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[11779] [東方二次創作]幻想八葉
Name: Grace◆97a33e8a ID:5e1f61fe
Date: 2009/09/17 09:39
 夢
 愛
 希望
 未来

 綺麗で、素敵で、輝いていて
 とても、大切なもの

 でも、私には無いもの

 神様なんて居ない
 望んでも助けは来ない

 この手のひらに包めるような
 そんな小さな物さえ
 私には手に入らない

 何もかもを奪われて
 真っ暗な中で生き続ける
 それが私の人生

 そう思ってた

 あの時、あの人に出会うまでは



 此れより紡ぎし物語は、悲しき少女の魂の物語。
 涙すらも枯れ果てる程の絶望の中、少女は助けを求めて彷徨う。
 児戯に等しき噂を頼り、向かう先は神社裏。
 望むものは、この世からの開放。
 奇しくも少女の望みは叶い、小さな命は不思議な世界へ迷い込む。
 その世界で少女は、何を見、感じ、得るのか。

 そして少女が選ぶ未来とは。







 此方は東方二次創作であり、オリジナルキャラクターを主人公とした作品でございます。また、幻想郷の世界観及び過去設定においてやや作者なりの自己解釈が混じっております。ご了承くださいませ。

 また、全編を通して百合表現が多分に使用されております。苦手な方はお戻りいただけますよう、お願い申し上げます。



[11779] 神頼み
Name: Grace◆97a33e8a ID:9841838b
Date: 2010/10/03 01:57
 薄く雪化粧をした石段を、少女が上る。
 薄汚れた制服につやの無くなってしまった合成皮の靴を履き、光のない目で黙々と。
 彼女の歳は十四か十五あたりだろうか。肩口に切りそろえられた髪はつやが無く、身を飾るようなものは一つとして身につけていなかった。
 それどころか雪が残るほどに寒く、多くの者が体温という財産を北風に強奪されないために身を守ろうとしている中、彼女は制服の他はコートはおろかマフラーすらも纏っていない。
 目の下は黒く落ちくぼみ、腕も足も細く骨ばって見える。肌は白く、だが荒れてかさついていて美しいとは言いがたい。そして瑞々しい桃色をしているはずの唇は、寒さのために薄紫色でかさかさの見るも無惨な姿になっていた。
 身を切るような寒さの中震えもせずに歩く少女は、寒さどころか五感の全てを捨ててきてしまったような、そんな印象さえ受けてしまう。
 そして、まるで生き人形のような少女が上る石段も、彼女に負けず劣らずくたびれて無惨な姿をしていた。
 少女が制服に身を隠すように、石畳も雪化粧で己の姿を覆っている。だがよくよく見ればあちこちから枯れ草が顔を出し、張り出した木の根がそこかしこの敷石を持ち上げている。それらの根のせいなのか、はたまた風化で無くなったのか、所々地肌が顔を出しているような場所もあった。
 そしてそのみすぼらしい石段の先には、朱の色など当の昔に消え去ってしまった鳥居が待ちかまえている。
 朽ちかけ、蔦が絡まって薄気味悪い鳥居を見ても、少女は足を止めようとしなかった。
 いや、そのような仕草をしただけで彼女の目には何も映っていなかったのかも知れない。
 彼女の瞳には、一条の光すら射していないのだから。
 鳥居の向こうに広がる境内は、更に惨憺たる様相を呈していた。
 参道は枯れ草で半ば覆われ、手水所は水どころか柄杓の影すら見あたらない。そしてその先に見える本堂は、最早恐怖映画のセットとして使うべきではないかと思われるほどに荒れ果てていた。
 閉じられた障子はその用を成しておらず、立派だったであろう瓦屋根にはいくつかの穴が開いて見える。賽銭箱の上には朽ちて半分ほどになった鈴が転がっており、柱にも梁にも枯れ草の蔓が絡み付いて薄汚い。
 そんな本堂の前で、少女は静かに手を合わせた。
 賽銭箱には何も入れなかった。
 何故なら少女の持ち物と言えば、汚れたハンカチ一枚とコンドーム数枚。それから己の商品価値を長持ちさせるいくつかの薬だけで、小銭の一枚すらも持ち合わせていなかったから。
 手を合わせても、少女は願いどころか祈りも呪詛も唱えなかった。
 神を信じるような心は、当の昔に枯れ果ててしまっていたから。
 ひとしきり手を合わせたあと、少女は枯れ草と熊笹をかき分けて本堂の裏手へと足を向けた。
 少女は神社に用があったのではない。ここに居ると噂される神に用があった。
 少女の住む町には、まことしやかに囁かれる噂がある。

『町外れの朽ちかけた神社の裏手で、本堂に向かって石を投げると神隠しにあう』

 それは年寄りが子供に悪さをしないようにと言い聞かせるしつけや道徳の話と大差のない、余りにも信憑性に欠ける噂話。
 だが、この少女にとってはそれが唯一の救いだった。
 地獄のような日々から脱するための、まさしく蜘蛛の糸だったのだ。
 鋭い笹の葉が手足の皮膚を切り裂きながら行く手を阻む。絡みつく枯れ草がまるで己の足を握りしめるかのように引き留める。
 早まってはいけないと。
 それでも少女は歩みを止めようとしなかった。
 途中足先に当たった小石をいくつか拾い上げ、少女は睨むように本堂の裏手を見つめた。
 朽ちかけた漆喰と軋んで今にも崩れそうな屋根。くたびれたその姿に己の姿を重ねながら、少女は一つ目の石を投げる。

 カツッ

 乾いた音を立てて石が跳ねる。
 今度は屋根に向かってもう一つ。

 カツッ カラカラカラ

 欠けた瓦の破片と共に落ちてきた石は、草むらの中へと姿を消した。
 今度は漆喰の壁に向かって大きめの石を一つ。

 ガッ コロコロコロ

 石が漆喰にめり込み、崩れた土壁が軒下に転がる。
 だが、それだけだった。
 それ以上は何も起こらなかった。
 絶望の中、少女は膝をついた。制服に土がつくことも、湿った枯れ草が足にへばりつくのも気にせずに。
 縋った糸は、蜘蛛の糸ではなかった。
 手を伸ばしても掴めず、握ろうとしてもすり抜けるだけの幻のような糸だった。
 自分は一生、この地獄の中でもがき苦しみ続けなければならないのだと悟った。
 少女にはもう、立ち上がる気力など残されていなかった。
 絶望の闇が目の前を遮り、確約された死よりも辛い未来が力を奪う。
 そして少女は、まるで糸が切れた人形のように倒れ伏した。
 寒さのためだろうか、霞む視界も揺らぐ意識も、もう彼女にはどうでもよかった。
 むしろこのまま、雪と共に埋もれて消えてしまいたかった。
 そうすれば、全てが無になると思ったから。
 自ら命を立つ術は、何度考えても実行に移せなかった。
 手首を切るような勇気はなく、首を吊れるようなロープを買う金もない。身投げを出来るような場所は思いつかず、遠くへ逃げるのは殊更に難しかった。
 だからこそ、神を頼った。
 この世ならざる場所へ連れ去ってくれる神を。
 しかし、それも叶わぬ願いだった。
 身体を受け止めた枯れ草が腹の下で折れ、薄汚れた制服越しに不快な痛みを与えてくる。力無く投げ出された指からは僅か血が滲み、指先を朱く染める。
 そしてそんな痛みや色が、意識と共に土の下へと落ち込むように消えてゆく。
 死。
 その一文字が、少女の脳裏に色濃く浮かんでゆく。
 そして少女は、抗うことなくその一文字を受け入れようとしていた。
 土の下へと沈みゆく意識。残り火のような弱々しいその意識の端で、少女は自身を見つめる目の存在を感じていた。
 草むらの向こうの、ほんの小さな隙間に。




[11779] 魂の安らぎを
Name: Grace◆97a33e8a ID:5e1f61fe
Date: 2010/10/03 02:04
 抜けるような青空に、乾いた筆で描いたような雲が一筋。日差しは柔らかく、風も穏やか。
 先日降った細雪が薄綿の様に積もった裏庭は、柔らかい日差しを受けて水鏡の様にきらめいている。
 そんな穏やかな日に、縁側で茶を啜る少女が一人。
「ふぅ」
 短くため息をつき、そしてもう一口茶を啜る。紅白の衣装を身に纏い、赤いリボンを揺らめかせながら快晴の空を見上げる少女。彼女の名は博麗霊夢。幻想郷の番人にして人妖の調停者。
 通称、空飛ぶ巫女。
「なかなか、のんびり出来ないものね」
 これ以上無いぐらいくつろいでいる彼女から出たとは思えない言葉だが、そんな愚痴を零したくなるのも無理はない。
 今年の夏、彼女の神社は天人の気まぐれによって二度も壊滅の憂き目を見た。犯人をこらしめ、神社の修復を終え、秋の収穫祭を迎え、ようやく安らかな時が流れ始めた初冬、今度は間欠泉から地底に住む霊が沸きだす異変が発生した。
 多くの地霊を鎮め、幻想郷に平和を取り戻したのはつい最近のこと。
 そして今、彼女の背後には新たな悩みの種が横たわっていた。
「どうして賽銭は来ないのに、厄介事だけ寄ってくるのかしら」
 もう一度ため息を吐き、茶を啜ってからその厄介事に視線を向ける。
 それは、少女の姿をして現れた。
 薄汚れ、破れた服に身を包み、あちこちに傷や怪我を負ったその少女は、今火鉢の側で死んだように眠っている。
「……はぁ」
 後数刻で正午を迎える穏やかな空を見上げ、霊夢はまた一つ、ため息を吐いた。





『魂の安らぎを』



 希島貴美は夢を見ていた。
 彼女は暗闇の中、一人佇んでいる。薄汚れた制服に身を包み、乱れた髪を直そうともせず、たった一人で。
 遠くで何かのやりとりをする声が聞こえる。下卑た笑い声と、愛想の良さそうな虫酸の走る猫撫で声。
(ああ、また売られるんだ……)
 深い諦めと絶望の中で、貴美は固く瞳を閉じた。
 やがて、扉の開く音が聞こえてくる。下卑た笑いと共に伸ばされる、悪趣味な時計と下品なまでにきらびやかな指輪をつけたおぞましい腕が。
 次に近づいてくるのは、酒と煙草の混じった、吐き気がしそうな吐息。
 むせかえり、顔を背けたくなるようなその息を吹きかけながら、おぞましい腕が制服をむしり取る。まるで水鳥の羽根を引き抜くかのように。
 卑しい瞳がこちらを見つめる。それと同時に、幾つもの視線が浴びせられた。
 嘲笑と蔑みに満ちた視線は貴美の身体の隅々までも汚し、心の底まで犯してゆく。
 しかし、もう羞恥などという物は感じなかった。
 自分は、もう生きる価値のない肉袋なのだ。
 飽きるまで使われ、そして穴が開いたら捨てられる、精液を金に変える腐った肉袋なのだ。
 もう、生きる必要もないのだ。もう、誰も居ないのだから……。



「ん……、ぁ……」
 目を覚ました厄介事の顔を覗き込む。いやな夢でも見ていたのだろうか、あまり顔色は良くなかった。長い睫毛を薄く開け、ゆっくりと身体を起こした少女に、霊夢は声をかける。
「ようやくお目覚め? 気分はどう?」
「ぁ…………ぅ…………」
 何事か把握出来ていないのだろう。しきりに視線を動かし、おどおどとあたりを見回すその様は、小動物の様でもある。
 年の頃は十五、六歳だろうか、その少女は霊夢よりほんの少し年嵩に見えた。肩まである黒髪は艶が無く、傷みが激しい。服は長く洗濯をしていないのか、あちこちがくすみ、煤けたように汚れている。
 そして何より霊夢が気になったのは、彼女の身体のあちこちに残る、痛々しい傷跡。
 転んだり武道をやってできたものではない。何かに締め付けられたり、拘束をされたり、もしくは一方的に殴られたものだろう。顔には傷一つ無いのに、足や腕には無数の痣がついている。特に手首のものは酷く、荒縄か手錠のようなものを使われたのだろうか、赤い輪のような傷跡が幾重にも重なっていた。
「取って食ったりはしないから安心なさい。それよりあんたはどこの何者?」
「ぅ…………、あ、あの…………。ここ……は…………?」
 整った顔立ちだが焦燥感で目は落ち窪み、若干頬も痩せこけて見える。声にも張りが無く、まるで魂を抜かれたようだ。
 もっとも、彼女がどういう経緯で斯様に悲惨な自体になったかなど、霊夢にはまるで興味が無い。むしろ重要なのは、どこから迷い込んだかだ。
 幻想郷は強い結界に守られている。外の世界から切り離され、常識すらも結界という境界によって遮断されている。多くの妖怪はこれを越える事は出来ず、また外の人間には概ね知覚すらされていないはずだ。
 しかしながら、外来人であろう彼女が今こうして霊夢の目の前に居る。理由如何によってはこれは大問題である。
「そのあと『私は誰?』なんて続くんじゃないでしょうね? ここは博麗神社。それとも幻想郷から説明するべき?」
「げんそう…………きょう………………?」
 どうやらこの少女は自分の意思でこの世界へ飛んできたわけでは無いらしい。全てを一から説明しなければならない煩雑さに辟易しながら、霊夢は深いため息と共に立ち上がる。
「いいわ、説明は後できっちりしてあげる。その前に禊を済ませなさい。あんたの身体、陰の気が染み付きすぎてる」



「中のものは自由に使っていいから、しっかり洗ってきなさい。それからその服は洗濯しておくから、そこに入れておく事。いい?」
「あ……、はい…………あのぅ…………」
 赤いリボンをして、巫女のような衣装を着た少女があれこれと指示をしてくる。この大きな家は彼女の家なのだろうか。貴美はそれに従いながら、風呂場まで歩いてきた。
 年齢は多分同じ程度だろう。気の強そうな目と口調が、どこか反論を許さない雰囲気を滲み出している。
「なに?」
「ま、また売られるんですか……? ここ、初めてなんですけど……」
「何の話? それよりさくっと行ってきてよ。私は着替えを探してこなきゃいけないんだから」
 どうやら彼女は何も聞かされていないらしい。踵を返し、少女は貴美の前から去って行ってしまった。
 いろいろ聞きたい事も解らないこともあったのだが、自分ひとりになった後では後の祭り。ここで突っ立っていても仕方が無いので、貴美はのろのろと服を脱ぎはじめた。
 彼女にとって風呂は心地よく身体を伸ばせる場所ではない。これから始まる淫惨な行為への準備をする、言わば処刑台のような場所だ。そんな場所で心穏やかになるわけがない。
 脱いだ服を籠に入れ、浴室へ足を運ぶ。木製の大きな湯船と、同じく木製の椅子と手桶が置かれており、シャワーなどの設備は見当たらない。
(旅館かな……。どこだろ、ほんとに……)
 古めかしいがゆったりとした浴槽から湯を掬い上げて肩からかける。生傷が湯を受けて痛み、その存在を主張するが、のんびりしている暇は無い。自分にあてがわれた『客』が待っているのだから。
 入念に身体を洗い、肌を磨く。その間に貴美は少しづつ考える事を放棄していった。ここがどこであろうと、あのリボンの少女が何者であろうと、自分には関係の無い話だ。どこへ行っても、何があっても、所詮自分は肉袋。やるべき事に変わりは無い。
 おそらく、自分は逃げる事に失敗したのだろう。子供じみた噂を信じて、神隠しに遭おう等と浅はかな考えを持っていたのが良くなかったのだ。
 結局現実から逃げ出すことなど、無理な話だったのだ。
 深い絶望の淵で何時しか貴美の目は光を失い、年相応の輝きすらも消え去っていた。
(もう、考えるのは終わりにしよう……)
 濡れた肌を拭き、髪を拭う。自身のあちこちに浮かぶ痣や傷跡を見ても、もう貴美は何も感じなかった。




「そういえば、貴方の名前まだ聞いてなかったわ」
「私は……、希島貴美です」
 大人しく言う事を聞いてくれたようで、貴美は禊用の白装束に身を包み、霊夢の後ろをついて歩いている。ただし、その瞳に輝きは無く、陰の気は先ほどにも増して重く大きくなっていた。
「私は博麗霊夢、この博麗神社の巫女よ」
 興味が無いのか、それとも理解をして無いのか、貴美は明確な反応を示さない。俯き、絶望に満ちた目でとぼとぼと後ろをついてくるだけだ。
 裏庭の藪に倒れていたこの貴美という少女には、不可解な点がいくつもあった。
 このぐらいの年頃なら、親の庇護を受けているはずなのだが、彼女の制服はよれて皺だらけになっており、スカートのプリーツも一部はっきりしない。それどころか所々に解れが見えた。
 そのくせ肌着の類は妙に豪華で新品同様だ。上質な布に豪華なレース。留め金にもアンダーを支えるワイヤーにも癖がついておらず、清潔感が漂っている。
 最近の外来人がよく持っている『ケータイ』とかいう小さな箱は所持していないようだった。ポケットに入っていた物はハンカチと避妊具が数個、それから奇妙な錠剤だけ。財布も身分を示しそうな何かも存在しない。
 錠剤は番号が振られており、最後の七つが色違いで一綴り二十八個。それが二綴り。何の薬かはさっぱりだが、持病か何かを煩っているのだろう。
 しかし、何よりも気になるのは彼女の態度と、その身体に纏う陰の気質だ。
 人間は普通陰陽の気をバランス良く持っている。個人差やその日の気分で程度の差はあるものの、概ね陰陽半々というのが普通だ。
 しかし、この貴美という少女には陽の気がまるで見受けられない。大きすぎる陰の気質に埋もれてしまっているのか、その存在を霊夢は知覚することが出来なかった。
 陰気は集まりすぎれば淀み、やがて厄と不幸を招く。だからその厄や不幸を払うために人々は憂さを晴らし、祭りを行い、厄除けをする。だが、彼女の持つ気はその程度で払えるようなものではなかった。このまま放置すれば彼女は餓鬼を呼び集め、彼らの餌食になってしまうだろう。だから霊夢は、面倒でも禊を行うことにしたのだ。
(さっさと済ませないと、餓鬼や幽鬼が集まってくる……)
 足早に廊下を歩き、あらかじめ清めておいた一室へ招き入れる。
「真ん中の座布団に座って。背筋を伸ばして目を閉じていて頂戴」
「はい」
 蚊の鳴くような短く小さな返事をして、貴美は霊夢の指示に従う。依然として双眸に光はなく、その姿はまるで物言わぬ人形のように見える。
 しかし、何事かをわめき散らしたり、言うことを聞かないよりはマシだと考え、今はそれ以上気にしないことにした。
「じゃあ始めるから、そこから動かないでね」



 何かお経のような物を唱えながら、目の前の少女は紙切れのついた棒を振り続けている。
 貴美はこんな光景を一度だけ見たことがあるのを思い出した。
 あれは何という宗教だっただろう。僧侶だか教祖だかという人間に捧げられる献上品の一つとして、貴美はその身を差し出すように言われたことがある。
 その時は確か今と同じようにわけのわからない呪文を唱えられ、身体が清められたと告げられ、それから綺麗な服を着せられて美しい部屋をあてがわれ、良くわからない味のするお茶を出され、まるで大切な客人のような扱いを受けた。
 しかし、その先はいつもと同じだった。いや、いつも以上に酷く陰惨だったかもしれない。悪趣味に光る袈裟のようなものを着た男が舌なめずりをしながら現れ、彼女の身体を執拗に弄んだのだ。
 だから、貴美は今回も同じであろうと決めつけていた。
 どうせこの目を開けた時には、妙に小奇麗な男が、気持ちの悪い笑みを浮かべて立っているに決まっていると。
「はい、これで終わり。気分はどう?」
 あまりにも軽く、あっさりとした声がかかる。それは先程と同じ、霊夢という名の少女の声だった。
「え……、えと……」
 おずおずと目を開け、声のした方を見る。そこには額に大粒の汗を浮かべたまま、何かの道具を片づけている少女の姿があった。
「ああ、もう楽にしてて良いわよ。お疲れさま。お茶を用意するからちょっと待ってなさい」
「あ、あの……!」
 貴美はようやく、自分の考えが間違っている事に気がついた。ここは彼女が言っていたように、本物の神社なのだ。そして今自分のために行われていたのは、おそらく厄払いとか御祈祷と呼ばれる物と同じなのだろう。
「なに?」
「わたし、お金はぜんぜん……」
 大抵この手のものはお布施と称してそれなりの額を請求される。しかし貴美は持ち合わせどころか、逆さに振っても鐚一文出すことは出来ない。法外な値段を請求されることを恐れ、彼女は慌てて自分が無一文であることを伝えようとした。
「あのねぇ、そりゃ賽銭は欲しいけど、そんな金銭目的でこんな事するほど私は落ちぶれてないわよ」
 それだけ言うと霊夢は部屋を後にしてしまった。一人残された貴美は、ぼんやりと改めてあたりの様子を伺いはじめる。
 部屋の大きさは十畳程度だろうか。板張りの部屋には自分と霊夢が座っていたであろう座布団が一つづつ。それと部屋を暖めるための火鉢が一つ。それ以外の物は今さっき全て彼女が片づけてしまった。家具も調度品もないことから、先程のような何かの儀式に使う専用の場所なのだろう。薄暗く妙に広く感じるその部屋には、障子越しの陽光が薄く射し込んでいた。
「……寒い」
 金銭の請求を免れた事への安堵だろうか、不意に身体の冷えを感じた貴美は、座布団を火鉢の傍へ引きずり、身を縮めて座り込んだ。
「あったかい……」
 エアコンやファンヒーターにはない火の暖かみが心地よく身体に染み込んでくる。その熱は、少しづつだが心まで暖めてくれるような、そんな気がしていた。
「おなか、すいたな…………」
 禊とやらのせいだろうか、貴美の心には数日ぶりに空腹と共に人間らしい感情が戻り始めていた。あの日に失ってしまった、多くの感情のうちのいくつかが。
「う……、ぐすっ……」
 膝を抱え、火鉢の傍で涙をこぼす。悲しみと喪失感に包まれた彼女は、背後の障子が開いたことにも気がつかなかった。



「落ち着いた?」
「はい……、ごめんなさい……」
 涙を拭いながら茶を啜り、羊羹をほんの少しかじったところで、貴美はようやく話が出来る状態になった。
 霊夢が声をかけたとき、貴美は急に、まさに火がついたように泣き出したのだ。身を震わせながら、言葉の代わりに赤子のような泣き声をあげ続け、触れようとする霊夢の手も振り払って泣き続けた。
 しかし、霊夢はそれを見てどこか安心していた。それまでの彼女はまさに能面と呼ぶにふさわしく、何を考えているのかも解らない状態だったのだ。
 だが、今の貴美には感情が戻っている。まだ陰陽のバランスは取れていないものの、心を内にため込まず、表に現せるのは良い傾向だ。このままの状態が続けば、いずれ心の均衡も取れるだろう。
「謝る必要はないわ。それより、どっちから話す? 貴方の身の上か、それとも私がこの幻想郷について説明をするか」
「この世界について、教えてください……。私がどうしてここにいるのかも、解るかも知れませんし」
 霊夢は小さく頷き、この幻想郷と言う世界について説明を始めた。結界の事、妖怪の事、そして、この神社の役割も含めて。
「どう? 少しは理解できた?」
「はい…………。やっぱり、私はこの世界に居てはいけないんですね……」
 顔を伏せるように俯き、そして小さく呟く。その声からは、また人間味が消えようとしていた。
 霊夢の言葉は、少なからず貴美に衝撃を与えたようだった。おそらく彼女がショックを受けたのは『この世界に、外の世界の住人は居るべきではない』という点だろう。
 この幻想の世界に迷い込む者の多くは、現実から逃れたい、今の環境から抜け出したいと強く願う者が多い。逃避か、憧れか、はたまた野望か、ともかく様々な理由で今の世界に不満を持つものが迷い込みやすいのだ。
 もちろん、そのような軽はずみな、あるいは危険な思想の者を長居させるわけにはいかない。それゆえ、外の世界の人間は早々に帰るよう半ば強制しているのだ。
「結論を出す前に、貴方の話を聞かせて」
「私は………………、死ぬためにここへ来たんだと思います…………」
 呟くその言葉は重く、そして抑揚が無かった。軽々しく口にして良い言葉ではない、『死』という一文字。しかし、彼女の口から出たその一言は、およそ十代の少女とは思えぬ程の説得力と重さを備えていた。
「話せるなら、全て話して頂戴」
 小さく頷き、貴美は言葉を続ける。
 火鉢の炭が、小さく、ぱちりと音を立てた。
「…………私が幼いころ、私の父は多額の借金を残してどこかへ行ってしまいました。母はその事を私に隠し、一人でその借金を返そうとしていたんですが…………、額が額だけに…………次第に、その借金は増えていきました……」
 彼女の陰の気が、次第に膨れ上がってゆくのがわかる。しかし、ここで彼女の話を遮るわけにはいかない。霊夢は静かに、自身と彼女を災厄から守る結界を張り巡らせる。
「母は借金を返すために身体を売っていたそうです……。ですが、それだけでは足らないらしく、そのうちに、私も…………」
 外の世界において、金が幻想郷以上に重要な存在である事は霊夢もある程度知っている。だが、年端も行かぬ娘が身売りをせねばならぬ程とは、正気の沙汰とは思えなかった。
 しかし、それが現界の常識なのだろう。そしてこの娘が直面した、紛れもない現実なのだ。
 聞くに耐えぬ現実だが、おそらく一番辛いのはそれを口に出している貴美なのだ。霊夢は強く唇を結び、声も息も押し殺して話を聞き続けた。
「写真もビデオも撮られました……。もう何度犯されたかも解りません…………」
 少しづつ、彼女の顔が戻ってゆく。目を覚ましたときに見せた、あの能面のような、精気の無い作り物のような顔に。
「でも、母親が居るんでしょ? 貴方が死んだら……」
「死にました……。一週間前に、自宅で首を…………」
 彼女にとって、母親は最後の希望だったのだろう。そして母親は、娘に身体を売らせた事が苦痛で仕方なかった。二人は少しづつ狂い、そして先に壊れたのが母親だった。そんなところか。
「父が残した借金の取立てを恐れ、親戚からは縁を切られました……。私は、三日後に遠い親戚に引き取られ、転校する事になっているそうです…………。その親戚を名乗る男も……、借金取りの一人でした…………」
「それで…………、死のうと…………」
 こくりと小さく頷き、彼女はそのまま顔を上げなかった。膝の上で握られた拳が震え、その上に涙が落ちる。如何に感情を無くそうとも、やはり母の死は辛いのだろう。まして彼女にとって母親は唯一の肉親。その母親が死んだ事で大きな支えを無くし、全ての希望を失ってしまった事は想像に難く無い。
 彼女が何故心と表情を失い、強い陰気を纏っていたのかを、霊夢は深く理解した。
「噂で聞いたんです……。古びた神社の裏手で、神社に向かって石を投げると神隠しに遭うって…………。飛び降りたり、首を吊ったりする度胸が、私には無くて…………だから…………ごめんなさい…………」
 霊夢は何も言うことが出来なかった。自分とさして変わらない年齢の少女が死より他の選択肢を選べないとは、一体どんな状態なのだろう。少なくとも、今の霊夢には理解も想像も出来なかった。
 そして、そんな彼女に何もしてやる事が出来ないことも、歯痒かった。
「とりあえず、今日はゆっくりしていきなさい。明日送ってあげるから」
「はい…………」



 救いの手は、存在しなかった。
 明日からはまた辛い現実に。
 いや、今まで以上に辛い日々が待ち受けているのだ。
 唯一の心の支えは消え、最後の希望も絶たれたのだから。
 その後、自分が霊夢と何を会話したのか、貴美はまるで覚えていなかった。食事も殆ど口にせず、気がつけば霊夢の隣で布団に入っていた。
「………………ごめん。何もして上げられなくて」
「いいんです…………。虫の良い話なんて、どこにも無いのは解ってますから……」
 心が壊れてしまえばいい。夢なんか持たなければいい。そうすれば、きっと楽になれる。
 もう何もかもがどうでも良かった。生きる事も、死ぬ事も、現実も幻想も。
「…………ひぐっ…………、ぐすっ…………」
 いつの間にか、貴美は泣き出していた。生への執着がそうさせたのか、はたまた絶望した心が痛みを訴えたのか、強く布団を握り締めながら、涙を零し続けていた。



 隣で泣き続ける少女。そんな彼女の泣き声を聞きながら、霊夢は迷い続けていた。
 現界にある魂は現界の、幻想郷にある魂は幻想郷の輪廻を外れる事は出来ない。輪の外に出てしまえば、その魂は行き場を無くし、未来永劫彷徨い、苦しみ続ける事になる。それだけは避けねばならない。
 それが、幻想の世界に外の世界の者を長居させないもう一つの理由。
(でも…………、このままじゃ…………)
 現界で彼女の魂は安らぎを得る事は無いだろう。ともすれば日々の虐待と絶望感から魂が擦り切れてしまうかもしれない。それはきっと、死よりも辛い苦痛に違いない。
 救う手立てが無いわけではない。彼女の魂に安らぎを与える手段を、霊夢は知っていた。
 しかしそれは霊夢一人では実現できない。何より、幻想郷のルールから外れる行為になりかねない。
 それ故に霊夢は悩み、苦しんでいた。
(…………私が罰を受けるだけで済むのなら……)
 寝返りを打ち、貴美の方へと向き直る。彼女は布団の中で身を丸め、肩を震わせていた。
 小さな背中の向こう側で、彼女は一体どんな表情をしているのだろう。
「貴美……」
「さわらないでっ!」
 そっと伸ばした手。それを強く払われ、拒絶された。
 無理もない。彼女から希望を奪い去り、死よりも残酷な現実へ戻ることを促したのは、他ならぬ霊夢なのだから。
「ごめん……」
「優しくなんかしないでよ! どうせ何も出来ないくせに!」
 胸に突き刺さる言葉だった。
 彼女の言うとおりだった。このままでは、自分は只の傍観者に過ぎない。彼女を哀れみの目で見るだけの、残酷な視聴者に過ぎないのだ。
「貴美……っ!」
 今度は強く、そして強引に肩を掴み、こちらを向かせる。
 もう、霊夢の心は決まっていた。
「私が……、私が何とかする。あんたを現実の牢獄から、解き放ってあげる」
 睨むような、恨みがましい視線から目を逸らさず、霊夢は真っ直ぐにその瞳を見つめ返した。
「気休めはやめて! 絶望はもうたくさん!」
「気休めなんかじゃない!! 私にはそうするだけの力がある……。だから、信じて頂戴」
 赤く泣き腫らした目、時折むせぶ声、それはまるで魂の叫びのようだった。どれだけ足掻いても救われぬ魂。いくら叫んでも届くことのない思いに、彼女は身も心も、魂までも疲弊させてきたのだろう。
「うそ……」
「嘘なんかじゃない。あんたはもう、あんなところに帰らなくていい。この世界に居ていいの」
 魂一つ救えずに何が幻想の番人か。このまま彼女を現世の牢獄に突き落として何が楽園の管理者か。命を見捨てねば守れぬような肩書きなど必要ない。そんな物は捨ててしまえばいい。
 霊夢は、強い決意と共に目の前の小さな魂を強く抱きしめた。



 それは暖かく、そして優しい抱擁だった。しかし心の奥底まで刻みつけられた恐怖は、身を汚され、蹂躙される悪夢は、その優しい抱擁すらも反射的に拒絶してしまう。
「……ひっ!」
 身を固くし、そして逃げるように霊夢から離れようとする。しかし、彼女はそんな貴美の腕を取り、自身の首筋へと導いた。
「私はあんたを……貴美を傷つける存在じゃない。ちゃんと触れて確かめて。私が、貴美を傷つけた連中と同じかどうかを」
 暖かく柔らかい首筋。花のような柔らかい香り。そして薄闇に浮かぶ優しい笑顔。何一つ同じ物はなかった。
 そこに恐怖は存在しなかった。
 貴美はおずおずと手を伸ばし、両の手で霊夢の頬に触れる。柔らかく瑞々しい肌が、貴美の荒れた指に温もりを返してきた。
「霊夢さん……。本当に、私はここに居てもいいんですか……?」
「神社の巫女が平然と嘘をつくようになったらおしまいでしょ。必ず救ってあげるから、信じて」
 心に陽光が射したような、そんな感覚だった。氷の向こうに閉ざしていた感情が溢れ出し、その波に翻弄されてゆく。いつの間にか、貴美は霊夢にすがり付いていた。どんな顔をして良いか、なんと言って良いか解らぬまま、ただただ、涙を流しながら。
「人と触れ合うのは気持ちの悪いことでも、苦痛でもないの。それを今から教えてあげる……」
 静かに囁かれ、そして見つめられる。
 不思議な感覚だった。あれ程までに拒絶し、恐怖し続けていた肌を重ねるという行為を、貴美は今強く欲していた。もっと強く、深く暖めて欲しい。自分を包み込んで欲しい。そんな想いに背中を押され、貴美はそっと唇を寄せた。
「ん…………」
 優しく、触れ合うように重なる唇。霊夢の吐息に、自身の心が溶かされてゆくのが解る。
「霊夢さん……」
「遠慮しないで。望みがあるなら全部答えてあげるから」
「…………もっと、深く強く抱きしめてください」
 霊夢は静かに頷き、そして貴美を抱きしめた。
 温もりが心を温め、全てを癒してくれる。その暖かさにすがりつくように、貴美は霊夢の首筋にそっと頬を寄せる。
「んっ……」
 頭上から聞こえた小さな声に身を引き、おずおずと顔を見上げる。しかし、霊夢はそんな彼女の身を強く抱きしめ、頭を撫でた。
「霊夢さん……」
「遠慮は無しって言ったでしょ」
 飾り気も素っ気もない言葉。だがその声音は優しさに満ちていた。
 貴美は、その声に甘えるようにおずおずと顔を寄せ、今度は子犬のように霊夢の首筋に鼻先を押しつけた。
「ん……、っ……」
 甘く艶のある声が耳に届く。その声がもう少しだけ聞きたくて、貴美は肌を寄せ、鼻先をこすりつける。そして同時に、そっと背中に手を回して抱きしめる。薄い寝間着の向こうに隠された肌は、夜風のせいか冷えきっていた。
「霊夢さん……、冷たい……」
「そう思うなら、しっかり抱きしめて」
 布団をかけ、背中を抱きしめて手のひらでさする。自分のために身を冷やしたという申し訳なさと、そこまでしてくれる霊夢の愛情に答えるかのように。
 そんな貴美の肩に、霊夢の指先がそっと触れた。
「だ、だめです……」
「怖い……?」
 その言葉に小さく首を振り、そっと見上げる。霊夢は咎めるような顔はせず、むしろ心配したような不安げな表情で貴美を見つめていた。
「私なんかに触れたら……、霊夢さんが汚れてしまう……」
 自分の身体はコンプレックス以外の何物でもなかった。何人もの男に汚され、幾度となく弄ばれたその身体に、あの生臭い液体がかからなかった場所など存在しなかった。
 自分の身体はこの世で一番汚れている。貴美はそう思いこんでいた。
「貴美は綺麗よ。魂も、身体もね」
 微笑みと共に霊夢は寝間着の腰紐を解き、肌を露わにして静かに肌を寄せてきた。
「どう……? 怖い?」
 ふるふると頭を振り、それから貴美はすがりつくように抱きついた。他人の肌が、その温もりが、これほど愛おしいと思ったことは初めてだった。
 生まれて初めて、本当の愛を知ったような気がした。
「私も…………」
 霊夢を真似て腰紐を解き、静かに肌を合わせる。脳裏に浮かびそうな悪夢を抑え、身を引きたくなるような恐怖に耐えて、貴美は霊夢を抱きしめ、その胸をあわせた。
「あったかい……です……」
 不思議な感覚だった。今まで抱えていた恐怖が、骨まで染み込んだ汚れが、魂に刻みつけられた痛みが、霊夢の肌に触れる度、一つ一つ消えていく様な気がした。そして一つ消える度に、安らぎを与えられた様な気がした。
 そして、安らぎの中で貴美はその温もりではなく、霊夢という一人の女性に心惹かれてゆくのを感じた。
「……霊夢さん」
 そっと顔を上げ、瞳を覗き込む。その表情は、まるで自分が何を言わんとしているのかを全て悟っているかのように優しく、そして輝きに満ちていた。
「貴美……」
 そっと顔を寄せ、口づけを受ける。今度は深く、そして激しく。
 舌が絡む度、吐息が混ざる度に、貴美は強く霊夢を抱きしめた。胸を押しつけ、掻き抱くように背に手を這わせる。手にした温もりがこぼれてしまわぬように。
「……っ! ひゃう……」
 不意に、霊夢の指先が背筋を這う。ぞくりとした快感が脳髄を駆け巡り、貴美は思わず小さな声を上げた。
「んひゃっ! ふぁ……! れ、れいむさ……」
 何も言わず、霊夢は静かに指を運び続ける。首筋、背中、うなじ、そしてお尻。
 その指が触れた部分は、自身でも驚くほどに敏感に反応し、強い悦楽を伝えてくる。繰り返し紡がれる愉悦の旋律に身を震わせながら、貴美は霊夢にしがみつき、その肌に吸い付いた。
「んっ……、ふぁっ……」
 小さな吐息を吐き、甘い声を漏らしながらも、霊夢の指先は動き続けていた。貴美に快感を与えながら、時折その肌を求めるように抱きしめながら。
 何を言うでもなく、二人は自然と足を絡め、強く抱きしめあった。太股に触れた霊夢のその部分は、貴美と同じくあふれるほどの蜜を湛えていた。
「霊夢さん……」
 今度は、貴美から唇を奪う。霊夢の口腔に舌を忍ばせ、柔らかい愛撫をしながら、強く抱いて激しく求める。
「んぁっ……、れ、れいむ…………さんっ…………」
「貴美…………、ん、んぅっ…………」
 満足に息も出来ぬような深い口づけを交わしながら、二人は朦朧とした意識の中で声も上げずに果てた。



「あの……、それじゃ先に入ってますね」
 頬を赤らめながら、貴美はそそくさと部屋を後にした。
 情事の後、深い快感の中で眠りに落ちそうな身を起こし、霊夢は貴美に汗を流してくるように勧めた。しっとりと汗をかいたそのままでは、風邪を引いてしまうかも知れないという理由が一つ。そして、もう一つの理由は──。
「見ているんでしょう? 紫」
「あら、居住まいを正した後でも良かったのに。私を誘っているのかしら?」
 クスクスという笑い声と共に、虚空に声が響く。しかし、声の主の姿はない。
「散々眺めておいて何を今更……。さっさと出てきなさい。話があるのよ」
 霊夢の声に応じるかのように、薄闇に鋭い刃物で切り裂いたような裂け目が一つ浮かぶ。裂け目は淡い光を放ちながらゆっくりと開き、やがてその中から一人の女性が姿を現した。
「あの子に私の姿を見られるのは、そんなにまずいのかしら?」
 人を食ったような笑みを浮かべ、霊夢を覗き込む女性。彼女の名は八雲紫。妖怪の大賢者にして幻想の番人である。
「せっかく落ち着いたのに、余計な混乱をさせたくないだけよ。それより、私の言いたいことは解ってるんでしょう?」
 半ば怒気をはらんだような物言いをしながら、霊夢は寝間着を羽織って紫に向き直る。
 紫は霊夢の導き手であり、同時に対になる存在でもある。霊夢が幻想郷の人間を守り、紫は妖怪を守護する。日の明るい昼を司るのが霊夢とするならば、紫はその反対の夜を象徴する存在だ。そして、幻想郷はこの二人の力によってその存在を成し得ている。
「だいたいはね。でも、それは貴方の口から伝えられてこそ意味がある物ではなくて?」
 紫の言葉は尤もだった。霊夢の持つ願いは相応の覚悟を伴う代物。そしてその覚悟は、自ら作り上げねばならない。
 だからこそ、自身の口で伝える必要があるのだ。
「わかった」
 小さく息を吐き、深呼吸を一つ。
 そして胸に息を溜め、霊夢は真っ直ぐに紫を見つめた。
「あの子の。希島貴美の魂を現世の輪廻から外し、この幻想郷の輪廻の枠に移して頂戴」
 大丈夫。自分は何一つ間違っていない。
 あの子の為に今私が出来ることは、これしかない。
 そう自分に言い聞かせながら、霊夢は揺るぎない瞳で紫を見据えた。
 もちろん、この選択肢が最良の答えだなどとは思っていない。ただ、霊夢が思いつく限りでは最高にして最悪の答えであることに間違いはなかった。
「その言葉が何を意味するか、理解していて?」
「もちろんよ。彼女の魂を、この幻想の箱庭に閉じこめて。そう言っているの」
 現界に比べ、この幻想郷はあまりにも狭く小さい。外の世界を知る魂は時としてその狭苦しさに苦痛を覚えるという。
 しかし、それでも魂が擦り切れ、押しつぶされてしまうよりはましだ。少なくともこの世界なら、あの子の傷ついた魂に安らぎを与える事が出来る。
 外の世界で朽ち果てるのを待つよりは、余程いい。
 無論、そこに私情がないわけではない。
 事実霊夢は、貴美という少女に少なからず心惹かれるものを感じていた。出来ることなら彼女の幸せをこの手で掴み、与えてあげたいとも思っていた。
 しかし、自分は幻想の世を出ることは出来ない。外の世界に干渉する力は、持ち合わせていない。
 それ故、この願いは紫に託す必要があったのだ。
「そこまで理解しているのなら、もう私からは何もないわ。ちょっと行って向こうの閻魔に手続きをしてくるわね」
「責めないのね、私を」
 あっさりと聞き入れられたことに、霊夢は驚きを隠せなかった。
 魂の輪廻をねじ曲げる。これは軽々しく行うべき物ではないし、誰にでも出来るようなものではない。神々に匹敵する力を持つ八雲紫だからこそ出来る芸当であり、情に流されて行うようなことでもない。
 諫め、窘められるのが普通であり、場合によっては紫との弾幕勝負も辞さないつもりで居た。
 しかし、願いはあっさりと聞き入れられた。
「むしろ私は評価しているのよ。貴方が人間らしい選択をしたことをね」
 柔らかく微笑みかける紫。そんな彼女を見つめたまま、霊夢は押し黙って次の言葉を待つ。夜風に冷え始めた自身の身体を抱きながら。
「問の答えという物は、札のように表裏がはっきりしたものばかりとは限らないわ。正否の境界が曖昧で、ある側面では正解でも、別の側面から見れば誤答であるなんて、いくらでも存在する。特に運命を左右するような選択ではね。そんなとき、人は大抵情によってその答えを選ぶのよ」
「……まさかあんたに、人の情けを説かれるとは思わなかったわ」
 苦笑し、そして肩をすくめる。
 妖怪が人間に人の道を説く。これが滑稽でなくて何なのだろうか。
 しかし、彼女は齢数千歳。対して自分はたかだか十数年の年月しか刻んでいない。長い時の中で紫が見聞きしてきたことに比べれば、霊夢の人生など枯れ葉のように薄いものでしかないのかも知れない。
 そう考えれば、これもまた正しい姿なのだろう。
「自信を持ちなさい、霊夢。貴女の選択はある意味では間違っているかも知れない。でも、貴女は自分の心に嘘をつかなかった。何よりも命と魂を尊重した。それは誇るべき事だわ」
「……ありがと。少しは気が楽になった」
 軽く息を吐き、明るい笑顔を紫に向ける。
 そして、心のもやを取り払い、選んだ道に光を与えてくれたことに感謝した。
「それじゃ、私はこれから現界に赴くことにするわ。貴女はあの新しい住人に与える新たな名前を考えておいて頂戴な」
 住む世界が変わり、輪廻の場が変わる。それはある意味で生まれ変わりに等しい。魂が生まれ変わるためには、そして過去を断ち切るためにも、貴美は今までの名を捨て、新たな名を受ける必要があった。
 霊夢は静かに頷き、そしてもう一度紫に笑みを向けた。
「ありがと。このお礼はいつかさせて貰うわ」
「礼は……そうねぇ、あなた達二人の身体で払って貰おうかしら」
 クスクスという人を小馬鹿にしたような笑いを残し、紫はその姿を消す。闇に溶けるように消える紫を呆れ顔で見送った後、霊夢はいそいそと風呂場へ向かった。



 夜の闇をすべるように飛ぶ。
 闇と言っても、このコンクリートの森はあちこちを機械の光に照らされており、昼間のように明るい。既に日は深く沈んだというのに足下は人であふれ返り、鉄骨の木々は煌々と明かりを湛えている。
 現界に夜は無い。
 だからこそ妖怪達は力を失い、幻想郷という箱庭にその身を隠す必要があった。
「早く終わらせて、無限の闇に身を沈めたいところね」
 吐き捨てるように言い放ち、一本の朽ちかけたビルへ近づく。
 そのビルは長い年月を重ねてきたせいか、あちこちにひび割れと補修の後が浮いていた。外壁の塗装も剥げ、灰色の地肌をむき出しにしたその姿は、まさに朽ちかけた老木。
「さてと……本日最後の害虫駆除と洒落込みましょうか」
 音もなく、そこに何もなかったかのようにコンクリートの壁をすり抜け、紫はビルの一室へ入り込む。
 そこは何かの事務所のようだった。多くの仕切板が立ち並び、幾つものデスクとPCが所狭しと並んでいる。その光景は、さながら家禽の飼育場のよう。
 紫はその中から、比較的上等で小ぎれいなデスクに腰掛け、力を使って書類を集めた。
 幾つもの書類が紫の前に並び、ひとりでにそのページをめくっては床に散乱してゆく。時折、書類以外の物も落下してけたたましい音を立てているが、紫はそれを全く気にしなかった。
「……間違いないわね。丁度シロアリさん達も帰ってきたようだわ」
 残りの書類を床に投げ捨て、紫はこの老木の寄生者であろう人物を出迎えるべく、部屋をよく見渡せる場所へと移動した。
「ん? おい、ずいぶん散らかってるじゃねえか。しっかり掃除しろっつったろうが!」
 玄関先から怒鳴り散らす声が聞こえてくる。シロアリの数は四匹。この時間にしては多い方だろうか。
「こんばんわ。お邪魔させて貰ってるわよ」
 悠然とした笑みを浮かべ、紫は入ってきた男達に声をかける。細面のスーツ姿が一人、悪趣味なダウンジャケットを着たサングラスが二人、小太りな男が一人。それぞれが紫を見て目を丸くしている。
「お客様、当店の営業時間は二十一時までとなっておりますので、また後日のご来店を……」
 口火を切ったのは細面の男だった。人の良さそうな笑みを浮かべ、当たり障りのない口調で紫に声をかけてくる。その姿勢は奇妙なほどに低く丁寧だった。
「客になったつもりはないわ。今日はお礼参りに着たんですもの」
 その一言で男達の顔つきが変わる。正確には目つきだけが変わった。なれなれしい笑顔はそのままに、眼光だけが鋭く光る。後ろにいた小太りの男が、ポケットに手を忍ばせる。男達のあからさまでいじらしい態度に思わず笑いそうになるのを堪え、紫は彼らの言葉を待った。
「……何かのお詫びという事でしょうか? それとも、私どもに至らない点でもおありでしたでしょうか」
 なんとも意味の通らない敬語を使いながら、細面の男が紫を睨む。眼光は鋭く、並の人間ならこれだけで怯んでしまうかも知れない。しかし彼の相手は人間ですらない。どれだけ睨みを効かせようが、それは子犬がわめき散らす程にも効果がないのだ。
 残念ながら、彼らはまだその力の差を知る由もない。
「貴美という女の子がお世話になっているでしょう? そのお礼参りに伺ったのよ」
 顔を見合わせてざわつく男達、やがてサングラス男の片方が小さな声で他の男達に囁く。
「あれじゃないスか? ほら、希島の……」
 ようやく合点がいったらしく、彼らは紫の方へと向き直る。獲物を見つけた山犬のような目で、下卑た笑いを浮かべながら。
「希島様のご親族でしたか。いやいや、あの方には我々も困り果てているんですよ。先日もお伺いにあがったのですが全く支払いをしていただけず……。いかがでしょうか、今日この場で十万ほどお支払いいただければ……」
「いい加減口を慎みなさい、下郎」
 静かだがよく通る声を男達に放つ。紫の反応は、彼らの想定に無い物だったのだろう。ぽかんと口を開け、何事か解らぬまま紫を見つめ続けている。
「聞こえなかったかしら? それとも貴方がたの薄くて軽い脳味噌ではその意味を理解できなくて?」
「テメェ! 下手に出てりゃいい気になりやがって!」
 劇昂した小太りの男がわめき散らす。
「お前もマワして売り飛ばしてやろうか? あぁ!?」
 サングラスの男が息巻いて睨みつける。
「訳のわからねえカッコで意味解んねえこと言ってんじゃねえぞこのクソババア!」
 隣に居たその片割れが上着を脱ぎ捨てながら構える。
 紫の眉が、小さく動いた。
「お宅が身体で払ってくれてもいいんですよ? 世の中蓼食う虫も好きずきって言いますからね」
 下卑た笑いが木霊する。先程まで劇昂していた小太りの男も、釣られて大笑いを始めた。
「…………気が変わったわ」
「は?」
 まだ笑いを引きずったまま、男達は紫に向き直る。ある者は肩で息をし、ある者は笑顔を引きつらせて無理やりに真顔を作ろうとしている。しかし、彼らは誰一人として気がついていなかった。
 自分達が犯した罪の、その重さに。
「……なんだこりゃ」
 一番後ろに居た小太りの男が、自身の身体に付着した青白い発光体に気がつく。それは規則正しく明滅しながら、冷たい光を放ち続けていた。
 手で払っても指で拭っても落ちる事は無く、それどころか何かに触れているという感覚すらない。そこに光だけがあるような、そんな感覚だった。
「さて、どうするか決まりましたか? 今から撮影の準備でも始めましょうか?」
「五月蝿いわね。もうすぐ来るから待っていなさい」
 あからさまな嫌悪を視線に乗せ、口元を扇子で覆いながら言葉を投げつける。
 その刹那、事務所の窓ガラスが轟音と共に粉砕した。
 男達が声を発する間もなく、砕け散ったガラスは光の粒子となって部屋中に撒き散らされる。そして、粒子が床に散乱するよりも早く、暴風が室内を蹂躙してゆく。
 書類が舞い上がり、デスクが倒れ、灰皿が落ちる。ごく少数を残して蛍光灯が砕け散り、あたりが薄闇に包まれる。
「本当は貴方達も食べてしまおうかと思ったのだけど、こんな腐った魂を口にしたら私のほうがおかしくなってしまいそうだわ」
 静寂が戻った室内には、紫の声と男達のうめき声が響いていた。割れた窓から冷たい夜風と共に、階下の喧騒が届く。しかし、そんなものは紫の耳にも、男達の耳にも届いていなかった。
「だからね、貴方達の魂はぎりぎりまで磨り潰すことにしたの。地獄の閻魔に届くまでの僅かな間に、この世に生を受けた事を後悔するぐらいの苦痛を与えてあげるわ」
 その嗜虐的な微笑みは、男達の心臓を握りつぶさんばかりの迫力を伴っていた。
 カタギの人間では無い彼らは、凡人に比べれば遥かに危険で刺激的な日々を送っていた。本当の意味での威圧も、魂を締め付けるような恐怖も、それなりに体験している。
 しかし、今彼らが感じているのは、それらとは比べ物にならぬ、根源的な恐ろしさだった。
「どうかしら? 音速を超えて飛ぶ飛行虫に懐かれる気分は。なかなかに刺激的だったでしょう?」
 四肢はあらぬ方向に捻じ曲がり、至る所から血が流れている。片手では利かぬほどの骨を砕かれているのだろう、彼らは皆立ち上がるどころか呼吸もままならぬ様子だった。 
「普通なら気絶してしまうでしょうね。もしかしたら、その痛みだけで絶命してしまうかも。でも、まだダメよ? 貴方達にはもう少し付き合ってもらわなくちゃ」
 クスクスという含み笑いを混ぜて、紫は男達を見下ろす。眼前を飛行虫が掠めた影響だろうか、目や鼓膜のような脆弱な器官は総じて潰れていた。しかし、紫は自身の力を使って彼らの脳に直接語りかけ、己の姿を焼き付ける。
「大変よねぇ。貴方達が数年に渡って彼女にしてきたものと同じだけの苦痛を、これから数分の間に全て味あわなくちゃいけないんですもの」
 折れた腕を傘で突付き、傷口をえぐる。その度に男達は叫び、血の泡を吹き上げる。
 手を、腕を、足をもがく様にばたつかせ、どうにかしてその場から、恐怖から逃れようともがき続ける。
 それはまさに、潰れかけた蛙そのものの動きだった。
「そうそう、後始末が面倒ですもの。一応状況証拠とか言うものは作っておかなくちゃ」
 スキマに片手を突っ込み、中をまさぐってから黒光りする鉄の塊を取り出す。それは、男達にとって最も身近で親しみ深い武器だった。
「『とかれふ』って言うんですってね、この武器。一つ前の事務所から拝借してきたのよ。いいでしょう?」
 子供が新しいおもちゃを見せびらかすように、紫はその銃を手の中で弄ぶ。如何に人間にとって恐ろしい武器であろうとも、紫にとってこの程度のものは水鉄砲と同じ。彼女は引き金に指を入れ、男達の頭上でくるくると回して見せた。
「ひゃ、ひゃめ…………ひゃふけれ…………」
 顎の骨も砕けているのだろう。細面の男は血の混じった涙と鼻水を滴らせながら懇願した。
 まるで、年端も行かぬ小娘のように。
「そうやって、貴様は一体何人の娘を弄んできた?」
 紫の表情から笑顔が消える。鋭い眼光で男を見下ろし、睨み付ける。気の弱い者ならばその視線と声音が持つ畏怖だけで気を失っていただろう。ともすればそのまま絶命していたかもしれない。
 しかし、残念ながら男達にはそれすらも許されなかった。
 彼らは皆一様に紫の力によって強引に魂を肉体に結び付けられていた。死ぬ事も、気を失うことも許されず、気が狂いそうな苦痛の中で、無理やりに正気を保たされていた。
「答えなさい。貴様らは一体何人の娘を弄んだ?」
「いぎゃぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
 空気までも裂けそうな、断末魔よりも恐ろしい悲鳴を上げ、男が激しく身をよじる。
 彼の掌は紫の足元にあった。その手は女のものとは思えぬ力で踏みつけられ、ゆっくりと磨り潰されてゆく。骨が一本一本砕け、指の皮が潰れ、立体が平面へと変わってゆく。あくまでもゆっくりと。
「あら、知らないの? それじゃああちらの彼はどうかしら」
 サングラスの男の足を踏みつけ、紫は先程したように足先から少しづつ磨り潰してゆく。男は既に声帯が切れてしまっているのか、ぶくぶくと血の泡を吐き続けながら、もごもごと口を動かしている。しかし、残念ながら答えらしきものを言っている様ではない。
「埒が明かないわねぇ……。臓腑を引きずり出して、一つ一つ潰したら思い出すかしら? それとも、脳を直接かき混ぜてあげましょうか?」
 どれだけ恐ろしい神話や絵画を集めたとしても、どのような恐怖映画を作ろうとも、今彼女が浮かべている笑みには敵わないだろう。悪魔ですらも泣いて命乞いをしそうな微笑を浮かべながら、紫は小太りの男の腹に傘を突き立てる。鮮血に混じって、薄黄色い脂肪が顔を覗かせ、その丸い腹を極彩色に染め上げる。
 紫がその傘をもう一捻りしようとした時、ドアの外が急激に騒がしくなり始めた。
「あら残念。もうタイムアップなのね」
 眉根を寄せ、ため息を吐きながら手にしていた銃を構え、男達に向ける。
 そして一つの躊躇いも無く、八発の銃弾を男達に向けて放った。
 銃弾は腹に突き刺さり、彼らの臓物を食い破りながら床に穿たれる。ある者は肝臓を、ある者は腎臓と腸を潰され、最早呼吸すらもままならない。しかし、もう男達に苦しみもがく様な体力は残されていなかった。
「残り数分、貴方達の魂がその腐った肉袋につなぎとめられている間に、己の犯した罪を思い出し、悔い改めなさい。それが貴方達に出来るたった一つの善行よ」
 どこぞの閻魔のような台詞を残し、紫は虚空へ姿を消す。警官隊が事務所に突入してきたのは、それからほんの数秒後の出来事だった。



 透き通るような青空に、穏やかな雲が浮かぶ。日差しは柔らかく、風も無し。
 数日続いた暖かい晴れの日は薄く積もった雪を全て溶かし、裏庭から寒々しさを消し去っていた。
「ふぅ」
 穏やかな冬の日に、一人縁側を眺める霊夢。その手にお茶は無し。小さく息を吐き、両手を上げて少しだけ伸びをしてから静かに庭を見渡し、そっと目を閉じる。
 久々に訪れた落ち着いた日々を満喫するかのように、彼女は朝からずっと何もせずにこの調子である。
「暇そうで良いわねぇ」
「年中寝てるあんたに言われたく無いわ」
 スキマから紫が顔を出すよりも早く、霊夢は冷たく言い放つ。顔を向けるどころか、一瞥をくれる事すらなく、霊夢の視線は裏庭の木々に止まる雀達に注がれていた。
「つれないのねぇ。せっかく貴方の願いを聞き届けたというのに」
「それについては感謝してる。ほんとにありがと」
 からかうように笑いながら言う紫に、霊夢は素直に礼を述べた。
 視線は相変わらず庭に向けられたままの霊夢に少々呆れながら、紫はそっと彼女の隣に腰を下ろして雀を見る。
 今年生まれた雀だろうか、他の者より一回り小さいその雀は、せわしなく毛づくろいをしながら時折辺りをうかがっている。なんとも平和な光景だ。
「一昨日閻魔と渡し守が来たわ。閻魔帳に記載する名前を教えて欲しいって」
「その様子だと、もう名前は決まっていたみたいね」
 小さく頷き、振り返る。しかし、その先に人影は無い。
「おかしいな……、さっきまでここに…………」
「あら、紹介していただけるのかしら?」
 子供のような笑顔を見せながら、紫も霊夢に習って振り返り、辺りを見回す。しかしやはり人影は無い。
「お使いにでも行かせたのではなくて?」
「右も左もわかんないのに、どこにお使いにいけるのよ」
 若干心配になり、探して回ろうかと立ち上がった丁度その時。
「あ、あの…………、お茶をお持ちしました……」
 襖の向こうから一人の少女が顔を出した。
 整った顔立ちに短く切られた髪。自信の無さからか、僅かに潤んだ瞳が美しい輝きを添える。衣装は霊夢のものよりも一般的な巫女服に近く、白い羽織に朱色の袴を履き、赤い腰帯をリボン結びにしていた。
 数日前、彼女はまさに枯れ枝のような姿をしていた。ボロボロの服を着て、生気の無い瞳と痩せこけた顔はさながら病人の様でもあった。しかし今はどうだろう。まだか細く頼りない印象は受けるものの、その姿は日の光を浴びて伸びる若木のよう。
「そんなことわざわざしなくたっていいのに……。とりあえず座りなさい。一応紹介しておくわ」
 少女は小さく頷き、霊夢と紫の前に茶を置いてから二人に少し距離を置いて座る。その膝元に、自身の茶は無い。
「あんたまた遠慮したわね? 淹れるときは全員分だって言っておいたでしょうが」
「ご、ごめんなさい…………。その、居候なのに贅沢しちゃだめかなって…………」
「まぁまぁ、そう目くじらを立てるものでは無いわ。私はこの後すぐに冬眠するから、お茶は必要ないのよ。無駄にならなくてよかったじゃないの」
 二人のやり取りを微笑ましげに見つめていた紫が、その茶をそっと滑らせる。ただしその位置は霊夢の隣、自分の正面。その意味を理解したのか、少女はおずおずと膝を立て、茶の前へ正座した。
「始終この調子なんだから……。何時になったら慣れてくれるやら…………。まぁ、紹介するわ。この子は美希よ。姓はまだ無いけどね」
 言葉を受けて、美希はそっと頭をたれる。
 姓とは生まれた家やその存在の在り所を示すものだ。親から生まれた者が親の姓を継ぐのも、その家と所在を引き継ぐためである。しかし、彼女はこの幻想の世で改めて生まれ変わった存在である。それ故、彼女に拠り所や親は無く、名乗るべき姓もまた無いのである。
「髪を切ってしまったのね。傷んでしまっていたから仕方ないのでしょうけど、少しもったいないわね」
「いえ……、生まれ変われたんですから、むしろさっぱりして良かったです」
 肩まであったはずの貴美の髪は、美希になるときに切り捨てられた。彼女の髪は傷みが激しく、どうしてもそのままにしておくわけにいかなかったのだ。おかげでそ の髪は男性と見紛うほどに短くなり、リボンを結ぶ事も出来ない。
 しかし、美希はそれになんら未練も後悔も感じていなかった。
「紫様の事は霊夢さんより聞いております。私の為にいろいろと尽力していただいて……、えと……、とても感謝して……、あれ…………、言葉では言い表せないほど……」
「そう格式ばらなくても、貴方の心は伝わってるから大丈夫よ。それより、改めて初めましてと言わせてもらうわね。私は八雲紫。霊夢曰く怠け者のスキマ妖怪だそうよ」
 霊夢の方をちらりと見ながら、紫が皮肉を込めて自己紹介する。そんな二人のやり取りに、美希は思わず笑いを漏らした。
「あらあら、笑うと可愛いじゃないの。博麗の巫女は良い拾い物をしたわねぇ」
「人を物扱いするな」
 唐突に褒められ、顔を隠すように俯く美希、呆れ顔で茶を啜る霊夢。そんな二人を紫は微笑ましく見つめていた。
 この娘はきっとこの幻想の世界で様々な体験をして、少しづつ成長してゆくのだろう。人、妖怪、魔法使い、神、この世界に住む多様な存在と出会った時、彼女はどんな反応を見せ、どう変化してゆくのだろう。そしてそれは、この博麗の巫女にどのような影響を与えるのだろうか。紫はそれがとても楽しみでならなかった。
「それにしても、美希とはまた良い名前ねぇ。霊夢、この子のミキはそんなに美味しかったのかしら?」
「??? 何を言っているの?」
「ふふっ……、春目が覚めたら、私も味見させていただこうかしら。それじゃお二人さん、長い冬を仲良く過ごして頂戴ね」
 そう言うと、紫は二人の額に小さな口付けを落としてから、スキマの中へと姿を消した。
「行っちゃいましたね…………」
 静寂が戻った中、取り残された二人はゆっくりと顔をあわせ、静かに苦笑をする。庭先から雀の声が微かに響き、二人はそっとその視線を枯れ枝の先へ向けた。
「それにしても、紫は何を言いたかったのかしら…………。ミキ…………みき…………神酒……?」
 霊夢は一つの答えにたどり着き、顔を真っ赤に染め上げる。
「…………あ、あの……。どうかなさったんですか?」
 未だ意味の掴めぬ美希を他所に、霊夢は肩を戦慄かせる。
 恥ずかしさと怒りが心の底からわきあがり、その朱色が耳の先まで伝わった頃、霊夢は空に向かって叫んだ。
「…………っの! エロ妖怪!!」

続く



[11779] 心を結んで
Name: Grace◆97a33e8a ID:5e1f61fe
Date: 2010/10/03 02:07
 最初に無くしたのは、優しい父だった。

 次に家とお金が無くなった。

 その次は純血と自由。

 友達と日常が無くなって。

 最後に母を失って。

 そして私は、希望を捨てた。




   『心を結んで』


 長い長い階段を一人登り続ける。もう一時間ぐらいこうしていただろうか、息はすっかり上がり、ふくらはぎも痛む。
(どこまで、続いてるんだろう……)
 霧の中へと延びる石造りの階段を見上げながら、美希は心の中で呟いた。
 彼女が何故こんなことをしているのか、それは数時間前に遡る。
『お昼が終わったら、ちょっと行って貰うところがあるから』
 昼食の準備中、霊夢は美希に何気なくこう言った。
 それはまるで、近所にお使いでも行かせるような、些細な用事を頼むような、そんな口調だった。
 だから美希は二つ返事で承諾した。
 しかし、実際は近所どころの話ではない。
 まずその移動手段は徒歩ではなかった。霊夢に背負われて空を飛び、深い森も細い獣道も飛び越え、たどり着いた先は長い石造りの階段の麓。どれだけ飛んだとか、帰り道はどっちだとか、そういう話ですらない場所だった。
 それから約一時間。彼女は石段を上り続けていた。その手に、身を守るものだから絶対に手放すなと言われた杖を持って。
 そこはとにかく不思議な場所だった。階段は前も後ろも霧に隠されており、今自分がどれだけの距離を登ってきたのか、あとどのぐらい残っているのか、まるで見当が付かない。更に、こんな濃霧の中に居れば衣服も髪も濡れてしまうのが普通だ。そうなれば寒さ厳しいこの時期だ、瞬く間に体温を奪われ、震えてしまうだろう。しかし、美希の身体は雫が滴るどころか髪も衣服も乾いたままだった。
 まるで濃霧が自分を避けているようにもみえて、どこか薄気味悪い。
「……っ、いたっ……」
 不意に左足に走る僅かな痛みに顔を顰め、その場にそっとしゃがみ込む。慣れない下駄で長時間歩いたせいか、彼女の足袋は血が滲んで赤く染まっていた。
「……よごしちゃった」
 傷のことよりも借り物の衣装に血の染みを付けたことを気にして、石段に腰掛けて足袋の留め金をはずす。ぴりぴりとした痛みは親指の付け根から響いており、どうやら鼻緒で擦れた部分が痛んでいるようだった。
「血の染みは落ちないのに……霊夢さん、怒るかな……」
 杖を置いて袴をたくし上げ、痛む足をさする。バンドエイドなどという便利な物は持ち合わせていないため、美希に出来るのは痛みが収まるまでその場に止まり、疲れた足を休めるぐらいの物だった。
「…………えっ!?」
 不意に視界が霧に包まれる。はっきりと見えていた足に靄がかかり、今さっき外した留め金も判別が出来ない。急激な周囲の変化に美希は驚き、慌てて顔を上げる。
 今まで遠巻きに漂っていた霧は、すっかり美希を包み込んでしまっていた。一寸先も見ることが出来ず、己の足元すら確認できない。
「つ、つえ…………あっ!」
 恐怖に駆られ、慌てて足元をまさぐる。しかし運悪いことに、彼女が触れた杖はその瞬間にからころと乾いた音を立てて転がってしまった。恐怖に縮こまりそうな身をなんとか起こし、落とした杖を探そうと立ち上がる。しかし、そんな美希の腕を不意に何者かが掴んだ。
「ひっ……!」
 その手はごつごつとした太い指をしていた。
「う、うそ…………」
 もう一方の腕も掴まれ、美希は石畳に引きずり倒される。冷たい石の感触と、したたか打ちつけた後頭部の痛み。しかし何よりも美希を恐れさせたのは、霧の中に浮かぶ顔と、幾つもの視線だった。
「うそ…………でしょ……」
 下卑た笑い、煙草臭い息、舌なめずりをするその表情は、どれだけ忘れようとも忘れることが出来なかった、純潔を散らしたあの日の忌まわしい記憶。
 そして、彼女を憐れみ、蔑むおぞましい視線の数々。
「いや…………いや…………!」
 どれだけ暴れようとも、手も足も全く動かすことが出来なかった。まるで何人もの人間に押さえ込まれているような、そんな感覚だった。
 ぼんやりとしていた視界が、少しづつ鮮明になる。おぞましい男の裸と、毛深い腕。そして、幾人もの顔。
 男の手がゆっくりと羽織に伸ばされ、胸をはだけさせられる。サラシをずらし、まだ幼さが残るその胸を鷲掴みにする。
(ああ、まただ……)
 長く執拗に渡って行われた調教は絶大な効果を持って今も美希の、いや、貴美の意識を縛り続けていた。絶望に打ちひしがれ、吐き気を催すほどの嫌悪感に苛まれながらも、貴美は抗うことをやめてしまった。
 自分が『ご主人様』に奉仕をしている間は、逆らうことも傷つけることも許されない。それをすれば、後でもっと酷い『お仕置き』が待っている。
 幾度と無く身体に叩き込まれたその調教の結果、美希はその意志とは裏腹に、自身を犯す男に対して人形のように従順に隷属するようになっていたのだ。
(誰か……たすけて……)
 恐ろしさが口を噤ませ、身を強張らせる。無論、叫んだところで結果は同じだ。今自分は何時終わるとも知れぬ石畳の階段の上。今まですれ違う人も建物も見当たらなかった。そもそもこんな自分を誰が助けてくれるというのだろう。
(もういや…………いっそ……)
 袴を引き摺り下ろされ、その身を晒される。もろく儚い薄布に手をかけられながら、貴美は絶望の果てに全てを投げ出そうとした。
(…………え……? なに……?)
 不意に男の手が止まる。周囲の視線が自分ではない何かに注がれる。貴美は硬く閉ざしていた目を恐る恐る開き、様子を伺った。
 目の前にはらりはらりと音も無く落ちてくる花びら。美しい薄桃色のそれは、母が最も愛した花のひとひらだった。
(…………桜……? どうして…………)
 刹那、眼前が桜色の閃光に包まれた。光が濃霧を切り裂き、いやらしい視線をかき消す。同時に、何か断末魔のような悲鳴が響き渡り、貴美を押さえつけ、今にも犯さんとしていた男を飲み込んでゆく。
 何処か暖かいその光に包まれながら、貴美はその意識を手放した。



 広く大きな白玉楼の中庭。その中庭にそって伸びる長い廊下を、妖夢は一人歩き続けていた。
 館の主であり妖夢の主人である西行寺幽々子は、あまり自室に居ることが無い。いつも邸内をふらふらとうろついているか、どこからか拝借した茶菓子を片手に、のんびり茶を啜っているかのどちらかである。
「こちらに居られましたか、幽々子様」
「あら妖夢、どうしたの?」
 本日はどうやら後者のようだった。片手に大福を持ち、柔らかい笑みで何事も無かったかのように答える。そんな飄々とした主の態度に、妖夢は思わずため息を吐いてから言葉を紡いだ。
「はぁ…………。幽々子様、お客様がお見えになっております。階段で気を失っておられたので、客間の方に寝かせておきました」
「あらまぁ……それは大変ね。具合が悪くなったのかしら?」
 まるで大変さを感じさせない態度で答え、幽々子は手にしていた大福を一口頬張る。
 妖夢は昼食時に幽々子から客人が来ることを知らされ、慌てて茶菓子の調達に飛び出した。何時ごろ来るとも、誰が来るとも言われていなかったため、一番近い和菓子屋で団子を四本、草餅を三つ、大福を四つ買って舞い戻った。
 その中身が今、幽々子の腹の中に全て納まろうとしている。
 今更喚いたところでどうにかなるわけでもない。茶箪笥などというわかりやすい場所にしまいこんだのも、来客用と明記しなかったのも全て自分が悪いのだ。尤も何か書いてあったところで、彼女は一切気にせず中身を食していただろうが。
「悪霊に襲われておりました。多少生気は吸われたようですが、命に別状はありません。しばらくすれば目を覚まされるかと」
「そう。ならこれから向かうから、妖夢はお茶と茶菓子を用意しておいて頂戴」
 いけしゃあしゃあと言い放つ幽々子に、妖夢は頭痛を覚えた。そもそも用意しておいた茶菓子は三人前でも多すぎると思われるほどだ。並の女性が一息で食い切れるような量ではない。それをぺろりと平らげ、更に茶菓子を要求するとはどれほどの胃袋なのだろうか。長い付き合いでそれを重々承知している妖夢でさえ、呆れて物が言えなくなる。
「…………幽々子様」
「なぁに?」
「用意しておいた茶菓子は、今幽々子様が最後の一つをお召し上がりになっております」
「んぐ…………?」
 もう一口かぶりつき、半分以上無くなってしまった大福を咥えたままで、幽々子はその動きを止めた。
 そして、瞬きを二回。
「…………これ?」
「はい、そちらと、その足元に転がっている包みの中身でございます」
「………………あら、そう」
 しばしの沈黙。そして、瞬きをまた二回。
 それから幽々子は軽く微笑みながら、妖夢にそっと近づいた。
「じゃあお茶だけでいいわ。後でお願いね」
「むぐっ……」
 そう言って、幽々子は食べかけの大福を妖夢の口に押し込んだ。
「これで貴女も同罪。それじゃ、よろしくね」
 歌うように囁いて立ち去る幽々子を見送りながら、妖夢は赤ら顔でその大福を味わった。



 暖かい布団が、自分を包み込んでいる。
(ん……ここ、どこ……?)
 重い瞼を薄く開き、ぼんやりとした意識のまま辺りを見回す。そこはどうやら、どこかの家の一室のようだった。
 美しい白塗りの壁、漆黒の木材、鮮やかな襖。どうやら自分が寝かされている場所は、ずいぶんと高級な部屋のようだ。
(また、変な世界に飛ばされたり……してないよね?)
 ゆっくり身を起こすと、怪我をした左足が痛みを訴える。少なくともここは夢の世界ではないらしい。
 衣服は変わっておらず、枕元には取り落としてしまったはずの杖が置いてある。乱れた衣服も、乱雑にではあるが整えられている。どうやら誰かに助けられたと考えるのが自然なようだ。
「あら、もう起きて大丈夫なの?」
 不意に襖が開かれ、透き通るような女性の声が響く。青色の帽子に青い和服のような出で立ちのその女性は、桜色の髪を揺らしながら優しく微笑んでいた。
「あ、あの……えと……?」
 ここは何処なのか、貴女は誰なのか、自分はどうなっていたのか、聞きたいことは山ほどあるが、何から訪ねていいのか解らない。ぐるぐると巡る思考が定まるよりも早く、貴美は軽い目眩を覚えて額を押さえた。
「まだ無理をしない方が良いわ。貴女、霊夢が言っていたお客様でしょう?」
 聞き覚えのある名前に安堵を覚え、この世界も自分も、何一つ変わっていないと再確認する。
 そう、自分はもう希島貴美ではない。博麗神社に世話になっている美希なのだ。
「さ、もう少し横になって。そのままでもお話は出来るわ」
「いえ、もう大丈夫です……。助けて頂いたみたいで、ありがとうございます」
 心に余裕ができれば、目眩もすぐに治まってゆく。そして、どこかで気を失っていたであろう自分を介抱してくれたことに感謝し、美希は丁寧に頭を下げた。
「それは私ではなく、妖夢に言うべきね。貴女を見つけたのはあの子なんだから」
 そう言って彼女は静かに美希の側へ腰を下ろした。
「よう……む? その方が、私を助けてくれたのですか?」
「ええ、そして私は西行寺幽々子。貴女が霊夢に登るよう命じられた階段の先にある、白玉楼の主よ」



 不思議な娘。それが幽々子が感じた、この少女に対する第一印象だった。
 特別な力は持ち合わせていないようだが、彼女の魂には何かを引き寄せる強い陰の気が満ちていた。
 陰の気は様々な物を引き寄せ、集める力を持ちやすい。恐らく彼女が悪霊に襲われていたのも、この魂のせいだろう。
「わ、私は美希です……。霊夢さんは何も教えてくれてなくて……あの、私はどんな用事を…………」
 消え入りそうな声で呟き、そして俯く彼女。その瞳は今にも涙で溢れそうだった。
 数時間前、日が高くなり始めた頃に、幽々子の元に一枚の式符が舞い降りてきた。式の主は博麗神社の巫女であり、その内容は午後からの来訪者を告げるもの。そして携えられた伝言にはそのほかに『彼女の魂を診てやってほしい』との一言が添えられていた。
 最初はあまり気乗りもせず、断って午後の優雅な時間を楽しもうかと考えていた幽々子だが、あの巫女がわざわざ式符を飛ばしてまで頼みごとをするなどという世にも珍しい状況に興味を覚え、二つ返事で承諾した。
 そして今、彼女は己の選択が正しかったことを実感している。
「ずいぶんと意地悪をされたのね。道中大変な目にあって」
「いえ、あれは私が杖を手放したからで……っ、痛……」
 身を捩ってこちらに向き直ろうとしたところで、美希は顔をしかめて左足を押さえた。怪我でもしているのだろうか、彼女はそのまま言葉を止めてしまう。
「足を怪我しているの? 見せてご覧なさい」
 そっと布団をめくると、赤く染まった足袋が目に入る。どうやら鼻緒で擦り切れてしまったまま歩いていたらしい。血の染みは足袋いっぱいに広がり、一部赤茶色に変色していた。
「あっ……ふ、布団……染み……っ」
 今にも泣き出しそうな表情で狼狽する美希に、幽々子は思わず苦笑を漏らしてしまう。もちろん幽々子は、この程度のことで咎め立てをするようなつもりはさらさらない。むしろ彼女の怪我が後に残るような物になってしまわないか、その方が心配だった。
「大丈夫だから、おちついて。貴女を叱ろうなんて、これっぽっちも思ってないんだから」
「……ひっ!」
 落ち着かせるために頭を撫でようと伸ばした手。しかし、美希はそこから逃げるように、怯えた目をして遠ざかってしまう。
(霊夢が頭を下げた理由が、何となく解るわね……)
 そっと手を降ろし、静かに睫を伏せる。ほんの数分のやりとりでしかなかったが、幽々子にははっきりと解ってしまったのだ。
 彼女がどれだけ陰惨な日々を過ごしてきたのかが。
「ぁ……ぅ……、ご、ごめんなさい……私……わたし……」
「謝るのは私の方だわ。不用意なことをしてしまってごめんなさい。もし許してくれるのなら、この手を取って貰っても良いかしら?」
 静かに微笑みながら、幽々子はそっと両手を差し出す。その手のひらに、美希は怯えながらゆっくりと手を伸ばして触れてきた。
「冷たい手をしているのね……。寒かった?」
「い、いえ……。そんなことは……」
 冷えた指先を暖めるように静かに指を絡ませ、そっと撫でる。指先に僅かづつ戻りゆく暖かさと同時に、彼女の表情から恐怖の色が抜けてゆくのが解る。
「布団も足袋も洗えば落ちるわ。もしだめになったって、替えがあるもの。でもね、貴女は貴女一人しか居ないし、その怪我が私は心配なの」
「はい……ごめんなさい……」
 思いやる言葉すらも、彼女は叱責と捉えてしまうのだろうか。視線を下げ、俯いたまま美希は小さな言葉を返すだけに留まってしまった。
 そんな彼女を不憫に思いながら、幽々子は足袋をはさみで切り裂き、傷口を露にする。ずいぶん長いこと擦れ続けていたのだろうか、皮が大きくめくれ上がり、こびりついた血が痛々しい。しかし、傷口自体はさほど深くないようで、これなら傷痕が残るようなことはなさそうだった。
「…………っ! あ、あの…………。私は、どうしてここに……」
 消毒液がしみるのだろう。彼女は時折顔をしかめながらおずおずと訪ねる。そんな美希に幽々子が答えようとしたとき、襖の向こうから小さな声が聞こえた。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
「お入りなさい」
 声の主は妖夢だった。煎茶と、どこかに隠しておいたものであろう煎餅をそっと並べて立ち去ろうとする。
 何処までも無関心で、ある意味仕事に忠実な彼女に、幽々子は僅かに苦笑し、呼び止めた。
「ちょうど良いわ。妖夢、貴女も一緒にいらっしゃい」
「どちらへ、ですか?」
「彼女の魂の世界へよ」



 何事か解らぬまま、妖夢は幽々子の言葉に従ってその場に座り直す。夕餉の支度も済ませていない自分に暇はないのだが、主の言葉であれば仕方がない。
「美希さん、貴女が何故ここに来るよう命じられたか、その理由を見せてあげるわ」
 包帯を巻き終えた主は、客人に微笑みながら静かに蝶を放つ。眠りに似た不思議な感覚が広がり、視界が暗転してゆく。まるで夢の世界に誘われるように、ふわりとした浮遊感が身体を包む。気が付くと妖夢は不思議な光球の前に佇んでいた。
「これが彼女の、美希さんの魂よ」
 いつの間にか、幽々子は自分の後ろに立っていた。美希という少女の肩を抱き、怯えた小動物のような目をした彼女を支えている。
「これが、魂……?」
「ええ、少しだけ解りやすく見せているから、貴女がいつも目にしている幽霊とはだいぶ違うでしょうけど」
 だいぶどころか、それは似ても似つかない姿をしていた。
 一部が大きくえぐれた、いびつな球体。それがその魂の第一印象だった。その表面には薄汚い黒い淀みが浮かび、暖かい光を放つそれを覆い隠している。一部汚れの酷い部分は、球体自体を汚し、食い散らかしているようにも見える。
「私は、魂までも汚れているんですね……」
 悲しげに呟く少女。この目の前の物体が本当に美希という少女の物であるならば、彼女はずいぶんと汚い人間だと言うことになる。しかし、主の側で瞳を潤ませるその少女が、本当にそんな存在だとは思えない。
 妖夢はその物体が本当に魂なのかどうかを確かめようと、そっと手を伸ばした。
「妖夢、あまり触れない方が良いわよ」
「えっ?」
 薄紙数枚の距離を残したところで警告を受け、慌てて手を引く。しかし、魂にこびりついた黒い染みが僅かに歪み、指先に触れてくる。
「…………っ!? ひっ……!」
 見せられたのは、ほんの一瞬。
 しかし、その束の間の時間ですらも、妖夢は耐えきれずに思わず声を漏らしてしまった。
 妖夢の意識に直接流れ込んできたそれは、陰惨な強姦の記憶。嫌がる自分の頬を叩かれ、服を毟り取られてベッドに押し倒される。吐き気のする臭いで充満した舌で顔を舐められ、その身体を汚されてゆく。
 そして、身を引き裂かれるような破瓜の痛み。
 それら全てが、まるで走馬燈のようになって一度に襲ってきたのだ。
「ぅ…………ぁ……っ」
 言葉を失い、吐き気を催しながらその場にしゃがみ込む。全身が震え、まるで自分がそれを体験してしまったかのような感覚に襲われる。
「それは彼女の魂の記憶。悪意ある縁によって歪められた、過去という名の染みよ」
 見せられた記憶の中に現れたのは、間違いなく美希という少女の姿だった。紛れもなくこれは、彼女の魂なのだ。
 そして、至る所に浮かぶ様々な染みの全てが、今のような死よりも辛い過去なのだろう。
「ごめんなさい……私なんかに触れたばかりに……」
 涙をこぼしながら、美希という少女は消え入りそうな声で謝罪する。
 何故彼女がこうも自分を卑下し、すぐに涙を浮かべてしまうのか、今の妖夢には痛いほど解ってしまう。
「大丈夫です……。問題ありません……」
 震える膝を堪え、なんとか立ち上がる。
 そして同時に、美希の強さとその境遇への憐憫を強く感じてしまう。同情や憐憫は相手のためにならず、むしろ悲しみ暮れるその人物を傷つけるだけでしかないという。
 しかし、この凄惨な光景を見て何も感じない人間が果たしているのだろうか。
 少なくとも妖夢には、そんな冷徹な存在になることは不可能だった。
「霊夢は、貴女を心配して私の元へよこしたのよ。このまま貴女の魂が汚れ、傷ついてしまうのを危惧して……。でもね、それは誰にも出来ないことなの。魂に刻みつけられた物は、全て貴女という存在を形作った、その軌跡なのだから……」
 いつになく悲しげな表情で、主が微笑む。己の無力さを感じてか、あるいはこの儚い少女に同情してか。
 いずれにせよこのような表情を、妖夢は今まで一度たりとて見たことはなかった。
「あの、欠けた部分にも意味があるのですか……」
 鈍く光る魂の、そのいびつに欠けた部分を見つめながら、妖夢は幽々子に訪ねる。それはまるでかじり取られた林檎のようにずいぶんと痛々しく見える。
「あの部分は……」
「母を……亡くしたときの物です……きっと……」
 主の言葉を遮り、美希が泣き出しそうな声で答える。
 魂が、悲しみに打ち震えているのが解る。
 きっとこの少女にとって、母親は大きな存在だったのだろう。そしてその母が死んでしまった。だから彼女は、魂に刻みつけられるほどの大きな傷を負ってしまったのだ。
 今にもそこからひび割れ、砕けてしまいそうな魂。それを見つめる自身の後ろで、幽々子がそっと口を開く。
「人の魂は縁によって支えられている。でも、貴女の魂は現界で結ばれた縁を全て引きちぎってこの幻想郷に来てしまった。それ故に貴女の魂は、今脆く儚い存在なのよ」
「縁を……引きちぎる、ですか?」
 途切れるでも遠ざかるでもなく、引きちぎるという言葉。その表現を選んだ真意を、妖夢は幽々子に問いただす。その言葉を受けて、主は悲しげに目を伏せた。
「本当は言うべきではないのかもしれないけれど……」
 嫌な予感が募る。自分はもしかしたら、聞いてはいけない何かを訪ねてしまったのかもしれない。
 しかし、こぼれた水は、もう元には戻らない。
「これは紫から聞いた言葉に私の想像を載せたものになるけれど……」



 夜の帳が、白玉楼を包み込む。
 薄闇に包まれた客間で、美希は一人、身じろぎもせずにじっと布団を見つめていた。
 いや、目の先がそちらにあると言うだけで、彼女の瞳には何も映っていなかったのかもしれない。
 自分が助かるために、多くの人間が犠牲になった。
 それが幽々子が躊躇いがちに明かした、真実だった。
(私は…………、私の為に…………多くの命を…………)
 胸が締め付けられるように痛む。罪悪感が心を苛む。
 幽々子は言った。主に殺されたのは自分を利用していた人物だと。もともと疎遠だった親戚や学校関係者に被害は無かったと。
 だから、貴女が気に病む必要は無いと。
(それでも…………私が生きていていい理由に…………なるわけが………………)
 俯き、顔を覆う。こぼれた涙が、頬を伝う。他者を犠牲にしてまで、自分に生きる価値があるとは思えなかった。人の未来を奪ってまで、切り開く価値がある未来には、思えなかった。
 どうして自分は、そうまでして生きる道を選んでしまったのだろう。
 考えれば考えるほど、美希の心は締め付けられ、泣き叫びたいほどに痛んだ。
「……眠れないの? 大丈夫?」
 不意に襖が開かれ、声をかけられる。泣き腫らした目で顔を上げたその先に居たのは、僅かに髪を湿らせた幽々子だった。
「食事も取らないから、心配していたのよ…………。ごめんなさい、私が余計なことを伝えたばかりに……」
「いえ…………」
 否定の言葉と共に、小さく首を横に振る。
 彼女に、悪いところなど無いのだ。
 咎められるべきは、この幻想郷に逃げてきた自分。
 いつも怒り顔の、優しい巫女にこんな選択をさせてしまった自分。
 くすくすと笑う顔がよく似合っていた、あの紫と言う女性の手を汚させてしまった自分なのだ。
「悪いのは…………、私ですから…………」
「貴女は、全てを背負い込もうとしてしまうのね」
 隣に腰掛けながら、幽々子は悲しそうに笑う。しかし、美希がその表情を見ることはなかった。
「犠牲を作ってまで……、生きようなんて思わなかったのに……」
「なら、全てをここで投げ捨てる?」
 不意に投げかけられた言葉。その意味を捕らえきれず、美希はそっと顔を上げた。
「人は……、いいえ、生きとし生けるもの全ては犠牲の上にしか生きることが出来ない。それは他者を蹴落とすという意味だけではないわ」
 声音から優しさが消えてゆく。厳しさと、そして冷たさが混じった言葉が、胸に突き刺さってゆく。
「鳥にも牛にも豚にも、兎にだって魚にだって魂はある。野菜だって米だって同じ。私たちはそれらの魂を喰らって生きているの。もし本当に何者も犠牲にしたくないのであれば、生きることを止めるしかない」
 いつのまにか幽々子の指先には、まるで闇を切り抜いて作ったような、漆黒の蝶が留まっていた。
「でもね、貴女に餓死なんて苦しい思いをさせたくはないの。せめて貴女には安らかに旅立って貰いたいわ」
 漆黒の蝶が、影絵のような羽を広げて宙に舞い上がる。優雅に、そしてゆったりと飛ぶその蝶は、美しさと同時に何か根源的な恐怖を感じさせる。
「この蝶は幽黒蝶と言うの。貴女を眠るよりも安らかに、まるで夢を見るかのように死へと誘ってくれる優しい蝶よ」
 死とはどんなものなのだろう。まだ幼い美希には、実感どころか想像も付かない。だが、その恐怖だけは、幽々子の言葉と闇色の蝶の不気味な美しさが十分すぎるほどに感じさせてくれた。
「い、いや……」
「大丈夫。死んでしまえば貴女を苦しめるものは何もなくなるわ。忌まわしい記憶も、悲しい出来事も、何もかも。自ら命を絶とうとしたことは罪が重いかもしれないけれど、そこは私が閻魔に取りなしてあげる。うまくすれば貴女は天界で安らかな日々を過ごせるかもしれないわ」
 蝶が羽ばたきながら近づいてくる。それはまさに、少しづつ迫り来る死期そのものだった。恐怖に足が竦み、声を上げるどころか呼吸もままならない。絶望に心が塗り固められ、恐怖から逃げるように、意識が遠のきそうになる。
(やだ……怖い……!)
 蝶はもう、鼻先まで迫っている。最早逃れる術はない。
 その時、眼前を銀色の閃光が駆け抜けた。



 考えるよりも早く、妖夢は行動に移していた。
 腰に下げた刀に手をかけ、襖を開けると同時に飛び出す。
 そして、一閃。
「ご無事ですか? 美希様」
 切り捨てた蝶が霧散してゆくのを見届けながら、妖夢は怯えて身を竦ませる外来人に声をかけた。
「あら、妖夢。こんな夜更けに何の用かしら?」
 飄々とした口調で声をかける主に向き直り、まっすぐに睨みつける。
「寝る前に様子を伺いに参りました。いらぬ世話かと思いましたが、どうやら来て正解だったようです」
 刀に手をかけ、半身に構えながら妖夢は思う。
 何故、自分は今主に刃を向けようとしているのだろうか。
 今まで、妖夢にとって主である幽々子の言葉は絶対だった。幽々子が黒と言えば純白の粉雪も黒になり、幽々子に牙をむく者は、たとえどんな理由であれ敵と見做し、切って捨てるのが自分の役割だと考えてきた。
 しかし、今回ばかりは違っていた。
「よ、妖夢さん……」
 背中からかかる弱々しい声。その儚げな命を、妖夢はどうしても守らなければいけないような気がしていたのだ。
 それは、彼女の魂に触れたからかもしれない。
 本当に一時の気の迷いなのかもしれない。
「大丈夫です。貴女を殺させはしません」
 強い決意を胸に、妖夢は小さく答えた。
 これが、正しい選択なのだ。
 自分は何も間違っていない。
 心が、そう強く訴えかけてくる。もう迷いはない。
「主に刃を向けるとは、どういう事か解っているのかしら?」
「理解しています。そして、今間違っているのは幽々子様です」
「それでも、彼女を殺すと言ったら?」
「……抜きます。倒してでも、止めて見せます」
「敵わぬと解っていても?」
「二度は、申し上げません」
 空気が糸のように張りつめる。重苦しい沈黙が、部屋に満ちる。
 視線を逸らすことなく、相手の一挙手一投足、それこそ呼吸にまで意識を向ける。
 だが、永劫に続くかと思われたその睨み合いは、幽々子の微笑みによって崩された。
「成長したのね、妖夢」
 優しく、穏やかな声音で語りかける幽々子。その笑顔は、まるで我が子を見る母のような表情だった。
「美希さん、何故貴女が危険を犯してまで、長い白玉楼の階段を登らなければいけなかったか、解る?」
 視線が不意に背後の少女へと注がれ、妖夢もまた釣られて振り返る。しかし、目の前の少女はまだ消えぬ怯えを顔色に残したまま、小さく首を振るだけに止まっていた。
「では、もしここに霊夢が居たら、貴女は自分の言葉で話すことが出来たかしら? この白玉楼の目の前で彼女と別れたとして、貴女はその影を追うことなく、自分の意志を見せられるかしら?」
 彼女の答えを待たずとも、結果は出ているようなもの。答えは紛れもなく否だ。今の状況がまともに話せている部類入るかどうかは甚だ疑問だが、あの巫女が居て美希が自分から口を開くとは到底思えない。
 そして同時に、自分が刀を抜いて飛び出すような状況はなかっただろう。
「霊夢は、貴女に新たな縁を結んでほしかったのよ」
「……えん?」
「そう、人は縁無くして生きることが出来ない。そこに疎密、良悪の差はあれどね。でも、今の貴女には霊夢との縁しか存在しない。もし霊夢と仲違いをしてしまったら、霊夢が間違った道を歩んだら、あり得ないことだけれど、霊夢に何かがあって、生命の危機に晒されてしまったら、貴女は本当に一人になってしまう」
「………………」
「だから貴女は、この白玉楼まで一人で来る必要があったの。新たな縁を結ぶために。そして、それを願っているのは私も同じなのよ、妖夢」
 視線が、今度は自分に注がれる。優しい母のような、慈愛に満ちた視線が。
「貴女はこれまで私に真っ直ぐ付き従ってくれた。それは本当に感謝しているわ。でもね、その為に貴女は視界を広げることが出来なくなってしまった。これは私の罪であり、失敗だわ」
 悲しげな笑顔の幽々子。妖夢はこれまで、主の為に尽くすこと、主の命に従うことこそが自分の生きる道であり、それこそが主の喜びであると考え、その道を全うしてきた。
 しかし、今幽々子はそれを嘆いている。その理由が、妖夢にはどうしてもわからなかった。
「私も以前、自ら命を絶とうとしたわ。それはそこに居る美希さんのような深い理由では無く、生きる事に飽いてしまったから。何時終わるとも知れぬ生と、変わる事の無い未来に辟易してしまったからなの。でも、少しづつ咲き始めた桜を見上げたとき、私はふと貴女の事を思い出してしまった……。私がもし消えてしまったら、この庭師はどうやって生きてゆくのだろう……って。そして、その憂いは今も続いているのよ……」
「母が…………、亡くなるちょっと前に言ってました……。自分の人生を歩ませてあげられなくて、ごめんなさいって…………。きっと、幽々子さんが言ってる事は、そういうことだと思います…………」
 言葉を受け、幽々子が小さく頷く。
 妖夢にはまだ、美希の言葉の意味がよく解らない。しかし、自身の信念に従い幽々子の前に立ちはだかった事は間違いではなかった。そのことだけははっきりと自覚する事が出来た。
 そして、幽々子が、それを望んでいた事も。
「全て、計っておられたのですか……?」
「いいえ、貴女が割って入った事は本当に予想外で、そして嬉しい誤算だったわ。そして、美希さんが生きる意志を見せなければ、本当に冥府送りにしていたことも間違いない」
 小さく息を吐き、笑みを消す幽々子。何時に無く強い意志を湛えたその相貌が、静かにこちらに向けられる。
 自分と、そしてその後ろに立つか弱い美希に。
「他者の為に生きる事は確かに美徳だわ。でも、それと自分を犠牲にする事とは違う。貴女達二人には、どうかそんな人生を送って欲しくないの。自分の人生ですもの、自分の為に使って頂戴。そして精一杯、少しでも長く生きて見せて頂戴。それが私からの、二人へのお願いよ」
 言い終えた幽々子の瞳からは、小さな雫が零れ落ちていた。そして、その涙の意味を、妖夢はまだ知らない。
 ただ、妖夢ははっきりと感じていた。自身と美希と言う少女の間に生まれはじめた、小さな結びつきを。



 何故、この人は涙を流せるのだろう。どうしてこんなにも温かい言葉をかけてくれるのだろう。
 美希にはどうしても、理解する事が出来なかった。
 自分は、他人に情けをかけられるような価値のある存在ではない。何も無い自分には、何かを返すことなんて出来ない。
 それなのに、幽々子は自分に真剣に向き合ってくれた。何も持たない、何の価値もない自分に。
「どうして…………、どうして、そこまでしてくれるんですか…………」
 この世界は、余りにも優しすぎる。
 霊夢は、見ず知らずの自分を住まわせ、衣食住を与え、幽々子や妖夢と引き合わせてくれた。
 幽々子は、自分の在り様を見せ、これからを指し示してくれた。
 そして妖夢は身を挺して、主に背いてまで、自分を庇ってくれた。
 なのに、自分は何も返す事が出来ない。
「わたしには…………、何もないのに…………。何も、返すことが出来ないのに…………」
 無力さが涙になって溢れ出す。何もない自分が酷く惨めに思える。しかし、そんな美希の手を、幽々子は優しく包むように握りしめた。
「何もないと決めつけているのは貴女の心よ。貴女は自分が思っているほど無価値な存在じゃない。そして、人は与えたり奪ったり、そんな足し算と引き算のような関係だけで成り立っているわけじゃないのよ」
「幽々子さん……っ」
 意識するよりも早く、美希は幽々子の胸に飛び込んでいた。涙で頬を濡らし、僅かな嗚咽を漏らしながら、柔らかい胸にすがるように抱きつく。そんな自分の頭を、幽々子は優しく撫でてくれた。
「妖夢も、いらっしゃい」
 自分の隣に滑り込む、自分よりもほんの少しだけ小さな影。彼女は自身の主に身を寄せながら、同時に美希の身体も抱きしめる。
 暖かい二つの体温に抱かれながら、美希は魂の汚れが少しづつ薄らいでゆくのを実感していた。
「妖夢さん……幽々子さん……」
 そっと顔を上げると、そこには妖夢の顔があった。
 幼さの残る、それでいて端整な顔立ち。強い意志と決意を湛えていたその瞳に、今は戸惑いと僅かな優しさが見え、そして今、恥じらいの色が浮かび上がる。
 美希は彼女を、強い意志と力を備えた女性だと思っていた。何事にも動じず、折れず、諦めず、腰に備えた刀のように、強く研ぎ澄まされた心を持つ女性なのだと。
 しかし、今目の前にいるのは自分と同じか、もう少し若い、幼さと脆さを秘めた少女そのものだった。
 そんな少女の腰に、美希はおずおずと手を伸ばし、そっと抱き寄せる。その瞬間に少しだけ染まる頬と、ふいと逸らした視線に映る恥じらいの色。それがとても可愛らしく思え、思わず小さく微笑んでしまう。
「ここへ来て、初めて笑ってくれたわね。貴女はその表情の方が、よく似合うわよ」
 頬を撫でる温かい手に心地よさと気恥ずかしさを覚えながら、美希はまた小さく笑った。
「もう少し、縁を深めることもできるのだけど……、貴女たちはそれを望む?」
 訪ねられたその言葉の意味を、美希は即座に理解してしまった。しかし、不思議なことにその行為に対する嫌悪感は、微塵も生まれてこない。むしろ脳裏をよぎったその行為の光景に、強い羞恥を覚えて赤くなる。
 見れば、眼前の少女もまた、同じ表情をしていた。
「妖夢さん……」
 そっと声をかけると、妖夢は視線だけを上げてこちらをのぞき込んだ。沈黙の中、まるで目だけで会話をするように視線を合わせ、それから、二人は殆ど同時に小さく頷いた。
 指先がそっと絡み合う。遠慮がちに手を結ぶ。息が止まりそうな程に、心臓が早鐘を打ち続ける。
 そして二人は、そっと唇を重ねあった。
 何故、彼女とこんなことをしているのか、どうしてその行為を受け入れようと思ったのか、美希にはよく解らなかった。ただ、そうすることがごく自然なことのように思え、そして否定することは妖夢と幽々子を悲しませる結果になるような気がした。
 そして、きっと妖夢も同じ事を思っているのだろう。
「んんっ」
 くぐもった吐息が、どちらからともなく漏れる。自らこんなことをするのは初めてで、自分から求めるようなこともしたことがない。だが、妖夢はどうやら美希以上に不慣れなようだった。
 小さく肩が震え、どうすればよいのか解らぬまま、ただただ唇を触れ合わせるだけ。握られた手は痛いほどに強く掴まれ、それが彼女の不安を物語っている。
「妖夢さん……、怖いですか……?」
 唇を離してそっと訪ねると、妖夢は小さく首を振る。しかしそれが強がりであることは、誰の目にも明らかだ。
 恐らく、妖夢はこういった事が初めてなのだろう。そして、彼女の初めての相手が自分になるのだということを、美希は強く実感していた。
 自分にとって、初体験は辛く悲しいだけの、思い出したくもない出来事だった。そんな思いを、この少女にさせるわけにはいかない。
「大丈夫です……。痛いことも、嫌なことも、絶対しませんから……」
 すがるように幽々子の腰に回していた腕を離し、両手で包み込むように妖夢を抱きしめる。あの時、霊夢にしてもらったように、強く、そして優しく。
「美希……さん……」
 ためらいがちに名を呼ぶ声を聞きながら、美希は妖夢の髪に指を絡め、そこに結ばれたリボンを解かぬようにしながら優しく撫でた。
 絹糸のようなきめ細かい白髪がするすると指を滑り、はらりと音もなく舞い落ちる。
「妖夢さん……」
 もう一度、今度は美希の方から唇を重ねる。ついばむようにその小さな唇を優しくはみ、舌の先端でそっと触れる。愛撫にも満たないその小さな行為を繰り返すうちに、妖夢もまた、美希と同じようにその手を髪と背に回してきた。
「んっ……、んん……」
 微かに響く水音に導かれるように、二人は少しづつ舌を絡めてゆく。行為からたどたどしさが消え、徐々に激しさと深みを増す。瞳と吐息が熱を帯び、時折交わされる視線に鼓動が止まってしまいそうになる。
「はっ……ん……、美希さん……」
 切なさを湛えた瞳を、静かに向けられる。その意味を訪ねる必要も、承諾を得ることも、もう二人には必要なかった。
 美希は妖夢を脱がせるよりも先に、自身の腰帯に手をかけ、静かに袴を脱ぎ落とす。そして羽織を結んだ紐を解き、サラシに覆われた胸と、大事な部分を隠す小さな下着を妖夢に晒した。
 自らこんなことをするなど、美希は今まで考えたことも想像したこともなかった。
 こうした行為は嫌悪しかなく、強要させられてするものだと思っていたからだ。
 しかし、今は違う。
 その行為に愛と優しさがあることを、知っている。
「脱がせますか……?」
 ためらいがちに頷く妖夢のスカートに手をかけ、ボタンを外す。透き通るような白い太股が露わになり、大切な部分を隠す薄桃色の小さな布が上着の下から顔を覗かせる。ともすれば病的なまでの白さを持つ妖夢の肌が、今はほんのりと紅をさしているように見えなくもない。
 ボタンを一つ、リボンを一つ、外す度に妖夢は小さく震え、身を硬くする。
「怖いですよね……」
 そっとかけた声に、妖夢は慌てて首を横に振る。どこまでも気丈に振舞おうとするのは、おそらく彼女の自尊心ではない。恐怖を見せれば、美希も幽々子も手を止めてしまうだろうという不安からだろう。
 正直に言えば、美希も不安であり恐れている部分はあった。何もかもが初めてであろう妖夢に、嫌悪感や恐怖を与えることなく触れることができるかどうか。そして何より、彼女を傷つけずに触れ合うことができるかどうか。それが不安でしかたがなかった。
 しかし、それでも手を止めるわけにはいかない。
 彼女の懸念を、ここで止める事の残酷さを、痛いほどに理解していたから。
「私も、すごく怖かったから……、わかります……。だから、無理なんかしないでください…………。私と同じ思いは、味あわせたくないから……」
 強く両手を握り、妖夢に優しく微笑みかける。
 それはもしかしたら、自分が一番見たかった表情なのかもしれない。
 そして、だからこそ、妖夢に届いたのだろう。
「……美希さん、ありがとう…………」
 上着とシャツを脱ぎ捨て、妖夢はそっと美希に肌を寄せてきた。白磁のような肌と、薄桃色の先端が露わになり、サラシ越しに自身の胸と重なりあう。
「妖夢さん……」
「もう、平気です……。貴女が不安を拭ってくれたから……」
 朱に染まった頬ではにかむように笑い、それからそっと唇を重ねる。今度はごく自然に、柔らかく舌を絡めて。
「んっ……」
「ふぁっ……」
 吐息が重なり、視線が絡まる。潤んだ瞳と、上気した頬が艶めかしい。美希はほんの少しだけ、自分を夢中で犯した男達の心が、解ったような気がした。
(妖夢さん……、かわいい……)
 ゆっくりと胸に手を伸ばし、そっと撫でるように愛撫する。妖夢は胸を覆う下着を身につけてはいなかった。いや、必要なかったと言うべきだろうか。彼女の胸はそれほどに平坦で、女性らしい膨らみに欠けていた。
「んっ、んんっ……」
 それでも、その感度は変わらぬものらしい。美希の手に反応してわずかに身を捩らせ、そしてくぐもった吐息を小さく吐き出す。
「美希……さ……ひゃっ!」
 そっと先端を擦り上げると、彼女は背筋を震わせて甲高い声を上げる。それは今までの凜とした佇まいからは想像も付かぬほどに、愛らしくも儚げな仕草だった。
「妖夢さん……、素敵です……」
 小さく囁きかけ、そのまま唇を塞ぐ。甘く深い口づけを交わしながら、美希は努めて優しく彼女を愛撫し続けた。
 自分が助けられ、温もりを教えられたあの日の事を思い出しながら。
「美希さ……んっ! んはっ……!」
 妖夢の手が、自身にしがみつくように回される。胸を、腰を、お尻を撫でられる度に、彼女は荒い息と嬌声を上げ、もがくように美希の身体を撫で、掴んだ。
 サラシがずらされ、胸が露わになる。肩に爪が食い込み、痛みを伝える。しかし、そんなものはもう些細なことだった。美希にとって今大切なのは、目の前の少女を傷つけることなく、愛し続けること。たったそれだけなのだ。
「妖夢さん……、ん、んんっ」
 少しづつ、自身の身体にも熱が灯り始める。下腹が熱くなり、身体の芯からくすぶるような欲望が生まれ始める。だが、愛撫と呼ぶには程遠い妖夢の行為では、それ以上に至ることはできなかった。
「あっ……あぁっ! 美希さ……っ! 美希さん……っっ!!」
 びくんと身体が跳ね、膝から崩れ落ちるように、妖夢はその場にへたり込む。どうやら軽い絶頂に達してしまったようで、彼女は肩で息をしながら、震える腕で身体をどうにか支えている。
「だめよ、妖夢。貴女ばっかり楽しんでは……。美希さんはお客様なんだから……ね?」
 含み笑いを込めた言葉と共に、肩から腕を回され、抱きすくめられる。上質な布のすべすべとした感触と、押しつけられる柔らかい胸の感触が心地よい。
「幽々子さん……」
「それにほら、こんなに傷つけてしまって……」
 くるりと身体を半回転させられ、幽々子のたわわな胸に包まれる。その双丘からは、どこか甘い匂いが漂っていた。
「美希さん……、申し訳ありません……」
「っ!? よ、妖夢さん……、なめちゃ、きたな……んんっ!」
 震える指が肩に触れ、美希は妖夢がつけたであろう傷口を舐められた。微かな痛みが快感に変わり、柔らかな胸の谷間で微かに身を捩る。しかし、そんな美希の言葉も行動もお構いなしに、妖夢は静かに舌を這わせ、滲み出た血を舐め続けた。
 静かに腰に手が回され、ためらいがちの腕で抱きしめられる。幽々子の細くしなやかな指先が、髪とうなじを愛撫してゆく。優しく心地よい感覚に包まれながら、どこか物足りなさを感じて小さく身を捩った。
「さぁ、そろそろお客様をおもてなしよ。うまくできるかしら?」
 小さな笑いを含んだその言葉と共に、妖夢の方へと向き直るよう促される。足を投げ出して布団に座る美希を、幽々子が背中から支え、妖夢が静かに顔を寄せてくる。
「うまくできなかったら……、ごめんなさい……」
 胸に手が添えられ、静かに撫でられる。たどたどしいその行為には、強い戸惑いが感じられる。
 きっと妖夢は自分の過去を、心の傷を見てしまったから、強く触れることができないだろう。
「大丈夫ですよ。もっと強くしても」
「で、でも……」
「平気です。貴女や幽々子さんが、あの人達とは違うことぐらい……、私にだって解るから……」
 言葉を受けて、妖夢は少しだけ強く、美希の胸を揉み始めた。恐らく彼女は、自分で慰めるようなこともしたことがなかったのだろう。たどたどしい愛撫は的を得ず、どこかぎこちない。それでも、熱に浮かされたようなその瞳を見ているだけで、美希は身体の芯が熱く疼いてゆくのを感じてしまう。
「んんっ……ぁ……」
 サラシの上からの拙い愛撫だが、それでも美希は小さく声を漏らした。秘所からは少しづつ蜜が溢れ、ショーツを僅かに汚してゆく。
「美希さん……綺麗です……」
 小さく、消え入りそうな呟き。それが余計に耳に響く。
 言葉と共に妖夢は緩んだサラシをずらし、先端を露出させて舌を這わせた。
「んくっ! ふぁっ!」
 ついばむように吸い、舌で小さく舐められる。もう片方の乳房には、いつの間にか幽々子の手が伸びていた。
「柔らかいのね。サラシで締め付けてしまうなんて、もったいないわ」
 緩んだサラシの隙間から指が滑り込み、胸を優しく揉みしだかれる。それは拙い妖夢のそれとは明らかに違う、的確に快感を引き出す行為だった。
「んぁっ……、ふ、二人でなんて……ひゃっ!」
 先端が摘まれ、同時にもう一方を強く吸われる。胸だけで達してしまいそうな快感に腰が跳ね上がる。既に美希の秘所は、ショーツにはっきりとした染みが浮くほどに濡れてしまっていた。
「かわいい声ね……。そんなのを聞いてたら、私も混ざりたくなっちゃったわ……。ねぇ、美希さん。脱がせて貰っても良いかしら?」
「ふぁ……、は、はい……」
 寸手のところで止められ、煮え切らぬ火照りを抱えたままに身を起こす。そして、後ろ手に幽々子の腰紐を解いてから向き直る。
 彼女の寝間着は、旅館の浴衣のようなものだった。薄く青みが差したその衣には、胸元に大きな桜の模様が描かれている。そんな美しい衣の腰紐をそっと解いた瞬間、美希は思わず小さなため息を漏らした。
 彼女は、その寝巻きの下に何も身に着けていなかったのだ。
 たわわな胸は支えるものが無くともしっかりとその形を保っており、薄紅色の先端は僅かに上を向いている。そして、髪と同じ桜色の小さな茂みは上品に整えられており、いやらしさよりも美しさが先に立ってしまう。
 その姿はまるで一流の絵画か彫刻のように、艶と美に満ち溢れていた。
「二人とも脱いでしまいなさいな。もう下着も濡れてしまっているのでしょう?」
 見透かされて頬が熱くなる。見れば妖夢も顔を赤らめ、俯きながらショーツに手をかけていた。
 長いサラシを外し、下着を脱ぎ捨てる。さらけ出した肌に夜の寒さを感じたのも束の間、妖夢が静かに身体を寄せ、抱きしめてきた。
「綺麗です……。本当に……」
「あ、ありがとう……ございます……」
「ふふ、すっかり仲が良くなって……。妬けちゃうわね」
 妖夢と共に抱きしめられ、背筋を指先でなぞられる。ぞわりとした快感のさざ波が全身に広がり、美希は思わず小さく喘いだ。
「可愛い声で鳴くのね」
 つ、と顎に手をかけられ、視線を絡め取られる。吸い込まれそうな幽々子の瞳に自身の姿を映しながら、美希は静かに唇を重ねた。
「……は……んく……」
 舌先を絡め取られ、唇を吸われながら、美希は手に収まりきらぬ彼女の豊満な胸を揉む。しっとりとした吸い付くような肌、自身を優しく抱く腕、そして甘く深いキス。そのどれもが、まさに大人の魅力であり、美しさを現していた。
「っ……ふふ、今度は妖夢、貴女よ」
 目の前で交わされる甘い口づけ。そして妖夢を抱きしめながら艶めかしく背中を這う幽々子の指先。そのあまりにも淫美な光景から、美希は目を逸らすことができなかった。
「ゆゆ……さま……っ。ふぁ、んぅっ……、ぁ……」
 喘ぎ混じりの言葉と共に、妖夢の身体が震える。その姿に目を奪われながら、美希は幽々子の胸にそっと唇を這わせた。
「ん…………」
 小さく息を吐きながら、美希は柔らかい乳房に口づけを繰り返す。愛撫をしているのは自分のはずなのに、まるで唇を愛撫されているようなそんな感覚を受けてしまい、美希は赤子のようにその乳房と先端に吸い付いてしまう。
「はふっ……、妖夢のここ、もうずいぶんと溢れてしまっているのね」
「ゆ、幽々子さまっ!? ふゎぅっ!」
 戸惑いと驚きの声、そして嬌声。恐らく自身でも触れたことのないのであろう。秘所を愛撫された妖夢は、硬く拳を握りしめながら、身をこわばらせていた。
「……怖くないです。幽々子さんは優しい方だから……。だから、身を任せて……」
 囁くような声をかけ、妖夢の手を握る。しかし、彼女はその手を硬く握り返したまま、小さく震え続けている。
「ごめんなさい、私のあんな光景を……見てしまったから……」
 握られた手を離さぬまま、美希は妖夢の下腹に口づけを落とす。妖夢は、恐怖と快楽の狭間でさまよっているのだろう。そして、彼女がこの感覚を恐怖に感じてしまうのは、自分の魂に触れたから。
 だから美希は、妖夢に奉仕することを決めた。
「ん、んく……、んむっ」
「美希さ……んぁっ! そんなとこ、きたな……ひゃっ!」
 舌がするすると滑り、妖夢の秘所までたどり着く。ぴったりと閉じた白桃のようなその部分には、まだ産毛すらも見えない。
「ほら、妖夢……」
 幽々子が顔を上げさせ、妖夢の唇をついばむ。甘く切ないその行為に嫌悪はないようで、妖夢もまた、喘ぎを漏らしながら舌を出して幽々子の唇を迎えている。そして同時に、彼女の白桃からは蜜がたわわに溢れ始めていた。
「んんっ! んんんぅ……!」
 そっと秘所を割り、舌で蜜をすくい上げながら、まだ小さな蕾を舌先でつつく。握る手の力が少しだけ強くなり、くぐもった声と共に身を捩らせる。しかし、そこに拒絶と抵抗は感じられない。
「きれいです……、妖夢さんのここ……」
 入り口を舌で撫でながら、腰とお尻を柔らかく撫でる。決して強くせず、入れるようなこともせず、その表面だけを愛おしむように。
「んんっ! ぁ……んぁっ! み……みき……さ、んんんっ……」
 硬く強ばっていた身が少しづつ解れ、握り直された手にしなやかさが戻り始める。同時にあがる嬌声は、彼女の限界が近いことを指し示しているようだった。
「がまん……しないで……。……んくっ……、ちゅ……」
「やぁっ! あ……ひっ! な、なんか……もう……ふぁっ! んひっ!」
 腰が跳ね回り、何度となく身を反らす妖夢。いつのまにか幽々子の手が彼女の胸を愛撫し、その首筋に桜色の唇が運ばれている。
「だ、だめっ! 二人とも……やっ、やぁっ! きちゃ……ひぁぁっっ!」
 大きく身体を仰け反らせながら、妖夢は甲高い声を上げて一気に果てた。秘所が花開くように広がりながら大量の蜜を溢れさせる。その蜜を少しづつ舐め取りながら、美希はゆっくりと愛撫を弱めてゆく。
「どう? 妖夢。そんなに嫌なものでもなかったでしょう?」
 震える肩を抱きながら、幽々子は妖夢に囁きかけていた。しかし、どうやら彼女にそれに答えるだけの余裕はないようで、今も荒い息を吐き続けながら、涙と涎で顔を濡らしていた。
「答える余裕はないみたいね。じゃあ次は、美希さんかしら?」
「わ、わたしは……」
「我慢は体に毒よ? 大丈夫、私は貴女の魂を汚したりしないから」
 小さな微笑みの奥に、見透かすような視線が光る。彼女は見抜いているのだろう。自身の奥底でくすぶり続けている、欲望の小さな炎を。
「ぁ……ん……」
 言葉を告げぬ美希の身体を、幽々子が優しく抱き寄せる。暖かい腕と柔らかい感触に包まれたまま、彼女は静かに頷き、その身を委ねることを選んだ。
 妖夢にされたときと同じように、美希は顎に手をかけられ、そっと上を向かされる。そして視線が絡むのも束の間、躊躇いがちの唇を一気にふさがれてしまう。
「んぁっ……ふぅ、ん……」
 甘く切ない口づけと共に、幽々子は胸にも手を伸ばしてきた。乳房を優しく揉まれ、その先端を指先で転がされる。既に熱くなっていた下腹部が更に熱を帯び、秘所から蜜があふれ出すのが解ってしまう。
「ふぅ……、貴女も胸だけでいっちゃう?」
 くすくすとからかう様な笑いと共に、胸を何度となく爪弾かれる。囁きと共にそっと吹きかけられる吐息と、時折うなじを撫でるその指先は心地良く、強い快感を覚えてしまう。しかし、達してしまうまでにはもう少し何かが足りないような、そんな気がしていた。
「私も…………させてください…………」
 不意にかかる声と、太股に触れる指先。それは先程まで果てて力無く身を投げ出していた妖夢のものだった。
「なら、二人でおもてなしをしましょうか」
 その言葉に反論するよりも早く、美希は唇を塞がれ、腰を抱かれた。先程よりも深く激しいキスと、先端をつまみあげる指先。そしてそろりそろりと秘所に近づく吐息に、否応無しに期待感が高まってゆく。
「うまくできなかったら、ごめんなさい」
 そんな言葉と共に、妖夢の舌が秘所に滑り込んでくる。舌先がそっと小さなつぼみに触れ、吐息と共にゆるゆると愛撫をされると、自身の蜜がより多くあふれ出してしまうのがわかる。
 しかし、深く絡められた舌が喘ぎすらも許さず、唇を塞ぎ続ける。
 息苦しいまでの口付けと幾重にも重ねられた快楽が、美希の理性と思考を奪い去ってゆく。
「んんっ! んんぅ……っ! んくっ…………っぷぁ! やっ……! そんな、いっしょになんて…………らめ…………んんんっ! んぐっ! んむっ…………!」
 耳に届く水音が口付けのものなのか、それとも自身の秘所を舐め上げられる音なのか、もう美希にはわからなくなっていた。繰り返し押し寄せ続ける快感が理性と思考を奪い、より強い愉悦を求めてしまう。
 妖夢の舌が秘所へ、幽々子の舌が口腔へと押し込まれ、四つの手が至るところを撫で回してゆく。
「んんぅっ! んんーっ!!」
 深い口付けを受けながら、美希は絶頂に達して身体を震わせる。しかし、それを知ってか知らずか、二人の責めは止まることなく続けられる。
「んはっ! や、もういっ…………んぐっ! んんぅ! んはっ! ひぁっ! ひゃめ、ひゃめぇっ!」
 一度達した身体はより敏感に反応し、脳を焼ききられそうな快感に苛まれる。自身の秘所が妖夢の舌を締め上げているのも、秘所から吹きだすように愛液を漏らしてしまっているのも、はっきりと解ってしまう。しかし、美希にはそれをどうする事も出来ない。彼女にできるのは、汗に濡れた肢体をくねらせながら、獣のように悶え続ける事だけだった。
「らっ…………! も……、んんっ! んぐぅっ! っぷぁ! もうだめっ! だめぇぇぇぇぇっっっ!」
 ひときわ大きな鳴き声と痙攣。そして硬く硬直する身体。それらと共に美希は激しい快楽の頂点へと上り詰めた。理性も、魂すらも吹き飛んでしまいそうな快感の中で、美希はかろうじて意識を保ちながら、糸の切れた人形のように力無く幽々子にもたれかかった。
「ふふ、もうぎぶあっぷかしら? 可愛い鳴き声だったわよ」
 そっと抱きしめられ、髪を撫でられる。腰に抱きついていた妖夢が、胸にそっと擦り寄ってくる。それは美希が初めて感じた、とても満たされた幸福な瞬間だった。
 嫌悪、恐怖、苦痛。性交とはその繰り返ししかないものだと、美希は思い続けてきた。
 否応無しに快感を引き出され、気持ちの悪い液体を注がれながら全てを奪われる。それが全てだと思っていた。
 しかし、ここでは違う。
 この幻想郷には、自身を優しく包んでくれる人たちが居る。そして、満たしてくれるような、暖かい交わりがある。それが何より幸せで、同時に美希は、ここに霊夢が居ない事を少しだけ残念に思った。
「ねぇ、二人とも……。私はまだ満足していないんだけど……もう少しだけ頑張ってもらってもいいかしら?」
 答える前に、美希は静かに妖夢を見た。視線が交わされ、小さく微笑む。それから二人はそっと手を握り合い、幽々子を見上げて小さく頷いた。



「すっかり遅くなっちゃいましたね……」
 時刻は既に夜半を回り、いわゆる丑三つ時が近づいてくる。幽々子と交わった後、二人はもう一度身体を重ねながら彼女に弄ばれ、腰が抜けるほどに乱れてようやくその乱痴気騒ぎから開放となった。
 今は三人とも湯浴みを終え、幽々子は既に自室に戻っている。残された自分は何故か眠ってしまうのが惜しい気がして、美希の髪を梳る事にした。
「大丈夫です。昼まで寝てたって、誰も咎めませんから」
 布団に正座する美希。その髪を傷めぬ様に静かに櫛を通す。とはいっても彼女の髪は短いため、撥ねを直して落ち着かせる程度のものでしかないのだが。
「それにしても、もったいないですね……。色は綺麗な黒なのに……」
 美希の髪はずいぶんと短く切られすぎていて、ところどころ長さもまちまちだった。しかし色は美しい濡羽色をしており、特に目立った癖もない。きっと長く伸ばせば良い色艶を見せるだろう。それだけに、この女性らしさにかける髪形は残念に思える。
「これ、霊夢さんがやってくれたんです。私の髪、痛んでボロボロだったから……」
 寂しさの向こうに照れを隠した苦笑を見せながら、美希が小さく笑う。やはり彼女にとって、あの巫女は大きな存在なのだろうか。
「霊夢さんの事、好きなんですか?」
「よく、解らないんです……。私は愛情とか友情とか…………そういうものを感じた事が少なかったから……」
 曇る表情とほんの少しだけ俯く頭を見ながら、妖夢は失言だったと後悔した。彼女がどんな人生を歩んできたか、その魂に触れた自分には解っていたはずだ。それなのに、何故自分はそんな質問を投げかけてしまったのだろう。申し訳なさと同時に、人付き合いというものを真剣に考えてこなかった自分の人生に悔やんでしまう。
「私は…………、お友達になれますか……?」
 そっと腕を回し、彼女を抱きしめる。何故、自分は彼女を見つめてしまうのだろう。どうして自分は、彼女に身体を許すほどに、深い関係を求めたのだろう。
 自分の人生には、幽々子という主の存在以外何もなかったはずだ。その他の人間など、まして外来人など取るに足らない存在だったはずだ。
 しかし今、妖夢の心の中でこの美希と言う少女は無視できぬほどに大きく膨れ上がっていた。
 それはもしかしたら、不遇な生い立ちを見てしまったが故の同情なのかもしれない。
 傷つき、萎れかけた木を慈しむ事とさして変わらない思いなのかもしれない。
 それでも、勘違いでもかまわないと、妖夢は思っていた。
「妖夢さん…………。いいんですか……? 私なんかと……」
「私の初めての友達に……美希さんになって欲しいんです……」
 添えられた手の温かみ。触れ合う頬の温もり。その全てが、とても大切な事のように感じる。そしてこの気持ちが偽りでない事も、妖夢ははっきりと感じ取っていた。
「ありがとうございます…………。私…………嬉しい…………」
 ぽたり、ぽたりと小さな雫が手に落ちてくる。その雫には、きっと彼女の魂の汚れがほんの少しだけでも、混じっているのだろう。妖夢はそう強く信じて、美希をしっかりと抱きしめた。
 自分よりも年嵩に見える、幼い少女の心を包むように。



 抜けるような青空、暢気に浮かぶ白い雲。
 その雲を見上げては、箒を止めてため息を一つ。
 博麗の巫女、霊夢は朝からずっとそんな調子だった。おかげで境内の掃除も捗らず、上の空で食べた朝食も、何処かへ行ってしまったような気がする。
「遅いわね……。もう帰ってきたっていいのに」
 眉を寄せながら誰にともなく愚痴る。彼女が不機嫌な理由は、心配からだけではない。
 自分が何故ここまで心配しているのか、その理由に説明がつかないからだった。
 白玉楼へ向かわせたのは、ただの居候。たしかに彼女は自分の庇護にあり、赤の他人と言うには些か近すぎる存在だ。
 だからといって無二の親友というわけでも、長い付き合いの関係というわけでもない。気を揉んでそぞろ歩くような真似をする理由は何処にも無い筈だ。
 では、この不安の理由は何なのだろう。
 霊夢がその答えを見つけるよりも早く、安心が半人半霊に背負われてやってきた。
「ただいま帰りました。妖夢さん、ありがとうございます」
 背中から降りた居候は、帰還の挨拶を告げてから妖夢に頭を下げた。そんな彼女の声は、霊夢が記憶しているものよりも幾分か大きく、はきはきとしているような気がする。
「おかえり、美希。どうだった?」
「それについては、私が伝言を預かってます」
 美希の隣に歩み出た妖夢が、遠慮もなしに口を出す。従者に尋ねる事などないのだが、伝言とあらば聞かなければならない。霊夢は少しだけ不機嫌そうな顔で、妖夢に視線を向けた。
「人に頼らず自分でおやりなさい。万能の巫女様。だそうです」
 その言葉を放つ幽々子の姿と表情が容易に想像できる伝言に、霊夢は苛立ちを隠せなかった。
 自分には出来ないという意味なのか、はたまたこの程度の事は誰にでもできるという意味なのか、その真意ははっきりとはわからない。
 しかし、自身が小馬鹿にされている事だけは間違いない。
「天衣無縫の亡霊も、案外たいした事ないのね。もう少し気前が良いと思ってたんだけど」
 だから霊夢は、憎まれ口を叩いてやるとこにした。
 朝から虫の居所が悪かった事に加え、この場に幽々子が居ないことが癪に障る。どうせこの庭師は忠実に任務を遂行し、何も言わずに帰っていくだけなのだ。このぐらいの事は言ったところで問題ないだろう。
 しかし、妖夢の反応は予想外のものだった。
「ご自身の無能を人のせいにしないでいただけますか? それとも、結界を守る巫女はそこまで狭量なお方だったという認識でかまわないので?」
 ほんの僅かにだが、妖夢の口角が上がっているのが見える。間違いない、自分は馬鹿にされているのだ。
「あんたねぇ……!」
「れ、霊夢さん。落ち着いてください」
 不安で一杯の、今にも泣き出しそうな顔の美希が間に割って入ってくる。しかしその程度で怒りが収まるわけもない。何より、その原因の一端は彼女にもあるのだ。止められる言われも権限も存在しない。
「何いってんの! 元はといえばあんたが……」
 怒りの矛先を向けると、美希は身を竦めて身体を強張らせた。平手打ちでも飛んでくると思ったのだろうか、彼女の肩は震え、涙の浮いた目を強く瞑って何かに堪えるような素振りを見せる。まるで叱られる寸前の幼子のような、そんな表情に霊夢は狼狽し、言葉を詰まらせてしまう。
「べ、別にあんたを怒ろうとか、そんなつもりは……」
「妖夢さんも、怒らないでください……。悪いのは迷惑かけてる私なんですから……」
 おずおずと小さな声で呟く美希。そんな彼女の濡れたまつげに痛々しさを感じ、霊夢は怒る気力を無くしてしまう。
 本音を言えば、霊夢は特に何かを期待しているわけではなかった。
 魂の修復など、土台無理な話である事は明白だ。何より幽々子は魂の管理人ではあれど、生きた人の魂を意のままに操るような力は持ち合わせていない。それが出来るのは、恐らく本物の神か、それと同じだけの力を持つ存在ぐらいだろう。
「あーもー……。解ったわよ。解ったから泣くんじゃないの」
「ぐすっ…………。はい…………」
 小さく頼りない返事に、まだまだ彼女には自分の存在が必要であるのだと感じて、何故か安堵を覚える。
 そして、知らず知らずのうちに大きな存在になっていた同居人を改めて見つめなおし、呆れたように微笑んだ。
「それでは、私はそろそろお暇させていただきます。美希様、機会がありましたら是非また一度お越しください」
「あ…………、はい。ありがとうございます」
 妖夢に向き直り、涙を拭いながら頭を下げる美希。何の変哲も無い、ごく自然な別れの風景。しかし、次の出来事だけは、霊夢にも想像つかなかった。
「んんっ!?」
「なっ…………!」
 それは本当に突然の出来事だった。頭を上げた美希と妖夢。その美希の頬に手を添えて、妖夢が口付けをしたのだ。
 あまつさえ、視線をちらりとこちらに向けながら。
「妖夢……! あんたねぇ!!」
「ま、まってください! 私は平気ですから、喧嘩しないで……!」
 かぁっと頭に血が上り、反射的に袖口に手を伸ばす。そんな霊夢の姿を見て、美希が慌ててしがみついてくる。
 妖夢の行為は、紛れもなく宣戦布告だった。今から美希を奪いますと言わんばかりの、明らかな挑発。それを買わない理由は、霊夢には存在しない。
「何勝手な事してるのよ! 理由によっちゃ容赦しないわよ!」
「では私はこれから用事がありますので、失礼します」
「やめて霊夢さん! 喧嘩なんかしないで!」
 怒声を意に介さず、妖夢はさっさと空へ舞い上がる。一瞬だけ振り返った妖夢が、小さく舌を出して挑発する。本来ならば捕まえてスペルカードで決着をつけたいところだ。完膚なきまでに叩きのめし、ぐうの音も出なくなったところで跪かせてやりたい。しかし必死にしがみついてくる美希を邪険にも出来ず、かといってこのままの体勢では攻撃することもできない。そうこうしているうちに妖夢の姿は小さくなり、里の方角へと消えて行ってしまう。
「………………はぁ、わかったわよ。もう妖夢も居ないから離れなさい……」
 諦めに似た深いため息と共に、全身の力が抜けてゆく。熱くなっていた思考も今はすっかり冷め、冷静さが戻っている。
 激しい怒りが引き潮のように収まってゆく中で、霊夢はひとつだけ、自分の中に起こっている変化に気がついた。
「本当に……、もう喧嘩しませんか……?」
「…………売られなきゃ買わないから、安心なさい」
 未だ不安そうな顔を向ける美希。その頭を軽く撫でながら、霊夢はその変化を心の奥にしまいこむ事にした。
 今はまだ、それを伝えるときでは無いと、自分に言い聞かせながら。
「おかえり、美希」
「はい……。ただいまです……」

続く



[11779] 在るべき場所
Name: Grace◆97a33e8a ID:5e1f61fe
Date: 2010/10/03 02:09

 ここに私の居場所はない。
 私はここに居てはいけない。

 だけど
 私はここに居なきゃいけない。
 私はここに居るべきだから。

 本当は
 ここに居たくない。

 だって
 私は



   『在るべき場所』


 白玉楼から戻って以来、美希は少しづつだが口数が多くなっていった。
 もともと霊夢は自分から口を開くような事は少なく、聞かれれば答え、振られれば相槌を打つ程度の事が多い。しかし同居人である美希と共に食卓を囲んでいるのに、何も喋らないのでは些か空気が重く不自然である。故に彼女はなるべく積極的に話題を振り、沈黙という名の重圧を回避し続けてきた。
 だが、ここ数日は時折だが美希の方から話を持ちかけるようになっている。
「へぇ、幽々子がそんな事をねぇ」
「ええ。でも後悔はしてないですよ? 私の髪は、ずいぶんと傷みが激しかったですし」
 髪を拭きながら振られた話題は、美希の髪型についてだった。
 彼女の髪を切りそろえたのは、他ならぬ霊夢自身である。幻想郷に来て間もなくの美希の髪は傷みが激しく、放っておけばこれから生える髪まで割けてぼろぼろにしてしまいそうだった。そこで霊夢はやむなく彼女の髪を傷んだ部分から切り落とし、その長さにあわせて全体を整えていった。
 その結果、特に短くしてしまった部分は撥ねを起こし、それが他の髪を持ち上げ、ただ短いと言うだけでなく、外撥ねの多いまとまりの無い髪型になってしまったのである。
 自分で切っておいてこういう感想を持つのもどうかと思われそうだが、お世辞にも美希の髪型は美しいとは言い難い。男性のそれに近いほどに短くざんばらなそれは、年頃の女性なら嘆き悲しむのが当たり前だ。
「それに、髪は時間が経てばまた伸びますから」
 にもかかわらず、美希はまるで気にしていないと繰り返す。
 いや、実際本当に気にしていないのかもしれない。何せ彼女は、つい先日までそんな余裕すらない状態だったのだから。
「うーん、髪を伸ばすことができそうな奴は、心当たりが無くもないんだけど……」
 髪を拭き終え、湿った手ぬぐいを畳みながら呟く。
 霊夢の言う心当たりとは、医学に通じ、万能の薬を創造できる蓬莱の薬師のことだ。しかし彼女は癖のある人物であり、たとえ霊夢の頼みでもそう易々とは聞き入れて貰えそうもない。それ故に霊夢は、何とも歯切れの悪い言い方をせざるを得なかったのだ。
「会うのが難しい人なんですか?」
「いや、まぁ会うのは簡単なんだけど……会いたいの?」
「幽々子さんは、もっと多くの縁を見つけ、結ぶことが大切だって……。だから、一人でも多くの人に会うべきなのかなって思って……」
 霊夢は内心、驚きを隠せなかった。確かに彼女は少しづつだが変化していた。表情が明るくなり、言葉も心なしかはっきりと発するようになった。だが、まさか自分から誰かに会いに行きたいなどと言うとは、想像もしなかったことだ。
 そして霊夢はそれを、心のどこか、ほんの僅かな部分で、素直に喜ぶことができなかった。



 翌日の昼過ぎ、美希は霊夢に背負われて小さな村落へと降りたった。
「ここが里よ。この幻想郷に住む人間の殆どは、ここに集まってる」
 さらりと言い放つ霊夢。しかし、眼前の光景はずいぶんと現実離れをしたものだ。
 美希がもし盛大な勘違いをしているのでなければ、今現在は平成という世の中であり、二十一世紀である。しかし、この目の前に広がる光景はどうだろうか。概ね全ての家が木造かそれに近い作り。当然十階建てのビルなど一つとして見えはしない。
 道路は舗装されておらず、車も走っていない。バイクも自転車も見当たらない。
 行き交う人々は着物か浴衣のようなものを着ている者が殆どで、手に提げているのもバッグなどではなく巾着か篭か木桶のようなものばかり。
 そう、その光景はまるで時代劇のセットのようだった。
「まぁあんたが元居た世界に比べたらだいぶ変わってるんでしょうけど、こっちじゃこれが普通なのよ」
 きょろきょろと辺りを落ち着き無く見回す美希に苦笑をもらしつつ、霊夢は小さな巾着を手渡した。中には様々なコインのようなものが数枚入っており、それぞれに何がしかの漢字が描かれている。
「これは……?」
「ここで使えるお金。せっかくだから観光でもしてらっしゃい」
「そ、そんな……! 受け取れません、こんなの……」
 あわてて巾着を閉め、霊夢に返そうとする。しかし、彼女はそれを片手で制して軽く微笑んだ。
「いいからいいから、これも勉強のうち。そうね……、団子を食べてお茶を飲んで、それから一着服を買うか何かするぐらいのお金は入ってるはずだわ。なんならそれを使いきってしまってもかまわないから」
「ぁぅ……、でも……」
 美希には、仕事らしい仕事をできるだけの技術がない。一応の家事手伝いはしているものの、現時点では博霊神社の居候であることは間違いない。どこをどうひっくり返しても、自分が金を貰える理由にはならないはずだ。まして好きに使ってかまわない遊び金など、もってのほかである。しかし、霊夢は美希の手を握り、その手のひらにしっかりと巾着の紐を握らせた。
「なら家事手伝いをした駄賃だと思って受け取りなさい。わかった?」
「…………はい。わかりました」
 渋々顔で納得して巾着を受け取ると、霊夢は満足げに微笑んで小さく頷く。
「この道を真っ直ぐ行くと、案内人に会える大きな家があるはずだわ。解らなかったら適当な人に上白沢の家はどこかって聞けば、すぐ教えてくれる。そんで、永遠亭ってところの八意永琳って人に会ったらこの手紙を渡して。少しは話が早く進むはずだわ」
 渡された手紙を二つ折りにして巾着の中へ押し込み、美希は確かめるように数度頷く。見慣れない景色で戸惑いはあるものの、お使いとしては難しいものではない。これならつまづくことはないだろうと、美希は少しだけ背筋を伸ばして胸を張った。
「わかりました。ありがとうございます」
「じゃ、私は神社に戻ってる。帰りはきっと誰かが送ってくれると思うけど、遅いようだったら様子を見に来るわ」
 言葉を残し、霊夢はふわりと浮き上がり、空へ消える。その姿を見送ってから、美希は目の前に伸びる道へと一歩足を踏み出した。



 里の守護者、上白沢慧音は寺子屋の教師でもある。学ぶ姿勢のある者は老若男女人妖の分け隔て無く迎え入れ、教鞭を振るう。今日も十人ほどの生徒を前に、授業の真っ最中である。
「……というわけで、この幻想郷にとって博霊神社というものはとても大切で無くてはならないものなのだ。解ったかな?」
『は~い』
 何名かは理解をしていないようだったが、概ね半数以上の生徒が理解できているようだったので、良しとすることにした。後は宿題を与えて、復習させればよいのである。
 一度の授業で全てを覚えさせ、詰め込むような事を慧音はしなかった。それぞれの学習速度には違いがあり、人と妖怪では環境もまるで違う。それを全て十把一絡げに見てしまうのは些か乱暴すぎるからだ。
 しかし、学び舎における集団生活は尊重しなければならない。遅れた子の為に全ての子の学業を停滞させるわけには行かないのだ。そこで、それぞれに宿題を与えたり、試験によって出た差によって優劣を決め、子供達のやる気を発奮させるような何かを常々考えながら授業を続けるのが、彼女のやり方だった。
「じゃあ今日の授業はここまで。みんなお疲れさま」
「きりーっつ」
「れい」
『ありがとうございました』
 その成果なのかどうかは不明だが、彼女の生徒は概ね生き生きとしており、表情が明るい。出来不出来、真面目不真面目の差はあれど、笑顔が絶えないのは良いことだとして、彼女は自分のやり方が間違ったものでは無いと確信を持っている。
「うむ、気をつけて帰るのだぞ」
 その言葉を言い終えるよりも早く、何名かの生徒が教室を飛び出す。やれやれと思う反面、子供はこれが正しい姿なのだろうと、慧音は満足げに頬を緩ませた。
 授業のあとは何か淡い達成感のようなものが心に満ちる。そして慧音は、その達成感を味わいながら教材の後片付けをするのが至福のひと時だった。
 しかし、今日はその満ち足りた時間がものの一分もしないうちに打ち破られる事となる。
「けーねせんせー! たいへんたいへん!」
 授業に使った黒板を掃除していると、不意に背中から声がかかる。先ほど飛び出した子供が大慌てで戻ってきたようだ。
「どうした? 何かあったのか?」
「そとにしらないひとがいる! みこさまみたいなふくきてた!」



「貴美、忘れ物はない?」
「うん、大丈夫。いってきます」
 何気ない、穏やかでありふれた朝のやりとり。
 しかし、貴美はこのやりとりが一番気が重くて、辛いものだった。
 学生は学校に行くものだ。特に義務教育を受けている自分は、そうしなければならない義務がある。
 だが、学校には行きたくなかった。
 別段成績が悪いわけではない。貴美は音楽と体育が苦手だが、それ以外はクラスではそれなりに優秀な部類に入る。
 厳しい先生が居るわけでもない。
 酷いいじめにあっているかと言われると、それほどでもない気がする。
 理由は、自分自身にあった。

「おはようー」
「おーっす」
「おはよ」
 学校が近づくにつれ、いくつもの挨拶が耳に届く。
 ある者は悪ふざけをしつつ、ある者は放課後の予定を話しつつ、またある者は、部活用の大きなバッグを抱えて、校門をくぐってゆく。
 しかし、貴美に声をかける者はいない。

「起立、礼」
 クラス委員の声と共に授業が終わる。休み時間、殆どの者は友人との会話に花を咲かせたり、簡素なゲームに興じる。しかし、貴美がその輪に混ざることはない。

「じゃーなー」
「ねー、これから駅前のカラオケ行かない?」
「部活行こうぜ部活!」
 放課後。
 それぞれが足早に、もしくは連れだって教室を去る。その輪の中に、貴美は居る。
 ただし、彼女に関心を向ける者はいない。

 カバンの中の携帯電話が、メールの着信を知らせる青いLEDを点す。普通の娘なら、友人からの連絡だろうと喜び勇んで携帯を開くところだ。
 しかし、貴美の携帯に限っては、そんなことがあるはずもない。
 彼女に届くメールは、これから自身が身を投じねばならない、陰惨な宴への招待状でしかないのだ。

 彼女は、いじめの末にこのような状況になったのではない。
 自らこうなるように望んだのだ。
 自分には、彼らのような明るい未来など有りはしない。
 彼女たちのようにきらびやかでは居られない。
 部活に精を出す暇も、遊びに行く余裕もない。
 そんな青春らしい楽しみは、全て奪い尽くされてしまったのだから。

 昔、腐ったみかんを箱の中に入れておくと、周りのみかんまで腐り始めてしまうんだ。という話を聞いた記憶があった。
 ならば、箱に入っていなければならない、腐ったみかんの自分はどうすればよいのだろう。
 せめて周りを腐らせぬように、遠く離れたところに居るしかない。
 腐り落ちて、溶けて消えて、いつかこの箱から捨てられる日まで、孤独で居続けなければならない。
 そうしなければ、いけないのだ。


 だから、私の居場所はここであってここじゃない。
 ここに居るべきだけど、ここに居ちゃいけないんだ。

 私に、居場所なんか……。



「……しっかりしろ、大丈夫か?」
「ん……ぁ……、え……?」
 ゆっくりと目を開けると、目の前には美しい女性の顔があった。幽々子や紫よりは若く見え、自分や霊夢よりは年嵩に見える彼女は心配そうに顔を覗き込み、肩を揺する。
「おお、目を覚ましたか。気分はどうだ? どこか痛むのか?」
 矢継ぎ早の質問に、美希はゆっくりと記憶の糸をたぐり寄せる。
 霊夢が去った後、美希はとりあえず目的地を確認するべく、指示された道を歩き始めた。時代劇の長屋のような町並みを珍しく思いながら、たどり着いたのは上白沢の表札が下がった寺子屋。
 学校に良い思い出など一つもなく、むしろ辛い記憶が蘇りそうになるのを必死に堪えながら、美希は案内人という人物を捜して中へと足を踏み入れた。
 そこで目にしたのは、多くの子供たちが楽しそうに授業を受ける風景。
 そして同時に蘇る忌まわしい過去。
 辛い過去に目眩を覚え、美希は数歩下がって廊下の隅に腰を下ろした。
 そこから先は、もう思い出したくもない夢の記憶。
「察するに巫女の関係者のようだが……、私に何か用事だったか?」
「ぁ、えと……」
 不意に顔を上げると、目元から小さな滴がこぼれ落ちた。どうやら、夢を見ながら泣いていたらしい。
「はい」
「…………?」
 青い髪を揺らす女性の横から、黒髪の少女が手を差し出す。その手には橙色のハンカチと、黄色いリボンが付いた狐色の小さな包みが乗せられていた。
 小さな手で、小さな笑顔を作りながら、少女は美希の手にその二つをそっと乗せ、それから微笑む。
「あのね、かなしいときはちゃんと泣いて、それからおいしいものをちょっとだけ食べるとげんきが出るんだって。だから私の大好きなおやつをおねえさんにあげる。だからおねえさんもげんき出して」
 黒髪の少女は、金色の耳飾りの付いた猫のような耳を小さく揺らしながら、美希の頭を優しく撫でた。暖かい小さな手の感触を感じながら、美希は手渡された包みを開く。
 中身は、銀色に輝く煮干しだった。
「にぼし、きらいだったらごめんなさい。でもでも、きっとおいしいから」
 なんだかよくわからない言葉に後押しされながら、美希は煮干しを一つつまみ上げ、口に運んだ。
 塩味と苦みが混じった煮干しの味は、まるで涙の味のようで、美希はその包みを大切に握りしめながら、また声を上げて泣き出してしまった。



「すいません……、取り乱して、御見苦しいところまで見せて……」
 茶を一口啜った後、美希という少女は深く頭を下げながら申し訳なさそうに答える。
 泣き続ける彼女をなだめ、生徒を帰してから部屋まで導いたのはほんの数刻前。まだ瞼の赤みは引かないが、少なくとも彼女の瞳から新しい涙がこぼれることはなさそうだった。
「よいよい。それより、用向きを教えて貰えるか? 急ぎであればのんびりもしていられぬだろう」
「あ、急いでいるわけでは、ないのですが……、髪を伸ばす薬を作ってくれる人が居ると聞きまして……」
「髪? 髪の毛のことか」
 ちらりと少女の頭を見て、慧音は何となく察しがついた。整えるにしてはおかしな髪型は、恐らくなにがしかの理由でそこから切り捨てなければならなかったのだろう。そして、彼女の目的はその失われた髪を元に戻すといったところか……。
「はい。ここにくれば案内人に会えるって……、霊夢さんが……」
「ということは、巫女のお気に入りとはお主のことか」
「……お気に入り?」
 不思議そうな顔でこちらを見る美希。どうやら彼女は、周りが思っているほど大切に扱われていないか、もしくは自覚がないらしい。そんな彼女の表情に思わず笑みを漏らしつつ、慧音は茶を啜った。
「この幻想郷にも新聞屋は居ってな。お主のことは既に記事にされておるのだよ。博霊神社の巫女がお気に入りの外来人を住まわせて、大層目にかけているとな」
 何事においてもあっさりとして冷たく厳しい博麗霊夢が、外来人を帰さずに神社に住まわせているというだけでもそれなりの記事になる。ましてやその外来人のために霊夢自ら手を回しているともなれば、特ダネ以外の何物でもない。以前顔を出した魔女もずいぶんと興味があったようだが、『今行くと針と札が飛んできそうだから、頃合いを見計らってる』と言っていた。つまり目の前の少女は、まさに時の人そのものなのだ。
「わ、私はただの居候で……、霊夢さんに迷惑かけてばかりで……」
「あれが本当に迷惑だと感じていたら、お主はとっくに森の中かこの人里に放り投げられておるよ」
 困り顔の少女を見つめながら、慧音はもう一口茶を啜る。
 恐らく、少女の髪を切ったのは霊夢なのだろう。そして必要があったとはいえ、あまりにも無惨な髪型にしてしまった彼女への罪滅ぼしも兼ねて、こちらによこしたと言うところなのだろう。そういうことなら、急ぐ必要も慌てる必要性も無い。慧音は良い機会だと、今のうちに頭に浮かんだ疑問を解決してしまう事にした。
「何はともあれ、その案内人は今日の夕方頃に顔を出す予定でな。それまで……そうだな、何故ああも泣いてしまったのか、差し支えなければその訳を聞きたいのだが」
「……それは…………」
「いや、なに。無理に聞こうとは思わぬ。ただ、辛い思いや悩みは、吐露することで楽になったり、解決策が見えたりするのでな……。お主が平気なら……聞かせては貰えないだろうか」
「……聞いたら、気分を悪くするかもしれませんよ?」
 顔も上げず、小さく呟く美希。恐らく彼女は巫女や魔女とそう変わらぬ年齢のはずだ。しかし、その表情には重く苦しい何かが隠されているようにしか見えない。
 話を聞くことが解決になるなど虫の良すぎる言い方かもしれない。しかしそれでも、慧音は何もせずには居られなかった。赤く目を晴らして泣き続ける彼女の姿を見てしまったから。
「この上白沢慧音、他人の不幸を聞いて気分を害すような狭量の持ち主ではない。その点は安心して欲しい」
 居住まいを正し、慧音は真っ直ぐに少女を見つめる。自らの誠意を、その視線に込めて。
 その心が通じたのか、はたまた苦しみからの解放を望んだのか。細枝のような儚さを持つ少女は、おずおずと口を開いた。
「…………………………私は……」



「なんと、そのようなことが……。いや、無理に問いただして申し訳ない」
 過去を聞いた慧音は深々と頭を下げ、自らの非を詫びた。美希としては、これでも多少は気を使い、話を柔らかく曖昧に伝えたつもりだったのだ。しかしそれでも、衝撃は大きいものだったらしい。話の途中、慧音は何度も聞き返し、怒りで拳を作ったり、悲しげに俯いたりを繰り返していた。
 そして、そんな風に心を痛める慧音に、美希は申し訳なさを感じてしまう。
「いえ、いつまでも引きずっている私が悪いのですから……」
 呟きながら微笑み、もらった煮干しを一つかじる。
 優しさが心に染み渡るような、そんな暖かい味がいっぱいに広がってゆくような、そんな心地よい味を噛み締めながら、美希はあの少女の陽だまりのような笑顔を思い出して呟く。
「あの優しさがなんだか嬉しくて……、どうしても涙が止まらなかったんです……。あの子を驚かせちゃったかな……」
「大丈夫だ。おまえの涙の訳は、ちゃんと伝わっていたよ」
 すっかり冷めた茶を飲み干し、慧音が笑う。空の色よりも尚薄い、白に近い水色の髪が美しく揺れ、包容力のある彼女の微笑みにより一層の華を添えた。
 彼女は、良い教師なのだろう。それは彼女の立ち居振る舞いから容易に想像できる。
 そして、そんな彼女に導かれる子供たちは、幸せな学校生活を送っているのだろう。
 私のように、居場所を見つけられぬまま、苦しむことなど無いのだろう。
 美希は、そんな彼らがうらやましかった。
「では、ハンカチは必ず返すと……。それから、おいしいおやつをありがとうと、伝えてください」
「わかった、必ず伝えよう。さて、そろそろ夕餉の支度をしなくてはな……。家出娘も今日は泊まってゆくだろうし」
「…………家出娘ですか?」



 大きな麻袋に詰めた竹炭を担ぎ、里の道を歩く女性が一人。硬く甲高いガチャガチャという音を立てながら、まるで男性のように胸を張って歩く彼女の名は、藤原妹紅と言った。
 彼女の役割は、上白沢慧音とよく似ている。
 慧音が里の守護をし、外敵から人々の生活を守る役目を担っているのに対し、妹紅は里の内外を問わず、人に害を与える妖怪を退治する役割を持つ。二人とも細部は違えど、里の生活を守っている存在であることに変わりはない。
 しかし寺子屋を営み、人付き合いの上手い慧音に比べ、自ら人との関わりを避け、普段から竹林で暮らす妹紅には得体の知れぬところがあり、一部からは疎まれ恐れられている。故に彼女は、こうして用向きのある時以外里に足を踏み入れることはないのだ。
「慧音ー、約束の炭を持ってきたぞー」
 寺子屋の裏手、慧音の住まいへと足を運び、玄関先で声をかける。しかし、現れたのは見たこともない娘だった。
「あの、慧音さんは今ちょっと手が放せなくて……、ご用件は……?」
 ざんばら髪に朱袴の巫女服を着た娘が、遠慮がちに訪ねてくる。
 この幻想郷で巫女といえば、博霊神社の霊夢である。
 噂によると、妖怪の山にできた別の神を奉る社にも巫女が居るらしいが、その娘は朱袴ではないと聞いているので、やはりこちらの娘は博麗神社の者なのだろう。
「頼まれていた炭を持ってきたのだが……お前は何者だ?」
 おどおどとした態度に潤んだ目の少女は、妹紅に訪ねられて更に身を竦ませる。
 妹紅は女性にしては些か大柄で、肩幅も広い。また、目つきも鋭く険しい為、気の弱い者はよくこうして身を竦めてしまうのだ。
「こら妹紅! 人に何かを尋ねるときは自分から名乗れと言ったばかりではないか!」
 廊下の奥から、怒声と共に慧音が顔を覗かせる。夕餉の支度でもしていたのだろうか、彼女は白い割烹着に身を包み、片手におたまを握りしめていた。
「す、すまん慧音。見たことのない者だったのでつい……」
「初対面なら尚更ではないか……。美希、彼女が永遠亭までの案内をしてくれる藤原妹紅だ」
「あ、あの……美希と言います……。よろしくお願いします」
 泣き出しそうな顔のまま、美希と名乗った少女は深く頭を下げる。妹紅はその潤んだ瞳を美しいと思いながらも、彼女を怯えさせてしまったことに僅かな罪悪感を覚えた。
「怖がらせてしまってすまない……。私に用事があったのだな?」
「その話は夕餉を食べながらでもかまわんだろう。妹紅、早くその炭を台所まで持ってきてくれ」
 口を開きかけた美希を遮るように、慧音が答える。いつものことだがやはりこの教師は人使いが荒いと、妹紅は軽くため息を吐いた。
「私は一応客ではないのか?」
「お前はここの同居人だろう。同居人は客とは言わぬぞ」
「私は竹林で過ごしているんだが……」
「家出はお前が勝手にしていることだ。さぁさぁ、炭が切れては米も炊けぬぞ」
「人に炭を持ってこさせて、よく言うな」
 苦笑と共に炭を持ち上げ、台所へ延びる廊下を歩く。
 教師と言うよりは最早母親に近い彼女の態度に呆れつつも、その強引さが心地よい。
「何を言うか、本当の客人である美希殿は何も言わずとも手伝ってくれているのだぞ? 同居人のお前が何もせんでどうする」
「あ、あの……、私はごちそうになるのに何もしないのは申し訳ないと思って……」
「だから私は竹林で暮らしていると……。まったく人使いの荒い教師だ。美希、お前も何か言ってやったらどうだ?」
 不意に話の矛先を向けられ、狼狽する美希。向けられた二つの視線に圧倒されながら、彼女は遠慮がちに小さく答えた。
「あ、あの……、夫婦は仲良くしていた方が良いと……思います……」



「ご、ごめんなさい。私てっきり妹紅さんが男の方だって思って……」
「ぷっ……くくく。だそうだぞ? 妹紅お父さん」
「ええい、もう蒸し返すな……」
 三人で食卓を囲む夕餉。美希は申し訳なさそうに、慧音は面白そうに、そして妹紅は面白くなさそうに、それぞれが箸を延ばし味噌汁を啜る。
 急ぎの用向きでないなら、夜発つのは危険だし先方にも失礼だと言われ、美希は慧音の家に一晩厄介になることとなった。今はその夕餉の真っ最中。話の種は、先ほどの美希の発言。
 長い髪に大きなリボン。男性にしては高く透き通る声。女性と判断する要素は多分にあった。しかし、美希は何故か彼女を男性と勘違いしてしまったのだ。
「まぁ妹紅は女性にしては背が高く、肩幅も立派だ。加えてその控えめな胸では、胸板と勘違いされても仕方あるまい」
 くすくすと笑いを堪えながら、慧音がからかうように言う。そんな彼女の態度に憮然としながら、妹紅は甘辛く煮た里芋に手を伸ばす。
「ふん、ウシチチ女に言われる筋合いは無い」
「豊満な胸は女性らしさの象徴でな。私はこの胸を疎ましく思ったことはないぞ?」
「…………くっ」
 喧嘩腰の口調でありながらどこか暖かく、そして微笑ましい。
 長年連れ添った夫婦のような、漫才じみたその二人のやりとりに美希は思わず笑みをこぼした。
「さぁさぁ、美希殿は遠慮せずにたっぷり食え。でないとこの妹紅のように寂しい胸になってしまうぞ?」
「ええい寂しいは余計だ! お前は食いすぎて胸と腹に押しつぶされてしまえ!」
「……くすくす。なんだかお邪魔をしちゃったみたいで、ごめんなさい」
 思わず声に出して笑い、二人を見つめる。
 美希はこの食卓に同席できたことを感謝し、同時に彼女たちの二人きりの時間を邪魔してしまったことを少しだけ後悔した。
「邪魔だなどと、とんでもない。妹紅がこんなに喋っているのは珍しいことでな、美希殿には感謝せねばならんぐらいだ」
「……私はそんなに無口か?」
「私が何か聞かねば、お前は何も喋らんではないか」
「いや、まぁ……、特に話すようなことも無くてなあ……」
 二人のやりとりを見て、美希は自分が何故妹紅を男性と勘違いしたかを、朧気ながら理解した。
 彼女は、遠く幼い記憶の内にある、父とどこか似ている部分があったのだ。
 多額の借金を残し、どこかへ消えた父。しかし、彼女の記憶の中にある父親は、どこかとぼけた、優しくて母に頭の上がらない父親だった。
 無論それは記憶の美化によるものなのかもしれなければ、美希自身の勘違いなのかもしれない。
 父のことを一番よく知る母はもうこの世には無く、今更どうしようとも確認できない父の姿。その曖昧ではっきりとしない面影を、妹紅の態度に見てしまったからなのだ。
「誰も居ないところで一人暮らしているからそうなるのだ。お前も里で暮らせばよかろう……」
「む…………」
 その言葉に、妹紅は難しい顔をして黙ってしまう。何か思うところがあるような、複雑な表情の彼女。その顔を不思議に思いながらも、美希はその理由をその場で問うことが出来なかった。



 食事も終え、湯浴みも終えた夜半。妹紅は窓際に一人佇み、キセルをくゆらせていた。
「……ふー」
 キセルに詰めた葉がちりちりと赤い火を灯し、立ち上る煙が闇に溶けるように消えてゆく。その煙を星空と共に眺めながら、妹紅はのんびりと香りと煙を楽しむ。
「……妹紅さん」
 不意に背後からかけられる声。その声に振り向きもせず、妹紅は煙草から口を離して答えた。
「美希さん……だったかな? 何かあったのか?」
「いえ、もうすぐ寝室の準備もできるから、声をかけておいてくれって……」
「そうか。慧音は?」
「布団を用意してから、風呂の火を落としてくるって言ってました。眠かったら先に寝ててかまわないって……」
「そうか。私達のことは気にせず、先に寝てかまわんぞ?」
 答えてから、妹紅は火種を取り出してキセルの葉を足す。覚えたての頃はよく火傷をしたこの行為も、今は手慣れて熱さすら感じない。
「……煙がかかるぞ?」
「平気です……慣れてますから」
 火種を移し終えた妹紅の横に美希がそっと腰を下ろしてうずくまる。身を丸めて座る彼女は弱々しく、そして小さい。
「あの、妹紅さん……。一つ、お聞きしても良いですか?」
「なんだ?」
「慧音さんからお聞きしたんですが……、妹紅さんは家も持たずに竹林で暮らしてるって……。どうして……」
 それから先の言葉は、よく聞き取ることができなかった。彼女も恐らく言い淀んでしまったのだろう。
 くゆらせたキセルの煙が真っ直ぐ立ち上るのを見つめながら、妹紅は小さく呟いた。
「私は、人のようで人ではないのだよ……」
 懐から小刀を取り出し、静かに刃を抜く。それからくわえていたキセルを窓際に置いて、妹紅は振り返って美希に向かって軽く笑って見せた。
「よく見ているといい」
 軽く腕をまくり上げ、そこに刃を滑らせる。皮膚を切る痛みと共に赤い血がじわりと滲む。その様子を、美希は顔をしかめながらも、目を逸らすことなく見つめていた。
「種も仕掛けもございません……ってな」
 親指で押さえるように血を拭う。そこにはもう傷跡は無い。
「え……?」
「私はな、蓬莱人という存在なんだ」
 目を丸くしながら、傷口と顔を何度も見直す美希。そんな彼女の頭を軽く撫でてから、妹紅はキセルを手に取り、小さく吸い込む。
「少し、昔話をしよう」
 ぽつりぽつりと、まるで自分の過去を確かめるように、妹紅は自身の過ごしてきた日々を、蓬莱人になった経緯を、姫との確執を、そして、慧音との出会いを、ゆっくりと話して聞かせた。
 キセルの葉が燃え尽きるのも構わずに。
「…………だから私は、人の内に入れないのさ」
「でも……、寺子屋の子達の中には、人間じゃない人も……。それに、その話からすれば、慧音さんだって……」
「ああ、たしかにここには人外の者も暮らしている。だがな、私は人間たちが求めて止まぬ、不老不死の身体を持つのだよ」
 過去、妹紅は幾度と無く捉えられ、その身に拷問を受け、弄ばれた。蓬莱の力を欲した権力者によって生きながらに焼かれ、内腑を抉りながら犯され、その身を喰らわれたこともあった。死よりも辛い苦痛の中で、彼女は死ぬことも狂うことも許されなかった。
 そして彼女はいつも決まって、自身を捉えた者を焼き殺すことでのみ、その長く辛い苦しみからの解放を得た。
 人を殺す。それは妹紅にとって耐え難い行為だった。
 それがたとえ、自身を百度殺した相手であったとしても。
「だから私は、人の内に居場所が無いのだよ」
 不思議な娘だ。妹紅はそう思いながら、すっかり燃え尽きて冷えてしまったキセルの灰を取り出し、火鉢の中に埋め込んだ。
 慧音の言うとおり、妹紅はあまり口数が多い方ではない。たとえ訪ねたとしても、自身の過去を話すようなことなど殆ど有りはしないのだ。
 しかし何故か妹紅は、この美希という無関係な少女に全てを話して聞かせた。
 いや、無関係だからこそ話したのかもしれない。
 自分のことをまるで知らぬ彼女だからこそ、何もかもを話す気になったのかもしれない。
 そして全てを話した後、妹紅はごく僅かだけ、心が軽くなったような気がしていた。
「……私が言っても、きっと説得力無いと思いますけど」
「ん……?」
「居場所がないのは、すごく辛くて苦しいことです……。でも、ここには受け入れてくれる人が居る……。だから、妹紅さんはここに居るべきなんだと思います……」
 俯き、顔を上げぬまま呟く少女。
 その深く突き刺さるような言葉に、妹紅は何一つ返すことができなかった。
「ごめんなさい、生意気言って……。おやすみなさい」
 闇に溶けるような言葉を残し、美希は小走りに去ってゆく。その背中を見つめながら、妹紅はキセルの火を消してしまったことを後悔した。



 翌朝、朝食を済ませた二人は慧音の言葉に従い、早々と寺子屋を発つことにした。
「お世話になりました。ありがとうございます」
「礼には及ばぬが……そうだな、できれば帰りにまた顔を出してくれぬか? 美しい髪を取り戻した姿も見てみたいしな」
 そう言って慧音は柔らかく微笑みかけ、美希の手を握った。
 優しくしっかりと握られたその手から伝わる温もりが美希の心を温め、そして自然に笑顔を浮かべさせる。
「そう大きく変わるとは思いませんが……、必ず立ち寄ります」
 後ろ髪を引かれながら、先を行く妹紅について寺子屋を後にする。幾度となく振り返り、何度も頭を下げながら、美希は妹紅の追いかけるように歩く。
 あの夜から、美希は妹紅を殆ど会話をしていない。朝食のときも彼女は口を噤んだまま、簡単な受け答え以外は声を出そうともしなかった。
(私が…………余計な事を言っちゃったから……)
 沈黙が息苦しい。彼女から言葉を奪ってしまったという事実が、深く胸に突き刺さる。
 余計な事は言うべきではなかった。そう自分の中の誰かが、囁くような気がした。
「よし、少し下がっているんだ」
 不意にかけられた言葉に、美希は慌てて顔を上げ、そして数歩後退る。いつの間にか町並みは消え、目の前には深く暗い竹林が広がっていた。
 きょろきょろと辺りを見回して戸惑う美希を他所に、妹紅はポケットから数枚の紙切れを取り出し、顔の前へ掲げる。まるで忍者が術をかけるときのような、そんな仕草と共に何か小さな言葉を呟く妹紅。
 彼女のその一言ごとに周囲の空気が張り詰め、緊張してゆくのが解る。
「破っ!」
 掛け声と共に投げられた紙切れ。そこにはいつの間にか、筆で書いたような文字が描かれていた。
 紙切れは赤い炎を纏いながら、まるで壁に張り付くかのように何も無い空間で静止する。それと同時に、メラメラと燃える赤い炎が少しづつ広がってゆく。
「も、妹紅さん……、火事になっちゃう…………!」
「大丈夫だ。これは幻影を打ち破る術でしかない」
 慌てふためく美希を尻目に、妹紅はその炎をじっと見つめ続ける。
 そうこうしているうちに、炎は大きく燃え広がってゆく。しかし、背後の竹林に燃え移る様子はまるでない。むしろその竹林の絵が描かれた大きな壁紙を焼いているような、そんな印象を受ける。それはまるで、テレビで使われる特殊効果のようだった。
「迷いの竹林は幻影の術によって隠された隠れ里でな。その幻惑を打ち破らねば、本当の道は現れないんだ。まぁ、半ば力づくで分け入る者も居ないでもないのだがな」
 あれだけ大きく燃えていた炎が跡形も無く消え去り、獣一匹入る隙間も見えなかった竹林に細い獣道が浮かび上がる。まるで映画のような光景に、美希は言葉を失っていた。
「どうした? 怖くなったか?」
「あ、いえ…………。ちょっとびっくりしただけです。大丈夫です」
 とは言ったものの、やはり目の前の非現実的な光景には恐怖を覚えてしまう。竹林の入り口まで足を踏み出した美希は、その場からどうしても動けなくなってしまった。
「無理をするな。ほら」
「あわっ!? きゃっ」
 不意に横抱きにされ、美希は慌てて妹紅にしがみつく。頬を寄せて硬く目を瞑り、自分が踏み出せなかった一歩が通り過ぎるのを待ちながら、美希は妹紅の体温と鼓動を感じていた。
 彼女は自分を人では無いと言う。だから人の内には入れないのだと。
 なら、この温かみは、安心感は何なのだろう。
 本当に、彼女は排斥される存在なのだろうか。
 もしそうなら、彼女以上に何も持たず、温もりも安心感も、何も与える事の出来ない自分は、本当に人の内に居ていいのだろうか。
「すまなかったな」
「……え?」
 小さく呟くような声に、美希はそっと顔を上げて妹紅の顔を見つめる。しかし彼女は視線を前に向けたまま、こちらを見ずに言葉を続ける。
「何かお前に言葉を返さねばと思っていたのだがな……、未だ見つからんのだ……」
 見上げたその表情は、なんとも言えぬ苦笑をもらしていた。
 辺りは既に深い竹林の中。さわさわと竹の葉が風を受けて鳴り、陽光がその隙間から黄金色の光を降らせる。その神秘的ともいえる光景に、もう恐ろしさは感じなかった。
「私の方こそ……、ごめんなさい。あんな事を……」
「いや、美希は悪くないさ。それに、言われずとも解っていた事なんだ」
 そっと地面に下ろされ、頭をなでられる。美希がしっかりと立つまでの間、妹紅はその背を支え、転ばぬようにと肩を貸してくれていた。
「慧音には悪い事をしていると思っている。そして彼女が居れば私が心配しているような事など、何一つ起こらぬという事も解っているのだ」
 先導するように先を歩く妹紅に手を引かれ、美希もまた歩き出す。枯れた竹の葉が敷き詰められた獣道は、まるで柔らかい敷物の上を歩いているように心地よい。
「しかしな、こんな事を言うとお前に笑われるかもしれんが……」
 竹林を吹き抜ける冷たい風。どこか身が引き締まるようなその冷気のせいか、辺りが急激に静まり返ってゆくような気がした。
「まだ、怖いのだよ。人間と、人の内に入って失敗し、嘆き悲しむ自分が」
 急に、彼女の背中が小さくなったような気がした。
 不死の能力を持ち、人々が羨む蓬莱の存在。その彼女が人を怖いと言う。人間の内に混じるのを躊躇っている。
 まるで、自分のように。
「もしかしたら、私の居場所は端から人の内になど無かったのかもしれない。獣じみた自分が、人に混じって暮らすなど、ちゃんちゃら可笑しい事なのかもしれない。そう思うとな、なかなか一歩が踏み出せないのだよ……」
 彼女の背中を見つめながら、美希はその手をしっかりと握り締める。
 しかし、何か言葉をかけようにも、その言葉が見つからなかった。
 当然だ。自分とて、人の内からはみ出した存在なのだから。
 人の輪に混じれず、自分を異質の存在として蔑み、そして自ら距離を置いた自分に果たして何を言う事が出来るだろうか。そんな自分が、彼女に対して何か言葉をかけるなど、それこそ身の程知らずもいいところなのではないだろうか。
 思いあぐね、言葉を探す美希の眼前に、古めかしい屋敷が姿を現す。恐らくあれが永遠亭なのだろう。そして、そこに着いた時、自分は彼女と別れなければならない。
 心が焦り、その焦りが余計言葉をかき消してゆく。
「さ、ここが永遠亭だ。私が術を破った事は解っているだろうから、すぐに迎えが現れるだろう」
「あ、あの……っ!」
 立ち去ろうとする妹紅の手を強く握り締め、必死でその場に引き止める。
 こんな事をして何になるのか、何の意味があるのかわからない。
 それでも美希は、その願いを口にせざるを得なかった。
「どうした?」
「私がここに居る間……ううん、今夜一晩だけでもいいです。慧音さんの傍に、あの家に居てください。お願いします」
 身勝手でどうしようもない、それに意味があるのかすらも解らぬ願い。
 まして世話になっている自分がそれを口にするなどもってのほかだ。
 だが、妹紅は嫌な顔一つせずに小さく笑い、そして軽く頷いて見せた。
「わかった。お前が戻るまで慧音の元に居るとしよう。その代わり、お前も必ず顔を出すのだぞ?」
 美希はその言葉に強く、そしてしっかりと頷いた。
 己のうちに、その大切な約束を刻み付けるように。



 午前中に現れた患者は、とても珍しい存在だった。
 まず第一に外来人であること。
 普通外来人は里に隠って生活をしており、概ね彼らは人生か元の世界に帰ることができない自分の境遇に絶望している。ごく希に妖怪や超常現象に興味を持つ者も居るが、大抵そういう輩は危険な存在に手を出して命を落とす。どちらにせよ医者の出番はない。
 第二に、彼女が巫女服を着ているということ。
 幻想郷において神社とは博霊神社を指す。山にも風祝の神社はあるが、あちらの巫女は紺袴なので朱袴の彼女はやはり博霊神社の関係者なのだろう。
 博霊神社は外界とこの箱庭を繋ぐ場所だ。そこまでたどり着けるのなら、元の世界に帰ることは容易い。よほどの事情がない限り、あの巫女が滞在を許すわけもないので、その意味でも彼女は特別な存在と言える。
 そして第三に、あの新聞が珍しく至極まともな報道をしていたという事実があり、その報道の証人が目の前にいるということだ。
「なるほど、事情は概ね把握しました」
 読み終えた手紙を畳み、永琳は改めて目の前の少女、美希を見つめる。みすぼらしく切り捨てられた髪と、どこか怯えの色が浮かぶ瞳が印象的な彼女は、どうやら本当に巫女が目にかけている存在のようだ。
(霊力も妖力もまるでないというのに……)
 彼女は、正真正銘ただの人間だった。弟子の鈴仙曰く心の波長が些か不安定らしいが、それを除けば彼女は特筆すべき点など一つもない。強いて言うなれば、整った顔立ちと、身長の割には魅力的な体型をしていると言うところだろうか。しかし、それすらも個人の嗜好で評価が別れる程度だ。ことさらに美しい訳ではない。
「ではここではいろいろと不便もありますし、診察は然るべきところでいたしましょう。鈴仙、準備を」
「解りました。今日は寒いし、ちょっと暖かくしておくね」
「あ、ありがとうございます」
 美希に声を掛けてから、鈴仙は部屋を後にする。その姿を見送り、足音が小さくなったのを確認してから永琳は改めて彼女を霊力の篭もった目で見つめた。
 大きく抉れた魂に、いくつもの傷跡。そして弟子の言うとおり、不安定な心の波が見える。そこそこに癒されてはいるものの、彼女の精神はまだまだ傷が深いように思える。
「美希さん、差し支えなければで構わないのですが」
 好奇心と表現するのは彼女に失礼だろうか。そんなことを考えながら、自身の知識欲を満たすべく、永琳は言葉を続けた。
「貴女がこの幻想郷に流されるまでの経緯を、お話していただいてもよろしいですか?」



「なるほどね……」
 襖越しに聞こえた独白は、余りに陰惨で、そして悲しいものだった。
 応接間に案内された今日の客人は、鈴仙よりも少々若く見える少女だという。その彼女が口にした自らの過去はおよそ現実とは思えぬ、郭の中など比べものにならぬほどの悲しい歴史だった。
「あの子、れーせんちゃんに似てるね」
 傍らでいつもは重く垂れた耳をまっすぐに立てたてゐが呟く。その彼女の表情も、いつになく重く暗い。
 彼女の言うとおり、あの少女の生い立ちはどこか鈴仙と似ている。慰みものにされ、現実から逃げ、そして命からがらこの幻想郷に落ちてきた一匹の哀れな月兎と。
「そうね……。似たもの同士、引かれあったのかしら……」
「それはないと思うけど……。でもまぁ、これもある意味運命かもね」
 それは稚拙だが、最も的確な表現なのかもしれない。そして、このような運命を彼女に課した存在を、輝夜は恨まざるを得なかった。
 恐らくこの少女は今まで幾度となく自身の過去を語り、その度に心を軋ませていたのだろう。
 そしてそれは、これから先も続くに違いない。
 彼女は珍しい存在だ。ただ外来人というだけでなく、全てにおいて中立であろうとするあの霊夢が肩入れしている。そんな珍しい少女の生い立ちに興味を持つ者が少ないはずがない。
 加えて言うならば彼女のような幼い存在が、これほどまでに重く辛い過去を背負っているなど、想像できるわけがない。
 それ故に彼女はこれから先も語り続けなければならないのだ。
 自らの心を軋ませながら、重く苦しい、忘れてしまいたい過去を。
「てゐも姫も、そろそろそこから出てきたらどうですか?」
 いつの間にか、襖の向こうの会話は終わっていたらしい。不意に声を掛けられ、二人はほぼ同時にびくりと身を震わせた。
「あっちゃー……、バレちゃったよ」
「仕方ないわよ。腹を括って顔見せしましょう」
 苦笑を一つ漏らしてから襖を開け、てゐの背を押してそろって応接間に顔を出す。待っていたのは呆れ顔の永琳と、驚きを隠せない美希だった。
「まったく、姫君ともあろう方がなんと失礼な……。二人とも、彼女に謝りなさい」
「い、いえ……。むしろ気分を害すような話を聞かせてしまって……ごめんなさい」
 小さくそう呟いた彼女は、本当に申し訳なさそうに頭を垂れる。その仕草が、余計に輝夜の心を痛ませた。
「大丈夫。貴女は何も悪くないわ。そして立ち聞きをしてしまってごめんなさい」
「まぁでも、二度も三度も話す必要がなくなって良かったかもしれないね」
「こら、てゐ!」
「はいはい、わかってるよ。ごめんね、美希さん」
 一度は茶化したものの、てゐも珍しく素直に頭を下げる。それだけ彼女の言葉には重みがあったということだろうか。
 何にせよ、てゐの言うことは尤もだった。そして同時に、輝夜はこの場に鈴仙が居ないことに少しだけ安堵をした。



「え、治療を……?」
「そうよ? 何も聞いていなかったの?」
 診察室へ向かう途中の長い廊下を歩きながら永琳が言ったのは、髪を伸ばすだけでなく古い傷跡の治療や健康面の不安がないかの検査もするとのことだった。また、そのための宿泊場所をてゐと輝夜に準備させているとも。
「わ、私は髪のことしか……」
「ここに書いてあるわよ。ほら」
 永琳から手紙を受け取り、躊躇いながらそれを開く。そこには、短く切らざるを得なかった美希の髪を伸ばして欲しい旨と共に、彼女の健康診断と、身体にいくつも浮かぶ古傷の痕を消してやって欲しいと書かれている。
 そして最後に、かかる費用は全てこちらに請求してほしいとも。
「……っ! あ、あの! 私お金は今少しなら……。足りなかったら、働いて返しますから……!」
 己の浅はかな考えを恥じ、美希は慌てて永琳に巾着を差し出す。
 考えてもみれば当然だ。物事には必ず対価が発生する。まして薬を貰うのにタダで済むなど、あり得るはずがない。
 巾着の金は霊夢のものだが、これは借りたことにして自分が働いて返せばいい。それでも足りなければここで小間使いでもなんでもするしかない。そんな考えがぐるぐると頭を巡り、美希の顔色は次第に青ざめてゆく。
 しかし、そんな彼女を落ち着かせるように柔らかい笑みを浮かべ、永琳はその巾着をそっと美希の手の中に返した。
「大丈夫。もともと金を取ろうなんて思っていないわ」
「で、でも……」
「いいんですよ。私たちは霊夢さんに、いくつもの大きな借りがあるんですから」
 傍らに立つ鈴仙が落ち着いた声音で答える。永琳もまたそれに頷き、踵を返して廊下を歩き始めた。
 歩きながら二人が話し始めたのは、永夜の事変と呼ばれる自分たちが起こした事件とその理由。そしてそれに関わった巫女と結末についてだった。
 話の大半を飲み込めず、美希は何度も聞き直し、首を傾げる。そのたびに鈴仙はそっと説明し、注釈を入れてくれる。そうして診察室につく頃に解ったことは、二人が今こうしていられるのはある意味で霊夢のおかげであり、彼女が持つ結界の力によって日々の安寧は保たれているのだということだった。
「だから、私たちは彼女からお金を取るような真似はできないのよ」
「でも……」
「ちゃんと治療して貰って、見違えた姿で霊夢さんの元へ戻るのが、きっと一番の恩返しだと思いますよ?」
 そっと肩に手を添えた鈴仙が、背中を押すように語りかける。
 その言葉に押されるように、美希は躊躇いがちに診察室の扉をくぐった。



 か細く揺れる弱々しい波長を持つ外来人。彼女の波長を、鈴仙は昔の自分に重ねていた。
 かつて月から逃げ、居場所を失い、そして自信も尊厳も失っていたあの頃の自分。美希の波長はその時の自分にそっくりだった。
 しかし彼女は人間。人生経験で言えばたかだか十年そこそこの存在である。そんな彼女が自分と同じような、凄惨な体験をしているはずがない。鈴仙はそう思いこんでいた。
「じゃ、上を脱いで貰える? それから傷がありそうなところが解るなら、そこも見せてちょうだい」
「はい……」
 躊躇いがちに帯を解き、肩を肌蹴る。胸を包むサラシが外され、朱袴が脱ぎ捨てられ、白い裸身が露わになる。
「…………っ!!」
 彼女の肌を見た瞬間、鈴仙は言葉を失った。
 若さ故の回復の早さか、それとも本当に古い傷なのか、彼女の肌には消えかけたいくつもの傷跡が見えた。
 それは自らが同じ体験をした鈴仙だからこそ解る、辛い惨劇の傷跡。
「じゃあ息を吸って……そう、ちょっと止めて……はい、今度は吐いて」
 淡々と診察を続ける永琳。しかし、鈴仙はそれほど冷静ではいられなかった。
 手首と足についた痣は何かの拘束を受けた印。腕に残る赤い痕は煙草を押しつけられたか、蝋を垂らされたであろう火傷の痕。背中に残る赤い筋は鞭の印だろうか。幾筋もの傷跡が濃淡織り交ぜて見える。
 年端も往かぬこの少女は、一体どれほどの仕打ちを受けてきたのだろうか。恐らく強要された性交は両手ではきかない程の回数なのだろう。
「はい、じゃあ今度は背を向けて。また同じように深呼吸をお願いね」
 振り向いた美希とちらりと目線が会う。申し訳なさそうに笑顔を作る美希を見たその瞬間、鈴仙はもう堪えきれなくなってしまっていた。
「師匠……診察の邪魔してごめんなさい……!」
 気が付いたときには、もう一歩が踏み出されていた。そして二歩目で彼女に触れ、足をそろえてきつく強く抱きしめる。
「鈴仙さん……?」
「もう、もう大丈夫だから……。ここにそんなことをする人はいないから……。きっと、きっとみんなが守ってくれるから……!」
 抱きしめながら頭を撫で、何度も頬を寄せる。止まらぬ涙を拭うこともなく、鈴仙は嗚咽を漏らして泣き続けた。
 彼女は悟ってしまったのだ。
 目の前の少女が、自分と同じ体験を、自分よりも遙かに濃い密度で体験したという事実を。
「師匠……、お願いです。私の給金全部使ったって構わない……。彼女に……美希さんに最高の薬を作って上げてください……」
 同情よりも失礼な、自己満足による発言だと理解していた。己の心を慰めるために、彼女を利用しているに過ぎないことも。
 それでも、鈴仙は頼まずには居られなかった。
 彼女の肌から、忌まわしい記憶の傷跡を一刻も早く消し去って欲しかった。
 そして二度と彼女が泣かないよう、願わずには居られなかったのだ。
「言われずともそのつもりだから、早く離れなさい。さっさと診察を済ませないと、美希さんが風邪を引くでしょう?」
「ご、ごめんなさい」
 半歩身を引き、身体を離す鈴仙。しかし、彼女の手を、美希はしっかりと握って離さなかった。
「美希さん……?」
「ありがとうございます……。でも、お金の負担とかはしないでください……。それに、傷が消えなくても私は大丈夫ですから……」
 弱々しく笑う美希。その双眸には、深い諦めと無力感が浮かんで見える。
 恐らく彼女は自身に向けられる優しさに対する申し訳なさと、それに何も答えることが出来ぬ自分に対する嫌悪を感じているのだろう。
 かつての自分がそうであったように。
 だから鈴仙は、何も言わずに彼女の手をしっかり握りしめた。自身の温もりで、彼女の心を温めるために。
 その後の診察は滞りなく進み、幸いにも美希の傷跡は若いこともあり、薬ですぐに消えるだろうとのことだった。また、身体に関しても概ね健康。ただし、粗悪な避妊薬を飲み過ぎたことで内臓に負担がかかっているから気をつけろとのこと。
「さて、あとは髪の毛なんだけど……」
 ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、永琳は言葉を濁しながら二つの水薬を並べる。
「どっちも飲み薬で、副作用はないわ。で、こっちは普通に髪が伸びるのを補佐してくれる薬。まあ肩まで伸びるのに早くても一ヶ月はかかるかしらね」
 青く透き通ったその液体は、大きな瓶に並々と注がれている。恐らく毎食後に適量飲む薬なのだろう。
「で、もう一本は一晩で肩までぐらいは楽に伸ばせる薬なんだけど……、これには鈴仙の協力が必要なの」
 薄桃色の水薬は、一息で飲み干せる程度の小さなものだった。そしてその薬の効果を引き出すには、自分の力が必要だという。
「私は平気です。協力させてください」
 躊躇うことなく答え、そしてしっかりと頷く。彼女のために自分が何かできるのなら、これほど喜ばしい事は無い。
 かつて自身が姫や永琳に、そして大切な人に救われたように、自分もまた彼女を救ってやりたかった。
 たとえそれが、ただの自己満足であったとしても。
「美希さんの答えは保留で構わないわ。こっちの薬の説明は……そうね、昼食の後にでもしましょう」
 それだけ言うと永琳は薬を棚にしまって部屋を後にする。残されたのはサラシを巻き直し、身支度を整える美希と、軽い後片づけを任された鈴仙の二人。
「……ごめんなさい、巻き込んでしまって…………」
「ん? ああ……気にしないで。私が選んだことだから」
 袴を身につけながら呟いた美希に、鈴仙は軽い調子で答えた。
 どうやら美希はまだ今の服装に慣れていないようで、今もサラシに悪戦苦闘している。
「それより、美希さんはどっちを選ぶつもり?」
 片付けを終え、よれてしまったサラシを外して巻き直す。間近で見る彼女の傷跡は、やはり生々しく痛ましい。
「あまり無茶な話でなければ……、桃色の方を選びたいんです……。私のことを待ってくれている人たちのためにも……」
 そう言って美希は里であったことを話し始める。その表情は穏やかで、波長も心なしか落ち着いていて暖かい。
「そっか、じゃあ頑張って髪の毛伸ばさなきゃだね」
「はい……。でも、そのためには鈴仙さんにご迷惑を……」
 消え入りそうな声で呟く美希。そんな彼女を鈴仙はまた強く抱きしめ、頭を撫でた。
「鈴仙さん……?」
「迷惑なんて思ってないよ。大丈夫。それにね、私は貴女の力になりたい……だめかな?」
「そんなこと……でも……」
 泣き出しそうな声色の彼女をあやすように撫で、それから囁くように言葉を続けた。
 彼女の悲しみの波長を、自分の暖かさで包むように。
「美希さんは幻想郷に来るまでに、きっといろんなものをなくしてきたんだと思う。だから、今はそれを取り戻す時間だと思って、もっと素直に欲しがっていいんだと思う。私に出来ることなら出来る限り叶えてあげるから、だから遠慮はしないで。ね?」
 小さな嗚咽が、漏れ聞こえてくる。強く袖口を握る手は小さく、震える肩は弱々しく細い。
「なら……ひとつだけ、おねがいがあります……」
 鈴仙は声を出さず、代わりに彼女の背中を優しく撫でた。自らの目に浮かんだ涙を、こぼさぬように堪えながら。
「もう少し……もう少しだけ……このままで…………」



 数年ぶりに立った厨房は勝手も分からなくなっており、いろいろと手間取ることが多かった。しかし、たまにはこういうことも悪くないと、自分で茹でたうどんを啜りながら輝夜は思う。
「まぁ及第点ですね」
 相変わらず手厳しい永琳の評価に苦笑しながら、かき玉を掬って口に運ぶ。
 確かに出汁の味や卵の加減は永琳には遠く及ばず、鈴仙にすら劣っていると思えなくもない。
 しかし、この辺りは日々の慣れが物を言うところだ。ほぼ毎日あの厨房を使う鈴仙や、何事においても完璧で隙がない永琳と比べられても困る。
「そうですか? 私はとてもおいしいと思いますよ、姫様」
「そーお? っていうか、姫が料理なんて、明日はきっと猛吹雪だね」
 世辞もあるのだろうが、それでも誉め言葉をくれる鈴仙は優しい。それに引き替え、この地上の兎は憎まれ口しか叩こうとしない。
「文句を言うなら食べなくても良いわよ? 美希さん、てゐの分まで食べちゃって構わないからね?」
「あっ! うそうそ。冗談です! とってもおいしーよ!」
 慌ててうどんを啜りはじめるてゐ。その様子を見て美希は小さく笑みをこぼしていた。
 診察室で何かあったのか、彼女はずいぶんと鈴仙と仲良くなっていた。美希の過去を知ったのか、はたまた鈴仙が波長から読みとったのか、どちらにせよ顔を合わせて笑いあう二人はまるで姉妹のようであり、微笑ましくも暖かい光景だった。
「美希さん、遠慮しないでちゃんと食べてね? 身体が弱ってるって言われてるんだし、食べられるならいっぱい食べておかなきゃ」
「んと……、それじゃあ煮物を……」
 こうしていると、彼女は本当に拾ったばかりの頃の鈴仙によく似ている。絶望から心を取り戻し、少しづつ笑うようになったあの頃の彼女に。
(きっと、あの子も良い出会いをしているのね)
「あ、あの……、私何か変なことしてますか?」
 いつの間にか輝夜は美希をじっと見つめてしまっていたらしい。戸惑いながら赤い顔でこちらを見る美希がなんとも可笑しくて、輝夜は思わず小さく笑ってしまう。
「くす……。いいえ、貴女達がずいぶんと仲良さそうでうらやましいなって思っただけよ」
 その言葉を聞いて、鈴仙と美希は顔を見合わせた。全く同じタイミングでお互いを見合い、同じようにきょとんとする二人。その姿はまさに姉妹そのもので、輝夜はまたくすくすと笑い出してしまう。
「ご馳走様……。さてと、私は薬の準備をしておくわ。鈴仙、後片付けが終わったら美希さんと一緒に来て頂戴」
 一足先に部屋を後にする永琳。鈴仙はそれに答えてから、急いでうどんを啜り始める。それに見習って隣の美希も。
 ふと輝夜は、この外来人と話をしてみたくなった。誰かを交えてではなく、二人きりで。
 まだ幻想郷に来て間もないであろう彼女が何を見てどう感じているのかを、何気ない会話の中から探りたくなったのだ。
「鈴仙、後片付けの間ちょっと美希さんを借りていい?」
「私はかまいませんけど……。何か用事がおありなのですか?」
「別に? ただちょっと興味があるだけよ。どうかしら、美希さん」
 それは本当に、ただの興味でしかなかった。彼女に魅了されたわけでも、何かの企みがあるわけでもない。ただ、あの巫女が肩入れするこの少女がどんな人物なのか、それだけが気になっていたのだ。
「私は大丈夫です……。実は、ちょっとお聞きしたい事もありましたし……」
「私に?」
「はい……」
 そう言って彼女は、なんとも言えぬ複雑な表情を見せた。初めて顔をあわせた自分に尋ねたい事とは一体何だろう。考えたところで想像つかぬことだが、少なくとも一時の退屈しのぎにはなりそうだ。輝夜は軽く頷き、小さく笑って言葉を返した。
「わかったわ。じゃあ私の話はその後で」
 小さく頷き、箸を置く美希。いつのまにかてゐの姿は消えていた。



「じゃあお話が終わったらさっきの診察室へ……場所解る?」
「はい、多分大丈夫です」
 鈴仙の問いに、美希は小さく頷いて答える。
 この屋敷は広さこそ白玉楼に負けず劣らずだが、作りは直線的で複雑さが少なく、加えて診察室などの特別な部屋には表札がかかっているため、解りやすかった。
「もし解らなかったら心の中で強く私を呼んでね。それから、お薬飲むのを忘れないこと。わかった?」
「薬? どこか悪いところがあったの?」
 テーブルの向かい側に座る輝夜が、取り出した粉薬を興味深げに見つめる。油紙に包まれた薬はオレンジと黄色の粉末で、鼻を近づけても特に匂いはない。
「私の身体の傷跡と、薬で弱った内臓を治す薬らしいです。一週間ぐらい飲み続ければ、きれいに治るって……あ、あれ……?」
 一緒に渡されたオブラートに粉薬を乗せるが、どうやっても上手くまとまらない。小さく畳めば丸薬のようにして一気に飲み干せるらしいのだが、折り畳んだオブラートは手を離すとすぐにくるくると広がってしまう。
「これはこうするのよ」
 向かいに座っていたはずの輝夜が横からそっと手を出し、美希の手を導く。細く美しい指先が静かに添えられ、耳元に弦楽器のような美しい音色の声が届く。
「これはここをつばで濡らして……それからこっちを織り込んで……。そう、そしたらくるくるって丸めて……最後もちょっとつばで濡らすの。……ほら、ちゃんと出来た」
 二人の手の中で、オブラートはまるでカプセルのように小さく丸く折り畳まれていた。手のひらで転がしても広がる気配を見せないそれは、美希が悪戦苦闘していたものと同じとは到底思えないほどにしっかりとまとまっている。
「大丈夫そうですね。じゃあ私は片付けして来ちゃいます。姫様、美希さんを泣かせちゃダメですからね」
「解ってるわよ。巫女と鈴仙から不評を買うような真似、いくら私でも恐ろしくて出来ないもの」
 軽い口調で釘を刺す鈴仙と、からかうように答える輝夜。二人の会話を聞きながら、美希は薬を飲み込む。
 暖かい人たち、明るいやりとり、そして美しい姫。この永遠亭に居ると、昨夜妹紅が話したことは真っ赤な嘘なのではないかと疑ってしまう。
 しかし、あの妹紅という女性はそんな嘘をつくような人物には見えなかったし、何より美希に見せたあの蓬莱の身体という手品のような現実も、説明が付かなくなってしまう。
「じゃ、美希さん。また後でね」
「あ……、はい。わかりました」
 優しく頭を撫でて去ってゆく鈴仙。その後ろ姿を見送ってから、美希は意を決して口を開いた。
「あの、輝夜さん」
「ん?」
「輝夜さんは本当に……あのかぐや姫なんですか?」
 それから先は質問の連続だった。おとぎ話に伝えられるかぐや姫の伝承との違い、千年の時を越えて尚地上にいる理由、そして、妹紅との関係について。
 輝夜はその全てに何の迷いもなく、至極あっさりと答えた。ただ、少しだけ悲しげな瞳を浮かべながら。
「……それで、妹紅は私のことをどう言っていたの?」
「輝夜さんのことは……、藤原の家を貶めた仇敵だと……」
「そう……」
 それだけ答えて、輝夜はまた寂しげに笑った。
 長い睫を、ほんの僅かに濡らしながら。
「分かりあうことは……できないんですか?」
 双方の話を聞いた美希には、未だ二人がいがみ合うその理由がわからなかった。
 直接話し合うことが出来れば、きっと二人は手を取り合うことが出来るに違いない。まして彼女らはこの世に三人しかいない蓬莱人なのだ。和解が出来るならそれに越したことはない。
「私には……、貴族の家のこととか……千年前のこととか……、お二人の事情なんかも、まるで解りません……。でも、それは全て千年以上前に起こった出来事なのでしょう? だったら……」
「千年以上も経っているから……解りあえないのよ……」
 消え入りそうになった美希の言葉を繋ぐように、輝夜が小さく呟く。長く美しい黒髪が、俯いた彼女の顔を隠すように零れ落ちる。
「美希さん……。私たち蓬莱人が最も恐れることは、何だと思う?」
「……わかりません。私は、命に限りのある人間ですから…………」
 小一時間前まで楽しく談笑していた食卓の空気が、今は暗く冷たく、垂れ込めるように重い。その重い空気が、自然と美希の頭を垂れさせ、俯かせる。
「それはね……、生きることに絶望してしまうことよ」
「絶望……」
「そう。私たちの生には終わりがない。それは言い換えれば、未来永劫この世から逃れられないことを意味するわ。望むと望まざると、私たちはこの世に在り続けなければならない。そういう存在なのよ」
 呟いた言葉は重く、そして悲痛なものだった。
 辛く陰惨な日々から逃れるため、美希は幾度となく死を願い、自ら命を断とうと決意したことがある。
 幸いと言うべきか、彼女にはそこまでの勇気と決断力が無く、今もこうして生きながらえている。
 しかし、輝夜達は違う。彼女たちは如何に願おうともその命を終わらせることが出来ない。たとえその身を切り刻まれようと、炎に身を投げ込もうと、死に等しい苦しみを味わうだけでしかないのだ。
「妹紅は私を討つために、父の無念を晴らすために蓬莱人となってしまった。その仇である私が実は良い人で、あれは求婚から逃れるためにいた仕方なくしたことだと知ったら、どうかしら」
 答えは言われずとも解る。それは自身の執念と、千年以上の永きに渡り、自らを鍛え続けてきたその全てを否定されたことにつながる。
 それはきっと、途方もない絶望と悔恨だろう。
「でも、妹紅さんは……貴女の話をするとき、憎んでいるような素振りは見せなかった……。とても悲しそうだった……」
 彼女の表情は今もはっきりと思い出すことが出来る。
 寂しさと悲しみが入り交じったような、何かを悔いるような表情。
 それは、今輝夜が見せている表情と全く同じ物だった。
「私は、そんなに深く強く……誰かを憎んだことなんてありません……。誰かを殺そうなんて、考えたこともないです……。でも、それでも……」
 嗚咽がこみ上げてくる。美希はそれ以上、言葉を絞り出すことが出来なかった。
 何故、彼女たちはこんなにも悲しい結末を選んでしまったのだろう。
 何故、二人は手を取り合うことが出来ないのだろう。
 慧音も、妹紅も、輝夜も、永琳も、鈴仙も、てゐも。
 皆優しく、そして暖かいのに。
「美希さん、貴女霊夢にだいぶ怒られているでしょう?」
「え……?」
「少しはわがままを言えとか、自分のことを蔑ろにするなとか、言われていない?」
 輝夜の言葉に、美希はただ頷くことしかできなかった。
 以前より言われなくなったとはいえ、美希はたびたび、そのようなことを霊夢に注意されている。三日ほど前にも、我慢できない寒さではなかったからと布団に丸まって小さくなっていたら、毛布借りるぐらいで遠慮をするなと怒られたばかりだった。
「貴女の境遇は、十人中八人ぐらいは同情して涙を流すぐらいのものよ。なのに貴女は他人のことばかりを気にして、その悲しみを拭おうとしてる。そんな余裕なんか、無いはずなのに」
「私は今……とても幸せで満足しているから……」
 その言葉に偽りはない。過去が辛いものだっただけに、幸せを感じる度合いが人より安易なのは否めない。
 それでも、今美希は十分に満ち足り、幸せを感じていた。
「優しく、そして美しい心を持っているのね……。ありがとう、私達のために涙を流してくれて」
 いつの間に零れていたのだろう。触れた頬は濡れ、視界はずいぶんと歪んでいた。
 不意に輝夜が肩に手を回し、その身を抱きしめてくる。千年以上先輩の彼女の身体は、甘く柔らかい香りに包まれていた。
「ありがとう。そして、悲しませてごめんなさい。貴女と出会えたことは、きっと私達の永い永い生涯で、とても大切な思い出になるに違いないわ」
 優しく涙を拭う、細くしなやかな指先。夜空を思い出させるような、美しい瞳。美しい姫君に抱かれたまま、美希はぽろぽろと涙をこぼし続けた。
 泡となって消えてしまった、人魚姫のように。
「さぁ、もう涙を拭いてお行きなさい。鈴仙と永琳が待ってる」
「ぐす……っ、はい……。ありがとうございます……」



 何度も頭を下げてから、美希は部屋を後にした。
 誰も居なくなった食卓に肘を突き、輝夜は一人呟く。
「バカね……」
「ほんとバカだよ。みんなバカすぎ」
 唐突に背中にかけられた声。しかしそれは、よく聞き慣れた悪戯兎の声だった。
「私が? それとも彼女が?」
「みんなだよ。姫も妹紅も永琳も美希も、みーんなバカばっかり」
 人参型のペンダントを揺らしながら、てゐが隣に座ってテーブルに肘を突く。呆れたような、バカにしたような声音が、いつも以上に響きわたる。
「変なことにこだわってるから、千年もそーやってウダウダ悩んじゃうんだよ。そんな健康に良くないことしてたら、早死にするよ?」
「おあいにくさま。私は嫌でも長生きするように出来てるのよ」
 身を反らせるようにしながら畳に身体を投げ出し、片腕で顔を覆って寝転がる。この生意気な素兎には、情けない顔を見られたくなかったからだ。
「びっくりしたんでしょ。自分の百分の一も生きてないような小娘に、悩みの核心を突かれて」
「………………うるさい」
「そりゃ誰だって誰かに恨まれるのは辛いよね。それにあっちは数少ない蓬莱人の一人だもん。手を取り合えるのが一番に決まってる」
「……黙りなさい。このバカウサギ」
「でもそれは出来ない。だってあれは自分の犯した罪そのものだもん。彼女を受け入れたら、自分の罪を許したことになっちゃう」
「黙れって言ってるでしょう! いい加減にしないとウサギ鍋にするわよ!!」
「そんな顔で凄んだって、ネズミ一匹驚かないよ」
 堪えきれずに身を起こして怒鳴りつけた輝夜に、てゐはどこか悲しそうな顔でさらりと答えた。
 いつの間にか、輝夜は泣いていたのだ。
 瞼は赤く腫れ、頬はもう濡れている。睫はここぞとばかりに輝き、視界が揺れて定まらない。
「姫も師匠も、いろいろ我慢しすぎなんだよ。それでよく人のこと言えたもんだね」
「余計なお世話よ……」
 乱暴に顔を拭い、輝夜はてゐに背を向けて寝転がった。硬く冷たい冬の畳が、赤く火照った頬を冷やす。
 本当は、永琳の胸に抱かれたかった。
 いつも自分を包んでくれる、優しい彼女の腕の中に収まりたかった。
 しかし、今それを求めることは出来ない。
「二人が戻ってくるまでに、顔洗っておきなよ? また余計な心配させるんだから」
 憎まれ口を叩きながら、てゐはそっと頭を撫でてくる。子供扱いは気に食わなかったが、その温もりだけはありがたくて、輝夜はそのまま黙っていることにした。
「ほんと……バカばっかり…………」



「さて、それじゃあこの薬についてなんだけど……」
 昼食前に見せられた薄桃色の小瓶。その液体を机に並べ、永琳は説明を始めた。
 少し遅れて現れた美希は、どこか泣き出しそうな、悲しげな顔をしていた。自分が立ち去った後、姫と何事かがあったのは間違いない。しかし、鈴仙はそれをあえて問いたださないことにした。それが彼女と姫のためであり、本当に必要なときは、美希自身が打ち明けてくれるだろうと信じていたからだ。
「この薬は簡単に言うと、傷を治したり背を伸ばしたりする身体を作る機能の一部を、髪の毛に転用させるための薬なのよ」
「それと私と、どんな関係が……?」
「話は最後まで聞きなさい。髪が伸びる要素には、女性ホルモンが強く関わっているわ。そしてこの薬には、女性特有の強い感情と、純度の高いタンパク質が必要なわけ」
 何となく予測される展開に、鈴仙は僅かに眉を寄せる。傍らの椅子に座った美希は、どうやら理解の範疇を超えてしまったらしい。何だかよくわからないような顔をしたまま、ぴくりとも動かなくなっていた。
「まぁ簡単に言うと、この薬を飲んで鈴仙に抱かれなさいってこと」
「えぇっ!?」
「やっぱり……でもどうして私なんですか?」
 突然のことに驚きの声を上げる美希。しかしその反応も当然といえば当然だ。髪を伸ばす相談に来てこんなことを言われるなど、どこの誰にだって想像できるはずがない。
 それに問題は自身を指名した理由だ。彼女を保護している巫女ならいざ知らず、二人はかなり打ち解けたとは言え、今日会ったばかりの存在である。とても軽々しくそんなことを出来る間柄とは思えない。
「ちゃんと理由はあるわよ。まず見ず知らずの男に美希さんを預けるような真似は却下なのでこれは無し。代わりに誰かに陽根をつけて貰うことになるんだけど、この薬は身体に負担がかかりすぎるから人間には使えない。更に私や姫のような蓬莱人には効果のない薬だからこれも無理。で、鈴仙かてゐしか選択肢がないのなら、少しでも打ち解けている鈴仙が適任というわけよ」
「な、なるほど……」
「それに、貴女は一度陽根を生やした経験も……」
「わーっ! わーっ!! それはなし! それは言っちゃダメです!!」
「………………?」
 羞恥とも言うべき過去を指摘され、鈴仙は慌てて言葉を遮る。そんな鈴仙を、美希は不思議そうな顔で見つめていた。
 鈴仙は昨年の暮れに陽根を生やす薬を飲んだことがある。それは愛する美鈴の子を欲するが故であり、特に恥じるべきことではない。結局二人とも懐妊には至らなかったが、お互いを愛するが為にとった行動であり、そこに罪悪感は微塵も存在しなかった。
 しかし、だからといって誰彼問わず話して良いようなことでもない。自慢するようなことでもないし、第一内容が内容だ。軽々しく聞かせて良いわけがない。
「は、話はわかりました。でも、こういうことはやっぱり本人の意志を尊重して……」
「私なら、大丈夫です」
 予想外なほどはっきりとした答えに、鈴仙は思わず美希の顔を覗き込む。その表情には恥じらいこそあれ、後ろ暗さや諦めと言った負の感情は見あたらない。
「み、美希さん……、あの、抱かれるってのは……」
「それぐらいのことは、ちゃんと解ってるつもりです。それに、話の内容から、鈴仙さんにその……あれを生やして貰って……って言うのも、何となく解ってます。でも、期待して待っててくれる霊夢さんや慧音さんや妹紅さんをがっかりさせたくないんです……」
「美希さん……」
「それに、鈴仙さんなら……優しくしてくれそうですし……。あっ……で、でも……、もし鈴仙さんが嫌なら……」
 返答の代わりに、鈴仙は美希を強く抱きしめ、頭を撫でた。あまりにも健気で真っ直ぐなこの少女が、今はたまらなく愛おしく思える。
「決まりね。それじゃ美希さんはこの薬を、鈴仙はこっちの薬を飲んでおくこと。夕食後には準備も整ってるでしょうから、一番北の大きな客間を使いなさい」
 渡された小瓶は乳白色の液体で、以前飲んだ薬とは別物の様だった。隣では美希が薄桃色の液体を見つめ、瓶の蓋に手を掛けている。
「あの、師匠。まさかとは思いますが……コレが原因でご懐妊なんてことは……」
「あるわけ無いでしょ。それで生成した陽根からは純粋なタンパク質しか出ないわよ。それを彼女の粘膜から吸収して貰って、毛髪育成の手助けをするの」
 その言葉を聞いて安心し、鈴仙は小瓶の液体を一気に飲み干す。急激な変化は訪れない薬なのか、酒を飲んだときのようなじわりとした熱を感じる以外、特に変化は現れない。
「美希さんは変わりないと思うけど、鈴仙はそのうち辛くなってくると思うわ。今日は家事を休んで、客間の用意をしてゆっくりしていなさい。くれぐれも自分で慰めるような真似はしないように」
「すみません、鈴仙さん……。私のために……」
「気にしないで。こーゆーのは慣れてるから。それに、せっかく美希さんが決断してくれたんだもの。ここで嫌だなんて言ったらそれこそ恥ずかしい話になっちゃう」
 少しだけ頬を染めながら微笑みかけると、美希もまた恥じらいながら小さな笑みを返した。
 ほんの一瞬だけ、鈴仙の脳裏に美鈴の笑顔が浮かぶ。しかし、事情が事情であり、彼女がこの程度のことで怒るとは思えない。第一彼女は、自分を意識したが為に遠慮したなどと言われる方が嫌うに決まっている。だから鈴仙はそれ以上考えないことにして、美希を優しく抱きしめた。
「夕食は私が作るわ。できあがったら声を掛けるから、美希さんは自由にしてて頂戴」
「ありがとうございます。もし、何か出来ることがあればお手伝いをしたいのですが……」
「なら夕食のお手伝いでもして貰おうかしら。ついでにいろいろと料理も教えてあげるわ」
「ありがとうございます。ぜひお手伝いさせてください」
 二人の微笑ましくも暖かい会話。それを耳にして柔らかい気持ちになりながら、鈴仙は身体を包んでいた熱が徐々に下腹に溜まってゆくのを感じていた。



 うなぎ、山鶏、長芋、豆腐。夕食はずいぶんと豪勢に、そして精がつきそうな料理が並んだ。
「何だかずいぶん豪勢ね。宴会でもやるの?」
「これも治療の一環です。毛髪だって身体の一部ですよ。それを成長させるには、それだけの糧を取らなくては」
「私のために……、いろいろとありがとうございます……」
 大皿をテーブルにおいて頭を下げると、永琳は軽く笑って返した。
 永琳の手ほどきはとても丁寧でわかりやすく、あまり料理経験のない美希でもすんなりと理解することが出来た。
 もっとも、山鶏の捌き方だけは真似できそうもなかったが。
「ごめんなさい……、何もせずに眠ってしまって……」
 少し辛そうな顔色で現れた鈴仙が、少しよろめきながらテーブルにつく。彼女の頬は薄く紅が差しており、吐息も荒い。
「大丈夫ですか? 鈴仙さん……」
「うん。ちょっと熱っぽい感じがするだけ。心配掛けてごめんね」
 笑顔を作り、軽く手を振る鈴仙。しかし、その表情はあまり平気そうには見えない。自分はとてつもない無理を強いているのではないか。そんな懸念が美希の心に満ちてゆく。
 しかし、そんな心配をぬぐい去るように、永琳は美希に小さく耳打ちをした。
「鈴仙は気分が悪いんじゃないのよ。どっちかというと欲求不満に近い状態だわ。だからあまり心配しないで」
「で、でも……」
「平気よ。貴女もそうだろうけど、鈴仙もだいぶ食欲があるはずだわ。そうよね?」
「ふぇ? あ、は、はい。何だか熱っぽいのに、妙におなかが空いちゃって……」
「ほらね?」
 恥ずかしそうに答える鈴仙と、軽く笑ってみせる永琳。
 たしかに、美希自身もかなり強い空腹感を感じており、いつも以上に目の前の料理が美味しそうに見える。これもまた、永琳の薬によるものなのだろうか。
「さぁ、冷めないうちに食べましょう。特に美希さんと鈴仙はしっかり食べておくこと。いいわね?」
 永琳の言葉に二人はそろって頷き、箸を手に取り、空っぽになった胃袋が求めるままに手を伸ばした。
「鈴仙さん、代わりに取りますから、座っててください」
「ありがとう。じゃあうなぎと豆腐をお願い」
 昼間とは逆に、今度は美希が鈴仙の食事を取り分ける。結局二人は茶碗大盛り三杯の飯と、それに勝るとも劣らぬ量のおかずを平らげ、事情を知らぬ姫とてゐを圧倒した。
「ごちそうさまでした。おなかいっぱい……」
「そりゃあれだけ食べればねえ……」
 箸を置いて手を合わせた鈴仙に、輝夜が呆れたような声で呟く。たしかに、鈴仙の細い腰と華奢な身体を考えれば、その食料が一体どこへ入っているのかさっぱり解らない。しかし、それは彼女よりも体つきの小さい自分にも言えることだ。美希は急に自分が遠慮なく食べ過ぎてしまったのではないかと恥ずかしく思い、顔を赤らめて俯いた。
「ごめんなさい……、なんだか遠慮なしに食べ過ぎてしまって……」
「別に責めてるつもりはないわよ。若いんだもの、たくさん食べて当然だわ。むしろ昼間遠慮してたんじゃない?」
「あ、いえ……。昼は本当にあれでおなかいっぱいで……、今が不思議なぐらいなんです」
 恐らく薬の作用なのだろう。昼の量から考えれば、今の二人は倍ぐらいの食事を取っていることになる。まるで急に胃袋が膨らんでしまったかのような、そんな気分だった。
「さてと……、美希さん。私は先に客間へ行ってるね。準備ができたら、案内して貰って」
「あ…………はい。すぐに準備して行きます」
 やや前かがみに、ふらつく足取りで部屋を後にする鈴仙。彼女の様子がおかしいのは、てゐも輝夜も気がついたようで、その背中をまじまじと見つめながら見送っている。
「永琳、鈴仙になんかあったの?」
「少々手伝いをしてもらうので、その準備をさせているだけです。別に具合が悪いわけではありませんので、お気になさらずに」
「すみません……、ご心配をおかけして……」
「美希さんが悪いんじゃないし、師匠が言うならだいじょーぶでしょ」
 軽い口調で言いながら、てゐはウナギに手を伸ばす。胃袋は一杯だと思われるのに、人が食べているのを見ると何故かまだ食べられそうな気がしてしまう。しかし鈴仙を待たせている事もあり、あまりのんびりしているわけには行かない。美希は慌てて席を立って永琳に声をかけた。
「あの、汗を流すだけでもしてきていいでしょうか……」
「そうね、その方がいいかもしれないわ。じゃあ着いてらっしゃい」
 居間を出て、長い廊下を永琳に導かれて静かに歩く。彼女の背中を見つめながら、美希はふと、永琳もまた永遠の命を生きる蓬莱人である事を思い出した。
「あの……、一つお尋ねしてもいいでしょうか……」
「どうしたの?」
「永琳さんは……、妹紅さんのことを、どう思っているんですか……?」
 その言葉に、永琳はほんの一瞬だけ足を止める。意識できるほど長くはない、本当にごくごく短い時間。その一瞬だけの出来事だったが、美希の瞳には何故かその様子が鮮明に映っていた。
「………………あの娘には、とても悪い事をしたと思っているわ」
 ため息にも似た、絞り出すような声。その一言が、永琳が持つ感情の全てを物語っているような気がした。
「やっぱり……、受け入れる事は出来ないんですか……?」
「それは私達が決める事じゃない……。あの娘が決める事なのよ……」
 肩越しに見える、永琳の悲しそうな笑顔。その表情を見た瞬間、美希は自分が触れてはいけない禁忌に触れてしまったような感覚を覚えた。
 恐らく、これは彼女達が千年の間に幾度と無く自問自答してきた事なのだろう。
 そして、それでも尚答えを見つけることが出来ずに居る。
 だからこそ、永琳も輝夜も、そして妹紅も、このような表情をするのだ。
 困ったような、悲しげな笑顔を。
「ごめんなさい…………、私…………」
「大丈夫よ。ありがとう、美希さん」
 髪を撫でながら、永琳は呟くように礼を言う。
 自身に向けられた言葉のその意味を理解できず、美希は永琳の顔を仰ぎ見る。
 しかし、そこにあったのは彼女の後姿だけだった。



 下腹部を襲う熱は留まるところを知らず、鈴仙の体内を駆け巡りながら激しい欲求を訴えかける。
 その熱を抱えたまま鈴仙は客間の布団に座して、これからその欲望を向けるべき相手の来訪を待ち続けていた。
 昼過ぎに飲んだ薬の作用なのだろう。あれ以来鈴仙の身体は熱く火照り、意識にもやがかかったようにはっきりしない。こんな状況にもかかわらず、彼女は昼食後にしばしの眠りにつき、夕食もいつも以上の食欲で大量の料理を平らげた。
 体調不良などではない。現に体の火照り以外は何の異常も無く、味覚も正常だった。
 強いていうなれば、下半身にその理性を奪われかけていると言ったところだろうか。
「はぁっ…………」
 熱い吐息を吐きながら、鈴仙は自身のスカートを僅かにたくし上げる。そこに見えるのは、大きく反り返った、男性器。
 包帯を使って身体に縛りつけ、何とか目立たぬようにはしておいたものの、焼けた鉄串のように熱いそれは、縛り付けた包帯すらも引きちぎってしまいそうなほどに大きく硬く膨れ上がっている。
 鈴仙は以前にも同じ物をつけた事があったが、今回のものはその時ほど大きくは無いかわりに、時間を置いても一向に萎える気配を見せない。むしろ時が経つにつれ、更にその反り返り具合を強くしているようにも見える。
(触りたい……!)
 幾度と無く襲い来るその激しい欲求。しかし、今ここで自らその欲望を扱き出してしまっては元も子もない。何より、辛い選択を強い決意で決定した美希に申し訳が立たない。
 鈴仙はその欲求を布団を握り締めながら耐え続けた。
「すいません……。遅くなりました」
 襖の向こうから聞こえるか細い声に、鈴仙の胸は大きな高鳴りを覚える。まるで待ちわびた自身のつがいに出会えたような、そんな奇妙な感覚と共に押さえ込んでいた強い欲求が鎌首をもたげる。
「ちょ、ちょっと待ってね」
 軽く深呼吸をしてから、慌てて布団を腰元に引き寄せる。どうせこれから存分に見せ付けねばならぬので隠したところで意味は無いのだが、それでも鈴仙はそうせざるを得なかった。
 自身の欲求を隠すためにも。
「いいよ。お待たせ」
「お邪魔します……。汗ぐらい流しておいた方がいいかもって思いまして……、お風呂をお借りしてました。大丈夫ですか?」
 静かに襖を開けて入ってきた美希から、石鹸の良い香りが漂ってくる。僅かに濡れた髪と、上気した肌、そして戸惑いがちに潤む瞳。それら全てが愛しく、そして自身を誘っているように見えてしまう。
「平気。じっとしてたら少し冷えちゃって……。っていうか、私お風呂入ってない……。行ってきたほうがいい?」
「大丈夫です。私はそういうの、あんまり気になりませんから……」
 ぶら下げていた二つの瓶を枕元に置き、美希はそっと傍に腰を下ろす。近くで見る白い肌の美しさと、寝間着の襟元から覗く胸元に目を奪われながら、鈴仙は何とか理性を保とうと言葉を搾り出す。
「その瓶は……何?」
「えと……、永琳さんが渡してくれたんです。私は初めてじゃないから大丈夫だろうけど、一応媚薬と潤滑剤を……って。辛かったりしたら、遠慮なく使いなさいって……」
 恐らく潤滑剤が入っているであろう瓶は大きく、酒瓶かと思われるぐらいの大きさがある。もう片方は逆に掌に乗る程度の大きさしかなく、恐らく舐めるように使っただけでも効果があるものなのだろう。見た目は何の変哲も無い硝子瓶。しかし、その中身とそれによってもたらされるであろう光景を想像して、鈴仙の怒張は痛いほどに屹立してしまう。
「あの……、永琳さんからお話は伺ってますから……、どうか楽に……。私を、襲ってしまってもかまいませんから…………」
 しなだれかかるように肌を寄せ、唇を近づける美希。甘い吐息が鼻腔をくすぐり、彼女の言うように思い切り押し倒して、襲ってしまいたくなる衝動に駆られる。しかし、鈴仙はぎりぎりの理性でそれを堪え、優しく美希を抱きしめた。
「私は絶対そんなことしないよ。どうせするなら、二人一緒に気持ちよくならなきゃ……そうでしょ?」
 頬を寄せ、髪を撫でる。暖かく心地よい感触を全身で感じながら、鈴仙は美希がそっと頷くのを確認した。
 もう二度と、彼女に怖い思いをさせてはいけないのだ。
 自分が過去に受けたような、彼女が過去に受けたであろう、辛く恐ろしい陰惨な過去。それを思い出させるような事は、絶対にさせたくない。させてはいけないのだ。
 彼女の心が、その傷を癒しきるまでは。
「ありがとうございます……。でも、きっと鈴仙さんはものすごくつらいだろうから……」
 美希の手が、そっとスカートの中に滑り込む。硬く反り返った幹に指先が触れ、さわさわと先端へ向けてうごめいてゆく。
「んんっ…………み、美希さん…………」
「こんなに…………硬い……」
 包帯に触れた指先は、その結び目を探るように怒張から離れてゆく。触れて握って欲しいという衝動を押さえ込みながら、鈴仙は荒い息を吐き続けてしまう。
「こんなことしてたら……、痛かったでしょう…………? ごめんなさい、私の為に…………」
 固く結ばれた包帯が解かれ、熱い塊が自由になる。触れたら破裂してしまいそうな、そんな激しい快楽の中、鈴仙はどこか違和感を感じていた。
「すぐ、楽にしますね…………」
 スカートが捲り上げられ、怒張が露になる。彼女の唇が近づき、先端に舌が伸ばされる。
 その瞬間、鈴仙はその違和感の意味を悟り、美希を強く抱きしめた。
「だめだよ、美希さん。そんな気持ちで……私に傅く様な事をしちゃだめ」
 戸惑いの表情を隠せぬ美希。そんな彼女を鈴仙はしっかりと抱きしめ、背中を撫でる。
 彼女から感じ取った違和感。それは、彼女が意識してか、はたまた無意識の内になのか、鈴仙に隷属し、奉仕しようという感情だった。
 恐らくそれは、彼女が受け続けてきた虐待によるものなのだろう。激しく陰惨な行為が美希の心に鎖をかけ、隷属という名の首輪を嵌めたに違いない。
 遥か昔に、自身がそうされたように。
「でも…………」
「美希さん、私は貴女のご主人様じゃない。んと…………、こんなこと、都合が良すぎるのかもしれないし……、貴女にも大切な人が居るのかもしれないけど…………」
 ふと過ぎった愛しい人の笑顔に、一瞬だけ言葉が詰まる。しかし、きっと彼女はこう言うだろう。自分の為に、誰かを助けるのをためらうような真似をするな。と。
「今夜だけでいい。私を恋人だと思って……鈴仙と呼んで? 私も貴女を、美希と呼ぶから……」
「れ…………れいせん…………」
「うん…………、美希…………」
 背中を支えるように抱き、優しく唇を重ねる。甘く柔らかく、そして繊細に。
 今まで渦巻いていた黒い欲望は、いつの間にか鈴仙の中から消えていた。あるのはただ、彼女を愛したいという思いと、一つに解け合いたいという感情。その純粋な二つの気持ちで、彼女の心は満たされていた。
「ん……っ」
「ふぁ……」
 薄い襦袢のような寝間着の上から、彼女の背中を撫でる。小さく吐息を漏らし、恋人のように口づけを重ねながら。
 鈴仙は、ごく僅かにだが他者の感情を読みとることが出来る。それはその人物が持つ感情の一番強い部分を波として捉え、その起伏から朧気な感情の概要を知る程度の物だ。
 そんな鈴仙が今口づけている相手から読みとった感情は、感謝と、そして淡い思慕の念。
「んっ……。美希、もう怖くない……?」
「はい……。でも、私より鈴仙さんの方が辛そうで……」
 指先が柔らかくそれに触れる。たったそれだけのことで鈴仙の背筋には電流のような快感が走り、理性を痺れさせてゆく。
「さん、なんてつけてるうちは、さわっちゃダメ」
「ぁぅ……。じゃあ、鈴仙の……舐めさせて……?」
 困ったように眉を寄せ、それから消え入りそうな声で呟く美希。鈴仙は赤ら顔で上目遣いにねだる彼女の額に小さく口づけを落としてから頷いた。
「気持ちよくなかったら……、ごめんなさい……」
 静かに手を伸ばし、そしてぎこちない手つきでそれを握る。そこには、先程まで彼女が見せていた娼婦のような手つきは一切存在しなかった。
 恐らくあれは、心を殺した彼女ができる、機械的な技術だけの愛撫。男を悦ばせる、ただそのためだけに身につけさせられた悲しい技術なのだろう。
「したいように……触っていいよ……。嫌になったら、無理しないで……」
 荒い息と、切れ切れの声。自然と混ざる喘ぎを堪え切れぬまま、鈴仙は美希に囁く。
 美希はそれに答える代わりに、そっと先端に唇を寄せ、包み込むようにくわえた。
「んぁっ……!」
 敏感な鈴口に触れる、暖かく柔らかい舌。それだけで達してしまいそうな刺激を受けながら、鈴仙は僅かに腰を浮かし、身を仰け反らせる。
「んっ、んくっ……んんむ……」
 彼女の小さな唇が、ある種凶悪とも思える肉棒を飲み込んでゆく。舌を添えながら、ゆっくりと。
「んぐっ……、ぇふっ! ん、けふっ……」
 しかし、最早肉袋ではなくなった彼女には、その怒張は大きすぎたらしい。半分を僅かに超えたところで、美希はむせかえりながら唇を離し、うっすらと涙を浮かべてせき込んだ。
「大丈夫? 無理しないでって言ったのに……」
「けふっ……平気です……。でも、なんでだろ……。このぐらい、平気だと思ったのに……」
「……たぶん美希が、人らしくなったからだよ」
「……え?」
 不思議そうな顔で聞き返す美希。しかし、今彼女にその理由を言いたくはなかった。
 言えばそれは自らの過去を露呈することにつながり、そしてそれは、少なからず美希を悲しませることに他ならなかったから。
「後で教えてあげる。それより、もうやめておく?」
「いえ……、あの、こんなこと言うと……変に思われるかもですけど……。飲んでみたいんです……、鈴仙の……それ…………」
 耳まで顔を赤くし、ふいと視線を外す。そんな彼女の仕草が愛らしくて、鈴仙は思わず彼女にキスをした。
「んぁっ……んんっ……」
「ん、ぁむ……ちゅ……っぷぁ。いいよ、そのかわり絶対無理しちゃダメだからね」
 彼女の頭を一つ撫でてから、鈴仙は上着に手を掛け、脱ぎ始める。厚い布地のブレザーを脱ぎ、タイを解いてワイシャツのボタンを外す。その一つ一つを、美希はまじまじと見つめていた。
 視線の先は、概ね胸と股間に向けられているようだった。彼女がそれに興味を示しているのもまた、永琳が飲ませた薬によるものなのだろうか。はたまた彼女本来の性格なのか。どちらにせよ、注目され続けるのは恥ずかしい。
「み、見てないで美希も脱いで欲しいな」
「……っ! ご、ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」
 慌てて背を向け、彼女は寝間着を脱ぎ始める。といっても、どうやら下着の類は身につけていないようで、腰の帯紐を解き、肩から滑らせるように腕を抜くと、彼女は瞬く間に一糸纏わぬ裸身となった。
「……れ、鈴仙だって…………、じっと見てる……」
「ご、ごめん! 思わずその……、見とれちゃって……」
 美術品に欲情する者は少ない。それは概ねその美術品が完璧に近い形状をしているからだ。完成され過ぎた作品や頂点にまで達した物には、情欲の前に美を感じてしまう。
 もし、美希の背中が傷一つ無く、美しい黒髪を湛えていたとしたら、鈴仙には一種の美術品を見るような感覚しか生まれなかったかもしれない。
 しかし、今の彼女にはうっすらとだが傷跡が浮かんでおり、髪も乱れている。その不完全さが刺激となって鈴仙は彼女に強い情欲を覚え、視線を離すことが出来なかったのだ。
「恥ずかしいけど……、そんな風に言われたら、怒る気はなくなっちゃいますね」
 背中を向けてスカートを脱いでいた鈴仙に、美希がそっと身体を寄せる。背中に当たる柔らかい双丘の心地よさに、鈴仙の心臓が高鳴る。
「まだ、立ったままは怖いから……寝てもらっていいですか……?」
 美希の要望に小さく頷いた鈴仙は、その身を敷き布団の上に横たえた。自分で誘っておいてこういう感情を持つのも不自然だと思いながら、彼女はまるでまな板の鯉になったような心持ちで、瞳を閉じる。
「こうしてみると、やっぱり大きいかも……んくっ」
 先端が咥えこまれ、根本を軽く握られる。目を閉じているせいだろうか、先程よりも強く激しい快楽に襲われた鈴仙は、くぐもった声を漏らしながら敷布を強く握りしめた。
「ぁむ……、ん、んくっ…………ちゅるっ」
「んんっ! ふぁ、み……美希っ! んんぁっ!」
 髪を掻き上げ、悶えながら震える。よじれそうな腰と反り返りそうな背筋を必死で堪えながら、爆発しそうな欲求を我慢し続ける。まるで自分の中のもう一人の自分が、まだ早いと囁く声に従うかのように。
「んちゅ……ちゅるっ……、ふは……。ここは、そのままなんですね……んむっ……」
「ひゃぁっ! そっちはだめっ! いまやったら……んはぅっ!」
 不意に秘所を撫でられ、入り口を指先で広げられる。咥え直された先端と共に訪れる悦楽の重奏に、鈴仙は僅かに身を捩り、背を反らせてしまう。
「いっふぁい……かんひへふらはい……はむっ……ちゅちゅっ」
「しゃべっちゃ! だめっ! ふぁっ……中もこすっちゃ……んんんぅっっ!」
 指先が内側に滑り込み、怒張の裏側を擦られる。同時に口腔は先端を吸い上げ、舌を添えた唇で擦り立てられる。淫猥な水音が激しく響きわたり、濁った下品な音が耳元に伝わってくる。
 知識で得たであろう技術と、戸惑いから来るであろう拙さ。その二つが混じりあいながら、鈴仙の膨れ上がった欲望を攻め立ててきた。
「も……ぅ……ぁっ! だめ……ふぁっ! でる……!」
「っぷぁ……、いってください。いっぱい、注いでください……んぐ……じゅる、ちゅ……」
 美希の責めが単調で小刻みなものに切り替わる。それは間違いなく、射精を促すための愛撫だった。舌を裏筋に添え、少し柔らかく握った指と共に小刻みに上下させる。単純だが的確にツボを押さえたその行為に、鈴仙が耐えうるはずもない。
「美希……だ……ぁっ! んぁっ! ふぁぁぁっ!!」
 視界の白濁と共に、欲望を吐き散らす。理性も感情も支配権も、その一瞬だけは鈴仙の脳を離れ、白濁した精を放ち続けるそれに支配される。
「や……とまらない……んぁっ……うぁっ! ふぁぅっ……!」
 射精感はずいぶんと長く続いた。息苦しいまでのその激しい快楽の中で、鈴仙は腰を震わせながら欲望のままに美希の口に精を注いでゆく。
「んぐ……ぇふ……、の、のみきれ……ないれふ……」
 ようやく落ち着きを取り戻し、かすんだ視界が最初に捉えたのは、口元から大量の精液を溢れさせている美希の姿だった。
「ちょっ……、無理しないで、吐き出して!」
 鈴仙の言葉に美希ははっきりと首を横に振り、少しづつ噛み下すようにしながらその白濁液を飲み込んでゆく。
「だいじょぶれふ……んくっ……。これが、私の髪を伸ばす薬ですし、それに……その、なんだかおいしくて……ん……ちゅるっ……」
 確かにその液体は以前鈴仙が放った物と違い、青臭いにおいはまるで感じられなかった。どちらかと言えばミルクのような、ほんのりとした甘い香りを放っている。
「ほんとに……、大丈夫?」
「はい……、粘っこくて飲みにくいのは……変わらないですけどね」
 そう言って彼女は小さく笑い、手のひらに溜めた最後の一滴を啜る。受け止められるぎりぎりまでその液体を口に溜めたのだろうが、溢れた液は布団にいくつもの染みを作り、鈴仙の太股にも広がっていた。
「なんか……、すごいいっぱい出ちゃったんだね……」
「はい……。でも、鈴仙のは……まだ……」
 呟きを受けて、鈴仙は改めて自身の股間に視線を送る。そこには、まだまだ硬く大きなままの物体が、先程と変わらぬ角度で反り返っていた。
「あ、……はは…………。なんか、えらいことになってる……」
「はい……。ですから、今度はあそこに……」
 潤んだ瞳で、美希は鈴仙の顔をそっと見上げる。しかし、その腕と身体には僅かに固さが残っており、自身の感情を受け入れられないといった風な部分が読みとれる。
「ん、そうだ……。ねぇ美希、コレ使ってみよっか」
「そ、それを……ですか?」
 つまみ上げた小瓶を見て、美希は小さく喉を鳴らす。それは彼女が永琳から預かってきた、鈴仙も効果をよく知る媚薬だった。
 この薬の効果はさしたる物ではない。もちろん一瓶飲み干せば強力な効果を放つが、舐める程度であれば僅かに身体が疼く程度にしかならない。
 それでも、薬のせいだと言い聞かせることが出来るのは、美希にとって良い口実になるだろう。
「ほんの少しだけ。そしたら、きっと怖さも痛みもなくなっちゃうから。ね?」
「じゃ、じゃあ……すこしだけ……」
 胸に頬を寄せて小さく頷く彼女を抱きしめながら、鈴仙は小瓶の蓋を開け、中の媚薬を一滴だけ指先に乗せた。薄桃色の美しい水薬は、指先で小さな滴を作って儚げに揺れている。
「たったこれだけでも、結構効いちゃうんだよ」
 美希に見せつけるようにしながら滴を舌に乗せ、そのまま彼女に唇を近づける。固く目を閉じ、僅かに震える美希は、迷いを見せながら薄く唇を開き、差し出すように舌を伸ばした。
「んっ……くっ……」
 薄甘い、薔薇の香りを放つ媚薬が舌に広がる。鈴仙はその甘露をだ液に混ぜながら、美希の舌に塗るようにして少しづつ飲ませた。
「ふぁ……ん、ん、んぅ……」
 肩の力が抜け、吐息が荒くなる。それと共に彼女の頬が上気してゆき、僅かに腰をくねらせ始める。
 媚薬の効果は、いや、薬を飲まされたという思いこみは、絶大な効果があったようだ。
「ふぁっ……鈴仙……、からだ……あつい…………」
 すがるように抱きつき、ねだるような目で見つめる美希。その表情は、まさに発情したと表現するにふさわしいほどの艶を湛えていた。
「薬、もう効いてきちゃったかな?」
「ひゃぅっ!」
 そっと胸の先端に触れると、美希は鋭い嬌声を上げて仰け反る。そのまま倒れ込んでしまいそうな美希の身体を支えた鈴仙は、しっかりと抱きしめながら耳元で囁いた。
「もう、欲しい?」
「…………はい」
 小さく頷き、美希は二人の間で硬く反り返るものに触れる。淡い媚薬の効果は鈴仙にも既に及んでいたようで、触れられた先端は先程よりも強い愉悦を背筋に走らせた。
「ん……と、どうする? 美希が楽な方がいいんだけど……、どうしたら怖くないかな……」
 布団に横たえようとしたところで鈴仙は戸惑い、美希に小さく訪ねる。少なからず挿入には恐怖があり、そうでなくとも華奢な美希にかかる負担は、出来るだけ少ない方が良い。何をどうしようが大差はないと言ってしまえばそれまでだが、やはり鈴仙としては聞かずには居れなかった。
「だいじょうぶですよ……。このまま、来てくれても……」
 小さく笑い、美希は鈴仙を引き倒すようにしてその身を投げ出した。
 丁度押し倒すような形で、鈴仙は美希に覆い被さり、そっと唇を寄せる。そんな彼女の肢体は、あまりにも魅力的で、そして小さい。
「痛かったら、絶対我慢しないでね?」
「たぶん……平気です……。それより……」
 躊躇う鈴仙の首に腕を伸ばし、美希が自分から唇を重ねてくる。甘く切なく繰り返される口づけと共に、彼女はもどかしそうに足を絡め、肌を寄せた。
「ん、んぅ……んっ……ふぁ……。じゃあ、入れるね……?」
「はい……」
 そっと秘所にあてがい、鈴仙は少しづつ腰を前に押し出してゆく。火傷しそうな程に熱く、そして狭く小さな彼女の入り口を掻き分けながら、奥へ奥へ。
「ふ……んっ……、へ、へいき……?」
「んぁ……、い、いいから……へいきだから……おく、まで……っ……」
 幾度と無く調教され続けた彼女の身体には、鈴仙の責めはあまりにも優しすぎるようだった。せがむように腰を浮かせ、辛そうに歪めるその顔を見て、彼女は意を決して腰を強く押しつける。
「ぁは……んっ……! ひぁっ……!」
「っ……く、美希の……きつくて、すごい……」
 まるでそれを握られるような強い締め付けと共に襞が絡みつき、焼け串の様な怒張を擦り立ててゆく。先端には彼女の奥底をつつくような感触があり、その刺激がより一層の興奮をもたらす。
「っ……ふふ……。鈴仙の……、おへそのとこまできてるみたい……」
「くぁっ……!? し、しめつけちゃ……んぁっ!!」
 それがもたらす感覚に不慣れなことに加え、媚薬を口にしていた鈴仙は、今にも欲望のたがが外れそうになってしまう。
「平気ですよ……激しくしたって……。だから、いっぱい気持ちよくなって、たくさん私に注いでください……」
 荒い息を吐きながら、美希は鈴仙にそっと囁きかける。それは、幾重にも責め突付かれ、ぼろぼろにひび割れた彼女の理性を吹き飛ばすには、十分すぎる威力があった。
「ごめん……美希っ……!?」
「ふひゃっ!? ひあぅっ! んぁ、ひゃ、ぁぅっ!! ひゃぁん!!」
 一突き毎に嬌声を漏らし、身体を跳ねさせる美希。彼女を繰り返し犯し、蹂躙し、調教し続けた者の気持ちが今なら解るのではないかと思うほどに、鈴仙は夢中で腰を振り、彼女を求め続けた。
「美希……、んぁっ! ふぁっ……」
「ぁんっ! んぁっ……ひっ! すご……、あつくて……きゅぁっ! ふぅっ、はっ……んぁっ!」
 目眩を覚えそうな程の激しい快楽に、視界が白く霞んでゆく。滾り続ける精は早くも暴発の予兆を見せ、鈴仙の腰を震わせる。
「美希……美希っ……! もう、私……」
「いいの……っ!! いっぱい、いっぱいそそいで……! わたしも、いっちゃ……!」
 膣壁の締め付けがより一層強くなる。快楽に打ち震える美希の手が、強く敷布を握りしめる。薄れそうな意識の中、はっきりと感じられるのは淫猥な水音と肉のぶつかり合う音だけ。
 光、音、熱、そして感情。鈴仙を取り囲む全ての波長が色欲という巨大な波となって、意識を押し流してゆく。その大波に堤を崩されるかのように、鈴仙は美希の中で絶頂を迎えた。
「だめ……で……ふぁっ……! んぁぁぁぁぁぁっ!!」
「っ!? ひっ! ふぁ、ふゃぁああああああ!!」
 腰を振りながら、まるで美希の膣で自身の物を絞り上げるように、鈴仙は大量の精液を彼女の中に放った。彼女の狭い小さな子宮では受け止めきれなかったものが、小さな音を立てて溢れだしてくるのが解る。しかし、美希は弱々しく足と腕を絡めて、鈴仙の身体を強く引き留めた。
「お願い……。もう少し……、このまま……」
「で、でも……」
「わかるんです…………しみこんでくるのが……だから……」
 彼女の言葉で、鈴仙はこの行為の本来の役割を思い出し、自らを恥じた。
 今二人が行っている行為は、快楽を貪るためのものではない。美希に美しい黒髪を取り戻すための、れっきとした治療行為なのだ。たとえそこに、一時の愛という感情があったとしても。
「ご、ごめん……、つい夢中に……」
「いいんです……。それに、そういうの関係なしに……、今はこうしていたい気持ちなんです……」
 恥ずかしそうに微笑み、それを隠すように美希は鈴仙を強く抱き寄せる。身体にかかる重みが心地よいのか、美希は頬を寄せたまま、じっと鈴仙を抱きしめ続けていた。



「そんなことが……」
 冷たい水を飲みながら、美希は小さく呟く。
 しばし抱き合っていた二人は名残惜しさを感じながら身を離し、渇く喉を潤しながら寄り添うように座った。
 そして、沈黙の末に美希が訪ねたのは、行為の直前に鈴仙が言った一言について。
 彼女は、話せば長くなると言いながら自身の過去について語った。弄ばれ、調教された日々。戦いを恐れ、逃げた過去。そして、行き場を無くして幻想郷に流れ着いたこと。それは、細部は違えど、まさに自身と同じ境遇だった。
「だから、他人とは思えないし……、昔私が経験したことだから……ね」
 照れたような苦笑を浮かべ、鈴仙は頭を撫でてくる。優しい手のひらの感触と、暖かい体温が心地よい。
 しかし、美希はどうしてもそれに素直に甘えることが出来なかった。
「ごめんなさい……、私のせいで嫌なこと思い出させちゃって……」
 彼女が辛い過去を思い出したとすれば、それは間違いなく自分の責任だった。
 似たような境遇を持ち、過去を見るかのような自分の態度を見て、何も思い出さないはずがない。そしてそれは、わざわざこのような場所まで足を伸ばした自分のせいに他ならないのだ。
 だが、鈴仙は何を言うよりも早く美希を抱きしめ、頭を撫でた。
「私ね、今日美希と出会えて良かったと思ってる」
「え、でも……」
「美希が来てくれたから、私は私が受けた恩を美希に返すことが出来た。ほんのちっぽけなことかもしれないけど、私は美希の力になれた。だから、貴女に出会えて本当に良かったと思ってるよ」
 透き通るような静かな声が耳元に響く。優しさという名の細波が、柔らかく自身を包む。その静かな調べにも似た言葉は、あまりにも甘美で、そして暖かかった。
「鈴仙さん……」
「私から受けた物を恩に感じてくれたなら、美希はその恩をまた別の誰かに返して。そして、そのために少しでも長く、一生懸命生きて。お願い」
「はい……」
 小さな言葉を返し、そしてそっと唇を重ねる。優しく甘い、恋人のようなキスを重ねながら、美希はしっかりと鈴仙に抱きつき、肌を寄せた。
「はふっ……、ん……。そろそろ、汗流して休む?」
「で、でも……、鈴仙さんのそれ……」
「あー……、いつ治まるんだろうね、これ……」
 肌を寄せた二人の間で、強く自己主張を続ける鈴仙の怒張。一向に萎える気配を見せないそれは、今も熱を帯びて時折震えている。
「あ、あの……。私もちょっと……、まだ……な感じですし……。これ、使ってみませんか……?」
 そう言って、美希は潤滑剤と言われて渡された、ボトルのような瓶を取り上げた。中に並々と注がれているのは、無色透明な粘度の高い液体。恐らくそれは、ローションというやつだろう。
「ふふ……、美希のえっち」
「ち、ちが……! これはせっかく預かったのにもったいないっていうのと、鈴仙のそれが辛そうだったからで……!」
「そういうことなら、こっちも使いきらないと……ね」
 不敵に笑った鈴仙は小瓶の媚薬をつまみ上げ、ごく僅かに口に含んでから、美希に流し込むようなキスをする。深く激しく、そして薔薇の香りのそのキスを受けながら、二人はもう一度、深く身体を重ねた。



「ん……、んん……」
 頭が重い。ずいぶんと眠っていたような気がする。
 鈴仙は頭よりも尚重い瞼をゆっくり開け、障子の方を見やる。どうやら自分達はずいぶんのんびりと眠っていたらしい。
「もう、お昼かな……んん……」
 まだはっきりしない意識のまま、顔を擦って目を覚まそうとする。そんな彼女の指先に絡む、一本の長い黒髪。
 彼女はそれを、すぐさま美希の物だと認識し、そして同時に、治療の成功を確信した。
「よかった……髪伸び……え…………?」
 絡みついた髪は、一本だけではなかった。腕にも、寝間着にも、長い黒髪が一束絡んでいる。そしてその根本を辿って見つけたのは、巨大な黒い塊。
「ん……、ぅ……?」
 塊が小さく身じろぎし、そしてゆっくりと起きあがってくる。
「あれ……まだ夜……?」
 異形の妖魔の如きそれがもぞりと動き、その中から白い腕が伸びてくる。
 そのあまりにも不気味な光景に、鈴仙は思わず絹を裂くような悲鳴を上げた。



 昼過ぎに屋敷中に響きわたった悲鳴。その主はあろうことか不肖の弟子だった。
「情けない上に失礼極まり無い」
「か、返す言葉もございません……」
 羞恥と申し訳なさで小さくなる鈴仙を後目に、永琳は黒い塊と化した美希に向き直る。
 永琳が処方した薬は、粘膜から直接薬効成分やタンパク質を効率よく吸収する薬と、成長速度を選択的に変化させ、毛髪の育成を高める薬の二つだった。この二つの薬を用いれば、男性なら一日で一尺ほど、女性なら三尺は期待できる代物だ。しかし、彼女のように一晩で一尋近く伸びるようなことは滅多にない。彼女が成長期であることを加味しても、余程のことがなければこのような状態にはならないはずである。
「鈴仙」
「は、はひっ!」
「貴女、昨晩どれだけやったの」
「ふぇっ!? ええっ!?」
 彼女が人間であったなら、恐らくその耳は梅もかくやと言わんばかりに美しく染まっていただろう。それ程までに鈴仙は激しく狼狽し、頬を赤く染めた。
「あ、あの……。三回から先は…………、よく覚えてません……」
「ちょっ! 美希っ!?」
「ご、ごめん……。でも、お医者様に隠し事は良くないし……」
 枕元に転がった、二つの空瓶。そして、永琳の記憶とは若干違う柄の寝具。あの鈴仙が昼過ぎまで眠っていたことも考えれば、昨夜の伽が如何に激しく長いものだったか、容易に想像がつく。
「ごめんなさいね、私の弟子が調子に乗ったばかりに……」
「やーい、いんらんウサギー」
「兎は多淫の象徴って、本当なのねぇ」
「なっ! なんでそれを姫とてゐが知ってるの!? っていうか私は淫乱でも多淫でもないです!!」
 騒ぎを聞きつけたのか、いつの間にか現れた姫とてゐが鈴仙をはやし立てる。慌てて否定する鈴仙だが、残念ながら彼女の主張を裏付ける要素はどこにも見あたらない。
「鈴仙……さんのせいじゃないです。私が何度もねだったんです……」
「いいのよ、気を使わなくても。それより具合はどう? どこか不調はない?」
「ちょっと師匠! なんでそこは流しちゃうんですか!」
「えと、首が重いぐらいです」
「まぁそんだけの髪があればねー」
「私より長いなんて、ちょっと妬けちゃうわね」
 伸びた髪は美しく、つやつやとして癖がない。これなら整えれば美しく見栄えのする髪型になるだろう。加えて元々の造形がよい美希なら、衣服も含めて整えれば、かなりの美少女になるに違いない。
「ちゃんと話聞いてくださいよっ! これじゃ私が欲望に任せて美希を犯しちゃったみたいじゃないですか!」
「違うの?」
「ちがうの?」
「あら、違ったの?」



「すいません、わざわざ送っていただいて」
「いいのいいの。案内が無いとここは危ないしね」
 手をつないで竹林を歩く美希と鈴仙。
 結局、彼女の髪は腰のあたりで切りそろえられ、前髪も邪魔にならない程度に短くして髪留めで止めておく事になった。これならいつでも好きな髪型にできるだろうし、後は霊夢と相談して決めれば良いという永琳の計らいである。
「それにしても、髪の毛一つでずいぶん変わっちゃうんだね。すっかり女の子らしくなった」
「そ、そうですか……? 私はあんまり……変わってないような気がするんですけど……」
 照れて俯き、髪を触る美希。永遠亭に訪れた直後のざんばら髪と違い、美しい黒髪が戻った彼女は、まるで欠けたピースが揃ったかのように美しく、そして可愛らしかった。
「そんなこと無い無い。自信持って良いよ」
「ん…………でも、みんな……鈴仙も、私なんかより素敵で綺麗で……」
「ほらほら、俯かないの! 前を見て顔を上げる!」
 後ろから抱きすくめ、鈴仙は美希の顔を両手ではさむようにして顔を上げさせた。先日同様よく晴れた今日は、黄金色の陽光が生い茂る竹の葉の隙間から美しく輝いて見える。
「いろいろあって、自分が嫌いになっちゃうのはわかる。でもね、そんなんじゃ周りも貴女を好きになるのが難しくなっちゃう。だからちゃんと上を向いて、ゆっくりでいいからまっすぐ歩くの。わかった?」
「………………が、がんばります」
「うん。それでどうしても辛くなって、俯きそうになったらまた遊びにおいで。歓迎するから」
「…………鈴仙……さん」
 肌を寄せるように、彼女はおずおずとその身を預けてくる。前よりも少しだけ背筋が伸びた彼女は、昨日よりほんの少しだけ、大人になったような気がする。
 そんな彼女を強く抱き寄せ、それから鈴仙は小さく囁いた。
「霊夢に、気に入ってもらえると良いね」
「…………え?」
「大好きなんでしょ? 彼女の事」
 しばらく空を見上げたままの彼女は、何も言わずに小さく頷いた。それが彼女の、精一杯の自己表現なのだろう。
 どこまでも控えめなこの少女の仕草に、鈴仙の頬は思わず緩んでしまう。
「で、でも…………。鈴仙さんにも……、大切な人が居ますよね……?」
「…………わかっちゃう?」
「なんとなく、ですけどね……」
 お互いに想い人は別に居る。にもかかわらず身体を重ね、肌を寄せ合った二人。それは恐らく、彼女達にしかわからない特別な感情であり、感覚であっただろう。
 二人は黙って空を見上げ、それから視線を交わしてそっと笑いあう。
「こういうの、浮気って言うのかな」
「不倫かも……しれないですね……」
 笹の葉が揺れるような、小さな笑い声。風にかき消された二人の呟きを聞くものは、どこにも居ない。
「絶対、また遊びに行くね……、鈴仙…………」
「待ってる……。また二人きりでもいいし、霊夢を連れてきてもいいよ」
「それなら、鈴仙が神社に……、大切なひとを連れてきて欲しいかな……」
 二人の背中を押すように、冷たい風が足元を吹き抜けてゆく。その冷気を口実に身を寄せた二人は、まるで顔を隠すように、優しく口付けを交わした。



「いっちゃったねぇ」
「そうね。久しぶりに騒がしい日だったわ」
 永遠亭を後にした美希と、彼女を里まで送り届ける役目を申し出た鈴仙を見送り、てゐと姫はそれぞれ小さく呟く。
 ふと輝夜の横顔を見上げると、彼女はどこか名残惜しそうな顔をしていた。
「寂しい?」
「………………さぁ、どうかしらね」
 はぐらかすような言葉と共に、輝夜は屋敷へと戻ってゆく。それに続いて永琳も。
 美希という少女は本当に不思議な娘だった。彼女は鈴仙と打ち解け、姫の心を掻き乱し、一瞬とはいえ、あの永琳の本音の表情を引き出したのだ。それもたった一晩の内に。
「…………人間ってのは、すごいね」
 誰も居なくなった屋敷の玄関で、てゐは小さく呟く。そして、彼女ともっと深く会話をする時間を持たなかった事を、酷く後悔していた。
 てゐは、少しだけ怖かったのだ。
 彼女によって自分の知らない、本当の自分を導き出されてしまうことが。
「…………死なれたら、次の機会がなくなっちゃうから。しょうがないね」
 小さく笑い、そして瞳を閉じる。長い髪を揺らしながら、別れ際に何度も頭を下げていた彼女の姿を強く思い浮かべ、意識を集中する。
 てゐには、派手な能力は何一つ無い。時間や空間を操ったり、炎を纏って飛んだり、星屑のような弾幕を空一杯に広げるような真似も出来ない。そんな彼女にはたった一つだけ、ある意味ではあのスキマ妖怪すらも敵わない能力があった。
「見ただけで四十葉。捉えてみせれば六十葉。その私が本気で使う能力なんだから……、感謝してひれ伏しなよ?」
 すっと目を開け、不敵に微笑んでから、彼女は屋敷の奥へと跳ねるように消えてゆく。その表情はいつも以上に清々しく、そして朗らかだった。
「師匠ー、姫ー、おやつまだー?」



 里の入り口で鈴仙と別れ、美希は寺子屋への道を歩く。昨日交わした、妹紅との約束を抱えたまま。
『私がここに居る間……ううん、今夜一晩だけでもいいです。慧音さんの傍に、あの家に居てください。お願いします』
 我ながら、図々しい願いをしたと思う。
 そして、彼女の気持ちをないがしろにしていたのではないかとも。
(妹紅さん……怒ってないかな……)
 一歩ごとに不安は募る。あまりにも我侭で、そして身勝手なことを言ってしまったのではないか。そして、それが理由で妹紅だけでなく慧音も不快な気持ちにさせていたら。
『ちゃんと上を向いて、ゆっくりでいいからまっすぐ歩くの。わかった?』
 不意に聞こえてくる、鈴仙の一言。その声に美希は思わず振り返り、そして辺りを見回す。そこは既に上白沢の表札の前。当然ながら、彼女が居るはずも無い。
「…………そうだよね、鈴仙」
 俯きかけた顔を上げ、美希は少しだけ大きな歩幅で寺子屋の門をくぐった。
 教室から響いてくるのだろうか、授業中らしき喧騒が耳に届く。美希はその声を後目に、ぐるりと迂回をして慧音の自室の方へと足を向けた。
 如何に気持ちが上向こうと、記憶という枷がそう簡単に外れるものではない。以前のように動けなくなるほどではないにせよ、やはり気持ちは沈みがちにならざるを得ない。
 重苦しい胸の痛みを覚えながら、美希はそれでも俯くまいと顔を上げてまっすぐ歩いて見せた。
「お邪魔します……。妹紅さん、いらっしゃいますか……?」
 寺子屋と慧音の自室は一続きだが、玄関は一応分かれている。その自室側の玄関先に立ち、美希は中へと呼びかける。
 だが、期待していた返事は返ってこない。
「妹紅さん、美希です。ただいま戻ってまいりました」
 先程よりもはっきりと呼びかけ、そして扉を軽く叩く。この家がさして広いわけではないことも、防音設備が整っているわけでは無い事も、美希は既に承知済みだ。扉を叩かれて気がつかないとは思えない。
 しかし、返ってくるのは静寂のみ。
「………………やっぱり、帰っちゃったのかな……」
 再度扉を叩くも、やはり返答は無かった。
 やはり妹紅は、あの竹林に戻ってしまったのだろうか。そして、二人はまた別々の生活を営む事になってしまったのだろうか。元通りと言えばそれまでだが、やはり悲しさは隠せない。
 美希は玄関先にうずくまるように腰を降ろし、膝を抱えて顔を隠した。
 すっかり長くなった髪がはらりと落ち、まるでカーテンのように視界を遮る。
「おや……? もしやとは思うが、お前は美希か」
 小さく丸まった美希の頭上から、ふと聞き覚えのある声が降ってくる。
「…………妹紅さん!」
 顔を上げたその先には、醤油と酒の瓶を担いだ妹紅の姿があった。重そうな一升瓶を両手に一つづつ下げた妹紅は、驚いたような、うれしそうな表情で佇んでいる。
「見違えたな。一瞬誰だかわからなかったぞ」
「よかった…………よか…………ぐすっ……」
 どうしようもないほどの嬉しさが胸にこみ上げてくる。膨れ上がった熱い想いが涙となって美希の瞳からあふれ出し、視界を歪ませる。そして衝動は足を動かし、腕を伸ばさせた。
「お、おい……どうした。怖い目にでもあったか? それとも、どこか悪いのか?」
「違います……違うけど…………ぐすっ、ごめんなさい、もうちょっと、このまま…………」
 足元に瓶が置かれ、両腕が背中に回される。優しく柔らかい抱擁が、美希を包み込む。
 妹紅は約束を守ってくれていたのだ。
 たった一晩だが、彼女は自分を待っていてくれた。
 その感動が涙となって止めどなく溢れてくる。
「丁度買い物に出ていたのだが……、タイミングが悪かったな……。大丈夫だ、お前との約束はきちんと守ったぞ……」
 長い髪を指先が滑ってゆく。暖かい感触と優しい声に、心が次第に落ち着いてゆく。
「ぐすっ……、ありがとうございます……。もう、平気です」
 袖口で涙を拭い、小さな笑顔を妹紅に向ける。彼女はそんな美希の瞳を黙って見つめた後、柔らかい笑顔と共に言葉を返した。
「うむ、美しくなったな。それに少しだけ強くなった。案内をした甲斐があったというものだ」
「皆さんのおかげです……。本当に、ありがとうございます」
「強くなったのはお前の心がそうさせたんだ。まぁここで立ち話もなんだし、中に入ろうじゃないか」
 瓶を抱え上げて玄関をくぐる妹紅の後を追って歩く。まるで我が家のように足を運ぶ彼女の背中を見つめながら、美希はおずおずと尋ねた。
「あの…………、ここに住む事にしたんですか……?」
「いや、明日には帰るつもりだ」
「…………そう、ですか……」
 肩を落とし、思わず声を沈ませてしまう。やはり彼女は、ここを居心地悪いものだと思ってしまったのだろうか。それとも、人の内に入る事には、やはりまだ抵抗があるのだろうか。
 もしかしたら、昨晩のうちに何かあったのかもしれない。彼女がここを去らねばならぬ何かが。
 そんな不安に押しつぶされそうな心を見透かすように、妹紅はそっと肩を抱き寄せた。
「そんな顔をするんじゃない。別に居心地の悪さから帰ると決めたわけではないのだ」
「え…………じゃあ…………」
「まぁ、長い事一人で居た所為かな……、竹林での気楽な暮らしが板についてしまったんだよ……。住めば都というか、自分にあっているというか……な」
 ばつが悪そうに頬を掻き、ぼそぼそと呟く妹紅。
 言われてみれば当然かもしれない。今まで、それこそ想像もつかないほどの長い時間を、妹紅は一人で過ごしてきたのだ。何もない竹林で、着の身着のままの気楽な生活を。それを急に誰かと共同の生活をしようとしたところで、すぐに慣れるわけも無い。
「…………それとな」
 きょろきょろと辺りを見回した後、妹紅はそっと美希の耳元に顔を寄せる。常に胸を張って堂々としていた彼女の、急な態度の変化。その変わりように美希は思わず不思議そうな顔をしながらも、耳を澄ませて彼女の囁きに耳を傾けた。
「慧音がな、いろいろとうるさいのだ」
「…………え?」
「やれ昨日と同じ服を着るなだの、やれ食べてすぐ寝るなだのな、あれこれとすぐに口を挟むのだよ」
「…………ぷっ、くすくす……」
「いやいや、笑い事では無いぞ。あの口うるささといったらまるで…………」
「まるで、なんだって?」



 頭がずきずきと痛む。触ってわかるほどに、腫れ上がっている。あろう事か慧音は、拳骨で容赦なく妹紅の頭を叩いてきた。
 まぁ、自業自得と言ってしまえばそれまでだが。
「しかしずいぶんと長く伸びたのだな。たかが一晩でそこまでとは、やはり蓬莱の薬師は流石と言ったところか」
 茶を注ぎながら、慧音はにこやかに美希に話しかけている。先程までの憤怒は影も形も見当たらない。
 この拳骨ですっきりしたと言ったところなのだろうか。なんとも腑に落ちないし、納得もいかない。
「私もちょっと戸惑ってるんです……。でも、あんまり変わらないよりはいいかなって……」
「そこまで効くならついでに慧音の世話焼きも治して欲しいもんだ」

 ガンッ

「…………っ! お前、本気で殴らなくたって良いだろうが!」
 目から星が出るような一撃が頭蓋を揺さぶる。こう見えて慧音は半妖怪だ。その力は人間よりも強い。如何に蓬莱人とて痛覚は変わらぬという事を、彼女は忘れているのではないだろうか。それ程までに、その一撃は容赦がなかった。
「それより、本当に良い表情をするようになった。あの屋敷へ赴いたのは、心の薬にもなったということかな」
「はい、みんな…………、輝夜さんもとても良い人たちで……」
「そうか……」
 ぽつりと呟いた妹紅に、二人の視線が集中する。慧音は驚いたような表情を、美希は嬉しそうな顔を浮かべ、それぞれにこちらを見つめてくる。
「…………な、何かおかしな事を言ったか?」
「いや、別に」
「なんでもないです……。ごめんなさい」
 そろって小さく笑い、誤魔化すように答える。その意味を図りかねた妹紅は、不思議そうな顔を浮かべたまま二人の顔を交互に見る事しか出来なかった。
 痛みのためにおかしな顔をしていたのだろうか、それとも、何か違う理由だろうか。
 考える内に、妹紅は自身の心の内に潜む、一つの変化に行き着いた。
 千年を超える過去の呪縛から、ほんの僅かにだけ解放された自身の心。
 気のせいで済ませてしまえそうな小さな変化だが、それはどうやら妹紅が意識せぬ内に表情に現れていたらしい。
「慧音ー、居るー? うちの居候がお世話になってないー?」
 不意に玄関から響く、透き通るような呼び声。その声を聞いたとたん、目の前の少女は目を輝かせながら声のするほうへと顔を向ける。
 そのあまりの解りやすい反応に妹紅は小さく笑いを漏らし、それから手を伸ばして美希の頭を撫でた。
「ふ、ふぇ……? どうしたんですか?」
「いや、なんでもないよ」
 すぐに応対に出た慧音の背中を目で追いながら、美希は戸惑いつつも大人しく頭を撫でられている。
 妹紅は思う。彼女にはこのままで居て欲しいと。
 誰かを恨む事も、何かに固執することもなく、素直に、自由に、常に少女の心を持ち続けて欲しいと。
 本当に蓬莱の民になるべきは、恐らくこの少女のような存在なのだろう。自分のように、復讐に身をやつした鬼のような者は、永く在り続けるべきではないのだ。
「さぁ、お迎えが着たんだ。お前も自分の居場所に帰る時間だぞ」
「居場所…………なんでしょうか…………」
「自信を持て。お前は霊夢の傍に在り続けるべきなのだ」
 立ち上がり、手を差し伸べる。彼女を在るべき場所に帰すために。心優しい巫女の元へ導くために。
「美希ー。霊夢が迎えに来たぞー」
「さぁ、慧音もお呼びだ」
「………………はい」
 笑顔と共に、美希は差し伸べた手をそっと握り返した。



 完全に入れ違いだったらしい。先程永遠亭を訪ねた霊夢は、美希が既にここを発った後だと知らされ、慌てて人里へと足を運んだ。
「美希なら居間に居るが、少し上がっていくか? 茶と茶菓子ぐらいは出そうじゃないか」
「遠慮しておくわ。根が生えそうだし」
 慧音の申し出を断り、霊夢は玄関先で美希を待つことにした。ただでさえここに一晩、永遠亭に一晩泊まらせているのだ。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「お待たせしました。ただいま、です」
 廊下の奥から、妹紅に連れられて現れた黒髪の少女。そのあまりの変わり様に、霊夢は思わず目を丸くして訪ねてしまう。
「ちょっと……、あんたほんとに美希なの?」
「はい。おかげさまできれいな髪を生やしていただけました」
 声色は確かに美希そのものだった。しかし、やわらかく美しい表情を見せる彼女は、霊夢が知る美希とはあまりにも印象が違っていた。
 腰まで伸びた癖のない黒髪、小さな髪留めで留められた前髪、そして明るく美しくなった顔色と笑顔。
 その美しさに、霊夢は思わず胸の高鳴りを覚えてしまう。
「おや、惚れなおしたか?」
「印象が変わってびっくりしただけよ。それにしてもずいぶん長く伸ばしたのね」
「おかげさまで、良い薬をいただいて……。それから、健康状態は良好だそうです。身体の傷をきれいに消す薬もいただきました」
 永琳は概ね霊夢の願いを全て聞き入れてくれたようだ。美希の心境の変化に関しては気になるところだが、ひとまずは蓬莱の薬師に感謝と言ったところだろうか。
「そういえば美希、あんた渡したお金は何に使ったの? 見たとこ何も買ってないように見えるけど」
「なんだ、小遣いを貰っていたのか」
 覗き込むように顔を出した妹紅の問いに小さく頷いてから、美希は渡しておいた巾着を袖口から取り出し、申し訳なさそうに口を開く。
「実は、先にこの場所を確認してからと思って……」
 美希はまるで皿を割ったことを申し出るような、怒られる直前の子供のような表情で、霊夢と別れてからの経緯を話し始める。
 結論から言えば、巾着の中身に手を着けていないわけだが、遠慮からそうしたわけではないのであれば、咎め立てる理由はない。霊夢は小さくため息を付いてから、その巾着をもう一度美希の手に握らせた。
「遠慮で使わなかったわけじゃないなら、別にいいわ。それは何かの時のために持っておきなさい」
「あの、じゃあ一緒に選んで欲しい物があるんです」
 嬉しそうな恥ずかしそうな表情で、美希は寺子屋で出会った少女のことを話し始める。自分が泣き崩れてしまったことを喜んで話すのもどうかと思ったが、霊夢はとりあえずそれに触れないことにして、耳を傾け続けた。
「それは橙のことだな」
「ちぇん……ちゃん?」
「そうだ。八雲家の娘でな、猫の妖怪なのだよ」
 たしかに、ハンカチには橙の文字が刺繍してある。美希の話から判断してもそれは藍の式神である橙のことだろう。
「なるほど。それでその橙にお返しをしたいってわけね」
「はい。高価なものじゃなくていいんですが、気持ちだけでも伝えたくて……」
 美希が望んでいることは理解できる。自分が同じ立場でもそうしただろう。
 しかし、相手は猫だ。何をあげれば喜ぶか、見当も付かない。
 まして一緒に貰ったのが煮干しでは、同じ煮干しや鰹節を返すのは些か問題があるようにも思える。
「ここで頭を悩ませるぐらいなら、漫ろ歩いて物色したらどうだ?」
「そうだな。ついでに茶屋で団子でも食べて帰ればいい。まだ里の見物をしていないのだろう?」
 妹紅の言葉に乗るように慧音が口を添え、二人は勝手に話を進めて行く。最早断るに断れないところまで予定が立てられたところで、慧音はようやくこちらに顔を向けてきた。
「どうだろうか、霊夢。たまにはそんな一日も悪くなかろうと思うのだが」
「…………そこまで話進めといて、私に意見を求める必要があるの?」
「あ、あの……、ご迷惑だったり、何か用事があるなら……買い物だけして……」
「行かないなんて言ってないでしょ。いいわよ。付き合ってあげる」
 この上美希に落ち込まれては、霊夢は完全に悪者扱いとなってしまう。それでなくとも相手は二人組なのだ、承諾しないわけにいかない。
「すいません、わがまま言って」
「美希、霊夢は押しに弱い部分もあるぞ。ここぞと言うときは少々強引に行くんだ」
「慧音、あんた何吹き込んでんのよ」
「へ……? え……?」
「やれやれ……、これは先の長い話になりそうだ」
 これ以上ここに居て好き勝手なことを言われ続けるのは面白くない。何より、品物を選ぶ時間も茶屋に寄る時間もなくなってしまう。霊夢は少しだけ強引に美希の手を取り、軽く引き寄せる。
「ほら、のんびりしてると日が暮れるわよ。買い物したいんでしょ」
「は、はいっ。行きます」
 しっかりと握り返される手のひら。そこから伝わる美希の温もり。
 霊夢はつないだ手をもう一度握りなおしながら、暖かさと幸せを噛みしめていた。



「行ってしまったな」
「ああ」
 何度も振り返る美希と、その度に立ち止まる霊夢を見送り、慧音は妹紅に呟く。
 人を避け、付き合いを遠ざけ、常に一人で居続けようとした蓬莱の娘が、今は別れを惜しんでいるかのような横顔を見せている。
「良い娘だったな」
「そうだな」
 何の変哲もないただの人間。その人間が永遠を約束された蓬莱人に変化と影響を与えている。
 慧音は妹紅の横顔を見つめながら、改めて人間という存在の大きさを実感していた。
 永遠亭の住人達は、やはり妹紅と同じように何がしかの影響を受けたのだろうか。あの二人の蓬莱人は、どんな顔で美希を見送ったのだろうか。
 それは、慧音には知る由もない。
「慧音……」
「む? どうした」
「…………もう一晩、泊まっていっても良いか?」
「我家で寝泊りをするのに、宿泊などという言葉を使うなと言っただろうが」
 苦笑を浮かべ、妹紅の呟きに答える。
 この蓬莱人が彼女の髪の様に大きく様変わりするのは、どうやらもう少し時間がかかるようだ。
 しかし、心に打ち込まれた楔はずいぶんと大きな物だったようだ。照れたような、くすぐったそうな笑みを浮かべる妹紅の表情が、それを雄弁に物語っている。
 慧音は強く、そしてはっきりと願った。いつか彼女がこの家に居着いてくれることを。そして自身の伴侶として、共に在り続けてくれることを。
 自分が在るべき場所はここだと、実感してくれることを。
「よし、食事の支度をするぞ。お前も手伝え」
「やれやれ、人使いが荒い姑だ」

 後日、慧音の手記にはこう記されていた。
『外来人が帰ったその日、口の減らぬ蓬莱の娘の脳天に大きな雷が直撃した。あれは恐らく天罰が下ったのであろう』

続く



[11779] 光と影
Name: Grace◆97a33e8a ID:5e1f61fe
Date: 2010/10/03 02:10

 父が居て、母が居て
 それから、私が居て
 家があって
 みんなが笑ってて
 毎日が楽しく過ぎてゆく

 それが、あたりまえだった
 普通だと、思っていた

 あの日までは
 そう、全てが崩れ始めた
 あの日までは



   『光と影』


「なるほど、それでここにやってきたというわけか」
 昼過ぎに突如現れた二人の客人。その客人の話を聞き、藍は呟くように答えた。
 一人は博霊の巫女である霊夢。そして彼女の影に隠れるようにして、所在なさげに佇む初めて見る少女。
 霊夢曰く、数日前から里に現れ、人々が冬越しのために蓄えた穀倉を荒らす山怪が居るという。その低脳な怪物を倒すために彼女は駆り出され、その僅かな間だけ、彼女の背後に控える居候を預かって欲しいのだとか。
「慧音も妹紅も毎晩襲われて参っちゃってるらしくて、いい加減退治しないと身体が持たなそうだからね」
「ふむ」
 里のことは里の者が解決する。これは幻想郷における暗黙のルールである。そうでもしなければ人々は霊夢にばかり頼るようになり、自分達で身を守る術を忘れてしまう。それに何より里には妹紅と慧音が存在するのだ。妖怪に近い存在の人間と、妖怪の血を持つ人間。彼女たちの力は強力であり、並の妖怪では相手にもならない。
 無論、彼女達を上回る力の持ち主が里に居ないわけではない。ただ、妖怪というのは概ね相互不干渉であり、妖怪の手から人間を守るのは人間の役目という不文律もある。故に人ではないが人間に近しい妹紅と慧音が里を守る要となっているのだ。
 人間の自治と彼女たちの守護。その二つがあるからこそ里は成り立ち、妖怪と人間は共存できるのである。
 しかし、これにはいくつかの例外がある。その一つが慧音や妹紅では解決できぬ程の事件や、太刀打ちできぬほどの存在が現れた場合だ。
「そういう事なら預からせてもらおう。橙も喜ぶだろうしな」
 正当な理由があるのなら、藍とて無碍に断ることは出来ない。それに彼女の来泊は、橙が望んでいたことでもある。
 寺子屋から帰ってきたある日、橙はとても嬉しそうに帰宅間際にあった出来事を話した。巫女服を着た少女にハンカチを貸してあげたこと、自分のおやつだった大切な煮干をあげたこと、その少女が泣きながら何度もお礼を言ってくれたこと。そして、彼女とまた会って遊んでみたいとも。
 恐らく橙が言っているのはこの少女のことなのだろうが、彼女の印象は、藍が聞いているそれとはまるで違っていた。
 藍はこの少女の話を二人の人物から聞いている。紫は顔の青白い病気がちに見える小さな娘だと言い、橙はざんばらに短い髪をした巫女だと、彼女のことを評した。
 しかし実際にはどうだろうか。大きな風呂敷と小さな巾着を手に提げた目の前の少女は確かに自信も頼りもなさそうな顔をしてはいるものの、その顔色は健康的に見え、病弱とは言いがたい。また、髪は美しく長く腰まで真っ直ぐ伸びており、橙の言う髪型とも相違がありすぎる。
 紫や橙が嘘を言うとは思えない。何よりそこに利が存在しない。また、彼女と橙たちの言う居候が別人だとも思えない。この何事においてもあっさりとした巫女が、外来人を二人も匿うとは考えにくいからだ。だとするならば、この数日の間に彼女に何か劇的な改善があったということなのだろう。
 このようなことが出来るのは、あの永遠亭の薬師ぐらいのものだろうが、それも霊夢の元で暮らしているのなら得心が行く。
「ありがと、助かるわ」
「あの、お手伝いはさせていただきますので……」
「いやいや、きちんと客として迎えなければ、私が紫様に顔向けできんよ。どうかあまり気にしないでくれ」
 困ったような顔で深く頭を下げる美希。礼節はそれなりに弁えているらしく、悪い印象はない。強いて言うなれば常に霊夢の後ろに控えて殆ど口を開こうとせぬところだが、それも初めて顔を合わせるとなれば致し方ない事だろう。
 何より、図々しく振る舞われるよりは何倍もましだ。
「じゃあ私はそろそろ行くから、藍の家で大人しくしてるのよ。それと、薬は飲み忘れないように」
「はい、霊夢さんもお気をつけて」
 ふわりと浮かび上がる霊夢を心配そうに見送る美希。その瞳は今にも涙が溢れそうに見える。どうやら彼女は、まだこの世界と霊夢の関係を詳しく聞いていないようだ。
「心配いらん。霊夢とまともにやり合って勝てる者など、この幻想郷では紫様ぐらいのものなのだ」
「……そ、そうなんですか?」
 その言葉に、霊夢はただ黙って笑顔を見せる。
 博麗の巫女の力は幻想郷の力そのものであり、神々の力でもある。神と世界の力を同時に持つ者に対抗など、おいそれと出来よう筈もない。現に彼女は、外の世界から舞い込んだ神々を屈服させている。里を荒らすぐらいしか脳のない妖怪如きでは、恐らくかすり傷一つ負わないだろう。
 しかし、美希の心配も頷ける。何せ霊夢はまだ少女であり、美希と大差のない年代の娘だ。自分とさして変わらぬ歳の者がそのような強力な存在であるとは、誰であろうとにわかには信じることが出来ないに決まっている。
「うむ、恐らく心配するならば、臍を出して寝て風邪を引く方だろうな」
「ご心配なく、寝相は良い方ですから」
「それはここに居る美希殿に聞いた方が早かろう」
「えぇ? あ、えと……、いつも私の方が先に寝て、霊夢さんの方が早く起きちゃうんで……」
 慌ててあれこれと考えを巡らす美希。その様子に、藍と霊夢は思わず笑いだしてしまう。どうやら、美希は霊夢と良い関係を築けているようである。あの新聞の記事もあながち嘘ではなさそうだ。
「ははは、そのあたりの話は戻ってからまた聞くとしよう。霊夢、さっさと行って終わらせてくるといい」
「そうしたいのは山々だけど、そいつは夜しか現れないらしいのよ。だから最低一晩、悪ければもっとかかるわ」
「こちらは気にせんで構わんから、お前が気の済むようにやると良い」
「そうさせて貰うわ。……っと、そうだ。美希、ちょっと後ろ向きなさい」
 地に戻り、背中を向けた美希に静かに歩み寄る霊夢。そして彼女は自身のリボンを解き、美希の長い髪を纏めるように背中で結んだ。
「え、これって……」
「別に特別なものじゃないから、問題ないわ。また襖に髪を挟んで大騒ぎしないようにね」
「あ、あれは一回だけじゃないですか……」
 真っ赤な顔で否定しながら、美希は纏めた髪と背中のリボンに指先で触れた。長く伸びた黒髪に、赤いリボンが美しく映える。
 藍は霊夢がこのリボンを外したところを今まで見たことがない。彼女は異変解決の時も、宴会の時もこのリボンを欠かすことがなかった。恐らく寝る時と風呂の時以外は常にこれを身につけているのだろう。その赤いリボンが、今美希の背中で揺れている。
(特別扱いも、誇張や脚色ではなかったというわけか)
 まるで姉妹のような二人のやりとりを見つめながら、藍は心の中でそう呟く。
 どうやら霊夢の拾いものは、彼女にとってなかなかに価値ある存在だったようだ。
「それじゃあ藍、悪いけど後のことはよろしく」
「うむ、任された」
 再び浮き上がり、今度は振り返ることなく飛び去って行く霊夢。彼女の背中を見つめる美希の表情は、心配と言うよりは、むしろ切なさや寂しさを思わせるものだった。
 足下を吹き抜ける風は冷たく、弱々しい日差しは身を暖めるにはほど遠い。藍は彼女の心が冷えきってしまう前にと、静かに声をかける。
「さ、風はまだ冷たい。温かい茶を用意するから、家に戻ろう」
「はい……。あの、お世話になります」



 少し古ぼけた、きしきしと音の鳴る廊下。その廊下を歩く美希の眼前に揺れる尻尾。霊夢と別れた寂しさも束の間、美希は柔らかく揺れるふさふさとした尻尾にその目を奪われていた。
 彼女は実物の狐を見たことがない。テレビや写真では何度も目にしているが、肉眼では今まで見る機会が無かった。
 そんな狐の尻尾だけが、今目の前で揺れている。
 しかも九本。
(あったかそう……)
 まさしくきつね色をしたその尻尾は、どうやら藍のお尻のあたりから生えているらしい。
「気になるか?」
「あ、ぅ……い、いえ、すいません……」
「良い良い。なんなら触っても構わんぞ?」
 柔らかい声と共に笑顔を見せ、藍は九本ある尻尾の内の一本を美希の眼前で揺らす。
 上質な襟巻きのような、ぬいぐるみのようなふわふわとしたそれは、とても触り心地が良さそうに見える。
「あ……で、でも……」
「遠慮をするな。ほれ」
 尻尾が少しだけ伸び、美希の手に絡みついてくる。柔らかく暖かいそれは、想像以上の触り心地で、思わず抱きしめたくなるほど。
「あったかいんですね……」
「私も一応生きておるからな。少々手荒に扱っても構わんぞ」
 言葉を受けてその尻尾をそっと握ると、内側からたしかに命ある者の暖かみが伝わってくるのが解る。そして、この九本の尻尾に抱きつき、思う様頬摺りをしたらどれだけ気持ち良いだろうかと想像をしてしまう。
「驚いたりはせんのだな。私が恐ろしくはないか?」
「?? どうしてですか……?」
 突然の言葉に、美希は足を止めて藍の顔を見つめる。
 数歩隔てた場所に立つ九本の狐尾を持った女性。彼女は寂しそうな、驚いたような、何とも言えぬ顔でこちらを見つめていた。
「私はその尻尾が示すとおり、人ではないのだぞ?」
「……私は、人の方が恐ろしく感じてしまいます…………」
 美希の身体を慰み者にした者、彼女を憐憫と嘲笑の目で見つめた者、そして家も家庭も、母すらも奪っていった者。それらは皆人間だった。
 抗うことも許されず、下卑た笑いと共に全てを奪い去って行く存在。長い間美希にとって人間とは、そのような存在でしかなかったのだ。
 しかし、この狐の尾を持つ女性は自身に暖かい言葉と表情を投げかけてくれる。そんな彼女に感謝こそすれ、どうして恐れることが出来ようか。
「そうか……。随分と辛い思いをしてきたのだな……」
 不意に優しく髪を撫でる、暖かい手のひら。母のようなその優しい温もりに思わず涙を浮かべそうになったとき、背後から跳ねるような声が飛び込んできた。
「らんしゃまー、ただいま帰りましたーっ」
「お、どうやら我が家の娘がお帰りのようだ」
 小気味の良いぱたぱたという足音に振り返ると、そこには黒い猫耳を生やした少女の姿が見える。
 緑色の帽子に赤い中華風の服。耳には小さな金のピアスが光っている。そして人懐っこい満面の笑顔。それは間違いなく、あの寺子屋でハンカチを渡してくれたあの少女だった。
「藍さま、お客様ですか?」
「うむ、お前が以前話していた美希殿だ」
 藍の言葉に、橙は少しだけ驚いたような顔を見せ、それから顔を近づけてすんすんと鼻を鳴らす。その仕草はいかにも猫そのもの。
「! あの時の巫女さまだー!」
「こら橙、人をにおいで判別するなと前に教えたばかりだろう」
「ぁぅ、ごめんなさい。でも、なんだか別人みたいになってたから……」
 耳を垂れ、尻尾を丸めて小さくなる黒猫の娘。彼女の姿はまさに親に叱られた娘の様で、その光景は美希にとってとても懐かしく、そして羨ましいものだった。
「そんなに印象が違うのか?」
「あ、えと……。永遠亭の永琳さんに身体を診て頂いて、それから髪も伸ばして頂いたので……」
 長く美しく伸びた髪。それは誰に見せても別人のようだと言われる程に、自身の印象を変えたようだった。特に霊夢は共に里を歩く間、始終彼女の髪を気にし、そして感心していたほど。橙がそのような反応を見せるのも、やはり無理からぬ事なのだろう。
「どうですか……? やっぱり、短い方が良かったりします……?」
「ううん、長くてきれいな髪、すごく似合ってます!」
「うむ、橙の言うとおりだな。その髪は大事にしなさい」
 面と向かって言われたことに恥ずかしさを覚え、美希は僅かに顔を赤らめながら俯くように小さく頷く。そしてその様を笑顔で見つめる二人の存在に、美希は更に顔を赤らめた。
「よし、では改めて紹介しよう。美希、これがうちの娘の橙だ」
「よろしくおねがいしますっ」
 深く頭を下げるのとは対照的に、ぴっと真っ直ぐに上を向く二本の尻尾。その愛らしい仕草に、美希は思わず笑みをこぼす。
「橙、こちらは霊夢と共に暮らしている美希殿だ」
「よろしくお願いします」
 同じように頭を下げ、それから橙に優しく微笑む。すると橙は、人懐っこい笑みを浮かべながら、美希の手をしっかりと握って握手をした。
「そして私が八雲藍だ。主の紫様は冬眠中でこの家には居らんのでな、今は私が家長のようなものだ」
「お世話になります」
「??? おせわ?」
「うむ。霊夢の用事が終わるまで、美希殿はこの家に滞在することになったのだ。橙、美希殿と仲良くするのだぞ」
 不思議そうな顔をする橙に、藍は優しく笑って事の成り行きを簡単に説明する。その言葉を聞いた橙は、目を輝かせて藍の顔を覗き込むように見つめた。
「じゃあ、今日は一緒に寝られるのですか?」
「美希殿が嫌と言わなければな」
「わ、私は……嫌だなんて……」
「やったぁ!」
 言い終えるよりも早く、橙は美希の胸元に抱きついてくる。どうやら人懐っこいのは表情や声だけではないらしく、橙は美希の身体に頬摺りをしながら嬉しそうな笑顔を見せた。
「こら、お客様に失礼だぞ」
「あ、私は大丈夫です……。それに、私のことは美希と呼んでください……。ご迷惑をおかけするのは、私の方ですから……」
 未だ離れようとしない橙を軽く抱き返しながら、美希は藍に笑顔を向ける。その表情に藍は諦めたような納得したような顔を見せ、それから小さく頷いた。
「わかった。それでは橙、お茶を入れてくるから美希を居間へ案内してあげなさい」
「はーいっ」
 元気の良い返事と共に、橙は美希の手を引いて歩き始める。それはまるで、自分を慕う妹が出来たような感覚だった。
(手、あったかい……)
 握り返した手のひらは小さく、そして暖かい。それはまるで、橙の心の暖かさを示しているかのように思える。
 手のひらだけではない。使い古された家具にも、ところどころ傷の見える柱にも、そしてそこから伝わる空気の全てに、家族の暖かさが満ちている。
「素敵な家ね」
「ありがとっ。えへへっ」
 屈託のない笑みを見せながら橙は襖を開き、卓袱台の傍に座布団を並べる。卓袱台を挟んでではなく、並んで二つ。どうやら自分は、ずいぶんと懐かれてしまったらしい。
「そうだ、橙さんにお礼があるの」
「私も橙でいいよ。だから美希……あ、ううん。お姉ちゃんって呼んでもいい?」
「おねえ、ちゃん……?」
「うん、だめかな……?」
 戸惑いの表情を見せると、橙は泣き出しそうな顔でこちらを見つめてくる。
 たった一晩、もしくは二晩程度の家族ごっこ。しかし美希にはそれを演じられる自信はない。
「わたし、あんまりお姉ちゃんらしいことは出来ないと思うけど……」
「いいの。そういうのじゃなくて、うーんと。なんていうかー……とにかくそう呼びたいの」
 まともな家庭で育ったとは言いがたい美希。そんな自分が妹を持つことになるなど、想像もできない。
 いや、むしろ橙を悲しませてしまうのではないかと不安になる。
 それでも、潤んだ瞳のままじっと見上げてくる橙に、美希は反論することが出来なかった。
「じゃあ……よろしくね、橙」
「うん、ありがとう、お姉ちゃんっ!」
 曇りのない、まばゆいばかりの笑顔。その表情が胸に痛い。
 まるで自身の汚れを浮き彫りにされるかのようで。
 だから美希は、ふいと目を逸らして懐の巾着を広げることにした。
「えっと……じゃあ橙、まずはこれ。この前はありがとう」
 美希は初め、神社での家事の全てを自分がやるつもりだった。しかし洗濯板もかまども、薪割の斧も、使うどころか見たこともない物ばかり。それどころか、火の起こし方すら解らない。そんな美希に霊夢が仕事を任せるはずもなく、今現在の役割と言えば、専ら掃除と床磨きでしかなかった。
 しかし、借り物のハンカチぐらいはどうしても自分で洗いたいと申し出、この機会に洗濯板の使い方を教えてくれと霊夢に頼み込んだ。
 その結果が今橙の手に渡された、小ぎれいに折り畳まれたハンカチである。
「それから、こっちは煮干しのお礼。気に入ってくれると良いんだけど……」
 手のひらと同じ程度の大きさをした包み。それを巾着から取り出し、橙の手にそっと乗せる。
「ふぇぇっ!? あ、あれはらんしゃまから貰ったおやつだし、私そんな、すごいことなんかしてないよ?」
「いいの。あの時声をかけてくれたのが、ものすごく嬉しかったから……。それに、あんなに美味しい煮干しも初めてだったから……。だから、受け取って欲しいの……」
 包み込むように橙の手を握る。ずっと伝えたかった感謝の心を込めて。
「私ね、学校って大嫌いな所だった。自分はみんなとは違うんだって、もっと最低な人間なんだって、はっきり解っちゃう場所だったから……。だけど、あの寺子屋のみんなは、とっても優しかった……。本当の私を知らないからかもしれないけど、それでも、優しさが嬉しくて……ごめんね、こんなこと言っても、わからないよね……」
 いつの間にかこぼれていた涙。それを拭おうとした手を、橙はしっかりと握りしめた。
「んと、難しいことはよく解んない……でも、お姉ちゃんは最低じゃないよ。だって、もしそうなら贈り物を持ってくることもなければ、ハンカチだって返しに来なかったと思うもん」
「橙……」
「あ、物をくれたからっていうんじゃないよ? えとえと、なんていうのかな……うーんうーん……ええと、ええとー……」
 困った顔であれこれと考え続ける橙。その仕草から、彼女が何を言わんとしているかは容易に想像がつく。
 だから美希は、思わず橙を強く抱きしめた。
「ありがとう……。ありがとう、橙……」
「うん……。泣いてたら良いこと無いよ? 元気出してよ、お姉ちゃん」
 そう言って、橙は美希の頬を流れる滴を舌でそっと舐めとった。人よりも少しざらざらとするその舌は、とても暖かくて、そして心地いい。
「ぐす……、泣いてるのに、お姉ちゃんって呼ばれちゃった……ふふっ……」
 真っ直ぐに瞳を覗き込んでくる橙に微笑み、そしてその頭をそっと撫でると、帽子からはみ出した耳がぷるぷると小さく震える。
 暖かい彼女の髪と微笑み。それを感じながら、美希はこの小さな子猫との出会いを改めて感謝した。
「えへ……♪ ねぇねぇ、これ開けてもいい?」
「うん、気に入ってくれると嬉しいな」
 身を離し、橙はリボンを丁寧に解いてから包みを剥がしてゆく。そして現れた中身を見て小さく感嘆の声を上げ、瞳を輝かせてそれを見つめた。
「ふゎぁー……」
「甘いもの、大丈夫だった?」
「うんっ! 大好き!」
 美希が選んだプレゼント。それは色とりどりの金平糖が詰まった小瓶だった。コルクの栓で封じ込められたその砂糖菓子は、まるで夜空の星を詰め込んだように美しい。
「ほー、これはまた美しい菓子だな」
 いつの間にか部屋の入り口に立っていた藍が、卓袱台に茶を並べながら声をかける。そんな藍に小瓶を掲げて見せながら、橙は少し慌てたように訪ねた。
「らんしゃまっ、これ食べても良いですかっ?」
「うむ。おやつも用意してあるから、適度にな」
 きらきらと目を輝かせてコルクの栓を抜き、橙は中に詰まった金平糖を手のひらに広げる。そしてそのいくつかを藍と美希に差し出した。
「あ、いいのよ? 橙と藍さんで全部食べちゃって」
「美味しい物はみんなで分けた方がもっと美味しくなるの」
 小さく首を振ってから橙はそう答えて、もう一度三つの金平糖が乗った手を差し出す。その手のひらと橙の顔を交互に見ながら逡巡していると、傍らから内緒話のような小さな声がかかった。
「受け取ってやってくれ。せっかくの橙の気持ちなのだから」
「ん、それじゃあ……。ありがとう、橙」
 藍の言葉に後押しされ、美希はそっと金平糖を受け取る。手のひらの上で輝く小さな砂糖菓子が、今は優しさと暖かさの結晶のように思えた。
「えへへっ。いただきまぁす」
 橙が口に金平糖を放り込むのを見届けてから、美希もまた手のひらの小さな星を一つ口に含む。上品な甘さが柔らかく広がり、小さなとげが心地よい舌触りを与える。
「おいしーい……。お姉ちゃん、ありがとう!」
「うん、良い味だ。素敵な贈り物をありがとう。私からも礼を言わせて貰おう」
 二人から礼を言われ、美希は顔を赤らめて小さく笑う。それから彼女は、照れ隠しにもう一つ金平糖を頬張った。
 甘い甘い砂糖菓子のような生活が、束の間でも送れるようにと願いながら。



 針、札、御幣、霊玉。広げた白い布の上に取り出される、幾つもの術具。これらは全て霊夢が用意したものだ。
 霊夢の力はこれらの術具を使用したときこそ、最も強く発揮される。その効果は絶大で、並の妖怪なら触れる事すら叶わず、力あるものとて無傷では済まない。
 里を荒らす野良妖怪を退治するためにしては些か大げさすぎるきらいもあるが、事が急を要することや妹紅や慧音すらも手間取った相手であることを考えれば、用心に越したことはない。
「もう来ていたのか、霊夢」
「起こした? 悪いわね」
 静かに襖が開き、やや眠そうな顔の妹紅が現れる。慧音の話では、彼女は昨晩もほぼ徹夜で見回りを続け、山犬の妖獣を撃退したらしい。
 慧音や妹紅がどうしても今回の事件を解決できなかった理由。その一つがこの山犬達にあった。
 彼らは山怪とほぼ同時に現れ、あちこちから里に迫ってくる。倉を荒らされるのは確かに問題だが、こちらも放っておけば里に被害が出るのは必定。故に妹紅は毎夜里の周りを見回ることしか出来ずに居るらしい。
「いや、目が覚めただけだ。それよりわざわざすまんな、足を運んで貰って」
「これが役目だからね」
 恩に着ると一言告げてから、妹紅は座布団に座って卓袱台に肘を突く。その顔には疲れの色がありありと見て取れる。
 神社を訪れた慧音の表情も酷いものだった。目の下に薄くくまを作り、事在るごとにため息を吐いては、美希を心配させていた。
 無理もない。何せ相手は正体が分からず。どこから来るのかも、何時現れるのかも見当が付かぬのだ。
「もう少し寝ていれば? どうせどっちの妖怪も日が落ちてから現れるんでしょ」
「ああ、そうだな……」
 あくびを一つかみ殺し、小さく伸びをする妹紅。それから彼女はまじまじとこちらを見つめ、そして小さく口を開く。
「霊夢、いつもの髪留めはどうした」
「ああ、美希に預けてきたのよ。長い髪をそのままにして、人様の家で迷惑かけないようにね」
「お前が髪を下ろしている所など、初めて見たよ」
 からかうような笑みを向ける妹紅をよそに、霊夢は術具を一つ一つ袖口や懐にしまい込んで行く。
 長く伸びた冬の西日が、障子越しにまぶしい。
「不思議な娘だな、あれは」
 そっと呟く妹紅に、霊夢はいぶかしげな顔を向ける。
 彼女の言う娘とは、美希のことを指しているのだろう。
 確かに彼女は何の変哲もないと言うには語弊があるものの、特別な力を持たないただの外来人であることに変わりはない。そのような人間は里を探せばすぐに見つかるだろうし、千年以上の長い人生を歩んできた妹紅が気にかけるほど特別な存在ではないはずだ。
「そうかしら? 別に変わったことなんか無いはずだけど」
「ふむ……。共に暮らしていると解らんのか、それとも私がそう感じるだけなのか……。ともかくな、私にとっては不思議な娘だったのだよ」
 身を投げ出すように寝そべった妹紅は、霊夢の顔を見ることもなく言葉を続ける。
「私は、誰かに罪を咎めて欲しかったのかもしれぬ。お前や魔理沙の様に幻想の常識を身につけたものではなく、私がかつて身を置いていた、外の世界の尺度を持つ者に」
「馬鹿げてるわ。罪の重さはどこであろうと変わりはないはずよ」
「確かにその通りだ。だが、価値観が変われば考え方も変わる……。それにな、霊夢」
 妹紅の声が少しづつ間延びし、眠たげなものへと変化してゆく。無理をして話すようなことでもないだろうと思いながらも、霊夢は彼女の言葉が気になってしまい、口を噤んで続きを待った。
「あの瞳に、私は負かされてしまったのだよ……。己の身を傷つけながら、それでも尚輝いたままの、あの瞳に……」
 茜色の陽光が卓袱台に置かれた湯呑みの影を長く長く伸ばす。
 若さ故の無垢さなのか、傷ついた魂がそうさせるのか、確かに美希は時折霊夢すらも息を飲むような真っ直ぐな瞳を向けてくる。そしてその瞳に見つめられると、まるで魂を吸い寄せられるような感覚を覚える。
 陰の気は確かに人を引き寄せやすい。しかし、彼女はそれが強いという以外に何の能力も持ち合わせていない。霊力も魔力も、当然ながら妖力も持ち合わせていない文字通りただの人間だ。
 そのただの人間に、妹紅は負けたという。
 霊夢にはそれがどうしても理解できなかった。
「自分の罪を擦り付けたかったんじゃないの? それとも慰めが欲しかったの?」
「さぁな…………。もう、よくわからん……」
 それだけ言うと、妹紅は小さな寝息を立てはじめてしまった。
 まるで一人取り残されたような気分になった霊夢は、ため息を吐きながら髪に触れる。
 リボンも髪留めもないその髪の手触りは、どこか寂しく、そして空しい。



「ごちそうさまでしたー」
「ごちそうさまです」
「お粗末様でした」
 三者それぞれに箸を置いて手を合わせる。
 藍の手料理は文句の付けどころがない程に美味しく、そして優しい味だった。
 霊夢の料理とてまずいわけではない。むしろかなり美味な部類に入るのだと思う。しかし、彼女の料理には言い知れぬ暖かさとやわらかさがある。それはまさに家庭の味そのもの。美希にはそれが懐かしさも手伝ってより暖かく、そして美味しく感じられたのだ。
 何より、彼女の味付けは遥か昔に三人で食卓を囲んだ時の、母の味付けにそっくりだった。
「何も用意していなかったので、有り合わせになってしまって申し訳ない。明日はきちんとした物を作ろう」
「と、とんでもないです! どれもとっても美味しくて……、なんだか無遠慮に食べてしまって申し訳ないです……」
 夢中になって食べていた美希は、藍に勧められるままに飯と味噌汁を一杯づつおかわりし、おかずにもずいぶんと手を伸ばした。中でも気に入ったのは白菜と油揚げの煮物で、薄甘く上品に炊きあげられたそれは、いくら食べても飽きることがなかった。
「はは、そう言って貰えれば作りがいがあるというものだ。では明日はもっと美味い物をご馳走せねばな」
「お姉ちゃん、明日もいるの?」
「霊夢さんの用事次第だから……ちょっとわかんないかな」
「早めに終わったら明日の夕食を食べてから出ても良かろう。霊夢が疲れているようなら、一晩泊まっていけばいい」
 藍の言葉に、橙は目を輝かせて美希の顔を覗き込んでくる。この大きく輝く美しい瞳に見つめられて、果たして首を横に振ることが出来る者など居るのだろうか。
「じゃあ、もし明日霊夢さんが帰ってきたらお願いしてみるね」
「うんっ!」
 根負けして首を縦に振る美希と、満面の笑顔を見せる橙。そしてふと視線を向けると、卓袱台の向こうの藍がくすくすと含み笑いを漏らしている。
 この家は本当に暖かい。
 もちろん白玉楼にも慧音の家にも永遠亭にも、それぞれの暖かさがあり、美希を優しく受け入れてくれた。
 しかし、この八雲の家はそのどれとも違う。ごくありふれた家庭の暖かい喧噪に満ち溢れ、人だけではなく空間そのものを暖かく感じてしまう。
 そしてその暖かさが、自身の冷たさを浮き彫りにしてゆく。
 美希はそれを悟られまいと賢明に笑顔を作り、そして橙を抱きしめた。
「よし、では私は洗い物をしてくるから、橙は布団を敷いておくように」
「わかりましたー。いってきまーす」
 跳ねるように立ち上がり、橙は隣の部屋へと消えて行く。それを確認し、ひと呼吸置いてから、美希はそっと口を開く。
「あの……、薬を飲んでしまいたいので、水かお湯をいただけますか?」
「薬? どこか悪いのか?」
「あ、いえ……そういう訳じゃないんですけど……。ただ、橙ちゃんに心配かけたくなくって……」
「どれ、その薬を少し見せてみなさい」
 巾着から薬を取り出し、包みを開いて藍に渡す。すると藍はその薬の匂いを嗅ぎ、それからほんの少し粉薬を指につけ、舌先で味を確かめた。
「ただの滋養薬ではないな。臓腑をやられているのか?」
「粗悪な薬を飲み続けたせいで、内臓が弱ってるらしいんです……」
「粗悪な薬?」
「ピル……避妊薬、です……。放っておいても平気だけど、一応って……、永琳さんが……」
 口にすれば浮き彫りにされてしまう、自身の汚れ。この瞬間だけは、何度体験しても慣れることはない。
 しかし美希は、どうしてもそれを隠し、誤魔化すことが出来なかった。そうすることで相手を騙し、自分を清い人間だと思わせることの方が、何倍も辛く苦しい事のように思えてならなかったからだ。
「すまなかった、根掘り葉掘りと……」
「いえ、私こそ気分の良くない話をしてしまって……」
 誰かを騙して生きるような真似はしたくない。自分の汚れを誤魔化して、幸せな振りは出来ない。辛く苦しい生き方だが、美希にはそうすることしかできなかった。
 そしてそれを、自身の業だと諦めていた。
 しかし橙には、あの無垢な少女にだけは、どうしてもそれが出来ない。
 それが今は、とてもとても心苦しい。
「お主を苛む者は、ここには居ない。現れたとしても、私の術と橙の爪が完膚なきまでに引き裂くだろう。だからそのような顔をするでない……」
「ごめんなさい……」
 静かに抱きしめ、頭を撫でる藍。母のようなその温もりが、美希の心をゆっくりと暖めてゆく。
「橙に話すか話さぬかは、お前の自由だ。だが、橙はそのようなことでお前の見方を変えるような娘ではない。それだけは信じてやってくれ」
「はい……」
 涙が一滴零れ落ちる。美希はそれを拭うことも出来ず、ただ静かに藍の胸に頬を寄せ続けた。



 半分ほどに欠けた月が、小さな窓から顔を覗かせる。
 如何に風がないとはいえ、蔵の中はただの板張り。厳しい寒さが体温を奪う。
 しかしそんなことをまるで気にせず、霊夢は静かに座布団に座し、瞳を閉じて待ち続ける。
 今回の一件は、調べてみれば奇妙なことだらけだった。倉の扉は大きな力で破られているというのに、内部の米俵は小さな鉤爪で引き裂いたような痕だけ。倉が壊せるほどの力と、慧音から逃れるほどの素早さを持つのであれば、米俵一つを持ち逃げするぐらい訳無いはずだ。
 さらに、犯人はどういうわけか里の外に程近い大きな倉を見逃しにし、わざわざ南向きの倉を狙っている。夜闇に乗じて犯行をするのであれば、月影に隠れやすい北向きの倉の方が襲いやすい筈だというのに、それにも手を着けていない。
 また、それだけ大きな力を持ち、慧音曰く醜怪で巨大な妖怪でありながら、誰一人として足音を聞いていないという。
(何かがおかしい……)
 里の内部の者による犯行は考えにくい。米俵を壊して利のあるようなもの居るとは思えないし、そんなことをして里に居られなくなれば、それこそ死活問題の筈だ。ならばやはり外から現れたと考えるのが自然だろう。
 しかしそれならば足音がしてしかるべきだ。幾ら寝静まった夜とはいえ、慧音が見上げるほどの巨体が音も無く地面を歩けるわけも無い。ならば空を飛ぶのだろうか。だが慧音に見咎められたとき、その妖怪は地を跳ねるようにして逃げていったという。空を飛べるのであれば、このような逃げ方をするのは不自然だ。
(だめね。情報が少なすぎる)
 一つ小さなため息を吐き、霊夢は月を見上げる。ここ数日は晴れの日が続いており、欠けたとはいえ銀色に輝く月はやはり美しい。
(せめて満月なら……ね)
 里の守護者、上白沢慧音は半人半妖であり、彼女の力は満月の日にこそ最も強く発揮される。しかし残念ながら月は半分ほど。これから更に薄く欠けてゆくのは間違いない。つまり慧音がその力を発揮するまでに、あと三週間近い時間を要するのだ。
「霊夢、居るか?」
「居るわよ。どうぞ」
 その慧音が倉の戸を開き、そっと顔を覗かせる。手には小さな包みと、水筒らしき物が一つ。
「差し入れを持ってきたぞ」
「悪いわね、米俵狙われてるってのに」
「なに、里は今年も豊作だったのだ。米俵の一つや二つではびくともせぬよ。もっとも、見知らぬ妖怪に気の済むまで食わせてやれるほどではないのだがな」
 この幻想郷には、いくつもの神の力が宿っている。その中でも里の生活に大きく関わり、かつ無くてはならぬ存在なのが豊穣を司る実りの双子神だ。彼女たちが居るからこそ、里が貧困に喘ぐこともなく、それによる争いもまた起きない。
 ただ、今年は夏の異常気象に地震と立て続けに事変に見舞われ、追い討ちをかけるように初冬に間欠泉が噴出した為か、山の実りは少ないという。山犬の妖獣が危険を犯してまで里を襲うのは恐らくそのためだろう。
「まだ現れる気配はないの?」
「ああ、いつもならもうそろそろなのだが……」
 里にある倉には、ここを除いた全てに結界を張ってある。つまり件の妖怪は霊夢の居るこの場所を襲う以外に手はないはずである。あとはただ、座して相手が罠にかかるのを待つのみ。しかし、その山怪の気配はまだ無いらしい。長い夜になるのではないかといううんざりした予感を抱きつつ、霊夢は慧音から水筒と包みを受け取るべく手を伸ばした。
「どうだ、美希との暮らしは」
 唐突に話題を振られ、霊夢は水筒を取り落としそうになる。その狼狽した様子に、慧音はくすくすと小さな笑みを漏らす。
「すまんすまん。食事の邪魔をするつもりはなかったのだよ」
「解っててやってたら許さないわよ……」
 気を取り直して受け取った包みを開く。中身は握り飯が二つと漬け物、それから卵焼き。美味そうに見える弁当だが、振られた話題が話題だけに、その味には集中できそうもない。
「まあそう腹を立てるな。私はお前たちを心配して言っているのだぞ」
「どーだか……」
 握り飯を一つ頬張り、水筒に口をつける。梅干の入った握り飯と、程よく暖かいほうじ茶が冷えた身体に心地よい。慧音の差し入れは食事と呼ぶには些か物足りないが、夜間の空腹を紛らわせるには十分な量があった。それに何より、満腹にしてしまっては眠気に襲われかねない。その微妙な量の弁当を食べ進めながら、霊夢は慧音の話に耳を傾ける。
「心配なのは本当だよ。お前はどこか、人を惹きつけ、それでいて内には入り込ませない部分があるからな」
 その言葉は、紫にも天人にも言われたことがある。
 陽の気を強く持つ霊夢は陽光ように好まれ、そして注目される事が多い。しかし照りつける太陽の下では人々は本当の安らぎを得ることなどできず、その輝く太陽に踏み込もうなどという愚か者も存在しない。太陽は遠くにあって輝いているからこそ、好まれる存在なのだ。
「いつも誰かが居なけりゃいけないなんてことないでしょ。それにあんたたちは何かにつけて宴会って言って集まるじゃない」
「だが、今は常に美希と顔をあわせている。そして家族同然の暮らしをしている。違うか?」
 反論することもできず、霊夢は黙って握り飯を頬張る。梅干の強い酸味が、こめかみに僅かに響く。
 たしかに、霊夢は今美希と一つ屋根の下で暮らしている。寝食を共にし、家事もいくつかは分担し合っている。もっとも、この世界での暮らしにまだ慣れていない彼女に煮炊きを任せることはできず、専ら掃除担当にさせてしまっているのだが。
「家族なんて…………そんなちゃんとしたものじゃないわよ……」
 家族と言う言葉の定義が、一つ屋根の下で暮らしているということのみであれば、二人はその条件を存分に満たしていると言える。だが、家族と言うものはそんなに単純なものではない。血を分けていない家族もあれば、離れたところで暮らす間柄もある。何より、霊夢には彼女を家族として迎え入れることのできない、大きな理由があった。
「それに私は、家族がどんなものなのか、全く知らないしね」
「霊夢…………」
 巫女として生まれ、巫女として育てられた霊夢。彼女には家族の記憶が存在しない。
 母の顔も、父の面影も、兄弟姉妹の記憶すらもありはしない。
 彼女は生まれたときから神社に一人であり、そして多くの神々と妖怪の寵愛を受けて育ってきたのだ。故に彼女は、親と言うものがいったいどんなものなのかを言葉の意味でしか知らない。
 家族を失ったものと、家族を知らぬもの。その二人が同じ家に暮らして、どうして家族になることができるのだろうか。無いものを幾ら積み重ねたところで、形あるものが作れるわけが無い。つまり霊夢と美希は、どうあがこうと家族になることはできないのだ。
「しかし、しかしな霊夢…………私は…………」
「しっ、何か気配がするわ……」
 慧音の言葉を遮り、霊夢は静かに立ち上がる。静けさが辺りに満ち溢れ、空気が張り詰めてゆく。自身の心臓の音すらも煩く感じるほどの静寂の中で、霊夢ははっきりと何者かの気配を感じ取っていた。
「さっさと片付けるわよ……、慧音……」
「承知している。今日こそは逃がさん」
 言葉を交わし、二人は静かに頷きあう。
 そして慧音が閂を跳ね上げた瞬間、霊夢は扉を蹴り開けて蔵を狙う妖怪と対峙した。



「ふぁ……おはようございます……」
「おはようございまーす」
「おはよう。もう食事の支度はできているから、顔を洗ってきなさい」
 橙に案内され、美希はぼんやりとした頭のまま廊下を歩く。
 心地よい眠りには心地よい目覚めが訪れると言うが、それはどうやら一般論らしい。
 昨夜、美希は橙の願いを聞き入れて二人に挟まれる形で床についた。背中から藍に暖かく抱きしめられ、胸に橙を抱いて沈んだ眠りの淵はあまりにも心地よく、そして安らかだった。
 そして今朝。目を開けるとそこに二人の影はなく、代わりに食欲をそそる香ばしい焼き魚の香りが漂ってきたのである。
 如何に心地よくとも、過ぎた眠りに爽やかな目覚めが期待できるわけもない。元々寝覚めが良くないことも手伝って、美希は未だに夢現の状態だった。
「ちょっとまってて」
 橙ががちゃがちゃと井戸に備え付けられた水汲み用の機械を動かすと、程なくして井戸水が溢れるように流れ出した。
 井戸の水は冷たかったが、眠気覚ましには丁度良い。美希はその冷たい水で三度顔を洗い、それから橙から受け取ったタオルで顔を拭く。
「ありがとう、橙」
 礼を言うと彼女はまた人懐っこい笑みをこちらに向けてくる。屈託のない、まぶしいほどの笑顔が心に突き刺さる。

『橙はそのようなことでお前の見方を変えるような娘ではない。それだけは信じてやってくれ』

 ふと、昨晩の藍の言葉が胸に蘇る。
 たしかに橙は、心変わりをしないかもしれない。自分の醜さを語っても、彼女は今まで通り輝くような笑顔を向けてくれるかもしれない。
 でも、もし。
 もしも、彼女が自分を蔑みの目で見るようになってしまったら。
 今までの嘘を恨んで、怒りを露わにされてしまったら。
 そのとき、自分は耐えられるのだろうか。
「どうかしたの? お姉ちゃん」
 タオルを握りしめたまま、美希は黙って立ち尽くしていた。
 どうしようもないほどの葛藤が心に渦巻き、動くことが出来なくなってしまっていた。
 橙を騙し続けたくはない。
 だが、彼女に嫌われるのもまた恐ろしい。
 それは、美希が本当に久しぶりに、実に数年ぶりに味わった、失うことへの恐怖だった。
「お姉ちゃん」
 パジャマの裾を掴む橙。心配そうな、今にも泣き出しそうな表情を向けられる。
 そして橙は、僅かに瞳を潤ませながら、呟くように言った。
「私は、お姉ちゃんが大好きだから、だからいつも笑ってて欲しいの。だから、苦しいことがあったら言って? 悲しいことも相談して?」
 言葉が、陽光のように胸に染み渡る。
 橙はこんなにも自分を信じてくれているのに、こんなにも好意を寄せてくれているのに、何故自分は彼女を信じることが出来なかったのだろう。
 何を恐れていたのだろう。
 自分の過去など、彼女は知らなくて良いことなのかもしれない。このまま何事もなく、何も言わずに過ごせばそれで良いのかもしれない。
 凄惨な光景など、薄汚い人間の話など、聞かせるべきではないのかもしれない。
 しかし、それら全てを隠して、彼女と自分は本当の関係を築けるのだろうか。
 自分を家族同然に扱ってくれるこの優しい少女に、心から向き合っていると言えるのだろうか。
「橙……、あのね……」
 消え入りそうな声で、小さく切り出す。
 彼女がもし拒むのなら、言わずにおこう。そして、何事もなかったかのように、笑って過ごそう。
「これから話すことはね、橙には無関係な、何の意味もない話かもしれないの……」
 でも、もし彼女がそれを聞いてくれるのであれば。
「きっと聞いても楽しくない話だし、私の昔の事なんて、どうでも良いことかもしれない。聞いたら、気分を悪くするかもしれないの」
 そして、自分と向き合ってくれるのであれば。
「関係なくなんか、ないよ」
「橙…………」
「らんしゃまが言ってた。隠し事は時々大事かもしれないけれど、無くて済むなら無い方がいいって。それから、辛くて苦しいことは、一回話すと半分になって、もう一回話すとまた半分になるんだって」
 暖かい手が、そっと美希の手を包む。それから橙は、ちょっとだけ笑って言葉を続ける。
「どんどん話すとちっちゃくちっちゃくなっていって、最後には見えなくなっちゃうんだって。そしたらもう、その人は悩んだりしないんだって。私も、いろいろ失敗したり怒られたりしたことあるけど、みんなちゃんと話してる。そしたららんしゃまはちょっとだけ怒って、それから笑って許してくれるの」
 まるで抱きしめられているかのように、手のひらから熱が体中へ伝わってくる様な気がした。
「そりゃ、誰かれかまわず話してもしょうがないかもだけど、お姉ちゃんが話してくれるなら、私はちゃんと聞くよ。全部聞く。難しいことはもしかしたら解らないかもだけど……、でも、ちゃんと覚える。だから、だいじょうぶ」
「ありがとう……、橙」
 顔を見ることが出来なかった。だから美希は、橙をしっかりと抱きしめた。嗚咽と涙が止めどなく溢れて、喉を詰まらせる。それでも美希は、賢明に呼吸をし、口を開き、そして小さく言葉を紡ぎはじめた。
「あのね……、私は……」



 顔を洗うだけにしては遅すぎた二人は、泣きべその顔で藍の前へと戻ってきた。
(なるほど、全て話したのだな)
 美希の話を聞き、橙がどのような答えを出したのか、それはしっかりと結ばれた二人の手のひらが雄弁に物語っている。
 藍はそんな二人の頭をそっと撫で、それから食卓の準備を手伝うようにと促す。即席だがずいぶんと深く結ばれたその姉妹は同時に小さくうなずき、それから食器を抱え始める。
「ありがとうございます……」
 深く頭を下げ、美希はそれだけ言い残して食卓へ汁椀を運んだ。
 年嵩だが子供っぽく、明るく跳ね回る妹と、引っ込み思案で涙もろく、心優しい姉。そんな二人の背中を見送りながら藍は小さく笑い、白飯をたっぷりと詰め込んだおひつを抱えて居間へと足を運んだ。
(紫様が見たら、何と言うだろうな…………ふふっ)



 夜半過ぎに現れた妖怪は、霊夢の力を持ってしても退治することが出来なかった。黒塗りのいびつな姿をしたその化け物は、霊夢や慧音が放った弾幕を驚くほどの早さでかわし、あっと言う間に山の方へと消えていってしまったのだ。
「ふぁ……おはよう、慧音」
「おはよう。もうそろそろ昼だな」
 逃げていった妖怪を深追いすることもなく、霊夢は倉に結界を張って早々に眠りについた。一方の慧音は霊夢と別れて里の見回りをし、それから妹紅の帰りを待って共に床に着き、霊夢が起きるよりも少し早く目を覚ましている。
「もう少し寝ておいた方が良いわよ。まあ今夜も現れるとは限らないけど」
「解ってはいるが、どうにも二度寝は出来ぬ体質でな」
 苦笑を漏らしつつ、慧音は二人分の茶を注ぐ。
 慧音は里の守護者である。その責任は大きく、そして重い。その過度な重圧が彼女の心にのしかかり、眠りを浅く短い物にしていた。
 無論それが良くないことなのは解っている。自分は蓬莱の身体も無ければ、吸血鬼のように血を糧として活力を保てるわけでもない。人と同じように食料、睡眠、休息を必須とする。しかし、頭で解っている事と感情は別物だ。己の使命を果たせぬままにのうのうと惰眠を貪れるほど、慧音は図太く出来ていない。
「そんなんじゃ身体持たないわよ。どうせ今日もあいつが出てくるのは夜半過ぎなんだし」
「その口振りは、まるで相手の正体を掴んだように聞こえるが?」
「確証はないけど、大方の目星はつけたつもりよ」
 流石は博霊の巫女と言ったところだろうか。慧音はその言葉に、ただただ感心することしかできなかった。
 慧音とて無知ではない。知識の量で言えば稗田の当主に及ばず、経験と見識の広さでは八雲紫と比べるべくもない。しかし、彼女には寺子屋という家業と、歴史を操るという能力がある。どちらも無知蒙昧な輩には出来ない仕事であり、愚鈍では務まる訳もない。恐らくこの幻想郷の中で序列を作るならば、慧音はかなり賢い部類に入るのは間違いないのだ。
 その慧音にも掴めなかった正体を、この巫女は意図も簡単に見破ろうとしていた。
「ならば早速その準備を……」
「まぁ慌てないでよ。流石に徹夜は堪えるわ……。動くのは午後に……ふぁ…………」
 あくびを一つかみ殺しながら、霊夢はひとつ伸びをした。その様はまるで、事件はとうに解決したとでも言いたげである。
 あまりにも悠長な霊夢の様子に些かの不安はあるものの、慧音はそれ以上訪ねないことにした。何故ならこの巫女にはそれだけの信頼があり、慧音の言葉など坊主に説法になってしまうからだ。
 そして彼女の信頼の高さこそが、巫女を妖怪退治に駆りださない暗黙のルールを作らざるを得なくなった理由の一つでもある。それほどまでに、霊夢と言う存在はこの幻想郷にとって大きく、そして重大なのだ。
「ところで慧音」
「どうした?」
「今夜の天気はわかる?」
 不意に天候のことを聞かれ、慧音は帰りがけに確認しておいた竜神像の予報を思い出す。
 里に置かれた竜神の像。これには後の天候を予測し、お告げとして伝える機能が備わっている。作ったのは山の河童たち。
 的中率は七割ほどで、当てにならない場合もある。しかし外れる理由は概ね妖精や妖怪の気まぐれであり、空を見てあてずっぽうな予報を述べるよりは相当にましである事は間違いない。それ故この像は里の人々にとって無くてはならない存在として、生活の一部に組み込まれていた。
「今夜は確か、竜神様の予報では……」
 竜神のお告げを霊夢に伝えると彼女はは満足げに頷き、それから昼過ぎまで眠るといって座布団を枕に寝転がる。
 あまりにも暢気な彼女の態度。その様に慧音は気を張って起きていることが何やらとても馬鹿らしいことのように思えてならなかった。
 隣の部屋では疲れきった妹紅が細く寝息を立てている。慧音は湯飲みを片付けることもせず、霊夢を起こさぬようにそっと部屋を後にした。
 未だ眠る蓬莱人の隣で、自身も惰眠を貪る為に。



 午後になって、雲行きは急激に怪しさを増していった。冷たい風は湿り気を帯びはじめ、厚く重い雲が空を覆ってゆく。
「雨が降るかもしれんな」
 空を見上げ、藍は洗濯篭を抱えたまま一人小さく呟く。
 彼女が心配しているのは洗濯物の事ではない。昼食後すぐに、釣り竿を持って飛び出していった橙のことだ。
 夕食の手伝いをしたいと言って飛び出した橙だが、その本当の理由はおそらく美希の為に何かをしたかったといったところだろう。
 それ程までに美希は、橙の中で大きく、そして大切な存在となっていたのである。
「どうかしたんですか?」
 長いことぼんやりしていたのだろうか。いつの間にか隣に立っていた美希が心配そうに声をかけてくる。
「うむ、空模様がな……」
「橙さんのことですか?」
「ああ、まぁそれほど心配することでもないのだが」
 洗濯物を屋内へ運び、一つ一つ吊しながら藍は橙と式についての説明を始めた。
 橙は黒猫の妖獣であり、猫の習性を色濃く残している。それ故かあの娘は水に弱く、ずぶ濡れになると飛ぶことすら適わず、身体能力も普通の人間とさして変わらなくなってしまう。加えて橙の式は水によって流されてしまうため、式に頼った助力や探知も不能となってしまうのだ。
「じゃあ、探しに行った方が……」
「いや、降り出すのが遅ければ雪になってしまうさ。それにああ見えて橙は私の式。そう簡単に参ったりはせんよ」
 そう言って美希に笑いかける藍。しかしその心に現れた一抹の不安は、どうしても拭い去ることが出来なかった。



「予報、当たったわね」
 降りしきる雨を窓越しに見つめながら、霊夢は小さく呟く。
 時刻はもう夕刻。普段なら夕焼けが見えておかしくない時間だが、残念ながら外は生憎の雨。夕暮れどころか既に夜の様相を見せ始めている。
 幻想郷では、冬の雨は珍しい。
 厳しい寒さと山颪の風が天からの滴を全て雪に変え、氷雪の妖怪と妖精がその後押しをするからである。
 しかし、今日の空模様は冷たいながらもやや強く降りしきる雨。その天候を、里の龍神像は見事に見抜いていた。
「うむ。だが夜半前には雨は上がるそうだぞ」
「その予報の方が当たってくれなきゃ困るわ」
 夕食の準備をしながら答える慧音。そして汁椀に吸い物を取り分ける妹紅。二人の顔色は昨日よりもずいぶんと良くなっていた。
 二人は午前中にしっかりと睡眠を取っていたらしいが、午後も今晩の準備を終えてから霊夢が半ば無理やりに小一時間ばかりの仮眠を取らせた。おかげで二人の顔からは隈が消え、血色も良くなっている。万全とはいかないまでも、かなり体力が回復したのは間違いなかろう。
 しかし、霊夢はどこか難しい顔をしたまま窓の外を眺めていた。
 その理由は何故か拭い去ることの出来ない、言い知れぬ不安。
 今晩の山怪退治が不安なわけではない。必要な準備は全て終わらせているし、やるべき事は全てやった。何より、失敗したらまた作戦を練り直せばいい。相手は危険を犯して里を襲う程に飢えているのだ。そう簡単に諦めるわけがない。
 ならばこの胸に去来する焦燥感は何なのだろう。
 霊夢はその説明を付けられぬままに、ただじっと冷たい雨を見つめていた。



 そろそろ夕食の時間だと言うのに、橙はまだ姿を見せない。
 厨房では盛りつけを待つばかりの料理が鍋の中で待機しており、洗って水を切った米も火入れを待つばかりとなっている。この中途半端な状態は、先に食べてもかまわないという藍の言葉を、美希が断ったためだ。
「遅いな……。こんなことならもう少し早く探知をするべきだった……」
 藍は橙に付与した式を通じて、その居場所を察知することが出来るという。しかしその式も今は流れ落ちてしまい、橙の居場所を探ることが出来ないらしい。
「やっぱり、探しに行きましょう。何かあったのかもしれないですし……」
 昼前に、自分のためにと張り切って飛び出していった橙。その笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。
 引き留めれば良かった。雲行きが怪しくなったときに、無理を言ってでも探しに出れば良かった。そんな後悔が頭の中を駆け巡る。しかしそれも後の祭り。何よりその後悔は、他の誰でもなく藍が一番強く感じているはずなのだ。
「わかった。ではちょっと探してくるから、美希はここで……」
「私も行きます」
 強く、そしてきっぱりと、美希は藍の目を見つめて主張する。
「しかし、この雨では……」
「傘をさせば問題ありません。それに、私のため橙ちゃんは頑張ってくれてるのに、私だけ家でぬくぬくとなんてしていられないんです」
 雨足のピークは過ぎ去ろうとしている。しかし雨が完全に止むまではまだ時間がかかるだろう。考えたくないことだが、その間に橙の身に何かあったらと思うと、気が漫ろではない。
 何より、この寒空の中で橙が震えているのかと思うと、じっとしてなど居られないのだ。
「……わかった。しかし何かあったらすぐに引き返すのだ。約束できるな?」
「はい」
 強く頷き、美希は傘を手に藍と共に家を出る。河原までの道を足早に歩き、その間に何かの痕跡がないかと目を走らせる。
「いつもどのあたりで釣りをしてるか、わかりますか?」
「ああ、大物がかかりやすい下流側の岩場か、流れが穏やかで小物だが獲物が多い上流側の浅い場所だとは思うのだが……」
 藍曰く、下流側は足場も不安定で、おいそれと人が入り込める場所ではないという。ただでさえ不安定な足場に雨が重なっては、空を飛ぶことも叶わぬ美希にはどうしようもない。
「なら、手分けをしましょう。私は上流側を探してきます」
「ではこれを袖口に入れておきなさい」
 そう言って藍は尻尾の先の毛を数本抜き、美希の袖口に落とし込む。
「こうしておけば美希の居場所はすぐに判別できる。短時間しか効果はないが、今はこれで十分だろう。それと、人や獣の影を見たら必ず身を隠せ。わかったな?」
「はい」
 深く頷き、美希は藍から小さな灯籠を受け取る。中には狐火が封じ込められているとかで、水に濡れても火が消えることはないらしい。
 そうこうしている内に見え始めた川面は、雨のためにすっかり濁ってしまっている。雨足は弱くなりつつあるものの、垂れ込めた雲が星明かりを隠し、足下を照らす明かりは灯籠以外には存在しない。
「ではすまぬが、ここから川沿いに上流へと探し歩いてくれ。私は下流を探してから合流することにしよう」
 何も言わずに深く頷き、美希は川沿いの路を歩き始める。青白く揺れる狐火の灯りを手に、大切な妹の無事を願って。



 冷たい雨を避けようともせず、一本の枝を見上げて途方に暮れる橙。その枝の先には、緑色の帽子が一つ。
 昼過ぎに釣りへ出かけた橙は、上流側の釣り場の更に奥、小さな滝のすぐ傍で糸を垂らしていた。その場所は藍にも教えていない橙だけの秘密の釣り場。大物がかかり獲物も豊富な最高のポイントだった。
 しかし残念なことに、今日に限って一匹の獲物もかからない。大好きな姉の為にと、いつもならものの一時間程度で飽きるところを粘り続け、糸をたらし続けるも釣果は無し。そうこうしている内に雲行きは怪しくなり、後少しもう少しと粘っている内に式は流れ、辺りはすっかり暗くなってしまう。
 用意していた餌もなくなり、雨は激しさを増し、川が濁り始める。これではもう釣りを続けても意味はない。諦めた橙はべそをかきながら帰り支度をして、川縁をとぼとぼと歩いた。そうして岩場を抜けて浅瀬にさしかかった頃、今度は泣きっ面に蜂と言わんばかりに更なる不幸が襲い掛かる。
 谷間を吹き抜ける冷たく強い風が大きく枝を撓らせ、橙の帽子を掠め取ったのである。
 それから小一時間、橙は川面に大きく張り出した木の枝の、その先端にひっかかった緑色の帽子を見つめながら泣き続けていた。
「どうしよう……、らんしゃまからもらった、大切な帽子……」
 橙がいつも身につけている帽子。それは別段特別な力を秘めたものではない。どこにでもある布を使って作った、ただの帽子だ。だが、その帽子は橙にとっては母同然である藍から貰った大切な宝物。それを置いて帰ることなどできるわけがない。
 しかし、これほど雨に濡れてしまっては式はおろか空を飛ぶことも叶わない。万が一足を滑らせれば、冷たい川面に真っ逆さまだ。
 幾ら幼い姿をしているとはいえ橙は妖獣。冬の川に落ちたぐらいで死ぬような事はない。川の深さもそれほど深くなく、橙の腰までぐらいしかない。川底に激突してもかすり傷程度で済むだろう。
 だが、橙は猫の妖獣である。
 獣の性を色濃く残す妖獣は、その本能に意思を引きずられ易い。藍ほどの強力な存在であればその様な事は無いのだが、いかんせん橙はまだまだ未熟。水を嫌う猫の習性に抗うのは難しい。
 それでも、橙はどうしても諦め切れなかった。
 その帽子に、親子の絆が詰まっているような気がしてならなかったから。
「……よし、登って取ろう」
 意を決して枝に足をかけ、そろりそろりと登ってゆく。泣き叫びたくなるような恐怖をこらえ、目標の枝に手を伸ばす。
「あと…………ちょっと………………」
 指先は帽子に触れそうで触れない。風に揺れる帽子が、まるで彼女をからかうかのように指先から逃げる。業を煮やした橙は、そろりそろりと足を運び、枝の先へと重心を移動してゆく。
 しかし、帽子に夢中になっていたためか、はたまた雨がそうさせたのか、この朽ちかけた老木の小さな悲鳴を、橙は聞き逃してしまう。
「も、すこし…………んっ…………」
 みしりみしりと小さな音を立て、枝は少しづつ撓ってゆく。長く辛い冬のせいか、厳しい山颪の風のせいか、この老木の枝は決して重くない橙の身体すら、支えることが出来なくなっていた。
「取っ…………!?」
 伸ばした手が帽子を掴んだその瞬間、けたたましい音を立てて枝が折れ、橙は足場を失った。



 川沿いを歩き、あちこちを照らしては橙の影を探す美希。その目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
「橙ちゃん!!」
 川面に小さく頭を出した岩。その岩に凭れ掛かるように、橙はぐったりと身体を預けていた。腰から下は冷たい川の中。その手にはしっかりと握られた緑色の帽子。出掛ける時に持っていたはずの釣竿やバケツは見当たらない。
「橙ちゃん! 大丈夫!? 起きて!!」
 有らん限りの声を張り上げ、美希は橙に強く呼びかける。しかし橙はぐったりとしたままで反応を見せなかった。降りしきる雨と川の流れが声を掻き消したのかと思い、美希は一歩前へと足を運ぶ。
「……きゃっ!」
 小さな悲鳴と共に、美希は傘を取り落とす。一歩踏み込んだ川の冷たい水が、美希の足を竦ませてしまったのだ。
 昼過ぎからの気温は冬にしては暖かく、今も空気はそれほど冷たいわけではない。しかしどれだけ気温が高かろうとも冬の川。その冷たさは身を切るようなものだ。
「橙ちゃん! 橙ちゃん!!」
 もう一度岸辺から強く呼びかける。しかしやはり反応はない。
 妖獣の丈夫さ、頑健さは藍からそれなりに聞いている。高い生命力と俊敏な動きは特筆すべきものらしく、それこそ他者からの攻撃でもない限り、死ぬような事は無いという。
 だが、このあまりにも冷たい水の流れに長時間浸かっていては、如何に妖獣とて無事では済まないような気がしてならない。
「…………助けなきゃ」
 狐火の灯籠を足元に置き、美希は意を決して川に一歩踏み出す。身を切るような冷たい水が、冷感を通り越して痛みを感じさせる。
 それでも、美希は怯まずにもう一歩足を踏み出した。
 川の流れはさほどでもなく、どうやら深さも大した事は無い。しかし降りしきる雨と冷たい川が、美希の体温を確実に奪って行く。
「橙ちゃん……、今行くからね……」
 足元にまとわり着く朱袴。水を含んだ衣装は重く、歩みを不安定にさせる。美希は衣服を脱ぎ捨ててしまわなかったことを今更のように後悔した。
 しかしそれも今となってはどうしようもない。とにかく一歩を踏み出すこと。それだけが大切なのだ。
 橙の居る位置までは然したる距離ではない。平坦な道なら五歩か六歩もあればたどり着いてしまうだろう。しかし足元は流水、それも身を切るような冷たさだ。自然と一歩は小さく遅くなってしまう。
(もうちょっとなのに…………寒い……)
 川は徐々に深くなり、水は膝を超えて腿にかかり始める。既に美希の全身は雨と川の水でずぶ濡れになっていた。長い髪がまとわりつき、肌に張り付く。いつの間にか髪留めは流れてしまっており、垂れ下がった前髪が視界を遮ってしまう。しかし、もうそんなことを気にする余裕はない。
「橙ちゃん、しっかりして、橙ちゃん!」
 ようやく手を伸ばして岩にその身を預けながら、美希はやや乱暴に橙の身体を揺する。しかし橙は反応を見せず、ぐったりとして動かない。
(まさか…………!)
 不意に過った最悪の想像。美希は慌ててその鼻先に顔を近づけ、彼女を抱きかかえてその胸に手を当てる。大切な妹の命の、その証を確かめるために。
「…………ん…………ぅ……」
「よかった…………、生きてる……!」
 ほんの僅かにだが、橙は小さな声を漏らして息を吐いた。命の脈動は弱々しくだがはっきりと手のひらに伝わり、温かみこそ薄れていたものの、かすかな吐息が鼻先に感じ取れる。
 しかし、安心するのはまだ早い。これから美希は橙を抱えて岸辺まで戻らなくてはならないのだ。
 頼りは岸辺に置いてきた狐火の灯り。しかしその灯りが今は遥か彼方に見えてしまう。それでも、たとえ牛歩の如き歩みでも、進まなければならない。
 美希は橙をなんとかして背負い、つま先を引きずるようにして一歩を踏み出す。背負った彼女の重みと、疲れた体がより一層脚の動きを鈍らせる。冷たい水は確実に体温を奪い去り、もう手も足も感覚が薄い。
 確実に迫る、死の予感。それでも美希は懸命に足を動かし続けた。
 ほんの一月ほど前、美希は自ら命を捨てようとしていた。自殺する勇気もなく、さりとて未来に希望は見出せず、神隠しとやらに頼って己の命を断ち切ってもらおうと考えていた。
 全てを捨てて、無に帰ろうと。
 しかし、今は何よりも強く生きたいと願って止まなかった。
 背負った彼女を助けるために、彼女の笑顔を、もう一度見るために。
 そして、今どこかで笑っているかもしれないあの巫女にもう一度会うために。



「ルーミア! お願い!」
 霊夢の鋭い指示が飛ぶ。
 竜神像のお告げ通り雨は夜半前に止み、今はもう雲一つない。
 そして、霊夢の予想通り、あの山怪は姿を見せた。
「霊夢、ちゃんと約束守ってよね!」

 闇符「ディマーケイション」

 漆黒の闇が、赤いリボンをつけた金髪の少女の周囲から染み出すように広がる。
 この少女の名はルーミア。闇を操る程度の能力を持つ、暗闇に潜む妖怪だ。
 夕暮れ頃、霊夢は傘を手にルーミアを捜して歩き、彼女に一つの交渉をした。内容は妖怪退治に協力をし、その代償に屋台での飲み食いを全て奢るというもの。その提案をルーミアは二つ返事で了承し、今霊夢の傍でスペルカードを放っているのである。
 染み出した闇は辺りを包み込み、霊夢と山怪を覆い隠す。声こそ発しなかったものの、山怪の焦りは手に取るように解る。
 その妖怪の能力は、どうやら予想通りだったようだ。
「コレであんたはもう逃げられない。観念しなさい!」

 神技「八方鬼縛陣」

 霊夢を中心に、巨大な光の柱が広がる。しかし周囲はルーミアの作り出した闇の中。そこに影は出来ない。大きく広がってゆく光の柱の中心で、霊夢は微かにだが、断末魔の如き悲鳴と、確かな手ごたえを感じていた。
「ルーミアー。ありがとう、もういいわよ」
「そーなのかー」
 染み出した闇がルーミアに吸い込まれてゆく。視界が開け、月明かりが霊夢の姿を照らし出す。
「やったのか?」
 慌て駆け寄る慧音。霊夢はそんな彼女に笑顔で答えた。
 慧音は万が一霊夢が取り逃がしたときのために、保険として近くに控えて貰っていたのだ。ルーミアの作り出す闇の外側、飛び出した山怪をいつでも狙い撃ちできる位置に。
「ええ、これでもう大丈夫よ。山犬達には壊れた米俵の米を与えて交渉すれば、里を襲ったりしないでしょ。それでもダメならまた協力するわ」
「そうか、すまんな霊夢。恩に着る。しかし、今度の敵は一体どのような能力を持っていたのだ?」
「影よ。影を操る能力」
 上機嫌で傍に降り立ったルーミアに礼を言いながら、霊夢はゆったりとした口調で説明を続ける。
 今度の敵は影を操る能力を持つ存在だった。伸びた影の大きさによって己の力を変化させ、その影を実体化させ、影を用いて移動する能力。ただし操ることが出来るのは自身の影のみで、他の影や闇に包まれた場所ではその力を使うことが出来ない。その証拠に影が作れない北向きの倉は襲われておらず、月明かりが存分に差し込まない倉の内部では力が発揮できない為、小さな鉤裂きしか作ることが出来なかったのだ。
「なるほど、それ故にどれだけ弾幕を張ろうとも、奴には一撃も届かなかったというわけか」
「ま、そういうことね」
 初めて対峙したとき、この山怪は弾幕から遠ざかり続けるように逃げていった。それも放った弾丸と同じ速度で。霊夢はそこを訝しんだのだ。
 早い霊符を放てば早く、遅い陰陽弾を放てば遅く、山怪はまるで一定の距離を保つかのように移動した。
 初めは何かを狙っているのではと疑ったのだが、どうにも様子がおかしい。そして右から湾曲して飛ぶ弾には左に、左から湾曲する弾には右にと、ずいぶんとおかしな移動の仕方をしていることにも気が付いた。
 一つきっかけがあれば、後はまるでパズルのピースのように全てが組み上がってゆく。そしておぼろげにでも全容が見えてしまえば、大したことのない話だ。
 霊夢は初め、強い光を放たぬ封魔針で退治してしまおうと考えていた。しかしもし作り出した影の中へ潜り込むような能力を持っていたとしたら、針は虚しく地面に刺さるのみとなってしまう。
 そこで霊夢は、全てを闇に包むルーミアの協力を得たというわけだ。影を失えば、特異な能力は全て封じることが出来る。あとは気配を頼りに霊符を放つのみ。
「なるほど……。しかし言われてみれば気付く要素は幾らでもあったというのに……情けないことだ」
「仕方ないわ。あんたは怪物という存在を先に発見し、私はそいつが起こした事象を一番最初に確認した。視点が変われば気が付かないことがあって当然よ」
 役に立ったことが嬉しかったのか、上機嫌でくるくると回るルーミア。その姿を見つめながら、霊夢は小さく息を吐く。肩からするりと抜け落ちた緊張感の代わりに、淡い睡魔が瞼を重くする。
「それにね……」
「ん?」
 睡魔を振り払うかのように月を見上げ、冷たい夜気を吸い込む。胸に吸い込まれた冷気は、まるで寂しさの固まりのように思えてならない。
「ねぇ、慧音。私の光は強すぎるかな?」
「なんだ、藪から棒に」
「光は強ければ強いほど影を色濃くする。近づけば近づくほど闇を大きく広げる。だとしたら、私は……」
 霊夢が敵の正体に気が付いた理由。そのもう一つが、自身を陽光のようだと称した慧音の言葉だった。
 もし自身が快晴の空の如く苛烈な光を放っているとしたら、影の如きあの外来人は……。その不安が、皮肉にも事件解決のきっかけになったのである。
「霊夢、私は……」
「ねー、おなかへったよ? 約束約束ぅ!」
 慧音の言葉を遮るように、ルーミアは大きな声で二人に呼びかける。その無邪気なまでの表情と声音に、霊夢も慧音もそれ以上言葉を継げなくなってしまった。
「約束は良いけど、この時間じゃ店なんて開いてないわよ?」
「えぇっ!? じゃあ騙されたの!?」
「騙してはおらんよ。ただ夜ももう遅いのでな、明日たっぷり食べようではないか」
「そーなのかー」
 子供の扱いに手慣れているのだろう。慧音はすぐにルーミアを丸め込み、納得させてしまう。そんな二人のやりとりをよそに、霊夢は星空を見上げて小さなため息を吐く。
 広がった白い息は、まるで月光にかき消されるかのように霧散する。
 それはまるで、儚くも脆い二人の関係を表しているかのように見えた。



 頬に当たる、暖かい感触。
 自身を包み込むような、柔らかい包容。
(あったかくて、おちつく……)
 朧気な意識の中で、美希はその温もりにすがりつくように頬を寄せる。その暖かさは、まるで母の優しさのようだった。
 美希の母は、もうこの世に居ない。よしんば居たとしても、この幻想郷では会えるわけもない。ならば、この温もりは何なのだろう。
(……そっか、私死んじゃったのか…………)
 意識と共に少しづつ記憶が蘇ってくる。
 美希は橙を助けて何とか岸辺にたどり着き、そこで力尽きた。朦朧とする意識の中で最後に覚えていたのは、狐火の灯りとうるさいまでに響いていたせせらぎの音。そして、背負っていた妹の重み。
(橙ちゃん……無事だったかな……)
 美希の唯一の気がかりは、橙の消息だった。
 自分は一度命を捨てている。だからここでその命を奪われても、それは天罰として諦める覚悟がある。だが、そんな自分の為に橙が犠牲になることだけは、どうしても避けたかった。
 自分のために涙を流してくれた、あの笑顔の似合う妹だけは、どうしても守りたかったのだ。
(……おかあさんなら、知ってるかな………………)
 包み込む温もりは、まるで子をあやすかのように背中を優しくさすってくる。それは美希が昔迷子になって泣いたときに母がしてくれた、優しい包容と同じ仕草だった。
「……ん……、おかあさん……」
「気が付いたか? 美希」
 橙の行方を尋ねようと、かすれる声で母を呼ぶ。しかし、帰ってきたのは母ではない、聞き覚えのある女性の声。
「気分はどうだ? 苦しかったり痛かったりはしないか?」
 そう訪ねながら、声の主は優しく髪を梳く。その声と指使いに導かれるように、美希は薄く瞼を開いた。
 目の前に見えたのは、柔らかな二つの胸。そしてそっと顔を上げると、そこには安堵の笑みを湛えた藍の姿があった。
「すまぬな、母親ではなくて」
「ぁ……、い、いえ……ごめんなさい……」
 意識と視界がはっきりすれば、次に現れるのは羞恥。人違いだけならまだしも、他人を母と呼んでしまったことを深く恥じ、美希は顔を赤らめてしまう。そんな美希を藍は強く抱きしめ、そして小さく謝罪を述べる。
「すまなかった、美希。私の判断ミスでお前を危険な目に遭わせてしまって……」
「え……?」
「お前に言われた時にすぐ橙を探しに行っていれば、この様な事にはならなかった……。それに、いざ探す段になったときも、美希の申し出がなければ橙を見つけられなかったかもしれんのだ……」
 胸の奥から何かを吐き出すような、そんな口調で藍は言葉を紡ぐ。自身の思いこみによる軽率な判断が招いた事態に、彼女は深く傷ついていた。
 たしかに、藍の言葉は正しいのかも知れない。だが、美希にはそれ以上に大切なことがあった。
「あの、その橙ちゃんはどこに……?」
「ああ、隣の部屋で寝ているよ。さっきまでお前の背中を暖めていたんだが、泣き疲れて寝てしまったんでな。美希のおかげであの娘は無事だ。ありがとう」
「そうですか……。よかった……」
 全身の力が抜け、安堵から深いため息が漏れる。そんな美希を、藍が強くきつく抱きしめる。
「お前はもっと自分を大事にするべきだ……。確かに私は橙が死んだら悲しい。耐えがたい悲しみから狂ってしまうかも知れない。だが、お前が死んで何も感じないわけではないのだぞ」
「藍さん……」
「私だけではない。橙は間違いなく泣くだろうし、霊夢とて悲しむだろう。それだけではない。お前に関わった全ての者が、心に痛みを受けるのだ」
 自分が消えることで誰かが泣く。そんなことを美希は考えたこともなかった。しかし、藍は今泣いている。自分を胸に抱きしめながら、肩を震わせて涙を流している。
「お前にとって橙や霊夢が大事であることと同じように、私にとっても霊夢にとっても、お前は大切な存在なのだ……。だから、命を投げ出すような真似はしないでくれ……」
「ごめん…………なさい……」
 震える肩が、強く抱きしめたその腕が、そして、嗚咽が混じる声が、美希の瞳から涙を溢れさせる。
 思われることの大切さ、慕われることの暖かさが伝わってきて、涙が止まらない。
「本当に……無事でよかった…………」
 髪を撫でながら、藍は何度もそう繰り返す。
 触れ合う素肌の感触から、美希は初めて、自分も藍も一糸纏わぬ姿で布団にくるまっていたことに気が付いた。彼女は自分が気を失っている間、ずっとこうして暖めていてくれたのだろうか。失われそうな命を、消え去りそうな温もりを繋ぎ止める為に。
「わたし……っ、こんなに……、やさしくされて…………しあわせで…………ひぐっ……ふぇぇ…………」
 嗚咽以上に心が言葉を詰まらせる。嬉しいや幸せという簡単な単語では説明のつかない、深く大きな想い。ありがとうの言葉では幾ら重ねても薄すぎる。そんな強い感情がこみ上げてくる。そんな美希の声を、藍は黙って聞いていた。全てを理解したかのように、優しい微笑を見せ、静かに髪を撫でながら。
 そんな藍の指が、ふと不自然に止まる。そして何かを探るように髪の中を動き回った。
「ら、藍…………さん……?」
「ああ、動くな……。髪が傷んでしまうぞ。いや、実はな、お前たちをさっさと風呂に入れて暖めたかったのだが、まだその準備をしていなかったのだよ。なので沸かす間に何とかしておかなければと……とりあえず服を脱がせてだな……、それから、身体を拭いてこのようなことを……いや、年頃の娘にこんなことをしてしまって申し訳ない……」
 髪に絡んだ小石を取り除きながら、藍は囁くような声で言う。ふと見上げた先に見えたのは、恥じらいと申し訳なさの入り混じった、複雑な笑顔をした藍。母のような女性の何とも可愛らしい一面を見て、美希もまた小さく笑う。
「大丈夫ですよ……。だって、私のためにしてくれたことですから……。ありがとうございます」
 視線を交わし、それから小さく笑い合う。
 美希は初め、藍を永琳よりも年かさの女性として見ていた。しかし、今のこの表情はどうだろうか。照れくさそうな、誤魔化すような何とも言えぬその笑みには、鈴仙や妹紅達と並んでもおかしくないほどのあどけなさが垣間見える。
 如何に母の如く振る舞っていようとも、やはり彼女もまた一人の女性なのだ。
 美希はそれを強く、頬を掻きながら視線を泳がせる狐娘に感じていた。
「あの、藍さん……、お風呂ってまだあったかいですか?」
「ん? ああ、沸かしたばかりだから問題ないぞ。気分がよさそうなら一緒に入ろうか。背中と髪を洗ってやろう」
「ん……、じゃあお言葉に甘えて……よろしくお願いします」
 二つ返事でひきうけた藍に連れられ、美希は風呂場へ通される。藍曰く、そう娯楽が多いわけではない幻想郷では湯浴みは貴重な楽しみの一つ故、余裕のある者は皆風呂場に労力をかけるのだという。
「特にうちは三人家族なのでな、まぁこの様なことになってしまっているわけだ」
「うわ……綺麗……」
 湯殿への扉が開かれると、一番最初に飛び込んできたのは心地よい木の香り。そして湯気が晴れると、そこには一流旅館もかくやという木製の湯船が現れた。
 床は敷石と木製の簀の子が渡してあり、湯船までの路を作っている。洗い桶も椅子も全て木製。壁も板張りで、落ち着いた印象を与える。
「夏は向こうの壁を取り払って半屋外にできるのだ。夜風に当たりながらの入浴は是非味わって貰いたいな」
「すごいです……。永遠亭も白玉楼も大きかったけど、ここはなんか、雰囲気が……」
「夏まで生きてみたくなったか?」
「ん……招いていただけるなら……入ってみたいかも……です」
 にこりと笑う藍に、美希は遠慮がちにぽつりと答える。
 自分が命を軽んじていることを、藍は咎める代わりにそう諭してくれたのだ。その心遣いが、嬉しくてたまらない。
「うむ、そのときは霊夢も一緒に連れてくるのだぞ? さ、中へ入りなさい。じっとしていると冷えてしまうぞ」
 背中を押され、浴室へ足を踏み入れる。刺一つ感じさせない木製の床が、しっとりと心地よい。
「その椅子に座りなさい。まず髪を洗ってしまわないとな」
 促されるままに座った椅子は、鏡の前に置かれていたもの。その鏡越しに、藍の美しい肢体が目に飛び込んでくる。
 藍の体型は、幽々子のそれよりもやや引き締まった、それでいて大きく柔らかな胸を湛えた、魅力的なものだった。均整の取れた体つきに、女性らしい丸みを帯びたライン。それでいてどこか野生を思わせるしなやかさが感じられる。肌も白磁とは言いがたいが、そこには健康的な美しさが輝いている。
「ん、どうした?」
「あ、いえ……。なんでもないです」
 まさか貴女の裸に見とれていました等とは言えず、美希は慌てて誤魔化す。しかしそんな美希のおかしな様子にも藍は何も言わずに、かけ湯をしてから静かに髪を洗い始めた。
「この髪はいつも一人で洗っているのか?」
「あ、はい。最初は霊夢さんに教えて貰って、あとは自分で」
「そうか、どうせなら毎晩洗って貰えば良かろうに。一人ではなかなか手入れが行き届かんぞ」
「いえ……、これ以上甘えるわけには……」
 何も出来ない自分を、霊夢は文句の一つも言わずに受け入れてくれている。そんな彼女の負担になるようなことは、出来るならほんのひとかけらでも少ない方が良いに決まっているのだ。しかし、そんな美希の考えは理解されないのか、藍は鏡越しに、困ったような寂しそうな笑みを見せる。
「お前の気持ちは分からんでもないが……もう少しわがままを言っても良いはずだ。少なくとも霊夢は、お前を負担だと思ったり、居候と考えては居ないと思うぞ」
「前にも、言われました……。でも、私は霊夢さんに何もお返ししてないし、橙ちゃんへのプレゼントだって、元はと言えば霊夢さんのお金で……」
 消え入りそうな声で、何とか言葉を絞り出す。他人の金で買ったプレゼントに、意味があるのだろうか。自分は気持ちすら相手に届けられていないのではないか。そんな暗い考えが胸に満ちる。
「美希」
「は、はい……」
 不意にかけられた声に、美希はあわてて返事をする。顔を上げると、鏡には桶を構えた藍の姿。そして……。
「そぉい!」
「わぷっ!?」
 かけ声と共に、頭上から降り注ぐ大量の湯。おかげで洗髪料は一気に流れ落ち、洗い髪が視界を遮る。
 そして、美希が何か言うよりも早く、藍は静かに抱きついてきた。
「美希、お前は何も持たない女ではない。何も出来ない役立たずではないのだ。少なくとも私にとっては橙の恩人であり、大切な娘だ。だからもっと自信を持て」
「ら、藍さん……」
「だが恩を形で返したいという心意気は立派だ。その実現のために、ここは私が一肌脱ごうではないか」
 渡されたタオルで顔を拭いている間に、藍は髪を丁寧に濯ぎ始める。今度は先程のような乱暴さはなく、手桶の湯をゆっくりとかけながら、丁寧に一束づつ泡を流していた。
「紹介状を一通書いてやろう。それを持って紅魔館という館へ行けば何がしかの仕事と、それに見合った給金を与えてくれる。何、悪いようにはさせぬから安心しなさい」
「で、でも……、私は家事も満足に出来ないのに……」
 昼の内に、美希は藍の手ほどきを受けて米の炊き方、火の起こし方等を習った。彼女の指導が良かったこともあり、美希はなんとかそれらを覚えることが出来たものの、まだまだ人に振る舞うレベルにはほど遠い。ましてそれを仕事にしようなどもってのほかだ。そんな自分に給金を貰うほどの勤めが出来るとは到底思えない。
 しかし、そんな自信なさげな美希の頭をそっと撫で、藍は背中を押すような言葉をかける。
「お前は物覚えが良い。頭も切れるし礼儀もそれなりに弁えている。手伝いとしては十分な戦力だと思うぞ? それとも、私は人を見る目がないか?」
「そ、その言い方は……卑怯です……」
「ははは、そう思うなら私の期待に答える働きをしてくれ。しかし、その前にまずは正月だな」
「お正月……?」
「そうだ。博麗神社の正月は盛大だぞ。楽しみにしていると良い」
 そう言って笑った藍は、美希の髪を結い上げて背中を洗い始める。力強く、それでいて優しい手付きが心地よく、美希は静かに瞳を閉じて藍に全てを委ねた。
「今頃霊夢さん、何してますかね……」
「さぁてな。そろそろ事件も解決した頃だろう。今頃は惰眠をむさぼっているんじゃないか?」
「おなか出して寝てたりして……ふふっ」
 くすくすという明るい笑いが風呂場に広がる。穏やかで柔らかく、ゆったりと流れる時間。その居心地のよさに、美希はまた笑みを漏らした。
「よし、これで終わりだ」
「あ、じゃあ私お返しします。藍さん座ってください」
「そうか? ではお言葉に甘えて……」
 美希と入れ替わりに、椅子に腰掛ける藍。その背中に回った美希は藍の髪を湯で軽く濡らし、洗髪料を使って髪を洗ってゆく。
「どうですか? 痛くないです?」
「ああ、気持ち良いよ。私がやったことをすっかり覚えてしまったんだなぁ」
 見よう見まねに自分が感じたことを加え、藍の髪と頭皮を揉むように洗ってゆく。丁寧に繊細に指を動かしながら、美しい金色の髪を傷めぬように。
「そういえば藍さん、尻尾ってどうしてるんですか?」
 ふと目に入った金色の九尾。果たして髪と同じように洗うべきなのか、はたまた石鹸で流すべきなのか。人間である美希には存在しない器官故、想像も付かない。その為美希は、藍の髪を濯ぎながらその洗い方を尋ねることにした。
「ああ、そこはいつも石鹸で済ませているんだ。そういえば、まともに人に洗って貰ったことは一度もないな……。美希にお任せするよ」
「えっと、じゃあ……失礼しますね」
 悩みながら尻尾を濡らし、石鹸を泡立てて少しづつ広げてゆく。ふかふかだった尻尾は水に濡れて細くしぼみ、代わりに石鹸の泡を湛えて白く包まれてゆく。
「こんな感じかな……痛かったら言ってください」
「ああ、問題ないよ。もう少し強くても平気だ」
 言葉に従い、美希は藍の尻尾を強く握るようにして洗い始める。泡立てた手を根本の方へと運び、尻尾の付け根を探り当て、そこを握る。
「ひゃぅっ!?」
「ご、ごめんなさい! 痛かったですか?」
 急に甲高い声を上げ、背筋を反らせる藍。その様子に驚いて、美希は慌てて手を離して謝った。
「い、いやなんでもない。ちょっとびっくりしただけだよ。続けてくれ」
 何でもない者の様子とは思えないのだが、言葉に従って美希は尻尾を洗い続ける。根本を握り、指で輪を作って尻尾をしごくようにして。
「ん……んんっ……」
 時折息苦しそうな声が、藍の口から漏れてくる。本当は毛の内側を洗うために逆立てるようにするべきなのかも知れないが、この声を聞いているとそれはまずいような気がしてならない。
「あ、あの……、無理をしてるなら……」
「いや、付け根の方はあまり人に触られる部分ではなくて……、若干こそばゆいだけだよ。じき慣れるさ」
 脇の下やわき腹を触られているのと同じ感覚なのだろうか、もしそうだとしたら微妙な力加減はかえって辛いような気がしてくる。
 美希は指の輪をもう少し小さくし、やや力を入れて尻尾を洗い始める。
「んくっ……は、んふっ……!」
 一本一本洗う度、声は大きく深くなってゆくような気がする。残る尻尾は後三本。しかし、鏡越しの藍の表情はずいぶんと辛そうに見える。
「あの、ほんとに辛かったら、もう……」
「や、その……だな、正直言うと……、気持ちよすぎるのだ……」
 視線を下げたまま呟く藍。その一言で、美希は彼女の反応の全てを理解してしまった。
「や、やめたほうが……いいですか?」
「あと、三本だろう……? いっそやってしまってくれないか……?」
「わ、わかりました……」
 理解をしてしまうと、意識は余計にそちらへ向かってしまうもの。美希は尻尾をしごく度にあがる艶っぽい声に当てられ、自身もまた身体の火照りを感じていた。
(鏡越しって……ものすごくえっち……)
 俯いた顔、火照る身体、そしてすり合わされる足。それらの全てが、鏡を通して目に飛び込んでくる。視線を逸らせば済むことなのかも知れないが、藍の美しい肢体と艶のある表情には、どうしても目が吸い寄せられて離れない。
 そして、美希は気が付いてしまった。
 鏡の中の自分もまた、艶のある表情をしていることに。
「あと、泡を流せば終わりです……」
「あ、ああ……」
 手桶の湯をかけながら、尻尾から石鹸を流し出す。当然と言えば当然だが、毛の奥まで染み渡った石鹸液はそう簡単に濯ぐことが出来ない。何度も湯をかけながら、丁寧に泡をしごきだしてゆく。
「んんっ、ん、ん……んくぅ……!」
 藍の声は、すっかり嬌声へと変わっていた。指を咥え、口を噤んで身を捩らせながら必死に耐えてはいるが、甘く切ない声はどうしても溢れてしまうようだ。そして、その声を聞いていた美希もまた、声を押し殺すことが出来なくなっていた。
「…………んっ……」
 唇から漏れる、甘い吐息。何かを期待するような、誘うような声が自然と溢れ出す。
「み、美希……?」
「だ、大丈夫です……。もうすこし、ですから……」
 僅か、心配したような、それでいて何かを確かめるような呼びかけ。恐らく、藍もまた察してしまったのだろう。
 二人は押し殺すような吐息を交互に漏らしながら、泡が流れきるのを静かに待ち続けた。



 あれほどまでに感じてしまうとは、予想外だった。
 汗が滲みそうなほどの身体の火照りを抱えたまま、藍は今美希と一緒に湯船に浸かっている。
 美希の丁寧な洗い方のおかげで、普段おろそかになりがちな尻尾の付け根まできれいに洗い上げることが出来、おかげでずいぶんとさっぱりした気がしないでもない。
 しかし、問題はこの身体の火照りだ。
「……っと、すまん」
「だ、だいじょうぶ……です……」
 指先や肩が美希と触れ合う度、電流が走ったような感覚が襲う。広い湯船なのだから離れて入れば済むのだが、どうにもそれが出来そうにない。
 理由は単純で、心のどこかでこの先の何かを期待してしまっているから。
 しかし、母と慕う彼女に手を出すのはまずいのではないか。その考えが、藍の理性の最後の箍だった。
「あ、あの……、藍さん……」
「ど、どうした?」
「えと、その…………」
 湯の中で握られる手。それはまるで、彼女の心の内を代弁するかのようだった。
「美希……」
「えと、そんな風にしちゃったのは私の責任ですし……、私もその、なんていうか………………なので……」
 その言葉で、藍は全てを理解した。彼女は逃げ道が欲しかったのだ。自分を淫乱な女だと認めたくなくて、愛欲に溺れてしまうのが怖くて。
 紫が冬眠に入る直前、彼女は藍に美希のことを託してきた。そして同時に、それとなくではあるが彼女の過去も語っていった。
 それは聞くに耐えない、凄惨極まりない物語。
 今の彼女には、その暗く重い影はあまり見えない。神社での暮らしがそうさせたのか、はたまたその他の出会いが彼女の気持ちを上向かせたのか、それは藍には知る由もないことだ。
 しかし、だからといって傷が完全に拭い去れたとは到底思えない。それにそんな過去が無くとも、こういった事はなかなか口に出せるものではない。
 現に藍自身も、言えぬもどかしさを抱えたまままんじりとしていたのだ。
「私が相手でも、問題ないか?」
「ら、藍さんが、嫌じゃなければ……」
「なら、何も問題はないな……」
 肌を寄せ、彼女をそっと抱きしめる。吸い込まれそうな漆黒の瞳を見つめ、それから静かに瞳を閉じる。
 唇がゆっくりと寄り添うように近づき、そして吐息を混ぜながら触れる。
「ん…………」
「んぅ……………」
 柔らかく、そして暖かい感触。それが心地よい。指を絡めて手を握り合いながら、啄むような口づけを繰り返す。甘く切なく、僅かに激しく。
「ん、んんっ」
「んむ、んく……」
 ほぅ、と吐息を漏らし、銀糸を引きながら唇が離れる。不安げに潤む瞳と、朱に染まった頬が彼女の可愛らしさにより花を添えた。
「本当の所を言うとな、私もちょっと我慢が出来なかったのだ……」
「ら、藍さん……」
 小さく笑ってみせると、美希は赤い頬をより紅く染めた。その表情は、霊夢が目をかける理由がはっきりとわかってしまうぐらいに艶やかで、そして魅力的に見える。
「さ、もう遠慮はなしにしよう……」
「は、はい……」
 髪を結い上げた事で露わになったうなじに手をかけ、藍は静かに美希を抱き寄せる。布団の中でしたように、彼女の顔を胸に寄せ、優しく背中を撫で、そして額にそっと口づけを落とす。
「ん……、きもちいい……です……」
 ため息にも似た甘い吐息を吐き出しながら、美希はうっとりと瞳を閉じて、その身体を藍にすっかり預けていた。自身の身体にかかる彼女の重みが、身体の火照りをより強くさせるような気がしてならない。
「藍さん…………」
 先に動いたのは、意外にも美希の方だった。身を離してそっと立ち上がり、それから身体を重ねるように抱きつく。しっとりとした肌が熱を伝え、胸に彼女の柔らかなふくらみが重なる。
「ん…………っ」
 覆いかぶさるようにされた口付けは、深く激しいものだった。ねっとりと舌が絡み、唾液を湛えて重なり合う。少女の口腔から流れ込んでくる、愛液にも似た唾液。それを嚥下しながら藍は己の身体のくすぶりが少しづつ強く激しくなってゆくのを感じていた。
「はくっ……藍さん……んっ、んんっ…………」
「んぶっ……ん、美希……んっ…………」
 それはまさに、媚薬の如き甘い口付け。触れ合う舌が、愛撫を受ける歯茎が、重なる唇が、全ての感覚を熱に代えて下腹をくすぶらせてゆく。湯の中でもはっきりと解る程に秘所は蜜を湛え始め、はしたなくも彼女の腰に腕を回し、抱きしめてしまう。
 そんな自分を、彼女は淫らな女だと軽蔑するだろうか。
「藍さん……」
 小さく、切なげに名前を呼ばれる。そして彼女の手が、するりするりと背中を滑ってゆく。
 ため息が出そうな程の甘い愛撫が、静かに自身を溶かしてゆく。
 彼女の愛撫は、男に傅くための、身を犠牲にするようなものではなかった。熱を求め、快楽を欲する愛撫。それが指先から、触れ合う胸から伝わってくる。
 だから藍は、それに精一杯答えることにした。
「美希、ここへ……」
 湯船の縁に腰掛け、膝の上に彼女を座らせる。そして藍は、導かれるままに腰を下ろした美希の胸元に唇を這わせる。
「くぁ……っ! ふぁ!」
 太股に押しつけられた彼女の秘所は、既にたっぷりと蜜を湛えていた。溢れた蜜は美希が腰を捩る度に藍の太股に塗り込まれるように擦りつけられ、一つ嬌声を上げる度に新たな蜜を溢れさせてゆく。そんな彼女の様を見つめている内に、藍は一つ小さないたずらをしたくなった。
 背中に手を回してしっかりと支え、それから彼女の胸元に唇を寄せ、愛し合ったその証を小さく刻み込む。
「ひっ……ぁ、ぁぅ……ふぁっ!」
 おそらくは痛みと快感を堪えるためだろう、美希はそんな藍の頭をしっかりと抱きしめ、胸に押しつけるようにする。そのおかげか、はたまた彼女の肌が思った以上に弱かったか、美希の胸元には予想よりも大きくはっきりとした証が刻みつけられた。
「藍さん……、ずるい……んっ!」
「み、美希? ひゃぅっ!?」
 胸元に付いた痣に気が付いたのだろうか、かすかな抗議の声を上げたかと思うと、美希は藍の首筋に強く吸い付いた。
「んくっ、んっ……」
 耳元に響く彼女の吐息と、微かな水音。そして甘い痛みと共に、愛の証が刻まれるのが解る。それも二つ。
 恐らく、申し開きも出来ぬほどにしっかりと刻みつけられているであろうそれは、微かな痛みと共に藍の脳髄に愉悦を伝え、理性の箍を打ち壊してしまう。
「ふぁ……み、美希……っ、ん……!」
 びくりと身体が揺れる。自分はこんなにも敏感だっただろうか。最後にこんなことをしたのは、いつ以来だろうか。そんなことを考えながらも、指先は彼女の肢体を求めて、まるで別の生き物かのように藍の意思とはお構いなしに蠢いてしまう。
「藍さ……っ! ひゃっ、そこ……!!」
 いつの間にか、その指先は彼女の秘所にあてがわれていた。太股と彼女の隙間に指を滑り込ませ、指先で粒を捜し当てて刺激する。爪で彼女を傷つけぬように注意深く、それでいて強い快感を呼び起こそうと大胆に。
「ふふ……、すっかり熱くなっているな……」
 嬌声と共に胸が反らされ、唇が離れる。そして晒される、瑞々しい彼女の胸。藍はその先端に口づけをしながら、指をするりと美希の中へ滑り込ませた。
「ひゃぁっ!! や、ひぁぅっ!!」
 ひときわ大きな声が漏れる。絹を裂くような鋭い嬌声が湯殿に響き渡る。藍は紫の冬眠と橙の寝付きの良さに感謝をしながら、浅く深く、注挿を繰り返してゆく。
「ぁうっ!! ふぁ! だ、だめで……ひゃんっ! いっちゃ、すぐ、いっちゃう!」
 腰が動き、指が締め付けられる。声が無くとも、彼女の絶頂が近いのは明らかだった。
「ふぁ……っ! んんぅ! ん……っ……ぁ、ぇ……?」
 まるで弓を引き絞るように、藍はぎりぎりの所まで美希を追い立ててから指を引き抜く。不意に止められた愛撫に、彼女は腰を震わせながら疑問とも抗議とも取れる小さな声を上げた。
「どうせなら一緒に……。私も、お前を感じたいのだ」
 彼女の手を取り、自身の秘所に導く。確かめる必要もないほどに熱く熟れた、母と呼ぶには程遠い感情を表すその部分へと。
「藍さん……すごい……。いっぱい…………」
「あまり言ってくれるな。私もはずかし……ぃ!! んんぅ!」
 そこは、何の抵抗もなく美希の指を受け入れていた。愉悦に暴れる足が起こす水音に混じって聞こえる、微かな淫音。
 藍は、己の本性が獣であることを僅かに恨み、そして感謝した。
 獣であるが故に敏感な五感は、彼女の愛撫と自身の淫美さを嫌と言うほど脳に伝える。しかし、獣であることを理由にしなければ、ひとときでも母と慕った彼女と交わろうなど、思いもしなかっただろう。
 藍がもし、理に富み、智に溢れた賢者であったなら、今頃二人はまんじりともせずに気まずい入浴を続けていたに違いないのだ。
「藍さ……ん……、わたしも……ほしい……」
 彼女の懇願を聞き入れ、奥底へと沈めたままの指を静かに動かし始める。彼女の蜜を吸ってすっかりふやけてしまっているその指を膣壁にあてがい、擦り立てるように動かしてゆく。
「んくぅぅっ! ふ、ふかいっ……とこ、ひぁっ! んんぅ、んっ! んんっ!!」
 子を成す部分の入り口だろうか。僅かに硬いそこを指先でつつきながら、手のひらで大きく腫れ上がった彼女の粒を押すつぶすように擦り上げる。快感の訴えは彼女の口よりも先に、指への締め付けと溢れ出す蜜という形で伝えられた。
 いつの間にか解けた髪が、はらりはらりと舞い落ちてくる。暗幕のような漆黒が背景を隠し、湯気と共に現実感を失わせる。
 耳に聞こえるのは、淫らな声と水音のみ。
 それはまるで、世界に自分と美希の二人だけしか居なくなってしまったような、そんな錯覚だった。
「美希っ……ん、んくっ! んむ、んっ、ちゅく……んんっ」
 深く、貪るような口づけを交わしながら、藍は思う。
 今この瞬間だけ、世界に彼女と自分しか居ないのであれば、いっそ思う様乱れてしまおうと。
「はくっ……ん、んんっ! んぅ、んっ……んちゅ……ら、らん、さ……んむっ!? んふぁっ!」
 彼女の口腔を舌が犯し、自身の膣壁が指で蹂躙される。同時に彼女の舌に歯の裏側までも犯されながら、美希の膣奥へ愛撫を繰り返す。
 明滅する意識の中、藍は気が付いてしまった。
 己の身体が敏感だったのではない。彼女に触れられ、そして乱れることを他ならぬ藍自身が望んだのだ。
「んんっ! んぁ、んっ! ふぁ、ぁむ、んくっ」
「ちゅくっ、んっ! んぁ、ひっ! ひゃぅっ! んふぅっ!」
 ほんの一時でも、舌を離してしまうのがもどかしい。息継ぎすらも煩わしく思えるほどの深い交わり。愉悦の頂は、もうすぐそこ。
「んはぁっ! ら、らんさ……っ!! んんんっ!!!」
「みきっ……も、ふぁっ! っっ!!」
 唇を離し、片手で相手にしがみつきながら果てる。上り詰めたのは、どうやらほぼ同時だったらしい。まるで水面であがくように、美希の手が藍の背をせわしなく動き回っている。
「は……ぁ……み、美希……平気か……?」
「だ、だいじょぶ……です…………。ちょと、のぼせちゃい、ました……」
 喘ぐように息を吐きながら、美希が微笑む。そんな彼女をそっと抱き寄せ、藍は優しく頭を撫でた。
「えへ……倒れて、よかったかもです……」
「冗談でも滅多なことを言うでない。馬鹿者……」
「うふふ……、ごめんなさい」
 窘めつつも頭を撫で、乱れた髪を丁寧に直してやる。世界を遮っていた暗幕を少しづつ取り払えば、そこに浮かんだのは見慣れた浴室の光景と、頬を染めた美希の顔。視線と指先を同時に絡めながら、藍は彼女の唇にそっと口づけをした。
「っ…………ん……」
 小さく漏れる吐息を味わうかのように、離れた唇は紗一枚隔てた場所で留まる。二人の間に、もう言葉は必要ない。そっと頬に美希の手が添えられ、藍もまた、彼女の腰を抱き寄せる。
「らんしゃまぁー……おねえちゃーん……ぐすっ。どこですかぁー……」
 不意に響く、泣き声にも似た橙の呼びかけ。それは深く舌を絡めるべく、瞳を閉じて薄く唇を開いた瞬間だった。
「……ぷっ、どうやら妹がお呼びのようだな」
「お母さんも、一緒に呼ばれてますよ……」
 顔を見合わせ、笑い合う。それから藍は美希に軽い口づけをして、まるで迷子のような情けない声を上げる娘に向かって呼びかけた。
「ちぇーん、私はお風呂にいるよー」
「橙ちゃーん、私も一緒だから、入っておいでー」



 茜色の空を飛ぶ、紅白の巫女が一人。
(すっかり遅くなったわね……)
 昨夜の疲れか、昼前まで寝ていた霊夢は空腹を訴えるルーミアに叩き起こされ、約束を守るべく屋台で食事をした。それから村人に報告をし、感謝を受けているうちに日は傾き、今はもうすっかり夕暮れ時である。
(…………このまま、迎えに行かない方が良いのかもしれない)
 霊夢の胸に渦巻いているのは、昨夜慧音に打ち明けた悩み。
 あれから、慧音はそのことについて一度も触れようとはしなかった。ただ、別れ際に早く迎えに行ってやれと背中を押しただけ。
 無論、美希を迎えに行かないわけにはいかない。預けっぱなしで放ってしまっては藍に示しがつかないし、何より、自分が守ると言った美希との約束を破ってしまうことに繋がる。
(でも、もしあの子が望むなら……)
 そんなことを考えている内に八雲の家はもう目と鼻の先。洗濯物を取り込んでいたのだろうか、大きな篭を抱えた藍がこちらをに気が付いて手を振っている。
「遅くなっちゃって、悪かったわね」
「なに、もう少し掛かるものかと思っていたよ。お疲れさま」
 柔らかく笑う藍の篭には、美希の物であろう朱袴が見える。何か汚れ仕事でもしたのだろうか、それとも、昨夜の雨にやられたのだろうか。そんなことを考えている内に、美希が橙と共に顔を出した。
「おかえりなさい。お疲れさまです」
 彼女は、藍と同じ衣装を身につけていた。ただしそこに帽子はなく、代わりに霊夢が貸し与えた赤いリボンが揺れている。
「ただいま。何かあったの?」
「昨日の雨で着物を汚しちゃったんです。それで、換えの服を……」
「私の昔の服だが、僅かな手直しで着られるようになったのでな。お古で悪いが美希にあげたのだよ」
 何があったのか、霊夢はあえて聞かないことにした。昨晩までの間に彼女の身に何が起ころうとも、今こうして無事であるならばそれでよいと思ったからだ。
 それに、藍の服を着ているせいだろうか、美希はまるで昔からここで暮らす八雲の一員のように見えなくもない。
(やっぱり、その方が幸せなのかしらね……)
 胸に去来する、言い知れぬ寂寥感。それを顔には出すまいと、霊夢はため息を吐きつつ笑う。いつも自分がそうしているように、変わらぬ自分を演じるために。
「お仕事はもう済んだんですか?」
「ええ、これでもう問題ないでしょ。悪かったわね、放っておいて」
「いえ、そんな……ちぇ、橙ちゃん?」
 美希が何かを言うよりも早く、傍らにいた橙が美希の袴の裾を掴む。まるで大切な何かを取られたくない子供のように。
「すまんな、ずいぶんと懐いてしまって……。ほら、橙。美希も霊夢も困っておるぞ?」
 藍の言葉を聞いても、橙は手を離すどころか美希に抱きついて離れようとしない。その様を見て、霊夢は察してしまった。美希は既に、橙にとって家族も同然なのだと。
 ならば、立ち去るのは自分だろう。
 彼女の幸せを真に考えるのであれば、それが一番なのだ。
「美希、あんた……」
 身を引くべきだ。
 そう思って口を開いたそのときだった。
「んっ!」
「ひゃっ!」
 てこでも動かんとばかりに美希の腰にへばりついていた橙が、不意に美希の背中を押したのだ。
 霊夢の方へ向かって。
「ぅわっ! っと……大丈夫?」
「は、はい……」
 前のめりに崩れそうになる美希を慌てて支え、抱き寄せる。柔らかく暖かい彼女の感触と石鹸の香りが、霊夢の頬にうっすらと火を灯した。
「お姉ちゃんと別れるのはやだけど、お姉ちゃんが悲しいのはもっとやだから……。だから、がまんするの……」
 今にも泣き出しそうな顔の橙。その顔が、彼女にとっての美希の存在の大きさを雄弁に物語っている。
 やはり、迎えに来るべきではなかったのかも知れない。
 橙の顔を見ていると、そんな考えが罪悪感と共に胸に渦巻く。
 そんな霊夢の心を知ってか知らずか、橙は涙を堪えながら言葉を続けた。
「お姉ちゃん、ずっと霊夢の心配してた……。ごはんも、作り方覚えて食べさせてあげたいって、一生懸命練習してた……。それに、お姉ちゃんはまた来るって約束してくれたから……」
 橙の言葉に美希は何も言わず、代わりに頬を朱に染めて答えた。
 自分は、どうやらそれなりに愛されてはいるらしい。
 しかし、その愛に応えて良いのか。霊夢にはそれが解らなかった。
「あー、盛り上がっているところ申し訳ないのだが……美希の服はまだ畳んでおらんし、夕餉の支度はもう済ませてしまったのだ。なので霊夢よ、帰宅は夕食後にせんか?」
 その言葉に、霊夢と美希は慌ててその身を離す。頬が熱く火照り、口を開くこともままならない。そんな霊夢の指先を、暖かい手のひらが握る。
「ちぇ、橙……?」
 彼女は何も言わず、美希と自身の手をしっかりと握りしめていた。まるで食べて帰るまでは絶対に帰さないと言わんばかりに。
「あ、あの……、霊夢さん……」
「美希……?」
「今晩は、私が卵焼きと味噌汁を作る予定なんです……。だから、味見をしていって貰えませんか……?」
 頬を染めてこちらを見つめてくる美希。そして傍らには橙。霊夢は二人の顔を交互に見つめながら、心の中でぽつりと呟いた。

 二人がかりは卑怯だ、と。

続く



[11779] 大切なもの
Name: Grace◆97a33e8a ID:5e1f61fe
Date: 2010/10/03 02:11

 いつのまにか
 そこに居ることが普通になっていた

 朝起きればおはようと言われ
 寝る前にはお休みなさいと挨拶される

 あり得ないはずの日々が
 いつの間にか日常になっていた

 私は巫女
 この世界の均衡者

 全てにおいて平等で
 時々妖怪を退治する


 それが私の役割
 私の使命
 私が私である理由

 だから私には
 何もない

 それが普通で
 そうあるべきだった

 なのに
 今は



   『大切なもの』


「霊夢、この祭具はどこに置けばいい?」
「それは本殿の真ん中にお願い。あと、お香も同じ所で良いわ」
「了解」
 年の瀬も迫り、今年も残すところあと十日余りとなった。空気は冷たさを増し、近頃は毎朝の掃除が雪かきに代わりつつある。そんな中、霊夢は妹紅と共に神社の掃除に明け暮れていた。
 師走とはよく言ったもので、この時期は毎年決まって忙しい。まずは神社の大払い。それから普段使っている部屋と納屋の煤払いをし、新しい年を迎える祭りの準備も行わなくてはならない。
「それにしても紫はどうしたのかしら。いつもならそろそろ現れて口やかましく指示してくるのに」
「祭りが終わった頃に顔を出すこともあったじゃないか。それに、あれが居ない方が掃除が捗って良いだろう」
 祭具を置いてけらりと笑いながら、妹紅が手ぬぐいで汗を拭く。
 昼過ぎに現れた彼女は、里を救ってくれた恩返しにと掃除を手伝ってくれている。霊夢としては自分の役目を果たしただけなのだが、猫の手も借りたいこの時期に人手が増えるのはありがたい。しかも彼女は霊夢より長身である。高いところの掃除を任せられるのは願ったり叶ったりだ。
「まあそうなんだけれどね。それより、手伝ってくれるのはありがたいけど……自分のところの掃除はいいの?」
「うちは煤払いに何日もかけるほど広くないさ。慧音の所も三日もあれば終わるよ」
 気にするなという彼女の言葉に、霊夢は改めてありがとうと礼を言う。彼女のおかげで掃除はいつも以上に捗り、毎年苦労する祭殿の梁や天井の払い落としも終わらせることが出来た。今年は余裕を持って新年を迎えられそうだと一息吐いたとき、ふと背後から小さな声がかかる。
「霊夢さん、妹紅さん、お茶が入りました」
「ありがとう、美希。妹紅、ちょっと休みましょう」
 お茶と茶菓子を並べ、座布団を敷いて腰を下ろす。今日はきちんと三人分の湯呑みと、三人前の団子が並んでいる。
 美希を拾ってそろそろ一ヶ月。彼女は近頃よく笑うようになった。口数も多くなり、過度な遠慮も減り、少しづつだがこの日常に馴れ始めている。八雲の家から戻ってからは炊事や洗濯もやるようになり、自主的に動くことも増えた。
 それは間違いなく喜ぶべき事であり、歓迎すべき変化ではあるのだが、霊夢としては些か複雑な気分である。
「美希、あれから調子はどうだ?」
「はい、おかげさまで身体の調子も良くて、毎日すっきり目覚められるようになりました。長い髪にも馴れましたし、最近は料理も覚えたんですよ」
「味噌汁の味はまだ安定しないけどね」
 やや嫌味が過ぎた言葉だっただろうかと、そっと視線を上げるも、二人の表情は朗らかなまま。それはまるで、自分の言葉を意に介さなかったようにも見える。
 いや、それがただの被害妄想であり、子供じみた僻みであることは解っている。今も二人の話題の中心は自分であり、視線は平等に注がれている。
 しかし、心のどこかで、霊夢は見えない壁のような物を感じてしまっていた。

『強すぎる陽光の元では、安らぎを得ることは出来ない』

 いつか聞いたその言葉が、耳にも脳裏にもこびりついて離れない。
「────は、美味しいって言ってくれたんですよ」
「あれは、不味くはないって言ったのよ」
「はは、やはり霊夢は厳しいな」
 しかし、それを吐露してはいけない。弱みを見せ、弱音を吐くことは許されない。何故なら自分は、楽園の巫女なのだから。
 そして同時に、この弱い魂を持つ、美希の保護者でもあるのだから。
「さ、休憩もこのぐらいにして、続きを始めましょ。ぐずぐずしてると日が暮れるわ」
 誰にも気取られぬように、霊夢は澄まし顔で言葉を紡ぐ。己のうちの蟠りを、心の奥底に封印して。



「私に、インタビュー……?」
「というか、対談ですね。是非ご協力をお願いしたいと思いまして」
 赤くて堅そうな小さな帽子に、白いブラウスと黒いスカート。高足の一本下駄で苦もなく歩き回る彼女は、射名丸文と名乗り、名刺と新聞を差し出してきた。
 彼女はこの新聞の記者をしており、その新聞に載せる記事を書くためにわざわざ神社まで足を運んだのだという。
「年末年始の特集記事で、外の世界から現れた二人の対談を掲載したいんです。以前単独取材をした折りには、まだこの世界になれていないからと断られたわけですが、もう一ヶ月も経ちましたし、何より今回は同じ外の世界からの人物との、対談な訳ですから……」
 ややまくし立てるように説明され、美希は思わず一歩たじろいでしまう。助けを求めてちらりと視線を向けると、霊夢も妹紅もやや呆れたような顔をしていた。どうやらこの光景は、珍しいものではないようだ。
「あんたねぇ……、取材相手を完全に怖がらせてどうするのよ」
「あやややや、これは失敬。しかし悪いようには致しません。報酬はお支払いしますし、身の安全は私がきちんと保証します。それに、外から来た者同士、話してみたいこともあるのではないですか?」
 確かに文の言うとおりだ。霊夢や他の者達の話によれば、外来人は外の世界に追い出されるか妖怪に食われるかが普通で、長生きをすることもこの世界で安寧の日々を授かることも少ないという。つまり自分は非常に幸運かつ希有な例であり、その例は自分の他に後一人しか居ないのだという。興味が沸かないはずがない。
「あ、あの……! その方はどんな方なんですか?」
「ちょっと美希……」
「山の上にある神社の巫女で、東風谷早苗と言うお名前です。美希さんよりもう少し年上の女性ですよ」
 自分を窘めようとしたのだろうか、言葉を遮ろうとする霊夢の言葉を更に文が遮る。興味が無くなったのか、やりとりに呆れたのか、妹紅はもう口を挟もうとすらしなかった。
「霊夢さん、私一度その方にお会いしてみたいです」
 彼女は一体どんな形でこの世界に迷い込んだのか、この世界に来て何を感じたのか、元の世界ではどんな暮らしをしていたのか、興味は尽きない。
 そして何より、同じ境遇の彼女ならば、この世界に来てこれからどうするべきなのかを指し示してくれるのではないか。そんな強い期待が、美希の心には生まれていた。
「本気なの? あんたの過去についても聞かれるかも知れないのよ?」
「…………覚悟は、してます」
 小さく拳を作り、霊夢を真っ直ぐに見つめ返す。
 今までも美希は自身の過去を何度か語ってきた。自分を偽らぬために、美化されぬために、本当の自分を知って貰うために。
 しかし、今回ばかりは勝手が違う。問われれば問われただけ話さなければならないし、逆に余計なことは話せない。
 しかも、その内容は新聞に載る。
 彼女の出している新聞がどれほど浸透しているのかはわからないが、噂に乗れば自分のことは幻想郷中に知れ渡るだろう。その時もし、悪い内容を書かれていたりしたら。
 その後のことは想像に難くない。
「早苗さんという方とはお話してみたいですし、皆さんのおかげで、私はずいぶん強くなれました。霊夢さんにご迷惑をかけるような話はしないつもりです」
 この一ヶ月の間に美希は多くの者達と出会い、そして縁を結んできた。その一つ一つが彼女の心を癒し、魂を支え、自信を与えてくれている。それを強く実感しているのは、他ならぬ美希自信だった。
 今何かを言われても、過去を問われても、そう簡単に心が折れることはない。魂が傷つくことはない。その自信があるから、美希は取材を受けようと決意したのだ。
「まあ美希もああ言っていることだし、許してやったらどうだ? 美希を泣かせるような真似はしないことと、出版前のゲラ刷りを見せに来ることを条件にすれば、心配事もないだろう」
 今まで沈黙を保っていた妹紅が、不意に助け船を出してくれる。驚きとありがたさで顔を上げようとすると、彼女のやや大きな手のひらが自分の頭上に降りてくるところだった。
 自分には理解者も協力者もいる。唯一の杞憂は妹紅の一言で取り払われた。
 だからきっと、彼女はいつものように快く送り出してくれるだろう。そう信じて美希は霊夢の顔をもう一度見つめた。
 しかし、その顔は憮然としたままであり、帰ってきたのは冷たくも悲しいものだった。
「そこまで言うなら勝手にしなさい。私はもう知らないからね」



 冬の冷たい風に体温を奪われぬように、不意の突風や風圧で身体を壊さぬように、風を操りながら空を飛ぶ。
 人間が耐えうる速度を考慮しつつ、なるべく早く。
 文が急いでいるのは、一刻も早く取材をしたいからでも、約束ごとがあるからでもない。
(き、気まずい……)
 背中から、正確には背負っている人物から伝わってくる重苦しい雰囲気に、耐えきれないからである。
 いつもなら数度瞬きするほどの時間でたどり着く妖怪の山が、今は恨めしいほどに遠く感じる。もちろんそれは飛翔速度を抑えているのもあるのだが、それ以上に、まとわりつく重苦しい空気が時の流れを遅くさせているように思える。
 霊夢のあんな態度は珍しいものではない。概ねの場合において彼女は冷静かつ冷徹であり、とりつくしまがない。しかしこの背中の少女には優しく接していたのか、はたまたいつもは猫をかぶっていたのか、とにもかくにも、彼女にとっては衝撃的な一言だったらしい。不安げに肩を掴む彼女の手が、それを雄弁に物語っている。
「大丈夫ですよ。たまには虫の居所が悪くなることだってあります。私から上手く取りなしておきますから、気を落とさないで、リラックスしてください」
「は、はい……ごめんなさい」
 ため息にも似た小さな言葉が背中に重い。その空気を振り払おうと、文はまた口を開く。
「私も時々いらいらして辛く当たることがあります。取材が上手く行かなかったり、良いネタだと思って拾ってきたのに、実はそうでもなかったり……。記事が上手くまとまらなかったりすると、特にヒドいですよ。まくし立てるようにしちゃうこともあります。で、その度に後でとんでもなく後悔するんですよね」
「文さん……」
 くつくつと小さく笑いながら、文は自分を慕う白狼天狗の情けない顔を思い浮かべる。
 彼女はいつも気分屋の自分に真っ直ぐに着いてきてくれる。白い耳をぴっと立て、ふさふさとした柔らかい尻尾を揺らしながら、いつもにこやかに笑って補佐を務めてくれる。そんな彼女のありがたみを解っていながら、文は時として彼女に厳しく当たってしまうことがあった。
 叱責をされると、彼女は決まって耳をぺたりと伏せ、尻尾をくるりと小さく丸めてうつむく。そして何も言い返すことなく、背中を向けてとぼとぼと帰ってゆくのだ。そんな背中を見る度に、文は後悔の念に駆られる。
 そしてそんな時、決まって彼女は背中に背負った少女と同じ、重苦しい空気を纏うのだ。
「立場とか、仕事とか、責務とか、いろんな事を理由にして言い訳にするんですけど、結局は素直になれないだけなんですよね。大切だから近くに置いて、近くにいるから甘えちゃうんです。きっと霊夢も、同じ事を考えてると思いますよ」
 少女に語ることで、免罪符にしようとしている自分が居る。贖罪の一つとして、都合よく使おうとしている自分が。
 それは意味の無いことであり、許されるべきことでもない。それでも、彼女が背負う心の枷をごく僅かにでも外すことが出来たら、もしかしたら自分も彼女の前で素直に頭を下げられるのではないだろうか。そんな淡い期待が、文の心を僅かに暖めてゆく。
「文さんは……その方が好きなんですか……?」
 小さく訪ねられた言葉に、頬が熱くなるのを感じる。恥じらいが言葉を詰まらせ、舌の動きを縛る。
 しかし文は小さく深呼吸をし、それから前を向いてはっきりと言った。
「ええ、とても大切な……大好きな人です」



「お、早かったねー。早苗はまだ戻ってないよ」
「珍しいですね、諏訪子様がお出迎えなんて。早苗さんは今どちらに?」
 美希達を出迎えたのは、小学生ぐらいの少女だった。
 よく解らない素材で出来た帽子には蛙の目のような飾りが二つ。紺色のワンピースのような服には蛙の染め柄が幾つも浮かんでいる。髪は美しい金色で、その外見は十歳前後の少女にしか見えない。
 そんな彼女を、文は神様だと称して美希に紹介した。
「美希さん、こちらは洩矢諏訪子様。この神社に宿る神様の一柱であり、土着神の頂点にある方です」
「かみさま…………?」
 神様と言えば、長い髭に白髪頭。ひょろりと細長い身体をした老人で、杖を持ったり雲に乗ったり、背中に後光を背負ったりしているイメージしかない。もしくは仏像などでよく見かける、くりくりとした髪型でややふくよかな体型と半分開かれた目が印象的な、あの姿だ。
 まがり間違っても年端もいかぬ少女の姿が思い浮かぶことはない。
「あ、その顔は信じてない顔だね?」
「あ、え……えと…………ご、ごめんなさい……」
「いいよいいよ。外の人間が神様にどんな印象持ってるかは知ってるから。それより中入って待ってれば? 神奈子にお茶でも出させるからさ」
 気にしていないからと軽く笑い、諏訪子は二人を神社へと招き入れる。
 洩矢神社という名前らしいこの神社は、霊夢の住んでいる博麗神社とはまるで違う印象だった。
 まず第一に建物が立派で、長い歴史を感じさせる。特に社の正面に飾られた太い注連縄は、奉られている神の偉大さをそのまま示しているように見えなくもない。
 二つ目は神社から見渡せる巨大な湖。この少女と同じ諏訪湖と言う名前のこの湖もまた、神社の一部であるという。
 そして三つ目は、社の周辺に建てられた太く巨大な樹の柱。天に向かってそそり立つ四本の柱にはそれぞれ注連縄が巻かれており、信仰の深さと大きさを指し示しているかのように見える。
「どしたの? ぼーっとして」
「あ、いえ……立派なのでつい見とれてしまって……」
 博麗神社も美しく立派な佇まいだったが、この洩矢神社には長い歴史を感じさせる荘厳さがある。それはまさに、神の住まう場所にふさわしい雰囲気であり、風格だった。
 霊夢曰く、博麗神社もそれなりの歴史があったのだが、夏にいろいろとごたごたがあって建て直しを余儀なくされたのだと言う。何があったのか詳しくは聞かなかったが、神社がいつも樹の香りに包まれていたことや、真新しくまだ角が鋭利な柱などからは、新築特有の清潔さこそ感じられるものの歴史深い印象は無い。清冽さや神秘さは確かにそこにあるものの、それはこの神社の持つ風格とはまた別種のものだった。
「自分の家を誉められるのは悪い気分じゃないね。ありがと」
 やや照れくさそうに笑う目の前の少女は本当に幼く見え、これが神だとはどうしても信じられない。
 しかし、自分は今まで幾つも常識の外にある代物を見てきている。平安の世から生き続ける三人の女性、兎の耳を生やした二人の少女、狐と猫の母娘など、どれも普通には考えられない存在であり、ともすれば絵本や童話の世界に居るような錯覚すら覚えてしまう。そして、自身もまたその世界に少しづつ馴染んできている。
 現に美希は、もう空を飛ぶ程度では別段大きな感慨を抱かなくなった。
 航空力学や流体力学のような専門的な知識こそないが、人がその身だけで空を飛ぶことが不可能であることぐらいは解る。しかし、この世界の住人たちはいとも簡単に宙を舞い、それがさも当然であるかのように振る舞う。そこには物理も化学も存在しない。
 そう考えると、この幼い少女が神様であっても別段不思議ではないのかも知れない。
「神奈子ー、お客様だよー」
「例の取材の話か? ずいぶん早かったな」
 呼びかけに答えて顔を出したのは長身の女性。紺色の髪に朱色の衣服。胸元には鏡のようなブローチが輝いている。身長は永琳を超えるだろうか、胸を張って立つ彼女はその身に纏う威厳も手伝ってずいぶんと大きく見える。
「早苗何時頃帰ってくるか解る?」
「もうすぐ帰ってくるだろう。それより、私にもその取材相手を紹介してくれないか?」
 不意に注がれる視線に、美希は慌てて頭を下げる。ここへ来るまでの間に、美希は文から二柱の神と早苗という一人の巫女と会うことになると聞いていた。彼女の口から早苗の名が出たという事は、この長身の女性もまた神なのだろう。
 しかし、彼女の隣に立つ少女の一言は、美希の想像を遙かに超えたものだった。
「じゃあ紹介するよ。こっちは八坂神奈子。私の嫁なんだ」



 茶菓子や夕食の材料を調達して戻ってくると、そこには二人の神と笑い転げる天狗。そして訳も分からず立ち尽くす少女が居た。
「……そういうことでしたか。だめですよ、諏訪子様、神奈子様。お客様を困らせては」
「いやいや、私はあくまで自己紹介をしただけだぞ? 理解できなかったその娘が悪いのだ」
 くつくつと笑いを漏らしながら答える神奈子はまるで反省の色がなかった。神に居住まいを正せと説教するのが土台無茶な話ではあるのだが、早苗としてはこの少女を悩ませてしまったことはやや心苦しい。
「まったく……。ごめんなさい、困らせてしまって」
「あ……い、いえ……、平気です……」
 人見知りが激しいのか、緊張しているのか、彼女は顔を上げようとせず、うつむいたままで呟くように答える。
 腰まで伸びた美しい黒髪、整った目鼻立ち、やや小振りな唇にすらりと美しい腕。あと二、三年もすれば、彼女は誰もが羨む美人になるだろう。憂いを秘めた美女というのも悪くはないが、出来れば明るく真っ直ぐに育って欲しい。そんなことを考えながら、早苗はそっと彼女に笑いかけた。
「美希さん、今日はよろしくお願いしますね」
「は、はいっ」



 二柱の神は奥へ身を隠し、部屋に残ったのは自分と二人の人間だけ。射影機の調子を確かめてから、文は改めて二人に向き直る。
「それじゃ、そろそろ取材をはじめさせていただきます。よろしくお願いします」
 柔らかく頷く早苗とは対照的に、美希の表情は硬く険しいままだった。まともなインタビューが出来るだろうかと不安になりつつも、文はメモとペンを構えて口を開く。
「それでは、まずは二人のお名前を教えてください」
「東風谷早苗です」
「美希です……」
「美希さん、名字の方は?」
「ありません……。私はまだ、自分の拠り所も役割も決まっていませんので……」
 博麗神社に住み、巫女として暮らしているのではないかと訪ねそうになるも、ふと霊夢とのやりとりを思い出して口を噤む。円滑に取材をするためにも、今はそのことに触れない方が良さそうだと考え、文はやや大きな声で次の質問を投げかける。
「そうですか、それではこの幻想郷を訪れた理由や経緯を教えていただけますか?」
 一度だけ顔を見合わせてから、早苗の方が先に口を開く。なにがしかのやりとりが卓袱台の下であったのかも知れないが、文には知る由もなく、知る必要もないので気にしないことにした。何より、答える順序を予め決めてもらえるのは記事に纏める文としてもありがたい事この上ない。
「私は神奈子様と諏訪子様のお導きでこの幻想郷を訪れました。外の世界では信仰が失われ、神の力が途絶えようとしており、このままでは奇跡どころか存在すらも怪しくなってしまうと考え、新たな世界で新たに信仰を集めることを選んだんです。ですから、ここを訪れたのは大きな賭でもありました」
「なるほど、神々の導きで訪れたというわけですね。では美希さんは如何ですか?」
 瞬くほどの僅かな時間だが、美希は確かに言葉を詰まらせ、それから絞り出すような口調で話し始める。
 いや、そうしなければ口を開くことが出来なかったのだろう。
「私は……全てに絶望して、現実から逃げるために神隠しを頼りました。だからこの世界に来たことは偶然で、望んでそうなった訳じゃないんです……」
 彼女の言葉に最も驚いていたのは早苗だった。
 以前彼女は外の世界のことを『信仰も幻想も失われた、平和で満たされすぎた世界』と称していた。そこでは科学という名の魔法が氾濫し、飢えて死んだり幼子が働かなければならないようなことにはならないのだという。そして、そんな世界でも人々は争いを止めないのだとも。
 しかし、目の前の少女はそんな世界に絶望して逃げてきたのだという。
「何故そこまでの絶望を? 外の世界はそれ程までに辛いのですか?」
「いえ……、お聞き苦しい話かも知れませんが……」
 聞くに耐えなくなったら言ってくれと付け加えてから、美希は自身の生い立ちを、それこそ訪ねられるままに話した。両親のこと、家庭の事情、自身が受けてきた仕打ち、そして、唯一の支えであった母の死。
「も、申し訳ありません……。そんな辛い話を……」
「いえ、覚悟はしていましたから……」
 出立前のやりとりと、剣呑な霊夢の態度。その理由を文は初めて理解した。恐らく霊夢は彼女にこんな話をさせたくなかったのだろう。そして、この話が記事になってしまうことを恐れたのだ。
 情報というものは受け手の意識によって変化する。それは時として書き手の想像を超え、あらぬ方向へと伝播する。特にこのような話は尾ひれが付きやすく、霊夢はそれによって彼女が奇異の目で見られることを懸念し、あのような態度に出たのだろう。
 空気は気まずく、とても和やかとは言えない。文は慌ててメモのページをめくり、話題を転換しようと考えたが、どれもこれも外の世界についてばかり。当たり前と言えば当たり前である。何故ならこの取材の趣旨はこの世界と外の世界の両方を見ている人間二人に話を聞き、その印象の違いを語って貰おうというものなのだ。それ以外の話題が出てくるはずがない。
「ねぇ、美希さん」
「は、はい」
 言葉に詰まり、どうしたものかと考えていると、不意に早苗が美希に語りかける。顔を上げると、早苗はこちらをちらりと見て目配せを送っていた。
「美希さんの好きな食べ物って、なに?」
「あ、え、ええと……卵焼きと、大根のお味噌汁……。それから、たけのこを甘く煮たやつも好きです……」
「そっか、いいなぁ」
 柔らかく笑う早苗と、よくわからないといった表情で彼女を見つめる美希。そして文もまた、美希と同じ表情で早苗を見つめた。
 ほんの少しだけ、空気が変わったことを感じながら。
「私はね、ハンバーグとかエビフライが大好きだったの。あと、シーフードドリア。でも、それってこの幻想郷じゃ食べられないものばっかりだった。だから最初のうちは、そういうのが嫌だったなぁ……」
「食べられないんですか……? どこにでもありそうなのに……」
「ここにはほら、海がないでしょ? それに私は料理できなかったし、神奈子様も和食しか作れなかったから」
 その料理名は文も耳にしたことがある程度で、実際に味わったことのないものばかりだった。紅魔館や人里にあるカフェではその手の食べ物も時々供されているらしいが、それはきわめて希有かつ限定的な話だ。こんな山の上で食べられるとは考えにくい。なにしろここは、妖怪達の領域なのだから。
「それでも、私がわがまま言うわけにはいかなくて、ずっと我慢してたんだけど……ある日私、寝言でそれを言っちゃったみたいでね、そしたら翌日の朝、何が出てきたと思う?」
 クスクスと笑いながら、早苗は言葉を続ける。そこにはもう、あの重苦しい雰囲気はなかった。
「エビフライとハンバーグ、作ってくれたんですか?」
「ううん。川エビの唐揚げと、雉肉のつみれ。私の食べたかったハンバーグやエビフライとは似ても似つかなかったけど、それでも、嬉しくて美味しかったなぁ」
「エビフライと、ハンバーグのつもりだったんでしょうね。そういえば、私もこの前ご飯作れるようになって……」
 重苦しく垂れ込めていた空気が少しづつ軽くなり、二人の口からは自然と言葉が漏れるようになっていた。外の世界のこと、この幻想郷のこと、これまでのこととこれからのこと。趣味や主張や好みに交えて語られる彼女達の言葉は、まさに生きた言葉であり、生の声だった。
 二人の生き生きとした表情は美しく、特に美希は先ほどまでの沈み具合と打って代わって明るくなり、年頃の少女らしさが滲みだしている。
 文はそんな彼女達にやや見とれ、それから慌ててペンを走らせてゆく。紙に記載することの出来ない雰囲気を記憶に刻みつけながら、文は速記の技術をもう少し磨いておくべきだったと後悔していた。
「……それでは、最後に写真を一枚お願いします」
「は、はい」
 楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去り、気を利かせた神奈子がお茶を取り替えに来たときには、空はもう茜色に染まり始めていた。名残惜しくはあるが、余り長引くと記事がまとまらなくなる。
「美希さん、笑って笑って」
「え、あ……は、はいっ」
 射影機が映し出したのは、ぎこちなく笑う少女と、その隣で朗らかに笑う巫女。文はそんな二人の様子をファインダー越しに見つめながら、この特集の大当たりを確信していた。



「お二人とも、お疲れさまでした。私はこれから原稿をまとめてゲラ刷りを作ってきます。美希さんはどうします? もしお帰りでしたら私が……」
「あ、ちょこっと美希に用事があるんだ。二人とも、いいかな?」
 タイミングを計っていたのだろうか、静かに開いた襖の向こうから二人の神が顔を覗かせる。それを聞いて文と早苗は軽く頷き、腰を上げた。
「じゃあ文さん、少し送りますよ」
「ありがとうございます。それじゃ、私はこれで。新聞期待しててくださいね」
 満足そうな笑みと共に、文は美希の手に小さな封筒を乗せる。まだ使い馴れないコインであり、またこの世界の貨幣価値がはっきりと解っていない故正確な金額は解らないが、そこそこの額が入っているような気がした。
「あ、あの! こんなに……」
「そこまでの大金じゃありませんよ。一日付き合わせたお礼ですので、気にせず受け取ってください」
「え、えと……じゃあ、はい。ありがとうございます」
 取材もこの世界の相場もさっぱりな美希には、文の申し出を否定するだけの根拠がない。ましてこの取材を受けた理由が謝礼が出るという事であるならなおさらだ。封筒を小さく丸めて巾着に押し込み、美希は改めて文に頭を下げる。
「それでは、私達はちょっと出てきますけど……神奈子様、諏訪子様、くれぐれも美希さんを困らせないように。泣かせるなんてもってのほかですからね」
「解っているよ。大丈夫だ」
「厳しいなあ、早苗は」
 そっと頷く大きな神と、軽く笑ってみせる小さな神。二人の答えに満足したらしい早苗は、文を連れて部屋を出て行く。そして室内の空気が静まり返った頃、小さな神がそっと口を開いた。
「さて、と。まずは美希に謝らなきゃいけないね」
「私に?」
 予想外の言葉に、美希はまじまじと少女の顔を見つめてしまう。
 十かそこらにしか見えなかった彼女の表情は、いつのまにか得も言われぬ威厳と真摯さに満ちていた。
「悪いとは思ったのだが、襖越しに話は聞かせて貰ったよ。それから、ほんの少しだけ過去も見せて貰った。そして、元とはいえ外の世界の神として、一言謝罪をせねばなと思ったのだ」
 やや沈痛な面持ちの神奈子と、それを支えるように隣に座る諏訪子。恐らく二人が見たのは外の世界で自分が体験した事なのだろう。しかし、それが何故二人に関係しているのか、美希には皆目見当も付かなかった。
 何故なら、全ての要因は自分とその家族が作ったことなのだから。
「神は万能でも全知全能でもない。だから見落とすところや取りこぼすことがあるのは間違いないし、救われない魂が出てしまうのも事実。でも、それを言い訳にして正当化するわけにはいかない」
「いえ、お二人のせいではありません。誰のせいでもないんです……」
 自分の不幸を他人のせいにはしたくなかった。誰かを恨むことで楽になるのは簡単かもしれない。でも、それは何も生み出さないし、ただ自分が惨めになるだけだと解っていたから。
「神様のせいにしたことなんて一度もないですし、不運を恨んだこともないです。それに、うちはあんまりそういうことに熱心じゃなかったから……」
「美希、私達は外の世界を捨てて、ここへ身を窶したんだ」
 真摯な顔で語られたのは、三人がどのようにしてこの幻想郷へ移り住んだかと、その理由。神を忘れた人々と、それを見捨てた神の物語だった。
「私達は、人間は発展した科学と文明によって奇跡を忘れ、神の存在を蔑ろにしたのだと思っていた。でも、もしかしたら救いを求めても救われなかった魂が、信仰の妨げになっていたのかもしれない」
「そして、その魂が今目の前にある。で、あるならば、やはり我々は謝罪の一つもせねばいかんというわけだ」
「そ、そんな……やめてください! 私なんかに……」
 頭を下げようとする二人を慌てて制し、美希はやや大きな声を上げる。今の自分にそれほどの価値があるわけがないことも確かだが、それ以上に今ここでこの二人に頭を下げられたら、自分はあの陰惨な日々を神々のせいだと認めてしまったことになるような気がしてならない。それが美希には、どうしても耐えられなかった。
「熱心に神社に通ってたのならともかく、私はそんなことをしていません。まして、私は神隠しにあうために社の裏手に石を投げたんです。そんな罰当たりなことをしたのに、今こうして幸せに暮らしている方がおかしいんです……。だから、どうか気になさらないでください……」
「むむ、しかし……」
「じゃあさ、一つ交換条件にしようよ」
 名案を思いついたとばかりに、小さな神が笑顔を向ける。にこりと笑う彼女の顔は、無垢な少女のようでもあり、同時に何かを目論む大人の女性のようにも見えた。
 その時々に応じてコロコロと印象を変える少女。その多面性は、たしかに人間のそれとはかけ離れているように思え、美希はようやくこの少女もまた神なのだと淡い実感を抱く。
「じょうけん……?」
「そ。美希には早苗のお友達になってもらって、出来れば今夜一晩話し相手になって貰う。その代わり、私達は何か一つ美希のお願いを聞く。それでどうかな?」
「良い考えだ。早苗も良い気分転換になるだろう」
 諏訪子の提案に満足げに頷く神奈子。しかし、美希としてはそれが対等とは思えないし、まるで交換になっていない気がしてならない。
「お、お友達って……早苗さんの意見も聞いてませんし、第一、私なんかと友達になったって……」
「大丈夫だ。さっきはあれほど楽しそうに話していたではないか」
 神奈子の言葉に、ふと先ほどの取材の光景を思い出す。しかしあれはあくまで取材の一環。仕事と割り切っての付き合いと考えられなくもない。まして相手は自分よりも少しばかり大人の女性だ。余裕があって当然だし、表情を繕うこととて造作もない。
 何より、自分と話して楽しいことなどあるはずがない。
 あれば、霊夢はきっともっと笑っているはずだから。
「で、でも……」
「じゃあ、帰ってきたら本人に聞いてみよう。その間に、美希のお願いを聞いてみたいんだけど、何かある?」
「遠慮する必要はないぞ。まあ我々にも出来ることと出来ないことはあるが、神は約束を違えたりはしない」
 二人の期待の眼差しに、美希は僅かにたじろぐ。急にそんなことを言われても、願いなどそうそう思いつくものではないのだが、ここで何か言わなければ、二人は自分を解放してくれそうもない。美希は慌てて考えを巡らし、どんな願いがふさわしいか、必死で思い浮かべる。
「えと……、もし、泊まることになったら……、霊夢さんに……」
「それは私が連絡しておくよ。だからその心配はしなくて良いよ」
 思いついた願いを封じられ、美希はもう一度頭をひねる。まとまらぬ考えのまま記憶を掘り下げようとしても、思い出すのは先ほどの取材のことばかり。そこでふと思い出したのはハンバーグとエビフライというメニュー。
「あ、あの……、じゃあお願いが……」
「うん、なに?」
「あの……、お子様ランチ、作ってもらえませんか? 私もう一度あれが食べたくって……」



 帰って来るなり、早苗は二柱の神に質問責めにあった。あの少女と友達になれそうか、彼女が泊まるとしたら喜んでくれるかどうか。
 そして、お子様ランチとはどんな食べ物か。
 結局美希は一晩泊まって行くことになり、夕食はお子様ランチになった。
 もっとも、中身はチキンライスの代わりに炊き込みご飯。ハンバーグとコロッケと唐揚げはあったがエビフライの代わりに川エビの素揚げ。スパゲティの代わりに汁椀に盛られた一口分の蕎麦。それと何故か、卵焼き、筍のじぶ煮、大根のお味噌汁が添えられている。
 それはどう見てもお子様ランチと呼ぶにはかけ離れており、子供に出して喜ぶかと言われたら明らかに微妙すぎる代物だった。それでも、美希は心から喜び、そして米の一粒も残すことなく平らげた。
「ごちそうさまでした。お願い、叶えてくださってありがとうございます」
「この程度ならお安いご用だよ」
「まあ、お子様ランチとしては落第点な気もしますけどね」
 得意げに笑う二柱に、早苗は苦笑を交えて答える。これで願い事を叶えたつもりだとしたら、それはアバウトにも程がある気がしてならない。しかし、隣で満足げに微笑む少女の顔を前にして、もう一度やり直しとは流石に言えない。
 そして、この時間を作ってくれた神々に礼を言いたいのは早苗も同じなのだ。
「じゃあ神奈子様、諏訪子様、私達は湯浴みをしてきますから、後片付けをお願いいたしますね」
「わ、私も手伝います!」
「いいからいいから、行っておいで。うちの温泉は絶品だよー」
 やや強引に手を引き、諏訪子に見送られながら早苗は美希を案内する。その途中でふと気が付いたのは、彼女の着替えを用意していなかったこと。
「っと、美希さん、ちょっと寄り道ね」
「? は、はい……」
 案内した先は、普段使っていない衣装やもう古くなった衣類を収納した部屋。その一角にある押入を開き、早苗は頭を突っ込んであちこち探して回る。
「えーっと、確かこの辺に……あった!」
 お目当ての行李はずいぶんと奥まった場所に置かれていた。薄く積もった埃を払いながら蓋を開けると、中には懐かしいパジャマと下着類。それらは自分がまだ美希ぐらいの頃にお気に入りだったものだ。
「私のお古で悪いけど、よかったら使って?」
「で、でもこれ……、大切なものなんじゃ……」
 行李の中は和紙で覆われており、パジャマも下着も同じく和紙で丁寧に包まれていた。大切な思い出を封じ込めるように。
 仕舞っておいてくれたのは恐らく神奈子だろう。微かに匂う樟脳が、思い出と共に自分が大切にされている証のように思えて嬉しかった。そしてそんな大切な品だからこそ、早苗は美希に使ってもらいたかったのだ。
「昔ね、私は自分の境遇がだいっきらいだったの。神様がどうとか、信仰がなんとかなんてちっとも興味なくて、みんなと一緒に遊んでいたかった。普通の女の子で居たかったの……」
 小さい頃の自分は、いつも泣いていたような気がする。厳しい修行、学校でのいじめ、親族からの期待。そんな重圧に耐えきれなくなると、早苗はいつも部屋の片隅で膝を抱え、誰にも見られないように背中を向けて泣いていた。
「私が泣くとね、諏訪子様も神奈子様も、困ったような悲しい顔をするから。でも、ある日本当に虫の居所が悪かった日があって……」
 その日は何故そんなにいらいらしていたのか、もうよく覚えていなかった。おぼろげな記憶の中でただ一つだけはっきりしていることは、いつものように困った顔をした二柱の神に叩きつけた一言。

『かえるもへびもだいっきらい! きせきなんかいらない! かみさまなんかみえなくていいもん! みんなみんなだいっきらい!!』

「ランドセルを投げつけてね、それから、それだけ言って私は自分の部屋に閉じこもったの。おかしいでしょ? 神様を閉め出すなんて、絶対出来ないのに」
「早苗さん……」
 その日、早苗は本当に誰とも会おうともせず、食事も一切口にしなかった。ただひたすらに泣いて、そしてそのまま泣きつかれて眠りについた。自分の生まれた境遇と、その不幸を恨みながら。
「あのときは本当に辛かったなぁ。誰も自分のことを解ってくれる人なんて居ないんだって、思いこんで、ふさぎ込んで……。でね、朝起きたらこのパジャマが置いてあったの。ごめんねって書かれた小さなメモと一緒に。それが諏訪子様の字だって、何故かそのときの私には直ぐ解ったんだ」
 蛙の神様が与えてくれた、子猫の柄のパジャマ。それは諏訪子の精一杯の気持ちだったのだろう。そして、そのパジャマを選ぶとき、諏訪子はどんな気持ちだったのだろうか。今考えただけでも胸がじわりと暖かく、それでいて心が締め付けられるような気持ちになる。
「私の境遇なんて、美希さんに比べたら大したことのない、わがままみたいなものだけど……それでもね、ちゃんと見てくれる人も、味方もどっかに居て、そして、いつか私みたいに昔話として話せるようになると思うんだ。だから、今はもうちょっとだけ耐えて、頑張って。ね?」
「早苗さん…………」
「ちょっと辛い取材だったよね……。今はきっと、思い出すだけで胸が苦しくなると思う……。でも、大丈夫だよ。誰も貴女のことを悪く思ったりしない。私もみんなもちゃんと解ってるから。それに、きっと霊夢さんも貴女を心配してくれてるから……」
 何も言わず俯く彼女を抱きしめ、早苗はそっと言葉を紡ぐ。腕の中の美希は、早苗の裾を強く掴んだまま、その頬を肌に寄せていた。
「ごめんなさい。私、なんか悪いことしてるみたい……」
「どうして?」
「だって、諏訪子様と神奈子様にお子様ランチを作って貰う代わりに、早苗さんの話し相手になるって約束だったのに……、私が慰められちゃって……えへへ……」
 やや困ったような、それでいて嬉しそうな笑顔を向ける美希。彼女の瞳は潤んでいたものの、双牟から涙が零れる程には至っていなかった。辛い過去を持ち、華奢な肩をした小柄な少女の健気な強さが、潤んだ瞳に輝いて見える。
「じゃあ、お風呂と布団で、霊夢さんのこととかいっぱい聞かせて貰っちゃおうかな。覚悟しておいたほうがいいわよ?」
「お、お手柔らかにお願いします……」
 パジャマを胸に抱き、頬を赤らめながら答える美希。やはりこの少女は、笑顔の方が何倍も似合っているような気がしてならない。
 そんな彼女に微笑み返しながら、早苗はその笑顔が永遠のものになれば良いと切に願い続けていた。



 リボンを解き、髪を梳く。布団の上に座し、静かに。
 しかし、その隣には誰も居ない。
(やっぱり帰ってこなかった……)
 夕方、妹紅が帰った後に分社から顔を出した諏訪子が告げたのは、美希を一晩預からせて欲しいとの申し出だった。霊夢としては断る理由も見当たらず、ただ一言、彼女がそれを望むならと付け加えてから首を縦に振った。
 そして今、美希は霊夢の隣にいない。
 無論、ある程度の予想はしていた。彼女が取材を受けたいと申し出たときから、今晩は一人寝になるのだろうと考えていた。
 しかし、それを望んでいたわけではない。
「……ばかばかしい。あんな居候、別に…………」
「そうやって自分の心に嘘をつくから、鬼達は人から離れていったのさ」
 やや酔ったような、それでいて真面目な声音が突然耳に飛び込んでくる。夏の盛りからすっかり聞かなくなったその声は、どこか懐かしく、それでいて苛立たしい。
「萃香?」
「やあ久しぶり。新しい神社の住み心地はどう?」
 鬼。
 かつて人の傍にあり、人と共に暮らし、人を襲い、人から忘れられ、人の元を離れた強く悲しき存在。その鬼の一匹が、今霊夢の目の前にいる伊吹萃香である。
「あんた一体今までどこに……」
「忘れたの? 私はどこにでも居てどこにも居ない。って」
 伝承によりその姿は様々だが、萃香は美希よりも尚幼い、少女の如き姿をしていた。尤も、それが彼女の本来の姿であるとは限らない。何故ならこの小さな鬼の能力は疎と密を操る能力。己の身体を霧のごとく変える事も、山よりも大きくすることも、逆に岩よりも堅くすることも、豆粒よりも小さくすることも可能なのだ。恐らく姿を変える程度の事は、造作も無いだろう。
「そんなことより、どうして霊夢は自分に嘘をついてるのさ。別に誰を好きになったって勝手でしょ?」
「私は巫女よ。何かにかまけて肩入れをするわけには……」
「いかないって決めてるのは、霊夢だけだよ」
 突き刺すような言葉を投げつけられ、霊夢は思わず目を逸らす。己の信念のゆらぎを、見透かされないために。
「……違うわ。私はこの世界を支える者。私の存在は結界と幻想郷の為にある。それに、別に私はあの子のことを何とも……」
「何とも思ってないなら、今までみたいに外の世界か人里に突っ返せばいいじゃない」
 言葉に詰まり、言い返せない。そして、顔を見ることすらも出来ない。
 萃香の言うことは正しい。本当に平等であるなら、里にでも外の世界にでも投げ捨ててくればいい。この世界の住人は守る必要があるが、彼女は所詮外の世界の人間。霊夢が保護する理由はない。そして彼女を傍に置き続けることは、霊夢の信念にも反する。
 しかし、彼女とは約束がある。自分が守ると言ってしまった約束が。
「……約束が、あるのよ。美希は私が守らなきゃいけないの」
「なら、もう自分の信念を貫く必要はないじゃない。矛盾してるんだからさ」
 心なしか、萃香の言葉にも苛立ちが混じっているような気がした。やや荒い、珍しく性急なその口調から感じる苛立ちは、霊夢の心もささくれ立たせてくる。
「うるさい! 私達人間はあんたらみたいに単純に出来てないのよ! 一か零かで物事を判断しないで頂戴!!」
 激昂して立ち上がり、萃香を見下ろしながら怒鳴りつける。無論それが威嚇にすらならないことは、誰に言われずとも解っている。
 霊夢が本当に苛立たしく思っていたのは、自分に対してなのだ。
 彼女の気持ちに気が付いていて、自分の心の内にもそれに答えたい気持ちがある。しかしどうしてもそれに素直に従うことが出来ない。
 そしてその理由は、自身の役割だけに限ったことではない。
 彼女は素直で純粋であり、真綿のように物事を吸い込み、受け入れる。そんな彼女が自分を見ていてくれるのは、鳥の子が刷り込みをするように、命を助けた自分に恩義を感じている、たったそれだけの理由なのではないだろうか。
 そして、彼女の思いを受け入れることは、真っ白な真綿に色を着けてしまうかのように、彼女の心を己に縛り付けてしまうのではないだろうか。
 そんな考えが頭から離れなかったからなのだ。
 神社の生活はお世辞にも便利とは言い難い。訪ねてくるのは妖怪ばかりで人は珍しく、気まぐれに現れる連中も普通ではない。
 何か欲しいものがあっても、病に倒れても、里は遠く、その道は険しい。空も飛べない彼女ではたどり着く前に野良妖怪に襲われるのが関の山だ。
 自分と共に暮らすというのは、そんな世界に縛り付けてしまうのと大差がない。だからこそ霊夢は外の見聞を広げる機会を彼女に与え、そして同時に、彼女の心が己の色に染まらぬよう、出来る限りの出会いの機会を用意したのだ。
 しかし、それは同時に美希の心が誰かの色に染まってしまう可能性を与えている。
 現に彼女は、一つ何かと触れ合う度に大きく変化し、成長している。自分ではない、誰かの影響を受けて。
 それが霊夢が素直になることの出来ない、もう一つの理由。
「複雑にしてるのは人間の方さ。お互いに素直になれば簡単なことなのに、それが出来ないからごちゃごちゃになる。違う?」
「解った風なことを言わないで!!」
 枕を掴み、叩きつけるように投げつける。しかし激情に任せた霊夢の一撃は、まるでそこに何もなかったかのように萃香の身体をすり抜け、畳の上にむなしくも激しい音を響かせる。
「わからないね。霊夢が何に縛られてるのか。そして、なんで大切な存在をわざわざ泣かせてるのか。理解したくもないよ」
 決別とも取れる、冷たい響きの言葉。そんな声を残して小さな鬼の身体はまるで煙のように消えて行く。
 己が居たという痕跡を消し去り、まるでそこには初めから誰も居なかったかのように。
 萃香の言葉は憎しみ故に向けられたものではない。彼女は彼女なりに二人の身を案じ、穏やかな日々が過ごせればよいと考えていたのだろう。
 しかし、その真意を汲み取るには、霊夢の心はやや幼すぎたのかも知れない。
 遠くで落ちる雪塊の音を聞きながら、霊夢は強く拳を握りしめていた。



「おはようございます……」
「おはようございます、神奈子様、諏訪子様」
 眠そうに目を擦りながら顔を出した美希と、その隣でいつも通りしゃきっとした顔の早苗。二人の纏う空気は、何時にも増して穏やかに見える。
「やあおはよう。昨日はよく眠れた?」
「それが、なんだかついつい話し込んでしまって……」
「ごめんね、私が寝かせなかったみたいで」
「い、いえ! とっても楽しかったですし……。私の方こそ長話しちゃって」
 やりとりは何とも言えず微笑ましく、昨夜の二人は良い時間を過ごせたようだった。どうやら彼女を引き留めたのは正解だったらしく、諏訪子としても娘がいつも以上に明るくしているのは、喜ばしい限りである。
 早苗は諏訪子と神奈子の血を引いている。直接の娘というわけではないし、長い歴史の中で神々の血は薄れてしまっているが、それでも子孫であることに代わりはない。
 そしてその子孫に、一時とはいえ辛い過去を強いてしまったことを、諏訪子は僅かに後悔していた。
「懐かしいね、そのパジャマ」
「すみません、諏訪子様。無断で使ってしまって……」
 たった一度だけ、早苗が吐露した己の辛さ。その証である寝間着を、今別の少女が身につけている。早苗とは違う、別の苦渋を背負った少女が。
「いいよいいよ。早苗には小さすぎるし、物は使って貰ってこそだからね」
「はい。それに、私がこのパジャマで悲しみを乗り越えられたみたいに、彼女も辛い出来事を過去の物に出来たらなって……そう思いまして……」
 照れくさそうに笑う早苗の表情に、諏訪子は驚きと共に深い喜びを感じていた。
 彼女がこのパジャマを着るのは、自分の辛さを解ってくれたのだという喜びからだと思っていた。もしくは、これを身につけているときだけは、己の使命を忘れられるからだと。
 しかし、それはどうやら諏訪子の思い違いだったらしい。
「諏訪子様と神奈子様は、私をちゃんと見てくれている。私を大切にしてくれている。そんな思いが、このパジャマには詰まっていたような気がするんです。私はもうこのパジャマが無くても、諏訪子様と神奈子の気持ちを理解してますし、私もとても大切に思っています。だから、今はその思いで美希さんを包んであげたいなって……」
「じゃあ、そのパジャマは美希にずっと使って貰ったらどうだ?」
 いつの間に話に加わっていたのだろう。柱の陰からひょっこり顔を出した神奈子が、やや楽しげな笑みを浮かべながら提案を投げかける。どうやら自分たちは、思っている以上の似たもの夫婦らしい。
「今それを言おうと思ってたところ。私たちの気持ちを押しつけちゃうみたいで申し訳ないけど、美希さえ良ければ貰ってくれないかな」
「で、でも……これは……」
「私からもお願い。お古で申し訳ないけど、とってもよく似合ってるし、このまま仕舞っておいてもだめにしちゃうだろうから」
 どれだけ大切にしていても所詮は衣服。虫に食われるか、布が劣化して使い物にならなくなるまで箪笥の肥やしとして眠り続けるだけだ。もしくは早苗か神奈子か、あるいは自分が腹を痛めて子を産むときが来るかも知れない。しかしその子がこの寝間着に袖を通せるほどになるまでには、少なくとも十数年の歳月を有する。なにより、その子が娘であるとは限らないのだ。ならば今使える者に、幸せになって欲しいと願う者に譲るのが道理と言うものだろう。
「こらこら、三人で詰め寄っては強要してるのと変わらんではないか。美希、もし気に入らなければはっきり言ってかまわんぞ? こういうものは使って貰わねば意味がないからな」
 期待の眼差しを向ける自分と早苗を窘めた後で、神奈子は母のような穏やかな声音で美希に語りかける。割烹着を着て、菜箸を手にしたままで。
 これでも神奈子は、かつて自身を打ち負かした軍神であり、祟り神を屈服させた蛇神でもある。彼女の本気は天を揺るがし、海を割る。
(まあ、人のこと言えた義理じゃないけど、そうは見えないよね)
 口には出さず、彼女の横顔を見つめながら、諏訪子は心の中で呟く。
 姿に似つかわしくない力を備えているのは、自身もまた同じである。祟りという恐怖によって人々を縛り、大地と水を操って国の創世から関わってきた地の神。それが洩矢諏訪子の真の姿なのだ。己を偽っている訳ではないが、やはり本質からは想像つかない姿をしている事に間違いはない。
(やっぱり、似たもの夫婦か)
 微苦笑を漏らし、再度美希の方へと向き直る。どうやら、結論が出たらしい。
「じゃあ、無駄にするのももったいないですし……遠慮なく……」
 やや躊躇いがちに答え、美希は改めて礼を言いながら頭を下げる。その返答に一番喜んだ顔をしたのは、他ならぬ神奈子だった。
「よしっ! そうと決まったらこの際だから、早苗が入らなくなった下着も……」
「それはだめですっ! っていうか、何でそんなものまで取ってあるんですか!!」



 正午より少し前、美希は早苗と共に博麗神社へ続く階段の下に居た。
「それじゃあ、私はこの辺で」
「はい、ありがとうございます。お世話になっただけじゃなくて、洋服もいただいてしまって……」
 美希の左手には大きな風呂敷包みが一つ下がっている。
 朝食の後、美希は早苗達と共にあの押入のあった部屋に案内され、幾つもの衣服を譲り受けた。中には殆ど袖を通していないものや、自分には不釣り合いに思えるようなドレスのような衣装も。
「とんでもない。古着ばっかり押しつけちゃってごめんね?」
「いえ、大事に使わせてもらいます。本当に助かります」
 今美希が使わせて貰っているのは神社にある巫女服のみ。換えはそう多いものではなく、冬の今時分だから間に合っているものの、雨が続いたり暑い盛りになれば、着替えが不足するのは目に見えている。これから先のことを考えれば、衣類はあればあっただけ良いはずだ。
「……不思議ですね。ちょっと前までは、夏の事なんて考えることも出来なかったのに」
「美希さん……」
 ほんの一ヶ月ほど前の自分は、明日のことすら考えられなかった。夢想をしたところで、待っているのは辛い現実のみ。救いの手は存在せず、空虚と陵辱が繰り返される日々に耐えるより他に道はなかった。
 しかし、今の自分はどうだろう。寝る前には明日のことを考え、朝起きれば夕方まで何をするか予定を立てる。これから先何を学ぶべきかを思案し、数ヶ月後に訪れる暖かな日々に思いを馳せている。
 未来への希望、生きることの喜び、心の暖かみと、大切な人。満ち足りたと言うにはまだまだかも知れないが、少なくとも今の美希は幸せであり、その手と心には、形のない確かなものが握られている気がした。
「私はこの幻想郷に来て、たくさんの人たちと出会いました。みんなみんな、とても優しくて、暖かくて、そしてこんな私にものすごく良くしてくれました。今はまだ、ご恩を返す程の何かがあるわけじゃないんですけど……もう少し余裕が出来たら……少なくとも、霊夢さんに役に立ってるって思われるぐらいになったら、少しづつでもお礼をしていきたいと思います。もちろん、早苗さんにも」
「ありがとう、今はその気持ちだけで十分。だからまずは、大好きな霊夢さんに……ね?」
 早苗の言葉に、頬が赤くなるのを感じる。耳に火がついたように熱くなり、自分が今どんな顔色をしているか、確かめなくとも解るぐらいに火照っている。声に出す代わりに小さく頷いて返事をすると、早苗はその頭を優しく撫でてくれた。
「頑張ってね。私、応援してるから」
「は、はい……がんばります……」
 言葉を聞いて満足げに微笑んだ早苗は、小さく拳を作ってこちらにそれを向けてくる。何となく意図を察した美希もまた同じように拳を作り、それから二人は、それを軽く突き合わせて笑う。
 映画のワンシーンのような、かけがえのない友人とのやりとり。以前は想像すら難しかった行為を、今自分が実践している。それがたまらなく嬉しくて、美希は赤い顔のままで、満面の笑みを早苗に向けた。
「じゃあ、私はそろそろ行くね。身体に気をつけて、風邪なんか引いちゃだめよ?」
「はいっ、早苗さんもお元気で」
 風を纏って浮かび上がる早苗を見送り、美希は一つ一つ石段を上る。あの鳥居の向こうには見慣れた神社と日常があり、そこには霊夢が居る。帰ったらまず何から話そうか、それとも休んでいた分家事を頑張ろうか、そんなことを考えながら、一つ一つ。
「霊夢さん、ただいま帰りました」
 石段を登りきるよりも早く、そのリボンと背中は目に入った。鳥居の向こうの彼女は、いつものように赤いリボンを揺らしながら、いつものように境内を掃除している。
「おかえり。一人で帰ってきたの?」
「あ、いえ。下まで早苗さんに送っていただきました。文さんはまだ忙しいみたいだったので……」
「そう」
 帰ってくるのは素っ気ない返答。余りにも冷たく、突き放すような声音に身が竦み、言葉に詰まる。
 まだ彼女は、自分が取材を受けたことを怒っているのだろうか。浮かびそうになる涙を堪え、美希は次の言葉を投げかける。
「あと、早苗さんからたくさん洋服をいただきました。これで雨が続いたりしても、困ること無さそうです」
「そう、よかったじゃない」
 霊夢はまだ、こちらを向いてはくれない。箒の手も止めず境内を掃くその背中に、美希は高く大きな壁のようなものを感じていた。
 愛想の悪さはいつものことだ。むしろ彼女が笑顔を振りまいている所など、想像もつかない。やや呆れたような口調と、気だるそうな言葉。そして憮然とした表情。これがいつもの霊夢であり、此方を見ずに会話をするなど珍しくも無い。しかし、いつもの彼女の背中にある暖かさが、今はまるで感じられない。
「あ、あの…………勝手に取材受けちゃって…………ごめんなさい……」
「別に。そんなこと怒って無いわよ」
 言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。何か悪いことをしてしまったのだろうか、洩矢神社とは仲が悪いのだろうか、それとも、自分が留守の間に何かあったのだろうか。次から次へと浮かんでは消えてゆく考えが、どれも当たっているようであり、一つも当たっていないようにも思える。零れ落ちそうになる涙を必死で堪えながら、美希は慌てて次の言葉を捜した。
「あ、あの……! そういえば……、この前の分、お返しします」
「なに?」
 振り向いた顔に、美希は思わずびくりと身を竦める。これまで受けてきた経験がそうさせるのだろう。悲しいかな、彼女は余りにも敏感だった。
 怒りや苛立ち、敵意といった負の感情を持つ表情に。
「あ、あの…………。橙さんのお礼……私がしなきゃいけないのに、霊夢さんに出してもらっちゃってたんで……。それで、取材費用いただけたんで、それで返そうかなって……」
「そんなことの為に……あの取材を受けたって言うの?」
 巾着からお金を取り出し、枚数を数えてから差し出す。しかし霊夢はそれを受け取ろうとせず、苛立ちが露になった、それでいてどこか悲しげな問いを投げかけてくる。彼女の表情は、顔にかかる髪と鳥居の影で、はっきりと見ることが出来なかった。
「は、はい…………。思ってたより多くもらえたので…………これ……」
「そんなもの、いつ私が請求したって言うのよ!!」

 バシッ

 差し出された手は、霊夢の右手で大きく払われた。参道の石畳に硬貨が飛び散り、乾いた音をけたたましく鳴り響かせる。
 一瞬見えた霊夢の表情は、泣き顔そのものだった。
「…………あんたを養ってくれるところはいくらでもあるわ。明日までに自分がどこへ行くか、考えなさい」
「れ、霊夢さん…………」
 叩かれた手は熱を帯び、それ以上に冷たい風が心に沁みる。散らばった小銭を拾うことも、境内へと歩いてゆく霊夢の背中を追うことも、美希には出来なかった。
 霊夢の言葉もその理由も、今の美希には理解ができず、そして受け止めることもできない。
 少しづつ、本当に少しづつ積み上げた幸せが、その手と心に握り締めてきた暖かみが、散らばった硬貨と共に地に落ち、そして消えてゆく。
 心に小さな穴が開き、そこへ向かって全てが堕ちてゆく。そんなどうしようもない、どうすることもできない喪失感に呆然としながら、美希はただただ、静かに涙を流し続けた。

 ちらりちらりと舞い始める雪を、払うことも出来ずに。

続く



[11779] この手の中にもう一度
Name: Grace◆97a33e8a ID:5d8d086d
Date: 2010/10/03 02:13

 色即是空
 空即是色

 形有る物は何れ壊れ
 手にした物は何れ失う

 いつか失うのなら
 いつ失っても変わらない

 そう思っていた


 私には
 大切な物なんて
 一つだってありはしなかったから


 でも
 今は違う

 胸が苦しくて
 何も考えられない

 大切な物を
 失ってしまったから

 ねぇ
 教えて

 貴女も、同じ想いをしているの?



   『この手の中にもう一度』


 残雪が残した水たまり。そこに落ちた巾着を拾い上げ、散らばった小銭を集める。
 落としたお金は幸い一文たりとも失うことはなかったが、それでも美希の嗚咽は止まらない。
「……ひぐっ、ぐす……っ」
 朱塗りの鳥居の足下に腰を下ろし、膝を抱えて泣きじゃくる。傍に霊夢の姿はない。
 彼女から告げられた、突然の別離。その言葉に、美希はただただ泣きじゃくることしかできなかった。
 自分は現在、この博霊神社の居候である。満足に働いているとは言えず、家賃を納めているわけでもない。何より、この神社の主は霊夢であり、その主が出ていけというのであれば、逆らう余地など有りはしなかった。
 昼だというのに辺りは暗く、空からは大粒の雪が舞い落ちる。肩や髪に張り付いたその雪はゆっくりと溶け、美希の体温を確実に奪う。しかしそれでも、彼女は動こうとしなかった。
 悲しみに暮れる心は、命の危機すらも麻痺させてしまっていたのだ。
「そんなところで雪だるまになる気?」
 耳慣れぬ声と共に、暖かい炎が足下に灯る。
 おずおずと視線を上げた先に居たのは、ねじくれた角を持つ少女だった。
 炎は彼女が灯したのだろうか。枝も落ち葉も集められて居らず、参道の石畳の、何もないところで柔らかく暖かな光を放ち続けている。
「よかった。まだ息があったみたいだねぇ」
 角には小さなリボン。袖を破り捨てたブラウスの様な上着に紺色のスカート。それから、あちこちにぶら下がっている鎖と、大きな紫色の瓢箪。
「………………?」
「大丈夫? 冷えきって言葉も出ないかな?」
 大きな金色の瞳がじっとこちらを覗き込む。問いかけられているのが自分だとようやく気が付いた美希は、慌てて頭を振って答える。
「だ、だいじょうぶです……。ありがとうございます……」
「礼を言う必要はないよ。何せ原因を作っちゃったのは、私だからさ」
 申し訳なさそうに呟き、彼女は小さく頬を掻く。幼い風貌の割に年寄り口調の彼女もまた、幻想の存在なのだろうか。年経た樹木を思わせる角を持つその少女は、明らかに重そうな鎖と分銅をまるで気にしていないようだった。
「原因……?」
「うん。ちょっと焚き付けちゃってさ……この通り、申し訳ない!」
 両手をあわせて深く頭を下げる少女。どうやら霊夢があのような態度に出た原因は、彼女にあるらしい。
 しかし美希は、それを咎める気にはならなかった。
「いえ、私の方にもきっと原因があるんです。だからどうか、顔を上げて下さい……」
 舞い落ちる雪よりもなお小さな声で答え、美希は無理矢理に笑顔を作ってみせる。
 霊夢の怒りの矛先はこちらに向いており、別の人物の名前などは出てこなかった。ならばやはり原因は自分にあると考えるのが筋だろう。たとえ違っていたとしても、確証もないのに初めて会う少女に何かを押しつける気にもなれない。
 そんなことをしても、結局何も変わらないのだから。
「……あんたみたいのがいっぱい居たら、私ら鬼も人から追われなくて済んだのかもね」
 彼女の小さな呟きで、美希はその頭の角が鬼のものであることを認識する。鬼といえば赤か青か黄色の肌をして、見上げるような巨体にパンチパーマの頭と角。トラ柄のパンツにとげのついた金棒というイメージしかない。しかし早苗が文のことを天狗だと言っていたことを思い出し、これが本来の鬼の姿なのかもしれないと考える。何しろここは幻想郷なのだ。今までの常識が通じると思ってはいけない。
「私は…………ただ、弱いだけです…………」
「弱いが故に純粋で、繊細だから壊れやすいのさ。まあ壊しちゃったのは私だけど……」
 申し訳無さそうな彼女の最後の一言に、美希はまた小さく首を振り、そして涙を零した。
 何がいけなかったのか、どうすればよかったのか、考えても答えは出ない。そして、ここに居ても何も変わらない。解りきった事だけにその事実は辛く重く、心に圧し掛かって離れなかった。
「……名前を言ってなかったね。私は伊吹萃香。萃香でいいよ」
「……萃香、さん……?」
 名前を呼ぶと、萃香と言う鬼は満足げに笑って大きく頷いた。その笑顔はまさに少女そのもので可愛らしいが、それを楽しむ余裕は、残念ながら美希には無い。
 表情の晴れぬ自分に困り果てたのか呆れたのか、彼女は笑顔を苦笑に変え、やや悲しそうにしながら言葉を紡ぐ。
「何のお詫びにもならないだろうけどさ、何か一つ協力させてもらえないかな? あ、もちろん霊夢の機嫌を直すのはやるよ? それ以外に何か……無い?」
「…………でしたら、私を紅魔館という場所へ連れて行っていただけますか?」
「……こーまかん? なんだってまたあんなとこへ……」
 彼女の申し出にふと思い出したのは、藍の言葉と紹介状だった。彼女が渡してくれた紹介状は今も巾着の中に納まっている。巾着自体は泥水にまみれて汚れてしまったが、中まで水が染み込んでいるような気配はなかった。小さな封書を取り出し、それが水を吸っていないことを確認してから萃香に差し出して見せる。
「藍さんから紹介状を頂いてるんです……。ちゃんとお仕事をさせてもらえるようにって…………。だから…………」
 白玉楼へ行っても永遠亭へ行っても、自分が居候であることに代わりは無い。八雲の家には橙が居る。藍ならば自分を娘のように迎えてくれるかも知れないが、あの幸せな家庭を壊すような真似はしたくない。何よりどこへ行っても訳を聞かれ、話せば霊夢との経緯まで語る事は目に見えている。そして自分が責められるのならともかく、もし霊夢が責められてしまったら。そう考えるとやはり既知の場所へは厄介になりたくなかった。それに紅魔館で仕事をもらえれば少なくとも居候では無くなる。この部分は気持ちの面でも立場的にも大きい。何より霊夢に心配も苦労もかけなくて済む。
「よしわかった。そこまで連れて行くついでに、私からも口添えしようじゃないか。そうと決まれば出発出発! ここでじっとしてたらほんとに風邪どころじゃすまなくなっちゃう」
 やや大きな声でそう言い放った萃香は、封書を返してから軽々と美希の身体を抱え上げて宙に舞う。
 少しづつ遠ざかり、雪の向こうに消えてゆく神社。それはまるで、自身の小さな恋心に幕引きをされているかのようだった。



 冬のさなかの立ち仕事。しかも屋外ともなればその辛さは生半可なものではない。
「さ、さむい……っ! 何だって今日の雪はこんなに重いんだ……」
 背筋を伸ばし、正面を見据えてしっかりと門を守る。
 進入者を何人も寄せ付けぬ心構えは態度と姿勢に現れる為、門番とは常に身を正していなければならない。
 しかし、やはり門番とて生き物である。暑い日はだれやすいし寒い日は身を丸めたくなるのが当然だ。
 尤も、この中華妖怪紅美鈴はその様に律していることの方が珍しいわけだが。
「鈴仙に上着とマフラー繕って貰ってなかったら凍え死んでるかも……早く夜になれーっ」
 情けない叫びを上げつつ身をちぢこませて肩を震わせる。
 中途半端に気温が高いせいだろうか、降りしきる雪はいつもより粒が大きくべたべたと髪や服に貼り付く。そして払い落とす前に溶けて染み込み、体温を奪ってゆく。こんな日に元気なのは冷気を操る妖怪とおつむの緩い氷精ぐらいのものだろう。彼女が夜の到来。すなわち終業時間を望むのも仕方ない。
「おー、相変わらずサボってるねー」
「サボってないっ! っていうか誰だ!」
 頭上から降り注ぐ声に慌てて天を見上げる。しかし鼻先めがけて落ちてくる雪が視界を遮ったために、その正体を確認することが出来なかった。慌てて雪を払いのけた頃には、相手は既に自身の目の前。これではサボっていると言われても仕方ないのかもしれないと内心落胆をする。
 声の主はあちこちをふらふらしている酔いどれ鬼の伊吹萃香だった。そして、おそらく彼女の妖術で作り出しているのだろう岩の座布団を抱えて飛ぶ数匹の小さな分身と、その上にやや申し訳なさそうな表情で座る人間が一人。
「やぁ門番久しぶり。いつぞやの宴会以来かな?」
「パーティの度に勝手に入ってきてるでしょうが……。今日は別に催しもなければ酒も出ませんからね」
 この小鬼はどこをどう守ろうとお構いなしで、いつの間にか屋敷に上がり込んで酒を飲んでいる。宴会というと必ず現れ、それ以外では探そうとしても見あたらない。どこからともなく酒の匂いを嗅ぎつけて現れ、しこたま飲んでいつの間にか消え去るのだ。
 尤も、彼女の場合はあの魔女と違って実害が殆ど無い為、自分が咎められるようなこともないわけだが。
「酷いなぁ。人を酒しか興味ないみたいに言って」
「事実そうじゃないですか。それに貴女は人じゃないでしょうが……」
 煙に巻くような口調に辟易しつつ、美鈴はため息を吐いてからもう一人の人間の方を見やる。
 長く伸びた黒髪に紅白の巫女衣装。憂いと戸惑いを湛えた瞳は落ち着きが無く、所在なさげにしながらおずおずと岩の座布団から身を下ろす。自身の予想が正しければ、彼女はおそらく鈴仙が語っていた霊夢のお気に入りだろう。
「で、今日の用事は何ですか? まさかその人間をここで働かせようとか、そんなつもりじゃないでしょうね」
「お、よくわかったねー。察しが良くて助かるよ」
「やっぱり……ってはぁ!? それ正気で言ってるんですか!?」
 思わず声を荒げて萃香を睨む。一番あり得ない冗談を言ったつもりが図星だったのだ。美鈴の動揺は無理もない。
 紅魔館は吸血鬼の屋敷である。内部は悪魔と妖精の住処であり、屋敷の主は吸血鬼の姉妹。おおよそ普通の人間が暮らしていられるような場所ではなく、ともすればそれなりの危険が伴う。業務中に命を落としたとて、恐らく誰も驚かない。そんな館なのだ。ただの人間がわざわざここで働こうなど、狂気の沙汰としか思えない。
「あ、あの……。紹介状は頂いてます……」
 おずおずと彼女が差し出したのは、小さな封書。その表に書かれた署名は、あの八雲家の式のものだった。
「う、うーん……本物っぽいけど……しかし、こういうことは私の一存では決められないよ。咲夜さん呼んでくるから、ちょっと待ってて」
 屋敷の業務はメイド長である十六夜咲夜が取り仕切っている。門番の自分は当然彼女の部下であり、当主姉妹は由無しの全てを咲夜に任せている。当たり前と言えば当たり前だが、こういった事は全権を一任されている彼女以外には決められない。
「あ、あの……わざわざすいません……」
「仕事だから、大丈夫」
 門の近くにいた妖精に声をかけ、咲夜を呼んできてくれるようにと頼む。多忙な彼女を呼びつけるのはやや心苦しいが、主や咲夜の許可無しには、何人たりともこの門をくぐらせるわけにいかない。それが門番という職務なのだ。
「本当は早く屋敷の中に入れてあげたいんだけど、今はこれで我慢してね」
 青い顔で小さく肩を震わせる少女に、美鈴は上着とマフラーを脱いで肩に掛けてやった。どちらも重くやや湿ってはいるが、無いよりはましだろう。
「だ、だめです……! 上着もマフラーも、濡れちゃう……」
「濡れたら乾かせばいいよ。それにもう雪で湿っちゃったから、後でどのみちお洗濯だもの。だから気にしない気にしない」
 戸惑い、遠慮する彼女に美鈴は軽く笑い掛け、彼女の風上に立ってその細い肩を抱き寄せる。萃香も小さな炎で周囲を暖めようとはしているが、やはり雪の冷たさや時折吹き込む冷気を完全に防ぐようなことはできないらしい。鬼の妖術とて、万能ではないのだろう。
 恐らく、咲夜はこの少女を雇い入れる。狐と鬼を拗ねさせても得られる物はないだろうし、神社の巫女に恩を売っておくのは悪くないはずだ。その巫女が見当たらないことや、彼女が時折泣き出しそうな表情をしていることなど、疑問は幾つかあるが、それは雇い入れが決まってからそれとなく訪ねれば問題ないと考えるだろう。
「すみません……ありがとうございます」
「いいからいいから。雇ってもらえるようには、私からもお願いしてあげるから。もう少しだけ我慢してね」
「は、はい。ありがとうございます……」
 杞憂だとは思うが、もしもの際は自分も口添えをしよう。美鈴はそう心に決めていた。
 それは彼女の憂いを湛えた瞳にほだされたというのもあるが、やはり一番の理由は鈴仙が語った彼女の人柄に興味を持ったからに他ならない。
 鈴仙は彼女を『幾度と無く汚されながら、純粋で透明な心を持つ少女』と評していた。鈴仙はそれ以上深くは語らず、美鈴もまた多くを訪ねようとはしなかったが、彼女が鈴仙と似たような境遇を持っていることはその言葉と表情から容易に想像する事が出来た。
 今、鈴仙は笑顔の内に居て幸せな日々を過ごしている。
 ならば、彼女が幸せになれない理由はどこにもなく、鈴仙にそうしたように、彼女にもまた笑顔で居られる出来る限りの手助けをするべきなのだ。
 小さく震える彼女の肩をしっかりと支えながら、美鈴は彼女がこの館で出来る限り笑顔で居られるように、そして小さくとも幸せを感じることが出来るように協力をしてあげようと、強く心に誓っていた。



「……なるほど。確かに八雲藍直筆の紹介状のようですね」
 通された屋敷の一室。明々と灯る暖炉の炎が暖かく、ふわふわとした柔らかい毛布も冷たい身体を暖めてくれて心地よい。しかし、目の前の椅子に座る彼女の厳しい表情に、美希はすっかり緊張して固まってしまっていた。
「それで、この館で働こうと思った理由はなんですか?」
「え、えと……。家事手伝いや掃除を一通り身につけたいのと……、それから少しでも自立をしたいです……。あと、できればお世話になった人に……特に、命を助けてくれた霊夢さんに、お礼がしたくて……」
 これが噂に聞く面接という物なのだろう。まだ幼く人生経験もない自分には勝手も分からず、何をどう答えればいいのか解らない。もし解っていたとしても、何か繕ったり偽る様な真似はしたくない。何より、自分はこの館のことも幻想郷のこともよく知らない。だから美希は、己の理想とするところ、目標とするところを語るだけに止めた。
「つまり、自立と恩返しの為に何か仕事をしたいというわけですね?」
「は、はい」
「では質問を変えます。この館は貴族の館です。ここで働くと言うことは、この館の一員となるということ。つまり貴女にもそれなりの気品と節度を持ち、マナーを身につけて行動していただかなければなりません。その辺りはどうお考えですか?」
 マナーという言葉にやや身の竦む思いをし、美希は言葉を詰まらせる。
 いわゆる作法の教育は小学生の頃に一度、給食の時間にやった程度。それ以降は使う機会もなく、必要とする場面も存在しなかった。一応コースメニューのような物に出くわしたことはあるものの、男に弄ばれながらではマナーも何もない。自身の経験の無さを悲しく思いながらも、美希はここでも取り繕わず、素のままの答えを返すことにした。
「そういったことは、学ぶ機会がありませんでした。知らないことばかりで申し訳有りません。でも、教えていただければ頑張って身につけていきたいと思います」
「……わかりました。お答えいただきありがとうございます」
 咲夜のその一言で、場の空気が一転して柔らかい物へと変化した。今まで難しい表情のまま紹介状を見据えていた彼女だが、今は柔らかい笑みを浮かべてこちらを満足げに見つめている。口調も穏やかで、暖かい物が感じられた。
「どうやら貴女はこの紹介状を信じるに足りうる人物のようです。失礼ですが今までの質問は全て、貴女を試すためのものでした」
「試すって、どういうことですか?」
 どうやら彼女の言葉に疑問を抱いたのは自分だけではなかったらしい。背中を支えるように背後に立っていた美鈴が、咲夜の顔を覗き込むようにして美希の頭越しに訪ねる。
「この書簡では、彼女はまだ幻想郷に現れて日が浅く、家事のいろはを覚えたばかりとなっているわ。そんな人物がさっきの問いにすらすらと答えたら、どうかしら?」
「へ……? え? あ……う、うーん……」
「最初から何でもできる奴なんか居ないって事さ」
 困り顔でうなり声をあげる美鈴を可笑しそうに見ながら、萃香がからかい半分の助け船を出す。彼女の手にはどこでどうやって手に入れてきたのか、いつのまにかワインらしき瓶とグラスが握られていた。
「指導する立場において最も困るのが、その場で取り繕って誤魔化されてしまうことです。勿論出来るに越したことはありませんし、向上心がないのは論外ですが、自分の力量も考えずにその場限りの返事をされてしまうと、こちらとしても道の示しようがありません。ですから、私はわざと貴女にプレッシャーをかけ、返答に困るような質問を投げかけたのです」
「じゃあ……もしかして……」
「合格です。美希さん、これからよろしくお願いしますね」
 紹介状を畳みながら微笑みかける咲夜。その笑顔に礼を言うよりも早く、背後から伸びてきた腕に椅子ごと抱きしめられ、頬を寄せられてしまう。
「やった! 良かったねぇ。これで一緒の仲間だ!」
「あ、ありがとうございます。これから、よろしくお願いします」
 廻された腕も寄せられた頬も暖かく、自分を買ってくれた咲夜の笑顔もまた嬉しかった。だが、この場に霊夢が居ないことを悲しむ自分も確かに存在しており、心苦しい。
 しかしそれを顔に出そうとはせず、美希は美鈴の手に自身の手を重ねながら、今の幸せをしっかりと噛みしめることを選んだ。
「それじゃ美希さん。まずは美鈴について風呂へ行って頂戴。着替えはメイドたちに用意させておくから、上がったらそれに着替えること。その後は夕食まで美鈴に屋敷を案内してもらって。美鈴も良いわね?」
「合点承知! ばっちり案内させていただきまっす!」
 大きな声で元気良く答える美鈴。彼女に習って美希もまたしっかり頷いてみせる。
 新しい家での新しい生活が始まる。美希は美鈴の手をそっと握ったままで、大丈夫、大丈夫と何度となく自身の心に言い聞かせ続けていた。



「はーい、ながすよー」
「あ、はいっ」
 下を向いて堅く目を閉じたのを確認してから、美鈴は美希の頭に湯をかけ、髪についた泡を洗い流してゆく。
 外には既に彼女のメイド服が準備されており、着ていた巫女服はもうメイド達が洗濯をしている。泥染みがついた巾着は、後で咲夜が染み抜きをするそうなので問題なし。
「はいおしまい。さっぱりした?」
「はい。なんだか済みません。お仕事の邪魔をして、その上背中まで……」
「いーのいーの! 私も美希ちゃんには感謝してるんだから」
 彼女の長い髪を軽く整えながら、美鈴は上機嫌で答える。
 当然の話だが、同じ仕事をするなら寒い外での門番より、室内で新人を案内する方が良いに決まっている。門番という仕事が嫌なわけではないが、たまには別の仕事をするのも悪くないし、妹分が出来たようで気持ちも良い。何より、館の中は暖かい。
「でも、私のために皆さんのお時間を……」
「そう思うなら、今は一つでも多くの事を覚えて? このお風呂だって掃除することになるかもしれないんだから。ね?」
 躊躇いながら小さく頷く彼女を湯船に案内し、長い髪を纏めてから揃って身体を温める。やや熱いお湯が骨まで染み渡るようで心地よい。
「そいえば、普段は神社に住んでるんでしょ? どうしてまたこの時期にお仕事に?」
「……………………霊夢さんを、怒らせちゃったんです」
 湯気立ち上る湯面を見つめたまま、美希はか細い声で話し始める。彼女の話がなかなか要領を得ないところを見ると、どうやら霊夢が怒ったその原因をはっきりと掴みきれていないようだった。
 しかし、この少女があの巫女を怒らせるようなことがあるのだろうか。美鈴にはいまいちそれが解らない。
「うーん……虫の居所が悪かったのかなあ……それにしては追い出すなんてよっぽどだと思うし……」
「きっと、私が何も出来ないのもいけなかったんです……。甘えてしまってたんです、気が付かない内に……」
 小さく湯面が波を打つ。美希はぽろぽろと涙をこぼしていた。
 たとえどんな理由があったにせよ、霊夢の行為は行き過ぎで慈悲が無さ過ぎる。しかし、今ここで霊夢を責めるのは、恐らく彼女の悲しみを増大させるだけだろう。小さく震える肩を抱き、彼女の背中をそっと撫でながら、美鈴は何も出来ない自分をもどかしく感じていた。
「落ち着いたら、一度ちゃんと話してみよう? 今すぐは無理だろうけどさ……その時は、私も協力するから」
 嗚咽を漏らしながら頷く美希を抱きしめたまま、美鈴は拙い励ましの言葉を投げかける。
 もしこの場に鈴仙が居たら、彼女はなんと言うのだろう。どのような言葉で励ますのだろう。学と語彙の無さが、今更ながらにもどかしい。
「……だめですね、私。せっかく新しい場所で新しい生活を出来るって思ったのに……こんなに泣いてばっかりで……」
「その涙も、きっと美希ちゃんの良いところだと思うよ。お仕事中に泣いてばかりは困るけど……私にそういうのぶつけるのはぜんぜんかまわないからさ。だから元気出して?」
 紡いだ言葉と思いは伝わったのだろうか。美希は僅かに身を離し、嬉しそうに小さく頷く。
 まだ潤む瞳を見つめながら、美鈴は彼女が鈴仙の言ったとおりの存在だと実感していた。



 日が傾き掛けても、美希は戻ってくる気配を見せなかった。大粒の雪は冷え込みを増し始めた頃から粉雪に変わり、今宵の積雪を約束するかのように強く降りしきっている。
 少し強くあしらいすぎただろうか。もう無関係とは言え、境内で凍死されるのは寝覚めが悪い。そんなことを心で呟きながら、霊夢はやや早足に廊下を歩く。
「美希ならもう戻ってこないよ」
 背中にかかった言葉は萃香のものだった。葡萄酒だろうか、独特の香気と共に現れたその気配に、霊夢は足だけを止め、振り向きもせずに告げる。
「そう。あんたがどこかへ連れてったわけ?」
「ご明察。でもどこだかは教えてあげない。霊夢が態度を改めるまでね」
 まるで子供に言い聞かせるような口調だ。そんな感想を抱きながら、霊夢は萃香の方に向き直る。彼女の手には洋酒の瓶が一本と硝子細工のグラスが一つ。それだけでどこへ行ってきたかなど丸分かりだった。
 恐らくこの鬼は隠す気などさらさら無いのだろう。
「別に聞くつもりもないわ。私にはもう無関係だもの」
 その言葉は、いったい誰に向けて放ったのだろう。自ら紡いだその言葉は、まるで自身の心を傷つけるために生み出したようだった。
 それでも霊夢は自分に言い聞かせる。
 私は博霊の巫女なのだ。巫女として当然の選択をしたのだ。と。
「本気で言ってるの? それ」
「当たり前でしょう? あれもただの外来人よ。行き先と生きていく術がなかったからここに暫く置いておいただけ。余所で生きていけるのならそうしてもらうのが筋だわ」
 自分の言っていることは正しい。
 里の人間だろうと外から来た人間だろうと、人間は人間だ。他の人間がそうであるように、彼女もまた自身と深い関わりを持たず、一人で生きてゆくべきなのだ。
 自分はこれまでそうしてきたし、これからもそうあるべきなのだ。
 締め付けられるような思いをひた隠し、自分を罰するように何度となく心に言い聞かせながら、霊夢ははっきりと言い切った。
「……そうかい。じゃあもう何も言うことはないよ」
 きびすを返し、萃香はふいと背中を向けて歩き出す。子鬼の背中はいつもより小さく見える。
「あんたがそんなやつだなんて、正直思っても見なかった。せいぜい訳の分からない肩書きを守って、ここで一生独り寂しく過ごせばいい」
 言葉よりも早く萃香の姿は目の前から掻き消えた。
 彼女の最後の言葉は深く胸に突き刺さり、抜けない棘のように心を痛めつける。
「好きでやってんじゃないわよ……」
 もうその場には居ない萃香に。いや、強く痛みを訴える自身の心に向かって呟きながら、霊夢もまたきびすを返して廊下を歩く。
 頬に小さな滴を伝わせながら。



「先日会った者も多いとは思いますが、彼女が今日からこの紅魔館で働く事になった美希さんです」
「よ、よろしくお願いします」
 美希が頭を下げると、メイド達もまたそろって頭を下げる。仕事仲間であろう彼女たちはまさに千差万別と言った顔ぶれだった。髪の長い短い、色の濃い薄いだけではない。ある者は長身の美鈴と肩を並べるほどに大きく、ある者は手のひらより少し大きい程度の身長しかない。蝶のような羽を持つ者、トンボのような羽を持つ者、もっと透き通った、セロファンで出来たような羽を持つ者も居る。咲夜曰く、彼女たちは皆人間ではなく妖精という存在らしい。
「お噂は伺っておりますわ。神社に住んでらっしゃったんでしょう?」
「きれいな髪ー。人間でこんなに長くてきれいなの、珍しいよね」
「後で衣装部屋へ行きましょうよ。きっと貴女ならいろんな服が似合うと思うの」
 あちこちから声をかけられ、美希はあっと言う間に妖精達に取り囲まれた。どうやら人間という存在は、ここではずいぶんと珍しいらしい。
「はいはい、おしゃべりは後でゆっくりすること。美希さん、今日はまだ配属も考えてませんし、図書館の方でお仕事をしていただけますか?」
「としょかん……?」
 統率が取れているのか上司として恐ろしいのか、そこまではわからなかったが、ともかく妖精達は咲夜の一言でぴたりと押し黙った。しかし咲夜の言う図書館という施設は、昨日の案内の中には出てこなかったような気がする。
 もっとも、昨日は風呂から出た後はろくに館内を回ることも出来ずに夕食となり、その後は自分がしばらくの間使うことになる客間のあれこれを説明してもらっているうちに夜が更け、美鈴の部屋の場所だけ教えてもらって床についたので、実質この館のことはまだ殆ど解らないのだが。
「昨日の案内では回れなかったのね。じゃあ着いていらっしゃい」
 他のメイドに指示を出してから、咲夜は美希を連れて部屋を出る。咲夜について歩きながら、美希は改めてこの館の豪華さに圧倒されていた。
 まず目に付くのは赤い絨毯。廊下に敷かれたそれはどこにも染み一つ無く、解れはおろか皺の一つも見当たらない。絨毯のない廊下はつるりと磨き上げられた石作りの床で、靴を選べばスケートごっこが出来そうな程だ。明かり取りの窓も夜使うのであろう燭台も高価に見え、自然と居住まいが正される気持ちになる。
 もう一つ、美希が萎縮している理由は着慣れないメイド服にもあった。
 上質の布で作られているのだろうか。エプロンドレスというらしいその衣装は手触りが良く、あちこちに清楚さと可憐さを醸し出すフリルやリボンが飾られている。足首まである長いスカートも軽やかで邪魔にならず、頭に乗せられたフリルつきのカチューシャは美希の長い髪をしっかり押さえてくれている。はっきりと言ってしまえば、巫女服よりも何倍も暖かくて着心地が良い。
 しかし、それが逆に美希にとっては違和感になっていたのだ。
 元々ぼろばかりを着ていたり、男の趣味だけを考えられた着心地のかけらも無い衣装を長く身に着けていたこと。此方に来てからは巫女服とサラシで過ごしていたことから、着心地のよさや快適さは、彼女にとって違和感以外のなにものでもなかったのだ。
(それにしても…………広くて素敵な家……)
 外の世界に居た頃、美希はそれなりに豪華な家に連れて行かれたことが度々あった。理由は言わずもがななのだが、それらの家とは豪華さのレベルも風格もまるで違う。
 彼らの豪華な住まいはあちこちにわけのわからない絵画や彫像が飾られ、廊下も室内も無駄にきらきらとしていた。自分が金持ちであることを殊更にアピールしているような、そんな家ばかりだった。
 しかしここは違う。西洋の城のような佇まいに、一つのテーマのような物を持って全てをそろえてあるように見える。
「緊張してる?」
 不意に声をかけられ、びくりとして姿勢を正す。小さいが良く通る彼女の声は、まるで心を見透かしているかのようだった。
「は、はい……」
 か細い声で答え、やや離れた彼女との距離を詰める。美希にはそれが精一杯だった。
 咲夜は本当にこの館にぴったりのメイドに見えた。歩き方に気品があり、背筋も曲げず凛とした佇まいを崩さない。対して自分はどうだろう。おどおどびくびくと辺りを見回し、背を曲げてふらふらと彼女の後ろを着いていくだけ。あまりにも場違いで、そして情けない。
「大丈夫よ。いきなり貴女に全てを求めたりしない。お嬢様は寛大な方だから、余程の事でもない限り怒ったりはしないわ。少しづつ、ゆっくりとこの館になれていってくれればいいの」
「ご、ご迷惑を一杯かけてしまいそうで……」
「あら、新人はそれが仕事のようなものよ? 解らないことがあったら何でも相談して、一つづつ積み重ねてゆく。そうして一日一歩づつ進んでいけばいいわ」
 振り返った彼女の表情は、優しく柔らかい物だった。その笑顔に救われたような気持ちになりながら、美希は何故彼女が慕われているのかを深く理解した。
「が、がんばります……! よろしくおねがいしますっ」
 両手を揃えて深く頭を下げると、彼女は小さく頭を撫でてくれた。
 とても冷たい咲夜の手。しかしその温もりは、しっかりと心に伝わっていた。



「では、後のことはパチュリー様と小悪魔に聞いて下さい。お昼には呼びに来るので、それまでしっかりね」
「が、がんばります」
 立ち去る咲夜に深く頭を下げるメイド服の少女。彼女はこの紅魔館に給仕志願をした世にも珍しい人間らしい。
「えと、それではまず何からすれば……」
「何からと言われても……見れば解るだろうけど、人間に出来ることはここでは少ないのよね」
 背後に広がる光景を見ながら、ヴワル大図書館の主、パチュリー=ノーレッジはため息混じりに呟く。
 この図書館は人間の、正確には魔法を使えない者の事を考えて作られていない。落とし穴のような物こそ無いが、書架は身の丈の何倍もの高さにそびえ立ち、薄暗さもあってその果てははっきりしない。書架の配列は魔法言語や体系を主軸にされており、分類もほぼそれに準ずる形になっている。当然ながら魔法に理解のない者には何のことかさっぱり解らない。
「入り口付近は一般書ばかりだし、給湯もトイレも近いから、この辺りでのんびりしていると良いわ」
「は、はい。何かご用がありましたら、何でもお申し付け下さい」
 丁寧な言葉と共に深くお辞儀をする彼女を見ながら、面倒な奴を寄越したものだと口には出さず心でごちる。
 紅魔館の中でも、この図書館は特にメイドの仕事を必要としない場所だ。床も書棚もパチュリー自身が喘息の気がある事もあって、特に自身の周囲は魔法によって常に塵一つ無い状態を保たれている。また、魔法使いであるパチュリーは飲食も睡眠も特に必要としない。気が向けば寝るし食べるが、必須ではないので給仕の必要もない。故に彼女がどれだけやる気を見せようと、それを向ける先が存在しないというわけなのだ。
 尤も、だからこそ雇いたての彼女をここに寄越したのかもしれないのだが。
「じゃああとはそこの小悪魔に指示を仰いで頂戴」
 ややため息に似た、やる気のない指示を伝えてからパチュリーは机に戻って魔導書と向き合う。
 魔法とは知ることから始まる。世界の理を知り、成り立ちを学び、組成を紐解けば自ずと原理が見えてくる。あとはそれを魔力によって再現してやればよい。故にパチュリーはこの図書館に居ながらにして世界を知り、指先一つで世の理を操ることが出来るのである。
 無論その為には多くのことを学び、分野の垣根を超えたありとあらゆる知識を吸収する必要がある。そしてこのヴワル大図書館には世界のありとあらゆる書籍が収められている。
 つまり、この図書館はパチュリーにとって世界の全てと言っても過言ではないのだ。
 そして、多くの研究者や魔法使いがそうであるように、パチュリーもまた己の世界を乱されることを嫌う。
 だからパチュリーは、この新しいメイドには極力関わらないようにしようと決め込んだのだ。
「…………?」
 ふと気が付いたのは、二冊目の本に手を伸ばしたときのことである。手元の照明がやや強くなっており、背表紙のタイトルがはっきりと見える。何事かと顔を上げると、自身の斜め前方に新しい魔法照明が一つ立てられている。
 辺りを見回しても二人の姿は見当たらないが、恐らく提案したのはあのメイドだろう。机全体を柔らかく照らすその照明は、光量を抑えてあるだけではなく、机の側から見える部分だけフードが下ろされている。恐らくは強い光を直視しないようにとの配慮なのだろう。
 余計なことをしなくて良いと言おうかと思ったのだが、確かにその照明によって快適さが増したことは間違いない。
「……別に気を使わなくてもいいのに」
 ため息混じりに言葉を吐き、予定していた本を手元に引き寄せる。しかし同時に閲覧しようとしていた資料が手元になかったことを思い出し、パチュリーはふわりと浮かび上がって書架を漁る。
 資料というのは不思議なもので、集め調べ始めるときりがない。一つの資料を紐解くとそこから別の文献が欲しくなり、あれよあれよという間に本が積み上がってしまう。そして気が付くと、本来調べるはずだった資料を蔑ろにしていたりするのだ。幸い今回は三冊目の書物に手を伸ばし掛けたところで我に返ったため、机の周りを本で埋めるようなことにはならずに済んだ。
「……ん?」
 しかし、主の留守中に自身の城とも言うべき小さな机は、何者かの訪問を受けていたらしい。
 椅子の上には薄いクッションが一つ置いてあり、背もたれにはストールが一つ掛けられている。そろそろ足しておこうかと考えていたインク壷には新しいインクが補充されており、ペンも新しいものに交換されていた。
 どうやらこの新しいメイドはずいぶんと勤勉な性格らしい。
 紅魔館のメイドは、咲夜を除いて基本的に気まぐれである。厳しい上司の目が光っているせいか、与えられた職務はそれなりにこなすものの、それ以上の事となると余程興が乗らなければやろうとしない。また、概ねおしゃべりと噂話が大好きで、油断をするとすぐ井戸端会議をはじめる。故にパチュリーは妖精メイドを使うことを避け、小悪魔とゴーレム、そして魔力を与えた本にこの部屋の管理をさせているのだ。
 しかし、この新しいメイドは違っていた。
 彼女は人間なのだ。
「小悪魔、お茶の準備をして頂戴。私が休まないと、その子も休めないのでしょう?」
「はい、只今」
 彼女の声は、まるでそれを予期していたかのように明るい。
 一杯食わされた。そんなことを考えながらも、パチュリーは自身の頬が自然と緩むのを楽しんでいた。



 珈琲とクッキーを食べながらパチュリーが言ったのは、この図書館に仕事が無くて申し訳ないという事と、代わりに外の世界の本を集めた書架があるので、そこの整理がてら好きなものを読んでいて構わないということだった。パチュリーの言葉に、美希は勉学の邪魔をしてしまったかと恐る恐る尋ねたが、それはあっさりと否定をされ、この図書館の管理方法についてを軽く説明された。どうやら本当に仕事らしい仕事を頼めないらしい。
「外の世界の本は、結界の事もあってなかなか流れてこないのですが……」
 やや申し訳なさそうに呟きながら、小悪魔は書架の谷間を縫って歩く。気が付けば本の背表紙に書かれている文字が、見たことも無い不思議な文字から英語のそれへと変わっている。流石に英語の内容は理解できないが、それでもなにやら微妙に光る背表紙や、ひとりでに浮かび上がる本よりはまだ手に取りやすい。
「ここから外の世界の、恐らく美希さんが居た世界の書物です。たいした量ではありませんが、暇つぶしぐらいにはなると思いますので……」
「これ、眺めるだけで一日終わっちゃいますよ……。すみません。お仕事もしてないのに、こんなことまで……」
「お気になさらないで下さい。それに、こちらこそやる気を殺いでしまって……」
 頭を下げようとする小悪魔を制し、美希は改めて礼を言う。彼女にしてみればこれは仕事をこなす前に褒美をもらったようなものであり、こちらが礼を言うならともかく、彼女が頭を下げる道理はどこにもないのだ。
「じゃあ私はパチュリー様の元へ戻ってますので、何かあったら呼んで下さい。お昼にはお迎えに上がりますので、どうぞごゆっくり」
「はい、ありがとうございます」
 立ち去る小悪魔を見送ってから、美希は改めて書架に向き直る。歴史書、推理小説、専門書に漫画と、ジャンルも時代もかなり多岐にわたっているようだ。何百年も前に書かれている本だろうか、中には読めない字で書かれているような書物もある。
「あ……、絵本もあるんだ……」
 美希はそれほど勤勉な方ではない。しかし図書館や本には縁が深かった。金をかけずに現実逃避が出来る為に学校の図書室には時々足を向けていたし、男達の慰み物にされる時間が多かったため、学校の授業についていくには、どうしても本は読まざるを得なかった。それでも、長編小説を読めるようなゆったりした時間も余裕も作れなかった彼女は、娯楽の代わりによく絵本を眺めていた。
「これもこれも読んだことある……こっちはまだかな…………」
 昔読んだ作家の初めて見る作品を手に取り、書架の片隅に置かれた大きなソファに身を沈めてページを開く。見覚えのある絵柄に安堵しつつ、スカートのしわを気にして座りなおしてから、改めて本に集中する。内容は暴れん坊のゴリラが森のあれこれを暴力で勝手に決めて行くというものらしい。アップで描かれたゴリラの顔は、強面ではあるがどこか憎めない。
「おねえちゃん、誰?」
 不意に本の上に影が落ち、随分と幼げな声がかかる。視線を上げた先に居たのは、十を数えたばかりぐらいの少女だった。
「新しいメイドさん?」
「あ、はいっ。先日から此方で働くことになりました、美希です。よろしくお願いします」
 慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。彼女がメイド服を着ていないことと、自分を新しいメイドと言ったことから、この少女を仕える主であると美希は勝手に判断をした。もちろん、違っていたとしても彼女の台詞は些かも変わらなかっただろうが。
「そっか。私はフランっていうの。よろしくね?」
 銀に近い淡い金髪に、この暗がりでもわかるほどの白い肌。幼さの残る顔立ちと愛らしい唇は、まるでアンティーク人形のような美しさを垣間見せる。
「はい。まだ解らないことばかりですが、頑張ります」
 やる気を見せるべく声を張ろうかと思ったが、ここが図書館であることを思い出して小さな声で答える。
 彼女もまた、人ならざる存在なのだろうか。宝石のように赤く輝く瞳はともかくとしても、背中には不思議な形状の物体が生えている。
 やや節くれ立った枝と言うべきか、はたまたコウモリの羽から皮膜だけを取り除いたものと言うべきか、フランの背中にはそんな細長い何かが一本づつ、腰の辺りから翼のように広がっている。そしてその枝のような何かからぶら下がる、宝石のように輝く七色の物体。
 それぞれが自ら光を発しているのだろうか、色とりどりの光を湛えたそれは、淡いながらも美しい輝きを放ちながら彼女の節くれ立った翼にぶら下がっている。不思議なことにその宝石は翼には触れておらず、何かで釣り下げられているわけでもない。特殊な力で浮いているのだろうか、宝石は皆、翼のかすかな動きにあわせて明滅しながら小さく揺れている。
「この羽、やっぱり気持ち悪い?」
「い、いえ。とんでもないです! きれいだなぁって思って……見とれちゃってました」
 眉根を寄せながら訪ねるフランに、美希は慌てて首を横に振る。
 彼女の羽根は本当に美しいと思う。色とりどりに輝く宝石のような翼は、生物の輝きだからなのだろうか、あれだけきらびやかに幾つもの色を備えているにも関わらず、何故か少しも嫌味たらしくなかった。ややいびつな形の黒い部分も、年経た家具のように落ち着いた風合いがあり、白い肌や彼女の赤い衣装と相まって良い調和を見せている。もしこれらのどれか一つでも欠けてしまっていたら、彼女の美しさは半減どころではなくなってしまうのだろう。
「ほんと……? おかしくないの?」
「ええ。私には羽根がないので見た目だけですけど……。でも、とても素敵に見えますよ」
 彼女の不思議な形状の翼はこの幻想郷でも珍しいのだろうか。それとも、何かコンプレックスになる要因があったのだろうか。美希が素直にその翼を誉めると、彼女の微妙な表情はみるみるうちに晴れやかなものへと変化した。
「そんなこと言われたの初めて……。えへへ、ありがとう」
 照れを交えた屈託のない笑み。よく少女の笑顔を天使のそれと表現する事があるが彼女の笑顔はまさにそのものと言っても過言ではないだろう。美しい少女の澄んだ微笑に、美希もまた自然と笑みを零す。
「フラン様は本を読みにいらっしゃったのですか? 何か私にできることがあれば、お手伝いをさせていただきますけど……」
「ううん。私はいつもこの地下にいるの。お姉さまがあんまり上には出ないようにって言うから……」
 先ほど笑った天使が、もう悲しげな顔で俯いている。どうやら自分は触れてはいけない部分に触れてしまったらしい。
「そうでしたか……。何か理由があるのですか?」
「私は太陽の光に弱くて、昼間は外に出られないの。あと、お姉さまからきちんと力が制御できるまで、出ないようにって言われてて……」
 俯いた彼女の顔は今にも泣き出しそうで、見ている方が辛くなってしまうほどだった。何らかの病を患っているのだろうか、それとも生まれつきの体質なのだろうか、いずれにせよ彼女には、あまり自由が与えられていないようだった。
 はっきりしない記憶だが、自分が彼女ぐらいの頃はまだ幸せの最中にあり、淑やかさや教養とはまるで無縁の、あちこちを走り回るような生活をしていたような気がする。しかし彼女は、どうやらそれを許されない身体らしい。
「それよりさ、美希だっけ? 貴女はここで何をしてたの?」
「私は絵本を読んでおりました。昔読んだ本も幾つかありましたので、少し懐かしく思いながら眺めていたところです」
 フランが話題を変え、笑顔を作ったのを見て、美希はこれ以上その話題を引きずらない事にした。聞きたいことはまだあったが、それは同じメイドや咲夜に聞けば解るだろう。
「絵本? どんなの?」
「じゃあ一緒に読みましょうか。このソファなら並んで座れますし」
 大きなソファを勧め、フランが腰掛けたのを確認してから自分もまた隣に座る。それから絵本を広げて彼女の方へ半分ほどずらしてやると、フランは美希にもたれ掛かるようにしながら絵本に目を向けた。
 触れ合った手から伝わる彼女の体温は、ずいぶんと冷たいような気がした。



「それじゃ、お買い物をお願いね。美希さんは美鈴がサボらないようにしっかり見張って頂戴」
「ちょっ! 人聞きの悪いこと言わないで下さいよ! まるで私が毎回サボってるみたいじゃないですか!!」
 心証宜しくない事を言われ、美鈴は思わず声を荒げる。美希は自分の後輩。しかも恋人と共通の知り合いだ。彼女の前では立派な人物でありたいしそう見えるように心がけようと考えていた矢先の事だけに、余計腹立たしい。
「怒るぐらいなら普段から真面目に仕事なさい? それより油を売ってる時間は無いのよ。さっさと行ってきて頂戴」
「とほほ…………。んじゃあ行ってまいりますよー……」
 反論虚しくがっくりと肩を落とし、美希を背負って宙に舞う。昼食の時の話では、どうやら彼女は午前中にフランドールスカーレット。つまり妹様と遭遇していたらしい。しかもいたく気に入られ、時々遊びに来て欲しいとせがまれたのだとか。
 フランは自分と対等に接し、遊んでくれる者を望む。まだ心が幼い故の無垢で可愛らしい願いだが、残念ながらそれを叶えるのは難しかった。
 彼女は強大な力を持ちながら、その調節が得意ではない。一方、紅魔館に勤める者の多くは妖精メイドと図書館の魔族であり、自分のような妖怪や彼女のような人間はほぼ皆無である。
 そして、妖精や魔族は強い妖力や魔力を本能的に恐れる。強大な力を常に溢れさせているフランを前にして、妖精たちが堂々としていられるわけがない。
 美希にその感受性がなかったのか、はたまたあの図書館という特異な環境が感覚を麻痺させたのか。それは美鈴には解らない。恐らく人間は妖精ほど敏感ではないのだろう。美希はフランを前にして全く恐れることがなかったという。そしてその態度が、二人の出会いを素晴らしいものに変えた。
「あの……仕事中に寝てしまったのに、私お駄賃なんか貰っちゃって……いいんでしょうか?」
「妹様がくれるって言うんだから、ちゃんと貰っておいた方が良いよ。それに、美希はある意味で一番大変な仕事をこなしたんだから」
 妖精メイド達が最も恐れ、嫌がるのがフランの相手である。本能故にどうしようもないのだが、彼女の相手は針の筵に座るよりも辛いことらしい。そんな最も辛い業務を美希は平然とこなし、あまつさえ彼女に膝枕をした寝たというのだからこれはもう快挙と言うより他にない。
 そんなわけで美希は別れ際に妹様からお駄賃を貰い、昼食の際は英雄扱いをされていたのである。
「そうですね……。それにしても、とても可愛らしい方でした。『臣下に施しを与えるのも、当主としての大切な義務です』って、私にお金を差し出して……」
「なかなか理解されないけど、妹様は優しい方なんだよ。だからその優しさをちゃんと受け止めてあげた美希は立派だし、ちゃんと仕事をしたと思う」
「な、なんだか照れくさいです……」
 背中の彼女は頬を赤らめているだろうか。肩を掴む手が少しだけ強くなった。
 純粋で先入観が無く、それでいて真面目で謙虚。そんな彼女だから、霊夢も鈴仙も彼女に協力したのだろう。
 恐らく霊夢との仲違いは些細なこと。お互いに分かりあうことが出来れば、きっとわだかまりもなくなるだろう。
「今日のお買い物は何でしたっけ」
「んーと、鹿か猪の肉と、葉野菜をいくつか。あとは美希のものぐらいだよ」
「私のですか……うーん……」
 彼女が持参してきたのは、山の巫女から貰ったという洋服と、幾ばくかのお金が入っていた巾着のみ。しかし紅魔館で働くつもりならその程度で事足りるし、新しく何かが必要になるとは思えない。故に必需品ではなく贅沢品を買うかどうかという話になるわけだ。しかし、鈴仙から聞いた境遇を察するに、彼女がその手のものを自分から買うとは思えない。幸い貰った駄賃は茶屋で一服し、団子数本を食べればなくなってしまう程度の金額だ。何かおやつでも買わせれば良いだろう。
「夜つまむおやつとか、そんなのでいいんじゃない?」
「お菓子……うーん……そうだ! ちょっと良いこと思いつきました」
「いいこと?」
「ふふっ、まだ内緒にしておきます。着いてからのお楽しみで」
 小さく笑う彼女の企みを考える間もなく、眼下には里の入り口が見えてくる。まずは買い物を済ませるべく市場の方へと降り立ち、美鈴は美希を下ろして先を歩く。
「まずは八百屋と……あと肉屋か。美希は一人で買い物来ること無いと思うけど、場所は覚えておいた方が良いかもね」
「は、はいっ。ちゃんと覚えます」
 辺りをきょろきょろと見渡しながら、美希は小走りに後ろを付いてくる。物珍しさと、職務への忠実さがなんとも可愛らしい。
「里は初めて?」
「あ、いえ。以前慧音さんの寺子屋に……」
「寺子屋? 何か習いに行ったの?」
「いえ、実は……」
 彼女は寺子屋そのものに用があったわけではなく、永遠亭までの道案内を妹紅に頼むために、慧音を訪ねたのだという。確かにあの竹林は力を持たない人間が通るには危険すぎるし、何よりあの人払いの結界はおいそれと抜けられるものではない。そして竹林までの道案内を頼むなら妹紅以上にうってつけの者はなく、妹紅に会うには慧音の元を訪ねるのが手っとり早い。
「なるほどねー。じゃあそのとき鈴仙と出会ったんだ?」
「ご存じなんですか……?」
「もちろん。鈴仙は私のいっちばん大事な人だからね」
 胸を張ってノロケたっぷりに彼女との由無しを話すと、美希は時折顔を赤らめながらもきちんと話を聞いてくれた。これが咲夜なら一分も経たずに席を立ち、呼び止めた自分の額にナイフが飛んでいるところである。
「じゃあ、時々デートとかも……」
「うん。この前は一緒に年末の買い物をしたよ」
「そっか……うらやましいな……」
 ぽつっと呟き、寂しそうに笑う美希。どうやら彼女は、霊夢のことを愛しているようだ。
 美鈴は彼女の落胆を、住み慣れた家と、恩人であり仲の良い霊夢を失った事への悲しみだと思いこんでいた。しかし、どうやら美希が霊夢に抱いている感情は親愛ではなく恋慕らしい。潤む瞳を押さえようとする彼女をそっと抱きしめ、美鈴はその長い黒髪を優しく撫でる。
「美鈴さん……?」
「私も出来ることがあれば協力するから、元気出して? きっと霊夢も解ってくれるから。ね?」
「はい……ありがとうございます」
 おずおずと彼女の手が自分の腰に回るのを確認してから、美鈴は美希を強く抱きしめ頬摺りをする。それから小柄な彼女を抱え上げ、肩車をして歩き始めた。
「め、美鈴さんっ! は、はずかしいですよ……っ!」
「だいじょーぶ。そのスカートは長いからパンツ見えたりしないでしょ?」
「そ、そういう問題じゃないですっ……! ほ、ほら……みんな見てます……」
「よーしそれじゃあ超特急だ!」
 美希が落ちないようにしっかり支えながら、市場の通りを一気に駆け抜ける。上で悲鳴に近い声を上げる美希の声音からは、もう悲しみの色は見えなかった。
「はい、到着ー」
 八百屋の前で美希を下ろすと、彼女はふくれつらをしてスカートを直し始める。自分はやや嫌われたかもしれないが、それでも彼女が泣き濡れているよりは良い。そんな満足感を覚えながら、美鈴は買い物を済ませて次の店へと向かう。
「あ、美鈴さん。ちょっと待って下さい」
 不意に呼び止められて振り返ると、美希は小走りに一件の店へ向かう。暖簾の文字は飴細工。その軒先では、店主らしき男が黄金色のべっこう飴をやっとこで器用に形作っていた。
「飴買うの?」
「はい。私とフラン様と、フラン様のお姉さまの分を。すいません、えっと……猫と犬と……あと小鳥の飴を下さい」
 やや無愛想な店主は小さな声で答えてから飴を丁寧に包んで差し出してくる。金額は妹様から貰った駄賃とほぼ同じぐらいだった。
「お小遣い全部使っちゃったんじゃない? いいの?」
「いいんです。私もフラン様と仲良く慣れてうれしかったから、その恩返し。それに、霊夢さんに送りたいものはもっともっと高いから」
「どれ?」
 飴屋を離れ、美希は数店手前の細工物屋の前に立つ。店先のショーケースに並んでいるのは見事な金細工で、当然といえば当然だがどれもそれなりの値段がした。
「あの、鳥の翼みたいな髪飾りなんです。さっき見かけて良いなって思ったんですけど、私の手持ちじゃぜんぜん足りないから」
 指さした細工はケースの中では安い部類に入る。自分の給金なら買えなくはないが、それでもそれなりに奮発する部類であり、まだ勤めたての彼女にはかなり厳しいと思われる。
 そして、彼女はこれを自分の給金で買う以外の道を由としないだろう。
「そっかー……よし、じゃあ早く仕事覚えて咲夜さんに給金いっぱい上げてもらおう!」
「は、はいっ。がんばります!」
 拳を作って見上げてくる美希の頭をくしゃくしゃと撫で、それから二人は買い物の続きに戻った。
 道中美鈴がやや強引に茶屋により、道草を食って帰ったのは言うまでもない。



 日は高く、鎧戸の隙間から射し込む光は眩しい。
 昼を過ぎても尚、霊夢は寝間着姿のままで布団の上に横たわっていた。いや、正確には寝転がっていたと表現するべきだろうか。
(もう関係ないのに……馬鹿馬鹿しい)
 寝返りを繰り返しては心の中で小さく零し、目深に布団を被り直してまた寝返りを打つ。昨夜からずっと、霊夢はこんなことを繰り返していた。
 睡眠は取ったのか取っていないのかよくわからない。眠ったような気がしないでもないが、まるで寝た気にはならなかった。
 頭は重く、身体も重い。昨夜から少しの水と戸棚にあった煎餅と饅頭を口にした程度で、きちんとした食事はとっていない。当然境内の掃除などやっているわけもなく、恐らく雪は積もったまま。
(今日はもう、なにもしたくない……)
 心も身体も重いせいだろうか。何もする気が起こらない。頭の中には、同じ事がぐるぐると回って離れない。
 そんな霊夢の耳に、突然けたたましい声が飛んでくる。
「ちわーっ。文々。新聞ですーっ」
 それは一番聞きたくない声だったかもしれない。しかし無視を決め込めば恐らく彼女は勝手に上がり込み、自身を捜してあちこちうろつき回るだろう。そしてその間あのけたたましい声を聞き続けなければならない。今はまだ頭痛など感じていないが、寝不足の脳髄にあの声を叩き込まれ続ければ、それこそ頭痛の種になりかねない。
「霊夢さーん、いませんかー?」
 そんなことを考えているうちにもう一声が飛んでくる。うんざりした霊夢はのそのそと布団から起きあがり、肩に一枚羽織ってから鎧戸を開けて声のする方へ向かった。
「そちらでしたか。しかしもう昼過ぎですよ? 寝間着のままというのは巫女としてまずいんじゃないですか?」
「うるさいわね……。それより何の用なのよ」
「実は先日のインタビューのゲラ刷りができあがりまして、まずは霊夢さんにご確認をいただこうかと思った次第です。美希さんはどちらにいらっしゃいますか?」
 あの声を聞いたときから、何となく予想はしていた。だから彼女には会いたくなかったのだ。
 恐らくあの原稿には彼女の過去が赤裸々に描かれているのだろう。外の世界の辛い過去が。
 そんな物は見たくもないし、出版もさせたくない。
 しかし、昨日美希を追い出した自分が心の中で叫ぶ。
 もう無関係なんだ。と。
「いないわよ。それにその原稿は好きにすればいいわ」
「そうは参りません。これは彼女との契約の一つでもあります。美希さんは外出中ですか? 何時頃お戻りになられます?」
「もう戻ってこないわよ。追い出したもの」
 上機嫌の彼女が妬ましかった。だから霊夢は、あえて彼女が怒るような言葉を選んだ。
「またまたご冗談を。お使いか何かですか? それともまたどこかにホームステイをさせているとか」
「知らないわよ。里にいるか路頭に迷ってるか、それともどこかで妖怪に食われたか。何にせよ私の知った事じゃないし、関与すべき事でもないわ」
「……本気で仰ってるのですか?」
 彼女の表情が一瞬で変化する。目が睨みつけるように鋭くなり、声音も重い。恐らく並の妖怪ならこれだけで縮みあがってしまうだろう。
「私は巫女よ。平等を保ち、この世界の安寧を守るのが仕事。誰であろうとえこ贔屓することは出来ないわ」
 霊夢もまた苛立っていた。何の関係もない鴉天狗が何故彼女のことで怒るのか。どうしてそれ程までに肩入れをするのか。理不尽な怒りがこみ上げて止まらない。
「……解りました。今すぐこの神社ごと貴女を吹き飛ばしたいところですが、ここは一つ幻想郷の流儀に則って、勝負する事にいたしましょう」
「私に挑むなんて、良い度胸ね」
 寝間着の内側に隠していた数枚の呪符を取り出し、残雪残る庭に降り立つ。その間に鴉天狗は原稿とメモ用紙を大切に仕舞い込んでいた。
「着替えの猶予ぐらい与えますよ? 万全じゃなかったなんて言い訳をされたくないので」
「あんた如きにそこまでする必要はないわ。それともそっちの準備時間が欲しかったりするわけ?」
「ご冗談を。今の貴女には幻想風靡を使うまでもない」
 薄曇りの空。日は高いが太陽は見えない。気温は少し高いようだが、一晩降り続いた雪を溶かすまでではないようだ。
 足下の雪が小さく軋み、緊張の糸を張りつめさせる。冷たい風が地を這うように吹き抜け、眠っていた頭と身体を目覚めさせる。
 そして、残雪が枝から落ちたその瞬間、二人の周囲に目映いばかりの弾幕が一気に展開された。
「一度見せた技が通じるほど、博霊の巫女は甘くないわ!」
 手の内から放たれた呪符が天狗のつむじ風をかき消し、彼女めがけて飛んでゆく。しかしその一撃は苦もなくかわされ、代わりに幾つもの石つぶてが飛来してくる。
 この鴉天狗とは妖怪の山でも緋想の異変でも対峙している。彼女は高速で飛び回りながら風を操る能力を駆使して相手を翻弄する戦術を取る。残念ながら霊夢の陰陽玉もアミュレットもそこまでの速度は期待できず、封魔針で狙うには動きが早すぎる。だとすれば、取れる手段は二つ。相手の動きを予測してそこに弾幕を展開するか、もう一つは──。

結界「拡散結界」

 まるで蜘蛛の巣のような結界が霊夢を中心に大きく展開されてゆく。一つ一つの結界はさしたる威力ではないが、霊夢はその結界を幾重にも重ねて張り巡らせていた。
 大きく行動を制限する呪符結界。如何に最速の異名を持つ彼女とて、これに捕らわれれば自由には動けない。あとは狙いやすくなったところで、針を使って上手く仕留めればいい。そう考えていた。

 しかし、次の瞬間。残雪の上に倒れ伏していたのは霊夢の方だった。

「今の貴女には負けないと言ったはずです。美希さんの消息は私一人で調べます。貴女はこれでも読んで頭を冷やすといい」
 伏した背中の上に、数枚の紙束が投げつけられる。頬に当たる残雪は冷たく、痛めつけられた節々が痛い。
「貴女には失望しました。そんな考えの人間に守って貰わなければいけない箱庭など、こちらから願い下げです」
 捨て台詞を残し、鴉天狗は飛び去ってゆく。恐らく彼女の情報収集能力なら、すぐに美希の居場所とその無事を確認できるだろう。
「これでいいのよ……。これで」
 自分に言い聞かせるように呟き、霊夢は立ち上がって雪を払う。それから、落ちた原稿をつまみ上げて無造作に室内に投げ込み、鎧戸を閉めて布団に潜り込む。
「おなか……すいたなあ」
 彼女の虚ろな瞳は、何も映しては居なかった。



 買い物から帰った後に命じられたのは、窓硝子の拭き掃除だった。寒い中の水仕事は堪えるが、その分仕事をしているという実感も強い。
「あと五枚……。もう少しだし、がんばろうっ」
 冷える手を暖めながら、雑巾を絞って窓を拭く。窓から覗く風景は茜色の空。明日の朝は雪かきをする必要がなさそうだ。
「霊夢さん、大丈夫かな……。体調崩してないと良いけど……」
 自分が居なくなったことで、家事や掃除の負担は確実に彼女にのし掛かっているはずだ。自分がそれほど有能だったとは思えないが、それでも最近の雪の多さは二人でやっても汗をかくほどだった。去年まで一人でやっていたのだから、いらぬ心配には違いないのだが、どうにも気になって仕方がない。
「……いけない。のんびりしてたら終わらなくなっちゃう」
 はっとして我に返り、慌てて脚立を降りて次の窓に向かう。咲夜には終わるところまでで良いし、無理する必要はないと言われたのだが、やはり割り当てられた仕事はきちんとこなして見せたい。何より、手を抜いて仕事と向き合うのは彼女の良心が許さなかった。
「貴女が咲夜の言ってた新しいメイド?」
 不意に声をかけられ、慌てて振り返る。
 視線の先に居たのは、、水色の髪をした少女だった。
「あ、はい。美希と言います。よろしくお願いします」
 深々と頭を下げながら自己紹介をする。柔らかそうな素材のドレスに、ふわふわとした丸い帽子。そして背中に見えるコウモリのような羽根。
 明らかに人間ではない彼女を、美希はどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。
「人間を雇ったって聞いたけど、まさか本当に何もない娘だとは思わなかったわ」
 やや高圧的な言葉と視線が美希を萎縮させる。彼女は恐らく自分の半分程度の年齢でしかないはずだ。しかし、美希の身体は確実に彼女に対して恐怖を抱いていた。
「まぁいいわ。名前ぐらいは聞いていると思うけど、私がレミリア。この紅魔館の主よ」
「は、はい。これからよろしくお願いします」
 彼女の名前は、昼食の時に聞いていた。どうやらこの少女がフランの言うお姉さまらしい。
 言われてみれば、彼女はどこかフランと似ている部分があった。赤い瞳と白い肌。目鼻立ちと背格好はフランととてもよく似ているし、どうやら帽子も彼女と同じデザインのようだ。
 しかし、決定的に違う部分もある。
 それは彼女の視線だった。
「妖精達よりは真面目らしいけど、使えないなら意味はないわ。せいぜい頑張って頂戴」
 彼女の赤い瞳から放たれる視線。それは獲物を見る目であり支配者の眼差しでもあった。
 そして、奴隷の如き生活を送ってきた美希には、その視線は恐怖以外の何物でもない。
「が、がんばります……」
 唇が震え、冷や汗が浮く。治りかけた魂の傷が開くような、出来たばかりの瘡蓋をはがされるような、そんな痛みを感じる。
(怖い……)
 まるで心臓を握りつぶされているようで、息苦しい。
 妖精メイド達は、この館で一番怖いのはフランだと言っていた。もしそれが本当なら、図書館で自分が感じた安らぎは何だったのだろう。そして、今感じている恐怖は何だというのだろう。
 冷ややかで威圧的な目に覗き込まれ、美希は僅かたじろぐ。膝が砕けそうな恐怖と、目眩がするほどの萎縮。その二つが、不運な出来事を招く。
「あっ!」
 ほんの数歩後ずさったところにあったのは脚立。その足に自身の足を引っかけてしまい、美希は思わず尻餅を付いた。その痛みを感じるのも束の間、今度は脚立が倒れ込んでくる。そして同時に、脚立の足は水の入ったバケツをひっかけた。
「きゃぁっ!」
 けたたましい音と共に脚立とバケツが転がり、あたりの床に水が広がる。
 転がったバケツの傍には、濡れた靴下と、ドレスの裾。
「も、申し訳ありませんっ!」
 唯一運が良かったのは、バケツの水が換えたばかりで綺麗だったという事ぐらいだろうか。おかげでドレスと靴下に染みを作ってしまう心配はなさそうだ。
「随分なことをしてくれたわね」
 明らかに怒気をはらんだ声。先ほどよりも鋭い、刺すような視線。その恐ろしさに、美希は立つことすら出来なかった。床に広がった水は美希のスカートも濡らし、足を覆う真っ白なタイツにも染み込む。冬の冷たい水が肌を冷やし、体温を奪う。
「す、すぐに拭きます……っ!」
「無駄よ。もう染み込んでしまったわ。それより、ダメなメイドには罰を与えないといけないわね。手を出しなさい」
 彼女の言葉に、まるで操り人形のように左手が動く。手のひらを上にして、まるで生け贄のように差し出された左手。その小指に、レミリアは小さく歯を立てる。
「っ……」
 牙を立てると言った方が正しいだろうか。針に刺されたような痛みと共に、小指から薄く血が滲む。レミリアはその血の一滴を舌先で舐めとってから、ゆっくりと身体を離してゆく。
「貴女の仕事の割り当ては?」
「あ……はい。ここの窓を後四枚拭くことです……」
 なんと淫美な動きだったのだろう。目が回りそうな程の緊張の中で、彼女の唇と舌の動きだけが、鮮明に脳裏に焼き付けられていた。
 そう、それはまさしく『魅了された』という言葉にふさわしい状態だった。
「そう。なら夕食までに床を片づけて仕事を終わらせなさい。そうしたら許してあげる」
「あ、ありがとうございます!」
 慌てて膝立ちになり、頭を下げる。まだ立ち上がるほどには落ち着いていなかったが、彼女から許しの言葉が出たことと、あの刺すような視線が自分から逸らされたことで、美希はようやく深い呼吸が出来るようになっていた。
 夕食の時間まではまだ随分ある。遅れた分を考えても、決して無理な仕事量ではない。こぼれた床の水を雑巾で拭き取り、脚立を戻して新しい水を汲みに行く。
 いつの間にか、レミリアの姿はもう見えなくなっていた。
「小指、まだちょっと痛いな……」
 水の入ったバケツを持ったまま、美希は噛まれた左手の小指を見つめる。既にそこには傷跡もなく、血が滲むようなことはないのだが、妙な痛みが残っているような気がする。
 いや、正確には痛みではない。熱を持った疼きのような感覚がいつまでも消えなかった。
「いけない。さすがにのんびりしてる時間はないんだった」
 微妙な感覚だが、何時までもそれにかまけている暇はない。美希は次の窓の下に脚立を立て、雑巾を片手に登る。

 どくん……。

 突然、心臓が大きく脈打ったような気がした。

(な、なに……これ……)

 指先にしか無かった疼きが、気が付けば全身に広がっている。

 どくん……っ。

 先ほどよりも強くはっきりと、心臓が大きく脈打つ。そして同時に、表現しがたい疼きが下腹に広がる。
(ど、どうして……っ)
 膝が震え、脚立から立ち上がれない。
 スカートのはためきや、衣服の擦れ。何もかもが異常なほど鮮明に感じ取れてしまう。
 そして、下腹にたまった疼きは、確実に美希の一点へと集中してゆく。
「そんな……だめっ……」
 下着が擦れるだけで、吐息が漏れる。触れてもいないのに、蜜が溢れる。
 美希はようやく、レミリアの言う罰の意味を理解した。
「は……んっ……!」
 触れ、かき回したくなる衝動が止まらない。奥深くまで指を射し入れ、蜜を掻きだして淫らな声を上げたい。そんな衝動が脳髄に満ち溢れる。
 しかし、そんなことをすれば確実に仕事は終わらないだろう。いや、誘惑に負けたが最後、一晩中喘ぎ狂ってしまうかもしれない。
「しごと……しなきゃ……」
 それでも美希は、最後に残った理性のひとかけらにしがみつき、窓を拭き始める。己の欲望を押し殺し、震える身体を懸命に支えながら。



「きょーおのごっはんはぼたんなべー。ぐっつぐっつぐっつぐっつぼったんなべー」
 一日の仕事を終え、美鈴は上機嫌で廊下を歩いていた。
 日没と共に戸締まりを終えた美鈴は、報告がてら厨房を覗いて今日の献立を聞きに行った。残念ながら咲夜はそこに居なかったが、厨房を任されたメイド曰く夕食は猪肉を使った鍋らしい。しかも美希の歓迎会を兼ねているのだとか。
「美希と咲夜さんはどこっかなー。早く鍋食べたいぞー」
 奇妙な歌を奇妙なメロディに乗せて、美鈴は足早に廊下を歩く。腹が減っているのもあるが、何よりも歓迎会が嬉しくて仕方がない。どうせ咲夜は夕食の時に会えるのだし、報告はその時にしてもかまわない。火急の言付けは何もないのだし、その旨はメイドにも伝えてある。何より多忙な咲夜が探して見つからないのは、今に始まったことではない。
 そんなわけで美鈴は、美希が窓拭きを任されているという廊下まで一直線に歩いていた。
「お、いたいた。美希ー、お仕事おわったー?」
 脚立の上で窓を拭いている彼女に、美鈴は小走りに駆け寄りながら訪ねる。夕食までは後僅か。終わっていなければ手伝ってしまおう。そんなことを考えながら。
「め、美鈴さん……。ごめんなさい、あと……一枚残ってるんです……」
 赤い顔に潤んだ瞳。やや焦点の合わないその表情は、どこか具合が悪いように見える。昼とはいえ寒空を飛んだせいか、はたまた先日の濡れ鼠が今になって堪えたか。そんなことを考えながら、脚立から降りようとする彼女に手を伸ばす。
「具合悪い? ほら、掴まって」
「だ、だいじょうぶ……。後一枚で、終わりますから……」
 平気だという割に、彼女の手は小さく震えていた。呼吸も荒く、足下も怪しい。
「遠慮しなくてもいいよ。ほら」
「だ、だめ……今は……ひゃぁう!」
 廊下に響いたのは、紛れもなく嬌声だった。よくよく見れば彼女の瞳は熱っぽく色気を帯び、赤い顔と荒い吐息は淫らな色香を匂わせる。彼女がこんな場所で自慰に耽るような人間には思えないし、誰かと肌を重ねていたとも考えにくい。悪戯好きの妖精がやったにしてはそれを楽しむような気配も見当たらない。何より業務中にそんな遊びをしたことが咲夜にばれでもしたら、それこそお叱りどころでは済まないことは、この館に居る者なら誰でも知っている周知の事実だ。そんな命知らずが居るとは思えない。
「だ、大丈夫? いったいどうしたの……?」
「お嬢様に水をかけてしまいまして……。これは、その罰で……指を噛まれたら…………それから……んはぅっ……!」
「ちょ、ちょっと指を見せて」
 最悪の事態が脳裏によぎり、美鈴は慌てて美希の手を覗き込む。しかし、何度か雑巾を絞ったであろうその手は、軽くふやけてはいるものの傷一つ無い。
 館の主であるレミリア=スカーレットは吸血鬼である。彼女達は弱点こそ多いものの、強大な力と多彩な能力を秘めている。その一つが眷属の契約だ。これは相手の血を媒介にして肉体と魂を作り替え、同じ吸血鬼の一族にしてしまう能力である。
 契約を成しえた者は永遠の若さと不死の身体を得る代わりに、血の乾きに苛まれる夜の眷属と也果て、二度と日の目を拝めなくなると言う。
 しかし、幸い美希の手にも指にもそれらしい傷跡はなく、恐らくは戯れに牙を立てた程度なのだろう。そしてその際に毒か魔術を打ち込まれたに違いない。
「少し部屋で休もう。一晩もすれば……」
「だめです……。お仕事は終わらせないと、叱られてしまいます……。そ、それに……あと一枚ですから……」
 全身を蝕む愉悦がそうさせているのだろう。彼女の足はまるで力が入っていなかった。
 紅美鈴は気を操る力を持つ。それは気をもって相手を打ち倒すような事だけではなく、身体に流れる気を制御して病を治したり回復を早めたりする事も出来る。だが、それは所詮本人の回復能力を高めたり、自然治癒力を倍加させる程度に過ぎない。治癒には当然それなりの時間がかかるし、魔法のように一瞬で治るようなことは有り得ない。
 それに、いくら彼女の毒や魔法を打ち消したとしても、内にくすぶった情欲の炎まで消しされるわけではないのだ。
「そんな無理しなくたって……」
「やらせてください……。お願いします……」
 最後の窓に脚立を立てかけ、しがみつくようにして登る。潤む瞳に、決意の輝きを宿して。
「私……、今まで、自分で何かを手にしたとか……成し遂げたってことが無かったんです……。誰かの言いなりになったり……されるがままになったり……。だから、このお仕事だけは、ちゃんとおわらせたいんです……」
「美希……」
「心配かけて、ごめんなさい……。でも、私にも何か出来るんだって……。ちゃんと、お仕事できるんだって……自分を認めてあげたいから……」
 震える足で身体を支え、美希は最後の窓を丁寧に拭く。
 恐らく下着の衣擦れすらも敏感に感じてしまうほどに、彼女の感覚は昂ぶっているだろう。
 しかし、美希はそれでも手を抜かなかった。
「わかった……。そのかわり、片づけは他のメイドに任せるからね」
「はい。仕舞う場所もわからないので……、それはお願いします……」
 脚立を支えながら、美鈴は彼女の足運びに油断なく目を光らせる。もし足を滑らせたときに、大事に至ることがないように。
 そして同時に、そうすることしかできない自分を歯がゆく思って唇を噛みしめた。
「これで、終わり……ですっ……」
 最後の一枚を拭き終え、美希は脚立を降りてくる。達成感で気が抜けているのだろう。先程よりも更に不安定な彼女を、美鈴はやや強引に抱きかかえる。
「ごめん、辛いだろうけどちょっとだけ我慢して!」
 美希が手にしていた雑巾をバケツに投げ込み、彼女があてがわれた客間へと走る。途中見かけた妖精メイドに片づけをお願いして、後は形振り構わず全速力で。
 今の彼女に出来る最良の治療を施すために。
「ついた! ちょっと待ってて」
 スカートを押さえて悶える彼女をベッドに寝かせ、綺麗なタオルに湯を染み込ませて柔らかく絞る。
 さすがに雑巾を握った手のままではいろいろと問題が有りすぎる。
「よしっ。手を出して。もういっぱい声を上げても大丈夫だから」
「美鈴さ……んんっ! ひゃぅ!」
 タオルで手を拭われるだけでも、美希は身を震わせて嬌声を上げてしまっていた。
 彼女のために出来る、最善の治療方。
 それは美希を性的に満たしてあげることだった。
「もう仕事は終わったから。いっぱい乱れて大丈夫だから」
「美鈴さん……っ、切ないの……! あそこが、あそこがせつない……っ!」
 泣き出しそうな表情の彼女を抱きしめ、むしり取るようにエプロンドレスを脱がせる。長い髪を押さえていたヘッドドレスを床に落とし、彼女を拘束していた仕事から解放させる。
 スカートとショーツには、もうすっかり大きな染みが広がっていた。
「美希……っ」
「めいり……んんっ! んんぅ……!」
 深く舌を絡め、むさぼるような口づけを交わす。その間も、美希は幾度となく身を震わせ、軽い絶頂を迎え続けていた。
 しかし、当然この程度で収まるわけがない。長く我慢していた分、彼女の内にくすぶっていたものはそれだけ大きく熱くなっているのだから。
「はっ……! んんっ! ん! んくぅっ!」
 最早用を為さなくなった下着を脱がせ、露わになった秘所にそっと指をあてがう。既に太股まで濡れたその部分はひくひくといやらしく蠢き、美鈴の指をするりと飲み込んだ。
「やっ……おねがい……! おくまで、おくまでさわって……!」
 やや小振りなその部分に指を挿し入れ、少々乱暴に内壁を擦り上げる。愛液は美鈴の手のひらを濡らしてもまだ溢れ続け、滴となってシーツへ染みを作ってしまう。
「きもち……っ! ふぁ! い、いいのっ! すごい……や、へんになっちゃう! おかしくなっちゃう!」
 腰が跳ねる度に彼女の膣は美鈴の指をきつく締め付け、奥へ奥へと導いてゆく。しかしそれでも尚、彼女は強く美鈴にしがみつき、より強く激しい悦楽を求めた。
「ひゃぁっ! ふぁ、ぁ……んんぅっ! や、きちゃ……! なんか、くるっ! だめ、も……ふひゃぁぁぁん!」
「我慢しないで、いっぱい感じて。ちゃんと抱きしめててあげるから、おもいっきりいっちゃいなさい」
 濡れた手のひらを小さな粒に押しつけるようにして、中とその部分を同時に責め立てる。
 快感の波が大きくなったからだろうか、美希はベッドに身を投げ出し、シーツを握って激しく身悶える。
「やっ! ぁ! い、いっちゃ! ひゃぁぁぁぁぅ!!」
 ぎゅうっと身体が反り返り、限界まで引き絞られた弓のように反り返る。そして、その姿勢でぴったりと固まってから、美希は糸が切れた人形のようにその身体をベッドへ投げ出した。
「はぁっ……! っは……。はふ……っ」
 胸が酸素を欲して大きく上下する。美鈴はそんな彼女の髪をそっと撫でながら、水差しの水をコップに注いで彼女にそっと握らせた。
「一気に飲んじゃだめだよ。落ち着いてゆっくりね」
「は、はい……。ありがとうございます……」
 ふらふらと身を起こし、美希はひとくちひとくち噛むように水を飲む。どうやら発作のような劣情はひとまず収まったらしく、美鈴は小さく安堵のため息を吐く。
「ごめんなさい……。ご迷惑おかけして……」
「迷惑なんて思ってないよ。それに、まだちょっとうずいてるんじゃない? お礼を言うのはちょっと早すぎると思うけど」
「ぁ……ぅ……」
 真っ赤になって俯き、美希はおずおずと肌を寄せてくる。美鈴の予想通り、まだ美希の身体には快楽の種火が残っていた。
 恐らくこのままで放置すれば、また元の木阿弥になってしまうだろう。少々惜しいが、歓迎会は諦めた方が良さそうだった。
「素直で宜しい。ちょっと待っててね」
 彼女の頭をひと撫でしてから、美鈴はさっさと衣服を脱ぎ捨てる。
 最後の下着を外しながら、美鈴はこの少女がどこか鈴仙に似ていると感じていた。
「おまたせ。部屋の中でも、流石に夜は冷えるね」
 そっと肩を抱き寄せると、美希はぴくりと身を震わせた。やはりまだ罰の効果が残っているのだろう。瞳は潤み、その視線は熱を帯びている。
「ごめんなさい……、おつきあいさせちゃって……」
「あんまり謝っちゃだめ。こっちこそ私なんかが相手でごめんね?」
「と、とんでもないです! 美鈴さん優しいし、それに、その……とってもきもちよかったし……」
 小さく呟きながら、美希は胸に頬を寄せるようにして抱きつき、そっと肌を擦りつけてくる。甘えたような彼女の仕草が可愛らしい。
「そう言ってもらえると嬉しいかな。じゃあお返しにいっぱい感じさせてあげる」
 くすりと笑みをこぼしながら、美鈴は美希にそっと口づける。先程の荒々しいキスとはうって変わって、優しく甘く。
「ん……んくっ……」
「ぁむ……ん、んくっ」
 舌を絡めながらも、美希はややもどかしそうに肌を擦りつけてくる。やはり、内に篭もった熱はまだ完全に消え去ってはいないらしい。長い髪を撫で、背中を支えるように抱きしめながら、美鈴は軽く逡巡した後で、そっと彼女を押し倒すことにした。
「美鈴さん……」
 恥じらう程度の余裕はまだ残っているらしい。頬を染めてこちらを見上げる彼女の表情はとても可愛らしく思える。しかし同時に、華奢な手足と細い体躯でこのようなことを受け入れてしまう彼女の人生を悲しくも思う。
 美希はまだ若い。歳は霊夢とさほどかわらないだろうし、うろ覚えではあるが、それは外の世界ではまだ成人には程遠い年齢のはずだ。まだまだ恋に恋し、夢を持って様々なことを美しいままに信じていて構わない年頃のはずである。
 そして、先程の一時とこれからの出来事は、そのような美しいものではない。
(怖がるよりはいいんだけど……)
 彼女の薄桃色の頬に唇を寄せながら、美鈴はそれ以上深く考えないことにした。これ以上深く踏み込んで、彼女に触れられないようになってしまったら、その苦しみを長引かせるだけになってしまうから。
「肌綺麗だね、美希」
「はずかし……んっ……ふぁ…………」
 甘い吐息と微かな声が耳に響く。そしておずおずとその手が腰へと伸びてくるのを感じ、美鈴は美希に肌を重ね、包み込むように抱きしめる。
「触ってくれるの?」
「あ、えと……いっぱい、触れあいたくて……」
「ん、いいよ……。気持ちよくさせて……?」
 もう一度深く口づけをすると、美希の手は美鈴の背筋を静かに愛撫し始める。骨に沿って指が動き、時折強くしがみつくように背を掴む。そんな彼女の仕草に答えるように、美鈴もまた美希の背中を優しく愛撫した。
 時折触れ合う胸、絡み合う足、僅か触れた秘所からはもう新たな蜜が溢れ始めており、そんな様を見て美鈴もまた少しづつ濡れ始めてしまう。
「ふふ、美希って結構エッチな子?」
「や…そんなこと言わないでください……」
 赤い頬を更に赤らめ、小さく首を振る。そんな愛らしい仕草と表情に、美鈴は美希を強く抱きしめ、そして二度三度と口づけを落とす。
「ごめんね。でも可愛いし、すごく気持ち良いよ」
「は、恥ずかしいです……。そんなこと……」
 視線を逸らす彼女を追いかけるようにして、そっとその唇を奪う。甘い口づけはどちらからともなく深く激しくなり、視線の代わりに肌が重なる。
 美希の愛撫はたどたどしいながらも、的確に快感のツボを捕らえていた。強弱を織り交ぜながら繰り返される、啄むような愛撫の連続。その心地よさに、美鈴は否応無く高ぶってしまう。
「ん……ぁんっ……。めいり……さ……んぁっ…………」
「美希……ふぁ…………。っ……もっと……んっ……」
 足が絡み、喘ぎと愛液が混ざりあう。重ねた肌の向こうから伝わる熱が互いの身体を熱くし、甘く唇が重なる度にその熱が煽り立てられる。
 美鈴は、本当は彼女を満足させるだけで終わらせてしまおうと考えていた。むやみに肌を重ねれば情が沸き、彼女が霊夢の元に戻りにくくなるのではないかと考えていたから。
「美鈴さん……っ、んんっ……ちゅくっ……」
「は、んっ……。美希、んっ」
 しかし、彼女は知っていた。相手を感じさせることで得られる悦びを。触れることで得られる暖かさを。
 だから美鈴もまた、彼女に身を任せることにしたのだ。
「ひ……ゃっ! ふ、ふぁっ……! だ、だめ……ですっ! きちゃう……っ! い、いっちゃ……!!」
「いいよ……美希……っ。私も、いきそ……だから……」
 震える指を絡ませ合い、強く秘所を押しつけ合う。快楽を求めれば彼女の顔は遠くなり、唇を寄せれば愉悦は薄らぐ。大きな体格の差がもたらすもどかしさを感じながら、二人は少しづつ上り詰めていった。
 素敵な兎と少しだけ似た、一つも同じところがない身体を抱きながら。
「美希……っ!」
「めいり……ひゃぁっ!」
 短いながらも鋭く大きな嬌声が部屋中に響く。声は恐らく廊下にも漏れてしまっただろう。
 全身を硬直させ、それから美希はゆるゆると美鈴にもたれ掛かってくる。そんな彼女の細い身体をしっかりと抱き止め、美鈴もまたベッドに身を任せた。
「はぁ……ふぅっ……」
「ん……お疲れさま。ちょっとまってて」
 水差しの水を取り、一口飲んでから美希のためにもう一口。それから唇を寄せ、人肌程度になった温い水をゆっくりと彼女に飲ませる。口の端から滴がこぼれそうになると、美希はそっとその滴を指先で掬っていた。
「はふ……ありがとうございます……」
「落ち着いた?」
 問いかけに顔を赤くし、美希は僅かに頷いてみせる。先程より重く感じる彼女の体重と、解けきった様子の四肢が、その仕草に偽りがないことを物語っていた。
「ごめんなさい。お仕事邪魔してしまって……」
「私の仕事は終わってるから大丈夫だよ。美希のお仕事もさっき終わったし、もし怒られたら私がかばってあげるから、安心して」
「でも……」
 眉を寄せ、悲しそうな表情を見せる美希。眉根を寄せるその仕草は、やはりどこか彼女に似ていた。
 永遠亭の月兎、鈴仙に。
「美希は、私の大好きな人によく似てる。正確には、もう少し昔の彼女にだけど」
「…………?」
 不思議そうに顔を上げる美希の頭を撫で、彼女を抱き寄せて布団を掛ける。室内とはいえ冬の空気はやはり冷たい。今はまだ身体が火照っているだろうが、すぐにそれも収まって寒さを感じてしまうだろう。冷えた身体が心を冷やす前に、美鈴はしっかりと彼女を抱きしめる。
「自分が無力だって思い込んで、それをはねのけようとして目一杯頑張って、目に映るものをみんな一人で抱え込もうとしてる。自分のことは自分でやらなきゃ、迷惑かけないようにしなきゃ、頼らないでも生きていけるようにしなきゃ。って。それはとっても立派なことだけど、美希を大好きだって思ってる人からすると、寂しくて悲しいことなんだ」
「で、でも……。私、命を助けてもらって、住むところも食べ物も……」
 言いかけた彼女の唇に指を当て、それから美鈴はそっと頬を撫でる。彼女の美しい黒髪をかき上げ、その表情をしっかりと見つめながら。
「美希のことはちょっとだけ聞いてる。この黒髪は永琳さんの薬のおかげなんだよね?」
 小さく頷く彼女の髪を静かに撫で、腰まで伸びる絹糸のようなそれを優しく整える。誰もが羨むこの黒髪を、あの神社の巫女はどんな気持ちで見ていたのだろう。
「永遠亭に行って身体を見て貰って、髪も伸ばして貰って、美希は見違えるほど綺麗になった。それは確かに永遠亭を紹介した霊夢のおかげでもあるんだけど、きっと霊夢はそれを自分の手柄だと思ってない。家に居るのだって、命を助けたのだって、自分にしかできなかった事じゃないって思ってるんじゃないかな」
「そんな……! 私は霊夢さんが居なかったら、ここにだって……」
「恩を受けた側はそう思ってるのかもしれないね。でもきっと霊夢はこう思ってる。自分にしかできないことは何一つしてあげてない。自分より他の誰かと一緒の方が、きっと美希は幸せになれる。って」
「霊夢さん……」
 こぼれた涙が、彼女の想いの深さを物語る。馬鹿馬鹿しくも辛い、小さな小さなすれ違い。それがきっと、彼女の涙の原因。
 そして、そんな二人にしてやれることは、美鈴には無い。
「今は難しいかもしれないけど、きっと美希の気持ちは伝わる。霊夢だって解ってくれるよ。そしたらその時に、貴女が居ないとだめなんですってちゃんと伝えればいい。美希ならきっと大丈夫」
「でも……、霊夢さん怒ってた……。だから、もう会えないかもしれない……」
「そんなことはないよ。まあいざとなったら私が何とか……」

 ぐぅ~~~。

 真面目な雰囲気にそぐわない、胃袋の欲求。あまりにも間抜けなその音に、美鈴は思わず顔を赤らめる。
「ご、ごめん。真面目な話してるのに、こんな……」
「わ、私もおなか減ってるから……、大丈夫です……」
 顔を見合わせ、小さく笑い合う二人。一度自覚してしまった空腹感は、さすがに水では収まりそうもない。
「厨房行って何か取ってくるよ。ついでに着替えも。何かリクエストはある?」
「好き嫌いはないんで、何でも大丈夫です。私のために、ごめんなさい……」
「気にしないのっ。私も結構ノリノリだったからさ、おあいこだよ」
 脱ぎ散らかした服を拾い集めると、スカートから飴細工がこぼれた。慌てて拾い上げたそれは幸いにも割れておらず、ほっと胸を撫で下ろす。
「これ、まだ渡してなかったんだ?」
「あ、はい……。図書館に行く暇もなかったですし、お嬢様とはあんなことになってしまったので……」
「そっか……。ねぇ美希、レミリア様のこと、怖いと思う? また会っても平気?」
「私が粗相をしたわけですから、怒られて当然です……。それに、フラン様があんなに慕っているのに、悪い方のはずがありませんよ」
 最悪の出会い方をした上に、トラウマになっても仕方がない罰。それでも尚、美希はレミリアの事を信じていた。
 ともすれば馬鹿が付くほどと揶揄されてもおかしくないほどの純粋さ。恐らくそんな彼女だからこそ、霊夢は嫉妬するほどに彼女を愛してしまったのだろう。
「じゃあこれ、咲夜さんに預けておくよ。お嬢様のことは咲夜さんが一番詳しいし、割っちゃったらもったいないしね」
「はい、ありがとうございます」
 シーツに身を包みながら頭を下げる彼女を置いて、美鈴はガウンを羽織って廊下へと足を踏み出す。
 ほんの一言だけでも、咲夜にこの想いを伝えるために。



 余ってしまった二人前の鍋。その鍋を前に、咲夜は小さくため息を吐く。
 歓迎会の主役とそれを一番喜びそうな門番は結局食卓に現れず、妖精メイド達に聞いても原因不明。探しに行こうとすると必死で止められる始末。そんなこんなで夕食の時間は終わり、残る片づけはこの鍋の材料のみ。
「まあ、睨んでいてもしょうがないわね……」
 もう一度ため息を吐き、鍋を下げようとしたところだった。
 食卓の扉が開き、やや足早に美鈴が歩いてくる。
「美鈴、どこに行っていたの? 美希も見当たらないし……心当たりはない?」
「彼女なら割り当てられた部屋にいます。お嬢様の罰を受けて、今まで私と篭もっていました」
 こちらを一別することもなく、美鈴は憮然とした答えを返す。どうやら夕食までの間にひと悶着あったようだ。
「罰? 私は何も聞いていないわ。いったい何があったって言うの?」
「苦しみに耐えながら、ずっと窓を拭いてたんですよ! 私が行くまでたった一人で! そのあとだって、食事どころじゃなかったんですからね!」
 空気が震えるほどの大きな声。彼女の激情に駆られた表情は、本当に久しぶりに見たような気がする。
 しかし、まず話を聞かないことには先へ進まない。理由や状況が解らなければ、咲夜とて何も言えないのだから。
「ごめんなさい。本当に私は何も解らないのよ。詳しく聞かせてもらえるかしら?」
「……すいません、つい大声を…………」
「貴女が怒るのも無理ないかもしれないもの。今はまず、貴女の知っていることを教えて頂戴」
 やや落ち込んだような表情で、美鈴は美希に何があったのかを話し始める。その場を見ていたわけではない彼女の言葉はやや一方的ではあったが、美希をかばい立てするようなものではない事から、ある程度公平か、もしくは美希にとって不利な発言のように聞こえる。
「……それで、美希の方は?」
「妖怪化はしていません。もししていたら、ここじゃなくてお嬢様の所へ殴り込みに行ってますよ」
「そうよね……。わかりました。この事について貴女と美希は不問にします。他のメイド達にも私から上手く説明するから、明日はのんびりしてなさい」
 今の咲夜には、そのぐらいしか言うことが出来なかった。申し訳ないと思いつつも、それ以上の労いは思いつかない。美鈴には褒美の一つも与えたいとらころだが、同僚の不始末を慰めただけと言えばそれまでのこと。やはり何かを与えるのは難しかった。
「あと、これを預かっていただけますか? 折ったり溶けたりしてしまわないように……」
「べっこう飴?」
「はい。妹様から頂いたお小遣いで、美希が買ったんです。妹様と、お嬢様と、自分の三人で食べられたら嬉しいって。地下で寂しそうにしてた妹様のためになったら良いなって……」
 小さな飴細工は繊細で可愛らしく、あの新人メイドの心を表しているようだった。
 辛い思いをしても尚、恨むことのない純真さ。
 その美しさが身に沁みる。
「わかったわ。それは私が大切に保管しておきます。それより、おなかが空いてるのでしょう? ちょっと待ってなさい」
「あ、その鍋そのままでも……」
「ベッドルームで鍋をつつくつもり? それとも、彼女をここに呼ぶような野暮なことをするの?」
「あ…………そういえばそうですね」
 思慮の薄さを恥じる美鈴の顔を見てくすくすと笑いながら、咲夜は鍋の材料を使って味噌仕立ての雑炊と焼き物を作り始める。部屋で待っている美希のためにも、能力を使って手早く。
「ねえ、美鈴。彼女をここに置いておいても良いと思う?」
「……わかりません。もちろん霊夢の元へ戻すべきだとは思うのですが、今のままではとりつくしまがない気がします。それと、美希にはちょっとした目標があるようで……」
 昼の買い物の時に見つけたという金細工。美鈴の話では、美希はそれを感謝の気持ちとして霊夢に送りたいのだと言う。
 あまりにも健気で、そしてなんと純粋な目標だろうか。
「そう……でもその値段は、彼女の給金では一ヶ月……いや、二ヶ月ぐらいかかるかもしれないわね」
「ですが、そこまで長引けば問題はもっとこじれる気がします。私がそれを払っても構わないんですけど、それじゃ意味がないですし……」
 彼女はあくまで自分で稼いだ金でと言っているらしい。つまり美鈴が与えるお金では意味がないのだ。
 かといって何の理由もなく彼女に大金を渡すわけにはいかない。なにがしかの理由が必要なのは間違いないのだが、それをどう作るかだ。
 咲夜としては、その金額をあげてしまっても良いと考えていた。
 この幻想郷において貨幣はその意味合いが軽い。妖精達の多くは貨幣での給金は意味がないとし、豪華な食事や特別なデザート。丸一日の休暇などを望む。レミリアの財布は自分が管理しているし、パチュリーは殆ど里で買い物をしない。きちんと給金という形で受け取っているのは美鈴と小悪魔ぐらいのものであり、二人の了承が得られれば別段問題はない。
 しかし、簡単だからこそ難しい問題もある。
 美希は里での買い物をしているため、貨幣価値をそれなりに知っていると思って間違いない。理由もなく大金を出しても、受け取るようなことは無いだろう。
「わかったわ。そのあたりは私が考えておきます。報告ありがとう。お疲れさま」
「いやいやそんな、お礼を言われるようなことはしてませんって」
 謙遜して笑う彼女だが、咲夜が感謝しているのは大袈裟でも何でもない。
 館の業務全般を取り仕切っている咲夜には、残念ながら自由な時間が少ない。僅かに空いた時間も、基本的には夜間に主達の世話をするための仮眠に当ててしまっている。その為、美希から目を離さざるを得なかったのだ。
 勿論咲夜とて何の考えも無しに仕事を与えたわけではない。午前中は基本的に仕事のない図書館にあてがい、パチュリーの紹介ついでに管理をして貰うことにしていた。そして午後は、買い物の後で主が目を覚ます夕食までの間のんびりと窓拭きをしてもらい、無理せず時間になったら終わらせるようにと言付けていた。
 盲点かつ意外だったのは、レミリアの起床がいつもよりもずっと早かったという事。
 主の気まぐれなど予想できるはずがないとはいえ、彼女に降り懸かった不幸は紛れもなく咲夜に原因がある。そのフォローをしてくれた美鈴に、感謝以外のどんな言葉が掛けられるだろうか。
「さ、できたわ。申し訳ないけれど、今晩は彼女のこと、よろしく頼むわね」
「言われなくてもそのつもりでした。それじゃ、おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
 出来上がった夕餉の膳を受け取り、足早に立ち去る美鈴。
 一人きりになった厨房で、咲夜は一つため息を吐いた。
「さて、どうしたものかしらね」



 早くに目を覚まし、夜を待ち望んでいたレミリア。夜の帳が下り、月が見えても彼女の表情は晴れなかった。
 原因は、昼間の些細な出来事。
 妖精メイドに着替えを用意させ、目覚めたついでにと湯浴みをしたので、水がかかったことについてはもう何も思っていない。
 彼女が眉根を寄せる原因は、別の所にあった。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
 部屋の外から咲夜の声が響く。これ以上固執しても答えは出ないと割り切り、レミリアは咲夜に入室の許可を出してからソファに腰掛ける。
「キームーンティーにオレンジスフレの生クリーム添えでございます」
「ありがとう。今日も館は変わり無くて?」
「概ね良好ですが、一つ些細な出来事がございました」
 嫌な予感がひしひしと伝わる。これ以上話を聞くのは間違いなく墓穴を掘るに等しい。しかしここで話を遮れば、自分がその些末な出来事を知っていると肯定したようなものであり、後々の不利は間違いない。
「話しなさい」
 努めて冷静を装い、紅茶を一口。キームーン独特のスモーキーな香りが、まるで自分の心を燻すかのような気持ちにさせる。
「大したことではございませんが、メイドが一人粗相をいたしました」
 ほらきた。レミリアは心の中で舌打ちをする。
 おしゃべりな妖精メイドが噂を流したのだろうか、はたまたあのメイドが咲夜に報告したのだろうか。いや、咲夜が様子を見に行った際に話を聞いた可能性もある。
 しかし、何れにせよ彼女が言う些細な出来事とは、あの窓拭きメイドのことに違いない。
「そう。それで?」
「そのメイドは館のとある方に粗相をいたしました。しかしその方はメイド長である私に断りを入れず、私罰をお与えになったそうです」
「館の住人なら、それは当然ではなくて?」
 あくまでも自分の正当性を、他人事のように主張する。
 何しろここで非を認めてしまったら、責められるのは自分なのだから。
「いいえ。メイドの粗相はメイド長である私の粗相。そして彼女達に罰を与えるのも私の役目でございます。主人にそのような真似をして手を汚させるわけには参りません」
「でもそのメイドが粗相を働いたのは主人に対してなのでしょう? ならば主人が怒るのも無理もないのではなくて?」
「勿論叱責は受けるべきでございます。しかしもし彼女が罰を受けたことを知らず、私が粗相のみを知って彼女を罰してしまったらどうなるでしょう」
「………………」
「主人の前で粗相をしたら、主人とメイド長から二重の罰を受けるなどと噂になれば、メイド達の仕事に差し障りが出てしまいます。ともすれば、屋敷のメイド達は主人を怖がって近づかなくなってしまうかもしれません」
「お、大袈裟よ……」
「いいえ。奇しくもその者はまだこの館について詳しく存じません。それが普通なのだと考え、次に粗相をしたときに彼女が主人を訪ねるような真似をしないとも限らないのです」
「…………っ」
「真面目なメイドであれば、罰を受けるまで帰らないと言うかも知れません。そして主人はそのメイドのために上げなくてもよい手を振り上げる羽目になってしまうでしょう。その様なことになれば、私はなんと……」
「わかった! わかったわ!! もう降参よ……。私が悪かったわ」
 止めどなくまくし立てる咲夜の言葉に、レミリアはとうとう観念した。咲夜の言い分にはやや無理矢理な点がある気がするのだが、それを正確に突くことが出来なければ結局は彼女に論破されてしまうだろう。
 ついでに言えば今現在この館の由無しを取り仕切っているのはこの十六夜咲夜である。彼女を敵に回せば明日のお菓子はおろか、今後の食事にまで影響が出かねない。
 無論、レミリアに対して忠誠を誓っている彼女がその様な暴挙に出るとは考えにくいのだが、彼女の性格を考えると、絶対に有り得ないとは言い切れない。
「でも、あの子が粗相をしたのは事実なんだからね。謝ったりはしないわよ」
「勿論でございます。その様なことをされては主従の関係に影響が出てしまいます」
 最後の砦をあっさりと迂回され、肩透かしを食らう。しかし咲夜の顔は一つも乱れた様子がない。どうやら彼女は別の何かを企てているようだ。
「じゃ、じゃあ何をすればいいのよ……」
「お嬢様には二つお願いがございます。まず一つはこちらです」
「飴細工?」
 それは特別珍しくもない飴細工だった。可愛らしく精巧に出来てはいるが、里に行けばすぐに手に入るであろう程度の代物である。それが三つ、レミリアの前に静かに並べられる。
「これはその新人メイドがフラン様より頂いた報償で購入したものです」
「フランに会ったっていうの!?」
「はい、出会ってしまったと言うべきでしょうか」
 瞳を閉じたまま、咲夜は今日の午前中に図書館であったという出来事を淡々と語り始める。それは実の姉であるレミリアにとって信じがたく、そして喜ばしい出来事でもあった。
「そう……あのフランが…………」
 長い間地下に幽閉されていた実妹フランドールは、他者との上手な付き合い方を知らない。また、その強大な力を上手く制御することが出来ず、レミリアのように魔力によって陽光を防いだり、溢れ出る力を隠匿して振る舞うことが出来ない。
 本音を言えば、レミリアもフランに自由を与えてやりたい。しかし夜だけの解放を許しても、彼女の強大すぎる力は余程の大物でもない限り畏怖の対象にならざるを得ない。そして、己が姿を見て逃げまどう妖怪達を目にしたとき、フランがどれほど傷つくかは想像もしたくない。
「その新人メイドは、罰を受けたにも関わらずお嬢様を信頼しておりました。そして、フラン様と三人で、この飴を食べられたらいいなと……」
 清々しいまでのお人好しぶりだが、彼女の気持ちはありがたい。
 実の姉妹でありながら彼女を束縛せざるを得ないレミリアは、その引け目からどうしてもフランを避ける傾向にあった。如何に彼女を思うが故の行動でも、本人に理解されなければ恨まれても仕方がない。
 しかし、もしこの飴をきっかけに語らう時間をとることが出来たら。真の意味で彼女の友になれそうな存在が居るのであれば、この胸の蟠りも、少しは軽くなるのかも知れない。
「そう……。解ったわ。彼女のその願いは無碍にしないと約束する。それで、もう一つというのは?」
 淡い期待を胸に、紅茶を一口運びながら咲夜に答える。あれだけ煙たく感じたキームーンの香りが、今は不思議なほどに清々しい。
「はい、そのもう一つというのは……」



 夜も白みかけた明け方、霊夢は未だ寝間着のままで居た。
 文との勝負に敗れ、傷ついた身体を手当することもなく、白湯を飲む以外の一切をせずに、彼女は微睡みと覚醒を繰り返し続けていた。
 鈍い頭に微かな頭痛が響く。それが何も口にしていないからなのか、睡眠らしい睡眠をとっていないからなのか、怠惰な一日を送った為なのかは解らない。ただ、霊夢はその頭痛を煩わしいとすら思わなかった。
 この家は、こんなにも広かっただろうか。
 この家は、こんなにも静かだっただろうか。
 この家は、こんなにも寒かっただろうか。
 空虚な心にそれだけが幾度と無く浮かんでは消えてゆく。
 天井の染みを数えるのも、襖のしわを数えるのも、もうやり尽くしてしまった。
 無論、このままでよいわけがない。
 霊夢は博霊神社の巫女であり、幻想郷の管理者でもある。巫女として神々に祈りを捧げ、何時起こるとも知れぬ異変に対して心身を鍛えて備えなければならない。
 秩序と里を守るために、妖怪退治を依頼されることもあるだろう。その為には色眼鏡で物を見ることなく、善悪の判断を揺るがせず、何事においても平等であり続けなければならない。
 それが博麗霊夢という存在の役割なのだから。
 だから霊夢は何事にも深く踏み込まず、何も持たず、里から離れて一人暮らしているのである。
 しかし、己の中のもう一人が囁く。

 それは誰にも強要されていないではないか。

 と。
 霊夢は物心付いた頃から、所謂大妖怪と言われる存在達にその役割を教え込まれてきた。
 この世界は巫女無くして有り得ない。
 ここに住む多くの者のためにも、この神社を守ってくれ。
 それが博麗の巫女の使命なのだ。
 口々に繰り返されるその言葉を信じ、霊夢はこれまでの人生を歩み続けてきた。
 しかし、何かを得てはいけないとは言われたことはない。それは霊夢が幻想の世界の番人で在り続ける為に、自らに課した枷に過ぎない。
 だからこそ、もう一人の自分は執拗に繰り返すのだ。

 では、お前は何のために生きるのだ。

 と。
 霊夢には親の記憶が一切無い。魔理沙は自身のことを捨て子だと言い、幼い頃から面倒を見てくれていた紫は何も語ろうとしない。他の者は出生について一切知らないと言い、自分もまた、誰かと過ごした記憶がかけらも存在しない。だから霊夢は、今まで特定の誰かのためにという事を一度も考えたことがなかった。
 そう、あの外来人を除いては。

 カサリ……。

 不意に、霊夢の指先が乾いた音を立てる。ぼんやりとした意識のままにその音の主を掴み上げ、目の前で広げる。
 それはあの鴉天狗が置いていったゲラ刷り原稿だった。

『貴女はこれでも読んで頭を冷やすといい』

 吐き捨てるように向けられた言葉が、彼女の蔑むような表情と共に思い出される。
 原稿の見出しには『文々。新聞冬季特別版』の文字。それから取材の趣旨と会話内容についての若干の前説明があって、それぞれの発言が対話形式で並んでいる。
「なによ……これ…………」
 会話は概ね美希を中心に進められていた。文が質問を投げかけ、早苗が答えて美希に振り、美希の答えにまた早苗が会話を挟んだり、文が更に質問を投げかけたりしている。内容は始終朗らかで、楽しげな様子が文面からも伝わってくる。
 しかし、霊夢が小さく呟いた理由はそれではない。
「私のことばっかりじゃない………………」
 美希は、身に起こった幸運を皆霊夢のおかげだと答えていた。
『霊夢さんのおかげで、妖夢さんという友達が──』
『この髪も、霊夢さんが取りなしてくれたから──』
『──こうしてここに居るのも、霊夢さんが居たからなんですよね』
 文面に幾度と無く現れる自身の名前。そして感謝の言葉。その一つ一つが、美希の声で心に響きわたる。
『──だからいつか、私は霊夢さんにきちんと恩返しがしたいんです。私には何かを作ったり取ってきたりするような技術がないから、自分の力でお金を稼いで、心を込めて選んだものを贈りたいんです。その為に、落ち着いたら少し働いてみようかなって』
 涙が溢れて止まらなかった。
 自分がどれだけ大事にされているかを、どれだけ真摯に思われているかを、霊夢は今更のように痛感していた。
 そして、自分が下した決断ががどれほど愚かであったかも。
 握りつぶしてしまった原稿のしわを伸ばし、霊夢は強く自身の頬を叩く。乾いた音が部屋中に響き、叩いた頬はひりひりと熱い。
 しかしその痛みは気だるさを消し、今一度立ち上がる力を与えてくれる。
 大切な人と、もう一度出会うための力を。



 なにやら、慌ただしい物音が響いている。
 廊下を駆け回る音や、何がしかの落下音。それから、よくわからない破裂音のようなものも。
(ん……なにか、あったのかな……)
 まだ眠い目を擦りながら身を起こすと、隣にいたはずの美鈴の姿がない。
 昨晩美鈴は、咲夜に許しを貰ったから昼まで寝ていられると喜び、そして目が覚めるまで傍にいると約束をしてくれた。しかし、部屋のどこを見渡しても彼女の姿はない。
「美鈴さん……?」
 小さな声で呼びかけ、ベッドから下りるも、答えの代わりに帰ってきたのは廊下を走るばたばたという喧噪だけ。
(やっぱり、何かあったんだ……!)
 浮かび上がった不安感は、否応なしに美希の心を焦らせる。クローゼットから適当な肩掛けを引っ張りだし、彼女は着替える間もなく廊下に飛び出す。
 不慣れな館の廊下はどちらへ向かえばどこへたどり着くのか、未だによくわからない。それでも美希は、喧噪に背中を押されるように走り出した。



「……っく!」
「いいわ美鈴。下がりなさい」
 廊下という閉鎖空間。そこは明らかに美鈴に分のある舞台だった。事実彼女の拳は幾度と無く敵を追いつめ、その蹴撃は確実に相手を退かせた。
 改めて咲夜は思う。この門番妖怪は強いと。
「申し訳ありません……。後はお任せします……」
 膝を付き、満身創痍の美鈴の代わりに前へ出る。
 かつて幾度と無く立ちはだかり、また共に空を駆った仲でもある少女の前へと。
「最近は巫女も家宅不法侵入をするのかしら?」
「私は美希に会いに来ただけよ」
 紅美鈴は決して弱くない。特筆して強い何かがあるというわけではないが、代わりに弱点らしい弱点も、苦手なものも存在しない。不特定多数と渡り合う必要がある門番という職業には、うってつけの妖怪である。
 しかし、今回ばかりは相手が悪い。
「どこの誰であろうと許可無き者をのさばらせるわけには参りません。それに彼女はまだ業務中。仕事を邪魔させるわけにはいきませんね」
「……どうあっても会わせないって言うのね。良い度胸じゃない」
 身構える霊夢に、咲夜もまたナイフを強く握りしめる。
 そう、本日の乱入者はあの白黒魔法使いではない。幻想郷最強の巫女、博麗霊夢なのだ。
 確かにあの白黒魔法使いも決して弱くはない。弾幕勝負では屈指の実力があり、彼女の持つ八卦炉から繰り出される魔法は美しくも強力だ。
 だが、この巫女は格が違う。如何にレミリアが強力な吸血鬼であろうとも、本気の霊夢には手も足も出ないだろう。それ程までに彼女は強く、そして美しい。
「言っておくけど、今日の私は手加減できない。冗談で済ませたいなら道を開けなさい」
「伊達や酔狂でメイド長は務まりません。そちらこそ、大人しく境内の掃除にでも戻ってはいかがですか?」
 空気が張り詰め、息が詰まる。
 自身の手には銀製のナイフ。巫女の手には数本の針。
 和解の道は、完全に閉ざされた。



 喧噪は静まり返り、何の音も聞こえてこない。
 しかし、全てが終わったわけではないように思える。
(なんだろう……、息苦しくて……怖い……)
 昨日はあれだけ居たメイド妖精達も、そこかしこから聞こえてきた彼女達の雑談も、今は一つも聞こえてこない。異常なほどに重苦しい静寂が、辺りに満ち溢れている。
「急ごう……。たしか、こっち……」
 朧気な記憶を頼りに、美希は音のしていた方へと走る。
 愛しい巫女から借り受けたままの、赤いリボンを握りしめて。



 勝負は恐らく一瞬。そして気を抜いた方が負ける。
 霊夢はもう一度手の中の針を握り直し、御幣を持つ手を構え直す。
 大きな通路が交錯する十字路とはいえ、この廊下はそれほど広くなく、自由に飛び回れるとは言い難い。だからこそ霊夢は美鈴に苦戦し、咲夜を呼ぶ隙を与えてしまったのだ。
 彼女の時を止める能力は厄介で、次の一撃などと言う甘い考えを持っていては勝ち目がない。
 それでも、霊夢は退くわけには行かなかった。
 自分を慕ってくれた彼女に、あの心優しい外来人に、もう一度出会うまでは。



「れ……!」
 発しかけた言葉を飲み込みながら、美希は自身の血の気が一気に引いてゆくのを感じていた。
 幾つもの廊下を抜けた十字路の先。そこに見えたのはあの懐かしい横顔と、自身の上司。
 そして、二人の手に握られた、鈍く輝く凶刃。
 二人の間に何があったのかは解らない。しかし一つだけはっきりしているのは、数刻、或いは数瞬先の未来に、どちらかの、もしくは二人の血が流されるということだけ。
(止めなきゃ……!)
 叫びたくとも、声は出なかった。代わりに身体はそう考えるよりも先に動いていた。気ばかりが焦って足がもつれる。羽織っていただけの肩掛けが床に落ちる。しかし、そんなことはどうでも良かった。二人を止めることが出来るなら。
 その為なら、美希は自身がどうなろうとも構わなかった。



 初撃を牽制、二撃目を囮。そして時を止めて三撃目で捉える。それが十六夜咲夜必勝の策だった。
 相手の武器は御幣と針。この狭い廊下という空間にあわせた、直線的な武器だ。恐らくまともにやりあえば勝ちはない。しかし、咲夜には空間を操る力がある。一度投げたナイフを反射させ、在らぬ方角から相手に向かわせることが出来る。ならば、その持ち味を最大限に生かすより他に道はない。
(今だ……!)
 研ぎ澄まされた神経が狙っていたのは、霊夢が息を吐くその瞬間。
 刹那の隙をついて、咲夜は手にしていたナイフを霊夢めがけて投げつける。間髪は入れない。この一撃をかわし、霊夢が攻勢に転じるのは予測済みだ。すかさず次弾を構えるべく、咲夜は身を屈める。
 しかし、完全で瀟洒なメイドも、これだけは予測することが出来なかった。
 突然物陰から飛び出した、新人メイドの姿だけは。



 通路の陰には小さな気配が一つ。恐らくは館のメイドを使って攪乱し、その隙に畳みかけるつもりなのだろう。しかし、その程度のことで動じていては妖怪退治は務まらない。
 咲夜は既に投擲体勢に入っている。この狭い廊下で彼女の短剣を全てかわしきるのは難しい。ならば幾つかを打ち落とし、その合間を縫って曲がり角へ身を隠すか、眼前まで詰め寄って御幣の一撃を加えるしかない。
 握っていた針を咲夜へ向けて投げ放ち、間髪入れず突撃すべく身を屈める。躊躇していては次の一手を打たれる。その後に待っているのは敗北のみだ。
(これはきっと陽導。本命は次かその次!)
 刹那の勘が冴え渡る。投げた針のいくつかは、確かに彼女の短剣を打ち落とすべく突き進んでいた。
 しかし、霊夢にも予測できないことが一つだけあった。
 物陰から飛び出した、自分が一番会いたかった人物の姿。
 それだけは、予測することが出来なかった。



 恐らくは、その場に居た誰もが確信していただろう。
 特に満身創痍の美鈴は、動かぬ身体を恨みながら固く目を閉じていた。
 投げ放たれた二人の凶刃は、まるで吸い込まれるように美希へと迫っていった。ただの人間である彼女が、刃の弾幕に耐えられるはずがない。うら若き命は鮮血と共に散り、後には耐えがたい悲しみと怒りしか残らないだろう。
 しかし、次に聞こえてきた声は、悲鳴でも怒りの叫びでもない、予想外の物だった。



 左右から迫る銀色の軌跡。そして驚いた二人の顔。美希は全ての終わりを覚悟し、そして同時に両者の和解を願った。
 堅く目を閉じ、衝撃に備え、そして強く願う。自分亡き後、悲しい争いが起こらぬようにと。
 しかし、針も短剣も、美希に届くことはなかった。
 不意に訪れる浮遊感。そして自身を包む柔らかい何か。ゆりかごのような何かに優しく包まれる不思議な感覚を覚え、美希は恐る恐る目を開けた。

『二人とも少し頭を冷やしなさい』

 水色の泡のような何かが、自身を包み込んでいる。そしてその泡のせいだろうか、やや湾曲したおかしな響きを持つ声が耳に届く。
 そしてその声と共に、咲夜と霊夢は大きく後方に吹き飛ばされていた。
「これ……なに……? パチュリー様……? きゃっ」
 泡の正体を探ろうと手を伸ばすよりも早く、自身を包むそれは音もなくはじけて消え、美希の尻を強か床に打ちつける。
「その尻餅は危ないことをした貴女への罰だと思いなさい。もう少し保身を考える事ね」
「も、申し訳ありません……でも、二人が傷つくのが怖くて……って、失礼します!」
 言いかけた言葉を飲み込み、慌てて霊夢の元へと駆け寄る。
 彼女はまた、自身を拒絶するだろうか。その恐怖は確かにあった。しかしそれ以上に、今は声が聞きたかった。
 侮蔑でも罵声でも構わない。彼女の元気な様を、確かめたかった。



(いろいろ予想外ではあったけど、ひとまず計画通りってところかしら)
 打ちつけた背中の痛みに耐えながら身を起こすと、そこにはパチュリーの顔があった。
「その痛みは大騒ぎの罰ね。それから、美希を危険にさらした罰として、貴女とレミィの企てを話しなさい」
 流石とでも言うべきだろうか。どうやらパチュリーは、今回の騒動の原因が自分とレミリアにあることを見抜いていたようだ。
「そうですね。もう隠す必要もありませんし、全てをお話致します」
 すぐ隣で驚きの表情を見せる美鈴を後目に、咲夜は昨日の夕刻から現在に至るまでの経緯を説明し始める。
 咲夜は、メイド長としては彼女にこのまま働いていてほしかった。人間故いろいろと不便なこともあるだろうが、勤勉で純粋な彼女の勤務態度は確実に他の者達に良い影響を与えるに違いない。しかも彼女はフランドールのお気に入り。このような逸材はそう簡単に見つかるものではない。
 しかし咲夜個人としては、彼女にはやはり神社に戻ってほしいと思う。
 美鈴の話から察するに、彼女はまだ霊夢の事を想い続けている。その一途な想いを無駄にさせたくはないし、両者の幸せを願うなら、やはり些細な出来事から仲違いをしたままというのは悲しすぎる。
 そこで咲夜は一度二人に対話の場を設けたいと考えた。
 だが相手は一度意固地になってしまっているため、一筋縄で行くとは思えない。何より、霊夢の気持ちがどこにあるのかを確かめなくては意味がない。そこで咲夜は一計を案じ、レミリアに運命操作を願い出たのだ。
 紅魔館の当主、レミリア=スカーレットは運命を操る。その能力は凶悪で、他者の運命に強制的に介入し、その生死すらも操ることが出来るほどだ。
 だが、どれだけ強力な力であろうとも、神々の力に守られた巫女の運命は変えることが出来ない。そのため咲夜は己の運命を使って間接的に霊夢を呼び出すことにしたのだ。
「……それが、咲夜と霊夢が対峙する運命だったというわけね?」
「はい、いろいろ予想外の出来事はありましたが、概ね成功です」
 裾の埃を払って立ち上がり、咲夜は霊夢の元へと歩み寄る。
 後は二人が決めれば済むことではあるが、一言ぐらいは言ってやらねば気が済まない。そしてその後は、客間の一つもあてがってゆっくりさせてやろう。そう考えていた。
「霊夢、美希。貴女達のことは遠回しにだけど射名丸文から聞いています。何があったのかは敢えて訪ねないけれど、一度きちんとしておくべきじゃないかしら?」
 美希達が留守の間に、文は咲夜の元を訪れていた。どうやら飲んだくれの鬼に、彼女の行き先を聞いたらしい。
 咲夜は文から事情を聞き、代わりに彼女の無事と今の居場所を答え、そして出来れば接触をせずに、そっとしておいてほしいと願い出た。その時の咲夜にはまだ、情報が不十分すぎたからだ。
 そして意外にも文はその申し出を素直に受け入れ、素直に帰って行った。
 恐らく彼女もまた、あの美希という少女に味方する者なのだろう。
「わからないわよ……どうしたらいいかなんて…………」
 いつになく弱々しい声は、美希ではなく霊夢のものだった。床に座り込んだまま立ち上がろうともせず、霊夢は顔も上げずに呟く。
「私は……巫女で……、でも、美希は大事で…………。だけど、しんぶ……よんで…………はたらく、りゆ…………しって……………………ぐすっ……」
 嗚咽混じりの聞き取りにくい声。そして震える肩。そうして暫く鼻をすするような音が聞こえたかと思うと、霊夢は大きな声を上げて泣き出してしまっていた。
 恐らくこの場に居合わせた誰も、彼女のこんな姿を見たことがなかったのだろう。声をかけることも出来ず、触れることもかなわず、咲夜はただ静かに二人を見守った。
 恐らくはもう出ているであろう答えを待つために。
「…………咲夜さん、ごめんなさい。私、神社に戻ります」
「そう言うと思っていたわ。ただし、解雇とは言わない。貴女には長い休暇を取ってもらいます。それで良いわね?」
「あ、ありがとうございます……!」
 深く頭を下げる美希。霊夢はまだ号泣したままだったが、ここは気の済むまで泣かせてやるのが一番だろう。
 なにしろ、彼女はようやく博麗霊夢という個人に戻ることが出来たのだから。
「霊夢の事は私たちに任せて、貴女は荷物をまとめていらっしゃい。洗濯した服も、洗っておいた風呂敷の中身も、貴女の部屋に運ばせるから」
「はい……じゃあ後はお願いします」
 何度か頭を下げ、心配そうに霊夢に目を向けてから、美希は廊下を駆けてゆく。名残惜しくもある彼女の後ろ姿を見送ってから、咲夜は二つ手を叩いて声を張る。
「さぁさぁ、座り込んでいても始まらないわ。手の空いているメイドは騒動の片づけを。美鈴は傷が癒えたらメイド達を手伝って頂戴。霊夢は今から客室へ案内するから、着いてくるように」



 中古だが使えるからと言われ、貰った鞄に衣服を詰める。大きめの鞄だったが、早苗から貰った服は意外に多く、押し込まなければ入らないほど。
 今まで美希は、これほど多くのものを手にしたことがなかった。外の世界にいるときは、それこそ何一つ掴むことが出来なかった。
 しかし、今は両手で抱え切れぬほどのものがある。
 もう一度会いたいと思う人たちが居る。
 そして、大切な人も。
「美希、いいかしら?」
「あ、はい! 今開けます」
 干渉に耽っているところへ飛び込んできた声。その声に弾かれて、美希は慌てて扉へ駆け寄る。
 声の主は咲夜だった。
「短い間だったけど、ひとまずお疲れさま」
「すみません……。せっかく雇っていただいたのに……」
「あら、私は貴女をクビにした覚えはないのよ?」
 くすりと小さく笑った彼女の手が、美希の頭の上に置かれる。その仕草に指導者としての厳しさは無く、代わりに家族の如き暖かみを感じる。
「本音を言うと、貴女を手放したくないのよ? こんなに真面目で勤勉なメイドはなかなか見つからないし、貴女が居なくなったと知れば、きっとフランお嬢様は悲しむでしょうから」
「いえ、そんな……」
 謙遜を漏らす唇を指先で制され、美希はおずおずと顔を上げる。
 見下ろす咲夜の表情は、どこまでも優しく、暖かい。
「本当の事よ。あの八雲藍が推薦したのも解るぐらい。でもね、貴女を悲しませてまで、この館に縛るつもりはないの。だから、しばらくのお休み」
 初めて、認められたような気がした。
 自分の働きと、そして自分自身の価値を。
 身体だけを目当てにされていたあの頃とは違う、本当の意味での仕事とその成果。それを咲夜は、認めてくれたのだ。
「あ、あの……、それじゃあ今度は……ちゃんと霊夢さんに許可を貰ってきます」
「約束よ? それじゃ、これはお給金ね」
 手渡された封筒の、やや異質な感触。それを不思議に思い、美希は思わず中を改める。
 入っていたのは、こちらの世界で初めて目にする紙幣。
「こ、これ! こんなに頂けません!」
「言うと思ったわ。でもね、貴女の目標は美鈴から聞いてる。だからそれは、お給料の前払い」
「前払い……?」
 中に入っていた紙幣の額面をはっきりとは見ていないが、それでも、今まで使っていた小銭に比べればずっと高額なものに違いなかった。とてもではないが、一日二日の給料で手に入る額とは思えない。
 そして咲夜は、それを前払いだという。
「そうよ。貴女にはまだ、お嬢様とフラン様と一緒にお茶をするっていう大きな仕事が残ってるわ。あのべっこう飴、無駄にしたくはないでしょう?」
「あ…………!」
「それに、次の時は今回みたいに甘くないわよ? 渡したお給料の分、きっちり働いて貰うから覚悟すること。その金額分働くまでは、貴女はここのメイドでもあるって事を忘れないように。解った?」
「咲夜さん……」
 自分はまだ必要とされている。ここで働くことも出来る。その優しさが身に沁みる。
 こぼれ落ちそうになる涙を堪えようと上を向くと、咲夜はもう一度、静かに頭を撫でてくれた。
「さぁ、貴女の大切な人が待ってるわ。彼女がへそを曲げないうちに、帰り支度を済ませましょうか」



 美鈴は仕事に、パチュリーは地下に戻ってしまった。咲夜は帰り支度を手伝ってくると言い、途中で案内を他のメイドに任せてどこかへ消えた。そのメイドも、お茶を用意して居なくなった。
 目の前には湯気を湛えた紅茶が一杯。部屋には誰も無く、音も響いてこない。
 冷静になってみると、自分は馬鹿げた事をしたと思う。
 憤りに任せて追い出し、今度は衝動に駆られて連れ帰ろうとしている。無計画で感情的で支離滅裂。呆れられても蔑まれても仕方がない。
 いや、もしかするとそう思っているのかもしれない。
 先程はあんなことがあった手前、何も言えなかったのかも知れない。
「美希…………」
 紅茶の湯面が微かに揺れる。そこに写る自分の顔はあまりにも情けない。そんな情けない自分を、彼女は受け入れてくれるのだろうか。
 そして、自分はまだ、彼女のそばに居てもいいのだろうか。
 問いかけは自分に帰ってくる。いや、紅茶に映った自分が問いかけてくる。
「私は………………」
 潤んだ瞳は視界を歪ませる。しかし、その双眸から雫がこぼれるよりも早く、部屋の扉が乾いた音を立てた。
「…………どうぞ」
「霊夢さん、お待たせしました」
 扉の向こうから現れた美希は、巫女服を身に着けていた。
 早苗にもらった衣装でもなく、この紅魔館のメイド服でもなく、霊夢が与えた巫女服に、霊夢が貸した紅いリボンを身につけて。
「着替えに手間取っちゃって……あと、もらった洋服を詰める鞄もいただいちゃいました」
 彼女の手にはやや傷のある革鞄が握られていた。おそらくもらった衣装はあの中に詰め込まれているのだろう。
 しかしその鞄を除けば、美希はいつもの美希のままだった。
「…………美希、あのね……」
「霊夢さん、私おなかすいちゃいました」
 突然の言葉に、霊夢は二の句が告げなくなった。朗らかに笑う美希の顔を見つめたまま、間抜けに口をあけて彼女の顔を見つめてしまう。
「昨日はちょっとばたばたしてて、さっき起きたばっかりなんですよ。だからもうおなかぺっこぺこで」
「美希…………」
 それが彼女なりの優しさだということに、霊夢はようやく気がついた。
 恐らく謝られても怒られても、二人の関係はぎくしゃくしたものになっていただろう。そして彼女が何か言わなければ、恐らく霊夢は言ってしまっていただろう。
 望むなら、ここに居ても構わないと。どこで暮らしてもかまわないと。
 そしてその言葉は、誰も望んでいない。
「…………それじゃあ、里で何か食べていく? 今から帰って何かを作ってたら遅くなっちゃうし」
「そうですね。ちょうど買い物したいものもあるんです。お願いします」
 そう言って彼女は霊夢の隣に立った。
 見送りらしい影はなく、咲夜もこの場には居ない。今なら、泣くことが出来る。
 しかし霊夢は、それをぐっと堪えて美希の手を握った。
 彼女の笑顔を、無駄にしないように。
「欲しいものって、お給料でも出たの?」
 問いかけに美希はやわらかく笑って頷き、数歩先を歩き出す。
 彼女はまた、少しだけ変わったような気がした。
 そして霊夢は、以前よりも少しだけ、彼女の変化を素直に受け入れることが出来たように思える。
「美希…………」
「はい?」
「……………………ううん、なんでもないわ。私も朝から食べてないの思い出しちゃった。ちょっとがっつり食べに行くわよ」
「はーい。じゃあいつも通り、よろしくお願いしますね」
 この館を出れば、またいつもの日常が戻ってくる。里まで彼女を背負って飛び、食事を終えて神社に戻れば今までと同じ日々が待っている。
 霊夢はそれがたまらなくうれしかった。
 そして、自身の変化をそう悪いものではないのだなと、思い始めていた。
 雪は止み、空は爽やか。吹く風は冷たかったが、握った手と背負った背中は、きっと温かいだろう。
 そんなことを考えながら、霊夢はいつもより早足に廊下を歩いていた。



「…………じゃ、二人とももう帰ったのね」
「はい、おかげさまで。ありがとうございます」
 改めて礼を言う咲夜を尻目に、レミリアは紅茶を啜る。夜の帳もすっかり落ち、今頃あの人間と巫女は寝支度でもしているのだろうか。
 月も館も今日は穏やか。嗅ぎ慣れぬ人間の匂いもなく、やはり日常は素晴らしいとレミリアは心の中で大きく頷く。
「お嬢様、一つ質問をしてもよろしいでしょうか」
 突然の問いかけにレミリアは紅茶のカップを置いて顔を上げる。目の前のプディングがレミリアのスプーンを手招きしているように見え、食べながら話を聞こうかとも考えたのだが、やはりこういうものは集中して楽しみたい。
「何?」
「美希の事ですが、何故運命操作で水がかからぬようにしなかったのですか?」
 咲夜の質問は、やはりあの人間のことについてだった。予想をしていたこととはいえ、自分でも説明がつかぬことを話すのは面倒くさい。レミリアは紅茶を一口啜り、その揺れる湯面を見つめながらぼやくような口調で答える。
「出来なかったのよ。あの人間の運命に介入できなかったの」
「巫女の守りがあったのですか……?」
「そんなちゃちなものじゃないわ。もっと絶対的な力がかかってた……。誰の仕業かはわからないけどね」
 小さくため息をつきながら、レミリアはあの時の出来事を思い出す。
 あの人間がよろめき、倒れかけたとき、レミリアは運命を操作して彼女をずぶ濡れにしてやろうと考えていた。今にして思えば子供じみた発想だが、悪戯の程度としてはさして酷いものではない。それに濡れてしまえば仕事は一時中断になる。その間に少し彼女を借りて話をしてみるのも悪くない。そう考えていた。
 しかし、レミリアの思惑は予期せぬ拒絶によって潰えてしまう。
「何者かに守られている…………と?」
「さぁ。ただ掴み所のない硝子に爪を立てたような気分だったわ。あんなことは初めてよ」
 その感触は、神々に守られている巫女や、そもそも捉えどころのないスキマ妖怪などとはまるで違っていた。その驚きがレミリアを硬直させ、結果として水を被る羽目になってしまったというわけだ。
「咲夜、手隙のメイドにあの人間…………美希、と言ったかしら? 彼女を見張らせなさい。恐らく面白いことが起こるわ」
 永夜の異変が収まって以来、レミリアは宴会以外の『面白いこと』を探していた。そして、可能ならば自らそれに巻き込まれてみたいとも。
「かしこまりました。それでは何かあればすぐお知らせします」
 頭を下げる咲夜を一瞥してから、レミリアはプディングをひと匙口に運ぶ。甘く濃厚なバニラとカラメルの香りを楽しみながら、レミリアは彼女にこれを味合わせてなかったことをやや後悔していた。
「咲夜、今日はフランと一緒にお茶にするわ」
 こんな静かな月の夜は、姉妹水入らずでお茶をするのも悪くない。そして、そんな気分を呼び起こしてくれた彼女に、少しばかり感謝をしても罰は当たらないような気がする。
 椅子を離れ、廊下へ向かう扉の手前。レミリアはふと振り返って咲夜を見上げる。
「気が変わったわ。手が空いていて望む者を、みんな食堂に呼んで頂戴。夜のお茶会と洒落込みましょう」

続く



[11779] 紅いいと
Name: Grace◆97a33e8a ID:5d8d086d
Date: 2010/10/03 02:15

「霊夢は拾われっ子なんだぜ」

 いつかどこかで 聞いた言葉

 私には 親が居なかった
 父も 母も 親戚すらも

 それが普通だったから
 疑問なんて 感じたことはなかった

 でも 今の私には 家族が居る


 ううん
 家族になりそうな人が 居る


 だけど

 家族って なんだろう

 誰か教えて


 ねぇ 誰か教えて

 私は 大丈夫?



  『紅いいと』


 年始の祭りは、いつになく盛大で賑やかだった。参拝客も多く、普段現れない河童や天狗達まで初詣に来るほどの盛況ぶりに、見かねた慧音が手伝いに回るほど。
 しかし、彼ら参拝客の目当ては、どうも神社の御利益ではないらしい。
「はーい、文々。新聞の特集号はこちらだよー! 今なら実物の美希さんも拝めるよーっ!」
「ええい! 境内で堂々と商売をするな!」
 威勢の良い文の声に負けぬほどの怒声が霊夢の口から飛び出す。
 どうやら彼らは美希を一目見るために訪れたらしい。
 紆余曲折あって年末ぎりぎりに発刊された文々。新聞の特集号はあちこちで宣伝され、その効果もあってか売れ行きはかなり好調だったらしい。そして新聞を見た者が野次馬根性で神社に訪れ、噂を聞きつけた者が新聞と本人見たさに足を運びと、人が人を呼ぶかたちで続々と集まったようだった。
 なにしろこの幻想郷という世界は娯楽が少ない。故に誰もが新しいもの、珍しいもの、楽しいことといった興味の対象を常に探している。
 だからこそ異変はある種の娯楽として扱われ、血で血を洗うような事にならないのだが。
「れ、霊夢さん……。何でみんな私を見たがるんですか……?」
「……はぁ。文句はあの馬鹿鴉に言いなさい」
 神社で、しかも巫女の目の前で人を襲うような馬鹿は居ないのだが、もともと恐がりで人見知りの激しい美希はすっかり怯えてしまっていた。だが実害があるわけではなし、無碍にして反感を買えばそれは神社だけでなく美希の評判も下げかねない。
 しかも参拝客は人間ばかりではない。山の神社ほどではないが妖怪もまた数多く訪れ、その一部は人間とかけ離れた姿をしている。もし美希が物怖じしない性格だったとしても、見上げるような巨躯の者や一つ目の小僧などが相手ではどうしようもない。
 かくて、三が日は霊夢にとって慌ただしく、美希にとっては恐れと戸惑いの日々となった。

 そして、明けて八日。

 松の内も終わり、境内にはいつもの静けさが戻った。
 ここのところ陽気も良く雪も控えめ。それ故何時にも増して神社にはのんびりした空気が流れている。
 そして日常の戻った境内には平和の象徴とも言うべき箒の音が響くわけだが。

 ざっ、ざっ。ぴたり。

 ざっ、ざっ、ざっ。ぴたり。

 いつもは規則正しく響く箒の音が、今日は途切れがち。
 リズムを乱していたのは霊夢であり、その原因は彼女の髪にあった。
 正確には、彼女の耳の上。金色に光る翼を模した髪飾りに。
「…………ふふっ」
 辺りに誰も居ないことを確かめてから、髪飾りに触れて小さく笑う。それは今朝方から何度も繰り返された行為だった。
 自身でもよく飽きないなと思いながらも、自然と頬は緩み、思わず鼻歌でも歌いたくなってしまうほど。
 しかし、この上機嫌ぶりも無理はない。何しろ霊夢は、今日までこの髪飾りを身につけるのをずっと我慢していたのだから。
 年の瀬に美希から送られた髪飾りを、霊夢は年明けまで大切に仕舞っておくことにしていた。年の代わりという節目を越えてから使いたかったことと、松の内の忙しさで幸せを味わえなくなってしまうのを避けたかったこと。
 そして何より、ゴシップと噂話の好きな参拝客にからかわれたくなかったことから、霊夢は今すぐにでも身につけたい衝動を抑えて髪飾りを戸棚の奥に仕舞込み、落ち着いた日常の訪れを待ち続けていたのだ。
「……馬鹿ね、私も美希も」
 聞けば、美希が取材を受けたのも、紅魔館での仕事を決意したのも、このお礼の為なのだという。
 しかし霊夢はそれを理解せず、彼女に辛く当たり、冷たく突き放すような真似までしてしまった。それは到底謝って許されるようなことではなく。恨まれても仕方がないほどの所業に違いない。
 だが、美希は霊夢を許し、そして己の命を助け、側に置いてくれたお礼にと、この素敵な贈り物を手渡してきた。
 そんな彼女に、霊夢はまだきちんとした礼を言えていない。
 髪飾りに触れる度に、嬉しさと共にこみ上げてくる胸の痛みが、なにがしかの行動を示せと自身を揺さぶってくる。
(どうすればいいんだろう……)
 霊夢は人に頭を下げるのが苦手だった。人里離れた神社で長く一人で暮らしてきたことや、崇め敬われる側の生活をしてきたこと。そして何よりもその性格故に、素直に謝ったり礼を言うのが下手だった。また、霊夢は誰かを傍に置いて親しくしたことが無かったため、こういった時にどうすればいいのかがさっぱり解らなかった。
 孤高と言えば聞こえは良いが、要は人付き合いの経験値が皆無なのである。
(お返しの贈り物……。でも私が自由になるものはあまり無いのよね……)
 謝罪の代わりに贈り物を。それは解決になっていないような気がしないでもないが、それでも何もしないよりはましに思える。
 しかしそんな微妙な案ですら、今の霊夢には難易度が高かった。
 神社の物品は霊夢のものであるようでやや違う。納屋にあるものも賽銭も、その殆どは霊夢ではなく神社とそこに住まう神々に捧げられたものである。故に純粋に彼女が所有権を主張できる品物は殆ど存在しない。
 また、よしんばそれらのものの中からいくつかを金品に変えたとしても、美希は遠慮して恐縮してしまうだろう。
(なんとかして時間を作れば………………)
 購入が無理なら手作りと言いたいところだが、寝食を共にしているのに何かを作る暇が在ろうはずがない。現在美希は神社の裏手を掃除しているため、今ここにいるのは霊夢一人なわけだが、この孤独とてそう長く続くものではないのだ。
 何より、この寒空の屋外で何を作れるというのか。
(なんとかして一人に……そうだ!)
 思いついた妙案に勢い良く顔を上げ、それから慌てて髪飾りを直す。石畳に箒が転がって乾いた音を立てるも、霊夢はそれを拾うでもなく、ぶつくさと自問自答を繰り返していた。
 そうしているうちに彼女の難しく寄せられていた眉が緩み、口元が僅かに上がり始める。自身の名案にほくそ笑みながら箒を拾い上げた霊夢は、軽やかだが性急な足取りで神社へと戻っていった。



「あのねえ霊夢。私は仕立屋でも洋品店でもないの。魔法使いで人形師なの。わかる?」
「わかってるけど、そこをなんとか! あんたぐらいにしか頼めないのよ」
 両手をあわせて頭を下げる霊夢に、アリスは深いため息を吐く。
 正月の喧噪も終わり、のんびりとした日常に戻り始めた矢先に突然の呼び出し。何事かと訪ねてみれば、彼女の願いはずいぶんと突然且つ風変わりなものだった。
「服なら自分のを作ってもらってる霖之助に頼めばいいじゃない」
「男の手が触れるのを美希は嫌がると思うの。それに、採寸するには脱がなきゃいけないわけだし……」
 霊夢の願いというのは、美希のための衣装を作って欲しいというものだった。聞けば彼女の衣服は皆誰かのお下がりであり、新品が一つもないのだという。たしかにそれではいろいろと不便なこともあるだろうし、改めて衣装を拵える必要があるのは否め無い。
 だが、どうやらわざわざ願い出た本当の理由はそこにあるわけではないらしい。
「いろいろあって何の理由も無しに美希に外泊してこいって言い辛いのよ。お願い! 一晩だけで良いから!」
 彼女の必死の願いに、アリスは再度ため息を吐く。
 この紅白巫女の本当の願いは、一人こっそりと礼になるような何かを準備したいというもののようだ。確かに、同居人に秘密で何かを作るのはあまりにも難易度が高い。故に霊夢が頭を下げるのもわからないでもないのだが。
「つまり、私に貴女が用意するサプライズの前座をやれと、そう言いたいわけね?」
「そ、そんなつもりはないんだけど……。ただ、ちょっと時間が欲しくて……!」
 三度目のため息は小さく短く。
 理由は単純。そのため息の半分は自分に向けられたものだから。
「わかったわ。ただし、大きな貸し一つだからね? 覚えておきなさい」
 突っぱねられない自分のお人好し振りに、呆れて物が言えなかった。しかし彼女の必死の願いはわからないでもない。
 この巫女が抱える恋する気持ちは、紛れもなく本物なのだ。
「ありがとう! それじゃ、段取りなんだけど……」
 意気揚々と説明を始める霊夢にやや呆れつつも、アリスはそれを微笑ましく思って止まなかった。
(誰かさんのお節介がうつっちゃったのかしらね)
 不意に浮かんだ、三角帽子の小さな魔女の特徴的な笑顔。思い浮かべたその笑顔に微苦笑を漏らしつつも、霊夢の案に耳を傾け、補足と訂正をする。
 幸せのための小さな悪巧み。その片棒を担ぎながら、アリスはあの可愛らしい巫女にはどんな服が似合うだろうかと、早くもそんなことを考え始めていた。



 突然の来客は珍しいものではなく、彼女の顔は年始のうちに拝見していたので、別段の事はない。
 ただ、彼女とその横に並んだ霊夢からの提案には、戸惑いを隠せなかった。
「私の衣装……ですか?」
 いつまでもお古を着せるなんてとんでもない。それが来訪者であるアリス=マーガトロイドの言葉であり、霊夢は一も二もなくそれに賛成をして見せていた。
「そうよ。いつまでも寒々しい巫女服じゃしょうがないし、山の巫女から貰った衣装もお古なんでしょう? 淑女がそんなことでは恥ずかしいわよ?」
「で、でも私は今持ち合わせもありませんし……。それに、特別不自由を感じているわけでは……」
 この巫女服という物は見た目よりはそれなりに暖かい。
 素材がしっかりしたもので出来ているからか、襟元をきっちりと締め、袴をきちんと正せば保温性はそれなりにある。下着とサラシの効果もあってか、快適とは言いがたいが我慢できぬほどの辛さはなかった。
 尤も、美希自身が何もない暮らしに慣れすぎているせいというのもあるのかも知れないが。
「別にお金を取ろうなんて思ってないわ。貧乏巫女の居候が裕福だとは到底思えないもの」
「あのねえ、確かに私は裕福じゃないけど、その食うに困ってるみたいな言い方は止めてもらえないかしら」
 苛立ちを露わにする霊夢に美希はやや慌てたが、どうやらこのやりとりはそれほど珍しいわけではないようだ。何事もなかったかのように言葉を続けるアリスに、霊夢もまたすぐに矛を収める。
「針仕事はちょっとした暇つぶしみたいなものよ。どこぞの雑貨屋よりは素敵な衣装を作る自信があるんだけど、どうかしら?」
「アリスが珍しく好意で言ってくれてるんだから、乗ってみたら? 正装を作って貰う良い機会だと思って」
 軽口を叩きあう仲というやつなのだろうか。時々見えるとげのある言葉にも、二人は特に反応を見せなかった。
 そんな彼女たちの関係を、美希は少しだけ羨ましく思う。
「パーティーや宴の席にいつまでもお古じゃ恥ずかしいでしょう? 良い機会だから作っておきなさいな」
 確かに、アリスの言うことには一理ある。美鈴から聞いた話では、紅魔館では時々パーティーが開かれていると言うし、この博霊神社もよく宴会場にされるらしい。また、妖夢の居た白玉楼では毎年盛大な花見の席が設けられるとのこと。そんな場所に着の身着のままで行ったのでは、自分だけでなく霊夢に恥をかかせてしまうことになりかねない。自分がどう思われようと気にはならないが、愛する人が恥ずかしい思いをするのは、出来る限り避けておきたいと思う。
「別段誰かが損をするわけではないのだから、遠慮しなくていいのよ?」
 優しげに微笑むアリスの笑顔。その表情と彼女の言葉が、最後の一押しになった。
「えと……、じゃあお願いしてもいいでしょうか……」
「じゃ、決まりね。で……早速採寸や布合わせをしたいのだけど……。霊夢、この子一晩借りてって良いかしら?」
「私は構わないわよ。ついでだからあちこち測って貰って、後々面倒がないようにしておくといいんじゃない?」
 同意の視線を向けられるも、決して反論できるような空気ではなかった。戸惑いながら首を縦に振ると、今度は二人とも服のデザインについての話を始めている。どうやら美希の意見は端から切く気がないようだ。
 しかし美希は、そんな現状に不思議な居心地の良さを感じていた。
 そして、この心地よさを大切にしたいがための葛藤も、彼女の心の中では深く深く渦巻いていた。



「身長、座高、股下に肩幅……次は胴回りね」
「は、はい。お願いします」
 フォーマルなドレスを作るつもりはないのだが、何しろそれなりに時間を稼がねばならない。そんなわけでアリスはこの美希という少女の身体測定を続けていた。
 霊夢の依頼は、一日だけ一人になれる時間を作って欲しいというものだった。その為にはどうしても彼女を夕方まで引き留める必要がある。衣装など採寸と布合わせが終われば本人が居なくても作れるのだが、それではあまりにも時間が短すぎる。
(ごめんね。これも貴女達のためだと思って、許して)
 部屋は暖かくしているし、カーテンも鎧戸も閉めているので、ここにある視線は自分の物だけなのだが、やはり年頃の娘をほぼ全裸で、しかも長時間居させるのは申し訳なく思う。心の中で謝りつつ、アリスは巻き尺を持って彼女の背に回す。
「……あら、髪が随分引っかかるわね…………」
「ご、ごめんなさい。邪魔でしたら何かで結い上げて……」
「ああ、別に大丈夫よ。少しだけ持ち上げてもらえる?」
 腰まである長い髪にもつれた巻き尺を直しながら、抱きつくような姿勢のまま反対の手で巻き尺の端を探す。彼女の髪は長く美しいが、こんな時はやはり邪魔に思えてしまう。
「そのまま動かないでね……。あら、まだ絡まってる……」
 ほんのひと掬いの髪束など大した誤差ではないのだが、どうせ採寸をするならきちんと正確なものを残してやりたいと思う。そしてこの少女には、アリスにそう思わせるだけの美しさがあった。
 白磁のような白い肌には内に秘めた淡い桜色が透けて見え、まだ幼さの残るその体躯には、将来を期待するに足りるだけのつぼみが垣間見える。絹糸のような黒髪はどのようなドレスにも映え、晩餐会に出ればひときわ美しい花となって場に彩りを添えるだろう。
 もし彼女がこのまま素直につぼみを花開かせ、黒髪の手入れを欠かさなかったとしたら、竹取物語さながらの求婚劇が繰り広げられるかも知れない。
「霊夢が夢中になるのも、解る気がするわ」
「……はい?」
「いいえ、何でもないわよ。胸は測り終わったから、次はアンダーバストとウエストね」
 尺の位置を滑らせ、乳房の下側にあてがう。ちらりと横目で確認した時計はそろそろお茶の時間を指し示している。
 事はアリスの予定通りに運んでいた。この後は彼女に服を着せ、お茶の休憩を入れてから布合わせとデザインの要望を聞く。彼女の望みによっては足や首回りの採寸をし、それから裁断と仮縫いを進めながら時間を稼ぐだけ。それはまさしく完璧なプランだった。
 そう、たった一つのイレギュラーを除いて。
「おーいアリスー。こんな昼間からカーテン締めてどうし……」
 いつ玄関が開いたのだろう。いつのまに背後まで迫っていたのだろう。いや、そもそも部屋の扉を閉めていなかったのかも知れない。
 考えうる要因は幾つもあったが、二つだけ確かなことがある。
 一つは、今自分の背後に霧雨魔理沙というイレギュラーが居るということ。
 もう一つは、彼女の表情が明らかに勘違いの様相を呈しているという事だ。
「わ、悪い。邪魔した」
「ちょっと待ちなさい、魔理沙!」
 慌てて振り返ると、彼女はもうこちらに背を向けていた。
 間違いない。このそそっかしい黒白魔法使いは、最悪の方向に勘違いしている。
「いや、いいんだ。別にお前が誰と何をしてたって私に止める権利は……」
「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ! 私はねえ……!」
 慌てて彼女の腕を掴み、振り向かせる。やや潤んだ瞳が可愛らしかったが、今はそれどころではない。
 タイミングが悪かった。つい先日、アリスはこの少女をだしにして魔理沙をからかったばかりだったのだ。
 それは本当に些細な、日常の軽々しいやりとりのはずだった。故に一晩経てばすっぱりと忘れ、翌日からはまたいつものようにじゃれあう日々が訪れる。そう思っていた。
 いや、現実にそうなるはずだったのかも知れない。ただほんの些細な思い違いが、この魔女の心に出来た小さな傷を広げてしまったようだ。
「まさか本気だとは思ってなくて、でもお前がそれを選ぶなら……」
「違うって言ってるでしょ! 私は彼女の服を作ろうと……!」
「あ、アリスさん……ひゃっ!」
 たまたまだった。
 握っていた巻き尺が背後にいた少女の髪と太股に絡んで彼女ををよろめかせ、自身に凭れ掛かるかたちになった。そして前のめりになっていたアリスは、完全にバランスを崩した。
「み、美希っ!?」
「うわぁっ!」
 誰しも慌てたときと言うのは、目の前にある何かに縋ろうとするもので、美希にとってはそれがアリスであり、アリスにとってはそれがたまたま魔理沙とその帽子だっただけ。
 その結果三人は折り重なるように倒れ込み、アリスの手には魔女の三角帽子が握られていた。
「あ、アリスが悪いんだからな! おまえが浮気なんかするから……」
「馬鹿言ってるんじゃないわよ! 私は霊夢に頼まれて美希の衣装を作ってたの! 採寸しないで服が作れるわけ無いでしょ!」
 背中から既に美希の重みは消えていた。アリスは魔理沙に馬乗りになりながら腕を突き出し、握っていた巻き尺を眼前に突きつける。
「さい……すん……?」
「あんたの下着もブラウスも直す度に測り直してるでしょ? それともそんなことも覚えてないの?」
 長いため息のような言葉を聞かせると、魔理沙はようやく納得がいったようだった。目の端では美希が胸を隠しながら何度も頷いている。これで一つ目の問題は解決できたと言えよう。
 問題は、恐らくこちらの方が厄介だと思われるもう一つの事態。
 そう、アリスの左手で淡い水色の煙をあげているこの三角帽子の事だ。
「納得したなら聞かせて貰いましょうか。そこで怪しげな煙をあげてる帽子の中身は何かしら?」
「そ、それは……あ、アリスが美希のが可愛いかもなんて言うから…………」
 魔理沙が答えるよりも早く、変化は身体の方に現れ始めていた。
 水色の煙はどうやらガス状の物らしく、花のような香りと共に部屋中に広がっている。浮き上がった煙はすぐに色を失っており、天井に立ちこめたりカーテンやシーツに染みを作っている様子は見受けられない。
 しかしアリスははっきりと感じていた。アルコールに似た肌の火照りと酩酊感。そして、浮き立つように敏感になった触感を。
「ねえ魔理沙。怒らないから教えて頂戴? 貴女一体何をしたの?」
「お、お前一人だったら……、一緒になりたくて……だから、その…………さ、寂しかったんだよ……」
 袖口を掴みつつも視線を合わせようとしない魔理沙。そうこうしているうちに煙の効果は肌から内へ内へと浸透してゆく。
 そしてそれは当然の事ながら、アリスにのみ起こっている変化ではない。
「あ、あの……アリスさん。私、なんか変で…………」
「ええ、そうでしょうね。私も変だもの。そしてその原因は間違いなく魔理沙よ」
 やや強い視線を送ると、魔理沙はばつが悪そうに視線を逸らし、その瞳を僅かに潤ませる。
 彼女が何を作って何を企んでいたかは最早明白であり、隣の外来人はそのとばっちりを食らったと言うところだろうか。
 アリスはいくつかの後悔を同時にしていた。
 一つは家の鍵と部屋の扉をしっかり閉めていなかったこと。もしくはそちらに気を回していなかったこと。もう一つは魔理沙の来訪を予見できなかったこと。そして最後の一つは、自身の浅はかさと不注意な言動だ。
「アリスが……、美希が可愛いなんて言うから……。私よりきれいだなんて言うから……」
「はぁ……。あのねえ魔理沙」
 ぺたりと彼女の頬に手を当てる。逸らされた視線をこちらに向けさせ、それから小さく深呼吸を一つ。所謂『他人の目』がある環境だが、それでも背に腹は変えられない。
「確かに私は彼女を可愛いと言ったけど、容姿だけで誰かに乗り換えるような軽い女だと思われてるなら、とても心外だわ」
 理性を覆う靄は少しづつ色濃くなってきている。どうやらこの魔女が作ってきた薬品は、予想以上に強力な代物のようだ。こういうところにばかり才能を発揮するのはどうかと思うが、今はそれを指摘している場合ではない。何しろ状況が状況だ。衝動に任せて襲ってしまっては、後の関係が余計にややこしくなってしまう。それだけは絶対に避けておかなければならない。
「昔私が貴女に言った言葉を、貴女は忘れてしまったの?」
「え…………?」
「この眼も唇も手のひらも、私が刻む時でさえも、全て貴女のためにあるのよ?」
「あ、アリス……そ、傍に美希が…………」
「証明してあげるわ。その程度の事は貴女への愛に比べれば些細なことだって……」
 背を丸め、やや無理な姿勢で唇を重ねる。甘く深く、ゆっくりと。
 薬の効果で鋭敏になっているのは肌だけではないようで、いつも以上にはっきりと彼女の舌と吐息を感じてしまう。鼻腔をくすぐる甘い吐息と、羞恥故だろうか、躊躇いがちに絡まる彼女の舌先がたまらなく愛おしく思える。
 人は不安定な生き物だ。他者の存在無くして個人を確立することは不可能に近く、如何に強がろうとも孤独という名の恐怖に抗う事は出来ない。故に人は皆誰かを求めて止まない。
 だから不器用な魔女はこのような薬を作り、やや無理矢理にでも肌を重ね、愛を確かめようとするのだ。
 そして方法は違えど、恐らくあの巫女も同じなのだろう。
「んっ……ふは……っ。これで信用してもらえた?」
「…………うん。ごめん、アリス」
「謝る相手は私じゃないんだけど……今はとりあえず、私たちとあの子をどうにかしましょう。責任とってもらえるのよね?」
 耳まで赤く染まった魔理沙が頷くのを確認してから、アリスは美希に手招きをする。肌を露わにしていたせいか、口づけに当てられたのか、彼女は既に息を荒くし、瞳を潤ませていた。



 二人が交わした甘い口づけは、紛れもなく恋人同士かそれ以上の関係を示す物だった。そんな二人の間に入って身を寄せるのは気が引ける。
「私たちのことはいいから、いらっしゃい」
「で、でも…………」
 優しげな微笑みを見せ、そっと手招きをするアリス。気が付けば彼女に組み敷かれていた魔理沙もまた、身を起こしながら導くように手を差し伸べていた。
「そのままにしてたら辛いぜ? 私はもう大丈夫だから……な?」
 たしかに魔理沙の言うとおりだった。水色のガスと共に広がった香水のような香りは確実に美希の情欲をかき立て、理性を覆い隠そうとしている。唯一の救いはこの微熱が館の主のから与えられたような辛い疼きではなく、身も心もとろけさせるような甘美さを備えていたことだろうか。
「大丈夫。怖い思いはさせないわ……」
「あぅ……は、はい…………」
 甘い言葉と微熱に誘われるように、美希はおずおずと二人の傍へと身を引きずってゆく。彼女達の言うとおり、理性を焦がす快楽の火種は落ち着けば収まるようなものではないように思える。一人慰めるのも一つの手段ではあるが、残念ながら美希はその経験が乏しく、それで満足できる保証はない。
 何より、身体は誰かに触れられることを強く欲している。
「こういう時は開き直って楽しむべきよ」
 アリスがそっと髪を撫でながら、美希の身体を引き寄せて魔理沙の方へ向けさせる。僅か潤んだ魔理沙の瞳は、全てを理解したようにそっと閉じられ、そしてゆっくりと迫ってくる。
「んっ……っく……」
「ぁ……んっ……」
 肩に手が触れ、それから唇が触れあう。最初は試すように啄み、それから少しづつ深く甘く。
 薄く開かれた視界の端では、彼女の緩やかな金髪が揺れている。
 自分にはもったいないほどの、甘いキス。
「ふぁ……魔理沙さん……っ」
「ふふ、妬けちゃうぐらい甘いわね」
 いつの間にか下着姿になっていたアリスに顔を上げさせられ、今度は肩越しのキスを求められる。濃厚な口づけと共にくすぐるように首筋を愛撫するしなやかな指先。自然と漏れる吐息は甘さと切なさを増し、舌を伝って滑り落ちてくる彼女の唾液が媚薬のように染み渡る。
「アリス……、私も、もう一回キス……」
「ふふ、わがままね……。美希、魔理沙にいたずらしちゃっても良いわよ」
 小さく笑ったアリスは魔理沙を立たせ、美希の頭越しに唇を寄せあう。目の前には、深い口づけに身を震わせる魔理沙の下腹。
「んんっ……! ん、んくっ……ぅ……っ」
 太股を滑らせるように撫でながら下腹に口づけをすると、魔理沙はくぐもった声を上げながら身を捩らせた。しかし引けそうになる腰はアリスの手によって押さえられているらしく、もどかしげにくねるばかり。
 美希は別段魔理沙の所業を恨んではいなかったが、こうも可愛らしい反応をされると、やはり僅かばかりの悪戯心が芽生えてくる。
「んふぁ……! み、美希……っ! んん、んっ! んんぅっ!」
 太股に這わせていた指を彼女のショーツにあてがい、僅か染みの浮かんだその部分を撫で上げる。
 しかし魔理沙の抗議の声はアリスの唇によって遮られ、くぐもった艶のある嬌声が響くばかり。きっちりとした反論をされていないのを良いことに、美希はその指の動きを少しづつ早め、大胆な物へと変化させてゆく。
「ふぁ! やっ……! らめ、立って……られな……! ひゃんっ!」
 びくりと膝が大きく震えたかと思うと、魔理沙は糸が切れたように目の前に崩れ落ちた。倒れそうになった身体が美希に凭れ掛かり、視線は涙を浮かべつつもはっきりとした抗議の色を見せている。
「だ、だめだって……言ったじゃないか……」
「えへへ……、良く聞こえなかったんです。ごめんなさい」
 睨みつける視線は決して恐ろしいものではなく、膨れた頬はむしろ愛らしいとさえ思える。しかしそうした可愛らしさを味わうのも束の間、今度は美希が押し倒されてしまう。
「ひゃっ!」
「やられたらやり返すんだからなっ」
「ちょっと魔理沙、流石にそれはベッドになさい。三人は狭いかも知れないけど、床よりはましよ」
 倒れこむ前に背を支えてくれたアリスが制止の声を上げ、ベッドへあがるようにと促される。彼女の言うとおりベッドは三人では狭そうに思えたが、板張りの床で情事を続けるよりはましに思える。
「ほら、いらっしゃい」
 アリスの言葉に誘われるようにベッドに上がり、彼女に背を向けてショーツを脱ぎ落とす。太股に触れた布地が伝える湿り気と冷たさが、自身の淫乱さを現しているかのようで恥ずかしい。
「綺麗だぜ、美希……」
 ふと顔を上げれば、そこには一糸纏わぬ魔理沙の姿があった。小さくベッドを軋ませながら美希に顔を近づけ、肩に手をかけてくる。背後には既にアリスが居り、どうやら逃げ道も選択権も美希には与えられていないようだった。
「そんなこと…………」
 否定の言葉は魔理沙の指に制された。そしてその指はゆっくりと顎を伝い、首元を撫で、薄く笑った唇と共に胸へと達した。
「んっ……、ま、魔理沙さん……っ」
 指先が乳房を這い、同時に唇が幾重にもキスを重ねる。その愛撫にはいつの間にかアリスの手も加わり、美希は四本の手と二つの唇によってじわりじわりと追いつめられてしまう。
「やっ……! ひゃん! ふ、二人で……ふぁ、んんぅっ!」
「美希、アリス……んんっ」
 不意に一本の手が離れる。魔理沙もまた煙の効果で熱を感じていたのだろう。その手は彼女の秘所へと延び、小さな衣擦れと共にそれよりも尚小さな水音を掻き立てる。
「だめよ魔理沙。一人で満足しようなんて」
 耳元に響く、からかうようなアリスの声。その声に導かれるように、魔理沙は顔を上げて美希の足を抱え上げる。
 開かれた足に押し付けられた魔理沙のその部分は、既に滴るほどの蜜を湛えていた。
「美希……、濡れて…………ひゅぁっ……!」
 悲鳴に似た嬌声を上げながら魔理沙が腰を押し付けてくる。二人の愛液が混ざり合って立てる淫らな音が響き、背筋を伝う快感と共に意識を純白に染め上げてゆく。あまりはっきりとしない視界の向こうで、アリスと魔理沙は口付けを交わしていた。
「魔理沙…………んっ、んく……んむっ」
 身を乗り出すようにして舌を絡ませあう二人。胸元に滴り落ちてくる唾液。美希はそんな彼女たちにいつしか自分と霊夢の姿を重ねていた。
「ひゃぅっ! ん、んぁっ! ん、も、もう…………や……っ! いっちゃ…………!」
「美希っ……! そ、そんな押し付け……きゃぅっ! ひ……!」
 自然と浮き上がる腰が魔理沙に強く押し付けられ、自身にも激しい愉悦を与えてくる。水音に肌のぶつかり合う音が混じり、腰が小刻みに震える。嬌声によって絞られた肺と脳が酸素を欲し、息苦しさを訴えてくる。そして、それら全てを上書きするほどの絶頂の波が、美希の意識を襲った。
「もう……だめっ! いっちゃ…………霊夢さ…………っ! ひゃぁっ!」
「美希! んはっ!! ふぁっ!!」
 身体を反らし、シーツを掴みながら激しい絶頂を迎える。魔理沙もまた同時に絶頂を迎えたのだろう。抱えあげられていた足が下ろされ、こちらにゆっくりと凭れかかってくる。彼女の重みと温もりを肌で感じながら、美希は霊夢の名を呼んでしまったことを後悔していた。
「ま、魔理沙さん…………ごめんなさい。私……、魔理沙さんにされてるのに…………」
「ん……? 気にしてないぜ? 元はといえば私のせいだからさ」
 情事の最中に相手ではない別の誰かの名前を呼ぶことが失礼なのは、美希にでもわかる。しかし魔理沙は特に気にした様子を見せず、頬を撫でてくれる。アリスもまた咎めるようなことをせずに、静かに髪を撫でていた。
 彼女たちの見せるこの余裕が、おそらく美希を間に入れることができた余裕なのだろう。
 部屋に入ってきたばかりの魔理沙は、本当にこの世の終わりのような顔をしていた。きびすを返したときも瞳は潤んでいたし、アリスに愛を語られるまでは視線も合わせようとしていなかった。それは彼女にとってアリス=マーガトロイドが無二の存在であることを示している。そして同時に彼女を深く強く信じているのだろう。でなければ如何に事故とはいえ、美希がこのようなことに混ざるのを許すわけがない。そしてそれは同時にアリスにも言える。
 そんな二人が、今はただ羨ましい。
「それよりさ。美希……、あのさ…………」
 耳元に魔理沙の唇が迫る。ぎりぎり聞き取れるぐらいの小さな囁きと共に、耳にかかる彼女の吐息がくすぐったい。
 しかし、囁かれた内容は絶頂の余韻を吹き飛ばすほどのものだった。
「ま、魔理沙さん……?」
 驚き顔を見合わせると、彼女はいたずらっぽく笑って目配せをしていた。どうやら本気らしい。
「二人ともどうしたの?」
「なぁアリス。お前はまだして無かったよな?」
「あ、あの…………ごめんなさい、アリスさん」
 身を起こしながら頭を下げ、魔理沙と共にベッドに座り込む。そして。
「覚悟しろっ!」
「え、えいっ!」
「ちょ、二人とも……きゃっ!」
 魔理沙と二人、そろって膝を掴んでアリスを引き、間髪入れずに彼女を押し倒す。魔理沙からされた耳打ちの内容は、アリスを二人で責めてしまおうというものだった。たしかにアリスはまだきちんとした愛撫を受けておらず、絶頂にも達していない。薬の効果を考えれば、身の疼きは相当なものになっているはずだ。もし自分が居るせいで我慢をしているのであれば申し訳なく思うし、何より少しぐらいお返しと仕返しをしてやりたいとも思う。
「一人で満足しちゃうのは、ダメなんだよな?」
「あ、あの……、アリスさんも薬吸ってるでしょうし…………だから……」
「だからっていきなり…………んぐっ!」
 抗議の言葉は魔理沙の唇によって鬱がれた。その隙にと美希はアリスの乳房に手をかけ、それを優しく揉み、先端に指をあてがう。美希の指によって柔らかく形を変えるアリスの乳房は、まるで純白のマシュマロのようだった。
「アリスさん…………きれい……。んっ……ちゅ……」
 そっと先端を口に含み、唇で甘く挟みながら胸を揉み続ける。アリスははっきりとした抵抗を見せず、その代わりに観念したのかお返しのつもりなのか、細い指先を背中に滑らせてきた。甘く淡い愛撫が肌をあわ立て、未だ残る微かな余韻が疼き始める。
「アリス……、足開いて……」
 唇を離した魔理沙が身をずらし、アリスの足元に潜り込む。やや遠慮がちに開いていた足を押し開き、彼女はアリスの秘唇にそっと口付けを落とした。
「んはっ! ま、魔理沙……っ!」
 猫がミルクを舐めるような音と共に、魔理沙は舌を動かしてアリスの蜜を啜り上げてゆく。淫猥な水音としぐさが否応なしに気持ちを昂ぶらせ、視線を釘付けにさせる。
「やだ……、そんなに見ちゃ……ひゃっ! んぁっ!! ま、魔理沙……っ!!!」
 先程まで静かで優しい笑みを浮かべていたアリスが、愉悦に顔を歪ませながら嬌声を上げ続けている。それはあまりにも淫らで美しい相違。
 美希はアリスのそこを見つめる代わりに、彼女の乳房と首筋を執拗に舌で愛撫することにした。唇を押し付け、痕が残らないように甘く吸い付き、舌でくすぐりながら幾重にも愛撫を重ねる。同時に指先も彼女の柔肌を責め立て、乳房を歪ませ、先端を擦り上げる。
「アリス……んっ、んちゅ……。いっぱい、あふれてくる……ん、んく……はむ……」
「ば、ばか……そんなこといわな……きゃふぅ! ふぁ、やっ! そこ…………もう、だめっ…………!!」
 切れ切れの声、捩る身、そして硬く閉じられた瞳。彼女の絶頂はもうすぐのようだった。美希は乳房に甘く歯を立てながら、彼女の下腹をそっと撫で、恐らく子宮があるであろう辺りを擽るようにして指を遊ばせた。
「アリスさん……。ちゅ…………んっ……」
「ひぁ……っ! ま、魔理沙……美希……! もう……ふぁっ! いっちゃ……あぁぁぁっ!!」
 腰を震わせ、背を丸めながらアリスは絶頂に達していた。彼女の腕が自身を強く抱き寄せ、魔理沙の手をしっかりと握る。跳ねるように身を震わせ、縋るように自身を抱きしめるその間も、美希は淡い愛撫を続け、裸身から力が抜けるまで優しく肌を撫で続ける。
 白磁のようなアリスの肌は、いつのまにかどこもすっかり桜色に染まっていた。
「アリス…………んっ……」
 その桜色の肌を這い登るようにして魔理沙が顔を寄せ、アリスとの口付けを交わす。淡く甘く、優しい口付けを見つめながら、美希はその口付けを霊夢とも交わしたいと朧気に考えてしまう。
 思えば、自分は初めて会ったあの日の晩以来霊夢と触れ合っていない。
「……ふぅ。ごめんなさいね、美希。変なことに巻き込んじゃって…………」
「え……? あ、あの……大丈夫です……。私の方こそお邪魔しちゃって…………」
「気にしない気にしない」
「あんたは少し気にしなさい」
「いてっ!」
 けらけらと笑う魔理沙の頭上にアリスの拳が降る。彼女たちの漫才のようなやり取りに美希は思わず笑い、そして自分も霊夢とそうなることが出来たらと想像してしまう。
 しかし、今の美希にはその勇気は存在しなかった。
「さて……、魔理沙さん。きちんとお聞きしましょうか。このお薬の効果はいつまで続くのかしら?」
「え、えと…………予定では一時間程度のはずなんだけど…………」
 彼女が現れてからどのぐらい経ったのかは解らないが、落ち着きを取り戻した肌にはまた先程のような熱が灯りはじめていた。どうやらあの香りの効能はもう少し残っているらしい。とはいえ、先程のように我慢できなくなるほどではない。もう暫くすればこの疼きも消えてなくなるだろう。そう考えていた矢先。
「ま、まあせっかくだからもう少し楽しもうぜっ!」
「きゃっ!」
「ひゃぅっ!?」
 魔理沙がアリスの上に覆いかぶさりながら、美希の胸を鷲掴みにしてくる。
 どうやらこの宴は、まだまだ続くことになりそうだ。



 昼の寺子屋は、いつもなら子供たちの声が絶えない。朝働く者、昼家事をする者、夕刻仕事をする者に合わせ、慧音は授業時間を少しづつずらしながらほぼ一日中教壇に立っているからだ。
 しかし、この日ばかりはその声が無く、教室には子供の代わりに巫女が一人。
「ああ、そうではないぞ。それでは引っ張ったときに布が引き連れてしまう」
「む、難しいわね……ええと、こう?」
 おぼつかない手つきで針を運ぶ霊夢。彼女の指には既に何カ所もの刺し傷があり、その度に巻き直された包帯がやや痛々しい。
 昼食時に慌てた様子で飛び込んできた霊夢は、開口一番布の縫い方を教えて欲しいと言ってきた。何をどのように縫うのか、解れを直すのか穴を塞ぐのかといくつか訪ねるもあまり要領を得ない。しかし彼女の要望から察するに、どうやら髪結いの布に装飾を施したいらしいということまでは読みとれた。
「たった一日で針仕事が完璧になるわけが無かろう。ああほら、また刺すところを間違えているぞ」
 縫い物は感覚的な作業ではない。縫い方をきっちり覚え、機械のように正確に針を動かすことでより丈夫で安定したものが仕上がる。そのためには繰り返しの修練を積み、針と糸の運びを指先に覚えさせる必要がある。しかし霊夢はどうしても今日中に、簡単なものでも良いから仕上げたいのだという。
「しょうがないじゃない。時間がないんだもの……痛っ!」
「慌てるとそうなるとさっき教えたではないか。ほら、見せてみろ」
 浮いた血を拭き取り、指に新しく細い包帯を巻き付ける。霊夢の指は既に包帯の無い部分を探すのが難しい程に傷だらけだった。しかし彼女はまるで諦める素振りを見せない。
(それだけ本気と言うことか)
 慧音には霊夢が慌てる理由も、彼女が作ろうとしている何かを渡す相手もお見通しだった。尤も、そうでなければわざわざ寺子屋を休みにしてまで付き合わなかっただろうし、適当なところで切り上げて明日に持ち越していただろう。
「霊夢、お前は今幸せか?」
「何よ、藪から棒に。慧音こそどうなの?」
 包帯を巻きながら霊夢に訪ねると、彼女は同じ質問をこちらに返してくる。質問に質問で返すなと窘めたいところだが、恐らく彼女の中でも答えが出ていないのだろう。
「私か? 私は……」
「おーい、慧音。頼まれていた野菜を買ってきた……って、なんだ。客が居たのか」
「まぁ、この通りだ」
 口を開きかけたところで入ってきた妹紅を視線で指し示しながら、慧音は霊夢の質問の答えとして見せた。意図を理解したようで笑みを見せる霊夢と、何事かよくわかっていない風な妹紅の表情がやや可笑しく思えてならない。
「な、なんだなんだ。二人そろって気味の悪い」
「何でもないぞ。なぁ霊夢?」
「ええ、なんでもないわね」
 顔を見合わせて霊夢と笑いあうと、妹紅はさらに不思議そうな顔をしていた。やや可哀想には思うものの、これもまた慧音の幸せの一つであり、妹紅も無闇に頭を下げられるのを嫌う為、特に何も補足をしないことにする。
 この幸せは、美希がもたらしたものだった。
 彼女との邂逅以来妹紅は頻繁に寺子屋に顔を出し、時には寝泊りをするようになった。人目を避け、難しい顔をしてばかりだった表情も和らぎ、今では時々だが子供達の相手もしてくれている。
 小さく儚げな少女との出会いは、長い時を生きる彼女にとってどのような存在だったのだろう。
 一つだけ確かなことは、それが少女の外見同様に小さく脆いものではなく、確かな存在感を持って今も妹紅の心に在り続けているということだろう。
「変な奴らだな。私は裏で薪を割っているから、何かあったら呼んでくれ」
「ああ、妹紅」
 立ち去ろうとする彼女を呼び止め、振り返った顔をまじまじと見つめる。そしてゆっくりひと呼吸の間彼女と視線を交えてから。
「ありがとう、妹紅」
「な、なんだいきなり改まって。おかしな奴だ」
 慌てて背を向け、足早に立ち去る妹紅。そんな彼女の横顔は、南天よりも深い紅に染まって見える。
 慧音は今言葉にするのがもったいない程に幸せであり、彼女の紅の深さこそが、己の幸せの深さを示す証でもあった。
「はいはいごちそうさま」
「そういう霊夢はどうなのだ? まだ何も進展しておらんのか?」
 呆れ顔で針に糸を通していた霊夢は急に顔を曇らせ、黙りこくってしまう。あまりの落ち込みように破局が訪れたのかと問いそうになったが、それでは今霊夢がしていることの意味が解らない。故に慧音は静かに彼女の口が開くのを待つことにした。
「…………ねえ、慧音。家族ってどんなもの?」
「かぞく?」
「ほら、私はずっと一人だったからさ。だから、家族って何なのかよくわからないのよ」
 顔を上げた霊夢の表情は、どこか寂しげな笑顔だった。
 慧音自身も、彼女の生い立ちについて詳しく知る訳ではない。稗田の文献と紫の言葉から推察する程度にしか解らず、それは彼女の出生が全くの未知であることと同義だった。
 ただ一つ確実に言えることは、この巫女は父の背中も母の面影も知らないという事だ。
「霊夢……」
「こういう事は紫にでも聞くべきなんでしょうけど、あいつ年末年始に顔を出さなかったのよね。きっと寝ぼけて年明けの挨拶を忘れてるんだわ。今に罰が当たるわよ」
 表面上は平静を装っているが、恐らく彼女の心は不安で一杯なのだろう。
 新しい家族を迎える。それは確かに誰にとっても不安と緊張が入り交じる出来事に違いない。しかし霊夢は生まれてこの方一度も家庭の暖かみにも、家族の温もりにも触れたことがないのだ。
 慧音は改めて彼女の孤独と背負うものの大きさを実感し、そして今の今までそれに気がつくことの出来なかった自分に深く嘆いた。
「もちろん、向こうが受け入れてくれるかどうか解らないんだけどさ……。ねえ、慧音。私は大丈夫かな? やっていけると思う?」
 いつもより饒舌な彼女の唇が、その不安の大きさを物語る。しかし、そんな彼女に出来ることは、今の慧音にはごく限られたものでしかなかった。
「大丈夫だ。今お前達がしている生活のほんの少しの延長線上にあるものだ。何も不安がることはない」
 抱きしめた霊夢はあまりにも小さく、そして華奢だった。
 この小さな肩に、華奢な体躯に、幻想の世界の全てが圧し掛かっている。そのあまりにも残酷な事実が重く心に突き刺ささる。
 躊躇いがちに背に手を回し、抱きついてくる霊夢をしっかりと受け止めながら、慧音は彼女の幸せを強く強く願った。
 たったそれだけのことしか、慧音にはできなかった。



 長い黒髪にリンスを揉み込み、癖を付けないように整えながらゆっくりと泡を流す。
「ほら、のんびりしてると美希が風邪引いちゃうわよ」
「わ、わかってるよ!」
「あ、あの……、適当でも大丈夫です……。いつもそんなにきっちりやってないですし……」
 控えめな声で言う美希とは対照的に、アリスはまじめにやれと檄を飛ばしてくる。無論魔理沙とて手を抜くつもりはないのだが、何しろ慣れない事をしているだけになかなか手元がおぼつかない。
 幾度か身体を重ねた後、魔理沙はお詫びとして美希の髪を洗うことを命じられた。命を下したのは言うまでもなくアリスである。
「よし……これでどうだ?」
「うん、合格ね。二人とも湯船に入りなさい。ああ美希はその前に背中を向けて頂戴。髪をまとめてあげるから」
 二人ならば余裕の浴室も、三人ともなれば流石に狭苦しい。美希が髪をまとめるのを後目に、魔理沙は一足先に湯船に身を沈めた。幾つかのハーブを一緒に浮かべた薬湯が肌に染み渡り、さわやかな香気が鼻腔をくすぐる。
 アリス曰く、この湯は先程の媚薬の解毒効果があるらしい。いつまでも乱痴気騒ぎをして夜を明かすよりは、適当なところでさっぱりと洗い流してしまおうというのが彼女の考えなのだろう。
 たしかに、三度目ぐらいから魔理沙はもう記憶があやふやになっており、あのまま続けていたら本当に朝まで繰り返していたかも知れなかった。
「よし、これでいいわよ。魔理沙はちょっと立ってもらえる?」
「こうか?」
 美希が湯船に入った後、アリスは魔理沙を膝に乗せるかたちで湯船に身を沈めた。これなら確かに三人一緒に入ることが出来るが、今更ながら恥ずかしい。
「あ、アリス……。私はもう子供じゃないぜ?」
「狭いんだから我慢しなさい。それにいつもは自分からくっついてくるくせに」
 事実だけにぐうの音も出なかった。尤も意地を張ったところで身を離せるほど湯船は広くなく、こうして肌を寄せているのは心地良いため、異論どころか歓迎したいぐらいの待遇なのだが。
「さて、誰かさんのせいで遅くなっちゃったけど、まだデザインの要望を聞いてなかったわよね? 美希はどんな服が欲しいの?」
 肩越しアリスが美希に訪ねる声で、魔理沙はようやく美希がここにいる理由を思い出した。確かに美希の衣装を作るなら、アリスはうってつけの人材だろう。人形師である彼女は、様々な人形やそれに着せる衣装を手作りしている。魔理沙の衣装も幾つかは彼女の手によるものであり、その腕の良さは魔理沙自身が良く知っている。
 何より彼女は同性だ。衣服を作るとなれば下着のこともあるだろうし、それこそ頭のてっぺんから足の先までひと揃い仕上げてもらえる。そしてこの魔女にはそれだけの器用さがある。
「えっと……。いろいろ考えたんですけど、やっぱり巫女服が良いかなって……」
「神様に仕えるつもりなのか?」
「んっと……そこまで出来るのか解らないんですけど……、霊夢さんのお手伝いをしたいんです。私には何の力もないけど……それでも、神社で働くならやっぱり巫女の格好が良いかなって……」
 やや遠慮がちな語彙だったが、その口調にはそれなりの心構えが見て取れた。彼女はこの幻想郷に、あの博霊神社に骨を埋めるつもりなのだろう。
 魔理沙も幾人かの外来人に出会ったことがあり、その内の何人かとは言葉を交わしたこともある。
 不幸な事故で迷い込んだ者、おもしろ半分にやった儀式が結界に作用してしまった者、全てに絶望したが故に現実と常識から弾き飛ばされてしまった者、そして、望んでこの世界に飛び込んできた希有な者。
 様々な形で迷い込んだ彼らの多くは外の世界の常識を懐かしがり、文明を望み、そして帰ること叶わなかった数名は絶望に満ちた怨嗟の言葉を紡ぎ続けていた。
 山の巫女は現人神という特殊な存在故例外とすると、この世界に身を置くことを選び、尚且つ未来に希望を抱いている美希は本当に希有な例だった。
 そして同時に魔理沙は気が付いてしまった。
 彼女の心が、片思いの縁に立たされているという事に。
「アリス……」
 そっと顔を向けると、彼女は言葉の代わりに小さな相づちを持って答えてきた。
 自身もまた恋するが故に理解できた、彼女の胸に秘めた想い。それはアリスも解っているようだった。
「うーん、そうねぇ。ただの巫女服じゃ仕方ないし、霊夢とお揃いじゃ私が引き受けた意味がないわね……」
「アリスの思った通りでいいんじゃないか? 巫女服と霊夢の衣装を思い浮かべて、そいつを美希にあうようにアレンジする。お前なら簡単だろ?」
 顔を見ずに、代わりに身体を預けるようにしながら魔理沙はアリスに言葉をかける。目の前に座っていた美希もまた、小さく頷いて見せていた。
「信頼されてるんだか、プレッシャーをかけられてるんだかわからないわね……。解ったわ。お風呂から上がったら幾つか考えてみる。それから……魔理沙、貴女まだアミュレットの類は余ってる?」
「ん? ああ、魔力無しで使えるのは少ないけど、まあ多少は残ってるぜ。美希でも扱えそうなのを見繕ってくればいいんだろ?」
「だ、だめですっ! 服だけでも贅沢なのに、そんな……」
 慌てて声を上げる美希を片手で制し、魔理沙は記憶の中から幾つかの魔導具をリストアップする。中には調達の面倒なものもあるが、家で腐らせるよりはまだましな気がするので気にしないことにした。
「霊夢の補佐をするつもりなら、自分の身を守る手段ぐらい持つべきよ。まあ貴女が襲われるようなことは無いでしょうけど、何かの時に役立てるようにね」
「で、でも……」
「馬鹿みたいに高いのも危なっかしいのも持ってこないから安心してくれよ。それに、お前が何か自分の身を守る手段を見つけたら返してくれればいいんだ。それなら問題ないだろ?」
 まだ何か言いたげな表情の美希だったが、魔理沙は敢えてそれに気が付かない振りをした。
 神社の、しかも博麗の巫女のお膝元で人を襲うような馬鹿はそう居ない。そもそも神社は神域故、邪な考えを持った妖怪はそう簡単に踏み込めるわけがない為、美希に危険が迫るようなことはまずあり得ない。更に言えばその結界を破ってくるような存在にとって、魔導具の一撃など蚊に刺された程度にすら感じないはずだ。
 しかし身を守る手段が何の意味も成さないわけではない。護身の手段があることは一つの自信と安心につながるし、そうした気丈な心は妖怪と対峙する際において強力な武器になる。心の隙を見せないことは、この世界における強さの一つでもあるのだ。
「わ、私はそんな……力なんて……」
「まあいいからさ。それにお前が居てくれた方が、私も安心できるのさ」
 次の問いかけを投げられる前に、魔理沙は湯船から出て足早に脱衣場へ向かった。
 いつかの言葉の胸の痛みを、その心の底に隠しながら。



 冬の夜は明るい。月や星の光は夏よりも強く輝き、雪がそれを照り返して更に強める。満月の夜などは特別な灯りが無くとも、本が読める事もある。
 しかし、今日ばかりはそうも言っていられない。
 アリスは幾つもの魔法の灯りを点した室内で、足踏みミシンに向かっていた。彼女の傍らでは幾つもの人形達が型紙を貼り付け、布を裁断し、必要な道具をそろえている。
「お、遅くまでお疲れさまです……」
「あら、起こしちゃったかしら。ごめんなさい」
 精査な作業をする際に使おうと耳にかけていたモノクルを外し、人形達にも手を止めさせて顔を上げる。
 部屋の入口に居たのは、この服の主人になる美希だった。
「い、いえ……なんだか急に目が冴えちゃって……」
「そう。じゃあホットミルクでも淹れてあげるから、適当なところに座って」
「すいません……、邪魔しちゃって……」
 申し訳なさそうに呟く彼女に苦笑しつつ、アリスは人形達に命じてホットミルクを作らせ、クッキーを用意させる。その間にテーブルを片づけ、所在なさげな彼女に椅子を勧めてテーブルクロスを広げる。
「ちょうど休憩しようと思っていたところだから、そんな顔をしないの。むしろ貴女が起きてきてくれて助かったわ。私一人でやってると、どうにも一服入れるタイミングが解らなくてね」
 アリスは時々魔理沙に『お前は根を詰めすぎだ』と怒られることがあった。アリスはキリの良いところまで、この作業が終わるまでと休憩を先延ばしにして動き続ける癖があり、今も休憩のタイミングを掴めぬまま日付を跨いだところだったのだ。
「あの…………」
「なぁに?」
「こんなこと言ったら…………気分を悪くするかもなんですが……。どうして、私なんかの為に……」
 顔を上げた彼女の瞳からは、今にも雫がこぼれ落ちそうだった。
 確かに、この娘から自分が何かを得る可能性は皆無に等しい。夜なべで衣装を作っても、彼女のために布に魔法を織り込んでも、せいぜい感謝されるぐらいで見返りがあるとは到底思えない。
 しかし、それはこの世界において本当に些細な問題でしかなかった。
「それはね、貴女が何も持っていないから。そして、貴女が私達の新しい友人だからよ」
「私が……?」
「この世界はとても狭く出来ているの。その気になれば一日で一周できてしまうし、娯楽もそう多くないわ。そんな世界でたくさんのものを抱えても意味がないのよ」
 並べられたホットミルクのマグと蜂蜜の入ったポット。そしていくつかのクッキー。アリスは自身のマグに蜂蜜を一匙たらし、ゆっくりとかき混ぜながら美希の顔を見る。
 彼女は、納得できないものを何とか納得しようとして、微妙な顔をしていた。
「貴女の世界では多くのものを抱え込まなければ幸せなれないのかもしれない。でもここでそんなことをしても、それは幸せにつながらない。だって狭い世界でたくさんのものを独占したら、他の誰かが不幸になってしまうでしょう?」
「はい……」
「もちろん、日々の生活のための蓄えは必要よ。でも必要以上に抱えても腐らせるだけだし、誰かの不幸の上に成り立つ笑顔なんて、私は欲しいと思わない。だからこの世界で豊かな者っていうのは、日々をより楽しんでいる者のことを指すのよ」
「それは……なんとなくわかります。でも、私はアリスさんを幸せに出来るとか、楽しませるとかは……」
 重苦しく呟き、そして俯く彼女の肩に人形が腰掛け、彼女の頬と頭を撫でる。突然のことに驚き戸惑っていた美希だが、すぐに優しげな笑顔を浮かべ、人形の頬を優しく撫で返してきた。
「その人形は貴女に何も与えていない。彼女はそこに居ただけ。でも貴女は今笑っている。そういうことよ」
 はっとして顔を上げた美希の視線を笑顔で受け止める。
 人を幸せにするのに何かを与えるのは、手段の一つでしかない。そこに在るというただそれだけで、共に在るという実感だけで得られる幸せも確かに存在するのだ。
 そしてそのことを、あの巫女にも知って欲しいと願う。
「まあ、もう一つの理由は、貴女が霊夢の傍に居ることを選んでくれたからなのだけどね」
「私が……?」
「そう。貴女は霊夢にとって初めての家族になるかもしれないから」
 何事か解らない顔の美希に、アリスはぽつぽつと語り始める。
 霊夢の生い立ちについては、誰もはっきりしたことを知らなかった。里にいる慧音も阿求も不明な点が多いと言い、紫はそのことについて語ろうとしない。ただ一つはっきりしていることは、誰も、それこそ霊夢本人でさえも、彼女の親について何一つ知らないという事だ。
「で、でも……、先代の巫女が居たって……。たしか、霊夢さんが……」
「巫女は血筋で受け継がれている訳ではないのよ。だから先代の巫女と霊夢が親子とは限らないし、親子だと仮定したら幾つか説明付かないこともあるのよ」
 驚きと、そして我が事のように胸を痛めるその表情に、アリスの良心がちくりと痛む。しかしこれは何れ発覚することであり、恐らくは彼女が向き合わねばならない事実でもある。
 そして、霊夢と共に歩み彼女を支える美希には、どうしても知って貰いたい事でもあった。
「虫の良い話かもしれないけど、私は貴女に期待しているの。貴女が霊夢を支え、笑顔にすることで、私が貴女に与えた温もりを霊夢を介して私に返してくれることを。だから貴女が遠慮することも、引け目を感じることもないのよ?」
 幾つもの異変を解決させ、時にはその身を危険に晒しながら幻想の世を双肩に乗せて生きる巫女。そんな彼女の為に出来ることは余りにも少ない。
 しかし、彼女ならば可能かもしれない。
 霊夢の本当の支えになることも。
 一人静かに生き続けてきた巫女に、他者の温もりを伝えることも。
「…………私、不安でした。自分の思いを伝えることで、今の生活を壊してしまうんじゃないかって。霊夢さんを困らせるんじゃないかって」
 呟く彼女の瞳には、強い光が宿っていた。
 眩しく輝く決意の光が。
「でも、決めました。私、ちゃんと霊夢さんに伝えます。そしてほんの少しでも支えになれるようにがんばります」
 真っ直ぐな視線が心を貫く。
 大丈夫。この想いがあれば必ず二人はうまく行く。
 そんな確証を与えてくれる強い視線が。
「そうね。じゃあもうそろそろ布団に戻りなさい。目の下に隈を作ったんじゃ、せっかくの告白も魅力半減よ」
 時計の針は一時を回ろうとしている。人間が起きているにはそろそろ辛い時間のはずだ。
 アリスは美希を寝室へと促し、彼女を見送ってから中断していた作業に戻る。
 儚く、だが健気で強い心の彼女を、少しでも美しく輝かせるために。



「お帰り」
「魔理沙さん……。起こしちゃいました?」
「いや、端から眠ってなかった」
 申し訳なさそうな顔をする美希を手招き、布団を持ち上げて隣へと促す。
 作業場から戻ってきた美希は、昼間よりも良い顔をしていた。
「私からも礼を言うよ。ありがとな、美希」
「えっ?」
 何事か解らぬ顔の彼女の手を布団の中で握り、魔理沙は天井を見上げたまま小さく呟く。静かな夜に見上げた漆黒の天蓋は、己の心を映すスクリーンのようにも思える。
「私も応援するからさ、霊夢のこと大事にしてやってくれよ」
 まるで実の娘を嫁に出す父親のような自らの言葉に、魔理沙は思わず口の端をにやけさせてしまう。
 婿役の娘は、魔理沙と同じように天蓋を見上げながら、重ねた手を静かに握り返してきた。
「私と霊夢は随分長いつきあいだけどさ、幼なじみっていうか腐れ縁っていうか……。まあとにかくそんな感じなんだよ。んで私はこんな性格だろ? 時々無神経なことも言っちゃってさ……」
 思い返せば脳裏をよぎるのは、無遠慮な言葉の数々と後悔の念。特に彼女が一度だけ見せた泣く寸前のような顔は、今も心に染み着いて離れない。
「そういうの引っかかってはいるんだけどさ、あいつも気にしてない風だから言い出せないっていうか……なんていうのかな……」
「なんとなく、解ります……」
 囁くような声と、淡く絡められる指先。か細い声は衣擦れの音に掻き消え、薄闇の中で覗いた彼女の顔は、まっすぐに天井を見上げたままだった。
「私には……ずっと友達とか、幼なじみとか、そういう人が居なかったから……。だから、少しずれてるのかも知れないけど、解る気がするんです」
「美希……」
「もし私が霊夢さんを傷つけちゃったら、やっぱり私も魔理沙さんのように何も言えなくなっちゃうんじゃないかなって思うんです。それが喧嘩とかじゃない何気ない一言なら尚更……」
 僅か首を傾げて表情を見せた彼女は、満面の笑顔を浮かべていた。
 薄闇の中で柔らかく手を握るほんの少し年かさの女性。そんな美希に、魔理沙はどこか姉のような、頼りがいのある何かを感じていた。
「……ありがとな、美希」
「え……?」
「お前がアリスの服を着て神社に住むようになったら、私はあいつに謝ることにするよ。出汁に使って申し訳ないけど、なんかこう……踏ん切りが欲しいんだ」
 重なる手の指を強く絡め直し、魔理沙はもう一度天井を見上げる。暗くて黒い見慣れた天井からは、もう不安や迷いの映像は消え去っていた。
「こんなことわざわざ言うのは私の我が儘でしかないんだろうけどさ、それでもあいつとはずっと一番の親友で居たいんだ。だからきちんと謝る。許してくれるかどうかはわかんないけどな」
「大丈夫ですよ」
 自身と確信に満ちた、彼女の声。
 そこにどのような根拠があるのかは解らないが、魔理沙は何故かその声を信頼に足るものだと強く感じていた。
「きっと霊夢さんは許してくれると思います。だって魔理沙さんと霊夢さんは親友なんだから」
「……そっか、そうだよな」
「はい。だから魔理沙さん、これからもよろしくお願いしますね」
 ごそごそと音を立ててこちらに向き直る彼女に習って、魔理沙もまた美希の方へと身体を向ける。薄闇の中で浮かべた自身の笑顔は、彼女の瞳に映っているだろうか。
「こちらこそよろしくだぜ。美希」



「…………できた」
 一本のリボンを行灯の明かりに透かしながら、霊夢は大きなため息と共に短い言葉を吐き出す。
 太く柔らかく大きなリボンには、赤い刺繍糸でフリルが縫いつけられている。それ以外は特に何の変哲もない、ただのリボン。
 しかしこれは霊夢が布と糸から作り出したものであり、幾つもの失敗作を重ねた上の完成品だった。
 美希を追いだしてから、霊夢は何を作って贈るべきかを必死で考えた。彼女の好みの料理でも良かったのだが、出来れば形に残る何かが好ましい。お守りやお札のような神頼みではなく、自分と同じ身につけ、身を飾る何かがいいと考え、しかし彫金を出来るほどの技術も材料も無かったため、裁縫という手段に行き着いたのである。
 しかし解れを直したり雑巾を縫うぐらいしかしたことのない針仕事では洒落た物など作れる筈もない。そこで霊夢は慧音に教えを請い、それからずっとリボンを縫い続けていたのである。
「喜んでくれるかな……」
 贈り物と呼ぶには、そのリボンは些か見窄らしい気がしないでもない。アリスの作る衣装がどんなものか解らないため、もしかしたら似合わないかもしれない。
 それでも、霊夢は心を込めて必死に縫い続けた。
 自分の想いを、彼女に届けんが為に。
 リボンを大切に畳み、失敗作を片づける。その指には幾つもの包帯と滲んだ血が見える。失敗の数は、霊夢の心の不安の大きさを現していた。
 彼女が流れ着いてもうすぐ二月になる。その間に美希は幾つもの出会いを体験し、様々な場所での生活を経験してきた。
 そして彼女は知っただろう。この神社という場所が如何に不便で、しかも寒々しい寂しさに満ちているかを。
 数多くの霊が住まう白玉楼に住むわけにはいかないのでそこは除外するにしても、永遠亭は広く大きく、とても立派な佇まいをしている。八雲の家には母代わりになってくれそうな藍と、すっかり美希に懐いていた橙が居る。山の神社には同じ外来人である早苗が居るし、神奈子と諏訪子なら美希を任せても安心できる。仕事は多いが紅魔館では賃金がもらえるだろう。彼女のメイド姿はとても似合っていたし、妖精達とも上手くやっていけそうに思える。
 そして何より、人間である美希は人里で暮らした方が何かと便利に決まっている。
 彼女がこの神社に住まなければいけない理由は、一つとして存在しないのだ。
 よしんば彼女が受け入れてくれたとしても、不安はまだ残っている。家族の温もりと暖かみを知らぬ霊夢が、その温もりを失った彼女と上手くやっていける保証がない。
 彼女が一番欲しているであろう人の温かみを、霊夢は知らないのだ。
 夜風に揺れる行灯の明かりのように、霊夢の心は今にも吹き消えてしまいそうだった。
 縋る者も頼る者もない部屋で、霊夢一人涙を流す。
 己の心のような、失敗作を胸に抱えたまま。



 完成品の寸法直しやリボン止めの細工をしているうちに日は傾き、気が付けば既に夕暮れ。そんな茜色の空を、魔理沙は後ろに美希を乗せ、アリスと共に神社へと向かう。
「すっかり遅くなったなあ。霊夢怒ってるんじゃないか?」
「うーん、どうかしらね。まあその時はどこかのおばかさんのせいで遅れましたってはっきり言うつもりだけど」
「なっ! 私を生贄にするのかよ!」
 冗談だと笑うアリスにつられ、背中の美希もまた小さな笑い声を上げる。そんな彼女の衣装は、いつもの巫女服のままだ。
「しかし何だってまた古い服を。新しいの着て帰ればいいのに」
「一番に霊夢に見せたいっていう乙女心よ。それぐらい解るでしょ?」
 腰に回った美希の手に自身の手を重ね、小さくほくそ笑む。答える代わりに握り返されたその手は、頼もしくも心地よい。魔理沙はその重なる手と指を絡め、隠すようにしながら彼女と指切りの仕草をする。
 それは自身の決意を強く確実なものにするための儀式でもあった。
「よし、名案を思いついたぜ」
 恐らく彼女は新たな衣装を着ることで身と心を引き締め、それを勇気に変えて告白に望もうとしているのだろう。
 ならば、自分ができることはその緊張を少しでも和らげることだけ。
「目の前で裸になって着て見せるとかどうだ? きっと霊夢も惚れ直すと思うぜ」
「あんたと一緒にするな! この淫乱魔女!!」
 アリスに小突かれ、反論をしながら魔理沙は一つの思いを胸に秘めていた。
 それは何年か前の冬の日、香霖堂での事。魔理沙はやや勢いにかまけて霊夢のことを捨て子だと言ってしまったことがあった。
 確かに彼女の親については誰も知らず、見た事も聞いた事も無いと言う。唯一その存在を知っていそうな紫は何も語ろうとせず、歴史に関わる慧音もそのような記録は見たことが無いと言う。故に彼女が捨て子かどうか、それこそ本当にこの世界で生まれたかどうかすら定かではなかった。
 しかしそれが事実であろうと嘘であろうと、霊夢を傷つけてしまったことには変わりなく、重い楔となって魔理沙の心を縛り付けているのは確かである。
 昨夜のうちに美希とした約束と、たった今交わした指切りの意味。それはこの楔を解き放ち、改めて霊夢と向き合うという決意の現れなのだ。
「お、霊夢発見」
 紅白の巫女はいつもの様に神社の裏手で茶を啜っていた。庭に面した縁側に座布団を置き、いつもと変わらぬ退屈そうな表情で。
「遅かったわね……って、服変わってないじゃない」
「慌てないで。ちゃんと美希が持ってるわ」
「あ、あの…………、一番に霊夢さんに見せたくて…………」
 美希の呟く様な一言を聞いて。霊夢の顔は一瞬にして紅色に染まった。見ているほうが恥ずかしくなるほどのわかりやすい反応だが、それは同時に彼女達が両想いである事を示しているようにも見える。
 いや、二人は間違いなくお互いを想い合っているのだろう。ただそれを確かめるきっかけが無かっただけなのだ。
「じゃ、じゃあ私着替えてきますから……、行ってきます……!」
 衣装の入った包みを抱え、美希はそそくさと襖の向こうに消えてゆく。彼女の横顔は霊夢に負けず劣らず赤く染まっていた。
 夕闇がゆっくり辺りを包み、薄く長く延びた影がその姿を曖昧なものにする。大気が少しづつ夜気を孕み、夜の帳が東の空から広がり始める。
「せっかくだから私も衣装を見て行きたいんだ。霊夢、お茶淹れてくれよ」
「はいはい。まあ風も冷たくなってきたし、二人とも居間で寛いでなさい」
 いつも通りのあっさりとした返答。しかしその中には、どこかしらの暖かみが感じられる。気のせいだろうかと顔を上げると、アリスはこちらに微笑み、そして小さく頷いていた。
 気のせいではない。霊夢はほんの少しだが、変わりはじめている。
「ところでアリス、新しい衣装ってどんな感じなんだ? 霊夢みたいに赤いのか?」
「それは見てからのお楽しみよ。ね、霊夢」
「な、なんでそこで私に振るのよ」
 耳まで赤い彼女の後姿は、美希を目の当たりにしたらどうなってしまうのだろう。そんな想像をしたら、魔理沙は自然と笑みが浮かんでたまらなかった。
 恐らく霊夢は茹蛸のように赤くなって立ち尽くすだろう。そして彼女の告白を聞いて、頭から湯気を上げてしまうかもしれない。緊張と恥ずかしさで彼女が倒れそうなときは、自分が背中を支えてやろう。そして告白を見届けることが出来たら、盛大な賛辞を贈ってやろう。そんな考えばかりが頭に浮かぶ。

 しかし、その日美希が襖の奥から戻ってくることは無く、魔理沙の想像が現実のものになることもまた、無かったのだった。

続く



[11779] 幻想八葉
Name: Grace◆97a33e8a ID:5d8d086d
Date: 2010/10/03 02:17

   『幻想八葉』


 湯気を立てていた湯呑みは空になり、煎餅も二枚づつ無くなった。霊夢の顔も赤味が引き、代わりに懸念の色が浮かび始める。
「アリス、ちょっと時間かかり過ぎじゃないか? そんなにめんどくさい衣装なのか?」
「身支度はいろいろ手間取るものだって言いたいけど、流石に長すぎるわね……」
 しびれを切らして訪ねてきた魔理沙の言葉を受け、湯呑みを置いたアリスは一向に開く気配を見せない襖の向こうを見ながら小さく呟く。
 アリスが今回作った衣装は、正装と言うよりは神社で普段身につけるための衣服である。実際にパーティーの企画が立った際にはもう少しきらびやかな物をもう一度作れば良いと考え、普段使いのために着易さを重視してデザインした。和服を着慣れていないならともかく、毎日巫女服を身につけていた美希ならものの数分で着替え終わるはずなのだが。
「ちょっと様子を見てくるわね」
 万が一にもあり得ないことだが、縫いつけた箇所が解けたのかもしれない。アリスは落ち着きが無くなった二人を制し、代わりにそっと襖を開いて中へと足を踏み入れる。
「……美希? どこにいるの?」
 足下には綺麗に畳まれた巫女服と、アリスが縫い上げた衣装を入れていた包み布。しかし、それ以外には何も見当たらない。
「アリス、どうかしたのか?」
 声に気が付いたのだろうか、魔理沙と霊夢が襖の向こうから顔を覗かせる。
 嫌な予感がふつふつと沸き上がってゆく。
「美希はどうしたの?」
「解らないわ。どこにも見当たらないのよ」
「……ちょっと探してみるぜ」
 魔理沙の顔が一気に曇る。彼女もまた、なにがしかの予感を察知したのだろう。
 追いかけるようにして霊夢が姿を消し、アリスもまた廊下を足早に歩く。
 境内、本殿、居間、寝室、風呂場、台所。あちこちを見て回り、他の二人と顔を合わせる度に「美希は?」と訪ねる。
 しかし何度訪ねても訪ねられても、返事は首を横に振るのみ。
「霊夢さーん! 大変です!!」
 ふとけたたましい程の声が庭先から響いてくる。聞き慣れた鴉天狗の声に辟易し、同時に今はそれにかまっている余裕はないと苛立ちを覚える。
「何よ一体。今はそれどころじゃないのよ」
「こっちもそれどころじゃないんです! 見たこともない妖怪達があちこちで暴れ回ってるんですよ!」
 この鴉天狗は幻想郷の『今』に最も詳しい。己の見聞きした物を書に認めるという点では幻想郷の記録と歴史を司る阿求や慧音と同じだが、新聞屋である文の取材は速攻性と現在進行的側面が強い。また、文のような鴉天狗を含め多くの天狗は長命だ。故に彼女が『見たこともない』というのはかなり異例の事態だった。
「どういうこと? 新たな異変?」
「もっと危険です! そいつらは人間妖怪を問わずあちこちで暴れ回って、スペルカードルールにすら応じようとしないんです! 既に多くの怪我人が出ているんです!!」
 声を聞いて駆けつけた霊夢と魔理沙が、文の言葉を聞いて顔色を青ざめさせる。
 一応、スペルカードルールは絶対的存在ではない。応じる応じないは自由であり、具体的な処罰は存在しない。しかしこのルールは妖怪と人間の関係を守るために作られたものであり、これらが破られることは双方にとって何の利益も生み出さない。故に力有る者達は相互で監視をし合い、ルールの維持に努めている。
 しかし、そのルールが今平然と破られているらしい。
「おい霊夢、もしかして美希もこの異変に巻き込まれたんじゃ……」
「縁起でもないこと言わないで。とにかく、放っておくわけには行かないわね……」
 神社と里はひときわ強い結界で守られている。特に里は、いざとなれば永夜異変の時のように慧音が隠してくれるだろう。
 しかし、今回の件はどうにも様子が違いすぎる。結界や慧音の力が及ばないことも十分に考えられる。のんびり構えているわけにはいかないだろう。
「霊夢、魔理沙、神社は私が守るから、貴女達は……」
「いや、その役目は私が引き受けよう」
 遮る言葉は上空からのものだった。声の主は金色の尾を揺らしながら、娘とも言うべき黒猫を伴って眼前に降り立つ。
「藍、それに橙も」
「此度の件、もしかすると紫様の仕業やもしれん」
 重苦しく神妙な面持ちで口を開いた藍は、今朝方からの違和感について話し始める。
 彼女は一種一匹の大妖怪、八雲紫の式である。式とは人形師と人形遣いを結ぶ糸のようなものであり、彼女たちの場合は紫が人形師、藍が人形という関係になる。故に紫は藍を一方的に操ることも可能であり、糸を通じて力を与えることも奪うことも可能らしい。また、両者はその式によってお互いの居場所を察し、相手の状態を一部だが確認することも出来るという。
 その式が、藍の気づかぬうちに抜かれていたというのだ。
「眠っていても式が消えればすぐに解りそうなものなのだが、今回はどうしたわけか全く察知できなかったのだ。そしてそれと同時に、幻想郷のあちこちで結界の歪みを感じた。それも一カ所ではなく数カ所同時に。こんなことが出来るのは紫様をおいて他に居ないだろう」
「じゃあ美希が消え去ったのも……?」
「解らんが、無関係ではないように思える。すまない、私がもう少ししっかりしていれば……」
 口惜しそうに唇を噛む藍だが、誰も彼女を責めることは出来ない。なにしろ八雲紫というのは捉えどころが無く何を考えているのかさっぱり解らない妖怪なのだ。そのくせ強大で、ともすれば神をも越える力を持つ。そんな彼女を監視するなど、虎に首輪をするよりも難しい。
「ともかく、まずは美希の居場所を探ろう」
 庭先に降り立った魔理沙は、ポケットから一つのブローチを取り出して掲げる。簡素なデザインのそれは中央に大きめの宝石が嵌め込まれた魔導具であり、昨夜の内に魔理沙とアリスが調整を施したものだった。
「双子星カストルよ、失われた片割れポルックスを探し我を導け」
 魔法を発動させるキーワードを受けて、手の中の宝石が白く輝き始める。淡い光は色を変えながら徐々に収束し始め、ついには一点を指し示すようにまっすぐな光の帯へと変化した。衣服や装飾品が失われるようなことにでもならない限り、この帯の先に美希が居るのは間違いない。
「神社の守りは私が引き受けよう。紫様とやり合うのなら、私は傍に居ない方が良い」
「解った。悪いけどお願いするわね、藍」
「私はあちこちへ異変の発生と美希さんの危機を伝えてきます。山の方が落ち着いたらすぐに追いつきますから!!」
 言い終えるよりも早く飛び立った文は、瞬きする間もなく空の彼方へと消えてゆく。幻想郷最速の二つ名は伊達ではないらしい。
 しかし感心している暇はない。安否の解らぬ美希の為にも、幻想郷の安寧の為にも、異変を早急に解決しなければならない。
「霊夢、私達も行くわよ」
 頷く二人を連れて飛び立ち、藍に見送られて空を駆ける。目指すは光の先、沈みゆく日が茜色に輝く西の空。



「さて、これから大掃除が始まるが……。橙、お手伝いは出来るかな?」
「お任せください! これでも私は九尾の狐の式ですよ。お掃除ぐらいちょちょいのちょいです!」
 胸を張って答える橙に、藍は満足げに頷いて空を見上げる。そこには既に、無数の妖魔が翼を広げていた。
 黒光りする肌に爬虫類を思わせる顔。上半身は人間のそれに近いが下半身はどちらかというと草食獣に酷似しており、腕の代わりに蝙蝠のような翼をばたつかせている。
 霊夢達が飛び立ったとき、妖魔の気配は微塵も感じられなかった。そして彼女達が見えなくなった直後に空間の揺らぎが現れ、同時に無数の気配が発生している。
 最早首謀者の正体は確定的だった。
「美しさのかけらもない」
 藍が吐き捨てるように言い放つと同時に、橙は身を屈めて一気に飛び出してゆく。
 凶兆を司る黒猫である橙は俊敏で小回りが利く。その動きを目で捉えるのは至難の業であり、一撃を加えるともなればさらなる鋭敏さを要求される。翼に頼って空を舞う者が追いつけるわけもない。
 彼女は一気に敵の内側に入り込み、その鋭い爪と妖術であっと言う間に妖魔の群を翻弄し始めた。掃討されるのは時間の問題だろう。
「さて、ではお主の相手は私がするとしようか」
 くるりと踵を返し、藍はもう一匹の妖魔に向き合う。
「ほう、娘の心配をする余裕はないと解ったか。それだけでも誉めてやろうではないか」
 赤黒い口腔に異様なほど白い歯を浮かべて笑ったその妖魔は、先程のものよりは幾分か人間に近い姿をしていた。
 赤く長い衣はどこか血の色を思わせ、ドクロの如き眼下には青白い光が落ち着き無く蠢いている。足や腕はぼろきれのような衣に包まれており、死臭に似た臭いを纏っていた。
「我が名はネビロス。地獄の監視者にして監督官である。獣如きが我に刃向かえるとは思わぬが、せいぜい抵抗してあの世の自慢とするがよい」
 骨と歯がむき出しになった口で自信満々な笑みを浮かべたまま、ネビロスと名乗った妖魔はまるで動こうとしなかった。よほど己の力に自信があるのか、もしくは本当に藍がただの妖獣であると侮っているかのどちらかなのだろう。
「ほう、私がただの獣だと?」
「主の力を失った貴様如き、我が相手をするまでもないのだがなぁ。しかしこの楽園を我らのものにするためにも、禍根の芽は全て摘まねばならぬ。本当の強者とは用心深いものなのだよ」
 鼻に触る余裕の笑みに、藍はあからさまに嫌悪の表情を見せる。
 まずこの妖魔は美しくなかった。次いで自身の力を侮り、有ろう事かただの獣と見なした。そして藍が最も嫌悪し、完膚無きまでに叩き潰そうと決めたのは。
「貴様は今、此の楽園を自分のものにすると言ったな?」
「ああ言った。ここは魔力に満ち、人も獣も多い。我らの下僕として人と獣を飼い、数多くいる魔の者を我らの従者として使役する。どうだ? 貴様も我が軍団に下ると契約するなら、親子共々伽の相手として生かしてやらなくもないぞ?」
 最後の一言は、まさに藍の神経を逆撫でするものだった。
 そして静かな怒りに身を震わせた彼女は、紫から授かった大切な帽子を縁側へと投げ捨てる。
「貴様は先程、私が主の力を失ったと言ったな」
 九本の尾がざわめき、長く大きく膨れ上がる。
「貴様は多大な思い違いをしている。私は紫様から力を得ているのではない。自ら望んで力を抑えていただいたのだ」
 体中が金色の毛で覆われ、面構えが獣のそれへと変貌してゆく。
 血がざわめく。内なる獣が目覚め始める。
「私が何故最凶の妖獣と呼ばれているか、何故に八雲の姓を授かっているか、貴様に思い知らせてやろう」
 身を包んでいた衣服が破れ、身体が大きく膨れ上がる。
 妖魔が驚愕の表情を見せた頃には、藍はすっかり本来の姿へと戻っていた。
 九尾を持つ巨大な狐の姿に。
「な、何者だ貴様は! 何故そのように強い魔力を備えている!」
 余裕を見せていた妖魔は慌てふためき、己が身の危険を察してか、僅かに後ずさっていた。
「昔の名など忘れた。我は八雲紫一番の式、八雲藍だ。私と一戦見えたことを彼岸で自慢するがいい」
 長い尾が様々に煌めく。九つの尾がそれぞれ違う力を纏い、醜悪な妖魔に一気に襲いかかる。
 その尾の一撃は、一本一本が山を消し飛ばし、湖を干上がらせる程。
「獣如きが! いい気になるなぁ!」
 渾身の一撃だろうか。妖魔の火球が藍の背中に降り注ぐ。その大きさは巨大な藍の身を大方包むほど。
 恐らく並の妖怪なら消し炭すら残らぬ威力だっただろう。
 そう、並の妖怪であるならば。
「な、何故だ! 何故傷一つ付かん!! ゲヘナの炎だぞ!!」
「貴様の一撃には心の力が宿っていない。それでは我らを倒すことは永遠に不可能だ」
 身震いをする必要すら無かった。藍の背中は傷はおろかその毛並みの一本すらも焼けておらず、まるで微風を受けたかのように柔らかくたなびいているばかりだった。
 恐らく先程の一撃がこの妖魔にとって最高の一撃だったのだろう。彼の驚き様はやや同情に値するほどだ。
「……っ! ならば!」
 弾かれたように妖魔が後方へと跳躍する。予想だにしなかったその動きに、藍は本当に一瞬だけ、その姿を見失った。
「貴様の飼い猫から先に消しさ……ぶべらっ!?」
「ら、らんしゃまごめんなさい! つい反射的に殴っちゃいました!」
 藍の視界に戻ってきた妖魔の顎は完全に砕けていた。そして彼が飛んできたその方角には、巨大な鬼を二匹従えた橙が頭を下げている。
 鬼神赤鬼青鬼。どちらも藍が橙のために与えた式である。
「かまわんよ、橙。あとは私が引き受けよう」
「き、貴様等は何者なのだ! 何故我をこうも翻弄できる!! 千の軍勢にも匹敵する我を何故恐れない!!」
 哀れにすら思えるほどの叫びが木霊する。しかしこの愚かな魔物に同情する必要性はない。
 何しろ彼は殺し合いを望み、その最中によそ見をし、あろうことか愛娘に手をかけようとしたのだから。
「先程も言っただろう。私は八雲紫一番の式、八雲藍だと」
 九つの尾が今一度唸りを上げる。
 炎、水、風、岩、雷撃、刃、槌、棘、そして虚無。
 それぞれの力を纏った尾が次々に襲いかかる。一撃ごとに彼の四肢が砕け、纏っていたぼろきれごと塵と化す。
 そして幾度かの、文字通りの断末魔の悲鳴を上げた頃。
 彼は完全にこの世界から消滅した。
「外の世界の常識で戦おうとする限り、我らには勝てんよ」
「らんしゃまー、お掃除終わりました!」
 何もなくなった空間に小さく呟くと、背後から娘の元気な声が飛び込んでくる。どうやら全て片づいたらしい。
「お疲れさま、橙。次に備えつつ、とりあえずお茶でも飲んでのんびりしようか」
 人の姿へと身を転じ、藍は愛しい娘を抱きしめる。今回の異変は確かに何か様子が違う。しかし彼女たちはいつものように笑顔で帰ってくるだろう。
 そして、またこの世界に安寧の日々が訪れる。
 藍はそう確信していた。
「ら、らんしゃま」
「どうした? 橙」
「とりあえず、服着てください……」



「カストルジュエル?」
「そ。キーワードを唱えるとポルックスジュエルまで導いてくれる。そんだけのマジックアイテムさ」
 魔理沙の手にあったブローチは、今霊夢の胸で光り続けている。魔法の力を込めた道具らしいそれは、互いの位置を示し合う能力を秘めているらしい。
「あんたちゃんと魔法使いだったのね」
「失敬だなぁ。今までなんだと思ってたんだよ」
「押し込み盗賊」
 あっさり答えた霊夢に魔理沙は面白くないといった顔で箒の速度を速める。今のところ大きな障害はなく、光もまた動くことなくまっすぐに伸びたまま。しかしその静寂が不気味でならない。
 霊夢の中で、疑念は既に確信へと変わっていた。間違いない、今回の首謀者は紫なのだ。各地の異変と藍の証言。そして西へ伸びる光の帯が、その犯人を明確なものにしている。
 だからこそ、静かなことが恐ろしく思える。
「お祭りには間に合ったかしら?」
「不謹慎ですよ、幽々子様」
 やや間延びした声と、控えめに響く鈴のような声音。ふと顔を向けると、そこには白玉楼の幽霊二人組が漂っていた。
「幽々子、妖夢。二人ともどうしたの?」
「幽々子様が面白そうなことが起こるからと仰られるので赴いたのですが……、先程天狗に事態をお聞きしました」
「なんだか大変みたいねえ」
 深刻な表情の妖夢とは対照的に、完全に他人事と言わんばかりの反応を見せる幽々子。彼女が何を察してきたのかは不明だが、少なくとも今の時点では敵ではないらしい。
「異変は白玉楼にも?」
「いいえ、あちらは静かなままです。ですがあちこちで起こっている戦いは目にしてきました。今のところ大きな被害はありませんが、相手は数が多く、長引けば不利になるでしょう」
 アリスの問いに静かに答え、妖夢は僅か俯く。それだけ事態は重く危険だと言うことなのだろう。
 空は少しづつ藍色が深まり、夜の闇が色濃くなりはじめてゆく。人の力が衰え、妖怪の力が強まる夜が迫っている。
 やはりのんびりしている時間はなさそうだ。
「止まって!!」
 飛翔速度を少しでも速めようとしたその刹那、妖夢の鋭い声が飛ぶ。
 直後に目の前をよぎったのは、巨大な黒い固まりだった。
「何よあれ……」
「おいおい、デュラハンまで持ってきたのかよ……」
 黒い固まりは、どうやら西洋の騎士と馬車のようだった。二頭立ての馬車に見上げるほどの巨大な騎士が堂々と座っている。馬車には巨大な槍が備えられており、恐らくはあれで此方を串刺しにするつもりだったのだろう。
 騎士も馬車も馬も黒。その妖怪は夜の闇より尚不気味な風体をしていた。
 しかしそれ以上に驚愕すべき事は、馬と騎士に首がなかったこと。
「あんなの見たこと無いわよ。どこの妖怪なのよ」
「西洋の亡霊騎士よ。黄昏時に家を訪れ、桶一杯の血を浴びせかけて立ち去るの。そしてその翌日、血を浴びた者の命を奪いに来る。今はどうやら過程をすっ飛ばして私達を殺すつもりみたいだけどね」
 苦笑しながらアリスは人形に構えを取らせる。騎士に対抗するためだろうか、それぞれが剣や盾を油断無く構えている。
 確かに、彼女の言うとおりあの首無し騎士はこちらを串刺しにすることしか考えていないのだろう。槍を構え直すと二頭の馬はまっすぐにこちらを向き、その蹄で宙をせわしなく掻いている。
「妖夢、あれの相手は頼める?」
「無論です。直ぐに切り捨てて追いつきます」
「ちょっと幽々子! 正気なの!?」
 いつも通りの間延びした声に、妖夢が数歩前に出る。その後ろ姿は余りにも小さい。
 妖夢は外見的に幼いこともあり、あの騎士の身の丈と比べると半分程度の上背しかなかった。剣術や格闘術に疎い霊夢だが、あまりの体格差はどちらが有利かを雄弁に物語っている。
「うちの庭師を甘く見ないで頂戴。妖夢、貴女が負ける確率は?」
「万に一つもございません。六度まみえる内に終わらせます」
 身を屈め、柄に手を押いて幽々子の言葉に答える妖夢。そこには確かに並々ならぬ自信があった。
「で、でも……」
「霊夢。貴女の役目は異変を解決し美希殿を救出すること。それ以外の事は周りに任せればよいのです」
「そうだぜ。こっちも一刻を争うんだ。妖夢に任せて急ごう」
 魔理沙に手を引かれ、霊夢は後ろ髪引かれる思いでゆっくりとその場から離れる。
 背後の騎士は今まさに妖夢に迫らんとしている。
「妖夢! 無茶するんじゃないわよ!!」
 霊夢の呼びかけに妖夢はそっと親指を立てて見せた。



魂符「幽明の苦輪」

 妖夢の小さな声と共に、自らの半身たる半霊が人の形を取る。
 その姿はまるで、妖夢の鏡写しそのものだった。
 騎士は既に突撃を開始している。巨大な黒い固まりが弾丸の如く迫り、漆黒の槍が自らを貫かんと不気味に光る。
 しかし、妖夢は恐れも動じもしていなかった。
「まずは貴様の現世を絶つ!」
 半身と共に妖夢は宙を蹴って飛び出す。音もなく滑るように迫る騎士よりも尚早く。その様は正に、一条の光の如く。
 そして、無音の内の一合。
 断たれていたのは、二頭の馬だった。
「自慢の槍はもう使えない。そこから降りてきたらどうだ」
 抜いた刀に付いたどす黒い血を払い、妖夢は今一度刀を鞘に収める。半身はいつの間にか元の霊魂の姿に戻っており、妖夢の傍で淡く光っていた。
 魂魄妖夢は静かな怒りに満ちていた。
 美希が霊夢と共に有ることを選んだと知ったのは、年が明けてからのこと。その記事を見た時、妖夢は少なからず衝撃を受けた。
 しかしそれは些末な事に過ぎない。彼女に抱いていたのはやや一方的な独占欲だったし、友として接してくれるのであれば別段の問題はない。むしろその方が最愛たる主、西行寺幽々子との狭間で揺れることが無く、良いのかもしれない。
 だが、それは偏に彼女の笑顔があってのこと。美希が不幸になるのでは身を引いた意味がない。
 そして今、その不幸はあの胡散臭いスキマ妖怪によって与えられようとしている。
 本当なら、今すぐにでも自分が駆けつけて美希を助け出し、あの食っちゃ寝大妖怪に一撃加えてやりたいところだった。
「譲った役目の分、きっちり働かないと容赦しませんからね……」
 そう、妖夢は理解していたのだ。
 その役目は霊夢のものであり、自分は彼女を先に進めるために、露払いをするべきなのだと。
 払うべき露たる騎士は、馬車から降りて巨大な剣を構えていた。
 騎士の身の丈と同じぐらいあるだろうか。その巨大な剣を片手で軽々と構え、こちらにまっすぐ向き直る。
 言葉も動作もないが、妖夢にははっきりと解った。
 間違いない、あれはこちらを誘っているのだ。
「居合いは後の先しかないとでも思っているのか……。ならばその誘い、乗ってみせましょう」
 身を捻り、低く構えて足並みを整える。二本の柄にしっかりと手をかけ、騎士を見据える。
 そして。
「破!」
 肺に溜めた呼気を一気に吐き出し、同時に妖夢はその足で宙を蹴った。先程よりも早く、そして真っ直ぐに。
 騎士もまたそれを予見していたのだろう。構えた大剣を振り下ろし、妖夢を切り捨てようと試みる。
 鋼をも砕かんばかりの強烈な一撃。
 しかし、届かなければ意味はない。
 黒衣の騎士が切ったのは彼女の残像のみであり、妖夢の斬撃は確実に騎士の巨体を捉えていた。
 幾度かの鋼が交わる音に混じって、確実に肉を削ぐような音が響きわたる。騎士は舞い落ちる桜の花びらと共に、無数の刃を浴びせられていた。
 並の相手であれば、この斬撃で細切れにされていただろう。もしこの騎士のように重厚な鎧を着ていたとしても、甲冑の隙間を抜って打ち込まれた刃によって、立つことすら適わなかったに違いない。
 だが、この巨躯の剣士はその風体に見合うだけの頑健さを備えていた。
 倒れることすら無く、よろめきもせず、騎士は巨大な剣を横凪ぎにして妖夢の胴体を狙う。大木すらも切り落とす一撃が妖夢の脇腹を捉え、華奢な彼女の胴をまるで大根を切り落とすかのように真っ二つにする。
 はずだった。
「その一撃も予見済みです」
 有ろう事か、妖夢は騎士の一撃を自らの細腕と二本の刀で平然と受け止めていた。
「そして、その様ななまくらで師直伝の二振りが砕けると思っているなら、心外ですね」
 彼女の言葉が終わるよりも早く、騎士の剣がばらばらと崩れ落ちる。その様はまるで、乱切りにされた人参の様だった。
 自慢の刃を砕かれ、騎士は初めて驚愕の表情を見せる。
 いや、仕草を見せると言うべきだろう。何しろこの騎士には、表情を表す顔がないのだから。
「符による勝負を望まなかったことを、地獄で後悔するがいい!」
 庭師は庭師らしく、従者は従者らしくあれ。妖夢は常にその言葉を身に刻んで生きてきた。主の前では決して目立たず、主を知る者の前では謙虚に。それが庭師たる妖夢の生き方そのものだった。
 しかし、今ここには自分と対峙する敵のみ。そしてその敵はこれから葬り去られる。ならば何も気兼ねをすることはない。
 半霊が今一度騎士の背後で人の姿を取る。但し、今度は抜き身の刀で。

 ギィン!!

 黒塗りの巨体を二人の妖夢が打ち上げる。細身の刀が巨大な鎧を切り裂きながら叩き、小柄な彼女の二倍はあろうかという上背の大男が僅か持ち上がる。そこから先は妖夢の一人舞台だった。
 逆袈裟、薙、逆風、刺突、様々な剣戟が黒塗りの塊に浴びせられる。鼓膜を突き破らんばかりの金属音が辺りに響き、騎士の鎧が少しづつ削られてゆく。
 どうやらこの黒衣の騎士は鎧が身体そのものらしい。切り裂かれた鎧の中はほぼ空洞で、血の代わりに黒い靄のようなものが染み出すばかりだった。
 斬激とともに騎士の身体は削れ、崩れ、塵と化す。そうしてその鎧の下半身がほぼ消え去った頃、休み無く続いていた剣舞が止まった。

 断霊剣「成仏得脱斬」

 妖夢はその騎士のかけら一つ残さず無に帰すつもりだった。半霊と共に同時に放った一撃は垂直に伸びる光の奔流となり、首無し騎士の身体を包み込む。上半身だけになった黒い亡霊は、断末魔の悲鳴のように鎧を軋ませながら桜色の光の柱の中に消え去っていった。

 ガギィン!

「首あったんだ……」
 最後に妖夢が唐竹の一撃を加えたもの。それは首無し騎士が最後まで小脇に抱えていた自身の頭部だった。



 手の中の懐中時計の遅々として進まぬ針を見つめながら、咲夜は唇を噛む。
「咲夜、後どのぐらい?」
「日の入りの時刻は過ぎましたが、日光の影響が消えるのはあと三十分程度かと思われます」
 咲夜の言葉に、尋ねたレミリアが忌々しげに爪を噛む。
 窓の無い部屋ゆえ外の様子を伺い知ることはできないが、今時分は恐らく逢魔が時と呼ばれる頃合だろう。
 吸血鬼は陽光に弱い。強力ゆえに様々な弱点が存在する種族だが、中でも日の光は致命的で、存在そのものが灰燼と化す。主であるレミリアはそれを魔力によって防ぐことができるが、体力の消耗や魔力の損耗は著しい。それでも、相手が並の妖怪であるならば何の問題もない。
 しかし、今回ばかりはそうもいかない。何しろ相手はあの八雲紫とその配下らしき西方の魔物なのだ。
 夕刻、射命丸から受けた報告は紅魔館を震撼させた。

『八雲紫が幻想郷を相手に戦争を仕掛けようとしている。神社の美希が人質になっている可能性もある』

 報告を受けて真っ先に飛び出そうとしたのはフランドールだった。しかし彼女は、残念ながら姉であるレミリアよりも陽光に弱い。幾ら日の入り直前でその影響力が弱まっているとはいえ、何の対策もなしに外に出て無事なわけがない。
 加えて相手はスペルカードによる決着を望んでいない。万が一相当の実力を持つ者と出会ってしまったら。
 そこから先は想像もしたくなかった。
「お姉さま、先に行って。私はもう少し我慢するから……」
「駄目ですよ、フラン様。相手が相手です。万全の体制を取らなければ……」
「でも! ぐずぐずしてたら大変なことに……!!」
 スキマ妖怪八雲紫は人を喰う。事の真偽を確かめた者は居ないが、根も葉もない噂であるとは断言しがたい。わざわざ喰うために霊夢のお気に入りを攫ったとは到底思えないが、何かの意図があるとすればやはりのんびりはしていられない。
 だが、慌てて飛び出して返り討ちにあうようでは意味がないのもまた事実である。美鈴に宥められてフランはしぶしぶ椅子に戻り、今にも泣き出しそうな顔で固く手を握り締めている。
「ご無事ですかっ! 皆さん!!」
 不意に扉が開かれ、妖精と共に思わぬ来客が顔を出す。白く長い耳を揺らしながら、肩で息をする少女の名は鈴仙。門番と恋仲の、永遠亭に住む兎娘だ。よほど急いできたのだろうか、彼女は荒い息を整えるまもなく美鈴の傍に駆け寄り、互いに無事を確かめ合っている。
「あちこちの変な妖怪が一杯現れたって、文さんから聞いて……! それで、慌てて……!」
「おちついて、鈴仙。ここは大丈夫だから。それより永遠亭は平気なの?」
「は、はい……! てゐが留守は任せろって……。師匠と姫はもう西へ向かって飛び立ちました」
 やはり元凶は西にあるらしい。射命丸も霊夢や魔理沙はそちらに向かっていると言っていた。そして西には、あの八雲紫の住む庵がある。
 どうやら敵は己の巣で待ち受けているようだ。
「じゃあ鈴仙、気をつけてね。私はここを……」
「美鈴、貴女も一緒に行ってらっしゃい。後のことは私が引き受けます」
 どこまでも己の使命に忠実な門番の発言に、咲夜は思わず苦笑を漏らした。
 文の報告を受けたとき、美鈴は真っ先に飛び出したかったに違いない。しかし彼女は自身に課せられた使命を重んじ、鈴仙を信じてひたすらに堪えた。
 そんな彼女に、これ以上の我慢を強いるのは酷と言うものだ。
「で、でも……館が……」
「そのぐらいなら私に任せて貰えないかしら?」
 戸惑い振り返った美鈴の声に答えたのは、図書館の主だった。
 自らの右腕とも言うべき小悪魔を従え、彼女は部屋の隅で静かに佇んでいる。
「パチュリー様。お体は大丈夫なのですか?」
「平気よ。そこの兎の薬がとてもよく効いているのでね。そして此の館を守ることぐらい、私には造作もないことだわ」
 館の地下に住むこのパチュリー=ノーレッジは、咲夜が知る中で最も魔女らしい魔女だった。彼女は七つの属性を自在に操り、ありとあらゆる魔法知識に精通している。また、主人であるレミリアが一目置くほどの存在であり、その実力の程は底が知れない。
 彼女の実力は咲夜もあまり詳しくない。緋想の異変で一度だけ相対したことはあるものの、あれはおそらく彼女の持つ万を越える魔術の、ほんの一握りに過ぎないのだろう。だとすれば、この館の守備ぐらいは本当に造作もないのかもしれない。
 何より旧知の仲であるレミリアが異論を唱えないのだ。美鈴が心配するようなことが有ろう筈もない。
「あぅ……で、でもですね……」
「いいからさっさと出発なさい。今の貴女の使命はパチュリー様の主治医を守ることと、霊夢達の露払いをする事よ」
「咲夜さん……」
 我ながら似つかわしくないほどの臭い台詞だったと思う。しかしそれだけの効果はあったようで、感動屋の門番は涙を拭いながらこちらをじっと見つめていた。
「私達が行くまでしっかり働きなさい。しくじったら明日から食事はコッペパン一つになるから覚悟するのね」
「はいっ! それじゃ行って参ります!!」
 胸を張って敬礼し、彼女は鈴仙を連れ立って部屋を飛びだしてゆく。その背中を見送りながら、咲夜は朧気な違和感を抱いていた。
(何かあるわね、今回の異変……)
 それは女の勘とでも言うべきだろうか。説明の付かぬ違和感と予感が、咲夜の脳裏に渦巻く。しかし、今それを確かめる術はなく、知ったところで何か変わるわけでもない。
 陽光の消滅を待ち、全力で首謀者を叩き潰す。
 今の自分達には、それ以外に選択肢は存在しないのだから。



 霊夢が向かっているであろう方角へ向かって飛びながら、八意永琳は一つの確信をしていた。
(間違いない。これは支配を目的とした戦争でも、殲滅を目的とした侵攻でもない)
 昼を過ぎた辺りから、永琳は幻想郷に微妙な揺らぎが発生していることを察していた。しかし元々不安定な世界であることや、結界の修復業務は藍や霊夢の仕事であることから、特別気にすることもないと考えていた。
 ところが、事態は夕刻に一変する。
 幻想郷のあちこちで揺らぎが一斉に増大し、西の方角から漣のように空間が撓んでいったのである。
 そして、事の真意を確かめるより早く飛び込んできた新聞屋。
 彼女の言葉を受けて、永琳は自身が幻想郷相手に喧嘩をするならどうするかを考え、三つの方法を導き出した。
 一つは博霊の巫女を懐柔する方法。世界の守護者であり、最強の力を持つ幻想の巫女を手中に収めることが出来れば、後の支配は容易い。
 彼女を味方に引き入れるなら、今霊夢が入れ込んでいる美希を利用するのが一番だろう。しかし紫は霊夢のすぐ傍で美希を攫っている。これでは巫女に喧嘩を売るようなものであり、逆効果も良いところだ。
 もう一つは、幻想郷の弱点である里を盾にする方法。
 紫が率いているのは西方の悪魔や不死者ばかりらしく、彼らの多くは人間を糧にする。物資と人間を一気に手に入れるには里を襲うのが一番であり、人間を盾にされてはどんな大妖怪でも手が出せない。そして生産源の多くは里に存在するため、妖怪達が徐々に力を失っていくことは間違いないだろう。
 ところが現在の敵の攻撃は散発的で、里の方はそれほどの被害が出ていないようだという。なるべく無傷で手に入れるのが目的だったとしても、これはやはり周囲の警戒心を強めるだけで逆効果だろう。
 最後の一つの方法は、山の神や吸血鬼など、脅威となりそうな存在を全勢力を持って各個撃破してゆく方法だ。
 生半可な力を用いるのではなく、強大な軍団を率いて不意打ちを仕掛け、一気に壊滅的打撃を与えるのだ。
 首謀者が紫であるなら相手の力量や弱点は理解しているはずなので、一つ一つ確実に陥落できるだけの軍勢をそろえて、最高のタイミングで仕掛ければいい。
 だが、日の出ている内に襲撃するべき紅魔館はまだ襲われておらず、山を攻めてきた悪魔達も神が相手にするには役不足甚だしいとのこと。
(何が目的なのかしら……。肝心のピースが抜けている気がするわ……)
「永琳、霊夢達よ」
 考えがまとまるよりも先に、輝夜の声が耳に届く。顔を上げたその先には、いつも通り異変解決に向かう二人と、同行しているらしい別の二人の後ろ姿。
 彼女たちに合流するべく飛翔速度を速めながら、永琳は自身が柄にもなくあの外来人を心配していることに気が付いた。
(私も風に当てられたのかしらね)
 外から現れた彼女は、停滞し、淀んでいた時間と空気を入れ替える風のような存在だった。その風は少なからず自身にも吹き付けられ、心の澱を押し流していったように思える。
 そして今、自分は姫以外の誰かの安否を気遣っている。
 己の変化に僅か苦笑し、永琳は静かに願う。
 彼女の無事と、風の再来を。



「馬鹿な! 何故兎如きがこんな力を!」
 群を率いていた狼男は、首だけを地面の上に出したままで驚愕していた。
 彼は自身を呼びだした主に『今ならそのあばら屋には兎しかいない。群を率いて襲うには一番だ』と告げられていた。スペルカードルールなどという決着方法も聞いたが、彼はそれを面倒且つ回りくどいものだと考え、己の配下である魔狼を率いて一気に喰らいつく事を選んだ。
 予定であれば今頃は柔らかい兎の肉にかぶりつきながら、喜びの遠吠えを上げているはず。
 しかし、今の自分は落とし穴によって地面に拘束されており、それを見下ろす兎耳の少女に悪態をつくことしか許されていない。
「あれあれ、知らないの? 兎は穴掘りの達人なんだよ?」
 癪に障る口調と笑顔に、腑が煮えくり返る。だが自慢の爪も牙も、少女に届くことはない。
 兎は本来狩られ、喰われる存在のはずだ。優位に立つべきは狼であり、彼女らは恐怖に顔を歪ませながら悲鳴を上げ、逃走という無駄な抵抗をする以外に道はないはずなのだ。
「何故だ! 魔力も力も無い貴様等に何故我ら魔狼の軍勢が負ける!」
 彼が率いてきた軍団は、既に全滅していた。その多くは罠にかかり、残る僅かな者も不意打ちと数の暴力に屈した。
 まるでそこに来ることを予見されていたかのように。
「時代はね、ココなんだよ。ココ」
 槌を担いだ兎娘がこつこつと頭を叩く。
「それに、神世の時代から生きてる私があんたみたいな若造に負けるわけ無いでしょ? ただの兎だと思ったら大間違いだよ」
「馬鹿を言うな! 神格を持つ兎など聞いたことがない! そんな者が居るはずがない!!」
「居るんだよ。だってここは幻想郷だもん」
 巨大な槌が自身の鼻を叩く。衝撃と共に目の前が暗転し、意識が一瞬吹き飛ばされる。しかし所詮はただの槌。銀か神格化された武器でなければ身体はすぐに再生される。ヴァンパイアと並び恐れられるライカンスロープとは、それ程までに強力な存在なのだ。
 しかし、彼は未だ血を流し続ける己の鼻面を見て驚愕する。
「何故だ……! 何故再生しない……!」
「神席に名を連ねる大黒天様の槌が、魔を払う力を持ってないわけが無いじゃん」
 事も無げにさらりと答える少女に、狼男は恐怖した。
 圧倒的優位に立つはずの自分が、今兎を目の前にして恐れを抱いている。
 それは童話の中の、くだらない創作の出来事でしかないはずだった。現実に起こりうるはずがない、親が子供に言い聞かせる為だけに作られた、くだらない寓話。それ以上になるはずのない出来事だった。
 だが、残念ながらそれが今現実になろうとしている。
「い、命だけは助けてくれ! もうお前達を襲うような愚かな真似はしない!」
「えー、どうしようかなあ。狼はウソツキだからなー」
 面倒事は御免だった。幾ら不意を突いても確実に狩れる保証がない獲物を捕る気にはなれない。さっさとこの場から退散し、別の狩り場を見つけて腹を満たしたかった。
「本当だ! もう俺はここに近づかない! 山で鹿か猪でも喰らって帰る!! 信じてくれ!」
「そこまで言うなら、逃がしてあげようかなぁ」
 その一言に狼男は安堵した。これで平穏な生活に戻れるのだ。蔑まれてもいい。捕食者としてしたたかに生きることが出来るなら、甘んじて受け入れよう。そう考えていた。
「なーんて、ウソうさ!」
 死の宣告とも言うべき一言が聞こえたのも束の間、狼男の視界は完全に暗転した。



「自分が襲いかかっておいて命乞いなんて、虫が良すぎるっての」
 首が吹き飛んだ狼男は、絶命と同時に塵のように崩れさった。元々そういう存在なのか、そうなるようにされていたのかはてゐには知る由もない。
 そして別段知りたいとも思わない。
「ちゃんと連れて帰ってこなかったら、いたずらフルコースだからね」
 各所で撃破に当たっていた兎達の報告を聞きながら、てゐは西の空を見上げて呟く。
 いつも陽気ないたずら兎が浮かべた、珍しい憂いの表情。その原因は、彼女の上司であり友人でもある優しい兎娘にあった。
「れーせんちゃん、だいじょうぶかな」
 かつて鈴仙は戦争を恐れて月から逃亡している。命のやりとりが日常化する狂気の場を恐れ、己の手で他者の命を奪わねばならないという現実から逃げ出すべく、彼女は仲間も友も全て捨ててこの幻想郷に落ちてきた。
 そして今度は、この幻想郷が戦争の舞台になろうとしている。
「ここは、優しすぎるよ」
 この世界は、失うことを恐れた者が集まる世界のように思える。
 夢を失うことを恐れて常識から世界を切り離し、争いを恐れてスペルカードというルールを作った。それはぬるま湯に浸かるが如き選択であり、居心地の良い停滞とも言える。
 そしてそれは、閉じた世界にのみ許された選択。
 しかし、世界は今八雲紫の手によって開かれてしまった。弱肉強食という牙を研ぎ、生存競争という顎門によって生き残ってきた者達が、ぬるま湯に浸かった柔肉に襲いかかろうとしている。
 文字通りの戦争が、今まさに始まっているのだ。
「よし、それぞれ罠の再設置と総点検。終わったらさっきと同じく所定の位置について第二波に備えよう」
 てゐの声に、集まっていた兎達が再び散り散りになってゆく。一人残されたてゐは槌を担ぎ直し、今一度西の空を仰ぎ見る。
 不気味なまでに透き通った、紫色の空を。



 剣呑な空気が辺りを包む。霊夢はいつものように我関せずの顔をしており、先頭をただひたすらに西へ向かって飛び続けている。その後ろの魔理沙は微妙な顔をしており、彼女を慮ってか、アリスが時々微苦笑を漏らしている。
 西行寺の亡霊は相変わらず何を考えているのかよく解らず、今もにこやかな笑みで自身のすぐ後ろを飛び続けている。
 そして、辺りを包む剣呑な空気の発生源は最後方。
 八意永琳の主である蓬莱山輝夜と、彼女を敵対視し続けている藤原妹紅にあった。
(しのごの言ってる場合じゃないとはいえ、タイミングの悪さったら無いわね……)
 霊夢達との合流は、妹紅とほぼ同時だった。また、彼女は里の防衛のために自身の相棒である白沢を連れ立っては居なかった。
 更に言えば、有事と言うこともあってそれぞれ気が立っていたのもあるだろう。
 二人は互いに一言も口をきかぬまま、視線だけで喧嘩をし続けている。
(やれやれ……)
 気取られぬようにそっとため息を吐き、永琳は改めて西の方角を見つめる。
 今時分はちょうど、逢魔が時という時刻だろうか。背後から迫る暗闇がまるでタイムリミットを示しているようで気味が悪い。
「永琳、気が付いていて?」
 耳打ちほどの距離でそっと訪ねてくる幽々子に、永琳は小さく頷く。
 どうやら平穏無事に紫の元へはたどり着けない仕様らしい。
「霊夢、魔理沙、アリス。お客様が見えたみたいよ」
「ほう、私の気配に気が付くことが出来るとはな」
 声をかけた三人が答えるよりも早く、虚空から声が響く。
 透き通るような男性の声。それは奇妙なほど心地よい、それでいて心を舐め回すようないやらしさを兼ね備えた気味の悪いものだった。
「あれだけ大がかりに量子変化を見せつけられれば嫌でも気が付くわ。それに、貴方の解りやすい視線もね」
「それは失礼。美しい女性には目がないものでね」
 水面に小石を落としたように、空間に波紋が広がる。そしてその中心から姿を現したのは、白髪の青年だった。
「両手で抱えられぬほどの花がお出迎えとは、嬉しい限りだ。特に私の存在に気が付いていたお二人は美しい」
 端整な顔立ちの褐色の肌と、白い歯。西洋風の豪奢な紳士服には多数の飾りが見え、彼の身分の高さを現しているかのように見える。
 しかし、その男を印象づけているのはそちらではない。
 彼の四肢は人間のそれではなかった。異様なまでに細い手足に鋭い鉤爪。そこかしこには鋭い棘のようなものが突出しており、二の腕とふくらはぎからは透明な羽がそれぞれ一対づつ生えている。
 そう、それはまるで昆虫のような手足だった。
「悪魔の侯爵にほめられるのは、光栄な事なのかしら?」
 彼の存在を、永琳はよく知っていた。そしてどうやら、魔理沙とアリスもその存在の大きさを理解しているらしい。
 かつては神として崇められ、地に落とされて尚魔界にその名を君臨させ続けている蝿の王ベルゼブブ。それが彼の人間界での名前。
「こちらこそ貴女のような淑女に名を覚えていただけているとは光栄の極み。しかしそう硬くならないでいただきたい。私はただ、物見遊山にきただけなのだから」
「物見遊山?」
 いぶかしげに眉根を寄せる霊夢。彼女もまた、札を構えて油断無く相手を睨みつけている。名前に反応しなかったので、恐らく霊夢は彼の者がどのような存在か知らないのだろう。しかし本能的な勘で危機を察し、すぐさま構える辺りは流石と言うべきだ。
 だが、彼女たちに悪魔の相手をさせるわけにはいかない。
「そう、珍しいものを食べ、景色と出来れば音楽を楽しみ、満足したら帰路に就く。ただそれだけだ」
 悪魔は狡猾で抜け目がない。対峙するには言葉の裏をかくだけの経験と知識。そして当たり前のことだが相応の実力を必要とする。霊夢にはそれだけの実力も有ろうが、彼女には残念ながら経験が足りない。
「なら、まず手始めに私と踊っていただけないかしら」
「ちょっと永琳! 貴女一人でやる気!?」
 背後にいた輝夜が慌てて肩を掴んでくる。しかし今彼女に気を回す余裕はない。
 何より、あれの相手は自身が一番適任なのだ。
「奇遇ですね、私も貴女にお相手願いたいと思っていたところだ。それが叶うなら貴女に免じて他の者は見なかったことにしておきましょう」
「ありがたい申し出ね。じゃあ二人きりになったら始めることにしましょうか」
 今にも飛びかかりそうだった妹紅は幽々子が片手で制していた。こんな時ばかりは、不気味なほどの察しの良さもありがたい。
「姫様、そういうことですので一つお譲りください」
「で、でも……」
「霊夢の事、よろしく頼みますね」
 八雲紫が何を考えているか、それは永琳にも解らない。しかし一つだけ確かなことは、これから先も平穏無事な道のりが続くとは到底思えないという事だけ。
 そしてあのスキマ妖怪を止められるのは、霊夢をおいて他にいないだろう。
 ならば、我々の役目はただ一つ。
 霊夢の力を出来る限り温存し、紫の元へ届ける事のみ。
「…………わかった。ここは任せる」
 何か言いたげなそれぞれを率いて、輝夜、幽々子、アリスが去ってゆく。物わかりの良い面々が居て本当に助かる限りだ。
 後は、目の前の羽虫をたたき落とすだけ。
「準備はよろしいかな? 罪深き魂を持つ人を捨てた娘よ」
「急に神様らしいことを言うのね。『元』神様さん」
「東洋では異形の者も神扱いされているらしいのでね。ではしばし踊っていただこうか」
 余裕の一言と共に、彼の身体が黒い靄に包まれる。蠢くそれは五月蝿いまでの羽音をまき散らしながら数と大きさを増し、一つの巨大な生き物のようにこちらを見据えてくる。
 靄の正体は、無数の蠅だった。
「さあ、素敵な歌声を聞かせてくれたまえ!」
 靄は大きく膨れ上がりながら、永琳の身体を一気に飲み込む。視界の全てを蝿に奪われ、耳は羽音以外何も聞こえなくなってしまう。普通の者ならば、一分もせずに発狂してしまっていただろう。
 しかし、永琳は眉一つ動かさなかった。
 有名になるというのは皮肉なもので、力を得ると同時に多くの弱点をさらけ出し、得意不得意から攻撃手段までも解析されてしまう。
 そして永琳は、この攻撃も予見済みだった。
「…………どうやって蝿共を退けた?」
 黒雲の如き蝿は一瞬にして羽ばたきを止め、物言わぬ躯となってばらばらと落下してゆく。
 そして永琳の背後には、銅鐸のような物体が一つ浮かんでいた。
「私の周囲に蝿だけに聞こえる音波を大音響で流しただけよ。突然のことに貴方の可愛い子分たちはショック死してしまったようだけど」
「小細工はその後ろのものがやったのか」
「素敵でしょう? オモイカネデヴァイスっていうのよ、この端末」
 この幻想郷には、本気の力を見せぬ者が数多く存在する。その理由は様々だが、八意永琳もその一人だった。
 そして永琳は、今も本気を見せていない。
「貴女を少々見くびっていたようだ。これからは真剣にお付き合いさせていただこう」
「あらあら、貴方如きが私を本気に出来るのかしら?」
 くすりと小さな笑みを浮かべ、右手でデヴァイスの端末を操作する。
 二人きりの舞踏会は、ようやく自己紹介が終わったばかり。本当のダンスは、これから始まる。



 美希は夢を見ていた。
 夢の中で、美希は無くなってしまったはずの小さいけれど幸せな家で、死んでしまったはずの母と、居なくなってしまったはずの父と幸せに暮らしていた。
「────、早くしないと学校に遅れるわよ」
 優しい母の元気な声がリビングに響く。
「────、もう学校には慣れたのか?」
 ワイシャツ姿の父が、大きな手で頭を撫でる。
 しかし、自分を呼ぶ声は聞こえてこない。
 いや、それはもう自分ではなかった。
 夢の中の彼女は、とても幸せそうな笑顔を浮かべていた。
 可愛らしいブレザーを身に纏い、まだ締め慣れていないリボンを襟元に締め、トーストをかじりながら鈴の音のような声で笑っている。
 美希はそれを、ただ見ていることしかできなかった。
 そう、希島貴美の幸せな姿を。



 対峙する敵を余所に、幽々子は考えを巡らせる。
 霊夢達は既に先を急いでおり、ここにいるのは自分と自分が引き受けた敵のみ。
(何かもう少し裏がありそうね)
 霊夢達と共に先を急ぎながら、幽々子は奇妙な違和感を感じていた。
 それは八雲紫という人物を最も古くから知る幽々子だから感じ取ることが出来た、微妙な違和感。
「それにしても、ずいぶんな小物を引き受けてしまったわね」
 まとまらぬ考えを頭の片隅に置き、幽々子は改めて眼前の敵に視線を向ける。
 髑髏そのものの体躯に大きな外套。手には豪奢な杖を持ち、頭には権力を誇示する冠が乗せられている。
 彼を指して、アリスは不死者の王と呼んでいた。
 確かにその姿は王を語るにふさわしいかも知れない。しかし幽々子からすればそれは裸の王様よりも滑稽な称号でしかない。
「ふん、いい気になるのも今のうちだ。我が強大な魔力を味わいながら朽ち果てるがいい」
 台詞回しも陳腐で美しくない。幽々子としては、できれば先程の蝿の王のようなやりがいのある何かと一戦を交えたかったところだ。だが贅沢は言っていられない。事の真意とその裏を探るためにも、単独行動をする口実をどうしても探さなければならなかったのだから。
「それで、貴方は一体何が出来るのかしら?」
「お前を一撃で葬るぐらい造作もない」
「そう、じゃあそれを見せていただける?」
「よかろう。そして後悔するがいい」
 不死者の王が骨だけの口を歪ませながら杖を構えると、その先端に確かな殺意を持った力が集まりはじめる。白く輝く殺意の固まりは大きく膨れ上がり、そして幽々子の身体を蹂躙すべく解き放たれた。
 それは彼が自慢するとおりの破壊力だった。幽々子の身体は一瞬にして右半身が消し飛び、顔の半分は跡形もなく消え去った。
 だが、それだけだった。
「私をどうするつもりだったのかしら?」
「……貴様も不死なるものか」
「ええそうよ。ただし貴方のようなまがい物ではなくてね」
 くすりと余裕の笑みを浮かべながら、幽々子は半分残った口元を左手の扇子でそっと隠す。
 残った己の半身を幾多の蝶へと転じながら。
「確かに貴方の一撃は強力だわ。でもそれだけ。それだけではこの幻想郷では勝てない」
 蝶はゆったりとした速度で飛びながら、王と名乗った哀れな躯の周りを取り囲む。夢幻の如き光景が、醜怪な不死者の姿を覆い隠してゆく。
「貴方達は相手を確実に葬るためにスペルカードを拒否した。でもそれは大きな間違い。私に勝つためには、スペルカード以外にはありえない」
 様々な色をしていた蝶の羽が、まるで墨を落とされたかのように黒く染まってゆく。漆黒の羽を羽ばたかせ、それでも尚優雅に飛び回りながら、蝶はゆっくりと王に迫る。
「な、なんだこれは……ええいうっとおしい!」
「スペルカードは心の勝負。相手の心を折り、自身の強い意志でその信念を打ち破ることがが勝利の条件。そして貴方達には、その心がない。それでは勝てるわけがない」
 一匹の蝶が淡い光と共にその身を転じる。無傷の、衣服の一つも乱れていない西行寺幽々子の姿へと。
「思った通りね。貴方は不死ではない。自分のか弱い魂を守るために、多くの魂を寄せ集めて覆い隠しているだけ。その魂を全て引き剥がしたらどうなるのかしら」
「き、貴様は一体何者なのだ! 何故その様なことが出来る!!」
 漆黒の蝶が哀れな王に群がる。つなぎ止められた魂を解放し、安らかな死を与えるために。
「私は西行寺幽々子。天衣無縫の亡霊よ」
 先程と同じように、幽々子は口元を扇子で隠しながらころころと微笑む。
 王の姿はもう、黒い蝶の固まりにしか見えなかった。
「魂の花遊びってところかしら? 何を占おうかしらね。今晩の夕食がいいかしら?」
「ぐおぉぉぉぉぉぉぉぉ! やめろ! 散れ! 離れろぉぉぉぉ!!」
 蠢く黒い固まりになった王の悲鳴を聞きながら、幽々子は先程のまとまらなかった考えに思考を戻し、そして一つの結論を導き出す。
「……確かめてみるのも一興ね。面白くなってきたわ」



 薄く目を開いて、はじめに見えたのは不思議な幾何学模様。足下も上空も前も、確認できないがおそらく後ろも、その模様は余すところ無く広がっている。
 それはまるで、万華鏡の中心に立っているかのような光景だった。
「ここどこ…………っ!?」
 意識をはっきりさせようと身を捩るも、腕はぴくりとも動かない。そしてその動かない腕の先は、真っ黒な何かに包まれているように見える。
「おはよう、美希。気分はどうかしら」
 自身の腕を飲み込んでいるような黒い何かが現れ、中から一人の女性が顔を出す。緩く波打つ金髪を揺らし、なにやら奇妙な紋様がついた衣服を身に纏い、柔和な笑みをこちらに向ける美しい女性。
「貴女は……紫さん……」
「あら、私のことを覚えていてくれたのね。うれしいわ」
 八雲紫。境界とスキマを操る妖怪で、霊夢曰く『胡散臭くて信用ならない、最も頼りになる妖怪』。
 彼女は自分がこの幻想郷に留まれるように尽力してくれた女性で、命の恩人の一人と言っても過言ではない存在だ。如何に久方ぶりの再会とはいえ、忘れられるはずがない。
「ここはどこですか? 霊夢さんは?」
「霊夢ならこちらに向かってるわ。それより、私は貴女に良い話を持ってきたのよ」
 彼女の柔和な笑みに神経がざわめく。鈍りきった本能が警鐘を鳴らす。信じるな、警戒しろと、今更のように。
「そう怖い顔をしないで頂戴。貴女を元の世界に戻してあげようと思って、やってきたのだから」
「元の世界……?」
 彼女の言う元の世界とは、おそらく美希がこの幻想郷に迷い込む前まで過ごしてきた外の世界のことだろう。しかしその場所にはひとつとして良い思い出がない。何より今の美希には帰る場所も暮らす家もないのだ。戻ったところで野垂れ死ぬのが関の山。それが良い話とは到底思えない。
「そうよ。それもただ戻すだけじゃないわ。貴女が普通の生活を送れるようにしてあげる。父と母を連れ戻して、そう贅沢ではないけど綺麗な家も作ってあげる。慎ましやかに暮らすだけなら十分なお金を定期的に与えてあげるし、困ったことがあれば私がいつでも手助けをしてあげるわ。悪い話じゃないでしょう?」
 それはまるで、自分の夢を覗かれたような言葉だった。
 ほんの数刻、目覚める直前まで、美希はそんな夢を見ていた。そこには美希ではなく貴美としての生活があり、日常があり、幸せがあった。幾ら望んでも手に入らなかったものの全てが、その夢の中には備わっていた。
 そして夢の中で、美希はそれを強く欲していた。
「外の……世界……」
「そう。もう妖怪に怯えなくてもいい。朝の冷たい水で手を切るようなことも、雪かきでしもやけを作ることもない。竈に火を入れるのに顔を煤だらけにする必要もない。外の世界ではもうすぐ新学期だわ。貴女が通う学校も用意してあげる。試験は受かったことにしておけばいい。最初はつらいかも知れないけど、貴女は器量が良いからすぐについていけるようになるでしょう」
 新しい学校での、新しい生活。そこには何が待っているのだろう。辛い過去しかない美希には想像もできないぐらい楽しい日々に違いない。
 おそらく紫には、それを現実のものにするだけの力があるのだろう。そして彼女に任せていれば、自分は悩みも苦しみもない人生を送れるに違いない。
 だが、何故そんなことを今更、しかも何か恩があるわけでもない自分に持ちかけてきたのだろう。
「どうして、そんなことを……?」
「外の世界に干渉するためには、強い力が必要なのよ。そのために貴女を大分待たせることになってしまったわ。そして貴女はもともと外の世界の存在。在るべき場所に帰るのが摂理というものよ」
「はじめからそのつもりだったんですか……?」
「半分はずれで、半分正解ね」
 不意に背を向け、紫は口元を扇子で隠す。一瞬だけ見えた彼女の瞳には、ほんの僅かな憂いの光があった。
「此の世界は貴女が思っているような楽園ではないわ。ここは忘却の彼方にある閉じた世界。現実や常識の荒波に押し流され、行き場を失った者が流れ着く小さな孤島なのよ。今の貴女には、ここはとても満ち足りた世界に見えるかも知れない。でも何れ貴女は気が付く。此の世界の狭さと、飛び立つことの出来ない苦痛に。そして、そうなってからでは貴女を救うことは出来ないのよ」
 淡々とした口調の中に、僅か憂いの声色が混じる。霊夢の言葉を信じるならば、これもまた彼女の芝居と考えるのが妥当だろう。
 だが、美希にはどうしても彼女が嘘を付いているようには思えなかった。
「どうして、私のために……」
 それは、此の世界で何度となく口にした言葉。見ず知らずの自分のために動いてくれた、多くの者に対して投げかけた疑問。
 ある者は自身のためでもあると言い、ある者はこれから先の未来に期待してのことだと笑った。しかし、紫が出した提案はそのどちらでもないように思える。
 彼女の提案を飲めば、美希は貴島貴美となり、この幻想の世界から消えてしまうのだから。
「少し、昔話をしてあげるわ。幽々子も知らない古い古い話を」
 彼女は背中を向けたまま淡々と語った。
 己の罪を自白するように。



 それは私がまだ八雲紫という名前を得る前のこと。
 とてもとても昔、この国がまだ国として形をなしていなかった頃の話。
 人々はそんな昔から、世のあれこれを分ける境界と、その間に漠然と存在するどちらでもない空間に畏怖を抱いていた。
 たとえば、朝と夜の間。
 たとえば、海と空の間。
 たとえば、戸口の隙間。
 たとえば、地面に開いた小さな隙間。
 そこにはきっと何かが居て、油断をすると自分を引きずり込んでしまう。そして跡形もなく喰われてしまう。
 そんな漠然とした恐怖が、私を形作っていった。
 だから私は私という個がなかった代わりに、どこにでもある存在になった。
 でも、その頃の私はそこから見ているだけしかできなかった。伸ばす腕も掴む手も無く、歩む足も語る口もなかった。だから世の全てを私は隙間からじっと見つめ続けた。
 その頃の世界はまだ混沌としていて、この幻想郷の暮らしが近代的に見えるぐらい原始的だったわ。
 自然に翻弄され続け、人々は祈ることしか出来ず、その日喰うものですら怪しい日々。
 男は働き手として歓迎され、女は余裕のあるときは命をつなぐ袋として、余裕の無いときは欲望のはけ口に使う穴として扱われた。
 それは悪ではなく、その世界で人が生きるために必要な選択だったの。
 そして、そんな世界で、私は一人の少女と出会った。
 少女の役目は穴だった。言葉も満足に話せなかった彼女は、いつも暗い小さな、小屋と呼ぶのすらためらわれるようなところに閉じこめられていた。
 食事は家畜の方がまだ上等に思われるような粥が一日一杯だけ。それすら貰えない日も珍しくなかった。
 布団はなく、片隅に投げ捨てられた藁に身を横たえて眠るだけ。
 衣服はぼろぼろで、穴の開いた布を紐で縛っただけの、とりあえず身を覆うだけの何かでしかなかった。
 そんな彼女が、私の存在に気が付いた初めての人間だったわ。
 彼女は小屋に誰も居なくなると、決まって私に話しかけてきた。片言の言葉で、外の世界には何があるのか、どんな幸せな光景があるのかと。
 初め私はそれを煩わしく思っていたわ。
 でも、私を認識する唯一の存在であると気が付いてからは、私はその少女に興味を持つようになった。
 そして少女の問いに答える口を持たなかった私は、私を通して私が見ることのできる世界を見せてあげることにした。
 これが、私が初めて得た能力。
 少女は見たこともない新しい光景に驚き、喜び、そして感謝した。そうして私は、人間が様々な感情を持ち、感謝という言葉と感情を持っていることを学んだ。
 それ以外にも、私は彼女から様々なものを学ぶことができたわ。
 それが、私が彼女から得たもの。
 でも、幸せは長く続かなかった。
 彼女は腹に子を宿してしまったの。
 衛生状態も栄養状態も良くないまま、彼女は自覚することなく魂無き命の器に自身の糧を吸い取られていった。
 そうして彼女は誰に助けられることもなく、息を引き取ったわ。
 いえ、捨てられたと言うべきかしら。
 今際の際まで彼女は穴として働かされ、息をするだけの力も失って、虚ろな瞳で私を見つめたまま息絶えたの。
 力無い笑顔を浮かべたままで。
 唇だけで、感謝の言葉を述べながら。
 そして私は、初めて怒りの感情を覚えた。
 親しくしていた者を殺された怒り。救う手を持たなかった己への憤り。そして失った悲しみ。
 その全てが私の心を引き裂き、感情の渦となって飲み込んでいったわ。
 でも私には躯が無かった。憤りを伝える口も、怒りを奮う腕も、追い立て回す足もなかった。
 だから私は、彼女の中に宿っていた命の器を使うことにした。
 やってみれば意外と簡単だったわ。
 私は彼女の中で目覚め、彼女の亡骸を喰らって私という存在を形作った。そしてまず彼女を慰みものにしていた男達を喰らい、彼女を見捨てた女達を喰らった。それから彼女に石を投げた子供達と、彼女を見て見ぬ振りしつづけた子供達を喰らった。それから、それらを管理する者達を喰らい、それらに忠言しなかった者を喰らった。
 そうして、一晩の内に村はそっくり消え去ったわ。
 それが私の、初めての食事。
 でも、私は満たされることが無かった。
 彼女を永遠に失ってしまったから。
 そして私は虚しい思いのままに後ろ暗い者達を喰い続け、長い時の中で怒りと彼女の存在を忘れていった。
 やがて私は大きな力を得るようになり、生と死の境界を越えられるようになった頃、私を形作った命の器に宿るはずだった魂の存在を知った。
 その魂は私が初めて喰った村の罪を背負っていたわ。
 輪廻を繰り返しながら私が犯した罪を洗い続けるその魂を、私は長い時をかけて追い続けた。
 その間に友ができ、その友のために、多くの妖怪達のために、この幻想郷が生まれた。
 そして私は、この幻想郷で貴女に出会った。
 私の犯した罪を背負って、人の姿で現れた貴女に。



 日が沈み、辺りは暗やみに包まれていた。煩いほどの星の瞬きも、今日は厚い雲に覆われて見当たらない。
 そんな真っ暗闇の中、鈴仙は美鈴と共に先を急ぐ。
 二人はそれほど飛翔速度が速いわけではなく、時間や空間に作用する特殊な力も持たないため、霊夢達との距離は一向に縮まらない。
「美鈴さん、気が付いてます?」
「うん。二つともね。そしてたぶんこのまま追いかけても、私達は霊夢に追いつかない」
 ちらりと彼女に視線を送り、鈴仙はごく僅かに頷く。そして振り向きざまに無数の弾丸を背後の暗闇に向けて放った。
「ギシャァ!!」
 気味の悪い叫びと共に、妖魔が数匹墜落してゆく。
 鈴仙が訪ねた二つとは、空間の歪みによって幻想郷全体の距離感覚がおかしくなっていることと、自分達を付け狙う無数の姿無き妖魔の存在。
「四十、五十……ってとこ?」
「正確には五十七体です。ちなみにさっき撃墜した六匹は抜いてあります」
「そっか、じゃあ私の番だ」
 そう言って美鈴は鈴仙の横に立ち、構えた手の中に気の固まりを練り上げてゆく。一方の妖魔達は自身を看破されたことに驚き、慌てて攻撃動作に移ろうとしていた。
 一部の妖魔は大きく口を開き、燃え盛る火球をこちらに向けて吐き出そうとしている。別の妖魔は鋭い鉤爪を振りかざし、こちらに向かって飛びかかってきている。
 しかし、そのどれもが遅い。

 星気「星脈地転弾」

 美鈴の放った気は虹色に輝きながら、火を吐きかけようとしていた数匹の妖魔と、飛びかかってきていた妖魔の一匹を飲み込んで跡形もなく消し飛ばした。
 飛び導具は苦手だと言う割には、その威力は凄まじいものがある。
「うーん、四匹だけか。こりゃ咲夜さんに怒られちゃうなあ」
「まあこのまま連れ歩くわけにもいきませんし、しっかり始末していきましょうよ」
 五十三匹の妖魔が、慌ててこちらを取り囲むように動き始める。上下左右に一気に散開し、隙あらば襲いかかるつもりらしい。
 恐らく彼らは姿の見えぬ自身の特性を生かし、更に暗闇を利用してこちらの不意を突き、反撃をする間もなく倒すつもりだったのだろう。
 だが残念ながら自身にも美鈴にも、そんな目くらましは通用しない。
 鈴仙は波長を操り、視ることができる。ほんの僅かでも熱か質量があれば知覚するには十分だし、僅かな空気の揺らぎやこちらに向けられた感情の波からも察知することが出来る。
 対して美鈴は気を操る。殺気や雰囲気などを読み取れば姿などは関係なく、自身の気をレーダーの様にして周囲を知覚することも出来る。
 つまり彼らは、最初から挑む相手を間違えていたのである。
「ねえ美鈴さん。美希ちゃんのこと、どう思います?」
「良い子だね。真っ直ぐで綺麗な心を持ってる。あの乱暴巫女にはもったいないぐらいかも」
「そうですか? 私はお似合いだと思いますよ?」
 くすりと小さく笑いながら、美鈴と背中合わせになって油断無く構える。これから先は、今までのような不意打ちは通じないだろう。一匹づつ確実に仕留め、禍根を残さぬようにしなければならない。
「あはは。どっちでもいいけど、これであの巫女が少しは丸くなるといいね。それから」
「二人とも幸せになれば。ですよね?」
「そういうこと」
 今度は二人同時に笑いあう。
 本音を言えば、鈴仙は何もかもをかなぐり捨てて美希の元へと飛んで行きたかった。
 重力波を操り、その方向を西側へ向けて加速度を得ながら弾丸のような速度で飛翔する。彼女にはそれが可能であり、そうすることで誰よりも早く飛ぶことができる。しかし闇雲に西側へ飛んで会えるという保証はなく、本当に八雲紫が首謀者であるならば、自身の力ではかなわない。
 何より、彼女を助けるその役目は、霊夢が果たすべきなのだ。
「美希はきっと大丈夫だから、私達も頑張ろう」
 美鈴の手が自身の手のひらに触れる。考えを見透かされたようでやや恥ずかしく、同時に触れた手の暖かみが心地良い。
 美鈴が言うなら、きっと大丈夫。
 鈴仙はそう強く心に言い聞かせながら、彼女の手をそっと握った。
「美鈴さん、競争しましょう。どっちが多く倒せるか」
「いいよ。何賭ける?」
「次のデートで、勝った方は負けた方の手作りお菓子を食べられる。どうですか?」
「のった。美味しいの期待してるからね」
「ふふ、それはこっちの台詞ですよ」
 後ろ手に重ねた手を軽く叩きあって、二人は同時に妖魔の群へと飛び込んでゆく。
 それぞれの無事と、明日の平穏を強く信じて。



「じゃあ、私が外で不幸だったのは、紫さんのせいだったってことですか……?」
「ええ。私は貴女にどれだけ罵られても、蔑まれても足りないぐらいよ。そしてだからこそ、貴女のために力を使いたいの」
 にわかには信じ難い話だった。目の前の女性が犯した罪によって自分は長い間苦しめられ、一家は不幸な道をたどることになったと言う。
 彼女の表情は嘘を付いているように見えず、それが芝居だったとしても、そんなことを語る理由が解らない。
 それに疑問も残る。何故自分は拘束されなければならないのか。何故神社で説明を受けてからではいけなかったのか。
「霊夢さんは、このことを知っているんですか?」
「いいえ、知らないわ。貴女を現実世界に返すには、ここで受けた様々な非常識を一つ一つ打ち消さなければならない。そして最後には、ここでの記憶も」
「全て、無かったことになるんですね……」
「そうしなければ、結界の意味がなくなってしまうのよ」
 紫は沈痛な面持ちでこちらに振り返った。
 記憶が消える。それはここでの出会いの全てを失うことに他ならない。
 もちろん、霊夢との出会いも。
「私が嫌だと言ったら……どうするつもりなんですか?」
「無理矢理にでも送り出すわ。時間はかかるけれど、それが貴女の為でもあるのよ」
 恐らく彼女は、遙か先の未来を見据えて語っているのだろう。そして美希が拒むことを予見して、霊夢に話さず、且つ身体を拘束しているのだろう。
 魂が迷わぬように、罪にまみれぬように。その為に非難も嘲笑も全てを引き受ける。彼女はそういう顔をしていた。
 だが、美希はどうしても忘れたくなかった。
 この世界で得た、幾つもの大切なものを。
「私、絶対負けません。記憶も消されないし、元の世界にも帰らない。私はここで暮らします」
「そう言うと思ったわ。でも、貴女が意地を張れば張っただけ霊夢が危険な目に遭うとしたら?」
 紫の言葉で、美希はようやく気がついた。
 彼女は霊夢を呼び出すために自分を連れ去ったのではない。自分の心を折るために、霊夢の元から引き離したのだ。
「卑怯だと思うなら思えばいいわ。でも貴女がこの先受けるかも知れない苦しみは、これより辛いものかもしれないのよ?」
 様々な葛藤が渦巻き、美希は俯いたまま押し黙ってしまった。
 霊夢の元は離れたくない。彼女の傍で暮らし、共に過ごしたいと強く想う。しかしそのせいで彼女に危険が及ぶとしたら。己の苦しみ悶える姿を見せることになるのだとしたら。
 閉じこめられた魂がどうなるのか、美希には解らなかった。霊夢の話では外の世界から来た人間は次第に無気力になってゆく者が多いと聞く。それが魂の苦しみという事なのだろうか。それとももっと辛い何かが待ち受けているのか。
 考えれば考えるほど、美希の思考は複雑に絡まってしまう。
「暫くそこで考えると良いわ。まだ少し時間はあるもの」
 どこからともなく鳥かごのような檻が現れ、美希をしっかりと閉じこめる。手足の拘束は外され、身体は冷たい鉄の板によって受け止められた。
 鉄格子の向こうで紫は静かに佇み、それから踵を返して背を向ける。
 今度は、全くの無表情で。
「少しの間一人にしてあげる。良い返事を期待しているわ」



 霊夢達の元に、あの門番はたどり着いていなかった。見かけなかったかというレミリアの問いに、霊夢を含めた全員が首を横に振る。もともとサボリ癖のある奴だったので、どこかへふらふらと行ってしまったのだろうか。
「まったく、どこをほっつき歩いてるのかしら」
「まあまあ。この有事に彼女がさぼってどこかへ行くとは思えないわ。きっと何か別の戦いをしているのよ」
 吐き捨てるように呟いた自身の言葉に返答したのは、咲夜ではなく人形遣いだった。
 外の者故甘さが出ているのだろうが、主の命を破るようでは使用人失格。紅魔館には紅魔館のルールがある。異変が解決したらそれは身をもって解らせなければならないだろう。
「使用人の管理もままならないなんて、大変ねえ」
「お宅のペットも一緒ですのよ? しつけはお済みなのかしら」
 嫌みのつもりで言ってきたであろう言葉に即座に切り返すと、竹林の田舎姫は苛立ちを露わにしながらこちらを睨んできた。田舎者というのは余裕がなくていけないと思う。
 しかし人形遣いの言い分は尤もだ。この大事にサボるような人材を雇った覚えはないし、何より咲夜がそれを許さないだろう。
「時間と空間が歪められているのだから、私達は紫の元で交わるかも知れないわね」
 傍らから聞こえてきた声に思わず振り返る。視線の先にいたのは妹であるフランドール=スカーレット。しかし、声音は明らかに彼女のものではない。
「誰?」
「旧友の声を忘れるなんて酷いじゃない。それとも、長く生きすぎてぼけたのかしら?」
 館を出る際、フランは一応の用心にと外套を身に纏っていた。その影からひょっこりと顔を出したのは、レミリアの旧友であるパチュリー=ノーレッジ。
 に、そっくりなぬいぐるみである。
「パチュリー? 館の守りはどうしたの?」
「現在進行形よ。と言っても粗方は小悪魔が処理しているけどね。むしろ貴女達が心配で、こうして外から眺めさせて貰っているのよ」
 どうやら人形は遠隔稼働しているらしく、外套のフードにその身をおちつけ、フランの背に座り込むようにして話を続けている。
「此の幻想郷はもともと空間の位置関係があやふやなのだけど、紫はそれを更に曖昧なものにしたみたいね。おかげで今の幻想郷は点と点を結ぶ線の集合体のようになってしまっているわ」
「どういうことなんだ? もう少し解りやすく説明してくれよ」
 レミリアが訪ねようとするよりも早く、黒白の魔女が同じ質問を投げかける。
「紫と自分達をただの点だと思って頂戴。そして彼女の元へたどり着こうと進む道が、自分達と紫を結ぶ線。もし別の誰かが違う場所から紫の元へ向かおうとすると、別の点と別の線が現れる。線が交わらなければ両者が出会うことはない」
「ということは、私達を目指して飛んでいる誰かは私達の元へたどり着くだろうけど、紫目指して飛んでいる連中とは、紫の前でしか会えないってこと?」
「ご明察。流石七色の人形遣いね」
 レミリアには、パチュリーの言っていることが朧気にしか理解できなかった。一つだけはっきりしたのは、あのスキマ妖怪はずいぶんと大がかりで面倒くさいことをやっているのだと言うことぐらい。
 しかし、それが彼女の本気を指しているとは思えない。
「理由も状況もどうだっていいわ」
 ぽつりと呟いた巫女の一言に、全員の視線が注目する。彼女は振り向きもせずに、光の射す方向へ真っ直ぐ飛んだままで言葉を紡ぐ。
「私は美希を取り返して、攫った奴に灸を据える。それだけよ。でも、どういう形であれ協力してくれてるみんなには感謝してる。ありがとう」
 彼女のそんな素直な一言を、レミリアは一度たりとも聞いたことはなかった。これもまた、美希という少女の影響なのだろうか。
「それにしても意外ね。輝夜もレミリアも、みんな館から出てこないと思っていたのに」
「私は永琳と鈴仙にせかされてきただけよ。本当はどうでも良かったんだから」
 解りやすい嘘に、アリスと咲夜が苦笑を漏らす。この姫君もまた、彼女の影響を受けた一人なのだろう。
 そしてそれは自分も同じ。
「私は霊夢の事が心配なだけよ。それに、あの子はまだうちの使用人として籍を置いているからね」
 嘘は言わず、代わりに真実を包み隠す。
 言ったことは本当だ。霊夢の事は心配だったし、あの外来人が攫われたことでショックを受けているのではないかと気になった。その美希が紅魔館に籍を置いているのも事実であり、使用人の危機なら主が助けるのも理由の一つ足りうる。
 しかし、本当の理由は別。
 レミリアの自室には、今背の高いグラスが一つ置かれている。中身は飲み物でも血でもなく、三本の細工飴。
 それは彼女が今一度紅魔館に戻ってくるという約束の証であり、自身と妹の距離を縮めてくれた彼女への感謝の現れでもあった。
 何れ美希は紅魔館を訪れる。そして彼女と自身と、傍にいるフランを交えた三人で小さな茶会を開くのだ。
 その時に出される菓子は、グラスの中の細工飴。
「お姉さま」
 不意に声をかけられ、レミリアはフランを見つめる。屈託のない彼女の笑顔が眩しく、自身の心を見透かしているようで恥ずかしい。
「何?」
「ありがとう。えへへ」
 レミリアはもう、フランの顔をまともに見ることができなかった。視線を光の指し示す先へと向け、強く翼をはためかせる。
 その時、不意に眼前の山が動いたような気がした。
「お姉さま、あれ私が貰ってもいい?」
 傍らのフランが小さな声で訪ねてくる。どうやら彼女もその存在に気が付いたらしい。
「かまわないけれど、遅れてしまうわよ?」
「平気。だって美希は霊夢が連れてきてくれるもの」
 満面の笑顔で、フランは身じろぎするかのように動いた山に向き直る。
 巨大な山は、人の姿をしてこちらを睨んでいた。
「じゃあフラン、後はお願いね」
「私もいるから安心してちょうだい」
 パチュリーが答えた頃に、他の連中はようやくその異変に気が付いたらしい。紅魔館よりも遙かに巨大なその固まりは、赤黒い光を放つ目でこちらを睨みつけていた。
「おい、あれをあんな小さな子に相手させるのか!?」
「小さな子? 我々吸血鬼を甘く見ない事ね、竹林の焼鳥屋さん」
 くってかかってきた焼鳥屋を一笑し、レミリアはフランの背中を見つめる。
 彼女の右手には、既に破壊の力が宿っていた。
「フラン、闇雲に攻撃してもあいつは再生してしまうわ。破壊の目をしっかり探し出しなさい」
「わかってる。だから一回バラバラにするの。それにさ、久しぶりの外なんだから思いっきり遊ばせてよ」
 彼女の言葉が小さく胸に刺さる。だが、フランは今とても嬉しそうだった。それは暴れられるからではない。誰かのために、力を使うことができるから。
「せーの……どっかーん!!」
 赤く巨大な光が彼女の右手から放たれ、人型の山に叩き込まれる。
 刹那、大気が震えた。
「な………………」
「言ったでしょう? 甘く見るなって」
 大地と大気を揺るがす巨大な衝撃を伴い、山は粉々に吹き飛んだ。散らばった破片が集まり始めているため、すぐに再生をしてしまうだろうが、彼女一人でも何ら問題は無さそうに見える。
「土くれで作ったゴーレムはやっかいね。早く命令を出してる奴を捜し出さないと」
「じゃあ二人とも、後のことはお願いね」
「お姉さまこそ、みんなをよろしくね! 咲夜も!」
 戦いの場とは思えぬほどの朗らかな表情と身振りに、レミリアは思わず苦笑する。
 いろいろと面倒そうな相手ではあったが、彼女たちなら問題ないだろう。
「咲夜、時間と空間を操って紫の元まで急げる?」
「申し訳ありません。先程から試しているのですが、八雲紫を絡めた時間操作には何がしかのロックがかけられているようです」
「そう、なら先を急ぎましょう。吸血鬼を敵に回したこと、後悔させてあげなくちゃ」
 力強く一つ羽ばたき、レミリアは霊夢に並んで光の射す方へ向かって飛ぶ。
 紅魔館に住む者はメイドを含めて家族そのもの。その家族に手をかけたことを骨の髄まで思い知らせてやろう。
 レミリアはそう堅く心に誓い、小さくほくそ笑む。
 闇は深まり辺りは漆黒。吸血鬼の時間はこれからだった。



 夜よりも尚深い闇の中。前後左右どころか上下すらあやふやな世界で、八雲紫は静かに佇んでいた。
 彼女の頭の中には幾つもの場面が再生されており、それら全てを、彼女は同時に監視し続けていた。
「ずいぶんと忙しそうね」
 そんな暗闇に一匹の蝶が迷い込む。蝶は紫の傍に降り立ち、淡い光と共に人の姿へと転じる。
「そろそろ来る頃だと思っていたわ。お茶も出せなくてすまないわね」
 一つも悪びれた素振りを見せず、紫は突然の来訪者に答える。
 名乗らずとも声で、聞こえずとも花の香で、嗅げずとも魂が、お互いを認識させる。彼女たちはそんな関係だった。
「お構いなく」
「……止めないのね。貴女のための楽園が、壊れるかも知れないのに」
「貴女は自分で作ったおもちゃを自分で壊すような愚か者ではないでしょう?」
 見えずとも認識できる、彼女の微笑。それにつられて紫もまた小さく笑う。
 変容を見つめる目がせわしなく動く中で、彼女の心は不思議なほど穏やかになっていった。
「貴女はまた、全てを飲み込むつもりなのね」
 穏やかな言葉が胸に響く。
 全てを見透かす目を持つのは己だけではないのだと、そっと囁かれたような気がした。
「それが私に課せられた代償だから」
 小さなため息。そして微笑。
 いや、自嘲。
 八雲紫は己の愚かさを理解していた。理解していたからこそ、彼女は己を責めようとしないのだ。
「彼女たちは、強いわよ」
「そうね。強くなってくれたわ。そして優しくも」
 箱庭に住む娘達を見守る、自分勝手で怠惰な母。それが八雲紫の役割。
 だからだろうか。彼女の放った言葉は、深い慈愛に満ちあふれていた。
「紫」
 不意に名を呼ばれ、彼女は両の眼を静かに開く。
 そして眼前に佇む、古い古い友人を静かに見つめる。
「約束してあげる。この先何があっても、貴女と私は最も古い友人のままよ」
 その言葉を最後に、彼女は蝶へと転じて姿を消す。
 古く優しい友人の、暖かい言葉。
 その言葉が、紫の胸を痛めて止まなかった。



 幻想郷の各地で起こる戦い。その中でも妖怪達の住む山での戦いは熾烈を極めた。炎を吐く獣、雷を放つ妖魔、呪いをかける悪魔などが大挙して押し寄せ、山の全てを破壊し尽くそうとしていた。
 しかし妖怪達もやられてばかりではない。豊穣を司る姉妹神は色づいた葉を嵐のように巻き上げて妖魔達の目を眩ませ、河童はその身を光学迷彩で隠しながら、近代兵器を用いて獣を撃退する。呪いや病の類は厄神がその全てを川へ流して無効化し、天狗達は自慢の風であらゆる敵を切り裂いてゆく。
 天狗達の中で特に目を見張る働きをしていたのは、白狼天狗の犬走り椛と幻想郷最速の娘である射命丸文だった。

 棋譜「椛色の高矢倉」

 「幻想風靡」

 紅い弾幕が椛の構えた盾から放たれ、その隙を埋めるように文が縦横無尽に敵陣を駆け巡る。それは互いの死角を補った、完璧な布陣。
 彼女たちの間に、打ち合わせなどは必要なかった。相談も、決め事もいらない。ただただ、相手を信じて力を奮う。たったそれだけで全てがうまくいっていた。
 そして、そうなるまでに至れたのは、あの儚げな外来人のおかげに他ならない。
 本当ならば、文は最速の力で一気に彼女の元へ迫りたかった。あのスキマ妖怪にかなわずとも、彼女を攫って逃げるぐらいのことはできるはずだ。しかし、文はそれをじっと堪えて山での戦いに集中していた。
 そして、同じく堪え続けている者がもう一人。

 秘術「グレイソーマタージ」

 東風谷早苗もまた、逸る気持ちを押さえ込み、怒りを力に変えて戦い続けていた。
「早苗、ここは皆に任せて紫の元へ……」
「そうよ。ここは私達だけでも十分」
 彼女の心の内を汲み取った神奈子の声。その声を遮る声が頭上から響いてくる。
「私に内緒でお祭りをしてるなんて、ちょっと冷たいんじゃない」
「総領娘さま、これは歴とした戦争です」
 山の遙か頂に住む天人とその遣い。早苗はその存在を噂でしか聞いていなかった。そして彼女たちの力の程も。
「なんでもいいわ。良い機会だから私の持つ天地開闢の力、思い知らせてあげる!」

 要石「天地開闢プレス」

 山ほどもあろうかという要石。それが妖魔達の頭上を襲う。それによって数え切れぬほどの異形が叩き潰され、吹き飛ばされた。しかし彼らも黙ってやられるばかりではない。難を逃れた多くの者が新たな敵めがけて炎や雷を吐きかけてくる。
「総領娘様、お下がりを」
 長い衣を身に纏った長身の娘が、天人の前に立ちはだかる。そして袖に巻き付けた衣をくるりとひと回ししてみせる。
 それは優雅な舞いの如き一挙動。たったそれだけの事で、身を焼き付くさんばかりの業火も、大木を引き裂くほどの巨大な雷も、雲散霧消してしまっていた。
「天人ばかりに良いところは見せられないねえ。鬼と八咫烏の力も見せつけてやらなきゃ」
「ちょっとちょっと! あたいのことも忘れないでおくれよ勇義! お空、角度修正下方二度左三度!」
 今度の声は下方から響いてくる。声の主は一角の大柄な鬼と地獄に住む火炎猫。そしてそのすぐ傍には、二柱の神が力を授けた八咫烏も。
「了解! でかいのぶっぱなしてやる! みんな避けた方がいいよ!!」
 前線で戦っていた者が慌てて射線を開く。如何に妖怪と言えど、核の炎に巻き込まれてはひとたまりもない。そしてそれは、異形の者共も同じ。

 爆符「ギガフレア」

 圧倒的な熱量を帯びた巨大な火球。それが一瞬にして敵陣を焼き付くす。運悪く斜線に居た者と、愚かにもそれを止めてやろうと立ちはだかった者は、消し炭の一つも残らず消えていった。
「早苗、どうやら私達は霊夢の元へ駆けつけても良いみたいだぞ」
 頼もしい加勢と促すような言葉に、早苗は僅か首を縦に振りかける。
 だが、彼女はその首を迷いを振り払うかのように強くはっきりと横に振った。
「いいえ、神奈子様。私は追いかけませんよ」
「早苗……」
「これは幻想郷に仕掛けられた戦争です。戦争に勝利するためには、それぞれがそれぞれの役割をきっちりこなす必要があると思います。彼女を救う者、その手助けをする者、そして彼女たちが迷い無く飛び続けられるようにする者。私の役目は三番目です」
 己に強く言い聞かせるように、早苗は敵の軍勢を見据えながらはっきりと言い放つ。
 確かに神奈子の言うとおり、今この場に自分は必要ないだろう。天人は緋想の剣で敵を薙ぎ払い続けており、彼女の付き人らしき人物は無数の雷撃で迫る妖魔を確実に打ち落としている。地獄鴉は火炎猫の的確な指示で、味方を巻き込むことなく効率よく敵陣を焼き払っており、妖怪の陣営は確実に優勢に回っていた。
 そして、まだその力を見せていない鬼と火炎猫の二名が、今力を奮っている彼女たちに勝るとも劣らない膂力を備えているのは明白だ。
 それでも尚、早苗は追いかけないと言う。
「恐らく、霊夢さんの元にはもっともっとたくさんの力が集まっているはずです。そして彼女は、この幻想郷中に広がった異変の動向を察知しているでしょう。だとすれば私にできることは、彼女が一時たりとも振り返らなくて良いようにするだけ」
「だったら、尚更ここに居ちゃいけないよ」
 いつの間に現れたのだろう。もう一柱の神、洩矢諏訪子が足下から笑いかけてくる。
「ここはもう大丈夫だけど、まだ劣勢のところや守りは良いけど敵を払い切れてないってところがたくさんあるんだ。そこを手助けに行くべきじゃないかな」
「そうだな。あの巫女を真似て異変解決と洒落込むのも悪くない。行けるか? 早苗」
 笑顔と共に訪ねる神々に、早苗もまた笑顔で答える。巫女たる彼女が、神の導きに異論を唱えるはずもない。
「はい。神奈子様と諏訪子様の仰るとおりに!」



 霧雨魔理沙はこれから起こるであろう惨事を予見していた。
(下手すると紅霧異変再来だぞこりゃ……)
 先の異変はレミリアの力によって発生した霧が幻想郷全体を覆い、夏の強い日差しを遮った。今回はそれほど広範囲ではない代わりに、霧はとある愚者の犠牲によって発生する事になるだろう。
 そして、件の愚者は今アリスと輝夜を口説くのに夢中らしい。
「いやはや、しかし会えると約束されていた吸血鬼は残念でしたが、このような美しいレディに出会えるとは、この東の辺境も捨てたものではありませんなあ」
 どうやら彼の人物は自分が犯した過ちにまだ気が付いていないらしい。
 無知とは不幸であると同時に在る意味幸せである。彼は正にその体現者と言えよう。
「残念な吸血鬼ってのは、誰の事かしら?」
「おや、まだ居たのであるか。お前のようなちんちくりんには興味がないのである。見逃してやるからさっさと消えるのである」
 その時、霧雨魔理沙は確かに聞いたという。
 レミリア=スカーレットの堪忍袋の尾が切れるのを。
「……霊夢。ここは私に任せて、貴女達は先に行って貰える?」
「それは願ったり叶ったりだけど……」
 霊夢がちらりと視線を送ったのは、先程から救いの視線をこちらに送っているアリスと、苛立ちの表情を隠し切れていない輝夜。どちらも置いていくことは容易いが、後で恨み節を聞かされるのは避けたいところである。
「仕方ない。ここは一発私の魔法で……」
「おっと、野暮な横やりは勘弁してもらうのである。ローズナイツ! 他の連中はお前達に任せるのである」
「はっ!」
 気色の悪い自称吸血鬼の号令で、全身甲冑に身を包んだ男が四人、こちらに立ちはだかるように現れる。
 彼らはそれぞれ胸に薔薇の印象を刻んでおり、薔薇の装飾をした剣を構えてこちらを睨んでいる。
 悪趣味なことこの上ない。
「やれやれ、気乗りのしない相手ですね」
 恐らく時間と空間を操る能力を使ったのだろう。騎士達は先程より少々後に下がっており、魔理沙達の遙か後方に居たはずの咲夜が、目の前でため息混じりに呟く。
「たかがメイド如きが我らにかなう訳があるまい。早々に立ち去れ」
「たかがメイドかどうか、その空っぽの鉄屑頭に叩き込んで差し上げましょう」
 いつもより低い声に、いつもよりゆったりとした口調。
 間違いない。このメイドもまた怒っている。
 それが主を馬鹿にされたが故か、己を下に見られた為かは解らない。ただ、一つだけ確かなことがある。
 それは愚かな犠牲者が一名から五名に増えたということだ。
「焼鳥屋さん、下がって貰える?」
「へいへい」
 レミリアの声に妹紅が半身ほど後ろに下がる。言葉の意図を理解したのだろう。アリスと輝夜もまた、それぞれ男の前から僅かに身を離した。
 そして。

 ボッ!

 空気を打ち抜いたとでも言うべきだろうか。低く重い衝撃音と共にレミリアの手から放たれた真紅の槍が、男の頭を上半分だけ消し飛ばした。
「咲夜、その気色悪い鉄屑を早々に始末なさい」
「かしこまりました」
 恭しく頭を下げた咲夜の傍で、銀色のナイフが回転を始める。最早魔理沙達がここに留まる理由はなく、止める手段も彼らにはなくなった。
「クハハハハハ! よかろう! 三百余年にわたり君臨し続けてきた偉大なる吸血鬼たる我に楯突いたこと、その身にとくと味合わせてやるのである!」
 男の下顎だけの口が下品な笑いを浮かべ、無いはずの目がレミリアを睨みつける。
 男は精一杯凄んだつもりなのだろう。しかし、かの真祖吸血鬼には全くの無意味だ。
 何せ彼女は、齢五百を数えんとしているのだから。
「さ、私達は先を急ごうぜ。ここはあの二人に任せた方がいい」
「そうね。あまりのんびりもしていられないし」
 男の執拗なプロポーズから逃れられたことで安堵したのだろうか、アリスの表情にはやれやれといった節の部分が見受けられる。
 気が付けば霊夢は既に遙か前方を飛んでおり、こちらをちらりと振り返っている。
 口にこそ出さないが、一番急いているのは間違いない。
「じゃあレミリア、早く追いついてこいよ!」
 こちらを見ることもなく、彼女は気だるそうに手で払いのける仕草をしてみせる。
 今の魔理沙にできることは、早く霊夢に追いつくこと。
 そして、あの男の成仏を願うことの二つだけだった。



 暗い闇の中、はっきりと見えるのは自身を囲む鳥籠のみ。暑くもなく、寒くもなく、風も音もなく、時を刻むのは己の鼓動のみ。
 そんな世界で、美希は床に身体を伏したまま、鉄格子の一本をじっと見つめていた。
 紫の条件を飲めば、それは間違いなく幸せにつながるのだろう。暖かい家庭、平凡な生活、約束された安定。それは誰もが求めて止まない幸せの形である。
 それだけではない。彼女が言ったように、異形の存在に怯えることも、不便な生活を強いられることもない。スイッチ一つで何でもでき、ボタン一つで暑さも寒さも解消される。そんな近代的な生活が待っている。
 だが、それは霊夢との別れをも意味している。
 愛し、求めて止まなかった温もりとの別れを。
 無論、それを求めることがわがままであることは理解していた。
 自分はこの世界にとって必要な存在ではない。居なくなったところでだれも悲しみはしないだろう。僅かな者は懐かしんでくれるかも知れないが、それも数年の話だ。時が解決してくれる。
 対して自分はどうだろう。多くの物語に書かれるとおりならば、ここでの記憶は消し去られ、代わりに新しい家庭の元で新しい記憶を与えられるに違いない。
 都合の良い存在は都合の良い記憶に書き換えられ、人並みで平凡な生活を約束される。その先は人並みに友人もできるだろう。もしかしたら新たな恋をするかも知れない。そして平凡な家庭を作り、約束された幸せの元で人生を終えるのだ。
 何も問題はなく、何か異論を挟む余地がないほどの恵まれた生活。
 だが、そこに霊夢は居ない。
 もし自分がここに残ると言えば、霊夢は苦しめられ、痛めつけられるのだろう。ならば身を引いた方が良いに決まっている。
 しかし、美希にはどうしてもその選択はできなかった。
 そして、己のわがままさ加減に苛立ちすら覚えた。
「私は……どうしたらいいの……」
 答える者はなく、声は虚しく虚空に消える。
 彼女の涙を受け止めるのは、冷たく硬い床だけだった。



(お人好しばかりね……。まあ人のことは言えないけれど)
 霊夢を先頭に飛ぶ四人の後ろ姿を見つめながら、輝夜は小さく心の奥で呟く。
 本来、異変の解決は人間の役目だ。妖怪が起こした異変を人間が解決する。それがこの幻想郷における暗黙のルールであり、妖怪が協力することはあっても、異変解決のために強く力を奮うことはない。そうすることで人と妖怪はバランスを保っているとも言える。
 しかし、今回はそのルールから大きくはずれている。
 無論相手がスペルカードというもう一つの暗黙のルールを破っているため、悠長なことを言っているわけにはいかないのもある。だが、ここに集まった者も、今どこかで戦い続けている者も、敵を打ち倒してこちらを追いかけている者も、誰もが頼まれているわけでもないのに、力を貸している。
 霊夢の為に。
(ううん、違うわね)
 自嘲気味に小さく笑い、ほんの僅かに飛翔速度を速める。
 輝夜ははっきりと自覚していた。今自分が望んでいるのは、あの小さな外来人の救出であると。
 輝夜はもう一度、彼女を我が家に迎えたかった。治療や経過観察などと言った事務的なものではなく、客として、友人として出迎えたかったのだ。
 そして出来れば自分の飼い兎達と、あの口うるさい永琳と共に食卓を囲みたかった。
 それは恋慕と言うほどに大げさではなく、興味と言うには軽すぎ、好意と言うほどはっきりとしない、微妙な感情。そんな小さな何かが、輝夜を強く突き動かしていた。
(こういうのをヤキが回ったって言うのかしらね)
 己を笑い、そしてもう一人、やはりヤキが回っていそうな妹紅を見てまた笑う。
 彼女はあの一夜以来明らかに丸くなった。ばったり出会ってもいきなり襲いかかろうとせず、ルールに則った勝負を申し出るようになった。負ければ素直に降参し、再戦を誓う言葉と共に消えてゆく。己の身体を痛めつけるようなこともせず、近頃は寺子屋で寝泊まりをすることも増えたらしい。
 それは輝夜が長く求め、それでも与えることのできなかった暖かい変化だった。
「おい、なんだありゃ!」
 感傷に耽る輝夜の耳に、突如飛び込んでくる情緒のない声。その声をやや煩わしく思いながら視線を前方へ向けると、そこには奇妙な壁があった。
「面倒なのを作ったわね」
「アリス、あれは何なのだ? 無数の怨嗟に満ちているが……」
「名前なんか無いわよ。強いて言うなれば『レギオン』かしらね」
 妹紅の言うように、その壁は怨念と怨嗟に満ち溢れていた。微妙に蠢く壁の全ては人間かその一部で出来ており、そこかしこにある顔が血の涙を流しながら唸り声を上げている。
「さっきまでこんなの無かったじゃない。これも紫の仕業なの?」
「多分そうでしょうね。そしてこの壁を抜けないと、紫の元へは行けないみたい」
 薄曇りの夜だったが、霊夢の放つ光は真っ直ぐに伸び続けていたはずだ。いくらなんでもこの巨大な壁に気が付かないはずがない。それだけではない。前方から僅かに吹く生暖かい風に混じる、鼻をつまみたくなるような腐臭。幾ら何でもこれほど強く感じるまでこの臭いに気が付かないのは不自然だ。はた迷惑な計らいである。
「穴開ければいいんだろ? 簡単だぜ」
 黒白の魔女が不適に笑い、ポケットから一本の瓶を取り出す。彼女はその瓶の栓を僅かにひねってから、大きく振りかぶって壁に向かって投げつけた。

 ドォン!!

 青白い魔法の光と共に、空気を震わすほどの炸裂音が鳴り響く。しかし、残念ながら壁は大きく抉れるのみで、穴を開けるまでには至っていなかった。
「意外に頑丈だな」
「それだけじゃないわ。見て」
 人形遣いの言葉に、全員の視線が集中する。それは暫く夢に出てきそうな程の気色悪い光景だった。
「うげ……再生してるぜ……」
 足がもつれ合い、腕が絡み、身体が押しつけられ、顔が擦れ合う。壁を構成するありとあらゆる肉片が寄り合わさり、引き潰され、ちぎられながら抉れた部分に寄り集まってゆく。気のせいか、はたまた事実そうなのか、壁から発せられる腐臭は強い血の臭いを交えて吐き気を催すほどとなり、怨嗟の声は更に強く激しくなった。
 それは、気の弱い者であれば意識を失っていたかも知れない光景であり、線の細い者なら直視することすら叶わなかっただろう。
「ここにあの兎が居なくてほんとによかったわ」
 ため息と共に言葉を吐き出し、輝夜は改めて壁を見ながら思案する。魔女の一撃で解ったのは、この壁は頑健さこそ大したことはないが、その厚みと再生能力で行く手を阻むものらしい。だとすれば答えは一つ。穴を開けながら進み続けるしかない。
「おい、輝夜」
「何よ」
「お前、私の炎を防ぎきる自信はあるか?」
「何を今更。あんた程度の炎なら熱の一片すら逃さず遮断してやるわ」
 思案中に声をかけられたことに苛立ちを覚え、輝夜はいつものように喧嘩腰の口調で返してしまう。己の軽薄さに内心で舌打ちし、また口論になるのではないかと自己嫌悪をする。しかし、妹紅から帰ってきたのは売り言葉の買い言葉ではなく、満足げな笑顔だった。
「そいつを聞いて安心した。いいか輝夜、霊夢に一枚の呪符も使わせるなよ?」
 それだけ言うと妹紅は壁の前に立ち、懐から無数の呪符を取り出す。符に描かれているのは、彼女が最も得意とする炎の呪印。
「要するにこいつを焼き払いながら進めばいいんだろう? 四人とも遅れるなよ!」
 こちらに確認も取らずに呪法を切りはじめる妹紅に辟易しつつ、輝夜は水の守りを展開する。妹紅の炎より一瞬早く現れた淡い水色の光は、自身の前方に傘のような形状で現れ、彼女が直後に身に纏った業火を完全に防ぎきっていた。
「霊夢は私のすぐ隣を飛びなさい。他の二人はその後ろから。遅れないようにするのよ」
「言われなくても、おいてけぼりは御免だぜ」
 隊列を指示している間に、妹紅は既に壁へと突撃していた。赤々と燃え盛る炎は壁を構成する肉塊を炭に変え、気色悪い壁面に黒炭色のトンネルを形成する。
 しかし、業火が焼くのはトンネルだけではない。
(あの馬鹿……やっぱり無茶してるわね)
 普通術を使う際にはそれと同等の障壁を貼って自分の放った呪の力を相殺する。こうすることでより安全で確実にその力を行使することが出来るのだ。
 だが、妹紅はどうやらその守りを最小限に止めているか、全くと言っていいほど使用していないようだ。それが証拠に、彼女のリボンや長い髪が少しづつだが焦げ始めている。
「おい、妹紅……!」
「解っている。安心しろ、私は死なない身体だ」
 目敏い魔女は既に気が付いたようで、後方から大きな声で妹紅に言葉を投げかける。しかし当の本人はその意味をまるで理解していないらしい。
 だが、言って聞かせる暇はなく、彼女はそれほど素直でもないだろう。
「ああもう、めんどくさいわねえ!」
「輝夜……?」
「あんたの身体が燃える速度を引き延ばしてやったわよ! 不思議な力場のおかげで永遠には出来ないけど、せいぜい長く苦しむのね!」
 今度はわざと喧嘩を売るような口調で声をかける。しかし妹紅は反論するどころか親指を立てて見せるだけ。これでは自分の方が恥ずかしくなってしまう。
 だが、今は何故かその恥ずかしさが心地よかった。
 それは、己もまた彼女によって変化を与えられているという証拠なのだろう。
「それにしても、いつまで続くのかしら」
 傍らの霊夢が爪を噛みながら忌々しげに呟く。どれだけ飛んだかは解らないが、壁は突き抜ける気配を見せぬままであり、背後の壁はすっかり閉じてしまっている。妹紅が力尽きたら自身がその役目を代われば良いだけだが、いつ果てるとも知れぬと言うのは精神的に厳しい。
「レギオンの壁は無限ではないわ。進んでいる以上必ず終わりがあるはずよ」
 人形遣いの冷静な声に励まされ、輝夜は改めて前を見る。妹紅の身体は、深い火傷のために既に腕まで黒く変色していた。
「妹紅、少し私が……」
「手出し無用だ! 心配せずとも、たとえ肉片一つになってもお前達を此の壁の外まで運んでやる。そうでなくては慧音に申し訳が」
「人のことを心配する暇があったら自分の心配をしろこの馬鹿!」
 激昂して声を荒げ、輝夜は妹紅に水の守りを僅かだけかぶせる。相反する呪力の影響か火勢は弱まってしまったが、壁を焼き払うには問題ないようだ。
「輝夜……」
「そんなんだからあんたは千年かかっても私に勝てないのよ!」
 妹紅を支えるようにしながら、輝夜は自身の呪法で妹紅の火炎をサポートしつつ霊夢達のために障壁を貼る。相反する二つの術を同時に使うのは精神的にも肉体的にも厳しいが、贅沢は言っていられない。
 欲を言えば妹紅を完全に休ませるために火炎呪も引き受けたいところだったが、残念ながら輝夜の力ではこれだけの火力を水の障壁と同時に維持するのは難しかった。
「こんなことならもう少し永琳の課題をまじめにやっておくんだったわ」
 日頃の手抜きを今更ながらに後悔し、輝夜は小さく舌打ちをする。
 もし今火勢が弱まれば、自分達はこの奇怪な壁に飲み込まれてしまうだろう。しかしそのために障壁をおろそかにしては、妹紅のように自らを焼き尽くしてしまいかねない。危ういバランスの上に成り立つ綱渡りのような状態だが、今霊夢や他の者に手助けを頼むのは輝夜のプライドが許さない。
 何より、そんなことをしては妹紅がここまで身体を張った意味がないのだ。
「霊夢! 私がここまで身体を張ってるんだからね! 異変解決に失敗しましたなんて許さないわよ!」
 火勢が強くなり過ぎたのか、髪の焦げる臭いが鼻をつく。
「魔理沙もアリスも、あのスキマ妖怪をひっぱたくつもりでやりなさいよね!」
 水の障壁にむらが生じ始める。気合いで張れる緊張も限界と言うことなのだろうか。
「絶対あの子を連れ帰ってくるのよ……! じゃなきゃ許さないから……!」
 壁を構成するヒトガタの炭化した手が、焼け焦げた眼下が、今までよりもはっきりと視界に入る。
 息が荒くなり、全身をけだるさが襲う。腕の中の妹紅は、既に手も足も燃え尽きて無くなっていた。恐らくもう五分もたたぬ内に、飛翔する力すら失われてしまうだろう。
 それは恐らく、数え切れぬほどの長い時を生きてきた輝夜にとって初めての死力を尽くした戦いだったに違いない。
 永夜の異変ですら見せなかった本当の限界。それを輝夜は今、垣間見ていた。
「見えた! 空だ!」
 後方から誰かの声がする。失いかけた視力に再び活を入れて前方を見据えると、そこには確かに空が見えた。
 言いしれぬ達成感が満ち、重い身体すらも今は心地よく感じる。
 しかし、輝夜ははっきりと理解していた。まだもう暫く、この辛い戦いは続くのだと言うことを。
「後は後始末をするだけね……。三人とも先を急ぎなさい」
 最後の気力を振り絞り、輝夜は壁から少し離れた位置で霊夢達に背を向ける。腕の中の妹紅もその意図を察したのだろう。身を離して自身の力で輝夜の隣へ並び立つ。
「おい、そんなのもう放っておけば……」
「だめよ。他の連中がこいつに阻まれるかも知れない。それにこいつはまだ生きてる。後で何をされるか解らないわ」
「まあ食い散らかしたものの後片付けをするだけだ。心配しないで先を急いでくれ」
 隣に並び立った妹紅の身体は既に再生を始めている。ものの数分もすれば四肢は戻り、火傷の痕も傷一つ残さず消えて無くなるだろう。蓬莱の身体とはそういうものだ。
 しかし、体力や精神力、霊力と言ったものは違う。それらの回復速度は他の者とさして変わらず、失った活力を取り戻すには相応の休息が必要になる。
 そして、無論それを霊夢達に悟らせるつもりはない。
「で、でも……」
「私達を余り舐めないで頂戴。それに、ぐずぐずしてると壁が何かしてくるかも知れないわよ」
 最後の一言は紛れもない事実だった。壁は不規則な律動を始めており、苦悶に満ちた幾つもの顔がこちらに向けられている。やはりこれは、捨ておくわけにはいかない物体らしい。
「早く行け! 美希を助けるんだろうが!」
「……わかった。その代わりあんた達も必ず追いつきなさいよね!」
 霊夢が去り、最後まで何か言い続けていた魔理沙がアリスに手を引かれて去ってゆく。
 残されたのは自分と、自分を仇と恨み続けた蓬莱人のみ。
「正直、お前とこうして肩を並べる日が来るとは夢にも思わなかった」
「奇遇ね、私もよ」
 揺れ蠢いていた壁が、次第に悲鳴にも似た声を放ち始める。暗く落ち窪んでいただけの眼下と、漆黒の闇か赤黒い血しか見えなかった口腔に不気味な光が宿る。
 身を焼かれたからだろうか、それとも仲間を増やせなかった口惜しさからだろうか、壁が放つ感情が恨みから怒りへと変わってゆく。
 しかし、どうあろうと輝夜の心は変わらない。身を挺してでも霊夢達の邪魔はさせない。それだけだった。
「自己犠牲も良いけど、それじゃ妹紅に言ったことが嘘になるんじゃない?」
 突如虚空から響く耳慣れない、しかしどこか聞き覚えのある声。その声に輝夜は戸惑い、視線を巡らせる。だがどこにもそれらしき姿は見当たらない。
「誰よ!」
「霊夢の所に住む鬼の萃香だ。いつもこうして人をからかう」
 苦笑しながらもやや嬉しそうな妹紅。どうやらその萃香という鬼は敵ではないらしい。
「やあやあ二人とも。酷い有様だねえ」
「お前はてっきり霊夢を追っているのかと思ったぞ。そして彼女たちは大分先だ」
「ちょっと待って! 二人とも悠長に話してる場合じゃないわ!」
 こちらが暢気に会話をしている間に、壁の方はしなくても良い準備を整えてしまったらしい。壁に浮かんだ無数の視線と口がこちらを向き、禍々しい光を膨れ上がらせている。彼らの視線が照準だとするならば、その目標はどうやら自分と妹紅の二人に絞られているようだ。
「なるほど、じゃあここは私に任せてもらおうかな」
 あくまでも暢気な、それこそ野球の代打にでも出るかのような口調で、萃香は輝夜と妹紅に背を向ける。
 彼女の言葉が輝夜の考えているとおりなら、この鬼はその小さな身体で全てを受け止めるつもりらしい。もしあの光の一つ一つがさしたる破壊力を持たなかったとしても、光の数は百や二百ではない。それら全てを受け止めれば、自分なら消し飛んでしまうだろう。それでも、自分や妹紅は蓬莱の身体を持つ。塵にまで分解されてしまえば復活にはそれなりの時間を要するが、死ぬわけではない。
 だが、鬼には恐らく死が存在する。
「ちょっと、気でも狂ったの!?」
「まぁまぁ見てなって」
 彼女の不敵な発言とほぼ同時に、壁は光を放っていた。幾百幾千もの光条が降り注ぎ、視覚を焼く。しかし、その光は萃香の前方で急速に収束し、彼女の手の中に吸い込まれてしまう。
「私の能力は疎と密を操る。光を集めて投げ返すなんて訳ないさ。ほーらおかえしだ!」
 今度は彼女が攻撃する番だった。まるで小石を投げつけるかのような動作で手の中のそれを壁に向かって放つ。

 ズオッ!!

 集められた光が凝縮したからだろうか。彼女の手から放たれた光は真っ白な光線となり、奇怪な壁に巨大な風穴を開けた。
「ってわけで、なにやらピンチっぽいとこに助けに来たんだけど、いらなかった?」
 けろりと笑って振り返る鬼に、輝夜は唖然としてしまっていた。彼女の背後では壁が既に再生を始めていたが、その速度は先ほどに比べて明らかに遅い。
「……間に合ってるって言いたいけど、正直私も妹紅もぼろぼろよ。助太刀お願いして良いかしら」
「そうこなくっちゃ。妹紅も異論はないね?」
「在る訳なかろう。美希や霊夢の為だ。手段や自尊心などは犬にでも食わせてやる」
 初めてで、尚且つ奇妙な共同戦線。しかし輝夜には言いしれぬ安心感と理由のない確信があった。
 この二人となら、何があっても笑っていられるだろうという、強い強い確信が。



「不思議ね」
「何がだ?」
「たった一人の外来人を助けるために、みんなこうやって協力してる。こんな不思議なことはないわ」
 隣に並ぶ魔理沙は、納得したような顔で正面に向き直る。前を飛んでいる霊夢はどんな顔をしているのだろう。緊迫した状況だというのに、そんなことばかりが気になって仕方がない。
「別にあの子の為じゃないでしょう。幻想郷を守るためよ」
 小さな呟きが前方から聞こえる。謙遜なのか、本当にそう思っているのかは、振り返りもしない彼女の後ろ姿からでは想像つかない。
「まあたしかにあいつの為だけって訳じゃないだろうな。でも幻想郷を守るなんて言うのは、ちょっとした口実に過ぎないぜ」
「どういうことよ」
 自分だけ何も解らないのが面白くないのだろうか。霊夢の声には僅かな苛立ちが混じって聞こえる。
「魔理沙の言う通りよ。彼女が本当にただの外来人なら、私達は里や自分の家を守るだけに止めて、あとは貴女と魔理沙に任せるわ。それが幻想郷における暗黙のルールですもの」
 妖怪が起こした異変は人間が解決する。それは今までもこれからも変わりはない。何故ならそれは、人と妖怪がその関係を変えることなく在り続けるために必要なことだからだ。
「でも、今回は違う。私達はその関わりの深浅はあれど、霊夢と美希に関わった。関わりのある者が危機に瀕しているのに、他人の面は出来ない。だろ? アリス」
 答える代わりに微笑み、それから霊夢の方を見る。やはり彼女は振り返らない。
 もし今回の異変がただの妖魔大量発生なら、先程言ったとおり全ての解決を霊夢に委ね、アリスは事態の収拾に乗り出していただろう。
 他の多くの者もそういう選択をしたか、自身の身を守るに止めて知らぬ存ぜぬを通していたかも知れない。首を突っ込みたがる者や何がしかの恩義ある者は無条件で手を出すかも知れないが、それは損得感情か気まぐれの域を出ず、当てに出来るようなものではない。
 だが、今回は美希という関係者が存在する。それ故に数多くの者が関わり、手を貸し、解決に尽力している。
 その最たる例が、あの紅魔館の吸血鬼だろう。
「もちろん彼女が本当にただの外来人なら、誰も手を貸さなかったと思う。彼女が貴女の大切な人で、貴女が彼女の大切な人だから、私達はこうして共に飛んでいるのよ」
「…………裏を返せば、私と関わったから美希が攫われたとも言えるのね」
「そうかも知れないわね。尤も、私にあのスキマ妖怪の考えることなんて解らないけど」
 霊夢の疑念に、アリスは特別の励ましを入れずにあっさりと肯定し、今まで感じていた違和感と自分なりの考察を話す。
 下手に根拠のない否定をすれば後々困るのは自分であり、何より現在の状況では否定どころか肯定の要素しか見当たらない。それよりはここで懸念を明確なものとし、今後起こりうる事態に覚悟した方が建設的というものだ。
「魔理沙の魔導具は簡素で単純よ。その気になれば遮断するのも攪乱するのも容易い。何よりあの紫がそれに気が付かないわけがないわ。敵の配置にしてもそう。押しつぶすように責め立てるのではなく、こちらの戦力を少しづつ削ぎ落とすように小出しに小出しに配しているのは、なにがしかの意図を持って行っていると考えるのが筋。そしてそれらの全ては、霊夢を煙に巻くのとは逆。むしろ誘っているとしか思えない」
「つまり私達は、紫の誘いに乗ってその罠の中へ飛び込もうとしてるってことか?」
「そうね。本来ならその罠をかいくぐるのが筋なんでしょうけど、今は残念ながらその方法が解らない……」
「だったら、全部踏み抜いてやるわ」
 ぽつりと、呟くような霊夢の声。
 しかしその声にははっきりとした意志と怒りが宿っていた。
「踏み抜いて蹴散らしてぶち壊して、誰に喧嘩を売ったかを思い知らせてやる。必ずあいつをはり倒して参りましたって言わせてやるんだから」
 子供じみた言葉には、確かな信念が宿っていた。
 一言も口に出してはいないが、美希を助けるのだという強い意志が。
「なら、私は貴女のその意志を少しでも揺るぎないものにするために、ここで露払いをすることにしようかしら」
 小さく笑い、アリスは振り返ってその場に留まる。
 その直後。

 ドォン!!

 爆音と共に火球がアリスを襲い、視界の全てが赤で塗りつぶされる。轟音のお陰でやや遠くなった耳の向こうで、魔理沙が何事か叫んでいるのが聞こえる。
 しかしアリスはただの一つも動じることはなかった。
「意外と信用無いのね、私。この程度でどうにかなるほど柔だったら、貴女のパートナーは務まらないつもりなんだけど」
 特製の盾を持たせた人形と、魔力障壁。その二つを用いて、アリスは火球の勢いを完全に殺していた。その守りの完璧さは、一つの乱れもない彼女のスカートが物語っている。
 もちろんそれが完全な不意打ちであったとしたら、これほどまでに完璧に防ぎ切れていなかっただろう。
 アリスは壁を抜けてしばらくした辺りから敵の存在を既に察して、人知れずそれを近づけまいと人形に戦わせていたのだ。
「あ、あんなの見たら誰だって……!」
「だめよ魔理沙。貴女は今霊夢のパートナー。彼女と共に八雲紫の元へ向かい、彼女を美希に会わせるのが役目。振り返ってはダメ」
「で、でも……っ!?」
 二の句を告ごうとする魔理沙の唇を自身の唇で塞ぎ、甘く柔らかい口づけと共にその言葉を飲み込ませながら、彼女の不安を僅かな吐息と共に吸い込む。
 ほんの刹那の、だが甘く愛おしいひととき。
「……大丈夫。私は絶対に負けないわ。それに、貴女達が居ると本気を隠して戦わなきゃいけないじゃない?」
 くすりと小さく笑い、魔理沙の唇にそっと指を添える。たったそれだけのことで、世話焼きで騒がしい黒白の魔女は押し黙ってしまっていた。
 まるで魔法にでもかかったかのように。
「さぁ、二人とも行って頂戴。でないと皆がしてくれたことの意味が無くなってしまうわ」
 敵は相手にしていた人形が時間稼ぎであり、操手がこちらに居ることを察してしまった。足止めもそう長くは持たないだろう。そして敵の姿を見れば、魔理沙は頑なにここに残ろうとするに違いない。
 それだけはどうしても避けたかった。
 自分の本気を、愛しい魔理沙には見せたくなかったのだ。
「アリス、気をつけてね」
「…………っ! ぜったい! ぜったい追いかけてこいよな!!」
「頼まれなくても追いかけてあげるから安心なさい。さあ早く。お姫様が舞踏会場でお待ちよ」
 最後の最後まで何か言いたげだった魔理沙にやや苦笑し、同時に自分が愛されていることを実感する。
 そして愛し愛されているからこそ、戦う姿は見せたくなかった。
「私が本気を見せない、出さない理由は二つ。一つは誰も失いたくないっていう甘い考え」
 時間稼ぎに使っていた人形を破棄し、アリスは常に手にしている魔導書に魔力を込める。幾つものベルトと鍵で厳重に封印されていた書物が淡い光と共にその封を一つ一つ外してゆく。
「もう一つは……」
 長きに渡る封印から解放された本は、まるで深呼吸をするかのようにひとりでに開き、ばらばらと頁を巻き上げ、めくり上げてゆく。その間にも敵はアリスの眼前まで迫り、丸太ほどもある巨腕を振り上げていた。
 それは鬼もかくやと言うほどの巨体だった。ごつごつした筋肉。ねじくれた角。体毛は蛇のように太く、鬣のように勇ましい。肌は海よりも深く暗い青色をしており、所々に鱗のようなものも見える。
 かつては神として崇められ。恐れられた存在。しかし人間の興した新たな宗派によって悪魔と貶められ、蔑まれた神の成れの果て。それがアリスの前で圧倒的な暴力を振り上げる存在の正体だった。
「もう一つは、私の本気は美しいものではないからよ」
 振り下ろされた巨腕はアリスの身体を枯れ枝のようにへし折るはずだった。しかし残念ながら彼の望みは叶わず、その拳はアリスに一片たりとも触れることなく制止させられてしまう。
 唯一無二にして最高位の魔導書。グリモワールより現れた醜悪な人形によって。
「さあ、かつて数多の血を啜り、多くの者を手にかけてきた忌まわしき人形達よ。今宵の生贄を歓迎してあげなさい」



「これで最後の一匹っと!」
 最後に残った石像の化け物を、土着神の娘が巨大な岩で押し潰す。外見は年端もいかぬ娘にしか見えぬと言うのに、彼女の力は恐ろしいまでに強い。
「終わったか、諏訪子」
「うん、お掃除終わり。そっちは?」
「こちらも全て片付けた。今のところ新手が来る気配もないな」
 こちらはやや年嵩に見える神。彼女は風の力と御柱と呼ばれる巨大な六角柱を意のままに操り、空から迫る怪異をいともたやすく蹂躙していた。
「神奈子様、諏訪子様。これで里を襲っていた妖魔は全滅です」
 そして彼女等に遣える巫女。彼女は両者の神の力を操り、奇跡と称する様々な力を用いて里の守りを固め、怪異を退けてくれた。
「忝ない。ご協力感謝する」
 慧音はそんな三人に深く頭を下げ、礼を伝える。
 この里には妖怪退治や妖魔調伏を得意とする者が何人か居る。それだけではなく、それなりに力を持つ妖怪や魔法使い、祈祷師なども居るため、全くの無力というわけではない。だが、相手は見たこともない怪異であり、彼らの技術や能力が有効かどうかも解らない。
 何より、里にいる大多数の者は戦えぬ存在なのだ。彼らを守るためにも、慧音はその能力を用いて里を隠し、一人で戦うしかなかった。
 そんな彼女の元に、この三名。いや、二柱と一名は駆けつけてくれたのだ。
 彼女たちの働きによって怪異は退けられ、里の被害は無くなった。一部大きな怪我を負った者は居るが、取り返しの付かない事態は免れることが出来そうであり、慧音としては幾ら感謝してもしたりないぐらいである。
「いえ、私は巫女として当然のことをしたまでです。それにこれは、私を受け入れてくれた皆さんへの恩返しでもありますから」
 花のように小さな笑みを見せ、彼女はそう謙遜する。
 そしてそれとほぼ同時に空を覆っていた分厚い雲が晴れ、月が静かに顔を覗かせ始めた。
「それより、他の場所はまだ被害が……」
「いや、どうやら私達が倒した怪異が最後のようだ。この幻想郷のどこにも、新たな悪意は感じられない」
「でも、霊夢達はまだみたいだね」
 西の空を見つめながら、諏訪子と神奈子が呟く。
 彼女たちには見えているのだろうか。あの巫女の戦いの行方が。
「美希は無事だろうか……」
「それだけは我々にも解らん。だが、この幻想郷を守り続けた巫女が動いているのだ。案ずることは無かろう」
 軽く笑って肩を叩くその表情は明るく、己の不安がただの杞憂だと思わせるほどに自信に満ちていた。
 だが、慧音は知っている。
 あの八雲紫という大妖怪の底力を。
「美希には教えることも教わることもまだ山ほど残っているのだ。そうでなくては困る」
 慧音は今一度彼女と話がしてみたかった。柔らかい笑顔を見せるようになった、幸せそうな彼女と。そして出来うることならば、教師として、いや友として屈託無く話せる間柄になりたかった。
「心配しなくても大丈夫だよ。何せあの巫女は私と神奈子を退けた実力の持ち主なんだから」
 けらけらと面白そうに笑う祟り神。彼女もまた霊夢と手合わせをし、負けを認めた者の一人である。
 そう、霊夢の強さは手合わせをした者だけが解る。
 彼女の強さは本物であり、この世界を守るに足りる実力の持ち主だ。
 だからこそ、慧音には不安があった。
「その強さが、危うさでもあるのだ。霊夢はまだ幼い。少女という言葉が見事に当てはまる年頃だ。まだ人生の機微も、大人の汚さも、表情の裏も読み取るのは難しいだろう。それが彼女の強さであり、弱さでもあるのだ」
 見つめた西の先に、戦いの光は見えない。恐らく紫が意図的に隠しているのだろう。
 彼女たちの身に何が起こっているのか、どのような戦いが繰り広げられているのか、慧音には知る由もない。しかし胸の内に渦巻く不安が偽物とは思えず、それでも手放しで信じることが出来るほど、慧音は楽天家ではなかった。
「奇跡は信じれば必ず起こります。きっと大丈夫ですよ。鰯の頭も信心からって言うじゃないですか」
「早苗、その言葉は神の居る場で使うべきではないと思うのだが」
「神奈子様を指して言ったわけではありませんよ。ただ、疑念の内に心を曇らせてしまうよりは、無事を信じて祈る方がきっと良いことが起こるはずです」
「そうだね。ここは常識で計れない場所だし」
 確かに彼女たちの言う通りだった。何を不安に思っても良いことはなく、思案を巡らせたところで事態が進むわけではない。
 ならばせめて想い信じることで、霊夢を力づける方がまだ建設的と言える。
 そう、この幻想郷において強い強い力の源である、想いで。
「……まさか、外から来た者にそれを気づかされるとはな」
 軽く笑って、慧音は西の空を真っ直ぐに見上げる。
 そして己の想いがほんのひとひらでも彼女に届いて力になればと、強く強く願った。



 目の前にはやや赤味の強い紫色の淡い光を放つ壁。そして霊夢のブローチから伸びる光は、その壁に向かって真っ直ぐ伸びている。
「面倒な結界だな。紫の仕業か?」
「間違いないわ」
「やっぱりか……」
 長い溜息と共に改めて壁を見上げる。
 淡い光を放つ壁は幾何学模様が浮いており、それらがゆっくりとした速度で回転している。その様はたしかに紫の弾幕を想起させ、同時にその結界が強固で揺るぎ無いものであることを容易に理解させる。
 しかしここで引き返すという選択肢は、霊夢はもちろん魔理沙にとてありはしない。
「なぁ、こいつをどうやってぶち破ったらいい?」
「決まってるでしょ。強力な霊力や魔力をぶつけて叩き割るしかないのよ」
「ま、そうだよな」
 解りきった問いに予想通りの返答を返され、魔理沙は思わず苦笑する。
 そして、自身もまた彼女の礎となる時が来たのだと改めて実感した。
「仕方がない。やりますか」
「ちょっと魔理沙。あんたまで他の連中と……」
「解ってるなら下がった方がいいぜ」
「あんたねぇ……!」
「おっと、そこまでにしようぜ。お前に霊力使わせたら他の連中に示しが付かないし、何よりアリスにこっぴどく怒られるんだ」
 霊夢の腕を掴み、魔理沙はやや強引に彼女を後ろへと下がらせる。
 結界に関しては霊夢の方が得意なのは間違いない。紫との付き合いも彼女の方が深く、これを打ち破るのはどう考えても自分より適任なのは間違いない。
 また、魔理沙は紫という妖怪の強さも知っていた。
 常に斜に構えて己を見せようとせず、それでも向き合おうとすれば誰よりも強大な力の、そのほんの一端を見せつけて退けられる。その最たる例は緋想の異変を起こした天人だろう。
 神と対等とも称される大妖怪、八雲紫。彼女に対抗するだけの力が、自分には有るのだろうか。
 正直に言えば、魔理沙はまるで自信がなかった。己の魔法はいともあっさり結界に防がれ、文字通りの徒労に終わるのではないかとも考えてしまう。
 だが、それでも魔理沙はやらなければならなかった。
 かつての自身と同じ、恋する目をした少女のために。
 そして、彼女が愛する不器用な巫女のために。
「よーし、ちゃっちゃとぶち抜くぜ!」
 またがる箒をしっかりと握り直し、その先端に魔力を込める。まずは小手調べであり、布石の一撃。それを魔理沙は立ちはだかる結界へ向けて躊躇無く放った。

 光符「ルミネスストライク」

 箒の先より放たれる、巨大な魔力の弾丸。それは並の妖怪なら一撃で吹き飛ばし、人間という存在を甘く見たことを後悔するほどの威力を持つ。しかしそれほどの一撃でも結界は揺らがず、綻びすら見せようとしない。
「流石に硬いな。だがそれも想定内だぜ!」

 星符「ドラゴンメテオ」

 既に魔理沙は次の魔法を準備していた。間髪入れず叩き込まれるのは、虹色に輝く巨大な光線。魔理沙の持つ魔法の中ではかなりの上位に位置し、威力と共に消耗は生半可なものではない。だが、それだけの甲斐はあったと言うべきだろうか。結界表面に浮いた模様が揺らぎ始め、僅かづつではあるが、綻びが生じ始めている。
「ダメ押しの一撃! お釣りはいらないぜ!!」

 魔砲「ファイナルスパーク」

 左手に構えた八卦炉に魔力を注ぎ込み、続けざまに最上位の魔法を放つ。
 彼女の持つ八卦炉とは、世界の全てを焼き付くすといわれる炎を閉じこめた魔導具である。その炎の力を借りて、魔理沙は最高の魔法を放つ。
 無論気楽に借りられるような力ではない。点火するにも制御するにも莫大な魔力と繊細な調整が必要になり、並の魔法使いではその炎で自身を焼きかねない。その諸刃の剣とも言うべき炎を、魔理沙はほぼ完全に制御していた。
 大図書館の主にして魔導の先達でもあるパチュリー曰く、八卦炉の本当の力はまだまだこの程度ではないらしい。しかし今のところこれを使いこなすことが出来る人間は魔理沙一人だけであり、彼女がこれまで多くの妖怪と対等に渡り合うことができる所以でもある。
「いけるわ……! もう少しよ魔理沙!」
 背中からかかる声に、魔理沙はより一層の魔力を込める。八卦炉から放たれた目映いばかりの光線は確実に結界を揺るがせている。
「ぶち抜けぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
 言葉に込めた強い想い。その力が作用したのだろうか、それとも単に結界の強度が限界に達したのか、目の前に立ちはだかっていた結界は、まるで硝子が割れるような音ともに粉々に砕け散って霧散する。
「……おいおいおい。嘘だろ?」
 結界の向こうに広がっていたのは、悪夢のような光景だった。
 眼前を多い尽くさんばかりの妖魔の群。それらが全てこちらに向けて敵意を放っている。ある者は静かにこちらを睨みつけ、ある者は新たな獲物の到来を喜ぶかのような雄叫びを上げている。
「仕方ない……霊夢、私に掴まれ」
「何をする気?」
「いいから早く!」
 訝しげに眉を寄せる霊夢を怒鳴りつけ、半ば強引に腰に腕を回させる。もたもたしている暇はない。魔法の発動を防がれたら、全ての努力は水泡に帰すのだ。
「しゃべるなよ? 舌を噛んでも責任は取らないぜ」

 「ブレイジングスター」

 魔法の発動と共に、魔理沙達はその名の通り彗星になっていた。
 青白い魔法光が二人の身体を包み、矢のような速度で敵陣に向かって突進する。その様に多くの妖魔は振り返ることしか出来ず、運悪く直線上にいた者はその身を遙か彼方まで吹き飛ばされた。
 しかし、魔理沙とて楽勝というわけではない。ルミネスストライクを除く三つの魔法は消耗が激しく、立て続けに使うのは彼女としても初めて。そして強力な力の代償は、決して軽いものではなかった。
(あと少し持ってくれ……!)
 体力精神力共に限界は近く、油断すれば地上へ落下しかねないほどに疲労している。しかし今ここで倒れるわけにはいかない。何しろ自分には、まだあと一つやることが残っているのだから。
「霊夢!」
「何よ! 喋るなっていった癖に!」
「ここを抜けたら振り返らずに真っ直ぐ進めよ!」
「あんたまたおかしなこと考えてるんじゃないでしょうね!」
 彼女の言う通り、それは明らかにおかしな考えだった。
 正気の沙汰とは思えず、普段の魔理沙ならまっぴら御免だと笑って断る役割だっただろう。
 だが、既に魔理沙の心は決まっていた。
 今の魔理沙には、もう八卦炉を御するほどの魔力は残っていなかった。いくつかの魔導具を使用したり、小物の魔法を撃つ力なら、時間を稼ぎつつ取り戻すことが出来る。しかしそれではあの紫には通用しない。おそらくは霊夢の足を引っ張って終わりだろう。
 ならば後は問うまでもない。
「霊夢、こいつを持っていけ」
「これって八卦炉じゃない! あのねぇ!」
「おっと、私がそれ無しじゃ何も出来ないと思ってるなら、大きな間違いだぜ」
 八卦炉を霊夢の手に押し込むようにして渡し、魔理沙は箒を握り直す。
 不思議な感覚だった。
 たった一日。それも最悪な出会い方をしたというのに、何故自分はここまで辛い思いをしながら美希を助けようとしているのだろう。
 魔理沙だけではない。他の多くの者も、彼女と出会ったのはここ一ヶ月そこそこの間のはずだ。にもかかわらず、剣となり盾となりて霊夢を助け、異変解決というお題目の下に、彼女を助けようとしている。
 恐らく魔理沙の前に現れなかった者達も、それぞれの形で霊夢を支援しているのだろう。
「お人好しの多い世界だぜ、まったく」
 自らを含めた嘲笑を浮かべながら、魔理沙は真っ直ぐに正面を見据える。暗雲の如く群れていた妖魔の群は概ね退き、眼前には星が瞬いて見えた。
「行けるとこまで行ってやる! 元幻想郷最速を舐めるなよ!」
 


 自身と美希を覆い隠す結界は破壊され、空には星が瞬いて見える。
「諦める気はないのね……」
 いつになく疲れた顔と声で、紫は空を見上げながら呟く。
 傍らの鳥籠では、美希がその身体を力無く横たえていた。泣き腫らした目と時折呻くように響く小さな寝言が、彼女の心の苦しみをはっきりと表しているように思える。
「私も……貴女を苦しめたくはないのよ……」
 遠方から数多くの妖魔を呼び寄せたのも、この幻想郷を窮地に追いつめたのも、全ては彼女のため。
 そして己が心に鞭を振るいながら、彼女を苦しめるのもまた、彼女のため。
 彼女と出会い、その望みを聞いたときから、こうなることは予見していた。
 していて尚、紫はそれを受け入れることしかできなかった。それが今はたまらなく歯がゆい。
「運命……なのかしらね」
 あまりにも陳腐で、そして救いのない言葉に思わず苦笑する。まるで描かれたシナリオを踏襲するかのように、仕組まれた悲劇を演じ続けなくてはならない美希。そしてその悲劇のシナリオを描き続けなくてはならない紫。
 もしこの世界が幻想であるならば、どれだけ救われたことだろう。
「らしくないわね、今更」
 東の空を見据え、紫は髪を結い上げる。
 悲劇を打破するために訪れる、英雄を出迎えるために。



 西の空に輝く、目映いばかりの彗星。それはあの永夜異変の日に見せつけられた、若々しい星の輝きによく似ていた。
「たどり着いたのね……」
 懐かしくも思えるその輝きは、今も変わらず美しく瑞々しい。
 かつて自身の固執を焼き払ったその光は、今何のために輝いているのだろう。永琳にはそれを知る術はない。だがその輝きは、恐らくあの大賢者の目にも映っているに違いない。
 彼女が如何様な信念と執念を持って異変を起こしたのかは定かではない。だが、変わりなく在り続ける者は変化に富む新しい風にはかなわないはずだ。
 かつて自分がそうであったように。
「師匠ー!」
 感慨深く空を眺める己の背中にかかる声。その声の主もまた、少しづつ変わりゆく存在だった。
「ずいぶん遅かったわね。どこで油を売っていたの?」
「ち、違いますよ! 私たちは現れた妖異を退治するために戦っていただけで……」
 慌てて弁明を始める弟子と、それに口添えをする門番。そんな二人の必死の表情が余りにもおかしくて、永琳は思わず小さな笑みをこぼしてしまう。
「師匠は何をしてたのですか? 霊夢たちは……?」
「もうとっくに紫の元へたどり着いているわ。私はちょっとした害虫駆除をしていただけ」
 彼女達がこんな時に怠けるような存在でないことは重々承知している。それでも尚からかうような言葉を向けたのは、悪戯心と僅かな嫉妬から。
 彼女達はいずれ自身を追い抜いて行くだろう。無論知識や経験での優位を譲る気はない。自分は神々と肩を並べるほどに長く生き、齢を重ねてきたのだから。
 だが、ただ積み重ねただけでは得られぬ何かは確かに存在する。そしてそれは、永久に変わらぬ存在には永遠に得られぬもの。二人が自身を追い抜くのは、それを理解したときなのだ。
「師匠、霊夢も美希も……大丈夫ですよね?」
 西の空を見つめ、背を向けたままで不安を吐露する不肖の弟子。そして彼女の隣で何も言わずに立ち尽くしている門番。二人のしっかりと握りあった手のひらを見つめながら、永琳は僅か笑って口を開いた。
「心配をしている暇があったら宴の席に持ち込む献立でも考えておきなさい。近いうちにきっと大きな酒宴が開かれるわよ」
 そう、何も心配はいらないのだ。
 何しろ彼女達は、こんなにも多くの者に想われているのだから。



「やっぱりあんたが黒幕だったのね」
 睨みつける目からはいつもの気だるそうな表情が消え、湯呑みか箒ばかりが握られている手には御幣とお札、そして魔を封じる針が輝いている。
 間違いない。博麗霊夢は本気だ。
「解りきっていたことなのに、改めてショックを受けているのかしら?」
 自身が描いたシナリオを進行させるために、八雲紫はあえて斜に構えてみせる。スキマに腰掛け、薄い笑みを浮かべたまま口元を扇子で隠し、嘲るような口調と表情を見せつける。
 この巫女は異変の度に解決に乗り出してはいるものの、深く追求しようとしない。異変が収まればあとはどうでも良い。それ以上のことは自分の範疇ではないと言わんばかりに適当に弾幕ごっこを楽しみ、首謀者を叩きのめして帰る。それが彼女の常だった。
 しかし、今回ばかりは違う。その証拠が彼女の表情と気迫に現れている。
「美希を攫ったのもあんたなの?」
「ご明察。彼女はここよ」
 スキマから取り出した鳥籠を置き、霊夢に見せつけるように片手で指し示す。
 籠の中の美希は未だ眠っており、その様子に霊夢が僅か色めき立つ。
「彼女にはまだ何もしていないわ。考えることに疲れて眠ってしまっているだけ。そう、まだ何もね」
 睨む視線も伝わる気迫も、とても十代の娘が発するものとは思えない。それもその筈だ。何しろ彼女は妖怪の天敵とまで言われる存在なのだから。
 しかし、そうでなくては意味がない。いつものように彼女に適当に構えられては困るのだ。
「いろいろ聞くことはあるけど、それは後回しだわ。美希を置いてさっさと立ち去るか、私に封印されるか、今すぐに選びなさい」
「どちらも否と言ったら?」
「問答無用であんたをぶちのめす」
「おお怖い」
 肩を竦めながら立ち上がり、愛用の日傘を広げる。
 何時以来だろう。こうして霊夢と対峙をするのは。
 かつて神隠しを看破されたときは、紫は本気ではなかった。
 永夜異変の際に戯れに行った勝負は、お互いに遊びの延長だった。
 鬼と企てた宴の席でも、二人はただの遊びだった。
 緋の異変ではそれぞれが勘違いをしていることに途中で気が付き、矛を収めた。
 だが、今回は違う。戯れる余裕も刃を引く理由もない。正真正銘、本物の戦い。
 それぞれの信念を賭けたぶつかり合い。
「貴女の覚悟は解った。霊夢、私たちが勝負をするなら……言わなくても解るわね?」
「意外ね。殺し合いを望むのかと思ったわ」
「ただの人間の前でそれは、刺激が強すぎるでしょう?」
 美希を捉える鳥籠に結界を張り、流れ弾の被害を受けないようにする。
 本当に安全なのは彼女をスキマの中に隠すこと。だがそれでは意味がない。
 この戦いは、見せつけなければいけないのだ。
「殊勝な心がけね」
 空気が張りつめる。限界まで伸ばされた糸がその張力に悲鳴を上げるような、膨らませすぎた破裂寸前の風船のような、そんな空気が辺りに満ちる。
 後はほんの一刀触れるだけ。
「八枚よ。八枚のカードを破ってみせなさい。それで貴女の勝ちを認めてあげる」
 自身の目の前に八つの光を並べ、紫は静かに宣言する。
 口火を切る一刀は、今まさに振り下ろされた。

 赤魂「迷える魂」

 赤く蠢くスキマを開き、紫は弾幕を展開する。
 いや、それは弾幕と呼べるほど美しいものではない。
 朽ちた標識、動かなくなった車、破壊された建物の残骸や、商品を提供するという機能が失われて久しい自動販売機。それらが不規則に、何の法則性もなく霊夢に襲いかかる。
 スキマから投げつけられるそれらは、皆外の世界で役に立たなくなったものや、必要とされなくなった存在だった。
 かつて人によって作られ、重宝され、愛されてきた存在。しかし役目が終わるや否や、人からは見向きもされなくなり、感謝の念も抱かれず、ただただ朽ちゆく身体を風雨にさらすだけの存在となってしまった物達。
 それはかつての妖怪の姿によく似ているのかも知れない。
「この程度の技で私を倒すつもりじゃないでしょうね!」
 鋭い言葉と共に投げつけられる陰陽玉と針。
 無論紫とてこの程度のものが通用するとは思っていない。妖怪にすら成りきれぬ物達が、妖怪退治を生業とする巫女にかなうわけがないのだ。
「もちろん、これは単なる準備運動よ。貴女のね」
 小さく笑ってさっさと一枚目のカードを破棄する。
 そう、これは単なる序曲に過ぎない。
 短くも儚い、彼女の旅の始まりに過ぎないのだ。

 橙命「二つの桜」

 二枚目の宣言と同時に、紫は霊力を扇状に展開する。蝶の柄をした紫色の鮮やかな扇。そこから紫は幾重にも舞い落ちるような、桜色の弾幕を発生させる。
「誰かの猿真似が通じると思ってるの!?」
「まさか。そこまで野暮じゃないわよ」
 古き友を真似た弾幕。しかしそれだけで終わらせるつもりは毛頭無い。
 紫はさらにあちこちに橙色のスキマを広げ、そこから鋭い剣閃のような一撃と円形に広がる楔型の弾幕を発生させる。
「これなら満足かしら?」
「くっ……!」
 小さく浮かんだ苦悶の呻き。それと同時に霊夢は霊力を一気に高めて放出する。

 霊符「夢想妙珠」

 美しく輝く珠が霊夢の周囲に現れ、剣閃を生み出すスキマを封じてゆく。どうやら幾つもの異変を解決したその経験は、しっかりとその身に刻まれているようだ。
 彼女の針は的確に紫を捕らえ、そのスペルを削り取って行く。扇が少しづつ破れ始め、その形が曖昧な物になる。
 古き友は彼女と対峙して何を感じたのだろうか。そしてあの少女に触れて何か変わったのだろうか。彼女にべったりと寄り添っていたあの庭師も、少しは成長したのだろうか。
「二つ重ねても同じ事よ! こんなものは私には通用しない!」
「通用しないかどうかは、後六枚を打ち破ってから言う事ね」
 打ち破られたスペルカードが塵に変わる。儚く散るその様は、まるで自身の友情が散り行くように見えて胸が痛い。
 しかし、感傷に浸っている暇はない。 

 黄心「変わりゆく月」

 金色に輝く満月を背負い、紫はあの月の姫君が使った弾幕を真似る。背負う月もまた、紫が作り上げたものだ。
 そして無論今回も、ただの猿真似などではない。
「あの狂気の色をした瞳は、こんな色だったかしらね」
 紫の目が真紅に輝き、霊夢に幻覚を見せる。金色の屏風を模した弾幕が幻覚によって揺らぎ、その位置を変化させる。
 あのとき自身等の前に立ちはだかった兎は、どこか迷いを帯びていた。だから彼女はその力を存分に扱うことが出来なかったのだろう。
 彼女の迷いは、今晴れているのだろうか。
「月はその時に応じて姿を変える。そして月を模したこの弾幕も同じく姿を変える」
 背後の月が半月へと変わり、紫の弾幕もまた一気に変化する。
 自身を中心に展開する、幾何学模様の弾幕。規則正しい配列をした弾幕が突如として幾多の炎へと転じ、霊夢の周囲へと降り注ぐ。様々な角度で正三角形を描く炎の弾幕。それらが少しづつ霊夢を追いつめてゆく。
 半分人間の教師と半分妖怪の焼鳥屋。彼女達は少女との出会いで何を感じたのだろうか。
「さぁ、また月が変化するわよ」
 今度は月が三日月に変わる。弓張る月が紫を照らし、霊夢を見下ろす。それと同時に、月は兎のように跳ねる使い魔を幾つも生み出していた。
 使い魔達は一列に並び、ひと跳ねしては悪戯兎を模した弾幕を放ち、ひと跳ねしては矢の如く迫る素早い弾幕を放った。
 悠久の刻を生きる従者と、神威受けたる長生き兎。彼女らもまた、美希との出会いで何がしかの変化を受けたことだろう。
 変わり逝く人間の影響という物は、大きく恐ろしい。
 だが、それは同時に頼もしくもあり、羨ましくもある。
 かつてこの世界に飛び込んできた人間は最早人間ではなく、迷い込んだ者共は路傍の石よりも役に立たない者ばかりだった。
 しかし、あの少女はどうだ。
 彼女は多くの変革をもたらし、幾つもの波紋を起こした。

 緑在「姿無き絆の形」

 その波紋は、我が家たる八雲の家にも伝わっている。
 口にこそ出していないが、藍も橙も彼女の事を大事に思っているようだ。外の事物に目を向けることは嬉しく思うが、同時に自身の手の内から離れていくような気がして寂しくもある。
 今、藍が何を想い何を感じているか、それは式を外した今となっては伺い知ることも出来ない。もしかしたら、自分は既に家族の内から外れているのかも知れない。
 藍だけではない。竹林の住人は敵意の目を向けるだろう。古くからの友人も愛想を尽かすかも知れない。
 だが、それでも自分にはやらなければならないことがある。そうしなければならないだけの罪があるのだ。
「さぁ霊夢! 貴女の本気を見せなさい!」



 息つく暇もなく放たれる、五枚目のスペル。

 青影「漂流境遇」

 紫の頭上から降り注ぐ雨のような弾幕が放たれ、その周囲に口を開けた青色のスキマから巨大な柱が発射される。更に雨のような弾幕に隠れて、自身をまっすぐに撃ち抜こうとする星のように目映い弾幕まで。
 それらの弾幕をなんとかかわしながら、霊夢はどこか違和感を感じていた。
 たしかに彼女の放つスペルはどれも苛烈だ。身をかわすだけで精一杯であり、反撃の糸口は少ない。しかも立て続けに休み無く放たれるスペルは、確実に霊夢の体力を奪ってゆく。
 だが、そこに紫の信念の色は見えてこない。

 バシュッ

「くぅっ……!」
 他事に気を取られていたためか、霊夢は寸手の所で一撃を避け損ない、肩に強烈な一撃を受ける。どうやら考え事をしているほどの余裕は与えてくれないらしい。
「このっ!」
 
 神技「八方鬼縛陣」

 金色の光が奔流となり、霊夢とその周囲を覆い尽くす。強力な妖怪封じの力を込めたその一撃は紫の身体をも包み込み、その妖力を消し去ってゆく。
 しかし、それによって五枚目のスペルを消し去るには、僅かに足りなかったようだ。

 ガッ! ドガッ! ゴッ!

 光の奔流を突き抜けて現れた、白く輝く流星。それが霊夢の身体を強く打ちつける。
「っぁ……!」
 痛みに意識が揺さぶられ、身体は木の葉のように翻弄される。左腕の感覚はなく、右足も思うように動かない。
 それでも、霊夢は諦めようとはしなかった。
 きりもみする身体をうまく制御し、御幣をくわえて右手に封魔針を握る。そして紫から降り注ぐ弾幕の群をかいくぐり、霊力を込めた一撃を放った。投げつけられた針は残り滓のようになったカードを無に帰し、役目を終えて崩れさる。
「五枚目クリアおめでとう、霊夢」
 あからさまな嫌みの言葉にも、霊夢はただ歯噛みることしかできなかった。
 紫の前で音もなく崩れさる符。それは確かにスペルの撃破を意味していた。しかし、彼女の頭上にはまだ三枚のスペルが輝いている。
 左腕の感覚は徐々に戻りつつある。霊力もまだ残っている。札も針も蓄えは十分にある。
 大丈夫。自分はまだやれる。霊夢は自身にそう言い聞かせながら、強く強く紫を睨んだ。
「さぁ、次のスペルよ! 見事打ち破って見せなさい!」

 藍切「割れた心と報酬の形」



 霊力も空。魔導具も底を尽きた。
 今の魔理沙は、箒に掴まっているのがやっとだった。
「後少しなんだがなあ……」
 やや間延びした声だが、実際はそれほど気楽な状況ではない。
 霊夢を先に行かせ、一人残った魔理沙はかなり奮戦をした。いくつかの魔導具を使い、より効率の良い魔法を使用して着実に敵を減らした。その甲斐あって残る妖魔は後数匹というところまでに至ったのだが、そこで何もかもが尽きてしまったというわけだ。
 今の魔理沙には魔法の灯りを点す事すら難しく、箒に込めた飛行の魔力もごく僅か。墜落も時間の問題である。出来ることならその前に地上に降り立ちたいのだが、どうにもそれは許してもらえそうにない。
 散々仲間を打ち落とされたためか、彼らは今魔理沙を取り囲んでじっと睨み続けている。しかし、何れ彼らは気が付くだろう。この小さな魔法使いには最早何の力も残されておらず、脅威となる魔法の類は、もう二度と放たれることがないということに。
 そうなれば、もう魔理沙の末路は決まっている。
「あら、グッドタイミングかしら?」
 覚悟にも似た諦めに身を落とし、やけくそに体当たりでもしてやろうかと考えたその時、不意に涼やかな声が耳に届く。そして同時に魔理沙の右側でその鋭い爪を油断無く構えていた妖魔が、紫色のレーザーによって打ち落とされる。
「ヒーローの窮地に駆けつけるなんて、何ともドラマティックな展開ね」
 幾つもの人形が残る妖魔を突き、切り裂き、叩き落とす。そして当の本人は涼しい顔で真っ直ぐにこちらへ向かい、その優しい腕で魔理沙の身体を抱きしめた。
「使い古された展開だぜ、アリス」
「本当はもう少し早く駆けつけるつもりだったんだけど、ちょっと手間取ってね。上海、魔理沙の箒を持ってあげて頂戴」
 人形に箒を預け、魔理沙はしっかりとアリスの身体にしがみつく。安堵感で零れそうになる涙をこらえながら、その温もりを確かめるように強く強く。
「まあ、お前も無事で良かったぜ」
「貴女もね。お疲れさま、魔理沙」
 そっと小さく添えられた口づけに、魔理沙は頬を赤らめる。そしてその口づけに答えるように、魔理沙も身を乗り出してアリスの唇を求めた。
「あー、いちゃつくのは人目のないところでやってほしいねえ」
 唇が触れる間際にかかる突然の声に、魔理沙は慌てて身を離す。腕の中から落ちてしまいそうになる身体をアリスに支えられながら、振り返った視線の先には意外な人物が二人。
「逢い引きは後回しにして、最終ステージへ行きましょう。全ての終わりを見届けるために」
 凛とした威厳ある声と、物静かな佇まいに否応無く緊張が走る。
 そして魔理沙は、自分が関わっていた異変の根の深さと壮大さを、改めて知ることとなった。



 瞼の向こう側が、輝いている。
(なに……?)
 明滅を繰り返す光は様々な色を持ち、まるで揺り起こそうとしているかのように瞼を刺激し続ける。
 その光に誘われるようにまだ重い身体を持ち上げ、はっきりとしない意識のままにゆっくりと瞳を開く。
 朧気だった記憶が少しづつ鮮明さを増し、同時に靄のかかっていた視界が晴れる。
 そうして美希の眼前に映し出された光景は、信じがたいものだった。
「……霊夢さん!」
 様々に輝く光の粒が霊夢を徐々に追いつめてゆく。眼前で行われているその光景が何を意味しているのか、何を意図しているのかは全く解らない。
 だが、一つだけ美希にもはっきりと理解できることがあった。
 それはその光の粒一つ一つが、確たる威力をもって霊夢に襲いかかっているという事だ。
「なんで……どうしてこんな……」
 争っているのは紫と霊夢。その原因が自分にあることは朧気ながら理解できた。そしてそれが、おそらくは命を賭けての勝負になっていることが恐ろしかった。
 満身創痍の霊夢と、余裕の笑みを浮かべる紫。どちらが有利かなど、問わずとも理解できる。
「やめて! もう霊夢さんを傷つけないで!!」
 びくともしない鉄格子を掴んだまま、美希はありったけの声を張り上げる。泣き叫ぶようなその声は二人の耳にも届いただろうか。だが、勝負は一時たりとも中断する様子を見せない。
「付き合いきれないわ! 落ちなさい!!」
 霊夢の鋭い声と共に、目映いばかりの光が彼女の身体から発せられる。

 霊符「夢想封印」

 光は幾重にも別れ、それぞれに違う色の輝きを纏って球形を成す。そして紫の放った楔型の光を飲み込みながら一気に彼女へと迫った。
「きゃっ!」
 光は紫の元で収束し、瞼を貫かんばかりの輝きを放つ。それはまるで、快晴の太陽のような強烈な光。
 その光に包まれながら、美希はどこか安堵を覚えていた。この強烈な輝きは霊夢の強い力によるものなのだろうと、紫を退ける強い力の現れなのだろうと、心のどこかで確信していたからだ。
 だが、耳に飛び込んできたのは受け入れがたい現実を示す言葉。
「六枚目撃破。残るは後二枚ね、霊夢」
 その意味は問わずとも解る。
 彼女達は少なくとも後二回、このような戦いをするつもりなのだ。
 八雲紫は妖怪だと聞いている。妖怪とは概ね人間より寿命が長く、頑健で、そして強力な力を持つらしい。
 対する霊夢は人間だ。空を飛べても、不思議な術が使えても、人間であることに変わりはない。
 そして彼女は今傷だらけであり、肩で息をするほどに消耗している。一方の紫は笑顔を見せるほどの余裕があり、息一つ乱れた様子もなければ傷はおろか衣装の綻び一つすらも見えない。
 戦況は明らかに紫の優位に傾いていた。
「もうやめて! これ以上霊夢さんを傷つけないで!!」
「そうはいかないわ。これは霊夢と私との、貴女を賭けた勝負なんですもの。ねぇ霊夢?」
 紫の問いに、霊夢は何も答えない。しかしその沈黙が肯定を意味していることは明白だ。
 自分はこの檻の中で、霊夢が危険に身を晒す様を見守らなければならない。彼女が傷つき倒れるかも知れない様を見続けなければならない。
 自身のわがままのせいで。
 そう、事は単純な話だ。諦めればいい。それだけで霊夢は傷つかないで済む。命の危険に身を晒さずに済む。ならば。
「紫さん、私……私……!」
「諦めないで!」
 喉元まで出かかった言葉を遮ったのは、霊夢の一言だった。
「私はあんたを連れ帰るためにここまで来たのよ。なのにあんたが諦めてどうするの」
「れ、霊夢さん……でも……!」
「信じて。私はあんたを絶対連れ戻す」
 霊夢は一度たりとも、美希と目を合わせようとしなかった。その瞳が常に睨んでいたのは、他でもない八雲紫。
 それが彼女の決意の現れであり、意志の強さ。
 その強さこそが、博麗霊夢の強さなのだろう。
「さぁ、次のスペルを展開しなさい! さっさとあんたを叩きのめして、こんな茶番を終わりにさせてやるわ!」
「良い度胸ね。では私も妖怪の大賢者として、本気で相手をするとしましょう!」

 紫終「夢の終わり」

 紫の眼前にカード状のものが現れ、それが怪しげな紫色の光を放つ。
 美希が何かを言うよりも先に、戦いの火蓋は切って落とされてしまったらしい。
「霊夢さん……!」
 美希はただただ祈ることしかできなかった。鉄格子に閉じこめられた自分には。いや、よしんば自由であったとしても、出来ることなどありはしない。
 捕らわれの姫とはそういうものなのだ。
 カードの発光と共に、紫の周囲に光の帯が集まり始める。帯は正方形を成し、彼女を中心にゆっくりと回転し始める。一つが出来上がると次が形作られ、次が出来上がるとまた一つ。そうして紫の周囲には、八つの正方形をした光の帯が角度を変えて回転し始めた。
「八雲紫の紫終結界、壊せるものなら壊してみなさい」
 紫は手にしていた傘をくるりと回し、閉じた扇子を霊夢へ向ける。その直後、回転していた正方形から楔型をした光の粒が放射された。
「きゃっ!」
 粒は様々な角度で放たれ、その一部は鉄格子の中の美希にも迫ってくる。しかし格子の僅か先で、その光はまるで何かに衝突したように消えてしまう。
 どうやら自分は、某かの力で守られているらしい。
「くぅっ!」
 しかし霊夢はそうではない。苦悶の表情を見せながら身体を捩り、寸手の所で光をかわす。その手にはしっかりと針が握られており、霊夢はまさしく虎視眈々と反撃の機会を伺っているようだ。
 だが、彼女の言う本気とは、それほど生易しいものではないらしい。
「霊夢さん! 後ろ!!」
「きゃぁっ!」
 大きく叫んだ美希の声も虚しく、霊夢は楔型の光を背中に受けてしまう。
 彼女の背中を打った光は霊夢の後方、いつの間にか広げられていた大きな光の帯から発射されていた。
 帯はどうやら先程紫が形作った正方形の一つらしい。彼女の放った光はその正方形に当たって反射し、背面から霊夢に襲いかかる。それだけではない。紫の周囲を覆う正方形自身も大きく伸縮を繰り返しながら霊夢の身体を打ちのめそうとしていた。
 既に霊夢は体勢を立て直し、幾筋もの光の雨をかわしながら札と針を放っている。
 しかし、じりじりと追いつめられているのは紛れもなく霊夢の方だった。
「霊夢さん…………」
 己の為に、彼女は命を賭けている。
 傷つき消耗しながら、それでも尚戦い続けている。
 そんな彼女を前にして、何も出来ない自分がもどかしい。
「私にも……何か……そうだ!」
 胸元を探り、リボンタイにつけられたブローチを握りしめる。そのブローチは今朝魔理沙から贈られたものであり、彼女手製の魔法の道具だ。

『……いいか? 最後に教えるのはどうしても力を使わなきゃいけない。そんなときのキーワードだ。使った後は他の機能が全部停止するから、よく考えて使えよ?』

 ブローチに込められた魔力は三つだった。霊夢の居場所が解る能力、真っ暗闇を照らす能力、そして、最後の一つ。
「私だって……!」
 美希はブローチを掲げ、それを紫の方へと向ける。
 この力が紫に通じるかどうかは解らない。
 もしかしたら、傷一つどころか彼女に届くことなくかき消えてしまうかもしれない。
 それでも、何もできないのは嫌だった。
 霊夢が見せた強い意志に、自分も答えたかった。
「リトルスパーク!!」
 ブローチから発せられた、目映いばかりの光。それが紫めがけて真っ直ぐに突き進んでゆく。
 本来、魔理沙の与えたこのブローチの魔力はそれほど強いものではなかった。弱い魔物なら撃退できるか、力及ばずとも怯ませることぐらいは出来るかも知れない。だが所詮はその程度の威力だ。当然ながら紫が作った結界をどうにかすることなど、出来る訳が無い。
 しかし、悪戯兎の授けた力か、奇跡の巫女の祈りか、はたまたその両方なのか。それは誰にも解らない。
 ともかく、奇跡は今ここに成し得た。

 バリン!

 ガラスの割れるような音と共に、格子を覆う結界が砕ける。紫自身が放った弾幕と、霊夢が投げた札の流れ弾。それと、ブローチの魔力。その三つが相互に作用し、格子と結界を破壊するに至ったのである。
 しかし、幸運は長く続かない。支えを失った格子は傾き、美希を振り落とそうと揺れ続ける。
「うそっ!?」
 それは完全に予想外の出来事だった。
 そう、美希はすっかり忘れていたのだ。彼女たちと同様、自身もまた空の彼方に浮いているのだということを。
 無理もない。何しろ彼女は今の今まで捕らわれの身であり、霊夢と出会う直前まで外を伺う機会すら与えられなかったのだから。
「まずいっ! ……っ!」
「美希っ!!」
 ブローチの魔力は確かに紫に届いていた。しかし皮肉にもその魔力によって生まれた一瞬の隙は、紫の一歩を出遅れさせるだけでしかなかった。
 その一歩の間に、美希は格子の中から滑り落ちてしまう。
「霊夢さんっ!」
 代わりに飛び出した霊夢が矢のような速度で自身に迫る。
 降り注ぐ光の雨の中を。
「だめっ! 来ないで!!」
「そんなわけにいかないわよ!!」
 触れたかった肌に、望んでいた腕に、美希はしっかりと抱きしめられた。しかし窮地は変わらぬままだ。このままでは霊夢は無数の光の雨に撃たれてしまう。
 自身の軽はずみな行動のせいで。
「博麗の巫女を舐めないでよね!」
 美希にもはっきりと解るほどの霊力が一気に霊夢の中から立ち上る。
 それは今まで美希が見てきた霊夢の技の中で、最も美しく、最も激しいものだった。

 「夢想天生」

 全てを照らす純白の光。それが霊夢の身体から放たれていた。太陽よりも眩しい。しかし、目を焼くほどの苛烈さはない不思議な光。それが一瞬のうちに発せられ、そして消えていった。
 清らかな静寂だけを残して。
「お見事。七枚目クリアよ」
 静寂の中で告げられる、霊夢の勝利。
 しかし、それは手放しで喜べるようなものではなかった。
「霊夢さん……ごめんなさい、私……」
「よくやったわ、美希。あれがなかったら私は押し負けてたもの」
 笑顔を見せる霊夢の額には、はっきりと汗が浮いている。自身を抱える腕にも力強さはなく、その消耗の激しさを雄弁に物語っている。
 加えて、これから彼女は自分を支えて戦わなくてはいけない。
 これでは加勢どころか余計足を引っ張った形だ。
「彼女の勇気に免じて、八枚目はそちらに準備をする機会を与えましょう」
「必要ないわ」
 さらりと言い放ち、霊夢は懐から八角形をした木製の置物のようなものを取り出す。
「何をするつもり? それは貴女の魂では使えないと以前教えたはずよ」
 霊夢が手にしているそれは、美希にも見覚えがあった。確かそれは霧雨魔理沙が大事にしていた八卦炉というものであり、使いこなせるのは自分だけだと言っていた代物だ。
「やってみなくちゃ解らないわ。確かに私の魂は陽の力が強すぎるから、完全に開くことは出来ない。それでも、貴女に一矢報いるぐらいは出来るかも知れないもの」
 魂の陰と陽。そのバランスが八卦炉の取り扱いには必要だというのだろうか。そして、霊夢ではそのバランスが保てないという事なのだろうか。
 ならば。
「……なら、こうすればどうですか?」
 霊夢の手にそっと自身の手を重ね、きっと紫を睨む。
 強い意志と決意を込めて。
「美希……」
「私、もう嫌です。待ってるだけも、与えられるだけも。私は自分で選んで、自分で道を決めたい。そして私が選ぶのは、この世界で生き続ける道です」
「正気なの? 貴女が思っているほど、ここは甘い世界ではないのよ?」
「確かに、怖い思いは何度もしました。今も足が震えそうです。でも、もう逃げたくないんです」
 今まで美希の人生は、全て受け身だった。無理もない。幸せだった頃の美希は、いや貴美は人生の選択を与えられるには幼すぎ、ようやくそれを享受できる頃には、全てを奪われていたのだから。
「私は霊夢さんに会って、いろんなものを教えてもらえた。命の重み、生きるということの意味、家族の暖かさ、大切な友達、必要とされる喜び、それから、誰かを愛するという事。たくさんたくさん教えてもらえた。そして、いろんなものを与えてもらえた。私はそれを一つだって手放したくない! 私の道は私が決める!」
 悩みも恐怖も、どこかへ吹き飛んでいた。怯えはどこかへ消え去り、震えも止まった。
 今の美希には何の恐ろしさもなかった。
 背中に感じる暖かみと、重ねた手の温もり。その二つが、しっかりと自分を支えてくれているから。
「霊力の使えない貴女が何をしても……」
「それは私が肩代わりすればいい。これで陰と陽はそろった」
「そう、引く気はないというのね」
 広げていた傘を畳んで投げ捨て、紫は扇子も懐に隠して向き直る。
 彼女の正面には、黒塗りの最後の一枚。
「ならば打ち破って見せなさい。私のラストワードを」
 紫の周囲に光が集まる。光はカードに吸い込まれ、カードは次第に虹色に輝き始める。
 それでも、美希は何一つ怖くなかった。
 霊夢を信じていたから。
「美希、手のひらに意識を集中して。後は私に任せて頂戴。少し疲れるかもしれないけど、そこは覚悟してね」
「はい!」
 瞳を閉じ、手のひらに神経を集中する。自身を流れる血潮の一つ一つを集めるように、深い呼吸を繰り返しながらゆっくりと。
「良い感じよ。準備は良い?」
「お任せします」
 霊夢に身体を預け、八卦炉にしっかりと両手を添える。宣言すべきスペルカードの名前は、何故か自然と頭に浮かび上がっていた。
「いくわよ!」
 霊夢の号令の元、二人の声がぴたりと重なる。
 物語の幕を下ろすために。大団円のエンディングを迎えるために。

 恋符「マスタースパーク!」



 重ねた二人の手から伸びる、一筋の光。それは確かに紫を包み込んでいた。
 予想以上に強力な一撃は、魔理沙の放つ本気の一撃と遜色無いほどの威力を示し、紫にも相応の衝撃を与えたに違いない。
 ただ一つだけ不思議だったのは、紫がそれに対して何の反応も見せず、一つの弾幕も結界も放とうとしなかったことだ。
(どちらにせよ、もう限界ね……)
 それが紫の企みなのか、本当に自分達が勝利したのか、確かめる術は何一つ無い。
 ただ一つだけ、今の霊夢がしなければいけないことは、これからどうやって自分と美希の命を守るかだ。
 眼下は暗い森。それもかなりの距離があるように見える。慣れないことをしたせいか、美希は腕の中で気を失っている。霊夢自身も消耗が激しく、気を抜けば彼女同様深い眠りの淵へ落ちてしまうだろう。また、普段は歩くよりも簡単に行っている飛翔だが、今はその霊力を保つことすら難しい。
(一か八か……やるしかないわね)
 八卦炉を袖口に投げ込み、美希を両腕でしっかりと抱え直す。地上までの距離を改めて確認し、深呼吸を一つ。それから、霊夢は飛翔の霊力を切り捨てた。
 二人が助かるための賭け。それは地上すれすれで霊撃を放って落下の威力を相殺するというものだった。
 もちろんそれだけでは無理がある。霊撃は範囲も威力もそう大きなものではないため、それ単体では落下速度を相殺しきれない。故に地上すれすれで飛翔に霊力を使い、ある程度その速度を殺しておく必要がある。
 失敗すれば二人ともお陀仏。成功しても助かる保証はない。あまりにも分の悪すぎる賭けだが、今の霊夢には他の選択肢が存在しなかった。
(せめて、美希だけでも……)
 重力に身を任せながら、霊夢は美希を強く強く抱きしめていた。己の身体で、彼女を受け止めるつもりで。
「ぎりぎりセーフ!!」
 覚悟を決めて瞳を閉じた霊夢の身体が、小さな衝撃と共に静止する。
 突如響いた大きな声の主に、霊夢はしっかりと抱き止められていた。暖かく大きな腕からは僅かに気が流れ込み、薄れかけていた意識をはっきりさせてゆく。
「あんた……どうしてここに……?」
「もうちょっと気を送るから、あまり喋らないで」
 自身を抱く腕の正体は、紅魔館の門番のものだった。花芽を膨らませるような柔らかな気が自身を包み、その中で失われていた力が僅かづつ戻ってゆくのが解る。
「ん……? あ、あれ……わたし……?」
 どうやら気は美希にも送り込まれていたらしい。薄く目を開けながら、彼女はゆっくりと首を動かして事態の把握を試みようとしていた。
「よかった、無事だったのね」
「霊夢さん……それに、美鈴さんも……。あっ! そうだ! 勝負はどうなったんですか?」
「お二人の勝利です。そうですよね? 八雲紫」
 静かで威厳のある声が耳に届く。耳慣れぬ、だが聞き覚えのあるその声は、現世でそうそう耳にするようなものではない。
「なんで……貴女がここに……」
 魂の管理者。全てを裁く者。王の中の王。二つ名は幾つもあれど、この幻想郷における最もふさわしい呼び名は一つ。
 楽園の最高裁判長。四季映姫・ヤマザナドゥ。
 彼女は彼岸の彼方にある魂の裁判所にて閻魔帳をもとに生前の罪を裁く存在である。現世に現れることは希であり、如何に大きな異変でも、彼女がわざわざ出向くようなことはないはずだ。
「いわゆる黒幕という存在です。この度の異変には、私も一枚噛んでいたのですよ」
 淡々とした口調でそう告げる彼女の後ろには、鎌を持った渡し守の姿。どうやら夢でも冗談でもないらしい。
「彼女の言ったとおり、勝負は貴女の勝ちよ、霊夢。そして種明かしはもう少し落ち着いた場所でするとしましょう」
「霊夢さん、彼女をお預かりします」
 美鈴の側に居たのだろうか。鈴仙が気を利かせてそっと声をかけてくる。確かに、自分が抱えられたまま誰かを抱えているというのは何ともおかしな光景であり、恐らくは美鈴の負担も大きい。かといって自分はまだ彼女を抱えて飛べるほど回復しているわけでもない。ここは言葉に甘えておくのが筋というものだろう。
 霊夢は素直に礼を言い、美希を預けて自身の身体を美鈴の腕に委ねる。しかし、この選択を霊夢はすぐに後悔した。
「おー、ヒーローかと思いきやお姫様が二人だぜ」
「ちょっ! 何でみんな居るのよ!」
 眼下に広がる小さな野原には、多くの人妖が集まっていた。霊夢と美希はそれぞれ美鈴と鈴仙に姫抱きにされており、からかうような言葉を投げつけた魔法使いの言う通り、まさに助け出された姫そのもの。
「何でも何も、事の真相は関わった者の全てに聞かせて然るべきでしょう。ねぇ、お姫様?」
 含み笑いを浮かべながら、紫がさらに追い打ちをかけてくる。おかげで霊夢の顔は耳まで赤くなっており、その様を見た美希にも笑われる始末だった。
「まぁまぁ、大仕事を成し得た後なんですから、あまりからかうのはかわいそうですよ」
「そういうのはそのにやけ顔を何とかしてから言いなさい!」
 フォローをしたようでしていない美鈴を怒鳴りながら、霊夢はその腕の中から飛び降りて一足先に地上に降り立つ。
 かみつきはしたものの、霊夢は内心美鈴に感謝していた。彼女が気を送り込んでくれなければ、今頃霊夢は地面に倒れ、さらに無様な醜態を晒していただろう。そして先程まで眠っていた美希が平然としていられるのも、恐らくは彼女のお陰だ。
「それで、一体何を企んでたの?」
 恥ずかしさを隠すように、霊夢は紫と映姫に種明かしをせがむ。集まった面々もまだ何も聞かされていないのだろう。彼女達の視線もまた、自然と二人へと注がれていた。
「種明かしの前に、まずは美希にお詫びをしなければなりません」
「私……?」
「はい。筋書きを書いたのは紫ですが、私もまた貴女を利用する側に居たのは事実です」
「そうね、首謀者の私からも改めてお詫びを」
 閻魔と大妖怪がただの人間にそろって頭を下げる。こんな光景は恐らく最初で最後だろう。あまりの出来事に他の者は口を開けたまま固まっており、一番喜びそうな新聞屋ですら、ペンを落としているほどだ。
 まあ、記事にしたところで誰も信じないとは思うのだが。
「あ、あの……、頭を上げてください。映姫様の言ってることは、私にはよくわかりませんし……、紫さんは私のためにしてくれたことだったわけですし……」
「ちょっと、解るように説明してよ」
 やや訳知り気味の美希と違い、霊夢には事の真相がまるで見えていなかった。それだけ頭に血が上っていたというのもあるが、今回は何しろ情報が少なかったのだ。
「解ったわ。まずは彼女に話したことを……」
 ぽつぽつと紫が話しはじめたのは、彼女自身の過去に関する出来事だった。いくつかはごまかしが入っており、あやふやにして伏せている部分も多数見受けられるが、少なくとも嘘偽りは無さそうに思える。
「じゃあ何? 美希が外の世界で酷い目に遭ってたのは、あんたのせいだって言うの?」
「ええ、そういうことよ。そしてその罪滅ぼしのために、私は彼女を助けることにしたの」
 確かに、今考えてみれば紫の行動は不自然だった。如何に自分の頼みであろうとも、如何に彼女が気まぐれであろうとも、ただの人間一人のために閻魔に掛け合い、外の世界での彼女の記録を消すなどという面倒なことをするわけがない。
 面倒なだけではない。生死や魂に関わることは世の理の一つでもある。それをおいそれと曲げられるわけがないはずだ。冷静に考えれば誰にでも気が付きそうなことだが、霊夢はそれにまるで気が付いていなかった。
「そして八雲紫は私の元に訪れ、私は彼女の望みを聞く代わりに、一つの使命を与えたのです」
 映姫の背格好は、霊夢とそれほど大差がない。にもかかわらず彼女の言動一つ、一挙手一投足には全て威厳が備わっており、その存在を実際よりも大きく見せる。
「八雲紫の望みは、希島貴美の罪の全てを自身に移し変えること。そして私が与えた使命は、この幻想郷を試すことです」
 誰一人として、口を挟もうとする者は居なかった。あの悪戯兎ですら口を噤み、神妙な面持ちで耳を傾けている。
 閻魔の存在は、長く生きた者ほど大きく強く実感できるという。そしてここにいる者達の殆どは霊夢より年嵩だ。彼女達の瞳には、この小柄な少女が別の姿で映っているのかもしれない。
「私は時折幻想郷を覗き、日々の暮らしや魂の在り方を見つめてきました。確かにこの世界は楽園と言うにふさわしいほどに恵まれており、多くの者が笑顔を絶やす事のない幸せな箱庭です。ですが、それ以上でもそれ以下でもない」
「平和なことの何が悪いの? 幸せならそれで良いじゃない」
「私はただ善し悪しを判断して罰を与えるだけの存在ではありません。魂をより善き存在へと導き、何れは輪廻の枠から離れて昇華する手助けをする。天国も地獄も、罰も褒美も、全てはそのためにあるのです。しかし、恵まれたこの箱庭では魂は同じ所をぐるぐると巡り続けるばかり。それだけではなく、己を磨く事すら忘れ、怠惰の内にその魂を錆びさせてしまう。それでは輪廻の意味がないのです」
「そして私も同じようなことを危惧していたわ。スペルカードルールとは本来己の存在意義や心情をぶつけ、他者に自己を認めてもらうためのもの。ところが今やその意味は薄れつつあり、娯楽や遊戯の一つと化し始めている。それはそれでかまわないことだけれど、貴女達がそうした児戯に身を沈めている内に、本当の意味での戦いを忘れてしまったら……とね。まあ私と閻魔様の心配は杞憂であることが証明されたのだけれど」
 確かに二人の言うことには一理ある。
 安寧と平和は怠惰と背中合わせだ。日々の平穏に甘んじていては、いつか己の意志と力を錆び付かせる。
 また、スペルカードによる決闘や異変が娯楽の一つと化しているのも事実だった。代わり映えのしない日々を過ごす者からすれば事件や異変はちょっとした娯楽になるだろうし、美しい弾幕を放つスペルカードが花火の如く人々を魅了するのも理解できる。
 しかし、それらを時代の流れと片付けてしまうのは些か危険な気がしてならない。
 形有るものがいつか壊れるように、この箱庭が箱庭でなくなる日が来ないとも限らないのだ。そうでなくとも、欲に目が眩んだ者共がこの豊かな土地に目を付けるという流れは想像に難くない。
 そしてその時に必要なのは、華美な弾幕ではなく、相手を打ち倒す確固たる強さなのだ。
 今回の異変はその強さを試す試練とも言うべきものであり、それ故に多くの場所、多くの者が標的にされたのだろう。そしてその全ては悉く打ち倒され、真の強さと魂の輝きを見せつけた。
「じゃあ異変に立ち向かわせるために美希を浚ったの?」
「それも理由の一つではあるけど、本来の目的は貴女の本気を見ることよ。もちろん私が美希に語った事も事実。私は今でも、彼女の幸せは外の世界にあると思っているから」
 この大妖怪がこうまでころころと表情を変えるのは、後にも先にも今日一日限りかもしれない。彼女の憂いを湛えた瞳を見つめながら、霊夢はふとそんなことを考えていた。
「では改めて彼女に問うとしましょう」
 映姫の静かな声と共に、一同の視線が美希へと注がれる。まだ顔色の優れない彼女は、戸惑いながらも映姫の視線をしっかりと受け止めていた。
「紫は使命を果たし、貴女の罪は紫へと移されました。また、貴女が受けた地獄の如き日々は贖罪に充てるに値し、貴女の生活は外の世界でも約束されるでしょう。彷徨える魂よ、貴女の答えを聞かせてください」
「……霊夢さん」
 問いかけるような視線が、こちらへと注がれる。
 霊夢は自身の望みを深く飲み込み、それから静かな笑顔で彼女の表情に答える。
「貴女の思うとおりになさい。私から言えるのはそれだけ」
「……なら、もう答えは決まっています」



「私はこの世界に残ります。ここで皆さんと一緒に暮らしたい」
 貴美の、いや、美希の答えは予想通りのものだった。
 紫はそれを悲しくも思い、同時に嬉しくも思う。
「本当にいいの? 後悔しても取り返しはつかないのよ?」
「どっちを選んでも、多かれ少なかれ後悔はすると思います。だったら、私はこの世界で暮らしたい。たくさんの出会いと思い出をくれた、この素敵な世界で」
 清々しい笑顔と迷いのない答え。その言葉に紫は救われたような気分になる。
 確かに彼女の言うとおり、どちらを選んでも何れは後悔をする日が来るだろう。この世界には近代的な機械や文明、医療の類が無く、寿命も人とかけ離れた者が多い。それは理不尽な別れや、一人老い逝く惨めさを約束されていると言っても過言ではないのだ。
 また、外の世界は広大だ。楽園ではないにせよ、己の足でどこへでも行くことが出来る自由さがある。それに比べてこの箱庭はなんと狭苦しいことだろうか。
 ではもし彼女を外の世界に出すとしたら、どうすればよいのだろうか。
 まずこの幻想世界の記憶を消し去る必要がある。それから自身を都合の良い遠い親戚という事にして、亡くなった母の代わりに偽りの家庭と過去を与える。そうすれば別れを悔やみ悲しむこともなく、箱庭の秘密も守られる。
 しかし、人間の記憶は複雑で、偽りの知識は何れどこかでぼろが出る。そしてその度に記憶を改竄するのはあまりにも危険すぎる。
 そしてもし全てを思い出してしまったら。
 彼女は絶望するほどの悲しみに打ちひしがれるだろう。
 それに、彼女達の覚悟の程は先程の戦いで見せてもらったのだ。これ以上問うのは無意味だろう。
「では決まりだ。よいな? 紫」
 映姫の言葉に静かに頷きながら、紫は深い安堵を覚えていた。
 永く探し続けてきた罪はこれで自身の魂に戻される。しかもこれからは、もう一つの罪と共にこの箱庭で生き続けるのだ。これほどの幸福は、これから先千年は出会えないかもしれない。
「彷徨える魂よ、お前に刻まれた罪は今この時をもって八雲紫の罪となる。そして同時に希島貴美の名は失われ、美希として私の閻魔帳に記されることとなった。魂の研鑽、努々忘れるでないぞ」
「はい」
「……去年私の所に名前を聞きに来たときに書いたんじゃなかったの?」
 映姫の言葉に眉を顰めて問いかける霊夢。どうやら彼女は去年の冬で全てが済んでいるものだと思っていたらしい。
「あのときは聞きに来ただけさね。今すぐ書き直すなんて一言も言ってないよ」
「彼女の魂をどうするかは私に一任されておりました。すぐに外の世界で新しい生活を与えるわけにはいきませんし、彼女自身の承諾無しに全てを決定するわけにもいきません。故に今までの彼女はいわば保留状態だったのです」
 やや納得がいかない顔の霊夢の向こうで、吸血鬼の姉が憮然とした表情を見せている。大方運命操作でもしようとして、映姫の力にそれを阻まれでもしたのだろう。
「話を戻そう。八雲紫よ、新たに刻まれた罪を償うべく、お前に新たな使命を授ける」
「はい。覚悟は出来ております」
 自分があのときどれだけの人間を喰らい、殺めてきたか、今となってはもう思い出すことも出来ない。だが何度と無く繰り返された輪廻の中で、それでもまだ消えなかった深い罪だ。軽く済むわけがない。
 紫はそれを拒むことなく粛々と受け止めるつもりだった。
 自分はそのために、これまで生き続けてきたようなものなのだから。
「まず、新たに幻想の住人となった彼女にふさわしい姓を与えよ。そしてその魂が深い過ちを犯すことなく、災禍によって無碍に踏みにじられることが無きよう見守りなさい」
 覚悟のために閉じていた瞳を見開き、紫はまじまじと映姫を見つめる。しかし彼女はこちらの視線などまるで意に介した様子もなく、淡々と言葉を続けた。
「犯した罪とそのために受けた罰を元に、私は私の裁量に基づいて量刑を引き直しました。異論は許しません」
「…………判決、粛々を受け止めさせていただきます」
 国、人、時代や文化によって善悪や罪の重さは変化する。だからこそ閻魔は一人なのではなく、それぞれの地域に応じて複数の閻魔が存在するのだ。故に同じような罪でも与えられる罰は一定ではない。
 量刑を引き直したのは、もしかすると映姫なりの恩赦なのかもしれない。
 そしてこの四季映姫・ヤマザナドゥは、閻魔の中でも甘い部類に入るのかもしれない。
 紫は彼女の判決に深く感謝し、そして垂れた頭の下で、人知れず一滴の涙を零した。
「……美希、先程下った判決の通り、私から貴女に姓を送ります」
「はい」
「特殊な境遇に置かれたとはいえ、貴女は多くの者と心を通わせ、種族の垣根を越えて手を取り合った。そして、私の起こした異変に対し、一丸となって立ち向かうきっかけを与えた。その働きをもって、貴女に八束の姓を与える」
「やつか……」
「博麗と八雲の姓は特別で、貴女に与えるわけにはいかないの。ごめんなさい」
「い、いえとんでもないです! というか、私そんな大層なことは……」
「受け取っておきなさい。あんたにぴったりの姓だと思うわ」
 ようやく笑顔を見せた霊夢が、深く頷きながら彼女の背を後押しする。この場に集った者達もどうやらその姓を歓迎しているようだ。
「じゃ、じゃあ……お受けします。ありがとうございます」
「決まりだな。では八束美希よ、その姓と名に恥じぬようにこれからの日々を正しく生きるように」
「はい。映姫様も、ありがとうございます」
 誰からともなく拍手が起こり、その音が広がる。だが、その和やかな雰囲気も束の間、はっきりと水を差す声が一つ。
「大団円の所申し訳有りませんが、我が家の家庭裁判はまだ終わっていません」
 腰に手を当て、憮然とした顔でこちらを睨む藍。その表情に紫は大切なことを忘れていたことに気が付いた。
 彼女の式は、まだ抜けたままだったのだ。
「紫様、私と橙を不安にさせ、多くの者を巻き込んだ罪は、たとえ閻魔様の使命だったとしても許されるものではありません」
 異変を開始するに当たり、紫は藍の式を抜いて自由にした。それは己の罪は己自身で受け止めるべきだという思いからであり、藍と橙に罪悪の念を抱えて欲しくなかったからでもある。しかしそれを説明して理解させるのは到底不可能だと思い、紫は彼女に黙って式を抜き、行方を眩ませたのだ。
 彼女の怒りは尤もであり、一家の縁を切られても文句は言えない。
「どうして説明していただけなかったんですか」
「理解されないと思ったのよ」
「私を信じてないということですか」
「信じているからこその判断だったのだけれど……悪いことをしたわね」
「いーえ、許しません。八雲家の裁判長として判決を下します!」
 藍の腰にまとわりついておろおろと視線を泳がせる橙。彼女もまた、この異変の間不安な思いを抱えていたのだろう。そう思うと申し訳なさも一入であり、どんな言葉も言い訳にしかならないように思えてくる。
「わかったわ。判決をお願い」
「では、まず家に帰ったら私に式を打ち直していただきます。それから今夜は皆ゆっくり休みたいでしょうから、明日の晩にでも酒宴を開いていただきます。もちろんもう一人の首謀者である四季映姫様もそこに出席していただきますよ。よろしいですね?」
 有無を言わさぬその口調に、全員が静まり返る。
 十王である閻魔に判決を下す妖怪など、恐らく世界中のどこを探しても藍以外には存在しないだろう。
「私はそのような暇は……」
「だめですよ、映姫様。下された判決は粛々と受け止めないと。裁判長、宴会の場所は?」
 笑いを堪えるのに必死といった風な渡し守が、映姫の言葉を遮って労役の現場を聞く。彼女が強く反論できなかったのは、己が異変の片棒を担いだが故だろう。
「博麗神社をお借りしたいのだが、かまわないかな? 霊夢」
「他に場所なんてないんでしょ。好きにしなさい。酒と料理は紫に持ってこさせてね」
 最早誰にも止められない状況だった。それぞれが口々に宴会の予定を話しはじめ、静かだった場が騒然となる。
 だが、この騒がしさこそ、幻想郷なのかもしれない。
「紫様、よろしいですね?」
「……わかったわよ。ありがとう、藍」
 小さく溜息を吐きながら、紫はそれでもまだ自身を慕ってくれる狐に深く感謝をした。
 気が付けば、東の空は僅かに色を変えはじめている。
 長い長い夜は、今ようやく終わりを告げたのだ。



 全てを終えて神社に戻ったのは明け方。雀の鳴く声を聞きながら二人は引きずるように布団を並べ、のそのそと着替えて湯浴みも忘れて眠りについた。夢を見る間もないような、泥のような睡眠。
 その眠りから霊夢が目を覚ましたのは、夕闇差し迫った頃だった。
(昨日の出来事が嘘みたいね……)
 隣の布団では、まだ美希が寝息を立てている。安らかなその表情からは疲れの色も消えており、目が覚めればまた元気な笑顔を見せるだろう。
(そういえば、今日は宴会するんだっけ)
 藍の言葉を思い出し、霊夢は肩掛けを羽織って祭殿の方へと足を向ける。準備は全て紫にさせると言っていたが、何をどこまで進めているやら気懸かりで仕方がない。
「突拍子もないことしてなきゃいいけど……」
 準備も片付けも紫の仕事とするから、霊夢と美希は座っているだけで良い。藍にはそういわれたものの、この神社は自分達の家でもある。面倒事は避けたいし、建造物を破壊されてはたまったものではない。
 しかし、その心配はどうやら杞憂に終わりそうだった。
「あら、起きてきたのね」
「またずいぶんと張り切ったわね……」
 酒宴はどうやら参道で行われるようだった。あちこちに篝火が焚かれ、酒席にも火鉢や焚火がいくつか置かれている。更にどこから用意したのか、風避けの屏風が会場をぐるりと取り囲んでおり、冬の寒さを忘れさせてくれそうに思える。
 また、供される料理も焚火や篝火を利用したもののようで、焼き物を作る鉄板や串に刺さった肉や魚、野菜をたっぷりと盛り込んだ鍋なども見える。
 それはまさに、酒宴と呼ぶに相応しい出来映えだった。
「新しい住人の歓迎会ですもの。豪華にしなきゃ」
 食器や酒を並べているのはスキマから伸びるいくつも手と、妖精らしき影。藍や橙の姿が見えないところをみると、本当に一人で準備をしているようだ。
「なんか悪いわね。すっかり寝ちゃってて」
「気にしないで頂戴。霊夢に手伝わせたらそれこそ小言どころじゃ済まなくなっちゃうもの」
 くすりと笑い、それから紫は霊夢の瞳をまじまじと見つめてくる。宴会場にまだ人影は無く、篝火に照らされているのは二人だけ。
「貴女にも、謝らなきゃいけないわね」
「どうして? 美希のことならもう……」
「違うわ。その身に重い枷をしてしまったことよ」
 向けられた微笑は悲しげなものだった。涙こそ見せてはいないが、その瞳に浮かぶ憂いがからかいや嘘の類でないことはすぐにわかる。
 先日からのことだが、この胡散臭い妖怪がこれほど感傷的になっているのは初めてだろう。それだけ美希という存在は、紫にとっても大きなものだったということなのだろうか。
「貴女を連れ去り、ここで博麗の巫女に仕立て上げたのは私。そしてそこに幻想郷の命運を課したのも私よ」
「なんだ、そんなこと」
 今更過ぎる彼女の言葉に思わず笑みを浮かべてしまう。
 賽銭箱に背中を預けるようにして腰を下ろし、酒宴の席を眺めながら、霊夢は独り言のように言葉を紡ぎ始めた。
「ま、確かに私が背負ってるものはちょっと重いかもしれないわね。でも、私はどっちかって言うとあんたに感謝してるかな」
「感謝?」
「そ。あんたのおかげでいろんなやつと出会えたし、美希とも会えた。私があんたに拾われる前、どんな状態で何をしてて、あんたに拾われなかったら今頃どうしてたか、そんなのはまるきり想像もつかない。もしかしたら今よりもっと幸せだったかもしれないし、考えられないぐらい不幸だったかもしれない。でもね、ひとつだけ確実にいえるのは、ここにこうして座ってられるのも、今日の宴会に出れるのも、みんなあんたのおかげ。それって、感謝したって罰が当たらないぐらい幸せなことじゃない?」
 何事か解っていない様子の紫と、得意満面の霊夢。それはいつもと真逆の光景だった。
 概ねの霊夢と紫の会話は、紫の言葉の意味を半分も理解出来ぬうちにからかわれ、それを種明かしする紫の言葉もまた意味が解らぬままに立ち去られ、日が変わってようやく本来の意味に気がついて苛立たしい思いをすると言った場合殆どだった。それだけに、今紫を僅かにでも出し抜いているのは殊更に嬉しい。
「だから、あんたが今しなきゃいけないことは私や美希に謝ることじゃなくて、こんなところ来なければよかったなんて露ほども思わないぐらいに楽しませること。違う?」
「…………言うようになったわね」
「回りくどくて胡散臭い教師が目の前に居るからね」
 視線を合わせて笑い合うと、紫はまた酒宴の席へと歩いていってしまう。そろそろ皆が来る頃だとは思うのだが、宴の準備は既に終わっているように思える。
「もう少しのんびりしたら?」
「遠慮しておくわ。貴女に話があるのは私だけじゃないみたいだし」
 紫の言葉と向けられた扇の先に見えたのは、見覚えのある黒い帽子のつばだった。どうやら本人はあれで隠れているつもりらしい。なんとも間抜けな話だが、そこもまた可愛らしいといえば可愛らしい。
 ここに呼びつけても良いのだが、流石にそれは彼女に可哀想かなと思い、霊夢はあえて気がつかない振りでそちらへ向かって歩くことにした。
「あら、あんたもう来てたの? 珍しく早いじゃない」
「あ、ああ…………。ちょっと話があってさ。いいか?」
「良いんじゃない? 私も返しそびれてたものがあったし。そのへんで座って待ってて」
 昨夜のうちに脱ぎ散らかした、最早衣類とは呼べないほどにぼろぼろになってしまった巫女装束の中から八卦炉を拾い出す。それからその他の術具をまとめて戸棚に置いて、霊夢はそのぼろきれをくずかごへ投げ捨て、魔理沙の元へと戻る。布団の中の美希は、未だまどろみの中に居るようだった。
「お待たせ。はい、これ」
「んぁ? おお、さんきゅ」
「それで、話って何?」
 ついでに持ってきたリボンで髪を結いながら、魔理沙の隣に腰掛ける。
 彼女はいつもの雰囲気からは想像もつかないほど、歯切れの悪い様子でもごもごと口を動かしていた。
「言い難いことなら、今じゃなくても」
「いや、ちゃんと言う。ごめんな霊夢。親無しだなんてからかったりして……」
 こちらの話も今更でありそんなことという感じだった。あの時魔理沙から出た言葉には確かに傷つきはしたものの、それは一晩寝てしまえば忘れてしまう程度のことでしかなかった。だが、どうやら魔理沙にとってはそう軽いものでもなかったらしい。言うに言えぬまま今日まで溜め込んでしまった彼女の表情が、それを雄弁に物語っているように思える。
「そうねえ、どうしようかしら……」
 気にしてないと許してしまうのは簡単だが、それではきっとこの魔女は納得しないだろう。いや、こちらにあわせて表面上は笑うかもしれない。でもそれではわだかまりが残るに違いない。それだけは、霊夢としても避けたいところだ。
「じゃあ、その八卦炉の借り賃と、美希につけてもらったブローチでチャラにしない?」
「え? いやでもそいつは…………」
「いいじゃない。私もあんたに言われてやっと気がついたぐらいだし。それにね、あのブローチとその八卦炉が無かったら、今頃美希は外の世界に居たかもしれない。むしろ私のほうが礼を言わなきゃ……。ありがとう、魔理沙」
 改まって礼を言うのは気恥ずかしかったが、魔理沙はそれ以上に辛い思いをしていたに違いない。そう思えば大して苦にはならなかった。
 魔理沙とはいつも、競い合うようにして異変を解決してきた。しかし今回、彼女は自分に全面的な協力をしてくれた。己の最大の武器である八卦炉を渡し、自身を先へ進ませるために身を挺してくれた。その協力が無かったら、今頃霊夢は悲しみに暮れていただろう。そう考えれば、今の恥じらいなどたいしたことではない。
「私もあんたに借りは作りたくないし、あんたも私に引け目を感じたくはないでしょ? だからこれでチャラにしましょうよ。それがお互い幸せになる一番の選択肢だと思うんだけど」
「…………そうだな。じゃあこいつは二人が幸せになれたプレゼントってことで」
 にこりと笑って魔理沙は小瓶を霊夢に差し出す。中身はどうやら液体のようだが、なにやらとろりとして得体が知れない。
「…………何? これ」
「一晩楽しんでも飽きないぐらい気持ちよくなれるやつ。こういうのもたまには必要になるだろ?」
「あんたと一緒にするな!」
 鈍い音と共に、魔理沙は得意の星を両の目玉から零した。
 夕闇迫り、遠くから喧騒も聞こえてくる。宴は、そろそろ始まりを告げるようだ。



 辺りは夜闇に包まれ、宴は酣。屏風に囲まれたこの場だけは、春のように暖かく昼間のように明るい。
 その酒宴の中央で心からの笑顔を見せている旧友に、幽々子は思わず笑みを零す。
「幽々子様? どうかなさったので?」
「ん、ちょっとお酌をしてくるわ。貴女はここでのんびりしてなさい」
 野菜焼きにかぶりついている妖夢の頭をそっと撫で、幽々子は徳利を持ってその場をふわりと離れる。
 向かう先はもちろん、本日の功労者の傍。
「おつかれさま、紫」
「あら、貴女に酌をしてもらえるなんて思わなかったわ」
 猪口に酒を注ぎ、彼女の傍らに腰掛ける。
 それぞれが思い思いに酒を傾け、先日のことを話し、笑いあう。主役の二人はまだぎこちない様子だが、それでも笑顔で居ることに変わりは無く、宴は胸を張って大成功と言えるだろう。
「心の澱は濯がれた?」
「お蔭様で。私は果報者かもしれないわね」
「あら、今更気がつくなんて貴女らしくないわ」
 八雲紫は誰に尋ねるまでもなく果報者だろう。善き家族に恵まれ、理解者も多く、成し得たことも大きい。日々は安寧で程よく変化に富み、心を曇らせる要因も今日幾つか晴れた。これで恵まれていないなどと言えば、それこそ多くの者から反感を買うに違いない。
 しかし、それに気づかぬのもまた、彼女らしいといえば彼女らしいのかもしれない。
 紫は個に対する印象をあまり考えない。全体と結果を善しとするために動くことはあっても、個別の印象を改善しようと立ち回ることは無い。故に理解無き者からはあまり良く見られず、思慮浅き者からは嫌われやすい。それでも紫はかまわないのだと笑い続ける。

『この平和な楽園を維持するために、憎まれる存在もまた必要なのよ』

 いつか聞いた彼女のこの一言は、今も胸に痛い。
「まだ貧乏籤は引き続けるの?」
「あら、代わってあげないわよ? これはこれで楽しいんだから」
 酒を煽る彼女の表情は、心から今の境遇を楽しんでいるように思える。その裏に何か想いがあるのか、それとも本心からのものなのか、それは幽々子にすら解らない。
 恐らくその笑顔の裏側は、あの一家も霊夢も見たことが無いのだろう。
「遠慮しておくわ。でも、一つだけきちんと覚えておいて頂戴ね」
「幽々子?」
「私はいつでも、貴女の味方なのよ」
「……………………そうね、ありがとう」
 紫が向けた徳利を受け、中身を飲み干して妖夢の元へと戻る。
 去り際に僅か絡めたその指は、いつもより心なしか暖かいような気がした。



「やれやれ、ようやく静かになったわね」
「でもすごく楽しかったです。それに皆楽しそうでしたし」
 宴もお開きとなり、暗闇と静けさの戻った神社の廊下を歩く二人。
 憮然とした態度を取りつつも、先を歩く霊夢の背中はどこか弾んでいるように思える。
 宴は始終和やかで、それでいて騒がしかった。特に主賓として紹介された美希と霊夢の元には多くの者が詰め掛け、酌をしたり食べ物を勧めたりと大騒ぎになった。
 そして夜半も過ぎた頃、宴は紫の挨拶と共に終わりを告げ、それぞれが思い思いに帰路に着き、神社にはいつものような静寂が訪れた。
「そうね。まあ良い宴会だったんじゃないかしら」
「はい」
 答える顔にも自然と笑みが浮かぶ。そしてこの背中をもう一度見ていられることに、深い感謝を覚える。
 もう希島貴美はどこにも居ない。外の世界の思い出も、辛い記憶も必要ない。これからはこの幻想の世界で、八束美希として生きる。その実感が、彼女の背中からひしひしと伝わってくるような気がする。
「そうだ、美希」
「どうかしたんですか?」
「衣装、ちゃんと見せてよ。ゆっくり見る暇なかったからさ」
 確かに霊夢の言うとおり、美希自身もゆっくり衣装を眺める暇はどこにも存在しなかった。アリスの家では仮縫いと寸法あわせのために一部を着たり脱いだりすることが多かったし、本格的に身に着けた矢先には、紫によって連れ去られてしまった。そしてあの弾幕勝負が終わり、目を覚まして着替えてすぐに宴会。おかげで一番に霊夢に見せたいという願いは、ついぞどこかへ消え去ってしまっていた。
「えと…………じゃ、じゃあ…………」
 袖を広げるようにして、月明かりの下で霊夢に衣装を披露する。
 アリスの作ったその衣装は、元の巫女服をモチーフに霊夢のデザインを意識して作られたものだった。ただし彼女のように赤基調ではない。上半身は白いシャツのようなものに、取り外しの可能な大き目の白振袖。赤く大きな襟は胸元のボタンで留まる様になっていて、更に黄色いリボンタイを蝶結びにするようになっている。下半身はゆったりとしたスカートだが、巫女服のデザインを基に作られているために一見すると袴のように見えなくも無い。腰帯は背中でリボン結びの太い帯と、臙脂に近い色合いの飾り帯が一本。そしてリボン留めには、魔理沙から贈られた魔力の篭ったブローチがひとつ。
「もっと変わった衣装でも良かったんじゃない?」
「やっぱり、神社に住むならそれに近い方が良いかなって……似合いませんか?」
「まさか。すごく良く似合ってるわ」
 頬まで熱湯が上がってくるような感覚がした。仮縫いの際アリスにも魔理沙にも似合っていると言われて顔が熱くなったことがあったが、霊夢の一言はそれ以上だった。上ってきた熱は耳の先まで熱くなり、風呂でのぼせた時のように心臓が早鐘を打つ。
「ど、どうしたの? 気分悪くなった?」
「い、いえ違います……。その…………恥ずかしくて…………」
 思わず俯き、両手で顔を覆い隠す。冷たいはずの手のひらを幾ら当てても、その頬は熱いままだった。
「美希、ちょっと向こうむいてくれる?」
「は、はい…………こうですか?」
 顔を覆ったまま背中を向け、やや俯き気味に立ち尽くす。目の前にないはずの霊夢の顔は瞼の裏から消えず、冬の寒さも忘れてしまいそうなほど。
 そんな美希の髪を、そっと掴む手が一つ。
「れ、霊夢さん?」
「動かないで。あともう少し顔を上げてくれる?」
 請われるままに首を動かすと、彼女の手は静かに自身の髪を結い上げ始めた。それもいつものように髪の先をまとめるのではなく、その付け根を持ち上げるようにまとめる形で。
「うん、これでいいわ。もうこっち向いてもいいわよ」
「これって……」
「もう長さに慣れた頃合いだと思うんだけど。どう? 違和感はない?」
 結い上げたその髪型は、あの日望んでおきながらあまりの違和感と心地悪さに断念した、霊夢とお揃いのポニーテールだった。
「髪飾りのお礼には程遠いんだけど……、一応手縫いのリボン。お世辞にも良くできてるとは言えないから……あんまりまじまじと見ないでくれる?」
 感激のあまり言葉も出なかった。両の瞳からは涙が止めどなく溢れ、堪え切れぬ嗚咽が肩を震わせる。
 頭にかかる僅かな重みすら、今の美希には感激を呼び起こす素養でしかなく、今こうして立っているのがやっとという程。
「ほんとはもう少しマトモなものをあげたかったんだけど、神社のものは神様のものだから……って、もしかしてきつく縛ってた?」
「ちがっ……わたし…………うれし、くて………………いま、ひどいかお……だからっ…………」
 拭っても押さえても、涙はぽろぽろとこぼれ続けた。嗚咽は止まらず、袖は濡れ、垂れ下がった髪が頬に貼り付く。
 肩を震わせたままこちらを見ようとしない美希を心配したのだろう、かけてくる霊夢の言葉は酷く不安そうだった。
「こんな……しあわせ……。わた、わたし………っ」
「……美希、こっち向いて」
 頬を何度か擦ってから、美希はようやく霊夢の方へと向き直ることが出来た。目の下はひりひりと痛み、頬は恥ずかしさとはまた別の熱を持ち始める。
 そんな美希の手を取り、霊夢は静かに握りしめる。
「ちゃんと、私の顔を見て」
「……ぐすっ、はい」
「うん、そのまま」
 向き直った霊夢の顔も、少しばかり赤らんでいた。
 純白の月明かりが二人を照らし、色とりどりの星たちが静かに見つめる。
 そんな中、霊夢は静かに。
 夜の静寂を破らぬように、そっと口を開いた。
「好きよ、美希。愛してる」
 止まったはずの涙が溢れ、美希は膝から崩れ落ちた。
 冷たい縁側の板がきしみを上げながら美希の膝を受け止める。だが、その音は美希の耳には入っていなかった。
 いや、音だけではない。冬の夜気の冷たさも、僅か湿った風のにおいも、まるで感じなくなっていた。
 あるのは、霊夢の笑顔と、その手の温もりだけ。
「わ……わた、私も……っ、好き、ですっ…………。愛してます……っ」
「……ありがとう、美希」
 霊夢もまた、涙をこぼしていた。
 笑顔のままで、ぽろぽろ、ぽろぽろと。
 いつまでも溢れ続けるのではないかというその涙を見つめながら、美希は霊夢と口づけを交わした。
 深く甘く、優しい、恋人としての初めての口づけ。
 月明かりは、そんな二人を祝福するかのように、淡く柔らかく降り注いでいた。



 布団を敷き、枕を二つ。厚手の冬布団と、毛布を並べ、水差しも一つ。
 それらを何度となく確認しながら、霊夢は落ち着き無く髪をいじり回していた。
(まいった……。こんな時どうすればいいのかしら)
 縁側での口づけの後、二人は支えあうようにしながら寝室へと歩いた。それから湯浴みをして寝ようかという話になり、ややぎくしゃくとしながらその準備を始めた。
 おそらく紫の仕業だろうが、湯船にはやや熱い湯がたっぷりと張られており、おかげで深夜に水汲みと火起しという大仕事をする必要がなくなった。
 そして、先に霊夢が湯を浴び、今は美希の湯上がりを待っているという次第である。
(一緒に入れば良かったかな……いや、やっぱりそれはダメよね)
 お互いの裸を見る機会は少なくなかったし、共に湯船に浸かったこともある。にもかかわらず、今日ばかりはどうしても一緒に入る気になれなかった。そしてそれは美希も同じだったようで、真っ赤な顔を俯かせたままどうぞどうぞと霊夢に先風呂を勧めていた。
 新婚初夜とは、こういうものなのかもしれない。
 ふと霊夢の頭にそんな考えが過る。
 博麗神社でも祝言を上げたことはあり、霊夢も婚儀の場を務めたことがある。その晴れの舞台で、新郎と新婦は決まってどこかよそよそしい態度をしていた。
 日取りを伝えに来たときは、やっかむのも馬鹿馬鹿しいぐらいにべたべたしていたくせに、である。
 しかし、今なら彼らの態度の理由が解るような気がする。
(魔理沙に聞いておけば良かった……ああ、あの薬も受け取っとくべきだったのかしら……)
 どうでもいい事ばかりが頭の中を駆け巡る。その間も霊夢はじっとしていられず、枕の位置を直したり、敷き布のしわを伸ばしたりとせわしない。
「あ、あの……おまたせしました」
「お、おかえりなさい」
 やや上擦った声で襖の向こうに声をかけると、襦袢一枚だけを羽織った美希がゆるゆると顔を出す。
 湿り気を帯びた髪。行灯の淡い光に照らされた白い肌。そして、湯浴みのせいか朱に染まった頬。
 それらの全てが言いようもなく扇情的であり、眩暈を起こしそうな程に美しく思える。
「お布団、ありがとうございます……」
「う、うん。特にすること無かったから……」
 布団の上で向かい合って正座し、お互いに顔を見ぬまま俯く。
 これからのことを何か約束しているわけではないが、何が起こるか想像つかない程子供ではない。
 だからこそ、霊夢は顔を上げられなかった。
「……くしゅっん!」
 突如響いた小さなくしゃみ。それは美希のものだった。
「寒い?」
「少し……」
「じゃあ……」
「あ、はい……」
 短い言葉を交わし、頬を寄せて肌を触れ合わせる。お互いに襦袢しか身につけておらず、肌を遮るものは縁側の時よりも薄く少ない。
 そんな二人が互いの唇を求めあうまで、さほどの時間はかからなかった。
「ん…………」
「霊夢さん…………っ」
 抱き合いながら淡く口づけを交わし、少しづつその深みを増してゆく。
 以前、黒白の魔女は人形遣いとの関係をのろけながら、相手の『味』という表現をしたことがある。
 霊夢はその表現が的確であったことを、今初めて思い知った。
「んっ……美希、甘い……っ……」
 それは砂糖の甘さとも、果実の甘さとも違う。煮物のような味付けによる甘みでも、肉の甘みでも野菜の甘みでもない。敢えて表現するならば、舌を通して心に沁みる甘さとでも言うべきだろうか。そんな味を、霊夢は確かに認識し、そしてそれを美希の味と捉えていた。
「霊夢さんも……んっ、く……んむっ…………」
 彼女も同じ甘みを感じているのだろうか。深く唇を重ねながら、舌で幾重にも舌を舐め擦ってくる。
 霊夢はこうした行為は初めてではない。毒気に似た神気を浴びた際、その情念を慰めるために紫と肌を重ねたこともある。また、美希が流れ着いて間も無くの頃、霊夢は同情の念から彼女を抱いた。
 しかし、どうしてだろうか。
 霊夢は何故か、この行為が初めてで大切なもののように思えてならなかった。
「ふは……、美希のこと、もっとよく見せて……」
「はい……」
 襦袢の腰紐は、摘むだけで簡単に解けてしまった。
 肌蹴た衣の下から覗く、白い柔肌。霊夢はその肌に吸い寄せられるように手を伸ばす。
「綺麗…………」
 どんな上等な絹も敵わない手触りと、火鉢などでは絶対に得られない温もり。それらが手のひらを通して全身に悦びを伝えてくる。
 傷だらけだった彼女の肌は、本当に綺麗になった。
 薄汚れ痣が浮いていた脇腹は、陶磁器のように滑らかな曲線を描くようになり、傷と肋で美しいとは言いがたかった胸も、丸みを帯びて柔らかい手触りを伝えてくる。
 たまらず抱きしめ首筋に顔を寄せれば石鹸に混じって甘い香りが鼻孔をくすぐり、彼女のためとはいえ無惨に切ってしまった髪は、今や誰よりも美しい。
「愛してください……たくさん……」
 深く強く抱き合ったまま、二人はその身を横たえる。衣擦れの音と共に霊夢の襦袢がはだけ、互いの肌がさらに強く絡み合う。
「美希……。あ……っ……」
 重ねた肌は手のひらよりも強く抗い難い悦びを伝えてきた。一時たりとも離れたくないほどの快感に、霊夢は強く美希を抱きしめたまま唇を重ねる。
「ん、んくっ……! んむっ……」
 口づけは最早むさぼるようになり、小さな水音は淫猥で粘着質な響きへと変わっていた。恥ずかしさは当にどこかへ消え去ってしまい、代わりに情欲と独占欲が少しづつ鎌首をもたげてくる。
 柔らかく暖かい胸を揉み、肌を擦りあわせながら背中を愛撫する。首筋に甘く歯を立て、頬と耳朶を舌で味わう。
 自身が行う行為の一つ一つに麻薬のような快楽を覚え、同時に彼女を愛おしいと思う気持ちが止めどなく溢れてくる。
「美希……、好きよ……っ」
 愛の言葉を伝えながら、霊夢はもう一度深く口づけを交わした。彼女の全てに触れたい。彼女と一つになりたい。そんな思いが溢れて止まらない。
 だが、寸手の所で理性が咎める。
 彼女を汚して良いのか。と。
「ふぁっ……、は……。霊夢さん……。お願い。私の奥まで……全部愛して……」
「美希……」
「軽蔑しないで……。でも、今は全部欲しい……。お願い……」
 潤んだ瞳のまま、彼女は霊夢の手を自身の秘所へと導いてきた。熱く濡れたその部分は薄く柔らかく開かれており、今にもその指を飲み込んでしまいそうな程。
「痛かったら……ごめん……」
 触れたら傷ついてしまいそうなその部分にゆっくりと指を滑り込ませ、柔らかく揉むような愛撫をする。
 以前触れた時、彼女はこれほど脆く儚げだっただろうか。
 いや、違う。自身の意識が変わったのだ。
 今の霊夢にとって、美希は爪の先一片たりとも傷つけたくない。そんな大切な存在になっていたのだ。
「ひゃんっ! んっ……くひゃっ!」
「すごい熱くて……触ってるだけで、私もなんか……」
「もっと……奥……ふぁっ! 霊夢さんっ! いっぱい、いっぱい……っ!」
 指はあまりにも簡単に飲み込まれていった。柔らかく暖かい粘膜が霊夢の指を締め付け、奥へ導くように擦り立てる。溢れる雫はあっという間に手のひらを濡らし、滴り落ちて布団に染み込まれてゆく。
 気が付けば、霊夢はその蜜を舐めようと彼女のその部分に鼻先を近づけていた。
「ひぅっ!? な、なめちゃ……! んきゃっ! きたな……あんっ!」
「ちゅ……んっ……。おいしい……。それに、汚くなんてないわ……。こんなに綺麗……」
 揺れる淡い灯りに照らされて、その部分は淫らに美しく光って見える。包まれた皮から僅か顔を出す芽は宝石のように輝いており、指を包み込む唇は甘い香りを放ちながら甘露を止めどなく溢れさせていた。そして花のような香りを放つ蜜は、霊夢の理性を溶かしながら舌を求めて溢れ続ける。
「やっ! らめ……! ふとん、よごしちゃ……!! ふひゃんっ!」
「気にしないで……ちゅく……。いっぱい……んっ……、感じて。いっぱい、飲ませて……」
 紫が神酒と囁いた意味を、霊夢は僅か残った理性の端で理解していた。確かに、この味と香りには美酒の如く意識を溶かす作用があった。そして神の酒の意味通り、酔わし魅了するその効力は、どんな名酒も敵わないに違いない。
 ただ一つだけ酒と違う点を上げるならば、この美酒は皆と分かちあうのではなく、独り占めして味わいたいというところだろうか。
「美希……っ、んっ、んくっ……! ちゅっ……」
「やっ……! きちゃう……! 霊夢さんっ! わたし、も……ひゃぁっ! ひゃうぁっ!!」
 強く指が締め付けられ、同時に蜜が僅かに飛沫を吹き上げる。甲高い声と共に美希は全身を震わせ、それから糸が切れたように、四肢を布団に投げ出した。
「はぁっ……はひゅ……っ」
 呼吸が落ち着き、痙攣にも似た震えが収まった頃、霊夢はようやく彼女の内から指を引き抜き、その指先に付いた蜜を味わった。
「すごく甘い味……。おいしいわ、美希……」
 囁く言葉は、美希の耳には届いていないようだった。
 霊夢は未だ僅かな震えを繰り返し続ける彼女を静かに抱きしめ、そっと背中を撫でた。



「ん……あれ、私……?」
「気が付いた? って言っても、五分ぐらいしか経ってないけど」
 いつの間に気を失っていたのだろう。目を開けると、そこには霊夢の笑顔があった。身体には布団が掛けられており、背中には彼女の手のひらの感触。
 そして、太股は濡れてやや冷たい。
「ごめんなさい……私……」
「いいの。寝顔も可愛かったから」
 額に落とされる優しいキスに、美希はこの上ない幸せを覚えてしまう。
 しかし、自分の記憶が確かなら、このままその幸せに浸ってはいけない。
「れ、霊夢さん……まだ、大丈夫ですか……?」
「ん……?」
「その、私一人……満足しちゃったから……」
 顔を赤らめながら囁くと、霊夢の頬もまた朱に染まった。
 美希はどうしても、霊夢に満足して貰いたかった。
 いや、それはただの言い訳にしかすぎない。
 美希は自身の身体で、霊夢を満足させたかったのだ。
 それが彼女の中に初めて芽生えた、独占欲だった。
「今度は、私が霊夢さんに……」
「ん……うれしいけど、私一人じゃ嫌かな……。美希も一緒に……ね?」
 恥ずかしそうに視線を逸らしながら、霊夢は蚊の鳴くような声で囁いた。
 そしてそれを断るような無粋を、美希が出来るわけもない。
「は、はい……」
 共に二人で。その言葉は美希の身体をより熱くさせた。
 布団の中でもそもそと手をつなぎ、身を寄せあってキスをする。最初は啄むように。それから唇をはみ、淡く舌を絡め、互いの舌を吸いあう。
 絡む唾液が粘度を増し、つないだ手の指が絡み合う頃、美希は早くも自身のそこが濡れ溢れてくるのを感じていた。
「霊夢さん……んっ、んくっ……」
 絡めた指を名残惜しげに解き、美希はそっと霊夢の乳房に手を伸ばす。しかしその腕は指先が触れた程度の所で阻止されてしまう。
「もう……だから、こっち…………お願い」
 掴まれた腕は、そのまま彼女の秘所へと導かれた。求められるままに触れたその部分は既に蜜を溢れさせており、一つの抵抗もなく美希の指を受け入れてしまう。
「霊夢さ……んぁっ……」
 気が付けば、自身の秘所にも霊夢の指があてがわれていた。痺れるような愉悦と共に秘唇はその指を甘く飲み込み、しわの一つまで確認しようと包み込む。
「美希……もっと強く、深く…………して……」
 薬指で入り口を開き、中指をゆっくりと押し込む。親指で蜜を掬い、柔らかな突起に塗り付けるような愛撫を与える。内股の付け根を人差し指で爪弾くように刺激し、時折唇を合わせながら内部をかき混ぜる。
 艶事については美希の方が上手の筈だった。その身に刻まれた技術は皮肉にも男女両方を悦ばせる事が出来た。もちろん美希が望んでそうしたわけではない。そうしなければ苦痛は長引き、手痛い『お仕置き』をされたからだ。
 だが、今強く嬌声を上げ、愉悦に身を震わせているのは美希の方だった。
「霊夢さ……! きゃっ! ふぁ……やっ……! っっ!」
 どれだけ堪えようとしても快感の波は止めどなく脳裏を襲い、神経を焼く。
 確かに性感は開発という言葉の通り、繰り返されることで強く感じるようになる部分もある。経験の差を考えれば深く開発されているのは美希の方で間違いはない。加えて霊夢の技術はそれほど高いわけでもなかった。
 にもかかわらず、美希は霊夢に手心を加えて貰わねばならぬほど感じていた。
「美希……先にいっても……」
「だめっ……! がまん……するから……っ!」
 深い愛故の激しい快感。美希はそれをようやくはっきりと感じていた。
 そして思い人との行為がこれほどに素晴らしく、そして深く激しいものなのだと言うことを、身を持って実感していた。
「……っ……、美希……いきそ……!」
「私も……もうっ……おねがい、いって……いっしょに……」
 腰骨から背筋へ、震えるような感覚がせり上がってくる。肌は泡立ち、視界は霞み、その中で霊夢の表情だけが朧気に映る。
 美希は空いた片手で霊夢の肩を強く掴み、声無き絶頂を迎えた。
 霊夢の掠れるような嬌声を聞きながら。



 月夜の路地を歩く人影が二つ。
「良い宴だったな、妹紅」
「そうだな」
 久しぶりに羽目を外したいと、慧音は宴の席でいつも以上に酒を楽しんだ。顔を赤らめ、陽気に笑うその様は傍目に見てやや恥ずかしかったが、同時につられて笑ってしまいそうになるほどに楽しげだった。
「二人とも今頃どうしているかなあ」
「そうだな。告白ぐらいはしているかもしれんな」
 酔いを冷まして帰りたいと言われ、妹紅は慧音と共にのんびりと歩いて帰ることにした。途中川で水を汲み、それを飲みながらゆったりと。
 お陰で里の入り口が見える頃には酔いも冷め、真っ赤になっていた慧音の顔も落ち着きを取り戻していた。
「いやいや、それだけでは済まないかもしれんぞ?」
「それだけじゃないって……枕を並べて寝るとかか?」
「愛し合う者同士が一つ屋根の下で枕を並べて、何もないわけが無かろう」
「……慧音、お前まだ酒が…………」
 彼女の言いたいことは理解できたが、慧音の口からそんな言葉が出てくるとは正直意外だった。
 何しろ彼女は誰に訪ねても生真面目という評価が返ってくるほど、教師らしい性格なのだから。
「いやいや、流石にもう酒は抜けているよ。ただ、ほんの少しだけ彼女らが羨ましいのだ」
「羨ましい……?」
 声音の内に残る、やや寂しげな響き。その微妙な心境を、妹紅の耳は聞き逃さなかった。
 もっとも、虫の声も蛙の鳴き声も聞こえない、寝静まって物音一つしない里の路地だ。聞き逃すはずもない。
「ああ。若さに任せて己の心の内を隠さずに済む二人が羨ましいのだよ」
「慧音……」
「教職というのは聖職でな。品行方正で居なければ成らん。常に身を正し、我が身を振り返り、信念に基づいて清く生きなければならん。一時の悦楽を求めて相手の想いも聞かずに手を出すなど、あってはならんことなのだ」
 ややおどけた調子で言葉を紡ぎ、慧音は早足で先を歩く。
 その背中は、どこか泣いているようにも見えた。
「私もお前も長く生き過ぎた。生は年月を重ねる事に智恵になり、それは時として枷にもなる。そしてその枷を外すのは容易なことではない」
 藤原妹紅は蓬莱人だ。幾千幾万の年月が流れようとその身は朽ちず、魂の有り様も変わらない。一方の上白沢慧音は白沢の気性を持つ半妖で、彼女もまた長い時を生きる存在だ。
 そして二人はどちらも、人の何倍もの時間を生きている。
 彼女の言う通り生が智恵となり枷となるのであれば、長い時を生きる二人にはそれだけ重い枷がつきまとっていることになる。
 そしてその正しさを示すかのように、妹紅は未だ慧音に対して素直になれずにいた。
「……やはり、私はまだ酔っているのかもしれんなあ。済まなかった。今の話は忘れてくれ」
 最後の言葉は、またおどけたような口調だった。
 そして彼女にそんな態度をとらせてしまう自分が腹立たしかった。
「慧音、ちょっとこっちを向いてくれ」
「どうした? 妹紅」
 振り向いた慧音に歩み寄り、やや強引に肩を掴む。そして何事か解らずに不思議そうな顔でこちらを見る慧音をじっと見つめ、妹紅はそのまま彼女の唇を奪った。
「んっ!?」
 強引な口づけは瞳を閉じる暇すら与えず、勢いに任せて行ったが為に、前歯が当たってかちりと小さな音を立てた。
 それはおおよそ雰囲気や情緒といった言葉とは程遠く、年頃の乙女が夢見る接吻とはかけ離れた行為。
 それでも、妹紅には精一杯の行為だった。
「……今は、ここまでしか枷が外せなかった……。でも、そのうちに……だな……。その…………だな……」
 それ以上の言葉はどうしても出てこなかった。
 そして、おそらくこの先の言葉がすらりと出てくるであろう若い彼女たちを羨ましいと思った。
「……ありがとう、妹紅。なら私からも枷を一つ外そう」
「何をだ……?」
「今夜は、お前と枕を並べて寝ようと思う……。あ、いや。決してやましい気持ちではなく……その、お前の体温を感じていたいのだ…………が……、駄目……だろうか……?」
 いつも強気にはきはきと物を言う慧音が、今日ばかりは歯切れが悪い。顔を赤らめ、唇を気にしながら、ちらりちらりと視線を送ったり逸らしたりしてくる。そんな彼女の態度に、妹紅は思わず吹き出していた。
「……っぷ、あはははは。ここまでのことをしておいて、私がそれを断ると思うか?」
「や、し……しかし、だな……!」
「ほら、慧音!」
 彼女の前にまっすぐに右手を突き出し、それからその戸惑い顔を見て笑う。
 二人の間に、それ以上の言葉はいらなかった。
 そっと重ねてきた慧音の手を指を絡めて握り直し、妹紅はやや早足で寺子屋への道を歩き始める。
 初々しい二人に気を利かせたのだろうか。頭上に輝いていた月は、いつの間にか雲の向こうに消えていた。



 たつん、たつん、たつん。

 ぴちゃん。ぽちゃん。

(雨……かな……)
 微睡みの向こうで響く小さな水音。幾つもの規則正しいリズムに耳を傾けながら、美希はゆっくりと目を覚ました。
(今どのぐらいだろ……)
 雨のせいか部屋は薄暗く、今が何時なのか見当も付かない。どうしたものかと逡巡しつつ重い瞼を開けると、そこには霊夢のあどけない寝顔があった。
(ふふ……夢みたい。幸せすぎてにやけちゃう……)
 部屋の空気は冷たいようだが、布団の中は二人の体温で暖かいままだった。寝る間際に彼女の腰に添えた手はそのままで、霊夢の手は美希の襦袢の袖を柔らかく掴んでいる。
(寝てる……よね?)
 しばらく顔を見つめてから美希はそっと背筋を伸ばし、霊夢の薄く開いた唇に小さなキスをした。
(ん……えへへ……)
 唇を離しても、霊夢はまだ瞳を閉じたまま。寝息は殆ど乱れることなく、まだまだ目を覚ましそうにない。
(……ん…………)
 もう一度寝顔を確認してから、美希はもぞもぞと身体を動かし、霊夢の胸元へと鼻先を寄せる。枕を少しだけずらし、それから腰に掛けた手に慎重に力を入れて自身の身体を密着させる。
(あったかい……)
 鼻先を胸元に埋めてそっと抱きしめながら、美希は霊夢の香りを静かに吸い込む。事が済んで軽く湯浴みをしたため、彼女の胸元からは石鹸の香りが漂ってくる。
 耳には心臓の鼓動が、そして頬には彼女の温もりが。
 それらは美希に無条件の安心と幸福を与えるのに十分だった。
「幸せ……きゃっ!?」
「ふふ、捕まえたわよ」
 急に強く抱き寄せられ、鼻先に胸を強く押しつけられて、美希は思わず小さな悲鳴を上げた。
 どうやら霊夢は既に起きていたらしい。
「れ、霊夢さん……いつから……?」
「キスされるちょっと前ぐらいかな?」
「ず、ずっと起きてたんですか……言ってくれればいいのに…………」
「ごめんね、あんまり可愛かったからついつい」
 そう言ってくすくす笑いながら、霊夢は美希の頭と背中を優しく撫でてくる。与えられる温もりは心地よかったが笑われるのは流石に恥ずかしく、美希はそのごまかしにと、霊夢を強く抱きしめた。
「不思議ね……。昔は誰かと一緒なんて煩わしいだけだと思ってたのに」
「霊夢さん……?」
「昔ね、パチュリーの図書館で外の本を読んだことがあるの。そこには確か……人というのは一人では生きていけない生き物である。常に他者の支えを必要とし、互いに支えあわなければ生きていけない脆弱な存在なのであるって書かれてた。私はそれを読んで、ああ、外の人間はなんて弱いんだろうって思ったわ。何しろその頃の私はずっと神社で一人で暮らしてたから」
 霊夢が目にしたのは哲学書か何かだろうか。確か昔国語の教師が、そういう類の本には人生の指南としてこんなことが書かれていると授業で紹介していた覚えがある。
 その頃の美希もまた、霊夢同様その言葉には共感が持てなかった。希島貴美にとって他人とは自分を傷つける存在でしかなく、己を支える存在など、この世のどこを探してもありはしないのだと思っていたから。
「でも、今はその意味がはっきり解る……。今の私にとって美希は無くてはならない存在だし、他の誰の代わりにもならない。ずっとずっとこうしていたいって思うもの……」
「私もです……。愛してます……」
 額に頬が寄せられ、髪に僅か唇が触れる。見つめあわなくても伝わる深い愛が、二人の間には確かに存在していた。
 静かに降り続く雨の音と互いの心音が交わる部屋で、衣擦れの音だけが不規則に響く。
「雨……止みそうもないわね……」
「そうですね……」
「もう少し、このままで居よっか……」
「はい……」
 小さなやりとりの後、二人はどちらからともなく唇を重ね合わせた。
 降り注ぐ雨のように、心を溶かす甘く暖かい口づけを。



 見上げた空は青く澄み渡り、辺りには花の香りが満ち始めている。
「やっぱり行くんですか?」
「ええ。ちょっと気になることもあるし、二人に先を越されるのは面白くないしね」
 桜の花が咲き始めた頃、幻想郷のあちこちで不思議な船が目撃された。雲の切れ間に、空の彼方に僅か浮かんでは消えるその船を、人々は宝船と称して様々な憶測を立てた。
 そして同時にあちこちで目撃され始めた、不思議な円盤。
 異変と言うほどのことでもないのだが、霊夢は何故かその宝船が気になって仕方なかった。
 そして円盤と船は無関係な存在では無いと、巫女としての勘が告げている。
「早苗さん、張り切ってましたもんね」
 くすくすと面白そうに笑い、美希は西の方に見える山を見つめる。
 東風谷早苗はあの一件以来妖怪退治と幻想郷の平和維持を巫女の仕事と捉え、あちこちに顔を出すようになった。当然今回の一件にもやる気十分であり、二柱の神の力を借りて赴くと言っていた。
 そしてこんな騒ぎに、あの黒白魔女が顔を出さないわけがない。
「魔理沙は魔理沙で新しい魔法開発したってやる気十分だし、うかうかしてたら全部終わっちゃいそうだからね」
 いつもの装備を袖口や懐に仕込み、澄んだ空を見上げる。
 視線の先には、雲間に浮かぶ宝船の影。
「危ないことしないでくださいね……?」
「解ってるわ。それより本当に宝船だったら、たぶんいろいろ素敵なものが詰まってると思うの。おみやげ期待して待ってて」
 飛び立とうと半歩前に出ると、そっと袖口を掴む手に足を止められる。
 見送りの挨拶は、どうやらまだ済んでいないらしい。
「随分甘えん坊になった気がするわね」
「ぁぅ……ごめんなさい。でも…………」
「解ってる」
 柔らかく唇を重ね、それから霊夢はそっと美希の頭を撫でる。お揃いのポニーテールになった髪を軽く梳き、その間彼女の指は自身の髪飾りに添えられる。
 ほんの些細な、名残を惜しむ儀式。
 だが、二人にはとても大切な時間。
「じゃあ、行ってくるわね」
「はい。留守はお任せください」
 重ねた指が最後の名残を惜しむかのようにゆっくりと解ける。それから、霊夢は幾度か美希に手を振ってから大空へと強く飛び立った。
 桜舞う、春の湊に。

終幕



[11779] 夢のまにまに
Name: Grace◆97a33e8a ID:9841838b
Date: 2010/10/03 02:20

 幻想郷全土を巻き込んだ大きな異変から、一ヶ月あまりが経とうとしていた。
 首謀者であった八雲紫は二人の式と共に己が起こした異変の事態収拾に務め、その他の妖怪達は被害のあった人々や建物の復旧に明け暮れた。
 特に医療を得意とする永遠亭は猫の手も借りたいほどの忙しさとなり、主治医たる八意永琳とその弟子の鈴仙・優曇華院・イナバは寝る間を惜しんで働き続けた。
 彼女たちの活躍は非常に大きく、大きな災害であったにも関わらず死者は無し。それどころか生活に支障を来す障害を残すような者も出ず、その功績は多くの者から賞賛された。
 そんな慌ただしい日々が終わり、いつもの日常へと戻り始めたのがつい一週間ほど前のこと。



「ごちそーさまでしたっ」
「はい、お粗末様でした」
 泉に程近い紅魔館。その客間で美鈴は両手をあわせて頭を下げる。テーブルには空の竹籠が一つ。中身は鈴仙が持参した手作りの焼き饅頭だった。
 異変のあったあの日、美鈴は鈴仙と些細な賭事をした。内容はどちらがより多くの妖魔を倒せるかというもの。駆け代は手作りのおやつ。この勝負に美鈴は辛くも勝利し、鈴仙は美鈴におやつを振る舞うこととなった。
 しかし異変の事態収拾は思った以上に長引き、人妖を問わず多くの怪我人が出たために永遠亭は大忙しとなり、それこそおやつどころの騒ぎではなくなってしまった。
 それ故美鈴はこの賭のことを半ば諦め、同時にやや忘れかけていたところだった。
「忙しい中ありがとう、鈴仙。無理しなくても良かったんだよ?」
「いえ、約束は約束ですから」
 にこりと笑う生真面目な兎の返答に、美鈴もまた柔く微笑む。
 鈴仙が紅魔館を訪れたのは昼過ぎ。八つ時にはやや早いかという時間だった。春に向けての庭いじりをしていた美鈴は妖精達に背中を押され、その勢いのままに咲夜に許可を取って客間の一室を借り、現在に至っている。
 今はちょうど八つ時を少し回ったぐらい。昼過ぎの休憩としてはちょうど良いぐらいだろうか。
「すごく美味しかった。こりゃもう一度賭に勝たないとだね」
「や、あの。気に入っていただけたならそういうの無しでも……」
 頬を赤らめる鈴仙の額に口づけを落とし、そっと長い髪を撫でる。
 正直なところを言えば、賭もおやつも美鈴にとっては些細なことに過ぎなかった。ただこうして二人睦まじい時間を過ごせること。それが美鈴には何よりも大切でかけがえのない事なのだ。
「さて、燃料もつめこんだし、そろそろ仕事に……」

 コンコンッ

「美鈴、ちょっと良いかしら」
 軽く伸びをしつつ仕事に戻ろうかと言いかけた矢先、飛び込んできたのは小さなノックと咲夜の声だった。
 別段急いでいる様子のないその声に、美鈴は鈴仙に目だけで訪ね、彼女の許可を得てから答える。
「はーい。どうぞー」
「邪魔をしたくはなかったんだけど、ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です。そろそろお仕事に戻るって話をしてたので」
 申し訳無さそうにしながら扉を開けた咲夜は、鈴仙に軽く会釈をしてから此方に向き直る。
 先程確認済みだったのだが、鈴仙は今日明日と休みをもらっているらしい。しばらく忙しい日が続いた為、永遠亭は数日の間急患を除いて休診ということにしたそうだ。その為二人の予定ではこの後一緒に門番を務め、夜は改めて許可を取って館か里で夜を明かすつもりだった。
「そう。じゃあそのお仕事は館の中でお願いするわ」
「何かあったので?」
「夕食に一人追加のようだし、ちょうど食材もいくつか切れかけなのよ。里で買い物をしてくるから、屋内で何かあったら二人で対処してもらえる? 用事が出来るまではこの部屋でくつろいでて良いから」
 どうやら美鈴達の思惑は相談する前に悟られていたらしい。お気遣い無くと慌てる鈴仙に、咲夜は軽く笑って予定通りだからと答える。
 いつもの事ながら、この館のメイド長は完璧すぎる。
「どの道今のストックじゃ急なお客様に対処できないのよ。鈴仙がここに遊びに来たって事は里もかなり落ち着いてるでしょうし、今のうちに買っておきたいものもいくつかあるから。二人ともお願いできるかしら?」
「そういうことでしたら喜んで。後のことはお任せください」
 日差しは暖かく空気も日増しに温む今日この頃ではあるが、まだまだ春遠からじ。外での仕事はいろいろと辛い。それに平然としてはいるが、鈴仙もそれなりに疲れがたまっているに違いない。屋内勤務は願ったり叶ったりだ。
「美鈴一人じゃ不安だけど、鈴仙が居るなら安心だわ。何もないと思うけど、後のことはお願いね」
 その皮肉に反論するよりも早く、咲夜は部屋を後にしてしまう。尤も彼女がこうやって館を留守にするときは、何かあったときの対処を他のメイドにきちんと伝達していくため、此は事実上のお休みなのだが。
「じゃあ美鈴さん、早速お仕事……」
「いやいや、ここで寛いでて良いって言ってたじゃない。それに鈴仙だって疲れてるでしょ?」
 何やらやる気の彼女を抱き寄せ、美鈴はその髪と背中を撫でる。
 妖怪は概ね頑健であり、体力も人間のそれとは比べものにならない。しかしどれだけ強い存在であろうと、それこそ不死の者であろうとも、疲労から逃れることは出来ない。特に医療行為は緊張の連続だ。連日働き続けた鈴仙には相応の疲れが溜まっているに違いない。
「私はなんとも……」
「いいからいいから。それに、久しぶりに会えたんだからもう少しゆっくりしようよ」
 ソファの端に座り直して膝を軽く叩き、促されるままに身を預けてくる鈴仙の頭を太股でそっと受け止める。彼女の頬の暖かみと重みが、幸せを実感させてくれるようで心地良い。
 本当はベッドで横にならせるのが一番なのだろうが、それではこの生真面目兎は余計寝付けないだろう。
「じゃ、じゃあ……何かあったらすぐ起こしてくださいね?」
「うん、解ってる。おやすみ、鈴仙」
 数度髪を撫でているうちに、鈴仙は静かな寝息を立てはじめてしまう。
 約束を守るために、鈴仙は眠気を堪えておやつを作っていたのだろう。饅頭を食べながら生欠伸を噛み殺していたのを、美鈴は見逃さなかった。
「ほんと、生真面目なんだから……」
 愛おしそうに髪を撫でながら、美鈴はそっと鈴仙の額に口づけを落とす。
 いつまでもこの寝顔を見つめていたいと思いながら。



 美鈴の膝に身を預け、鈴仙は夢を見ていた。
 遠い昔、この中華妖怪と初めてあった頃の夢を。
 その頃の幻想郷は、まだ人と妖怪が上手く混じりあわない世界だった。
 今のようにスペルカードも存在せず、力無き者は力有る者に狩られる恐怖に怯え、上辺だけの秩序と見せかけの安寧が支配していた時代。
 それでも、いつかそれらが本物になることを信じていた時代。
 そんなやや不安定な世界で、二人は出会った。


   『夢のまにまに』


 長い髪をきつく硬く結い上げ、鈴仙はいつものように修行場へ向かう。
 師の名前は八意永琳。月でその名声を欲しいままにしながら、一人の姫を庇って地に落ちた人物である。
「失礼いたします」
「遅いわよ、鈴仙」
「も、申し訳ありません」
 一瞥もくれることなく呟くように言い放つ師匠。
 鈴仙はこの師匠をいまいち理解することが出来なかった。
 月に比べて地上は、特にこの幻想郷は不便極まりない世界だった。火を起こすのも水を汲むのも全て人力。薬の類は野の草花から寄せ集めねば成らず、そこら中が死と汚れに満ちている。長く月で暮らしてきた鈴仙からすれば、この世界は師や姫のような身分ある人物が暮らす土地ではない。
 しかし彼女たちは口を揃えて言う。
『それが解らない内は、貴女はまだ月の住人だ』
と。
「じゃあ鈴仙、いつものようにお願いね」
「畏まりました」
 差し出された薬箱を受け取り、一礼をしてから部屋を後にする。木製の薬箱は無骨な上に慎重に扱わねばならず、その重量以上の重みを手のひらに主張してくる。
 数日前から、鈴仙は薬売りの使いに出されていた。
 売る場所と売り方は自由だが、日が沈むか薬がなくなるまで里で商売をしてくること。永琳曰くそれが鈴仙の修行なのだという。
「それでは行ってまいります」
「ええ、よろしくね」
 部屋から出て髪を結い直し、ポケットにしまっておいた帯布の存在を確かめる。
 鈴仙は商売に関して最も不向きな存在だった。人里は人間の領域であり、妖怪はあまり良い顔をされない。まして商売ともなれば余計胡散臭い目で見られる。背格好は人間のそれと大して変わらない鈴仙だが、長い耳だけはどうにもしようがない。また、月から逃げてきた彼女は地上の妖怪とは雰囲気や妖力の質、立ち居振る舞いなどが違うために怪しまれることも多かった。
 そして最も大きな問題は、彼女の瞳にある。
 鈴仙の赤い瞳は兎故の赤さだけではない。彼女の赤は幻覚と狂気の色であり、飲まれ易い者や素質有る者を否応なしに混沌と狂気の淵に引きずり込んでしまう。
 本来それらの力は鈴仙自身が制御できるはずのものだ。しかし、何故か今の彼女にはそれが出来なかった。
「これでよし……」
 深い深い迷いの竹林を抜ける直前、鈴仙は白い帯布を用いて自身の目を固く封じる。
 己の狂気を撒き散らさぬ為に。
 心を封じるように、きつくきつく。



 夕日が目隠しの向こうから透けて見える。どうやら今日も売り上げ無しのまま夕暮れを迎えそうだった。
 鈴仙の店はお世辞にも立派とは言えなかった。
 里のはずれ、市からも随分と遠い場所に構えていたし、店自体も大きな風呂敷を広げて薬を並べただけのもの。呼び込みをしようにもまず人が通らない。よしんば通ったとしても、無視をするか、怖がって逃げるか、因縁をつけてくるかぐらいのもの。これでは売れるはずもない。
「はぁ……」
 小さくため息を吐き、店じまいをしようと薬箱を開いたちょうどその時だった。
「危ないっ!」
 遠くから響く声と共に、何やら丸いものが飛来する。鈴仙は慌てることなくその物体を両手で掴み、声のした方へと向き直った。
「お姉さんすごーい!」
「こら、こういう時はごめんなさいでしょ?」
「あっ、ごめんなさいっ」
 いくつかの幼い声と、透明感のある女性の声。どうやら手鞠は彼女たちのものらしい。
「大丈夫ですよ。はい、これ」
 駆け寄ってきた少女の手に手鞠を戻し、目隠しの下でにこりと微笑む。そのすぐ傍には、妖怪らしい背の高い女性が見える。
「ごめんなさい。気をつけてはいたんだけど……。それにしても目隠ししててよく解ったね」
「これは見えないようにするためのものではありませんから」
 訪ねてきた女性に淡く微笑み、目隠しをそっと直す。
 鈴仙の能力は波長を操る能力である。熱波、重力波、感情の波、音や光の波長。彼女はそれらを意のままに操る事が出来る。操れるものは当然知覚できるものであり、鈴仙にとって目隠しなどは何の意味も為さない。それどころか下手に可視波長に惑わされない分、周囲の状況は理解し易いとも言えた。
「そっか。お姉さんは薬屋さん?」
「はい。風邪薬から傷薬。おなかの薬や湿布薬。なんでも取り扱ってます」
 久しぶりに口にした宣伝の言葉も、あまり明るいものではなかった。どうせ口上を聞いてもすぐに帰ってしまうのだろう。彼女もまた、ちょっとした冷やかしか付き合い程度の会話を求めただけなのだろう。そんな考えしか浮かんでこない。
 何しろ鈴仙はこの人里であまり良い思い出が無く、店の建ち並ぶ中央付近には恐ろしくて一度も足を向けることが出来ないぐらいなのだ。
「そっか。んじゃ傷薬ある? 人間用と妖怪用」
「えっ……? あ、はい! こっちが人間用でこっちが妖怪用です。あと包帯もこっちに」
 予期せぬ言葉に慌てて薬を指し示し、箱の中から包帯や綿を引っ張り出す。
 いくつかの説明を聞くと、背の高い女性は人間用と妖怪用の傷薬を一つづつ。それから包帯を二巻き選んで代金を手渡した。
「安くて助かるよ。あっちこっち走り回ると傷が絶えなくてねー」
 あっけらかんとした笑いの後で、彼女はもう一度礼を言う。他人に感謝されたのは、鈴仙にとって生まれて初めての経験かもしれなかった。
「いえ、こちらこそありがとうございます。初めて売れました」
「そっか……。まあ悪い奴ばかりじゃないはずだから、がんばってね」
 大した意味はなかったのかも知れない。おきまりの返答というやつなのかも知れない。それでも、彼女の言葉は鈴仙にとって大きな救いだった。
「ありがとうございます。お大事に」
 励ましの言葉に礼を言い、彼女たちを見送ってから鈴仙は店じまいを再開する。
 初めて手に入れた売り上げを嬉しそうに何度も確かめながら。



 売り上げを持ち帰っても、永琳は特別な反応を示さなかった。お金を回収することもなく、明日からもお願いと言うばかり。
 それでも、鈴仙は心なしか気が楽だった。
 元々永琳が喜ぶとは思っていなかったし、手に入れた額も自慢できるような代物ではない。それでも初めての客が出来たことと、彼女から受けた優しい言葉は鈴仙の気持ちを随分と上向かせた。
 更に良いことに、気持ちが上向いたせいか彼女を怖がるものや奇異の眼差しを向ける者も少なくなり、ほんの少しづつではあるが商品を手に取るような者も現れ始めた。
「美鈴さんに教わって来たんだけど、人間用の傷薬はどれかしら」
 ある日薬を眺めていた客の一人が、鈴仙にこんなことを訪ねてきた。どうやらあの長い髪の女性は美鈴というらしい。
「えっと、それでしたらこれだと思います。あと手のひび割れにはこっちの軟膏が効きますよ」
「あら、目隠しなのによく解るのねえ」
「商売ですから」
 冗談めかして笑顔を向けると、客の方もつられて笑う。
 ほんの一瞬の小さな笑顔。それが今の鈴仙にとって最高の活力だった。
 目隠しをした鈴仙が見ることの出来ないものは、色だけだった。反射する光の波長や太陽熱の加わり方からある程度の想像はつくものの、やはり色だけは視覚で感じ取らないとはっきりしない。また、笑い声や感情の振幅から気持ちを読みとることは出来ても、顔色や精緻な表情までは伺い知ることが出来ない。
 以前はそれに対して何の感慨も抱かなかった。表情よりも精神状態を読みとれた方が上辺の付き合いをしなくて済むし、里の風景はそう珍しいものではないので興味もなく、色ぐらい見えなかったところで何の問題もなかった。
 だが、今はその見えないものをこの目で確かめたいと思う。
 特に、自身に活力を与えてくれた美鈴という女性の姿を。
 無論それが叶わぬ願いなのは承知している。己の目を晒すのがどれだけ危険で迷惑か、そのような事は師に問うまでもない。故に鈴仙は、その願いを口に出すどころか露ほども表に出そうとしなかった。
「ありがとうございました。またよろしくお願いします」
 薬を渡して頭を下げ、売り上げをポケットの巾着に収める。その中には、あの女性が買っていった傷薬の代金も入っていた。
(甘いもの、食べられそうだな)
 里の市には甘味処や喫茶店が存在すると聞いたことがある。具体的にどのぐらいの相場で提供しているのかは知らないが、今の持ち合わせならみつ豆と抹茶ぐらいは間違いなく楽しめるだろう。うまくすれば牛肥の入ったあんみつが食べられるかもしれない。いつまでも回収されない薬の代金だ。少しぐらい自由にしたって罰は当たらないはずである。
(あ、でもお礼もしたいな……。美鈴さんって言ったっけ……あの人)
 もう会えないだろうと諦めていた、初めてのお客であり恩人の名前。今日聞いた名前はおそらく彼女のもので間違いないだろう。
 里の住人らしき人間が名前を知っているという事は、少なくとも彼女はただの通りすがりではないはずだ。
 彼女の小さな言葉によって、鈴仙は大きな救いを得た。もしあの一言がなかったら、自身の世界は未だ閉ざされたままだっただろう。
(探せば解るかな……。会ってちゃんとお礼がしたい……)
 彼女は自分の事を覚えていないかもしれない。いや、覚えているわけがない。彼女にとって自分は単なる行商で、たまたま目に付いたから薬を買っただけに違いない。そんな存在を、わざわざ記憶しているわけもないのだ。
(迷惑に思われるかな……でも……)
 薬を片づけ、風呂敷を畳む。鈴仙の心は、もう決まっていた。
 深呼吸を一つしてから、静かに里の中心へ続く道を歩み始める。
 人の領域である里は狭いようで広い。ところ狭しと民家が建ち並び、中心へ行けば行くほど商店が増え、活気が溢れてくる。もちろんそこには人に混じって暮らす妖怪も居るし、彼ら向けの商品を扱う店も存在する。だが、同時に彼らを快く思わない者もいる為、里には暗黙の住み分けが出来ていた。故に里の一部は混沌としており、その土地面積以上の広さを醸し出している。
 鈴仙は慎重に波長を辿り、人と妖怪が混じりあって暮らす場所を探し出す。美鈴という女性は妖怪だったし、彼女の側に居た子供達は人間。波長から操られたり誘拐された存在ではなく、子供達が自らの意志で彼女と遊ぶことを選んでいるのは間違いなかった。だとすれば、彼女は人と妖怪が近しく暮らす場所に住んでいるに違いない。
「…………っ!」
 不意に飛び込んでくる憎悪や怒りの波長。その鋭い波に、鈴仙は思わず耳を押さえて立ち竦んでしまう。
 彼女の長く大きな耳は飾りではなく、普通の兎とは違う形状にも、きちんとした意味がある。
 鈴仙は様々な波長を視覚で認識することが出来る。通常見ることの出来ない音波や重力波も、彼女の目には確たる波形として映し出される。しかし、所詮視覚は視覚である。正面方向には敏感でも、その他の方向からの波は確認できない。
 では、そこに聴覚が加わってはどうだろう。
 人が背後からの声を認識できるように、聴覚は広域の情報を一度に、それも常時入手することが出来る。鈴仙の耳は、まさにそれらの波長を受信するためのアンテナ代わりなのである。
 もちろんデメリットがないわけではない。視覚ほどの精度は得られないし、情報もやや曖昧になりがちだ。そして先程のように、聞きたくない波長まで受信してしまう場合も多い。特に憎悪は鈴仙にとって不快な不協和音であり、強い怒りは怒鳴り声のように恐ろしく聞こえてしまう。故に鈴仙は人混みを嫌って里へ深く踏み込むのを躊躇し、憎悪と怒りが渦巻く戦場を恐れて月から逃げてきたのだ。
(大丈夫……。今のは、私に向けられたものじゃない……)
 心の中で何度も言い聞かせながら、止まっていた足を少しづつ動かす。全てを捨てて逃げた自分と決別するために。
 ところがそんな折に、鈴仙の耳を奇妙な波長が襲う。
(熱? それも随分大きい……)
 視界をそちらへ向け、聞こえてきた赤外波長を視認する。距離と熱量から鑑みて、それは明らかにたき火や篝火のようなものではなかった。
「まさか……火事?」
 嫌な予感がふつふつと沸き上がる。鈴仙は薬箱を持ち直して空へと舞い上がり、強い炎が上がる現場へと文字通り飛んでいった。
 上空から見れば状況は一目瞭然である。玄関先らしき門の前で主人らしき男がへたり込み、その横で妻らしき女性が叫び声を上げている。被害にあった家は庭付きのやや大きな屋敷で、隣家とは多少距離があるのが救いだった。
「離して! まだ中に茜と菫が!」
「無理だ! この炎の中じゃあんたまで焼け死ぬのがオチだ!」
 叫ぶ名前は彼女の娘なのだろう。子を助けたい一心で走り出そうとする彼女を、何人かの男が必死で止めている。そして悲しいことに、男たちの言っていることは間違いない。
 家屋の殆どは炎に包まれており、既に軒先は焼け落ち、崩れ始めている。恐らく中も火の海だろう。人間は当然だが、頑健な妖怪であっても無事では済まない。
 加えて、燃え盛る炎の中から少女二人を探しだし、彼女たちを抱えて逃げ出すのは至難の業だ。失敗すれば三人そろって火炙り必至である。
「娘さんたちの居場所は解る?」
 ふと背中から声がする。聞き覚えのある澄んだ声が。
「居間にいたはずなのよ! お願い、助けて!」
 母親が乱暴にすがりついたのは、あの美鈴という女性だった。しかし今は偶然に感謝する暇も、彼女に礼を言う猶予もない。どうやら美鈴は、この炎の中に飛び込むつもりらしい。
「無茶だ! 今更助かりっこない。だいたいあんただって無事じゃ……」
「無茶でも行くしかないでしょ。水三杯ぐらい頂戴」
 桶の水を頭から被り、彼女は長い髪を衣服の下に仕舞込んでいる。ならば自分に出来ることは一つしかない。
「ちょっと待ってください」
 彼女の手を掴み、そのまま何も言わずに燃える家屋を見つめて波長を探る。強い炎に紛れて消えかけている、小さな命の炎二つを。
「場所解るの?」
「もう少し、もう少し時間をください」
 美鈴はどうやら意図を察してくれたらしい。小さく頷いた彼女は、錯乱してこちらに掴みかかろうとする母親を制す役に回ってくれた。
 炎は刻一刻とその強さを増し、家屋を舐め尽くしながら暴れ回る。それはもちろん屋外だけの話ではない。
 鈴仙は五感の全てを集中して、炎の中に埋もれた小さな波長を探し出すことに専念した。難しいなどと言っている暇はない。残された時間は恐らく後数分。いや、幼子の体力を考えればもっと短い可能性もある。
「……玄関から二つ目の扉を左。大きな部屋に入ってすぐ右手の襖の先に居ます。二人とも生きてる」
 轟音と熱波の中で捕まえたのは、微かな二つの心音だった。鈴の音よりも小さいその規則正しい鼓動は、赤々と燃え盛る炎の中で弱々しく脈打ち、救いの手を強く求めている。
 鈴仙は己の長く大きな耳を、初めてありがたく感じていた。
「帰り道は私が確保します。二人を見つけたら動かないでください」
 黙って桶の水を二杯かぶり、鈴仙の肩を軽く叩いてから美鈴が駆け出す。
 間違いない。彼女は自分を信頼してくれている。
「皆さん、お願いがあります。決して私の目を見ないでください」
「あんたさっきから何言ってんだ。人の命が……」
「命がかかっているんです! お願いだから言うとおりにしてください!」
 生まれて初めて、腹の底から声を出したような気がした。
 そして生まれて初めて、他人のために必死になっているような気がする。
 そしてその必死さはどうやら周囲に伝わったらしい。もう鈴仙に声をかけようとする者は誰も居なかった。
 目隠しを外し、燃え盛る家屋の前に立つ。彼女の心音と小さな二つの心音に耳を傾けながら、鈴仙は静かに指を構える。
 失敗は許されない。
 少しのずれもあってはならない。
 針の穴を通すように、慎重に行わねばならない。
 三つの心音が、もうすぐ寄り添い合う。チャンスは恐らく一度きりだ。
 燃え盛る炎の中から脱出するのは難しく、たとえ僅かな距離であっても危険が伴う。まして二人の幼子を抱えているとなれば、無理も出来ない。そこで鈴仙は、新たな抜け道を彼女たちのために作り上げることにした。といっても、ただ家屋に穴を開けるだけでは逆効果だ。柱を壊してしまえば家全体が倒壊するだろうし、穴を開けただけでは新鮮な空気が流入した瞬間に大きな炎が舞い上がる危険がある。そこで鈴仙は、襖のすぐ向こうで炸裂する妖力の銀弾で穴を開けることにした。もちろん柱には一切傷を付けずにだ。
 炸裂した妖力は一時的に周囲の炎を吹き飛ばし、家屋の壁面に穴を開ける。しかし襖の手前で爆発すれば炎を中に押し込むことになり、あまり奥で破裂させても意味がない。また、柱や天井を傷つけぬぎりぎりの大きさで放つため、人一人が通れるだけの穴にするにはかなりシビアな位置に打ち込む必要がある。
 そして、失敗すれば次はない。
「……今だ! そこっ!」
 指先から放たれた銀色の弾丸。それは真っ直ぐに燃え盛る家屋へと吸い込まれてゆく。

 ドォン!

 小さな炸裂音と共に発生する、真円に近い赤色の爆風。それが壁の一部を吹き飛ばし、炎をかき消して屋内の様子を露わにする。
 後は彼女が出てくるのを待つだけだ。
 鈴仙は彼女が自分を信頼してくれたように、自分もまた彼女を信頼していた。半ば虫の良い話であることは解っている。美鈴からすれば、鈴仙は名前も知らないただの薬売りである。そんな存在に勝手に信頼されても、迷惑だと思うだろう。しかし鈴仙は心のどこかで期待していた。二人の間にある信頼は、一方通行ではないという事を。
 屋内は依然として強い炎に包まれている。爆風の効果は長くはなく、時が経てばそこから酸素を求めて炎が顔を覗かせるだろう。ともすれば倒壊の危険も有りうる。いくら庭によって隣家と距離があるとはいえ、倒れ方によっては周辺を巻き込みかねない。故に鈴仙には、もう一つの仕事が残っていた。
 ほんの数秒が何時間にも感じられ、焦る心が己を急かす。柱が悲鳴を上げている。屋根が震えている。もう時間はない。
 刹那の間に、不安が最悪の事態を想起させる。
 倒壊によって隣家が燃え、大惨事になるよりはましだと囁く。
 三つの命で数多くの生活が守られるのなら、その方が良いと手招きをする。
 だが、それらの不安を吹き飛ばすかのように、そんなものは杞憂だと笑い飛ばすかのように。
 美鈴は鈴仙が開けた穴の中から顔を覗かせた。
「家から離れてください! 早く!」
 ほっとしている暇はない。駆け出す彼女が十分に離れたところを見計らって、鈴仙は三つの銀弾を放つ。狙いは大黒柱と、家を支える二本の梁。今度は炸裂させず、柱と梁をへし折るだけ。
「お願い……崩れて……!」
 美鈴が脱出してきた穴は、もう大きな炎が吹き出している。このまま柱が倒れなければ、バランスを崩した家は左の隣家にもたれ掛かるように崩れるだろう。そうなる前に家を潰してしまわなければならない。
「おいあんた! 今度は何を……!」
「見ろ! 家が崩れるぞ!」
 疑念の声は別の声によってかき消された。屋根が中央から崩れはじめ、周囲の壁が引っ張られるように内側へと倒れ込んでゆく。これでもう心配はない。後は火が落ち着くまで待てば良いはずだ。
「二人とも生きてるぞ! 誰か水を!」
 背後から大きな声が飛び、その場にいた者達の意識を引っ張り込む。強い安堵と脱力感の中で、鈴仙はその声から逃げるように人の輪から離れる。
 今、周囲の意識は生還者に向けられている。殆どの者が幼い命の無事を喜び、炎の中へ飛び込んだ勇敢な女性の健闘を無駄にしないようにと声援を送っている。
 だが、それも一時の話。落ち着きを取り戻せば人の心は騒音となって鈴仙を襲うだろう。
「これ、使ってあげてください」
 近くに居た人の良さそうな者に、火傷の薬や包帯などを手渡す。八意永琳の作る薬の効果は絶大だ。被害にあった彼女たちは、火傷の痕一つ残らないだろう。薬の使い方は容器に書かれているし、詳しいことは一度買っている美鈴が知っているはずだ。
 鈴仙は最後にそんな信頼を寄せ、誰に知られるともなく火事場を後にした。



「……そんなわけで、薬を無償で渡してきてしまいました。申し訳ありません」
 報告を終えた鈴仙は深く頭を下げ、師の処罰を待った。商売道具である薬を無料で配っては、行商をしている意味がない。故に叱られ、罰を受けるのは当然だろう。
 しかし、永琳から帰ってきたのは意外な一言だった。
「そこで貴女が商売をしていたら、私は貴女を破門にしていたわ」
 顔を上げた先にあったのは、柔らかな笑顔。
 そして耳に伝わるのは、暖かな波長。
「医は仁術。薬売りだって立派な医療行為よ。そして医療は人を助け、人に尽くす奉仕の精神がなければ成り立たない。貴女に薬を預けたのは、そういうことよ」
 永琳は売り方や売場だけでなく、価格まで鈴仙に設定させていた。もちろんある程度の幅は決められていたが、当初鈴仙が提示した金額を永琳は高すぎると一蹴し、その半値程度の額で提供することで折り合いが付いた。
 しかしその金額は商売どころか手間賃すら怪しいほどで、とても稼ぎになるとは言いがたい。当初鈴仙は永琳の修行を商売を学ぶものだと思っていた為、彼女の意図をまるで理解できなかった。
「では、修行の本当の意味は……」
「本当も何も、私は一つしか課題を与えていないわ。仁は人の間に於いて成り立つもの。私を師と仰ぐのであれば、医の基本である仁を理解しなくては成らない」
「でも……! 私の瞳は……」
「貴女にはそれを御するだけの力があるはずよ。心の声から身を守る術も、瞳の狂気を抑える力も。貴女は己の力を恐れる余り、その力から目を背けてしまっただけ。本当はもう少しゆっくり気が付かせたかったのだけど……」
 それだけ言うと永琳は言葉を詰まらせ、背を向けてしまう。彼女の視線の先にあるのは、既に夕闇が広がりつつある天蓋だった。何れあの空には、自身や輝夜、永琳が逃げてきた月が顔を覗かせるだろう。
 彼女の視線は、まるでその見えぬ月を眺めているようにも思える。
「何かあったのですか?」
「先日、湖の付近に月の魔力を携えた館が出現したわ。月の使者ではなさそうだけど、連中が無関心なままとも思えない……」
 この永遠亭は理由無く竹林の奥深くに建てられているわけではない。逃亡者である永琳達の姿を隠し、その存在を悟られぬ為に、わざわざ不便なこの場所に居を構えているのである。鈴仙の商売が日暮れまでとなっていたのもそういった理由からで、月が天上から監視する夜には必ず戻っているようにと念を押されていた。
 そう、月はまだ地上を監視し続けているのだ。
 そしてその地上で月に関わる何かが動いたとなれば、監視の目が強化されるのは想像に難くない。
「ここ数日は月も落ち着いていたようだけれど、あの強い魔力は確実に連中の興味を惹くでしょう。そして地上が監視されているのに、のこのこと外に出るわけには行かないわ。鈴仙、明日からこの永遠亭に強い結界を張ります。暫くはそこから出ないように」
「……はい」
 逃亡者。その現実が重く両肩にのし掛かる。
 そして師の言葉は、あの美鈴という女性との別離をも意味していた。
(長くてきれいな、紅色の髪だったな……)
 炎の中から現れた彼女の笑顔。その顔は今も胸に焼き付いている。
 初めて信頼してくれた女性。
 初めて信頼した女性。
 そして、初めて近づきたいと思った女性。
 それが鈴仙にとっての美鈴という存在だった。
 だが、もう二度と彼女と出会うことはないかもしれない。
「貴女も里でいくつかの出会いを見つけたばかりかもしれないわね。辛いでしょうけど……」
「解っています!」
 師の言葉を強い口調で遮り、鈴仙はじっと足元を見た。
 やはり自分は、あの場から立ち去って正解だったのだ。まがり間違っても、賞賛される様なことがあってはならない。
 自分は薄汚い、逃亡者なのだから。
「……申し訳ありません。結界の準備がありますので、失礼します」
 師の部屋から逃げるように立ち去り、鈴仙は自室に戻って泣き崩れた。
 たった一つの信頼すらも手に入れることが出来ない、愚かで醜い自分を憎んで。
(あの人のように、輝いていたい……。笑顔で毎日を過ごしたい……)
 初めて出会ったときも、炎の中から現れたときも、彼女の波長は透明で心地よい響きを放っていた。
 自分にはない、透き通った透明な音色。その美しい音色に、鈴仙はいつしか心惹かれていたのだ。
「美鈴さん……貴女を目標にしても良いですか……?」
 答える声はない。届かせるつもりもない。
 一方的で、わがままな思い。
 それを口にしながら、鈴仙は鏡の前に静かに立つ。
「貴女を真似て、貴女に近づく努力をしても……いいですよね?」
 結い上げた髪を解き、若紫の髪をさらりと流す。
 広げた自身の長い髪は、ちょうどあの美鈴と同じ程度の長さに見えた。
「貴女を忘れないために……」
 瞼の裏に焼き付いた彼女を真似て、鈴仙は無理矢理に笑顔を作る。
 いつか彼女と同じように、心からの笑顔を作れるように祈りながら。



 以降、永遠亭は人々の前から姿を消した。
 行商の兎も現れることはなくなり、迷いの竹林は本当の意味での迷路になった。
 小さな兎の、秘めた思いを隠すかのように。



 大きな耳が小さく動き、時折苦しそうな寝息も聞こえてくる。よほど疲れているのか、それとも悪い夢でも見ているのか、或いはその両方か。
「大丈夫。傍にいるよ」
 彼女にそっと囁き、髪と頬を優しく撫でる。たったそれだけのことで鈴仙は落ち着きを取り戻し、また静かな寝息を立て始めた。
 彼女の表情が和らいだのを確認してから、美鈴は背もたれに背中を預けてぼんやりと天井を見上げる。
 目に飛び込んできたのは、紅色。
 この紅魔館は、外観から内装まで総じて紅い。家具も調度品も紅色を際だたせるための配色となっているし、主であるレミリアの部屋は殊更に鮮やかな紅で彩られている。
「紅魔館……か」
 来客のためにやや抑えた色使いの天井を見上げながら、美鈴は小さく呟く。
 紅魔館は古くから幻想郷にある館ではなく、美鈴も昔から門番を務めていたわけではない。そしてそれはこの館のメイド長たる咲夜も同じ。
 この紅魔館には二つの顔がある。数多くのものを傷つけ、恐怖に陥れた悪魔の館としての顔。そしてもう一つは、紅魔異変によって示された平和的解決法と、異変という新たな娯楽をもたらした変革の定礎としての顔。
 しかし美鈴は知っている。
 この館に隠されたもう一つの顔を。
「私も少し寝よう……ふぁ……」
 大きな欠伸をひとつしながら、美鈴は静かに瞼を閉じる。
 記憶を手繰るように、時逆ましに辿るように。



 腸が煮えくり返るような思いで、目の前に座る二人を睨みつける。
 二人とも老人の姿をしているが、片方は妖怪、片方は人間だ。
「納得行くわけがない。どうして彼女が犠牲になる必要があるんですか!」
 部屋の空気を全て震わせるような怒鳴り声を、能面顔をした二人の老人に叩きつける。しかし彼らは眉一つ動かさず、微風すらも感じぬと言わんばかりに視線を返してくる。
「もう決まったことなのだ。諦めよ」
「これが犠牲にならねば、この先どうなるか。それはお主にとて解っておるだろう」
 二人の言葉に反論できぬ自分を恨み、美鈴は血が滲むほどに拳を強く握りしめる。
 悔しいが、彼らの言うことは正しかった。
 泉の畔に突如として現れた薄気味の悪い洋館。人々はいつしかそれをその外観から紅魔館と称するようになった。
 そしていつの頃からか、こんな怪談話が里に広まりだした。
 曰く、昼間は誰も居ないように見えるのに、夜には明かりが灯る。
 曰く、夜な夜な啜り泣く声や悲鳴が聞こえる。
 曰く、荒れ果てた庭をのそのそと歩く屍が居た。
 曰く、あの館には吸血鬼が住んでいる。
 そのうちに蛮勇猛る者が館に不法侵入をするようになった。正義感溢れる者が何やら疚しいことをしているのではないかと強行調査をするようになった。館へ向かった者を案じて親しい仲の者が訪ねるようになった。
 だが、それらのうち誰一人として、帰ってくる者は居なかった。
 犠牲者の数が両手足では効かなくなった頃、里の長達はようやく重い腰を上げ、洋館の主を訪ねるべく軍団を築いた。
 待ち受けていたのは、年端もいかぬ少女。
 そして、恐怖。
 美鈴は運良くその訪問団に同行しなかった。故に館の主のことは半数以下になった生還者からの言葉だけ。
 彼らは口を揃えて言う。
『あれは少女の皮を被った化け物だ』
 里長達は悩んだ。小娘の姿をした悪魔は思いの外恐ろしく、そして強敵だ。加えて館自体も禍々しい気を放っており、手を出すのは躊躇われる。
 そこで彼らは抵抗するのではなく、不可侵条約を結ぶ事を決断したのである。
「だからって……こんな……」
 彼らの選択は、上に立つ者として正しい。そして己の言葉が単なる感情の発露から生じるものでしかないことは、痛いほどに自覚している。
 だからこそ歯痒く思う。
 彼らの選択を覆せぬ自分を。
「我々も苦渋の末なのだ。理解しろとは言わぬ。ただ黙って見逃してくれればそれでよい」
 見殺しにしろ。それが彼らの言葉だった。
 白羽の矢が立った少女は、美鈴がよく目をかけていた娘だった。
 何時どこから現れ、どこの娘なのかも解らない少女。外から流れ着いた者なのか、里で生まれた捨て子なのか、それすらも解らない彼女は、名前も記憶も感情も、全てどこかへ無くしてきてしまったかのようだった。
 美鈴は彼女の記憶と笑顔が何れ戻ると信じ、この少女に咲という名を与えた。身よりのない彼女は当然ながら一人では生きてゆけぬ為、大抵は自分と行動を共にさせていた。食も寝る場所も美鈴が与え、半ば親子のように暮らしてきた。
 そんな彼女を、生け贄に差し出せと言う。
「吸血鬼に対抗する呪を作るためだ。代用は出来んのだよ」
 条約は呪を以て結ばれる。その作成には相応の代償が必要であり、強力なものを作ろうとすればするほど、代償は大きいか希少価値のあるものでなければならない。
 まして吸血鬼を縛るともなれば、その条件は更に厳しいものになる。
 そんな中、呪い師が目を付けたのが咲だった。
 人間としては珍しい銀糸の髪。白磁の如く美しい肌。そして幼い乙女。
 彼女が犠牲になることで、数多くの命が助かる。多くの幼子を犠牲にしなくて済む。里の安寧が守られる。
 だからこそ、咲で無くては成らないと言う。
「…………一つ、条件があります」
 外はまだ明るく、この部屋には多くの明かり取りの窓が備え付けられている。にもかかわらず、部屋は墨をぶちまけたように暗く重苦しかった。
「契約の内容に私を付け加えてください。吸血鬼が新たな被害を出さぬよう、私が監視します」
「…………二度と里に戻れぬかも知れぬぞ。覚悟の上か」
「もちろんです」
 返す言葉に迷いはない。たとえ命が尽きようともかまわなかった。
 彼女だけを犠牲にしてのうのうと生きていられるほど、美鈴は強くも図々しい女でもなかった。そして彼女の犠牲を只の一片とて無駄にしたくなかったのだ。
 それはある意味、母の心なのかもしれない。
 一族を持たぬ妖怪の多くに言えることだが、彼らは総じて親子という経験がない。しかし人に近しい心を持ち、人に混じって暮らす者は、時として人間以上に心の有り様と結びつきを重く見る。美鈴はまさにその典型とも言える存在だった。
「かまわんのだな……?」
「はい」
 悔いはないかと問われなかったのは幸いかも知れない。長い間人に混じり、人と共に暮らしてきた彼女が、その生活を捨てることに抵抗がないわけがない。
 しかし、同時に彼女はこうも思っていた。
 あの薬売りのように、人のために動く妖怪は自分以外にも居る。彼女たちに託しても、里は大丈夫だろうと。
(名前ぐらい、聞いておけば良かったな)
 火事の折に助けてくれた彼女の事を、美鈴は今も忘れられなかった。彼女のおかげで二人の娘は一命を取り留め、置いていってくれた薬のおかげで火傷の痕は綺麗に消えてしまっていた。燃えてしまった家はやや小さいながらも立て直され、今も家族はそこで幸せに暮らしている。
 もし彼女が居なかったら、自分は火の海でくたばっていたかも知れない。幼い娘達は恐らく助からなかっただろう。運良く逃げ延びたとしても、酷い傷跡が残って嫁の貰い手に一生事欠くに違いない。
(せめてお礼を……いや、忘れよう。それがきっとお互いのためだ)
 喧噪の中から逃げ出すように消えたのは、恐らく何かの理由があってのことなのだろう。ならば深追いをしないのが一番なのかも知れない。美鈴はそう自分に言い聞かせ、彼女の姿を記憶の奥底に封じ込めることにした。
 長い耳も、きつく結い上げた髪も、顔の半分以上を覆う、大きな目隠しも、全て忘れたことにするべきなのだ。
「では、お主には館の内と外を監視する役目を言い渡す」
「外も?」
「条約に納得せず、吸血鬼を滅ぼそうとする愚か者を退けるためだ。お主の技量と胆力ならば、難しくあるまい」
 美鈴はさほど強力な妖怪でない代わりに、これといった弱点や急所が存在しない。加えて多くの妖怪が行おうとしない日々の鍛錬と技術研鑽に熱心で、人間が作り上げた武術や拳法を修得している。そのおかげで、彼女は生まれ持っての妖力以上の武力と胆力を備えていた。不特定多数を相手にし、尚且つ出来るだけ殺さず追い払うとなれば、まさにうってつけの存在だろう。
「解りました。使命を全うさせていただきます」
 吸血鬼条約は新たな条約で上書きをされるか、吸血鬼が消滅するまで続く。それはつまり、事実上永遠の条約だと言うことに他ならない。
 美鈴は二人の長を見つめながら、心の中で別れを告げた。
 己を慕う子供達と、あの薬売りの娘に。



 世の中、見ると聞くとは大違いというものが多数存在する。
「これが、紅魔館?」
 噂に聞いていたのは、血のように赤い悪魔の城。だが目の前にあるのは廃墟と紙一重の洋館だった。
 正門らしき鉄扉は大きくひしゃげ、錆び付いてギシギシと音を立てている。館をぐるりと取り囲む壁も所々穴が空き、ひび割れも痛々しい。そして門から覗く館自体は、それ以上に酷い有様だった。
 屋根も壁もひびや穴が目立ち、窓が割れたりひしゃげたりしている。館のあちこちは煤で汚れており、大きな火災があったことを雄弁と物語っていた。
(傷が古い……。侵入した妖怪がやったんじゃないんだ……)
 砕けた壁は一部風化が進んでいる。割れた煉瓦の断面も真新しくないことから、これらの破壊は随分と昔に行われたのだと容易に想像が付いた。
 つまり、この館はここに現れた時から既にこの姿だったのだ。
「頼もう。里からの親書を持って参った。この館の主にお目通り願いたい」
 軋む正門から声を張り上げ、美鈴は咲の手をしっかりと握ったまま呼びかける。しかし帰ってくるのは沈黙ばかり。
 一瞬、美鈴の脳裏に邪な考えがよぎる。このまま彼女を連れて逃げれば、二人とも無事に過ごせるのではないかという利己的な保身が。
 だが、それは一瞬の幸福でしかない。安寧の地を失い、逃亡生活を一生続けねばならないだけではない。多くの者を巻き込み、多大な被害を与えた責を未来永劫背負い続けなければならないのだ。
「行こうか。咲」
 虚ろな瞳の彼女は、答えるどころかこちらを見ようともしなかった。
 彼女は出会ったときからこうだった。何事にも関心を示さず、何も映らない瞳で虚空を眺めるだけ。故に初めて見た彼女の姿はがりがりに痩せこけ、ぼろぼろの布切れを纏っただけという惨憺たる有様だったのだ。
 多くの者が気味悪がる中、美鈴は彼女を抱き上げ、手にしていた握り飯をひとかけら与えた。すると彼女はそれを両手で受け取り、此方を何度か見上げた後で口にしたのだ。
 その仕草で、美鈴は悟った。
 彼女は心が無いのではなく、心を表に現せないのだと。
 今の彼女が感じているのが、恐怖か不安かは解らない。だが明るい気持ちでないことは間違いないだろう。
「失礼を承知でお邪魔させて頂く。此方は武を持って仇為す存在ではない。言葉の解る者は居らぬか」
 咲を抱き、周囲に警戒の目を走らせながら庭を歩く。柵は朽ち、枯れた蔦が絡まり、節くれ立った奇妙な枯れ木があちこちに見える。どうやら門や館同様この庭も何者かによって破壊されたようだ。
(なんで草の一つも生えないんだ……)
 館の外は雑草が生い茂っていた。野山の草は冬を除いて一年中なにがしかの芽を出すため、数日前から放置されているこの館の庭に一本の緑もないのは不自然すぎる。土に養分がないのかとも考えたが、適度に湿り気を帯びて見える黒土は園芸用に手入れされているようにしか見えない。かといってまめに雑草を抜いているとも思えない。
 もう一つ美鈴が気になったのは、命の気配が一つとして見あたらないことだ。鳥類や小動物はおろか、羽虫の一匹すら目に付かない。
 それはまるで、生有る者の存在を拒まれているような、そんな風景だった。
「答えが無いようなので失礼させていただく。繰り返すが此方は武を持って制圧しに来たわけではない。条約を取り付けるべく、話し合いに来た」
 恐らく玄関であろう扉の前で、美鈴は大きく声を張り上げた。元々期待はしていなかったが、やはり答える者はない。傍らの咲を抱き直し、彼女の背を軽く撫でてから玄関の扉に手をかける。

 ギギィ…………。

 蝶番を軋ませながら、扉がゆっくりと開かれる。中は外以上に惨憺たる様相だった。
 想像するに、そこは所謂エントランスホールという場所だったのだろう。恐らくは豪奢な絨毯が敷かれ、立派な照明でもぶら下がっていたに違いない。もしかしたら、著名な画家の作品が飾られていたのかも知れない。
 しかし、それらは全て美鈴の想像に過ぎない。
 所々抉れ、欠けて穴の開いた石造りの床。
 階段の端々に散らばる焼け残った布切れ。
 あちこちに散乱したガラス片と木片。
 およそ存在する形有るものは全て破壊され、価値有るものはがらくたと化していた。
「とても人が住んでいるようには見えない……」
「なら、吸血鬼が住むにはふさわしいのかしら」
 不意に響く少女のような声に、美鈴は思わず咲の顔を覗き込む。しかし彼女が何か話したような形跡はなく、声はまるで別の方向から響いてくる。
「成る程。目の前に立たれて気が付かないようでは、私を討てるわけもないわね」
 声の主は、美鈴の正面にいた。エントランスホールへと延びる階段の中腹。どうまがり間違っても見落としようがない場所に。
「な…………」
 敵の根城に踏み込むのに、気を抜いて行くような馬鹿は居ない。まして美鈴は守るべき咲という少女を抱えているのだ。神経を張り巡らせ、油断無く周囲に気を配っていたのは間違いない。にもかかわらず、美鈴は彼女の登場に気が付かなかった。
 目にも止まらぬ速度で現れたのか、それとも気配と姿を消して移動してきたのか、その方法は解らない。しかし少女は確かに存在している。
 まるで美鈴が入ってくるよりも前から、そこで待ち受けていたかのように。
「貴女が当主か」
「ええ、そうよ。私がこの館の主、レミリアよ」
 悠然とした足取りで歩く少女は、咲よりも若く見えるほどの幼さだった。深紅の柔らかいドレスを纏い、短い髪に小さなリボンを飾る彼女は、およそ数多くの妖怪をなぎ倒した件の吸血鬼には見えない。
 だが、だからこそ恐ろしいというのもある。
「何か用かしら、愚かなお客様。私に貢ぎ物でも持ってきたのかしら? それとも今更勝負しろなんて言わないわよね?」
 あくまでも余裕の態度と表情。それが余計に恐怖を煽る。
 美鈴はかなり背が高く、吸血鬼らしき少女は小柄だ。体格差で言えば倍近い差があるだろう。まさか殴り合いになるとは思えないが、それでも見下ろされる威圧感は大きいはずだ。
 しかし彼女は笑っている。少女の顔で悠然と。
「里より親書を持って参りました。これ以上の被害を出さぬよう、不可侵のための条約を結んでいただきたい」
「……………………勝手なものね」
 吐き捨てるような小さな呟き。彼女の一言には怒りよりも悲しみの方が強く込められているように思える。
 被害者は此方だとでも言うのだろうか。あれだけ多くの犠牲を出しておいて。
「まあ良いわ。目ぐらい通してあげる」
 美鈴が差し出した親書を受け取りもせず、レミリアという少女はくるりと背を向けて館の奥へ向かって歩き出す。
「どうしたの? 応接間に案内するわよ。それともこの東の国では条約は玄関先で締結するという決まりでもあるわけ?」



「なるほど、この呪法で私を縛ろうというわけね」
「縛り付けるわけではないが、里に被害を出さないようにするためなのだ。署名してもらえないだろうか」
 言葉を紡ぎながら、美鈴は確かめるように咲の手を握る。
 条約の内容はそう難しいものではない。
 まず、吸血鬼側に提示される条件は里に足を踏み入れぬ事。人妖問わず妄りに襲わぬ事。自身だけでなく従者や部下、眷属にもこれを守らせること。
 代わりに里からの条件は討伐を目的とした軍団を派兵しない。生娘である咲を差し出す。条約を快く思わぬ者を退ける番人として美鈴を与える。食料などは必要なものを美鈴を通じて提供すること。
 それはある意味では、里の敗北宣言だった。
 こちらから手を出さない。貢ぎ物も差し出す。その代わりにそこで静かに暮らしていて欲しい。もう里に関わらないで欲しい。そんな切なる願いを込めた条約だったのだ。
「私はかまわないわよ。でもこの条約には貴女たちの名前も入ってる。それを理解した上で持ってきたの?」
「覚悟の上です。それが結ばれれば、里の皆は安心するでしょう」
 自己犠牲などという格好いいことを言うつもりはなかった。事実美鈴は今すぐここで条約を破り捨てたいとも思っていたし、咲を不幸にしなければならない己の不甲斐なさに腑が煮えくり返りそうであり、叶うなら今すぐにこの吸血鬼の顔面に己の拳を力一杯叩き込みたかった。
 その後の惨劇さえ、己の脳裏に過ぎらなければ。
「存在を呪術で縛られる。それも覚悟の上なのね?」
「二言はありません」
「………………そう」
 小さく呟き、彼女はまた悲しそうな顔をした。
 条約は吸血鬼にとって不利になる要素はほとんどない。生活は保障され、好物であろう生娘の血も得られる。加えて身を守る側近付き。彼女はいったい何が不満なのだろう。美鈴にはその表情の意味がまるで解らなかった。
 吸血鬼はその解らない表情のままに煤けた羽ペンを取り、美鈴が見たこともない文字で署名の場所に名前を書き込む。すると条文からは文字が浮かび上がり、四つの光へと分かれてゆく。
 一つはレミリアの指に絡み付き、彼女の指を飾る指輪になった。
 一つは壁をすり抜けてどこかへ飛んでゆく。恐らく里の長にその証を残しに行ったのだろう。
 そして残る二つの光は、自身と咲の首に絡みつく。
 条約が形作ったのは、番犬を繋ぐような首輪の形だった。
「これで成立よ。不満はある?」
「ありません。ありがとうございます。そして私とこの咲の命は、貴女のものです」
 指先でしきりに首輪を触る咲の頭を撫でてから、美鈴は吸血鬼に静かに向き直る。
 これから先、自分が仕えねばならぬ主の顔を刻みつけるために。
 幼い命を奪う憎い吸血鬼の顔を死して尚忘れること無きように。
「別に取って食う気も血を吸う気もないわ。この館に居なきゃいけないならある程度自由にしてかまわない。少し案内してあげるからついていらっしゃい」
 意外な言葉に戸惑いながら、美鈴は彼女に従って館の中を歩き回った。言いつけられたのは三つ。
 一つ目は、主であるレミリアは昼間自室で眠っているので起こさないようにして欲しいということ。二つ目は、好きなときに休んでかまわないが、出来れば夕方、日が沈んだ直後ぐらいに紅茶を一杯入れておいて欲しいということ。それから三つ目は、館の奥にある地下へ続く階段には、何があっても近づかないようにすること。
「食べ物は厨房の奥に材料が揃ってる。魔法で腐敗しないよう施してあるから、手に入れた物もそこに置くと良いわ。好きなものを好きなだけ食べなさい」
 部屋は一番まともな部屋をと、やや豪勢な客間を与えられた。大きなベッドは自分と咲が一緒に眠ってもまだ余るほどで、やや黴臭さはあったものの、少し掃除をするだけで快適に使えそうだった。
「他に何か必要なら、起きている間に相談して頂戴。私は普段自室にいるから」
「一つ質問が」
 場違いなほどの待遇の良さに、美鈴は己の役割を忘れてしまいそうになる。
 しかし忘れるわけには行かない。ここは多くの妖怪を飲み込んだ吸血鬼の館なのだ。
「ここに踏み込んだ者達は、どこへ行ったのですか?」
「知らないわ。私が見たことあるのは、あんたたちが大挙して押し寄せてきた時に居た連中だけだもの」
 彼女は嘘をついているように見えなかった。しかし館のどこにも、死体やそれを処理したような跡は見あたらない。
 言い知れぬ不安と心中渦巻く気持ちの悪い疑問。それらを深く強く感じながら、美鈴は咲の手をしっかりと握り直した。



 こうして始まった美鈴の日常は、余りにも平穏なものだった。朝は日の出近くに起き、レミリアの就寝を見送ってから朝食を作る。午前中は掃除を中心に屋敷をうろつき、昼食は咲と共にのんびりと取る。午後は食材やその他必要であろう物を帳面に書き出し、時々訪れる使者にそれを渡して物資を得る。それから夕食を作り、紅茶を用意して自室へ。
「里にいた頃より良い暮らししてるかも……」
 里長が言うように時折吸血鬼を襲おうとする者は現れたが、それらは概ね美鈴の敵ではなかった。夜の眷属である吸血鬼に日が暮れてから挑むような愚か者は現れず、もし居たとしてもそれらは概ね主人の敵ではないだろう。
 そしてレミリアは、一向に咲の血を吸おうとしなかった。
「必要ないからよ」
 ある日、咲が寝静まってから美鈴はその疑問を主人にぶつけてみた。
 返ってきたのは随分と簡単で意外な一言。
「人間の血は麻薬のようなものよ。確かに力は出るし美味なことに代わりはない。でもそれに溺れるのは愚か者のすることだわ」
「では、何故紅茶を……?」
「あれは植物の要素を湯に移したもの。言ってみれば植物の血のようなものよ。本来吸血鬼はそれらや薔薇の精気だけで十分生きていけるの」
 レミリア曰く、人の血に溺れるのは人間が酒や薬に溺れるのとさして変わらないという。そして人間たちは、その愚か者たちの目立つ所業だけを指して、吸血鬼の全てだと言うのだと。
「では、この館は何故火事に……?」
「人間に焼き討ちされたのよ」
 外の世界の人間は、もう百年近く昔に『科学』という魔法を手に入れたのだという。そしてこの屋敷は、その科学の力によって討ち滅ぼされたらしい。
「このスカーレット邸は素晴らしい城だった。庭はよく手入れされていて、壁も内装も鮮やかな紅に彩られていたわ。使用人たちは皆お父様やお母様の眷属だったけど、それらは自分から進んでそうなった者か、そうしなければ助からなかった者だけ。そして解放を望めば、何時だって父や母がその手を下したわ。彼らがなるべく神の身元に行けるようにと考えながら」
 昔を懐かしむ彼女の表情は、外見相応に可愛らしく見えた。恐らくこの屋敷は幸せに包まれていたのだろう。家族と仲間に囲まれ、穏やかで笑顔溢れる日々が続いていたに違いない。
 人間に襲われるその瞬間まで。
「なら、何故里の者と解りあおうと……」
「気が付いたら見たこともない場所に飛ばされてて、時折屋敷に入ってくる奴は血走った目で私を捜すばかり。ようやく話が通じそうな連中が来たと思ったら、武器や炎を構えて私を取り囲んだ。そんな連中とどうやって解りあえばいいの?」
 被害者は彼女の方だった。
 そして美鈴は勘違いしていた。
 目の前にいるのは恐ろしい吸血鬼ではなく、外見同様にか弱い少女なのだ。
「でも、それも過ぎた事よ。条約は締結された。貴女たちには悪いけど、私はここでひっそりと生きていく保証だけは取り付けられた。それで十分だわ」
 背を向けた彼女は、肩で静かに泣いていた。
 強がってみせるのも、虚勢を張るのも、時折残忍に振る舞おうとするのも、全てこの屋敷を守るためなのだろう。
 家族との思い出が詰まった、大切な館を。
 震える少女の肩を、美鈴は抱きしめることが出来なかった。
 そうすることが、彼女を傷つけるのだと知っていたから。



「パチュリー様、お茶が入りました」
 使い込まれた樫のテーブルに紅茶を置き、午前のうちに作っておいたスコーンを並べると、図書館の主はようやく本から顔を上げる。
「ありがとう。今日は客が来てるんじゃなかったの?」
「いつものですので、美鈴に任せてあります。あと、夕餉の際に神社の巫女達が来るかも知れません」
「そう。なら私も久しぶりに相席するわ」
 魔女は基本的に寝食を必要としない。それらの不足は魔力によって補うことが可能で、その魔力も自然のうちから勝手に補われる。故に食事と睡眠は魔女にとって娯楽のようなものでしかなく、生粋の魔女である彼女に言わせれば『基本的に無駄以外の何物でもない動作』なのだという。故にパチュリーが食事の席に現れるのは年に数回程度で、来客があるぐらいでは相席どころか顔も出さないのが普通だった。
「彼女が来るからですか?」
「半分はずれで半分あたり。たまには顔を見せないとレミィがうるさいのよ」
 紅茶を一口運び、それからスコーンをひとかけら口にしてパチュリーが小さく笑う。
 いつも気だるげな表情しか見せない彼女の笑顔は、なかなかに珍しい。
「パチュリー様も、少々お変わりになられたようですね」
「貴女には負けるわよ」
「それは、どこからの変化を指してでしょうか」
 やや皮肉めいたパチュリーの問いに澄まし顔で答える。
 咲夜はこの紅魔館で暮らすようになってから、幾度か大きな変化を体験している。
 最近は現在休職中のメイドである美希の来訪。
 彼女の採用は自分ばかりでなくこの紅魔館全体の雰囲気を変化させた。
 その前は鈴仙と美鈴の関係による変化。
 鈴仙という存在のおかげで美鈴は自分という束縛から完全に解放されたし、本当の意味で自らの道を歩みだしたと言える。
 そして最も古い変化は、咲夜が咲夜になったその日のこと。
「自分が変わったこと、後悔してる?」
「いいえ。一度も後悔したことはありません。尤も、そんな暇もなかったというのが正解かも知れませんが」
 いつの間にか現れていた小悪魔が勧めてくる椅子に腰を下ろし、目の前に差し出されたカップに口を付ける。花のように広がる香りと柔らかな苦みが、心をほぐしてくれるようで心地よい。
「なら本当に後悔がなかったかどうか、ここで少し休んで考えて行きなさいな。主の前で欠伸したくはないでしょう?」
「…………ばれてしまいましたか」
 椅子に腰掛けたことで気が抜けたのだろうか。咲夜は軽い眠気に襲われ、欠伸を漏らしそうになった。しかしパチュリーとてこの館の住人の一人。仕えるべき存在の前で欠伸を漏らすなど、咲夜のプライドが許さない。そのため咲夜は、欠伸をかみ殺すその唇をカップで隠してしまおうとしたのだ。
 だが、どうやらそれは全てお見通しだったらしい。
「貴女が欠伸をしても居眠りをしても、誰もそれを本気で咎めたりはしないわよ」
「いえ、少々気を緩めただけで……」
「今は優秀な兎と居眠り門番が中にいるのでしょう? 何かあったらその二人を叩き起こすから、少し休んでいきなさい」
 確かに、不真面目だがよく館を知る美鈴と真面目で気がきく上に部下を指揮することに慣れている鈴仙が居れば、この館の概ねは問題ない。主の世話は自分でと思うが、レミリアが起きてくる日の入りまではまだまだ時間がある。霊夢達の来訪も夕餉に合わせてとのことだったし、その夕餉の仕込みもまだ早すぎる。
「細々したことは私が補佐しますので、どうかゆっくりなさってください」
 最後のだめ押しを小悪魔に貰い、咲夜はとうとう首を縦に振ることにした。
「では、お言葉に甘えて少しだけ……何かあったらすぐ起こしてください」
「何もないから安心しなさい。日暮れの少し前には起こしてあげるわ」
 そこまで長く眠るつもりはないと苦笑してから、咲夜は背もたれに身体を預けて目を閉じる。
 日々の疲れが溜まっていたのか、眠りが浅かったのか、意識はあっと言う間に睡魔の虜になった。



 深い眠りの向こうで、咲夜は昔の夢を見ていた。
 それはまだ自分が物言わぬ、喜怒哀楽を持たぬ、人形のような存在だった頃の記憶。
 自身がまだ、夜を纏う存在でなかった頃の記憶。
 思い出すことも希になってしまった、過去の記憶の物語。



 咲は感情のない娘だった。正確には喜怒哀楽とか心の機微とかいったものをどこかに置き忘れてきてしまったような少女だった。
 そんな咲が記憶している中で、感情らしきものを味わったのは二度だけ。
 一度は美鈴におにぎりを貰ったときで、なにやら心の奥に暖かいものが溢れたような気がした。
 そしてもう一度は、この紅魔館という館に初めて足を踏み入れたとき。
 感情がない故なのか、美鈴が口に出さなかっただけなのかは解らない。しかし、それは確かに気のせいではなかった。咲は確かに感じていたのだ。館の奥底から手を伸ばそうとしている、得体の知れない何かの気配を。そしてその気配に対する恐怖を。
 そしてその正体は、明らかにこの館の主とは別種の存在だった。
「人の血に頼らなきゃ生きていけない吸血鬼なんて、三流以下の存在よ」
 彼女は笑ってそう言い、咲の血を吸おうとはしなかった。それどころか衣服を与え、食べ物を与え、住む場所まで与えて好きにしてかまわないとまで言う。
 また心優しき当主は、自身の安全のためにと三つのことを禁じた。
 一つ、館から勝手に出歩かないこと。
 二つ、館の地下には踏み込まないこと。
 三つ、満月と新月の夜はなるべく出歩かないこと。
 一つ目は美鈴からも言われていることだった。里と違い、外には命を狙う危険な妖怪が居る可能性があるという。まして咲のような幼い娘は、肉食の妖怪にとってこの上ないご馳走らしい。故に外はある意味館以上に危険な場所なのだ。
 二つ目と三つ目については館独自のルールらしいが、詳細は話してくれなかった。ただ、その方が身のためだと言った主の背中は、どこか寂しそうだったのをよく覚えている。
 もしレミリアが咲をただの生け贄としか思っていないのなら、このようなルールをわざわざ言いつけたりはしないだろう。
 そしてそんな優しさを持つ者が、あのような気配を纏うはずがない。
「それじゃ、今日もいってくるからね」
 門番に立つ美鈴を見送り、咲はベッドに腰掛ける。初めのうちはばたばたとしていた館での生活も、一週間もすれば若干の余裕が出てくるようになった。
 朝食は咲が目覚める頃には用意されており、今日はレミリアと三人での食事となった。その後レミリアは自室で眠りにつき、美鈴は門番に向かう。咲はあてがわれた自室に戻り、レミリアから借りた本を読みながら一日を過ごす。昼食は美鈴が戻ってくることも多かったが、時々は部屋で一人弁当を食べることもあった。夜は日の入りより少しばかり早く戻ってきた美鈴が、自分に食べたいものを聞いてから作り始める。尤も、咲がそれに答えることはなく、美鈴もそれを解った上で訪ねているのだが。
「はーい、今日の晩ご飯は青椒肉絲ですよー」
「何となく予感はしてたけど、貴女中華しかまともに作れないのね」
 誇らしげに料理を並べる美鈴に、レミリアがやや呆れた顔でため息を吐く。美鈴のレパートリーは中華料理以外では味噌汁おにぎり焼き魚程度で、洋食の類は一つも作れなかった。咲にとって食事は生存のために必要な行為の一つでしかなかったため、胃に収まるなら何であろうと問題ない。しかし普通の者にとって食事は楽しみの一つであり、娯楽のようなものだ。ましてレミリアは西洋から来た存在。異国の料理を続けざまに出されるのは些か苦痛なのだろう。
「好き嫌い言うと大きくなれませんよ」
「吸血鬼が食事で成長するわけないでしょう」
 笑顔を向ける美鈴に、レミリアは面倒くさそうに答える。
 ここ数日のうちに何かあったのだろうか。美鈴は以前より雰囲気が柔らかくなり、笑顔も見せるようになっていた。レミリアの方も僅かにだがよそよそしさが消え、三人で食卓を囲む機会も増えていった。
 もし契約の証である首輪が無かったら咲はここに生け贄として連れてこられたことを忘れていたかも知れないと思うほどに、日々は平穏で不思議なほどに暖かかった。
 だが、そうして続く安寧の中で、咲ははっきりと感じていた。
 自身を強く呼び寄せる、黒い声の存在を。



 その日は、いつもより少しばかり喉が乾いていた。
 レミリアは起床が遅かったのか夕食の場には現れず、食事は久方ぶりに二人でのものとなった。
 些か味付けが濃かったのもあるかもしれない。或いは、体調を崩す予兆だったのかも知れない。ともかくも、咲は一杯だけいつもより余計に水を飲んだ。
 その結果彼女は真夜中に尿意を催し、暗闇の中で一人目を覚ました。
 目の前からは美鈴の静かな寝息が聞こえてくる。たかだかトイレのためだけに彼女を起こすのは些か忍びない。幸いこの部屋は目的の場所から遠くないし、何度も往復しているので暗がりでも迷うことはあり得ない。
 咲は物音を立てぬようにゆっくりとベッドから這い出て、慎重に扉を押し開けた。
 眼前に広がったのは、いつもより暗い廊下。明かり取りの窓から差し込む光も弱く、壁に手を付かなければつまづいてしまいそうなほど。そんな不安定な視界の中、咲はいつもよりゆっくりした足取りでトイレへと歩み始める。
 ほとんど視界の効かない廊下は、いつもよりも長く感じられた。あちこちに破壊の傷跡があり、手入れもされていない館はお世辞にも歩き易いとは言いがたい。

 カツッ カラカラカラ

 小石でも蹴飛ばしたのだろうか、足下で乾いた音が響く。咲は一度足下を確かめ、それからもう一度壁に手を付いて歩き始める。

 オイデ

 不意に声が聞こえたような気がした。微かにだがその声は、確かに自分を呼んでいるようだった。

 コッチニオイデ

 ようやくトイレにたどり着き、用を足す。下着を上げて落ち着いたところで、声はもう一度囁きかけてきた。
 先程よりもはっきり聞こえたその声は、何とも不思議な声音をしていた。
 男性にしては高く、女性にしてはやや濁って聞こえる。若くはないが年寄りのようにしわがれているわけでもない。
 何より、抑揚がなかった。

 ハヤクオイデ

 正体の分からない声だったが、何故か咲にはその声がどこから響いてくるのかを判別できた。
 そして咲は、その声に逆らうことが出来なかった。

 コッチダヨ

 魂に染み込むようなその声につられ、咲は暗い廊下を歩き続けた。
 星明かりすら射さない漆黒の廊下を抜け、手摺りの破壊された階段を降り、一つも迷うことなく真っ直ぐに。

 ハヤクハヤク

 そして声に幾度と無く急かされながら、咲はとうとうたどり着いてしまった。
 館の深奥、地下へと延びる階段へ。

 ハヤクオイデヨ

 漆黒の闇の中から聞こえる声。そしてその闇の中で蠢く、無数の手。常人ならばそれだけで発狂しかねないような光景だったが、既に咲の瞳には何も映ってはいなかった。声に操られるままに、闇色の手の群へと踏み込んでゆく彼女は、もう操り人形そのもの。
「だめっ!」
 叫び声にも似た鋭い声。そして引きずられるように後方へと引っ張られる己の身体。
 咲の意識は、そこでようやく彼女自身の元へ戻ってきた。
「新月の夜は出歩くなと言っておいたでしょう!」
 声の主はレミリアだった。自分を抱え上げながら、彼女は階段を駆け上がる。だが闇色の手はそれよりも早く伸び、レミリアの足を捕らえた。
「あぐっ」
 ゴムのように伸びた手がレミリアの足を引き摺り、彼女を地面へと叩きつける。寸手のところでレミリアに庇われた咲は無傷で済んだが、彼女は強か背中を打ちつけたらしい。しかしのんびりしている暇はない。手は次から次へと伸びてくる。
 咲を捕らえて引きずり込もうと。
「このぉ……っ」
 短い声と共にレミリアが腕を振る。爪か何かで引き裂いたのだろうか。伸びていたいくつかの手は野菜のように乱切りにされ、黒いもやのようなものをまき散らしながら消えてゆく。だが、それは所詮無数に伸びる手のうちの数本でしかなかった。レミリアをすり抜けたいくつかの手は確実に咲へと迫り、その身体を捕らえようとしてくる。
「やぁっ!」
 不意に響く背後からの声。それと同時に溢れる、虹色の輝き。光は自身を包み込みながら闇色の手を押し退け、焼き尽くすように消し去ってゆく。
「不穏な気が漂ってるから来てみれば……いったい何が……」
「話はあとよ。すぐに逃げて」
 光を放ったのは美鈴だった。彼女はレミリアの言葉を聞いて尚、半歩前に進み出て構えを取る。すると美鈴の手の中に、先程と同じ様な光の塊が現れ始めた。
「はっ!」
 気合いと共に放ったのは、楔型をした光弾。それらが闇色の手を壁や天井へ次々と縫い付けてゆく。だが手の数は無限とでも言いたいのだろうか。奥底の闇からはそれを物ともしない数の、文字通りの魔手が迫ってくる。
「くそっ、きりがない」
 飛び退きながら、美鈴はレミリアごと自身を抱える。そしてそのまま星明かりの射す廊下へと駆けだしていた。
 レミリアの肩越しに迫るいくつかの手のひら。それは獲物を求める何かと言うよりは、むしろ縋るように、助けを求めるように見える。
 そして自分を庇うように抱くレミリアの姿に、咲は何かを思い出しかけていた。
「大丈夫。貴女は何も思い出さなくていい。今は黙って目を閉じていなさい」
 優しく目を覆うレミリアの冷たい手のひら。そんな彼女に全てを委ねるようにように咲は静かに瞳を閉じる。
 レミリアは時々咲の心を読みとっているようなところがあった。雰囲気や身振りから予測する美鈴のそれとは違い、彼女は咲の声に出さぬ内面を理解し、語りかけてくる。
 もちろん、美鈴が劣っているというわけではない。彼女は雰囲気や空気からして欲しいことやしたいことを読みとるため、大雑把だったり的外れだったりすることも少なくない。しかしそれは、時として咲が考えつかぬ何かを提示してくれる事にもつながる。
 一方、レミリアは咲の心を的確に読みとってくる。ただそれは現在進行形の何かというよりは、少し前に咲が考えていた事やしようとしていた何かを知覚するといった風だった。
 そしてそれは、咲が忘れてしまった過去まで知ることが出来るらしい。
 普通人間はそのような事を恐れ、気味悪がる。それは人間が少なからず邪な考えや忘れたい過去を持っているからに他ならない。しかし、咲にはそのような考えや記憶、心といったものがなかった。
 いや、心があっても同じだっただろう。
 口も聞かず愛想笑いも出来ぬ自分を嫌な顔一つせずに養ってくれている彼女を、どうして恐れ嫌うことが出来ようか。
 親と言っても差し支えのない美鈴が打ち解けている者を、どうして邪険に出来るだろうか。
 そして今、身を挺して自身を庇う彼女の何を疑うというのだろうか。
「あれは一体……。どうして当主を襲う?」
「あれは…………っ!」
 レミリアの言葉を遮るように、闇色の魔手が次々と襲いかかる。光の射さぬ天井を伝ってきたのだろうか。手はその姿を棘のように変化させ、雨のように降りかかってくる。
 ふと、咲はその手の一本に泣き顔のような何かが浮かんでいるように思えた。
 悲しみ、苦しんでいる自分を救って欲しいと言いたげな顔が。
「あれは、かつてこの館に仕えていた者達よ」
「ならば何故当主を襲う!」
「歪められたからよ。人間に」
 それは咲が初めて聞いた、憎しみに満ちた声。
 そしてレミリアが初めて見せた、苦痛に歪んだ顔だった。
「人間に襲われた日、私の妹は友人と共に地下へ逃げ込み、私はお母様の魔法で遠い地へと飛ばされたわ。身を隠し、人間に怯えながらようやく館へ戻ってきたあの日、私が見たのはぼろぼろになった廃墟と禍々しい呪いに似た封印だった。そこで私はこの館が歩んできた運命を知ったの。お父様の力によって為されるはずだった妹を守るための封印は、人間によって歪められた。そして歪み呪いへと変わり果てたそれはお父様やお母様、それから館にいた使用人達と薄汚い人間を巻き込んだのよ」
 闇の手を振り払いながら、レミリアは憎しみに満ちた言葉を紡ぐ。
 恐らく彼女は、人間を好いていたのだろう。もとより憎んでいたのであれば、彼女はこれほどまでに苦しげな顔をするわけがない。
 そして、この闇色の手が何で出来ているかを知っているから、彼女は手を出せずにいたのだろう。
「変わり果ててしまっても、お父様やお母様や、私を愛してくれた使用人達よ。酷いことなんか……」
「愛しているならば、何故引導を渡してやらない!」
 美鈴の力強い声と、魔を打ち払う震脚が空気を震わせる。襲いかかっていた魔手はその一撃で怯み、身を竦ませるかのように僅か遠ざかってゆく。
「貴女はここの当主だろう! ならば何故彼らの声を聞いてやらない!」
「できることならやってやりたいわよ!」
 泣き叫ぶような声。睨み合う目。
 レミリアの顔は、子供の泣き顔のようだった。
 美鈴もまた、あの闇の手が助けを求めている事に気がついたのだろう。そして当主としての責任を果たさず、情に流されて放置していたレミリアに怒りを覚えたに違いない。
 しかし、彼女の口から返ってきたのは悲しい現実だった。
「闇の力と月の力しか持たない私には、彼らの手を払い封じる事が出来ないのよ! 貴女のように陽の力を持たない私には!」
「なんと……! しかし扉には貴女の力が……」
「私の力で押さえつけているだけよ。でも、新月の日は私の魔力が弱まる。だから出歩くなと言ったのよ」
 吸血鬼は月に縁が深く、その魔力は月の満ち欠けによって増減する。故に満月には気分が高揚して魔力が満ち、新月にはその力が弱まるのだ。
 そして今日はどうやら新月らしい。
「一体どうしたら……」
「美鈴、咲を連れて一度館を出なさい! あれは館の外に出ることは出来……ぐぅっ!」
 魔力が弱っているからか、はたまた会話に集中していたためか、レミリアは降り注ぐ棘の幾つかを避け損なっていた。彼女のドレスに穴が開き、白い素肌が露わになる。
 そして、その柔肌を鮮血が赤く染めてゆく。
 咲はそんな光景を、以前どこかで見たことがあるような気がしていた。
 自分を庇護しようとする、家族に近しい存在が傷つく瞬間の光景を。
「だめだ! 貴女を放っては行けない!」
「馬鹿言わないで! 貴女が彼女を守らなかったら、誰が守るって言うの! 早く外へ!」
 降り注ぐ闇色の雨を、深紅の爪が引き裂いてゆく。しかし分の悪さは一目瞭然だ。
 美鈴の放つ光は魔手を焼き尽くし、一時的にだが退かせている。それに対してレミリアの爪は降り懸かる攻撃を払いのけているだけで、根本的な殲滅に至っていないように見える。確かにこれでは呪いの根をたつのは難しいだろう。
「咲っ! 危ない!!」
 不意に響く叫ぶような声。そして暗転する視界。
 闇の中に突き飛ばされ、代わりに星明かりの元へ身を晒したのはレミリアだった。
「レミリア!」
 直後降り注ぐ闇色の雨。
 それらは彼女の身体を弄び、貫き、鮮血をまき散らしながら床へと到達した。
「だ、大丈夫よ……。不死身の吸血鬼が、こんなことで死ぬわけがないでしょう…………?」
 切れ切れの声にはごぼごぼという血の音が混じり、彼女の身体は自身を穿った漆黒の槍によって支えられているだけ。
 そんな彼女の姿から、咲は片時も目を離すことが出来なかった。
 そして同時に、割れんばかりの頭痛と記憶の津波が、彼女の意識を襲った。
 己の内に封印したはずの、忌まわしい記憶の津波が。



 少女はごく普通の家庭で育った。家は広くも狭くもなく、裕福とは言いがたいが殊更に貧しいわけでもない。父は強権を振りかざすような亭主関白ではなく、母も夫の首に縄をつけるほどにはかかあ天下でもなかった。家族仲は良好で、一人娘だった少女はやや溺愛気味の環境で育った。
 そんな普通の家庭で育った少女は、やや普通の存在ではなかった。
 異能。少女の普通ではない部分を指し示すには、この言葉が尤も的確だろう。何しろ彼女は超能力などという言葉では説明が付かず、霊能力や超常現象のように不安定でアットランダムな能力の発現をしていなかったのだから。
 少女は時間と空間を自在に操ることが出来た。
 たとえば、特定の物体だけ時間の流れを変化させてみたり。
 たとえば、制止した時の中で自分だけが自在に動くことが出来たり。
 たとえば、部屋の大きさを外からの見た目を変えずに変化させてみたり。
 少女はそれらの事を何の苦もなく行うことが出来た。
 無論、そのような力を持つ者が何の努力も苦労も無しに平穏無事な生活を送れるわけがない。これが空想の世界であれば、少女は世界を救う英雄となるべく旅にでるとか、同じ異能を持つ集団との戦いに巻き込まれたりしたかもしれない。
 しかしここは現実だ。常軌を逸した能力は人々から奇異と恐怖の目で見られ、特殊な研究機関や胡散臭い教授らによって文字通り髪の毛の先から足の爪まで調べられるに違いない。
 また、この力は使いようによってはどのような犯罪でも容易に達成でき、場合によっては世界を牛耳る事も可能だと気が付いた。
 故に少女は己の身を正し、心を厳しく律し、どのような甘言にも惑わされず、如何なる犯罪も犯さぬように堅く心に誓いを立てた。
 自身に厳しい枷を課したからだろうか。彼女はどのようなこともそつなくこなし、文武両方において才能を発揮した。もちろんその陰には、彼女自身がその能力を用いて己を鍛えていたこともある。しかしそれ以上に、彼女の努力がそれらを為した結果であることは言うまでもない。
 特異な力を己の物とし、少女は幸せで恵まれた環境を築き上げた。美貌にも恵まれ、周囲からも愛され、彼女はまさに幸福の最中にいた。
 しかし、運命は彼女に微笑み続けなかった。
 神々の気まぐれだろうか。はたまた運命の悪戯だろうか。
 人の運に総量が決まっているとするならば、彼女はその運を全て使ってしまったとでも言うのだろうか。
 或いは、特異な力を持つ者は幸せになってはいけないという決まりでもあるのだろうか。
 何れの理由かは誰にもわからない。ただ、少女の幸せはたった一晩の内に失われてしまった。



 その夜、少女は珍しく真夜中に目を覚ました。時計の針は午前二時を示している。もう両親も眠っているはずの時間だ。しかし隣の部屋からは某かの物音が響き、捜し物でもしているかのような足音が聞こえてくる。
 自分がこんな真夜中に目を覚ましたのはその音のせいだろう。父か母かその両方か。ともかくこんな夜中に捜し物をして自分を目覚めさせたことに対して一言文句を言ってから寝るべきだろうと考え、少女は静かにベッドから身を起こす。
 だが、扉を開けて真っ先に見えたのは慌てふためく母の姿と、見知らぬ黒ずくめの男達。
「逃げて! 早く逃げなさい!」
 母の絶叫が部屋に響く。寝起きの少女は何が起こっているのか、まだはっきりと理解できなかった。
 しかし次の瞬間、少女の頬には生暖かい何かが降り注ぐ。
 母親の喉を貫通する、鈍く輝く凶刃。そしてそこから降り注ぐ液体。母の目から光が失われ、その身体が糸の切れた人形のように廊下に横たわる。
 少女は絶叫と共に力を解放した。
 制止した時の中。自分だけが自由に動けるその空間で少女は叫び、泣き崩れた。
 目の前で母が死に、その向こうで既に父が血の海に伏している。信じがたい光景の中、少女は生まれて初めて純然たる殺意を覚えた。自身の愛する母を殺し、自身が尊敬する父を殺したこの男に、少女は裁きの刃を突き立ててやりたかった。
 そして彼女の内なる力は、その望みを静かに叶える。
 刃渡りは手のひらほどだろうか。磨き上げられた銀色の刀身は左右対称。柄に装飾らしきものは見あたらず、鍔らしい鍔もついていない。少女の殺意はそんな姿で現実のものとなった。
 彼女はそれを突き立てることも投げることもしなかった。ただ視線を向けただけでその殺意は思う方向へとその刃を閃かせてくれた。
 まずは両目とこめかみに一本づつ。それから心臓へ向けて一本。腹へ向けて五本。両手足の間接めがけて二本づつ。最後に、母がされたように背中から喉と心臓へ向けて一本づつ。殺意は男の直前。薄皮一枚ほど離れた場所でその時が来るのを待ちわびているかのようだった。
 彼女が時を動かし、純然たる殺意である自分が、生まれてきたその意味を遂行するために。
 しかしそれだけでは終わらなかった。
 少女は知覚していたのだ。視界に入らぬ、二人の男の存在を。
 彼女は空間を操り、居間の中央へと飛んだ。背後には物言わなくなった父の姿があり、少女の眼前には二人の男が見える。彼らはそれぞれ忙しそうに戸棚や引き出しを漁っているようで、これが物取りによる犯行であることは一目瞭然だった。
 それはあまりにも理不尽な光景。理解しがたい出来事。
 ならば、彼らにも与えるべきなのだ。
 理不尽で理解しがたい死を。
 少女は背中を向けて戸棚を漁る男の後ろ姿に、引き出しを物色中の男に、銀色の殺意を並べ立てる。頭の先から足の先まで。その姿を塗りつぶすように隙間無く。
 時が動き出せば、彼らは瞬きする間もなく凶刃に襲われるだろう。自分達が何に襲われたのか。いや、どうしてこうなったのかすらわからぬままに絶命するに違いない。
 そしてこの家に、自分以外の息をする者は居なくなる。
 少女は居間の中央で膝を付き、天を仰いで啜り泣いた。
 全てを失った悲しみと、生まれて初めて人を殺した恐怖に、心を軋ませながら。
 そう、彼女は自身の力が恐ろしかった。
 ただひと睨みするだけで、人を殺めることが出来る己の力が。
 これから先、自分はこの力に恐怖しながら生き続けることになるのだろう。人と向き合うことを恐れ、人を殺めてしまったという事実を背負い、己の力を隠しながら永遠に。
 少女は制止した時の中で幾筋もの涙を溢れさせながら、嗚咽に息を詰まらせながら、空よりも尚高いところから見下ろしているであろう神に祈った。
 己の力と記憶を消し去り、その存在すらもこの世から消えて無くなることを。
 物言わぬ娘となって、もう一度人生をやり直すことを。
 彼女に力を与えたのが神か悪魔か。それともそのような存在など端からありえなかったのか。それは誰にもわからない。
 ただ、少女の持つ力は彼女の願いに出来うる限りの形で答えた。
 母親の絶叫から数秒後。少女の家に息をする者は最早存在しなかった。
 動く物がなくなった家の床を、五人分の血液が赤黒く染めてゆく。
 幸せの記憶を、少しづつ塗り潰してゆくかのように。



 全てを取り戻した咲は涙を流しながら己の力を震い、迫り来る魔手を薙ぎ払っていた。
 いや、少女はもう咲という存在ではなかった。
 レミリアとさして変わらなかった身長は高く伸び、顔つきに幼さはほとんど残されていない。ガラス玉のようだった瞳には強い意志が宿り、契約の証だった首輪は失われている。一糸纏わぬその姿は少女と女性の中間。その透けるように美しい白磁の如き柔肌を、彼女は惜しげもなく星明かりの下に晒け出していた。

 パァン!

 小さな破裂音と共に、レミリアの指輪と美鈴の首輪が弾け飛ぶ。生け贄だった咲の存在が消え去ったことで、呪いに矛盾が生まれたためだろう。
「思い出してしまったのね……」
 喉を押さえながら立ち上がったレミリアが、悲しげな瞳と共に小さな声をかけてくる。一方の美鈴は事態を把握し切れていないのか、時折向けるその視線には戸惑いの色が濃く強く浮き出て見えた。
 無理もない。何しろ我が娘のように接してきた少女が、突然自分とさして変わらぬ外見年齢になったのだ。それが普通の反応だろう。
 対するレミリアは、まるでこうなることを予測しているかのようだった。彼女には自身の正体が見えていたのだろうか。
 それが彼女固有の能力なのか、吸血鬼に共通する能力なのかはわからない。だが、今はそれを訪ねるときでも、己の境遇を語るときでもない。
「話は後に。今はこれを何とかしましょう」
 レミリアに手を貸しながら、試すように己の力を震う。
 咲だった少女は失った記憶のほぼ全てを思い出していた。自身の名前以外の全てを。
「なんでもいいよ! とにかく今はこいつらをぶちのめして封印とかいうのを壊してやろう!」
 美鈴の強い言葉と共に全員が通路へと向き直り、それぞれに力を震う。攻撃の手が増え、守る対象が消えたことで、戦況は完全に逆転した。
 前方への進撃は美鈴がその全てを受け持った。彼女の放つ光弾が魔手の群を薙払い、暗闇を切り裂く。それでも尚襲い来る闇は、レミリアの爪と咲の銀刃が一つ残らず無に帰す。また咲は空間と時間を操り、他の二人の攻撃を最大限に生かせるように取りはからっていた。
「封印は地下へ続く階段の中腹。据え付けられた木戸の中央にあるわ」
 レミリアの言葉はやはり重く苦しいものだった。
 それもそうだろう。肉親とそれに近しい家族同然の存在に引導を渡さなければいけないのだ。この心優しい吸血鬼がそれを平然と行えるはずがない。
「木戸を壊せば封印は消える。そうすれば、みんな解放されるわ……」
 絞り出すような、啜り泣くような言葉。それを打ち消すように、美鈴はひときわ大きな光弾を放った。炸裂音と共に顔を出す、地下へ続く階段。そしてその奥から湧き出る無数の魔手。扉の封印は、今まさに破られようとしていた。



(まさか、昔の夢を見るなんて……)
 天蓋の中で枕を抱きしめながら、レミリアは数度寝返りを打つ。
 まだ夢現の頭の中は、先程の夢のことが渦巻いている。しかも随分と鮮明に。
(あれからどのぐらい経ったのかしらね……)
 夢に見たあの日、レミリアは父や母、使用人達に永遠の別れを告げた。変わり果てた肉親達の闇をあの門番が撃ち払い、すぐに湧き出て破壊を阻止しようとする使用人達の手をあのメイドが防いでくれた。
 そして彼らの寄り代だった歪んだ封印を、レミリアの爪が引き裂いた。
 その時の感覚はまだ右手に残っていて、今もはっきりと思い出すことが出来る。
 だがそれは辛いだけの記憶ではない。古い友人との再会と、新たな家族と新しい生活を手に入れた瞬間でもあるのだから。
「……少しばかり起きるのが早かったようね」
 身を起こして天蓋から顔を覗かせると、窓の向こうはまだ薄く茜色が残って見える。どうやら黄昏時という時間らしい。
 小さく伸びをしてからクローゼットを開き、いつもの服に手をかける。あの完璧メイドの気配はまだ無く、廊下はいつもより静かなまま。
 レミリアはふと思い立ってクローゼットの奥を漁り、少々くたびれた深紅のドレスと小さなリボンを引っ張りだした。
(二人とも驚いてくれるかしら)
 このドレスはかつてレミリアがお気に入りだったもので、あの戦いの時にも身につけていた衣装だった。穴が開き、裾が裂けてしまったそのドレスを一度は捨てようとしたのだが、まだ少々未熟だった咲夜が大切なものだからとつたない手つきで直し、一応は着れる程度になっている。
 そう。咲夜も美鈴も、最初から今のように出来た存在だったわけではないのだ。



 封印は破られ、呪いは消え、長くレミリアを苦しませてきた存在は館から消え去った。変わり果ててしまった魂の残滓は成仏も出来ず冥界へ行くこともなく、かけら一つ残さず消滅してゆく。
 だがこれで良いのだと、レミリアは心に囁く声を確かに聞いていた。
「お互い無事で何よりね」
「パチェ!」
 地下へ続く階段の向こうから声が聞こえ、次いで小さな人影が姿を現す。それは館付きの魔術師でレミリアの最も古い友人。パチュリー=ノーレッジだった。
「貴女のお父様に頼まれたのよ。妹様を守ってやってくれってね」
「そうだったの……。フランは?」
「……扉の憎悪に当てられてしまっているわ。暫くは会わない方が良い」
 やや苦しげに呟くパチュリーに、レミリアもまた肩を落とす。
 フランとはレミリアの妹、フランドール=スカーレットのことである。
 フランは生まれて間もなく、地下に幽閉されて生活してきた。それは両親が彼女を愛さなかったからではない。むしろ愛故にそうせざるを得なかったのだ。
 フランの持つ力は破壊の力。目で見た物体の破壊の目を見つけだし、それを心の中で握りつぶすことで対象を粉みじんに砕いてしまう。人であろうが物であろうが関係なくだ。
 また彼女は感受性が非常に高く、情緒不安定になりやすかった。幼いうちはそれも仕方がないことなのだが、彼女は自身の力を感情にまかせて震ってしまうことがあり、それがたびたび大きな被害をもたらしていた。更に太陽光に対する耐性が非常に弱く、ほんの少しの日光でも命に関わるほど。故にフランは地下での生活をせざるを得なかったのだ。
 本来ならば彼女の為に両親が地下に篭もるのが当然なのかも知れない。しかしフランは自らそれを拒み、代わりの教育役としてパチュリーと共に暮らすことを選んだ。心優しい妹は、最愛の両親を独り占めしてしまうことを善しとしなかったのだ。
 無論ことある事に両親やレミリアはフランの元を訪ね、彼女と共に過ごす時間を大切にしていた。時折は喧嘩をするようなこともあったが姉妹仲は決して悪くなく、それぞれが互いを思いやる心と深い愛を感じていた。
 そう、レミリアは妹であるフランを深く愛していた。愛しているからこそ、彼女を苦しめ、傷つけたことがたまらなく苦しかった。
「フランは……、私を恨んでるでしょうね…………」
「落ち着きを取り戻せば、必ず解り会えるわ。それよりこれからどうするの? 里と交わした契約は消えてしまったのでしょう?」
 封印の向こう側から全てを見ていたのだろう。相変わらず魔女というのは不思議で抜け目がない。
 確かに彼女の言うとおり、契約の消滅は頭を悩ませる要因だった。
 何故契約が消滅したのか、里の連中は全く理解していないだろう。そして恐らくは有らぬ勘違いをして、館へ大挙して押し寄せてくるに違いない。しかも今回は追い払う程度のことでは済まない。全面的な対決を望んでくるのは容易に想像が付く。それはこの館だけではなく、咲や美鈴、パチュリー達までも危険に晒す事に他ならない。
「言って聞くような連中じゃないでしょうし……困ったわね」
「その悩み、私が解決してあげましょうか?」
 不意に響く虚空からの声。その声に美鈴や咲だけでなく、パチュリーまでもが狼狽している。
「そう慌てないで頂戴。私は貴女達の味方になるためにここへ現れたのだから」
 あくまでも涼しげなその声は次第にはっきりした物になり、薄闇を切り裂くようにしながら一つの影が姿を現す。
 濃い紫のナイトドレスに、ウェーブのかかった金髪。白い長手袋とやや高いヒールの靴。そして口元を隠す扇子。夜会に訪れた貴婦人の如き姿をしたその影は、全身から得体の知れない気配を漂わせていた。
「貴女は何?」
 本能が告げる。彼女を信用するな。警戒を怠るなと。
 しかし身構えるこちらの様子などまるで気にも止めていないのか、彼女は明けの明星を思わせる金色の瞳に薄い笑みを浮かべたまま、虚空に腰掛けるような姿で佇んでいる。
「私はこの東方の楽園を作り、管理する妖怪の一人、八雲紫。何やらお困りのようなのでちょっとした提案をしにきたのよ」
 恐らく古くからこの地に居るであろう美鈴に目だけで訪ねるも、彼女は小さく首を振るだけだった。普段表に出てこない存在なのか、それとも口から出任せなのか、今の段階では判別できない。
 ただはっきりしていることは、今ここにいる全員で襲いかかったとしても、彼女には絶対にかなわないだろうということだけ。
「提案?」
「そう。貴女達がこの館で安寧の日々を送り、里の連中からもさほど恐れられずに済む素敵な提案。無益な血を流すのは貴女の趣味じゃないでしょう? 心優しい当主様」
 上から見下すその態度が気に食わなかったが、今のレミリアには選択肢が存在しなかった。
 無茶苦茶な提案なら条件を付け返せば良いだろうし、それすら難しいならもう一度里の連中と条約を結ぶ機会を伺えばいい。それよりも彼女の不興を買って敵に回す方が危険だし面倒に思える。
「話だけは聞いてあげるわ。乗るかどうかは別問題よ」
「そう難しい話ではないわ。貴女が私に負けたことにすればいい。ただそれだけよ」
「どういうこと?」
「そのままの意味よ。大妖怪八雲紫によって紅魔館の主であるレミリア=スカーレットは打ち倒され、その戦いの中で生け贄の少女咲は不幸にして命を失った。私の能力に巻き込まれたことにすれば里の長達も納得するでしょうし、貴女が彼女を無碍に使ったのではなく、本当に不幸な事故によって巻き込まれたとすれば余計な恨みは買わない。その証言はそこに居る門番さんにでもさせればいいわ」
 ちらりと視線を向けると、彼女は小さく頷いて見せた。荒く上下する肩と、時折ふらつく足下が彼女の消耗の酷さを伺わせる。しかしそれでも彼女は直立し、壁に背を預けることもなくこちらをしっかりと睨んでいた。
 自身と、この胡散臭い自称大妖怪の顔を。
「戦いの中で私も消耗し、貴女を封印するには至れなかった。だから私は貴女と新たな契約を結ぶことにした。一つは妄りに人妖を襲わぬこと。二つ目は生け贄の慣習を止め、本当に必要な物を売買で購入すること。その為に人間を一人雇い入れること。三つ目は使用人は顕族を増やすのではなく、妖精や妖怪を雇って済ませること。これでどうかしら」
「随分と一方的な条件ではないか?」
 黙って聞いていた美鈴が八雲紫に対してくってかかる。確かに彼女の言うとおり、提示された条件は一方的な制約でしかない。しかし勝負に負けたことにするならば、これぐらいが妥当と言えるだろう。余りにも対等な条件では茶番だとすぐに看破されてしまいかねない。
「こちらからも条件を提示させて貰う。良いかしら?」
「どうぞ」
「一つ、館に無断で進入した者については、どのような対応をされても文句を言わないこと。二つ、二度と軍団を率いての侵略行為を行わぬ事。これは互いにという条件付きで良いわ。三つ、咲や美鈴。この館に住む者を村八分にするようなことをしないこと。商いは商いとしてきちんと取引をして貰う。それだけよ」
 口を挟もうとする美鈴を片手で制し、レミリアは八雲紫の言葉を待った。
 彼女の言いかけたことはわかっている。条件に自分の事が入っていないというところだ。しかしレミリアはそれで良いと思っていた。自身が求めるのは静かな日々であり、裕福な生活でも華美な毎日でもないのだ。今まで通り紅茶を飲み、人間のように食事を楽しみ、月と星の輝きを眺めながら夜を過ごせればそれでいい。全てを失った自分には、多くを望む資格など無いのだから。
「異論はないわ。里長達にはそのように伝えておきましょう。貴女達もそれでかまわない?」
「お二人に異論がなければ。元より私は行くところも名前も有りませんから」
「私も咲がそれで良いのであれば」
 悩むことなく答える二人に目だけで礼を言い、レミリアは八雲紫に向き直る。
 本当は二人を自由にしてやりたかった。この館に縛られるのは自分だけで十分だし、特に咲には人間としての生を謳歌して貰いたかった。
 だが、それは叶わぬ願いだ。
 異能の力を持つが故に純粋な人間とも言えず、もちろん妖怪でもない彼女が、里に戻って人として暮らすのは難しい。まして身寄りもなく名前も思い出せぬままでは、完成された集団に溶け込むのは至難の業だろう。
 強い団結力を持つ存在というのは、それだけ排他的でもあるのだ。
「では私はこれからそのように取りはからうべく動いてくるわ。あ、そうそう」
 どこから取り出したのか、日傘をくるりと回しながらきびすを返す八雲紫。彼女は去り際にこちらを一瞥し、柔らかい微笑みを浮かべながら言葉を残した。
「置き去りにされた者の楽園へようこそ。私は貴女達を歓迎するわ」



 昔のドレスを着て、やや上機嫌な顔つきで現れたレミリアを片手で制し、パチュリーは人差し指を唇の前にそっと立てる。
「貴女のお気に入りは少々お疲れみたいよ」
「珍しいこともあるのね」
 小声で答えてから彼女は咲夜の寝顔をやや嬉しそうに見つめ、それから近くにあったソファへと腰を沈める。
 その表情と服装から、パチュリーはこの館がまだ外にあり、彼女が当主ではなかった頃のことを思い出していた。
「少し手荒に扱い過ぎているのではなくて?」
「そんなこと無いわよ」
 ソファに深く座って足をばたつかせ、手近にあった本を取ってつまらなそうにぱらぱらとめくる。
 この光景を彼女をよく知らぬ者が見れば、年相応に可愛らしい仕草だと言うだろう。
 彼女を浅く知る者が見れば、齢五百を重ねた吸血鬼がなんと幼稚なことかと嘆くに違いない。
 だが彼女を古くから知る者や深く付き合いのある者は、それが彼女の自然でふさわしい姿なのだと納得することだろう。
 この紅魔館には、本来当主という肩書きは必要ない。館の雑務から妖精の雇用進退。財務管理といった仕事は全て咲夜が請け負っているし、庭の手入れと門番業務。菜園の管理などは概ね美鈴の仕事だ。また、紅魔館自体が事業展開をしているわけでもなく、某かの運営を行っているわけではないため、それらの決定や判断を下す必要もない。つまりこの館における当主という存在は旗印以外の何物でもないというわけだ。
 加えてレミリアは正式に当主としての任命を受けたわけでもなく、それらしき教育も為し得ていない。
 つまり、当主然として身を正している彼女こそ不自然な姿であり、無理をしている証なのだ。
「紅茶、本にこぼさないで頂戴ね」
「気が効くわね。ありがと」
「……良い表情をするようになったわね」
「そうかしら」
 何も変わっていないとでも言いたげな様子のレミリアと、未だ起きる気配のない咲夜。彼女たちは本当に良い表情をするようになったと思う。
 後に吸血鬼異変などと呼ばれるようになったあの夜、レミリアは二人のために恥を飲み込んだ。確かに彼女にはそれ以外の選択肢が無く、そうしなければ今のような幸福で平穏な時が訪れなかったのは間違いない。しかしそれは、ともすれば笑顔を捨てる選択でもあったはずだ。
「あの夜の真相を知る身としては、それなりに心配もあったのよ」
「それはどうも。でも杞憂ね」
 確かに、それは馬鹿馬鹿しい杞憂なのだろう。
 何しろあの日忠誠を誓った二人は、今もこうして館に住み続けているのだから。



 意味深な言葉を残し、胡散臭い妖怪は姿を消した。
 あたりは夜の静寂に包まれ、肌寒い空気が足下から滑り込んでくる。
 その冷たい床に、美鈴と名乗る女性はやにわに膝を付いて頭を下げた。
「いきなりどうしたの?」
「貴女に憎まれて当然の私を庇い、咲への配慮をしてくださったことを深く感謝します」
「……貴女達は館に縛られることになったのよ?」
「それでも、流浪の身となって夜毎雨風を凌ぐ場を探して彷徨うよりは何倍も幸せです」
 彼女たちが表れた経緯を、パチュリーは魔法の目を通して全て見つめていた。契約の内容も、その裏に隠された里長達の思惑も。
 彼らは得体の知れぬ咲という少女を厄介払いしたかったのだろう。人でも妖怪でもなく、口も聞かず、成長の素振りすら見せぬ気味の悪い彼女を。
 恐らくは近隣に住む者や心弱き存在からの苦情でもあったのだろう。力も妖力もなく、口も開けぬ小娘の何が怖いのかは解らないが、人間とは概ねそういうものなのだ。
 そして危うい契約の内容は、相互に共倒れをすることでも望んだが故に違いない。人に近しく、人に優しい美鈴という存在と、後々の驚異に成りかねない吸血鬼の。
 美鈴という妖怪はあまりにも人らしく人に近い。そんな彼女の存在は、古い考えを持つ妖怪にとっては疎ましく思われて不思議ではない。故にできれば彼女は吸血鬼に襲われて倒れ、やはり妖怪は恐ろしく人間とはある程度の距離を置くべきだという筋書きを期待したのだ。
 しかし、残念ながらその目論見は崩れさった。
 あの八雲紫という妖怪は今回の一件を盾に、里において強い発言力を有することになる。それを理解もせず、行使もせぬほどあの妖怪は愚鈍ではない。
「三人ともこれからどうするつもり? あの妖怪は約束を守るでしょうけど、安全が確約されたわけではないわ。それに里との関係が険悪なのも恐らくは……」
「それは、私がお守りいたします」
 膝を付いたままの美鈴が響く声ではっきりと答える。契約や状況から言わされた言葉ではない、自らの意志と決意で。
「レミリアお嬢様、私を今まで通り門番としてお使いください。館に危機が及ばぬよう、悪しき輩が近づかぬよう、命を賭して守って見せます」
「……一つ、条件があるわ」
 答えるレミリアの言葉は、静かなものだった。
 彼女はこのような大人びた存在だっただろうか。このように強い瞳と意志を見せる存在だっただろうか。斯様に当主然とした立ち居振る舞いをする少女だっただろうか。
「命を賭ける様な真似はしないで頂戴。貴女は貴女の身を大事に。そしてできればいつも笑っていて頂戴。それを守れるなら、貴女に館を守るものとして紅の一文字を与えます」
「…………誓います。そしてこれよりは紅美鈴として、館を守らせていただきます」
 その言葉で、パチュリーは悟った。
 レミリアは成長したのではない。そうならざるを得なかったのだ。
 幾度と無く押し寄せる不逞の輩や、理不尽な言いがかりをつけてくる者共に対応するために、当主らしく振る舞う必要があったのだ。
「さて、後は貴女ね……。もう咲と名乗るのは止めるのでしょう?」
 レミリアが視線を向けると、少女は静かに頷いてみせる。
 物言わぬ少女であった咲は、彼女の力が作り出した都合の良い幻影の様なものだった。辛い現実から逃げるために、認めたくない事実から逃げるために作った卵の殻のようなもの。それがあの小さな姿。
 だが、もうその殻は必要ないのだろう。
「…………貴女の力は夜に花開いた。咲を捨てるのではなく、彼女から成長し花開いた者として咲夜と名乗るのはどうかしら」
「謹んでお受けさせていただきます。それと、私はこれより十六夜の姓を名乗りたく思います」
「十六夜?」
「満月である貴女に及ばぬ者。ですが、貴女の傍に在る者。名の通り夜を纏うものとして。お許しいただけますか?」
「……貴女は自由でかまわないのよ? 私に縛られるような真似は……」
「これは束縛ではなく、咲夜の望み。そうでしょう?」
 助け船のつもりで向けたパチュリーの言葉に、咲夜は淡く笑って頷く。どうやら彼女は、咲であった頃の記憶も全て忘れずにいるらしい。
「美鈴さんは私を育て、いろいろなことを教えてくれた。お嬢様は私を許し、私を守ろうとしてくれた。そんな二人に私ができるのは、身の回りの世話をすることぐらい。お嬢様の愛した使用人の代わりにはなりませんが、私なりに精一杯の努力をするつもりです。どうか使用人として私を雇ってください」
「…………ここで何か一つでも断ったら、私が悪人になるじゃないの」
 苦笑するレミリアの表情は、随分と嬉しそうに見える。
 本音を言えば、パチュリーが最も不安に思っていたのはレミリアのことだった。両親を失い、優しかった使用人達も消え、そして先程、彼女は自らの手で変わり果てた彼らへの引導を渡した。平和のために飲まされた条件は余りにも不利で、彼女は頼る者もない世界で死んだように生き続けなければならないのかとも考えていた。
 しかし、それはどうやら考え過ぎだったようだ。
 こうして彼女を支える存在が、ここには二人も居るのだから。
「咲夜、貴女にメイド長の任を与えます。館の全権を取り仕切り、この紅魔館を誰もが羨むような立派な姿にして見せなさい」
「ありがとうございます。必ずお嬢様の期待に応えられるよう、努力させていただきます」
 喜びの涙と共に深く頭を下げる咲夜。どうやら彼女達は、パチュリーには与えられない大切なものをレミリアに与えてくれるらしい。
 傷ついた旧友には、足りないものが幾つもあった。そしてそれらの中のほとんどは、パチュリーには与えられないものばかり。
 そう、彼女に大切な何かを与えるには、パチュリーは余りにも近すぎるのだ。
「ふと思ったのだけれど、メイド長と門番はどちらが偉いのかしら」
「…………そりゃ、門番よりはメイド長のが偉いわねえ」
「ええっ!?」
 狼狽する美鈴と、その様を面白そうに見つめる咲夜。
 今まで親子だった者がどうなるかという懸念からかけたパチュリーの一言だが、どうやらそれも杞憂でしかなかったらしい。
「まあ、もう任命しちゃったものはしかたないわね。二人ともしっかりね」
「むぅ……。では咲夜さん、これからよろしくお願いします」
「ええ、よろしくね。美鈴」
 改めての挨拶を済ませると、三人は誰からともなく笑い始めた。
 これから先、この紅魔館には様々な事が起こり、順風満帆とは行かないだろう。それでも、彼女達が居れば何も心配はいらない。恐れることなど何一つないのだ。
 その確信を、三人の笑顔が強く物語っていた。



 微睡みの中で耳に届くのは、微かな寝息。目の前の時計はそろそろ日暮れを告げる頃合い。
「い、いけない……! 美鈴さん起きてください! もう夕方です!」
 軽い転寝のつもりが、どうやら随分と長く眠ってしまっていたらしい。鈴仙は慌てて身を起こし、美鈴の肩をやや強く揺さぶる。
「んにゃ……? 何、鈴仙……なにかあった?」
「あったも何も、もう日暮れですよ! 咲夜さんも帰ってくるでしょうし、レミリアさんももう起きてきますよ!」
「んー……。誰も来ないんだし、大丈夫大丈夫……」
 ゆるゆるとした返答と共に、美鈴は鈴仙の肩を抱いて頭を撫でてくる。その様は、まるで慌てる方がおかしいと言わんばかり。
「で、でも……」
「平気平気。それより随分うなされてたけど……大丈夫?」
「……昔の夢を見ていました」
 先程まで見ていた夢を、鈴仙ははっきりと覚えていた。無味乾燥な薬売りの日々も、美鈴との出会いも、竹林へ身を隠していた日々のことも。
「月に居た頃の夢?」
「違います。美鈴さんと初めてあった日のことです……」
「パチュリー様の薬を頼みに行ったとき……じゃないよね? 鈴仙がまだ目隠ししてた頃のこと?」
 彼女の言葉に驚いて顔を覗き込むと、美鈴は淡い笑みのままこちらを見つめていた。
 まるでさも当然のことのように。
「覚えてたんですか?」
「忘れるわけないよ。あの火事のこともあったしね」
「じゃあ、どうしてあの時初めましてって……」
 彼女が永遠亭を初めて訪れた日、鈴仙は淡い期待を抱きながら美鈴の前へと姿を現した。しかし帰ってきたのは初めましてという一言。その小さな一言で、鈴仙の望みはもろく崩れさってしまったのだ。
 もちろん、美鈴が自分の事を覚えておかなければならない義理はない。彼女にとって自分は一介の薬売りでしかないのだから。
 それ故彼女から初めましてという言葉を聞いたとき、鈴仙は衝撃を受けつつも当然なのだと自分に言い聞かせ続けていた。何年も前に二度会っただけの兎を覚えている方がおかしいのだと。
 そして、彼女が初めましてと言うなら、自分も初めましてから始めようと。
「あの時の美鈴は、もう居ないんだよ。今の私は紅美鈴だから」
 柔らかい笑顔と暖かい波長のまま、美鈴は館の真実を語り始める。
 永遠亭に身を潜めている間、鈴仙達は何もしていなかったわけではない。里の様子や幻想郷の変化に耳を傾け、彼女達なりに世界の今を探り続けていた。
 あの吸血鬼異変の時も。
「吸血鬼は名のある大妖怪によって屈服され、生け贄の少女は消えたんじゃ……」
「それはあの大妖怪の作ったシナリオ。そして私たちが望んだ結末の形だよ」
「でも! それじゃあ美鈴さんや咲夜さんが……」
 抗議の声を小指で制され、向けられた笑顔に何も言えなくなる。
 生け贄として捧げられた白子の少女は、戦いの中で大妖怪の力に巻き込まれて消えた。そしてそれを恨んだ美鈴は吸血鬼側について大妖怪と戦い、そして敗れた。その罰を受けて美鈴は館の門番として縛られることとなった。それが鈴仙の伝え聞いた吸血鬼異変の結末である。
 尤も美鈴の罰は紅霧異変の際に巫女によって取り払われ、黒白の魔法使いによって吸血鬼は恐怖の対象でも悪魔の如き存在でもないと証明されており、今はごく一部の者を除いて紅魔館とその面々に理解が示されている。そうでなければ美鈴が里を漫ろ歩いたり、咲夜が買い出しに出かけられるはずがない。
 それでも、時折は存在する。
 吸血鬼は恐怖の存在であり、美鈴は里の裏切り者だと揶揄する者が。
「どうして……どうして正そうとしないんですか? 誤解されたままなんて……。私、その話を耳にしたときすごくショックで……」
「いろいろ理由はあるけど……。それがみんなにとって一番幸せだったからかな」
 笑って背中を抱く美鈴の顔は、どこか悲しげだった。
 いつも笑顔の、暖かい心の美鈴が、今は少しだけ冷たく暗い。
「私がまだ外の世界に居たとき、私が育った村は人と妖怪が仲良く手を取り合う村だったんだ」
 柔く髪を梳く指から、潤んだ彼女の瞳から悲しみが伝わってくる。
「でもその村は、ほんの些細な行き違いで争いの絶えない土地になっちゃった。あちこちで殺し合いが始まって、誰もが疑心暗鬼になって、気が付いたらもう村なんてものはなくなって、そこに私は一人で取り残された」
 いつになく重い口調は、独白の苦しみを痛いほどに表している。時折止まる彼女の指は僅かに震え、笑顔を作る唇が少しだけ歪む。
「武術を教えてくれた師匠も、育ててくれたおじさんやおばさんも、みんな居なくなった。私はもうそんな悲しい思いはしたくないし、誰にもさせたくない。それを防ぐためだったら、どんな辛い選択だって飲み込んでみせる」
 やや泣き声の混じる彼女の言葉は、弱々しくも切ない。しかしその言葉の端に見える確かな誇りは、紛れもなく紅美鈴そのものだった。
「あの日、あの火事の時、鈴仙が人間のために力を震ってくれたことが、私はとても嬉しかった。彼女みたいな人がいれば、この里はきっと大丈夫。だから私は美鈴を捨てることが出来た」
「でも、私はあれ以来里には……」
「火事にあった家族が一度私のとこへ訪ねにきたよ。あの兎妖怪にお礼をしたいけど、どこへ行けば会えるのかって。それから、これからは妖怪だからと色眼鏡で見ないようにしたいって。そして、その通り里は人妖の大きな垣根が無くなった」
 美鈴に強く抱きしめられ、鈴仙は挟む口を失っていた。頬には彼女の涙が触れ、胸の奥から伝わる感情の波は、いつものような優しさと暖かさに満ちている。
「誰のおかげでもないのかもしれない。でも私はすごく嬉しかった。もうだれも悲しい思いをしなくて済むんだって解ったから。だから私は、この紅魔館を背負うことを決めたの。お嬢様が心から笑えるように、咲夜さんが泣かないようにって」
「美鈴さん……」
「だから今の私は里にいた美鈴とは別だし、それを引きずって鈴仙と会うような真似はしたくなかった。紅魔館の門番、紅美鈴として一から鈴仙と始めたかったんだ」
 それは彼女なりのけじめだったのだろう。
 名を変え、生き方を変えたのに、関係だけを引きずるような都合の良いことはしたくなかったのだ。そして美鈴はそれを、小ずるい考えだと思ったのだろう。
 彼女と同じ立場に居たら、鈴仙は同じ事をしただろうか。
 いや、出来ただろうか。
 いくら自問をしても、答えは出てきそうもない。
 深く愛する彼女のことを忘れるなど、今更想像できるわけがないのだ。
「私が門番を出来るのは、鈴仙のおかげでもあるんだ。あの日あの時鈴仙と出会えたから、私はここに立っていられる。……ありがとう、鈴仙」
「…………許さないです」
 彼女の肩を強く掴み、鈴仙は静かにつぶやいた。
 責めるように、身体を強く押しつけながら。
「鈴仙……」
「そんな言葉じゃ絶対許さない! いっぱい心配したんだから! もう美鈴さんとは会えないんじゃないかって、たくさん泣いたんだから!」
 こぼれる涙を拭いもせず、鈴仙は美鈴を強く抱きしめる。
 紅魔館の様子を探っていたのは、月の従者を恐れてのことだけではない。自身が目標とし、憧れ、その思いが淡い恋心に変わりつつあった美鈴の身を案じ、せめて彼女の消息だけでも知っておきたかったからなのだ。
「門番になったって聞いて……そのうち美鈴さんも吸血鬼になっちゃうんじゃないかって…………。私、すごく心配して…………居なくなっちゃったらどうしようって…………」
 彼女が紅魔館の門番になった日、鈴仙は一晩中泣き続けた。
 永遠亭に伝わっていた噂では、紅魔館は人妖問わず僕か獲物にしてしまう悪鬼の如き主人が住まう館。そんなところで門番をする彼女が、無事で居られるわけが無い。何れ彼女も姿を消してしまうのではないか。変わり果てた姿での再会しかありえないのではないかと考えてしまったから。
「やけどの手当て、自分がすればよかったって…………。昼間だけでも抜け出して会いに行けばって…………。でも、美鈴さんと戦うことになったらどうしようって…………だから私…………」
「…………ごめん、鈴仙」
 互いの涙が、合わせた頬の間で交じり合う。失ってしまったものと時間をかき集めるように、両腕が彼女の背を強く抱く。嗚咽が言葉を詰まらせ、潤んだ瞳が視界を歪める。
「言葉なんかじゃ許さない…………愛して、キスしてくれなきゃ許さないんだから」
 子供じみた我侭が口を突いて出る。いや、子供じみているのは口だけではないだろう。
 表情も仕草も、今の自分はすっかり駄々っ子のそれと変わらない。
 だが、そうでもしなければ収まりがつかなかった。
 深く強く、彼女の愛を確かめなければ気がすまなかった。
「鈴仙…………」
 重ねられる唇。甘く交じり合う吐息。たったそれだけのことで、ざわめいていた心が嘘のように落ち着いてゆく。
 鈴仙は思う。彼女もきっと魔法使いなのだと。
 ただ、あの黒白や図書館の魔女。七色の人形遣いのように目に見える魔法を使うのではない。
 心に魔法をかけ、様々に操ることができる魔法使いなのだ。
 ただその魔法が、自分にしか効果が無いだけ。
「美鈴さん…………ん……んんっ…………」
 何度か舌を絡め、息をするのも忘れて求め合い、それから長い吐息と共にようやく唇を離す。
 鈴仙の顔には、もう笑顔が戻っていた。
「これで、許してくれる?」
「ん…………、どうしようかな……」
 悪戯っぽく笑いながら、彼女の胸に顔を埋める。暖かい双丘の柔らかさを確かめ、彼女の微かな鼓動を聞きながら、鈴仙はすっかり忘れていた。
 ここが紅魔館だという事を。
「美鈴、鈴仙、悪いけどちょっと手伝って頂戴!」
 扉の向こうから声が響く。やや慌てた様子の咲夜の声に顔を見合わせ、それから小さく笑いあう。
『はーい、ただいま!』
 声をそろえて返事をしてから、二人はしっかりと手を繋いで立ち上がった。



「お待ちどうさまー。美鈴特製青椒肉絲ですよー」
「……貴女はいつまでたっても中華しか作れないのね」
「……何で完全に洋食のコースなのに途中で青椒肉絲が出てくるのよ」
 美鈴の運んできた大皿に、レミリアと霊夢が呆れ顔で答える。
「申し訳有りません。私の教育不足で……」
 深いため息を吐きながら咲夜が頭を下げる。
「ええっ、酷いですよ咲夜さん!」
「美鈴さん、私もこれはないと思います……」
「鈴仙までっ!?」
 遠慮がちに鈴仙が言葉を添え、美鈴はとうとう涙目になってしまった。
 夕方里から帰ってきた霊夢の突然の一言で、美希は紅魔館へ顔を出すことになった。それも今回は客という形で。
 今テーブルについているのは美希と霊夢の他にパチュリー、レミリア、そしてフランの三人。メイド服を着ているところを見ると、どうやら鈴仙は手伝いの側に回っているようだ。
「気の流れは読めるくせに、料理の流れはさっぱり読めないのね」
 うなだれる彼女に追い打ちをかけるパチュリー。
「そんなぁ……。妹様は解ってくれますよね?」
「美鈴、私ピーマン嫌い」
 そして放たれる止めの一言に、美鈴はとうとう膝を折った。
 確かに彼女達の言うとおり、この青椒肉絲はあり得ない。
 スープはよく裏ごしされたコーンポタージュ。前菜はピクルスとチーズの盛り合わせと、パンチェッタとほうれん草を使ったグラタン。添えられた飲み物はワインで、酒が得意ではない美希の前には葡萄ジュースが一杯。
 そして主菜が青椒肉絲である。
 今までのパンとワインの流れを根底からひっくり返す一品である。
「ま、まぁまぁ皆さん。青椒肉絲に罪はありませんから」
 助け船を出しはするものの、美希も違和感の強さに箸を躊躇ってしまう。食卓に香るのはコンソメではなくXO醤。今胃袋が欲するのはバゲットではなくどんぶりに盛られた白米。飲み物はワインではなく烏龍茶であるべきだ。
 異彩を放つとは、まさにこのことを指すのだろう。
「それにフラン様も、好き嫌いしているとお姉さまのような立派な淑女になれませんよ?」
「……美希がそう言うなら、がんばる」
 フランが嫌々ながら手を伸ばすと、それに続いて全員の箸が伸びる。どうやら大皿山盛りの青椒肉絲を泣きながら美鈴一人で平らげるという最悪の事態は免れたらしい。
「美希は良い子だねぇ。おかわりいっぱいあるからたくさん食べて」
「ひゃっ!」
 取り分けた青椒肉絲を口に運んだ矢先、美鈴が背中から抱きしめてくる。柔らかい胸に半ば顔が埋まり、頭を撫でる手のひらは大きくて心地よい。
 そして、青椒肉絲は本当に場違いなほど本格的で美味しかった。
「美鈴、罰として今日の片づけは全て貴女がやりなさいね」
「ええっ!? こんなに美味しくできたのに?」
「ま、まあまあ美鈴さん。私も手伝いますから」
 クスクスと笑いながら助け船を出す鈴仙。紅魔館で仕事をしていた際に美鈴から聞いてはいたが、彼女達は本当に恋仲のようだ。そして未だ自分から離れようとしない彼女を見ても嫉妬しないところを見ると、どうやら二人の関係はもっと深く揺るぎないものらしい。
「ところで霊夢、食事の後時間はある?」
「別に私は用事無いわよ」
「なら後で私の部屋に来て頂戴。咲夜、美希には客間を用意してあげなさい」
 お構いなくと答えつつ、そっと目で訪ねてくる霊夢に小さく頷く。だが美希の心は、鈴仙のそれのように凪いでいられなかった。
「お嬢様、私も食後少々お時間を頂いてよろしいでしょうか」
「かまわないわよ。こっちはいいから、自由にしていらっしゃい」
「ありがとうございます」
 頭を下げた咲夜が、そっとこちらに目配せをしてくる。彼女は心まで読むことが出来るのだろうか。
 しかし咲夜の心配りは正直ありがたい。一人で居たら溢れそうになる不安も、誰かが居れば落ち着くのだから。
「それじゃ霊夢、後で美希を借りるわね」
「仕事させる気じゃないでしょうね」
「少しお話をするだけよ。ついでに貴女のために身体を磨いておいてあげましょうか?」
 口角を上げて睨む霊夢と、澄まし顔で皮肉を言う咲夜。可笑しくも羨ましい彼女達のやりとりだが、美希はそれを素直に笑うことが出来なかった。
 自身を新参者なのだと、強く実感してしまったから。
「余計なお世話。泣かせたりしたら承知しないわよ?」
「おお怖い。肝に銘じておきますわ」
 自身を案じる霊夢の言葉も、美希は素直に喜ぶことが出来なかった。
 そして同時に、己の醜い嫉妬心を浮き彫りにされたようで、辛かった。
 大切な人の横顔から目を背け、取り分けた青椒肉絲を大きく頬張る。
 口の中のピーマンは、恋心のように苦い大人の味がした。



 月夜に響く、ノックの音。
 屋内からの声に霊夢は静かに扉を開き、深紅に彩られた部屋へと足を踏み入れる。
「話って何?」
「相変わらず性急なのね」
 部屋の主は少女のような笑顔を見せながら、ソファを勧めてくる。あまりのんびりはしたくないのだが、慌てている様を気取られるのは恥ずかしいし癪に障る。
「あんたと違って夜は寝るものなのよ」
「あの子の事なら大丈夫よ。咲夜がちゃんとフォローしてくれてるから」
 そこまでお見通しならさっさと本題に入ってくれればよいものを、彼女は余裕の笑みのままでソファに深く腰掛けている。どうやらレミリアはこの状況を至極楽しんでいるようだ。
「解っててやってるなら帰るわよ?」
「まぁまぁ、そう怒らないで頂戴。今日は一言お礼を言いたくてね」
「お礼?」
 予想外の言葉に霊夢はすっかり毒気を抜かれ、きょとんとして彼女を見つめてしまう。
 先の異変では霊夢は協力される側であり、礼を言われるどころか言うべき立場のはずだ。ならばそれより前のことかと思い返すも、やはり心当たりはない。
「思いつかないのも無理はないわ。紅霧異変の事だもの」
「……むしろ本当に礼を言いたいのは魔理沙の方にじゃないの?」
「いいえ。スペルカードルールを作ったのも、紫の条約を破棄させたのも貴女だもの。それにあれにはもう礼以上のものを返してるわ」
 呆れたような笑みと笑顔。そしてそれ以上に柔らかい眼差しが霊夢へと向けられる。
 いつもと違う服装の彼女は、どうやら心持ちまでいつもと違うようだ。ややくたびれたドレスをはためかせ、彼女は霊夢の眼前へと歩み出る。
 見下ろした彼女の姿は、いつもより少し力強い。
「ありがとう。貴女のおかげで私も美鈴も咲夜も自由を得ることが出来た。貴女達のおかげでフランは笑えるようになった。心から感謝してる」
「……なら、私も礼を言わせて頂戴」
 半歩下がって深呼吸を一つ。改めての言葉はやはり気恥ずかしく、こうでもしなければ口に出来そうもない。
 だが、そうしてでも伝えておくべきだろう。
 プライド高い吸血鬼が、こうして頭を下げているのだ。ここで答えねば博霊の巫女の名が廃る。
「貴女達のおかげでスペルカードルールは明確なものになった。あの異変がなければルールは何時までも形だけのものだったに違いないわ。ありがとう、レミリア」
 深く下げた頭をゆっくりと上げ、それから彼女と顔を見合わせて笑う。
 紅霧異変は、この二人にとって様々な意味で特別な異変だった。
 巫女として力を付け、己の使命を理解した霊夢は、すぐさまスペルカードという決闘方を発案。多くの人妖の同意を得てこれを明確なルールとした。
 しかし決まり事というのは所詮器でしかない。それを利用し、器に入る者が居て初めて意味を為すものなのだ。
 そしてこの器を用いて己の意志を通そうとした初めての存在がこのレミリアであり、巫女の力と存在、そしてスペルカードの存在意義を世にしらしめたのが、彼女の起こした紅霧異変である。
 異変を起こした動機は大したものではない。夏に向けて日増しに長くなる日照時間と、その苛烈さを増す太陽。吸血鬼であるレミリアにとって天敵とも言うべきその太陽の光を紅色の霧で遮り、自身の活動時間を伸ばすと共に暑苦しい夏を涼しく過ごそうというものだ。
 この異変に里の者は吸血鬼が再び幻想郷の支配を目論んでいるのではと不安になり、秋の実りも期待できなくなるのではないかと危惧した。
 しかし異変は数日の内に博霊の巫女によって解決され、その中で吸血鬼も幻想郷の一住人に過ぎないのだと証明された。また、妖怪退治や異変解決の専門家として、博麗霊夢はその存在を広く知らしめることとなった。
 それだけではない。レミリアが幻想郷のルールの中で戦い、負けを認めたことで、それまで色眼鏡で見られていた咲夜も美鈴も大手を振って里を歩けるようになった。
 また、長く狂気に犯されていたフランドール=スカーレットは魔理沙との戦いの中で正常な心と笑顔を取り戻すことが出来た。
 尤も、その代償として地下の大図書館はひっきりなしに静寂を破られることとなったわけだが。
「あの異変で一番割りを食ったのはパチュリー?」
「いいえ。パチェはあれで今の状況を楽しんでるわ。誰一人泣く者も嘆く者もなく異変は解決された。それは一重に博麗霊夢のおかげよ」
「そうあらたまってほめられると、むずがゆいわね」
 照れを隠すべく視線を逸らして頬を掻くも、その火照りは余り収まりそうもない。
 だが、確かに彼女の言うとおりあの異変で不幸になった者は殆ど居なかった。そしてそれはスペルカードというルールのによるところが大きいのも間違いない。
 そして霊夢やレミリアのおかげで、この世界は殺伐として無味乾燥としたものから、平和で彩りある世に生まれ変わったとも言える。
「照れも謙遜も必要ないわ。貴女はいつも通り胸を張ればいい。そしてまた妖怪を退治し、異変を解決すればいい。それだけのことよ」
「人事だと思って簡単に言うわね」
 小さなため息と共に笑みがこぼれる。
 誰に言われるまでもなく、霊夢はもとよりそうするつもりだった。
 ただ今は、守る対象が出来ただけ。それだけなのだ。
「あら、油断してると今度は私が彼女をさらって異変を起こすかも知れないわよ?」
「その時は紫以上にぼっこぼこにしてあげるから、覚悟するのね」
 そろって浮かべる不適な笑み。それ以上の会話は、この二人には必要なかった。
「話は終わり? なら私は美希を迎えに……」
「まぁまぁ、うちのメイドにもう少し時間をやってちょうだい。紅茶一杯飲み干すぐらい、のんびりしてても良いでしょう?」
「私はどっちかって言うと、煎茶のが好みなのよね」
 文句を言いつつも霊夢はテーブルに置かれたティーカップに手を伸ばし、ゆったりとした動作で紅茶を口に運ぶ。
 鼻孔をくすぐる香りを楽しみながら、あの完璧メイドが扉をノックするまで手持ち無沙汰にならないように、のんびりと。



「はい、これでおしまい」
「……ありがとうございます」
 湯殿に響く声は重く、鏡に映る表情はお世辞にも明るいとは言いがたい。
 心の洗濯になるかと思って勧めた風呂も、彼女の気持ちを濯ぐには至らなかったらしい。
「霊夢達のことが気になる?」
「………………………………」
 美希の沈黙は肯定以外の何物でもなかった。
 無理もない。レミリアと霊夢の訳知り顔と意味深なやりとり。その意味を彼女は何も知らないのだから。
「ちょっと長い話になるから、暖まりながら話しましょうか」
 美希を強引に湯船に沈め、咲夜も湯に浸かりながら静かに口を開く。
 霊夢も知らない紅魔館の過去と、それに連なる紅霧異変の話を伝えるために。
 咲夜は一切の虚飾や脚色をせず、事実をありのままに伝えるだけにとどめた。そうすることが彼女達への誠意であり、最良の選択だと考えたからである。
 もちろん、それによって美希が何をどう受け取り、どのような結論を出すかは想像も付かない。だが咲夜は信じていた。この小さな少女の優しさとひたむきさを。
「……そんなことが、あったんですか」
 話を聞き終えた彼女は、湯面を見つめたまま小さな声で呟いた。身じろぎ一つせず、湯気にかき消されてしまいそうな微かな声で。
「そう。だから霊夢とお嬢様はそんな関係でもなければそういう心配をする間柄でも…………」
「違うんです。そういうんじゃないんです」
 少し大きな声が湯殿に響く。己の声に驚いたのだろうか、彼女はそれだけ言うと萎縮したように身を深く沈めてしまう。ここで騒いだところで、咎める者など居ないというのに。
「霊夢さんには大切な使命があって、私の知らないところで危険なこともしたりして……。でも、私は毎日のほほんと生きてるだけで……それでいいのかなって……」
 確かに、巫女の持つ使命と責務は重い。そして彼女の歴史は戦いの歴史であるとも言える。
 スペルカードルールの制定によって、命をかける戦いは本当に少なくなった。しかしどれだけルールで縛られても決闘は決闘であり、それなりに危険はつきまとう。それは紫と霊夢の戦いを間近で見守った美希が身にしみて理解している事実だ。
 だからこそ、彼女は苦しんでいるのだろう。安寧の日々を過ごす己の立場に。
「さっき話したわよね? 私が何も出来ない小さな娘だった頃があるって」
「はい」
「その時に、美鈴が私に言ったことがあるの。これで咲が毎日笑っててくれたら、私はもっと頑張れるって」
 門番をしていた美鈴は、時々ぼろぼろになって帰ってくることがあった。深くなくとも擦り傷や刺し傷は痛々しく、共に風呂に浸かるとものすごい顔をすることも。その度に咲は彼女の身を案じ、何も出来ないことを申し訳なく思っていた。
 今の彼女のように。
「外でどれだけ傷ついても、咲が出迎えてくれるだけでその痛みが和らぐ。一緒にいる間の時間がゆったりしてればしてるほど、明日もがんばろうって気分になれる。美鈴はそんなことを言っていたわ。恐らく霊夢も貴女にそういうものを求めてるんじゃないかしら」
 殺伐とした世界に巻き込みたくない。彼女には安寧の日々を送って欲しい。過去美鈴がそう思っていたように、霊夢もまた同じ思いを美希に向けているのだろう。
 それが彼女を苦しめることになるとも知らずに。
「確かに、無力を実感するのはとても辛い事よ。自分が知らないところでどんな危ないことをしてるのか。過去にどんなことがあって、今何を抱え隠しているのか。気になって仕方ないこともあると思う。でもね、それが相手の優しさなんだって思えば、それほど辛いことでもないわ」
 柔く笑って彼女を見つめ、それからやや乱雑に頭を撫でる。
 昔美鈴が自分にしたように。
「それに馬鹿馬鹿しいじゃない。知ったってどうしようもないし、どっちかって言うと双方が悲しむだけの事なんて、掘り下げたって意味ないわ。だったら毎日のほほんと暮らして、お疲れさまって言ってやる方が良いのよ」
「咲夜さん……」
「それにね、弾幕勝負って実は結構楽しいの。ずるいと思わない? スリリングで楽しい遊びを一人で楽しんでるのよ?」
 驚いたような表情を見せる彼女の鼻先をつつきながら、咲夜は笑って言葉を続ける。
 彼女の上司としてではなく、かつて同じ悩みを抱えた友としての顔で。
「だからもっとわがままとか嫌みの一つも言えるようになったらいいわ。居場所が無くなったらまたここで匿ってあげるし、今度は私の部屋へ招待してあげる。ね?」
「ふふっ、ありがとうございます」
 礼を言う彼女は、あの日紅魔館で見せた笑顔よりも柔らかで暖かい表情をしていた。
 まだ外の世界に居た頃、咲夜はあるものを欲しがって両親を困らせたことがある。
 それは努力では手に入らず、金では買えず、他の何を以てしても代用とは成らないもの。
 もちろんそこには己のちっぽけな母性を満たすとか、体の良い愛玩動物を欲する感情であるとか、己の秘密を共有する仲間が欲しいと言ったやや邪な考えがあったのは確かだろう。
 また友人の話によれば、そのようなものは居ないに越したことはなく、一人で居ることの方がよっぽど気楽で羨ましいらしい。
 それでも咲夜は欲しがった。
 妹という存在を。
 勿論、楽しいことばかりではないことぐらい理解している。居れば居たで喧嘩ぐらいはしただろうし、肉親という遠慮の無さから泥仕合の如き様相を呈することも容易に想像が付く。姉という立場から我慢を強要されることも少なくないだろうし、それに乗って冗長する様など見せられたらそれこそ半殺しぐらいにはしかねない。
 でももし、その妹が美希のように淡く笑う物静かな少女だったとしたら。
「やっぱり貴女は、笑った方が可愛いわ」
「ひゃっ」
 そっと抱きしめて髪を撫でると、彼女は小さな驚きの声を上げた。
 久しく忘れていた人間の温もりが咲夜の肌と心を温め、緩めてゆく。
「知らないって事は幸せなことでもあるの。だってその人の全てを知ってしまったら、なんだかつまらないと思わない? 未知の部分があるから知りたいって気持ちになれるし、それが相手を見ることにも繋がると思う。だから貴女は今のままで良いのよ。ゆっくり一つづつ、いろんな事を学んでいけばいいの」
「……はい、ありがとうございます」
 答えと共に背に回される手のひら。その暖かみはまるで美希の安堵を表しているかのようだった。
 もう彼女は大丈夫だろう。いつものように少し照れたような笑顔で、霊夢の元に戻れるに違いない。
「咲夜さんは……誰か好きな人とか居るんですか?」
「私に?」
 頷く彼女の顔をまじまじと見つめ、それから少々考えを巡らせる。
 真っ先に名前が思い浮かんだのは、レミリア=スカーレットだった。しかし自分にとって彼女は主人であり家族。敬愛の念を抱くことはあっても、愛情にはほど遠い。
「はい。美鈴さんとか……違うんですか?」
 次に思い浮かべた名前を言い当てられ、咲夜は思わず目を丸くする。この少女はさとりの力でも宿しているのだろうか。
「あー、うーん……あれは違うわね。なんていうか……姉とか……?」
 自問自答するような答えしか返せないのは情けないところだが、彼女との関係は本当に微妙の一言に尽きるのだから仕方がない。
 美鈴は咲夜にとって部下であると同時に育ての親でもある。物言えず力もなかったあの頃、彼女が居なければ咲夜は野垂れ死にを待つ以外に他無かった。また、彼女には食事以外にも多くの愛情を注いでもらったことも忘れていない。今の咲夜があるのは、美鈴のおかげでもあるのだ。故に咲夜は美鈴のことを大切に思っている。
「姉ですか?」
「はっきりそうとは言い切れないけど、そんな感じね。というか、あれが恋人なんて疲れて仕方ないわ。鈴仙はよくやってると思う」
 あの健気で一途な月兎の顔を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれてしまう。今頃彼女は洗い場でくしゃみの一つもしているだろうか。
「美鈴さんって、優しくて何でも出来て……素敵だと思いますけど」
「そう? 仕事はよくさぼるし、時々ずれてるところあるし、変なところで鈍感で気が利かないし……さっきの夕食の時だって、みんな呆れてたでしょう?」
「あれは……確かにそうかもです」
 どうにかフォローをしようと言葉を探ったのだろうか。美希は一度だけ視線を逸らし、それからやや残念そうな表情で頷く。
 まあいくら彼女でもあのフォローは出来ないだろう。
「確かに美鈴は魅力的だと思うわよ? 抜けてるところとか込みでも、良い娘だと思う。でも私からすれば出来の悪い姉かおっちょこちょいな母親ぐらいの存在よ。大切にしたいし愛してはいるけれど、恋人として沿い遂げるとかは願い下げ。そんな感じかしらね」
「そうなんですか……」
「そ、だから鈴仙には感謝してるの。彼女のおかげで、美鈴は私や紅魔館以外の視点を見つけられたようなものだから」
 鈴仙と出会う前の美鈴は、何かにつけて咲夜の顔を見に来るほどにべったりだった。やれ掃除の様子を見に来ただの、やれ夕食の手伝いをしようだの。それが彼女の気遣いであり、今まで保護対象だった咲夜を心配しての行為なのはわかる。大きく様変わりした生活に戸惑う故の不安だと言うことも解る。だが、やはり行きすぎの感は否めなかった。
「一度ね、美鈴にものすごく怒ったことがあったの。私は前みたいな小さな子じゃないんだから、何でも一人で出来る。私を出汁に仕事をさぼったりしないでって」
「咲夜さんが……?」
「そうよ。そしたら美鈴ったらこの世の終わりみたいな顔をして、それから今にも泣きそうな声でごめんなさいって言ったの。それからは少しましになったけど、やっぱり美鈴は私を心配しててね。だから何でも完璧にこなせるように努力したり、異変解決に出かけたりもしたのよ。でも、一番効果があったのはやっぱり鈴仙。ちょっと悔しいけどね」
 永遠亭に使いを頼んだ日から、美鈴は少しづつ自身のことに時間を割くようになった。いつもより長く風呂に入るようになり、髪の手入れもしっかりするようになった。そんな変化は妖精達の間であっという間に噂になり、お節介焼きの数名は咲夜に警鐘を鳴らしに来たりするほど。
「寂しいって思いませんでした?」
「多少はね。でも美鈴の変化は私が一番望んでたことだし、彼女が自分の人生を歩んでくれるならそれが一番だもの」
 美鈴のことは慕っていたし、疎ましく思ったことは一度もない。なんだかんだと言いながら顔を見せる彼女の気遣いはそれなりに嬉しかったし、いつも見てくれている安心感は本当に大きな支えだった。
 だからこそ、咲夜は彼女と別の人生を歩みたかったのだ。
 彼女を自分に縛り付け、自分も彼女に寄りかかるような生活はしたくなかったから。
「向こうがどう思ってるかは解らないけれど、私はこれでよかったと思う。そして、二人にとって最良の選択だともね」
「それは何となく解ります。だって、二人とも幸せそうだから」
「貴女にそう見えているなら安心ね。それじゃ、メイド長として貴女に宿題を出します」
 顔を引き締め、まっすぐに美希を見つめる。驚いた彼女は一瞬だけ戸惑ってから真面目な顔つきで視線を返してきた。
 向けられた双牟は美しく輝き、一点の曇りもない。
 澄んだ彼女の心と、それ以上に澄み切った愛情を表すかのように。
「誰もが羨んで仕方がないぐらいの、それこそ美鈴が呆れるぐらいの関係になりなさい。そして一生彼女を捕まえて離さないこと。いい?」
「で、できるでしょうか……私に……」
 自信なさげな返答と、やや潤む瞳。咲夜はそんな彼女の頭を撫でてから頬を掴み、顔を上げさせる。
「私は完全で瀟洒なメイドよ。部下に出来ないことは命令しない。自信を持ちなさい、八束美希。貴女に束ねられない縁なんてありはしないんだから」
 所在なさげに泳ぐ視線に笑みを漏らし、咲夜は美希の額にそっと口づける。
 可愛い妹にそうするかのように。
「ありがとうございます……。私、がんばりますね」
「よろしい。そうと決まればのんびりしてられないわね。素敵な寝巻きを見立てて上げるから、それを着て霊夢の元へ走りなさい。客間はどれを使ってもかまわないから」
「は、はいっ」
 勢いよく返事をした美希をもう一度抱きしめてから、咲夜は彼女の手を引いて風呂を出る。
 人を愛するというのは簡単なことではない。幾多の不安や困難があり、時には今生の別れの如き喧嘩もするだろう。
 それでも、この娘ならきっと心配いらない。咲夜には何故か、そんな確信があった。
 そして彼女なら、自分の与えた宿題を完璧にこなしてくれるだろうという根拠のない自信も。



「最後の一枚、おーわり」
「こっちも片付きましたよ」
 全ての皿を磨き終え、美鈴は大きく伸びをする。背中にかかった声は鈴仙のもので、どうやら彼女も作業を終えたらしい。
 まだ春遠からじ幻想郷。夜の水仕事は流石に堪える。加えて自慢の料理を全否定された結果のことともなれば、意気消沈ぶりは生半可なものではない。鈴仙が居なければ洗い物は夜通しかかっていたかも知れないほどだ。
「ごめんね、私のせいで。水冷たかったでしょ」
「これぐらい慣れっこです。二人だから早く終わりましたし」
 けらり笑う彼女の手は冷たい水のせいか真っ赤に染まっていて、それを暖めようと乗ばした自分の手もまた赤かった。二人は顔を見合わせて笑い、それからそれぞれの手を握って小さくさすりあう。
「それにしても、なんであそこであの料理を出したんですか? 美鈴さんらしくないなって思ったんですけど」
「ああ、あれ? 美希ちゃんが緊張してたみたいだから、それを解そうと思って……。ま、結局大失敗だったんだけど」
 会食の際、美希はそこそこに緊張しているように見えた。あの咲夜が特に気を回さなかったので大したことではなかったのかも知れないが、やはり純粋に食事を楽しんでいるようには思えなかった。そこで美鈴は大皿で取り分けるようなざっくばらんな料理を提供し、少しでも場を和ませようとしたのである。
「本当はローストビーフとか、七面鳥の丸焼きとか、大きなグリル料理作れたら良かったんだけど……腕と材料の問題があってね」
 苦笑しつつ視線を逸らし、握った手を離して頬を掻こうとする。しかしその手は鈴仙によってしっかり握られ、視線まで捕まえられてしまった。
「どうしてちゃんと言わなかったんですか?」
「言ったら美希ちゃんが余計気を使うと思ったからね」
 捕まれた手をそっと解き、彼女の頭を静かに撫でる。貧乏籤を進んで引くのは、昔からの癖のようなもの。
「私はスマートとか器用なんて言葉とは無縁だからさ、転んで泥だらけになりながらまっすぐ進む方が性に合ってるんだ。その方が気持ち良いしね」
 頭を使うのも得意じゃないしと付け加えつつ、鈴仙に笑顔を返す。
 ある一つの答えを導き出すときに、幾つものやり方や考え方があったとする。その際、急がば回れの言葉通り、やや迂回した方が結果としてより早く答えに近づける場合もある。しかしそれがベストの結果になるとは限らない。だから美鈴はまっすぐに進むのだ。咲夜と違う道で、違う方法を用いて、より最良の答えを導き出すために。
「人の気も知らないで……」
「鈴仙……?」
 重く震えた、怒気をはらんだ声。同時に強く掴まれる肩。
 どうやら美鈴は、鈴仙の逆鱗に触れたらしい。
「少しは貴女を心配する身になってください!」
「わっ」
「危ないこととか後ろ指さされそうな事して……貴女を大切に思う私のことも考えてください!」
「ご、ごめん」
「ごめんじゃありません!」
 何時にない剣幕の鈴仙に、美鈴はすっかり気圧されてしまっていた。本気で怒る彼女の顔は赤く、その瞳はやや潤んで見える。
「咲夜さんもレミリアさんも、多分美希ちゃんも美鈴さんのことが大好きです。でも私はもっともっと、誰よりも貴女を好きで愛してる。そんな人が後ろ指さされたり傷つくの見て、平気なわけないじゃないですか……!」
 言葉に嗚咽が混じり、語尾がはっきりしなくなる。彼女がこうして子供のような泣き顔を見せるのは、自分の前でだけ。
「あの火事の時、私は美鈴さんの勇気に憧れました……。自分を省みず、見ず知らずの命のために危険を冒すなんて簡単に出来る事じゃない……。でも、それを見守るのはすごく怖くて……不安で……」
「ごめん……鈴仙……」
「そんな言葉じゃ許さな言っていったじゃないですか……!」
 掴みかからんばかりに顔を寄せてくる鈴仙。その間近に迫った瞳を見つめ、抱きつくように身を寄せる彼女の腰を抱き、美鈴は固く結ばれた唇にやや強引な口づけを落とした。
「んんっ……!」
 驚いて僅か身じろぎする彼女をしっかりと捕まえ、唇を強引に開かせて深くキスをする。掻き抱いた彼女の背中は、随分と小さく華奢に思える。
 深く絡まる舌と、強く求めるように抱きしめられた首。肌に触れる彼女の全てを感じながら、美鈴は自身が何気なく犯した罪に後悔していた。
「鈴仙……んくっ、ん……!」
 息継ぎのように名を呼び、それすらも惜しむように口づけを繰り返す。背中に当たるシンクがやや大きな音を立て、戸棚の中の鍋類ががたがたと騒ぎだす。
 それでも美鈴は、彼女との口づけを止めようとしなかった。
「美鈴さん……ん、んぅっ……! ふは……っ」
 ここがどんな場所で、見つかればどうなるか。そのぐらいのことは美鈴にも解っている。おそらく鈴仙にも。
 それでも、二人は互いを求めることをやめようとはしなかった。いや、止めることなど出来なかった。
「鈴仙……愛してる……!」
 頬に額に首筋に。せわしなく口づけを繰り返しながら、美鈴はやや乱雑に彼女の服の下へと手のひらを滑り込ませてゆく。触れた背中は随分と冷たいもののような気がした。
「美鈴さん……ひゃっ! ふぁ……んんっ……」
 首筋に歯を立てながら、背筋に爪を這わせる。たったそれだけのことで鈴仙は甘い吐息を漏らし、美鈴に掴まるように身体を預けてくる。
「今日は、たくさん痕つけるね……」
 彼女の返事も聞かず、美鈴は鈴仙の首筋に強く吸いついた。舌先で肌をなぞり、淡く歯を立てながら唇で吸い、くっきりとした証を残せるように促す。
 それも一つだけではなく、幾つも、幾重にも。
「ひゃぅっ! や、んんっ! 痛……っぁ! や、足……抜け……ひゃぁん!」
 一つ傷跡を残す度に、鈴仙は強く美鈴にしがみついた。
 鈴仙の足は僅かに震え、吐息も荒く激しくなってゆく。そんな彼女の反応を楽しむように、美鈴は鈴仙に何度も口づけをし、その肌に舌を這わせた。
「美鈴さ……っ! 人、きちゃ……見られちゃう……! ひゃんっ!」
「見られたら見せつければいいよ。鈴仙は誰にも渡さない……」
 耳にかかる吐息は切なく、鼻をくすぐる彼女の香りは甘い。そして舌を這わせる彼女の首筋は吸い付くように滑らかだった。
 何物にも代えられない大切な存在。それらを五感全てで味わうべく、美鈴は鈴仙の前をはだけ、柔らかな胸を露わにする。
「不安にさせた分、いっぱい愛してその証をつける。誰にも取られないように」
 愉悦に震える彼女の手を自身の肩にかけさせ、美鈴は胸にもキスの雨を降らせてゆく。
 唇が触れる度に吸い付き、痕を残しながら舌を這わせ、残った痕を指先でなぞる。胸元から肩へ。谷間から乳房へ。腕へ、腹へ、足へ。
 そのたびに彼女は甘い声を漏らし、時には嬌声を上げ、髪を揺らしながら悶えた。
「ひひゃっ! ふぅ……んっ! 美鈴さん……はげし……っ!? そ、そこだめ……! ひゃんっ!」
 片足を抱え上げ、下着をずらしながら内股に痕を残すと、彼女の花びらは艶やかな蜜をたっぷりと溢れさせていた。鼻孔をくすぐる甘い香りと、艶めかしく誘う薄紅色の花びら。その花びらに、美鈴はあえて下着の上から口づけをし、舌を這わせてゆく。
「やっ! 汚れちゃ……ひぁっ! ひゃ! そん…………きゅふっ!?」
 元より汚してしまうつもりだった。汚れた下着を身につけているわけにもいかず、今から急いで洗っても乾くのは明日の午後。それはでは彼女は自分の元にいる。そんな打算的な考えがどこかにあったのは間違いない。
 だが、それ以上に美鈴は鈴仙を愛していたのだ。
 それこそ、下着を脱がせる手間を惜しんでしまうほどに激しく。
「鈴仙、綺麗だよ……ん、んくっ!」
「や、だめぇ! そんな……はげし……ひゃぅ! ひひゃん! やぁっ!!」
 小さな布地ごと彼女を味わい、次々と溢れ出る蜜を嚥下する。震える膝をしっかりと支え、彼女が倒れぬように背中に手を回しながら。
「んぅっ! も……ら、らめ……いっちゃ…………! や、ひゃぁぁん!」
 一際甲高い声は、彼女の中へと布地を舌で押し込んだときに発せられた。花びらがすぼまって舌を締め付け、膝と腰が小刻みに震える。手は肩と髪を強く掴み、自身を支えるのがやっとといった感じだった。
「んっ……。おいしかったよ、鈴仙」
「や……もう……っ。ばかぁ……」
 支えていた手を緩めて身体を解放すると、鈴仙はその場にへなへなとへたりこんでしまう。
 そんな彼女の身体は、美鈴がつけた痕で斑模様のようになってしまっていた。
「いくらなんでもやりすぎですよ……」
「いいよ、言い訳とかしなくて。消えかけたらまたつけてあげる。もっともっとたくさん」
「そういうことじゃないですっ!」
 抗議の声と共に彼女は両腕をこちらに伸ばしてくる。未だ整わぬ荒い息と、すっかり潤んだ彼女の瞳がぞくりとするほど魅力的に見える。
「私もしたかったのに……ぜんぜん動けなくなっちゃいました。だから責任もってお部屋までつれていってください」
 どうやら鈴仙はつけられたキスマークにご立腹だったわけではないらしい。やや拗ねたようなその表情に美鈴は毒気を抜かれてしまい、柔く笑って彼女をそっと抱き上げる。
「このまま廊下に出て誰かに見つかったら、それこそ大変だよ?」
「言い訳しなくていいんですよね?」
 首筋に腕を回してくる彼女と笑い合い、それから肌をすり寄せて甘く口づけを交わす。
 深く優しく唇を重ねる彼女達の表情はいつも通りのもので、ただその奥に隠された愛情だけは今までよりも深く大きい。
 二人はその大きさを互いに確かめ合いながら肌を寄せ、それから息を殺して廊下へと歩み出た。
 夜が明けても尚続きそうな、甘い一時を過ごすために。



「……あんたどこに嫁ぐつもり?」
「……えっ? ええっ? お、おかしいですかこの格好……」
 レミリアと紅茶を飲み、湯浴みをして客間でくつろいでいるところへ現れたのは、純白のドレスを身につけた美希だった。
「おかしくはないけど……服はどうしたの?」
「洗っておくから、代わりにこれをって……。お客様だからメイド服はまずいって言われて……」
 確かに後半の一言には一理ある。霊夢は当然として、美希も今日は客として紅魔館を訪れているのだ。仕事着を着せるのは間違いに決まっている。
「これから寝ようってのにそんなの着せられて、おかしいと思わなかった?」
「えっ……えと、しわを作ってもかまわないからって……」
「……いくらかまわなくても、そんなの着て寝たらごろごろして気持ち悪いと思わない?」
「………………………………あっ!」
 今更気が付いたらしい彼女の表情に、霊夢はやや深いため息を漏らす。
 この娘の底なしのお人好しは、やはり長所であると同時に欠点でもあるようだ。
「ど、どうしましょう……。今からパジャマとか……」
「今更遅いわよ。それより、少しは言葉の裏を読むことを覚えなさいな」
 霊夢の言葉の意味を、美希は理解しかねているようだった。
 尤も、バスローブまで着せられてしまった自分が言っても余り説得力がないのだが。
「う、裏って……えと、なんでしょう?」
「湯浴みも終わって客間に通されて、ベッドにはいるときには脱がなきゃいけないようなドレス着せられて、まだわかんない? どうせそのドレス、汚しても良いとか言われてるんじゃない?」
「は、はい……。そんなに高価なものじゃないからって」
 あのメイドも随分と大胆な嘘をつく。
 霊夢は洋裁の知識や服飾における価値など殆ど知らない。特別興味もなかったし、よほどおかしな格好でもなければ特別なこだわりがあるわけでもない。
 だが、そんな霊夢でもこのドレスがやや特別めいた存在であることは容易に想像が付いた。
 ふわふわと柔らかい布地に、控えめながら煌びやかな装飾。スカートは清楚でシンプルだが、女性としての美しさを引き立てる事は忘れていない。胸元には花飾りのようなブローチが輝き、髪は絹のリボンで緩くまとめられている。高価さもさることながら、一度着崩してしまうとあとの手入れが面倒で仕方がないように思える。
 どう曲がり間違っても、パジャマ代わりにして良いような安物ではない。
「こういうのもハメられたって言うのかしらね……」
 未だ状況が掴めていない美希に手招きをし、揃ってベッドに腰掛ける。通された客間のベッドは大きく、二人で寝ても随分と余裕があるほど。
「そのドレスの意味はね、こういう事よ」
「きゃっ!」
 彼女の腕を掴んで強引に押し倒し、組み敷くような形で視線を合わせる。吐息が混ざりあうような距離と、戸惑い潤む彼女の瞳。僅か響く衣擦れの音を聞きながら、霊夢は意識の端で、据え膳を食わぬのは女も恥なのだろうかと、そんなことを考えていた。
「どうする? このまま咲夜達の思惑に乗る? それとも何もしないでおとなしく寝ておく?」
「れ、霊夢さんは……」
 訪ねようとする口を軽い口づけで塞いでから、霊夢は身体を入れ替えて彼女を上にする。
「私はあんたに聞いてるの。美希はどうしたい?」
「ぁ……ん…………」
 しばし逡巡した後で、美希はおずおずと唇を重ねてきた。まだどこかで遠慮をしているのだろう。たどたどしい行為と震えたような息づかいが、少しばかりもどかしい。
 本音を言えば、霊夢は初めからこうする予定だった。ここ数日は異変の後処理に追われ、結界の確認と修繕に立ち会ったり、この混乱に乗じて悪さをする不逞の輩を懲らしめたりと忙しく、のんびり茶を啜る暇も無い日が続いていた。
 せっかく自身が勇気を出して告白し、彼女もそれに答えてくれたというのに、のんびりと愛を確かめあうこともない日々。そんな毎日を霊夢は歯痒く、そして申し訳なく思っていた。だから今日こそは紅魔館で、あるいはここを早々に退散して神社で、美希と肌を重ねるつもりだったのだ。
「ん……ふっ……」
 唇をはみ、僅か舌を絡めながら彼女の髪を解く。はらり落ちる闇色の糸が、明かりに照らされてつやつやと輝く。
 指通りは滑らかで心地よく、まるで髪を梳く自身が指を愛撫されいるかのよう。
「は……っ、ん……」
 軽く息を吐き、美希は更に深く唇を重ねてくる。甘い吐息を口の端から漏らしながら、舌を伝って彼女の唾液が滑り込んでくる。
 嚥下すればそれは媚薬のように内側で燃え広がり、疼くような愉悦が胸の奥から広がってくる。
 霊夢はたまらず美希の肩を抱き、強く抱きしめてより深い口づけを求めた。
「ん、んく……、んっんっ……んむっ……」
 くぐもった喘ぎを漏らしながら背を撫で、衣擦れの音を響かせながら足を絡める。肩と背中が大きく開いたこのドレスは些か涼しすぎたのだろうか、彼女の肌は僅かに冷えているように思える。
 恐らくは、それも咲夜の計算ずくなのだろう。
「ふは……霊夢さん……。愛してます……」
 熱の篭もった瞳を向けられ、不意に囁かれる愛の言葉。余りにも卑怯な、まさに不意打ちの一言に霊夢は完全に撃墜されていた。
「わ、私も……愛してる……」
 切れ切れの声でそう返すのが精一杯だった。霊夢はそれから彼女を強く抱きしめ、頬を重ねてその存在を確かめるように抱きしめた。
 耳まで赤くなった己の顔を隠すために。
「嬉しいです……。ずっとこうしていたいぐらい……。でも、私ね……、霊夢さんが思ってるよりずっとエッチな子みたいです……」
 囁く彼女が己の手を掴み、スカートの内側へと導いてくる。
 彼女の秘所は、布越しでも解るぐらいに濡れていた。
「私も似たようなものよ」
 耳元で囁き、彼女の手を自身のそこへと導きながら耳たぶを甘く掻む。わざわざ確かめるまでもなく濡れたそこを、導かれた指先が僅かに擦りたててゆく。
「んっ……。こんなんじゃ、巫女失格かもね」
 躊躇いがちに首を振ってから、美希はせがむように唇を啄んでくる。同時に彼女の指が太股を撫で、ローブの下でむき出しになっているそこへ淡い淡い愛撫を繰り返す。
 じらすように、ねだるように。
「んぁっ……だ、だめよ美希……。そんなにしたら、私何も……あんっ!」
「大丈夫です……。きっと時間はたっぷりあるし……」
 少しづつ強く激しくなる彼女の指使いに、霊夢はただ身悶えるばかりだった。そういうことではないのだという抗議の言葉も意識の上辺を滑るだけで口には出来ず、されるがままに身を捩らせるだけ。気が付けば霊夢は美希の身体にしがみつくように抱きしめ、ドレスをはだけさせてしまっていた。
「ん、ちゅ、んくっ……ぁむ……ん、んん……」
「ひゃ、ぁん! ん、ふ……! んくっ……」
 美希の舌が動く度に、意志とは関係なくあられもない声が上がる。それだけではない。指先は内側に潜り込んで浅く深くかき回され、逃げ悶えようとする足を膝で割り開かれ、溢れこぼれそうになる蜜は時折指先で掬い上げられて秘芯へと塗り込められた。
 全身を襲う激しい快楽と、脳髄をちりちりと焦がすような欲望。その中で霊夢は心も体も翻弄され続けてしまう。
「だ、だめ……美希っ! くる、きちゃう……! や……あ、ふぁっ! んんぅっ!」
 奥底の入り口を擦られ、秘芯を摘まれ、霊夢はついに限界に達した。視界が白く染まり、全身が浮き上がるような感覚に包まれる。背筋が反り返り、何かに掴まっていなければ己を保てなくなるような、そんな激しい悦楽に意識が押し流されてゆく。それはまさに、堕ちるという表現がふさわしいほどの感覚だった。
「はぁ……はぁっ……。あ、あんたね……、少しは加減しなさいよ……」
「だめです。霊夢さんすごく可愛かったんだもん……ふふっ」
 いたずらっぽく笑い、頬に口づけを落としてくる美希。彼女の笑顔を見ていると、つい何もかもを許したくなってしまう。
 霊夢は震える腕で彼女を抱き寄せ、甘く口づけをしてから呟いた。
「これで私が気絶しちゃったら、どうするつもりだったのよ」
「ん……、そのときは起きるまで待ってますよ」
「ここをこんなに濡らしたまま?」
「きゃっ!」
 油断しきっている彼女の秘所に指を滑らせ、溢れている蜜を掬い上げる。
 快楽を欲しがっていたのは、美希も同じなのだ。
「私が動けなくなっちゃったら、ずっとお預けのままよ?」
「そ、その時は霊夢さんを見ながら一人でしちゃいます……」
「そんなの許すわけ無いでしょ」
「ひひゃっ!」
 片腕で彼女を抱きしめたまま、霊夢は自身がされたように彼女の秘所へと指を滑り込ませた。押し広げた内側からはすぐに蜜が溢れだし、滴となって伝ってゆくのが解る。
「私を愛撫しながら感じてた?」
「ふぁ、やっ! 霊夢さんっ! ちから、ぬけ……ひぅんっ!」
「いいわよ。あんた軽いんだから」
 身を支えようとする腕を払い、美希を全身で受け止める。触れた肌とかかる重みが心地よく、先程の愉悦が僅かに揺り戻ってくるかのような錯覚を覚える。
 いや、錯覚などではないのだろう。腕の中で悶え嬌声を上げる美希を見ているだけで、霊夢のそこからは確かに蜜が溢れ始めていた。
「ひゃんっ! あふっ! お、おくだめ……やんっ! ふあ、ひゃぁっ!」
 耳たぶを甘く掻み、首筋に歯を立てながら、霊夢は美希の奥底までかき回し続けた。彼女が身じろぎする度に溢れた蜜が身体に落ち、腰を捩る度にそれが塗り広げられてゆく。純白のドレスは最早布の固まりと化し、彼女の腰にまとわりついているだけ。言い訳も言い逃れもあきらめた方が良さそうなのは間違いない。
「れ……んぐっ! ん、んむ……んくっ、んぅ……」
 唇を重ね、舌を絡め、互いの唾液をかき混ぜあう。二人の間にもう言葉は必要なかった。唇は性感帯となり、舌は生殖器と変わらない。互いを求め、交わるように絡まりながら、粘膜と体液を交換しあう。それだけのものでしかなかった。
「んんっ! ん、んくっ! 霊夢さん……! んきゅ……んっ!」
「美希……ぁむ……ん、んくっ! 美希……!」
 動物が鳴くように互いの名を呼び、嬌声を上げながらあえぐように息継ぎをする。汗と涎と愛液が混じりあい、互いの肌から境界を奪う。
 熱冷めやらぬ霊夢の身体は、またしても限界を迎えようとしていた。
「や……れ、霊夢さんっ! ふか……はげし……ひゃぅっ! ひゃ、きゃふぅ!」
 また自分だけが達してしまう。そんな焦りからか、霊夢は愛撫の手を強く激しいものにした。秘芯をまさぐり、蜜を絡めて擦り立てる。奥底にある彼女の入り口を見つけだし、爪の先でつつくように愛撫する。指を曲げ、入り口近くにある彼女の弱点に押し当てる。
 そうしなければ彼女の表情を見ているだけで、唇を重ねるだけで達してしまいそうだったから。
「美希……、ん、んくっ……ん!」
「れい……ふぁっ! んんぅ! ん、んん! んんんーっ!」
 激しい口づけの最中、美希は絶頂に達したようだった。彼女の秘所が指を強く締め付け、全身が戦慄くように震える。そしてそんな彼女の瞬間を見ながら、霊夢も軽い絶頂に達していた。
「は……はふっ……ん、んぅ……はっ……」
「気持ちよかった……?」
 自信なさげに訪ねると、美希は小さく頷いてから口づけをせがんできた。だらしなく開かれ、吐息が溢れ続ける彼女の唇はことさらに甘いように思える。
「ん……んっ……。はふ……ドレス、めちゃくちゃになっちゃいましたね……」
「汚していいって言ってたんでしょ? 気にしなくて良いわよ」
 霊夢の言葉に美希は軽く笑って、最早ドレスとは呼べなくなった布の固まりを脱ぎ捨てる。その様を見ながら、霊夢もまたバスローブを脱ぎ捨てた。
「結構汗かいちゃいましたね……。お風呂もう一度借ります?」
「そうしたいのは山々だけど、今はちょっと動く気になれないわ」
 汗を含むいろいろで汚れた肌は流しておきたいが、それ以上に余韻と倦怠感が強すぎてとても動く気にはなれない。脱いだバスローブを適当に丸めてからベッドに身を預けると、美希も同じようにゆるゆると身を横たえてくる。
「じゃ、もう少し後にしましょう」
「そうね……、起きてられたら」
 緩く彼女を抱き寄せ、そのままベッドに潜り込む。触れた素肌は心地よく、柔らかいベッドは暖かく、すぐにでも眠気に誘われそうな程。
「あったかいですね……」
「そうね……」
 優しく彼女を抱き寄せ、それから霊夢は僅か身を捩って美希の胸へと頬を寄せる。
 柔らかな双丘の奥で小さく響く心音が、無条件の安心を与えてくれるようで心地良い。
「霊夢さん……」
「……私だって、たまには甘えたくなるのよ…………」
 ぽつり呟くと、美希はそれ以上何も言わずに髪を撫でてくれた。
 彼女の前でだけは、霊夢は気を緩められるような気がした。
 何もかもを解ききって、素のままの自分でふれあえるような気がした。
 彼女なら全てを受け止めてくれるような、そんな気がしてならなかった。
「……幻滅した?」
「どうしてですか?」
「あんたに見せてる姿が、時々普段の自分と違うから……」
 くすりと小さく笑う声が聞こえ、それから強く抱きしめられる。何もかもを預けてしまいたくなるような、そんな暖かさが自身を包み込む。
「私はまだまだ知らないことばかりで、霊夢さんがいままでどんな道を歩んできたのかもわかりません。この紅魔館みたいに、いろんなことがあったんだろうなってことを想像するぐらいです。でも、それでいいんです」
「美希……」
「こうして私の傍にいて、こうやって時々愛を確かめて、それから二人なるべく笑顔で居られれば、それ以上はきっと余計なことなんです。だから、ちゃんと私を見て、私のところに戻ってきて、元気に笑って、それから愛してるって言ってください。それだけで私は満足だから」
 無欲という名の強欲。そんな言葉が脳裏をよぎる。
 そして霊夢は早速彼女の望みに答えるべく、顔を上げてその瞳を見つめた。
「愛してるわ、美希」
「私もです、霊夢さん」
 甘く口づけを重ね、二人は布団の中でもう一度肌を重ねた。
 互いの言葉の真実を、その肌で確かめるように。



 星空の中に月は無く、その魔力も殊更に薄い夜。レミリアは一人静かに空を眺めていた。
「今日は新月だったわね」
 風もなく澄んだ夜空には、数多の星々煌めく。穏やかな夜は、まるで翌日の晴天まで約束するかのよう。
「私にも紅茶を一杯頂ける?」
 不意に背中に響く声。だがもうレミリアは取り乱したりはしない。戸棚からカップを取り出し、ポットの中の紅茶を注いでテーブルへ並べる。
「淹れたてじゃなくて悪いわね」
「十分よ。ありがとう」
 ほんのりとだけ湯気の立ったカップを持ち上げ、彼女は静かに口へ運ぶ。そんな彼女を見つめながら、レミリアもまた紅茶を一口。
 冷めてしまった紅茶は少々渋く、とても客に出せるようなものではなかった。
「昔の夢を見た感想はどう?」
「あんたの仕業なの?」
「さぁ、どうかしら」
 自身の夢を覗いたのか、はたまた夢を操って過去の出来事を見せたのか、その笑顔の向こうに隠された真実は解らないまま。
「……美希や咲夜や、私をこの世界に招いたのもあんたの仕業?」
「さぁ、どうかしら」
 同じ答えを返す彼女にやや呆れ、カップに残った紅茶を飲み干してから背を向ける。
 夜空に瞬く星は、あの日の出来事も全て記憶しているのだろうかと考えながら。
「だったら、礼は言わないわ」
「それで結構よ。領主様」
 意図的に自分達を招く理由も、そのような力を振るえるのも、彼女をおいて他に居はしない。だが結界の綻びが起こした必然に近い偶然も考えられないでもない。
 恐らく答えを彼女は知っている。彼女だけは。
「昔、ここを置き去りにされた者の楽園と言ったわね」
「ええ、そうよ」
「それは間違いだわ」
 昔のレミリアは、その言葉を受け止めることしかできなかった。だが、今は違う。与えられたものでも、用意されたものでもない。自ら手に入れた幸せが確かに存在するから。
「ここは選ばれし者の桃源郷よ」
「……そう。そうかも知れないわね」
 自信を持って放つレミリアの言葉にも、彼女は薄く笑って素っ気ない返事をするだけだった。
 昔の自分ならば、その様に激昂していたに違いない。胸倉に掴みかかって、牙を立てるように言葉を浴びせていただろう。
 そう、何もかもが不安で、全てに怯えていた昔の自分なら。
「レミリア」
 不意にかけられる声と、まっすぐに向けられる視線。彼女の持つ金色の瞳が、己の全てを見透かすようで少しだけ恐ろしい。
「昔の貴女と比べて、今の貴女は幸せ?」
 しかしレミリアは怯まなかった。問いかける彼女の瞳をまっすぐに見つめ返し、胸を張って答える。
「ええ、幸せよ」
 彼女の言う昔がどこを指しているのかは解らない。だが何時と比べても、レミリアは今の方が断然幸せなように思えた。両親には悪いが、今の自分はこれ以上無いぐらいの幸せを掴んでいるように思えた。
「そう、それはよかったわ」
 カップの中身を飲み干し、彼女は静かに席を立つ。暗闇から星明かりへと身を晒し、紫色のナイトドレスを揺らめかせながら。
「紫」
「なぁに?」
「今度うちの家族を危険な目に会わせたら、覚悟しておくことね。吸血鬼異変なんか目じゃないぐらいの大戦争をしかけてやるんだから」
「おお怖い。なら私は退散させていただくわ。貴女に噛みつかれる前に」
 肩を竦めてけらりと笑う彼女を見上げ、こちらも不適な笑みを返す。それだけで、二人は互いの全てを理解したようだった。
「今度来るときはきちんと正門を通りなさい。不法侵入を許すのはこれっきりよ」
「そうさせていただくわ」
 あの日のように、彼女はどこからか取り出した日傘で暗闇を切り裂く。そしてそのスキマに身を沈めながら、彼女はあの日のように笑ってこう言った。
「桃源郷へようこそ。私たちはいつでも貴女を歓迎するわよ」



 その日、鈴仙は幸せな夢を見ていた。それは美鈴や多くの者達と末永く仲良く暮らす夢で、何故か鈴仙は夢に出てきた他の多くの者達も同じ夢を見ているのだという確証があった。
 夢の中で、鈴仙は思う。
 楽園はそこにあるだけで楽園なのではないのだと。
 多くの者が笑いあえるように手を取り、協力してはじめて楽園として足り得るのだと。
 あの日の自分は、手を取ることもなく逃げてしまった。
 追っ手を恐れ、月から身を隠すために背を向けてしまった。
 しかし今は違う。恐れる必要も身を隠す必要もない。多くの仲間と手を取り、この楽園を守るだけの勇気がある。
 夢の中の美鈴が自分を抱き、頭を撫でる。この幸せが現実でも永遠に続くようにと願いと決意を込めて、鈴仙はしっかりと彼女を抱きしめた。
 他の多くの者が、そうしていたように。



 翌朝、我に返った鈴仙は鏡の前で途方に暮れていた。
「うわ……、どうしよ……」
 本当に全身を覆うようにつけられた愛の証は、どう言い訳をしてもごまかせないほどにくっきりと残っていた。特に肌を晒さざるを得ない首筋に限って殊更に色が濃く、情事の痕であることは誰に尋ねずとも明白である。
「おはよ、鈴仙」
「おはようじゃないですよ……。どうしましょう、これ……」
 痕を付けた張本人ののんびりした声に、鈴仙はため息混じりで答える。しかし彼女はまるで気にした様子もなく、自身を背中から抱きしめて鏡の前へその身を晒した。
「いいじゃない。ほら、お揃い」
 鏡の前の美鈴が指さした先には、自身がつけた痕が見える。自分と同じ首元にくっきり残るそれは、改めて見ると恥ずかしいことこの上ない。
「ば、絆創膏で隠しましょう。虫に刺されたとか何とか……」
「だーめ。これはみんなに見て貰うの」
 ぎゅっと身を寄せてくる美鈴の胸が背中に当たる。まだ着替えどころか朝の湯浴みも済ませてない二人は、一糸纏わぬ姿のまま。
「そ、そんなの恥ずかしいですよ……」
「そう? 私は平気だよ。だってこんなに愛してるんだから」
 強く抱きしめられ、髪に数度のキスを落とされと、ぞくりとした快感と共に昨夜の情事が舞い戻ってくるかのような錯覚を覚えてしまう。
「そ、その言い方はずるいです……」
「ふふ、ずるくて結構。だってこんなに幸せなんだから」
 顎に手を当てられ、口づけをせがまれる。肩越しのキスを望む彼女を制し、鈴仙は身を返して美鈴と向き合ってから深く唇を重ね合わせた。
 あの夢の中のように、彼女をしっかりと抱きしめながら。
「……ふぅ。ねぇ鈴仙。まだ私たちは夢の中にいることにしようか」
「へ……?」
「そうしようそうしよう。よし決定」
「きゃぁっ!」
 軽々と抱え上げられ、そのままベッドへ連行される。どうやら彼女はまだまだ愛の証を付け足りないらしい。
 やや呆れながら、鈴仙はそれに抵抗することなく身を任せることにした。
 これもまた、あの夢を永遠のものにするために必要な行為だと思ってしまったから。



 春まだ遠い桃源郷の朝に、多くの笑顔が満ち溢れる。
 紫はその笑顔を満足げに眺めながら眠りについた。
 深く長い眠りの中で、彼女もまた夢を見る。
 自身が歩んできた過去の夢を。
 少しづつ築き上げた楽園のこれまでと、桃源郷と彼女が称した今の全てを。
 その光景を見つめながら、紫は自問する。
 自分もこの桃源郷に選ばれた者なのだろうかと。
 問いに対する答えを見つける前に、紫は意識を手放した。
 深い深い闇へと意識が落ちるその直前に、紫は花びらのような蝶が舞うのを見る。
 淡く儚げな、桜色の蝶を。




[11779] 幻想八葉閑話休題「庭師の反抗期」
Name: Grace◆97a33e8a ID:5d8d086d
Date: 2010/04/06 03:40
 魂魄妖夢はその日、とても大それた考えを思いついた。
「家出しよう……!」
 一般的に言ってそれは大それた考えではないのかもしれない。しかし、物心ついた頃から庭師として生活し続けてきた妖夢にとっては、それこそ人生をかけた一大決心だったのである。
 理由はそこそこにあった。
 日々幽々子の世話に追われ、彼女自身何を考えているのかもわからない。そのくせ注文は仔細かつ遠慮が無く、先日は『塩漬けの鶏肉が食べたい』などと急に言い出した始末。
 里をあちこちうろつき回っても手に入れることが出来ず、結局紅魔館のメイドに頭を下げて分けて貰い、何とかして持ち帰ったところ、『遅い』の一言である。
 報われないにも程がある。
 故に妖夢は家出という人生初の反抗期を迎えるに至った。
 とはいえ、家出の先はまるで考えていなかった。どこに転がり込むか、衣食はどうするか。問題は山積している。
 無論隠れたところですぐに見つかってしまうだろうから、こそこそする必要はない。要は自分を受け入れてくれる先があればそれでかまわないのである。



「で、うちに転がり込みに来たっていうわけ?」
 突然の来訪者に霊夢は呆れ顔を浮かべ、そのわけを聞いて更にため息をついた。
「で、でも…………妖夢さんの気持ちもわかります……」
 同居人の美希は、どうやら彼女の味方に回るらしい。
 まああの何を考えてるかわからない亡霊に付き合うのは正直酷だと思う。自分が同じ立場なら、恐らく三日も待たずに三行半を叩きつけているに違いない。
 しかしだからといって神社においてやる義理が無いのもまた事実である。出来ればさっさと追い出したいところではあるが……。
「そんなに長居するつもりはありませんし、仕事もします。どうかお願いします」
「わ、私からもお願いします……」
 二人そろって下げる頭を見て、断れる訳もないわけで。
「…………好きにすれば? ただし迷惑かけたら追い出すから覚悟なさい?」



 霊夢に許可をもらい、妖夢は神社に住み込むこととなった。
 まだ夜も明けぬうちから彼女は誰よりも早く目を覚まし、庭の掃除と食事の支度をする。それが終わると広い神社を掃除して周り、庭木や草花の手入れをして買い出しに出る。
 それは今まで霊夢が一人でやってきたこと以上のものであり、美希と二人で分けていた仕事の更に二周りほど上の作業量だった。
 それでも妖夢は別段顔色を変えず、むしろまだ動き足りないと言わんばかり。
「アレは完全に職業病ね」
「しょくぎょうびょう……?」
「そ。忙しいことに慣れすぎてて、何もしていないと不安になるのよ。神社に仕事なんてそうそう無いってのに」
 縁側で霊夢と並んで茶を啜り、特に何もすることが無くなった庭をぼんやりと眺める。完璧なまでに手入れされた庭は見違えるように美しくなったが、完成度が高すぎて美希には触れなくなってしまっていた。
「もしかして……それを知ってて幽々子さんは…………?」
「さぁね。でも多分この勢いだと、先に音を上げるのは妖夢だと思うわ」
 美希自身も、その予想はついていた。ただ問題なのは、家出をした手前素直に帰り難いのではないかというところだ。暇が理由で死ぬなどと言うのは聞いたことが無いが、ストレスで体調を崩すぐらいのことはありうるかもしれない。
「あの……幽々子さんに相談を…………」
「やめたほうが良いわね。あっちはあっちで既に察して何か考えてるでしょうし、私たちが言っても無駄よ。ま、匿うのに賛成したのはあんたなわけだし、倒れたら看病ぐらいしてあげなさい」
 その申し付けはやぶさかではない。だが美希としては、できれば何事も無く元の鞘に戻って欲しいところだった。
「…………大丈夫かなあ……」
 呟いたところで返事はない。空は快晴、風もなし。
 その抜けるような青空は妖夢の小さな意地と、美希の心配をあざ笑うかのように高く透き通っていた。



 四日目にして妖夢は体調を崩した。
 先日は霊夢に『仕事なんてあんたのおかげで一つもなくなったから、今日は一日のんびりしてなさい』と言われ、大人しく茶を飲み、本を読み、何もせず一日を過ごした。しかし、どうやらそれがよくなかったらしい。
 夜になっても妖夢はまるで寝付くことが出来ず、宵っ張りのままに厠と自室と庭の往復を繰り返した。朝方になって眠気は来たものの、居候が遅くまで寝ているわけにはいかないとそのまま我慢。
 昨日同様この日も仕事は無かったが、何もせずに居るとまた眠れなくなるのではないかと考え、昼は剣の修行に精を出した。
 その結果が、この体たらくである。
「風邪決定。あんたは今日寝てなさい」
 霊夢の呆れ顔に申し訳なさもひとしお。妖夢は布団を目深にかぶって蚊の鳴くような声で詫びる。
「申し訳ありません……居候の身で……」
「…………あんた見てるとここに着たばっかりの美希を思い出すわ」
 言葉の意味を尋ねる前に、霊夢は部屋から出て行ってしまった。代わりに現れたのは、粥か何かを持ってきた美希。枕元に座ると彼女は妖夢の額から手ぬぐいをはずし、よく出汁の効いた粥を小皿に取り分けはじめる。
「お加減はどうですか……?」
「心配かけて申し訳ありません……。返す言葉も無いぐらいで……」
「気にしないでください。それより、冷めないうちに……。お薬を飲む都合もありますから」
 薦められるままに粥を口に運び、薬を飲む。熱があるとはいえもともとは寝不足。食欲もそれなりにあり、一日休んでしまえば元通りだろう。
 ただ、こうして迷惑をかけていることが、妖夢にはたまらなく辛かった。
「本当に……迷惑をかけて……」
「友達ですよ? このぐらいは普通です。それに、霊夢さんも怒ってないですから」
 柔らかく笑う美希の優しさが、今の妖夢にはありがたかった。
 そして、つまらない意地で二人に迷惑をかけていることが申し訳なくも思う。
「私の憶測ですけど……」
 布団に戻ったところを見計らってか、美希は小さな声で語り始める。小さな部屋に響く彼女の声は、出会ったときよりもずいぶんとはっきりとしており、そして彼女の姿もまた、心なしか大きく見えた
「きっと幽々子さんも妖夢さんを大事に思っているんだと思います。だからあれこれと経験をさせたかったり、自分の意見を言わせようと無茶を言いつけたり、そんなところからわがままみたいなことを言ってるんじゃないかなって……。だって、私が見た幽々子さんはとても優しくて大人で、すごく素敵だったから」
 その視線は特にこちらを見るでもなく、まるでここに居るはずのない幽々子を見つめているかのようだった。
 彼女はこれほどまでに大きな存在だっただろうか。そして、己の意見をはっきりと言える少女だっただろうか。
 古い言葉に、『士別れて三日なれば刮目して相待すべし』というものがある。彼女は武士ではなかったが、まさにこの言葉のとおりに思えてならない。
 それは、命の重みの差なのだろうか。
 美希は純粋な人間であり、寿命は五十年そこそこ。運良く長生きが出来たとしても百年はもたないだろう。それは長く生きる人外のものにとって見れば花の一生の如く儚い。その儚い一生の中で、人は子を残し、何かを作り出し、学び、伝えてゆくのだ。
「私も……美希の様に成長できれば良いのに……」
「私は育ってなんかいないと思います。もし妖夢さんにそう見えるなら、それはきっといろんな人と出会えたからだと思うんです……」
 謙遜をしつつ、美希は柔らかく笑って答える。
 向けられた彼女の瞳は、夜空の星のように美しく輝いていた。
「霊夢さんのおかげで、私はたくさんの人と出会うことが出来ました。今こうして笑っていられるのも、きっとそのおかげです。そしてその中には、妖夢さんも入ってるんですよ」
 驚き彼女を見上げると、美希は淡い微笑と共に唇を近づけてくる。
「早くよくなるように、おまじないです」
 柔らかい唇が額に触れ、それからその部分を隠すように、冷たい手ぬぐいが置かれる。
 遠ざかる笑顔は赤らんでいて、妖夢はその表情をまともに見ることが出来なかった。
「それじゃ、私は着替えとか用意してきますね。何かあったら呼んでください」
 かけられた声にも反応できず、妖夢は硬く目を閉じたまま足音が遠ざかるのをじっと聞いていた。
 そして、彼女を霊夢に譲ったことを、ほんの少しだけ後悔した。
「成長したのね、あの子」
「変わらない私はお嫌いですか」
 いつの間にそこに居たのだろう。部屋に響く主の声に、妖夢は姿を確認せずに答える。
 何しろ相手は神出鬼没の亡霊なのだ。どこに居ても何を聞いていてもおかしくはない。
「そんなことは言ってないわよ。それに貴女も変わっているところはたくさんあるもの」
「ゆっ、幽々子様!?」
 彼女はどうやら枕元に居たらしい。自身の身体を抱え上げるようにして引き上げ、半ば無理やりに頭を膝に預けさせられる。主に膝枕をしてもらうなど畏れ多いが、何よりここは白玉楼ではなく博麗神社。いつこの姿を人に見られるかわかったものではない。妖夢は羞恥に顔を赤らめ、その身を起こそうとする。
「ほら、膝枕を嫌がるようになったでしょう?」
「幽々子様……?」
「全部覚えてるわよ。貴女が最後におねしょをした日も、一人でお風呂に入るようになった日も、転んで泣いた日も、ゆゆさまゆゆさまってあとをついて歩いてた日も。それから、貴女が私を主として扱うようになった日も」
 自分にとっては恥ずかしい過去の出来事。それを幽々子は大切なことのように話す。
 そんな彼女の表情は、どこか悲しげで、そして嬉しそうだった。
「ダメなところばかり、覚えているのですか……?」
「ごめんなさいね。でも、成長を実感するのはそういうところなのよ。貴女が何かを出来るようになった日よりも、私の手を煩わた日のほうが鮮明に記憶に残るし、育った実感を得てしまうの」
 髪を撫でるその手つきはどこまでも優しかった。
 幼い妖夢にとって、西行寺幽々子は主である前に母親だった。両親を覚えていない彼女にとって父は師である妖忌であり、母は幽々子だったのだ。
 しかし妖夢はある日を境に幽々子を主として扱うようになった。
 それは彼女への反抗ではなく、そうすることが自分の使命だと悟ったからだ。
「私にとっては、貴女はいつまでも小さな魂魄妖夢のままなの。私の後ろをついて歩いていた、あの頃のね」
「…………それと日々のわがままは無関係に思えますが……」
 言葉ではそう言っても、妖夢は何とはなしに理解していた。
 幽々子は己の成長を望み、その上で手から離れることを寂しく思っているのだろう。はた迷惑な愛情の裏返しだが、その感情はわからなくもない。
「まだ、怒ってる?」
「…………怒ってたらとっくに膝から降りてます……」
 髪を撫でる母の手つきに、妖夢の小さな意地はどこかへ消え去ってしまっていた。そして、時にはこの温もりに身を委ねるのも良いかもしれないとも感じていた。
 母のような手つきで、子供のような笑顔を見せる幽々子。そんな彼女の表情を見つめながら、妖夢は小さなため息をつく。
「幽々子様、明日には熱も引きます。帰ったら溜まっている雑務を全て済ませます」
「うん」
「それから、翌日は…………少しだけ昔に戻りたく思います……」
「はい」
 嬉しそうな笑顔を向けられ、妖夢は思わず目を閉じる。
 これ以上のことは、顔を見ては言えそうもない。
「たまには、幽々子様のご飯が食べたいです」
「じゃあさつまいもを甘く煮ましょうか。妖夢の好きな衣被ぎの方が良い?」
「衣被ぎでお願いします。それから、一緒にお風呂にも入ってください」
「頭も洗ってあげるわ。代わりに背中を流して頂戴ね」
「上がったら耳掃除もお願いしたいです。それから、夜は一緒に寝ていただけますか?」
「まぁ、妖夢ったら大胆ね」
「…………っ! どうしてそこでそういう発想になる…………んんぅっ!」
 予期せぬ切り替えしに抗議をしようとしたその唇を、幽々子の唇に塞がれてしまう。甘く柔らかく、そして優しいその口付けに、妖夢はもう何も言えなくなってしまっていた。
「それじゃあ、私は一足先に白玉楼に戻っているわね」
「…………解りました」
 唇が離れ、主の姿が消え、妖夢はもそもそと布団にもぐりなおす。
 ずれかけていた手ぬぐいで、熱いほどに火照った頬を軽く拭いながら。
「…………ずるすぎますよ、幽々子様は」



「お世話になりました」
「気をつけて帰ってくださいね」
 翌日、すっかり熱の下がった妖夢は突然帰ると言い出した。昨日のうちに何かあったのか、それとも美希が何か言ったのか、それは定かではない。霊夢としても別段深く追求するつもりは無く、元の日常に戻るのであればそれは歓迎したいところだった。
 一つだけ惜しいと思うところがあったとすれば、この完璧な庭の手入れについてだろうか。
「出来れば夏に入る前と秋口。それから冬の手前に定期的に家出してきなさい」
「一応考えておきますが、期待はしないほうが良いと思いますよ」
 どうやら思惑は見透かされているらしい。この半霊もまた、あの亡霊同様嫌味なまでに聡い存在になる日が来るのだろうか。考えただけでも恐ろしい。
「それでは、お二人ともお元気で」
「幽々子さんにもよろしく言っておいてください。あと、次はお二人でいらしていただけると嬉しいです。ね? 霊夢さん」
「茶菓子持参なら歓迎するわ」
 あの大食らいの亡霊を出迎えるのでは、幾ら菓子と米があっても足りない気がしてならない。気楽に現れて米櫃を空にされてはこちらがたまらないのだ。
 とはいえ、傍で楽しそうに笑う美希を見れば、無碍にするのも気が引ける。
 それに二人は彼女にとっての恩人でもあるのだ。
「心得ておきます。では」
 空の彼方に消える庭師を見送ってから、霊夢はひとつ伸びをする。特にもてなしをしたわけではないが、やはり他人が家に居るのはやや緊張する。そしてそれは彼女も同じなのだろう。隣に目を向けると、美希は小さく息をつきながら背を丸めていた。
「美希、お茶にしましょう」
「あ、でも掃除が……」
「今日はおやすみよ。付き合いなさい」
 神社へ向かう石畳は、妖夢のおかげで暫く掃除の必要がなさそうに思える。今日一日ぐらいはさぼったところで罰は当たらないだろう。
 そしてここ数日分を取り戻すために、今日ぐらいは彼女を自身に付き合わせたい。
「良い天気ね。昼寝日和だわ」
「膝枕でもしましょうか?」
「…………それも捨てがたいわね」
 美希の言葉はからかうようなものだったが、霊夢はやや真剣に悩んでいた。
 縁側で共に寝転ぶのと、彼女に膝枕をしてもらうのは、果たしてどちらがより幸せだろうか。この命題はお茶一杯の間に答えを出さなければいけない。
 どちらも捨てがたく難しい難題に、霊夢は異変のとき以上に真剣に向き合っていた。

fin



[11779] 幻想八葉閑話休題「ハハデハナイアナタヘ」
Name: Grace◆97a33e8a ID:9841838b
Date: 2010/09/10 11:16
 八雲紫の式の式、橙の朝は早い。
「ぅにゃ…………」
 猫が顔を洗うと雨と言うが、橙の場合は日課である。まず起きてすぐに布団を片付け、竈用の薪と水を用意する。それから顔を洗い、身支度を整えて居間へ。
「紫様、藍様、おはようございます」
「おはよう、橙」
「あらおはよう。いつも早いわね」
 この時間、藍と紫は結界の管理などについて打ち合わせをしていることが多い。藍の起床時間は紫の就寝時間でもある為だ。故に此が終わると紫の一日は終わりを告げ、藍の一日が始まる。
「では頂きましょうか、紫様」
「そうね。三人そろったことだし、私もそろそろ眠いわ」
 そして橙の挨拶は食事の合図でもある。
 朝夕の食事はなるべく三人そろって食べる。これは藍が決めた八雲家のルール。
「はーい、お茶碗用意しますっ」
 茶碗と箸を並べるのも橙の仕事。料理の配膳は藍の仕事。今日はなめこの味噌汁と虹鱒の野菜蒸しのようだ。
 家の仕事は基本的に藍の仕事である。炊事洗濯掃除などは全て彼女が行い、橙はそれの手伝いをする。しかし藍曰く『手伝いも大事だが勉学と遊びが子供の本分』らしく、昼間は基本的に何もしない。彼女が行っている朝の仕事は、橙自らかって出たものなのだ。
「それでは、頂きます」
「頂きますっ」
「はい、召し上がれ」
 八雲家に住むようになって、橙は毎日三食きちんと食べるようになった。マヨヒガに居た頃はそれこそ着の身着のままその日暮らしの生活であり、一日何も食べずに過ごすなど珍しくも無かったぐらいである。
 無論それを嗜めたのが藍であることは、言うまでも無い。
「ごちそーさまでしたっ」
 食べ終わると食器を片付け、寺子屋へ行く準備をする。これも発案は藍である。
 世の中の由無しを教えるのは藍にもできる。しかし重要なのは同じものを学ぶ仲間と友好を深め、人間関係を構築し、様々な物の見方を身につけることらしい。無論橙にはまだその意味も重要性も理解できていない。
「橙はこれから学校?」
「はいっ。寺子屋行って勉強してきます!」
「橙、お弁当を忘れないようにな。あと晩御飯までには帰ってくるんだぞ」
 竹製の弁当箱を鞄に詰め、橙はもう一度持ち物を確認する。といっても教本の類は全て寺子屋にあるため、弁当とハンカチ以外は特に必要なものなど無い。
「紫様はそろそろおやすみですか?」
「ええ、もう日も高くなってきたから寝るわ。藍、後のことはよろしく。橙も気をつけてね」
 眠そうな顔をした紫が、スキマから手を伸ばして橙の頭を撫でる。卓袱台の向こうに居る人物に頭を撫でられると言うのはなかなかに不思議な感覚だ。
 八雲紫は正体不明の存在である。日々どのような事をしているのか、何を考えているのか、橙にはさっぱりわからない。ただ一つだけはっきりしているのは、彼女の存在が八雲家にとってもこの幻想郷にとっても大切であるということだけ。
 そしてそんな紫を、橙は藍同様に敬愛していた。
「それではいってまいりますっ」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「しっかり勉強してくるのだぞ」
 二人に見送られ、橙はもう一度深く頭を下げてから家を飛び出す。
 彼女の夢は、いつか八雲の姓をもらうこと。



「…………とまあそういうわけで、母の日という感謝を示す日があるのだ。しかしこれは母だけではないぞ。母親代わりや母のような存在、日々世話になっている人に感謝するのが大切なのだ。解ったかな?」
 元気に答える子供達の声を聞きながら、橙は思い悩んでいた。
(紫様と藍様は……私の何なのだろう……)
 藍は自分の主人である。母のような素振りを見せる事が多いが、根本に流れる関係が主従であることに間違いは無い。そして紫もまた同じく自身の主である。主の主は主も同然。よって八雲紫もまた従属対象である。しかし普段はまるでそのような感覚は無く、むしろ一家の母とその主人のようにしか思えない。
 しかし、紫もまた女性である。
 一種一匹の妖怪を指して女性という単語が当てはまるのかどうかは怪しいところだが、少なくともその外見は女性である。そして母の主人は父であり男性。そうなると紫という存在は何なのだろうか。
 いろいろと悩みぬいた挙句、橙は考えるのをやめる事にした。
「母の日には贈り物が定番だが、大切なのは気持ちでもある。母のような存在が居ないか、もしくはなかなか会えない者は、それに近しい存在を思ってその日を過ごすのも良いかもしれんな。というところで今日はそろそろ解散にしよう。皆気をつけて帰るのだぞ」
 慧音の一言で子供達はそれぞれ席を立ち始める。いつもなら橙はその輪に混じって遊んで帰る所なのだが、今日はそれらをすべて断り、いそいそと市場のほうへ足を向ける。
 理由は単純。贈り物を探すためである。
「んー…………、何がいいんだろう」
 服のあちこちを探って小銭をかき集める。橙は時々手伝いのお駄賃やお使いのおつりを貰うことがある。あまり使い道のないお金故溜まる一方だったのだが、こういう時はありがたい。
 とはいえ所詮は子供の小遣い。寄せ集めてもたいした金額にはならなかった。
「んー………………んむー……」
 何を見ても呻いて首をひねるばかり。どうにもこれというものが思いつかない。
 何しろ橙はプレゼントというものをしたことがなかった。基本的に自分は何かを受け取る側であり、与えられるものなど大して持っていなかったからだ。それ故自分が貰って喜ぶものは思いついても、誰かが貰って喜びそうなものというのはさっぱり思いつかない。加えて橙の小遣いでは買えるものなどたかが知れており、悩みは更に深くなる。
「おや、買い物か?」
 市場をうろうろと彷徨う橙に声をかけてきたのは、竹林に住む藤原妹紅だった。青菜と瓶を担いでいるところを見ると、どうやら彼女は何かの買い出しに来たらしい。
「こ、こんにちはっ。えっとー、実は……そのー……」
 尋ねられて経緯を話すと、妹紅は瓶と青菜を置いて真剣に悩んでくれた。生徒の中には彼女の事を怖いと言う者も居るが、橙はこの藤原妹紅を優しい人物だと理解している。そうでなければこんなくだらない悩みに付き合ってくれるわけがない。
「なるほどな…………。まあ確かに少ない小遣いで何か捻出するのは難しいが……あまり深く考えなくて良いと思うぞ? 慧音も言っていたと思うが、贈り物で大切なのは気持ちだ。その人のために思い悩むことが大事なのだ。その種類については何であっても問題ない。それに、お前の親はそれを解らぬような存在ではなかろう」
 わしわしと頭を撫でられ、思わず目を細める。
 確かに彼女の言うとおり、紫や藍は贈り物の意図をきちんと理解してくれるだろう。邪険にされることもないだろうし、受け入れてくれるに違いない。
 しかし、だからこそ本当に喜ぶものを贈りたいとも思う。
「うーんうーん…………」
「はは、まあ悩む気持ちもわからんでもないな。しかし贈り物は買うだけが全てではないぞ? 何か作ったり集めたりするのも一つの手段だ。精一杯悩んで考えるといい。きっと藍もそれを望んでいるだろうさ」
 ぽんぽんと軽く頭を叩かれ、それから妹紅は軽々と瓶と青菜を担いで立ち去ってゆく。その背中を手を振って見送ってから、橙は改めて市場へと足を向けた。
 本来この手のことは教師である慧音に相談するのが一番のように思える。しかしそれは答えを聞くのと同じに思えてしまい、生真面目な正確の橙はどうしてもその選択をする気になれない。
 さしあたり橙は妹紅の言葉に習って布や千代紙、木材や陶器の店も覗いてみることにした。
 しかしやはりそこに現れるのは技術と金銭の壁。人としての生活がまだ僅かな橙には、裁縫や大工仕事は敷居が高すぎて手に負えない。
 どうしたものかと首を捻る橙に、今度は背中から声がかかる。
「あら、橙じゃないの。どうしたのこんなところで」
「ふぁ、霊夢だっ。こんにちは」
 続けざまの遭遇に何やら驚きを隠せない。尋ねられるままに霊夢に経緯を話すと、彼女は自分と同じように首を捻りつつ、うーんとうなり始めてしまう。
「なるほど……好きなものねえ……。ここの連中はどいつもこいつも酒が好きだから、お酒なんかいいんじゃないかしら? あれなら幾らあっても困らなくない?」
「お酒かぁー」
 確かに幻想郷には酒好きが多く、藍も紫も良く酒を嗜んでいる。あればあったで困るものでもないし、贈り物としては最適かもしれない。
「あれって確か量り売りもしてもらえたと思うから、橙の小遣いでも何とかなるかもしれない。参考にして頂戴」
「うんっ! ありがとう!」
 そうと決まれば善は急げ。お礼を言ってから橙は酒屋を探して駆け出した。小遣いを全部はたいてもたいした量は買えないかも知れないが、藍と紫が仲睦まじくそれを楽しんでもらえるなら悔いは無い。
 しかし、そんな橙に突きつけられたのは、残酷な現実だった。
「ごめんよ、量り売りは瓶を持ってきてくれないと売れないんだ」
 酒屋の前で橙は途方に暮れた。自分の小遣いで買えるのは空き瓶か酒かのどちらかだけ。持っている容器と言えば昼食を食べ終わった後の弁当箱のみ。当然こんなところに酒は入れられない。家に戻れば空き瓶の一つぐらいあるだろうが、それでは贈り物の意図がばれてしまうので意味が無い。
「そうですかあ……。ありがとうございました……」
 名案だと思っていただけに、その衝撃は大きかった。酒屋の店主の一言によって目論見は完全に瓦解し、橙はふりだしどころか遥か後方にまで戻されたような気分になってしまう。
「どーしよー……何にも思いつかない……」
 とぼとぼと里の道を歩きながら途方に暮れる。日は既に傾きはじめており、時間はあまり残されていない。かといってここまでこだわっておいて結果が適当な品では自分が納得行かない。焦ったところで答えは出ず、事態は完全にどん詰まり。
「おわっとと! 危ない!」
「ふにゃっ!?」
 ぼんやりと前を見ずに、しかもふらふらと歩いていたが為に橙は誰かと激突し、尻餅をついてしまう。強か打ったお尻の痛みに目を潤ませていると、そっと差し出される手が一本。
「ごめんなさい、大丈夫?」
「へ、へいき……」
 見上げた先には、竹林の月兎と紅魔館の門番の顔があった。どうやら自分がぶつかったのは門番の方らしい。
「ごめん、ちょっと前を見てなかったから……。怪我はない?」
 向けられる優しい視線とかけられた言葉。そして僅かな痛み。それらがぐるぐると混ざりあって、橙の感情を溢れさせてしまう。
「ふぇ……っ」
 今ここで泣いてしまっては二人を困らせるだけ。それぐらいのことは解っている。だが、その溢れる感情を抑止できるほど、橙は大人ではなかった。
「だいじょ……ぶ…………ぐすっ……」
 潤む視界の向こう側で、美鈴はもう困り顔をしている。そんなつもりはないのにと思っても、涙は勝手に溢れてしまい、嗚咽が止まらない。
 しかし、それも束の間。橙は鈴仙の柔らかい腕に抱きすくめられてしまった。
「わかるよ。痛くて泣いてるんじゃないんだよね?」
「ぁ……ぅ……ふぇ…………っ……」
 泣き叫ばないようにするだけが、橙にできる唯一の抵抗だった。優しく背中を撫でられ、涙をそっと拭われながら、橙は必死でそれだけは堪え続けた。
 自分は八雲紫の式の式なのだ。恥ずかしい真似は出来ないと強く心に言い聞かせながら。
「困った困ったって声がいっぱい響いてくるよ。何があったのか教えてくれる? 出来ることなら協力してあげるから」
 あやすような声に誘われ、橙は今までのことをぽつぽつと話し始める。
 泣くまいと堪えるために言葉はおかしな事になり、それでも混じる嗚咽に聞き取りにくい部分が多数あったに違いない。しかし、二人の優しい妖怪はそんな橙の言葉を真剣に受け止めてくれた。
「なるほど、プレゼントかぁ……」
「私たちで空き瓶を買うお金を出すのは簡単だけど……、それじゃ意味がないし……」
 頭を悩ませる二人の言う通り、ここでお金を出して貰っては意味がない。やはり贈り物は自分で調達してこそ意味があるのだ。働いた報酬として貰うならまだしも、何の理由もなく受け取ったお金では藍も紫も喜ばないように思える。
「やっぱり、諦めて何か買えるものを……」
「……ちょっと待って。橙、お料理は出来る?」
「ふぇ? ちょっとだけなら……」
 日頃から藍の手伝いをしている為、橙は包丁も鍋もそれなりに使うことが出来る。一から自分で夕食を用意できるほどではないが、青菜や豆腐を切ったり目玉焼きを作るぐらいなら経験はあった。
 そんな橙の答えに満足げに頷いた鈴仙は、美鈴も手招きして顔を寄せ合い、ちょっとした内緒話のように声を潜めて話し始める。
「良いこと思いついたの……あのね……」



 夕刻、いつもよりやや遅い時間に橙は帰宅した。玄関先からは既に煮魚の甘い香りが漂っており、夕餉の時間を知らせているように思える。
「ただいまかえりましたー」
「お帰り、橙。今日はちょっと遅かったな」
「あ、あの……。藍様、夕餉の支度はもうお済みでしょうか?」
 後ろ手に荷物を隠し、勝手口から首だけを覗かせておずおずと藍に訪ねる。既にいくつかの料理は大皿に盛りつけられており、飯炊き釜の火は消えている。どうやらタイミングはぴったりだったようだ。
「うむ。もう食事にするところだぞ。どうした?」
「あ、あの、お台所ちょっと貸してください。あと、出来れば藍様は紫様と一緒に寝室でお待ちいただけませんか?」
 ややそわそわとしながら藍に願い出る。プレゼントをする相手に手伝わせては本末転倒であり、鈴仙もここが正念場だと言っていた。祈るような思いで視線を送りながら、橙はもう一度頭を下げる。
「ふむ、解った。だが危ないことをしてはいかんぞ?」
「はいっ! ありがとうございます!」
 答えた後も、橙は勝手口から動こうとしなかった。何しろ背後を見られては目論見がばれたも同然なのである。藍に後ろを取られぬように慎重に身をずらし、壁と鞄と自身の身体で背中の物を必死で隠す。
「では私は寝室にいるから、準備ができたら呼びなさい」
「はーいっ」
 立ち去るその背中が襖の向こうに消えたのを確認してから、橙は飛びつくようにして調理に取りかかった。
「えっと、まずはお湯を沸かして……」
 竈に火を入れ、小鍋に水を張ってお湯を沸かす。その間に鈴仙が作ってくれたメモと弁当箱、それと笹の葉で大切に包まれた油揚げを取り出し、内容を確認する。
 弁当箱の中身は色とりどりの総菜がそれぞれ二口ほど。メモの中身は鈴仙手書きの作り方だ。
 総菜は総菜屋の店主にわけを話して少額で詰めてもらったもの。橙の思惑を聞いた店主はいたく感動し、彼女の持っていた弁当箱をきれいに洗ってそこに詰められるだけの総菜を詰めてくれた。油揚げは豆腐屋の店主がいつも贔屓にして貰っているからとおまけをしてくれたお陰で、これもなかなかに量がある。初めは大した量を作れないと思っていただけに、なかなかにうれしい誤算だった。
「えと……油揚げの油ぬきをして……、それからよく絞って……」
 あとはメモに沿って失敗しないように慎重に作るだけ。ここで失敗したらいくつもの好意が無駄になってしまうため、緊張もひとしおである。
「それから、半分に切って……裏返し……っと」
 橙が作っているのは、油揚げを使った簡単な包み焼きだ。本来は中に詰める五目煮から作るのが基本なのだが、今日はそのような時間も材料を用意する余裕もなかったため、総菜屋に頼った次第である。しかしそのお陰で具材は色とりどりとなり、全てが大当たりとはいかないだろうが、様々な味を楽しめるのは間違いない。
「楊枝で止めて……よし、後は焼くだけ!」
 鉄鍋を程良く熱し、その中に具を詰めた油揚げを並べる。焦げ付かないようにこまめに揺すり、均等に色が着くように時折ひっくり返す。すると次第に鍋の中から得も言われぬ香ばしい香りが漂ってきた。
「おいしそ……。二人とも喜んでくれるかな」
 期待に胸を膨らませながら、綺麗に焼きあがったものから皿に並べてゆく。どれに何が詰まっていたかさっぱりわからなくなってしまったが、特に問題はないだろう。一部焦げた部分もあるが、それもご愛敬というものだ。
「できた! あとは…………」
 火を消して後片付けをし、居間に出来上がった料理を並べる。それから鞄の他に隠し持っていたものを少々整え、添えた千代紙を確認してから深呼吸を一つ。
「すぅー…………はぁ……」
 手のひらにはしっとりと汗をかいており、心臓はばくばくとうるさい。弾幕勝負でも、釣りでも狩りでも、橙はこれほど緊張したことがなかった。
 しかし、今更固まっていても仕方ない。
「藍様ー、紫様ー、もういいですよー」
 声をかけると二人は待ちわびていたかのようにそっと襖を開けてこちらを見つめてきた。その視線にやや圧倒されそうになりながらも、橙は二人にしっかりと向き直る。
「紫様、藍様、いつもお仕事ご苦労様ですっ」
「まあ、花束?」
「なんと綺麗な……。私たちに……プレゼントなのか?」
 こくこくと頷き、二人の手の中へ花束を納める。美しい花は美鈴からの贈り物だった。
 紅魔館の庭には四季折々の花が植えられており、中でも春は一番多くの花が競い合う季節である。美鈴はそれらの花の中から、既に満開になってしまったものや間引く予定のものを見繕って、摘み取ってきてくれたのだ。それを橙が残ったお金で包み紙を買い、切りそろえて花束にしたのである。
「えと、料理も私だけじゃなくて、いろんな人にお手伝いとかお裾分けとかして貰ったから、私が全部じゃないし……あと、藍様も紫様もお母さんじゃないけど、私にとってはお母さんみたいで…………ええと、それで、えっと……」
 言葉にするうちに何をどう伝えたらよいのかわからなくなり、橙は次第にしどろもどろになってゆく。
 そんな彼女を、二人の主は優しく抱きしめてくれた。
「ゆ、紫様? 藍様?」
「ありがとう、橙。一生忘れられないプレゼントだわ」
「私からも、ありがとう。お前のような式を持って、私は三国一の幸せ者だ」
 柔らかく暖かな腕に抱かれながら、橙は初めて嬉し泣きというものを体験した。
 涙は二人の胸に吸い込まれ、拭う暇も無く消えてゆく。ふと気が付けば、藍も幾筋かの涙をこぼしている。
「ぐすっ……え、えと、お料理も作ったので冷めないうちに食べましょう? 私もおなかぺこぺこですっ」



「藍」
「紫様、どうかなさいました?」
 橙も寝静まった夜遅く。紫は囁くような声と共に、そっと襖の向こうから顔を覗かせる。その左手にはやや小さな陶製の瓶が一つ。
「晩酌につきあわない?」
「久しぶりに良いですね。では準備を……」
「あ、藍。今日は杯じゃなくてぐいのみを用意して頂戴」
「はぁ、かしこまりました」
 藍と紫二人での晩酌と言えば、多くの場合は月見酒であり、月を楽しむためにも杯は必須であった。しかし今日はどうやら趣が違うらしい。珍しいこともあるものだと首を傾げながら、藍はぐいのみを二つと残っていた漬け物を持ち出す。
「此でよろしいですか?」
「ええ。じゃあいつものように」
 襖を開けて南側の庭先。いつもの月が見える縁側へと歩み出る。それからいつもの場所へ腰を下ろし、いつものように酒を注ぐ。
 いつもと違ったのは、その酒の中身。
「おや、どぶろくですか」
「ええ、霊夢に貰ったのよ。あの子の中では、私はお母さんの部類に入るみたい」
 くすりと小さく笑いながら、紫は注がれた酒を愛おしそうに見つめる。
 どうやら橙同様霊夢も、誰かから母の日の存在を聞き及んだようだ。
「それではいただきましょうか」
 紫に習ってぐいのみを軽く合わせ、静かに酒を飲み下す。甘みの強いとろりとしたその液体はするすると喉を滑り、胃の中で初めて強い主張をし始める。
「これはなんとも……。危険な味ですね」
「ね。酔わせてどうするつもりなのかしら……」
 くすくすと笑うその表情は、随分と嬉しそうだった。
 紫にとって霊夢とはどのようなものなのか、藍には伺い知ることが出来ない。ただひとつはっきりしているのは、彼女にとって橙も霊夢も、ただの知り合いや居候のような遠い存在ではないということなのだろう。
「藍、私は果報者ね」
「今更お気づきになったのですか?」
 呟く言葉に藍はやや呆れてしまう。
 優しい二人の娘にこれほどまでに愛されておいて、果報者でなかったら何だというのか。
 尤も、それに無頓着な辺りが紫の紫たる所以なのかもしれないのだが。
「たまにはどぶろくも悪くないわね。今日は少し酔ってしまいそうだわ」
「あまり飲み過ぎると、二人の娘に笑われてしまいますよ?」
 けらりと笑い合い、二人はもう一度どぶろくを飲み干す。
「しかし、何故どぶろくなのですかね。霊夢なら清酒を持ってくると思ったのですが」
「なんでも、娘の顔を立てたらしいわよ?」
 可笑しそうに顔を歪ませるその表情と言葉の意図は、藍にはよくわからない。ただ、彼女がいつになく幸せそうで、子の酒がいつもより格別に美味しく思えているのは間違いない。
「藍、もう一度乾杯しましょう」
「何度でも、喜んで」
 端午の節句も間近な、暖かい春の夜。二人は静かにぐいのみをあわせる。
 淡く輝く月の元で噛みしめた幸せは、酒よりも甘く、漬け物よりも塩辛かった。
「ところで、紫様」
「なぁに?」
「母の日が本来はもう少し先だと言うことを、何時打ち明けましょうか……」
「…………慧音が良いフォローをしてくれることを期待しましょ」



 後日、本当の母の日の日付を聞いた橙は半泣きの表情で食卓に現れ、小遣いをすっかり使ってしまったので何もできないと打ち明けた。
 その日の八雲家でどのような出来事があり、三人がどんな表情をしていたかは、また別の話。

終幕



[11779] 瞬彩
Name: Grace◆97a33e8a ID:9841838b
Date: 2010/10/16 01:58
 冬が終わり春が訪れ、桜も終わりかけたころ。幻想郷は宝船と寺の話題で持ちきりになっていた。
「永遠の命を生きる住職、聖白蓮ねえ……」
 天狗が押し付けるように置いていった新聞。その中身をぼんやりと眺めながら、紅魔館の門番紅美鈴は物思いに耽る。
 空は箒で散らしたような雲がかかり、その淡い青空を小鳥が滑る様に飛んでゆく。絵に描いたような春の光景は平和そのもので、眺めているだけで眠くなりそうなほど。
「永遠に生きるかぁ……」
 乱雑に畳んだ新聞を放り投げるように置き、柔らかい下草の上に寝そべって空を見上げる。二羽の小鳥がじゃれあうように飛んでゆく様を見つめながら、美鈴は永遠という言葉を繰り返していた。
 この世界には永遠に生き続けるものが多い。代表的な存在は蓬莱人である三人だが、それ以外にも永遠の命に近い存在は幾らでも居る。
 たとえば図書館の主であるパチュリー・ノーレッジやアリス・マーガトロイドに代表される魔法使いは永遠に歳をとらず、飲食も睡眠もほとんど必要としない。自身の主である吸血鬼も弱点こそ多いものの、基本的には不老不死だ。不死かと言うとやや首を傾げる所だが、白玉楼の主も永遠に変わらぬ存在だし、概ねの妖怪は人間から見れば途方もない年月を生き続ける為、不死の如く思われる事も多い。特に一族を持たぬ美鈴のような妖怪ははっきりした寿命が存在せず、本人が生きることを止めでもしない限りは命を刻み続けるものが殆どだ。
 しかしその一方で厳然たる寿命を持つ者も存在する。そしてそれは人間に限ったことではない。
「有限と永遠か……」
 見上げた空は刻一刻と変化し、その様は有限を現しているように見えなくもない。
 しかしその向こう側。今は見えぬ月の都では、命は無限のものなのだという。
 そしてその月から、鈴仙はやってきた。
「あの月に居たら……鈴仙も永遠なのかな………………」
 美鈴は月へ行っていない。月侵略に同伴した咲夜や魔理沙からその話を聞いた程度の知識しかない。故にそれが本当のことであるかどうかは判断のしようがない。
 だが、彼女達は総じてこう言っていた。

『月には死が存在しない』

と。
 事の真意を確かめるのは簡単だ。もともと月に居た鈴仙に聞くのが一番手っ取り早い。それは解っている。
 だが、美鈴にはそれができなかった。
 月が鈴仙にとってあまり良い思い出の場所ではないというのもある。
 しかしそれ以上に美鈴は怖かったのだ。その真意を確かめてしまうことが。
「どっちが幸せなのかな……」
 問いかけは誰に向けられたものなのか。それを自身に問いながら美鈴は静かに眼を閉じた。
 瞼の向こうから差し込む陽光は鋭く、いつもの様な安寧を許してはくれない。
 それはまるで、己の心を責めるかの様で……。


『瞬彩』


「永遠とは何か…………ですか」
 尋ねられた彼女は少しだけ眉をしかめながら呟く様に答えた。
 いや、それは彼女の内へと向けられた呟きだったのかもしれない。
 思い悩むよりは行動に移すのが信条の紅美鈴は、里のはずれにある命蓮寺を尋ねていた。人間を捨てて永遠の存在になった彼女なら、まして寺の住職であるならば、自身の疑問を即座に晴らしてくれると考えたからだ。
「難しい質問ですね。何故そのような疑問を?」
「あー………………ええとー…………」
 髪同様柔らかい表情をたたえた彼女は、言いにくいならと優しげな言葉をかける。しかし美鈴はそれに首を振って答え、己の中で言葉を整理していった。
「私の大切な人が、本来なら永遠の命を得られるはずなのにそれを捨てようとしているんです。その命が得られる場所は彼女にとってあまり善い場所ではないのですが……生きてるだけで丸儲けって言葉もありますし……ええと…………」
 迷いが言葉に浮かぶ。己の中で形にならぬ不安や疑問が舌の滑りを妨げる。加えてこの語彙の少なさ。美鈴は己の無学を恨み、伝えることの出来ぬ何かに苛立ち、それでも懸命に言葉を組み立てていった。
 わけのわからない身振り手振りを交えながら。
「私は長く生きられるならそのほうがいいと思いますし、幸せはその分多く味わえると思うんです。でも、それって本当に幸せなのか。そもそも永遠に生きるってどういうことなのか。あと、どうしたらそんな命を得られるのかとか…………」
 命蓮寺の尼僧、聖白蓮は黙って頷きながらこちらの話に耳を傾けていた。決して目をあわせず、しかしこちらを見ぬわけではなく、真摯に受け止めながら。
 その様はまるで、視線の代わりに心を合わせているかのようだった。
「考えても答えは出なくて。でも、なんていうかすごく不安で…………それで、つい押しかけてしまいました。ご迷惑でしたよね……?」
「いいえ。寺の門は何人でも受け入れます。人妖も時間も問いません。そして迷える者の来訪を私はいつでも歓迎しますよ」
 聖女の如き微笑に、美鈴の心は聊か救われたような気がした。
 本来ならこの疑問は永遠の命にも月にも明るく、聡明かつ見識広い八意永琳に尋ねるべきものだろう。
 だがその場には必ず鈴仙が居る。己の疑問を聞かせたくない相手が。だから美鈴はその目を欺くように、隠れるようにしてこの命蓮寺を訪れたのだ。
「ありがとうございます……。本当なら本人同士で解決しなきゃいけないことなんでしょうけど……」
 鈴仙に黙ってこんなことを尋ねている。その後ろめたさが良心をちくちくと突付き続ける。しかしこの尼僧はそれすらも受け止め、受け入れてくれた。
「それが出来ることと出来ぬことがある。故に相談という言葉があるのですよ。時に美鈴さん、生きるとはどういうことだと思いますか?」
「生きる…………ですか? ええと……心臓が動いて、息をしてて……」
「それでは、心臓や肺がない妖怪は生きていないということになりますよ?」
 白く飾り気の無い茶碗に注がれた煎茶を勧めながら、白蓮は淡く笑う。確かに彼女の言うとおり、自分の説明では生きるということの意味につながらない。思いついた言葉を否定され、美鈴は勧められた茶を飲むのも忘れて腕を組みながら考えた。
「ええと…………自分で動いて……ああいや、動かない妖怪も居るか。じゃあ物を見て……話して……も、違う…………うーん…………」
「答えはいくつもありますが、そのひとつは己が在るということですよ」
「己が……在る……?」
「はい。自分が自分であると認識する。それが一つの答えです」
 半ば頷き半ば首を傾げる美鈴に、白蓮はそれで良いと言う。飲み込めそうで飲み込めない、しかしどこか納得の行く言葉に美鈴は思わず眉を寄せていた。
 自分が自分であること。自分を知ることの大事さは昔誰かから教わったような気がする。しかしそれが誰だったのかはまるで思い出せず、その意味も解らぬままに放置していた。故に今同じ質問を投げかけられていること。そしてその言葉が己の疑問に繋がることに驚きを禁じ得ない。
「私は、永遠の命を手に入れた事を半ば喜び、半ば後悔しています」
「貴女もですか……?」
「はい。喜びは貴女の様に悩む者をより多く救えること。そして後悔は有限であることを捨て去ってしまった……いえ、命の尊さから逃げてしまったことと言うべきでしょうか」
 答えた彼女はとても悲しそうな瞳をしていた。まるで得た喜びでは釣り合わないとでも言わんばかりに。
 そしてその表情は、あの蓬莱人達が見せる悲しみにとてもよく似ていた。
「永遠を得た人は、みんなそんな顔をしますね……。人間はみんな永遠に生きる事を望んでいたりするのに」
「恐らくは隣の芝は青いと言うことだと思います。そして命に限りがあるからこそ、先程の生きると言うことに必死になるのです。命を永らえるのではなく、己を己であると認識することに」
 彼女の言う言葉の意味は解る。しかし美鈴にはその意味を飲み込むことが出来なかった。命は長く続いた方が良い。死による別れなどない方が良い。愛する者と永遠に生き続けることが出来るとしたら、これ以上幸せなことはないのではないか。どうしてもそんな想いが頭から離れなかったからだ。
「でも、長く生きればそれだけ自分や幸せについて考えることも出来るでしょうし、今の白蓮さんのように新たな幸せを見つけることも出来るはず……。短い生のが良い事なんて……」
「では美鈴さん、今貴女は手元にあるお金を大切にしようと思いますか?」
「えっ? そ、そりゃもちろん……」
 突然の問いかけに美鈴はやや驚き、懐を確かめてから大きく頷いた。
 今美鈴の財布にはもらったばかりの給金の内の、三分の一程度が入っている。早々使うあてのない金とはいえそれなりに大金だ。気の向くままに散財するわけにはいかない。
「では、その倍のお金が突然手に入ったらどうでしょう」
「う、うーん……少しは無駄遣いするかな? プレゼントとか送りたい人もいるし……」
「ではその十倍ならどうでしょう」
「十倍!? 半分ぐらいはぱーっと使っちゃうかもですね……」
「では、いくらでも湯水のように金を引き出せる財布があったとしたら、貴女は手元のお金を大切にしたいと思いますか?」
「え、えーと……実感わかないけど……そんなに大事にしないんじゃないかな……?」
「時間や命も、それと同じ事ですよ」
「……あっ!」
 彼女の言葉で美鈴は何やら心の靄が晴れたような気がした。過ごす時間に限りがあるからこそ大事にする。有限であるからこその大切さを実感できる。だからこそ幸せなのだと言うことなのだろう。
 そしてその実感を失ってしまったから、永遠に生きる者は悲しい表情をするのだろう。
「とは言っても、人の幸せは千差万別です。夢のためにはどうしても長く生きなければならない者。行く末を案じるが故に永遠を選んだ者。生を繰り返すことが己の使命となる者……。それらが一様に有限であるより不幸だとは誰にも言えないのです」
 今度の言葉は美鈴にも容易に理解できた。大切な者がそれぞれにあるように、生活の様式が違うように、何が大事で何が幸せかは人それぞれに違いない。有限と永遠もその中の一つに過ぎないのだ。
「仏の道を目指す者に、柵を捨て無所得であることを絶対条件とする者も居ます。しかし私はそれすらも道の一つでしかないと思うのです。大切なのは道を探し、より良くしようと努力する事。ですから、美鈴さんがこうして悩んでいることはとても素晴らしいことなのですよ」
 彼女の言葉で、美鈴はようやく目の鱗が落ちたような気がした。
 自分は問の答えが欲しかったのではない。どれだけ素晴らしい言葉だろうと、丸飲みになど出来るはずもない。
 美鈴は認めて欲しかったのだ。思い悩む自分を。
「ありがとうございます。何となくですけど、答えが見つかったような気がします」
 こちらの悩みが晴れたことが解ったのだろうか。白蓮は満足げに微笑み、頷いてみせる。
 美鈴は彼女が何故寂しげに微笑んだのか。そして何故こうして里に受け入れられているのか。その理由が少しだけ解ったような気がした。
「道に迷われたらいつでもお訪ねください。私でよろしければ、お手伝いさせていただきます」
 彼女の言葉に何度も礼を言い、深く頭を下げて美鈴は寺を後にする。未だ悩みが消えたわけではないにせよ、己の中での答えは半ば見つかっているようなもので気分も良い。やはり行動に移して正解だったと軽い自画自賛をしたくなってしまうほどに。
 寺の門をくぐり、美鈴は澄んだ空を見上げる。柔らかい雲と抜けるような青空は、先程まで自身と向き合ってくれていたあの尼僧の表情のように清々しかった。



 遠くで何かの鳥の声が聞こえる、のどかな昼過ぎ。美希はのんびりと茶を啜りながら、向けられた問いに考えを巡らせていた。
「ごめん、気分悪くした?」
「あっ、いえいえ。ただちょっと意外だっただけです」
 申し訳なさそうに眉を寄せる美鈴に笑いかけ、それからもう一度空を見上げる。
 久しぶりに訪れた里の町並みを楽しんでいた美希は美鈴に声をかけられ、半ば引きずられるようにこの茶屋を訪れた。そして今、彼女から訪ねられた問いの答えを探すべく、思いめぐらせていた次第である。
「意外?」
「ええ。霊夢さんは美鈴さん達ほど悩みの無さそうで幸せな人は居ないって言ってましたから」
 実際には霊夢の言葉はもう少し嫌みと棘が入り交じっていた。しかしそれをそのまま伝えられるほど、美希の神経は図太くない。
 そしてその霊夢は今、夏と秋の神事について里長達と会談中である。
「あはは……。まあ鈴仙とは何の問題もないよ。これは私が勝手に悩んでることだから」
 軽く笑ってはいるものの、彼女の悩みはそれなりに深いものなのだろう。でなければこうして相談を持ちかけられることも無いだろうし、自分より頼りになりそうな人物は幾らでも居るはずだ。
「そうですか……。それで、私の答えですが……。私は既に有限を選んでいるんですよ」
「既に……?」
「実は、紫さんに捕まってるときに言われたんです。向こうの世界の方が幸せの可能性も多く、より長く平穏な人生を送れるって」
 それは紫からも、そしてそれよりも前に霊夢からも聞いていることだった。
 外の世界は、今平均寿命が八十を超えた辺りらしい。対してこの幻想郷の平均寿命は五十程度。良くて六十過ぎが関の山だという。また、如何に秩序が守られているとは言え、人間にとって危険な妖怪が山ほど居るのは間違いなく、そういった意味でも外の世界のが長生きできるという。
「それは、霊夢の為にこの世界に残ることを選んだの?」
「私はそんな出来た人間じゃないです。ここに残ったのは、単なる私の我が儘ですよ」
 そう、それはただの我が儘だった。
 空も飛べず霊力も無く、炊事も満足にこなせない美希は正に穀潰しと呼ぶに相応しい。そんな彼女を手元に置いて霊夢に利があるわけが無く、美希でなければ与えられない幸せなど高が知れている。霊夢が幸せである条件は、自分でなくてもかまわないはずなのだ。
 それを解っていて、美希はあえてここに残ることを選んだ。
「紫さんの言うとおり、外の世界の方が幸せだったかもしれません。何年かして素敵な人と出会って、結婚して子供が出来て、何不自由無い生活をしてたのかもしれません。でも、それは今私が味わっている幸せとは全くの別物で、この幸せを捨てなければ得られないんですよね」
「じゃあ、霊夢が一緒に外の世界に行けるとしたら?」
「……それでも、私はここに残ったと思います。私を霊夢さんと引き合わせてくれた幻想郷は、霊夢さんと同じぐらい大事です。それに、美鈴さんや鈴仙さんも大切なお友達ですから」
 今の小さな幸せを大事にして、未来の大きな幸せを手放す。それは端から見れば随分と愚かしい行為に映るののかもしれない。だが、美希はそれに微塵の後悔も感じていなかった。
 なぜなら彼女にとって、その小さな幸せこそがかけがえのないものなのだから。
「美希……」
「とんでもない我が儘になりますけど、私にとっては出会った方の全てが大切なんです。だから一人だって失いたくない。ずっとずっと皆一緒に笑っていたいんです」
 そこまで言ったところで、美希は美鈴の腕に抱きすくめられていた。頬に伝わる彼女の体温と、髪を撫でる優しい手つき。それらもまた、美希にとってはかけがえのないものだった。
「なんで人の家の娘を誑かしてるのかしら?」
「いてっ!」
 耳慣れた声と乾いた音。そして美鈴の悲鳴に近い言葉。何事かと身を離して視線を巡らせれば、そこには真に大切な人物が一人。
 御幣を手に仁王立ちをする彼女の表情はやや険しい。
「白昼堂々浮気なんて良い度胸じゃない」
「浮気だなんて人聞きの悪い。これはちょっとしたスキンシップですよ。ねぇ、美希?」
 突然求められた同意に慌てて頷き、それから霊夢にお帰りなさいと伝える。彼女の表情は憮然としたままだったが、どうやらそれほど怒っているわけでは無さそうだ。
「それにしても人の家の娘だなんて、霊夢も言うようになったね。美希は私のものせんげ……ぇぶっ!?」
 止せばいいのに余計な一言が被害を広げる。美希が止めようとしたときには、既に美鈴の顔に陰陽玉がめり込んでいた。
「美希、ここの支払いは心優しい門番さんが持ってくれるそうよ。今の内に食べたいものを好きなだけ注文すると良いわ」
 制止の声をかける間もなく、霊夢は汁粉とお茶を注文している。とはいえこれは在る意味自業自得。美希はフォローの言葉も見つからぬままに苦笑いを浮かべ、霊夢が座れるようにと軽く腰をずらした。
「あてて……。奢るのはかまわないけど、代わりに霊夢も質問に答えてよ」
「なによ? 長ったらしいのは止めてよね。あと痴話喧嘩もお断り」
 運ばれた茶を啜りながらまくし立てる霊夢は、流石と言うべきか酷と言うべきか。しかし美鈴はそんな言葉をまるで気にせずに疑問を投げかける。
「長くもなけりゃ痴話喧嘩でもないよ。霊夢にとって永遠って何さ」
 質問と共に投げ返された陰陽玉を袖口に納め、霊夢はいつもの涼しい顔で茶を啜ってから答える。
「嘘。まやかし。幻想そのもの。無意味な憧れ。存在しないものを表す言葉。もう少し続ける?」
「またばっさり行くね……。でも事実永遠に生きる存在は幾らでも居るじゃない。言葉が噛み合ってなくない?」
 美鈴の疑問は当然だった。この世界には永遠を約束された者が数多く存在するし、霊夢がそれを知らぬはずがない。故に彼女の言葉は矛盾に満ちているようにしか聞こえず、一部の者の存在を根底から否定しているようにしか思えない。
「じゃあ逆に聞くけど、百年後に輝夜や永琳や妹紅が存在してるって言う保証はある?」
「えっ……そりゃ蓬莱の存在だし、生きてるんじゃ……」
「解らないわよ? 薬の効果は本当に永遠? もし永遠だとしても、何年かしたら永琳が薬の効果を消す薬を作るかもしれない。月の使者がやってきて薬もろとも消し去っちゃうかもしれない」
「むむむ………………」
「じゃあもう一つ。千年先もこの幻想郷が存在してるかしら? もしなくなっていたら、永遠に死なないなんて言う非常識な存在は本当に外の世界でもそのままで居られる? もしかしたらその効果は幻想郷の中だけかもしれないじゃない?」
「そ、そこまでいったらもう屁理屈だ!」
「そうね。でもそういう可能性を否定する根拠もないわ」
 あまりにもさらりとした物言いに場が静まり返る。しかし霊夢の言うことは間違いではない。一寸先すら解らぬのが未来なのだ。途方もない時間が経過すればどのような可能性も否定できるはずがない。
「永遠なんてものは約束された未来を盲信する愚か者の言葉よ。寿命が在ろうが無かろうが、不死だろうが幽霊だろうが吸血鬼だろうが関係ない。今日を生きる者にしか明日は訪れないし、明日の約束を得るには今日を精一杯生き抜くしかないのよ」
 霊夢の言葉に、美希の心が微かに痛む。
 自分は、外の世界で精一杯生きてきたのだろうか。
 身にかかる不幸は、己の努力の足りなさを表しているのではないだろうか。
 死にとりつかれていたが故に、自分は明日を失っていたのではないだろうか。
 ぐるぐると巡る思考が真綿のように己の心を締め上げる。
 だがそんな痛みの奥底で、生きるという事の辛さの裏側で、美希は今こうして生きていられる喜びを確かに感じていた。
「永遠の命を手に入れたが故に生きる意味を失った者。刻む時を恐れるが故に己の時を止めてしまった者。死を恐れるが故に終わり無き苦しみに苛まれる者。そんな連中は本当に生きていると言えるのかしら。死よりも暗い絶望の淵に立つ者を生者と言っていいのかしらね」
「そんな不幸ばかりじゃ……」
「そうね。でも永遠ってのはそんなものよ。日々の変化を楽しめるからこそ生きる価値があると思うし、不変の日々なんてつまらなくて生きた心地がしないもの」
「それなら…………私にも何となく解ります」
 余計な口を挟んだのだろうか。小さく発した言葉に、二人の視線が集まる。しかし慌てて口を噤もうとする美希に霊夢は小さく頷き、美鈴もまた期待の眼差しを向けた。二人の視線に急かされた美希は、大したことではないのだがと前置きをしてからおずおずと口を開きはじめる。
「……最近はずいぶん暖かくなって、毎日のご飯にも緑のものが並ぶようになりました。桜は散ってしまったけど、代わりに綺麗な若葉が目立つようになって、季節の変化を教えてくれます。昨日と少しづつ違う今日の景色とか、においとか気温とか…………そういう変化って大事で素敵だと思うんです。春は過ごしやすくて気持ち良いですけど、それがずっと続いたらありがたみなんかなくなっちゃって…………霊夢さんが言いたい事ってそういうことですよね?」
 言葉の代わりに満足げに頷く霊夢に、美希はほっと胸を撫で下ろす。
 美希が語った変化は、全てこの幻想郷で感じたものだった。
 外の世界には季節を感じるものが少ない。コンビニで買うパンやおにぎりに旬を求めるのは筋違いだし、エアコンの効いた室内に居れば冬の寒さも夏の暑さも関係ない。街路に植えられた木々は冬でも青い葉をつけているし、日が暮れても街は明るいままで一日の終わりすらはっきりしない。
 何より美希には、季節の変化や昨日と今日の違いなどに目を向ける余裕がなかった。
「日が暮れて、朝が来て。季節が巡って一年が過ぎて。昨日より今日はちょっとだけ暖かくて、そのうちに明日はもうちょっと寒くなるなんて日が来て、来年の今頃は同じような季節だけど少しだけ違ってて……私、この幻想郷に来て改めてそういうことの大事さを感じたんです。それから、世界はすごく綺麗なんだなって……」
 手にしていた緑茶は温かく、しかし先程より少しだけ冷たい。手を伸ばした食べかけの団子は後二口でなくなる。一日に目を向けずとも変化はあちこちに存在し、不変のものなど存在しないと雄弁に語っているように思える。
 そしてその変化を感じることもまた、生きているという意味に繋がるのだとも。
「そっか、世界が綺麗か……」
 呟きながら空を見上げた美鈴は、先程よりもずいぶんと清々しい顔つきをしていた。
 今彼女が見上げている、透き通った青空のような笑顔を。
「過ぎたるは及ばざるが如しって言うでしょ。人生も一緒よ。長けりゃ良いってもんじゃないの。意味のある生き方を出来たか、悔いのない生涯を送れたか。それ以上に大事な事なんて無いのよ」
「そっか。なるほどね……。二人ともありがとう。お茶を奢った甲斐があったよ」
 立ち上がって深々と頭を下げた美鈴は、支払いを済ませて足早に立ち去ってゆく。買い物でも頼まれているのだろうか、市の方へと向かう彼女の背中はあっと言う間に見えなくなってしまっていた。
「せかせかしてるわね。あんなんじゃ長生きできないわよ」
「でも、美鈴さんどうしてあんなこと聞いたんでしょう……」
「アレで結構な苦労性なのよ。恐らく自分のせいで鈴仙に辛い選択を迫ってるんじゃないかとか、そんなのを考えたんじゃない?」
 茶を啜りながら、霊夢はぽつぽつと月と鈴仙の関係や玉兎と呼ばれる存在について語り始めた。彼女の言葉には人づてに聞いたらしい部分や、曖昧にしか理解していない部分も垣間見えたが、概ねの内容は理解できる。
 そして、何故美鈴が悩んでいたのか、その理由も。
「…………なんとなく、美鈴さんの気持ちも解ります」
「そうね。でも私は同情も同意もしないわよ。答えは自分で見つけるものだし、それ以上の最適解なんて存在しない。そうでしょ?」
 不意に向けられた視線に、美希は小さく頷いて答える。
 遠く彼方で鳴く、笛の音のような鳥の声に耳を傾けながら。



「ただいま帰りましたー」
「遅かったわね」
 正門で出迎えてくれたのは、買い物の間門番を頼んだ妖精ではなく咲夜だった。
 美鈴は今日は休みを取っているわけではない。何やら悩んでいる様子を咲夜に悟られ、里で買い物をしてこいと命じられたのだ。しかし帰宅は夕方で良かったはず。遅いどころか予定よりずいぶん早い帰りのはずなのだが。
「何かありました?」
「貴女にお客様よ」
 咲夜の言葉に美鈴は当然のように思い人の来訪を想像し、やや心躍らせて咲夜が指し示す方を見た。
 しかしそこにあったのは白い長耳でも若紫の髪でもなく、黒い帽子と緩く波打つ金髪。
「よぅ……っておい、何でそんな残念そうな顔してるんだよ」
「言わなきゃわかんない?」
「解ってるけど、ちょっと面白くないぜ」
 不服そうに口をとがらせた彼女は、愛用の箒と帽子を直しながらこちらへと向き直る。
 しかし面白くないのは美鈴も同じ。第一いつも無理矢理に押し通ってゆく魔理沙がわざわざ門の前で待っているなど、嫌な予感がしてならない。
「門を破る前に門番を叩きのめさないと気が済まないんですって。悪いけど美鈴、相手をしてあげて頂戴」
「何ですかその理屈! しかも私が倒されるの前提!?」
「だってお前、一度だって私とサシの勝負で勝ったこと無いじゃないか」
 魔理沙の言葉に、美鈴は何も言い返せなかった。
 霧雨魔理沙は人間にしては相当強い。しかもスペルカードバトルともなれば、その強さは神をも凌駕するらしい。そんな彼女に勝利できたのは、鈴仙と協力して門番に当たっていた数度だけ。それ以外は悉く敗北し、館への侵入を許してしまっている。これは門番としては情けないことこの上ない戦歴だ。
「ちなみにこの勝負に魔法書十冊の返還がかかっているの。負けたら大変よ、美鈴」
「ちょっ! なんでそんな賭事まで勝手に決まってるんですか!」
 勝手に決闘を受けられたばかりか、チップのベットまで終わっているらしい。しかも魔理沙が何の交換条件も無しに賭事に乗るわけがない。恐らく負ければ魔法書十冊の持ち出しか、夕食の招待でもレイズされているに違いない。
「だって貴女居なかったじゃない」
「そうだぜ。居ない方が悪い」
「そんなの横暴だー!」
 無意味と知りつつも声を上げずには居られない。
 そう、この冷酷上司と横暴魔女には何を言っても無駄なのだ。
「わかったよやりますよ。やればいいんでしょ! そのかわり覚悟してよ? 今日の紅美鈴はちょっと違うんだから!」
 手にしていた荷物を咲夜に渡し、裾を直して構えを取る。一方の魔理沙は嬉しそうに箒に跨り、伝家の宝刀とも言うべき八卦炉に早速魔力を込め始めている。
「開始の合図は私が切るわ。二人とも文句無いわね?」
 咲夜の言葉に美鈴と魔理沙はほぼ同時に頷いた。



 勝負の結果は、いつも通り門番の惨敗に終わった。魔法書の返還は成されず、それどころか紅茶一缶と焼きたてのスコーン。それにロゼワインまで一本接収される始末。
「やっぱりお前は弾幕勝負弱いなあ」
「魔理沙が強すぎるんだよ……。あ、いてててて……咲夜さん、もちょっと優しくお願いします」
「ぜいたく言わない。手当してもらってるだけありがたく思いなさい」
 消毒液を染み込ませた脱脂綿を、彼女の抗議を無視して頬の傷に押し当てる。擦り傷に消毒液は凍みて当たり前なのだが、心を鬼にしてもう一押し。
 表の理由は、女性の顔に傷跡を残したくないというもの。
 裏の理由は、しけた顔をして門番をしていた彼女の悩みに対する当てつけ。
「まーでも、元気そうで良かったぜ。お前の難しい顔なんて、似合わなすぎて気持ち悪いもんな」
 あっさり負けた美鈴をケラケラと笑いながら、魔理沙は椅子の背もたれを抱えるようにして座る。傍らに置かれたテーブルには彼女のために供されたケーキが一つと紅茶が一杯。
「失礼だなあ……。って、そんなに難しい顔してた?」
「妖精達がうるさいのよ。貴女の様子がおかしいってね」
 自分は気が付いてないという素振りで言って見せたが、美鈴の変調にいち早く気が付いたのは他ならぬ咲夜だった。
 そして今回の弾幕勝負をお膳立てしたのもまた咲夜なのだ。
 紅美鈴は概ね笑顔を絶やさない。さぼって昼寝をしているときですらしまりのない笑顔をしていることが多いぐらいで、彼女が悩んで考え事をする内容と言えば、たとえば夕食の献立であるとか、入った給金の使い道であるとか、花壇に植える花の選定であるとか、その程度のことばかりなのだ。故に一日どころか半刻もすればけろりとしているのが普通だった。
 ところが、今回ばかりは様子が違っていた。
 普段は見ようともしない新聞を折り畳んで持ち歩き、暇さえあればそれを眺めてため息を吐く毎日。一時などは夕食のおかわりさえしなかったほどで、これにはメイド妖精達も心配して口々に声をかけていた。
 普段より居眠りが少ない為、真面目に職務をこなしているという意味では良い傾向に思える。しかし代償となる影響が大きすぎては笑っても居られない。そこで咲夜は美鈴を気分転換にと買い物に行かせ、ついでの一手にとたまたま訪問してきた魔理沙を利用したのである。
「何やらご心配をおかけしたようで。申し訳ないです」
「別に良いわよ。頼まれたわけでもないもの」
「それより何で悩んでたんだよ。心配かけといてくだらない内容だったら承知しないぜ?」
 魔理沙の言葉に軽く頷き、視線を美鈴へと向ける。すると彼女はばつが悪そうに視線を逸らし、それから小さな声で話し始めた。
「あー……私にとってはそれなりに大きな悩みだったんだけど、どうにも他の人には……」
「別にそれほど期待してるわけじゃないわよ。言いたくなけりゃ言わなくてもかまわないし」
「えーとじゃあ……魔理沙は魔女になろうとしてるんだよね? どうして?」
 話題を変えたのかそれが悩みの正体なのか。美鈴はやにわに魔理沙へと、聞かなくても解りそうな無粋な質問を投げかける。しかし魔理沙は慌てる様子も見せず、むしろ何かを悟ったような顔で口を開く。
「いくつか理由はあるぜ。でもまあ一番の理由はアレだな。時間が足りなすぎるんだよ」
 それはややもすれば意外な返答だった。咲夜はてっきり相方とも言うべき魔女の為か、もしくはそれを恥じて照れ隠しの言葉のどちらかが返ってくるのだと思っていた。
 しかし魔理沙の表情に恥じらいはなく、むしろ真面目で至極当然とも言うべき顔をしている。
「ここの大図書館を見れば想像つくだろうけどさ、魔法研究ってのはとんでもなく長い時間とたくさんの知識が必要なんだよ。五十年なんかじゃ絶対足りないし、百年かかっても終わるもんじゃない。つまり人間のままどれだけ長生きしたって無理って事なのさ」
 それは昔パチュリー・ノーレッジにも聞いたことがある話だった。膨大な書物を読み込むだけでも途方もない時間を要し、実際の研究ともなれば五年十年かかるのが当たり前。下手をすると準備だけで人の寿命が終わってしまいそうな魔術研究もあるらしい。
「でも魔理沙はもういくつも魔法を使えるじゃない?」
「あれはいろいろ道具や触媒を使ってるからで、まあ言って見りゃ裏技なんだよ」
 本人の言うとおり、魔理沙の魔法は魔導具や触媒に頼っているところが大きい。箒に乗るのもそこに込めた魔力を利用しているからだし、彼女の装束にもそれなりの理由と効果が存在する。対してパチュリーはそれらの導具を必要とせず、ともすれば指先の動きや視線だけで不思議な力を振るうことが出来る。つまり如何に弾幕勝負に強くとも、魔法使いとしては彼女はまだまだ未熟ということなのだろう。
 尤も、パチュリーに言わせれば生粋の魔法使いと呼べる存在は自分ぐらいのものらしいのだが。
「大事な決断だからさ、他人のせいにしたくないんだ。私は私の意志で人間から魔法使いになる。他の誰でもなく、自分の為に。だから迷いも後悔も……無くはないけどしないことにしてるんだぜ」
 最後の言葉は、正に彼女らしい一言だった。
 この幻想郷では、心の強さ、意志の力が強さに繋がる。彼女が神をも凌駕するほどの力を身につけているその理由は、この芯の強さにあるのかもしれない。
「うーん……じゃあ咲夜さんはどうですか? 今後悔したり悩んだりしてません?」
「本当に貴女は遠慮を知らないのね」
 彼女の言葉に半ば呆れつつため息を吐き、それから自分の中で答えを探す。
 いや、問の答えは既に見つかっている。ただ己の感じている漠然としたものを言葉にするのが難しいだけのこと。
 それ故に咲夜は悩み、そして自身の沈黙の理由を悟ったかのように魔理沙も美鈴も黙って耳を傾けていた。
「そうね…………後悔も無くはないけど………………価値観と視点が変わった事の方が大きいかしら」
 長くたっぷり悩んでから、咲夜はようやく一つの言葉を紡ぎ出す。
 それで全てを説明できるわけではなく、ふさわしいとまでは言えず、それでも概ね的を得たであろう言葉を。
「人間だった頃の私は、ずいぶんと生き急いでいた気がするわ。限られた時間の中でどれだけの恩を返せるか、どれだけ報えるか、そのために自分を磨き続けてきたの」
 限られた時間を有効に使うべく、またほんの少しでも主人に報いるべく、咲夜はありとあらゆる手段を尽くし、己の持つ能力を最大限に使った。時には従順な犬となり、時には三歩下がって影を踏まぬ弟子となり、時には主の髪の先から足の爪までも磨き上げる捨て布となって文字通りその身を捧げようとした。
「私にはいくつもの返しきれない恩があった。身を挺して私を守り、居場所を与えてくれたお嬢様。様々な知識を与えてくれたパチュリー様。笑顔で私の心を暖めてくれたフラン様。いくつもの技術を惜しげもなく教授してくれた小悪魔。盟約の牢獄から救ってくれた霊夢と魔理沙。そして、私を育て、導いてくれた美鈴」
 思い返す度にあふれてくる暖かく大切な感情。その一つ一つは咲夜にとってかけがえのないものであり、必ず報いなければならない大恩だった。そしてそれらを返すために、自分の残りの人生は存在するのだと思っていた。
「それらを返さなければならない。報いなければならない。そんな想いを抱えて……いいえ、強迫観念に縛られて私は日々を過ごしてきた。だから時には美鈴に辛く当たってしまったこともあったし、妖精達を怖がらせてしまった。そんな私を見かねて、お嬢様は春雪異変の際にも、永夜異変の折にも、私を連れだしてくれたのよ」
 二つの異変解決に向かいながら、咲夜は様々な生き方を見聞きした。長く生きる者、永久に変わらぬ者、既に朽ちた者。仕える者と主たる者。彼女たちの生き方はまさしく千差万別で、そして同時に美しく輝いていた。
「そんな体験があったから、私は今の境遇を殆ど後悔しなかったし、受け入れることが出来た。そして今は、別の目標を見つけることが出来たのよ」
「別の目標?」
「ええ、百年後も千年先も、この館が自慢の館であり続けること。そしてこの館に住むことを誇りに思えるようにすることよ」
 不安、恐れ、後悔。そういった負の感情がないわけではない。今口にした言葉ですらも、本当に百年先千年先に同じ事を思っていられるかどうか怪しい。
 それでも、不安よりは安心が強く、恐れよりは期待が大きく、後悔した過去より未来への希望の方が何倍も多かった。
 それはもしかしたら、美鈴という存在があるからこそなのかもしれない。
「あまり答えになってないのかもしれないけど………………むきゅっ!?」
 紡いだ言葉への自信の無さから目を逸らした直後、咲夜は何やら柔らかいものに包まれていた。暖かい腕と大きな双丘の向こうから伝わる確かな鼓動。その二つが、ついぞ忘れていた安心感を呼び起こさせる。
「ちょ……美鈴!? 離しなさい」
「だめですっ。私は今猛烈に感動してるんですっ」
 髪を撫でられ、背中に腕を回される。嫌な気分ではないが、視界の端で笑う魔理沙の顔を見てしまっては素直に甘えられるはずもない。しかし相手はあの美鈴である。咲夜が幾ら抵抗したところで彼女の腕を振り払えるわけもない。
「おーおー、お熱いことで」
「笑ってないで助けなさいよ。美鈴もいい加減に離して頂戴」
「いやいや、遠慮することはないぜ。邪魔者はそろそろ退散するしな」
 未だ美鈴は咲夜を解放しようとはせず、魔理沙はいたずらっぽい笑みを浮かべながら椅子から立ち上がる。どうやら味方らしき存在はこの場には居ないらしい。
「それじゃーまた遊びに来るぜ。今日のことはあのウサギには黙っておいてやるよ」
「魔理沙、ありがとう!」
 美鈴の言葉に、魔理沙は片手を上げるだけで答えて部屋の外へと消えてゆく。大方図書館にでも足を向けるつもりなのだろう。
 一方の美鈴は未だ咲夜を離そうとはせず、腰に回された手には僅かにだが先程より力が篭もっている。
「…………逃げないから離して頂戴。痛いわ」
 小さな嘘を一つ吐くと、美鈴は慌てて腕を緩めた。しかし彼女の瞳はまだ未練を湛えており、力無く下がった腕もやり場が無さそうに見える。
 咲夜は小さなため息を一つこぼしてから気配だけで廊下を確認し、それから美鈴をソファへと促した。
「咲夜さん……?」
「誰か来るまでは咲で良いわよ」
 戸惑いがちに浅く腰掛ける彼女をソファに凭れるように促し、その上へと自身の身を預ける。昔のようにすっぽり収まるようなことはなくなってしまったが、それでも大きな体躯の彼女は華奢な自身を余裕を持って受け止めてくれていた。
「……やっぱり、私が上司って言うのはおもしろくない?」
 彼女に身を預けながら、咲はか細い声を絞り出す。
 心のどこかで気になっていながら、どうしても聞くことが出来なかった彼女の気持ちを訪ねるために。
「どうして?」
「貴女は私の親代わり……ううん、それ以上の存在だった。なのに今は私が命令する立場。そういうのって面白くないんじゃないかなって……」
 呟く声に、俯く表情に、瀟洒なメイドの姿はかけらほども見あたらなかった。
 たった数年の内に築き上げた完全の称号と瀟洒な佇まい。それは一人の少女の『己』を消し去るには十分だったのかもしれない。
 そして今こうして見せる弱々しい姿こそが、『本質』なのかもしれない。
「今の立場は辛い?」
 美鈴の問いに咲は慌てて首を振る。
 仕事は大変だが辛いと思ったことはなかった。責任ある立場は重荷でも苦しみを感じたことはなかった。咲夜であること、メイド長であることには自信と誇りを持っていた。
 だから咲は何度も首を振った。
「なら大丈夫。私は今のままで良いと思うし」
 柔らかく抱きすくめられ、やや乱雑に頭を撫でられる。どうしてと口にする前に訪ねた瞳は、彼女の胸で塞がれた。
「適材適所だよ。それに私は妖怪。生きてきた時間の長さなんて大して重要じゃないもの」
 彼女の言葉は半ば嘘に等しい。
 妖怪の多くは己の齢を誇らしげに語るし、年経た者はそれだけ強い力を得ることが多い。妖怪にとって積み重ねた時間は時に人間以上の価値を持つし、それを彼女が知らないわけがない。
 それでも、美鈴は関係ないという。
「私は今の関係で良いと思うし、門番っていう仕事にも誇りを持ってる。でも、もし咲が苦しいなら……」
「大丈夫。でも、今だけは咲で居させて……」
 それはホームシックとでも言うべきだろうか。或いは亡き母の面影を美鈴の温もりに感じたからだろうか。堰を切った弱い感情は一気に溢れ、咲の心を満たしてゆく。
「美鈴、明日はお休みをあげるから鈴仙のところへ行ってくるといいわ……」
「や、でも……」
「行って。お願い……」
 答えの代わりに、美鈴は咲の髪をゆるゆると撫でる。その暖かく優しい答えを感じながら、咲は浅く短い眠りについた。
 今のこの瞬間を夢にするために。
 目を覚ましたときに、十六夜咲夜へと戻るために。



「あの、霊夢さん」
「何?」
 小さく遠慮がちにかかる声に、寝返りを打って顔を向ける。冬よりも少しだけ騒がしい春の夜でも、彼女の声だけはよく耳に届く。
「そっちへ行ってもいいですか……?」
「…………そういうことは断らなくていいって言ったでしょ」
 何度言っても解らない彼女にやや呆れつつ布団をめくり、遠慮がちに身を寄せるその体を静かに抱き寄せる。晩春とはいえまだまだ夜風は冷たい。霊夢がその肩が冷えぬようにと布団をかけ直してやると、彼女はそっと胸に頬を寄せてきた。
「あんまりくっつくと暑いんじゃない?」
「平気ですよ。それより霊夢さん、私永遠のものを見つけました」
 昼の話を覚えていたのだろうか。小さく笑って囁く彼女に、目だけで尋ねる。
 微かにそよいでいた風はいつの間にか治まり、闇が彼女の話に耳を傾けるかのように二人を覆う。
「永遠はきっと、ここにあるんです」
 寄せた肌を少しだけ離し、美希はそっと霊夢の胸元を突付く。触れた指先は少しだけ冷たく、囁く言葉は暖かい。
「どこ?」
「心……とか、魂とか…………なんていうか、胸の奥にあるんです。記憶でも思い出でもない、暖かくて大切なもの。それはきっと永遠なんですよ」
 言葉を紡ぎ終えると、彼女はまた身を寄せてくる。それは胸の奥にあると言う永遠の何かを零さぬようにしているようで、愛らしくもいじましい。
「そんなの、死んじゃったら消えてなくなっちゃうわよ?」
「死んでしまったらその人の時間は止まると思うんです。記憶や思い出は忘れたら消えてしまうけど、その中にある大切な何かはきっと消えないんですよ」
 心の中にある何か。それは確かに今の霊夢にも実感できる。美希と出会って重ねた年月はまだ一年にも満たず、振り返るにはあまりにも短い。しかし彼女との出来事を全て覚えているわけはなく、いくつかのことは記憶の奥底から消えてしまっているのも間違いない。それでも自分の中には確実に何かが残っていて、それが自分を変化させ、成長させているのは確かだ。そしてそれらは恐らく霊夢が時を刻み続けるその間、ずっと残り続ける。確かにそれは永遠のものなのかもしれない。
「どうしたらその永遠は手に入れられるの?」
「何かするんじゃなくて、感じるって言うか…………こうして大切な人と肌を寄せたりすると…………とか……?」
 思いつきはしたものの上手く説明できないのだろうか。彼女は首をかしげながら小さな声で呟き続けている。
 曖昧な感覚から得た何かを言葉にするのは、見たものを説明するよりも難しい。眉根を寄せて唸る彼女を小さく抱き寄せ、霊夢は笑いながらその額へと口付けを落とした。
「あんまり悩むと熱を出すわよ?」
「ん……そうなったら看病してもらって、また新しい何かを作れるかもです」
 どうやらこの娘にとっては、病すらも喜びの一つになるようだ。あまりにも楽観的な言動だが、霊夢は彼女の言葉を嬉しく思っていた。
 ここに現れたばかりの頃の美希は、本当に酷い有様だった。陰の気は淀んで濁り、気質を感じ取れるものには腐敗臭すら覚えるのではないかと思うほど。当然そういった気質は幽鬼や餓鬼の類を集め、時には眠る彼女の横で夜通し悪鬼払いをしなければならなかった。
 しかし今はどうだろう。陰の気質は変わらぬものの、その気は木陰のように爽やかで心地よい。もし非想の剣が彼女の心の天候を現したとしたら、恐らくは柔らかく降る五月雨か何かに違いない。
 前向きな心構えは良い気を呼び込み、活力を与える。もう恐らく、彼女が人生の終焉を望むことは無いだろう。
「そんな辛い思いをしなくても、今すぐ永遠は得られるんじゃない?」
 そっと髪を撫でると、美希はその意図を察したかのように薄く唇を開いて瞳を閉じた。
 暗闇でもわかる柔らかい唇と、少しばかり上気した彼女の頬を見つめ、指を滑る彼女の髪を楽しみながら、霊夢はそっと唇を重ねる。
「…………んっ………………」
 小さく漏れる声。薄く響く衣擦れの音。彼女と自身の吐息が折り重なりながら喉を滑り、交じり合った唾液が口腔の奥へと落ちてゆく。
 胃でも肺でもない、胸の奥の深いところへ。
「美希…………ん、んっ…………」
 甘く儚い永遠。それが少しづつ霊夢の胸を満たしてゆく。じわりとした暖かさが心臓よりも深いどこかから広がり、指先までを満たしてゆく。
 そして暖かさに満ちた指は彼女の髪を滑り、その熱を交わらせようと華奢な腰を掻き抱く。
「は…………んっ…………。れ、霊夢さん…………その…………」
「解ってる。私も同じよ」
 指先が互いの腰紐をつまみ上げ、ゆるゆると襦袢を開く。露わになった肌はすぐに夜風の冷たさを感じ、どちらからともなく身を寄せあう。
 それはまるで、胸の奥にある大切な何かを混ぜ合わせるかのようだった。
「美希、初めての時のこと、覚えてる……?」
 暗闇の中で彼女が小さく頷く。霊夢はそれを確認してから、過去をより鮮明にするために一度だけ瞳を閉じ、それからそっと視線を合わせる。
「あの時の私は、貴女を同情で抱いた。貴女の抱える悲しみと闇を拭いたくて、傷だらけの身体を哀れんで身体を重ねたわ。でも、今は違う。心の底から言える。貴女を愛してるって」
 美希は何も言わず、黙って身体を重ねた。
 指先を絡め、肌をあわせ、それから薄く唇を重ねた。
 二人にはもう、それ以上の言葉は必要なかった。
「……ありがとう」
 甘く深く、交わす口づけが心を溶かす。澱のように残っていた僅かな後悔も、すれ違いから生まれた悲しい過去も、満ち溢れた暖かさと共に涙に溶けて消えてゆく。
 言い出せなかった言葉も、それによる後ろめたさも、全て。
「美希……」
「ふぁっ」
 胡蝶が舞い降りるかのように、霊夢はそっと美希の首筋へと口づけを落とした。絹よりも滑らかな肌と艶やかな髪の香りが、花の蜜のように甘く切ない。
「んっ……、ちゅ……」
 淡い水音と共に舌先でなぞり、筋の一つ一つを確かめるかのようにゆるゆると口づけを繰り返す。その度に美希は小さな声を上げ、爪弾くように霊夢の肌を掻き寄せた。
「美希……好きよ……」
 耳朶を甘く噛み愛の言葉を囁きながら、霊夢は悩んでいた。彼女の白磁のごとき肌に、己の愛の証を残して良いものかどうかを。
 それは醜い独占欲なのか、はたまた純粋な愛故なのか、霊夢にはどうしてもわからなかった。ただこの肌を傷つけてしまうのが惜しいと言うことと、もし前者であったなら、それは彼女を犯し弄んだ外の男達と同じなのではないかという懸念が渦巻いて仕方がなかった。
 だから霊夢は、躊躇うように何度も彼女の首筋へと口付けた。
「……ください」
「…………美希?」
「霊夢さんの証を……刻みたいから……」
 心を見透かしたのだろうか。彼女は小さく囁き、身体を強く抱き寄せてくる。
 霊夢はもう、抗う事など出来なかった。
「んっ……! ぅ……」
 傷つけぬように、歯を立てぬように、注意深く彼女の首筋に吸いつく。彼女を抱きしめ、抱きしめられながら、強く優しく。
 そうして霊夢は、永遠にはならない儚い愛の証を彼女の首筋に残した。
「つきました……?」
「多分ね……」
「ついてなかったら、朝つけ直してくださいね?」
 耳元で囁くようなその言葉に、霊夢は淡く笑って答える。
 彼女につけた証は、恐らく二、三日で消えてしまうだろう。だがそれをつけたという思い出は長く心に残り、その奥にある深い愛情は、二人の胸の奥で永遠に輝き続ける。
 婚姻の証に贈られる指輪のように。
「もちろん。朝になったら私にもお願いね?」
 小さな約束を交わしてから、霊夢は今一度美希の首筋へと口づけを落とす。今度は吸いつくのではなく、愉悦を呼び起こすように甘く淫らに。
 背に回した指先を美希の背筋で遊ばせ、絡めた指を愛撫しながら舌を這わせると、彼女の指が太股を擽るような愛撫を返してくる。
「ん……っ、霊夢さん……っふぁ……!」
 互いの弱い部分は、肌を重ねる度に見つけていた。力加減も、動かし方も、速度もタイミングも。
 こうした伽の行為は、どこか弾幕勝負に似ていると霊夢は感じていた。ただ一つだけ違うのは、この愛の行為には勝者が存在しないこと。
「美希……んっ! あ、ひゃ……!」
 霊夢の顔が胸へと降りる前に、彼女の指が秘所へとせり上がってくる。すっかり先手を打っていたつもりの霊夢だったが、どうやらそう甘くはなかったらしい。
「霊夢さん、可愛い……」
「きゃっ……、ちょ、あ……んはっ! ひゅぁ!」
 今度は霊夢が楽器のように爪弾かれる番だった。秘所へと潜り込んだ彼女の指がゆるゆると動きだし、背に回された手が骨に沿って静かな愛撫を繰り返すと、もう霊夢は声を堪えることが出来なくなってしまう。
「美希……やっ……! 私だけ……ひゃん!」
 布団の奥から響く水音が少しづつ大きくなり、自身の太股が濡れ始める。入り口を開かれる度に溢れる蜜は粘度を増し、彼女の指を易々と受け入れてしまう。
 だが、そんな自身を責め立ててゆく指の動きが不意に止まった。
「霊夢さん……一緒に……」
 小さな声と共に美希は身を起こし、霊夢の足を割開いて自身の秘所を重ねてくる。
 触れあった互いのその部分は、唇よりも熱く濡れそぼっていた。
「み、美希……」
「私も、我慢できなくて……。動きますね」
「っ! ゃん!!」
 深い口づけを交わすかのように重なりあう秘所。抱え上げられた足は彼女の腕で拘束され、唇と舌による愛撫を与えられてしまう。暗闇の中とは言え閉じることを許されぬ足は、羞恥と扇情を掻き立てるのに十分すぎる。
「れい……む……さんっ……! ん、ちゅっ! んんっ……!」
「や、だめ……! 美希っ、はげし……! ひぁっ!!」
 最早霊夢には、布団を掴んで悶えることぐらいしかできなかった。彼女の腰が動く度に与えられる悦楽は気を抜けば一瞬で意識を奪われそうな程だし、抗うにも足を抱えられていては反撃どころか逃げることすらままならない。視界は煌びやかな弾幕よりも美しい純白に覆われ、荒い呼吸はどんな勝負の時よりも深く酸素を欲していた。
「霊夢さん……っ! 一緒に……っ」
 彼女が足を抱え、仰向けに倒れ込むようにしながらより深く秘所を擦りあわせる。秘芽が触れ合い、太股に擦れながら津波のような愉悦を与えてくる。
 そして最後の瞬間、霊夢は一瞬だけ意識を手放していた。
「っ! ふぁっ……っ! んんぅ……っ!!」
「れ……ぁ、ひぅ! やぁ……っ!」
 ほんの一瞬、全身の筋肉が強ばる。筋という筋が張りつめ、引き絞られた弦のように伸びきる。そしてその弦を不意に切り取られるように、深い絶頂が霊夢を襲った。
「っあ……! は、はぁっ……!」
 全身が酸素を欲しているかのように、肺が浅く荒い呼吸を繰り返す。絶頂の余韻からか手足は震え、全身の肌が泡立つように敏感になる。それでも霊夢はのろのろと起き上がり、美希を強く抱きしめた。
「…………美希、永遠は手に入った?」
「はい……大きくて暖かいものが……」
 震える指を絡めながら、二人はまたどちらからともなく口づけを交わした。
 永遠を二人の中に閉じこめるために。



「ごめんね、急に連れ出して」
「いえ、師匠も快く送り出してくれましたし」
 美鈴の言葉に答えはしたものの、あれは快くと言うよりは驚きのあまりと言うべきかもしれないと、鈴仙はつい先程の出来事を思い返す。
 お互いに忙しい身故、二人はあまり急な予定を作ったり突然会いに行くようなことは殆どしない。概ねの場合はどちらかがどちらかの元に赴き、互いの予定をすり合わせて休みを取る。そうすることで貴重な休暇を棒に振ることなく、有意義に使うことができるのだ。
 しかし今日の美鈴の訪問は本当に突然だった。朝の一仕事を済ませて一息吐いたところへ現れた彼女は、午後の予定も聞かずに大事な話があるから付き合って欲しいと切り出してきた。いつもならこちらにあわせて自分の予定まで変えようとする紅美鈴がだ。
 そんな珍しい出来事だったから、そして美鈴の表情が余りにも真剣だったから、永琳は許可を出したのだろう。
「それで、美鈴さん。お話ってなんですか?」
「あ、ええと……ちょっと待ってね」
 辺りを見回し、気配を探り、美鈴はそこに誰も居ないことを確認する。
 彼女が連れだしたのは竹林からも里からも離れたあまり使われていない畦道で、そこでなければいけなかったと言うよりは人気のない場所ならどこでも良かったという感じだった。
 人に聞かれてはまずい話なのか、何か重大な隠し事でもあるのか。連れ出すまでの経緯も手伝って、鈴仙は否応なしに緊張を感じていた。
「じゃ、言うね」
「はい……!」
 居住まいを正し、彼女に向き直る。一言一句を聞き逃さぬように耳を澄まし、何を言われても動じぬ心構えを作る。
 そうしながら、鈴仙の心は言い知れぬ不安に満たされようとしていた。
「鈴仙」
「はい」
 生唾を飲み込みながら視線を重ねる。強い決意に満ちた彼女の瞳を覗き込むようにしながら。
「この幻想郷で、いつまでも暮らして欲しい」
「…………………………はい?」
 彼女の言葉の意図が、どうしても飲み込めなかった。
 自分は何か聞き間違いをしたのだろうか。はたまた言葉の奥に深い意味でも隠されているのだろうか。
 どちらにせよ、鈴仙は聞き返さずには居られなかった。
「私には鈴仙が一番大事だけど、同じぐらい紅魔館もそこにいるみんなも大事なんだ。月のことは私にはよく解らないし、ただのワガママなんだけど……それでも、鈴仙が月に帰らなくてよかったって思うぐらい幸せにするから。ずっとずっと大切にするから、私とこの幻想郷で暮らし続けて欲しい!」
 はて、自分は月に帰りたいなどと零したことがあっただろうか。いや、それ以前に帰ることを願ったことがほんの一瞬でもあっただろうか。鈴仙はそんなことを考えながら、彼女の言葉を聞いていた。
 幾ら思い返しても、記憶の底を弄っても、そのようなものは欠片も見つからない。故に鈴仙は早々にそのような思考を投げ捨て、返事をするタイミングだけを見計らっていた。
 第一、そんな記憶や証拠が在ろうが無かろうが、返す答えは変わらないのだから。
「はい」
「絶対後悔させな……え?」
「はい。私はこの幻想郷でずっと暮らしますよ」
 今度はどうやら美鈴が聞き返す番らしい。豆鉄砲でも喰らったような彼女に、鈴仙は笑顔で答えた。
「でも、月にいれば永遠に……」
「自分を捨てて在り続けるだけの日々は、生きているとは言えません」
 今の月が昔と同じかどうかは解らない。もしかしたらずっと自由で平和で、幸せな日々を送れるのかも知れない。
 それでも、鈴仙はここで幻想と共に在ることを選んだ。
「草木の色も、命の大切さも、誰かと共に在ることの意味も、かけがえのない人の存在も、私は全て幻想郷で学びました。たとえ命に限りができてしまったとしても、何れ死という穢れに包まれる運命だったとしても、私はこの世界で生きることを選びます」
「鈴仙……」
「それに美鈴さん、言いましたよね? 月に帰らなくてよかったって思うぐらい幸せにするって。私その言葉、信じてますから」
 言い終えるよりも早く、美鈴の瞳からは大粒の涙が溢れていた。泣き顔をあまり見せない彼女の、暖かい涙が。
「ぜったい、ぜったい幸せにするから……! ずっと一緒に居るから!」
 痛いほどに抱きしめられ、濡れた頬を擦りつけられる。強く暖かい抱擁を受けながら、鈴仙もまた、いつしか涙を流し始めていた。
 彼女の力強い腕に包まれながら、鈴仙はふと以前に聞いた美希の言葉を思い出した。

『この世界に来られたのは紫さんのおかげですけど、世界を綺麗だって思えるようになったのは霊夢さんのおかげだと思います』

 鈴仙は戦争という狂気から逃れるために月を逃げ出し、この地上に隠れ住んだ。逃亡者である自分が今こうして月の使者に怯えることなく外を出歩けるのは、博麗霊夢や八雲紫、師である八意永琳のおかげなのかもしれない。
 だが、世界に彩りを与え、喜びを与えてくれたのは美鈴に違いない。
「私もどこへも行きません。だって、これ以上幸せな事なんて思いつかないもの」
 酒池肉林の桃源郷も、花咲き乱れる天界も、今の自分には色褪せて映っただろう。愛しい人の腕の中で、その温もりを感じながら愛を確かめる。これ以上の幸せなどあるはずがない。この幸せを捨てて得る永遠に、価値があるわけがないのだ。
「鈴仙……」
「美鈴さん……愛してます……」
 どちらからともなく口づけを交わし、互いの髪を梳る。長く深く、舌の隅々、髪の一本一本まで愛を確かめあうように。
 己の命がいつまで続くのか。いつまでこうして彼女と愛を確かめあうことができるのか。十年か、百年か、或いは一月にも満たぬ短い時間なのか。それは誰にも解らない。
 だが、一つだけ確かなことがある。
 今のこの一瞬以上に大切なことなど、世界のどこを探してもあるはずがないということだ。
「…………美鈴さん、これからデートしましょう」
「で、でも……、戻らないとまずいんじゃ……」
「平気ですよ、ほらっ」
 唇を離し、身を離し、それから戸惑う彼女の手をしっかりと握って里へ続く道へと駆け出す。
 永遠よりも大切な一瞬を、ほんの一つでも逃さぬように。



 里に着いた二人は、我と時間を忘れて遊び回った。屋台で買い食いをし、お揃いの髪留めなどを買い、大道芸を見て笑い、あちこちを漫ろ歩いた。
「いやー、今日はずいぶん遊んだ気がする」
「たまにはこういうのも良いじゃないですか」
 屈託無く笑う鈴仙が、じゃれつくように腕を絡めてくる。美鈴はそれを受け止めながら彼女の髪にそっと口づけを落とした。
 しかし楽しい時間は永遠ではない。先程まで高く輝いていた太陽は西の地平にその身を沈めようとしているし、東の空では既に星々が瞬き始めている。名残は惜しいが頃合いを見て別れなければいけないだろう。
「もうずいぶん日が沈んじゃったね」
「そうですね。なんだかあっと言う間って感じです……」
 答える鈴仙の腕に、少しばかり力が篭もる。無理もない。別れを惜しむのは自分とて同じなのだ。
 ただ、それが今日だけは殊更に強く感じてしまうだけ。
「もうちょっとだけ、歩こうか」
 小さく頷く彼女に行き先を任せ、美鈴はゆっくりと歩を進めた。
 変わる町並みと暮れゆく日。遠く西の空を飛ぶ烏達も、そろそろ塒に帰る頃なのだろうか。
「……美鈴さん、こっちです」
 不意に腕を引かれて我に返ると、鈴仙は少しばかり足を早めていた。きょろきょろと辺りを見回し、時折道を悩みながら自身の腕を引いて早足で歩く。
 そうして彼女が向かったのは、あまり健全ではない宿が建ち並ぶ一角だった。
「れ、鈴仙?」
 訪ねるも答えはなく、ただひたすらに足を進める鈴仙。彼女が向かった先は、見覚えのある一件の宿だった。
 彼女は何か言うよりも早く美鈴の腕を引いて入り口をくぐり、宿代を払って鍵を受け取って奥へと進む。
「美鈴さん、覚えてますか? この場所」
 開かれた扉の向こうは、あの時のままだった。
「……忘れるわけないじゃない」
 部屋の中央に置かれた大きなベッド。その奥には浴室。あの時と違うのは、二人とも濡れ鼠ではないことぐらい。
 そこは、二人が初めて肌を重ねた場所だった。
「あの時のままですね」
 あれから、美鈴と鈴仙は幾度となく肌と心を重ねてきた。そして時にはこのような宿を使うこともあった。
 しかし値段や部屋の質、入りやすさなどの理由から初めて会ったこの場所を使うことは無くなり、この場所のこの部屋に来るのは、本当にあの時以来だった。
「お風呂、入れてきますね」
 いそいそと部屋の奥へ消える鈴仙を見送り、美鈴は大きなベッドへ腰を下ろす。小さく軋むこの音も、浴室から響く水の音も、全てがあの時のまま。
「何も変わってなくて、なんだか安心しました」
 湯加減を調整してきたのだろう。腕をまくった鈴仙が淡く笑いながら隣に腰掛けてくる。
 あの時よりも、ずっとずっと自然で柔らかい笑顔で。
「違うよ。いっぱい変わってる」
「え?」
「ほら、こんなに……」
 若紫の髪に指を滑らせながら、美鈴はじっと鈴仙を見つめた。戸惑い潤む彼女の紅い瞳を。
「あの時みたいにずぶ濡れじゃなかったし、私も鈴仙もそんなに緊張はしてない。不安なんか一つもないし、怯える理由だって無い」
「……でも、一つだけ変わらないことがありますよ」
 不意に重なる唇にも、今なら落ち着いて対処できる。薄く唇を開き、吐息を混ぜ合わせながら彼女を抱きしめることも、彼女の唇をはみ、味わうことも。
「……愛する気持ちは、変わりません。あの時からずっと」
 唇を離して笑う彼女の、薄桃色に染まった頬。
 唾液で僅かに光る、柔らかい唇。
 そして自身の指に絡む、絹糸のような髪。
「私は、変わったよ。あの時よりもずっとずっと、深く愛してる。ほんの一瞬だって、離れたくないぐらいに」
 最後の一言は、彼女を押し倒しながら伝えた。純白の敷き布に二色の髪が絡んで落ち、儚げな模様を描く。
 美鈴には、あの時のように湯上がりを待つ余裕はなかった。
「んっ……」
「め…………ふぁっ……」
 何か言いかけた彼女の唇を塞ぎ、深く舌を絡める。遠く響く落水の音が二人の水音をかき消し、僅かに現実味を失わせる。
「んっ……ぁむ……!」
「んん、んっ……」
 縋るような腕に腰を抱き寄せられ、華奢な体躯へと身体を預けてしまう。決して軽くない自分を支えるのは楽ではないはずなのに、彼女はいつもそれを求めた。
「っ……ふぁ。もう、せっかく綺麗な身体にしてからって思ったのに」
「我慢なんか出来ないよ。終わったら入ろう?」
「……入った後もしちゃうんでしょ?」
「入りながらかもね」
「……ばか」
 顔中を朱に染めながら、鈴仙は静かに口づけを求めてくる。今度は啄むように、繰り返し。
 初めて触れ、深く口づけを交わしたとき、鈴仙は震えていた。身体を僅かに強ばらせ、恥じらいの奥に僅かな恐怖を湛えていた。
 あの時、美鈴は彼女が何故そのような顔をするのか解らなかった。ただ単に、経験が無いかあっても薄いためなのだろうと考えていた。
 でも、今は違う。あの時の彼女の震えも、緊張も、恐怖も理解できる。そしてその上で、彼女を心から愛せる。
「また、痕付けちゃうかも」
 赤ら顔のまま頷く彼女の髪を梳き、タイを外して胸元を露わにする。釦の隙間から覗いたのは、いつもと違う簡素な下着。
「さ、作業あると思って……楽なのを…………。恥ずかしいから見ないで……」
「そんなことない。こういうのも似合ってる」
 タンクトップのようなその下着をめくり上げるようにして胸元を晒し、指先で撫でるようにしながら肩口へと口づけをする。
 こんな形の下着は美鈴も持っているし、もっと楽なチューブタイプのものも箪笥には仕舞ってある。ただ、使って洗濯に出すと妖精達に色気がないとか女を捨てているとか言われてしまうため、なかなか使い所がなかった。
 だが、鈴仙が身につけているそれは決して女を捨てているようにも色気を殺しているようにも見えなかった。むしろ新たな美しさを発見できた事の方が嬉しい。
「うそ……」
「嘘じゃないよ。すごく可愛い……」
 胸を撫でるように揉み、彼女の首筋へと口付ける。淡く短いキスを繰り返し、探るように唇を這わせながら軽く吸い、それから、首筋へと強く吸いつく。
「ぁ……! んっ……」
 そこは、それこそマフラーでもしない限り隠しようがない場所。もちろん今の時期にマフラーなどするわけがないので、どう取り繕っても隠せないような場所だった。
「もう一つ……んっ」
「ちょ……ひゃん! ふぁっ……!!」
 今度は反対側。顎にやや近い場所へと一つ。宿の照明は薄暗くて確認は出来ないが、恐らくきちんと残せただろう。
「んっ……もう……。あとで仕返しするんだから……」
「うん……体中痣だらけにしてもいいよ」
 額に一つ口づけてから、美鈴は身体をずらして彼女の胸へと吸いつく。その先端は既に硬くなっており、舌で転がせば心地よい抵抗を返してきた。
「やんっ! ひゃ、ぁ……! ん、んんっ、んぅ!」
「ちゅ……ぁむ……。んく、んっ……」
 風呂場から響く水音に負けぬように、わざと音を立てて彼女の胸を弄ぶ。愛撫を受けた鈴仙の身体は少しづつ熱を帯び、身体が弓なりに反り返る。
「や……! 下着、よごれ……やんっ! ひゃ!」
「もう遅いよ。ほら……」
 膝で彼女の足を割り開き、スカートの下に隠れた下着へと指を運ぶ。
 既に溢れんばかりに濡れた彼女のその部分は、軽く布を押し込んだだけでくちゅりといやらしい音を立てた。
「や、やだ……」
「怒られるのも一緒でかまわない。明日はそんな早くになんか帰さないから」
 溢れる蜜を塗り付けるように、下着を擦って鈴仙のその部分へと愛撫を繰り返す。それだけのことで彼女の秘芽は少しづつその存在を明らかにし、布越しでも解るほどに主張し始めてしまう。
「あ、やっ! 美鈴さんっ! や、やぁ! ひっ、ぁ……! ふぁっ!」
 擦りたてる度に短い嬌声が上がり、腰が跳ねるように蠢く。入り口の向こうからは蜜が湧き出るように溢れ、愛撫によって太股へと広がってゆく。
 彼女の絶頂は、もうすぐそこのようだった。
「鈴仙……っ」
 唇を塞ぐように口づけ、愛撫を強める。布ごと彼女の入り口へ指を押し込み、親指で秘芽を揉むように愛撫する。
「っ! んっ! んんぅ! っっ! ……!!」
 細い指先が肩口に食い込む。全身を震わせながら彼女の腰が波打つ。指先を甘く咥えた入り口が小さく動く。
 鈴仙の絶頂を実感しながら、美鈴もまた軽い絶頂感を味わっていた。
「っあ! ふぁ、はっ! はぁっ……! 美鈴さん……やりす……くるし……はぁ……」
「ごめん。でも気持ちよかったでしょ?」
「……そういうことは聞かないで…………!」
 視線を逸らして両手で顔を覆う鈴仙。聞くまでもないことなのは解っていたが、それでも美鈴はその反応を楽しまずにはいられなかった。
「ごめん。仕返しはたっぷり受けるから……ね?」
「……ほんと?」
「うん」
「じゃあ……」
 息を整えながら起きあがった鈴仙は、緩く笑ったかと思うと外したネクタイを手にこちらへ迫ってくる。いつもと少しだけ違う彼女の雰囲気に一抹の不安を覚えつつも、美鈴はなるべく抵抗しないように力を抜いて彼女を見つめた。
「逃げちゃダメですからね?」
 呟きと共にネクタイが目を塞ぐ。それほど布地が分厚いわけでも無いため灯りなどは透けて見えてしまうが、それでも概ねの視界は完全に奪われていた。
 だが、どうやら彼女の仕返しはこれだけではないらしい。
「こっちへ寝て、両手を上げてください」
 言われるままに両手を上げると、何か布切れのようなもので両手が拘束される。質感からして大きめのタオルだろうか。無理矢理引きちぎりでもしなければ解けそうもない。
「いつもいっぱいされちゃうから、仕返しです」
 囁くような声と共に彼女の唇が自身の口を塞ぐ。深く交わされる口づけと僅か響く衣擦れの音が、見えないことも手伝って情欲を掻き立てる。
「んっ……ぁ……」
 不意に舌が離れてゆく。だらしなく開いてしまった口元から涎がこぼれそうになり、美鈴は慌てて口を閉じた。
「もっとキスしたかったですか? でもだめですよ。まだお預けです」
 耳元に響く声と、軽く吹きかけられる息。背筋を這い回るようなぞくぞくとした感覚に襲われたかと思うと、今度は指先が服の上から爪を立てて肌を撫でる。
「んんっ……、はぁ……っ」
 吐息が漏れ、下腹が熱くなる。撫でる指先のもどかしさと、見えず動けずの不安がより己の欲望を刺激する。
 先程の絶頂が糸を引いているのだろうか。それとも拘束されていることに興奮しているのだろうか。
 一つだけ確かなことは、自身の下着が既に取り返しがつかないほどに汚れてしまっているという事だけ。
「いつもより声が大きいですよ、美鈴さん。もしかしてこういうのが好きだったりします?」
「ち、ちが……ひゃんっ! や、ひ……んんっ!」
 指先が胸の先をつまむ。彼女の唇と歯が頬と首筋を撫でる。さして強くもない刺激のはずなのに、美鈴はまるで一番敏感な性感帯を責められているような錯覚を覚えてしまっていた。
「これから毎回こうして縛って上げましょうか? 専用の手錠とか目隠しとか作ってもらって……。今度は裸で吊したり……ふふっ」
 嗜虐的な言葉と、太股を撫でる爪。普段ならただの冗談にしか聞こえない言葉も、今はどこか本気が入り交じっているように聞こえる。
 いや、もしかしたら本当に本気なのかも知れない。彼女の隠された本性は、こんなところにあるのかも知れない。
「い、いじわる言わないで……」
 身体を這う手が衣服をはぎ取ってゆく。前を開かれ、胸を覆う下着が外される。美鈴に出来るのは、足をくねらせて濡れた部分を隠すことだけ。
「隠しても無駄ですよ。服にまで染みちゃってますから」
「う、うそっ?」
 確かに溢れた蜜は太股を濡らし始めていた。だが下着から染み出てしまうほどとは思えない。それでも確認のしようがない美鈴には、鈴仙の言葉を信じるより他になかった。
「美鈴さんのえっち……」
「ひゃっ! んんっ!?」
 囁く言葉と共に塞がれる唇。それとほぼ同時に秘所へ押し込まれる指。両手も視界も自由にならぬ中での激しい口づけは、まるで新たな拘束をされているかのよう。
「んんっ、ん! んくっ……ん、んはっ!? ん、んむぅっ!!」
 舌に脳髄まで犯されるような、そんな感覚だった。口腔から響く水音と、ショーツの隙間から侵入して内側を擦りたてる指。軋むベッドと衣擦れの音が不思議な現実感を与え、覆い隠された視界と拘束された腕がその現実味を失わせる。
 それはまるで夢現の向こう側に投げ出されたような、そんな感覚。
「はふ……っ、いっちゃってもいいですよ? えっちな門番さん」
 離れた唇が首筋を滑って胸へとあてがわれる。次いで与えられた硬い感触は彼女の歯列だろうか。擽るように胸にひとしきり噛みついたあと、先端を甘く挟み込まれる。
「ひゃっ!! れいせ……だめっ……! 今深くは……ふぁ、んっ! あ、はっ……んぁ!? や、ああっ!!」
 無意識のうちに筋が伸びる。拘束された手が縋るようにタオルを強く握りしめる。震えるような快感が津波のように背筋を駆け上がり、切れ切れの言葉と共に酸素が肺から逃げ出してゆく。
「だ、だめ……い……ふぁっ! いっちゃ……や、あ……っ!? もう……んあぁぁぁぁっ!!」
 我を失うほどの深い絶頂の中で、美鈴は叫ぶような声を上げていた。ここが場末の連れ込み宿だということも忘れて。
「…………っ、はぁ…………は、…………んはっ……」
「気持ちよかったですか……? 美鈴さん……」
 寸手のところで意識を保ち、荒い息を吐きながら余韻に打ち震えていると、視界を覆う布切れが外される。
 あれだけ激しく責め立てていた彼女の表情は、どこか不安げだった。
「こういうの初めてで……やりすぎたかなって…………痛くなかったですか……?」
「痛かったら……あんな声出ないよ。すごく…………その………………ええと、気持ちよかった…………」
 縛られて目隠しをされて気持ち良いなど、恥ずかしくて彼女の顔を見て言えなかった。何やら自分がそういう趣味や性癖があるように思われてしまいそうで、淫乱さをアピールしているように取られてしまいそうで。
 だが、それはどうやら取り越し苦労だったらしい。鈴仙は言葉を聴くと目を輝かせて小さな口付けを落としてきた。
「鈴仙…………んっ…………んくっ……」
 啄む様に、甘く優しく重ねられた唇。しかしその唇はすぐに離れて行き、手を縛るタオルも解かれる様子がない。
「んは…………っ。よかった……。じゃあ最後の仕返ししちゃいますね……」
 鈴仙の白い肌がゆるゆると視界を滑り、覆いかぶさるようにしながら動いてゆく。そして何事か解らぬままに、美鈴の肘の裏側へ彼女の唇があてがわれる。
「…………っ」
 皮膚が薄く敏感なそこを強く吸い付かれる。腕のそんなところへ付けなくても良いのにと思いつつ痛みに耐えていると、今度は二の腕に唇が吸い付く。
「ちょ、鈴仙……? ふぁっ……!」
「んふ…………いっぱい付けちゃいます……」
 まだ余韻の残る体はたったそれだけのことで敏感に反応し、疼く様な痛みすらも快楽へと変換してしまう。
 どうやら鈴仙は本当に全身に付けてゆくつもりらしい。次の目標は胸元だった。
「や、今いったばかりなのに…………んんっ…………!」
 襟元と首筋、肩口と胸。付けられた痕を指先が撫で、爪が別の目標を探る。そうして美鈴は文字通り全身に愛の証を刻み付けられ、何度と無くもどかしくも中途半端な絶頂を迎えることとなった。
 三度目の絶頂の最中、美鈴は朦朧とする意識の中で考えていた。
 鈴仙を怒らせるようなことをするのは、なるべく控えるようにしようと。



 衣擦れの音が、光のない部屋に響く。
 あれから二人は風呂で一度、ベッドで一度身体を重ね、軽く汗を流して床についた。
 それがちょうど小一時間前のこと。
「ん…………むにゃ……」
 隣の美鈴は小さな寝息と微かな寝言を漏らしており、その口元は幸せそうに歪んでいる。
 一方の鈴仙は、どういうわけか寝付くことが出来なかった。
「…………可愛い」
 理由は至極単純。眠ることが惜しかったのだ。あまりにも幸せで満ち足りた時間。それを睡眠という無意識に食わせてしまうことが、たまらなくもったいないと感じてしまったからだ。
 そっと美鈴の髪に指を滑らせると、まだ湿り気を帯びている彼女の絹糸が甘えたように絡んでくる。いつも以上に穏やかな寝顔は至福のひとときを噛み締めている様で可愛らしいし、身動ぎと共に甘えてくる仕草は少女そのもので愛くるしい。
 いつもは甘える側になることが多い鈴仙だが今日ばかりは姉か母の役割をしているようで、どこか不思議な誇らしさを感じていた。
「ふふっ………………ちょっとお水飲むから待っててね」
 そっと頬に口付けを落とし、それから身を起こしてベッドサイドの水差しに手を伸ばす。その間も彼女は頬を寄せたままで離れようとしなかった。
「…………ごめんね、不安にさせて」
 昼間の美鈴の言動は、恐らく突如襲った不安からくるものではなかったのだろう。数日か、数週間か、ともかくそれなりの期間彼女なりに悩み考えた末のことなのだろう。もしかしたら咲夜かパチュリーか、そのあたりの人物に相談しているのかもしれない。そしてようやく見つけた自分なりの答えを、一分一秒でも早く伝えたかったといったところか。
「ずっとずっと……貴女の傍に居るから……」
 小さく頬に口付けを落とし、それからそっと指先で撫でる。少女のようなあどけない微笑を浮かべる、愛しい寝顔を見つめながら。
「ん………………鈴仙…………?」
「あ、ごめん…………起こしちゃいました?」
 小さな身動ぎと共に薄く目が開かれ、朧気な視線が此方へと向けられる。まだ眠そうな彼女はゆっくり三度首を横に振ってから太股へ頬を寄せてきたが、その仕草は明らかに寝起きのそれにしか見えない。
「ちょっと目が覚めただけです……大丈夫ですよ」
「ん………………、鈴仙……お願いがあるの……」
 いつもと違う甘えた声の彼女に面食らいつつ、鈴仙は小さく頷いて彼女の言葉を待つ。
 寄せられた頬は暖かく、その柔らかさはまるで幼子のようだった。
「なんですか……?」
「膝枕して欲しいな」
 やや無理難題まで覚悟はしていたが、彼女の望みは随分と可愛らしいものだった。鈴仙は返事をするよりも先に膝を崩して彼女の枕元へ座り、肩からシーツをかけて美鈴が頭を預けてくるのを待つ。
「ん…………寒い?」
「平気ですよ」
 そっと髪を撫でて促すと、美鈴はおずおずと膝の上へ頭を預けてくる。心地よい重みと、彼女の体温。それから膝を擽る髪の感触が幸せで愛しい。
「重くない?」
「全然ですよ。美鈴さんも首辛かったりしませんか?」
「平気。あったかくて気持ち良い……」
 まだ寝足りないのだろう。彼女の声に生欠伸が混じる。無理しないでと言おうとしたが、自分も眠っていないことを思い出してその言葉は飲み込んでおくことにした。
 太股にゆるゆると頬を寄せる彼女と、その髪を撫でながら頬に触れる自分。満ち足りたこの瞬間がいつまでも続けば良いと思い、同時に限りあるが故の大切さも覚える。
 もし今本当に彼女と過ごす時間が永遠のものになってしまったら、喜びはあれど今ほどの価値も感動もないだろう。
 瞬間だからこそ大切にしたいもの。限りあるからこそ尊いもの。それを感じることが出来るから、鈴仙はこの幻想郷にいつまでも留まりたいと思うのだ。
「ふぁ…………ぁふ」
 自身の中で答えが出たからだろうか。はたまた言い知れぬ安堵を感じたのだろうか。鈴仙は不意に睡魔に襲われ、小さな欠伸を漏らした。
「眠い?」
「少し……えへへ……」
「じゃあ寝よう?」
「はい」
 そっと美鈴の頭を下ろしてから、肩のシーツを落としてベッドへと潜り込む。今度はいつもと同じ、美鈴に抱きしめられる体勢で。
「……少し身体冷えてる」
「大丈夫です……すぐあったかくなりますから……」
 彼女の胸に顔を埋め、甘えるように抱きついて瞳を閉じる。心地よい肌の温もりはすぐに睡魔を呼び起こし、夢の世界へと誘ってくる。
 甘い香りと、幸せな時間。鈴仙はその二つを噛み締めるように瞳を閉じ、彼女に抱きついて深い深い眠りについた。
 明日を大切でかけがえの無いものにする為に。



「おーっす。約束通りアリスを連れてきたぜ」
「こんにちは、美鈴、鈴仙」
 爽やかに晴れた初夏の午後。魔理沙はアリスを伴って紅魔館を訪れていた。門の前にはいつもの門番と彼女の恋人である兎が一匹。それから立会人である咲夜が佇んでいる。どうやらこれで役者は揃ったらしい。
「逃げずに来たことだけは褒めてやろうっ」
「二人ともこんにちは」
 此方を指差して啖呵を切る美鈴と、丁寧に頭を下げる鈴仙。その脇では咲夜が無言で懐中時計を取り出し、時間を確認している。
 事の起こりは一週間ほど前。いつものように負けを喫した美鈴からの提案によるものだった。

『今度二対二で勝負しよう! それなら絶対負けない!』

 相棒は誰でも良いのかという問いに彼女は即座に頷いた為、魔理沙は一瞬霊夢を連れてこようかとも考えた。しかしそれはあまりにも大人気なく、彼女の相棒が言わずもがなであるだけに罪悪感も一入。加えてあの霊夢がそんなことに了承を出すわけもないと考え、魔理沙は恐らく美鈴の予想通りであろうアリスを相棒に選んだ。
「逃げるつもりはさらさら無いけど、これで勝ってもお前じゃなくて鈴仙の優秀さが証明されるだけなんじゃないのか?」
「ぅぐっ!? ええいうるさい! 今日という今日は魔理沙を倒す!」
 何やら鼻息荒い彼女に思わず溜息が出そうになる。しかし今回の勝負は魔理沙にとってもやや重要だ。何しろ今回の勝負には向こう一週間のお茶とお茶菓子。加えて宿泊の自由と図書館の利用がついてくるのだ。本気を出さずには居られない。
「申し訳ありません。急にお呼び立てする形になって……」
「いいわよ、どうせ暇してたし。それに貴女とゆっくり話す機会が欲しいなとも思ってたし」
 臨戦態勢の美鈴を他所に、アリスと鈴仙は何やら朗らかな会話を楽しんでいる。互いに賭かっているものが無いだけに、今一真剣味が沸かないといったところなのだろうか。
 ちなみに美鈴が勝てば魔理沙が持ち出し中の魔法書二十冊の返却と、一週間のメイド生活が待っている。
「……そろそろ予定の時刻よ。四人とも準備はいいのかしら?」
「いつでも!」
「今日もぎゃふんと言わせてやるぜ」
「私は構わないわよ」
「お手柔らかにお願いします」
 四つの声が出揃い、それぞれがふわりと宙に浮かび上がる。魔理沙は四人の中で一番高く舞い上がり、八卦炉を構えながら僅かに視界を巡らせた。
 遠く見える木々と白い雲は、既に夏の様相を呈している。泉は陽光を受けてきらきらと輝き、刻一刻と姿を変えながら同時に四季の変化をゆったりとその身に映し出す。
 だが、今はその姿を楽しんでいる場合ではない。
「賭けの内容は以前説明したとおり。開始の合図は私が切るわ。異存はないわね?」
 全員が咲夜の言葉に静かに頷き、彼女の声を固唾を飲んで待つ。
 ぎりぎりまで張り詰めた糸のような空気が心地よい。
「いざ尋常に…………はじめ!」





[11779] アイノカタチ
Name: Grace◆727d1582 ID:5ec851a2
Date: 2011/03/15 01:12
 今年の夏は、殊更に暑い。
 普段なら『暑さを楽しむのも風情の一つ』などと言ってやせ我慢をするレミリアも、今年は早々にパチュリーに泣きついて空調を入れてもらっている。
 妖精達も一部は暑さにやられ、一部は普段以上にやかましく、テンションの差が著しい。
 そして太陽。
 今年の自分はひと味違うとでも言いたいのだろうか、かんかんと照りつける陽光は最早大地を焼き尽くす熱線だ。これではレミリアでなくとも灰になりかねない。
 しかし、そんなうだるような暑さの中でも変わらない存在が二つ。
 いや、あれはもう一つと言うべきなのかも知れない。門柱の影に隠れるようにして寄り添う二人は、まるでそこだけが春の陽気に包まれているかのようだ。
「この暑い中……よく平気ね」
 流石に正門で門番が倒れているなど恥ずかしいにも程がある為、日傘と団扇、冷たい飲み物に塩飴などは置いてある。しかしそれでも、屋外は屋外だ。暑いのは間違いない。
 もしかしたら、鈴仙が何か力を使っているのかも知れない。彼女の力は波長を操る力だ。熱波を和らげたり空気の波で風を起こすぐらいのことは容易い。その気になれば光の波長を操って、陽光から赤外線だけを切り離すことも出来るだろう。
 しかしそれでは、互いを団扇で扇ぎ合う今の姿に説明が付かない。
「どうかなさったんですか?」
 半ば呆れ、半ばうんざりしたため息を吐きかけたとき、不意に背中から声がかかる。振り返った先にいたのは、冷たい飲み物を手にした小悪魔だった。
「どうもしないわ。ただ少し呆れてただけよ」
「ああ、美鈴さんですか」
 彼女の持っていた飲み物は、自分へのものだったらしい。差し出されたグラスを受け取り、一口飲んでからもう一度窓の外へと目を向ける。
 例の二人は、丁度口付けを交わしているところだった。
「この暑いのによく平気なものね」
「愛し合うっていうのはそういうものですよ。ただまあ、冬の方が些か都合良くはありますけど」
 確かにあの姿を見るに、秋冬は居心地が良さそうだ。しかし今は夏。蝉すらも暑さに声を潜めるようなこの猛暑に、寄り添う理由も必要性もないはずだ。
「全く理解できないわね。暑さで脳味噌まで茹で上がったのかしら」
 飲みかけのジュースを流し込み、ついでに氷をかじりながらぼやくように呟く。乾いた喉を滑る冷たい欠片が心地よい。
「もしかして、咲夜さんって恋愛したことないんですか?」
「そんな暇や機会があるように思える?」
 十六夜咲夜は、一応人並みに恋をしたこともある。しかしそれはまだ外の世界にいた頃の話で、もっと言うなれば既に捨てた過去の自分であった頃の話だ。またその恋愛自体も、たとえば少しときめいたであるとか、ちょっとした恩義を大切に感じたりといった、言ってみれば一過性のものばかり。
「里へ顔を出してるんですから、良い人は見かけてるんじゃ……」
「論外。私一目惚れは信じない主義なの」
 幻想郷で人との出会いがなかったわけではない。異変が起こる度に知り合いは増えたし、普段の生活でも多くの人妖と言葉を交わしている。
 しかしそのどれも、知り合いの域を超えるようなものではない。
 古くから付き合いのある霊夢や魔理沙。一度戦い競い合った白玉楼や永遠邸の住人とは親しい友人だ。宴会の席に現れた地底の民達も同様の存在と言って差し支えないだろう。だが、恋愛対象と考えるまでには至らない。
 また、小悪魔が言うように咲夜は里へ出向くことも少なくない。しかしそれは所詮通りすがり同士であったり、客と店主の関係でしかない。ごく希に言い寄られることもあったが、気心の知れぬ存在と付き合う気にはなれなかった。
「お嬢様や妹様は?」
「仕えるべき主を恋愛対象だなんて、失礼にも程があるわ」
 館の住人であるレミリアやフランは敬愛の対象だ。パチュリーも同様と言っていい。だがそれは当然ながら恋慕の念を抱くものではない。彼女たちはあくまで主人なのだ。
「なるほど。では体験してみます?」
「馬鹿を言わないで頂戴。一朝一夕で恋愛が出来るわけがないでしょ」
「まぁ、確かに恋愛は難しいですけどね」
 奪い取るようにグラスを受け取り、小悪魔は不適な微笑みを浮かべる。
 咲夜が己の異変に気が付いたのは、その一瞬後のことだった。
「な、何を……!?」
「恋愛とは種の保存及び生殖行動からなる衝動的感情です。それを最も解りやすく端的に体験するにはどうするか。その答えがそれです」
 彼女の言葉が最後まで咲夜の耳に届くことはなかった。膝を着き、息を荒げ、己の内に起こった異変を理解する。今の咲夜にはそれ以上のことは考えられなかった。
「如何ですか? なかなか新鮮でしょう?」
 正に小悪魔の如き笑みを浮かべ、彼女は咲夜を見下ろしていた。
 十六夜咲夜はすっかり忘れていたのだ。この虫も殺さぬような顔をした小娘の正体が魔に属する存在であることを。
 如何に魔女の小間使いになっているとはいえ、その本質は闇の住人であることを。
「ば、馬鹿なことを言ってないで、早く元に戻しなさい……」
 血流が狂う。理性に流れるべき血潮が下腹部に集まる。秘部を覆い隠す申し訳程度の布切れを押し上げ、自身に生まれた新しい器官が膨れ上がる。そしてその先端はバニエを突き上げ、スカートの上からでも解るほどの自己主張をしていた。
「戻りませんよ?」
 小悪魔の一言に、咲夜この世の終わりを想像した。しかし幸運なことに、それは彼女のちょっとした茶目っ気であったらしい。
「ああ、ご心配なく。今すぐには戻らないと言うだけです。三日経てば元通りになりますが、それまでは如何なる魔法でも消せません」
「な、なんてことを……!」
「これでも元人間の咲夜さんを考慮して、一番身体に負担の少ない魔術を選んだんですよ?」
 このどうでもいい心遣いには、ほんのひとかけらの感謝の念すら浮かばない。むしろ今咲夜を支配しているのは怨鎖の念と、それを飲み込んで尚余りあるほどの衝動。
 そして十六夜咲夜は今更のように気が付いた。
 己の内を駆け抜けるこの感覚が、所謂性感であることに。
「出来たばかりの感覚ですからね。脳と神経が暴走してるんですよ。大丈夫、一度すっきりすれば収まりますから」
 妖艶な笑みを浮かべた顔がゆっくりと近づく。小憎らしいほどに美しいその笑顔に、咲夜は美しさと下劣な期待を抱いてしまっていた。
「何をどうすっきりするかは、おわかりですよね?」
 その言葉に反論する余裕は無かった。小悪魔に導かれるままに壁に背を預けて立ち上がり、彼女の肩に手を置いて身を支えた。
 そして彼女が、己の目の前に跪く様をじっと見つめていた。
「それでは、失礼させていただきますね」
 いつもなら彼女の頭を張り飛ばし、同時に数本のナイフでも投げつけていただろう。しかし今の咲夜にそんなことは出来ようはずもない。
「あら、ずいぶんと大きいですね。もしかして咲夜さん、たまってました?」
「そ、そんなこと……くぅっ!」
 細く白い指がスカートの中へ忍び込む。ショーツがずり下げられ、根本の圧迫感が消える。
 そして僅か触れる彼女の指に、咲夜はあられもない声をあげていた。
「なんて、冗談ですよ。性欲よりも体格や個体差。男性的な資質や魔力なんかの方が影響するんです。まあ、これほど立派なものが生えるのは珍しいですけど」
 先端にほど近い唇から漏れる吐息が、スカート越しにでも解るほどに敏感だった。
 体中の性感帯がそこへ集まったような。脳の中の情欲を司る部分だけが切り離されて移動したような。そんな感覚に襲われる。
 そして今すぐにでも、直接の刺激が欲しいと懇願しそうになる。
「どうします? 誰かに見られないように場所を移動します?」
「そ、そんな余裕……っ……!」
「無さそうですね。ふふっ」
 まごうことなき完全な敗北だった。
 まさかこの使い魔にしてやられる日が来ようとは、夢にも思っていなかった。
 しかし、今の咲夜に反撃の余裕はない。
 何しろ彼女の手は、既に自身の欲望の固まりを握りしめているのだから。
「ふふ、バニエに擦れるのが気持ちいいんですか? それとももっとしごいてもらいたいとか?」
「か、からかうのも大概にっ……!?」
 咲夜が口を開くのを待っていたのだろうか。小悪魔は小さく笑いながらスカートをめくり上げ、己の股間に付いた物体を露わにする。
 それはまごうこと無き男性器そのものだった。
「ほら、こんなに大きい」
「っ! こ、こら……!」
「ふふ、凄んでも怖くないですね。可愛い」
 クスクスという笑い声と共にかかる吐息。彼女の弄ぶような指先。そして妖艶な視線。それらが咲夜の理性を奪い、下劣な情欲を引きずり出してくる。
 目で確認するよりも早く、咲夜は己の変化を悟っていた。しかし実際に目の当たりにした衝撃は大きく、特にその形容しがたい形状はそのまま意識を手放してしまいたくなるほど。
「如何ですか? 今のご気分は」
 問われて答えられるような余裕はなかった。
 箒の柄よりも太く、天を突くが如く反り返ったその容姿。青く浮いた血管と筋。別の生き物か、内蔵がそのまま顔を出したかのような赤黒い先端部。己の身体に付いているとはとうてい信じがたいその物体が、自身の理性と主導権を奪い去ろうとしている。
「少し楽にして差し上げますね」
「な、何……ひゃんっ!?」
 訪ねるよりも先に、小悪魔の唇が先端に触れる。たったそれだけのことで、咲夜はあられもない声をあげてしまっていた。
「最初のひと絞り、いただきまぁす……んっ……」
 薄く開かれた唇に、己の肉棒が飲み込まれてゆく。面積にすれば手のひら一枚分だろうか。たったそれだけの部分を口に含まれただけで、咲夜はまるで腰全体を暖かく包み込まれているかのような快感を感じてしまう。
「……っ、ふ……っっ……く……!」
 男性経験はおろかその他の性交渉もほぼ経験のない咲夜でも、自慰ぐらいはしたことがある。故に女性としての性感は心得ているし、所謂中を突き上げる感覚というのも体験したことはある。だが、今味わっているのはそれらのどれとも違う。下腹に熱が溜まり、下半身が愉悦に浸る。女性の部分のような痺れる性感は薄いものの、脳髄を麻痺させる甘美な衝動はこちらの方が上だった。
 そして何より、動物的な衝動が激しい。
 咲夜は今すぐにでも腰を突き動かし、小悪魔の口腔を蹂躙したかった。しかしどこをどう押しつければより強い性感を得られるのかが解らないため、実行に移すことが出来なかったのだ。
「んぐ、じゅ……っ、ん、んくっ……んむ……じゅぶ、じゅっ!」
 唇がすぼまり、唾液が溢れ、下品な音が廊下に響きわたる。噂好きの妖精がいつ通りかかってもおかしくない、己の仕事場でもある紅魔館の廊下に。
「んっ……場所移動します? 見られたら恥ずかしいですか?」
 まるで心を読んでいるかのようなその発言が憎らしい。
 そして、もしその通りなら自身の望みも解っているはずだというのに。
「…………て」
「はい?」
「つ、続けて……お願い……っ……。もう、切なくてたまらないの……!」
 自ら懇願する日が来るとは、夢にも思わなかった。たかだかこの程度の肉の塊が付いたところで、どうということはないと思っていた。しかし、事実は抗い難い衝動を伴って咲夜を飲み込んでいた。
 まるで自らの正体が、そのグロテスクな物体そのものであるかのように。
「く、くわえて……。お願い、もうたまらないの……!」
 咲夜の求めに、小悪魔は何も言わずに従う。
 しかし自らのものをくわえる寸前の彼女の表情は、奉仕する者の顔ではなかった。
 そう、それはたとえて言うなら、聞き分けのない飼い犬と仕方なく遊んでやっているような、そんな表情だった。
「んぐ、じゅ、ずるっ。じゅぶ……ちゅ、ちゅ……ん、んむっ……」
「ひ……っ! あ、ふあ……や、んっ! ふぁ!」
 彼女の顔が前後する度に淫猥な水音が響き、淫らな声を上げてしまう。
 だが、次の快感はそれらがただの前菜であったと笑い飛ばすかのようだった。
「ひひゃっ!? ちょ、そこ! ひゃ! りょうほ……ひっ! っくぁ! ひぁぁう!」
 十六夜咲夜は、男性になったわけではなかった。
 忌々しい肉棒の根本には女性器が残っており、ややそれに引っ張られる形で飛び出してはいるものの、敏感な秘芽の部分も確かに存在していた。
 そして知らず濡れていたその部分は小悪魔の指をすんなりと受け入れ、刺激を受けた秘芽は確かめずとも解るほどに赤く充血していた。
「我慢しないでかまわないんですよ? 全部受け止めて差し上げます」
 正に悪魔の如き囁きだった。彼女の唇が怒張を擦り上げる度に、その指が秘芽を弾く度に、膣壁を撫で上げる度に、咲夜の理性は吹き飛ばされ、意識と視界は純白に染められていった。
 己の口がなんと発しているか、それすらも快楽の波に浚われ、ようとして知れない。
「ひっ……だめ! も、もう……や、たって……られ……あぁっ! ふぁ、あ、ひゃ、あ、ひっ……! ひぅっ! あぁぁ!」
 搾り取られるとはこういうことなのだろうか。咲夜は途切れがちな意識の向こうでそんなことを考え、そして無意識のうちに小悪魔の頭を掴んで腰を振っていた。
「もう……で……っ……! あ、ふぁっ! っく……くぅっ! あ、ひ、は……んっ! んんぅ! んはぁっっ!」
 全身を襲う震えるような愉悦。そして背筋を駆け抜ける快楽。全身の筋肉が強ばり、肺が呼吸することを拒否する。
 そして、十六夜咲夜は初めての射精を迎えた。
「んんっ……んんぅ! んぐ、んっ! んぶっ……! ん、んふぅっ!」
 眼下では小悪魔が苦しげなうめき声を上げ、口元から白濁した液体を溢れさせている。
 そして彼女の苦悶の表情に、咲夜は己の支配欲が性欲と同時に満たされてゆくのを感じていた。
「は……ぁっ……はぁ、は……んっ……ふはぁ……」
 全身の筋肉が弛緩を要求し、壁に凭れて立つのがやっとのまま、心拍を整えるべく浅い呼吸を繰り返す。そんな咲夜に、小悪魔はどこか勝ち誇ったような笑みを向けた。
「濃厚な初絞り、ごちそうさまでした」
 間違いない。この小娘は全て承知の上でわざとやっている。こうすることが咲夜にとって最も辛い羞恥であることも、もうろうとした意識の中で刻みつけられたその笑顔が、後に快楽の火種になることも。
「ほ、ほんとうに……三日後には消えるんでしょうね……」
「ご安心ください。私悪魔ですけど、嘘はあんまり申しませんので」
 今すぐにでも彼女をはり倒してしまいたかった。愛用のナイフを眉間に突き立ててやろうとも考えた。しかし今の咲夜には、それだけの気力も体力も無い。
 今はただ、己の身体を支える。たったそれだけで精一杯だった。



 十六夜咲夜の一日は早朝に終わり、昼過ぎに始まる。主人であるレミリアが夜明けと共に寝付くのを見送り、それから起きてきた妖精達に指示を出して眠りにつき、昼を回るか回らないかというぐらいに目を覚ますのだ。
 そんな十六夜咲夜の、いつもの日常が今日も始まる。
 彼女の身体の、ごく一部分を除いて。
「……面倒なだけじゃない。何よこれ」
 昼食。尤も彼女にとっては朝食に当たるのだが。ともかくもそれを済ませた辺りで、咲夜は既に新しく付いた物体に辟易していた。
 まず寝起きからして最悪だった。股間に付いたその物体は特別の性感を求めるわけでもなく喫立し、ショーツどころか薄手の夏布団まで持ち上げて主張する始末。
 幸いなことにその努張は尿意の解放と共に収まってくれたが、それでもだらしなくぶら下がるその物体を女性用の小さな布切れの中に納めることは難しく、咲夜は別段生理というわけでもないのに大きめの下着を身につけざるをわ得なかった。
 それだけではない。普段なら気にも止めない妖精達の着替えや、談笑の際に僅か触れる肌など、どうでも良いことにまで股間の逸物は主張しようとする。その度に咲夜は素数を数え、深呼吸をし、漢詩や故事を脳内で読み上げる努力をしなければならなかった。
 また、先日あれだけの痴態を晒したにも関わらず、妖精達は咲夜の変化に一切気が付いていないようだった。恐らくは小悪魔が何かしたのだろうが、これは感謝半分怨差半分といったところだろうか。何しろ自身の変化を悟られぬように努力しなければならない場面は多岐に渡り、いっそ打ち明けてしまった方が楽になれるのではないかと思うことも少なくなかったからである。
 ともあれ、十六夜咲夜の半陰陽生活一日目はこうしてつつがなく終了した。
 と思ったら大間違いである。
「はぁ……」
 本日何度目のため息だろうか。最早数えることすら馬鹿馬鹿しい。
 もちろんため息の原因は自身の股間にあり、彼の物体は今も痛々しい程に自己主張をしている。しかも今回は今朝のように尿意を伴ったものでもなく、昼のように素数を数えても漢詩を暗唱しても収まりそうもない。
 それはたとえて言うなら、抑圧され続けた人民が起こした暴動のよう。
「どうしろって言うのよ……」
 当然のことだが、十六夜咲夜の身体は十六夜咲夜が支配している。対抗勢力も議会もない、完全な独裁政権のはずだ。
 であるならば、それに反旗を翻す存在など、まして魔法によって生まれた新参者の意見など切り捨ててかまわないはずだ。くだらない少数派の意見など、ファシズムの如き強権を振りかざし、一刀の元に薙払ってしまっても問題ないはずである。
 今の十六夜咲夜に必要なのは休息と睡眠であり、劣情を慰める無駄な体力と時間など、考慮する余地もない。
 しかしどうやらこの抵抗勢力は、それら独裁者の意見などまるで意に介さず、我らの主張こそが正当であると言い張るつもりらしい。
「………………仕方ない」
 呟いてから深く長いため息を一つ。そして咲夜は反乱軍に屈した。
 ソファに置いたクッションを枕元に投げ、布団を丸めて背もたれを作る。それから仕事着を脱ぎ捨て、下着一枚になってベッドへ上がり、後始末用のティッシュを枕元へ。
 こんな準備をしている自分の姿が余りにも情けなくて泣けてくる。しかし今は贅沢を言えない。一刻も早くこのくだらない行為を済ませ、明日への活力を取り戻す睡眠という大切な仕事へ戻る必要があるのだ。
「……熱い」
 ベッドへ上がり下着の上からその部分に触れると、布越しでも解るほどの熱が伝わってくる。もしこの熱が反乱軍の勢いの正体であるとするならば、自らが屈した理由も頷ける。
 そして咲夜はその正体を改めて確かめるべく、腰を浮かせて下着を脱ぎ捨てた。
「っ…………」
 ゴムが僅か先端にかかり、恥じらうように抵抗を見せる。しかしその下から現れたのは、そろそろ見慣れ始めた赤黒い肉棒。
 見れば見るほど忌々しくも醜怪なその物体へ、咲夜は恐る恐る指を絡ませて握りしめた。
「んんっ……」
 くぐもった声を漏らしながら絡めた指をゆっくりと上下させ、それをしごく。どこをどうすればよいかなどまるで解らないため、全てが文字通りの手探りによる行為だ。しかしその物体は、まるで咲夜に対して教鞭を執るかのようにはっきりとした反応を見せ、愉悦の波というわかりやすい形で指示してくる。
「ふぁ……っ、ん……んぅ……」
 自然と詰まる呼気と、意志に反して浮き上がる腰。そして触れてもいないのに蜜を溢れさせる秘所と、新参者に負けじと自己主張を見せる秘芽。彼らが何に対抗意識を燃やしているのか、咲夜にはさっぱり理解できなかった。しかしやるべきことは決まっているし、もともとある感覚を使わない手は無い。
「……っあ! ふ、んっ……んんっ……!」
 既に濡れていた入り口を擦り上げ、秘芽に蜜を塗りたくる。同時に硬く熱い肉棒を握り、先端から根元へと扱いてゆく。小悪魔の時ほどの激しい快楽は得られなかったが、続けていれば絶頂を迎えられそうで僅かに安心できる。
 ふと、世の男性は毎夜このような事をしているのだろうかという思考が過ぎる。夜な夜な床に着く前に、伴侶があるものは伴侶と、そうでないものは一人で、このような事を続けているのだろうか。そう思うと、僅かに同情の念を感じざるを得ない。
「痛……っ、く…………もう……!」
 秘所からの愉悦に気を取られ、僅かに滑った爪が先端に刺さる。この物体は剛毅な外見の割に繊細らしく、たったそれだけのことで激痛が走った。しかしだからといって刺激を緩めれば性感は薄れ、どうあがいても絶頂は迎えられそうも無い。昨日の体験で解ったことなのだが、女性としての絶頂を迎えても男性としての絶頂。つまりは射精を行わない限りこの物体はどうにもおとなしくなりそうもないのだ。
「なんで……こんな…………あ、んっ……! んく…………!」
 咲夜は基本的に合理主義だ。無駄なことは出来る限り避けて通りたい。故にこのような行為は一刻も早く終わらせてしまいたかった。さっさとこのわからずやをおとなしくさせ、安らかな睡眠につきたかった。しかし先ほどの痛みで絶頂への感覚は遠のき、しかしかの物体は萎える気配を見せず、結果として振り出しに戻るを宣告されたようで歯痒い。
 こんなことなら爪を深めに切り落としておくべきだったと後悔しつつ、咲夜は自身の秘所へと指を滑り込ませ、硬く反り返った肉棒の根元側からの刺激を試みた。
「……く、んっ……は…………ふぁっ……! んふ、んっ…………ぁ……!」
 直接触るのとはまた違う刺激と、秘所の中に現れた新しい性感に思わず腰が浮き上がる。荒い息とともにくぐもった嬌声が漏れ、秘所からの蜜と肉棒の先端から溢れてくる蜜で指先がぬめる。そしてそのぬめりがより一層の愉悦を与えた。
「ふあ……っ! っぐ、い、いき…………そ……!」
 全身が意味もなく強張り、足先が伸びきってゆく。下腹を引き絞るような筋肉の動きを感じながら、咲夜はついに絶頂を迎えた。
「な、何…………か、出……くっ!!」
 中空を突き上げるように腰が動き、先端から欲望の塊が迸る。それと同時に咲夜の視界は純白に染まり、たとえようも無い充足感と開放感に満たされた。
「くぁ…………っ、は、はぁ………………」
 いつの間にか乱れていた呼吸を整え、全身を襲う脱力感に身を任せて寝具に身体を預ける。視界の端では自身が放った欲望の塊がシーツに飛び散り、勢いあまった数滴がベッドの縁にへばりついてだらしなく垂れ下がっているのが見える。
 そして咲夜の心に先ほどの充足感は既に無く、代わりに言い知れぬ虚無感だけが漂っていた。
「はぁ…………」
 飛び散った液体を乱雑に拭き取り、シーツを張り替える。そんな後始末をしている自分が情けなくも空しい。
 射精の瞬間、自身は確かに満たされていたはずだった。今まで味わったことの無い開放感は心地よく、今思い返しても素晴らしく思える。だがこの空しさは一体なんなのだろう。
 問いを投げかけても答えるものなどあるはずも無く、咲夜はシーツを丸めて部屋の隅に投げ、ぐったりとした表情でベッドへ身を投げる。
「……生臭い」
 拭っただけでは取れぬ悪臭を感じ、それでも手を洗う気力など無く、咲夜は全てを投げ出すようにして眠りについた。



 自慰行為と性交渉は別腹だとでも言いたいのだろうか。目を覚ますとそこには、勢いよくそそり立った物体が見える。幸いにしてその怒張は一旦おとなしくさせることに成功したが、卑猥な妄想だけは脳裏の端々から浮かび上がって仕方が無い。
 小悪魔はこの物体を「恋愛感情を理解させるため」につけたはずなのだが、これが本当に愛や恋といった感情の先にあるものなのだろうか。もしそうだとするならば、あの門番の行動も理解できなくは無い。
 しかし逆にこうも考えられる。最愛の人物と触れ合っていて、何故この性欲を押さえつけることができるのだろうかと。
 もし彼女達が。いや、世の恋愛をしている男女が全員これらの感情を内に秘めながら、それを押し殺して日常生活を送っているのだとしたら、彼らはなんと辛抱強いことだろう。
 そしてこのわからずやの物体をぶら下げたまま日々を過ごす男性とは、どれほどの苦悩に満ちているのだろう。
「強姦魔の気持ちが、少しだけ解る気がするわ……」
 誰にも聞かれぬように小さく呟き、それから咲夜は一つの考えにたどり着く。
 面倒事の処理は、現況にやらせれば良いではないか。と。
 小悪魔は普段地下で司書として働いている。図書館は彼女の管轄であり、妖精達はあまり近寄らない。つまり噂好きの彼女達に見られる心配は無い。
 もちろん小悪魔配下の使い魔達や図書館の主であるパチュリーに感づかれる可能性は十分にあるが、それらのリスクは場所とタイミングを選ぶことでそこそこに回避できる。
 何より、このどうしようもない劣情と性交渉への期待を満たすには、それ以外に手立てが無い。
 咲夜は午後からの仕事を早めにこなし、半ば無理やりに一時間程度の空き時間を作り上げた。目端の効く者が何事かと心配していたが、疲れているので休憩時間を作りたいのだと言ったら納得してくれた。嘘をついたことの罪悪感はあったが、それらも全て小悪魔のせいなのだと考えれば気も楽になる。
 何より、我慢を続けた結果レミリアに粗相をしてしまうよりは何倍もましな筈だ。
 そんなわけで、咲夜は今図書館の扉の前に居る。この扉を開ければ自身を慰めてくれる存在が居て、このどろどろとした欲望を解き放ってくれる。そう思うと胸の高鳴りを感じずには居られない。
「失礼します……」
 重い扉を押し開き、図書館へと足を運ぶ。幸い近くにパチュリーの姿は無く、上手く動けば誰にも気取られぬように出来そうだった。
 このヴワル大図書館は、恐ろしく広大かつ複雑だ。所狭しと並ぶ書架は完全に視界を遮り、所によっては袋小路になっている場所もある。つまり、秘め事をするのには事欠かない場所と言うわけだ。パチュリーから離れた位置に陣取ることで音は届かなくなるはずだし、書架の陰に隠れれば視線を気にする必要も無い。余り使われていない書架があることは咲夜も知っているし、当然ながらその近くにパチュリーが現れることも無い。
「あら咲夜さん。どうかなさったんですか?」
 そして御誂え向きに小悪魔を発見することが出来た。これは天運が味方していると考えても良いだろう。
「貴女に用事があったのよ。ちょっといらっしゃい」
 彼女の手を強引に掴み、図書館の奥へと引きずって行く。もう目に付かない場所ならどこでもかまわなかった。とにかくこのもやもやをすっきりさせ、ついでに余計なことをした小娘に灸を据える。それだけが咲夜の望み。
 しかし、咲夜はすっかり忘れていた。
 初めてこの物体を付けられたとき、自ら傅いた彼女は美味しそうにそれを舐め、啜り、飲み込んでいたことを。
「ああ、そういうご用事ですか。でしたら」
 咲夜の背後で小さく指が鳴る。その瞬間視界は一瞬だけ暗転し、目の前には書架の壁が立ちはだかった。
「これは……?」
「この広い図書館をなんの移動手段もなしに管理してるとお思いでした? これぐらいのことが出来なくては司書は務まりませんよ」
 それは恐らく、瞬間移動とかいうものなのだろう。同じような書架が並ぶ図書館故にすぐにはわからなかったが、背表紙に書かれた本の内容や書架の高さ、照明の位置等から、なんとなく推察できる。
 そして自身が考えていることをすっかり読まれ、それを彼女が望んでいるのだということも。
「それで、咲夜さん。本日はどのような御用向きで?」
「それ本気で聞いてるの? それとも嫌味のつもり?」
 ナイフよりも鋭い視線を投げつけながら、咲夜は小悪魔に尋ねる。しかし睨まれた彼女は涼やかな表情を浮かべたまま。
 間違いない。この小娘はわざとやっている。自身を快楽の縁に叩き込み、理性という高台の上から愉悦に歪む顔を眺めるつもりなのだ。
 ならば、するべきことは簡単だ。
「貴女に望んでいるのはお茶の相手でも仕事の手伝いでもないわ」
 鋭く身を翻し、手の中に銀製のナイフを具現化する。そして確かな殺意を持って彼女を床に押し倒し、その喉元に輝く凶器を突きつける。
「貴女のおかげで仕事にならないのよ。責任を取ってもらう。もちろん拒否権はないわ」
 死刑宣告のつもりで言葉を突きつけ、ナイフを閃かせて彼女の服を切り裂く。
 しかし現れたのは恐怖に怯える少女の表情と柔肌ではなく、吸い付くような美しい肢体と妖艶な笑みだった。
「ああ、そんなことでしたか」
 黒いベストの下の白いブラウス。そしてその下の黒い下着の向こうから、天使の如き純白の肌が覗く。特にちらりとだけ見える双丘は、女性として見ても欲情を覚えそうな程に美しい。
 しかしその主たる彼女の顔は、明らかに黒く淫猥な企てを浮かべていた。
「ご自身でなさっただけでは満足できませんでしたか? それとも、昨日の私の口の感触を忘れられなかったとか?」
「っ! 貴女まさか覗いて……!」
「あら、やっぱり自慰をなさってたのですね」
 どうやら完全に彼女の術中にはまっていたようだ。いつもなら引っかからないような誘導尋問に、咲夜はあっさりと自らの痴態を吐露してしまう。
 今、咲夜は小悪魔の身体を組み敷き、その喉元へナイフを突きつけている。咲夜のさじ加減一つで彼女の喉笛は鮮血をまき散らすこととなり、その気になれば胴体との永遠の別れを宣告することも出来る。
 しかし、今追いつめられた表情をしているのは咲夜の方であり、余裕の笑みは本来泣いて命乞いをしてもおかしくない小悪魔が浮かべていた。
「それで、どうなさるおつもりですか?」
「こうするのよ」
 ナイフで彼女の衣服を切り裂き、それから自身のショーツを片足だけ脱ぎ去ってバニエごとスカートをめくり上げる。そして既に先走りが溢れ始めた先端を小悪魔の鼻先に突きつけ、荒い息を吐きながら命令する。
「貴女がつけたものでしょう? 貴女が責任もって処理しなさい」
 単純な話だ。昨日と同じように彼女の口に精を吐き出せばいい。一度で足りないなら二度三度。そうすれば一日の安寧が確保できる。言葉ではやや後れを取ったが、体勢的に有利なのは間違いない。自分がこの交渉において負ける要素は一つもない。
 咲夜はそう確信していた。
「わかりました。でも、今の体勢では満足に奉仕できません。誓って逃げたり逆らったりすることはありませんので、どうかもう少し自由にさせていただけませんか?」
 体の良い甘言に聞こえなくもないが、確かにこの体勢で無理矢理にくわえさせ、結果彼女の歯によって激痛を与えられては元も子もない。咲夜は僅か逡巡した後、彼女を自由にすることにした。
「ありがとうございます。それで、本日もお口でよろしいのですか?」
「どういうこと?」
「私のせいで仕事に支障を来しているのであれば、私が全ての責任を取るのが道理。つまり、どこを使っていただいてもかまわないということです」
 囁くような一言と共に、彼女はやや上目遣いにこちらを見ながら薄く微笑む。
 彼女の言葉の意味は、すぐに理解できた。要はこれの本来の使い方も、やや普通ではない使い方も、好きに試してかまわないということだ。
 そしてその意味を理解した咲夜は、思わず生唾を飲み込んでいた。
「本気で言ってるの?」
「洒落や冗談でこんなことは言いませんよ。もちろん、咲夜さんが貞操観念の元にお断りするというなら無理にとは……」
 十六夜咲夜にも人並みの貞操観念はある。しかし処女や童貞といったものがそれほど大切だとは考えていなかった。白馬の王子様を夢見る少女でもあるまいし、大切な人のためにくだらない膜一枚にこだわるなど愚の骨頂だし、むしろ己の性感と技術を磨いていた方が効率的にしか思えない。もっと言えば、魔法で付けられたまやかしに近い物体の貞操など、考える気にもなれない。
「そんな拘り、存在しないわ」
「でしたら、まずは準備をさせていただきますね」
 そう言って小さく笑った彼女は、スカートと下着を脱ぎ捨てて先日と同じように自身の前に膝立ちになる。破れた服の向こう側に覗く白い裸身と、淡い茂みに隠された彼女の秘所が咲夜の視線を釘付けにした。
「んっ……ふっ…………」
 軽く息を吐いてから、小悪魔は咲夜の逸物を飲み込んでゆく。今日はじらすことなく、しかも喉の奥まで届かんばかりに深く。
「はむ……ん、ちゅっ…………んぐっ……」
「ん……あっ、ん……ふぁ……っ」
 先日よりも深い行為に、咲夜は早くもくぐもった声を漏らしてしまう。だが今回はそれだけではない。添えられた舌が努張の裏側を舐め、先端を弄ぶ。添えた指が昨晩自身で慰めたときのように、柔らかくしごき始める。
 そして、そんな行為をしながら小悪魔も自身を慰めていた。
「んぷ……ん、んくっ……ちゅ、ずるっ、じゅるっ……んぐっ……」
 震えるような快楽と、淫らな音。そして目の前で繰り広げられる自慰行為に、咲夜は早くも絶頂の兆しを迎えていた。背筋を射精感が駆け上がり、代わりに解放への欲求が下腹に溜まってゆく。だが、その爆発は寸手のところで止められてしまう。
「ちょ……な、何を……んんぅ……!」
「だめですよ、咲夜さん。今出したらもったいないです」
 根本を強く握りしめ、小悪魔は咲夜の射精を阻止する。何がもったいないのかと尋ねたくなるところだが、咲夜はそれどころではなかった。爆発寸前だった欲望はそのはけ口を失って下腹を圧迫し、狂おしいまでの欲望を脳内に溢れさせる。
「そ、そんな……!」
「落ち着いてください。私の準備は済んでますので……ね?」
 微笑む彼女が見せたのは、溢れんばかりに蜜を滴らせた秘所だった。
 彼女自身の指によって割り開かれたそこは、触らずとも解るほどに充血した秘芽と共に誘うようにひくついている。しかし何よりも効果的だったのは、羽虫を誘うかの如く漂う、甘い香り。
「私のことは気にせず、どうか思う様お使いください」
 図書館の絨毯に仰向けに身を預けた小悪魔は、足を開いて咲夜の侵入を招いた。既に彼女の衣服ははだけて、柔らかい乳房も薄桃色の乳首も露わになっている。
 咲夜はもう、何も考えることが出来なくなっていた。
「焦らないで……もう少し下…………」
 言葉を交わす余裕も無く、咲夜は小悪魔に覆いかぶさって彼女の内部を犯そうと腰を動かす。ぬめつくそこは先端を擦り付けただけで射精してしまいそうになるほどに熱く柔らかいが、思った以上に反り返った自身の怒張が目算を狂わせる。そんな咲夜を見かねて小悪魔はそっと手を沿え、その先端を淡く開いた花びらの中心へと導いた。
「そのまま……んはっ……! え、遠慮しないで…………奥まで…………!」
 ほんの少し先を潜り込ませただけで、圧倒的な愉悦と射精感が湧き上がる。しかし脳から分離した本能がその快楽を押さえ込み、咲夜に更なる愉悦を要求した。
 息が詰まりそうなほどの快楽と明滅する視界の中で、咲夜は小悪魔を抱きしめるように彼女の奥めがけて強く深く突き上げた。
「んはぁっ……!」
「な、何これ……ひ、ふぁっ……んん…………!」
 先端に別の感触をした何かが当たり、抱きしめた彼女の体温に全てを包み込まれる。言葉に出来ぬほどの快楽と堰を切ったような欲望の渦が咲夜の先端めがけて寄り集まり、耐えがたい欲求となって情欲を掻き立てた。
「こあ…………あ、ひゃぁっ! んふぅっ!」
 積もりに積もった射精欲は、遂に行き場を失って小悪魔の中で爆発した。例えようもない解放感と、絶頂のうちの最も濃厚な部分だけを切り取ったような激しい愉悦。そして初めて味わう震えるような満足感。
「ぁは……、すごく熱い……。でも、まだダメですよ?」
 押し寄せるそれらの快楽に押し流されそうな意識と身体を、小悪魔の腕が掴む。そして咲夜が何事かを理解するよりも先に、彼女の唇がだらしなく開かれた口を塞いだ。
「んんっ……んっ、んんぅっ……」
「はくっ、ん、ふ……ちゅ、ん、ん……ふはっ……。咲夜さんだけなんて、ずるいです。私も一緒に……ね?」
 上気した顔で微笑む小悪魔の表情は、ぞくりとするほど美しかった。そして彼女の言葉と表情に、しぼみかけた逸物が息を吹き返し始める。
「そ、そんなこと……言われても……」
「大丈夫ですよ……ほら……」
 囁きと共に彼女の膣壁が蠢き、咲夜のそれを擦り立てる。舌よりも熱い何かで指よりも繊細な動きをするそれは、まるでミルクを絞り出すかのようだった。
「ね、ほら……。さっきよりも大きいぐらい…………」
「は、恥ずかしいこと言わないで……んきゃっ!」
 腰に絡み付いた彼女の足が咲夜を抱き寄せ、腰を深く押しつけさせる。
 彼女の言葉通り先程よりも大きくなった肉棒は小悪魔の中を突き破らんばかりの勢いで押し上げ、咲夜の理性などお構いなしに愉悦の信号で脳髄を焼き続ける。
「二人で気持ちよくなれば、もっと気持ちいいんですよ? だから、今度は私も満足させてください」
 抱き寄せられ、甘く深い口付けを交わされる。彼女と自身の唾液が混ざりあって口元からこぼれ、口を離せば銀色の糸が一筋光る。そこに現実感などというものは存在しない。
 彼女の言うとおり、深い口付けは咲夜により強い悦びを与えた。
 それだけではない。胸に手を伸ばせば、秘所に触れれば、首筋にキスをすれば、その度に彼女の膣壁が自身を擦り立てる。愉悦に歪む顔は怒張を大きく強くさせ、嬌声は情欲を掻き立てた。
「こ、こあ……んく、んっ! んぅ……ふぁ!」
「咲夜さん……もっと、もっと激しく……ひゃんっ! あ、ふ……んくっ! んきゅぅ!」
 獣のように腰を突き上げ、むさぼるように口付ける。そこに完全で瀟洒なメイドの姿は存在しなかった。あるのはただ、性欲に支配されたケダモノの姿のみ。
「わ、わたし……もう、でそ……! だめ、がまん……できなっ! んあ、はっ! ふぁぅ!」
「咲夜さん、いって! 私の中で! 一番奥でいっぱい出して!」
「んはぁっ! あ、ふぁぁっ……!」
 短く絞り出すような声と共に、咲夜は小悪魔に抱きつくようにして溜まりに溜まった精液を吐き出した。身体の奥底から爆発したような感覚はすぐに咲夜の視界を焼き、意識を焦がす。
 腕の中の小悪魔もまた、同じだった。しがみつくような仕草と共にひときわ高い嬌声を上げ、最後の一滴まで絞り尽くさんばかりに肉棒を刺激する。
 朦朧とする意識の向こうで見えた小悪魔の表情は、何よりも美しく見えた。
「ぁは……っ、は……はぁっ、ふぁ……っ……」
「はぁ、はぁ…………。さ、咲夜さん……気持ちよかった……」
 震える腕が背に回され、彼女の指が背筋を歩く。そんな取るに足らない愛撫でも、咲夜は短く甘い声を上げてしまっていた。
「こ、小悪魔……もう、離れても……」
「そうですか……? 咲夜さんのそれは、まだ満足してないみたいですけど……?」
 彼女の囁きで、咲夜はようやく気が付いた。
 身を捩って引き抜いた逸物が、早くも硬さを取り戻し始めていることに。
 己の性欲と全くコントロールできぬその物体に軽い目眩を覚えつつ、咲夜は一つの疑問を抱えて
いた。
 これが本当に、彼女たちが大切にする愛や恋という感情なのだろうか。
 答えを見つけるよりも早く、咲夜の唇は腕の中の淫魔に塞がれていた。


 結局火のついた小悪魔から解放されたのは、彼女の上と下の口にもう一度づつおかわりをご馳走した後だった。
 おかげで咲夜は夕方から耐えがたい眠気に襲われ、方々から心配された上にレミリアにまでもういいから眠れと言われる始末。
 メイド長としてそのような言葉に甘えたくはなかったが、三大欲求に逆らえるはずもなく。
(ん、んん……)
 真夜中に泥のような眠りについた咲夜は、珍しく夢を見ていた。
 夢の中の自分は、下着一枚というあられもない姿だった。そして自身の目の前にはあの門番と月兎が見える。
(れ、鈴仙……? それに美鈴も……?)
 彼女たちは、ついぞ咲夜が目にしたことのない淫猥な笑みを浮かべていた。そしてその表情の意味を悟るよりも早く、二人の指が自身を弄んでゆく。
(ちょ、二人とも何して……)
 美鈴の指先が胸に伸び、柔らかい咲夜の双丘を掴む。その間に鈴仙はショーツを脱がしはじめている。
 夢の中の咲夜にも、あの憎たらしい物体はきちんとぶら下がっていた。
(んぁっ! ひゃ!)
 やおら先端を舐められ、咲夜は思わず短い声を上げる。その間にも美鈴は胸を愛撫し、乳首を擦って転がしていた。
 二人の責めを受けながら、咲夜はここが夢の世界なのだと改めて実感をした。
(ふぁっ……は、もっと舐めて……)
 夢ならば遠慮する必要などない。あれほど搾り取られたのに未だ衰えぬ逸物には嫌気がさすところだが、こうして夢の中で快楽を貪れるのであれば願ったり叶ったりだ。
 起きたときに寝具が汚れている可能性はあるが、また小悪魔の世話になって昨日のような失態をするよりはましだろう。
(ああ、そうよ……もっと奥まで飲み込んで……)
 希望に答えるように、鈴仙はゆっくりとその肉棒を飲み込んでゆく。それだけではない。彼女の指が咲夜の秘芽を淡く愛撫し、秘所をほぐすように責め立てる。その間にも美鈴は胸を揉みしだき、爪の先で先端を擦るように刺激してくる。
(あ、んっ……なんで、そんな上手……っくう!)
 彼女たちの愛撫は、まるで咲夜の弱点を知り尽くしているかのようだった。絶妙のタイミングと加減でもたらされる愉悦に性感が高められ、繰り返される刺激に堪え切れぬほどの射精欲を覚える。
 そして絶頂が近づくにつれて咲夜の意識は覚醒へと向かい、目の前の信じがたい光景が露わになった。
「ふぇ……? うそ、こあ……! あ、ひゃぁっ! ふぁぅ!」
 絶頂の直前に見えた光景は、自身のベッドに潜り込んで肉棒を貪る小悪魔だった。
「あ、で……や、ふぁっ!」
「ん、んぐ……っ、んく、んく、んっ……」
 何故ここにいるのか、何故こんなことをしているのか、今が何時で業務はどうなっているのか。幾つもの疑問はそれが形になる前に絶頂によって消し飛んでいった。
 後に残ったのは、いつもの圧倒的な解放感と満足感のみ。
「ん、んっ……ふは、ごちそうさまです。咲夜さん」
「ど、どうしてここに……」
「どうしてって、咲夜さんと最後の楽しみを味わいに来たんですよ」
 彼女の言葉で、咲夜はようやく思い出した。
 この乱痴気騒ぎも、今日で終わりを告げるのだということを。
「皆さんには、咲夜さんは体調を崩されて休んでいると言ってあります。昨日のこともありますので、疑う者は居ませんでした。そして万が一のことを考えて、この部屋には私の力で鍵をかけてあります。誰も入れないだけではなく、音も声も一切漏れませんよ」
 にじり寄る彼女の微笑みの向こうに、計算づくという言葉が透けて見える。
 おそらく、今日までの出来事は全てこの瞬間のために積み上げられた布石だったのだろう。そうでなければ、自分が呆れるほどの淫乱なのだとしか考えられない。
「ここで断っても、無理矢理犯すんでしょう?」
「断りませんよ。咲夜さんなら」
 勝ち誇った笑みが鼻につく。しかし彼女の言うとおり、咲夜は断るつもりが無かった。
 そう、望まれるのであればそうしてやればいい。彼女の穴という穴を犯し抜いて、己の性欲のはけ口にしてやればいい。そう考えていたからだ。
「良い度胸ね」
「ええ。それに、そう易々とはいきませんよ?」
 しかしどうやら、この淫魔は咲夜より一枚も二枚も上手らしい。
 にまりと笑ってスカートをたくし上げた彼女の股間には、あり得ない見慣れたものがそそり立っていた。
「なっ……!」
「ご安心を。私のものはいつでも消せる方ですから」
「そう言う問題じゃないわよ! それでいったいどうしようって言うの!」
「あら、言わないと解りません?」
 笑顔で解説する彼女の口から飛び出したのは、まさしく先ほどまで咲夜が考えていた事だった。
 唯一違う点があるとすれば、彼女は咲夜の肉棒まで視野に入れていたと言うぐらいだろう。
「お相手、していただけるんですよね?」
 無言の脅迫。そして微笑み。
 咲夜の記憶の中にある小悪魔は、虫も殺さぬ笑みを浮かべる柔らかい存在だったはずだ。完全合理主義のパチュリーにふさわしくないほどに感情的で、いつも柔らかな表情を絶やさず、小悪魔という名前の天使なのではないかと思えるほどに清らか。それが小悪魔という存在のはずだった。
 しかし、やはりどれだけ穏やかな顔をしていても、悪魔は悪魔と言うことなのだろう。
「貴女、悪いものでも食べたんじゃないでしょうね」
「新鮮なミルクなら何度か頂いております」
 もうだめだ。腹を括ろう。咲夜は自身に深くそう言い聞かせた。
 どうせこの小娘が満足しない限り、自分に自由と安寧は訪れない。彼女が魔法で作った産物なのだ。ここで無碍に断った結果、明日の朝から悲劇の再開など冗談ではない。
 それならば一時の享楽と割り切って楽しみ、明日からは今日までの出来事を長い夢として忘れ去ってしまえばいい。
「わかった。でも一つだけ条件があるわ」
「明日からは普通の生活に戻り、二度とこのような真似をしないこと。ですか?」
「解っているなら結構よ。どうする?」
「それはもう。咲夜様が望まぬ限りは」
 それだけの約束が取り付けられるならば十分だった。彼女はどう思っているか知らないが、咲夜としてはこんな厄介物は二度と扱いたくない。確かに通常では味わえぬ快楽は魅力だが、それに溺れて本来の役目を見失うほど、十六夜咲夜は墜ちていない。それに咲夜には、一つの確信があった。
「いいわ。なら最後なのだし、遠慮せずに楽しませて頂戴」
「もちろんです。ではまず、私の物をくわえていただけますか?」
 眼前に突きつけられた物体を凝視した瞬間、咲夜は己が交わした約束を深く後悔した。
 見れば見るほどグロテスクなこの物体を、咲夜は最初芋虫のようだと思っていた。しかし、こうして目の前に晒され、手を添えれば解る。
 これに比べれば、芋虫など愛玩動物並だ。
「んっ…………」
 手を添えて大きく口を開き、舌を下げてその物体をゆっくりと飲み込む。喉の奥から生臭い匂いが鼻を刺激し、息苦しさも手伝って目尻に涙が浮かぶ。口に含めばその律動はより鮮明に感じられ、脈打つ血管の一つ一つまでを確認できた。
 そして、そんなおぞましい物体をどこか愛しく思う自分に恐ろしさを覚える。
「んぶ、んっ……んぐ、む、んじゅ……んぐっ……んっぷ……!」
「あぁ……上手ですよ咲夜さん…………」
 かけらも嬉しくない褒め言葉を聞き流し、咲夜は小悪魔の肉棒に集中する。一度彼女にされていたこともあり、ましてや現在進行形で自分に生えている物体だけに、どこをどうすればより強い快楽を得られるか理解していた。
 舌を沿え、裏側と先端を舐めながら唇をすぼめて刺激する。口元から溢れそうになる唾液をたっぷりと絡め、根元と秘所を軽く指で突付くようにしながら注挿を繰り返す。
 彼女の逸物を咥えながら、咲夜は二つの相反する感情に襲われていた。
 一つは、この辛く苦しい行為をさっさと終わらせたいという思い。もう一つは、本能に訴えかけるような疼き。
 特に後者は咲夜の性感を刺激し、触れてもいない秘所から蜜を溢れさせるほどに強烈だった。
「んぐっ、ん、んぶっ! ん、じゅぶ……ちゅ、ん……んぐっ」
 喉奥から脳髄に淫猥な水音が響きわたる。それはまるで神経を直接揺さぶるような、脳髄を直接震わせるような、絵も言われぬ卑猥さを伴っていた。
 そして咲夜は、その音に夢中になる余りに小悪魔の変化を見逃していた。
「さ、咲夜さん……でる……でます……あ、んんっ! あぁぁ!」
「んぐっ!」
 突如喉奥に熱い固まりを打ち込まれ、咲夜は息を詰まらせる。喉の奥底から口内へと逆流してくるそれは、強烈な熱と粘度を伴って咲夜の呼吸を阻害した。
「んぶっ……んぐ……っ! ぐぇ、げほっ! ごほ、げほごほっ!」
 白濁した液体を額に受けながら、咲夜は小悪魔の精液をシーツの上へと吐き出した。自身を汚すその物体と吐き出した物の量を見比べ、未だ滴を垂らし続ける眼前の物体に僅かな恐怖を覚えてしまう。
 もしあの液体をつまらない意地を張って全て受け止めていたら、溺れ死んでしまうのではないか。そんな嫌な想像が脳裏をよぎる。
「はぁ……大丈夫ですか? 気持ちよすぎて、たくさん出ちゃいましたよ」
「ごほっ……少しは加減して頂戴……」
 ベッドサイドからティッシュを乱雑に抜き取り、シーツと顔を掃除する。拭っても容易には落ちないそれは、理性にへばりつく性欲のようで憎たらしい。
「お掃除にはまだ早いですよ。こんなの序の口なんですから」
 肩を掴まれ、手にしていたティッシュを投げ捨てられ、咲夜はベッドへと押し倒された。自身に覆い被さる彼女の顔は既にいやらしい笑みを浮かべており、片手は早くも胸に手を伸ばされている。
「わかったけど、せめて脱がせて。これ以上面倒な洗濯物を増やしたくないの。それから、一応初めてなんだから優しくして頂戴」
「おっとと。それは大変失礼いたしました」
 額に口付けをしてから、小悪魔はさっさと衣服を脱ぎ捨てて咲夜のパジャマに手をかけた。
 魔法空調が調整不足なのか、朝から暑いこの気候のせいか、それとも覚醒前から行われた艶事のためか、うっすらとかいた汗が恥じらう乙女のように肌を晒すのを妨げる。
「汗くさくない? 不快だったらシャワーでも……」
「とんでもない。甘くて良い香りですよ」
「ひゃんっ!」
 言葉を遮るように落とされた首筋への口付けに、咲夜は高い嬌声を上げてしまう。震えるような、くすぐったいような、そんな微妙な快楽が全身を駆け抜けるのを味わいながら、咲夜はいつの間にか一糸纏わぬ姿へと変わってしまっていた。
「手慣れてるのね」
「これでも魔族ですから」
 何がこれでもか。今のお前は淫魔そのものだと心の奥でツッコミを入れながら、咲夜はベッドに身を預けて小悪魔を抱き寄せる。
 自身が許諾した手前彼女を迎え入れるのが筋だろうと思いつつ、咲夜はまな板の上の鯉の如き心境だった。
 何しろ口ですらあれだけ窮屈だった代物が、口よりも遙かに小さいと思われる膣口から侵入してくるのだ。腹の中身を突き破られるのではないかと気が気ではない。しかしどこの女も普通に経験していることを恐れているなど恥ずかしくて口に出せるわけもなく、咲夜はごまかすように小悪魔と深い口付けを交わした。
「んぐ、ん……」
「ん、んむっ……ちゅ、ん……っ」
 優しい口付けが心を解す。しかし安心にはまだ遠く、己の緊張はすぐに気取られてしまう。
「んっ……ふは、咲夜さん……もしかして経験無いですか?」
「指ぐらいは入れたことあるし、そのとき勢い余って破ったわ。だから遠慮なんかいらない」
「もう、そういう事じゃないですよ」
 彼女の指が下腹を這い回る。へその周りを擽るように撫でられ、頬に口付けを落とされる。優しく暖かい行為が、心を解してくれるようで心地よい。
「大丈夫ですよ。痛いことも怖いこともないですから。でも、一応準備は念入りにしましょうか」
「準備……? ふぁっ! あ、んはぅ!」
 くちゅりと小さな水音を立てて、小悪魔の指が秘所へと滑り込んでくる。しかしその指を中をかき混ぜるのではなく、入り口からゆっくりと揉み解すような動きで咲夜の中を擦ってゆく。
「や、こら……あ、ちょ……んっ! んんぅ! ん、あ、は……ふぁっ! そんな……あ、んんっ!」
「ふふ、咲夜さん可愛い……。あ、いっちゃだめですからね? ゆっくり味わってください」
 淫猥な水音と共に、愛液が太股へと広がる。身も心も解すような彼女の愛撫に、自身の入り口が広げられてゆくのが解る。
 それはあたかも、咲かけの花を開かせる作業のよう。
「や、あん! うそ、あ……んぁっ! は……あぁっ! ふぁっ……!」
 入り口ばかりを擦り広げる彼女の愛撫に、咲夜は体内から新たな熱と欲望が膨れ上がるのを感じていた。
 それはおそらく、種の保存であるとか、遺伝子に刻み込まれた本能であるとか、自我の奥に封印された原初の欲望であるとか、そういった類の物なのだろう。
「もうだめ……! お願い、じらさないで……!」
 まさか自分が口にするとは思ってもみなかった言葉。それを咲夜は許しを乞うような表情で口にしていた。
「ふふ、もう辛抱たまりませんか?」
 意地悪な笑みを浮かべた淫魔がのし掛かりながら顔を近づけると、反り返った自身の物体が彼女の腹を僅か擦る。たったそれだけのことで、咲夜は悶えるように息を吐いてしまう。
「いじわる……しないでっ……!」
「じゃあ、力を抜いててくださいね」
 すっかり濡れ解れた花弁を、熱く硬い固まりが押し広げてゆく。自身の奥底めがけて侵入してくるその物体に、咲夜は恐ろしさとそれ以上の悦びを感じていた。
「っく……! あ、ん……あぁっ……!」
「咲夜さんの中、熱くてきつきつですよ……」
 耳を擽る淫猥な台詞に、羞恥と快感を覚える。そしてその瞬間に小悪魔の物体が大きくなるのも。
 しかし、それは錯覚なのだとすぐに理解した。小悪魔の肉棒が大きくなったのではなく、咲夜の秘所が収縮したのだ。
「っ……は! くぅ、んっ! んは、あぁ! あぅっ!」
 ゆっくりと注挿を繰り返しながら、彼女のものが自身の奥底めがけて突き進んでゆく。今挿入された物は、長さにすれば手のひら程度。へそにすら届かない程度の大きさのはずだ。にもかかわらず、咲夜まるで心臓まで突き上げられているような錯覚を覚えてしまう。
「もう少し……っ、これで、全部ですよ……大丈夫ですか?」
「くぁ……あ、……す、少し……動かないで……」
 小悪魔の身体を抱きしめ、身を震わせながら呼吸を僅か整える。肺が上下するだけで内部を擦られているような錯覚を覚え、彼女の指が触れるだけで全身に電流が走る。そんな愉悦に耐えながら、咲夜はようやく腕の力を抜いた。
「もう、大丈夫……」
 深く息を吐きながら小悪魔の背中から恐る恐る腕を放すと、彼女は肘を立てながら一つ口付けを落とし、訪ねるような視線を投げかけてきた。
「痛いわけじゃないのよ……。だから、平気……」
「わかりました……。じゃあ、動きますね」
「ん、あっ……!」
 腰を引かれ、それからゆっくりと押しつけられる。熱く硬いその物体は、まるで焼け串のように咲夜の内側を熱くかき混ぜる。そしてその一突きごとし、視界が白に染まってゆく。
「あ、んっ! んぁっ! ひゃ! あんっ! や、ひ、あぁっ! ふぁ、んくぅ!」
 次第に早くなる律動に合わせ、咲夜もまた短い嬌声を上げ続けた。
 喘ぎは咲夜の意志とは関係なく溢れだす。それはまるで、突き上げられた肺から押し出された息が勝手に声帯を震わせているような、理性を物ともしない本能が命令しているような、そんな感覚だった。
「咲夜さん……! ん、んぅっ! は、んっ!」
 白く濁る視界の向こうで、小悪魔の赤い髪が揺れる。彼女もまた強い愉悦を感じているのだろうか。快楽に歪む苦しげな顔はいやらしくも美しい。
 聖職者は、特に吸血鬼の弱点たる十字架を信仰する者は、これらの行為を神聖で尊いものであると言う。故に神に定められた形でのみの交わりを良しとし、他を背徳に満ちた野蛮なものであると蔑む。しかし、今の咲夜に言わせればそんなものは詭弁でしかない。
 こうして身体を交わせば、誰にでも解る。本能のままに腰を振り、獣のような喘ぎ声を漏らすこの行為に、神聖さなどひとかけらもありはしない。
 そこにあるのは、目の前の快楽に必死で食らいつく二匹の獣の姿。それだけなのだ。
「あぁっ……咲夜さん、もう、出そうで……んぁっ……」
「わたしも、いきそ……え、ちょ……ひぅ!」
 絶頂寸前の咲夜の肉棒を、小悪魔が突然しごき始める。元々高ぶっていた身体はすぐに反応を示し、あっと言う間に破裂寸前まで追いつめられてしまう。
 そして咲夜の中で、絶頂感と射精欲という二つの快楽が暴風のように吹き荒れる。
「だ、だめ! 今は……ひゃぁ! お、おかし……くぅっ! あ、んはぅ! ふぁ、や、あ、あぅ! ひ、んぅぅ!」
 肉棒が脳髄をかき回し、秘所が全身に電流を流す。吸い上げた呼気は嬌声となって漏れ出し、全身に張り付くような汗が浮く。二つの異なる快楽に性的にまだ未熟な身体が太刀打ちできるわけもなく、咲夜はシーツを掴み、髪を振り乱しながら激しく喘ぎ続けた。
「咲夜さ……んぁ、もう……で……っ!」
 小さな声。そして下腹に流し込まれる熱い固まり。それに押し出されるように咲夜は射精し、同時に全身を強ばらせた。背筋が勝手に弓なりに反れ、身体の自由が効かなくなる。同時に視界は純白に染められ、四肢がバラバラになりそうな程の衝撃的な快楽が溢れる。
「ふぁ……っあ、はぁ、はっ……ん、んは……」
 声にならない絶頂が収まった後、咲夜はようやく荒く息を吐いた。腹や胸には自身が噴き出した精液が飛び散り、口元からは涎が溢れる。しかし咲夜には、そんなものを気にする余裕などありはしない。
「ふぅ……。どうですか? 両方同時の絶頂って、気持ち良いでしょ?」
 小悪魔の問いかけに答えられるような余裕など、今の咲夜にあるわけがない。何しろ身体中が絶頂の余韻に震え、弛緩した筋肉は身を起こすどころか指一本曲げるのすら難しいほど。加えて愉悦は未だに理性を犯し続けており、まともな思考すら難しかった。
「いっちゃってる顔、可愛いですよ……」
「あ、あとで……覚えてなさいよ……んくぅっ!」
 憎まれ口を塞いだのは、言うまでもなく小悪魔の舌だった。しかし直接唇を塞いだわけではない。彼女は咲夜の肌に落ちた精液を舐め取るべく、胸に舌を這わせたのだ。
「ふぁ! こ、こら! だめ、いまは! や、らめ! ひぁ! ひゃふっ! んきゅう!」
 白濁した滴を一つ舐め取られる度に、咲夜は甲高い嬌声を上げた。何しろ彼女の舌は咲夜の事などお構いなしに這い回り、普段ならば触れもしないような場所へ愛撫を落としてくるのだ。声の我慢など出来るわけもない。
「んふ……おいし。綺麗になりましたよ、咲夜さん」
「は、はぁ……ふぁ……。だめって……言ったじゃない……」
「お忘れですか? 遠慮せずに楽しませろと言ったのは咲夜さんですよ?」
 文字通りの悪魔の微笑みを向けられ、咲夜は一瞬たじろいでしまう。確かに彼女の言うとおり、求めたのは咲夜自身だった。経過はどうあれそれは曲げることの出来ない事実である。だが、それは自身の身体を一方的に弄んで良いという隷属契約ではない。
「そうね。そうだったわ」
「きゃっ」
 胸に手を伸ばした小悪魔の腕を取り、体を入れ替えて彼女を組み敷く。この程度のことは、時を止める必要も空間を操作する必要もない。
「つまり、私が貴女の身体で楽しんでもかまわないのよね?」
「……確かに。でも、どうぞお手柔らかに」
「そんな甘いこと言わせないわよ」
 咲夜は素早く手を伸ばし、普段三つ編みを止めるのに使う二本のリボンを手にした。そして一本は小悪魔の両手親指を揃えてきつく、もう一本は既に硬く反り返っている彼女の肉棒の付け根にきつく結びつける。
「さ、咲夜さん……?」
「言ったでしょ。楽しませてもらうのよ」
 すっかり自由を奪ってから、咲夜は小悪魔の胸に手を伸ばした。自身よりも大きく柔らかくゆれるそれは易々と咲夜の指を飲み込み、吸い付くような感触と心地よい弾力を指先に伝えてくる。
「大きいのね。うらやましいわ」
「そんな……咲夜さんだって、綺麗……んぁっ!」
 乳首を摘み、先端を爪で擦り、こねまわすように愛撫をする。少しばかり乱雑に、意地悪をするように強く。
 十六夜咲夜とて女である。女に生まれたからには豊かな胸や、細くくびれた腰つきにあこがれるのは至極当然の感情だ。
 しかし残念ながら彼女は腰回りこそ細く美しいが、胸に関しては些か寂しい作りだった。故に大きな胸は少なからず嫉妬の対象であり、自分にも備わっていればとうらやむのが常。
 だが、それを好きなように弄ぶ事ができるとなれば、話も変わってくる。
「大きいし敏感なのね……ん、ちゅ……んくっ……ぁむ……っ」
「ふぁ……んっ! あ、んんぅ……んぁっ!」
 舌を這わせ、口付け、指先を踊らせる。そのたびに小悪魔は身を捩り、甘い微かな嬌声を上げた。
 至極簡単かつ小さな動きで、彼女はまるで操り人形のように動き出す。その征服感が心地よい。
「こんなに大きくして、何を想像したらこうなるの?」
「さ、咲夜さんがさわるから……あぅっ!」
 筋に沿って指を滑らせ、先端を軽く撫でると、小悪魔は短い嬌声と共に腰を踊らせた。熱く張りつめた怒張はやや所在なさげに揺れており、先ほどまでの醜怪さが嘘のように思える。
 喉奥に流し込まれる心配がないのなら、特別怖がる必要もない。咲夜はそれの先端に舌を這わせ、浅く先端を飲み込んだ。
「んぁ! さ、咲夜さん……ふぁ、んっ……!」
 あちこちを舌で舐め、指先で弄びながら淡い刺激を繰り返す。本気で奉仕する技量も気分も存在しないため、咲夜は適当で曖昧な愛撫を繰り返した。
「んく、ん、んむ……ふぅ。ん、んっ……ん……」
「や、そっち……! いじっちゃ……あぅ! ふぁっ!」
 咲夜と同じく彼女の根本についている秘所に手をかけ、ゆるゆるとした刺激を与える。じらすよりもたちが悪い、気まぐれな愛撫が小悪魔を苦しめた。
「んふ……あ、や、やぁ……! もっと、もっとはげしく……んぁ……!」
「だめよ。私を弄んだことを後悔させてあげるんだから」
 二度とこのようなことが思いつかないように、小悪魔に後悔を覚えさせる。それが咲夜の狙いだった。秘所は入り口だけを愛撫し、胸はあまがみをする程度で深い愛撫は与えない。怒張は先端や筋を軽く刺激しながら、時折射精を促すように激しく擦り立てる。愛撫を受ける度に小悪魔は髪を振り乱し、身を捩らせながら激しく悶えた。
「だめ……! おかしくなっちゃう! おねがい、いかせて……! 出させてッ!」
「二度と私をおもちゃにしないと誓う?」
「そ、そんなつもりは……」
「そう、なら……」
 口答えをする彼女の男性器を掴み、深くくわえて激しい愛撫を与える。淫猥な水音とともに涎が彼女のものを根本まで濡らし、赤い肉芽までをも汚してゆく。
「ひぁっ! ち、誓う! 誓いますっ! だから、ゆるし……あふぁっ!」
「んぷ……いい返事ね。じゃあご褒美をあげるわ」
 あっと言う間に屈服した小悪魔に満足げに微笑み、咲夜は僅か身を離す。しかしその手はリボンを解くこともなく、既に硬く反り返った自身のものに添えられた。
「や、うそ……まさか!」
「察しが良いじゃない。そのまさかよ」
 小悪魔が身を起こそうとするよりも早く、咲夜は彼女の中を深く貫いた。足を割り開き、膣壁を押し広げ、彼女の奥底まで深く。
「くは……あっ…………!」
 口を開け、目を見開き、小悪魔が息を吐く。絶頂に達したのか、はたまた単に激しい快楽に打ちのめされただけなのだろうか、彼女の指先は見えぬ何かを掴むかのように握りしめられていた。
「昨日よりよくしまって……んっ……!」
 だが、咲夜は苦しげな小悪魔のことなど意に介さず、彼女の中を容赦なくかき混ぜた。先日よりも熱くぬめついて咲夜のものを包み込むそれは、性急に射精を促そうと蠢き続けている。
「くはっ! ひ、あ! やぁっ! そん……! かはっ、く、は……あんっ! や、やらぁ……!」
「嫌なんて言う割りに……気持ちよさそうじゃない…………ん、んっ……!」
 身を反らして彼女の最奥にある子宮口を突き上げ、同時に彼女の肉棒をしごき上げる。もちろんその根本についている肉芽への愛撫も忘れず、乳首を責め立てることも忘れない。
 小悪魔の言ったことは本当だった。彼女が快楽に悶える度に膣口は咲夜のものを締め付け、生殖の本能を刺激するようにしごき上げてくる。特に子宮口は受精をしやすくする為なのだろうか、咲夜の先端に口付けをするように小さく開閉しているように思える。
「もう、ふひゃ! やらぁ! おねがい、ださせ……ぃあ! やぁっ!」
 髪を振り乱し、腰を捩ろうとする小悪魔。そんな彼女に、咲夜は容赦のない止めの一撃をお見舞いする。
「っ……っくう……! んんぅ!」
「ふあぁぁっ! うそ、うそぉ! でて、ひゃ……いひゃぁっ! ひぁぁっ! ひぐっ!」
 足を掴み、腰を反らせ、咲夜は小悪魔の奥底へ大量の精液を流し込んだ。びくんびくんと彼女の身体がけいれんし、肉棒の先端がひくつく。しかし縛ったリボンの効果は絶大らしく、怒張は薄く濁った液体を滲ませる程度で留まってしまう。
「やぁっ! おかしく、おかしくなっちゃう! ださせて! おねがい、もういやぁ!」
「いいわよ。次は出させてあげる……」
「ふぇっ? ひぃぃ! や、ひゃぁぁ! らめぇ! いまらめぇ!」
 絶頂の余韻も冷めやらぬ内に、咲夜は未だ硬さを保つ己の肉棒で彼女の中を再びかき混ぜ始める。先ほどよりも大きく響く淫猥な水音と共に、結合部からは白濁した液が溢れ出し、互いの秘部を汚してゆく。
 それだけではない。膣奥からは愛液が止めどなく溢れ、縛られた肉棒は白濁した液を涎のように溢れさせる。体内に溜まった熱は汗となって全身から吹き出し、咲夜も小悪魔も口元から涎を溢れさせてしまう。
 全身余すところなく濡れそぼった二人は、獣よりも下等な軟体動物のように身体をくねらせながら絡み合った。
「は……んくっ、小悪魔……いいわよ、貴女……。すごく、きもちい……」
「くるひ……! おかしく、おかひくなるぅ! やぁ! もうやらぁ! くるっちゃう! もうだめぇ!」
 否定の言葉を続けながらも、彼女の足は自身の腰に絡みついてくる。激しく見悶え、苦痛に顔を歪める彼女の美しい淫らな顔。咲夜はその表情にたまらない愛しさを感じていた。
「ん、んくっ、ん……!」
「んぐぅっ! んんー! んーっ! んむぅっ!」
 口腔を舌で犯し、溢れる涎を流し込みながら腰を振り続ける。そうしてひとしきり彼女の唇を楽しんでから、咲夜は全ての幕を引くように小悪魔のリボンにてをかけた。
「出すわよ……小悪魔……! 最後の一滴まで、受け止めなさい……!」
 ぐいと腰を押しつけ、彼女の逸物を彼女自身の腹へと押しつけながら、咲夜は射精と同時に勢いよくリボンを引いた。
「ひぁぁ! ふぁーっ! や、あぁーっ! いあ、で、ふぁぁぁぁ!」
 叫び声のような嬌声。そして大量の精液。その二つが同時に小悪魔にぶちまけられる。膣内への射精を受けながら自身の腹へと射精を続ける小悪魔。そのひと噴きごとに咲夜の肉棒はミルク絞りのような律動を受け、最後の一滴までも吸い取られるような感覚に襲われる。
「はぁ……あぁ、まだ、でて……あ、うはぁ……っ」
「やぁ、とまらな……とまら、ないのぉ……うくぁ……」
 だらしなく口を開きながら、小悪魔もまた射精を続けていた。そんな彼女の精液を指先で軽く掬い、咲夜は朦朧とする意識の中でそれを口に運んだ。
「……まずいじゃない。うそつきね……」
 くすりと小さく微笑んでから、咲夜は彼女の腕にも自由を与える。
 部屋と自身の後始末を、彼女自身にさせるために。



 この三日間で咲夜が得た確証。それは、恋愛とはこのような性急なものではないというものだった。それが証拠に、咲夜はあれだけ身体を交えた小悪魔に対して何の感慨も抱いていない。
 もちろん全くの別物とまで言い切るつもりはない。相手に触れたい、繋がりたいという思いは確かに愛や恋の一部なのだろう。だが、それだけが全てではないはずだ。
「……ふぅ」
 小悪魔の宣言通り、咲夜に生えたものはきっかり三日の刻限を迎えると同時に消え失せた。熱い湯を浴び、仕事着に着替えた今となっては、あの出来事はもう夢の彼方のように思える。
 そして諸悪の根元たる小悪魔は今、咲夜の部屋を隅々まで清掃しているところだ。それが終わればもう痕跡の一つすら残らないだろう。
 そう、全ては夢の中の出来事なのだ。
「咲夜さーん!」
 耳慣れた声が背中へと飛んでくる。ついで響いてくる足音はどたばたとやかましい。
「美鈴、廊下は走るなと前から言っているでしょう」
「す、すいません! でも咲夜さん、身体は大丈夫なんですか? 熱を出して倒れたって聞いて……」
 なんと面倒な嘘をついてくれたのだろう。咲夜は目頭を押さえつつため息を吐き、小悪魔に新たな罰を与えるべきだろうかと考えた。だが、その仕草は余計に目の前の人物を心配させたらしい。
「ああ、やっぱりまだ辛いんじゃ……」
「平気よ。別に大したことじゃないの。ただ少しばかり大げさに伝わっただけだわ」
 気にしないでと伝えても、美鈴の視線は不安げなままだった。やはり小悪魔には改めて罰を与えるべきだろうか。そんなことを考えながら咲夜は小さく苦笑を漏らす。
「念のために今日は余り動かないようにするから、もうそんな顔をしないで頂戴」
「約束ですよ?」
「はいはい。それより仕事はどう? 残ってるものがあれば教えて頂戴」
 仮病であろうと無かろうと、残っている業務は終わらせる必要がある。しかし美鈴曰く、館の仕事はほぼ全て妖精達と共に終わらせてしまっているらしい。どうやら自分に無理をさせまいと、皆率先して動いたようだ。
「そう、ありがとう。なら何かお返しをしないといけないわね……」
「いやいやそんな。いつも一番頑張ってるんですから、こういう時ぐらいお返ししないと!」
 確かに自ら公言するようなことではないが、咲夜は誰よりも仕事の量と種類が多い。しかしそれは咲夜自身が望んだことであり、気まぐれで休んで良い理由にはならない。
 それに彼女は元々門番のはずだ。一通りのメイド業務をこなせるとは言え、管轄違いの仕事をさせていることに変わりはない。
「晩ご飯、何がいい?」
「へ?」
「今日のお詫びよ。たまには貴女のリクエストを聞いてあげる。必要ないならいいのよ? 他のメイドにでも……」
「わーまったまった! 今すぐ考えますから!」
 顎に手を当て、首をひねってああでもないこうでもない。いちいち仕草が大げさな彼女を見ていると、自然と笑みがこぼれてしまう。
 おそらく、あの月兎も彼女のこんなところに惹かれているのだろう。
「あ! あれがいいです。ティッシュだかラッシュだか……パイ生地の上に洋風の卵焼きが乗ってて、ベーコンとかチーズの入った……」
「キッシュ?」
「そうそうそれです!」
「また手間のかかるものを選んだわね」
 キッシュは卵料理の中でも難易度が高く面倒な料理だ。卵とスープの割合や具材の下拵えは当然として、あの大きな卵に焦がさず中までしっかり火を通すのは繊細な温度管理が必要になる。レシピを知っていたら、昼まで床に伏せっていた者に頼めるような料理ではない。
 もちろん、咲夜は伏せっていたどころか暴れ回っていたため、断る理由は一切無い。
「た、大変ですか? じゃあ病み上がりだしもっと簡単な……」
「いいわよ、別に。そのかわりさぼってたらコッペパン一個に取り替えるから覚悟なさい?」
 目を輝かせて返事をする彼女に、咲夜の保護者であった頃の面影は一切無い。しかし、これこそが自分と美鈴にとって最も良い関係なのだろう。
 愛とは、心が発する熱なのかも知れない。
 駆け足で持ち場へ戻る彼女の背中を見つめながら、咲夜はぼんやりとそんなことを考えていた。
 もしそれが正しいのであれば、先日までの身を焦がすような熱も、今感じている柔らかな暖かみも愛の一種に違いない。
 そして恋はまた別の熱なのだろう。
 だとするならば、波長を操るあの月兎が上手く恋愛を続けているのも、氷のようだと揶揄される自分が理解できないのも合点がいく。
「……さて、パイ生地を作りましょうか」
 いつか自分も恋をするのだろうか。そのとき、十六夜咲夜はどのような変化をするのだろうか。
 今の自分には到底想像もつかない。
 だが、咲夜はそれで良いのだと考えていた。
 少なくとも、この憎たらしいほどの夏が形を潜めるまでは、新たな熱は必要ないのだと。



[11779] あとがき【03/15更新】
Name: Grace◆97a33e8a ID:5d8d086d
Date: 2011/03/15 01:20
 夏にこの作品を含めたものを完成させてからそろそろ二ヶ月が経とうとしております。
 遅ればせながら、新作を含めた完全版WEB公開でございます。お待たせいたしました。

 完全版といってもさした変化はありません。誤字を直して表現を修正。それから一部加筆という感じです。紅いいと以外は殆ど変化なしだと思っていただいてかまいません。

 むしろ初公開になる神隠しと夢のまにまにを見ていただけたら幸いでございます。


 では両作品について少しばかり解説を。

 まず神隠しですが、これは本当に序章に当たる部分です。
 やや蛇足になるのではなかろうかと考えもしたのですが、導入として一話入れたほうが作品としてまとまりがでるであろうと考え、追加させていただきました。
 美希が如何にして幻想入りを果たしたのか。その部分になります。

 対して夢のまにまにの方ですが、こちらは幻想八葉の後日談。まだ星蓮船の異変が起こる前のお話になります。
 こちらの作品は紅魔館の過去を群像劇という形で表現させていただきました。
 作品中における過去の話は、公式設定を踏襲しつつかなりの勢いで捏造を行っております。また、公式における矛盾点などはこちらで自己解釈、時間軸調整をさせていただきました。それ故に皆様がイメージする幻想郷の過去とはやや違う場合があるかもしれません。ご了承ください。
 とはいえ、原作のイメージは壊さずに書き上げたという自信はあります。
 それぞれの視点から見る紅魔館の過去と今。それから少しばかり甘酸っぱい少女たちの恋愛戯曲を楽しんでいただければうれしく思います。


 幻想八葉本編は、神隠し~幻想八葉までの九話構成になりますので、夢のまにまにはある意味第二期という扱いになるのでしょうかね。
 つい先日こっそり書き始めた話も、この二期に当たる作品になります。
 公開はまだまだ先になりそうですが、こちらも是非ご愛顧いただきたく思います。


 最後になりましたが、誤字脱字、表現の過ちなどがございましたら、ご一報いただけたらうれしく思います。
 全ての作品を何度も目を通しているのですが、所詮一つの目では限界がございます故。よろしくお願いいたします。



10/16新作投稿。以前の投稿から二週間しか経ってないので前のあとがきは残して……でございます。

 最新作はタイトルに関して非常に悩みました。時間と人生。それに加えて価値観など、様々なテーマを織り込んでしまったので何をタイトルとするべきか……それが一番の悩みでした。
 ですので、瞬彩というタイトルは半ば苦し紛れでもあります。
 一応の意味は込められているのですがねw

 第一期では永遠亭と霊夢の出番が多かったのと、紅魔組が大分空気だったので今回はこちらに焦点が当たっております。星とか地はまだちょっと先になるでしょうか。一応出す予定ではあるのですが……白蓮さん便利ですねw

 さて、次回更新はまた大分開いてしまいます。
 まず冬コミで出すオリジナルの原稿。それから公募投稿の為の製作に入っているので、こちらは暫しお休みになると思います。

 尤も、息抜きに軽いものはちょくちょく書きそうな予感はありますがw

 というわけで、今年の冬はあまり期待せずにお待ちくださいませorz


3/15

 冬コミの新刊、アイノカタチをアップさせていただきました。
 本来私は自分ルールとして半年はイベント作品をアップしないことにしています。
 ですが、例大祭が中止になったこともあり、未だ災害の爪痕は酷く、被災地ではないにしても私の生活に少なからず支障が出ています。
 今後のことを考えると、大事にしまっておくよりは早めにアップした方が良いのかもしれないと考え、上げさせていただきました。
 冬に買っていただいた方には申しわけありませんが、事情が事情ですので今回はお許しいただけると嬉しく思います。

 もちろん本文のみで挿絵や表紙などがないので、お金を払う価値があるのかって言われると微妙なのですが。

 でも、もし私の文章を気に入っていただけたら、ほんの数十円数百円でもいいので募金箱に入れてあげてください。お願いします。

 あと、余談ですがこれはこっそり二期へのフラグになってます。咲夜さんを中心としたお話を考えておりますので、のんびりお待ちいただけると嬉しく思います。

 同時に出したオリジナルのほうは、また改めて別の日にアップさせていただきます。よろしくお願いします。


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