぐにその場を片付けた俺達はそのまま学校まで散歩に向かった。

夜だというのに外はやはり暑かった、予想していた通りだ。

しかし、空は実に綺麗だった。

通り過ぎる車、そのライトが俺達を照らしたが制服を着ているわけでもないのだから高校生だとばれる心配などしなくても良いだろう。

仮にばれても学校までばれなければ問題ない。

歩く人もそう多くなく、たまにランニングをしている人とすれ違ったりするくらいだろうか。

「あー、やっぱり止めておけば良かったわね……暑いわ」

苛々は解消されていないのだろう、浅海は大儀そうになってきた。

とはいえ、俺の家から学校まではわずかな距離だからそう長い時間も掛からなかった。

「ほら、あそこに警備員が常駐してる。裏口から行くか?」

校門の脇にある常駐所にわずかに視線をやりながら、警備員に気付かれないように隣を歩く浅海に侵入経路の検討を諮る。

そのまま校門の前を通り過ぎて、学校のまわりの壁に沿って道を曲がった。

「いいえ。裏口は止めておいたほうが良いわ……歴史上、難攻不落といわれた要塞には必ず一つ弱い場所が用意されているの。その場所に行けば……罠で敵は全滅よ」

「……いや、ただの学校だから」

「甘いわね。ここはアデットが暇つぶしに警備強化を図ったような場所よ、何か魔術的な罠でも仕掛けられていたらどうするの?」

なんて楽しそうに話すんだろう……コイツは完全に乗り気だな。

しかし、警備員の常駐などは確かにアデットが考えた学校荒らし対策だとか……そこまでする高校はそれほど無いと思うが、資金さえあれば大抵の無茶でも通るものだ。

「じゃあ、どうするんだよ? 壁をよじ登るって言っても……3メートルくらいあるだろ?」

「壁をよじ登るのよ……確か、この辺りは何も無かったわね」

そういうと、さっと地面を蹴って一気に飛び上がる……なんと彼女は軽々と壁の上に上ってたのだ。

立ち飛びで……何メートル飛んでるんだ、コイツは?

唖然とする俺を見つめると……

「さっさと来なさいよ」

当然の如くそう言った、人間の体の構造を忘れた魔術師の言葉は本当に理解できない。

「いや……こんな壁、立ち飛びで駆け上がれるわけ無いだろうが!」

「仕方ないわね……」

呆れたようにそういうと、俺の横に降り立ちすぐに俺を抱えて壁を飛び越えてしまう。

どうでもいいが……立場が逆じゃないか?

「……ありがとう。悪いが帰るときも頼む」

「ええ。それより、罠の気配は無いわね? 油断しないで、時計塔まで一気に走るわよ!」

周囲を見回した途端、風のように走っていった浅海。

「え? あ、浅海……くっ、マジかよ」

遅れに遅れた俺もすぐに彼女について走った。

大丈夫だ、場所は同じなのだからはぐれても問題ない。

時計塔までようやく辿り着いたとき、辺りを見回して侵入経路を考えていた浅海は扉を思いっきり殴りつけて破壊してしまおうとしていた。

「ストップ! ストップだ! 止めろ、それだけは止めてくれ」

渾身の一撃が俺の声にようやく止まる。

「なに? 声が大きいわよ……」

「バカかお前は! そんな正面突破なんてしたら警備員がすぐに駆けつけるだろうが」

「警報装置は止めたわよ、というより……一時的に麻痺させたから問題ないわ」

そういう問題ではなかろう。

大切なことが何一つわかってないよ、この人は。

「アデットが犯人を見つけるのは簡単だろうな」

そう、そもそもこんな芸当をする人間などすぐに思いつくだろうが、なお証拠まで残すというのはいただけない。

「あ……そういうこと。確かに、それは考えて無かったわね。でも、困ったわ」

「なにが?」

「問題は簡単じゃない。そもそもどうやって登るの、この塔を?」

浅海が見上げた塔は実に十メートル以上あるだろう、とても飛んで登れる高さではない。

フリークライミングの真似事などして死ぬのは真っ平だし、あきらめた方が良いか?

「ははっ……いや、流石にこれはあきらめるか?」

「それは面白くないわね。そう、途中で挫折するのは私の主義じゃないわ……飛翔のオガムを使いましょう」

「正気か? お前、今日は全然当たってなかったじゃないか」

「正気よ。場所を貴方が選べば問題ないわけだから……そうね、靴にでも描く?」

○○○○○

嗚呼、この不公平は超人的な運動神経を持つ浅海とただの人間の俺の違いだろうか?

オガムを靴に書くというとんでもない離れ業により、確かに体が宙を舞ったのだが……彼女が壁を駆けるように塔を登ったのに対して俺は……風船みたいに靴が上になって、体を釣られたようにして上っていったのだ。

怖くて靴から手を離すことさえ出来ず、塔の上に来たときに浅海がどこかから取り出したロープで投げ縄みたいにして捕まえてくれるまで死ぬ思いだった。

ようやく床に脚をつけることが出来て、本当に安心する。

すぐにオガムを破壊して、空に逃げようとした靴を黙らせてため息をつく。

「いや……ありがとう。滅茶苦茶怖いな、これ。靴が脱げかけたときは死ぬかと思ったぞ。なぁ、帰りはもっと怖くない方法で帰ろうな」

「……」

俺の方ではなく、時計塔の上から見える街の絶景を眺めていた彼女。

「すごいな……俺も初めてみるけど、夜のこの場所は最高だな」

「ええ、確かにすごいわね」

小さな宝石箱を床にぶちまけたみたいな、1万ドルくらいの夜景だろうか?

それでも、十分に魅力的な景色だった。

しばし、二人は言葉さえ失う。

二人の背後で時計が12時の訪れを告げていたが、実にロマンティックな光景にそれさえ忘れかけていた。

しかし、その最高の状況が……最悪の崩れ方をしてくれた。

「ありゃ、お嬢様じゃありませんか……こんなところでなにを?」

オッサンのダミ声がどこかから聞こえた。

二人が同時に振り向くと、腹の出っ張ったようなオッサンが空を歩きながら塔の中に入ってきたのだ。

「……アドルフ、家を留守にしたの?」

髭を生やして、執事が着るようなスーツを着ていて、酒を飲んだような赤ら顔の外国人はなんと壁を歩きながら天井で立ち止まってしまった。

「失礼、どうもこの体勢の方が落ち着くもんで。ですが、留守にして取られるようなモンがある家じゃないでしょう、あのあばら家。工房の中に入れるのは魔術師だけでしょうし……おや、小僧、お前確か公明? こんなところで何してんだ?」

悪びれもせずにそういう使い魔は実際、格好の悪い吸血鬼そのものに見えた。

「ああ、さいでしたか……申し訳ありゃせん、お嬢様。どうもいいとこを邪魔しちまったみたいで」

クスクス笑いながら、実にむかつく喋り方で厭味ったらしくそういうアドルフ。

「ち、違うわよ! ……でも、どうして貴方が、ここに?」

首をひねり、その口から鋭い牙を除かせる使い魔は意外そうに言った。

「は? いや、ここは散歩の巡回コースで、いつも来てやすが?」

うわぁ……俺達、こんなオッサンの縄張りにわざわざ入り込んで夜景が綺麗だとか思ってたのかよ。

しかも、いつも来てるのか……勘弁してくれ。

「この前なんて、別嬪のメスがいたので……へへっ、ここでズッコンバッコン……わかるでしょう?」

それを聞いていた浅海の顔は真っ赤になっていた。

自分の使い魔のアホさ加減に激怒しているのか、あるいはこんな低俗なオッサンが使い魔であることが魔術師として恥ずかしいのか……多分、両方だろう。

「死になさい、この……よくもこんな場所で、不潔よ!」

「はぁ? いや、なんで怒ってらっしゃるんでそもそもこういう場所の方が女落としやすいでしょう? あ、いや……お嬢様? 一体何怒ってらっしゃるんで?」

その夜は、まさに吸血鬼と魔術師の戦いというものを目の前で見せ付けられた気がした。

霧にはならなかったが、わずかな距離を時間短縮して瞬間移動する使い魔。

手に炎を握り、それを放つ魔術師……よく気付かれなかったものだ。

時計塔は何とか朝までに修復され、この夜の事件がばれることは無かったがこれ以降この場所を訪れようという誘いの言葉はお互いかけることが無くなった。

あのアホ使い魔は……大怪我したらしいが、次の日にはピンピンしていたみたいで、何でもあの土地の土がよくあうのだとか何とか……もう俺の目の前に来て欲しくない災悪を呼ぶマスコットだ。



[1511] 第二十二話 『霧海』
Name: 暇人
Date: 2006/11/09 02:42






 魔術を学び始めて何年が経ったのか?

 親父からその手ほどきを受けたのは遥か昔のような気もすれば、つい昨日のことだったような気もする。

 あれから……そうだな、多分27年位経ったか?

 30を少し過ぎたオレは、今はしがない雇われの身だ――あの忌々しいザクセン野郎の金満家め、オレ以外にも二十人以上を雇ってやがる。これでもそこそこ戦闘には自信がある……オレに言わせりゃ魔術師なんてのは強くてナンボだからな、当然だ。

 だが、そんなオレもこれほど当てにされてねえのは初めてだ、つまらねえ。落ちぶれ騎士の三男坊には期待なんてしねえってか?

 だから、錬金術師なんて屑どもは嫌いなんだよ。

 しかし……ここまで言ってなんだが、やっぱ仕方ないだろうな……あのザクセン野郎、吸血鬼狩りなんて物をやろうってんだから。故郷ザグレブをもう少し南にいったところなんかじゃ、この科学万能の時代になっても迷信に凝り固まった阿呆どもが心臓に杭を打ち込んで死体を埋葬してやがる……バカだな、ありゃ。

 吸血鬼なんてクソどもは確かにいるが、アレはあのクソどもに噛まれた程度じゃ伝染しねえ――ったり前だろ、そんな調子じゃこの星なんてあっという間に化け物の巣だ。

 あれは大昔のお偉いさんが干乾びた脳みそをお大事に抱えたまま生き続けてるただの亡霊だ、人間の血なんてものは正味な話どうでもいい……魔力さえ奪えりゃ、それで体は維持できるらしいからな。

 で、その亡霊は正直言って、オレなんかよりずっと強え。だから、通常料金にかなり上乗せがあった訳だが……パリでもう少し遊んでおけばよかった、金は死んでちゃ使えねえからな。

 今回、オレを雇ったのはザクセンのシュリンゲル伯爵――錬金術師の世界じゃ有名な化石みたいな連中で、かの大公爵の薫陶を受けてるらしいが……頭の悪い近親婚で肝心の精神と体が病んじまって衰退してる家系だ。

 やっぱ、ああいうのは止めた方が無難だな。

 身内ってのは気心が知れてる分得られる快感がヤバ過ぎてどんな賢者でもすぐにアホになるって、昔どこかの飲み屋で飲み友達が言ってたぜ。

 尤も何十年か前にその地位に就いたとか言う今の当主は、見たところ身体の方は病んでなさそうだ。精神もあれでまだましな方だろう……ま、それが雇われの身にとっちゃ一番重要なことなんだがな。

 で、そのお偉い伯爵様は笑えることに自分の領地に吸血鬼が発生するもんだから、それを退治するためにオレを雇ったんだと。退治される吸血鬼の呼称は『霧海』――元々はリリエンタール(百合の谷)なんて洒落た苗字の異教徒のクソ野郎だ。

 今のソイツがどんな奴かはただ一人を除いて誰も知らねえ。シュトラ卿っていうペルシャ人……何でも大昔の偉い人で、ソイツがリリエンタールをぶっ殺したらしいんだが、野郎もしぶとくて世界を一つ作って逃げ遂せたとか何とか……古い本って奴は高ぇからな、そこが理想郷だって言うこと以上は何もわからねえ。

 他にわかってることといえば、奴に襲われた場所は完全に更地に変わるって事くらいだ。

 生き残れりゃ、それでいい。

 だが、どうなるか……やっぱパリのジャンヌには告白っとけばよかったぜ。

『はぁ……クソ。一体何だってんだ、あの霧は?』

 朝っぱらから急に城の周りを霧が覆い隠し始め、ついには城下町まで完全に霧に覆われちまった。取り敢えず、街から離れたオレ達は今伯爵の馬車の回りにテントを張って様子を見てるところだ。

 一般人? あいつらは霧なんてただの自然現象だと思ってるから、たまたま濃霧が発生したとしか思ってねえよ。

 死んだな、あいつらは確実に。で、今は午後9時くらいか?

 正直、これだけ真っ暗だと魔術でもなきゃ城の周りの霧は見えねえな。おまけに千里眼だとか、遠視だとかの魔術や魔眼を使っても城下町の様子さえ見えないとは……どうすりゃいいんだか。

『吸血鬼が世界の構築を果たしたようですね、姉さま』

 馬車から出てきて城の方角を眺めてたのは、長い金髪、青い瞳、如何にも貴族的な白い肌の美少女。数十年も生き続けてるらしいが、見た目は恐らく17,8歳だろう。

『ええ、そのようですね』

 少女の言葉を受けたのも彼女と同じ外見の、ただし赤いローブを纏った先ほどの少女とは違って、青いローブを羽織った少女だった。この青いローブを羽織った方が当代シュリンゲル女伯爵――オレ達の雇い主って訳。

 やってられねぇのは、こんなガキにアゴで使われることだ。

 いや、錬金術師ってのは実際女が多いからな……女にアゴで使われる、そんな嫌な予感がしてたんだよな、クソ。

 伯爵はどこかから金やら銀を持ち出して、景気よく振舞うんで確かに金持ちなんだろうが……どこか性根が腐ったような臭いがしてならねえ。

『では、そろそろ突入の準備を開始してください』

 妹の方がオレ達に招集をかけたんで、オレも渋々歩いていく。集まってる連中はそれでも当代一流の魔術師達だった、オレの知ってる連中から知らないのまで……色々居るな。

 だが、コイツらも気がついてるだろうが一番ヤバイのはどう見ても伯爵姉妹だ。

 若い少女にしか見えないコイツ等からは殺しを愉しむ連中独特の気配が漂っている。人体を研究する魔術師なんかとはまた違う……趣味で人を殺せる人間か、そうでなければ真性の変態だな――そういう精神の病み方はなお悪い。

 やれやれ近親婚の弊害なんてのは勘弁願いたいぜ、後ろにだけは敵を作りたくないからな。

『三グループに分かれての突入、それで行きます。私たち姉妹は最後のグループに加わりますので、第一陣は早馬を』

 妹が指示すると、先発隊の奴らは早速霧の方に向かって走っていった。これじゃ、金だけ持って逃げるのは無理だろうな。

 早朝から急に霧が立ちこめ始め、すでに十時間以上が経過した今……数世紀前から恐れられる恐怖の理想郷が完成されたのだからそれはなお無理だろう。

 『霧海(むかい)』――別に深い意味はない、見たままの状況を伝えただけのことだ。覆われた地域が如何なる千里眼をもってしても覗き込めなくなる魔術的な霧、それが大海の如く半径数キロもの地域に広がる……

 やってられねえな。

 そのまま、オレは第三グループの一員として伯爵姉妹と一緒に霧の中に足を踏み入れた。

『1838年9月27日――22時、我々はザクセンの伯爵シュリンゲル家領に発生した『霧海』を滅ぼすために31人の術者を伴ってこれに侵入する……レポートはその一言から始めましょうか?』

 もう姿も見えなくなったが、伯爵が妹に聞いていた。

『その書き出しで構わないと思いますよ、姉さま』

 同意されてなるほどといった様子の伯爵の声がかすかに聞こえた。

『霧の成分自体が何かしらの魔術で作られた物質らしく、既存の物質ではエーテルに非常に近しい。一メートル手前の視界も遮られ、実際に隣を歩く人間の足音さえ注意しなければ聞き取れない、隣を歩く人間の顔は完全に見ることが出来ない……ここで罠など張られていれば全滅も、ありますね』

 俺の近くを歩く彼女は淡々とレポートを続けている。

 視界はゼロ、この状況では動物も何も関係ないだろう。先発隊の死体が転がっているということは無い。帰ってくる人間にも出会わない。

 霧の中に入ってすでに40分以上を歩き続け、どう考えても霧を抜け到着しているはずの城にさえ辿り着けていない。

 どうなってんだ、一体?

『姉さま、奇妙ですね。これほど歩いて城に着かないなど……町にさえ着かないではありませんか?』

 妹の方がこんなヤバそうな状況でもなお淡々と姉の方に問いかけている。

『ええ。おかしいのはそれだけではありませんよ、周りを歩いていらした傭兵さんたちが今はお一人だけ。他は逃げたのではなく、意図的に別な場所に移動させられたようですね』

 ほんのかすかに聞こえた姉の一言で俺も漸くそれに気がついた。

 周りに誰もいない、それはマジみたいだな。

『傭兵さん、貴方はどこのどなたですか?』

 姉妹のどちらの言葉かわからないが、取り敢えずそのどちらかであることは間違いない。

『帝国領クロアチア、ザグレブ出身のゲイル・シュミット……なぁ伯爵、これからどうすんだ? これじゃ、何にも出来そうにないぜ』

 かすかにしか声が聞こえないから大声で叫んでいた。

 すると、ぞくっとするような殺気が背中から襲い掛かってきた。

『無礼な人ですね……姉さま、この人殺して良いですか?』

 妹の方の殺意だけしか含まれないような無機質な声。

 コイツ、確実にやる気だ。

 俺も思わず剣に手をかけていた。

『止めておきなさい。どうしても我慢できなくなったときは、少しずつ殺しなさい……必要になったとき取り返しがつくくらいの速度でじっくりと痛めつけていかないと、もしものとき困るでしょう?』

 妹の方よりさらに冷たい気配、殺気だけでこの霧の中の何処に居るのかさえ見通せる――ヤバイ、この場で戦っても勝てる気がしねえ。

『姉さま、我慢出来そうにありません。姉さまにタメ口を利いて……私は許さない。バラバラにして、それを一つ一つ踏み潰して、じっくり殺しちゃいましょうよ……コイツ』

 おそらく妹の方が何かしらの魔術の詠唱に入ろうとしているのがわかる。

 正気か、こいつ等?

 だが、オレが剣を殺気の向こうに向けようとしたとき、喉元に触れるのは姉の方の細い指。

『はい、一回死にましたね――ふふっ、ゲイルさん剣を収めてくださいね。妹の悪ふざけ、ただの冗談ですから……クスクス』

 従うしかあるまい、その気になればその一撃で死んでいたのだから。

 霧の中だというのに二人はそれを見通しているとでも言うのだろうか?

 そうとしかいえないほどの動きだった。

『ゲイルさん、本当にごめんなさいね。貴方があまり緊張していらしたから、少し緊張を和らげて差し上げようとしましたの』

 妹の方の笑い声――クソ……こんないかれた連中と一緒になってるのは俺だけかよ。

 しかし、空間を捻じ曲げて隣を歩いている人間を消し去るなど並の魔術師では到底不可能な芸当だぞ。しかも俺は兎も角として、あの姉妹二人は周りの魔術師にちゃんと注意を払っていたのだから敵の異常さに背筋が寒くなる。

 だが、しばらく歩くとなんと幸運だったのだろう……霧の向こうに明かりが見えてきた。

『……よかった』

 思わず口から漏れた言葉。

 横を見れば赤と青のローブの姉妹が互いに口付けしながら、イチャついていた。

『よかったですね、姉さま』

『そのようですね』

『おいおい……伯爵、とっとと街に行ってみようぜ。ここに居ても得になることは無いだろ』

 その言葉に姉妹も同意する。

『やれやれ、仕方ありませんね』

『姉さま、いざとなればゲイルさんを盾にしましょうね。フフッ』

 高笑いする妹、なにが『盾にしましょうね』だ……だから、女魔術師ってのは性質が悪い。平気でそういうことを口にするし、真実そう思ってるからな。

『おい、冗談はそれくらいにしとけよ、オレもいい加減怒るぜ』

『ゲイルさん、それよりここは何処でしょうね?』

 姉の方にそう言われて、明かりの方向を見た。

 天井を飾るのはあまりにも巨大な月――いつも見るものの数倍はありそうな巨大な満月だった。同時に、地面には雪が降り積もり……それでいて……地上とは思えぬ美しさ。

 空を飾るオーロラ、冷たいはずなのに涼しい程度にしか感じない不思議な大気、銀色に輝く大地はまるで白い絨毯だ。さらに目をやれば海が遠くに見え、モスクが立ち並ぶイスラムの街――それもかなりの都会。

 彼女たちと共にしばし声もなく、その場に立ち尽くしていた。

 そんなとき、後ろからともに霧に入った魔術師が二人合流してきた。当然ながら、彼らもこの光景に言葉が無かった。

 煌々と明かりが灯る街の様子を確かめるために、他に方法が無かったので実際に足を運ぶことにした。

 そして、その街の状況に驚いた。

 カーニバルが行われ、お祭り騒ぎの人々。様々な人種、様々な服装……アラブ風の服装の男からイギリス貴族らしい服装の男まで……黒人も白人も東洋人も何もかもが混住していて皆が笑っている。

 奇妙なほどにニコニコしていて、こちらに陽気に挨拶してビールやワイン、あらゆる食事を振舞ってくれる。

 領主は居るのか?

 その問いには、誰も答えることなく笑顔のまま笑い続ける。

 リリエンタールを知っているか?

 その問いにも微笑み続ける。

 奇妙で恐ろしい街、全てが理想なのに誰もがまともでない。

 この街には貧しい者が居ない、飢えている者が居ない、奴隷が居ない、虐げられている者が居ない、支配する者が居ない、笑わない者が居ない、墓所さえ見当たらない。

 この世にあるべき負の部分が存在しない街。

 これほど奇妙な街がこの世にありえてはならない。

『姉さま、どう考えても変ですね。こんな矛盾した街は存在しません……豊かな富を蓄えた場所に貧富の差も無く、支配者も居ない。このようなものは絵本の中の世界ではありませんか』

 妹の言葉は尤もだ、実際に俺もそう思う。

『絵本の中にさえありませんよ……リリエンタール卿の目的が掴めません。ここがどういう世界なのか、その検討もまったく……流石にこの街で宿を取るのは危険でしょう。どこか郊外でキャンプを……ゆっくり捜索しなければ、この街ではなにがあるかわかりません』

 散々街を歩き回ったのだ、彼女の言うことも尤もだろう。

 同行している俺を含めて魔術師達もその意見に賛同する。

 時計を信じるならすでにこの霧の中に入って十数時間、どうしても疲れが出てくる。

 しかし、それが恐怖の始まりだった。

 よもや夜が永遠に続く世界があろうとは……そう、この世界では夜が永遠に続いた。そして、何よりキャンプを張った瞬間から別な恐怖が襲うことになる。

『じゃあ、お先に』

 そういって、歩哨に立ったオレに断りを入れた魔術師は……眠り込んだ瞬間に血の泉を作って忽然と消えた。

 もう一人も、3日後に眠った瞬間に血だるまになって……空間の裂け目に食われた。異常な事態に一端霧の外への逃亡を図るが、空間自体が屈曲しているのか、外へ向かったはずが必ず街の方に戻されていた。

 出ることは出来ない。

 眠ることさえ出来ない。

 それら自体は彼女たちにとっては苦痛ではなかったらしい……こちらの目蓋はすでに5日目を超えることも苦しいのに、それでも街を探索し続ける彼女は超人を思わせた。

『ゲイルさん……眠らないでください。ヒントが見つかりましたよ』

 彼女の言葉に精神が何とか覚醒してくれた。

 一瞬にして現れた希望に何とか気力を振り絞る。

『姉の……方か、その方、法と……は?』

 すでに頭には思考能力がない、ヒントを聞いてもまともに考えられるかどうか。

『街の中では犯罪が起こりません、人も死にません……ですから、一昨日ナイフで10人殺しました』

『え?』

 妹の方が話を引き継ぐ。

『この世界に居る人間はまともではありません。抵抗することなく、如何なる苦痛を持ってしてもあの笑顔が崩れない。殺される人間を見ても誰も騒がない……ただ笑い続けるだけ。それもそうでしょう……昨日その人たちは生き返っていましたよ』

『時間が繰り返している、ということか?』

 再び姉。

『話は続きます……そして、昨日街中で魔術を使って5人ばかり殺したのですが、今朝見てみれば生き返っていました』

 わからない……だから、どうだというのだろう?

 それは、ここならば人くらい生き返るのではなかろうか?

 姉妹は声を合わせて答えを告げる。

『時間が繰り返しているのではなく、これは一種の牢獄です』

『魂の牢獄だと?』

『魂の牢獄――彼は犠牲者の魂をこの世界の住人にして永遠の世界を自分で創ろうとしているようです。呪いと等しい契約で魂だけを縛っていますね、この世界(リリエンタール卿)が……クスクス、面白くなってきましたね、姉さま』

『一つの世界による、死者の魂を縛るほどの契約なんてものが可能だと思ってるのか?』

 姉に聞くと、彼女は明確な答えを用意していた。

『ええ、全力ではありませんが私の剣を持って切り殺したのに再生しました……魂だけで行動する吸血鬼であっても一日で再生するなどありえません。ならば、本来覆ることのない定理を覆したということは……』

 後ろからまとわりついた姉に口付けしながら、妹の方が続く。

『シュトラ卿の古典に曰く――リリエンタールの世界は夢である、と。ですが、眠った者の末路は見た通りです。よかったですね、ゲイルさん……姉さまが起こさなければ死んでいましたよ、フフッ』

『黙れよ……オレには、もうそんなに考える力が……』

『これが肝心な点でしょう。世界は夢、つまり私たちは今夢の中に居ます。しかしながら、魔術師たちの死は本物でした……現実と夢の逆転。起きている間だけ、この世界で生きていられる夢の世界の登場人物ということです。つまり、私たちはすでに現実の人間ではない』

『どういうことなんだ……』

『姉さまに手間をかけさせないでください。こういうことですよ、体が夢の中にある以上……こちらで見る夢が現実。ですが、現実の世界には戻るべき体が無い……つまりそれだけで死ぬ、ということです』

 滅茶苦茶な話だ、いやそんな滅茶苦茶を実現するからこその魔導師の呪いか。

『んな……どうすれば?』

『私たちをこの世界においている以上、魂と成り果てたリリエンタール卿がこの街のどこかで眠っているはずです。この人口3万程度の街で眠っている本体を殺せば、維持する基盤を失った世界は自然に崩壊するでしょう』

『殺し、楽しい殺し合いですゲイルさん。噂をすれば……さぁ、お客さんがいらっしゃいましたよ、姉さま』

 そのとき、街の郊外に構えていたキャンプに来訪したのはともにこの理想郷に入った28の魔術師達。

 彼らは手に手に武器を持ち、その背後にさらに数百人の町の人間が従っている。

『やれやれ、貴女はゲイルさんを……みなさん、どかなければ殺しますよ』

 伯爵が高速で式を組み立て、手を翳した。

 その瞬間の光景は如何なる奇蹟によるものか?

 一瞬の煌めきが錬金術師のローブの下から音速で放たれ、その場にいた魔術師28人をたったの一撃で全て障壁ごと打ち抜く。魔術師達は首から上を全て消し飛ばされた、いや何かに食いちぎられたと言ったほうが正確だろうか。

 その戦果を上げた、速度ゆえの不可視光は予測さえ出来ぬランダムな動きでさらに十人の命を消し去った後、再び錬金術師の元に戻る。

 一瞬の光景に誰もが息さえつけない。

 それこそかの錬金術師の至高剣『サルヴェッツァ』――数ある中にあって至高を謳われた、斬れぬモノ無き剣。

『世界を破壊する邪魔者どもは、殺す。皆殺しにする』

 それでも再び叫び始める右目だけが真紅に染まる人々達、これが契約の証か。

 無理やりの契約であっても、それを結んだ以上はここで永遠を約束された存在に昇華する。

 如何にリリエンタールの人形になるといっても、ここは確かに理想郷だ――死ぬことも無く、飢えることも無く、虐げられることも無い。

 この世界の住人になってしまえば、外の世界など苦難しか存在しない場所だろう…….目の前の敵は彼ら自身の意思で世界の終わりを止めさせようとしている。

 笑っているが、彼らは心から世界の永続を願ってそれを終わらせようとするものを排除しようとしている。

 なんてえげつない真似をする男なのだろう。

 この世界にあって永遠を約束された登場人物たちは、吸血鬼が見る夢のレギュラー……夢は殺せない、本体を滅ぼさない限り永遠に再生し続けるだろう。

 妹が手を掴み、こちらの体を一気に肩に担ぐ。

『姉さま……お早く』

『くっ……雇われものがこれじゃ、格好がつかねえな……この恩はいつか返す』

 思わず、泣きそうな声が漏れた。

 妹に連れられて逃げるうち、姉が群集に叫んだ。

『リリエンタール卿に唆されましたね。如何に人に終わりがあるとはいえ、貴方たちが陥ったその弱さは本来唾棄すべきモノです!』

 相手はほとんどが微笑み続ける一般人だ……もしも剣が発動すればあるいはかなりの数を殺したかもしれない。

 しかしその瞬間、彼女が敵に投げかけたのは剣ではなく、大地を焼き尽くさんばかりの瓶詰めの大火だった。

 本人以外は正体さえ知らぬ液体が地面にこぼれた瞬間、周囲の酸素は一瞬にして消費され、その場に居る人間は瞬間的に数千度にさえ達した凄まじい灼熱の焔に身を焼き尽くされた。

 地上の雪が全て蒸発し、霧の煙幕が張られる。

 その瞬間にオレたちも一度は逃げ切った

 逃げるとき、あれのことを妹は『熱い水』と言っていた……如何なる魔法によって作られたものかもわからないがそれだけでその場には骨さえ残らなかったのだから尋常ではなかろう。

 その後も次々にやってくる刺客が屠られ、退けられた。

 人口数万人の街、リリエンタールを殺す方法を知った瞬間からその全てが敵だ……世界を終わらせるものを殺そうとする街の人間達はかつてこの世界が飲み込んだあらゆる武器を構えて殺そうとしてくる。

 奪った馬で必死に逃げながら街に辿り着いたとき、カーニバルはまさしくカニバルに変わったかとさえ思えた。

 全てがこちらを殺そうとしてくる、リリエンタールという名の世界がただ三人の人間を食い殺してしまおうと思っているのだ。

 一人の男を捜しながら出会う人間を殺し、殺し……自分が生きているのかどうかさえわからなくなるまで微笑む人間を殺す、殺す、殺す……

 オレも傭兵だ、守られてばかりじゃ格好もつかない。

 剣を持って、一般人を切りまくる。腰に下げた銃にも手を伸ばすが、実際この人数じゃ埒が明かない。

 街に入って一時間もしないうちに気分が悪くなる、すでにオレだけでも50人以上は葬ったというのにまだまだ居やがる。

 流石にここまで笑顔の人間にいきなり一撃を入れることは気が咎めさえした。姉妹はそんな中でもまったく気にしていない……同じ人間とは思えないぜ。

 呪いに捕らわれている人間を助けてやる位の強気で殺し続ける姉は銀の釘で老人を壁に磔にし、妹は少女の顔面に銀の釘を打ち立てた。

 この街に金属がある限り釘は無限に練成される――錬金術の秘法が一つ『白の石』を用いた銀の釘が次々と人を串刺しにし、血の海を展開していく。

『一人一人に時間をかけられなくて残念……しかし、それでも埒が明きませんね、姉さま』

『だから、言ったでしょう? もう少し石や道具を持ってきなさいと。備えあれば憂い無し、ですよ……私の道具は貸しませんからね』

『アハハ、ケチな姉さま。ですが一人で殺すより、三人で殺した方が効率が宜しいですよ』

『やれやれ、仕方ないですね……ゲイルさん。そこ、危ないですよ』

 妹の手から放たれたのは先ほどの小瓶の大火――冗談じゃない、こんな場所で……走って物陰に隠れたときその場に居た人間が一瞬で灰にされた。

 その瞬間に、建物の中から襲ってきた連中に向けて氷結の魔術を放ち一気に砕いて始末する。

 だが、それでも尽きることなき敵は無限か?

 この世のものとは思えぬ惨状、殺し、殺し、殺し……

 いくら翌日には蘇るといっても、これでは……凄惨な殺しにも眉一つ動かさない姉妹、どうしてこんな酷いことが出来る?

 確かに蘇っていくのだろう、でもだからといってここまで凄惨な殺し方をする必要はあるのか?

 みんな笑顔で、こちらに武器を振り下ろしてくる…….気持ちの悪い殺し、笑顔の相手を殺すだけで吐きそうになる。

『何をしているのですか! リリエンタール卿はいよいよ本気です、街の人間全てを弾に変えて襲ってくるはずですから、油断などしては……駄目でしょう!』

 妹の手からこちらに投擲された銀の釘が背後から襲いかかってきていた女の額を見事に抜いていた。

 その瞬間に飛び散る血、それが頬に当たるだけで体が震え始めて、ついに吐いてしまった。

 そして、眠気が体を襲い、満足に立つことも出来ない。

 すでに周りの人間の数は異常だ、笑い声ばかりの中……みんなが殺そうと武器を振り下ろす。

 姉の方は姿を消していた。

 どうやら役立たずの傭兵は見捨てられたようだ……

 だが、そのオレの手を拾い上げたのは妹の方。

『やれやれ、大丈夫ですか? リリエンタール卿の始末は姉さまが……私たちは陽動です。死ぬ気で戦ってください』

 自分は死ぬ、それがわかっていてこの少女はどうして笑みを浮かべていられるのか?

『おい、オレなんかに構うな! お前も伯爵についていけば、あいつを滅ぼせる確率が高くなるだろ』

『ゲイルさんは意外におせっかいな人ですね。構わないのですよ、姉さまさえ何とか生き残ってくだされば私はどうなっても、ね。アハハ、今宵は寝られませんよ。この街が寝かせてくれませんから……さぁ、武器を取って続いてくださいね』

 そう涼しげに言った妹は一緒に飛び込んだ鍛冶屋の中から次々に銀の釘を投擲して、人々を屠っていく。

 あるいは突いて串刺しにして、あるいは壁に打ちつけ、あるいは顔面をぶち抜いた。

 コイツ……まったく、オレなんかのために残るなんて、甘い奴だ。






○○○○○






 錬金術師の心象を表すかのように雨が降る。

 こちらを追い詰めながら、その実自らも追い詰められたリリエンタールが彼女だけを外に飛ばしたために、中途半端になってしまった大災害はそれでも城周辺の土地と城下町を全て地上から消し去っていた。

 夢の世界の外で経過していた時間はわずかに10分……どうやら一日が一分の計算だろう。出鱈目な世界を出た後、急に感じる喪失感――リリエンタールを殺そうとしたとき、右腕は完全に死んでしまった。

 左目の視力はすでに無い、骨も何本か折れている、満身創痍であることは間違いあるまい。

 しかし、それでも感慨など無かった……妹に実際は怖かった、その弱音を伝えるべきだったかもしれない。

 それだけが心残りだろうか……

 止めを刺されかけて恐怖に歪んだリリエンタールの顔だけは鮮明に覚えている。死を覚悟して、無我夢中で人の波を押し開いて活路を得た……脱出不可能な迷宮で真実逃げる術を探した……死は流石に怖かった、そんな相手に偶然発見された彼の驚き様は如何程だったか?

 思い出すだけでも、アレは奇蹟だ……一流でない以上は人探しのルーンなど役にも立たなかった、占いの類も全滅、頼るべきは勘だけだったのだ。

 だから、まさにアレは奇蹟以外の何者でもないのだ。

『リリエンタール……』

 次に遭ったら殺す、それだけは間違いあるまい。

 相手は絶対の要塞に立てこもってこそ居るが、それは逆にあの場所から逃れられないことを意味する――コロシテヤル。

 ――バラバラにしてコロシテヤル。

 絶対に地上に生かしてはおかない。アレは地上にありえぬ世界なのだから生かしてはおかない。

 殺意、などといった明確なものではない。

 一番肝心なことには――彼のやり方が気に入らない。

『フフッ、アハハハッ――下らないですね。こんな方法で永遠などと……それにしても、城もなくなりましたし……どうしますか』

 錬金術師の流浪はそれよりのち百年以上続くことになった。それは彼を滅ぼせなかった自分への罰だと彼女は思う。

 妹と呼んだ相手に償う気持ち? 

 そんなものは存在しない。そもそも、アレは妹ではなくただのホムンクルスに過ぎないのだ。

 自分の作品に対して悲しみなど欠片も無い。

 しかし、それでもうまく作りすぎた人形だけに少々情が移っただけのこと――質の悪い失敗作に過ぎないはずなのに……それだけは今でも不思議だ。

 本物の妹から作ったホムンクルスだからか?

 本物の妹さえ愛していなかったのに、そのホムンクルスに愛を感じるとしたら随分と焼きが回ったものだ。

 それでは歪んだナルシズムではないか。死んだ人間を生き返らせるべきでない……タダの見習いさえ知っていたことなのに未だに後悔するとは情けない。

 アーデルハイト・フォン・シュリンゲルは彼の師匠だ、かつての出来事を今更考えてどうなることでも無かろう。

 ああ、今から先のことを考えても疑問は尽きない。

 …………

 ……

「なぁ、さっきから呼んでるんだけど」

 俺の声に漸く気がついた様子のアデット。

「――ゲイルさ……あ、いえ……失礼。何の用ですか?」

「? いや、ほらあの遊園地の件だけど、おかしいんだよ。地図に載って無くてさ」

 教会の彼女を訪ねていた俺は礼拝堂の椅子に腰掛けていた彼女の横に座り、地図を渡してみた。

「ああ、それはですね……魔術師のための遊園地というやつでして、地図には載らないものなのですよ」

「なるほど、そうか。確かにそれはもっともだ」

 そうだな、それなら当たり前だ。

「それより、そろそろ夏も終わりですね。文化祭には面白い企画を考えますから、期待していてください」

「お前の言う『面白い』企画は俺達の基準だとヤバイと思うけどな」

「ふふっ、本当に貴方は面白い人ですね」

「はぁ、何が?」

「遊園地は冬11月くらいになると思いますけど、楽しみましょうね。アトラクションはタダですからきっと楽しいですよ」

「そうなのか?」

「ええ、係員は愛想が良いですし、色々な料理を出してくださいますから」

「へぇ……じゃあ、期待してるよ」

「ええ。私も期待していますよ」

 意味ありげな微笑み、何かいやな予感がした。

 そのとき、急に教会の扉が開かれた。

 秋の訪れが近しいことを告げる風が吹き込み、灯されていた蝋燭の炎が揺れた。

 二人の視線が扉の方向を向いたとき、そこには長身の老紳士と少女、数人の護衛らしいサングラスの男達の姿があった。みな欧州系の外国人だったので、教会にやってきた信者だと思った俺は取り敢えず視線を前に戻した。

 しかし、アデットの視線は彼らの中の老紳士を見つめたまま……

「おい、あんまり見てると失礼だろ」

 小さな声で彼女に注意したが、すぐに小声で返される。

「公明さん、テレビや新聞をみていますか?」

「はぁ? いや、見てるけど……」

 彼らの一団は、自分達を見つめるアデットに気がついたらしくこちらに歩みを進めてきた。

「イギリスの外務大臣、少し前に辞任しましたよね?」

 何でも仕事に意欲がなくなったとか何とか、とんでもない理由で辞めてしまった大臣がいたな。

「ああ、確かそんなニュースも、って…….」

 え、嘘……あの老紳士の顔はまさにその大臣ではないか。

 俺達の前にやってきた彼は被っていた帽子を取ると、恭しくお辞儀した。

「どうも、お初にお目にかかりますシュリンゲル様」

 老紳士は実に流暢な日本語で話しかけてきた。アデットも流石に座っているのはどうかと思ったのか、立ち上がって彼に返す。

「いえいえ。ですがキャッスルレー男爵……何故ここに?」

 俺には見向きもしていない様子の彼ら、それでも流石にみんなが立っていて俺だけ座っているのも気分が悪いので立ち上がった。

「買収作業を補佐し、状況によっては貴女の補佐もするように公爵様よりご達しがございました」

「おい、知り合いなのか?」

 アデットに小さな声で耳打ちする。

「初めて、と男爵が言ったと思いますけど。彼の主がちょっとした魔術師の知り合いです……公明さんはしばらくここで留守番をしていただけますか」

「ああ、わかった。でも、早く戻ってきてくれよ」

「ええ。男爵、場所を変えましょう……上に私の部屋があるのでそこで」

「承知いたしました。では、この者達もここにとどめておきましょう」

 そして、二人は上にあがって行った。

 だが、最悪なことにその場に取り残された俺の周りには見ず知らずの外国人が20人も。

 みんなごついオッサンばかりで、とても愛想笑いなどして返してくれそうに無い。多分、日本語なんてよくわかってないだろう…….下手にニタついてたら殺してくれそうで実に怖い。

 小さくなって、彼らと離れて座ろうとしたのに俺を両方から挟んで席に座ってしまって…….脱出など不可能だ。

 緊張していた俺の横に、急に腰掛けてきたのは男爵が連れていた少女。

 孫だろうか?

 長い黒髪で、実に綺麗な10歳くらいの少女――青い瞳が愛らしく、それでも俺と同じように緊張でもしていて表情は堅かった。

 まったく同じではなかったが、かすかに記憶にあるあの吸血鬼に実によく似ていて、着ている制服らしきブレザーもあのときの吸血鬼のものに……本当によく似ている。

 それからしばらく、誰も話さないすごく重い空気がその場を支配した。

 こんなときに信者の人が来ればすぐに逃げ帰ってしまうだろう。

 今のこの現場はどう考えてもマフィアの集会だ、特に周りの黒服たちは。

「……」

 やばい、トイレに行きたいからそこを退けてくれって英語はなんていえば良いんだろう?

 黒服の男達が四人も座っている前を通りたいのに、言葉がわからない。ゴリラみたいな顔した角刈りのボディーガードは、不審な動きをする俺を一睨みした。

「May I help you, Sir?」

 野太い声がまるで恫喝するように聞こえた。頭の中が真っ白でなんていったのかもよくわからなかったけど、絶対に、『動くと、殺すぞ』といっている顔だ。

「……Sorry」

 小さな声で謝ったら、何とかその場は許してくれたが絶対に見間違いではなく、確実に懐に手を入れていた。

 この状況とこの見た目で、それが銃以外のものであるはずもあるまい。

 もういやだ、助けてくれ。

「魔術師殿」

「へ?」

 隣に座った少女が急に日本語で言ったものだから、思わず間抜けな声を出してしまった。

「――伯爵様の高弟であられるということはいずれかの古い家系のご令息とお見受けします。あたくし東方の家系については不勉強ですゆえ、宜しければ貴方様の家系についてご教授願いたいのですけど」

 前を向いたまま、丁寧な口調で流暢な日本語を話す少女。

 だが、根本的に勘違いしていることは言うまでも無い。

「いや、その……」

 周りの黒服の動きがものすごく気になる。VIPの令嬢の話を無視したらどうなるのか、考えるだけでもどきどきだった。

「あの、俺は篠崎公明って言って……確かに教えてもらってるけど、そんな偉い家系のお坊ちゃんなんかじゃない。その……名前、何だっけ?」

「失礼をお許しください、公明様。あたくしはプリメラ・キャッスルゲートと申します。プリメラと御呼びください」

「キャッスルゲート、って…….あの大富豪の娘さん?」

 ということは、コイツも吸血鬼か何か?

「いいえ。この身は公爵様の御創りになられた紛い物の命、そのようなものを娘とは申しますまい」

「作り物? 何のことだ?」

「公爵様をお慰み申し上げることがあたくしの存在理由なれば、此度の件もその目的に適いましょう……公明様、此度の件では伯爵様にご同行されるとか。如何様な手段を隠しておられるのか、差支えが無ければご教授願えませんか」

「此度の件って? 何の事言ってんだ?」

「声の判定から――真実を仰られている可能性は87.8%ほど……信用に値すると判断します。その上で、隠されるとはよほどの理由があると推察されます、心拍数の上昇はそれを隠すためでございましょう?」

 いや…….多分、トイレに行きたいのを我慢してるからだと思うけど。

「……では、これ以上のコンタクトは無駄と判断いたします。公爵様、報告は以上です。回線の切断を願います……疲れた。ねぇ、公明さま」

 黙りこんだかと思ったら、急にフレンドリーな口調に変わった少女。漸く俺の方を直視する。

 確かに、あの吸血鬼によく似ている……なおあの妖しい美しさは備わっていないが、それでも美少女であることは変わらないだろう。

「あたくし、この街を探検したいの。案内してくださらないかしら?」

「はい? いや……留守番頼まれてるから無理だろ。それに……この周りの強そうなおじさんたちが許さないんじゃないか?」

 上品に口に手を当てて笑うプリメラ嬢。

「このような者たちのことはお気になさいますな。新型といっても、所詮はあたらしいだけのガラクタですわ」

 そう言うと、すくっと席から立ち上がったプリメラ嬢は小さな声ですごく早口に何か言った。

 何を言ったのかもわからなかったが、男達は席から立ち上がって俺達に道を譲った。

「さぁ、参りましょう。男爵と伯爵さまの会見はきっと長引くでしょうから」

 俺の手を取って楽しそうに歩き出すプリメラ嬢……トイレ、行かせて貰っても良いだろうか?

 そのまま、手を引かれて外に出る俺。

 プリメラ嬢は教会の下までの坂道をスキップしながら下り、よくわからない状況におろおろしながらついていく俺を手招きして誘う。

「あの、プリメラ? 悪いけど、ちょっとあそこのデパートででもトイレ行かせてもらえるか?」

 指差したのは街中にある一番大きなデパート。聞かれたプリメラ嬢は実に不思議そうな様子だった。

「トイレ……何の施設ですの、それ?」

「いや、日本語得意そうだからわかると思ったけど、そうでもないのか? それなら、トイレット……でいいのか?」

「……なるほど、排泄行為でしたの。人はエネルギーの効率よろしくありませんのね、同情いたしますわ」

「? まぁ、よくわからないが……じゃあ、ちょっと中に入って飯でも食っててくれ。それくらいなら奢ってやるから」

 デパートに入ったあと、外国人だからというよくありの理由で連れて行った寿司屋で彼女に待ってもらい、俺はトイレを済ませた。

 そして、店に戻ろうとしたとき……やばいことに気がついた。

 いや、どうしてこうなるのだろう?

 一瞬、綾音が見えた気がしたのだ。

 壁に貼ってあったポスターを見れば理由は理解できた、華道の家元の展示会……これだ。

 さっさとプリメラ嬢をつれて離れたほうがよさそうだな、これじゃあどう考えても外国人の女の子をかどわかしたやばいお兄さんだ。

 だが、戻ったときにはさらに問題が大きくなっていた。

 なんと、あのバカ娘、俺が連れて行った寿司屋で何故か……すしを握っていたのだ。

 それもみんな何故かそれを咎めていない。寿司屋の店長さえ近くでメモを取っている。

 彼女が握ったすしを食べた人々は実に満足げな表情で、俺はなにがどうなっているのかもわからずその場を逃げ去りたかった。

「あの、どうして外国人の女の子がすしを握ってるんですか?」

 黒山の人だかりの中に入って、その一人に聞いた。

「ん? いやね、あの子すごいよ。すしを握ってる職人が未熟だって切って捨てたかと思えば、自分が握ったほうがましだとか言い出して……職人を打ち負かしちまったんだよ」

「…….」

 この店にとっては最悪の客だな…….大富豪の娘なのになんでこんなことが器用にこなせるのか、十歳程度のはずなのにどうなってるんだ?

 あ――どうすればいいんだろう?

 そのとき、俺の背後に誰かが立つ気配。

「あら、こんなところで何をしているの?」

 綾音も人だかりが気になってやってきたのだろう。

 最悪の展開だな……どうやってこの状況を打破すれば良い?

「あ、ああ綾音……ちょっと大騒ぎだ見たいだから、気になって……買い物の途中だったんだけど。なんだか、うん……別に事件とかじゃないみたいだから」

「何です? あのお寿司を握っているのは……」

「いや、それはその……」

 しかし、綾音の視線がプリメラ嬢を捉えたとき、彼女はそれだけで驚愕していた。

「……オート・マータ!? それも、あれは……」

「ん? おーとまーた?」

 俺に視線を戻すと、すごく真剣な顔で睨んだ。

「シュリンゲル卿は、何処です? あんなものがこの地に居る以上、彼女は了承しているのでしょう?」






○○○○○






 最古の人形作りキャッスルゲート卿……それに従う人形の中に『ザグロスの四機士(The four metal knights of Zagros)』と呼ばれる最古の人形達がいる。

 人を蘇生させる者から人以上の存在を作る者まで、幾多の人形師たちがいる中にあって人以上の存在を目指した最高の術者キャッスルゲート卿の人形。

 数ある人形達の中にあって最古にして最強……すでに数千年、ほぼ全ての魔術師以上の圧倒的な時間を生き続ける人形は、月の魔力を受けて真の生命となり人にあらざる身でありながら魔術を使う。

 そして、その力はそもそもの造りが人間で無いだけに桁違い。

 かつて吸血鬼と魔術師の戦争があったとき、彼の大公爵が未だ魔術師側のパトロンで無かった時代にはその力を持って幾多の殺戮を行った彼ら。

 その彼らも今ではただ各地の財閥の当主を装っているとか……で、その中の二体があの男爵、それと俺と綾音の前で一緒に映画を見ているプリメラ嬢……らしい。

 俺の家の居間でレンタルしてきたDVDを見ながら、ジュースを飲んでいるプリメラ嬢、それを睨むように見つめる綾音。

「面白い、という感情はさまざまな場合に用いられる気がしますけど恐らく今は面白いのでしょうね。人形師殿、あたくしはプリメラと申しますの」

「私は白川綾音です。レディ・プリメラ――どうしてあんな場所で、あんなことを?」

 よく戦闘にならなかったものだと思ったが、流石に人前だったから何事も無く、うまく誤魔化してプリメラ嬢をあの場から連れ帰ったのだがどうしたものか……今の空気が殺伐としている気がする。

「公爵様がある件でアーデルハイトさま、つまり伯爵さまに正式に依頼されてご協力していますの。いくつかの協会にも断りはいれてあると存じますわ。ですから、綾音さまもご家族からすぐに通知を受けると思いますわ」

「その件とは? かの大公爵が関わった件が小さな事件であるはずがありません、どんな事件です?」

「申し訳ございません、禁則事項ですのよ。公爵様よりそれを言う権限を与えられているのは男爵だけで、あたくしにはその権限がございませんの」

「あー、悪い。お前ら何言ってるんだ、さっきから……てか、プリメラは人形師って呼んでたけど綾音ってそうなんだ」

 てっきり戦うだけの人かと思っていたのはオフレコだ。

「匂いでわかりましてよ。伯爵さま、公爵様と同じ匂いがいたしますもの」

「目敏い方ですね、貴女は。それより……どうして二人であんな場所に居たのです?」

 俺達二人に向けられた質問、答えなんてない気がするのだが。

「せっかく来た日本ですもの、ダウンロードした日本語を使ってさまざまな場所を眺めませんと。ねぇ、公明さま?」

「まぁ……なんて言うか、外国人だから観光とかしたいのかなって」

「ふぅ……なんて浅はかな――貴方は浅海をもう少し狂暴にした存在と歩いていたのよ、それをわかっていらしたの?」

「失礼、綾音さま。そのアサミさまという方はどのような女性なのですか? ご発言だけを聞いておりますと、どうもネガティブなイメージしか得られないのですけど」

「レディ・プリメラ。貴女も猫を被っていらっしゃらないで。悪名高いザグロスの機士が観光だなどと言い訳が通ると思いまして?」

「悪名はあたくしではなく、他の三体のものかと存じますわ。愛玩人形、あたくしは所詮その枠に留まる存在ですもの。他の三体のようにそれに主眼を置いていませんの」

「嘘ですね。私にも人形師の勘と言う物で貴女がどの程度の存在かわかります。『黒機士』プリメラ、2000年規模で存在する貴女が愛玩人形としての意味しか持たぬと誰が信じますか」

「……人形って……プリメラがか?」

 話について行けてない俺の言葉。

「ええ、そうです」

「綾音さま、あたくしはこれでも嘘は申しておりませんのよ。他の三体に比べれば脆弱な、本当に脆弱な体ですものあたくし。男爵、あたくしの兄に当たる『赤機士』エンリルやその他の兄達があまりそういうことばかりが得意というだけで、あたくしの力など知れたものでございます」

「おいおい、人形ってのはもう少し、その……ピノキオみたいなのじゃないのか? ゼペット爺さんなんかは多分有名な魔法使いだろ?」

「!?……あたくしがピノキオなんて――公明さま、いくら人形と申しましても……例えが童話では傷付きましてよ」

「まぁ、確かにアレは私の家系が継承する魔術によく似ていますが……ふふっ、ピノキオと同列に扱われると形無しですわね、レディ・プリメラ」

「ふん! 知りませんわよ。公明さまの意地悪」

 頬を膨らませて抗議するプリメラ嬢。

 そんなにピノキオ、嫌いなのか……まさか、木で出来てるからか?

「で、その、なんだ……お前は人間じゃなかったのか?」

「そもそも最初から人間だとは申しておりません」

「考えればわかる状況だったでしょう……貴方、いくら何でもこんな容姿の外国人の女の子と一緒に歩いていれば誤解されるとか思いませんでしたの?」

「あは、ははは……いや、そう思わなかったわけじゃないけど、あの場所から出られるならそれでも良いかなって」

「そんなに環境が悪くは無いでしょう、あの教会は」

「いや、綾音は知らないだろうけどあの状況は100人中100人が嫌がるような状況で、出られるならそれでも良いって思うぞ普通」

「レディ・プリメラ、本当にそのような状況でしたの?」

「どうでございましょう……新型のオート・マータ、つまりあたくしの弟達が二十体ほど詰めていただけですし……他には変わったところはございませんでしたけど」

「ボディーガード風の外国人が二十人ですか……なるほど、状況はつかめました。災難でしたね」

「わかってくれたことに感謝する。やっぱりお前は俺の味方だな」

 俺にそういわれて、少し得意そうになった綾音は「当然です」と胸を張って言う。

 味方、だったんだ……いや、本当に今知ったよ。

「それで、綾音さま。あたくしが悪い人形でないとわかっていただけまして?」

「まぁ、一応貴女を信用しますわ。ですが…….まさか、とは思いますが、このまま街に居つく気ではありませんよね?」

 確かにそれは俺も疑問に思う点だ。

 このまま大富豪の娘だのがいつ居てしまって良いとは思えないのだが。

「いいえ。臨時の仕事が終了するまで伯爵さまをお助けするように申し付けられているだけですもの、仕事の終了を待って帰国いたしますわ。尤も、今回は下見をするための来日ですから、すぐに帰国いたしますわ」

「それを聞いて安心しました。貴女たちのような存在が居ては争いの元ですから」

「辛辣なことを仰られますな……綾音さま?」

「何か?」

「綾音さまの御創りになられた人形を見せていただけませんこと? きっと、海外の親類に会うような感動的な対面になると思いますの」

 そういわれた綾音は顔色が少し悪くなってきた気がする。

「い、いえ……そういうことは魔術の隠匿が、その……兎に角、絶対に駄目です!」

 すごく嫌そうな綾音、どうしてなのかそのときはただ疑問だった。

 しどろもどろに言い逃れして、絶対に人形を見せたくない彼女。

 すごく気になる……むしろ、見せたいんじゃなかろうか?

「なぁ、頼むから俺にも見せてくれ。一回綾音がどんなの作るのか見てみたいんだ」

「え……いえ、それは……その、個人的に、ということなら。貴方一人だけ、絶対に他言しないというのなら……何とか」

「? 綾音さま、あたくしには?」

「絶対に駄目です。私の近くに近づくことも認めません、いいえ……家の近くで見つけたら、部品まで含めてバラバラに『壊しますよ』」

 笑顔でそんな物騒なことを言われたプリメラ嬢は自分が人形だといっていたのに怯えて俺にしがみついた。

 人形を作る魔術師の『壊す』は、人形にはやっぱり怖いらしいな。

 てか、人間の俺もさっきの笑顔は怖い。

「ひっ……怖い。公明さまぁ、綾音さまはいつもこのように物騒なことを仰るの? 人形を壊す人形師なんて野蛮ですわよ」

「まぁ浅海が居るときに限ってなら、こんな調子ぃ…….いや、あ、何だったかな?」

 正直に言ったのが悪かったか、凄まじいまでの視線を感じた。

「貴方も、壊してあげましょうか?」

「ごめんなさい……おい、お前も謝っとけ」

「ご、ごめんなさい…….公明さま、本当に怖いですわ。もしものときは助けてくださいましね」

 悪いな、いざというときには俺だけで逃げる。

 とてもじゃないが、プリメラ嬢を助けることは出来ないだろう。あの笑顔はそれほどに凶悪だ。

 それはさておき……あの吸血鬼を基にしてるっぽいプリメラ嬢に抱き疲れるのも……精神的につらいものがあるな。

 さっさと離れてはくれないだろうか?

 その後、止めておけば良いのに綾音の家に行って、以降の記憶を削除しなければならないような人形を結局見てしまった俺たち。

 結構、色々観光までして……何やってんだろ。

 プリメラ嬢を教会まで連れてった時にはもう日も暮れて、男爵を待たせてしまって居たりした……大財閥の総帥で、男爵で、元外務大臣なんて大物を数時間も待たせたのは流石に心臓に悪かったな。

 何より、おつきの人々の視線がまた怖い。

 そして……怖いおじさん達に殺される前……もとい、その日のうちに彼らは仕事の打ち合わせが一旦終わったとかで帰っていったのだった。








[1511] 第二十三話 『回想/Doll Day 1』
Name: 暇人
Date: 2006/06/09 00:25
 


『それでは、みなさま楽しい一日をありがとうございました』

プリメラ嬢はそんなことを言い残して、兄貴である男爵と共にイギリスに帰った。

うーん、あの日は今思い出すだけで忙しい一日だったな……

そう、あれは見ていたDVDが終わってから始まったのだろうか?

何でもその映画の配給会社と製作会社、日本でのDVD販売元、全国チェーンのレンタル店、それらは全て彼女の主である『公爵様』の資本で経営されているらしい。

彼女は俺たちにそんな羨ましい話を聞かせてくれたのだった。

「嘘だ、いくらなんでもそこまでの金持ちなんて居るわけが……」

思わず将来職に就く意欲さえ失いそうになっていた俺はロリコンの変態吸血鬼が世界を支配しているという最低の現実から逃避しようとしていた。

そうだ、考えろ……全てということは無いはずだ。

特に販売元やレンタル店などは、絶対に日本人が経営していたはず。

だが、それも人形だと?

「私も、それだけは認めたくありませんがキャッスルゲート卿は間違いなくこの星一番の大富豪でしょう。そもそも、あの大公爵と関りの無い企業は存在しません。いいえ、企業はおろか国家元首の何人かも彼の公爵の文字通り『人形』です。先進国のいくつかもその人形に操られているとか」

綾音は気にさえしていない様子で、淡々と最低の事実を告げていく。

彼女にとって世界一の大富豪の人間性など関係ないというのだろうか?

俺は流石にそこまでの悟りの境地に辿り着くことは出来ない。

「嘘だ、嘘だって言ってくれ。だったら、だったらどうして……いや、もう俺働く気力も無くなりそうだ」

将来、就職するのもアホらしくなる。

当たり前だ、次元違いの金持ちが吸血鬼で、錬金術師で、アリス・コンプレックスだなどという事実は受け入れがたい。

「そうなりましたら、野垂れ死にますよ。数世紀も昔から世界の金融を牛耳ってきた最古の吸血鬼の一人です。世界経済を考えて、魔術師たちもアレを滅ぼすことが出来ないと判断するや否やその対象から除外するほどなのですから、個人で嫌がっても無駄でしょうね。気にしないことです」

きっと、公爵退治を諦めてしまった魔術師の一人が綾音の家族なのだろう……まぁ、確かに世界トップ100くらいの金持ち全員が一夜にして消えてしまえば世界は大混乱になるだろうからな。

綾音の言葉に同意するのはその公爵の人形であるプリメラ嬢――自分を人形といいながら、オレンジジュースを飲んでいるのはどうなんだろう?

壊れないのは流石に希代の錬金術師が作り上げ、月の魔力が生命を宿した神秘の自動人形ゆえなのだろうか?

どちらにしろ、俺にはプリメラ嬢が人間にしか見えないし、人形として扱うことなど出来ないだろう。

「そういうことですわ。ですが、ご安心を。公爵様は本当にすばらしいお方で、宇宙へ移民するためにお金を集めていらっしゃいますのよ。ふふっ、優しくて、夢を追い続けておられる立派なお方で、あたくしは大好きですわ」

プリメラ嬢が誇らしげに讃える『立派な公爵様』、その言葉には一理あるかもしれない。

キャッスルゲート財閥の当主イリヤ四世の名声は世界中に語り継がれている――先進国の国家予算にも匹敵する常識はずれの額を貧困の撲滅に寄付し、戦争中の国家間に平和条約を締結させ、幾多の科学的発見によりノーベル賞を含めた栄誉を総なめにし、所有する世界最大の製薬会社が持つ特許の全てを病の蔓延に喘ぐ国を救うために開放さえした、まさしく『聖人』と呼ぶにふさわしい人物。

彼の顔を知る人間などほとんど存在しないというのに、第三世界では誰よりも高い支持率を誇り、彼のためになら死んでも良いという人間が数え切れないほど存在する……そんな金持ちは地上に彼だけだろう。

だが、まさかその性格にここまで難があるなど誰も知らないだろう……俺も知ってショックである。

しかも、その理由が悲しい……

「――そりゃ、お前……小さな女の子に優しいってだけで絶対に下心が……絶対にだまされてる。いや、不都合なことは記憶できないように仕組まれてるぞ」

「でしょうね。数千年の間改善しなかった性癖(病気)がよくなるとは思えませんから」

自分の主人を悪く言われたのが気に入らないのか、頬を膨らませたプリメラ嬢はやや顔を紅潮させながら俺たちに噛み付いた。

「公爵様を悪く言わないでくださいまし。あたくしの父のようなお方ですのよ、あの方をこの世界の誰より深く愛しておりますの!」

涙さえ溜めている彼女には悪いが、本当の父親なら絶対娘に下心は抱かなんじゃないか。

大体モデルが居るだろ……確実にあの吸血鬼に惚れた上で作ってる。

というか、落とせなかった女の人形を作って適度に洗脳してるってのはすでに変態であることは確定、ただの性質の悪いストーカーと変わらないじゃないか。

違いがあるとすれば、付きまとわれている相手が尋常ではないことだろう……最も美しい至高の存在、神の血を引く少女を追いかけるなど俺には出来ない。

「それよか映画も終わったし、どこか行かないか?」

映画を見ながら適度に食い物をつまんだことだし、天気も良いわけだから観光の続きということにしようと思ったわけだ。

だが、その言葉を聞いた綾音は呆れ顔。

「貴方という人は……こんな子供を連れてどこへ行くと? 外国人の女の子、これを『妹』とでも言い訳するつもり?」

外国人の少女の連れが親でもない日本人の少年少女ならどう考えても問題だろう、誘拐とか何とか考える人も居るかもしれない。

いくらこの街に外国の人が多いといっても俺とプリメラ嬢が家族という言い訳は苦しいだろう。

「いや。海外の親戚ってことにすればいいだろ」

実際に血がつながっていなくても、親戚ということにすれば許容範囲じゃないかと思う。

例えば、(俺には居ないけど)叔父さんの嫁さんの妹の娘とか、そういった紹介なら問題ないだろう。

「そんな言い訳が通ると本気で考えているのね?」

しかし、綾音はそれでも納得していない様子。

当然か、苦しい言い訳であることに変わりは無いからな。

「細かいことは気にするな。口裏さえあっていれば問題ない」

「まぁ、そうかもしれませんけど…….学校の知り合いにあっても知りませんよ」

俺に外国人の親戚が居ないことくらい知り合いならたいていの奴が知っているだろう、確かにそういう連中に今考えている言い訳は効果がないかもしれないな。

だが、そのときの俺は冴えていた――綾音の言葉で問題に気がついた瞬間には解決方法が頭に浮かんでいたのだから。

本当に、こういう状態がいつも続いてくれれば良いのに。

「そうか……じゃあ、予防線を張ろう」

予防線つまり対策をいきなり俺が考え出したことに驚いたのか、一瞬眼が点になっていた二人。

「?」

俺が考えた対策がどんなものか想像も出来ないのか、不思議そうな二人をよそに俺は携帯電話を取り出して番号を押していく。

「ふふん、ちょっと電話するぞ」

○○○○○

「……」

墓石の前に佇む、茶色いセミロング髪の少女――手には花束を持ち、外国人墓地の中にいてもその景色に溶け込んでしまう容姿だ。

不可能とは知りつつ、仮に彼女が黙っていれば多くの人が好意を抱くであろうと思わずには居られない。

仮に手が出なければもう少しお近づきになれそうな、その彼女が俺を見つめて呆れ顔。

「――で、その女の子を私の親戚だってことにしたいわけ?」

俺が考えた言い訳、そもそも浅海の親戚ということにすれば完璧な予防線ではないだろうか。

片親が外国人なら外国人の親戚が居ても全然おかしくないし、たまたま訪ねてきていても言い訳はいくらでも出来る。

「ああ、悪いか? アデットは教会だし、外人の知り合いで暇そうなのはお前だけだから」

暇だと言われたことが癪だったのか、少し面倒そうな顔をしていた浅海だったが花束を置くと、罰当たりにもその墓の上に腰掛けて俺の話に乗ってもよさそうなそぶりを見せた。

「まぁ悪い考えじゃないけど。それにしてもこんなところまでよく来たわね、アドルフに聞いたの?」

アドルフか……最近、不本意ながらあの使い魔とはメル友だ。

アイツはコウモリの癖に、いや人間としての品性に欠けている癖に、アレでなかなかの博識――浅海の婆さんの元使い魔で、百年と少し生きているだけのことはある。

まぁ実際、それほど生きて頭が空っぽなら同情しか抱かなかったかもしれないが。

「ああ。それより、誰の墓参りだ? お前の実家は確かヨーロッパじゃなかったか?」

「ついでに、両親も存命中。ここは曽祖父母の墓よ……尤も、骨も何も無いけどね」

墓石をペシペシと軽く叩き、この罰当たりな子孫は墓石の上に腰掛けているわけだから……俺なら祟るぞ。

いかに文化が違うとはいえ、流石にこれは何処の国でも喜ばれない格好だと思う。

だが彼女はここに骨が無い、つまり誰も埋まっていないといったわけだ。

その答えに俺も一瞬何を言っているのかわからなかった、遺体を埋めないのなら墓の意味がないんじゃないか?

「おいおい、それなら墓なんて作るなよ。それに、墓を作らないなんて信じられるか?」

「わかってないわね。私たちみたいに古い魔術師の遺体っていうのは他の魔術師にとって研究材料だったりするから、用心してこんな場所には埋めないのよ。それで、ここには盗まれても害にならない肖像画と思い出の写真が葬られているそうよ。父が向こうに渡ったとき、本物の墓はアイルランドに移したの」

「ふーん。てか、お前の親父さんってハーフだったのか?」

フェルゼン神父が管理する教会に隣接するものとは別の外国人墓地、区画整備や地形の問題で教会からは少々離れたところにあるがここもあの神父が管理している墓所で明治時代にやってきた外国人の多くがここに葬られている。

最初はここに教会があったそうだが、戦時中に火事になって焼けてしまったために、再建資金の問題から当時土地の安かった現在の位置に移したらしい。

そのため、ここには古い時代の人々が眠っていて、現在の教会の脇の墓地には割りと最近の人々が眠っているのだとか、そんな話を教会であの神父さんから聞いた記憶がある。

そんな場所に曽祖父母が眠っている、もとい墓を立てたということは父親がハーフという可能性も考えられた。

「いいえ、クウォーターよ。ほら、曾祖母の墓石に名前が書いてあるでしょう?」

浅海がそういって指差したのは、彼女の足元。

そこには掠れた文字で、それでもしっかりと『Augusta Marianne Schmidt=Asami』という異国の人のものらしい名前が刻まれていた。

『アサミ』の部分かかろうじて読めたが……オーガスタ・マリアンネ……もうわからん。

オーガスタって言えば、ゴルフしか思い浮かばないのだが。

「何て読むかもわからん……えーと、何処の国の人?」

「アウグスタ、オーストリアよ。何でも曾祖母の祖母はドイツの名家の出だったらしいけど後年身体を病んだらしくてね、当時優れた術者がいるって聞いてやってきたこの街で人形に魂を移し変えようとしたらしいけど、結局無理だったそうよ。その代わり、曾祖母は曽祖父に出会ったの。曾祖母の一族がやってきたのが明治時代らしいから……百年位前かな? ま、この街ならそれほど珍しいことでもないでしょう」

確かに、目当てが高名な魔術師などという外国人は浅海のご先祖を除いていなかったと思うが、それでも何かしら商売だとか亡命だとかでここに来た外国人は結構いるからな。

なんでも、この街の気候が向こうの街によく似ているから故郷を忘れがたい人々にとってはここが馴染んだらしい、そう神父から聞いた。

「へぇ。じゃあ、その人死んだんだろ? アデットじゃあるまいし、百年前に婆さんだった人が今生きてるわけは無いからな。その人の墓は?」

「それが曾祖母の祖父が遺体を始末してしまったとか何とか……きっとショックだったんでしょうね。ドイツの戦場で大怪我したところをその人に助けてもらって、身体を悪くしてからはずっと彼女の看護に努めていたそうだから」

一瞬、どこかに思いを馳せるように遠くに目をやった浅海は漸く墓石の上から腰をどけると、優雅に降り立った。

「ま、遠い時代の昔話よ。それより、楽しそうだから私も加えてもらうわ。ついでに、綾音の人形でも覗きに行きましょう」

墓の外で待っている綾音たちに聞こえないように、俺に小声でそういった彼女の顔にはなにやらよくないものを感じざるを得なかった。

まるで時代劇の悪役そのままだ。

「見に行くって……綾音の工房にどうやって忍び込むんだよ」

彼女は俺の方に手をやって、耳元でそっと悪魔の囁き。

シャンプーの匂いまでわかる距離で、実に楽しそうに無謀な作戦を語り始める浅海。

「堂々と正面突破すれば良いじゃない、貴方には罠なんてほとんど意味ないでしょうからね。そもそも、綾音だって要塞に立てこもってるわけでもないんだから。ほら、あそこでこっちの悪巧みを睨んでる……うまくやらないと失敗するわ。考えるのよ、良い方法を」

見れば綾音の視線は俺を殺そうとしているのではないか疑いたくなるほど鋭い。

それを見てしまうと、流石の俺も足が竦む。

「寝ぼけた事を……失敗したときに俺が殺される」

「私が綾音をひきつけるか、そのプリメラにひきつけてもらえば見られるわよ……あの魔界が」

「魔界?」

「ええ、魔界。私もアレを見てトラウマになりそうだったんだから……貴方もきっと記憶を全部捨てたくなるわよ。魔術師の狂気、ここに至れりって感じね。アデット曰く『ここに望む世界の半分が広がっています』だそうよ」

「おいおい、望む世界っていうのは……あの人の趣味についてだと思って良いのか? なおさらだけど、よく見せてもらえたな」

あの人の趣味の世界を具現化するな、頼むからそんな危険なことだけは止めてくれ。

すでに具現化している狂気を滅ぼす方法があるのなら、綾音の黒歴史にならないうちに葬っておいてやった方が知り合いとして最善の処置なのだろう。

それなら、俺はやはりこの目で見る必要がある……のだろうか?

「最初はまぁ、このお墓のご先祖様関係の縁で近づけたんだけど。でも、アレを見てからはちょっときついわね」

浅海にさえ嫌がられる幻想とは、一体どんなものなのだろう?

気になる、気になって仕方が無い。

「……いいんだな? 首尾をお前に任せても」

「構わないわよ。この不可能作戦を実行する勇気があるのなら」

自分で不可能などといってくれた日には、どう反応すれば良いのか?

いや、こいつは自分でいって意味がわかっているのか?

「舐めるなよ。アレだけ隠されてみたくないという人間がいるか?」

「ふふっ、貴方もワルね。見直したわ」

「おいおい、そういう人聞きの悪いことを言うな。お前の方がもっとワルだろ?」

「違いないわね、ふふっ。今日みたいな貴方、私は結構好きよ」

「俺も、今日みたいに話のわかるお前は好きだよ」

「――ふふっ、まるで両思いの恋人みたいじゃない? いいわ……きっと作戦が成功する僥倖ってヤツよ。じゃあ、私が綾音に喋りかけて注意を逸らすから、プリメラと一緒に駆けなさい。いい? 殺意の波動に目覚めた状態の綾音はそれでも五十メートルを3,4秒で駆けるけど、絶対に追いつかれないようにしなさいよ」

一瞬、背後から綾音の刀で切られる夢を見た。

夢が現実になるのならそれは正夢だろう……やっぱり人の嫌がることはしない方が無難かもしれない。

「素で俺より速いんだけど……あー、ごめん。やっぱ止めて良いか?」

「無理ね。楽しそうだから、結末を見たいの。失望させないでね……悪いことする貴方って結構面白いから。工房の場所を教えておくわ……あと、いきなりあの家に近づけば感づかれるから適当に場所を回りながら誘導するのよ」

すでに乗り気の浅海に無理やり了承させられた俺は渋々彼女に同意する。

「ああ、わかった」

「楽しそうに、みんなで仲良しごっこして注意を逸らす作戦よ……敵には気付かれては駄目。もし、このことを密告したら殺すからね♡」

考えてみれば正気じゃないよな、お前も俺も……自分から死にに行こうっていうのだから、本当に正気じゃない。

だが、これは一種の吊り橋効果ってヤツなんだろうか……彼女に奇妙な連帯感を感じた。

恋? いや、むしろ故意。

「じゃあ、行きましょうか」

そう言って綾音たちの方に歩いていく浅海、俺もすぐに彼女を追いかけた。

『霧の中で死なないように気をつけなさい、シノザキくん。特に錬金術師には気をつけて』

「え?」

早歩きの浅海の後を追いかけて、その女性の前通り過ぎるとき、そう聞こえた。

一瞬、立ち止まった俺は俺たちに背を向けて歩いていく髪の長い外国人女性の姿を捉えた。

すでに浅海は行ってしまったか、墓場には俺とその人だけだ。

「あの、俺に何か言いましたか?」

日本語で話しかけてきた相手だ、日本語で話しかけても問題ないだろう。

俺の問いに女性は立ち止まり、ゆっくり振り向く。

プラチナブロンド、いやすでに銀髪といって良い輝きの艶やかな髪の、20代半ばの美人……欧州人のようだったが、この街の人間ならあるいはハーフなのかもしれない。

振り返った女性の赤い瞳が一瞬見えた、だが目をこすってみれば碧であったことに気がつく。

気のせいかもしれないが、親しい人の墓に参った様子の彼女の瞳にはわずかに涙さえ見えた。

「私はマリア。シノザキくん、あなたと会うのはこれで何度目かしらね」

見知らぬ女性は実に上品な口調でそう告げた。

だが、俺の記憶にある限り彼女にあったことなど無いはずだ。

「いや、俺たちは初対面じゃないのか?」

「いいえ。10年位前にも、4年前にも、私はあなたに会っているはずよ。あなたが死にそうになったときは、いつも助けてあげたでしょう」

そういわれて、記憶を探るがそんなはずは無い。

彼女とそんな昔に会ったことはないし、助けられたことも記憶には無い。

「誰かと勘違いしてないか?」

「勘違いはしていないのよ。あなたが気付いていないだけ。この世界のあなたは本当に無茶な人、人生で何度か死んでいるのよ。でも、そうならない可能世界に私が導いてあげているの」

「可能世界? アンタ、ひょっとして魔術師?」

「数学的にはね、人生っていうのは二択で成り立っているのよ。朝コーヒーを飲むか、紅茶を飲むか? 靴下を左足から履くか、右足からはくか? そんな些細な選択が無限の世界を作り出しているの。私はそういった世界の旅人、そういうことをする人なの」

小さくため息をついて、彼女は首を振った。

「シノザキくん、あなたは彼女達に相談した方が良いわね。そうでなければ、きっと『霧海』の中で死ぬわ。助かりたければ、偽りの月を撃ちなさい……あれがあの男の魂、夢の世界はそれで晴れるから」

静かな声でそういった彼女――胸には赤い宝石のネックレス、真っ黒いドレススーツを着ていて、その雰囲気から彼女の色は銀だと直感する。

「月を撃つって、一体何? それに死ぬって、俺が?」

相手は冗談など言っている顔ではない。

彼女は狂っているわけでもなく、正気で俺が死ぬといっているのだ。

「ええ。危ないと思ったときにこれを使いなさい、あなたを助けてくれるから。でも、今開けては駄目……適当に言い訳を考えて彼女達に合流して今日を楽しみなさい」

女性が投げて渡したのはただのナップザック、中には堅いものが入っているらしく鈍い音が聞こえた。

「ちょっ、一体誰なんだ? なんで俺が死ぬなんてことが? そもそもあそこは遊園地……」

「いいえ、あれは魔導師の呪い。担がれたのよ、あなた。いいえ、あなたの介入があの世界をより悪くする……でも、そうならないとあれは壊せないの。気をつけるのは食べ物、容易に殺せぬあなたのために毒が入っているわ。錬金術師は偽りよ、あれはあの男の作り出した幻想……水や食べ物を渡される、あるいは二人きりになったときには容赦なく殺しなさい。男爵から離れてはだめよ、彼はほとんどの攻撃からあなたを助けてくれるから」

「え? いや、ちょっと待ってくれ。男爵って誰のことをいってるんだ?」

「矢は男爵の『魂喰らい』を、弓は魔術か適当なものを使いなさい。届くはずが無くてもきっと届くから、ただ思い込みなさい。魔術使えぬ魔術師見習い、あなたのご武運を祈っているわ……それと、こんな天気の良い日には競馬場がお勧め。あなたが間に合う唯一のレース、7番に財布のお金を全部かければきっと豪遊できるわ。さもなければあのお嬢さんに八つ当たりで殴られることは請け合いよ」

「は? 競馬場って……俺はまだ未成年だし、おい待ってくれ! マリア、さん?」

「さようなら、シノザキくん。でも私はあなたを待っているわ、いつまでも永遠に。だから、絶対に死なないで……」

彼女の姿は俺が駆け寄る前に、空気に溶けてしまったかのようにその場で消失した。

まるで風のように、魔法使いの姿は消えていた。
 
俺はその場で呆然としていたが、俺を呼びにきた浅海の声に漸く気がついて彼女達に合流したのだった。 
 



[1511] 第二十四話 『回想/Doll Day 2』
Name: 暇人
Date: 2006/11/09 02:57






 外国人墓地の中、俺の前から風のように消えたマリアさん――正体も満足に聞き出せなかった彼女のことは合流したときすぐに浅海たちに話した。

 彼女の正体とは関係なさそうだったし、これで何かあっても碌なことにはならなさそうだったから競馬関連は伝えなかったが、問題は無いだろう。

「――というわけで、これを貰ったんだ。中身はよくわからないけど、少し硬い感じがするから金属か何かじゃないかと思う」

 全体的に黒くて、どこか外国のブランド物らしきそれをみんなの前に示してみる。

「どれどれ、貸してみなさい」

 差し出されたナップザックを手に取った一同は墓地の近くの公園のベンチに腰掛け、取り敢えず開放せずに感触やら魔術的な痕跡とやらで色々調べている様子だ。

「どうだ? 何かわかったか?」

 数分が経過した後、自分達が調べたものを俺に返した彼女達に聞く。

 結局、忠告もあったわけだし、おかしな魔術がこんな場所で発動したら対処法がないということで中身は確かめていなかったが、何度かお互いに頷いたりしていたので収穫はあったのだと思う。

「えーと、まずは何から説明しようかしら?」

 俺に買いに行かせていたジュースを受け取った浅海はどこか釈然としない顔でベンチに腰掛けている。公園とはいえ近くに団地があるわけでないのでここに人は少ない。

 また、外国人墓地の付属公園みたいなものなので公園に居る人々から見ても俺たちが浮いているということも無かった。実際、ここは元々教会があった場所ということで何十年か前に地元の資産家が買い取った土地を遺言で寄付して公園になったのだとか。

 そういうわけで見舞いに来た人がたまに休んだり、あるいはこの近くに住んでいる人が訪れるくらいなのだ。ゆえに、というか子供が近くに居ないからだろうけど遊具なんて隅っこに少しあるだけで花壇もなく閑散としている印象を受ける。

 しかし、俺が何を知りたいか?

 それは問うまでもないだろう、マリアさんの正体だ。

「まずは、あれだ。俺が会った魔術師、マリアさんって有名人? 仮にそうじゃなくても、お前らあの人の正体を知ってるのか?」

 その問いに三人はそろって首を横に振る。

「あたくしのデータバンクにも記述がありませんわ。『マリア』、『マリー』、『マリーア』、『マリアンネ』で検索される魔術師に可能世界あるいは平行世界とも呼ばれる別の世界を渡る人は居ませんの」

 プリメラ嬢は絶対の自信を込めて、俺が会った魔術師は今までには存在しない人間だと言い切った。数千の年月を存在し続ける彼女の否定はそれこそアデットの言葉にも勝る信用度だった。なにより、人柄の点では比べるべくもない。

「でも、待ってくれ。確か時間を旅する魔導師が居るって、前にアデットが言ってたはずだ。その人じゃないのか?」

 かすかに記憶にある言葉、人を生き返らせるにはいくつもの方法があって時間を渡るのがその一つだと彼女は言っていた。人の蘇生を時の魔術をもって成し得たのは古の時代の魔導師マクリール卿。

 それなら当然のことだが、過去に存在していないとおかしいのではないか?

「違いますね。しかし、それは簡単なことです。時間旅行をする魔導師は存在します、しかしその人物は男性でした。貴方が会ったのは女性なのでしょう? それも『マリア』という名前の。残念ですが、『マリア』という名前の術者は未だ歴史に名を残していません」

 プリメラ嬢の言葉を継いだ綾音のこの否定は、俺の見た彼女を幻と言い切っていると考えて良いのだろうか?

 そんなはずはない、確かにナップザックまで渡してもらってそれはここに存在するのだから。

「貴女たちの言い方が悪いから、キミアキが何か勘違いしているみたいよ。そもそも過去から来たんじゃなければ、未来から来たってことでOKなんじゃないの? それ以外にないわけだし、それに先に起こることのヒントっぽいのもくれたみたいじゃない。それなら、未来からの訪問者ってことにしておいて間違いはないと思うわ」

 浅海が急に突飛なことを語りだしたとき、思わずこけそうになる。

 宇宙に移民しようという吸血鬼は頭がおかしい、そう言っておきながら自分がタイムマシンを肯定するというのだから矛盾としか言い様が無かった。

 あ、いや……でもまぁ、時間を旅する魔導師は居るんだったな……あれ、でもソイツは男だって?

「ん……あー、よくわからなくなってきたけど、要するに未来から来たヤツがいて、そいつが魔導師って訳だよな?」

 大昔の方はコイツのご先祖様だから間違いなくいるわけだが、未来の方まで居るとは限らないんじゃないか?

 しかし、彼女は自信を持って頷いた。

「うん。でも実際、魔導師の称号が未来の世界で認定基準が変わってたりするとまた違ってくるかもしれないけど。そんなまねをするほどの術者でもいきなりそんな大魔術に辿り着くなんて不可能な話で、いくつもの研究の果てにそれを成したわけだから……きっと、たくさんの弟子や魔術理論を発表したと思うのよ。そうなれば、現代の基準なら魔導師よね」

 魔術の先駆者、そういう人々に与えられる称号だったな……その人物の人格やら何やらを無視するから、アデットみたいなのや大昔の吸血鬼みたいな問題有りの人々ばかりが名を連ねることになるんだが。

 多分まともな人々はとっくに死んでしまって碌でもないのばかりが生き残っているんだろうな……憎まれっ子世にはばかる、とはよく言ったものだ。

「いや、そんな細かいことはどうでも良いだろ。大事なのは、あの人は一体なんで俺にあんなことをいったのか、だ」

 そうだ、彼女が何処の誰かということは未来人ならわかるわけも無い。

 しかし、その問いに答える前に浅海は真剣な顔になって逆に聞き返してきた。

「それより、キミアキ?」

「ん?」

「『霧海』に入るなんて正気だったの?」

「へ? ああ、そういう約束だ。でも、多分デートとは違うからな。誘われたからついていくだけだ、何でも奢りらしくて――」

 ありのままの経緯を答えると彼女達は一様に呆れた表情に変わっていた。

「……アデットに担がれたからって、何処に行っても良いって訳じゃないのよ。まぁ、あの人なりの勝算はあるんでしょうけど……無茶を考えるわね」

「まったくです。命を粗末にするようなマネをさせるなんて……あの人にお灸をすえてやらなければなりません」

 呆れ顔だった浅海と綾音が今度は怖い顔で睨んできた。プリメラ嬢はどこか言いにくそうな表情でよそを向いている。

「貴方が行くというのなら別に止めはしないし、アデットにも勝算はあるんでしょうけど……多分、貴方死ぬわよ」

「同感ですね。恐らく高い確率で死にますよ、昔から運がなさそうでしたから」

 綾音はそう強く言ったが、正直なところ遊園地に行くのに運が良いかどうかは関係ないと思う。この二人は遊園地の遊具の事故で俺が死ぬとでもいいたいのだろうか?

「あー、お前らも勘違いしてないか? 俺は遊園地に行くわけであって死にに行くわけじゃ……」

「プリメラ、隠さずに教えた方が良いんじゃないの?」

 コイツは駄目だ、浅海が首を振ったときそういう幻聴が聞こえた気がする……彼女はそのまま脇に座っていたプリメラ嬢に何かを促した。

 だが、いわれたプリメラ嬢はすごく困った表情で非常に言いにくそうに小さな声で答える。

「え、そのー……禁則事こ――」

 だが、そんな拒否など許さないのが暴君の暴君たる所以。

「プリメラ!」

 睨まれたのがただの人間ならそれだけで死んでしまうほどの、禍々しい紅い魔眼がプリメラ嬢を捉えていた。

 実際、そんな強攻策を取らなくても彼女は口を割ったであろうが、彼女の迫力に押されてしぶしぶながら口を開く。

「はい。いえ、あの……仕方ありませんわね、詳しく申し上げますわ。公明さま、少々長くなると思いますから腰掛けてくださいまし」

 そう言われたので、綾音に少しよってもらって彼女の横に座ることにした。

「正直に申し上げますと、今回の来日はその対策の打ち合わせでしたの」

「『霧海』って遊園地の対策か? 警備の調査とか?」

 この俺の言葉に完全に呆れ顔の一同。それほどおかしなことを言った気はしなかったのだが、どうやら俺は随分と……唐変木らしい。

「……貴方は底なしのお人よしね。アデットは貴方を地獄に一番近い場所に落とそうとしていたのよ」

「は? 『霧海』って場所は理想郷なんだろ?」

 誘われたとき、確かに彼女は其処を理想郷と呼んだ。なのに、どうして俺が間違っていることになるのか?

「物は言い様ですね。確かに理想郷という一面もありますが、あれは魂の牢獄。あの吸血鬼が捕えた魂によって運営される一つの大魔術です」

 魔術、その言葉を聞いて段々と嫌な予感がしてくる……『担がれた』その言葉と今の綾音の言葉を総合して考え、なおかつ其処にあの錬金術師の性格まで考慮すれば……嗚呼、また碌でもないことに巻き込まれてるのな、俺。

「よくわからないが、結局どういうわけなんだ。それに、例の未来からの魔導師の正体は?」

 碌でもないことに巻き込まれずに済む救い主の正体に問題を逸らして、知りたくない事実から逃避していく。

「ああ、あれね。あれは多分……私じゃないの?」

 疑問形だったが、それでも自信はありそうな浅海はあっけらかんとした表情で返した。

「……マリアって言ってたぞ」

「本名はレナ・『マリア』・マクリールっていうの、忘れた? 偽名でなければきっと私のことよ」

 まぁ、普通に考えれば偽名を名乗るくらいなら最初から何も言わずに消えれば良いだけの話だから本名だとは思うが、こいつは何適当なことを言っているんだ?

「あー、確かにそうだったな。でも、銀髪だったぞ。それに、印象も少し違った気が……もっと、冷たい感じがしたんだが」

 かすかな記憶しかないけど……あの人は今の浅海とは違ってどこか陰のある感じの人だった気がする。とても浅海の10年後には見えない、というか性格とか違うと思うのだが。

 しかし、浅海の妄想は勝手に発展していく。

「うーん、すごいじゃないの、私。そして格好良いじゃないの、私。多分未来の世界だと髪を染めて、クールなキャラを演じようとしたのね。マリアっていう名前の方が通りがよかったか、ラックが上昇するのよ、きっと」

 未来の自分の成功が約束されている、そうわかった人間はこういう行動を取るのか……すごく満足気だ、それはまだ確定した事実というわけでもないのだが。

「いや、だから……憶測でものを言うなよ。確かにそういわれてみればどこか似てたけど、全然別人って可能性だってあるんだから」

「欧州系の外人で、流暢な日本語が話せて、キミアキみたいなローカリー極まりない人間を知っていて、時間に関係する『マリア』っていう名前が入った魔術師なんて世界広しといえど私だけしょう? この完璧極まる推理のどこに落としどころがあるっていうの?」

 自分に都合が良い事実だけを力強く力説している、確かに彼女が口にした共通事項はあるが、それは彼女であることを証明するほどの証拠ともいえない。

 仮に言えば、浅海たちには用がなかったのだから俺が後に知り合う魔術師だと考えようとはしないのだろうか?

「浅海、その推理の落としどころはいくつもありますよ。そもそも、貴女の娘や子孫ということもあるのでは? 次に、世界を渡るほどの術者なら時間の方面からではなく空間の方面からその問題にアプローチしている魔術師ということも十分に考えられるでしょう」

 何でも彼女達の話の通りなら時間の方面からの平行世界と空間の方面からの平行世界では方法が違ってくるのだとか。

 例えば、Aという世界があったとする。この世界において、時の魔術によって中世までさかのぼった術者が居たとしよう。

 すると、そこで行われた行動いかんによってはAの世界での歴史が改竄され、新しいBという世界が独立して成立するらしい。

 Aという世界は消滅しないのか?

 一人の人間の存在が世界を支えているわけではないから、術者が離脱したことで進んでしまった世界は消滅しないらしい。つまり、成立したAとBは実際に行き来することが出来ない独立の世界として架空の空間に存在し続ける。

 その平行世界を創設した魔術師とそれを行き来する魔術を体得した魔術師を除いて、両者は完全に別のものになるわけだ。この現象を時間の方面からの平行世界への移動だと綾音は表現した。

 この方法の場合、平行世界を作るまいとするAという世界の拘束力が改竄を修正しようとするらしいからうまく行わないとBという世界の成立は無いのだそうだ。

 これを空間の方面から行う場合には、Aと併走するCという世界に直接渡る。ここで、Cという世界はあらかじめ存在しているわけだから、並行世界の創造という面倒な手順を踏む必要がないわけだ。

 つまり、自分で設定を変更する時間の魔術とあらかじめ設定が違う世界への移動を前提としている空間の魔術では違いがあるらしい。両者は非常に似ていて、空間移動に過ぎない魔術も併走するC世界が中世であれば時間移動ということも出来るわけだ。

 それらの理論は協会の書庫の際奥に封印保管されている。

 それほどの至高の奇蹟であり、古来よりこれらの魔術に挑んだ連中は数知れない。

 しかし、それでも現在までに確認される成功者はわずかに2人――その困難さは想像に難くないだろう。

 では、魔術式がわかっていれば奇蹟を起こすことが可能かどうか? 

 ここまで高度なことについては不可能だ。悲しい事実だが、方法がわかっているだけで可能とはならない。

 例えば、100メートルを9秒台で走るという行為が挙げられる。

 どうすれば100メートルを9秒台で走れるか? 極論を言ってしまえば、ただ必死に走れば良いだけだ。

 しかし、実際にそうは行かないのが現実だ……例えば腕の回転はどうか、下半身と上半身の筋肉のバランスはどうか、食事、体調、風向き、etcのように全てが最良の条件を持ってして、同時に本人に才能が要求される訳だ。

 だが、例えばそれを『走る』という行為に限定して100メートルを走るとしよう。時間の制限などないとすれば、これを走りきるあるいは歩ききることはそれほど苦しくもあるまい。

 単純に体力(魔力)が足りてさえいればそれは可能、つまり単純極まりない魔術に関しては式さえわかっていて、ある程度の知識と手順さえ踏めば誰でも使える。

 一般人に簡単な魔術が使えないのは体力(魔力)が足りない上に必要とされる知識がまったくないからだ。

 そして、魔術師に魔導師が起こすような奇蹟を起こせないのはどうしようもない才能の差、細かな技術的な問題、体力(魔力)の差があるからだ。

 ゆえに完全な情報が存在しても魔導師たちの起こす奇蹟を完全に再現することは実際にとても難しく、それを成した魔術師がまた魔導師と賞賛される場合さえある。

 魔術師たちがそれらの情報から得られるのは膨大な情報の中の一部、それらについて彼らは実用的に改良を加えて汎用性の高い魔術を作り上げてきた。

 高度に専門的な大魔術を細分化していって取り込める部分だけが世界の魔術師に広がっているわけだ。

 はは……どちらにしても俺には不可能なわけだから、わかりにくい話ではあるな。

「綾音、妬いてるの? 未来から私がやってきたのに、貴女はそんなことが出来ないから妬いてるんでしょう?」

 自分には将来の成功が約束されているんだぞ、と得意げな浅海。

「短絡的かつ侮辱的な発言ね。そもそも貴女がその人物だとして、どうして私たちに会いに来ないのです? いいえ、わかりました。貴女の事ですから私に会いに来ないことは理解できます。が、貴女自身に会いに来ないことはおかしいのでは?」

 面白くないのだろう、綾音は『マリアさん=浅海』説には賛同したくもない様子だ。実際、綾音が指摘した『浅海の子孫』説の方が俺もまだ納得が行く気はする。

「馬鹿ね、簡単じゃない。時間の魔術の解決できない矛盾か何かがそこで発生してるのよ、きっと。だから会いに来ないんじゃなくて、会いに来れないの」

「魔術師が憶測で物を言わないでください! そんな話は聞いたこともありませんよ」

 魔術師は見方を変えれば一種科学者のようなもの、憶測で判断するのはあまりよくないらしい。

 しかし、そんな言葉も意に介さない浅海は細かなことは気にしない。

「きっとまだ発見されて無い方法で世界を移動してるのよ、今の理論で説明なんて出来るわけが無いわ。まぁ、協会の大図書館へのフリーパスがもらえるご身分になれば話は違うのかもしれないけど、あれって家系と才能に発見した成果の発表とかも関わるから今はまだ無理だし。でも、うん。やっぱり天才ね、流石私」

 隣で見ていた俺もいい加減に根拠と呼べるような根拠もないのに浅海の妄想がどんどん大きくなっていくことに呆れて口を挟む。

「よく、そう単純に物を考えられるな」

「だって、物事の本質はそう複雑なものでもないのよ。鯱張った連中には難しく語ることが賢いっていう信仰があったりするけど、実際にそれを理解している人間は相手にわかる言葉でしか説明しないものなの。物事が実は単純であるのは、人間が自分で手放してしまった真理ね」

「寝ぼけた理論を……浅海、いい加減にしなさい。私は正体不明の人物が貴女でも、そうでなくても構いません。ですが、今は……今は……えーと、ああ、そうでした。今は『霧海』について説明をするところだったはずですよ」

「ああ、そうだったわ。お婆様に電話しておくわね、きっとお祝いの品が……あと、キミアキは話の流れから考えて二回私に命を助けられたみたいだから、利子を考えて……私のために四回は死になさいよ」

 コイツは完全に恩を売ったつもりだな、俺にはまったく身に覚えのない話だというのになんで俺が死ななきゃならないんだよ?

 ついに本当に電話し始めてしまったあたり、コイツは素で『未来の自分がすごい魔術師になっちゃった』と信じているんだろうな。

 単純なヤツ、そうとしかいえない。

「この自惚れ屋は放って置いて構いません。レディ・プリメラ、吸血鬼の紹介を続けてください」

「え、あ……はい。では簡単に……」

 ヨセフ・リリエンタールという名の呪術師が千年前のドイツに生まれた……実際にリリエンタールを名乗るのは数世紀後になるが、東方からやってきたユダヤ人の末裔に当たる男で呪いや暗殺を得意とした吸血鬼であり、ベルラックの信奉者の一人。

 ロリコン貴族に殺人狂とは……碌でもない信者ばかり抱えてるな、あの吸血鬼は。余談だが、例の吸血鬼の信奉者はそろいもそろって性格的に危ない人ばかりだとか。

 リリエンタールは吸血鬼との戦いが特に激しかった13、14世紀、ペストが欧州を死で覆い尽した時代には幾多の吸血鬼狩りを屠ったという。

 だが、100以上の吸血鬼を破滅させた最強の吸血鬼狩りの手でその怪物も伝説の一つとなったのだそうだ。

 しかし、それでもこの世にしがみついた怪物が作り上げた世界こそ、俺が遊園地と思っていた『霧海』と呼ばれる場所。幾多の吸血鬼狩りが滅ぼそうとしたが帰ってきたのはただ二人、街を飲み込み、山を飲み込み、逃げ遅れた全ての生命を彼の世界の動力源とする世界の主に俺が挑もうとしているのが今の状況なのだとか。

「――1588年、公爵様の所領であったサムズベリィの広大な荘園が霊脈ごと消失した記録がございます。その後の発生地点と霊脈の位置関係から……霊脈をゆっくり移動して次の霊脈に出現していることがわかっておりますわ。霊脈は人間の体でいえば血管のようなものですから地球上の様々な場所に出現していることがご理解いただけると思いますわ」

「……あー、それは聞いてなかったな。正直いって……騙されてるな、完全に」

 あの錬金術師がぁ! 

 そんな場所に行ったら俺なんてすぐ死ぬじゃないか、何考えてるんだ!

 だが、腸が煮えくり返っている俺の横に座る綾音は冷静だった。

「いいえ。騙してはいないでしょう、聞いた部分に嘘はありませんから」

 確かに彼女の言う通り嘘はない……嘘はないが、隠していたことが多すぎる。これは詐欺どころか殺人幇助だと思う。

「お前らの感覚、絶対におかしい。軽い詐欺なんてモンじゃないぞ、これは!」

「まあ、そういう貴方の気持ちもわかりますがシュリンゲル卿ご自身も今回の討伐に参加されるわけですから、勝算があってのことなのでしょう。あの人はそれでもあの吸血鬼を滅ぼしかけた経験がありますから、きっと貴方が参加してくれれば滅ぼせる算段がついているのよ」

「そういうことね。あれでキミアキには相当甘いから実際に死ぬことはないわよ、多分。勝てないとわかっている勝負に挑むほどアデットも若くないから、信用してあげて良いんじゃない? 何なら、私もついていってあげましょうか」

 流れの中で軽く約束してくれる浅海、何しろ未来の自分が大魔術師になっていると思い込んでいる人だから今は大盤振る舞いも簡単にしてしまうようだ。

 確かに未来の浅海は何も警告していない、ということは少なくとも危ないのは俺だけで他の面子がトラブルに巻き込まれないと考えることもまたおかしなことではないのかもしれない。

「浅海が行くのなら、私も行きます!」

「なんで綾音まで?」

「浅海が行くのに私が行かないのでは末代までの恥ですから、当然でしょう。臆病者のレッテルなど貼られては切腹ものですわ」

「……ま、明日にでも教会に厳重な抗議に行くからそのときに言えよ。それより、どこに行く?」

 一瞬、俺の言葉に言葉を失った一同。

 だが、今日はどこかに行こうよ、という話に行くはずだったわけだから、俺のこの言葉は本来の話に軌道を戻しただけだ。当然、来日の観光なので主役はプリメラ嬢のはずだ。

「あたくしは街を歩いてみたいですわ」

 プレッシャーから逃れられたプリメラ嬢は無邪気な笑顔で沿う提案してきた。

「見るものは他にあるじゃない、何辛気臭いことを言ってるのよ……本当に」

 浅海もいつもの様子を取り戻したか、面倒臭そうにプリメラ嬢の意見を退ける。

「レナさま。そうは申されますが、あたくしは普段一日十万という信じがたい小額で暮らす庶民の方々の暮らしというものを見る機会がございませんので、街を歩くだけでも十分に収穫がございますの」

 俺の耳はおかしくなったか?

 この小さな女の子はお金の価値とかがよくわかっていないだけなのか?

「……十万円が小額か? しかも、一日分って……十分に庶民じゃないだろ」

 そんな庶民が居てたまるか、仮に居たとすればただ貴族じゃないだけの金持ちの類だろう。

「十万円ではございません、あたくしが申しましたのは十万ポンドですわ」

「なお庶民から逸脱するつもりか、お前は! 何台か車が買える額だぞ」

「なに、それでも同じく小額ではございませんか。公明さま、こう申しては自尊心を傷つけてしまうかもしれませんが、救貧院にいかれてはいかがでしょう?」

 次元が違うな、こういった大金持ちは金銭感覚が麻痺してる。

 そこで邪な考えがちらりと顔を覗かせた。

「なぁ、お前ら……協力して身代金、要求して良いか?」

「気にしては駄目よ、彼女の保護者はキャッスルゲート卿ですから。何より、あの変態がただの変態でないことは誰もが知っています。曰く、アリーチェの翼に触れた者は全て滅び去る。曰く、魔術を用いずとも奇蹟を起こす、と……脅す相手が悪すぎますし、世界中の人間を敵にしますよ。外面だけは最高に良いですから」

「ロリコン吸血鬼が小さな女の子に苦労させるわけが無い……ってことか」

「当然です」

「もう! また公爵様を変態扱いして、そんな人ではありませんと申し上げましたでしょう!」

「それにしても……信じられない金持ちよね、あの吸血鬼。ねぇ、プリメラ?」

「もう! なんでございますか?」

「どうせなら、遊園地か映画館を貸切にして遊びましょうよ。貴女、小切手か何かあるんでしょう?」

 そりゃ……あれだけの大金持ちなのだから貸切なんて朝飯前だろうけど、人の金でそういうことを考える浅海も相変わらずか。

「小切手……いえ、カードならございますが、貸切にするだけなら公爵様に電話を一つしていただければ一部の地域を除いた何処でも貸切は可能と思いますわ」

「じゃあ、温泉にでも行く?」

 近くには最近温泉施設が充実してきたから、確かに良い提案かもしれないと思ったが、それには綾音が即座に反論した。

「却下です、こんな休みに湯治客を追い出すような真似をすれば迷惑でしょう」

「堅いわね、そういうのは目を瞑りなさいよ」

「こういうことに気を配れない貴女もどうかと思いますけど?」

 ごめん、口には出していなかったけど俺も浅海の意見には賛成だった……と心の中で謝る。

「まぁ、そういうことで喧嘩はなしにしてくれ。どうだろう、うちの学校なんか案内してみるってのは?」

 著名な建築家とかも関わってるモダンな建物や古い旧校舎まで、味のある建物だから悪くはないだろう?

 プリメラ嬢もまんざらでもなさそうで、というか笑顔で賛成してくれる。

「公明さまの学び舎でございますか? 是非、伯爵さまも在籍しておられるとなれば公爵様への話の種になりますわ」

 しかし、これには浅海が大反対。予想できた結果だし、俺も実際に学校というのは思いつかなかったから適当に言っただけで、深く考えていた意見でないので仕方ないと思う。

「却下、つまらないわ。ソレ、最低のアイディアよ。何でそんな面白くもなさそうな場所を考えられるのよ」

 ただ、それでもこうまであっさり切り捨てられてはいい気がしない。口を尖らせて彼女の素晴らしい頭でそんな場所を提案してくれるのかを問い詰めてやる。

「ちっ、それならお前のお勧めスポットは何処だよ?」

 浅海は自信満々である場所の名前を口にすると、ここで俺の頭の中に引っかかっていた疑問が氷解した。

「白坂競馬場よ、バスか電車を使えばすぐに着くでしょう?」

「アサミ……貴女、未成年が賭け事などとどういうつもりですか」

「賭けなきゃ良いだけでしょう。観光ついでに行くだけよ、ほら競馬場に子供を連れてきてるお父さんとかいるでしょう? それなら、どうして私たちが入っちゃ駄目なのよ。大体、アイルランドなら競馬はみんなの娯楽よ、みんなの娯楽」

「そりゃ……まぁ、確かに。いいんじゃないか、綾音?」

 白坂競馬場はこの街の近くにある地方競馬場――数年前まで巨額の赤字に苦しんでいたらしいが、近年は某有名企業がスポンサーになって経営改革を推進したために去年はわずかながらも黒字に修正したという。

 女性客や子供連れも気軽に入れる空気が自慢らしく、タバコも満足に吸えないと前に親父がぼやいていたな。そういう点を考慮すれば、かろうじて入るだけならまだ可能だとは思うが……綾音はそれでも納得していない様子だ(当然だが)。

「確かにそう言われれば一理あるように聞こえるかもしれませんが、しっかりと校則で禁止されています。詳しくは34条、その第二項にしっかりと。その罰則は退学、または無期停学。提案者はシュリンゲル卿……考えてものを言いなさい」

 その事実を聞かされて初めてあの人を真面目で優しい生徒会長、という偽りの姿で見ることが出来た気がする。

「そういう細かいことはプリメラの観光に付き合う目的を阻害するから無視しなさい。これからは国際親善よ、国際親善。これって、これからの至上命題でしょう」

「私は、その決まりを作った生徒会のメンバーなのですが? その上、会長はシュリンゲル卿ですよ。異国の方が決めたルールですから、従うべきでしょう?」

「細かいことは無視、はい決定! プリメラ、馬券の買い方を教えてあげるわ」

 プリメラの手を取った浅海はベンチから立ち上がってさっさとバスの停留場まで歩いていく様子。

「ちょっと、そこ! 早速何を言ってるの」

 思わず立ち上がった俺たちも彼女達のあとに続いてしまった。

「まあ……我慢してくれ、綾音。その代わり、馬券の購入は俺が絶対に阻止するから」

 頭に勝ち馬の情報があったことは内緒、俺もこんなチャンスを逃すことは出来ないわけで綾音に止められてしまってはたまらないのだ。

「……絶対? 命をかけて阻止できますか?」

 真剣な彼女の瞳に思わず『勝ち馬を知ってる』と話しそうになってしまったが、何とかそれだけは我慢して話を濁して浅海を追いかける。

「それは、まあケース・バイ・ケースってことで……実は俺も一回行ってみたかったって言うか、その……アレだから」

 俺が追いつくと、浅海は振り返って綾音もついでに誘った。

「ほら、多数決よ。多数決……少数派は勝者に従いなさい」

「相変わらずなんて傲慢なことを……民主主義の代名詞を語っても、イコールそれが正義ではないとポスト構造主義が明らかにしているでしょう! 熱に冒された群衆は時に不正義でも正義と信じて行動して……」

「何を訳のわからないことを言ってるのよ、楽しくなければ休日の意味が無いでしょう。それに、このままだと……置いていくわよ」

 公園の入り口でまだ納得がいかない様子でぼやいていた綾音、それに止めを刺すような浅海。

 俺も競馬場に栄光を感じる人間として、今回ばかりは正論を曲げねばならないだろう。

「じゃ、悪いな……俺も行くから」

 公園から歩いて数分のバスの停留所に向けて小走りに向かう。

「それでは、綾音さま。あたくしもレナさまの仰られる楽しさをこの目で確かめたく思いますので……お待ちくださーい」

 そもそも彼女がメインのはずなのに置いていかれそうだったプリメラ嬢も浅海に続いて走っていく。

「あ、ちょ……待ちなさい! わた、私も行きます」

 ルールを声高に叫んでいた綾音も流石に取り残されるのは面白くなかったようで、結局みんなが競馬場行きのバスに乗るのだった。

 だが、魔術師よ……競馬場において勝利は我が手にあり、だ。いつものお返し、今回ばかりはお前らが驚く番と知れ! あはははは、勝利を思い描くだけで笑いが殺しきれない……ばれないように、ばれないように……そう冷静を装う俺であった。








[1511] 第二十五話 『回想/Doll Day 3』
Name: 暇人
Date: 2006/11/10 00:50




『なぁ、ブラザー。今回のレース、脚の調子はどうだ、勝てそうか?』

 人間には聞き取れない声が、それでもかなり離れた相手の元に届く。競馬場の中で行われるパドックの直前、太鼓腹の中年外国人が馬の中の一頭に向けてはなったと誰が気がつくだろう?

 あれでも使い魔としては相当高いレベルなのだ、その特殊能力の発露に誰一人として気がつくわけがない。

 葦毛の馬も鼻息荒く騎手にも聞き取れない声で相手に返した。距離にして十メートルを越えるほどだというのに二人の会話が成立してしまう、まさに魔法としかいえない現象だ。

『へへっ、旦那。連中とは話がついてますぜ、ニンジンと飼い葉を一頭あたま20キロほど用意して下せえ。勝利は間違いなしでさ』

 一瞬、馬がウインクしたのがわかる。彼らが結託したのがつい先月であることを考えれば、馬の態度はやや馴れ馴れしくもあったが男は気にしない。

 それが何であれ動物相手では常に兄貴風を吹かせる彼だ、むしろ『旦那』などと呼ばれることで気分がよかった。何より、これから行われる予定の八百長試合の相棒なのだから気分を損ねるわけにもいかなかったのだ。

『ようし、よくやった……だが、本番でトチるな。お前さんも、良い思いが出来て、こっちも懐が暖まる……へへっ、この世はよく出来てら』

 厭らしい笑みを浮かべる男、馬を見ながら笑うその姿は会話を知らない人間達には少々奇異に移ったが、ラジオでも聞いているのだろうと勝手に決め付けていた。

 地方競馬場でのレースとはいえ週末はいつもかなりの盛り上がりを見せるこの場所――ちょっとした常連の間では万馬券が出やすい場所として知られているのだ、回りの客の考えはむしろどの馬に賭けるかに集中していたといって良いだろう。

 そのとき、予期せぬ声が男の後ろから発せられた。

「ちょっと、そこ。アドルフ……貴方、何やってるの?」

 聞き覚えのある声――彼が最も苦手とする主人一族の、我が侭極まりない令嬢。出来ればこんな場所で出会いたくはなかった、どんな無茶を言われるのかが容易に想像できたからだ。

 だが、その声が聞こえてしまった以上は振り返らざるを得ないのは勤め人として仕方のないことだった。

「へ? あぃう、え……お嬢様!? なんでここに?」

 やはり嫌な予感は当たっていた。

 彼の主人と共にいたのは、見たこともない白人少女と主人の喧嘩友達、ついでに主人を引き止めてくれると期待をかけていたメル友だった。

 使えない野郎――思わず舌打ちしそうになったが、そんなそぶりを見せるわけには行くまい。

「なんで、じゃなくて……何してたのよ?」

 何かを察している様子の主人に問い詰められて一瞬返答に窮した。悪巧みの内容はいくら主人といえど聞き取れるはずもないが、それでも彼女は犬の言葉までなら解する――兎に角、この場だけでも何とかしなければ……

「へ、へへっ、いや……あの4番が少し脚が悪いそうなんで相談に乗ろうかと……それより、お嬢様はその他の面子と一体何を?」

 適当なことを言って、近くにいた馬を指差す。どうせばれることはないだろうが、それでも用心だけは欠かせない。

 案の定、指差された馬を見つめた主人は訝しそうな様子、その疑問をストレートにぶつけてくる。

「……脚が悪い? そうは見えないわね、実際にはどうなるって言うの?」

 八百長をやる予定です、などとは口が裂けてもいえない。

 そんなことをすればこの主人のことだ、止めない代わりに自分も混ぜるようにいうだろう……それでは自然と取り分が減ってしまうし、取り分の配分が絶対にバランス悪くなるに決まっている。

 玉のような汗を額に浮かべながら、何とかこの場だけは逃れようと必死の良いわけにはいる。

「へ……いや、別に。見た目にわからないだけで、実際には痛い痛いと言ってやして……本当に気の毒だ」

 迫真の演技――少なくとも自分だけはそう思った、コレで騙せないなら主人には血も涙もないだろうというほどに同情してみせた。

「ふーん。一応、信用してあげるわ。それより、貴方は賭けに来てるの?」

 表情が緩む、何とか言い逃れが成功したようなので肩の荷が下りた気分だ。

「そりゃ、ま。見学に来てるとお思いで?」

 確かに女性客や子供連れの客もいるが、レースがよく見える最前席の周辺には中年の男性達が朝から陣取っていた。彼らを見ればどう考えても賭けているのがわかった。

「まさか、そんなおじさんがこの世にいると思う?」

 主人も流石にここに来ている以上全てを了承しているようだが、どういう意図のある言葉だろうか?

「それなら、これで……向こうに席がありやして」

 何はともあれ無事に逃げることが出来そうなので、馬券を買いに行くついでに主人の目の届かないところに逃げようとした。

 だが、緊張を解いた瞬間に彼女は意味ありげな笑みを浮かべて呼び止める。

「ちょっと、待ちなさいよ……私のお金を出すから『勝つ馬』に全額賭けなさい。いいわね、『勝つ馬』よ。外したら……死ぬと思いなさい」

 無茶をいう――仮に八百長でなければ、こんな無理難題を突きつけられたら海外に高飛びするしかないのではなかろうか。

「へへへっ……どこぞの占星術師じゃあるまいし、一介の使い魔にそんなマネは……」

 先に起こることはどんなことでもわかってしまう魔導師がいると聞く、占星術師として並ぶものがなき天才が。あの協会の現会長にして百年位前の六協会抗争を解決し、吸血鬼どもを追い散らした聡明な術者。

 そんな人物でもなければこのレースを何の情報もなく当てるのは不可能だと思える。主人はそれほどの不可能を何の躊躇もなく要求しているのだ、コレは完全に八百長に気がついていると考えて間違いあるまい。

「賭けなさい、早く」

 強く促されると従わないわけには行かない。うなだれてため息混じりに返答する。

「……へい。ですが、賄賂の分担は……」

 レースに出る馬達は12頭、本命連中に渡す賄賂などを考えれば相当稼がなければならないのだ。

 だが、彼女は大袈裟な声を上げた。

「えっ!? 何? 確か、何も無かったのよね……嘘ついたの、この私に?」

 腸が煮えくり返りそうだった、わかっていて追い詰められたことに腹が立つ。

「い、いえ……くぅ……わかりやしたよ。お嬢様……いつか、地獄に落ちやすぜ」

 そういわれても彼女は軽くいなしてしまう、そもそも宗教など信じてもいない輩には何を言っても無駄か。

「生憎と存在しない地獄には落ちないわね。じゃ、頼んだわよ」

 財布を渡すとさっさと観戦できる席を探しに行ってしまった彼女。その態度に思わず馬に向けて叫んでいた。

『あのメスガキいつかケツから犯ってやるからな…….お前、絶対に負けるんじゃねえぞ!』

 主人は自分の連れも置いて行ったがこの連中に構うことはない、どうせ言葉はわからないのだから。

『旦那、明らかにあのお嬢さんに負けてやせんでしたか? 完全に負けてやしたよね?』

 なんて目の良い馬だ、思わずそういう言葉が漏れる。

『うるせぇ! くっ……とにかく、絶対に負けるんじゃねえ。負けやがったら、その汚ねえ皮剥いで剥製にするぞ!』

『へいへい……ったく、旦那の上に大旦那がいたとは思いもよらなかった……ほんと、世の中はよく出来てら』

 その捨て台詞に切れた。傍から見れば勝手に怒っているだけなのだが、その遣り取りには気付きようもない。

『ボケが! 手前は馬の分際で一々うるせえんだ!』

『……旦那も大旦那の子分の癖にうるせえですぜ、へへっ』

 悠々とパドックを開始する馬達、思わず叫びそうなほどにいらいらしたことは言うまでもあるまい。




○○○○○




「その、なんだ……気の毒だったな、オッサン」

 俺は顔を真っ赤にしている目の前の中年使い魔に声をかけた。

 浅海はさっさと席を探しに行ったが、すでにレースに勝ったような顔だったので買い物の予定でも考えているのかもしれない。プリメラ嬢が主役だったのではないのだろうか、彼女がそれを覚えているとは考えづらい。

 正直、本当に困ったヤツだ。

「公明、お前がマスターを引き止めていなかったのが原因だろうが! 打ち殺すぞ、この阿呆が」

 悪態をつくアドルフは元気そうだが、茹蛸みたいに真っ赤になっている。

「悪事を働くつもりなら許しませんよ、使い魔」

 アドルフを睨みつける綾音の言葉。

 キラリと光るナイフの輝きがアドルフの目にも眩しかったのか、浅海のときとは別の汗をかき始めているのがわかった。

「煩え、餓鬼にあのマスターに扱き使われる苦労がわかんのか?」

「では、死にますか? 馬券を買うなど犯罪です、今すぐに財布を返してきなさい」

「返せば返したで死んじまうだろが、ボケ。そもそも、百年も生きてんだぜ……なんで犯罪になんだ、あン?」

 二人も知り合いなのか、実ににこやかな会話に花を咲かせている微笑ましい光景に……100メートルくらい離れた場所からなら見えるかもしれない。

「それよか、綾音。お前の脇の、その餓鬼は? 誰かとヤッちまって出来たのか、へへへ……」

「ひぃっ!」

 品のないオッサンの視線に見つめられたプリメラ嬢は綾音の後ろに隠れて、彼女の服を掴んだまま震えている。

 ……いや、確かに周りには貴族やら大金持ちやらの上品な連中しかいない場所で暮らしてたのはわかるが……本当に二千年も生きてるのか?

 仕方が無いので、暴れだしそうな綾音の側から彼女を引き離して助けてやる。

「……」

 品のない冗談ゆえか、綾音の顔は無表情だった……怖い。

「?」

 無言のまま突き出された綾音の腕、きょとんとした顔で見つめたアドルフ。

「なんだ? ここでサービスでも……がっ!」

 一瞬、下半身の方に手が伸びたときはどういうつもりかと思ったが……綾音の袖の下から金ではなく、スタンガンが現れたときには俺自身顔が青くなりそうだった。プリメラ嬢の目を手で隠してやらなければ、彼女は叫びだしていたかもしれない。

「40万ボルト……だそうですわよ。お釣りはいりませんから、これからは言葉に気をつけなさいね、おじ様。コーメイ、行きますよ……みなさん、おじ様は異国のパントマイマーで、毒を飲まされた男の演技をなさっていますからお気になさらないでくださいね」

 ぶっ倒れて泡を吹いている中年男を見下ろしながら、上品な黒髪の令嬢は周囲の人々に騙った。誰も信じてはいないだろうが、先ほどの遣り取りが少しでも聞けた人はこの令嬢が男にとってとんでもないことを平然と行う殺人姫であるとわかったようだ。

 下半身を意識しながら震えているオッサンが周囲に何人もいたし、俺も恐怖していた。

 怖すぎる……プリメラ嬢にはわかっていたのか、あるいはわかっていなかったのか、震えながらも綾音に手をつかまれ、そのまま連れて行かれた。連れて行かれる彼女がとても怖がっているのはわかったが、目の前のオッサンを放っておいては流石に気が引ける……感電とか、しないよな?

「あー、アドルフ? 大丈夫か?」

 何度も身体を振ってやると、アドルフも漸く意識を取り戻した。

 ガタガタと震えながら立ち上がると、俺が肩を貸してやり何とか椅子に腰掛けることが出来た。周囲のオッサン達さえアドルフのためなら色々してくれたあたり、一種共感していたのかもしれない。

「痛ぇ……あのクソ餓鬼、メスの分際で…….」

「おいおい……言葉遣いだろ、言葉遣い。いい加減に学習しないと、次はナイフで切られるぞ」

 冗談のつもりだったが、アドルフの顔は真っ青。会話を聞いた周囲のオッサン達も真っ青。

「ちぃ、こっちが悪かった……ということにしておいてやらぁ!」

 悪態をつこうとしていても、恐怖ゆえに喋り方が弱気だった。

「なぁ、それより俺の馬券も買ってくれないか?」

「あ? お前の馬券だと? 言っとくが、賄賂の分担に協力しないのなら……」

 やっぱり浅海の言った通りか……あのマスターは使い魔のことを実際によくわかってるな。

「いや、そうじゃなくて……7番だ。7番を買ってくれ」

「? 7……7か?」

「ああ、良いだろ?」

 財布の中にあったな貶しの3万円を渡し、千円を依頼料として渡した。

 それを受け取ったアドルフは口笛など吹きながらだんだんといつもの調子を取り戻してきた様子だ。

「へへっ、いいのか? 本命を聞かなくても?」

「ああ、別に構わない。それより、ちゃんと買ってくれよ」

「ま、気を落とすなよ公明」

「お前もな」

「?」

 そのまま、俺は浅海たちが陣取っていた席に向かったのであった。

 席に着いたときには近くに男は誰も座っていないという異常事態、綾音の事件はそれだけでこの競馬場を恐怖に包んでいるらしい。

「ん? プリメラ、それ……まさか、お前も買ったのか?」

 馬券を手に持って、それを色々と見回している少女に聞いた。

「ええ、優しいおじ様に頼んで10万円分ほど買って頂きましたの」

 うれしそうに語る彼女――なんでも今までのデータと今日の天候、芝の状況などで計算された結果として8番の馬に賭けたらしい。

 しかし、彼女が買った?

「なぁ、綾音? いいのか、プリメラが買っても?」

 ジュースを飲んでいた彼女はその令嬢然とした涼しげな表情で理路整然と語る。

「彼女の存在年数は2000年と少々、それに人ではありません。法律から考えても違反にはならないでしょう? 先程は代理で購入しようとしたことが悪いといったのです」

 見た目とか、どうでも良い訳か。

 ルールブックに実直すぎる気もするが、アデットも免許を偽造してるわけだし、長年生きてる連中っていうのはそういう方法でもなければ生活が難しいだろうから当然か?

「アドルフは2番を買ってたぞ、浅海」

「へぇ、そうなの。じゃ、私の奢りでこの後何処行く?」

「あの使い魔……もう一撃決めてきます」

「おい、レースも始まるから止めとけよ。あっという間だから良いとこ見逃すぞ」

 立ち上がろうとした綾音を何とかその場にとどめて、俺たちもレースの始まりを待った。

 2番――浅海・アドルフ組

 7番――俺

 8番――プリメラ嬢

 綾音は賭けていないが、どの馬が勝つかといわれれば『4番』が毛並みなどが一番優れているといっていた。誰が勝つのか、それも神のみぞ知る……か。

 運命のレースは2000m、要するに2kmほどだが馬にとってこの距離は短い。

 アラブ馬と欧州の馬を掛け合わせて生まれたサラブレッド、彼らはそれだけの距離を一瞬で駆ける。レースは序盤から2番の逃げ切りで進み、最後の直線になるまで浅海は自分の馬の勝利を疑っていなかった。

 綾音はすでに血統から考えて一番先頭にいなければおかしい4番が本気を出していないと騒ぎ始めていた。

 プリメラ嬢はデータから考えて2番が逃げ切ってしまうことはないと断言している。

 俺は……

 そのとき、レースが動いた。

 最後の直線に入ってすぐ、なんと2番が転倒――それに巻き込まれた8番も騎手が落馬。後方に控えていた4番と7番は無事だったが、4番は何故かあたふたした感じで外側にコースがずれてしまった。

 残った馬たちがほとんどそういう状態で、俺が賭けていた7番だけがレースの勝利のためだけに直線を全力で賭けたのだ。

 勝利の瞬間――馬券が宙を舞い、浅海はアドルフを殺そうと探し始め、プリメラ嬢はデータから予測された結果と現実の矛盾を再計算して、綾音は浅海を嘲笑していた。

 俺は、ただ掲示板に表示された万馬券の額に驚愕している。

 俺の3万円が……およそ100万円に化けていたのだ。




○○○○○




 アドルフは俺に金を渡した後、浅海にどこかに連れて行かれてこの日は戻ってこなかった。何でも、金を持って逃げようとしていたのがばれたことが原因らしいが……気の毒だ。

 俺たちはその後、競馬場近くの喫茶店に入って興奮が冷めるまでゆっくりとコーヒーなど飲んでいる。

「俺……勝ったんだよな?」

 思わず言葉が漏れた。実際に勝つかどうか不安だっただけに、今でも現実が受け入れられていない。

 当然だ、手持ちの3万円が100万に姿を変えたのだから驚かないわけがない。

「ええ、勝ったわよ。でも、それって私のお陰らしいわね……どうして黙っていたのかなぁ? 不思議よねぇ? ねぇ、どうして教えてくれなかったのぉ?」

 うっかり興奮していた俺が漏らした言葉を聞き逃していなかった浅海はずっとそればかり言って俺を虐める。

 だが、考えて欲しい……仮に喋ったとして負けていたらこの程度で済んだかどうか。きっと、彼女の不機嫌はこんなものではなかっただろう。どの道不機嫌になるのならまだ救いがある方がましだと思う。

「命懸けで阻止? ハッ、あの台詞は偽りですか? 首は洗っていますね。どうかお覚悟を」

 最早、俺は綾音の信用を失ってしまったか……テーブルの下に輝くナイフがいつ襲ってくるのかが怖くて仕方が無い。

 何より、テーブルの下からスタンガン、などということになったら俺は死ぬかもしれない。

「まぁ待ちなさいよ。馬券を買ったのはアドルフで、公明じゃないから法律は犯してないわ」

 俺の弁護をすることで金の使い道に干渉するつもりらしい浅海はぬけぬけとそういい始めた。

「他人に買ってもらうのも違法です。レディ・プリメラ?」

「データベースにはそう記録されておりますわ」

「それならアレはアドルフがくれたお年玉よ、時期はずれのね」

 身内でもないのに、俺はいつの間にかそういう身分になっていたらしい。あのオッサンが他人に何かくれる玉とは思えないが、綾音の怒りを静められるのならそれで良い。

「それならばこの国の文化風習を鑑みても可能だと思いますわ」

 プリメラの判断はルールと合致しているかどうか程度のものなので倫理観やらが入り込む余地はない。

 当然、その点などは突っ込みどころが満載だ。

「不可能です! 他人の使い魔からお小遣いを貰う魔術師が何処の世界にいるのですか!」

「ここよ、ここ。それに、公明は見習いだからそういうルールは関係ないでしょう」

 そう、俺を指しながら言っているが……それでは完全に俺が主犯じゃないか?

「使い魔も、その主人もですか……純粋な人を堕落させる外道許すまじ。やはり貴女とは決着をつけねばなりませんね」

「おいおい、こんな場所で喧嘩なんて止めろよ。喫茶店だぞ」

「綾音さま、一体何の決着ですの?」

 わかっているのか、いないのか……プリメラ嬢はわくわくしながら訊いてくる。

「これがスポーツや遊びの決着に見えまして?」

 冷たい声で返され、ちょっと弱気になるプリメラ嬢。流石に冗談やらを受けてくれる状態ではないだけに、愉快な回答など期待すべきではなかったかもしれない。

「あたくしには経験が無いので……皆目検討が……」

「経験ならいくらでもあるでしょう……私に恨みでも?」

「滅相もありませんわ……ごめんなさい。ですから、どうか壊さないでくださいましね」

「じゃあ、このお金で遊びに行きましょう……そうね、メイド喫茶にでも行きましょうか♪」

 空気が読めていない人がもう一名、流石に俺もこけそうになるような提案だ。

「おい、なんでメイド?」

「死になさい、貴女は。どれだけ言ってもわからない大馬鹿……刀の錆にして……」

「綾音さま、メイド喫茶というのは……下女にサービスを受ける施設というだけのことではありませんの? でしたら、特に問題は無いと存じますわ」

 その説明に異論はないが、実際には少し違うと思う。確かに給仕を受けるという点は同じかもしれないが、あれはそういう点が重要なのではないと思うのだが……プリメラ嬢に理解しろというのも無理な話か。

「生徒会規約第47条『学生は冥土喫茶に入ることを禁じる』……これは半年以上前にルールで決まっています。当然、文句があるならシュリンゲル卿か、あるいはあの人を当選させた生徒全員に言いなさい!」

「なぁ、一応喫茶店だからもう少し静かに」

 他に客はいないわけだから迷惑にはならないと思うが、店員さんは眉をひそめている。

「文句はないけど、一回行ってみたいのよ。それに、外国人に紹介するには良い施設だと、外国人の私が思うのよね……ほら、日本人の貴女にその判断が出来る? 出来ないわよね? それとも問答無用の綾音ルール?」

「自分ルールを展開しているのは浅海で、私は生徒会ルールを言っているだけです……まったく、話のわからない人ですね」

 いい加減に呆れた様子の綾音、確かに二人の話は永遠に終着点が見えない夜間飛行のようなものだ。

 それを見ていて俺も呆れていた。プリメラ嬢はこの二人の会話が面白かったのか、微笑してさえいる。

「……クスクス、本当に面白い方々ですわ。みなさん、とても気に入りましてよ」

「おい、それくらいにしとけよ。ギャラリーが集まるような喧嘩をされても困るから」

 流石に店員さんを困らせるのは本意ではなかったのか、二人は互いに退くことにした様子だ。

 簡単に収まれば最初から問題になどしないのだが……

「分かったわよ、からかうのは止めたわ」

「バカの相手をするのもこれまでです……野蛮人を教化するのは実に難しいですわ」

「それ、立ち位置が違わない?」

「……今だけ我慢しますが、あとで殺しますから」

「短気ね。カルシウム足りてないの?」

「脳の足りていない貴女に比べればそれでもまだましです。哀れんで差し上げるわ、可哀想な玲菜」

「……ふふっ、写真なら取ってるのよね、競馬場の貴女を。確か、綾音ルールなら罰則もあるとか何とか」

「はぅ、なんて卑劣な真似を……と怯えるとお思い? 私も貴女方の写真はとってあります、一応報告義務がありますから」

「あー、ごめん。ばらさないでくれると助かるんだが、お二人さん」

「貴方の態度次第じゃないかなぁ? 『私のお陰で』儲けられたのに、感謝を示さないとどうなるかわかっているわね?」

「脅迫は刑事罰の対象です。それはそうと……約束を違えましたよね、貴方は。どうして? 私との約束など守るに値しませんか?」

「その……ごめん……勝った金はみんなで楽しむために使ってくれて良いから、今日のところはご勘弁を」

「当然よねぇ、それくらいは」

 結局こうなるのなら、アドルフに逃げるように言って置けばよかった。

「じゃ、今日はキミアキの奢りでゲーセンにでも行きましょうか……格ゲーで決着をつけるわよ、綾音」

「いいえ、射撃で勝負です!」

 なんとか平和的な決着の付け方を考えてくれたようだが……ゲーセンで100万も使うのは無理だと思う、というか数万円くらいは手元に残してくれるよな?




○○○○○




 そのとき、俺は神を見た。

 それはただの射撃ゲーム、登場するゾンビを全滅させるという単純なものだった。だが、そこに居たのはまさしく神域に踏み込んだ使い手。

 二丁拳銃を構えたプリメラ嬢のあまりに鮮やかで、いつ撃ったのかもわからないほどに速く、正確。コンマ数ミリの誤差もない射撃はすでに人間の域にはない。

 古の時代にあって『黒機士』と仇名された魔術殲姫、公爵を守る四人のうちの一人、その本領を発揮したプリメラ嬢は長距離・中距離戦闘のエキスパートだった。

 事実、公爵が抱える十万余りの自動人形群にあって彼女の上を行く射撃手は存在しない。それはすでにプログラムの問題だけではない、生命としての彼女の才能だ。

 あの武器造りが製作したという魔導銃を使い、古の戦場を駆けた至高の射撃手の芸術を目の当たりにしている俺たちは開いた口が塞がらなかった。

 数撃ちゃ当たる、ではない……百発百中、いや魔弾じみたその弾丸は何千発撃っても決して外れないのだ。まるで敵が全滅するようにプログラムされていたのではないかと疑いたくなる、凄まじい勢いでゾンビが全滅していく……ポイントはすでに綾音や浅海、俺の遥かに上で彼女と俺たちを比べることさえ恥ずかしくなる差だ。

 周りにいたギャラリーからも声さえ漏れない、目の前の奇蹟を一瞬たりとも見逃すまいと必死でそれを見つめていた。

 最後の一匹が瞬時に7もの弾丸を受けて跡形もなく吹き飛ばされたとき、画面には永久に誰も超えることが出来ないと思われるスコアが記録されていた。事実、そのスコアは地上の誰も超えることが出来ないだろう……それ以上がないのだから。

 静まり返った群集からは拍手さえ漏れた。その場に立っている可憐な少女の神業に全ての人間が賞賛を惜しまなかった。

 プリメラ嬢はギャラリーの拍手に喜び跳ね回って俺に飛びついてきたが、その瞬間に周囲から俺に向けられた殺意は何だったのか?

 だが、他の二人は無気力だった。

 つい先ほど自慢の格ゲーで数十連コンボを叩き込まれ、開始数秒で敗北を喫していた浅海は席に座ったまま魂が抜けていて、シューティングで足元にも及ばなかった綾音も呆けた顔で立ち尽くしている。

 俺も1万円分挑んでもプリメラ嬢にダメージを与えることさえ出来ず、レーシングゲームでは何周回差をつけられたことかもわからない……俺の身体に抱きついているコイツは、正直強すぎる。

 とても人間が勝てる相手じゃない、仮にあれが本物の拳銃なら世界一の拳銃使いは彼女だと思って間違いないと思う。何しろ、『ゲームは所詮ゲーム、軌道計算や風の抵抗を考えなくてもよろしいから本当に簡単ですわ』というのだから、間違いあるまい。

 その上、彼女に掛かればただの拳銃がマシンガン、いや下手をすればそれ以上の兵器に姿を変える……流石に最強の自動人形の一人といったところだろう。

「公明さま、次はあのUFOキャッチャーというものをやってみたいですわ」

 その言葉に店員などは『勘弁してください』というメッセージを送ってきている。仮に彼女にプレイを許してしまえば、空になるのは目に見えているのだから当然だろう。

「ひ、みあき……もう、こんな面白くない場所は止めましょう。今迄で一番つまらないわ」

 死にそうな顔の浅海は無気力な声でそう伝えた。何度敗北を喫したのかわからないほどボコボコに負けて、リトライする精神まで折れたのだからその窮状は目に余るものがある。

 いつもの自信など欠片も感じられないのだから同情もしよう。

「そうです……バッティングセンター、身体を動かす場所で勝負です。レディ・プリメラ、構いませんね? 其処で勝負を……」

 綾音も自信が砕け散ったためにやや投げ槍気味。せっかくのっているところで水を差されたプリメラ嬢は

「えー、綾音さまもレナさまもまだ全然遊んでいらっしゃらないではありませんの」

 不満たらたらのプリメラ嬢は頬を膨らませて俺にしがみつき、なおもこの場で暴れようとしているらしい。

 店員さんがぬいぐるみを束にして持ってきて、コレで今日のところは勘弁してくれないか、と頼んできた辺りは流石に俺も引き際だと思う。

「なぁ、そろそろ暗くなってきたし……バッティングセンターに行かないか? まだ見てないだろ、プリメラは?」

「え、ええ。ですが、あたくしもう少し遊びたいですわ。其処は遊戯施設ですの?」

「まぁ、遊ぶ場所……だと思う。人によっては遊びとは違うって言う人もいるけど、大部分の人は遊ぶところだと思ってるだろうな」

 結局その場所でも奇蹟を演出してしまったのはわざとなのだろうか?

 あんな体格のプリメラ嬢がまるで遠慮なく、150kmの変化球をホームランにしたときには……魔法でも見せられたのかと錯覚した。

 プリメラ嬢曰く、あれでは遅すぎるらしい。当然だが俺には速すぎだった。

 かろうじてバットに当てたときには自分に才能があるのではないかと錯覚さえしたのだから……彼女と俺では次元が違いすぎるな。

「そろそろ……やるわよ」

 10歳程度の外見の少女に徹底的に敗北を喫したため、死んだ魚みたいな目になっていた浅海は意味ありげな言葉を漏らした。

 すでにバッティングセンターから出発して、辺りを見れば綾音の家の近く……彼女の工房に侵入するという作戦か。

 見れば綾音も完全に目が死んでいる……彼女も負けず嫌いの性格が災いしてプリメラ嬢には今日だけで100に届くかどうかという回数の敗北を味合わされていたから、とても俺を追いかける元気などないだろう。

 今なら確かに何とかできるかもしれない。

「お前、本当に綾音を引き止めてくれるんだろうな?」

「ええ、プリメラはどうする?」

 急に振られて何のことかも分からない彼女は首をかしげた。

「? 何のことですの?」

「綾音の人形、見たいわよね?」

「ええ、それは見たいですわ。ですが、綾音さまはお嫌だと……」

「見たいのなら協力しなさい、私が綾音の注意をひきつけておくから貴女がキミアキを抱えて走って工房に行くのよ」

「ですが、場所は?」

「早口で言うから記憶しなさい。場所は……よ。わかったわね?」

「はい。公明さまもよろしいのですか?」

「ああ、準備はいつでも大丈夫だ。それより……あの角を曲がれば綾音の家だけど……」

「じゃ、健闘を祈るわ」

 その言葉を聴いたとき、止めておけば良かった……

 だが、もう遅い。作戦開始の合図はすぐに聞こえたのだ。

「ねぇ、綾音。ちょっと話があるんだけど」

「? 藪から棒に一体何ですか?」

 その瞬間、二人より少し先に角を曲がっていた俺は体中の魔力を集中させて駆けた。尋常な速さでは追いつかれる、綾音が角を曲がりきるまでに門に入るために全力疾走だった。

 そんな俺を軽く抜いていくのはプリメラ嬢――まるで風のように、まるで地面を滑るように、まるで華麗な舞を見せられたかのような動きだった。

 その気になれば目の前で放たれた弾丸さえ躱すというのだから、これでも俺に合わせているのだろうが……それでも速すぎる。

「公明さま、お早く。急がねば間に合いませんわ」

「そういうけどな、人間ってのは元々大して速く走れないように出来てんだぞ!」

 後は止まることがない、敷地に侵入してからはすれ違う顔見知りのお手伝いさんや綾音のお袋さんに頭を下げて軽く挨拶をしながらただ駆けた。

 そして、昔の蔵を改造したらしい彼女の工房に追いつかれることなく駆け込んでいた。

 白い壁の蔵、その扉を開けると……そこは……

「待ちなさい! 其処を開けては駄目!」

 後ろから聞こえた声、すぐに気がついた綾音が駆けて来ているのがわかる――今止まってしまえば死ぬんじゃないだろうか?

 そんな恐怖ゆえに俺とプリメラは一気に蔵の中に駆け込んだ。

 その場所は真っ暗で、何とか手探りに電灯のスイッチを探した。

 弱い明かりが灯った瞬間――その空間を多い尽くした色に気がつく。その特性から蔵に入った瞬間から気がついていたプリメラ嬢が横で震えているのがわかる。

 朱、赤、紅、アカ、あか……

 残酷な黄昏世界――全ては■の色、床に転がるのはバラバラになった■■■■のようなモノ……

 ………………

 …………

 ……

 ――俺の目の前に泣いている少女がいる。

 プリメラ嬢は自分のデータバンクを修正して今の光景をなかったことにしているが、俺にはそんな芸当は出来ない。

 俺が未熟な人形の山を見てしまったことがショックだったのか、駆けつけた綾音はいきなり駆け出してどこかに姿を消してしまった。

 プリメラ嬢を浅海に任せた俺は逃げ出してしまった綾音を追いかけ、夕暮れの街を駆け回った……色々な場所を探し、途中からは浅海たちも探し始めたが見つからない。自分がどれだけ浅はかなことをしてしまったのか、後悔が心を苛む。

 走って探し、探し……俺は漸く見つけた。

 昔、同じ場所で泣いていた彼女を見つけたのと同じ場所で漸く彼女の姿を見つけた。小学校の頃……たしか、一年生の頃だっただろうか?

 図工の時間に下手糞な自画像を書いた彼女がみんなに哂われて消えてしまったとき、泣きながらこの場所に隠れていた――小学校の裏にある大きな橋の下、そこは今でも小学生が秘密基地にしそうなポイントだった。

「……悪かった、ごめん」

 見つけてすぐに言葉をかけたが、彼女は無言だった。

「悪乗りした俺が悪かった。こんなことになるとは思わなかったんだ……ごめん」

 近づいても別に逃げようとしなかったので、彼女の脇に座る。

「……いいえ、貴方たちは誰も悪くないの。悪いのは未熟な私だけ……本当に、駄目ですね。それに引き換え、貴方はやっぱり来てくれた……」

 顔を隠したままだが、声から泣いているのはわかる。

「いや……人間誰でも向き、不向きっていうのがあるから綾音に才能があるとかないとかいう問題じゃ……」

「……昔もそんなことを言って慰めてくれましたね、貴方は。覚えている?」

「綾音がヤバイくらいに人間を描くのが下手糞で、みんなに哂われたときだろ」

「……腹の立つ話ですけど、その通りよ。あれは貴方が慰めてくれた後、何時間もずっと練習したから少しは改善したのよ」

 知っている、今の綾音の絵は浅海とは違って水彩画が多いが浅海よりもさらに上手い。

 美術の時間には生きているような絵を描いていたのが記憶に新しい、美術部でもないのにすごく上手いと美術教師に褒められていた。

 美大を進められたともいうが、あの上手さはただ趣味が高じていたものとばかり思っていた。

「え? あれって……俺が慰めたのが上手くなった原因だったのか?」

「……黙っていましたけど、そうです。自分も哂っていたくせに、自分も大して上手くなかったくせに……わざわざ探しに来て『向いてないんだから仕方ないだろ』って無邪気な顔で言いました、貴方は……」

「あは、いやそんな事言ったか? 女の子にいきなり適当な事言うガキだな、才能がある奴に無い、って言うなんて見る目がなかったのは俺だ」

「いいえ。きっと無かったのよ、絵の才能なんて……例え適当でも、何もかも上手く出来るわけが無いっていう貴方の言葉を聞いて肩の荷が下りたような気がしたわ」

「? なんで?」

「……魔術師には長く、本当に長く続く一族がいくつもあることは知っていて?」

 それは浅海や綾音の家は確かに長く続いている、俺たち一般人の家系と比べてどれほど古くまで遡れるのかもわからないくらいに長く続いている。

「お前の家とか、浅海の家だろ? 確かに長いよな、何十代も遡るんだろ?」

「ええ……白川の家の始祖は平安時代まで遡った白河という陰陽師――今で言えば方術師の括りに入るけど、この時代はその括り自体もはっきりしていなかったの。西行という僧侶を知っている?」

「確か、大昔の坊さんで人形を作ったとか云う……」

「博学……いいえ、貴方は昔から人に言われたことだけは勉強熱心でしたね」

「いや、別にそんなことは」

「謙遜は止めなさい。浅海のようなのは考え物だけど、多少の傲慢さを身に着けなければ駄目よ……それで、彼の怪僧に人形作りを教えたある中納言の縁者に斎木という術者がいたの」

「斎木? お前と関係あるのか、その人」

「彼は白河という術者の師であり、同時に義父でした……その正体は堕ちた魔導師、吸血鬼よ。斎木(サイキ)という名前は当て字で、祭儀(サイギ)が本姓。神代でも最高位の神官、その末裔です。斎木卿は私の先祖にして、生きた人間を作り出す魔術師……私の家はただその奇蹟を再現するためだけに千年も研究を繰り返してきたの」

「……その、綾音の家には吸血鬼の血が入っているのか?」

「いいえ、吸血鬼は遺伝しません……ただ、彼の時代から受け継いできた魔術があるだけよ。でも、本当に滑稽、とても可笑しい話ですよね?」

「?」

 かすかに漏れる笑い声……すごく自嘲的で悲しい響きだった。

「明治時代には限りなくその再現に近づけたのに、父もそれに近い術者なのに……私は壊す魔術ばかりしか才能が無いの……だから、貴方の言葉が慰めになったのよ」

 古い魔術師にはたいてい家伝の魔術がある――偉大な術者が協会や弟子には発表せず子孫だけに伝える魔術や浅海の魔術のように特殊な血統が必要とされる魔術などだ。

 そういった魔術を受け継ぐ家系にも時々才能に恵まれず、それを受け継げない魔術師が生まれる。

 数百年、あるいは数千年もの長い時間、祖先がその存在の全てをかけてきた事業を自分が破壊してしまうと知った無能な魔術師は普通精神的に破綻する。

 その重すぎるプレッシャーを知ったときから精神の安定を欠くようになり、最後には発狂してしまう。続けてきたものが終わってしまったとき、どんな言い訳も許されずに全てから責められる恐怖に耐えられないのだ。

 崩壊した中には浅海よりさらに傲慢な魔術師もいた、繊細な魔術師も、温厚な魔術師も……だが、その精神的重圧は一般人の想像の外にある。

 聞いた俺さえ理解できないほどに重い重圧を感じる人生とはどういうものか?

「……ああ、やっぱり私は向いていないんだ……父や家族にあの言葉を言われていれば多分自決していたでしょうね。でも、何の関係もない人に言われたときは意外に素直に聞いてしまうものよ。『向いていないのなら成功しなくて当然、失敗して当たり前なのだから後悔なんて必要ないぞ。もっと傲慢になれば良いじゃないか』……ふふっ、今思い出すと本当に生意気な子供の言葉ですね。でも、あの時貴方は私の心を助けてくれましたよ……随分遅いけど、ありがとうございました」

 そんなことを言った記憶さえすでに無かった俺は少々照れていた。

「いや、それより……今日はその、ごめん」

「いいえ、最初から悪いのは私の努力不足です。努力はいつか才能を凌駕する、魔術師の世界にも多少そんな例はありますから、いつか必ず私はそれを成します……ですから、今の私には慰めなど不要よ。第一、あれでも十年のうちにどれだけ成長したか……」

「それでも駄目だ。やっぱり俺も悪かったんだから……それに無茶な事したから泣いてるんだろ? なら……」

「いいえ、あれを見たのが浅海やレディ・プリメラ、シュリンゲル卿の類なら怒ることはあっても泣くことなんて無かったでしょう……貴方の言葉を聞いた後、努力だけで完成させた成果を、魔術を学ぶ機会を得た貴方に見せることが出来ると知って……どれだけうれしかったと思いまして?」

「え? いや……それじゃあ、まるで俺がサプライズ・パーティーのネタを知って……」

 その瞬間、顔を上げた綾音。

 涙が伝っていたのがわかる。

 涙をぬぐった後、笑顔を作ってこちらに笑いかける彼女。

「フフッ、いつものことだけど貴方は優しいのね。でも同時に、殺したいくらいに、本当にまったく救いようが無いほどに、周りの空気が読めない人。ただ、だからこそ私はあなた……」

 そのとき、何処からか声が聞こえてきた。

 浅海たちが俺たちを探している声らしい――失敗を見つかった子供のような表情を作った綾音は苦笑しながら立ち上がった。

「宜しいこと? 私は泣いていなかったし、貴方には今見つかったところです。そして、貴方は今きつく説教されているのよ」

「は?」

「そういう設定、こういうときくらいは気を利かせなさい。それに、これは未来の私の楽しみを奪った罰です」

 ああ、なるほど……というか、よくわからないがどうやらその方が都合が良いらしい。

 よくわからないままに説教が始まり、到着した浅海たちもこっぴどくどつきまわされた。

 俺たちがここでどんな話をしていたのか、そもそもどうして綾音が姿を消したのかも問えないほどに激しい叱責の嵐。

 演技なんだよな……多分。

 マシンガンのような言葉の連打の後、お詫びの印として焼肉屋『元祖梵々』で食い放題を振舞わされて、人形のはずのプリメラ嬢までその場の大騒ぎに盛り上がっていた。浅海がしばらく伝説になるような大食い大記録を打ちたて、散々に騒いだところで店を追い出されたりして……実に享楽的な仲直り会だった。

 そして、すっかり遅くなった後プリメラ嬢を教会まで送り届けて、彼女を待っていた男爵たちに俺たちそろって平謝り。

 気にすることは無い、らしいことを言っていた男爵だったが後ろの連中は……かなり睨んでいたのが記憶にある。少なくともその場では怒られず、プリメラ嬢と楽しい一日のお別れをした。

 人形の記憶?

 あれは忘れることにしたいと思う。



 



[1511] 第二十六話 『断れなくて 』
Name: 暇人
Date: 2006/06/25 15:46
「――O gloriosa Domina, excelsa super sidera, qui te creavit provide, lactasti sacro ubere」

プリメラ嬢が帰国した翌日、絶対に文句を言うつもりだった。

半ば騙されて死地に向かいかけていたのだからその程度は当然の権利だと思う。

知ったその日に教会で文句を言わなかったのは、遊びまくっていた癖に言うことだけは言う、という行動が相手に反撃の糸口を与えかねないからだ。

昨日が土曜だったため日曜日になっていたその日、教会のアデットを訪ねた俺たち三人――休息日だからどうせ暇してるはず、浅海のその言葉を信じて昼飯の後来てみれば教会の中から錬金術師の歌声が聞こえてきた。

何の曲かはわからないが、流行の歌でないことは確かだろう。

感想としてただ上手いと思った――感情に訴えかけてくるような、力強くも繊細な、女性的な柔らかさを感じさせる優美な歌声だった。

性格に似合わず素晴らしい歌声に聞き入りかけていると、先頭を歩いていた浅海の手によって扉が開いた。

中を覗くと、修道女姿の金髪の美少女が祭壇の上で歌っているのが見えた。

こちらに背を向けていたが声からも彼女本人であることは間違いないだろう。

「……こんにちは。随分と見苦しいところをお見せしてしまいたね」

歌が終わると少々照れたようすのアデットがゆっくりと祭壇から降りてこちらにやって来た。

「貴女の趣味って歌だったの? 割とうまかったけど、神父の手伝いじゃないでしょう?」

適当な席に腰掛けた俺たち、木製の椅子が微かに軋む。

「私もピアノを少々嗜んでいますが、先程の歌唱力はなかなかのものとお見受けしますわ。経験は何十年ですか?」

「ああ、確かに上手かった。何を言ってたのかもわからなかったけど俺も感心したよ」

頭を掻きながら照れているアデットは、らしくないくらいに恥ずかしそうだった。

「いえ……フェルゼン神父が主催する聖歌隊の方々のお手伝いをすることもあるので、少々練習を……私の趣味というわけではないのですが、長い人生ですから多少の経験はありまして。お褒めに与かり恐縮です。それより、今日は皆さん御揃いで何か……懺悔でしたらいくらでも聞きますよ」

うっかりして最初の目的を忘れるところだった。

懺悔すべきは俺たちじゃなくてコイツ、つまり言っている本人だと思うのだが彼女はそれに気付いた様子さえ見せない。

「いや、確かに用事って言えば用事なんだけど……『霧海』とかいうのに俺を突き落とそうと考えてたろ?」

すると、彼女は何でもなさそうに平然と聞き返してきた。

「はい、そうですね。それが何か?」

まるで悪いことをしている意識がないのだろう、彼女レベルまでくれば悪意がなくても仕方ないがそれで被害者が納得できるわけもない。

何しろ俺にしてみれば殺されかけているのだから、はいそうですか、と答えられるわけもない。

「何ですか、じゃないだろ? 俺を吸血鬼の前に引っ張っていって何させる気だったんだ」

「はい、退治に協力してもらうつもりでした」

何の屈託もない笑顔で爽やかにそんなことを言っているシスターは果たして正気なのだろうか?

というか、もう少し隠せよ……こっちの気が殺がれる。

「……」

「もしかすると、断るつもりですか?」

浅海と綾音は最初から俺が行くかどうかで、自分達がついて行くか行かないかを判断すると決めていたようで俺たちの間に割って入る様子はない。

教会の中にわずかな沈黙が流れた。

「――というか、俺みたいなズブの素人がついて行って何の役に立つんだよ? 確実に足手まといになるし、特殊技能なんて……その、一つくらいしかないじゃないか」

俺の技能など自分の努力で身に着けたものではなく、そもそも生まれついてのものらしい『魔術を無効化する』能力と『魔術の起点を探る』能力だけ。

本を使えば確かに魔術も使えることにはなるが、魔術を使うだけならアデットだけの方が断然上だろうし、俺が役に立つ要素はほとんどないと思う。

そして、彼女もその点は確かに同意する。

「そうですね、仮に相手が体術と魔術を頂点まで極めたごくごく普通の吸血鬼なら連れて行くなど暴挙以外の何者でもないと思いますよ。ですが、今回の相手は所詮、霊体の延長線上のような身体を魔術で括りつけた亡霊のたぐ……」

「おい、ちょっと待て。さらっと何言ってんだ!」

「? 何か?」

「体術と魔術をその頂点まで極めてるのが普通の吸血鬼?」

「ええ。イフィリルのような幼児体型はそもそも体術を極めるなど不可能でしょうから例外として、典型的な連中はどちらも極めていますよ。特にその典型といえるキャッスルゲート卿などはまぁ……他の星への移住を考えるような人ですから肉体的な強さが次元違いです。噂によればオリハルコンさえ素手で引き千切るそうですから」

その言葉に傍から見ていた二人が思わず噴出しそうになった。

「ちょっ、冗談でしょう? オリハルコンを素手って……はじめて聞いたわ」

「……生命の規格云々ではなく、その身体自体が機械か何かで代用でもされているのですか? とても人間の体の延長で可能なことではないと思いますが」

オリハルコンっていうのはそんなに堅いものなのだろうか、二人の驚き方はかなりのものだった。

「なぁ、オリハルコンって?」

「現在最も高い強度を誇る金属で、錬金術が生み出したものの一つです。イフィリルの作り出す武装をはじめ、様々な魔術師が装飾品や武器にして持っていますね」

要するに鋼鉄の数万倍程度の強度を持った金属、と考えれば良いのだろうか?

よくわからないがすごく堅いものらしい。

それを素手で引き千切るのがプリメラ嬢の御主人……って、爺さんじゃないのか?

「話が脱線してしまいましたが、今回私が討伐する予定の吸血鬼はそんな規格外の怪物ではないのでご安心を。相手は霊魂を魔術で世界に押しとどめた吸血鬼で、恐らく公明さんが触れただけで消えてしまうでしょうから……」

「はい? 俺が触れただけで退治できるの?」

「ええ、実に簡単でしょう? それに、相手の攻撃は肉体がない分限定されますから相手にもならないでしょう。ね、ついてきて損はないと思いません?」

「いや……その前に聞いてもらいたいことがあるんだ」

「? 何でしょうか?」

その後、例のマリアさんのことをアデットに話した。

俺が何度か死にそうになったりしそうなことや、偽りの月がどうとか、色々と話してみた。

聞いているアデットは割と真剣だったが、浅海が未来からやってきたというのはあんまり信じていなさそうだった。

「―――と、そういうわけで俺が行くのは危険じゃないか?」

顎に手を当てて考えていたアデットは即座に明快な回答を示してくれた。

「公明さん、先程の話の通りですと――公明さんがついてこなければリリエンタール卿を滅ぼせない、ということになるのでは? 仮称『未来の玲菜さん』の話を検討すれば、むしろ貴方の介入は必要な流れに感じますが?」

確かに解釈の仕方一つでは……というか、あいつも確かに俺に行けと言っているな。

いや……そもそも行かなければ死ぬ可能性なんて欠片もないのに、どうして俺が行かなきゃならないんだ?

「あ……いや、確かにそうだけど……それでも俺は全力で拒否する、そもそも一つしかない命を粗末に出来るか!」

「では、あれが暴れて人間が死んでも構わないのですね? きっとたくさん被害が出ますよ、私も死ぬかもしれませんし、後世にはどれだけの人が死ぬか……薄情者、人類の敵、大量殺人者……ああ、お気になさらずに。これはただの独り言ですから、非人間、屑……」

こんなことを言う人なんだよな……自分の品性は棚に上げて俺が世紀の大悪党みたいに扱われる、これはあまりにも理不尽だと思う。

だが、確かに俺が協力すれば何とかなるというのなら、そして絶対に俺は安全だというのなら協力するしかない……か?

未来の預言者がそういっているのなら、確かに可能性はあるわけだし、放っておいて人が死ねばアデットの言う通り俺がその責任の一端を負わされる気がする。

それに、彼女が死ぬかもしれないと言われれば確かに協力せざるを得ない気がした。

「ああもう……わかったよ! 本当に勝算があって、俺を絶対に生かして連れて帰るって約束できるなら協力しても……」

「では、そのようにお願いしますね。お二人もそのつもりのようですが?」

「ええ、勝てるのなら協力してあげるわ」

「私は世のため人のために……」

と、結局協力することになってしまうのであった。

「では、夜は出歩かないで下さいね、最近は物騒ですから」

「? は?」

「いえいえ、当日までに怪我などされては大変ですし、世界とやらの妨害は恐ろしいですから気をつけるべきだと思っただけです」

「ああ、そんなことか」

「それはそうと――公明さん、文化祭では何をします?」

「? いや、クラスでやるのは確か喫茶店じゃなかったか? お前も教室にいるんだからそれくらいは聞いてるだろうし、そもそも会長はお前」

まったく、何を聞いてるんだか……意外に話を聞いてない奴だ。

「いえ、そうではなくて……オカルト研究会の企画です。ちょうどメンバーもそろったことですし、何か……」

すると、急に浅海が立ち上がった。

「ごめん、美容院の予約があったの忘れてたわ。じゃ、そういうことで頑張って」

綾音まで立ち上がって教会を去ろうとする。

「私はそもそも貴女に無理に引き込まれただけなので、こんな無意味なことには協力しかねます」

「……俺も、今日は予定が……」

最後まで残っていたらどうなるかもわからないので取り敢えず脱出を……

三人が教会の外に歩き出したとき、後ろから呼び止める声が聞こえてくる。

「そうですね。今回は少々奮発して、凄腕の占星術師を招いての占いや色々な企画を考えているのですけど? 協力していただければ、ご褒美に一キロほどの金塊でもどうです?」

思わず立ち止まった俺と浅海はその言葉に騙され、仕方なく付き合ってくれた綾音も一緒に研究会の出し物に協力することになったのであった。



[1511] 第二十七話 『真紅の魔術師 』
Name: 暇人
Date: 2006/11/10 01:17




凄まじい音を立て大理石のテーブルに亀裂が走った。

高級なイタリア製家具とセンスの良いインテリアで飾られた宮殿のような部屋の中に響き渡った鋭い破壊音――部屋の主は眉を顰め、読んでいた本からテーブルを台無しにした相手に視線を移す。

すると、神話の時代から彼女以上の美しさが顕現したことは無いであろう、絶世の美少女が氷よりなお冷たい眼差しで射貫いているのがわかる。

夜に愛された赤い瞳――其処に込められた呪詛は一般人にはそれだけでも十分な呪い、その瞳は心を奪う彼女の美貌と相まって邪眼じみてさえいた。

かつて英雄も、聖職者も、独裁者も、庶民も、王侯貴族も全てが等しく彼女を愛した――いや、その美に支配された。

そのような少女が老人を興味の対象として睨んでいることはすでに彼の勲章といっても構わないだろう。

だからこそ、世界の魔術師の最果てにあるその相手に睨まれても彼は恐れない、それが至上の喜びであるのだから恐怖などするはずが無いのだ。

少女が破損した長テーブルの上に肘を置くと、老人は軽く背伸びをしながら少女に語りかけた。

「やれやれ、お気に入りのテーブルが酷い有様だ。イフィリル、今宵はいつにも増して不機嫌の様だが一体何だというのかね?」

椅子に腰掛けた大柄の老人は、物分りの悪い生徒を根気よく諭す教師のようにゆっくりと優しい口調で語り掛けた。

彼の知的な印象と相俟ってまるで孫をあやす祖父のようにさえ見える。

尤も少女と血縁のある人間がその存在を許されることはあるまい、彼女と老人の間でさえ超越者と人間の間に広がる埋めようの無い差は絶望的でさえあったのだから。

それ故だろうか、少女は老人の態度を自らに対する侮辱と取った。

「その態度は気に入らぬな、マルドゥーク。其方とは既知の間柄であるが今妾は客じゃ、饗応するならば弁えねばならぬ礼儀もあろう」

とても偉そうな物言いだが彼女だけはそんなことも許される――そんな雰囲気を纏った黒髪の魔術師の言葉に老人は姿勢を正して恭しくお辞儀した。

「失敬。高貴なる御客人よ、私に如何様な御用ですかな? お困りの点がありますれば侍従に何なりとお申し付けあれ、と申し上げたはずですが」

丁寧ではあったがどこか相手を子供扱いしていて、まるでワガママなお姫様の相手をしてやっている執事のような言葉だった。

「貴様……その態度が気に入らぬという。妾を子供扱いする貴様のその物言いは真に不快、愚弄するにも程があろう」

老人の正面の椅子に腰掛けた少女は鋭い視線のままに一度ため息をついた。

彼女のその仕草を写真にとっただけで世紀の名画にも勝る気がした。

「まあよい、今はそのような瑣末不問に付す。代わりに答えよ……アレは一体何のつもりか?」

椅子に腰掛けた2メートル以上もの偉丈夫に語りかける少女の口調はあくまで尊大、相手に敬意を払うつもりなど欠片も感じさせない。

しかし、それでも老人に気にする様子は見られない――ゆっくりとした動作で机の上に本を置くと、彼女の方にしっかりと向き直る。

テーブルの上に肘をつき、目の前の少女に一瞬目を奪われながらも先程と同じ調子で彼女に対応した。

「君ね……私とて君レベルの相手に対しての読心術など心得ていないのだよ。だから、『アレ』ではわからないな」

その言葉を受けてテーブルがもう一度叩かれる、亀裂は少女の前面に蜘蛛の巣のように広がったがそれでも表面が欠けただけでテーブルが完全に破壊されることは無かった。

さらに鋭くなった視線がもう一度老人を射抜く。

「この期に及んでなおも惚けるつもりか? 其方が霧海を滅ぼすためにアーデルハイトに援軍を派遣しようとしておること……知らぬ妾ではないぞ」

少女の反論を許さぬ言葉に老人は一瞬黙り込んだが、小さくため息をついて再び口を開く。

「別に隠し立てしていたわけでもないのだがね……ヨセフのような小物、君が気にするようなことではなかろう。それに彼女は私の系譜に連なる家系の出身、彼と比べればまだ縁がある」

語られる者への憐憫も同情も、何も感じさせない淡々とした回答に少女はますます不機嫌顔になる。

老人は彼女の反応を楽しむように実に皮肉な笑みを浮かべ始めていた。

「妄言を弄するか……あの男が小物かどうかは問題ではあるまい。妾が申しておるのは『何故人間如きに協力するのか』ということじゃ。恥を知れ」

「やれやれ、君もわからない人だな……彼らと手を組んでいれば五月蝿い吸血鬼狩り、特にサンタクルスの執行者が追って来ないだろう? 君と私、王族の連中は仲良くマルクト級の獲物――まぁ相手が死ぬまで血を吸って何千年も暮らしていれば、いい加減駆除されて当然ではあるがね」

「捕食者に食われたくなければ己を鍛えれば足りよう……妾も弱き者が悪いとは言わぬ。されど自らの牙を磨かず、抵抗さえしようとせぬ者が死ぬのは摂理であろう。彼奴(きやつ)らがそれを妾らの罪とするはただの当て擦り、そもそも多くは自らの弱さを解せぬ者ばかり……己が終わりある命であるが故、己が弱き故にそれを克服した妾らを憎む。さりとて、これは実に心地よき卑小な嫉妬とは思わぬか? 嫉妬は憧憬の裏返しという、似ているが故に妾は彼奴らを、彼奴らは妾を許さぬのであろうな……」

「ご高説はご尤もだと思うよ、イフィリル……兎に角、彼らは日々私たちを殺す理由を探している訳だ。それにも拘らず君は気にしないのかね?」

「当然であろう! 妾こそは全ての魔道の頂、裾野に転がる石程度を気にかけねばならぬ道理はあるまい」

「元来が人にあらざる君とこの私では考え方が違うのだろうね、恐らく。君は彼女たちに恩を売るのもまた一興だと考えられないかな? 彼女はあれで相当に義理堅いと思うのだが」

「何処に目をつけておる、彼奴が他人に恩義を感じ入るような女か?」

「君が他人を悪くいえる人かな? 一応、何十年か振りに出会った旧知の友を快く迎え入れた私に対してこうも冷たい君にそんな資格は無いと思うがね」

「黙れ……そもそも自分がどんな書物を手に物を言っておるか、其方は理解できておるのか?」

「ん?」

老人は自分が持っていたグラビア雑誌を相手にも見せながら不思議そうな顔。

其処には日本人の少女の写真が載っているのがわかった。

しかも、その内容はどう見ても幼女趣味専門のポルノ雑誌だ。

「ああ、これかね? 今度日本に行くのだから現地の情報を集めようと考えていたのだよ。まったく下心などない、健全な情報収集活動だ」

老人の厚顔無恥な言い訳に呆れた様子の少女は大きくため息をついた。

「……信じると思うか? この色狂い。よりにもよって、昼間は妾の棺の上に腰掛けてそのような穢らわしいものに目を通しておったくせに……あまつさえあのようにおぞましい……いや、なおもそれを妾の前に晒すか!」

昼間の光景が頭の中に思い出されるに連れて彼女の言葉には激しい非難の色が込められていく。

相手が怒っていることが理解できても、老人は意に介さない。

それどころか彼の回答は徐々にあらぬ方向に向かい、その口調も饒舌になっていった。

「ふむ。申し訳ないがああした方が私自身興奮する……大体ベッドを用意していたのにあんな品の無いものに潜り込んでいた君が悪い。一体何処の小説に影響されたのかね?」

「貴様は煩いという。忌々しい陽の光を厭うことの何が悪いというのじゃ!」

「意外に臆病者だな。しかし君もずるい、千里眼など反則だろう? だが……まぁ正直に言えば、最初から君が赦してくれるとは思ってはおらんよ。ただ、もし君がこんな愛らしい服を着てみたいのなら謝罪を兼ねて10分で用意できるが?」

ゴスロリ衣装の小学生くらいの少女が写ったページを相手に見せながら、老人は真剣な表情で語った。

恥という言葉を知らないのではないか、少女が感じたのはそれだけ。

「マルドゥーク――冥府とは真実美しきところと聞く、見聞して参るか?」

「脅しはよくないよ、イフィリル。君のその美しい顔が台無しだ」

『美しい』――彼女にとっては何千回と投げかけられた言葉だが、同じ相手から何百回と聞くことは少なかった。

そして、そんな相手から久しぶりに投げかけられた、時と場合を考えない賞賛に苦笑しながらその怒りの矛を研ぎ澄ましていく。

「フッ、アハハハ……冗談なら笑わせる。さりとて、貴様の妄想に付き合ってやる義理は無い。好色爺も大概にせぬと……」

「……わかった、私が先生で君が生徒、君は宿題を忘れて私に居残りを命じられたというシチュエーションだ。厳しい先生に叱られた君は思わずお漏らしをして、その耐え難い恥辱から涙を溜める、そこで慌てた私が君を慰め……」

「マルドゥーク! 貴様いい加減にせぬと、殺すぞ。その腐乱した妄想、口にするだけでも害悪。もはや許容の範囲外じゃ!」

一気に燃え上がった怒りが老人に対して叫ばせる。

それは魔術師としてでも、吸血鬼としてでもない怒り――本当に古い知り合いだからこその、感情をむき出しにした怒りだった。

「安心したまえ、私の頭の中で君をすでに一万回以上ありとあらゆる変態的体位で犯している。色々なシチュエーションで君は啼いたり、私に懇願したり……私の頭の中の君はとても従順で可愛らしい女の子だ。『パパ、パパ、許して。ごめんなさい』と泣く姿はとても愛らしい。是非君にも見せてあげたい、今も妄想中だ……妄想の中の君が私に懇願しているぞ、その顔で、その口で、その身体を差し出して」

次々と老人の口から発せられる妄想は許容の範囲などすでに逸脱している。

テーブルを叩く三度目の衝撃が走った。

「貴様、それ以上の穢らわしい妄想は許さぬ!」

だが、それでもなお終わらない妄想劇。

「ああ。さっき言ったシチュエーションで一時間プレイに付き合ってくれるのなら、一時間後に首を飛ばしてくれても良い。だから君を……きっと考えを改めて私の従順な所有物になる気になるだろうね。私は少女を悦ばせる方法はいくらでも心得ているから。いくらでも媚薬は用意する、どんな器具が好みかね? もしや君は言葉責めの方が好みかな? 100以上の言語は習得している私だ、君はどの言葉で責めて欲しい?」

その瞬間、自らが砕いたテーブルの上に降り立った魔術師が何かを構えるポーズを取った。

その瞬間――老人の小さな苦悶の声が漏れる。

老人は自分の胸を見下ろした――すると其処に、金属光沢を放つ一本の槍が突き刺さっていて、それが自分の身体のみならず椅子さえ貫通していたのがわかった。

その初撃は彼自身にも見えなかった、何故ならそれは老人の身体を貫いたのではなく……『其処に最初から存在した』のだから。

溢れ出す血液が口から零れる。

だが、血液が次から次へと流れ出るその口元は歓喜に歪んでいた。

「ごほっ……ごふ、あ……はぁ、はあぁ……初めて見た……オリハルコンさえ容易には通さぬ私の体を、あはっ……何の苦も無く貫くとは……この槍は?」

苦しそうな言葉だが、彼の喜びは隠すことが出来なかった。

老人の胸から延びた槍の柄を掴む少女は冷笑しながら、それをさらに捻った。

「くっ―――イフィリル!」

一撃で心臓を破壊していた上、回転が加わったことで更なる苦痛が身体を苛んだ。

「騒ぐな、これは北欧にて神槍などとも呼ばれるか……その正体は我が神術『グングニル』――其方の身体が如何に頑強でも、無敵の盾を何千と構えたとしても意味はなかろう。これは最初から全てを貫いて其処に存在しておる……故に不敗、誰にも防げぬ。さぁ、己が罪の代償は払ってもらうぞ」

その瞬間、もう一本の槍を構えようとした魔術師に向かって老人が信じがたい速度で突進した。

テーブルに老人の足が掛かった瞬間にその部分は完全に粉砕され、魔術師から見ればそれは正面から衝突しようとするダンプカーにさえ見えたころだろう。

止めることなど叶わないだろう暴力の壁が彼女の前に一瞬で広がり、それに対する攻撃より相手はなお速かった。

槍はさらに深く食い込み、もう一本の槍がその腎臓を貫いたがそれも彼の動きを止めるには及ばない。

「くっ……が、ふぁ……きさま……マルドゥーク!」

魔術師がゆっくり見下ろすと、老人の腕が彼女の体から生え……背骨まで砕いた先では老人の手に自分の心臓が握られているのがわかった。

小さな身体はすでに砕け散ったテーブルの上には無く、彼女の体を貫いた老人の腕によって宙に浮かんでいた。

憤怒の表情で睨みつける魔術師の視線を受けながら、老人は小さな戦いにおける自身の勝利に酔った。

「クク、ハハッ、ハハハ、いや面白い……お互い簡単に死ねないというのは実に面白い。そら、君の硝子細工のように脆い心臓が私の手の中で脈打っているぞ。そしてその愛らしい首が私の食指を……」

その細い魔術師の首筋を噛み千切らんばかりに広がる老人の口、獲物を噛み砕く肉食動物のような牙がその柔肌に触れようとしたとき彼の腕に貫かれた魔術師の身体が瞬時に消えてしまう。

小さく舌打ちをした老人が相手を探すと、部屋の隅に置かれていたソファーの上で脚を組んだままこちらを睨みつけている相手が見つかった。

自分の身体に突き刺さっていた槍を抜くとすぐに彼の体は復元されていく。

「君との殺し愛は私にとっては実に刺激的なのだが、こう早く終ってしまっては残念だな」

自分の身体を貫いていた槍を簡単にへし折ってしまった老人はゆっくりとソファーに腰掛けている少女の方に歩み寄って行った。

少女が二度目の攻撃を仕掛ける気が無いことを見透かしたような行動に彼女は面白くなさそうだ。

老人はそのまま彼女の横に腰を下ろし、その艶やかな髪に手をかけようとしたが、流石にそれは撥ねつけられた。

「何だね、私に心を開いてくれたから攻撃を止めたのではないのか?」

「煩い、其方が調子に乗ってここを破壊してしまえば妾も雨に打たれよう。それでは、其方は良くとも妾が困る故に止めたのじゃ。マルドゥーク……話は変わるが、先程の槍に貫けぬものがあると聞いて信じるか?」

「? 星辰の奇跡は人の関与できるレベルで無い、あれが効果を成さないということは考えられないな。君や星辰と同格にある存在でもなければ、あれを無効化するなど在り得ないだろうし。何より、あれは『貫いていた』のではなく、『元々其処に存在していた』のだろう?」

「左様じゃ、左様……あれは決して防げぬはず。現に……いや、彼奴はあれを……」

「おや、随分と真剣な顔だな。君は最近日本に行っていたようだが……アーデルハイトに一本取られたのかね?」

「はっ、愚問を。アーデルハイトと出会っていればどちらかが死ぬまで殺しあっていよう」

どこか楽しそうな魔術師の言葉に老人はより疑問が深まった気がした。

「ますます疑問は大きくなった気もするが、君は誰かに魔術戦で負けたのか? 星辰の奇蹟まで持ち出して? ハハ、格好悪い上に滑稽だ……是非私もその場に立ち会い、涙を溜める君を胸の中でたっぷりと慰めてあげたかったよ」

「盆暗め――貴様はいちいち煩い。妾の用はほとんど済んでおるのじゃ、真面目に対応せぬなら帰るぞ」

「おいおい、さっきから外は雨だといっているのに……いやぁ、君にはもう少しいて欲しいのだが。君(の身体)だけを心から愛しているからね」

「……恥ずかしげも無くよく口にする……貴様だけは救えぬ。穢らわしい手で妾の身体に触れてみよ、その首飛ばしても貴様を許さぬ」

彼女の肩に自分の手を置こうとしていた老人は渋々その動きを止めることになる。

「どうしてそう連れないのか……君はそういう点が矛盾しているよ。アーデルハイトやクラリッサのようなパラノイアの倒錯者は考え物だが、君は逆に潔癖過ぎやしないか? 正直、悪い女は淫乱なくらいがちょうど良いと思うのだがね」

「躻(うつけ)、連中のような変人奇人どもと妾を同列に扱うな!」

「もしや今でも男を知らないのか? 仮にそうだとすればきっと君は知れば狂うぞ、特に処女を失う快感を何度でも得られるその身体ならどれほど甘美だろうな。何千、何万回も君は私のものになる快感に酔いしれることが出来るのだよ、これは素晴らしいことだ。ああ、本当に素晴らしい」

「――」

「言い忘れていたが私は君に罵倒されるのも嫌いではない。いや、むしろこの上ない快感だ。怒ったのなら怒鳴りつけてくれても構わんよ。殴ってくれても良い。相手が汗臭い男なら秒も待たずに殺すが、君なら大歓迎だ。むしろ罵倒してくれ」

汚物を見るような視線で老人を睨んだ魔術師は今までで一番軽蔑した口調で彼に告げた。

「……死ね、低俗な変質者」

「そうだ、そう……流石はイフィリル。私の望みの通りの言葉を投げかけてくれる。さらに私の前に膝を着いて、生涯の絶対服従など誓ってくれれば最高なのだが? 君の庇護者として絶対の加護と至上の贅沢を保障するよ。君のパパとしてね」

いい加減、この相手には付き合いきれない……彼女にそう思わせたのはこの男が初めてではないか?

彼女自身の記憶にもこの男ほどに自分を呆れさせ、自身の興味の対象となった相手はいなかった。

それは彼女の矜持が口にすることを許さないが、真実であることは確かだ。

「もう良い……貴様の様な罹患者を相手にするのは止めじゃ。例の薬はくれてやる、代わりに貴様も妾の遊戯に付き合え。『戦争ゴッコ』にな……仮定の話をするは好むところではないが、仮に貴様が勝利すれば、この身をくれてやっても良いぞ」

「……さて、どうしたものか。サンタクルスの老人達を怒らせても得にはならないのだが、君も欲しい……どうしてそんなに難しい二択を迫るのだろうね?」

「妾を怒らせてもためにはならぬぞ……次はピサールがその身体を抜く」

一瞬、老人も相手の正気を疑ったがその真剣な眼差しを信じないわけには行かなかった。

もし、彼女が本気でないと判断してくだらないことを言えば自信の命は消えてしまう可能性もあるし、また反撃で彼女を殺してしまうかもしれなかった……どちらにしても老人は彼女との別れなど望んではいなかった。

「ピサールをここで……? わかった、君の言葉を呑もう」

「そう来なくてはな。最後の参加者、我が三千年の盟友よ」

少しほっとした様子の少女、それを見透かしてか老人の皮肉じみた言動が再び姿を現す。

「イフィリル、果たして私たちが盟友らしい関係に会ったことがあるだろうか? 記憶にある限り、君は私を袖にし続け今もそうだ。私の情婦になれば何でも与えてあげるというのに……君は本当に気難しい人だよ」

「勘違いするな。盟友とは対等である証、宇宙へ行くだの理解の範囲外にあるふざけたことを申しておるが貴様の錬金術師としての側面は多少とも評価しておる。妾に欲情するより先にそれを誇るがよい」

実に満足そうな表情で告げられた言葉に老人は一瞬言葉が無くなった。

彼女が何と言ったのかを何度も自問しなければならなかったからだ。

「……聞き間違いでなければそれは私を褒めてくれているのかね?」

老人の問いかけに少女が先程の表情を見せることは無い、其処には相手を見下すいつもの彼女しかいなかった。

「―――知らぬ。同じ言葉は繰り返さぬ、聞き逃したのなら己の未熟を呪え」

「ふむ、では……グロリア? 今の映像と音声はしっかり保存してくれていたかね?」

問いただすのが不可能と判断した老人が誰かに話しかけたとき、天井の辺りから聞こえた声。

『イエス、マスター。ファイル№AD2006S242317はデータバンクに保存されました』

「よかった……ついでに彼女のスカートの中など盗撮……」




○○○○○




外の陽光が差し込み、明るい部屋――洋風のインテリアで飾られた空間だが、家具の上には少々埃が積もっている。

そして、如何にも魔術師が纏うようなローブを着た少年が其処に立っていた。

身長は170センチ後半、見た目以上に筋肉質な身体をしているのがわかる。

二の腕に力を込めれば力瘤が出来るほどには鍛えられ、全体としてなかなかバランスは良い。

少年の顔はフードで隠れているが、その瞳がこちらを覗きこんでいるのがわかる。

俺が手を上げると、少年も反対側の手を上げる……

「……」

無言で見詰め合う二人、其処にはただ沈黙だけがあった。

こちらが手を下ろすと、少年も手を下ろす。

くるりと回ると、少年も反対側に回転する。

「……はぁ」

ため息をついたとき、俺の横に急に現れたのは修道女姿をした金髪碧眼の美少女。

俺がさっきまで見ていた姿見の中に彼女の姿も現れた。

目の前で立ち止まった彼女は俺を一瞥すると、納得した様子で感想を漏らす。

「ふむ。その衣装はなかなか似合っていますね。本番はそれで行きましょう」

俺の家に場所を移しての衣装合わせ、しかしどうして演劇部でもないのにこんな衣装を着なければならないのだろう?

「……なぁ、俺はなんでこんな格好をしてるんだ?」

可笑しそうに笑うアデットは小さく拍手しながら奇妙なことを口にした。

「はい。それは公明さんが凄腕の占星術師『KIMIAKI』として皆さんの前で、百発百中のすごい占いをして見せるからですよ」

「……はぁ? 俺にそんな技能は無い……てか、魔術なんて使えないだろ。お前もわかってるんじゃ……」

そんな回答を聞いてクスクスと笑う彼女、ピントを外したつもりは無かったのだが。

「公明さんは本当に面白い人ですね……オカルト研究会が本当に魔術を使ったら大変でしょう? そういうことをしていると、前に教えたように私が死刑になってしまいますよ」

世間の一般人に公に魔術を見せるのは良くないらしく、そういうことをすると死刑になることもあるって前にアデットが教えてくれたことが思い出された。

何でも一般人は魔術を理解して許容できるだけの魂の成長を成し遂げていないから……とか何とか、そんな理由だったと思う。

要は、魔術師には本来誰でもなれるのにその過程で脱落する人が多過ぎるため、事実を公にしてしまうとごく少数しかいない魔術師達に嫉妬が向けられ、排斥されることが予想されるからなのだそうだ。

しかし、個人的には死刑はやりすぎのような気もする。

「そりゃ、確かに。でも、お前は俺に占い師をやれって……矛盾してないか?」

「いいえ、まったく矛盾していませんよ。それと、私は錬金術師を演じますから」

「……いや、何言ってんだ? お前はそもそも錬金術師だろ」

「それは今忘れてください。私たちはただの学生です……趣旨を説明しましょう。玲菜さん達も着替えが終わっているでしょうから、部屋を移ります。説明はそれからということで」

「あ、ああ」

かくしていつも暇なときにゴロゴロしている居間に下りていくと、俺と同じようなローブを纏った浅海たちがソファーに腰掛けていた。

遅れてやってきた俺も席に着く。

「ちょっと、いい加減に説明しなさいよ。こんな小汚い衣装なんて着せて、仮装行列でもやる気なの?」

確かにローブは薄汚れている、いかにも不満そうな浅海の意見は尤もだ。

そんな彼女の言葉を受けて、アデットは椅子にも腰掛けず俺たちに向けて説明を始めた。

「いいえ。オカルト研究会ですから、一種の心霊現象などについての研究の成果を発表しなければならないと思われません?」

魔術師の台詞で無ければ、それは至極まっとうな意見だろう。

確かにみんなの前で魔術なんて使うのはやり過ぎだし、他にも色々と問題がありそうだからな。

「でも魔術は使わないんでしょう? それならどうやって心霊現象とやらを発表するの?」

「私も同感ですね。もしや、催眠術でも使われるのですか?」

綾音の言葉にゆっくりと首を振ったアデットは窓辺に向かうと、カーテンを閉めていった。

そして、カーテンを閉め終わると明かりをつけてこちらに向き直る。

「鋭いご意見です――確かに催眠術を見せるのはプログラムで考えていますが、今回は古くから伝えられる偽りの魔術について皆さんにご覧頂こうかと」

「? 趣旨が見えませんね」

それは俺も浅海も同じらしく、三人のうちの誰にも納得した様子は無い。

そんな俺たちの内情を見透かした様子のアデットはこうなることを予想していたかのように、微笑を浮かべ、自身が教会から持って来たトランクに手を伸ばす。

「説明するよりは実際に見ていただいた方が宜しいかもしれませんね。私について来てください」

アデットはトランクを手に持ったまま、先程俺が衣装合わせをしていた物置部屋に俺たちを誘導する。

少し埃が積もった床に数字や俺の知らない異国の文字を書き連ねた、円形の魔法陣をチョークで描き、その中心にトランクから取り出した小さなバケツを置いた。

魔法陣の半径はちょうどバケツの半径の二倍程度で、魔法陣の外からでも内部が覗けた。

「実験は少し臭いが出ます。これはその臭いを閉じ込める効果のある魔術で、本番では使いませんが……あっ、綾音さん、部屋の窓を全開にしておいていただけませんか?」

「? あ、はい」

頼まれた綾音が窓を全て開けると、秋のそよ風が部屋の中に吹き込んだ。

「では、今回オカルト研究会が提供する出し物の一つをご覧頂きましょうか」

彼女はそういうと、トランクからカセットコンロ、火箸、鉛と水銀、硫黄を取り出した。

何でもよく入るトランクだ……体積と容積の関係がおかしい気がするのは気のせいではないと思うのだが。

俺のそんな疑問をよそに、アデットは内部がだいぶ汚れたバケツの中に水銀を少量と硫黄を流し込み、それを新たに用意した器具でコンロの上に持ち上げて、バケツを火にかけた。

「何かの儀式? 錬金術の技法なの?」

魔術師の浅海でさえこの化学実験のような行動に何の意味があるのかわかっていない。

当然だが俺にもまるでわからないし、綾音も理解できていない様子。

そんな俺たちに説明してくれないまま、アデットは魔法陣の外から手を翳して何かの魔術を使うようなポーズをとった。

「黙っていてください……金を合成しますから。アブダカタブラ、アブダカタブラ……」

目を閉じたままアデットが口にした呪文を聞いて、綾音は首をかしげた。

「あの、シュリンゲル卿? それは魔除けの呪文ではありませんの?」

問いかけを無視したまま、アデットの儀式は続いていった。

俺たちも黙ったまま魔法陣の中のバケツを覗いていると、やがて煙が立ち昇り始め……なんと立ち上った端から魔法陣に吸収されていくのが見て取れた。

さらに数分が経過した辺り、中に入れた化学物質が蒸発したような音を立て、一部が赤く発色しているのがわかった。

と、そのときバケツを覗き込んでいた浅海が声を上げた。

「え? 嘘?」

彼女の言葉に俺もバケツの中を見れば、なんと底にわずかに金が析出していたのだ。

それは反応が進むに連れて量を増やしていき、完全に終了したときにはバケツの底がほとんど金で覆われてさえいた。

アデットが火箸を使ってバケツを魔法陣の外に出すと、俺たちはそれに集まって目の前で起こった奇蹟にただただ唖然とする。

「魔術もなく、赤い石も使わずに金を? これは一体どんな魔法です?」

俺にはわからなかったが、綾音が真っ先に口にしたように『魔術を使わずに』、アデットはあんな材料から金を作り出したのだ。

それはつまり、俺にも可能だし、何処の誰にだって出来る技術ということになる。

だが、どう考えても俺の常識では鉛や水銀、硫黄を混ぜたくらいでは金が出来ることは考えられない。

魔術師から見ても完全に異常な事態が展開されたのだ、これはすでに理解の範疇を超えているとしか思えない。

だが、驚く俺たちを一瞥した錬金術師は満足そうな顔でこの不可思議な現象を何の軌跡でもないと切って捨てる。

「いいえ。実はこれはただのトリックです、近代の似非錬金術師たちが欧州で詐欺を働いたときに用いた技法の一つで……実は最初から金はバケツの中に入っていました」

そんなはずは無い。

どう考えてもバケツの中身は空だったし、加えた物質の中にも金は無かった。

「?」

ネタを明かされたというのにそれを理解できていない俺たちがよほど面白かったのか、アデットは苦笑しながらよりわかりやすい説明を試みる。

「フフッ、実は金の上に蝋を被せ、その上から着色して隠していたのですよ。熱することで蝋が溶けて金が現れる、と。加えた物質はただのフェイク、皆さんが勘違いするようなものを入れておけばそれが金になったと勘違いなさるでしょう?」

一瞬、そのあまりにも単純なトリックに思考が停止した。

よく考えれば子供にもわかるトリック、こんなことに騙されたのか?

「……汚っ、何だよソレ! 完全に嘘じゃないか」

俺が上げた非難の声にもアデットは動揺さえ見せない。

「ええ。この研究会の目的は古今東西の似非魔術をただのトリックと証明することですから。オカルトはただの手品であり、魔術師とはそれを魔術と呼ぶ手品師である……考えてみればわかることですが、当たり前のことを証明するのがこの研究会ということですね」

「……アデット、まさか貴女はこんな手段で詐欺とかやってないわよね?」

「さぁ……兎に角、こういう魔術で無い魔術の正体を学園祭の中でいくつか紹介しようと思うのですが、どうです?」

「シュリンゲル卿にしては悪くないアイディアだと思います。ですが、このトリックを使う場合本番では臭いの発生しないものを用いた方が他のイベントの邪魔にならなくて良いと思います、食事を出すクラスなどは特に害を受けやすいですから」

「ふむふむ、綾音さんの仰ることはご尤も。その意見は採用しましょう、それと……トリックを確実に成功させるために本番では人間の思考を鈍らせる香を使います。その点につきましては、そのローブの袖を鼻や口に当てて呼吸をするようにしてくだされば害は受けませんのでご留意ください」

駄目だ……コイツ、大昔は詐欺なんて当たり前のようにやっていた口だろう。

その後も次々と詐欺の手口を教えてくれて、奇妙なラップ音を立てる方法やポルターガイスト現象を起こす方法まで……果ては予言さえただのトリックで成し遂げるのだから、昔はさぞ悪名の高い詐欺師だったのだろうな。

「……と、今回は手口を色々披露しましたから次回までに自分がやってみたい手口を決めて置いてください。クラスでの活動を考慮して順番を決めますから。あと、トリックの解説は最終日に行いますからそのつもりで」

全てを語り終えたアデットが俺たちの前で諸注意をしながら、使った器具などを片付けている。

時間はすでに7時前、門限の無い彼女もそろそろ帰るつもりになったらしい。

全ての機材をトランクに詰め込んだアデットは荷物をまとめると、玄関に向かった。

綾音たちもそろそろ帰ることにしたらしい。

「では、御機嫌よう。ああ、そういえば夜は外には出ないようにしてくださいね……どんな不幸で落命されるか、わかりませんから。フフッ」

性格の悪い言葉を残し、アデットは他の二人と共に帰っていった。

その後俺は夕飯を食べ、メモ帳に目を通しながらトリックを考えていた……実に長々と考えたものだと思った。

トリックを実証していた物置部屋に足を運び、そこで自分のトリックが実際にできるものかどうか練習をしてみたりもする。

そのとき、部屋の隅にさっきのトリックの一つで使った器具が落ちていることに気がつく。

いや……手に取ってみればあれとは少し違った。

小さなビンに入った透明な液体でアデットが色々出しているときに彼女自身が片付け忘れたものだろう。

実験には使っていなかったが、もしかすると大切なものかもしれない……あるいは、爆発物や劇物だとすればここにおいておくことさえ危険だ。

「爆発物……かなぁ? 在り得なくない所が、またアイツらしいけど……一応届けてやるか」

時計を見ればすでに11時、明日でも間に合うことだ。

だが、もしも必要なものだったらあるいは困っていることがあるかもしれない。

少し迷ったが、自転車に乗っていけば大した距離ではないし、あの錬金術師がこの時間に熟睡しているなど、それこそ天地が逆転しても在り得ない。

そう決断するが早いか、俺は自転車にまたがると教会に向けて出発していた。

秋の夜長――そういう言葉もあるように通り過ぎる家々には未だ煌々と明かりが灯っており、もしかするとみんな読書でもしているのかもしれない。

教会に向かう途中にある公園――その前を通り過ぎようとしたとき、一瞬何かが壁にぶつかったような鈍い音が聞こえた。

俺が自転車を止めたとき、すでにその音は止んでいて辺りからは虫の声しか聞こえない。

気にしないで通り過ぎるべきなのだろうが、浅海やらと知り合ってしまうと、やはり彼女達が何かしたのではないかという予感がする。

暴走した浅海などと顔をあわせればそれはそれで大変だが、それでも見過ごすことは出来ない。

「はぁ……大概俺もお人よしだよな」

呟くと、自転車を公園の入り口に止めてその内部に足を踏み入れる。

昼間とは違って流石に夜の公園は気味が悪い、不良がたむろしていても困るがまだそれなら救いはある……言葉が通じるから。

だが、暴走した浅海がいたら実際どうしよう?

何とかしなければ、と思い足を踏み入れたのだがやはり最初のように都合よく止まってくれるとは思えない。

そんな後悔も頭をよぎったころ、本来なら灯っているべき明かりがまったく無いことに気がついた。

壊れたのなら仕方ないが、公園には十近い街灯があるはずだ……その全てが壊れるなどありえないのではないか?

ふと、そう考えたとき……雲から月が再び顔を覗かせる。

その明かりによって、10メートルくらい前に立っていた人影に気がついた。

同時に、街灯の明かりが復活する。

一瞬で広がった明かりに目が眩み、思わず目を閉じる。

そして、ゆっくり目を開けると……其処に立っていたのは浅海でも、綾音でも、アデットでもない人物――真紅の外套を纏い、紅い髪をした異国の青年。

俺より10程度は年上で、身長もかなり高い……悔しいが、ほんの少し、ほんのわずかだけ俺より美形。

相手もすぐに俺に気がつく。

「? Guten Abend……Entschuldigen Sie, sind Sie nicht Stanislaw?」

静かな公園に響く、殺意を孕んだ青年の声。

理由はわからないが、こちらに対して良い感情を持っていないのだけは恐ろしいほどよくわかった。

怒りの理由がまったくわからないのに怨まれるのはいい気がしない。

おまけに、アイツのいっている言葉もこちらには分からないのは何とかならないものか。

「あー、悪いけど俺には何て言ってるのか……Can you speak Japanese?」

「……Ich weiss keine Entschuldigung vorzubringen. Ich irre sich in der Person」

一体どうしたのかもわからないが、相手はその一言を口走ると急に殺気が無くなって俺に背を向けて歩き出してしまった。

意味もわからないまま立ち尽くしている俺。

ゆっくりと去ろうとしていた相手はふと立ち止まってこちらを向くと無表情のまま、外套から血でべっとりと汚れた腕を差し出す。

「え?」

よく見れば、青年がさっきまで立っていた場所には何か大きなゴミのようなものが……いや、ゴミなどではなくまるで死んだように倒れている女性がいるのがわかる。

その白い服は血で汚れ、彼女の喉の辺りを噛み切られていた。

同時に、青年の口元から血がわずかに流れて……

「Auf Wiedersehen, Stanislaw」

青年の血まみれの手から数滴の血液が地面に零れた瞬間、血液が触れた地面が急速に隆起して形を持った怪物となる。

それは俺と同じくらいの体長を誇る巨大な狩猟犬だー―体の表面は岩石のようで、土色一色の体の中でただ眼だけが赤い怪物。

凄まじい遠吠えをあげる怪物は自分の身体にまとわりついた砂利を散らしながら、俺に向かって一気に駆け出してきた。

それはまるで俺に高速で向かってくるトラック、触れればそれだけで俺の体が壊れてしまうのではないかと思うほどの暴力の風だ。

「くっ!」

荷物から本を取り出そうとするが間に合わない、それでも何とか敵の攻撃だけは身をかがめてかわすことが出来た。

俺の頭を一撃で噛み砕こうとした怪物の攻撃は最初からそれだけを狙っていた分躱しやすかったのだが、それでもすれ違う瞬間に掠めた敵の後ろ足で脇腹を服ごと裂かれる。

「止めろ、何でこんなことするんだお前は!」

激痛が走り、顔が歪む……だが、怪物が再び助走をつけようとしている間に何とか本を取り出すことに成功した。

傷口を押さえながら立ち上がる俺――十メートル近く手前には再び俺の頭を砕こうとしてる土の怪物。

攻撃方法を考える時間などほとんど無い、手加減している余裕など無い……紅い青年が俺の意図を察して自分が生み出した怪物に止めを刺すように叫ぶのが聞こえた。

疾駆する怪物。

俺はただ相手に狙いをつける―――外せばもう一度攻撃をかわすことなど出来ないかもしれない、ただ相手に当てることだけを考えて狙った。

それはわずかに一秒、いやそれにさえ満たない一瞬。

刹那、本を開いた俺の指が相手を葬り去るべく呪を紡ぎ上げる……わずかに数行をなぞる指と、十メートル程度の距離を疾走する脚――それでも勝負は五分五分。

だが、この勝負の勝者は俺だった。

土の怪物が俺の3メートルくらい手前に来た瞬間、その前足の先が赤く変色したのが俺にも、怪物の主にも見えたことだろう。

それはまさしく一瞬の焔、小太陽と喩えることさえ出来ようほどの灼熱が怪物の身体を紅蓮の炎で巻いた。

感覚など無いはずの怪物でさえ一瞬目の前が真っ赤に染まったその攻撃には動揺したか、方向を見失って俺とはまったく違った方向に突き進み、公園の遊具――ジャングルジムにぶつかってその遊具の半分近くを破壊して止まる。

「くぅ……やばっ」

流石にこんな大技は覚悟も無く使うものではない、一瞬で奪い去られた魔力が俺の頭をぐらつかせる。

膝を突いて、吐きそうな気分をなんとこらえ……俺を殺意の眼差しで睨みつける真紅の魔術師を睨み返した。

敵が作り出した怪物はすでに表面がガラス状にさえなり、動くたびに体がはじけ飛んでいる……大丈夫、あちらはもう問題ない。

自分の使い魔が晒す醜態に目をやった直後、魔術師は再び血まみれの手を差し出して怪物を作り出そうする。

もう一度あんな怪物を出されたら俺には反撃の手立ては無い、そんな攻撃を許す余裕なんて無かった。

手元の本のページはすでに開いている。

相手がそうであったように、俺もその魔術で相手を攻撃しようとしていたのだ。

先程の炎に比べれば威力などほとんど無い、だがガスバーナー程度の火力がある一撃が魔術師の攻撃より早く相手に届く。

しかし、瞬間――炎は魔術師の身体ではなく、彼のわずかに右の地面を焼いてしまう。

魔術師の身体を守る魔術に対する障壁が俺の目論見を崩壊させたのだ……すでに気がついたときには遅い、敵は怪物を作り上げその顔には勝利者の余裕さえうかがえた。

対してすでに倒れこみそうな俺には意識を保つことさえ難しい。

勝負はすでについていた、敵はただ俺を襲わせればそれで良いのだから。

だが、そのときパトカーのサイレンが聞こえるのがわかった。

「!?」

俺も相手もその音に驚き、それがこちらに向かっていたことに気がつく。

同時に、相手は突然登場した誰かに向けて叫んでいた。

だが、すでに地面に倒れていた俺にはそれが誰に向かって放たれたものかも想像できない。

ただ、敵はいつまでたっても俺を襲っては来なかった……俺が気を失った後も。








[1511] 第二十八話 『目が覚めてみれば 』
Name: 暇人
Date: 2006/11/14 22:52






 ……タク……タク、チク……

 チク、タク……チク、タク……

 スー……スー……

 チク、タク、チク、タク、チク、タク……

 うるさい、それに頭が痛い……

 恐らく魔力を一気に使い過ぎたことが原因だろう。

 あれは、例えるならストレッチをしないでいきなり激しい運動をしたようなものだ……

 篠崎公明が普段蓄積している限界値を100とするなら、いきなり90もの魔力を使ってしまったのだから、脳が知覚した疲労は俺の意識を奪うほどだった。

 だが、今は……今なら立てる……どれだけの時間が経過したのかわからないが、超過疲労は漸く去ってくれたようだ。

 感覚を取り戻してきた身体に感じる柔らかな感触、ベッドの上にでも転げているような……

「んっ!?」

 思わず声を上げ、一気に飛び起きた。

 朝日が眩しく、開けかけた目を閉じ、もう一度ゆっくりと開ける。

 すると、そこにいたのは……

「? 綾音……あれ? お前、泊まってた?」

 いや、よく見れば、この部屋は女の子の部屋……

 布団の上だけど俺の腿の辺りに、椅子に座ったままうつ伏せに臥せっていたのは長い黒髪が顔に少し掛かり、小さな寝息を立てる古い知り合いの少女。

 制服に着替えたままの彼女、そして、彼女のベッドに寝ている俺……どういうこと?

 良くないことがあった……土の怪物に襲われた、あの真紅の魔術師がよくわからないまま急に襲い掛かって……来たんだよな?

 なら、どうして俺がこんな場所で、彼女のベッドの上で寝ているんだ?

 絶対に死んだと思ったのに、俺はどうして生きて……

「痛ッ――」

 思わず顔をしかめる、昨日のことが事実かどうかを確かめようと手を腹に当てた瞬間に走った鈍痛。

 傷口はしっかりと手当てされていたが、これで昨日の光景が事実であったとわかる。

 では、綾音があの化け物みたいな魔術師を倒してくれたのか?

「ん――あっ……」

 俺があまり煩かったものだから彼女の睡眠を妨害してしまったらしい。

 眠そうにゆっくりと目を開けた綾音は俺に見つめられていることを知ると、いきなり跳ねるように飛び起きて、身構えようとした。

 だが、自分が椅子に座っていたことさえ忘れていたのか……

「え、あれ――あ、たすけ……」

 勢いがつき過ぎてそのまま床に椅子後と倒れてしまった。

 和風建築の中に唯一といって良いだろう洋室の床――そこに椅子が叩きつけられて、すごい音が響いた。

「……おい、あの……大丈夫か? その……スカート」

 制服を着ていたせいで、倒れた拍子に彼女の形よく艶かしい脚がその付け根まで覗けてしまった。

 俺は目をそむけたまま彼女に手を伸ばす。

「―――――」

 真っ赤になって思わずスカートを押さえる綾音。

 同時に俺の手を掴んで立ち上がろうとしたのだが、まだ寝惚けているせいで掴もうとした手が何度もすり抜けて、漸く彼女と俺の手が触れ合った。

 そして、そのまま何とか身体を起こしてやる。

 あまり格好の良くない姿を見せてしまったからだろう、彼女の色白の顔は真っ赤で火でもついてしまいそうだ。

「……あ――その、ありがとうございます……いつから、起きていたの?」

 何とか椅子を起こして、それに恐る恐る腰を下ろした彼女はとても恥ずかしそうにもじもじとしながら口を開いた。

 いつもの凛とした感じは全然無い、さっきの醜態で頭の中が混乱しているのだろう。

「いや、さっき起きたら何故かここにいて……お前がそこに寝てたんだ、よく寝てたみたいだったから声はかけれなかったけど……」

 どうしたのだろう、その言葉を聞いただけで彼女の顔はさらに赤くなってしまった。

「――私、その……なんて、かいていませんでしたよね?」

 小さな消え入りそうな声で聞き返してきたのだが、俺にはよく聞こえない。

「あー、ごめん。何?」

「だから……い……びき、です」

「ん? ああ、鼾か。いや、別にそんなのはなかったけど。別に人間なんだから寝てれば鼾くらい誰でも……」

 なんだろう、すごい視線で睨まれた気がした。

「ゴホン……それなら、別に良いです」

「で、俺からも質問なんだけど……俺、どうしてここに? ここって、お前の家だよな? あまり覚えてないけど、ここは前に来たことあるし」

 紅潮していた彼女の顔がその質問で少し真面目になった。

 しかし、それも一瞬――綾音は大きな溜息をつきながら首を振る。

「どうして、って? 貴方、道路の上で自転車ごと倒れていましたよ。恐らく近くで割れていたビンを踏んでしまったのね。倒れた衝撃で自転車は壊れていたみたいだけど……本当に、よくその程度の怪我で済みましたよね」

 本当に俺が情けない人みたいな言い方。

 それを聞いて俺の頭の中は一瞬真っ白になった気がする――真紅の魔術師、土の怪物、公園……あれが夢だって言うのか?

「え――いや、違う。そうじゃないんだ、俺は公園でどこかの魔術師に襲われて……」

「? はぁ、魔術師……ですか? 頭を打った拍子に夢でも見ていたの?」

 軽く首をかしげ、まるで俺の言葉を信じていない様子。

「違うんだ、俺が公園に行ったとき真っ赤なコートを羽織った変な外人が、その……おかしな魔術で、土で作った使い魔をけしかけてきたんだ」

「? ゴーレムのことに言及したいの?」」

「俺は詳しくないから全然わからないけど、兎に角公園で襲われたんだ」

「はぁ。でも、貴方は公園どころか道端に倒れていましたよ。私が偶然ランニング中でなければ傷が化膿していたかもしれないのだから、少しくらい感謝してくださいね」

「ああ忘れてた、ありがと……いや、でも……あ、そうだ。ニュース、ほら、ニュースだ! 公園で人が死んで、アイツ吸血鬼だ、絶対。女の人が倒れてたんだから、それに公園が滅茶苦茶になってないとおかしい。絶対に証拠はあるんだ」

「気絶していて目が覚めた途端ここにいたのだから混乱するのはわかりますが、少し落ち着きなさい。それとニュースは……もう6時半、確かに見てみるのも良いかもしれませんね。ですが、一応父と母には黙ってやったことですから、こんな時間から動くのは良くないんじゃなくて?」

「あぅ……確かに。てか、親父さんに黙ってるのはまずいだろ? 何で黙ってたんだよ。もしここで見つかったら、俺……」

「父は『不埒者はその場で首を斬り落とす』と常日頃から仰っているわ。それと、貴方を見つけたのは私の家の近くでした、それを貴方の家まで連れて行くのは大変でしょう? 深夜とはいえ、歩いている人間がいないわけではないのよ。それに、これが一番重要ですけど、私が貴方の家に行けば手当てに時間がかかったとき、父が誰かに言って探しに来させるかもしれないでしょう? それでよかった?」

「いや、確かにお前は正しい、と思う。でも……」

「それに年頃の娘が、怪我をしているとはいえ殿方を連れ込むなど厳格な父が許すはずがないわ。別にばれても構わないというのなら父に言ったと思いますけど、貴方の体質は父のような人には実に興味深いから人体実験に使われなくても、毎日この家にご足労願うことになったかもしれないわね……それで宜しかった?」

「……悪い、お前のやったことは間違ってない。それと、俺あの人嫌いじゃないけど苦手なんだ。そこのとこ、何とか……」

「貴方が私の婚約者――というのなら父も怒らないと思うけど?」

「え? いや、高校生がそんな事いうのは……その、時代とかおかしいっていうか……」

「ふん――冗談よ。ガラスで切った傷も痛むと思いますから、貴方は一度私が帰宅するまではここに隠れていてくれれば……トイレとバスは部屋に備え付けがありますし、学校には私が連絡しておきます。食事は後で登校前に持ってきますから……」

 そのとき、部屋の扉が開いた。

 びっくりした俺たちが二人してそこを覗くと、俺たちより少し年上の青年が面白いものを見つけたような顔で立っていた。

「やっ、どうもおはよう、綾音さん。ついでに……お久しぶりだね、公明くん」

「――えーと、確か……正彦さん?」

「――余計な……正彦さん、人の部屋に入るときはノックをしてくださいと申し上げていたと思いますけど。正仁叔父様に訴えますよ」

「それはご勘弁を。いや、僕もノックしたいのは山々だけどこれは僕の用事じゃなくて、伯父さんがいつも朝早い綾音さんが遅いものだから呼んでくるように、と言われたからなんだ。でも……綾音さん、それに公明くん……今取り込み中、だよね?」

「見てお分かりになられないのかしら? 相変わらず愚鈍ね」

「ぐどん? 何それ? ていうか……居候のすねかじり大学生が言う台詞じゃないと思うけど、君たち高校生なんだからそういうことは良くないんじゃないかな。一応僕も法学部の学生だから、確かそういう行為は法的にも……その……いや、公明くんとは久しぶりだけど、すごく大人になったね……僕なんて未だに彼女もいない童貞くんなのに、僕の従姉妹となんて……グッジョブ、義従弟」

「あー。正彦さんとは久しぶりなのに悪いですけど、俺もいい加減に殴りますよ?」

「あ、いや取り込み中にごめんね。制服でなんて、君がそういう趣味だということは口が裂けても言わないから。安心して大丈夫だよ、伯父さんには黙ってる。本当、綾音さんの名誉のためにも黙ってるから」

「正彦さん、まさか私に逆らったりはしませんよね? 早く部屋から出て、すぐに行くと父に伝えなさい」

「了解、了解。じゃ、公明くんまた今度ドライブにでも連れて行ってあげるよ、デートなら運転手役でも何でも言ってくれ。実はこの前僕も漸く免許が取れてね、誰でも良いから一緒にドライブ……」

「さっさと行きなさい!」

 一喝されてすごすごと立ち去って行く正彦さん――夏休みなどにこの家に遊びに来ては俺とも遊んだりしていた少し年上の綾音の従兄弟。

 いつも悪い遊びに夢中になったり、ゲームに夢中になっていたり、この家の人間なのに綾音の一家とは全然違ってごく普通人だった気がする。

 数年前から余り会っていなかったが、久しぶりに会ったあの人は以前と全然変わっていない……年を取らないとかじゃなくて、雰囲気がまるで同じ。

「まったく……あの人もいい加減何時までいるつもりなのかしら……」

 少々愚痴り気味の綾音は扉が閉まるまでしっかりと正彦さんを睨みつけていた。

「なぁ、正彦さんって今ここに住んでるんだろ? ひょっとして魔術とかの修行中?」

「いいえ。正彦さんのお父様、正仁叔父様は一族の変わり者でしたから……どうもこの家の家風が自分に合わないと仰って、フランスでごく普通のフランス人形作りの職人になってしまわれたわ。正彦さんは大学で専攻した日本美術の研究で今こちらに留学中……免許は本当だけど、法学部云々は嘘よ」

 初めて知った……あの人、フランスに住んでたのにたまにこっちに来てたのか。

 てっきり隣の県くらいだとばかり思っていたから疑問にも思わなかったのだが、なんだかリッチな話だ。

「じゃあ、正彦さんの親父さんは魔術師で、正彦さんはただの人?」

「ええ、一般人より魔術師としての成長はずっと早いでしょうけど、鍛えていないから魔力量で貴方さえ及んでいないでしょう? 叔父さまは流石に魔術師ですけど、もう魔道の道から完全に引退してパリでも指折りの職人になられたそうよ。それで、画家志望の正彦さんは普段叔父様が借りられたアトリエで絵を描いてばかり……たまにこちらに食事に来たり、家宝の書画をみたり、そういった具合ね。ただ最近は、父が正彦さんの商才がなかなかのものだと煽てたので、図々しくも父の鞄持ちをしているわ」

「昔もそうだったけど、画家の修行も適当だな、あの人は」

「本人曰く、まったく関係ないことをやってみるのもスランプ脱出方法の一つ……本当に、絵を描くことが趣味という人間に碌な知り合いがいないのはどういうことかしら!」

「あー、浅海の趣味もそういえば同じだったな」

「私の部屋であの女の名前は出さないでもらえるかしら? ……父のところに行かなければ流石に怪しまれそうね、後で食事は持ってきます。その傷は深くないけど、自然治癒に頼る以上安静にしていなさいね」

「わかった。でも、親父さんが来たら俺、窓から飛び降りるからな。そうじゃなくても絶対斬られるから」

「前に来たから覚えていると言ったでしょう……確認しておきますけど、ここは一階よ。仮に誰かが来たときは、バスルームにでも隠れなさい。無茶な運動をすれば傷の治りが悪くなりますから……ここから出ない、これは約束ですからね」

「わかった、でも今日は月曜だから帰りは遅いんだろ? どうやってそれまで待ってれば?」

「寝ていればすぐに時間が過ぎるから大丈夫よ。それでは……痛、あれれ」

 椅子から立ち上がろうとした綾音の体勢が崩れた、そのまま崩れるように床に膝を着いて上半身を椅子に預けた。

「おい、大丈夫か?」

「痛っ……どうやらさっき椅子ごと倒れたときに痛めたみたい……まったく、この頃は恥ずかしくなるくらい修行不足ね」

 しゃがんだままの状態で痛めているらしい足首に手が触れるのが見える。

 俺はその光景を無言で見詰めていたが、すぐに彼女は何もなかったかのようにしっかりと立ち上がった。

「……湿布のようなものよ、壊す才能ばかりの私も自分の体くらいは多少治せるの。もう痛みはひいたようだから、心配しないで」

「ああ、でも気をつけろよ。よくわからないけど、俺はまだ昨日の魔術師が夢とは思えないし、アイツがお前達を襲ったりしないか本当に気になるんだ」

 少し頬を赤くした綾音はすぐに顔を逸らすと、ドアに手をかけて振り向かなかった。

「――心配してくれてありがとうございます……ですが、やはりその魔術師は夢でしょう。話の通りなら、その場で貴方を殺していなければおかしいもの」

「まぁ……確かに。でも、あの時確か誰かが助けて……」

「部屋から出ないように気をつけて。食事はすぐに用意しますから」

 部屋を出て行った綾音。

 足音が遠ざかっていくのがわかった。

 しかし、俺は本当に夢を見ていたのだろうか?

 受けたはずの傷は本当にあった……だがこれはガラスで切ったのだ、と綾音は言う。

 自惚れでも何でもなく、綾音が俺に対して嘘をつく理由は見当たらない。

 そもそも隠す理由が存在しないし、俺を騙して特になることが思いつかない。

 しかも傷はしっかり手当てされているし、自分の部屋に俺を招いているのだからむしろ綾音には感謝するしかないと思う。

 ただ、それでも俺は昨夜の魔術師が俺の想像の産物だとは信じられないし、逆にあの男を綾音が庇う理由も見当たらない。

 年は違う、人種も違う、きっと宗教も、魔術師としての宗派も違うのだから接点が欠片もない。

 綾音の部屋にはテレビもなく、ラジオ、パソコン、そういったツールが見当たらないので自分の携帯電話しか頼るべき情報末端が存在しなかったのだが……ついてない、電池切れだ。

 こうなってしまえば、この部屋の外に出るしか情報を得る手段はないのだが流石にそれだけは拙いだろう……何より、家の中は記憶も確かではなく目的の場所に辿り着けるかどうかも怪しい。

 同時に『実業家宅に不法侵入の高校生逮捕、目当ては同級生? ストーカー犯罪の低年齢化進む、今教育の在り方が問われている』……わかりやすい明日の朝刊記事の見出しが頭をよぎる。

 ……外に出れば確実にアウト、アデットたちに相談することも今はあきらめるしかない。

「ふぅ……どうしよ、俺」

 学校を休むのは別に構わない、家にやってくる客はいない……落ち着いて考えれば、そちらは問題ない。

 だが、本当に大丈夫か……

「!」

 そのとき、すっかり油断していたが急にドアが開いてしまった。

 考え事をしていて足音に気がつかず、俺はドアを開けた人に完全に見つかってしまい……

「! あ、綾音か。やば、本当に、親父さんかと思った」

 部屋に入ってくるなり、机の椅子に腰掛けた彼女は体をこちらに向けて深くため息をついて頭を抱えた。

 何かヤバイ気配が漂ってきたのは俺にもよくわかる。

 言いにくそうにしていた綾音も少しして、漸く口を開いてくれた。

「……はぁ、失敗ね……私も今日は学校を休むことになりました」

「……? ごめん、よく聞こえなかった」

「私も、体調が優れないので学校を休みます。というより、父にそう申し渡されたの」

「……あ、はは、いや、どうする? てか、何処が悪いんだ?」

「実は貴方の目が覚める少し前まで私も起きていて……少し気分が悪くなったので、あの時は倒れてしまったの。ごめんなさい、本当に拙いわ」

「なにが? 今でも十分拙いのにさらに悪くなるのか?」

「ええ、実は家への出入りは父と母には筒抜けで、私がついていなければ門を通った瞬間に見つかってしまいます……正直、だから貴方には私が学校から帰るまでの間隠れているように言ったの。意味も無くそんなことを言うと思った?」

「いや、すっかり流されてて考えが及ばなかっただけだ」

 その答えを聞いて呆れた様子の彼女はため息混じりに首を振って見せた。

「……正直なのは良いですけど、自分の無知を晒さないように」

「しかし……どうするよ? てか、ここから出るだけなら簡単に……」

「そうでもないわ。この前のように、貴方が来ても不思議でない状況なら誰も何も言わないでしょうけど、こんな朝早くからここにいることが見つかったら言い逃れ出来る?」

「んー、無理。因みに、ここから門までは?」

「今は父もいるし、今日はお昼にお客様がいらっしゃるからお手伝いの人たちが走り回っていて、誰の目にも触れないように出るのは無理よ。見つかる可能性を考えれば危険すぎる賭け……本当は学校帰りの時間に貴方を」

「窓から行くのは?」

 カーテンを開けた窓の外には日本庭園が広がり、とても庶民の家にいる気がしない。

 昔のことでよくわかっていなかったとはいえ、よくこんな場所で遊べたものだ。

 今なら恐れ多くて遊ぶなど出来ないだろうに。

「中庭です、昔一緒に遊んだ記憶はある? 兎に角、そこに出たとして人目に付かずに外に出るのは塀を超える必要があって……申し訳ないですけど、今の私にはそんな体力はありません」

 この家の塀は軽く見積もって三メートル少々、これを軽々と越えられるのなら俺は一流の泥棒に一歩近づいていることだろう。

 何より、高級住宅街とはいえ道路に面しているのだから見ればわかるんだよな……朝だし。

「人目につかずに塀をよじ登るなんて、やっぱ危険か。でも、学校帰りに俺がよったって言うのもお前が休んでるんだったら無理だよな?」

「無理ではないでしょうけど、外から入ったか中から出たかの判別はつきますから。人の出入りが少ない時間、大体六時くらいになればお手伝いの人たちもいなくなるから、父が帰宅する八時前までに急げば大丈夫のはずよ。まさか今日泊まるつもりも無いのでしょう?」

「そりゃ……当たり前。小学生のガキなら兎も角、この年でそんなことしてたら犯罪者……大体、旧華族の家に庶民が侵入して、そこのお嬢さまのベッドで寝てたらどう考えたって言い訳できないだろ? 完全に俺が変態じゃないか」

「華族って……貴方も案外どうでもいいような昔のことに拘るのね。でも、そのときは私が連れてきたと……」

「止めとけよ、そんなことすれば親父さんに怒鳴られるだけじゃすまない。俺がうまい具合に忍び込んだことにすれば良い、何しろ俺のためにしてくれたことだからな」

「――――」

 言葉を聞いたとき、真っ赤になった綾音は亡羊とした視線。

 風邪でも引いているのだろうか?

「じゃ、取り敢えず朝飯……?」

「――あ……」

「もしかして、忘れたのか?」

 手ぶらだったときから少しいやな予感はしていたが、的中して欲しくなかったな。

 パンでも良いから持ってきて欲しかった……実はすぐにでも腹がなりそうなのだ。

「……お昼まで待ってもらえますか? 今は少し……無理みた……い」

 申し訳なさそうに俺に謝ろうとした綾音は、途中まで言ったところで急に倒れこんでしまった。

「おい! 大丈夫か」

 急いで助け起こすが、顔色は悪い……朝からどうも様子がおかしかったのはこれが原因だろうか?








[1511] 第二十九話 『公園での出来事 』
Name: 暇人
Date: 2006/11/20 05:39



 


――ボッ

「――Was?」

 小さな音を立て、土の怪物が消滅する。

 自壊する使い魔……それを事も無く滅したナイフ。

 崩れ落ちていく土の中にその凶器を見出した真紅の魔術師が青い瞳でそれを投擲した相手、つまり私を睨みつける。

「……Wer bist du?」

 突然登場した私から視線を逸らすことなく、真紅の魔術師が呟く。

 その間にも彼の紅い外套の下から何匹もの大蛇が這い出て、防壁を築き上げていた。



 
○○○○○



 
 ここにやってくる少し前に話を戻そう……

 私、白川綾音は篠崎邸で行われたオカルト研究会という、ある錬金術師の道楽に付き合ったために日課の教練のスケジュールがやや遅れていた。

 いつものランニングコース――不愉快な親類がしつこく来週の日曜ライブに誘ってきたため、断っている間に11時近くなってしまったが日課は欠かすべきではないので時間を気にすることなく走っていた。

 父はこんな場合絶対に止めない、それは鍛錬を怠ることを認めない厳しさの現れであると思う。

 家を出てしばらく走ったとき、異様な気配を感じ取った――公園から感じられたその気配は何かしらの魔術か道具を持って構築された人除けの結界のものだった。

 これは悪魔や吸血鬼、あるいはそれ以外の怪物との戦闘や魔術師同士の決闘などに周囲の人間を巻き込まないための措置として一般的なもので、『その場所に近づきたくない』気分にさせてその地域を無人にしてしまうというもの。

 意志の強い人間や魔術師、吸血鬼には効果がなく侵入を物理的に防ぐことは出来ないのが難点だといわれていて、より時間をかければ物理的に防ぐ結界も構築可能と聞く。

 コースを変更して公園に走った私は、到着の直前に決壊が消失したことを知る――決闘の終了か、あるいは第三者による結界の破壊が考えられた。

 この土地での治安維持は六協会と私の家の間で不明瞭な地域が多く、あるいはこの街の調停官の担当かもしれないが、これを無視するのは私の誇りと責任感が許さなかった。

 何より、あの錬金術師が生贄の許可を出したとも思えないが流れ者の魔術師や地元にいてもばれなければ良いと思っている術者がいないとはいえない。

「調停官に与えられる大権は魔女狩りの教訓から生まれたというのに……」

 一般人が巻き込まれる最悪のケースを想定して、思わず呟いてしまう。

 公園に到着して、中を探索しようとしたとき――公園内から凄まじい轟音が聞こえた。

 その音の主を探して気配を隠しながら現場に慎重に近づいたとき、真紅の外套を纏った魔術師と幼馴染の少年が戦っているのが見えた。

「こーめい……うそ?」

 思わず呟いた声は後で聞き直せばどれだけ間が抜けていただろう。

 だが、そんな間抜けな声で呟いてしまうほどに私自身にその光景は信じられなかった。

 彼が本を用いて焼き尽くした怪物は俗に『ブラッド・ゴーレム』と呼ばれる血を触媒とする使い魔――それもあれは単純なレベルで言うならライオン並の破壊力を備えた怪物だ。

 土の身体で構成されていることを考えれば、ただの動物よりも数段頑丈であることは言うまでもないし、あれと生身でただの人間が戦うなど死にに行くようなものだ。

 それを前にして、チーターのような疾走でなされた初撃を躱して反撃、その上相手を倒してしまうとは驚きだった。

 だが、彼は運がなさ過ぎる――私は相手の魔術師を知っていた、でも知り合いというわけではない。

 魔術師の間で語られる17人の凶悪な殺し屋の一人で、俗に『黄昏の王冠』と呼ばれる男、サンタクルス諮問機関の一級執行官。

 吸血鬼さえ昼間は彼らを警戒して迂闊な真似をしないという強力な戦闘集団なのだから……どうして彼が襲われているのか、どうしてこういう状況になったのか、私の頭は混乱していた。

 助けに飛び込むべきなのだろうが、サンタクルスとの諍いは父にとってどれほどの心労を与えることになるか。

 サンタクルスは六協会の超武闘派魔術師の集まりで、六協会の規定に反する魔術師を当然の如く始末する、その上、建前上ではあるがその存在は架空のものとされる特務機関であるため二級および一級執行官には独自に死刑判決を下す権限がある。

 こちらを殺しても咎められることがない殺し屋、自分の命はすでに捨てる覚悟がついたが周りの人間に飛び火することを考えると、それが足かせになって私をその場で立ち尽くさせていた。

 だが、遠くからパトカーのサイレンが聞こえたとき、彼が倒れてしまったとき……証拠を残さないように彼を跡形もなく殺そうと執行官が決意したことがわかったとき、私の手は無意識にナイフを使い魔に投擲していた。

 やはり私は篠崎公明と言う少年に死んで欲しくないらしい……だが、同時に覚悟したのはあの執行官が私の周りに害をなさないうちに……殺してしまおうということだった。



 
○○○○○



 
「……」

 私の手には投擲したものとは別の刃の長いナイフ――先日、何を思ったか父が遠方の刀匠から購入したものを握り締めた。

 私の身なりに似合わない持ち物に青年はわずかに眉をひそめる。

「……サンタクルスの執行者――悪名高い『黄昏の王冠』ですか?」

 昂る心を少しずつ落ち着かせようと、自分でも確認するように相手に問うた。

 出来れば違っていて欲しい、王冠レベルの魔術師と戦うのは正直生きた心地がしないから。

 私の問いに青年は一瞬黙り込んだが、パトカーの音が近づいていたこともあってすぐに観念したように喋り始めた。

「……アヤネ・シラカワ? 何故、アナタ、ワタシ邪魔した?」

 青年が片言の日本語だったが聞き取れないわけではない。

 ただ、慣れないためだろうか喋り方はどうも遅かった。

 そして、私の名前を知っていることで確信する、『この男だけは始末しておく必要がある』と。

「それはこちらの台詞です。どうして彼を攻撃など? それに、何故貴方たちの機関がこの街に?」

 この地域の魔術師の名前を詳しく知っているということは、機関の公式任務ということで決してこの男の独断によるものではないことの証明だ。

 それを邪魔するというのは機関に喧嘩を売るようなもの――覚悟を決めて歩み出たとはいえ、私の足は震えそうだった。

「? アナタすごく速い、言ってること、ワタシよくわからない……アーデル、アーデルさん、ワタシまだ会ってない。でも、もういい。街来てすぐ見つけた、スタニスワフ追いかけて来た獲物。六等級吸血鬼、サンタクルス法廷死刑判決下した、だから危険。仕事執行する。ソレ殺さないと人喰われる」

 青年が素晴らしい勘違いをしていることがすぐにわかる。

 スタニスワフ――どうやら彼はとんでもない勘違いの結果命を狙われたらしい……大丈夫、これならまだ話し合いで誤解を解けば戦闘に発展する前に納められそうだ。

「食人鬼スタニスワフ? ……それはわかりました、ですがどうして彼がスタニスワフだと?」

 そうだ、スタニスワフは東欧で活動中のはずでこの地にやってくることはありえない。

 同時に、兵士たる彼の主人はヨセフ・リリエンタール卿――その形態には議論の余地があるが、すでに死人のはずだ。

 だが、青年は確信を込めた顔で、たどたどしい日本語で説明した。

「魔術使わない、魔術師……スタニスワフ、魔力完全隠せない。魔術師、魔術使わない……アレ、スタニスワフ。ワタシ間違ってない、リスト載ってない。アナタすごく邪魔、退け。警察呼んだの、ワタシすごく怒る」

 最後の一言は完全に誤解だが、この青年が彼をスタニスワフだと思って殺そうとしている以上、私はひくわけには行かない。

 どうして?

 わからない、ただの幼馴染や仲良しというだけの理由でこんな危険を冒せるほど私は愚かだったか?

 あるいは、いつの間にかそんな愚かな人間になっていたのかもしれない――貴方が私を弱くしたのなら、心中してくださいね。

 そう心で呟くと、最後の説得を試みる。

「待ってください、彼は……その、まだ修行中の身でまだ魔術を使える段階では……」

「ウルサイ、時間ない。若い魔術師、貴族の出……でもソレ違う、なら天才。天才、本使わない。本使う、スタニスワフの特徴。本高い、ソレ持つスタニスワフの特徴。ソレ庇う、アナタも敵、執行官権限、即殺す」

 その言葉と共に、魔術師の外套の下から一際巨大な、十メートル以上はありそうな黒い大蛇が現れた。

 どういう仕掛けかわからなかったが、それはやはり『ブラッド・ゴーレム』である点では同じだった。

 それが切り札なのだとしたら……この勝負は貰った。

 私らしくもなく、思わず不敵な笑みを漏らしてしまう。

 『ブラッド・ゴーレム』……所詮、錬金術の派生として編み出された魔術に過ぎない――だが相手が五大人形師の一角、東欧貴族イオレスク家の現当主とは……よからぬ因縁が脳裏を掠める。

 いや、どちらにしろ人でなく『人形』であるのなら、例えそれが五大人形師のものであったとしても……問題はないだろう。

 このときばかりは『呪い』に感謝するべきか。

 仮にこの状況に救いを求めるなら、相手がイオレスク卿本人でないということだろう……城塞じみたゴーレムが相手では流石に勝てる気もしない。

「――先に手を出したのはそちらですから……サーシャ・イオレスク、死んでも責任は取りませんよ」

 一応、宣言しておく――私の存在は偽りの命にとっての猛毒だ、貴方のゴーレムでは決して勝てないといってやるべきか?

 いや、冗談じゃない――そんなことをすれば敵が何をするかわかったものではない。

 これは自身に撤退を許さないための戒めであり、同時に相手に対しての警告に過ぎないのだ。

「アナタ、ワタシ殺す? 無理、ワタシ不死身……アナタ死んでも、ワタシ、知らない。執行官責任取らない」

 さっと駆けた私に向けて飛びついてくる大蛇、それらは全て通常の動物などとは比べ物にならない速度で首を、腕を、脚を狙って飛びついてくる。

 特に十メートル以上の大蛇などに巻きつかれれば、わずか数秒で骨が折れてしまうかもしれない……だが、それが人形なら私の敵ではない。

「遅いですね、少なくともあの馬鹿に比べれば……」

 蛇の群れに飛び込む私は特に動きの速いものに眼を着け、それを彼から引き離すようにして追いついてきた順に次々とナイフを振って屠っていった。

 ナイフが蛇の首や、眼を突き刺すごとに蛇たちは面白いほど簡単に次々と消滅していく。

 それはまるで風船に針を突き刺したみたいに、急に破裂したように消えていき、この世にはわずかな血痕が残るだけであった。

 その光景を目撃した執行官は忌々しそうに呪詛を投げかけた。

「クッ、プッペン・ツェアシュテーラーか!」 

 そう、俗に『人形殺し』ともいう一種の超能力あるいは呪い――自分の弁護に終始するかもしれないが、私に人形作りの才能がないのはこの超能力が原因である。

 神の呪いとも呼ばれ、原因さえわからない超能力。

 非常に高いレベルに至った人形作りの魔術師の家に生まれ、人形の構造に精通してしまった魔術師の遺伝子に刻まれた魔術が影響しているとも、世界が生命を生み出すという特権に対して挑戦する人間達を嘲笑うためにかけた呪いであるとも言われる人形作りにとってまさしく呪い以外の何者でもない人形を簡単に殺してしまう体質だ。

 ゴーレムの殺し方は知っている、その上私のナイフが急所を突かずとも、彼らの体をかするだけでその部分が壊死してやがて緩慢な死に至る毒のようなものなのだ。

 証拠に、倒れた蛇たちは即死していない場合でも苦しそうにのた打ち回っている。

 恐らく、戦っていればあの幼女人形レディ・プリメラも殺すこともそれほど難しくないと思う……自分の人形が完成間際に狂ったように死んでしまうことなど見飽きた私に救いがあるとすれば、やはりこんなことしかないのは残念だが、今はそんなことを言っている場合ではないだろう。

「神の呪い、相性悪い……時間が、アナタ……ペシャンコ!」

 青年は叫ぶと同時に自身の手を先程私が投擲したナイフで突き刺し、大量の血液を地面に送り込んだ。

「!?」

 蛇たちを次々に殺していく私の足元が急に動く、大地全体が鳴動する。

 大蛇の腹を割いた瞬間、周りにまだまだ存在していた蛇たちが一瞬にして小さな血痕に姿を変えて消滅した。

 服に飛び散った血は不快以外の何者でもない、同時に地面の敵の正体を逡巡する。

 動いた地面が巨人の手のひらとなって地面全体で私を押しつぶそうと持ち上がる。

 それに巻き込まれた街灯が地面ごと圧し折れた。

 かわしきれなければ私の体など一瞬で粉々になっていたことだろう、これならば夜の吸血鬼さえ恐れるという理由がよくわかる。

 巨人の手はただ私を襲うために地面を、海を泳ぐサメのように動き回った。

「こんな大掛かりなことをして……警察機構など畏れるに足らないということですか。結界はもう機能していないというのになんて無茶を!」

 巨人の腕が身体を押しつぶそうとした一撃を紙一重で後方に飛んで躱す。

 地面を叩いた拳がそれだけで着地した地面を揺らし、轟音を立てる。

 実はパトカーの到着地点は公園を少し先に行ったマンションだったのだが……この音で警官達は気付いてしまったのだろうか?

 遊具の上に飛び乗り、逃げ回っているうちに魔術を持って紡ぎあげた弓を構えると私は何の躊躇も無く、相手の額に向けてそれを放った。

 並みの障壁であれを防げるとは思えない、だが相手を殺したくらいでこのゴーレムが止まってくれるだろうか?

 後方へ吹き飛ばされるような衝撃が華奢に見える私の体を襲うが、その程度のことは何度も経験済みだ。

 放たれた矢は凄まじい速度で真紅の魔術師に迫る。

「!」

 顔を庇おうとする魔術師の目の前で矢を弾き出そうとする結界と、そういった結界を貫くための矢が1秒程度は攻防したかもしれない。

 だが、勝ったのは矢――凄まじい螺旋軌道を描きながら、魔術師の手の平ごと彼の額を貫通した。

 飛び散った血液が周辺の空間に飛散する、どう考えても頭は砕け散ったことだろう。

 取り敢えず、あの執行官は始末した。

「――――」

 自身を殺した矢による衝撃で、執行官の体が後方に倒れこむのが見えた。

 私が上っていた滑り台ごと握り潰そうとした巨人の腕による攻撃をジャンプして躱す。

 丈夫なはずの遊具が紙屑のように巨人に握りつぶされ、さらに着地した私の身体にも覆いかぶさろうとしてきた。

「――其処」

 押しつぶそうとする巨人の手に向けてではなく、地面の別な場所に向けて投げたナイフ。

 すると……私を押し潰すはずの巨人の手はそのまま硬直し、さらさらと砂となって崩れていく……

 自身に降りかかる砂を払いながら、私はゆっくりと彼に歩み寄る……

 いや、その前に倒れている魔術師を、ただ疑念を込めて睨みつけていた。

 普通なら死んでいる、だが……サンタクルスの執行者がこの程度で死ぬ訳が無い。

 何故なら、彼らは不老不死の吸血鬼や通常の攻撃では滅ぼしようの無い悪魔を殺してきた戦闘魔術師の集まりなのだから……

 そう思っていると、腹部に凄まじい熱が走った。

「!?」

 振り返るまでもなかった、土の下から延びた棘が私の背中から正面にかけて体を貫通していたのだ。

 渾身を持って体を棘から解き放つと、魔術で編み出した剣を敵の急所――呪われた力によって容易に見出される其処に深々と突き立てた。

 棘から身体を引き抜く際に私の体から大量の出血が起こり、敵が滅び去った瞬間に膝を突いてしまった。

 出血はすぐに魔術で抑えたが、とても私程度の治癒魔術で完治できるものではない。

 油断していた自分に思わず舌打ちをすると、滅びているはずもなかった執行官に目をやる。

 すると、頭を打ち抜かれた青年はまるで傷を受けていない状態でゆっくりと立ち上がってしまった。

 一瞬、凄まじい視線のやり取りが成される。

 私も、すでに能力による優位はないものと考え最後の力を振り絞る覚悟を決めようとしていた。

 だが、そのとき青年は意外なことを口走った。

「ハハ、ソレ撃ってくれた仕返し……でも、すぐに警察来る、この勝負お預け……アナタ、ソレ吸血鬼違う言う。ワタシ、今回だけ信用する……アナタ、は、背中向けてる、でも貴方、を喰わない、証拠。アレ、アナタみたいな餌、近くいて我慢できるわけ、が、無い」

 この執行官はあれだけ私が必死に説得しようとした後、漸く今になって納得したといった……状況が違えば私の我慢は限界に達していたことだろう。

「くっ……信用していただき感謝します、執行官……ですが、私がスタニスワフとは考えないのですね?」

「何ソレ? アナタ意外、に無知。スタニスワフ普通の人間成り代わる。魔術師、餌に最適。でも化ける、こと効率悪い、よほど機会ないと喰わない。アレ食人鬼、新聞注意する。猟奇事件起こる、ソレ、スタニスワフ。アレ、吸血鬼、でも、人殺し、人間の方法でする。見つけにくい」

 どうやら私も詳しく知らない吸血鬼の特性らしい、時間が許せば父の書斎を探るか、あまり気は進まないが教会まで情報収集に足を伸ばさなければならないだろう。

「……」

「アナタ良い餌、だから気をつける……アレ、ベルラックに何かされた。ベルラック、最上級吸血鬼、美と魔術と夜支配する大神、不可能ほとんど無い。スタニスワフに噛まれた奴、食われた奴、おかしな怪物なる。光当たれば死ぬ、心臓刺されると死ぬ、雨当たると動けなくなる、でも傷治る、年取らなくなる、それ仮初の不老不死……物語の吸血鬼、そのまま。でも、アレ普通の武器殺せる、これ幸い。殺すの、テランよりずっと簡単」

 執行官が口にした『ベルラック』という単語に驚愕せざるを得ないのと同時に、話の中に登場する怪物は四ヶ月くらい前の怪物を連想させた。

「執行官……もしかすると、それは……」

「ワタシ、まだ詳しく知らない。でも、ベルラック、アレ『ヴァディル』呼んでる……ベルラック発生した土地の言葉、ソレ奴隷の意味。ワタシたち、殺し屋必要……壊すための才能、ワタシと同じ貴族なのにアナタ異端のニオイする、呪われた才能持ってる、ソレ世界の抑止。間違った命壊す、こと、好きに決まってる、アナタ本当は殺人狂。ワタシ推薦書く」

 ……この執行官はとても失礼だった、初対面の人間を殺人狂呼ばわりするなど私の常識ではありえない。

 同時に、どうやら私を気に入ったらしく、問題を大きくする気がないことに安心した。

 緊張が弱まったせいで傷の痛みが抑えられないくらい大きなものに変わる、涙が出そうだ。

 だが、人に弱みを見せてはならない……それが一族の誇りであり、私の誇りだ。

「……すごく失礼ね。警察が来ますよ。それに、次に彼を襲うような真似をすれば貴方の命はありません……その身体の秘密、私の家の秘伝によく似ていますから、ただのブラフだと思わないでください」

 確かに、これはブラフではない……執行官の不死身の秘密はなんとなくわかった、殺せるかどうかは疑問だが彼を驚かせるくらいに暴れることは出来るだろう。

「シラカワ……本気、わかた。でもシラカワ、行く、少し待つ。ワタシの言い訳聞く――ソコの人、ヴァディル、に食われてた、ワタシそれ殺した。ワタシやてない。あと間違えた人、悪い言て謝って、ワタシ悪気無かった、カレごめん。ワタシ謝る」

 本当に申し訳なさそうに言う執行官に悪意は感じられない、彼が悪人かどうかはわからないがこの謝罪は演技でないような気がする。

 恐らく、殺すことは好きだが勘違いで殺すのは好きでないという性分なのだろう、魔道に身をおくものとして少しわかる気がする。

「わかりました。この方は……悲惨な状態なら隠したかもしれませんが、この状態なら発見されない方が不幸かもしれません。私は去ります、後は警察に任せましょう」

「アナタ、話わかる人。ワタシ運良い、さよなら。でも、また会う、間違えて殺すかもしれない、そのときごめん。先謝る。じゃ、バイバイ」

 それから、執行官の前から去った私にはあの公園の惨状をどう処理したのか知る由もないが、執行官はあのような戦場は何度も経験したことがあるだろうからきっとうまく処理してくれているだろう。

 警官の到着があったかどうかは定かではないが、恐らく死体が発見されるのは別な場所になっているだろうし、公園の遊具も修復されていることだろう。

 いや、これはそうなっていてくれれば彼に無駄な話をしなくて済む私の願いなのかもしれない。

 何はともあれ、こんな恩を着せるような話を自分からするなど私のプライドが許さないのだ。

 彼の治療を優先したため、私の怪我は何とか表面を取り繕う程度が限界だった。

 そもそも、父に『サンタクルスの執行官と喧嘩した』などといえるわけもない、そんなことをすればどんな惨状になるか分かったものではないし、相手も騒ぎを大きくしたくない様子なのに私が騒ぐなど義に悖る。

 何とか傷口は見た目には塞がってくれたが、すでに2時……普段の何倍も動いた気がするし、瞼もだいぶ重くなってきた。

 彼が眠っているベッドに倒れこんで……寝て……しまいそう……



 




[1511] 第三十話 『悪夢の舞台へ 』
Name: 暇人
Date: 2006/07/18 20:25
「おい、大丈夫か?」

床に倒れこんでしまった綾音を助け起こした俺は、顔色の悪い彼女をさっきまで寝ていたベッドに移そうと抱きかかえた。

女の子だからだろう、抱きかかえた彼女の体重は本当に軽かったし、抱きかかえたときちょうど俺の胸の辺りにあった彼女の髪の毛からはまるでシャワーを浴びた直後ように高価なシャンプーの匂いがした。

急に抱きかかえられて驚いたのだろうか……綾音は一瞬呆然とした後、顔を真っ赤にして手をばたつかせて俺の腕から逃れようとした。

「ちょっ……手を放しなさ……きゃ」

抵抗しようとした綾音を落とすまいとした俺は急いでベッドの上に彼女の体を寝かせた。

「―――――ありがとう……ございます。でも、急に女性の身体に触れて、いきなり予告もなく抱きかかえるなんて、その……礼儀に反します!」

まぁ、確かにそれも事実ではあるが非常事態だろ……やっぱり変だ、いつもの綾音と違って今日の彼女は本調子ではない。

「あのな、床に倒れたままほっとけるわけないだろ。大体、ここはお前の部屋なんだし俺よりもお前の方がずっと重症なんだから」

「えぇ……ごめんなさい。私ったら、本当に変なことを……でも、次からは先に言ってからにしてください」

ベッドの上に寝かせた彼女の顔色を見てみれば、真っ赤で体温も随分と上がっている様子だ。

「まぁ、それは気をつけるけどお前も……」

これはやはりよほど体調が悪いのだろう……と、綾音を抱きかかえた腕に感じた妙な感覚――湿っている?

ゆっくりと右手を広げてみる……

「――おい、何があったんだ? これ?」

べっとりと赤い血で汚れた右手を彼女の目の前に差し出す――俺の右手は綾音の血液で濡れていた。

「……」

自分の血液が俺の手に付着していることに動揺したのか、俺を直視できない綾音。

「きゃっ…やめ……何をするの!」

俺は嫌がる綾音をうつ伏せにさせて、彼女の背中を見ようとした。

いつもなら瓦を砕いて余りある威力の拳が俺の顔を襲っていたのかもしれないが、今は力の感じられない拳がただ俺の目の前を通り過ぎ虚しく空を切るばかり。

俺に簡単に裏返された綾音の身体――その背中、特に腰の辺りに赤くて大きな血の斑点が一つ。

俺の拳よりもやや大きいくらいの範囲に渡って制服を紅く染めた鮮血は、よほどの傷であることを予感させた。

それを見られたためか、綾音の体から抵抗する力が失われていく。

「――一応聞いておくけど、昨日の魔術師は本物だな?」

「………ぇぇ」

肯定を告げる小さな声――ベッドが紅く染まることも気にせず、再び身体を反転させてベッドの上に座る格好になった綾音は服を捲って自分の腹部を晒した。

思わず目を逸らそうとしたが、彼女の手が掛かった服にはすでに背中と同じ赤い斑点が現れていたので何とか目を逸らさずにそれを見つめた。

白くて艶やかな彼女の瑞々しい肌……だが、その楕円形の傷口部分だけはまるで大きな痣の様になっていて、そこから血が滲み出ているのがわかった。

その血と同じくらいに赤い感情が自分の中に広がっていくのがわかる……いつもこんなに冴えていないと思うが、今だけは違う――何とか魔術師を追い払いながら大怪我をした彼女、俺に心配させまいと嘘をついていた彼女、そんな彼女をこんな目にあわせた相手への単純な怒りが湧き上がってくる。

恐怖と並んで怒りは原始的な感情の一つだ、単純で思慮の足りない感情。

魔術を学ぶ者ならば抑制しなければならない感情の一つだと教わったはずなのに、抑えられそうにない。

「あの野郎…」

見つける、あの野郎を見つけ出してぶん殴ってやる。

考えていたのはただの復讐――アデットならそんなつまらない事は止めておけというだろう、だが俺はそれが無意味かどうかを判断してやるほど損得勘定では動けない。

そんな俺の心情を察するように脚は勝手にドアの方へ走り出そうとしていた。

「待って……ください」

あの紅い魔術師を探すために街に出ようとした俺を寸でのところ呼び止めた綾音、すごく苦しいはずなのにベッドから起き上がって俺の腕を掴んで何とか止めようとする綾音……俺を止めようとする腕にさえ力が感じられないのは余程のダメージだったのだろう。

そう考えればたったあれだけで気絶なんてしまったことが悔しく、どうしようもなく自分に腹が立った。

確かに俺が助けを求めたわけじゃない、彼女が勝手にやって勝手に怪我をしただけのことだ……前にアデットはそんな魔術師は馬鹿だといっていた、無意味な危険を犯す魔術師はすぐに落命するから一流になれない、と。

確かにそうなのかもしれない、俺にとっては生死に関わる大事件だったが、綾音にとっては無視すればいいだけのことだったのだから……怪我なんてしなくても、ただ俺の葬式に来て線香でも上げてくれれば別に怨むわけでもないのに……彼女は救いようのない馬鹿だ。

でも、彼女にそんなことをさせたのはやはり自分だ、助けを求めていたわけじゃなくても彼女がそう思ったのならやはり俺は生きたいと思ったのだろう。

なら、やっぱり責任は俺にある。

「離せよ、俺はアイツを一回ぶん殴らないとお前に申し訳が立たない」

「……それだけのためにあの魔術師を探そうと?」

お互い相手と面と向かうことのない会話――俺はただ外へ続く扉を、綾音は自分が止めようとする男の背中を見つめて言葉を交わした。

「ああ。せっかく助けてもらったのに悪いけど、俺はアイツを許せない。不意打ちでも何でもして、絶対にこの代償は払わせる」

「無理よ。あの魔術師は私や浅海、そういった魔術世界の貴族の子弟の中でも指折りの暗殺者なの……貴方は彼の何百といる使い魔のうちの一つを滅ぼしたに過ぎないわ。隙を突いたくらいでどうにかできる相手では……それに、死んだら私は貴方を許しません」

真剣な声、反論など決して望んでいないことがわかるほどに切実な願いが込められている。

きっとこれを振り切って俺が走り出せば彼女はあの体を押してでも無理やりついてくることだろう。

そんなことになれば死体が二つになるだけだ……駄目だ、今そんな無茶なことは出来ない。

「……わかった……ごめん、頭に血が上ってた。俺もやめるから、お前もベッドにもどれよ」

振り返れば泣きそうになりながらも安心した表情の綾音――すぐに目を擦って零れ落ちようとしていた涙を誤魔化した彼女は、素直にベッドに戻ってくれた。

俺も何だかんだ言って怪我をしていた点は変わりない、緊張の糸が切れてしまうと再びわき腹の、チクチクと針で刺すような痛みが気になり始めた。

ベッドは綾音が使っているので、俺はさっきまで綾音が腰掛けていた椅子に腰を下ろして身体を休めることにする。

お互い、少々感情的になりかけていたために冷静になると浅慮な行動に対する恥ずかしさで顔が赤くなっていく。

交わすべき言葉も思い浮かばぬまましばらく沈黙が流れた。

「あー、その怪我だけど包帯とかあれば手当てしてやれるけど?」

ここ半年ばかりのドタバタや修行で生傷の耐えない時期もあったから、簡単な手当てなら目で見て学んだ。

勿論、俺よりも彼女の方がその技術も高いのだろうが背中の怪我などは流石に一人では治療が難しいと思うし、疲れているのならお礼を兼ねて俺が手当てしてやるべきだろう。

「え?」

「あ、いや待て。そういえばいいのがあった。ちょっと、そのまま待っててくれ……俺の本は……あった、あった」

俺の手荷物と一緒に置いてあった本を手に取ると、ページを捲って治癒魔術が記されている箇所を開いた。

それを見た綾音もなるほどといった表情で、自分から服を捲くって傷口を俺の目の前に晒した。

思えば、この魔術は最初何が起こっているのかよくわからなくて、アデットに聞くまでは意味のないものかとさえ考えていたものだが、こんな場面で役に立つとは……人生何があるかわからないな。

「ちょっと痛むかもしれないけど、手を触れるからな」

先程の警告通り、今回は先に触れる予告をしておく。

この魔術は別に触れなくても近づいてさえいれば成功するのだが、そもそも効率がいいわけじゃないからその低い効率を上げるために患部に術者の身体が触れた方が治癒の力が向上するのだ。

柔らかな肌に触れる瞬間、彼女の体がやや緊張して頬が上気した――まぁ、男が触るわけだからその反応は仕方ないか。

ベッドに腰掛け、膝の上に載せた本を空いている左手でさっとなぞった。

傷口に触れた右手の表面が熱を帯びたのがわかる。

少し熱い、まるでカイロにでも触れているようだ。

「ん、んうぅ……ぁ」

「痛むのか?」

「い、いいえ。その……少し独特の感触だったから、つい」

「?」

熱が引くと同時に手を離すが、綾音の顔はまだ紅潮している……思うに、この魔術は自分に使う意味がなくて感触はわからないのだが、それほど気持ちのいいものなのだろうか?

俺が触れていた傷口を見てみれば、先程の痣は綺麗に消えていて表面上完全に治癒したように見える。

あまり試す機会がなかったこの魔術の効率はイマイチわからないが、傷の深さによっては完全な治癒になっているかどうか気になるところだ。

「あ、ありがとう、ございます」

「いや、それより……治ったか? 正直、俺には意味のない魔術だから効果がよくわからないんだ」

少し自分の身体に触れた綾音は満足そうな表情で俺に返した。

「ええ、恐らくもう大丈夫だと思います。でも、こんなレベルのヒーリングを使えるほどに成長していたのね」

「まぁ、俺に出来ることはただ魔力の総量を増やすだけだから……やることがたくさんあるお前らと少し違うんじゃないか。アデットもペースが予定より速いって言ってたし」

「フフッ、そうかもしれませんね」

漸く落ち着きを取り戻してきた綾音は少しリラックスした様子だ。

「で、俺も本題に入りたいんだけど……あの魔術師はどうして俺を? それに、何でお前がアイツのことを知ってるんだ?」

これを聞いた途端に綾音の表情が少し暗くなった、俺がまたあの男を捜しに行くと思ったからかもしれない。

俺の瞳を見つめ、その真意を探ろうとした綾音はしばらく考えた末ゆっくりと口を開いた。

「わかりました……私が虚言を用いる天才を持っていれば貴方をより危険に晒さずに済むと思っていたのに残念です」

「……」

「あの魔術師ですが……名前はサーシャ、本名ミルチャ・アレクサンドル・イオレスク。通称『黄昏の王冠』と呼ばれる処刑人です」

「処刑人?」

「ええ。以前シュリンゲル卿が仰っていたと思いますけど、魔術師にもルールというものがあって、それを守らない人間は殺されるの。それで……禁を犯した魔術師や吸血鬼を裁く組織があって、それが『サンタクルス法廷』。彼は其処に所属する刑罰の執行者よ」

「……よくわからないな。どうしてそんな連中に俺が殺されかけなきゃならないんだ? それとも、俺……ルールを犯してた?」

「いいえ。それは私も一度疑ったけど、実際は吸血鬼を追いかけてきていて貴方をその吸血鬼と勘違いしたらしいの」

「……はぁ?」

「言いたいことは分かります。吸血鬼かどうか位あのレベルの執行官なら判別できて然り、しかし……今回の敵スタニスワフ・ポニャトフスキーなら話は別です」

「スタニスワフ、なんだって? おにゃこ…ふすき?」

「ポニャトフスキーよ。食人鬼スタニスワフ、あれは人間の体を料理しながら食べる異端の吸血鬼……私もそれほど詳しくは知らないけど、最も見つけるのが困難な吸血鬼の一人だとか……待っていて、父の書斎から参考になる本を取ってくるから」

立ち上がろうとした綾音、俺はそれを止めようとしたが親父さんの書斎に俺が入るわけにも行かず彼女が本をとってくるのを待つことになった。

すぐに戻ってきた彼女はベッドの上で本を広げて、その横に腰掛けた俺にその吸血鬼についての項を読んで聞かせてくれた。

『紅い髪の美女に気をつけろ、男の名前をした女に気をつけろ。一夜の宿を借りるならば気をつけろ、馬車に乗せてくれる優しい女に気をつけろ、お金を恵んでくれる女には気をつけろ』

『女の名は人食いの吸血鬼スタニスワフ。リリエンタールの殿様に仕える騎士の一人、されど騎士道精神など持ち合わせぬ怪物……』

どうにも不必要な情報が多い話が多かったが、相手について今までにわかっている情報は俺にも大体わかった。

吸血鬼スタニスワフとは700年近く昔のポーランドに現れた実在の人食鬼がリリエンタール卿に気に入られて、彼の使い魔と融合した果てにベルラック卿の秘術を持って兵隊種の吸血鬼に姿を変えたもの。

兵隊種の吸血鬼は以前に語ったように浅海と非常に近い状態で、貴族種ほどではないがやはり人智の及ばぬレベルの怪物。

紅い髪の女と記述されている存在なのに文章の中では『彼女』、『彼』とどちらともが見られたのは綾音にもわからなかったが、彼女(?)の能力によるものではないかと思われた。

その吸血鬼は食べた相手に化ける。

そう、スタニスワフという吸血鬼に形など意味がない……喰らった相手の社会的身分や家族、そういったものを利用しながら町に潜み、適度な時間をかけて新しい獲物を殺してその肉を喰らう最低の外道。

今まで何人もの狩人が追いかけながら途中で見失ってきた悪魔、それがこの街に潜んでいる……?

「……綾音、ソイツを見つける方法はあるのか?」

俺に問われた問題の解答を探してページをめくっていく綾音。

だが、彼女の持ってきた本にもその明確な答えは描かれていなかった。

「駄目、ただ事件を警察機構のように捜査していくしか方法はないようね。でも……正直、この件には関わらない方が貴方のためよ」

「何だって?」

「サーシャは私などより数段上の魔術師で一流の殺し屋、それが本気で追いかけているわけだから勝負はそれほど長引かないはずよ。無視していれば勝手に……」

「……本気で言ってるのか? 街の人が殺されてるかもしれないのに、お前は無視すればいいって言うのか?」

少々強い口調で言ってしまった、彼女は俺を心配してそんなことを言っていたのに、これから戦うはずの霧海に関係ある相手だったために俺も感情的になっていた。

怒鳴ったつもりはなかったが、彼女にはそう思えたかもしれない。

非難したつもりはなかったが、彼女にはそう思えたかもしれない。

「……」

思わず目を逸らした綾音。

「……悪い。そもそもこんな状態で言っても仕方ないことなのに、駄目だな俺」

「……いいえ、確かに私も少し冷たかったかもしれません。街での件はサーシャ自身シュリンゲル卿に何かしらの通告をしているはずだから、それは問題ないと思ったの。でも、わかりました……私たちも独自に調査を開始しましょう、構わないのね?」

「ああ。でも、いいのか?」

「貴方を助けに走った時点でこんなこともあるかと思っていたから……でも、浅海は誘いませんから。こんな危険に勝手に巻き込むのは私の矜持が許さないもの」

「それは俺も同じだ……綾音、恩に着る。ありがとう」

「―――いえ、私が勝手にしたことに対して貴方が恩に着る必要はないわ……だって、私はそんな貴方が……みたいだから」

「ん? 何だって?」

最後の辺りが聞き取れなかった、元気が内政か彼女が話す声は小さすぎたのだ。

聞き返された綾音は一瞬詰まって、気持ちのいい答えを返してくれた。

「もう! 貴方の人のよさが私に感染ったのよ、バカ」

その後、食事を持ってきたお手伝いさんをやり過ごしたりしながら何とか白川邸から脱出した俺は翌日からの捜索を約束したのだった。

○○○○○

白川邸での出来事、その四日前――彼女は家路を急いでいた。

習い事などが多い彼女は今日も学習塾で、このままでは帰宅時間が11時を少し過ぎるだろう。

彼女はずっと前からそれが不満だった、こんな忙しい青春時代を過ごすことがどれほど人生にとってマイナスになるかといつも考えていた。

そもそも彼女の通う学校にこれほど勉学に熱心な生徒がどれほどいるか……俗に言う『お嬢様学校』、お世辞にも其処は一流の進学校ではない。

有名な大学に合格する生徒もいるが、それでも進学校としてはむしろ二流だと思う。

この街で一番の学校に入れなかったわけではないと思う……下らない親の見栄に付き合わされて選んだ進路に今はただ憤慨するばかりだ。

ただイライラしていた、このままどこかに家出してやりたいほどにイライラしていた。

すでに10時を過ぎて11時はすぐ其処、遊び歩いている不良高校生や飲みすぎて路上に吐いているサラリーマンくらいしか歩いている人間はいない――それから彼女の自宅に近づくにつれ、さらに人は少なくなっていった。

今日はどうしたものか、家までの近道を通りたくなった。

3ヶ月前に痴漢が数件発生してからは通るのも避けていた道――でも、ここ1ヶ月の間に痴漢が出たとは聞いていない、何しろ件の痴漢は二ヶ月前に逮捕されたのだから。

月の下にあってなお薄暗がりの道、整然と並ぶ街路樹はもうじき葉を散らし始めることだろう。

道を歩く人間は彼女だけ――まるで世界にいる人間が自分だけになったようだ。

くるり、くるりと身体を回転させる……鞄を振り回して、まるでダンスを踊っているように回ってみた。

反転する世界の中にあって、月だけは回転することなく彼女を照らしている。

――嗚呼、綺麗な月

歌い出しそうな気分で回転しながら角を曲がったとき、足が止まった。

月も照らさぬ闇の中で誰かが座り込んでいる……痴漢か、あるいは病人か。

どちらにしろ関わりたくはない、こんな時間に厄介ごとは真っ平だ。

黙って引き返そうかと思った……だが、影からこちらを見つめる紅い瞳と視線が交錯した瞬間からそれは出来なかった――まるで自分を魅了するかのような瞳が闇の中で煌々と輝いている。

クチャ、クチャ、ボリ、ボリッ……肉とスナック菓子を食べるような気持ちの悪い音が耳まで届いた。

叫びだしそうな気分になったとき、雲から再び顔を覗かせた月がゆっくりと影を照らしていく。

だんだんと紅い瞳に近づいていく月光の絨毯――だが、それはどうしたことだろう?

闇が晴れない、瞳の回りの影がなくならない……いや、それどころか瞳の数が増えた?

一組だった瞳が、二組、三組……果ては数得られないほどに増えて彼女を拘束した。

真っ黒い、熊ほどの大きさもある影の塊……それも死の天使を連想させる途方もない数の瞳が影の表面に広がっている。

震えるだけで、声が出ない……喉まで出掛かってそれ以上は決して進めない。

駄目だ、殺される……逃げようとしても足は動かない。

鞄が落ちる、身体が麻痺したみたいに動かない。

クチャ、クチャ……ボリ、ボリ、ガリ、ガリ

不快な咀嚼音を立てる口はどこにあるのか、それもわからない黒い塊が再び影の中に消えた。

雲に隠れた月が怪物を闇の中に返した、同時に瞳の数が一組に変わり不快な咀嚼音が徐々に消えていく。

恐怖で失神しそうになった彼女の太腿辺りを暖かな液体が伝ったとき、初めて影が動いた。

いや、正確には紅い瞳だけがこちらに歩いてきた――最初は地面をこするような音、次に金属が地面を叩くような音、最後に人の足音……真っ黒い闇をドレスの代わりに纏った異国の美女。

真っ赤な長い髪がそよ風に靡き、死体のように白い肌が闇の中から覗く。

それは服を着ているというより、真っ黒い影から女性の頭と手足が生えていると表現した方が妥当だろう。

女性の身長は170センチを少し超えるほどで、よく見れば影が立体的な形を持って女性の身体の凹凸を表現していた。

理性的な顔立ちの女性で海外の貴族と言われればそのまま信じてしまいしょうな上品さが漂っている。

『やぁ、こんばんは……お嬢さん。今宵はいい月だな、オレもこんな夜には食が進む。アンタはどうだ?』

女性は見た目の上品さとは違って、どこか粗野な男のような口調だった。

だが、それでも女性の見かけの高貴さはそれを補って余りあるだろう。

震える彼女は女性の言葉に返すことが出来ない。

口が声を上げさせないのだ。

同時に、逃げ出そうにも脚が石にでもなったみたいでその場から一歩も動けない。

『はじめまして、オレはスタニスワフ。グルメな精肉業者で家具職人、料理人で貴族様に使える召使、ついでに舞台演出家で吸血鬼などというものをしている。アンタは……まぁ、どうでもいい。食えば判る事だからな』

『え?』

かろうじて、それだけを言うことが出来た。

『三人目で、漸くか……見かけは合格、しばらくお付き合い願うよ。それと……一応アンタが処女であることを祈ろうか。処女の子宮を抉り出して齧れば、熟れた林檎みたいに甘いからな』

影から生えた細い手が彼女の下腹部をすごい力で握った。

苦痛で顔が歪むが、身体の麻痺は解けない。

『漏らしたか? ヒャハハハハ、人生の最期にしては格好の悪い死に方だな』 

耳障りな高笑いが彼女の耳元で囁かれた。

抵抗できていれば女性の顔をひっぱたいていたことだろう。

『さぁ素晴らしき悪夢の始まりだ……オレは監督、アンタは主演女優。この舞台の上でアンタの素晴らしい演技を期待しているよ、お嬢さん。まぁ演技指導はちゃんとしてやるから心配は無用だ。じゃあ、娑婆とさよならだな』

その瞬間、女性の姿は消失した。

同時に彼女の目の前に数百の口が広がったのが判った……

○○○○○

思えばそれは夢だったのか?

あの夜、彼女は怪物のような女性に襲われた場所にそのままの格好で立ち尽くしていた。

かすり傷一つなく、まるで夢でも見ていたような気分だけが残った。

だが、その夜から全てが狂った。

まず、その夜差し出された夕食が満足に喉を通らなかった。

代わりに食べたいものがあったからだ……柔らかそうな人間の肉、自分の家族の身体に歯を突き立てたくて仕方がなくなった。

耳元で囁くように聞こえる声――何故そんな声が聞こえるのか疑問に思うことが出来ない声――が彼女に『殺せ』と囁く。

人間の解体の仕方は頭の中にある、どうすれば腐らせずにその多くを食べられるかも知識として頭の中にある、吸血鬼として相手をどう殺せばいいかも全て頭に入っている……彼女が疑問に思ってはいけない知識として、それは当然のこととして存在していた。

最初はうっかり包丁に手をかけて、眠っている両親の部屋を目指そうとしていた。

だが、部屋の目の前でトイレに行こうとした弟の足音を聞いてしまい断念する。

―――ヒャハハハハ、アンタは運がない女だな。オレならさっくり頚動脈を裂いて、血を抜いた後で解体するが……ここの家の冷蔵庫は大きい、肉が腐る前に全部食べられるぞ。金があるっていうのはいつの時代も便利なものだな。

耳元で不快な女の声が聞こえるが、声の主は彼女にとってわかっているのに疑問に思えない存在だ。

どうしてそれがいるのか、それがわかっていながら女性の言葉は真実のように聞こえる。

―――リリエンタール閣下の登場まであと少し……早く到着し過ぎた暇つぶしだ、アンタももう少し頑張れよ。飽きたらこの家の豚どもをオレがみんな食い殺すぜ? そうじゃなくても、腹が減って仕方ねえ……早く殺せよ、早く。

そうだ、お腹が減った……人間の血や肉じゃないと、この身体は受け付けない。

そんなはずはないのに、それが自分の常識のように感じられる……それは同時に倫理観と酷く相対する感情で凄まじいジレンマだった。

次の日は金曜日、学校は休みではなかったのに彼女は部屋から出られなくなっていた。

絶えず耳元で囁かれる虐殺の誘い、笑いながら殺し方を説明する女性の声――目は腐りやすいからさっさと食えよ、小腸や大腸は中身を始末せずに喰らいついたときが傑作だ……不快な言葉、常軌を逸した言葉をまるでそう思うことが出来ないほどに彼女の精神は疲弊していた。

次の日も、その次の日も……部屋にやってきた両親を中に入れることはなかった。

食事はやはり口に入れた瞬間に吐き出してしまう……水を口に入れた瞬間に感じるのは血の味と匂い、かぐわしき鉄の香り。

飲みたくて、飲みたくて仕方ない……彼女は乾きに耐えられず日曜の夜中、街に彷徨い出て……野良犬を叩き殺してその内臓や血を啜った。

脳天まで突き抜けるような甘美な快楽――誰にも見つからないようにしながらも、叫びだしそうだった。

この世にこれほどの快楽があると知らなかった――相手を蹂躙しつくし、全てを奪い取る最高の快楽……女性の高笑いはますます強くなった気がする。

犬の頭蓋骨を砕いて、脳味噌を啜っているとき……背後に聞こえた足音はすでに恐怖の対象ではなくなっていた。

この快楽――犬の命を奪っただけで死にそうな快楽だったのだ、人間なら……

耳元の声に諭されて、通りかかって彼女の毒牙に掛かった女子大生を殺すときは首にくらいついて血を吸うだけに留めた。

ピクピク痙攣していた体から力が抜けていったとき、漸く女性は彼女を褒めてくれた。

まるで主人に褒められた犬のように喜んだ彼女はそれだけで幸せを感じることが出来た。

血を吸われて死んだ女子大生は放っておけば彼女の下僕に姿を変えると、耳元の声が囁いた。

――ラック卿は処女と童貞にしか薬の効果がないと仰っていたからな、あの女も面がもう少しましならバラバラに解体してやっていたのに……その点アンタは本当に運がないぜ。だが、腹は落ち着いた……もっとうまい血を探そう。執行者に見つからないように、な。

その日の夜はこっそりと家に戻った後で、シャワーを浴びた。

乾きに悩まされない時間はまさに至福のとき――久しぶりに眠ることが出来た。

翌日、月曜日……恐る恐るやってきた両親に満面の笑みを見せつけ、彼女は学校へ走った。

世界は全て自分のものになった、そんな気がしていた。

だが、登校途中……殺して、脳味噌まで啜ってやりたい獲物がいた。

近所にある市立の商業高校の制服を着た同い年くらいの高校生、集団の中にあってその対象に対する渇きは異常だった。

――ああ、喰いたい。処女じゃなくても構わない……ぶん殴って、監禁して、手首、脚、乳房、尻……くらいの順で食っていくか? アイツの目の前でアイツの身体を料理して食ってやろう。安心しろ、オレは一流の料理人だ。アンタにも満足のできる味を提供してやるし、食えない部分はアイツの餌にしようぜ、ヒャハハハ。生かしたまま何処まで食えるか、生け作りの国でその記録にチャレンジできる名誉に乾杯だ。

うっかりその女子高生に気を取られていて、目の前を歩いていた柄の悪い中年男性にぶつかった。

高校生相手とはいえ相手は地元でも有名なお嬢様学校の生徒、相手も悪乗りしたのか路地裏に連れ込まれた。

声はこの男を滅茶苦茶に解体しても不味そうだから、無視しろという。

それは彼女も同意見だった、この男の体はきっと不味い……酒の臭いがする、タバコの臭いがする、健康状態は決してよくないだろう。

脂は多すぎるし、肉は堅い、強いてあげるなら上腕二等筋辺りは柔らからそうだが食えない部分が多すぎる。

黙ってその場から離れようとしたとき、男はしつこく彼女の肩を掴んだ。

鞄に隠し持っていた包丁で男を解体しようかと思ったが、それは止めた。

近所にある名門進学校の制服を着た異国人風の女子高生が男の腕を掴んで、投げ飛ばしてしまったからだ。

『朝っぱらから恥ずかしい事してるわね、オジさん。私の友達に手を出して……怪我してたら殺すところよ。さっさと行きなさい』

茶色いセミロングヘアの女子高生に一睨みされた男は一度渋ったが、もう一度彼女に片手でひねられたため、慌てて逃げて行った。

『あの……ありがとうございました。お名前を伺っても構いませんか?』

耳元の声が伝える。

――同志ロゴヨウィッツ? いや、地元の魔術師か……だが素晴らしい極上の獲物だ。逃すな、コイツはオレが直々に腹の中に収めてやる。

女子高生は屈託のない笑顔で切り替えした。

『お礼なんていらないわよ、でもどうしてもって言うなら喜んで受け取るけど。私は玲菜、浅海玲菜。貴女は?』

『玲菜さん? 私は……』

『そう。じゃ、これから学校だから』

『待って、あの……助けていただいた御礼もありますし、私とその、因果な出会いですけどお友達になっていただけませんか? 玲菜さん、とても格好いい方ですもの』

『えへへ、そういわれると照れるじゃない。いいわよ、よほどの理由でもない限り来るものは拒まないから。じゃ、お友達ね』

玲菜が去って行ったあと、彼女の口元には笑みが……この上なく美味そうな獲物に対する渇望とそれを得られるという期待で頭が一杯になっていた。

そう、あの魔術師を食い殺すのならもう少し兵隊を集めないと……今夜から忙しくなりそうだ。



[1511] 第三十一話 『路地裏の喧嘩 』
Name: 暇人
Date: 2006/11/10 01:09




 伝染する吸血鬼――始まりはポーランドの小さな寒村での出来事

 赤い雪が降る厳冬の年、村人が一人ずつ消えるという怪奇現象が起こったという

 領主に取り立てられ、皆が貧しかったとはいえ其処はごくごく静かな村で人口は千人にも満たなかった

 そんな閉鎖的な空間で七人もの人間が忽然と姿を消してしまえば大事件だ

 案の定、村を統治する代官が忽然と消えた村人達を捜し始めるまでにそれほどの時間はかからなかった

 南欧では何度目かの黒死病の蔓延、西欧では大きな戦争が行われていた時代なのだから逃げる場所は限られる

 村の農奴に逃げられたとすればエルベより東の地にあって代官の責任は重い、逃げ出した村人の家族もただでは済まないだろう

 消えた村人を探した代官は消えた村人の家族による必死の訴えもあって、彼らを処罰する前に少し前から奇妙な悪臭を放っていたある家を捜索することになった

 ごく普通の真面目な農夫だった青年の家――しばらく前から彼の家族の姿を見なくなり、同時に彼の家族が消えた辺りから村人が消え始めたのだ

 扉が開けられたとき、青年は食事中だった

 代官の命を受けた兵士はその食材が肉であったことから、裕福でもないはずの彼が何処からそれを持ってきたのかと問い質す

 部屋の中には動物の骨や皮で作られたような家具が散見され、台所では物が腐ったような酷い悪臭が立ち込めていた

 兵士はその悪臭に耐えながら、青年に回答を急がせた――家畜を盗んだのなら大罪だ

 彼の家に家畜はいなかったのだからその可能性以外には考えられない、本来ならその場で捕まえても悪くはないだろう

 だが、それでも回答を待ってやった兵士たちは青年から肉をご馳走されて上機嫌だったのだ

 すると、青年は満面の笑みを浮かべて答える

 兵士達が食べたのが行方不明になった人間達だ、と

 食料が欠乏していた時代にあってはそのようなこともある――最近では20世紀、旧ソ連で起こった大飢饉の折には人が人の肉を食べて生き延びた例もあった

 戦時には、例えば戦乱に覆われた時代の大陸などでは籠城戦の折、食料の尽きた状況でそんなことが行われたという

 だがこれは大陸特有のことではなく、日本でも籠城戦などでそんな記述が散見される

 また、戦時に限らずとも20世紀後半に南米で山中に墜落した飛行機の乗客たちがそうやって生き延びたこともあった

 これらのことから極限状態では人も人を食べる、とわかることだろう

 また呪術的な意味合いでそういった行為を行う民族もある――南太平洋のある島では、優れた祖先の勇気や知識を受け継ぐためにその肉を食べるという風習が政府によって禁じられる20世紀まで存在したし、南米のある文明にあっては10万人もの生贄が神に捧げられ、儀式の後その肉を食べたという記録もある

 生贄に捧げられた多くが戦争捕虜や奴隷であったとはいえ、10万人とは即ち当時の人口1000万の1%にも匹敵する膨大な数であったという

 食人行為が禁忌とされるのは18世紀末からの啓蒙主義の流行以降のことだという説さえあり、人々の間に心理的な状況の変化が起こったから、と考えることも出来る

 ただ、そうは言っても挙げられた例はあくまで特殊な事例であり、それを好んで食すのはやはりごく一部の疾患を抱えた者達――異端者だけであろう

 事件に戻ると、この年は近年稀に見る豊作であり、青年の家も決して食べられないわけではなかった

 また、この土地に食人の風習は存在しない

 戦乱はフランスやドイツで起こっていることであり、この土地まで戦火は及んでいない

 以上のことから最早弁解の余地はなかった、人肉を食わされた兵士たちもその行為への嫌悪感からその場で剣を抜いて彼を処刑してしまう

 首を落とされた男の体は八つ裂きにされて、その首はしばらく村の入り口に晒された

 その後の捜索の結果、彼の家には墓場から掘り出された死体から取り出した皮や肉で作られた家具まであったことがわかり、消えた村人も全て彼の家で食材か家具に作り変えられていたことが判明する

 殺人鬼は殺され、村人達は事件を解決してくれた兵士達への感謝を惜しまなかったし、漸く訪れた平穏を心から喜んだ

 だが、本当の恐怖はその後始まった

 捜索が終了した後、わずか一ヵ月後に再び人が消え始めたのだ

 死の恐怖が村を覆い尽くす

 再び訪れた兵士達が捜索すると、今度の犯人は村のはずれに住む老人だった

 彼は縛り首にされ、その遺体は焼き尽くされた上に灰を川に流したという

 だが、それからまたすぐに人が消え始めたのだ

 その犯人も捕まえて処刑したが、また次の犯人が登場した

 最後に兵士が村を訪れたとき、何かが起こる

 一人も村人がいなくなった村は地図から消され、虐殺はただ一人村から逃れた兵士の町に飛び火していく

 兵士は住人を食い殺した時点で処刑され、その死体は焼かれた上に川に捨てられた

 だが、その町でも次々に起こっていく殺人事件

 後に、その連鎖する悪夢の正体に挑んだ魔術師がいた

 若く聡明なルーン魔術師シュテファン・シグルドリーファ――後の世で語られるルーン魔術の巨星、20代半ばに過ぎない当時にあってさえその名声はすでに北欧全域に知れ渡っていた歴史上稀に見る天才の一人である

 その正体にあと一歩まで迫った彼の活躍から、現象の正体が吸血鬼スタニスワフと呼ばれる怪物の仕業だとわかった

 文献にある限り、魔術師は食人鬼であった人間を日光の下で消滅させたという

 捕えたスタニスワフ本人の額に刻んだ焔のルーンが吸血鬼の身体を灰に変えた、と

 如何に修行中であったとはいえ最高を謳われることになるルーン魔術師の渾身――それを受けてなお滅びないのは、歴史上数百も存在したという吸血鬼の中でもオルジェの王族くらいのものだ

 本来、その状況なら最古参の貴族達さえこの世に痕跡も残さず消滅することだろう

 だが彼がその地を去って後、再開する殺人事件

 その後も何人もの人間や魔術師が犯人を殺し、あるいは処刑し、あるいは自決させているにもかかわらず、スタニスワフは滅ぼせなかった

 故に云う――彼の者は伝染する狂気である、と

 彼の者が限りなく不死であることはすでに説明したが、未だに判明しない疑問もある

 兵隊種の吸血鬼は貴族種に比べれば不死でもなんでもない――如何に数千年を生きようとも彼らを滅ぼす方法はいくつも考えられているのだ

 本来、日光の下でなら単純な物理攻撃で滅ぼし得るはずの兵隊種――彼の者が不死であるのは如何なる原理によるものなのか?

 彼の者の不死身の秘密は今をもっても知られぬ謎である

 唯一の手がかりは、彼の者に不死の力を与えたリリエンタール卿とベルラック卿のみ――リリエンタール卿が滅び去った今、スタニスワフを滅ぼす方法を識るのは最も不老不死に固執する神、彼女から情報を得るのなら世界と引き換えでもなければ望めはしないだろう

 …………

 ……

「――以上があの後詳しく文献を探ってみてわかったこと……執行官は何か情報を知っていて日本まで追いかけてきたのだと思うけど、私たちがアレを探すのなら実際の事件を地道に捜査していくしかなさそうよ」

 放課後、クラスと研究会の文化祭の手伝いをサボって綾音と一緒に訪れた喫茶店でスタニスワフ捜索の算段を立てているところだ。

 アデットは案の定、吸血鬼のことを教えてくれたがこちらが探そうとしていることは伏せておいた。

 彼女も放っておけば方がつくという態度だったのは少し残念だが、裏では自分も探すつもりなのかもしれないし簡単に判断していいことではないと思う。

 浅海も研究会の方はサボったみたいだし、アデットも忙しそうだったのでどの道サボらなくても関係なかったかもしれない。

 外はすでに六時過ぎ、喫茶店の一番奥の席に座っていた俺たち――店内に流れているクラシック音楽が会話を隠してくれているだろうし、ここで作戦会議をしても問題はなさそうだった。

「兵隊っていうのは、ベルラックとかとは違うんだろ。実際に敵を見つければ、お前でも勝てる?」

 そうだ、実に簡単なことだが『見つける』と言い出した俺自身相手を倒す手段など持ち合わせていない……格好悪いが、見つければアデットたちに通報するか綾音に頼るほかないだろう。

 当然、本で何とかできる相手ならば問題はないのだが、今まで俺よりずっとすごい連中が殺しても殺せなかった怪物相手なのだから誰にも頼るなといわれても正直困る。

「わかりません。兵隊というのは元々使い魔をしていたので吸血鬼になった主人の影響が色濃くて、強弱は様々。存在はしないけど、ベルラック卿の使い魔なら最強に近いかもしれないし、新参者の使い魔なら弱いかもしれない……でも、文献にある情報から『殺すだけなら』ただの人間にさえ可能だった……これが事実なら、貴方でも勝てるということになるわ」

「俺でも?」

「ええ。文献にある限り最初に吸血鬼を殺したのはエドワルドという兵士で、何の特殊能力もないただの人間だったの。仮に貴方が本を使えば確実に倒せるでしょうね……相手を倒す覚悟はある?」

 真剣な顔だ――仮に吸血鬼を見つけるまではいい……だが、見つけてしまえば人間の姿をしている吸血鬼を殺さなければならないのだ。

 出来るか、と綾音は問うているのだろう……出来ればそんなことはしたくない。

 当然だ、一般人の姿をしている相手を殺すなんて……だが、探している途中に急に戦闘が開始されてしまえば殺す覚悟もない俺は相手に殺される。

 綾音はそれを心配して、最後の確認をしているのだろう。

「出来れば、殺したくはない。でも、スタニスワフを探しているときに戦闘に巻き込まれるかもしれない。そんなとき、覚悟ができていなければ俺は多分死ぬ……そんな状態の俺なら巻き込ませないんだろ?」

「ええ。殺す覚悟もなく踏み込んでいい話ではないもの」

「……なら、俺はそのときちゃんと戦う。出来れば捕縛で済ませたいけど、無理かもしれない……最悪の事態を考えて計画を作らなきゃ駄目だからな。俺は仮にお前一人に責任を押し付けるわけにはいかない、だから俺は自分でも戦う」

「いい覚悟ね……承知しました――これより先、私たちは共通の目的を持つ盟友。契約の印を」

 そう言うと、彼女は店内の客から見えないところでナイフを使って少し指先を切った。

 指先の切り口からわずかに赤い血液が垂れる……それはそのままグラスの水の中に落ちていった。

 俺と自分のグラスにそれを施すと、俺の手元にグラスを戻して指先の傷を絆創膏で止める。

「別に魔術ではないけれど、一種の誓い。私だけでなく、古い魔術師の伝統的な誓いの儀式……諸事情で少し簡略化していますけど、問題はないはずよ」

「飲めばいいのか?」

「ええ。古来より血液を飲む行為は他者を支配する、と云われていて魔術師が互いに相手を信用する意味があるの」

「なるほど」

 そう言うと、血液がわずか数滴ほど混じったグラスの水を全て飲み干す。

 グラスの底に残っていた氷の冷たさが歯に沁みた。

「これで私たちは目的達成まで互いの剣となり、楯となり、常に誠実な盟友として協力する義務が生じます。これは命を賭けて守らねばならない制約だと思って。少なくとも私はそう思いますから」

「わかった。俺も、てかそれは最初から覚悟の上だから念を押す必要なんてなかったのに……で、どうやって探すんだ? 新聞を見たけど、今のとこ事件も起こってないし……」

 今朝の新聞を見たのだが、殺人事件はおろか行方不明事件さえ起こっていなかったのだ。

「いいえ、それは違います。行方不明事件というのは案外新聞には載らないし、殺人事件も発覚さえしなければ載らないわ」

「そりゃ……確かにそうだけど、だからって新聞を捜す以外にどうしようもないだろ?」

「安心しなさい、個人的な伝があります」

「伝って?」

「以前に縁のあった探偵で……なかなかの腕よ」

「おいおい、何でそんな人と縁があるんだ?」

「昔、父の言いつけで悪魔憑きを祓った縁で、その人は勤めていた警察を辞めて今は探偵をしているの」

「じゃあ、魔術を?」

「いいえ。あんな偏った才能を魔術師とは言わない……超能力者、と言った方がしっくり来ると思います。所謂、サイコメトラー……」



○○○○○



 それから、七つも先の駅で電車を降りた俺たちはすでに七時半を回っているにもかかわらず、その廃ビルと見間違えそうな年代物の建築物に入っていった。

 5階建てのレンガ造り、こんなレトロな建物が文化財にもならずに残っていることに驚きだ。

 他に人が住んでいるのかどうかはよくわからなかったが、階段を上った4階……柊探偵事務所の看板が見える。

 明かりの付いていた事務所にノックもなく入ると、所長の机に両足を乗せてふんぞり返りながら煙を吹かす30代後半の女性に気がつく。

 ショートヘアで耳にはいくつかピアスをしている、水商売みたいに派手な服の女性――彼女もこちらに気がついてちょっと驚いた様子だった。

 それにしても化粧の濃い人だ……綾音の知り合いとは思えない。

「お久しぶりですわね、小夜さん」

「――綾音? 電話で話したけど、本当に久しぶりだねぇ……一瞬誰だかわからなかったよ。そちらが、話の孔明かい?」

 喋り方が年寄り臭い、魔術関係の人なら中身は六十代とかいうオチだろうか?

「あの、篠崎公明です」

「ああ……悪かったね。確か綾音がそういっていたと思ったんだけど、聞き間違えたようだね。それで、確か電話では人探しだとか……一体何処の誰だい?」

 机に乗せていた足を床に下ろして、組みなおす小夜さん。

「あ、すまなかったね。座って構わないよ、そこ。汚れてたら適当に払ってくれておくれ」

 示されたソファーの上の競馬新聞を払いのけると、俺たちは漸く腰を下ろすことが出来た。

「小夜さん。『誰』ではなく『誰が』行方不明になっているのか、ですわ。私たちはそれを知りたいの。この辺りで一番当てにされている人探しといえばここでしょう……何か情報はありまして?」

 煙草をもう一度くわえ、少し考えるように黙り込んだ小夜さん。

「ふぅ……そうだねぇ。実際に依頼は受けていないけど、昔の職場関係からそういう情報は聞いているよ。と言っても、人数は五人程度……勿論これは一月の行方不明者じゃなくて、ここ一週間での家出する理由もわからない人の数だけど。これについては警察が理由もわからないっていうくらいだから、本当に理由が思い当たらないと思って構わないだろうね。少なくとも表面上は」

「適当に調書を取っている可能性は? 小夜さんの元の職場を悪く言って申し訳ありませんけど、どうも最近は不祥事ばかりが目に付きますもの」

「それは一部の事実を大きく伝えるからで、全体の質の低下とは云い難いだろうさね。悪行は善行の千倍伝わるのが早い、少なくとも私はそう信じるね。それに、情報元は私の元同僚だよ。彼は仕事を誤魔化すような人間じゃないから、信用なさいな」

「なるほど、それは失礼しました。こちらの浅慮をお詫びしますわ」

「どうも、相変わらず聞き分けのいい子だよ……さて、それで今回はこの行方不明者がどんな大事に関係してるって?」

「……その人たちの名前と住所、詳しい情報を教えてくださらない」

「理由は……聞かない方がよさそうだねぇ」

「ええ、命に関わりますわ。何時ぞやの悪魔の比ではありませんもの」

「本当に、魔法使いなんてのは因果なものだよ……綾音に紹介された私の師匠、半年の付き合いだったけどあの婆さんも忙しい人だったし……なんだかね。綾音のが仕事人の私より忙しくないかい?」

「普段はそんなことはありませんが、今は学園祭などで切迫しているだけですわ。それより、住所と名前を」

「……わかったよ、言うわさ……綾音の住んでる街に関係のある人間だけ言うからね。それと、このことは私の情報元の守秘義務に関わることだから口外しないこと、いいね? 女に二言はないだろうね?」

「はい、それで構いませんわ」

「じゃ、メモの準備をして」

「小夜さん」

「ん?」

「ついでに、その行方不明者の捜索について協力して頂けませんこと?」

「――最初からそのつもりだったね? 私も大概性質の悪い命の恩人に助けられたものだよ……まぁ、世間のためだから構わないけど。一応私も生活があるし、多少の給金は要求しても差し支えないだろうね?」

「ええ、無償で協力しろというほど私は傲慢ではありませんから」

「綾音……命の恩人だから多少は負けるにしても、高校生がポンッと払える額じゃないんだよ。即答なんかして、あとでどうなるかわかってるのかね? 本当に世間知らずのお嬢さんはこれだから駄目だっていうのさ……」

「料金については通常レートで構いませんわ。少し先に一キロほどの金塊が入る予定になっていますから。小夜さんこそお釣りを用意できまして?」

「一キロの金塊って……貴方たち、二人して銀行強盗でも考えてるのかい? 私の学生時代とはえらい違いだよ」

「小夜さんの突飛な想像力こそ、私は見習いたいですわね。それに、その時代というのは戦時中ですか?」

「嫌味で言っているのなら、綾音もいい加減嫌なお嬢様だね――何でも話せる友達、いないだろう? 猫被ってるみたいだし、いるわけないわさ」

「どうして貴女にそんなことが?」

「魔術の修行は半年で挫折した半端者だけどね、一応超能力者の名探偵だよ。懇ろになった相手といるときだけ口調がフランクになるだろう? それでも堅苦しいのは相変わらずみたいだけど」

 そういえば、浅海たちといるときとは完全に口調が違う。

 猫を被っていた?

 それとも、こっちが地だろうか?

 まぁ、あの家なら案外こっちの方が多くなるのも仕方ないかもしれない。

「堅苦しいなどと……失礼な。それに、私にも友人なら少しいます。兎に角、事は急を要しますから今夜からでも構いませんわね?」

「ふぅ……何のために事務所に所長が残ってると思ってたね? うちは基本的に夕方6時までしか仕事しない主義なんだよ、腕がいいからそれで食べていける訳だね。近所に車を停めてるから、取り敢えず街まで行ってみようかねぇ」

「小夜さん、自分だけの事務所で所長もないんじゃありませんこと? 見栄を張るならもう少し上手になさらないと意味がありませんわよ……それに、ゴミ箱に入っているインスタント食品のゴミの山、景気がいいようには見えませんわ。健康には気をつけないと、更年期障害になりましてよ」

「う、うるさい娘だよ、まったく。兎に角、急ぐんだろう……来ないなら置いてくからね」

 その後、名簿にある行方不明者の自宅周辺を回り、彼らが日常利用していたと考えられる通路を調査した。

 この夜は会社員のもの――通路で何かがあれば小夜さんが感じることが出来るらしい。

 綾音にもよくわからないらしいが、小夜さんたち霊媒師特有の技術だそうだ。

 詳しい原理は師匠から隠匿するように言われているとかで、小夜さんは話してくれなかったし俺たちも追及しなかった。

 車が入れない場所も都市部にはかなり多い、路地裏を通る方が近道になる場合や市内電車なんかがあればそれだけであとを追いかけられなくなる。

 そういう場合は案外すぐに訪れ、車が入れない狭い路地の近道を調査するために一度車から降りることになった。

「これだけ人通りがないと、元の同僚に切符を切られることも取り敢えずは大丈夫だろうね……さて、それじゃここからは名探偵様の腕の見せ所だよ」

 ポーチの中から取り出した変な粉を小さじに一杯分程度紙の上に取った小夜さんは、それに他の粉も少量加えてタバコを作るときみたいに紙を丸めた。

「どうでもいいけど、小夜さんが今使ってるのは何だ? 傍から見れば、その……麻薬とかにしか見えないんだけど」

「公明、今は黙ってな。集中が大事なんだからね、集中が……」

 しっかりとタバコ状にロールした紙を口にくわえ、もごもごしながらも小夜さんが怒鳴った。

「あー……すみません」

 小夜さんは何度か指を鳴らし、そのタバコ状の紙にライターで火をつける……本物のタバコと同様に煙を一杯に吸い込んだ小夜さんは一度息を止めた後、吸い込んだ煙を一気に路地に向けて吐き出した。

 そのときに何があったのか、小夜さんの額には汗が玉のようになっている。

「はー、はぁ……後は結果が出るのを待てばいいだろうね」

「いい結果が出そうですか?」

「あのねぇ、綾音。こんなに疲れる芸当をやたらめったらやるもんじゃないだろう? なにやら私の勘が臭いって言ってたんだよ」

「なるほど、確かにこの場所はあまりいい気配がしませんわね。空気が澱んで……幽霊が多い……」

「ふむ、そろそろいいだろう……じゃあ、ちょっと調べてみようかね。そこで待っておいでよ」

 すると、両手を広げたまま小夜さんは路地を歩き始めた。

「――私はあまり詳しくは在りませんが、先程の煙は小夜さんの師匠直伝の薬で、捜索する相手の顔などを念じながら術者が煙を吐き出すことで、その周辺に存在する対象の記憶を活性化して必要な情報を見つけやすくするのだとか……気になっていたのでしょう?」

 こちらを見ながら言う綾音。

「まぁ、確かに気にはなってたけどいいのか? ネタを教えても」

「真似が出来ることと原理を知っていることはまた別でしょう……あら?」

 路地を真っ直ぐ進んでいた小夜さんが急に足を止めた。

 よく見れば彼女が曲がろうとした路地の先に何か良くないものがいて、それに小夜さん自身が怯えている様子だ。

「――綾音……助けて」

 震える微かな声が十メートル程度先にいる小夜さんから聞こえた。

 その声が聞こえたときにはすでに彼女と俺は駆けていて、角を曲がった先にいる敵を見つける直前。

「……」

 綾音よりわずかに先に小夜さんの前に立った俺は、野良犬の腸を食い散らかす三羽の巨大な黒い鷲を目にする。

 同時に、鳥達の横で同じく視線をこちらに向けた紅い魔術師と俺の目が合った。

「……あ、あ、こんばんは。白川、それに……名前、気の毒な人。偶然、貴方たちも、探す、してる? あ、探してる、スタニスワフ?」

 たどたどしい日本語で喋りながら軽く会釈した魔術師――既に頭の中は真っ赤だ、コイツを殴ろうとしていた決意が蘇ってきていたのだ。

「この野郎おぉぉ!」

 綾音が止めようとするよりなお早く、この身体は走っていた。

 この前の公園での出来事を忘れたのか、恐怖は何処へ行ってしまったのか?

 注意力の欠片もない行動だ、これは蛮勇だ――全て最初は理解していた、でも相手を見つけてしまうと自分を抑えることは不可能だった。

「――?」

 何をするつもりか理解できないのか、魔術師はただ自分に向けて走ってくる俺を見つめているだけだ。

「――めなさい! 止めなさい!」

 遠くで綾音の声がした気がする、助けを呼ぶ悲鳴にさえ聞こえた甲高い叫び。

 だが、既に構えた拳は止めることが出来ないほど加速して……ポカンとしていた魔術師の顔面を捉えていた。

 相当量の魔力をこの一撃に込めた――借りは返すぜ、サーシャ・イオレスク。

 拳に感じる相手の顔の感触、柔らかな皮膚を挟んで相手の骨を砕く位の一撃が助走をつけた俺の身体と共に前進する。

 久しぶりに本気で人を殴った――魔術師の使い魔らしき鳥達も、魔術師自身もまさかこの命知らずの馬鹿者がこんな暴挙に出るとは思っていなかったのだろう、即座に襲い掛かるはずの爪や脚は止まったままだ。

 一瞬、たじろいだ魔術師は口の中を切ったらしく、殴られた箇所を触りながら地面に血の混じった唾を吐き出した。

 そのとき、紅い魔術師が俺を睨んだだけで、追撃の拳が止まる……ヤバイ。

「なかなか、いいパンチ。でも、人殺す覚悟が足、りない」

 殺されると一瞬でわかるほどの殺気が込められた瞳――如何にそんなものに睨まれたからといって、本気になったらしい相手の目の前で止まったのは拙かった。

 後悔先に立たず――止まらずに連打を浴びせていれば、結果はどう転んでいただろう?

 紅い魔術師の身体が俺の視界から消えたかと思った瞬間――肝臓を抉り取るつもりなんじゃないかと疑いたくなる一撃が深々と腹に極まっていた。

 さらに、こちらが防御体勢をとる前に続け様に放たれる拳の連打……迅い、それにすごく重い雨のようにガードをすり抜けてくる拳。

 あっという間に俺の足は動きを止めて、迫り来る嵐にほとんど無防備なまま晒されることになった。

 素人の防御などでは間に合わない、コイツ……ボクシングの経験が?

 サウスポーのインファイター――テレビで見てても気がつかなかった、左右が違うだけでここまでやり辛いなんて……そして、ただの素人と経験者の差がこれほどに大きいなんて。

 だが、考えてみれば当然だった――吸血鬼を殺そうって云う魔術師が俺より弱い訳がなかったのだ。

 インパクトの瞬間の踏み込み、足の運び方、どれをとっても俺の遥かに上にある技量だ……魔力を溜めてガードすれば、後数発なら耐えられる……そんな誤算を打ち砕くようなアッパーが俺の体を宙に舞わせるまでに十秒もかからなかったかもしれない。

 あるいは一分も立っていられたのだろうか?

 どちらにしろ、最後のそれは冗談みたいな一撃――同じ人間が放った一発なのに、今までとはダメージが違う……それだけで俺の意識を刈り取るには十分だった。

 身体が堅い地面に打ちつけられる前に、完全に意識は飛んでしまっていたのだから。

 軽やかなステップから織り成される強力な拳はまさにボクシングの王道を行くかのような戦い方――そして、ここまで基本に忠実なボクサー相手ではヘビー級の世界チャンピオンでも一ラウンド以内にノックアウトされるだろう……魔力で強化された身体、そしてその風のような拳は既にただの人間がどうにかできるものじゃなかった。

 一撃一撃はまるでバールで殴られたみたいに痛かったし、拳を一つ出す前に十倍もの拳が襲い掛かってきたのだから……格闘技を本格的に練習したこともない俺がコイツに対処するのは不可能だ。

 そう……自分から殴りかかっておきながら格好の悪い俺。

 相手が強過ぎた、つまりそういうことだ。

 それにしても、グローブ無しだとやっぱり死ぬほど痛い……気を失う寸前に見た月はビルの谷間からこちらを哂っているみたいだった。

 嗚呼、だが満足だ……ボロ負けした俺を哂いたいなら、好きなだけ哂え。

 だが、これだけは覚えておけよ満月……俺はあんな化け物をたった一発とはいえ全力で殴ってやったんだから……少なくとも綾音の分の借りは返してやったんだから、これは殴った時点で俺の勝ちだったのだ。





[1511] 第三十二話 『路地裏の決着 』
Name: 暇人
Date: 2006/11/10 01:45





 凄まじい一撃――頭を砕くはずの拳が迫る。

 執行官イオレスク、紅の処刑人の一撃は人間の頭など容易に粉砕したことだろう。魔術を用いずとも素手で熊さえ殺す男の渾身、それが当たれば人の頭であっても潰れた柘榴のような無残を晒すことは間違いない。

 そう、何十と放たれた拳の中でも最も迅く重い一撃が当たっていたなら俺は死んでいた。

 ドンッ――意識が飛んでしまったために真っ暗だった視界の中で響く鈍い音。視界が閉ざされていて何の音かもわからなかった。
 
 だが、その鈍い音と顔の上に垂れた液体が混濁していた意識を一瞬で引き戻してくれる。体中が痛い、それでさらに意識の覚醒が進む。

 思えばサーシャの野郎が手加減無しでぶん殴ってくれたのだ、痛い程度で済めば実に幸運なのだろう。運がなければ体中が骨折だらけになっていたのだと考えれば背筋が冷たくなる。

 勿論、運だけではなく日々の修練で魔力量が増加しているので、それを無意識に身体の強化に回したことも一因だ。

 因みに魔力を集中させて身体を強化するのはあくまで技術、術式を組み上げることでそれ以上の強化を達成するのが魔術――代表的なのはルーン魔術や古い呪術、方術――なのだそうだ。

 瞼が持ち上がったことで黒いカーテンが目の前から一瞬で消え去った。鈍い音が響いたのと覚醒には時間的に無限の隔たりがあったような気もするが、それは実に一秒にも満たない一瞬の出来事。

 覚醒によって開かれた瞳が捉えたのは弾丸に撃ち抜かれた左腕から血を噴出しているサーシャの姿。

 何やら聞き覚えのない言葉――ルーマニア語で呪いの言葉を叫んだサーシャはそのまま一度身体を引く。その隙が起き上がる時間と反撃の機会を与えてくれた。

 そう、引こうとしたサーシャのズボンを掴むと同時に身体をバネのようにはね起こさせて……相手の顎に強烈な頭突きを入れることができたのだ。こちらの頭も結構痛かったのだが、これが思いの他効いたらしく、相手の体勢が崩れた。

「ぐぅ、この! さっさと放せ!」

 もう一撃――今度は襟を掴んで頭突きを決めようとしたとき、こちらの腹を狙った膝が放たれた。同時に激突すればダメージを追っている分、こちらが不利なのは間違いない。

 覚悟を決めて腹に力を入れようとしたのだが、後ろから襟をつかまれてサーシャと引き離され、お互いの一撃は空を切る。

 振り返ることは出来なかったが、後ろにいる綾音が銃を撃った上で二人を引き離したのだろう。サーシャが後方に飛んで俺と相手の間の距離が開いた。

 睨み合っていた俺達の間の沈黙はしかし一瞬で破れることになる。

「断言しておいたはず。邪魔すれば、排除する、そう言ったはず。何故か?」

 口元の血を拭ったサーシャは俺ではなくすぐ後ろにいた綾音に問うた。彼女はそれに対して怯む事無く返した。

「待ってください、彼には十分に説明が出来ていなかったの。いいえ、勘違いの借りを返そうとしたのだからお互い様ということにならないかしら?」

「いや、ならない……残念、貴女の父なかなか話しわかる人だった。貴女も話わかるかと思ってた」

 サーシャはそう言うと、真っ赤なコートを脱いだ。よくよく見ればコートの下の上半身は他に何も着ていなくて、白い肌の上にいくつもの刺青が描かれていた。
 
 そこに見えたのは動物だ――狼、鷲、蛇、鮫、ドラゴン……その五種類の刺青が白いキャンバスを覆い尽くすほどに絶妙のバランスで配置されていた。

 だが、妙だ。一瞬、刺青の狼の瞳が動いた気がしたのだ。

 いや、それは見間違いではない。

 狼の身体がだんだんと浮かび上がっていき、やがて刺青から生まれた狼の脚が地面に触れたかと思えば刺青よりも大きくなって、実在の狼よりもさらに大きくなってこの世に実体化したのだ。

 狼の数はさらに増える、一、二、三……七、狭い路地裏を完全に封鎖する威圧感と獣の臭い。黒い狼の群れがサーシャの周りを徘徊する。

「……この程度なら私一人で十分だから貴方は引いて。サーシャが障壁を展開すれば、今の貴方の魔導書レベルでは致命傷を与えられないし、接近戦なら勝負にもならないから」

 俺を押しのけて前に立とうとした綾音が小声でそう伝えてきた。だが、俺はその言葉に従うことなく前に出ようとした彼女の道を塞いだ。

「ちょっと――ふざけている場合じゃ……」

「綾音、俺はふざけているわけじゃない。だって、あれは消せるんだろ」

 前回と今回の違い――前回は地中の土砂という実体のあるものをサーシャの血液(=ナバケア。それはイオレスク家元来の家伝錬金術千年にわたる修練の集大成。全ての魔術師の中で彼の家系だけが練成可能な、それだけで不老不死さえ実現する神秘の霊薬。正確には不老不死を達成しうるほど高純度のナバケアの練成が可能なのがイオレスク家の術者だけで、長い時間をかけた遺伝体質の改良や秘伝が関係しているとか)で即席のゴーレムとして動かしていたのに対して、今回は刺青というある種の魔法陣の代わりを用いて血液を怪物に変えている。

 この違いは本来それほど重要ではないのだが、こと俺にとってはとても重要なのことだった。そう、血液に土砂を織り交ぜた攻撃ならば俺の無効化を持ってしても明確に消滅させることは出来ない。

 だが、血液に過ぎないものならば直接なので無効化できるし、ごく少量の液体では俺にダメージはないのだ。

「……消せるからといって勝てるとは限らない。積み上げてきた修練も経験値も段違い、その実力差がわからない?」

 もう一度前に出ようとした綾音を再度妨害した。苛立ちを込めた舌打ちが聞こえたが、すぐに忘れてくれることを祈ろう。

「それくらいわかってても、よくわからないままに勝手に殺されかけて結果人違いでした、なんて説明で納得できるほど俺は人間出来てないんだ。綾音、援護してもらったのに悪い、先に謝っておくけど……俺の喧嘩に口を出すな」

「俺の喧嘩、ですって! それは言い間違いかしら? いえ、どちらにしろ今の冗談は笑えない。喧嘩というのは実力が伯仲していて成り立つものでしょう。彼は千年以上も遡る古い錬金術師の血を受け継いでいる達人クラスの魔術師。ただの見習いの貴方と小達人でさえない私、二人を合わせても対等ですらないのに私は外野だというのね」

 後が怖くなるくらい冷たい声だった。決してそういう意図はなかったのだが、むしろ状況は悪くなってしまったか。

「いや、俺はそういうつもりじゃなくてだな……その、勝手に俺が殴ったわけだから、お前が巻き込まれないようにしようとして言ったわけで……要するに自分のやったことの責任くらいは取らせろってこと」

「えっ……それは……その、私にとって、それはとても余計な心配です! 私は……」

「兎に角、俺が殴ったんだから俺の責任で決着をつけるんだよ! だから、下がってろ」

 目の前のサーシャから目を放さずに説得しようとしたのだが、そんな俺を見ていたサーシャは緊張していた表情を崩した。

 そして、そのまま苦笑しながら戦闘体勢を解いた。

 獰猛な狼はサーシャの刺青に戻っていき、空を舞っていた三羽の鷲も同じように身体に戻っていく。

「はっ、止め。もう止めた。考えてみれば貴方たち相手にして、メリット何も無い。癖で思わず手出したけど、貴方殺しても何の得もない。それにアーデルさん協力してくれてる。関係悪化させる危険冒すの、馬鹿だった。ただ貴方の性格、個人的には好感触。闘争心溢れるファイター、嫌いじゃない。ストレートは人間にしてはいいもの持ってる、でもヘッドバットは反則ということ覚えておいて。次やったらその首へし折る。ああ、一応貴方の名前聞きたい」

 コートを再び羽織ったサーシャが今度は綾音ではなく、初めて俺を真剣に見つめながら聞いてきた。彼の表情には既に敵意が感じられなくなっていたので、こちらも表情を緩めた。

「篠崎公明」

 名前を聞かれたので名乗ってみた。サーシャは何やら思い当たるものでもあったのか、顎に手を当てて少し考えるポーズをとる。

「キミアキ、キミアキ……なるほど、クラリッサが云ってた魔剣殺しと同じ名前。アーデルさん、の弟子の、キミアキか?」

「そのアーデルさんって言うのがアーデルハイト・シュリンゲルのことなら。てか、クラリッサって誰? 俺、そんなのとは会ったこともないけど」

 それは三貴族の一。殺し難さ順位で十六貴族中の三位、三十四真祖の中でも四位の吸血鬼。

『クラリッサ・ヴァレリア・ヴァン・ヘイデン』

 その名前を呼ぶとき綾音とサーシャの声が重なった。

「何処かの馬鹿の実家に格式において並ぶ名門の当主、終身執行官ヘイデン卿クラリッサ……吸血鬼たちに迎合する風を見せて自らもその一人となった後彼らと袂を別った殺し屋。齢五百に過ぎない身で三貴族の一角を占める吸血鬼といえば正しいのかしら、サーシャ?」

「まあ正しい、と思う。三貴族なのは形だけだけど。それでも公爵が一目置いてる、それだけでただの婆じゃないと分かる。ついでに、補足するなら、アレ吸血欲を抑え切れなくなった時たまに人も殺す。今は、私たちの上司してるが、私、アレもいつか殺す心算。そのとき、協力するなら、電話欲しい。公爵殺しの目的のためにわざわざ若作りした女、やり方が気に入らないし、私は好きじゃない。殺すの手伝ってくれたら、お礼用意する」

「上司殺しって……にこやかな顔でさらっと何言ってんだよ、お前は。それに、質問に答えてないぞ。そのクラリッサが何で俺を知ってるんだ?」

「さあ、私知らない。でも、アレは腐っても随一の名門ヘイデンを名乗る婆。会ったこともない相手の事、知っててもおかしくない。何しろ、あの女は法廷の筆頭元老。勝手に予算や諜報員も使うし、中途半端な占星術も使う」

「遠視? それとも星を読んだの?」

「いや、そうとも限らない。何処かで話聞いただけかも。ヘイデン家の知り合い多い、多分その伝。それに、情報は正確じゃなかった。話なら貴方、大達人クラスの使い手ということになってた。私、貴方の正体知ってとてもがっかりした。貴方、どう見てもただの新米。拳で語った相手、だから友達なってもいいが、相棒にするには弱すぎ。協力なんて求めない」

「ちょっと、大達人って……それはどこの変態貴族ですか! いいえ、今までの話から推察するとヘイデン卿は……」

「ん、変態貴族? おい、それはどういう繋がり方だ?」

「さあ? 白川、忙しい人。たまに理解できないこという。だから私にも繋がりわからない。でも、クラリッサはいうほど狂人じゃない……じゃ、兎に角アーデルさんの弟子も使えそうにないから、私、街の反対側探してる彼女との捜索に戻る。貴方たち探すなら、私別に気にしない。愛郷心や自衛の心、とても大事だと思う。ある意味いいこと。でも、私の使い魔、この街一つくらいなら全て捜索可。そっち後手後手に回るの目に見えてる、昼寝でもしてればすぐに私がスタニスワフ封印して終わり。きっと貴方たち無駄骨なる。ご愁傷様」

 サーシャはそう言うとそのまま俺たちに背を向けて街の闇に消えて行った。彼が去っていくまで警戒を解くことなく、二人は路地を睨みつけていた。

 やがて、完全に気配が消えたとき体中の痛みが一気に蘇って思わず倒れこんでしまう。

「くぅ……はぁ。やばかった」

 思わず安堵の声が口から漏れていた。後ろに立っていた綾音と綾音に殴られて気絶していた小夜さんを気にすることもなく、大の字に寝転がってしまった。

「やばかった、ですって? ふぅん、貴方の誠意はそれだけなのかしら」

 相当冷たい目で見られているのかもしれない。いやぁ、この場から消えてしまいたくなるようなプレッシャーだ。

「悪いって先に謝っておいただろう。それに、確かに綾音も巻き込みかけたけど、サーシャに最初に勘違いで襲われたのは俺だ。プライドってものがある」

 まさかプライドだけじゃなく、怪我した綾音の分も返したとはいえない。何しろそんな大層なことがいえるような喧嘩じゃなかったし。

 しかし、ベルラックに比べて今日の魔術師はどいつもコイツもプロの暗殺者か何かか?

「プライドを守るために死ぬことは時に必要でしょうね、でもあれはプライドどうこう言う相手じゃなかった。魔導師一歩手前、殺し屋家業に浸っていなければ恐らくその栄誉に浴している魔術師、それを相手にして貴方は……」

 どこか声が震えていた気がするのは怒りのためか。そのまま、殴られて気絶していた小夜さんを抱えに行った綾音は去り際にこちらに向き直って言う。

「小夜さんにはさっきの光景は夢だと誤魔化しておきますから、きっと明日か明後日には第一陣の情報があるはずよ。私は小夜さんを車まで運んだ後で彼女を起こしてから帰ります、貴方もそのままでは風を引くから早く起きて今夜は帰って」

 遠ざかっていこうとする足音に一応聞いておこうと思っていたことを聞いておこう。身体を何とか起こして立ち上がると、壁に寄りかかって彼女に聞いた。

「なあ、一応聞いておくけど……サーシャはさっき俺たちが探しても無駄みたいなことを言ってただろ。それでも、探すか? その、探すのを手伝ってくれるのか?」

 小夜さんに肩を貸したまま、立ち止まった彼女がこちらにはっきりといった。

「いいえ。それは逆。私はあのインスタント吸血鬼の強さを知っているからサーシャに最初に出会ったときから考えていたの――アレを無視してもいいのか、と。誰もが銃を持っていればあるいは対処できるでしょう、でもここは日本。武器になるものが少ないし、彼らの身体能力は人間にとっては強すぎる……当初、父はスタニスワフの滞在が主人との合流までの一時的なものだから彼と条約を結んで被害が一定数まで達しないようにしようとしていると打ち明けたわ。でも、肝心のスタニスワフが見つからなければそれも無理。害が出れば困るのは地元の私たち。だから、私が今夜勝手に捜索を始めたことに対して父も大きくは反対しなかった。私は必要だと思うから、余所者のサーシャやシュリンゲル卿に任せるだけでは不安だからそうしているだけ。貴方こそ、捜索から手を引くのなら今のうちです」

「それこそ今更だ。俺だって、そのインスタント吸血鬼が強いって聞いてたし、スタニスワフとか言う頭の逝かれたのがうろついてちゃ危ないと思うから退治するために探そうって言い出したんだ。そりゃ、本当にただの人間なら何も出来ないかもしれないけど、いや、本程度じゃどこまで対処できるかわからないけど害が出るのがわかってて無視できるわけないだろ。夜うろついてて自分が襲われるかもしれないし、クラスの奴が襲われるかもしれない。そんな胸糞の悪いの我慢出来ないんだ」

 一瞬の視線の交錯。

 理屈は少し違う気もするが、結局のところ利害は一致する。やはり、危ない奴がいるのがわかっていて無視できない二人のようだ。






○○○○○






 一部の天才だけに可能な例外があるとはいえ基本的に『吸血鬼は増えない』――最初の一人、吸血鬼たちが『神祖』と呼ぶ存在が発生して以来六千年以上に渡って絶対とされてきたルールである。

 だが、それを覆した者がいる――それは世界の最果てにある神都ヤズルカヤの公主。

 四千年を生き続ける彼女が合成したのは一種の呪術兵器――『吸血鬼病』とでも言うべき未知の呪いを『吸血鬼』自身の身体を通すことで被害者に伝染させ、彼らの特質や記憶の一部を受け継いだ劣化コピーを複製するというもの。

 綾音は四ヶ月近く前にそれを見た、そして殺した。

 動きの素早さ、力の強さ、凶暴さはこの国の一般人が対処できるとは思えないほどだった……いや、それも当然だろう。包丁やゴルフクラブあるいは金属バット、例え拳銃でもアレを素人が殺し得るかどうかと問われれば『否』なのだから。

 そして、実際に世界各地の吸血鬼の所領近辺で害が発生し始めていた。

 全ての元凶である女吸血鬼が『ヴァディル』と名付けたコピー吸血鬼、サンタクルスの元老が真祖と区別して『屍鬼』と呼ぶそれからは当初増殖能力を確認できなかった。

 だが、シュニッツェラー領に隣接する西アフリカのある地方に屍鬼の村が出現したことで例外的に一部の個体は真祖と同じように増殖能力を有することが発見される。

 以来、ここ二ヶ月のうちにサンタクルスは屍鬼を特に多く作り出した真祖に狙いを絞って選りすぐりの狩人を世界中に放つ……同時に進行する屍鬼討伐計画で人材不足が発生しているとの事。

 屍鬼を人間に戻す方法は当然ながら発見されていない。近しい将来にそれが発見されることもないだろう。屍鬼が明確な意思を持って行動しながらその主人である真祖には服従していると判明した。

 最初の一体発見から二ヶ月半、屍鬼の増加の背後で暗躍する彼女の討伐は遅々として進んでいない。異常な魔力量と存在規模から有能な術者なら地球上の何処にいても確認できるはずの彼女の現在地がここ半年以上に渡って掴めなくなった事が原因である。






○○○○○






「船もなかなかいいものだ。波風に吹かれるのも一興……ときに小波船長、今日は大漁だったのかね? 私は海の漁業には縁のない土地の出身でね、それがよく獲れた方なのかどうかもわからんのだよ」

 まだ太陽が真上にある時間、揺れる船体の上、老人は船に引き上げられた網を覗き込みながら船長である中年の日本人に聞いた。

「おい、爺さん。素人があんまり覗き込んでると海に落ちちまうぞ。危ねぇから今は下がってろ!」

 一喝されたので老人は詰まらなそうに船の中に消える。網の中の魚を船に降ろしながら、よくよく思えば奇妙な老人だと思う。

 東北地方から少々離れた太平洋の北辺りで漁をしていたとき、気がつけばこの異国人の老人が船に乗っていたのだ。

 密航かとも思う、だが漁船に乗り込むとはよほど間抜けだ。自分ならもっとでかい船に乗り込む。

 船を乗っ取って外国へ行くつもり? 老人はそんなそぶりも見せないし、日本に戻るのなら連れて行って欲しいと金まで出してくれた。

 老人の言を信用するならば、ヒッチハイクだそうだが船とすれ違った記憶さえない。

「ああ、詰まらんな。詰まらん。やはり徒歩で来るべきではなかった、飛行機でペンパル達と乳繰り合いながら来ればよかった。詰まらん。娯楽もないのかね、この船は?」

「おい爺さん、さっきからいい加減煩いって言ってんだろ! 大体、港から乗ったにしても何時乗った? 金を貰ってるからそう追及はしねえが、釣りならちゃんと頼めば連れてってやったのに」

 漸く一仕事終えた船長は海を見ながら暇そうにしていた老人に缶コーヒーを差し出した。

「いや、そうではない。私は米国から歩いてきたのだが単調な光景にも飽きたのでな、たまたま見えた君の船に同乗させてもらったというわけだ」

「だーかーら、あんまり意味のわからねえ事言うんじゃねえよ。アメリカからここまで歩いてきた? 無理に決まってんだろ。密航するくらいなら、今度からはちゃんと飛行機か船のチケットを取れよ」

 二人でコーヒーを飲みながら夕暮れを見つめた。

「そうか、ようやく分かった。爺さん痴呆だな。すぐに無線で港に連絡取るから、えっと家族はいんのか?」

 そう言われて老人は苦笑した。

「痴呆とは笑わせる。確かに少々長く生きているからそうでないとは言い切れんがな。だが船長、安心していい。親と妻は四千と五年前に亡くしたが、港には娘が待っていてくれる」

「そうか。で、その娘さんはいくつなんだ? 俺と同い年くらいだろ。奥さんを亡くしたのが五年前ってのは本当にご愁傷様な。でも、娘さんに心配かけるのは感心しねえからホームに入るとか考えてやれよ」

「やれやれ、君は面白い人間のようだ。そうだな、娘は二人いて港にいるのは姉の方だろう。彼女なら私より三百と五十三年ほど若いはずだから……まあ、概算すれば四千に少し足りないくらいだろう。白いものと歌が好きな娘でな、実に愛らしいのだよ」

「五十三か、俺よりも少し上だな。ったく、困った親を持つと苦労してんだろうな……っとに、気の毒なことだぜ」

「ふむ、ところでお礼の件だが……君は今より若返りたいかね? それとも、女になりたいか? 不老のまま何百年か生きたいのか? 金銀財宝が望みか? もうじき夜だ、私が最も強くなる時間、不可能はないと思って構わんよ。何なら、君を他天体の王にしてやろうか? 吸血鬼になりたければ私の僕にしてやっても構わんぞ」

「唐突だな、おい。しかも荒唐無稽な事ばっかじゃねえか……そうだな、欲しいもんといやあ……あれだ、爺さん異人さんだからわかるだろ。洋酒、ワインってやつ」

「ああ、ワインだな。わかった、わかった。驚くほどに欲のない男だな、君は。だが、君がお礼に望むのなら構わんよ。手数だが、水を持ってきてくれるかね? コップに入れてき給え。奮発して二千年物のワインを進ぜよう」








[1511] 第三十三話 『逢魔ガ橋 ・血戦』
Name: 暇人
Date: 2006/11/10 01:50






 吸血鬼スタニスワフは日本人の少女の姿を借りて今夜も三人に牙を立てた。本来は相手を食すことに生き甲斐を感じる性分だけに相当ストレスがたまってもいる。

 だが、狙いをつけた魔術師を捕えるにしても手駒が無いことにはこの身体では満足に動けない。それを解決するためには一人でも多くの屍鬼を作り出さなければならない……のだが、すでに六体が吸血鬼狩りに殺され遅々として集まっていない。

 追跡者は王冠のサーシャ。

 自分を追うには少々強過ぎる……そうぼやいてみたくもなる相手。古い話だが、悪魔に憑かれた人間――顕現した邪神にも匹敵するそれを滅ぼしたとも言うのだから尋常ではない。

 特に使い魔のドラゴンに至ってはヒドラみたいなもので、一個小隊にも勝るのだとか。あの男の祖先に当たる錬金術師とはそう悪い関係でもなかったことを思えば因果な関係だ。

 今動員できる手駒はせいぜい十二体――これでは少な過ぎるし、自分の知識を多少とも受け継いでいるとはいえつい先日まで人間だったインスタント吸血鬼は満足に自分の食事さえ確保できていない。

 不満だ。こんなはずではなかった。

 インスタント如きが自分への手がかりになっては困る。だから、接触は控えた。遠隔地の下僕に意思を伝えるのはあまり得意ではなく、簡単な命令しか伝えられないことも作戦を難しくしていた。

 また、夜の間はいいが昼の間は妙に少女の意識が自分に抗うようになってきたことも不快だ……恐らくストレスで精神支配が崩れ始めているのかもしれない。

 あくまで彼女の存在を殺せない以上は昼の間の行動について彼女を支配して操作するしかないのだが、これでは時間が削られてしまって効率が悪くなる。

 飢えも酷い、このような飢餓を感じたことは少ない……腹が減れば喰う。そんな生活を続けてきたからだろう、我慢はすぐに精神を冒す。

 これは冒涜だ、芸術的な料理人に対する冒涜だ――そう思いながらも結局、誰の肉も腹には収めていない。

『飢餓は酷い、飢餓は苦痛、飢餓は呪い……冬が怖い、冬が怖い、白が怖い…殺される、白に殺される……』

 月夜の晩である。完全に支配され虚ろな眼差しの少女の頭の中でいつも口調の荒い吸血鬼は震えるような声で延々と呟いていた。

 虚ろな意識の中で彼女にはわかった――吸血鬼は今夜もばれることなく血を吸って眷族を増やした。だが、支配から解き放った上で東欧に残してきた連中は皆殺しにされたようだ。

 吸血鬼は恐れている。自分も殺されるのではないか、と。

 誰に? 人間に殺されるのではないか、と恐れている。

 月夜をふらふら歩いていた少女――黛千尋はゆっくりと自分の家の門を通り抜け、静かに扉を開けようとした。家族には手をつけていない。殺せば近所に怪しまれるかもしれないし、会社や学校の同僚が連絡を取ろうとするかもしれない。

 例えわずかであろうとも敵に察知される可能性がある以上危険は冒せなかったし、千尋の精神が壊れてしまうと昼間の活動に支障を来たす。
 
 今はまだ彼女をコントロールできているが箍が外れてしまえば、どうなるかわからないのだ。

 その上、無関係な人間も料理していない……使い魔がそこら中を徘徊しているこの街でゆっくり料理などしていてはすぐに補足されるだろうし、千尋のスケジュールも思ったより詰まっていた。

 何より、ちょうど良い厨房が見つからないのも癪に障る。万事がうまくいかない。このままでは飢餓でおかしくなりそうだというのに、最悪だ。

「あ……あ、あの……吸血鬼さん?」

 独り言のように呟く。事実それは独り言だ、周囲には誰もいないのだから。

 だが、心の中の何かは吐き出し続けていた呪詛を中断した。

『……五百年間で初めてのケースだ……アンタはオレの精神力に打ち勝った、のか? いや、この精神の苛立ちの原因はアンタなのか?』

「わからない。でも、貴方を知っても驚いていないっていうことは違うと思う」

 呟きが誰にも聞こえないようにもう一度門を出て近くの橋の上に移動する。

『それはどうも参考になる回答をありがとう。どうやら月夜の晩でさえも飢えを抑えるために衰えた精神力ではここまでということだろうよ。いや、もしやアンタのポテンシャルがそれを許すのか……まあ、今更遅いか……喰ったわけだし』

 笑いを含んだ声。心の中で響き渡ったそれは、すぐ耳元で聞こえたような気さえした。

「私は、死んだの?」

『いや。現に生きてる、そして話して呼吸もしてる。普通考えてそんな死人はいない』

「でも、今『喰った』って」

『オレは特別でね、魔法使い様がご主人の貴族様と一緒に作ってくれたのさ。ヴァンパイアを色白の紳士だと思っているこの国の人間は知らないだろうが、故国では二つの命をもつ怪物だといわれてた。それを実現するのがこの身体、いうなればオレは今アンタの一部でしかない。同時に、アンタも俺の一部でしかない。悪いが、死ぬときはアンタだけがこの世から消える』

「……」

『おっと、怖いだろう? オレは人食いでね、アンタが死ぬまでの間に色々と喰おうかと思うんだがそれはもっと怖くておぞましいだろう?』

「いいえ」

『へぇ、それはまたどうして? 既に何人も怪物に変えたからか、それとも別な理由が?』

「わからないけど、貴方と一体になったからだと思う……それとも頭がおかしくなったのかも。こんな危ない会話が耳から聞こえてくるんですもの、発狂したのかもしれないわ。いいえ、そもそも異常って言うのは正常な状態の定義がないと判断できないわ。私には、そもそも何が正常なのかの判断力が希薄だったから、異常を異常と思えないのかもしれない」

『なるほど、確かに影響はあるかもしれない。始めてのケースだし、アンタは落ち着きすぎてる。元々心根に闇があったからかもな、いつか人間を殺しかねない黒さがあったか』

「そうなんだ……あはは、狂っていたのなら私は幸せね。狂人は正常に振舞えないのに、それを正常と思い込んでいるのだもの。きっと、私は正常を異常と思っている。ということは、やっぱり私は異常を正常と認識する反社会的な思想の持ち主なのよ。それはきっと……」

『狂っているのはそう悪いことじゃない。そういう人間はうまいから。オレはね、欲望を抑えて生きてる連中を解放してやろうとしてるだけなのさ。いうなれば天使みたいなものだな』

「勝手な言い分。ねぇ、吸血鬼さんがいっていた『魔法使い様』って……何かの隠語?」

『いや――イフィリル様という本物の魔法使い。というより、神さまといえばわかるだろう?』

「……あは…魔法ってあったんだ。それに、神様まで」

『ほう。アンタは最初から何処か壊れてた口みたいだな。嫌いじゃないぜ』

 眺める光景は綺麗な夜景。実に気持ちのいい風が吹きぬけ、空には月が輝いている。

「ねぇ、吸血鬼さんは男の人……だよね? 声は女の人だけど、わかるの」

『へぇ。オレは男、だったのか。そう断言されるのは初めてだ。普通の奴は女というが、こういう場合はそれが真実なのだろうか。あるいは歪めているのか』

「見た目は女の人だと思うけど、やっぱり私には男の人だとしか思えない……だけだから、結局のところ根拠はないの。違ってたらごめんなさい」

『いや、それが多分正解。実際、オレもよくわからん。親父は物心ついたときには男だと言っていたんだが……で、十二の誕生日を迎えるころにはやっぱり女だと言いやがった。だがまあ、それはいい。そうだな結局のところ、今は両性具有とかいう言葉があるが、それなわけだ。当時はバフォメットなんてものがにわかに信じられてて、それの呪いとも言われたが何のことはない、ただそういう形をしていただけだ』

「そうなんだ。私はボゴミール派、だったかしら? それの考え方が真理なんじゃないかと思ってるから、人の形にはあまり意味がないと思うの。だから、男の人だってわかったと思う」

『変わってる。というより、その考え方は向こうじゃ異端だ。何しろ、悪魔が人間の体を作ったなんてまともに言ったら狂人としか思われない。専門じゃないから詳しくは言えないが、それは嘘であり、本当。悪魔は神の蔑称だぜ、オレたちは都合の悪いやつは全部悪魔呼ばわり。都合のいいやつだけが神なんだ。だから神は素晴らしい、となるわけだ』

「そっちこそおかしいわ。キリスト教なら神は一人しか……」

『あんたはクリスチャンかい? 生憎だが、オレはそういうのは信じない。話は脱線したが、結局オレは男だと思ってるわけだから見た目がどんなでも男で正解なんだろう』

「……ねぇ、吸血鬼さんはあの人を殺したいの? 殺して食べてしまいたいの?」

『そうだな。特殊な体質のせいかもしれないが、オレは他の連中よりも多くの魔力が必要なんだ。生きるため、というよりもまともでいるためって言えばいいのか。アンタにはわからないだろうが、吸血鬼の中じゃオレは異端なのさ……なに?』

 そのとき、千尋も気がついた。

 いつの間には橋の上に立ってこちらを見つめていた白い影に。

『クスクス……人の目は気にしないで。あたしがここを封鎖したから』

 彼女は白くさえ見える、緩く波打つ艶やかなプラチナブロンドの髪を背の半ばまでふんわりと広げ、黒いリボンをつけていた。美しい西洋人形がそのまま歩いているような、美しく整いすぎた美貌。

 街で見かければ思わず振り向いてみたくなる可憐な美少女。その肌は病的なまでに白く、白い長袖のゴシックロリータ風のドレスで、履いていたブーツも白かった。

 ドレスには黒いフリルがいくつもついていて、彼女の容姿をますます人形じみて見せていた。首からは真っ赤な宝石が輝くペンダントがぶら下がっていた。

 だが異質な部分もある。黒くて頑丈そうな拘束具が両目を覆い隠し、短い鎖が繋がった鋼色の首輪が細い首を覆い隠していたのだ。

 でも、それでもなお彼女の美貌は損なわれていない。信じられないことだが、それは事実。そして千尋にもそれがわかった。

『フフッ……いい夜ね、そちらは散歩の途中だった?』

「……」

 少女が自分の口で話したのではない。彼女の首輪、それが合成音声を流したのだ。だとすれば、彼女は口が不自由ということだろう。

『クスクス。ご挨拶も無いのかしら、スタニスワフ。わざわざ街に『聞いて』貴方を見つけたのよ、会いたくて』

「……」

『はじめまして。あたしはアンジェリカ、アンジェリカ・ブリュンヒルド・フォン・ハイゼンベルク侯爵。お父さまに頂いた名前、可愛らしいでしょう?』

 世間の人間がそれを聞けば思わず漏らしたであろう――鉱山王ハイゼンベルク、と。

 世界の鉱物価格を支配する大財閥を受け継いだうら若き令嬢がちょうどそんな名前だったと知る者はほとんどいないかもしれないが、その家名は広く世界中に知られる。

 だが、スタニスワフが漏らしたのは別な感想。

『ハイゼンベルク……白機士だと?』

 それは千尋にもかすかにしか聞こえないような呟きだった。故に思わず口にしていた。

「白騎士?」

 それを聞いた少女は口に手を当てて上品に微笑する。それは可憐な、実に洗練されたしぐさだった。

『あら品性のない人と聞いていたけど、人の噂は当てにならないものね。意外に物知りな貴方に敬意を表すわ』

『千尋。あれはあのお方の娘、皇女ハイゼンベルク。魔術史にそう何人もいない達人クラスの、次元違いの魔術師』

「あのお方?」

『あのお方だ、公爵以外に誰がいる? オレの言葉を伝えろ……いや、それも面倒か。アンタはしばらく眠れ』

 その瞬間に少女の瞳が朱に染まる。闇の眷族にふさわしい光が灯る。

「……本来ハイゼンベルク卿と呼ばれて然りの貴女が何故こんな国に?」

『お姉ちゃん? いえスタニスワフのようね、まぁ実際はどちらかわからないけど。わかるでしょう? お父さまはお怒りなの、狩人をこの国に招いた貴方に対してとても怒っていらっしゃるの』

 彼女は公爵の思い人の性格を反映させた結果だと云う話を聞いたことがある。今、会って分かったことだがどうやらそれは確からしい。

 彼女は傲慢、とても自尊心が高い。しばらく前にあった神代の時代の姫も同じような高慢な態度と侮蔑するような視線をこちらに向けていた気がする。

 同時に、彼女とは別のものもある。公爵に対する狂信じみた愛情がひしひしと伝わってきたのだ。

 直感が告げる――この少女、ハイゼンベルク侯は今まであった魔術師の中で最も危うい。彼女は吸血鬼の自分にとってもあまりに危険だ、恐らくとても強い。

「何を言う。あのお方がこの国に何故やってこられるというのか。それほど暇でもあるまい、それにあのお方は六協会の魔術師やサンタクルスの殺し屋どもと友誼を交わして……」

 そう、公爵が自分を殺しに来るわけがない。同胞を手にかけるのは禁忌、理由もなくそんなことをするのは仮の王位に座る彼女くらいのもの。公爵は彼女とは違う、いや彼女が異常なだけだ。

 仮に公爵が誰かを殺しに来るとすれば、理由は一つ……ベルジュラック卿に手を出した者を殺すときだけ。

 かつて知る――彼女に手を出した者の末路を。

 老貴族はそれを知っても怒っている風ではなかった。むしろ、面白いことだと笑っていた。

 だが、そいつと出会ってしまったとき殺戮は始まる。

 絶望的なまでの強さに蹂躙される幾百の人間達、体が紙のように散っていく光景。それは無残という言葉さえ浮かばないほどの圧倒的な力の行使。

 自分では例え一万年生きても勝てない相手だと畏怖した。

 あれは人がどうこうできる相手ではない。『第三の試練』に打ち勝った錬金術師とはそれほどの怪物なのだ。

 あの公爵を知っていて、尚且つあの姫君のような希代の大魔術師に手を出せる人間などいるのだろうか?

 いや公爵一人であるにしても、それを相手に喧嘩するものがいるとすればクラリッサ・ヴァン・ヘイデンかオルジェ兄妹のような連中、そのほか幾人かの馬鹿な正義感くらいのものだろう。

 ましてや、姫君を傷つけなどしたら助かるわけがない。

 そんな公爵が自分を殺しに来るなどまさにお笑い話。自分は姫君を傷つけるほど馬鹿ではないし、そもそも彼女に戦いを挑むほど愚かではない。
 
 そう言いかけたとき、大気が鳴動するほどの殺気を孕んだ風が橋の上を疾駆した。

『黙りな、クソ蟲! 調子に乗って適当なこと口走れば、その減らず口引き裂くよ』

 それが本性か。少女とは思えない凶暴な物言い、呪いを込めたような合成音声だった。

『……あら、失礼。でも、何て畏れ多くて穢らわしいことをいうのかしら。お父さまをクラリッサ・ヴァン・ヘイデンみたいなメス豚と一緒に論じるなんて度し難いわ』

 滅多に表に出てこない公爵の四人の護衛の一人ハイゼンベルク侯。彼女は機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)とまで呼ばれた、人を超える自動人形の魔術師。

 例えミサイルを持ってしても傷をつけることが出来ないといわれる公爵の錬金術の結晶である骨子、魔術さえ大半のものを弾く外皮、弾丸の軌道を見切る動体視力、どれをとっても今のスタニスワフがどうにかできる次元を超えている気がした。

「あのお方の玩具に過ぎない分際で、オレにそのような口を利くか。いや第一、この行動とて貴女の独断だろう? あのお方はオレなどに目はくれないはずだ。オレはリリエンタール閣下をお救い申し上げるためにベルジュラック卿の宝剣を……」

『無学な猿風情がお父さまを知っているような口を利く。ああ、お父さまの真意を解するのは世界であたしだけ、お父さまに愛される資格があるのも、犯される資格があるのも私だけ。それなのにベルジュラックですって、お父さまを惑わす驕慢で礼儀知らずの牝犬……あれはいつかあたしが嬲り殺してやるの、そう留め置きなさい。そして、聞きなさい、あたしは貴方に対して殺意にも似た怒りを抱いているの。お父さまに寸毫でも危害が加われば、誰であれ許しはしない。有象無象関係なく、殺すわ』

 その言葉は狂信者のそれ。

 公爵本人には数得るほどしか会ったことのないスタニスワフは思う、この少女は絶対に欠陥品だと。恐らく、いや絶対といってもいいだろうがこの行動は彼女の独断。

 公爵が如何に常識を忘れていても、彼はここまで馬鹿ではない。

 彼女が人ならざる身で語る言葉は狂気さえ迸らせていた。異論などその存在も認めはしないだろう。それを思えば気が滅入る。

「落ち着いて話を聞けハイゼンベルク、そして少し待て。いや……如何に貴女とはいえオレを殺せるか? 貴女の兄上なら兎も角、貴女にオレが殺せるとは思えない」

『貴方を殺せるか? フフッ、今更そんなことを聞くなんてやっぱり低能な猿ね。あたしは四色が一、白のアンジェリカ――四人の中で、いえこの世で最もお父さまを敬愛するもの。可能不可能は二の次、その穢らわしい血の一滴とてこの世に残しはしないわ。お父さまのご到着までにこの街から狩人を引き離しなさい、それが貴方の命の期限よ。仮に狩人がお父さまに手を出して御覧なさい、ソイツもお前もバラバラにして豚の餌よ』

「……黙って聞いていればいつかもわからないあのお方の到着を期限だと。ふざけるなよ、サンタクルスの派遣執行官は封印専門の連中を連れていないのだ、それならあのお方に誰が傷を与えられる? それに、もしオレが約束を守れないといえば、どうする? 例え約したといえど、確実に果たせるというものでもないだろう。あのお方がここを訪れるとすればオレも見過ごせない。何より、閣下の復活がオレにとっての最優先課題だ。それは譲れん」

『あたしと同じで忠義に厚いのね、意外だわ。でも残念、運命って皮肉。後腐れのない様に今ここでブチ殺すことにするわ』

「ほう――面白い、やるというわけか。だが、そちらの売った殺し合いだ。協定違反でもなければ、オレとあのお方の争いではないと明言させてもらう。気の進まない同胞殺しをさせるんだ、それくらいは当然だ」

『黙りな、白痴。このあたしを下品で低俗なエテ公の同胞呼ばわりするなど万死に値する』

 千尋の姿を借りたスタニスワフが自らの影に手を翳した瞬間、その手には古めかしい魔導書が握られていた。

 それを見たアンジェリカは一瞬で20メートルもの距離を後方に飛びのく。まるで飛翔したかのような超人的な跳躍、少女の筋力のなせる業とは思えないものだった。

『盾の魔導書……ルギエレ教典ですって!? そう、兵葬宝典を持ち出すなんてね……生意気よ!』

 その言葉と共に喉を締め付けていた首輪に手が伸び、すぐにそれが取り外された。取り外した首輪を首の代わりに手に嵌めると、彼女はまるで天使のような声で、星にさえ忘れ去られた言葉を紡ぐ。

「フェジナ・イア・ル・ゼリューテ……」

 言葉こそは理の全て。彼女の言葉は即ち言霊。

 並ぶ者なき至高の才を持つ言霊使いハイゼンベルク、それはその分野における頂。世界の法則さえ書き換えてしまう言葉、遥かな昔に彼女が公爵から与えられたのがそれ。

 空から金属の水滴が落ちてくる。

「――っ!? ちぃ、血の盟友たちよ、我がよるべに従い……銀月の円卓に集え」

 落ちてくる金属の水滴は地上に到達するときには丸い金属球となってアスファルトに転がっていく。それを見上げたスタニスワフは叫んだ。

 なんとその金属水滴の出所は橋そのもの。橋を補強するはずのアーチ状の鉄骨が金属光沢を放つ汗をかき、零れ落ちた汗が金属球となっているのだ。

 拳よりやや小ぶりな金属の雨が降り注ぐ中、嫣然と相手を見据えたアンジェリカとそれに対峙するスタニスワフ――両者の間の殺気だけでアスファルトやコンクリートには亀裂さえ走った。

 同時に手を翳したスタニスワフの足元に三重円の魔法陣といくつもの数字や文字が光と共に出現した。そして一層光が激しくなった後それが晴れたとき、スタニスワフの周りには四人の屍鬼が立っていた。それぞれが日本人の若者たちだ。

 だが、それを見てなおアンジェリカは余裕だ。

「驚いた? あたしこそ星の言葉を紡ぐ吸血姫。森羅万象遍く全て、あたしの声に抗えるものはないわ。ふふっ、そう、それでも逆らうの……鉄壁といわれる魔導書だけあって、丈夫な結界ね。わかる? それがなければ、その薄汚い肉の塊は今すぐにでも内側から蒸発してるのよ。あの牝犬に地獄で感謝するのね、お陰で余計に苦しむことが出来ましたって」

 世界の理さえ覆す美声で哄笑する白の吸血姫……いや吸血機というべき代物。四色の中で二番目に強いといわれたものの正体がまさか同胞とは思いもよらなかった。

 そして、彼女の気性はやはりあの女吸血鬼を思わせる。複雑な出生ではあれど、その身が貴族連中と同じ高位の吸血鬼であることに変わりは無い。いや、ある意味においてはそれより始末が悪いといえた。

「煩い、道化人形が!」

「ふん……狗の分際でよくも吠える。雑兵など千いても、万いても同じだと識りなさい。死にながら識ればいいのよ、自分というものの分際をね。じっくり噛み締めればいいわ、ボロ雑巾みたいにズタズタになった体を抱えながらあの世へ行けばいいんだわ!」

 白い影が揺れた。

 両者を避けるように自らの身体を梳った鉄骨は既にギロチン刃のように姿を変えている。降り続けた金属の雨もやみ、両者を隔てる邪魔者は消えたといっていいだろう。

 スタニスワフの下僕達が相手に対して身構える。だが、戦闘に関しては受け継いだ知識以外ないに等しい彼らの足は即座には動かなかった。

 いや違う、経験不足のみならず彼ら自身が身に着けている衣装が彼らの身体を拘束してしまっているのだ。服はまるで鋼鉄のように身体を固定していた。

「玩具如きがよくもこう世迷言を並べる……梳る風、吹き荒ぶ流れよ、荒々しく大地穿つその御手を我に……」

 スタニスワフが本を相手に向けて翳して、異国の言葉によって紡いだ呪文は周囲の風の流れにさえ干渉していく。

 それを黙ってみているアンジェリカでもない、現存する一部の真祖を除けば音を拾うことさえ難しいだろう速度で一気に魔術を完成させていこうとした。彼女の魔術は周囲に干渉する類のものだったのだ。

「ル・ジェレリテス・ヴァルテ・イア……」

 その魔術式は高度にして難解、しかしその奇蹟は代償に比べて高すぎはしないだろうか。

 零れ落ちていた球がまるで意識を持っているかのように、ただ獲物を目掛けて獲物に狙いをつけた捕食者のように中を浮遊して襲い掛かったのだ。その速度は音速さえ超える――地上で最も速く空を飛ぶ蝿さえ追いつけないかもしれない。

 わざわざ空間転移ほどの高等魔術を駆使して呼び集めた僕はその瞬間に肉の塊に変わり、塵と化してしまう。いや、そこまでの攻撃を誰が予想できただろうか。

 弾丸の雨はまさしく縦横無尽に橋の上を飛び回り、アスファルトを削り取り、欄干をへし折り、コンクリートさえ抉ってしまう。

「くっ、理によりて……」

 数百もの弾丸が一度にスタニスワフを貫いたかと思った瞬間――信じられないことに弾丸が触れる寸前に砕け散り、あるいは軌道を完全に逸らされた。スタニスワフの身体を完全に守りきる強固な結界がそれを成したのだ。

 逸らされた弾丸はすぐに軌道を修正し、再び攻撃を仕掛けては次々に砂塵と化していった。かすかな欠片が頬や脚にかすり傷を与えながらも、魔術を完成させようとした姿勢は崩れることが無かった。

 それを見つめながら思う。

 公爵を相手にしていたならば、この結界を持ってしても拳の一振りで即死していてもおかしくない。対して、アンジェリカにならこの本を持ってすれば拮抗までなら叶いそうだ。そういう意味で安堵した。

 そして、全ての弾丸が消失したのと同時にスタニスワフの術も完成を見る。

「――叩き潰せ!」

 完成と同時に指揮者のように腕を振ったスタニスワフ。

 その動きを見た瞬間、未だに塵が舞って視界さえまともに確保できない橋の上で一気に蹉跌の霧が切り裂かれる。

「あはっ、やるぅ! ヴル・レ・ヴュラ……」

 霧を裂いた真空の刃が白い魔術師の身体を切り裂かんと一気に襲い掛かってきたのをアンジェリカは華麗な身のこなしで一撃、二撃、三撃とかわしていく。

 一撃が地面を叩くたびにアスファルトが消し飛び、コンクリートにさえ鮮やかな切り口の傷が生じた。それは見えない悪魔の手といって過言ではなかろう、スタニスワフが腕を動かすたびに風の剣が敵を求めて橋の上を蹂躙しつくすのだから。

「――ヴュラ・ベステム!」

 何十という攻撃をかわし続けたアンジェリカの身体を風が捉えたのと、橋を支えるワイヤーが蛇のようにスタニスワフに襲い掛かったのは同時だった。

 凄まじい衝撃と共に砂塵が舞い上がる。アンジェリカの身体を完全に粉砕したとしか思えない一撃が橋全体を揺るがした。スタニスワフに襲い掛かったワイヤーの蛇たちは彼に触れる寸前で結界に細切れにされて全てが塵となる。

 凄まじい閃光が結界を駆け巡り、眼前が完全に白色で覆われた。スタニスワフは思わず腕で目を保護する。土埃が今にも壊れそうな橋の上に立ち込めている。

 車道は既にズタズタ。アーチ状の鉄骨は無残に痩せ細っている。ガードレールも風の刃にあるいは粉砕されあるいはアンジェリカの弾丸に蜂の巣のように破壊されている。

 膝を突いていたスタニスワフが立ち上がり、右手を一振りした瞬間に砂塵は消失し、アンジェリカが叩きつけられた爆心地までの障害は無くなった。

「んっ、ふふふっ……流石は盾の兵葬法典ルギエレ、ヤズルカヤ公の魔術の結晶ね。まさかあたしの声が貴方まで届かないとは思いもよらなかった。低脳女もやるときはやるということね」

 瓦礫が動く、白いドレスを纏った魔術師が爆弾でも炸裂したかのような瓦礫の中からそれらを掻き分けて立ち上がったのだ。

 彼女の姿はまさしく満身創痍――直撃を防ぐために咄嗟に顔を覆った両腕は骨まで覗くほどに抉られて真っ赤な肉の塊に過ぎないものに変わっていたし、白い髪も風の刃に切り裂かれて短くなっていた。

 魔術による障壁さえ容易に打ち抜いた強力な一撃を受けたのだ、むしろ生きていることの方が奇跡的でさえある。彼女の右太腿にはアスファルトの破片が深々と突き刺さり、とても動けるようには見えない。

 彼女のような可憐な少女のこんな無残な姿を見れば多くの人間は同情を禁じえなかっただろうし、卒倒したかもしれない。

 だが、スタニスワフは違った。この圧倒的に有利な状況下においてなおその顔に余裕も感じられない。その証左としてすぐに次なる魔術の詠唱に入っていたのだ。

「御手に輝く高貴なる星の輝きを……その剣と化して……」

 自分の足に突き刺さった破片を何の躊躇も無く引き抜いたアンジェリカもなにやら口走った。

「ふん。醜い豚ぁ、目障りだから消えなさい――ヴュラ・ヴァルテ・イア・ベステム!」

「!? なっ!」

 アンジェリカの詠唱は一瞬だった。

 だが、その言葉が熾したのは悪夢のような魔術。スタニスワフが詠唱の途中にあってさえ見上げた上空、ダイエットでギロチンの刃と化していた橋のアーチが物理の法則を無視した動きで自分をめがけて振ってきたのだ。

 思わず標的を変えて自らに襲い掛かる鉄の刃に向けて手を翳した。

「――我を導くそなたの御名において彼の者を消却せよ」

 襲い来るギロチンの表面の鉄が熱したナイフを当てたバターのように溶解、いやスタニスワフの手から放たれた灼熱は鉄さえ燃やした。

 だが、大質量の前でその行為は無意味。既に焼け石に水である。咄嗟の判断で右に避けたが少し間に合わない。

 盾の魔導書の結界さえ力任せに粉砕したギロチンが風に靡いた髪に触れた瞬間、その部分が一瞬で頭から離れていく。まさには抜き身の真剣のような切れ味だった。

 だが、それだけではない。ギロチンが橋を叩いた瞬間の衝撃は凄まじく、寸前でかわしたスタニスワフの身体は他の瓦礫と共に宙に舞ってしまう。

 橋が受けたダメージは既に深刻であった上、そんな大魔術が炸裂してしまったためにほとんど全体に渡って大きな亀裂が走った。

 橋の構造をもってしても衝撃を抑えることは叶わなかったのだ。一部の決壊さえ始まる。

「はぁ、はぁ……」

 再び舞い上がった砂塵――地面に叩きつけられたスタニスワフは結界の効力でほとんど怪我も無く着地できたが、気配が消失した敵の攻撃に注意を払わねばならない。

 再び砂塵を吹き飛ばそうとした瞬間、自分の背後に凄まじい閃光が走ったことに気がつく。

 だが、それに気がつくのが遅すぎた――結界を抜ける際の衝撃で既に炭化さえしていたアンジェリカの腕が振り向いたスタニスワフの胸に触れようとする。

 触れたかと思った瞬間、いやその直前でアンジェリカの腕が悲鳴を上げてあらぬ方向にへし曲がってしまった。

 しかし、彼女の進撃は止まらない。

 悲痛だ、だが止まらない。

 へし折れた腕はスタニスワフに触れる前にそのまま腕からはなれ、結界に焼かれて消失した。スタニスワフの身体に触れたのはむき出しの白い骨の剣、関節を前にわずかに残っていた骨が刃となってかわしそびれたスタニスワフの腕をえぐったのだ。

 本来は心臓さえ抉り出す攻撃だったのを咄嗟に出した腕が防いでくれたのだ。

「あ……」

 対処魔術を発動させる暇など無かった。それを確信してのアンジェリカの行動だったのだ。自らの腕を失いながらも彼女の口元に浮かんだ笑みはとても人間がするようなものではなかった……鬼気迫るほどに美しく、凄絶であった。

「あはっ、捕まえた。死になさい、クソ豚!」

 ダメージを受けただけではない、凄まじいスピードで走りこんできたアンジェリカに触れられたことによる衝撃が頭頂から爪先に抜けていったのだ。スタニスワフの身体が橋の上を転がり、滅茶苦茶に破壊された道路の上に倒れこむ。

「っ…あっ、ああ……痛っ」

 立ち上がろうとする脚は既に動くことを拒否しているようだ。立ち上がらせてくれただけでも感謝せねばなるまい。血が噴出す腕を押さえながら、何とか立ち上がらせてくれたのだ。

 だが、逃げることが出来なければこの身体は死ぬしかないだろう。満身創痍の視線の先、スタニスワフを弾き飛ばした小さな魔術師が笑みを浮かべている。

 すでに黒い塊と骨に過ぎない右腕と血の塊になっている左腕、彼女とて余裕など無いはずなのに苦痛さえ感じていないのか。

「梳る風よ……ごほっ……」

「小達人レベルの呪術師だっただけのことはあるわね。対術式加工された皮膚に加えて、ザグロシア製の骨子まで砕くなんて驚きだわ。でも残念……復元機構発動――認証暗号『ヴォルーメン・パラミールム』」

 黒い塊が動く。その中から白い骨がより露になっていく。本来なら苦痛だろう、痛くないはずが無い。

 だが、アンジェリカの傷だらけの身体を見ればその異変に気がつく。体中の傷に銀色の鱗のようなものが張り付き始めているのだ。

「不思議かしら? そう、貴方も知っているように貴族であってもルギエレ教典に記された魔術をまともに受ければ、命だって危ないわ。でも残念、例外であるあたしにはそんなの効かないのよ。アハハッ、だってお父さまは最強の吸血鬼、第三に至った至高の錬金術師、あたしを所有できる唯一のご主人様、他の無能どもとは段違いのお方ですもの。これくらい当然だわ」

 骨だけになっていた右腕も鱗に覆われ、それが厚みを増していく。だんだんと腕の形を取り始め、それは即座に本来の彼女の身体を復活させた。

「ふうん。一時的とはいえ加護が失われた今流石に骨子は再構成できないようね。でも、それが何の意味もないとわかるわね?」

 アンジェリカはそういうと、骨がないのでぶらついていた腕に復元途上の左腕を当ててなにやら呟いた。

 それがどういう意味をなしたのか、右腕の皮膚に幾多の赤い文様が刺青のように浮かび上がって骨のない腕をまるで問題なく動かしてしまったのだ。

 それを予期していたのか、スタニスワフは唱えていた魔術を完成させる。

「――切り裂け!」

 目に見えない三連の刃、鋼鉄さえ切り裂く魔術の風が今宵最強の威力を持ってアンジェリカを襲う。アンジェリカはその強烈な風の中でもそれが見えたのか、全て華麗にかわしていった。

 だが、最後の一撃をかわす寸前橋の上にスタニスワフが放った強烈な炎によって視界が狂う。同時に風の刃も熱波によって軌道を変え、それがアンジェリカの胸を深々と切り裂く結果となる。

 胸のペンダントが衝撃で砕け散り、白いドレスも滅茶苦茶に引き裂かれ、彼女の体は決壊寸前の橋の上から下の川まで吹き飛ばされてしまった。

 同時に、アンジェリカが最後に放った言葉が橋自体を一瞬波打たせ、一気に自壊へと追い込んだ。

 それにより、橋は消失。








 それから少しして橋の周りが騒がしくなってきたとき、川辺のブロックに這い上がる白い布切れを身に着けた少女の姿があった。

 体中は水に濡れ、大半の魔力が失われた。戦闘継続は魔力の回復まで不可、回復までにかかる時間は推定で73時間。

 夜の加護を持ってしても、この水というものだけは未だに克服できない。

 だが、公爵は克服している。特殊な方法を持ってだが、それだけでも新しい発見。そう思えば、誇らしくて笑いが漏れる。

「くはっ、あはっはは、殺し損ねちゃった。お父さまには何て言い訳しましょう――!?」

 そのとき、誰も近くにいなかった気がしたのに彼女の両腕が第二関節から斬り離された。苦痛はないが、驚愕した。

 彼女の目の前に気配を消して現れ、容易には斬れないこの身体を簡単に切断した者。ステッキ状の仕込み杖を持った異国の老紳士の姿がそこにある。

「随分と勝手な真似をしたな、アンジェリカ。公爵さまを放ったらかしにした上、協定に反する戦闘を行うとは……卿は一体どういうつもりなのだ」

 彼を見て、アンジェリカは身が竦んだ。剣がこちらを向いていたからだろうか。

「貴方、エンリル・キャッスルレー……あ、いえ、兄上。ひっ……あの、あっ、あたしはお父さまのためを思ってやったのです。ええ、そうよ。そうだわ、お父さまの手を煩わせるなんて、あんな豚はさっさと殺さないといけないから……あたしはお父さまを愛しているのよ、わからないの?」

 恐怖する。彼女より確実に強い自動人形に、自動人形であるはずの彼女が恐怖する。

 赤機士エンリル――ルーン魔術師でありながら、魔術よりも鍛えた剣を持って最強となった、アンジェリカの兄に当たる存在。魔術など必要としない最強を実現した意味では公爵に最も似ている。

 四千年近い年月を延々と修行し続けてきた騎士で、魔術師としてのレベルが達人の域にすら至っていないというのに強い。

 特殊な技能などないに等しい。魔術のレベルもごく標準的。それでいて強さはアンジェリカさえ越える、これは彼女にしてみれば反則だ。

 機械が自分を鍛えるなど愚かなことだと思うかもしれないが、魂を持つ彼ら四体は違う。魔術さえ使うのだ、それは生きている人間と変わらない。そう創られたが故に、彼は絶対の忠誠と向上心を持って四体の中の最強となった。

 次にはアンジェリカの両脚が切断された。吸血鬼の復元力を持っても回復できない聖剣ソウルイーター、その傷は彼女の復元機構を使ってもこれを繋げることは叶わない。

 剣はベルジュラック卿自慢の傑作五本の中の一振り、その使い手ゆえに最強の剣にも勝るといわれる彼の愛剣。使い手の強さからエクスカリバーなどと揶揄される切れ味を誇る。

「なにをなさるのっ! あたしは貴方たちがお父さまを軽んじるから、こうして殺しにやってきたのよ。それを……この恩知らずがっ、お父さまこそはあたしたちの創造主なのよ。それを守ろうとして何が悪いの? あたしがどうして罰せられなければならないのよっ!」

 鞘に納まった剣は紳士が持っていてもおかしくないステッキにしか見えない。彼はステッキの先を足元でわめく少女の背中に力強くたたきつけた。

「あぐぅ……があっ、いたたた痛い、やめて。止めなさい、痛いわよ。離して、さっさとそれを離せ!」

 鞘である杖の部分に仕込まれた魔術の発現。北欧にあって語られるガンド魔術がその正体。アンジェリカであっても魔術が効果をなさないわけではない、その例がこれであった。

「口を慎め、発声器を潰すぞ……卿はそれで公爵さまの意見を代弁したつもりか。実に勝手な言い分だな、公爵さまはこんな大事を起こしたことに困惑しておられる。サンタクルスの元老に圧力をかけた上での来日に水を差すとは、卿は一体何を勘違いしていた?」

 それを聞いて、アンジェリカの表情は固まる。

 ステッキは既に身体から離れていたが小刻みに身体が震え始め、天使の美声が満足に発音さえ出来ないでいる。

「う、うそ、うそよね? あたしがお父さまを困らせるなんて、それじゃあ逆よ。そうだわ、逆なのよ。あたしは、悪くない。あの……あたしは悪くない、悪くないのよ。アイツが、スタニスワフが悪いんだから。さっさと殺されないからこんなことに……いつもみたいに誤魔化せたのよ、帳尻は合うはずなんだから。それに、シュリンゲルがお父さまにあんなことを言うから、だからお父さまは一々苦労なされたんでしょう! アイツが悪いんじゃないの。貴方も馬鹿よ、アイツらが悪いのにどうしてあたしにお仕置きするの? こんな仕打ちをして、お父さまに訴えてやるんだから」

「……卿の言い分は了解した。公爵さまに対する忠誠心の顕れとして今回は私が便宜を図る」

 内心苦々しく思いながら、それを表に出すことなく彼は少女を許した。アンジェリカはすでに何度独断で勝手なことをしただろう。

 少女を何百人も手にかけた。公爵の近くにいる女は誰であれ殺してきた。公爵がそう設計していなければ妹さえ殺しかねないだろう。

 考えるだけでため息が漏れる。

 だが、彼女は公爵が愛する娘の一人。彼がどうにかできる相手ではない。

「……まったく、難儀なことだ」

「あっ、ありがとう。長兄エンリルに感謝を」

 手足のない少女を抱え上げた紳士は彼女の体にコートをかけてその身体を隠してやる。

 そして、片手に持った仕込み杖がきらめいたかと思うと凄まじい斬撃で少女の手足が完全に粉砕された。秒間何回斬られただろう、高速の剣の前にオリハルコンよりなお硬いといわれたそれは一瞬で消失してしまう。

「公爵さまの性癖にも苦労する。アンジェリカ、卿は公爵さまに愛されていることを感謝するべきだ。最初からあのお方は娘には手を出さないのだから」










[1511] 第三十四話 『訪ねてきた吸血鬼』
Name: 暇人
Date: 2006/11/10 01:57




 あれから数日、俺たちもありとあらゆるコネを動員した捜索が続きながらも敵を捕捉することが出来なかった。








「あー、あれから全然情報なしかよ」

 ソファーの上で地図を眺めながら綾音と俺、アイスクリームを食べている浅海。地図は×印だらけで、はずれの情報と探した場所を示していた。

 綾音も俺の向かいの席で頭を抱えて考え込んでいるのに一向に敵の手がかりもつかめない。何とか使える程度の人探しの方法はそもそも探す相手の持ち物とかがなければ見つけられない、綾音自身そういう系統は修行不足で行き詰っているというわけだ。

「もぐもぐ……ふーん、アデットに叱られてもまだあきらめてなかったんだ。暇ね、本当に」

 スプーンに取ったアイスクリームを頬張りながら、地図を一瞥した浅海が苦笑しながら言った。秋だというのに、何故アイスを食べるのか。

「貴女に言われずとも私は暇ではありません。でも、浅海……吸血鬼が来ているのだから害が一般人に及ばないうちに退治できるならその方がましというものじゃなくて?」

 目の下に隈まで作っている綾音の言葉には力がこもっていない。命を粗末にするな、とアデットに説教されて吸血鬼捜索は中止かと思ったが、彼女はそれでも俺の意見を尊重してくれて、ここ何日も夜の捜索に疲労している。当然、俺自身も。

 アデットも結局は他所から派遣されているだけ、地元の人間が自分達の地域を守ろうとすることに深く干渉する気もなければ無理やり止めさせるつもりも無いようだった。

「かもね。この件に関しては余所者だから別に反論する気は無いわ。他人の領地のことに首を突っ込む気は無いもの」

「? やけに大人しいですね、日頃の野蛮人ぶりはどうしたの?」

「捜査の行き詰まりはわかるけど、私に当たらないで欲しいわね……見苦しいわよ」

「ふん! 別に当たってはいないでしょう、自意識過剰」

「それはそうと、言った通り余所者が是非を言うのはルール違反だから黙っているだけよ。ここが実家の領地なら貴女たちに勝手はさせないけどね……ああ、涼しいときに食べるアイスは最高ね。キミアキ、バニラ食べる?」

「俺、チョコレート」

 そう言うと、テレビのチャンネルを変える――ニュースといえば原因不明の橋の落下のことばかりで、このチャンネルでも専門家が構造に問題があったのではないかといって議論している。

 綾音は橋の近くには彼女さえ意図的に近づかせないだけの何かがあったという。何かが現場に近づくことを邪魔して、結局現場の捜索が本格的に始まったために近づけなくなったし、魔術的な痕跡は全て誰かに消されていて判別できなくなっていた。

「私はバニラで」

 今夜、もしも橋の周辺のマスコミや警察がいなくなっていれば近づいてみる価値があるかもしれないとアイスの注文と同時に告げる綾音。その意見には確かに同意だ。恐らく、何かしらの痕跡があるだろう。

 いや、考えてみれば小夜さんが近づければ一番いいのだろう。彼女なら一発でわかるはずだから。

「OK、OK、待ってて。持ってきてあげるわけだから、あと一つおかわりするからね」

 そうは言うが、アレは俺の家の冷蔵庫に入っている俺のアイスクリームであり、浅海のものではないのだが。

「ご勝手に……よく腹壊さないよな、あいつは」

「胃腸が壊れない代わりに頭が壊れてしまったのよ、きっと……それより、昨日小夜さん他私の情報網に怪しい件が六件も。先日は吸血鬼化した被害者を執行官に滅ぼされた後で情報も十分には掴めなかったけど……今回は先回りになるはずよ。それにしても、サーシャが捜索に長けているのは本当なのに彼らもまだ見つけれていないなんて……長引けば、数が増える一方」

「ほら、アイス。投げるからちゃんと取りなさいよ」

「お、っと。サンキュー……スプーンは?」

「ここよ、ほら。綾音も」

「……」

「私は感謝の言葉が聞きたいかな、綾音サン?」

「どうも……貴女のご厚意には深く深く感謝しますよ、玲菜サン」

「今度は注意される前に言おうね、綾音サン」

「……それより貴女もどうです? ルール上他人の揉め事には介入しないにしても、現に住んでいる以上は無関係でもないでしょう? 近所に突然大量の吸血鬼が出現すれば、困ることには変わりは無いんじゃなくて」

「はん、吸血鬼殺しを私が? あのね、私は貴女と違ってそういうのは素人、悪魔退治だって経験無いのに吸血鬼なんて敵に回せると思う? 第一怪我するのも嫌だし、私が死んだら貴女責任取れるの? 言っとくけど、お婆様の孫溺愛っぷりは半端じゃないわよ」

「無理に誘ってはいないでしょう。断りたいならご勝手に。ああ本当にすみません、臆病な負け犬に言っても仕方の無いことでした。忘れてください」

「……私を犬といったわね」

「狼と呼べば宜しい? 負け狼、というのはしっくり来ないのだけれど、どうしてもと仰るならそう呼ばせて頂くわ」

「……まあ、いいわ。いくら沸点が低くても何度もその手に乗るほど私も馬鹿じゃないの。あっ、ちょっとメール見るから話は中断ね」

「シュリンゲル卿ですか?」

「んなわけないでしょう。友達よ、友達。ほら、そっちは適当に捜索に出発しなさいよ。といっても、まだ六時だから相手は見つからないかもしれないけど……私もこれから遊びに行くと思うのよねって……あらら、私も相手が都合悪いみたい。ちぇ、おいしい店紹介しようと思ってたのに」

 そのとき、呼び鈴が鳴った。

 最初、それがテレビの音かと思って反応していなかったのだが、もう一度鳴るに及んで俺の腰も上がった。

「ん? あれ、テレビじゃなくて本当にうちの呼び鈴か。浅海、お客さんみたいだから取り敢えずここにいてくれよ。時間はあるんだろ? 親父の知り合いだと、お前と鉢合わせさせたくないし」

「失礼ね。でも、確かに暇になったから少しくらいなら時間はありそうね。というか、時間は余りそうよ」

 そういう浅海を後に、すぐに玄関に向かう俺。問題は、相手が親父本人の場合だが親父なら呼び鈴は鳴らさない。

「殿方とは、とても俗ね。ご自慢のマクリールの家名もいよいよ当代になって地に落ちましたか」

「話中に煩いわね……そういう綾音こそキミアキと一緒にうろうろしてるじゃない。男友達の一人や二人いて何がおかしいって言うのよ。ああ、そういうこと。古い古いと思っていれば貴女、原始人だったのね」

「現代人です! それにあれはパトロール兼捜索よ、他意はありません」

「なら、私も他意はないわ。それに男じゃなくて女だし」

「ちょっと待って……浅海、幽かだけど……玄関の、この気配は」

「え?」






○○○○○






「どうも、こんばんは。お邪魔して宜しいかな」

 扉を開けた先、夕闇の中に立っていたのは老人と少女。

 青い服の少女を従えている老人を見たとき、一瞬その姿から鳥が立っているのかと思った。

 二メートル以上の長身、長い銀髪を緩い三つ編みにした痩躯の老紳士。七十か八十くらい、年のわりに鍛えているのだが、あまりの長身のために不健康なくらい痩せて見える。

 背中は曲がっておらず、姿勢はいい。本当に品のある老人だ。

 老人が羽織っていた真っ黒い外套はまるで鳥の翼のような気がした。紅い瞳に立派な銀の髭、痩せているせいで余計に凛々しく見える知性的な顔にはいくつもの皺が刻まれていて、それがこの人物をして鳥、詳しく言えば鶴を思わせる要因だろうか。

 老人の格好はまるで19世紀から時を駆けてきたかのような典型的なイギリス紳士といったふうな服装で、俺の知り合いには絶対にいないタイプだった。

 ましてや、外国の貴族の知り合いなんて……ああ、まあいないわけではないがあの連中は別だろう。それに、ここまであからさまな貴族じゃないし。

 老貴族に付き従っていたのは緩く波打つ艶やかな金髪を背の半ばまでふんわりと広げ、青いリボンをつけた小学生くらいの外国人少女。その肌も白く、青い長袖のブラウスが鮮やかな金髪に映えていた。

 少女は黒いミニのプリーツスカートをはいていて、僅かに黒いソックスとスカートの間に覗くほっそりとした白い太腿が艶かしい。下着が見えそうなくらい短いスカートには流石に目のやり場に困った。大きな紅い瞳がとても印象深く、年下ながら大人っぽい顔立ちの美少女だと思った。

 ただ不思議なことに彼女は俺の顔を見てはその度に視線を逸らすのだ。どことなく頬も紅潮していたような気もするのは、気のせいだろうか。自意識過剰な発言を許してもらえるなら、初対面の小学生に惚れられても対処に困る。

 そのとき急に黒い帽子を脱いで恭しくお辞儀した老人にどう接していいものか混乱してしまう。それが原因で、少女から意識がそれた。

「あの……なんていうか、その、失礼ですが家を、その……間違えていらっしゃいませんか? 俺、ただの庶民ですよ」

 帽子を被り直した老人は手から手袋を外して、こちらに握手を求めてきた。

「いや、間違いなどしておらんよ。君は篠崎公明というのだろう、私は今イリヤと名乗っている者だ。どうぞよろしく」

「はあ、どうも。こちらこそよろしくお願いします」

 向こうが手を差し出しているので一応、こちらから握り返さないのは失礼だと思って握手に応じた。触れてみればわかる、とても大きな手だ。それに死人のように冷たい……まるで人間じゃないみたいだ。

「それで、あの……イリヤさん?」

「そうそう、紹介し忘れていた。青い服の彼女はアウグスタ」

「――っ!?」

 突然振られたからなのだろうか、少女は何か言いたいことがある様子。だが、彼女の反論を聞く前に貴族が促す。

「ほら、君もご挨拶なさい」

「…………」

 プイ、と小さく首を振った少女。

「早く、ご挨拶しなさい。ははっ、行儀が悪いと後でお仕置きするぞ?」

 彼女はしばらく無言だったが、やがて軽くお辞儀した。一応こちらもお辞儀を仕返すが、彼女はただ目を逸らすばかり。それを見てか、イリヤは苦笑しながら取り繕う。

「いやはや……臍を曲げているのかもしれないな。私のことは呼び捨てにしてくれ給え」

「いえ、よくわからないうちに呼び捨てなんて失礼ですから。で、イリヤさん。本当に人違いじゃありませんか?」

 老紳士イリヤは額に手を当てて苦笑する。

「いや、失礼。だが、君は本当に心当たりがないのかね? プリメラはここが面白い街だと教えてくれたのだが。もしや……君は彼女を忘れてしまったか」

「は……」

 頭の中が真っ白になったとき、家の奥から駆けてきた浅海と綾音が叫んだ。

「公明! そいつから離れなさい!」

 それは無意識の後退だった。俺の足はいつの間にか浅海たちの方に逃げていた。

 玄関の外で老人は笑みを浮かべてその光景を眺めている。目の前の二人の殺気にはまるで動じない。

「逢魔が時などに失礼してすまないな。どうやらお嬢さん方を驚かせてしまったようだ」

 静かに言った老人の言葉に二人が緊張する。

「貴方は……誰ですか? まさかスタニスワフ?」

 結局のところ、二人も不穏な気配にやってきただけでこの老人が誰なのかよくわかっていなかった様子だ。

「いや、私はイリヤ・キャッスルゲート。後ろの彼女はアウグスタだ」

 視界がぐらりと揺らぐほどの殺気の中、老人の言葉に二人が呆気に取られる。あまりに噂から思い浮かべていた相手と老人の印象が異なるために。

「待って。キャッスルゲート卿って、あのロリコン貴族でいいのよね?」

 少しは遠慮した聞き方をすればいいのに……浅海は遠慮など知らないのか? だが、言われた方も言われた方というべきか、イリヤは怒るわけでもなく平然と答えた。

「ああ。ロリコン貴族といえばまあ私のことだ。それは間違いない」

 こっちも遠慮して欲しい回答だ。

「そのロリコン貴族が、どうしてこの街に? 襲撃ですか?」

 既に二人の殺気は完全に消え失せている気がする。場のみんな、この老人の前でまともな対応をすることの無力さを感じ入ったのかもしれない。

「まさか。襲撃なら黙って殺せば済む話だ。プリメラの相手をしてくれた御礼でもしようかと訪ねたのだが、実は昨日ある女性と奇妙な出会いをしてね……お嬢さん方に面白い土産話でも聞かせてやろうか?」

 浅海の視線が後ろの少女にも注がれた。少女はまた視線を逸らす。

「……へえ、なるほどね。よくわからないけど、貴方の人形は魔術を使うらしいわね?」

「マクリール嬢……プリメラに会ったのならそれくらい聞かずともわかるだろう?」

「青――そういうことでしょう」

 少女を見つめながら、浅海が問う。

 一瞬、貴族は何と答えるべきか思案した。

「……君はなかなか面白いことを言うお嬢さんだ。まさか彼女が人形であることを見抜くとはね。といより、専門でもないのによく見抜けたな?」

 とても恥ずかしそうにうつむいた少女は無言だ。

「いい勘してるでしょう。青機士は錬金術を使う人形遣い――青のド・ブランヴィリエ伯爵、通称サンジェルマン……噂通りね、アデットみたいな胡散臭い匂いがするわ」

 胡散臭いなどといわれたことが心外だったのか、少女アウグスタは浅海を紅い瞳で少し睨んで、やはりすぐに恥ずかしそうに視線を逸らした。

「ふっ……錬金術師は胡散臭いか。私もそうなのだがね」

 イリヤは笑いながら、答えた。

「それは失礼、でも実際貴方も相当胡散臭いわよ」

 彼はその言葉により一層大きな笑いを浮かべた。

「実に耳に痛い言葉だな。尤も、その指摘は私も同意するところだよ。いや……お世辞抜きで君は本当に面白いお嬢さんだな。私は君のような面白い人間は嫌いじゃないぞ」

「どういたしまして。それで、御礼の件は? お金でしょう?」

「浅海……いえ、玲菜。貴女は少し恥を知りなさい」

 まったくだ。

 だが、綾音の言う通りにしたとしてもそもそもの相手が常識を知らない老人なのだから、真面目に対応するのも馬鹿馬鹿しくはないだろうか?

「正直者だな。そういうところは美徳と褒めてあげよう。だがね、大人の世界では自分の真意を隠しておいた方が物事はうまく運ぶということも知るべきじゃないかな……」

 そう言いかけたとき、イリヤの姿が俺たちの目の前から消失した。比喩ではない、完全に消失していたのだ。

「へっ、あ……嘘。今、何したの?」

 消失したとき、彼は魔術も何も使っていない。

「そんなっ! どこです、キャッスルゲート卿!」

 俺も含めて三人が玄関の外まで出て探したのだが、いない。

「……仮に殺るというなら、君らなど一分の力で殺し尽くせる。そう、昨夜この手で殺したアーデルハイトのように」

「!」

 声は背後から。

 玄関に腰を下ろしていたイリヤの口から放たれたものだった。その目は本気だ。冗談などではなく、イリヤは本気でこちらを殺せる自信がある。

 同時に、彼の目に気圧されたかのように浅海は冷や汗をかき始めていた。銃弾の軌道さえ見切る動体視力を誇る彼女が貴族の移動を捉えることが出来なかった、それだけで既に異常事態なのだ。

 その上、とんでもない発言が聞こえた気がした。

「……どうやったの? いえ、それよりも今何て……?」

 浅海だけじゃなくて俺にも、綾音にも聞こえただろう……アデットを殺したという、吸血鬼の声が。

「ん? アーデルハイトを殺したといったのだが?」

 イリヤがポケットから取り出したのはレンズが割れ、フレームが折れ曲がった眼鏡。あの錬金術師が愛用していた品。

「首の根元から噛み切ったよ、実にうまい血で魔力も充実していた。そのとき私が調子に乗って齧ったものだから、首が外れたな……あははっ、あれは傑作だった。痙攣する体から臓腑を引き抜いてやったのだから……昨夜は君も随分と楽しめただろう、アウグスタ?」

 貴族の呼びかけは俺たちの後ろに立っている少女に向けられた。彼女は大して面白くなさそうだったが、一瞬鼻で笑う。

「ふっ……そうですね。首が落ちて腹が裂けた、そんな死に方でした。彼女を想うなら、悲しんであげてください……因みに、止めを刺したのは私です」

 さっきまで赤くなっていたアウグスタは、子供とは思えないほど恐ろしく冷静な口調で言った。恐らくアデットが殺されたというのは真実なのだろう、彼女やイリヤの話し方からそれがわかった。

「……」

 俺は何かしら違和感があって、イリヤに殴りかかることも忘れた。
いや、仮に殴りかかっても貴族に勝つことなど出来るわけもないだろう。

「このっ……よくも、やったわね!」

 自分の運命を考えれば、怒らずにはいられない浅海。彼女は俺が止める前に拳を振り上げ、全力で止めを刺したというアウグスタに向けて駆け出していた。

 すると、何の冗談だろうか……アウグスタの身体がかすかに揺れたかと思った瞬間、殴りかかったはずの浅海の身体が空中で一回転して地面にたたきつけられていたのだ。

「――っ!?」

「いい踏み込みですが、貴女の動きは直線的過ぎます。優れた身体能力に頼り過ぎている、その点を改善しなければ呪いが消えたとき貴女は困難に直面されることでしょうね……」

 特に何をするでもなく、服の乱れを直しながらアウグスタは言う。慢心しているわけでもない、勝ち誇っているわけでもない表情で淡々と語った。

「私を、馬鹿にしてぇ……!」

 起き上がろうとした浅海にアウグスタは手を差し出す。

「こんな住宅街で貴女が暴れれば、大変なことになると思われませんか?」

「くっ……」

 アウグスタの手をとって、何とか立ち上がった浅海は必死に怒りを抑えて拳を固めた。

「……それでは詰まらない告白も終わったようだし、昨夜アーデルハイトを殺した話でもしようか? 勝手に上がらせてもらうよ。そうだな、君は紅茶でも出してくれ。茶菓子は私が用意しているから」

 まるで悪びれる風もなく、貴族は俺たちに向かって楽しそうに聞く。対照的に面白くなさそうな顔をしたアウグスタは無言だった。

「ふざけないで! 誰が貴方の茶番に……」

「ちょっと待ちなさい」

 何やら考え事をしていた風な綾音が自体を飲み込めていない俺と浅海を落ち着かせようとした。

「何よ、何冷静に話してるのよ?」

「……シュリンゲル卿が死んだとして、騒いでもどうにもならないでしょう。それにここで大暴れするのはどう考えても無理、キャッスルゲート卿が戦闘を望んでいない以上無闇に暴れるのは得策とは思えない……それに、私は悪ふざけに付き合うつもりはありませんから」

「? 悪ふざけに付き合うつもりがない?」

「だから私は、アイツを殺すって言ってるんじゃない! 貴女、馬鹿?」

「……そういう意味ではないのよ。早く上がりましょう。それからキャッスルゲート卿、シュリンゲル卿と一緒にいたはずのサーシャはどうしたんです?」

「ああ、イオレスク君はナバケアを使い切ってしまったから数日は動けないだろうな。何、すぐに命の補給をすれば復帰することだろう……言っておくがね、私は別にスタニスワフやヨセフに肩入れするつもりはないぞ。殺したいなら殺せばいい、どうせ死んで当然の連中だ。そうだろう、アウグスタ?」

 神経をどこかやられているんじゃなかろうか、そう思わずにはいられない貴族の言葉に浅海が震えた。

 だが、俺は何故か怒りが湧いてこない。アデットが死んだというのが、あくまで言葉の上だけの情報だからかもしれない。現実感があまりにも希薄で、どうも実体がない気がする。

 嘘、というのは違うと想う……アデットは死んでいる。それは本当なのだろうが、何か納得できないのだ。

「ええ。ですが、貴方だけが例外だと思われませんように」

「ふむ、やはり君は実に可愛い気のある人形だな」

「それはどうも……恐れ入ります」








 月夜を歩く二人の影。

 アンジェリカとスタニスワフが殺し合いを演じていたとき、当のスタニスワフを探す執行官サーシャと彼が無茶をしないように監視も兼ねた調停官アーデルハイトは連日の捜索をなおも続けていた。

 戦いになれば一瞬、それで片がつくはずだ。目下、悔しいことに滅ぼす方法のない吸血鬼スタニスワフ――誰も彼を殺し得る手段を提示できない現状でサーシャに可能なのは封印して取り敢えずの事態の打開を図ること。

 サーシャは封印専門の魔術師ではないが、上位吸血鬼さえ封印する道具が用意されている。これらを使えばスタニスワフ程度の小物なら確実に封印できるだろう。

 だが、見つからないのではどんな武装があっても意味がない。およそ逃げることと潜伏することにかけてはどんな吸血鬼よりも優れたスタニスワフをわずか数日で追い詰めることなど土台無理な話だ。

 仮にも五百年のうちで彼に触れた魔術師は十数人、彼を死刑にした人間の方がなお多いというふざけた現状。この状況が続けば、霧海が訪れてしまう。そう思えば余り時間は無い。

 俄かには信じ難いことに、世に『人を生き返らせる剣』というものがある――ベルジュラック卿が人というものの本性を曝け出させるためだけに創った娯楽品、一人に対して百倍の穢れなき命を代価として差し出すことで死者を蘇生させるという、世界の法則を覆す神秘の剣。

 当然だが、彼女はそれを自分が使おうと思って創ったわけではない。また、人の死を見たくて創ったわけでもない。あくまで人という種族の清廉さを見たくて、愛する者を救う手段がありながらそれを使うことが出来ない苦悩に打ちひしがれる姿を見たくて、苦悩に打ち勝つ人間を見てみたくて創ったのだ。

 だが、条件さえそろっていれば、そんな人間はそういるものではないのかもしれない。それを得た時の君主は愛妾のために無辜の民を自ら虐殺した。そう、途方もない奇蹟の代償として生き返らせたい相手のために自ら剣を持って、百の命を奪わねばならないのだ。

 後に、生き返った愛妾ともども怨みに思った者たちの手で王は討たれる……故にその剣を蘇生剣とは呼ばない――何時からか呼ばれる名を古いフランスの言葉にて『Avengier』、またの名を復讐剣。

 吸血鬼の貴族一人を生き返らせるのに必要なのは最低でも十万人、条件次第では数百万人にも上る生贄が必要という。それ故に思う……霧海に幽閉された数十万の魂を使えば、リリエンタールの復活は可能なのではないかと。

 六協会のどこも回収には成功していないそれをスタニスワフが保有している恐れがある。これは歴史的な流れから予測されることで、不死魔術の実験体であったスタニスワフがベルジュラック卿本人から受け取っている可能性は否定できないのだ。

 もしも剣をもっていた場合のことを考えれば、少々厄介なことになる。

 呪術師リリエンタール卿とは夢と現実をひっくり返そうとした、つまりは自分の夢に現実を浸食させて、現実となった夢の世界の王となろうと考えた男なのだ。

 そんなわけのわからないことが現実に可能かどうかは疑わしい、だがその末端技術を応用したのが霧海という世界なのだからあながち否定も出来ない。

 霧海の到来までにスタニスワフを封印しなければ、不測の事態が起こりえる……その危機感ゆえに二人の男女は急いでいた。

「ミルチャさん」

 金髪碧眼の美少女、アーデルハイトが一緒に夜道を歩いていた紅の魔術師に呼びかけた。本名で呼ばれることが少ないサーシャには、むしろ彼女の呼び方は気に入らなかったらしい。

 少し肩を竦めて、ため息をつく。

「あー、アーデルさん……サーシャでいい。もう何度もそう言ってる。貴女しつこい」

 サーシャにはどうもこの少女は遣り辛い相手だ。横で揺れる長い金糸――風に靡く金砂の髪の錬金術師に一瞬目を遣りながら、使い魔からの情報を頭の中で整理していく。

 街にはなったのはほとんどが鳥、一部には蛇などもいるが空からの捜索ほどに役に立つものはないだろう。犬たちは駄目だ。殺す相手の匂いを追いかけようとしても肝心の相手の匂いがわからないし、あれだけ人を殺す吸血鬼が死体を残さないのだ。

 今のところは情報なし、その報告に舌打ちをした。その行為を自身への非難と取ったのか、アーデルハイトは薄く笑った。

「ふふっ、そう嫌がらないでください。別に悪口を言っているわけではないのですから」

 いつも通り丁寧な物言いだが、呼び方を変える気は更々なさそうだ。やはり遣り辛い、サーシャのその結論は変わらないだろう。

「でも、その呼び方はこそ痒い。貴女、さっきから何見てる?」

 歩きながらアーデルハイトが手にしていたのはA4サイズのプリント――警察のホームページからプリントアウトしたこの街の犯罪マップで、特に集中している場所に印が付けられていた。

「街の地図です、私も人探しは得意分野というわけではないので。一般の捜査機関の情報も案外ためになるものですよ」

 確かに今までのスタニスワフなら他の犯罪者に対抗してより残酷な殺しをして醜い自己顕示欲を満足させたことだろう。

 だが、今回の彼は慎重で人間が普通に追いかけても辿り着くのは無理だと思われた。

 なぜなら、現行犯以外では逮捕できないからである。彼に血を吸われた者は死んでしまったのに、吸血鬼として生き返る……しかも、彼の僕としてである。

 これでは傷害罪も殺人罪も立証できない、いやそもそも誰も被害届けを届けないのだから事件自体が発生したことにならないのだ。

 そう考えれば、サーシャにとってアーデルハイトの行動は無意味に思えた。

「流石に何百年もこそこそ生きてきた吸血鬼、姿隠すのが上手過ぎる。このままだと、埒明かない……霧海の討伐は私の任務じゃない。でも、時間あれば手を貸してもいい」

 気分でなんとなくそんなことを口にしていた。サーシャほどの執行官には相当な権限が与えられているが、今回の任務が済めば帰るのは覆せない。

 それだというのに、思いつきで口にしていた。迂闊なことを言ったものだと自責したが、アーデルハイトの回答は思っていたものと違った。

「お断りします。あれはこの手で殺し尽くさねばならない相手ですから」

 彼女は随分とはっきり言い切った。理由はわからないが、逆鱗に触れてしまったのかもしれない。サーシャを見つめたアーデルハイトの瞳は少し鋭かった。

「そう、それなら別にいい……漸く獲物。この近くの学校、に吸血鬼がいる。スタニスワフとは違うみたい、用意は大丈夫?」

 微かに使い魔が感じた気配はただの吸血鬼とは思えない異質なもの。もしかすると当たりかもしれない。

「……少々眠いですね。薬を頂いた後で、少し時間をください」

 アーデルハイトはポケットから取り出した薬剤を十錠も手に乗せ、それをすぐ近くにあった公園の蛇口で飲み干した。彼女の顔は本当に苦しそうで、暗がりでは気がつかなかったが血の気がない。

 サーシャは後からそれについてきて、彼女を見ながらため息混じりに言った。

「身体悪いなら、無理しなくても私だけで殺せる。まあ、間違えて人殺しても責任取れないけど」

 そう、もし間違っていれば巻き添えで人も殺す。それが彼ら執行官が血も涙もない殺し屋として恐れられる由縁、一人を殺して十人が救えるなら殺す、それが彼らの教えだ。

 呼吸を整えながらアーデルハイトが吸血鬼の居場所に進もうとしたサーシャを押しとどめた。

「ですから、待ってくださいと言っています。私もミルチャさんを手にかけたくはありませんから」

 冗談ではないらしい。苦しそうな呼吸も正常に戻りつつあり、その目には漸く生気が戻ってきていた。確かに、今の彼女ならそこそこ勝負になりそうだ。

「じゃ、それまでタバコでも吸ってる。葉巻吸うか? 貴女も別に気にしない年」

 口にはタバコをくわえながら、アーデルハイトにも一本差し出すサーシャ。訝しげな表情の彼女はそれを受け取らない。

「女性の年を云うのは紳士としてはどうなのでしょうね……それで、ブランドは?」

「プラウダーレ」

「失礼ですけど、そんな名前は聞いたことがありませんね」

「もう潰れてる。故国で皆が吸ってた国営タバコ会社の在庫品……伝あって在庫品山のように屋敷に置いてある。吸って、気に入ったなら貴女に送る」

「結構です、タバコは身体に毒ですよ。禁煙した方がいいと思いますけど」

「ははっ、薬飲まないとまともに戦えない人の言う台詞じゃないよ……でも、このタバコはただの願掛け。いつもは吸わない、殺しの前たまに吸う」

 タバコの煙が夜の闇に消えていく。安物の匂いが服についてしまうのではないかと心配する人間はここにはいない。

「儀式の真似事ということですか……なら、私の薬も似たようなものです。いいえ、これを飲めば痛みが治りますから、むしろそちらより重要です」

「そうか。なら、私も我慢する……逃げる前に用意整えて欲しい」

「当然です。もう、行けますよ」

 そう、アーデルハイトは力強い返事を返すのだった。







 夜の学園――秋葉学園初等部、お金持ちの子女が多いことで有名なお嬢様学校の併設小学校。月の光さえかき消すほどの闇がそこにあった。

 広い校庭の隅にある滑り台、その上に腰掛けていたのは月を見上げる銀髪の吸血鬼。

 アーデルハイトも、サーシャも、その校庭に足を踏み入れた瞬間にわかった……この吸血鬼はスタニスワフではない、と。

「なんだ……アンジェリカが漸く見つかったのかね、エンリル?」

 滑り台の上にいた貴族は空を見つめたまま、足音の主である二人に問うた。即座に返事がないことで、彼は漸く自分の月見の席に割り込んだ闖入者を見つめた。

 鳥のような貴族――鶴を思わせるほどに縦に長く、筋肉はついているのだが背が高すぎて痩せて見える老人は血のように紅い瞳をした本物の貴族。漆黒のマントを靡かせ、19世紀の倫敦から時間を旅行してきたかのような黒いスーツを着た老貴族は、銀色に輝く長い髪を緩い三つ編みにして、豊かな髭を生やしていた。

「おや、違ったようだな……こんばんは、そしてはじめまして、アーデルハイト女史。それにイオレスク君。君たちに会えて光栄だよ」

 滑り台から下りるでもなく、高い場所から睥睨した貴族はとても優雅に一礼した。見ればわかる、彼ほどに血の匂いのする吸血鬼は姫君を除いて存在しないのだから。

「キャッスルゲート卿……いいえ、マルドゥーク教授、ですか?」

 互いに相手を知っていても、これは初対面。サーシャも、アーデルハイトも、貴族ですら互いの顔を見たのはこれがはじめて。

 だが、彼らは互いに相手を知った……見ただけで相手が誰かわかった。

「いかにも。だが、便宜上イリヤと名乗っている、イリヤで構わんよ。それからイオレスク君、君には伝達が行っているだろうが一応言っておく。サンタクルスの元老の訴追免状……勿論私に対するものだが、それがつい先日発せられた。戦闘は勘弁願うよ、アーデルハイトのお使いでわざわざ来たのだからね」

 サーシャはその話を聞いて知っていた。認めるかどうかは別問題だが、悪いアイディアとも思わなかったことを思い出す。

「こんなところで何を? イリヤさんに依頼した用件はまだ先のはずです……どうしてでしょうね、貴方を見ていると頭が痛くなってきました」

「馬鹿者。私がここにいるのは、年頃の若い娘の匂いを嗅ぎに来たに決まっているだろう。実にいい匂い。甘酸っぱいようでいて、その花は蕾、芳しい香のようなものだ……食指を誘うよ」

「公爵、私も聞きたい……貴方は、この街で人を殺したか?」

 殺意を孕んだ風に打たれても70か80にしか見えない老人に動揺はない。執行官に睨まれてもそれを脅威と感じないだけの余裕があった。

「この街では殺していない。強いてあげるとすれば、旅の前にアメリカで死刑囚を五十人ばかり食い殺したが……それが何か? 親戚でも混ざっていたのかね?」

 アーデルハイトに怒りはない、サーシャにも。死ぬ運命にあったものが殺されたに過ぎないからだろうか。

「随分と雑食のようですね。噂ではイフィリルは善悪を問わず美しい処女、それも十代の人間しか餌食にしないほどに偏食だそうですが」

「不正確な情報だな。付け加えるなら、武勇と知略に優れ人格高尚な上、眉目秀麗な英雄の血も好む……私はそういう血は大嫌いなのだが、彼女は夢見がちだからありもしない幻想の英雄を愛する。性格のわりになんとも純情な少女だろう?」

「そうでしょうか? 英雄は優れているからこそ好かれるのだと思いますけど」」

「私は絶対に違う、男に惹かれるなどありえん。そうだな、彼女は吸血という行為に性行為を重ねるところがある。当然妄想だけなのだがね……医者の私が心理学的にいうならば、あれは色を好む」

「都合のいい解釈ですね。それにしても、どこで医者の免許など?」

「昔、ギリシャで……新しい境地を開拓するほどの衝撃だった。そう、医者なら色々と危ない妄想を膨らませることが出来ると思ったのが発端だったのだがな。思い出す、アスクレピオンでは実によく勉学に励んだものだよ。ああイフィリルの偏食についてだが、そういう意味では君たちの血はさぞ好まれることだろうな。美少女趣味も英雄趣味も根源は変わらないから。イオレスク君は駄目だが、女史ならば彼女の夜伽の相手になっても構わんぞ。私が許す」

「ふざけたことを……戯言は終わりにしてもらえませんか」

 貴族の身体が滑り台の上から消えたと思うと、そのまま彼は華麗に地面に着地した。戦闘するつもりはないらしいが、それでも彼に対しての警戒を怠る二人ではなかった。

「何だ? 喧嘩をするつもりはないと明言したはずだが。何より、私は可哀想な身分だよ……世界中の私の持ち物を人質に魔術師どもが脅してくるのだから。いや、あれには困る。宇宙船を破壊するだの、工場を吹き飛ばすだのと……そういいながら金を脅し取る、これが正義を標榜する人間がやることかね?」

 その言を受けて、一瞬肩を竦めて見せたアーデルハイトはにこやかに言った。

「そうですね、それについては同情する余地はあります。ですが、貴方のように危険な変態から治安を守るのも市民の役目、さっさと棺桶に帰ってください。警察機構に訴えますよ」

 そう言われて彼は苦笑する。

「くくっ、随分な言い草だな……では逆に、私が目の前の少女を教育的に不適切な方法で矯正するのも自由なのだね? ついでに、イオレスク君に言っておくが君のご先祖にはいい加減私も我慢の限界だ。子孫の君にも多少説教せねば気が治まらん、わかるね?」

「わからない。どうして、先祖のことで私に責がある? それに、元老が訴追免状出した以上は私の管轄外。スタニスワフ追いかけるのに、貴方の相手する時間もったいない。アーデルさんも、呆けた年寄り相手に熱くなる必要ない」

「この老人はただの老人ではなく、変質者です。色々な意味でこれを放置できる相手ではありません……それに電話では散々人を愚弄してくれましたよね、イリヤさんは」

「それはこちらも同じだ、女史。人に金ばかり払わせて、言葉の上の礼だけで、はいそうですかと問屋が卸すと思うのかね?」

「持っている人が多く払う、税金と同じことです。ちゃんと払っていないでしょう?」

「税金ならいつも脱税している、追徴課税は受けたことがない……ああ、なるほど。そういう意味では私の金にも意味があるな。わかった、その件については私の負けのようだ。だがな、私を変態呼ばわりしたことについては謝罪を要求する」

「何を馬鹿な……それに、謝罪を要求するのは私も同じです。貴方の首を差し出しなさい、謝罪するとすればその後です」

「どうやら君と話しても平行線のようだ。ふむ……時にアーデルハイト、君はこの街に住んでいるのだね?」

 学校の方を見つめながら、貴族は問うた。訝しく思いながらもアーデルハイトは頷いた。

「この学校、生徒は美しいかな? この国の少女の黒髪はイフィリルを思わせる、実にいい……そんな生徒ばかりなのかね?」

「それは……よくわかりませんが、世間で言うところのお嬢様学校だとは聞いています」

「宜しい、誠に宜しい。今度ここを買い取って、学費は無料、私の趣味の制服や水着を強制する学校に変えよう! 私が理事長になり、他数名の華を添えれば同志達にも生徒にも大人気。校則作りなどは実に楽しいものになるだろう……と思わんかね?」

「駄目……ああ、また頭が痛く……ミルチャさん、やはり街の平和のために見過ごせません。この変態貴族は屠っておく必要があります」

「公爵、貴方のはなし、聞いただけなら学校すごい赤字、になる。構わないのか?」

「当然だ、赤字など痛くも痒くもない……よし、早速買収を進めるとしよう。それと、いい質問をしたイオレスク君に意味のある情報を提供するとしようか……これを見給え」

 貴族が差し出したのは首に掛かっていた赤い宝石のペンダント。アーデルハイトは知らないが、マリアと名乗った女性、アンジェリカ、イフィリル、斎木、スタニスワフが常に身に着けているモノ。

「何ですか、それは?」

 宝石を見ただけでは何の効果があるのかもわからない。アーデルハイトとサーシャは軽く首をかしげた。

「吸血鬼の気配を消す道具、といえばわかるだろう? 私ほどの存在規模の吸血鬼が街に入り込んだことに漸く気がついたのは、単にこれのせいだ」

「何ですって……?」

「イフィリルが創った便利な魔法アイテム……狩人のエンカウント率をゼロにする働きがある。スタニスワフは確かに捜し辛い相手だが、あまりにうまく隠れすぎだと思わなかったのかね?」

「……公爵、貴方どういうつもり?」

「野暮なことを言うなよ。ヒントをあげなければゲームというものは面白みに欠ける」

「ゲーム? どういうこと? よくわからない」

「この宝石は私も製作段階で多少の技術提供をしていてね……実はこれを使えば、簡単な人探しの魔術でお互いの位置を確認しあえる優れものなのだよ。だから、私たちは仲間の居場所を容易に捜し得る。世界にいるイフィリル派の祖は中立も含めて25、件の薬と共に彼女が配ったのがこれだ。いわゆる我々の世界のゲームの参加資格だな。そこで提案だが、困っている君たちのためにこれをレンタルしてもいい。これを用いればスタニスワフを捜すなど容易だ」

「代償は? ただでそんなものを貸す貴方ではないでしょう?」

「ゲームだといっただろう? だとすれば差し詰め私は街の周りに出現する雑魚モンスター……私の身体に一太刀入れて見せろ。イオレスク、シュリンゲル両家に伝えた錬金術がどれほど子孫に受け継がれているのか、それを私に示して欲しい」

「……死んでも責任は負いかねますよ」

「それも一興だ、構わん。だが、墓は建ててくれよ。いつかイフィリルが泣きながら参りに来てくれるかも知れんからな」

「それは絶対にない。私も、そう断言できる。でも、公爵……元老院の訴追免状は?」

「無視すればいい。紙切れだ。それに、これはあくまで遊び……遊びに連中の許可が要るのかね?」

「やはりわからない人ですね、貴方は……」

「ところで……聞いておきたいのだが、イフィリルを傷つけたか?」







「――と、ここで彼女がYesと言ったのでな……殺した」

 紅茶を口にしながら、貴族は楽しそうに語った。俺にはまるで遠い国の話を聞いているような感じだった。

 お菓子と一緒に勝手に持ち込まれたオーディオプレイヤーがクラシックを奏でる部屋の中、みんなが無言だ。

 長い話を聞いたからかもしれないし、彼女を殺した理由が詰まらないものだったからかもしれない。

 そして、紅茶とケーキを漸く食べ終えた綾音が一呼吸置いて目の前に座っていたアウグスタに世間話デモするように語り掛ける。

「……それは随分と運がない夜でしたね、シュリンゲル卿?」

「はい?」

 彼女の言葉を聴いて、思わず間抜けな声が出た。

「ちょっと待てよ、アウグスタはイリヤの人形だろ? それがどうしてアデット?」

「流石に専門だけはあっていい目をお持ちのようですね、綾音さんは」

 俺を無視して返事をする少女。

 アウグスタ、いやアデットらしき彼女は退屈から解放されたようなすがすがしい表情で返した。

「……???」

 よく理解出来ていない浅海は混乱中。この分だと、回復までどれくらい掛かることやら。

「……イリヤさんが唐突に振った上、玲菜さんが勝手に勘違いをなさるから困っていたところです」

 少女はイリヤを睨んだ。

「わからん奴だ。どうせ時間はあるのだし……暇つぶしにからかうのにちょうどいい少女がいれば、な?」

「私のことですか、それとも玲菜さんのことでしょうか?」

「どちらもだよ。紅い瞳がコンプレックスでずっと恥ずかしそうにしていた君、私が選んだ衣装を着るときに酷く嫌がっていた君、それにスカートから下着が覗きそうだったあのちらリズム、実に良かったぞ。興奮してしまったよ。何より、不完全な身体を完全にしようと性欲がな……はははっ、自分だけで解決しようとしなくても、いつでも手助けしてやるぞ?」

 イリヤはやはり変態のようだ、楽しそうに……厭らしそうな視線をアデットに送り始めていたのだから。

「黙ってください……その視線を止めないと、刺しますよ。ごほん、唯一心配らしい心配をしてくださった玲菜さん、ご安心を。私が昨日死んだアーデルハイトの後継、彼女のホムンクルスです」

「ホムンクルス……いや、アデット本人じゃないのか?」

「いいえ、私は確かに本人ですよ。年齢が違うのは妊娠中に殺されたからで、この身体は前に比べてポテンシャルで勝る分不安定ですね。私は自分を創る錬金術師ですから……綾音さんは私を見て気がついたようですけど、公明さんにも前に教えませんでした?」

 錬金術師アーデルハイトは語る、彼女の歴史を。

 何時だったかも忘れるほど昔、まだフランク王国があったような時代。彼女が34歳のとき、アデットは錬金術師として第一の試練を乗り越えた。

 第一の試練を超えた錬金術師はわかりやすい基準では小達人程度、得られる奇蹟は不老の身体。不老といっても吸血鬼たちのように延々と生き続けることが出来るような大層なものじゃなく、実際は何もしていない場合は二百年程度で身体が崩れ始めるらしい。

 その体が持つ間に彼女はさらに第二の試練を超えようとした。

 だが、それを乗り越えるには才能が足りない。迫る時間、崩れ始める身体、枯渇する一族の血……のしかかる問題はあまりに大きかった。
それを超える苦肉の策が後に彼女が最も得意とすることになるホムンクルス。

 第二の試練を超えたのは五百年も後、十人目。

 第二の試練を超えたものは人を超えるほどの知覚領域と身体能力を得る、それからは崩れ始める身体を変えては変え、延々と次の第三に挑んできた。彼女は未だにそれを超えていない。

 だが、最も接近したときそれに触れた。

 アデット、と俺たちが呼んでいたのはそのときのホムンクルス。初代アーデルハイトのように純粋な人間とまったく変わらない、それでいて年齢を調節する技術により本人より若返った、不老のホムンクルスだ。

 毎度毎度のアーデルハイトの人格は別物、魂が微妙に違うのだ。

 だが、俺たちが知るアデットは目の前の少女と同じ人、魂を直接移動させたのだとか。シュリンゲルの一族が延々と繰り返してばかりなのに着実に進んできた秘密は教えてくれなかったが、他の秘術を加えた上でそれをなしてきた。

 それで、損傷が酷い身体を治すよりもホムンクルスを創って身体を交換しようとしていたアデットだったのだが、イリヤに殺されてしまった。止む無く未完成のホムンクルスに魂を移した……それが目の前の少女。

 彼女はホムンクルスを創るたびに先代より必ず優れた素養のホムンクルスになる、そういう秘密の技法があるらしい。

 だが、未完成だったため素養はあるものの力の起伏が不安定化。新しい成人女性型のホムンクルスを創るのは不可能ではないが、時間がかかって今すぐにどうにかできる状態ではない。

 だから、彼女は少女で過ごさねばならないのだ。

 で、イリヤはアデットを殺す気で戦っていたのだが、幼女の姿の彼女を見た途端……その姿に萌えたらしい。殺すのも止めて昨夜からずっと身体を触ったり、服を着替えさせたり、覗いたり、趣味の服を山ほど買ってきたり……アデットですら欝になりそうなくらいのセクハラが延々繰り返されたのだとか。

「ふむ。当然だろう、こんな可愛くて生意気な性格の少女を殺すことなど出来ると思うのかね?」

「いや、俺思うけど……アンタはやっぱり死んだ方がいいぞ」

「それで……実は深刻な問題があるのですが」

「ん? 何だよ、アデット」

「……実は、今の私にはホムンクルスを仕込んだ六月以降の記憶がないのです。スタニスワフがどうしてここにいるのか、何故あんなザコ相手にミルチャさんのような凄腕が派遣されているのか、どうしてイリヤさんのような変態に援助を願ったのか、一体何の援助を願ったのか……日記には書いていなくて、よくわからないのですが?」

 何だか、とてつもないことを口走ってくれましたよ、このお嬢さんは。

「実は今日伺ったのも記憶を埋め合わせるために、身近な人から話を聞こうかと……あれ、どうなさいました?」








[1511] 第三十五話 『人々の夜』
Name: 暇人
Date: 2006/11/01 05:43
 コトッ――紅茶のカップがテーブルの上に置かれた。すっと立ち上がったイリヤはそのまま帽子を被り、アデットに告げる。

「君の送迎は終わったようなので私は失礼するよ、『ウロボロス』のお嬢ちゃん」

 イリヤに蛇扱いされて眉を顰めたのは、ちょうど三人が知っていることを聞き終えたアデット。

 俺たちの話を聞いて大抵のことは理解できたらしいが、それでもこの変態を招いてしまったことを納得できていない様子だ。

 だというのに、彼女が頭を痛める原因はティータイムの終わりと共に席を立ち、そのまま何処かへ帰ろうとしている。俺としては、勿論イリヤが帰ってくれるならそれに越したことはない。

 ただ、仮にも序列二位の祖――何万もの兵力を有し、最大領土を誇る大物をこんなに簡単に見過ごしてもいいものだろうか? まあ確かにこれを殺すとか封印するとか云う技術も武器も、知識も何もないのだから、実際に彼をどうしようというわけでもないのだが。

「どうぞご勝手に。祖である貴方にこれ以上恥を晒されては私の立つ瀬がありませんから」

 椅子に座ったままケーキをパクつく少女の口調が前に比べれば相当冷たく感じるのは、思春期の復活か、あるいは声色が違うからか。

 古い魔術師の織姫がイリヤの依頼で紡ぎあげたという『とても短いが絶対に見えない』スカート――そんな下らないものを依頼された織姫の気持ちはどんなだったか想像も出来ない代物――を無理やり穿かされた彼女はとても不満そうに言った。

 ストレートの髪に軽いパーマをかけたのも無理やりだったらしいが、人形っぽくて結構似合っていると思う。それに、あの青いリボンが金の髪にとてもよくマッチしている。

 思わず彼女の変化した容姿に気をとられてつい忘れかけていたが、何とかイリヤの話を思い出した。

「なあ、お礼って言ってたのは結局どうなったんだ?」

 プリメラの相手をしたお礼――別に金が目当てだとかいうつもりはないが、もう既に品物を買っていたとすれば、この爺さんが後で戻ってくるかもしれないからな。

 だが、そんな口にも出せないことを何も聞かずに分かれというのも無理な話。言った端から綾音に睨まれた。

「貴方までそんな浅ましいことを言うの? 一から躾ける必要があるのかしら」

「……ははは、そんなに睨まなくても。特別もの欲しそうにしてたか、俺? 勝手におかしなものを置いてかれたら、俺も迷惑だから確認取っただけだろ。邪推するなって」

 そうそう、まさか本音など本人の前では言えないだろう。まあ……多分この爺さんなら言っても怒らないとは思うが、それでもアデットを食い殺すような相手に舐めた口は利けない。

 俺の質問を受け、イリヤは少し考えてから口を開いた。

「……そうだな、確かに私も忘れていたよ。ほら、これをあげよう」

 立ち上がっていた貴族はマントの中から剣を取り出した。黒い鞘に金で美しい薔薇の彫刻が施されたサーベル――刃の部分だけで一メートル近くある、実に高級そうな品だ。

 こんなものを持って歩けば即銃刀法違反でパクられる事請け合い。そうかと言って、この家に飾るには剣が少々立派過ぎる。傘立てに入れておくのも、気が引ける。

「ある流れ者の魔術師から私が買い取った品だ。私は使わないから、君たちに差し上げよう」

 差し出された剣を掴むと、ずっしりとした重みが伝わってくると身構えた。予想した重みはまるで感じない。羽根のように軽く、とても剣とは思えなかった。

「売るわけにも……いかなさそうね、この剣。どこの武器作りの品よ?」

 俺が手に持った剣を横目に眺め、適当な鑑定をしていた浅海がイリヤに聞いた。本人の目の前で貰ったものを売るかどうか考えるなんて、流石に彼女は肝が据わっている。

 『月食のウラディミル』とか云うサーシャの使い魔を素手で秒殺し、『燃える水』や『アルカエスト』といったアデットの危険な霊薬でも歯が立たなかったというお貴族様なのに。魔術世界における超名門の権威はそんな相手にもこんな口の利き方を許すのか、イリヤは浅海の質問にも腹を立てずにポツリと答えた。

「アシュール」

「アシュール? 誰だっけ、それ?」

 その名前に聞き覚えすらないのか、浅海が首を傾げる。当然、彼女が知らない名前を俺が知っているわけもないから、俺も首を傾げた。

 すると、『さっさと帰れよ』っぽい感じの視線をイリヤに送っていたアデットが代わりに教えてくれた。

「アシュール卿というのは通称で、本名をベルヴァザール・アシュフゥール。同じ半神のイフィリルの美しさと対比した皮肉で『ヘパイトス』と仇名された男です。歴史上、最後に滅びた貴族でしたね」

 アデットの言葉を受け、イリヤは『よく知っていたね、お嬢ちゃん。偉い、偉い』と彼女の頭を大きな手で撫で回した。当然、アデットはとても嫌そうだったが、どんな馬鹿力で握られているのか殴っても蹴ってもイリヤの身体はびくともしない。

「これは特殊で、元来道具作りの彼が創った唯一の剣。特典を挙げるなら、力のある精霊が宿っている……ほら、お嬢ちゃん、気持ちよくしてあげようか?」

「離しなさいっ、こんな場所で……あっ、本当に……」

 頭を掴んでいた手から漸く開放されたアデットだが、イリヤの手が今度は胸に伸びて撫で回すものだから……自称その手の技術の宇宙的権威という彼に何度も喘がされ、本気で悶えている。

 この爺さんの横暴を何時までも許していれば、この部屋がアダルトな世界に侵食されてしまいそうだ。しかも、ただアダルトなだけじゃなくて相当アブノーマルな方面に。

「はぁん、はっ、あぁ、うぅ……もういや、いや、あんっ、もう本当に止めてください!」

「なに、もっと刺激が欲しいだと? 君も随分とすきものだなぁ」

「いい加減にしろ、この変態がぁ!」

 イリヤの目に余る行動に激怒したのはアデット本人ではなく、彼の行動を苛々しながら眺めていた浅海。

 相手が殺しても直らない真性だからだろうか? その一撃に手加減など微塵もなかった……家の壁にそんなものをまともに叩き込まれたら大穴が開くこと請け合いの攻撃だった。

 拳は間違いなく、完璧なタイミングでイリヤの脇腹を抉った。どうせこれくらいでは殺しえない、それがわかっているからといって油断している相手にそんなことをするなんて……コイツは鬼か?

「ん? 何だね、お嬢さん」

 拳の先端が時速百キロ近い嘘みたいな一撃を受けて、イリヤの身体にダメージはない。それどころか、浅海は拳を抱えて倒れこんでいた。

「痛っ、痛い、痛い……何で出来てるのよ、貴方!」

「何で、とは失礼な。私が自分を自動人形に変えたとでも言う心算かね?」

 腕の中に抱えあげたアデットを弄りながら悠然と浅海を見下ろしたイリヤは、さも不思議そうに聞いた。

 障壁だとか、復元だとかそういった類の現象じゃない。純粋に効果がない……って、マジで?

「ふむ、一体何をする心算だったのか……お転婆なお嬢さんにも困ったものだ」

「くっ、イリヤさん!」

「ん?」

「その剣、噂が間違いでなければ悪名高い雷鳴剣では?」

 何とか変態を引き離したアデットが心配そうに口にしたのは、どこかのロープレでありがちな名前――勇者さま専用アイテムか?

 アデットの言葉をニコニコしながら肯定するのはイリヤ。彼女の体を弄ったときに自分の手袋についた匂いをかぎながら、実に楽しそう。

 周りの女性陣の氷点下などとっくに過ぎ去って絶対零度に到達しそうな視線などものともしないあたりは、真性の証だろう。

 この人は、本当……青年時代に脳に致命的障害でも負ったのか?

「では、その精霊とは『センナケリブの雷撃』ですか?」

 難しい顔のアデットがイリヤに確認する。

 神の鉄槌――そんな異名を馳せる『センナケリブの雷撃』。嘘か真実か、剣の一振りで千の軍隊を灰にするという魔剣の精霊の名がそれと同じ。

「あまり関係ないのだが、確かにその通りだ。ただ、雷鳴剣は蔑称を『世界一使えない剣』。私はチャレンジしたこともないが――」

 取り敢えず剣を渡された俺は、横で何やら話しているイリヤを無視して取り敢えずそれを抜いてみた。

 錆付いているわけではないらしい、容易に刀身を現したそれはまるで鏡みたいに綺麗だった。

「――主以外には抜けないとか」

「いや、それってガセじゃないか? 簡単に抜けたけど?」

「……………なに?」

 みんなの視線がそれに集まった。俺の手の中で白銀の光を放つサーベルに部屋中の視線が集中した。

「ほら、抜けただろ?」

『何をする、戯けが! この身に下郎が手を触れるなぞ、万死に値する! 離せ、離さぬか!』

 俺には聞こえない声でも聞こえるのだろうか? アデットたちは剣を見つめながら、とても気まずい雰囲気。

 聞こえない声が聞こえるって言うのは、何時の時代でもあまりいい状況じゃないよな?

 この微妙な空気は……アーサー王みたいに一種の選定で素人の俺が選ばれたわけだから……名門魔術師のプライドを潰されて、それで言葉にならないってことなのか?

「いや、だが……それはな、何というか……抜けたといっていいのか、アーデルハイト?」

 イリヤでさえ微妙な顔。彼に話を振られたアデットも右に同じ。

『ええい、消えるがいい下郎が! ……なに、何故死なぬ?』

「……微妙ですね。あの状態で、力など貸してくれるのでしょうか……玲菜さん?」

『この、燃え尽きるが良いわっ! ぬぅ……化け物か、貴様は!』

「って言うか、滅茶苦茶怒ってるじゃない。焼き殺すだの、物騒な事言っているし……綾音、あれってやばくない?」

『貴様らも何を眺めておる! 今すぐ私を助けぬと、この戯けと合わせて我が雷撃の下に駆逐するぞ!』

「……振られても困ります。でも、確かにこれは危険なのでは? キャッスルゲート卿?」

『おのれ、貴公という奴は……私を売り渡すなど、許さぬぞ!』

「それはそうなのだろうが……彼は平然としているじゃないか。何故だ?」

『許さぬぞ、貴様らまとめて……くぅ、何故じゃ? 何故、我が雷撃がこんな小物一匹殺せぬ?』

 こいつ等、どうしてこんな微妙な視線を俺に送ってくるんだろう?

 嫉妬とは違うみたいな、違わないみたいな……あまりいい感じのしない視線だ。剣に選ばれた俺に対しての羨望か?

「よくわからないけど、要するにあれだろ? よくあるロープレみたいなパターン――剣が主と認めた奴は簡単にそれを抜ける、とか。現に、さっきこの剣を抜けるのは主だけとか何とか言ってたし」

『下郎、その頭は飾りか? その耳は何を聞いておる! 誰が貴様如き愚物を主と認めるものか! 汚らわしい手を離せ、小物! ええい、貴様など今すぐ自害するがよいわっ!』

「……何というか、それは相当激しい勘違いだと思うが?」

「でもな、ちゃんと抜けてるじゃないか? さっきの話から考えれば、俺がふさわしいから抜けたってことじゃないか」

「……何故、『センナケリブの雷撃』を無視する? 聞こえないわけではないのだろう? もしや、彼は我が同志か?」

「それは違います。絶対に。それと、私もこれを放っておいていいのか悩みますが……取り敢えず、害はなさそうですね」

「どう見ても危険じゃない! 危機感欠如してるわよ、貴方たちは!」

そのとき、微妙な顔をしていたイリヤが急に破顔して大爆笑。腹を抱えて大笑い。

「あはははっ、いや……いいじゃないか、マクリール嬢。剣も主が決まって喜んでいるようだぞ、公明君」

「やっぱり、俺が主ってコトでいいんだよな?」

『戯けが! 貴公は妄言を弄して……私を侮辱してからに。まとめて焼き殺すぞ!』

 俺の言葉に頷いたイリヤは剣に視線を移して、何やら別な国の言葉で語りかけた。

『あはははっ、出来るものならすればいい。さっきから騒ぎながらも君が何も出来ていないのは、実際には何も出来ないからだろう?』 

『くぅ、私を侮辱するな』

『真の主との契約がなければ、刃より他には力を発現できない……聞いていた通りだ。しかし、情けないな、センナケリブの雷撃』

『愚物、その嘲笑は止めよ!』

『しかしな、雷撃。君は主以外には身を任せてはいけない制約があるのだろう? ということは、どうなのだろうね……逆説的だが、身を任せてしまった彼は君の主ということになるんじゃないか?』

『――そんな莫迦な話、誰が……』

『誇り高き雷の精、センナケリブの雷撃。千余の時を駆ける君ともあろうものが……自身の制約を破るなど、あまり失望させるなよ』

『――か、片腹痛い、わっ……私は、貴公などに言われずとも、そんな無様を晒すわけが……』

『では、決定だな。彼が主だ』

『……コロシテヤル、いつか殺してやるからな』

『出来るものなら、いつでも』

『くぅ……この恥辱、いつか必ず雪いで』

 剣に向けてイリヤが呟いていたのは呪文の類なのだろうか。しばらくすると彼は唱えるのをやめて、俺に視線を戻した。

「ふむ、では公明君。君も剣を大事にしてやってくれ」

「ん、ああ。わかった、絶対に売ったりはしないから安心してくれ」

 ドアを開けて帰ろうとしたイリヤは最後に少し振り向いて、アデットにすごい提案をする。

「それから、霧海の発生には応援に来るよ。我が愛しのアーデルハイト嬢、いつか君の胎に……」

 そこまで言ったとき、イリヤの身体がアデットに部屋の外まで押し出された。












「…………ぐすっ」

 イリヤが完全にいなくなったことを確認したとき、アデットの小さな肩が震えた。ちょっと涙ぐんで、マジで泣いている。

 因みに、彼女がらしくもないくらい異常に恥ずかしがっていた原因の大部分が、『人前に出して恥ずかしい錬金術の祖』が現実に人前に出てきて散々恥をかかせてくれたからだそうだ。

 今、彼女が泣いているのはあまりにもアレな貴族が錬金術の祖であることが、悔しいやら恥ずかしいやら言葉では表現できないような感情から涙が零れてきたらしい。

 後日送ってくる彼女の服にしても、デパートに強制的に連れて行ったかと思うと、その場で『彼女が一番妖艶に見える服装と、色っぽく見える化粧品を用意し給え』という具合に大勢に聞こえる大声で注文したらしいし、本当にろくな人間じゃない。

「ふぅ、アデット。私も同情するわ」

 アデットの横に座った浅海が肩に手をやって彼女を慰める。

「いや、俺も本当に同情するよ。流石にあんなのがきたらな」

「私も今回は玲菜と同じ気持ちです。流石にアレでは……同情しないわけには行きませんもの」

 綾音も寄り添って慰めているが、ある意味そういうのは余計に悲しくなる気がするのだが。

「いえ、別に……思っておられるような悲しさはありませんから、同情されるに値しません。ただ、虚しさが胸を抉る様な感じがして、ちょっと精神的に参っているだけですから」

「まぁ、あれだな。元気出せよ、わざとふざけてるだけ……ってオチはなさそうだけど、一応技術だけは天才なんだろうし」

「そういう事実が余計に悲しいんでしょう、馬鹿」

 浅海、お前もそう思うなら口に出すなよ。

「技術だけ天才……虚しい言葉ですね。ただ、剣の説得だけはしてくれたようですからまだましですけど」

 ちょっと嘘っぽい涙をハンカチで拭いているアデットが告げた。

「剣の説得? なんだ、それ?」

「滅茶苦茶嫌われてたのよ、貴方」

 浅海の言葉に手の中の剣を見る。別に言葉など発していないし、鞘にしっかり納まっている。

「お前……頭大丈夫か? 剣が喋るわけないだろ」

 そうそう、剣が喋るわけがない。聞こえたとしたら、何処かの電波だろ?

「……まあ、いいわよ。関係ないみたいだし」

「そうね……それより、シュリンゲル卿。その身体、元には?」

 綾音の質問に漸く真面目な顔になったアデットが軽くため息をついた。

「新しい体の完成まで二年くらい待つか、これは個人的に気が進まないのですが……血と若い精液を摂取すれば、わずかな間だけ元に戻れます。他にも、研究中の薬が完成すれば可能性はあるでしょうね」

「学園祭、それに生徒会の方はどうするつもりです!」

「……微妙にずれたことを聞きますね、綾音さんも。一応、貴女のご先祖が原因で……」

「それは過ぎたことです。目の前に迫っていることの方が大事に決まっているでしょう?」

「はいはい、その点はイリヤさんが肖像権を無視したアーデルハイト人形で誤魔化してくれるそうなので、ご心配なく……何ですか、玲菜さん?」

 浅海の視線を感じて、アデットが彼女の方に向き直った。

「何て言うか、その瞳の赤はどういうこと? さっきのロリコンに噛まれて吸血鬼になったとか?」

「あまり思い出させないでください……ホムンクルスは元来、矮人になるものとされてきました。これは恐らく、イリヤさんが創っても同じことです」

 大まかに説明すれば、まず人の精液を40日蒸留器で密閉し、精液が生きて動き始めるまで腐敗させる。次に人の形をした、ほとんど透明で非物質的なものの姿が現れる。これに毎日人の生血を与えながら、馬の胎内と同じ温度で40週間保存すれば、ホムンクルスが出来上がる。

 省いたが、間に魔力を用いた工程がかなり入るらしい。完成したホムンクルスは普通の人間と変わらないのだが、身体がとても小さくなっているのだとか。

「それは知ってるわよ。錬金術師の中で自分と同じ体格で、同じ能力のホムンクルスを創れるのはアデットのとこと他少数だけなんでしょう」

 何百年も前からドイツ、チェコ、オーストリアに散在している、アデットの家系の弟子にあたる錬金術師たちがそういうホムンクルスをつくるようになったのだとか。

「ええ。それが六百年に及ぶ技術的革新の成果として、『アーデルハイト』という千年少々前の祖先が築き上げた錬金術です」

「ちょっと待てよ。さっきまで、その初代アデットもアデットみたいなこと言ってたじゃないか?」

「それは語弊があります。私は二百年くらいしか生きていません、初代から受け継いでいるのは記憶と身体だけです。そうですね……今の瞳は、何代か前の私が後継者であるホムンクルスの製造中にちょっとしたアクシデントで死んでしまって、ホムンクルスが必要な工程を省いて生まれたためで……紅い瞳は不完全なホムンクルスの証、それは完全な身体を作り直した後の世代にも受け継がれる魔術的な後遺症みたいなものです」

 要するに、失敗した事があるという証明みたいなものだ。ホムンクルスに関して第一を自負する家の当主が自分を創る最中に失敗したということは彼女のプライドを酷く傷つけているらしい。

 だから、コンタクトや眼鏡に青く見える細工をして隠していないと、恥ずかしくて相手と眼を合わせるのも難しいそうだ。

 今もちょくちょく視線を逸らし、誰の顔もまともには見ていない。

 ここで悔しいのは、俺の眼を見て恥ずかしがっていたことについて『俺にほれた?』などと勘違いしてしまっていた俺自身だな。

「イリヤに殺されたって言ってたけど、それと記憶が関係してるのか?」

「ええ。私の場合は仕掛けたときまでの記憶しか基本は受け継がれないので……これは、いつか研究資格を得て大図書館にでも行けばわかりますが、私は後継者であるホムンクルスを創る際に自分の胎内で育てます」

「妊娠ってそのままの意味、だったのか?」

 だが、アデットはその言葉に首を振る。

「人の妊娠の場合と同様に論じることは出来ません。胎内での育成期間が80週間、その代わり腹が膨らむことはない……他にも違いはいくつもあります。それで当主以外のホムンクルスは、予備みたいなものですが、それらも一応私の工房の装置に入っていますから、私の輪廻が終われば彼女が目覚めることでしょう」

「要するに、死なないってこと?」

 浅海は少々生々しい話を聞いて、ジュースでお口直し中。綾音は、その程度のこと知らないなんてそれでも本当に名門の出なの、とでも言いたげな視線を彼女に送っていた。

「死にましたよ。私の母の代までは」

「母親って言うのも俺にはよくわからないんだけど、その人もアデットなんじゃないのか?」

「いいえ。私とは違う魂が宿っていた私ですから、そうですね……いつもずっと一緒に過ごしてきた双子、みたいな関係でしょうか。妹、というより私以外の後継者になれないホムンクルスもいましたが、基本的に彼女たちは研究素体です。自分に試す上で、自分ほど人体実験の被験者にふさわしい身体はありませんから」

「怖い事いうなよ」

「そうでもありませんよ。先ほどの妊娠の話ですが……母は私の先代、無限の輪廻を回り続ける技術を完成させた人ですよ? 面白いことも考えましてね、ホムンクルスを育てる器官を身体から摘出した上で育てる……なんてことが可能になったのも自分を材料に研究したからだ、と教えてもくれました。お陰で、吸血鬼の王に五回殺されても私は彼の弱点をゆっくりと考えながら色々と用意できました」

「……先程から見ていましたけど、シュリンゲル卿の身体は私が『壊し得る』人形とは違うようですね?」

「綾音さん、貴女に怨まれるようなことをした覚えはないのですけど」

「仮定の話です。何故ですか?」

「それはこの身体が不完全な代物だとしても、あくまで人に含まれる程度の誤差しかないからですよ。人の魂も宿っていますしね。系統が違うので断言はしませんが、綾音さんがうまく創れないのは魂というものを創る段階で決定的な失敗をしているからでしょう。イリヤさんはその点がうまいですから、きっとあの人の人形に対して強力な打撃を与えることは出来ても、壊せないでしょうね」

「でも、やはりわかりませんね。シュリンゲル卿ともあろう人が、わざわざ自分の胎内で育てる必要がありますか?」

「それについては、大図書館にいけるようにパスをとってから調べてくださればいいのでは? 尤も、その資料はヘルメス本院の方ですから二重のパスが必要ですけど」

「……余計な心配とは思いますが、分院との統一をキャッスルゲート卿に提案しておけばよかったのでは?」

「無理です。向こうはイリヤさんの個人的な協会ですが、私には代表権がありません。それに、錬金術師が一人もいない分院との統一など誰が望むでしょう?」

 ちなみに、ヘルメス本院というのは錬金術協会のことで、分院というのはイリヤが大昔にただの人間が魔術を用いずに奇蹟をなす技術を開発する部署として発足させた、ヘルメス院の機関だったらしい。

 尤も、『美少女ロボットを作りたい』と願うそっちの趣味の人々が集まっているだけの変態集団だという噂が数世紀も語り継がれているらしいので、なんとも言えないのだが。

 イリヤが立場上六協会と対立するようになってからは、彼を支持した分院が独立して両者の交流は千年以上途絶えたままなのだとか。ヘルメス分院は通称『プロメテウスの裔』。

 イリヤ本人と彼の自動人形以外に魔術を知るものは誰もいないのだが、科学の力で似た現象を起こす、いわゆる『錬金術師』の集まり。現在、分院はイリヤが住んでいる馬鹿でかい城の庭にあるらしい。

 俺が行くなら、むしろこっちのような気がするのだが。ヘルメス分院の知識は外の世界とは次元違いらしいから、やっぱり無理か。

 宇宙船や数百年も生きる人間、強化人間だとか……分院の知識を用いれば、一晩で世界秩序が崩れるほどのオーバーテクノロジーというのだから、変態集団も流石にやるものだ。












 その後も色々と質疑応答が行われ、漸くアデットが開放されたのは既に十時を回ってから。

「まったく、土曜の夜はついてないですね」

 携帯電話も、眼鏡も、自分の身体に合う服も全て失ってしまったアデットは学校に行く必要もなくなった自分が明日からどうすごそうか考え始めていた。

「それより、二人はスタニスワフを捜す時間じゃないの?」

 浅海に言われて気がつく。確かにそんな時間になっている。

「公明さん、私がしばらくここで寝起きして困ることはありますか?」

「アデット、悪いがそれは犯罪だと思う。どっかの国なら言い訳無用で逮捕じゃないのか?」

「そうかもしれませんが、いきなりこんな姿で教会に行けばフェルゼン神父が慌てるでしょうし、向こうには着る服もありません」

「それくらいは奢ってやるよ」

「吸血鬼を探すにしても、ミルチャさんが動けない今は公明さんたちと行動を共にした方が効率はいいでしょうし、ここで同盟も悪くはないかと」

 小さな女の子がこちらに哀願するような視線を送ってくる。確かに、こんな体格になってしまった彼女を一人でうろつかせるのも拙いか。

「わかったけど、綾音は?」

「どうして私が?」

「どうしてって、お前……俺たち一緒に探してるんだぞ?」

「私は別に……貴方がいいと思うのなら、反対する立場にないもの。勝手にすれば」

「まぁ、そう怖い顔しないでくれよ」

「では、身体の復旧に必要な体液の採集にもご協りょ……いたっ」

 綾音の一撃がアデットの後頭部を打った。悪ふざけのつもりの一言だろうが、その手の悪ふざけはこの面子にはやめておけばいいのに。

「あまり調子に乗らないでください。いくら見た目が若くなったといっても、こちらは元を知っているんですからっ!」

 まぁ……二人きりで言われたら、ちょっとやばかったかもしれないが。ロリコンとかという意味じゃないが、嫌だけど元に戻るために必死になるというシチュエーションが……エロイ。

「叩かなくてもいいじゃないですか。ホムンクルスの完成前に生まれた以上、本来与えられるはずだった魔力豊富な血液や体液を取り込む必要が、ですね……」

「でもねぇ、アデット。公明のどこにそんな魔力があるのよ? 大体、血液なんて飲んでたら吸血鬼と変わらないじゃない」

「ああ。生体構成要素の補給という意味合いが濃いので、精液とかなら別にそこまでの蓄えは要求しな……痛っ! ちょっと、綾音さん。ここはまだ叩くところじゃありませんよ!」

「駄目です。そんな姿で、そんなことをして許されると思っていらっしゃるんですか」

「わかりましたよ……妥協しましょう。玲菜さん、綾音さんどちらでも構いませんから口付けして唾液の交換でも……あ、痛っ」

「どうせ舌入れ込みなんでしょう? 嫌よ、気持ち悪い。想像するだけでも吐きそう」

「むぅ、簡単に頭を叩かないで貰いたいですね。大体、それをやったとして一時的にしか戻れないというのに、いつまでも初心な事を……お二人は小学生ですかっ!」












「……千尋、今朝からご飯も食べてないけど本当に大丈夫なの?」

 部屋の外から母親の声が聞こえた。

 昨日の激闘の果て――スタニスワフは何とか家まで辿り着いてくれたらしいが、千尋の髪はショートヘアになっていたし、体中にいくつも傷があった。こんな状態ではとても誤魔化せそうになかったので、土曜でも休みにならない学園を仮病で休んでいた。

 そして、時は既に夕暮れ。

 スタニスワフは消費が激しかったのか、今朝からずっとまともに会話もしていない。千尋はただ布団に包まって、呼びかける母に頭が痛くてもうしばらく寝かせて欲しいと返した。

 なかなか納得しなかった母だが、日頃から素直な彼女のわがままをたまには聞いてやろうとあきらめてくれた。

 部屋の中がすぐに沈黙した。

 体中の傷も一応は包帯や傷薬で手当てしたが、すぐに治るものだろうか?

『……ふぁあ、よく寝た』

 耳元から聞こえたのは吸血鬼にはらしくない間抜けな欠伸。

 だが、千尋は少しほっとした。自分を喰ったという怪物の生存がどこかうれしかったような気がする。それは彼が取り付いた人間に植え付ける潜在意識下での刷り込みの結果なのかもしれないが、不快ではなかった。

『千尋、こんな時間なのに何してる……いつもなら、勉強の最中じゃないのか?』

「いいえ、今日は学校を休んだの。こんな傷だらけの身体ですもの、学校へ行ったらすぐに怪しまれてしまうわ」

『ふぅん。何て言うか、別に怪しまれても構わないんだがな……親が不良行為を犯した娘の噂を広めたがると思うか?』

 そう言われて考えてみた。確かにあの両親は世間体が気になるらしい、日頃からそんな噂ばかりしていた。

「吸血鬼さんって、よく見ているのね。確かに、二人ともそんな人間だったわ……でも、それにしても行動が制限されるんじゃない?」

『構うかよ。アンタもそんなこと気にする性質なのか?』

「あはっ、どうだろう……そういうこと、あんまり深く追求したことないから」

『はぁ、しかしヤバイな。魔力のストックがほとんど空だぜ? わざわざ魔力溜めようと思ってたのに、まるで逆……おまけに腹は減るし、踏んだり蹴ったりだ』

 布団から這い出た千尋は、パジャマ姿のまま窓の前に立った。カーテンの隙間から見える六時の景色は既に薄暗く、肌寒ささえ感じた。

 十月二十一日、既にそんな時期になっていたのだと改めて思う。

「ねぇ、吸血鬼さん」

『ん?』

「昨日の白い女の子、公爵の娘って言ってたけど」

『吸血鬼の世界にも貴族はいる。連中は魔術師の世界で高位の貴族をしていたのがほとんどだから、吸血鬼になってもそのときの名残で爵位を名乗るのさ』

「へぇ……いつの世界でも、どこの世界でもそういうことする人はいるのね」

『まあな。それで、連中の爵位は半ば自称だ。元々、吸血鬼の世界には貴族なんて存在しないからな、当然自称するしかないわけ』

「じゃあ、実際に偉いわけじゃないの?」

『おいおい、オレのご主人もその一人なんだぜ? それをあんまり馬鹿には出来ないだろ』

「ふふっ、確かにそうかもね。あっ、雨だ……天気予報だと月曜からだったのに」

 外を見ていると、青い屋根に水滴がポツリ。それが徐々に数を増していって、すぐに強い雨に変わる。

『でも実際、連中は爵位に関係なく強い。元々アデプトでも上位の連中だから……オレじゃどうにもならん。特に、公爵は別格だ。あのお方は実際も公爵だし、吸血鬼の世界でも公爵……公爵って言えば一番上だろ?』

「イギリス、それに日本でも昔はそうね。それって、偉いってことでしょう?」

『他の爵位は違うが、吸血鬼の世界で公爵を名乗っていいのは三人だけ。今じゃ、事情があって実質は公爵イコールあのお方となる。イフィリル様とあのお方は最低でも大達人……わからんだろうが、化け物だ』

 それは真実その存在を畏怖する声。相手がどれほどの存在かわかった気がする。

「……私もお腹が減ったわ。吸血鬼さんは私の食事だけじゃあ、魔力回復しないの?」

『オレ自身の回復もあるからその点は気にするほどのことじゃない。ただ、魔術は精神的なものが大きく作用する。精神の飢餓を満たす意味でもそういう食事が必要なんだ』

「私は……別に心の底から両親を愛してるわけじゃないけど、食べられるのは嫌かも。殺されるのも多分つらいわ」

『……別に、嫌なら別の奴でも替えがきく。無理してアンタを壊しても、オレが困るだけだ。体の移動は結構な大事だからな』

「ありがとう」

『勘違いするな、オレは別に殺さないといってるわけじゃない。壊れる確率が高い相手を狙う必要はないって言ってるだけだ。アンタも、今までに何人も下僕に変えてるんだぞ……ちっ、だから人間なんて好かないんだ』

「……ごめんなさい」

『あ? まったく煩い女だな、アンタは! 何謝ってんだ、オレは……ふん、まあいいさ』

「だから、ごめんなさい」

『……本当に……はぁ、ちょっと手を借りるぜ?』

 耳元の声がそう囁くと、右腕が勝手に上がった。そしてそこに握られていたのは昨日の本。

『口も、少々借りるとするか……』

「あ……よし、じゃあ取り敢えず傷の再生だけはしとくぜ? 行動を制限されれば、オレも損だからな」

 そう言うと、千尋の口が本に描かれた呪文を唱えた。自分が意識していない言葉が次々と紡がれていく感覚はどこか不思議な感じがした。

 呪文が完成すると同時に、窓ガラスに映った千尋の髪や顔の傷が一瞬で復元したのがわかる。時間を巻き戻したような魔術の発現に、思わず感嘆の声を漏らしかけた。

「じゃあ、取り敢えずこれで食事にはいけるだろ。オレも身体の持ち主が栄養失調になっても困るからな……はっ、あれ……? 私、に戻ったの?」

『ああ、じゃオレは寝る。アンタが面倒な事させるから、魔力のたくわえなんて出来やしねえ……ああ、そうだ。この前ポリから分捕った拳銃があったな?』

 耳元の声が告げるのは三日前に吸血した若い警察官が持っていた拳銃のことだろう。高位の魔術師相手では意味が無いといっていたが、ついでだからという理由で持って帰ってしまったもの。今は机の鍵付き引き出しにしまわれていた。

「ええ。鍵もちゃんとかけてるから、大丈夫よ」

『非常時だ、あんな玩具でも無いよりまし……月曜からの学校には持って行くぞ。ついでに明日は安息日ってことで、オレは完全に休業する。家からは絶対に出るなよ、絶対に。王冠に見つかれば処刑は間違いないし、公爵の件もあるからな』

「キャッスルゲート卿……マルドゥークさま?」

『はぁ……? おいおい……記憶まで融合だと? 何なんだ、アンタは!?』

「何って言われても……よくわからないわ。多分、頭のおかしい高校生なんじゃないかしら」

『……馬鹿? いや……そうか、なるほど。これがイフィリル様の言っておられた、悪魔……やられた。オレとした事が狙う相手を間違えたな』

「?」

『千尋は名門の出でもないくせに、才があった。要は、一点だけオレみたいな歴史のある一門のそれに匹敵するいい物を持ってた。レアケースだ……本当に運がない』

「よくわからないけど……私も魔術が使えるってこと?」

『厳密には違う。アンタが大した訓練も無く使えるのはごく一部のものだけで、他の一般的なのは何十年単位の修練の果てに使えるかどうか、ってとこ』

「魔術を使うのに、そんなに修行がいるの? 私も、勉強すれば使えたりするの?」

『あー、煩いな。何代も魔術に携わってる家系、つまり魔術世界の貴族に当たる家系の人間なら大した修練もなく魔術を使うさ。だがな、素人から入ればそれに至る道が長い。じゃ、今度こそ寝るぜ。絶対に詰まらないことでは起こすなよ』

「……おやすみなさい」

『ああ、案外ウザイ女だな! ガキじゃあるまいし、何が『お休みなさい』だ。馬鹿か……』

 言葉のわりには大して悪意の感じられない言葉。千尋はもう一度『おやすみなさい』と小さな声で彼に告げていた。 












「数得てみれば、スタニスワフも随分と増やしたじゃない」

 誰もいなくなった会社ビルの屋上から街を眺めるアンジェリカが呟く。真っ白い傘を広げ、ビルの下を歩く人間達を見下ろしていた。

「へぇ、今どれくらいいるの?」

 金髪の青年が彼女の横から聞いた。

「ふふっ、そういうのは秘密よ。ねぇ、どうせアイツに手が出せないなら……執行官たちが全滅すれば面白いと思わない?」

 実に楽しそうに語るアンジェリカを見て、青年は肩を竦めた。顎で彼女の後ろを指す。

「そんな真似をすればもう一度斬る」

 聞こえた声は冷たかった。かすかに剣の音も聞こえる。

「――ちぃ。でも、あたしはまだ魔力も回復していないもの。悪いことなんて、出来る訳ないでしょう?」

 なおもビルの下に広がる人の海を眺める彼女は実に不機嫌そうに言った。そんな様子を心配して、プリメラが弱々しく呟く。

「そう邪険になさらなくても……きっと姉さまが活発でいらっしゃるから心配されたのですわ」

「煩いっ! あたしの腕を斬って、その後で心配? 笑わせるわ、本当に笑わせる……宜しいこと、あたしに今度あんな真似をすれば許さないから」

「……取り敢えず、静観だ。公爵さまもどちらに肩入れするつもりもないとの事、勝手に介入など許されない」

「くぅ……テランの銀狼、あの女がお父さまに適当なことを吹き込むから――その上、たかだか二百年しか生きていないシュリンゲル如きがお父さまに命令したのよ? 貴方たちはそれを見過ごしてさぞ満足でしょうね! 度し難い無能揃い……兄じゃなかったら殺してるわ」

「それは奇遇だな。私も妹でなければ、斬っている」

「……本当に下らない! もう飽きたから霧海の下見にでも行くわ、ついてこないで」

 見物を取りやめ、階段に向かうアンジェリカに付き添おうとする影が二つ。

「――あたしはついて来るなと言ったのよ、逆らうなんて生意気だわ」

「でも、姉さまお一人では……公爵さまのお帰りもあと少しのはずですし」

「そうそう、僕が思うに今夜辺りはアンジェリカの歌が聞きたいと仰るんじゃないかな?」

 その言葉にアンジェリカの足が止まる。そして、そのまま振り向かずに答えた。

「……ふん、お父さまに貴方たちの下手な歌なんて聞かせられないわ」
 



[1511] 第三十六話 『憂鬱な朝』
Name: 暇人
Date: 2006/11/10 02:04






「はじめまして、アーデルハイトといいます」

 アデットにそう言われて、口をあんぐり開けたままの小夜さん。家でアデットの頭が五回くらい叩かれたところで例の議論は一応終止符が打たれ、俺たちは小夜さんとの待ち合わせ場所に行っていたのだ。

 辺りは雨。24時間営業のレストランの中までその音が聞こえてくる気がした。周りの席には客はいない、既に夜遅いからだろうか。あるいはこの雨のせいかもしれない。

 浅海は『面倒だし、雨って私の身体にもあんまり良くないからもう帰って寝るわ』とのこと、どうせ明日は日曜なのだからついてきてくれてもいいのに……融通の利かない奴。

 ……そう思っていたら、待ち合わせ場所を聞いて『奢ってくれるなら、行ってもいいかな』とのこと。結局ついて来てしまった。

 そういうわけでレストランに到着そうそうアデットを小夜さんに紹介したのだが、流石に事態を良く飲み込めていない様子。当然だろう、常日頃から『若返る薬や方法があるなら是非教えて欲しいもんだわさ』とのたまっていた小夜さんの望みがそこにいるのだから。

「本当に? 本当にそういう方法ってあるんだね?」

 アデットの肩を掴んで結構マジ顔の小夜さん。年が年、といっては失礼かもしれないが未婚のオバさんという立場に我慢できない気持ちもわからないでもない。

「なら、今すぐ二十代に戻しておくれ! 二十歳、そう二十歳でいいから早くっ!」

 必死だな、肩まで掴んでアデットでさえ少々引き気味になってる。店の人もオバさんの興奮ぶりにただならぬ気配を感じたようで、こちらに向けられた視線が少し痛い。

 ただでさえ怪しいこの面子で、こんな時間に店で騒いでは拙いに決まってる。

「ゴホンッ、小夜さん。私の前であまり無様を晒さないでもらえませんこと?」

 さっさと捜索を始めたい綾音に睨まれながらも、そんなことは気にせず彼女はアデットにしつこくせがむ。ああ、どこか悲壮感さえ漂ってくる光景だ。

 因みに、綾音がわざと口調を変えているのは『小夜さんが年寄り口調で喋るからです。喋り方がうつったなどという言い訳、誰が信用できますか? 以前も、最初にあったときにふざけてあんなことをしていたような人です。アレは確実に私を馬鹿にしてわざと言っているの! だとすれば、私がまともに対応する必要なんてどこにもないでしょう?』とのこと。

 最初はふざけていただけかもしれないが、俺にはアレは本当に口調がうつったのだと思うのだが……どうやら綾音の基準は少し違うらしい。それにしても、相手がふざけていれば相応の対応しか取らないとは何というか。だから、浅海と仲が悪いんだよ。それに、ポイントがずれてるぞ……完璧に。

 だが、まあそうは言ったが浅海も浅海だ。必死に笑いをこらえて顔を真っ赤にしているのだから……コイツも親にねだるときだけは口調も性格も変えてお願いするくせに、自分のことはすぐ棚に上げる。だから、平行線なんだよ二人とも。

「なあ、小夜さん」

「なんだい、公明? 私の邪魔をするでないよ!」

 どれほど必死なんだろう、この人は? 俺の方を振り返ったときの視線は血走っていた気さえする。

「いや、一応聞いておきたいんだけどな。若返るためなら腹を割かれて、首とか落とされても構わないのか? アデットの方法って、相当痛いらしいぞ」

 それを聞いて、アデットの方から手を離した小夜さんはしばらく考え込んだ。十秒間石のように固まったままでいたかと思うと、突然アデットの方から手を離した。

「わかったわさ。駄目、そんなのは絶対に駄目! さっきの話はなしってことで、捜索を開始するとしようかね?」

「魔術を知識としてだけなら知っていらっしゃるのに、どうしてその程度のことであきらめるの?」

 綾音が疑問をはさむ点は相当違うと思う。確かに死ぬわけじゃないが……いや、でも腹を割かれたり、首を落とされればちょっと痛い程度じゃすまないぞ。むしろ疑問なのは、綾音はそんな代償があったとしても目的のためなら構わないのかということか。

「そうそう。別に死ぬわけじゃないんだし、お腹を引き裂かれるくらい我慢すれば?」

 こんな時間だというのにパフェなど注文した浅海はまるで他人事のように、適当な相槌を打っていた。

「……浅海、何故お前はそこで同意する? 話理解できてないだろ」

「そう? 私、呪いが解けたり、位階がアデプトまで一気に上がるとかの特典があるなら……一回や二回、斬られるなんて別に構わないわよ? まぁ、何処かの役立たずみたいに殺意のこもったのは勘弁だけど」

「おかしいだろ、それ。斬られたら普通死ぬんだぞ? 位階ってそんなに大事なもんか?」

「超名門でも達人級の人が出るまでには何代も間隔が空くわ。それより上は片手で足りるほど……何百年、酷いときには何千年生きても至れない人は至れないものなの。だから、大事。理解できた?」

「よくわからないけど、位階が上がると何だって言うんだよ?」

「うーん。まあ、言い方が悪かったわ。位階が上がったとして、別に何が使えるようになったって訳じゃないしね。より詳しく理解できただけだし」

「? はぁ?」

「そうね。位階自体が重要っていうよりもそれに至る過程が重要、かな? 位階なんてものは、金メダルやノーベル賞の類って事。この例え、わかる?」

「なんとなく、要するに人より早く走ったり、今までにない法則を見つけたってことが重要なんだろ」

「そういうこと。達人に至った人は至るまでに、より緻密な魔術を組む方法に気がつくそうよ。天啓や閃きに似てると思うけど、研究の成果っていうか……今までの積み重ねでそれに気がついたって感じかな」

「それはわかった。だけど、それなら自分で努力しろ。腹を裂かれるなんてのは絶対ためにならないから」

「まったくだよ! 本当に、莫迦なことを言うでないよ。腹を掻っ捌かれたら、そりゃ切腹だよ、切腹!」

 江戸時代の切腹は案外、格好だけの場合が多かったらしいけどな。それに女は切腹しないし。

「……そうですね、いわゆる古きよき日本の伝統。そこまで小夜さんが若返りたいとお望みなら、薬物で頭を少し改良して痛みをやわらげられるように努力します」

 アデットも真に受けた振りをして、結構危なげな話を語り始めた。彼女の薬は本当に危ないから、実に笑えない冗談だ。尤も、小夜さんをからかっているだけではあるが。

「ま、若返るのは止めといた方がいいってことだって。それより、今日はどこ探すんだよ? 目星はつけたんだろ」

「そうさね。実は色々探ってるうちに、今までに殺された連中が吸血鬼にされた場所を地図で描いてみたんだわさ」

 そう言って差し出された地図――結構近い場所に×印が集中している。アデットやサーシャも『どこで吸血鬼にされたか』はわからなかったので、この地図は彼女にとっても新しい情報だった。

「襲われた時間も調べたよ。私の能力はね、どうにも不便で連中が襲われた場所を知ることは出来ても、襲った相手の容姿は詳しくはわからないんだわさ」

 小夜さんが示した時間はどれも同じような時間だった。深夜、それも二時以降には誰も襲われていないという徹底振り。

「ここまでの時点でわかると思うけど、犯人は車を持ってないね。電車ということもないだろうね、何しろこんな深夜に走っているのはないから……タクシーというのもないだろう、一応会社も調べてみたけどそういう話はなかったから」

「自転車やバイクということは?」

 疑問を呈したアデットに小夜さんは少し間を置いて答える。

「うーん。自転車はわからないけど、バイクの可能性は低そうだわね。四番目の被害者が襲われた場所は騒音に厳しい場所で、深夜の一時にバイクが走っただけで警察に電話するような神経質な、というより少々迷惑な住人がいるから」

 その住民には相当苦情を言われたことでもあるのだろうか、小夜さんの顔は苦虫を噛み潰したようだった。

「少なくとも地図の点の中心辺りが怪しい、と考えて宜しいの?」

 綾音が指したその点はかなり範囲が広いが住宅地。高級住宅地からマンションまで、色々と含んでいた。

「そうなるのが常道……とは言うけどね、犯人は何度も追いかけられた経験のある奴だから何かしらの魔術での移動を使うかもしれないし、体力が人間以上なら走ったのかも。それに、元魔術師の吸血鬼だよね? どんな裏技を使うかわかったもんじゃないよ」

 自信なさそうに言う小夜さん。確かに、魔術など使われてはまともに捜してもそれを見つけるのは難しくなってしまうことだろう。

「それは構いません。こちらも同じように魔術を使って捜せば足りることですから。それよりも、詳しくはわからなかった容姿についての説明を」

 アデットに促され、少し考え込んだ小夜さんはゆっくりと覚えている限りの特徴を挙げた。

「容姿ねぇ……うん、髪が長くて華奢な体格。でも、血を吸う寸前の力は結構なものだったみたいだわさ」

「女、ってことなのか?」

 個人的にはあまりいて欲しくはないが、そんな男がいないとも限らない。

「アレは間違いなく女だよ。それから、この吸血鬼がどうして夜だけ出てくるかを考えてみればもっと詳しく予想できるだろう? 連中は昼にも相手を襲えるんだよ。夜にしても、制限時間が必要かい?」

「……昼間は仕事をしている?」

「いいところに気がつくね、綾音。そういうこと、しかも家族がいるんじゃないかね」

「時間制限はそう……ですが、条件に合う仕事といえば公務員、パートタイマー、主婦、他にも色々あるでしょう。それに、老人に化けているかもしれません」

 口調が戻ってきてるぞ、綾音。流石に踏み込んだ捜索に関わるのだからふざけている場合ではないか。

「老人ということはないだろうね、若かったよ。それから、若いということから主婦という可能性も低くなるんじゃないかね。私の所見だけどね、どれだけ老けてても二十代後半まで……住宅事情を考えてみな」

「住宅事情ですか?」

「綾音の家みたいに馬鹿でかい一戸建てに住んでる二十代の主婦がそうそういると思うかい? そりゃ、親と同居してれば話は別だけどね、ローンを組んで買うにしても地図のこの辺りは地価も高い。一戸建てを買うほどの金持ちも捜せばいるだろうけど、普通はこちら側のマンションやアパートが関の山だろう」

「なるほど、この辺りはわりと高級住宅地だからな」

「そういうこと。マンションやアパートだとすれば、だよ? 主婦の場合、旦那と相部屋の可能性が高いし、赤ん坊がいれば誤魔化しきれないよ」

「てことは未婚か……うーん。俺もよくわからないのにこんな事いうのは気が引けるけど、家の人間を殺したか吸血鬼にした可能性は?」

「そういった可能性もあるかもしれません。ですが、それでは近所に怪しまれるのでは? この近辺のコミュニティーで流れる噂で露見するでしょう」

 アデットは少なくとも犯人が自分とわかる位置での殺人はしないと考えているらしい。別にばれれば殺されても構わない、そういう犯人も今回ばかりは時間が来るまで殺されたくはないようだ。

「そういうことだわさ。この辺りのマンションは孤独死や泥棒対策のために住民間の交流が割りとあるから、何日も姿を見なければ怪しむ人間が出てくるだろうね。特に、今回の吸血鬼とやらは昼間外を歩けないんだから」

「では今夜は住宅地を、特に条件に合う女性を中心に捜す、と?」

 綾音の言葉に、外を見ていた浅海は息を漏らす。雨はひどくなる一方、しばらくは止む気配はない。

「それが良いかと思うんだけど、しばらく前から書置きを残して行方不明らしい高校生がいてね……お目当ての捜索は後回しにして先にこっちを済ませようかと思うんだよ」

「なるほど、了解しました。それで、私はお二人と違って小夜さんがどうやって捜すのか知らないのですが?」

 アデットはそういうが、俺も実際にはどうするのかよくわからない。前はサーシャが邪魔に入ったし、小夜さんはほとんど昼間に動いてたから。

「ああ、件の高校生は普段から外泊が多くて、近所では有名な不良息子だったらしいんだ。それで、少年がよくたむろしていた場所があるからそこから彼の記憶を辿っていこうってわけさ」

 少年はいつも黙って外泊してばかりだったのに、今回だけ書置きというのはあまりにも不自然だと親が小夜さんのところに先日電話で相談をしたらしい。微妙……ちゃんと書置き残した方が怪しいなんて、そう思われることが気の毒。

「どこです?」

 地図を見ながら綾音がきいた。小夜さんはそれを覗き込みながら、その場所を指差した。先ほどまで注目していた住宅地とは違って、人々が襲われた点にずっと近い場所だ。

「しばらく前に潰れたレストラン、いわゆる廃墟って奴さ。吸血鬼になったといっても、基本は変わらないんだろう? それなら、普段から縁のある場所に立ち寄る可能性は高いよ」

 至極まっとうな意見だが、アデットは少し首をかしげた。

「私の見解では……彼らの性質は人食いのそれに近づいていて、非常に危険でした。アレが、未だに人間だったころの縁などに惹かれるでしょうか?」

「私は見てないからなんともいえないよ。でも、どんな犯罪者だって縁もゆかりもない場所にはなかなか逃げられないものだし、連中は少なくとも主がいる間はこの街から外には出ないんだろう?」

「私とミルチャさんの憶測ですが、主がいる限りは彼らもこの街を離れられないはずです」

「だとすれば、決まりだね? 早速調査しておいた廃墟に行こうか」






 それから二十分少々――傘を指した俺たちはその廃墟にやって来ていた。何年も前に廃業したレストランの扉には鎖が巻かれて鍵がかかり、カーテンからかすかに覗く店の内部には埃がたまっている様子だ。

 住宅地から結構離れているし、近くのビルには空いているところもいくつかある。きっと当初予想した通勤客などが別な店か自社の食堂で済ませたから採算が取れなくなったのだろう。

 そういえば、前に不味くて有名な店があるって聞いたけどここかもしれない。

 近くの道路脇に車を止めた小夜さんはそのまま残るそうだ。危ないことだけは勘弁、そういって聞かない彼女をここに連れてくるのは流石のアデットもやらなかった。

「で、どこから入るつもりなんだ。別に窓とか壊れてないし、本当にこんなとこ溜まり場にしてたのか?」

 見た限り品のない落書きなどが店の裏には目立ったが、管理会社がこの物件を管理しているみたいだし、鍵の方はそう古いものではなかった。

「そう? 公明って目が悪いわね」

 不思議そうに言った浅海。他の二人も、俺の注意不足だと口を揃えた。

「まったく……裏口の鍵です。こちらには鎖は巻かれていないし、ただのドアだわ」

 それはわかる。だが、だからと言って鍵が開いているわけではないだろう。ために捻ってみても、確かに施錠されていた。

「ほら、閉まってるぞ」

「綾音はこういうの得意でしょう? やってあげれば」

「貴女が力ずくでねじ切ればいいでしょう! ……とはいえ、流石にこれを壊しては相手に警告を発するようなものね」

「でしょうね。道具、あります? 良ければ貸しますよ」

「結構です。このタイプなら十秒あれば足ります、古い型で防犯がまるでなっていないですから」

 そういいながらアデットの差し出したピッキングアイテムを断り、綾音はドアの前に軽くしゃがんだ。財布から細い針金のような道具を二本取り出すと、それを鍵口に差し込んで何やら出し入れして盛んに動かした。

「少し掛かりました。前の仕事が粗かったから、内部がわずかに傷んでいたようね」

 きっかり十二秒、ドアはまるで最初から開いていたように静かに開いた。

「……何、お前のスキル? 何でそんな犯罪チックな技術を……」

「細かい作業が多い術者なら日頃から指先を鍛えるためにこういうことも当然の嗜…………あっ」

 最初は実にクールに俺の質問に答えていたのだが、急に思い出したように黙り込み。恥ずかしそうにうつむくと、それより先の答えは言わず無言で店の中に進んでいった。

「当然の嗜み、って続く予定だったのか?」

 まぁ、こんなことが得意なのはあまり自慢できることでもないから恥ずかしがるのも当然か。

「ほら、見てください。このドアの鍵、細かい傷がいくつもついているでしょう? 前に入った人間がいる可能性を示しています」

 見れば、確かにドアの鍵にはいくつも傷がついていた。雨でよく見えなかったが、彼女達は泥棒あるいは防犯のプロだろうか。

「近くを見てみればわかると思うけど、裏口は死角よ。近くのビルからは障害物が多くてこの裏口は見えないし、カーテンが二十四時間閉まっていても不思議に思わないでしょう? 吸血鬼は好きだと思うわよ、こういう場所」

「……じゃあ、中にいる可能性もあるってことか?」

「ドアの傷は新しかったですから、高いでしょうね。雨ですし、外出した可能性は低いでしょう。さ、綾音さんに続きますよ」







 中に入ると、綾音は足元の埃をライトに照らして眺めていた。見れば、人の足跡のようなものが見えるし、何かを引きずったあとのようなものもある。

「ビンゴ。確かに、人が殺された臭いがするわね……最悪、腐ってるわよ?」

 俺にはそんな臭いはしない。だが、浅海の言葉は何気ないようで本気だった。

「ということは、イフィリルが作った条件に外れた被害者? スタニスワフの僕の方ですかね」

 未だに露出の多い服装で店までやってきていたアデットはすたすたと綾音が見つけた痕跡を辿っていた。店のテーブル、厨房の機材、多くはそのまま放置されていたが辺りには確かに人がいたらしい形跡も見受けられる。

 散らかったお菓子のゴミ袋、飲みかけのペットボトル、くしゃくしゃの紙くず。小夜さんが言っていた少年は一人ではなく、結構な数でここに来ていたのだろう。

「まったく……誰もいないなら小夜さんに来てもらえば速かったんじゃないか?」

 確かに狭くはない店内だが、それでも一目で大体見渡せる程度の空間だ。見たところ、特に吸血鬼らしい影はなかった。

「いいえ、いますよ。確実に……厨房に隠れている人、さっさと出てきてください」

 アデットに指差された場所でかすかに動く気配がした。そして、すぐに人影が現れた。血だらけの出刃包丁を持った紅い瞳の少年。茶色い髪を肩まで伸ばしたラフな格好の彼は、薬でもやっているんじゃないかと疑いたくなるような気味の悪い笑いを浮かべ、姿を晒す。

 魔力を目に集めた俺の目にもわかる――服は血まみれ、ズボンや口にもべっとりと血がついた相手の姿が。

「は……ひゃははは、美味そう。どうした、叫んだりしないのか? 俺は吸血鬼なんだぜ?」

 皮肉なものだ……本物よりも劣化コピーの方がらしく見えるとは。

 周りの人間達の視線が奇妙なものだと感じた吸血鬼の少年は笑いを止めた。

「何だよ、お前ら? 何で叫んだりしないんだ、お前ら犯して殺して喰っちまうぞ!」

「……品のない祖なのですね、スタニスワフというのは。サーシャが殺したのもこれの同類ですか?」

 まるで少年を相手にしていない口調だった。

「ええ。大した違いはありません、尤も人殺しをした個体はこれが初めてですけど」

 別に人殺しをしたことを怒っているわけでもない口調だった。

「で、どうするの? 滅ぼす、それとも捕獲して研究素体とか? 魔眼で睨めばそれで終わりっぽいから、私が捕まえようか」

 実に面倒臭そうな口調だった。

「いいえ。親と繋がりがあるのなら、そうするところですがスタニスワフは繋がりをほとんど切断していて、追跡できませんでした。なので、捕獲の意思はありません」

「なんなんだよ、お前ら! 俺は吸血鬼なんだぞ、何でビビらないんだよ! くそっ、ぶっ殺してやる!」

 周りの醒めた視線を不快に感じたらしい少年は包丁を掴んだまま、近くにいたアデットに斬りかかった。

「素人ですね、人を刺すつもりなら持ち方が違います」

 別に人間離れしたスピードでもなく、怪力があるわけでもない。魔術を使うわけでもないし、魔力の存在も知らない。俺からしても少年の動きはあまりにも鈍かったし、多分こちらが素手でも何とかなったことだろう。

 わずかに十歳程度の少女に斬りかかったのは人質にでもしようと思ったのかもしれないが、馬鹿な選択だった。

 少年の一撃は軽く避けられ、その勢いを利用した投げ技でテーブルに背中から激突した。その衝撃で腕がへし折れる嫌な音がした。あの投げ方からして、ちょうど関節から折れるようにわざと狙ったのだろう。

 あんなことしなくても、魔力の存在も知らない彼とならアデットがあの身体で殴りあったとしても勝負にもならなかっただろうに。

「い、てぇ……くぉ」

 未だに握っていた包丁で反撃しようとした少年だったが、それより早くアデットの指が少年の眼孔を抉っていた。

 思わず目をそむけるような光景――獣のような叫び声が聞こえたが、少年の手から奪われた包丁が喉に突き刺さったとき悲鳴が途切れ、すー、すーといういやな音だけが聞こえるようになる。

「相変わらずグロイ事するわね……悪趣味」

 目を開けると、テーブルの上で未だに生きてうめいている少年と血で染まった指を舐めているアデットの姿があった。

「別に趣味ではありませんよ。ただ、あまり気にしていなかったのですが彼らの復元力は如何程のものかと思いましてね……こればかりは、実物に試さないとわからないことが多いかなと」

「では、捕獲ということですか?」

「いいえ、それはないと言いました。言葉を翻すのは、あまり格好のいいことではないと思われません?」

 喉からぶくぶくと流れ出る血、顔を覆っている指の間からこぼれ出る血液の流れ。そんな状況でも少年は生きて呪詛を投げかけようとしていた。

 幼女の姿になったアデットはとても美味しそうに吸血鬼の血を何度も徒って舐めている。不完全なホムンクルスの身体にはあんなものでもうまいのだろうか。

「とはいえ、生命力は人間以上のようですね。血も結構美味しい……ほら、もう少し私に頂戴、ボウヤ」

 暴れる手や頭を押さえ、包丁の突き刺さった喉に優しく接吻する金髪の少女。流れ落ちる血液が彼女の喉を潤した。

 首に突き刺さって、テーブルにさえ到達しかけていた包丁をゆっくりと捻る細い指。痙攣する身体はそれでも死ぬことはない。本当に生命力だけは人間以上ではあるのかもしれない。

「おい、いくら人殺しだからって……」

 俺がそう言おうとした瞬間、包丁が突き刺さったまま吸血鬼は飛ぶように立ち上がり、凄まじい形相でアデットに襲い掛かる。未だに喉は再生していなかったが、抉られた瞳は再生している。

 それを予期していたらしいアデットは、いつの間にか喉から抜いていた包丁で心臓を一突き。心臓を貫かれた吸血鬼は断末魔さえ上げることが出来ぬうちに、体が灰になって消失した。

「瞳の再生におよそ三分といったところですか。眼球を完全に潰したわけではなかったので、実際にはそう不可思議な速度でもありませんね。関節は復元し切れていませんでしたし……ただ人間から成ったにしては魔力の保有量が多かったですね」

「人から吸血した影響ですか?」

「でしょうね。そういう計算ではいつか親に匹敵するほどの吸血鬼が出てこないとも言い切れません。が、それはあくまで可能性。彼らの親はもっとレベルが高いです……公明さん?」

「?」

「先ほど何か仰るつもりだったようですが?」

「……いや、まさかあそこで相手が起きるとは思わなかったから……やりすぎなんじゃないかと」

 アデットは軽く首を振った。

「やり過ぎ? 公明さん、そもそも彼は既に死人ですよ。ただ身体を動かされていただけ……殺したというより、本来あるべき姿に還しただけです。玲菜さん、何人ですか?」

 厨房の奥を少し覗いてきた浅海は肩をすくめて言った。

「三人、服からして殺されたのは彼の友達みたいね。公明は見ない方がいいんじゃない? 奥で腐ってるから」

 後にわかった話によれば少年は仲間の少年達を同胞にしようとしたらしいが、彼らは吸血鬼にならず死んでしまったのだとか。腐っていく仲間の前で自身の選択の愚かさを呪うではなく、彼はただ自身が選ばれたから自分だけは死ななかったのだと感じていたらしい。故に彼の神の意思に従って、人を食って生きていこうと考えていたという。

「ついでに料理もしているんじゃないですか? 何しろ、食人趣味の狂人が親ですから」

「アデット――それは黙っててもいいんじゃない。デリカシーないわね」

「玲菜さんからそういう指摘を受けるのは、非常に屈辱的なのですが……こういう事情です。綾音さん的にはここを一度封鎖して、後日魔術で誤魔化します?」

「それがいいでしょうね……それから、小夜さんにもう少しここの情報を……」

 背筋が冷たい。そんなに危ない連中が街に増えている、実感はほとんどなかった……今までは。

 だが、現実なのだと思った。さっきみたいに死に難い頭のおかしい殺人鬼が暗躍する。冗談じゃない……そう、これは本当に冗談じゃなかったんだと改めて思う。同時に、彼女達の感覚と自分の感覚のズレを再認識させられた瞬間だった。







 憂鬱な目覚め――チャイムの音が聞こえて漸く目が覚めたが、昨日の光景が忘れられず実際にはほとんど寝ていないのと一緒だった。

 アデットたち全員、結局勝手に泊まっているがもう起きているのだろうか?

 時計を見ればすでに十時を回っている。日曜日の朝とはいえ、本当になんて時間に起きているんだろう。この分なら彼女達は食事も済ませたのではないかとさえ思った。

 毛布をかけただけで寝ていたことに気がつく。頭が痛い、ベッドから落ちていたうえ昨日からの睡眠不足が祟ったのかもしれない。

 何とか起き上がると、そのままチャイムを鳴らす相手のところまで降りていく。幸いなことに服は昨日のままで着替える必要もなかった。アデットたちが起きていたとして、こういった相手の対応は任せたくないし、彼女達が勝手に出ていないことを祈った。

 階段を下りきったとき、扉が開く音が聞こえた。

 扉を開けたのはアデット――嫌な予感的中。どうしてそんな勝手なことをしてくれるんだ、まったく。

 知人の遠い親戚の娘さんとでも言い訳するしかないか……そんなことを考えながら玄関に辿り着くと、アデットの目の前には三人の少女。

 真っ黒いスカートを軽く持ち上げてお辞儀したのは――

「公明さま、お久しぶりです」

 白いブラウスを着た彼女は知った相手、プリメラ嬢だった。

「はん、貧乏貴族らしくみすぼらしい下男を使っているのね……シュリンゲル。貴女みたいな三流には、こんな呆けたのが実にお似合いだわ」

 何故俺を下男扱いするのかよくわからないが、酷く不機嫌そうな白い少女。お互い初対面の相手なのに何て失礼な奴だろう。とても綺麗ではあるが、彼女からは温かさというものがほとんど感じられない。

「ふ、小童。妾の前にそのような無防備な姿で現れるとは……其方、死にたいのだな?」

「え?」

 思わず足が止まった。プリメラに振ろうとしていた手も止まった。

 三人いた少女達の先頭に立っていた彼女は……プリメラが二人? いや、違う。彼女は二人いない、いるわけがない。

 記憶を総動員してもあんな外見をした相手は一人しか思い浮かばない。だが、そんなことがあるか? 吸血鬼の頂点を自称するような高慢ちきな相手がわざわざ俺一人を殺しに来る?

 だが、玄関で俺達が迎えた相手は間違いのないくらいにプリメラより美しいと思える少女……いや、なにかが微妙に違う。そうだ、何かが違う。

「ん? どうした、恐怖する感情を覚えたか?」

 尊大な態度で臨む黒髪の少女はしかし、どこか違う気がする。一言で言うならば、前に見たときのような引き込まれる魅力が感じられない。あれではプリメラと同じ……ん、同じ?

「あー、えーと……プリメラの姉妹か何か?」

「なに? 貴様はこの妾を人形風情と同列に扱い、あまつさえこの機械人形と血肉を分けた姉妹呼ばわりするのか」

 こちらを睨む紅い瞳からは殺意は感じられない。

「勘違いだったら謝るけど、本当に違うのか?」

「……僕の正体を見破るとは驚くな」

 声はそのままだが完全に口調が変わり、実に人間らしい笑みを浮かべた彼女。だが、『僕』というのは、コイツ……男?

「僕はクロエ。クロエ・シャーロット・ド・ブランヴィリエ、後ろの白いのは妹のアンジェリカ」

「クロエ。爵位もないカスにあたしの名を告げるなんて、あなた私の代理か何かのつもり? だとすれば、思い上がりも甚だしいわ。頭に詰まっているデータはジャンク?」

 白い少女アンジェリカ――何て口の悪い女、プリメラの関係者とは思えない性格の悪さだ。十三四歳程度、天使のように美しい声と外見なのに態度の悪さは今まであった中でダントツ。本人を前にしてこの態度とはよほど身分の高いお貴族様なのだろうが……気に入らない。

「姉さま、そんな暴言はお慎み下さい! 失礼ですわ」

「煩い。お父さまを変態扱いするような猿相手にまともな対応なんて出来る貴女が異常なのよ。恩知らずの出来損ないは黙ってなっ!」

 相当機嫌が悪そうだった原因はそれか。まさかあの変態にそこまで執着する生き物がいるとは思わなかった。あんなのでも自分の人形からはここまで好かれてたんだな。やっぱり性質の悪い洗脳だ。

「あの、アンジェリカだっけ?」

「なに? まさか分際も弁えない猿如きがこのあたしを呼び捨てにするつもりなの、馴れ馴れしい。お父さまから厳命されていなければ殺してるとこよ」

 態度は最低。真性の変態を変態と呼んだだけなのに、どうしてこんな態度を取られなくてはならないのか? その理不尽は甚だしかった。

「その、イリヤのことを変人扱いしたのが気に入らないのなら謝るよ。ごめん」

 取り敢えず、理不尽に切れている相手を宥めておかなければこの状況さえつかめない。

「え………………ふん、わかればいいのよ。そっ、そうやって素直な態度を示すのなら……特別に名前を呼ぶくらい許可してあげるわ」

 素直に頭を下げられるとは思っていなかったのか、アンジェリカは途端におとなしくなった。先ほどまでの敵意は消え、視線を横にそらしたまま手袋を嵌めた右手をこちらに差し出してくる。

「礼儀を知るなら、跪いて口付けなさい」

 態度の尊大さまで一瞬で改善されるわけもないよな……てか、何で跪いて口づけするまでしなきゃならないんだよ。ここは日本だし、今は二十一世紀だぞ。

「いや、流石にそこまでは……それに俺日本人だし、そっちの作法知らないから」

 するとすぐに紅い瞳に怒りの感情が復活する。

「あたしが下手に出ていれば……随分と生意気な猿ね。あたしの言葉に逆らうつもりなの? 跪きな、ファヒテ・レ・アディ!」

 アレで下手に出ていたのなら、コイツが高飛車に振舞ったときはどれだけ痛い女になるんだ?

「おやめください、姉さま! え……あれ?」

「へぇ、これはこれは……」

 不思議そうな視線を送る目の前の三人――アンジェリカは呆気に取られ、残りの二人もあんぐりと口を開けてこちらを見ている。

「……ごめん、何だって?」

「!? 何コイツ、ファヒテ・レ・アディ!」

「? さっきから何言ってるかよくわからないんだけど、日本語にしてくれるか?」

「……何者? シュリンゲル、この動物は新手のホムンクルスか何か?」

「失礼極まりないガキだな。お前こそさっきから意味の解らないことばかり言って。それにな、俺は人間! なにが『動物』だ」

 二人のやり取りを聞いていたアデットは苦しそうに笑いをこらえていた。

「ぷっ、あはは。何だか面白い会話をしていらっしゃるから、いつ入ればいいのか考えてしまいましたよ」

「煩い! 道化だと思っていたけど、そう……よくわからないけど何らかのトリックがあるんでしょう? いい度胸ね、あたしを愚弄するなんて。喧嘩するつもりなら買うわよ」

「電波でも受信してんのか、お前は。俺はさっきからお前に愚弄されてはいるが、お前を愚弄してなんていないし、大体俺のどこが道化だって?」

「はっ、道化じゃない。低脳な人間、あたしの十分の一も生きていない分際で偉そうにタメ口聞くんじゃないよ!」

「……本当に我慢ならないガキだな……で、結局お前らって何しに来たの?」

 すっかりアンジェリカのクソ生意気な態度に目的をきくことを忘れていたが、別に彼女達も観光に来たわけではないだろう。何しろ、彼女達の主も昨日ここを訪れたくらいだ、偶然のはずがない。

「ふぅ、アンジェリカさんが話の腰をいきなりへし折ってくれていましたが……漸く本題に入れそうですね」

 アデットは実に平然のしたもの。アンジェリカに睨まれてもそれを受け流している。

「煩い! ああ、そうだったわ。シュリンゲル……この前お父さまの『レディ・アリス』にコテンパンにのされたそうね? 流石に下等なだけあって無様を晒すわね」

 高飛車で、傲慢で、むかつく女貴族を体現したというべきアンジェリカは本当に我慢のならない少女だと思う。どういう教育をしたのか、と問うべき相手が既に破綻しているのでは改善など見込めるはずもないの。それが残念でならない。

 ただこれはプリメラ嬢がこっそり耳打ちしてくれたのだが、イリヤの前でだけとんでもなく恥ずかしがり屋になるし、イリヤが関わらない状況では滅茶苦茶良い人に変わるという………………絶対嘘。

 彼女が言う『レディ・アリス』は正式名称を『しんそうのれいじょう』という杖あるいは棒のことらしい。あの変人がつけるだけあって別称も正式名称も、とても武器には思えない名前だ。まさかとは思うが、深窓の令嬢という字を当てるのだろうか?

「ええ、本当にそうですね」

 まるで他人事のように頷くアデット。アンジェリカはそれを忌々しげに睨みつけたが、怒りもしない相手に自分だけ怒っているのも滑稽だと気がついたのか、すぐに黙った。

「じゃあ、僕達も本題に入ろうか? 実はアンジェリカとプリメラは何の用事もないのに勝手に僕についてきただけなんだ。だから、実際に用事があるのは僕だけ」

 落ち着き払った黒髪の美少女クロエ。これで漸く話が出来そうだ。

「わかっていますよ」

 そう言うと、俺の方を向いたアデットはクロエを指して俺に紹介する。

「公明さん? 昨日話しておいたように、彼女が学園で私の代わりを務めてくれるそうです」

「? どうやって? 見た目が全然違うじゃないか」

 俺の言葉を受け、クロエは突然マントを羽織ってから服を脱ぎ始めた。

「おいっ、馬鹿! 何脱いでんだ、ここは玄関だぞ!」

 俺が止めようとするのをアデットが制止した。

「なに、って……体格を変えるとき服が破れると困るだろう?」

 そういいながらクロエは服を脱ぎ終えた。脱ぎ終えた服は全て他の二人が回収した。

「体格を変える?」

 俺が復唱したとき、その変化に気がつく。俺の目の前でクロエの身長がゆっくりと伸び、髪の色が変わり、瞳の色、体つき、そういったものが全て変化していった。

 そして、一分も経たないうちにそこに経っていたのは俺が良く知るアデットの姿。

「ほら、これで誤魔化せる」

 裸の上にマントを羽織っただけの金髪の少女はうっすら笑みを浮かべて言った。

「宜しく。アーデルハイト、それに公明……」

 青の機士クロエ――『スペルマスター』の異名を馳せ全ての魔術に通じた、アンジェリカとは対極的な魔術師。飛びぬけた才能は聞かれないが、その容姿さえ男にも女にも変わる『無』を体現したようなのが彼女あるいは彼。

 よくわからないが、四色で二番目に危険らしい。一番危険なのが、アンジェリカかと思えばプリメラ嬢という辺り……何の評価かよくわからないが、あまり当てに出来そうにない。

 本当の姿は茶色い髪の大人の女性らしいが、それを見たことがあるのは四人だけなのだとか。男でも女でも気に入った相手は好きになるという……俺にとってある意味最低の変態になりうるのがコイツ――そう気付くべきだった。

 後の話、脂ぎった親父の格好をして現れたこの変態ヤロウが俺に抱きついてきたときなどは……思わず叫んでしまったと言っておく。








[1511] 第三十七話 『時を統べる者』
Name: 暇人
Date: 2006/11/20 06:55



 




 『テランの銀狼』――その他にも数多の名で呼ばれる存在、一部の者たちが語る預言者がいる。

 ――曰く、彼の者は真祖に死を告げる。曰く、歴史を紡ぐ――

 銀色の髪を靡かせ、どれほど堅固な要塞にでも、どれほど強力な祖の元にでも訪れる『死』の代名詞のような存在。

 そんな相手がまるで何もない空間から現れた。

「こんにちは。そして――ご機嫌麗しゅう、偉大なるザグロス公マルドゥークさま」

 人間社会で呼ばれる名ではなく、本来の所領を冠した爵位を告げた銀色の声。

 街からだいぶ離れた郊外の洋館。その食堂で早朝から睡眠前の紅茶を一杯嗜もうとしていた貴族にとって、彼女の来訪は意外であったが驚嘆には値しなかった。

 むしろ驚嘆していたのは彼に付き従っていた男爵であろう。剣の柄に手をかけ、腰が椅子からわずかに浮かんでいた。

「エンリル、剣から手を離しておき給え。遠方よりのお客人を丁重に御持て成ししなくては、私の沽券に関わる」

 主に言われ、渋々ながら剣から手を離した男爵はなおも突然の来訪者に対する警戒を解くつもりはなかった。そんな彼を見てなお銀髪の女は涼しげな表情で、公爵の領地、しかも工房でもある館の中を歩く。

「何の用かな、シュペルニスク公」

 本来シュペルニスクに公を自称する吸血鬼などいない。内親王領シュペルニスクを領地とするのは魔術を必要としない、人とは別の何か。それは序列五位にも当たる超越者のはずだ。

 だが、それでも彼女は公と呼ばれるにふさわしい存在であり、そう呼ばれるべき相手である事に変わりはなかった。それは矛盾だ――存在しないのに目の前に存在する女性、これが矛盾でなくてなんだというのか。

「私の願いをいくつか叶えてくださったようなので、お礼に伺ったのですが」

 食堂のテーブルまで遣ってきた彼女はティーカップを手に取ると、それに勝手に紅茶を注ぎ始めた。苦々しげに睨む男爵とは別に、彼の主人はそれを咎めるでもない。

「礼の言葉だけで結構だよ、レナ・マクリール」

 マリアと名乗った彼女、レナと呼ばれた彼女はカップに注がれた紅茶を一口してから、微かな愛想笑いを浮かべた。

「なるほど、こちらの世界の私にお会いになられたようですね」

「ああ、私を殴りつけてきた元気なお嬢さん――彼女だろう?」

「なっ、公爵さまに危害を加えようとした不逞の輩がいると!?」

 公爵の言葉に焦ったのはレナでなく、エンリルの方だった。

「なに、別に気にするほどのことでもない。それより、レナ。アーデルハイトの願いを聞いて来日、彼女を殺し、執行官も動けなくする……こんなことで君の宿願というのは叶うものなのか?」

 椅子に座った公爵の前、テーブルに腰掛けて紅茶を飲んでいたレナはカップをテーブルに置く。

「ええ、十分ですわ。私などの願いをお聞き届けくださり、とても感謝しています。宿願まであと一息、それで私の長い長い旅も漸く終わるでしょう」

「私としてはどちらでも構わん……約束の一部までは果たした、そちらも相応の対価を払ってもらいたいのだが?」

 テーブルから腰を上げたレナは公爵に背を向けて、数歩歩いた。

「私は……古い時代、新しい時代、色々な時代を歩いてきました。可能性、それがあると聞けばどれほど遠くにも行きました。しかし残念ながら、知り得た知識の中で貴方に対価として支払うに足るものなどありません」

「……約束を違える心算か? 笑えん冗談だ」

 微かに殺気のようなものが部屋を包んだ。口調は変わっていないが、今までと感じが違うのがわかる。

「事実を申し上げたのですが? 払うべき代償を計算し直して、私に払える対価を超えてしまっているようなので」

「ふむ。だが……私にはわかる、君は隠し事をしているね」

 椅子に座ったままの公爵が空いた手で何かを掴む。そこは何もない虚空のはずだ。だが、彼の手は確実に何かを掴んでいた。

「――死ね」

 公爵の手が何かを掴むと同時に、レナは信じがたい速度で身を逸らした。同時に、先ほどまで彼女が背を向けて立っていた空間が消し飛んだ。

 ――The time is on my side(時こそは我が友)

 ――Follow me and run fast(汝我に続き、廻れ)

 ――Our steps transcend space and time(我らが歩みは時を駆け)

 粉雪のように飛び散る木材。そんな中で謳うようなレナの声が微かに聞こえたようだった。

 ――Our hands trample on all things(我らが手は全てを蹂躙する)

 屋敷を取り囲む結界がなければ十件隣の家にいても聞こえるほどの轟音と共に、壁が、階段が、果ては壁をぶち抜いた先の庭の樹木さえ消失して行く。公爵が手をわずかに動かしただけで、まるで機関車がそのままこの場所を通り抜けたかのような大穴が開いていく。

 幅七メートル四方、その距離実に五十メートルの空間に存在する全てがわずか二三秒程度で粉砕された。そんな中であっても、破壊の後に立ち尽くしたレナにはかすり傷一つない。

「なるほど、なんて……見事っ……」

 紅茶のカップを持った公爵の左手が震えた。カップが二つに割れ、彼の喉笛から血が噴水のように噴出す。

 数千年に渡ってこの世で最も邪悪な人間達の業深き血液を飲み干してきた公爵から噴出した鮮血は、触れただけでただの人間を殺すほどの呪詛を宿している。その呪わしき血液が一瞬で霧に姿を変え、部屋を覆い尽くしかけた。

「消えなさい、邪魔よ!」

 銀髪が靡く。今にも部屋を覆い尽くそうとしていた死の霧――凄腕の魔術師であっても触れただけで発狂してしまいそうな数百万という呪い、さらにその業深き者どもを呪った何億という人々の怨嗟・怨念・その他のありとあらゆる負の感情がレナの魔眼に敗れて霧散した。

 それを見た者なら彼女がした何気ない行動の異常さに気がつく。確かに公爵は呪いを扱う魔術師ではない、だがその場に現れた質量を持つ最悪の呪いは触れた床さえ溶かしていたのだ。それほどまでに異常な霧をただ魔眼の力だけで退けるなど、呪詛破りの専門家でなくとも、どれほど出鱈目かが判る。

 そう、赤き光を放つのは世で最も強力な魔眼の一つ。一度漏れれば周囲の命を残らず喰らいつくすほどの呪いさえ、その力に十秒も抗し切れなかった。

 神が人と交流したほどの昔、そんな時代であってもそれほどの力を持った魔眼などどれほど存在したことだろうか。遠き故郷の神の名を冠するソレはただの魔術師が持つには大き過ぎた力かもしれない。

 霧が完全に消えたその場所に公爵は未だ鎮座し、喉元を抑えたままで剣を持って襲い掛かろうとしていた男爵を制していた。

「ひぅ、ひぅ……あっ、あ、クククク……何百年もの間、誰も触れることが出来なかった我が本体への攻撃とは驚かされる。イフィリルにさえ気付かれていない秘密だというのに、何故君の攻撃が届いた?」

「どうしてでしょうね? たまたまじゃないかしら」

 肩を竦め受け流すように答えたレナ。その殺気は既に消えている。

「何を莫迦な。境界に立つ私に触れようと思えば、一部の例外はあるとはいえ、この世の武装では適うべくもない。とても特殊な、わずかに辺境の魔術師の間だけに現存する魔術でもなければ不可能なはず……それも使わず私を傷つけるとは、君は私にさえ死をもたらすことが出来るのだな?」

 喉の傷が徐々に塞がっていくにつれ、最初の風が通り抜けるような音ははっきりとした声になっていった。だが公爵の目に殺意はなく、むしろ好奇心だけが残っていた。

「なるほど――そのネタを教えれば、対価と認めてくださる?」

 十月の冷たい風が通り抜ける大穴の前に立つレナは肩に降りかかっていたゴミを振り払いながら聞いた。

「ついでに、神葬の霊杖を難なく避けたトリックも聞こうか。王冠を戴く双子の片割れ――彼のシュシテファルナスカ嬢を別世界で滅ぼしたという君だ。私と相討つくらいはできるのではないかな?」

「さぁ……せいぜいその腕一本を奪うのがやっとでしょうね」

「そうかな? 君をあの程度で殺せるとは思っていなかったが、無傷でかわすとも思っていなかった……興味深いぞ。さぁ、席に着いて説明してくれ」

 差し出された椅子に腰掛けたレナはあっけらかんとした表情で告げる。

「ああ、アレ? 何て言うか、ただの勘よ。だってあの棒、どうやったって見えないじゃん。視ることが出来るのは大山猫だけだって、何処かの世界ではもっぱらの噂よ」

「……」

 相手を見て、その答えが真実以外の何者でもないと知った公爵は流石に絶句した。常識破りの彼にとっても、ただの勘でかわされるなど想定の範囲外だったのだ。

「ふっふはははっ! 勘でアレを躱すとは、流石は随一の名門を継いだ娘だな」

 しばらくの沈黙の後、漸く出たのは笑い。爆笑といってもいいほどの笑い、最も誉れ高い名門の娘が、何千も年の離れた自分にこれほど新鮮な驚きを与えてくれたことに感謝する笑いだった。

「笑っていただけたようで、私も恐悦至極ですわ」



 





「どうも、こちらこそ宜しく。クロエさん」

 アデットが差し出されたクロエの手を握った。

 俺の眼から見てもそれは実に奇妙な光景だった。時間を隔てた彼女同士による握手なのだから、本当にもう何が何だかわからなくなってきた。

「――ところで、アーデルハイト?」

「何ですか、クロエさん」

「あ、ああ……わかっているとは思うけど、君の服を用意してもらえるかい? 僕は別に構わないけど、公明は気にしているみたいだし」

「……へっ?」

 こちらに視線を移したアデットの後ろでウインクしやがったクロエ。その楽しそうな笑顔には殺意さえ沸く。そして、それはまさに不意打ちだった。

 裸の上にマントなんて変態的な格好をしている金髪の少女、そんなのを前にして確かに少々興奮してい……なくはなかったのだ。

「ああ、なるほど。公明さんもお人が悪い、私にそういう邪な感情を抱いておられたのなら……いっそのこと襲ってもよろしかったのに」

「ばっ、何言ってんだよ! 俺はそんなこと全然考えてなくて……」

 金髪幼女はちょっと舌なめずりして、いきなり抱きついてきた。これこそ本当に不意打ち、心の準備も出来ないうちの出来事だった。

「ほら、やっぱり……どうです? この身体になじんでいない今なら、好きに弄べるかもしれませんよ」

「あのな……っんなことしたら俺は即犯罪者だろうが! やめろ、おい、放せって!」

「ああ、押し倒されるぅ……」

 振り払おうとした彼女の体があっけなく床に崩れる。

 本当に、コイツは……

「ふぅん、幼女趣味とはね。この変態……お父さまを侮辱しておきながら、自分自身が変態だなんて、どこまで低脳なのかしら。本当に動物、いいえ、いつも発情しているなんて猿以下だわ」

 俺たちの行動を眺めていたアンジェリカの視線はそれだけで俺を凍死させるほどに冷たく、既に先ほどの敵意など欠片もなくなっていた。代わりに、軽蔑しきった眼差しで完全に見下している。

「いや、待て。お前なんかに理解してもらおうとは思わないけど、俺は別にそんな趣味はないし、そもそもお前の親ほどには……」

「キモイ、それにうざいわよ、変態。こんな馬鹿げた茶番には付き合っていられないわ。豚小屋みたいな家、変態、とてもあたしたちがいるような空間じゃないわ……本当にクロエが気の毒、豚や猿の相手をするなんて、気の毒でしかないわ。プリメラ、もう帰るわよ、コイツの馬鹿が感染(うつ)るから」

 白い美少女の言葉は一言一言がまるで剣のように俺を突き刺していく。さらにアンジェリカに手を握られて、迷った子犬に哀れみをかけるような視線を投げかけるプリメラ嬢はアンジェリカ以上に俺を傷つけていった。

 勘違いなのに、このアデット二人が俺を嵌めただけなのに……なんでわかってくれない?

「で、では……ごめんなさい、公明さま」

 いや、ごめんなさいって……

「じゃあ、もう来ないけど……今日だけは特別に、低俗で無能な庶民の変態くんに、高貴な貴族であるあたしを見送らせてあげるわ。あたしの姿が見えなくなるまでは叩頭して、賛美の文句でも唱えてなさい」

 そんな格好で見送ればそれこそ変人だろうに……わからない少女だ。半端じゃない大富豪一族だけに、俺とは感性が違い過ぎる。

「この、クソガキが! お前なんかに誰がそんなことするかっ! 上等だ、もう絶対に敷居はまたがせないからな!」

 門の向こうに二人の少女が消えていくまで、アンジェリカには散々文句や罵詈雑言を並べてやった。

 当然だ、こちらの意見も聞かずに勝手に変態認定などするような悪ガキに、誰がやさしい別れの言葉などかけられるものか。

「あー、行ったね。アンジェリカを呆れさせるなんて、君素質あるなぁ」

 暢気な声が聞こえた。

 鬼の形相で振り向けば、アデットとクロエの二人――こいつらは悪魔か、あるいは疫病神か。

「お前らっ、俺の評判を木っ端微塵にぶち壊すつもりか!?」

「まあ、いいじゃないか。アンジェリカなんて今日知り合った相手だし、プリメラにしても君が付き合えるような家柄の生まれじゃないぞ?」

「あのな……怒りをこらえて言うが、プリメラの生まれ云々は関係ないだろうが。知り合いだったんだぞ、一応……ごめんなさいって何だよ? おい」

「よくわかりませんね……公明さんは彼女に好かれたかった? それでは疑惑は事実に。ああ、これは大変」

「お前もか、アデット」

「ええ。だって、私に興奮していたのは事実じゃないですか。サービスしてあげましょうか?」

「はうぁ……お前、そこを突くか?」

「はい、突きます。それこそ一突きです」

 涼しげに言うアデットは別に俺を軽蔑している風ではなかったし、クロエもただおちょくっているだけのようだった。冷静になって、そのことに気がつけば徐々に怒りは解けていく。

 我慢しろ、この手の連中はこっちが冷静になれば絶対に飽きる。だから、我慢するんだ。

「……よしっ、今回は収まった……」

「なに? ついに頭がいちゃったのかい、公明?」

 クロエ。こいつも碌でもない奴ということが確定。

「よく聞けよ、クロエ。この家には、アデットの服なんて置いてない……アデットの服なら教会だ」

「ええ。私の服は教会の部屋に置いてあります、すみません」

 アデットもクロエに軽く頭を下げた。クロエはそれを請けて顎に手を当て、少し考えているようだった。

「なんだ、ならこっちに来るんじゃなかったな……アーデルハイトへの挨拶と一緒に、そういう雑務は済ませておきたかったんだけど。でも、男物の服ならあるんだろう?」

「まあな。俺の家だし、あって当然だろ」

「了解。じゃあ、君にでも化けるかな」

「え……」

 そう言うと、見る見るうちに俺の姿をとったクロエ。

 唖然とするしかなかった――その姿はまさに俺そのもの、見ただけでここまで似せることができるとは……彼女の存在自体が驚嘆に値する。

 だが、俺がさらに驚嘆――もとい脳細胞が負荷で全滅するんじゃないかと疑うほどに驚愕させられたのは、あのクソ女が羽織っていたマントを脱ぎ去って……素っ裸のまま家に上がりこんでしまったこと。

 驕慢なアンジェリカの奴を見送った俺の足は、そのまま玄関に張り付いてしまっていたようだ。

 クロエの最低の行動を止めるための一歩が踏み出せなかった。呆気に取られていたのがその原因だ。

「あらあら……公明さんのって、こういう……」

 アデットが興味深げな表情で裸の俺を見送ったとき、漸く俺の理性が復帰した。

「お、おいっ、止めろ! その先には絶対に行くんじゃ……」

 クロエが扉を開くのを止めようと、全力で駆け出していた。

 クロエとしては自分の家で裸になったとして、何の不都合があるのか理解できなかったのかもしれない。あるいは、全裸であることに抵抗を覚えない人形だからかもしれない。

 だが、その先に行っては……俺の命が……

「ん? 服ってここじゃないの?」

 クロエの阿呆が手をかけたのは地下室への扉で、そこの先には十中八九綾音がいる。

 振り向いたクロエは俺の声に手を止めていたので、何とかその先には行かずに済んだ……と思った矢先、扉が勝手に開いた。

 身体は反対側にむこうとしている。

「――ふぅ、いい汗をかいたわ。あら、今目が覚め……」

 朝っぱらから鍛錬を怠らないのが綾音さん……このとき既に自宅に帰っていた天才型の浅海とは一味違う、努力家さん。

 そんな彼女は目の前のクロエを見て、表情がこわばっていた。これから起こることを予期した俺は、先には歩みを進められなかった。

 綾音の視線がクロエの顔から徐々に下に向かって……

「うん、おはよう。身体はあったまったみたいだね、どう、これからすぐに犯る? あっ、汗で上着が透けてる、そそるな。いい運動になりそうだよ」

 終わった……クロエの対応は最悪。わざとだ、悪意がある。絶対に俺を破滅させようとしている。そうかコイツ、そもそもイリヤの刺客なんだ。俺を社会的に抹殺するつもりか。やられたなぁ、すごいよ……経験値の高い吸血鬼の復讐って言うのは、マジで怖い。

「わっ、わたし、私は……そっ、にょ……いいえ、何を言っているのっ!」

 左手で胸を、右手で顔を隠した綾音が真っ赤になりながら抗議しようとした。

 すると、彼女の細い腰に手を当てたクロエが彼女に顔を近づけ、甘い声で囁いた。

「怖いな、そんな目で見つめるなよ。俺、君のことが好きなんだぜ? 嫌われると、ショックだ」

「――」

 そのまま突然の出来事と目の前のショッキング(?)な光景に震えていた綾音に唇を重ねようとしたクロエ……いや、俺もここまで大胆な男だったら、と思えるような華麗な手際だった。

 台詞のわりにその身のこなしは女遊びを何度もしてきた人間のように洗練されていて、とても高校生の俺がやるような動きではない。

「――え?」

 顔を近づけたとき、急にクロエの動きが止まった。

「――人形風情があまり調子に乗らないで、と言ったのよ」

 どこから取り出したものか、手に握られていたペーパーナイフが煌く。そこそこな業物なのかもしれないが、所詮ペーパーナイフだ。殺傷能力は皆無と言ってもいいのではないか。

 さっと身をかわしたはずのクロエの左手には深い切り傷が刻まれていた。

「へぇ。公明の情婦か、あるいは愛玩動物(ペット)かと思えば、ボディ・ガードってわけ……」

 涼しげなクロエは薄く微笑していた。

 そう、左手の傷がその身体を侵食するまでは。

 手の平が傷を受けた箇所だったのだが、そこを中心にどす黒く変色し、急に風船のように膨れ上がった。まるでグローブをつけたようになると、クロエも流石に笑ってはいられなくなっていた。

 必死に破綻していく自身の左腕を抑えながら、クロエが呪詛のように呟いた。

「くぅ……これは、嘘……真正のプッペン・ツェアシュテーラー!? あっ、痛、痛い……つぅ……痛、い」

 何と驚くべきことに、クロエは黒ずんだ自身の腕の肉を全て引き千切った。解体する光景は狂気としか言いようがない。

 黒ずんだ肉は地面に落ちるたびに灰のように消えていき、肉を引き千切られた腕には人体模型の腕のようにか細い機械の腕だけが残っていた。

 左腕上腕までが機械だけになり、肉の部分はその先にはない。爛々と輝くクロエの瞳、自分の姿をしている彼女があんな表情をとるのを見るだけで、吐きそうだ。

「はぁ、はぁ、残念だねぇ。僕の身体……本体のうちで破壊できたのは指二本までだったようだよ」

 漸く余裕を取り戻したクロエは見せ付けるように機械の腕を晒した。人差し指と中指が消失した白いヒトガタの腕だった。

「だが、驚嘆させられるなぁ……オリハルコンの千倍も丈夫な僕の身体を、魔術も何もないただのナイフで傷つけるなんてね。ある意味で最強の魔術師さえ凌駕するよ、君……まぁどちらにしろ、次はないけど」

「試してみますか?」

 ナイフをもう一度構えた綾音と向き合ったクロエは、肩を竦めて見せた。

「あはっ、いや止めておくよ。僕は直接的なぶつかり合いは嫌いだし、アーデルハイトの代わりをする任務は放棄できない、仮に君が僕の本体を直接傷つけたとすれば死ぬかもしれない。君は僕らにとって最悪の死神、いや『死』そのものと言ってもいい……自分の死を眺めさせてくれるなんて、君の祖先は相当有名な人なんだろう? 壊し屋としての君の力は、ここ何千年かの中でも最高だからね」

 どこかイリヤにも似た笑みを浮かべるクロエは実に楽しそうに語る。自身を傷つけ、殺し得るかもしれない相手を前にしてもその余裕に些かの油断も感じさせないのは流石だ。

「待ってください、貴女がシュリンゲル卿の代わり?」

「ええ。すみません、止めようとしたのですけど……先ほどまでの悪ふざけの延長でちょっとタイミングを逃しまして、青のクロエさんだそうです」

 アデットの言葉を聞いて漸くナイフを収めた綾音はそのまま地下室からの扉から廊下に出た。

「では、昨日の話に出た代わりとは……」

「そうそう、僕のこと。着る服がなかったんで、ちょうど探していたら君とであったと言うわけ。でもその実、間抜けな話でね。アーデルハイトがいる場所には彼女の服くらいあると思っていたから、調子に乗って服を脱いじゃったんだな、これが」

 悪びれる風もなく、全裸の俺が言う……あっ

「おいっ! お前も服を着るか、さもなければ隠せ! いや、俺以外の顔に変えてくれ」

 その言葉と共に再び綾音が真っ赤になった。当然、例のブツからは視線を逸らした。

「あっ、貴方も貴方よ、こんなっ……人形に易々と侵入を許すなんて、しゅ、修行が全然足りていないわ!」

「そうは言うけど、僕さぁ……男の子に化けるのが好きなんだよねぇ、わかる? 男物の服で君が用意できるのは君の服だけだろう? 君の格好をするのは当然じゃないかなぁ」

「お前、そんな猥褻物を晒しながら家を歩かせると思うなよ。すぐに何とかしろ、いや、ごめん。お願いですから、マジで勘弁して下さい。これ以上その格好を見てると、明日にでも自殺しそうです」

「じゃあ、仕方がないな……でも人間って本当に馬鹿だよね。どうでもいいことであたふたするんだから。まぁ、僕は人間のそんなところがたまらなく愛しいんだけど……じゃ、男物の服でも足りる人にするか。口調、変わるよ」

 そう言ったクロエは次の瞬間、機械の義手をしたブルネットの髪の少女に姿を変えていた。

 俺と同じ年くらい、アデットよりも身長が高く俺と同じくらい、セミロングの髪なのにその雰囲気は中性的だった。端正な顔立ちで、可愛い感じではなく綺麗だった。

「これで満足か」

「……うっ」

 クロエの姿を眺めていた俺の目に指が迫った――綾音の目潰しだ。かなり速いし、威力ありそうだから当たれば……本当にやばいよ、コレ。

 咄嗟に自分の手で先に目を隠したので彼女の指は途中で止まったが、実に危ないタイミングだった。

「危なっ、アイツが勝手に女になったんだろうが」

「先程の視線、本当に下心のないものだったかどうか胸に手を当てて考えなさい」

「……ほんの一ピコグラムくらいだろ、見逃せよな……」

「では、話も片付いたようなので早急に君の服を用意して欲しい。体格はわりと近い、問題は解消したはずだ」

 さっきまでの不真面目な態度はどこへやら。凛とした少女の催促に答え、何とか少女が着ても違和感がなさそうな服をチョイスして渡してやった。

 下着はまぁ……最近はそういうの男物でも気にしない人もいるから目を瞑って欲しい。

 それらを着た彼女は晒されたままになっている機械の腕を隠す皮膚が再生するまで少々の時間を家で潰して、その後で教会に行くとの事。

 居間で俺たちと時間を潰すことにしたようだった。

「先程の行為は謝罪しよう……ああ、すまないが、君の名を聞いていなかった」

「綾音といいます」

「では綾音、君には改めて謝罪する。それから私はクロエ、公爵さまの名誉を汚さぬよう貴女に私の非礼をご容赦いただければ幸いだ」

 まるで人が変わったような変化、口調だけでなく性格もこの少女のものを真似しているのだろうか?

「あー、何て言うか……その人誰だ? その、お前が今化けてる相手」

「ハーシュラング公クラリッサ。終身執行官、あるいは『女ヴァン・ヘルシング』といえば、わかるだろう?」

「ヘルシング? どんな皮肉だ、それは。クラリッサって吸血鬼だろ」

「小説好きの姫君が命名したあまり本人に好まれない綽名だ、本人の前で言えば殺されるとか」

 アデットも本人と会ったことはなかったのか、意外な容姿の相手に驚いているようだった。

「ふむ、だが姿など気にすることでもない。話は変わるが、君たちはスタニスワフを追いかけているのだとか?」

「ああ、そうだけど。そこまで手伝ってくれるのか?」

「いや、その任務は請け負っていない……ただ口止めはされていないので、可愛い男の子のためにアドバイスをしておく――アンジェリカは正体を知っているようだ」

 この変態が可愛い男の子と言ったのは俺のこと……背筋が冷たくなった。何しろ、男装が趣味の人形なのだから正体が女でも全然そそらない。

 だが、彼女のアドバイスには思わず耳を疑った。

「……ん?」

「アンジェリカは正体を知っているようだ、と言った」

「アンジェリカって……あの白くてクソ生意気なガキか?」

「ああ。私の可愛い妹、そのアンジェリカだ。彼女は私などとは比べ物にならない魔術師、知っていても不思議はない」

「……教えてくれると思うか、アデット?」

「あの調子なら絶対に無理でしょうね」

「……だよな」

「滞在地は教える。説得したいなら頑張れ。指は公爵さまに直接お願いするか、時間をかけなければならないが、皮膚の傷はほぼ癒えたので行く。アーデルハイト……制服のクリーニングはしておく。それから、その身体が早く元に戻るといいな、少なくとも私はそう祈っている」

「どうも、お心遣い感謝します」

「理由はどうであれ公爵さまの行ったことだ……許せ。それから、公爵さまは君を賞賛しておられた。いつか第三に至ることが出来る相手にはじめて会った、と」

 颯爽としたクラリッサの格好をしたクロエは、そのまま教会に行った。学校で出会うときは最初のふざけた態度に戻っているのだろうが、堅い性格のときの方はまともなだけに……残念だ。



 





「うーん」

「……はぁ、困りましたね。公明さんがアンジェリカさんを怒らせるから……」

「まったく、仮にも公爵の大所領の一つハイゼンベルクの管理人を怒らせるなんて……」

「はぁ? 何だ、その言い方は! 俺が悪いのか? だって、あの態度だぞ?」

「どうしてと言われても、原因がそうなのですから他に言いようがないと思いますけど?」

「くっ……わかったよ、わかりました。そんな非難する目で見るなよな……死ぬほど謝って、ご機嫌とって、絶対に聞きだしてくるから……ああ、クソ! 今日は厄日だ」

 勇んで出て行った俺だったが、その実、アンジェリカの攻略は恐ろしく簡単だった。

 ひたすらイリヤを褒めればいい――何でもいいから兎に角褒めまくる。こんな単純な方法が通じるとは思っていなかったが、やばいくらいの効果があった。主人が関わらない相手、若しくは主人を褒め称える相手ならとても善人になる、その話は事実だった。

 料理から何まで用意して、さっきまでとは人が変わったように明るくおもてなし……二重人格だ。

 仕舞いには、菓子折りさえ持たせてくれ、今しがた公爵に口止めされたスタニスワフの正体は教えてくれなかったものの、化けている人間が住んでいる場所のヒントとか色々と……こんなに簡単でいいのかな?

 最初敵意むき出しの上、訳のわからない破壊の跡が残っていた屋敷に足踏みしたものだが、案外御しやすい性格だ。

 アイツ……実はものすごく馬鹿、なのだろうか?

 だが、何だかんだ言って一日を費やすほどに一人の変態を褒めちぎるのはマジで疲れた。精神的に相当な負荷で、あの趣味の高尚さをほとんど死ぬ気で褒めてやったのはつらかった。

 なんだかよくわからないが、アンジェリカ以外は修理の業者を呼ぶ関係だとかで留守にしていたのが幸いしたのかもしれない。何しろ、本人の前であの行為を褒めれば間違いなく同志認定されてしまうから。



 






[1511] 第三十八話 『無限回廊・宴の始まり』
Name: 暇人
Date: 2006/11/26 16:20








 アンジェリカから聞いた情報――彼女の言葉が確かならば捜索対象に挙がっていた住宅地こそ、祖の一人であるスタニスワフの根城。

 流石に名前などは教えてくれなかったが、捜索範囲がそれだけ限定されれば儲けものだろう。ここまで捜せたのなら、あとは詳しく回るだけではあるがいきなり戦闘に突入するような事態になった場合、住宅地のど真ん中というのは拙い。

 火曜までに小夜さんが詳しい捜索をしておき、その後に実際に現地に向かう。アデットたちがうろついて警戒されては駄目だから、細心の注意が必要だろう。

 アンジェリカの言葉は信用できるのか、という問題は当然ある。だが、彼女がそれを教えてくれたときの瞳は真実を語る者のソレだった。

 嘘が上手なのかもしれない。

 それでも、広大な二箇所を探すことに比べればマシだろう。




 その結果、日曜の夜は十分な睡眠が取れた。そのはずだったが、運の悪いことに月曜の朝は熱っぽかった。

 動けないほど大袈裟なものではない。アデットたちが先週の捜索は冷える夜中が多くて大変だったのだから、今日くらいは休めと勧めなければそれでも行ったかもしれない。

 だが、実際のところ寝不足もあったことだし……何かの用事で出かけたアデットや学校に行く綾音と浅海には悪いが、ベッドの中で眠らせてもらうとしよう。








 10月23日、晴れ。

 酷く忙しい日々に埋没し、記憶の中から忘れ去られてもおかしくなかった文化祭の予算会議――ここではクラスの店やクラブ活動の出し物の予算見積もり精査、提出された店が実際に可能かどうかを最終的に検討する。

 クラスごとに詳しく伝達していても、本来不許可となるモノを考え付くクラスはあるものだ。こういう会議はやはりサボるわけには行かない。

 金髪の生徒会長に扮した自動人形が堂々と生徒会室に入ってくる。

 周りを見渡せば、すでに彼女と二三人のメンバー以外は部屋に集まっていたようだ。

 時計を見れば、予定の時刻までまだ五分ある。気だるい秋の陽気に誘われて欠伸をする生徒もいる。中には欠伸を通り越して既に寝てしまっている生徒もいる。

 まったく困った季節。

 少々早いとは思いながら、今回の議事録を取るためノートを開いた。

 万年筆を取り出したが運悪く、インク切れの様子。

 だが、議事録の記録を改竄する事を防止するためシャーペンなどは使えない。ただの高校の生徒会で議事録の改竄など気にする教師はどうかと思う。

 あまりにも信用されていないのではないか?

 あるいは教師ではなく、あの錬金術師が考え出したルールなのだろうか?

 なるほど。もしそうだとすれば、実に彼女らしい。

「お姉さま、これをお使いください」

 ペンを差し出しながら、背後から声をかけてきたのは一年生の同じ書記の女生徒――ここは共学なのにどうしてこういう輩が紛れ込むことになるのか、と思わずにはいられない。

「ありがとう、如月さん」

 仕方が無いので差し出されたペンを手に取った。

「もぉ、よそよそしいじゃないですよ。沙月って呼び捨てにしてください、お姉さま」

 その満面の笑顔に背筋が冷たくなる。こういう異端分子とよくよく縁があるのは生まれた星のせいだ、と幼い日に出会った東洋の占星術師が言っていた。

 『嫌なら、狼を避けろ』、その言葉を忠実に守るべきだった。『日本に狼はいないわ、馬鹿ね』などと答えた自分があまりにも愚かだった。

「……あ、ありがとう、沙月。でも、私も貴女の姉ではないでしょう?」

「アレ? 年上の女(ひと)をそう呼ぶじゃないですか。だから、お姉さまで間違ってません」

 この娘、どうして玲菜の方を狙わないのだろう。あちらの方が好まれそうなものだけど。

「……わかったわ。でも、あまり私に近寄らないでもらえる? 貴女、さっきから顔が近過ぎよ」

「だって、近づかないと議事録の中身が見えないじゃないですか。あっ、香水替えました?」

「……沙月」

「いえ、待ってください。香水じゃなくてリンスの方ですよね、これ?」

 その答えは正解だけど、どう反応すればいいのだろう。

「……ええ。それより、そろそろ始まるから、肘を退けてもらえるかしら?」

 欠けていたメンバーも揃い、漸く始まってくれる。それに安堵した。

 どうにかして欲しくもなる後輩は渋々といった表情で自分の席に帰っていくが、その視線はどこか甘ったるい。

 玲菜、クウォーターじゃなければ絶対に彼女の餌食になっているのは貴女だったのに。

 『綺麗な黒髪ですね。私、先輩みたいな髪の毛、本当に憧れです』――初対面にしては変なことを言う相手だと気がついて避けるべきだったと遅すぎた後悔をする。

 女子校でもあるまいし、どうして私が二月のような屈辱に怯えなければならないのだろう。

 あの時は彼女ではなかったが、あの先輩も『皐月』という名前だったか。

 彼女も如月沙月……旧暦とはいえ二月。たまたまとはいえ語呂が良過ぎる。

 憂鬱なイベントを想像しながら、私は筆を走らせた。

 まず、担当の委員が締め切りまでに提出された出店やイベントについて長々と紹介した。

 この学園の学園祭は初日が内輪、その後の二日は生徒に配られる知人や家族用の入場券を持った人たちに開放したもの、と大きくは二つに分かれている。

 学園祭中に計上された売り上げのうち、原価や諸経費を差し引いた純利益は80%が慈善事業に寄付される。そして、残りの利益を使ってクラスの打ち上げが行われるのが通例だ。

 これではほとんど打ち上げ費用など残らないのではないか、赤字になった場合の保障はどうするのか……そういった意見も聞かれる。

 それは確かにそうなのだが、赤字になったときは打ち上げが中止されるだけ。クラブなどの場合はそもそも原資が部費なので深刻で、これを気にしてイベントを行わないところもある。

 また、打ち上げ費用が残らない、という危惧は必ずしも正しくない。昨年、学園史上最高の売り上げを計上したあるクラスなどは10万円で豪遊したと言う。

 裏で画策していた黒幕が何やら反則まがいの手段を用いたのだろう、とは風の噂だが、それもある意味では全体の利益には貢献しているので文句は言わなかった。

 今回、紹介する委員の口から聞かれるのは『ホラー・マンション』、『コスプレ喫茶』、『カラオケ』、『焼きそば屋』、『たこ焼き屋』、『お化け屋敷』などだった……と言うか、『ホラー・マンション』と『お化け屋敷』に違いなどあるのだろうか?

 それぞれに予定される予算案も出揃った。それらのほぼ全てが精査の必要もないだろう。

 全ての意見を聞き終えたメンバー達は『すぐに決定だろう』と、帰り支度でも始めそうな雰囲気だった。

 そんな中で、ただ一人意見を出す者がいた。最悪の意見を出す者――クロエという愉快犯。

「残念ですが――それらの予算計画は全て却下です。面白くない企画も破棄しましょう」

 いつもの会長ならば絶対にそんなことは言わない。思わず部屋にいた全ての人間が『え?』と漏らすのが聞こえた。

「ちょっと待ってください、今になって全部やり直しなんて」

「そうですよ。これでも二週間近く考えた末にですね……」

 抗議する意見が次々に発せられる中、それを黙って聞いていた彼女はそれらが止むまでただ黙って聞いた後、部屋に漸く静寂が戻ったことを確認してから雄弁に語った。

「皆さん、喜んでください――」

 今までの苦労を全否定された彼らに何を喜べというつもりか、私もかすかながら反発を覚える言葉で彼女の演説が始まった。

「実は今回の学園祭には何社か大企業のスポンサーがつきました。彼らの善意を受け、我々の学園祭がより良いものになることは喜ばしいことです」

 彼女がスポンサーとしてあげるのは、国際的にも知名度の高い国内の企業39社――証券、自動車、石油化学、鉄鋼、運輸、造船……彼女が語らなくても、これらの企業がこんな地方都市の学園祭のスポンサーになるなど誰が信じるだろう?

 常識で考え、そんなことはそもそも起こり得ない。ここが大学でもこれほどの面子が揃ってスポンサーになるなど在り得るわけが無い。

 少なくとも、彼女の正体を知る私以外は最初、事態を把握するだけで頭が混乱していたようだ。

「実は、私の実家は結構な資産家でしてね……立菱グループってあるじゃないですか。あそこの会長さんとこの前食事したとき、私たちの学園祭の話をしたのですが、数得てみれば私の誕生日に近いということがわかりまして。プレゼントの意味を込めて、豪華なお祭り騒ぎを楽しみたいとお願いしたのです」

 先ほど彼女があげたのは企業群を抱える財閥じみた資産家。その名を挙げて彼女は彼の出資の経緯を説明した。

 部屋にいた人々も最初はまったく信じられない様子だったが、誰かが『会長ならありえるかも……』と漏らしたのを契機にその信用が徐々に広まっていき、最終的には全ての人間が一応は納得した。

「そういうことなので、もっと豪華に、お祭りじみた学園祭を楽しめるように……学園祭用の衣装も用意してコスプレ学園祭にでもしましょう。予算を十倍かけても構わないので、チャチな出し物は考えないでください。先程あげた企業が色々と技術提供もしてくれるそうですから、ソレを伝えて再検討し、今週末までに最終計画書を提出するように。それに伴って、学園祭の予定日を一週間ずらす措置をして、都合をあわせましょう。なお、学園祭の開催時間については現在教職員と午後十時までの延長を話し合っているところですから、期待していてください」

 私さえもが唖然とさせられる内容――本人でもここまで無茶苦茶な事はしなかっただろう。

 だが、そんな無茶を部屋にいたほとんどの生徒が半信半疑ながら絶賛した。この会長なら、あるいはやるかもしれない……そんな考えが手伝ってこの日の会議は幕を閉じた。








 会議が終わった後、夕闇があっという間にやってくる秋の学園。

 その屋上で私はクロエと向き合っていた。

「どういうつもりです?」

 金髪の少女は薄く笑いを浮かべ、事故防止用のネットに手をかけた。

 その視線の先には下校する生徒達の姿があるようだ。

「――どういうつもり? 僕はただ君たちが楽しめるようにしてあげただけだけど」

「楽しむ、ですって」

「立菱大和、つまりあそこの会長はさぁ……ブランヴィリエ閨閥の自動人形でね。まぁ、僕の子供みたいなものなのさ。だから、予算について気にかけることはないよ」

「私が言いたいのはそういうことではなく『どうしてあんなことをしたのか』ということです!」

「不満かい? 僕としては娯楽を提供したつもりなのだけど、心外だなぁ」

 振り向く金髪が秋風に靡いた。ソレを手で押さえながら、彼女は挑発するような視線を送ってくる。

「先日のお礼参りというわけですか」

 見れば、髪を押さえる彼女の指には包帯が巻かれている。そう、昨日喪失した指にだけ包帯が巻かれていた。

「ははっ、お礼参りとは失敬な。強制起動刻印が人の目に付くと、何事かと思われるだろう? その防止策だよ。まさか指をなくしたくらいで、僕が激怒するとでも?」

「青機士――サンジェルマン、スペルマスター……そんな悪名高い貴女だからこそ、そう思うのですが」

 その言葉を受け、彼女は少し真面目な顔になった。殺気が放たれたわけではなく、ただ真面目な表情になっただけだが、それだけでも受けるプレッシャーに変化が起こる。

「知っているかい? 赤は一対一の決戦で相手を殺すからその血に掛けて『赤』、黒はあまりに大勢を殺し過ぎて流血さえ真っ黒になるから『黒』、白は血を流さずとも相手を殺しうるから『白』、青は相手が蒼白になるから『青』なんだよ」

 その言葉は遥か遠い時代に語られたもの――ああ見えて最も危険なのが『黒』であることを証明する言葉。

 勘違いしていたわけではないが、赤機士が最強であるというのは『彼らの中で殺し合いが起こったとしたら』という条件の下のことであり、人間相手で一番危険なのは黒機士――他の人間が何と言っているかは知らない、ただ私の知る文献にはそうある。

「……やるというのなら、今度はその本体を貫きます」

「殺るとは言っていない。僕はエンリルのような決戦型でも、プリメラのような殲滅型でもないんだ。正面から君のような相手に挑まれると正直人間相手でも怖い。それに――君はもう僕に手を出せない」

「えっ?」

 髪を押さえていた右手を軽く翳した彼女の指の先、微かに光るものが見えた。思わず防御を固めたが、その光るものの正体は『糸』だった。

 糸を辿った先には見覚えのある少女の姿があった。

「沙月?」

 糸は今まで階段にでも隠れていたらしい彼女の首の後ろに続いていた。気配の消し方が素人のものではない、まるで生き物でもないかのように完璧なものだった。

「動かないで欲しいな。動くと、彼女の脊髄から脳まで全部まとめて吹っ飛ばすよ?」

「くっ……彼女に何をしたの?」

 あの糸は魔術で編まれたものではなく、実際に存在するもの。原理はわからないが、ソレで操られた沙月はクロエの横まで亡羊とした瞳で歩いていった。

「ヘルメス分院の科学の結晶といえばいいのかな。人の意識を乗っ取る、なぁんて素晴らしい糸……でも勘違いしないで欲しいな」

「勘違いですって?」

「ああ。僕は別に彼女を人質にどうこうしたいって訳じゃない。君のような生粋の魔術師相手に人質なんて無意味だろう。彼女が死んでも、僕を殺すくらいするのが君のはずだ……でも、僕は君のような人間が近くにいるのは怖い」

「ソレを人質というのでしょう! この下衆が」

「そう、怖いから彼女を盾にする。でも君を脅迫するわけじゃない。善人だろう、僕は?」

「……」

 そうだ、確かに彼女を人質にする意味はない。

 私はクロエがおかしなことをすれば、何時でも彼女ごとクロエを殺す。

「わかってくれた。自分を殺しうる人間が側にいることは怖い、君にかすり傷を付けられただけでアレだ……直撃なんてすればどうなることやら。しばらく学校にいるわけだし、彼女みたいにいつでも盾になってくれる人間がいた方が僕としては安心できる。いうなれば、彼女のような人間を手元に置くのは君を脅迫するためじゃなく、僕自身の精神の安定を保つための措置……生存本能の表れというヤツだよ」

「――詭弁を弄するのですね、人形の分際で」

「人間は自分が死ぬのが怖いから武器を持つ、僕は武器を持たないが盾を持つ……ほら、良心的な選択だと思うよ。君たち野蛮な人間に比べれば、ねぇ?」

 そう言いながら、クロエがこちらに同意を求めたとき、校舎の壁をよじ登って13体もの小さな人形が現れた。

 木で作られたことがよくわかる、身体のあちこちが角ばった無様なピノキオ。手に手に銃や剣を持つ無表情な紅い瞳の怪物たちはそのままクロエの周りを固めた。

 彼らの身長は六十センチくらいか、人間らしくないがあれこそ多くの錬金術師が作り上げる自動人形の最もポピュラーな姿。

「素晴らしい文化を築き上げる反面、人間にはあまりに野蛮な側面がある。例えばギリシアでは、素晴らしい文化を発展させた代償は奴隷だった……これは僕達に言わせれば合理的じゃない。後になされた合理的解釈ではあるけど、実際にそこまで考えて創ったシステムじゃないからね」

「……」

「君たちは莫迦なんだろうか? 僕はそう自問する。だって、等価交換を最善と考えるなんてどうかしているよ、最小限の犠牲で最大の成果を挙げることこそが僕達人形の考え。十の魔力で千の成果を挙げる、物理法則さえ超越するのが魔術ならばそれが出来なくてなんだって言うのか」

 語るクロエを睨みつつ、私は隙を探した。わずかでも隙があれば、あの人形を黙らせることが出来るのに。

「君たちの選択とは、結果だけ見れば全ては無意識のうちになされたものなんだ……無意識ながら発展に正当な対価を求める辺り、否定しているが君たち人間は骨の髄まで魔術師らしい生き物だ。ふふっ、喜ばしいと思わない? 僕は格好いいと思うよ、君たちのそういうところ。合理的に考える僕達よりさらに卑劣な手段を持って、僕達の導き出す答え以上のものを得られる生き物……これを魔術師的生命といわずして何と形容する?」

「……一体何を言いたいの?」

「根源的に魔術師らしい君たちと、そうではない僕の対比さ。考えてみて欲しい、僕の立場にある人間の魔術師なら君をこのまま排除しているだろう……でも、僕はそんな野蛮なことはしない。君に殺される可能性は高いが、それでも僕に分がある事実は揺るがないからね」

「そんな兵隊を連れてきながら、何を今更っ!」

 今手元にあるのは護身用のナイフ程度、あの数を相手ではそれでもきつい。その上、クロエまでいては絶対に勝てない。

 そう思っていると、特に小さな人形のうちの一体がクロエの肩に飛び乗り口を開けた。口の中から顔を覗かせたのは、醜い蟲。

 黒くて、触手がいくつも生え、ねっとりとした粘液に覆われた醜い蟲。見るだけで吐き気を催すような怪物だった。

 そんな蟲を手に取ったクロエは自分に逆らうことが出来ない少女の口を開けさせた。

「止めなさい! 止めなければ……」

「おっと、動くなよ。さもなければ、殺すぞぉ? あははっ、本当に動かないでよ、プリメラほどの腕じゃなくてもこの距離なら外さないから」

 クロエの言葉に、人形達が銃を向ける。

 ただの銃でも十分危険だが、それでもただの魔術師のものなら咄嗟の障壁で弾けるかもしれない。だが、あの人形達の主人はクロエ――何一つ極められない反面、全てに通じるという万能の天才。迂闊な行動は死を招きかねなかった。

「何、保険のために寄生させるだけだよ。黙っていれば、半年で身体に吸収される……むしろ彼女にとっては幸運だ。体調は前より良くなるし、吸収された後の蟲の働きでガンや成人病・更年期障害にも悩まされなくて済むからね……まぁそれは君が余計なことをしなければ、だけど?」

 口から少女の体内に入っていく怪物――それを見ているしか出来なかった。

 蟲の身体が完全に消えたとき、力が抜けたように少女の体が崩れ落ちた。

「これで、僕に何かあれば彼女は死ぬ。僕が命じればどんなことでもするだろう、もう逆らえないからね。こんな生徒をこの先何人か作る、君が僕達に何もしなければ僕達も何もしない。これは制約だ……決して破らない、命と名誉にかけて誓う。仮に兄妹の勝手があれば、僕は命に代えて君を守ろう」

「一つだけ教えなさい……今、私を殺せばそんな制約も必要がないでしょう? 何故?」

「僕は君を買っている……気に入ったといえばわかる? 僕に易々と傷を与えた相手、男の子以外で初めて愛しいと思える気がする」

「へっ? いえ、それはとても正しくない感情……」

「そう、短く言うと恋なのかもしれない。どうしてなのだろうね、人形が人形殺しを愛するなんて。嗚呼、これから楽しくなりそうだ。本当はどんな風にでも君を奪えるが、僕はそれほど野蛮じゃない。考え付く方法はあるけれど、それらは野暮だから、もっとエレガントな方法を考えるようにするよ」

 ……どうして、こんな連中が湧いてくるのだろう。

「それと今度から僕を無視すれば、君に化けた後で街中を全裸のまま名前を連呼しながら回るから。覚えて置くように、ね? そういう意味では、僕に脅迫できない人間なんてこの地上に公爵さまだけだから、あはは……結構真面目な話だと、君に化けて、とても人前ではいえない単語や行為を行っている最中の映像をネタに脅したりも出来るんだよ? あ、これはやらないけどさ」

 ……もう駄目だ、と思わずにはいられない相手に好かれてしまったことがよくわかった。

 私の不運――これが呪いなら心から願う……何とかして欲しい。

「ははっ、そう嫌そうな顔をするなよ。これでも僕はある国では伝説的な英雄、偉大な王、残酷な処刑人だったりした者……光栄にこそ思って欲しいのだけど」

 幾つもの王朝にて悪逆非道の振る舞いを働いた王妃、意味もなく人を殺め続けた王、あるときは救国の英雄、貧民のために尽力した資本家、絶え間ない賞賛を受ける芸術家……何人もの姿を演じてきた存在が行う脅し。

 私が話しているのは常しえの都に君臨した皇帝、あるいは伝説的な聖人、有名な学者……歴史を一人で書き換えることさえ出来る永遠の存在。

 その巧みな語り口に逆らう気さえうせかけた。

「今日、それとも明日かな……スタニスワフを殺すんだろう? 僕達は応援しないけど、勝てればいいねぇ」

「貴女などに――くっ、言われずとも勝ちます。必ず」

「へぇ、怖ければ帰って来なよ。僕が助けてあげるからさ、ははっ……だけど、一言だけ愛する君へのアドバイスだ」

「?」

「狼に気をつけるんだね、テランの銀狼が何やら画策しているから」

「何? テランの……銀狼?」

 聞き覚えのない単語だった。古い文献にも登場しないような名前。

 一体何のことかもよくわからない。

「そこまでは、教えられないな。じゃあ、バイバイ」

 自動人形たちと共に屋上から飛び降りたクロエの姿はそのまま夜に消えた。

 謎の単語を残したまま。








 10月24日、火曜。

 その夜、俺たちは息を潜めたまま車で待っていた。

 黛千尋、という名前の少女の家の近くで。

 浅海は彼女を偶然知っていたらしく、最初小夜さんの調査で条件に合う人間の中に彼女の名前が挙げられたときに酷く反発したが、彼女は違うということを証明するためについてきていた。

 手元にあるのは雷鳴剣、さらに魔導書――どんな怪物が出るのかもわからないが、これで流石に行き過ぎではないだろうかと思わないでもなかった。

 息を潜め、車の中で少女の登場を待つ――小夜さん、アデット、綾音、浅海、俺の5人。

 ポップソングが流れる車内、これから現れるかもしれない相手に意識を集中させた。

 千尋という少女だけを呼び出したとしても駄目だ、スタニスワフは人間に化けるという意味では群を抜く。現行犯以外で彼女が吸血鬼であることを証明する方法はない。

 やりにくいことこの上ない相手だ。俺は浅海のことを思うと、最悪彼女の父親が犯人であったという終わり方を望んでいた。

「テランの銀狼――何のことだと思います?」

 唐突に綾音から漏れた言葉。車内の誰もその単語の意味がわからなかった。

「クロエがこの前教えてくれた名前……恐らくそのようなものです」

「さぁ、聞いたことがありませんね。綾音さんに判るように言った何かの暗号かもしれませんよ」

 アデットも聞き覚えのない単語だったらしく、当然他のメンバーにもわからない。

「テランっていうのは、吸血鬼だけど真祖じゃない連中のことじゃなかったっけ? ああ、勿論今増えて困ってるヴァディルだったか屍鬼だったかとは別のヤツのことよ」

「地名かもしれないでしょう……貴女はいつも短絡的過ぎるわね」

「地名でテランといえば、首都ではアフリカに一つありましたね……王を自称する吸血鬼の根城ですが」

 王を自称する、いや僭称する吸血鬼は実際に何人かいる。その中でも、ベルラックを除いて最も性質の悪い一人の根城がそんな名前だと語るアデット。

 それはヴァーテルベルクの悪魔――本物の悪魔でもないのに悪魔と呼ばれて然るべき男。

 彼の国の人口三千万人を全て人質にし、現在最も多くの屍鬼を輩出している悪の中の悪。ファンタジー小説にもでてきそうな典型的な魔王。

 アフリカ血清学会、ナンダ国立エイズ研究所、西アフリカ血液バンク……そういった機関を隠れ蓑にし、国民の健康を促進する目的を掲げ、国民のほぼ全てから提供させた血液サンプルを用いてその全てをいつでも呪い殺すことが出来る最高の呪術師シュニッツェラー卿。

 そう。一般人に限ったことではあるが、彼は血の一滴でもあれば人を殺すことが出来る。

 また、殺す以外に人の心を思うがままに支配する。

 魔術に通じた者の中にさえ、彼の呪いにかかって人でない姿に変えられた人がいる。

 何百人という札付きの不良魔術師を同志として自領に招きいれ、国民からの搾取で彼らを養うことを何十年も行ってきた討伐不能な祖の一人。現在、最も討伐が望まれる男。

 過去十三度の戦役において、それでも彼を討伐できなかったのは彼があまりにも人間的な吸血鬼であるからだそうだ。大規模な軍隊を作り、多くの兵士を配下に置く、そういった手段に最もよく通じた政治家としての側面が強い。

 王を自称する吸血鬼、ソレを支持する吸血鬼……その関係はそれだけで既に派閥であるが、彼の場合はソレを人間にまで広げ、兵力ならば最大のものにも匹敵する。故に王を自称しても当然、反論さえ許さない。

 人が行いうる罪の中でやっていないことは何一つ無いとまで公言する序列六位の強大な真祖。そんな配下にあるいはクロエが語ったテランがいるのかもしれない。

「でも、アデット。そんな遠くからこんな国までソイツは何しに来たんだ? スタニスワフと友達とか?」

「いいえ、派閥が全然違います。そう、そこが私の意見の穴ですね……実際にそんなことをする意味が見出せません。まぁ、端から関係がないのならソレこそ勘違いですけど」

「見当違いの線が濃いですね、アフリカからここまで来る根拠が薄過ぎますから。やはり、クロエの妄言だったのかしら……っ、どうやらこちらの予想は当たっていたみたいね」

 家の中から出てきた少女が話しに聞いた千尋なのだろう。浅海の視線が一瞬細まった。

「――嫌な夜になりそうね」

「近くを捜索したことはありませんが、相手も警戒しているでしょう……気配は絶ってください。でも、あまりうまく隠し過ぎないように。逆に怪しまれますから」

「……難し過ぎるぞ、その注文。大体どうやって気配を隠すんだよ?」

「公明さんは……まあいつも通りでいいでしょう。特に何もしないでください」

 アデットは短く答えた。

 俺はもしかして馬鹿にされてるのか? 何もするな、といわれては何も出来ないじゃないか。

 そんな間に千尋は通りを進んでいった。既に背中くらいしか見えない。

「では、そろそろ追いかけましょう。まずは私が適当に追跡しますから、途中で綾音さん、距離をとって玲菜さんが……いえ、顔が割れていては拙いですから公明さんが。距離を置いて玲菜さんが公明さんを追うという形でお願いします、連絡には携帯をバイブで」

 素人臭い俺がアデットか綾音と組んで、わざと相手に気づかせた上で相棒に追跡を任せる……という作戦の方がいいと思ったのだが、気付かれた時点で相手が行動しない場合もあることから今回のようになったらしい。

 アデットが今の見た目だと相当目立つのではないかと危惧したが、それでもこれだけ人通りがなくなる時間ならば姿さえ見られなければ同じかもしれない。

 追跡はうまく続いていった。

 今はアデットが途中で綾音に変わり、そして、彼女からメールを受けた俺が途中で追跡を交代していた。

 もう歩いている人間なんてほとんどいない時間、深夜の十二時を少し回ったところだ。

 勿論のことだが、『ほとんどいない』のは『少ないが、確かにいる』ということ――自転車に乗ってすれ違う大学生風の青年や帰宅が遅れたらしい酔っ払い……そんな連中とすれ違いながら歩き続ける千尋。

 獲物を物色しているのか、きょろきょろと辺りに視線を走らせながら歩いている。

 十分に距離はとっているが、俺の下手な追跡に気付いたのだろうか?

 急に立ち止まった千尋の視線の先、俺も魔力を集中させた目を凝らす――すると、コンパか何かの帰りらしい大学生くらいの青年が気持ち悪そうに胸を抑え、やがて路地裏に駆け込んだところを見つけたのだ。

 飲み過ぎで吐いたのかもしれないが、ソレを見つけたらしい千尋の歩みは心なしか速くなっていた。

 すぐにアデットたちにこの場所を伝えるメールを送り、俺も気付かれない程度で急いだ。恐らく意識が獲物に向かっているだろう彼女に気付かれることはなかったのかもしれないが、それでも細心の注意を払うことは忘れなかった。

 アデットたちが追いつくまでどれくらいか、ソレを待つ間に襲われたかもしれない彼は大丈夫だろうか……そんなことをつい考えてしまった。そして、考え出せば心配は止まらなくなる。

 一体何を悠長なことを言っているんだ、俺は。彼女が相手を襲っていればアデットたちの到着が間に合うわけがないじゃないか。

 そう思えば、アデット達の到着を待たずに路地裏を覗かずにはいられなかった……








 はぁ、はぁ、はぁ……息遣いの荒い犬のような声が漏れた。

 真っ暗い路地裏だが、辛うじて点滅を繰り返していた非常灯が青年の肩に牙を突きたてようとしていた少女の姿を映し出していた。

 既に泥酔状態だった青年の呻き声はきっと酒臭かったのだろう、思わず顔を逸らした千尋とのぞき見た俺の視線が交錯する。

「――」

 驚愕した表情の千尋。その双眸は赤い光を放ち、生が既に人間のものではないことがわかった。

「――っ、止め……止めろ、スタニスワフ!」

 恐怖あるいは経験値が少ないからか、俺の声は蚊の鳴くようなものだった。

 伝わったかどうかもよくわからない、そんな弱気な声に千尋の姿を借りた吸血鬼スタニスワフは哂う。

「――くくっ、久々にブルッたぜ……おい焦らせるなよ、餓鬼が」

 少女らしからぬ低い声でそう言ったスタニスワフは掴んでいた青年の肩から手を離し、こちらに向き直った。

 この場所は路地を少々入っている、少しくらいなら暴れても問題ないだろう。

 片手に取り出したのは魔導書――あの剣は目立ち過ぎるから車の中に置いていた。運がよければアデットたちが持ってきてくれることだろう。

 値踏みするように俺を見つめたスタニスワフが少し表情をこわばらせた。

「魔導書――小僧、魔術師か?」

「その見習いだ……その人から離れろ、さもなければ……」

「さもなければ、お前が死ぬだけだろう?」

 手を翳したスタニスワフの手にも魔導書――アデットたちが言うには、スタニスワフたち下等な真祖は魔術が使えないハンデを補うためにこういうものを持つのだと言っていた。

「サンタクルスの狩人でもないな、小僧? 土着の三流魔術師風情が正義感に酔った挙句、オレにたった一人で挑むとは……あまり舐めるな。理の風よ、混沌を引き裂く神風よ、我が前に立ち込める全ての闇を晴らせ!」

 あまりに自然に動く相手に対して、こちらはまともに動けなかった。指は震えていたし、そもそも俺にあの少女を攻撃できるのかどうかこの場にあっても踏ん切りがついていなかったのだ。

 あまりに情けないことに、先制攻撃はあっという間になされていた。

 逃げ場のない路地、本来ならその突風は俺の上半身をそのまま吹き飛ばすはずの攻撃――ソレが俺の身体に触れる前に霧散した。

 衝撃だけで両脇のビルの壁が巨大な爪で抉り取られたように砕け散ったほどの魔術さえ、この体の前にはそよ風でしかなかった。

 ビルの壁から降り注いだコンクリート片から顔を保護し、埃が立ちこめた路地の中で俺が睨みつけた相手はその光景に狼狽していた。

「なっ、防御魔術か? いや護符、タリスマンの一種?」

「――このっ、ヤロウ!」

 相手が完全にこちらを殺す気だとわかったことが原因か、あるいは先ほどの攻撃で恐怖という感情が麻痺したのか、今まで硬直していた身体が漸く動いた。

 本来先制するはずだったこちらの魔術、本を指でなぞるだけのそれは一時的に混乱した相手の追加攻撃よりは先んじた。

 呪文を詠唱しかけたスタニスワフの眼前に強烈な熱が集まる。

 だが、こちらの攻撃も彼を捉えるには及ばない。

 凄まじい光がスタニスワフの周囲で輝く――障壁だ。それもレベル違いに強力な障壁。

 顔を手で隠したスタニスワフの脇で轟音が響き渡った。本来その身体を捉えるべき俺の攻撃が完全に目標を逸らされてビルの壁に車が衝突したような穴を開けていたのだ。

「――ほう、舐めていたのはオレも同じか。残念だったな、オレの盾を抜くには三流の魔術じゃ足りないぜ……」

「なら、一流の魔術で殺してあげましょうか」

 スタニスワフがこちらに語りかけてきたとき、路地裏に別の声が響いた。

 それは俺の後ろからのものだ。スタニスワフの視線もそちらを捉えていた。

「……貴様は、浅海玲菜か……」

「ええ、千尋……どうして?」

 俺の横まで歩いてきた浅海の表情は暗い。その瞳には相手を射殺すほどの何かが宿っていた。

「千尋じゃない、オレだ。スタニスワフ・ポニャトフスキー……真祖が一、死ぬことのない吸血鬼様だ」

「黙れ、屑。どうして千尋を殺したのか、と聞いているのよ」

 その迫力に圧倒されたのか、スタニスワフがわずかに後退した。

 しかも、その怖がり方は尋常ではない。

「あ、あ、あああ、嘘だ……その瞳……見覚えが。あ、ああ……彼の国で死を謳った、あの……止めろ、その目は止めろ! 何故、貴様がこんな場所にいる?」

「?」

 その怖がり方に殺気を込めて睨みつけていた浅海さえ呆気に取られていた。

「ああ、バ……邪神の分際でオレを……化け物、誰がお前などに殺されるものか! 我血の盟約において命ず、夜の兄弟達――」

 恐怖に駆られたスタニスワフが叫ぶように唱える。攻撃することさえ忘れていたおれたちの後ろから、漸く駆けつけたアデットたちの姿が現れた。

「――銀月の円卓に集え!」

 ソレと同時に通りに出現する幾多の魔法陣。光り輝くソレの中にどこからともなく現れる人々の影、一度に使える駒の全てを集めたらしいスタニスワフの僕たちだった。

 俺たちとスタニスワフを隔てるように十人あまりの人間が通りを覆いつくす。

「公明さん、剣を!」

 アデットが投げて渡したサーベルを掴み、鞘から抜いた――精神を集中し、雷撃の声に心を傾ける。

 昨日ずっとこればかりを練習していて、漸くコツがつかめてきた剣とのコミュニケーション回線を開く。

 正式な契約はなっていないが、それでも剣の声が聞こえるだけ戦闘が有利に運ぶのだとか。

「――殺れッ! 残さず打ち殺せ! テランの……銀狼を殺せ!」

 まるで時代劇の悪代官のように俺たちを指差しながら叫ぶ少女、その顔は恐怖に歪んでいた。そして、ソレを証明するかのように彼女の足は既にこの場から離脱しようとさえしていた。

「拙い、今逃げられたらもう一度見つけるのが困難になります」

 アデットはそう叫ぶと、小さな身体であるにも関わらず先陣を切って駆け出していた。

「Alles flie&szlig;t panta rhei. Der Glanz der Sonne scheine den Tote. Ihr haben eubeb sanften Tod(全ては流転せよ、遍く光は汝らを照らし、安らかなる旅へと誘わん)……Meer von Licht(光、流水の如く駆け巡らん)」

 一瞬でなされた詠唱と共に暗い路地が光に満たされた。死者を安息の地へと運ぶ光の波が優しく空間を撫でたような気がする、それに触れた瞬間死者をこの世に留め置いた法則が断ち切られて、彼らの体が一瞬で灰になっていく。

 魔術での攻撃だ、魔術で対処できる魔術師出身の屍鬼でも紛れていない限りそれから逃れることは出来なかっただろう。

 何より、狭い路地を覆い流すような光の波から逃れるなど、不可能に思えた。

「即席の太陽光です……伝承を擬えただけあって効果抜群ですね。さ、スタニスワフを追いかけますよ」

 颯爽と掛けていく幼女にわずかに遅れて俺たちも駆け出す。怪物たちの灰を蹴散らしながら、ただ路地を走った。








 この路地はどこまで続いているのか、そう思えるほどに長く曲がりくねった道を駆けていく。

 だが、そのうち……とんでもない事態に気がつく、俺の周りを走っていたはずの彼女達が誰一人残っていなかったのだ。

「――なっ、アデット? 綾音? 浅海?」

 叫んでみても返ってくる返事はない。だが、俺は逃げるスタニスワフを追いかけて、何処かの廃工場前までやって来ていたのだ……目的地を間違えているはずがない、彼女達が俺より方向感覚に劣ることもないだろう、ならば彼女達は先に入ったのか?

『……がう……』

「がう? ……あっ、お前か?」

 どこからか聞こえた微かな声を拾うため、走ったせいで乱れた呼吸を整え、再び意識を集中させた。

『……違う、女達は先に着いたのではなく「メビウスの環」を廻っている……むしろ先着は貴様であろうな』

「メビウスの環? 紙で作ったりするアレか?」

 自分が握った剣に問いかける俺。傍から見ればヤバイ人だが、センナケリブの雷撃の言葉は気になった。

『人語しか解さぬ無知なる主よ、私は今宵だけでも十分な不快感に耐えてきたのだ……今更言葉に耳を傾けられても、教えるつもりなどない』

「寝惚けた事言うと、捨ててくぞ?」

『……私の価値もわからぬ無礼者が、二度と捨てるなどと口にするな……不服ではあっても答えてはくれる。先ほどの長い路地に刻印がなされていたのだ』

「刻印? そんなのあったか?」

『巧妙に細工されていた分気がつきにくかっただろう、しかも相手を追いかけていたのではな……気付かなかったことを落ち度といってはやはり酷であろうよ。されど、ソレこそが女達をあの場に釘付けにしている結界の基』

「壊せるか?」

『壊すのは私の役目ではあるまい。よいのか、吸血鬼が逃げては困るのであろう? 私の助けあれば、あの程度ものの数ではない。動ける者が追わずして何と言い訳するつもりか?』

「……なんだ、お前って結構好戦的なヤツだったんだな」

『貴様が暢気なだけであろうに……追うぞ』

「……わかった、アデットたちがすぐに来てくれることを祈ろう……よし、行くぞ」

『ふんっ、他者を頼るなど未熟な魔術師もいたもの……敵は未だあの場から逃れてはおらん、貴様の運に今宵ばかりは便乗させてもらうぞ』








「――気がついた?」

 走りながら、玲菜が聞いた。

「何時からでしょう?」

 アーデルハイトも景色が同じことに漸く気がついた。

「ちっ、こんな魔術にも通じていたんですか、あの男は!」

 舌打ちしながら綾音が毒づいた。

 無限に続く路地裏回廊――基点になる刻印を破壊せぬ限り終わりに至れぬ無限、ソレを今彼女たちは走っているのだ。

 気付かないように細工されていたのだろう、その場に迷い込んだことさえ気付かせずに彼女達は廻らされていた。

「基点の位置は? 前、それとも後ろの方が近い?」

 基点は大まかに四箇所程度、路地であることを考えれば破壊しやすいのは二箇所と思っていいだろう。

 前にある基点か、あるいは後ろにある基点か……取り敢えず直進しながら、玲菜が二人に聞いた。

 既に公明の姿はない、こんなときばかりはあの体質も気の毒にさえなる。

「前の方が手っ取り早いでしょう、この場合……」

 そうアーデルハイトが言いかけたとき、風に乗った笑い声が響いた。

「――!?」

 思わず三人が足を止めた先、空間がゆがんだかと思った瞬間にこの世界にいてはならない女が姿を現す。

 銀の髪が靡き、その紅い瞳が三人を一瞥した。

「ふふっ、こんばんは、みなさん」

 微笑を浮かべる二十代くらいの女性は優美に会釈する。警戒する三人の視線など物ともしない、そんな優雅な振る舞いだった。

「誰、貴女?」

 玲菜の問いかけに女性は笑う。

「私が誰か――ソレを貴女の口から聞けるとは実に光栄ですわ、レナ・マクリールさま」

「!? 私を知っているの?」

「ええ……私は一部の人間の間で『テランの銀狼』、別な人間の間では『死を運ぶ者』と呼ばれている存在です。貴女方におかれては、マリアと名乗った方がわかりやすいでしょうか?」

「――私? 貴女、私なの?」

「まさか、私と貴女は別人よ。仮に貴女が死んでも私は死にませんもの、この場合二人を同一人物とは言わないでしょう? ふふっ、それに、私に至るには貴女は少々弱過ぎてよ」

 女性が指を鳴らしたとき、彼女が登場したときと同じように空間の一部が歪み、三メートル近い長身の、灰色の毛皮をした狼男が彼女の両隣に二人現れた。

「……どういうつもりですか、マクリール卿?」

 冷たい視線のアーデルハイト、その問いに女性は笑って答える。

「はじめまして、アーデルハイトさま……心苦しいのですが、今宵はこれより先に行かせません。通行止めの間の暇つぶしに、私たちとワルツでも踊って頂けませんこと? ヨハン、リヒャルト……殺さない程度に、適当にお相手をして差し上げて」

 その言葉に、筋肉隆々の狼男たちが凄まじい遠吠えをあげて動き始めた。

「……玲菜、貴女は本当にどの時代でも碌でもない人間ね」

「余計なお世話よ。大体、本人が人違いって言ってたじゃない……私に喧嘩を売る私なんて、生かしては置かないから」

「なるほど、わかったわ。玲菜、貴女はどの世界でも碌でもない人間なのだろうけど、この時代の貴女は一番ましな玲菜よ」

「……それ、どこが褒めてるの?」

「褒めてはいないわ、そう聞こえた? さ、来るわ」

 時を統べる魔導師レナ・マクリールと彼女の僕である二体の狼男を前に、三人は身構えた。

 壁を駆け、鋭い牙と爪で襲い掛かる灰色の獣。玲菜と綾音がそれぞれを迎えた。








「アーデルハイトさま……いえ、可愛らしいお嬢さん、貴女の相手はこの私が」

 銀髪の女性、時を統べる魔術師は自身の僕たちの戦いを他所に落ち着き払った声で金髪の少女に語りかけた。

 紅い瞳が月下に暗く輝いた。

 女魔術師の右腕が振られただけで、コンクリートの壁が抉れた。

 傷口は鋭い爪に切り裂かれたもの――あまりの速度に傷口は煙を立ち昇らせる。

「引いてはくれませんか?」

 この空間――無限回廊を揺るがすほどのプレッシャーを感じながら、アーデルハイトに気負いはない。静かに目の前に立つ相手に問いかけた。

「引くと、信じておられる?」

 ふざけているような、それでいてどこかに悲しさを感じさせる声が応える。

「……流石に玲菜さんが悪い方向に増長した人だけのことはありますね、頑固なのは筋金入りですか」

「おや、ご存知ないようで……私と貴女の縁も浅からぬものなのですけどね」

「そうですか、確かにマクリール家の人々とは多少交流が……」

「いいえ、この世界の玲菜は知らないのかもしれませんが……私の曾祖母、名をアウグスタ・マリアンネ・シュミットといいまして、旧姓はシュリンゲルともいうのですけどね。アウグスタ・マリアンネ・フォン・シュリンゲル……覚えておいででしょうか?」

 一瞬、女性の言葉によってアーデルハイトの思考が真っ白になった。

 思いもかけない相手の名前が登場したこと、知りもしなかった関係を知ったこと、それらが彼女を白昼夢へと誘った。

「――え?」

「ふふっ、時間とは旅してみるものですよ。ザクセンで、霧の夜出会った二人がいたとか……まあ、肝心の調整がうまく行かなくなってからはこの国一番の人形師を頼ったりもしたそうですが。人としての生を終えることが出来るホムンクルスを創られたのは流石ですわね。ふふっ、でも残念でしたね、もう一度出会えなくて。シュリンゲルの錬金術、私も多くを知っていると思われた方がいいでしょう、この身に眠る知識の復活は既になりました、貴女では私に勝てませんよ」

「……」

「おや、指が震えておられますが……大丈夫ですか?」

「私は……」

「あははっ……なんだ、ちょっとショック療法がきつ過ぎたかしら? ね、早くしないとその身体も殺すわよ、アデット。私の魔眼は知っているでしょう、これは私の大好きな神話に語られた遺産『バロル』……それも自覚できていない玲菜のものとは比べるべくもないわ。私は望むだけで人の命くらい容易に奪い去るの。さぁ、固まっていないで始めましょう、宴を! あの愛しき月に捧げる一夜限りの饗宴を! 地獄の鍋をひっくり返すような馬鹿騒ぎを! 時間の針を私たち三人で面白おかしく廻すのよ! 楽しく、陽気に、さあ、さあ始めましょう! この螺旋がやがて終局に至るそのときを願って、私と遊びましょうよ!」

 高らかに言葉を謳い上げる女性の影が霞んだかと思えば、その場に現れたのは周りの狼男よりさらに巨大な怪物……銀色に輝く鋼より硬い体毛の、死の具現たる巨大な狼。

 遠吠えを上げたかと思えば、それだけで周囲のビルのガラスが砕け散った。コンクリートの外壁さえひび割れるような、とても恐ろしい光景が展開された。

 彼の者こそ異世界で語られた夜の支配者が一人――シュペルニスクに巣食う魔物の正体。










[1511] 第三十九話 『最も高貴な一族』
Name: 暇人
Date: 2006/12/07 04:29










『世に、最強の盾があるのを知っている?』

 玲菜の場合よりもさらに大きく見える巨大な狼――五メートル近い獣が歌うように言った。

 暴走状態というべきその姿で、なお理性を保つ精神力は彼女の強さの証明といってもいい。

 そして、それは同時に戦慄すべき事実――彼女があの姿であっても魔術を行使することを意味するのだ。

 しかもその魔術とは全ての中でもなお特別な、マクリール一族だけの家伝魔術『水時計』。

 吸血鬼たちにとって、それは致死の攻撃ではない。

 如何に強力な魔術であっても打撃中心の攻撃では容易に死ぬことのないのが彼らだ。水時計『クレプシドラ』は使う魔力も尋常ならず、不死である吸血鬼を相手に使うには最強の魔術とは言い難い。

 だが、人間を相手に使う場合は事情が異なる。

 人にとって、彼女の一撃が致死。その事実は決して揺るがない。

 存在の固有時間に干渉する彼女の魔術を持ってすれば、音速さえ超える地上で最も速い暴力の風がこの場を吹き抜ける。

 それを防ぐ手立ては盾の魔導書に匹敵するほど堅固な結界を用意するか、目視する事さえ不可能な彼女よりなお早く動くか……その二点のみだろう。

 それが出来なければ無残な屍が晒される。

 これは彼女、レナのみに当てはまることだといえる。

 本来クレプシドラの欠点は行使している最中には別な魔術が使えないこと、さらに素手の攻撃ではあるためある程度強固な結界を張る魔術師ならば防げるということ、術者自身の身体に掛かる負荷が大きいということなどだ。

 だが、玲菜とレナには最初の一つ以外は当てはまらない。呪いの代償とはいえ、彼女の身体能力はすでに人の及ぶところではなく、その一撃を加速させれば尋常でない破壊をもたらす。

 考えただけでも目眩がしそうな事実にアーデルハイトは汗をかいた。すでに先程の告白で揺らいだ精神の動揺は収まっていたが、現在の圧倒的に不利な状況によって引き起こされた動揺は収まりそうにない。

 唇を思わずかみ締める――二三の例外はあれど、人間相手でこれほど性質の悪い魔術師もそうはいない。

 世界中にいくつもの名家がある中で彼女達が他全てより一段上、マクリールの一族が自ら筆頭貴族を名乗る理由の一つ、他の連中が束になっても敵わないという驕りとも取れる自信――玲菜の振る舞いには表れないそれを目の前の女性は如実に表していた。

 力の差とは別に、それも彼女達二人を分ける点だろうか。

「――舐められたものですね。黙って殺せば、この場の私は楽に退けられたのに」

 相手の問いかけを無視して、アーデルハイトは何とか勝機を見出そうとした。

『ふぅん。あまり焦らないのね、いいえ言葉を逸らしたのは焦っているからかしら?』

 いつでも殺せる自信ゆえか、レナは低く哂った。

「……最強の盾? それは伝説にいわれるアテネの盾のことでしょう」

『いいえ、違うわ。最強の盾とは世界を隔てる盾――私の魔術結界よ』

 どういうつもりか、自身の切り札を自ら語る相手。

 この自信過剰が過ぎる行動にアーデルハイトも奇妙なものを感じた。

『さぁて、ここまで差のある今の貴女に、私を傷つけられる武器はいくつある?』

 鋼も通さないほどの身体、恐らくは魔術も大半のものが通じない身体。これを殺しえるほどの武器は少ない。

 夜の真祖――アーデルハイトは知らないが異世界における序列五位の吸血鬼レナ・マクリール――彼女を滅ぼせるだけの用意はしてきていないのが実情だ……勝てないどころか傷つけることさえ出来るかどうか。

 レナが動く前にアーデルハイトは駆けた。

 小さな身体はビルの壁を駆け上るかのように走り抜け、途中で手にした階段の手摺りを銀の剣と変えた。

 そして、更なる加速を持って、自身の何倍もある狼の巨躯に上空から杭を打ち下ろしたのだ。

 体重が軽くなった分、以前ほどの威力は望めない。それを見越して、ビルの壁を蹴って加速をつけた一撃だった。

『遅いわ――速さこそ、全てに勝る力なのよ』

 とてつもなく長い腕が上空から襲い掛かったアーデルハイトの身体を打ち落とそうと伸びた。

 アーデルハイトの何倍もの速度を持って放たれた鋭い爪の一撃は、純銀の杭など物ともせず一瞬で粉砕して、それでも速度を緩めることなく少女の身体に迫った。

 レナの腕がアーデルハイトを貫く寸前、少女の手が怪物の手首を掴み、そのまま身体を反転させて銀色の腕の上に着地する。

「……Gott segen dich――Flammenmeer(……貴女に祝福を――焔よ、海の如く)」

 すでに着地する前から狙っていたはずの攻撃、本命であったそれを放つためアーデルハイトの手元から小さな試験管が抛られていた。

『――!!』

 獣の顔が歪んだとき、すでにアーデルハイトは右腕の上から飛び去っていくところだった。

 試験管の中身が彼女の唱えた魔術によって一瞬で反応する――錬金術によって作り出された、この世にありえぬはずの灼熱がその場で完成を見せる。

 大気を振動させるように、レナの咆哮が通りに響き渡った。

 そのとき、退避するアーデルハイトは奇妙な違和感を覚えたのだが、そんなことを気にしている時間など無かった。耐火用術式が編み込まれたコートで肌を覆い隠してなお、路地裏に出現した太陽は彼女の肌を焼くようで、油断などすれば彼女も灰になっていたのだから。

 何とか着地したその場所はコンクリートがわずかに溶け、思わず滑りそうになる。いや、これに類似した状況を想定していなければ、その靴はあっという間に融け、彼女自身が脚から焼却されていたことだろう。

 ただ、基本的には設計した通り対象に熱が集中し、周辺まで漏れた灼熱は一部であった。

 直視すれば水晶体が焼け、失明することも覚悟せねばならない灼熱はしかし、一瞬でその光を消失させる。

「えっ?」

 思わず漏らしたのは驚嘆。本来なら五分近くは発光し続けるはずのそれが、わずかに数秒で寿命を終えるなどありえない。

『――ふふっ、流石に錬金術師。あまり直接的な戦闘は得意じゃないようね』

 発光の終了を確認してから、顔を覆い隠す腕を下ろした。

 真っ赤に熱せられた壁や、すでに溶け出している地面、まるで原始の世界のような光景――そんな中に立つ銀色の狼の周辺だけはまるで世界が違うように、先程と同じ姿をとどめていた。

「……」

 ありえない――そう口の中で呟く。

 どんな吸血鬼であっても、それが生命である以上はあれほどの熱量に晒されれば無事ではすまない。

 そう、何かしらの手段で防いでいない限りは。

 銀の狼の周りにわずかに光る時計のような文様の魔法陣、宙を舞ういくつものそれはまるで太陽を回る惑星のようにレナを中心にして円を描くように規則正しく回っていた。

『私の魔術結界は最強の盾――これに触れるモノは全て時の最果てまで吹き飛ばすの』

 本来なら広域、もっと広い範囲に展開されるべきそれは、時の魔術という最上の魔術式を効率よく展開するためにごく小規模な範囲で限定的に発動されていて、時を刻む幾多の魔法陣に触れたものを残らず、宇宙さえその寿命を終えた時の最果てまで吹き飛ばす。

『世界の最果てにある真理、それに触れてみる?』

 時間を隔てる絶対の壁――それがゆっくりと姿を消した瞬間、銀の狼は凄まじい加速を持って迫る。

 対処策を喪失したといっていい状況のアーデルハイトに向けて、猛スピードの車のような速度で迫った獣。当たれば、その身体に触れただけでも重傷は免れない。

 レナを前にしてアーデルハイトを守る障壁など無いに等しい……それでも彼女はただ殺されるほど往生際がいいわけでもなかった。

 ――Sine afflatus divino nemo――

 目の前に迫る攻撃をわずかに横によけて躱す。

 同時に、まるで自分の工房にいるときのように自分を陶酔させ始めた。

 ただ、新たに取り出した二本の試験管を握り締め、それが完成するための術式を紡ぎだす。

 自身の目の前を通り過ぎた攻撃はそれだけで彼女の服を裂いた。あと数センチずれていれば死んでいてもおかしくない威力のままに、レナの拳が地面に突き刺さる。

 ――Sapientia late tatum sucedet aliquando――

『小さいと、狙い難いわね……』

 その一言と同時に魔眼が光った。

 赤い光を燈したレナの視界に入った瞬間、心臓を鷲掴みにされたような圧迫感が襲い掛かり、アーデルハイトの膝が落ちた。

 彼女と視線が合っていれば、それだけで死んでいたかもしれないほど強力な魔眼。すでに玲菜のものとは次元違いにまで昇華したそれは、アイルランドの伝説にあるが如く命を奪いつくす。

 だが、魔眼で死ぬことは無かった。

 強烈な衝撃がアーデルハイトの身体を吹き飛ばしたからだ。

 何メートルも宙を舞った末、激しく壁に叩きつけられる。それでも試験管からは手を離していなかったのは流石だっただろう。

 だが、壁に皹が入るほどの速度で叩きつけられたため、骨が何本か折れていて、内臓にも突き刺さったかもしれない。

「あっ、う、うぅ……なんて、馬鹿力を……」

 何とか身体を起こした視線の先には、大穴が開いていたビルから取り出した机を抱えた獣。片手で軽々と掴んだ机をこちらに投げつけようと狙いを定めていた。

『馬鹿ぁ? 私の一番嫌いな言葉よ、それ』

 時速二百キロ近い速度で投げ出された机。速度こそ拳銃には劣るが、その威力は比べるべくも無い。

 咄嗟に壁を蹴って、三階の窓からビルの中に逃げ込んだ。

 同時に、今までいた場所に机が衝突した大きな音が聞こえた気がする。

 ――偽りなき真実にして、唯一真正なるものの奇蹟の成就にあたり、下なるものは上なるものが如く、上なるものは下なるものが如く――

 壁が吹き飛び、獣の身体が飛び込んでくる。背後から狙われたため、紙一重でよけたはずのアーデルハイトの背中さえ裂けた。

 もんどりうって倒れこんだアーデルハイトをよそに、デパートらしきビルの天井にも頭をぶつけそうな獣は悠々と少女の前にやってくる。

『あははっ、どうしたの? 鬼ごっこは始まったばかりよ』

 ――太陽はその父にして、月はその母、風が其を孕み、大地が乳母となる。其は万象の王であり、その力は最上にして、完全なり――

 狼を前にしてなお小さな少女の瞳は閉じられたまま、試験管を握り締めたまま静かに詠唱した。

『馬鹿ね、何をしても無駄よ――Getal luis』

 狼の爪が伸び、それが音速を超えて振られた。

 アーデルハイトが咄嗟に横に飛ばなければ、その場で死体になっていたかもしれないほどの衝撃が床を打ちつけた。

 三階から地下一階までの全階層の床を抜いた、深々と刻まれた五条の爪跡は未だ紅く燃えていた。

 『傷つける焔』、古の言葉によりなされる今は滅びた太古の魔術がその正体であった。

 ダメージを与える箇所を最小限に留めることで、戦車の装甲さえ容易に引き裂くそれは人間相手に使うような攻撃ではなかった。

 ――其は全ての英知をもって、大地より天に至り、優れるものと劣れるもの、二つを一繋がりの力と変え、暗きものは全て汝より飛び去らん――

『あははっは、無駄無駄無駄無駄無駄! どんなことをしても無駄なのよ!』

 幾条もの炎がビルの内部を覆いつくす。躱すことなど最早不可能な攻撃が階層のありとあらゆる場所を抉り、隠れる場所すら奪い去った。

 弾丸さえ弾くはずの障壁をやすやすと突き破り、少女の肩を骨まで抉った炎の爪。痛みをコントロール出来ていなければ途端に集中力など消失していたことだろう。

 さらに追撃、衝撃で飛び散ったガラス片を躱すことが出来ずに太腿の肉が引き裂かれた。

 思わずその場に膝を着き、真っ赤に染まった脚を抱える。

 すでにこの階層は焼け野原……爆撃の跡でもこれよりはましと思える惨状だ。

 あと少し暴れれば、このビルは間違いなく倒壊することだろう。三階の床は狼の体重を支えるだけで悲鳴を上げ、直に崩れるとさえ思えた。

 絶対の防壁と最強の攻撃――二つを一人で持ちえる存在は破壊の跡で体を小さくしていた少女を漸く見つけると、自らが開けた穴を飛び越えるようにして少女の前にやってきた。

 ――其は万物の中で最強のものなり。なんとなれば、あらゆる強大なるものをも圧倒し、あらゆる固体を侵蝕せんからである。我らが父なる真理、ヘルメス・トリスメギストスの名において、二つなるものを一つに――

『お祈りは終わったぁ?』

 振り上げられた腕は、すでに避けることが出来ないとわかっている相手に対しても一切の哀れみを掛けることなく、神速をもって振り下ろされ……

 が、そのときアーデルハイトは微かに笑った。

 血を吐きながらも、彼女は笑ったのだ。

 レナが何事かと少女が伸ばした右手を見ると、そこには小さなデリンジャーが握られていた。

 振られるはずの腕を止め、咄嗟に張り巡らした時の大結界。触れる万物を時の彼方まで弾き飛ばす完全無欠の壁。仮にアーデルハイトの本来の奥の手を使ったとしても、これに弾かれていたことだろう。

 だが、今回使ったのは拳銃。ただし、細工のなされたそれは通常の弾丸よりもなお早く打ち出された。

 火薬も、銃身も通常のものとは違う……レナの視力をもってしても、それを捉えることは困難だった。

 それこそが彼女の賭け――だが、そんなものは結界を前にすれば何の意味も持たない。ただの豆鉄砲に過ぎないはずだ。

 しかし、時の結界に触れてもなお弾丸は止まらない。

『なっ……んっ、ぐぅ!』

 結界を抜けたそれを弾こうとしたのだがすでに遅過ぎた、弾丸は獣の脇腹を突き刺し、さらにその中で破裂した。

 凄まじい激痛に叫び声を揚げた狼は目の前にいた少女を階層の端まで弾き飛ばした。

 最早まともに立つこともままならない彼女は、まるでピンポン玉のように壁にぶつかり、先程まで持っていた拳銃を床に転がした。頭からは出血し、右腕もへし折れた。

 だが、それでもアーデルハイトは笑う。

 荒れ狂う狼を見つめ、どこからその余裕が出てくるというのだろう。

『んっ、ああああああああああああ!! 謀ったわね、この、私を……謀って……』

 のた打ち回っていた狼の身体が徐々に人間のそれへと変わる。

 レナは裸のまま苦しそうに脇腹を押さえて立ち上がった。

 傷を比較すればアーデルハイトの方が遥かに深刻であるはずなのに、その表情はまるで逆だった。

「貴女に薬を提供した人間をお忘れのようですね……弾丸の銘は『Spell Breaker』……終わりです、レナさん――Gebosowulo(灼熱の手向け)!」

 渾身の力を持って、わずかに動く左腕から放たれた試験管。術式はすでになった、地上で最も危険なそれが音速を持って飛翔する。

「や、止めなさっ……」

 見開かれたレナの瞳は一瞬で恐怖に染まる。

 だが、試験管を防ぐはずの結界は作用しない。変化するはずの身体が変化しない。

 焦ったときにはすでに遅い……驚愕した表情で固まったとき、試験管が刃のように彼女の胸を抉ったのだった。

「ああああああああ、このっ、クソガキが……なんてことを……」

 割れた試験管が傷口から引き抜かれた。

 だが、その傷口はすでに蒸気を発していた。

 内臓が溶ける。骨が焼ける。脚が、腰が、全てが溶けていく。

 生きながら溶鉱炉に落とされたような激痛が、レナの身体を溶かした。

 叫び声は獣の咆哮であるかのように階層中に反響し、魔術師の断末魔となった。

 それこそは二種類の液体の混合物がなした奇蹟――この世に溶かせぬモノがないという最高の溶解液『アルカエスト』、望めばそれは地球の中心までの穴さえ開けるだろう。

 一度混合されたアルカエストが地面に沁み込むのを阻める容器は存在しない――否、それは沁み込むなどという生易しいものではない。

 レナの血管を回り、確実に全てを消失させるだろう。

 レナの半身を溶かしきったアルカエストは、ビルの床を、地下のコンクリートを、この土地の岩盤を溶かしきってさらに地下に垂れていくのだ。

「ああああ、殺して、殺してやる……私を、こんな目に合わせて……」

 上半身、しかも胸から下がなくなったレナが呪詛を込めたような視線を投げかける。だが、本来なら必殺の魔眼が作用しない。

「お、わりです……レナさん。私も満身創痍ですが、今、サルヴェッツァで射抜けば、貴女も……」

 立ち上がろうとしたアーデルハイトの脚は笑っていた。動くことを身体が拒否しようとさえしていたのだ。

 それでも何とか身体を起こしたとき、半身だけになったレナが突然狂ったように哂った。

「アハハッハ、アハハハッハ――馬鹿ね」

「命乞いなら無駄ですよ。せめて……妹のひ孫でもある貴女だけは安らかに送りましょう」

 アーデルハイトの手元に光が灯った。

 吸血鬼を殺すための光がレナの顔を照らす。血を吐きながらのたうつ彼女は、まるでこの世のものとは思えない笑みを浮かべながら、アーデルハイトを見つめていた。

「出来るものなら、殺しなさい。出来るものならね……」

「言われずとも――ア……レ?」

 レナを殺そうとした瞬間、アーデルハイトの身体が微かに揺れた。

 彼女自身、自分の腹から生えた誰かの腕を見るまでは何が起こったのかさえわからなかった。

 腹を貫いた腕はそのまま乱暴に振るわれ、アーデルハイトの身体はゴミのように地面を転がった。

「……ゴホッ、ア、アァ……何故、貴女が?」

 霞んでいくアーデルハイトの視線の先――もう一人のレナが彼女に対して微笑んでいた。

「あらあら、アルカエストなんて反則を使って、そのうえ魔力で水増しするなんて……岩盤まで抜くと、二次災害が大変よ?」

 レナが突き抜けた穴に液体を垂らす、すでに何キロもの岩盤を溶かしきっているはずのアルカエストがその命を終えるには十分な量の中和剤が注がれたのだ。

「双子? ……いいえ、そんなはずは……ホムンクルス?」

 地に伏しているレナではない、五体満足のレナが笑顔を浮かべたまま陽気に言った。

「ご名答。よくわかりましたぁ、パチパチ……それに比べてだらしのない『私』ね、貴女。人形に多くを求めすぎるのも考え物かしらね」

 レナは自分を見下ろしながら、彼女に冷たい視線を投げかけた。

 そして、そのまま目に見えないほどの速度で彼女の頭を蹴飛ばす。

 首が転がることがないほどの速度だった――倒れていたレナの頭が消し飛んでいたのだから、もはや尋常のものではなかろう。

「私にはシュリンゲル一門の血も流れている、と最初に言ったでしょう? 貴女には及ばなくても、それに近いレベルのホムンクルスなら創れるのよ」

 ロングコートをはためかせ、レナがゆっくりと歩いてくる。

「ゴフッ、ううっ、では……私がビルに入ってから……」

「ええ。平行世界にまで付きまとう我が永遠の悪友、最底辺人形師の綾音を前にして人形なんて使えないでしょう? それに、貴女がどう動くか、アレだけの戦力差があれば予想できなくはないのよ」

 倒れているアーデルハイトの目の前まで歩いてきたレナは綺麗な顔のまま、血反吐を吐いている少女を侮蔑するような目で見つめた。

「先入観というのは貴女でもあるのね、アデット。いいえ、情けない判断だったわよ、アデット」

「……くぅ……あっ、うぅ……止めを刺すのなら、どうぞ」

「じゃあ、遠慮無く……バイバイ」

 レナの脚がアーデルハイトの頭を蹴り飛ばそうと、軽く後ろに助走を取った。

 と、その瞬間にレナの身体が何かに蹴り飛ばされた。

「ばっ――!」

 まともに受身も取れずに壁に突っ込んだレナ。

 それを霞む視線で見つめたアーデルハイト。

 二人の間に立った玲菜。

 同時にレナに向けて神速の矢を打ち込んだ綾音。

「っあ、コ、……コ、ノ私ヲ、足蹴にし……たわね……」

 壁に氷の矢で打ち付けられたレナは、自身の喉を貫いた矢を掴んだまま蒼白な顔で三人を睨み付けた。

 矢を握る手に力が込められ、それが引き抜かれた。

 同時に、氷の矢は破壊され、周囲に漏れ出した魔力が更なる氷の刃を形作った。まるでレナの右手から突き出た槍のようにして何十もの氷の刃が発生した。

 その脅威に対して、時の結界が広がる――全ての事象は時の最果てに消え去る……いや、結界の内側で起こった事象は全てそれが発生する前の時間まで逆行される。

 指を何本か落とし、手のひらに穴を開けた氷の刃が今度は小さくなり、レナの傷も全て塞がっていった。

「――なっ……何よ、あれ?」

 呆然とした玲菜がアーデルハイトを抱えたまま、目の前のレナが引き起こした不可解な現象に眼を奪われた。

「綾音ぇ、最底辺人形師の分際でよくもやってくれたわね!」

 爛々と光る紅い瞳が復讐の炎にさえ思えた。

「えっと、んんぅ、紛らわしい……何ですって、レナ? 今の言葉、訂正なさい。最底辺呼ばわりは絶対に許さなくてよ」

「何よ? 馬鹿にしたのは私じゃなくて、あっちでしょうが!」

「貴女ではなく、あちら! ……面倒なので以後は貴女が『浅海』、彼女がレナよ」

 怒りに燃えていたはずのレナは二人のやり取りを聞いて苦笑した。

「人間の根本というのは、世界を隔てたくらいでは変わらないものね。相対時間にすれば何年も前、私を殺すと言った友達ともそんな会話をしたような気がするわ」

「ちょっと、私! どうして、こんな真似をしたの? ちゃんと説明しなさい!」

 綾音の言葉を遮って、玲菜はレナの前に歩み出た。

「あ、危ないわ。浅海、下がりなさい!」

「大丈夫よ、私が私を殺すわけが無いもの――そうでしょう?」

 何を根拠にした自信だろうか。玲菜はレナがまるで攻撃しないことを読んでいたようだった。

「……流石に私は騙せないようね」

 観念したようにレナが表情を緩めた。

「ええ。私は千回生まれ変わっても、自分が可愛いの。自分を殺すわけが無いでしょう?」

「……浅海。格好つけたつもりかもしれないけど、それを世間ではナルシストというのよ」

 綾音の言葉など二人の間には聞こえていないのだろう。レナは首を振って肯定の意を示した。

「私が何をするか、貴女も気になる?」

「そうね、下らないことでない限りは」

「ふふっ、下らなくは無いわ。時間を遡ってまで下らないことをするほど、貴女は馬鹿?」

「――」

「まぁ、そういうことよ。私は殺されるわけにも、貴女たちを殺すわけにもいかないのよ」

「不利なゲームね」

「不利? 冗談はよしてよ、簡単すぎるゲームだわ。苦労したのはそれに気がつくまで……」

「――かもしれないわね……でも、私も貴女を見逃せない。アデットの敵は討たせてもらうわよ」

「あ、ああ……言っちゃ何だけど、彼女はまだ死んでないわよ。でも、流石に私ね。その気持ちはとても素晴らしいことよ」

「失ってはじめてわかる?」

「さぁ。でも、私……絶対の魔術師――永遠の筆頭貴族マクリールの当主に勝てると思う? 他の二流三流が全て魔術を忘れてしまっても、私たちだけは最後まで特別である……そんな家の長にただの人間が勝てる? 断言するわ、私こそは数いるレナ・マクリールの中でも最強のレナであると」

 世間には何千年も生きる魔術師がいる。

 だが、それらは個体としてそれほどの年月を生きているに過ぎない。彼らの家系が現在まで生き残っているかと問われたなら、答えは否。この世で最も古い一族の中にあるただ一つを除けば……数千年紀に渡って続く系譜は存在しない。

 レナが一歩踏み出した。

「!?」

 三人が目にしたのは驚愕すべき光景だった。

 レナはただ歩いただけなのだが、今まで彼女がいた場所に別な彼女が、その彼女が歩き始めるとまた別の彼女が……次々とレナが現れたのだ。

「言っていなかったけど、この結界を張ったのは私よ。ここは私の領域――」

「――そう。ここは我が絶対不敗の領域なのよ」

 次々に現れるレナが言葉を繋いでいく。

「ここに踏み込むことがわかっていたから、平行世界から集めた魔力を全て溜め込んで――」

「――私の領域は三ヶ月もの準備の末に完成していたの。驚いた? これは時の魔術を応用した多重存在よ――」

「――私だけ魔術を使うコストがとんでもなく少ないこの場所で――」

「――古の神の血が流れるこの私、絶対の魔術師であるこの私、人の生を千度は生きた存在をこの場で滅ぼすなんて神様にも無理よ。負けを認めなさい、三人とも」

 六人のレナに睨まれ、流石に玲菜も足が動かなくなった。

「……殺すつもり?」

「まさか。世で最も高貴な一族の血を、こんな場所で流せると思う? お情けを掛けて三人とも……足腰立たなくなるまで、叩きのめすだけにしておくわ」

 人にとっては悠久に近い時間を旅した存在が、一斉に構えた。

 それを前にした三人が死さえ覚悟したとき、突然小さな地震のような揺れが足元を揺るがせた。

「――!? ちっ、もうこんな時間……予定通りには行かないものね」

 レナが苦々しげに呟いた途端に、六人の身体が一人に変わる。

 先程の揺れの正体が無限回廊『メビウスの輪』の消失を意味すると、三人にもわかった。

 無限回廊に溜め込まれていた魔力の全てが結界の消失と共に、空間から消え去っていく。

「……運がいいわね。いいえ、結局殺すつもりでもなかったから、これでいいのかしら? あくまで私の目的は成就したわけだし……ご覧のように、今夜はもうネタが尽きたみたいだから、これくらいで終わりにしてあげる。さようなら」

 レナがそう言うと、彼女の体が徐々に透け始めた。

「ちょっと、待ちなさいよ! このまま行く気なの?」

 玲菜の呼びかけに、消え行くレナはわずかに笑った。

「ええ。そういう予定なのよ……うまく躱したつもりだったけど、世界の邪魔というのはなかなかに難しいものね。私なんかに構わず、早く行った方がいいんじゃない? 彼、死に掛けているかもしれないわよ」

「まさかあちらにも手を!? 急ぎましょう、浅海」

 綾音に手を引かれ、歩き出す玲菜の視線の先でレナが完全に消えた。












[1511] 第四十話 『風』
Name: 暇人
Date: 2007/01/18 07:53










「――ポニャトフスキー討伐に派遣したイオレスク執行官からの連絡は?」

 執務室の机に腰掛けたとても機嫌が悪そうな少女が補佐官らしい青年に聞いた。

「三日前に連絡があって以降は未だ報告は上がっていません。イオレスク一級執行官が負傷した件については、アジア支部のラジャラトナム二級執行官が補佐すると……」

 青年がそれを言い終わらないうちに、少女は怒りのあまり机を殴りつけていた。

「あのロリコンがっ! 毎度毎度、何の恨みがあって私の邪魔を……アトキンス補佐官、連絡がついていないなら報告はもういい!」

「はっ」

「……すまない、私はどうもあの男が絡むと感情の抑えが利かないようだ。見苦しいところを見せた。それで、各地の討伐状況は? あの忌々しい女は見つかったか?」

 少女はまだ怒りから醒めていないようで、言葉の後半からもう一度机を叩きつけていた。

 憎き三人の公爵――うちの一人を殺し、不本意ながらその地位を他称される少女。彼女にとって、他の二人はいつか必ず打ち滅ぼさねばならない生涯の怨敵だった。

「はっ、順を追って報告しますと……屍鬼の討伐については今のところ順調に推移しておりまして、領地を持つ真祖については領地から外には逃さず、領地をもたないものについては発見次第討伐に成功しています」

「よし、取り敢えず緒戦の勝利は我々のものだ。彼らの働きには褒賞で報いよう……アレが外に漏れれば、即座に大災害に繋がりかねんからな。この件について危惧すべき問題点は今のところ挙がっているか?」

「重要な問題点が一つ」

「なんだ?」

「ハイゼンベルク及びロマノフ閥の屍鬼については討伐に難が」

 名前を聞いただけで、少女の眉が釣りあがった。不機嫌さに拍車が掛かった様子だ。

「具体的にはどういう点が問題だ?」

「まず、ハイゼンベルク卿は諸々の関係から本人の討伐が非常に困難な上、彼女の屍鬼は全て骨格がオリハルコンに変わっています。当然、通常の攻撃での撃退が非常に困難になりますし、特性からか日光に対して非常に強い耐性が。今のところ、ハイゼンベルク卿自身が意図的にこれを増やしている形跡はありませんが、あれが本気になれば非常に厄介なことに」

「シュニッツェラーに、ハイゼンベルク――三侯爵め、忌々しい奴らだ……その件については不本意だが保護者に直接文句を言っておく……思えば、あのロリコンが地上の制覇などに興味を持たないことが救いか。これで足りないなら、水を用いた戦術に切り替えろ。雨の時分なら今の弾頭でも問題なく連中を粉砕するはずだ。それで、ロマノフの件は? すでに奴自身はイオレスク執行官が討伐に成功したはずだが?」

「はっ、それはそうなのですが、ロマノフは討伐されるまでに相当な数の屍鬼を作っていましたし、何より彼の屍鬼は翼を持っています。各地に相当分散してしまっておりまして、あれの討伐は時間が……二次災害の恐れもあります」

「その点については優秀な追跡者を何人も派遣しているはずだが?」

「恐れながら、閣下はロマノフが作り出した屍鬼の数をご存知ですか?」

「貴官からその報告はまだ受けていないが、例の薬の配布から半月足らずでの討伐例だぞ……おそらく十や二十だろう?」

「いえ。本日計算された資料によるとおよそ千です、ロマノフの主人であるガリノア卿は鏡の魔法使いですから……」

「千!? ちぃ……ガリノアが絡んでいたか。ええい、であればガリノア本人の討伐を優先しろ! 優秀な面子を揃えれば討伐は可能なはずだ。それに、もし必要なら……私が出る! 奴の『鏡の庭』を欠片も残さず粉砕しつくしてくれる!」

「それはなりません。最重要課題であるシュニッツェラー卿討伐が迫っていますし、ガリノア卿本人は平行世界へ逃亡する恐れが」

「くっ! だが、アフリカの作戦は一国を相手にすること、あの男が抱える兵隊だけでも五万は下るまい。その上、操られた人間どものことを考えると……多少の犠牲はあきらめるにしても、一国の全国民を消すわけにもいかんだろう!」

「秘密裏に人質になっていたものを含む周辺国の人口は軽く見積もっても数千万。ですので、是非とも閣下には参加していただかねば」

「ヴァン・ヘイデン一族の誇りと名誉に掛けて……参加はする。だが、他を放っておくわけにもいかん。シュニッツェラーの討伐はどう見積もっても数年がかり。だからといって、その間に他の勝手は見過ごせない……補充人員をありったけ集めろ」

「それはそうですが……わかりました、三級以下の執行官についても参加人数を増やせば現状での対処は可能です。ある程度名の通った魔術師にも招集を掛けていますし、彼らの協力如何では効率が向上するかと」

「アトキンス補佐官! 時間の猶予はあまりない、それがわかっての発言であろうな?」

「わかっていて対処策のない問題ですから……閣下もご理解していただけると思っておりましたが。何より、処女と童貞しか効果をなさないという薬ですし、二次災害の場合もとても希少な例に過ぎません。なにとぞ、もう少し冷静にご判断ください」

「くっ、私も……理解はする。だが、納得できるかどうかはまた別な話だ……ああ、忌々しい!」
















「――ハァハァハァ、ハァ……くっ、アーデルハイト・フォン・シュリンゲル、いや、問題は――何故、浅海玲菜があんな瞳を?」

 路地を逃げ続けた先の工場跡、行き止まりのその場所に逃げ込んできたスタニスワフが苦しそうに毒づいた。

 適当に死ぬか――そんなことを考えていた彼が、今は必死に死から逃げようとしている。

 何故か?

 それは彼本人にも、千尋にもわからなかった。

 だが、問題はそんな心境の変化ではなく、何故あんな瞳をしていたのかということ。

『……吸血鬼さん、どうしたの……』

 ついにスタニスワフの呪縛の中にあってさえ彼女の声が届いた。

「千尋か……よく目が覚めたものだな」

『……何が、あったの?』

「……悪い、いや、何故オレは謝っている? ……っ、今アンタの身体を殺しそうなんだ」

『?』

「要するに、お前は死に掛けている……誰が誰かよくはわからなかったが、どこぞの貴族が三人がかり。だから、恐らくこの身体は死ぬ。短い付き合いだったな」

 魔導書を構え、自分を追ってくるはずの敵に奇襲を掛けようとしていたスタニスワフは少し早口に言った。

 精神を統一し、周囲にあるものの気配を感じ取る。

 動くもの、近づくもの、殺気を迸らせるもの……それらの全てを感じようとした。

『――そう。お別れなのね』

「ああ、お別れだ――全力で抵抗はする。だが、あまり期待はするな」

『……スタニスワフ。全力で抵抗などしなくても、貴方は絶対に滅ぼせない身体なんでしょう』

「確かにオレは死なない……だが、千尋は死ぬ」

『構わないで、別にそれが怖いわけではないから』

「……これは魔術を学んだ先達としての謝罪だ、黛千尋。望めばその才をもって、一国の支配者にさえなりえる身でありながら、それを自覚できない存在……その才は二三の古い貴族にあるだけと聞く。だから、オレはその死を惜しみ、この場で謝罪しておこう――すまない」

 それは一国を支配するには過ぎたる力。周りに存在する人間が彼女の考えに無条件で同意するように、その精神の全てを侵蝕し、陵辱し、支配する魔術。世で最も完全な洗脳術、そう呼ぶべきもの。

 宗教家、政治家、そのほか大衆を動員する職業につけば、彼女は力を持って瞬く間にその世界の頂点に辿り着くことだろう。

 呪いじみた洗脳か……そう口にしたスタニスワフ。

 尤も、洗脳は魔術師には効きにくいらしい。

 ただスタニスワフが半ば侵蝕されたのは例外だ。それは彼が千尋と同化していたためであるし、千尋自身もスタニスワフの意識に侵蝕されているのだから。

『なら、守って。私も一応……死にたくはないわ』

「了解した……多分これは術中に嵌っているからではなく、自分の意思で言った言葉だ」

『……ありがとう。生き残ったら、貴方の望み――祖としてより高みへ行きたいという望み、叶えましょう』

「――っ! 記憶まで……まぁ、いい。来たようだ、もう口を開くなよ」

 目を閉じたままのスタニスワフは、ただ静かに詠唱を始めていた。




















 ここで話は少し戻る――それよりも一日前へ






『――ほう、貴様はティアマトの姫に出会ったのか?』

 その夜――ベッドに腰掛けた俺と会話していたセンナケリブの雷撃が、ふとそんなことを口走った。

 普通にしていても、コイツの言葉が少しは聞き取りやすくなった気がする。これも何時間も剣の心を聞き取ろうとした努力の結果だろう。

「いや、偉そうな吸血鬼のガキに出会っただけだって……それで、何? ティアマトの姫?」

 姫といえば確かにそれで間違いはないが、『ティアマトの?』というのは初めて聞いた単語だった。

『偉大なるティアマト。世界の子たる小世界――概念上の話しではあるが、貴様ら人間が立つこの星そのものというべき神で、ヘレネスの言葉ではガイアとも呼ばれる。まあ大層な事を言っても実際は……ほとんど意思を持たない力の集合だ。そう、言ってしまえば其れまでだな』

 バビロニアの神話にある強大な神の名前で呼ばれる星の意思、それがティアマト。半神であるという吸血姫の父にも当たる神。

 バビロニア神話において語られるティアマトは海の象徴たる女神、それも一部の解釈では竜の身体をした神のはずだが。いや、神に性別を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。

 原初の神話に語られるティアマトは夫である淡水の神アスプーを自らの子供に殺され、その怒りから子供達を皆殺しにしようとして矢によって滅ぼされた。カナン神話のレヴィアタンと同一の存在とも一説には言われる。

「待て待て、今小世界っていったな? 大世界っていうのもあるのか?」

『大世界とは言わぬが、真なる世界とは宇宙意思。即ちこの世の全て――貴様の知り合いの娘、あの黒髪の貴族が負う運命や貴様の体質は世界が望んだ結果だ。因みに、茶髪の貴族のアレはそれよりは少し低いが、ティアマトの姫でもなければどうにも出来ぬ呪い……恐らく祖先の縁だろう』

 さも知った気に語る剣……声は聞こえど語る精霊の姿が見えないのはなんか不気味だ。

「おいおい……どうやってそんな抽象的なものと、その、なんだ……子供を作るんだよ?」

 手元にある剣に向かって聞く。

 小世界なるものを抽象的などといったが、難しいことに地球そのものは目の前にあるほど具体的なんだよな、この場合。

『神殿巫女だ。一片の穢れも無きほどに純粋で、罪というものさえ知らない星の意思の受信装置。アンテナ、あるいはそのデバイスと呼べば愚鈍な貴様でも理解できよう?』

「お前、俺を馬鹿にしてるよな? ついでにアンテナやデバイスなんて言葉よく知ってるな」

 本当に、ただの剣の癖に何故最近の言葉まで解するんだろう。

『馬鹿にはしておらん。事実を述べたまで……それに外の情報とて私に得る手段が無かったわけではない』

 変態吸血鬼のそばから離れられなかったくせに。そんな状況でさえ、情報を知る手段が本当にあるのだろうか?

「ああ、そうですか! で、その神殿巫女って言うのは、あの地方なら神殿の娼婦のことだよな?」

 古い時代の神殿に仕える巫女は性行為を通して神の意思を受けることが文献でもよく知られている。当然、全ての地域で言われるわけではないが、ヤズルカヤがあるという地域はもろにそういう文化圏だったはずだ。

『貴様らの知る常識ではそうかも知れぬ。されど、ヒッタイトの神殿都市ヤズルカヤの民は異端も異端だ。白を至上と考え、穢れの無い理想郷を夢見た理想主義的な異端者の集まり。故に、あの土地の神殿巫女は生まれながらに人としての生など送れない』

 剣が語るのは修道院よりもさらに異質な世界の話だった。要点だけ言えば、何処かの収容所の方が人道的に思えるような扱いを受けた人々の話。

「それでアレほど人間嫌いに……」

『かも知れんが、恐らく本人の性質であろう。私やアレから見れば人間など犬や猿と同列の下等動物に過ぎんからな』

「そうなのか?」

『ああ、だから私も我慢して貴様と話している』

 はっきりわかったことがある……この御偉いセンナケリブの雷撃さまはどうも物事をはっきり言い過ぎる嫌いがあるようだ。人の姿をしていないだけましだろうが、この調子で話していれば捨ててしまいたくもなる。

 しかし、妙だ。あの変態はどうしてこれを捨てないでいられたのだろう?

「……歯に衣着せようぜ?」

 向こうに俺の表情が見えるのかどうか――それは相当に微妙な問題だが、取り敢えず今感じた怒りを表情に出して剣を睨み付けた。こちらの表情がわかるのなら、人の気持ちを理解できるのなら少しは態度が改まりそうなものだが、剣はまるでそんな素振りを見せなかった。

『知らんな。そして、そういう状況であるが故に姫は自分の母親でも殺すし、血縁でも殺す……私にとってそれは仕方の無いことだ。人の世ではそれを非道と考えるのだろう? 同属意識など露ほどにもない私たちには実感のわかぬ話だな』

「まあ価値観は人それぞれではあるからな……つーか、お前はアイツに会ったことがあるのか?」

 人を殺していいという価値観は到底認められないが、向こうはそもそも人を同列とは見ていないから性質が悪い。人間に家畜を殺すなといっているようなものだからな、受け入れる場合もあればそうでない場合もある……願わくば、余計な火種が増えないように剣には持って欲しくない価値観だ。

『一々学習せぬ男だな、外の知識を得る方法もあると言ったはずだ。猿以下か、まったく』

 まるで電話で向こうが一方的に怒っているような感じだろうか、不思議とセンナケリブの雷撃の言葉に大きな怒りは覚えない。小さな怒りと不満は覚えるけど。

「物の分際でお前も……いや、そうなのか? 性格とか近いものがあるような気がするけど」

『――無礼な男だな、貴様は。私の逆鱗にでも触れたいのか?』

「別に。違うけど、そう思っただけだよ。性格悪いのも似てるだろ? 最初親戚かと思ったくらいだし」

 そうそう、コイツの喋り方などは親戚だと思った要因の一つだ。

『……貴様は完全に私を馬鹿にしているな。さもなければそのように私を愚弄するなどありえぬ。姫の性格など知らぬが、貴様を嫌ったとしたらその選択は正解だ』

「百年後の暗殺予告なんて貰ったけどな……俺、そんなに生きれるわけ無いと思うぞ」

『貴様の事情など知らんよ。重要なのは貴様が私を馬鹿にしているという一点のみだ。誇り高き私――このセンナケリブの雷撃を愚弄するものは誰であれ許さん! 謝罪せよ、これは命令だ』

 言うに事欠いて、謝罪せよ、とは……こちらに手も足も出せないくせに高い場所から見下したような物言いだ。

「いや、待てよ。お前さぁ……『俺の』剣だよな? 何故、命令権がお前にある?」

『私は未だ貴様と契約してはおらん。手を貸してやる盟友というだけの存在に私が下手に出る理由はなかろう?』

「……お前、言葉わかってる? 盟友って言うのは対等な関係だろ」

『ここまで間抜けとは……よいか、貴様に一つ教えてやる。この世に対等などというものは無い。上か下、それ以外に両者を分ける関係は存在せぬ。平等などというのは愚かしき弱者の甘えに過ぎん。故に弱者である貴様は私の下であろう、ならば従え』

「どこの過激派だ……大体そんな理不尽な関係をいつ俺が認めた? お前とは今漸くまともに会話してるんだぞ、それなのにもう上下関係が成立してたのか?」

『当然だ。会ったときから成立していた。千年と少々の年月を生きる私と私の生の端数に過ぎん貴様では生命としての格が違う。どうだ? 貴様が私の上に立てる道理があるまい』

 生きた年月とかは、人格にあまり影響しないという反面教師になってくれたセンナケリブの雷撃。きっと人の姿をしていれば、胸を張って立ち上がったままこちらを見下ろしていることだろう。

 だが、この剣に身体はなく。こちらを殴るこそさえ出来はしない。

 そう思うと、口だけの抵抗しか出来ない剣が何だがとても哀れだ……

「……千年って、時代考証とか考えた嘘付けよ。サーベルがそんな前からあるわけが……」

『ん? 聞いておらんのか?』

「何をだよ、主語を言え。主語を」

『私はな、ある程度望んだ形状に姿を変えることが出来る。刀とやらにもなれるぞ』

「なら、俺の使い勝手を考えようぜ?」

『愚鈍な、本当に愚鈍な男だな。私がそれをするのは契約者に対してのみ、主人に値せぬ貴様を私の風上には置かぬ。故に、私は振る舞いたい様に振舞う。辛うじて譲るのは、私のやり方でなら貴様の手伝いをしてやるということだけだ』

 意識を集中している分、適当に話していても結構疲れる。

 しかし、剣はそんなことを気にする様子もなく元気な声で語っていた。自分の言葉が適当にあしらわれているのに、わりとポジティブな性格のようだ。

「はいはい、そうですか……足だけは引っ張るなよ」

『貴様、精霊と人間の差異も理解できん愚物にしては吠えるな。嫌いではないぞ、馬鹿な犬ほど可愛いこともあるからな』

「犬を飼ったことも無い身分で言うなよ。それで、精霊と人間の違いってヤツを教えてください、お偉い剣様ぁ?」

『……なんだ、そのものすごく馬鹿にした頼み方は。無性に腹が立つ、気に入らんぞ』

「はぁ……なんだかお前、俺とは友達になれそうに無いな」

『同感だな、貴様は私の友になれん……それで、精霊とは三要素により形作られる人とは違い、二要素によって成立する高次の存在だ。霊媒師が言うように広義には神や悪魔も含めた人以外の、この物質世界に身体を持たぬ生命をさす』

 口のわりに話すのを止めない辺り、今まで話し相手に恵まれていなかったようだった。そう、おそらく適当に聞き流していた俺と話すのを止めないのは性格ばかりが原因ではないだろう。

「へぇ、でも半神とかいるじゃないか」

『貴様――私の話に割り込むことは許さん、次にそのように無粋な真似をしたときは黙って自決しろ』

「……お前が一度話を切ったんだろうが」

『言い訳は見苦しい、情けない男だな』

「あっ、そう。それ以上訳のわからないこと言えば、後で捨てに行くからな」

 捨てに行くといった瞬間、追及の言葉は続かなくなった。

 そうか、弱みはその点か。案外にわかりやすい性格だ。

 小さな咳払いのようなものをして、再び語り始めたセンナケリブの雷撃。

『……神や悪魔にも色々ある。人の信仰や恐怖が元になって生まれた新参から、自然自体として存在したものまで幅広く、意思のあるもの無いものも多々存在する。一般に人間は意思のない精霊について神と悪魔に分けて考える傾向が在るな。ただ、そのような精霊にも共通することもあり、霊媒師と呼ばれる精霊の扱いに長けた魔術師の手を借りなければ、この物質界に力を顕現することは難しい』

「へえ。そう」

『それで、広義の精霊は多くが位相をずらした別な世界に存在している。半神とは元々こちらに生を受けたが故、物質界に影響を及ぼす際に魔術師の仲介を必要とせぬ高位精霊のこと。故に、この世界においては本来最も強大な神よりあの女は強い。魔力を魔術に変換する技術は精霊の方が人間に遥かに勝る。何の仲介もなく物質界に影響を及ぼすほどの大魔力を持つ精霊は向こうに少なく、その中でも元々飛びぬけていたティアマトの姫は私たちにとっても異常な存在だ。アレに挑むというなら、棺を用意して置け』

「お前……稀にしか百年も生きないモンなんだよ、人間っていうのは。それで、吸血鬼は精霊の流れのものか?」

『……アレは、よくは知らんが、他の星の精霊……この星を宇宙規模に置き換えたときの精霊に当たる存在ではないか? 断言はせぬが、私たちとは微妙に違う。そう考えれば、あれも半神の一種ではあったか……因みにティアマトの姫が目指すはさらに上、この宇宙意思と等しき存在となることだとか。まあ、これは可能かどうか知らぬがな』

「へえ。そう」

『私の場合は連中とは違うが、この剣を中継装置及び顕現する際の依代として使用することで、霊媒師の存在を必要とせずに魔術を行使する。ああ貴様は勘違いしているようだが、この剣自体が私というわけではない』

「……何? この剣がお前って訳でもなかったのか?」

『あのな……剣が喋るわけが無かろう。貴様は底抜けの馬鹿か? それとも気でも触れておるのか?』

「……お前、マジで捨てるぞ」

『……剣は私の本体ではないが、壊れると困るのは確かだ。これ無しには私も力をこの世界に行使出来んからな……だから、止めよ』

 本当に弱みがはっきりとわかる性格だ。脅しても言うことなんて聞かないだろうけど。

「じゃあ、手っ取り早く契約とか結ばないか?」

『唐突に話を飛躍させるな……とはいえ、そのことで教えておかねばならぬことがある』

「?」

『私は雷を司る精霊、この世界に干渉し始める以前よりの生を数得れば創生の時代にさえ遡る……それこそ億単位と考えよ。されど、こんなことは初めて……何と言ってよいやら、端的に言って契約が結べぬ』

「? ……ふざけてるよな、お前」

『違う。私と契約さえ結ぶことが出来れば、私が貴様を操作して最強の剣士に仕立て上げることも可能であろうが……出来んものは出来ん。アドバイスだけするから、適当にこの剣を振れ。サポートはする』

「……散々引っ張っておいてソレか? 自分が使えないってことを散々引っ張ってから言うのか?」

『使えぬのは貴様の頭であろう。私は役には立つ、ソレを役立たず呼ばわりは許さんぞ』

「くぅ、肝心なところで落とし穴かよ。欠陥品が!」

『欠陥……これは貴様の体質が原因なのだぞ。言ってみれば貴様は不能の分際で女を責めるような物言いをしている、恥を知れ!』

「…………俺、そんなに恥ずかしいこと言ってたの?」

『左様。死んで償え』

「つーか、俺が死ねばお前は困るんじゃないのか? 論理的に破綻してるぞ、お前の発言」

『……う、煩い! 揚げ足を取るなど、何と姑息で矮小な精神の持ち主か! ええい、不能者め、死ね!』

「いや、だからその『死ね』っていうのは論理的に矛盾してるって……なんか途端に切れる辺り、お前も相当馬鹿だよな?」

『……ちぃ! 何故こんな愚昧で卑怯なものが私の主に……ティアマトが運命に干渉したならば、文句を言って……』

「力の塊に叫ぶって、台風に叫ぶみたいな感じだろ? 意味ないんじゃ……」

『揚げ足取りは姑息といったであろう! 私ほどになれば、ティアマトのような存在にも多少は言い分を伝えられるのだ! ソレも知らぬうちから私を馬鹿にするな、白痴!』

「はいはい、可哀想だから止めてやるよ。台風に向かって叫ばれても困るからな」

『……殺す、いつか貴様は殺す。それだけは覚えておけ!』

「まあ、覚えてはおいてやるよ。多分」

 この剣と仲良くなるのは困難だが、案外煽て易いかもしれない。












 そして、今現在の俺はその剣を持って相手が潜む廃工場へと歩いていくのだった。

『来るぞ、全力で右へ跳べ!』

 取り敢えず、工場の入り口から中を覗こうとして入り口に近づいたとき、剣が叫んだ。

「へっ?」

 心の準備も出来ていないうち、身体は声の命じるままに右へ走っていた。

『馬鹿っ、跳べといったであろ……』

 その瞬間に襲い掛かってきたのはまるで竜巻のような凄まじい風。周りの音が消えたかと思えば、目の前の壁が内側から俺に向かって弾けとんだ。

「嘘っ!?」

 咄嗟に顔を隠したが、壁を構成していたコンクリートブロックやトタンが時速何十キロという速度で襲い掛かってきたのだから、腕のガード程度ではひとたまりもない。

 魔術自体によるダメージはなかったのだが、飛散した凶器によって弾き飛ばされた身体はコンクリートの破片や他の瓦礫と共に数メートルも吹き飛ばされて壁に激突した。

 衝突の瞬間、咄嗟に身体をかばうことには成功したがその程度で軽減できるほど甘いダメージではなかく、身体が麻痺したかのようにしびれ、耳には何の音も届かなかい。

 骨折はしなかった腕で目をこすったとき、顔の前に翳していた剣が白熱していたことに気がつく。

 だが、それだけでは本来なら顔面を直撃するはずだった鉄パイプがその白熱した剣によって二つに裂かれていたことまでは分からなかった。

 そして、剣の明かりに照らされた視線の先に魔導書を持った少女の姿があったことに気がついたのは、すぐだった。

「よう、人間。今ので生きてたか……だが、次で殺す! 天を引き裂く裁きの風、七つを統べる最強の疾風イムフラよ――空の車を回すものよ、汝、我が一矢となりて」

 凄まじい魔力の鳴動。本来なら当たれば即死間違い無しの大魔術が発動しようとしていることが素人目にもわかった。

『イムフラだと!? 莫迦な、こんな場所で? 早く……早く逃げよ、あんなものの直撃を受ければ、魔術障壁など意味を成さんぞ……いや、もう遅い。この区画が全て消し飛ぶ!』

 雷撃の言葉が聞こえても、肝心の俺の身体は漸く瓦礫から抜け出したところ。逃げろといわれても、そもそも人間の足であの魔術の射程から逃げきることなど出来ようはずもない。

 必殺を込めて撃つ魔術――どんな雑魚にも、恐らく特異な障壁を展開していると思われている俺にも本気で当たろうというスタニスワフの魔術がかわせるものであるわけがない。

 一瞬でも気を抜けば身体が宙に浮かぶほどの風が一人の魔術師の周りに渦巻いている。銃弾も弾き飛ばすだろう魔力の風は、本来ならそのまま即死の攻撃なのだろう……

 一歩足を踏み出した。

 身体を吹き飛ばすはずの暴風なのに、何故かこの身体は浮かばない。

 その代わり、弾のように飛んでくる木材や何やらが身体を掠めるだけで寿命が縮む思いだ。

『これは――貴様、正気か? いや……私を目の前に構えろ! 剣の扱いなど知らずともよい、危険から逃れたくば、兎に角構えろ!』

 一歩一歩進むたび、襲ってくる弾丸の速度も倍以上に跳ね上がっているような錯覚さえ覚えていた俺に、剣が必死に叫んだ。

 その言葉を受けてか、あるいは無意識にか、手は体を保護するように目の前に剣を構えていた。

『よし――後は何があっても私を放すな、道は必ず作り出す!』

 刀身が一瞬で白熱する。

 まるで電灯を持っているように暖かな光だった。

 そして飛来する物体がその光に触れるたび、塵のように消えていく。まるで道が開けたかのように、俺は真っ直ぐにスタニスワフを睨み付けた。

「馬鹿な、雷鳴剣だと? 名高きセンナケリブの雷撃か……ちぃ、人間などに肩入れしやがって……貴様らまとめて消し飛ばしてくれる! 海を断ち割り、天を裂く、至強なるイムフラよ……」

 スタニスワフが一言紡ぐたび、周りの音が消えていく。

 その空間に、この世にはありえぬ黒き風が渦巻き始めた。

 少女の姿を借りる吸血鬼の手元に収束するその風は『悪しき風(イムフラ)』、バビロニアの伝説ある神殺しの風。

 神を殺す風とはいえ概念上は武器の一つ、そういう意味であの吸血姫が作り上げた魔法の書物。それが秘めた力はここに全てを圧倒する力となって猛威を振るった。

 そう、最強なる神秘の風イムフラの概念が宿った盾の魔導書。その盾が最強を謳われた理由、それこそ世界を圧倒した神にさえ対抗する風を司るためなのだ。

「スタニスワフ――!」

 それを撃たせまいとしてか、そのとき俺の身体は古の神を退けたという風の中を走っていた。

「――この世で最強の風を、我が盾を、イムフラを……人間如きが突き抜けるだと? 莫迦な莫迦な莫迦な……舐めるなよ、ガキがぁ!」

 驚愕のままに叫ぶ吸血鬼の顔面はすでに蒼白ですらあった。凄まじい魔力の風を紡ぎ上げた彼は本気なのだ、不死身の体を持ちながら、それでも本気になって相手を全て殺す気なのだ。

 だというのに、人間が、しかも素人臭い魔術師が最強の風を突っ切って向かってくる。

 その事実に驚嘆を超えた畏怖さえ感じ始めていた。

 そして、両者はそのまま真っ黒い風の中、ただ剣の光だけを頼りにぶつかり合う。














[1511] 第四十一話 『伝承の最期』
Name: 暇人
Date: 2007/02/10 02:11






 本を持つ少女の半身を隠すように、黒い風が吹き荒れている。

 それはまるで竜巻がそこだけに発生していくようにさえ見えた。

 音はこの空間に存在しない。

 だというのに、不思議なのだ――自分の呼吸する音、心臓の高鳴りだけは耳元でなっているかのように聞こえるのだから。

 そんなことを考えているうちに、星さえ黒い風の前ではその輝きを失っていった。

 だが、剣が放つ光を頼りに俺の足は迷うことなく相手に向かった。

「莫迦な!? 一体貴様は何だ……ラリーサ・ラリーサ・イム・アデム、イラ・イムフラ!」

 爵位を名乗れない身分、それでも三桁の年月を生きるスタニスワフ。

 彼の渾身――後先を考えていないと思えるほどの大魔力が術式に全て流れ込んだ。

 少女がこちらに向けて振った右腕に纏わりつくような黒い竜巻が、真横に吹き荒れる竜巻が俺に向かって飛来した。

 そう、竜巻が真横に向かって投擲されたようにして向かってきたのだった。

 すでにその竜巻の発生過程で背後にあった工場や壁、周囲にあった建物の外壁さえ抉り取られたようにして破壊されつくしていたのだ。

 仮に、イムフラがこのまま直進すれば軌道上にある建物を、それがマンションであっても数棟は打ち抜いたことだろう。

 だが――今宵の風は直進することが出来ない。

「なにっ?」

 真っ黒いカーテンを切り裂くようにして魔力で編まれた風を突っ切った俺の姿にスタニスワフは硬直していた。

 本来なら周囲に散々な破壊をもたらすはずの風が目の前の人間によってこの世から消失し、それを構成していた魔力が四散していった様子に口が開いたままでさえいる。

「うあああ!」

 その隙を逃せばどんな反撃があるかわからない。

 最初から、いや途中からだろうか――直感的に悟っていたその瞬間に全てを賭け、ただ剣を振った。

 相手の姿を冷静に見た状態では振れなかった剣は、ただその場の勢いのままに少女の肩からその身体を両断しようとしていた。

「!?」

 茫然自失状態だったスタニスワフの身体に剣が食い込む直前、意識を取り戻した少女は咄嗟に本を剣の軌道上に構える。

『遅い――その首、貰ったぁ!』

 如何に強力な魔力を宿しているとはいえ、本程度で自らの攻撃を受け止めることなど出来ぬと考えたセンナケリブの雷撃はすでに勝利を確信していた。

 だが、その本を侮ってはならなかった――その守りにおいて最高を謳われた本なのだから。

「かっ、神吹かす風インブリカ――駆けよ!」

「うっ、そ」

 言葉と共にスタニスワフの手元の本が弾けた。

 何百という紙がまるで意思を持った生物であるかのように破裂したのだ。

 それは空を舞う鳥のように、敵に襲い掛かる蜂のように……俺に襲い掛かってきた。

 ページは剣より堅く、ナイフより鋭い。

 人の皮膚に触れればそのまま骨まで斬り裂く紙切れ――だが、そんなものはすぐに……

 まともに前が見えない状況で剣から伝わる人の身体を斬り裂く感触。

 まるでプリンでも抉ったかのような弱い抵抗の後、いきなり空振りしたように身体がつんのめる。

「やった……えっ、痛?」

 急に身体の自由がなくなったかのように脱力して、倒れていくのをとめることが出来ない。

 同時に凄まじい痛みが体中を伝わっていく。

 まるでナイフで体中を切り裂かれたような凄まじい痛みが腹から、肩から、脚まで広がっていったのだ。

「あう……」

 今まで目の前を羽ばたいていた紙片が消失すると同時、地面に倒れた俺の目の前にはスタニスワフの脚。

 それに……

「ああああ、てめえ、よくも……オレの腕を、よくも!」

 スタニスワフの左肩から先がない。

 その部分はバターのように溶解された上に切断されていたのだ。

 腕が床に転がり、一滴の血さえ流れていなかったが、スタニスワフの眼は凄まじい怒りに燃えていた。

 当然ながら転がる俺の身体も無事ではない。

 体中にページが突き刺さり、夥しい流血が零れ出ていたのだ。

 どうやらページが飛翔するという魔術自体は消失したのだが、ページという実在する物質に加えられた魔術が消失した後も十分に減速されなかったということだろう。

「貴様ぁ、打ち殺してくれる!」

 十枚以上の紙が突き刺さった俺の身体を一瞥した吸血鬼はわずかに助走をつけたかと思うと、いきなり俺の腹を蹴りつけてきた。

「ぐっ、ごほっ」

 次の一撃で握っていたはずの剣は蹴り飛ばされ、顔面に強烈な一撃。

「オラ、死ね死ねぇ!」

 何度蹴られたのか?

 すでに身体の感覚は麻痺してしまう直前、意識を保っていることさえ奇蹟みたいな状態。

 狂ったように叫び続けるスタニスワフは手加減無しでこちらを蹴飛ばす。

「あぅ……この……めろぉ!」

 このままでは蹴り殺されかねないと考えたとき、すでに無我夢中で漸く掴んだスタニスワフの脚を引き寄せてその顔を……

「インブリカよ、蹂躙し尽くせ!」

 一度の成功でこちらの特性を理解したのか、スタニスワフの対応は冷静だった。

 その手に握られた本が一瞬で数百の紙片に変わったかと思うと、刃の嵐が巻き起こる。

「ぐ、あああっ」

 何十という紙片を受けつつも、こちらの魔導書をなぞる。

 何十枚もの紙片が燃えるはずの焔が巻き起こったのだが、それは盾の魔導書のページなのだ。

 全ての焔は一瞬で消失し、代わりに紙吹雪が俺の身体を血まみれに変えていく。

「ひゃはははは、死ね死ね! 人間の分際で、でしゃばってんじゃねえよ!」

 正気を失ったような叫び声を上げ、紙の嵐を操る吸血鬼は俺をさらに蹴り上げた。

「屑、貴様はさっさと死ね!」

「うっ」

 顔を蹴られたとき、血が目に入って視界が失われる。

 それでも何度も蹴り上げられ、呼吸が一瞬止まった気さえする。

 内蔵を傷めたらしく血を吐き出し、口の中も切っている。

 音さえ満足には聞こえなくなった。

「あはははっは、終わりだ――過ぎ去りし風バアリア、汝の刃によりて……」

 その詠唱さえ途切れていく中、すでに意識があったのかなかったのかさえからない状況の俺には――穏やかな波動が感じられた。

 ソレが一箇所に集まっていく感覚――いや、それは感覚だけではなく……見える?

 光で描かれた幾千の数と複雑な幾何学模様が空中で回転しているところに、周りの穏やかな波動が引き込まれていって、良くない光に換わっていくのがわかる。

 あれが魔術式、人の目では見ることが出来ない魔術師によって描かれた魔術装置。

 装置……装置?

 魔術式がなければ、魔術は発動しない。

 俺が今まで魔術を消してきたのは、魔術式を消してきたから?

 だったら、アレさえなければ……

「……えろ……き、えろ……消えろぉ!」

 自分の魔力のストックも考えず、目の前の人間を殺すことだけを目的にして編まれていく魔術。

 ページによってなされるバアリアの風はそのままならビルさえ両断しただろう。

 だが、そんなことを許すわけには……いかない。

 ページがこちらに振り下ろされる前、何かが弾けた音だけが聞こえた。

 同時に、倒れている俺の顔に当たるのは害のない紙吹雪。

 千切れたルギエレ書の紙片。

「ぇ、これは……盾の魔導書が……イフィリル様の、第一貴族の魔術が砕け散った、のか?」

 ぼんやりと紙片を眺めていたスタニスワフは無意識に呟いていた。

 状況を判断できないでいたのだ。

 だが、そんな隙を突くほどの余裕はこちらにはない。

「誰だ? 誰だ、誰がこんな真似を! っ――何時の間に……いや、まさか貴様がこれを?」

 何かに気がついたらしい声が紙吹雪の彼方から聞こえた、そんな気がする。

 血が流れ過ぎたために冷たくなった手は小刻みに震えた。

 だが、ソレを無視するかのように何とか瞼をこすると、倒れている俺からもその光景が見えた。
















 イムフラによって周辺にあった工場やビルの半分が抉り取られ、月光を遮るものが無くなったその場所に降り注ぐのはルギエレ書の紙片――最高の魔導書の一、その紙片が雪のように降り注ぐ光景はこの世に在り得ぬと思えるほどに幻想的だった。

「サーシャ……」

 紙の雪の中に立っていたのは、紅い外套の魔術師サーシャ・イオレスク。

「黄昏の、王冠……お前、止めろ、止めろ! 俺はまだこんなところで今回の生を終えるわけには……」

 恐怖に歪んだスタニスワフの顔を見てもサーシャは感情を示さなかった。

「サンタクルス法廷のリスト、その二十番に名を連ねる者スタニスワフ・ポニャトフスキー――執行官ミルチャ・アレクサンドル・イオレスクの名においてその罪、裁かせてもらう」

 紅の魔術師は十もの黒い狼を従えており、次の瞬間にはその僕を吸血鬼に向けて嗾けた。

 その言葉によって走り出した獣達を止めるものはない。

 攻撃を防ぐべき魔術の盾も消失し、妨害する壁もない。

 今のスタニスワフに魔力などほとんど残っていない、体力は人間並みなのだからそれに対抗できるわけもなかった。

「止めろ、止め……が、千ぎれ……」

 倒れている俺の目の前でサーシャの獣に食い殺されていく少女の姿。

 とても見ていられないような光景が展開されると思いきや、その首が食いちぎられた瞬間スタニスワフの身体は一瞬で灰と化した。

「……イオレスク殿! 貴方は何て真似を……」

 サーシャの後ろから駆けてきたのは東南アジア系の青年。

 彼はそのまま声を荒げてサーシャに掴みかかった。

「あの吸血鬼は封印する、そのはずだったではありませんか! 何故こんな勝手な……貴方の家名を鑑みても厳罰ものですよ!?」

 外套の襟を掴んでいた青年の手を払いのけたサーシャはゆっくりと俺に向けて歩いてきた。

「クラリッサか……でも、封印作業などしていては間に合わなかった――さぁ、無事か?」

 俺の身体を抱き起こしたサーシャは自分の肩に腕を回させた。

 体中を切り刻まれた痛みは凄まじく、触れられただけでまともな返事も出来なかった。

「痛ぅ……大丈夫なわけ……ないだろ、来るなら、もっと早く来いよ……でも、助かった」

「どうやったか教えてもらえるとは思わない。それでも、貴方のお陰で楽に片付いた……感謝する。酷い傷だ、すぐに私が治療、しよう」

 無表情なままにサーシャが告げる声、そこに吸血鬼を滅ぼしたという達成感は微塵も感じられない。

 そうだ、吸血鬼スタニスワフは滅びてはいないのだ――封印すべきはずのところでサーシャが殺したから、彼を滅ぼせなかった。

 それは十分に余裕を持って行動すべきところで俺を助けようとしたからだ。

 それ故だろう、サーシャの横に立っていた助手の男はこちらを苦々しげな顔で睨みつけていた。

「スタニスワフは不死身です、そのことをご存知でありながらこんな愚挙を……封印するための準備も十分にしていたんですよ! それなのに、何故彼など助けようと? あのままにしておけば、いい囮だったではありませんか」

 こんなことを俺の前で平気で口にする辺り、この助手も相当頭にきていたのだろう。

「ムーサ――事情どうあれ、スタニスワフを一人で戦闘不能に追い込んだのは彼。作戦通りの行動を取ったとして、私達がルギエレ書の力を過小評価していたのは事実。その場合、発生する被害はどれほどだったと思う?」

「我々がスタニスワフを逃した場合の被害に比べればそんなものは無に等しいでしょう! 貴方のアレがどれほど愚かだったか、反省もないのですか?」

「……そのことについては言い訳しない。だが、次の機会には必ず私がこの手で……」

 サーシャの顔を見ると次の機会などないのかもしれない。

「ちょ……っと、待ってくれ……サーシャ」

「君! イオレスク殿になんて口の利き方を……命の恩人に対して失礼だと思わないのか」

「ムーサ」

「ですが……そもそもの失敗の原因は彼でしょう」

「構わない。それは、怪我の手当ての後、でも間に合う話?」

 今にも意識がなくなりそうだ。

 でも、これだけは言っておかなければ……間に合わなくなる。

「待ってくれ……スタニスワフはまだあそこに、いる。早く倒さないと、逃げられる……ぞ」

「? イオレスク殿、彼は出血で意識が朦朧としているのでしょう。何の反応もない空中を指して、今更何を言っているのか……」

「違う……あそこに、いるんだ。魔術で、隠れてるだけで……」

 サーシャが近くに落ちていた小石を俺が指し示すポイントに向けて投げた。

 投じられた石は確かにそれに触れたはずなのに、まるで何の反応もなく、スタニスワフをすり抜けて地に落ちた。

 神代の時代に生まれた不死の技法――今のスタニスワフは『少女の死』という概念で自分という存在を消しているのだ。

 つまり、如何なる物理的攻撃も、魔術も今のスタニスワフを傷つけることが出来ない。

 存在する世界がまるで違うモノ同士が戦えないのと同じで、概念を殺すような方法でもなければ触ることも出来ずに、そのまま逃走を許すことになるだろう。

「納得できたか? ……他に、魔術の反応もない。もう黙って私の治療を受けてほしい」

 違う……あの空間には間違いなく魔術式――信じられないくらいの魔法陣や数字、幾何学模様が組み合わさったそれが存在している。

 恐らくそれこそがスタニスワフ自身なのだ。

 だから、絶対にそれを暴き出さなければ……さっきと同じように、さっき本を打ち破ったようにしなければ。

「あそこを……見ろ! 頼むから、見てくれ!」

 俺の動きに反応したのか、スタニスワフ――その場所に存在している魔術が逃げようと動き始めた。

 だめだ、複雑すぎて一瞬でアレを崩すのは……いや、間に合わせなければ駄目なんだ。

「!? イオレスク殿、アレを」

 ムーサ・ラジャラトナムが挙げた叫び声にサーシャがその場所に視線を移したとき、俺もその作業を完了していた。

 みんなの視線が集まったその場所でパズルのように空間が崩れる。

 そのパズルが崩れ去った後、すぐに空間は元のように復元していくが変異も残った。

 真っ黒くて巨大な怪物の影だけがその場に現れたのだ。

 最後に影が消え去って、百足のような、虎のような、多種多様な生物が結合した怪物が残った。

 驚愕したのは俺たちも怪物も同じだったのだろう、凄まじい叫び声をあげたかと思うと、五メートル近い巨体でいきなりこちらに飛び掛ってきた。

「くっ! ムーサ、彼を頼む」

 敵の一撃目を避けた直後、サーシャは片手で俺を自分の助手に投げ渡す。

 すでに体力は完全に尽きていた俺は、怪物の姿から人間の姿に変わったスタニスワフと向き合った紅い魔術師の戦いを離れた場所から彼の助手と見ることになるのだった。
















「ごほっ……ああ」

 黒いドレスを纏ったスタニスワフは真っ赤な瞳で目の前に立つサーシャを睨みつけた。

「……よくはわからないが、スタニスワフ、ここで決着をつける。逃がさない」

 そう云うサーシャの外套の下からはさらに五頭の狼が現れ、すでに出現していたものとあわせて十五にもなる群れでスタニスワフを取り囲んだ。

「オレを……殺すだと? 勝手に二十番目だと認定しておいて――オレより上には、王侯貴族とロマノフしかいないんだろ! それを舐めるんじゃねえ!」

 それは影しか残さないほどの疾走――人間の目には消えたとしか思えないほどの速度。

 スタニスワフが駆けたかと思った瞬間、彼を包囲していたサーシャの使い魔があるいは頭を吹っ飛ばされ、あるいは半分に両断されて消失したのだ。

 それはまるで舞っているかのように鮮やかでありながら、魔力で強化した視力でも何とか追いつけるほどの動きだった。

 一般人では本当に残像しか見えないかもしれない。

「うっ!?」

 一直線に自分に到達したスタニスワフの蹴りをガードしたサーシャの身体が浮いた。

 そのまま、数メートルも宙を飛んで漸く着地したサーシャに突き出されたスタニスワフの拳とサーシャのカウンターが交錯する。

「ちっ、流石は執行官だ……今ので額を砕けないとは、人間離れし過ぎだぞ」

 カウンターを受けて歯を何本か折られたスタニスワフは苦々しげに呟いた。

 対して、直前で延びたスタニスワフの爪に頬を僅かに裂かれたサーシャも自分の血を舌なめずりしながら、軽くステップを踏み始めた。

 それはすぐにリズムを刻み、速くなっていく。

「我ら一族千年の窮み、それを過小評価しないで貰いたい――」

 次の瞬間、スタニスワフにも勝るほどの速度のストレートが彼の顔面を捉え、彼の体を壁まで吹き飛ばした。

 衝撃自体のダメージは少なかったのか、唖然とした表情のスタニスワフがすぐに立ち上がった。

 だが、殴られたダメージはかすかに残っていたのだろう、足が震えていた。

「――この体に満ちる一億の命が生み出す力と私の経験値……殺し合いで吸血鬼如きに遅れを取ると思ったことはない」

 つい先日の惨敗を払拭しようとしてその言葉には力が込められていた。

 そう、あれは『三貴族』と呼ばれる者の一人を相手にした戦いであったとはいえ、手も脚も出せなかった敗戦だったのだ。

「……くっ、ひゃはは、面白ぇ……殴り合いなんて何百年ぶりか。貴様程度、鈍った身体で十分だ」

「スタニスワフ、その百年分、そちらにハンデをやろうか?」

「ぬかせ、人間。所詮貴様も永遠を求めるものの一人に変わりはない、それがオレを裁く? 寝言は寝て言え!」

 その直後に始まった殴り合いはとても脇から援護できるものではなかった。

 すでに使い魔程度の力ではスタニスワフを倒せないと感じていたサーシャは実力だけで彼をねじ伏せるつもりなのだろうか、世界チャンピオンを何人も殺しそうな拳のみで戦ったのだ。

 二人の殺気のぶつかり合いでこちらも息苦しくさえなったとき、両者は消えたかと思えるほどの速度で殴り合いを始めるのだった。

 当然ながらリーチの長いサーシャが優位に立ってはいるが、スタニスワフの体術がこれほどであったとは意外でさえあった。

 サーシャもその点は少し驚いていたようだが、そんな様子は顔に出せるわけもなかった。

 互いの拳が相手を捕らえるたびに骨が砕けるような音が何度も通りに響いたが、両者の足は止まらない、まるで死を急ぐ馬のように歩みを止めることなく走り続けた。

 しかし、これはボクシングのようにグローブをつけた試合とは違う――殺し合いなのだ、永遠に戦いが続くなどということはありえない。

 そう、互いの体力を削るような殴り合いは実質わずか三分で決着を見ていたのだ。

 今宵、最速の一撃を放ったスタニスワフの内側に入り込んだサーシャのカウンターが吸血鬼の胸を打ち抜いたのだ。

 直前で何かしらの魔術でも使ったのだろう――スタニスワフの身体を貫通するほどの一撃は、相手の心臓を潰したうえ背骨さえ粉砕していた。

「ごほっ、あー、あ……復元もなく、痛みばかりということは……今の拳、不死殺し……?」

 崩れ落ちるようにその場に付したスタニスワフは憑き物が落ちたように穏やかな表情で、サーシャを見上げた。

「他者の存在を騙る不死者スタニスワフ――この死合、私の勝ちだ」

「はは……どうやら、夜の加護もこれまでか……どうせ殺されるんだ、白状するよ。貴族の方々とは違うんでね、オレたちレベルじゃ……これまで、もう終わり……尤も、アンタが放って置いてくれれば明日には回復できそうなんだがな……」

「殺すのは変わらない、でも、遺言聞く。断っておけば、叶えられるかどうかは別問題」

「は、なんだそれ……でも、ついてるな、今はオレも願うことがある。罪滅ぼしにオレのアヴェンジャーで、オレが騙っていた相手を生き返らせてくれ。剣は当然、使った後で収めてくれればいい……駄目だというなら、それでもいい」

 スタニスワフは自分の胸に空いた穴に手を突っ込んだかと思うと、その中から抜き出した黒い剣をサーシャに差し出した。

「ごふっ、あ、ア……これは、罠の……類ではない……」

 サーシャは剣を受け取ると、紅い外套を脱ぎ去った。

「――執行官……死者の忠告、だ……黒い鴆を連れた、ファ、…デ…ロ、リス……」

「……誰? よく聞こえなかった」

「……薬の秘密を、知ってる人間……、ヤズルカヤ公の右、うで…ごほっ……じゃ、バイバイ」

 相手がわざと聞こえにくく言ったことに気がついたサーシャは無言のまま、スタニスワフに別れを告げた。

「……」

 サーシャの身体に描かれたドラゴンの刺青がわずかに動く。

 その瞬間、狼の場合などとはまったく違う強烈な悪寒が真っ青になっていた俺の体を震えさせたのがわかった。

 それは目の錯覚――そうに違いないと思えるほどの一瞬だったのだが、これほどの死を感じたことはない。

 そして、それが現実のものであると証明するかのようにそれは俺の目の前に現れた。

 サーシャの身体からわずかに数秒現れた巨大過ぎるドラゴンの頭部が、スタニスワフを一口で食い殺したのだ。

 そのドラゴンこそは『ウラディミルの翼』――そう呼ばれるモノ。

 頭部だけで五メートルを下らない、いや全体が現れればさらに巨大になるというそれはまさに幻想世界の怪物だといえたであろう。

「――ムーサ、早く彼の治療を」

 ドラゴンを消したサーシャがこちらにやって来ようとしているところで、流石にこちらの意識も途絶えた。

 ただ、意識を失う直前にマリアさんの声が聞こえた気がした。












[1511] 第四十二話 『彼女達の日々/綾音』
Name: 暇人
Date: 2007/02/10 02:16








 スタニスワフが消滅した翌日――黎明学園にいた綾音は授業中だというのに、集中力が完全になくなっていた。

 シャーペンが指の上を回転し、視線は秋の空を見つめたまま。

 哀愁を帯びた令嬢の姿は物語の一シーンのようであったが、綾音の心を占領していたのは放課後に見舞う予定の公明のことばかり。

「――それではもう時間のようですし、キリがいいので、今日はここまでにしましょう」

 何の授業をやっていたのかということさえ、今の彼女にはわかっていなかったが、これで六時間目の授業が終わったということだけはわかっていた。

 待ち焦がれていたようでありながら、同時に来て欲しくなかった時間の到来を告げるチャイムが鳴った。

 こうなってしまった以上、あとは掃除とホームルーム、その後の七時間目を残すだけだ。

 七時間目はサボってしまおうか。

 本来なら即決できる彼女だが、今日に限ってそう決断することが出来なかった。

 そのままずるずるとホームルームのあとの七時間目に突入し、頭に入らない化学の授業を聞き流すことになってしまう。

「――では、ここのところの反応でC2の炭素が優先される理由とかわかる人……白川さん?」

 不意打ちのような質問によって夢幻の妄想から開放されたが、何を聞かれたのかもわからない。

「……あ、すみません。もう一度お願いします」

「あー、後ろの方が聞こえにくいですか? それなら声を少し大きくしますけど」

「いえ……考え事をしていました、すみません」

「そうですか。寝不足なら気をつけてください、来年は受験生なんですから――この場合、マルコフニコフの法則が働き」

 そんなやり取りはすでに朝から三回になったかもしれない。

 綾音の友人らしい友人といえば公明と玲菜、すこし違うがアーデルハイトの三人しかいないため、心配して声をかけてくる生徒はいなかったが、それでも普段と違う様子に気付いている者は多かった。

 クラスメイトにとっての白川綾音といえば文武両道、容姿端麗、家系も一流というお金持ちのお嬢様――それらの要素が近寄りがたい雰囲気を醸し出しているだけでなく、彼女の性格や彼女に付きまとう良くない噂も手伝って幼稚舎からずっと孤立している存在なのだ。

 つまり、長い間まともに話す機会も無かった相手にいきなり心配の声をかけるのも憚られたため、クラスメイトも様子がおかしい彼女に話しかけられなかったわけだ。

 ただ、綾音はそれを孤独と感じたことが無い。

 なまじ実家が社会的地位を築いているために魔術とは一切関係ない学歴や教養なども身につけなければならない彼女にとって、学園生活というのは楽しみを見出すべきものではなく、ただの義務に過ぎなかったのだ。

 それゆえ、人との接点は無い方がむしろ望ましかった。

 玲菜やアーデルハイトはやはりその点で自分と異なる――そう考える彼女にとって、二人は真の友人とは云い難かったし、そもそも友人と思ったことは無い。

 そんな中、公明は物心がついた後もあまりいい噂を聞かない彼女と疎遠にならなかった唯一の例外だ。












 やがて長い一日が終わると、綾音は自宅とは反対方向のバスに乗って、ある場所に辿り着いていた。

 建物の横の看板には『白川クリニック』とあった。

 白川一族の本来の家業は医者――表立って始めたのは明治の半ばだが、公家として振舞っていた時代からそういった問題では方々で頼られていた。

 一族の魔術ととても相性がいい職種であったため、暗殺と医業は代々の当主によって相当研究され、その一つの集大成というべきこの病院は広範に名を知られている。

 病院は曽祖父の弟の家系に引き継がれたもので、現在は親戚の持ち物ということになる。

 だが疎遠というわけではないため、彼女もたびたび訪れたことがあったのだ。

 それほどよく知る病院だが、今日ばかりは建物内に入ることさえ躊躇し、二十分も入り口の近くでうろうろ歩き回っていた。

 なんとか院内に入ることが出来ても、自動販売機の前の椅子に座り込み、二杯目のコーヒーを買ってしまう狼狽振りだ。

 落ち着かない彼女に気がついた顔見知りの看護士もただならぬ様子に声をかけることが出来ず、心配そうに遠くから見つめるだけだった。

 明らかなことだが、綾音をここまで悩ませているのは公明だ。












 昨日、戦闘が行われたと思われる地点に辿り着いたとき、その場には公明やサーシャ、スタニスワフの姿も無く、ただ砕けた壁や血だまり、多くの紙くずがあっただけ。

 血だまりは相当な量で、命に関わるかもしれないものだと医学知識を持つ綾音には直感的に判断できた。

 このときサーシャの存在を知らない彼女にとって、それは公明が死んだことを意味していると云っていいものだ。

 その事実に激昂した彼女は隣にいた玲菜を力の限り殴りつけ、冷静ならば間違っても云わないほどの罵詈雑言で責めた。

 殺意が込められた拳を受けた玲菜もすぐに反撃に転じようとしたのだが、綾音の声涙がその身体を押しとどめる。

 アーデルハイトを加えた三人の中で、これほどに泣いていたのは彼女だけで、スタニスワフと妨害者レナに対する凄まじい憎しみの言葉が延々と響き渡った。

 この世の全てを呪うが如き怒りに残りの二人は言葉を封じられ、スタニスワフを追跡することさえ忘れさせられていた。

 そして、ようやく二人が公明生存の可能性を示唆しようとしたとき、ラジャラトナムという青年が現れ、事の次第を伝えたのだ。

 ――サーシャに助けられた公明がこの病院に入院していて命に別状は無い、と。












 公明が死亡したと思い込んでいたとはいえ酷い暴言を吐いてしまった玲菜に対して謝罪すると、すぐにでも病院に駆けつけたかったのだが、泣きはらした顔の自分を見て、プライドが綾音の足を止めた。

 別に公明の恋人というわけでもないのに目を真っ赤にするほどに泣いていたことを知られるのは、綾音の矜持にかけて許されることではない。

 他者にこれほどの動揺を知られるのは彼女にとって恥辱の極み――すぐに病院に行きたくても、動揺が収まりきらないうちに公明の前に立てば泣いてしまうとわかっていたから、行けなかった。

 病院にすぐに行くという玲菜にアーデルハイトを任され、ただ彼女を見送ることしか出来なかった綾音は昨夜から動揺が収まり、気持ちが落ち着くのをずっと待っていたのだ。

 そして、ようやく病室に入ろうとしたのだが、今度は足が進もうとしなかった。

 今はまだ泣いてしまうのではないか、あるいは叫んでしまうかもしれない――そういった不安に怯え、身体が動かない。

 他人に涙を見せるのは父親に厳しく躾けられた彼女にとって『絶対にやってはならないこと』なので、その制約が身体を束縛していたのかもしれない。

 兎に角、その呪縛を解き放つのにさらに一時間が経過した。

 病院経営者の親族でなければ追い返されそうな時間になっていたが、そのときになって漸く彼女も決心がつく。

 飲み終えたコーヒーの缶を捨てると、深呼吸して気分を落ち着かせた。

 それでも不安は拭いきれなかったが、明日になればさらに足は遠のいてしまうかもしれない。

 そう考えれば、今日行かないわけにはいかなかった。












 ああ――やばいな。

『どうして、貴方は一人であんな勝手な真似を……莫迦にしないで!』

 そんな言葉と共に綾音に頬を叩かれた感覚が未だに残っている。

 一昨日の戦いの後、気がついたときは病院のベッドの上で、ここにはサーシャに連れてこられたようだった。

 どうやら致命傷になる大きな傷をいくつも負っていたらしく、大急ぎでここに運び込んだために遅れてきた三人に説明していなかったらしい。

 漸く相方から説明を受けた彼女達がやって来た時には、処置は終わった後だったのだ。

 早くに来た浅海とは対照的なのが――放課後、それも随分遅くにやって来た綾音。

 彼女は無言のままいきなり頬を叩き、先ほどの台詞を云ったのだ。

 上気した顔でこちらの胸倉を掴んだ彼女は怒りに震えながら、さらに続けた。

『私に信用がありませんか? 協力すると誓った私が、それほどあてになりませんか?』

 親の敵でも睨みつけるような本気の殺意が込められた視線に満足な言葉が出なかった。

 喫茶店で彼女がやった契約のようなものは遊びなどではなかったのだ。

 正式な誓い――それをあの場の俺は軽視していた、それは言い逃れなど出来ない事実だった。

 そう思うと、後悔に心が苛まれ、言葉が見つからなくなる。

『……っ……いや、俺は……』

『――恥を知りなさい……言い訳など聞きたくありません!』 

『ごめん……でも、あの時追いかけられたのは俺だけで……』

『助けがなければ死んでいたのに? 聞きましたよ、殺される寸前だったと』 

『それは……そうだけど』

『だから! だから、私はそんな言葉は聞きたくないと云っているでしょう!』 

『――言い訳じゃないだろ、現に吸血鬼は倒せたんだし……俺自身で考えた選択なんだ。俺が自分で代償を払ってもそれは俺が選択したことで、お前には関係ない!』

 言い過ぎなのはわかっていても、色々なことが整理できていない状態で、つい頭に血が昇ってしまっていた。

 そして、言葉を云い終わらないうちにもう一度、今度は強く頬を叩かれた。

『今の言葉、二度と聞きたくありません……貴方は――私がどれほど……くっ、もういいです!』

 やがて胸倉を掴んだ手から力が抜けていくのがわかった。

 そのまま二人の間に沈黙が流れ、やがて彼女が身体を離した。

 無言のまま去ろうとした彼女に対して、そのとき漸く掛けるべき言葉が脳裏に蘇る。

『心配掛けて、ごめん――俺が軽率だった。それに、今のは云い過ぎだ。完全に俺が悪い……許してくれ』

 数歩、病室のドアに無言のまま歩みを進めた綾音はこちらを見ることもなく、震えるような、か細い声で告げた。

『ふざけないで。もう、お見舞いには来ませんから。ごきげんよう』

 こちらを見ないようにしていたのは泣いていたからかもしれない。

 あるいは声が震えるほど怒っていたのか。

 後者なら、当分は顔向けできそうにないな。

 何しろ、声の震え方から彼女がどれほど心配していてくれたのかが判る気がしたのだから。

「はぁ……本当に来ないとは思わなかったな」

 彼女に叩かれた翌日――つまり今日が平日だったからもあるのだろうが、サーシャが勝手に用意した個室には俺一人。

 お見舞いもないのは少々寂しくもあった。

 やはりどう考えても自分が悪いのだし、綾音の怒りを鎮める方法でも考えて過ごそうか。












 公明の病室を綾音が訪ねた次の日。

 秋風吹き荒ぶ学校の屋上――綾音の深いため息が漏れた。

「はぁ、ちゃんと云うつもりだったのに……(私の馬鹿。どうして素直に喜べないのよ、本当に貴女は大馬鹿――いいえ、向こうも早く『心配掛けてごめん』って云ってくれれば……)」

 髪を押さえると同時に頭を抱える。

 彼女を弁護するとすれば、あのときは思わず冷静さを欠いていたとしか云い様が無い。

 ただ無事であったことを喜びたかったはずなのに、それとは相反するように心にもない言葉が次々と出てきたのだ。

「(いやだ。私、責任転嫁しているの? アレはきっと私が悪かったの……涙が止まるまで待っていたから、きっと遅れたから私が心配していなかったと受け取られて)……ああ、もう! 自己けん……」

「自己嫌悪?」

 急に後ろから聞こえた声に振り返ると、綺麗な金髪が風に靡いていた。

「っ――!?」

 会いたくも無い相手に、知られたくも無いことを知られた不快感に綾音の顔が歪む。

「ボンジュール、マドモアゼル――先に言っておくと気配は消してなかったよ。気がつかなかったとすれば君が悪い」

 普段の生徒会長からすれば、随分と軽い口を利く金髪少女はずかずかと綾音の横に並んで防護ネットに手をかけた。

「責めてなどいないわ……それで、クロエ・ブランヴィリエ。私、貴女に用などありませんけど」

「ああ、そうだろうね。何しろ、用があるのは僕の方だから――君、泣いてたの?」

 考え事をしているうちに零れていた涙、それにクロエの指が触れると思わず赤くなった。

 すぐに手を払いのけ、自分で涙をふき取ると何事も無かったかのように振舞う。

「ああ、この涙ですか? 昔、妹が養子に出されたときのことを思い出して泣いていたようです」

 涙を見られたことは彼女にとってこの上ない屈辱だったが、何故か公明の場合ほどにはプライドを傷つけられずに済んだようだった。

 だが、そうであったとしても泣いていた理由を知られるわけにはいかない。

「君って……ありえない言い訳をするね」

「言い訳ではなく、事実です!」

 妹が母の実家に養子に出されたのは本当だ。

 血縁が母しかいなかった祖父のたっての願いだったためだが、綾音とはかなり違う性格になってしまったことが悲しいといえば悲しかった。

 ただ、どう考えてもより多くの苦難に遭遇している自身を省みたとき、面白おかしく暮らしている妹を羨ましくは思っても、彼女に対して同情することは無かった。

「はぁ、そう?」

 そんな胸中を察するかのようなクロエの視線がとても鬱陶しい。

「しつこいですね……用件は悪ふざけの続きですか、それなら失礼させてもらいます」

「用件の前に一つ、学校の中の僕はクロエじゃなくてアーデルハイトだ」

「そう……残念ですが、ここで風に当たっているうちに身体が冷えました。今朝から風邪気味ですので、大事を取って今日のところはこれで。では、ごきげんよう!」

 その場を離れようとした綾音の手をとったクロエはなおも食い下がる。

「まあ、待ちなよ。冗談抜きで重要な話があるんだ。誰か殺すか、話を聞くの、どちらがいい?」

「しつこいですね、話など玲菜にすれば宜しいでしょう」

「彼女にはもう話したよ。だから、もう一度話しても意味はないんじゃないかな? まあ、よっぽど彼女が間抜けだというのなら話は別だけど」

「クロエ、彼女は真性の間抜けです。もう一度話をしていらしたら」

 一昨日の一件で玲菜を嬲った事には自責の念を禁じえなかったが、そのことはすでに謝罪したし、玲菜もそれを受け入れたのだから、彼女を巻き込むことに罪悪感は無い。

「おいおい、即答するなんて酷いな。友達なんだから、そういうことは云わない方がいいよ」

「はっきり指摘することもまた友の務めでしょう……いいえ、貴女に悪意はおありにならないのでしょうけど、今の私は少々機嫌が悪いの。それをおわかり?」

「君は機嫌がいいときでなければ人の話を聞かない人? 違うだろう」

 試すようなクロエの言葉に綾音の苛立ちは募っていく。

「私を知っているような口ぶりですね、はっきり申し上げて不愉快だわ」

「話を聞けばそんな口も利けなくなるよ」

「大した自信……そこまで仰るなら、どうぞ」

「君って、案外ヒステリーなの?」

「私がヒステリー、ですって! お言葉ですが、これは貴女がしつこくするから……」

「まあ、それは置いておいて本題ですが――なんと、我らがオカルト研究会は学園祭の題目を変更することになりましたぁ」

 突然すぎたクロエの言葉に綾音は一瞬きょとんとなり、単語だけが頭の中で回転している状態になった。

 だが、その単語がしっかりと理解されてくると、それはすぐに混乱に変わる。

「っ――!? この時期に、ですか?」

「まあ僕としては、こんなお荷物同好会を作る人間の気が知れないわけだけど。それでも、代役をしている以上は色々考えてあげるわけだよ……当日、演劇をするから」

「ちょっ、学園祭は貴女が引き延ばしたとはいえ二週間を切っているのよ! 半端なものを演じたとして恥を晒すだけですし、それに演劇は――」

「オカルトとは関係ない、と云いたいわけだよね?」

「え、えぇ。いくら適当に作った同好会といっても、私は衆目の面前でそんないい加減なことをしたくありません」

「うーん、時間は解決できるにしてもそれは確かに由々しき問題だと思うよ。君の意見はご尤もだ」

「でしたら――」

「ただ、なんて云うか……僕らは演劇部に吸収合併された。というより、僕がそう頼み込んだ」

「吸収合併って!? そんな勝手な!」

「そんなのは小さな問題だよ、きっとアーデルハイトも応援してくれることだろう」

「それは貴女の勝手な解釈でしょう」

「何を云う、僕はアーデルハイトなんだよ。少なくとも君よりは彼女のことがわかる。まさかこの期に及んで彼女の最大の理解者を気取るほど恥知らずじゃないよね?」

「それは……くっ、確か演劇部は『シンデレラ』、でしたか?」

 彼女は生徒会の活動に従事しているため、ある程度は全体の状況は掴んでいた。

「まあ、それのパロディ。僕は出来るだけ原本を優先するべきだと思うけど、君は?」

「原本はシンデレラが魔女の娘とかいう設定で……貴女、学園祭でどんな悲惨な演劇を?」

「いや、照れるな。ほんの少し復讐で目が抉られたり、拷問器具を持ち出したりする程度だよ」

「……完全に頭おかしいですよ」

 恐らく実際に行えば、おかしい、などというレベルの問題ではなくなるだろう。

 クロエは本気なのだから、これを冗談として見逃すのは得策ではないように思えた。

「いや、具合はすこぶる好調――フェルマーも三分で証明終了ってくらいの調子。それでも君が心配なら、主役やる?」

「ごっ、ご冗談でしょう? そのようなシンデレラなら貴女以上に適役な人物など見当たりません」

「いやぁ、アーデルハイトはそんな評価を喜ぶだろうね」

「クロエ、貴女に対しての評価よ」

「そうなの? あの土地の人間は魔女狩りの時代からそういうのが大好きだから、きっと彼女も喜ぶと思うけど」

「……意味がわかってふざけているのね、貴女」

「それはそうさ、僕は悪人だよ? あはは、楽しくやりましょう!」

 まるで悩みが一瞬で頭の中から追い出されたようだ。

 それほどに強引なクロエに今ばかりは感謝の念も抱こうか、あるいはすぐにでも会長の座から追い落とすべきか……綾音の頭はそのことで一杯になっていた。












 昼休みも終わろうかというとき、教室に戻っていた綾音に話しかけてくる生徒がいた。

「あ、あの、白川さん。ちょっと、お時間いただいても宜しいでしょうか?」

 公明の友人、牧原良介はそんな気の毒な生徒の一人で、入院したという彼を心配して何かしら関係があるらしい綾音に声をかけた。

 話しかけている途中にも声は裏返り、振り絞ったはずの勇気もなくなりそうだった。

 何しろ、相手は良くない噂が言われるお嬢様――見た目とは裏腹に危ない友人も多いだろう相手なのだから、目を付けられてはたまらない。

 考え事を邪魔された様子の綾音は不機嫌な表情を出来るだけ直し、彼に視線を移した。

「……何ですか?」

 話しかけてはいけない相手に、一番話しかけてはいけない時間に話しかけた良介にクラス中の注目が集まっていた。

「その……」

 聞くことは決まっていたのだが、ストレートに聞いていいものかどうか一瞬思案してしまう。

「特に用が無いのでしたら、次の授業の準備をしても宜しいかしら?」

 沈黙が長過ぎたらしく、彼女は少し不機嫌そうに机の横の鞄に手を伸ばそうとした。

「いや、待って。あの、その、公明のことなんだけど……何か知りませんか?」

「入院しているのでしょう。彼のお見舞いがしたいのなら、病院をお教えしましょうか?」

 綾音はメモ帳を千切って病院の住所と病室を書くと、それを良介に差し出した。

「はい、どうぞ」

「あ、どうも。それで……アイツがどうして入院したとか、そういったことは知りませんか?」

「……それについて何も答えたくありません」

「え、あの、それは何か知ってるってことですか?」

「答えないと申し上げましたけど」

「いや、でも知ってるんですよね? それなら、何か教えてくれたって……」

「こう云っては聞こえがキツイかも知れませんが、本人に聞けば済むことでしょう? お見舞いに行くつもりがおありなら、私に聞かずとも解決なさらない――何か問題でも?」

「それはまあ……そうですよね? あ、すみません、確かにその通りです」

「もう、宜しいかしら? 私、今はあの人の話を聞くのもするもの嫌なの」

 公明のことを考えると、自分のとった無様でみっともない行動が思い出されてとても不快になり、その場で泣きたくなってしまうのだ。

 だから、少なくとも今だけは公明のことを絶対に考えたくない。

 しかし、そんな事情を知らない良介は真剣に恐怖し始めていた。

「あ、無茶云ってすみませんでした。本当にありがとうございます、あ、白川さまの鞄の方、お取りしましょうか?」

「……結構です。それで、貴方」

「はっ、はい!」

「失礼ですけど……御名前、何と仰られたかしら? 同じクラスにはいらっしゃらなかったように記憶しているのだけれど」

 付き合いは無くともクラスメイトの名前くらいは大体把握しているし、少なくとも顔はわかる。

 良介に話しかけられてからずっと考えていたのだが、やはり見知った相手の中に彼の顔が無いことを確認した綾音は一応彼に確かめようとした。

「と、隣のクラスの牧原良介です……けど」

「そう、これからも宜しくお願いしますね、牧原さん」

 ヤクザとも交流があるという噂がある少女に『今後ともよろしく』などと云われた良介は、パニックになって、まるでロボットのような片言になってしまう。

「いえ、その……今後の方は別に親しくしていただかなくても……」

「何か?」

「……名前まで覚えてもらって、本当にありがとうございます!」

「気になさらないでください。あぁ……そうですね、病院まで家の者に送らせましょうか? 私の地図だけでは不安ですし、迷われたら大変ですから」

 すでに良介の頭の中では黒服を着たサングラスの男たちが自分を連行していく光景が三度は繰り返されていた。

 それが現実になりかねない言葉に寿命が縮む思いがする。

「え……いえ、それは本当にありがたいんですけど、初対面の人にそこまでしてもらうと気が引けますから……歩いていきますよ、俺。十キロでも、二十キロでも、ええ、ですから気にしないでください」

「私の幼馴染のお見舞いに行くと仰られるのだから、別に気にしませんよ」

 因みに、良介の心配もそれほど的外れでなく、綾音が勧めているのは一般人ではあるが、黒服を来たサングラスの男の送迎者だ。

 また白川一族が暴力団などと繋がりがあるというのも根拠のない噂ではなく、移植する臓器がなくて余命幾許も無い幹部やその子弟を助けたことが切欠で親しい間柄ではある。

 しかも、いつの間にか彼らを懐柔して手駒に変えている観さえあった。

 それは地元の基盤を固める一環で正臣が意図的に工作した結果でもあるので、綾音としてはあまり好きなやり方ではないと思っている。

 どうやら正臣は実質的な管理者としてだけでなく、この土地を領有する貴族魔術師としての認識を抱いているため、表についても裏についても一族の影響力を拡大したいらしい。

 かつて戦争によって一族本来の所領を放棄せざるを得なかった曽祖父の怨念じみた言葉を聞かされ続けたために、正臣が自身の領域を侵すものに対して凄まじい憎悪を抱いていることを知っていた綾音にとって、それがアーデルハイトと緊密になりたくなかった理由である。

 また、一族の多くの人が戦争を起こした非魔術師に対して無意識の軽蔑と憎悪を抱いていることも知っていた。

 それもまた他人と関わりたくなかった理由である――ただ、何故か公明だけは正臣にも黙認されていた節があり、今思えば本能的に何かを感じ取っていたのかもしれない。

「いや、本当に、俺が気にしますから。勘弁してください」

「……ひょっとして、車では不都合でした?」

「え……あ、はい。そうです、俺車酔いが酷くて、十分も乗ってられません。ごめんなさい、本当にすみません」

「そう、それはお気の毒ですね。体質なら仕方ありませんが、いい病院を紹介して差し上げますから、そこで治療なさった方が宜しいと思うのですけれど」

「……あ…いや、今治療中ですから、お気遣い無く」

「そう。それでは少々不躾なお願いですが、彼に会ったときには宜しくお伝えください――この前のことはごめんなさい、と」
 
「はっ、はい? この前のことを忘れるな、とかじゃなくて、ですか?」

「? 何ですか、それ」

「失礼を……耳の聞こえも少し悪くて、聞き間違えたみたいです」

「そう、牧原さんは本当に病弱な方なのですね、体調にはお気をつけください」

「あ、ありがとうございます。それで、『ごめんなさい』って云えばいいんですか、俺が?」

「私が、です――恥ずかしい話ですけど、ちょっとした行き違いで彼を殴ってしまって……そのときのことは私が一方的に悪かったものだから、面と向かって謝るのは気が引けてしまうの。ごめんなさいね、彼の友人というだけでこんなことを言付けてしまって」

 そのとき、綾音の言葉を聴いた良介の脳内解釈では、『綾音に殴られたせいで公明は一週間も入院するはめになった』、となるのだった。

 学園でも数少ない友人と呼ばれる相手を殴って、全治一週間に追い込むお嬢様を前にしていたことに、今更ながら恐怖がこみ上げてくる。

 しかも、殴った理由がちょっとした行き違いなのだから、自分が気に障ることをしていたらどうなるのか想像も出来なかった。

「はっ、はい! 了解しました、絶対に伝えておきます。それでは、失礼します、あ、いや今まで失礼があったら本当に謝ります、ごめんなさい。じゃ、じゃあ……本当に失礼しました」

「ええ、それでは……(挙動不審、あれも病気かしら。だとすれば、本当に気の毒な人)」

 自分で依頼したこととはいえ、他人に謝ってもらうのはプライドが傷ついた。

 だが、それ以上に自分が云うのは屈辱などを抜きにしても、耐え難い試練に思えたのだ。

 あんな挙動不審な人物にそれを任せてしまって本当によかったのかどうか、それが最後の気がかりだった。










[1511] 第四十三話 『彼女達の日々/玲菜』
Name: 暇人
Date: 2007/03/01 01:45








 時系列が少し複雑になってしまうが、これはスタニスワフが死んだ翌日の朝の光景。
 つまり、綾音が放課後に公明を訪ねるより前に起きた出来事である。














 扉が開く音にふと目が覚めた。

 体中に痛みはあったが、それでもどうやら生きているらしい。

「――よかった。無事みたいね?」

 少し霞がかった視界に映る人影がよく知った相手の声で話しかけてきた。

「……ん、うっ…浅海なのか?」

 頭がぼんやりとしたのはほんの刹那のこと、すぐに覚醒して視界が鮮明になる

「ええ。もう本当に心配させるんだから」

 辺りを見回したとき、壁に掛けてあった時計でまだ七時だった。

 どうやら病院らしいが、こんな朝早く面会が許されるものなのだろうか。

「あ、別に起きなくてもいいわよ。怪我してるんだから、そのままでいなさいよ」

 私服姿の浅海は起き上がろうとした俺を止め、ベッドの横の椅子に腰掛けた。

「俺は……、俺をここに連れてきたのはサーシャか?」

 一人部屋の病室にいるのは二人だけなのだ。

 今更確認しなくてもサーシャは最初からいなかったし、相棒の青年の姿もない。

「サーシャ? 誰、それ……あぁ、ひょっとしてここを教えてくれた人の相棒?」

 そう云えば、浅海とサーシャは互いに面識がなかった。

 会っていたら共感するところが多そうだが、人の縁というものはわからない。

「多分そうだと思う」

 相棒の青年の顔はほとんど覚えていなかったが、存在だけは覚えていた。

「そういえば、あの人ラジャラトナムとか云ってたわね」

 簡単な自己紹介をされたらしい浅海がその二級執行官の名前を口にした。

「もしかして、知り合いだったのか?」

 青年の名前を口にした彼女の口調にどこか知ってそうな響きがあったので聞いてみる。

「いいえ。でも、東南アジアにそんな名前の印僑がいたから。ま、どうでもいいけど」

「ふーん。そう云えば、今日は学校サボって、病院に不法侵入したのか?」

 私服姿だし、これから学校に行くとは思えない彼女。

 何しろ昨日はずっと起きていたわけだし、心労も相当だろうから休んで当然だった。

「一応、心配して来てあげたんだからそういう言い方はないと思わない? ほら、差し入れよ」

 浅海が差し出したのは、人の家の箪笥を引っ掻き回して探し出した衣類とお菓子。

 いくらお見舞いとはいえ、コイツ人のプライバシーとか無視ですか?

「あ、ありがとう」

 荷物を鞄後と受け取ると、ベッドの横に移動させた。

「でも、どうして今頃? 七時だなんて少し時間がおかしくないか?」

「あのね……私は別に不法侵入したわけじゃないし、学校一日サボっても留年なんてしないわ。ここは、まあ綾音のとこの傍流がやってる病院だし、大親友の私は面会時間を誤魔化してもらったのよ」

 二人が大親友というのはあからさまな嘘だが、この時間に登場した理由は確かなようだ。

「そうなのか? アイツ、医者の親戚なんていたんだ。てっきり会社だけかと思ってた」

「馬鹿ね、病院始めたのは明治くらいらしいけど元々あの家は医者の家系よ」

「そうだっけ? 記憶にある限り、ずっと会社やってた気がするけど?」

「私の記憶もそうだけど、事実はそうなの! 人体の構造に精通した一族だから、暗殺者か医者が生業になりやすいんじゃない?」

「医者は兎も角、暗殺者なんて物騒な。洒落にならないぞ、それ」

 大体、コイツはどうして他人の家にそれほど詳しいのだろう?

 まずは敵を知れ、というヤツだろうか。

「公明さ、アイツの動きを見てわからない?」

「ん? 動きって?」

「急所への狙いが正確だし、足音はほとんど聞こえない。運動するときの呼吸も少し独特――完璧に暗殺者の条件を満たしてるじゃない」

「ああ……走っても息があんまり乱れない奴だと思ってたけど、そういう訓練してたのか」

「? 驚かないの?」

「まぁ、なんだ……随分と物騒な特技をお持ちで。いや、それって事実だよな?』

 蔵の中に煉獄よりなお暗い世界を再現する綾音である。

 長い付き合いだけに嘘と思いたいが、やばいくらいに確信してしまった。

「嘘なんてつかないわよ。そういえば、アイツのお父さんに会った事ある?」

「正臣さん、だっけ?」

「ええ。あの人、娘躾ける……あっ、いや調教するのに本気で殴りつけるような人で、リアルに危ないからあんまり馬鹿なことしない方がいいわよ」

 いやいや躾と調教って、並べ方が逆だろ。さらっと綾音を猛獣扱いかよ。

 それに馬鹿なことって……ここのところ思い当たることがあり過ぎて怖い。

「俺って、もう死亡フラグ成立してる?」

「知らないわ。何かしたの?」

「うーん、それはノーコメント。それよか、お前もそんな綾音を何故からかう?」

「私の方が速いから。じゃなきゃ鍛え方が違うから速攻で殺されるわよ、普通」

 自身の才を過信して鍛錬を怠りまくっている浅海の台詞は真実味がある。

 それがわかっていて怠けるのだから、本当に面倒臭がりだ。

「お前さ、重度の精神疾患でもあるのか? それとも自殺願望?」

「煩いなぁ。大体さ、自殺願望は公明の方じゃない。私があることないこと吹き込めば、綾音パパに殺されるんだから」

 うん、確実にその場で息の根を止められるだろうね。

 後に知ったことだけど、あの人欠片も人間じゃないし。

「云うなよ、あることないことなんて絶対に喋らせないぞ」

「私の奴隷になるなら考えてもいいかなぁ?」

 実に楽しそうに、まるで俺の心の内を覗き込むように甘い声で囁きかけてきた浅海。

 その台詞が最低なのに誘惑しているような響きがある。

「怪我人虐めて楽しいか?」

「ええ、私を心配させて復讐されないなんて思った?」

 彼女は急に真剣な表情になり、凄みを利かせて云うのだ。

 まるでこちらが一方的に悪かったようで、返す言葉を飲み込んでしまった。

「……悪かったよ」

 沈黙が少し続く。

 俺の目を真摯な表情で見つめ、こちらの反省の度合いを測っているようだ。

 そして、結論が出るとまたいつものふざけた彼女に戻っていく。

「……ふぅん、まあ許してあげようかな。そういえば、ここ白川クリニック。つまりアイツの叔父さんのとこだから、食事とかでも多少は融通が利きそうよ」

「へぇ、それは助かる」

「うんうん、これも私のお陰ね」

「てか、どのへんが?」

「医者とコネがある辺り?」

 何でも、わりと上の人と友達的な関係だとか何とか。

 飲み会にでも行ってるのか、コイツは。

「俺に聞き返すなよ……それにしても、医者か。羨ましいな。俺も頭さえ何とかなれば医者になるんだけど」

 浅海は何年も日本に住んでいて日本語が達者なくせに成績は上と中を行ったり来たり。

 つまり、ヤマが当たると上にいくのだが外れると落ちる……俺とほとんどタイプが一緒。

 アデットは何百歳で在日年数は俺より長いのだが、高校のテストなんて真面目に受けるのも馬鹿らしいから、いつも適当に間違えて適当な成績をとっていると聞いた。

 まあ、仕方がない。

 綾音はそもそも医学部志望……名門進学校なのでそういう人も何人かいるが、彼女の模試の成績は特に点数がおかしい。

 あれが越えられない壁という奴なのだと自覚せざるを得ない差があるんだよなぁ。

 そんなことを考えていると、急に浅海が声を荒げた。

「変態!」

 突然だったので驚いたが、掴みかかられたわけではないので表面上は冷静を保った。

「っ――……唐突に何だよ?」

「あのロリコン爺みたいなこと考えてたでしょう! 犯罪者になる前にここで死になさい」

「考えてない、それだけは考えてないから。大体、俺はロリコンじゃない」

 そもそもあんなのと同列に扱われては人間辞めてるのに等しい。

 存在証明のためにも退くわけには行かなさそうだ。

「嘘よ! アデットに興奮してたらしいじゃない、この変態。去勢するわよ」

「興奮してないって。アイツの言うこと真に受けるなよな、アデットは真性Sだろうが! 娯楽のためなら真顔で嘘吐く女だぞ」

「じゃあ、そっちか。変態医療プレ……」

「あのな。男が医者になりたいって云っただけで変態扱いされてりゃ、なり手なくなる」

「――それより貴方の怪我、一週間ほど掛かるそうよ」

「話を急に変えるな……って、一週間!?」

 急にいつもの調子に戻った浅海に毒気を抜かれた。

 確信できた……コイツ、完全に俺で遊んでいやがる!

「あら、意外に長くて驚いた?」

「いや、短くて驚いた。全身ズタズタだっただろ、俺?」

「知らないわよ、私が治療したわけじゃないもの」

「ズタズタだったんだよ。剃刀みたいなページが何十箇所も身体に突き刺さって、血だらけで……体中を蹴られたし、骨だって折れた音がしたんだぞ」

「うぁ、嫌な話しないでよ。怪我の話ならアデットだけで十分だっていうのに……」

「アデットも怪我したのか? そう云えば、お前らどうして遅れたんだ?」

 あの時、彼女達と一緒に走っていたはずの俺はいつの間にか一人だけになっていたのだ。

 結局一人でスタニスワフに向かっていったわけだが、その後のことを考えるとあまりに無鉄砲だったといわざるを得ない。

「あ、ああ、そうだったわ……そっちの件がまだ」

「ん?」

「あっちの怪我は貴方より時間がかかりそうだけど、命に別状無いから。それより、私、こんなところでのんびりしている時間がなくなったから、悪いけどもう行くわ。学校サボるけど、代わりに連絡しといて」

 何かを思い出した様子の浅海はさっさと椅子から腰を上げて、ドアに向かって歩き出す。

 しかし、彼女は何を考えているのだろう?

 この状態の俺に学校へ連絡しろというのか、病院は携帯電話禁止なのに。

「いや、お前何云ってんだ?」 

「あの女、絶対とっちめてやる!」

 誰だかわからないが相当恨みを買ったらしい人には同情しなくてはならないかもしれない。

 何しろ、今の浅海の気合の入れ方は半端じゃなかった。

「おい、聞けよ! 怪我してる俺がどうしてお前の代わりに……おい! ちょっ、待てよ!」

 俺の必死の訴えが功を奏したのか、ドアに手を掛けたところで浅海の足が止まってくれた。

「……ごめん、云い忘れてた――貴方が無事で本当によかった。勝手に無茶して心配させるんだから、この馬鹿」

 最後の辺りは甘ったるく、優しい声になっていた。

 彼女はそのままドアから手を離し、もう一度俺の横に戻ってきた。

 そして無言のまま、起き上がっていた俺の背中に手を回して、しっかりと抱きしめたのだ。

「おい、あの……」

 何と云うべきか、あまりに突然のことで不覚にも言葉を忘れて呆けてしまった。

 同年代とは思えない豊かな胸の柔らかな感触が伝わってくる。

 血を洗い流した後の石鹸の臭いが鼻腔をくすぐり、目の前に見える肌の白さは眩しかった。

「……少しだけ、貴方の無事を噛み締めさせて。私の人生の中でもベストテンに入るくらい心配したんだから」

 囁くような声が耳元で聞こえたとき、耳に掛かると息で背筋が震えた。

「あ、あぁ――でも、そんなに長く……」

「ふふっ、興奮した?」

 顔を合わせていなくてもイタズラっぽい笑みを浮かべた彼女の表情まで想像できる。

 いや、出来れば顔は合わせたくない。

 きっと俺の顔は今、茹蛸のように真っ赤になっているだろうから。

「うっ、煩い。お前が汗臭かっただけだよ」

 それは俺の照れ隠しに云った言葉だった。

 だが、それを聞いた浅海の声色が少し変わった。

「……今の台詞、女の子に云うべき言葉? 公明くん? 私ってさ、偉い貴族様なのよ?」

 にわかに身体に掛かる重圧が変化する。

「――ゴメンナ、ザい…ほんと、背骨が砕け……ちょ、マジでヤバイ音が聞こえて」

 浅海さん、貴女さまのご立派な胸が当たったから照れ隠しに云っただけじゃないですか。

 男みたいな性格のくせに身体の凹凸はっきりし過ぎなんだよ、この人。

 なのに俺、それで殺されなきゃ駄目?

 もう柔らかな感触とか、そういったものは瑣末。

 今の状態を簡単に説明するなら、純粋に力の上限が人と違うモノに腰を粉砕される寸前。

 これほど冗談が通じないヤツだっけ?

「いいえ、ソレは重篤の貴方を見てあのカラスが漏らした笑い声よ」

 この場を見て失笑?

 ありえない、もう少しで人が半分に千切れる瞬間だぞ。

「あぅ……何かが千切れる音が聞けそうなんだけど……」

「いいえ、いいえ。ソレは貴方を励まそうと毛布が叫んでいるからよ」

 何のつもりだろ、この人……本当に殺される。

 自分の腕力が人外だってこと、忘れてる?

「い…や、聞き間違いではなくて……あデ、レレ…これ、は俺の身体がヤバイことになっテッテテテ、ルって……全身が警告ヲ発しデ…胃が潰れル、ル」

 泡吹きそう――もう失神してないか、俺?

「あっ、ほんとにヤバそう。じゃ、今度こそ私帰るわ。お大事に」

 やっと解放されたとき、本当に背骨が折れたのではないかと心配さえした。

 それほどに厚い抱擁だった。

「あぁ……もう、来るな、この人間プレス機……」

「あぁ、そういえばいい忘れてたことがもう一言あったわ」

 帰ると思っていた浅海が立ち止まっていた。

 もう一回抱擁されるのかと構えようとしたとき、彼女は優雅に振り向く。

「多分、だけど……あれだけ心配したのってさ、私が貴方を好きだからかも」

「へ?」

「うん。ラブじゃなくて、ライクの方だと思うけど……ま、そういうことだから覚えておいて。さようなら」

 彼女はそれだけ言うと、本当にそのまま帰ってしまったのだった。














 公明を見舞った後、学校をサボるつもりだった玲菜はすぐに自宅に帰っていた。

 そして、適当に食事を済ませてベッドで眠っていた玲菜の携帯電話が鳴る。

 電源を切り忘れていたようだ。

 ゴソゴソと起きてみれば、時間は午後六時。

『玲菜さん、今お時間ありますか?』

 電話の向こうから聞こえたきたのはアーデルハイトの声だった。

 しかしそれは彼女を騙るクロエのものであるとすぐにわかる。

「クロエ、何の用? 今何時だと思ってるの、迷惑ね。これって、立派な傷害罪よ」

 実に眠たそうな声が携帯電話を通して、相手にも伝わりそうだった。

『こちらこそ困りますよ、玲菜さん。今、学校なのですけど……大体、こんな時期に堂々とサボらないでくださいよ。色々忙しいというのに』

 ただ一人、まともに学園祭のことを考えていたクロエは実際のところ多忙を極めていた。

 睡眠を必要としない彼女にとって今はまだ時間が不足する段階ではないのだが、それでも個人単位で行えることには限りがあった。

「貴女こそ、うちの学校は携帯電話禁止じゃなかったっけ?」

 禁止と云っても学校内で使うな程度のものであり、所持自体を禁止しているわけではない。

『ちゃんと学校の電話で掛けています。それで、実は学園祭のことで私たちの企画に大幅な修正がありまして。今日はそのお知らせをしようと』

 ベッドに転がったまま、玲菜は大きな欠伸をかみ殺した。

「ふぁ、そうなの? じゃあ、新しい企画を教えてよ」

 すると、向こう側から彼女がよそうもしていない言葉が返ってくる。

『演劇です』

「エンゲキ? どういう手品、それ? 私ですら聞いたことがない名称よ」

 寝呆けている彼女には真実その単語は未知の手品の一種のように聞こえていた。

 だが、当然そんなわけはないのである。

『舞台の上で俳優が演じる劇のことですけど。アイルランドにはありませんか?』

『ああ、そっちの演劇か……って、何考えてるのよ!? 馬鹿じゃない?』

 明らかにおかしい、当然である――玲菜はオカルト研究会のメンバーであって、演劇部員ではないのだから。

 しかし、クロエはまるで意に介さないらしい。

『馬鹿? アイディアとしてはいいと思うのですが、どこが気に入らないのでしょう?』

「時間がないでしょう! 舐めてるの、貴女?」

『舐めてはいませんよ。だって、私たち演劇部ですから演劇をするのは当然じゃないですか』

「? あれ? そうだった?」

『ええ。オカ研はいらないので廃部にして、演劇部に入部しました』

「……はい? 何時そんなの申請したの?」

『昨日。それで、今日受理しました』

 電撃作戦の成功を楽しそうに語るクロエの声に出し抜かれた悔しさがこみ上げてきた。

 しかし、相手は生徒会長である。

 そういった工作を行うくらい実に朝飯前なのだ。

「……やり方が汚いわよ、貴女」

『そうですか、それはとても心外ですね。ですが、玲菜さんも考えてみてくださいよ――演劇と素人の手品、どちらが盛り上がります?』

「それは……演劇だと思うけど」

『でしょう? 私もそう思ったわけです。では、疑問は氷解しましたね?』

「まぁ、確かに」

『詳しい説明ですが、今回はお金をかけて本物志向で行きます。それから、報酬の約束も態度次第では考えてもいいですよ?』

 頭の中ですばやい計算がなされる――クロエはこの星一番の大富豪の系譜に連なる相手、その報酬がアーデルハイトに劣るわけがない。

「――ごめんなさい。私、馬鹿だったわ。そうよね、盛り上がらないと意味がないものね?」

『ええ。そうですよ、玲菜さん』

「それで、一体何人くらい部員がいるの?」

『8人です』

「私たちを含めて?」

『はい。実は演劇部は元々4人で、同好会に格下げ予定でしたので私の言葉に簡単に乗ってくれたわけです』

「人の弱み見つけるのが得意なのね、貴女。碌な人間になれないわよ」

『それで、一般の方を迎えるときとそうでないとき二通りの劇をしますから』

「ん? それは時間が足りないと思うな、私」

『いいえ。時間が足りないのは玲菜さんと綾音さん、公明さんくらいのもので他の方には私がちょうどいい暗示をかけて十分で台詞を丸暗記してもらいますから大丈夫です。当然、私は問題無し。頭がいいって、本当に得ですね?』

「この、私だって馬鹿じゃないし……でもさ、台本とかあるの?」

『いいえ。一般公開当日に演じるものはありますが、前日のものは用意していません』

「ちょっと。それは無責任じゃないの?」

『大丈夫ですよ。一般公開の日は私がスカウトした人たちに演じてもらいますから、玲菜さん達がするのは正確には前日だけです。まさか貴女たちなど当てにして一般公開の日に恥を晒せませんでしょう? 学園の品位に関わりますから、生徒限定で公開します』

「なんだか、すっごい侮辱。でも、それにしたって……ねぇ、本当に台本ないの? 今すぐ書きなさいよ、時間がもったいないから」

『いいえ。書くのは玲菜さんですよ』

「? 私? 私って……本当に私? どうして?」

『何となく、荒唐無稽な話が読んでみたくなりました』

「馬鹿にしてない?」

『いいえ、とんでもない。考えて御覧なさい、公明さんは入院中で、綾音さんのシナリオが面白いわけもありませんし、私が書くと私が楽しめません。他の部員はまぁ……色々忙しいです。すると、センスと時間がおありなのは玲菜さんの一人になるでしょう?』

「綾音のシナリオが最高にくっだらないって云うのは同意だけど、他の部員って使えないの?」

『いいえ。無能ではありませんが、準備などで忙しくしていらっしゃいますから、無茶を言うべきではありません――まぁ、本人たちに自覚のないところで頼らせてもらっていますからね』

「仕方ないわね。明日書いてくればいいの?」

『ええ。話のアウトラインを描いていただいて、朝までに私のパソコンにファイルを送ってください。放課後までには手直しを加え、まともな話に仕上げますから』

「はいはい、OK……それで、お題はなに? 私のオリジナルでいいの?」

『まさか。私もそこまで恐ろしい実験は出来ませんよ』

「……むかつくわね、本当に」

『シンデレラです』

「心デ例羅? キャッチコピーか技の名前? 古流武術の名前かしら」

『あの、そこでボケなんていらないのですけど』

「ボケてないわよ。貴女、いい加減死にたいの?」

『ボケていらっしゃらないとすると……面白そうな展開』

「ん?」

『そうですね、簡単なさわりをお教えしたうえで、一般公開の日に演じる台本をお見せしますから、玲菜さんの素晴らしい感性で書きあげてください。原作に登場しない配役、ご都合主義……etcの要素を盛り込んだ素晴らしいものを期待しています』

「要は、私のインスピレーションに喜劇と悲劇をさじ加減間違えないように加えて、努力と情熱で煮詰めればいいのね。あと、独自キャラとか設定捏造も当然ありよね?」

『おいおい、捏造するような設定なんて無い……失礼、貴女はすごい逸材ですね』

「でしょう? それで、配役も私が決めていいの? それともジャンケン?」

『そ、そうですね……部員それぞれのイメージを当てはめて考えるのは結構ですが、流石にそこまで権限を与えてしまうと私がとんでもないことになりそうなので、出来れば立候補で。無理なら、ジャンケンということでお願いします』

「ふーん。つまらないけど、まあいいわ。剣客活劇みたいな風味で、ファンタジーと恋愛を加えて、ギャグとエロも加えないとね……ああ、桃太郎とかと友情出演させてもいいの? 主人公が一子相伝の暗殺拳『死んでレ羅』の使い手で、天下一を決める舞踏大会に参加して、最高の踊り手を目指すってストーリーで、ライバルとして登場するのが東方最強絶対無敗の桃太郎さま。かぐや姫と手を取り合って激戦を繰り広げる主人公。やがて主人公は戦いの果てに全ての願いを叶えるって伝説の宝剣に手を触れて、魔王を滅ぼすって具合に……」

『それって原作が残ってないし、友情出演の意味も全然わからない……あっ、いえ、絶対にやめてください。それをやってしまうと、公明さんと綾音さんは間違いなくサボタージュします。『絶対に』やめてください。それを送られてしまうと、貴女のシナリオで残る部分がなくなりますよ』

「えぇ! 私の感性で決めていいって云ったじゃないの、嘘つく気? 訴えるわよ、お抱えの弁護団連れてきて最高裁まで争う覚悟あるからね」

『(どうせ裁判長は僕の言いなりだからどっちでもいいけど。それにしても当代マクリール嬢は頭の方、大丈夫なのかな)……正直、玲菜さんの感性を舐めていました。ここまでレベルの高い、アレだとは思わなかったもので』

「アレって?」

『玲菜さんは自分が演じる、その自覚がおありですよね?』

「当然じゃない。私、脇役なんてやらないから」

『まさかとは思いますが先程の話の主人公、本気でやる気でした?』

「当たり前じゃない。私、適当なことは云っていないつもりよ」

『……すぐにでも心の病院に逝かれた方が宜しいとは思いますけど、治療に時間がかかりそうなので今は目を瞑ります。では、こちらから大まかなあらすじと見本の台本を転送しておきますから、そちらのメアドお願いします』

「了解! ふふっ、最高のものを期待していて」

『え、ええ……(パンドラの箱、開けちゃった。他の連中は本当にやってくれるかな?)』














 さてさて、玲菜様の才能で世紀の名作を書き上げてあげますか。

 そんなことを考えながら、私は机の上のパソコンを起動させた。

「ただいま午後七時前、この分だと徹夜仕事になりそうね。コーヒー持ってきなさい、アドルフ!」

 とりあえず家のどこかにいるだろう使い魔兼召使に命令して、ブラックでコーヒーを持ってこさせた。

「へいへい、お持ちしましたよ。ん……珍しいこともあるもんだ、勉強ですかい?」

 執筆中の傑作を画面に見つけたアドルフは私にコーヒーを渡した後、しばらくそれに見入っていた。

 これはあまりに当然、アドルフのように学の無いコウモリも認めざるを得ないほどのストーリー……これが思い浮かぶ私はまさに天才といえるだろう。

「……あのぉ、お嬢様?」

 あまりに優れた私の才能に畏敬の念を覚えたのだろう、とても緊張した面持ちでアドルフが呼びかけてきた。

 思ったよりもずっと苦くて不味かったコーヒーの最後の一杯を飲み終えた後、私は優雅にカップをトレイに戻して答えてやる。

「ふぅん、なに?」

 答えは訊かずともわかっている――私を褒め称える言葉に違いない。

「いやぁ……どこの出版社に持ち込む心算か知りやせんが、恥かくだけですぜ。止めときましょうや、お嬢様にこんな恥さらされたらご実家からどんなお叱りが在るか分かったもんじゃねえ」

 ……前言撤回、やはり動物風情には人の文学など理解できるわけがなかった。

「それはシンデレラよ、このバカ!」

「はぁ? シンデレラって云うと、あのガラスの靴やかぼちゃの馬車が出てくる?」

 へえ、コウモリの癖についさっき私が知ったどうでもいい設定については知っているのか……なんだか、すごく面白くない。

「そうよ。だけど、それがどうしたっていうの?」

「いや……その大事な奴らはどこに?」

 出た、どうでもいい細かいことにこだわる奴。

 前にどこかで聞いたことがある原作を崇拝しているタイプの人間だ。

 恐らく品の無い使い魔だから芸術というものを形でしか捉えられないのだろう、私の従者としてやはり荷が重すぎたようだ。

「わかったわ、要するに貴方は原作と少しでも違う点を許容できないというのね? そんな狭量を私にさらす心算なんだ、へぇ。この原作至上主義者はその程度の違いで私を批判する心算なのね」

「怖えな……お嬢様、酒でも飲んでるんですか? 別に人間の童話なんて詳しくは知りやせんが、その辺はたしか大事な設定じゃないんですか?」

 このあくまで原作準拠を訴える姿勢……なんてムカツク!

 原本だって随分と改変加えられてるじゃない、それを無視してなによ!

 駄目、コイツには最初から理解なんて求めても意味が無いのよ。

 やっぱり、こういうのは人間に評価してもらわないと意味が無いわ。

 そうか、クロエも所詮人形じゃない……私の芸術性を理解できなくて当然だわ。

 でも、どうしよう……他の生徒はみんな庶民よ、貴族文化を理解できるかしら?

 難しいわね、綾音にしても所詮はこの国の没落貴族に過ぎないし、公明はもろに庶民だし、他も当然庶民――いいえ、これを納得させてこその才能というものよね?

「そうそう、長生きの魔術師はみんな簡単すぎることをするときには思いハンデを自分で課すと聞いたことがあるわ。それは事実?」

「? どういう繋がりか知りやせんが、確かにその通りで。ですが、お嬢様……この冗談みたいな話が、そのハンデなんですか?」

 バカ、この使い魔は主人の気持ちも理解できないの?

「違うわよ。これにイメージを当てはめて、壮大な戦闘シーンとかを考えてたの。で、互いの軍勢とかの違いをね。やはり最強の魔術師ともなると相手にハンデをつけてやるか……」

「はぁ? シンデレラで、軍勢ですか?」

「そうよ、文句あるの?」

 このコウモリ、原作至上主義者って云うのは主人にまで平気で逆らうのね、何処かの人形じゃないけど度し難いわ。

「別に文句はありやせんが……大体、そんなの考えてどうされるおつもりで? 云っておきやすが、出版社に送るのなら前のご主人様からおおせつかったように命に代えても邪魔しやすぜ」

 どうでもいいことに命懸けて、この馬鹿コウモリは!

 だから肝心なときに使えないのよ。

「学園祭の演劇で演じるの。私が脚本および舞台監督、で最高責任者なのよ」

「いや、お嬢様は確か手品をされるとかなんとか」

「時代は進むのよ、特に私に都合がいい方向に。それで……実はさ、昨日綾音に殴られちゃって身体痛いのよね。私が執筆している間、しっかりと揉みなさい」

 そうそう、すっかり忘れていたけど綾音に殴られたんだ。

 まあ、私ももう一人の私のせいで公明が死んだと思ったし……おあいこかな。

 泣いてる女責める趣味なんてないし、自分のせいって気持ちも晴れないし……どうしようかな、配役。

「……演劇なら別にとめやせんが、マッサージですかい? 経験なんてほとんどありやせんぜ」

 当然だろう、こんな暑苦しい男に毎日毎日身体を触らせるわけが無い。

 しかし、新しい発想を得るためには新しい経験をしてみるのも一つの手だと思う。

 とりあえず、執筆している私の後ろから肩をもませてみた。

 やはり気持ちはあまりよくないが、それなりに気分転換にはなった。

「ですが、お嬢様。また喧嘩ですか?」

「まあね、いつもみたいに私が勝ったけど」

 そうそう、勝ったといえば今回の戦いは剣術にしようか、それともシンプルに殴り合いがいいのかな?

 いいえ、貴族の嗜みとしてはフェンシングかな……私、あれ弱いのよね。

 銃撃戦とかの方が好きなんだけど、時代考証がネックなのよね。

「しかし、どんどん酷くなってますね。この文章……誰が主役遣るんです?」

「ん? ああ、シンデレラはこの私。皇太子はイメージだと公明かな。で、ライバルは綾音でいいんじゃない?」

「ライバル? 義姉とかですか?」

「バカ、姫のライバルといえば姫に決まっているでしょう!」

「はぁ?」

「ほら、ここ見てよ。公明の台詞からいうと、『超絶美形なる我は天命により七つの海を切り裂く剣を与えられし、深遠なる黒翼の熾天使、極北の猟犬、あまたの忌み名を持つもの。この帝国の皇太子なるぞ。みなのもの、道を空けよ』。くぅ、格好いいわね」

「……これを、あの公明が? ぷっ、ぷはははっ、どこのバカですコイツ? こんな台詞まともな神経で云えるわ……ぐふっ」

 口の悪い使用人は拳で黙らせた。

 本当に使えない奴に限ってあらばかり捜して……そうよね、ここよ『みなのもの』じゃなくて、『下郎ども』よね。

 アイツ、ここに気付いて笑うんだから細かすぎよ。

「ほら、さっさと肩揉んで。去年のソフトボール大会で綾音半殺しにしたボール受けたい?」

 アレは私の責任じゃない、綾音の奴がサインを細かくしすぎるから間違えただけよ。

 細かく決めるウザイ奴、綾音もアドルフの同類だったか……複雑ね。

 あの時の私は適当に人間らしく投げてたのに、ソフト部の子が出てきてバットにかすらせるから……ま、ちょっと本気で投げたわけだけど、綾音のサインは『スローボール』だったのよね。

 だから、時速百四十キロ近いボールに反応できなくて……もろに受けちゃったからな。

「……」

「あ、気絶……使えない奴ね。ま、いっかコイツ無しでも私さえいれば最高傑作は仕上がるんだから。じゃ、気合入れていきましょうか」














「どうも、玲菜さん。今朝は素晴らしい台本を贈っていただき大変ありがとうございました」

 翌日の五時間目、たまたま情報処理の授業で教室が同じになっていたクロエが小声で話しかけてきた。

「でしょう? 最高の出来よね、あれ」

 玲菜はすでに課題を終え、適当に遊んでいたので話にすぐに乗った。

 自身としてはかなりの力作だと思っているだけにその瞳は自信に満ちている。

『……玲菜、あのさ……綾音も一応来るように説得はしたんだけど、あの設定ヤバくない?』

 何故だか浮かない顔のクロエは急に英語に切り替えて本性を出した。

『え? 完璧だったでしょう、あの台本! まさかアイツ、やらないって云ったの?』

『いや。まだ見せてないんだけど……悪いことは言わないから、今のうちに僕が書いたのと差し替えない?』

『ふざけないで。アレは昨日私の想像力を駆使して、情熱と努力で塗り固めた最高傑作なのよ? 貴女の作品がそれに並ぶわけがないじゃない』

『ははっ……、だって今朝修正したら、案の定ほとんど中身が残らなかったんだもの。君がショックじゃないかな、と思って気遣ったんだけど?』

 その言葉を受けて、玲菜の表情から笑みが消えた。

『こ……』

『こ?』

「殺すわよ、貴女」

「本気で殺気がこもっていらっしゃいますよ、玲菜さん?」

「当たり前じゃない! 中身が残ってないなんて、許せると思う?」

「はぁ。ですが正直に申し上げてあの台本は、その……シンデレラではありませんでしたよ、完璧に。どうしてさわりを教えて差し上げたのに、あのような内容に?」

「うるさい! それから断言しておくわ。私の台本を採用しないなら、暴れるわよ? もう、学園祭だとかほざけなくなるほどにぶっ壊すから」

「――どこまで自己中心的な……あの、豚をおだててしまった私が悪かったのは認めますから、木から降りてきてもらえませんか?」

「それは皮肉? 私が太っているって云いたいの? 今度の学園祭のミスコンで勝負してもいいのよ!」

「はは……どう取っていただいても結構ですが、綾音さんに見せてサボタージュされない可能性が1パーセントを下回るので、ちょっと企画として間違いがあったと認めようとしていたところなのですが」

「……私のオリジナルは生きているのね?」

「ええ。著作権がありますし、台本自体はデータとして保存してありますが……ほら、ここに」

 クロエが差し出したのはフラッシュメモリ。

 玲菜はそれをひったくるように受け取ると、そのデータを目の前のパソコンに入れた。

「えっ、あの……嫌な予感がするのですけど、今から仕上げるつもりでいらっしゃいます?」

「ええ。放課後までに完成してれば、とりあえず印刷とかはすぐ出来るでしょう?」

「……もう、どうなっても知りませんよ? それと、メンバーが9人になりましたから」

「9人?」

「ええ。参加希望者が昼休み中に入部届けを持って私を脅迫してきまして……本当に、この学校は面白い生態の学生が多くて研究のやり甲斐があります」

「よくわからないけど、人数はすぐに調整するわ。それで、集合時間は貴女の都合で多少は操作できるのね?」

「ええ。元の人から引き継いで、今は私が部長ですから。多少なら時間は遅らせることが出来ます」

「じゃ、そういうことでお願いね?」

「……血の雨が降りそうですが、一時間ほど集合を遅らせます……」

「良し良し、イメージを膨らませてたから台詞とか溢れるように出てくるわね。快調すぎるくらい快調よ」

「それは何とも――最悪ですね……話は変わりますが、玲菜さん?」

「ん?」

「昼の間に聞いたのですが、綾音さんに妹さんっていらっしゃるんですか?」

「――ああ、綾葉のこと?」

「アヤハさん? 『サツキ』ではなく、アヤハさんですね?」

「ええ、綾葉。大体、サツキって誰?」

「姉妹の年がいくつ離れていらっしゃるか、わかります?」

「えーと、彼女は同年度生まれだから私たちと同じ学年よ。学校違うけどね」

「なるほど。やっぱり思った通りでしたか……やれやれ」

「ん、なに?」

「いえ、ちょっと思春期特有の心の病を抱えておられる一年生が先程の9人目だったもので……」

「ま、邪魔はしないでね。一気にペース上げるわよ」

 クロエがモニターを眺めていると、かなりの速度で台詞や動きがタイプされていた。

 まるで予めわかっていたかのように玲菜の指は止まることを知らなかった。

 その内容と台詞はクロエすら戦慄を覚えずに入られない代物なのだ、これが仕上がるとまずい。

「……玲菜さん?」

 とりあえず、この悪魔の書の完成だけは阻止しなければならない――アーデルハイトの代役など遊びだと思っていたクロエはこのとき本当に企画の成功を考え始めていた。

「うるさいわね。授業が終わるまで時間がないんだから、放っておいて」

「私が貴女を愛しているといえば、どうします?」

「殺す――そして埋める、それ以外の選択肢はないわ」

「ふぅ……実は、先程問題があると申し上げた9人目の方なのですが」

 鬱陶しいとは思いつつ、隣の席に座っていたクロエの言葉を全て無視することは出来なかった。

「何よ、一体? まさかソイツ――サツキだっけ、兎に角ソレが私を愛してるって?」

「いえいえ、違います」

「じゃあ、一体どうしたって云うの?」

 喋りながらも指を止めることなくタイプし続ける玲菜の集中力はこんなときばかりすごかった。

「何というか……貴女ではなく、綾音さんを愛していらっしゃるとか申されまして」

 その言葉を聞いた直後、一気にタイプミスが発生する。

 驚きと笑いによって、指先が思ったように動かなかったのだ。

「なっ、何ですって!?」

「ですから、所謂そういう趣味の方、なのでしょうね。最初はあまりにタイミングがよかったので、綾音さんの実の妹さんかと思ったのですがどうも雰囲気が違うようでしたし」

「え、ええ……ねえ、その人ストーカー?」

「さあ? 犯罪に分類されるというのは穏やかじゃないですが、それは瑣末です。問題なのは、彼女を加えてしまうと完全に綾音さんはサボタージュを決め込んで演劇自体が破綻してしまうということ……」

「……うふふ、あははは、面白そうなネタ発見! 配役は私がある程度適当に決めさせてもらうわ」

「私の話、聞いていました?」

「笑えそうなネタがあるなら料理すべし、これ即ち常識よ。大丈夫、適当に誤魔化せばそれくらいは何とかなるわ」

「何とかならないから危惧していると申し上げたのですけど、話の通じない方ですね。そもそも舞台の根底が揺らいでいる認識がおありですか?」

「いいじゃない、いいじゃない。どうせターゲットは私たちじゃないわけだし、綾音にしたって男友達なんて公明くらいのものでしょう。案外そっちの人なんじゃないの?」

「はぁ、そういうものでしょうか。私の経験からいって、それは的外れといわざるを得ないのですが」

「時代は常に変遷するものなり、これも常識よ。万物流転、栄枯盛衰、永遠の価値観もこれ同じ……長い人生送りすぎたんじゃないの、貴女?」

「なるほど、要するに私はすでに古いということですか?」

「そう、アーデルハイト・フォン・シュリンゲルという存在自体が古いの。新しい概念を身につける能力が衰えてきているのよ、可哀想ね」

「……いえ、正直に申し上げて百年先のセンスで執筆しておられる貴女に云われるのも間違っているような気がするのですが」

「じゃ、ヒロインは綾音でその危ないのが主人公ね」

「女性が男役を演じるというのは演出としてありですが、舞台上で殺人でも期待している配役ですね」

「大丈夫、大丈夫。人なんて死なないし、見事に大喝采を呼び込む配役よ」

「もう沈みますよ、この船――ときに玲菜さん?」

「ん? もう台本の80パーセントまで仕上がったわよ」

「はやっ、何て底なしのアイディアをお持ちなのです! ではなくて、思いますに玲菜さんの仰られるように綾音さんがあちら側の方だとすれば……彼女のターゲットは貴女なのでは?」

「あはは…そんな莫迦なこと、あるわけが……えっ、ちょと止まってよ。あのときとか、いえ、その前もそういえば……」

「どうなさいました?」

「……そんな、わけ……ないわよ、ね?」

「『ね?』と訊かれても、どうお答えすれば宜しいのでしょう?」

「殺すわ、アイツ……そうだ、舞台の上で合法的に殴り倒しましょう。殴り合いのシーンで私が馬乗りになって……」

「それは合法どころか、明らかに故意犯だと思いますけど」

「恋犯? 何、そのやばい単語――最悪だわ……完璧なトリックを考えないと」

「誰が殺人事件の舞台を描いて欲しいと頼みました……大体、私が云ったのは冗談ですよ? お願いですからこれ以上の破綻だけはやめてください」

 新演劇部集合まであと数時間もない午後の出来事であった。
















[1511] 第四十四話 『謀り』
Name: 暇人
Date: 2007/03/01 02:14










 夜の八時を過ぎたとき、篠崎邸の扉がゆっくり開いた。

 すでに明かりがついていた屋敷に入ってきたのは長い金髪に黎明学園の制服を着た少女。

 彼女が扉を開けたとき、屋敷の中には竜涎香の心地よい芳香が充満していて、さながら高級サロンのようであった。

「いやぁ、流石にこの時期の生徒会長は本当に多忙を極めますね」

 鞄を置いたあと、制服を脱ぎながら彼女が報告する相手は、居間のソファーに腰掛けて包帯を巻いたアーデルハイトとチェスを愉しんでいた公爵その人。

 服を脱ぎ終えたクロエは数歩歩いた後、別な灰色の髪の幼女の姿を変えていて、掛けてあったローブを羽織って対戦している二人の間に腰掛けた。

 先が肩に掛かる程度の綺麗な灰色の髪は一本一本がとても細く、小学校低学年くらいにしか見えないその体格は華奢でさえあった。

 勿論これはクロエ本来の姿ではなかったが、それにとても近い――本来のものとは年齢違いの姿なのだ。

「……七百五十六手先、公爵さまの勝ち」

 一瞥しただけの彼女の言葉に対戦していた二人は眉を顰めた。

 俗に『ラプラス回路』と呼ばれるものある。

 ラプラス回路とは占星術師と呼ばれる魔術師の一派だけが有する特殊な架空神経器官で、『もう一つの頭脳』と揶揄される、主に魔術的な算術計算を行う生体的な計算及び数値計測回路だ。

 代を重ねたものになると、現在のスパコンさえ超えるほどの速度と精度の算術計算さえ可能とする。

 そして、その回路によって未来を読み、ありとあらゆる事象の計算の果てにこの世の理を知ろうとするのが彼らの魔術であり、それは先天的に選ばれたものだけが可能とする高尚なる技法だ。

 それこそ彼らが自分達を選ばれた魔術師と自称する所以である。

 全ての魔術を敷く者であるクロエには当然その回路が備わっており、彼女はそれを駆使した応用計算によって外れることのない予言を行ったのだ。

「悪い娘だ。ゲームの邪魔は歓心せんぞ」

 ゲームをその場で放棄した公爵は面白くなさそうに紅茶に手を伸ばし、ゆっくりと飲み干した。

 当然だろう、何しろ一時間のうちに起こる全てを予想しうるほどに精緻で完成された回路を持つクロエの予言がチェスのゲーム程度で外れるわけはないのだから。

「そう仰られるなら僕の予測を覆されたらいかがです? 例えば、四百手目を間違えれば九百手先まで決着が長引きますよ。ポーンでアーデルハイトのナイトを取ればいいんです」

 クロエはそう云いながら手じかにおいていたケースからノートパソコンを取り出し、起動させた。

 本来はプロメテウス院が誇る量子コンピューターか、暗算で算術処理を行える彼女にとって軍用品でさえ物足りなかったことはいうまでもない。

 しかし、そもそもの技術体系が異なる現在の技術と彼女の技術の互換性が意外に低く、メールのやり取りなどでは自身の会社の製品に頼らざるを得ないという皮肉な現実がある。

「やれやれ……君はわかっておらんようだが、決着の見えている試合ほど興を殺ぐものはないのだ」

「左様ですか。それにしても、公爵さまがチェスで勝利を収められるのは五百年ぶりでしたっけ?」

 主人の言葉に適当に答えながら、メールをチェックしてみるが今のところ玲菜からのものは届いていないようだった。

「君らを相手に勝負していれば嫌でもそうなるさ。いや、もう興ざめだ。女史、君も一杯いかがかな?」

 自身の目を見ることなく話すクロエに腹を立てるでもない公爵は、ポットから自分のカップに紅茶を注ぐと、アーデルハイトにも勧めてきた。

「確かに興ざめですね。では、一杯お願いします」

「僕はお誘い頂けないのでしょうか? これでも彼女の代わりを忙しく務めているんですけどね」

「ああ、それは云われずともわかっていた。それで、学園生活は愉しんでいるかね?」

 二人のカップに紅茶を注ぎながら、公爵は自分が与えた任務の報告を聞く。

「まあまあ、でしょうか。アーデルハイトは性格に問題があるわりに人望があるようです。が、今までにも散々無茶をしてくれていたようで……僕としてはやりやすい側面もあります」

「無茶苦茶、というのは私としては不本意な評価ですけど」

 カップに注がれた紅茶をゆっくりと飲み始めたアーデルハイトは頬を軽く膨らませて、子供っぽく怒って見せた。

「君ね、アレを無茶といわずして何というつもり? オカルト研究会なんて僕が廃部にしなければ、どれだけの無駄に繋がったか計算してみて欲しいな、まったく」

 パソコンから目を離したクロエは自分のカップを手に取りながら、アーデルハイトの非難が実に不当なものであると身振りを交えたオーバーアクションで示してみせる。

 二人の少女が飛び跳ねるようにはしゃぐ様を眺める公爵は実に厭らしい視線を送りっぱなしだったが、彼女達はそれに気がついていようだ。

「勝手に廃部にしないでくださいよ。私も多少は愛着があったのに……クロエさん、酷いです」

「非難されるのは不本意だから弁明しておくけど、代わりに新演劇部を創設しておいたよ」

「あぁ……それは確かに素晴らしいです。さすが私ですね」

「だろう? それで公爵さまもいかがです、今回はマクリール嬢が脚本を考えるシンデレラなんですよ。ご察しの通り、とても普段ご覧になられているレベルのものには及びませんが、多少なりとも興味がおありですか?」

「シンデレラ?」

「ええ……ところで、アーデルハイト?」

 急に話を振られたアーデルハイトは紅茶を飲み終えた後のカップをチェス盤に占領されたテーブルの脇に置き、マンガに手を伸ばしながら答えた。

「何ですか?」

 包帯だらけではあっても、ホムンクルスとしての要素がいつも以上に強い個体である彼女の傷は表面上全て塞がっており、内部にまで届いた怪我の治癒さえ待てば十分に活動できるのだ。

「マクリール嬢だけど、頭の方は大丈夫なの?」

「? どういうことです?」

 予期せぬ言葉にアーデルハイトの視線がマンガからクロエに移る。

 ローブを纏っただけで中は全裸という少女は両脚をソファーの肘掛に乗せ、胸元をはだけさせただらしのない格好で寝転がっていた。

 しかし、その年齢に見合わぬ気だるい空気を漂わせる彼女にそれを注意しても無駄だろう。

「何つーか、あまり賢そうじゃないなと思ってはいたけど、彼女のセンスは未来的過ぎるよ。うーん、伝奇的な女の子と云えばいいのかな。通常とは何か違うものを持ってるね」

「それは興味深いな。内容はどこが改変されている?」

「まぁ、それについてはまだ送られてはいないんですけど、僕の実感として荒唐無稽な御伽噺になることは請け合いかと。彼女を例えるなら誰でしょうね……クララ?」

 口ぶりのわりに対して興味もなさそうに聞いていた公爵はアーデルハイトの身体を嘗め回すように視姦していたのだが、聞き覚えのある名前に思わず飲んでいた紅茶を噴出してしまった。

「ぷっ! ごほっ、ごほ……クララとは、あのクララか?」

「はい。ご想像の通り、クラウディア・ゲルトルート・フレデリカ・シェネー嬢ですけど?」

 アーデルハイトも公爵同様に紅茶を飲んでいればマンガに向かって口の中身を吹きかけていたかもしれない、それほどの衝撃をもたらした名前だった。

 何しろ彼女は雪のクラウディア、暗い森のクララ……幾多の忌み名で知られるシュリンゲル家の祖その人だったのだから。

「クララ・シェネーとは本当にあのドMのクララなのか?」

「ええ。先程から申し上げていますように、その通りですけど」

「ちょっと……嫌な言葉を使わないでください。ご自分の愛弟子に対して『ドM』とは何事ですか!」

 掴みかからんばかりのアーデルハイト、それを軽く片手でいなしながら公爵はさらに続けた。

「何を云うか、彼女ほど強い被虐性癖を持った素晴らしい娘は稀だったぞ。むしろ、誇り給え」

「だから! 始祖さまは今の私と同じ素体なわけで、そのような言い方ではまるで私にもそういった性癖があるみたいに聞こえるじゃないですか!」

 暴れる二人を迷惑に思いながらも追い出せないクロエは面倒そうにしながらも二人に割ってはいる。

「つーか、君ら二人の性格って心理学的にいえば同じ感情に端を発してて、自己破壊欲? ホムンクルス作りの過程とはいえ、自分切り刻む君に実にマッチしてると思うけど。違うの?」

「クロエさん、マジでうるさいですよ」

「しかし、あのクララと同等のセンス!? マクリール嬢の病状は思いのほか篤いな」

「ええ。僕もそれがとても心配でして。どうしようか考えているところです」

 とりあえず、気分を落ち着かせるためにもう一杯紅茶を飲んだアーデルハイトもその点については他の二人と同意見だった。

「玲菜さん……嫌な予感はしていましたけど、予想を裏切らない方ですね」

「そうそう、君を演じていたときはその予感ばかりが先立って大変だったよ」

「やれやれ。始祖さまのことはさておき、そんな面白そうな現場に立ち会えないのは残念至極です」

 アーデルハイトは本当に残念そうにしてみせた。

「いいだろー、羨ましいだろー? 本当に気の毒だねぇ、世紀の瞬間を見逃すなんてさ」

「ふむ。君たちは実にいいコンビのようだな……しかし、女史?」

「はい、何ですか」

「アンジェリカによると、スタニスワフを殺したのはイオレスク君だとか」

 今朝から来ていたくせに、アーデルハイトを脱がすことしか考えていなかった公爵はここでようやく真面目な話しを始めた。

 何しろ、病弱で薄幸な美少女という設定がいたく気に入ったとかでずっとそのことばかりぼやいていたのだから、アーデルハイトとしても真面目な言葉がようやく出てきたことは自身の気分を取り直させるきっかけになる。

「ええ。私は目撃していませんが確かにそのように報告を受けていますし、私もそう報告する予定ですけど」

「それはおかしいな」

「……何がおかしいのでしょうか?」

「スタニスワフ自身を殺したというのは別におかしくも何ともない。単純な身体能力において中ぐらいの部類に入る彼を殺しうる人間はいくらでもいるからな。しかし、その状況に持っていくことが出来る人間は稀だ」

 公明が本人も詳しくは自覚しない方法でスタニスワフに掛かる不死の技法を破ったことは、相手が如何に変態であっても、真祖の一人である魔術師に告げるべきことではないように思えた。

「……」

「わかっているはずだ。アンジェリカすらそれを捉えられない何かがいて、何かをした……どんな裏技を使ったのかね?」

「別に。私はどこかの誰かと手を結んだと公言して憚らない女性と命を賭けて戦っていましたから」

 アーデルハイトの思わぬ反撃に公爵の追及は力を失い、一転して守勢に立たされることになる。

「彼女は……ただ君に無駄弾を使わせたいといってきただけだ。別に私の朋友というわけではない」

「どうだか」

「本当だ。クロエの証言でよければこの場で聞かせてやれるが、それでは納得しないのだろう?」

「するわけがないでしょう。貴方も中立派を自称するのならもう少し控えめに行動してください」

 冷たい視線を送られてたじろぐ公爵を見かねてか、クロエが横から口を挟む。

「そう湿気た話をするなよ、アーデルハイト。僕も帰ってきたことだし、マクリール嬢の伝奇物語が届くまでブラックジャックでもやって待とうじゃないか。公爵さまもそれで宜しいですよね?」

 助け舟にすがりついた公爵はすぐさまトランプに手を伸ばしていた。

「構わんが、カードカウンティングやそれに類する行為は禁止だぞ」

「それは不可抗力ですよ。貴方が設計した以上、見た瞬間に計算してしまいますからねぇ」

「それならトランプはやめにして麻雀に変えましょう。面子は……貴女のご兄妹でも呼べばちょうど足りるでしょう?」

 アーデルハイトに振られたクロエはすごく嫌そうな顔でその意見を拒絶する。

「それは嫌。アイツら呼ぶと僕も苦戦せざるを得ないから、その選択肢は無し! 公爵さま、何方か心当たりございませんか?」

「むぅ、そうだな。こちらには知り合いなどおらんし、自動人形無しとなれば……適当な人間は思い当たらんな」

「男性でもありですか?」

 アーデルハイトは無理だとは思いつつ、玲菜や綾音を誘うわけにもいかない状況で考えられる人物について思いをめぐらせた。

 当然といえば当然ではあるが、問われた公爵の反応は予想通りのものだ。

「ありのわけがなかろう、誰が男などこの空間に立ち入らせるものか。少しは考えて物を云い給え」

「ですが、お知り合いはいないのでしょう? 人を誘うにしても、見ず知らずの方を連れてくるというのは……」

「だよねー? 公爵さまもケチ臭いことは云いっこなしですよ。この際、野郎でもいいじゃないですか」

「そうは云うが、君たちにはあてがあるのかね?」

「そうですね――近所の知り合いで麻雀してくれそうな人といえば……正臣さんくらいですか」

 それはまさにありえない人選と云っても差し支えないだろうもの。

 公爵はその名前を聞いただけで拒否すると決めたようだった。

「駄目だ駄目だ、話にならん。滞在手続き程度で五時間も待たせるような男と麻雀など打てるものか! 六協会はおろか世界百七十五の機関と協定を結んでいるこの私を、五時間も審査待ちさせた男だぞ、信じられるか? これが錬金術師だったら小一時間は説教を」

「我が師ながら理不尽なまでの我侭貴族ぶりですね。貴方みたいな変質者を気軽に自領に入れる貴族がいるわけがないじゃないですか……しかし、他に腕の立ちそうな人がいませんよ。クロエさんはあてがありませんか?」

「知り合いって云ってもね、凡俗相手じゃ意味ないし、人形も駄目となるとね」

「人形が駄目と云ったのは貴女じゃないですか、責任感じてらっしゃいます?」

「そうだね……あ、そうだ! 公爵さま、前に日本に来たときの事覚えていらっしゃいます?」

「私が、か?」

 公爵は少し考えてみた様子だが、そもそもそんな記憶は頭に残っていない。

 何年も滞在した土地でもない限り、土地自体は特に印象には残らないようだ。

 その代わり、日本人の少女の顔は会った場所もよくわからないのに何人も思い浮かんできた。

「はい。僕の記憶によると、太陽暦換算でちょうど千五十六年前の七月二十七日に右足でこの土地をお踏みしめあそばされた」

「細かいことはいい。要するに、君はそれほど以前の知り合いが生き残っているとでも云う心算なのかね?」

「いえ、そんなまさか。僕もそれくらいは心得ていますよ」

「では、クロエさんが仰りたいのは?」

「何つーか、公爵さまがそのとき鬼から助けた幼いお姫様を孕ませちゃってさ。うん、今でもその血脈が生きてるって風の噂に聞いたから……探してみるのも一興かと」

「何日がかりです、それは! それに、イリヤさんも昔から碌なことをしていませんね。助けた相手を孕ませるなど、どこの似非英雄ですか」

 非難されること自体が不本意とでも云わんばかり、公爵はアーデルハイトの視線を払いのけるように手を振った。

「煩い、そもそも私は縋られたときしか応じてはおらんだろうが……で、肝心の記憶が定かではないのが、その少女は美形だったのかね?」

「当時のこの土地の基準ではそれほどでも。ですが、僕の黄金比計算ではA-3相当ですね」

「A-3だと!? ちぃ、なんとも惜しい記憶を! ノーブルベルト級だというのに! いや、その少女の顔ならば記憶の中に思い浮かぶぞ、おお、長い黒髪が艶かしい色白で華奢な少女だ……」

「また意味のわからない怪しげな記号を人につけて……それで、この場にいる全員にこれと云ってあてがないのですから、やはり正臣さんを誘うしかないということで妥協しましょうよ」

 この場に呼ぶにはふさわしくない人物であると三人全員が思ってはいたのだが、他にいい相手が思い浮かばなかったため、妥協するしかない状況だといえる。

 それを察して、クロエは主人に先んじて賛同することにした。

「ま、僕は賛成ですけど。この上、ここに変人を呼ばれたらかないませんし」

「……面白くないが、断ってしまって君たちと脱衣麻雀が楽しめなくなるのはもっと面白くない。だから、涙を呑んで賛成しよう」

「……誰が脱衣麻雀などと?」

「莫迦なことを聞き返すな、私とその姿の君が麻雀する場合に他の形態がありうると思うのかね?」

「嵌めましたね、イリヤさん!」

「知らんな。それとも何か、私に精液でもねだるか? すぐに元の姿に戻れるとは思うが……そうかそうか、アレは経口摂取する必要があるのだったなぁ。本当にどうするね、お嬢ちゃん? もしも望むのなら、床に跪いてその小さな口で、涙を溜めたままお願いしてみてはどうかね」

 勝ち誇ったような視線を送られたアーデルハイトは拳を震わせながら、目の前の相手を睨みつけた。

 彼女が幼い姿で過ごさねばならなくなった原因の全てが公爵にあるというのに、彼がまるで反省する様子も見せていないことに対して憤りが高まる。

「くぅ……この変態爺は!」

 しかし、口にすること以上の反撃が出来ないのも事実だ。

 全力でさえ怪我一つ負わせることが出来なかった相手だ、今の彼女では何も出来ないに等しい。

「ほら、さっさと電話し給え。私の頭の中の妄想を口にして発表し、尚且つクロエの身体でそれを実践してやろうか? 私としてはむしろ望むところだが、君は?」

「止めてください、本当に不快ですから」

「というか、僕も勘弁願えないでしょうか? アンジェリカじゃあるまいし、公爵さまの変態的妄想には一々付き合っていられませんよ」

「なら、どちらでもいいから早く電話し給え。どうせあの男を無視すればゲームは成立する。最早面子など構うものか」

「じゃ、そういうことで僕が電話しますね。つーか、公明の代わりにお父さんに電話しておいたやつだけどさー、あの人も彼の親だけあって疑わない人だよねぇ? 少しは疑った方がいいよ、あの息子は」

 公明が入院したという件や学園祭に関しての諸事情などを本人の代わりに、公明の父親に伝えたクロエは思い出したようにアーデルハイトに問いかけた。

 適当に口裏合わせをしようと、適当なことしか伝えなかったにも拘らず、ほとんど無条件に息子を信じていた父親に少し不満があるらしい。

 というより、簡単すぎて面白くなかったといいたいのだ。

「そう気軽に子供を疑うような親もいないと思いますけど。まあそれはおいておきまして、何方名義で正臣さんに招集を掛けます?」

「君名義で構わんだろう。娘の名など出して、目の前に本人がいては目も当てられん」

「ですよね。アーデルハイトの物真似、いきまーす!」
















 それから少しして、白川正臣は招聘に応じてやって来ていた。

 高級そうなスーツを着た紳士風の風貌は、その場の面子を眺めただけで深い失望に染まった。

「なるほど……要するに貴方たちはその程度の用件で私をここに呼び出した、と仰られるのか?」

 自らの不満を隠そうともしない正臣は自分を呼び出した三人を睨んだ。

 しかし、その鋭い視線に萎縮する者など、この場にはいない。

「そう難しい顔をするな。どうせ暇だったから来たのだろう?」

 麻雀の準備をしていた公爵は、正臣が暇であると決め付けているようだったし、彼がどれだけ多忙であってもまったく興味が無かっただろう。

 元々男の事情には興味すらないのだ、それも当然の反応といえた。

「貴方と一緒にされては困りますな、キャッスルゲート卿。先のスタニスワフの件で協力をお願いしたにも拘らず袖にされたお陰で、私がその後処理に苦慮しているというのに……まったく、いい迷惑だ」

 結局のところ、正臣としてはスタニスワフを殺すつもりはなく、ただむやみに被害を拡大しないように話し合いを望んでいたのだが、その交渉の席を持つ機会が無かったのだ。

 公爵が間に立てばそれも望めたのかもしれないが、彼に断られたためにそれも無理で、正臣自身も公明たちのように日夜足で探していた。

 土地に無許可で入ったうえ殺傷事件をいくつも起こすような相手を見逃すことは正臣の自尊心を著しく傷つけるものだったが、殺すことが出来ないスタニスワフ相手に仕方なくそうしていただけに、ここに来て不満が爆発したわけだ。

「スタニスワフとて同胞は同胞、吸血鬼の世界にも絶対遵守すべきルールというものはある。人と同胞の争いに関して、同胞に味方するのは当然だろう」

 公爵は現在ですら何人かの例外を除けばほぼ全員が守っているルールを告げる。

 自身にはその権利があると思っている三人、自らを含めた吸血鬼の全てを殺そうとしている二人、他を同胞と思っていない一人……三十四人の中でも例外的な六人を除けば、アンジェリカのように特定の相手だけに固執する場合もあるが、他の者はこの点でほぼ意見を同じとしていた。

「で、どうなの? 一緒にやってくれるのかな、君は?」

 答えがわかっていながらも、一縷の望みに掛けたクロエが問いかける。

 当然、即答で返された。

「やるわけがないでしょう。丁重にお断りさせていただく……ときに、キャッスルゲート卿?」

「ん?」

「ハイゼンベルク卿についてはどうなされるお心算か?」

「どういう心算、とは?」

「貴方は世界中の組織と協定を結んでいる数少ない真祖の一人なので私も受け入れを了承したが、彼女は別だ。白のハイゼンベルクといえば六協会がわざわざ懸賞金を懸けている一桁台の獲物……今のところ貴方の要請で私は何もしていないが、この状況が続くのは当方として好ましくない。至急、しかるべき措置をお願いしたい」

 至極真面目な話なのだが、公爵は正臣の話を聞くのも面倒そうだった。

「硬いことを云うな。一年や二年、時間のうちですらあるまい――親が年頃の娘に干渉していては嫌われる元ではないか。君は何の益があって私の家庭に不和を持ち込もうとする?」

「貴方の人生で語られても困る。干渉をようやく排除した上海の老人連中が彼女に対してどれほど神経を尖らせているか、察しがつかぬほど事情に疎いわけでもないでしょう」

「上海? あぁ、あんなものは適当に誤魔化せば済む話だ。兵隊を派遣する余裕もない烏合の衆を気にするなど、君も肝の小さい男だな」

「貴方に少しでも理解して頂こうなど考えた私がバカだったようだ」

 正臣の右手が動いた瞬間、何もなかったその手の中に短剣が握られていた。

 それが喉元に突きつけられているにも拘らず、公爵はその短剣に眼を奪われていた。

「ほう、霊体武装とは珍しいものを持っている。私も実物はわずかしか知らんが、彼女を除いてその製法は二千年も昔に滅びたと聞いているぞ」

 公爵に聞かれた正臣は一瞬首をかしげた。

「霊体武装?」

「なんだ、自身の武器の名も知らんか……しかし、それはまさかヴィグレ・ラロット? 神罰の杖、『キュルヒの七鍵』か?」

 公爵が語る名前が何なのか理解できているのはクロエくらいのもので、アーデルハイトも何となくすごいものということしかわからない。

 そして、その短剣はそれほどに古いものなのだ。

「? これは西方の仙に由来する家宝。流石に貴方は知っておられたようだが……この土地で無茶をなされるようであれば、私にも考えがあると肝に銘じられよ」

「ふん、なるほど。確かにそれを使えば、私を殺すことさえ出来なくはないな。尤もそれは当たれば、の話だがね。辺境の領主崩れ風情がアマルガストの原本に匹敵する秘宝を持ち出すとは、君を少々過小評価していたようだ」

「キャッスルゲート卿、その評価を改めていただく必要はない。私は所詮辺境の領主崩れなのだから」

「そう怒るな……まあ、次の機会には人形とレプリカではなく、君本人と対面したいものだが」

 それを聞いてか、正臣の手元の短剣が消えた。

 この場にいる正臣が本物ではないことを一瞥するだけで見抜いていた公爵に正臣自身驚かされたのだ。

「貴方と争うのは最悪の事態に陥ったときと心に決めている。私も無益な争いを望むわけではないし、貴方に勝てるとも思ってはいない……だが、領主である以上は他者の勝手を許す心算はない」

「ま、覚えておこう。アンジェリカにもこの土地では殺生はさせないと誓っておくとしようか」

「その言葉、努々忘れないように……そしてシュリンゲル卿、貴女も娘と夜遊びをした挙句の怪我でありながら、麻雀とはふざけるのも大概にしていただきたい」

「うぅ、違いますよ。それはこの変態に責任がありまして。大体、綾音さんはご自分で勝手に」

「言い訳は結構。それで、貴方たちは一体何の企みでここに集まっておられたのか?」

 最初の調子に戻った正臣に睨まれ、一同は『また面倒臭いことになった』と考え始めた。

 早く麻雀を始めたくとも、この男を参加させることは本当に可能なのかどうか、それがわからない。

「企みなんて物騒な。僕らはただちょっとしたイベントを待っているところなんだ」

「イベント? 他人の家に勝手に上がりこんだ上、放火でもなされるお心算か?」

「公明さんとは友達だから大丈夫です。それに、私たちが放火するなど発想が物騒ですよ」

「貴女方ならキャンプファイヤー代わりに、平気でやりそうだから危惧したまでですが……企みではない、と? 篠崎邸は古くから重要な――」

 とても不名誉な偏見をもたれている事実は軽くアーデルハイトを傷つけたが、それ以上に正臣が途中で言うのを辞めた言葉の方が気になった。

「重要な、何です?」

 しかし、聞き返しても彼にはそれ以上語る心算がないようだ。

「いや、ご存じないのなら別にいい。一体どんなイベントがここで発生すると仰るのか?」

「つーか、僕らに関係するイベントじゃないよ。お宅の娘さんが、今度学園祭で演じる演劇の台本が届くってだけの話」

「娘の学園祭、だと……貴方たちは時間を持て余しておられるようで、実に羨ましい限りですな! 本当にくだらない」

「まあまあ、落ち着きなって。あのマクリール家のお嬢さんが書くんだけど、絶対楽しいから一緒に待っていようよ」

 マクリールという単語を聞いた瞬間、正臣は急に矛を収めてしまう。

「マクリール……浅海のところの玲菜くんか」

「そうそう。てか、君たち知り合い?」

「彼女の父上は私の無二の親友だ」

 日頃の娘達を眺めていて誰も考えなかった展開に、クロエとアーデルハイトは噴出した。

「ぷっ! ……世の中おかしな関係もあるものですね。まるで逆ロミオとジュリエットじゃないですか」

「シュリンゲル卿、浅海は男だ。私にもそういった趣味はない」

「いえ、そういう意味ではないですよ。あのお二人が、何というか……犬猿の仲なのになぁ、と」

「それは完全に娘が悪い。融通が利かない女に育ってしまったことが原因で、私もそれは悔いている――まったくアレでは品のない武家の娘だ、慎みが無い。娘の身であるなら自身の主張など持たず、ただ従順であればよかったのに、どうしてああなったものか……物事は思うように運ばない」

 娘によほどの不満でもあるのか、正臣は愚痴るように彼女の欠点を並べ立てる。

 それらは実に的確な指摘ではあったが、あまりにも辛口なため正当な評価とはいえないものだった。

「鏡見ましょうよ、正臣さん。父娘でそっくりじゃないですか」

「鏡は毎朝見ているが娘との類似点などない、あの顔は妻の系統だ。それに、貴方たちこそ日々の行いを改めるよう具申する」

「ふむ、君もあまり男尊女卑など云っていては妻や娘に嫌われるのではないかな? 紳士的な態度で接すべきだと思うがね。まぁ……私は何故だか君の娘の幼女時代にはまったく興奮を覚えんが」

 何気ない公爵の言葉に正臣は耳を疑い、そして即座に聞き返すのだった。

「ん……今、何を想像しておられた?」

「口に出しても構わんのなら、とりあえずマクリールのお嬢さんと君のところの娘の昔の姿を想像しながら、二人が私に愛を告げて、すぐに舌を入れた熱い接吻をした後、そのまま私を舐めながら下に……」

「イリヤさん……今現在の姿ではまるで反応しないくせに、どうしてそうおかしな妄想ばかり……」

「脳内変換だ。錬金術の奥義を持って若返らせたとして、相手がそれに見合うほどの女でなければ労力の無駄だろう? その無駄を省くために百年を費やして得たこの技能、素晴らしいことに露ほどの誤差も無いのだぞ」

「ていうか、思ったとしても相手の親の前で云いますかね――あ、届いた。はいはい……ご覧ください、公爵さま」

 今にも不穏な空気が部屋を満たそうかというとき、クロエのパソコンに届いたメールがそれを押しとどめさせた。

「ふむ、どれどれ…………はぁ、すごいな。確かにクララにさえ比肩する」

 詳しい台本ではなく、概略を見ただけで頭が痛くなりそうな物語だった。

 公爵はそれを見ただけで、ため息を漏らす。

「では、私も……って! 玲菜さん、大丈夫ですか?」

「お二方、他者の作品を笑うなどその品性を恥じられ、これは……堅物の娘が演じるとは到底……」

 公爵以外の二人の反応も似たり寄ったり、とても高評価しているようには見えない。

「やばっ、僕がこれを直すの? どうやっても原本の部分が残りそうにないんだけど」

「無理だ。あきらめたまえ、クロエ。この中の一篇でも残せばシンデレラではなくなるぞ」

「はぁ、そうですよね。でもそうすると、玲菜の奴五月蝿いだろうなぁ」

 翌日、ほとんど全体を改変したと告げなくてはならないクロエは憂鬱そうに頭を抱えた。

「しかし、歪な妄想もここまでくればシュールな芸術だとさえ感じますね」

「シュリンゲル卿、それは本気で仰られているのか?」

「いえ…………一応、友達ですから」






























『シンデレラ――かぐや姫の陰謀・紅蓮に染まる帝都の夜――』












 昔々のことですが、ある強大な帝国が遍く人の世を征服しました。

 しかし、この帝国は他の帝国とは明らかに違う点が一つあり、征服戦争の英雄にして史上最強の騎士でもあった男は皇太子だったのです。

 若く才気に溢れ、魔術と剣術を極めた超絶美形の皇太子(注・イメージ公明/ただし、皇太子の説明は公明が全てナレーション)。

 黒翼の熾天使、極北の猟犬、魔道王、煉獄の支配者、疾風のルシフェル……その二つ名は彼が駆けた戦場の数だけあるとさえ云われる白皙の美青年は父である皇帝の喪が明けたその日、己の皇帝即位を高らかに宣言すると同時に、自らの后となる女性を世界に求めたのです。

 皇帝に即位した皇太子の后となるべきは強く美しくなければならない、そう考えた青年は云うのです。

『愛すべき帝国臣民よ、ここに朕の后となるべき世界最強の女を決すため第一回世界武闘会を開催するものとする。腕に覚えのある女は須らくその資格を持つものである。万国の女よ、汝集い、戦え! 戦い抜いたその先で、朕は汝に史上如何なる美女も手にしたことがないほどの富と名誉を与えると約束しよう』

 世界の全てを握る男の言葉は世界中の女武術家の心を揺さぶるものでした。

 また、世界最強の名誉が彼女たちの闘志を高めたのです。

 ただ、青年はもう一言付け加えておきました。

『ただし、如何に強くとも既婚者、二十歳を過ぎた者、十四に満たぬ者の参加は認めぬし、朕の眼鏡に適わぬ者は予選の段階で失格とする。しかし、それらの者についても朕は決して冷遇などせぬ。朕の近衛騎士団の屈強なる騎士たち、朕に仕える貴族たちの中から独身のものを随時紹介し、朕に選ばれなんだ女への慰めとする。以上だが、帝国の母となるべき女は身分に分け隔てなく選ぶので、朕も一人でも多くの参加を切に願うものである』

 帝国を駆け巡ったこのニュースから半年、第一回世界武闘会の本戦が帝都で開催されるのであった。

 会場に集まった世界の美少女武術家達はまさに一騎当千の兵達なのだった。

 北東アジア地区予選を傷一つ負うことなく勝ち上がった旧大和国の王族『かぐや姫(注・イメージ綾音)』。

 帝都の予選で優勝候補の筆頭『シラユキ姫(注・イメージアーデルハイト)』を撃破した謎の美少女覆面武術家『シンデレラ(注・イメージ私)』。

 強豪犇く北米地区予選を勝ち上がった『ポカホンタス』、あの世からの使者『ラプンツェル』等々。

 やがて訪れた決勝戦――かぐや姫とシンデレラの一騎打ち。

 戦いの前、旧大和国の復興を切望し、皇帝の暗殺を目論むかぐや姫の陰謀に気がついたシンデレラは皇帝の寝室に忍び込んでそのことを告げる。

 侵入の際の彼女のあまりに見事な動きに感動した皇帝はシンデレラにほれ込み、企みの露見を察して他の暗殺者も動員してきたかぐや姫と最後の戦いを始めるのであった。

 そして、その戦いで旧大和国の残党は打ち砕かれ、シンデレラと皇帝は遍く世界の支配者として、末永く幸せに暮らしたのです。

 注・旧演劇部員は適当に旧大和兵とナレーション、そのほか。
 注・人員不足の折は、ボランティア募集。
















「……」

 台本に目を通し終えた綾音は憂いを帯びた表情で、実に深いため息をついた。

 令嬢のそのような仕草は実に絵になっていたのだが、同時にそれは目の前に座っている金髪の少女への不快感を示していた。

 新演劇部の8人の部員達が揃ったわりと広い部室の中、綾音と同じ気持ちの部員は多い。

 クラスの出し物と平行しているため、ただでさえ忙しい日程だというのに今はすでに6時を回っていて、おまけに空は暗くなり始めていたのだから、彼らの不満に拍車をかけていたことだろう。

「ええと、自己紹介もしないうちから一般公開前日の台本に目を通していただいたわけですが……どうでした?」

 恐る恐る口を開いたクロエは6人の非難するような視線に晒される。

「会長……いえ部長、オリジナリティーを出すために多少演出や物語を変えるのは手法としてありだと思いますが、これをシンデレラと云ってしまうのは元部長として、その、抵抗が」

 眼鏡をかけた三つ編みの二年生が口火を切った。

「俺も元部長つーか、キムさんとおんなじ意見――会長、予定と話違うくないっすか?」

 手を頭に当てたまま、不満を隠そうともしない二年生の男子生徒は台本をテーブルの上に投げ捨てた。

「そうですよ。自分で、二日とも同じだとつまらないから二種類のシナリオで演じようなんて無茶云い出したのに、これじゃあ一般公開日に私たちの用意したシナリオを見に来てくれる生徒がいなくなるじゃないですか!」

「わたしも……やっぱり、これだけ解離しているのは問題あると思いますけど」

 元々演劇部員だった二人の一年生もやはり同じように不満顔だ。

「んー、みなさんの視線から察するにそのシナリオを書いたのが私だと思っていらっしゃいませんか?」

 クロエはあまりにも不当な非難に我慢できず、この事態を招いた犯人に視線を送った。

「えっ? このシナリオ、部長じゃなかったんですか?」

 眼鏡の女生徒をはじめ、元演劇部員は思わず声を上げて驚く。

 クロエの視線の先に綾音がいればどうしよう?

 そう思ったからこれほど驚いたのだが、その最悪の事態だけは逃れることが出来た。

「うそっ!? 浅海、さん?」

 綾音の視線はまさに玲菜を射殺さんばかりだったが、他の生徒たちはまだ信じられない感じで、考えあぐねている様子だった。

「そうよ。そのシナリオ、私が書いたの。まさか約束破る気? 私たち旧オカルト研究会のシナリオを一般公開日前日に演じるって云うのは、最初から約束で決まっていたはずよね。そうでしょ?」

 そう云われては旧演劇部は反論の仕様もない、確かにその約束で部費の増額等々の待遇を勝ち取ったのだから、約束を矛にすることは出来ない。

 だが、そんな約束など気にもかけない人もいた。

「浅海――私は木村崎さんたちがした約束とは無縁のはず、貴女の滑稽な漫才に付き合う義理はありません。忙しい中でこんな無駄な時間を使わされては不愉快だわ。会長、もう失礼させて頂きます」

 立ち上がろうとした綾音を制したのはクロエでなく、玲菜だった。

「ちょっと待ちなさい! 滑稽な漫才のどこが間違ってるのよ? うけるじゃない」

「浅海、一昨日のことは綺麗に忘れると云っておきながら、この配役は私に対するあてつけか何かですか!」

「なに? 不満なの? 悪のボスよ、格好いい役よ。大体、あてつけって? 貴族に二言は無いわ、あとから愚痴云うわけ無いじゃない。気にしてないから素晴らしい役を選んであげたんでしょうが。贅沢ね」

「えっ……これは、あてつけではなく、真剣にいい役を選んだ結果なの?」

「そうよ。大体、みんなして私の努力の結晶をあざ笑う心算なの?」

 あまりにもその場の人間に受け入れられなかった玲菜はショックを受けるどころか、彼らの美的センスの無さに愕然としていた。

 彼女にしてみれば綾音を含めてその場の人間は全て芸術に対してあまりにも無知なのだ。

 それは彼女にしてみれば実に当然のことで、貴族である彼女とそうでない庶民の差というものなのだと勝手に決め付けてさえいた。

「舞踏会ではなく、武術大会に改変して……貴女はまるでストーリーがわかっていないのでしょう? ガラスの靴も、魔法使いも、かぼちゃの馬車も登場しないシンデレラがどうしてシンデレラを名乗れるというの?」

 綾音の尤もな指摘に演劇部員達も同意し、さりげなく熱い視線を送っていた沙月はその凛々しい姿に感動さえしていた。

 だが、沙月が綾音の手を掴もうとすると、目の前の玲菜を睨んでいるにも拘らずその手はさっとかわされた。

「バカね、バカ、バカ……いいわ、貴方たちが芸術を理解できるまでゆっくり教育してあげる。まず、今回のシナリオにガラスの靴が登場しないとか、そんなくだらないことで文句をつける気なのね?」

 立ち上がっていた玲菜は、頭を振りながら各自の後ろをゆっくりを歩いた。

 そして、同じように立ち上がっていた綾音の後ろにまで達する。

 二人の視線が交錯したとき、まさに火花が散る錯覚さえ覚える。

「ええ。当然です、物語で最も重要な小道具も出さないのでは話にもならないわ……貴女、私を馬鹿にしていらっしゃるの?」

「バカにバカと云って悪い法律はないけど、その無知蒙昧ぶりには同情が必要ね。いい? ガラスの靴なんて履いて、歩けると思う? ましてダンスしたり、走ったりすればすぐに足は血だらけよ」

 一本取ったとばかり自信満々に云う玲菜に、一同の口がふさがらない。

「……」

「あらあら、こんな初歩的なこともわからなかったの? そして、ネズミとかぼちゃが馬車になるとか云うのは『無理』よ。魔術でそんなことは出来るわけもないし、出来る奴なんてどこ探したっていないわ」

 まるで独裁者の演説のように、身振り手振りを交えて自身の正当性を主張する玲菜にみんなの視線が集まっていく。

 彼女が動くたび、新しい部室の中に独特の香水の香りが広がっていった。

 花か何かの植物系だが、玲菜の動きに気をとられていたためそれ自体を珍しい香りだと思った人間はいなかった。

「……あの、玲菜さん。貴女は作者に恨みでも?」

「そして、魔法使いなんて都合がいいものが助けてくれるなんて弱者の考えよ。甘ったれた依存心はドブに捨てなさい。この世で幸せになろうと思えば勝ち取らなきゃ、それこそが人生のあるべき姿よ!」

「……童話に弱肉強食の理論を押し付けないでくださいよ!」

「そして、これは貴族として云わせてもらうけど、そんな昔の王子が政略結婚しないなんてありえないわ。そもそも伝統ある貴族社会に恋愛なんてものはないの、己の家のために合理的判断で結婚するの。何百年も前の王族が町人風情と結婚? 笑っちゃう。そんな奴すぐ干されるし、欧州社会でそんなことしたら権威なんて即おじゃんよ。貴族を馬鹿にしないで欲しいわ」

「あのですね、玲菜さん……立場上ある程度までは賛同できますけど、先程から申し上げていますようにファンタジーにリアルを持ち込まないでください! その辺は認めていただかないと、話の前提が成り立ちませんから」

「バカね。云わなくてもわからない? 地上を全て征服するほどの王子なら政略結婚も必要ないし、年ばっかり取った大臣に口出しされることもないでしょう? だから、王子は最強にしてあげたの。それなら好きなだけ恋愛できるじゃない。大体、魔法がある世界で王子が魔法使っちゃ駄目って云うのがおかしいのよ。王子が魔法使いじゃないって記述、どこにも無かったわよ。ま、以上のように精緻な計算の結果がアレなのよ、すごいでしょう?」

「精緻な計算って、ただ単にすごく性格の捻じ曲がった解釈なだけじゃ……もう云う言葉もありません」

「あと、あれだ。そんな強い王子が選ぶなら踊りのうまい奴や綺麗なだけの奴じゃなくて、強くて綺麗な相手じゃない。だから、武術で競うのよ。汝集い、戦え! 敗者の屍踏み越えたその先に、勝者の栄光が待っているっ!」

 手を振り回して、まさに自分が戦いに出陣するかのように熱っぽく語る玲菜に一部の聴衆は完全に引き込まれていた。

「……んー、私も浅海さんの話を聞いていたら――確かにあのシナリオにもある程度の合理性があるような気がしてきたかな」

「ちょっと、木村崎さん!」

「うっ、すみません。でも、あの……白川さんも、そんなに目くじら立てなくても……ただのコメディ化したパロディだと思えば、我慢できなくもないですし。死とかそういった表現をなくして、純粋な決闘ということにして、登場人物の心理をうまく描ければそれなりの舞台にはなると思うけど」

 台本を眺めたときからは想像も出来ない反応に綾音は信じられないといった表情を浮かべ、周囲を見回し始めた。

「そ、そうっすよ。白川さん、キムさんの云うみたく俺も何だか……やっぱ本物が云うんだし、昔は庶民と結婚って難しかったような気もするし。新釈って事で」

「貴女方、私の味方ではないのですね……(要するに敵ということ。いいえ、それにしてもこの反応は不自然過ぎる。なにか……っ、不覚! この匂いはただの香水じゃない、彼女達マインドコントロールを)」

 そのときはすでに遅かった、部屋に蔓延していた独特の香水の匂いは彼らの常識のラインを一時的に引き下げてしまっていたのだ。

「じゃあ、多数決でもしましょうかぁ? 結果は見えてるけどね……(ふふ、私は勝つためなら手段は選ばないのよ。そのへんが伝統と格式ある欧州貴族さまの流儀ってやつ。お分かりかしら、白川さん? 貴女みたいな東洋の酋長崩れとはそもそもの格が違うのよ。この前のことは私も日頃の行いが悪かったとあきらめるけど、今日は余裕で勝たせてもらうわね)」

 言外に嫌味を含んだ玲菜の笑みに綾音は場を忘れて怒鳴りだしそうだ。

「このっ、玲菜! 後で覚えていなさい。この私を愚弄して、ただで済むと思わないことですね」

「綾音、そんな台詞は負け犬の遠吠えに過ぎないわ。けど、貴女にはそういうのもお似合いかも……(正しい目的の手段は正当化される、ラスコーリニコフも確かそんなことを云ってるじゃない。卑怯とか、そういう事云ってるから貴女は甘いのよ。戦いでは『戦う前』から全力を尽くす、それこそが真剣勝負というものよ)」

 二人を眺めていたクロエはやや投げやり気味にため息をつく。

「……(つーか、玲菜もそこまでこの超設定の演劇に愛着があるのか。僕にはその愛の源泉がわからないな。それに綾音も、どれだけ恥ずかしくても生かす殺すを論じるほどこれを演じるのが嫌?)」 

 そして、玲菜の策略によって多数決は5対3……玲菜のシナリオで演劇を演じることとなるのであった。
















[1511] 第四十五話 『勘違い』
Name: 暇人
Date: 2007/04/15 01:27






 入院してはや四日、良介が友人数人と見舞いに来てくれた以外に客は無い。

 しかしアイツ、妙にびくびくしていたな。

 何かあったのだろうか?

 そわそわしたままで、ほとんど会話らしい会話も出来なかったから余計気になる。

 それにしてもまったく、病院生活っていうのは慣れないし慣れたくも無いものだ。

 時間が余っているせいか、気分が落ち着かない。

 融通が利く食事は確かによかったが、テレビはつまらないし、娯楽も無い。

 ただ寝ているのも退屈だ。

 自由に歩けるからまだましだけど、これがベッドの上に寝たきりだったらさぞ悲惨だっただろう。

 実際にそんな人たちがいることを思うと、やっぱり運がよかったみたいだ。

 読んでいた小説がようやく読み終わったと同時、病室のドアが開いた。

 ドアから入ってきたのは小さな外国人の女の子――要するにアデット。

 カジュアルなキッズファッションに身を包んだ彼女――手荷物は差し入れだろうか?

 珍しくポニーテールの彼女は目が合うなり、ニコリと微笑んだ。

 わかる……あれは絶対によくない笑いだ。

 相手を即座に地獄に落としかねない何かを知っている笑いだ。

「どうも、お加減はもう宜しいのでしょうか?」

「あ、ああ……そっちも怪我したって聞いたけど、大丈夫そうだな」

「ええ。この体は治癒力という点ではなかなかに優れものですから、お先に完治しましたよ」

「そうなのか。じゃあ、そこの椅子でも」

「では、失礼しますね」

 指で示した椅子をベッドの横に移動させると、彼女はそれにちょこんと腰掛けた。

 黙っていてくれれば西洋人形のように綺麗な少女なのだから、このまま眺めていてもいいかも……

 ――などと思ったら、あの変態の仲間にされるんだろうなぁ。

「それで、今日は見舞いに来てくれたってことでいいんだよな?」

「そうですね。それと、学園祭で演じる演劇の台本をお持ちしました」

「おいおい、何云ってんだ? 学園祭でやるのは手品だろ」

「私も昔はそのようなことを考えたものでした――が、今回は演劇です」

 彼女はそう云いながら、『シンデレラ』と書かれた台本を取り出して、それをこちらに渡してきた。

 最悪なことにすでに確定事項らしい。

 彼女の笑顔が、断っても無駄だと教えてくれる。

「ったく、こんな時間無い時にそういう無茶を云うんだよな、お前は」

 台本を受け取って、その中身に目を通した。

 少しアレンジが加えられているらしい。

 しかし、サブタイトルがこれ以上無いほどに危険だ。

 『紅蓮に染まる帝都』って、正気で書いているのだろうか?

「まあまあ、入院中に台詞を覚えれば時間は十分じゃないですか」

「それはそうだけどさ……お前が書いたのか、コレ?」

 それ以外に誰がこんな代物を作り出すんだか。

 こんなものを書く奴だ、きっと病気に違いない。

 そして、その条件に当てはまる知り合いはコイツくらいのもの。

 だが、意外にも彼女の反応は違った。

「そう思われたのなら、私を侮辱していると受け取りますよ」

 本当にそう思われることが心外であるように否定して見せたのだ。

「じゃあ……思いたくは無いが、綾音か?」

 本人の前では口が裂けても云えないが、昔からどこか普通じゃない人だった。

 その気になれば何でも出来るくせに、人と交わらない……変だ。

 今その理由を少しくらいなら理解できたが……やっぱり変だ。

 やはり容疑者の一人と見て間違いないだろう。

 だが、今度の予想も違ったらしい。

「ご本人にお伝えしておきましょうか?」

 そちらの方が面白いのですけどね、などと軽く否定してくれるアデット。

 ますますわからない、こんなものを嫌がらせ以外で書くとは思えないんだが。

「全力で拒否する! ……わかった、クロエだな。アイツなんかに任せるなよ」

 あの人形女ほど暇をもてあましている奴もいないわけだから、きっとアイツだ。

 世界でも指折りの大富豪を演じている暇人だし、こんな娯楽を心から楽しむ奴だ。

 大体、金持ちが変人でないわけがない。

 だが、決定的と思われた容疑者までもあっさりと否定されてしまう。

「いいえ。クロエさんはむしろ被害を抑えることに尽力していましたよ」

「じゃあ、誰?」

 まったくわからない、そもそも容疑者になりうる奴はいないと思う。

「玲菜さんです」

 こちらの予想に反して、アデットはありえない容疑者を告げた。

 センスがいいとか、そういう理由でコイツを排除していたわけじゃない。

 コイツほどの面倒臭がりが協力するとは思えなかっただけだ。

 まだ信じられない表情のまま、ため息混じりに彼女の名を繰り返した。

「……浅海かぁ」

「ええ」

「どうして? あんな面倒臭がりが、どうして積極的に協力する?」

「それに触れてはいけません。むしろ私自身がそれを知りたいくらいです」

 二人が後ろで手を組んでいるわけでもないだろうし、困ったことになった。

 そう思いながら台本を細かく見ていると、驚愕する事実を発見する。

「おい、『皇太子=公明』って何だ? この台詞を云えってのか?」

 笑わずに云うことが困難な台詞だらけ、しかもこの皇太子は贔屓目に見てもアホだぞ。

「はい。その件については衣装製作が開始されていますから、断れませんよ」

「……台詞にアドリブが多すぎるのは気のせいか?」

 半分以上が『アドリブで何とかする』と書かれている。

 こんな適当な台本を本気でやらせるつもりなのか?

「時間の関係らしいですよ」

「――退院を延ばしてもらってもいいか?」

「ここから突き落とせば宜しいのですね? それとも、適当に手足を叩き折りましょうか?」

 退院を延ばすどころか、即命にかかわりそうな提案をする幼女。

 最悪だ、アデットはこの破滅的シナリオが好きらしい。

「……お前、浅海の味方になったのか?」

「こんな羞恥プレイを拝めるのなら少しくらい、ねぇ? 羞恥に歪む貴方の顔、きっと極上でしょうね」

「……」

「愛すべきプロイセン式処刑術でも宜しいですよ? 痛いとは思いますけど、貴方が望むのなら」

 世には痛みを感じない術もあるらしいが、俺には無理なわけで……提案を受け入れる余地は無い。

 アデットの脅迫に屈し、力なく首を振った。

「今日は台詞の読み合わせを手伝って差し上げましょう。さぁ、最初からお願いしますね」

 絶望的な状況に追い込んだ後は、じわじわと痛めつけるつもりらしい。

 最低だ、この幼女錬金術師は。

「いやだ……こんなの読んだら、死ぬ。羞恥で死ぬ」

「本番でもっと恥ずかしい目に遭いたいですか? 衣装が溶け出すとか……そういうのは嫌でしょう?」

「鬼だ……ここに鬼がいる」

 こちらの非難など物ともしない彼女。

 こちらに台本を開いて渡し、自分も同じページを開いた。

「御託はいいですから、ハリー! ハリー! ハリー!」

「お前、絶対碌な死に方しないからな」

「そうかもしれませんが、貴方より長生きしますよ」

 それから、最低の二乗くらいの時間が始まった。

 痛い台詞のオンパレードで心が削られていくのがわかった。

 名台詞は『しかるべき人物』が、『しかるべき場面』で云うためだけにあるということがわかった。

 そうでない人間が云えば、滑稽過ぎる。

「うぅっ……『麗しき姫よ、貴女は卑怯な暗殺者の企みを告げるためだけに、我が命を救うためだけに、危険を冒してまでここへ来られたというのか!? 嗚呼、なんと気高き行いだろう! この胸は今にも張り裂けんばかりに、その……』」

「声に出されると流石に引きますね、この変人さんは。では、私も……『ああ、何と美しく高貴なお方だろうか。その尊顔を拝するだけでこの身は恋の焔に焼かれ、他者を蹴落とすことに抱いていた躊躇いさえ、消えうせてしまう。周りの有象無象はさっさと蹴落として……』」

「心が傷ついていく……『一夜で百万の兵を斬って捨てた我が二つ名を何と心得る? 黒翼の熾天使……魔術ギルドにおいて、その名を知らぬもの無しと畏れられた『暁の星』であるぞ!』」

 苦痛さえ伴う台詞の読み合わせは、大事なものを切り売りしながら続けられた。

「二つ名を自ら名乗られる貴方に恋してしまいそうですよ。録音しましたから、一緒に聞きましょうね?」

「止めろ、もう止めてくれ。もういいよ、今日はマジで止めよう」

 半分を過ぎたところでギブアップ。

 この台本はおかしい。

 本編で存在感が薄かった王子が、あらゆる場面において、無駄にでしゃばるのだ。

「黒翼の熾天使さまぁ、続きをお願いしますよ」

「『ああ、シンデレラ。其方の瞳はまるで空を飾る星々のように輝き、花のように美しい。流れる髪を梳く、そのか細い指はまるでガラス細工のようで、我が心を昂ぶらせ……』」

「暁の星さま、質問ですが、『星のように輝きつつ、花のように美しい』瞳の色とは?」

「……『シンデレラよ、構わん。この『金糸翼のルシフェル』のことは好きに呼ぶがいい』」

「ルシフェルさまは少しシャイなのですね。あえてどうでもいい、と仰られる辺りは流石です」

「『覚悟するがよい、かぐや姫。貴様など我が『黄金剣・キミアキブレード』の錆と変えてくれる! 見るがいい、流派篠崎・絶対究極破壊最終奥義――真☆疾風斬魔刃紅蓮剣ー!!』」

「キミアキブレード、ぷっふふ。陛下、頭の方は大丈夫ですかぁ?」

 アデットもこれには我慢出来なくなったらしい、子供っぽく笑い転げている。

 だが、俺はこれを真顔で云わなくてはならない……無理だ。

「穢れた。完全に汚染し尽くされた。精神的陵辱だ、コレは」

「キミアキブレード、どんな剣なのでしょうね? 嗚呼、想像できません」

「しなくていい、そんな期待するな!」

「あら、つれないお言葉ですね。ここで半裸になって、ナースコールでも押して差し上げましょうか?」

 いじめただけでは飽き足らず、更なる最悪を呼び込もうとする幼女。

 服に手を入れ、いつでも脱げる姿勢をとって脅迫してくる。

「逮捕させようってか。やれるものなら……やっぱごめんなさい、もう今日は許してくれ」

「ふふっ、大丈夫ですよ。一度で殺すような真似はしません、ゆっくりと一つ一つ階段を上りましょうね」

「何の階段だ、それは?」

「天国――そのようなものですよ」

「そのようなものじゃなくて、そのものじゃねえか! ったく……」

 ベッドから足を下ろすと、そのままスリッパを履いて立ち上がる。

「あ、どちらに?」

 からかい過ぎて怒ったと思ったのか、笑うのを漸く止めた彼女が訊いてきた。

「便所。ついてくるなよ、絶対に何があってもついてくるなよ」

「同性なら兎も角、異性間でそういうのはしませんよ」

「同性でもどうかと思うけどな」

「別に私が普段そうするわけでは……それで、見られながらするのが公明さんの趣味ですか?」

「ついてくんなって云ってるのに、どうしてそれが俺の趣味になる?」

「いえ、ルシフェルさまは天邪鬼な方ですから、『来るな=来い』かと」

「違うわ! じゃ、もう帰れよ。あの台詞は人前で読めないから。お前がいると練習にならん」

「やれやれ。本当に悲しいですわぁ。お兄様に嫌われて、私はどうすればいいのやら」

「本当に帰ってくれ……って、ついて来るなよ」

 このガキは本当にトイレまでついてくる気なのか、そう疑いたくなる。

 何しろ病室を出てからもしつこくストーキングしてくるのだ。

「何を仰います、エレベーターはこちらが近いじゃないですか。自意識過剰ですよ、ルシフェルさま」

「はいはい――ん?」

 廊下ですれ違った女二人――片方に何か違和感が……。

「どうしました?」

 幸い、すれ違った二人には気づかれなかったようだ。

 しかし、隣のアデットには当然聞こえていた。

「いや……さっきすれ違った人、何か違和感が」

 俺たちは立ち止まって、置かれていた椅子に腰掛けた。

「それは――プラチナブロンドの縦ロール、あのアンティークな髪型の人ですか?」

 彼女が指摘したのは、特に強い違和感を覚えていた相手だった。

 それは絵に描いた令嬢そのままの豪奢な金髪、紺碧の瞳の女性。

 彼女は一見ドレスのような洒落た洋服を着ていた。

 贔屓目に見ても一般人ではないだろう――色々な意味で。

「そう。隣の人は別に何とも思わなかったけど、あの外人さんには……嫌なものを感じた」

「いい勘をしていらっしゃいますね。私も悪いものを感じました、隣の魔術師さんともどもね」

「えっ?」

 これには驚いた。

 アデットが魔術師と指摘したのは、別の方だったのだ。

 俺と変わらないか、あるいは少し年下に見える少女なのだから驚きは一際だった。

「微弱ですが、一般の方よりも魔力の波動が強かったです。意識して隠していないからでしょう」

 一般人でも強い魔力を秘めた人はいる。

 この場合、そうでない者と魔術師を見分けるには経験が必要だが、彼女にそれを問うのは愚かだ。

「……向こうはこっちに気付いてないのか?」

 少なくとも声を上げたことは気づかれていないはずだ。

「まさか。私は兎も角、公明さんは駄々漏れですから」

「いや、俺なんて微弱なもんだろ」

「それはそうですが、周りが一般人ばかりだとその微弱さでもわかってしまうものなのですよ」

 『木を隠すには森』とはよく云ったものだが、この半熟は一般人の中に隠れることも無理らしい。

 しかし、そうだとすれば疑問が浮かぶ。

「じゃあ、どうして向こうは何も?」

「用事が無いからでしょう。ここは綾音さんのご実家の病院ですよ、トラブルなど誰が望みます?」

 どうやら彼女たちは同胞に会ったからといって、必ずしも親しい挨拶を交わすわけではないらしい。

「ま、そりゃそうか。怨まれる理由はないからな……いや、お前は色々恨みを買ってそうだけど」

「今日は特に勘が宜しいですね。私も記憶を遡って捜していたところです」

「どういう心当たりがあるんだ?」

「人生長いですし、人間どこで恨みを買うかわかりませんからねぇ」

「それはそうだけど、お前の場合は日頃の行いが原因だろ。それで、結果は?」

「会ったことがない人でしょう、恐らく。まあ娘や孫といわれれば、自信もありませんが」

「俺にはよくわからないけど、魔術師的にはそんな縁でも気をつけなきゃ駄目か?」

「稀有な例ですが、三百年も昔の因縁で皆殺しにされた一家を知っています」

「本人関係ないだろ、それ」

「いいえ。三百年生きていた化け物じみた魔術師が、相手を一人残らず殺しにしたのです」

 病院の中でドンパチ始める連中の映像が思い浮かび、背筋を冷たいものが伝った。

 映像の中で、俺は流れ弾に当たって死ぬんだよなぁコレが。

「巻き添えだけは勘弁してくれよ。なあ、本当にあいつ等を知らないんだな?」

「ええ。ただ、最近は一般人でも物騒ですからねえ」

「まあ通りすがりに切りかかる奴もいるくらいだし、物騒って云えばそうだけど」

「でしょう? そのうえ、何だかわかりませんが……町が消えた記事をご存知ですか?」

 アデットが云うのは東欧の小さな町から生物が消えたという記事だ。

 一夜にして五千人程度の住人が消え去り、町からはネズミ一匹見つからなかった怪異。

 原因は一切不明で、生き残りもいない。

 というか、内戦の真っ只中の国だから反体制派に埋められた可能性もある。 

 それに、事件を通報したトラック運転手は最初から支離滅裂なことばかり云っていた。

 『真っ赤な空が落ちてくる』

 『月も星も消えた』

 終始こんな調子だったものだから、今では病院に入っているとか。

 それがあるからだろう、騒いでいても戦争が終わるまで真相もわからない。

 そもそも事件自体が政府のでっち上げという話もあるし、怪異といえるのかどうか。

「『グダニスク事件』って云ってたな」

 運転手の言葉から『深紅事件』などとも呼ばれているが、町の名前をつける方が正確らしい。

「まあ犯人はわからないでしょうけど」

「――え? お前、犯人知ってるの?」

「まさか。真祖でもここまでの事をするのは一人だけ。彼でない以上、見当もつきません」

「はーん、じゃあマジで怪異なわけだ」

「ええ、マジで怪異なわけです」

「案外、宇宙人とかじゃないのか?」

「誘拐ですか? あはは、それならまだ夢がありますけど」

「ま、それはいいや。兎に角あのドリルとは絶対に縁なんて持ちたくない」

「それは私も同感です。あの人はマズイ……まあ、魔術を知る人かどうかはわかりませんが」

「隣の奴とは、魔術関係無しの知り合いってことか?」

「確証はありませんが、片方だけが無警戒なのではバランスが悪いと思いまして」

 新米と玄人を組ませることで、新米の下手な追跡が玄人の姿を隠す、と聞いたことがある。

 誰かを追跡中とか、ありえない事情があるのならわからなくもないが……流石に考え過ぎか。

「だけど、片方が弟子ってことも……ほら、俺たちがそうだろ?」

「私たちの場合は例外でしょう。公明さん素人と変わりませんし」

「まぁ、そうだけど」
















「……クツキ先輩? どうされたんですか?」

 黒髪の少女の後ろで急に立ち止まった女性。

 どうしたものかと振り向いた少女に向け、彼女は神妙な面持ちで話す。

「アヤハ、ここで待っていなさい」

 そこには反論を許さない気迫がある。

 鬼気迫る何かを感じ取った少女は、女性を止めることが出来なかった。

「えっ!? ちょっと、先輩!」
















「――あのぉ、いきなり何事です?」

 ドリルにぎゅっと抱きつかれたアデットは苦しそうに云った。

 俺たちの前にやって来たコイツが、有無を云わさぬうちに抱きついたのだ。

「嗚呼、すごく綺麗な髪。肌もツルツル。ねえ、名前を教えてくださいませんか?」

 頬をすり合わせ、アデットの体中を容赦なく弄り、揉みまくるドリル。

 周りが見えていないのか、俺を気にする素振りも見せない。

「……おい。いきなり抱きついて何云ってんだ、お前?」

「お姉ちゃんは朽木綾葉というのですよ。さあ、そちらも教えてください」

 あからさまな偽名使うドリル女、自称クツキ・アヤハ。

 アジア系ですらないくせに、日本人の名前を堂々と名乗るとは侮り難い。

 偽名が一発でばれていることに気がついていないのか、あるいは神経が図太いのだろうか?

 クツキがこちらの疑いの目を気にしている様子は無い。

 彼女は手を跳ね除けようとするアデットを気にするでもなく、身体を弄り続けている。

 アデットもこんな場所でなければうまく対応出来たのだろうが、ここは人目が多過ぎた。

「むぅ……手を放していただけませんか、クツキさん」

「大人っぽいのですね、お嬢ちゃんは」

「んぅ、私はアーデルハイトといいます。クツキさんはどうして、突然こんなことを?」

 何とかクツキの手を引き剥がしたアデットは俺の後ろに逃げた。

 そうなった以上、クツキと目が合ったわけだが――ヤバイ、この女逝ってる。

「アーデルハイト……あぁ、ハイジちゃんですね」

「その愛称は昔から嫌いです。呼ぶなら別な呼び方にしてください」

「そうなのですか、可愛らしい名前ですのに。では、アーデルちゃんとお呼びしますね」

「いや、だからお前はいったい何なんだよ。アデットの知り合いなのか?」

「アーデルちゃんのパパとママはどこにいらっしゃるの?」

 こっちのことは完全に無視ですか。

「パパとママは天国で……今はこのお兄ちゃんにこき使われながら、夜の相手をさせられています」

「おい! 出鱈目抜かすなよ!」

 ふざけるにしても相手が相手だ、この変人に俺が刺されでもしたらどうする心算なのか。

「それは……本当なの、アーデルちゃん?」

 案の定、クツキは信じきった表情で俺を睨み付けた。

「ええ、助けてください、クツキさん」

「おい、冗談だぞ! 冗談だからな!」

「冗談? どう見ても親族の方ではありませんね。それに友達でもないでしょう?」

 クツキの視線は汚物を見るような厳しいもので、とても信じているようには見えない。

 このままでは……まず過ぎる。

 アデットの冗談のせいでぶち込まれるのか、俺は?
 
 いや、事情聴取までなら許す――クツキが刺す前に助けてくれ、おまわりさん!

「いや、それはそうだけど。でも、実際に俺たちは知り合いで、友達なんだ」

 しかし、軽蔑しつつもクツキは意外な反応を示した。

「そうですか。わかりました――アーデルちゃんを飼……貰っても構いませんか?」

 まるで会話が成り立っていない。

 しかも、『飼う』って云うつもりだったぞこの女。

「……はい?」

「保護者がいないのは問題でしょう? 私の家はこの国有数の富豪、子供一人くらい問題ありません」

 何危ないことを云ってるんだろ、このドリルは。

「大丈夫か?」

「何が、でしょうか?」

 お前の頭だよ。

「いや……貰うも何も、ソイツは孤児って訳じゃないんだから」

 大体、孤児だとしても手続きとか色々あるだろうに。

 金持ちは面倒な手続きも一切無視できるとでも云うのだろうか?

「えっ……そうなの、ですか……」

 クツキは信じられないくらいに落胆し、世界が破滅することを知った人のようだ。

「どうして、そう残念そうな顔を?」

「せっかく綺麗な女の子を見つけたのに……ねぇ、これから一緒にお食事に行きませんか?」

 俺を無視したままアデットを誘うドリル……コイツ、頭おかしいぞ。

「それはとても遠慮したいというか、私もこれから予定がありますから」

「まぁ、塾なのですか? それならその名前を教えてくださらない?」

「……違いますけど」

「それなら、お食事しましょう? おいしい店を知っていますから、是非」

「クツキさんもそう云ってるみたいだし、行ってこいよアデット」

 よく考えたら、アデットは見た目通りのガキじゃないんだった。

 俺がいちいち助けなくてもこれくらいの災難から逃れるのはお安い御用だ。

 それにコイツを助けると、俺の練習が長引く結果になりかねない。

 それなら、これからやることは――アデットをクツキに売る。

「嫌です。クツキさんを厭うわけではありませんが、本当に予定が……」

「あら、残念ですね。では代わりに電話番号を教えてくださいません?」

「携帯電話を持っていませんので」

「そうですか、それならご自宅の電話番号か住所を」

「宿無しです」

「では、やはり私のうちに来てくださいませんか?」

「遠慮します」

「でも」

 すごいしつこさだぞ、この女。

「じゃ、じゃあ俺はもう病室に戻るから」

「ちょっと、公明さん!」

「アーデルちゃん、いい匂いですね。どこの香水を使っていらっしゃるの?」

「クツキさん! いい加減に放してください」

「駄目です。住所か電話番号を聞くまでは逃しません」

 そのまま、変な女に捕まったアデットを残して俺はその場を立ち去るのだった。

 どうせだ、本番までアデットを捕まえておいてくれ。
















 運がよかったというべきか?

 そのまま病室に帰ると、ベッドに潜り込み、もう一度台本を広げてみた。

 悲しいことに見間違いではないらしい。

 思わず苦笑してしまうほど酷い内容だ。

「あーあ、本当にどうするかな……」

 逃げ出せる方法があるのなら教えてほしいくらいだ。

 ずる休みでも出来ればいいのだが、あの連中が乗り気だというのだから……出た方がましだろう。

 経験上、綾音はこの内容でも決定事項である以上はちゃんと出演する。

 本人の提案である以上、浅海も何の問題も無く出演するだろう。

 話を聞いた限り、クロエは乗り気でなさそうだが、あれはアデットの恥だ――気にしない。

 当のアデットにしても今はガキだ――やはり気にしないだろう。

「ふっ……やっぱ恥かくのは俺だけかよ。割りにあわねぇ!」

 当日を想像するだけで鬱になりそうだ。

 台本を投げ出すと、ベッドの上で大の字になる。

「あらあら、ずいぶんと嫌そうね?」

「当然だろ。誰があんな訳わかんねー代物をやるかっての!」

「そう……あれはそんなに酷い台本だった?」

「酷い酷い。書いた奴のセンス疑いたくなるほど酷い」

「……私が書いたのよ」

「……よお、浅海……部屋に入るときは気配くらい隠さないでくれ。心臓に悪い」

 いつの間にか、ドアを開ける気配すら感じさせないうちに部屋の中にいた彼女に最高の笑みを送る。

 冷や汗が流れるのがわかる。

 もしかすると、顔は真っ赤かもしれない。

「私が書いた作品だって云ったのよ?」

 制服姿の浅海はベッドの上に座ると、顔を近づけて殺意むき出しの笑顔を返してくれた。

 ヤバイ……とても彼女の目を見ることが出来ない。

 汗を拭う振りをして彼女から視線をそらした。

「……ゴメンナサイ。スゴイ芸術で、一瞬理解できなかった。ほら、俺庶民だし」

「あー、そうなの? それで、今はアレの芸術性が理解できる?」

 出来るわけが無い。

 大体、アレの何がいいのかまるでわからないのだ。

 しかし、本音を云える訳が無い。

「もちろん。アレはすごい、マジですごい。俺もアデットから台本渡されて、張り切ってたところだ」

「へぇ、当日は頑張ってくれるの?」

 浅海の、俺への疑念しかない視線が痛い。

 当たり前だが、絶対に信用していないぞコイツ。

「ああ、当日が楽しみで仕方ないよ」

「本当にそう?」

「お、俺の目を見てくれ」

 何とか錆付いた首を動かし、彼女の目を見た。

「……当日がすごく楽しみだ」

 頬の筋肉が痙攣する寸前の笑顔に騙されてくれるだろうか?

 浅海はしばらく俺を覗き込むように見た後、急に皮肉な笑みを浮かべた。

「ふっ……あははは、冗談だろう。君はこんな台本が面白いの?」

「へ……あの、浅海?」

 先程までの態度とはまるで違う、まったく怒っていない対応だ。

 何が起こったのか、すぐにはわからなかった。

「私が誰だかわからない? それは残念ね……」

 顔に手を当てた彼女はそう云うと、さっとその手を離した。

「? えーっと、アデット……う?」

 浅海がアデットになった?

 いや、違う――クロエ?

「漸く気がついた」

「ま、まあ。そこまでやられれば、とりあえずは」

「うんうん、そういう事。授業は午前だけでね、時間があったから打ち合わせをしようと、ね?」

 肩の力が抜けた。

 寿命が十年は縮まる冗談をやらかす人形に憤りは無かった。

 急に訪れた安心の方がより強く、怒りを忘れてしまっていたからだ。

「それより君はこの台本がお気に入りなのかい?」

「いや、お前もわかっててからかうなよ」

「おやおや、玲菜に云っちゃうぞ?」

「絶対に止めてくれ」

「冗談だよ、洒落のわからない男の子だな。ストレスで禿げるよ」

「煩せえ。そういうお前こそ、何の打ち合わせだ? アデットから一通りのことは聞いてるぞ」

「それなんだけど――玲菜が来ないことには始まらないって云うか……彼女はまだ?」

「浅海? いや、まだだけど?」

「うーん、困ったな」

「それは浅海がいないと出来ないことか?」

「君の衣装だよ。玲菜がデザインした奴だけど、完成したのを店までとりに行ったみたいで」

「自分で作れよ。学園祭だぞ、手作りじゃなくてそうすんだ」

「手作りじゃ金をかける意味が無いだろ。台本が生徒製で、演じるのが生徒なら問題なしだよ」

「適当な解釈だな。趣旨を忘れてんぞ」

「君が云うのは既製品を着合わせて作るだけの衣装だろ? それに価値があるのかい?」

 この人形……わりに勉強してやがる。

「まあ、君は心配するな。玲菜がデザインした服は世界に一着しかないような代物だから」

「それのどこが安心なんだ?」

「目立つ。君一人の舞台といってもいいくらいに目立つよ、ルシフェルくん」

「……」

「――ああ。ごめん……玲菜は来れそうに無いな。衣装も破れたみたい」

 何処か遠くを見るような格好のクロエは呟くようにそう云った。

「何かあったのか?」

「来る途中に玲菜を見かけて、興味本位で使い魔を放っておいたんだけど」

「だけど?」

「ちょっとした野暮用みたい――ま、要するに喧嘩」

「早く止めに行けよ! 相手が殺される」

「まあまあ、知り合いみたいだから大丈夫だよ。気にするな」

「……」

「それはいいよ。衣装についてはこんなこともあろうかと、代わりを用意しているから」

「よくない提案だな」

「じゃあ、それは明日持ってくるよ。そうだな……今日は小道具を見てくれない?」

「小道具?」

「そう。すぐに持ってくるから待っていて」

「ま、見るだけなら」

 クロエはそのまま病室を後にした。


















 クロエが出てから30分。

 ひたすら彼女を待っていると、漸くドアが開いた。

 ただ、ドアの向こうにいたのはアデットの姿ではない。

「綾音?」

 コレはわかる――綾音は怒ってるからここに来ないのだ。

 情報収集が足りないな。

 お前が綾音に化けてることくらい俺でもわかる。

「……牧原さんからもう聞いていると思いますけど……この前は御免なさい」

 クロエの奴、白々しい……

 良介は来ていたが、別に何も云ってないじゃないか。

 大方その情報だけを知って、適当に話を作ってるんだ。

 とても申し訳なさそうにしている『クロエ』。

 綾音がこんな態度をとるわけがない。

 彼女は自分が絶対的に悪くない限り、仲直りするためだけに自分が折れることをしないのだ。

「お前さ、こんなことやって何が楽しいんだ?」

「……どういう意味です?」

 部屋に入ったときとは違い、彼女の視線が厳しいものに変わった。

 流石だ――まるで本物。

「ま、いいけど」

「その態度……私を侮辱するつもり? だとすれば、いい度胸ね」

 ここまでくると、目の前の綾音が本物としか思えない。

 やはり眼力だけで不良に道を譲らせたとか云う噂は本当なんだろうか?

 しかし、本物っぽくても所詮はクロエだ。

「別に。それより、用事があったんだろ?」

 急に『クロエ』が黙り込んだ。

 どうしたというのか、顔まで赤い。

「……此の頃気づいた瑣末というか、大した事ではないのですけど…………例えば貴方が危険に晒されるとしますね? すると、何か……いいえ、きっと吊り橋効果か何かだと思うのだけど、でも……」

 どうしてだか、彼女の様子が変だ。

「お前、どこか壊れてるんじゃないか? 顔色が悪いぞ」

 たとえ人形であっても、知っている奴が壊れているのなら心配すべきか。

 というか、コイツは病気になるのか?

「……話をしているときに口を挟まないで! いいえ、からかうにしても相手を違えているわ」

「おいおい。からかうも何も、お前を心配してんだぞ」

「えっ……そ、そっ、そう。それは、その……ありがとうございます」

「で、例の物は?」

「レイノブツ?」

 さっさと小道具を出せ、という意味なのだが理解できていないのだろうか?

 クロエはきょとんと首を傾げるだけだ。

「えーと、何だっけ……(衣装の中で用意できた王様)パンツと、他には……」

「パンツ? ……貴方は一体何を云っているの?」

「何って? お前が持って来るって云ったんだろ。さっさと見せろよ」

「な、なに? 私、そんな事は……貴方、ここで下着を見せろというの!?」

「はぁ? ふざけてるのか。誰がそんなこと云った?」

「ふざけているのは貴方でしょう! 訳のわからないことばかり云って、そんな趣味でもあるの?」

「趣味? おいおい、俺の趣味じゃない。浅海の趣味だろ。アイツならそれこそ喜んでするぞ」

 王様パンツ、金ぴか剣、悪趣味な王冠を被った王子さまのスケッチは、見ただけで即死ものだった。

 だから、格好いい格好にしても……ソレを着る人間の体格や顔も考慮してくれという。

 大体あんなのは貴族の趣味じゃないと思うのだが、彼女がそうだというのだから始末が悪い。

「玲菜なら? ……気に入りませんね、私が劣るというの」

「? お前も乗り気だったじゃないか」

「私が乗り気? あ、あ、あなたは、一体こんな場所で何をするつもりだったの!」

「何って? 予定通りなら、コスプレだろ」

「コスッ――って、ここは私の親族が経営している病院よ」

「はぁ?」

 しつこい人形だ。

 コイツはいつまで綾音の真似をするつもりなのだろう?

「それで……その、私は浅海に劣るなどとは思っていません。だから……その、これは私の存在証明のための質問なのだけれど、貴方は……どんな衣装が好きなの?」

「ん、太っ腹だな。選ばせてくれるのか?」

 やっぱり浅海の衣装は駄目だと気がついてくれたらしい、流石クロエ。

「えっ、だって……好き、なのでしょう? どうしてもと云うのなら、少しくらいなら、着てあげても……ふっ、深い意味は無いのよ。ただ、浅海に出来て、私に出来ない道理が無いということを証明しなければ、私の自尊心が……だから、だからよ。やりたくて云っているわけじゃありませんからね!」

 ふざけてる。

 気を持たすだけ持たせて、自分の衣装とは……許せん。

「あぁ? お前の衣装のことか。なら、ウサ耳つけたゴスロリメイドじゃなかったか?」

「そっ、そんな破廉恥な格好をしろと云うの!? いくら私が提案したからといって、あまり図に乗らないで!」

 何を騒いでいるんだろう?

 浅海がデザインした中では一番まともな服なのに、コイツは意外に我侭だな。

 コンセプトは『戦うメイドさん』で、バズーカ持って大会に出るんだっけ?

 コレもなんだ……クロエは白雪姫なんじゃないのか?

 浅海のセンスはとことんアレだ。

「煩いな。ソレくらいで騒ぐなよ。世間じゃ、もっとハズイ格好をする人間もいるんだぞ」

 主に俺だけど。

 というか、自分で衣装を決める綾音以外、みんな浅海の犠牲者なのだが、特に俺のが酷い。

 他は俺がいるだけでうまく隠れるほどに酷い、あれはもう罰ゲームだ。

「そ、そう……? もしかすると……その、私が世間知らずでした?」

「ああ。ソレくらいで騒ぐなんて、俺からすれば『ふざけるな』ってとこ……お前、本当に大丈夫か?」

「え、ええ。貴方こそ大丈夫なの?」

「どういう意味で? 身体のことならすぐにでも退院できそうだけど」

「いえ、そうではなくて……もう一度訊きますけど――貴方は本当にそんな服を着て欲しいの?」

 いや……着て欲しいか、と訊かれても困る。

 そもそもクロエの衣装がどうとか云う前に、俺の衣装はどうした?

「嫌なら別に今じゃなくてもいいけどさ。本番で着ないとか云ったら、いい加減俺も怒るぞ」

「――」

 クロエの顔が茹蛸みたいになった――やばっ、メルトダウンとか無いよな。

「おい、大丈夫か?」

「ほ、ほっ、本番ッ!? なんてふしだらな! わ、私をあまり見くびらないで!」

「はぁ? 何で?」

「――え、だって……貴方は私に、段階も踏まず、いきなりに……ソレが間違っていないと云うの?」

「……なあ、いい加減にしろよ。どうせ最初ちょっと着るだけなんだから、いちいち騒ぐな」

 そもそも今まで何人に化けてきてんだ、コイツ。

「本当にさ、我が儘は止めてくれ。一応ルールなんだから」

「え? あの……そういう格好をするのが、決まりなの?」

「当たり前だろ。お前、裸で出るつもりか?」

「い、いえ。そんなことは……えっ? でも、それでは……」

「? もう帰れよ、俺も台詞の準備あるから。今日のお前調子悪いんだよ、養生しろ」

 本当にどうしてしまったのだろう?

 学園生活とかの忙しさでクロエも壊れてしまったのだろうか?

「……わかりました。今度、二人きりになれる時間があれば……そのときなら」

 はー、この期に及んで二人きりかよ。

 演劇の本番どうすんだ、この調子で出来るのか?

「お前……それじゃあ、えんげ……」

 そのとき、病室の扉が開いた。

「やあやあ、遅れてごめん。道が混んでてさ、タクシーってもう乗らないよ……あ? 綾音、どうしたの?」

 高校の制服を着たアデット――ああ、クロエか……いっ!?

 目の錯覚じゃない、クロエはあっちで……目の前のは、ホンモノ?

「え、いえ……お見舞いに来ていただけです。貴女こそ、一体何を?」

 あっという間に喉が渇く。

 呼吸することすら苦しい――彼女がクロエでないとわかった瞬間、頭の中で台詞の矛盾が説明できてしまった。

 ヤバイ、ヤバイ……俺はなんてことを云っちまったんだ!!

「云ってなかった? 衣装合わせと小道具、まあ演劇の打ち合わせをしようとね……まずいなら席を外そうか?」

「いいえ、結構よ。私の用件は済みましたから。では、退院するときは一人で帰ってくださいね」

 彼女はそのまますっきりした表情で帰っていったのだった。

「公明? おい、大丈夫? 体温の低下が異常だよ」












[1511] 第四十六話 『ふくしゅう』
Name: 暇人◆51dd631f ID:957e746b
Date: 2007/05/18 02:27








「玲菜さん、あの人はお知り合いですか?」

「ええ。呪禁師っていう医者の延長みたいなの。ただ、アイツが得意なのは毒だけど」

「錬金術師にもいます、そういう人。ボルジア家の毒やペストのバッタものをばら撒いたり……まあ碌なことをしませんけど」

「ふーん、アイツは仁丹(?)って云う不老不死の薬を作るらしいけど、それって貴女の学派と同じよね?」

「まあ洋の東西を問わず、同じ結論を得る別手法はよくありますから。それに不老不死は人類の夢じゃありません?」

「不老は二百年も続けば十分じゃない? 不死なんてもう……生き方グダグダになりそう」

「そうですか?」

「そうよ。でも、腕はホンモノ。『スペインの石』を見せてもらったことあるから」

「万能の解毒剤ですか?」

 郊外の森の沈黙が四つの影によって破られた。

「お喋りはこれくらいにして……久しぶりね、カレハ」

 衣装ケースを持つ玲菜はプラチナブロンドの髪の女性に挑むように云う。

 女性の手には杖が握られ、彼女の長い髪は邪魔にならないように短く束ねられていた。

「こちらこそ」

 クツキも実にニコやかに返した。

 しかし、二人の間の空気の冷たさは全員が理解している。

「療養中、貴女には随分とお世話に。その節はどうも」

「気にしないで。それより、眼の調子はいいの?」

「ええ。結局、両方とも抉り出して……」

 クツキはそう云いながらカラーコンタクトを外し、青と赤の瞳を見せる。

「今はこの世で最もよく見える眼に変えました」

 玲菜はその両眼が作り物であると看破した。

 いや、彼女の本来の瞳の色を知っていたからこそ看破できた。

 瞳はそれほどに精巧な、神がかりの義眼だ。
 
 ただし義眼といっても、ここまでの域に達したものはホンモノと何も変わらないだろう。

「ああ……ただ色違いが私に似合うと思っただけ。綺麗でしょう?」

 オッドアイの女性と玲菜の間柄をアーデルハイトは知らない。

 衣装を携えた玲菜とクツキが病院で出会った途端、クツキが一方的に決闘をはじめたのだ。

「あの瞳、何となく正体がわかります」

 ポツリとそう云った。

 脇でそれを聞いた玲菜は別な反応。

「ねぇ、知らなかったけど……カレハは嘘を吐くのが趣味なの?」

「綾音から聞きまして?」

「――やっぱり」

 クツキの眉が釣り上がった。

 カマをかけられたことに腹が立ったというよりは、自分に腹が立っている感じだ。
 
「喧嘩なんてやめましょうよ。人が来ますって!」

 彼女たちと対照的なのは心配そうにしているアヤハ。

 二人がこの場で争い始めたときのことを考えると、内心穏やかではいられなかった。

「黙っていなさい」

 病院でクツキが玲菜を見た瞬間から、この戦いが起こることは決まっていたようだ。

 アヤハの言葉もクツキの心を変えることはできない。

「でも……」

「カレハが云ったみたく貴女は黙っていて」

「浅海さんまで……どうなっても知りませんからねっ!」

 二人がまるで聞く耳を持たないと悟ったアヤハはそれっきり黙りこんでしまった。

 同伴していたアーデルハイトはそれを見て、気まずそうな顔で云う。

「私、立場上争いを止める必要があるのですけど……駄目ですか?」

「その必要は無いわ。これは決闘ですから――あのことは許しません。その首落としても飽き足らない」

 アーデルハイトの言葉にもクツキは耳を貸さない。

 それは玲菜も同様だ。

「そういうこと。一応、流儀に則った決闘は可よね? ――だから、掃除機って云った綾音が悪いんだって。勘違いするわよ」

「? まぁ決闘は可能ですけど」

 古い伝統にのっとった決闘方はいくつかある。
 
 現在でも調停がうまくいかないときに用いられることがあるし、互いの技術を競う目的のために行われることもある。

 基本的にこれらについてはアーデルハイトの管轄外である。

 それらの中で彼女たちが選択したのは――

「魔術(インチキ)なし。武器ありのドツキ合い。一番シンプルなものでやるから。異存ないでしょう、カレハ?」

「殴り合いって……玲菜さん、ズル過ぎなのでは――」

 玲菜の提案を聞いたアーデルハイトは流石にこれはまずいと感じる。

 そして、それを思いとどまらせようとしたとき、クツキはその提案を承諾していた。

「それで構いません。私は杖を使わせてもらいますけど。貴女は?」

「えっ、クツキさんも相手のことがわかってます?」

 アーデルハイトが心配する声にクツキは微笑み返す。

「ええ、大丈夫ですよ。術者が求めるのは更なる高みだけ。私のモットーは目的以外にそれを用いないことですから」

「で、でもですよ、玲菜さん相手にそれを云うのはちょっと」

「ああ、私を心配してくださるのね。なんて嬉しい! 大丈夫、すぐに食事に行きましょうね。お子様ランチはお好き?」

 アーデルハイトの本来の年を聞いてもこの調子。

 クツキにしてみれば外見だけが大事で、中身はどうでもいいのだ。

「ですから、私は真剣に心配しているわけで……」

「まあまあ、本人がいいって云ってるんだから。うん、杖ならいくらでも使いなさいよ。私は素手で十分だから」

 アーデルハイトの心配をよそに、杖を持つクツキはそれを軽く振り回した。

「そうですか。しかし、七回も……」

「は?」

「貴女が私を『あの名』で呼んだ回数。綾音でもない限り、そんな人間を生かしておくつもりはありません」

 怒りを表情に表さないクツキだったが、その口調から凄まじい怨恨を感じさせる。

「気にしない気にしない。怒らないでよ」

「舐めた口を利けるのはこれまで――地上最強を自負する私の馬流杖術でお相手いたします」

 クツキが持つのは量販店で買った杖。

 特に何の意匠も凝らされていないし、おかしな呪いがかかっているわけでもない。

 魔術で強化されてもいないし、特別頑丈なわけでもない。

 彼女はそんな杖を脇に挟み、両手に黒い革手袋を嵌めた。

「杖なんかで地上最強って、随分な事を云うわね」

「受けてみればわかります……それにしても、安物は手になじまない」

「なら愛用品を持ってくるまで待ってあげましょうか?」

「結構。私の流派は武器の質を問わないのだから、一級品など使っては貴女が気の毒です」

「フンッ、せっかく人が……」

 クツキの杖が身近にある木を叩く。

 ちょっと力を入れて叩いたようにしか見えなかったし、杖に魔力がこもった形跡も見られなかった。

 しかしその瞬間、雷が落ちたような破裂音と共に叩かれた木が根元からへし折れたのだ。

「……はいっ?」

「……えっ!?」

「……う、うそ……」

 その光景を見ていた三人の口は開いたまま。

 それもそのはずで、クツキは本当にただ叩いただけだった。

「万物に成り立つ力の平衡を崩したのよ」

 クツキはそのまま足元に転がっていた石に向けて杖を振り下ろす。

 すると、杖はそのまま石を二つに切断した。

「ほら、同じことができて?」

「……力の平衡って、なに? それに、前はこんなの……」

「並外れた才能は魔法さえ超越すると識っていた? 祖先から受け継いでいるのは外見だけではないのよ」

 クツキはその本性を晒し始める。

 古い家系に連なる彼女は度重なる近親婚の果て、何十代も昔の祖先の容姿を受け継いでいた。

 隔世遺伝――彼女ほど色濃くそれを顕す者は稀だろう。

 なにしろ純粋な日本人なのに、そう見えないほどなのだから。

「……」

 玲菜も、アーデルハイトも、アヤハも皆がその言葉を上の空で聞いていた。

 何を云っているのか、まるで理解できない。

「……ただの杖が、木を叩き折るなんて……これはあの……」

 アーデルハイトは折れた木を見つめながら思案した。

 幹は大人が手をようやく回せるかどうかという太さで、クツキの杖はその枝くらいしかない。

 彼女の力が人の規格を遥かに超えていたとしても、杖は違う。

 アレはただの杖に相違ないのだ。

 長い年月をかけて作られた武器でもなければ、魔術がかけられているわけでもない。

 すると結論はひとつ――ただの市販品の強度でアレが出来るとは思えない。

 しかし、現にそれが起こっている。

 魔術を用いずに奇跡をなす、そんな言葉がアーデルハイトの頭をよぎる。

「え? 今のはカレハの馬鹿力じゃないの?」

「なわけが無いでしょう! 玲菜さん、あれは市販品ですよ? にもかかわらず、折れていないということは……」

「――あっ、ああそうか……ちょっと、そんな訳わかんないので素手に挑戦するつもりなの? 卑怯者!」

「オーホホッ、言い訳は見苦しくてよ。野蛮な狼さん」

 令嬢じみた高笑いをするクツキ。

 すでに勝利を確信している様子だ。

 魔術を駆使しない戦いにおける屈指の実力者を相手に、勝算はどれほどだろうか。 

「アデット! こんなの認めていいわけ?」

「でも、玲菜さんが云い出したことですし……どうすれば?」

「お祈りは済みまして? これからその軽い頭を叩き潰して差し上げるわ」
























「ふにゃあ……」

 豪奢なプラチナブロンドの髪の毛が木の葉の上にふわりと広がっている。

 髪の持ち主である女性はまるで気持ちよく眠っているようだったが、横で見守る黒髪の少女は心配そうだ。

「……先輩の馬鹿。なんでこんなときにっ!」

 少女の言葉に女性は反応しない。

 ただスヤスヤと眠っているだけだ。

「今日は変ですよ。小さな女の子に変なことしたり、戦闘狂みたいに喧嘩したり……挙句に負けちゃうなんて」

 少女が愚痴を並べても女性の耳には届いていないようだ。

「……えいっ」

 少女のデコピンが女性の額を見事に捕らえ、乾いた小さな音が静かな森に響いた。

「あはっ、うふふ……いい音。もう一発、えっ……う」

 彼女の指がもう一度額を叩こうとしたとき、女性の手が少女の首を捕まえる。

 女性の外見からは想像もできないほどの握力で、一気に首を締め上げた。

「玲菜。あの名で私を呼んだ奴は、絶対に殺す!」

 それはただの寝言だ。

 だが女性は無意識のうちに少女を絞殺しかけている。

「ごほっ、先ぱっ……お願、止め……」
























 夢の中、何年か前の出来事が再現される。

「ねえカレハ、私と貴女と綾音とで鬼ごっこしない? 隠れた奴を見つけるの」

「それは鬼ごっこではなく、隠れんぼでしょう。それにカレハ? 綾葉が本名ですけど」

「ふふっ、養子にいったから『朽木』って云うんでしょう?」

「ええ。養子といっても母の実家ですけど」

「朽ちた木の葉っぱ、枯葉じゃない?」

「……まあ、呼びたいのならどうぞ。気にしませんから」

「そう、じゃあカレハ。いい隠れ場所があるから後でこっそり教えてあげる。貴女のお姉さんが困るところをみましょうよ」

「ふっ、下種な考えですが面白そうですね。それで、どこです?」

「ああ、それはね――」

 次の瞬間には真っ赤な部屋。

 扉を叩いても誰も返事をしないし、足元で何かが動いている。

 必死に扉を叩いても、反応はやはり無い。

 そのとき、臓物のようなものが浮かんでいる湯船の、さらに奥で何かが動いた。

 真っ黒い影、『何か』としかいえない得体の知れないもの。

 二メートルもあるくせに、針金みたいに細くて、どうやって動いているのかもわからないもの。

 『綾音の秘密実験室なら絶対に大丈夫だって。誰もあそこには近づかないから。何があっても、ね』

 その言葉の意味がようやくわかったとき、黒い何かがキイキイと耳障りな声を発しながら地面を這って来た。

「じっ、冗談じゃない! 早く出して、早く!」

 近くにあった気持ちの悪いものを投げつけるが、黒い何かに触れた瞬間に消えていく。

 だんだんと何かが食っているのは確かなのだが、奴には口が無い。

「病気なのよ、私! 早く、早く出してよ!」

 何の事故でしまってしまったのか、扉の鍵は開かない。

 入る際には確認していたはずなのに、どうしても開いてくれない。

「玲菜! 玲菜! 早く、早く!」

 ひたっ、と足を掴む何か。

 それを見下ろしてみると、黒い何かの背中を、ヒトのようなものが流れていく。

 先程投げつけたものも、まるで背中の柄になったかのように映し出されては流れていく。

「うっ、嘘! うそっ……」

 何かに掴まれた自分の足が黒い何かの背中を流れていく。

 そして、見下ろした先に自分の足は無い。

「ひっ……あぁ」

 足が無くなったことで、バランスを崩して倒れこんでしまう。

 扉に背をつけて、ズルズルと床にへたれ込んでしまった。

 視線の先には真っ黒い何か。

 目の無い生き物と視線が合う。

「…あ……やね……ちょっと、これはやり過ぎ……」

 と、そのとき背中の扉が開いて――

「ん? 綾葉見つけた」

「あ、やね! ちょ、とっとこれは貴女、なんて事を……」

 黒い何かを一瞥した彼女は首をかしげた。

「ああ、これはただの掃除屋。小動物と失敗作を処理してくれる数少ない成功例。人間は捕らえるだけで害はないわ」

「……」

「蔵の在庫整理で……玲菜には起動中だと云っていたのだけれど、貴女は知らなかった?」

「……殺す」

「ん?」

「……殺す、殺す、殺す」

「あ、綾葉? 気を失ってしまったの……?」
























「――!? あ、あれっ? アヤハ?」

 苦し紛れに少女が頭を殴りつけたことで漸く女性の瞳が開く。

 自分に首を絞められて苦しそうな少女の必死の訴えに漸く気がついた。

「あっ、大丈夫?」

「ごほっ、ほ、ごほっ……うぅ、死ぬかと思いましたよ先輩!」

「……玲菜は? 素手の殺し合いで魔眼を使いやがった、あの卑怯者は何処!」

 髪の毛についた木の葉を払いながら立ち上がったクツキは周囲を見回しながら訊いた。

「いませんよ。それに、あの女の子も帰りました――ていうか、先輩も卑怯は一緒です。あの杖、何仕込んでたんです?」

「私が卑怯? あれはただの杖、店で貴女が買ってきたのよ」

「あの現象は本当に技術だけですか……何て出鱈目な。いえ、でも服の下には仕込んでいますよね? 金属音しましたよ」

 玲菜に殴られた瞬間、クツキの服に仕込まれていた七枚の呪符が全て破壊されていたのだ。

 一枚一枚が相当な耐衝撃力を誇る代物だっただけに、そのときのことを思い出したクツキは冷や汗をかいた。

「……ふっ、無ければ今頃内臓破裂だったでしょうね。あの馬鹿力め! しかし何です、貴女はその方がよかったの?」

「うぁ、逆ギレですか。怒りたいのはこっちなのに」

「逆ギレ? 私の知らない単語を使わないで。それに、どうして玲菜の足止めをしなかったの?」

「先輩が勝てない人にどうしろと? 無茶しなくても死にますよ」

 アヤハにしてみれば『浅海さん』という名前しか知らない相手だ。

 どうやったって手加減などしてくれそうに無いのに無茶をする気にはなれない。

「腕の一本も捨てれば時間くらい稼げたでしょうに。愚図が。貴女、それでも私の奴隷?」

「そもそも奴隷じゃないです。大体、あんな神業使う先輩が負けるなんて普通は思いませんよ。あれじゃあ、人外そのもの」

 勝負は一瞬だけクツキの足が止まった瞬間に決まった。

 不可解な苦しみに胸を押さえたとき、すでに玲菜の一撃が目前に迫っていたのだ。

 それを思い出したクツキは悔しさに唇をかんだ。

「人外? 外人のこと? どちらにしろ、いい意味ではないようだけれど……トーマに連絡はつきまして?」

「ええ。倒れた先輩を運んでもらおうと思って、さっき呼んだところです」

「よかった。あんな変人には触れられたくも無い……いいわ、これから二人を案内します」

「はいっ! じゃあ、すぐにでも藤間さんを探してきます!」

「現金なこと。これだから……あっ、アヤハ? 近くまで行って、そこからは私の紹介状を見せるのよ」

「先輩は? 怪我してらっしゃるんですから、中に入れてもらえば?」

「絶対に駄目。アーデルちゃんの捜索が最優先事項、貴方たちの事は連れてきただけ」

「つれない態度ですね。部活仲間じゃないですか。全国行きましょうよ」

「綾羽御影、その明るさはいい加減原因を調べたくなる……二人だけの同好会で云う台詞ですか?」

 呆れたように云ったクツキは時計に眼をやった。
























 結局のところ、朽木綾葉は数年ぶりに訪れる実家にいた。

 しかし、うっかり開けてしまった部屋の前で硬直してしまう。

「綾音……何してるの?」

 ウサギの耳を模した飾りをつけ、メイド服を着た自分の姉。

 どう見ても『何かがあった』としか思えない状況だ。

「あら、綾葉。久しぶりですね」

 まるで恥じ入る様子すらないことに違和感さえ覚える綾葉。

 これは本当に自分の姉だろうか?

「ええ、久しぶりだけど……いえ、本当にどうしたの?」

「これ? 花嫁修業よ」

「……はぁ?」

 どうして当然のことを聞くの、とでも云いた気な綾音。

 それを前にすると本当は自分が間違っているのではないか、と思いそうになる。

「コスプレが趣味の人と結婚するのなら別にいいけど……また誰かに吹き込まれたの?」

「吹き込まれたとは心外ね。どういう根拠です?」

「世間知らず。私も人のことはとやかく云うつもりは無いけど、人の悪意には敏感なくせに、相手に悪意がないとガードが緩む」

「どういうこと?」

「相手の勘違いとか、貴女の勘違い。ボタンの掛け違い」

 そういいながら部屋に入ると、すぐにドアを閉め、窓もカーテンを完全に閉め切った。

「この部屋は見えはしないわ」

「妹として絶対にいや。私の後輩が来てるのに、こんなのが姉だっていえるわけが無い」

「……」

「で、今回はどういう経緯でこんなことを?」

「今回だなんて、まるで私がいつも勘違いしているような云い方ね」

「どういう経緯?」

「……市井の人は、閨で皆この格好をするとか」

「うん。ソイツ私が殺してくる。何処に住んでいるの?」

 綾葉はその辺りの事情をかいつまんで教え、それが間違いであることを納得させた。

 綾音は真っ赤になりながら着替えに走り、すぐに別な服装になって戻ってきた。

 すると、ベッドの上に転がった綾葉が何かを持って悦に入っていた。

「ちょっと、綾葉! 何を……」

 荷物の中から薬品の入ったビンを取り出した綾葉を見て、綾音があわてる。 

「ソイツを殺す準備だけど。苦しませて殺す? 安らかに送る? それとも、一生涯治らない病気にしとく?」

「そ、そんな物騒な。冗談でしょう?」

「えっ、半身不随で植物人間!? それも面白そうだけど、やりすぎじゃない? 相手も可哀想に」

「誰がそんなことを云ったの!」

「じゃあ姉さん、どうやって仕返しするつもり? まさか、まさかとは思うけど……泣き寝入りするなんて云わないでしょうね?」

「うっ、それは……」

 流石に綾音も云いよどんだ。

 仕返しなどすぐには考えもしなかったのだから言葉が続かない。

「ああ、嘆かわしい! 伝統ある我が家の長女がこれでは、面子も丸つぶれね。祖先の御霊に頭を下げなさい、綾音」

「そんな云い方をしなくても。大体これは復讐するほどの……」

「おぉ、そういえば綾音は学園祭でひどい目に合わされているとか。学校で殴り殺していい?」

「駄目に決まっているでしょう!」

「……何マジになってるの? 冗談も通じないのね、姉さん。それって罪よ」

 その夜、綾葉は彼女をからかい続けるのだった。

 ただ冗談交じりに云っていた『復讐』は少し本気なのかもしれない。






















[1511] 第四十七話 『浅はかな悪意』
Name: 暇人◆001e4838
Date: 2007/11/20 01:29
「なあ、綾羽くん」

 客もまばらな喫茶店の中、仕立てのいいスーツを着た男は、店内のBGMにかき消されないよう少女に話しかけた。

「なんですか藤間さん。お代わりなら、私もう手持ちありませんから、自分で払ってくださいね」

 綾羽御影――苗字と名前という相違点はあるが、奇しくも同じ『あやは』である朽木綾葉と知り合ってしまった少女だ。

「連れない事をいうなよ。朽木の被害者同士、仲良く打ち解けて傷を舐めあおうじゃないか」

 男は髭を指で軽くいじってから、コーヒーに手を伸ばした。

 その何気ない仕草にも品の良さが表れていた。

 男は年のころ三十代の後半だろうか、振る舞いが洗練されていてまさに紳士といった風だ。

「何ですかそれ。藤間さん、資産家の子息でしょ? 私にたかるなんて立場逆じゃないですか」

 御影は鋭い視線で非難した。

「いやいやローマの学院で学んだときにね、色々と金が掛かったのだよ。そのうえ、師の頼みで至らない侍女まで背負い込む羽目になったものだから……いやあ見事にスッカラカンさ。この前競り落とした、神詩篇の落札額がいくらか知っているかね?」

 しかし男は意にも介さない。

 その態度には、代々の魔術師でないにも拘らず、一からそれを学んで大成した者の自信がにじみ出ている。

「それ嘘です。私見ました、ここまでフェラーリで来てたじゃないですか」

「あれはレンタルした車なんだよ。それくらいわかるだろう? ん、わかるよな」

「わかりません! ……朽木先輩、『執行官が実家の近くに滞在中だから、間を取り持ってあげましょう』なんて言ってたくせに! 似非日本人の、巻きロール女!」

 つい先日までこの町に滞在していたサーシャ目当てにやって来ていた御影と藤間。

 自信満々に仲介を申し出た綾葉に依頼して、彼に会う予定だったのだが、いないものには会えない。

 綾葉は簡単にあきらめると、ごねる二人を放置してどこかへ消えてしまっていた。

「ああ、アレは酷い。実に酷かった。『もういないみたいだから現地解散ってことで、来週学校でね』と爽やかに云っていたからな」

「そうですよ、まったく! いつも勝手に提案して、勝手に消えていくんだから!」

「うんうん、わかるよわかる。こういうときは紅茶に限るぞ。ミス・キタガワ、私と彼女にアールグレイを一杯ずつ」

 御影はだんだんと熱くなり始めていたため、さり気なく注文を追加する藤間。

 わざわざ店員を名前で呼ぶなんていやらしい人、と呟く御影の声は冷たかった。

「それで何でしたっけ? 藤間さんの用事」

「ん、ああ…………」

「?」

 不意に話を変えられたために意味もなく間が空いてしまう。

 しかし御影はそれに何かしらの意味があると思ったようで、少し真剣な面持ちに変わっていた。

「……そう、そうだった。キミはどうしてあんな危険な連中のとこに就職を?」

 魔術世界の刑罰執行機関・通称『サンタクルス』に職を求める者はそれほど多くない。

 恨まれることが多いため危険でもあるし、最悪の場合は魔術の碩学である真祖を相手にしなければならないのだから、余程の物好きか自信家、あるいは正義感の塊でもなければ、その門を叩くことは少ないのだ。

 しかしこの少女の回答は普通の場合と大きく異なっていた。

「だって給料いいって聞きましたから。三十過ぎたらもう働かないぞって気分なんです、私」

 藤間も唖然とする答え――確かに低い報酬ではないが、貰いすぎとも思えない額に、この少女は命を賭けるというのか?

「そ、そうかね……なんともそれは、気の毒な頭だな。いや、実に気の毒だ。ところでそういう人間をなんというか知っているかね?」

「どういう意味です? 魔術師的には貴重な時間を削って仕事してる方が信じられません。ていうか、働いたら負けです。短い人生を労働に時間を使って、研鑽に励まなくてどうするんです? 意味無いですよ、そんな人生」

「いや、気にしては駄目だ。ああ気にしてはいけない、幸せが逃げていくぞ」

 生粋の魔術師は、山奥で隠者のように暮らしている者より、むしろ時間に余裕のある上流階級に属する者の方が多い。

 時間が大切な彼らにとって仕事の合間に研究をするのでは割に合わないからで、祖先の代に種々の方法で社会的地位を上昇させているものなのだ。

 とはいえ、実際に何もしていないのではいつか資金が尽きてしまうので、時代の変遷に伴って事業を興した者や、一部の国の魔術師たちのように現在でも貴族として振舞っているものまで色々なタイプが存在する。

「それにあそこ待遇いいじゃないですか。噂ですけど、新聞沙汰になっても全面的にカバーしてくれるんでしょ?」

「それはこの前キミが大はしゃぎで私に見せた、あの三面記事を云っているのかね?」

「はい。『怪力少女現る!! バスを片手で受け止めた!』って奴です」

 オイルマネーで潤う中東某国――その首都市街地で現地の少数民族と思しき少女が大暴れして警察が出動したのだが、彼女は車を投げ飛ばし、官憲を数名殺害し、姿を消したというのだ。

 御影はその少女こそ『アッシリアの狼』と仇名される執行官で、それがために信用度の低い記事しか世間に出回っていないのだと主張していた。

 実際その国には真祖の一人が城を構える砂漠が存在するし、件の祖は大量殺戮で悪名高い者であった。

 しかし、藤間は最初から信じてもいないようだ。

「綾羽くん、キミは朽木に劣らず世間知らずなようだから忠告しておいてあげよう――あんなのはまったくの法螺なんだよ」

「法螺じゃありません! お祖父ちゃんが本当だって、そう云ったんだもの! 彼女は六十年前と変わらず若いままだって」

「キミのところのご老体といえば、アレだろう? 完全にボケ……いや失礼、認知症じゃなかったかね。そう云う老人は悪意ではなく、善意から人を惑わせるものなんだよ」

「お祖父ちゃんは呆けて無いもん、勝手に貶めないでください!」

「ああわかったよ、わかったとも。綾羽のご老体はご健勝であらせられ、記憶力も抜群だ。コレで満足かね?」

「わかればいいんです。それで、藤間さんはどうして?」

 御影に話をふられた藤間は少し思案した後、普通なら驚かれるような話を始めた。

「ん、ああ……なんというか、吸血鬼の仲間になりたいと思ってね。要は時間が欲しいのさ。余ってる奴から貰って、それを私が有効活用できる手段なんて他には無いしな。頭の固い連中は倫理的にどうとか言うが、結局のところ、世間には生きている意味の無い人間が多すぎるんだ。彼らが死ぬ代わりに自分の命が延びるのなら、そうなってもいいと思っているのは、決して私だけではないと思うがね」

「へぇ。巷で噂のあれ、ベルジュラック卿がやらかした悪戯の話が流れてから、そういうこと考えてる人がいるっていうのはよく聞きますけど、会ったのは初めてです。最低のエゴイストですね。死ねばいいのに」

 藤間が勝手に注文していたアールグレイを一口飲むと、御影は醒めた視線を送る。

 しかし非難している以上には敵意のようなものは感じられない。

「相変わらず辛辣だな……しかしまあ、あそこなら出会える機会も増えるだろうと踏んだのだが、無駄足だったようだ」

 藤間も紅茶の香りを楽しみながら、悪びれもせずに続けた。

「そういえば、藤間さんは生きている意味が無いって云うんですね。価値じゃなくて」

「今を生きる人間に価値など無いさ。価値とは死んだ後に決まる評価だからね。そういう事情で、私は意味と云う。格好いいだろう?」

「いいえ全然。ただの気障なオジサンです……それで今の話、先輩にしたんですか?」

 そう問いかける御影だが、その話題にあまり興味があるようには見えない。

 義理で聞いているだけなのだろう。

「したよ、したとも。朽木はキミより怒るかと思っていたのだが」

「怒らなかったんですか?」

「まあ。『面白そうだからその暁には直々に殺してあげる』とはいわれたが、概ね好意的だったんじゃないか」

「それはどう考えても好意的じゃないと思いますけど。ていうか、先輩に嫌われてるんですか?」

「私が彼女に好かれていると思うかね?」

「まさか? 先輩、藤間さんみたいな男はこの世から消えればいいって思ってる人ですから」

「……キミもどこか私を嫌っているようだね。いやそうに違いないな」

「酷い誤解です。私は基本的に人間好きですよ」

「『基本的に』だろ? その中に私が入っているようには思えないな」

「入ってませんよ。私にたかる人なんて、それこそこの世から消えればいいんです」

 それこそ満面の笑みで告げる御影。

 普段は気にも留めない少女の反応に、藤間は少し気分を悪くしたようだった。

「おいおい、今の伝票分くらいは奢ってくれよ」

 差し出された伝票にはしっかりと追加分の値が記されている。

 今までの額と合わせれば、御影の財布に深刻なダメージを与えかねないものだ。

 そのためか、伝票を受け取った御影は憤懣やるかたなしといった表情。

「わかってますよ! でも、勝手に注文されるといい迷惑なんですからね!」

「感謝はしているよ」

「態度で示してくださいよ、態度で」

「綾羽くん、目上の者にそういう態度で臨むものじゃないな」

 御影が急に黙り込んだ。

 最初は彼女が怒ったのかと心配した藤間だったが、少ししてそれが違うと気がついた。

 御影の口元が僅かに笑みを浮かべていたのだ。

 彼女の癖を良く知る藤間はそれが良くないことを考えているときに独特のものだとすぐに見抜いた。

 そして、事実それは当たっていた。

「……藤間さん、先輩に仕返ししませんか?」

「それは無理だ」

 即答だった。

 予想していた提案であったこともあるが、藤間自身がやりたくないことの一つだったからだ。

「どうしてですっ? 先輩が無茶苦茶強いからですか? 笑いながら人を殺せる人だからですか?」

「そういう問題じゃあなくてだな……いや後半は確かに問題だが、要は方法が思い浮かばないのさ」

「藤間さん、流石に大人だけあって難しいこと聞いてきますね」

「キミ、それは割と最初に考えるべきことだぞ」

「うーん、難しい。そもそも先輩に嫌がらせしても、ばれたらヤバイし……うーん」

「……おいおい、本当に方法を思いつかないうちから言い出したのかね? 無謀が過ぎるぞ、いやまったく」

 藤間は呆れたようにそう云うと、紅茶を飲み干して、席を立とうとした。

 御影はそれを止めるように、テーブルを軽く叩くとやや興奮したように、おかしな提案をした。

「よしっ、コレで行きましょう」

「?」

「先輩にはお姉さんがいるとか」

「確かにいるとは聞いているな」

「その人を誘拐して陵辱しましょう。先輩、私の見たとこ同性愛の気がありますから大慌てしますよ」

「いや、私の見る限り朽木のあれは違うぞ。あれはそういうのじゃなくて、だな……もっとおぞましいもので……同性は同性でも、その、幼女趣味というか。ロリコンというか、そういったタイプじゃないか」

「ああ、だから私に無関心なわけですか。よかった。密に狙われてるんじゃないかと思ってましたから、コレで安心です」

「それはよかった。しかしキミ、陵辱って……本当に意味がわかっているのか?」

「はい、要するにエッチいことです。あのけしからん胸を鷲掴みにして、無理やり……あ、ちょっと興奮してきました」

 本当に想像するだけで鼻血が垂れた御影は、それをハンカチで必死に押さえながら藤間を説得しようとした。

 器用な奴だ、内心そう思いながら藤間は説得する術を探る。

「少なくともキミは彼女の顔を知っているのかね?」

 知っているわけが無い、あったことも無いのだから。

 それを知っているからこその忠告だったのだが、御影は一考さえしなかった。

「顔どころか名前も知りませんけど、何となく雰囲気でわかるはずです」

 何の根拠も無いのだが、困ったことに彼女にはそんな自信があったようだ。

 まるで本物の預言者のように断言する彼女と、それをまるで信用していない藤間――分かり合えるとは思えない会話はさらに続く。

「そんな技能は無いだろうに……綾羽くん、もしも間違えて赤の他人を襲ったらどうするんだね?」

 仮に藤間に協力する気があれば、ターゲットを見つけることはそう難しくない。

 藤間はそういったことに特性を発揮する魔術師であるし、経験で云えば、御影はおろか綾葉よりも上だからだ。

 しかし今回はその経験が御影への協力を拒んでいるのだから仕方が無い。

「私も、修行中とはいえ魔術師です。素人相手なら記憶の操作くらいお安い御用です。軽く誤魔化して次に行けばいいんです」

「……」

 それはあまりに無謀な提案である。

 現地の調停者、土着の魔術師、最悪の場合は六協会まで敵に廻してもおかしくない蛮行だ。

 尤もそれは、バレれば、であるが。

「やらないんですか? なら私一人でやります」

 御影はそう云うといきなり席を立った。

 今にも店から飛び出しかねない様子だ。

 それを前にした藤間は、魔術師としてもあるいは大人としても当然であるが、気が気ではなかった。

 必死に彼女を説得しようと、その手を掴んで席に引き戻す。

「いや、それはまずい。ばれた時に朽木からキミの監督責任を問われかねんからな」

「なら付き合ってください」

「割りに強引な女だなキミは。私は止めておこうと提案しているのだよ? キミはそれに従うべきだし、それ以外の選択肢は……」

「思ったより話のわからない人ですね」

「それはキミだろう」

「藤間さん、私キレると何するかわかんないですよ? 街中でいきなり通行人殺しちゃうかも。その後はアレですね、未成年だし、そのうえ心身喪失ってことで、責任能力は問えない。いいえ、魔術で殺すのなら証拠不十分で無罪放免ですよ。まあ、それも全て藤間さんの責任ですけど。そうですね、それでもサンタクルスの人たちは見逃してくれないでしょうね。すると、どうなるかな? 私の近くにいた藤間さんの責任も重大ってことで、運が良くても終身刑。悪ければ二人揃って死刑ですね。まあ、私はどうでもいいんですけど。藤間さん、ようやく一人前の魔術師になったって云うのに、気の毒に。ええ本当に気の毒」

 最悪のケースを話す御影――その大部分は不幸なことにありえる可能性であり、藤間に協力を強いるに十分な内容だ。

 高校一年生の少女に半ば脅迫される自分を自嘲しつつ、藤間は止む無く首を縦に振った。

「……わかったよ、わかった。だが失敗したときは抵抗せずに捕縛されるんだぞ」

「了解です。ふふっ、やっぱり悪巧みを考えるのって最高ですね」

「私としてはキミの将来が心配だよ」










 時は少し戻ってその日の朝早く。

 白川邸では綾音が暗殺を主張し続ける妹を無理やり車に押し込んで、京都まで送り届けようとしているところだった。

「向こうについたら電話しなさい」

 別れを惜しむ様子は欠片も無く、言葉ばかりの挨拶をする綾音。

 その視線の先の綾葉は今にも車のドアを破壊しそうな勢いだった。

「ちょっと、姉さん! このっ、綾音! 私はまだアイツにクスリ盛って……」

 恐らく縛り付けていなければ本当にドアを粉砕して出てきたかもしれない綾葉は、押し込められてなお抵抗を続けている。

「妹をちゃんと送り届けてあげて」

 車の中で必死に暴れる綾葉を押さえつける従兄弟に声をかける綾音。

「わかりましたよ、はいはい。ほら、綾葉ちゃんも暴れないで」

 彼女の声に勇気付けられたわけではないが、報酬が出る以上は手を抜けないのだ。

「この馬鹿っ! 従兄弟だからって私に気安く触れるな! 汚らわしい手を退けないと、軽そうな頭吹っ飛ばすぞ!」

「綾葉、お父様がお見えになる前に帰った方がいいのではなくて?」

 暴れる綾葉のせいでいつまでも出発できないのでは仕方が無いので、綾音は最後の手段を使うことに決めた。

「えっ? ……いえ、なんのことかしら姉さん?」

「最近、お爺様から貴女の放蕩な生活の苦情が届いて、お父様はとても……」

 実際のところ、それはブラフだったのだが、何やら疚しいことがあるらしい妹はすぐにおとなしくなる。

 その様子に綾音は複雑な気持ちだったが、事が上手く治まりそうなのでこれ以上の追求はしないことにするのだった。

「ああ、わかったわ! もうさっさと車出して」

「じゃあ、元気でね」

「はいはい、そちらこそ」










「綾葉って妹さん、いらっしゃいますね?」

「へっ? あの、もしかして私ですか?」

 下校途中に突然おかしな二人組から声をかけられたクロエは周りを見渡し、自分しか該当者がいないのを確認してなお首をかしげた。

 アーデルハイトの交友関係に興味は無いが、目の前の二人が彼女と深い関係を持つほどの人物には見えなかったのだ。

 恨むにしては若すぎるし、慕うにしては未熟すぎる――それが二人から感じた印象である。

「はい」

「人違いをなさっているような気がするのですけど(アーデルハイトに日本人の姉妹なんているわけ無いじゃん)」

「嘘はいけませんね、先輩のお姉さん。あの女のお姉さんなら、学校は空かした金持ちの多いところに決まってます。だからずっと張ってたんですよ、金髪の生徒が現れるのを!」

 指まで差されたクロエだったが、目の前の少女たちが何者か見当もつかなかった。

「はぁ」

 確かに金髪の生徒といえば全学年含めても彼女だけと云うことになるが、アーデルハイトが『綾葉』なる人物の姉と云うのはありえない話だ。

 その綾葉が通り名の類なら兎も角、人物名のようなのでなおさらである。

「止めておかないか。あの反応はどう考えてもおかしい」

 確信を込めて喋る御影とは対照的に、逃げ出したい様子の藤間は気乗りしなさそうに撤退を促した。

「惚けてるんです。先輩のお姉さんだけあって卑怯のキャリアが違うんですよ」

「……(卑怯って、レナのことかな? 意外。妹いたんだ)」

 あまりに失礼な勘違いをしつつ、クロエは面倒な二人を手早く追い払う方法を考える。

「どうしたんです? 怖いんですか」

「いえ、何と云うか――これは私を誘拐しようとしておられるのでしょうか?」

 少なくとも御影の態度は友好的には見えない。

 そして、手に持っていた呪符も一般人に使うには危険なものだ。 

「ええその通りです。そのうえ、色々とエッチい悪戯しちゃいます。怖いでしょう、泣いてもいいんですよ」

「へえ(しょぼ)」

 クロエさえ思わず斃れそうになった。

 玲菜を相手にコレをやろうとしているのだとすれば、動機があまりに小さい。

 クロエにしてみれば、それは小さすぎて、逆に哀れに思えるほどだった。

「馬鹿にしてるんですか?」

「滅相も無い。ところで、どうしても誘拐すると仰るなら別に構いませんけど、一応名前を聞いてからにしませんか?」

「それは意味無いです。私、貴女の名前知りませんから」

 当然でしょう、とでも云いた気な御影。

 そこまで自信満々に断言されると、どう対処した方がいいのか迷ってしまう。

「それは、今から自己紹介するのだから当然なのでは?」

「いいんですっ! 綾葉って妹いるんでしょう?」

「私はアーデルハイト・シュリンゲルと申しまして、日本に親戚はいませんけど」

 あまりにかみ合わない会話ではいつ終わるのかもわからなくなったので、とりあえずアーデルハイトの名前を出すことにした。

 公爵からの命令では、この土地で権利を持たないクロエが自分から彼女の名前を出すのはあまり褒められた行動ではないのだが、この際仕方がないと思われた。

「惚けるんですね、さすが先輩のお姉さん。でもあまり見苦しいと暴力使っちゃいますよ」

 御影が手に持っていた符を構えた。

 未熟ではあっても何もしなければ怪我をするのは確実だ。

 止む無くクロエも後退して距離をとる。

「話のわからない方ですね。そんな人は知りませんと、そう云っているじゃありませんか」

「あーでるはいと……ああ、綾羽くん違うぞ。この方は絶対に違う」

 二人が一触即発の状態になっていたとき、一人クロエの話をまともに聞いていた藤間が御影を制止した。

「え?」

 そして、そのままクロエに頭を下げる。

「失礼を、シュリンゲル卿」

「うっ、まさか手を出すとまずいタイプのお偉いさん? やばっ、いきなりアウトですか」

 藤間の態度から相当な重要人物らしいと感じた御影も、すぐに謝り始めた。

 クロエとしても彼らを処罰する権利を持ち合わせていないので、それ以上何かをするつもりはなかった。

「まあまあ。アウトといえばそうかもしれませんが、実害は出ていませんし、貴女相手なら出るとも思いませんでしたから、そうお気になさらないでください(そもそもそんな権限無いし、ここで殺して埋めると後々面倒っぽいからなぁ)」

「色々と懲罰とかは勘弁してください。悪いことしませんし考えませんから」

 本当はそのまま帰ってしまおうかと思っていたのだが、こんな危ない連中を放置しておいては問題になりかねないと感じたクロエは、彼女らしくもなく、律儀に対応を始めるのだった。

「別に何も云ってないのですが。それで、綾葉とはどなたのことでしょうか?」

「朽木綾葉、いい加減な人です。仕返ししてやろうと考えて、その、人違いを」

 話を聞いた印象としてクロエは、まるで親の敵のことでも語るような御影と、それを呆れたように見ている藤間という対照的な構図から、事の真相としては大したことではないと見抜いた。

 しかし朽木と云う名前を聞くと、何やら引っかかるものがあったようだ。

 さらに詳しく彼女の容姿などを聞いて、その疑惑は確信に近づいていく。

「金髪のくつきさん……失礼ですが、その方の家系は京都で何代も続いていたりしませんか? あと祖先に唐の高僧がいるとか、教えを乞うたことがあるとか、そんな逸話はありませんか?」

「えーっと、なんかそれっぽいことを聞いたことがあるような気もするんですけど……つい昨日くらいに。馬だか、鹿だかよくわかりませんけど、棒切れ使ってすごいパフォーマンスしてましたよ」

「なるほど」

「もしかして、知り合いだったんですか!」

「知り合いといえば知り合いのような、違うといえば違うような……直接の面識はありませんけどね。そうですね、恋人のような、怨敵のような、兎に角不思議な縁です(出会えば公爵さまが死ぬところを拝めただろうけど、そうそうあの蛇の思ったようには行くわけ無いか。自分の娘の管理も出来ないような奴が、他人にちょっかい出すなっての)」

 どう受け取るべきかよくわからない返事に、今度は御影が首をかしげた。

「?」

「ああ、そうですね。綾葉さんのお姉さんには少なからず見当がつきました。正直、止めておいた方がいいと思いますよ」

「それは、調停者だから止めるんですか?」

 御影の、その問いかけは少し危険な香りがした。

「いいえ。この程度の事件に介入するほど退屈ではありませんから。それより貴女が心配なので忠告したくて――ここだけの話ですが、お姉さん、すごく性格悪いですよ。街でも有名な極悪人で、裏で二桁は殺してますね。家の蔵には大量の惨殺体が隠してあって、気に入らない奴は闇討ち上等、暗殺大好きな危険人物です(暇つぶし暇つぶし、と)」

「……あはは、そんなの嘘だぁ。まるきり犯罪者じゃないですか」

 殺気を発し始めていた御影もこの話には呆れたようで、彼女らしくもなく苦笑していた。

「いやいや、シュリンゲル卿。それが事実ならどうして朽木の姉を放置しておられるのでしょうか?」

 対照的に、藤間は深刻な面持ちだった。

 一流とはいかなくても一人前の魔術師である彼にとって、調停者であるアーデルハイトの権威がそこまで低いとは思えなかったのだろう。

「酷い話なのですが、ここでは向こうの意向が協会より強く働いていて……本来ならここは一種の無法地帯なのです。彼女の蛮行に眼をつむる代償に、協会と向こうの協力関係が成り立っておりまして、私も不用意に彼女に意見できなくなっているわけです。まあ、彼女一人の蛮行を認める代わりに、治安が維持されるのなら構わないというのが上の意見でして……色々と大変なのですよ(てきとー、てきとー)」

「えーっと、本当にそんな酷い人なんですか? ていうか、そんな人実在するんですか?」

 立派な肩書きを持つ人物が深刻そうに語ったのが効いたのか、御影は一転して真剣な表情に変わっていた。

「ええ、実在しますよ。んー……ほら、あのすごく目付きの悪い、髪の長い女です(偶然って怖いよね)」

 クロエは今までいた路地から交通量の多い通りに出ると、しばらく歩行者を眺めた後で、かなり遠くを歩いていた女生徒を指差した。

 その女生徒とは御影たちが探していた綾葉の姉・綾音その人である。

 しかも、クロエが吹き込んだ話が相当効いたのか、御影の第一声は――

「……うぁ、本当に殺してそう……」

「そうかね? 云われているほどの悪党には見えないな」

「藤間さん、何悠長なこと云ってるんです!? あの顔は絶対に殺しまくりです、そうに決まってます!」

「……(先入観は大事、と。髭の男は兎も角として、この娘単純すぎないか。法螺話だけで殺人鬼にされちゃったよ、彼女)」

 可哀想な人を見る哀れみの視線を送られているにもかかわらず、御影は気分を害した様子もなく、いきなりクロエにしがみついてきた。

「シュリンゲル卿、いいえアーデルハイトさん! 私があの殺人鬼を退治します、いいですね?」

「そうですか。いえ、それでしたら私の立場にも影響ないので是非ともお願いします(まあ彼女が死ねばそれはそれで利に適うし)」

「おい、綾羽くん! 勝手にそういう約束をするものじゃないぞ! そういうものは、しっかり考えた上で」

「アーデルハイトさん、つきましては、成功の暁にサンタクルス機関に推薦状とか貰えませんか?」

「貴女をあの刑罰執行機関に……ですか? 別に構いませんけど、危険のほどを理解していらっしゃいますか?」

「当然です。たくさんお金がもらえるんですよね?」

 クロエも絶句である。

 多くの真祖をして難敵と云わしめるクラリッサが、自身が信じる正義と五百年に渡る執念で築き上げた城に、よもやその程度の理由で挑もうとは誰が思うだろう?

「……止めた方が良くないか、綾羽くん」

「何云ってるんですか! これは大義名分です、私たち正義の味方なんですよ。一回やってみたかったんです、正義の味方」

 まるで先程までのドタバタなどなかったかのような変わりように、クロエは怒るのではなく、呆れた。

「……よく云うよ、誘拐しようとしていたくせに」

「え?」

 思わず本音がこぼれてしまいそうなほど、御影は無色だった。

 そう、クロエも彼女の心は読めなかったのだ。

 実際に詳しく考えていることがわかるわけではないが、他の人間なら何となく行動原理がわかる。

 しかし御影に関しては、彼女の行動が浅い思考に基づいているため、クロエでは深読みしすぎるのだ。

「いえ、何でもありません。綾羽さんが崇高な志で志願なされるのでしたら、是非、あの極悪人に裁きを下してください」

「はいっ、任せてください!」

「……(悪く思わないでよね。どっちみち彼女を狙うのは決まってたわけだし、他の連中に害が出る前に目標を定めてあげただけ、僕っていい人でしょ?)」

 クロエが思っている通り、実際に狙われているのは綾音で間違いないのだし、御影たちが他の一般人に害を及ぼすのは放置していい事由ではない。

 恐らく綾音本人でもこの選択を悪いものとは云わなかっただろう。










「貴女、私に用でもあるの?」

 クロエに頼んで少し綾音を引き止めてもらっていた御影たちは、夕方の路地裏で彼女を待ち伏せていた。

「うっ……(これは思ってた以上に怖っ。本当に殺されるかも)」

 クロエに吹き込まれた大嘘が思った以上に効果を挙げていたため、御影には目の前の少女が悪魔の類にしか見えない。

 それも魔王か何かのようにしか。

「用が無いのならそこを退けなさい。通行の邪魔よ」

 綾音にも目の前の二人――特に髭の男が魔術師であることはわかっていたが、だからといって争う理由にはならないので、そのまま通り過ぎようとした。

 それに慌てた御影は、なおも彼女の通行を阻む。

「あ、綾葉って妹がいますね」

「綾葉の知り合い? そう、その制服は確かに見覚えがあるわね」

 御影が着ていたブレザーの制服は確かに地元で見かけるものではない。

 しかし今の御影にはそんな事はどうでもよかった。

 彼女は正義の味方であり、目の前の恐ろしい女は滅ぼされるべき悪なのだから。

「悪逆非道の魔女、そこに直りなさい。て、天誅です!」

 堂々と宣言する御影に、流石の綾音も唖然とした。

「は?」

「あいさつがまだでしたね、『氣鬼使い』の綾羽御影です」

「氣鬼……本気で云っているのなら、綾葉の知り合いでも怒りますよ」

 相手の本気を察した綾音、その周りの空気がやや冷たいものに変わる。

 霊脈であるこの土地の大気に満ち溢れる魔力の流れがそこだけ異質なものになったのが感じられた。

 流石に御影も相手と自分の力量の違いに冷や汗をかき始めた。

「……(今ゴメンナサイしたら許してもらえるかなぁ? でももう色々云った後だし、やっぱ無理だよね)」

「まあそういうわけだ、適当にあきらめてもらえると助かるね。私は藤間清明、ローマで学んだ者で……彼女よりやる気は無いので、手加減してもらえるとうれしい。そう、彼女は殺してもいいが私は駄目だぞ。そこのところ気をつけてくれ給え」

 後ろから見ていた藤間がようやく口を開いたと思えば、思わぬことを口にしたので、御影は慌てて振り返って彼に掴みかからんばかりに怒った。

「藤間さん! 何初っ端から裏切ってるんですか!」

「煩いな。死にたくないのさ、私は。キミは死ぬのも本望みたいに云っていたじゃないか」

 藤間はまるで面倒な子供の相手をするようにあしらう。

 その振る舞いには綾音も苦笑してしまった。

 だが――

「うっ、兎に角! 行きますよ、この貧乳魔女……いえ、先輩のお姉さんのそれ、何でそんなに貧相なんです? 先輩と比べると、まるで何も無いみたいじゃないですか。もしかして噂に聞く、消失の魔術ですか?」

 空気が凍りついた。

 先程の威嚇とは違う、本気の殺意が御影に向けられたのだ。

「そういう侮辱は聞き流せない性質なのだけど、それを全て承知の上で云っているのね? 余計なお世話かもしれないけれど、自分の発言には責任を持ちなさいよ」

「なんだか素晴らしく直球で逆鱗に触れたようだぞ、綾羽くん」

 藤間も流石に御影が心配になってきたらしく、真剣な声だ。

「知ってますよ。でも事実ですから。ていうか、胸が無いって云ったくらいで人を殺す人なんているわけが……そんなベタな人いるわけが……って、あれ? なんか殺気が……」

 次から次へと流れ出る汗。

 まるで炎天下の夏が蘇ってきたような感覚に襲われる。

 しかしこれは暑さによるものではない、想像上の自分の死、それによるものだ。

「氣鬼使いといいましたね」

 静かな問いかけに、御影はようやく嫌なものを打ち払うことが出来た。

「え、ええ」

「そこにいる鬼では、私に勝てないわ」

 綾音の視線の先には『何も無い』。

 しかし何かが『いる』。

 それこそが『氣鬼』と呼ばれる存在であり、一般人には決して見えない、術者の魔力だけで創造された式神の一種だ。

 そしてそこに『いる』のは、身長七メートルはあろうかという金色の鬼。

 通りにいる彼女たちを威嚇するように公園から睨み付けている。

 赤い瞳が木々の上から見下ろし、その腕は今にも振り下ろされそうだ。
 
 そう、それはまさに公園を占領してしまうほどの存在感を持つ、凄まじい魔力の塊だった。

 一介の魔術師では到底調達できないほどの魔力――金色の鬼を形作っている魔力の総量は、それこそ綾音のそれを二桁も上回る。

「ふふっ、本気で云っているのならお笑いです。これ、強化してるからビルでも壊しますよ。人間なんてそれこそ紙です、紙。街で暴れたら人死にが出ると思って、こんな辺鄙なところで待ち伏せてたんですからね、感謝してください」

 創造物に絶対の自信がある御影はようやく殺意の呪縛から逃れたようだ。
 
 そうだ、コレがあって負けるわけが無い。

「そこまで自信があるのなら、今ここで試してみる?」

 しかし何だと云うのだろう?

 いい知れぬ最後の不安を振り払えない。

 綾音の根拠の無いブラフのせいなのだろうか?

 いや、そもそも彼女の言葉はブラフなのか、それは藤間にもわからなかった。

「いい度胸ですね。本当はこんなバカな勝負やるつもりはなかったんですけど、お姉さんが云い出したんですからね? 死んでも恨まないでください。ちゃっちゃとやっちゃいなさい、金氣鬼!」

「きんききって……相変わらず語呂が悪い名前だな。おまけにひねりも無い」

「煩いですよ!」

「とはいえ、詩篇を四百も使って強化したソレを舐められては困るよ。ああこちらは大損なのだから、見縊って欲しくないな」

 その言葉に、綾音はこの異常な魔力量の原因に思い至る。

 なるほど神詩篇ね、ただそう呟く。

 その間にも巨鬼は大地を蹴っていた。

 鬼の一歩で大地が揺れ、局地的な地震となる。

 恐らく鬼の姿が見えない一般人には何が起きたのかさえわからないだろう。

 そして、その拳が当たれば本当に彼女の身体は紙のように千切れてしまうだろう。

 そうだ、魔術師の喧嘩とは喩え大きな悪意が無いのだとしても、場合によってはこれほどのものになる。

「的が大きすぎるというのも、何だか興ざめね」

 綾音はただ自分に向かって飛んできた鬼に向かって、手元のナイフを投擲した。

 ただそれだけだった。

 しかし、たったそれだけの抵抗しか受けていないのに、鬼は二度と地面を踏むことはなかったのだ。

 一瞬、身体を貫かれた鬼の身体から大量の血が噴出し、空が地面を赤く染めると、次の瞬間にはそれらが消えていた。

 そんな中、身体を真っ赤に染めた綾音に睨まれ、御影は腰を抜かしてその場に倒れこんだ。

「へ……え? ええ? 金氣鬼、どうして……やられたの?」

「運が悪い、というよりは相手が誰かを良く見て戦うべきだったわね。『人形』で私に挑むなんて、愚かしい」

 綾音の真っ赤な身体から次第に赤が消えていく。

 それは鬼を形作っていた魔力が残滓も残さずに消失したことを示していた。

 そのまま投擲したナイフを拾うと、ゆっくりと構え、腰を抜かしている二人の魔術師の前に歩み寄った。

「……ああ、危なかった。ショックのあまりゲシュタルト崩壊するかと思ったよ。生還させて貰えたことに感謝、そう感謝させてくれ給え」

「……私は崩壊しちゃいました……アレで負けたらどうやって勝てって云うんです」

「お祈りは終わりました? あるいは、念仏は唱え終わりましたか?」

「……ごめんなさい。許してください。悪気は一ミクロンもなかったんです、アレはちょっとしたお茶目です。まったく悪くないとはいいません、でも本当に脅かすだけだったんです。最初の天誅云々はジョークって云うか、あれですよ、アレ……言葉の綾。そう、綾と云えばお姉さんも『綾何とか』さんですよね? こっちも名乗ったのに名乗り返さないのはどうなんでしょうね? あの時点で魔術師的な決闘は始まってないんじゃないかな……ということにはならないでしょうか? して、くれますよね? お願いです、してください。どうかこの通り、許してください」

 呆れるほど低姿勢で綾音の足元にすがり付いて命乞いをする御影。

 最初の威勢は欠片も残っておらず、見ていて悲しくなるほど情け無い姿だった。

 しかし彼女の矜持とはそれでも保たれるらしく、精神が崩壊したわけでもない。

「同じく。というより、私は悪くないので、この娘だけ処罰してくれると助かるんだが」

 藤間はあるいは死を覚悟していたのだが、主犯が別にいるのであるいは見逃してもらえることに一縷の望みを託すようだ。

 綾音としてはこういう魔術師らしい魔術師なら殺しやすいのだが。

「え? 裏切らないでくださいよ」

「裏切ってはいないよ。私は組んでいないのだから、コレは裏切りではないさ」

「……酷い」

 仲間割れを始めた二人に冷たい視線を送りつつ、彼らへの殺意を収める綾音。

 いくら事情が事情とはいえ、妹の知り合いを本人に告げずに殺すのは気が進まなかったし、二人の様子に毒気を抜かれたと云うのが正解であろう。

「では、二人とも事情を聞かせてもらっても構いませんね」

「はい」










「……なっ」

 午後八時すぎ――公明がトイレから戻ってくるとベッドの上にビデオカメラが置かれており、それを再生すると、椅子に縛り付けられた幼馴染を囲むように立つ二人組が映し出された。

『アロー、グーテン・アーベント……って、何でドイツ語なのかって? 特に意味は無いですよ。私的に、なんか悪役っぽいからです。ジーク・ハイル! とか、ハリウッド的に悪役っぽいでしょ? でもその印象ってプロパガンダなんですよ、私的にはですね……』

 二人組の一人、先日クツキと一緒にいた少女と思しき人物が頭の悪そうなことを話し始める。

 そして、まったくこの状況とは関係の無い方向に、三分間も話が跳んだままになった。

 思わずカメラを落としそうになる公明だったがそれはそれ、綾音が拘束されている以上は何かがあるに違いないと、真剣に見入った。

『――おっと失礼、しっかり見てますよね? 見て無いと困りますよ。それで、我々はアレです、アレ……エロリスト』

『違う、テロリストだ』

『そうでした、そう。魔術師的にヒエラルキーの高い人たちをどんどん殺してしまおうってスローガンの、とても活発な殺人集団です。この度は、この人、綾姉さんを赫々然々な事情で捕まえることに成功したので、これから処刑しちゃおうかなって気分なんですよね』

 表情だけは真剣に、だが頭の悪い発言を続ける少女に、怒りがこみ上げてくる。

 目隠しされ、猿轡まで噛まされた綾音の体はピクリとも動いていない。

 もしかするとクスリでも盛られたのか、そういった心配が公明の頭をよぎった。

『――で、話は長くなりましたけど、要は貴方にここまで来て欲しいわけです。もちろん一人で。何でかって? そうですね、本当に何でなんでしょう……私が思うに、ですが……やっぱ理由なんて無いんじゃないの? 一般人に毛の生えたようなのに、用事なんてあるわけ無……いや、でもですね……え? 理由くらいい聞いてもいじゃないですか、ケチ! ……わかりましたよ……気乗りがしませんけど、兎に角、理由なんてどうでもいいので来なさい!』 

「どっちだよ!」

 思わずカメラに向かって怒鳴りつける。

 しかし映像が返事をくれるわけもなく、そのまま再生が続く。

『おいおい、何をやってるんだ……少年、キミはミスタ・シノザキ、というのだね? はじめまして、私は侯爵リグノア・イム・ジア様に仕える者だ』

『え? マジですかそれ? 藤間さんがあんな大物に仕官なんて初み……』

 少女が男の名前を暴露した瞬間、男の拳が彼女を殴りつけた。

『あたた……』 

『キミはもう黙っていろ、いい加減怒るぞ……私は真祖関係者だぞ、キミ。だから、我々はキミを知っている。そこでキミについては色々と調べさせてもらったよ。ずいぶんと特別な事情があるようじゃないか?』

 少女とは対照的に、髭の男が確信めいたことを口にした。

 あるいは糸が絡まった様子の少女へ助け舟を出したようにも見えなくもなかったが。

『我々はその特別な事情に興味があるのさ。そう、特別な事情にね。そこで、取引と以降じゃないか。キミが一人で来れば彼女を解放しよう、もちろん助けを呼ぶのは無しだ。しっかり監視しているからおかしなことはするんじゃないぞ。そして、キミが抱えている特別な事情が私の創造の産物なら、きっとキミたち二人を殺すだろうね……ああ、いや、やっぱり殺すのは無しの方向で。殺さないから、ここまで来てもらえるかね? 道案内については、そうだ、ベッドの上にはカメラのほかに封筒があったはずだ。全てはそこに書いてあるから、深夜零時に来てくれたまえ。キミの到着を首を長くして待っているから』

 そこでビデオの再生が終わる。

 指示通りの場所には確かに封筒があって、その指示通りに行けば、その場所は廃工場だった。

 時間はすでに九時、それは時計を見直しても巻き戻らない。

 突然の事態に、まるで茫然自失したようにベッドに腰を下ろしていた。

 夢なら醒めて欲しい、その願いの元に頬を殴るが夢ではない。

 悪戯と思いたいが、趣味が悪すぎるし、髭の男たちと綾音の接点が見出せない。

「いきなりなんだってこんな事に……」

 街にいる連中の反応から、真祖が黒幕と云うことは無いだろう。

 しかし少女がいたと云うことは、あるいはクツキが黒幕なのかもしれない。

 アーデルハイトの云う通りなら彼女は相当な術者だと見て間違いないし、その線で考えればさほど矛盾は無い。

 だとすれば、彼女は公明の秘密に気づいた魔術師と云うことになる。

 髭の男がそれに近い発言をしていたこともあって、予感は確信に変わった。

 だが、一人で助けに行ったとしてどうにかできると云うのか?

 相手は恐らく三人以上。

 しかも全員が魔術師で、綾音が囚われていることから考えて、相当腕は立つのだろう。

 公明の頭の中でシミュレーションが開始される――結果はどれも敗北しか導き出せない。

 当然だ、先頃の戦闘でさえ一般人と変わらない吸血鬼を相手に死にかけたのだし、あの厄介な魔導書を差し引きで考えても、彼にとっては今回の方が強敵であるように思えたのだから。

「ああっ、くそ! どうすりゃいいって云うんだよ……」

 玲菜かアーデルハイトに連絡すればあるいは、何かしらの手が打てるのかもしれない。

 しかし髭の男は監視しているといっていた。

 それが事実であるかどうかを確かめるすべは無いし、仮にあの言葉が真実なら悲惨な結果になるだろう。

 『だが』、『しかし』、『でも』……彼の頭の中を巡るのはその言葉だけ。

 素晴らしい妙案が思いつくわけでもなければ、思い切った選択も出来ない。

 しかし時は待ってはくれず、刻み続ける。










「綾姉さん、こんなのに何の意味があるんです? アレですか、恋人の愛を測りたいとか、そんなベタな事考えてないですよね? 大抵侮辱と受け取られますよ、そういうタイプの試みは」

 街外れの工場に、御影の元気のいい声が響く。

「まさか……愛を測るなんて、そんな品の無い真似、私がすると思って? それこそ侮辱よ」

 一人椅子に腰掛けたままの綾音はやや云い淀みながら返事をした。

「では、一体何の意味が? 正直、協力するだけで先の無礼を許してもらえるのなら、私たちは万々歳だが……何と云うか、意義とは意味を知らねば見いだせないものなのだよな、これが。そうは思わんかね、綾羽くん?」

 藤間と御影はいつ公明がやって来てもいいように準備を整え、工場の機器に背を預けていた。

 カビ臭い場所ではあったが、月明かりは十分に差し込んでいたし、僅かながら明かりも灯っていたので周囲も見渡せる。

「ですよねー? 云っておきますけど、試されてキレる男がいるのはマジですから……って、綾姉さん、何青くなってるんです?」

「えっ、気のせいじゃないかしら。青くなんてなっていないわ。そう、意味ね、意味は……あります」

「何だね? 意義が見出せるものならいいのだが」

「これは……彼を試すための実践訓練です」

 藤間と御影はキョトンとした表情だ。

「いや、それって私が云った奴じゃないですか」

「違うわ。これは彼の戦闘経験を高めるための訓練で、貴方たちにはそれなりに本気で彼の相手をしてもらいます」

 綾音は自分が何を云っているのかすでにわからなくなっていた。

 もしも本音を暴露してしまえば、あるいは浅い謀が公明の耳に入ってしまえば、全てが終わる気がしていたのだ。

 しかし思った以上にスラスラと言葉をつむぐ自分に、半ば歯止めをかけようとして、それが出来ない。

「殺しちゃってもいいってことですか?」

「勿論よ」

 云ってしまった――その場で頭を抱えたくなったが、プライドが邪魔をしてそれをさせてくれない。

 年下の御影に知ったようなことを云われて冷静さを欠いていたことが原因だろう。

 あるいは魔術師として格下であると見下していた彼女への、卑しい対抗意識があったのかもしれない。

 それらを全て自覚しながら、止める言葉が出てこない。

 いや、いい方向に考えるんだ。

 いまさら止められないのなら、このまま貫き通せばいいのではないか?

 いざとなれば自分が止めればいいし、彼が一人で来てくれるならそれはそれで見上げたものだ。

 それに、そんな光景が見てみたい誘惑はすでに押し留められないものだった。

「流石に生粋の魔術師と云うべきなのだろうが……私見だと、鬼だぞキミは。誑かした男のレベルアップにここまでやるとは、信じられん。使い捨てられる彼が不憫だ」

「いっ、いえ、私はそこまで云ってな……それに、本当に殺すのは無しですからね! そこを忘れないで」

「いや、尊敬します。すごくアクイですよ、綾姉さん! 私も本気でレベルアップに協力します……確実に殺す気で!!」










 前回の投稿からかなり間隔があいてしまってすみません。
 私的なことではありますが、資格試験や何やらがあったもので。
 多々直したいところを直すべきだったのですが、その辺りはまだ手が回ってません。
 なのでご指摘いただいた方々、すみません。
 

 



[1511] 第四十八話 『招かれざる狩人』
Name: 暇人◆b3ee6d92 ID:001e4838
Date: 2007/11/20 01:02








「えいっ」

 目の前で携帯電話を弄っていた綾音に突然手を伸ばした御影。

「なんのつもり?」

 綾音はギロリと御影を睨む。

 御影の手はしっかりとその胸元を捉えていたのだ。

「なんか変だと思ってたらやっぱり! コレが噂の『着痩せ』だったんですね」

 何やら興奮気味の御影は睨まれても手を離す気配さえ無い。

「……」

 呆れているだけだった綾音の視線は、徐々に哀れみのそれに変わっていくのだが、それさえ今の御影は気にしない。

「少し揉ませて下さい。是非今後の参考にしますから」

「何の参考です!」

「聞いて驚かないでください。こう見えて私、S級鑑定士なんですよ」

 御影はさも偉業を語るように胸を張って答えた。

 その意味するところはわからなかったが、碌なもので無い事だけは察しがついた。

「S級、鑑定士?」

 ポツリと繰り返すその声から呆れているのが十分にわかる。

「ゲームの話だよ。それも極めて低俗な」

 脇から見ていた藤間の言葉には侮蔑が込められていた。

「低俗って何です! バカにすると怒りますよ」

「ゲーム外でそれを口にしている時点で区別がついていないだろう? まったく、だからキミは」

「そう。ゲームと現実の区別がつかない口なの――どちらでも構わないけれど、さっさと手を離しなさい」

「もう少しだけ。それと、そんなベタな人いるわけないじゃないですか! 区別はついてますよ!」

「早く手を離せといっているのだけど?」

 なおも強く睨まれると、抵抗する力も無くなったのか、名残惜しそうに胸から手を離した。

「うぅ、減るわけでも無いのに。ゲームだとむしろ増えるんですよ……で、今のでフラグ成立しました?」

「……まったく。それより、彼の到着まで時間がそれほど無いから準備を始めなさい」

 予定通りなら到着まであまり時間は無い。

 仮に三人が話しているときに到着されれば眼も当てられないだろう。

「来る事前提で話すんですね。来るわけ無いじゃないですか」

「来るわ」

「来ないな。キミの話では彼は素人だそうじゃないか。それが術者二人に勝てるわけが無いだろう」

「それでも、彼は来ます」

「常識的に考えて、それがまともな行動だと思うのかね? 合理的じゃないぞ」

 来たら来たで面倒な事になると考えていた藤間はむしろ自身の願望を伝えている様子だ。

 対する御影は純粋に来ないと思い込んでいるらしい。

「そうですよ、大体何ムキになってるんです? 来ない方がむしろ常識人でしょ、来たら救い様の無いパーですよ」

 綾音は否定的な二人の言葉に反論したくてたまらなかったが、確かにこれ以上主張する事にも意味が無い事を悟った。

「そうかもしれないけど……いいえ、確かにそう。私がムキになる必要は無いわね」

「でしょ。それより、綾姉さんがボスやるんですか?」

「私が?」

「ええ。さっき『人質役なんてやったらばれちゃうから、マネキンに代わりをやらせる』って云ったじゃないですか」

 御影の言葉通り、椅子にはすでに綾音の代わりを務めるマネキンが縛り付けられていた。

 明らかにそれとわかるし、ビデオに映っていた本人とは別物に見えるが、ここに来てしまえばそんな事はいくらでも誤魔化せる自信があったのだ。

「でも私が黒幕をやるとは云っていないでしょう。第一、黒幕などやれば人質をするよりなお悪いじゃない」

「だから変態マスクをつければいいんでしょうが! そうです、パピヨンマスクとか色々あるじゃないですか」

「……貴女がつければ?」

「で、黒幕をしないのならキミは隠れてみているだけかね?」

 どこか非難めいたものを感じさせる藤間の物言い。

 御影が単純すぎる思考から非難しているのとはまた別の意味が感じ取れた。

「ええ。万が一にも私が関わっていると思われては駄目、そういうことになったの」

「また無茶を云う。女の我侭は綾羽くんだけで十分だと云うのに」

「私にも汗を流せと?」

「そう、まさしくその通りだよ。欲を云えば、何かしらの秘術の断片でも見せてもらいたいものだな」

 豊かな髭の魔術師は、その紳士的な外見に隠れた狡猾さを僅かに晒していた。

 それほど綾音に興味があったのだろう。

 綾音も迫られてすぐに奥の手を見せる気にはならないが、少し考えた後、徐に――

「……貴方が一番怖いのは誰?」

 無表情のまま問われた質問に、二人はあまり考える時間もかけずに続けて答えた。

「怖いものなど無いさ。『己の死』以外にはね」

「私はキレた時の先輩ですかね」

 綾音が望んでいた答えは御影の方だ。

「神詩篇を提供してくれるなら、お望み通りの秘術を見せてあげましょう。ところで――綾葉が黒幕ということにしても構わないわね?」










 そこに到着したとき、周囲に人気は無く、異質な気配が感じられた。

『ふむふむ。これはまずいな』

 鞘の上から布をかけられたままの剣・センナケリブの雷撃がポツリともらす。

 何がまずいのか、今夜だけは告げらる前にそれを理解できた。

 ここは間違いなく敵の庭――魔術師の結界の中だ。

『ふふっ』

 こちらの心の裡を読んだかのような、挑発にさえ聞こえる嘲笑。

 いや雷撃は実際に楽しいのだろう。

 その予感には不思議と確信が持てた。

『注意を怠れば即、死――ここはそのような空気に満ちておる。さぞ高揚しよう?』

「誰が」

 死んでもおかしく無い状況を楽しめるほど異常な性格であってたまるか、そんな憎まれ口も今は控えることにする。

 無駄口を叩く暇はないのだ。

『……せぬのか。つまらぬな』

 雷撃はそれだけ云うと、とたんに黙り込んだ。

 恐らく敵の陣深くに足を踏み込んだからだろう。

 すでに危険な気配は結界の外の十倍以上、そんな気がする。

 約束の場所――目の前の工場はすでに廃業していたようだが、その内部には明かりが見えた。

「ここか」

 今一度、深呼吸して自分自身を落ち着かせる。

 やはり浅海たちに連絡を入れるべきだったのだろう。

 しかし相手に探知されるかもしれないと思えばそれも出来なかった。

 それが間違っていたのか、あるいは正しかったのか、今はそんなことさえわからない。
 
 今確信できるのは、ここに突入する以外に方法が無いということだけだった。










「ちょっ……本当に一人で来ちゃったんですか?」

 工場に入ると、灯りの下に三人の人影が見えた。

 そのうちの一人――どこか知らない学校の制服姿の女魔術師はこちらを見ると、呆れたような声でそう云った。

 憎まれて然るべき事をしておきながら、その態度から罪悪感を感じているようには見えない。

「彼女の予想が的中とはまったく、計算違いだぞ。何という無鉄砲ぶり、何という愚かさかね!」

 手品師を連想させる髭の男も少女同様に呆れているらしかった。

 正面から来たのは確かに無謀かもしれない。

 しかし向こうは最初に交渉を持ちかけてきたのだ。

 綾音を危険に晒す不意打ちなど出来なかったし、その時間的余裕も無かった。

「お前ら、さっさと綾音を解放しろ!」

 二人の背後の椅子にロープで縛り付けられている綾音に聞こえるほどの声でそう云った。

「……なーんか、あの人面白い事云ってますよ?」

 こちらの行動が面白かったのか、あるいは予想していなかった故のギャップからか、御影はこちらを嘲笑う。

「そのようだな。しろと言われてする馬鹿者が何処にいるものかね」 

 藤間も手袋を嵌めた右手から精緻な装飾の施されたペンデュラムを垂らし、小さな円を描くようにそれを振り回した。

 子供が遊ぶようなその所作に深い意味があるのかどうかはわからないが、こちらに攻撃する前触れのような予感がした。

「約束を破るつもりか!」

 緊張で震え始めた手が布のしたの剣に触れる。

 こちらとしては精一杯の威嚇のつもりだった。

 元より戦闘に発展するようなら勝ち目の無い勝負――向こうから仕掛けて来ない限り、こちらは絶対に手を出したく無い。

 だが、そんな願いは一蹴される。

「カッコつけても駄目ですよ、おのぼりさん。ヒーロー気取りかもしれないですけど、現実はそんなに甘くないんです!」

 御影がそう口にした瞬間、椅子に縛られていた綾音の身体が砕けたのだ。

 それはあっという間で、『やめろ』の一言さえ発する余裕が無かった。

「あやっ……いや、マネキンか?」

 砕け散った破片を見るまでも無い。

 人間の身体があんな奇妙な砕け方をするわけが無いのだから。

 その瞬間、無様にも自分が罠にかけられたと自覚した。

「元々誘拐なんてして無いんですよーだ! よくある展開ですが、電話くらい入れて確認しなかったのが悪いんですからね」

 同様のあまり、こちらを馬鹿にする言葉にも即座に反論できなかった。

「そういうことだ少年。まあこれも人生勉強、潔く消えてくれたまえ」

 二人の魔術師がこちらを嘲笑っていたとき、手元の雷撃の鋭い言葉が響く。

『マスター、何を呆けておるか! 早く右に避けよ!』

 差し迫った危険を伝えたその言葉に停止しかかっていた思考が復活し、思わず右前方に身を屈めながら飛んでいた。

 着地と同時、床が震える。

「え?」

 雷撃の声に身体が反応しなかったらどうなっていただろう?

 着地の際に感じた振動は、今まで立っていた場所に何かがぶつかる衝撃だったのだ。

 その衝撃はかなりのもので、コンクリートの床には皹が入っていた。

「へぇ、魔術も使えないくせに見えるんですね。私の氣獣が」

 不可視の獣を従える女魔術師は、最初のマネキン破壊で十分にこちらの注意を奪ったと思っていただけに、必殺の一撃をかわされた事が少し意外だったらしい。

『あれは下等な霊鬼の一種だ。しかし厄介なものを!』

 すでに布を取り払われた剣の声は冷静に状況を分析し始めていた。

「もう一度自己紹介しておくと、氣鬼使いの御影です。お金は無いですが、歴史だけは誇れる超名門のお嬢様だったりします。すごいでしょう? 庶民さんにも今だけ許してあげますから、存分に崇め奉ってください」

 胸を張って得意満面の御影。

 頭が悪い事は確かだが、とても性格まで悪い奴には見えない。

「……キキ使い? ……おい雷撃、キキって何だ?」

『先程死んでおけばよかったな――霊鬼と云ったであろう!』

「ふふっ、怒られてる。まあこれはランクが一桁落ちる氣獣の方ですけど、凶暴な氣虎ですから、気を抜けば死にますよ」

 眼に見えない虎がこちらの周りをうろついている――しかし、それを告げられてもなおその姿が見えない。

 背中を汗が伝う。

 不可視の恐怖が指の先を震えさせた。

『落ち着け。そして私の声に耳を傾けるときのように集中しろ』

 こちらの同様を文字通り肌で感じ取った雷撃が冷静な声で告げてきた。

「落ち着けって? この状況でか?」

 武芸の達人でもあるまいし、そんな才能は無い。

 不可視の虎を目の前にして冷静でいられるものか。

 しかし雷撃はこちらの不安を見透かしたように一喝した。

『馬鹿者っ! この状況だからこそだ。単純に目で見ようとするな。最初は奴の呼吸を聞く事だけに神経を研ぎ済ませろ』

「……」

『あの虎は魔力が十分に通っていないし、術者の未熟さから編み方が荒い。故に現実のものより動きがかなり緩慢だ。安心しろ、マスターが真に危険なときは必ず警告する。それに耳さえ傾けてくれれば、この程度の敵には殺させはせん』

 いつに無く真摯な言葉に、今まで動かなかった指にようやく感覚が戻ってきた。

 虎はこちらの隙をうかがいながらなお周囲をうろついているのだろうが、御影に攻撃の意思が希薄なのか、二撃目は未だに訪れていない。

「……わかった」

 目を閉じ、雷撃の言葉を初めて聞いたときのような感覚を思い出す。

 周囲の音が一つずつ消えていく。

『正面から飛び掛ってきた! 早く左にかわせ!』

 それを皮切りに、都合七度目の襲撃をかわしきったときだった。

 わずかに荒い息遣いが聞こえた。

 雷撃のものではない――雷撃は決して呼吸を乱してはいなかったからだ。

 では、これが虎の呼吸だろうか?

 呼吸が聞こえる方を向き、そこにいる虎を睨みつけるつもりで目を開いた。

「っ!」

 思っていたよりはかなり小さいが、それでも優に二メートルはある虎がそこにいた。

 身体の大部分は透けていて、縞模様は濃淡でしか見えなかったが、今そこにいる事を確認するには十分だった。

『ふっ、よし! それでよい。反撃を開始するぞ』

「ああ!」

 今度はまっすぐ虎に向けて剣を構える。

「何かやばそうですね。氣虎、さっさとやりなさい!」

 今までとは何かが違うと感じた御影の命令を受けた虎がこちらに狙いをつけて襲い掛かってくる。

 確かに虎は怖い。

 ネコ科で動きが速いし、身が軽い、力もある――だが、これは現実の虎とは明らかに違う。

 不可視という利点を得た代わりに、現実のそれよりずっと緩慢なのだ。

「うおおおお!」

 本能的恐怖を克服するための叫び声と共に、手元の剣・センナケリブの雷撃は襲い掛かってきた虎の前足を刎ねた。

 すると、何も無いはずの空間からこちらに向かっておびただしい流血が起こり、虎は唸り声を上げながら床に転がった。

「なんで? もしかして、さっきの本当に見えてたんですか?」

 唖然とした表情の御影は、自分の虎が敗れたのを納得できていない様子。

 苦しみもがく虎が床に転がったまま暴れ続けているのを、ただ見つめているだけだった。

「……やった」

『ふむ。止めは要るまい、手負いの獣ほど近づいて危ないものは無いからな』

 身体を赤く染めていた血が気化するようにして消えていく。

「なるほど。綾羽くん、あれはただの剣ではないようだ」

 戦いの様子を一人観戦していた藤間が何かに納得したように云った。

「え?」

「少年が持っている得物だよ。あれから迸る力は尋常じゃない、恐らく高位の精霊だろう。そうでなければ、ただの人間がキミの氣獣を傷つける事は出来ないからね」

「へぇ、あれが魔術関係のアイテム。だから喋ったわけですか?」

「そういうことだ。重火器でも傷つける事が出来ない幻想の生き物を殺すというのだから、これはあれだろう? いわゆる魔剣や聖剣の類と云う事になるな。それも今の一撃からは私の相棒に近しい気配が迸っていたよ」

 藤間の言葉を聞いた雷撃は感慨深げに告げた。

『ほう。貴様よりあちらの方が理解力があるらしい』

 こちらを見捨てるわけではないのだろうが、この場面でいわなくてもいいのに。

「あっちの実力とかはどうなんだ? その、お前の目で見て」

『娘の使役する獣は大したものではない、もう克服したしな――が、あの男は強い。確認しておくが、一流の霊媒師を相手にするのは初めてか?』

 霊媒師と云う言葉はかすかに聞いた記憶があるだけだ。

「当たり前だろ。大体、霊媒師ってなんだ? イタコか?」

『精霊召喚魔術師、といえば良いのか? しかし知らぬならやめておけ。この前のときよりなお悪い、足掻いても勝てぬぞ』

「っ! この前のアイツより強いのか?」

『あれは真祖といっても道具に頼りきり。魔導書を除いた純粋な戦闘能力なら、むしろ貴様の方が上だったのではないか』

「アイツは違うってのか?」

『どのようなカラクリかは知らぬが、下等な同族を二柱ほど使役しておる。貴様はそれでもなお勝てるというのか?』

「……」

 それはこちらを沈黙させるには十分な言葉だった――雷撃に近しい存在を二柱従えているって?

『右手に二、そのうち一柱からは濃密な石の匂いが漂っておる――貴様らが悪魔と呼称する存在のようだな』

 しばらく雷撃の声に耳を傾けているうちに、苦しんでいた虎が跡形も無く消えた。

 命が尽きたのではなく、御影が消したのだ。

「なかなかだったよ綾羽くん。次は私の番だな……『セビリアの風』、この世で最も速き者よ――」

 御影の手管に拍手喝さいを送った直後、藤間の手元から垂れていたペンデュラムが淡い青の光を放った。

『いかん! 来るぞ、それも恐ろしく速いのが』

 雷撃の言葉を受け、虎のとき以上に精神を集中させた。

 一瞬の注意不足がしにつながるくらいの心持で、藤間のペンデュラムを睨んだ。

「ははっ、甘いぞ少年。攻撃だけが全てで無いと知り給え」

 青が紫に変わったかと思った瞬間、目で捉えていたはずのペンデュラムが消えた。

 その痕跡を追う事とも出来ない速度で空を駆けて行ったらしい。

「くっ、なんつう速さだ! ……えっ?」

 一瞬目を疑った。

 工場の壁、床、天井、その全てに凄まじい速度で何かが描かれていくのだ。

 青い軌跡が数字を、文字を、巨大な円を、次々と描いていく。

『魔法陣の、作成が狙いだと?』

 こちらよりも遥かに速く、その軌跡を捉えただけで的の思惑に気づいた雷撃が叫んだ。

「立体積層型魔法陣、と云うものを知っているかね? まあ知らなくても構わんよ」

 藤間の手元を飛び立ったペンデュラムの鎖はそれこそ無限に伸びているのではないか?

 それも決して絡まらない絶妙な感覚で。

「神詩篇五十項ほど投入しますね」

「大盤振る舞いで構わん、百行き給え」

「了解です。ふふっ、死んでも恨まないでくださいね」

 御影はニコリと微笑むと、古めかしい本を取り出し、何か呪文のようなものを口にした。

 その短い詠唱が終わると同時、本が青い炎を放って燃える。 

 しかしその全てが燃えるのではなく、そのページの一部が燃えたらしい。

 ページが燃えるたび、工場中に描かれた魔法陣が青から白へ放つ光を変えていく。

 その様はさながら光の庭園だ。

「真祖相手のつもりだったんだがね。まあ予行演習としてはちょうどよかろう。この私に勝てるものならやってみ給え」

 もはやこの空間はただの魔術師の工房などではない、詳しい呼び方は知らないが、絶対にもっと厄介なものだろう。

『まずっ、来るぞ! はやく、足元の円を斬れ! 急げ!』

「え?」

「ははっ、じっくり殺すのは止めにするよ。死に給え!」

 剣を振り下ろすのと、藤間が指を弾くの、そのどちらが先立ったのだろうか?

 床に触れる感触と目の前が白熱したのは同時だった気がする。

「うぉ」










「いい燃え方ですね」

 目の前で起こった爆発を眺めながら、御影が楽しそうに云った。

「ふむ、実に……」

 しかし、藤間が同意しようとしたとき、炎の中に人の気配がある事に、二人同時に気がついた。

「え?」

「……やばかった」

 足元の魔法陣に突き刺さった雷撃を引き抜くと、思わず尻餅をつく。

 爆発が起こったのは、砕けた魔法陣の外壁。

 つまりこちらには直接ダメージは届いていないのだ。

「なかなか面白い事をするな。まあそれも無駄な抵抗というものだがね」

 藤間がそう云うと同時、なんと床の魔法陣の上に、別の魔法陣が上書きされた。

 それだけでなく、今いる場所を中心にして空中にも円を描くように、緻密な円陣が組まれた。

 しかも先程より巨大で、とても目の前の床を突き刺したくらいでは破壊できない代物だ。

「『セビリアの風』を甘く見ないで貰おうか。魔法陣の破壊など、我々にしてみればどうでもいいことなのだから」

 藤間はすぐさま次の攻撃を開始しようとする。

「嘘だろ……なあ、おい回避する方法は?」

『……すまん。コレを破壊するのは間に合わん』

 雷撃の声は苦渋に満ちたものだったが、こちらはそれ以上に――

「さようなら、少年」

 言葉が終わる前に、指が弾かれる。

 目の前が、いや、円の中の全てが白熱した。

 爆発と同時に音が消えた。 

 だが。

 なぜか、いや無効化してしまったからだろうか?

 焼けていなければおかしいはずの身体には火傷一つ無い。

 光が消え、辺りが落ち着きを取り戻したとき、唖然としている藤間と御影が見えた。

『……毎度毎度マスターの出鱈目さには驚かされる……極大の一撃で無傷とは』

「いや、俺も死んだかと思った」

 そう、本当に死んだかと思った。

「馬鹿なっ!? 何だと云うのだ、何故彼は……いや、これが彼女が少年を試したわけ?」

 藤間の叫び声は爆音のためにジンジンする耳にも届いた。

 今までの落ち着き払った様子とは違い、本当に動揺しているらしい。

「藤間さん、まぐれですよ。まぐれ」

 言葉の割りに御影も動揺は隠しきれていない。

 その声は完全に棒読みだったのだから。

『マスター、敵は動揺しているぞ。先の戦いでの教訓もあるだろう? こちらの特性が露見する前に一気に叩け!』

 雷撃の言葉どおり、スタニスワフには無効化の思わぬ隙を突かれた。

 だから今回もそれを許すつもりは無い。

 もはや後先を考えることなどせず、雄たけびを上げると、ただ剣を構えて二人の魔術師に向けて走った。

「くっ、来るな! ええい、この土地で間に合うかどうかは知らんが、『遍く者たち、うち捨てられし者たち、栄光を知らぬ者どもよ、盾捨て、我が寄る辺に馳せ参じよ! 亡霊騎士団(ナイツ)よ!!』」

 藤間たちの目の前に描かれていた七つの魔法陣が光を放ったかと思うと、その場に鎧兜で武装した侍が七人現れ、こちらに刀を構えた。

 膨大な数の魔法陣と詩篇が供給した大量の魔力が形を与えた亡霊の群れ、過ぎ去った時代の残り香は一人一人がこちらよりも遥かに上の達人なのだろう。

 だが、今足を止めれば相手に立ち直る機会を与える事になる。

 だから止まることなく、こちらも剣で応戦した。

『安心しろ。この手の降霊術は仮初の肉体を魔術で与えておるに過ぎん……貴様には指一本攻撃は届かん』

 雷撃の言葉に励まされ、身体はさらに加速した。

 本来なら喉を突かれたにも拘らず無傷のまま、最初の一人を切り伏せ、次の一人も、そしてその次も……

「馬鹿なっ! 伝説級の剣の達人だとでも云うのか、彼は!」

 角度の問題だろう、藤間たちからは実力で倒しているように見えたのだ。

「拙いですよ、藤間さん! 来ちゃいますって!」

「わかっている! キミは黙っていろ!」

「でもでも、こんな達人相手に勝てるわけが……先輩でも無理かも。ね、代わりに、藤間さんの怖い人呼びましょうよ」

「くっ、七人全部を無傷で撃破だと? 冗談じゃないぞ、まったくコイツは……わかった、綾羽くん、さっさとクスリを!」

 最後の一人を切り倒し、三重の妨害結界を突っ切って、二人の魔術師のいる場所に迫る。

「このっ、おのぼりさんは来るなって云ってるでしょう!」

 御影が懐から取り出した、何十枚という呪符が宙を舞った。

「本気で死んでください! 我が剣、忠実なる第一の従卒に命じる、領域を侵すものを排除せよ――やっちゃって氣蜂!」

 舞い上がった全ての呪符が紫色の火の玉となった。

『なっ! まず……早く止ま――』

 本来なら止まるべきだった。

 目の前に展開された数百の蜂を目の当たりにしていれば、絶対に止まっただろう。

 しかしこのときはまだ小さな敵を捉える事が出来なかったのだ。

 だから、まったく気にすることなく蜂の群れを突っ切っていた。

 そう――まるで何の妨害も受けることなく。

『馬鹿な! これも無視するのか、貴様は……何と出鱈目な』

「嘘、氣蜂は攻撃だけなら最強なのに! ずるいですよ、反則ですよ! なんで痛がらないんです? なんで走れるんです!?」

 御影はもはや冷静さを失ってその場で腰を抜かしていた。

「ええい! 延びろ!」

『――っ! 逃すな、そこの↓を突き刺せ!』

 一瞬、二人との距離が、いや床が延びようとしたのだが、雷撃を突き立てると、それを可能にしていた結界が砕かれ、距離が正常に戻る。

 そして、すでに二人との間にほとんど距離は無い。

 藤間が何かを飲み込んだのが見えたが、もはや何が起こっても怖く無い気がした。

「うおおお!」

 剣を振り上げ、藤間一人に狙いをつけて切りかかった。

「私を、この藤間清明を舐めるな!」

「くっ」

 藤間は何処からか取り出したステッキでこちらの一撃を弾くと、手袋を外した右手を翳した。

「うっ、なんだ、コレ?」

 右手の手のひらにあったのは一つの『目』だ。

『まずっ! 目を閉じろ!』

「え?」

「終わりだ、少年。『青のラピス』よ、奪い去れ」

 勝利を確信した藤間はそれだけ口にした。

 この世界で魔術師が悪魔と呼ぶ者の一柱、ラピスは石化の呪いを持っている。

 だから本来ならこのときに勝負は決まっていたはずだった。

 だが――










「……あれ?」

 次の瞬間、自分の喉下に雷撃が突きつけられている事を知って、表情が完全に固まる。

「チェックメイトだな、オッサン」

「……ふっ、あはははははっはあはは、何だこれは? ブロンシュテインのロガテス=アルマティアでも使っているのかね?」

 藤間は奇妙な事を口走りながらも、敗北を認めたらしく、ステッキを捨てた。

「ロガテス、何だって?」

『ブロンシュテインは占星術の名家だ。ロガテス=アルマティアとはその門外不出といわれる、絶対の防御法と聞く』

「いやいや、そんなの尚の事俺が知るわけ無いだろ。オッサンも、それくらい考えろよ」

「まあいいさ。私の知らぬことなど山のようにあるからね、これもその一角なのだろう。ははははは、まったく、彼女の言葉に乗った報酬がコレとは……貰いすぎだな。そう思わんかね、綾羽くん?」

「……黙っててくださいよ! 逃げ損ねたじゃないですか!」

 こっそりとその場を立ち去ろうとしていたらしい御影は急に声をかけられたため、思わず本音を漏らしていた。

「――綾音には手を出して無いんだな?」

 武器を捨てた藤間に対して、未だに剣を突きつけたまま問うた。

 藤間はまるで悪気が無い様子で軽く肩をすくめて見せる。

「出すわけが無い。云っておくが、我々と彼女は――」

 藤間が何やら口に仕掛けたとき背後で凄まじい轟音が鳴り響く。

 三者三様に音の方向を見つめると、そこには見た事も無い外国人の女……いや、女と云うには少し若い、少女が立っていた。

 片手にはライフルを持ち、黒のスーツを着込んでいる。

 口元には年齢に不相応なタバコ。

 それに火をつける手つきは実に手馴れていた。

「誰? お前らの知り合いか?」

「……アレが私の恐怖か。最悪だな」

『確かにな、あれは最悪だ』

「え、誰なんです? 藤間さんの元カノですか?」

 少女はこちらを見つめたまま何か考えているようだった。

 そのままの状態でこちらと二分程度にらみ合った後、突然口を開いた。

 それは聞いた事も無い国の言葉。

『……そうか。何故私がここにいるのかは理解した』

「おい、アイツ何者だ?」

『奴は執行機関の長ヴァン・ヘイデン卿クラリッサ。世で五指に入る魔法使いだ』

「えっと、それって良い奴って事か?」

『さてな……だが銃には気をつけろ。奴は狙った的を決して外さぬ』

「それって、あの魔弾の射手みたいなもんか?」

『馬鹿っ、そんな生易しいものでは無い。奴は星の反対側の人間さえ殺す――それも、一人の例外もなくな』

 少女は離れた場所にいながらこちらの会話を聞き取ったらしい。

『誰かと思えばセンナケリブの雷撃か。鞘から引き抜かれたままずるずると使役される身に落ちるとは、恥知らずな奴だ』

 いきなり雷撃を名指しして侮蔑の笑みを浮かべた。

 ああ――確かに彼女は吸血鬼だ、と確信させられる。

 あの赤い瞳は、今まで出会った連中と何も変わらない冷たさを感じさせるものだ。

 立場が違えど同根と云うことだろう。

『趣味の悪い覗き魔め。心を透かして何が楽しい!』

『自信過剰は相変わらずか……醜いものを見て楽しい訳が無いだろう。それに、今驚いているのは貴様だけではない』

 床にタバコを投げ捨てると、それを踏み消す。

 その仕草は映画を見ているみたいに自然で、黒光りする得物が動くのを見落とすほどだった。

『なに?』

『正直に云ってしまえば、こちらも例外を前にして戸惑っているが実情だ』

 次の瞬間、ライフルの銃口がこちらを向いた。

『さて魔術殺し(スペル・ブレイカー)――我が弾丸は全ての例外を許さぬ。答えろ、貴様は一体何だ? 何故、心が読めない?』

「……雷撃、あのキレたお方は何て云ってるんだ?」

『全知全能の自分が世界の矛盾を解消するとかどうとか、私にもよくわからん戯言だ。気にするなマスター』

「絶対嘘だ!」

『大声を出してどうしたというのだ? そうでなくとも、私の話など適当にしか聞いていないのだろう?』












[1511] 第四十九話『銀の杖』
Name: 暇人◆fe52e7ac ID:256e0e9c
Date: 2008/03/23 00:38








『質問に答えろ』

 ライフルを構えたまま二本目のタバコを口にした少女が凄んだ。

 しかし英語さえままなら無いのだからそれ以外の言葉がわかるわけもない。

 仮にわかったとしても、彼女が喋っている言葉を話せないのだからどうしようもない。

「アナタ、ニホンゴわかーりますか?」

 何百年も生きているのなら話せるのが普通だと、勝手に仮定してフレンドリーに話しかけてみる。

『……なんと云った?』

 彼女はまるで理解できていないように首をかしげ、不機嫌そうに眉を寄せただけだった。

『貴様、阿呆か?』

「キミも気の毒にな。だが死ぬときは自分だけで死ね」

「おのぼりさん、こんな状況で何ふざけてるんです! 自重してください」

 三人からは非難を受け、肝心の少女はより不機嫌になった。

 しかし雷撃の奴が通訳しないのが悪いのに、どうして非難される?

「おい、いい加減アイツと会話させてくれ」

 手元の剣に声をかける。

 これ以上会話をさせてくれないならいっそ捨てるぞ。

『無駄だ。奴を説得できるわけもないし、勝てるわけも無い。会話がこじれて殺されるのが落ちだぞ?』

 剣は最初から説得が失敗すると考えているらしい。

 返事が適当過ぎる。

「それでも話したいんだよ!」

『面倒な男だな。弁が立つわけでも無かろうに、要らぬことばかりに気を廻す』

「それは本当に余計な世話だ」

『……よいよい、通訳してやる。どうすればよいのだ?』

 意地悪ばかりするくせに何故こまで高飛車な態度をとるのだろう、この剣。

「アイツが何云ってるか教えろ」

『どうして心が読めないのか、それに答えて欲しいのだそうだ』

 いきなり答えの無い質問だ。

 そもそも心が読めるのか、アイツは?

『ほら、何と回答すればよいのだ?』

「う、そうだな……俺には心が無いって答えろ」

『悪ふざけが許される相手かどうか考えてものを云え馬鹿者が。勿論、その相手には私も含まれる』
 
「じゃあ答えようの無い質問になんて答えりゃいいんだよ!」

 他に答えがあるのならふざけるわけが無い。

 しかし真面目に答えるにしても、理由が本当にわからなかった。

『貴様はそれでも話したいといった……ソレにしては情けない対応だな」

 呆れたような声が頭に響く。

 ああ悪かったよ、こっちが甘過ぎた。

「だけど仕方ないだろ! どうしろっていうんだ」

『知らん。しかし心が読めないのか、奴でも』

「あ?」

『奴は公爵ほどには長く生きていない。ほぼ八分の一くらいのものだろう……この意味がわからぬか?』

 四千年クラスの大真祖二人と肩を並べる、あるいは並べようとする五百年足らずの吸血鬼。

 その行為にどれほどの困難があるのかは知らない。

 しかし容易なことで無いのは察しがつく。

「どういうことだ?」

『奴は人としての性能が異常に高い』

「魔法使いとして一流って事だろ?」

『それは事実だが、そういう事ではない』

「?」

『奴も超能力者だ』

「アイツも魔術が効かないって事か?」

 それははっきり云ってどうでもいい。

 こちらにそんな手段はほとんど無いのだから。

『違う。人がサイコキネシスだとか、テレポートだとか、そういった名称で呼ぶ超能力を七つは使いこなす化け物ということだ』

「え……やばいな」

『ああ、ヤバイ。しかし僥倖だ、貴様にはそんな当たり前の超能力さえ意味を成さんらしい」

「ちょっと待て。今までの話の流れからすると、俺ならアイツとそれなりに戦えるって事か?」

『奴が今の肉体をどこまで使えるか否かによる。あの身体が貴様に触れることが出来るなら危険だ。奴の体術は公爵と同じで次元が違う――戦車に隠れたとしても死ぬぞ』

 ゴクリと唾液を飲み込んだ。

 雷撃の発言はそれなりに根拠のあるものだろう。

 最後の一言がすごく真剣だった。

『相談は済んだか人間。質問に答える気が無いならそれでもいい、不確定要素にはここで死んでもらうだけだ』

 こちらが答えについて話していたと思っている様子の少女が苛々しながら何か云った。

 きっと最後通告のようなものだろう。

「おい、オッサンと綾羽……だっけ?」

 隅に逃げていた二人の魔術師に向かって叫んだ。

「ちょっ、なに人の名前出してるんですか! 殺されたら責任取ってくださいよ!」

「そうだ! この常識知らずが! さっさと死ね、そこで死ね!」

 震えていた二人は反論するときだけ強気だった。

「悪ぃ……じゃなくて! あの女は本物じゃないんだろ?」

 問題はあいつの身体が実物かどうかということ。

 仮に実体があるのならここで勝利できる可能性は消える。

「本物のわけが無いだろうが! 魔術で出した偽者に決まってる!」

 藤間が大声で叫び返してきた。

 これで何とかなるだろう。

 きっと。

 いや多分。

「オーケー、それだけ聞かせてくれれば満足だ」

 少女――ヴァン・ヘイデン卿クラリッサに向けて剣を構える。

 所詮は練習して日の浅い構えだが、こちらの戦意くらいは伝わっただろう。

『おい、本気で戦う心算か?』

「黙ってて見逃してくれるような甘い相手じゃないんだろ」

『それはそうだが……仮に何らかの実体を使って再現したヘイデン卿なら貴様もただでは済まんぞ』

「わかってるさ、そのくらい」

 こちらに戦意ありと見た少女は構えていた銃を捨てた。

『いいだろう。その真意を読めなかったのは残念だが、私を前に戦意を失わないことに敬意を表して本気で殺してやる』

 少女が手袋を嵌めなおし徒手空拳の状態で構えた。

 気のせいか、それだけで彼女の周りの光景が歪んだ気がした。

「……やべぇ、こんなときに目が霞んできた」

 少女が拳を空に向けて振っただけで背後の壁に皹が走ったのとか、地面が揺れたのは絶対に気のせいだ。

 そうに違いない。

『馬鹿者、あれは本当に世界が歪んでいるのだ』

「えぇ……聞いて無いぞ? そういう大事なことはやる前に教えとけよ」

 背筋が凍る。

 魔術とかそんなものはまったく関係なく、純粋な殺気だけで腰が抜けた。

 変態公爵とはまったく逆だ。

 戦意を読み取ることも難しかった公爵とは違って、この少女は殺気の塊。

 浅海は本当に眼力だけで人を殺すが、それと同じ事が出来そうな迫力がある。

『公爵打倒など目指す大馬鹿者がまともなわけが無いだろう。それくらい察しろ』

「おい、あの変態倒すのに……何であのお方はあそこまで本気でいらっしゃるんだ? 絶対今ので楽勝だろ」

『変態を倒すにはアレでもまるで足りんよ。この世の定理を極めた程度では素手の奴にも勝てぬだろうな』 

 アレほど殺す気で鍛えてる敵がいても変態公爵が生きているのは、単純に考えて勝てないから。

 とても信じられないが本当なのだろうか?

『私はクラリッサ・ヴァレリア。貴様は?』

 ウサギに本気を出すライオンとは、これほど大人気なく見えるものなのだと漸く理解した。

 こちらの構えを見ただけで腕前がわかるはずなのに、少女の構えには些かの驕りも侮りも無い。

 少女が何か言っているがそれどころではない。

 純粋に怖すぎて足が動かず、剣を持つ腕の震えが止まらないのだ。

『聞くがいいヘイデン公。この小僧は遍く式を崩す者、スペルブレイカー……』

 剣が何か返した。

 しかしその言葉も異国のもので意味がわからない。

『ほぅ、面白いハッタリだな』

「え、消え……?」

 少女が口笛を吹いた瞬間、彼女の姿が視界から一瞬で消えうせ――
















 少しの間の沈黙。

「……ん」

 襲ってくるはずの衝撃が届かない。

 思った通りに魔術で出来た少女の身体が崩壊したのだろうか。

 いやそうでなければ今の事態などありえるはずも無いのだが。

 恐る恐る目を開ける。






 そこにはきっと何もいないはず、だったのだが――




『馬鹿な……』

 驚愕のあまり色を失った剣の声が聞こえた。

「え……」

 それにつられて思わず間抜けな声になっていた。

 いや、この状況を見れば誰でもそうなったことだろう。










 絶対的な存在であるはずの真祖の心臓を貫く銀の杖。

 銀色の光に貫かれた少女の身体はそれを構成する魔術が破れた為か、すでに指先が霞んでいた。

『……誰だ、貴様……?』

 貫かれた本人さえその状況を把握し切れていないらしい。

 ただ呆気にとられたような顔で何かを背後の人物に問いかけていた。

 問われた相手はクスリと、小さな笑い声を上げて真祖に止めを刺す。

 心臓から消えた銀の光が次の瞬間には吸血鬼の頭を砕いていたのだ。

 それだけで魔術で作られた体は完全に崩壊し、何も残さずに消え去った。

 今までの信じられないプレッシャーが嘘のように消失し、腰が抜けた。

 いや、それ以上に真祖を圧倒した相手の姿に驚く。

 彼女が豪奢な銀色の髪と銀色の杖を持った顔見知りだったからだ。














「はあい御機嫌よう、お元気かしら?」

 朽木綾葉は昼間の彼女が嘘のようなどこか妖しい雰囲気を纏って目の前に立っていた。

 派手好みなのか、以前よりもゴシックで瀟洒な白い洋服を纏った彼女は何処か暗い瞳でこちらに微笑む。

 その姿を確認したらしい魔術師たちが背後で声を上げた。

「げっ……、ク、クク、クツキ先輩!? お願いです、命ばかりはお助け。全部悪いのは藤間さんです、だから……靴でも何でも舐めますから、奴隷でもいいですから殺すのだけはやめてください。あと、拷問とかも勘弁です」

「待て朽木、頼むから落ち着いてくれ……悪いのは全部綾羽くんだ。私は脅迫されて仕方なく……」

 すでに訳のわからない言い訳さえ始めていた。

「ふふっ、いいのよ言い訳なんて。別に貴方たちに用は無いから。私が用があるのは貴方よ、シノザキ・キミアキ」

 腰が抜けていた俺に向かって銀色の杖が向けられた。

「……え?」

『待て、貴様は一体……?』

 青い瞳の奥の何かくらい感情は好意的には見えない。

「あら、前に名乗ったでしょう? 朽木綾葉、だと。次に忘れる心配はしなくて結構よ、今殺すから」

 綾葉は静かにそう云うと、銀の杖を振り上げる。

「ちょっ、待てよ! 何でお前がここに……い、や、それよりなんで俺がお前に?」

 わけもわからないままの俺に綾葉はあくまで涼しげだ。

「手癖だけでなく往生際まで悪いのね。簡単じゃない、私が白川の魔術師で綾音の妹だからよ」

 突然告げられた話だが、そもそも妹がいるなど聞いた事も無い。

 仮に綾音の妹だとすれば確かに魔術師なのだろう。

 しかしならばこそ命を狙われる理由はないのではないか?

 それ以前にコイツ人種が全然違うぞ。

「え……妹って、何訳のわからないことを……」

『待て魔術師! 貴様があの程度の女の妹、だと? 偽者とはいえ真祖を容易に屠った貴様が?』

 雷撃の言葉も理解できるのか、綾葉の表情がやや不機嫌そうなった。

「黙りなさい。姉への侮辱は絶対に許さないわ!」

「――っ!」

 銀の杖が剣を弾き飛ばした。

 その衝撃たるや持っていた指が折れるかと思うほど強烈で、綾葉の力は見た目からは像像もできないほど強かった。

「次、つまらないことを云えばゆっくり足の先から腐らせてから殺すわよ――貴方もわかって?」

 とても綾音の妹には見えない魔術師だが、その冷たい視線だけは何か似ていた気がする。

「ぐっ……、いや待ってくれ! 仮にお前が綾音の妹だとして、何で俺が殺されなきゃならない? 滅茶苦茶すぎるぞ!」

「ア、何だって?」

 まるで恫喝するような声。

 とてもじゃないがまともに視線を合わせる勇気は無い。

 洒落の通じなさでここまでずば抜けた相手はそういないだろう。 

「……いぇ…、その、ほら……俺は別に綾音さんから恨まれるようなことは何も……して無いと思うのですが? どうして、貴女さまはそこまでお怒りなのでしょうか?」

「口の利き方は心得ているようね。それで、どうしてかって……本当に心当たりが無いの?」

「まったく、見当がつかないのですが」

「そう、それは残念ね」

「――あぐっ」

 無表情のまま、綾葉の杖が脚に振り下ろされた。

 それも、脛が砕けたのではないかと疑うほどの力で。

「ぐあああ……」

 思わず足を抱えて転がる。

「聞きなさい下民。私は人も殺せない玲菜とは違うの。自分は絶対に死なないなんて、舐めたこと考えてんじゃないよ」

 知り合いたちからは聴くことも無いだろう、如何にも魔術師らしい考え。

 絶対に綾音の妹では無いだろう。

 朽木綾葉、コイツはいくらなんでも凶悪すぎる。

「いい? もう一度聞いてあげるわ。何か心当たりがあるでしょう?」

「ねえよ……大体なんで俺がそんな酷いこと、あいつにするんだよ?」

「あまり私を舐めるなって云ったわよね?」

 再び振り下ろされた杖が肩を打ち据えた。

「ぐぁ……本当に俺はそんなこと……人違いだ!」

「人違い? 呆れた自己保身ね。これだから卑賤な庶民は……嫌いなのよ!」

 一際強烈な一撃が背中を打ち据えた。

 一瞬呼吸さえ止まる。

「げほっ……」

「あくまで惚けるなら思い出させてあげるわ。貴方、綾音にコスプレなんて要求したそうね? 庶民の分際で、この私の姉に使用人の格好を! それが私たちにとってどれだけ屈辱的な行為か、それくらい判断つくでしょう!」

 洒落にならないくらい激怒している綾葉。

 しかし云われたこちらは目が点だ。 

「え? 殴られた理由って、それかよ……ぐぁ」

 もう一度強烈な一撃が肩を襲った。

 さらに背中にも三連の攻撃。

「ええ、殴った理由も殺す理由もそれだけよ」

 どういう精神構造なんだコイツ。

「待てよ。頼むから、それだけの理由で殺すのだけはまってくれ……」

 必死に手で頭を隠したとき、ようやく杖が止まった。

「私がダンピールなの、わかる?」

 綾葉が感情のこもらない声で告げた。

「へ……、だん、何?」

 だんぴーる?

 聞き覚えのない言葉に首をかしげた。

 そのとき――

『は……なるほどな。通りで紛い物とはいえヘイデン卿がああも簡単に仕留められた訳か』

 遠くに飛ばされていた雷撃の声。

「へえ、どこの誰だか知らないけれどわかる奴もいるのね」

『だがヘイデン卿を屠ったあの技、まさか姫君の?』

「いいえ。私は公爵の血統、彼より弱い吸血鬼は絶対に私に勝てないの。それがこの世界のルールだから」

 酷薄な笑みを浮かべた綾葉。

 何を云っているのかよくわからないが、情況が好転したようには見えない。

『……主よ、そいつは危険だ。心の歪んだ変態か頭のおかしい異常者だぞ』

「え……?」

 いつでも振り下ろせるように持ち上げられた杖。

 おかしなことを告げればいつでもこちらの頭を砕くだろう。

「そういうのよね、みんな。私のような生まれの人間はいつも嫌われ者……それを受け入れてくれる姉を侮辱する奴はみんな殺す、ご理解いただけて?」

「わかんねえよ、大体嫌われてるってどういうことだ? ダンピールって一体何だよ?」

「は、いいのよ別に理解なんて出来なくても」

「嫌だよ! 誰が意味不明なまま死ねるか!」

「ちっ、冥土の土産を要求するの? ……ま、答えるのがルールか。そうね、それがこの世界のルールだものね」

 舌打ちをした綾葉は真面目な顔でそんなことを言い出した。

「いや、俺は別に冥土に行くわけではな……って、それ聞いたら殺されなきゃならねえのか?」

「ええ。ルールだから素直に殺されなさい」

 コイツ、綾音の規則に厳しいところが滅茶苦茶歪んで伝わってる!

「じゃあ喋るのやめろ! 聞きたくないから喋るな!」

「ダンピールって云うのは真祖の血筋に生まれる、その真祖を絶対に滅ぼしうる人のこと。だけど真祖の血統自体は別に珍しくもないのよ。公爵の子孫なんて世界中に十万単位で生きてるくらいだし、貴族はみんな親戚だから玲菜だってヘイデンヘイデン卿だって、直系でないというだけでどこかで繋がってる筈だもの。ダンピールはそんな中で――」

「あー! あああああああ! 俺は聞いてないぞ! 何も聞いてないからな!」

「――と、こんな異分子が嫌われるのは何処の世界でも一緒というわけ。今はいいわ、私を侮辱する奴は全部力でねじ伏せる事が出来るから。でも、昔の私は臆病で弱かった……」

「だから、や、やめろって! 俺は死にたくないし殺されたくない!」

「養子に出された日に自殺を考えるほど弱かった。髪や肌の色で虐められて、養子であることもからかいの対象だった。親に捨てられた子と蔑まれたのよ、貴族の私が! 何処の賎民ともわからない糞ガキに虐められて、罵詈雑言を投げつけられたのよ、この私が!」

「話を止めてくれ!」

「モノを投げられ、殴られ、いつも嘲笑されて、私は泣いてばかりだった。でもね、綾音が助けてくれた。彼女もろくな才能も無いくせに重責ばかり押し付けられて辛かったでしょうに、自分の事は隠してこっそり助けに来てくれた。うれしかった、あのときのことは忘れられないわ……そう、助けに来てくれた綾音にモノを投げた馬鹿ガキの両腕圧し折ってやったときとか最高だったわ」

「え……いきなり腕折るって」

「腕だけじゃなくて指の骨全部よ。でも今考えれば、殺しておけば良かったわねアイツ。劣等魔術師の分際で性懲りも無く綾音に求婚しようなんて……断種して魚の餌にでもしてやろうかしら」

 ちょっと、それはやり過ぎじゃないか。

「お、お前頭おかしいぞ」

「いいえまともよ。綾音と私に仇なす奴は絶対に許さない。地の果てまで追いかけて後悔させてやる。じゃあ全部話したから殺すね?」

「い、嫌だ。お前が姉思いの痛い妹だってのは痛いほどよくわかった、だけど、待ってくれ!」

 どう見ても話が通じる相手じゃない。

 コイツが本当に妹かどうかは知らないが、話し合いが無意味なのは良くわかった。

 この場を逃れるにはどうすれば――

「お、俺を殺すとアイツが悲しむぞ。お前、姉さん泣かしていいのか!」

「痴れ者、いい加減なこと口にしただけ苦痛が増すと心得ておきなさい。関節全部砕いて軟体動物にしてあげましょうか?」
 
 残忍な笑みを浮かべた綾葉の杖が手首に極まった。

 その瞬間に何かが砕けるような嫌な音が聞こえた。

「あああ、くっ、この野郎……痛っ、マジで」

「は、いい格好だわ。綾音が貴方のような一般人の死を悲しむなんて虚言、口にするだけでも罪よ」

「ま、待てよ本当に――俺たち付き合ってる、恋人なんだ!」

 助かりたいばかりに言ってしまった。

 いや、それを聞いた綾葉の表情が真っ青になったことから最悪の選択だったのかもしれない。

 しかしどうせこの場限りの嘘なら、まだ――

「恋人ですって――卑しい下民の分際でなんて恥知らずな嘘を……」

 顔を真っ赤にした綾葉が杖を再び振りかざした。
















[1511] 第五十話 『こくはく』
Name: 暇人◆dbbd57d5 ID:256e0e9c
Date: 2008/04/03 07:30








「う、話が違っ……げほっ……うっ、くぁ……」

 気持ち悪さに嘔吐しただけでなく、吐血までしていた。

 氷の海に落ちたかのように身体が冷たい。

 まるで全身から熱が奪われてしまったみたいだ。

 壁に手を着いて何とか持ちこたえようとするが、膝が笑っていて立っていられそうに無い。

「……つぅ……」

 夢遊病者のように右往左往しながらに散歩進むと、ついに立っていられなくなった。

 埃が積もった床にそのまま倒れこんでしまう。

「……助け……いいえ、それはあまりに都合のいい話ね……」

 乾いた笑いが漏れる。

 声が掠れているのを再確認できた。

 瀕死の病人のようだと、再び自嘲する。

 しかしどうしたものか。

 身体の熱を奪っているのは他の誰でも無い、ヴァン・ヘイデン卿その人なのだ。

 本当の意味での真祖の四位『陽の時間における最強の狩人』。 

 事実、吸血鬼の半分は彼女のために夜しか活動しないと聞く。

 それを相手に意識を保っているだけでも運が良かったと見るべきだろうか。

 あるいはそれをほぼ再現したうえ維持している事に誇りを持つべきか。

 どちらにしろ彼女を再現した代償は大き過ぎた。

 あの男がこれほど完全な彼女を知っているとは思えない、恐らく剣の記憶が曖昧な部分を補完してしまったのだろう。

 この『人形』の欠点の一つであり長所でもあるところだ。

 かつて最も優れた地点に立つはずだった祖父の遺産でありその最高傑作である人形の正体は、自身の形を持たない人形。

 必要な情報を与える事でそれを再現する装置、つまり魔術そのものだ。

 これは破壊できない人形を目指した理想の結果である。

 何しろ、最初から存在しないものには誰も触れられない。

 難点があるとすれば術者より強い者は従えられないということか。

「……やっぱり駄目みたい」

 止めようと思っても侵食は止まりそうにない、やはりこのままでは本当に命が尽きてしまうだろう。

 そして彼女がそれを自分の意思でやめる事はないだろう。

 どれだけ同胞を討ったとしても、彼女は人に対する絶対の悪になり得る人だ。

 心を読む彼女が真に人を愛しているわけが無いのだから。

「……あぁ……」

 持ちこたえたとして三十分。

 その間に彼がヴァン・ヘイデン卿を打倒してくれなければ、おそらく--












「……ヘイデン卿レプリカ、あっけなく殺されたんですけど」

 目の前で強大な吸血鬼が滅び去ったというのに御影は冷静だった。

 魔術師としてその場の状況を分析し始めていたのだろう。

「クツキがある程度真祖に善戦するのは予測の範囲だろう? まあ少々善戦し過ぎではあったがね」

 藤間も顎に手を当てて件の真祖の敗北についてコメントした。

「ええ。多分あのレプリカはここにいた四人が認識していなかった先輩の姿がまるで『見えていなかった』のでしょうし、術者である綾姉さんが補助に入ってない分ずっと盲目的だったんでしょうね。だからあそこまで簡単に接近を許した」

 御影の分析はほぼ的を射ていた。

 偽のクラリッサを構成していた魔術は情報を取り込むことで対象を具現化するタイプのものだった――つまり、実際にクラリッサを知っていたセンナケリブの雷撃と藤間の二人分の記憶から抽出した情報でそれらしく振舞っていたに過ぎないのだ。

 さらに突き詰めて云えば、藤間はクラリッサの外見を知っているだけであり、情報はほぼ全てセンナケリブの雷撃に由来していた。

 この情報の偏りから主に雷撃の視界を利用して空間を把握する結果となり、その視界に入らなかった綾葉を透明人間に変えていたのだ。

 本来この部分を補助するはずの綾音が倒れていたために、盲目的だったこともそれに幸いしていた。

「付け加えれば、クツキの十八番は暗殺術だ。足音ひとつ立てない接近は普段と比べてもまるでレベルが違った」

「ただそれでも本物相手だとあそこまで簡単にはいかなかったでしょうね。生きてますから」

「ああ。しかし痛いくらいの姉妹愛だな。いや、まさかクツキがここまで切れたシスコンだったとは……」

 彼らの視線の彼方ではすでに綾葉が杖を振り上げていた。

 その光景に二人の魔術師は戦慄する。

「……藤間さん、綾姉さんに手を出すとか、何てことに巻き込んでくれたんですか! いいえ、藤間さんが勝手にやるって言い出したとき私はちゃんと止めたんですからね! 本当に、とんでもない悪人ですよ『藤間さんは』! 私はまったく悪くないのに、後で言い訳が大変です」

 御影は真っ青な顔で背後の魔術師に言った。

「はぁ!? キミが言い出したんだろう!」

「嘘です! 私は友好的に友達になろうとしただけなのに、『藤間さん』が厭らしいから!」

「キ、キミはこの期に及んで責任を押し付ける気か?」

「知りません! 私は何にも知らないし、何にも考えてません! あのおのぼりさんが殺された後、さくっと頭えぐられるとか、散々苦しめられて殺されるとか、全部藤間さんの姿でしか再生できません!」

「勝手なことばかり言うな! い、いや……それよりも、ミス・シラカワをさっさと見つけてクツキを説得させなければ」

「は、はい! って……あの人マジでここにいないんですか?」

「知らんよ。だが見つけないことには、我々も明日は我が身だぞ」

「……綾姉さんなに隠れてるんですか! さっさと出てきてくださいよぉ!」












「ん……あれ?」

 体力を奪われていく感覚がなくなったことで目が覚める。

「んん……」

 なんとか体を起こす。

 しばらく寝ていたせいか思考がはっきりしない。

 体は汗で冷たくなっていたし、髪や服は埃だらけだ。

「私は確か……っ!?」

 魔術で作り出したヘイデン卿の気配がない。

 まさか彼が倒した?

 実力的には無理、これは普通の魔術師なら冷酷なくらい確実なはずだ。

 でも彼の場合は『消す』ことが出来たのかもしれない。

 我が家に伝わる最高の術を消し去った?

「ふっ……あはは」

 乾いた笑いが漏れる。

 彼はなんとふざけた存在なのだろう。

 よもやあれだけ魔力を奪って高次元の具現化を達成していた『人形』を式ごと消し去るなんて――非常識だ。

 非常識すぎる。

 本来なら彼女の体を形成していた膨大な魔力がメルトダウンしてもおかしくないのに、それすらなく消失させるなんて。

 これはもはや笑う以外にない。

 こんな馬鹿げたこと、四千年生きてる吸血鬼にだって出来はしないというのに、わずか十いくつの人間がやったというのだから笑うしかない。  

 しかしこの笑いは自嘲、修行不足の上にコントロールを容易に奪われた私自身に対する……

「あ、綾姉さん! こんなところで油売ってたんですか!」

 声の方を振り向けば、下らない猿芝居に巻き込んでしまった綾羽御影の姿があった。

 御影はもう一人の魔術師と一緒に慌てた様子で駆け寄ってくる。

 思えば彼女たちには無茶を云ったが、そのおかげで彼は私を助けるために来てくれた。

 うれしい反面、勢いであまりに愚かしい行いをした自分が嫌になる。

 なんて滑稽なのかしら。

 最初彼の特性を考えれば傷一つなく突破できる試練だと思っていたが、一歩間違えばどんな怪我を負ったかもしれない。

 あるいは死ぬことだってありえた。

 なんて愚かで浅慮な作戦だろう。

 そのうえ卑怯な心の平穏を保つために彼はこんな……

「最低ね、私」

 しばらく彼には顔を合わせたくない。

「え? なんですか?」

 きょとんとした顔の御影がこちらを覗き込んだ。

「なっ、なんでもありません」

「はあ、そうですか」

「それより貴方たちもご協力ありがとうございました。今彼は……」

 もう帰ってしまっているだろうな。

 人質もおらず、魔術師たちも敗北を認めたのだからきっと……

「そ、それがですね……なんというか、綾姉さんは私の無実とか証明してくれますよね?」

 奥歯に物が詰まったような御影の物言いに思わず眉を寄せた。

「まさか――彼がここに来るの?」

 最悪だ。

 よりによってこの魔術師たちは彼を今の無様な私の元に呼び寄せたというのか?

「ちっ、違います! おのぼりさんは、関係ないです」

「どういうこと? 話が見えないわ」

「兎に角! 私は協力したんですから、最初に襲ったのとかはなかったことにしてくださいよ!」

「同じく。当然だろう、そういう約束だからな!」

 藤間と御影は必死に言い寄ってきた。

 ここまでされると自分の信用のなさに呆れるばかりだ。

 まさか約定を違える魔術師と見られていたとは、ショック以外の何者でもない。

「酷い侮辱ですね。私が自分から提案した約定を――ん? この気配は……他に誰か助っ人を呼んだの?」

 魔術師の気配?

 それもすごく殺気立っていて、とてもまともな人間のものじゃない。

 少なくとも正統派でないことは確かだ。

 これはまるで吸血鬼か、あるいは……

「なっ!? これはまさか」

 考えてみればすぐに思い至った。

 あまりに身近な相手に。

 こちらの様子から察したらしい身影が首を何度も縦に振った。

「そうですそうです! 貴女の妹さんですよ!」












 少なくともこの世界の『ダンピール』は、必ずその大元の真祖を殺しうる力を生まれつき持っている人間のこと。

 彼らは東欧の伝承にあるような『吸血鬼と人間のハーフ』などではなく、吸血鬼の子孫の中にごく稀に出現する超能力者。

 その誕生確率は血の濃度に比例するとも、生まれる星に由来するとも、先天的な魔術の素養によるとも云われるが、確実な法則を見出した魔術師はいない。

 しかし、彼らは歴史上に百人程度存在が知られているし、隠れているものを含めればさらに多いとも云われる。

 彼らによって滅ぼされた真祖もかなりの数にのぼり、吸血鬼が自身の血統の魔術師を忌み嫌う一因でもある。

 その存在はある真祖に云わせれば『抑止力』であり、ある魔術師に云わせれば『必然』であり、あるダンピールに云わせれば『異端者のパスポート』とのこと。

 最後の例えが示すように彼らは人として最も外れた位置にある。

 たとえば、ダンピールは親の人種が何であれ必ず祖先の吸血鬼に似た容姿をとって生まれる。

 これが古の時代から彼らが迫害されてきた理由の一つだ。

 自身とは似ても似つかない子に愛情を注げる場合はそれでいい、しかしそうでない場合は血統を何より尊ぶ古い魔術師の家でさえ養子に出されることが多い。

 またダンピールの気性は多くの場合、祖先の吸血鬼やその近親者に似たものとなる。

 これも彼らが迫害される理由だった。

 なぜなら、彼らは祖先である魔術師が吸血鬼となった後の子孫なのだ。

 どんなに高尚な魔術師でも吸血鬼となり他者から奪う生活を始めると、多くが嗜虐的で残酷な性格に変化していた。

 それゆえ、ダンピールの多くもまた自虐的で残酷な性格であり、歴史的犯罪者となったものさえいる。

 魔術師の世界ではダンピールの跡継ぎは敬遠され、養子に出されるか殺されるか、あるいは真祖打倒の駒として育てられるか。

 いずれにしろ、ろくな生涯を送れない場合がほとんどである。

 これらはダンピールについて魔術師が知っていることの一端に過ぎないし、彼らもまたこの特異な存在についてよく知っているわけではない。

 ただそれでも断言できるのは、強い真祖になるほどそのダンピールの出現率が極端に下がることだ。

 朽木綾葉――白川綾葉はそんな中で最も稀な公爵の血筋のダンピールだった。

 現存する中では最古の真祖であるイフィリルは下等な人と交わることを忌み嫌っているため、その血統は存在しない。

 実質、公爵の血筋に連なる者は最も古く最も強大なダンピールということになる。

 吸血鬼に対して絶対的存在となる代償として、親とは人種も違い、表面的な性格はともかく内心は酷薄、おまけに目に病巣を抱えていた彼女は早々に養子に出された。

 本来なら才能がないと云っていい綾音がそうなるべきところなのだが、綾葉がより不適格な理由を抱えていたための選択である。

 朽木綾葉となって以降、彼女はダンピールゆえの迫害にさらされた。

 あるいはそれとはまったく関係のない迫害も受けた。

 それらは本来名家に生まれた彼女が感じることのない屈辱である。

 魔術師として完全に制御された精神を構築している年齢なら何のこともなかったはずだが、このときの綾葉はあまりに幼く、あまりに未熟であった。

 そのため公爵の血筋のダンピールでありながら、彼女の性格はむしろ彼の娘に近いものとなっていた。

 偏執的な狂愛で知られた人形の白姫、その性格に。












「っ――!?」

 綾葉が振り下ろした杖をたまたま掴んでしまっていた。

 当然ながら彼女の杖はすごく速い。

 しかし少しは手加減してくれていたらしく視認できないほどではなかったし、彼女の武器が刃物でなく杖だったことも幸いしていた。

 綾葉の青い瞳と視線が交錯する。

「嘘……私がしくじったの? そんなっ!」

 余程受け止められたことが意外だったのか、綾葉は驚愕の表情で杖を引いた。

 握り締めておけばよかったのかも知れないが、流石に受け止めたとき痺れた手でそれは出来ない。

「はぁ……ごめん、俺大嘘吐いた。姉さんの恋人とか、ぜんぜん嘘。ただのクラスメイトだ! それだけだから、もう殴るのはやめてくれ!」

 明らかに逆効果であった嘘を引っ込める。

 その間にも綾葉は五歩も後退し、なにやら警戒の眼差しを向けてきた。

「貴方、一体なに? 人間じゃないの?」

 絶対を自負する『破杖』と自身の技が効果を成さなかった事態に、綾葉の精神は逆に普段の冷静さを取り戻していた。

 まさか先程の一振りが触れただけでどんな絶対防御をも粉砕する破滅的な一撃とは知らない俺はただ首を傾げるばかり。

「いや、見たまんま人間だろ。だからそんな物騒なもので殴らないでくれって何度も云ってるじゃないか」

 こちらの話が聞こえているのかいないのか、激怒していたはずの綾葉は落ち着いた顔つきに戻ると、そのまま杖で地面を叩く。

 叩くと云っても軽く触れただけあるいは触れていないかのように見えた。

 コツン、と小さな音がしたかと思うとコンクリートの床に亀裂が走った。

「げっ」

 亀裂は小さなヒビなどではなく地割れのような大きさまで広がり、半径五メートルほどに渡って床を破砕する。

 あきれるのはその威力。

 砕けたコンクリートの下の地面は砂になっていたのだ。

「……土地が私の杖を狂わせたわけではない、のよね?」

 『破杖』――それさえ振るえば彼女は一部の魔術さえ叩き潰す、それがただの人間に防がれた。

 その事実が綾葉を困惑させる。

「お、お前、まさかとは思うが、今俺を殺す気だった?」

「くっ、寄るな! 寄らないで……」

 ちょっと近づこうとしただけなのに綾葉は三歩も後退する。

 顔は真っ青になり、この寒さだというのにすごい量の汗をかいていた。

 しかも逃げようとする彼女の声は弱々しく今までの覇気などどこにもない。

「お、お願いだから、こっちに来ないで!」

「? いや、どうしたんだ急に? 顔真っ青だぞ、何か変な病気なら……」

 こちらとしては知る由もない――綾葉が今自身のトラウマである黒い影の人形と俺を重ねてみているなど、わかるはずがなかった。

「いやぁ、いやよ……くっ、寄るなと云っているでしょう!」

 初めて綾葉が魔術を行使する。

 研鑽を積む身とはいえ一流の術者、普段は体術を絶対的とする彼女が魔術を行使するということはそれだけで必死ということ。

 彼女がどこからか取り出した小瓶を地面にたたきつけると、そこを中心に大きな水溜りが出来る。

 秘術による圧縮で数十分の一の体積に押し込められていた液体が砕けた床を濡らす。

『祖と汝の盟約を行使する――其は滴り這い寄る闇、万象統べる王。命じる、其はこの偽をひととき真となせ!』

 紡がれた魔術は綾音と同じく白川の正統に属するもの、すなわち液体に形を与える……

「っ――!?」

 液体は瞬く間に床全体に拡散し、黒く長い針となって俺の目の前に広がっていく。

 ひと一人を足から頭まで貫ける2メートルもある針の林。

 直径わずかコンマ数ミリという極細のそれは朽木という霊薬作りが伝える猛毒の針。

 一滴触れるだけで鯨さえ呪い殺す極上の呪いは仮に俺が精霊でも殺していただろうし、ダンピールである彼女が行使した魔術である以上これは真祖にとっても即死級の攻撃に違いない。 

 だが――

「あ……あれ?」

 不思議なことに周りは黒光りする針の森に覆われているというのに、俺の体には一本の針も触れていなかった。

 生き物なら間違いなく死んでいたはずの大魔術がこの体には触れることさえ出来ず、ただ威嚇するように先を向けるだけでとまっていたのだ。

 しばらくの沈黙の後、黒い針の林は音も立てずに蒸発していく。

 しかしそれらは俺の顔に触れる寸前で、あるいは肺に吸い込まれる寸前で分解した。

 そうなれば、後はただ目の前に黒い霧が広がっただけだ。

 本来なら気化した瞬間に獲物を仕留めるはずの二重の仕掛け――それが今不発となる。

 目の前をいきなり覆い隠した霧はわずか三分で晴れた。

 それがこの毒薬が気体となったときの寿命らしく、俺と綾葉の間を遮っていたものは何もなくなった。

「い、いやああああああああああ」

 パニックになっていたのは俺ではなく綾葉。

 トラウマの怪物が自身の体に触れた錯覚、それが彼女の理性を完全にショートさせたらしい。

 必殺の魔術が効果をなさなかったことで箍が完全に外れてしまっていた。

 震える手で彼女が取り出したのは魔術的に合成された細菌兵器――魔術兵装としても禁忌の部類に入る最悪の武器。

 勿論、このときはそんな事実を知らない俺は針が消えたことにただ呆然としていた。

 目の前で騒ぐ少女がまさかそんな危険なものを使おうとしているなど、及びもしなかった。

『其の敵は彼のもの――命じる、契約者アヤハの名において命じる、彼のものを……』

 綾葉が胸に抱く筒には即効性の呪いを直接注入する魔蚤が100万匹は閉じ込められている。

 霊薬作りを得意とする朽木と人形作りを得意とする白川の合作というべきそれは、呪いである毒を注入するまではその魔力によって生かされる極小の式神。

 自然界にはありえない一年でも生存する蚤だ。

 そのうえ、仮の目標を俺とするように暗示をかけていた。

 しかし目標である俺を見失った場合、残った蚤は容赦なく街に飛び散ることだろう。

 綾葉がそんな物騒なものを地面にたたきつけようとしたとき――

「綾葉! やめなさい、何をやっているの!」

 どこからともなく聞こえたのは綾音の声だった。

「っ――!?」

 綾葉の体がビクッと震える。

 俺も彼女の視線を追って振り返った。

「あ、綾音……よかった、助けてくれ。お前の妹に殺されそうなんだ、俺」












「…………ごめんなさい。私が悪かったです。許してください」

 不貞腐れた綾葉がぶっきらぼうに謝ってきた。

 ここは帰りの車の中。

 散々叱られたからか、彼女の顔には泣きはらしたあとが見えた。

 もっともそれは嘘泣きだが。

「いいんじゃないか、あんな危ないものぶちまける前だったわけだし。怪我したのは俺だけだったみたいだから」

「うぁ、あの先輩が泣いて謝ってますよ。マジありえねえ光景です」

 まったく空気を読んでいない御影がニタニタしながらそんなことを口にする。

「止めておけよ綾羽くん、後が怖いぞ。なあミス・シラカワ……(全ての黒幕をクツキに押し付けてよかったのかね?)」

「そうね……(その点については後で本人に謝罪します。貴方こそ余計なことは云わない方がいいわよ)」

「……(了解だ)」

 運転席の藤間が綾音となにやら小声で話していたようだが、後部座席では聞き取れなかった。

「でも姉さん、本当に送る気なの? 何時間かかると思ってるのよ」

 涙の後を拭い去った綾葉がぼやく。

 そうなのだ、何故だか俺も参加させられていたが、今は綾葉と御影の二人を京都まで護送(?)する最中なのだ。

 藤間の運転というのがすごく不安だったが、途中までの道のりは順調だった。

「時間の問題ではないでしょう。今朝送ったはずなのに、どうして貴女があの場にいたのよ?」

「あんな緩い男に任せた綾音が甘いのよ。催眠術と薬で暗示にかけて……後は貴女につけてた発信機で…」

「……どうしてそんなものが私に?」

「知らなかった? 昨日の晩に安眠香を焚いて予防線敷いた後、貴女の携帯をちょっと細工して――」

 まるでスパイみたいな奴だ。

「綾葉って、常識がない奴だな」

 本音を口にすると、綾葉の目がギロリとこちらを睨んだ。

「クラスメイトにコスプレを頼む男に常識があるとでも?」

「うっ痛いところを付く……いや、そうじゃなくて、それは誤解だ。俺は相手が綾音じゃなくて別の奴だと思ってたからあんな……」

「貴方、馬鹿なの? 馬鹿なのね? そうでしょ、意味のわからないことを云って誤魔化すなんて馬鹿の証拠だものね」

「馬鹿かもしれないけど誤解は誤解だ。これだけは譲らないぞ。俺はコスプレ趣味の変態じゃないし、クラスメイトにセクハラまがいの要求かます大馬鹿野郎なんかじゃない」

「変態はすぐにそう云う」

 綾葉の挑発的な眼差しに軽く傷ついた。

 まるで信用してくれていない。

 妹がこの調子では綾音本人も同じだろうか。

「だから、あれはクロエだと思ったから……そうだ、綾音もアイツのことはわかるだろ?」

「姉さん、クロエって誰?」

「……クロエ・ド・ブランヴィリエ。今はそう名乗っているらしいけど、青機士と云った方がわかりやすい相手よ」

 少し沈んだ声が助手席から返ってきた。

 工場でであったときから疲れた顔をしていたからそれが原因だろうか。

「青機士? それって……あの四機士の一体、よね?」

「ええ、その四機士の青よ」

「冗談でしょう? 何でそんなのがあの街にいるのよ。まさかとは思うけど、あそこに公爵が滞在してるとか?」

 綾葉の声は掠れていた。

 どうやら魔術師的には信じ難い話らしい。

「……残念だけど貴女の予感は的中しているわ」

「ちょっ、お父さまはどうしたの? まさかあの年で耄碌でもした? そうでなければ、どうしてあんな変態を……」

「変態変態って、お前のご先祖じゃないのかあの爺さん」

 公爵の血統のダンピールは汚物でも見るような冷たい視線を向けてきた。

「家系図にも載っていないようなところで混入していた胤が祖先といえる? 直系でもないのに公爵の子孫なんて汚名着せられたらたまらないわ! 謝罪なさい」

 青い瞳なのに烈火のような苛烈さが感じられる。

「あー、ごめんなさい。そんなつもりじゃあなかったんだ、許してくれ」

「……面白くない奴、逆らうかと思ったのに。それで綾音、どうしてあの変態が街に?」

「人外の外道であっても適切な手続きを踏めば問題はないわ。彼は一番人寄りの立場なのだし、父もあれで相当な融資話が――」

 世界の富の半分以上を握る大貴族の名は伊達ではないらしい。

 魔術師的にも彼に表立って逆らいにくいモノがあるのだろう。

「最低。ルールとはいえ、これだから嫌なのよあの人。利害さえ合えばロリコンとも手を組むなんて、貴族のやることじゃないわ」

「それは云っても詮無いことでしょう。むしろ相手に応じて二重基準を設ける方が問題よ」

「それはそうだけど……ああもう! ねえ、シノザキ」

 なんだろう、綾葉の見下したような視線は。

 すごく馬鹿にされてる気がする。

「なんだよ」

「貴方って、結局何なわけ? どこかの人形か魔道兵器、ひょっとして化け物の類?」

「化け物ってお前……俺は人間だって云ったろ」

「必滅の霊薬に触れて無傷だったのよ、人間のはずがないわ。それともなに? この世のルールから外れた物体Xとでも云いたいわけ?」

 むしろそんな物騒なものを人間相手に使おうとするコイツこそ人としてどうよ?

「知らない。というか、自分でもわからないことに答えられるわけがない」

「はぁ? 自分で自分がわからない? ここで哲学の問答をやりたいの?」

 綾葉は首を傾げるばかり。

 そこに綾音が声をかけた。

「綾葉、文献で似た人々が描かれていたのを見たことはない?」

「えーと、何だっけ……あぁ、そうそう『リァキエィ=ンギォ』とかいったっけ?」

 逡巡した後手を叩いた綾葉が口にしたのは不思議な発音の単語。

「え、るあきえんぎ? ていうか、今なんて発音した?」

「『リァキエィ=ンギォ』と云ったのだけど」

「……どんだけ舌がよく回るんだよ、お前は。いや、そうじゃなくて、それって何なんだ綾音?」

「前に西方にそういう人々がいたという話をシュリンゲル卿がしていたでしょう?」

 そういえば、かなり以前に古代の中東にそういうのがいたとかいなかったとか云っていたような。

 ただ今の固有名詞ははじめて聞いたが。

「ちょっと綾音、彼らがちょっとしたアンチ・マジックを持っていたのは確かだけど、オルテとかいう魔術師に皆殺しにされたんじゃなくて? それに生き残りがいたとしても、さっきのあれはそういう次元のものじゃないはずよ。百歩譲ってコイツが連中の中の突然変異として、霊薬だけならまだわかるけど、私の杖を無効にするなんてありえないわ」

 いつの間にやらコイツ呼ばわりされてる、そんな事実に傷ついた。

 浅海のライバルというだけあって気安い奴だ。

「……杖まで使っていたの、貴女は。なんて大人気ない」

「まあ、小さなことは気にしない。それよりどうなの?」

「私も詳しくは知らないわ。ただ、超能力の一種だとは思うけど……」

 自信のなさそうな声。

 まともな回答を用意してくれる人物がいない中、別段彼女が不勉強とは思わないのだが。

「なるほど、要するにそこのおのぼりさんは綾姉さんの今の研究対象だったわけですね」

 今まで声を潜めて話を聞いていた御影が口を開いた。

 というか、こいつの存在をすっかり忘れていた。

「研究対象なんて人聞きの悪いことは云わないでもらえるかしら。それと、貴方たちはこの件について他言無用です。どうしても話したいというのなら止めはしないけど、相応の覚悟だけは忘れないように」

「……了解ですぅ」












 三人を送り届けたあと朽木邸とホテルに別れて泊まった俺たちは翌日の昼、再び電車でとんぼ返りすることになった。

 電車に揺られて外の景色を眺めていると、

「昨日の茶番劇はごめんなさい。私のせいで学校を休ませてしまったわ」

「へ……いや、別に俺は気にしてないけど」

 すごく真剣な眼差しだっただけにたじろいだ。

「いいえ。昨日の車では他の人がいて云えなかったけど、あれの黒幕は綾葉ではなく私」

 客のほとんどいない車両だっただけに小さな声でもよく聞こえた。

「なんだ、そのことか」

「……知っていたの?」

「まあなんとなく。というか、あの状況を冷静に考えれば突然出てきたアイツが黒幕じゃないのはわかったし、隅に隠れてた二人のわけもない。消去法だけど、あれだけ早く駆けつけた綾音が黒幕なのはわかったよ」

「そう、それなら話が早いわね。ごめんなさい」

 彼女が頭を下げた。

「いや、止めろって。それに最初から気にしてないって云ってるだろ」

「いいえ。貴方が気にしていなくても私は気になるの」

「話のわからない奴だな。俺は逆にお前が謝る方が気になるんだよ」

「どういうこと? 私にそんなつもりはなくても、結果的に貴方を危険にさらしたのよ。謝るのは当然ではなくて」

「むしろその点なら綾葉が謝ったじゃないか。どういう事情かはよく知らないけど、結果イレギュラーで入ってきたアイツが一番暴れてたわけで……綾音はそのおかげで助かったんだろ? それならそれで、俺は別に気にしない」

 肩の力が抜けたように、彼女は背をもたれさせた。

「確実にこれが理由といえるほど自分の心を理解しているわけではないけれど、私は貴方が助けに来てくれるかどうかを確かめたくてあんな茶番劇を演じたの――だと思う。やっぱりこれって、卑怯かしら?」

「卑怯って、何が? それにしても理由ってそれか……てっきり俺はコスプレの方に怒ってやったのかと」

「……それで、本当の理由がわかったところでの意見を聞かせてもらえる?」

「当たり前のこと訊くんだな。そんなの確かめなくても助けに行ったに決まってるだろ(世話になってる友達だし)」

 彼女の顔がほのかに赤くなる。

「それは私に、その……好意があると考えていいのね?」

「まあ、嫌いな奴を助けには行かないからな。それに――」 

「それに?」

「綾音も俺を助けに来てくれたじゃないか(自分の妹からだけど)」

「……勘違いしないで。綾葉の間違いを正しただけよ、別に助けに行ったわけではないわ」

「ん? 違うのか?」

「私はそれほど情に厚い人間ではないし、仮定の約束なんて出来ない。助けには行かないかもしれない――これが本当の魔術師。どう、怒った?」

 まるで嫌われたいかのような言動。

 本心を云っているようには見えない。

 だって彼女は少し涙目だから。

「そりゃあ、困ったときに助けてもらえないかもしれないのは厳しいけど……少しでも考える頭があれば綾音の答えが正解だ。怒れる道理がない。危ないってわかってるところに勝手に行ったとして、それは全部俺の責任だからな」

 それ以前に彼女の嘘は下手すぎる。

 サーシャ、あのミルチャ・イオレスク相手に大怪我してまで俺を助けてくれたくせに、なんて嘘が下手なんだろう。

「つまり……貴方はそれだけのリスクを承知で助けに来てくれたの?」

「ああいう場合、そこまで頭回らねえって。リスクなんて関係なく心配だから行く、そんなもんだ」

「もしも、私が貴方を愛しているといえば――愛してくれる?」

 ……?

 今、何て?

「……ちょっと待ってくれ。今、愛してるとか云った?」

「ええ、云ったわ。この薄情な私を愛せるかどうか、答えを聞かせて」

 冷静さを装うとしているが上気した顔。

 忘れそうな台詞を一気に口にした下手な役者のような綾音。

 その真剣な眼差しに、答えるはずの声が出ない。

 真摯な今の彼女にいい加減な答えを出せる雰囲気ではない。

 それ以前に頭の中が混乱しすぎて考えがまとまらないというべきか。

「あ、その……急に」

「どっちなの? 好きか嫌いかくらいは答えなさい」

「いや、突然すぎて俺も混乱して――」

「そう……振られたの私」

「嫌いだなんていってないだろ!」

「好きとも云わなかったでしょう。この白川綾音が愛すると云ったの! 半端な回答が許されると思って?」

「ちょっ、考える時間くらいくれてもいいだろ」

「延ばすだけ延ばして結末に期待を持たせる男は嫌いなの、今答えなさい」

 挑むような目つきは令嬢である彼女をより魅力的に見せていた。

 三人もいない車両の中で、これほど圧迫感を受けるとは思いもしなかった。

「だから! 俺にも考える時間をくれ! だいたい、お前も少し落ち着けよ」

「……偽りと嘲るのね。逡巡する暇欲しさの貴方の言葉は、私の告白を一時の熱に冒された愚かさに貶める侮辱よ」

「違うって! 俺はお前のことは好きだし、嫌ってなんかいない。ただ付き合うとかそういうのはいきなり過ぎ――」

「……その言葉、忘れないで。もっと掘り下げた答えは学園祭で聞かせなさい」

 綾音は急に立ち上がると、停車中の電車から外に飛び出した。

 まだ街に着く何駅も手前――ほとんど何もない田舎だ。

「ちょっ、お前帰りの足は……」

 飛び出した綾音を追いかけようとした俺の目の前で電車の扉が閉まる。







感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
2.9099681377411